彼の声92

2012年

9月30日

 ようやく先月の最終日に到達したらしいが、また記述は明日に持ち越しか。そうなる前に少しでも記しておこうと思いたいが、結果はどうなるのか。こうなってしまったようだ。また遅れてしまったようだ。どうやらまだ先月の日付で言葉を記す羽目になってしまったらしい。でも言葉が出てこない。道路が渋滞でイライラしていたらしい。すいていれば五分でつくところを、遠回りして三十分かかったようだ。そして何かが足りないと思う。関係ないだろう。確かに関係ないが、妙に思われてしまうようだ。なぜ何かが足りないと思うのか。そうではないはずだ。ではもう足りているはずか。何が足りているのだろうか。そういうことではない。何を蒸し返そうとしているわけでもないか。では何なのか。何をやっても変わりない。変化を期待しているわけでもなく、期待されているわけでもない。では何なのか。何でもないからいらつくわけか。それも違うのではないか。だから何なのか。冗談だろう。逃げているのか。何から逃げているのだろう。現実からか。現実ならここにある。こんなふうにして言葉を記している現実があり、それを誰かが語っているつもりになっているわけか。これがそうでないとすると、真実はどうなっているのか。たぶんどうもなっていないのではないか。無理に語ろうとすればおかしくなり、何も語れなくなったと思えば、いらつくだけか。それではだめか。だめならどうすればいいのか。たぶんどうもしないのだろう。どうもしなければどうだというのか。開き直ってくだらぬことを語っている場合ではない。

 しばらく黙っていると眠ってしまうことに気づく。何とかしなければならないようだ。世間の話題などに興味がないのか。誰からの助け舟を期待しているわけでもなく、そこに誰がいるわけでもなく、そんな説明にも興味がないのだろうか。自業自得か。すぐにそう思ってしまうところが意味不明だ。まだ何も理解していないのではないか。何を理解するつもりもなく、そんなことではまずいと思っているようだが、空疎な語りを止める手だてはない。だからそれでかまわないと思いたいのか。何をかまいたいわけでもないのだろうが、何となくまだしばらくは無駄なことを記さなければならないようだ。それはあり得ないか。実際にそれを記しているではないか。たぶんこれをやらないと前に進まないのだろう。誰かは恐ろしいストレスの中で記述しているのだろうか。そんなはずがない。眠気を振り払いながらやっているわけか。何をやっているのだろうか。フィクションの中では君が語っているふりをしているようだ。それもあり得ないことか。でもそこで心を閉ざしているのは誰なのか。そんな状況でもない。何かと何かが不協和音を奏でている。フリージャズのたぐいだろうか。実際のところは和音ですらない。どうやら知識が足りないようだ。でもそれは君に限ったことではない。もとから君が何を語るかなんて興味がないわけだ。話が適当にこんがらがっていればそれでかまわないのであって、要するに何か語っているように装えばそれでいいわけだ。

 しかしおかしい。それの何がおかしいのかわからない。暗闇の中で考えても無駄か。周りの状況ではなく、心の中で意思統一が図られていないようだ。一人しかいないのにその必要があるのか。さっきからちぐはぐなことを述べている理由と原因は何なのか。もう記述の限界に達しているのだろう。本当の原因がそれか。それだとは思えない。信じたくないだけか。現状がこれなのに、それはないだろうか。どうもうまく説明できない。さっきからそんなことばかり考えているようで、具体的な何かを見出せていないようだ。何かとは何だろうか。またそれだ。どうやらそれが何かの出口となっているようで、そこに至れば、毎度おなじみの何かと何かという問いに突き当たる。でもそこでおしまいなのだろうか。そう簡単に問いが終わるとは思えない。事実君はさらに問い続けようとしていて、あてもなく無駄に答えの返ってこない問いを発し続け、それが誰かをうんざりさせている原因なのかもしれず、それをやめて、まともに違うことを語ればいいのだろうが、その違うことが思いつかず、その代わりに出てくるのは、いつもの何かとは何かという問いでしかないのだろうか。そうだとしてもやめるわけにはいかないか。何をやめようとしているのだろう。またそれだ。わざとらしくとぼけてみてもだめか。だめではないが、やり方が見え透いている。そうではないようなことを語る手だてがないものか。今語っているそれでは不満なのだろう。それはわかりきったことで、そうではないように語りたいのだろうが、語れずに煩悶する。それは嘘だろう。嘘でなければ何なのか。それも違うと思うが、もう眠気に逆らえず、すぐに眠ってしまいような雰囲気を感じながら、とりあえず先月の語りを終えるとしよう。


9月29日

 曇っているようで、時折雨がパラパラと落ちてくる。でもとりあえず涼しくなったので、ほっと一息だ。もう暑いのはごめんか。それはそうだが、なぜ夏はうんざりするほど暑いのか。もう何十回と経験しているので、わかりきったことなのに、毎回毎回夏が来る度に嫌になる。馬鹿げた感覚だろうか。何がそうなのか。そうに決まっているではないか。だからこれ以上は無理なのか。ではまた時間を改めてその先を記すとしようか。でもまた時間があるのではないか。時間はあるが、何も思いつかない。だからその辺で一時中断すればいい。しばらく考えてみる。何か不都合でもあるのだろうか。それは昨日のことだ。今日は今日で暑くなっている。何とか真夏日にはならなかったが。今月に入ってもこんな日がある。でも日付は相変わらず先月のままではないか。何とか先月を抜けたいのだろうが、他の用事が立て込んでいて、なかなか言葉を記す時間を確保できず、苦しい状況が続いているらしいが、それでもかまわないような気がして、笑っているわけだが、君はもうあきらめてしまったのだろうか。だから何をあきらめたというのか。まだ記述を継続しているではないか。でも中身がない。それは君の思い込みであり、勘違いだろう。そんなはずはないか。ではどんなはずなのか。ただ無駄に空疎なことを記しているだけか。それに関してデレビで小説家が何か述べていたはずだが、もう忘れてしまったらしい。まったくテレビは役に立たない。それも違うだろうか。それの何が違うのか。君は暇があれば放送大学でも見て、無駄に知識を増やそうとするが、それが実際に役立つことはないと思いたいのか。きっとそうだ。

 でもまた言葉を記すのが嫌になり、テレビでも見ながら暇をつぶそうとしているではないか。そんなはずがない。ではまだくだらない記述作業にしがみついているわけか。くだらないが余分だ。ではどう表現したらいいのだろう。そんなことなど言い表しようがないか。ではそんなこととはどんなことなのか。また紋切り型的な罠にはまっているのではないか。だからそれがいつものこととなり、結局つまらない内容を延々と続けていることになってしまう。君としてはそうなってはまずいのだろう。何でもかまわないはずが、いつの間にかそれではまずいような気がして、何とかまともな内容にしようとしてできず、そしていつもの自己嫌悪に陥り、その先は嫌な展開となるわけだが、それを回避するにはどうしたらいいのだろう。まともな内容を記せば問題ないのだが、たいていの場合はそうならず、いい加減な内容で済ますしかなくなってしまい、そんなジレンマが続いてゆくわけか。だからこうして画面の前で笑っている。笑う必要がないのに笑うと、目尻のしわが増えそうだ。でもかまわないのだろう。無理に愉快な気分を装い、それで本当に楽しくなれば、それは儲けものということか。そんなことはあり得ないか。では実際はどうなのか。見ての通り、読んでの通りだ。おもしろいかおもしろくないかは、人によってそれぞれだろうが、君はそれを否定したいらしく、すべてがつまらないか、あるいはすべてがおもしろいかの、二者択一でも誰かに迫りたいのかもしれないが、君の他に誰もいない部屋の中で、誰に向かって選択を迫っているわけでもなく、要するにそれは嘘であり、虚構の中で架空の誰かに向かって迫っているのかもしれず、だからそんなのはあり得ないことになるのだろうか。

 しかしそんなごまかしも、話が込み入ってくると長くなり、それ相応の文章となっているのかもしれない。でもそれで誰が何を述べているとも思えず、ごまかしはごまかしに過ぎず、どこまでいってもまともな内容とはなり難く、そんなわけでここまできてしまったが、どうにもなっていないようで、案の定自己嫌悪に陥りながら、誰かがこんなことを記している。誰かではなく君ではないのか。君でなければ私なのか。私とは誰なのか。それはこの文章を記している誰かに違いなく、誰かに違いなのなら、誰かが言葉を記していることに変わりないではないか。だからそれがごまかしになっているのではないか。いくら回りくどく述べても、それがごまかしに違いないことは明らかで、何ら自己嫌悪を和らげる効果にはなり難く、それどころが述べれば述べるほど、どんどん嫌悪感が増してゆき、終いには気が狂いそうになってしまうほど苦しくなるか。そんなことはなく、それどころか述べれば述べるほど、何かの終わりが近づいてゆき、さっさと記述を終わらせたい気持ちが増してゆき、何とか終わった後の安堵感にたどり着こうとして、今必死で言葉を記している最中だろうか。それもそんなはずがないという紋切り型的気分に取り込まれ、打ち消されてしまうようなたわ言のたぐいなのか。だからそうであってもかまわないと思いたいのだろう。今は面倒くさいから、そういうことにしたいらしいが、何だかそれもごまかしのたぐいみたいで、どうやら何を述べてもごまかしになってしまうらしい。だから今回はこの辺で終わりにすべきなのか。気分が乗ってこないのか乗ってきているのか定かでないが、それとは違う水準でくだらない内容を記している事実を受け止めなければならず、それも自己嫌悪を催す原因のひとつとなっているようだ。


9月28日

 なぜかすでに翌朝だ。昨日は言葉を記す時間がなかった。今日もだめか。今日もだめなら明日もだめだ。そんなはずがない。ならば何とかやるとしよう。でも文章の中身がない。これからそれを記せばいい。記せなければそこで終わりか。別に不治の病にかかって闘病生活をしているわけでもない。生きていること自体が不治の病か。それ以外はただ仕事をして、どこかとどこかを行ったり来たりしているだけか。それが実質的な行動のすべてだろうか。馬鹿げているか。そんなはずがない。でも別に何か隠しているようなこともなく、淡々と日々を送っているだけかもしれない。それで何か不都合でもあるのだろうか。不都合はないだろうが、たぶんそれ以外もほとんど何もないだろうが、そこに足りないものがあることは確かか。では足りないものとは何なのか。根気とやる気が足りない。でもそんなのは足りない部類に入らないのではないか。どうせこれから足りないものを付け加えようとしているのだろう。どこに付け加えなければならないのか。君自身にか。何を付け加えようとしても、磁石ではないからくっつかないだろう。そういう意味で付け加えようとしているのではなく、一般的な意味を伴った表現として、そういうことを述べているだけで、そんなのはいちいち説明するまでもないだろう。でもそんな無駄で不必要な説明ばかりがそれらの文章には付け加えられ、やがてどうでもいいような内容を伴って完成するわけだ。それでは不満か。ではその不満な気持ちも付け加えられているのだ。

 君はそんなふうにして何かをこなしてきたはずだ。何かとは記述のことか。きっとそうに違いない。たぶんそれがいつものやり方なのだろう。でも人はそれ以外にその者固有の物語を伴って存在しているのではないか。そんなことはないか。あるに決まっているだろう。そしてそれについて語りたがり、時にはそんな自分を誇ってみせる。それでいいのではないか。そんな自己主張をしなければ生きてはゆけず、時には自らの内に鬱積している何かを吐き出さなければ、気を病んでしまうだろう。要するにそんなことを絶えず繰り返して語っているわけだ。それがこれらの記述に連動しているわけか。冗談ではない。何が冗談ではないのか。たぶん何もそうではなく、すべてがそうなのだろう。君はそんなところで外れてしまっているのだ。どこへ外れてしまったのかといえば、どこなのだろうか。またそんな嘘をついていること自体が外れているというわけか。でも別にそれが照れ隠しでも何でもないといえるのか。また外れているようだ。誰かがそんなことを語りたいのではなく、他の誰の自慢話を聞きたいのでもなく、そんな外れ方が奇妙に感じられるのでもない。何だかわからないが、そういう水準で物事を考えるのが馬鹿げているようにも思え、要するにそんなどうでもいいことについて何を述べても、やはりそれはどうでもいいことだと思われてしまい、そこから先に言葉をつなげられなくなってしまうわけか。

 でもそんなことを記すしかそれを続ける術がないからそうなってしまうのだろう。だからそういう記述の方向から外れて、何かもっと違った興味深い内容にしたがるのだろうが、あても思惑も外れて、結局はこんな現実を受け入れざるを得なくなり、窮余の策とでも自分に言い聞かせながら、何とか現実と折り合いを付け、自らの思いとの妥協点を探っているわけだ。無理に決まっている。現時点では確かにそうだが、絶えず失敗し続けながらも、やはり常にそれを目指しているわけで、何とかしようとして、日々努力しているのではないか。そう思いたいだけだろう。でも思わなくなってしまったら、もうおしまいなのではないか。だからその時点がおしまいなのであって、現時点ではまだおしまいではないということか。だからこんなふうにして、空き時間を見つけては言葉を記しているわけか。ならば今はそういうことにしたらいい。こんなことを記述している時点ですでにおしまいなのかもしれないが、たとえ終わっていようと何だろうと、その後からまた始めればいいだけだ。実際にこうして始めているではないか。こうして何かが循環しながら、さらに遠くへと向かっているわけか。だが目的がない。よくわからないが、そういうことらしく、君は特定の目的に縛られるのを嫌がり、いつまでも漠然としていて、とりとめのない状態を好む傾向にあり、要するに目的だとか目標だとかから自由でありたいのだ。意気地なしということか。定まりたくないのだろう。逃げ口上的にはそういうことになるらしい。


9月27日

 何だかおかしな感じになってきた。機械を使い慣れていないのかも知れない。使っているうちにだんだん馴れてくるだろうか。そうなればなったでまた気にしなくなり、どうでもいいことになってしまうのかもしれない。しかし産業界はまだ原発推進派なのだろうか。どうしても原発を稼働させなければ日本の経済が衰退するというのなら、例えば産業界が、今まさに原発を稼働させればさせるほど、増え続けてどうしようもなくなっている核の廃棄物を、引き取ってほしいと思うが、いかがなものだろうか。原発で発電した電力を使用している量に応じて、核廃棄物の引き取り量を割り当てれば、何だか公平な気がするが、これは実現可能なアイデアだろうか。要するに大電力を消費している大規模な工場や鉄道会社などには、核廃棄物の一時保管施設の建造を義務づける法律などを制定して、原発経由の電力を消費すればするほど、その工場や会社には核廃棄物がたまっていくというふうにやったらいい。だいたい原発再稼働には賛成だが、核廃棄物の受け入れには絶対反対というのは、ちょっと虫がよすぎる話で、そういうふざけた論理をまかり通らせてはいけないような気がして、なぜそんなことを平然と主張している輩を非難しないのか、その辺が不思議でたまらない。要するにみんな御都合主義に染まっているのだろう。

 しかし君は何を考えているのだろうか。時としておかしなことを思いつく。別にそれでかまわないが、また数日後の今日は暑くなり、台風一過で仕方がないにしても、昼の強烈な日差しに照らされながら、意識が朦朧としていたようだ。それにしても明日も慌ただしい。また用事が立て込んでいて、また言葉を記す時間が削られて、遅れてしまいそうだ。でも明日になれば涼しくなり、とりあえず次の台風が来るまでは暑くならないだろう。いつ来るのだろうか。来なかったら暑くならないということか。そう願いたいが、だいたい願っていると逆の結果となり、うんざりするような事態となってしまうわけだ。まったくため息が出るだけのようで、今までにそんなことが繰り返される現実を何度経験したことか。

 そういえば自民党もいよいよおかしくなってきたのだろうか。安倍ちゃん復活だ。また美しい日本を実現するためにがんばっちゃうわけか。でも美学に染まった人はヤバい。やっぱ国会で野田バカボンのパパ総理と対決しちゃうんだろうか。近いうちに解散するらしいが、こうなったらどっちがほんまもんの馬鹿か、日本国民に決めてもらうわけか。君はどっちがほんまもんの馬鹿だと思うだろうか。他に大阪には維新の弁護士先生だっているだろう。ロシアに行けばプーチン氏やメドベージェフ氏もいるではないか。アメリカにはオバマにクリントンおばさんや、中国には習近平氏もいる。みんながみんなほんまもんの馬鹿というわけでもないだろうが、彼らが何をやろうと、君自身がどうなるわけでもなく、影響が何もないとはいえないだろうが、君はもっと別の現実に直面しているらしく、その日その日を慌ただしくもかろうじて乗り切り、何とか現状維持ならぬ、先細りになりかねない状況と対峙しているわけか。でもピンチといってもたかが知れていて、君自身が退いてしまえば、あとには何も残らないだろう。それだけのことなのか。


9月26日

 ところで今は何を語っているのか。それは必要なことなのだろうか。楽しいだろうか。何がそうなのか。何を問われても答えられない。何か考えているようだが、何でもないらしい。確かにここに何があるわけでもなく、何を空想しているわけでも妄想しているわけでもない。だから何もないのか。そう思えばどうなってしまうのか。どうにもならない現実に気づき、ふてくされて寝てしまうわけか。だがそれで何に気づいたわけでもない。どうせまだその先があるはずだ。だからこうして言葉を記しているわけか。そんなのは嘘か。嘘だから何だというのか。そういう開き直りも毎度おなじみか。では現状をどう述べたらいいのだろう。嵐の中で苦悩しているわけでもない。未だに何も語れない。それは思い違いだろうか。何も思っていないのではないか。たぶんそれでも語っているのだろう。誰かが何かを平然と語る。馬鹿なのは君だ。では君の何が馬鹿なのだろうか。そういうことではなく、単に君が馬鹿なのか。それも違うような気がする。そんな語りから何か別の答えが導き出されるのか。映画の中では誰かを仕留める算段が巡らされているようだが、どうせ最後の最後まで捕まらないのだろう。そんな話の筋書きか。君は興味を抱けないのだろうか。では暇つぶしにならないではないか。だからそうではないと思いたいのだろう。

 どうやら嵐も過ぎ去ったようだ。まだあきらめていないのだろう。今日中に終わらせるつもりだったのだろうか。さあどうしたわけだろう。まだ可能性が残されている。終わる可能性か。あまり期待しない方がいい。まだ何も思いつかない。思いつけないのではないか。終わりまでそんな気配だ。何も思いつけないまま終わってしまうわけか。それでいい。無理だからかまわないだろう。少し音量を下げる。何とかしたいのだが、今日はうまくいかない。今日もうまくいかないということではないのか。なぜそう思うのだろう。実際にうまくいっていないからか。それは当然の成り行きだ。そう思って差し支えない。本当は思っていないのに、そんなことを記してしまう。それがどうしたわけでもないのに、ことさらにこだわってみせる。それも勘違いが作用してそうなっているのだろうか。そうでもない。気がつけばさっきよりちょっとだけ前進したようだ。どこを這い回っているのだろうか。そういえば今年はまだムカデに刺されていないようだ。蜂には刺された。まだ腕に刺された痕が残っている。不意にそんなことに気づいたらしいが、今ここで語っていることとは無関係か。それを語っていたのだろう。それとは何か。三味線と木琴の音が聞こえてくる。

 大丈夫なのだろうか。一難去ってまた一難か。何に難癖を付けているわけでもない。でも信じ難いことなど語っていないことは確かか。何が難しいわけでもない。すでに嵐が去ってしまったのだから、後には静けさが残っているだけだ。虫の羽音が聞こえてくる。それと同時に音楽も聴いているのだろう。それでまたちょっとだけ前進か。君は冗談を述べているつもりなのか。いきなりそういうわけでもない。貧乏揺すりの最中のようだ。床が揺れているのは地震のせいか。そういう体験もしてきたはずだが、どうということはない。そこで何が批判されているのか。ネット上で国家主義者が国家主義者に批判されている。国家社会主義ならムッソリーニとヒットラーがいる。ムッソリーニはファシストだろう。批判されているのはそれとは違うことだろうか。また島がどうのこうのということか。国家の領土は広いに越したことはないか。そこに地下資源でも埋蔵されていたらなおのこといいか。どうせまた何かに凝り固まっているのだろうが、時代の風潮には合わない。でもそれが狂気の沙汰ではなく、正気だと思っている人間が主張していることだ。それがおかしいことのすべてなのだろうか。自分の主張ばかり強弁するのが国家主義者の典型か。中国の政府高官の発言がそれを物語っているだろうか。物語りすぎているのではないか。他者や他国に対する配慮などいっさいなく、腹立たしいくらいに平然と一方的に主張する。とても正気とは思えない。


9月25日

 何か問題でもあるのだろうか。今日はまだ何も思いつかないようだ。でも日付的には今日ではない。どうやら今月も遅れてしまったままになりそうで、現時点でもはやそれが確定したみたいだ。どう考えても今から間に合うわけがない。別に何を間に合わせようとしているわけでもないが、それでもここからまた何か記すつもりなのだろう。間に合わないのがわかっていながら言葉を記そうとしている。まったくご苦労なことか。何もないのに記述することの何が馬鹿げているわけでもないのだろうが、そういうことらしい。どういうことでもない。別に何もできないわけでもなく、ここからすべてが始まるのだろうが、それがおかしいと思うらしい。でも心を覆っている虚無は何を狙っているわけでもないような気がする。別に君をこの世に呼び戻そうとしているわけではない。君はすでに死んでいるのか。君自身がそれを承知しているのではないか。フィクションの中ではそうなのだろう。でもそれ自体が虚構だ。そこで虚無が何を語っているわけでもなく、何も語れないから、心が空っぽのままで、虚無に付け入る隙を与えているのか。そんなはずがない。しかし何が虚無なのだろうか。そういう響きの言葉が好きなのか。それもわけがわからない理由だ。

 ではどんなはずなのか。言葉の代わりに出てくるのはあくびばかりだろう。自意識はもうすでに退屈しきっているのではないか。何も語らないうちから飽きているわけか。さっきから眠たくて仕方がないようだ。そして相変わらず何も思い浮かばない。だから何か適当に記せばいいのではないか。それだけのことなのに、他に何を考える必要があるのだろうか。いったい君はそこで何を試されているのか。試されているのは君ではないのかもしれない。でも君とは無関係な誰かが試しているのは、ばくちのたぐいかもしれず、毎日がのるか反るかのスリルを味わいたくて、何かくだらぬ試行錯誤に身をまかせていて、そればかりやっていると、だんだん感覚が麻痺してきて、結果的に廃人に近づきつつあるのかもしれない。君は誰かがなぜそんなことをやりながらそうなってしまうのか理解できないらしいが、また嫌な感じがこみ上げてくるようで、どこかで誰かから影響を受けているらしく、何でもないのにそうなってしまうのが、信じられないふりをしながらも、そうなって当然なのは承知していて、関係ないふうを装いながらも、恐いもの見たさでおそるおそる覗き見しているような、そういう態度を取りながら、正気を保っているつもりなのだろう。君はそうやって生きのびてきたはずだ。それに関して何の根拠も提示できないのに、なぜかやはりそうなって当然の結果を得ているわけだ。それでもなお開き直ることができるだろうか。あるいはその必要はないのだろうか。必要があるかないかは、それをやった後からわかることではないのか。でもおかしい。今の君はこの世界の中ではどんな存在なのか。取るに足らない些末な存在か。無視されてもかまわないのではないか。実際に誰からも無視されている。

 でもそんな作り話を語りながらも、そこに何か適当でいい加減なことを記している誰かがいて、その誰かを通して、君という存在がそれらの文章の中に示されているはずで、君とは誰なのか、という毎度おなじみの問いを発して、何か語っているふりをしたいのだろう。たぶんそんなふりをしている時の君は、誰でもない誰かではあり得ない。架空の君自身がそういう語られ方を嫌っているはずで、無視されながらも、周りに何らかの影響を及ぼしたいと願っているのではないか。ではそうなるにはどうしたらいいのだろうか。この世界に何らかの価値観を提供したいのか。それが具体的には何なのか。さあ何なのだろう。少なくともそれについて語る時の君は冷静でないことは確かだ。何かを熱く語っているわけか。でもそれはフィクションの中でのことだろう。でもこれ以上は何も語れなくなっているのに、フィクションも何もあったものではないか。いったいそこで何を想像しているのか。もう朝になっている。久しぶりに蒸し暑い朝だ。台風が近づくとこんなものか。その日の夕方から暴風雨になる。


