彼の声94

2013年

1月31日

 ようやくこれで先月の最後の日か。いったいどれほど遅れてしまったのか。笑いながらそんなことを記しているようだが、そんなにそれがおかしいか。笑っている場合ではない。別におかしくて笑っているのではなく、日記ではないのだから、いい加減に記しつつある文章に日付をつける習慣をやめにしたらどうか。取り立てて誰がそれに関して日記をつけているわけでもない。でも記されたそれは日記調の文章だ。たぶん常識的に捉えるならば、それらの文章は日記に違いない。少なくとも見た目は日記の体裁を取っている。内容もそんな感じであり、たとえ数日遅れだろうと、一応は日付がついた文章なのだから、紛れもなく日記か。何をどう語ろうとも、結局はそんなことでしかなさそうだ。それでは不満なのか。現状が不満だらけではおかしいか。それほどおかしくないはずか。でもそんな現状が不満だろうが何だろうが、すべては冗談のたぐいに決まっている。それらの何が冗談なのか。またそんなことを述べて、うまく語れないことから生じる袋小路から逃げようとしている。でもそんな粗雑な逃げ方では逃げ切れないだろう。それの何が粗雑なのか。焦って言葉を付け加えるほど意味不明になり、気がつけば虚無と怠惰に追いつかれてしまっているはずだ。そんなふうにして自らの影に追いつかれ、知らないうちに影と実体が入れ替わってしまう。そんなはずがない。また苦し紛れにありもしないことを記そうとしている。そうやってくだらない気分をそのままにして、音楽を聴いているようだ。それは違うか。何が違うのだろう。本当に違うとすれば何なのか。何でもなければ何も違わないはずか。でももうそんなことを記してしまっていて、もはや手遅れで、修正が利かなくなっているはずか。そしてたぶんそれでかまわないと思っている。そんなわけで自業自得気味に罠にはまり込んでいる。それに気づいていないのだろうか。だからそんなはずがないと思っているのだろう。

 君はそんなことには興味がないのだろうか。それとこれとは違うわけか。何が違っているのか。何も違っていない。でも違っていないからどうだというのか。どうもせずに、何か適当でいい加減なことを語ろうとしている。やはり依然として何がどうなっているわけでもないようだ。君は何に飛びつくこともなく、黙って目の前にぶら下がったエサをやり過ごそうとする。そんなはずがないだろう。釣り人に釣られまいとする魚ではない。たぶん人々は人々に向かって語りたがっているのだ。何を語りたがっているのかといえば、それは説得力のありそうなことだろう。何らかの理論に基づいていたりして、正しい答えになりそうなことでもあり、役に立ちそうなことでもある。自分が主張している通りにすればうまくいく、と訴えかけたりするわけだ。本当にそうなったら儲けものか。誰が儲かるのだろう。語っている人が儲かり、その語りを拝聴した人も儲かる。世の中そんなにうまくいくものだろうか。だからそうなったら儲けものということか。そんなわけで今日も偽予言者が聴衆に向かって語りかける。我の言う通りにやれば必ず成功する。それを聴いた本物の予言者は黙るしかない。でも予言者は予言しなければ予言者とは呼ばれないだろう。では何を予言したというのか。何も予言しないのに予言者なのか。案外そうかもしれない。君は黙って何を示しているのか。そこには虚無しかない。だからそんなはずがない。いったいどちらなのか。どちらでもなく、どちらでもある。そもそも予言者に本物だとか偽物だとかはあり得ないのではないか。すべてが偽予言者であり、偽予言者のすべてが本物なのだ。何かを予言しようとすること自体が神への冒涜か。だからそんなはずがない。ところで君はそこで何を予言したというのか。やがてすべてが無に帰すだろう。そんなことはわかりきっている。要は時間なのだ。無に帰すのにいったいどれほどの歳月を必要とするのか。それが人の一生より長いとすれば、そんなのはどうでもいいことの範疇に入るだろうか。それでも一応は予言したことになるのだろうか。


1月30日

 次第に元通りになりつつあるのだろうか。何がそうなのかわからないが、そんなはずがないか。でも急に最近頻繁に言葉を記している。それも自らによって裏切られている。別にスランプを脱したわけでも何か吹っ切れたわけでもない。ただ同じようなことを延々とやっているだけだ。また疲れて眠ってしまったらしく、なかなか先月の日付から抜け出せずにいる。やはりそんな結果から判断すれば、紛れもなくスランプなのか。そして相変わらず何も思いつかず、まともなことを何も語れない状態が続いている。そんなのは嘘か。嘘でもなければ真実でもない。少しは語っているではないか。でも今はその外部に意識がある。外部とは何だろう。何かの方便なのか。それともそれこそが嘘か。たぶん何も嘘ではない。外部は外部であり、方便は方便だ。では他に何があるというのか。他とは何なのか。また何でもないことになってしまうのか。他というならば、例えば数日後には雪が降るらしい。そんな予報が外れてほしいのか。それは何のことでもなく、雪が降ろうが雨が降ろうが、そこで何が起こるわけでもない。そことは虚構の世界か何かか。そんなことを述べている限り、君は二度と立ち直れないだろう。なぜそう思うのか。今が正気ではないからか。戯れにそんなことを述べてみるが、やはり正気でも狂気でも何でもないらしい。そんなわけで何も方向が定まらず、何について語ろうとしているのでもなく、それでも強引に言葉を記そうとすると、こうなってしまうようだ。語っている意味がわからなくなる。だから正気ではないのだろうか。だからそんなはずがない。そんなことを記していると楽しいか。君がそうなのではない。でもそれでは誰もそうではないのではないか。だからそこから振り出しに戻ってしまうわけか。

 誰かが笑っているようだ。話の顛末に笑っているのではなく、話にならないことがおかしいのだろう。なぜそうなってしまうのか。疑問を覚えているわけでもないのに、盛んにそう思うらしい。だからそれが予定調和の繰り返しを呼び込み、いつまで経っても話が進展しない原因なのではないか。でもそんな問答によって、かろうじてこれらの文章は成り立っているのだろう。自業自得なのだろうか。今さら反省してみても遅いか。切羽詰まると反省したりして、何とか継続を途切れさすまいとするわけか。そんなはずがない。ではどんなはずだったのだろうか。さっさと終わらせたいのではないか。それの何が間違っているというのか。誰に問うているのでもない。だからおかしくなり、話にとりとめがなくなり、次第に焦りを覚え、我慢できなくなってしまうわけか。それでどうなってしまうのだろう。笑っている。笑いをこらえきれなくなっている。だからそんなはずがないだろう。何もおかしくないのに、なぜ笑ってしまうのか。実際には笑っていないのではないか。君はフィクションの中で何をやっているのか。音楽を聴いているのは現実の世界でものことか。何かをやるとはそういうレベルでのことではないはずだ。では何かとは何なのか。今やっていることのすべてを放棄させるような何かを見つけたい。君はフィクションの中でそれをやろうとしているのだろうか。どうせやるなら現実の世界でそれをやってほしいか。実際にはできないから、人は虚構の話の中で架空の登場人物にそれをやらせようとする。なぜそんな回りくどいことを好んでやりたがるのか。それは誰かの誇大妄想に現実の世界が適合していないことの証しか何かか。そんなわけで人は好んで夢遊の人となり、無用の用の中で自らの思いを実現させたつもりになりたがるわけか。そんなはずがない。君は実際に現実の世界の中でややこしいことを日々やっているが、そんな現実が受け入れ難いのか。それも違うか。それの何が違うのか。意味がわからないようだ。


1月29日

 何か問題点を指摘しているわけではない。でもなぜそうなってしまうのか。だがそうなってしまう理由や原因を探っているわけでもない。でもなぜか実際にそうなっている。椅子に座ったとたんに脱力感を覚え、心身ともにフリーズしている。そんなはずがない。コーヒーを飲むとしよう。少し疲れているようだ。そんなことを感じているうちにどうかしてしまうわけか。どんなわけでもないだろうが、次第に何だかわからなくなる。気晴らしに漫画でも読んでいるのだろうか。でも何がどうなっているわけでもない。それは何かの決まり文句か。まるで決まり事のようにそんなことを記してしまう。おかしいだろうか。考えるタイミングを失っている。そういうことではないのか。ではどういうことなのだろう。風が吹いている。まだ指先がしびれているようだ。もういいのではないか。やる気がしないか。頭の中がぼやけているようだ。今日記さなければ明日は無理だ。それはどういうことなのか。明日はもっと疲れるということか。まだわからないだろう。だいたいは予想がつく。別に未知の体験でもない。ではそこで何を扱っているのか。取扱説明書を紛失してしまったわけでもない。爆弾の製造方法でも知りたいのか。だからそんなはずがない。まるで関係がない。たぶんそこで重大な事実を見落としているわけでもない。またテレビでも暇つぶしに見ているわけか。今は夜だ。少なくとも昼ではない。わかりきったことを述べてみても意味不明か。でもそれを削除する気にはならず、それどころかさらにでたらめを記そうとしている。なぜそうなってしまうのだろう。そんなはずがないからそうなってしまうのか。天気予報の時間だ。天気図的には冬型の気圧配置だそうだ。君の気持ちとは関係ない。風に吹かれて気持ちが揺れている。それも違うか。何が違うのか。それに関して言葉を記す気にならないらしい。

 本当に何も思いつかないのだろうか。何となくお茶を飲んでいる。ほうじ茶だ。思いつかない代わりにそれはないか。たぶんそれでかまわないわけがない。だから必死になって何か記そうとしているわけか。今はそうでもないだろう。半ばあきらめている。あくびが立て続けにでて、急に眠くなる。そうなった時点でもうおしまいだ。そう思うならその通りになるだろう。そうなりかけている最中に、何を記すつもりなのか。こんなことを記しているわけだ。わけでもないだろうか。でもそんなことを記しながらも、かろうじて眠気にさらっているわけか。無駄な抵抗か。何とかしたいのだろうが、冗談も何もでてこない。もうあの当時には戻れない。別に当時を懐かしんでいるわけでもないか。君はまだそこから外れたままのようだ。それがわからない。なぜそんなことを述べなければならないのか。そうではないのにそうなってしまうのはなぜだろう。テレビドラマとはそういうものだ。それで笑っているわけか。君はそういうドラマを見ながら笑っている。わからないがわかりやすすぎる。そうならないのが現実だろう。ドラマ仕立てにはなり難い。だから笑ってしまうのか。笑ってしまう理由に何の正当性もありはしない。だからいつまでも笑い続けているのか。そんなはずがない。では何なのだろうか。そこで正気に戻るべきなのか。それも違う。何もかもが違っているのか。それでは簡単にそこから遠ざかってしまうではないか。他人の恨みつらみにつきあっている場合ではない。だからテレビを消して文字が記された画面に向き直る。そういうことでもないのだろうが、現実にそうなってしまうわけだ。そんなわけで君はもう後戻りできなくなり、あきらめて言葉を記している誰かを見守っているわけか。君は誰かの背後霊か何かか。架空の存在なのだろう。不在の存在というやつだ。ややこしいが、そんなのは嘘っぱちに決まっていて、君が実際にそこにいるわけではない。それでかまわないのだろう。


1月28日

 果たして花は咲くだろうか。何を見ているのだろう。水と肥料をやれば咲くか。咲く前に虫に食われてしまうのではないか。でも別にテレビが未来を切り開くことはない。他の誰が切り開かなくても、自然に切り開かれるのではないか。他がないならねつ造すればいい。確か伊勢神宮は、創建された当初は普通の寺院建築だったのを、わざわざ昔風に後から作り替えたらしい。日本独自の何かをねつ造するためには必要だったのだろう。でもそれとこれとは無関係だ。後から何かを見ていたようだ。そして今は音楽を聴いている。それも無関係なことか。でもそもそも何と何が関係してそうなってしまったのか。民族の歴史を後からねつ造したがっている者など、世界中にいくらでもいるだろう。そこで何かを誇示したい者たちには建国神話が必要だ。あくびがでる。もうこの辺で限界だろうか。何が楽しいのか。まだそこまで行っていないらしいが、夜道の暗がりに恐怖するつもりようだ。予定調和的にそんなことを想像する。またあくびがでる。だからもう寝た方が身のためだ。だいぶ疲れがたまっているはずだ。でもなぜそうなってしまうのだろう。それは始原を巡る旅などではない。何かを眺めていて、それが外部からの視点であることを承知しつつも、結果に気をもんでいるらしく、何かがかわされる度に一喜一憂するつもりか。そんなつもりはなく、至って冷静に見守っているだけか。もう過ぎ去った出来事でしかない。

 何を繰り出そうとしても、別の言葉に結びついてしまい、要領を得ない言葉の並びを前にして、やはり何を思うわけでもないのだろうか。でもここまできたら終わりまで記す気でいるらしく、途中で投げ出さないようにしたいようだが、果たしてうまくいくだろうか。これで何とかなるとは思っていないようだ。でもやらないよりはマシだろう。それで実際にやっているわけか。どうせまた無理をしている。近頃はそればかりだ。わかっているが難儀なことだ。それはわかっていないことになるのだろうか。でも今さら首を傾げてみたところで手遅れだ。すでにこんなところまで記している。むちゃくちゃ腹立たしいことなど忘れるだけで、要するに平常心でいたいだけなのか。それでは虫がよすぎるか。何かを通り越しているらしい。もうそのへんは通過しているということか。でもいつ何時そこへ戻ってくるかわからない。実際にそうなったとき、果たして平常心を保てるだろうか。そのときになってみないことにはよくわからない。まあそうなって当然と言えば当然だろうが、そうなってからでは遅いと言われても、どうせそうなってしまうのだから、今から準備を怠らないようにしていても、やはりそのときになって、怠っていることに気づいてしまうのだろう。人は愚かであり、君もその中の一人に違いない。でもおかしいか。何がおかしいのだろう。そんな気がしているだけで、平然とそれを見逃すように仕向けられているのかもしれず、状況がそうさせているのだろう。

 さらに言葉を記す必要など感じない。でも記そうとする。そうしないとバランスがおかしいか。でもそれは君の感覚ではなく、文章そのものに備わった架空の感覚かもしれない。それも嘘の類であることは承知している。またわざとらしく画面に向かって首を傾げてみる。何の動作でも仕草でもなく、何となくそう記してしまうらしい。呆れているのか。でもこの先何をあきらめるつもりなのか。まだ時間があるとでも思っているのか。それは勘違いのなせる業か。でも思い違いの原因を探りたいわけではない。他に何も提示できないからこそこうなっている。それも言い分けのたぐいだろうが、そう述べることで何らかの効用を期待しているのかもしれない。虫のいい話か。でも世界は君を中心にして回っているわけではない。世界は君の都合などおかまいなしに回り続け、しばらくは放っておかれていても、機会がきたらすぐに何かの渦中に連れ戻されて、そこで悪戦苦闘を強いられ、また疲れてしまうわけだ。どうせまた疲労困憊して眠ってしまうのだろう。気疲れと身体的な疲労が同時にやってきて、どうにもならないような苦境の中で、ありふれた絶望感に襲われて、それからどうなってしまうのだろう。なすがままにそんな運命に翻弄されて、どうにかなってしまうのだろうが、そのどうにかなりようが思い通りからはほど遠く、残念な気持ちを招き入れ、要するにあきらめてしまうわけか。あきらめたついでに、なぜか久しぶりに『咲坂と桃内のごきげんいかが ワン・ツゥ・スリー』を聴いている。まあラップと言えばラップなのだろうが、モノマネや早口言葉を披露しているだけと言えばそういうことだ。


1月27日

 うまくいっていないようだが、別に今日が今日でなくてもかまわないか。開き直るのはだめだろうか。でもまだ先月の日付で言葉を記している。安易にごまかすべきではない。実際にごまかしている。いったい何なのか。もう夜だ。ただの夜に違いないが、何か疑念でも抱いているわけか。それがどうしたわけでもない。それとは何か。それはそれでしかない。それだけのことだろう。知らないうちに何かが進行中だ。本当だろうか。まだ半信半疑か。またそんな嘘をついている。まだ己を信じられないのか。だからそれは嘘だ。ここには何もない。蛍光灯の明かりがある。それは何なのか。何でもないから蛍光灯の下でそんなことを思っているのか。部屋の中だ。ありふれたことを思っている。何かのパロディだろうか。それは誰の声でもなく、君が語っているのでもない。誰も語りはしないだろう。部屋の中だ。君はそれらの登場人物が存在していることを信じられない。誰も語らないからか。それ以外のすべてが語っているのだ。すべてとは何だろう。リアリティを感じられないのだろうか。誰かが虚構の物語に感情移入しているのはおかしいか。テレビドラマを見ているようだ。俳優が登場人物を演じている。それだけのことだ。祝祭的な空間がどこかにあるらしい。君は誰の始原を探求しているのか。おかしいだろうか。そこで何を眺めているのか。

 技術はごまかしから生じている。本当だろうか。何もない空間で何かがおこなわれる。演劇空間というやつか。馬鹿げている。たぶん誰かがそれを見つめているのだろう。見慣れた風景から遠ざかると深い衝撃を受ける。当たり前のことだ。でもわからない。ごまかしには違いない。言葉を記しているふりをしているのだろうか。何かの幻影を眺めている。それはテレビ画面か。そうではない。君は祝祭的な一体感を拒否している。それがひねくれ者の特性なのだろう。スポーツイベントを眺められなくなる。それもおかしいか。魂を吸い取られる。何に吸い取られるのだろうか。見ている画面に吸い取られるのか。こけおどし的な効果を期待している。だからそれが馬鹿げたことなのだろう。誰かの分身が君を驚かせ、粗大ゴミに混じってマネキンの残骸が散らばり、そんな光景を空想しているわけではなく、大勢の老人たちがそれを遠巻きに眺めている。そんなはずがない。現実からかけ離れていることが、そこに何らかの美学を生じされているのかもしれない。でもそれがどうしたのか。たぶん表現できないのだろう。通常の言語を受けつけないらしい。普通に言葉を記せなくなっている。それが限界をかいま見るために必要だとは思えないが、何も台詞がないことをいぶかしく思い、通常の空間ではないことに気づく。また何かの冗談だろうか。でも誰が嘘をついているわけではない。

 エイプリルフールに何かを語っているつもりになり、さらにそれらを恣意的にねじ曲げているのかもしれない。でもおかしいままだ。このままでいいはずがない。それはわかっているが、わかっているだけに、途方に暮れるばかりで、現状を変える方法を思いつかず、それから君はどこでどうなってしまったのか。そういうことではないだろう。情報で何ができるのか。様々な問題を解決する術を身につけたつもりになって、それから何を目指すのだろう。嫌な感じだ。馬鹿なアイドルグループに馬鹿なことをさせて、それで金儲けに結びつけているのだから、それにはまっている人たちは自業自得なのだろうか。笑ってしまうが、何がどうなってこうなったわけでもなく、君たちのあるべき姿はああいう文脈や論理で語られるべきなのだろう。でもいったんそれについて語れば、君もそれに加担していることになってしまうわけか。そんなわけで君は説得力のある説明を拒否し続けている。それもある意味で馬鹿げたことか。どうでもいいことだろう。馬鹿げている以前にどうでもいいことか。それでも他人を惹き付けるために何か工夫が必要なのだろうか。ニュースを見れば、また爆弾テロか。それも目立つイベントではある。北朝鮮が予告している核実験も一目を惹き付けるためのイベントか。別にそれに魅力を感じているわけでもないだろうが、後になって軽率な行為が仇となるわけか。別にそれでもかまわないか。まだそこで何が始まったわけでもないらしい。君もそれにつられて何か思うこともない。


1月26日

 どうも今月中に今日の日付に追いつけないことが確定しつつあるようだ。これも運命か。現実に無理だったのだから、もうあきらめた方がいいのではないか。すでに来月になっているのではないか。でもそんなことはどうでもいい。とにかく言葉を記して、何としても今日の日付に少しでも近づけなければならない。それは無駄で無意味な努力だ。そう思ってはますますやる気が出なくなるだろうか。何となく横になりたい気分だ。どうせまた疲れているのだろう。だから今日はこの辺でやめておいた方がよさそうか。それは無理か。何が無理なのでもなく、すべてが無理なのかもしれない。でもすべてとは何か。すべてはすべてだろう。すべてがすべてでないわけがない。だがそれらのすべてにはインパクトがない。どうでもいいわけがないのに、それがすべてだと思い込んでいる。それでもすべてが知りたいわけか。だからすべてとは何だろう。意味がわからない。わかっているのにわからないような気になり、そのまま眠ってしまったらしい。深夜に起きて、また少し言葉を記してみるが、どうもしっくりこない。うまくいかないようだ。昨日は忙しすぎて昼休みを取らなかったので、疲れてしまったのだろうか。それだけのことか。たぶんそういうことでしかないらしい。気分の問題か。そういう語り方が気に入らないのだろう。何だかわからないが、自然とそうなってしまうらしい。

 少しは記述を進めておかなければならない。そう思うから言葉を記しているわけだ。要は簡単なことだ。でもそれだけで記述内容が空疎になる。それだけなのだから当然か。それはそうだ。そんなことしか記せないのだから、そういうことになる。そしてそれがどうしたわけでもなく、何となくそういうことだと思うしかなさそうだ。何か他に思いつくまではそうなったままだろう。それで何か不都合なのだろうか。記述の遅れを少しでも取り戻したいわけか。でも記すべき内容がない。いつもそういうことだ。今でもそうか。そういうことでしかない。それではまずいか。堪え性がなく、また眠ってしまいそうだ。かまわないのではないか。何もできていないのだから、そういう成り行きを受け入れた方がいい。でもそれは違うのではないか。受け入れ難いわけでもないだろう。いったいどちらなのか。どうなっているわけでもなく、単に仕事が忙しいから言葉を記している暇がないだけか。その通りのようだが、それ以前に何を記せばいいのかわからないのに、無理に記そうとしているのが、最大の問題なのではないか。でも何が最大なのだろうか。解決すべき優先順位的には、記すべき何かを見つけることが、目下のところ最重要事項になっているわけか。わけでもないのではないか。何が最大の問題で、何が最重要事項だなんて冗談もいいところだ。どうもそのへんでくだけてしまうところが、君の悪い癖らしい。でも君とは誰なのか。またそれだ。

 いくら問いただそうとしてもきりがない。要するに自問自答の予定調和を形成するばかりか。それがわかっていてやっているのだから、呆れてものも言えないか。今ここでこうして物申しているのではないか。そんなことを延々と語っていくと始末に負えない。でも何の始末を付けようとしているのでもなく、何の後片付けをやっているわけでもない。では今やっていることは何なのか。ただ昼休みの空き時間を利用して言葉を記しているだけか。その通りには違いないが、もっと何か前向きに努力していきたくなるような表現を思いつけないだろうか。仮に思いついたところで、そんなのは気休めのごまかしだろう。それでもないよりはマシか。では何か夢のあるような文章表現を模索してみようか。また冗談でそんなことを述べている。でもいつもそんなふうにして自らが述べていることを否定していると、気が滅入って、そのうち鬱病になってしまうかもしれない。もうすでにその兆候があったりするわけか。だからそれも冗談だろう。何を語ろうとしても自虐的にくだらぬ冗談を飛ばしてしまい、ますます自ら墓穴を掘っているような成り行きにのめり込んでゆき、そのうち自滅してしまうだろうか。すでにそうなのではないか。だからそれも冗談のたぐいになっている。それの何が冗談なのだろうか。何も冗談ではなく、何の冗談を述べていないところが、すでに冗談と見なされてしまうような状況なのか。そんなはずがない。


1月25日

 なぜそんなに急いで言葉を記すのか。君はおかしい。誰もがおかしいのではないか。それは違うだろう。君はこの世界を拒否しているのか。あれではだめか。何がだめなのだろう。ワーグナーがどうしたのだろう。『ニーベルングの指輪』でも見たいのか。冗談だろう。全部見ると十五時間ぐらいかかるらしく、四日間上演されるそうだ。見る気が起こらないか。レンタルショップにでも置いてあるだろうか。冗談か。でもワーグナーはおかしい。話の内容は紆余曲折の連続だ。笑ってしまうか。何がおかしいのか。誰かが映画化したらおもしろいのではないか。少なくとも『ロード・オブ・ザ・リング』よりはおもしろいか。難解でわけがわからないだけかもしれない。その手の批評家からは酷評されるに決まっているか。でも『ロード・オブ・ザ・リング』の話自体が子供騙し的に単純すぎるから、それを標準と考えた場合、『ニーベルングの指輪』の話が奇異に感じられてしまうのかもしれない。でも本当は逆だろう。『ニーベルングの指輪』の方が百数十年も昔に作られた話だ。こちらの話の方をちゃんと理解しないと、まともなメンタリティを獲得できないのではないか。もちろん君は冗談でそんなことを述べている。

 でも冗談の次には何が来るのか。何も来ないか。面倒くさいから何も来ないことにしておこう。実際に来ていないのではないか。だからさっきから冗談だと述べているだろう。その次など何もありはせず、ただ無駄に無意味な言葉が連なるだけか。神々は人間と同じように邪悪な存在か。そんなはずがなく、それは悪魔なのではないか。でもそうだったらおもしろいか。すべては空想上の話だ。それも冗談の一部なのか。違和感がある。それの何が話なのか。何も当てはまらない。夢と幻想の何が違うのか。何だか急に眠くなり、言葉を記すのをやめていたらしい。我に返ってから何をしたのだろうか。頭の中でつながらなくなる。そしてため息が出るのだろうか。まるでいつかの体験と同じか。いつもそうなのではないか。君はそうならないようにしたいのだろうか。いったい何が起こったのだろう。神々の邪悪さとはまったくのところ無関係ではないか。途中から何を述べているのかわからなくなる。またわざとそうやっているのだろう。また面倒くさくなってきたのだろうか。きっとそうに違いない。もうワーグナーの話などどうでもよくなったのではないか。でも映像技術が進歩するのに比例して、肝心の話の中身が子供騙し的になってくるのはどうしたわけなのか。人々の間で話の理解力や想像力が退化しているわけか。

 一概に言えず、ある部分ではそうでもないような気がする。まだこの先がありそうだ。マイナーな分野では複雑怪奇で意味の定かでないことが盛んにおこなわれているのではないか。それも想像の域を出ない話か。君は直面しているのはそういうことではない。ではいったい何にうんざりしているのか。先が見えてこない。それは作られた話などではなく、実際に体験しつつある現実か。誰によって演じられているのでもない、話にならないような現実だ。君はまた嫌になっている。嫌になっても救われず、何の報いももたらされず、嫌になったままになるわけか。それが現実なのだろうか。主要登場人物たちが最後まで生き残る『ロード・オブ・ザ・リング』が、よりフィクションに近いのに対して、途中で死んでしまう『ニーベルングの指輪』の方が、より現実の世界に近いのと同じことか。英雄のジークフリートがわけのわからない紆余曲折的な運命に翻弄され、ついには殺されてしまったりするのだから、それはアフガン戦争の英雄であるマスード司令官が、タリバンによって殺されてしまったことと似ていなくもないか。有能な者ほど殺される確率が高いのだろうか。矢面に立たされているのだから、それは当然のことだ。でも冗談だろう。強引かつ荒唐無稽なこじつけもいいところだ。そんなことを述べて、君は何をごまかそうとしているのか。いったいそれらの何が冗談なのか。君にわかるわけがない。また意味不明に逃れようとしているようだ。


1月24日

 ますますわけがわからないか。でも何となくそれでいいような気がする。もう間に合わない。それはわかっていたのではなかったか。もう翌日だ。何でもないのにそれはない。外は晴れていて、取り立てて語ることもない。正気とは思えないか。たぶんそれが通常の感覚なのだろう。考えるのが面倒くさいのか。きっとそうだ。でもそう決めつけてはまずいのではないか。いつまでも続かない。確かにそれはいえる。一過性のことだ。だから黙って眺めていればいい。いつかは終息して行ってしまうだろう。だから斜に構えることもなく、正面から事態を見据えて、何を思うわけでもないような気分となり、静かな時がやってくるのを待っているのだろうか。誰もそれで済むわけがない。そんな感覚も違うのかもしれない。何かをいなしながらも、そんな動作を嫌悪するわけでもなく、逆にそれと戯れるわけでもなく、無視しているわけでもない。それほど嫌がっているわけでもないということか。では何なのか。たぶん現状のままだ。

 どうなっているわけでもなく、また仕事をする日々に埋没している。嫌なことなどいくらでもあり、それがどうしたわけでもないのに、そんなことにこだわるのが気に食わないのだろうが、ストレスが増してゆき、やはりそれをかわしきれないことに気づき、何かにつなぎ止められ、束縛から逃れられないのだろうが、それでかまわないのかもしれない。気晴らしに音楽でも聴きながら、何を思うこともなく、本当は何か思っているのだろうが、また忙しくなって、そんなことはすぐに忘れてしまうのだろう。数日後の今日は晴れて暖かくなる。まだそこで踏みとどまっているのだろうか。かろうじてか。でもやがてそんなことはどうでもよくなってしまうのだろう。人間として一番大切なことを他人に説いて回りたがる輩もいるのだろうが、そんな書物の広告を電車の中で見かけながら、それにすがりついて真に受け、何かわかったような気になる人も大勢いるのだろうが、別にそんなことをわかる必要もないような気にもなって、そのとなりに目を転じれば、ついていきたいと思われるリーダーになるには、とか言うハウツー本の広告に目が止まり、よくあるパターンなのだろうが、やはり成功した会社経営者は、そんなことを人々に伝えたがるものなのか。たぶんそういうことだ。

 偶然とは何か。人は偶然に成功したり失敗したりするものなのか。できれば偶然をできうる限り排除して、必ず成功する秘訣というやつを知りたがるのかもしれない。そのためにハウツー本があるわけだ。たぶんそれらの書物はそれを教えているのだろう。世の中はすばらしい。みんながそんな書物を読み漁れば、みんな成功するかもしれないが、そんな本を金を出して読むほどおめでたい人もあまりいないから、成功する人も限られているというわけか。そんなはずがない。たぶんそれは冗談か何かなのだろうが、本気でそんなことを述べているわけでもないのに、そういう方向で皮肉の一つも付け加えたくなるのかもしれない。馬鹿げているだろうか。別にそれでかまわないか。馬鹿げていることでも積極的に主張しないと、無視されるだけか。別に無視されてもかまわないから、できるだけ慎重に言葉を選んでまともなことを主張すべきなのではないか。でもまともな主張が万人に受け入れられても、それはあらかじめ受け入れられていることをおうむ返しに主張しているに過ぎないのではないか。だからそういう主張の集大成が紋切り型辞典として世間に提示されているのではないか。でも何が紋切り型辞典を形成しているのだろうか。もしかしてその一部を形成しているのが、ハウツー本のたぐいなのだろうか。そうだとしても他に何があるというのだろう。何もないわけがないか。ではそれをこれから探しにいけばいいわけか。探す根気と暇がない人は、その手のハウツー本で満足すべきか。


