彼の声99

2013年

11月30日

 感慨に耽っているわけではない。では感慨に浸っているのだろうか。どちらも違うような気がするが、いつもの悪い癖が出て、そこから無理に語りだしてしまうらしい。急に何を思い立ったのだろうか。現状では何がどうしたわけでもなく、ただ寒さに震えているだけか。暗闇の中で周りを見渡しても、不在の中心などどこにも見当たらず、すべてが存在しているように思えて、何の神秘も不思議も見出せず、ただ現実の世界でそう思っている。いったいこの世界のどこに中心があるというのか。地球の中心なら地中深くにあるはずだが、世界の中心となるとわからない。別にわからなくてもかまわないのに、ことさらに探し求めているわけでもなく、存在しないのなら、それは幻想であり、不在の中心だと見なしてもかまわないのだろうか。そんなことを述べている意図がわからず、どんな思惑があるわけでもないのだろうが、何を語りたいのかわからなくなり、そこで意識が途切れ、眠ってしまう。そして眠りの中で目を覚まし、前世においてどこかで何かの中心を求めて彷徨っていたように思われ、そこへ向かって旅にでも出ていたわけか。そんなはずがない。どうやらでたらめもいいところで、世界の中心として思い浮かぶ対象は何もないということかもしれず、そこから何も想像が膨らんでこないようで、そんなふうに語っていること自体が浅はか極まりないのだろうか。不意にドバイの世界一高い超高層ビルが世界の中心かもしれないと思う。それは何も思いつかないことに業を煮やした苦し紛れの付け足しかもしれないが、そのビルを抜いて高さ千メートルを超えるビルも近くで計画中らしく、それが地域的にも場所的にも旧約聖書に出てくるバベルの塔の神話を連想させ、その編纂から二千年数百年の時を経て、何が反復されようとしているのかよくわからないが、現代のバベルの塔の画像を眺めながら、別に不吉な予感が頭をよぎるわけでもなく、金と暇があったら、一度現地に行ってみたいと思うだけか。人は虚栄心から世界一を目指し、金に物をいわせてそんなものを建設する競争を繰り広げ、そういう行為がどんな結果に行き着くのかわからないが、今のところは新たな観光名所となり、世界中から人が集まり、それにつられて物も集まり、金も集まり、ゆくゆくは本当に世界の中心となることを夢見ているのだろうか。ちなみに2020年には彼の地で万国博覧会も開かれるそうだ。

 でも誰がそこで目を覚ましているとも思えない。みんなまだ眠ったままなのだろうか。ではなぜ全世界的に人々は睡眠中なのだろうか。夜だからか。時差があるし地球は自転しているから、夜もあるし昼もあるはずだ。また何かそこからでたらめな比喩を連想させようとしているわけか。意味のないことだ。ところでボルヘスの『バベルの図書館』を読んだことがあるだろうか。読みもしないのに読んだことがあるかなんて言うべきではないか。別に君が眠りこくっているのは図書館の閲覧室というわけでもなく、他の誰が睡眠中に働いているわけでもなく、『伝奇集』の中に収められた短編を読む機会を逃しているわけでもないか。読みたければ買って読んだりすればいいだけで、昔スノッブな人たちの間で話題となっていたのかもしれず、知識や教養をひけらかす見栄張りの気取り屋になりたければ、読んでそれらしいことを語ればいい。要するに君はバベルの塔から『バベルの図書館』を連想しただけなのだろう。でも夢の中で連想しているわけではなく、眠っている間に見た夢の内容などとうに忘れているみたいで、その代わりにでたらめな空想を働かせているとも思えないが、バジリスクで検索したら『幻獣辞典』が目に止まり、そこから同じ作者の『バベルの図書館』が出てくるわけか。そして連想はバベルの塔に戻り、現時点では世界一高い超高層ビルに至るのだろうか。しかしバジリスクとは何なのか。漫画かアニメかパチスロか。もしかしたらそれらのすべてなのかもしれず、眠っている人たちは、そこで漫画を読みアニメを見てパチスロをやっていたのだろうか。そして君はそれらの人たちを目覚めさせ、自由を求めての革命やら暴動やらに導こうとしているのか。不意にそんな妄想を抱き、ドバイの超高層ビルのてっぺんから、全世界に向けて指令を発している誰かを見下ろし、何だか神になったような気分となり、まさかそこからスカイダイビングでもするわけもなく、実際はそのてっぺんで国旗を掲げているドバイの皇太子の画像を見ているだけか。もしかしたらそこから一連のくだらぬ連想が始まったのかもしれず、どこが始まりでも終わりでもかまわないのだろうが、それで時代遅れ的に『バベルの図書館』でも読んでみる気になったらおもしろいか。昔の記憶がそうさせているのかもしれないが、そこから東京タワーやスカイツリーに話が及ぶとも思えず、そこに行ったとしても、展望台から何を眺める気にもなれないだろうし、気休めに記念写真の一枚でも撮って、さっさと帰ってくるだけだろうか。またそんな意味のない付け足しを記して、それもいつもの悪い癖だと思いつつ、その場を後にするつもりのようだ。


11月29日

 保守陣営にとっては猪瀬直樹もすでに使い捨ての対象なのか。オリンピック招致が成功したら、キッチュでうざい小者はお役御免か。任期いっぱいまでやれるのかどうか知らないが、彼が途中でいなくなったとしても、どうせまたその手の人間が後がまに座り、何やらそれらしいことを主張してしまうわけか。東京都知事に誰がなっても大して違いはないような気がするが、話題性のある有名人がなったら、どうせまたその手のマスメディアが好意的に煽り立てるのだろうし、案外どこかのテレビ局のニュースキャスターとかがなるわけか。冗談だとすればそういうのものありか。たぶん何が冗談なのでもなく、その手の優秀な人材ならいくらでもいるのかもしれず、所詮は政治家も人気商売ということか。まだ先行きがどうなるかわからない段階でそれはないか。でもどうでもいいことなのかもしれず、たかだか数年後に半月ずつオリンピックとパラリンピックをやって、おもてなしだか何だか知らないが、みんなでお祭り騒ぎをやるのだろうが、その時に誰が東京都知事だろうが、そんなことは誰も気にもとめないだろう。だいたい数年前のロンドンオリンピックの時のロンドン市長が誰であったかなんて、ロンドン市民以外は誰も知らないのではないか。

 それにしても何が光陰矢の如しなのか知らないが、とりあえず時は流れ、何の見通しも立たないまま、何をやろうとしているのでもなく、ただ語るばかりの成り行きとなっているのかもしれず、それによって何を存続させたいのか定かでなく、とにかく語っているつもりになり、恐竜時代を生き抜いた哺乳類のごとく、そんなたとえもあまり適切ではないような気がしてくるが、自らのやっていることを正当化する気も起こらず、ただ淡々と何かをこなしながら、その時に思いついたことを書き記しているのだろうか。でも今のところはそれが何を意味しているのかわからず、相変わらず暗闇の中を手探り状態で進みながら、どこを目指しているのかもわからず、前に進んでいるのか横にずれているのか後ろに退いているのか定かでなく、そんな暗中模索の心境でいるらしく、それが取り立ててどうしたわけでもないのだろうが、そこから遠ざかっているのでも外れているのでもないのかもしれない。しかし要は何なのか。まさか空疎に語ることが肝心なのか。でもこの期に及んでわざと間違ったことを述べてみても虚しいだけか。そう語ることで君は何かを取り逃がし、いったん見失われたそれらは、忘れた頃に思い出され、記憶の断片としてどこかに記され、誰かの心に何らかの作用を及ぼすわけか。そうなればしめたものか。なるわけがないと思いたくないのかもしれず、できれば空疎な言説から外れて、少しでもまともな内容に結びつけたいわけか。

 でもこれ以上何が上達するわけでもない。そんな気がするだけで、それで何を理解したことにもならず、どこへ向かって語っているのかわからず、ただ避けては通れない何かを避けようとして、当然のことながらうまく避けられずに、そこでぶつかった何かと対話を装い、実際に何か言葉を交わしながら後ずさりしているようで、そこで何かの気迫に押され気味なのか。あるいはまだそれを知り得るまでには至っていないのだろうか。それは君を取り巻いている架空の光景とは関係ないのか。現実の世界で何らかの出来事が間近に迫っているのかもしれず、もはや空疎な作り話では対応できそうになく、それに対処しようよして、どこかで誰かが戦略を練り直している最中かもしれないが、今のところはまだ抽象的でわけのわからない内容となっているようで、それらが内容のある言説となるまでには、まだかなりの回り道と紆余曲折を経なければならないのか、それとも至らないままに終わってしまうのか、現状では何とも言えず、世界情勢に関するくだらぬ認識とともに、またどこかわけのわからぬ地帯へと、意識が外れていってしまうのかもしれない。そして忘れた頃にどこか適当な時空へと舞い戻り、素知らぬ顔でそこに居座り、また何か適当でいい加減なことを語っているわけか。やはりそれで何がどうなるわけでもないのだろうが、何かを継続させるとはそういうことなのか。そうやって何を語っているのか、何のことやら意味不明に思われてくるが、何とかしようとするとそうなってしまい、それ以外は何も見出せなくなり、結局大したことは何も語れなくなってしまうらしい。

 そう述べて誰をからかっているのでもない。確かに他の誰が何を語っているのでもないらしく、ただ誰かの影がどこかでうごめいているだけなのかもしれず、君の与り知らないところで語っているのかもしれないが、その作用が一時的に功を奏して、それらの言説を読む人も増えてしまったのだろうか。まあよくわからないが、何がどうであろうとなかろうと、その場で語っているのは誰でもなく、そんなふうに語っているのも、誰でもないように思われてしまうのかもしれず、誰がどこで何を語ろうとも、いったん語られ記された文章は誰のものでもありはせず、君自身の思惑とは無関係な成り行きの中で、どこか得体の知れぬ場所で吟味され、批判やら嘲りやらの対象となり、そんなつまらぬ詮索をくぐり抜け、さらに意味のない変形を施され、結果的に人畜無害な何かになってしまい、どうしたわけでもない代物と化して、他の誰かを戸惑わせ、そんなものに出くわしたら君も戸惑うのだろうが、ただ唖然とするばかりなのかも知れず、それでもそんな結果を受け入れることができるのかといえば、別に嫌なら受け入れなくてもかまわないのではないか。それらがどうなろうと君の知ったことではないのは当然だが、目的を定かにしないという偽りの目的自体が虚構であり、何の目的があるのかわからないまま、わかり得ないような何かを探求したところで、そうやって語りをねじ曲げ、そんなふうに語っている誰かを自己嫌悪に陥らせることで、そこから思いもしなかったような何かを引き出せるのかもしれないが、それがいつもうまくいくとは限らず、結局やたらと饒舌なだけで、何か特に意味や意義のあることを語っているわけでもなく、そんなふうになってしまうことが、そこでの限界を示しているわけか。


11月28日

 いつまで経っても決め手を欠いているようで、妙案を思いつけず、後は偶然に思いつくことに期待するしかなく、黙ってその機会を待つしかないらしい。でも本気でそう思っているわけでもないらしく、思いつかなくてもかまわないような気もしてくる。このままでもいいのだろう。半ばあきらめているのかもしれず、本当に何もないのかもしれない。そういうわけで意味のない抽象的な言説を弄しているようで、何を述べているのかわからない。いったい何について語ろうとしているのだろうか。その先にどんな言葉が連なるわけでもなく、何も記されないのかもしれない。継続困難な何かが行く手に立ちふさがっていて、それ以上は先に進めないらしい。そんな状況を空想しているのだろうか。あるいは本当にそうなのか。どちらにしても何とかする気なのだろう。どのような状況であっても語りたいわけだ。目の前に広がる世界を眺めながら、感想の一言も付け加えたいのか。でも何もなければどうするのか。何も偶然ではなく、すべては必然的な成り行きの中で状況が推移しているわけか。別にそれでもかまわないのではないか。何かしなければならないと思うのも当然の成り行きかもしれず、実際にそうしているわけで、その証拠にそうやって語り続けようとしているわけか。ひどい話だ。何がそうなのか。何もひどくないのに、ひどい話として語られてしまうのがひどい話か。今や世界中どこもかしこも生き残りをかけて死に物狂いなのだろうか。君もそういう成り行きに遠からず巻き込まれようとしているわけか。まさか今がそうなのだろうか。そういう作り話を語るとすればそうなるのだろうか。あるいは語れないからそうなっているのか。まただんだんあやふやなことを語り始めようとしているらしい。そうなってしまわないように、ここは何か手を打つべきか。本気でそう思っているわけではなく、相変わらずその場の成り行きまかせでいい加減に語ってしまうのか。でももうだいぶ意味のない空疎なことを語ってしまっている。

 しかし話とは何なのだろうか。わかっているくせに今さらそれはないか。話とはきっと無駄話のたぐいなのだろう。北米大陸ではシェールガスやオイルサンドの採取にともなう水質土壌汚染で大変なことになっている地域もあるらしく、政府関係者はそれを黙殺しないと経済が立ち行かなくなると思っているのか、背に腹はかえられないというか、やはり追い込まれているのだろうか。資本主義社会で利益が出ているということは、どこかで犠牲を強いられている地域があるということなのか。例えば日本国内で利益を出している会社あるとすれば、その会社が直接関わっているのではないにしても、別の会社が外国から安く原材料を仕入れていたりして、それを買うことによって利益が出ているとすれば、原材料を仕入れているどこかの国から利益を奪っていることになるのだろうか。また衣料品などを賃金の安い国で安く作って、それを日本でも安く売っているとしても、それで利益が出ているとすれば、やはり安く製品を作らせている国の人々から利益を奪っていることになるわけか。もちろん日本国内でも無駄を省き、できるだけ販売コストや流通コストをかけずに、創意工夫しながらやっと利益を出している状況なのかもしれないが、誰かが利益を出して得をすれば、必ずどこかでそのしわ寄せを被っている人がいるということになるのだろうか。もちろん何かの原材料を安く輸出している国の人々も、安い賃金で工場で働かされている人々も、現地ではそれなりに生活が成り立っているのだとしたら、そんなに悪い気はしていないのかもしれないが、まさか自分たちの犠牲の上に先進国の人たちが裕福な暮らしを送っているとは夢にも思っていないか。でも今や先進諸国でも失業している人もホームレスの人もどんどん増えていて、貧富の格差がだんだん激しくなってきているようで、世界中どこでも富める者はほんの一握りしかいないような状況になっていくのだろうか。結局その一握りの富める者たちを、大勢の貧乏人が支えている構図が出来上がりつつあり、結局資本主義の行き着く先に待っているのはそういう状況なのだろうか。

 それはありふれた認識に違いないが、そういう認識がそれほど間違っているとも思えず、それとは違う資本主義を肯定する認識にたどり着くのも難しいところか。それともそれは極端な認識で、そういう面も確かにあるが、それでも世界的な市場経済の隆盛によって、全体としては経済活動が活発になり、低開発地域も徐々に開発され、世界全体としてはだんだん物心両面で豊かになってきているのだろうか。まあそれもありふれた認識には違いないが、上下水道や電気が使えるようになり、家にテレビや洗濯機や冷蔵庫が普及して、一般人の給料でも自動車が手に入るようになれば、それで物質的には豊かになった証拠となり、現に中国やインドでそういう人たちが爆発的に増えているのだとすれば、今の資本主義的な制度も肯定したくなるだろうか。でも多くの人たちがそういう暮らしをし始めると、資源が枯渇して環境汚染も心配になってくるのかもしれない。実際中国やインドの都市部での大気汚染は深刻な状況らしいし、世界的に原発をどんどん増設してゆくと、放射性廃棄物もどんどん溜まってゆくし、ウラン鉱山付近での放射能汚染も出てくるし、先に述べたシェールガスやオイルサンドの採取にともなっての地下水汚染も出ているし、その他経済的な地域格差から端を発するテロ攻撃も生じているし、それらがどの程度なのかわからないが、まさか人が地球上に住めなくなるほど影響を及ぼすものなのかどうか、そのへんのところはどうなのだろうか。何とかなる程度のことなのか、あるいは破滅へ向かって突き進んでいるのか。


11月27日

 疑心暗鬼になっているのだろうか。日中韓が表面的に対立しているのは、それぞれ隣国との関係悪化を口実にして、国内の体制引き締めを狙っているのだろうか。対外的な緊張関係をてこにして国家主義の強化でも図っているつもりか。中国韓国北朝鮮の脅威から我が祖国を守らなければならないとか主張したりして、だんだんその手の勇ましい人たちが台頭してくるわけか。特定秘密保護法案とかも国民の安全を守るための法案だとか言っているらしいし、それらしい雰囲気がこれからだんだん顕在化してくるわけか。でも実際は冗談なのだろう。ギャグの一環か。なぜ本気になれないのか。日中韓とも間抜けな人たちが間抜けなことをやっているだけのような気がして、国会で恥を知れとか叫んだ人がいるとかいないとか、そういうことではないのかもしれない。国民主権とか言うのが予定調和のまやかしに過ぎないことが、これからだんだん明らかになっていくということか。それも違うような気がする。機密を漏えいした公務員らの罰則を強化するといっても、日本もアメリカのように国家機密にしなければならないヤバいことをやっているのだろうか。軍事機密などがそうなのかもしれないが、ではこれからスノーデンのような人が出てきて、ウィキリークスなどを通じて大々的にバラすとかあったらおもしろそうだが、日本の国家機密なんかをバラしても、世界はあまり注目しないのではないか。要するに日米防衛協力とかあるから、アメリカの軍事機密が日本を通じて漏れてしまってはまずいということか。だから日本もそのへんを漏れないようにしてくれというアメリカからの要求があって、今回の件が出てきたということか。そうだとすれば日本の国家としての主権も何もあったものではなく、いつまでもどこまでも対米追従みたいで、みっともないことかもしれず、恥も外聞も無いと言えば、やはり恥を知れと叫んだ人にも、それなりに分があることになりそうだ。でも何だか冗談のようなことをやっている感じを拭えない。どう見ても安倍ちゃん共々アホ丸出しな気がしてならないのだが、まあ円安だし株価も上がっているしアベノミクスも絶好調ということで、ついでにアメリカも金融緩和だのシェールガスだの石油だので、株価も空前の値上がり状態だし、何だか安倍ちゃんどころか、世界的にアホ丸出しの観がなきにしもあらずで、要するに現在は後期資本主義どころか晩期資本主義時代ということなのか。でもオオカミ少年的にこれからヤバいことになると主張する気になれないのはどういうことなのか。

 ともかく資本主義は物でも情報でも、商品の売り先が徐々に拡大していくことで利益を確保しているそうだが、この先中国とかインドとかで売り上げが頭打ちになったら、他のどこで売ればいいのだろうか。東南アジアとアフリカか。そこでも売り上げが頭打ちになったら、利益が出なくなって資本主義は終わりとなるのだろうか。ともかく世界の人口が減少に転じたら、それ以上売り上げを増やすには至らないだろうから、途中で生き残りをかけた熾烈な販売シェア獲得競争とかが起こり、どんどん企業が淘汰されていくのかもしれないが、最終的には人が必要とされる分だけ消費するだけの、利益なしの循環型共産主義社会とでもなっていくわけか。そうなるまでにどれほどの時間がかかるのか知らないが、すでに資本主義の行き着く先は見えているわけか。それともこの先大掛かりな天変地異や戦争などで、世界中で人が大量に死んだり、文明が破壊されたりした後から、また性懲りもなく一から資本主義的なことをやり直したりする成り行きになるのだろうか。どちらにしても今いる人々にしてみれば、何がどうなろうとどうということはなく、今あるがままの状況の中にとらわれていて、そこで各人のできることをやる以外になく、まあ表面的には明るい未来を目指して一生懸命働いているつもりなのだろう。結局世界的にアホ丸出しと思っている君自身がおかしいのであって、意味のない荒唐無稽でくだらぬ妄想を抱いているわけで、それ自体が出来の悪いギャグでしかないのかもしれず、何の真実味も有用性もないことか。でもそんなことを空想していると何だか愉快な気分となり、逆にわけのわからない希望のようなものが心の底から湧いてくるように思えるのだが、なぜそうなのか。別に強がりとかではない感じだ。たぶん何も語れないわけではないから語っているのであり、語りようがないから語ろうとしているのだろう。国家にとらわれている者は、どこまでも国家を強化しようとするし、利益を求めようとする者は、どこまでも利益を求めながら、世界中に売り先を探しまわるのだろう。みんな何とかしなければならないと思っていて、それなりに右往左往しまくっているわけだ。でもまさかそれが無駄な悪あがきだとは思うまい。無駄であるわけでもなく、実際に功を奏しているのだから悪あがきでもない。結局やっていることはそういうことでしかないが、では他に何があるのかといえば、何も思いつかないのだろう。実際そこに何があるのかといえば、ただ地上で人が大勢うごめいている。誰かがそんな光景を思い浮かべ、それは意味のないことだと悟る。


11月26日

 誰かは何もかもから見放された末に、他の何かに成り果てているのだろうか。他でもなく、何かとは塵や芥のたぐいか。現状ではそうかもしれない。枯れ葉を踏みしめながら、誰かがどこかを歩いている。どうせまたそんな光景を思い浮かべているのだろうが、とりあえずここは森の中ではなく、枯れ葉も何もそれほど散らばっていない。そして取り立てて語ることもなく、わざとでたらめに語っていることに意味もないようで、ついでに意図も思惑もないことになっている。そう思って差し支えないだろう。他に何があるというのか。何かがあるのだろう。またわけもなくごちゃごちゃと語っているようで、そう語るわけがあったりするのかもしれないが、とりあえず何があるとしても、それに特定の固有名を付けることができず、どんな意図があってそんなことを思っているわけでもないだろうが、何となくそんなふうに思われ、別にどんなふうに思われようとしているのでもないが、ただでたらめに拍車がかかりそうになる。少し横になりたいのか。気がつけばだいぶそこから心が外れているようだが、心以外にも何かが外れているようにも思えてきて、そんなふうに語るからそういうことになっているのかもしれない。本当は何も外れていないのにそう思っているのではないのか。疑念ならいくらでも湧いてきそうで、そう思いながらもそんな成り行きを拒めない。確かに何かが外れているのだ。そしてそういうわけのわからない思い込みが君を苦しめる。でもそれで何を果たしたことになるのか。現実には何も果たせないのに、何かをやり遂げたつもりになりたいのか。神との約束はどうなったのだろう。そんなものなどあるわけがなく、相変わらず君は何か勘違いしているのかもしれない。また強引にそう思いたいのだろうが、たぶんそれは勘違いではない。実際に誰かは無能で無用な人間に成り果てているのかもしれず、それに気づいていながらどうすることもできず、それが世の中の流れだと思ってあきらめるしかないのかもしれないが、まだこの世にやり残したことでもあるのだろうか。あの世があるとも思えないが、どの世もないのかもしれず、たぶん君はこの世界の中で考えているのだろう。絶えず何かを考え、ひたすら考え込んでいるのかもしれない。でも考え込んでいる何かとは何なのだろうか。それがわかれば苦労はしないが、やはりここは何だかわからないが、考え込むしかないらしい。

 たぶん過渡的な状態では自由も平等も一時的には実現されるのだろうが、世の中が安定してくるにつれて、貧富の格差も生じてきて、富める者の子弟たちが世襲的に権限を増大させたりして、相対的に貧しい者たちの間で不満が鬱積してくるのだろうか。でもそれはわかりきったことか。いつの時代でもそういう成り行きになっているのであり、それは仕方のないことなのかもしれず、またそういう状態が長く続くと、いつか何かのきっかけで貧しい人たちの間でたまっていた不満が爆発したりして、そんなことを契機として動乱の時代に突入してしまうわけか。そしてそういう動乱や混乱が一段落したところで、一時的に人々の間で自由と平等が実現されて、過渡的な状態が定常状態になるまでの間は、そんな自由と平等の幻想を抱いていられるわけか。世の中は結局そういうことの繰り返しと循環でしかないのだろうか。でもそういう捉え方はありふれていて、何だか凡庸でつまらない気がして、もっと何かはっとさせるような、気が利いた言説にたどり着けないものかと思うが、今のところは何も思いつかず、それでも語ろうとすれば、その手のたわいのない紋切り型的な言説に終始するしかないのだろうか。誰かがそこから悪あがきを試そうとしているのかもしれず、何か革命のようなことをやりたいのだろうか。人々の間で自由と平等を確保しつつ、かつ貧富の格差を生まないような社会システムを模索しているわけか。でも現状では、多くの人は利己的でかつ功利的であり、内心その手の格差を肯定していて、あわよくば自分たちも一握りの富める側に属したいわけで、要するに優越感に浸りたいわけだ。現に多くの人が今あるような現状を支持しているのではないか。きれいごとをいうなら、努力した者が報われる社会を実現したいわけで、報われている人々にとっては、それが実現されていると思っているのではないか。しかし努力とは何だろうか。それは結果的に成功した者が抱く自己満足に過ぎず、何かをやり遂げて、それがたまたまうまくいったりすれば、自分が日々血の滲むような努力を積み重ねてきたからこそ成功したのだと思い込み、また何かの巡り合わせが悪く、うまくいかなければ、努力が足りなかったのだと自らに言い聞かせるわけだ。物事を結果からしか見ないなら、そういう努力至上主義の幻想を抱くことができるわけか。


11月25日

 また自意識が語る理由を求めている。でもそれを求めているのは君ではない。無理に語ろうとすると、なぜかたわいのない内容となってしまうようだ。そういう成り行きに逆らいながら懸命に語っているのに、語るほどに馬鹿げた内容と思われてきて、ついに嫌になって途中でやめてしまう。嫌悪感が増してくるらしい。それは語るのをやめさせるための罠なのだろうか。誰かがそう思っているようだが、君はそうは思わない。ではどう思っているのか。何とも思っていないのが唯一の救いか。語るのに理由などいらない。語っていること自体が誰かの空想なのかもしれず、本当は何を語っているわけでもないのだろう。噓も方便で、とりあえずそう思いながらも、でも絶えず懸命に語ろうとする。そうすることに救いを求めているのかもしれず、一方では無駄だと思いながらも、結果的には語ってしまうわけだ。馬鹿げているのだろうか。たぶんそうだ。そんな語り方では落胆以外の何ももたらさず、うんざりしているのかもしれないが、自業自得だろうか。そんなわけで今日も身勝手な思い込みと独りよがりに終始しているわけか。言葉を記すほどにそんな気がしてくるようだが、どうもまた何かの袋小路で、目の前の壁に向かって語りかけているような感じで、そんな滑稽な光景を思い浮かべながら、たぶんそこから無理矢理引きずり出されない限りは、立ち直れないのだろう。まったく冗談にもほどがあるが、いつもそうなのかもしれず、それは今日に限ったことではないのだろうか。困惑したければいつまでもしていればいいのだろう。たぶんしたくてしているのではなく、できれば悩みが晴れてすっきりしたいのだろうが、そうはいかない現状のようで、その先も果てしなく続いてゆきそうな気配も感じられ、いったいどこまで精神が耐えられるのか見物だが、誰が何を見ているわけでもなく、どうせ君は何も見ていないのだろうし、切羽詰まって何も語れなくなれば、また想像上の荒野の前で佇み、そこから何も言葉を発しなくなってしまうのだろう。結局やっていることはいつもの繰り返しなのか。でも今さらそんなことをやっている自らを卑下してみても始まらず、またそれもフィクションの中でやっていることかもしれないが、たぶん虚構の中でも現実の世界でも、自分などという実体を求めるのは間違っているのかもしれず、語る理由を求めている自意識という観念も虚構でしかないのかもしれない。

 古代の官僚は奴隷とか宦官だったらしいが、今の官僚たちにもそういう意識は残っているのだろうか。主人と奴隷の関係か。奴隷は主人を倒して主人になりたがり、主人となって権力をふるいたいわけか。子供の頃から一生懸命真面目に勉強して、進学校を経て一流大学に入り、最難関の試験を通ってエリート官僚になったのだから、自らが有能な人間であると思うのも無理はないだろう。実際有能なのではないか。その有能な人間が有能でない一般大衆から非難されては、腹が立つのもうなずけるか。そういう立身出世主義がもたらした世界に暮らしているわけか。とりあえず大半は比較的裕福で教育熱心な家庭からそういう人たちが出てきたのだろうから、その手の立身出世主義もある程度階級社会が介在しているわけで、まったく平等というわけではなく、貧乏で教育に金をつぎ込めない家庭からは、エリート官僚は生まれにくいか。中には逆境にもめげず、蛍の光窓の雪という劣悪な環境から、奨学金でももらって出てきた人もいるのだろうが、昔の大日本帝国時代は今よりもっとすごい立身出世主義で、真の超エリートたちが国家を運営していたのだろう。科挙を実施してそこから選ばれた超エリートを官僚として使っていた歴代の中国の王朝もそうだが、そういう立身出世主義が行き詰まる原因は何なのだろうか。それだけではだめだということなのだろうが、それは国家というシステムの致命的な欠陥であり、国家の内側だけで立身出世競争をしているうちに、視野が狭まって外側の世界が見えなくなり、硬直化した組織の中で自己保身以外は何もできなくなって、せっかく子供の頃から培ってきた優秀な頭脳も宝の持ち腐れとなっているわけか。現状では無理かもしれないが、今後戦争か何かで一度リセットする機会が巡ってきた時にでも、統治機構の在り方を見直した方がいいのかもしれない。多くの人たちが同じ目標を掲げて競い合ってしまうと、その競い合っている部門ばかり突出して、他の競い合わない人たちが不利益を被り、嫌な思いをしてしまう。君はそういうスポーツ的な価値をあまり肯定したくないらしい。


11月24日

 そこで誰が何を試行錯誤しているのか知らないが、結果的には相変わらずこんな具合だ。まだまだ先は長いようで、すでに飽きてしまったらしく、君はどこかでうろうろしているのだろうか。部屋の中で波が押し寄せる画面を眺める。サーフィン日和というわけでもないが、別に海辺の砂浜を歩いているわけではない。またありもしない光景を空想しているわけか。言葉を記しているだけでも奇蹟かも知れず、まだ何かを語ろうとしているのだからマシな方かもしれない。何もできなくなった時点で終わりだ。でも今のところは終わる予感はしていない。思いがけず突然その時が来るわけか。それを今から想像したところでどうなるわけでもない。おびえているのだろうか。空が明るくなってきたようだ。たとえ絶望のどん底にあろうとも、探せばきっとどこかに希望がある。そんな幻想を抱いているようで、まだ何もあきらめていないのかもしれない。たぶん何もない場所に何かがあり、君はそれを探し出そうとしているのだろう。でもすべては空疎な気分が生じさせている幻想のようだ。時期的にも時代的にもそういう気分となっているのかもしれない。要はタイミングを逸しないように心がけるだけか。まだ君が見ている世界は狭く、無限の広がりを感じさせない。そう感じさせる何かが働いていて、そんな作用に妨げられて、見えるものも見えてこない。何によってそれを強いられているのか定かでないが、それでも何かを探し出そうとしているわけだ。そういう話に持ってゆきたいのだろうか。それも気まぐれに思いついた作り話のような気がするが、何を積極的に求めているわけでもないので、とりあえず何かを探しているふりを装いたいのかもしれず、別に見つからなくてもかまわないのだろう。まったく気の抜けた話だ。もはや何かに抗う力を失ってしまったのかもしれない。しかし何かとは何なのか。いつもそこで立ち止まるが、未だにそれが思いつかないようだ。

 そして何の感慨もなく、猫の額を軽くなでて、その場をあとにする。そんなありもしない光景を思い浮かべながらも、またチャンスを取り逃がしてしまったらしく、がっかりしてふさぎ込んでいるのだろうか。焦らなくても次があるだろう。次がなくてもそのまた次があり、機会が巡ってくるまでいくらでも待っていればいい。待ちくたびれて嫌気がさしたら、そこでやめればいいだけか。結局何のチャンスも巡ってこなかったようで、そこで落ち込み、何もやる気がしなくなり、それから君はどうなったのか。またそんな情景を思い浮かべるが、空想の世界でそうなっているだけだろうか。どうもそこから話が前へ進んでいかないようだ。とりあえず確率的にはゼロでない。でもほとんどゼロに近い確率なのだろう。ホリエモンに人生相談するようなものか。それなりの努力とその場の運もあったのかも知れないが、宝くじに当たった人間に、どうすれば当たることができるのですか?と尋ねても、当たった当人も困り果てるだけで、自らの成功談を語ってみたところで、それが万人に当てはまるわけではなく、成功できる人間はほんの一握りしかいないのだから、そんなことを相談している時点で、見込みがないということかもしれない。その手のメディアはそういう一握りの成功した人間の相手をする場であり、その他大勢の名もなき一般人は観客であり消費者でしかない。それでも夢を追い求めたいのだろうか。しかし夢とは何なのか。この時点でどのような可能性があるというのか。だから可能性がないわけではないということだ。でもまたそこで立ち往生している。どう考えても違うような気がするが、成り行きとしてはこうなのだから、何に魅入られてしまったのかわからないが、運命の神は君をここまで連れてきたわけだ。できれば意味不明でわけがわからないことにして、逃げ出してしまいたくなるが、まさか逃げるに逃げられない状況に追い込まれているわけか。

 実際はそれほどのことでもないのだろう。百パーセント破滅すると決まったわけではないのだから、とりあえずほとんどすべてを犠牲にしながらやっていることを信じるしかない。現時点では本当か嘘かわからないが、この段階ではそう思うしかないらしく、今のところは平常心でいられるのかもしれないが、それがいつまでもつかわからない。どこかでうまくいくように祈っているわけか。でも何がうまくいくというのか。何もやらずにそれはないのではないか。ただそんな幻想を抱いているだけか。かなり馬鹿げているようだ。では冗談なのだろうか。どうもこの期に及んで本気ではないようで、どうしても現実を真に受けることができないらしい。それは現実ではなくて冗談なのではないか。それとも冗談も現実も真に受けることができないということか。まさか君は失敗することに成功することを望んでいるわけか。それはどういうことなのか。要するに自分でもわけがわからないようになりたいのだろうか。今でさえそんな気がしているのに、さらにわけがわからなくなってしまったら、正気を失い精神錯乱を起こしかねないのではないか。笑っていられるうちはまだ余裕がある証拠か。余裕がなくても狂人なら笑い続けるような気がしないでもないが、とりあえず本気になれないのだから、あまり悩む必要もないような気がして、それほど愉快な気分でいられるとも思えないが、平常心を保とうとして、かえって緊張してしまい、我を失い、理性を奪われ、それから君はどうなってしまったのだろうか。また将来のことを思いながら心配しているわけか。だから今さらそれはないだろう。もはや渦中からは脱したのではないか。そう思い込んでいればいい。そのうちいきなりそれまでのつけを支払わされて、自らの非を思い知らされるのだろう。そして最終的には地獄へ突き落とされるわけか。それにしても悲観しだしたらきりがないようだ。君はわざと自らが失敗するように取り繕っているみたいで、まさかそこに突破口を見出したわけでもないのだろうが、今のところは意味不明な行為と映っているようだ。


11月23日

 あまりいい加減なことを語るべきではないが、いろいろ試行錯誤したり思い悩んだりした末に、結局いい加減に語ってしまうのが悪い癖か。でも厳密に語るべき話など何も見当たらず、無理に見つけようとすれば焦るだけで、結局何もないから漫画でも読んでいて、その中では虚構の登場人物たちにも、話の筋に沿った力関係や重要度によって、いろいろな序列があるようだ。でも話的には結局戦って勝ったり負けたりするわけで、勝った方が強かったり負けた方が弱かったりするのだろう。またその場の成り行きで、弱い連中が力を合わせて協力し合い、強い悪役を倒したりする時もあるわけだが、やはりそれは漫画の世界での話か。君はそう述べて何が言いたいのか。偶然の巡り合わせが話の中では必然的な結果を招く。偶然に出会うべくしての、必然的な出会いが用意されているわけで、そうならなければ話が前に進んでゆかず、様々な出会いを通して、そこに現れた様々な登場人物との交流が生まれ、それらが話に絡んでこなければ、おもしろくならないのだろう。冒険活劇とはそういうものか。それが読者の興味を持続させるコツなのだろうし、たまにははっとさせる衝撃的な場面に出くわして、思わず感動してしまったりするわけか。でもそれらの何が衝撃的な場面を生じさせるのか。読者が感情移入している主要な登場人物が、唐突に死んでしまう場面がそうなのか。そうでなければ、君はそれらの話の中で何を期待していたのか。たぶん何を期待していたわけでもなく、ネットで漫画に出てくる登場人物を検索しているうちに、のめり込んで他に何もできなくなってしまい、どうでもよくなり、その後が続かなくなっているのかもしれず、漫画の話はもういいのだろうか。

 では洞窟の話はどうなってしまったのか。誰かがそこで隠棲しているわけか。彼はそこにこもって何から逃げているのか。世の中か。それともありふれた何かからだろうか。何かとは何なのか。暗闇の中でろうそくを灯し、毎日何かを書き記しているわけか。だから何かとは何なのか。例えばそれは、数奇な運命に翻弄されたある男の全生涯か。またそこから作り話が始まってしまいそうだが、別に洞窟の中で書き記さなくてもいいのではないか。ろうそくの灯りでは目に悪く、洞窟から出て、陽の光の中で書き記した方が、健康にも良いような気がするが、彼が洞窟で隠れ住んでいる理由は何なのか。ひょっとして指名手配犯であったりして、数奇な運命に翻弄されたある男とは、それを書き記している彼自身のことだろうか。要するに彼は自伝を執筆中で、執筆し終えれば、それで満足して、自ら命を絶ち、何かの偶然でそれを見つけた後世の人間に、その自伝を託すつもりなのだろうか。そんなふうにして見つかったものを、読者に向けて報告する体を装った小説というのも、昔はよくあるパターンだったらしいが、今はそういうのは流行らないか。そこに書き記された話の内容にもよるのではないか。では彼はその生涯において、どのような冒険を経て、またどんな犯罪に巻き込まれながらも、辛くも追っ手から逃れ、最終的にその洞窟までたどり着いたのか。要するにその手の冒険活劇の主人公が彼だったのか。ならば彼はそこで自らの冒険談をおもしろおかしく語らないと、それを発見する後世の人の興味を惹かず、その努力が無駄となってしまうわけか。そうならないように、今や彼はその全知全霊を注ぎ込んで、自らの全人生の集大成というべき自伝を、まさに仕上げようとしている最中なわけか。だんだん話が大げさになってきたようだ。

 そしてだんだん話が続かなくなってくる。ところで彼には何か目的があったはずだが、彼はその人生の中でそれを果たしたのだろうか。目的とは何だったのか。当初はよくあるパターンで宝探しにでも出かけたわけか。あるいはその途中で殺された友人の復讐でも誓い、それもあとから付け加えられた目的となったのだろうか。それらの目的をやり遂げたかどうか、今のところは定かでないが、そして最終的には自らの自伝を書き記すことが、最後の目的となるわけか。そんなわけで彼はその人生の中で、様々な目的を見つけ出したのかもしれず、それが彼にとっての宝探しだったわけか。でもそんな簡単に話をまとめてしまっていいものだろうか。腑に落ちないようだが、何かもうひとひねりが足りないのかもしれず、例えばそれは打ち倒すべき敵や、競い合うライバルが出現しなければいけないということか。でもそれではひねったことにはならず、その手のよくある話となるだけではないのか。ではどうすれば話がおもしろおかしくなるのだろうか。そのよくある話を突き詰め、リアリティが増すように、話の細部を極める必要があるのだろうか。それとも目的からかけ離れ、わけのわからない逸脱と混乱を招き寄せ、話を暴走させ、ドタバタ劇に終始しながら、その時々でギャグでもかまして、読んでいる者たちを爆笑の渦に巻き込めばいいわけか。でもそういうのはその手のセンスがないと無理だし、だいいちそれでは自伝にならないのではないか。ならば彼はその自伝によって自らを偉大な人間に祭り上げたいわけか。要するに彼は大法螺吹きな男なのだろうか。あるいは太宰治のように、自らを何をやっても失敗続きのダメ人間に仕立て、読者の同情を誘いたいのか。まあやり方はいくらでもあり、どうせ作り話なのだから、書き記す技術さえあれば、その時々の気分次第でどうとでもなるような気がするが、実際にはどうなってしまったのだろうか。すでにそんないい加減なことを述べているようでは、思い通りにいくはずもないか。


11月22日

 君はまだ何とか生きているのだろうか。たぶんそうだろう。少なくともそこで生きようとしていて、行方知れずというわけでもない。また夢に現れたようで、さかんに何か語りかけているのだろうが、何を言っているのか一向に理解できないまま、また朝がくる。そしてもう思い出せなくなってしまう。君はそこで何を思い出そうとしていたのか。思い出せなければ空想してみればいい。空想できなければどうするのか。他の誰かがそれらの光景を思い描く。例えばそれは誰かが描いた絵画かもしれない。何かの気まぐれが作用しているのだろう。たわいのない思いつきだ。呆れるばかりで手持ち無沙汰の君は、また誰もいない荒野のただ中で立ち尽くしているだけか。そんな光景を思い浮かべながら、誰かが部屋の中で椅子に座り、画面を見ながら言葉を記す。ありふれた分業の形態というわけでもなさそうだ。君は何もしていないのではないか。何も語らず、ただそれらの光景を眺めているだけか。相変わらず空は晴れ渡り、乾いた地面の上で砂埃が舞い、吹きつける風を感じているのか。結局大した空想に至らずに、言葉を記すのをあきらめてしまいそうになるが、さらに語ろうとすれば何が出てくるのか。心の中で何かが途切れそうになっているのかもしれない。何とかしたいのはやまやまだが、あいにく想像力が枯渇しているようだ。気球がしぼみ、浮力を失い、みるみる急降下して、地面に激しく衝突して、乗っていた人たちが死傷する。そんな出来事も過去に何度も起こっていたような気がするが、それと枯渇しつつある君の想像力と何の関係があるのか。近頃は君自身のだいぶ影も薄くなっているようで、その存在もだんだん希薄になっているのではないか。ではいよいよ君が消えて、私が登場する時期が近づいているのだろうか。でも私とは誰か。あるいは私の主張とは何か。にわかには思い当たらず、思わず考え込んでしまうが、それについて君はどう思っているのか。現状では君にまともな答えなど期待するのは無理か。そもそもなぜそうなってしまったのか。なぜそこから動かないのか。今さら何を蒸し返してみても始まらない。そういう感覚で言葉を記し始め、そういう成り行きでそうなってしまったのだから、君には何の責任もなく、君に何かを期待する方が筋違いか。

 気晴らしに漫画でも読んでいるのだろうか。また世界のどこかで誰かが戦っているようだ。漫画の中でも現実の世界でも戦っている。シリアではまだ内戦が続いているのだろう。君は戦わないのか。相変わらず想像上の荒野で立ち尽くしているだけか。それでは何も話が進展しない。誰かがしびれを切らしているようだが、君はそれでかまわないのか。何を問いかけてみても黙っているだけかもしれず、所詮は君自身が空想上の幻影でしかなく、作り話の中ではそこで身動き一つできない設定なのかもしれない。ただ立ち尽くし、それらの光景を眺め続け、それ以外は何もないということか。想像力が枯渇しているから動かないのだろうか。それも言えているが、呆れてものもいえなくなってしまったのかもしれず、他の話のおもしろさについつい引き込まれ、言葉を記している暇もなくなって、当初の見込みも何もありはしないが、何だかどうでもよくなってしまったようだ。とにかく今日の君はおかしい。もはや幻影とも亡霊ともいえず、ただの記された言葉でしかなくなってしまったようだ。それは奇妙な感覚をともなっていて、何だか終わりの予感さえしているみたいだが、いったいそこで何が終わろうとしているのか。終わりを避けるには君自身に関して語ろうとせずに、他の何かについて語らなければならないようだ。ところでなぜ彼はそんなことを知っているのだろうか。どこからか情報が漏れているわけか。でも今の君の境遇に関しては他の誰にも話していないのではないか。そのへんの事情が今ひとつわからないが、そんな疑念を抱きながらも、さらに君に関する架空の身の上話を省略して、気を取り直そうとしているらしく、いったん落ち込むとなかなか立ち直れないようで、機嫌が直らず、何も語れなくなってしまうらしい。たぶん君には話をおもしろくする才能が欠けているのだろう。君にとっては馬鹿げていることはどこまでも馬鹿げていて、ただ呆れるばかりになり、もはや興味を失いつつあるみたいだが、それでもこの世界に救いがあるとすれば、それは虚構の世界にあり、人々はそれを見たり読んだり聞いたりして、そんな体験とともに気を紛らわしているのかもしれないが、君にはそれができないようで、今はただ現実の世界の光景をただ眺めながら沈黙しているようだ。そしてそれが嘘なのか本当なのかわからないが、誰かによってそう記され、すでに想像上の荒野に佇んでいるのにも飽きてしまったのだろうか。それでは話が続かないから、いつの間にか架空の世界から抜け出て、そのへんの通りを歩いている。そういうことにしておきたいようだが、それから君はどうなってしまったのか。まだ過去を語るタイミングではないか。でも歩き疲れて公園のベンチに座っていたのはいつの日のことか。まだ何も見つからず、見つけようとする気も起こらず、晴れた空を見上げながら途方に暮れているのだろうか。今は昼だ。もう冬のたたずまいで、落葉樹も枝ばかりとなっていて、枯れた風情を思わせ、そこから誰かの行く末を案じ、そんな連想が杞憂に終わってほしい気もするが、終わりが近づいているのは確実なところかもしれない。それが不意に確信に変わる時が怖い気がするが、いつまでもそんな状態でいられるわけがないと思ってしまうのも当然か。