9月24日

 何を削っているのだろうか。誰かが命を削っているのだろうか。そう記すと何だか深刻な気分となりそうだが、またわからなくなる。それを記す必要があるだろうか。それとは何か。誰かのつぶやきのことだろうか。それにしては何かが足りない。それはわかっている。では時間が足りないのか。さあどうだろう。そんなことを思っているうちに、とりあえずもう夜だ。だが何も記す気がしない。それは困ったことか。まるで他人事だ。頭が痛いから少し横になるとしよう。それが睡眠の始まりか。今日は違うと思う。またそんなことを思っているうち数時間が経ち、ますます何をやるのも煩わしくなり、今に至り、あきらめてしまいそうになるが、ここで踏みとどまれるだろうか。無理に決まっている。ではなぜ笑ってしまうのだろう。限界だからか。ここからが正念場ではないのか。だから笑っているらしい。ではもう何も記せないのか。何を否定することもない。何も否定できなくなっているのではないか。説明できないことを説明しようとしている。そんな妄想を抱きながら、何も出てこない現実を楽しみ、何もない荒野の風景を心の中で描こうとするが、それが無理だと思うのか。でも何ができないわけでもなく、こうして言葉を記している。余分なことか。聴いているのは酒とバラの日々だろうか。また逃げているわけか。何を語っているわけではない。まだそういうことだ。いつまでもそうかもしれない。でもこの辺で一区切りつける必要も出てきた。

 少しはやる気になったらどうか。でもやる気を出すとはどういうことなのか。問われるまでもなく、もう少し何とかするとしよう。このままではだめのようだ。しかしテレビを見てしまい、またやる気がでなくなる。まだ当分はそんなことの繰り返しか。実際におかしいのだから仕方がない。たぶん疲れている。無理に言葉を記そうとするとたちまち眠たくなり、気がついたらテレビを見ている。やる気ではなく、あくびばかりが出てきて、さらに眠くなり、何を説明しているのかわからなくなり、しばらく時間が止まっているような感覚がしてくるが、今は何を必要としているのか。たぶんそれは睡眠時間のようだ。それが違っているとは思えず、今ここで何に逆らっているかといえば、それは眠気か。それが冗談なのだろうか。それ以外の何がそうなのか。それで何とかなっているとは思えない。そういえば主張することが何もない。でも風来坊が疲れることがあるのだろうか。誰が風来坊なのか。そんな存在を夢想しているだけか。唐突にそれはないだろう。何でもないのだから、君が風来坊に憧れているわけでもなく、その意味さえよくわかっていないのかもしれない。そして想像しているそれは何の意味もありはせず、何の代わりに思い浮かべているものでもなく、風来坊でさえない。では何なのか。アメリカのオバマ大統領のそれか。それとは何か。指導者のつもりなのかもしれないが、イランのハメネイ師はまだ生きている。何だか意味不明のようだ。

 わざとそうしているのかもしれない。そしてわざとではなく、そうしていないのかもしれない。現状はどちらなのか。まだそこまでたどり着いていないのだろうか。何がそうなのかわからない。何かを聴いているのだろう。それは確かなことだ。あやふやなことは言っていない。そう思っているだけで、本当ところはわからない。ではどちらなのか。何もどちらでもないのかもしれず、まったくの的外れなのだろうか。そうならないうちに軌道修正したいが、どうも違っているようだ。何だかこのままでもかまわないような気がして、まったくやる気がでないまま、ここまできてしまったらしく、それを否定できないままに、ずるずると怠惰に引っ張られ、ますますおかしくなってゆくようだ。そうなった方がおもしろいのではないか。でも現状はつまらないからこうなっている。それも否定できずに、語っている内容にとりとめがないことに気づいているが、それをやめることができない。やめられずにこうなっているようだが、それがここでは好都合なのか。こことはどこなのか。別に架空の場所を想像しているわけではない。なるほどコバーンではなく、コブハムだったのか。今までドラマーの名前を間違っていたようだ。自殺したカート・コバーンもコベインとする方が正確な発音に近いらしい。Billy Cobhamはコブハムで、Kurt Cobainはコベインで、どちらもコバーンではないということか。でもそんなことが知りたかったわけでもないのだろう。では何が知りたいのかといえば、本当は何だったのか。何を検索していたのか。


9月23日

 それは何を思い出すまでもないことだ。まさかこれが千載一遇のチャンスだとは思わない。また深夜に目を覚まして何を思い出したのか。昔の出来事が思い出され、懐かしいと思う反面、ここまで生きてきたことが恐ろしく思われる。そのとき何か重大なミスを犯してしまったのか。それにしては今がそれほど悲惨な状況だとは思わない。君がそう思うならそれでかまわないではないか。でも結局は眠ってしまったらしく、何の進展もないまま、翌日の昼に至り、翌日は翌日で、またくだらないことを思っている。未だ為すべきことなど何もない。果たされるべき約束すらなく、心の中は虚無感で覆われ、とりとめのない思いでいっぱいか。しかし何がミスだったのか。なぜそれが知るべきことではないのだろう。そのとき何を知ろうとしていたのか。はかりごとを巡らせて、後は結果を待つだけだったようだが、当てが外れて、気がつかないうちに罠に落ちて、それから彼は何をやろうとしていたのか。漫画の中の話か、それとも映画か何かか。どうもそれはフィクションではないらしい。たぶん何かをやる上での前提条件が整っていなかったのだろう。そんな思いにとらわれて、何かやら反省しているらしいが、今さらすべてをなかったことにもできず、何かの渦中にいる人物を助けようとして、中途半端に首を突っ込んでいるようで、どうせうまくいかないことは目に見えているので、今さらながらやめた方がいいと思うが、もう遅いだろう。

 しかしそれが興味深い話となるのだろうか。いつものように何のことなのか定かでないまま、疑念を疑念のまま解消することもなく、何だか今は違うことを考えているようだ。そこで何を語ろうとしているのだろう。はまった罠から彼は抜け出すことができたのか。記憶にないらしい。罠もはかりごとも、今となってはうやむやになってしまい、どうでもよくなってしまったのかもしれず、君は君で、またそこから遠ざかろうとして、やっていたことをやりかけのまま放棄して、どこかへ雲隠れとなってしまうのか。また頃合いを見計らってこっそり現れたりして、そして何事もなかったように日々の日常に溶け込んで、退屈しのぎに何かいい加減なことをやっているのだろう。君は夢遊の人なのか。そんなことはあり得ないかもしれないが、遠ざかるための算段に余念はないようだ。なぜそうなってしまうのか。なぜというわけでもなく、知らないうちに飽きてしまうかもしれない。嫌になったら現実から離脱すればいいわけか。この世界はくだらない。別にそれが口癖というわけでもないだろうに、何となくそう思い、厭世趣味にはまり、それから彼はどうなったのか。また漫画か映画の中の話か。別に不死身の怪物と戦うほど何かに取り憑かれているわけでもなく、そんなゲームに興じているとも思えず、気づかないうちに、どこか見知らぬ街でさまよっているわけでもないが、ふと周りを見渡せば、興味あるものは何もなくなり、何をどうしたらいいのかわからないまま、ここまできてしまったらしい。でも感極まっているわけでもないので、無気力無感動のなすがままか。

 何で感極まることがあるのか。心の中に空洞があることで、感動したり驚嘆したりするわけか。あり得ないことだろう。では何を感じればいいのか。何かの風情に日本的な何かを当てはめたりするわけか。何かとは何なのか。それが出てこない。たぶん何でもない何かなのだろうが、それでは埒が開かず、はっきりした答えを未だに得られていないようだ。では何を馬鹿にしたいのか。維新の会とかいう政治運動か。それも違うだろう。そんなわけにはいかず、ここでは何もわからないのが当たり前で、まだ時期が早すぎるのかもしれない。ではもう少し時が経ったら、何かわかってくることがあるのだろうか。できればそう願いたいところだが、その時が来てみないことには、何ともいえないところもあるらしく、今はただわけがわからないことをひたすら述べ続け、それで時間稼ぎでもしていればいいのかもしれず、要するにまだその時ではないということになるだろうか。ではその時とは何をやる時なのか。その時が来なければやることもわからないのか。それはどういうことなのか。ところで何がどういうことなのか。ここから何を記せばいいのだろうか。それもわからないままに、ここまで記してきて、ここから振り返ってみると、何かはっきりしたことがわかるだろうか。たぶん何もわからない。空疎で無意味なことが記されているようで、ひたすらそれでかまわないと思い込もうとしている誰かがいるらしいが、それは誰もない誰かではなく、たぶん他の誰かなのだろうが、他とは何なのか。とても正気とは思えない誰かか。そうなればわかりやすいが、それも何か見当違いのような気がして、そこがどのような場所であっても、意見の一致までは至らず、何を語らう気もしなくなり、もういいのではないかと思ってしまう。


9月22日

 別に何が嘘であるわけでもないが、すでに朝になっていて、今のところ有効な方策は何もない。いったい何に対する方策を模索しているのか。わかっているようだが、実際のところはまったくわかっていない。では今までのそれは何なのか。どうやらまたごまかしのたぐいのようで、取り立ててどういうことでもないのだろうが、こういうことのようだ。笑ってしまうが、現実にこうなっている。人生山あり谷あり、というわけでもないのだろうが、人生でも何でもなく、フィクションの中で語っているのでもないらしい。要するにすべてはごまかしなのか。ごまかしでかまわないと思っているのかもしれない。他にどうやったらいいのかわからず、苦し紛れの滑稽な表現にも飽きているようで、もう手の施しようもないか。でも言葉を記しているではないか。そしてさばさばしていてすっきりもしている。もう幻想も抱かないのか。この程度のことでしかない。人も世界も未来もそうだ。何だか恐ろしいことのようだが、何でもないことでもあり、ニュースや映画の中で危機的な状況に陥っているこの世界が、現実には何でもないことのように思えてきて、そんな状況を招いている悪者たちも、それに立ち向かっているつもりの正義の輩も、たぶんどうでもいいような存在なのだろう。誰もそんな認識を覆せないはずだ。要するにそれは君の妄想の中での話でしかないのか。そう決めつけてしまっては元も子もないだろう。

 でも何となくそうなっている。実際に何をやっているわけでもないではないか。ただ言葉を記している現実についてどう思っているのか。仕事もしているではないか。少なくとも生きているはずだ。そして何を思っているのだろう。何を思ってみてもとりとめがない。何かを思うこと自体が無効か。でも思ったことを記しているつもりなのだろう。では記述も無効か。ならば何をやればいいのか。何もやらなくてもいいのであり、やれるものなら何をやってもかまわないのだ。そして君に何ができるわけでもない。実際に何もできないのに、こうして誰かが言葉を記している。これはあり得ないことだろうか。あり得ないことであり、何があり得ないことでもなく、どうやってもあり得ないことになってしまうわけか。そう記すならそういうことになるだろう。でもおかしい。おかしいからこんなことを記しているのではないか。そうだとしてもおかしい。わけがわからなくなっているようだが、君はわかっているのではないか。わざと矛盾したことを述べている。それもひとつのやり方なのか。それ以前のごまかしか。数日後の今日は晴れて、空気が乾いているようだが、もう秋になったのだろうか。そんなふうに語る必要はない。苦し紛れの何かはもうごめんか。でもそれがすでに出現してしまっている。危険な兆候だ。

 そんなわけで人はどこまでもたわいない。思い込みだけでおかしなことを平然とやっている。なぜそうなってしまうのか。できなければやらないのであり、できてしまうからやっているということだから、それができるだけの環境が整っているということか。でもおかしい。できてしまうこと自体が不思議でたまらない。本当におかしいのだろうか。本質的な問題は何も語らない。国家の領土というものがどういうものなのか、このことについては真正面から語らずに、要するに逃げているわけか。マスコミも政治家も馬鹿だ。沖縄がなぜ日本の領土なのか。江戸時代に薩摩藩が武力で征服したからだろう。明時代から尖閣諸島が中国の領土だったと主張するなら、同時代にアメリカ大陸に住んでいた先住民の立場はどうなってしまうのか。生き残った先住民の子孫たちが、今さら自分たちの土地を返せと主張したら、その土地とはアメリカ全土ということになるだろう。やはり矛盾が露呈してしまうから、国家の領土についての根本的ないかがわしさを語ってはまずいのだろうか。ロシアや韓国が実効支配している島を返せと主張しておいて、日本が実効支配している島については、領土問題そのものが存在しないと言い張っている。そういう意味で国家という存在自体に正当性などありはしないのではないか。筋の通らぬ理由をさも道理にかなっているかのように主張する輩は、本当に愚劣そのものだ。


9月21日

 また深夜に起きたらしいが、ここから何を語ろうというのか。たぶん何も語れないはずだが、やはり言葉だけは記すつもりなのか。ではいつもの空疎な内容を導き出すとしよう。それができればの話だが。できなくてもかまわないか。できなければまた眠ってしまえばいい。もともと話の内容などに興味はないのだろう。納得できる分量を記せば、それで満足してしまうわけか。それも味気ないし、ごまかしに違いなく、何だか狡いような気もしてくる。ではどうしたらいいのか。このまま気が済むまで言葉を記してみたらいい。そして何かを感じたらいいのだろうか。それはわからない。嫌気がさしているわけではないのだろうが、また眠ってしまい、さらに翌日の昼に言葉を記そうとしているようだが、他の用事が立て込んでしまい、結局夜になってしまうらしい。でもかまわないだろう。どうせ大した内容ではないのだから、いついかなる機会を捉えて記そうと、どうでもいいか。そう思ってしまえばおしまいかもしれないが、それでもそんな記述に逆らって記さなければならず、逆らって記している結果が、そんな記述となってしまうことが、それらをやり遂げる上で障害となっているわけで、そんな予定調和の結果に愕然として、自己嫌悪に苛まれ、それがやる気を削いでいることは確かだが、それも自業自得でそうなっているだから、もはや救いようのない成り行きとなっているのかもしれず、それが冗談だとしても、心はやりきれない気分で満たされ、その場を放棄してどこかへ逃げ出したくなる気持ちもわかるが、たぶんフィクションの中でそう思っているつもりなのであり、本当は画面の前で笑っているはずで、それは強がりの表れなのか。

 何を強がってみてもだめなものはだめか。何を強がっているのだろう。だがいくら強がってみせてもできないものはできない。また眠たくなってきたようだ。昼の休憩時間をつぶして用事を済ませてきたので、眠気が治まらない。昨日は胸が突然苦しくなり、その場に倒れ込みそうになった。次いで頭も痛くなって、意識がもうろうとしていたのではないか。まったく冗談にしては、状況が深刻すぎないか。でも一晩寝たら治ったではないか。まさかこの世の終わりを目撃する前に、自らの終わりを体験することになるのか。それともそれも何かの冗談なのか。その辺は何だかわからないが、とにかく眠い。そしてまた夕方になり、さらに用事が立て込んでいるようで、夜の七時から拘束されてしまい、明日も明日でいろいろありそうだ。いったいこの事態は何なのか。まるで記述作業を阻むように、次から次へと用事が連なり、息つく暇もないほどの過密スケジュールか。そんなわけでもなく、こうして何かと何かの合間に言葉を記すことができるではないか。誰かを待っている間に記している。ここで何を述べられるわけでもなく、こんなことしか述べられないことに憤っているわけでもないが、それでも断続的に言葉を記している現状に変わりなく、ようやくここまできたらしい。でもまだ言葉が足りないか。足りないどころの話ではなく、まったく話になっていないのではないか。それもそのはずで、と述べたところで言葉に詰まる。では何のはずなのか。何のはずでもありはせず、たぶんいつもの冗談でしかないのだろう。冗談にもなっていないのに、冗談だと述べてしまい、後が続かなくなり、どんないいわけもできなくなってしまう。そんなはずもないか。ではさっきの冗談はどんなはずだったのか。笑いとは無関係で、誰かが画面の前で無表情でいるだけか。君は呪われている。そう思えば気休めでももたらせるか。わけがわからなくなるだけか。いつものことのようで、何でもないのだろうか。何でもなければここまで言葉を記さないはずだ。何か理由があるから言葉を記しているのであり、そう思い込んでいるからここまで語っているのではないか。では何を語っているのか。何でもないことについて延々と語っているような気がする。何もないのに語るとすればそうなって当然だろう。ならば君は語る機会を誤っている。


9月20日

 こんな調子で言葉を記せばいいのか。まだまだ遅れているから先は長く、こんな調子が長続きするとも思えず、どうせこの文章を記し終えないうちに、日付が明日になってしまうのかもしれないが、そんなものでもないか。どうやらおかしくて意味不明で気が狂っているような内容にしたいらしいが、そうなったとしてもその程度のことでしかなく、君はそれを許すことができないだろう。しかし君の許容限度がわからない。何でもかまわないわけではないのだろうが、そう受け取られても仕方がないような支離滅裂を好み、そう思ってしまえばおしまいかも知れないが、おしまいにならないのがそれらの日常だ。だが日常とは何か。誰がその中で生きているのか。とりあえず数日の今日は晴れて暑いが、真夏の暑さとは違い、大したことはなさそうだ。夜になればまた涼しくなるだろう。それまでの辛抱か。でも辛抱できないから暑いと感じるわけで、暑いと記さなければならない。だからこれらの記述も大したことはないのかもしれず、天気の話でここまで引き延ばすのもごまかしのたぐいに違いない。だが他に何があるというのか。なければないで困ったことになるだろうか。あるいはそれ自体が困っていないことの証しなのか。そうではない。困っていなければどうだというのか。さらに言葉を記すまでのことか。

 誰かがそんなことを記しているようだが、君はそうやってどこかで生き延びようとするわけだ。だが実際にどこで生き延びているのだろう。文章の中には言葉しか記されていないので、そこに誰の痕跡を見出すにも至らない。誰かが記していること自体が偶然であり、奇跡なのだろうか。それと同時に何を記しているかが問われていて、何も記されていないわけではなく、それが誰とも関係のないことであろうとなかろうと、何かしら記されているから文章なのであって、今度は誰かがその文章を読む羽目になってから、そこに疑念が生じるわけだ。いったいここには何が記されているのか。それがただのでたらめなら、少しは気休めになるだろうが、ほんの少しでも真実が含まれているとすれば、そこから記されている内容を理解するための試みが始まり、それを記している者が何を言わんとしているのかを理解しようとするわけだ。それは愚かで意味のない試みだろうか。なぜそう思うのか。そうなって当然のことを否定しただけか。要するに君はひねくれているのだ。そして誰にも理解しがたいようなことを語ろうとして、次第に正気とは思われなくなり、誰からも相手にされなくなってしまうわけか。本当にそうなったらおもしろいではないか。そこまでひねくれ通せば大したものか。だが現実にはそうではなく、本当は読んだ者の賛同を得たくて必死なのではないか。そうだとしたらしめたものだ。

 だが最終的にはそういう思いから遠ざかってしまう。独りよがりな記述を押し通そうとして、他者の理解や賛同を得るための試みをおろそかにしてしまい、結局はわけがわからないような内容にしてしまう。それがここでのありふれた結果であり、いつもの失敗が繰り返されているだけで、いつまで経っても前進することはなく、嫌気がさすほど同じような成り行きをたどり、要するに嫌になって投げ捨ててしまうわけか。そうやって記述が放棄され、元の木阿弥のような結果がもたらされ、やがてそこには誰もいなくなり、どこかの空洞の中で何かが響き渡っているだけで、時折それが誰かの叫び声のような気もしないではないが、きっとそうではなく、隙間風か何かの音だろう。そんなわけで何をどうひねってみても、大したことにはなりそうもなく、ただの記述であり、空疎な内容にしかならず、間違っても魂の叫びなどではなく、間に合わせの何かでしかない。それらはいつも窮余の何かで、やっつけ仕事と同等の何かであり、いくら読んでも貴重な体験とはならず、塵や芥のたぐいで、何かを埋め合わせるための何かなのだろうが、それは建設残土のような物か。でもそれほど否定してもさらに語ろうとしているのであり、どんなに語っても何でもないのに、その先に言葉を記そうとする姿勢に変わりはなく、飽くなき何かに突き動かされ、やり場のない何を表現していることは確かなところか。


9月19日

 何もない時はどうすればいいのだろう。他に何があるわけでもない。何もないのに、それでもあると強弁するとすれば、それは記された言葉か。現実に記されているではないか。そしてそんな画面を覗き込んでいるのは誰でもなく、そこに視線があるとすれば、あらぬ方角から差し込んできた一筋の光か。それはわけのわからぬごまかしだろうか。あるいはそれとこれとは無関係で、視線と関係があるのは、何かの周りに展開している何かの光景そのものか。やはりわけがわからないことのようだが、ところで何かと何か。そこで人がうごめいている地表面そのものだろうか。でも何がそのものなのだろう。そのものではなく、それは誰かの空想から生じている記述なのではないか。今ひとつ具体性に欠けているようだが、では他に何を想像できるだろう。たぶん想像しなくていいことまで想像しているのではないか。でもそこで無意識が何かの歯止めとなっている。もういい加減にくだらぬごまかしはやめた方がいい。君が語っているのがそんなことではないとすれば、では何について語りたいのか。少し記述するスピードを上げた方がよさそうか。関係ないだろう。なぜそう思うのかわからないが、どうもその辺で手詰まりとなりそうで、そうなる前に言葉を記す必要がありそうだが、まともに記す理由を述べられず、苦し紛れにいいわけじみているみたいだが、たぶんそこから誰かの期待が生じているのだろう。さらにわけがわからなくなりそうで、意味不明に拍車がかかり、そこから先が手探り状態で困難を極めているようだが、そんなはずがないか。

 でもそんなやり方でかまわないのではないか。ならばもう少し開き直って、でたらめを平然と記すべきか。それでは自業自得気味に自滅となってしまうだろうか。でもそんなごまかしだらけのやわな気持ちは自ら滅してしまった方が、かえって立ち直りの機会を得られるのかもしれない。ではそうなるために、なおもおかしなことを語るべきなのか。それのどこがおかしなことなのか。君には何だかわからないようだが、たぶんそこから遠ざかるために、君は君ではない人格をまとうことになったのではないか。また根拠の定かでないおかしな理由が付け足される。しかし遠ざかるとはどういうことなのか。またわけのわからぬ問答を繰り広げているようだが、いったい何から遠ざかろうとしているのか。この先にそれがわかる機会が訪れるとは思わず、ただ闇雲にそんなことを述べているだけなのかもしれず、何だか自分の能力からはかけ離れたことを述べているようにも思われ、君はそれ以上の記述を阻まれて、その先に言葉を記せなくなっているようだが、何をどうすればさらなる前進が可能となるだろうか。あるいは前進できなければ後退すればいいのか。ならば後退するとはどういうことなのか。またそれだ。どうもその辺の方策が見えてこないようで、途方に暮れている状態が長引き、このままだめになってしまいそうな気配も漂ってくるが、本当にどういうことなのだろうか。やはり何をどうやっても、結局は君の勝ちなのか。君とは誰なのか。君は君以外の誰を君と思っているのだろう。だがそんなごまかしが通用する君ではない。君自身の存在がごまかしそのものなのではないのか。

 そんなことを記しているうちに季節は移り変わり、もう秋になっているのかもしれない。そんな空気を満喫する機会があればおもしろそうだが、今がその時か。でも暇がない。空気を満喫するとはどういうことなのか。さらにおかしな表現が続いているようだ。たぶんそういうことにしておきたいのかもしれない。そうならないと困ることでもあるのか。さっきからじっと押し黙ったままのようで、何か真面目に語ることの意義でも考えているのかも知れないが、あるいはふざけたままでも語れると思っているのかも知れず、もしかしたらそのどちらでもないように語れるのだろうか。心はもう決まっている。そこで何かが働いているようだが、その作用で絶え間なく状況が変化していて、それが変わる度に何かが君を戸惑わせ、思い通りに行かず、嫌な気分を増幅させているみたいだが、ところで君はそこから何を学んだのか。何も学んでいないわけではなく、それどころか状況に対応するために必死で努力しているはずなのに、結果としてもたらされたこの状況はどうなのか。どうもないではないか。でも何かおかしくないか。何もおかしくないとすると、そうなって当然の状況ということか。しかし何が当然なのだろうか。もっと何か違った可能性を模索していたはずだが、結果的にはこうなってしまい、何だか期待外れというか、思わぬところで思わぬ結果に出くわしたのではなく、いつもと変わらぬ言葉の並びに失望しているみたいで、こうなるとますますやる気を失い、もういつやめてもかまわないと思うようになっているのではないか。またそんな嘘をつくのもいつもの通りだ。要するに君は君を制御できずに、君自身の本質を見せつけられたような気がして、敗北感を味わっている見たいか。それでも笑っているのは強がっている証拠か。