1月23日

 またここに戻ってきたような気がするが、別にここはフィクションの中ではないらしい。でも冗談の次は何がくるのか。何が冗談でもなく、その次にどんな言葉が記されようと、たわいない内容にしかならないだろう。まだここで右往左往している。道に迷っているわけではないが、どんな道もありはしない。何が道でもなく、ただそこに道という言葉が記されている。それがどうしたわけでもないのはもちろんのこと、それを使って何をしようとしているわけでもない。どこに何があるとも思えず、ここに何かがあると思えるとしたら、ここにはこの世界があるわけか。そんなことは当たり前か。しかし何が間違っていたのだろうか。何が間違っていたわけではなく、やっていることのすべてが正しかったのだ。だからこうなってしまったわけか。いったいどうなってしまったのだろう。君はまだ嘘をついている。そういうことにしておきたいのだろう。そうではない。では何が間違っていたのか。それを知り得ないところが間違っている証拠となるだろうか。でもそれではわけがわからない。だからそれはいつものことになる。要するにまたいつものようにくだらぬ逡巡を繰り返した末に、予定調和のごとく振り出しに戻ってきたわけだ。それで何がわかったのだろうか。たぶん何もわかり得ないことがわかったと思いたいのだろうが、そんなのはごまかしだ。たぶんそれは正しい認識だ。でもそれだけのことだろう。それ以外にどんな解釈が可能なのか。

 またそんな曲を聴いている。毎度おなじみを何十年と繰り返しているのだろうか。そうかもしれないが、それが許される環境が彼の地にはあるらしい。そんなことがあり得るだろうか。あり得るからこうしてまた同じ曲を聴いているわけだ。それで満足なのか。何がそうなのだろう。わからないからこうなってしまう。でも何のことでもなく、何を述べているのでもないみたいだ。それで困惑しているわけか。別に困っているふうではない。ただ夜空を見上げて、何を思い、何を考えているふうでもなく、ただそんなことを思うのが面倒くさいだけなのかもしれず、心がそこから外れ、さらにどうでもいいような気になってしまい、わざとそう思っているわけでもないのに、何となくそれを繰り返しているようだが、別にそれがおかしいとは思えない。ただそんなことを記しているだけで、次第にわけがわからなくなり、何を述べているのでもないのに、言葉だけが延々と連なっている状況が馬鹿らしく思えてきて、だんだん投げやりな気分となっているようだが、それでも言葉を記す意味があるのだろうか。意味がないからそんなことを延々と記しているわけか。そんなことはあり得ない。またそんなふうに思ってしまい、何だか言葉が続かなくなっている。それでかまわないわけか。かまうわけもなく、さらに記述を続けようとしている。難儀なことだが、何もなくてもそれを続けようとしているのだから、そうなって当然であり、要するにそれでかまわないと思うしかなさそうだ。実際にそうなっているではないか。

 何もそうではないのに、結局はそうなってしまい、そうなるしかないような成り行きに巻き込まれ、それからどうなってしまったのだろうか。君はまだそこで悪戦苦闘の最中か。そうではないと思っている。たぶんそんな状況を利用して、自らの力が及ぶ範囲を広げようとしているのではないか。そういうやり方は卑怯だろうか。でも成り行き的にそうなるしかないのだから、そんな状況の中でそんなことをやり続け、さらに言葉を記そうとしているようで、そうやって何とか今日という日付に追いつきたいのかもしれないが、実際に追いつくのはまだずいぶん先になりそうだ。遅れを取り戻せないからこうなっていて、そんなことを述べているのも、こういう状況から派生した出来事に含まれ、それらすべてが何を虜にしているわけでもないのに、何となく状況に絡めとられ、そこから抜け出られなくなっているわけか。それでかまわないとは思わないのか。おそらくかまわないのだろうが、いくらかまわないと思っても、実際はそうではない場合があり、かまわないわけではないのにかまわないと思い続けて、たぶん何とかなる機会を逃してしまい、停滞から抜け出られなくなっているわけか。それでもかまわないと思いたいのか。たぶんそうだ。そうだからこそこんな具合で言葉を記しているわけだ。馬鹿げているだろうか。そうだとしてもそれを利用しない手はないというわけか。現実に利用しながらここまで記してきたではないか。これが冗談だとは思うまい。冗談でなければ何なのか。何でもないか。たぶんそうだ。そうに決まっているだろう。決まっているからこそ、こうなっているわけだ。


1月22日

 眠いのだろうか。さらに何となくそんなことを記してみる。たぶんそんなことはそんなことの範疇でそんなことだ。この期に及んでさらなる冗談が必要だろうか。それの何が冗談だというのか。ありふれた話だ。でも何がありふれているというのだろう。何となく途中でやめてしまい、何をやめたのか思い出せないふりをする。実際に何をやめたのか。だから冗談なのだろう。そうに決まっている。でも何が決まったのでもない。まだ何もかもが未定なのだ。意味がわからないからそういうことにしておきたいのだろう。努力して報われない。がんばってみてもだめか。それはいったい何のことなのか。何でもないと言えば嘘になるだろうか。実際に何でもないから嘘になりそうだ。本当にどうでもいいことだ。やはり考えるのが面倒くさいらしい。ため息が出る。元気がない。別にかまわないだろう。子供騙しか。メディアが飛びつくのは子供騙しが多い。またあくびが出る。面倒だが、本当にそれでいいのだろうか。面倒くさいのだから、そういうことにしかならない。本気でそう思っているわけではないが、紋切り型的な思考に違いない。それでかまわないだろう。何を見ているのか。何も見ていないわけではないが、そんなことはどうでもいいことだとは思うが、何か引っかかるものを感じながら、何とかそこで押し流されるのに逆らっているようだ。なぜだろうか。何でもないのになぜも何もないか。

 勝手な物言いだ。どうせまた面倒くさいのだろう。要するに意味不明なのか。わけがわからなくなるのはいつものことだ。何でもないのにそれはないだろうか。それもいつも繰り返し述べていることか。でも何となくここまで記してきた。それだけのことか。たぶんそれだけのことだ。実際にそれだけのことで苦労している。そんなことでしかないから苛ついているわけか。でも実際にそんなことでしかない。ただ面倒くさく、何をどう考えていいのかもわからず、答えなど何も出てこないようなことを問いかけられ、それで困惑してしまうわけか。それはやはり冗談のたぐいなのだろうか。きっとそうだ。そうとしか考えられず、その通りだと思うしかない。だからそれが冗談そのものなのではないか。いったいそこで何が繰り返されているのだろうか。怠惰な営みか。それだけではない。それだけならつまらないから、それだけではないと思い込もうとしている。それがそもそもの間違いなのだろうか。要するに疲れているのだろう。もう眠たくて仕方がないようだ。ではそのへんでやめておくべきか。そうならないところがくどいか。ついでに回りくどい。どちらも似たようなものだろう。少なくとも選りすぐりの言葉が連なっているわけではない。ただそんなことが記されているだけか。それの何が悪いのか。あるいは気に入らないのだろうか。

 どうやら無駄に無意味に語りすぎている。また翌日になってしまったらしい。そんなはずがないだろう。君は何か勘違いしているのか。だからそんなはずがないと述べているではないか。どうせまたいつもの意味不明に決まっている。まだそれはこの時点ではわからないか。ここまで記してくればすでに明らかになっているはずだ。もはや虚無から逃れようがなく、終始意味不明なことを述べている最中なのではないか。そんなことを思うと恐ろしくなるだろうか。それは何だかわからない。そんなことを記している最中に、不意に何かを思い出したはずだが、もう忘れてしまったらしい。なぜそうなってしまうのか。わざとそう述べているのかもしれない。他に何を述べることもできずに、気がつけば延々とそんなことを記しながら、考えていたすべてを忘却の彼方へと押しやってしまうのだろうか。そんなはずがない。たぶんそうではないのだろう。では実際のところはどうなのか。相変わらず何でもない状況下で言葉を記しているだけか。具体的にそれはどんな状況なのだろうか。朝起きて飯を食って、仕事に出かけて仕事をして、昼休みに飯を食ってまた仕事をやって、夕方になり家に帰って飯を食ってから、そしてようやく画面に向かい、相変わらずわけのわからないことを記しているのだろうか。そんなことが延々と繰り返され、それから君はどうなったのか。たぶんどうにもならずにここにいるらしい。それだけでは退屈で死にそうか。でも退屈なだけでは死にはしない。現実に死んでいないから、またこうして言葉を記しているわけだ。


1月21日

 また急いでいるのか。そうに決まっているだろう。時間がない。それは本当だろうか。今度は嘘に決まっているか。何も嘘ではなく、とにかく唐突に記述を開始したらしい。内容は至って空疎なままだが、それが何かのリハビリになるのかもしれず、本当かどうかは知らないが、何も本当ではないのかもしれない。やはり何を語っているわけではないらしい。でも架空のどこかで語っているのではないか。意味がわからないが、意味などどうでもいいことか。ただ言葉が記されていればいいのだろうか。それもおかしい。おかしいことかもしれないが、実質的には何でもない。聴いているのはDelaのLive the Life (feat. J.Sands)か。なぜだろう。これこそ意味がないか。歌詞がありラッパーが早口で語りかけているのだから、意味がありそうだが、君にとってはどうでもいいことだ。ただそんな曲を聴いている。それだけのことか。たぶんそうだ。次はトゥーツ・シールマンスで『酒とバラの日々』になる。だからどうしたわけでもないだろう。ただそんな曲を聴いているだけだ。何だかわからないが、そんな雰囲気を感じ取っている。夜だからそういう感じなのだろうか。意味がない。もとからそうだ。いつもそうではないが、今日は冷静に言葉を記せると思う。だからそれは独り言で冗談だろう。たぶんそうだが、何となくそう思っているのだから、そういうことにしておこう。やはり意味がない。

 どうも空気を読めないようだ。それは空気が無色透明だからか。そういうことではない。言葉の意味などどうでもいいことのようだ。もっと積極的に考えなければならない。しかし冗談の続きで何が言えるのか。今述べていることが冗談ではないということか。それも違うと思う。意味がわからないのだから、そういうことにしておきたいだけではないのか。だから何だかわからなくなり、次いでそういう語りを放棄したくなる。延々とそうなっているようだ。そこで誰かが何か語っているようだ。先日見たドキュメンタリーでは、毛沢東主義者のおっさんが、マルクスという偉大な革命家が現れて、次いでもっと偉大なレーニンが現れて、次いでさらに偉大な毛沢東が現れたのだから、この先もっと偉大な革命家が現れて、我々を正しい方向に導いてくれるに違いない、と主張していた。中国人は大丈夫なのか。あまりに単刀直入で正直すぎないか。彼らは何を目指しているのだろうか。君は何も目指してないのではないか。だからそれが冗談のたぐいだと感じてしまう。たぶんそれでかまわないのだろう。かまわないわけがないか。低賃金で働きすぎて過労死した知り合いや、高級ワインのボトルを落として割ってしまい、店の主人に金槌で何度も殴られ、廃人となった知人もいるそうだが、実際にそういう現実の中に身を置いてみれば、冗談ではなくなるのだろうが、君はそこから遠く離れた場所で、そんなことが語られているドキュメンタリーをテレビで見ているわけだ。これが冗談でなくして何なのか。要するに救世主の出現を待望しているわけだ。

 まあ人それぞれだ。世の中はすばらしくも残酷らしい。蟹工船の世界が未だ世界のどこかにあるようだ。それが冗談であろうとなかろうと、人は本質的に愚かなのだろうから、何となく考えるのが面倒くさくなり、次第に眠たくなってしまうのだろう。そして何もやれなくなって、怠惰に押し流され、身の回りのことで手一杯となるだけか。好き好んでそうなってしまうわけでもないのだろうが、実際にそういう立場になれば、そうなって当然のことか。大した差はない。でも何が大同小異なのだろうか。それがどうでもいいことだと思ってしまうことが、意味のないことである証しとなってしまうのか。でもそんなことを語っていて楽しそうに見える。きっと明るい未来が到来することを夢見ているのだろう。それで毎日前向きにがんばっているわけか。そのへんが大同小異であるわけか。きっとそうであるに違いない。世界のどこにいようと、そこで何を思っていようと、どんな境遇で暮らしていようと、あまり大差はないのではないか。なぜそう思ってしまうのだろう。理由など何もないか。理由を考えるのが面倒くさいのか。いったい何が理由となれば、納得がいくのだろうか。納得できなくてもかまわないのではないか。そこにどんな理由が付け加わっても、それが納得できるような理由ではなくても、何となくそれでかまわないような気になってしまうだろう。要するに君にとってはどうでもいいことだから、そう思われてしまうということか。そんな理由でもかまわないのではないか。ならばたぶんそういうことだ。ここは面倒くさいので、そういうことにしておこう。そうでなくてもかまわないのだろうが、そうであってもかまわない。


1月20日

 急いでいるようだ。何がドラマなのか。少しは頭を冷やしたか。でもまだ何がどうなっているわけでもないだろう。話の続きが見えてこない。何もないようだ。何となくそう思われる。ではまた振り出しに戻るのだろうか。でもすでに出発した地点を見失っている。君はどこから来てどこへ向かおうとしていたのか。またさらに寒くなってきたようだ。ではこの辺が限界だろうか。もうすでに翌日の昼だ。どうせまた夜になってしまうだろうが、未だに何だかわからない。誰かが晴れた青空を見上げている。そんな気がしただけか。いつか見た空のはずだ。でも何でもないことだろう。何を考えていたわけではない。でも何も考えていないわけでもないだろう。だがどうでもいいことか。何でもなく、どうでもいいことを考えている。そういうことなのだろうか。中国人同士が激論を交わしている映像をテレビを通して眺める。それがどうしたのだろうか。どうかしている。たぶんそういうことだ。無駄な言葉が並んでいるらしい。それを誰かが記しているのだろう。何も変わらない。そう思って差し支えない。それが間違っていようと、気にするつもりはないらしい。

 もう休み時間が終わる。また夜に記すつもりのようだ。でももうさらに翌日の昼か。夜になったら寒くて眠ってしまったらしい。そしてついに一週間以上遅れてしまった。もうだめか。だめならやめればいい。やめたら楽になる。それは本当だろうか。さあどういうことなのか。どういうことでもない。いったい君はどうなってしまったのか。いつもと変わらないはずだ。確かに変わらず、忙しいから言葉を記す暇がないだけだ。それだけのことなのに、悩ましく鬱陶しく焦れったいか。そんな思いでもないだろう。飲んでいるコーヒーが甘すぎるか。だからどうしたわけでもない。もう夜だ。仕事に追われ、戻ってきてから何をやるでもなく、またうんざりするような記述作業に挑戦中か。馬鹿げているだろうか。内容が何もないことがやる気をなくしている原因なのだろうが、でも仕方がない。現実にこうなっているのだから、これはこれで受け入れなければならず、それでも記述作業を続行したいのなら、このままやるしかないだろう。耐えられないか。ならばやめたらいい。何だかまた眠ってしまったらしい。起きてやる気を出して何が悪いのか。どうせまた面倒くさくなったのだろう。栄養ドリンクでも飲んで、もうしばらく言葉を記すとしよう。

 危うくまた何もやらずに翌朝になるところだった。でも相変わらず記すことなど何もなく、このまま空疎な内容となってしまいそうだ。それでかまわないのだろうか。よくわからないが、わからない方がいいのではないか。もうだめなのかもしれないが、だめでもかまわないような気がしてきて、だめなままで終わってしまいそうな気配が漂ってくる。すでにそうか。そうに決まっている。何だろう。何でもないに決まっている。そんなことしか記せないのか。そういうことだ。何かがおかしくなっている。そういうことのようだ。ほうじ茶でも飲んで気を落ち着けるとしようか。そのために昨日買ってきたわけか。そういうわけでもないだろうが、たまたま成り行きでそうなっただけのようだ。それでかまわないはずだ。こうなったら無内容のままもっと先まで記してしまうのではないか。防寒対策も万全か。でも肝心の内容がない。それで記述を続けようというのだから無理もいいところだ。でも無謀ではない。これまでもそんなふうにして続けてきたはずだ。独り言のつもりで、そんな体裁を繕ったつもりになり、それで何も語らずに言葉を記しているわけだ。そしてわかったようなわからないようなことを述べている。それでかまわないか。冗談だろう。


1月19日

 たぶんそれでも何かが変わっているのだろう。確かに変わっている。何も変わらないと思ってみてもかまわないのだろうが、少しも変わっていないわけではない。誰も何も変わっていないのではないか。それは違うかもしれないが、この先誰がどうなろうと、誰が死のうが生きようが、知ったことではないのかもしれない。でも君は今のところは生きているはずだ。いつ死ぬかわからない。今も死にかけているのだろうか。今にも死にそうか。そんなはずがない。こうして誰かが言葉を記しているではないか。だから何だというのか。誰のことでもありはしない。少なくともそこで死にかけているのは君ではない。そんな話のフィクションを読んでいるわけでもない。では何なのだろう。単なるその場の気まぐれか。でも依然としてよそ見をしながらも、着実に言葉を記しているではないか。でも寒くて眠ってしまったらしい。どうやら過去最大の遅れに近づきつつあるようだ。もうだめなのか。だめならやめればいい。やめなければやればいい。いったいどちらがいいのか。

 どちらでもないのかもしれない。それはどういうことなのか。今朝も指先がしびれている。何かがおかしいようだ。本当に終わりが近づいているのか。そんな予感がしているわけか。そうだとしてもそれがどうしたわけでもないだろう。判断がつかず、どのような認識に至っているわけでもない。やるならやればいいだけか。どのような状況に陥っているとしても、そんな状況下でひたすら努力するだけなのか。わからないか。何をわかろうとしているのでもないはずだが、とりあえずはわからない。理解できないらしい。理解し難いようだ。でもわけがわからないのはいつものことだろう。そんなはずがないと思いつつもそんなはずなのか。君は愚かだが、そんな認識もおかしい。言葉を記しているのが君ではないのだから、誰が愚かなのでもないか。とりあえず遅れながらも続けている現状を認めよう。それだけのことかもしれないが、それでかまわないのだろうか。まずいのかもしれないが、君にどうする力もなさそうだ。

 確かにそれほどの力はないが、微力ながらもどうにかしようとしているのだろう。でも何をどうにかしようとしているのだろうか。ただ言葉を記しているだけではないのか。それで何がどうなるわけでもないか。でもそれが死に至る病と結びついているわけでもないのだろう。だから唐突にそれは何なのか。わざとらしく意味不明に逃れようとしているわけか。でもなぜそうなるのか。君はこの社会の仕組みを理解できない。でもこの社会とは何か。何が問われているわけでもなく、君がこの世界に存在していることを前提として、それらの何かが成り立っているはずだ。だが何かとは何か。その他諸々の何かなのだろうか。答えにも結論にもたどり着けない。問うだけではだめなのではないか。そんなのはわかりきっている。たぶんこれらの支離滅裂で互いに何の関連性もない問いを視界から一掃しなければ、何も見えてこないのではないか。実際に見えていない。いったい何を記したらいいのだろうか。たぶん何も記さなくてもかまわないのかもしれない。でもそれでは終わりではないか。だから終わってもかまわないのだろう。

 それではまずいか。まずくはないのだろうが、誰かが粘り強く言葉を記しているようだ。何もないのにご苦労なことか。何もないわけではないのだろうが、やはり記せないらしい。人はなぜそんなところでがんばってしまうのか。強情なのかもしれない。そこで何かを思い出したようだが、該当する言葉が出てこない。それをどう言い表せばしっくりくるのか。わかるわけがない。確かに人は愚かだが、自らの愚かさを自覚できるうちはまだマシな方か。たぶんこの世界にある何らかの存在を肯定しなければならないのだろうが、何を擁護する必要があるのか。どんな行為を積極的に賞賛しなければならないのか。外で犬が鳴いている。何かを認めなければいけないのだろうが、現実には安易にけなしてばかりいるようだ。他人がやっていることをすぐ否定したい衝動に駆られるようだ。それではだめか。だめではないのではないか。それはこの社会に暮らす人の習性というものだ。要するにそうなって当たり前というわけか。そういう習性から脱却するのは容易ではない。だからもう少し考えてみなければならないわけか。でも重要なのはそんなことではないだろう。それどころか目下のところ何も重要ではないのではないか。でもそれでは話にならない。


1月18日

 何でそうなってしまうのだろう。何か変わってしまったのだろうか。風景は何も変わらない。君は老けてしまったのではないか。何も思いつかず、何もやろうとしない。そこで誰が死んでいるわけでもない。それは知り得ないことか。人は過激になる。そういうのが好きな人もいる。別に目つきがきついわけではない。では何なのか。またこんなところで眠たくなってしまうわけか。何もありはしない。それは本当のことだが、別に嘘をついてもかまわないのではないか。よくわからなくなってきたようだ。では何なのだろう。つまらないのか。君がそう思っていて、そして何か音楽を聴いている。意味がない。いくらでもありそうだが、一応はそう述べておこう。何だか面倒くさいようだ。それ以上の感想はない。どうしようもないか。また音楽を聴いている。気持ちがバラバラだ。そんなのは知ったことか。君は何も知らないようだ。またそんな嘘をつく。そんなことは気にしていないようだが、寒いのではないか。確かにそうだ。そんなことはないが、そうだと思っている。わけがわからないが、そういうことらしい。

 そしてもうすでに翌日の夜だ。また疲れて眠ってしまった。どうやら限界が近づいているのかもしれない。しかしそれは何の限界なのか。記述の限界か。何だかわからないが、やる気が出ない。それでも言葉を記そうとするが、うまくいかないようだ。別に巷がうんざりするような出来事で埋め尽くされているわけでもないだろう。何に嫌気がさしたのか判然としないが、何もしないでいると、どんどん時が経ち、何もやっていないことに対する自責の念に駆られる。そんなはずがないと思いたいが、別にそれでもかまわないか。

 一応はそういうことらしい。難局を乗り切る力がない。でも難局ではない。では何なのか。容易く乗り切れる程度の現状か。何を確かめているのだろうか。今日ですべてが変わるわけがない。君がそう思いたいだけなのではないか。誰もそうは思わないか。でもここまでやってきた。変わるためにやってきたわけではなく、変わりたくないからやってきたのではないか。そんなはずがないと思いたいのだろう。それは違うか。何が違っているというのか。君が違っていると思うのはどういうわけなのか。たぶんそういうことではない。またそれだ。もうそれしかないのだろうか。何のことでもない。だからたぶんそういうことだ。

 でもそれがどうしたのか。さっきから何も進展していないではないか。だが何を進展させようとしていたわけでもない。それはどういうことなのか。意味がわからなくなる。誰もわかりはしないだろう。何をわかろうとしているのか。それがわからないなら、わかりようがない。たぶんそういうことだ。そうではないのにそういうことになってしまい、当人には何の認識もないのに、何を認めたらいいのかわからなくなる。何も認められず、自らが限界であることすら忘れ、何となくそこで言葉を記している。たぶん自らが正気でいると思っているのだろう。実際に存在しているではないか。不在だとは思えない。いったい何が実在しているのか。この世界がか。君にそれがわかるだろうか。わかるわけがないと思っているのだろうか。それでも知っているはずだ。君はこの世界のすべてを知っている。またそんな嘘をつく。静かに向き合うことすらできない。でも何に向き合っているのだろうか。それは自らが招いた状況のすべてにか。そうではない。そんなはずがないと思いたいのだろう。でもわからない。


1月17日

 これでどうなのか。どうということはないのか。たぶんさらに空疎を極めようとしている。胸が苦しいか。昼間走り回ったから息が切れた。今は違うだろう。今もおかしい。今が今ではないからおかしいのか。エナジードリンクを飲んだ。それで元気になったのだろうか。わからないが、相当疲れているのだろう。たぶん死にそうだ。でも何も感じないではないか。神経が麻痺しているのだろうか。そんなはずがない。まだ何とかなっている。そう思いたいのだろう。別に思わなくてもかまわないだろう。それでも何となくそう思う。首を傾げて、何かがおかしいような仕草をしてみるが、そんなのは関係ない。今に君にとって何が大事かと言えば、何も大事ではないということになるだろうか。そんなはずがない。休んでいる場合ではなく、とにかくここで言葉を記さなければならない。でも自らを奮い立たせるには及ばず、脱力したままでも結構だ。また面倒くさくなってしまったのだろうか。だから何だというのか。逆ギレしたふりをしたいわけか。でもそんな嘘は通用しないだろう。ここではそうなのか。そうでもないか。

 今は終電に乗っている。それでどうしたのだろう。新幹線が急停車したわけか。とりあえず今は動いている。原因は不明のままか。ただ説明がないだけだろう。それだけのことか。面倒くさいからそういうことにしておこう。胸の痛みはいくらか改善しただろうか。心筋梗塞の兆しか。それならばもうとっくに死んでいる。お前はもう死んでいる。それは誰かの台詞だ。あくびが出る。当たり前だろう。毎日がこれではもたないか。だからもう死んでいるはずだ。誰が死んでいるわけか。とりあえず君ではない。君は届かない。どこへ到達するのか。エベレストの頂上か。富士山の天辺までも登れないだろう。ただその気がないだけだ。また面倒くさいのか。そんなところまで行っている暇がない。君にはできない。そう思って差し支えない。でも何ができないのだろうか。そこが問題というわけでもない。何ができなくても何も気にすることはない。ただ眠たいだけか。

 また夜景を眺めている。レンブラントの『夜警』を見たことがあるだろうか。テレビでなら見たことがあるのだろうか。見たついでに彼の栄光と挫折の人生が語られ、何やら感動したような気になるわけか。ジョニ・ミッチェルのかすれた声がイヤホン越しに響く。レンブラントの老いた自画像を思い出しながら、彼が成し遂げた業績について、思いを馳せるわけもなく、ただの画家だ。巨匠だったのかもしれないが、それがどうしたわけでもなく、遠い過去の出来事が連なって、誰かの人生とシンクロしているわけだ。ゴヤとかはもっと悲惨か。描いた絵によって何かを告発していたのではなかったか。でも不条理がまかり通るのが世の常だ。少し眠ってしまったらしい。もう限界だろう。果たして駅から車を運転できるだろうか。だんだん心配になってきた。本当に眠ってしまったらしい。でも終点が目的地だから、寝過ごしても大丈夫だ。そしてもう少しの辛抱だ。

 何かが出来上がり、一段落つくはずか。聴いているのはパット・メセニーのギターだろう。川の流れは有限であり、どこまでも流れているわけではない。コートに手提げ鞄の人たちが大挙して降りる。きっと家路を急いでいるのだろう。君もそうしたいか。君がそうしなくても、すでにその途上にあるのではないか。やる気がしないようだ。そんなお前に未来はない。きっとそれは他の誰かの未来だ。フィクションと現実は違う。いったい何が違うのか。現実の世界では、誰かの誇大妄想なんて簡単に跳ね返され、自らの認識の甘さを思い知らされる。虚構の中では簡単に実現されることが、現実の世界ではどうなのか。現状がこれだ。いい加減でいいのか。これくらいでいいのではないか。だんだん面倒くさくなってきたのか。でもここからが勝負なのか。誰と勝負しているわけでもないのに、それはないだろうか。なくてもかまわず、勝負しているつもりで言葉を記せばいいのか。冗談のたぐいかもしれない。


1月16日

 やはり何だかわからないが、何を切り抜けたわけでもないのに、何となくここにたどり着いたようだ。こんな感じでここまでやってきたわけだ。今は夜だ。何がどうなったわけでもないのに、やはりこんな感じなのか。人が忙しなく動き回り、君もつられて動き回る。それは昼のことだろう。そして今は休んでいる最中か。そうでもない。言葉を記している。それだけのことか。いつものことだ。他に何があるわけでもなく、テレビを見ているわけでもない。少し働き過ぎか。でも寿命を縮めるほどのことでもなさそうだ。要するに忙しいが、過酷ではないということか。何をどう説明しても、わかりやすい説明とはいかないようだ。何でもないことなのだろうか。それはそうだ。ではやはり何がどうなっているわけでもないのだろうか。たぶんそういうことになる。そこで何がどうなっているわけではなく、世界中でも何がどうなっているわけではなさそうに思われ、要するに大したことはないのだろう。

 うまくいかないことだらけなのかもしれないが、それでかまわないような気がするのもいつものことだ。でも結果的には前進しているのではないか。石が転がるように、どこかへ状況が動いてゆく。そんな言い方でかまわないのだろうが、たとえになっているかどうかは定かでない。そうでもないような気がするが、そうであってもかまわない。それがどんなたとえであっても、しっくりこないのは承知の上で記している。それで何がおかしいとも思わない。今は夜で、深夜に近づいている。そしてそれがどうしたわけでもないのも、君の知ったことではないか。誰もそんなことは知らない。だからそう思っていればいいのではないか。もう何でもかまわないか。でも何でもないのだろう。そこから意識が外れて、どこかで浮遊状態になろうとも、君の知ったことではないか。

 では君は何を知りたいのか。そういう問いには答えようがない。でも知っていることはたくさんあるのだろう。ではその一つ一つに何か関連性を見出したいのか。頭の中は関係のないことで満たされていたりするわけか。眠たい。そしてとりとめがないが、指先が軽くしびれている。あかぎれも痛いか。冬になると決まってそうだ。夜空を見上げれば星が瞬き、遠くの夜景にも見とれてしまうか。そんなことはない。でもさっきまでは眺めていたはずだ。では眺めていること自体に何の意味を見出したいのか。またそれだ。それも君の知ったことではないのだろうか。たぶんそのへんでとりとめがなくなっていて、何を記したらいいのかわからなくなっているはずだ。迷走状態なのだろうか。あるいは酩酊状態のような気分か。どんな気分でもありはしない。ならば他に何か否定したいのか。たぶん何もありはせず、ただ他に記すことがないだけのようだ。

 かろうじてそんなことを述べている。現状はそんなところだ。たぶん眠たいのだろう。もうすでに眠っている。でも自宅に着いたではないか。まさかここからまた引き返すのか。冗談だろう。冗談ではないか。どちらなんだろうか。明日がある。用事があるのだろう。だからここからまた引き返すわけか。郵便受けの中身を確かめただけで引き返そうとしている。まったく難儀なことだが、来週とそのまた一週間後は何とか一晩泊まれる予定のようだ。まだまだこれからだろう。これから何とかしなければならない。本当にそう思っているのだろうか。行き当たりばったりでもかまわないのではないか。実際そうなっているのではないか。でもそれで何とかなっていると思っているのだから救われない。でも救われていると思いたいのか。そんなところだ。救われようと、救われなくてもかまわない。どうということはなく、そんなことを記して何になるわけでもなく、それで何とかしていると思っているのだから、おめでたいのだろうか。おめでたくてもかまわないだろう。