11月21日

 誰かに言わせれば、何もできないわけがないそうだ。確かに何かやっているはずで、やっている結果が現状を構成しているのだろう。人は歩きながら生きている。寝たきりの人も一応は生きている。君はすでに死んでいるのではないか。理由もなく唐突にそれはないだろうとは思うが、うやむやな感じがしているようで、はっきりしないまま意味不明に思われてくる。ピントが外れているのかもしれない。ずれているのだろうか。しかし民主主義とは何なのか。民主主義の根幹を揺るがしかねない法案が成立しそうらしい。そんな懸念を表明しながら、このところメディア上で大勢の人たちが騒いでいるようだ。政府は将来に向けて何か布石を打っているのだろうか。打っているとしてもうまくいかないような気がする。思惑通りだと思ってみても、実際にその通りになったとしても、何かがずれている。目くらましか何かなのだろうか。あるいはアリバイ工作か。とりあえず揺るがせるものなら、大いに民主主義の根幹とやらを揺るがしてもらおうではないか。何だか古風な言い回しのように感じられるが、それは何かの比喩的な表現だろうか。比喩でも何でもかまわないが、そうやって少しでも支配を強めようとしている官僚機構に中心などなく、法律を作って人々の知る権利を制限し、自由を奪い、税金を搾り取り、国債を発行して取り返しのつかぬほど借金をしまくり、結局やっていることはといえば、自分たちが属する機構の維持継続を図ることだ。それは官僚たちやそれとグルになっている政治家たちの心を覆っている集団的無意識の総体が、そういう方向へと結集している証しではないのか。きっとアメリカからも脅されているのだろう。でも軍産複合体という官僚機構に支配されているアメリカもそうだが、何だかピントが外れているような気がする。そうやっていったい何から自分たちの組織を守ろうとしているのか。国際武装テロ集団からか、あるいは自分たちが支配しているつもりの国民からか。別にパニクっているわけでもないのだろうが、明確な目的や思惑がそこにあるとは思えない。それらの組織には中心も目的もなく、結果的に自分たちの属している機構が維持継続できていればそれでかまわないだけなのではないか。そのためなら民主主義もへったくれもありはせず、場合によってはナポレオンやヒットラーやスターリンやルーズベルトやドゴールなどの、独裁者の登場さえ必要としていて、国家が平和で経済的にも安定している時期には、国民に向かって自由だの民主主義だのの幻想をさかんに振りまき、ひとたびそれがうまくいかなくなると、今度は文句を言わせないように様々な制限やしめつけが始まり、挙げ句の果てには独裁者を登場させて強権政治を行わせ、それが戦争や飢餓や恐慌などの破滅的な事態を招いたとしても、それらの責任はすべて独裁者やその取り巻きたちに負わせ、ちゃっかり自分たちの機構は生き残り、何もかもリセットしたあとには平然とまた機能しているわけだ。

 しかしなぜ彼らのピントが外れていると思わせるのか。まさかそれらの官僚機構が崩壊する兆しが、思いもよらぬ方面から生じているとでも感じられるわけか。もしかして国民に幻想を与えながら彼らを支えている議会制民主主義とはまったく異なる何かが、どこかで生じようとしているのだろうか。たぶんそれも何かの幻想には違いないが、何だかだんだんそういう自由だの民主主義だのという目くらましも、人々には効かなくなってきているのかもしれない。確かに人々が働いている職場では自由も民主主義もありはせず、ひたすら物や情報を造って売って利益を出すことが求められていて、そんな当たり前の事実に今や誰もが気づいているのではないか。そういう認識によって心が覆われているとすれば、国家という共同幻想に寄りかかっている政治も行政もメディアも、その効力が失われつつあるのもうなずけるところか。いくらデモクラシーの危機がどうしたこうした言ってみても、金がなければ自由にはなれないし、有名人でなければメディアでの発言権もありはしないし、そういう前提を打ち破るのが不可能な社会に暮らしているのだから、そういうことには自然と無関心になる他はないのだろうし、そういう人々の間に漂うあきらめの空気を利用しつつ、彼らはこの機に乗じて特定秘密保護法案を成立させようとしているのかもしれないが、それでもそういう法案を通そうと躍起になっている政治家たちは、ピントが外れているように思える。たぶんそういう法案を成立させることで何らかの効果が上がるのだろう。ただそういうことなのだ。それ以上は何ともいえないところなのだが、要するにただそういうことだ。それ以上は期待できない。


11月20日

 望遠鏡を覗き込んでいるわけではない。それは顕微鏡か。そうでないとすれば、また悪夢にうなされているのか。だからいわんこっちゃない。そこで誰にどんな忠告を受けたとも思えないが、回避する術はないらしい。うまくいかなければ以前と同じように語るしかないか。何かが遥か下方でうごめいているようだ。それを君が見下ろしているわけではないが、小さく見えるそれは何なのか。まるで蟻のように多数の虫が動き回っているようにも見える。そんなイメージを抱いているのだろうか。ビルの屋上から下の通りでも眺めているのか。晴れた日ではない。上空を流れる雲を見上げているうちに、そんなことなど忘れ、自分が今どこにいるのかわからなくなる。たぶんそうではないのだろう。ではそれは空想の一部だろうか。そうかも知れない。それはまた空想ではなく見上げている空の一部かもしれない。思い描いている内容がそれなのか。それだけでは不十分か。また何を思い描いているのでもないようだ。そんなことを記しているうちにとりとめがなくなり、不意に何の脈絡もなくそんなニュースを思い出す。ここ数年体調を崩したり死んだりする歌舞伎俳優が多いようだ。落語家も多いのではないか。何か原因でもあるのだろうか。彼らが活動している施設にガイガーカウンターでも当ててみればおもしろいか。あるいはそれらの体調不良は、大気中に浮遊している微小粒子状物質と因果関係でもあるのだろうか。そうではなく、ただ単に過度の飲酒や喫煙など日頃の不摂生が祟っているだけか。しかし印刷業者と胆管癌の例もあるだろう。でもそんなことを君が気にしてどうするのか。いずれにしても君が直面している虚無とは無関係で、意識がそこから外れているような気がするだけか。夢の中で何かに追いかけられていて、やがてどこかに追いつめられ、そこで都合良く目が覚めてしまう。そんなことはあり得ず、それでは悪夢でも何でもないだろう。でも夢の中で笑い転げることがあるだろうか。無理にふざけて安心しているわけではなく、夜中に頻繁に目を覚まし、気が気でないのかもしれないが、粗雑な空想に話の起承転結など求めるべくもなく、ただ脈絡もないことが次から次へと思い浮かび、それを書き留めようとするが追いつけず、話に尾ひれをつけている暇もありはしない。気が触れたふりでもしたいのか。本当は何もありはしない。ここ数日空は晴れ渡り、朝が寒くて起きるのが億劫となる。

 内容はたわいのないことだろうか。夢の中身ではなく、結局何が君を追いつめているわけでもなく、ただどこかで独りよがりなことを述べているだけかもしれず、不思議とそれでもかまわないような気がしてきて、それが身の程と境遇をわきまえている証しなのかも知れないが、さらにそこから遠ざかりたい衝動にとらわれ、やがて得体の知れぬどこか遠くへと旅立ってしまうのだろうか。またそんな作り話の途中で正気を取り戻し、いったん我に返るが、そんな語りが退屈しのぎであることに変わりがないようで、あきらめてそこから退散するタイミングも逸して、否応なくそこにとどまっている君を見つけ、自然に誰かの魂が乗り移ってくるようにも感じられ、それらの筋の通らない作り話からリアリティを得られるわけでもないが、それも何かの成り行きに従って語り続けているようにも思われ、現実感を失ったまま、時間に迫られ無理に語ろうとしているようだ。焦っているのだろうか。わからぬでもないが、少し落ち着いた方がいい。何の実現性もない当初の構想から大幅に外れ、嫌気がさしてどこかでやけくそ気味に飲んでいるとも思えない。でも架空の意識が代わりに壮大な計画を思いついたわけでもなく、作り話の中では相変わらず誰もいない荒野のただ中で君が佇んでいる。まだそこで眺め続けているようだ。いくら眺めても何も思い浮かんでこないようだが、それでも飽きもせず眺め続け、心を空っぽにしておきたいらしい。嫌になってしまったのなら、そっとしておいてほしいのか。それらのもめ事に関与する気にはなれず、誰が当事者に気取りで何を発言しようと、何のリアリティも感じられず、すべてが余計なおせっかいのように感じられ、あとは時が経つのを待てばいいだけのような気がして、実際にありもしない荒野の風景の中でじっとしているつもりなのか。そのへんの感覚がわけがわからないようで、できればもう少しまともな表現に行き着きたいが、今は無理らしい。君は相変わらずそこにいる。もはやとどまり続けるしかないらしく、そこから抜け出る気配も感じられず、風景の一部と化しているようで、何かの抜け殻となってしまったのかもしれない。蟬の脱け殻か。ありふれた思いつきは無視してかまわないだろう。それが何を連想させるわけでもなく、言葉を記して戸惑う隙もありはせず、問いかける対象もありはしないが、それでも現実から逃避しているわけではない。そう思うしかないのかもしれないが、だいぶ余分な言葉が連なっているようにも感じられ、いつもの予定調和を連想させてしまいそうで、これではだめだと悟る。


11月19日

 すでに懲りているはずだ。膝が痛む。しばらく昇る朝日を窓越しに眺め、寒くなってまた布団にくるまる。たぶんまた自然の成り行きにまかせるのだろう。何かを思いつき、それを実行に移そうとしてうまくいかず、また懲りずに何か思いつくのだろう。繰り返されるのはそんなことでしかない。すでに懲りているのにそれはないと思いたい。でも結局そうなってしまい、何やら面倒なことになる予感だ。そんなことを思っていたのはいつのことなのか。不意に昔の記憶が脳裏によみがえり、切羽詰まっていた時期のことを思い出す。今はまだそんな段階ではない。これからそうなるにしても、まだ余裕があるはずで、悪夢にうなされ寝汗を大量にかいている場合ではない。しかし今さらなぜそんなことを思うのか。もう充分にわけのわからない紆余曲折に翻弄されているはずだ。急にコーヒーが飲みたくなってきた。意識が強引にそこから引き離されているようだ。何とか逃れようとしているのか。でも現実を忘れるわけにはいかず、あるがままにあるだけの現状から引きはがされたいのだろうが、今のところそれは無理だ。誰かが不意にそんなことをつぶやいて、心に疑念を生じさせようとするが、大した疑念ではなさそうだ。私は彼の地でどうなってしまったのか。それは君にもわからない。君が私なのではないのだから、君と私は他人同士ということになっているはずだ。だからどうなってしまったのかと尋ねられたら、どうにもなっていないと答えるしかなさそうで、君はまだフィクションの中で道に迷っているだけで、取り立ててそこから脱出しようとする素振りを見せているわけではなく、そこで微かに生じた小さな疑念は胸の奥にしまわれ、何事もなかったと自らに言い聞かせながら、その場から遠ざかり、何とかごまかし通せたと思って、ほっと胸を撫で下ろす。本当は違うのだろうが、その場面ではそう思うしかないらしく、またそれとは別の場面で違う動作が生まれることを期待するしかなさそうだ。どうせうまくいくはずがないと思いながらも、ひょっとしたらと期待してしまうのが人情か。しかし相変わらず何がどうなっているのでもない現状が、行く手を塞いでいるのではないか。そんなことはわかっていると声を荒らげることもないが、とりあえず今は沈黙するしかなく、密かな期待も胸の奥にしまっているようだ。

 そしてたぶんそれに関してはまだ何も語っていない。それも自然の成り行きなのだろうか。何でもかんでも自然の成り行きだといってしまえば、もはや語ることなど何もありはしないが、その自然の成り行きに関しては何も語っていないのではないか。いったい何がそうなのか。またありふれたことを考えているようだ。たぶん危機を脱しようとしているのではない。でも危機感を煽っているとも思えない。起こるべくして起こっているのがそれらの危機なのかもしれず、そうだとしたらその危機の中でうまく立ち回ることを心がけたらいいのではないか。たぶんその渦中でやれることはそんなことでしかない。でもそれらの何が危機なのか。改めて問うまでもなく、とりあえずそこで君の出番はなさそうで、さらに傍観者を気取っていられるかどうかは定かでないが、なぜかそれらの自然に光景を眺めている。そこでいつまでも何もせずにいられるはずもないだろうが、それについて語ること以外は何もできはしないとも思われ、何か将来に向けて気が利いた展望があるわけではなく、遠くまで見通せるような眺めでもなく、先行きはいつも不透明なのだろうが、あらぬ方角へその視線をねじ曲げることもなく、取り立てて固唾をのんで眺めているわけでもなく、ただあてもなく興味も抱かずにじっと見ているだけなのだろうか。意図的に安易な勘を働かせないようにしているのかもしれず、わざと無知蒙昧を装いつつ、皮肉な言辞を弄ぶわけでもなく、それらの成り行きをただ眺め、思い通りの成り行きにならないからといって、腹を立てる筋合いはないのだろうし、怒りにまかせて激烈な非難を繰り出すこともないのだろう。まさかそれが傍観者としての無難な立ち振る舞いでも適切なマナーなわけもないだろうが、そんな態度でいること自体が間違っているのかもしれず、見ているだけではなく、何か積極的に行動を起こすべきなのかもしれないが、なぜか見入ってしまうようだ。過去にもそんなことがあったのかもしれないが、君はそこで何を思い出しているのか。迷っているのではないが、案の定というべきか、記された文字列から疎外されているようで、いくら読んでも頭に入ってこない。やはりその書物の翻訳文はわかりにくく、新たに出版された別の翻訳者による文庫本を買うべきかどうか迷いながらも、また何度か読めば少しは頭に入ってくるような気もして、果たしてこの先それを再度読む機会が巡ってくるかどうかわからないが、ともかく先のことはよくわからず、今は難儀しながら途中まで読み進めた書物を終わりまで読むだけのようだ。

 そしてまた暇をみてそんな光景を眺めている。自ら望んだこととはいえ、皮肉な状況だろうか。心の中にわだかまりが生じ、不安や疑念を振り払うことができずに、何も考えられなくなり、ただ眺めるしかないようだ。たぶん何もない光景ではないのだろう。少なくとも君が思い描いているフィクションの中ではそうだ。それはただの荒野でない。きっとそこには誰かがいて、何かを問いかけているのだろうが、それが君に届いていないだけなのではないか。書物を読むことにどんな目的があるわけでもない。ただ何となく読んで理解したいだけなのかもしれず、理解できないから再度読もうとして、結果としてわけのわからない成り行きになっているようで、そしてまた暇を見つけてはそれらの印刷された文字列を眺めている。やはり功利主義的に利益を追い求めなければならないのだろうか。だが何かを売らなければ利益を得ることができず、誰かが買わない限りは売れたことにならない。そこに最大の難関があり、柄谷行人が解釈するところのマルクスの『資本論』が云わんとしているのも、そういうところかもしれないが、それ以前に何を商品としてどこで売ればいいのかもわからず、困った状況なのだろうか。要するに何も売りたくはないということか。それではどうにもならず、売るのが面倒なままでは、何も得られずに餓死するしかないのではないか。まだそこまで追い込まれているわけでもないだろうが、どうせまた切羽詰まって何かやろうとするのだろうが、それが今から何年後になるのかは、今のところ定かでない。君が思い描いているフィクションとはそういう話なのか。あまりリアリティのある話ではないかもしれないが、架空の世界で君は内も外も用をなさないがらくたに囲まれていて、身動きが取れなくなっているようで、何だかゴミ屋敷を想像したくなるが、現実の世界ではそうでもなく、そこでは誰もいない荒野を空想するばかりで、ただ離人症の夢を追い求めているわけでもないのだろうが、自らが思い描いている荒野を自ら眺め、そんなことなどあり得ないのに、それも空想の一部として記したいようで、さかんに描写の機会をうかがいつつも、それが果たせずに苛立つでもなく、ただ荒野は荒野であり、そんな言葉から何を空想しようと、ありふれた荒野にしか行き着かず、たぶんそれでかまわないのだろうが、やはり荒野という言葉にこだわり、何を意味するとも思えないのに、ただ漠然と荒野に佇んでいる自らを思い浮かべ、そんな光景を眺めているふりを装い、しばらく何もせずに黙っているようで、そうやって時の経過を感じ取っているのかもしれない。やがて時が経ち、また生活が行き詰まりそうになれば、君は何かを売ろうとするのではないか。


11月18日

 一時期病んでいたような気がするが、今はその自覚がない。あり得ないことかもしれないが、気のせいかもしれない。その時の気分次第でそんなことを思ってしまうのかもしれず、それの何が正しくて何が間違っているのかもわからず、それを自覚してしまうことが錯覚なのかもしれないとも思い、どう判断すればいいのかわからなくなるが、君はそれについてどのような認識を抱いているのか。そのときになってもまだ語っているのだろうか。その時とはどの時なのだろう。気まぐれな狂気によって何を語らされているわけでもないと思うが、それも君の思い違いなのだろうか。現実にはまだ何も語っていないのではないか。それがその時点での君の現実かもしれず、そして今ではそんな認識が間違っていることも承知しているようだ。しかし本当にすべてが変わってしまったと思える時が来るだろうか。ドアノブに手をかけると妙な気持ちになる。不意にそんなことを思い浮かべてしまい、めまいに襲われたつもりになり、よろめきその場に崩れ落ちる。でもそれは誰の演技なのか。なぜが両膝が痛むようだ。まだ懲りていないのだろうか。そんなことを語っていること自体がまやかしだ。ところで駅のホームの下に落ちていたビートルズのホワイトアルバムの後ろ半分は、君の妄想の世界では何を示すのか。それほどのお宝ではないし、今さら妙に気になるわけでもない。どうやらまだまやかしから抜けきれていないらしい。たぶんそれについて語ることはできるのだろうが、またそのように語れば、何らかの成果を得られるのかもしれないが、今のところはそれがまともに実行されたためしがないようだ。気になることではあるが、どうもまだ半信半疑であるどころか、たぶん全面的に信じられないのだろう。ではこの先どうやれば未来をつかみ取れるのか。そんなことを思いながら相変わらずわけのわからない幻想を抱いていて、不意に誰かがしゃがみ込んで道端に生えている雑草を眺める。そんな光景を思い浮かべながら、それと余裕のある人が茶室でくつろいでいる光景を対比させ、そこから何を導き出そうとしているわけでもなく、それはありふれているようでいて、あり得ない効果を期待しているのかもしれないが、意味不明でかなり無理があるようだ。比較するのには何かが遠すぎるのだろう。苦し紛れではないと思うが、そんなわけのわからない話に、誰の嗜好を収斂させようとしているのかいないのか、させようとしてできるものでもなく、他にどんな思惑も意図もありはせず、それが何かのごまかしであることは明らかであり、まだごまかしの語り方から抜けきれていないのだろうが、それ以上述べてしまうと、いいわけじみてしまうのは避けられず、すでにそうなってしまっているのを承知で、さらにそんなことを述べているようだ。どうやら完全に失敗しているみたいだ。でもそれはいつものことらしい。

 まただいぶおかしくなっているようで、語っている途中で嫌になってくる。本当に脈絡もなくつぎはぎだらけで、何を述べているわけでもないのは一目瞭然か。技巧を凝らしているつもりが、粗雑で不連続な言葉の連なりとなっているだけのようだ。それはまるで猫が目の前を通り過ぎたように感じられ、それが何のたとえにもなっていないことを承知で続けて言葉を連ねるならば、要するに筋が通るように語ることに無関心であり、庭の隅で鎖につながれた犬は何にでも関心を示すが、勝手気ままに歩き回れる猫にとっては、犬の関心など何ほどのことでもないということか。言葉は言葉としてあるのかないのか、あってもなくてもよく、あればあったら面倒なことになるのかもしれず、なければなかったら何かと不自由なのだろう。鎖につながれた犬は自由に歩き回れる猫を憎んでいるのだろうか。そんなことを思い浮かべながら、道端に生えている雑草を眺めている君は、茶室でくつろいでいる誰かが気になるようで、茶人といえば利休というわけでもないのだろうが、古田織部は最後は切腹させられたようで、織部焼の茶碗の画像を眺めながら、何だか痛そうな感じがしてくる。すべては幻なのだろうか。気にかかるというのが嘘なのか。たとえそれが無駄であるとしても、何らかの役目を果たしているようにも思えてくる。でもそう思うことの何が気休めなのだろうか。君は幻想の中で誰かに巡り会うつもりらしい。茶室も何もありはしないのに、ソファーに座っているだけでくつろいだ気分となり、マグカップで緑茶を飲みながら、織部焼も何もあったものではない。それでもまだ道端に生えている雑草が気になるのか。まったく関係ないのに、猫が目の前を通り過ぎるのと同時に近所で犬が吠え始め、それで気分が害されたわけでもないのに、何となくその場を立ち去ろうとするが、何でもないことなのに、利休も織部もその死に方が悲惨に思われてきて、趣味に興じながら老人が隠遁しているような時代に生まれていたら、茶の湯も何もなかったのだろう。しかし気まぐれとは何なのか。次いで白い漆喰が所々ではがれ落ちた壁に両側を囲まれ、そんな薄汚れた石畳の通りを誰かが歩いている画像を眺めているようだ。南欧か北アフリカの光景かもしれず、今では廃れたアシッドジャズのグループのCDのジャケットでしかないが、妙に気になるわけでもないのに、他に記すことがないのだろうか。頭の中でピアノが語りだす。問いかけているのは君ではない。では達人とは誰のことを指すのだろう。クールなアンサンブルを聴きたいのか。どうもまだ何かが足りないらしい。平均律によって調律されているピアノから聞こえてくる音が、他の楽器が奏でるメロディーとの間でどのような差異を感じさせるというのだろう。

 さらにおかしい。たぶんでたらめなのだろう。どうも理論は理論で、その理論から導き出された文章が何やら主張を構成するのだろうが、さらにその理論に対する批判から導き出された文章も、君に何やらもっともらしいことを語りかけ、結果的に君を惑わせ迷わせ悩ませているのかもしれない。それについて君はどう考えどう思っているのか。それらの主張が難しすぎてお手上げ状態なのだろうか。そういうわけでもなく、理解できる範囲内では理解できているのかもしれないが、疑念は疑念として残っていて、果たしてそれでいいのかとも思われ、何だかまだ果てしなく書物を読み続ける羽目になりそうで、なかなか現状では区切りや終わりが見えてこない。人がやりたいこともやっていることも様々で、人々の間でいろいろな思惑が交差していて、それらのどれが正しいとも思えず、筋の通った意見には耳を傾けたいが、筋が通っているような意見ばかりで、どれも信用できないわけでもないが、一長一短があるようでないようで、ごちゃごちゃしてきて頭の中で収拾がつかなくなってくる。そしてそこから何を始めようとする気も起こらず、そんな嘘をつくしか能がないのに、やはりそれについて語ろうとして果たせずにいるらしく、その代わりに出てくるのが、それらのでたらめで意味不明な言葉の連なりとなるのだろうか。そんな説明もでたらめのたぐいなのかもしれず、たぶん記すべき何かを逸しているので、そんなふうになってしまうのだろう。しかし何を記すべきなのか。目下のところは書物を読みながらそれを探している最中なのだろうか。いいわけにもならないようで、自己嫌悪に陥っているわけでもないのだろうが、やはりここは考え込むしかないらしい。ふざけているのか本気なのか、それとも遊び半分なのか、あるいはどうでもいいことなのか、それらのどれでもないのか、そんな言葉を連ね始めるときりがない。雑な感じで語り、語っている自己に言及しながら、自家中毒になろうとしていることに気づき、あわててそこから身を翻し、今度は芸もない情景描写に逃げようとして墓穴を掘り、結果として画面上に無駄で無意味な言葉が連なっているのを眺めながら、思わずため息が出てくるようだが、まあそれは自業自得ということで自らを納得させ、本当は悦に入りたいところをじっと我慢して、さらなる向上を模索し、それを超える何かをつかみ取りたいと思い、またひたすら書物を読もうとするわけか。そういうことをしていること自体がそもそもの間違いなのだろうか。でもそういう成り行きなのだから逃れようがなく、あとはそれを信じるしかないようで、実際に何を信じているのか定かでないが、やはり何かの到来を信じているのだろう。果たしてそれが破滅の到来か否かは、その時が来たらわかることだ。


11月17日

 知ることは安易で学ぶことは難しい。知っていると思ってしまうわけか。そんなふうに思って、確かに知ってしまうのだが、それを学んだつもりにはなれない。今日もそんなことなどをあれこれ考えながら、言葉の記された画面と向き合う。とりあえず何も知り得ないわけではないらしい。ただ面倒くさいので正確を期すことができないようだ。でもいい加減に語るわけにはいかないのだろう。結果的にそうなっているのかもしれないが、一応は厳密に語ろうとしているのではないか。厳密とは何か。抜かりなくということか。でもそれは無理だろう。少なくともできることは今やっていることだ。それだけのことかも知れない。何かが固まってしまう前にそれをやり遂げなければならず、出口が完全に閉ざされてしまう前に、懸命にそこに向かって走り続けなければならない。そんな前向きな気持ちに水を差すつもりか。果たしてそこに何があるのだろうか。凍てついた冬の大地か。そんな画像を眺めていれば、北海道かシベリアにでも行ったつもりになれるだろうか。何となく意識がそこから外れそうになり、どこへでも逸脱しそうになってしまうが、かろうじて踏みとどまったつもりになり、たぶんつもりではだめで、実際に彼の地へ行ってみなければわからないこともあるのだろうと思い、行く気になっているのは君ではなく、また別の見ず知らずの誰かなのかもしれないが、そんな語り方ではつまらないだろうか。語りが衰弱している。栄養が足りず、血液も行き渡らず、頭の中身が乾涸びて、瀕死の脳死状態に近づいているのだろうか。きっとそれは何かの比喩表現だと思っているのだ。そして相変わらずモノローグの枠内で心が閉ざされている。結局知っているのはそんなところで、それ以上の何かを見つけ出すには、きっと何かから学ばなければならないのだろう。しかしそれ以上とは何か。少なくともそれ以下ではない。誰もそれを認めないし、それ以上に何があるとも思わない。君が学び損ねているのはそういうことか。ただあやふやなことを述べながら、そこで近づきたいのかもしれないが、それは虫がいい話か。でもそれなりに苦労はしているのではないか。でもそれがどの程度なのかわからず、どの程度苦労すればそれを獲得できるのかもわからない。

 君は相変わらずそんな境遇にとどまり、そこから出られずにいるわけか。他者に巡り会えず、何も学べずにいるのだろうか。そんなはずがなく、出会っているのに気づいていないだけで、それどころかわざと気づかないふりまでしているのではないか。そして今ではそこから遠ざかるだけ遠ざかってしまい、何もない空疎な空気に包まれながら、何かを考えている最中なのではないか。確かに自己対話の中で考えていたようだが、それはありふれたことだ。否定するまでもないことで、要するに自らが空想した架空の他者から何か学べるような気がしていただけか。またずいぶんと回りくどいことを述べている。でも今さら危機感を煽ってみてももう遅い。それはすでに了解済みのことであり、あとは決まりきったことを述べておしまいにすればいいだけのことか。それを安易に語るわけにはいかず、知ったところでどうなるわけでもなく、それ以上の何がもたらされているわけでもない。ありふれたフィクションの中では話の都合で簡単に事故が起こり、そこからあっと驚く仕掛けへと導かれ、実際にあっと驚いて、人はそこで満たされるのかもしれないが、君も他人の満足感につられてあっと驚けばいいのではないか。君はそれらの驚きを誰と共有したいのだろうか。それともその驚きはすでに賞味期限切れなのか。たぶん何かが事前に保証されていないと何も驚けないのかもしれず、驚くべくして驚かないと気が済まず、それ以外の驚きなど無視しておけばいいわけで、わざわざ感知するまでもないことか。それで満たされた思いに至るなら、それほど楽なことはないだろうか。そんなわけでは君は自らが窮地に陥らずに驚きを求め、それが未だ果たされずにいることが気に入らないのか。それでも君はそれがまやかしの驚きであることを知っているはずだ。本当はもっと恐ろしい目に遭っているのではないか。そしてそれが不意に思い出されてしまうことを恐れ、そうなる前に別の安全な驚きによって心を満たされようとしている。それは精神錯乱を起こさない程度の安全さか。でも果たしてそんなことが可能なのだろうか。あるいはまたありもしない話をでっち上げて、何とか気を紛らわせようとしているだけなのか。そんな話に深入りせずに済ませられるなら、少しは何かをやり遂げた気になれるだろうか。何かとは何なのか。それさえわかれば苦労はしないが、相変わらずそういうわけにはいかないようで、今日もそのへんで煩悶するしかないのだろうか。わざとそう思い、そう思うことで何かをもたらそうとしているわけか。

 そんなことを考えているうちに現実の世界へと引き戻され、そこでありふれた現実に直面して、また思い悩んでいるふりをしながら、さらに考え込むが、何も思いつくこともなく時が流れ、何に神経を逆撫でされているわけでもないのに、怒りが沸々と湧いてきた風を装って、批判的な論調に言葉の連なりを軌道修正してくるはずもなく、ただどうも思っていることの何もかもが違っているように感じられ、うまく立ち回ったつもりが、実際にはとんだ災難に遭いつつあるのだろうか。でもそれも覚悟の上のことなのではないか。そのへんがどこまで本当なのか意見の分かれるところらしいが、また救急車のサイレンを聞きながら、たぶん徐々に実感しつつあるのではないか。どうなろうとどちらでもかまわない。でもそのどちらかの両方ともわかっていないわけだ。将来のことなどいくら予想しようと空想しようと、君にとっては何でもないことであり、何を確かめようとしているとしても、それらはすべてあとからわかることであり、途中経過の時点でわかろうとしても、わかるようなことではないことは百も承知しているはずなのに、やはり結果が心配で、しきりに空想してみたり、予想してみたりして、そんな結果を思い描きながら、煩悶しているのだろうか。それはうざったくも焦れったい気持ちの表れか。でもかまわないのではないか。とりあえず前向きに思うことが肝心で、心配すればきりがなく、そんな着地点に近づけないところが歯痒くて仕方がないのかも知れないが、結果的にうまくいこうがいくまいが、それ以上の何を期待しても無駄なようで、最悪の結果になることも覚悟しておくべきなのか。そうだとしてもまだその途中だ。途中が長過ぎるのだろうか。でもどうせ最悪の結果になるのなら、できるだけ可能な限りそれを先送りしたいのが人情というものか。とりあえずはそうならないことを祈りながらも、それを回避するような模索や試みも逐次欠かさず検討しつつ、検討するだけで実際には何もやっていないのが現状かもしれず、そんなはずがないと思いたいのかもしれないが、実際にはどうなのか。君はそこで何をやっているのだろうか。何もやっていないといったら嘘になるが、たぶん何もやっていないと嘘をつくしかないのだろう。確かに何もやっていない。少なくとも何もやっていないと語ることはできるわけか。それはそうだが、何かやっている気がしないのも事実で、でも何もやっていないわけでもなく、やはり何もやることがないのかも知れず、何かやることがあったらそれをやるとも限らず、とにかくそれで何もやっていないことになってしまうのかもしれない。


11月16日

 何だかまた頭の中がこんがらがってきたらしい。まだそれらの現象に関して幻想を抱いているとすれば、さらに君はそこからどんな成り行きを引き寄せてしまうのか。現状のままでは何もできずにじり貧状態となるしかないが、どうあがいてもここからの巻き返しは無理だろうか。では冷静に考えてみて、これは負けなのだろうか。いったい何に負けているのか。そのへんがはっきりしないところだが、本当に負けているとすると、すでにそれは決定していて織り込み済みなわけか。織り込み済みとは何なのか。でも実際に何の虜となっているわけではなく、他の何から解放されているわけでもない。別にがんじがらめというわけでもなく、まだ立ち直る可能性があることは確かだ。一応はそう述べて強がってみせているが、しかしこの状況は何なのか。何も変わらず、今のところは何の展望も開けず、将来のことは誰にもわからない。みんなで庭先に落ちてきた隕石でも眺めているわけか。また関係のない意味不明なことを空想しているようだが、他に空から何が降ってくるというのか。雨が雪か。雪が降れば楽しそうだが、現実には寒いだけかもしれず、そんな光景を空想しながら眺める気にもなれない。たぶんそれは違うはずで、もっと何か深刻に受け止めなければならないことか。ではまさかこの状況がこれなのか。これとは何なのか。実際には何のことでもないらしく、今のところは個人的な認識の範囲内でそう思っていることでしかない。でもそこで何を認識しているのだろう。またいつもの堂々巡りに近づいてきた。それ以上は何も思いつかず、またそれに関してうまく言葉を引き出せないようで、そんなわけではっきりしないままここに至り、どうかしていたことに気づくが、今さらそれはどうしようもないことで、何を引き戻そうとしているのでもなく、何によって引き戻されているわけでもない。ただ現状のままにとどまり、それを超えることはできないだろう。だから何を訴えかけてもどこにも届かず、声を発してもことごとく周りの風景の中に吸収されてしまい、残響さえ残らない。これでは何も語っていないのと同じことではないのか。だがそれでも未練がましく何か語っているようで、ありふれた幻想を抱きながら語る。きっと良くなるだろう。すべてはうまくいく。そう思っていないとやっていられないわけか。

 結局長々とわけのわからないことを語り続け、それが無駄で無意味な試行錯誤のようにも思われてくるが、要するに何を述べたかったのか。君の力では現状をどうすることもできないということか。それはもとからわかっていたことだし、今さら確認するまでもないことだろう。現時点では株価も異常に上がっているし、だんだん先行きが恐ろしくなってくるように感じられ、何かそれに関して語らなければならないわけでもなく、義務感などありはしないが、やはりそれは関係のないことなのか。いったん大きく値を下げてくれないと怖くて買えないか。買ったことなどないくせに、買い方さえ知らないのに、素人が利いた風なことを述べるべきではないらしい。ただネットでニュースを見ているだけで、ここぞとばかりに証券会社や株売買相談の宣伝が目につくが、その気になるほど金があるわけでもなく、メールを開けばネットショッピングの勧誘メールばかりで、どこもかしこも売りたくて仕方が無いといった雰囲気を感じさせる。確かに商品は売れない限りはただの物でしかなく、売れ残りの在庫を抱えているだけでも負債でしかなく、食料品などは賞味期限が切れたら廃棄処分にするしかなく、廃棄するにも業者に頼めば金がかかる。そんな厳しい現実を目の当たりにしなければならないのだろうか。それでも商売を続けるしかないのだろうし、下手に銀行から金を借りれば、後は借金に追われ資金繰りに奔走するだけで、倒産するまでやめられなくなってしまうか。悪循環に陥ればそうなるしかないだろうし、そういう人たちは消えてゆくだけで、すべては結果から判断され、一握りの大成功した人たちがメディア上でもてはやされ、一時的にはその手の商売のバラ色の未来を予感させ幻想させるが、そういう人たちもいったん落ち目になれば、ざまあみろとばかりに栄枯盛衰の物語の中へと押し込まれ、そういう脚光を浴びて消え去った人たちには、しばらくしてあの人は今という企画が待ち受けているわけか。しかし何もやらないうちからそんな予定調和の話の展開を思い浮かべてどうするのか。たぶん君は何もやらないまま終わってしまうのかもしれず、実際に何も始めようがなく、はじめから終わっているのかもしれない。そしてそんな始まりもせずに終わっている現状を眺めながら、何だか愉快な気分となっているようで、また荒野の風景を思い描いているのだろうか。

 しかしこの先こうした資本主義的な世界が変わることがあるのだろうか。どうもそれに関しては今のところ説得力のある意見に遭遇できない。このアメリカ主導の世界的な金融緩和政策の行き着く先に何が待っているのか予想するのは難しいか。あと何年かしたら結果が出てくるのかも知れないが、それまで待たないとちょっとわからないか。しかし永久に金融緩和でカネをばらまき続ければどうなってしまうのだろうか。どこかで景気が良くなって、その必要がなくなり、うまくいってめでたしめでたしということになるわけか。まさかやけくそでそんなことをやっているとは思えないのだが、でもやり方がちょっと簡単すぎないか。実際に株価が恐ろしく高くなっているにも関わらず、この期に及んでどうしても信じられないようで、君が信じようと信じまいと、そんなことは関係なくやっていることなのだろうから、どうしたわけでもないのだろうが、しかしこのヤバい胸騒ぎは何なのか。何かとんでもないことが起こるとすれば、それは何なのか。起こってみなければわからないことでしかないのだろうが、何か起こればそれに対応できる準備はしておいた方がよさそうで、それが何の準備なのか知らないが、いざというときの心構えでも、心の片隅にでも持っておいた方がいいということか。それでは気休めでしかないだろう。そんなわけで気休め程度の心構えとともに、何やら終わりなき退屈な日々を送っているようで、それもいつか終わってしまうのだろうが、そのいつかを目標にして、何かやらなければならないわけか。まあ取り立ててやることはなく、ただ言葉を記して、それを読み、また記してまた読み返し、それがエンドレスで続くとは思えないのに、凝りもせずに続けようとして、途中で躓いて行き詰まり、しばらく画面を眺め、気を取り直して再開し、また行き詰まる。いったい君は何を語っているのだろうか。それはたわいのないことであり、どうでもいいことかもしれないが、君にとってはそれがすべてなのか。さあわからない。すべてとは何だろう。何をかけているわけでもなく、本気でそんなことを述べているわけでもなく、全生涯をかけてやり抜こうとしているわけでもなく、だから何だというわけでもない。少し語っている内容がいい加減なのだろうか。それもなきにしもあらずだが、どうやらそこから遠ざかるわけにはいかず、もうしばらくはそれらの空疎につきあわされてしまうみたいだ。


11月15日

 早朝に目が覚め、何か思い出したようだが、すぐにまた眠ってしまったらしい。過去に強い心的外傷を受けた場合に、後になってその記憶が、突然鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりするフラッシュバック現象だろうか。検索してみたらそんな意味が出てきた。記憶力が良いのか悪いのか、はたまた良いことが仇となっているのかいないのか。そんなことを考えながら、またうとうとしてしまう。自己顕示欲がわいてくるでもなく、何を主張したいのでもないらしいが、ともかく言葉を記してみてから判断しよう。心ここにあらずかもしれないが、やるべきことはやっておいた方がよさそうだ。どこからどこまでが地続きなのか知りたいようだ。意味がわからないのだろうか。でもそれは取り立てて知りたいことでもなさそうだ。では他に知りたいことでもあるわけか。それを今から探そうとしているわけでもない。探せば知りたいことが山ほどあることに気づくかもしれないが、探すのが億劫でその気にならなければ、大して知りたいことなど思いつかないか。それでも君は考える。何を考えているのか知らないが、とにかく何か考えているようだ。無意識のうちに考えているのかもしれない。狂信的な思考で凝り固まっている人たちは恐ろしい。何かがそこで煮詰まっているようで、それを何が何でも守り抜くという信念に取り憑かれているようだ。綿密に考え抜かれたその主張には一分の隙もなく、少しの妥協も許されない。独善的で他人を見下し、他人の浅はかであやふやで隙だらけの言い分などには耳も貸さず、逆に徹底的に論破しようとして、ディベート術を日々鍛えているのかもしれない。そんな人たちに太刀打ちできるわけがない。目的意識のかたまりだといえば聞こえは良いのだろうが、だいたいそういう人たちの目的であるのが、利益第一主義から導き出されてしまう何かなのだろうか。現実にそうしないと資本主義に支配された世の中では成功できないのかもしれない。

 何だか奥歯に物が挟まったような抽象的な物言いとなってしまい、具体的に何を指摘したいのか定かでない。指摘する気になれないのかもしれず、別に気が進まないなら、しなくてもかまわないのかもしれない。ではなぜそんなことを語ってしまうのか。いずれ彼らが破滅してしまうことを知っているからか。そんなことはないだろう。そうならない方がいいのかもしれず、適者生存で、彼らが生き残り、彼らが見下しているような甘くて軟弱な人たちが、この世からいなくなってしまえばいいのかもしれない。そうなればますます競争が激化して、その方面で息もつかせぬし烈な消耗戦が繰り広げられ、その手の嫌な人たちがますます興隆を極めるだろう。そういう成り行きになるならそれでかまわない。でも本気でそんなことを思っているわけでもないらしい。すべてはフィクションの中で起こっていることで、現実の世界では何も起こらず、あるのは草木も生えない岩山と瓦礫に覆われた大地だけか。そこには荒涼とした風景が広がり、人影などどこにも見当たらず、所々に何かの廃墟が点在しているだけか。行けども行けどもそんな光景に出くわすばかりで、何を探しにここまでやってきたのか忘れてしまうほどだ。どうも本当に忘れてしまったらしい。君はそこで何を探していたのか。たぶん過去の出来事ではないはずだが、未来のどの時点でそうなってしまったわけでもないようだ。君はそこで自ら思い描いた空想の世界を書き記そうとしているのか。それとも昔見た映像のたぐいをつなぎ合わせながら、そこから醸し出される幻想的な雰囲気を文章上に醸し出そうとしているわけか。そうだとしても決してうまくいっているとは言い難い。たぶんどこでもないような荒野をバイクか馬で走っている光景を思い描き、それは昔煙草のテレビCMでよく見かけたマルボロマンの周囲を包み込んでいたアメリカの乾いた大地なのではないか。あるいはアフリカのナミビア辺りにあるウラン鉱山の付近で見かける光景か。どちらにしても健康には良くない光景のようで、煙草もウランも癌のもとか。

 しかしどうしたものだろうか。火星にでも行けば金を稼がなくても暮らしてゆけるのだろうか。行けば最後らしいが、行きたい人は大勢いるようで、移住計画にたくさんの人が応募したらしい。でも行くまでに大量の宇宙線を浴びて、行ってからも大気が薄いから浴び続け、やはり癌になってしまうのだろうか。そのへんの対策はできているのか。だが別にそんなことを本気で心配しているわけでもなく、冗談でそんなことを考えているつもりでも、何が冗談で何が本気なのかわかるわけもなく、きっとどこまでも冗談なのだろうが、現実は現実で行くところまで行けば、何かうまい具合に方策が出てくるのかもしれず、とりあえず楽観しているつもりになっていればいいのかもしれない。そして君は君で、誰もいない空想の世界で果てしなく彷徨い続け、それに飽いたら現実の世界に戻ってきたつもりになり、そこから適当に言葉を記せばいいのだろうか。やはり本気でそんなことを思っているわけでもないようだ。君はどこまでも愚かだ。そしてどこまでも空疎な気分を求めている。だから世の中が破滅に向かってばく進中だと思うと、愉快でたまらなくなるのだろう。それが嘘なのだろうか。本当は君なりに何とかしようとしているのではないか。でも見せかけの民主主義の裏でぬくぬくと勢力を温存している官僚機構の皆さんには太刀打ちできそうもなく、彼らの功利主義に惑わされている大多数の人たちを目覚めさせることなどできはしない。だいいちそんなことを思っている君自身が間違っているのは確実なのだから、正しいことをやめて、間違ったことをやれなんて言えるわけもなく、そんなわけのわからぬことを主張したところで、何の説得力もなく、無理に主張しても無視されるか狂人扱いされるだけだろう。たぶんこの先経済が破綻してもそれはすでに織り込み済みのことで、いったんリセットしたら一から出直しで、またこれまでと同じことが繰り返されるような気がするのだが、実際にはどうなるのか。結局原発の事故処理がうまくいかなくても、原発推進派はまったく懲りていないような感じだし、功利主義派の皆さんもこれまで通りのことを繰り返すだけのように思われてしまう。


11月14日

 すでに利用できるものが何もない。急にそんなことを悟り、またそこから逃げようとしている。この期に及んでどこへ逃げようとしているのか。行くあてなどありはしない。でもとりあえず逃げてしまうわけだ。それはあり得ないことか。部屋の中で誰かがどこかへ逃げていく光景を思い描いているようだが、現実には逃避行も何もあったものではない。森の中での戦争ごっこにも飽きたらしい。すべては空想で、それ以上は何を妄想しても無駄で、精神的に追いつめられていることに変わりはなさそうだ。それがまたいつもの冗談なら結構なことだが、今回は何かそれとは感覚が違うようだ。気のせいかもしれないが、ただ語れない。何も思いつかず、何も語れない。気を紛らわそうとして、何か他のことに思いを巡らしているようで、それで却って落ち込んでいるわけか。しばらく静かにしていると、少し落ち着いてくる。耳を澄ませば遠くから微かに声が聞こえているような気がする。誰かの叫び声だろうか。時折何かの反響音も混じっているようだが、ここは洞窟の中ではない。突然どこかで非情ベルが鳴っている。目を閉じてさらに耳を澄まし、聞こえてくる方角へ向かい、強く念じてみるが、今度は何も聞こえてこない。気のせいだったのか。頭の中で架空の音が鳴り響いていたのかもしれない。だからそれが気のせいなのだろう。

 何かを語るには確かにきっかけが必要で、不意に近所で怒鳴り声がして、それにつられて言葉を記すと、すらすらとその後が続いてしまうようだ。そのついでにまた何かを強く念じてみる。果たして念力でスプーンが曲がるか。そういうたぐいの念じ方ではないような気がする。自己催眠でもかけているつもりか。頼るものが何もなくなれば、今度は超能力にでもすがろうとしているのだろうか。たぶんそうではなく、そんな気にもなりたい気分ではあるようだが、本気でそう思っているわけではない。カラスが鳴いているようだ。何が足りないのだろうか。そんな疑問を抱いているうちに何もなくなり、何かが通り過ぎた後には、巨大でキッチュなオブジェだけが残る。結局足りなかったものなど何もなく、そこにはただ過剰でおぞましい何かがあり、それを見上げながら、空疎な思いが頭の中を駆け巡り、君を苛立たせるのかもしれないが、残ってしまったものは取り除くわけにはいかない。そこから遠ざかることもできず、それと共に生きていくだけで精一杯なような気がするが、まだそこから変わる可能性が残されているのだろうか。何を馬鹿にしているのでもない。悪趣味ならそれは放置されるべきだろうし、実際にそうなっているのではないか。君もそこから遠ざかれずに、意味不明な言葉を弄しながら、かろうじてそれがもたらす貧窮に耐えているのだろう。まだ未来があると思うなら、さらに言葉を連ねていって、どこかへ突き抜ければよく、その稚拙で壮大な何かに対抗すべく、それらの空気から滲み出す空疎な雰囲気に耐え続ければいいのではないか。