9月18日

 別に何をやっているわけでもないが、慌ただしい毎日で我を見失い、落ち着いて日々を省みる暇もなく、それでも何とかなっているような気がするが、ただの惰性で仕事をこなしているだけで、相変わらず日付の遅れを取り返せずにいるらしく、あきらめてしまいそうになるが、何をあきらめようとしているのかわからず、たぶん気まぐれでそんなことを述べてみただけなのだろうが、いったい何をあきらめたらいいのか。言葉を記すのをあきらめてみるか。しばらくやめて、これまでに記してきた文章を読み返してみよう。嘘か。たぶんやらないまま、そんなことを記してみただけかもしれない。何も見えてこないが、ここは暗闇の中ではない。明かりの下で画面を見ながら言葉を記している。テレビも見ているではないか。またつまらないことを考えているらしい。ここからどうすればいいのか。また何か外部の力に頼らなければならないのか。でも外部とは何だろう。ネット上に何かおもしろそうな情報でもあるわけか。だが君が知っているのはそういうことではなさそうだ。外部とはそれらのさらに外の領域か。そこに何があるというのか。

 結局疲れて寝てしまい、さらに翌日の時空から言葉を記している。こうなったらもはや手遅れもいいところで、手の施しようのない状態となりつつある。何も語れない状況に拍車がかかり、もはや本当の終わりが近づいているような気さえしてくるが、それでもまだあきらめていないのだろうか。でも涼しくなってきて汗をかかなくなったので、皮膚炎もだいぶ治まってきたのではないか。蒸し暑さもなくなり、冷たい秋雨の中で、ようやく何かが一段落したような気分となる。それで終わりが近いと感じているのか。意味不明なことか。そうではないだろうが、それでもいいような気もする。今さら何を長引かせることもないか。でもみんな戦争が好きそうだ。実際に辺境地域ではやっているのではないか。アフガニスタンではまだ殺し合いの最中だろうし、シリアでも戦火がやむ気配がない。映画の中でも、バイオハザードだのターミネーターだのでは、荒廃した地球上で、人と何かとの戦いが延々と続いている。何かとは何か。残虐な何かであり、人によって作り出された人を超える存在か。人は何を夢想しているのか。無人の爆撃機による誤爆で、多数の民間人が死傷している。イスラム教徒ならいくらでも殺してかまわないのだろうか。そういうことでもない。でも犯罪行為ではないのだろう。それが戦争だからか。

 急に寒なって体調を崩したのかもしれない。でもそれでかまわないのだろう。そういうありふれた事態に直面している方が気が楽か。では風邪をこじらせて肺炎になり、君は死んでしまうのだろうか。そんなふうに語るのはおかしいのではないか。ではここから巻き返すつもりなのだろうか。なぜそう思うのか。生きていればいずれそんな機会が巡ってくる。そうなったらしめたものか。もういい加減に遅れを取り戻さないと、気が変になってしまいそうだ。すでに変になっている兆候があり、それを押しとどめておくだけの力がだんだんなくなってきているようにも感じられ、やがて何かの堤防が決壊するように、一気におかしくなってしまうだろうか。そうなったらなってかまわないか。ならなぜそんなことを述べるのか。他に何もないからなのだろうか。君がそれを阻んでいる。それとは何か。他に何かある状態のことか。気がつかないだけで、他にいくらでもありそうだが、感知している範囲では何もない。ただ雨が降っているだけのようだ。ただが余分だが、君はそれでかまわないのだろう。冗談の次はそれか。他に何があるとも思えず、雨が降っている光景を眺めているようだが、別に風情があるわけでもないだろう。君は虚無を愛している。不意にそんなことを記してみるが、理由があるわけではない。


9月17日

 何もできずに時が経つ。夕方からテレビばかり見ていたようだ。それで何に興味を持ったのか。ラグラジアンとハミルトニアンの関係か。物理学者が何やら微分方程式を解いている。どうも放送大学を見ているうちに眠ってしまったらしい。昔習った記憶があるが、今日に至るまでに何かの役に立ったのだろうか。少なくともそういうことを考えていた時期が有る無しで、少しは脳機能に差が出たのか。そういうことを考えると、脳がスペックアップしたりするわけか。ウィキペディアでウィリアム・ローワン・ハミルトンのページなどを読むと、世の中にはヤバいほどの超天才がいたりするらしいことがわかる。そういう連中から比べれば、その程度のスペックアップなどたわいないものだろうが、それでも中高生辺りが、数学の難しい問題を解くことが、大人になった時に何の役に立つのか、とか疑問に思う時、たぶんそこで頭脳を駆使して問題を解いている時点が、脳みそを鍛えている最中なのであり、そうやって頭を鍛えて賢くなっておかないと、大人になってから後悔することになるだろうか。賢い奴らにいいようにこき使われて、貧乏くじばかり引く羽目になってしまうか。まあそれだけがすべてではないだろうが、できれば賢くなっておいた方が、人間社会では何かと有利な立場になれることは確かだ。それは実際に大人になってから、誰もが実感することかもしれない。もちろん頭が良すぎるとかえってヤバいことも確かで、実際にハミルトニアンという名称のもととなったハミルトンは、数学に取り憑かれて悲惨な死に方をしたらしいが、そんなやつは百年に一人いるかいないかで、一般人には関係のないことだろう。

 そういえば少し前にヒッグス粒子を発見したとかニュースになっていたが、要するにその粒子の存在を想定すれば、宇宙理論の説明がうまくいくということであり、説明するのに必要な粒子というわけだ。人が宇宙を説明するのに、いろいろな素粒子の存在を想定しなければならないということ自体が、何だかフィクションみたいだが、よりうまく説明するためには究極の理論の構築が不可欠であるらしく、超天才レベルの学者たちが日夜それを模索しているわけだろうが、でもやはり凡人が思うに、そんなことをやって何の役に立つのか、ということになりそうだが、別に役に立つ立たないというレベルではなく、人間に備わった知的探究心を満足させるためには、そういう方向での努力が欠かせないのかもしれず、そんなことをやっている人たちの目標として、ノーベル賞というものがあるのかもしれないが、そんなものとは無関係に生きている君からすれば、この宇宙のすべてを説明できる究極の理論というものが導き出されたとして、果たしてそんな説明で君は納得できるだろうか。たぶん難解すぎてそれを理解できないのではないか。確かに理解できなければ納得するはずもないか。でもそれとは正反対の説明で、神が天地創造して、とかいう説明でも納得できないわけだろう。だからそもそもそれらは君とは無関係ということか。でも興味があるとはどういうことなのか。


9月16日

 ところで数日後の今日は何を記そうとしているのか。まだ何も思いつかないのではないか。音楽でも聴くとしよう。それでだめならテレビでも見るのか。見て何を思うわけでもないのだろう。見ないうちからそんな決めつけは良くない。ではどうしたらいいのか。土砂降りの中を運転してきたはずだ。今はやんでいる。まだパラパラと降っているみたいだ。ようやく涼しくなるらしく、ほっと一息か。気まぐれで買った曲がいい。でも気がついたらだいぶ眠っていたらしい。またさらに遅れてしまうのだろうか。いったい何をやっているのか。今は言葉を記しているのではないか。でも空疎な内容だ。それでかまわない。たぶん何に依存しているのでもない。人は目標を達成するために生きているのではない。それは間違った認識だろうか。しかし目標とは何なのか。ただ言葉を記すのが目標ではないはずだ。では何なのか。何でもないと述べてしまう。それでは埒が明かないだろう。まさか記述依存症なのだろうか。そんな依存症がどこにあるのか。また冗談でそんなことを述べているらしいが、どこまで本気なのかわからない。何も語らないまま言葉を記しているつもりか。ならばそれで嘘をついているといえるのか。問答になっていないようだ。頭が混乱している。それも嘘だろう。要するに何だかわからない。それも違うか。何に興奮しているわけでもない。また雨が降ってきた。それだけのことだろう。それだけでは不満なのか。そんな言葉の記し方では満足できないということか。それも違うのではないか。それに依存しているのだろう。画面の前で笑っているのが何よりの証拠か。

 君は知っている。たぶん良くなっていくのだろう。状況を見誤っているわけではない。それでも良くなっていくと思われる。確かに目標という言葉は嫌いだが、やり続けている限りは、それが目標だと思われても仕方がないのではないか。そこから何を語ろうとしているわけでもないのだろうが、自分が間違ったことを考えていることは確かだ。でもその間違った考えを実行に移せないのではないか。だから冗談なのだろうか。事ある度に冗談を発して、その間違った考えを押さえ込もうとしている。フィクションの中ではそういうことになっているみたいだが、実際にはどうなっているのだろうか。たぶんどうにもなっていないはずで、君には関係のないことに違いないが、それについて何か語らなければならないのか。実際に語れていないではないか。だからそれでかまわないのだろう。そういう態度が甘いし、みっともないのだろうか。でも何がそうなのかわからないままだ。だから別にそのままでもかまわないと思っている。間違っているかもしれないが、間違っていてもかまわないと思いたいらしい。この世界では馬鹿な人間たちがみっともない意地の張り合いをしているだけなのだろうか。そう思えば中国の発狂状態も納得がいくところか。しかし冗談にもほどがあるか。だから何が冗談なのか定かでない。もしかしたら何に関しても定かでないのではないか。そう思えば納得がいくわけか。土砂降りの中で車を走らせ、前がよく見えないのに、よくここまで戻って来れたものだ。別にそれで疲れたわけでもないだろうが、もうだいぶ眠ってしまったようで、何だか気が抜けているみたいだ。

 しかしこれは何なのか。君はここで何を語っているつもりになれるのか。また周りを取り巻く暗闇に依存して、それ以上の何を求めるでもなく、何がやってくるとも思えず、終わりはだいぶ先まで退いているようで、この機会を逃す手はないと思えるみたいだが、何か勘違いしていないか。本当にそれでいいのだろうか。いいも悪いもここまで記してきたのだから、明日になる前に仕上げる必要がありそうだ。できなければさらに遅れてしまい、窮地に追い込まれ、それからどうなってしまうのだろうか。その先が見てみたいか。体験してみなければわからない心境というのもあるだろうが、できればそんな心境に至らずに、そのだいぶ手前で踏みとどまりたいものだが、ここで譲歩するわけにはいかないか。ならば勝手に言葉を記して、自滅を招くまでか。ではそこで誰が自滅するのだろうか。君ではないのだろう。物語としては、得体の知れぬ赤の他人が自滅することになっている。そんな架空の話を空想したいのか。その辺がわけがわからないところかもしれず、何を語ろうとしているのか定かでないのももちろんのこと、そんなふうに言葉を記して、おかしな気分に浸っている誰かがそこにいるらしく、何ともいえぬ意味不明な気分を味わっているのかもしれず、それでかまわないのなら、調子に乗ってさらにおかしなことを記してしまう可能性もなきにしもあらずだろうが、ほどほどのところでやめておかないと、こちら側へ戻って来れなくなる可能性もあり、どうしたものか、起こりかけている事態に対処できず、戸惑っているみたいで、何ともいえぬ状況を招いているのかもしれない。本当に君はどうしたらいいのだろうか。君ではなく、他の誰かがどうすればいいのか。どうも良くなる気配を感じられないまま終わってしまうのかもしれない。


9月15日

 相変わらず数日前の時空で言葉を記しているわけか。それ自体がフィクションだろう。今日という日に日付が追いつけない。数日後は秋雨の季節になったのだろうか。それにしては蒸し暑い。夜から朝にかけては雨が降ったりやんだりだ。気分は最悪というわけではないが、南の方でしばらく足止めを食っているわけか。用事があるから仕方がない。言葉を記す心境ではないか。では他に何をやる心境なのか。何もやりたくないということか。何を好き好んでやらないわけではなく、何だか言葉を記すのが間違っているような感じがするわけか。あり得ないことだ。頭の中で何かがおかしくなっている。それは違うだろうか。気分の問題ではないのかもしれない。限界なのだろうか。それは以前からわかっていることだ。限界を感じるようなことをやり続けているのだから、それは仕方のないことだ。でも仕方が無いでは済まないことも確かだ。だからこうして無駄に言葉を記しているわけか。これは仕方がないことのいいわけなのか。そうだとしても疑念を抱かざるを得ないが、冗談でそんなことを述べているのだろうか。述べていることの意味や意図がわからない。何だかわからないままにここまで記してきたようだ。そしてそれがどうしたわけでもなく、外ではまた雨が降っている。空が暗く、気持ちも沈みがちになりそうだが、本当は何を感じているわけでもなさそうだ。言葉を記すと、その内容は気づかないうちにフィクションとなっていくらしい。

 そんな兆候は兆候として、何かくだらぬ幻想を抱いて、それに頼り切りになりたい気分だが、それほど気晴らしが必要だとは思えない。音楽でも聴いていれば十分なのだろうか。そしてひたすら間違ったことを述べているみたいに思え、さらにやる気をなくていくような焦りが生じて、どうにもならなくなってしまいそうだが、もう少しで足止めも解かれて、また北へと向かうことになりそうだ。そして仕事をすることになるわけか。それだけのことだ。他には何もなく、そんなことの繰り返しで十数年が経過している。その間に延々を言葉を記し続け、それでどうなったとも思えないが、少しは何かが進歩したのだろうか。何だか進歩したというより、だんだんあきらめさせられたような感じが強くなってきたのかもしれない。たぶん言葉を記すことに何の可能性も感じられなくなってきたのだろう。要するにそれでどうなるものでもなかったのか。でも言葉を記し始めた当初から、何をどうしたいとも思わなかったようだし、最初からあきらめていたような感じもなきにしもあらずで、ただ適当にいい加減に、自己満足すらもたらせないようなことを延々と記してきた感じもある。ではやはりそれらの行為は無駄で無意味な試みだったのか。そういう気がするのなら、それはそれでさもありなんということになるだろうか。でも一方で嘘をついている気がしないでもなく、本当はそれはそれで充実した十数年間だったのかもしれない。こんなことを記していること自体が、とても本気だとは思えないのも、いつものように脱力している証しか。

 ではまたもやそれもどうでもいいこととなってしまうのか。それでもそこに自らの主張というものがあるとすれば、それは怪しい。それは誰の主張でもなく、他の誰かの主張なのかもしれない。でも主張があるからといって、それがどうしたわけでもなく、そこに何か注目すべき中身があるとしても、君には関係のないことか。だが関係があろうとなかろうと、そこに何かが記されなければならないと考えるなら、やはりちゃんとした内容にしておいた方がよさそうな気がしてくる。でも現実はこれだ。これがちゃんとしているとは思えないか。何だかわからないが、とりあえずの記述に過ぎず、そればかりでここまでやってきたような気もして、その惨状を見るにつけ、暗澹たる思いを抱かざるを得ないか。たぶんこれも冗談混じりに記しているつもりなのだろうが、それの何が冗談なのか定かでないような気もしてきて、さらなる自己嫌悪が待ち構えているような、そうではないと思いたいところだが、実際のところはどうなのか。まさかこれもフィクションの一部だと解釈したいのか。要するに何も本心から述べていないということになるのだろうか。あるいはそう思いたいだけで、述べていることは本心から出ていて、それ否定したばかりに、強がったことをその後から付け加えているだけなのか。そうだとしてもそんなことはどうでもいいか。とりあえずそれを利用しながら言葉を記すことができたのだから、君としてはうまくいった部類に入るような文章を構成できたのかもしれない。それも冗談のような気がしてくるのだろうが、そんなところで終わりにしようと思う。


9月14日

 まだ相当蒸し暑い。近頃感じることはそればかりのようだが、他に何かないか。何もなければ積極的に記すことなど何もない。では消極的にわざと自己言及パラドックスにはまるしかないか。他にどんなやり方も思い浮かばず、まともに記せない事実に直面して、誰が焦っているわけでもないが、苦しくないのに苦し紛れを装い、何か妄想でも抱いているような気分で、それらについて記そうとする。それらとは何か。いつものパターンか。君はヒッグス粒子や暗黒物質に包まれている。誰もがそうなのかもしれない。だからそれはどうでもいいことだが、部屋の天井近くで巣を張っている蜘蛛は、獲物が少ないらしく、いつまで経っても大きくなれないようで、それもどうでもいいことかもしれないが、冬になる前に死んでひからびてしまうのだろうか。しかしとりとめのないことを述べているようで、たぶん頭がどうかしているわけでもないのだろうが、この状況では、頭がどうかしなければ言葉を記すことなどできはしないか。ではどこかの国のデモで発狂中の人々を見習うべきか。デモといえば、近頃話題にのぼらなくなって久しいが、原発反対デモはまだしつこくやっているのだろうか。とりあえず政府としても世論の後押しを受けて2030年代に原発稼働をゼロにするそうだが、実現できればおもしろそうだが、ドイツの首相もなども原発廃止の仲間ができてうれしくなったらしく、協力を申し出てきたようで、何だか日独同盟なんてことになると、戦前のナチスドイツとの同盟関係を思い起こさせて笑ってしまうが、今度のは日独反原発同盟なんてことになるわけか。まあ本気でやるかどうかはまだ紆余曲折がありそうだ。

 しかしこの世界はどこへ向かっているのだろうか。人は何がしたいのか。人それぞれでやりたいことは様々なのだろうが、君は何がしたいのか。今やっていることを今後もやり続けるだけか。それ以外にはどうするのだろうか。その場の状況に合わせてやりたいことも変わってくるのではないか。何となくそうやって一般論へと流れていってしまい、やりたいことを表明せずにうやむやのまま、何かをごまかしているような気がするが、たぶん特にやりたいことなんてないのかもしれず、たとえやりたいことがあるにしても、それをやったからといって、何がどうなるわけでもないような気もして、実際にやってみて、自己満足を得られたなら、それでやった甲斐があったということか。その程度のことだろうか。それ以上の何を望めばいいのかわからない。どうも今は何も望むべくもない心境で、たぶん今はやっていることで手一杯なのだろうから、とにかくそれをやり通してみて、一段落ついた時点で、改めてやりたいことを問う必要がありそうだ。それがいつになるのかわからないが、その時まで果たして生きているだろうか。それともそれほど長い時を経ずして、何か重大な決断を迫られる機会が巡ってきたりするわけか。でも何が重大で何が重大でないかなんてわからないのかもしれず、結局それに気づかないまま、機会を逃してしまい、気づいたときには手遅れで、後悔するだけとなってしまったら、そのとき君はどうするのか。実際にそうなったときにも興味があり、何だかがっかりした時の顔が思い浮かび、たとえそれが冗談だとしても、そんな機会に出くわすのを今から楽しみにしているのかもしれない。

 たぶん何かのついでに君はそんなことを想像しながら、暗闇の中で不気味な笑みを浮かべているわけか。やはりそれは冗談に違いない。本気でそんなことを思っているわけではなく、他に何を思っているわけでもない。要するにどうでもいいことか。たぶんそうに違いないが、他に記すことがないようだ。別に記さなくてもかまわないだろうか。とりあえず目標とする分量まで無駄に言葉を記すべきか。その辺が常人には理解しがたいところかもしれないが、それほど狂気の沙汰でもないので、記してみるとしよう。でもここからいったい何を記すつもりなのか。何も思いつかなければこの辺でやめておいた方が無難か。


9月13日

 ところで調子はどうなのだろうか。遥か彼方にある台風に向かって雲が流れているようだ。また昼は暑い。朝から蒸し暑かったはずだ。そして相変わらず何も考えられず、空疎な内容を記すしかないようだ。人は暴力を好む傾向にあるらしい。社会の構造や制度が人に暴力を振るわせるように強いているわけか。そういう成り行きになっているのかもしれない。でもあからさまに暴力を振るう人は、やがて周囲の誰からも信用されなくなるだろう。実際にそうなってくれればしめたものかもしれないが、どうもそれよりも損得勘定が優先されているきらいがあるから、そこから利益を得られるのなら、多少の暴力は大目に見た方がいいのだろうか。そんなはずがないと思いたいが、現実にはどうなのだろうか。何ともいえないところがありそうで、それ以上は何だかわからない。少なくとも馬鹿げていることは確からしく、嫌気がさしているのではないか。多くの人たちがうんざりしているはずか。それでもやっている人たちは楽しそうだ。まあさしずめゾンビのデモ行進といったところか。人の数にものをいわせ、放火や略奪などやりたい放題やっていれば、日頃から鬱積している不満のはけ口となり、少しは気が晴れるのかもしれない。これまでに世界中でそんなことが繰り返され、もはやその手のニュースでは見慣れた光景なのかもしれないが、その中に関羽や張飛など一騎当千の豪傑が混じっているわけでもなく、これ見よがしに暴れているのは、ただのみすぼらしい小者ばかりだ。要するにフィクションと現実は違うということか。

 とりあえずそんなふうにして、いくら暴れたところでどうなるわけでもなく、そんな連中の集まりが一般市民を構成しているわけで、ああいうところへ出かけていく気にはなれないだけか。何だか自業自得気味に印象を悪くしているみたいで、それが利益と結びつくとは思えないが、それでも彼の地で商売をやり続ける人や会社があるのだろうか。やめた方がいいような気がするが、やめられない事情もあるのかもしれず、それはそれで大変なことなのだろう。君にとってはどうでもいいことか。でもこれで国家という存在形態には致命的な欠陥があることが明らかとなったはずか。だが致命的な欠陥とは何なのか。大半の人はそれに気づいても気づかないふりをしながら、依然として国民であり続けようとするのではないか。だからそれとは何なのだろうか。国家がからむと同じ人間同士が仲良くなれないということか。あるいは国家によって、心にくだらぬアイデンティティーを植え付けられ、所属する国家が異なればそれを共有できず、その結果として同じ人類が敵と味方に分断されてしまうということか。だがそれも君にとっては大したことではないか。スポーツと同じで、フーリガンがサッカー場で乱闘騒ぎしているのと同じようなことか。ペットボトルや生卵などの物を投げたりしているのも似たような行動だ。要するに馬鹿な連中が騒ぎまくっていると考えれば納得がいくのか。

 結局領土紛争などというのもその程度のことの延長上にあり、暴力で相手を脅して、怯んだ相手から譲歩を引き出し、ざまあみろとか気勢を上げていればいいわけだ。そんなやり方がまかり通るとすれば、理性とかいう以前のどうでもいいことではないのか。人はいつまで経っても愚かなのだろうか。日頃から偉そうなことをいっている輩も、一皮むけばそんな行動に訴えかけることしかできない馬鹿な連中を利用して、自分たちの主張をごり押ししたいわけだ。もしかしてそれは案外末期的な状況を示しているということなのか。まさか中国も国家としての終わりが近いということなのか。たぶんそんなはずがなく、これから国家がますます栄えて、やがてアメリカを抜いて世界一の経済規模になるという予測も出ているし、終わりなどあり得ないような気がするが、この予感は何なのか。それはただの冗談でしかないか。あるいは冗談にもならない勘違いのたぐいだろうか。何だかわからないが、内戦状態のシリアや、大統領選挙で馬鹿騒ぎしているアメリカや、プーチン氏が威張っておかしなパフォーマンスを繰り返しているロシアや、領土問題で発狂中の中国や、お受験競争社会の韓国や、指導者のおぼっちゃまが遊園地で遊んでいる北朝鮮など、それらは皆普通の人間の一般常識からはかけ離れたことをやっているような気がしてならず、それどころかもしかしたらもはや病的な兆候を示していることになるのかもしれず、そういうところから、国家の終わりが近いとかいう勘違いを、君の心に生じさせているのだろうか。たぶんそんな冗談が本当になれば愉快なことだ。


9月12日

 まだこんなところか。考えるのはよそう。考える前に言葉を記せばいい。それは今もやっていることではないのか。さあ何だかわからない。またどこかへと意識がずれているようだが、別にわからなくてもいいのではないか。まったく気づいていないようだ。だから気づいていなくてもかまわないのだろう。だがなぜそうなってしまうのだろうか。バイクのエンジン音がうるさい。どこかへと走り去っていったのではないか。雨がパラパラと降ってきたようだが、すぐにやんでしまう。何だか蒸し暑い。同じような日々が続いているようだが、これでも徐々に涼しくなっているのだろうか。たぶんそうだ。あと数週間の辛抱か。どうせまただめ押し的に暑い日がやってきたりするのだろう。それもこれまでに経験してきた通りのことか。思わぬことも起こりうる。しかし何に期待しているわけでもなく、期待外れにはなっても、期待通りとはいかないものか。でもあきらめているわけではない。何とかしているらしい。現状がこれなのだから、少なくとも何とかしようとした結果がこれなのだろう。これが期待外れの結果なのだろうか。そもそもこれとは何か。これはこれであり、これではないかこれなのか。わざと矛盾したことを述べて、言葉を記している誰かを煙に巻きたいのだろうか。でもそれはおかしい。では本当の答えを模索すべきか。