1月15日

 気がつけばこんなに遅れているのか。寒い。たぶんこのままだ。もしかするとさらに遅れてしまうかもしれない。そうなったらなったでかまわないか。疲れているのだから、何がどうなっているのでもなく、いつもの夜だ。何も語ることがないのも、いつもと同じような状況か。何も変わりないのだろうか。何を疑っているわけでもない。紛れもない真実というわけか。冗談ではないのだろう。こんなこともあるらしい。うまくいかない時は、とことんうまくいかないのだろう。次第に取り返せなくなり、これが最大のピンチなのかもしれないが、別にそれがどうしたわけでもなく、ただ淡々と言葉を記すだけのようだ。それだけなのだろうか。しかし現実は現実で、遅れを取り戻せない現実がある。笑ってしまうか。でも強がっている場合ではないはずだ。

 でもどうにもならないのは確からしく、それは自ら招いたことなのではないか。そうかもしれないが、そういう成り行きなのだから、それはそれでそういうことでしかないのではないか。今はそんな成り行きに逆らうつもりはなく、真摯に受け入れて、その合間に言葉を記すだけか。今もそうしているのではないか。その通りだ。少しずつでもそんな状況に馴れるしかない。無理はしないつもりなのだろう。無理にやっても疲れるだけか。疲れたら栄養ドリンクでも飲んで眠ればいい。

 気が散っているのか。それでも言葉を記す。また空疎な内容だ。それでかまわないのだろう。やる気がないのだから仕方がないか。でもやっているではないか。また地震か。ニュースで繰り返して各地の震度を読み上げている。それも繰り返しには違いない。君の記述も空疎な内容の繰り返しだ。テロで誰かが死んだらしい。イスラム武装勢力もそれなりに活躍したがっているわけか。そういうやり方で活躍したがっているのだから、それなりの犠牲が出て当然か。たぶんこれからもそんなやり方が繰り返され、テロリストも皆さんもがんばってしまうわけか。それでかまわないわけがないのかも知れないが、やりたいことは人それぞれで千差万別だ。

 何となくそう思う。おかしいだろうか。誰に判断を求めているわけではない。たぶん状況を見極めようとしているのだ。無意識がそうさせる。そういう意味ではあきらめたわけではなく、まだ死んでいないらしい。だんだん本気になってくるわけか。それはわからないが、どのような意味でそうなっているわけでもない。無意識とその場の状況が君をそんな方向へと誘導しているのだろう。行き着く場所が何なのかわからないが、たとえそこへ行き着いたとしても、それでどうなるわけでもないか。でもそうなるしかないのではないか。実際にそうなっているではないか。そんな状況の中で君は考えている。無意識が考えているわけだ。考えているのは君の意識ではない。

 またそんなでたらめを記そうとする。実際に記しているのではないか。君がそうさせているわけか。わけではなく、そういう成り行きでそうなっている。ものは言いようだ。それではだめなのだろうか。君もテロリストと変わらないメンタリティの持ち主なのか。人は人それぞれで大して違わない。やっていることはみんな一緒だ。テロリストも彼ら特有の夢を叶えるために努力しているわけだ。それがイスラム武装勢力の場合は、イスラム原理主義国家の建設というわけか。テロでそれを達成できるだろうか。少なくとも彼らはそう思っていて、がんばっているわけだ。まだ政党を作って選挙でそれを目指す段階ではないのだろう。まずは武力で独裁体制を打破しなければならないわけか。でも目指しているのも別の独裁体制なのだろう。タリバンがアフガニスタンでやったようなことか。


1月14日

 何の話だったのか。少し視野が狭まっていたかもしれない。何のことだろう。身に覚えがないことか。そんなはずがない。でも相変わらず何について語ろうとしているのでもないらしい。それではだめだろう。でもやるしかない。それは違うか。どうやらまただめのようだ。粘りがない。最近はあっさりあきらめてしまうのか。きっとそうだ。そうに違いないが、これは何なのか。何でもないわけがないか。何だかわからないでは済まないのだろうか。まあ悪戦苦闘しているわけだ。そんなことの連続には馴れている。しかし疲れていないか。それもいつものことだ。そこで君は何をあきらめているのだろうか。きっと何かをつかみかけているのだろう。でもつかみかけたそれを取り逃がしていないか。それでもかまわないのか。またそんな気になっている。それでもかまわないでは済まないのだろうか。でも結局のところはそういうことだ。何だかまた振り出しに戻っているような気がする。要するに何でもないわけがないわけだ。確かにそうだが、結果的に何とかなっていればかまわないのではないか。

 しかし何を考えているのか。人は自身の状態を把握できていない。知らず知らずのうちにポンコツになっているわけか。廃人というわけか。それほどでもないような気がするが、そんなレッテルを貼られてしまったら終わりなんだろうか。すぐだめと決めつけてしまうのもいかがなものか。それは何だか違うような気がする。とりあえずまだ何とも言えず、もう少し様子を見る必要がありそうだ。年を経るにつれて少しずつ固まっていって、気がついたらどうしようもなくなっているのだろうか。現に君自身もそうなっているわけか。

 ではもう手遅れなのだろうか。誰にそれを問いかけているのか。何だかわからないが、またそれだ。おかしな気分になっているらしい。でもそれでは逃げられない。しかしおかしい。アートとは何か。携わっていないのではないか。仕事ではない。そういう仕事に携わっている人もいる。解決されていない問題がそうなのか。未だにそうだ。

 ヤバいか。何がそうなのだろう。たぶんこれらはアートとは無関係だ。ではもうお別れなのだろうか。誰がそうなのか。誰もそうではない。誰かがどこかで漂流しているらしい。難儀なことだ。悲惨な最期を迎えてしまうわけか。でも最期まで生き続けたいのだろう。だから悲惨な最期を迎えてしまうのではないか。ならばそうならないようにしなければならない。でもわからない。君はそこで何を述べているのか。改めて考えるまでもないことか。でもおかしい。わからないの次はおかしいのか。それだけのことだろう。君は最後まで歩み続けられるのだろうか。

 何を放置しているわけでもない。老人には居場所がないらしい。体調が悪いのだろうか。でも何とかしているのではないか。まだ老人ではないから、居場所は一応確保しているのではないか。それだけのことだ。要するに金がなければ居場所がないということか。非情な社会に住んでいるわけか。誰もがそうというわけでもないだろう。人の存在にどんな価値があるというのか。働いている限りはそれなりの価値があるのだろうか。でも価値などなくてもかまわないのではないか。人は思い出の中で生きているらしい。そんなフィクションの中では悲惨でも何でもないそうだ。いったいそこでは誰が孤独なのか。孤独でいられるだけでも価値がある。


1月13日

 何だかわからないが、疲れて眠ってしまったのか。それもわからないか。でもそういうことらしい。なかなか難しい。語るのも大変か。でも何を語ればいいのか。君がそういうのなら、そういうことだろう。空疎なことの繰り返しだ。話題があるらしい。そんなはずもない。たぶん寒いのではないか。そんな感覚なのだろう。でも楽しそうだ。そんなことの繰り返しなのか。以前も述べていたはずだ。そうなっているのだから、もう結果が出ている。それでかまわないのではないか。君がそう思うのなら、それで結構だ。あまり深く考えるべきではない。それはそれでそういうことなのだ。それでいいのなら、そんなことなのだろう。それにしてもだめのようだ。何がだめなのかわからないわけではないが、とにかくだめのようだ。どうもうまくいかないらしい。もうやる気がしない。いろいろなことが重なりすぎているようだ。とても意識を記述までもっていけない。でも至って冷静だ。何だかわからないが、もうこんな時間だ。二日もできなかったらしいが、それなりに忙しかったから、まあ仕方がない。それにしてもどういうわけでもないのに、トラブルだらけで嫌になってしまう。また疲れてしまったらしいが、ここから言葉を記すつもりなのか。すでに記しているではないか。その通りだ。嫌になりつつも、何とかそれを続けようとしている。粘り強いのか。

 でも何だかわからない。精神的に耐えられないのか。そんなはずがない。現にこうして言葉を記しているではないか。でも空疎だ。記している内容がそうなのか。無内容なのではないか。その通りだ。その理由を話してほしい。ニール・ヤングが歌っている。今から四十年も前のことだろう。彼は今も生きていて、ギターを弾きながら歌っているらしい。だから何だというのか。何でもないことだが、それが誰かの口癖だとも思えない。本当に誰も何も語っていないのだろうか。そうだとしても何でもない。まだやる気なのだろうから、そのへんで適当かついい加減に言葉を記していればいいのではないか。そのつもりなのだろう。おかしいか。おかしければ笑えばいい。別に笑わなくてもいいのではないか。今もそうやって記述の最中なのだろう。何でもないことだ。今にも心が折れそうになるが、そんなことはないか。強がっているわけではない。無理をしているわけでもないらしい。何となくここまできてしまった。それだけのことか。それだけならだめなのか。たぶんそうだ。このまま空疎なことを延々と記してしまいそうだ。自己嫌悪に陥るのか。その通りだ。それでかまわない。そうなるしかないのだから、その通りに言葉を記せばいい。それだけのことだ。君はそれだけのことにこだわり続け、さらに内容の空疎を極めようとしているのか。なぜそう思うのだろう。それが何の根拠もないでたらめだからか。だからそんなはずがないと述べている。

 嘘なのだろうか。それはそうだ。すべてがそうなのかもしれない。それが嘘なのではないか。もちろんそうだ。何もかもが嘘で、嘘自体も嘘なのではないか。本当は何も記していないのかもしれない。どうやら今日もおかしい。何がおかしいのだろうか。何もかもがおかしいのか。では何もかもが嘘であり、かつおかしいということか。それでかまわない。またそれだ。何も記す気もないのにここまで記してきた。実際にまともなことは何も記していない。だからそれでかまわないのだろう。今日はもう疲れているからかまわない。そんないいわけが通用するとは思わないが、何となくそんなことを記してしまい、それが何でもないのだろうが、それでかまわないような気がする。要するにまたそんなことの繰り返しとなっているわけで、そこから逃れられない定めなのかもしれない。無論そんな定めもうそのたぐいになるだろうが、それで何がどうしたわけでもなく、それがさらに言葉を記すための口実になるかどうかは不明のようだが、そんな何でもない状況の中で、何も否定しようがなく、実際に語っているのは、語る必要のないことになるのだろう。それはいつもそうであり、今もそうである。そこでは何もかもがそうであり、何でもないようなそれらがこの世界全体を構成しているのかもしれず、そんな嘘を語っていることも、何でもないことの一部として語られるべきなのだろうか。それも嘘か。冗談のようで嘘のようでもあり、そして何でもないことのようにも思われ、要するにそういうことなのだろう。それがおかしいのだろうか。笑うようなことではない。少なくとも馬鹿げたことかもしれないが、やはり何でもないことのたぐいなのか。


1月12日

 これで何日前の日付なのか。そんなことはどうでもいいだろうか。今日もどこかで誰かが何かを主張している。それだけのことか。君がそう思っているのだろう。他の誰が思っているわけではない。もう誰も何も思わないか。そんな時間帯でも時代でもない。誰もが普通に暮らしている。それでいいのではないか。別に夜空を見上げて感動しているわけではない。それとこれとは無関係か。では何と何とが関係しているのか。様々な組み合わせが可能か。誰かの紋切り型にはまっているようだ。コーヒーなど飲む必要はなく、何となく何かの拍子に眠気が吹き飛ぶ。そんなのはあり得ないだろうか。どうも組織内でぬるま湯に浸かっている人たちは狂っているようだ。そんなはずがないと思いたいのか。きっと君の思い過ごしだろう。それでも何とかなっている。かろうじて生きているようだ。そしてそこで何かを継続させている。意味がわからないだろうか。意味を求めているわけではない。君はことさらに何かを追求しすぎている。それが探求の方法だと主張したいのか。そんなのはごまかしに過ぎない。でもそれでかまわないのだろう。君はいつもごまかしの中で息をしている。それがないと生きてゆけない。

 いかにもそれを見てきたふうな物言いでは説得力がない。でも誰を説得しているつもりなのか。そこには誰もいない。そして架空のまなざしが見ているのはただの光景だ。何の変哲もない。いくら首を傾げてみても、この世界はこの世界に違いない。ではもはやあきらめざるを得ないのか。でもそれでかまわないのだろう。いついかなる時でも君は本気ではない。どこかで見覚えのある顔だが、君は誰なのか。そういうごまかしがごまかしになっていないところがおかしいのか。別におかしくなくともかまわないのではないか。笑いたいわけではなく、他人を笑わせようとしているわけでもない。たとえ誰かが大真面目に滑稽な仕草を際立たせようとしていても、それを笑う必要はない。君はこの国の未来のために何ができるのか。だからそれが冗談だと思っているわけだ。たぶん笑われるべき対象となるのは、誰かに命令を下そうとする人たちだ。たとえ冗談だろうと何だろうと、そこからはみ出て何を語るわけにもいかないらしい。君はまだそんなこだわりの範囲内で考えようとしているのか。いい加減にあきらめたらどうか。すでにあきらめているのではないか。

 何かおかしいだろうか。君が感じていることではない。誰もが思うことか。たぶん馬鹿げているのだろう。君はそれを知っているはずだ。知らないと言い張るなら、どうなるわけでもないが、たぶん知っている。それは君自身のことだ。君が君であるためには必要なことだ。もし君が君でないなら、君は嘘をついていることになる。だからどうなるわけでもないが、とにかく君はそこで何かを知り、驚愕するわけでもないが、あとは何となく察しがつくだろう。何をためらっているのか。たぶんすべては虚構だ。本当に何でもない世界だ。興味を惹くものは何もありはしない。そんな嘘をつきながら、誰かが何かをやろうとしているわけか。それは冗談なのだろうか。何でもない。君が語ろうとしているのは冗談でもない。ただのごまかしか。きっとそうだ。そうに違いないが、それでかまわないのだ。実質的に何を語っているのでもなく、それらの内容は空疎そのものだ。だからそれでかまわないと述べている。なぜそんなふうにして開き直ってしまうのか。どうせ君には何もわかっていないのだ。またそれだ。それだけのことで一喜一憂している。そんなはずがないと思いつつも、現実にはそうなっていることを認めざるを得ない。だからもうだめなのだろうか。決めつけるのはよくないか。だめでもかまわないのではないか。またそんなふうに思ってしまう。いくら現状を悲観しても、まったくきりがない。すぐにそれでかまわないと開き直るわけか。


1月11日

 確かにそれは冗談なのだろうか。そして現実にそうなってしまう。何となく愉快な気分となり、次いでそれが夢だったと気づく。そんなわけがないか。では何なのか。今は夜だ。確か昨晩も夜だったはずだ。何かの幻覚だったかもしれないが、いつも夜は夜に決まっている。たぶんそんなことでしかないのだろう。では何が馬鹿げているのか。中国という国家とその人民か。日本もそのうちに入るのではないか。だから冗談だと述べている。風邪を引いているのかもしれない。何か追いつめられているような気がするが、そんなことはないか。タイミング的にそうなのかもしれない。軍事力なんて無駄で無意味なものでしかない。実際に行使してみればわかる。たとえ戦争に勝ったとしても、その後始末に四苦八苦か。別にそうでもない場合もあるだろう。今がそうなのか。何がそうでもない。現実を直視すべきだ。ここには何もない。

 そんなふうに語るべきではない。何も語りかけていないらしい。確かに今は夜だ。君はそれを知っているはずだ。窓の外は真っ暗闇に包まれている。そう思いたいのか。あるいは夢の中で思っているのだろうか。どちらにしろ何でもないことだ。音楽を聴いているのだろう。君はそれに関して何を思っているのか。何に関して何を思うこともないか。ただ夜の闇の中に意識が溶け込んでいくにまかせている。それも違うだろうか。そこで何か語るはずだったようだが、今は忘れている。どうでもいいことになってしまったらしい。何か言いたげのようだが、やはり忘れている。何を忘れているのかわからない。そんなはずがない。でも何を否定したいのか。なぜか細切れに言葉を記してみる。そのつもりなのか。結局わからないままのようだ。

 それがここでの結論ではないのだろうが、何も思い出せないまま、結局今日も夜になる。昨日もそうだった。きっと明日もそうなるだろう。それで満足か。何に満足しているわけでもない。ただ眠たいようだ。何だかわからないが、とにかく眠たい。急にそうなってしまい、眠ってしまう前に急いで言葉を記そうとするが、ままならない。なぜか行き詰まり、そこから先へ言葉を記せなくなる。こうなってしまったことに関して、外部の人間にどのような提言が可能なのか。意味不明だ。本当は困っていないくせに、困ったふうを装い、それから君はどうなったのか。相変わらず誰かが言葉を記しているようだ。さっきまでの行き詰まりは何だったのか。嘘なのだろうか。そんなはずがないが、何となくそれはそれで済んでしまったことになり、今はどうでもいいらしい。

 話など何もなかった。そして何がどうなってしまったのか。今がある。そして記された言葉があり、多少困惑気味にそれを眺めている誰かがいる。そんなのは嘘なのか。嘘だろうと何だろうと、君の知ったことではない。それはそうだ。君は君で何かを語ろうとしているわけだ。それとは無関係なのか。そうであったとしても、君はそれをどうしたいわけでもない。まだそんな状況から抜け出ていないわけだ。いい加減にそう思い、誰を罠にはめようとしているわけではないが、何となく何かをごまかしているのかもしれない。もう疲れたのか。何をうやむやにしようとしているのか。その先で何が明らかにされるわけでもない。明かされるような秘密など何もなく、これはこれでこういうことでしかない。これがすべてなのだ。何がどうなっているのでもなく、これはこうなっている。もはや困惑しようがない。何かこうなってしまってはまずいことでもあるのか。何もまずくはない。極めて当たり前の成り行きであり、これ以外はあり得ない。


1月10日

 不思議な感覚だ。わざとそうやっているに違いない。本当は違うのか。君は彼の何を評価したいのか。君特有の勘が働いているのだろうか。誰特有でもないか。この世に特殊な人間などおらず、みんな似たり寄ったりか。それは君特有の勘違いか。だから誰特有でもありはしない。相変わらず風が強い。ただ強いだけのようだ。でもやがて止むのだろう。この曲だ。偶然に何かを発見したらしい。たわいないことか。そうに決まっているだろうが、たぶんそれでもかまわないのだろう。自然と首がぐるぐる回っているみたいだ。冗談か。それにしても会社組織というのは滑稽だ。

 民主主義と会社組織とは相容れない特性があるらしい。外で猫が鳴いている。民主主義国を標榜している国の内に、それと相容れない会社組織がひしめいている。矛盾しているかもしれないが、両者は共存していて、それどころか互いに強く結びついている。みんなそれに気づいていて、要するに表向きはきれいごとの民主主義を支持しながら、裏ではそれを裏切っていて、私利私欲のために人を罠にはめようとしているわけだ。人を使い捨てにして、会社に忠誠を尽くそうとする者を簡単に解雇する。それが会社のおもしろいところか。そしてそんなありふれたリストラ話がネットで読まれ、それを読んだ人たちはどんな感想を抱くのか。明日は我が身か。冗談であっても愉快な気分となる。人はたわいない存在だ。いつの時代でも物扱いされている。少なくとも人道的な見地からはかけ離れている。

 何なのだろうか。Les De MerleのBacchanalを聴いている。それでどうしたのか。正気とは思えないだけか。何がそうなのだろうか。またそれは何でもないことになるのだろうか。それはPat MethenyのFinding & Believingにもいえることではないのか。やはり何でもないことらしい。でも最後にくるのは何だろう。愛そのものか。それが冗談だと思っているらしい。愛と冗談は同じような意味ではないか。だから人が正気でいるとは思えないのか。誰もがそうか。正気でいる人も狂気と紙一重か。正気と狂気も同義語かもしれない。だから何が言いたいわけでもなく、ただ黙っているだけのようだ。黙ってそれらの狂態を眺めている。そんなはずがない。みんな真面目に働いているらしい。そして至って元気なのだろう。めげている場合ではない。

 まだ夜だ。明日は晴れるそうだ。きっと今週いっぱいは晴れるのだろう。そして何かがどうかしてしまうらしい。何もどうもしないのにそれだ。人の運命などどうでもいい。不幸だろうが幸福だろうが、そんな結果に関係なく、すべてがその途上にある。そしてそうなる前に力尽きてしまう。何も終わっていないのに、終わったことにしたいらしく、さかんに終わりを吹聴して回る。いったい何が終わってしまったのだろうか。君の人生が終わり、誰かの人生も終わり、すべての人の人生が終わり、そして新たな時代の幕が開ける。でもその場合人生とは何なのか。冗談のたぐいか。人生ではないのかもしれず、その意味をはき違えているのかもしれない。だから冗談なのか。相変わらず意味不明なことを述べているようだが、きっとそれでかまわないのだろう。

 そして君のもとにも夜が訪れる。永遠の夜だ。言葉が違っているのだろうか。きっと勘違いをしているのだ。君は愚かだ。だが愚かだからこそこんなことができる。賢ければこうはならない。でも賢いとつまらなくなり、愚かだとおもしろい。そんなのは当たり前のことだ。当たり前だとつまらないのではないか。でもおもしろい。勝手にそう思い込んでいるのだから、そういうことにしておこう。つまらなくてもかまわないが、それでもこうなってしまったらしい。君は愚かなのか。だからそういうことにしておこう。それでかまわないのだろう。何がそうでもないようだが、何となくそう思っておいてかまわない。君は愚かなのだ。理由はまだない。でもかまわないのだろう。そんな記述が繰り返され、さらに愚かになるが、さらにそれでかまわないと思いたいのだろう。


1月9日

 何かの巡り合わせだろうか。数日後に雪が降る。今日のことだ。でも日付が違うではないか。もう数日も記述が遅れているわけか。四日ぐらいではないか。みぞれ混じりの風景を眺めなら、そんなことを記している。それは昼のことだ。でもそれ以外に何があるというのか。眠たいか。またそれだ。でもそういうことだろう。もう夜だ。昼から何がどうなったわけでもない。誰かがついてこないことに気づく。君はどこではぐれてしまったのか。虚構の中でだ。嘘かもしれないが、虚無はそこで何を求めているのか。虚無と出会ったわけではない。たぶんそういうことではない。ではどういうことなのだろうか。やはりどういうことでもないのか。それについて語る術を知らないようだ。なぜだろう。

 何を知り得ないのか。理由を知り得ない。いつまで経ってもそうだ。でもたぶんそれは大したことではない。何を語ってもかまわないのだ。それなのに語れない。今語っているそれではだめなのか。たぶんだめだ。だめでもかまわないではないか。かまわないのだろう。そして何がどうなったわけでもない。ところで雪はどうなったのだろう。それについて語る理由を知らない。でもさらに語っているではないか。そんなことはどうでもいい。風が強くなる。そんな気がしているだけだ。たぶんそれは本当のことだろう。本当だから困惑せざるを得ない。そして時にはそんな嘘をついてみるが、やはり何かがおかしい。

 それでかまわないのだ。最近は傷の治りが遅い。いつまで経っても癒えない。そんなはずがないか。でも何となくそういうことにしておきたいらしい。まだ語っているつもりなのか。たぶんそうだ。つまらない内容だが、ないよりはマシか。本当に何もありはしない。でも何を今さら否定しているのか。まだここからかなり道のりがありそうだ。たぶんそれは承知している。承知しているから今があり、今があるから何なのか。何でもないのだろうか。それについて考えることができないのか。何についてなのか。またそれだ。頭の中で何かがぐるぐる回っているようだが、それが何だかわからない。そんなはずがない。でも君はそこから逃げられず、思考の外側に自意識がとどまり続け、そこで何もできずに途方に暮れているようだ。そんなのも嘘か。それは誰にとってもそういうことだろうか。何がそういうことなのか。

 では何について言及したいのか。語るのが面倒なのはわかっている。それが嘘偽りであることも承知の上で語っているわけか。冗談だろう。実際に何がどうなっているのでもない。それもわかりきったことかもしれず、事実と虚構が異なっている原因がそんなところにあるのでもない。では何なのか。そんなふうに語る理由がどこにあるのだろう。理由はないが、ただそんなふうに語っているだけか。でも誰が語っているわけでもない。なら馬鹿なんじゃないのか。誰がそうなのか。誰もそうではないのだろう。ではただそこで同じような言葉が循環しているだけだ。だからそれでかまわないと述べている。それも嘘か。何が嘘なのだろうか。もう少しどうにかならないものか。たぶんどうにでもなるのだろう。なってしまうからそうなる。実際にそうなっているではないか。それの何が問題なのか。たぶん問題なのだ。問題だから、そんなことを問いかける。

 さらにおかしくなっているのはいつものことだ。別に頭がおかしいわけではない。わけもなくそんなことを延々と記している。またそんな嘘をつく。誰がついているわけでもないのに、それは嘘そのものだ。違うか。違っていないのではないか。とりあえずそう思っているわけだ。でももうだめなのではないか。何がだめなのだろうか。問われるまでもないことか。だからあえて問う。目の前が突然回転し始めているわけではない。それは何かの風景なのだろう。何かの渦巻きの中でぐるぐる回っている。自意識がそうさせているのではない。きっと気のせいだ。まだ外は暗い。夜だから当然だ。部屋の中で無駄に言葉を記しているのは誰でもなく、文字が記された画面を覗き込んでいるのも誰でもない。そんな光景を空想しているわけか。そう思っていればいいのではないか。それで何かが終わる。それも君の思い込みなのだろうか。


1月8日

 下界の状況はどうなっているのか。何だかわからないが、待てば海路の日和ありなのだろうか。それでいったい何を待っているのか。雪が降るのを待っているわけか。そんなはずがない。でもやはり何だかわからないが、そういうことなのだろうか。意味不明だ。魅力を感じない。話などどうでもいいのか。どうでもいいわけはないだろうが、何となくテレビを消して、文字が記された画面に向かい合い、何か考えているようだが、考えがまとまらず、何を考えているのかよくわからず、とりとめがない。それはどういうことなのか。それがわからない。いったい君は何を考えているのだろうか。何か考えていることは確からしいが、やはりまとまらず、文章にならないらしい。何か気に障るようなことがあるのか。なぜこんなに邦楽が長いのか。延々と三味線と琴の演奏が続いている。たぶん何がどうなっているわけでもないだろうが、何となくそれはないと思う。それは気のせいか。漫画はおかしく、映画もあり得ない。でも誰かが現実の世界に暮らしている。それだけのことなのだろうが、何となくそれはないと思う。千鳥の曲だそうだが、別にそれがダンス音楽に分類される必然性はないだろう。日本舞踊か何かを伴っているのだろうか。でもそれがどうしたわけでもないはずだ。また指の所々にあかぎれが出てきた。痛いか。何が痛いのだろうか。頭が痛いのか。それとこれとは関係ない。満身創痍というわけでもない。ただ自分が何を考えているのかわからない。それでも何とかなっているのではないか。だからそれとこれとは無関係なのだろう。そういうことにしておきたいのか。やはり頭の中で何かがこんがらがっているようだ。

 何を見ているのか。自動車を買いたいのか。何だかわからない。今日はそればかりだ。それとは関係ないが、相変わらず寒い。お寒い状況か。何がそうなのだろうか。何もそうではなく、買いたい自動車が見つからないのだろう。だから今乗っている自動車を手放せない。でも整備点検をしなければならない。そんな閉塞状況を打開するためには行動あるのみか。明日別の自動車のスタットレスタイヤを付けに行った時に訊いてみよう。それでいいではないか。よくなければ他を探せばいい。結局はそういうことだろう。何を悩む必要があるのか。またこんな時間だ。明日も朝が早い。もうそろそろ眠らなければならないのではないか。要するにほんの少し前までテレビで見ていた映画の結末のようにはならないということか。ではまだそれらの逡巡が続くということか。何をためらっているわけもないのにためらっている。結局はそんなふうにしかならない。何を記しているのでもないらしい。そう思いたいのか。実際には何か記しているではないか。でも相変わらずとりとめがない。これはどういうことなのか。どんどん何かから遠ざかっていることは確かだ。真剣さが感じられず、事の重大さとも無縁みたいだ。ただどうにかなっている。かろうじてそれなのか。まさに現状はそういうことらしい。何もおかしくないのにおかしいと思っている。それでもたぶん何かがおかしいのだろう。そんな感じがするらしい。君はいったい何から遠ざかっているのか。改めて問い直してもわからないだけか。わからないでは済まないのだろうが、確かにそこから遠ざかっているようだ。ではそことはどこなのか。そこが確かではないということか。

 そしてまだ何かが続いている。何かの続きがあるのだろう。そんな気がしてならず、さらに言葉を記していくと、何かに突き当たったりするのだろうか。それは不協和音のたぐいか。ラジオから遠ざかっている。唐突に思い当たるらしいが、的外れなのではないか。では何なのだろうか。何から遠ざかっているのか。心当たりがない。もしかしてまた新たに書物を読み始めなければならないわけか。でも何を読めばいいのだろう。昔モーリス・ブランショの書物を探していた時期があったが、もうそれはいいのだろうか。彼はもう故人であり、新たな作品が生み出されることはない。柄谷行人も蓮實重彦も老人だ。小説のたぐいには興味が向かない。ミシェル・フーコーの代表作でも読んでみた方がいいのだろうか。それも違うような気がする。では何なのか。君自身が何かを生み出さなければならないということか。君の置かれた立場を考えてみるといい。仕事に追われ、考えがまとまらず、とりとめのないことばかり記し、何を語っているのかわからない。そんな状況で何を生み出せるというのか。ただ音楽を聴いている。何が愛なのでもない。突然記されるのはそんな意味不明か。でも君は覚えているはずだ。何とかしようとしている時のことを覚えている。それを思い出したところでどうなるわけでもないのだろうが、今生み出されつつあるそれらの何かは、何なのだろうか。だからわからないと思っているではないか。いくら言葉を連ねてもわかるはずのないことを記している。結局はそういうことの繰り返しの上に、それらの何かが成り立っているわけだ。今さらそれをどうこうしようとしても、無理なのではないか。君は何が無理なのかわからないのに、無理だと思いたい。本当はそうではないということなのか。それもわからない。


1月7日

 さらに記述できなくなってしまったようだ。暇がなく、あっても疲れているのですぐに眠ってしまい、翌朝目覚めてから何も記していないことに気づく。数日後の今日も晴れていい天気だ。機械の些細な故障で時間を食って、こんなことをやっていてはだめだと気づいたのか。でもだめなことを延々とやっているではないか。そんなことはもとから気づいていたはずだ。世の中には私利私欲丸出して生きている人も大勢いるはずだ。恥も外聞もなく、なりふり構わずごり押しを仕掛けてくる人もいる。それは野生の闘争本能なのだろうか。それはある意味あっぱれなことかもしれない。馬鹿げたことを述べているだろうか。夕方からまた眠くなってきた。コーヒーでも飲んで、しばらくテレビを見ていたようだが、何があったわけでもなく、わからないのかもしれない。焦点が定まらないらしい。数日後には雨か雪が降るそうだ。君はそんな人たちの狂態を黙って眺めているだけか。すべての時間より良い。意味不明に決まっているではないか。君はそこで何を発見したのだろうか。ただ見つけただけか。何か適当なやり方を見つけたらしいが、それを他人に教えることはないのだろうか。きっと何かに気づいたのだろう。それで何とかなると思っているわけか。それはわからないが、ただそうやって、現状を変えようとしているのかもしれない。実際に変えているのではないか。たぶんそうだ。実態としてはそう見せかけているだけだろう。でもそれでは変えていることにならないのではないか。だがそういうことで何かを済ましている。それで変えていることになるようだ。要するに何でもかまわないのだろう。またそれか。