 君はまだそこから遠ざかれると思っているのだろうか。確かに貧窮に耐え続けているだけではだめかもしれない。そんなことはわかりきっているのに、なおも耐え続けようとするのは、単なる惰性のなせる業か。君にはその先に何が待ち受けているのかわかっているはずだが、あえてそうなる運命を避けようとはせずに、それを受け入れようとしているみたいで、それが滅びの道をたどっていることを承知で、現状を放置し続け、黙ってそんな光景を眺めるがままに過ごしつつ、現実に破滅の時が訪れるまでその身を休ませておくつもりなのか。たぶん休みすぎて感覚が鈍り、気づいた時にはもはや手遅れとなってしまうだろう。それを見越して、何か策でも講じておくつもりもなく、ただ惰眠を貪るばかりのようで、何もやろうとしないらしい。まさかそれも誰かが思い描こうとしているフィクションの一部か。しかし言葉にならない空想で満たされ、いつまでもその中で安住していては、本当に抜け出られなくなってしまうのではないか。そんな心配もどこ吹く風で、危機感がまるで感じられず、またいつもの予定調和の成り行きを演出したいのかもしれないが、果たして今回はうまくいくだろうか。別にうまくいかなくてもかまわず、ただそこに言葉が適当に連なっているだけでよしとして、語りの質が顕著な飛躍を遂げる可能性を模索しつつ、また次回にお預けかもしれない。それはありもしない可能性だろうか。でもそこから一つのことを忘れないようにしよう。君が考えていることの中に現実があり、その現実が君をそこへとどまらせ、そしてそのとどまり方にふさわしい言葉をもたらそうとして、君はそこでの説明に窮し、ただ困惑するばかりなのだ。だから何もないなんてあり得ない。そこには常に何かがあり、それが君をその場につなぎ止め、そこで何かを探求させようとしているわけだ。それが終わらないうちには、君にふさわしい終わり方など用意されておらず、君はまだまだその場に居座り続けるしかないのであり、無理だろうと無駄だろうと、根拠も原因も定かでないままに、一向に立ち退く気配も見せず、いくらでもどこまでも語り続けるしかないのだ。しかしそれは誰の言葉なのか。神の言葉であるわけがなく、他者の言葉でもない。単なる自意識過剰の何かが語っているのであり、何かとは自意識そのものであり、そうでなければ話のつじつまが合わないようになっているのに、合わなくてもかまわないような何かがそこにいて、その何かが君を操りながら語らせているわけだ。君自身がそういう妄想を抱いている。そういうことにしておきたいのだろう。いろいろ考えるのが面倒くさければ、そういうことでもかまわないのではないか。


11月13日

 また内省しながら語ろうとしている。やれることはやっているつもりでも、やれていないことばかりのような気がする。実際にできないのだから仕方のないことかもしれない。何が違っているのかわからなくなるのも仕方のないことか。でも語れば語るほどわからなくなり、そこで行き詰まる。いったい何をやりたいのか。目的がない。外部を意識しているようだ。何かが思考を妨げる。邪魔をしているのは自分自身だ。そしてあくびが出て、眠くなってくる。でも夢見心地とは言い難い。また誰かが邪魔をしているのか。誰かとは自分自身だ。そしてわざと自らを袋小路に追い込んでいる。まさかそこで自身を仕留めるつもりか。他の誰が殺し屋というわけでもないが、散弾銃を抱えた猟師が森の中をうろつき、木陰で獲物を待ち伏せている者もいる。まだ迷いがあるようだ。誰を迷わせたいのでもなく、自分が迷っている。たぶんそんな嘘を語りたいのだ。獲物は君ではないだろうが、脇道から薮の中へと入っていくのは危険か。でもまだ幻想の冒険は終わっていない。日が昇り辺りが明るくなってくるが、動きようにも動けず、次第に焦れてくる。我慢比べにも限界がありそうだ。どうやらここは夢の中ではないらしい。北硫黄島には有史以前に人が住んでいたらしく、石斧が何個か見つかっているようだ。それから茂みの中で隠れている君はどうなったのか。まさかその石斧を振り回しながら突き進み、怯んだ隙を見つけ、猟師たちの待ち伏せを突破しようと考えているわけか。無謀にもほどがあるだろう。そしてそのへんで記憶も飛んでいる。結局話にならず、相変わらず何かの断片が当たりに一面に散らばっていて、それをひとつひとつ拾い上げ、パズルのように組み合わせて、言葉の連なりを再現しなくてはならず、いつまでも嘘をついているからそうなってしまい、話からの逸脱に気づいた時には、もう後戻りができなくなり、その場の成り行きに合わせて、また中途半端にでたらめなことを語り続けてしまうようだが、君はそこで何かに負けているのだろうか。まともに語るのが面倒くさいのか。

 それにふさわしい技術と根気も足りないようで、文と文がつながるようにしなければならないのに、それに見合う言葉を見出せず、後から話のつじつま合わせに追われるが、うまくいきそうもない。その場の思いつきとはそんなもので、話の脈絡や意味など何も考慮されておらず、ただわけもなく語ってしまうようで、まだ目が覚めていないのかもしれない。それにしても季節はそろそろ冬なのだろうか。身も心も寒いことには変わりなく、それはそれでこれはこれなのだろうが、今日も収穫はなかったようで、獲物が何も見つからず、面倒なことにならないうちに、さっさと退散することになったらしい。それに合わせて君もその場を離れ、何もなかったことにしておきたいらしく、誰かが帰る途中で、その場での出来事について語りかけてくるが、とぼけてみたり、話題を別の方面へと逸らしたりして、なかなか事の真相に触れたがらない。いったいその場で何が行われていたのか。見つからない獲物とは何だったのか。熊か猪か。はたまた人間か。そのへんは誰の想像から何が導き出されても、そういうことだと思っていればいいのかもしれず、どうせ出来損ないの作り話なのだから、荒唐無稽な獲物を空想しておけばいいのかもしれない。例えば獲物はゾンビかエイリアンか。どちらにしても映画の中でそんなものに遭遇したら、逆にこちらが獲物となってしまうだろう。それにしても今から二千年ぐらい前の北硫黄島には誰が住んでいたのだろうか。島の形状に魅力を感じるが、コンビニもないし、ネットにもつながらないだろうから、そこに移り住んで余生を送ることはできそうもない。せっかく建てた家も土地も売り払って、どこか南の島に移り住み、絵でも描きながら余生を過ごしたいとでも思っているのかいないのか、どうせそんなことを実行すれば失敗するに決まっている。ブヴァールとペキュシェではないのだから、あまり浅はかに夢を追い求めて、現実離れしたことはやらない方がいいだろう。そういえば鳥打帽と山高帽の2人組とは、もしかしてそのモデルはマルクスとエンゲルスにあるのではないか。時期的には重なるような気もするが、やっていたことも似たり寄ったりだと見なしたら、その方面の人たちに怒られてしまいそうだ。冗談はさておき、なぜ森の中で潜んでいる夢を見るのか。君はそこで何か得体の知れないものでも見かけたのか。それとも夢を見たことも君の支離滅裂な作り話に入っているわけか。


11月12日

 寒いのだろうか。疑念を抱くまでもなく、そういう季節の移り変わりの中で生きていて、寒いと感じているのかもしれない。実際に寒いのだろう。ただそう感じていて、その気になるまでもなく、そう記しているようだ。何か心境の変化でもあったのか。取り立てて方針転換に至ったわけでもないらしく、そのまま語ろうとしている。それはありのままでも感じたままでもないらしいが、とりあえず寒いと感じている。どうも寒くてうまく語れないようだが、それが理由になっているとは思えない。街路樹の葉も色づき始めるのだろうか。どこで何を眺めているのでもなく、すでにそうなっているのかもしれず、とうに紅葉の季節なのかもしれない。君はどこで何をやっているのか。南の島でのんびり余生を送りたいと思う。それはやっているのではなく、思っていることでしかないようだ。それも実現不可能な思いか。現状ではどうなのだろうか。誰かが絵を描いている。それが南の島の風景だとは思えないが、君は誰かが描いている絵を覗き込みながら、何を思い浮かべているのか知らないが、そんな情景を思い浮かべながら、何を語っているふうを装う気もないらしく、それがでたらめな空想から生じている虚構の一部を形成し、他の誰かを惑わすに至るほどのリアリティを持つとも思えないが、何となく寒空の下で、ありもしない南海の孤島の奥深くに眠る財宝にでも思いを馳せ、それが現実逃避の妄想であるのはわかりきったことだが、誰か財宝の在り処を示す地図を持っていたら、譲ってくれないだろうか。無論冗談でそんなことを述べているようで、まだ追いつめられるには至っていないようで、少しは心に余裕が残されている。

 どういうわけかそこで意識が途切れ、しばらく夢見心地でそのへんを浮遊しているようで、実際はそうでもないことを思い知っているわけでもないのだが、突然どこかの病院の集中治療室で目覚め、驚いて周りを見渡し、それが冗談ではなく、そんな見え透いた嘘に惑わされているわけでもなく、そんなありもしない光景を思い浮かべて、まさかそれが未来のどこかで体験することになるとも思えないが、すべては過去に見たテレビ映像か何かの影響なのかも知れず、そんな記憶の断片を探りながら、何かひらめくのを期待しているのだろうか。ひらめいたとしてもとてつもないことではあり得ない。何かとてつもないこととはどんなことなのか。それは漫画の囲いの中に封じ込められてしまうようなことかも知れない。そこには大いなる謎が提示され、その謎を巡って登場する、優秀な頭脳と不思議な能力を持ち合わせた冒険者たちが、ある時は反目し合って敵対し、またある時は堅い友情で結ばれて連携し合ったりして、そうなる過程で華麗で壮絶なバトルを繰り広げながらも、次第にその謎が解き明かされていく物語となるのだろう。しかしいったい隠された財宝はそれらのどこで眠っているのだろうか。そして宝島の地図はどこへ行ってしまったのか。君にそれを探し出す機会がやってくるとも思われない。たぶん空想の中で思い浮かべていることは、そんなたわいのないことでしかないのかもしれず、誰かが描いている絵の表面に何が示されているわけでもないらしい。意識がそこから遠ざかり、現実を離れ、真正面から見据えることを避け、できもしないことが語られる書物の中で自足するわけにもいかず、また画面の前で腕組みをしながら考え込んでいるようだ。

 しかし明日は我が身というのはどういうことか。またおかしなことを思い浮かべているのかもしれないが、安易に出口など探さない方がよさそうで、現実と格闘しながら苦悩しつつも、まだしばらくは悪あがきを試みるべきなのかも知れず、荒唐無稽な妄想から何を導き出そうとしても、それが出口とはなり難いようで、君はさらにそこで停滞中となりそうだ。確かにそれらの物語は果てしなく続くようで、マンネリだの紋切り型だのと批判されようと、いったん動き出したプロジェクトは止めようがなく、とりあえずいくところまでいって、何らかの結果を見ないことには気が済まないのだろうし、君もその結果に期待しているのかもしれず、それに出会うまでは終われないといったところだろうか。しかし何がプロジェクトなのか。遠く忘れ去られていたものが、今にわかに活動を再開したらしく、そんな光景を目の当たりにして、気休めでもいいから気持ちを奮い立たせ、また前向きに生きていく決心でもついたのだろうか。確かにいつまでも後ろ向きのままでは気が滅入ってしまい、生きる気力も失せ、まるで夢遊病者のように街を彷徨い、行くあてもなくその辺りでのたれ死にというわけにもいかないのだろう。しかしそこで果てしなく続いているのは何なのか。やはりそれは終わりなき物語なのだろうか。でも決着は遥か昔につけられているはずだろう。それを今さら蒸し返して、また昔と同じように冒険の旅に出られるのだろうか。昔のことはもうみんな忘れているから、またそれを思い出して懐かしんだりして、あるいは初めて体験する者には新鮮な驚きをもたらし、かえって昔より楽しめるのかもしれず、君もそうなってくれることを願いながら、後は安らかに眠りたいだけなのか。なぜそこで眠ってしまうのだろう。

 無理なように感じられながらも、結局ここまで来てしまい、改めて何かあるように思われてしまうわけだが、今さら何を語るにしても、語り終えるまでにはまだ相当長い時間がかかりそうで、語りながらも読み、読みながらも語り、そんな自己対話に飽き飽きしているようでいて、執拗にそれが繰り返され、はたと気づいてみれば、何に言及しているのかわかってしまい、それにしらけているのだろうか。でも結果は結果でしかないだろう。たとえ満足できないとしても受け入れ、宝島の地図を見つけられなかったとしても、あきらめるわけにはいかず、さらに妄想を巡らし、何かが出てくるのを気長に待ち続け、出てきたそれを記してみればいいのだろうか。たぶん冗談でそんなことを述べている。空想の中で描いていた絵はまだ完成にはほど遠く、構図も決まらず下書きさえできていないような気がするが、落胆するには及ばない。もとから期待していなかったのではないか。気まぐれにそんなことを思い、いつか着手してみる気でいた計画が延び延びになり、忘れ去られ、あるとき不意に何かの拍子に思い出されることもあるにはあったが、今の今まで実現には至らず、仮にやろうとしても大したことではないようにも思われ、そのまま放置され、また忘れてしまうのだろう。昔見た映画の新シリーズが数年後に公開されるとしても、その時には状況がどうなっているかわかりようがないだろうし、見ることもなく、果たせなかったことを残念に思うこともなく、そんなふうにならないように祈るしかないのかもしれず、いくら祈っても無駄かもしれないが、とりあえずは報われることを信じるしかないようだ。どうなってもかまわないのだろうが、できれば楽になりたいのだろう。


11月11日

 どうやら「日本は島国だ。ドイツは(原発を)やめても、原発政策を維持するフランスから電気を買うことができる。日本はそれができない」という主張は根も葉もある話で、まんざら間違っているわけでもないらしい。確かに何年か前までは、ドイツがフランスに電力を売っていた量が多い時期もあったらしいが、最近ではフランスがドイツに売る量の方が多いようだ。といっても全面的に依存しているわけではなく、フランスで余った電力を買っているわけで、ドイツはドイツで国内の発電量が不足しているわけでもなく、原発に依存しているフランスでは、原発の定期点検などにともなう一時的な運転停止も含めて、季節的あるいは時期的に電力が余ったり足りなくなったりするようで、余れば外国に送電するし、足りなくなれば外国から送電されるのだろう。ドイツはといえば、社民党や緑の党などが押し進めてきた脱原発政策を、政権交代した保守連合が電気料金などの値上がりを理由に、見直そうとしていた矢先に、福島の原発事故が起こり、事故処理もうまくいっていないことを見て、時のメルケル首相も、やはり原発はやめた方がいいと思ったようで、そのまま脱原発路線を継承しているみたいだ。まあドイツがどこまで脱原発政策を維持できるか見物だが、この先電気料金が高くなりすぎて方針転換ということもあり得るのだろうか。今のところは、福島の汚染水処理対策がうまくいっていないのを見て、メルケル首相も脱原発政策の堅持は間違っていなかったとか言っているらしいから、当面は続けるような気もするが、電気料金が高くなってもドイツ経済が好調なのは、何か理由でもあるのだろうか。あるいは原発依存のフランス経済が低調(?)なのには何か理由でもあるのだろうか。そういえば日本も福島原発事故までの、失われた二十年間(?)は原発依存で経済が低調で、アベノミクスがうまくいっているのかいないのか知らないが、事故にともなって原発依存から強制的に脱却してしまった現在は、株価も上がって円安になってデフレからも脱却しそうだ、とか安倍ちゃんなどがさかんに喧伝すればするほど、やはり原発に依存しなくてもいいように思えてくるが、これで原発が再稼働するタイミングに合わせて経済がだめになってくれば、そら見たことかというふうになってしまうかも知れず、それは冗談だとしても、保守的な現実主義者の方々は、脱原発とかエコロジーとかほざいてデモ行進している人々を見るにつけ、経済のことなど何もわかっていないくせに、と怒りがこみ上げてくるのかもしれないが、事故が起こって何十万人もの人々に迷惑をかけている現状にも、少しは思いを巡らした方がいいのではないか。

 何とかいうかあまり根拠とか理由とか必然性などないのかもしれず、何かが起こった結果からしか考えられず、たとえそれが最悪の惨事でも何でも、起こったことを前提として、そこからやっていく以外にあり得ないのだから、それをなかったことにして、時間を過去に戻してもう一度同じことはやれないだろう。そこで何かしら変化が起こっているように思えるが、そんな変化に合わせて何を語ることができるのだろうか。何も語れないように思えて、その実何かを語っているのかもしれず、うんざりするような逡巡を経て、やはり語っている現状に直面し、時には馬鹿らしく思えてくることもあるようだが、これはどういうことなのか。どういうことでもないからこういうことなのか。「選んだ都民がバカだった!?山本太郎氏に税金年間5000万円」とかいうのを読んでしまうと、相変わらず内ゲバ的に攻撃しているようで、馬鹿でも何でも、そんなことをやっていられるだけ幸せなのかもしれないとも思い、時が経てばそんな出来事も忘れられ、そこで誰が何をやっていたか、なんてどうでもいいことになってしまうようにも思われ、すべては枝葉末節な出来事として片付けられてしまうような気もしてくるが、厳密に何をどう考えるべきかわからなくなっているのは毎度のことで、やはりいつものように腕組みをしながら考え込むしかないようだ。それでは埒が開かないのはわかっているが、行き詰まると考え込むしかないらしい。なぜ君は物事の表層にとらわれているのか。たぶんそれらの表層のどこかに狙い目があり、不意打ちするチャンスが潜んでいるのではないか。でも不意打ちしてどうするのか。泥縄式に持っていくには、一瞬の隙を突いて不意打ちを食らわせ、何が何だかわからないうちに片をつけてしまう必要があるのだろうか。別にをそれを狙ってできるわけがないだろうし、ならば何で不意打ちが可能なのかといえば、結果から見ればそう見えてしまうだけで、付け入る隙とは、別に油断しているから生まれるとも思えないし、細心の注意を払っていても、なぜか成り行き的にぽっかり穴があいてしまうことがあり、そこに吸い込まれるように言葉を組み立てれば、なぜかそれが不意打ちとなってしまうのではないか。でも不意打ちしたからといって何がどうなるわけでもなく、すぐに何事もなかったかのように状況は推移して、そこで不意打ちが行われたなんて誰も気づかないのかもしれず、そこでは予定調和の内ゲバ攻撃が幅を利かせていて、人々の興味もそういうところへ向かってしまうのかもしれない。そういうシステムの上に世の中が成り立っているのだとすれば、別に景気が良くなろうと悪くなろうと、あまり君には関係のないことのように思われ、ありふれた空気の中でありふれた言葉を弄してありふれた主張を戦わせていると、そんなありふれた風景の一部として定着してしまい、その方が幸せでいられるのかもしれないが、何だかそういう方面でがんばっている人たちを応援する気にはなれず、それとは違う何かを求めてしまうのだが、それは求めても求まるようなものでもないのかもしれず、あきらめて周りを見渡せば、そこにあるのはやはりありふれた風景でしかなく、自然とそこへ目がいってしまい、ため息混じりにそんな予定調和を体験するしかないようだ。いったいそれはどういうことなのか。それはいつもの問いだ。いつものように問い、答えなど出てこないのにひたすら問い続け、やがて問うことにも飽きてしまい、また腕組みをしながら考え込み、遠くから聞こえてくるカラスの鳴き声が不意に耳に入り、はたと気づき、我に返ったような気がするわけか。いったい何が我に返ったのか。そこに魂か精神か何かがあったりするわけか。また急に耳の奥からキーンという甲高い音が聞こえてきて、しばらくそれを聴いている。


11月10日

 「日本は島国だ。ドイツは(原発を)やめても、原発政策を維持するフランスから電気を買うことができる。日本はそれができない」のだそうだ。こんな内容を安倍ちゃんが自信満々に言い放ったのかどうか知らないけど、ネットで検索してみる限り、実態は全くの逆で、電力が足りないのはフランスの方で、逆にフランスがドイツから電力を買っているらしいけど、真相はどうなのだろうか。安倍ちゃん大丈夫かぁ?そういう根も葉もない話を吹き込んでいる周りの取り巻きが浅はかすぎるのだろうか。だいたい頼みの綱の原発が事故ったから電力が足りなくなり、計画停電に追い込まれたのはほんの二年前の話ではなかったか。シャブ中ならぬ原発中毒のフランスで、福島規模で原発が事故ったらどうなってしまうのか。あちらでは地震が起こらないから大丈夫なのだろうか。

 何だかあまり事態を深刻に考えない方がよさそうに思えてくる。君は至って元気のようだ。それほどふさぎ込んでいるわけでもない。そのへんの事情をまともに語れないのは致し方のないところだが、確かめなければならないことがあるらしく、それを確かめるために書物をひたすら読んでいるわけか。要するにそれとこれとは関係ないということか。それはそれで書物を読み、これはこれでこういうことを記しているだけなのか。それとこれとは永遠につながらないのだろうか。何かしら相互に影響し合っているのではないか。そう思うしかなく、そう思っていないとやっていられないのではないか。でも思ったほど役に立っているわけではないような気がするが、それは単に君が気づいていないだけなのか。でも気づいたところで、それはほんの些細な効果だ。

 問いかける対象が違っているのかもしれない。どこかずれている。しかし問いかける対象とは何なのか。この世界に向かって何を問いかけているのだろうか。意味を探しているのなら、それはお門違いで、逆に探そうとするから、意識の中で意味がねつ造されてしまうのであり、意識しない限りは、この世界に意味などありはしない。そんなことはわかっているのに、やはり問いかけてしまうわけだ。この世界とは何か、この世界はどうなっているのか、と。いったいこれはどういうことなのか。意識にはそういう問わずにはいられない性質や特性があるわけか。でもどうせ答えなど求めてはいないのだろう。ただ問いかけるだけ問いかけ、気が済むまで問いかけ、そんな問いかけている自らが、問いかけることで、何かやっている気になりたいだけなのではないか。どうやら図星か。そうだとしても問いかけ続けるつもりなのかもしれない。あてもなくわけもなく問いかける。

 たぶんそれで何がもたらされているわけでもない。それでも人は思考によって編み出した理論を用いて、この世界で起こっている現象を説明しようとする。思考とは自らに問いかけ、そこから物事の関係を導き出そうとする行為だろうか。なぜそうしようとするのか。要するにわかろうとしているわけか。何をわかろうとしているのか。この世界をわかろうとしている。だからそれはわかっていることだろう。そうせざるを得ず、わかっているのにそうしてしまうわけだ。そんなふうに語りながら、君も君自身に問いかけているのではないか。いったい君は何を考えているのか、と。君は君ではなく、自分自身も君ではないのかもしれないが、誰も君ではないのだろうか。フィクションの中ではそういうことにしておきたいのであり、そのへんにごまかしがあるのだろうが、やはり君は君ではなく、他の誰かが君なのかもしれないが、そんなことはどうでもいいのだろうか。どうやら問いかけている途中で嫌になり、そこから逃げているようだ。

 問い続けるのにも限界があり、埒が開かなくなるとそこでやめてしまう。それ以上は思考を巡らせたくないようで、何かを徹底的にやるのには向いていないのかもしれず、君はさっさとそこから遠ざかり、そしてどうでもよくなってしまいそうだ。本気でそう思っているのだろうか。物事の原理を突き詰めれば突き詰めるほど、原理に反する結果が出てきて、人は当惑する。原理を見直さなければならないのか。見直したところで同じことの繰り返しとなりそうで、原理を突き詰めること自体が間違っているのではないか。人はそこで疑念を抱き、一時的な思考停止の判断停止状態に陥り、そして他の何かに助けを求めようとして、また様々な書物を読み漁り、そこから停滞を突き破る原理を導き出そうとして、さかんに転回と移動を繰り返し、今に至っているのだろうか。でも実態はどこへも至らず、たどり着くべき地点も定かでなく、ただ道に迷い、途中で嫌気がさし、結局何もやり遂げられずに断念してしまう。それが今語られるべき物語だとは思えないが、たぶんそれ以上の何を求めているのでもなく、それ以下でもないと思いたいが、実際はその遥か手前の遥か下方で力尽きているのであり、それはごまかそうとしてもごまかしきれない事実か。

 しかし何かを語るとはどういうことなのか。そんなふうにしてまた性懲りもなく問い続ける。予定調和の蒸し返しだ。語るとはごまかし絶え間なく蒸し返すことで、それが何かの反復を導いているのかもしれないが、ごまかしながらも、一方では勝負をかけているのかもしれず、結果的に何が勝つのか負けるのかわからないが、同じことを厚かましくも延々と語り、語り続けながら、徐々に軌道修正を図り、あるとき不意に今までとは違うことを述べている自らに気づいてしまったりするのだろうか。それは無意識のなせる業で、意識して制御できるものでもないらしく、意識はただ前方を見つめ、そこへ向かってどんどん近づこうとするばかりで、足下の地面が徐々に浸食され始めていることに気づかないまま、あるとき急に地面が傾き、よろめいて必死に体勢を立て直そうとするが、かろうじてそこで踏みとどまったにしても、改めて周りの景色を見渡してみれば、何だか以前とは違っているように見えてしまい、何が違っているのかすぐには気づかず、その場で考え込んで、今までにやってきたことも顧みるが、どうも合点がいかないらしい。なぜこうなってしまったのか。問いたければいくらでも問うてみるがいい。どこからともなくそんな声が聞こえてくるように思われるが、それも気のせいか。

 またもやそういうことだ。いったいこの世界はどうなってしまったのか。以前と変わらないはずがない。それが思い込みだとしても変わっているはずだ。君の意識が変わってしまったのだから、この世界に対する印象も変わって当然だろうか。そこで誰かがそう思い、どのように変わったのか確かめようとするが、その先は誰かの想像にまかせるしかないようだ。本気でそう思っているわけではなく、何かの戯れでそんな心境に至っているふうを装い、架空の意識を用いて言葉を記し、誰を戸惑わせようとしているのでもなく、たぶん自らを惑わしたいのだろうが、果たしてうまくいっているのだろうか。できればそのまま原理を突き進めて、何らかの思考に到達したかったのではないか。それが途中ではぐらかされ、何だかわけのわからぬ成り行きに持っていきたかったのだろうが、うまくいったとも思えず、その代わりに中途半端なことを語り続け、がっかりしてしまったのかもしれないが、それでも何だか気が済んでいるかもしれず、適当にいい加減に語り、それでお茶を濁し、それら君はどこで何をやっているのか。まだその先を模索し続けているのだろうか。しかしとりとめがない。あまりにも漠然としている。たぶん何かの差異が一瞬かいま見られたのかもしれないが、すぐに視界が閉じられ、もうすでにそんな出来事が忘れ去られようとしている。

 君はそこで何を体験したのだろうか。それはほんの一瞬の出来事で、何が何だかわからなかったが、とりあえずそんな印象が残っているらしい。それが何を意味するなどと問わない方がよさそうだ。何を意味しようと、また何も意味していないとしても、もうそれを体験しただけでいいのではないか。確かにそこで何かを感じ、何らかの啓示を受け取ったのかもしれないが、今はもう覚えていない。ただこの先でたとえ行き詰まったとしても、何とかなるのではないか。そう思わせるような何かに遭遇したのかもしれず、そこで肯定的な何かを受け取ったのだろう。たぶん迷うことはなくても迷うのだろうし、迷いながら不安に駆られようと、それでかまわないような気がしてくる。これが迷わずにいられようか。迷っている素振りも見せずにそんなことを思い、迷っているのは嘘なのかもしれないとも思い、しかし迷っているのだろう。そんな感じでいくら迷ってみても、そんなのは迷っているうちに入らないか。では真に迷っているとはどのような状態なのか。そこで考え込んでしまうが、途方に暮れているわけではないらしい。別に迷うようなことではなく、もはややるべきことは決まりきっていて、それをひたすらやり続ければいいだけか。実際にやり続けているのではないか。確かにそうだ。今も延々と何かを語り続けているような気がするが、いったい何を語り続けているのか。またその問いだ。


11月9日

 いつも始まりが虚ろだ。何かを語りそうになってから、今日はそうでもような気になり、躊躇しているうちに気分がおかしくなる。それは虚構の物語のように感じられるが、それとも思いついたまま未来の姿を想像しているのだろうか。哀しそうな誰かの後ろ姿が夢の中に出てきて、後ろ向きのまま君に何やら語りかける。その時の言葉を覚えているだろうか。ここにいてはだめらしい。どこか遠くへと旅立たないと、やがて大きな不幸に直面するだろう。しかしどうやったら旅立てるのか。現状では不可能だ。そんなことを思っているうちに目が覚める。それもその場で思い浮かんだフィクションなのだろうか。でもそこから先の話はどうなってしまったのか。出てくるのは話の断片ばかりで、始まりも結末もわからない。いったい神は君に何をやらせたいのか。ただ漠然とそんなことを思うばかりのようだが、わからないことはわからないままでもかまわないのか。わかりようがないのだから、それは仕方のないことのようだ。それでは済まないとなれば、どうすればいいのだろう。不可能なことをあえてやれということか。できるはずがない。ならば免れようのない出来事に直面するわけか。まあ成り行きにまかせるしかない。そうなるしかないのだとしても、そういう成り行きに身をまかせるしかなさそうだ。逃れようのない運命なのだとしたら、そういうことになるだろう。覚悟はできているわけか。それはどうかわからない。そのときになってみないことには何とも言いようがなく、そこでわかることもあるはずだが、とりあえず今はできることをやるだけだ。

 いつものことで、不意にそんなことを思ったのかもしれない。でも脈絡がなく、相変わらずの意味不明だろう。今さら気まぐれにつきあっている暇はないか。でもあるとき不意に滅び行く民族の歴史を物語ろうとして、それに関する書物でも読んでいる気になるが、実際には何を読んでいるわけでもなく、高校の教科書と一緒についてきた歴史年表を眺めている。それも嘘だろうか。何かのレリーフに彩られた表紙を眺めながら、懐かしさがこみ上げてくることもなく、昔の書物特有のカビくさい匂いをかいでいる。しばらくそれを読んでいたのかもしれないが、どうも話にならないようで、語る機会を逸してしまい、何が何だかわからないうちに時が流れ、それを語り得ないまま面倒になり、やがて手放してしまう。空は曇っているようで、寒空の下で何をやっているわけでもなく、いつものように公園のベンチに座って、老人が何か考えごとでもしているわけか。それはいつの記憶なのか。架空の時空で起こっている現象かもしれないが、別に怪現象というわけでもなく、誰かの妄想の中でそういうことが起こっているだけだ。説明してみればたわいのないことか。とにかく冷静に考えてみよう。今までに何をやってきたのか。何かやってきたらしいが、結果として何がもたらされたわけでもない。そう思ってしまっては身もふたもなく、積極的には何も肯定できなくなってしまい、やってきたことのすべてを否定してしまうことにもなりかねず、落ち込んで、何も手につかなくなってしまうだろうか。でもそこで何を考えているのだろうか。時折突拍子もないことを思い浮かべ、そんなでたらめな発想を巡らし、わざと頭を混乱させているのかもしれない。そうでなければこんなことにはならないだろう。

 誰がどうやってここに至って、それからどうなったわけでもなく、やっていることはいつもと変わらず、過去の記憶が何を語りかけてくることもなく、立ち往生している現実を打開できないようで、さかんに腕組みをしながら考え込むばかりか。それは情けない現状だ。どうせまた何か思いつくだろうが、気がつけばこの世界について何か物語っているのだろうか。でもそれで世界がどうなるわけでもなく、その中で人や物が動き回り、生産され交換され、売られ買われ、それで経済が回っていると見なされるわけだ。そんな現状から何が導き出されるのか。それだけでは結論が出てこない。君も何も語れないだろう。賢い人たちはそこに自前の理論を当てはめ、そこから何やら法則を導き出そうとして、そんなことをやっている経過を発表して、何か考えているように装い、それを説明したり、今後の成り行きを予測したりしているわけだ。そして君はそれを読み、何か思ったり考えたりするわけか。何だか予定調和だ。それではだめか。やはりそんな予定調和から抜け出る出口を求めているようだ。そういう成り行きから逸脱したいわけか。でも抜け出てどうするのか。君には何もやりようがないだろう。語る資格さえないのではないか。ただ意味もなくわけもわからず語っているに過ぎず、それがどうしたわけでもない。客観的な視点があるとすれば、そこから見ればそういうことになるだろうか。それで何か語っていることになるのだろうか。たぶんそうだろう。何のあてもなく語り、その内容も取り立ててどうということはない。そしてそれでかまわないと思っていて、そこから何を導き出そうとしているわけでもない。果たしてそれでかまわないのだろうか。たぶんそういうことになりそうだ。

 ただ語ればいいということはわかっている。どう語ろうと君の勝手だ。でもどうせ語るなら、なるべく誠実に語った方がいいのではないか。それは心がけておかなければならないことだが、どうもその誠実という言葉の意味がわからない。どう語れば誠実に語ったことになるのか。例えば天皇の臣下ではないのだから、文章の中で、彼に陛下という敬称を付ければいいのかどうか迷うところだが、たぶんメディア上で天皇について語られる文章の大半は、天皇陛下と記されているわけで、天皇と呼び捨てにしてはまずいことは承知しているが、でも天皇制について語るなら、天皇は天皇と記さざるを得ず、今現にいる生身の天皇については天皇陛下と記し、天皇制について語る文章の中での、天皇という一般的な固有名に関しては天皇と記すしかなく、たぶんそういうやり方でかまわないのかも知れないが、自分は天皇の臣民ではないと思うなら、やはりそれ以外でもすべて、天皇は天皇と敬称を省いて記さざるを得ない。そのへんをうやむやなままにしておくと、実際に生身の天皇に会った時が気まずいことになりそうだが、たぶん会う機会などやってこないと高をくくっておけばいいだろう。しかし今の天皇が亡くなる間際になってくると、また先代の時のように自粛ムードが高まり、メディア上でおかしな具合となるのだろうか。たぶん普段から人畜無害だと見放されているマイナーな人たち以外の、その手のメジャーなメディア上では、自粛ムードが煽られ、人々もその気になって記帳だとかをやるのかもしれない。平成生まれの若い人は記帳ということが何なのかわからないだろうが、そのときになったら嫌でもわかるはずだ。


11月8日

 何も支えがないらしい。それでこうなってしまったのだろうか。空は晴れ渡り、気分はどうなってしまったのか。心細いだけのようだ。これが試練ならこの先も延々とそうだろう。いつまで経っても終わりようがなく、本当にへこたれてしまうまでは終わらない。驚きとは無縁で、孤独に苛まれ、やがてどうなってしまうのか。内省するばかりのようだ。神に祈っているのではないか。言葉を検索しているらしい。過ぎ去った季節を懐かしみ、過去の時間に埋没して、どんな郷愁に浸っているのか。銀杏の黄色い落ち葉で覆われた通りを歩んでいたこともあった。不意に思い出すのは、そんな意味も定かでない光景ばかりのようだ。歩いているだけではどこへも至らない。行き先がわからないらしい。雨上がりの寒い朝に、人気のない通りで何か見かけようとしているらしい。そこに何があったらいいのか。薄汚れたゴミ置き場にカラスの群れでも見かければ、それがありふれた光景だとも思うのだろう。でもそれは遥か昔に見たテレビ映像でしかない。それを思い出して、また意味など何もないと思う。何か気晴らしになるような幻想にも結びつかず、どのような心持ちでもないような気がする。たぶんわかりきっていることはわかっているのだろうが、そのわかりきったことがどうにもならず、どうしたものかと首を傾げ、妙案など思いつくわけもないのに、考え込んでいるふりでもしているのだろうか。とりあえずそんな思いを軽くいなして、どこか遠くへと旅立ってしまいたいのだろうが、行き先も目的もないので、ただあてどなく彷徨うばかりのようだ。そしてまたそんな光景を空想しながら、どこへも舞い降りずに、しばらく上空を旋回するばかりの鳥を見上げながら、やはりどこへも至りようがないことを実感する。

 他に何を思い出そうとしているのか。もはや空想だけではもの足りず、他の何をもたらすこともできずに、目を閉じて何か瞑想しているふりをしつつ、まただいぶ眠ってしまったらしい。これが必然的な成り行きなのか、何かの巡り合わせでこうなってしまったのか、そのどちらでもあるのだろうが、雲行きが怪しくなっているわけでもないのに、何だかおかしな気分で、それ以上のことは考えられなくなってくる。どうやらあくびが出るばかりで、何も考えられなくなっている。要するにここではないどこかへと逃げ出したいのだろう。そう思いながらもまた眠ってしまい、目が覚めればまたいつもの部屋の中にいることに気づき、そこから出られないことに気づいたのは、もうだいぶ前のことか。それも過去の記憶の断片に過ぎず、そこからどんな物語が生まれるはずもなく、がっかりしているうちに、また眠ってしまうらしい。過去は過去で、過去の記憶は何も物語ることもなく、君の虚ろな顔を朝の日差しが照らすのを覆い隠すには至らず、それが何を意味することもないのはわかっているのに、なおも執拗に心を蝕み、どんどん鬱な気分を深めようとしているみたいだが、それでも信じているのだろう。何とかなると思い、どうにもならなくなるまでは、何とかなるだろうと思うしかないらしく、どうにもならなくなった時点で、様々なことを整理するだけのような気がしてくるが、それで本当にかまわないのだろうか。やるだけのことをやって、結果など何も期待できないのに、ともかくやるだけのようだ。今やっているのは所詮そういうことでしかなく、それ以上でも以下でもなく、そのへんは割り切ってやらなければならないのだろうか。これも一つの経験には違いなく、何の糧にもならないのかもしれないが、経験には違いない。縮こまっていても埒が開かないことは確かだが、それでもまた眠ってしまうらしい。

 たぶんまだ余裕があるのだろう。紅茶を飲んで一気に目を覚まし、それからどうなってしまったのか。そのへんを散策しているのは老人と犬の散歩のたぐいだろうか。信号が青に変わり、急いで大通りを渡りきり、家路につこうとしているのか。ふらつきながらも、足を引きずりながらも、何とか歩き通して、君はどこにたどり着いたのか。自らの限界を思い知ったわけでもあるまい。何だか周囲には見えないバリアーが張られているようで、君はそれに守られ、孤独に苛まれているわけか。でもそれは自業自得だろう。ゴミ収集車も立ち去り、辺りにはもう何も残っていないようだ。だんだん昼が近づき、日差しが暖かく感じられるようで、少しは活動的になるのかもしれないが、まだそこから動こうとせず、もうしばらく休んでいるつもりのようだ。それもどこかで切り上げ、人影も疎らな住宅街の公園をいつまでも独り占めにしているわけにもいかなくなり、その場を立ち去ろうとするが、今日は鳩も見かけない。まさか公園のベンチで古新聞に包まれながら野宿したわけでもない。心はまだ空想の世界で安住しようとしているわけか。あり得ない話だが、将来はわからず、何も見当がつかないままに、ありふれた台詞が脳裏をよぎる。いい加減に目を覚ましたらどうか。現実に目を覚ましているのに、それ以上どうやって目を覚ませばいいのか。何かのたとえには違いないのだろうが、そのへんのところがはっきりしないようで、現状をうまく言い表せず、言葉に詰まり、何も語れなくなってしまうが、そんな嘘をついたところで、もう遅いのだろう。果たして地に足がついているのだろうか。立ち直る気配は未だ感じられず、そのへんをうろつき回り、まるで挙動不審者のように落ち着きがない。

 滅び行く人は滅び行くがままに滅び行き、ありふれたことを語りながらありふれたままにとどまり、手遅れになるまでそんなことをやっているのであり、君もそんなことをやっているうちの一人かもしれないが、それで試練を乗り切ろうとしている最中だと思い込み、無駄で無益なことを延々とやり続け、何とかそれで正気を保っている気でいるのかもしれない。それでは救いがないか。救われようと思っていないのだから救いがなく、本当は救われたいのに強がってみせ、思わずくだらぬことを口走り、みすみす救われる機会を逃しているのかもしれない。人は愚かだ。人ではなく君が愚かなのではないか。自らの器を超えたことをやろうとして、それが果たせないばかりか、ついにはその小さな器も壊れて何も得られなくなり、呆然としてその場に立ち尽くすばかりで、何もやる気がなくなり、やがてそんなことも語れなくなってしまうのだろうか。それでも前途を悲観するには及ばないのか。たぶんそういうことだろう。空想上のどこかで何を語ってみせようと、君はまだ部屋の中で画面に向かって言葉を記している最中のはずだ。その時点では確かにそうだろうが、とりあえずは過去のどの時点にも戻れず、それらの成り行きは必然的としか思われず、やはりそうなるべくしてそうなってしまったのだから、そういう運命に抗えず、とうとうここまで来てしまったらしい。そんな気でいればいいのだろうか。納得できないところのようだが、それは誰にとっても同じことで、君としても本意ではなかったのかもしれないが、とりあえずはそんな成り行きに従い、後はその先に待ち構えている出来事を体験するしかないらしい。でもいったいどんな出来事に出くわすのか。それを今から想像してみても意味のないことか。

 救急車が通りを行ったり来たりして、遠くへとサイレンの音が遠ざかり、しばらくしていつもの喧騒に気づき、何でもない日々を実感しつつ、それもやがて壊れてしまうかもしれないことを予感しながら、さらに何かを見出そうとするが、たぶん何ももたらされないのだろう。もういい加減嫌になってしまったのだろうか。これ以上は面倒を見切れず、運命の神も君を見放そうとしているのか。まるで十字架に張り付けられたキリストの心境だろうか。でもそこで笑い続けているだけではだめで、もう少し悪あがきでもしていた方が気晴らしにはなりそうだが、本気でそんなことを思っているとも思えない。たぶんその段階ではなく、まだほんの序の口で、これからが大変なのかもしれない。静かに時を過ごし、そうなった時の心構えを準備しつつ、準備しても無駄かもしれないが、準備しているつもりでそれを装い、どうしてもインチキくさくなってしまうようで、やはり笑ってしまうしかないのかもしれないが、それはそれでこれはこれとして、まだ何か記すことがあるのだとすれば、それはただの蛇足に過ぎないのだろうか。だから悪あがきだと思われても仕方がないらしく、君はまた黙ってその場を立ち去り、どこへともなく歩き出し、今夜のねぐらを探しているようで、痛めた足を引きずりながら、ゆっくりぎこちなく前へ歩を進めている。それでは物語とはならないだろうが、架空の他者を無理矢理引きずり出すわけにもいかず、ただモノローグ的に語り、どこにも出口が見当たらないこの世界を彷徨する。それが君の宿命のようで、それは以前からわかりきっていることのようにも思われ、目下のところそれ以上は何も進展する可能性を見出せないらしく、さらにそれを続けていくだけみたいだ。


11月7日

 曇り空から雨がパラパラと落ちてきて、またいつもの空想が始まる気配だ。雨に打たれて気が変になってしまったのだろうか。まだ意識は眠っているのかもしれない。しばらく横になって考えていたようだ。何も言葉が出てこなければこんなものだろう。今さら何を主張しても何がどう変わるわけでもなく、半ばあきらめ気味のようだが、仕事とは何だろう。そんな問いからどんな答えが出るわけでもないらしく、ただ仕事をやらなければならないということか。どんなに偉そうなことを語ってみても、結局そこへ行き着き、人は煩わしいことに縛られながら生きてゆくしかない。それも順風満帆とは言い難く、いつどこでおかしくなっても不思議でない。すでにおかしくなっているのではないか。面倒くさいのでそういうことにしておきたいようだが、いつまで経っても何が始まるわけでもなく、何だかやっていることがちぐはぐな気がするが、矛盾しているのはいつものことで、どこをどういじってみてもおかしな具合となり、何が何だかわからないうちに日が暮れて、また明日からやり直しとなりそうだ。今さら幻想を抱いているとも思えないが、それを抱けなくなったら、まさか後は死ぬだけか。それが幻想なのだろうか。死ぬのは簡単なことではない。死ぬ時はあっけなく死んでしまうのかもしれないが、そこに至るまでが長く苦しいのではないか。ではまだ死ねないとすれば、他に何かありそうだと思わなければならないのか。とりあえず今はこうして生きているのだから、まだ死ぬまでには至っていないのだろう。だから死ぬまで語り続けるわけか。できればそうしたくないのかもしれず、適当な時期を見計らってやめたいのかもしれない。もう疲れてしまったようだ。疲れてからが妙に長く、なかなか終わらせてくれないようだ。いつまで経っても終わらないのには、ただただ呆れるばかりだが、宿命とはそんなものか。でもいったいそれの何が宿命なのか。雨空を見上げながら考え込むが、結論など一向に出る気配がない。

 階段で足がもつれよろめいて転びそうになり、君はそこで驚いているのかもしれず、それとともに不安な気持ちになっているのかもしれない。しかし何に驚いたのか。転びそうになったことか、あるいはかろうじて持ちこたえたことにか、それともただ驚いていると記入しただけで、実際には何の驚きにも至っていないのだろうか。たぶんそれだけのことではないのか。部分的にはそういうことで、そこで生じている架空の驚きとは無関係だが、今のところはそんな状態であることに変わりなく、そこで何も得られないことから来る不安な気持ちを紛らわそうとして、わざと驚いたふりをしてみたのかもしれないが、それとこれとは結びつかない動作であり、不安な気持ちをかき消すには至らず、そこに記された驚き自体が嘘偽りであったことを裏付ける証拠も見当たらず、そんなことはないだろうとも思うが、過去には階段から転げ落ちたこともあったのではないか。何度かあったかもしれないが、いずれも打撲程度で済んでいて、骨折などに至ったことはないようだ。まあ階段で転びそうになれば、一瞬驚くのも無理はなく、後から不安な気持ちになることも当然で、何が嘘偽りでもないのかもしれないが、そこでくだらぬ思いにとらわれ、そんなどうでもいいことを延々と記しているのがおかしくてたまらないらしく、何だか情けなくなり、記している内容がお粗末に思われてくるが、そういう成り行きに巻き込まれて、不安感が増していることも確かなところか。どうやら雨が本降りとなってきたようだ。雨空を見上げているうちに、何だかめまいがしてきて、崩れ落ちるようにうずくまり、しばらく休んでいたようだが、まだ朽ち果てるわけにはいかないとでも思ったのか。急に立ち上がり、また歩き出そうとするが、どうも思うように歩が進まないようで、よろけながらふらつきながら、それでも少しずつ前に進んでいるようだ。それは気のせいだろうか。

 またあくびが出る。相変わらず眠い。安易なことを記すべきではないと思いながらも、何だか現実に負け続けているようで、また現状に打ちのめされ、鬱な気分から抜け出られず、何となくそこで妥協を余儀なくされているようで、とりとめのないことを延々と記している。この世界では安易な気持ちにならないと楽しめない。ただ怠惰なだけではだめみたいで、救世主を待ち続けるのも退屈だ。何を持て余しているとも思えず、君がこの世にいるうちは何も出てこないだろうとも思う。身につまされるようなこともない。他人の不幸は他人事で、自らの境遇以上に惹き付けられることもなく、何が切実に感じられるわけでもない。傘をさして駅までとぼとぼと歩き、電車に乗ってどこかへ行き、そこで何をしているのか知らないが、夕方になればまた戻ってくるのだろうか。たぶんそこで何かがなおざりにされているのであり、一度事業に躓き、よろめいてしまうと、経営陣は驚き焦り、会社の存続が優先されるのは当然のことだから、不安感にかられて、おかしな行動に出てしまうのかもしれず、その結果が追い出し部屋の設置なのだろうか。甘いことは考えない方がよさそうだ。商売がうまくいっているうちは、人が羨むような労働環境でいられるのだろうが、いったん躓き出したら、非道なことをやりまくり状態になって、対象者はみんな心を病んで、立ち直れなくなってしまうわけか。何かそのへんの制度に問題でもあるのだろうか。わかっているくせにそれはないか。どうもリアリティがともなわないが、いったん落ちぶれたら見向きもされないような成り行きの中で、人はどうやって暮らしていけばいいのだろうか。それでもみんな暮らしているのだから、その通りに暮らしていればいいだけか。追い出し部屋があるのは名の通ったちゃんとした企業なのだから、たとえ退職に追い込まれても、選り好みしなければ、次の就職先が見つかりそうなものだが、それも甘い考えなのだろうか。