 何でもないからこれなのだろうか。だからこれは何でもない結果か。だからというわけでもないが、相変わらず何がどうしたわけでもない。ここはどこなのだろうか。部屋の中だ。それ以外のどこでもない。荒野のど真ん中では何もできないのではないか。空想の中で荒野の風景を思い浮かべているのか。そんなわけがない。今さら何を否定しても無駄か。冷房が寒すぎるので消すと、今度は蒸し暑くなる。そしてどうなってしまうのかといえば、結局何もできずに眠ってしまうわけか。言葉を記しているではないか。それだけのことだろう。それでかまわないと思っているはずだが、何か文句でもあるわけか。文句などいくらでもありそうだが、それをいちいち記したところで、そのほとんどがつまらないことばかりか。それでもかまわないから記してみればいい。それで何とかなるなら儲けものか。何とかなるはずがない。いちいち記そうとしても、それ自体が思いつかないのではないか。だから今は文句などあり得ない。それはどういうことなのか。今さら疑念を抱いてみても始まらない。何を始めようとしているわけでもなく、またテレビを見ていたようだ。誰が見ていたのか。少なくとも君ではないらしい。フィクションの中では確かそうだ。ではまた架空の話になってしまうのか。呆れてものもいえなくなる。本当だろうか。

 どうも中身のある話から遠ざかりすぎているようだ。もう戻れないか。そうなるとしても、別にかまわないのではないか。世界的にどうなっているのか知らないが、暴力に訴えれば、やがて悲惨な結果となるのだろう。でも戦わざるを得ないとすれば、近い将来はどうなってしまうのか。君がその結末を予言しているとは思えない。別に暴力に訴えたければそうすればいいのではないか。それが人間の動物としての本能なのだろう。そしてどうなってしまうのだろうか。結末などありはしない。物語に終わりはない。ただ延々と繰り返されるだけか。でもそれでは同じようなことの繰り返しだろう。どうも暴力を振るっている側に誤算があるらしく、それに気づいていないことが致命的か。しかしそれはどのような誤算なのか。それをここで明らかにするわけにはいかないのだろうか。では話にならないではないか。それでかまわない。話にならないからおもしろいのであり、別に話になるようなことを語る必要も感じないか。それはどういうことなのか。その辺で何かをごまかしている。本当はわかっていないのだろう。でも先がわからないから楽しいし、希望も持てるのではないか。では君は将来に関してどのような希望を抱いているのか。このままくだらぬ暴力行為が繰り返されるだけか。だからそうであってもかまわないと思っているのだろう。本当は違うとでも思っていたりするのだろうか。違わなくても結構なのではないか。


9月11日

 また疲れて眠ってしまったらしい。やはり危機に直面しているのだろうか。それほどのことではないとは思うが、なかなか言葉が追いつかない。また夕方から眠って深夜に目覚めてしまったらしい。とりあえずどんな困難に直面していようと乗り切るしかなく、同時並行で行われていることがすべて一段落しないことには、落ち着いて物事を考える気にならないのではないか。今は時が経つのを待つだけか。しかし次から次へと面倒なことばかりで、それでも何とかなっているのが不思議か。その辺に君の思い違いがあるのかもしれないが、とにかく目の前の案件をこなしていくだけで精一杯といったところか。どうせフィクションの中ではそうなのだろう。実際に何をこなしているのか定かでなく、案外独りよがりでそんな心境に陥っているだけなのかもしれない。そして誰かの妄想の中では、さらに先があるらしく、その先に記すべきことが待ち構えているそうだ。

 君はそこからどこへ至ったのか。至った先で何を語る必要があるのだろうか。なぜそれが知ったことではないのか。そんなわけでますます意味不明になってしまうのか。いくら言葉を並べたところで、君に関しては何も出てこないはずだ。確たる証拠がないということか。そんなはずがないと思いたいのか。やはりどうも意識が何かの虚構の中で動作しているらしい。そこで何を見ているのか。スイッチがなかなか入らない。また横になって眠ってしまいたくなる。疲れが取れず、現実の世界ではおかしな出来事の連続のような気がしてくるが、たぶん頭がどうかしているわけでもないのだろうし、そんなふうに状況が推移していることが、君を疑心暗鬼にさせて、さらに心労や疲労を蓄積させ、気が変になっているような幻覚をもたらしているのか。たぶんそうだとしても続けて言葉を記さなければと思わせる。いったいそこに何があるというのか。

 そんなふうに問いかける必要がないのかも知れない。無理に問いかけなくても、すでに問いかけているのではないか。だからそれが無理なのだろうか。それがどうしたわけでもないのにこうなっている。要するに不思議でたまらない。ついでに膝が痛いか。冷房も寒すぎるが、切ったら蒸し暑い。どっちつかずのようでいて、結果的にはどちらでもない。何が言いたいのか。何も言いたくはないのに、何かを言わずにはいられないということか。たぶん深刻な矛盾を抱え込んでいるのだろう。そんなはずがないと思えば思うほど、何かがおかしくなり、心身のバランスが崩れ、どうにかなってしまいそうになり、かろうじてそこで踏みとどまっている気でいるようだが、その時点で無理が祟り、すでに手遅れとなっているわけか。なぜそうなってしまうのか。誰がそんな状況を招いているわけか。それでもここまで記してきたはずだが、何か思うところがあるわけではなく、何かの惰性でそんなことを述べているに過ぎず、それが心の重荷となっているのだろうか。でもそうせざるを得ない。

 しかしそれがどうしたわけでもないのは毎度のことで、さらに何を語るでもなく、また翌日の昼に言葉を記している。空は曇り暑さも一段落といったところか。何を当たり前なことを記しているのか。それ以外に何があるわけでもなく、何だか面倒なことばかりで、うんざりさせられているだけのような気がしないでもないが、それも何かの定めなのだろう。どんな宿命を背負っているとも思えないが、気が散っているのだろうか。それでもかまわないか。いったいここから何を記せばいいのか。たぶんこんなことをやっていてはだめなのだろうが、それが何となく続いているようで、さらにだめになっていくような気がしてくる。でも一向にやる気がしないから、それでかまわないのだろうか。そう思っているのなら、それでかまわないはずか。実際に何がどうなっているのでもなく、相変わらずそんなことを記している現状に変わりはなく、そこから逸脱することもなく、何に苦しんでいるわけでもなく、苦し紛れに何を繰り出しているとも思えず、ただの記述が続いているだけか。ところで数日後の今日は雨が降るだろうか。降るとしても、今ここで記している内容と関係があるとは思えない。


9月10日

 これといって記すことがない。何だかやる気ができないようだ。でも夜になっている。ただの時間経過だ。さっきまでテレビを見ていたはずだ。そして今は何をやっているのか。言葉を記しているはずだが、何に言及しているわけでもない。言葉を記していること自体に言及しているだけか。毎度おなじみの自己言及の罠にはまっている。それでも何もないよりはマシだろう。そこには空気があり、呼吸している何かが息づいている。そんな空想を抱いているのだろうか。それは嘘かもしれないが、そんなことを記してみる。それで何が思い出されたわけでもない。そんな言葉の記し方もあるのかもしれない。そこに何かを見抜く力が宿っているとは思えないが、窮地に陥りそうになるのを未然に防ぎ、うまく切り抜けたらしい。そして今は言葉を記している。それが長続きするとは思えないが、とりあえずの内容に至っているようで、それが無内容だろうと何だろうと、少しでも長続きさせたいのだろう。

 だからそれが間違っているのではないか。たぶんそういうことだ。だが間違っているからといってやめるわけにはいかず、間違ったまま続けようとする。それでかまわないわけがないだろうが、やはりかまわないと思っている。間違っているのだから、かまわなくて結構か。結構でなくても続けるつもりなのだろう。もうその辺からおかしい。ごり押しなのだろうか。それでも何かをつかみかけているような気がして、それが勘違いではないことを祈っているわけでもないが、何だか勘違いであってもなくても、そういう成り行きの中に身を置いているような気がしてくるのが、不思議でたまらないらしい。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。

 長居は避けたいところか。できればそうしたいところだが、結果がどうなってもかまわないだろう。どうせうまくいっているような気になっているはずだ。それが勘違いなのかもしれないが、やはりそんな気のまま、さらに言葉を記そうとして、空疎な記述を繰り返している。本当はそんなふりをしているだけで、実際に思っていることも考えていることも、それとはまったく違っていて、記せないようなことを思い、考えているのだろうか。いったい何を思い、何を考えているのだろうか。冗談でそんなことを思い、考えているみたいだ。それもごまかしには違いないが、あくびをかみ殺しながら、そんな素振りも嘘みたいで、架空の作り話の中ではそういうことをやっているつもりなのだろう。また君はそんな嘘をついているのか。ところで群青色の空とは何か。

 何が空回りしているわけでもなく、すべてが空回りしているだけか。しかし何がすべてなのか。いつまで経っても助け舟などやってこない。でも無人島に取り残されているわけでもない。また手首の辺りがアレルギー反応を起こす。かゆいが我慢することとしよう。特定の薬品を扱うとそうなってしまうらしい。こんな調子でうまくいくのだろうか。何がどうなっているわけでもないのはいつもの通りだ。久しぶりにホルガー・シューカイのPersian Loveを聴いているが、いつ聴いても謎の曲だ。どんな経緯でこんな曲ができたのかよくわからない。その前はHISのパープル・ヘイズ音頭だ。三味線でジミヘンをやっているわけか。何だかだんだん記述が投げやりになってきたようだが、どうやらこの辺が限界らしい。デビュー当時のミルトン・ナシメントを聴きながら、何を思っているわけでもない。そろそろ明日になってしまう時間帯が近づいてきた。まさかここからエンジンがかかるわけでもないだろう。アレルギー反応が出てしまったところをかきながら、焦っているわけでもなく、気が動転しているわけでもない。至って冷静なのだろうか。でもどこに至っているわけでもなく、部屋の中で中途半端な気分を意識しながら、やはりこの辺でやめにしようと思う。


9月9日

 いつまで経ってもこのままか。そういうわけでもないだろう。やがて何もできなくなる。それではなお悪いのではないか。状況は悪くなる一方なのだろうか。それが悪いと思えばそうかもしれないが、逆にその方がいいと思えば気楽になれるはずだ。ようは気の持ちようか。そう言ってしまえばそういうことだろうが、それでは何が悪いのかわからなくなる。だから何もできなくなったとしても、それが悪いとは限らないということだ。ではどうしたらいいのか。言葉を記せばいい。何もできないのに言葉を記せるのはおかしいか。だから君が記しているのではなく、他の誰かが記していることにすればいいだけだ。要するにそれはフィクションなのだろう。誰が語っているわけでもない架空の作り話の中で、誰かが言葉を記している。そんな話にしておけばいいのだろうか。それは見え透いたごまかしに違いないが、それでかまわない。まだ昼が暑すぎるようで、意識がもうろうとしてくる。このままでは何を語る気にもなれないか。では夜になるまで待つことにしよう。確かに夜になったが、もう深夜だ。翌日になってしまったらしい。なぜだろう。疲れていたのか。たぶんそういうことだ。馬鹿げたことの連続だ。たぶんそれでかまわないのだろうが、そういう成り行きのようだ。もうあきらめてしまったのか。追いつけなくなっているようだ。ちゃんと対処できているのだろうか。結果的にはうまくいっている部類に入るのかもしれないが、相変わらずうんざりさせられていることに変わりない。逃げているわけか。そんな感じだ。すべてがマイナスに働いているみたいだ。それが付け入る隙なのだろうか。実際にそうなっているのではないか。

 そこまで記してきて、どうもその件についてはあまり語りたがらない気分となる。ではそこでおしまいだろうか。何を終わりにさせればいいのだろうか。そんなことを考えているうちに、またさらに言葉を記すのが遅れてしまったようだが、どうも成り行き的には、たとえ空疎な内容だとしても、とりあえず記さなければならないらしい。無論そんな行為を正当化できる理由など何もない。だが別に理由がなくてもかまわないようで、大したことではなく、正当化などもまったく必要としないようなことのはずだ。ならばそんなことを述べる必要もないか。でもいったん述べてしまったのだから、それを削除するのも面倒くさいようで、そのままわけがわからないようなことを続けて記してしまいそうで、まったく懲りていないことに変わりはないらしい。しかしこの状況は何なのか。何も始まらないし、何も終わらない。何を始めようとしているのでもなく、何を終わらせようとしているのでもない。要するに何もやりたくないのか。でも仕事はやっているはずだ。それだけのことであり、それだけではないような気もするが、うまくいっているわけではない。何に関してうまく事を運ぼうとしているのか。わかるわけがないだろうか。ではこの文章は何なのか。支離滅裂な内容でさえない。内容の有る無しとは関係ないのではないか。では何なのだろうか。語る必要のないことか。たぶんそうだろうが、それは記すしかない状況なのだろう。他に何ができるわけでもなく、何をやろうとしているのでもない。しばらく文字が記された画面を眺めているようだ。そしてため息をつく。何もない。何でもなく、何を語ろうとしているのでもない。

 現実とは何か。暑すぎる日々の中で、何を考えているのか。本当に仕事以外は何もやらなくていいのだろうか。別に神からどんな啓示を受けているわけでもない。それは黙示録に記されていることでもない。コッポラの『地獄の黙示録』は見る必要のない映画なのか。ずいぶんとまた古い話ではないか。それで何を思い出したわけでもないが、やはり失敗作だったのだろうか。見てからでないと何ともいえないが、別に映画評論家などではないのだから、利いた風なことを述べる必要はないのではないか。それに君はそれほど映画を見たいわけでもないはずで、何かの拍子にそんなことを思っているだけではないのか。今さら映画でもない。では何なのか。君は小説全般を馬鹿にしたいのではないか。なぜ小説を読めないのか。漫画なら簡単に読めるのに、単に読む時間がないだけか。そうだとしてもそんなことを述べるべきではない。では何を述べたらいいのだろうか。そんな問答自体も否定したいのか。予定調和だろう。そうならないように努力すべきなのに、現実にそうなっている。だからもうだめなのかもしれず、だめだからこそ、そんなことを記しているのではないか。それはまったくの悪循環だろうか。たぶんそういうことであり、それをやめることができないらしく、実際にそんなことを記しているわけだ。笑ってしまうが、これからどうすればいいのかわからず、やはり途方に暮れているのかもしれないが、その一方で何となくそれでかまわないような気になっている。どうも堪え性がない。


9月8日

 たぶん何も思いつかないだろう。気休めに何か考えるとしようか。まだ暑い。空は晴れているようだ。首を傾げ、うまくいかないようなふりをしながら、さらに遠くを見つめる。何を語っているわけでもなく、何に耳を傾けているわけでもない。否定的な気分なのだろうか。何を否定したいのか。批判すべきことなど何もないはずか。この世界の現状を認め、受け入れざるを得ないか。君はうまくやっている方だ。現状が悲惨な境遇とはいえないはずだ。しかしつまらぬこだわりを捨てているわけではない。何事にもこだわらなければどうなっていたのか。ありふれた境遇の中で苦しんでいたのではないか。それでも幸せだと思い込もうとしていたのだろう。現実にそういう人は大勢いるみたいだが、君はつまらぬこだわりのおかげでそうはならなかったらしい。なぜそういう成り行きからはみ出てしまったのか。そういう物語の中で生きているからし方がないのか。だが何を強いられているわけでもなく、ただの成り行きまかせで生きているはずだったのに、なぜそうなってしまったのか。思い通りにならないことを逆手に取っているわけか。いつまでそんなやり方が通用すると思っているわけか。それも嘘の類なのではないか。実際はそうでないと思われ、すべてにおいてうまくいってないのではないか。だがそうだとしてもうまくやっていることに変わりないのではないか。結果的にここまでたどり着いたのだから、それはうまくいかなかったことが幸いしたからなのではないか。まったくうまくいかなかったのに、こうなっているわけだ。

 たぶんうまくいった結果が、今から思えば大したことはなく、ありふれた幸せに縛られて、身動きが取れずに、そんな境遇を強いられていることが、結果的にはうまくいっていることになり、実際にはそうならず、おかしな成り行きに巻き込まれ、思ってもみなかったところまできてしまったことが、要するに何事もうまくいかなかったことの証しなのであって、だからこそこんな心境と境遇を得るに至ったわけだ。だから何がどうしたわけでもないが、夢が叶ってありふれた人間となってしまった人々は、それでいいのであり、そうならなかった人々はひねくれた人生を歩めばいいだけで、どちらにしろそんなことでしかない。人が生きようが死のうが何がどうなるわけでもなく、そんな運命など織り込み済みで、この世界はあるがままにあり続けるだけか。そんな状況の中で何かを変えたいと思うなら、それなりに努力した範囲内で変わるかもしれないが、思惑通りにいったと思えば、それはそれで努力した甲斐があり、報われたことになるのだろう。君もそうやって努力している最中なのではないか。たぶん人は誰でもそうせざるを得ないのだろうし、それが正しいやり方だろうと間違ったやりだろうと、まあやりたければどうぞやってみてほしいということになるのだろう。それがこの地球上でうごめいている生命に課せられた使命なのだろうか。しかし誰がそんな使命を課しているのだろうか。まあそういう話の展開になれば、それは神が課しているということになるのだろうが、誰がそれを信じているとも思えず、君も何を信じているわけでもないのだろう。たまには信じてみた方が身のためか。

 またマッチ箱ハウスが建ち並ぶ光景を横切り、郊外までやってきたようだ。見渡す限り空は相変わらず青く、雲ひとつないような天気だ。まだ暑いままか。もう少しの辛抱かもしれないが、どうせまた来年になれば同じような思いを強いられ、うんざりさせられるわけで、金持ちが夏は避暑地で過ごし、冬は暖かな南国で過ごそうとするのも、わかるような気がするが、たぶんそんな身分になれないことはほぼ確定しているような境遇なのだから、うらやむ気にもなれない。死なない限りは毎年うんざりさせられる季節を過ごさなければならないのだろうから、それはそれで織り込み済みなのかもしれず、でも実際にうんざりして、うんざりしていると記し、それで気がまぎれるわけでもないのに、とりあえずそんなことを記しながら、時が経ち季節が移り変わるのを待っているわけなのか。何だか面倒くさいことのようで、それでも暑さ寒さ程度は容易に乗り切って、ありふれた人間として寿命が尽きるまで地上でうごめき続け、いつかは消え去り、その存在も忘れ去られ、無に帰すわけか。どうもそういうことでしかないらしい。それでは嫌か。万が一歴史上にその名を残せたとしても、それでどうなるわけでもなく、もうこの世にいないのだから、後世の人々が自らの願望でゆがめながら、その名前に勝手な人格を当てはめて、ありふれた武勇伝的な物語を構築したりして、その時代に隆盛を誇っている娯楽の対象にされるしかないか。たぶんそうなったらなったで、おもしろおかしくて楽しいことなのかもしれない。君には関係のないことかもしれないが、テレビをつければ、過去に活躍した歴史上の有名人を、現代の有名な俳優が演じている場面を眺めることができるはずで、そんなフィクションを見ながら過去に思いを馳せるのも、気晴らし程度の効用はあるのだろう。


9月7日

 何も思いつかないまま、さらに言葉を記すことになりそうだ。本当に何もない。昼は暑いだけのようだが、夜になると少し涼しくなり、秋が近いことを感じさせる。君はそこから何を感じ取っているのか。時が過ぎ行く。黙っていればそうなるだけのようだ。蜂が蛍光灯にうるさく体当たりしているが、それでどうなるわけでもなく、ただの無駄骨か。蛍光灯をいったん消して、床に落ちた蜂を拾い上げ、外で放したら、空高く飛んでいった。

 ところで日本のメディアも、中国やロシアやアメリカなどで見られるように、国家主義的な体裁を整えているのだろうか。例えば自国に有利な情報しか伝えないのか。そういう意味ではメディアは国家形態の維持存続に一役買っているわけか。そんなメディアに登場する政治家も、国家のため国民のためにがんばっていることになるのだろうか。さあどうなのか。そうであってもなくてもいいような気がして、例えば国家に敵対するようなメディアは、中国やロシアでは存在しづらいみたいだが、日本やアメリカではどうなのか。しかし国家に敵対するとは、具体的にどういうことなのだろう。要するに国家の敵であり国民の敵ということになるわけか。どのような主張をすれば、国家の敵や国民の敵になれるのだろうか。その辺がよくわからない。

 まあテロリストだとかマフィアだとかヤクザだとかの暴力系の人たちは、誰もが認める国家の敵なのかもしれないが、非暴力でなおかつ犯罪にからまないような国家の敵というのは存在できるだろうか。ウィキリークスとかネット上でハッキングしている人たちは、非暴力だが犯罪行為なので該当しないか。要するに犯罪行為を行わない限りは国家の敵ではないということか。例えば辛口評論家みたいに、罵詈雑言でいかに政府を批判しても、無視していればいいわけで、放っておいてもそれほど害を及ぼさないと見なされているのかもしれない。でもそれでは現状を変えることはできないだろうか。何とか武装闘争や犯罪行為以外で、国家をこの世界からなくすことができないものだろうか。そんなことを思っていること自体が人畜無害で、とても本気とは思えないか。

 別に国家が憎いわけでもなく、実際に国家によって抹殺されかかっているわけでもないので、無理に国家の敵になる必要はないのだろうが、この世界が百数十もの国家で分割されていることから生じる様々な不都合を思うと、やはりいつかは世界がひとつの行政機構によって統一されるべきたと思うし、そして国境をなくして、人々が自由に行き来できれば、馬鹿げた国境紛争でメディアが空騒ぎすることもないし、オリンピックのメダルほしさで、国威発揚のための莫大な無駄遣いをすることもないし、シリアや北朝鮮みたいに、独裁政治によって民衆が苦しめられることもないだろう。そしてその程度のことは多くの人が気づくべきだとも思うが、どうもやはり空疎な愛国心教育とやらが影響しているのか、気づいていない人が多すぎるような感じだ。

 とりあえずこの世界の現状といえば、民主主義国家を標榜するアメリカを筆頭にして、自国民を幸福にするためには他国民がどうなってもかまわないような風潮があり、派手な選挙戦で莫大な金と時間を費やし、国民の支持を取り付けようと必死なわけで、四年に一度のお祭り騒ぎによって選ばれた人物が、恐ろしいことをやっているわけだ。例えばアフガニスタンから贈られてくる星条旗で包まれたいくつもの棺を前にしたオバマ大統領の暗い顔が、それを象徴しているように見え、歴代の大統領はこれまでにどれほどの人々を死に追いやってきたのか。そのすべてはアメリカ国民の幸福を守り続けるためにやってきたことだろう。その血なまぐさい現実は、四年あるいは八年の任期を終える頃に大統領の顔がしわだらけの白髪なる程度では、まったく罪滅ぼしにもならないようなヤバさがある。


9月6日

 何だか物事について考えるのが面倒くさくなる。暑さが原因でもないのだろうが、とにかく昼は暑い。突き詰めて考えるようなことでもないのかもしれず、ただ漠然とそう思っているだけかもしれないが、この世界で人は何を欲しているのだろうか。無欲の境地に至りたいのか。わざとそう述べて、出ばなをくじいて、それで何を語りたいのか。例えば仙人を目指すのは単純な動機か。不老不死になりたいのだろう。そういう話ならいくらでもありそうだが、興味がない。でもあきらめてはいけないのではないか。何をあきらめようとしていたのか。それがわからなければ、あきらめていないということか。またそんなふうにして言葉をつなげようとする。まったく性懲りもない。気がつけばそうなっていて、油断も隙もあったものではないか。でも油断していたいのだろう。そのふりではなく、本当に油断しているようだ。何だか茫然自失で、時にはそんな思ってもいないような嘘をついてみるが、しっくりこない。少なくとも語ろうとしている内容ではない。なかなかそこから先へ進めないらしい。要するに煮詰まっているということか。何が煮詰まっているのだろう。君はそれを知っているのに言葉で記せない。それは冗談なのだろうか。冗談に決まっているだろうが、そんなふうに述べて、何かをごまかしている。だがたとえごまかしているとしても、語れないのだから仕方がない。そしてそんなところで勘弁してもらいたいのか。まったく意味がわからなくなり、意味不明なことを述べているみたいだ。心に余裕がないのだろうか。

 何を述べてみてもしっくりこないようだ。もう夕方だ。そして夜になり、それから後はどうなるのか。たぶんさらに言葉を記しているはずだが、その前に行かなければならない用事があり、それを済ませてからということになりそうだ。だから何なのか。何を語りたいのか。思いつくのはそればかりのようで、結局それ以外は何も記せなくなる。この辺でやめておいた方がいいだろう。頭の中が空っぽか。どうも限界のようだ。ではなぜそんなことを考えなければならないのか。それも違うか。いったい何をやっているのか。君はこの世界に何を期待しているのか。世界ではなく社会に何を期待しているのか。別に期待しているものは何もないか。では君は君自身に何を期待しているのか。何も期待していないのではないか。期待とは何だろう。期待通りの結果になるように努力しなければいけないわけか。ならなくてもかまわないなら、それは期待とは言えないのではないか。では期待とは何なのか。期待は期待でしかなく、期待以外の何ものでもなく、たとえ期待通りの結果にならなくても、期待は期待だ。結果は結果であり、期待は期待なのだ。それがどうしたわけでもないが、何となくそんなことを考えている。君は何を考えているのか。何も考えていないわけでもないはずだ。ただ記された言葉が循環していて、期待通りの結果を示していないとしても、それはそれで結果でしかない。とりあえず何も示されていないわけではない。では何なのか。問われる必要のないことか。では他に問うことでもあるのだろうか。問われるまでもなく、何もありはしない。そしてまた蒸し暑い昼になる。