 またもや振り出しに戻っているようだ。それだけでもかまわないのか。今はそういうことになりそうだが、それでは意味不明ではないか。だからそう述べているではないか。意味不明でかまわないと述べているようだが、そうではないと思いたいのか。でも実際にそうなってしまう。それは誰かの予言通りの展開か。話ではない。では何なのか。また何でもなくなってしまうのだろうか。そうならないように努力するつもりなのか。すでにそうなっている。誰かにとっては生きることがすべてのようだが、その背後に死が迫っているわけではない。要するにそれについて語るのが面倒くさいのだろう。何だかわからないようだが、何を語っているのでもないらしい。さらにわからなくなっているだけか。そこで何を記しているのだろうか。相変わらずの行き当たりばったりか。だからそうならないように努力しなければならないが、現実としてそうなっていないようだ。君は私利私欲のために努力できないのだろうか。では何のために努力しているのかといえば、それは偶然の巡り会わせに委ねられている。そんなはずがない。でもそこで何に巡り会ったのだろうか。稚拙なアニメの中での話か。まだそこまで行っていないのではないか。それはどういうことだろう。ヤクルトが飲みたくなる。これは静けさだ。思考ではない。でもまだその先があるのだろう。そういう意味では先がありそうだが、何の意味があるというのか。人はいつの世でも哀れであり愚かだ。どうせそんなはずはないと思いたいのだろう。でも現実がこれではないか。これ以外に何があるというのか。何もないからこれがあるというわけか。

 もうそろそろ明日になる。いつかそうなってしまうのだろう。何がそうなのだろうか。我慢ができないわけではない。ただ馬鹿げている。君に黒魔術についての知識があるわけではなく、机の上におかれている髑髏がどうなったわけではない。それは水晶球のたぐいか。誰かは占い師なのだろうか。魔術師とは言い難い。そこで浮き上がっているのは何なのか。でも宙に浮いているわけでもないのだろう。語りもしないのに語るのに飽きただけか。いつもの無い物ねだりだ。どこに風が集まっているわけでもなく、台風の中心は無風状態か。技が繰り出せないプロレスラーが何を怒鳴っているというのか。マイクパフォーマンスのたぐいか。君は地方局の深夜番組でも見ているのだろうか。知らないうちに言葉が寄せ集まっているようだ。関係ないのだろうが、とにかく文章にしなければならない。記された言葉は君とはまったくの無関係ということか。ありふれた身の上話では飽きてしまう。まんざらでもないか。少なくとも困っているわけではないはずだ。でもラウンドミッドナイトというわけでもいかないだろう。だからそれが何になるわけでもなく、オデュッセウスのようにこの世界をさまよっているわけでもない。あくまでもただ言葉を記しているだけなのか。そうに決まっているではないか。誰もそこから外れるわけにはいかない。フィクションの中ではそうなのか。現実の世界でもそうだろう。きっとそうだ。何かを語ろうとしている以上はそうなってしまう。指のひび割れが気になっているようだ。粘土細工の指であるわけでもないが、寒くなるとそうなってしまうらしい。寒中で作業をしているからか。軍手をしていても寒い。でもそれが何に結びつくともわからないので、あとは続けるだけのようだ。


1月6日

 しかし新幹線の中で使える無料Wi-Fiは遅い。でもそんなに利用するわけでもないのだから、別にかまわないか。それにしても上野に着いたらもうWi-Fiが使えなくなってしまったが、要するに新幹線の中でではなく、東京駅で使えるだけか。どうやら勘違いをしていたらしい。何だか冗談みたいだ。もしかしたら大宮辺りで使えるかもしれない。でも期待しても途切れ途切れでは意味がない。別に何を期待しているわけでもなく、たまたまそうなっただけのことのようだ。深夜の道を車が走っている。そこかしこにコンビニの明かりが点在していて、そんな光景を眺めながらも、左目の奥にかすかな痛みを感じている。だからそれがどうしたわけでもない。所々に建っているマンションの碁盤目状の明かりも見飽きているようだ。非常階段を照らすジグザグ状の明かりも見飽きたのか。では一直線場に並ぶ高速道路の街路灯はどうか。意味がなさそうだ。もう眠い。どうでもいいことを記し過ぎだろうか。ただの夜だ。退屈を持て余し気味だろうか。それほどのことでもなさそうだ。結局大宮ではだめみたいだ。結局何だったのか。だから何でもないということか。何に反発しているわけでもない。ここには何もなく、街灯の光もまばらになる。時折道を行き交う車のヘッドライトが見えるだけか。どこかのビルの上に巨大なボーリングのピンが一瞬見えたが、要するにそこはボーリング場なのだろう。夜だから富士山は見えない。別に見ようとしているわけでもないか。たぶん幻想のただ中にいるわけでもない。

 馬鹿げているとも思えず、何を語ろうとしているのでもないのだろうが、何か適当にいい加減に思っているらしく、そんな思いとは裏腹か何か知らないが、いつの間にか眠ってしまい、翌朝にまた起きて仕事に向かい、もう昨日のことになってしまったようだ。でも夕方にはまた眠ってしまったらしく、深夜に起きて、もう二日前のことだとわかり、さらに遅れてしまったらしいことに気づき、何だか何でもないのに何でもあるような、別に何を述べているのでもないような感じなのだろうが、たぶんそれでかまわないのだろう。漢字が思い出せない。帽子を買い損なっているわけか。ポテトチップスを無性に食べたくなり、大袋を買って食べたら食べきれず、そのまま寝て起きたら口の中が苦い。胃酸の出過ぎか。何をやっているのだろうか。貰い物の図書カードが千五百円分たまっているが、何か書物でも買った方がいいのだろうか。冷たい水を一気に飲み干し、そういう書き方が、何だか大藪春彦の小説に出てくる情景描写のたぐいに似ていることに気づくが、これはどういう心境なのか。何かの境地か、はたまた苦し紛れの記述なのか。でも長続きせず、寒気を覚えて横になる。本当に寒いらしいが、記述を続ける気があるらしく、さらに言葉を記して一区切りつけたいらしい。また朝早くから仕事か。さらにおかしいか。

 何がおかしいのか。何を考えているのだろうか。唐突にそれはない。それとは何なのか。みんな抜けているらしい。間抜けということかもしれず、昨年末に従業員が一人やめたので、ネットの就職サイトで職員募集広告を出したら、やっていることがちぐはぐな人が結構いることに気づく。速攻で応募してきて、履歴書を送ると返答してきたのに、送るのに二週間もかかり、こちらはもう他に数名面接して採用して、試用期間で実際に働き始めてから、最初の応募者の履歴書が送られてきた。また働く場所からたぶん五十キロ近くも離れたところに住んでいるのに、通勤できるかどうか質問してきた人もいた。日給九千円で三カ月働くのに、交通費が割に合わないことぐらい気づくはずだが、まったく大の大人が大丈夫なのだろうか。でも送られてくる履歴書を見る限りは、ハローワークで月給二十万円で募集して、応募してくる人たちよりは、明らかに質がいいことに気づく。


1月5日

 どうやら大幅に記述が遅れる宿命らしい。慌ただしく忙しない。いったい何をやっているのか。仕事に追われる毎日だ。それだけのことであり、あとは取り立てて何もない。駅前で労働組合の街宣車の上にいる誰かが、景気が悪いから労働者の賃金が上がらないのではなく、労働者の賃金が上がらないから景気が悪いのだ、といったたぐいのことを演説していた。何だか鶏が先か卵が先かの論理のような気がするが、意味がないだろうか。相対的なことでしかない。君たちは景気が良くなったら何をやるつもりなのか。一応は衣食住が足りているようだから、他に娯楽に興じる機会でも必要なのだろうか。そんな簡単に言ってしまえば身もふたもないか。しかし人は何をやればいいのだろうか。世の中の景気が悪いのに、土地を買って家を建て、それでどうしたのだろうか。自己満足に浸っているわけか。今は音楽を聴いている。それで楽しいか。さあわからない。引っ越しできる人生最後のチャンスを逃さなかっただけか。団地の一室で死後数ヶ月経ってから、乾涸びた死体で発見されたりしたら格好悪そうだ。そうなる危険を回避できただけでも一安心か。でも自らの死後のことまで気を使うのはおかしいのではないか。おかしいも何も、こうなってしまったのだから仕方ない。とにかくあれからかなりの歳月が流れた。しかしあれとは何だったのか。何でもないのではないか。今となっては忘却の彼方で起こった出来事だ。本当に忘れている。

 何を忘れているのかも思い出せず、たぶんどうでもいいのだろうが、思い出そうとする気も起こらないらしい。どうせ面倒くさいのだろう。そのとき君の身に何が起こったわけでもない。今日も今日で休みが取れないので、新幹線に乗って、数週間ぶりに家の郵便受けの中を確かめにいくらしい。そしてまたトンボ帰りか。家を建てた意味がないではないか。でもかまわないのだろう。考えるのが面倒くさいか。なるようにしかならず、ならないのなら、そのままでもかまわない。夜景を眺めながら、何を思うこともなく、何も思わないことが不愉快でもなく、何となく自然の成り行きのような気がして、スキー帰りの若者たちと新幹線に乗っている。それだけのことか。それだけではないと思いたいが、そこで行き詰まるばかりのようで、何も言葉がでてこない。だからそれだけでかまわないのだろうか。やはり何を回避できたわけでもないらしく、それに関して他意はなさそうで、相変わらずこのままで推移してゆくのかもしれない。人はどこまでも愚かで、救い難い愚劣な環境の中でもがき苦しんでいる。そう思うのは被害妄想にとらわれているからか。きっとそうに違いない。他に何がもたらされているわけでもなく、楽しみのそれらを娯楽の一言でくくってしまってはまずいのだろう。そこから多種多様な意味や意義を見出さなければ、人として何かをやったことにはならず、ただ群衆や大衆として、その他大勢にくくられるだけか。君はそれでもかまわないとうそぶきたいのか。使っている言葉の意味が違うのではないか。

 でも他に何が見出されたとも思えない。しかし何を軽蔑しているのだろう。知識のない人々を馬鹿にしたいわけでもないはずだ。自らの無知を省みず、何か気が利いているようなことを語りたいだけか。そんな気がしないでもないが、どうやら眠くなってきたようだ。何となくこの辺で終わってもかまわないような気がしてくるが、もう上野だ。その次が東京か。あとは家に帰ってからにしようか。でもまたすぐに戻らなければならないのだろう。では帰りの新幹線の中で言葉を記すつもりか。しかしせっかく数週間ぶりに帰ってきたのに、またどこへ帰ろうというのか。帰ってきたのにまた帰らなければならないとはどういうことなのか。意味がわからないだろうか。そんな可能性もなきにしもあらずだが、表現としてはそれでしっくりくるので、これでかまわないだろう。たぶん本質的にはどこへ帰ろうとしているのでもなく、要するにそのへんを行ったり来たりしているだけなのではないか。帰る先などどこにもなく、いつまで経っても腰を落ち着ける気もないのかもしれない。そうなればおもしろいか。何がおもしろいわけでもなく、何となくそう思いながらも、何かの機会を伺い、無意識のうちにそこから飛び出す準備でもしているのではないか。たぶんその時がきたら自らの本心に気づくのであり、まあそうなった時のお楽しみなのだろうが、その時が来るまでは忘れているのではないか。もう自宅に着いてから三十分ぐらいか。そろそろ帰るとしよう。いったいどこへ帰るのだろうか。これでは帰宅した意味がわからないか。どうせまたそれでもかまわないと思っているのだろう。要するに冗談なのか。そうに決まっているではないか。


1月4日

 何がだめなのか。みんな冬山に登りたいらしい。みんなではないだろう。でもそこにどんな魅力があるのか。雪景色が美しいか。あるいは死の魅力か。みんな山に登って死んでしまうわけか。だからみんなではない。そんなニュースを見ながら、君は何を信じようとしているのか。何となく泉谷しげるを聴いている。ボブ・ディランの方がいいか。似たようなものだ。全然違うだろう。架空の場所で闇雲に誰かが走っているみたいだが、そんな歌を聴いているわけか。そこで何が移り変わろうとしているのか。姿が見えないらしい。君は何を忘れているのだろうか。死者の姿など思い出す必要もないか。理由が見えてこない。川は流れ、風が吹き、海は波立つ。何もかもが当たり前のことだ。ではそのへんで散らばっているのは何かの残骸か。記憶はどこで途切れるのだろうか。君がそう思っているわけではない。絵本の中の旅人は気楽だ。現実の世界では命がけか。場所にもよるのではないか。君はそこで何を見ているのか。描かれた人物の顔を眺めている。想像上の過去に懐かしい光景がある。君はついてゆけない。面倒くさいのだろう。購入したものを一曲ずつ聴いてゆき、何を思うこともなく、その場から遠ざかり、何かの途中から眠ってしまうようだ。もうあきらめたらどうか。人々は視覚を奪われ、脳みその中を何かに占領されている。それが記憶であるわけがない。だから思い出すのが面倒くさいのだろう。

 生きることに不器用なゴッホが何をしたというのか。絵を描いたのだろう。そんなことを語るテレビを見ながら、ありふれた思いにとらわれる。語りに魅力を感じない。たぶん冗談なのだろう。人間を滑稽な存在として捉えてみると、その行き着く先には何があるのだろうか。そんな映画を見れば、何か思い当たることでも記憶の片隅からよみがえってくるわけか。でも相変わらず冗談としか思えない。何だろう。なぜテレビを見ているのか。だから冗談なのではないか。君はおかしい。記している内容がおかしいのではないか。そんなはずがない、というのは嘘か。なぜそんなことを思うのか。まだ至って冷静だ。そういうことのあとに何が起こるわけでもなく、またテレビを見ている。またみかんが食べたくなってきたようだ。おかしいか。たぶんおかしくはないが、寒くて眠ってしまったらしい。でも別に凍死しそうになっているわけではない。そうではないのだろう。緊急経済対策を取りまとめるそうだ。やっていることはそればかりだが、何がどうなっているわけでもないのもいつものことだ。景気回復というかけ声ばかりが前面に押し出されるが、どういう状態が景気回復なのかよくわからない。現状の何が悪いのだろうか。不景気だという実感がなかなか湧いてこない。というか現状のこれが当たり前のような気がする。

 さらに誰が語るのだろうか。つまらないことを細切れに語っているだけのようだ。読みもしないのに、芥川賞と直木賞の候補作がでたことをニュースで聞く。たぶん実際に読むのは数万人ぐらいいるのかも知れないが、それがどうしたわけでもなく、昨年のノーベル文学賞受賞者が誰だったのか覚えていない。たぶんその人の作品を今後読む機会などありはしないのに、そんなニュースを目にする機会は毎年あるのかもしれない。当たり前といえば当たり前のことだが、興味のある人が少しはいるのだろうから、その人を対象としているわけか。ニュースのすべてがそういうことではないのか。そういうたぐいのすべてがニュースとなるわけだ。寒いか。別に何がお寒い状況というわけでもない。これが当たり前なのだ。誰かが命をかけて何をやろうと、すべてはこの世界が受け止めてくれるはずだ。別に命などかけなくても、金や全財産などかけなくても、遊び半分でもかまわないのではないか。せこいことをやっていれば、せこい結果を手にすることになるだろうし、せこい人生を送ることもできるだろう。それで自己満足に浸ることもできそうだ。様々な束縛を受け、行動を制限され、やりたくないことをやらされ、狭い範囲内で考えているようだ。目先の利益を追い求め、同じようなメンタリティの持ち主と競い合い、勝ったり負けたりして、それらの結果に一喜一憂している。君はまた働き続けているようだ。


1月3日

 疲れたのか。年末年始でもう三週間も休んでいない。そして何だか停滞している。まだ何も説明していないではないか。なぜそうなってしまうのか。本当にそうなっているわけではないが、たぶん違うところではそうなっているはずだ。それはどういうことなのか。そうなる理由がどこにも見当たらない。それは言葉を記す理由か。そうだとしたら何なのか。そんなはずがないか。今は何を語る気分でもない。気分ではなく、実際に語れないのではないか。語っているではないか。語れないと語っているわけだ。しかし何が不可能なのだろうか。語るとは何なのか。そういうことではない。でも実際に語っているではないか。語っている自己に言及しているわけか。それではだめなのか。君がそう思うならそういうことになりそうだ。いつかはそうなってしまうのだろう。だから今しかないわけか。今どうすればいいのだろうか。こうしているではないか。今まさにこうなっている。これでいいのだろうか。いいわけがない。なぜそう思うのか。わけがわからないからそう思うわけか。確かに理由がわからない。ただそれだけのことだ。それはおかしい。何がおかしいのか。何もおかしくない。そう思いたいだけなのだろう。

 また言い回しが回りくどくなっている。自然にそうなってしまうならかまわないか。仕方のないことだ。それで済めばかえってありがたいか。でも空疎だ。それはわかっているが、こうなるしかないのではないか。実際にこうなっている。もしかしてこれはすごいことだろうか。確かにすごいことだが、恐ろしい。あり得ないことかもしれない。何でもないのにこうなっている。まさに何でもないことだ。結果的にこうなってしまうのだから、これは何でもないことなのだろう。自然の摂理に違いないか。でもそう思ってしまったら、もうだめなのではないか。だめだからこうなっているわけか。どうやらどう思ってみても、もはやどうにもならないらしい。これも一つの通過点なのか。そう思えばいい。まだこの先がありそうな気がする。しかし行き詰まりの次には何が待ち構えているのか。さあ何だろう。何でもないのでなく、何も待ち構えていないのではないか。でも何が存亡の危機を迎えているわけでもない。実際に何とも思っていないのだから、悪夢にうなされることもないだろう。もういいだろう。

 これが現実なのか。きっとそうだ。君はこの現実を素直に受け入れなければならない。たぶんそういうことなのだろう。だから受け入れているのだろう。どういう理由で受け入れているのでもなく、あきらめているのではないか。たぶんそうだ。あきらめているからこうして言葉を記すことができる。すべては他人事でしかない。なぜかそう思ってしまう。自分のことがないわけか。自分のことでさえ他人事に思えてくる。なぜそう思ってしまうのか。寒すぎて無理らしい。言葉を記すことができないようだ。でもそんな理由があるわけもないか。何だかわからないが、そんなふうに思われてしまう。だめなものはだめなのだろう。どう考えても先がない。だからもう強がりはやめた方がいいか。それもおかしなことだ。おかしいからこうなってしまう。また同じようなことの繰り返しだ。たぶんそれは悪夢ではないのだろう。何かの吉兆か。なぜそう思うのか。足下からクヌギの木が生えてくる。そんな光景を意味もなく想像してしまう。何かのストレスに晒されているのだろうか。誰かがそう思っているところか。あり得ないか。あり得たとしても関心がない。今はただ言葉を記している最中で、記述に集中するためにテレビを消したところか。そんなはずがない。


1月2日

 普通はそんなふうにはいかない。でも実際にそうなっている。いったい何のことなのか。逃げているのだろうか。きっとそうだ。それで何とかなっているはずだ。冗談かもしれないが、何とかなっているつもりなのか。だからそういうことらしい。本当に何でもないのだろうか。たぶんそのつもりなのだろうが、あやふやな返答を多用しながら、何かをごまかし通せるだろうか。別にそんなことをやらなくてもかまわないのだろうが、語る手間を惜しんでいるのか。そんなはずがない。では何なのか。それをこれから考えるつもりか。無理だろうか。最終楽章はもう聴いてしまった。でもそれがどうしたわけでもないはずだ。これから何か語ろうとしているわけか。もう遅い。夜になっているはずだ。だから語れないわけでもないか。理由などいらない。明日はもっと寒くなり、それもどうしたわけでもないのに、昼は仕事の最中だ。語ることなどあるのか。内容に結びつかないのは当然か。それでかまわないのかもしれない。開き直っているのだろうか。きっかけをつかんだつもりにはなれず、取り立てて語ることもないままだ。でも時は愛だ。何のことなのか。そんな曲名なのかもしれない。また性懲りもなく音楽を聴いているらしいが、君は最後の九日間の記憶を失い、別に途方に暮れているわけでもないのだろうが、何となく困った顔をしている。でも知っているのはそんなことではなく、何を知ろうとしているのでもないはずだ。ごまかしなどではない。この世界に自由の大地などない。では何に束縛されているのか。何が問われているわけでもないはずか。でも苦しいのではないか。ひたすら耐えているとも思えない。すでに反転攻勢を開始しているのではないか。それは何のたとえになるのか。比喩ではなく、現実に攻めているのではないか。そんな気がする。気のせいか。そう思ってもらってかまわないが、本当はそうでないはずだ。君はそう思っている。それでかまわないのではないか。そう思っていればいい。時は金などではない。そういうことではないのか。そういう場合もあり得るが、今はそうではないはずだ。とにかく何とかしようとしていることは確からしいが、文章にならない。反映されないようだ。筋が通らないか。まさかそれもいつもの通りだと思っているわけか。それでは埒が明かないだろう。

 腹が減ったらしい。夜に貰い物のスパゲティをゆでて食べる。体に悪いだろうか。イチゴの香りがする紅茶も体に悪そうだ。貰い物には統一感がなく、どことなくちぐはぐな印象を受ける。そして慢性的な頭痛か。そんなはずがない。もうすぐ死ぬのではないか。それも否定し難いか。いつの間にか病魔が忍び寄ってきて、気づいたときには手遅れだろうか。よくあるパターンか。でも紅茶が苦い。意味不明のようだ。何も語っていないのと同じことか。ストリングスを多用した構成か。眠れなくなる。明日も早い。でもやり遂げようとしているわけか。これは何かの賭けなのか。それにしてはリスクが少ない。目下のところ何も危険ではない。気づかないだけか。やはりそのうち手遅れになってから気づくのだろうか。よくあるパターンだ。そして実際にそうなってしまう。そんな夢でも見ていたのか。そういう逃げ道もあるらしいが、フィクションの中での話か。でも懲りていないのだろう。でもそれに気づいてどうするのか。気づかないと先へ進めないのではないか。でも先に進んでどうするのか。先には何もない。ではもう終わりなのか。だからそういう話ではないだろう。そうなってしまうだけのことか。結局はそうなるしかないのだろう。調子が出てきたように感じられる。気のせいだろうか。そうであってもかまわないのではないか。言葉を記しさえすればそれでかまわないか。だいぶ投げやりな気分で、おかしなことを考えている。やはり気のせいなのかもしれない。突き指した指先が痛む。それは気のせいではない。でもそれとこれとはどう違うのか。どうでもいいことのたぐいでしかない。やはり気乗りしないらしい。でも何とか言葉を記しているようで、今日もノルマを達成した気になっているのだろうか。冗談に違いない。そう記しながらも顔がにやけている。そんなのは嘘か。嘘でも何でもいいではないか。とにかく早く記述を終えて、さっさと眠ってしまいたい。何なら永眠したいか。そこまで飛躍したいわけでもないか。君は鈍感だ。愚鈍なことか。何をどう思っても無駄だ。すでにこうなってしまっている以上は、あとからいくら言葉を付け足しても、大して流れは変わらない。このままなのだ。いくら語ろうとしてもこうなってしまう。だからもうあきらめたらどうか。


1月1日

 ようやく今年に入ったらしいが、取り立てて何もない。いつものことか。どうも今年もだめらしい。早くもスランプに突入か。冗談かもしれない。何でこうなってしまうのか。気が散って言葉を記すどころではないのか。なぜこうなるのか。何も語れない。なぜか知らないが、こうなってしまう。飽きてしまったのだろうか。またそれか。何を忘れてしまったのか。思い出せないことを思い出そうとしている。そんなはずがない。そうではない。そうでなければ何なのか。またそれだ。どうも抜けきれていない。なぜそうなるのかわからないが、そういうことらしい。去年の今頃は何をやっていたのだろう。同じように言葉を記していたのだろうか。記憶が定かでないか。冗談だったはずだ。また笑い転げているわけか。それは架空の世界でのことだろう。でもそんな嘘をつく理由を見出せず、他に何か思い当たる節もなく、何が何だかわからないのはいつものことだろうが、それでも怯まず記述を続けようとしている。なぜ怯む必要があるのか。だからそうではないだろう。だからが余分か。何とかそこで話の筋をねじ曲げようとしているのか。なぜそうする必要があるのか。またそうなってしまう。すでにそうなっているわけか。でもおかしい。またどこかへと意識が外れていってしまうみたいだ。引き止められない。なぜそうなってしまうのだろう。わけがわからないようだ。それは当然のことか。でもそこから話に発展しないのはどういうことなのか。もとから話ではないからか。完全におかしい。何かを見失い、体をなしていない。語る必要がないのではないか。そうなってしまったらおしまいか。だからすでに終わっている。ごまかしようのないことだ。何を恐れているのか。恐れていた事態はもうとっくにきている。まさにこの状態がそうではないのか。だからごまかしようがない。頭の中で何かが循環している。それは以前に記したのと同じような言葉か。別にかまわないだろう。そうなってしまったのを未だに改められないのだから、そうなって当然か。呆れている。呆れられているのではないか。しかし何がそうなのか。君自身がその身を以て体現しつつある何かだ。

 何かとは何か。そういう記述が何かを示しているわけか。きっとそうに違いない。なぜそう思うのだろう。別に幽体離脱しているわけでもない。何かに見下されているわけでもないだろう。別の世界で起きていることか。別の世界とは何か。まだ可能性があるらしいが、それはどうなる可能性なのか。よくなる可能性か。だが別に小康状態に入っているわけでもない。病気ではない。気の病でもないはずだ。では何なのか。たぶんそれが何かなのだろう。冗談ではあり得ず、病気なのでもなく、では何なのかと問うならば、何でもないと答えるしかない。それでは埒が明かないか。もとからそうだ。そういう記述なのだから、もうあきらめるしかないか。でもまだ可能性が残されている。どうなる可能性でもないようだが、それでも可能性は可能性に違いなく、それにかけているわけでもないのだろうが、何となくそう思われ、気休めのようにも感じられ、他に思い当たる節もなく、やはりそうなのかもしれないが、それでも可能性なのか。たぶんそうだ。そうに違いない。そういうことにしておこう。あやふやなのかもしれない。はっきりしないわけか。でもそこから言葉を記さなければならない。でもラップではない。そんなふうに記しているわけだ。相変わらずそうだ。もういい加減に改めたいが、そうはならず、思い通りにいかないらしい。苦しいのだろうか。大したことはなく、何でもないことかもしれず、どこへも至らずに、ここで何をしているわけでもない。苦し紛れに何を述べているのか。そうではない。それを否定したいのだろうか。悲しいことか。それほどのことでもない。たぶんどうということはなく、そうであるからこそ、ある意味で悲しいことかもしれず、何もないが故に、さらに追いつめられ、どこへ追いつめられているのか知らないが、ともかくそういうことなのだろう。でも感傷に浸っている暇はない。それは何かの映像だろうか。またはぐらかそうとする。ごまかしのたぐいだ。それでかまわないのか。いつまで経ってもそれでは埒が明かない。ではそこでわかっているのはそういうことだろうか。何がそうなのか。何もそうではない。否定したいのか。それらのていたらくを認められないらしい。


2012年

12月31日

 何がおかしいのだろうか。またテレビを見ているわけか。もうだいぶ話が進展してしまったようだ。それだけのことか。だが別にがっかりしているわけではない。でももう年が明けてしまったようが、相変わらず昨日の日付か。また音楽を聴いているようだ。どうやら今年も内容を導き出せずに遅れたままとなりそうだ。映像を小一時間も見ていた。目が疲れたのだろうか。また音楽を聴いているらしい。何の感慨もない。ただそういうことなのか。それは誰から届いたメッセージでもない。何でもないのかもしれず、気に留めるようなことでもないのだろうか。では何なのか。そういう蒸し返し方がおかしい。何かが失われているのだろう。君と古代の巨石文明とは何の関わり合いもなさそうだ。そんな映像を眺めていた。君もっと短い期間でどうかしてしまうらしい。死んだり生きたりするわけか。やがてすべてがだめになってしまうのだろう。だめになってから、だめになった理由を語ればいいのではないか。いったいそれは何の話なのか。何の話でもないのかもしれないが、わからないことは確からしい。何か断片がどこかに残されていて、それを探し出してつなぎ合わせれば、何かのメッセージとなるわけか。でも今すぐ何かが起こるわけでもなさそうだ。何かが起こってほしいのだろうか。今それが起こっている最中ではないのか。さあわからない。ただ言葉を記しているだけか。誰がそれに気づいたわけでもない。話になっていないだけか。何でもありはしないようだ。確かに話にならない。何を待ち望んでいるわけでもなく、誰もがその日暮らしの毎日か。そんなはずがない。妄想に限りがあるわけでもなく、どこで全開状態となっているわけでもない。いったいそれは何のことなのか。ただ地上のすべてが焼き尽くされる超自然現象が起こるとしても、君はそれによって絶命するだけではないのか。だから何の興味もないのか。そんなはずがないだろう。面倒くさいのか。語るのがそうか。何のことを述べているのだろう。言葉を記しているうちにわけがわからなくなるが、何だか大げさなことを述べているみたいだ。

 本気ではない。それはわかりきったことだ。話の全体を把握できていない。でもそれは何の話なのか。こけおどし的な効果なのだろうか。それもわかる。どうも結論が出ない。君はそこで何を求めているわけでもないことは明らかか。そこで黙ってしまうのだろう。今はそういうことになりそうだ。どうもうまくいかない。うまくいきそうにない話になっているのではないか。でも何の話でもないのだろう。しかし何なのだろうか。テレビを見るのは無駄なことか。暇つぶしなのだから仕方がない。でも昨日はネットで映像を見ていたはずだ。それがどうかしたのか。その内容についてなぜ語らないのか。馬鹿げた内容だからか。そういうわけでもない。黄金数と円周率とギザのピラミッドの寸法との関係が興味深かったはずだが、やはりそれがどうしたわけでもない。人はいつも複雑怪奇な謎解きに情熱を燃やしているわけだ。暗号の解読とかいうのにも興味があるらしいが、それもどうしたわけでもないのだろうか。たぶんそうではないのだろう。それ以上の何かを探しているわけでもない。では君に何がわかるのか。宇宙人とか地球外生命や文明とかの存在を認めるにしても、それがどうしたわけでもないことに変わりないのだ。君は何かから逃げていないか。現実から逃避しようとしているわけか。それが現実なのだから仕方がないのではないか。それの何が違うわけでもなく、違う理由や原因を探っても無駄なのだ。実際に何が違っているとも思えないのだから、どうしようもない。それによって現代文明が滅びようとどうしようと、そんなことは関係ない。君とは無関係だ。だいいちそんな大げさなことではないだろう。ではただそこで言葉を記していればいいのだろうか。それも違うか。その内容が問題なのか。でも依然として何も語っていないではないか。なぜそうなってしまうのだろう。なぜも何もないからか。それでは話にならない。君はそこで途方に暮れるしかないらしい。ともかく現代文明は太古の巨石文明とは違い、いったん滅びれば何の痕跡も残らなくなる。今から数十万年後にはそうなるのではないか。それでかまわないのだろう。別に問題があるわけではない。