11月6日

 今さら強がる気にもなれない。でも奈落の底というわけでもなく、洞窟の中にいるわけでもないのだろう。迷いに迷って勝手な思い込みに押しつぶされそうだ。そんな気がして後悔しまくりか。それでもかまわない。悲嘆にくれていればいい。嫌というほどわかっていることを改めて確認するまでもなく、社会の制度に太刀打ちできるわけもなく、否応なく直面している困難を前にして途方に暮れるしかない。まあしばらくはそのままがっくりしているしかない。そのまま立ち直れなくなってしまってもかまわないのではないか。こちらからアクションを起こさない限りは、チャンスが巡ってくることもない。そんなのはわかり過ぎるくらいにわかっているのに、なぜか何もせずにとどまっているようだ。ただ成り行きに身をまかせている。わかり過ぎるくらいわかっていようと、嫌というほど骨身に沁みていようと、やはりそれだけでは無理なのだろう。結局なるようにしかならないと思い、ならなければならないだけで、それでかまわないと思うしかないようだ。それで救われているとは思えないが、そんなふうに記してしまうこと自体が、強がっている証拠だろうか。そうだとしてももう遅い。遅すぎるぐらい遅いことも、嫌というほどわかっているのではないか。だからこのままなのだろうか。たぶんそういう成り行きなのだろう。これ以上の何が望めるというのか。あてどない彷徨の果てに君がつかんだものといえば、ただの空虚でしかない。確かそうなる結末だったはずだが、実際にそうなってみて、それについて君はどう思っているのか。

 しばらく歩いてそこで立ち止まり、何か思いを巡らし、そこにうずくまる。何もできはしないだろう。何もできないまま地面の上で横になり、そこで動かなくなってしまい、それを見かけた誰かが君が死んでいることを確認する。そんな夢を見たわけでもないが、確かに精神のバランスが崩れかかっているようだ。まだ何も終わったわけでもないのにそれはないか。君には残された時間でやらなければならないことがあり、それをやり続けているはずだが、何だか急に立ち直れなくなっている。そのまま絶望して錯乱してしまうのだろうか。その先はどうなのだろう。まだ話が中途半端なままにとどまり、納得がいかないところだが、まさかここで終わりというわけでもない。終わってしまったら呆然とするしかなさそうだ。でもその場に立ち尽くしているわけでもなく、ソファーの上でに横になり、しばらくうとうとしているようで、悪夢にうなされているわけでもないのだろう。どこかへと追い込まれていることは確かなようだが、まだ時間が残されていて、その時間を利用して無駄な悪あがきをする機会に恵まれているようで、やはりそれをやっている最中なのだろうか。どう考えてもそういう成り行きの中にいるわけか。それでは納得がいかないのもうなずける。君はそれらの成り行きを信じられなくなってきているようだが、信じるしかないのに信じられないとなると、それは単に信仰の問題か。君はそんな先行きの定かでない信仰に甘えていたいのか。その遠からぬ破滅を忘れるために、一心不乱に信じるしかないのだろうか。しかしそうやって何を信じているのか。神か仏かはたまたそんなことを記し続けることか。

 心身ともに固まっていて、自縄自縛の様相を呈しているのかもしれず、そこから逃れる術を知らず、そんな語り方ではまずいと思いながらも、何とかそんな語りにしがみついて、それで乗り切れるとも思えないのに、そのままずるずるとアリ地獄へと落ちてゆく。そんな光景を思い浮かべながら、貧窮の時に耐えている最中なのか。結局何もないのに語るとはそういうことなのではないか。目的もなく語り、語っていることが何にも結びつかないと悟り、そんな現状に耐えられなくなってから、そんなことに気づく。結局は制度の問題なのだ。無理なのに無理を押し通すように迫られ、無理であることを自覚させられ、その通りだと思うしかなく、他には何もありはしない。そんな虚無的な装いの中で夢を見ているわけだ。君はそこでどんな夢を見ているのだろうか。試練や困難を乗り切って、やがて報われるという夢だろうか。今はそんな幻想を信じるしかなく、信じることしかできないように追い込まれているのではないか。そういう成り行きになっているわけか。そして忘れた頃に奇跡が起きて、君はどうにかなってしまうわけか。どうなってしまうのだろうか。そのときになってみないことにはわからないが、今からそれを想像してみても虚しいだけで、結局いつまで経っても何も起こらずに、がっくりくるような気もしてくる。だから忘れた頃に奇跡が起こるわけか。ただそう思いたいだけだろう。そんなたわいのない妄想が頭の中でぐるぐると駆け巡り、現実の窮地を忘れようとしているみたいだ。笑っている場合でもないが、これが笑わずにいられようか。そして笑った後は落ち込んで、そうやって躁鬱状態を繰り返しながら、次第に衰弱の一途をたどるわけか。しかしネガティブな想像は心身ともにこたえる。

 そんなとき人はバラ色の未来を夢想するものだ。そうやって精神の均衡を整え、錯乱しないように自動制御機構が働いているのかもしれず、どういう仕組みでどうなっているのか、詳しくはわからないが、何だかそれで一時しのぎ的に満たされているような気になるのかもしれず、それが長続きしないことはわかりきっているが、何となく少し正気を取り戻しつつあるのだろうか。誰がそういう心境なのか定かでないが、まさかそれも架空の出来事なのだろうか。物語はこの先にまだ延々と続くらしく、君がそれを語れなくなるまでには、まだ時間があるようにも思われ、残された時間を活用して、さらに語ってゆかなければならない成り行きなのだろうか。ともかくそこで機能している仕組みは亡霊でしかない君にはそぐわない。生身の肉体はとうに朽ち果て、かろうじて意識の断片がそこいら辺りで散らばりながら漂っているようでは、社会に作用を及ぼす以前に薄められ、そこで何を語っているのかはっきりせず、意味をなさないような呪文か何かのように感じられて、それを真に受けようがないと思われても仕方のないところか。でもフィクションとは元来そういうものなのではないか。生身の肉体を所有しているつもりの誰かが、どこでどうなろうと君には関係のないのことであり、誰が不幸になろうと絶望に打ち拉がれようと、そんなことはおかまいなしに君はどこまでも語ろうとするのだし、誰かがそこで追いつめられてそこで息絶えてしまったら、別の誰かに乗り移ってまた語り続ければいいだけで、語る必然性も根拠も見出せぬまま、君に取り憑かれて語らされてしまっている誰かの境遇に同情する余地などなく、そこでつぶれてしまったら御愁傷様であり、何とか難局を切り抜けようものなら、さらにその身を滅ぼすまで語ってもらうだけでしかないのではないか。

 そんなわけで人は語りに取り憑かれ、不幸な人生を送ってしまうらしいが、たぶんそれ自体が虚構の物語なのであり、それが嫌なら隙を見つけてそこから逃げ出さなければならないのだろうか。逃げ出したところで取り憑かれているのだから無駄か。ならばどうすればいいのだろうか。語り続ければいいということか。それでは振り出して戻ってしまうのではないか。そして振り出しに戻ってまた一から語り直すわけか。書物を読み、そこから影響を受け、語りに取り憑かれながら語ってしまうのか。まったくきりがない話だ。そういえば昔ネバーエンディング・ストーリーという童話のような映画を見たことがあり、そこで架空の世界の中で少女が、現実の世界にいる少年に何か懇願していたようだったが、そこで彼女は何を懇願していたのか。まあそんなことは思い出せなくてもかまわないことかもしれず、思い出したところで、それが語りを中断させる呪文などではないのだろう。中断させるだけではだめで、君をこの世界から追い払わなければ、それらのフィクションが消え去ることなどあり得ないのではないか。また苦し紛れのでたらめな妄想にとらわれている。たぶんそれも誰かの作り話でしかなく、君にとっては関係のない話であり、君は君で相変わらず退屈していて、もう少しマシな話にできないものかと誰かの語りに不満を抱いているのかもしれず、まだまだ改善の余地ありと勝手に思っているのかもしれないが、まあそのへんは今後の成り行きに期待するしかないか。でもどういう成り行きになるにしても、それが君自身に何の報いももたらさないような気がするのはどういうわけだろうか。すでにもうあきらめてしまったのだろうか。いったい何をあきらめているのか。


11月5日

 何がどこへ流されていくこともなく、風が吹いて何かが飛ばされる。何かとは砂埃とかゴミかもしれない。それを道端で猫が眺め、何を思うこともない。猫を見ている誰かがそんなことを思う。フィクションの中ではそういうことか。誰が何を見ているわけでもなさそうだ。画面上にそんな言葉が並んでいるようだ。誰の意識でもないのだろうが、そんな意識を想定してみるが、しっくりこないのもいつもことで、何がかずれていると思い、記された言葉の連なりに修正を施しながら考えているようだが、まとまりに欠ける印象を拭えない。まったくそれらのどこからどこまでが君の言葉なのか。すでに記されているのだから誰の言葉でもありはせず、そのままどこか未知の時空へと漂っていけたらいいが、誰に読まれることもなければ、それは風に吹かれて舞う砂埃のようなものか。読まれても理解されないのではないか。そういう小難しい内容でもないか。君はそれらを読んで何を理解しているのか。まだ読みつつある段階で、読み終わるまでにはかなりの時間が必要か。でも読んでいるだけに終わってしまうかもしれず、読んで何かを語るまでには至らないのかもしれない。でも君が体験しつつあるのはそういう成り行きではないらしく、何かしら記された言葉の連なりをともない、それを読みながら記している誰かを眺めつつ、そんな眺めている視線を空想しているのかもしれず、いつまで経っても記された言葉の連なりを眺め続ける視線を脇に退けられずにいるらしく、何かが頭の中で循環している状況からも脱せられずにいるようだ。

 きっと気のせいだろう。さらに言葉を記していけばわかることだが、やはり自己言及にはきりがない。いつかどこかでそういう成り行きを断って、また別の展開を求めてゆかないと、いつまで経っても堂々巡りとなってしまいそうだ。でもそれが何かを継続させるコツかもしれない。そして何かとは何なのかと問い、いつまでもそれを問い続け、そんな問いを宙に吊り、まるで絞首刑のごとき様相を呈しているように見せかけ、それが誰かの思い込みだと自覚しながらも、実際は部屋の中で天井から吊るされた問いをいつまでも見上げているわけか。それが誰かの視線なのだろうか。だとしても意味がないのではないか。そんな光景を空想しているだけなら人畜無害なのだろう。でもそこからさらに言説の表面を移動して、何か説明しているつもりになりたいのかも知れず、何も具体的な事物について語れぬまま、無為に時が経ち、次第に焦燥感を隠せなくなり、額から汗が浮き出てくる季節でもないだろうが、それをそのまま放置しておいてもかまわないのか。誰に了解を得たいわけでもないのに、また何を免れたいわけでもないに、たぶんいつまでもとどまり続け、いつまでも見つめ続け、飽きもせずに問い続けるのかもしれず、ついには飽きられ見放されても、まだそこで空疎な期待とともに漂い続けているのかもしれない。そんな時の意識の持続は執拗で、とどまることを知らず、途切れることなく永続し、誰彼となく取り憑いて、要するに疲れさせながらあきらめさせるのだろうか。でもそこで何をあきらめているのか。

 限りのない時間と空間の存在を感じながら、それらの渦に巻き込まれているわけでもないのに、無限の何かを空想し、逸脱の感覚を弄して、離人症のごとき幻想に取り憑かれ、本当はそれも空想の一部なのだろうが、以外と本気でそう思い込み、戯れに道を歩きながら、歩いてゆく先に目的があることを想定し、それに合わせた気分を思い浮かべてみるが、たぶん何もありはしないだろう。そこにあるのは憩いの時ではない。君が見出したのもそんな時間ではなく、何か争いごとに巻き込まれた時の気分ではないのか。でもなぜそう決めつけるのか。君が知っているのはそういう出来事ではない。気まずい雰囲気の中で戸惑うばかりで、何も言い出せなくなってしまった時、誰かに助け舟を出してくれるように、心の中で懇願しながらも、さらなる窮地に陥る予感を抱きながら、不意に我に返り、そこで吃音とともに決定的な言葉を発してしまうわけだ。今でもまだその言葉が耳から離れないのだろうか。夜中に急に飛び起きて、悪夢にうなされ汗だくになっていることに気づき、そんな紋切り型的な表現を思いついてしまう自らを戒めることもなく、気がつけばまた夜道を歩きながら、途中でコンビニに立ち寄り、無理に買い物をして時間をつぶし、そんな気分に押し流されていた時期もあったことに気づき、そこで何を懐かしんでいるのでもないのだろうが、やはりそこで何かが循環しているのであり、君はそれを思い出そうとしている。それが苦し紛れに発せられた言葉なのか。フィクションの中では具体的な台詞を思い出せないのだろうか。たぶん何か勘違いをしているのかもしれないが、なおも頭の中で架空の誰かが問い続けているようだ。

 何か調子に乗っていたらしい。たぶん言葉はそこから発せされていたのだろう。また幻想の中でそう思っている。でも与えられた領分を逸脱しているわけでもなく、限りなく問われるほどの理由も見当たらず、たぶんおかしな事態に見舞われるのもいつものことであり、いったん斜陽に転ずればもはや立て直せないのであり、そう受け取られたらおしまいかもしれないが、まだ性懲りもなくやり直そうとしているのだろうか。今さら何を企んでも無駄か。それにそれほどこだわっているとも思えない。たぶん各人の思惑が一致することもないだろう。何を画策しようと、思いのすべてはバラバラのままにとどまり、一つに結集する機会を奪われたまま、次第にそこから遠ざかろうとしている。語るべきことはもうそこにはないのだ。でもそこになければどこにもなく、そんな状況に何かの運命を感じつつ、久しく顔を合わせていないような気もして、まだ懐かしむほど時が経っているわけでもないのだろうが、語る糧としてのそんな経験を思い出し、不器用に見せかけながらもそれについて記しているのかもしれず、君はいつまでもそんな光景を眺めているようで、それが架空の場所なのか時間なのか知らないが、そのどちらでもないのだろうが、いったんリアリティを失うと、どこまでもそうなのであり、いつまでも心がとらわれているそれらの光景から抜け出せなくなってしまうのだろうか。それでも何が問われているのでもなさそうに思えてくるのはどういうことなのか。だからきっと気のせいなのだ。今はそう思い込むしかなく、やるべきことをやっていくしかないのだろう。でもそれを誰に言い聞かせているとも思えない。要するにまで行き詰まっていないということか。

 これも独白のたぐいだろうか。でも告白の内容は具体性を欠き、意味不明のレベルにとどまる。またしばらく腕組み状態で固まっているようだが、そんな限りのない自己言及に嫌気がさしているのでもなく、それどころかそれを利用しまくっているようで、何だか倫理観の欠如を感じさせるみたいだが、誰がそれを感じているとも思えず、まだフィクションの中で語っているつもりで、蛇足のようなものを追求しているのかもしれない。語るべきはそんなことでないのは百も承知で、躓くための試行錯誤を重ね、わざとそうやっているのだろうが、そこに虚しさでももたらそうとしているわけか。でも他に何があり得ないのだろうか。言葉を記している上で、常につきまとってくる虚しさの他に、あり得るとしたら何を導き出せばいいのか。まさか根気と努力などというつもりはなく、もっと説得力のある何かを求めているのかもしれないが、しかし何かとは何なのか。たぶんそうやって問い続けることから求まる何かがそうなのであり、その何かがそれらの文章として構成されているのかもしれない。それはトートロジーのたぐいで、それを反復させてしまうから虚しさがもたらされ、でも繰り返さないと文章にはならず、結局そこで同じような言葉を循環させ、それらが導き出され、君は今そのただ中で、そんな光景を眺め続けていて、何も考えずにその奇妙な成り行きに身をまかせ、時にはどうかしていると思いながらも、かろうじてそこへとどまり続けているわけだ。別にそうすることが嫌になってしまったわけではなく、相変わらずそこで語っているつもりなのだろう。


11月4日

 またつまらないことで考え込んでいるようだ。ありふれていることはいいことだろうか。たぶんそうに違いない。わけがわからないのよりはありふれている方がわかりやすい。でも他人の書物を読んで、作者も気づかなかったようなことを抽出して、そこから自分独自の思想を練り上げてしまうのには恐れ入ってしまう。そういうのを換骨奪胎というのだろうか。例えば柄谷行人がマルクスの『資本論』などを読んでやったのはそういうことか。そういうことをやっている人たちは他に、日本では蓮實重彦や、フランスに行けばフーコー、ドゥルーズ、デリダなどが有名なところなのだろうが、そういう人たちの書物を読んで、君は何を考えているのか。別にそれらをすべて読んだわけではなく、難しそうで読む気になれない書物が大半か。もともとマルクス自身がアダム・スミスやリカードなど先人の書物を読んで、それを『資本論』という書物に結実させたわけだから、そういうやり方も、過去から未来へと脈々と受け継がれている伝統なのかもしれず、今も世界のどこかで、そんなふうにして書物を著そうとしている人がいるだろう。しかしそれらを読んでいったい何の役に立つのだろうか。少なくとも言葉を記すのに役立っていることは確かなところか。要するにその結果がこれなのか。結局どうにもなっていないのではないか。でもそう思っていた方が気楽なのだろう。どうにかなってしまったら後が面倒くさいか。

 たぶんどうにもならないのを承知で書物を読んでいるのだろう。そして取り立ててどうということはない世界情勢について考えを巡らし、それらの書物に影響されたおかしな思いつきを材料にして、出て来た言葉をこねくり回して、何か述べているように装い、それが記された文章になっているわけか。でも実質的にはそこから何かを問いかけているようで、それによってどんな結果が導かれているとも思えないが、ただあてもなく語っているわけにもいかず、目的など何もないと思いながらも、実際にはそれが嘘になるような成り行きを呈しているのではないか。結局何かしら言葉を記していること自体が、何らかの目的を生じさせ、遅かれ早かれその目的のために言葉を記していることになってしまい、自ら記した言葉の連なりが足かせとなり、その内容にとらわれ、思考を束縛され、その後の彼はどうなってしまったのか。まだどこかで何かを語っているのだろうか。どうやらまたいつもの悪い癖が出てしまったようで、何かそれらしい物語の中で、ありもしない出来事を夢想しているのかもしれず、あたかもそれが過去のどこかで起こっていたかのように思われ、その出来事から影響を受けて、自らの今日が成り立っているとでも思っているらしく、本当のところは定かでないのだろうが、さらに言葉を記してゆけば、いずれわかることかもしれない。果たしてそのとき彼はどうなっているのか。ただ年老いて何も成せなかった自らの運命を呪うだけなのか。

 人が壊れる時はあっけない。その壊れる過程を物語り、それが小説のたぐいとして世に出回ることもあり、人の興味を惹いてしまうのかもしれない。君はそれを読んで何を思うのか。読んでいるわけでもなく、またそんな書物を探しているわけでもなく、また自らがそうなりつつあるのでもないらしく、その代わりに語っているわけでもないが、要するにそんな架空の出来事を思い描きながら、そこから想像を巡らせ、何か得体の知れないものを自らの内に取り込もうとしているのではないか。でもそれがそれがどこから来るのかがわからない。現実の世の中でいつも出会うのは相対的な他者に過ぎず、そこでは何ら自己同一性を共有できず、話にもならないことが大半だが、それでもあきらめてはいないようで、絶えず虚空に向かって架空の人格が語りかけ、そのついでにとりとめもないことを問い続け、そこから何かしら取り出そうとしているわけだ。そしてそこから取り出された何かがこれらの文章か。そう言ってしまっては身もふたもない。予定調和も甚だしく、とても本気で述べているとも思えず、何か冗談のつもりで軽くいなして、後は何も語らなかったように装うのが無難なところかも知れないが、たぶんそこで何かつかんでいるはずで、それをもとに語り始めているのだろうし、語り続け、何らかの内容を抽出して、結果としてそれにふさわしい言葉の連なりを構築したいのではないか。でもそれは未だ構想の段階を出ていないような気もしていて、これから何かやろうとしている、と絶えずほのめかすにとどまり、その繰り返しほのめかされることが、却って強迫観念となっていて、何かの実現を阻んでいるような気もしないではないが、それも考え過ぎなのかもしれず、君の思いもよらぬところで、何かが着々と進行中なのだろうか。まあそれがいつもの冗談であってほしいが、とりあえず面倒な成り行きに巻き込まれるのはごめんで、これまでもこれからも何の報いももたらさないような成り行きの中で、誰かが何か語っているだけのように見せかけたいのかもしれない。


11月3日

 何だまた例の人が突飛な行動に出て周りからバッシングか。何でも秋の園遊会で天皇に手紙を手渡ししたらしく、それが周りの連中の逆鱗に触れたらしい。まあ無所属で国会内ではひとりぼっちなわけで、思い込みが激しく怖いもの知らずの猪突猛進タイプみたいだから、とにかく反原発に結びつくと思われることなら、やれることは手当り次第にやってしまうつもりなのかも知れず、そういうのが結果的に安易な政治パフォーマンスとして受け取られ、周りの連中は腹立たしくて仕方が無いといったところか。そういう特定の政党に属さず一匹狼のワンマンアーミー的なのがこれから流行るのだろうか。そういえばアントニオ猪木も一応は維新の会に属しているらしいが、周囲の反対を押し切って一人で北朝鮮に渡って何をやっているのやら。小泉元首相も何やら個人で脱原発で行動しているらしいが、どういう思惑があるのやら。みんな組織のしがらみに縛られるのが嫌なのではないか。まあ小心者の皆さんはいつも寄らば大樹の陰で、今はみんな自民党だし、山本議員のように一人でわけのわからんことをやっていた方が、却って気楽な感じでいいのかもしれない。天皇もせっかく変な人からわざわざ手渡しで手紙をもらったのだから、しかも手紙を書いた彼が周りからバッシングされて気の毒に思うなら、この際返事でも書いて今度国会に寄った時にでも、直接彼に手渡しで渡してやればいいのではないだろうか。確かイギリスのエリザベス女王とかに手紙を出すと返事が返ってくるらしいから、あまり儀礼にとらわれずに、たまにはそういうのもありなような気がするが、そんな彼をこの機会に乗じてつぶしておこうとする思惑でも働いているのかもしれず、まあ了見が狭いというか、そういうわけのわからない変な人の存在を許容できない風土というものが、例えば韓国とか中国とかで対日批判を煽っている人たちと相通じるものを感じる。

 それにしても今回の件で改めて思うところだが、象徴天皇制はややこしくて面倒くさい。これは以前にも述べたことだが、いっそのこと憲法改正して、天皇制をやめて共和制に移行した方が、政治と宗教の関係もはっきり別れ、そのへんの制度もすっきりしてわかりやすくなるのではないか。まあ現状では百パーセント無理だろうが、歴史的な成り行きとしては、こういうもやもやしてどっちつかずの曖昧さを保持し続ける結果となり、相変わらず天皇がいて皇室があり、それを主催として何やら儀礼的な催し物が定期的に開かれ、国会議員や各界の著名人がそこに招かれ、招かれることが何かのステータスと思われ、結果的にそういう人たちが天皇の権威を支えることに結びつくわけか。これも国威発揚の一環なのだろうか。今から思えば1945年のアメリカとの戦争で負けた時が、天皇制をやめる唯一のチャンスだったのかもしれず、そこで天皇を廃位させ共和制に移行していれば、今頃日本も世界でもありふれた普通の国家になっていたのかもしれないが、アメリカはアメリカで当時のソ連や中国などの共産主義からの脅威に対する防波堤として、日本や天皇に利用価値を見出していたらしいし、それの折衷案というか妥協策というか、そうしたものが象徴天皇制として今の今まで生き延びさせる結果となってしまったようで、これもそうした歴史的な成り行きの結果としてあきらめなければいけないことなのだろうか。今後世界的な未曾有の大不況にでも見舞われれば、人々の心に余裕がなくなり、どうせまた偏狭な国家主義が台頭してきて、戦争とかをやらかして、負けて今度は中国辺りに占領されたりしたら、たぶん真っ先に天皇を廃位させてしまうだろうから、そうなると日本は共和制ではなく共産主義国家になってしまうか。そうなる前に中国の共産主義が崩壊してくれればいいが、とりあえず名称的には中華人民共和国だし、あるいは朝鮮民主主義人民共和国であったりするから、日本が日本民主主義人民共和国なんて呼ばれるようになってしまったら、それも共和制のたぐいかもしれないが、ギャグみたいで笑いが止まらなくなってしまい、首領様のために少年少女たちが毎日マスゲームの練習にいそしむようになってしまったら世も末か。そういえば今の若い首領様の方は、そういうたぐいの趣味ではなかったかもしれず、それなら一安心か。


11月2日

 すべては前もって決定されているのだろうか。偶然の成り行きに左右されていると思われる結果でさえも、それは必然的な成り行きでそうなったということか。でもそう考えてしまうとつまらない。考えていること自体がそんな成り行きから逃れようとしていることの顕われかもしれないが、そう考えてしまうのも必然的な成り行きなのか。そう考えてしまうと救われないというか、救われないと思うことで救われているわけか。何が救われているのかわからないが、そんな虚しい気分を装いながら、本当にそれをかみしめているのかどうかを確かめようとして、何か続けて言葉を繰り出そうとするが、どうもうまい具合にはつながらないらしい。ここはまた冗談に逃れるしかなさそうだ。何を絶望しているわけでもなく、そうした運命に逆らうこともなく、何を出し抜こうとしているのでもなく、そうかといって手をこまねいているわけにもいかず、たぶん必要に迫られなくても、自然に何かやっているのではないか。自然に語っていると思い込むわけか。見たまま感じたままのことを語る、と嘘をつくわけだ。ありふれたことをありふれた語り方で語り、そうやって自然に語っているように見せかける。だからそういうひねくれた見解が余分なのだろう。それがわかっていながらなおもそんなふうに語ってしまうのが、必然的な成り行きということか。ではそれも前もって決定されていたことだろうか。そんなふうに語ってしまえば、そう思えてくるのも無理はないか。わざと予定調和的に語り、それを確かめて悦に入っているわけか。何もそんな成り行きを卑下することもない。そう思われてしまうなら、それも風情のある光景の一部として、それらの無根拠を装いながら記された言葉の連なりを眺めてみるしかあるまい。なるほどそれが冗談なのだろうか。まったくこじつけにもほどがありそうだが、そこから意味の連続性を保持するのは難しい。

 しかし風流とか風情とか、そんな言葉を使って何を導き出すつもりなのか。詩とか俳句の世界ならまだしも、単なる散文から空疎な装飾性を生じさせようとするのは、美的な退嬰と見なされても仕方のないことか。またそれも利いた風な物言いになってしまっているようだが、そんな必然性もないのにわざとそうしている都合上、無理にそこから外れるわけにもいかず、たとえそれが演技だとしても、その気になって語り終えるまでは気を抜かないことが肝心か。今さら途中でやめる気はないようだが、不意な気まぐれでそうなったとしても、それは架空の物語の中での出来事であり、自らにそう思い込ませながら語っているはずで、でもそれが冗談の続きと思えるなら、そんな思いは置き去りにして、強引にそれらの虚ろさを持続させ、やはり今こうして語っている最中だと自覚するしかないのだろうか。それではまともな結論に持って行きようがない。さっきから画面の前でにやついている誰かを突き放そうとしているのか、それともそこから逃れる術を思いついたのか。俄にそのへんの情勢を分析できかねるが、たぶんそれは世界情勢のたぐいとは無縁だろう。神は無限の存在だ。そういう認識に達したならば、何かの悟りを得たことになるのだろうか。それともそれもごまかしのたぐいなのか。では君は唐突に神を持ち出すことによって、何をごまかしているのだろうか。それは問われるまでもないことであり、煎じ詰めて考えてみることでもなく、ただ世界という言葉から神という存在を連想してみただけのことで、そこに何ら神秘性は感じられず、言葉と言葉がつながっているだけで、意味も意図も見出すまでもないことだ。要するに君はそういう言葉を用いて何かを大げさに語ろうとする思考から逸脱して、何気ない日常の中で何気ないことを考え、それを何気なく語ってしまうような成り行きを維持したいのかもしれず、維持しようとしてできるとは思えないが、そこから思いがけない何かに突き当たってしまってもかまわないとも思っているのではないか。とにかくどう語ろうとしても、君の思い通りには語れない。

 わけがわからないまま語るしかないらしく、そんな現状から何も導かれないとすれば、それは骨折り損のくたびれもうけなわけで、もとからいくら損してもかまわないほどの無駄骨ならば、そういう現実を受け入れるしかなく、受け入れられなければ、さらなる何かが待ち受けているのだろうが、何かとは何かと問う気力が、まだ心の片隅にでも残っているとすれば、その続きが待ち構えていると判断したらいいのだろうか。そんな空疎なことを記しながらも何を企んでいるのか。それはいつもながらの何かであり、何でもないとすれば何でもないのだろうが、それだけでは収まらないのだとすれば、たぶんそこからはみ出してくる何かを顕揚しつつ、それに向かって言葉を弄し、何やら文章のたぐいを構築しようとしているのであり、その構築している半ばで気が変わらないように祈りながら、何とか終わりまで語らせてくれるように、神にも祈る気持ちでいるのかもしれず、そんな語りから得られるそれらの内容が、君の意表を突いているといえばそうなのかもしれない。君は驚いているのだろうか。それとも驚いたふりをしているのか。あるいはそのどちらでもなく、意表など突いていないと思っているのか。ありふれた成り行きの果てにありふれた内容が示され、それが君を退屈にさせているわけか。でもそれが何かの成れの果てというわけでもなく、もとから思い通りの結果など期待していなかったのだし、そうならないこともわかっていたことで、要するに予想通りの結果が出てほっとしているのではないか。思い描いていた幻想は膨らまず、そのまましぼむでも消え去るでもなく、いつの間にか忘れてしまっていただけで、機会があったらまた思い出せばいいことでしかなく、実際に今ここで思い出しているのではないか。でも不意に現れたそれらの幻想にどのような効果を期待すればいいのか。まだそこまでは思いついていない段階で、今しばらくは様子見という感じなのだろうか。でも成り行きは成り行きであり、すでにそんな成り行きに巻き込まれているのかもしれず、否が応でも何からの結果に到達してしまうような雰囲気もなきにしもあらずに思えるが、いったいその場で君はどう振る舞えばいいのだろうか。それはその時が来たらわかることでしかなく、それが来なければ来ないでどうということでもないのだろうが、別に神による最後の審判などという幻想を抱いているわけでもないのだろう。


11月1日

 でたらめを言うなら見ることは聞くことだ。何かを考え何かを求め、どこをほっつき歩いているわけでもなく、また腕組みをする。たぶん周りが見えているのだろう。そして考えてみる。考えてみるだけか。今日は考え込まないのだろうか。世の中を動かしている制度に従って考えれば、そういうことだろう。今脱原発を実行すれば電力会社がすべて経営破綻するらしい。今までに官民一体となったごり押し的な原発推進政策によって、電力会社をシャブ漬けならぬ原発漬けにしておきながら、いざ脱原発の気運が高まってきたら、原発をすべて廃炉にしたら電力会社が経営破綻すると脅してくる。そういう社会システムの中で功利主義を追求してきた人の主張とは、概ねそういったものでしかない。それは農業についても同じことで、今まで農水省と農協の官民一体となった癒着談合政策によって、農家をシャブ漬けならぬ補助金漬けにしておきながら、いざTPPなどで関税撤廃の機運が出てくると、農産物の関税がなくなってしまったら日本の農業は壊滅してしまうと脅してくる。原発にしろ農業にしろ、その手の専門家が試算してみれば、そういう予測が出てくるのは当然のことだろうが、でもそのまま放置して、現状維持を続けていったらどうなるのか。功利主義の限界はそういうところにある。もちろんそういう人たちは現状維持などとは一言も言わず、何らかの「現実的な」改善案を出してくるのだろうし、これまでにもそういう提案を数限りなく出してきたわけで、これからも数限りなく出してくるのだろう。そういう案が保守的な政治家や官僚たちにとっては、要するに口当たりの良いいいわけになっていて、まあ結果としてこういう現状となっているわけだ。そういう人たちの口車に乗っている限りは、これまでもこれからもこのままだろう。そういう立場にある誰かがどこかで、時に蛮勇を奮って大胆な「現実離れ」した決断を下さない限りは、世の中は何も変わらないということだ。それに関して陳腐な例を挙げるとしたら、織田信長の桶狭間の戦いや、羽柴秀吉の中国大返しや、徳川家康の関ヶ原の戦いといったところか。メディア的にはそういう結論に持っていくのが筋で、紋切り型的な思考に適っているのではないか。

 それにしても君は何を考えているのか。ありふれたことを考えながら、ありふれたことを語ってしまい、それについて何も信じられないわけでもないのに、やはりどこかそんなことを考えている誰かを信じていないところがあるらしい。またそんな冗談を述べているつもりのようだが、どうも本気でそんなことを思っているのでもないようだ。しかし誰もが気軽に語ってしまえるような紋切り型と戯れてしまうのもしゃくのようだが、そうでもしないと世間で問題となっている話題について語れないのも悔しいところか。それはそれでそういうことだと思っていればいいのではないか。そして大したギャグもかませないまま、さらなる困難が待ち受けていたりしたら笑ってしまうだろうか。それが困難だとは誰も気づかないのではないか。誰かがどこかで気づかせないように画策しているわけか。でも誰といっても特定の個人がそうやっているわけではなく、世間の空気がそうさせているのではないか。またそんなふうにして抽象的な表現で逃げようとしているみたいだが、君はそうやって何から逃げている気になれるのか。それに関してはどう述べていいかわからないのではないか。そしてわからないままでもかまわないのだろう。ともかく困難は困難として受け止めておくべきで、そうした困難に逆らうでもなく、そのまま語ってしまえばいいのかもしれないが、それらの紋切り型を放置しておきながら、それとは無関係に語れるかというと、それは不可能なことで、やはりそれとは異なる成り行きに持っていくには、何らかの工夫が必要なのだろうか。それはでたらめなのではないか。君はまた嘘をついている。たぶんそう述べながら、それとは違うことを考えているのだ。本当はどうなろうと関係ないのだろう。

 人は今現実にどっぷり浸かっている社会の仕組みの中で、自らが正常に機能していると思い込みたい。その中で何か立派に役目を果たしている気でいるわけで、その役目に適った形で、自らに正当な発言権があると信じているわけだ。そしてその通りに発言し主張すれば、世間が自らを認め、そうすることが自らの立場を盤石なものとすると考えてしまうわけだ。それが道理にかなっているといえばその通りなのかもしれないが、そうした人たちだけに発言や主張の機会が与えられてしまうと、何だか息苦しく硬直した社会となって、マナーだとかモラルだとかを押し付けてくるような嫌な雰囲気が蔓延し、そういう空気がそこからはみ出そうとする人たちを抑圧してくるのではないか。でもそれでかまわないのだろう。社会システムはそういう方向にしか動作せず、システムの歯車になっている人たちには、立場上そういった発言や主張しか許されていないのだから、それはそれでそういうものだと納得するしかない。だからそれらの紋切り型を一掃することなど不可能で、それに陥らないようにして語ることもたぶん不可能だろう。人は人が属している社会の外に出ることはできない。出ようとして出られるものなら、すでに多くの人が外に出てしまっているはずだ。だからこの世界に出口などありはせず、無理に出ようとすればするほど、紋切り型の罠にはまり、それと気づかぬうちに他人と同じようなことを発言し、得意になって主張してしまっているのだろう。でもそう述べておきながら、君は嘘をついているわけだ。それとは違う何かをつかみかけていると思い込み、苦し紛れの冗談を弄しながらも、隙あらば何か途方もないことを思いつこうとし、あっと驚くような見解に達したいのだろう。どこかに思いもよらぬ抜け道があり、そこを通って外へ出られると信じているのではないか。それはくだらぬ幻想には違いないが、幻想を抱いているだけではだめで、実際にありもしない抜け道を探しにいかなければならないのではないか。それが抜け道なのか抜け穴なのか出口なのか知らないが、そういう幻想を抱きながらも、抱いているふりをしながらも、不意にあらぬ方角に目を向けると、そこに何か得体の知れぬ光景が広がっていて、さらに凝視しながら見つめれば、突然それらの表面に穴が空き、その穴を通ってこの世界の外へと抜け出られたらおもしろそうだが、たぶんそれもくだらぬ幻想の続きに違いなく、本気でそんなことを思っているわけでもなく、またわざと嘘をついているのだろうが、何だか蛇足が長くなりすぎてしまったらしい。


10月31日

 腕組みをしてしばらく考え込んでいる。この世界に出口があるとは思えない。別に出口から外へ出ようと思っているわけでもないのに、そんなことを考え込んでいる。そんなこととはどんなことなのか。この世界からの出口を探しているわけか。それは考え込んでいるのではなく、探しているのではないか。フィクションの中で誰かが出口を探している光景を想像している。それも考え込んでいるのではなく、想像しているのだろう。では何を考え込んでいるのか。どうすればそんなことを考え込まなくてもいいようになるのだろうか。たぶんそんな問いには答えられないのだろう。何が問いなのかも判然とせず、ただ出てくるのは答えなっていないような答えばかりで、他に絞り出せるものなどありはせず、その場の成り行きまかせでそんなことを語っているのだろうか。でも誰が語っているのか。またそれだ。逡巡しながら同じような言葉を循環させ反復させるのみか。しかし飽きもせず繰り返されるそれらを眺めながら、ふと我に返ることもあるのだろうか。流行り廃りに惑わされているわけでもなく、すでに終わりそうなコンテンツを追いかける気力もなく、何が巷の話題となっているわけでもないのだろうが、ちなみに今日のグーグルは魔法使いがグツグツ煮込んでいる鍋の中身をかき回しているだけのようだ。そんな検索画面を眺めながら、腕組みをしながらどうしたものかと考え込んでいる。

 どうもしていないのにどうしたものかもない。たぶんそういうことだ。他の誰と対話しているわけでもなく、いつもの独白に違いないが、分析するために意識が捉えた現象を、思考作用によって形式化しようとしているわけでもない。では他者を自らの内に取り込もうとしているのか。それは自らにとっては関係のないことであり、別に他者がこの世界の出口になるとも思えない。ではなぜいつまで経っても出口が見つからないのだろうか。それはこの世界にとってはどうでもいいことであり、見つける理由や目的などを生み出せないのだから、意味をなさない探求なのかもしれず、他者と自らの不均衡な関係を解消するために、考え込んでいるわけでもなさそうだ。では他の誰かがその方法を見つけ出そうとしているのか。その方法とは何なのか。あるいは他者とは誰なのか。君には知り得ない存在でしかない。他者の他者性を説明したいのかもしれないが、たぶんそのこだわりは無効であり、噓偽りなのかもしれず、本当はいつものように何も考えていないだろう。図星かもしれないが、他者にそれを見透かされて焦っているのでもなさそうだ。しかし君はそれらのフィクションの登場人物の中で、いったい誰に他者の役目を割り当てようとしているのだろう。それは問われるまでもなく、誰でもない誰かが、偽りの固有名を割り振られて、フィクションの外側から覗き込み、それを周到に読み進めながら、その中で語られているごまかしを、逐一把握しようとしているのかもしれず、それは執念深く試みられなければならないようだ。でもそれと他者との間にどのような関係があるのか。それを今から考えようとしているのではないか。

 どうやら他者の代わりに、ごちゃごちゃと使い慣れない言葉が出てくるようだが、何も考えない代わりにそれはないだろうか。いずれにしてもモノローグから他者を導き出そうとするのは無謀なことか。無理に導き出そうとしているのではなく、ただの独白を装いながらも、そのついでに何か説明しているらしく、その説明の中に他者の出現の機会をうかがっているのかもしれないが、何ともおかしな成り行きなってきた。他者とは幻だろうか。またわざと間違った認識へと導こうとしているようだが、大げさに他者を想定するのも勘違いのたぐいだろうか。別に他者について語っているわけでもないだろうし、それについて説明しようとしているわけでもない。では何なのかといえば、そういう水準でのモノローグでは語りに限界を感じざるを得ず、何か他に試みなければならないと思っているのだろうか。でも実際にやっているのは、そういうたぐいの語りではないだろう。どんな状況に語りを設定しようと、架空の対話は成り立たないのであり、そこで応酬される問答はねじれの関係に陥るしかなく、互いがあらぬ方向へ発散していってしまう傾向になり、そんな状況を改めたいのかもしれないが、これまでのところうまくいったためしはない。それでもそんな言葉の飛び散り具合をフィクションの中で誰かが書き留め、それを文章として定着させ、結果的に何か語っているように見せかけたいのか。どうやらとりとめのないことを考えているらしく、わけがわからないといったらいつもと同じことかも知れないが、それがこの世界からの出口を示すことにはならないのではないか。また出口か。出口とは何だろう。ここはやはり考え込むしかなさそうだ。


10月30日

 何か思い出したのか。それは最近の話題といえば話題かもしれない。事の詳細はよくわからないが、北京でウイグル人が自爆テロでもやったんだろうか。それともただ車が突っ込んで炎上しただけか。それで思い出したらしい。前にも指摘したことだが、どうも中国の論理はよくわからない。日本が占領している尖閣諸島を返せと要求してしまうと、では中国が占領しているチベットやウイグルはそれぞれの民族に返さなくてもいいのか、ということにならないのだろうか。チベット人やウイグル人も中国人だから、それは違うということかもしれないが、でも実際にそれぞれの民族は漢民族から差別され迫害されているようだし、そうやって抑圧されているから独立運動も発生してくるわけだ。中国当局は日本より先に、明の時代に尖閣諸島を発見したと主張しているが、でも明の時代にはチベットもウイグルも中国の領土ではなく、その後に武力で占領した土地なわけで、日本がその後に占領した尖閣諸島を返せとなると、中国だってその後に占領した土地を返さなければならないのではないか。でもこんなことはちょっと考えればわかることなのに、なぜかマスメディアとか日本政府はあまり表立って指摘していないようで、それも腑に落ちないところだ。まあ韓国だって武力で占領した竹島を返さないし、ロシアだって同じように北方領土を返さないし、どこの国でも自国が占領している土地などそう簡単に返しようがないのかも知れず、それでも他国に対しては自国の領土を返せと要求しまくるわけで、やっていることはどこでも同じなのか。そういうところからしても、国家という存在自体には、あまり正当化できるような意義や意味はないような気がしてくるのだが、そのへんのところは国家主義者の皆さんはどう思っているのだろうか。

 それにしてもトルコへ原発輸出するようで、首相のトップセールスらしいが、大丈夫なんだろうか。トルコも地震が頻発している地域なのではないか。黒海沿岸に原発を建てるようだが、大規模地震が発生して福島のようになったら、黒海は内陸海のようなものだから、そこへ放射能で汚染された水が流れ出してしまうと、溜まったままになってしまい、福島よりさらにヤバいことにならないか。まあ福島のは何十年も前の古い型であり、今の最新鋭の原発ならそんなことにはならないとか言うのかもしれないが、どうせまた例によって、事故る確率は数千万年に一回だとかの安全神話を現地で喧伝しているのだろうか。そしていったん稼働し始めれば、放射性廃棄物がどんどん溜まってゆき、それをどこか人目のつかない場所で、何十万年も保管し続けるとかなるわけで、本当にそんなことを続けられるのか、ちょっと信じられないが、ちなみに日本の場合はどこで保管し続けるのだろうか。どうしても原発をやり続けるのなら、またこの機会にやめるにしても、いっそのこと東京の国会議事堂の地下深くにでも、核の最終処分施設を作った方がいいのではないか。地盤が緩くて立地に適さないだとかなるのかもしれないが、そのへんは世界最高レベルの安全性を実現してきた(?)原発建設で培った技術力でカバーしてもらうとして、万が一事故っても東京に被害が及ばないように、遠く離れた東京電力管外の新潟や福島に原発を造る、という卑怯でひどいことをやってしまったのだから、この際その罪を償うためにも、是非とも東京のど真ん中に核のゴミを集めて保管してもらいたいのだが、実際にやったらみんな東京から逃げ出してしまうだろうか。幼い子供を持った進歩的な奥様方が、西へ西へと逃避行してしまうわけか。

 ちょっと普段とは毛色の違うことを記してみたら、こういう成り行きなってしまい、いつもの意味不明とはかけ離れてしまったついでといっては何だが、そういえばここ十年あまりでアップルの売り上げがマイクロソフトを上回っていることに気づく。しかもそのマイクロソフトに売り上げで迫りつつあるのがグーグルのようだ。マイクロソフトがかつてマックのOSをパクったウインドウズを売って世界的な大企業になったのと同じように、今度はアイフォーンのOSをパクったアンドロイドを無償提供して、グーグルが世界的な大企業になってしまったわけでもなく、アンドロイドで儲けているのは韓国のサムソン電子の方で、グーグルはネットの広告収入で儲けているわけか。そのへんのところは詳しくないが、マイクロソフトもウインドウズと抱き合わせ販売したオフィスソフトで儲けたのかもしれず、まあそれもIBMあたりのソフトのパクリなのかもしれないが、IBMはIBMで、もうとっくにパソコン部門は中国のレノボに売ってしまったし、そちらの方面での移り変わりも十年一昔な感じもするが、日本企業はどうやら相変わらず惨敗みたいで、昔はマイクロソフトの下請けみたいだったが、今ではアップルとマイクロソフトとサムソン電子の下請けみたいか。それでも世界的に見れば、それなりにうまいこと立ち回っている部類に入るのだろうか。自動車関係ではトヨタが売り上げで世界一みたいだが、今や世界的にアメリカの覇権が失われつつあるといっても、アップルだのマイクロソフトだのグーグルだのアマゾンだのウォルマートだの、莫大な売り上げと利益を出している巨大企業を抱えていて、依然としてヤバい国家に変わりなく、世界最強の軍隊も持っているし、プロスポーツや映画や音楽産業の覇権も揺るぎようがないし、やはりそういう連中に太刀打ちできるとは思えないのが、率直な現状認識になるだろうか。