 しかしどういうことなのか。何だかわからないが運がいいのだろうか。スズメバチがいる樹木の根元に殺虫剤をかけた。そこに巣があったら、次から次へと出てきて、たちまち刺されてしまうところだったが、二匹だけ逃げて、後が出てこない。要するにそこには巣などなかったのか。何でそうなってしまうのか。それで命拾いしたことになるのだろうか。何だかどうでもいいようなことを体験したらしいが、相変わらず君は何を語ればいいのかわからないままのようで、誰かがこの先に何を記すにしても、それは君の意志とは無関係のようだ。何かを記そうとすると必ず邪魔が入り、結果的にやる気を削いでしまうらしいが、それが理由ではないような気がして、何かそれとは無関係な何かに操られながら、そういう成り行きになってしまっているのだろうか。いずれにしろ君の知ったことではなく、何がそうだとも思えないまま、どんどん時が経ってしまう。そしてそろそろやめなければならなくなり、中途半端な気分で記述を中断してしまうらしい。


9月5日

 どうもその気になれないようだが、もう一度やる気を出して、言葉を記そうとしている。もう記しているのではないか。それはそうだが、そこで誰が語ろうとしているのか。雲の中で呼吸しているみたいだ。イメージというやつか。だが空想している内容の意味がない。夢でも見ているのだろうか。何を見ているとしても、興味深い現象ではないのだろう。暗闇の中で目を覚ます。何が見えているのか。暗闇だ。たぶんその映像ではない。今は見えていないものを空想している。だいぶ疲れているようだ。何かの隙を突いているように思われ、痛い目に遭っているようにも感じられ、それでも負けるが勝ちのようにも思われる。いったい誰がそんなことを思っているのか。数日後の今日は曇っている。しかしまだ暑い。どうもまだ気分的には停滞気味のようだ。たぶんだめになってきたのだろう。何がだめなんだろうか。それはその場の雰囲気からわかりきったことか。君はそんなはずがないと思いたいのか。別に疑念を抱いているわけではないが、そうやって予定調和の自問自答に持ち込んで、何をもたらそうとしているのか。結果として空疎な言葉の連なりが記される。本当にそんなことが記されているのか。そうだとしてもあまり気にしない方がよさそうだ。何だかわからないが、何かが確実に途切れている。それでだめになってしまったのだろうか。言葉を記す前に眠ってしまったらしい。しかし何かとは何だろう。

 理由がわからないようだが、もう何も語れないような感じか。それでも翌朝に言葉を記しながら考える。もう十分痛い目に遭っているのではないか。きっとこれからもそうだろう。そうなってしまう宿命なのか。だがそれで問題が解決したわけではない。相変わらず山積しているのだろうか。いい加減なことを記せなくなってきたのかもしれないが、今記しているこれは何なのか。いい加減だとは思わないのか。不具合が解消していないようだ。何でそうなってしまうのかわからないか。記すべきことがないからか。わかっているではないか。今はそう思えばいい。だが何をどう思っているのか。それを問う必要はないだろう。またおかしくなってくる。それは気のせいに決まっているだろうが、でもおかしいことに変わりはなく、何を語っているのでもないのに、そんなふうに語り続け、どうかしているのではないかと思うが、どうにもならずに、至って正気でいるみたいだ。でもそんなふうに語っていること自体がおかしいわけか。だからそれはわかりきったことだ。何もないのに無理に語ろうとすれば、そうなって当然か。それでもそうやって語っているうちに、何かをわかりかけているのではないか。この世界はどうなっているのだろうか。たぶんこうなっているわけだ。どうにもなっていないのにこうなっている。それが現実だ。そんな意味のない現実の中で生きている。それがわかりきったことなのか。

 でもここまで言葉を記してきたようだ。何もないのに言葉を記して、さらなる行き詰まりを呼び込み、窮地に立たされているわけか。そうでもない。そんなふうに語っても無駄なのか。どんなふうに語ろうとしてもそうなってしまうのだろう。だからそれが行き詰まりなのだろうか。空は晴れ渡り、誰かが暑さに喘ぎながら仕事をしている。そして暇を見つけては言葉を記し、結局何だかわからなくなってしまうのか。言葉を記している意味がわからない。意味がないのではないか。もとからそのようだ。そんなことはわかっていて、わかっていながらも、まだそれをやめることができない。そして行き詰まって途方に暮れ、さらにそうやっていることの意味がわからなくなり、そんなことの繰り返しの中で、無駄に時間が過ぎ去っていく。そしてそうだとしても、なおのこと言葉を記し続け、この世界に漂う何かを感じ取ろうとしているらしい。だが何かとは何なのだろうか。君を迷わせる何かか。何か迷信のたぐいだろうか。言葉を記せば何かわかるのか。そんな妄信にとらわれ、他のことがおろそかになり、ますますわけがわからなくなり、そしてこの先どうなってしまうのか。こんなことの繰り返しの中で疲労困憊して、さらに老いてしまうだけだろうか。それ以外は何の認識も得られないだろうか。それでも語ろうとしているようだ。無闇矢鱈と言葉を記しながら、何かを語っているふうを装い、そうやって自己満足を得たいのだろうか。そこまで至らないうちに、そんな試みを放棄してしまうのかもしれないが、今のところは続いているようだ。


9月4日

 難儀なことだ。何がそうなのかはっきりしないが、とにかく難儀だと思う。無理に無理を重ねているのだろうか。みんな疲れているように思える。君もそうなっているのかもしれないが、誰かがもう少し言葉を記してみようと思っているらしい。だからそれが無理なのではないか。だんだんわからなくなってくる。どうやっても何もない。もう夜だろうか。見え透いた嘘をつく必要はない。君はさっきから何もやっていないのではないか。誰かがテレビを見ている。

 作家がテレビでホームレスの若者について語っている。それ自体が格差社会を象徴しているのではないか。よくあるパターンかもしれないが、作家だの学者だの評論家だの解説者だのアナウンサーだのが、仕事のない悲惨なホームレスの若者について語っているわけで、要するにそこでの彼らの仕事は、特権的な立場からそれについて語ることであり、仕事のないホームレスが仕事のダシに使われているわけだ。大丈夫なんだろうか。彼らは自分たちの立場について考えたことがあるのだろうか。

 そこで作家やアナウンサーは何を語り合っているのか。仕事が人をみみっちい存在にしているらしく、職場ではいじめが横行していて、心にも金にも余裕がない人たちが、お互いにつぶし合いや削り合いをしているわけか。悲惨な世の中だ。みんなそうやって壊れてしまうのだろう。生活保護から抜けられなくなってしまうのも無理はない。笑ってしまうが、それが紛れもない現実か。でもいいのではないか。人は自滅するに越したことはない。みんな死んじゃえばいいのか。一握りの成功者が楽しい人生を全うしてもらえば、それでかまわないのだろうし、その他大勢の人たちは、それなりに生きて死んで、あとは壊れてしまった人が若干いるということだ。それが社会のあるべき姿か。そうではないと思いたいのか。

 そうでもないような気はする。何だかわからないような気もしてくる。もういいのではないか。どうでもいいことか。人は人なりに生きてゆくしかないのだろう。様々な事情があり、それに関しておもしろおかしく論じても、それはそれでかまわないような気がして、残酷なことかもしれないが、職場でいじめられて壊れてしまう人も、みみっちいことにこだわって、人をいじめてしまう悲惨な人も、どちらもどうでもいい人たちに含まれてしまうのではないか。いてもいなくてもかまわない消耗品のたぐいでしかないわけか。すべての人がそれに当てはまってしまうか。君も人なら心当たりがあるのではないか。いったい生きていることに何の意味があるのか。君は冗談を語るために生きているのだろうか。

 力が抜けているようだ。話すこともない。そしてどうにかなってしまうらしい。心がすでに離れている。何も語ることがない。無理に語る必要が感じられず、テレビを見続け、本当に何でもなくなってしまうみたいだ。しかし仕事とは何か。多くの人がやりたくない仕事をやらされて、ストレスが溜まっている。人はなぜそうまでして生きてゆかなければならないのか。いったいこの世界には何の意味があるのだろう。それも君の知ったことではないのだろうか。疑念を抱かざるを得ないか。また冗談でそんなことを思うが、君は答えを知っている。何でもないことだ。誰がどうなろうと何でもない。みんな仕事という罠にはまっていて、そこから抜け出られずにもがいている。

 だが悲惨な実態がどこにあろうと、たいていはそんなことはおかまいなしに夢を追い求める人たちがいるらしい。他人に気を使う余裕がなくなっていて、自分のやっていることを阻もうとする輩は単なる攻撃対象でしかない。それはアメリカの共和党大統領候補などの言動が不快極まりないのと同じことか。ああいう連中が堂々とまかり通っているのだから、人が作り上げた社会など大したことはないのだろうか。しかし何かを主張するということは、本質的にああいうことなのかもしれず、要するに彼らは戦っているのだろう。

 また植木鉢の木にアゲハチョウが卵を産みに飛んできた。すでに幼虫の芋虫が少ない葉っぱを食べている最中なのに、なぜことさらに卵を産みつけるのか。卵が孵る頃には葉っぱなど何もなくなっているはずだ。昆虫には考える能力がないのだろうか。そういう現象を誰かが眺めている。


9月3日

 やはり息切れのようだ。もう言葉を記せなくなったのか。無理もない。できないことをやろうとしても無駄のようだが、なぜできなくなってしまったのか。疲れているだけか。人は衰える。老衰というやつか。そんなはずがない。記すべき言葉がないだけか。そういうことだ。本当に何もありはしない。いったいこれからどうするつもりなのか。空き時間を見つけて言葉を記すだけか。できるわけがない。どうも今日はうまくいかないようだ。突然の雷雨か。今はそれもやんでいる。どうやらだんだん涼しくなってゆくらしい。もう九月だから当然の成り行きか。雨上がりにカラスが鳴いている。君はそこで何を見つけたのか。心の中に散らばっている記憶の断片でも拾って、それをもとにして何か記すつもりか。また雨が降ってきた。やはり何を語ろうとしても無駄らしい。それを遮って行く手を阻もうとしてくる。それもまた気のせいか。そうであったら気休めにでもなるのか。君の思い通りにはいかない。雨に打たれて朽ち果てようとしている。そんなはずがない。そうやって何かの邪魔をしているわけか。うまく事が運んでくれないのはよくあることか。それでも何とかしたいのだろう。思うのは誰の勝手でもあるだろうが、思わぬ成り行きになるのも自然のなせる業か。雨空を見上げながら、早くやんでほしいとでも思っているのか。

 そして何となく離れていってしまい、一時記述を中断するしかなくなる。そして夕方になったらしい。雨が降って涼しくなり、気が抜けてやる気がしなくなる。そんなことはないか。でもつまらないことを述べている現状は変わらず、他に何も思いつかない。またさらに遅れてしまうのか。そうならないための記述だろう。君がそれを求めているのか。無言で何を眺めているのか。無駄に長生きがしたいのか。誰かがつぶやく声が聞こえてくる。夕焼け雲がオレンジ色に染まり、懐かしい何かを思い出すか。何かとは何なのか。それがわからなければ話の内容が見えてこない。かまわないのではないか。今さら話などありはしない。まるで時が止まっているようだ。さっきまではそう思っていたはずだ。今はどうなのか。またそんなことを記している。それがおかしい。おかしくて笑ってしまうようなことではないが、何となくおかしい。何とかしたいのだろう。それでそんなことを記しているわけか。記したいのはそんな理由ではない。では何なのか。それがわかればとっくに記しているところか。わからないからそうなってしまい、何となくこれではだめなような気がしてくる。どうすればいいのだろうか。心が鬱状態のようになっている。そうは思えないが、そんなことを記しながら、何とか出口にたどり着こうとしているらしい。事態を打開できるだろうか。

 依然として行き詰まりのようだ。何も考える気がしない。考える前に言葉を記せばいいのか。それがこういうことなのか。でもうまくいっているとは思えない。一時的にきっかけをつかんだつもりになったようだが、また袋小路に迷い込んでしまったらしい。出口が見当たらず、心が停滞している。本当にそう思っているのだろうか。まさかオーネット・コールマンを聴くこともない。54曲が入って四千五百円が高いのか安いのか。買って聴いてみればわかることか。今はその勇気がないらしい。横道に逸れてしまうが、道自体が虚構の道なのだから、道も何もないだろうか。久しぶりにタワーレコードにでも行って『直立猿人』でも買ってみようと思う。しかしなぜチャールズ・ミンガスなのか。ただそんな雰囲気を感じさせる曲を聴いているだけか。果たして売っているだろうか。それが求めていた出口だとは到底思えないが、気休め程度にはなりそうな予感がする。本当は何でもかまわないのではないか。それが出口でなくてもかまわず、何かの入り口だとしても一向に気にならないようで、要するにここからどこかへ移動していればよく、移動した先で何かを見出せばそれでいいような気もしてきて、別に何も見つけられなくても、移動したこと自体が気晴らしになっているような気もして、だんだんどうでもよくなってきて、移動しなくてもいいような気もしてきて、たとえここにとどまったまま朽ち果てようと、それはそれでそういうことでしかないのかもしれず、君の知ったことではないのだろう。


9月2日

 どうやらまた暑くなるらしい。日付としては数日後のことか。まだ遅れている。この先もそうかもしれない。何も言葉が思い浮かばずに、過ぎ去る景色を眺め、そんな状況の中で考える。心を別の何かに奪われているようだ。それらの現象に関心があるらしい。たぶん何がどうなっているわけでもなく、そうなっているのは自然の成り行きであり、必然的な結果なのかもしれない。だがそれでも疑念を感じている。なぜそうなってしまうのか。すべてはどうでもいいことだ。それでも関心があるのはなぜなのか。そこに謎があるからか。君はその謎を解き明かしたいのだろうか。君にできるようなことなのか。人は別に砂上の楼閣に住んでいるわけではない。しかし捉えようによっては、何でもないことなのだ。人類が作り上げた文明は、蟻の巣にたとえられるだろうか。地表面を蝕んでいる。今も昔も人は地表面上で忙しなく動き回っている。そんなのは当たり前のことで、やはりそれがどうしたわけでもないのだろうが、不思議なことか。そう思うならそういうことになるだろう。眠ってしまったようだが、君もそんな人類の一員として存在している。どうやらさらに眠ってしまったらしく、また遅れてしまいそうだ。

 仕事とは何だろう。君はそこで何を求めているのだろうか。誰もが求めているものを君も求めているのか。それは何なのか。つかの間の安らぎか。つかの間を永続させるには、この世から消え去ればいいわけか。不意にそんなことを思うが、この世にいながらそうなるにはどうしたらいいのだろう。心地よい音楽でも聴いていればいいのではないか。暇さえあればそうしたいところか。では暇がなければどうしたらいいのか。その場の成り行きに従って仕事をしていればいいわけか。そうしていれば、やがて寿命が尽きて永眠して、永遠の安らぎを得るに至るのか。そうなったら何も考えられなくなってしまうではないか。そうなる前に何とかしなければならない。たぶんそこから先に誰かの物語が記され、それがくだらぬフィクションであるにしろ、何らかの真実を宿しているのかもしれない。君はそれを読んで感動したりするのだろうか。別にそうならないような心構えを抱いているわけでもなく、感動してもかまわないのだろうが、感動したところでお粗末すぎないか。相変わらずどうでもいいような成り行きに巻き込まれているようで、何だか右往左往して、忙しなく動き回り、気持ちにゆとりがないような気がするが、それでもかまわないのか。

 期待していた結果とはそんなものだったのか。済んでしまえばどうということはない。どうも人は幻想を抱きすぎている。ひたすら何でもないような結果を求め、実際にそうなってしまうとどうなるのか。こうなっているではないか。では君はそこで何を見失っているのか。長生きすれば誰もが老いてしまう。それだけのことだろう。放置され赤く錆び付いた何かの機械が何を物語っているというのか。残骸には違いなく、くず鉄業者に頼んで撤去してもらえばいいだけか。人が長生きすればそんな残骸となってしまうのか。そんなはずがないと思いたいのだろう。だがすべてが壊れかけているようだ。ひっきりなしに修理しているようだが、次から次へと故障していって、近頃は修理が追いつかなくなっている。だからもう年季なのだろうか。そうだとしても、気が済むまではやめようとしないし、それ以前に気が済むなどということはあり得ないのではないか。もはや引退などということは考えられず、寿命が尽きるまではやるしかない。要するにはまっているのだ。何にはまっているかは、誰の想像にまかせても、罠に決まっているのかもしれず、逆に人は内心そんな罠にはまることを願っているのかもしれない。そして生涯働き続け、ひたすら達成感という自己満足を追い求め、それはまるで蟻の巣で忙しなく動き回っている働き蟻のようなものなのか。


9月1日

 何の脈絡も感じられず、別に神の声が聞こえているわけではないが、もう夜だ。時が経つのが早い。きっと気のせいだろう。時が経ってもまだやるべきことがありそうだ。そうは思わないか。思うわけがない。ではそれも気のせいか。君はまだそこまで到達していないのか。いったいどんな高みを目指しているのか。たぶんそれは何の話でもない。まだそこまで行っていないのではないか。またおかしなことを述べているらしい。何でもないのにそれはないか。またおかしくなっているようだ。もう新学期が始まったのだろうか。とっくに夏休みなど終わっているのではないか。君が遅れているだけのようだ。このまま知らないうちに秋になってほしいか。まだ暑さがぶり返す時期のはずか。今は涼しい。夜だからか。夜が遅いのに、なぜこれほどまでに学生が電車に乗り込んでくるのだろうか。部活か補習授業でもあるわけか。どうせまた朝早くから学校へ通うのだろうから、まったくご苦労なことみたいだが、君には関係のないことか。君はなぜ電車に乗っているわけか。どこかへ向かっているに違いない。それも誰かとは無関係なのではないか。

 高校生は通過儀礼的に数年間の時を過ごして、社会人となったり大学生になったりするらしい。それがどうしたわけでもないだろうが、人はそうやって生き急ぐわけか。誰かも昔はそうだったはずだ。それからどれほどの歳月が流れたのだろう。ともかく人はやがて死んでしまう運命だから、あと数十年生きられるとして、死ぬまでの間に何をやったらいいのだろうか。今やっていることを継続する以外にはあり得ないのか。簡単にやめるわけにもいかないだろう。そんなことを述べておいて、あっさりやめて別のことをやっているのかもしれない。それならそれでおもしろそうだが、先がわからないのが何よりもよさそうだ。人はひとつのことに固まってしまうと面倒だ。しかしいずれは固まってしまうのではないか。死後硬直というやつか。生きているうちに固まってしまうのだろう。何やら使命感を帯びてひとつのことを頑なにやり続け、そしてつまらない人間になってしまうわけか。別にこの道一筋の人がすべてつまらないわけはないだろう。中にはおもしろい人だっているはずだ。では何なのか。そういうことを述べたいわけではない。では何なのか。

 たぶん何でもないことだろう。ともかくまだ死んでいないようだ。呼吸している自覚はある。こうして誰かが言葉を記している。それを見ている君は幽霊ではない。では何なのか。要するに単なる言葉か。そういうことだろうが、それが面倒なことだとは思えない。別にこの状況についてどう思いたいわけでもないのだろうが、何となく何かにはまっているようで、それが罠だとは思えないが、利用できるなら利用しておいた方がいいのかもしれず、そんな雰囲気を利用しながら、何かを成し遂げようとしているのだろうか。何かとは何なのか。今やろうとしているすべてのことか。そうだとしても、そのうちだめになってしまうことも出てくるだろうし、妥協せざるを得ない状況に追い込まれてしまう事態もあるのではないか。だから何だというのか。それも何でもないことか。何でもなければ何なのか。要するに何がどうなろうと何でもないことに違いない。人は取るに足らない存在でしかない。人が成し遂げられることは限られている。だからそれが人としての特性となるわけか。だからどうしたというのだろう。相変わらずつまらないことを述べているのだろうか。それもやりつつあることのひとつだ。そうやって君は何かをやり遂げてきたはずだ。

 やはり何を語ろうとしているわけでもないようだ。漫画の中で対決している架空の登場人物たちよりも、何でもないことをやっているつもりの君の方が貴重な存在なのか。そんなことはあり得ないか。でもあきらめるつもりはないようだ。この何だか得体の知れない何かをやり続けるつもりらしく、一向にやめる気配も懲りる素振りも見せず、ただ誰かが言葉を記している。本当にそれは何だかわからないことのようだが、たぶん自らがやっているつもりのそれを理解できないまま、さらにやり続けることから、何かを得ようとしているわけでもないのだろうが、ともかく言葉を記し続け、どうかしているような素振りで、頭がおかしくなっているように装いながらも、それを利用するつもりらしく、意味不明ででたらめなことを述べているつもりになりたいのかもしれず、それが何になるのでもなく、何でもなく、それをやり続けることで、どんな報いを受けているわけでもないように振る舞いたいのかもしれず、そんなことは無理なのかもしれないが、かろうじてそこで踏みとどまっているふりをしているつもりで、実際には奈落の底へと真っ逆さまかもしれないが、それに気づくふうも見せずに、何かを演じているのかもしれないが、それが記述者のふりなのか。何だかわからないが、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。どちらでもかまわないのではないか。それはいつもそうであり、今もそういうことかもしれない。


8月31日

 本当にこれで最後なのか。日付が8月の最終日だから最後なのか。相変わらず本気ではない。ところでアンコールはないのだろうか。別にアルコールを飲んでいるわけではないが、何となく紛らわしい言葉を思いついたらしく、それで何を考えているわけではないのだろうが、そんな気になっているらしい。そんなふうに語るつもりもないのだろう。では何を語ろうとしているのか。自らが体験しつつあるこの世界の有様を語るだけのようだ。そしてそれで足りなければ、フィクションについて語り、語っているつもりになりたいのだろう。しかし君はそれらの文章について何を望んでいるのか。いったいどういう内容になってほしいのか。たぶんリクエストに応えることなどできはしないだろう。だからどうなってほしいとも思わず、結果的に空疎な内容に終始してしまうとしても、そんな結果も受け入れざるを得ないのではないか。他がないのだろうから、そうなってしまっても仕方なく、そうなるより他はあり得ないか。他を模索できなくなっている。今さらながらの方向転換は無理のようだ。

 雨が降る少し前の蒸し暑さの中で、たぶん何を思っているわけでもないらしい。知性は何を意味するのか。無理に考えようとするが、答えはわかっているはずだ。知っていることが何の役に立つのだろうか。思いとどまろうとしている。しかしなぜ雨が降らないのか。予報では午後から降り出すはずなのに、一向にその気配がない。予報を信じた君が馬鹿なのか。別にそれで損をしたわけでもないが、何やら正気とは思えないような我慢比べの中で、何を記そうとしているのか。今記しているそれではないのか。君が語ろうとしているのはそういうことではない。では何なのか。そういうくだらぬ問答に違いない。また何かがそこで繰り返される。だからかろうじて思いとどまらなければならず、何かを戦わせて論議を深めようとも思わず、一人で孤独に言葉を記すのみか。それでは飛躍は望めない。戦っているのは漫画の中だけで十分で、現実の世界では安らぎがほしいか。そんなふうにはならない雲行きで、さらにこじれてしまうかもしれない。それは誰かの思うつぼで、そうならなければおもしろくないと思っているのかもしれない。

 君はそうならないように配慮しているつもりなのだろうが、たぶんこちら側の思惑など知ったことではないのだろう。正々堂々とはいかないらしく、何となく回りくどい成り行きへと持っていきたがるが、それもそれで思惑通りにはならず、どこかで誰かの間抜けなやり方があらわとなって、その場に居合わせた誰もが失笑してしまうか。だから笑っている場合ではないのかもしれず、恥をかかないようにあれこれ策を巡らすが、それもフィクションの内なのか。それにしても思い通りとはいかないものだ。だからそうなるのがありふれたフィクションの結末なのだろうから、今の君とは無関係な境遇なのではないか。しかしそれが現実なのか。とてもそうは思えないが、どうもその辺で気づいていないことがあるらしく、その気になってさらに言葉を記していくと、とんでもない結末が待ち受けているのかもしれない。君はそうなってほしいから、わざと間抜けに振る舞っているのではないか。でもそれが何をもたらすとも思えず、自分がそれほど間抜けだとも思っていないはずだろうが、本当のところはどうなのか。まさかそれが偽りのない現実だとしたら、君はそこで絶望するしかないのだろうか。