12月30日

 何だかよくわからない。笑っている場合ではないだろう。またテレビでも見ているのか。やはり何だかわからない。何かにとらわれているのだろう。そんな気分だ。まだ笑っているのか。テレビの中で誰かが笑っている。それだけのことか。それだけのことが重要なのか。たぶん誰かにとってはそういうことだ。またそんな嘘をついている。嘘でも何でもないかもしれない。何を述べているのでもない。ただテレビを見ている。それだけで笑っているわけか。確かに笑う要素がある。でもそれだけのことだ。中身が空っぽだ。そんなことを記している。なぜか何も語る気になれない。たぶんそのまましばらく笑い続けているのだろう。そんなテレビ番組も終わり、何を記すべきかわからなくなり、何でもいいような気がして、またそんなことを記しているわけだ。二日続けて笑い過ぎだ。もう何も記せなくなっている。どうやらこのまま年越しになりそうだ。冗談か。もういいのではないか。テレビを消して静かになる。しばらくしたら音楽を聴いているのかもしれない。今からなら間に合うだろうか。でも何も語れないのではないか。世の中がそんなにつまらないか。興味がないのかも知れない。なぜだろう。別にくだらなく思えてもおもしろいのではないか。上から目線で見下しているわけでもないだろう。君自身が愚かなのか。他人に媚びたりしないのか。ではこのまま孤独を楽しめばいい。でもそんなに孤独でもないはずか。昼は仕事をしている。ただそれだけのことだろう。では至って冷静でいられるわけか。わけでもないか。たぶんわけではないのだろう。何でもありはせず、もう今年も終わってしまいそうだ。君は残された時間を活用して何をやろうとしているのか。ただ誰かがそこで言葉を記している。それだけのことだ。君が何をやっているとも思えず、まともな文章になっていないことも承知している。もうテレビは飽きてしまったのだろうか。飽きるほど見ていないだろう。では何なのだろうか。そんな気分なのかもしれない。だから別に黄昏れているわけではない。何もしないうちからそれはないか。じっとしているとあくびがでる。退屈なのだろうか。

 そんなはずがない。でも何だか気が抜けているようだ。どうも君はこの世界から必要とされていないみたいだ。だからそんなはずがない。夜だから窓の外が暗い。眺めているわけではないか。他に何を眺めているつもりになれるのか。問われていることが他にあるのだろうか。蜃気楼を眺めているつもりにはなれない。想像力が足りないわけか。わけではない。何も見えてこないだけか。ここはトンネルの中なのか。明かりがついていないようだ。だからそんなはずがない。でも何がだからでもないのだろう。たぶんこれは何かの残骸なのだ。誰かの意識がそこで佇んでいる。それもそんなはずがないか。近づいているのは死ではなく詩なのではないか。わけがわからないか。唐突にそんなことを思う。またThe RH FactorのPoetryを聴いている。なぜそうなのかわからないが、そういう成り行きになってしまうらしい。別に他意があるわけではない。心持ち音量を上げて、何となく聴いている。それだけのことだ。他に何もない。でも何だか心が落ち着かないか。別に他人に媚びてもかまわないのではないか。そこに下心がなければかまわないわけか。Marcus MillerのFreeもいい。続けて聴こうとしている。なぜなのか。たぶん理由らしい理由などどこにも見当たらない。それだけのことなのだから、そういうことなのだ。別に貧乏揺すりが止まらなくなったわけでもない。箱庭の中にある苔むした岩が月光を浴びている。そんな写真を見た記憶が不意によみがえってくるわけか。意味不明だろうか。そこで何を想像しようと君の勝手だが、文と文がつながらなくてもかまわないのか。そういう文章なのだから仕方がない。でも何を開き直って考えようとしているわけでもなく、どこへ飛躍しようとしているのでもない。論理の飛躍は日常茶飯事か。そういうことでもないような気もするが、いわせておけばそれでかまわないような気もしてくる。毒にも薬にもならないことであり、人畜無害なのだから、気が済むまで言葉を記せばいい。でもそれで気が済まないならどうすればいいのだろうか。もっと違うことでも述べたらいいのか。気が済むようなことを語ればいいのだろう。


12月29日

 気に入らないのはわかる。ぼけているのかもしれない。とぼけているわけではあるまい。どちらでもかまわないか。そんな状況なのだから仕方がない。要するにまた面倒くさくなっているのだ。それでかまわないのだろう。状況が状況なだけに、何を述べても意味不明か。それはどんな状況なのだろうか。すべてが空振りに終わっているわけか。別に素振りをしているわけでもないが、何だかそんな具合になっているようだ。身の回りが片づかず、左目の奥も時折痛みを感じる。それとこれとは無関係なのは承知の上で、何となくそんなことを記してみるが、それで何がどうなったわけでもないのもわかりきったことで、要するに目をこすりすぎている。いつの間にかそんな癖がついてしまったようだ。何ともいえない気分か。すでにこんなところまできてしまった。もう後戻りができない。何を後悔しているのか。何が言いたいのはわかっている。だがそれをあえて口にしないのが何なのだろうか。噓も方便か。そんな精神状態にはなれないのかもしれない。すでに切れているのだろう。何が切れているかはわかっているつもりだが、それだけのことだ。戸惑うなら戸惑ったままで結構か。誰かがそこから追い出され、代わりに別の誰かが居場所を確保するわけか。馬鹿げた話だが、それが当たり前のことなのだから、世の中は不条理に満ちているか。でも別にそれが不条理だと思っている人など皆無だ。当たり前すぎて気づかないのだろう。そう思うと何だかアホくさくなり、やる気を失うか。でも言葉を記していることは確からしい。そうやって気休めを追い求め、醜い現実を忘れようとしているわけか。でも辛かったり醜く思われたりするのは、ほんの一瞬で、次の瞬間にはもう前向きになっていたりするわけか。それは気のせいだろうか。そうでなくてもかまわないが、そうであってもかまわないことであり、要するに何でもいいわけだ。人はただ適当に生きてゆくしかないらしい。誰かが公園で絵を描く。クレヨンでいい加減に描いているようだ。そんな光景を想像しているだけか。きっと誰かが風邪を引いているのだろう。そんなはずがないと思いたいのか。でもどうでもいい。

 何かが揺れている。地震か何かだろう。確かテレビで何かやっていたはずだ。誰が何を考えているのか。別にそれが知りたいわけではない。ただそんなことを記している。ギターを弾いているわけではない。そこで何を燃やしているのか。燃料が見当たらなければ、きっと発電しているのだろう。違うか。君は知っているはずだ。もうそこには誰もない。たき火のあとなどどこにも残っていない。きっとそれを探しているわけではないのだ。では何を探しているのか。そんな話ではなさそうだ。また外れているのかもしれない。的を外して、何を見出したつもりとなっているのだろう。だからそんな話ではない。もっと何か別の状況を想像してみよう。ラウンドミッドナイトか。だから何なのか。セロニアス・モンクがどうかしたのか。死人だ。故人といった方がニュアンス的に合っているだろうか。だが何が言いたいわけでもない。相変わらずそうなのだ。もう終わりが近いのか。きっとそうだ。確かにそうだが、何となくそうなってしまってもかまわないような気がする。だから何なのだろうか。わからないが、微笑んでいるわけでもない。また関係ないようだ。ではもうこれ以上は無理なのだろうか。無理に決まっている。君はもう終わりなのだ。そう思って差し支えない。でも終わった後のことを考えているのだろう。冗談なのか。何がそうか。何もそうではないのではないか。実際には何もありはしないが、空想の世界では何かがもたらされるような気がして、さかんに空想し続けているのかもしれない。そんなのは嘘だろうか。何も定まらず、終わりもままならないのがそこでの実態か。精神的な余裕が見受けられず、いつもそわそわしていて、絶えずきょろきょろしているわけか。でもそんな動作などどうでもいいことではないのか。あくびがでる。眠たくなった。また首をぐるぐる回し出す。そんなはずがないだろうか。でも内容のある中身を見出せず、何かが目の前で空を切っている。それでおしまいか。何がそうなのか。すべてが同時進行で迫ってくるが、何とか避けられないものか。はらいそとはパラダイスのことだそうだ。たぶん避け続けていれば、自ずからそうなってしまうのだろう。もう何が何だかわからない。そして黄昏れている。さよならばかりの何かを思い描くが、意味不明か。


12月28日

 今日は無理らしい。何となくそう思う。的外れか。とりあえず翌日になってしまった。やはり無理だった。深夜に目が覚めたらしいが、ここから言葉を記すとするか。まあ無理だろう。遅れる宿命なのか。たぶんそうだ。面倒くさいがそういうことになる。何だか年末は慌ただしい。しかしこれでいいのだろうか。何ともいえない。こんなふうにしか言葉を記せない。でも今さら弱音を吐いても仕方ないのではないか。ではどうしたらいいのだろう。たぶん冗談なのだろう。わざとそうやって、何か適当な言葉の連なりを絞り出そうとしているわけか。無理か。何だかわからない。いつものことなのだろうが、やる気がでない。それだけのことだ。もうだいぶ時間が経ってしまった。どうせテレビでも見ていたのだろう。それだけのことなら、今からでも遅くないか。だから言葉を記しているわけだ。まだ間に合うと思っている。だめらしい。だめでもともとなのではないか。君には何が欠けているのか。他人を思いやる心か。そんなありふれたことか。他に何かあれば、それを教えてほしいか。知りたくもないはずだ。そんなことには興味がないわけか。では何に興味があるのだろう。たぶん思いつかないだろう。何も思いつかない。思い当たる節がないようだ。ではどうしたらいいのか。そんなふうに言葉を記していればいい。それは天啓か何かか。天が君に何を教えているというのか。何かを忘れている。そんな思いが募り、過去の記憶に探りを入れているようだが、それは間違いか。それの何が間違っているというのか。また何かの冗談を口走るところだったわけでもない。ただそこで言葉を記したいだけのようだが、記したい内容が見当たらない。それではだめだろう。しかしこれは何なのか。現にここで記されつつあるこれは、何を表しているのだろうか。空疎な思いか。そんなものがどこにある。疑問に思っているわけでもないか。たぶんそんなことではないのだろうが、では何なのかと問うならば、それが何だかわからない。何だかおかしくて笑い出す。まあいい。でははじめからやり直すとするか。やりもしないのにそれはないか。でも何だか愉快な気分が持続している。それは錯覚か。わざとそうしているだけか。でも何だか愉快な気分だ。おもしろくないのにそれはないだろうが、何となくそんな気分だ。

 そこで何を想像しているのだろう。君は周りが見えているのだろうか。何だか嫌な気分を抱いている人々に取り囲まれているような気がしないでもないが、なぜかそれが愉快に感じられ、時には痛快に思われてしまう。おかしいだろうか。人嫌いなのにニコニコしながら人に接しているような気もするが、ストレスを感じていないだろうか。ではやがて胃がんにでもなって死んでしまうだろうか。そんな気がしないでもないが、機先を制して、何か痛快な台詞を繰り出して、悦に入るわけでもないだろう。至って普通だ。実態としてはそうなるしかない。別にそれでかまわないのではないか。諸葛孔明の最後は、無能者に取り囲まれながらだったはずだ。そんなはずはないか。でもそれとこれとがどのように関係するのかわからない。すべての時より今が優先されるわけでもない。きっと気のせいだろう。何がそうなのだろうか。そんな気分なのだから仕方がなく、意味不明なのはわざとそうしているからだ。操作方法を忘れてしまったらしい。だからでたらめになっている。はりきっているわけでもないのに、躁状態か。病気なのではないか。気の病か。何かが逆転しているのかもしれない。自然と首がぐるぐる回っている。そんなはずがないと思いながらも、そうしていると気持ちがいいらしく、いつまでもぐるぐる回し続け、次第に肩のこりがほぐれたような気になるが、実際のところはどうなのか。何だかわからないが、あくびが立て続けにでる。いったいどういうことなのだろう。単に眠いだけか。そうかもしれないが、そうでなくてもかまわないのだろう。ではどうなのか。何でもないことだろう。それはわかりきったことに違いない。そんなことを思っているうちにどうにかなってしまい、今はただ言葉を記しているだけのようだ。わかりきったことか。みんな周りのみんながやっていることが気に入らないらしい。要するにお互い様なのに、それを許すことができず、心底から憎悪感に染まっている場合もあり、何かの拍子に思わず口をついて嫌みがでたりする。それも大目に見た方がいいのだろうか。みんなそうやってストレスに晒されているらしい。要するに自業自得のようで、寿命を縮める結果を招いているのだろう。


12月27日

 あまりいいアイデアが思いつかないようだ。でも何に対処しようとしているわけでもなく、何がこじれているわけでもないか。相手の攻撃をうまくいなして、それからどうしたのだろうか。うまくいくように何かを施したわけか。結果を見てみないことには何とも言えないか。それでもここまでやってきたはずで、気休めとしては、うまくいっている部類に入るのではないか。気休めが余分か。でも本質的には何も変わらず、ただ右往左往しながら、そのへんでうごめいているだけだろうか。でもそれでは説明になっていないだろう。詳しくわかりやすく説明する気がないのかも知れない。どうでもいいことなのか。そうに違いない。君はそこで致命的な欠陥でも見つけたのか。誰が見つけたわけでもなく、見つからないから、今まで通りに愚かな行為を繰り返している。それが実態かもしれない。でもそれでかまわないのだろう。愚かなら愚かなりに、何となく何かやっているような気がして、暇つぶし程度の効用をもたらしているのかもしれない。冗談か。わからないのかもしれない。いったいそこで何をやっているのだろうか。ところでひょうたんから駒というのはどういうことなのか。ことわざのたぐいだ。君はそこでわざと首を傾げてみるが、だいたいの意味はわかっているのだろう。でもだいぶ外れているのかもしれない。何をやっているとしても、それは何も語っていないのと同じことだろうか。でもそれで自らを卑下することもない。何か語っていることは確かなのだから、とりあえず終わりまで語る必要がありそうで、あとはそれを遂行すればいいだけだ。でもまだ先は長いか。ここまで語れば十分だろうか。弱気になっているわけではなく、語り続ける前に、他にやらなければならないことがあるらしい。それが終わってから、また語りを再開させればいいわけか。そうすることとしようか。それでその続きはどうなったのか。また右往左往しながら、泥縄式に事態を進展させようとしている。いつものやり方だ。でも果たしてそれでうまくいくのだろうか。やってみなければわからないか。だからやっているのではないか。やっていれば、あとから結果がついてくるだろう。それがどんな結果か今の時点ではわからないが、そういうことでしかない。それでかまわない。

 かまわないなら、そういうことでいいのではないか。たぶんそうだ。他に何もできはしないが、何をやっているわけでもないのだろうが、何となくそんなことを思う。だから冗談だろう。その通りか。でもおかしい。また何をやっているのか忘れてしまったらしい。そんな嘘をつくのもおかしいか。では何なのだろう。何でもなければそうなってしまう。ではまたいつもの繰り返しか。そういうことになる。それでかまわないのだろうか。現実にそうなっているではないか。ならばもう終わりか。何が終わっているわけでもない。まだひたすら言葉を記している最中か。画面の前で腕組みをしている誰かがいるらしい。そしてなぜか困った顔か。そういうわけでもないだろう。では何なのか。こんな感じでかまわないのだろうか。幸せな人々だ。何を眺めているわけでもない。振り返らないのか。見慣れた光景に違いない。何かがどんどん過ぎ去ってゆくようだ。夢でも見ているのか。奇跡が起こっているわけでもない。何もかもが過去の出来事だ。君のまなざしはどこを向いているのか。定かでないか。すでにこの世のものではないのかもしれず、過ぎ去った時間の彼方へと消え去ろうとしている。では思い出の中で息づいているのだろうか。誰の思い出なのか。虚構の思い出でしかないのだろうか。すべてはフィクションの中にあるらしい。事実も現実もそうだ。何事も不確かで、海を流れ行く椰子の実の歌を聴きながら、何を思うこともなく、沈黙の世界で自閉しているわけか。でも意識があるのではないか。何か考えているのだろう。その調子だと思っているわけか。流離の憂いが君を突き動かしているわけでもないのだろう。そこで揺れ動いているのは海藻のたぐいか。海中では息ができない。では翼が必要なのだろうか。どこかへ飛んでいってしまいたいのか。それは君に限った話ではない。誰かがいつか空を飛んでしまうのだろう。そしてそのまま墜落して死んでしまうわけか。イカロスとかいう男の話なのだろうか。オデュッセウスの方が賢いか。ずる賢いということか。でもそれは大切なことだ。冗談の次に大切なことか。だから冗談ではない。しかし真面目になることもないのではないか。でもここからが重要だ。何もないのにそれはないか。では何かの付け足しに過ぎないのか。そうなってしまっては身もふたもない。


12月26日

 まだ暇なのか。何を思っているのか。あるいは思っていることなど何もないのだろうか。論理的に考えられなくなっているらしい。何か忘れていたことがあったのだろうか。でも精神の拠り所などありはしない。伊勢神宮のようにそれをねつ造するのが面倒くさいのか。それにしても日本人はアメリカに対して卑屈に振る舞いながらも、一方で愛国主義的右翼思想を温存しているわけか。それはかつて中国に対して同じように接していた頃と同じか。無論それは日本だけに限ったことではなく、かつてはギリシア人がエジプトに対して、あるいはヨーロッパ人がローマ帝国に対して、アメリカ人がイギリスに対して、周辺諸国の民がイスラム帝国やロシア・ソ連に対して、植民地人がヨーロッパ列強諸国に対して、朝鮮人やベトナム人が中国に対して、みんな同じような立場で卑屈な振る舞いをしていたわけか。そのへんは柄谷行人辺りが詳しいのだろうが、それらのどれもが同じとは限らないが、何となくワンパターンで馬鹿の一つ覚えのように思われてきて、何だか情けなくなってくる。どうでもいいことかもしれないが、あまり気にするようなことでもないのかもしれず、そういう人々に反発するにしても、そこから何か行動に訴えかけるような事態には至らない。だから別にどうでもいいことなのか。君とは関係ないか。何でもいいのかもしれない。そういうのにとらわれている人は、そういう方面で活躍しているわけだ。君はそうではないらしい。君には何が欠けているのか。情熱か。ありふれているのではないか。たぶんそうなのだ。そういう方面で考えるのが面倒くさいのだろう。人はどこででも生きている。そこに暮らしているわけだ。そこで何を見出すにしろ、それに関して語れることは限られてくる。たぶん語る必要すら感じないのだ。それでも君はつかの間の娯楽を誰かに提供していると確信し得るだろうか。冗談だろう。本質的には何も金儲けになっていないし、そういう資本主義のレベルで作品を提供できないこと自体が、やはりどうでもいい言葉の連なりを記している事実を思い知らされるわけか。あるいはそんなはずがないと思いたいのか。何を述べているのか途中からわからなくなる。とりあえずはこれも気晴らしに過ぎないのだろうが、それ以上の何かを望んでいるわけでもなく、そんな自らを卑下したい気も起こるだろうが、たぶんそれでかまわないのだ。これ以上は何だかわからない方が身のためか。

 たぶん別の時間帯で同じことを思っている。そんな思いが繰り返されているのか。誰もが思っていることではないのか。だからどうしたわけでもないか。戯れ言に過ぎないのかもしれないが、それしかない場合はどうなるのか。誰の責任なのだろうか。何が悪かったのか。何も悪くはなく、それらのすべては必然だったのではないか。そうなることはあらかじめ予想の範囲内だったのか。でも何がそうなってしまったのだろうか。別に驚くような事態に直面しているわけではない。すべての人がそこで暮らしている。この世界がすべてなのだから、それは当たり前のことだ。そこから逸脱しているわけではない。意識も精神もそれらの範囲内にあるわけで、考えていることもたかが知れている。でもそこからどうすればいいのかわからない。どうもしなくても生きてゆけるのではないか。それはそうで、それでもかまわないのであり、そんなふうにして生きている人などいくらでもいるはずだ。別に誰がそこで岐路に立たされているわけでもなく、どのような道を選んだとしても、その後に待ち受けている運命など、どれもみなありふれているか。そう思うならその通りなのだろうが、実際にはみんなそうでない運命になることを待ち望んでいるわけだ。そのへんに致命的な思い違いがあるのだろうか。でも何をあきらめているわけでもないのだろう。今は何ともならなくても、いずれは何とかなると思っているわけだ。そんなふうに思うこと自体が哀れで、おかしいだろうか。おかしくはないのではないか。たぶん当然の思いなのであり、そんなふうに思っていないと絶望するしかなく、中には自殺してしまう人さえいるような気がする。あるいはひねくれて厭世主義に陥ってしまうわけか。そうだとしても、なお作品からはほど遠い。それらの何が作品になる可能性があるというのか。別に絵を描いているわけでもない。はなから芸術とは無縁か。ではそれも冗談のたぐいなのか。それとは何だろう。そんなことを述べていること自体がおかしいか。だから冗談なのだろうか。少なくとも君はそう思っている。誰かが空想しているフィクションの中でそう思っているのか。そんな回りくどいことではなく、直接実際にそう思っているのではないか。でもだから何だというのか。そう思うと何だかしらけてきて、もうそろそろ終わりにした方がいいようにも思えてくる。でもそれらのすべてが興ざめというわけでもないのだろう。


12月25日

 何が大丈夫なのだろうか。たぶん何もそうではない。ではまた面倒くさくなってしまったのか。言葉を記すのが面倒くさい。嘘だろう。何だかわからないが迷走しているらしい。困っているのだろうか。そうでもない。では何なのか。またそれだ。いつもそれであり、それが何だかわからないのに、そういうことになってしまう。何を分析しているのか。科学者ではない。落ち着いて考える必要がありそうだ。嘘ではないだろう。時間が止まっているのかもしれない。君はそこから考えているようだ。辺りは静寂に包まれている。そう思いたいのだろう。それでもまだ何かが不十分か。そんなことはない。これで十分だ。でも首を傾げているではないか。そんなふうに思っているのだろう。何がそんなふうなのか。そのへんがよくわからないが、とにかく言葉を記す。それで何とかなると思っているのだろう。なぜかそういうわけらしい。何もそうではないのに、ここまで記してきた。それがどうかしたのか。特定の価値観を担えない。唐突に何か。君はなぜこんなところで生きているのか。取り立てて理由はなく、どこでも生きられるから、そう思っているからか。理由が思わしくないか。ではなぜそんなことを記すのか。今日が今日ではないからか。理由になっていないだろう。でもその通りだ。何だかわからないが、とりあえずここにいて、言葉を記している。それだけのことだ。暇でないのに、暇な空間に引き止められている。用事があるからだ。とにかくそういうことでしかなく、それで何もしない時間帯が増えているらしい。この世界に描かれている光景の中に人がいる。それが社会なのだから、関わらないわけにはいかないか。もうすでに関わっているのだろう。当たり前のことだ。君は相変わらずここにいるらしい。何も見えていない。見ようとしても見えてこないのだろうか。でも何を見ようとしているのか。実際に見えている光景では不満なのか。それしかないのだろうか。そうだとしてもそれだけのことだ。たぶんこの世にはそれしかない。もうその時点で君の姿が風景の一部と化している。それではまずいか。まずいも何も勘違いしないわけにはいかないだろう。自分がこの世界の中心なのだろうか。そう思うしかない。それが勘違いだと思っていても、あくまでも自己中心主義の枠内にとどまっている。

 でもそこから解き放たれたいのだろう。気分だけでも自由でありたいか。しかし自由とは何なのか。言葉でしかない。意味があるかもしれないが、あまり重視していない。それで約束が果たされるとでも思っているのか。反古にされてもかまわないのではないか。もとから何の約束も交わしていないのかもしれない。そしてまた面倒くさくなる。何だかわからないが、気が抜けて、そんなことなどどうでもよくなってしまうらしい。それではまずいだろうか。わからないが、そういうことらしく、それに関して何を語ったらいいのかわからないが、やはりそういうことらしい。語れないわけではないが、何となくそうなってしまい、さらにどうでもよくなり、そんなふうに思われてしまうらしい。しかしなぜ語らなければならないのだろうか。君はすでに語っているからか。それに気づかないだけだろうか。誰が気づいてくれないのか。誰でもない。もしかしたら誰もが誰でもないのかもしれない。だから語る必要もないのに、誰もが語ろうとしているわけか。だから何を語ろうとしているのか。もうあれから十年が経っている。それなのに何の進歩もありはしない。嘘だろう。冗談が過ぎるだろうか。でもそういうことだ。別にあれからどこをどうほっつき歩いてきたわけでもない。その間の記憶が飛んでいるわけでもなく、いろいろなことがあったはずだ。なのにどうしてここにいるのだろう。わからない。わけがわからないのではない。わけなどわからなくてもけっこうか。とにかくわからない。君はそこで何を見失っているのか。どうもこの世界がどのように変貌を遂げようと、何か腑に落ちない点があることだけは確からしく、君はいつもそこで疑念を抱き続け、何となく居心地の悪さを感じざるを得ないのだろうか。約束の地などどこにもありはしない。だから居心地が悪いのは当たり前のことで、君自身が常にこの世界では余分な存在でしかないのかもしれず、いてもいなくてもかまわないどころか、そんなことさえどうでもいいのだろう。そしてもはや見捨てられている以前の状況下にいるらしい。それは本当だろうか。冗談か。だから冗談に決まっている。これが冗談でなくて何なのか。では疑う余地などありはしないか。この期に及んで何を疑っているのだろうか。そのへんがわからないようだが、たぶんわからなくてもかまわないのだろう。


12月24日

 この感覚は何なのか。何も感じないのか。そうは思わない。では何も思わないのだろうか。そうも思わない。では何なのかと問えば、何でもないといえばいつものことになり、何でもなくはないと思えば、そういうことになりそうだ。要するにそういうことなのだ。だがそういうことではないと思えばどうなるのか。どうもならず、そういうことではないことになりそうだ。それはいつもの冗談なのだろうか。そうに決まっているだろう。でも何が決まっているわけでもないのだろう。おかしな言い草か。誰が何を口走っているわけでもないのに、言い草はおかしいだろうか。でもそれで何とかなりそうで、何ともならなくてもかまわないのだろうが、それでも何とかなったことになってしまうのではないか。だからおかしいのだろうか。何かがおかしい。そう思っていればいいわけだ。何をどう思っているわけでもないだろうが、誰かがそう思っているわけだ。君はそういうことにしておきたいのか。だからそうに決まっているだろう。これも何かの冗談か。これとは何なのか。政府の補正予算案の中身が冗談なのか。それは冗談ではなく、たんなる景気対策のたぐいだ。でもおかしい。おもしろおかしいのではないか。至って真面目なのかもしれず、当人たちにとっては冗談では済まないことかもしれず、まさに命がけで政治を執り行っていると思っているわけだ。だからそれが冗談なのか。しかしそんなことをいつまで述べていてもきりがなさそうだ。さっさと違うことを述べておいた方がよさそうで、君は実際にそれとは違うことを述べようとしているわけか。君は黙ったままだ。では誰が述べようとしているのだろう。誰でもかまわないだろう。誰が述べてもきりがないか。そういう話ならどういう話でもなさそうだ。君もそう思っているのか。そんなことは定かでない。誰が何を思っていようと、勝手に何かが記されるだけのようだ。そう思って差し支えないか。他に何が差し支えているわけでもなく、要するに何でもないことなのだろう。何でもないからそうなってしまい、それが続くとこうなり、どうなっているわけでもないのに、結果的にはこうなっているわけか。何が結果とも思えないはずだ。たぶんこれらはすべて途中の過程なのであり、いつまで経っても終わりようのない記述の一部をなしているわけだ。そう思って差し支えないか。そうに決まっているだろう。

 そしてここまで言葉を記してきた。これが事実で現実か。だからそうに決まっているだろう。これでも誰かが何とかしようとしているわけだ。見るに見かねているわけか。ついでにそんなことを記してみるが、的外れもいいところだろうか。そう思って差し支えない。だからそうに決まっている。いったい何を繰り返しているのか。そう記しているだけのことだ。この世はままならない。君にとっても誰にとってもそうだ。要するに思い通りにいかないということだ。いつもそればかりのようだ。でもそれを逆に利用しながら、ここまでたどり着いたのではなかったか。それもそうだ。いつも当てが外れているようで、それでもその当てが外れた状況を利用しながら、うまくいかなくてもいいような成り行きにもっていっているのではないか。方便なのか。それ以上の何かかもしれない。とりあえずそこで停滞させてはいけないらしく、次へと向かうように意識をもっていっているわけだ。そこには様々な思惑が渦巻いていて、いちいちそれに腹を立てて、立ち止まってばかりでは時間の無駄だ。だからたとえ自分の思惑とは違っていても、他人の思惑を利用しながら、事態をその先へ進むようにしていかないと、くだらぬこだわりのとらわれて、もうそれ以上先へは進めなくなってしまうわけだ。だからとりあえず憤っている暇はなく、今は黙って駒を進めるしかないらしい。別に双六をやっているわけでもないが、絶えず賽を振りながら、先へ先へと駒を進めていくつもりで、それらに対処しなければならず、実際に君がやっているのはそういうことだろう。君とは私のことなのか。私とは誰だろう。もうそのへんで冗談が通じなくなっているのか。そうなっても仕方のないことかもしれないが、曖昧な返答でごまかして、そんなことはどうでもいいと思っているのかもしれず、そういう感じで、それらの成り行きを見守りながら、何とか難局を切り抜けたつもりとなり、本当は切り抜けられずに、苦悶の表情を浮かべて、必死に助けを求めているのかもしれないが、とりあえずそんなことはどうでもいい。すべてはフィクションなのだから、そこで誰がどうなろうと知ったことではない。しかしそこで君は何をやっている最中なのか。それはたんなるゲームなのだろうか。そうであってもかまわないが、そうでなくてもかまわないのだろう。