10月29日

 この感覚が何かを予感させる。またいつもの勘違いかもしれないが、何かに導かれているような成り行きになり、不思議な感じがするので逆らう気になれない。邪念を振り払うためにしばらく瞑想する。それについては何も語れないようだ。語らなくてもかまわないだろう。とりあえずそこで平静が保たれ、何もやらないままになる。何もなければ当たり障りのないことを述べておくに限るようだ。何よりも周囲の空気を読むことが肝心か。そして休眠状態から静かな世界の中で目覚め、辺りに誰もいないことに気づき、意識は街の喧騒から遠く離れ、フィクションの中で別の人格をともなって息づいている。それは誰なのか。君に何を語りかけているのだろう。そんな空想の中で誰が何を語っているわけでもない。ではまた書物でも読んでいるのか。それを読んでそこから影響を受け、何か語りたいのだろうか。でも語ることには限界があり、それは読むことも同じだ。読んで語って何か主張しているような気になりたいらしいが、その思いがどこへ行き着くわけでもなく、頭の中で虚しく何かが空転しているだけで、言葉以外の何がもたらされているわけでもない。それでもかまわないのか。君はそこで何か聞き取ろうとしているらしい。それは微かなつぶやき声かもしれず、誰の声とも知れないが、確かに耳を澄ませば過去の時空の中で人々のざわめきが聞こえてくる。彼らは小声で何かささやき合っていたのかもしれない。それはどこかの街角の暗がりの中でか。背景はどこであってもかまわず、そこから何らかの光景を想像したければ、君は自由に思い描けばいいだけの話だ。

 かつてこの世界では様々なことが起こっていて、今もそれは続いていて、それらの出来事が何かをもたらしているとすれば、君はそれについて語らなければならないだろうか。語ってみればいいではないか。出来事に影響された人々を何かに駆り立てていたことは確かだ。時は騒乱の季節のようで、マスメディアに関わる人たちがそれに関して何か伝えていたはずだ。世界各地の街頭でデモが行われ、何かが主張されていた。そこではさかんに同じようなことが叫ばれ、たぶん人々は何かに反対していたのだろう。例えばそれは時の政治権力に異議を唱えていた。そしてやがてそれらのデモが過激な行動に及んでくると、警察や軍隊などの武力行使によって鎮圧され、多数の死傷者や逮捕者が出て、鎮圧した側の言い分では、そこでは紛れもなく暴動が起こっていて、放火や略奪が行われていたことになるわけだ。実際にそうだったのだろうか。そういう映像を見させられたらそういうことになるのだろうが、真実はどこにあるのか。暴力を利用できる人たちは、それを行使して自分たちの権益を確保したい。そんな思惑の犠牲者はどこにでもいるようだ。現実にエジプトでもシリアでも悲惨なことになっている。どうやら革命はまだ道半ばで、世界同時革命などまだまだ夢か幻のたぐいか。君がそれを切実に望んでいるとも思えないが、それに向けて今から何か理論武装でもするつもりなのか。その気もないのにそれはない。どうせいつものでまかせか冗談だろう。

 かつての過激派の闘士も、その大半は年老いて死んでしまったのかもしれないが、地域によっては今も続々と出てきているのではないか。でもそんな人たちに何か期待する筋合いはないはずだ。それらの人たちが世界各地で活躍して、それがニュースとなり、それを見ながら心おどるわけでもなく、せいぜいがテロの犠牲にならないように祈るだけかもしれないが、そういうやり方とは無縁の平和的なデモ行進に加わるつもりもないようだ。君には何かそれらとは違う何か他の役割があるのかもしれない。しかし役割とは何なのか。誰に何が割り当てられているとも思えず、割り当てる主体もどこにも見当たらないようで、それを探すつもりもないのだろう。君は自然にそうなっている。気がつけばそうなっていて、それが何だかわからないが、何かに導かれているような気がするらしく、割り当てられた演技や行動などとは無関係に、そういうことを語ってしまうらしい。それは何か意味や意義のあることなのか。何かの語り部に選ばれたわけでもなく、昔話や民話や神話や歴史などを、おもしろおかしく語っているとも思えないが、要するに他の何かによって選ばれたわけでもないし、役目を割り当てられたわけでもないわけで、そうかといって自発的に語っているわけでもないのだろうが、何かに導かれているように思われてしまうのは確からしい。この感覚は何なのだろうか。それがわからないまま、どこまでも語ってしまうのか。何もわかりようのない成り行きなのかもしれず、それでも成り行きには従わなければならず、何がどうなっているわけでもないのに、さらに語り続けてしまうらしい。

 わかろうとして焦っているわけではない。わざと飄々と振る舞うつもりもなく、何を達観しているわけでもない。では何なのかといえば、ただ書物を読んでいる。何か目的があるわけでもないのに、書物を延々と読んでいる。そこから何が導き出されるとも思わないが、とにかく読めということなのか。そこから得られるものは何もないというわけでもないのだろうが、今のところはわからない。しかしなぜ人は目的を持って何かを学ぼうとするのだろうか。そしてなぜ君はそうしなければならないとは思えないのか。そのへんの謎が解けないのかもしれないが、その必要性を切実には感じられず、謎を解く気にもなれず、それでもやはり書物を読み続け、やがて何らかの心境へと至ってしまうのだろう。それがどうしたわけでもないのだろうが、そしてそれだけではないような気がするのだが、やはり今は読むしかないらしい。この感覚は何なのか。思うことはそれだけのようだ。いつまでもそう思い続け、どこまでも書物を読み続け、それだけで終わってしまうのかもしれないが、それでもこの感覚は何なのかと問い続けるのか。永遠に問い続けるわけにはいかないのかもしれず、やがて何かの機会が巡ってきて、やらなければならないことが明らかとなるのかもしれないが、それにしてもそういう物語は巷にありふれていて、いくらなんでもそれでは話ができすぎている。それはないような気がするのだが、しかし何なのかと問わずにはいられず、でもいくら問うてもきりがなく、何でもなければただの取り越し苦労となるだけで、何を妄想しても期待してみても、何も始まらないだろう。それが実感か。今のところはそのようだ。


10月28日

 しばらく映像に見とれている。またライトセイバーによるチャンバラ劇を見ているのか。話の都合で生き残る者は生き残り、そうでない者は死んだり生き残ったりする。単純な成り行きに違いない。だがそこで見えていない者は相変わらず見えていない。放っておけば見えないまま見失われてしまい、忘れられる機会もありはしない。見えていない者は誰とも遭遇できないのだ。だからそれらとの遭遇を想像するしかない。未知との遭遇か。それらの何が良いのか悪いのかわからないが、批判する筋合いのものでもなさそうだ。そしてそこで何がまかり通っているわけでもない。法は法としてあり、社会の秩序を構成し、善意の押し売りがそれを補強する。きめ細かい監視体制が犯罪を未然に防ぎ、規律訓育が健全な市民を社会に送り出す。秩序とはそうやって維持継続されてゆくのだろう。でもやっているのはその程度のことだ。語れる範囲内では物足りない。そして結局何が見出されるのか。あてどない彷徨と適度な神経衰弱か。中には刑務所に入ったり出たりを繰り返して、仕事もなく行き場を失い、そんなふうにして社会から締め出された人々が暴力団員となり、それが必然的な成り行きと理解され、さらなる排除の対象となるが、排除されればされるほど、社会に深く食い込んでゆき、社会からの脱出弁の先にある裏社会を構成していくわけか。人々が求めている人としての姿がこの社会に反映されているのだろうか。

 今のところは何も特別な事態に遭遇しているわけでもなく、メビウスの輪の表面にそって移動してゆくと振り出しに戻り、また同じ道順にそって進んで、同じことをいつまでも繰り返し、次第にそれにかかりきりとなり、いつしかそうやっている状況に安住し、他のことは何もできなくなり、その道一筋何十年となるわけか。そうしているうちにも他の道へ進む可能性が閉ざされ、固まっていく最中かもしれないが、固まるならどんどん細密に固まり、宝石のように硬く結晶化すれば、いずれ何かの役に立つこともあるのかもしれないが、それが何の比喩として語られているのかは定かでない。そのまま重力収縮を生じさせるまでに固まれば、やがてブラックホールとなり、周囲の物質をすべて呑み込むまでになれば大したものだが、途中から何かの冗談になっているのは疑いようもなく、虚構の中での妄想のたぐいだろうか。ともかく出来事はそれが起こった後からしか確認できず、人はそれを詳細に調べて何らかの理論を導き出したりするのだろうが、その理論を別の出来事に当てはめて説明できれば大したものだ。

 何かとてつもない事態に遭遇しているのだろうか。どうということはないとは思うが、例えばTPPがどうしたかといって、農産物が国際価格より不当に高い現実があるとすれば、いずれ是正されなければならず、遠からずそういうことになるような気がするが、それをいつまでも先延ばしにできるとも思えない。また国の借金財政もいつか行き詰まるとすれば、それもいずれ是正しなければならなくなり、常識的に考えれば、とりあえず税収だけでまかなえる程度の予算にしなければならないだろうし、普通に考えれば今の半分ぐらいの予算規模にするしかないのではないか。そうすれば公務員も今の半分ぐらいにして、小さな政府が実現すると思うが、やはりそれをいっぺんにやってはまずいのだろうか。いきなり半分リストラして、失業した人はハローワークで就職先を探してくださいとは言えないのか。何か法律的に問題でもあるわけか。まあそのへんは小さな政府を目指しているみんなの党の独裁者気取りの人にでもがんばってもらうしかないか。冗談はさておき、農業が破綻しようと国の財政が破綻しようと、今までの経緯からいくと、実際にそうなってからしか対応できないような気がするが、取り返しがつかなくなるまでは、適当に予定調和の範囲内でごまかし続け、大して効果の上がらないような政策を宣伝しまくるだけで、それで国民をだまし続けるしかやりようがないのかも知れないが、現実にそれで株価も上がったし円安にもなったし、効果の上がらない政策どころではなく、また今のところはそれほど痛みもともなわないし、彼らにしてみれば上出来なのだろう。あとは国民に文句を言わせないように治安維持法まがいの法律でも制定して、戦争でも起こして余分な人は死んでもらい、債務を帳消しにしてすべてをリセットすれば、また昔と同じように一から出直せるわけか。まさか今回は歴史の積み重なりもあるし、そう簡単にはいかないような気がするが、ならばまた例のナポレオン一世と三世の関係のように、一度目は悲劇に終わり、二度目は笑劇に終わるとかいうパターンで、今上演中の安倍ちゃん主演の笑劇が終わった時点で、その手の誰かが得意満面になって、アベノミクスは予定調和のまがい物だった、とかざまあみろ的に事の経緯を解説しちゃうわけか。それも違うだろうか。まだ途中経過の段階で、いつもニコニコ上機嫌の安倍ちゃんを見るにつけ、何となくこちらも愉快な気もしてきて、こんなふうにして資本主義と結託しすぎたことで、世界的に国家がどんどん追いつめられてゆき、この先混乱と動乱の時代が到来したらおもしろそうだが、すでに取り返しのつかない状態となっているのだろうか。やはりこういう現象が一段落した後からでないと、実態はよくわからないか。


10月27日

 早く行き過ぎた人たちは早く死にがちだ。中にはしぶとく生き続ける人もいるみたいだが、危険地帯を駆け抜けるのには相当な体力がいるらしい。なぜそれほどまでにがんばるのか。絶えず何かにせき立てられているのかもしれない。君はそういう成り行きにはついてゆけそうもない。早々に引っ込み、視界の届く範囲内を眺めている。どこからどこまでがこの世界の領分なのか知らないが、無限ではないようだ。客観的には無限であるように思えるのに、実際はそうでもないようだ。だから無限に語る必要はない。人は何かを創造しようとしているらしく、そんなことをやっている自らをも作品として仕上げているのかもしれないが、それ以上のものでもないだろう。それ以下でもないことが救いだろうか。たぶんそれらはそのものでしかなく、それらが風景の一部を構成しているわけだ。そしてそれらはみんな過ぎ去ってゆき、君もそれらの一部として構成され、過ぎ去ろうとしているわけだ。何にしても大したことではないらしい。何もつかめないままのようで、実際には何かつかんでいるのかもしれないが、実感がわいてこない。わざと乗り遅れているのだろうか。わざとでなくても乗り遅れる宿命なのではないのか。乗る気になれない。乗りたくもないものに乗る必要はない。いつまで経ってもそういうことだろう。

 たぶんこれは見出された時ではない。未だ見出し得ず、見出されないままだ。見出そうとしているのではないみたいだ。無理にそうする必要はないのだろう。できそうもないことはやらず、放置しておくに限るのか。途中で続けられなくなってしまい、それは続けようのないことだ。でも何をあきらめているわけでもなく、それとは違う何かを模索しているのかもしれない。そしてその何かは何でもない。すべては虚無に還元され、何でもなくなってしまい、何も残らない。そういう成り行きならまだ救いがありそうだ。実際は中途半端に存在し続け、惨めな醜態を晒し、馬鹿にされ、嘲笑の対象となってしまうのではないか。でもそうなるにはある程度認められなければならないのではないか。それさえもなければ無視されているだけか。大半の人たちはそうだ。だから何をやっても大したことにはならないらしく、勝手気ままに振る舞っているつもりになれるのだろう。だから現状ではどうということはない。そんなことにこだわる必要もないらしい。ただの世界であり、そんな世界の中で、特定の範囲内で何かやっている人もいるらしく、それを羨む気にもなれないところが、この世界のこの世界たる所以か。何をやっていても、それはどこまでも相対的であり、人の営みは社会に吸収されるだけで、そこから人に戻ってくるものなどありはせず、結局何もかもが沈黙の支配に屈してしまう。そう思うなら思っていればいい。

 それでもこの世界には何か見出されているのだろうか。特にそこで何が見出されているとも思えないが、そんな認識に何か問題があるとすれば、それは過去の話に関することか。過去とはそこに見出されたすべての時であり、現在の時間の中で人が想像する架空の時間かもしれない。そこではまだ膨大な時間が残されていて、それを利用して誰かが絶え間なく何かを語っているようだ。そこには何も見出されていないのに語る時間がある。それが見出された時ではないのか。くだらぬこじつけだろうか。そうだと思うなら何をどうすればいいのか。過去を語ることによって、語れば語るだけ架空の時間がねつ造され、書物の中で語っているとすれば、記されている言葉の量だけ書物の厚みとなり、それを読めば読んだ分だけ読むに要した時間が失われ、無為に時を過ごしたように思われてくる。でもそれを否定したいわけではないらしく、それが書物によって見出された時なのかもしれない。あるいは書物によって奪い去られた時間か。でも他の何によっても奪い去られているのだから、書物だけが貴重な時間を奪い去っているのではない。すべての時間が貴重というわけでもないが、残された時間が少ないと感じるなら、少ない時間を有効活用したくなるのではないか。でも何をすることが有効なのか、俄には判断がつかないところだが、目的がなければ何をすることも有効とは結びつかず、ただそこには漠然と何かする時間があるだけか。何もしなくてもかまわないのではないか。では要するにそこに見出されているのは無効な時間か。

 また冗談を語っているようだ。そもそも見出された時が有効か無効かなんてどうでもいいことで、ともかくそこに何かやる時間が残されていて、その時間を利用して何かやっているのであり、その中の一部が読書をする時間で、さらに言葉を記す時間でもある。そう思えばいいわけか。それだけではないと思いたいのだろう。考える時間も必要か。それを考えているではないか。それとは何か。考える時間も必要だと考えているが、考えようによっては、必要か否かではなく、ただ考えているだけかもしれず、書物を読み、言葉を記し、それについて考えているだけで、必要の有る無しに関わらず、そんなことをやっているわけで、そこに何かやる時間が残されているのではなく、すでにそうやって時間を使ってしまっているわけだ。一方的に絶えず時間を使い続けるだけで、後で使うためにとっておくことなどできはしない。そんなふうに時間を使って、そんなことを考えているわけだ。そう考えれば、君には何かをやる時間など残されてはいない。そこではすでに使ってしまった時間が記憶に蓄積されるばかりで、そんな記憶も時が経てば次第に忘れ去られ、死とともに記憶が閉じられ、意識としては何もなくなり、その時点で時間を使い切り、タイムオーバーが明らかとなるわけか。人が死んでも時間は残る。では残された時間は死後の時間なのだろうか。そうだとすればそれは人以外に残された時間であり、人が活用できない時間となるだろう。君は君が活用できない時間の中で何をやるつもりなのか。死んでいれば何もできないのではないか。

 またわざとらしくとぼけたことを語っている。たぶん死後の時間の中でも何かやっているように見せかければいい。そうしたければどうすればいいのか。死んだ後でも語り続ければいいわけか。そんなことが可能だろうか。別にそれを目指しているわけではない。何かの冗談でそういうことになったら愉快だろうか。すでに死んでいるのだから愉快だとか思えないだろう。すでに死んでしまった君とは別の、生きている人の心の中でそう思えばいいのではないか。だからそんなことが可能なのか。生きている間はそれができると思い込んでいればいい。死んでからはどうするのか。死んだときにでも考えるとしようか。そのときになってみれば、何かいいアイデアが思いつくかもしれない。確かにそんなことを思っているうちは愉快な気分だ。そのときになってみなければわからないこともあるだろう。でも自らの死に関して何を期待しているのでもない。ただ死ぬだけか。死ねばすべてが終わるわけでもなく、死んだ後に君が不在の時間が始まり、そこから先が果てしなく長いのかもしれず、気が遠くなるような時間が残されるわけか。君はすでに死んでいるのだから、気が遠くなることもないのではないか。それに君に時間が残されているわけでもない。では死後の時間は何のためにあるのだろう。それは君が考えるようなことではないのではないか。君とは無関係の時間か。君自身が所有しているつもりの記憶や意識とは無関係であり、君以外の生きている誰かとは関係のある時間なのではないか。少なくとも現時点ではそう思うしかないらしい。


10月26日

 何だか変な具合にはまっているようだ。支離滅裂なことを語っていたらしく、工夫を凝らしているとは言い難い。急いでいたのかもしれない。もう我慢の限界だろうか。何がそうなのだろうか。外では雨が降り続いている。確かに思い通りに語っているわけではなく、そう簡単にはいかないことも承知の上で、なおも何とかしたいのだろうし、何をやるにも辛抱が必要だとも思い、それはかつて思っていたことだと気づくが、今でも思っているのか定かではなく、すでに意識はそこから遠ざかるだけ遠ざかってしまい、そんな遠ざかりが何をもたらしているのでもないと思い、思いがけずもたらされたそれを拒否したいわけでもなく、もはやそれとは何かと問う必要もなさそうだ。実際にもたらされているそれは分相応の何かであり、少なくとも刑罰のたぐいではない。自由であれとも思わない。夜通し降り注いでいる雨とともに、何かがもたらされているとしても、それほどありがたいとも思えず、余計なお世話でもないのだろうが、何がそうとも言い切れず、頑なに拒否するには及ばない。それにしてもあくびが出る理由は眠いからか。いくら言葉を修正してみても、しっくりこないのは毎度のことで、何か引っかかるものを感じながらも、ひたすらそんなことを記しながら、何やら虚無的に語っているようだ。

 それが暇つぶしとは思えない。ニュースはいくらでもあり、ひっきりなしに出来事が伝えられ、それについて解説やら論評やらが付け加えられ、良いも悪いもいえなくなってしまう。やはりそれがどうしたわけでもない。憎まれ口を叩かれいるうちが華か。でも無視されていた方が気楽かもしれない。他の誰に向けて、あるいは世の中に向けて主張したいこともなく、ただひたすら生きられるだけ生きてゆけばいいのだろうか。達観するとはそういうことか。ちょっと違うような気がするが、その場の気分次第でそんなことを思い、また違うことも思うのだろう。偶然の巡り会わせにその身を委ねなければならない。そして機会を捉えて不意に態度を豹変させ、それに見合った言葉を繰り出し、まったく違う認識を表明して、他の誰かをあっと驚かせたいのか。予定調和には陥りたくないのだろうか。要するに気まぐれなのだろう。面倒なことには関わりたくないようで、黙ってその場を立ち去り、やがて忘れられ、どこか別の場所で、今までとは違う環境の中で生活しているのかもしれず、気づかれなければ気づかれないだけ好都合で、そのまま何食わぬ顔をして生きているわけか。物は言いようか。別に何に抗って、何を拒否しているのでもなく、成り行き次第でそこに居座り、嫌になったら出てゆくまでなのか。果たしてそんなふうに立ち回れるだろうか。

 当時は国家主義思想が蔓延していた時期か。そこで誰が何に巻き込まれていたとも思えないが、そんな時代とはどんな時代だったのだろう。唐突に思いを馳せる。そんな時代の中で、誰かは雨にも風にも負けずに何をやろうとしていたのか。やっていたのは宗教を信じることのたぐいか。幻想を抱きながら、物語でも著していたのかもしれない。それを後の時代に生きる人たちが美化して、伝説の何かに祭り上げ、そんな言葉だけを浮き上がらせてしまうわけか。本当は雨にも風にも負けながら、情けない境遇の中で死んでしまったのかもしれない。いくら言葉を美化しても、悲惨な人たちは救われない。逆に救われないから、生き残った人たちは生きてゆけるのであり、情け容赦のない過酷な環境の中でも、少なくとも死ぬまでは生きていられるのだろう。それが救いのない人たちが受け入れている境遇であり、雨にも風にも負けながら、うわべだけの美しい言葉を遠ざけて、ただ死ぬまでは生きているわけだ。宗教はごまかしでしかなく、そこで何をごまかしているのかと言えば、どんなに悲惨な境遇にあっても、そこに何かしら救いがあると思わせようとしてしまうことだろうか。たぶんそれでも何とかしなければならないのだろう。君は英雄的な行為も美しい言葉によるごまかしも拒否してしまうのか。あるのはありのまま現実でしかない。それがおもしろいのではないか。つまらなくてもおもしろいと思い込み、そんなごまかしとは別のごまかしを作動させて、何かあり得ないような妄想を抱いていたいようだ。それは見たまま感じたままの、ありのままのフィクションだろうか。確かにそれはあり得ない。

 かろうじてそんなことを思い、それをでたらめのように感じてしまうのだろうが、そんな境遇に至ったような、過剰な何かの作用を認めざるを得ず、それによってどこまでも押し出されているように感じられ、それが理由の定かでない遠ざかりを招いているのかもしれず、ともかく何らかの力が働いているのだろう。そういう認識に至ることがそこでの救いであり、慰めなのか。それは冗談だろう。偶然の巡り合わせとしか思えず、現実を超えた現実があり、それは現実でも何でもないのだろうが、そうした根拠のないリアリティを追い求め、それがもたらす幻覚と妄想の狭間で考えを巡らし、役に立たない思考を働かせながら、何かいいアイデアにたどり着けばとは思う。何も期待していないのにそれはないか。知っていることはそれだけか。それに関する曖昧な知識を用いて、何かを徹底的に追及したいのだろうか。知識が曖昧では徹底化できないのではないか。遊戯的な言葉の並びを眺めているだけではどうしようもない。思考の思想もその徹底化も形式化の試みも、もはや前世紀の人々によって行き着くところまで行き着いてしまったのかもしれない。中にはそんな様々な試みを、まるでパッチワークのように縫い合わせ、それを書物によって提示してみせた人もいる。それは恣意的な個人図書館といった風情か。ご苦労なことであり、現代においてそれを利用しない手はないか。しかしどうやって利用したらいいのか。それとも何かそれらとは違う方向を模索すべきなのか。しかし現実にやっていることはたかが知れている。度々行き詰まりながらも、かろうじて持ちこたえている状況でしかない。

 過去から何を学ぼうとしているわけでもないが、そんな書物を読みながらふと気づいたことといえば、いつの世でもひどい人はひどいままのさばっていて、そんなひどい人を周りのひどい人たちが支えながら、ひどいことを承知の上で支持しているようで、そうやることで自らの利益に結びつけつつ、ひとまずそれを確保しておきたいのだろうが、まあそれは長い目で見れば浅はか極まりない行為なのだろう。でもそういうやり方がまかり通っているうちは、長い物には巻かれろ式で、とりあえずそうすることがベターな選択なのかもしれず、そんな流行の波に乗り遅れるわけにはいかないか。でも君には何が流行しているのかわからないし、興味がない。そしてそんな白々しい嘘が通用しないことは承知で、さらにいい加減にでたらめに語ろうとしてしまい、結局自ら墓穴を掘ってそこでご臨終か。もはや穴など掘るだけの体力さえないのではないか。そんな語りのお遊戯にも飽きてしまったということか。でも飽きようが呆れようが、君の思いなど尊重されるわけがなく、誰も懲りるはずもなく、のさばっている人はのさばり続け、それにあやかろうとする人たちは後を絶たず現れては消え、消えては性懲りもなく執拗に現れ、殺し文句やだまし文句や脅し文句を駆使して、浅はかな人たちを脅しながらだましながら殺しながらのさばり続け、いつまでもどこまでも宿痾のごとく取り憑いているわけか。もしかしてそれは君の思い違いではないのか。ならばそんなことはわからなくてもかまわないのかもしれないし、無理にわかる必要もなく、そんな思い自体が勘違いの誇大妄想だとしたら、それはそれで愉快なことかもしれない。たぶんそれが救いとなっているのだろう。


10月25日

 奇妙な始まり方だ。何かの気まぐれが作用したのか、たぶんそんなことはないと思うが、熱帯のジャングルの中で記憶が途切れ、そこで誰かが途方に暮れている。ここはどこなのか。少なくともグリーンランドのとなりにあるバフィン島ではない。それよりひとまわり大きいマダガスカル島か。バオバブの木が印象的だ。そんな風景の画像を眺めながら空想を膨らましているわけか。ここがどこでもなければどうということはない。どうということはないとはどういうことなのか。いくらやっても同じことだ。暗闇の中で誰かが唐突に言い放つ。誰かと誰かがそこで対決しているわけか。それは漫画の話なのではないか。現実の世界ではどうなのか。それはやっていることにもよるだろう。逆にいくらやっても同じことにはならないのかもしれない。やる度に違う結果が出る。そうなったらおもしろそうだ。君はそれとは違うことを考えている。下手の考え休むに似たりかもしれないが、ともかく考えているようで、何を考えているのか明かさずに考え、考えているように装っていたいのかもしれない。また振り出しに戻ってしまうのか。何に打ちのめされているのだろうか。今のところは何のことやらわからない。わざとわからなくしているのだろう。すでに行き詰まっているのだ。確かにそれはどうということはなく、どういうことでもない。相変わらず大したことではないようだ。その気になって調子に乗って、ここからさらに奥地へと探検してしまうわけか。そんなヨーロッパのアフリカ探検家は数知れずか。当時流行っていたのではないか。でもすべてがそこでのたれ死にというわけでもないだろう。マラリアや腸チフスでも蔓延していたわけか。

 話が飛んでいる。語りたくもないのにそれはないだろう。バフィン島は日本列島に似ていると思ったらしいが、それをいうならニュージーランドの方が似ているだろう。詳しく見ればバフィン島は日本の本州に似ていて、ニュージーランドは北海道と東北地方に似ているのではないか。でもそれがどうかしたのか。何を考えているのでもなさそうだ。思いつくまま気の向くまま、どこか旅にでも出たいのかもしれず、そのついでに行方知れずとなってしまいたいのかもしれない。またそんな嘘をつく。漫画の中の冒険家たちとは違い、ただ部屋の中で画面を見ながら地名を検索しているだけのようだ。実際にどこへ旅立ったわけでもなく、雨音を聞きながら、くだらぬ妄想に耽っているのかもしれない。でもやはりそれがどうしたわけでもなく、虚無的な言葉の連なり以外は何ももたらせないということか。そんなにがっかりすることでもないだろう。君とは別人の誰かには夢がある。君にはないのか。そのへんが話のねじ曲がったところか。バオバブの木には年輪が刻まれていないらしいが、幹の直径は最大で十五メートルにも達し、樹齢が数千年にも及ぶものがあるそうだ。それにしてもまたトム・クルーズがちゃちなSF映画に出ているようだ。前回の宇宙戦争から何年が経過したのか知らないが、映画の中ではまたしても地球が大変なことになっていて、いろいろ手の込んだ仕掛けやあっと驚く話の展開で、見る人を楽しませるみたいだ。でもそれはバオバブの木とは関係がない。関係があったら意味不明だが、クルーズのクローンを作っちゃった機械生命体と何か。トランスフォーマーのたぐいか。三角形をしているらしいが、まさかバオバブの木から生まれてきたわけでもないあるまい。無理矢理こじつけても意味不明だろう。

 しかし2001年宇宙の旅とは何だったのだろう。ちゃんと映画を見ていないので何とも言えないが、どうも人の乗った宇宙船が木星付近に来ると、変なものに遭遇するのがその手のSFの慣わしらしい。しきたりということか。同じ意味だ。まあそこで困った事態となって、話がいろいろとこんがらがってきて、なんやらかんやらしてしまい、その結果として映画の中でトム・クルーズが活躍できる環境が整ってしまうわけか。それは愉快なことだろうか。ネットで映画のあらすじを確かめながら、実際に見に行かないのだからひどい話だ。映画の制作者サイドにとっては愉快な話ではないだろう。でもそれなりにヒットしているらしいし、君が行っても行かなくてもどうということはないのではないか。要するにどうということはないというのはこういうことか。それにしてもバオバブの木はどうなってしまったのか。それの盆栽でもほしいのだろうか。でも水をやらなければたちまち枯れてしまいそうで、せっかく取り寄せてももったいないことになる。枯らしてしまった経験が過去にもありそうで、それが今も心の傷となってどこかに残っているのかもしれず、悲しい思い出として君を苦しめているほどのことでもないだろうが、動物にしろ植物にしろ、それの面倒を見るのは苦手なのかもしれない。動物といえば、相変わらずゴミ出し日には近所の猫が残飯を漁っているようで、集取車が来るまでにとっ散らかった状況となり、見るも無惨な感じとなり、誰かがそんな光景を眺めながら心を痛めているのだろうか。それは映画の中で地球が破壊されてとっ散らかった状況となるよりも、リアリティがあるのかもしれないが、状況も次元も違う話で意味不明か。やはりそれも強引なこじつけのたぐいだろうか。ただ単に話に脈絡が感じられないだけか。そんなわけでどうも話自体がとっ散らかった印象を免れ得ないようで、わざとそうしている反面、そうすることしかできないのかもしれないが、何だか気が散っているようだ。

 そういえばヨーロッパ人によるアフリカ探検の話はどうなってしまったのか。また話を蒸し返そうとしているのかもしれないが、要するに誰かがナイル川の源流を見つけて、探検や発見の歴史に自らの名前を刻み付けたかったということか。テレビでそんなドキュメンタリーを見た記憶がありそうだ。まあ知っている人は知っていて、そういうのが流行っていた時代があり、それを成し遂げた者には栄光がもたらされ、当時のメディアが騒ぎ立て、国家が勲章でも贈ったのかもしれず、それはそれですごい業績として評価されたのかもしれないが、そんな時代もとうの昔のことで、今では誰も覚えていないようなその者の名前も、ネットで検索すればたちどころにわかるのかもしれないが、だからどうだというわけでもなく、それもどうということはないとはそういうことなのかもしれず、その手のどうということはない話の積み重なりが、人類の歴史を形成しているとしても、やはりそこから何らかの話を取り出して、そういう話を魅力的に語ってみせることが、その手の語り手の権利だと思われ、場合によっては語らなければならないという義務感まで生じていて、それがいわゆる常套手段というかやり口なのかも知れず、坂の上の雲がどうしたか知らないが、何やらそこに小説と呼ばれる何かが生じているふりを装いながらも、そんな歴史まがいの何かが語られてしまうこともあるらしく、何かそれは違うのではないかと思いながらも、君はまたしてもそんな光景を眺めながら、途方に暮れているわけか。まったく進歩がないようだ。


10月24日

 それにしてもWin XPのサポート切れの後は、どうしても金を払って新しいWindowsを入れなければならないのだろうか。どうせ古いマシンなんだから、代わりに無料のLinuxでも入れておけばいいと思うが、どういうわけかメディアのほとんどは、MSから賄賂でももらっているのか、代わりにLinuxという選択肢はあり得ないようだ。ちなみにUbuntuなんかを入れておけば、バージョンが変わっても半永久アップデートだし、はじめから無料でOfficeソフトがついてくるし、XPで使っているような古いMS Officeのファイルなんかも、結構な確率で表示編集可能なのではないか。まあ使えるか使えないかは、いらなくなったマシンにでも試しに入れてみればわかることだが。

 しかし充電にだいぶ時間がかかっているようだ。長い間使っていないとそういうことになる。でも仮に充電が完了しても滅多に使わないのではないか。何かの時のための予備としてとっておくだけか。意味のないことかもしれない。今はそうだろうが、いざとなったときに使える状態にしておいた方がいいのではないか。そのときになってあたふたするよりはマシなはずか。まあ気づいたときにでもそうしておいた方が気休めにはなるだろう。

 何だか昨日あたりからいつもとは違う方向へ言葉が連なっているようだが、そろそろ軌道修正して、また意味不明なことを語らなければならない気配を感じながら、だんだんその気になっているわけか。それは架空の誰に訊いてみてもわからないところだが、そのわざとらしくも回りくどい語り方は、どうやらそうなってきたように思われ、要するに何かが一段落ついて、ようやく振り出しに持った感じがするようだ。そんなわけでまたありもしない賽を振って、出た目の数だけ歩を進めるふりをするつもりか。別にそれは難儀なことでもないだろうが、面倒な語り方には違いなく、そんな説明に何の意味もない。でも語らざるを得ず、すべての功利を遠ざけ、無益な何かを得るために語っているのかもしれない。やはり冗談としてそんなことを語り、相変わらずの行き詰まりをもたらしているようだが、それでかまわないということにはならないだろう。

 だが何をどう考えてみたところで、そんな状況に変わりはなく、先のことなど何も予測も予想もつかないし、それでも人々に夢を与えるために、その場限りのいい加減な予測や予想を披露して、明るい未来になるように願っていればいいのかもしれないが、たぶん実際にはそうならないのだろう。ではどうなるのだろうか。なぜ君はそんなことを述べて、人々の夢を壊そうとするのか。何を打ち消そうとしているのか。打ち砕くべきは夢でなくて何なのか。たとえばそれは原発推進派の野望か。深刻な事故が起きて、まだ完全に終息していないにも関わらず、時の政権が原発推進の姿勢を堅持しているのだから、さらに深刻な事故でも起こらない限り、それを打ち砕くのはなかなか難しいのではないか。

 では他に何を打ち砕いたらいいのか。君自身が抱いている野望か。野望とは何だろう。そこからいつもの冗談で世界征服とか口走ってしまうわけか。打ち砕く以前に実現不可能なのではないか。それは野望ではなく、偽りの妄想に違いなく、本当の野望は口が裂けても言えないはずだ。そういうフィクションなら話が早いか。何が早いのか定かでないが、たぶん君には野望を実現する気はないのかもしれず、それに関して夢など抱いていないのだろうし、ではその代わりに何があるかといえば、今のところは何もなく、ただ生きているだけで精一杯といったところだろうか。またそんな嘘をついて、わざとらしく何を隠しているのか。

 隠しているのは実現するあてのない計画か。また意識を逸らそうとしているようだ。たぶん何も隠すつもりはないのだろう。今やっていることがすべてなのではないか。必ずしもすべてとはいえない。何か他にやりたいことがあるのかもしれないし、密かに頭の中ではやる計画を立てているのだろうか。まあ機会が巡ってきたらやってみようとは思っているのだろうが、何をやるかはそのときになってみないことにはわからないことかもしれず、とりあえず今現在はその機会が巡ってきていないように思われる。そんなはずがないか。そんなはずがあるからそんなことを述べているわけか。でもそれをわざわざ明らかにすることもないだろう。ではいったいどの時点で明らかにするべきなのか。そういう方向へ話を進めているわけではなく、すべて計画通りに事が運ぶわけがなく、それ以前に計画さえはっきりとは定まっていないのではないか。では計画を立てているというのは嘘か。

 どうも話が堂々巡りだ。またもや予定調和の成り行きだろうか。ともかく人は何らかの形で稼がなければ生きてゆけない。労働こそが社会の中で人の存在を保証するものだろうか。でもいきなりそんなことを述べてみても始まらない。他に何を始めようとしているのではなく、すでに始まっている話の中で、記された言葉の連なりを活かそうとするならば、話の脈絡を考慮しなければならず、いつまでもでたらめに断片的に語っていても、ただわけがわからないだけかもしれず、読んでいる側は困惑するばかりだ。でもそれを改善させるために、具体的に何をどうしたらいいというわけではなく、それに関しては何も語れないからそうなってしまうのであり、もとから話に脈絡などあるわけもなく、行き当たりばったりで述べていることでしかないようだ。だから計画など立てようがなく、野望も何もありはせず、そこで実現させようとしているのはただの混沌と混乱であり、何かに迷っている素振りを見せながらも、その迷っている当の何かを表現できず、一向にその手の逡巡から抜け出られずに、困惑しながらもそれによりかかり、それで語っているふりを装い、結局そこには虚無以外の何ももたらせない。

 そんなことでいいわけもなく、どうにかしなければいけないのだろうが、結果的にはどうにもならず、いつものパターンでだらだらと意味不明を垂れ流しているようで、やはり自己嫌悪に陥るしかあり得ない。笑っているのにそれはないか。それにしても何もなく、何かあるとすれば、それは暇つぶしの何かだろうか。でもその何かが何でもなければ、それは暇つぶしでも何でもないだろう。それについて積極的に語らなければならず、そこからそれを何らかのビジネスに結びつけ、仕事として成り立たせなければいけないわけか。空疎な意見だ。とても本気だとは思えない。人が積極的に何かをやらなければならない理由とは何なのか。そんな理由を考えている暇があるなら、その間に何かやればいいということか。でも考えあぐねながらも考えてしまい、考えている間は満たされた気になり、さらに考えようとしてしまうわけで、何とか考えている時間を確保するために考え、結局無駄に時を過ごしてしまうわけだ。果たしてそれでいいのだろうか。

 いいわけがないからそう思ってしまうのか。それでは何も考えていないのと一緒か。そういうわけでもないが、考えていることとやっていることがずれているのかもしれず、何をやっているのかと言えば誰かの想像にまかせるとして、そのへんがごまかしなのだろうが、無視して語ればさもありなんで、後から確かにそんなことだろうと思われるしかなく、そんなことの積み重ねが招いた結果がそういう状況であり、そんな現状の中でもがき苦しんでいるとは思えないが、取り立ててうまく立ち回っているとも思えず、後は結果をご覧あれで、見ての通り読んでの通りなのだろう。たぶんここからが問題なのだ。いつもそう思っているが、気がついたら振り出しに戻っているのであり、なかなか話に進展がなく、そのへんが焦れったいところだが、まだ辛抱強く語るつもりなのか。もう無理だろう。とりとめもないことを延々と語っていて、本当にどうかしているのかもしれない。そんなふうにして語り過ぎれば、語るべきでないことを語らざるを得ず、語らざるを得ないこと以外は何も語れず、何を語らざるを得ないのかもわからず、何も語っていないような気分となり、さらに語ろうとするのだろうが、本当は語るべきことなんて何もないのだろう。それが虚無によって語らされてしまっていることのすべてか。すべてとはすべてでないことであり、すべてでないことがすべてなのであって、それ以外は何もないという予定調和を認めざるを得ず、そんな認識を破棄したくなってくるが、果たして君にそれができるだろうか。


10月23日

 ああでもないこうでもないと思うが、何だかとりとめがないようだ。危うくすべてを台無しにするところだったのかもしれず、なぜかIDとパスワードを両方間違えて、あわてて引き返して事なきを得る。何かの巡り合わせで偶然に間違えたことが良かったらしい。成功することに失敗して、結果としてうまくいくこともあるらしい。おかしな成り行きだ。ついているのだろうか。そう思っておけばいいのではないか。それは偶然ではなく必然だったのかもしれず、君がそう思っているだけで、どうということはなかったのかもしれない。と思ったらすでにおかしくなっている。どうやらやってしまったらしい。まあ仕方のないことだ。こうなったのも何かの縁で、よくあるパターンかもしれない。しかしそうでもなかったようで、どうやらぬか喜びをしていたようだ。結局大どんでん返しですべてを台無しにしてしまったらしい。それほど大げさで深刻な状況でもないだろう。まあこれも経験だ。ここから何とか体勢を立て直してみるとしよう。何だかわからないが、これも試練だと思うしかないらしく、うまく立ち直れたら儲けものか。まだ時間がありそうで、冷静に対処するしかなさそうだ。こうしてどこかへと誘われ、招き寄せられているのだ。それに逆らってみても仕方がない。逆らえなければ従うしかないらしい。過ちは誰にでもあり、どこにでも躓きの石が転がっている。そうやって何かに巡り会えるのかもしれず、巡り会えなかったら途方に暮れるとしよう。それも試練でしかない。そんな試練を乗り越えられなくてもかまわないか。乗り越えられなければ元の木阿弥となり、どこかでどうにかなってしまうしかなく、まるで冗談のような気分となり、そこで息絶えてしまうのだろうか。それでもかまわないか。かまわなければどうなってしまうのか。

 何とかつながったようだ。こんなものだろうか。まさかこれで事なきを得たとは思えないが、また何か思いがけない落とし穴が待ち受けていたりするわけか。何だかわからない。要するに今記しているのはフィクションのたぐいなのだろう。肝心なことは何も説明せず、ただ混乱しているだけで、それで何とかしようとしている。御都合主義もいいところか。でもかまわない。こんなふうにしか対処できないのだから、今はそれでもかまわない。これでうまく切り抜けられたら大したものか。違うのではないか。ネットにつながる場所へ移動すればこんなものだ。でもここで一安心してどうするのか。まだ終わっていない。何も仕上がっていない。それはそうだろう。今慌ただしく何かをやっている最中なのだから、一安心している場合ではない。内容がさらに空疎になってしまうのは否めず、仕方のないことかもしれないが、トラブってしまったのだからそうなって当然か。徐々に平静を取り戻しているようだが、もうしばらくは精神を集中させて事に当たらなければならないようだ。しかし何に対してそうなのか。自業自得であり、それも仕方のないことで、さらに焦る必要は感じられないが、一時的に環境が変わってしまったせいで、落ち着きを取り戻せず、何だか浮き足立ってしまう。まあこれも冗談のたぐいだ。そう思い込もうとしているのだろうが、嘘偽りには違いない。まったく朝からどうかしている。しばらくLTEでしかネットにつながっていなかったので、アイフォーンのソフトウェアのアップデートで躓き、途中で止まってしまってネットにつながらなくなった。それだけのことだ。無料WiーFiがつながる場所まで移動すればどうということはなかったのだ。ネットワークにつながっている本体のOSのアップデートだけは他でネットにつながっていないと無理のようだ。Macの画面で不意にアップデート表示がでて、ボタンを押してしまったのがそもそもの失敗だった。Mac自体のOSのアップデートではIDとパスワードを両方間違えて、こういう成り行きなのかと思ったついでに、iTunes経由でアイフォーンのソフトウェアのアップデートになってしまって、途中で止まってネットにもつながらなくなり、結果的にぬか喜びとなってしまったらしい。

 しかし何なのか。何が冗談だったのだろう。何も冗談ではなかった。なぜそれしきのことで焦ってしまうのだろう。四六時中ネットにつながっていないと不安でならないネット中毒のたぐいか。他に何を思うのか。実際に四六時中はつながっていないだろう。それほど中毒ではないと思っている。ネットにつながっていること自体が目的でも手段でもなく、ただの状態に過ぎず、そういう環境に慣れてしまっていただけで、ひとたびそれが切れてしまうと急に不安になり、あたふたしてしまうらしい。そういうことでしかないが、そんな出来事に遭遇して、自らの限界を悟ってしまうわけか。でもそれを悟ったからといって、限界を超えられるわけもなく、限界は限界として残り、それはどうでもいいような些細な限界でしかないのに、大げさに騒ぎ立てるようなことでもないのに、なぜかそれについて語ってしまい、語っている自らを卑下してしまうわけか。自ら抱え込んでいる状況がそうさせるのか。そうだとしても他に原因や理由を求めてみても仕方のないことだ。たぶんそれでも自らについて語らずにいることが山ほどあり、一時的にネットにつながらなかったことを利用して、他のことまで告白して他人の気を惹こうとしているわけでもなく、その程度にとどめておくことが肝心なのかもしれず、そんなことで騒いだから、他のいらぬことにまで言及してまう危機を免れたのであり、それが危機なのかどうか本当のところはよくわからないが、何でもかんでも告白しまくり状態はたぶんおかしい。気を病んでいる証しか。別に隠しておくべき秘密などありはしないのだろうが、そんな後ろめたい思いをいつか誰かと共有しなければならない状況に陥ってしまうのだろうか。まさかその手のやましさに憧れているわけでもあるまい。どこかの教会に出かけて懺悔しなければいけないのか。キリスト教徒でもないのにそれはないだろうか。今でもこの世界のどこかでそんな告白制度の下で暮らしている人がいるのだろうか。


10月22日

 これがすべてか。退屈なので、君はこれではないものを求めている。素直に従うつもりなのかもしれない。成り行きがそうなっているようだ。誰の境遇を心配しているわけではない。でも眠ってしまっていいものだろうか。夢の中でもないのに、また賽が振られ、出た目の数だけ前に進む。ゲームのルールも改善が必要なのかもしれない。老朽化が激しく、放っておけば朽ち果ててしまう。家の柱の中をシロアリが食いつくし、倒壊寸前か。でも空想しているのはそんなことではない。現実の世界の中で首を傾げる。克服しなければならないことが他にありそうだ。今がすべてではない。今でなければやれないことなのかもしれない。そこに今があり、現状が君を苦しめている。そんな気がしないでもないが、やはりそれは気のせいだろうか。本当は何がもたらされているのか。退屈な時間か。それだけではないと思いたい。意味がないわけではないのだろう。それを実際に行い、そんな行為によって何を正当化しているわけでもないのだろうが、とりあえずは何かを語っているつもりのようだ。そのままでもかまわない。誰かがそう思い、どこかへ流されていってしまう。意識されざる現実の中でそう思う。中途半端なのだろう。それ以上の詮索は無用だ。内面から逸脱できず、そこにとどまったままで外側から覗き込む。君にはできない芸当だ。アクロバットが流行り、それを他人に見せつけたいらしい。どうだ参ったかということか。