 別にそうなるならなったで、無理に絶望することもないような気がするが、虚実入り交じって何を語ろうとしているわけでもないのに、誰かがそんなふうに語っていること自体がおかしいのではないか。君は誰でもなく、言葉を記している誰かでもないはずか。でも言い逃れができない立場であり、何を待っているとしても、当人の死刑執行ではないと思いたいが、これから何らかの裁きを受けなければならないのだろうか。たぶんそんなところで妄想癖が介在していて、それをフィクションへと結びつける過程で、うまくいかなくなっているのだろうか。実際に何の話でもないではないか。何をほのめかしているわけでもないし、ここで何が語られているわけでもない。ただ記された言葉が組み合わさって並び、結果的に何らかの文章が出来上がっているだけなのかもしれず、それもおかしな説明なのだろうが、そういうやり方で何とかごまかしているみたいで、危うく見当違いの方向へと逸脱してしまうのを、何とか意味不明の水準で食い止め、それで事を収めているわけか。それは今となっては信じられない話かもしれないが、まだまともに語ろうとしていた頃に戻りたいという願望を打ち捨て、それから何を記そうか迷っていることとして、その場でうまく何かを取りまとめている気になっているだけだろうか。さらに何のことなのかわからなくなってきたようだが、本当にこれでいいのか。今はこれでいいのだというわけでもないらしい。


8月30日

 眠ってしまう前に、もう少し先へ進めておく必要があるだろうか。たぶんできないことをやろうとしているのだろうが、とりあえずはうまくできないなりに、思いついた言葉を適当に並べておく必要がありそうだ。だが何を思っているのか。おかしいだろうか。では今は黙って待つのみか。何を待っているのか。どうせまた言葉を記す機会が巡ってくると思っているのだろう。しかしそれは何を試す機会なのか。またこれ見よがしに空疎な文章を構成してみせるわけか。その気もないのにそんな気分になっていて、これからも言葉を記す度に、そんな嘘偽りが付いて回りそうだが、たぶん冗談に違いない。そしてそう思うから、そこで行き詰まりとなってしまいそうだ。ここから先はどうしたらいいのだろう。どうもせずに、今まで通りのやり方で言葉を記せばいい。記せるものなら記しているところか。どうも思っていることとやっていることの間に、何か埋められない溝や背離があるらしい。また苦し紛れにそんなことを述べている。そんなはずではなかったのだろうか。

 限界を感じている。もう何も言葉を記せそうにない。しばらくそこから遠ざかるべきか。しかし遠ざかるとはどういうことなのか。遠ざかるなら、なるべく遠くまで逃げるべきか。何から逃げようとしているのか。逃げるとしても、それで現実から逃避していることにはならない程度には、状況を把握しておくべきだ。だから何から逃げようとしているのか。記述作業から逃げようとしているのだろうか。そうではないとすると何なのか。何でもなく、相変わらず空疎なことを述べている現実から逃げられずにいる。本当は違うのだろう。何が本当なのだろうか。

 たぶん何も本当ではない。語ろうとしていること自体が虚構に違いない。実際に何も語っていないではないか。しかし誰がそう思っているのか。君の目は何も捉えていない。意識はどうなのか。何かいい加減なことを空想しているのかもしれないが、苦し紛れでそう思っているだけなのかもしれず、そこには何もない。またそれだ。何を悩んでいるのか。たぶん悩んでいないのではないか。なぜ簡単に否定してしまうのだろう。おかしいと思う。要するにまた強がりが独りよがり的に出てきたのかもしれず、悩んでいようとストレスを感じていようと、そんなことは何でもないと思い込みたいのだろうか。実際に何でもないのではないか。だからそれが強がっていることになるのかもしれない。ではどう思えばいいのか。現実逃避とはいかないようだ。

 何とかしようとしても、今のところはうまくいっていないようだ。それで悩んでいるわけか。嘘だろう。周りを見渡せば、カエルがハエを食べ、トカゲがゴキブリを食べているようだが、嘘か真か定かでないようなことを語ろうとしても、心は雑草に覆われ、そんなはずがないと思いたいが、たとえそれが嘘だとしても、雨に打たれて何かが錆び付いているような気もして、ごまかしには違いないが、ごまかさずにはいられないような心境で、さらに言葉を記せば、事態を打開するためのきっかけになるどころか、かえってよりいっそうの行き詰まりを招き、どうにもならなくなってしまうわけか。そして眠たくなって寝てしまい、翌朝に目覚め、何をやっているのか。

 外ではカラスが鳴いている。もうすぐ雨が降るのかもしれない。雨が降ったらどうなるのか。誰が戻ってくるとも思えないが、誰と戦っているわけではない。静かな午後だ。ニュースを見ながら何を思うのだろう。どこかで誰かと誰かが争っている。未だにテロとの戦いか。それでもなぜ平和なのだろうか。君とは関係ないからか。韓国では恐ろしい競争社会で格差社会が実現しているらしい。彼の地にはヤバい人たちが大勢いるのだろうか。中国も似たようなものか。日本にもその手の人たちがいっぱいいるような気もするが、君の周りでは表面化していないだけか。何だかぬるま湯に浸かりながら安定しているようだ。馬鹿げているだろうか。


8月29日

 相変わらず先月の日付で言葉を記しているようだ。頑な態度だろうか。いずれは挫折してしまうのだろうが、もうしばらくは意地を張り通して、それになりにがんばってもらいたいか。どうせ何も記すことがないのだろう。はじめからそれではやる気が失せるか。それでもかまわないなら、やる気が失せていればいい。放っておけば、また適当にいい加減なことを記し始めるはずだ。今がその状態なのか。どのような状態でもなく、何を極めているわけでもなく、自然体を装うばかりのようだ。だがそれで何ができるわけでもないだろう。人は何に関心を持っているのか。果たして火星で生物の痕跡が見つかるだろうか。たぶんそんなことに関心を持っている人が大勢いるのかもしれない。木星の衛星のエウロパにも生命がいるかもしれないそうだ。それはそうとして、他に関心はないのか。なぜそう問うのか。語っていることが退屈だからか。何とかしておもしろくしたいのかもしれないが、今のところは何ともなっていないらしい。君は生物ではなく、言葉でしかない。だからわかりきったことを指摘しないでほしいか。まだわからないようだ。たぶんわかろうとしていないのだろう。また心が外れようとしているらしい。外れようとして外れているわけではない。では何なのか。何に関して興味を失いつつあるのだろうか。地球外生命体についてか。そうだとは思っていないようだ。親指を何かに咬まれたらしい。そんなこともあったようだが、今は何とも思わない。それが興味を持った出来事ではなかったようだ。君は知っているはずだ。そうではないことを知っている。では他に何を語ろうとしているのか。何かによって食いちぎられた親指を想像しているわけではない。予期せぬ出来事に何を思うのか。誰かがフィクションの中で何か思っているようだが、そんなのは嘘だろう。そこまで語る必要はない。別に気が狂っているわけでもなく、ただ何も語っていないだけか。そうかもしれないが、言葉がまとまらないようだ。

 それで意味不明なのだろうか。いつものことだ。不明なのではなく、単に意味をなさない言葉の連なりとなっているわけだ。そしてそれを記せなくなっている。それも嘘の類だろうか。いったい何を語りたいのだろう。闇の中で虫が鳴いている。夜だからそういう雰囲気となり、季節がそんな状況を作り出しているのだろうか。何に導かれているわけではなく、そんな音楽を聴いているに過ぎないのか。別に何が過ぎ去っているわけではない。そんな感覚なのだから、でたらめに言葉を記しているわけか。そういうわけでもないと思いたいが、何をどうしたいとも思えない。何かの歯車が合わなくなっているのではないか。まるで壊れた機械のような感じだ。どこかがすり減って、ひずみが生じているのだろうか。動き出した何かに思い入れなどありはしない。テレビを見てはいけないらしい。気が散って言葉を記せなくなるか。まだ何かの途中なのだろう。自ずから崩壊しそうか。そういう段階とは思えない。ではまだ先のことか。何を先んじて動かそうとしているのか。そうではない。関係のないことを記したいのではないか。支離滅裂ででたらめなのがいい。そうやってまたどこかへと逃避したいのだろうか。語れない事態に直面しているわけではない。別に鮫に足を食いちぎられたわけでもなく、ヒグマに顔を引っ掻かれたわけでもない。噛みつかれた親指の傷も浅い。では何なのか。脱力しすぎて言葉が出てこないのか。気のせいではない。誰のせいでも何のせいでもありはしない。では何なのか。もう続けられないということか。そうでもないらしい。無内容ならいくらでも続けられるはずだ。でも何かがそれを許さないのだろう。その何かを打ち捨てられないから行き詰まっているのだ。そうだとしたら楽しい事態となっているはずだ。君は今すごいことを経験しつつあるのではないか。そんな妄想に取り憑かれながら、一方で疑念を抱きながらも、とにかくそれを乗り切ろうとしている。今度こそは本気でそう思っているのだろうか。そうだとしたらおめでたいことか。何がそういうわけでもないだろう。


8月28日

 どうやら今月も遅れたままとなってしまったようだ。どうやっても今日の日付までたどり着けない。あきらめるべきか。たぶんあきらめていないのだろう。ここから遅れを取り戻そうとするわけか。だからそれは無理だ。悪あがきにもほどがある。膝も痛い。それとこれとは無関係か。またそうなってしまう。さっきから何に見とれているのか。画面に釘付けというわけではない。また腕時計でも買うつもりなのか。おかしいだろうか。しかし他に贈り物としては何が良いのだろうか。その辺の常識を知らないらしい。別にかまわないだろう。とりあえず使えるものを贈っておいた方がいいのではないか。それは何の話なのか。たぶんそういう話ではなかったはずだ。誰かがさっきまで漫画を読んでいたらしいが、ここからどうするというのか。無論言葉を記すまでのことか。冷めた目でこちらを見ている。見慣れた光景ではないはずだ。思い通りに語る必要はない。それでは漫画と同じか。君はそれを知っているはずではなかったのか。ここでは何も起こらないことを知っていたはずだったが、他に何を知りたかったわけでもなく、人がどこかの街中を歩いている。今日も暑かったらしい。歩道橋の上から誰かが何かを見ている。何に気づいたのだろうか。もう夜だ。別にそこから飛び降りるわけでもないか。たぶんまだ気づいていないのだ。すでにそこから遠ざかれなくなっている。君は罠にはまってしまったのか。本当は無理に言葉を記そうとしていたわけではなかったようだ。何を込み入らせようとしていたわけでもなかったはずか。まだ間に合うと思っている。今日のうちに終わらせることができるとでも思っているのか。

 それにしては内容を見出せない。まだその先があるのだろう。まだ話していないことがありそうだ。何を見ていたわけでもなく、さらに言葉を記しているが、意味不明はいつもの通りで、話にならないようだ。話す気がないのだろう。何を話したらいいのだろうか。そこで行き詰まってしまうのか。だからお話にならないわけだ。本当に何もなくなってしまい、その先がないことに気づき、どうなってしまうのだろうか。さらに言葉を記してみるが、どうにもならないことが明らかとなりつつあり、精神的に追い込まれているようだ。でも何でもないことだろう。奥の手があるはずか。都合良くそんなものが見つかるとは思えない。ところで宝探しはどうなったのか。君が知っているようなことではない。では誰が知り得るというのか。君以外にはあり得ないか。だから何なのか。執拗に問うことばかりにかかりきりとなっている。そんなはずがないのに、気がつけばそうなってしまっているのだ。そういうことではないような気がするのだが、さらに言葉を記している現実があり、それが止まらなくなっているようだ。何が目当てでもないはずだ。目の前の画面からは何も伝わってこないようだ。やる気がしないのだろう。もうすぐ来月になってしまう。来月になれば、手詰まり状態を解消できるだろうか。今でさえこうなのだから、もっと悪化してしまうような気もするが、かろうじて持ちこたえている。地獄を見たわけではない。ひからびた植木鉢に水をやる。雑草に埋もれて、かろうじて生きながらえているらしいが、もうだめか。だめだと思いながらも、ここまで記してきた。無駄だと思いつつも、未だに悪あがきの最中なのか。

 でも結果的には何とかなっているのではないか。空疎には違いないが、そこがいいのだろうか。何を正当化したいわけでもなく、何にもならないことだ。映像の中で何かが沈んでゆくらしいが、それに見とれているわけではない。もう翌日になり、翌月になってしまう。そして相変わらずこんなことを記している。いつまで経ってもこのざまか。自然と笑いがこみ上げてくるが、何を強がっているわけでもない。雲が動いている。久しぶりに雨が降り、日差しが雲に遮られて、過ごしやすいような気になる。つかの間の気分だろうか。ようやく夏が終わろうとしているのだろうか。また暑さがぶり返してうんざりさせられるのかもしれないが、とにかくもう少しの辛抱だ。でも辛抱したところで何がもたらされるわけでもないか。なぜすぐにがっかりさせるようなことを述べてしまうのか。自分で述べておいて、自分でがっかりすることもないだろうに。何だかわからないが、とにかく数日後の今日は確実に涼しくなったようで、それで疲れがどっと出て、何もやる気がしなくなり、仕事だけは一通りこなしたようだが、あとが続きそうもない。このまま記述を放棄してしまうのか。でも二日がかりでここまで記してきたではないか。内容が空疎だが、やり遂げれば、少しは達成感を得るに至るのではないか。それは何になるのか。何かを蓄積となりそうだが、それが塵や芥のたぐいなら、かえって邪魔か。夕暮れ時に見た遥か彼方の入道雲は、青く輝いているように見え、幻想的な趣を呈している。本当だとは思えないが、そんな言い表しが適切かどうかはわからない。別にどうということはない些細な逸脱に過ぎないのか。それも何だかわからないか。何かおかしいことを述べているだろうか。もとからおかしいのではないか。


8月27日

 やはりできないようだ。まともな内容にはならない。数日後の今日も異常に暑い。それ以外には何か思うことがあるのか。無理だろう。無理に決まっているではないか。そういつもいつも思っていることなどありはせず、ただ暑いだけで、参っているわけか。何がそれほど苦痛なのか。それに関しては何を知っているわけでもなく、どんな言葉を導き出したいのでもない。ただ参っているだけか。では何に降参しているのか。暑さか。それに違いない。でもそれだけのことで文章を構成するわけにはいかないか。暑くて参っていると記せばそれでおしまいだ。たぶんおかしいのだろう。他に記すことがなければ、それでおしまいでかまわないのではないか。エアコンの音がやけにうるさい。確かにこの世界には何もなく、同時にすべてがあるが、それを言葉で表すことはできない。本当だろうか。嘘でもかまわないと思うが、嘘ならどうでもよくなってしまう。ところで君はあれからどこまで到達したのだろうか。あれとは何か。いつか見た幻影の正体でも突き止めたのか。それ自体が作り話か。不意にそんなことを思いつくが、いつもの苦し紛れだろうか。漫画ではあるまいし、どこかで怪物に出会ったりはしないだろう。人は何をどうしたいのか。たぶんそうではないと思う。思っているのはいつもたわいないことだ。自身の行動に付随して、それにフィットしたことを思うまでか。あとはこれまでに見聞したことや体験したことから導き出された紋切り型のたぐいだろうか。他人と同じようなことを思っているわけか。君はそれが気に入らないわけか。

 でも仕方のないことだ。要するにまたそんなことを思っているわけだ。何も思わないよりはマシかもしれないが、それだけでは何の意味もなく、ただつまらないことを述べているだけとなってしまい、言葉を記すのが嫌になってしまうか。ならやめればいい。なぜそういう選択肢がないのだろうか。そこに何か目的が潜んでいるからか。君には何か大いなる野望があるのだろうか。唐突に冗談のようなことを思いつくが、それを記すわけにはいかないのか。今ここで何を記そうとしていたのか。ただのくだらない言葉の羅列なのか。そうではないと思うが、そうかもしれないとも思う。何をどうやってもそうなってしまうなら、それを記すしかないか。そこから遠ざかるわけにはいかないらしい。他がないからここで言葉を記しているわけで、何とも思わないから、空疎な内容に終始しているわけか。もはや語るべきことがないから、こうなってしまったのだろうか。またそんな結論に至ってしまうが、これで何度目のことか。何もなければ、遥か彼方にある何かについて思い馳せてみたらどうか。何かとは何か。宇宙のどこかに謎の惑星があったりして、そこに宇宙人が住んでいて、それからどんな話になってしまうのだろうか。興味がないか。では遥か昔や遥か未来のことについて語るのはどうか。単に今ここで空想を働かせているだけで、実質的には未来でも昔でもありはしないか。ならば今ここで何を思っているのか。またそれだ。そう思うのは今日で何度目のことなのか。どうやら何を語ろうとしてもままならないようだ。要するに暑すぎるのか。暑さのせいにしてはいけない。

 アメリカでも保守派の国家主義者たちががんばっているようだ。世界統一までの道のりは長く険しいのかもしれず、それでも数百年後ぐらいには達成できるだろうか。それ以前に人類そのものがこの地上から消え去ってしまうか。宇宙への進出はあるのだろうか。月とか火星とかに人類が定住したりするわけか。それでどうなるのだろうか。地球上でやっているように、人々が夢を抱いてがんばってしまうわけか。具体的に何をやるのだろう。何か目的があるのか。どうせ彼の地でもこんなことを考えているのだろう。しかしそれでは出口がどこにもないのではないか。その場の状況に翻弄され、何か深刻な事件にでも巻き込まれたりすれば、物語の主人公のように活躍できるのかもしれないが、平和だと何もやることがないのではないか。日々仕事に励んでいるわけか。よほどの金持ちでもない限りは、仕事から解放されるわけにはいかないか。あとはやりたいことをやっていると思い込んでいれば、きつい仕事も苦にならず、前向きな人生を送れるだろうか。結局そんなことでしかなく、物語の主人公になったような気分になるには、その手のフィクションを見聞すれば事足りるか。いったい他に何があるのだろうか。君はここで何を探求しているつもりになれるだろうか。つもりではなく、実際に興味深い現象に心を奪われ、その現象のメカニズムでも解明しているつもりなのか。だからつもりではなく、本気になっているのではないか。とてもそうは見えないか。たぶん冗談に違いない。また君は嘘をついているのだろうか。そう受け取ってもらってかまわないか。そうだとしてもなおのこと謎が深まるのではないか。君とは誰なのか。そうではなく、誰が君と呼ばれているのだろうか。それも違うか。


8月26日

 今日も蒸し暑くなりそうだ。今日もそんなことしか述べられない。何の狙いも見当もつかないようなことしか述べられず、ただ思いついた言葉を記すのみか。たぶん歯止めが利かないのは誰に限ったことでもない。みんな勝手なことがやりたいわけで、それを妨げる障害物は排除したいのだろう。しかし調和とは何だろう。妥協の産物か。何も語れないことから生じる焦りに惑わされ、苦し紛れに言葉を繰り出して、無理矢理文章を完成させようとして、それから君はどうなってしまったのか。今があり明日があり、遠い未来があるらしい。近い将来もあるだろう。そこで何を語ればいいのだろうか。今語っていることの延長上に、将来に向けて語るべきことがあるはずか。空疎な妄想にとらわれ、それに向かって無駄な努力をしている最中か。なぜそんな現状を否定するのか。何を否定的に捉えているのか。語れるときに語れることを語らなければならない。では語れない時はどうやってごまかせばいいのだろう。ごまかす必要などないのだろうか。その時の気分次第で、ごまかしたりごまかさなかったりすればいいのではないか。ごまかすにもごまかさないのにも限界がある。ごまかしきれなくなったら、ごまかすのをやめればいいし、その逆の状況になったら、今度は苦し紛れのごまかしを連発をすればいいのか。それをやるのは君次第だ。他の誰次第でもない。本気になれないなら、その辺でやめればいい。どうせ語るのが面倒くさくなったのだろう。

 無理もない話だ。いつものどこかを通り過ぎている。何の感慨にも巡り会えず、どんな感傷も受けつけない。だがどこへ向かって突き進んでいるのでもない。眠たくなってきて、しばらくは居眠りの最中のようだ。焦って無理に語る必要はないのか。やる気にならず、過ぎ去る景色を眺めながら、音楽を聴いているようだ。改めて思うことなどありはせず、このままでもかまわないと思う。そして眠りにつく、それでも困難な状況に陥っているのだろうか。いつもと変わらないか。すべては流れ去り、あとには何も残らない。そうなってしまったら手間が省けるが、そうはならないのが世の常か。必ずおかしなこだわりとともにごり押しがまかり通り、周囲の人々に迷惑をかけることとなり、冗談ではなく、忍耐強く妥協点を模索していなければ、さらにこじれてしまうのだろう。世の中にはいいとこ回りをして、うまく有利な立場を確保してから、きれいごとをここぞとばかりに主張したがる輩が多すぎる。原則論やきれいごとを主張できるのは、そういうことが主張できる立場を占有しているからで、そんなことを主張していては埒が明かないような不利な立場に立たされている側からすれば、要するに狡いことをやっているとしか思えないわけだ。結局無理を強引に押し通して、そんなことがまかり通るように仕掛けている側の勝ちなのだろうか。まあ勝ち負けの判断基準もその時の状況によって異なるのかもしれないが、とにかくあまりそんなことに首を突っ込んで疲れるのはごめんか。無理は無理として承知しておかなければならず、その辺は冷静に捉えておくべきなのだろう。

 今日は今日で何とかできる範囲でやるだけか。いつまでも虚無と格闘しているつもりになっていても、何を語っていることにもなりはしない。それしかできないのなら、それでもかまわないのだろうが、そればかりだと面倒くさいから、何か違うことでも述べてみた方がいいだろう。まだまだ暑い。いったいいつまで暑い日々が続くのか。来週辺りは少し涼しくなってほしいか。だが涼しくなったからといって、埒が明かないことは埒が明かず、また無理なごり押しと格闘の日々が続くのか。無理ではないと思っているのだから、それはそれでそういう状況なのだろうが、何だかいつまで耐えられるのかわからなくなってくる。いったい彼らは何と格闘しているつもりになっているのか。やはり実質的には虚無との格闘となるのだろうか。思い込みや勘違いから、無駄で無意味な浪費を強いられ、それでもうまくいっていると思い込んでいるわけで、実際にをそれが続いている限りはそういうことになるわけだから、そう思い込むのも無理はないか。無理なのに無理ではないと思い込み、さらに無理を押し通して、周囲の人々をうんざりさせるわけだ。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、それが当たり前のこととしてまかり通っているだけなのだろうか。そうだとしても救いようがないのではないか。逆になぜ救われる必要があるのか。救いようのない行為を救おうとすること自体が無理だ。そういうことに凝り固まっている人たちは、そうし続けること自体に救いを求めているわけで、救いようのない行為を続けることが、ある意味で救いとなっているのかもしれず、そんな矛盾がこの世界の本質を物語っているのではないか。要するに誰も思い通りにならないのであり、思い通りになるように無理をごり押ししていること自体が、逆に思い通りにならないことの証しなのだろうか。


8月25日

 しかし国家とは何なのか。なぜ国家主義者となった者たちは命がけで我が祖国を守らなければならないのか。国家が君たちに何をしたというのか。税金を取り立てて官僚機構が勝手なことをやっているだけではないのか。それこそ言いがかりか。では国家に対して人々は何を述べたらいいのだろうか。なくせるものなら国家など早くなくしてしまいたいが、そうはいかないらしい。世界が統一されたらされたで、それに付随して予期せぬ不合理がまかり通ったりするわけか。そうなったとしても、またくだらぬ争いごとが起こるだけか。そんなことを繰り返しているうちに、結果的に暇つぶしかなにかになるのだろうが、たぶんうんざりしている人はいくらでもいるはずで、どうでもいいに違いない。尖閣諸島は明時代に中国人が日本人より先に発見したとか言っているようだが、なら明時代には中国領土ではなかったチベットやウイグルや内蒙古はどうなのか。チベット人やウイグル人やモンゴル人に征服した領土を返さなくてもいいのか、ということになるが、自分たちが後の時代に征服した土地は返さないのに、日本が占拠している東方の小島だけは返してほしいとか主張したところで、まったく筋が通らない話だろう。これくらいのことは政治家やマスコミがちゃんと説明しろよ、ということになるのだが、政治家もマスコミの方々も一向に要領を得ない説明に終始している。呆れてものも言えなくなるだろうか。

 どうでもいい話には違いないが、東京都が購入したいなら、さっさと上陸させて、測量でも何でもやらせればいいだけで、港でも造って中国から観光客でも呼んで、魚釣り島の頂上にでも、中国国旗を掲揚させて記念写真でも撮らせればいい話で、そうすれば少しは日中関係も改善するのではないか。しょうもない冗談か。それに対抗して日本の右翼の皆さんも、その手の観光ツアーで来てもらって、負けじと日本国旗を掲げてもらえばいいか。そんなことをやれば現地で中国人観光客と喧嘩になってしまうだろうか。では日中の両方の国旗を掲げてもらって、日本人も中国人も肩を組んでもらって記念写真を撮らせればいいのか。きっと両国民も了見が狭いだろうから、喧嘩になるのがオチかもしれない。