12月23日

 またこんな具合となってきた。相変わらず疲れている。いつもそうだ。でも何かがおかしい。たぶん何がそうなのでもない。やはり疲れているのかもしれない。眠ってしまったらしく、翌朝に目を覚ます。まだ疲れているのだろうか。それは冗談だろうか。冬景色をテレビで見ている。だから冗談なのか。何を思うこともなく、空は晴れ渡り、遥か遠くに見える山は雪をかぶっているではないか。たぶんまだ何も見えていない。言葉を記すのが面倒くさいのか。そうでもないだろう。たぶん言葉を記している最中なのだ。それでかまわないのか。かまうも何も、実際にこうして言葉を記している。意味を見出せないだろうか。それでもかまわないだろう。何がかまわないのか。そんなふうに記してもかまわないということか。だからそれでかまわない。人はこの世で生きている。生きているからには、何かしなければならないのだろう。その何かしていることの一つが言葉を記すことか。記述をそう捉えてもかまわないというわけか。そうやって回りくどいことを述べているつもりのようだ。だから冗談だと思われるのか。それでいいのではないか。そういう流れなのだからそうなるわけだ。だが意味がわからず、理由も定かでない。ただそんなふうに言葉を記しているだけのようだ。なぜそうなってしまうのか、理由を考えなくてかまわないのだろうか。考えだしたらきりがなくなる。だからそのへんで思考を止めておきたいところだろうが、そうはいかず、記述の流れがそれを許さない。そんなはずはないだろうか。では何が理由なのか。それがわかれば苦労はしないか。でもそこで誰が苦労しているわけでもなく、君も苦労しているわけでもないか。その突然記される君とは誰なのか。誰でもなければ君でもないのだろうか。いつもの癖か。そうであろうとなかろうと、そんなことでかまわないと思うしかなく、それで記述の足しになればいいのだろうか。何となくそういうことのようで、君もう開き直っているらしい。これはどうにもならないことだ。制御が利かないのは当たり前で、何を思っているわけでもなく、ただ言葉が記されるにとどまっているみたいだ。そのへんは虚無にまかされている領域なのかもしれない。

 ところで君の心に巣くっている虚無は何を考えているのだろう。何を想像すればいいのか。君が何かを想像しなければ言葉が続かないか。無理にそうしなくてもかまわないのではないか。誰が君にそうさせようとしているわけでもない。では他にどうすればいいのだろうか。何もせずに黙っていてもかまわないのか。実際にそのつもりなのだろう。記述は気分次第でどうにでも記され、それは誰の気分でもなく、何がその場の気分とも思えないが、他に誰が何を思っているとも思えず、とりあえずはそういうことが続いてゆくのだろう。今はそれでかまわないと思っているらしい。実際にそういうことでしかない。でもあきらめてはいないらしく、必死にそれとは違う話の展開を模索している最中なのか。それは冗談だろう。何も思いつかないからそうなっているのであり、近頃はそればかりだから、そんなふうにしか語れないわけだ。でもそれが冗談なのだろう。そのへんがわからないところだが、たぶんそこで何をわかっていようといまいと、それらの記述が成り立たなくなれば、そのとき君は何かの束縛から解放されるはずだ。本当に解放されたいのか。誰に尋ねているのか。架空の君に決まっているだろう。だから冗談だと思われるのか。だからそれの何が冗談なのか。たぶん何も冗談ではなく、それらの記述のすべてが冗談なのかもしれないが、それで何がどうしたわけでもなく、たぶんそんなことなのだろう。そして君はその場で黙るしかない。いつもそういう成り行きなのか。でもこれまでに君がいったい何を語ったというのだろう。ひたすら黙っているだけではないのか。だから話にならないのだろうか。でもそもそも話とは何なのか。それなりに記述は続いているようだが、その内容が話になったためしはないか。すべてがそうではなく、たまに話らしき記述が見受けられるような気もするが、それがどうしたわけでもなく、気がつけば意味のないことを延々と記しているわけか。だからそうであってもかまわないのであり、冗談だと思えば事足りるか。でもそれではあまりにも無責任ではないのか。ならばどうしたらいいのだろう。どうもしないまま、どうにもできないまま、事ここに至り、あとは誰もが困惑するしかないだろうか。そんなはずがない。たぶんそういうことだろう。でもそうでなくてもかまわないのだろう。


12月22日

 別に誰が破れかぶれというわけでもあるまい。言葉を記しているうちに、何だかそんな気がしてきたが、もう一杯コーヒーがほしくなってきた。やめた方がいいか。どうせ眠れなくなる。この状況では別にかまわないのではないか。それで寿命が縮むのか。それもあるだろうが、頭痛がひどくなるような気もする。それでもかまわないのか。そう思うと何だか疲れてくるだろうか。たぶん目をこすりすぎたのだろう。日頃の癖かもしれないが、本当にそう思いたいのか。深刻な事態ではない。では何かの気休めだろうか。かまわないではないか。それでコーヒーを飲みながら何を考えているのだろうか。取り立てて何も考えていないわけか。興味がないわけではないだろう。そうでなければ何なのか。相変わらずくだらない問答だ。くだらなければどうしたらいいのだろう。面倒くさくなって、どうでもいいような気もしてきて、要するにわからなくなる。わからなくて当然か。記述に対する興味が薄れてきて、それからどうしたのか。しばらくよそ見をしているうちに、やる気を失うか。今後はそうならないように努力しようか。嘘か。今の君にそれができるだろうか。今でなくても何を目指しているわけでもないだから、それ以上根気が続かないのはいつものことか。今は違うだろう。確かにそういうことではない。ではどういうことなのか。何か探しているのではないか。ネット上でか。具体的に何を探しているのか。具体的となるととたんに難しくなり、今のところは何だかわからないが、とりあえずそれは何かのお宝に決まっているか。そんなものなど世界中どこを探してもありはしない。でも何もやりもしないうちからそう決めつけるのはよくない。何かやっているのではないか。今がその最中か。そんなことを記しているうちにも何かがおかしくなりつつある。いつものことだろう。でもそれが止まらない。それとは何なのか。やはりそれは冗談なのか。冗談ではないだろうが、そう述べてそれらの探求から目を背けるのか。それらとは何なのか。それらとはそれのことか。なぜ複数形が単数と同一になるのか。たぶんそんなことはどうでもいいが、他に記すことがないのではないか。そうでもないだろう。何だかそれでかまわないような気がするだけか。いつものことだ。何もかもがいつものことでしかない。そんなふうに思っているわけでもないのに、そう記しているのはどういうわけなのか。他意はなく、それほどのことでもない。では何なのだろうか。何でもないということか。

 滑っているような気がする。夢の中でか。唐突にそれはないか。何が唐突なのか。案外冗談ではないのかもしれない。案外でもないだろう。では何なのか。そうなって当然なのだろうか。でも飛ばし過ぎはよくない。そのうち気が狂ってしまうだろうか。でも内気な性格でもないのだろう。意味がわからず、文と文がつながっていないような気がする。何でもその気になるのはよくないことか。別にそうでもない。何が別でもなく、別も何もありはしないか。何だか目がチカチカしているようだ。疲れているのかもしれない。どんどん疲れていってしまうようだ。虚構の中ではそうなのか。ごまかしなど通用しない。今さら何なのだろうか。何でもなければごまかしでもないか。何かが邪魔なのか。言葉が邪魔だ。嘘かもしれない。言葉を記していること自体が睡眠を邪魔しているのかもしれず、何かに逆らいながら何をしているわけでもないのに、何となくそれが記述だと感じるわけだ。間違っているのだろうか。言葉を記していること自体が致命的な過ちか。なぜそう思うのか。思ってもいないのにそんなことを記しているのだろうか。おかしい。何かがおかしいようだが、おかしいままでもかまわないような気がする。それが情熱というものか。やけくそで破れかぶれで、後は野となれ山となれというわけか。何だかそれもおかしい。そんなことを記しているうちに何かの最終回を見逃してしまったらしい。見る気もないのにそれはないか。いったい何を見るつもりだったのか。今となってはその時の記憶が飛んでいて、何も定かでなくなっている。それも嘘か何かだろうが、それもどうでもいいことのたぐいか。そのどうでもいいことの続きで何があるだろうか。気まぐれで北欧の家具でも買いたくなってきたか。ノルウェイの森は誤訳か。椅子がいいのではないか。高いか。たぶん高いだろう。雨だ。そういう曲名の曲を聴いている。雨音だけではないか。しばらくしたら楽器の音も聞こえてくる。退屈な曲だろうか。要するに雨に唄えばということだ。他に何があるだろう。何もなければこの辺で終わりにしないか。深入りし過ぎると明日に響く。それも承知で言葉を記しているのではないか。なぜそうなるのかわからない。


12月21日

 どうやら回復に時間がかかってしまったらしい。深夜二時まで忘年会につきあっていると、何だか調子が悪くなる。危うく三日遅れになるところだった。本当になってしまう。何とかしなければと思っているようだが、本当に何とかなるだろうか。明日も朝が早い。今日も早かったのだろう。そして何かがどうにかなってしまったらしい。君はそれで満足してくれるだろうか。くだらぬ妄想を抱いているわけでもない。でもここから何かを語ろうとしているわけだ。人はなぜしゃべりたがるのか。しゃべる能力があるのだから、当然その能力を最大限に使いたがるのだろう。冗談だろうか。何が冗談なのか。理由になっていないか。どんな理由を探しているのだろうか。何を求めているわけでもなく、何も求めていないわけでもなく、どちらでもかまわないのではないか。別に夜の闇に向かって何か話しかけているわけでもない。ここ最近はかすかな頭痛に悩まされている。脳に腫瘍でもできたのだろうか。死ぬか。もう死んでしまってもかまわないのではないか。ヤバそうだが、たぶんそれは冗談だろう。でも本当に死んでしまったら、言葉を記せなくなってしまう。そこで終わってしまうのだろうか。そうならないようにしなければならないか。だから何とかしようとしているわけだ。だがそれで何がどうなるわけでもない。要するに死ぬまで言葉を記し続ければいいだけか。息切れ状態のようだ。何だか恐ろしくなるか。いったい何が恐ろしいのだろう。他人の痛みをわからないところが恐ろしいのか。誰がそうなのだろうか。そのへんは誰かの想像にまかせるとして、とにかく何とかしなければならない。そういうことでしかなく、君はそこで何とかしようとしているわけだ。それでかまわないのだろう。まだまともなことを述べるには時間がかかりそうだ。いつもそうかもしれないが、たまに何かのきっかけで何か述べることがあるのかもしれず、そうなるまでひたすら空疎なことを記しているしかないようだ。もう何も記すことができなくなるまで、そんなことを語っているつもりになるだろう。おかしいだろうか。それも冗談にならない冗談に含まれるのか。何がそうなのだろうか。でも何とかしようとしている。それで以前より少しは前向きになったつもりになれるかもしれず、その調子だと思うようになったらしめたものか。

 しかし何なのか。実質的には何でもないのだろうが、そこから何かが始まり、そんなふうに思うようになり、何か適当に語っているつもりになり、それで満たされた気になりたいのか。それもまた冗談なのか。意味不明だろうが、それもいつものことか。わかりきっているだろうか。でも仕方がない。そうなってしまうのだから、今すぐに何をどう変えることなどできはせず、ただこんなふうにだらだらと言葉を記していくばかりのようで、記してゆくうちに、だんだん嫌悪感が増してゆくわけか。そうならないようにしなければならない。とりあえず耐えているつもりのようだ。何に耐えているのかわからないが、そんな空気に包まれている。きっとそれは気のせいだろう。わかっているのではないか。胃が痛いか。それほど自覚症状はない。嫌なのだろうか。何が嫌なのか。どうも何かの極みに達しない。憤っているわけでもなく、怒りが込み上げてこないようで、何でも許してしまえる気になっている。それでかまわないのだろう。そんなふうにしか対処できないのかもしれない。そういう事態になっているのあり、そんな事態に巻き込まれ、自らの性格が変形を被っているようで、何となくそれでかまわないと思っている。どうかしているだろうか。たぶんどうかしているのだろう。そしてそれでかまわないと思っているのだから、本当にどうかしている。この世はまだ夢の中か。誰がそれを夢見ているのか。でも何でもないといえば何でもないことなのだろう。それでは話にならないのだろうが、話自体がそういうことなのだ。だから何の話でもない。だから冗談なのだろうか。おかしいと思われ、何もかもがおかしくて、それでは話にならないのかもしれない。でも気が狂っているわけでもないのだろう。要するにクレージーなのか。意味がわからない。そしてそのへんで退散したい気になってくる。ではもうおしまいなのか。まだもう少し続くみたいだ。何となくそんな気でいるらしい。でもこれで何とかなったとは思っていないのだろう。何かの間違いか。人はくだらぬこだわりに絡めとられ、次第にそんな考えで凝り固まってしまう。それが嫌なのか。でも老いは確実に忍び寄り、そんな石化を免れられず、硬直した思考を捨てられなくなって、すべての終わりを迎えるわけか。しかしそれが何の終わりなのだろうか。


12月20日

 要するに人余りなのに人材不足というわけだ。それはすごいことだろうか。巷に使えない人ばかりがあふれ返り、使える有能な人は寝る暇もないほど忙しい。それは冗談か何かだろうか。別にそれでかまわないわけか。しかし仕事とは何なのだろう。やりたくなければやらなくてもいいのか。それで食っていけるならかまわないことだ。だからあまり誠実な対応を求めても、できないものはできないということか。もしかしたらこの社会には、いらない人が大勢いるのではないか。社会にとって必要な人はほんの一握りで、その他大勢は余分な存在でしかないとしたら、それは恐ろしいことだろうか。でもその余分なその他大勢がいなければ、一握りの有用な人たちが優越感に浸ることができなくなってしまうのではないか。別にそれでもかまわないか。でも有用あるか否かの基準がわからない。ところで君は自分が有用な存在であると思っているのだろうか。何か役に立っているわけか。そんなことなど考えもしないか。では無用な存在か。その方が気楽でいい。どうでもいいのではないか。有用であろうと無用であろうと、この社会の中で生きていることに変わりない。とりあえず犯罪者にならなければ、ここで生きてゆくことはできそうだ。要するに結果的にそういうふうになるだけか。誰が判断するのか知らないが、別に役立たずだと思われても、刑務所に収監されたり、病院に入院したり、介護施設や老人ホームに入所したり、死なない限りは、社会の中で何とか自由に行動することができる。それだけのことか。でもそれだけのことが重要で切実なことだったりするわけか。時と場合にもよるのではないか。意識しない程度なら、それは恵まれていることの証しだろうか。しかし行動の自由とは何なのか。仕事で束縛されている限りは、行動の自由も制限されているだろうか。でも遊んで暮らしている金持ちも、自分が所持している財産に束縛されて、なかなか自由に行動できないのではないか。結局自由だと思い込んでいても、何かに束縛されていることに気づかないだけか。それならそれで自由という言葉にこだわるのも面倒くさいか。自由を意識せずに生きていれば、結果的に自由に生きることができるだろうか。別に自由に生きなくてもいいのではないか。こだわる必要のないことにこだわっていると、こだわっていることが足かせとなり、こだわりのせいでつまらない遠回りを強いられ、面倒くさいことに巻き込まれる。

 ならば面倒くさい事態を招いているのは、君自身のせこいこだわりが起因しているわけか。すべては君のせいか。そうは思っていないのだろう。どうでもいいと思っている。面倒くさいなら面倒くさくて結構だとも思う。強がっているのだろうか。それもあるだろうが、今さら何をどう思ってみても仕方が無いとも思っているはずだ。現状がくだらない事態になっているとしても、それはそれでそういうことだとも思う。いったい君に何をしろというのか。別に天啓を受けているわけでもない。君が君に何か命令を下したとしても、君が命令通りに動くことなどあり得ないか。君が神であっても事情は変わらない。それ以前に特定の誰が神であるはずがないか。ではなぜそんなことを述べてみせるのか。面倒くさいからか。考えるのが面倒くさい。とりあえずはそういうことだ。おかしいだろうか。それの何がおかしいのか。今度は言葉を記すのが面倒くさいか。なぜそう思うのか。そのへんで行き詰まっているからか。堪え性がない。どうやらこだわらなければいけないらしく、記述に束縛されていないとすぐにやめてしまいそうになり、自由であろうとすることは、何事も成し遂げられなくなってしまう結果を導くようだ。だから今は何か不自由している必要がありそうだ。たぶん吃音でいることにもそれなりの理由があり、それなりの効用があるのかもしれず、それによって何らかの感性が身についているのかもしれない。冗談かもしれないが、冗談であってもかまわないのであり、冗談なりに何か主張しているのだろうし、そういう主張も尊重したい気にもなる。要するに未だに面倒くさいのか。それらの何を肯定したらいいのかわからない。肯定などする必要はないし、認める必要さえないのかもしれないが、それでもそこに存在しているつもりのようで、それらの虚無的な存在たちが、何か主張しているようにも思えてきて、何やら君の背後には霊のような存在がたくさんひしめいているような気もしてくるが、それはフィクションの中で述べられていることなのか。そうだとしても何が無駄になるわけでもなく、たとえ無意味で無駄だと思えることさえ、それにこだわっていれば、何となく満たされた気になり、何かやっていることになるのだろうか。では実際に君は何をやっているのか。


12月19日

 まだ何かが違うのか。いったい何の話なのか。この違和感は何なのか。冗談か。そんな言葉しか出てこない。スランプか。おかしい。たぶんそうではなく、言葉を記しすぎているのではないか。入力が出力に追いつかない。そんなことがあるわけないか。でも何を説明しているのか。足首が痛い。足の甲かもしれない。いや側面の方か。何でもかまわないが、そんなふうに感じてしまうらしい。わけがわからないか。それは何なのだろうか。また君の知ったことではないのだろうか。話にならないのではないか。たぶんそうだ。そしてたぶんそういうことになり、何か考えているような気もしてくるが、やはりとりとめがない。でもおかしいわけではない。何もおかしくはなく、極めて当然のことだ。いったいそれの何が冗談なのか。わかるわけがないだろうか。でも本当はわかっているのだろう。君は何もできない。君自身が架空の存在なのだから、それは当然のことだ。だからそうではないだろう。たぶんそういうことではなく、何かもっと切実なことなのではないか。しかしそれは誰にとって切実な問題なのか。本気になれない。だから冗談だというわけでもないか。では何なのか。少なくとも君はそう思っている。誰かが思い描いているつもりの虚構の中ではそういうことになっているのだろう。回りくどそうだが、中身は何もない。今もそうだ。誰もがそう思っているはずか。そうではなく、少なくとも誰かがそう思っているはずか。それも君にわかりはしない。ではやはり何のことでもないわけか。そういうことになりそうだ。今はそう思うが、そんなことはどうでもいいか。それでは話にならない。そんな話ではなかったのだろう。そこで何を話しているわけでもなく、何を話そうとしているのでもないらしい。たぶん黙っていたいのだろう。ひたすら沈黙したいのか。それもおかしな話だ。では何なのだろうか。要するにいくら言葉を記しても、話にならないということか。たぶんそういうことだ。だから悩んでいるのだろうか。そんなふうはないか。外見上はそうだが、密かに思い悩んでいるわけか。それもおかしい。何がおかしいのか。今さらそんなことを述べても意味がないか。では何なのか。これから何を語るべきなのか。

 たぶん何も語れそうにない。何もかもがリセットされてしまったらしい。その代わりに出るのがため息なのだろうか。何もないからため息ばかり出る。そして笑う。でもそれの何が冗談なのだろうか。本当は冗談ではないと思っているわけか。君がそう思うならその通りだ。何もあとから付け加えることはない。そうではないと思われるなら、何か他に語ればいい。今もそうしているのではないか。でもそれは何なのだろうか。なぜ語れなくなってしまったのか。笑ってばかりではだめのようだ。今日も長い一日になりそうだ。やはり冗談では済まないのだろうか。たぶんそうだ。面倒くさいがそういうことになるだろう。相変わらず何がどうなっているわけでもないが、そんな具合に一筋縄ではいかないのだろう。少し冗談がきついだろうか。どうなっているのか詳細はわからないが、いつもの紆余曲折があり、何だか知らないが、作業が遅れ、時には妨害が入っているようにも思われるが、それもそう感じられるだけで、自然の成り行きに違いなく、そういうところで目くじらをたてても意味がなく、ぐっとこらえて、嫌気がさしつつも、表面上は平穏無事なふりをしていればいいのかもしれないが、それはそれでそういうことでしかない、という現状を受け入れるしかないらしい。少なくとも今はそういうことだ。ここは文句を言わずに黙って待つしかない。じたばたしてもだめな時はだめで、あとはじっと辛抱するだけのようだ。少なくとも君はそれでかまわないのだろう。そうなってしまうのだから、そんな成り行きに身をまかせ、流されるがままに流され、適当な時期まで待って、機会をとらえて、できることをやればいいのではないか。だからあまり現状を悲観せずに、こんなものでいいと思っていれば、それほど精神的に落ち込まずに、前向きに生きてゆけるような気がするが、それも気休めに過ぎないのかもしれず、あまり真に受けるわけにもいかないのだろうが、とりあえずはそういうことになるらしい。とりあえずは今ここでそんなことを語っているようで、それ以外には何も思いつかず、それ以上の何を求めているわけでもないが、それでかまわないというわけでもないだろう。そんなことを語る以外にあり得ないのか。たぶんそうだ。現状がそうなのだろうから、そんな現状の範囲内で事を進めるべきのようだ。


12月18日

 意識が自然とどこかへ近づいている。夢の中か。そこでまた何かを試みているようだ。目が痛いか。目をこすり過ぎか。そうなるには理由がありそうだ。アレルギーだろうか。ストレスを感じているわけか。そうだとしてももう遅い。では手遅れで死んでしまうのだろうか。そういうわけでもない。眠たいのかもしれない。何となくそんな気分だが、自らがどんな気分なのかわからないか。それではだめだろう。だめではない。君はそう思うならそれでかまわない。要するにだめなのか。でもだめでもともとではないか。何のことやらよくわからない。たぶんそれはいつものことだ。わかっているのにわからないと記して、何を意図しようとしているのでもない。君には何もわからないのだろう。そういうことにしておきたいのだ。だから何のことなのか。何を考えているのか。たぶん何も考えていないと思いたいのだろう。それもわからない。それがどうしたわけでもなく、何となくこんな感じとなっているだけのようだ。とにかく無駄に言葉を記している。それだけなのだろうか。別に疑念を抱くような場面ではないだろう。確かにこれだけなのだろうから、こうなって当然なのか。馬鹿げているだろうか。君がそう思うなら、誰がどう思えばいいのだろうか。何も思わなくてもかまわないのか。面倒くさいからそういうことにしておきたいが、いったんそうなってしまうと、とりとめがつかなくなり、何でもかまわないようなことになる。現に今がそうなのではないか。今日の誰かはどこかおかしい。誰かとは誰なのか。誰でもなければおかしいというのは嘘になる。まあそれでもかまわないということか。現状ではそうなってしまうだろう。まともに語れないのだから、それで仕方がないのではないか。でも何がそうなのかわからない。内容はそればかりか。それ以前に無内容だと思われる。それはどういうわけなのだろうか。わけも何もなく、それに関して君が何を知っているわけでもない。またおかしくなっているようだ。ではこれ以上は語らない方が身のためか。別に語ることで死に直面しているわけでもないだろう。生き続けているから語り続けているわけだ。そんなのは当たり前のことか。でも何を語っているのだろうか。

 何を語っているとしても、また何も語っていないとしても、そんなふうに言葉を記さなくてもいいのではないか。無駄なのか。あるいはまともに語るのが面倒くさいのだろうか。そんなことはないが、何も語っていないのかもしれず、ただ言葉を記しているだけかもしれない。語らずにか。そんなことがあり得るのだろうか。それはどんな問答にもならない。また外れているのだろうか。なぜそう思うのか。そんなことを思っているとすれば、君は正気ではない。そんな気がするだけで、本当は何だかわからない。実際には何も外れてない。それは君の思い違いだろうか。それもそんな気がするだけか。どうしたものでもない。それはわかっているのだが、何だかおかしい。別に体調不良というわけでもないのに、何となく居心地が悪いようだ。そんなことはないだろうか。ソファーの上で横になり、次いで気を取り直して机に向かい、またしばらくしてソファーに逆戻りか。暖房が効いているようだ。眠ってしまったらしい。朝起きて、また言葉を記している。どうせ追いつけないだろう。なぜそう思うのか。そう思いたいだけか。でもこれが現実に違いない。こんなふうにして現状があり続け、誰が途方に暮れているわけでもないが、うまくいかない現実もあり、それを何とか変えようとしている人たちもいるらしいが、その見込みがないのか。気がつかないうちにそうなっているようだ。いつものことだろう。いつもそんなふうにして現状を続けようとしているわけだ。たぶん何とかなるとは思えないのだろう。それで何になるというのか。誰の知ったことでもないのだろうか。少なくとも君はそれらの顛末を知っているのではないか。そんな状況だから、誰かが困っているのではないか。困り果てているらしいが、それでも何かを前進させようとしているらしい。現にこうしているではないか。闇雲に言葉を記して、結果的にそれなりの文章にしようとしている。間違っているだろうか。そうだとしてもここまで記してきた。ではもう止めるわけにはいかず、実際に止まらないか。終われば止まってしまうだろう。記述を終えようとしているわけか。たぶんそういうことだ。それで何とかなったと思い、うまく難所を切り抜けて、意気揚々とゴールしたと思っている。嘘だろう。嘘に決まっているだろうか。決まっているとしても、もう後戻りなどできはしない。


12月17日

 果たして今日はできるだろうか。何も語らないうちに冗談となってしまいそうだ。そこを何とか踏みとどまって、まともなことを語れるように努力したいが、もうここで挫折している。選挙も終わって一段落だろうか。大した結果ではなく、大したことにもならないだろう。それほどくだらなくはないだろうが、そういうことでしかない。世の中があっと驚くようなことなどできはしない。ふと電車の中で見上げれば、ライオンの頭をかぶった半裸の男が何か叫んでいるようだ。愛と勇気を伝えて15年目に突入だそうだ。そこで何がかけがえがないのだろうか。ミュージカルを見にきてほしいか。君に何ができるわけもなく、また誰かが画面に向かって言葉を記しているようだ。衛星放送で『カルメン故郷に帰る』とかいう昔の映画をやっていたのを見かけた。笠智衆が村長役で出ていた。相変わらずのぎこちない演技だ。そう感じるが、あれでいい味出しているのだろうか。しかし猪瀬直樹が東京都知事か。まさか彼が現代のマクシム・デュカンというわけでもないが、都知事になったのだから、もっと偉いのではないか。ならばそんな固有名などもはや意味をなさないか。そのうち死ぬ間際に国から勲章でも授かるのだろうか。そうかも知れない。君とは無関係だ。一人でがんばっていた田中康夫も落選したみたいだ。みんなあきらめて、保守勢力の言いなりになるわけか。ナポレオン三世統治下のフランスみたいになって、偽りの繁栄を享受できるだろうか。それとは違うか。では明らかに何が違うのだろう。何となく楽観しているみたいだ。それがわかるほどその時代に精通しているわけではない。たぶん十数年前のバブル全盛時がそうだったのかもしれず、今はそれとは少し違うのではないか。でも強引に東京五輪などを招致しようとしているではないか。選ばれなければそうはならないだろう。みんな冷めた目で眺めている感じか。二言目には景気回復の大合唱なのだろうが、現状の何が悪いのか。君には皆目見当がつかない。仕事もそれなりにあり、嫌になったらすぐ辞めてしまう人だっていくらでもいるだろう。今月いっぱいで従業員が一人やめてしまうので、就職サイトに募集広告を出すつもりのようだ。

 不況だ不況だと言いながらも、みんなそれなりに生活できているのではないか。そのへんでメディアから伝えられる現状認識とは明らかなずれが生じている。それは君が金銭的に困っていないことの証しなのだろうか。スペイン辺りでは若者の五割近くが失業中らしいが、それで食料が買えずに餓死するわけでもないようだ。それでもみんな生きているのだろう。いったいこの世界は何なのか。漫画の中では簡単に人が死に、内戦中のシリアでも死ぬのだろうが、それとは無関係な地域に暮らしている人たちには関係なく、今日も昼は仕事をして、今は帰宅途中か。それだけのことだ。それで何か不満があると思えず、あるとしても我慢できる程度のことで、切実な問題ではない。確かに人は死に続け、年がら年中葬式ばかりだ。でも普通に老いて病死しているだけなので、取り立てて問題視されていないわけだ。それの何が問題なのか。誰が死んでも悲しくならない。それが当然なのではないか。原発は順次再稼働するのだろうか。そうなったところで何の問題もないか。つまらない成り行きか。また事故れば、また政権交代か。そうなったところで何がどうなるとも思えない。その程度のことか。たぶんそうだ。事故っていくら放射能に汚染されても、除染すればいいわけか。言うのは簡単だ。核廃棄物の行き場所は確保したのか。そのへんがうやむやのまま、また原発を動かすとなれば、活動家が大騒ぎするだろうか。一般市民はどうなのか。傍観するばかりだろうか。そうならなければいいのだろうか。要するに事故らなければ、現状維持を果てしなく続けられるということか。まさかそれに期待しているのだろうか。それでもかまわないか。事故らないうちはかまわないのだろう。あとはアメリカの言いなりになって、日米同盟がどうたらこうたら言っていれば事足りるか。しかしそんな惰眠をいつまでもむさぼっていられるだろうか。まあ今後の状況次第ということかもしれず、何か起こればメディアが騒ぎ出し、政治家も何らかの対処を迫られ、そこで舵取りを誤れば、民主党のようなことになってしまうわけか。別にそうなってもかまわないだろう。今のくだらない世の中にはそんな成り行きがお似合いか。できればそうならないことを祈っている。またそんな嘘をついて、それが何かのアリバイ工作に結びつくとは思えないが、今はそんな感じでかまわないと思われる。


12月16日

 やる気がしないか。いつもの通りだ。何のことなのか。言葉を記してみればわかることだ。記しているではないか。ではこういうことだったのか。何がそうなのだろうか。君の知ったことではない。誰も知らないだろう。知るのが面倒くさいのか。そんなことではない。では何なのか。だからこういうことだ。君がそれを知っているはずがない。だからいつものように沈黙を守りながら、ただそれらの光景を眺めているだけのようだ。誰かの名前を忘れてしまったらしい。何を思い出そうとしていたのか。何がどうなっているわけでもなく、平静を装い、何か適当なことを考えているふりをする。わけがわからないだろうか。君のせいだ。誰のせいでもないのにそれはないか。何も語っていないようだ。相変わらずのことらしい。しかし何なのか。何でもないということか。だからおかしくなり、どうでもよくなってしまうが、これでかまわないのか。別にやけくそになっているわけではない。ならば何なのだろうか。そんなふうに語るべきでない。ではどう語るべきなのか。すでに語っているではないか。それでかまわないのか。今さら何を否定しても無駄か。少し頭を冷やすべきか。そこで何を聴いているのだろう。何を恐れているのか。そうではない。何もそうではなく、もっと早く気づくべきなのだ。文章とならずに、言葉の連なりになる。そんなのはあり得ないか。君は嘘つきだ。キツツキか何かのたぐいか。意味がわからない。でも止まらない。大げさな表現はごめんか。ならばどう言い表せばいいのだろうか。やる気がしないのだろう。いつまでもそういうことになる。つまらないのだろうか。そういうことなのかもしれない。君はおかしい。さっきまでは何を読んでいたのか。支離滅裂な意見を期待していたのだろうか。何でもない。とにかくあまり政治などに期待しない方がいい。世の中の制度がどう変わろうと、それに左右されない生き方を模索すべきか。そんな生き方などありはしないか。人は適当にいい加減に行きているだけだ。どちらなのか。どちらでもなく、どちらでもあり、時としてどちらかに傾くこともあるのだろう。