 でもそこでくじけてしまうわけにはいかないらしい。実際に何を見せつけられているのだろうか。アニメーションか何かだろうか。何かが浮遊しているようだが、わざとそうしているのだろう。作為が感じられ、それを受け入れ、異物を排除した気になるが、どうもすっきりしないらしい。だからわざとそう思っているのだろう。それが冗談の続きか。どうやら何の進展も期待できないようだ。そういう話ではない。迷路の中で出口を探しているわけではなく、そこにとどまろうとしている。墓の中か。鉄のふたが溶接されている。暗闇の中でよく見えないが、とにかく宝探しの最中ではないらしい。いきなりエイリアンでも襲ってくるわけか。その手の映画の中ではそういうことになる。そんな経過をたどらなければ脱出不可能か。そういう話ならそうなってしまいそうだが、そこから遠く隔たるわけにもいかず、黙って様子を眺めるとしよう。また何かの機会が巡ってくるのではないか。それが語る機会になれば儲けものか。ともかく期待したほどには焦れていないようだ。それほど外れているわけでもなく、大して落ち込んでいない。そしてまだその先があると思っている。勘違いも甚だしいか。でも実際にそうなってみないと実感できないこともあるらしい。今がそうなのか。何をどう思いたいわけでもないだろう。絶えずそれ以上の何かを求め、それ以下でもない状況のただ中で思考しているようで、考えていることはどこかへ筒抜けらしいが、放っておいてもかまわないような気がする。だから出来栄えがどうであれ、それを前提として、そこからさらに考えなければならない。そういう嘘もついてみたくなるのか。毎度のことらしい。

 まだたどり着いていないようだ。誰かがどこかの砂漠で撮影中だ。そんな映像を眺めながら、暇にまかせて旅に出ている人のことを思う。また白い犬が外で吠えているようだ。誰のことを語っているとも思えない。だからまだそこまでたどり着いていないのだろう。次第に遠ざかる景色を車の後部座席から眺めている。すべてが断片的に記されているようだ。まとまらないのだろう。何かの均衡が崩れかけ、不意に言葉が溢れ出てくる前兆かもしれないが、もうそれは済んでしまったことではないのか。すでに語れる範囲内で語ってしまったことか。ではそれ以上は語れないということか。今の段階では無理そうだ。どんな物語の出現を歓待しているのでもない。物語れないような物語となるしかなく、それはなかったことにしておきたいところだが、どういうわけか執拗に取り憑かれているようだ。だから記憶が飛び飛びに動作して、正常に語り継がれるのを邪魔しているわけで、面倒な成り行きに困惑せざるを得ないとしても、あるいはそれが予定調和の結果をもたらすとしても、今は黙って受け止めるしかないのだろうか。すでに語り手の自由が確保されていない。それは安易に語られるような筋合いの話ではなさそうだ。そういうことにしておきたいのだろう。これ以上面倒な成り行きになるのはごめんか。その件についてはあまり深入りしたくないようで、とにかく早く忘れてしまいたいのかもしれず、さっさとその場から立ち去り、遠く離れてしまいたいのだろう。それはいつもの成り行きに違いない。面倒くさくとなる打ち壊しにして、後はただ逃げるだけ逃げ、そんな出来事を忘れるまで口もきかず、それからどうなってしまったのか。後は誰かの想像にまかせるしかないようだ。

 そんなわけでうまく語れない。すでにだいぶ言葉を取り逃がしているようで、話にならない話を続け、気まぐれにアメリカンヒーロー物の幻想と戯れていたようだが、大して興味が湧かず、それとは別の何かを探し出そうとする。果たしてうまくいったのだろうか。たぶん何も変わっていないのだろう。現状ではそんなところのようだ。語る術など心得ず、思いついた言葉をそのまま記し、文章にならないような文章として提示し、結局何を述べているのかわからなくなる。現状では時間が限られていて、それ以上は無理なのかもしれない。でもいいわけにはならない。わざとそうしているだけなのかもしれず、そんな語りを肯定するわけにもいかず、そのまま遠ざかり、さらに記憶のまばらな空白地帯へと誘われ、そこで意識が風化作用に晒され、すべてを失いかけているのかもしれない。何かもかもが衰弱しているわけか。そういう終わり方もありかもしれないが、そんなフェードアウトに抗って、新たな戦略を練り上げる気にもなれず、ただ黙ってその場の状況をやり過ごし、後戻りができないことを嘆いているわけもなく、今はただまとまった思考を動作させる機会を免れているようで、すべてが白紙の状態だ。でも気に病むことはない。待っていれば待っているままに状況は推移し、そこからは何も得られないだろうが、得られなければまたどこかへ移動してしまうのだろうし、移動した場所で考えればいいわけだ。そして何も考えられなくなり、また何もなくなってしまえば、その先に待っているのは放浪の連続でしかなく、偽りの虚無がもたらされ、それを利用して何かたわいない物語が生まれるのではないか。砂漠での沈黙がランボー的な幻想なのだろうか。それも手だとは思われるが、冗談で述べていることに変わりない。


10月21日

 見えていたものが見えなくなった。しかしものとは何か。世界の中に何が放り出されているというのか。疑念を抱いているのではない。声が届かなくなってきたのだろう。何事も中途半端なままにとどまり、それが誰を苛つかせているのでもないだろうが、ものはものであり、言葉は言葉だ。それを中途半端に語れば、ものも言葉も同じになってしまうか。でも何に対してそうなっているのか。それらを取り巻く空気に対してか。でも言葉を取り巻いているのは空気ではない。記された言葉の周りには空白の平面が広がっている。では思い浮かべた言葉の周りには何が広がっているのか。ものという言葉の周りでも事情は同じか。それが言葉として記されればそういうことだろうか。ずれてしまっているようだ。ものも言葉もそれ自体を考えれば、つまらなくなってしまうのだろうか。ではものと言葉の歴史を考えればいいのか。それに関する知識を持ち合わせていないから、詳しくは語れない。詳しく知りたければ、それに関する書物でも読めばいい。君の代わりに他の誰かが語ってくれるだろう。そんなわけでものと言葉については、君はすでにお役御免だ。面倒くさくなければ、君は他のことを考え、他のことを語ればいい。そうすればやがて見えなくなったものも見えてくるだろう。そこで君は何かを再発見して喜ぶのか。実際に何を見つけ出すのか。

 周りを取り巻いている環境が嫌になったので、そこから抜け出そうとしているようで、他に抜け出す理由が見当たらず、とりあえずそういうことにしておきたいらしい。ただその場から逃げ出したいと思うわけか。でもそれ以外に願いがないわけではないだろう。とにかく叶う可能性のある願いを見つけなければならない。でも別にそれを急かされているわけではない。人類の祖先はアフリカ大陸にとどまっているのが嫌だったから、一部の不満分子がそこから逃げ出したわけか。暑かったから嫌になったのか。でも日本の夏も暑い。別にそこから荒唐無稽な妄想を導き出したいわけでもないか。またそこへとどまれずに、どこかおかしな方向へずれていってしまうらしい。確か歴史的には日本人の祖先が、中国大陸や朝鮮半島から海を越えて渡ってきて、先住民を追い払ったり征服したりしながら、小国家群を築いたのは、たかだか今から二千年前だろう。そして中国風の律令国家が成立したのは今から千四百年ぐらい前で、西欧風の近代国家が成立したのは今から百四十年前といったところか。だから何だというわけでもないだろうが、日本の歴史や世界の歴史を大げさに考えるべきではないということか。それも違うのではないか。では他にどれが違うのか。歴史はそれについて語る者の都合に合わせていくらでも甘美な幻想をもたらしてくれる。どうやらさらにずれていってしまうらしい。

 それらの歴史が何を正当化しているとも思えず、正当化できるとも思わないが、ではいったい幻想とは何なのか。何が君に幻想を語らせるのだろうか。それは報われるあてのない幻想だ。君はわざと粗雑なことを語りたいらしい。厳密には語れないのだろう。ともかく靖国神社には百四十年程度の歴史があり、伊勢神宮には千四百年程度の歴史がある。その中にはそれぞれの成立時期に日本が取り込んだ西欧と中国の制度が含まれているわけだ。西欧の制度を日本的に反映させて成り立っているのが靖国神社で、中国の制度を日本的に反映させて成り立っているのが伊勢神宮だ。西欧的な国家間戦争や内戦などで亡くなった人たちを讃えるための建物が靖国神社で、中国的な皇帝制の真似をした天皇制の権威を讃えるための建物が伊勢神宮なわけだ。どちらも当時の日本人をだますために日本風にアレンジした建物なのだろうが、あたらめて眺めてみれば、どことなくキッチュな印象を受ける。要するに西欧のまがい物が百四十年前の日本であり、中国のまがい物が千四百年前の日本なわけだ。そう考えてみると、日本はまったく冗談のような国だ。何だか愉快な気分となってくる。今日にでもアホな政治家たちが厳かで神妙な面持ちでそれらの神社や神宮に参拝しているようだが、それらの存在やそこで行われている儀式などが、国家という制度自体が大した理由も根拠もなく成立していることを如実に物語っているわけだ。たかだか二千年前に中国大陸や朝鮮半島から渡ってきて、先住民を追い払ったり混血したりした人々の子孫が、何やら自分たちの自己同一性の根拠を求めるために、国家という制度にすがりつくための装置が、そんなものでしかないとすれば、それはたわいのない国家宗教のたぐいとして、それらの存在を認めるべきなのだろうか。

 たぶんその程度でしかないものにあまり本気になるべきではないのだろう。むきになってそういうものを擁護したり非難したりすることが、それらの存在のもっともらしさや信憑性を高めることに貢献してしまう結果につながり、騒げば騒ぐほど、逆にそういう制度に絡めとられ、それの虜となってしまうわけだ。場合によっては擁護したり非難したりする自らの主張を守るために、敵と命がけで戦う羽目に陥り、靖国神社に放火しようとして捕まった韓国人のような悲惨な目にあってしまうわけだ。そういう意味では世界各地で頻発しているテロ攻撃のたぐいも、それを防ぐための組織としての警察や軍隊、あるいはネット上の情報監視網などの強化につながり、世界各国や資本主義を利する結果になっているのだろうか。でも無理に無関心を装うこともないし、そのへんが考えものだが、とりあえずでは何をどうしたらいいのかと問うても、そういう成り行きに対抗する手段など見出せはしないだろう。結果としてはこんなふうに語ってみせるしかなく、これも啓蒙活動のたぐいに分類されてしまうかもしれないが、いつまでも画面の前で笑っている場合でもなさそうだ。こうしてメディアが取り上げる社会問題とやらの幻想と適当に戯れてみせ、気晴らしというか気休めというか暇つぶしというか、そういう作用を否定するでもなく、何からの認識に至ったのだから大したものか。


10月20日

 たぶんどうかしているのだろう。制御が利かないらしい。放っておくとどこへでも逸脱していってしまい、何を語っているのかわからなくなる。それがこれまでのパターンだったようだ。やはり時が来るまで待たなければいけないのかもしれない。それができなければ無理に言葉を記すこともないだろう。待っている間に過去の文章を改めて読み直してみよう。そこでは誰かが日記を記しながら自己嫌悪に陥っていたらしいが、果たしてそれは演技だったのだろうか。どうやら気恥ずかしくなってまともに読めない。それも何かの冗談だったのだろうか。つまらないことを記していたようだ。でも今となっては遠い過去の話に違いない。読むべき内容ではない。たぶんそこでは何かが抜けていたのだ。そう思って差し支えないだろうか。本当は思っていないのだろう。今でも何かをごまかしている。くだらぬ勘違いから何を生じさせているのか。まんざらくだらないわけでもないと思っているわけだ。そこでもかなりのごまかしが含まれていて、まるで冗談のような感情が表現されて、とても正当化できるような内容ではない。要するに大したことはなかったわけだ。くだらぬ主義主張にとらわれ、何かを見失っていたとしか思えないが、それがそこでの精一杯の表現だったのだ。しかしそこからどれほど離れられたのか。大して遠くへ行っていないような気がするが、実際のところはどうなのだろうか。

 来たるべき何かをつかんだわけでもなく、何もつかめなかったわけではないだろうが、何の持ち合わせもないままここまで来てしまったのか。読みにも記述にも足りないものがあるらしく、それを自覚していながら放置してしまい、結局何ももたらせず、要するに自己嫌悪に陥っているわけか。批判の対象にもなりはしない。最近とみに老け込んだ印象を抱き、そんな誰かを批判の対象に祭り上げる気にもならなかった過去があるらしいが、もうしばらくすれば自らもそんな容姿になってしまうのかもしれず、それはお互い様と言えばお互い様のようだが、なぜそれらの文章が読むに堪えないのかといえば、醜い感情がむき出しのまま文章に顕われているように感じられ、読んでいる途中で嫌になってしまうらしく、ならば今はどうかといえば、それを隠し遂せているとも言い難く、とにかくそうなる前にごまかしているだけで、そう思っているだけで、本当はバレバレなのではないかと心配になってくるが、要するに当時は他人を傷つけたかったのかもしれない。わざとそういう役割を担っているつもりが、いつしかミイラ取りがミイラとなり、その結果収拾がつかなくなっていったのではないか。でもそれにしては冗談が過ぎるだろう。

 しかし過去は過去であって、今はそうでもないのだろうか。冗談が過ぎるのは相変わらずのようで、本心から語るつもりはないらしく、わざとそれらしい人格をねつ造したがっているようだが、果たしてそれに成功しているのだろうか。それについては何とも言い難く、やはりくだらないことの延長上で何か述べていることになるわけか。そんな子供騙しの感情論から少しは遠ざかりたいのかもしれない。できればそうしたいところだが、なぜか制御が利かず、気がつけばどうでもいいことにこだわりながら、そのこだわりを捨てられず、こだわってしまうから過ちを犯し、過ちを犯してしまった後から悔やみ、悔やんでみてももう手遅れで、その場を取り返しがつかぬほど通り過ぎていて、もはやどうすることもできなくなっているわけだ。それも自然の成り行きなのだろうか。そう思ってしまえば身もふたもない。何とかそうなる前に手だてを講じたいが、それはすでに過ぎ去った時間の中で考えていることであり、そうなってしまってから悔やむしかないようで、それでは何の進歩もあり得ないような気がするが、要するに今現在は過ぎ去る時間の中で生きているわけで、そこで何かを捕まえようとしても取り逃がすしかなく、どうやら戦略が間違っているとしか言いようがなく、改めてそれを練り直す必要に迫られている。しかし本当にそう思っているのだろうか。疑わしいと感じるならどうすればいいのか。

 とりあえず外部の事象に向かって安易に批判すべきではなく、内部に向かっては自らの行為を卑下すべきでもなく、不可能を不可能に感じているなら、それを過剰さの中に回収すべきなのか。でもそれでは何を述べているのか意味不明か。語りを制御できないのなら、それはそれで放置しておけばいいのではないか。それにしてある時期から読める文章に出くわしてくるのはなぜか。何だかわからないがそれらが不意に読めるようになる時期があるらしく、それらは現在の文章と地続きになっているようだ。それらを読んでいて不思議な感じがしてくるようだが、何かきっかけがあったのだろうか。あったとしてもそれを探る気にはなれない。過ぎ去ってしまった時間の中にそれがあったのかもしれないが、それを探し出してどうするというのか。何か感慨深げにそれについて語るつもりなのだろうか。もしかしたら君はそこでだまされてしまったのかもしれず、感情の力を削がれて虚無的な無関心を装わざるを得なくなってしまったのか。それが苦し紛れに繰り出されるでたらめだろうか。

 それより遥か向こう側で何かが突き出ている。崖から崖へと鳥が舞い踊り、そんな表現が何を意味するわけでもないのだろうが、ともかく何かが不意に舞い戻ってきて、意味不明な文章に出くわしているらしい。そんな振る舞いを繰り返しても、誰にも気づかれないのだろうか。誰の心配にも及ぶまい。でもそれをでたらめに批判される筋合いはなさそうだ。すでにでたらめなのだから、後は黙ってそれらの狂態を眺めながら、それが済んだらその場を立ち去り、立ち去り際に皮肉の一言でも添えられたら、それで満足したつもりにならなければいけない。たぶんそれらは余分な逸脱なのだ。そんな記述にかまけながら、何か幻想を抱いているわけだ。だからそれがどうしたわけでもないのは無論のこと、いったん無視を決め込めば、それで済んでしまう話なのかもしれない。

 そんな感覚でいつまでもいられるはずがない。たぶん途中で逃げてしまうのだろう。すでに逃げているようだ。でもうまく逃げ果せるだろうか。やってみなければわからず、やっている最中なのではないか。そんな中でも何か語っているようで、それが今この時なのだろうか。さあどうだかわからない。どんなものでもないだろう。とりあえずここは外部でも内部でもないらしい。「国のために命をささげた人たちに哀悼の誠をささげ、平和への誓いを表することは国会議員の責務だ。近隣諸国を刺激しようなどという意図は全くない」ということらしいが、これが何を意味するかは誰かの想像にまかせるとして、とにかく神社に参拝することに意義があるらしいが、まあいくら国会議員が神社に参拝しても、要するにそれは政治的なパフォーマンスとしか映らず、そこで主張していることも空疎なわたくしごとだ。神社に参拝するのは国会議員の仕事ではなく、仕事以外で偉そうに講釈を垂れるのは慎んでもらいたいが、本当にそこでまつられている人たちは国のために命を捧げたのか。国が関与した戦争や紛争で人が死ねば、神社に祀られて、国会議員が参拝しなければならないわけか。そんなことを考えたら非国民になってしまいそうだ。国のために自ら進んで命を捧げるなどという愚かな振る舞いに賛同したくないが、そういうのを強制されてしまった人たちは、確かに気の毒であり、実際に死んでその手の愛国心を強制する神社に祀られてしまうのも、不憫といえば不憫なことか。そんなことがいつかはなくなってほしいと願いながら、何とか一刻も早く世界が平和的に統一され、愛国心を強制する国家がこの地上から消え去ってほしいとも思うが、そうなるにはまだまだ気の遠くなるなるような長く険しい道のりと、うんざりするような面倒くさい紆余曲折がその先に控えているのかもしれない。しかしその先とはどの先なのか。

 それにしても国家と資本主義によってこの世界が牛耳られてしまってから、いったいどれほどの月日が経ったのだろうか。過去には戻れないし、これから未来に向かって、世界がどのように変化するのか予測はつかないが、たぶん君が生きているうちは大した変化は起こらないのだろう。要するにこんな状況の中でこれからも生きてゆかなければならず、そう思いながら生きてゆけば、これから起こり続ける出来事にもそれなりに対処しながら、それなりに生きてゆけるだろうし、そんなことをやっているうちに死んでしまうのだろうが、それだけでは気に食わないと思うのは当然のことで、それについて何か批判的に語ってしまうのも当然の成り行きであるとして、でもそういう否応無しの語らされ方も変えたくもなってくる。なぜか居心地が悪いみたいで、語っていてしっくりこないしすっきりしない。それを君なりに何とかしている最中かもしれないが、まだだいぶ時間がかかりそうだ。


10月19日

 踏み出せない。たぶん何かに影響されているのだろう。どうにもならないこともあるようだ。それがわかっているのにわからないふりをするのにも疲れている。神を信じていないのに神からの指令を待っている。そんなはずがない。それは試練ではない。おしまいでもなかったらしい。未来へと果てしなく続いているのか。それも違うようだ。ユリシーズなど読む必要はない。ネット上の画像を眺めている。それは書物ではない。中途半端なことは語れないが、語ろうとすれば中途半端に語るしかない。自信がなく、勇気もない。何も信じていないのか。己を信じることもできない。そこへ至る道筋を確保できずにいるらしい。そことはどこか。力を手に入れたいのか。力でなければ何なのか。問うまでもないことで、問われるまでもない。何でもないことかもしれない。本当に何でもない。力は力から生じ、力を持たない者は永遠に力を持つことはない。それを持つ者と持たない者の間に格差が生じている。力の不均衡は運動を引き起こす。持つ者から持たない者へ権力が行使され、力の存在が誇示される。力から力が生じていることが証明されるわけだ。そんなはずがないと思うだろうか。そんなはずがなくてもかまわず、信じられなくてもかまわない。信じようと信じまいとそこに力が働いている実態に変わりない。そしてどうやら君は信じていないらしい。

 何を信じればいいのか。信じなくてもかまわないのではないか。現実に信じていないのだから、君はそこで引き下がらなければならず、すでにお役御免状態か。でもそれからどうしたのだろう。何を恐れているのか。力の行使か。現時点ではわからないが、将来のことを心配しているのでもない。何をかまけているのでもないし、なおざりにすべき何かを探しているのでもない。要するに権力を無視しているのか。そんなはずもなく、どんなはずでもないだろう。すでに賽は振られ、何やらどこか得体の知れぬ地帯へと踏み出しているはずだ。踏み出せなかったのは過去の話か。今もそう思っているのではないか。そしていつまでもそう思い、何もできないふりをしている。実際には何かやっていて、そのやっていることを信じられずにいるらしい。電車の中でそんなことを思い、目的でもない目的地に向かっている最中に、ひたすらそんなことを思い続け、それが気晴らしの暇つぶしとなり、聴いている音楽も忘れ、そんな自らの描写力を疑う。なるほどでたらめな思いに支配され、はみ出して外へと視線を向け、風景の中に誰かの面影を探し出し、気のせいだと思い込もうとするが、それが何を意味するのかわからない。何も意味していないのではないか。まったくどこへでも逸脱していってしまいそうだ。まともに語るのが面倒くさいのか。

 まだどこまでも道が続いているような気がする。簡単に降りるわけにはいかないらしい。まさかゲームも道半ばか。それは何のゲームなのだろう。別に誰と我慢競べをやっているわけではない。過去に記した語彙を思い出し、同じパターンに陥らないかと心配する暇もなく、さらに何か述べるとすれば、それは何を思い出したつもりになれるのか。そんな問いを発していることは確かだが、そこからねじれて、不意に当時の会話を思い出し、苦笑いとともに忘れていた約束を遂行する羽目に陥り、もう時効だろうとは思うが、今さらながらやってみる。そんな夢を見ていたのかもしれない。まだ目覚めるには早すぎる時間帯か。そんなはずもない。君はそこでそれなりのことをやってきたはずだ。たとえそれが水泡に帰すとも、まだやらなければならないことが残っていたとしても、なぜか遠く離れて考えを巡らし、それで何に気づいたとも思えないが、それによってもたらされた安寧に寄りかかりながら、今に至っているのだろうか。そんなはずがない。他に記すべきことがあるのではないか。今は何を語っている場合ではなく、何も語らずにいることこそが美徳をもたらし、ひたすら沈黙を守るべきだろうか。そのときになってみないとわからない。まだそこまで至っていないのかもしれず、語る準備ができていないのかもしれない。そうなる前に判断しなければならなかったのか。しかしどうなってしまったのだろう。どうにかなっているはずだが、まるで他人事のように思い、それ以上は詮索しない方がよさそうに思えてくる。

 君はまだこの世にやり残したことでもあるのだろうか。未練がましくそれを追求しているわけか。報われないだろう。そんな気がしてくるが、それは何でもないことだ。何があってもそうはならないような気がする。安易に推測すべきでもない。予測など成り立つわけがなく、何を予想しようと、それらはすでに的外れであり、何を外しているのかわからなくなるほど、事態は錯綜しているわけで、その複雑に絡み合った蔦がほぐれることはなく、解きほぐそうとしても無理であり、無駄な労力を使い、無駄に神経をすり減らすだけか。でもそれで盤石というわけではないのだろう。それについていくら語っても、語り終わることはなく、いくらでも語れるが、いくら語ってみても、それは単に語りすぎているだけで、語り過ぎればなお一層事態が錯綜してしまうのであり、何を語っているのかわからなくなり、何も語らないのと同じことになってしまいそうだ。それで何をごまかしているつもりになれるのか。もういい加減懲りたはずで、飽きてきているはずだ。徒労であり、疲労困憊しているだろう。もう助けられないのだ。手遅れも手遅れで、無駄な悪あがきでしかない。でもこの感覚は何なのか。少しもあきらめていないではないか。いったい何をあきらめればいいのだろうか。それを思いつけないうちはあきらめたことにはならない。そんなことはないか。この世界ではいくらでもいいわけがきくらしい。焦れているのだろうか。それも微妙に違うようだ。ずれているのではないか。それはもとからそうだろう。ずれているからここまで語れる。

 要するに関心を持てないということか。興味を惹かないのだろう。終わりに対して関心を持てず、興味がないということか。だから終われないのか。でも終わりを知らないわけではない。すでに終わってしまった何かについて語っているはずだ。でも何かとは何なのか。その問いからして冗談であり、冗談でなければ終わるしかない。たぶんそれは終わらないための冗談なのだ。通行人が犬に引っ張られ、犬が猫を追いかけている。そしてこの世界も何かに引っ張られ、やがて猫を追いかけることになるだろう。気まぐれにそんなことを思うが、それも冗談の一部と化すのだろうか。とりとめのないことだ。ではいったい雨はどこで何をやっているのか。来週には嵐をともないながらやってくるだろう。そして事態を把握できずに何かが見失われ、それが予言でないことが明らかとなり、予報のたぐいに価値が減じられ、君が何も語らなかったこととなってしまい、やはりすべてが水泡に帰すわけだ。神々の神話には意味不明な呪いがつきものか。そんな話をしているのではない。でもおかしいはずで、延々ととりとめのないことを語っている。何かの均衡が崩れ、堰を切って言葉が溢れ出し、収拾がつかなくなっているのではないか。途中からそうなってしまったらしい。でも時間がくればいったん中断しなければならず、それが何の時間でもないのだろうが、一応の目安となっているようで、まったくよくわからない成り行きだが、何かに操られながらも、正気を保ち、どこまでもそんなことを語ってしまうらしい。それでも何も出てこないような気がするのはなぜか。当てが外れているのか。

 何がそうさせているのでもない。あり得ないことをあり得ないままに放置し、こだわりを排して何かを遠ざけ、それが新たなこだわりとなり、誰かをその場に縛り付け、身動きが取れないようにして、後はそれに従った言葉でその身体を覆い、何が何だかわからないうちに、そんな偽りの彫像を仕上げてしまうわけだ。オブジェのたぐいか。何かがそこで固まっていることは確かだが、固まりながらもその身を覆う殻を破ろうとして破れず、誰かに助けを求めているみたいだが無視され、やがて息苦しくなり、呼吸が止まり、完全に動かなくなり、己のうちに死を迎い入れ、年月の経過とともに中身が腐って乾涸び、ついには殻の隙間から漏れ出て、消えてなくなり、空疎な形が取り残されるが、蟬の脱け殻のように放置され、後は土に還るしかないのだろうか。そんな物語を語らされてしまうのか。あり得ないことだ。そう思うが、とりとめのない何かに心を満たされ、もはやそれに抗う力を失い、自らが含まれる成り行きのなすがままに、どこか遠くへと流されていってしまうようにも感じられ、それを操る虚無は、もうどこへも行き着かないだろう。そうなるように事態を誘導しているわけか。そんなはずがない。確かに終わりそうで終わらないようだが、終わってみたところでどうなるはずもなく、終わりを制御できないのは火を見るより明らかで、いつまで経っても終わったままになってしまう。君は終わりを終わらせることができない。だからいつまでも終わったまま、歳月が流れてゆくほどに、終わりの意味がだんだんすり減ってゆき、ついには終わりが終わりでなくなってしまうだろう。それはどういうことなのか。

 ただの冗談だとは思うまい。ただではないから冗談でさえない。何かの報いを受けているのかもしれず、言葉が言葉でないものに変化しようとしているのかもしれないが、やはりそんなはずがない。そう思わざるを得ず、そんな常識の外に出るのが怖いのかもしれない。荒唐無稽な話だ。そう思い込みながら、そんな思い込みを手放そうとしない誰かを眺め、それが君ではないと確信するが、では誰なのだろうか。彼はまだ生きているのだろうか。彼の生存を疑うことで、何か事態が有利に働くとでも思っているわけか。別にそれは避け難い事態ではない。彼が生きていようと死んでいようと、彼の抜け殻が存在しようとしまいと、すでに君は彼が消失した後の時代でその身を晒している。神は死に、君を創造した人間も死んでいる。何もかもが死に続け、やがて君の身にもその死が訪れようとしている。そんな嘘偽りを持ち出す必要さえはばかられ、そのどうでもいいような死は、今や世界中に蔓延しているはずだ。それが物語の終わりを予感させるわけでもないだろうが、何となく死を語る行為とは無関係に、それらの死があるような気がして、そんな死も遠からず意味を剥奪させられてしまうのだろうか。時間には意味の風化を促進させる作用があるらしい。意味が意味をまとうのを絶えず遅らせ、まとわせようとする意志を忘却の中へと投げ込み、その中で心地よい子守唄を行き渡らせ、永遠の眠りへと導き、その罠に捕らえた言葉たちを無化してしまうらしい。それでもそんなはずがないと君は思うのか。頑なにそうなることを拒否しているようだ。君は忘却に抗い、その時点で覚えている言葉を取り寄せ、それをひたすらつぶやき続ける。

 だからもういい加減にあきらめたらどうか。いくら語ってもきりがないだろう。だんだん何かがおかしくなっているように思え、すでにその限界を超えているようにも思われ、もはや呆れを通り越して、何かの境地に達しているのかもしれない。何かとは何か。何かなのだろう。それはその先にいくらでも続いてしまう何かだ。言葉の連なりのたぐいだろうか。そうかもしれないし、そうであってもかまわないと思われ、そうでなくてもその先に続いてしまうだろう。そんな継続を望み、それと戯れ、それから眠りにつき、やがて目覚め、さらにそれを繰り返し、眠りと目覚めも繰り返され、それらの継続が何を目指しているのでもないことを悟る。未だ目的が不在なのか、あるいはすでに忘れてしまったのか、どちらでもかまわないように思われてくる。あればあったらそれに縛られ、他のことが手につかなくなってしまうが、なければなかったでさみしくなり、心に空洞がうがたれたような気になり、やはりそんなことにこだわるべきではないのか。たぶん何がそこで生じているのでもなく、ただ言葉が連なり、それについて何か思っているようにも語っているようにも思われ、そしてその場で忘れていることを思い出そうとしているわけだ。今こそ思い出さなければならない。でもそれを何に向かって誓っているのか定かでない。空は曇り、そんな寒々しい雰囲気の中で、静かに目を閉じ、瞑想に耽っているわけではないが、とりあえず思うところがあるらしい。何がその身に重くのしかかっているのか。そうではないだろう。ただそんな気がするわけでもなく、うら寂しさを紛らわすあてもなく、愉快な気分とはなり難い。それは本当だろうか。


10月18日

 たぶんまだ人は哀れむべき存在とはなっていないのだろう。哀れみの対象となるには若すぎるのかもしれず、まだ何かもが始まったばかりなのかも知れない。だから君は他の誰を哀れむこともなく、その代わりに何かそれに付け足すべき言葉を探しているようだ。でもそこで何も見つからなければ、また苦し紛れの冗談を述べてしまうのだろうか。今さらながらのそれではあまりにも退屈すぎないか。とりあえず現状がどうにもならないなら、どうにかなっているように思い込めばよく、他に思うべきことになど何もなく、いつでもどこでもどうにもならない現状に直面しているとするなら、人はそれでもどうにかしようとしているわけだ。別にそれの何が根本的に間違っているわけでもない。本当は間違っているとしても、そう思わなければいいだけだ。そんなわけでいつもの御都合主義と戯れながら、まるで犬の散歩のようにどこかへ引っ張られてゆき、そこでありふれた光景に出会い、それについて感想の一つも記せばいいのかも知れないが、まだそこまで至っていないのかもしれない。途中で道草でも食っているのか。でも至る所にそんな光景が広がっていて、それのどれもがありふれていることは確かなようだが、要するに感想など述べる必要がないように感じられ、黙ってその場を通り過ぎ、通り過ぎてからそれらの光景を忘れ、何も見ていなかったような気がするだけか。そんな手の込んだわざとらしさを演じようとしているわけか。眺めている光景が思考の対象とはならないのかもしれず、感性に訴えかける何かが欠けているのだろうか。それとも何かをやろうとしている自覚がないのか。では無意識のうちに何をやろうとしているのか。

 もしかしたらそれはこういうことだろうか。例えば君は崩れかかった廃屋の中から何かを探し出そうとしている。床下からほこりをかぶった白骨死体でも見つけ出したのか。それ以外に何を想像できるだろうか。たぶんそれを空想しているに過ぎず、本気でそんなもの探しているとも思えないが、ひと昔前には確かにそれがどこかにあったのかも知れず、時代が時代なら、そこで今では廃れてしまった何かを見つけることができたかも知れない。昔の君はそれを探し出すことに関して、何か希望のようなものを抱いていたわけか。希望というわけではないが、物語の中でなら今でもねつ造できそうで、そんなものならいくらでもありそうだ。ところでそれは何のことなのか。ここで思いつかなければ嘘かも知れず、それが嘘であるならば、なぜそんなことを語ってしまうのか。どうやらそれが嘘ではないらしいと気づいていて、何やらそれについて思い当たる節がありそうだ。それが以前から探し求めていたお宝のたぐいではなく、今ここで生じつつある何かなのではないか。今さらそんな逃げ口上もありだろうか。あるいは何だかわからないとだけ述べておいて、何かの拍子に不意に思いついたら、それが見出そうとしている何かかもしれず、そんな何かを言葉の連なりのうちに定着できたら幸いか。それもおかしな言い草だ。どうやら無意識のうちに何か探しているのかもしれないが、今のところはそれが何だかわからず、わからないことで苛ついているのかもしれない。

 いつもながらのあやふやでたわいのない語りだ。そんないい加減な認識を誰と共有するつもりなのか。真正面から語らずに、逃げに逃げているようにも感じられる。そんな語りがそれ以外の何を見出しているように思われず、とりあえず何も見つけられないまま、その見つけられない現状から逃げているのかもしれず、どう逃げても逃げ切れるとも思えない。否が応でもそこで何かが見出されなければならず、そうならない限り話の進展が期待できそうもない。そう思うと何だかまた冗談に逃げたくなってくる。それともついに本気になって宝探しでも始めるつもりか。だからそれが冗談なのだろう。要するに見つけたいのは見つけたくないものなのではないか。何かの間違いでそれが見つかってしまったらどうしよう。でもいったいそこで何が見つかるというのだろう。見つけられるものなら見つけてみればいいではないか。ではそうするとしよう。たぶん見つけようとすれば見つからず、見つからなければそれを空想してしまうだろう。それとは何か。ようやくいつもの問いにたどり着いたようだ。ではもう終わりが近いのだろうか。問いにたどり着けば終わってしまうのか。それではあまりにも予定調和だから、少しは抵抗を試みたらどうか。すぐに終わらないようにしなければならないのか。ここで終わりにするのは受け入れ難いか。世の中には受け入れ難い何かがあるのだろうし、その何かがそれなのかもしれず、そんな受け入れ難い何かを提示してみせ、あるいはそれを他人に強要して、どうだ参ったかと威張る輩がいるのかもしれない。そんな征服願望に取り憑かれ、ストーカーまがいの犯罪に手を染めたり、他人を言葉や暴力で打ち負かした気になり、あるいは相手を論破したり屈服させたりして、溜飲を下げたつもりになれるだろうか。それが大なり小なり程度の差はあるにしても、実際にやっているのはそうしたことか。

 たぶんそう思ったところで心情を発露しているとは言い難い。疑わしいのだろう。本気で語っているとは思えない。そんなありふれた作り話の中で言葉を活かそうとしているのかもしれないが、そのへんは成り行き次第でどうにでもなりそうで、それを利用していくら語っても、どこかで話のつじつまが合わなくなり、強引に合わせようとしても、うまくいかなくなったりして、そんな試練でもない試練をうやむやに迂回しながら、脇道へと不意に入ったところで車を止め、そこから駅まで歩いていける距離だとも思えないが、その場でそれらの成り行きに関して、何かそれとは別の意味や意義をもたらせると思ってみたりもするが、勘違いもいいところで、すでにそんなやり方に倦み疲れ、代わりにありふれた夢でも語ってしまうような気がして、自己嫌悪に陥り、要するにそこで踏みとどまれないということか。それが怠惰と倦怠に巻き込まれた意識の末路かもしれず、それでそこから逃れる術をすべて使い果たしたようにも思われ、今や絶体絶命のピンチに陥っているのかもしれないが、それを笑いながら記しているのだから、実際はそうでもないのかもしれず、他には何も思いつかないので、すがる思いでまた何かを探し求めているふりをしながら、あてもなく人名を検索してみれば、誰かが奇抜なファッションで何かを表現しようとしていたりして、そんな映像を眺めながら、やはりそこから何を受け取ろうとしているのでもないが、何だか勇気づけられ励まされているような気になるわけか。無闇矢鱈に語ろうとすれば意味不明となり、そこから何か語る題材を求めようとすれば、何となく自分とは無関係に思われてしまい、別世界で行われているイベントを眺めているような気になり、語るに語れないジレンマとともに、次第にどうでもよくなってしまうのだろうか。


10月17日

 人々は安心して感動できる何かを求めている。それは村上春樹の小説のたぐいだろうか。あるいはおもしろい何かだ。それは流行りの漫画か何かか、フェイスブックやツイッターやユーチューブといったところか。空疎で読みにくい誰かの文章などいらないだろうが、内容が雑で意味不明では仕方ない。仕方ないでは済まないが、何となくあきらめてしまいそうになる。どこかおかしくなっている。限界を超えて、虚無が己に内在する良心や善意を打ち砕いてしまったのか。それにしても意味のない独り言が続いてしまうらしい。どうも人々の求めには応じられないようだ。神もそう思っているのだろうか。誰が神なのだろうか。君はその得体の知れぬ神からの指令待ちといったところか。それが冗談でなければ、間違いなく気が狂っているのではないか。笑ってしまうがそうなのかもしれず、そんなことを思うとだんだん愉快になってくる。ますますわけがわからない内容となってしまうのか。そうではなく、単なるつまらなさが増しているだけのことか。そういう成り行きに対して、どう対処すればいいのか。気晴らしにネット上の画像や映像を見て、それに関するうんちくを読みながら、何か適当なことを思いつくらしい。スターウォーズのエピソード4〜6は、双子の子供たちによる父への反抗が物語の主題となっている。今さらそんなことに気づいてどうするのか。父を操っていた黒幕が最後に登場して、それを親子が協力して葬り去り、その葬り去る作業を通して、親子の和解が成立してめでたしめでたしなわけか。単純化すればそんな話だろうか。でもそれで何を解消したわけでもないだろう。気晴らしではどうにもならないのではないか。

 では何が必要なのか。何も必要ではない。それではおしまいだ。そういうことだろう。また何かおかしい。古い白黒写真に色を塗り、表面の傷や色あせを修正して、その行程を映像にすれば、何か感動を呼ぶらしい。見事な出来栄えか。何も見ていないような気がする。それは何かの風景だろうか。また妙に感覚がねじれてくる。所々言葉の使い方を修正しているうちに、どうにもこうにもしっくりこなくなり、それらのすべてを放棄してしまいそうになり、そんな小手先のやり方ではうまくいかないことを思い知ったりするのか。それも作り話の内容でしかない。どこもかしこも同じようなものだ。語っている人たちに語る権利はなさそうに思え、でも同じようなことを語っているのだから、その同じような内容にあわせて語っているのだろうか。君にはできない芸当か。君も無意識のうちにやっているのではないか。要するに誰もそのことに気づいていないだけか。そんなわけでどこを見ても同じような語りに遭遇し、同じような語りに覆われていることに気づき、つまらないのは君だけではないと勘違いしてしまうが、本当のところはどうなのか。

 でもその同じようなこととはどういうことなのか。自民党的なものだろうか。微妙に違うと感じられるのかもしれないが、とりあえず自民党的なものを攻撃しながら、自民党的なものと共存を図っているのかもしれない。それが現状がまんざらでもないと思われてしまう原因か。では彼らは何にだまされているのか。別にだまされているわけではないと思っておいた方が無難なようだ。とりあえず銀行も新聞社もテレビ局も大企業も大政党も国家も、みんな官僚機構で成り立っている。それらは自分たちが所属する組織を温存させながらも、現状を改革しようとする姿勢を保っていなければならない。そういうポーズを信用してよいのかよくないのか、そのへんのところが微妙な感じがするが、それらのどこが良いとか悪いとか言っていられるうちは、そんな批判を繰り返す人たちは、自らやっていることがまんざらでもないと思ってしまう。そしてそういう批判の外に出られるわけもなく、それが限界なのだろうが、その限界を取り除くことは不可能なのだから、今まで通りの批判を繰り返すしかないのではないか。限界を取り除いたら、それは批判ではなくなり、ただの支離滅裂な罵詈雑言と化してしまうだろう。とするならやはり官僚機構の存在を前提とした批判でなければならず、そこに関わる誰もがその範囲内で批判するしかない。要するに毎度おなじみのことが批判され、それが事ある度に繰り返し登場してしまうわけだ。それ以外はあり得ないのだろうか。たぶんそうだ。だから現状での体制批判は無効だ。無効だからこそ批判が成り立ち、世間に受け入れられているわけだ。逆に有効であったらヤバいだろう。仮にそれが有効に作用して、官僚機構を抱えたそれらの組織がすべて成り立たなくなれば、世の中はどうなってしまうのか。

 批判は常に虚構と隣り合わせで、場合によっては虚構そのものなのかもしれず、実際には批判している当の対象を維持継続させるために批判が為されるわけだ。要するに叱咤激励のたぐいだ。その意味で批判している者と批判されている対象は同じ穴の狢だ。どちらも現状を維持継続しながら自分たちの都合のいいように発展させようとしている。でもそんな批判にだまされてはいけないというと、それが違うのかもしれない。とりあえず受け入れるべきではないか。どんどん批判してもらおうではないか。批判する側とされる側の予定調和の共存がいつまでも続くわけがないか。続いてしまってもかまわないのではないか。そのいつまでがどこまででもかまわない。現に君はその手の批判をおもしろがっている。場合によっては君もそれに加わりたいとも思い、知らないうちに感染させられ、気がつけばそんな批判を繰り返しているかもしれず、あるいはこれまでも繰り返してきたのかもしれない。たぶん世の中が変わるとすれば、少なくともその手の批判からではないような気がする。逆にその手の批判が世の中の変革を阻止しているのではないか。変わろうとする兆しが感じられてくると、急に一斉にその手の批判がメディア上に蔓延り始め、変革の芽が摘み取られ、あるいは目くらましとなって、また旧来の体制への揺り戻しが起こり、気がつけば何事もなかったかのように官僚機構が機能しているわけだ。それでかまわないのだろうか。たぶんかまわないのだろう。それ以外の成り行きは現状ではあり得ない。

 そんな現状から目を背けるわけにはいかないのか。でも背けてしまえばあちらの思うつぼで、そういう人たちは世間の主流から遠ざけられた周縁的なマイノリティとして生存していくしかない。たぶんそれでもかまわないのだろう。目を背けようと背けまいと、どちらにしてもそれ相応の役どころが用意されていて、マイノリティにはマイノリティなりの言説も用意されていて、たまにそれを活用して、差別反対だの何だのとデモ行進させられたりして、その場で用意された紋切り型的な言説を叫ばされるわけで、それがたまたまメディアに取り上げられれば、社会問題の一つとして議論の俎上に上がるわけで、場合によってはそれを文化人だの知識人だのの役割を担った人々が、メディア上で派手な侃々諤々の議論を演じてみせたりして、それが知的好奇心を満たす消費の対象ともなるようだ。要するにいくらその手の反対運動を試みても、そう簡単に世の中はひっくり返らないということだろうか。でもそういう役割が世の中から割り当てられている以上は、その手の定期的なデモ行進のたぐいは欠かすことができないわけで、現状から目を背けるか否かに関係なく、その手の反対運動が毎度のことのように行われ、それに呼応するように、今の体制に対する批判的な意見も、メディア上で繰り返し表明されるわけだ。でもそれを大衆の間に募っている不満を和らげるためのガス抜きと言ってしまえば身もふたもなく、たぶんもう少し気が利いた表現が求められているのかもしれない。


10月16日

 嵐が過ぎ去った後に一息ついていたら、いきなりピンチか。不意に記したことが仇となり、またもや行き詰まりの予感が漂う。とりあえず危機を未然に防いだらしく、容態は小康状態といったところだ。そう感じたところで何も用をなさないが、すぐにどうこうということはないように見え、それらの光景から判断すると、誰もが少しずつ病気なのであり、誰がそれに気づいているわけでもなく、気にしていないようだ。そんな事態の推移を眺めながら、焦る必要もないことを実感する。意識がすべてから遠ざかっているのは明らかなことだが、いったん遠ざかったものを取り戻す気にもなれず、そのまま放置しておいてもかまわないような気がして、要するに面倒なことは避け、投げやりな感じなのかもしれない。そんな精神状態のまま続けるのは困難か。続けるしかないのだから仕方がない。続けられなければそこで終わりだ。それが何かの冗談だとしても、結局はそういうことになる。ふとしたきっかけでそうなり、後は自堕落な生活に溺れ、どうにかなってしまうのだろう。それが未来の姿でないことを祈る。ともかく結果は遠からずわかるだろうが、その結果を誰が担おうとしているのでもなく、君も無視しておいてかまわないようなことだ。何も今から結果を恐れるには及ばず、どのような未来をつかみ取るにせよ、その時の成り行き次第なのだから、心配することはない。たわいない意見に流され、つかの間のぬるま湯に浸かっているうちに、またもや危機が間近に迫っていることに気づかない。そんな作り話はいい加減にやめてほしいか。今後は何も作らず、何も語らずでいいのではないか。そして何を考えているのかわからなくなるわけか。いつものことで、毎度の成り行きにうんざりしてしまう。相変わらず何もありはしない。風は強いが空は明るくなり、また秋が一段と深まることを期待しているようで、他はどうでもかまわない。

 それでも逃げてはいけないはずだ。俄仕立ての言葉が連なり、それが何を意味するのかこれから考えている。何かの間に合わせが連続しているだけか。そこから遠ざかるだけ遠ざかるのもいいが、いくら逃走を企ててもきりがない。でもそこに居直っているわけにもいかないようだ。遠ざかっている隙を突いて、心にうぬぼれが入り込み、ますます抽象的な思い込みを巡らして、世の中から遊離してしまう。そうやって人は時代の中に埋め込まれ、歴史的な制約を受けることになる。普遍性など望むべくもなく、見えている目の前の事物を軽んじて、理論や思想に魅了され、それを妄信しながら、そこからもたらされたつかの間の幸福にうつつを抜かす。そういう成り行きが目に見えていながら、わざとらしく盲目を装い、たわいない気休めの戯れ事に夢中となり、ますますこの世の栄華を極めたつもりになるわけか。今がそんな状況だろうか。誰もが内心破滅が近づいていることに気づいているのではないか。しかもその破滅も難なく乗り切れると信じている。信じる者は救われ、やがて真の平和と繁栄を謳歌できるだろう。冗談で述べるならば、そうなって当然かもしれず、冗談でなければそんなわけにはいきそうもない。何を予言しようとしているのでもなく、それらのどこに未来への提言があるわけでもない。ただ言葉が連なり、何か述べているような気にさせるが、どこかで通り過ぎているのだろう。途中で道順を間違え、抜け道を見落として、気がつけばわけのわからない迷路のただ中か。今さらカーナビをセットしても後の祭りか。君はいつも手遅れになってから気づくらしい。少し調子に乗って語りすぎたのかもしれない。具体的なことは何も語ろうとしないで、言葉のあやばかり追いかけているからそうなってしまうのか。それにしても虚しい内容だ。何の救いもありはせず、ありきたりなことをこれでもかと詰め込み、それを膨らませるだけ膨らまして、収拾がつかなくなったらそこでおしまいだ。