 竹島の方はどうなのだろうか、韓国人はさらに血気盛んで、日中に負けず劣らず了見が狭いだろうから、日本の観光客が行ったりしたらヤバいか。そこで日本国旗を掲げて記念写真など撮ろうものなら、現地に駐留している韓国軍に撃ち殺されてしまうか。笑い事ではないが、そうなったら笑ってしまいそうだ。日本の右翼の諸君よ、今こそ武装して、独島へ向かおうではないか。そこで韓国軍と一戦交えるべきか。あり得ない話か。行ったところで勝てるわけがないか。

 北方領土はすでにロシアの民間人が住んでいるし、追い出すわけにもいかないだろうから、なおのこと無理か。やはり日本も中国も韓国もロシアも、国内で国家主義者がのさばっている限りは、領土問題で譲歩すれば、すぐに弱腰外交だなんて非難されてしまうから、たぶん今後ともどうにもならないのではないか。


8月24日

 なぜか病の兆候があるらしい。嘘だろう。しかしなぜなのか。そんな疑念を感じるのはどうしてなのか。たぶんそこから答えが出てくることはない。うまくやっているのではないか。それも違うか。何だか手探り状態が続いているみたいだ。確固としたものが何もない。いつも流動的で、あっちでふらふらこっちでふらふらしていて、一向に落ち着く気配がない。何がそうなのだろうか。何もそうではないのかもしれない。きっと気のせいだ。だがそれで落ち着くとは思えない。何を落ち着かせようとしているのだろうか。はやる気持ちを落ち着かせて、何を考えあぐねているのか。そうではないだろう。いつもの繰り返しになってしまう。気に入らないならどうすればいいのか。考えあぐねていればいい。さっきからそうだ。方法が見つからないのはいつものことだ。それでかまわないなら、さらに考えあぐねていればいい。いくら考えても無理だ。では君は何を助けてほしいのだろう。なぜそこで助けが必要なのか。すべてはフィクションの中で行われることだ。なぜそうなってしまうのか。ただ言葉を記しているだけだからか。どうもまた妄想の中で何かをやっている気になっているのかもしれず、それが他人事のような気がして、だんだん頭がおかしくなっていって、それもいつものことで、嘘をついているのだろうが、気乗りしないことだけは確かなようだ。実質的には何も語っていないのではないか。要するに空疎なのか。たぶんそうだ。他に何も語れないから、こうなって当たり前なのだろう。それでは気が済まないのなら、何かまともなことについて語ってみたらいい。それができればの話だが。

 だがここで気力を使い果たすわけにはいかないか。まだやるべきことが残っていて、それをやり抜くための力を残しておくべきか。では何をやらなければならないのか。またそれだ。どうせやるべきことなど何も思いつかないのだろう。とにかく暑すぎて話にならない。気力が続かず、忍耐にも限度がありそうだ。暑さ馴れしている面もあるだろうが、それについて言葉を記すまでには至らない。それとは何だろう。だんだん時間が迫ってきて、そろそろ一段落つけなければならない時間帯か。そんなはずがない。まだ相当残りがあるはずだ。それは何の残りなのか。バッテリーの残量か。たぶんそんなことを語りたいわけでもないのだろうが、君は何かに急かされて、考えがうまくまとまらないまま、次の何かをやらなければならなくなり、焦っているのだろうか。そうだとしてもまだ相当の分量がありそうだ。ともかく焦っても何も思いつかず、それどころか無理に言葉を記そうとすれば、必ずおかしくなってしまう。何がおかしくなるのだろうか。もう夕方だ。どうせ終わる頃には夜になっている。だが何を終わらせようとしているわけでもないだろう。終わりようがない言葉の連なりが、この先も延々と続いてゆくわけか。やめるか否かは気分次第だ。君が付け入る隙などありはしない。君は何なのか。その正体は虚無そのものか。前にもそんなことを語っていたではないか。なぜそれを今さら繰り返すのか。他に何も語りようがないからか。冗談のたぐいなのだろう。すでに遊び半分のつもりか。別にゲームをやっているわけではない。対戦相手などいないはずか。では君は何なのか。所詮は誰でもない誰かでしかないのだろうか。

 だからこれ以上は語るべきことなど何もない。さっきもそうだったはずで、それでも語っているつもりとなっているのだから、やはり語らなければならず、無意味なことを延々と語らなければならない。そうは思えないはずか。どうも実態としてはそうではないらしい。君はそれを忘れているはずだ。語るべき内容を思い出せないのか。そうではない。それが語るべきことなのか。それを思い出せなかったのではなかったか。今は思い出したのだろうか。そうではないだろう。そんなものはもとからなかったのではないか。それを語っている最中か。語るべきことなど何もないと語る。その代わりに語っている内容は、相変わらずのごまかしか。ごまかしようのない空疎な内容を誰かが語っている。君ではないのかもしれない。人は愚かなのか。君も愚かに違いない。いつの世でも無理な要求を繰り返す。ひどい連中と商売しているわけか。気を許せばそれにつけ込んでやりたい放題だ。国家という狭い範囲にとらわれ、他の国家と争っているふりをしている。人が国家を持ち出すと、とたんに愚かになる。ロシアも中国もイランも、自国民を虐殺し続けるシリア政府の味方だ。国益を優先させれば、相手が人殺しだろうとなんだろうとかまわないようで、とにかく反政府勢力を支援している欧米諸国を利するようなことになってはいけないらしい。もちろんその欧米諸国の中心的な存在であるアメリカは、パレスチナの民を虫けらのように殺すイスラエルを支援しているわけで、その辺で個人が思っている人道主義的精神とは相容れないところがある。北欧で八十人近くの人々を殺したテロリストも、自国のイスラム化を避けるためには、やむをえないことだったと心底思っているらしい。国家主義者は自らが理想とする国家を維持継続させるためには何だってやりたがるのだろう。


8月23日

 先日Mr.Childrenの曲ばかり聴かされて、ついにエルヴィス・コステロの名曲を思い出してしまい、(What's So Funny 'Bout) Peace, Love and UnderstandingをiTunesで買ってしまった。ついでにいかにもMr.Children風に聴こえてしまう、Oliver's Armyも買ってしまった。そして先のPeace, Love and Understandingを聴くと、必ず思い出してしまうのが、スタイルカウンシルのWalls Come Tumbing Downだ。そういえばポール・ウェラーも似たような声の持ち主だったことに気づく。そしてなぜか昨日のベートーベンの第九で思い出したのだが、ツェッペリンにも合唱と同じように万人に受け入れられている曲があって、それが『天国への階段』ということかもしれず、そういえばそれと同じような位置づけの曲がクイーンにもあり、それが『ボヘミアン・ラプソディー』ということになるだろうか。でもクイーンには他にもいろいろ受け入れ可能な曲があるのではないか。しかし次から次へと何を思い出しているのだろうか。冗談には違いないが、どうでもいいようなことを延々と述べているように感じられ、でも他に述べられることなど何もないような気もして、それでもかまわないと思うしかないようにも思われ、何だかさらにおかしくなってしまうような予感がしているが、何とかこの辺で正気の領域で踏みとどまり、意味不明に脱線しないようにしなければならない。もうすでにそうなっているか。

 でもここからが正念場だ。またそれか。苦しくなるとそういうことになってしまい、結果的にはどうでもよくなって、正念場でも何でもなく、ただの通過点に過ぎないことがわかる。いったいこの状況は何なのか。暑い日々が続いているだけで、何が変わる兆しも感じられず、次第に焦燥感が増してゆくわけか。でも出口が微かに見えているのではないか。その出口から外へ出るための方策も施されているはずで、あとは結果を待つのみのはずか。そんな簡単にいくとは思えないが、少々の紆余曲折があるにしても、たぶんそれが自然の成り行きで、焦らず急がずそれに従ってさえいれば、何とかなるような気がしているのだろう。まあ準備に抜かりはあるだろうが、適当に焦ってみたり、たまにはやり方を誤ってみたりして、痛い目に遭って少しは懲りるのかもしれないが、それも想定内に収まるようなことでしかないか。それでも何とか前進して、どこかへと至り、感慨深げにそこまでたどり着いた過程を振り返ったりして、達成感に浸る場面も出てくるのではないか。それはそれで、それを味わいたくてそんなことをやっているわけでもなく、たぶんどうでもいいことの範疇でそうなってしまうしかないのかもしれず、何をやり遂げた気にもなれず、ただ淡々と日々を過ごすだけで、いつもと変わりなく生きてゆくのだろうが、それで何か不満があるとしても、それを解消する手だてなど思いつくはずもなく、そのままでいるしかないような気がしてくるが、実際にはどうなってしまうのだろうか。

 目下のところ君は何も求めていないようだ。なぜ虚無がそう思うのか。そうではないだろう。やはりおかしなことを語ろうとしている。時が経ち、結果が明らかになり、君はがっかりするのだろうか。なぜ期待外れだと思うのか。そうではない。はじめからわかっていたことだ。その程度のことでしかなく、君はそんな結果を楽しまなければならず、がっかりすると同時に愉快にも思っているはずか。でもおかげで少しはこの世界に対する理解が深まったのではないか。それともますますわからなくなってきたところか。どちらともいえないし、どちらでもあるのかもしれないが、なぜかその影響で身の周りに何かが集まってくる。その大半は塵や芥のたぐいかもしれないが、中には興味深いものもありそうで、そんな何かを収集することに生き甲斐を感じるまでには至らないかもしれないが、それらを眺めているだけでも、少しは気休めや暇つぶしにはなったのではないか。今さら強がってみても仕方のないことかもしれず、その程度で我慢する気もなく、もっと何かすっきりするような状況にならないものかと思っているはずで、やはり絶えずそうなるように仕掛けているわけで、日々現状と格闘している気にもなるのだろうが、だからといって何かをねじ伏せるようなやり方を試す気にもなれず、受け入れられないことを受け入れないことで精一杯で、大して自らに主導権があるとも思えないが、それでもうまくいく気になっているだけでも、少しは楽観的になっているのかもしれない。そんなわけで絶望感に苛まれているわけでもないので、もうしばらくは何とかやっていけそうに思える。


8月22日

 数日後の今日も暑かった。それ以外は何もない。もう夜になっている。なぜそんなことを思うのか。そこから外れたくないのだろうか。だが時が経ち、どんどん離れていってしまう。冗談だったのか。まだ生きているではないか。何がそうなのだろうか。またそれだ。やる気を失っているようだ。ところで点が入ったのだろうか。テレビのサッカー中継を見ながら眠ってしまったらしい。すでに翌日の夜だ。昨夜見ていたサッカーの結果も確かめずに、今は何を考えているのだろう。エアコンから吹き出される冷気が寒すぎるか。誰かがガード下の歩道で首を傾げているようだ。そんな光景を思い浮かべながら音楽を聴いている。説明がおかしい。唐突に何を説明しているのか。意味不明だろう。聴いている音楽もこけおどし的に支離滅裂だが、なぜか心地いい。そんな嘘をつきながらも、昼間ひらめいたことをここで思い出そうとしているみたいだ。今は無理か。

 ふとベートーベンがレッドツェッペリンのように思えてくる。根拠も何もないだろうが、直球勝負的に豪快な曲構成がそうなのか。そして時に笑ってしまうような不器用さも似ているだろうか。なぜかまた『モントルーのボンゾ』を聴いている。要するにこれが最終楽章なのだろうが、ベートーベンではないだろう。ツェッペリンを今聴くと、粗雑なハードロックという感は免れないだろうが、へたなのかうまいのかわからないが、たぶんへたなのかもしれないが、とにかく不器用なりに思いっきりロックをやっていることだけは確かで、誰もあんな風にはやれない水準でやっているようにも感じられる。全盛時の音には躊躇や迷いが感じられない。あれは何だったのか。ビートルズのような物語性がなく、かといってブラックサバスでもないし、ディープパープルなどでも決してあり得ない感じだ。要するにツェッペリンというのは、はじめから音楽としてはぶっ壊れていたのではないか。だからロックなのだろうか。確かロックンロールのスタンダードナンバーには、ロール・オーバー・ベートーヴェンという曲もあるが、ベートーベンもツェッペリンに負けず劣らずぶっ壊れている感じがしないでもない。第九などで仲良く合唱を歌っている人たちは、彼のぶっ壊れ具合には意図的に背を向けて、自分たちが受け入れられる部分だけしかやろうとしないのではないか。またヘビメタで様式美的に盛り上がっている人たちも、それ以前にあったツェッペリンのぶっ壊れたロックをなかったことにしないと、ヘビメタ共同体の中には閉じこもれないのではないか。

 君は何を妄想しているのか。かなりおかしい。何が飛躍しているという水準ではなく、要するに荒唐無稽なことを述べているのか。何でもなく、人畜無害な感じがしないでもないが、そんなことを述べているうちは楽しいのだろう。冗談の内かもしれない。しかし様式美とは何なのだろうか。それに逆らうと、脱構築だとかロックだとかになったのかもしれないが、ジャズなども古くから既存の様式をぶっ壊す試みを絶え間なく続けてきた歴史があるのかもしれない。無論パンクとかヒップホップとかラップなども、そういうところから生まれてきたのだろうし、それをやっている人たちは、絶えず革新とか革命とかいう意味に惹かれて続けてきたのだろうか。そういう大げさな言葉に頼らなくても、とりあえず他の連中とは違うことをやりたい、という軽い気持ちでやったことかもしれない。君もそういうものを求めているのだろうか。そういうのは誰もが求めるところか。たぶん保守的な人たちは、そういうことをやっている者たちを馬鹿にする傾向があり、自分もかつては反抗期的な放蕩息子のようなことをやっていたにもかかわらず、今は分別のつく大人のように振る舞っているので、どうせあいつらも時期がくれば、自分の愚かな行いを反省しながら、こちら側へやってくるのだろう、と高をくくっているのかもしれない。まさか大多数の人たちは、そんなありふれた若気の至り的な物語に回収されてしまうような人生を歩まなければならないのだろうか。


8月21日

 何もないのにさらに語ろうとする。それほど追い詰められているわけでもないが、どうもこのまま記述が継続されるらしい。いったいいつまでやっているつもりなのか。おかしいだろうか。ところで結果とは何か。どうなったら満足するのだろうか。いつになったら記述が止まるのか。気が向いたらやめるとしよう。それ以前にもう時間がないか。相変わらず頭の中で何が外れていて、求められているのはどのような結果でもなく、とりあえず何かが君を突き動かしていて、記述しているそれが、時には興味深かったり、また時にはまったく興味のない何かであったりするらしいが、それで何を述べていることにもなりはしないようだ。また正気ではないと思いたいのか。それは誰かの勝手だ。ではさらに何を語ろうとしているのか。君が知っていることではない。どうしてそうなるのかわからないが、ならば誰も知り得ないようなことを語りたいのか。それはわからない。ここは砂漠か。いきなりそれだ。何を空想したいのか。暗黒大陸じゃがたらの曲を思い出す。そこで食いかけのハンバーグがどうなったのだろう。歌詞の一部を思い出したのだろう。エアコンが利いている。かすかに機械の音が伝わってくる。どうも苦し紛れに支離滅裂な思いが浮遊しだしているようで、感覚がバラバラに対応しているようだ。記述が対応しきれていない時もある。目の前でどうでもいいような言葉が散らばっている。また幻想を抱いているのか。何かを語ろうとしているようだが、実際には誰も語っていない。この状況で語れるわけがないだろう。ここは何も語る環境ではないか。でも砂漠ではないだろう。強引に砂漠という言葉を持ち出したいらしいが、それを利用して何を語ろうとしているのでもなく、そういうことではない。ではどういうことなのか。だいぶ気持ちがトリップしているようだ。もう昼になっている。外は相変わらず暑いのだろう。このへんで少しやり方を変えるべきか。

 少し心身のバランスを崩している。よくあることだが、それ自体がマンネリなのではないか。目的を見失い、どこか遠くでさまよっていて、そんなことを空想している。意味不明だ。遠くを眺めながら、雲が湧きい出る光景を想像している。やはり意味不明なのではないか。理由がわからない。連携感が希薄で、何かの本質が浮き出ている感覚か。この世界は何でもない。それですべての疑問に答えていることになるのだろうか。いったいそれらの何が目当てなのか。たぶん今やりつつあることにどんな理由が追加されることもないだろう。ただ今までとは違う状況の中に身を置いてみたいのだろうか。それも現状を変えるための範疇で行動しているたぐいなのか。それにしては八方破れで、その意味もわからないのに言葉を記し、心底から何をどうしたいわけでもないのだろう。では試みのすべてはつけ焼きに終わってしまうのか。たぶん君にそれを求めるのは酷だ。やるべきことをやったたら、後は自然の成り行きに任せるべきか。実際にそうしているのではないか。そうやった結果がこれなのか。結果ではなくまだ過程の段階か。ならばこれからどうなるのか。すべては君次第か。すべてではない。だいぶ前からエルヴィス・コステロのような歌い方が鼻につくミスターチルドレンの曲がひっきりなしに流されている。声質まで似ているので、なんだか反則のような気がしてくるが、日本では後者のほうがメジャーだから、大部分の人たちは違和感を感じないのかもしれない。それから一日が経ったはずだ。もういい加減にこの回はやめたほうがいいのではないか。さらに言葉を記したところでこんな感じにしかならず、ここからいくら修正を施したところで、もはや手遅れだ。しかしいつも手遅れなのではないか。それはそうだが、どうもおかしい。何がおかしいのか。たぶんこんなふうに言葉を記していること自体がおかしいのだろう。


8月20日

 今が夕方なのだろうか。それからだいぶ時が経ってしまったようだ。その間に何やら難しい話が続き、肩がこり、肩など凝っていないのだろうが、なぜか成り行きでそんな嘘をつきながら、また空き時間を利用しながら言葉を記そうとしているらしいが、果たしてうまくいくだろうか。うまくいかなければやめればいいのか。やめる気がないくせにそれはないだろう。どうやら中身のない話になってしまいそうだが、それでも満足していただけるだろうか。誰に向かって尋ねているのか。そして何を訊こうとしているのか。いつもの通りで何もありはしない。何もありはしないが、言葉を記そうとしているわけだ。無理なのだろうか。何がそうなのかわからないか。またそれだ。だんだんぐだぐだ状態に近づき、そして終いにはどうなってしまうのか。まだそこまで至っていないだろう。でもこのままではマズイだろうに、この状態から抜け出すにはどうしたらいいだろうか。誰もそれを望んでいないのではないか。君が望んでいるわけではない。それどころか誰も望んでいないのではないか。ではどうしたらいいのだろう。だから君に訊いているわけではない。要するにそのへんで堂々巡りがしたいわけか。そうではないだろう。では何なのか。何でもないのだろう。何でもないが、そんなことを述べていて、結局自己言及に陥っているわけか。それがいつものパターンとなるらしい。たしかにぐだぐだと言葉を記している現実に変わりがなく、それもそれでそういうことなのだろうが、これではだめだと思いつつも、なんとなくそういうふうにしか言葉が連ならないようで、そんな成り行きに流されながらも、かろうじて正気を保っているらしいが、未だに何のことやらわからないままだ。しかし金とは何か。君は金がマネーゲームの資源であると思っているようだが、それが社会の中で暮らすために必要であることは言うまでもなく、働いて稼いで貯めて、自分の夢を実現させるために使ったりするわけで、そこに幻想が生まれるのだろうか。だが幻想とは何か。そんなふうにして生きてゆくことの中で、何が幻想をもたらしているのだろうか。どうも久しぶりにアルコールが入ったので、うまく言葉が出てこないようだが、とりあえず貨幣という意味での金は、虚構の価値を伴った資源である。物質としてではなく、フィクションとして人を縛り、作用するわけだ。

 しかしおかしな説明だ。説明になっているとも思われず、それでも説明しようとしているのだから、おかしくなってしまうのか。果たしてこれで理解可能な説明となっているのだろうか。いったい何を説明しているつもりなのか。金がどうしたのだろう。金を介して多くの人が交流し合い、他人を思い通りに動かそうとするために利用するわけだ。人を金で雇い、仕事をさせ、さらに多くの金を得ようとする。それで何になるというのか。産業が発展して、社会が繁栄するのだろうか。得た金の多い少ないで、人と人の間に格差が生じる。富の不均衡が生まれ、感情的な妬みや嫉みまで生まれる。より多くの金を手にした人を羨ましがり、自分の取り分が相対的に少ないことから憎悪さえ生まれるわけか。人を狂わせ、泥棒や強盗さえやろうとする者まで現れる。そこで人の本性が顕になり、フィクションの格好の題材とさえなりうる。要するに金は万能のアイテムなのか。そんなわけで早合点しそうになっているようだが、生き延びるためにはそれも必要だろうか。途中から意味不明気味になり、後はどうでもよくなってしまう。何のことなのか。金について語っているつもりだが、それはないと思う。金みたいな何かについて語っているのではないか。金という言葉についてか。少なくともそれは金属の金ではない。ものではなく虚構の何かだ。何でもないような何かであり、何でもないようななにかなのであり、しかしそれがあるかないかによって、社会の中でできることも限られてくるなにかなのか。人が行動する上での指標となるかもしれない何かか。そんなはずがないと思いながらも、心はそれにとらわれていて、いかにそれを獲得するか全知全霊をかけて考えあぐね、またそれをいかに有効に使うかも全知全霊をかけて考え倦ねているわけだ。ところで君は冗談でそんなこと述べているのか。またいつものようにそうではないと思いたいのだろう。だがこの意味不明は何なのか。それは何でもないと述べておこう。技巧を凝らして趣向を凝らしているつもりが、それがまったくの的外れだとしたら、それは何なのだろうか。君が語るべきことではないのか。いきなりおかしくなっているようだ。


8月19日

 まだこんなところだ。さらに記そうとするが、何も思いつかず、そのまま沈黙する。今はどの辺を移動中なのか。何だか気が抜けているようだ。数日後の今日も晴れて暑くなるのか。いくらか雲が出ているようだが、とにかく外に出ると暑い。空に飛行船が浮かんでいて、珍しい眺めだが、それだけのことで、やる気がしない現状は変わらないようだ。相変わらずそこには何もなく、過ぎ去る風景を眺めながら、時間が経ってしまうだけのようで、君はそんな世界の中で黙るしかないらしい。今や完全に意識が外れている。それでも夜になったようだ。時が経てば夜になる。それだけのことだろう。そして何もできなくなり、君は途方に暮れる。どうやらここまでのようだ。結局何もできはしない。君はそこで敗れ去るのだ。しかしそれは何の作り話なのか。破れかぶれで何を語ろうとしているのか。君に語れるはずがない。語ろうとしているのが君ではないからおかしいのか。おかしいわけではないだろう。時間がないのか。その通りのようだ。やがてそこから外へ出られなくなり、そこでひからびてしまう。まるでミイラ取りがミイラになってしまうようだ。そんなはずがないと思うのだろう。ではどうしたらいいのだろうか。そのとき何かが作動しているはずだ。ようやく何かのエンジンがかかってくるが、もう朝か。たぶん今日は無理だろう。他に用事があるらしい。そしてその用事によって、明日は疲れているはずだ。またさらに遅れてしまうのだろうか。そんな気配が漂ってきたが、何とかうまくやって切り抜けられるだろうか。わからないがそうするつもりなのだろう。そうやってさらに言葉数を稼ごうとしているらしい。この期に及んで悪あがきなのだろうか。そんなことも言っていられない。余裕がないようだ。何でもかまわないから言葉を記さなければ、ますます窮地に陥ってしまうか。そうならないようにしなければならないのだろうか。ではどうしたらいいのか。それで何が改まるわけでもない。だからそこからそうやって無駄に語ろうとしてしまうわけだ。今の君はそれでかまわないと思っている。

 他に何ができるわけでもない。何を思いつくわけでもなく、何を記せるわけでもない。だからこうして語り、意味もなく語ろうとしているわけだ。それでかまわないのか。かまうはずがないだろうか。蚊が飛んでくる。水を飲みたくなる。体に変調を来す。そんなはずがないと思うが、何かが近づいているようだ。何でもないことには違いないが、まだ生きているのだろう。実際にこうして言葉を記していて、呼吸もしているようだ。これは誰もが途方に暮れる状況なのか。君には理解しがたいのかもしれない。だが果たしてそこまでやる価値があるのだろうか。なぜそんなふうになってしまうのか。何なのか。何でもないと答えておこう。今日も暑くなり、君はまた窮地に陥ってしまうのだろうが、それでも何かを続けようとしているのか。現実の世界では何を続けていることになるのか。たぶんそれは呼吸をして、食をとり、要するに生き続けることになるわけだ。誰かがそこで生きている。そういう話だから仕方がないのか。仕方がないわけではない。しかしなぜ君はいつも不在でいられるのか。生きていないことになっているのだろうか。今はそういう話にしたいわけか。なぜそこで折り曲げようとしているのだろう。折り曲げねじって、何かと何かを切り離そうとしているのかもしれないが、どうもそうならないような成り行きの中で、必死でねじ切ろうとしているのかもしれないが、何と格闘しているのかわからない。夢の中でそんな体験をしていたのだろうか。そうではない。ならばそれは妄想か空想上で行われていることなのか。なぜそんなことを思うのか。何もないのに言葉を記そうとしてストレスが生じ、それでもなお記述を継続させようとしてそんなことを思ってしまうのか。その辺の理由がよくわからないが、何となくそんなことを記しながらも、この辺でいいと思い、これ以上やり続けると、さらにとりとめがなくなるような気がして、いったんここでやめようとしている。