 まだその時でないようだ。チャンスを生かしていないのだろうか。そんなはずがなく、どんなはずでもないのだろう。的外れな意見を持ち合わせているようだ。そんなふうに語るべきではないのだろうが、意味が通るようにならない。文と文が意味的につながろうとしないらしい。あまり積極的になれないのか。いったいそこで何をやろうとしているのだろう。明日になってみなければわからない。誰も何も考えていないのではないか。君は他人を尊敬する気がないのだろう。さかんに首を傾げている。そんな動作に何か理由があるのだろうか。ロボットではない。誰に操られているのでもないらしい。そう思っているのだから、それが何かの勘違いであることは疑う余地もないか。でも何の話にもならない。それの何が武器になるのだろうか。語るべきでないことを語っているわけか。今まさにそういう状況となっているわけでもないか。では何なのだろう。何でもないでは済まないことか。何だかわけがわからない。君がそう思うなら、延々とそういうことを記している意図も自ずからわかってくるだろう。そんなことはあり得ないと思うなら、その通りだと同意するしかない。さらにおかしくなっているだけだろうか。頭がおかしいのか、あるいは世の中がおかしいのか。どちらでもあり、どちらでもなく、どちらか一方を選んだ場合、それはさもありなんと思われ、そういうことを述べている以上は、自らの頭の中身を疑ってみるしかない。しかし何が笑いぐさなのか。迷っているのかもしれない。どこをさまよっているのでもなく、ただ迷っているに過ぎないのか。でもそれでどうなるわけでもないだろう。それはわかりきったことか。愛着がわいてこない。疑り深いのかもしれず、誰かがどこかで風を集めている。集めてどうするのか。どうもしなければ何の役にも立たず、無駄になってしまう。自己満足か。終わりのない何かを感じるが、終わった後からそうなっても、何が終わったのかも実感できない。果たしてそこで何が終わったのだろうか。少なくとも選挙は終わったはずだ。しかし誰が後始末をするのだろうか。選挙ポスターがいつの間にかはがされ、看板も撤去され、その時は君は何かを思うだろう。


12月15日

 また昨日の日付だ。もういい加減に飽きたか。今日という日付に近づけない。なぜだろう。今日はコーヒーが苦い。いつもそうか。砂糖やミルクを混ぜればいいのではないか。でももう飲み終わってしまったようだ。君はそこで何をどうしようとしているのか。どうもせず、ただ世の中を眺めているだけか。音楽を聴くとしよう。考えるのが面倒くさいのだろうか。今は何も考えなくてもいいはずだ。ただ言葉を記せばいい。天気はゆっくり下り坂のようだ。いったい何が君の知ったことではないのか。失われているみたいだ。何がそうなのか。何でもないのかもしれない。何であってもかまわないのだろう。逆にそう理解した方がわかりやすいのではないか。でもそれで何を理解したことになるのだろうか。それは何かの方便か。的外れのようだ。理解するには何が必要なのか。君には足りない何かだろうか。何でもありはしない。実際に理解できないままだ。いったい何をどう記したらいいのだろうか。そこで行き止まりか。袋小路なのだろうか。何がそうなのかわからない。でもかろうじて言葉を並べているではないか。他に何か困ったことでもあるのだろうか。別にそれでいいのではないか。たぶんそういうことだ。そうでなくてはならない。でも本当はそう思っていないはずだ。何のことやらわからない。頭の中が混乱しているのだろうか。中身云々というわけでもないだろう。では何なのか。他に語ることがないらしい。いつもそうだろう。何かを記さずにいるということが、こんなに苦しいとは思わなかった。それも嘘か。すべては幻想だ。安易な結論だろうか。ため息が出る。おかしいだろうか。いいわけに過ぎない。何もかもがそうか。そう受け取ってもらってかまわない。ではもう終わりだ。何が終わっているのだろうか。双六か何かか。ではそこで誰が賽を振っているのか。君ではない。少なくともそうだ。またいつもの冗談なのだろうか。それにしてはやけに粘っている。執拗に無駄な言葉を並べ、もうなんでもかまわないような気になっているようだ。本当にそうだろうか。

 どうやら本当ではないらしい。よくわからない。ここで何を語っているのだろうか。なぜ何でもないと思うのだろう。それがわからない。本当に何でもないのだろうか。現時点ではそうだ。何もハッタリではない。もっと真摯に考えるべきか。何を教えてもらえばいいのだろう。誰に教えを請うつもりもないのだろう。ではもう手遅れだ。もうそこから出られない。でも罠にはまっているわけでもないのだろう。では何なのか。何でもないと述べているようだが、誰がそう思っているのだろうか。君ではない。それはわかりきったことか。そんなふうに語るべきではない。それも承知している範囲内だ。では何なのだろうか。君に訊いてもわからない。変わる可能性など皆無だ。何を変えようとしているわけでもないのだろう。この世に変化など無用か。そう思っているのだからそういうことか。君はそう思わないのか。君が思わなくても、他のみんなが思っているから、それでかまわないのか。何をどう思っているのだろうか。変化などいらないということか。それ以前にすでに変わっているのではないか。何となくそう思われてしまうらしい。他が何だかわからないが、それ以外はそういうことか。それとは何なのか。今ここに記されつつある文章のことだろうか。そう思うならそれでもかまわない。そう思わないなら、どう解釈したらいいのだろうか。それらの現象を現象だと思わなければいい。ただの記述だ。それはわかっている。行き先がなく、どこへも至らず、どうすればいいのかもわからず、ただ途方に暮れているらしい。そんなやり方ではだめだとわかっていても、それ以外にやりようがなく、他のやり方を試そうとすれば、あえて間違ったことを述べているわけでもないのに、そこへと戻ってきてしまう。それで行き詰まってしまったら、またどこかへと逃亡してしまえばいいのだろうか。そのへんがよくわからない。君に訊いてみたところで何がどうなるわけでもないだろう。無駄なのだろうか。何がそうなのか。それもよくわからないのではないか。でもこんなふうにして継続させている事実があり、それを否定できない現状がありそうだ。こうでもしなければ続かないか。


12月14日

 もう夜だ。何となくわからなくなる。いったい何を記したらいいのか。それをこれから考えるのか。冗談だろう。今考えているところかもしれない。嘘か。嘘でなかったら何なのか。でも語ろうとしているようだ。つまらないことか。何がそうなのか。よくわからない。わかっているはずだ。もう終わりなのか。なぜそれを否定したがるのか。終わってしまってはまずいのだろうか。すべてが終わる瞬間を見届けたいのだろうか。そうはならないだろう。すべてが終わる前に君が終わってしまう。そうならないうちに何とか言葉を記さなければならない。屁理屈だろう。あるいは何かの方便なのか。両方とも的外れか。がっかりしているのだろうか。たぶんそうだ。何も述べられずにがっかりしている。またそんなことを思うが、なぜなのか。さっきまでは何を語っていたのか。記憶が途切れているわけがない。ごまかしだろうか。なぜかそうらしい。興味がない。もう何度も聴いた曲をまた聴いている。それはなぜなのか。偶然の巡り会わせに違いない。自然とそう思ってしまう。何でもないことなのに、そんなことを思い、そんなことを記し、どうでもいいようなことを語っているみたいだ。黙っていると心臓の鼓動が聞こえてくるだろうか。唐突に何なのか。他に記すことなどいくらでもあるではないか。強がっているのか。そうとも言い切れない。何かの惰性でそう述べるが、述べている意図がわからない。何の理由もなさそうだ。ただ言葉を記しているだけか。そう思うならそうだろう。どこかで意識が逸脱しているようだ。そんなことはあり得ないか。ならばどういう理由があるのだろう。何かが外れたまま、元に戻らないだけか。冷静になった方がいい。すでにそうだ。何でもないままに言葉を記し、眠気に逆らっているわけでもないのに、何だかわからなくなる。眠気が余分か。でもそんな感じでかまわない。本当に眠いのではないか。そんなことはどうでもいいが、かなりおかしなことを記しているのかもしれず、まったくやる気もないのに言葉を記すとこうなってしまうのだろうか。何なのか。何でもないからこうなる。

 あくびとともに何かを忘れたらしい。何も忘れていないのだろうか。くだらない。否定的なことを記してみるが、それだけでは何がくだらないのかわからない。でも定かでないことを定かでないままにしておくと、さらに意味不明になりそうで、そんなふうに思うならそれでもかまわないのかもしれないが、それだけではなく、それとは別の何かを付け加える必要に迫られるだろうか。ますますわけがわからない。これらの混迷は何なのか。まさかここから冗談に逃げるわけにもいかないのか。すでに冗談と化しているような気もするが、さらに言葉をつなげてみよう。もう少しの辛抱か。このまま辛抱していれば何かが終わるのだろうか。いったい何が終わるのか。できればこの苦しい記述が終わってほしいか。馬鹿げている。内容がか。無内容だろう。何がそうなのか。また冗談のたぐいだ。とうとう君は不在者投票にも行かずじまいだ。離れたままではどうしようもない。行きたくなかったのだろう。何が良いわけでもない。しかしなぜ君は民意が嫌いなのか。マスメディアと醜いほどに一体化しているからか。でも受け入れてもかまわないと思っているのだろう。たわいない結果でしかないことは百も承知だからか。どんな結果であっても、それで何がどうなるわけでもない。君がどう思っているわけでもないのだろうから、そうなって当然の成り行きか。しかしこの世界は何なのか。誰の思惑が反映した結果なのだろうか。神か。でもそこには何もありはしない。あるのは記された言葉だけか。説得力がないのだろう。今ひとつそうだが、もう眠たい。どうやら志半ばで力つきようとしている。この世界で華々しく散ってゆく人々は、すぐに忘却がやってくることなど知るよしもない。もうすぐ来年だ。時代錯誤も甚だしい時代になってきた。まるで反応が返ってこない。わざとそうなのか。でも誰が意地悪なのでもない。気に入らないことなどいくらでもあり、ついつい感情的に怒鳴ってしまうのは誰なのか。パワハラのたぐいか。巷の話題についてゆけず、無口を装い、それからどうしたのだろう。こうなってしまったわけか。だから依然として何でもないようだ。


12月13日

 何とか一段落しそうだ。そう思っているうちは気が休まる。実際はそうではないのだろう。要するに気のせいか。気のせいで終わらないように努力しなければならない。無理だろうか。無理を承知でそんなことを述べているのではないか。明日は忙しい。たぶん言葉を記すことなどできはしないだろう。君がそう思っているのだから、その通りになるだろうか。何はともあれ明日になればわかることだ。少なくとも明日がないわけではないのだから、気休め程度の何かがもたらされているはずだ。君はそれで我慢しなければならない。でももうそれも限界か。まだ何かを考える余地がありそうだ。だからそれが気休めなのではないか。君がそう思うならそういうことだ。気休めでもかまわないだろう。とにかく言葉が記されていれば気が休まる。またそんな嘘をつく。嘘ではない。何を否定しているのでもない。もう限界なのだろう。それも違うと思われる。だから何を否定しているのか。何が違うのか。何も違わない。見ての通りだ。トランペットの音色が歪んでいる。そういう奏法なのだろう。さすがにコーヒーを飲まずにはいられない。馬鹿に演奏が長い。そう感じられるだけで、もう終わったはずだ。さっきまで眠っていたのではなかったか。静かだ。寒い。夜だからか。理由になっていない。でもまだ時間がありそうだ。コーヒーを我慢しながら、よくないことだと思いつつも、何を焦っているわけでもないと思う。では何に感動しているのだろう。老人の歌声か。そういうわけでもないが、それは嘘かもしれない。では何なのか。それが技法だとは思えないが、そういう記し方なのか。何とも言えず、どうだともいえないらしい。胃もたれ気味か。だから胃薬を飲んだのではなかったか。何を繰り返しているのだろう。もう終わりの季節なのか。黄昏れているわけか。年末なだけか。問われるまでもない。しかし冗談がきつそうだ。もうあきらめてしまったのではないか。耳が遠いようだ。返答がない。返答がそれなのではないか。何を問われているわけでもない。ただ言葉を記している現状があり、雑音に悩まされながらも、それを遂行しつつあるらしく、それがどうしたわけでもないのに、何を否定しているわけでもないのに、何となくそんなことを述べているつもりになり、何を述べているのかを知ろうとしている。

 そこで力尽きているのだろうか。そういうことだ。まだ終われないのだろう。何がそうなのかわからないが、とにかくそれを続けるつもりのようで、もう支離滅裂だろうとなんだろうと、寒くて凍え死にそうだろうと、そんなのは嘘だと思い、ひたすら言葉を記すつもりのようだが、次第に面倒くさくなり、そのへんで終わりの予感がしてくる。なぜ終わってしまうのか。何を終わりにさせたいのか。これから始めようとしているのだろう。何を始めようとしているのか。君が気づかないところで何か始まっているのではないか。確かにそれはあるだろうが、できれば君の意志で始めたいところか。だから何を始めようとしているのだろう。それは君自身に訊いてみればいい。でも君はひたすら沈黙している。架空の存在だから無理か。ではどうしたらいいのだろう。何も思いつかない。忘年会も一段落したのか。来週もう一回やれば終わりだ。別に難儀なことでもないだろう。胃の具合が気になるだけか。何でもないような気がするのは、大したことはない証拠か。いったい何がそうなのか。目に小虫が飛び込んできた。久しぶりにやられたらしいが、だから何だというのか。なぜ思い出すのだろうか。何を思い出すのか。君はそれを知らない。でも何も知らないわけでもないはずだ。君がそれを知っているわけではない。知っているのは君ではない。だから何だというのか。何でもなければそういうことになり、今の心境に近づくだろう。別にがっかりしているわけではなく、ただこんな気分なのか。酔っているわけではない。何が終わっているわけでもなく、何が始まろうとしているわけでもない。では何なのか。そんな問いの前で停滞しているわけか。でも何が問われているわけでもない。今さらそんなことを述べているわけでもない。民主主義とは何か。何でもない。ではただの言葉か。信じていないのかもしれず、信じられないのだろうか。別にがっかりすることはないのではないか。どのような結果が出ようと、そういうものでしかない。人一人の力ではどうにもならないのが民主主義だ。大勢の人が投票した代表者に、それを実行してもらうしかないのだろう。


12月12日

 選挙カーがどこかの町内を走り回っているみたいだ。でももう夜だ。君は投票しないのか。それで何がどうしたわけでもない。冷めているのだろうか。蛇口から出る水が冷たい。まだ何とかなるだろうか。これからいったい何を記すつもりなのか。何が問われているわけでもないのだろう。今さらそれはないか。何もありはしないのはいつものことだ。誰がどこで詐欺に引っかかったわけではない。そんなニュースをネットで見かけただけか。でも何が外れているのか。たがが外れているようだ。気のせいか。せっかく今日という日付に追いつきそうになっているのに、あともう一押しがない。ではこのまままた遅れ始めてしまうわけか。そうならないようにしなければならないようだが、どうもその気がないらしい。何が見えているのか。それは誰の顔でもない。たまにそんなことを述べている。気が動転しているわけではない。では何が正気とは思えないのか。そんなことを述べていること自体がおかしい。どこかの深みにはまっているわけか。ネット上のリンクをたどって、これからどこへ行こうとしているわけではない。意識は画面の前にあり、ただ画面上を眺めている。それでも言葉が出てこないか。そこで何かが固まっているようだ。目の前が石化しているのだろうか。何が掘り出されているわけではない。横になりたくなってきた。どうやら眠ってしまうらしい。気を取り直してまた画面の前に座る。何が手遅れなのだろうか。何を思っているとも思えない。君はそれが嫌いだ。それとは何か。それが嫌いなのだろうか。どこをたどってきたのか。道に迷っているわけではない。別に迷路で遊んでいるわけでもない。君は退屈なのか。誰かに見られているような気がした。それこそ気のせいか。今日ですべてが始まるわけがない。では何なのか。それがすべてではないのか。季節は冬だ。愛がない。そんなことはないだろう。でも依然として何を確かめているわけでもない。それがどうかしたのか。何が報われているとも思えないか。因果応報なのではないか。そう思っていれば事足りるのか。心が折れていないようだ。そうならないようにしているだけか。意固地なのではないか。それもそうだ。

 でも何とかしている。それで何とかしているつもりだ。否定し難い。でも何が気に入らないのだろう。でもが余分だ。ならばどういうことを述べればいいのか。今さら内面への潜行が許されるとも思えない。でもまんざら外れているわけでもなさそうだ。だからでもが余分なのだろう。東を向いている。北を眺める。意味のないことだ。コーヒーを飲みたいか。飲めばいいではないか。胃が痛いのか。胃薬はすでに飲んでいる。だから何となりそうだ。そう思っていればいい。至って無関心を装う。嘘だろうか。偽りの記述か。何がそうなのか。そういうことを述べるべきではないと思われるが、それ自体がそうなのではないか。わけがわからないか。でもつじつま合わせをやるつもりはなさそうだ。聴いているのはただの雑音に近い。それでも一応は音楽なのだろうか。聴いているふりをしているだけで、本当は静寂の中で座禅でも組んでいるのだろうか。何を空想しているのか。それ以外の何かか。混乱しているわけもない。電波が混線しているとも思えない。冗談だろうか。きっとそうだ。トランプ占いのたぐいか。なぜ唐突にそうなるのだろう。だからわざとそうなのではないか。そのへんで切れているようだ。何もそうは思わないか。心は流れ、流れ着いた先を空想している。さらにおかしい。とりとめがない。でもかまわないか。辺り一面が空白に満たされているようだ。そう感じている。嘘だろう。何を思い出しているのか。気が触れているわけではない。そう思っているだけか。言葉が踊っているわけではない。心が折れるはずがない。まだ何とかできると思っているだけか。冗談では済まない。そうはさせたくないということか。実際にそうなっているのではないか。心の持ちようだ。ではすでに逃げ口上を用意しているわけか。笑い話ではない。では何なのか。問われている内容を知らない。背後でささやいているのは影なのか。気のせいだ。何もここにはない。誰もいないはずか。とにかく聴いたことのない曲を聴いてみよう。支離滅裂になるに決まっている。何も決まっていないのに、なぜ決まっていると記すのか。気まぐれに記しているわけか。でもわけがわからないのは今に始まったことではない。それは決まりきった表現なのかもしれない。要するに何もまとまらないということか。


12月11日

 今日は今日なのだろうか。相変わらず冬晴れの一日だ。寒いのだろうか。たぶんそうだ。他にどんな感想があるわけでもない。それもそうか。朝は快晴で、雲ひとつない。そんなことを語っている。冗談だろう。面倒くさいのだろうか。いつものことだ。今日も長い一日になりそうだ。忙しないのは年末だからか。でも仕方がない。そんなふうに感じられるのだから、それ相応の何かがあったはずで、実際に忙しない。でもそれを利用しないと、何事も前へ進まない。今日が今日になるように努力するだけか。今もそうしている最中か。何を考えているのか。これからどうするかか。どうせそんなことだろう。それではつまらないか。たとえ何がつまらなくても、そんなことはおかまいなく、君は黙ってそれらの光景を眺めている。人が地上でうごめいている。何か働いているみたいだ。学生は学校で勉強でもしているのか。別にそれらが滑稽に見えるわけでもない。ただそんなことが繰り返されている。みんな仕事がしたいのだろうか。社会の役に立ちたいか。人類の繁栄のために一役買いたいのか。そんなことまで考えているわけではない。働いて金を稼いで、その金を使いながら生きている。たわいないことか。足りない分は借金でもしているわけか。みんな気が狂っているわけでもない。それが当たり前のことなのだから、たぶんその程度のことなのだろう。誰が何を夢見ていようと、君には関係のないことだ。何か適当な目標を達成したいらしい。それで自己満足に浸り、それ相応の金も手にして、幸せな気分となるわけか。確かにたわいないことだが、それがすべてなのかもしれない。金銭的に余裕のある人は困っている人たちを助けたいようで、どこかのボランティアに参加したり、慈善事業団体に金を寄付したりしているわけか。そうやってみんな人類の共存共栄に寄与しているわけか。君はそれもたわいないことだと思っているわけか。君は何をやっているのか。相変わらずそれらの光景を黙って眺めているだけか。君とは何か。神か何かのことなのか。要するに架空の存在で、現実の世界では不在なのだ。

 冗談だろう。そんなことなどあり得ないか。それが誰かが空想しているフィクションの中で存在しているのなら、合点がいくか。どうでもいいことなのではないか。そこに何が記されているわけでもない。君はここから遥か遠くでうごめいているようで、そこで何をやっているのか窺い知ることはできない。他の人間と同じようにうごめいているだけなのかもしれず、それは誰でもない誰かと同じような行動パターンを示すしかないのだろうか。意味のないことか。がっかりしてしまうのか。でも他に興味深い何があるわけでもなく、すべての人間にどんな価値を見出しても、それはたわいないことなのではないか。生まれたり死んだりしているだけだろうか。それだけでは不満が残るか。では何か幻想を抱けばいい。愛だとか平和だとか、何か肯定的な価値を見出して、それが実現するように努力したらいい。全世界が愛と平和に包まれて、争いごとが起こらないように、社会の仕組みを作り変えようとすればいいのではないか。現にそうなるように世の政治家たちは努力しているわけか。何だか冗談のような気がする。少なくとも日本共産党や社民党の政治家たちはそうなのではないか。だから冗談なのではないか。保守勢力の人たちは、相変わらず国家間競争に勝ち抜くための方策を巡らしているのではないか。中国に対抗するためには日米同盟の強化が欠かせないか。虎の威を借る狐のようで、あるいはアメリカの番犬みたいで、みっともないという自覚に欠けている。いったい彼ら特有の愛国的な自尊心とやらは、そういう方面ではご都合主義的に目を瞑っているわけか。何だかそういうところでせこい功利主義が働いているみたいに思えて、どうしても信用できかねるところなのだが、別に君が信用しなくても、その大勢の人たちが信用するだろうから、彼らはそういう人たちのためにがんばればいいだけか。がんばれるだろうか。君はがんばれないのか。面倒くさい。冗談を述べているのだろうか。そうかもしれないが、それでかまわないのだろう。面倒くさいからそういうことにしておこう。


12月10日

 今さらながらの何かだ。意味不明に拍車がかかるわけか。そんなはずがない。もうとっくの昔にあきらめているはずだ。それもそんなはずがないの範疇か。でもまだ夜だ。さらに夜が更ける。時間的にはそういうことになりそうだ。でも誰もそんなことは気にしてない。ただ時が経つ。それだけのことだろう。それで気が済んでしまうわけか。でもだらだらと無駄に言葉を記している。それも何かの惰性が関係しているのだろうか。それでも人は生きている。いくらでもうじゃうじゃと生まれてきて、病気が蔓延したり食料が足りなくなれば、またどんどん死んでゆくわけだ。それだけのことだろう。それでは気が済まないのだろうか。いったんこの世に生を受けたら、誰もが人間として人間らしく生きてゆきたいか。文化的な生活を享受したいわけか。そういう願望に何か矛盾が含まれているだろうか。生まれた時の境遇にもよるだろう。逆境をはねのけて、何らかの成功を手にしたいわけか。ありふれた話だ。でもそんなことを思っているほど心に余裕はないはずだ。そういうことやっている最中の人なら、やはりそこでがんばってしまうのだろう。他人と競争して打ち勝ち、その他大勢の中から這い上がり、今日もどこかで誰かが名声を勝ち得るわけか。君はそういう生き方を馬鹿にしているのだろうか。あるいはうらやましいと感じるわけか。どちらでもなければ何なのか。ただ面倒くさい。特性のない人格でもその肉体にまとっているつもりなのか。それも冗談に違いない。お高く止まっているのだろうか。冗談が連続しているようだ。人は弱い。人でなくても弱いだろう。超人的な人でも弱いのか。たぶんそうだ。いくらでもそんな人がいて、そんなところで固まっているわけか。固まってしまった人を見ていると辛くなる。たぶん気に入らないのだろう。気に入らないから当てつけのようなことをこれ見よがしにやってしまうわけだ。悲惨か。そういう範囲内で何を考えているのか。もがき苦しんでいる。それだけのことだ。誰もがそうかもしれない。思い通りにいかないわけか。それは当たり前のことで、そこであきらめるわけにはいかないだろう。何とかしなければならず、だから今も悪戦苦闘の最中なのか。君はそれでかまわないと思っているのだろうか。たぶん違うと思う。

 では何をどうやったらいいのだろうか。そういう成り行きの中に身を置いたまま、冷静になるべきなのか。冷静ではいられないから、そうなってしまうのではないか。たぶんそれでも冷静になるべきだ。しばらく目を閉じている。何も思い浮かばないが、それでもかまわない。現状では何がどうなっているわけでもない。音楽を聴いているではないか。何の助けにもならないが、それはそういうことなのだ。面倒くさいがそういうことにしておこう。瞑想に耽っているわけでもない。涅槃の境地を目指しているわけでもなく、至って普通なのかもしれない。ただの日々なのだろう。何の変哲もない日常に埋もれ、作業をこなして、そして夜になる。そうなっただけのことか。今がそうなのかもしれない。こんな時間帯なのだろう。何かが一段落しているらしい。君はそれでかまわないのか。誰に同意を得ようとしているわけでもない。そういうことなのだろうか。どういうことでもない。そこには何もない。そういうことにしておこう。誰もいないのであり、君の意識も消えてなくなる。そんな場所で何を考えられようか。たぶんそこでも何か考えているのだろう。それはくだらぬことなのだろうか。そうとばかりも言えないか。何でもないなら、そういうことでもかまわないか。でもそれで気が済んでしまうのではないか。くだらないまま、それでもかまわないと思っている。別にくだらないわけでもないか。別が余分だ。ではすばらしいことか。それほど大げさなことでもない。至って普通なのだろう。それだけのことであり、それ以外ではない。すべてがそうかもしれず、何がすべてでもないだろうが、何もすべてではないわけではない。とにかく正気に戻りつつある。そういうことにしておきたいようだ。本当は何もそうではないのかもしれないが、どうやらくだらぬことが一段落ついたみたいだ。何かおもしろくないのかもしれないが、そんなのは無視か。別にそれでかまわない。君はそうやって何かをやり過ごしてきたはずだ。そうやって生きてきたのだ。これからもそうだろう。無関心を装いながらも、この世界の本質を見極めようとしている。でも本質も何もあったものではないだろう。でもそういう幻想を抱いていればいいような気もしてきて、何となくそれで気が済んでしまうのではないか。


12月9日

 それほど思いがけないこととは思えないが、またこんなことになってしまったらしい。どんなことでもないのはいつもの通りか。ただの夜にただ言葉を記している。それだけのことか。だからいつものことだと述べているではないか。何も思い悩むようなことではない。何かを逃れていることは確かか。すでに逃れ続けているのではないか。この調子で世界の最果てまで逃げてゆくつもりだろうか。地球は丸いから、あまり逃げ続けていると、元いた地点まで戻ってしまうのではないか。そうならないように、逃れながらも絶えず進行方向からずれている。またそんな嘘をついて、何をもたらそうとしているのでもないはずだ。ここには何もない。君さえ不在だ。誰もいない。そんなはずがないか。目を閉じて、耳を塞いで、それから何をやっているのか。またおかしなことを述べている。いつものことだ。正気とは思えないか。それもいつものことだ。何がどうなろうと、この世界が消えてなくなろうと、そんなことはあり得ないが、相変わらず誰が何を思っているわけではない。そう思っているわけだ。何の根拠もないでたらめか。でもそれでかまわないのだろう。そんなふうにして時が経ち、どんなふうだか定かでないが、とにかく誰かが老いてゆく。生と死の狭間で、もだえ苦しんでいるわけか。冗談ではない。何が冗談でもない。君はそこから遠ざかるばかりだ。それがわからないのだろうか。なぜそう記すのか。何かの紋切り型なのか。それだけは収まりそうもなく、何か途方もないいいわけでも思いついたのだろうか。嘘だ。何も思いついていないから、そこから遠ざかってしまうわけだ。何かを思いつくのが億劫なのだろう。果たしてそんなことが可能だろうか。どこの誰が不可能に挑戦しているわけでもない。そもそも戦いを挑む対象を間違えているか。日々何かと格闘していると思っているとすれば、それは思い過ごしなのだろうか。誰がそう思っているのか。君ではないとすれば、他に誰がいるわけでもないから、また嘘が記されているのかもしれない。それでもそこに何らかのリアリティを感じられるとすれば、それはどういうことなのか。君は誰かの幻想の中にいるのかもしれない。

 そう思うしかない状況なのだろうか。冗談だろう。言葉を筋の通った話として配置できず、まともに構成できないようだ。そんなことはない。なぜそうやって悪戦苦闘を装うのか。すべては思い過ごしだ。もっと素直になればいい。なれないなら、技巧を凝らすべきか。それも違うだろう。自然の流れに従うべきだ。終わってしまうのではないか。いったん始まったらあとは終わるしかないだろう。それが定めなのか。何だかわからないが、これも冗談のたぐいだと思えば合点がいくだろうか。合点がいってもかまわないが、依然としてこんなふうになっている。気に入らないのだろうか。そうであってもかまわないのだろうが、とりあえずこんなふうな言葉の連なりをさらに先まで引き延ばして、それを何らかの文章と見なし、それで一区切りつけるつもりだろうか。果たして区切りがついたことになるのか。君がそう思うならそれでかまわないのではないか。誰が狂気の魂を持ち合わせているわけでもない。至って正気なのだから、それでかまわないのだろう。君はそんなふうにして気を済ませようとしている。そんなのはごまかしのまやかしに違いないが、そういうやり方がここに定着しているのではないか。そう思えば合点がいくのか。またそれだ。要するに同じことの繰り返しなのだろうか。そうだとしても疲れる。延々とそれでは気が狂ってしまうか。そうならないように精神を鍛えるべきか。それもごまかしのたぐいだろうか。何がそうなのかわからない。何もそうではないのかもしれず、まだ心は誰かの幻想と戯れているだけなのかもしれない。しかし夢とは何か。そこで誰が何を夢見ているのか。君がそうなのではない。誰もそうではない。では何なのか。何でもなければいつもの通りだ。そんなごまかしが繰り返されている。それだけのことだろう。でもそれでは困ってしまうか。何とかそんなことの繰り返しから抜け出して、もっとまともで真摯なことを語ってみたいか。それが誰かの幻想なのだろうか。現実を見ていないというわけか。しかし何が現実なのだろうか。こんなことを記していることか。わかっているではないか。