 もっと軽くてしなやかな事の成り行きを想像しながら、文章上でそれの生成を期待していたようだが、いつまで経ってもあやふやでおぼろげなままにとどまり、そのままでは具体的な事物を構成できず、またそんな嘘も苦し紛れに思われ、どこかの見知らぬ空洞で、あての外れた思惑が虚しくこだましているとしか思えないようだが、それもたわいのない空想のたぐいになるだろうか。ここまで来たらそれを確かめなければならないが、いつまでもそんな嘘をついている場合ではなく、何とかそこからまともな言説を導き出さなければならず、それを目指して言葉を連ねているはずで、どうせ途中であきらめてしまうのかもしれないが、やれるところまではやるしかないらしい。何も見えていないわけではなく、それらの語りに可能性を見出し、一応はそれに賭けているふりをしなければならないか。また冗談のような展開になってきたようで、そこからわざと外れてでたらめに身をまかせ、どこか想像の彼方へと吹っ飛んでいきそうになるのをかろうじて押さえ込み、何とか事なきを得た気になっているようだが、現実には何もないのに、そこへとどまり続けているばかりで、ただ我慢に我慢を重ね、何かが出てくるのをじっと待ち続け、ひたすら画面を睨みつけているようだが、そもそもそんなことをやっているのが間違いで、さっさと切り上げ、何か別方面に働きかける必要を感じているはずで、今こそそれを実行に移す時かもしれないが、愚図で面倒くさがりなので、できるはずもなく、さらにそんな動作を続け、まるでそこから何かの超能力が生まれてくるような、そんな幻想を抱くに至るが、たぶんそんなこともなく、次第に焦燥感が漂い始め、ついには我慢ができなくなって、どこか別に場所へと移動し、そこであてもなく彷徨い、突き当たるものがあればそれにすがり、何も突き当たらなければ、惨めな敗北感に打ちのめされたりするのかもしれず、そんな未来の姿が目に浮かんで、今からみすぼらしい末路を想像しながら、危機感を抱いているのか。そうならないことを祈るしかないか。でも祈ってばかりいても何の解決にもならないだろう。何がどうなろうと何をどうしようと、解決などするわけがないか。


10月15日

 あり得ない空想だ。架空の書物を夢の中で読んでいる。そして何かの危険を感じ取ったのか、まだ夢が終わっていないのに、強引に目を覚まして、そんな夢などなかったことにしたいらしい。それはまるでとってつけたような終わり方か。本当は何を読んでいたのか。覚えていないわけではないが、そんなことを探る前にやるべきことがありそうだ。それらの記述への理解を優先させるべきか。あるいはまたそんな嘘をついて、それに呼応して起きる何かの出現を阻止すべきか。本当は何も読んでいなかったのかもしれず、読むふりをしていただけで、そんなことは上の空だったのかもしれず、本当は他のことを考えていたのではなかったか。そんなはずがないと思い込み、夢自体を理解できないだけなのかもしれず、無理に理解する必要もないのだろうが、何となく今は思考がそこから遠ざかりつつあり、どんどん夢の内容を忘れていってしまいそうだ。わざとそうしているわけではあるまいが、そんなふうにしてありもしない空想を語り継ぐ行為そのものが、何かをやり遂げようとする意志をねじ曲げ、途中でくだらぬ脇道に入り込み、そこで自ずから形成された迷路の中で、行ったり来たりを繰り返す羽目になりそうだが、まだいくらでもやり直せるだろうか。そんな悪夢にうなされているつもりになって、不意に飛び起きてみるが、わざとらしくなって、そんなやりもしないことを記す行為に嫌気がさしているみたいだが、本当は何を空想しているのか。それ自体が空想そのものなのかもしれず、その場の気まぐれにつけ込んでそんなことを語っているらしいが、話の中身がない。こんなていたらくでは使命を忘れて当然か。ところで使命とは何か。

 それが何を意味するわけでもない。そうだとすればそれも架空の何かになりそうだ。何でもないのだろう。何か目的があるように見せかけたいのか。でもいったい誰に向かって見せかけたいのか。自分自身にか。忘れていることを思い出してほしいのか。そうではないようだ。まだそこまで語っていないのではないか。そこまで語ってからでないと使命を受け取れないのではないか。しかし誰から使命をもらうのか。そういう話ではないような気がするが、もとから何もないのだとすれば、そこで使命の一つや二つ受け取って、何かもっともらしいことをやってみたい気もするが、そういう作り話自体が退屈でつまらなそうだ。そんなありもしない話を語る準備さえできていないのかもしれない。ではなぜ唐突にそんなことを語り始めたのか。冗談の続きだからか。本質的には何を語っているわけではないのだから、それもありかもしれない。でもその後が続かない。冗談のついでにそれはないだろうか。夢の続きはどうなったのか。何も蒸し返されずにそれで終わりだろうか。振り返りながら考えてみよう。酒に溺れているわけではないし、海や川で溺れているわけでもなく、煙草を吸っているわけではないから、肺癌に罹っているわけでもないらしいが、胃が痛いから胃がんかもしれない。妄想だろうか。胃痛胸焼けに市販の胃薬でも服用すれば治るか。だが問題はそんなことではないらしい。また冗談のつもりでそんなことを述べているのかもしれない。問題がないことが問題なのか。またそんな安易な展開にもっていこうとしてしまうが、いったい何が問題なのだろうか。そこから逃げようとして逃げられないことに気づいたのだろうか。強迫的な記述衝動から逃れられず、否応なくそんなことを記しているわけか。でもそんな解釈を誰が信じるだろう。またいい加減なことを述べているようだ。

 不意に思いついたことがそれでは身もふたもないか。それにしても何だか視界不良のようだ。この明るさと暗さの違いは何なのか。洞窟の外と中ではないが、狭い範囲内での視野しか保てず、くだらないことを延々と記してしまう危険性があり、それだけで時間を無駄に費やし、何もできないまま終わってしまうかもしれない。でも終わるということはどういうことなのか。誰が終わりを恐れているのだろう。君は自分のやり方に気づいている。何もかもがぼやけて見えるはずもないのだろうが、毎度ながらの逸脱と冗談のようなやり方に困惑しているようで、動揺してしまって何も手につかない。でも内心そんなはずもないと高をくくっているのだろう。実際はそういうことになり、一時的に外れていた意識を探し出し、つかんできて無理矢理頭の中へ詰め直し、それで何か思考せよとのお告げらしいが、そんな都合良く事態が進行するとも思えず、また誰かが困り果ててしまうのだろうか。思わぬ展開に呆気にとられているのではないか。それほどのことでもないだろう。ここからが腕の見せ所か。見せるような腕でもないが、何かのカラクリがあるとかそういう話でもないようで、至って正直に何かを告白しているようで、その何かが何でもないのはいつものことであり、無闇矢鱈と考えを巡らし、言葉と言葉をつなげ、文章を構成しようとしているわけだ。そしてそれは無理だが無理もない。無理なのに何か思いつこうとする。その何かとは虚無のことか。ニヒリズムに汚染されているのだろうか。でもそれにしてはそれに付随する形式も理論も導き出せない。不意にそんなことを思いつくはずもなく、何か思惑があってそんなことを語ろうとしているのでもないようだ。見たまま思ったままでしかなく、この世界から逃げられない理由がそうなのかもしれないが、結果は結果であり、何もない原因からどんな結果が導かれるとも思えず、もとから何もなければ結果も何もないということになるだろうか。


10月14日

 どこからともなく声が聞こえてくる。耳鳴りか何かだろうか。煙草を吸い過ぎると肺癌になる。なるほどをそれを地で行っている人がいる。食道がんの手術をして十年後ぐらいに肺癌の手術をして、一年後ぐらいに死んでしまったのか。食道がんの十年前には十二指腸潰瘍になっている。他人の年譜を見ていると気づくことでもあるのか。でも人はその程度のものだ。みんな疲れる生き方をしているようだ。みんなではないだろう。相変わらず君は誰でもないらしい。何も語れないままに無為な時間を過ごし、あてもないまま街に彷徨い出る。それを部屋の中で空想しているのだろう。話題も何もありはしないか。人は簡単に死に、生き残る人は執拗に生き残る。でも大半の人たちは普通に生き、普通に死ぬのだろう。その普通に何の意味があるのか。他に意味などありはせず、それはただの普通だ。そこから何も導き出せずに困ってしまうのだろうか。誰が困るわけでもない。誰も困らないから普通なのではないか。無駄に過ぎ去った年月を思うとため息が出る。それは無駄ではなかったのだろうか。どちらともいえず、何とも言えないようだ。精神的に参っているのかもしれず、冗談も言えなくなって、ふさぎ込み、それからどうしたのか。たぶんどうもしなかったのだろう。あくびが出て、居眠りをしているようで、胃の痛みに耐えているらしく、何も考えられなくなる。それから言葉を記している。何の変哲もない一日だ。そこで何を主張することもなく、ただ時間だけが過ぎ去ってゆき、誰かが書物を読んでいるらしい。勝手気ままな何かを目指しているのだろうか。何かとは何か。何不自由なく暮らせたらいいと思う。そんな願望を抱きながらもあくびが止まらない。眠くなってしまう。

 また心の中で疑念が生じている。そこには何もない。運命が誰を待ち伏せているのでもない。中途半端なことはやめた方がいい。何をやっているのでもないのにそう思う。誰がそう思うのだろう。疑念が疑念を呼んでいるのではないらしい。たぶんそれが待ち受けていた運命なのだ。現実には何もないではないか。まだ何が決したわけでもない。何も決められずにここまで来たはずだ。でも猶予などもとからなく、すべてが待ったなしの状況か。常にそうだったのかもしれない。余裕が感じられない。そこからまた逃げようとしているのか。いくら逃げても何も思いつきはしない。でも何か思いつこうとして逃げているのでもない。誰もこの地球から逃げられないはずか。火星に移住する計画もあるのではないか。それは何かの冗談だろうか。実現するかどうかはともかく、実際に人員を募集しているはずだ。そんなことが何かが変わる契機にでもなるのだろうか。それで何が変わるというのか。この地上の誰が予言者でもない。未来を見通すつもりもないらしい。君は占い師にでもなりたいのか。占い師と詐欺師の違いは何なのか。名称が異なるから違いがあるのかもしれない。要するに何でもないならず者は、何か別の呼び名で呼ばれたいわけか。いったい誰が呼んでくれるのだろう。言葉で構成された虚構の中で、誰かが予言者となり、また他の誰かが占い師となり、何か神話的な物語でも語り継ぐことになるのだろうか。しかし誰がそれを想像しているのだろう。物語も何も一向に語られようとしない。魔法は漫画の中でその効力を発揮して、読者の心をわしづかみにするわけでもなく、君がそれを読んでいるわけでもなく、彼が何を読ませようとしているのでもない。他に何があるわけでもないだろう。

 しかしそれから彼はどうなったのか。また書店へ向かい、本でも買って読んでいるのだろうか。そんな話ではつまらないか。今さらありもしない話をねつ造するわけにもいかず、誰かが部屋の中で言葉を記している画面を覗き込み、感慨深げにそれを読んでいるようだ。それは過去の出来事なのだろうか。雑に考える。さらにいい加減なことを記してしまうが、それが何になるのか。文章として画面上に構成されるらしい。それが空疎な言葉の連なりとなり、君を動揺させるのか。いったい何を考えているのか。しばらく前から虚脱状態か。試行錯誤の手探り状態なのかもしれない。そしてそんなことを思っているうちに、どこからともなくまた声が聞こえてくる。今度は聞き取れただろうか。彼は君に何を語りかけているのか。たぶん何かのきっかけがほしいのだろう。それはまかり間違えばやめるきっかけになるかもしれないが、危険を冒さないと得るものはないということかも知れず、状況によってそれは当然のことなのだろう。でも現状を考えると、たぶん本気でそう思っているわけではなく、将来に向けての漠然とした恐れと、その場限りの妥協の産物からそう聞こえてしまうのかもしれない。しかし妥協の産物とは何なのか。まさかもう双六のあがりが間近に迫っているのだろうか。だがそこで賽を振っているのは誰なのか。不意にそんなことを脈絡もなく思いついたつもりが、案外そのたとえが実態を反映しているような気がして、怖くなってくるが、どうせ苦し紛れの何かなのだろう。そしてまた何かが何なのかわからないまま、その先へと歩を進めようとして、前方に立ちはだかる架空の障害物と誰かが格闘しているわけか。ただ君は見物するばかりのようだが、それ以外の方法を編み出せず、そんな表現にとどまるしかないらしい。今日は語りが雑すぎるような気もしてくるが、もはや限界なのだろうか。


10月13日

 何だか間違っているように思われ、修正してしまう。でも正しい語り方を知らない。とりあえずニュース的な話題には簡単に触れておけばいいのかもしれない。あまり深く考えないことが肝心か。流されるままに流され、ありきたりな感想でも述べておけば事足りるようだ。考えてみれば知性など不要な世界だ。考える必要さえないのかもしれない。考えれば考えるほど、その考えは問題となっている事柄に対して、賛成か反対かの偽りの二項対立に回収されてしまう。でもそんなことは昔からわかっていたはずだ。そうならないように考えを巡らしてきたのではなかったか。だがそこで何を考えていたのか。今となっては思い出せない。そうならないように、今のうちに布石を打っておくべきだ。またいい加減なことを述べようとしている。行く手に様々な困難が待ち受けているようで、ある時はそれが君を圧倒し、行く手を遮り、一歩も前に進めないようにしてしまう。そう思われてしまうだけで、具体的に何がどうしたわけでもないのだろうが、相変わらず抽象的な何かに行く手を阻まれている。もう前に進もうとしなくてもかまわないのではないか。やっているのは無益な努力ばかりで、何の実りももたらしはしない。そんなふうに思われてしまうこと自体が、それらの行為の欠陥を物語っているのであり、いつまでもそんなことにこだわっているべきではない。それはそうだろうが、それ以外に何ができるというのか。

 相変わらずの強がりから生じる居直りに押し出され、さらに困惑の度を深め、どこか狭い場所へと追い込まれてしまう。そういうやり方がすっかり板についている。それはかまぼこか何かか。場所などありはしない。でも場所がないから語り損ねているわけではない。では何なのか。また語り得ないことを語ろうとしているのか。たぶんそうなるしかなさそうだ。何も思い浮かばず、それを利用して虚無について語ろうとしているが、不可能かもしれない。でも今まさに問題となっているのはそういうことなのではないか。それは嘘か。嘘でなければ何なのか。たぶんそう述べて、ありふれた現状を変えようとしているのだろう。でたらめのでまかせなのかもしれないが、今はそう思っている。君には使命が与えられていないのだ。やるべきことがない。それを承知でやろうとしているのだから、おめでたい話か。冗談みたいだ。そんなことを思っているうちに、不意に何か別の世界に迷い込んだような気になるが、気のせいだったらしい。背後に気配を感じて振り返ってみても、誰がいるわけでもなく、虚無的な雰囲気に包まれたまま、何もない空っぽの空間が目の前に迫り上がってくるようなこともないはずだ。すべては幻想か。だがすでにそんなことを語っているらしい。他に何も想像できないからそうなってしまうのか。やはり冗談のたぐいか。どうもすっきりしない。何か引っかかるものを感じているようで、自らの過ちを真正面から受け止められず、どこかに怯えを感じている。また逃げてしまうのか。

 わかっているのにそうなってしまう原因は何だろう。わかりもしないのにそう述べて、何かわかっているような気になりたいのか。でもそう述べるしかなく、少しはわかっていることを明らかにしたいようだ。ではすべての可能性が絶たれた後に今があるわけか。でもその可能性とは何だったのか。思いつくままに振り返ってみる必要がありそうだが、それも冗談のたぐいなのか。まともに受け取られない雰囲気がある。どうも本気になれず、何だか告白の罠にはまっているような気がして、何でもかんでも罠だと感じるのはおかしいが、そう述べながら、そこから遠ざかりたいみたいだ。嫌なのか。別に試練であるわけがない。そのへんで思考停止のブレーキがかかり、それ以上は考えられなくなって、あきらめざるを得なくなってしまう。何を語っているのでもないのだろう。何だかよくわからないが、それも何かの成り行きなのかもしれず、それに逆らって考えようとしても、すぐに方向をずらされ、気がつけばどうでもいいようなことを述べているようで、やはり冗談のように思われる。たぶん話になっていない。冗談でしかないのだろう。どうやら物語からも見放されてしまったらしく、意識はどこで彷徨えばいいのかもわからず、部屋の隅でうろたえるばかりのようだが、それが何を示しているとも思えず、たぶん強迫神経症なのではないか。常に何かを記さなければならないという願望に取り憑かれ、そこにとどまろうとするあまり、身動きが取れなくなり、他に何も思い浮かばなくなってしまったのではないか。

 しかしこれは何なのか。どんどんわけのわからないを語っているような気がして、怖くなってくるが、どうしてもこういう方向へと導かれてしまうらしく、どう見てもまともな内容とはなり難い。要するに他に語ることがないからこうなってしまうのか。たぶん心の中で何かを禁じているのだろう。それを語ればいいのに、無理をして語ろうとしないからこうなってしまい、そんなどつぼにはまっているような気になり、自業自得のような気もしないではない。たぶんそれが原因で心身共に不調なのだろう。ではもっとふざけるべきなのか。でもいくらふざけたことを述べても虚しいばかりなのではないか。だから冗談となり、自己嫌悪に陥り、何も語れなくなってしまう。そんな悪循環にはまりながらも、どうにかこうにか平静を保っていられるのはなぜだろう。やはり希望を捨てていないからなのか。しかしその希望が何だかわからない。いったい君は何を望んでいるのか。確かパンドラの箱の中で最後に残っていたのが希望だったとされるが、それとこれとは関係ないのはもちろんのこと、何か考えようとすると、とたんに違った方向へとずれていってしまい、考えることを妨害し、それをやめさせようとする意志が働いているのに、もはや希望も何もあったものではないような気がするのだが、それでも希望を捨てられないのはどうしたことか。だから自業自得なのだろうか。何がそうなのだろうか。たぶん何も告白させられていないということか。自らが自らについて語れるわけがなく、語っているのは常に他の誰かについてであり、そこからはどんなリアリティも得られず、ただ語っているという錯覚を信じ込んでいるだけなのか。

 それで何がわかるのだろう。君がいつも嘘をついていることに気づかされるのだろうか。だから語りに行き詰まるのも無理はないということになりはしないか。何の問題もないのも困りものだろうか。考えてみれば問題などいくらでもありそうだが、考えがそこまで行き着かないうちにずれてしまうのだから、それが問題といえば問題かもしれない。もしかしたら行き着いてしまったらヤバいのかもしれない。だから無意識のうちに行き着かないように操作してしまうのかもしれず、それで何とか決定的な破綻に至らないようにして、何とか正気を維持しているわけなのか。しかしそうすることで被っているのがこの状況だ。虚無的で空疎でわけがわからない。それを変えるにはどうしたらいいのだろう。変えたら本当に決定的な破綻へと行き着いてしまうのかもしれず、やはりそれは避けなければならないことだろうか。たぶん人はそうならないように、何か他の物事に気をとられているのであり、そこへ向かう力を逸らせて、なるべく他のことに興味を持つように心がけているのかもしれず、それが仕事であったり娯楽であったり家庭生活であったりするのではないか。いったんそこを離れてしまうと、目の前には無人の荒野が広がっているだけで、何もやりようがなくなってしまい、ただ呆然とそこで立ちすくむばかりとなってしまうのではないか。だからそうならないようにしなければならない。でもそれをまともに信じているわけではない。どうせ冗談のたぐいだと思っているのだろう。本気になれるわけがないか。そんなわけでどうも君は何か一つのことに打ち込む姿勢に欠けているようだが、またそんな嘘をつきながら、今度は何を蒸し返そうとしているのか。


10月12日

 問題をねつ造する気になれない。読んだ書物に影響されている。戦略が欠けているようだ。今さら気づいても後の祭りか。でも実際には何に気づいたわけでもなく、ただ戦略が欠けているような気がしているだけで、それは何をやるための戦略でもなく、戦略という言葉自体が目標を失い、宙に浮いている感じだ。いつもの意味不明だろうか。また逃げるのか。まさかそう語ってしまうのが君独自の戦略なのだろうか。意味がわからないだけで、わかりようがないことを語ろうとしている。でもそれはわかっているつもりになればいいことで、さもないとまた堂々巡りになってしまう。わざとそうしているのではないか。そんなはずがない。そう思っておけばよさそうだ。他に何があるわけでもない。後は他人の言葉で他人のことを語っているだけか。自分などあり得ないのではないか。でもそれはどういう意味で述べていることなのか。完全に言葉の罠にはまっているのかもしれない。しかし罠とは何か。不意に視界が開けて、どこか見たこともない光景に出くわすとも思えないが、とりあえず出かけてみなければわからないだろう。それでも何かそこで問題を見出せるだろうか。問題がないと答えられないのか。それは当然のことだ。しかし問題とは何だろう。そんな問いを発すること自体が問題なのか。どうも今日は堂々巡りばかりのようだ。

 何かがどんどん外れていってしまう。いったん外れてしまうと、元に戻せない。そんなわけで変化が生じるのかもしれない。正しい行いはどこまでも正しいのかもしれないが、魅力を感じられず、間違ったやり方で間違ったことをやろうとする。ひねくれているのだろうか。それが自然な成り行きなのではないか。見出せるものは何もなく、それは問題ですらない。そんな光景に出くわしても何も感じないのだろうか。いったい君は何を眺めているのか。そこには何もなく、あるのは空疎な言葉ばかりのようだ。それが記されているのだから、今はその連なりを読むしかないだろう。でも読んでどうするのか。それが何かの役に立つのだろうか。功利主義ではだめか。でも他に何があるというのか。だから問題ではない。何の問題もありはせず、ただそれを読めばいい。読んで理解する必要もない。君はそれらの書物を延々と読み続け、読むほどに時間を浪費する。それが罠だと思うわけか。勘違いも甚だしい。でも何だかそれでもかまわないような気もしてくる。読みたければ気が済むまで読めばいい。ひたすら読み続ければ、世間から見捨てられた気分になるのではないか。それはどんな気分なのか。読む書物がなくなれば、書店に行って買ってくればいいか。実際そうしているのではないか。ここ1カ月ですでにハードカバーの書物を四冊買い、ソフトカバーの本も一冊購入しているはずだ。しかし読めば読むほど、何も語れなくなってしまう印象が増してゆくのはどうしたことか。やはり読んだ書物に影響されているのだろうか。

 でもなぜ何も語れなくなってしまうのか。時事問題についておもしろおかしく語るのが、馬鹿げたことにように思われてしまうのはどうしたわけか。そうしていること自体が、メディアの罠にはまっている証拠か。しかし書物を読めば書物の罠にはまり、ニュースネタから文章を構築しようとすれば、メディアの罠にはまったことになるとすれば、では何を基にして語ればいいのか。何もありはしない。そう思われてしまうのは当然のことか。君はチャンスをみすみす逃している。それが何の機会なのか判然としないが、とにかくそんな印象を拭えず、焦りに焦って、苦し紛れの苦渋の選択とやらに追い込まれているわけか。でも結局何も選ばず、目下のところは空疎な語りに終始しているみたいで、それでかまわないとすら思われ、だんだんやる気を失いつつあるみたいだ。それも嘘も方便とはいかないか。それの何が方便とも思えない。でも本当はそこには何もなく、機会も選択もあり得ず、ただなるようにしかならない成り行きの中で、何かの拍子に何かを選ぶ機会が訪れたような錯覚に陥っているだけではないのか。しかしその何かとは何なのか。毎度のことながらその何かに具体的な事柄や事物を当てはめられずにいるようだ。ただぼんやりと得体の知れぬ気配を感じ取っているようにも思われ、それにつられて何か語ろうとしているのだろうが、要領を得ない語りとなり、そのつかみ所のない気配が何なのか、うまく言い表せないらしく、語りそのものが鬱陶しい霧か靄に包まれているように感じられてしまう。

 それでもわかっていることはわかっている。すべては君の問題ではなく、ニュースなどで語られているのは他人の問題だ。他人の言葉で他人の問題が語られていて、君自身の問題でもないことを問題として取り上げることが、そもそも間違っているのではないか。でも他人の問題を語らなければ話にならないだろう。他人の問題を他人の問題として君が語ればいいわけか。余計なお世話か。そういうことになってしまいそうだ。君自身が架空の存在なのだから、現実に生じている問題は君とは無関係だ。でもそんなことがあり得るだろうか。架空の存在が書店で本を購入するのか。その書店も本も架空の存在なのか。では何が現実に起きていることなのか。ニュースで語られている話題がそうか。何だかややこしい場所に迷い込んでしまったようだ。できればそんなことはうやむやにしておきたい。面倒くさいのはごめんか。その方面で律儀に語ってゆくと、だんだん疲れてきそうで、考えを巡らすのが嫌になり、投げやりな気分となりそうだ。要するに面倒くさいことは語りたくないのだろう。だから早くここから脱出しなければならない。脱出できればの話だが、もしかしたらそれも君とは無関係の問題か。だとすればどうすればいいのか。そこから外れていけばいいというわけか。そんなわけで毎度おなじみの虚脱状態となり、ますますやる気を失い、何を語ればいいのかわからなくなり、嫌になってきてしまうだろうか。もはや独りよがりの自滅状態か。それでもかまわないといえばかまわず、何かを徹底的にやり抜く気概に欠けていて、中途半端なところで妥協してしまう癖が直らず、見ての通り読んでの通りの惨状を呈している。

 またどこかへ押し流されてしまうみたいだ。押し流されていった先には何もない。そんな作り話を語ろうとしているのか。葦の茂みを抜けると、河川敷に出た。そこで君は何を思い出そうとしているのか。川を渡る鉄橋を眺めながら、おかしな気分となり、何もかもが冗談のように思われてきて、遠い日の定かでない出会いを思い出すが、誰と会ったまでは思い出せず、それを語り得ないことに気づき、忘れ得ない人々にさえなれない誰かを放置したまま、さらに過去へ未来へと押し流されていってしまうような気になる。時の流れに押し流されているのだろうか。そこでじっとしていれば、また何かに巡り会えるだろうか。永遠に訪れない機会が巡ってくるのを待つつもりか。それは無駄で無意味なことだ。すべてから遠ざかり、現実の世界からも遠ざかり、そこで何かに挫折しているようだが、大したことではなく、些細なことであり、すぐにそれが何のことやら定かでなくなるのかもしれず、期待は期待として、未来のためにとっておきたいのだろうが、ではそこで何が尽きているのかわかるはずもなく、やる気も気力も尽きていることになるのかもしれないが、やはりそんなことはどうでもいいのか。たぶんそこに何らかの希望があるのだろうし、君も君でそれ以上は求めていないのだろう。そして何を語っているのかわからないことに気づくが、それもどうでもいいことの延長上にあるようで、確か誰かが雨上がりの増水した川で溺れたのかもしれないが、それはニュースで見た記憶かもしれない。夏の間には川で溺れた人などいくらでもいるはずだ。


10月11日

 まだどこかでひっかかっているのだろうか。心はここにあると思う。勘違いでなければそうだ。わけのわからない力が働いて、どこか遠くへ弾き飛ばされ、行方知れずになってしまったわけではない。見上げれば空気が渦を巻いている。夢の中でのことか。そんな画像を眺めながら、そんなことを思いつくが、そんなこととはこんなことらしい。どんなことでもなく、それを空想しているのだろう。では何に反発しているのか。このままでいられるわけがない。いったん外れてしまえばこんな有様だ。体制への帰属意識が薄れて、すべてがリセットされ、元の状態を思い浮かべることが困難となり、そのままどこかへ押し流されてしまい、たどり着いた場所がここだった。だから今ここにいるのかもしれない。それは疑いようのない事実か。事実だとしてもそれがどうしたわけでもなく、ただここにいるだけのことか。それでは話にならないだろう。相変わらず振り出しに戻りつつある。気がつけば後戻りばかりしているようだ。そんなことはないと思わずにいられないが、過去の書物ばかり読み漁り、そこから何かのヒントを得ようとしているみたいだが、一向に見つからず、逆に今までの読みが雑でいい加減であったことに気づかされ、読んだと思い込んでいた自らの愚かさを反省するばかりのようだ。

 また心にもないことを語ろうとして、それにのめり込んでいるわけでもないのに、そこから遠ざかれるわけでもないことを確信する。なぜその程度なのか。感覚の鋭さに欠けているようだが、そんなことではないのは百も承知だ。ぼやぼやしていると通り過ぎてしまう。それは毎度のパターンかもしれないが、いつまでもそのままではいられない。何とか行き詰まりを克服して、その先へと進まなければ、もう後がないのではないか。そんな危機感を知ってか知らずか、少しはやる気になってきたのか。だまされてはいけない。誰をだますつもりもないのかもしれないが、少なくとも君はだまされているようで、自らがやる気になっていると思い込み、必死になって言葉を記しているつもりか。つもりではだめか。でももう十分に語り尽くしてしまったようにも思われ、そこに限界があり、それ以上は語ろうとしても語れない領域にさしかかっているのではないか。限界を超えることは不可能か。そう思ってしまえばおしまいだ。思っていないから続いている。それは違うだろうか。何も打開できていないように思われる。今日はそう思っていても明日は違うのではないか。

 相変わらず何かの逡巡に巻き込まれているようで、同じような言葉が繰り返し記されているだけで、何も語り尽くされていないことに気づく。同じ場所でぐるぐると堂々巡りしているだけか。その悪循環から逃れられず、またもや轍にはまり、どこかのくぼみに落ち込んで、そこからなかなか出られずにいるらしい。そしていつものようにいつもの成り行きにはまり、そこで苦しんでいる。それは乗り越えられるような何かではなく、避けて通ることもできないようで、その遥か手前で立ち止まり、どうしたものかと考えあぐねているようだが、妙案など思い浮かぶはずもなく、黙ってその場から退散したくなるが、かろうじて踏みとどまっているようにも感じられ、ただそんなことが記されている画面を眺めながら、ひたすら黙り続け、そうでもしない限りは正気を保てないような気分となり、たぶんそこから冗談を繰り出しながら、横へ横へとずれていってしまうのかもしれない。それで何とか切り抜けた気になるのだろうか。それは印象に違いなく、本当はどうでもいいのだろうが、そんな印象に寄りかかりながら、実質的には退散していることになるのに、物語としては、虚無を前にして、かろうじてそこにとどまり続けたように見せかけたいのかもしれず、それの何が物語なのか知らないが、それをごまかしきれていないことを忘れようとして、さらにだらだらと無用な言葉を付け足してしまうのだろう。だがそれで何を述べていることになるのか。

 ネット上で何を探ってみても、真っ当な結論は出てこない。その代わりに出てくるのは、何ら信憑性の感じられない何かの断片ばかりで、その断片から断片へと辿っていっても、一向に目当ての何かに突き当たることはなく、そんな行為を続けているうちに、気がつけば当初の何かからだいぶ離れているように思われてきて、それらの探求を断念せざるを得なくなり、その後はなく、今はもう忘却へと導かれ、いったん忘れ去った方が身のためのようにも思われ、現にそうしている最中なのかもしれず、たぶんこうしてすべては水泡に帰す運命なのだろう。そんな馬鹿なことがあったものではないか。ところで今は何を語っている最中なのだろうか。ふと我に返っても、何のことやらさっぱりわからず、状況をまったく把握できず、理解できていないのではないか。人はなぜ物語るのか。物語りつつも、そんな物語からもたらされた幻想の中で安住していたいのか。意味も意義も定かでない行為に魅了されて、そこから出られなくなっているのだろうか。そうであったとしても、その先を知りたくなってくる。話はどこまでも続き、決して終わることはなく、終わる前に飽きてしまうか消耗してしまい、終われぬまま終わってしまうのだろうか。語り終えることができなくなって、それらの物語は放棄され、語り継ぐ者が不在のまま、忘れ去られてしまい、また一から出直し状態となる。それでももうすでにだいぶ語ってきたはずだが、まだその先があるのだろうか。あるとしても大した内容ではなさそうだ。

 とりあえず何かの糧になると思い、書物を読み続けるような成り行きになりつつあり、今さらどうということはないのだろうが、それがどうしたわけでもなく、軽い気持ちでそんな行為を選んでしまい、後から悔やんでも何も始まらないようにも思われるが、それはそれで納得しなければならないらしい。どう考えてもこのまま逃げ切れるとは思えない。といっても何から逃げようとしているのでもなく、自らの運命や宿命から逃げようとしているのだとしたら、それは不可能なのかもしれず、あり得ないことであり、それこそが運命であり宿命なのだから、意味不明もいいところだ。ともかく今のうちに少しでも多くの書物を読んで、文章読解力を高めておいた方がいいような気もしてくるが、果たしてそれで読解力が高まるかどうかは、やってみなければわからない。さらに冗談のようになってしまう危険性もなきにしもあらずだが、本当に君はそんなことを思っているのだろうか。唐突にそれは終わってしまい、無駄な努力となりはしまいか。そんな心配も本気で思っているのかどうか定かでない。人はその気になれば何でもやり、切羽詰まって追いつめられると善悪の見境がつかなくなって、凶暴な野獣と化したりするらしく、その手の事件は決まってそういう経過を辿り、メディアによってセンセーショナルに報じられてしまう。だからなるべくなら、その気にならないようがいいようにも思われ、それとこれとは無関係だろうが、やっていることはたわいなくても、とりあえずその程度にとどめておきたくなる。

 それにしてもなぜ人はそれほどまでに語ろうとするのか。それはほとんど狂気の沙汰のように思われ、語りたくもないのに、語り得ないことまで語ろうとして、語ることに躓き、挫折してから後悔するのかもしれない。語り得ないことは語り得ない。そんなことはわかっているのに、決まってそこへ向かって語り続ける。それほど大した内容でもないのだろうが、何となくそう思われ、そんなふうに語ってしまうこと自体が、何だかおかしくてたまらないようだ。それにしても何を語っているつもりなのか。関係のない何かと何かを無理につなぎ合わせて、強引に語りを継続しているように装いたいのかもしれないが、とても話の前後でつながっているようには思えず、意味不明がばればれで、かえってそれが開き直るきっかけとなり、さらにその後に続いているみたいで、そういうやり方で押し通してしまいそうになってくる。それでもまだ余裕があるのだろうか。そのつもりでそんなことを語っているのかもしれない。いくらでもそうなってしかるべきのような成り行きとはなり難いが、やはりまだそこで踏みとどまっているのかもしれず、強引なことはやるまいと心に決めているにもかかわらず、結果的にそうなっているのだとすれば、それはそれで仕方のないことか。そんなわけでまた長々と無駄に言葉を記してしまったようだが、相変わらず何について語っているとも思えず、語りたいのに語れないジレンマから脱することもできずに、この辺でいったんおしまいになりそうな気配が漂ってきたが、冗談にもほどがあるだろうか。そのつもりもないのにそんなことを記しながら、どうしたらいいものか悩む毎日か。


10月10日

 何をもってしても動きようがない。心が固まったままか。でもそれがすべてではない。不思議な気分だ。ここからなのだろう。何も始まらないうちにここから語る。凍てついた大地に何が降り注いでいるのだろう。それは空想の世界で起こっていることだ。何を問われるまでもなく、意識はここにあり、この世界で何か思い、それからどうしたのか。何も問われていないのが気に入らないわけか。問われることはないだろう。何か問われていないと気が変になりそうだ。時にはそんな嘘もついてみるが、一向に良くなる気配を感じられず、何も成し遂げられないまま、ここに至り、相変わらず途方に暮れているようだ。ぼんやりした気分で何を考えているのか。義憤に駆られた不自然な試行錯誤も、時の経過とともに自然と融解してしまったらしく、今はどちらを向いているのでもないようだ。そのどちらがどちらとどちらなのか定かでないが、それで心が固まったままとも思えず、何かしら考えているようで、そちらの方へ意識も移動し始めているのかもしれない。でも今日はこのままで終わりかもしれず、思索はどこへも至らずに宙づり状態となるだろう。

 でもそれはおかしいのではないか。引っかかるものを感じ、それでは済まないような気になり、さらに思索を続け、何だかわからないなりにも、結論めいた断言を導き出すような雰囲気を感じている。村上隆のアートを眺めて何を思うだろうか。批判めいた文章の数々を読むが、何も残らないようだ。草間彌生と岡本太郎と村上隆の違いは何なのか。それらの文章からは草間だけが正当に評価されているように思える。しかし岡本太郎といえば太陽の塔だが、画像を眺めてみても何だかわからない。埴輪か土偶の真似だろうか。とりあえず何だかわからないからありがたがられているのか。あの大きさでは取り壊す気にもならないか。所々にダイナマイトでも仕掛けて爆発させれば、芸術は爆発だ!ということになるのか。若い頃の彼は留学先のパリで何をやっていたのか。ピカソのゲルニカを真似た絵や壁画もあったはずだが、ゲルニカと同じように見ても感動しないだろう。でも彼らはそれを見て感動したのかもしれない。では岡本や村上と違って、草間のアートは独創的なのだろうか。独創的の一言で芸術を評価するのも雑すぎるか。君には芸術はわからない。君とは違う感覚を持ち合わせた誰かが、どこかでそれらの芸術作品を評価しているのかもしれない。

 そんなことを述べていると、何か通常の感覚に狂いが生じているみたいに思われてくるが、きっとそれは気のせいだろう。でもそこで何と何が違っているわけでもなく、ネット上に記された文章を読んでいるだけで、君は君で、それとは無関係な場所で言葉を記しているわけか。焦れているのだろうか。いつでもどこでも冗談の積み重ねとなってるのは、問われるまでもないことだ。そこから急いで身を引きはがし、別の空間へと彷徨い出たいが、あいにく現実のとりとめのない何かが邪魔をしていて、そこで身動きが取れなくなっている。太陽の塔の中で、無名の人々が怨嗟の声を上げているとも思えない。亡霊などが宿っているわけではなく、見た通りの世界が広がっていて、誰のうめき声とも知れぬ声が、映像が映し出された画面の横につけたスピーカーから聞こえてくるかもしれないが、それはつくられた効果音であって、音も映像もねつ造され、何を狙っているとも思えないようなタイミングで発せられているのだろうし、そこから気の迷いが生まれるはずもなく、君は黙々と言葉を記している。そんな平常心にだまされるわけがないか。何かの犠牲者がそこで語っているとも思えない。あくまでも絵は絵であり、壁画は壁画で、巨大なオブジェはこけおどしのたぐいか。

 意識は平然とそこから離脱する。睡眠時間が不足しているとも思えない。滞りなく記されているそれは、アートではなく、ただの落書きだ。そしてそのついでにたわいない内容の言葉が記され、読めば心の動揺を誘うかもしれないが、なおも持ちこたえ、またどんどん意識が遠ざかり、見ている画面が揺れているように感じられ、それが貧乏揺すりだと気づくまでに瞬時の時間を必要とする。まるでその瞬間が必要でないみたいだ。何かと何かが組み合わさって、そんな言葉の連なりを生じさせているのだろうが、そこに意識との接点を見出せず、考えあぐねるがままに、無視して次へ進んでもかまわないように思われ、次が何なのかわからないが、要するにその次があるということだろうか。苦労しながら迂回に迂回を重ね、やっとの思いでどこかにたどり着き、そこで巡り会ったのは、そんな言葉の連なりか。何だか拍子抜けみたいで、だまされたような気分でいるかもしれないが、めげることはない。君がそこから遠ざかってしまったのにも、それなりの理由がありそうだ。何から遠ざかったのか定かでなく、無論現時点では理由も何もあり得ないが、とりあえず遠ざかった理由をねつ造しなければ、話の筋が通らず、文章も意味不明のままになってしまいそうで、そこに危機感を抱く理由がありそうだが、その理由とこの理由を重ね合わせられないものか。それではまるでごまかしのたぐいか。

 そんなふうにして理由が語られるのをごまかしながら、どうにかこうにかここまで記してきた。ここから先は何かの付け足しだろうか。蛇足には違いないが、まだ時間がありそうで、失敗するのを覚悟の上で、あえて何かを語ろうとするが、こんなものでしかなさそうだ。とりあえずどこかのおばさんが辺り構わず配りまくっているチラシによると、秋の講演会のテーマは、努力こそが人生を輝かす、ということらしい。ああいう人たちはヤバそうだが、それなりの組織で動いていて、チラシとともに配っている冊子にも、もっともらしいことが記されていて、その内容から窺い知れるのは、要するに正しい教えを世に広めようとしているのであり、世の人々を社会に馴致させる目的が満ち満ちている。疲れる世の中で疲れる人々がそんな組織を形成していて、ぼんくらな君をさらに疲れさせようとしているみたいで、相手にするはずもされるはずもないのだろうが、昼に住宅街をうろついているのは、そんな宗教系のおばさんと宅急便の配達員ばかりのようで、芸術も何もあったものではなさそうな雰囲気が漂ってくるが、またそこから遠ざかる機会を得られるだろうか。でも遠ざかってみても、何を得られるとも思えず、そこにあるのはただのだだっ広い風景でしかないのかもしれない。その中では人が相対的に小さく見えるだけで、他にどんな感慨も抱けないだろう。ではなぜ君は遠ざかろうとするのか。


10月9日

 今日も井の中の蛙が目覚め、何か考えているらしいが、一向に要領を得ず、明確な結論が出るには至らない。昨日は何をやっていたのか。相変わらず忘れている。今日は何をやる日だったのか。時間をかけても大した内容にはならない。わかっているのはそういうことだが、納得しているわけではない。気のせいだろう。気にしているわけではないが、気が散っているわけでもない。では何を自粛しているのか。怖じ気づいているわけか。何かにおびえているのかもしれない。意識はまたここへ戻ってきたらしい。何が到来しているのでもなく、何を待っているのでもないようだ。それでもここまでやってきた。何が見えているわけでもない。何も見えていないのだろうか。それでもかまわないか。何を見ているわけでもない。そこに誰かがいるわけだ。フィクションの中で何かが語られ、それに感動している。現実の世界ではどうなのだろうか。君はそこで何を空想しているのか。世の中の行く末とやらを憂い、何か考えを巡らしているのだろうか。あり得ないことだ。ただ黙ってそこに座り、瞑想に耽っているわけでもなく、ただ考えがまとまらないだけで、結論が出てこないらしく、おぼろげなことばかり思い、あくびとともにそれもすぐ忘れ、結局何を考えていたのか忘れ、言葉にならないまま、さらに語ろうとして行き詰まる。

 気持ちはありふれた感じのままにとどまり、そこで硬直して、行き場を失い、何もままならなくなり、挫折してしまうのだろうか。もう苦し紛れも尽きている。悪あがきなど無効に決まっている。だから下手な真似はやめた方がよさそうで、もはや黙って時が過ぎ去るのを待つしかなく、何もせずにとどまろうとする。それもあり得ないことか。散漫な気を集中できずに、意識はどこかへ漂い出て、何をつかむでもなく、何もつかめないまま消え去ろうとしているらしく、また眠りの中へと引きずり込まれ、夢の中でも何をどうしていいのやら、途方に暮れているらしいが、それが作り話の一部だとも気づかず、そこでとらわれの身となり、気力をさらに吸い取られ、消滅の危機にさらされているわけか。しかしものはいいようだ。何かを語ろうとしているようだが、相変わらず内容が定まらない。そんなふうに解釈すればいいのだろうか。たぶん何も語らずに、そこから意識が遠ざかっているのだろう。何がそうなのか。何もそうではなく、何よりも脱力している。

 君は君自身を見失っている。ふざけすぎているのだ。でももう後戻りはできないはずで、ふざけ過ぎによって壊れた意志を修復できないまま、さらにその先へと歩を進める以外に道はなさそうで、実際に歩いてここまでたどり着いたのではなかったか。それも誰かが思い描いた空想の成れの果てだろう。実際はそうではない。ありふれた現実の中に誰かがいて、それをひたすら語ろうとしているに過ぎず、途中に嫌になりながらも、そんな思いを捨てられずにいるらしい。だから君はさらに語ることになる。無駄で無意味なことかもしれないが、そこで語っている。空疎な物語は果てしなく続き、それが何ももたらしはしないのに、どういうわけか続いてしまう。これから先にいくらでも話を付け足すことは可能なのだろうか。できない話ではないが、少しは行く末を考えているのか。すでに予想がついているはずだが、妙に心身が縮こまっていないか。何を恐れているのか。すでに限りなく失敗を繰り返しているはずで、もはや致命的な結果も突きつけられ、絶体絶命のピンチなのではないか。でもそれが冗談なのだろう。そんな状況を空想すればするほど、すべてが冗談のように思われてくる。それをやり遂げようとする意志自体が、途中であらぬ方角へとねじ曲げられ、気がつけばもうとっくに遠ざかっていて、すでにそれとは無関係な場所にたどり着き、意志とは関係のないことを考え、関係のないことを語っている。

 意志を持続させることに失敗してしまったのだろうか。でも意志とは何だったのか。君は何をやり遂げようとしていたのか。それすらも忘れてしまったのだろうか。思い出せないふりをしているだけで、本当は今でもそれをはっきりと覚えていて、でもそれを表明したらおしまいだと思っているのではないか。それは新手の冗談か。たぶん実際には語り始めた当初から何も定まっておらず、そんな意志の存在もその場限りのでまかせに決まっている。下手な推測と想像には限りがなく、今この時点で何を振り返ろうとも、それは結果から導き出された原因であり理由でもある。要するに遠近法的倒錯の一種なのか。でもそんな分析もどきには何の信憑性も感じられず、それ以上の話の進展は期待できそうもない。ではまたしてもそこで行き詰まってしまうのだろうか。

 たどり着こうとしてたどり着けないのではなく、やり遂げようとしてやり遂げられないのでもない。では何なのか。何でもないでは済まないことか。無い物ねだりのたぐいか。たぶん努力してできるようなことではないのかもしれず、いくら努力しても、その努力自体が間違ったやり方に基づいており、要するに無駄な努力が繰り返され、それがいつまでも引き延ばされてここに至り、相変わらずそれに気づくふうも見せず、さらなる努力によって時間が無駄に費やされているわけか。そして君はいつまで経ってもそんな骨折り損のくたびれもうけ状態から抜け出すことができないということか。さあどうなのだろう。何を目指しているわけでもないのだからどこへもたどり着けず、それは無限に続くものだからやり遂げることなどはじめから不可能で、それを承知しているからそんな状態をいつまでも放置していられるのだろう。果たしてそんな説明で納得が得られるとも思えないが、とりとめのないことを述べていることは確からしく、始まりも終わりも定かでないそれらの話にどう決着をつけるべきか考えあぐねているのかもしれず、本気でそう思っているのではないことはもちろんのこと、ただ漠然とそんな不安を表明しているだけで、それは大したことではなく、それをどこへつなげようとしているのでもないのかもしれない。こうして君は意味のない説明にかかりきりとなり、何か大事なことを忘れてしまう。ところで愛はどうなってしまったのか。突然そんな言葉を付け足してみるが、文脈を無視しているみたいで、つなげようとしてもつながりようがなく、不意に思いついた意味不明な付け足しに心が動揺して、その先のしどろもどろな話の展開を期待させるが、そんなのは嘘で、誰も期待していないようで、たぶんそこで終わりにしたいのだろう。もう疲れたか。


10月8日

 呆れているわけではないが、悩み相談の次はまたしても商品宣伝のようだ。大変な世の中だ。そちらの方へ向いている人が多そうだ。煽られているのだろうか。それはそうだ。そういう世の中なのだろうから、煽られて当然かもしれない。まあ何もしないよりはマシなのか。人は結局何かやっているらしい。君はどうなのか。また天からの指令が届いてしまうわけか。正気とは思えない。そんなことを記した後で、そういう成り行きに唖然とさせられる。でも驚いてばかりでは話が前に進まない。そんなことを思っているうちにも、人はどんどん不幸になってゆく。大したことはない成り行きの中で、そんなふうに思われる時期もあるらしいが、要するに君は常に自由を求めているのだろう。そしてなぜか自由になるにつれて孤独になっていくわけか。それが不幸の始まりなのだろうか。別にかまわないのだろう。人それぞれだ。話の経緯を語ることができなかったらしいが、かまうわけがない。はじめから望んでいなかったことだ。

 どうも話の出口が見当たらない。いつものことであり、いつもの成り行きに違いなく、話にならないうちからそうなってしまう。それは以前から思っていたことかも知れないが、すでに何も見当たらないのは良いことなのか。くだらぬ妄想に煩わされているのよりはマシか。惑わされているのは自分の方かもしれず、ネット上で何かを物色している。確かにそれは煩わしい話だ。でも次第に明らかになってきたこともあるらしく、要するに通常の心境に戻ってきたのだろう。どう考えても大したことはない。すべてが希薄化しているのだろうか。それは昔からそうだったのではないか。いい加減に語っているわけではないとしても、周りの状況がわかってくるにつれて、そんなことはあり得ないと思ってしまい、それが逆に正しい認識に近づいているように思われ、すでに世界の政治経済の構造が明らかになっているかのように錯覚してしまう。そんな書物を読んで感化されているのだろうか。それもあるだろうか。でもそれを変える手だてを思い描けない。今は議会制民主主義で納得せざるを得ず、たとえそれが停滞をもたらしているとしても、それに代わる制度が見つからない。そしてとどのつまりが資本主義なわけか。そんな思考にとらわれているだけで、そこから一歩も外へ出られない。だから停滞しているわけか。そういう方面にとらわれている限りは、そんなありふれた認識から出られるわけがないか。

 君にとっては余計なことで、考えなくてもいいことではないのか。でも放っておけば行き詰まるとも思えず、どうせうんざりするほど執拗に続いていくのだろうし、それは君にはどうすることもできない成り行きで、次元の違う話なのだろう。ではなぜそんなことを考えようとするのか。誰かと善意の連帯を共有したいのか。共有したところでどうなるわけでもない。ともかく現状から考えるより仕方がなく、それが大前提なのだろうが、いくら考えたところで、その先が何も見えてこないことは確かだ。さっきまでは何も語りたくなったのではないか。それもそうだが、無理に語らせるような心境になっているのかもしれず、すぐにつっかえながらも、何かを前進させたいのだろう。少なくともそうなることを願っているはずだ。安易に他人を支配するだのしないだのの話にもっていくわけにもいかない。どうしても話を単純化してしまいがちだ。

 とにかく様々なことがうまくいっていない現状の中で、今が過渡的な状態だとしても、別にそこから誰が定常状態へと導きたいわけでもないのだろうし、常に情勢が変化し続けているのだから、その場その場で一喜一憂しても仕方がない。気にしていないと言ったら嘘になるかもしれないが、成り行きは成り行きとして、結果は結果として、真摯に受け止めなければならない。でもそれでは何を述べていることにもならず、そんなていたらくでは、放っておかれて当然なのではないか。そして結局自らの可能性が枯渇した瞬間から、外へ向かっていた意識が内へと向き直り、人は自己へ向かって自らを顧みる作業に励み、だんだん美学的になっていってしまうのだろうか。自らを一つの作品として仕上げ、その究極の到達点が、自らの死か。それはどんどん身も心も固めていって、ついにはミイラになってしまうような成り行きだろうか。考えるだけでも恐ろしい。何とか冗談に逃げたくなってくる。

 たぶん可能性とはそのようなものではないのだろう。何が尽きているわけでもなく、気晴らしでも気休めでもかまわないから、過剰な何かを追求したいのではないか。無味乾燥ではいけない。乾涸びてしまっては身もふたもない。ありきたりのイデオロギーに染まらないうちに、さっさとその場を後にして、どこか得体の知れない地帯へと旅立たなければならないか。それが冗談のなせる業だとしても、他の何に付き従うつもりもなく、でたらめな気分で現実から逃避するわけでもなく、何だかわけがわからない現状を体験しながら、そこで何か思ったり考えたりするのなら、それを語ってみればいいわけか。そこで思い通りにならない現状について語っているのかもしれず、さらに語り続けようとしているのだろう。焦りたければ焦っていればよく、焦れば焦るほど、かえって冷静に構えていた頃が懐かしく思えてくるはずで、妙に強がっていた頃もあったのかもしれず、それに付随するいろいろなことが思い出されてくるのではないか。そしてそんなエピソードなどいくらでもあり、それを語ろうと思えば語れぬこともなく、思い出したらさっさと語ればいいだけで、実際に語りきってしまえば、後は沈黙を余儀なくされ、抜け殻となり、意識が静かに自らの死を堪能するに至るわけか。だからそれが冗談なのではないか。冗談でなければどうするのか。どうしようもないから、そこからもさっさと退散するしかないのだろうか。どうもそんな思いが心の中で循環し続けているようだ。要するにいつまでもどこまでも語れるはずがなく、常に何かが枯渇してしまう危機に直面しているということか。でもその何かとは何なのか。そんなことを述べて、また話を話を振り出しに戻そうとしている。


10月7日

 どこを見渡しても同じような出来事ばかりだ。気のせいなのだろうか。そこに何か構造があるのか。それが犯罪であれ、美談であれ、次から次へと同じような出来事がニュースになり、そんな世間の風潮に物申す人がいる。それでかまわないのではないか。昔からそうだし、これからもそうだろう。君もそんな世間の仲間に入れてもらいたいのか。さあどうなのだろう。犯罪も美談も何も持ち合わせていないから、入りたくても入れないのではないか。でも人里離れた洞窟に引きこもっているわけではないので、何かしらそこから影響を受け、気がつけばそれについて語っているのかもしれず、それが大した内容でないのはわかりきっているはずだが、それを超えて何か鋭い指摘ができるわけでもなく、世間の風潮に物申す人たちと同じようなことしか語れない。そういう構造にはまっているということか。でもそこから抜け出るつもりはない。無理なことはやらない方がいい。抜け出ようとして抜け出られるものではなく、そんな構造にはまっているから、こうして何か適当でいい加減なことを語っていられるわけか。

 馬鹿げているだろうか。わざと嘘をついているのかもしれない。本当は違うことを語ろうとしているようだ。だがあくびが出る。本気になれるはずがない。何か間違っているのかもしれないが、その間違いに気づいていないのだろうか。簡単に語り過ぎだろう。構造を単純化している。構造と呼べるようなものは何も語られていないはずだ。本当は何も考えていないのではないか。ただそんなことを述べてみただけか。冗談のたぐいかもしれない。君は脱構築の意味を理解できない。だからそれらの読みもしない書物の欠点をあげつらうこともない。何を二律背反に導いているわけでもなく、そんなわけで放っておくと必ず否定的な気分となるらしい。これはだめな傾向だろうか。

 しかし何を理解しているのか。結局そちらの方面にいこうとするとすぐに行き詰まり、慌てて軌道修正して意味不明になる。できないものはできないだろう。得られるものが何もないのならば、はじめからそんなことを語る必要もなく、もう少し楽な気分で、軽く表面を触れる程度にとどめ、さっさとその場から退散した方が、致命的な傷を負うこともないだろう。誰が交通事故で死んだからといって、それが君にどんな影響を与えるわけでもなく、そこにどんな思想が紛れ込んでいるとも思えず、何だか虚しい気分となってしまうようだが、別にそれに関してもっともらしい意見を述べたいわけでもないので、さらにスルーにスルーを重ね、何もない空っぽな心境にたどり着き、それで何を呪うことも祝うこともなく、要するにゆっくり休みたいだけなのではないか。でもすでに休んでいる最中で、あてのない自由を確保したつもりになって、勘違いが深まるばかりのようだが、やはりそういう心境になってみなければわからないこともあるわけか。

 どうやら国民も政治家も官僚支配から抜け出すことができないようで、かといってどこかの政党のように、何でもかんでも反対するわけにもいかず、消費税の増税に賛成せざるを得ないらしい。君には関係のないことだろうか。またそれだ。もうだいぶ前から白旗を掲げていて、どうぞお好きなようにやってください、という心境のようだが、とにかく待っている時間が長過ぎるのかもしれず、何を待ち続けているのか定かでないが、なぜか時が来るのを待ち続け、待っていても来ないかもしれないのに、ただひたすら待ちの姿勢を崩そうとしない。別に意地になっているわけでもないのだろうが、そこに希望や期待が含まれていて、根拠も理由もないのだから、馬鹿げているだけなのかもしれないが、待ち続けながらも、君は何か一発逆転でも狙っているのだろうか。今のところは何もないから何とも言えず、それでも何か胸騒ぎのようなものを感じているらしく、そこから離れたくないようで、要するにとどまっているわけだ。

 待っていれば何か興味深い現象でも見物できるわけか。何も起こらなければただの待ちぼうけだろう。待っていなくても見物ぐらいはできるだろう。では待つ理由とは何だろう。理由がなければ待つ必要がないとも言えないか。わからないのかもしれない。本当のところはわかっていないのだろう。自らがそうしている理由がわからない。待つことなどないのかもしれないが、何を待っているわけでもないのだろうが、待っているつもりでいるようだ。何かの到来を待っているふりをしているのかもしれない。いつかそれを知り得る日がやってくるだろうか。待った甲斐があったと心底から喜ぶ日がやってくるか。やはり意味不明のようだが、いったいその意味がわかるのはいつになるのだろう。意味不明のまま死んでしまうかもしれず、たぶんその可能性が大のような予感もしないではない。でも待つことにしよう。希望を捨ててしまっては生きている意味がない。


10月6日

 今日もこんな具合だ。朝から意識が薄れている。ぼやけているようだ。現状を知ろうとするが、わからないことはいくらでもありそうだ。何を探しているわけでもないことに気づく。何も探していないのだろうか。その問いかけは今現在にあるらしく、過去からこだましているわけではないようだ。こだわっているのだろう。未だにそうだ。いつまでもそうかもしれない。息苦しいが、じっと我慢している。そのうちどうかしてしまう。思い描いている未来に誰の姿を見出せるだろうか。それを君が欲しているわけか。何かずれているようだ。それがおかしいのではないか。いずれどこかにたどり着くだろう。その時が楽しみでもないが、たぶんたどり着いてしまうのだろう。たわいない幻想か。猫のように眠りこけている。ありふれた実感だろうか。表現がそうなっているだけか。ぼやけた感覚が長引いている。意識がそこに集中していない。辺り一帯を散漫に漂い、考えがまとまらない。なぜ人はフィクションに頼ろうとしてしまうのか。でも現実と虚構を区別する気にはならない。それを語ろうとすれば現実ではなくなってしまう。それはざらざらした感触を残して、どこか遠くへ行ってしまい、そんなわけのわからない遠ざかりから、君は言葉を引き出そうとしているのか。納得し難い事態だ。しなくてもいいのではないか。納得してもかまわない。どちらでもかまわないのか。それならいつものパターンに違いないが、どちらかにとどまった方が、何となく述べていることに説得力が出るのではないか。でもそう述べて誰を納得させようとしているのか。違うのかもしれない。

 とりあえず遠ざかる。なおも遠ざかり、議論の余地もなく、誰と誰が何を議論しているのでもなく、やはり遠ざかろうとする。しびれを切らしているのではないか。どうにもならない。逃げられないようだ。それが遠ざかりの意味なのか。無意味な遠ざかりだ。さらに遠ざかり、呆れてそこから逸脱しそうになるが、それでかまわないのか。もう済んでしまったことだ。いくらでもやり直しがきく。そこで述べているのはそういうことだ。何にリアリティがあるのでもない。離れられないのか。何か欠陥でもあるのだろうか。癖が直らない。その程度のことのようだ。まただいぶ逸れてしまったようだが、果たしてこれでいいのだろうか。疑問に思うなら、リセットしてはじめからやり直そう。それはできない相談か。何かが途切れて雑に語る。何とは何か。問いかけるならそんなところだろう。何もないわけではなく、君が何かを問いかけているらしい。そういうことにしておきたいのではないか。ふと見渡せば、言葉がそのへんに散らばっているようだ。

 今日もまとまらない。昨日はどうだったのか。覚えていないわけではない。何が前進しているとも思えない。君とは無関係な書物を読みふけり、場違いな妄想を抱くべきではないと確信してしまうらしい。相変わらず何が問われているのでもない。もう秋なのだろうか。それはそれでかまわないが、何とか目的でもない目的を達成する羽目になりそうか。でもそれが目的ではない。君は何も持ち合わせていないようだ。きっかけがほしいのか。でもそれがやめるきっかけだとしたら受け入れるだろうか。成り行き次第でどうにでもなりそうだが、退かない覚悟でもあるのか。本当に確信しているとは思えない。では思い悩んでいるのだろうか。それもあるかもしれないが、すべてがそうだともいえず、気休めや気晴らしの気持ちも入っているのではないか。たぶん何とかなるだろう。漠然とした思いに苦しみながらもそう思う。何とでもいえるのなら、そういう認識でかまわない。まだ道半ばだと思っていればいい。語っているのは間違っても物語などではない。とりとめもないことを語り、そこから架空の自意識を引き出しているのかもしれない。それでかまわないとは思えない、思い込もうとしているのではなく、そんな思いをやり過ごそうとしているのかもしれず、要するにそこから抜け出したいのだろうが、たぶん無理だろう。それとは真逆の行動をともなっているのであり、そこから解きほぐしようのないこんがらがりと、どうしようもないジレンマが生じていて、その結果が言葉の散らばりとなって顕われている。納得がいくはずもないことだ。

 それでもまだマシな方だろうか。幻想はどこまでいっても幻想から抜け出ることがない。それが君の思い込みのようだ。ではトンネルの先には何があるのだろうか。別のトンネルか。山岳地帯の抜ける高速道路ならありがちの風景だ。そこで何かを眺めている。岩山の崖の上から下を覗き込みたくなるが、崖の上まで登る気にはなれない。高層ビルならエレベーターがありそうだ。展望台から下を覗き込みたいのか。確か江ノ島に展望台があったはずだが、そこまで出かける気にはなれない。いつも怠惰につながれ、身動きができない。それほどのことでもないだろう。そんなふうにも思えず、ふらりと出かけていってしまいそうになり、あわてて踏みとどまろうとするが、どうなのだろうか。

 実際に見えている景色をやり過ごし、妄想に耽るでもなく言葉を記し、心が空っぽのまま現実の世界に戻ってくるが、相変わらず噓偽りを語っているのかもしれない。何が途切れているのでもなく、自然と成り行きを見守るように促され、別に天からの指令を待っているのでもないだろうが、何だかため息が出てきそうで、どこかで誰かがうずくまっている光景を空想しているみたいで、そこからどんな物語が導かれるわけでもないことは承知の上で、さらに遠くまで歩いてゆこうとするが、どこかで行き止まりにぶつかり、困っているのかもしれない。当惑の色を隠せないか。それも空想の続きか。だいぶ遠くまで来たように思えるが、まだ部屋から一歩も出ていないのではないか。高い場所へ登るのは嫌いか。落ちたら自殺と間違われてしまう。それ以前に高所恐怖症なのではないか。でも焦ることはない。まだそんな心境には達していないはずだから、さらに遠ざかろうともがけばいい。少なくとも水の中でもがいているのではないはずだから、溺死は避けられそうだ。誰が君を困らせようとしているのでもないし、すべては自業自得なのだから、そう思っておいて差し支えない。でもそれは冗談なのだろう。どうやら変幻自在とはなり難く、いつまで経っても思いのままの地点を通り過ぎるばかりのようで、抜け出す先も定かでなく、予定も未定も無関係に、どこかで雷鳴が轟いているようにも思われ、それを探しに出る気も起こらないが、そんな自由と不自由を取り違えているのかもしれない。

 勝手気ままに過ごしていたいのだろうが、モラトリアムを気取る気にもなれず、やがて何かが迫ってくるのだろうが、決断の時はまだだいぶ先だと思われ、その時が思いがけずやってきて、急にドタバタしてしまう光景を想像しながら、今は眠りのただ中なのかもしれない。本気になれないのもそんなところから来ているのだろう。でも熟睡できないのはどうしたことか。そこから永眠に至るのが怖いのだろうか。それらのどこからどこまでに本音が含まれているとも思えない。でもすべてが嘘というわけでもない。要するに実態に則して語るのが面倒くさいのか。そんな実態などありはせず、空想や妄想の混合物があるだけか。何だかおかしい。いい加減に流されている。何もなければそんなことはないが、何かあるからおかしく感じられ、それがわだかまりのたぐいなのだろうが、抜けきれていないことは確からしい。いつまで経ってもそうだ。今でも予定は未定で、目的が定まらず、どこまでも語り続ける気でいるらしいが、至って内容はそんな感じだ。やり方が見え透いている。だから冗談でごまかしているわけか。それ以前に語り過ぎだろう。止めどなく何かがわき上がってくるわけでもないのに、それを装い、結果的に空疎の侵入を許してしまい、それを反省しているわけか。

 さらにそこから遠ざかれないのだろうか。でたらめに拍車がかかる。とどのつまりはそういうことだ。遠ざかろうとすればするほどでたらめに魅了され、まともになろうとする意志を見失い、たがが外れ、どうにでもなってしまいそうな予感とともに、実際はそこにとどまっていることに気づく。今ここにとどまる場所はない。だから遠ざかろうとしているのに、なぜかとどまっている。不在の場所などどこにもありはしない。それを断言する気にはなれないが、しているのかもしれず、何かがとっ散らかり気味に感じられ、それが言葉の断片なのか、それとも単なる思い込みなのかもしれないが、散漫でバラバラな気分を弄んで、見当違いなことを述べているのかもしれず、それでも腐らずにいられることが不思議だが、すべてはその程度のことなのだろうか。やはり何かが抜けきれていないように思われる。本当は何を目指しているのか。でも何が本当なのだろうか。それらのすべてがフィクションだとは思えないが、何だか偽りのような気がしないでもなく、さらに語ろうとすれば何でもなくなってしまい、何かをつかみ損ねて、何も得られずに地べたに這いつくばっているトカゲのように、ひたすらそこでうごめいているだけか。でも動き回っているのは狭い範囲ではないような気がして、今もそれなりに遠ざかれているのではないか。でもいったい何から遠ざかろうとしているのか。

 虚無を遠ざけようとしているわけか。それは気のせいだ。無意識がそうさせるに違いない。またそんな嘘をつくが、遠ざけようとしているのでなく、遠ざかろうとしているのだろう。今さらそれを確認する必要も感じられず、あくびが立て続けに出て、疲れてきたようにも感じられ、はじめから話のまとまりなど求めようがなかったのかもしれないが、続けて語るとすればそうなってしまうのも致し方のないところで、そこにどんな妥協をもたらしているつもりなのか、わかっているのにわからないふりをするでもなく、ただあっけらかんとした風情で、虚無的なまなざしを画面に投げかけ、それが根拠のない空想であることは百も承知で、あえて遠ざかりを演じていた架空の誰かを見逃しているようにも思われ、そんなことを記しているうちにも、視線は画面を離れながら、宙を舞い始め、関心がなくなり、途中で飽きてしまったのかもしれず、うまく話をまとめる気にもなれず、何だか中途半端に語りすぎてしまった印象もなきにしもあらずだが、その先があるかどうかわからなくなってくる。


10月5日

 朝から雨が降っている。目覚めたらすでに何を待っているわけでもないことに気づいたらしい。理由のない振る舞いとともに、明けても暮れてもどうかしている。また天からの指令か。いつもの冗談だろう。神が言葉を記せと命令しているわけではない。いくらでも立ち止まっていたらいい。つまらぬ思い込みのたぐいだ。気持ちがぶれているのかもしれない。時間がそれほど残されているわけでもないようだ。でも何をどう語ればいいのだろうか。相変わらずそれだ。そこで何を眺めていたのか。誰かの抽象画なのだろうか。それとも彫像か。どちらにしろ興味を惹かない。動くはずのないものが動き、それが夢だと理解するはずもなく、果てしなく幻想の中にとどまる。そんなことが可能だろうか。何かそれとは違う感覚にとらわれているのかもしれない。とびとびに起こった出来事を順々に並べてゆくと、何か相互に関連があるような気になるが、それがどうしたわけでもないか。もうだいぶ昔のことだろうか。神戸で大地震が起こり、そのとき確か六千人あまりが死んだはずで、当時日本で千人を軽く超える死者が出たことに驚いたものだ。それから数年後に、ある朝ふとテレビを見ると、ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んだ映像が流されていて、そんな光景を唖然としながら眺めていた記憶がある。こんなことも起きるのか、とまるで何かの冗談のように思われた。そしてさらに数年後にはスマトラ沖で大地震が発生して、二十数万人が死んだはずだ。その時は高さが十メートルを超える大津波の映像を見て驚いたものだ。やはりその時もこんなことが起こるのかと驚いていたはずだ。そしてそれから十年も経たないうちに、今度は東北地方で大地震が起き、約二万人もの犠牲者を出し、大津波が襲って福島の原発事故が起きたわけか。見たのはテレビ映像でしかないが、内陸の奥深くまで押し寄せる大津波と、爆発して建物の上部が吹っ飛んだ原発を見ながら感動していたはずだ。日本でもこんなことが起こるのかと。あれらの感覚は何だったのだろうか。それらの出来事のすべてに驚き、やはり不謹慎だが、それらの出来事がもたらしたすべての光景に感動していたはずだ。こんなことが起こるのかと。痛ましい出来事によって大勢の人が死んだにも関わらず、やはりそんな光景を眺めながら感動していたわけだ。この感覚は何なのか。それがごく当たり前の普通の感覚であることは確かだ。今から思えばそういうことでしかない。

 そういえば大災害に便乗して、多くの人がメディアを通して歌やら文章やら詩やらを弄して、何かを訴えかけていたようだった。未曾有の事態だという認識を共有しながら、何か自己主張したかったのだろうが、それらの行為は直接の被災者でもない君に何を届けたかったのか。何らかの肯定的なメッセージだったのか。その内容は何だったのだろう。やはり義援金も送らず、災害ボランティアにも加わらなかった君には関係のないことだったのか。君はなぜそれらの行動に加わらなかったのか。当時は休みもなく仕事をしていたから忙しかったのか。それもあるだろう。神戸の大地震の時は、バイトで数日間復興現場の交通誘導員として派遣されていたはずだ。それで少しは地震からの復興に協力したことになるのだろうか。そのとき所属していた警備会社は、地震を利用して関西支社をつくったわけだったのだろうが、その後関西方面にも進出したのだろうか。今となってはどうでもいいことか。そんな記憶もだんだん薄れ、やがて忘れた頃に、首都直下型地震や東南海沖地震などが起こり、今度は君も被災者となって、その肉眼で超高層ビルの倒壊や巨大津波でも目撃することができるだろうか。果たして生きているうちに遭遇できるのか。でも実際その目で直にそれらの光景を見たら、感動もひとしおだろうか。巻き込まれて死んでいるかもしれない。今からそれを期待するのもおかしいか。やはりあるとき不意に思いがけず起こり、何の備えも心構えもできていないまま、パニック状態で右往左往しているうちに、火災か何かに巻き込まれて死んでしまうのがオチか。だから今からそれを想像しても意味がないだろう。世界的には人は死ねば死ぬほど、殺せば殺すほど、後からうじゃうじゃと大量に生まれてきて、大量死はその後のベビーブームと呼ばれる大量増殖に貢献しているわけだが、それは人がその特性として美化したがっている知性や理性や感性などとは相反する、単なる動物としての生物学的な特性でしかなく、要するにハエやゴキブリやネズミなどと同じ傾向の特性を持ち合わせている動物なわけで、そう考えてしまうと反ヒューマニズム的で、否定的な気分となってしまうが、まあ大規模災害や戦争などに直面して驚いたり感動したりするのはかまわないのかもしれないが、それに便乗して人間の肯定的な側面を美化して賞賛するのも、何だか独りよがりというか、今のところは他と比較できないのだから、人間はそんなに高尚で高級な生物でもないだろうと思ってしまう。


10月4日

 どうも根気が続かないようだ。というか限界なのかもしれない。このところは毎回のようにそう思っている。でも何にすがりつくこともできない。この状態があと何年も続くわけがないか。でもこの感覚は何なのか。どの感覚なのだろうか。明日に賭けているはずなのに、それはかけ声倒れに終わってしまうわけか。でもこれからやり始める矢先から悲観するのも意味不明だ。それはいつもの照れ隠しか。何に照れているのかわからない。たぶん冗談のつもりなのだろう。冗談で済むなら大したことはない。ちゃんとした文章になっていないような気がするが、仕方のないことなのだろうか。何がそうなのかわからないふりをしながら、そんなことを述べているようで、ちょっと自己嫌悪に陥りかけているようだが、気を取り直して何か記そうとしている。胃に違和感が続いているが、そろそろ末期がんで死んでしまうのか。そうなったらなったでかまわないか。でも破れかぶれになるわけでもないのだろう。至って冷静だ。最後までそうなのかもしれない。要するに何も成し遂げられない人生だということか。それもフィクションの中で述べていることかもしれず、とりあえず苦労しているのかしていないのかはっきりしないまま、今日は今日でいい加減に言葉を記している最中なのかもしれない。無償の経験なのだろうか。いったんたがが外れてしまうと、そんなことを記してしまう。でも悲観的になる筋合いのことではないだろう。心の中に巣食う空虚と適当に戯れ、気分をリラックスさせているだけだろう。実際には何が巣食っているわけでもないのだろうが、そんなありもしないことを想像することで気晴らしになっているのではないか。とりあえず先はまだ長いと思っていればいいのかもしれず、それがある日突然途切れてしまうとしても、そうなったときに驚けばいいだけか。何という幕切れなのか。でも驚いた姿を今から想像するのもちょっと急ぎ過ぎで、せっかちな印象を免れない。楽しみはあとにとっておくものか。

 まだこんなところだ。どんなところでも場所でもないが、とりあえずは部屋の中だ。行きがかり上そんなことを述べる理由もないように思われ、また意味不明なことを述べているみたいだが、かろうじて踏みとどまれるかどうかは、予断を許さない状況でもないだろうが、要するにそんな水準で何か語っている最中なのだろう。それが低レベルだと思うわけか。しばらく考え込んでしまうが、何ともいえないらしい。今日のところはそういうことのようだ。必死になって現状の悲惨さから目を背けているとも思えず、誰もが冷静に現状分析をするようになってしまっては、資本主義もいよいよ行き詰まってしまうのかもしれないが、まだその段階ではないのかもしれない。とりあえずその手の人々がアベノミクスを信じている限りは、拝金教徒も幸福実現教徒も未だ健在なのかもしれない。しかし結局のところ人々は、信じるか信じないかはあなた次第の宗教に行き着いてしまうのではないか。そのへんのところはこちらも思慮が浅く、もう少しまともな説明を要しなければならないのだろうが、今のところは力不足のようで、説得力のある言説とはなり難く、心苦しいところか。いずれにしても欠陥だらけのようだが、語り続けるうちに、何とかまともな内容を獲得できるように努力しなければならないか。

 しかし生き甲斐とは何なのだろうか。例えば比較的安い大量生産される大衆車などを作っている工場で、生産ラインで日々単純作業を強いられている従業員は、果たして自分のやっている仕事に生き甲斐を感じているだろうか。そうは思えないからそんな問いを発しているのだろうが、逆にフェラーリやロールスロイスなど少量生産の高級車を造っている工場では、たぶんそこで働いている職人たちは、自分たちがやっている仕事に生き甲斐を感じており、一つ一つの部品を手作業で取り付け、一つ一つの作業工程に細心の注意を払い、丹精込めて行い、数ヶ月もかかって一台の車を組み立てるやり方に満足していて、それをこなしている自らに誇りを感じているのではないか。でもそういう高級車を買う人たちの大半は、アラブの石油成金をはじめとするいわゆる富裕層でしかなく、またそれは、スイスの工房で高級腕時計を制作している職人の皆さんの仕事も、イタリアで有名ブランドの革製品を作っている職人の皆さんの仕事も、高級車ほどでもないにせよ、そういうたぐいの需要で成り立っているわけで、それは日本の伝統工芸であれ何であれ、そういう生き甲斐ややりがいのある仕事に就けるのはほんの一握りの人たちであって、いわゆる大衆消費財と呼ばれる安物を作っている人たちは低賃金の単純作業を強いられ、とてもじゃないが、自分たちのやっていることに誇りを感じることなどあり得ないのではないか。あるいはそれに飲食チェーンやコンビニやスーパーなどでバイトしている人たちを含めてもいいが、それが当たり前の世の中に暮らしていて、彼らは何か自分たちにはどうにもならない矛盾を感じることなどないのだろうか。要するに世の中で暮らしている大半の人たちは、大なり小なり生き甲斐ややりがいを断念しているということになりはしないか。それともそれは勘違いもいいところで、例えば銀行員が主人公のテレビドラマなどを見て勇気をもらったと感じ、自分たちがやっている仕事も、回り回ってちゃんと世の中の役に立っているのであり、不平不満を言わず真面目に働き、それを立派にやり遂げることによって、そこから自然と生き甲斐やらやりがいやらがわき上がってきて、結果として自らがやっていることに誇りを持てるようになるということか。でも君はそういう成り行きをどこまで信じているのか。また信じるも信じないもあなた次第になりはしないか。たぶん人は生き甲斐ややりがいや誇りなど感じなくても生きてゆけて、教育によって、生きてゆくためならそんな作業も黙ってそつなくこなせるように訓練されているのではないか。それに耐えられなくなって、心が荒んで倫理観が薄れてしまえば、犯罪者になったりするわけか。


10月3日

 続ける必要のないことを続けている。そんな気がしてならないが、やめようとしているわけではない。やめてどうするのか。どうもしないだろうが、何となく朝から否定的な気分に逆らえず、そんなことを記してしまうらしい。何か危機が間近に迫っているのだろうか。でもそれを経験したからといって何が変わるとも思えず、たぶん何を予感しているわけでもない。急にそんなことを思ってどうするのだろう。どうかしているのだろうか。あれからもう二十四時間が経過しているはずだが、二十四時間前に何が起こったわけでもない。今も今で別に何を問われているわけでもなく、至って通常の感覚でその日の朝を迎えているはずだが、何かが起きたその日とはどの日でもなく、たぶん今日のことなのだろう。何の変哲もない今日だ。今のところはそういうことか。そのように感じられ、どのようにも感じられない。いつでも明日でもそんなふうに感じられるだけか。そんなわけでこれから何が起こるわけでもないような気がするが、思いがけず何かが起こるとすれば、そこで用いたいのは感性ではなく思考力だろうか。当てずっぽうにそれを用いるわけか。君は相変わらず何もわかっていないようだ。以前から何も変わっていないのだからわかるはずもない。でも相変わらずそこから逃げるわけにはいかないらしい。逃げようにも逃げられないから、こうして何か適当でいい加減なことを記しているのではないか。そんな心の迷いを断ち切って、記述を前進させたいようだが、そこから先はどうしたらいいのかわからない。とりあえず適当に言葉を記せば、あとからいくらでも修正が利くはずかも知れないが、でも何だか吹っ切れていないことに変わりがないようだ。それもその時の気分次第でどうにでも変わっていくものだろうか。

 気分としてはそうかもしれないが、その一方で頑なに何かを守っている。思いがけない方面へ変わってしまうことを恐れているのか。そんなはずがないと思いたいのだろうが、人は誰でも変わる時には変わるだろう。気づいていないだけで、実際に変わっているのではないか。でもそれを意識したときに、果たして変わることに耐えられるだろうか。耐えられなければどうなるのだろうか。変わらないままになるしかない。そう思い込めばいいのか。あり得ないことだ。でも意地を張ってそう思い込み、よりいっそう頑なになると、あとで悲惨な結果を招くことになるだろうか。しかしここからどう変わるというのだろう。自らが変わった姿など何も想像できないようだ。もし変わったとしても、どうせまたそれは作り話の域を出ない話となり、現実の世界ではそこから外れてしまうわけだ。やはり逃げ込む先は虚構の世界なのだろうか。そう思われても仕方のない様子か。でも確かどこかで予言者気取りの人物が、今から二十四時間以内に何かが起こり、この地球が深刻な事態に陥る、と発言していたような記憶がまだ脳裏に残っているが、それはまたもや空振りに終わったわけか。ネット上のどこで見かけたのか、今となっては定かでないようだが、相変わらず性懲りもなく何かに期待していたのだろうか。それは現実逃避のたぐいか。そんなことを述べて誰を責めているのでもないのだろうが、何となくくだらぬ思いにわざととらわれ、それを利用して今の今まで微かな期待を抱きながら、正気を保っていたつもりなのだろうか。冗談だろう。どうにもならなくなってから、そういう逃げ方をしてしまう。それではあまりにも情けないか。

 でも実際のところはそれほど困っていないのだろう。世の中の制度がどうあれ、何に支配されていようと、どのような押しつけがあるとしても、大してこたえていないはずだ。結果的にそうなのだから、君は変わらなくてもいいのかもしれない。その必要がなければ変わりようがない。それと気づかないうちに、わけのわからない事態に巻き込まれているのかもしれないが、わけがわかるようになってきたら、それなりに対処法とかがわかってくるのではないか。それまでは変わりようがないか。どう考えても何だかわからないのだから、やはりそういうことでしかないだろう。今さら空想の中から誰が不死鳥のようによみがえるとも思えず、いつまで経っても今のままで推移するみたいに思われ、君にとってそれは関心外なのかもしれないが、果たしてそんな言葉があっただろうか。そんなことはどうでもいいが、でもそろそろ行き詰まりなのではないか。以前からそう思っていたのに、なかなか本当の行き詰まりに行き着かず、行き詰まろうとする度に、また新た逃げ道を見つけたつもりになって、そこへ一目散に駆け込んだ気になっているようだが、そういつまでも続かないような気がする。実際に続いていないだろう。続いていなければどうなってしまうのか。誰かのように神社にお参りして、これからも続いてゆくように祈願するわけか。しかし成長戦略の方はどうなってしまったのか。彼らは何を成長させたがっているのか。どう見ても資本主義は世界的に行き詰まりように感じられてしまうが、ここから何をどうするつもりなのだろうか。人口も次第に減ってくるのだから、成長はあり得ず、逆に衰退していくだけのような気がしないでもないが、彼らはいったい何を狙っているのだろうか。まだそれが明らかになる段階ではないということか。もしかしたら空手形なのかもしれない。どう考えても策はないような気がする。でもそれは君も同じことで、何の見込みもないのに、ただ闇雲に言葉を記しているだけなのかも知れず、それがこんな事態を招き、必死になってどんな事態でもないと思い込もうとしているわけか。だから何を述べても冗談になってしまうわけか。でもたぶんそれで納得がいくはずもない。どうしても納得がいかないのなら、また明日に賭けるしかないか。


10月2日

 誰かが雨音に気づく。だいぶ降ってきたようだ。今日は一日こんな天候なのだろう。しかし雨に何の意味があるのだろうか。焦ってはいけない。誰かが自分に言い聞かせ、そういうことではないと諭すが、納得し難く、何だかわざと見当違いなことを記したくなってくる。それが焦っている証拠か。雨音を聞きながら、部屋の中で何か考えを巡らしているようだが、いつものように考えがまとまらず、しばらく漠然としたままになってしまう。どう考えてもそんなことでしかない。それがとりとめのない不安をもたらしているのかもしれない。心の中で何かが変化している途上なのだろうか。つまらないことがきっかけで、そこから外れていってしまう。それはそうだが、もとから折り合いがつかなかったのではないか。我慢にも限度があり、それを超えれば外れていくしかない。そういうことに関して突き詰めて考えるのは難しい。お互いの妥協点を探り合っているのかもしれないが、時間がもうない。では交渉は決裂か。いったいそこで誰と誰が交渉しているのか。君がそんなことを想像しているだけかもしれない。確かに無理なのだろう。その時点からどれほどの歳月が過ぎ去ったというのか。さあわからない。確か何かの書物を読んでいたはずだが、それについてはどうなったのか。君はまだ心にわだかまりが残っているのだろうか。禍根を残したまま、いったいどれほどの月日を耐えてゆくのか。それとももはやそんなことなどおかまいなしか。

 常日頃から何かを堂々と主張するのは楽しいことだ。主張しまくるのも壮快なことかもしれない。そうしている己に酔っているのではないか。それもあるのだろう。でも羞恥心の麻痺した人間は強い。自己主張の強さが意志の強さと混同されているのだろうか。そういう強さが大きな勘違いを生むわけか。でもやがてそれが原因で様々な挫折を味わい、それでも頑なに意地を張り通すならば、そういう方面で固まってしまうのかもしれない。そんなわけでその手のうざい人間が欧米のビジネススクールなどによって粗製濫造されているらしい。今まで通りの資本主義を推進していくにはそれがいいことなのかもしれない。そういう人たちが新たな市場を開拓し、ビジネスチャンスをものにして、自らと自らの会社に莫大な富をもたらすわけか。まあ普通の人たちには太刀打ちできそうにないその手の人々が世界には蔓延っているということだろうか。恐ろしいことだ。やはり世の中は破滅へ向かって突き進むしかないのか。君のような情けない人間は置いてきぼりを食うばかりのようだ。もう手遅れだろうか。どうせまた本気でそう思っているわけでもないのだろうが、何となくそういう現象を端から眺めているのも愉快なことかもしれない。要するに君は傍観者気取りでそんなことを述べている。それは良くない態度か。決して褒められたものではない。負け惜しみのたぐいかもしれない。まさか君はすでに敗者の範疇に入っているわけか。

 でも結局のところそこからこの世界をどうしたいわけでもないのだろう。現状を肯定しながら、さらに進化させたいわけだ。でも進化とは何なのか。人が生きづらく住みづらくさせるのが進化なのだろうか。たぶんそうだ。そういう進化に適応できた人間だけが生き残るのが、進化の進化たる所以なのかもしれない。では君みたいな人間は淘汰の対象か。そうかもしれないが、淘汰されても仕方がないだろう。生き残ろうとする気力に欠けているのかもしれず、すでにフェードアウト中なのではないか。そう考えるのも愉快なことか。何だかわからないが、そんなことを思いながらも、それに対して否定も反論する気も起こらず、そんなふうにして人間が世の中から消え去っていく光景も眺めていたいような気もしてきて、その対象が自身であったとしても、自分で自分の消滅過程を眺めていられることなど不可能かもしれないが、それを語る上では何ら支障も来さないように思われ、大きな勘違いかもしれないが、しばらくそのまま様子をうかがい、手遅れとなっていく様を眺め、それが自ら招いた固有の体験だと思い込み、それに向かって日々邁進してゆかなければならないのではないか。噓も方便か。それの何が方便なのだろうか。わからないがたぶんそうなのだろう。そんなことを述べている自らに呆れつつも、それが愉快な気分をもたらしているようで、冗談なのだろうが、それで済めば楽なことかもしれない。心配することはない。裏技も奥の手も持ち合わせていないことが、却って平静を保つ上では好都合なのではないか。

 あるがままでかまわない。それ以上は何もない。いくら世の中にシャーロック・ホームズ的なうざい人間が蔓延っているとしても、その手のフィクションの中でならともかく、現実の世界ではそれほど彼らに活躍の場は与えられていないのではないか。では彼らこそが淘汰の対象なのか。日々の活発なディベート的な環境で徹底的に鍛えられて、その手の大学やビジネススクールなどから大量に排出され、各々がその手の企業などに就職して、あるいははじめから起業家を気取って、新規に事業などを立ち上げたりしたあげくに待っているのは、これも熾烈で過酷な生存競争か。そこでまた一握りの成功者とその他大勢の脱落者とにふるい分けられるわけか。何だかそう考えると彼らも気の毒な感じがしてくるが、実際はそれほどのことでもないのだろうか。まあその手の競争に参加した経験も、これから参加する予定もないので、何とも言えないが、そんなことばかり奨励したり肯定しても、心が荒んでくるだけかもしれず、逆に怠惰で間抜けでいい加減な連中ばかりが蔓延っている世の中の方が、息苦しなく楽しそうにも思えてくるが、やはり倫理的には真面目な人間が救われる方がいいわけか。まあ建前としてはそういうことにしておいて、実際は違うという感じがいいのかもしれず、本当はどうでもいいことなのかもしれない。いくらそんなことを思っても、現実は現実であり、とりあえず今ある前提から、今よりマシな状況になるように努力しなければならないのだろう。本当はそうは思っていないのだろうが、とにかくそういうことにしておかないと、何もできなくなってしまうような気がするわけか。


10月1日

 誰かが公園のベンチに腰を下ろす。さてこれからどうしようか。ふとそう思うが、行くあてなどありはしない。部屋の中で何を想像しているのか。また作り話の中で架空の人物がそれを考えるわけか。回りくどいことを記している。そんなふうに絶えず修正しながら、何かのふりをしているのだろう。本当は何を考えているのか。わからないので何も考えていないことにしておこう。架空の存在でしかない彼は何も考えていないらしい。でも彼ではないから君は考えている。たぶん考えているのはそんなことだ。今ここで何かが始まるらしい。またいつものように言葉を記している。雨が降ってきたようだ。部屋の中で気づいたわけではないらしい。何となくまた振り出しに戻ってきてしまったようだ。いつもそうなってしまう。出発点が違っているのではないか。語り始めるべきところで語り始めていない。そこで何かがずれている。過ぎたるは及ばざるがごとしか。でも何が過ぎているのだろうか。常にどこかを通り過ぎているだけのようだ。そして躓き、後ろを振り返ると誰もいない。見えている光景はいつもと変わらず、そこで何を語っているわけでもない。そして行き詰まってしまう。たぶんこの世界は広い。彼が旅立つ日も近いだろう。

 どこへ出かけるわけでもなく、相変わらず何を考えているとも思えない。ただ待っている身は辛いか。何を望み、どうなろうとしているのだろうか。その問いは封印したのではなかったか。そんなはずはない。見えている世界は現実の一部だ。過去に思いを馳せているわけでもない。状況をコントロールするつもりもないらしい。無性に腹が経つとも思えない。憤りを感じているのだろうか。別にそれを想像しているわけではない。またこんなところで考え込んでいる。いくらでも道はあるらしい。道端を歩きながら考えているのだろうか。狭い道だ。何かが揺れ動いている。思いつくのはそんなところだ。いずれはすべてが無に帰してしまうのかもしれないが、そういう現象について説明を試みなければならないのだろうか。難儀なことだ。身の程をわきまえた方がいいだろうか。もうお手上げ状態なのか。

 漫画の中では多くの人が遊んでいられるのかもしれない。久しぶりに週刊漫画雑誌を買って読んでみるが、相変わらずその中で描かれている架空の人たちはあまり仕事をしていない。でもそれらを描いている漫画家たちは毎週それを仕上げているわけだ。それは恐ろしい仕事量か。まあそこでも競争があり、人気の出ない連載はすぐに打ち切りとなり、その後がまを狙う多数の漫画家が背後にひしめいているわけか。そして人気が出て連載が長引き、単行本も売れれば、大金持ちとなるのかもしれない。でもそうなる人はほんの一握りで、それは他のどの分野でも同じことで、激しい競い合いがあるところでは、勝ち残ったほんの一握りの人たちに富と栄光がもたらされ、その他大勢は無名の一般人にとどまり、それが当然のこととして受け止められ、そんな誰もが納得するしかない結果が常にもたらされている。漫画の中でも激しい競い合いが繰り広げられているのではないか。仕事をする代わりに命がけで戦っている人も多い。それは仕事をするよりきついことか。好きで冒険しているのだから仕方のないことかもしれないが、漫画家たちも好きでハードな仕事をしているのだから、それも仕方がないどころか本望なのだろう。

 でもなぜか君はそういう現象を避けているようだ。今のところは何も思うところがない。誰かが空を見上げている。まだ雨が降っているのだろうか。またそんな光景を想像しているようだ。面倒なことだろうか。考え込むような話ではない。人はただ日々の糧を得るために仕事をしている。それでいいのではないか。運がよければ宝くじにでも当たるかも知れない。買わなければ当たらないだろう。それも当たり前のことだ。しかしそんな世の中に生きていて、何をおもしろがればいいのだろう。メディアが提供する話題についてゆけないのか。株価が下がればざまあみろと思うのか。そういう話でもなさそうだ。ではやりがいとは何だろう。君はやる気を起こさせる何かとは無縁なのだろか。中には憂国の思いにとらわれ、政治の世界に身を投じる人たちもいるのではないか。でも本当にこのままでは日本が危ないのだろうか。政治家ならそう思って当然か。君は政治家ではないから、そのへんの心情が理解できないのかも知れない。でもメディアの論調はいつでもそうなのではないか。ではそれを批判したいのか。以前はそういう誘惑に屈していた時期もあったらしいが、今ではそのへんもよくわからなくなってしまい、どうしたものかと考えあぐねているようだ。でも思いを巡らし、無意識のうちに何かを望んでいるに違いない。