12月8日

 たぶんそれは近道などではない。実際には遠回りばかりだ。もったいないか。何がもったいないのだろう。空は晴れている。それは昼の話だ。今は違うのか。何を考えているのだろうか。漠然としている。要するに意味不明か。何が何だかわからない。何も思いつかないわけだ。ここには何もない。それはわかっていることだ。わからないことならいくらでもありそうだ。それを探し求めているのだろうか。難儀なことだ。見つからないだろう。見つかるはずがない。でも見つけようとしているのだろう。だから難儀な話となる。馬鹿げているのはいつものことらしい。誰も気づかないことに気づきたいのだろうか。だからそれが馬鹿げている。何を発見したいのだろう。それを見つけてノーベル賞でももらいたいのか。冗談か。見つけられないから苦悩しているのだろう。嘘だろうか。見つけようとしていないのではないか。それもわかる。何もわからないわけではない。そうやってすらすらと言葉を記したいのか。記して何になる。何かを記していることになるのだろう。それだけか。たぶん何になるか知っているのだろう。虚しい気持ちになるのか。それもあるだろうが、もっと何か肯定できるような結果をもたらしたいのではないか。君がそうなることを期待しているわけか。君に限らず、誰もがそう思っているのではないか。だがそれはいったいどういうことなのか。咳が止まらないか。そうではない。何かを遠回しに示唆したいのかもしれない。誰に向かってそうしたいのか。誰と対峙しているとも思えない。先回りして、誰かを待ち伏せているわけでもないのだろう。まだ相当道のりがありそうで、たどり着く前にくたばってしまうかもしれない。でもそこを目指さざるを得ないのだろう。誰の指図でもなく、自然とそうなってしまうのではないか。生きるとはそういうことなのか。また深いことを述べているように見せかけようとしている。冗談なのだ。そうに決まっていると思いたいが、何かに気づいていない。自分でもわかっていることを改めて問い直して、それでどんな答えにたどり着けるわけでもないことをわかっている。本当だろうか。何が本当なのか。事実とは何か。どうやら君はそこから逸脱したいらしい。

 人がどこかへ向かって歩いている。そんな映像を見かけたわけか。テレビでも見ているのか。あるいは空想しているのか。たわいない空想だ。それだけでは何でもない。それをグレートジャーニーだとかに結びつければ、何となく他人の興味を惹くのかもしれず、実際には無関係だろうが、とにかく歩いているようだ。利いた風な話にしたくないのだろうか。ひねくれている。アホくさいだろうか。目がかすんできたのか。そこでめまいがしているのかもしれない。まだそんな時間帯ではないが、そんな時間帯になったところで、何がどうなるわけでもないだろうが、めまいがする時間帯などありはしないだろう。では何なのか。回りくどいというより、根本的に間違っている。それはわかる。コーヒー豆を通常の二倍使っている缶コーヒーを飲んだら、今までとは微妙に違う味に気づいたのだろうか。それとは関係ない。そういうやり方が技であるはずもない。記述に技巧を凝らしているはずがない。では何なのか。ただの苦し紛れだろうか。そうかもしれないが、それで何となくそれとは別の何かを物語っているような気にならないか。勘違いのようだ。そういえば胃薬を買うのを忘れていた。また無関係なことを思い出す。近頃は物忘れがひどいが、そんなはずがないと思っていること自体が、何か病の兆しなのだろうか。だからそんなはずがない。しかしなぜ世の中で起こっている現象に興味が持てないのか。持っているのではないか。それが文章に結びつかないだけか。まともにつながらないのかもしれない。どこかでねじ曲がり、おかしなところへと出てきているみたいだ。そんなふうに思えば、何だかおもしろくなりそうだが、実際に記された文章を読めば、必ずしもそうではないことに気づく。ものを書く才能がないのだろうか。でもそこで何を書いているつもりなのか。書くのではなく記しているだけか。それとこれとはどう違うのか。文字を記すのと書くとの違いを説明するまでもない。手書きなら書くという言葉がしっくり来るのだろうが、キーボード叩いているとなると、書いている気がせず、最近はスマホで、キーボードさえ画像でしかないから、さらに書くという行為から遠ざかっているような気がする。


12月7日

 もう夜だ。夜なのだろうか。夜の暗闇の中で、何か適当なことを思う。そんなのは嘘か。でもそう思ってしまう。何を思っているのだろうか。ぬるくて苦いコーヒーを飲む。それもそれだけのことだ。一気に飲み干す。それで胃が痛むだろうか。何の話でもない。ではそれもそれだけことだ。何だかわからない。わかりかけているわけでもないらしい。これはどういうことなのか。なぜ状況を説明できないのだろうか。だから何だかわからない。面倒くさいのだろうか。何がそうなのか。音楽を聴くとしよう。気晴らしの一環か。気分転換かもしれない。同じようなことだろう。何も見えていないようだ。何が問われているとも思えない。君は何も問わない。この世界でいったい誰が救われるべきなのか。アフリカに住んでいる人たちか。それは君の問いではない。人はどんどん老いてゆく。それは答えではない。明確な答えではないが、少なくとも問いに答えようとしている。そんなのは戯れ言か。今がその機会なのだろうか。遠いチャンスだ。意味がわからないが、ほど遠いということか。何ももたらしていないようだ。もたらされていないということか。空手だ。武器を持っていないということか。何が武器になるわけでもない。しかし空手ではどうしようもない。何も施しようもないか。何かお土産があった方がよかったのか。でも何の話でもない。何も語っていないのは毎度のことか。まだ音楽を聴いている。思い違いか勘違いか。どうやら何がチャンスなのでもなかったようだ。宝くじでも買った方がいいのだろうか。別に運試しがしたいわけでもないだろう。では何なのか。たぶん何でもない。何も語れないということか。その通りだ。ここまで記してきてそれはないか。何を記しているわけでもない。また何かを否定しているようだが、何かとは何なのか。セレブたちの慈善事業でも否定するつもりか。別にそれが罪滅ぼしというわけでもないだろう。何が免罪符となるわけでもない。だからこれは何を獲得するための機会でもなく、何を批判するための機会が与えられているわけでもない。

 では何なのか。ただ語れないだけで、何も語れずに何を知りたいわけでもなく、要するに何なのか。苦悩するようなことではない。ここまで出かかっているのに言葉が出てこないということか。そんなはずがない。何も思いつかず、何も思い出せずに、何を知ろうとしているのか。そんなことではないというわけか。雑なことを述べている。嘘だろう。雑ではなく、雑にさえなれないということか。まだそこまで到達していない。君は絶えず外れている。それが何かの口癖となることもない。意味不明なのか。それはいつものことか。ここは地の果てなのだろうか。何が冗談であるわけでもない。君が知りたいのはそんなことではない。知りたいことなど何もないのかもしれないが、とりあえず語るとすれば、それは何になるだろうか。何にもならないとすれば、嘘なのだろうか。だから何も語れない。そんな言葉が繰り返され、嫌になってしまう。もうだめなのかもしれない。弱音を吐いている場合ではない。歴史に名を残したいばかりの人助けではないらしい。そんなテレビ番組を見て、言葉が出なくなる。だからそれが嘘なのではないか。何かを成し遂げるには周りの人間を巻き込まなければならない。君の力だけでは何も成し遂げられない。それがわかりきったことであるのは承知しているようだが、実際にやっていることは、それとは真逆だ。でもそれほどことでもないだろう。ほんの些細などうでもいいことだ。それの何が違っているわけでもない。淡々と作業をこなしている。それでは何ももたらせないか。少なくとも感動しないだろう。でも前進には違いなく、少しずつでも前へ進んでいるのかもしれない。そうならないとどうなるのか。正気を保っていられなくなるか。要するに何とかしようとしているらしい。それはわかるが、結果がこれではどうしようもないか。君が何を求めているとしても、少なくともそれはこれではない。わかりきったことだろうか。でも楽しいのではないか。わくわくするほどのことではないとしても、何となく愉快な気分なのだろう。うきうきしてしまうか。またそれも冗談に違いない。でもそれでは片付けられない部分もありそうだ。きっとそれは気のせいか。


12月6日

 人はくだらない。そう思うと自分もくだらなく思えてくる。だからそうは思わない方がいいだろうか。もう賞味期限切れに違いない。だから何をどう思ってもかまわないのだろうか。そういう理由は意味不明か。何だかわからないが、支離滅裂なことをやっていると心が晴れる。嘘だろうか。嘘でも何でもかまわない。かまわないのにそんなことを思う。だから支離滅裂なのだろうか。何がそうなのか定かでない。しばらくはそんなことの連続になってしまう。そんな予感がするらしい。何の予感でもありはしない。では何なのか。何でもないような気がしてくるが、それではだめなような気もするので、とりあえず何とかなるように努力するとしよう。うまくいくかどうかわからないが、そんなふうに語ればいいのか。語っているではないか。こんなふうに語っているはずだ。冗談ではなさそうで、何が冗談でもないのかもしれない。君は至って正気だ。少なくともそう思っているはずだ。でも何が少ないわけでもない。では何なのか。せこく小狡く立ち回っているどこかの誰かには理解できないことか。でもそれでかまわないのだろう。そんなふうに語り続け、言葉を記し続け、やがてどうなってしまうのかも皆目見当がつかず、途方に暮れるまでもないことかもしれないが、何となくそういうことらしい。わけがわからないのは毎度のことだ。それでも言葉を記しているのだから、そういうことになりそうだ。でもおかしい。何だか違うような気がするが、それも一つの攻撃なのだろう。相手を精神的に参らせようとしているのか。やるならどうぞ勝手に好きなだけやってほしいか。君は前進するのみだ。こうして記述も前進しているではないか。でも腹が減った。眠くなる。何となく途中で投げ出してしまいそうだ。それでかまわないのではないか。まともなことは何一つ述べていない。そう思うならそのへんでやめた方がいい。誰がそう思っているのだろうか。また何かを蒸し返そうとしているわけか。でもおかしい。緊張感がない。欠けているのは他でもない。他がないから今がある。

 むちゃくちゃなのだろうか。そう思っていればいい。何だか吹っ切れたような気がするか。それは心の持ちようなのだろうか。でもおかしいではないか。何となく何かが暴走しているような気がする。心の中でそうなのか。あるいは外部の世界がそうなっているのだろうか。蛍光灯の明かりを消してしまえば眠ってしまう。それほど単純なことでもない。なさそうに思える。では何があり得ないのだろうか。君もそこで何か思っている。冗談かもしれない。でも今頃思ってももう遅いか。何を述べているのだろうか。何も述べていないのではないか。その通りのようだ。目が次第にかすんでくる。何かの嫌がらせではないのだろう。君が思っているほど大したことではない。何かのきっかけでそうなっているだけか。そう思うならそういうことだ。そういうことにしておきたいのだろう。たぶんこれらの暴走もそういうことのたぐいだろう。たわいないことだ。でも何が暴走しているのだろうか。考えを改めなければならないか。あるいはこれも冗談の続きなのだろうか。何だかわからず、何を述べているかも定かでない。そう思えば気が晴れるだろうか。もう翌日の午後を回っている。何かのついでに言葉を記しているのだから、散漫な内容になるのは致し方ない。無内容なのではないか。でもそれほど自らの記述を卑下することもない。これでも何とかしようと努力している最中か。それにしては空疎すぎるだろうか。心が疎外されているのだろうか。ちょっと違うのではないか。たぶんそうではない。内容を把握できていないだけだ。読み返す気が起こらないらしく、適当に言葉をつなげて、それで何とかしようとしている。どうやら完全にそこから離れてしまったらしい。何が離れたのか。何もかもではないだろう。しばらく考えているようだが、答えが出てこない。何でもないか。そういうことにしておきたいようだが、それは違うと思われる。かろうじてそこで踏みとどまっているようで、何とか何か語れるような成り行きに持っていきたいらしい。うまくいくだろうか。今のところは先行き不透明だ。


12月5日

 何なのだろうか。何でもないに決まっているだろう。何も決まらずにすべてが決まってしまう。そんなことがあり得るだろうか。あり得るからしょうもないのか。君はいったい何の話をしているのか。何でもないなら、話でもない。話でなければ何なのか。何でもないか。もう翌日の夜で、時間的にはそのまた次の日に近くなっている。全然だめか。何がだめなのだろうか。まさかここから何を語る気も起こらない。それが現状か。どうでもいいのだろうか。でも語ろうとしている。それについて語っているはずだ。それとは何か。何でもないはずだ。何でもないことを語っている。なぜそうなってしまうのか。すでに何かの限界を超えているからか。結局一回休みだ。眠気と疲労には勝てない。別に勝つために言葉を記しているわけではない。記すために記しているのだろうか。それはどういうことなのか。その場の思いつきか。だんだんそうなってきたらしい。それらの何が余分なのか。何をどぶに捨てているわけでもない。気に入らないことは気に入らないまま、そのまま放置され、神は何かにならなければならない。ハエか何かか。ゴキブリだろうか。それほどのことではないだろうか。ハイエンドな機器ではない。しかしハイエンドとは何なのか。君は高級品とは無縁の生活を送っているわけか。少し意味が違うのではないか。吊り橋を何十年もかけて造り続けた人もいるそうだ。定年退職の後はどうなったのだろうか。普通に暮らしたのだろう。人にはやるべきことがあるのだろうか。人によって様々だ。では言葉を記すことがやるべきことなのか。その内容が問題なのではないか。君の知ったことではない。それではだめか。そういうことではないのかもしれない。人は人それぞれに領分があるわけか。それを他人に冒されたくないわけか。では誰が憤っているのだろう。君はテレビを見ていたはずだ。登山家が命をかけて八千メールを越える山を登っている。愚かな行為だろうか。別に他人を感動させるために登っているわけではないのだろう。では自己満足か。登っている途中で命を落とした人はたくさんいるらしい。その人たちを意志を引き継いでいるのかもしれない。ご苦労なことか。

 君は何をしているのだろうか。音楽を聴いている。別にそこで気が動転しているわけでもないのだろう。周りにいる多くの人たちがサポートしている。そういうことがあって初めて何らかの行為を成し遂げられるのか。一人の力では何もできない。何かできるのではないか。こうして言葉を記すことか。でもこれでは業績にはならない。ただの暇つぶしだろうか。それでも結構だと強がることはできそうだ。要するに自己満足を得たいのだろうか。それは記し終わってから抱くものだ。感慨といやつか。あくびが出る。結局何をやり遂げようとしているのでもない。それでかまわないならその通りとなってしまい、何の値打ちもない行為となり、誰かをがっかりさせているわけか。そうならないように努力しなければならないのではないか。そんなことを今さら思っても、もう手遅れか。手遅れでも何でもかまわないから、とりあえずこれらの記述を記し終えなければ、また遅れてしまうのではないか。だから必死に言葉を記しているわけか。無駄で無意味だ。でも妨害工作はごめんだ。何とかして、そんなふうに語りながらも、記述を継続しているわけだ。それはそれでご苦労なことか。馬鹿にしているのだろうか。パークアベニューとは公園通りという意味だろうか。公園通りにある高級アパートに、金融業界の海賊たちが住んでいるそうだ。ニューヨークでの話だろう。そんなドキュメンタリーを数日前に見たのではないか。部屋が何十室もあり、高級車や自家用ジェットに乗り、毎晩どこかのパーティーに出かけてゆくわけか。彼らは何のために生きているのだろうか。金を稼ぐためなら、そのへんの労働者と大して違わないのだろうが、稼ぐ額が桁違いで、その金を使ってロビイストを雇い、政府や議会が自分たちに有利な政策を行うように働きかけるわけか。そうやって金持ちたちはますます金持ちになり、貧乏人たちはますます貧乏になってゆくわけだ。そういう意味でアメリカを恐ろしい国家であり社会だ。オバマがそのへんを何とかしようとしているらしいが、うまくいっていないことが多そうだ。


12月4日

 また深夜だ。なぜか夕方になると眠ってしまうらしい。それで終わりか。また眠ってしまうのだろうか。朝までそうかもしれず、そういう話の進展はあまり期待できない。では何がどうなってほしいのか。もう昼だろう。やがて夕方になり、夜になってしまう。それから言葉を記すのか。そういうことになるだろう。忙しくて言葉を記す暇がないのか。疲れているのかもしれない。テレビでバスケットボールを見ているのか。気が散って言葉を記すどころではないか。自業自得だ。また音楽を聴いているらしい。とりとめのない気分だ。どうせ面倒くさいのだろう。何がそうなのか不明だが、数日後の日付で地震があり、散漫な気持ちに拍車がかかる。冗談だろう。それの何が常套句なのか。何でもありはしない。さっきまで何を考えていたのか覚えていない。冗談なのか。そうではない。また面倒くさくなる。何で記述を中断してテレビを見ているのか。特に理由などありはしない。退屈なのか。昼は忙しかったのではないか。しかし何だったのか。何でもないのだろうが、何となくそんな気分のようだ。何だかわからない。どうでもいいのではないか。たぶんそんなところだ。結局何も考えずにそんなことを記している。呆れてものも言えないか。言っているではないか。ベーシストの曲には意外性があるか。誰に限ったわけでもない。別にギタリストでもいいのではないか。だから誰でもかまわないというわけではないのだろう。何となく何かを思い出しているわけだ。それがどうしたわけでもないが、そんなふうに言葉を記している。語りたいのではなく、語るとすればそれだけだ。何がそれだけなのかわからない。君は何を馬鹿にしているのか。それでも何となくここまで記してきた。そういうことでしかない。どういうことでもないのに、それはないか。でもそういうことなのだ。その辺で停滞している。息切れか。そう思ってもらってかまわない。見え透いたごまかしだ。何が気に入らないのか。そんなふうに語っていること自体か。仕方のないことだ。何となくそう思ってしまうが、それだけでもないような気がしてくる。

 では何なのだろうか。何かのバリエーションの一つとしてそうなっているわけか。たぶんそういうことだ。それでもうまくやっているつもりなのだろう。未来には限りがあり、過去においてもそうだ。果てしなく遠くまで見渡せるわけではない。視力は悪い方か。遠くの山並みを眺めている時間などない。必要ないだろう。なぜ気が散っているのだろうか。気を集中させるのが面倒くさいからか。続けて聴いてみたい。それは何の続きなのか。記すのも面倒くさくなってしまったのだろうか。何を記そうとしていたのか。何が決まっているわけでもなく、その場の気分次第で記す内容も違ってくる。君がそれを決めているわけでもない。賽子を振っているわけでもなく、出た目の数だけ前に進んでいるわけでもない。そこには何もなく、どんな操作もありはしない。それが見え透いた嘘なのか。考えるいとまもなく、この世界に何を施そうとしているのか。歌い過ぎると返って不自然に聞こえてしまう。それは何かのやまびこだろうか。空耳か。何のことでもありはしない。ただそんなことを記している。かなり遠すぎるだろうか。意味不明なのは仕方がない。何も思いつかない。しかし誰がならず者なのだろうか。西部劇に出てくるクリント・イーストウッドか。誰がもがいているわけではない。海の彼方に新大陸がある。コロンブスが到達した場所か。暗黒大陸はアフリカなのだろうか。関係ないだろう。では関係あるのは何なのか。君と空疎な言葉が関係しているわけではない。何の関連もありはしないか。それは君次第だ。何を語っても無駄なのだろうか。それも君次第か。ならば何もないというのは嘘だ。何かあるなら漫画でも読んでいればいい。気が済むような成り行きにはなり難い。どう考えてもそれは無理で無駄なことか。何が無駄なのか。記述が無駄で無為なのだろうか。何も否定することはない。無駄で無意味な記述を否定するわけにはいかないか。ではそれでかまわないということにしておこう。何とかなるだろうか。何とかしてみせるのではなかったか。今さらながらの弱音など無視か。別に君が無視しているわけではないのだろう。要するに何も語っていないのか。


12月3日

 誰かが深夜に目を覚ます。君ではないらしい。でもそこから何かのフィクションが語られるわけでもないのだろう。今さら首を傾げても無駄か。では他に何を語ろうとしているのか。蛍光灯の明かりを消して、暗闇の中で眠れずに、また画面を覗き込むが、記しているのはこんなことか。冗談に違いない、と切り捨てておけば事足りるようなことか。何かの残骸なのだろうか。いちいちそれに反論するのが面倒くさいか。こんなはずではなかったらしい。そう思っているのだろう。それならそれでかまわない。ならもう少し言葉を記してみたらどうか。記しているではないか。腹が減ったか。飯でも食いたくなったのだろうか。何かのモードが違うらしい。制御機能に異変が生じているのだろうか。また意味不明な冗談を口走る。とにかくもう深夜だ。このまま寝ずに明け方を迎えたら、昼間が眠たくて大変だ。カフェインの取り過ぎだろうか。何だかわからないが、言葉は記せるうちに記しておいた方がいいような気もする。そこ辺にジレンマがあるのだろうか。もう昼になっていて、仕事が一段落したので、また画面に向かって言葉を記そうとするが、どうしたのか。何が何だかわからないわけでもない。ひどい頭痛がしているわけでもない。では記すべき言葉が見当たらないのか。でも何を察する必要もない。無駄な言葉が記されているはずだ。それが誰かの宿痾から生じているとも思えないが、有名人が死ぬとテレビで大騒ぎだ。選挙の方はつまらない結果を予想しているメディアが多そうで、何だか拍子抜けみたいだ。その通りの結果になるのだろう。どうやら大ボケ老人の石原氏は、第3極の力を削いで、息子がいる自民党を勝たせるために動いているみたいだ。要するにこけおどしの茶番劇になってしまうのだろうか。別にそれでもいいのではないか。そういう体制が好きな人が大勢いるからそうなってしまうわけだ。その程度のことに違いない。みんな景気対策という幻想にすがりつきたいのだろう。たとえ景気が良くなっても、その恩恵に与れるのはほんの一握りの人たちなのではないか。おおかたの人たちは相変わらず些細な幸せを夢見て、毎日好きでもない仕事に携わっているしかない。

 みんなこの国の繁栄を願っているのだろうか。少なくとも政治家はそうだ。どの国の政治家もそれぞれが属する国の繁栄を願っている。そんな当たり前のことに疑問を差し挟む余地はない。子供がいっぱい生まれ、すくすく育ち、立派な大人となって、明日の国家を担ってほしいか。そうなることを願っているわけだ。そのための子育て支援か。あるいは充実した老後を送りたいか。そのための福祉政策か。さらに若者がちゃんとした定職に就いてほしいか。そのための就労支援だ。そんな大正解なことを主張するのは容易であり、そのためにはどうするかを議論したいのだろう。みんなこの国のことを真剣に考えているわけだ。今の君とは大違いだ。明日は何を考えようか。今は何か考えているのか。面倒くさいか。何が面倒くさいのか。何もそうではなく、何かが違うと思っているのでもない。たぶん今から百年後ぐらいにどこかの批評家が、この時代の紋切り型的な思考として、先に述べたような内容を指摘するのではないか。その程度のことだろう。では大正解なことを主張してはいけないのだろうか。いけないどころか大いに主張すべきで、進んでそれらの紋切り型と戯れるべきだ。それがそういうことを主張している人たちの宿命なのだから、積極的に自らが強いられている境遇を受け入れて、どんどん大正解なことを主張すればいい。そうしていれば必ず主張が通って、何らかの形でそれを実現させることができるだろう。そうなったらそれを自らの業績として、次の選挙で大いにアピールしたらいいのではないか。もう誰もそれを悲惨だとかたわいないことだとか、あるいは嘲笑の対象とかにすることはないだろう。もしそうなったら怖いもの無しか。誰かが冗談でそんなことを記しているだけのことだ。でもなぜ君はそれが記されている画面を覗き込んで笑ってしまうのか。何だかわからないが、そんなことを記していると愉快な気分となるらしい。どうせ本気で記しているわけではないのだろう。君はそれらの紋切り型を信じていないのではないか。冗談のたぐいだと思っているはずだ。


12月2日

 また新幹線に乗っている。結構古い型のやつだ。他に感想はないのか。たぶんない。今のところは何もなく、それはいつものことだろうか。もう夕方だ。君は何をやっているのだろう。外の景色を眺めているようだ。でも別に雪景色でもない。このまま新潟の方でも行けば、雪景色が見られるのではないか。途中で降りなければならないから、それはないだろう。でもおかしい。言葉を記しているうちに、雪景色を想像している。そこに何があるのか。雪があるだけか。他には何もないのか。たぶん山があり、川が流れているのではないか。それだけのことだ。感動しないのか。それらの何に感動したらいいのか。そういう映像でもテレビで見れば、何となく感動したりするのではないか。たぶんそうだ。でもそれでどうかするわけでもないだろう。苛立っているわけでもなく、回りくどいことを述べようとしているわけでもない。ただ夕暮れ時に外の景色を眺めながら、何かそこにはない景色を想像しているようで、それが冗談である理由も根拠もない。では何なのか。何を探求しているわけでもないのだろう。言葉を記している。それだけのことか。それだけで何が悪いのか。開き直る必要もない。人は人として適当な場所で暮らしている。そこで何か不具合が生じているようなら、改めればいいだけのことか。改められなければ、不具合を放置したまま生きてゆけばいい。造作もないことだ。面倒くさいが、仕方のないことだ。でも改める機会をうかがっているのだろう。そのきっかけをつかめる時を待っている。本当にそうだろうか。もうすでにきっかけをつかんで、改めている最中なのではないか。だが何を改めているのか。君は自らの生き方を改められるだろうか。意識して改めようとしているわけではない。それでも改められるとしたら、それは自然の成り行きでそうなってしまう時しかないのではないか。今がその時なのか。冗談だろう。また冗談に逃げようとしても無駄だろうか。それは結果を見てみないとわからない。

 いつもと変わらないように感じられる。目に見える変化ではないのかもしれない。ならばもう少し時が経ってみないことにはわからないだろう。何だか引っ越して気分転換になったようだ。それだけのことかもしれないが、たぶんそれが大きいのだろう。心理的には影響が大だ。前途が明るいような気もしてくるが、気のせいか勘違いかもしれない。それでもかまわない。そう思っていればいい。どうでもいいが、暗いよりは明るいと思える方がいい。まだ前途があると思えるだけでも儲けものだ。幻想でしかないかもしれないが、戦渦の中で絶望的な暮らしを強いられている人々よりはまだマシだ。誰かがサッカーに興じている。そんなふうに語るべきではないのだろう。平和な暮らしを強いられて、退屈で死にそうになっている人々だっているではないか。それは贅沢な悩みだろうか。しかし今ここで何が見えているのだろうか。夜の闇か。今ここで記している時点が夜だから当たり前だ。この状況がつまらなく思えるだろうか。安心してしまったのか。もう何もやることはないと思いたいのだろうか。冗談か。冗談なのかもしれない。気持ちにむらがあり、コーヒーばかり飲んでしまい、何だか気分が悪い。意味不明だろうか。疲れているのかもしれない。自分で記した内容を把握できなくなり、だんだん支離滅裂になってしまうのはいつも通りかもしれないが、そこで思いとどまろうとしているのはどうしたわけなのか。もういい加減に目を覚まして、くだらぬ記述から手を退いてほしいわけか。それはどういうことなのだろう。わかっているくせにそれはないだろうか。何がないのかわからない。その気がないということか。やる気がないのではなく、やめる気がないというわけか。懲りない性格のようで、執拗に言葉を記して、それ以上の何かをもたらそうとしているようで、無理があることはわかっていても、やはりそうせざるを得ない何かに駆り立てられているのだろうか。何かと何なのか。それは特定の固有名を持たない何かか。それでは何だかわからないが、そう捉えるとそんな感じがして、たぶんそういうことなのだろう。どういうことでもないが、そういうことなのだ。


12月1日

 そしてとうとう今月に入ったわけか。やはりそれがどうしたわけでもないか。でも気が済んだのではないか。とりあえずほっとしているはずで、もう一時は先月で終わってしまうかと思っていたわけか。何とか終了の危機を切り抜けたと思っている。冗談だろう。何が冗談なのだろうか。何もそうではないと思いたいのか。君が思っているわけではない。でも何も思わないということでもないだろう。では何なのか。和んでいる。そんなはずがないと思いたいところだが、誰かが現状と妥協しているのかもしれず、そんな状況でかまわないと思いたいのかもしれない。それは嘘か。嘘でも勘違いでもかまわないのではないか。とりあえず言葉を記しさえすれば、それでかまわないのだろうか。またそれだ。相変わらずくだらぬことを述べているようだ。でも君が述べているわけでもないのだろう。何を述べているわけでもなく、誰かが言葉を記しているだけのようだ。そしてそれの何が冗談なのか理解できずにいる。とりあえずおかしく思ったら、冗談だと解釈すればいいだけか。それはまったくのいい加減でごまかしに違いないが、何となくその辺はスルーして、今はそれでかまわないと思うしかないようだ。なぜそうなのかは問わずにおこう。いちゃもんなどいくらでもつけられるし、そうしたところで事態が進展するわけでもなく、ただ無視され、何の反応も期待できない。君は夜の公園で佇む。そんな君もどこかの時空で存在していたはずだ。それがどうしたわけでもないのだろうが、たまたまそんなことを思いつき、誰かがそれを気まぐれに記してみただけか。そんなことを記してみたところで、何がどうなるわけでもないのはわかりきったことかもしれない。でもそれが愉快なのか。無駄で無意味なことを記していると、何だか意味不明気味に和んでしまうらしく、そういう行為を肯定したくなってくる。そんなはずがないと思いつつも、それが自然と続いてしまい、君を驚かせるわけでもないのだろうが、何だか愉快な気分となるらしい。

 もうどの辺まできただろうか。今日は車を運転しているわけでもないで気楽だ。そしてだんだん何かに近づいていくらしい。それは誰かの死期か。冗談にならないか。誰もが刻々と近づいているはずだ。それは生物的な宿命で、死んで分解してしまうのが自然の成り行きなのだろう。君はそうなるまで何をやったらいいのだろうか。今やっているそれなら他の誰かもやっていることだ。ただ言葉を記しているは誰なのか。そんな問いに答えるお人好しがいるわけもなく、君は黙ったまま画面を眺めるだけか。いったいそこには何が記されているのだろうか。ただの文章には違いないが、誰がそれを読む気になるのだろう。誰も読まなくても事足りるような文章か。おもしろくも何ともないようなことが記されているわけか。だからそれでかまわないのだろう。他に何ができるわけでもなく、君はただそれを眺め、何とも思わずにひたすら沈黙を守っている。肯定も否定もできないようだ。何をどうしたらいいのかもわからず、何も考えていないようで、その場の成り行きに流され、何に立ち向かう気も起こらない。なぜそんなふうになってしまうのか。たぶんそこには物語が皆無だからか。それもあるだろう。同時にそれ以外の何でもありそうで、それらすべてが何らかの物語を形作っているように思われる時もあるだろうが、あえてそこには踏み込まず、迫り来るすべての出来事を受け流し、肯定も否定もせず、ただ黙って何かを見守っているのだろうか。そうだとしても、そんなことをして何になるのか。虚しいだけではないのか。別にそうは思わないか。思う思わないという概念から意識が遠ざかっているのかもしれない。なぜそうなのかわからないが、それを気にするような状況にないのだろう。そこで起こっているのはただの過渡現象に過ぎず、すべてがそうなのであり、どんどん移り変わり、関係するすべてを引きずっていって、どこか遠く彼方の未来で、雲散霧消してしまうようなことか。そう思わないなら、もう少し何か救いのような観念を提示できるだろうか。でもここで何を指し示すわけにはいかないだろう。