8月18日

 また真夜中だ。何を考えあぐねているのか。そして相変わらず何ももたらせないことに気づく。誰かが言葉を記しているようだが、どうも思うようにいかないらしい。何がそうなのかわからないが、何をやりたいのかもわからないのに、思うようにいかないはないだろうか。そう思うこと自体がおかしいのではないか。だから思うようにいかないのだろう。そんなわけで何となくわからなくなっているようだ。これから君は何を語ればいいのだろうか。たぶんそれは君に関してではない。では誰に関して語ればいいのか。そんなふうに問うこと自体がおかしいか。ならばそういうことではないらしい。おかしいことを認めよう。君が誰に関して語るなんてあり得ないことか。その辺が何だかわからないが、君は精神的に追い込まれているのだろうか。望みが絶たれる。そういうことにしておこう。だいいち希望がないではないか。苦し紛れにそんな嘘をついている。そう述べて何をごまかそうとしてもわかってしまうか。では何がわかってしまうのか。それがわからなければ、またそこから長い沈黙が始まってしまうのか。だから何を語ろうとしているのでもない。それ以前に頭がいかれている。それが嘘かもしれない。とりあえず今の君には何かが必要だ。そういうことにしておこう。そうやって強引に言葉をつなげようとしている。こうして言葉を記している現実があるのだろうから、何もやらないよりはマシだと思っているらしい。どうやら完全に罠にはまっているようだ。そう思うなら思えばいい。歯止めが利かないのだから、そういうことになるだろう。そうやってさらに頭がおかしくなる。それのどこかおかしいのだろうか。そういう予定調和の問答が鬱陶しいか。それでもここまで記してきたではないか。記すこと自体が目的なら、それは達成しつつある。そういうことにしておきたいのだろう。それではだめだと思うなら、何か世間の話題に関して記してみればいい。そこに君の実体験を重ね合わせ、我田引水的に持論を展開すればいいのか。それが嫌ならどうすればいいのか。なぜ嫌なのか。誰もがやっていることだろう。だから嫌なのか。この際贅沢を言っている場合ではないか。何もないのに何が贅沢なのか。

 どうもそれは違うように思われる。そこに何かがあるのだろうか。自家中毒気味に記された言葉がある。そして歯止めの利かない自問自答があり、そんなことが執拗に繰り返され、次第にじり貧状態になる。それが冗談なのか。どうせそうではないと思いたいのだろう。まだ幾ばくかの可能性が残されているのではないか。そう思いたい。嘘でないならそれを示してみればいい。示せないから嘘をついているのか。もう疲れてしまったのか。しかし主張したいことが何もないというのは何なのか。何はなくとも何かあるはずで、何とかしなければならないところだが、だいぶ前から画面とにらめっこか。一向に前進できず、このままではどうなってしまうのか。何か固い岩盤を掘削しているみたいに思われてくる。無理に決まっているようなことを無理矢理やり遂げようとして、簡単に跳ね返されて、どこかあてが外れたような気分となっているのかもしれず、それでも実質的には何でもないのかもしれない。独りよがりもここに極まっているということか。たとえそうであっても、なおのこと語ろうとしているのではないか。やはり何とかしたいらしく、実際に何とかしようとしているわけで、その結果がこれなのか。どうということはなく、本当に目的が失われているように思われ、何を記したらいいのかわからなくなっている現状がありそうだが、要するにそういう泣き言のたぐいを記したいわけでもないのに、何となく記しているそれらが画面を覆い、結果的にそれが君を精神的に追いつめているのだろうか。笑い事ではないだろう。いったい人は何のために生きているのか。それも違うか。街に出れば、人が大勢うごめいていて、まだ夏休みが終わっていないからなのか、若者がふらついているような印象も受けるが、どうも夜遅くまで塾通いの日々らしく、小学生で週に三日通っていたり、終わる時間には親が車で迎えにきたりしている。どこの誰それがどこの塾に通っている、なんて路線バスの中でしきりに話題となっていたりするわけか。そしてやはりそこでも有名進学校を目指す競争などが繰り広げられていて、結果的に一握りの成功者とその他大勢の脱落者が生まれているのだろうか。オリンピックのメダリストたちが銀座で凱旋パレードをした光景をニュースで見たが、要するにああいうことか。あれが人々の目的なのだろうか。競い合う者たちや戦っている者たちを応援して、勝ち残った者をみんなで讃えるわけだ。まああれだけではないだろうが、国家やメディアはああいうことをやりたがる。


8月17日

 まだまだ暑い。来週になれば少しは涼しくなるだろうか。空っぽの何かを思い浮かべ、それが水で満たされるのを想像してみるが、意味不明だろうか。具体的にそれは何なのか。遥か彼方の山の上に入道雲が浮いている。この辺では雨が降りそうにない。強烈な日差しを遮るものなどありはせず、照らされたすべてのものに熱がこもっているようだ。それが真昼の光景なのだろうか。君は何を空想しているのか。空想ではなく、実際の体験に基づいた記述に違いないだろうが、たぶんそれがどうしたわけでもないだろう。そこに何が見出されているわけでもなく、頭の中は相変わらず空っぽのように思われ、何も導き出せずにいるらしい。これではまともな内容になるはずもない。しかし本当に危機は過ぎ去ったのか。それとも今は小康状態で、これからだめ押し的に恐怖のどん底へ突き落としに、何かがやってくるのだろうか。君の取り越し苦労は根拠が希薄だ。何がそこから伺えるはずもなく、何のためにそんなことを思っているのかもわからない。わざとわからないように語ろうとしているのかもしれないが、成り行き任せでここまで来たのだろうから、心が折れることもなく、ただ淡々と記述を続け、意味があろうがなかろうが、そんなふうに語っていること自体を受け止めるまでか。しかしそれで何を受け止めていることになるのか。その辺が謎だろうか。謎というか勘違いというか、要するに思い違いなのではないか。何に関してどう思っているわけでもなく、確かにその時々でうんざりするような事態に直面して、あらぬ被害妄想の虜となっているのかもしれないが、事が一段落ついてみると、何のことはない自然の成り行きの中で、小波乱が起こっているに過ぎず、そこで自らの危機だと感じるとしても、まだまだ自我が崩壊寸前に追い込まれるまでには至っておらず、そういう兆候が伺えるようになれば、とたんに無意識の制御機構が働き始め、取ってつけたようないかがわしいいいわけや方便によって、自我をたちまち窮地から救い出してしまうわけだ。そして用が済めば、何事もなかったかのように記憶から消え去ってしまう。当人にしてみれば何がどうなっているわけでもなく、気持ちの持ちようのようなこととなり、懲りたふうもなく、それらの経験から教訓が導き出されることもない。

 そうではないだろう。本当はかなり懲りているはずで、次はそうならないように、戦略的に様々な策を弄して、うまく事が運ぶように細心の注意を払いながら、行動してくるはずで、実際に昔よりはいくらか賢くなっているだろうし、それらの経験から冷静な対応が生まれてくる、と思っているはずか。実際はどうかわからない。しかし君は具体的に何のことを語っているのか。自らの経験一般についてか。さあ何のことやらわからないが、いつもの支離滅裂とどう違うのか。どうも語っている内容を完全に把握しきれていないようだ。それはどういうことなのか。自ら記している内容が、自らにとっては理解不能なのか。何だかわからないが、とりあえずそんなことを記しながら、できるだけ文章の内容を把握しようとしていることは確からしく、盛んに読み返しながら、何とかまともな内容になるように、必死でそれらの文章に食らいついているのだろうか。それこそ意味不明か。たぶんそういうことだ。意味不明には違いないが、そこには何らかの真実や自然な成り行きが含まれているのであり、自らが日頃から接している何かに影響されて、そんな内容を導き出さなければならないような必然性に従って、そんなことを記しているのかもしれず、だからそれらすべて否定するわけにはいかないのであって、そこに至る紆余曲折を取り除いてしまったら、やはりそれらの行為は何の意味も持たないようなどうでもいいことになってしまうだろう。そしてそれらの紆余曲折そのものが、そんな語りとなって、文章としてそこに記されているわけで、それを記している誰かは記されたそれを事実として受け入れなければならない。君が記しているのではないのだろうか。君ではない誰かが記述者となる場合は、君はいったい何をやっている存在なのか。それらの光景を眺めているのは誰なのか。それが君でないとすると、それらのフィクションには他に不在の登場人物でも設定する必要に迫られているのか。またわざと話をややこしくしようとしているみたいだが、些細な違いに過ぎない。君が誰であれ、それを記している誰かが誰であれ、そんなことはこの際どうでもいいような些細な問題でしかなく、とにかくそれらの記述が文章となっていればいいのではないか。


8月16日

 自転車で走っているのか。ツール・ド・フランスのようだ。時間の無駄か。何を見ているのか。見ていたら眠ってしまったようだ。真夜中に目が覚めて、言葉を記そうとするが、さらに遅れてしまったらしい。何を考えているのだろうか。何も考えていない。そんな感じなのだろう。もう引き出しの中身も空っぽだ。どうしたらいいのか。暗闇が君を後押ししているのではないか。そう思えば気が楽になるだろうか。どう考えても気楽ではいられない。何を探しているのでもなく、ここで何とかしたいようだが、こんなことを記している限りは無理だろう。でもやらなければならず、実際に言葉を記しているわけだ。これはすごいことだろうか。おかしな状況なのか。たぶんおかしいのだろう。人々は何に夢中となっているのか。なぜそうまでして勝負にこだわるのか。決して切り替えが早いわけではない。だから遅れてしまう。今のままでは完全に負けてしまうだろう。しかし何に負けてしまうのか。夢の中で何を思い出したのか。確か自動車に乗っていたはずで、立体交差の下をくぐって、どこかへ出たはずだ。鉄道の下をくぐっただけかも知れない。それに何の意味があるのだろうか。知らないうちに夜が涼しくなっている。気がついたのはそういうことだ。立体交差とは何の関係もありはしないが、それが何かを暗示しているのだろうか。君はここからどうしたいいのか。君が君ではないことを自覚すべきか。そして私の登場となるのだろうか。そんなことはあり得ない。まだ先が長いらしい。先がないのではなかったか。さっきまではそう思っていたはずだが、なぜそこで開き直ってしまうのか。意味不明にもほどがあるか。たぶんそういうことではない。では正念場を乗り越えてしまったのか。意識していなかったようで、何となく重くのしかかっていたような何かの圧力が消え去って、どうでもいいような気分となり、君はどこへも行かなくなり、ただ黙って部屋の中で誰かが言葉を記している。そんな光景を思い浮かべているだけか。

 ここからどうしたらいいのだろうか。思うのはそればかりだ。何の疑念にも遭遇せず、そんなことばかり記しているから、さらに行き詰まりが深化してしまう。他に何を思っているのか。そうではないだろう。そうなってはいけないのだろうか。なぜ無理に疑念を抱こうとしているのか。そういうことでもない。やはり先がない。恐れているのはそういうことか。時間もなくなってきて、何もしないままもうろくして、何もかもがどうでもよくなってしまい、そこでおしまいとなる。それがあり得ないことなのか。では君がそうやってつかみ損ねている機会を、他の誰がつかむことができるのだろう。そういう話ではない。ただそこで行き詰まっているだけか。それも違うのだろう。何を語ろうとしているのでもないのが致命的だ。何も思いつかなければ、語りが空疎になるのは必然だ。でもそれを記してしまうのだから、救いようがない。しばらく考え込んでいるようだが、何も出てこない。当然の成り行きだろうか。心のどこかで何かと戦っているようだが、何となく無理があるような気がしてならない。なぜそうなってしまうのだろう。なぜかそうなっているようだ。そんなわけでどうも行き詰まったまま、ここまで来てしまったらしく、何だかわからなくなり、何を記していいのかもわからなくなってきて、途方に暮れているらしい。この感覚は何なのか。誰かが君を引き止めようとしているのか。そこから抜け出ることができないようにしているわけか。とりあえず今ここにいて、誰かが言葉を記そうとして、実際に記しているわけだが、記しているこれは何なのか。なぜか急激にブレーキがかかっているようでいて、しかもそのブレーキが利いていないような気もして、何だかおかしな感覚に襲われている。そんな嘘をついたら納得できるのか。現状は納得しがたい様相を呈している。そう思えば合点がいくわけか。それも嘘なのだろう。ひとまず何かのせめぎ合いが収まりつつあるのだろうか。それがどういうことなのか。どうもしていないのに、どうにかなってしまうような感覚か。だがそれでもかまわないような気がしてきて、君は呆気にとられる様子もなく、淡々と事態を静観しているだけか。


8月15日

 ようやくこの日付か。三日遅れでは無理だろう。では明日になってしまうのか。明日になってしまったようだ。やる気がしないか。それは当然のことだ。精神的にも肉体的にも疲れているからそうなってしまう。何だかそれは違うような気もするが、何かが重くのしかかっているような気がするか。それも嘘かもしれず、心がここへ戻って来れなくなっているのかもしれない。しっくりこない原因がどこにあるのだろうか。原因などない。なぜすぐに否定するのか。原因を探るのが面倒くさくなったのか。もとからその気がなかったのだろう。よくわからないが、ここが正念場なのか。冗談に違いない。空疎なことばかり記している現実があり、それをどうにかしたいのだろうか。君に何ができるというのか。誰かがそんなことを記している。相変わらずの空疎な内容に終始してしまうようで、何となく釈然としないか。そういうことではない。何もありはしないのか。そういうわけではない。ではどういうわけなのか。たぶん疲れていないのだろう。気分がごちゃごちゃしてくるが、テレビを見ている。そしてどうしたのか。どうもせずに何も思わない。またそんな嘘をついているようだ。また野球を見ているのか。暇つぶしもいいところだ。そして時が経ち、精神的に追い込まれてしまう。馬鹿げているだろうか。何のことでもありはせず、そんなことしか記せないことが、今後何をもたらすのだろうか。どうもモーツァルトの曲はしっくりこない。狭い範囲でなら確かに彼は天才なのだろうが、どの曲もこれ見よがしな印象で、深みがないような気がしてしまう。短命だったから、そこまでたどり着けなかったのだろうか。ならば彼があと三十年生きながらえていたら、何かもっと違った展開があったのだろうか。それでもそれらの作品群は、音楽の歴史の一断面を象徴しているのかもしれず、クラシック愛好家なら感動する音楽なのだろう。

 まだそんな感覚が抜けきれていないような気がするが、何となく先が見えてきたようで、その先に真の終わりがやってくるのだろうか。また意味不明な冗談が行く手を遮っているようだ。違和感がない。ならば強烈なごり押しが必要か。何かの寄せ集めのような印象を抱いている。ハイドンなんて退屈で聴いていられないか。曲にもよりけりだろうが、でもおかしい。どうもクラシック愛好家とは違い、君はもっとガサツで拙劣な脳みその所有者のようだ。モーツァルトだとかハイドンだとかを悪く言ってはいけない。君自身は何なのか。何でもない存在で人でもないか。誰かが言葉を記しているだけのようだ。だんだん面倒くさくなって、そんなことは記さなくてもかまわないような気がしてくる。たぶんそういうことではない。すべてが断片なのだろうか。それをいくらかき集めても断片に過ぎず、謎など何もないのだろうか。それらをパズルのように組み合わせて、何か答えのような結果を導き出そうとしているのか。無理に決まっている。間違いだらけで、決して収まるところに収まらず、ぐしゃぐしゃに貼り付いている。それはどういうことなのか。ただの見せかけに過ぎないのか。君はそうやって何を語ろうとしているつもりなのか。君には経験が不足している。それを物語る経験が不足しているわけか。その代わりに持ち合わせているのは、自らを笑わせるような話の展開か。それにしては何か違っていないか。深刻な事態ではない。まだその件については何も語っていないではないか。だがその件とは何なのか。語るに値しないことなのか。では語らなければいいのではないか。その代わりにくだらないことを語っていればいい。要するに語れないということだろう。何も語れないというわけか。その件については何も語れないということになる。別にそれでもかまわないのだろう。だからその代わりにこんなことを語っているわけだ。それともそれはあり得ない嘘だろうか。


8月14日

 やはりここからができないようだ。時間があるのにやろうとしない。要するにできないのだろう。また翌日になっている。少し涼しくなってきたようだ。昼は蝉がうるさく鳴いている。雨が降る気配もなく、普通に時が経つ。何がそうなのか知らないが、大したこともないだろう。まだ夏なのか。たぶんそうだ。夏でなければ何なのか。そうことではない。語るのが億劫になってきた。そういうことでもないだろう。幼虫に食い尽くされて葉っぱが何もないのに、またアゲハチョウが卵を産みつけにやってきた。生まれても死ぬだけか。そういう習性だから仕方がないのか。君には時間がない。そんな嘘でも記さないよりはマシか。そういう問題ではないだろう。もう夜だ。ようやく雨が降って涼しくなってきた。しかし何もない。雨脚が強くなる。何かが佳境を迎えたらしい。そしてまた眠ってしまう。どうやらあきらめてしまったようだ。うまくいかない。わかりきっていることだが、要するに無理なのだろう。それはわかっている。わかっているが乗り越えなければならず、何度跳ね返されてもやり遂げなければならない。本当にそう思っているのだろうか。嘘かもしれないが、そう思っていることにしたいらしい。だから嘘ではない。そう思いたいのなら、思わせておけばいいではないか。それで何とかなるのなら、噓も方便か。そんなことを記しているうちに、嘘か本当か曖昧になってきて、どちらでもかまわないような気がしてくるのだろう。そうなったらしめたものか。そう記してみたものの、そう思っているわけでもないと思うのだろうか。君の知ったことではないか。そんな記述が繰り返され、空疎な内容が積み重なり、ますますやる気が失せるか。それでもかまわないような気がしてくる。

 やはり夜になってしまったようだ。何も語らずに何を思うのか。久しぶりにテレビでサッカーを見ていたらしい。今も見ているではないか。振り返れば見ることができる。なぜ背を向けているのか。別の画面を見ているからか。こうやって言葉を記しているわけだ。気に入らないのか。それだけのことではないか。Red Bullは何だかヤバい飲み物だろうか。近頃はまっている。それなしではいられなくなったら中毒症状か。そればかり飲んでいるのだから、すでに危険水域か。まだサッカー中継を背後から聴きながら、言葉を記しているのか。内容などありはしない。とりあえず文章になればそれでかまわないのだろうか。何となく違うような気がするが、とりあえずこれ以上は遅れたくないようだ。まともにはいかない。別に話題らしい話題などありはせず、領土問題などに興味はないらしい。国家に踊らされている政治家や活動家の皆さんはご苦労なことだ。それを煽り立てているマスコミの皆さんもご苦労様か。何をやっているのか。別に何もやっていない。もうすぐサッカーも終わりか。残り時間があと五分だそうだ。また寄り道なのかもしれない。帰りたくないのだろうか。そんな歌を聴いている。今日は雨が降らないのだろうか。誰かが何とか凌いでいるのだろう。意味不明みたいだ。チャーリー・パーカーの横で若きマイルスが真面目そうにトランペットを吹いている。誰の歌を思い出しているのか。ピアノが思い出しているわけではない。では誰がそれを弾いているのだろうか。ロスタイムが五分だそうだ。Jリーグは決定力がない。昨シーズンのプレミアの最終節で、ロスタイムで追いついて逆転してリーグ制覇したマンチェスター・シティーは神懸かりだったのか。そんなことも百年に一度ぐらいはあってもかまわないか。


8月13日

 どうも気が進まない。せっかくここまで来たのに、急にやる気が失せる。怠け病か。それではだめなのではないか。またそれか。近頃はそればかりか。それとは無関係にPoetryを聴いている。The RH Factorの曲だ。たまたまだろう。無限に続く試みではない。何だか行き詰まっているみたいだ。ではこの辺で終わりだろうか。蛍光灯に照らされながらしばらく考える。闇雲に何かを語ろうとしているわけではない。君は心に何を抱え込んでいるのか。そんな気もするが、首の後ろが痛い。どうせ嘘をついているのだろう。どこかに座り込んでしまったようだが、木陰か何かか。石畳の風景を思い出す。そこに刻まれた文字を読み、何かを確認しているようだが、君の墓石がどこにあるわけでもない。御影石だろうか。何のことでもない。そこで何かが枯れてしまうわけか。何がそうなのか。またおかしなことを述べているようだ。わざとそうしているのだろう。何もないからか。冗談ではないのだろう。誰が何をほざいているわけでもない。でも何も思いつかない。それだけのことだ。それだけだから厄介なのだろうか。そんなはずがないだろう。『日本の人』はいつ聴いても楽しそうだ。何のことやらわからないだろうが、もう翌日になっている。とにかく数日後は暑い。何でこれほどまでに暑いのか。まだ夏だからか。明日になれば涼しくなるのではないか。ならば明日になったら涼しくなった話をしよう。今日は暑いままでもかまわないわけでもないが、こればかりはどうしようもない。暑くて何を語る気にもなれないか。暑さをいいわけにして怠けるつもりか。それでもかまわないだろう。語るとしても大したことではない。

 だいぶぐだぐだになっている。いつものことだが、こんな感じになるしかないらしい。もう限界なのだから仕方がないか。少なくともよくなる兆しはないようだ。うまくいかないからといって、あまり感情的になってはいけない。少しは冷静に考えて、自らの度量を見極めるべきだ。たぶん大した人物ではないはずだ。他人の悪口を言える立場でもない。自分はこの程度なのか。そういうことだ。ならばどうしたらいいのか。すぐねじれてしまうのは致し方ないとしても、それを改められないのも事実で、ではどうしようもないではないかとなると、そういうことになる。笑っている場合ではない。とりあえずこの世界は生きにくく、うんざりするような毎日で、嫌なことばかりで、ついつい投げやりになってしまいがちだが、それで何がどうしたわけでもなく、そんな現実の中で生きていくだけか。馬鹿げているだろうか。それとも何か思い違いをしているのだろうか。要するに意識がフィクションの中へとのめり込んでいるのか。それはどういうことなのか。何とか現実逃避を試みようとして、その度に現実に引き戻されて、がっかりしているのだろうか。そんな説明も何だかおかしく、嘘みたいだが、何かがもう少しでわかりそうでわからないようなもどかしさを抱えているようで、それに気づけばたちまち視界が開け、嫌な思いなど吹き飛んでしまえば、願ったり叶ったりなのだろうが、本当にそうなったらおもしろいか。細かいことをうじうじ考えている自分が消え去り、清々しい気分の自分が心の中に立ち現れ、そして高らかに宣言するわけか。これでいいのだ!と叫んで涅槃の境地にでも達してしまうわけか。意味不明だが、そんなことを考えていると愉快な気分となり、少しは気晴らしになるだろうか。

 とりあえずうじうじ被害妄想ばかりに浸かっていると気が滅入る。別にそうだとは思えないが、たとえ絶望的な状況だろうと、前向きに現状を捉えなければ、気がおかしくなってしまう。後は事態が好転することを夢見て、やるべきことを淡々とこなすのみか。それならそれで、そういうことにしておけばいいではないか。どういうことでもないし、見方を変えれば、これでもうまくいっている方なのではないか。少なくともどん底ではないだろう。一応は何とかなっている部類に入るのではないか。そう思っておいてかまわないのか。そう思うしかないだろう。それ以外にどう思えば納得がいくのか。たぶんどう思ってみても納得がいかないのだろうから、少しは肯定的に思うべきだ。くだらぬ被害妄想と完全に別れられるわけでもないだろうが、それと同時にそういう妄想も利用しつつ、何とか記述に活かさなければならず、現状が悪くても良くても、どちらも語ることに結びつければ、それで何とかなるのではないか。そうやって言葉の連なりを延長してゆけば、自ずから道も開けてくるだろう。もとから何のために記しているのでもないのだから、常に自らの欲望から自由であろうとすべきで、そういう姿勢でいる限りは、たとえ細々ではあっても、継続が可能なのではないか。そんな気がしてきたところで、何だか今回も終わりが近づいてきたようで、後は適当にくだらぬ感情をあしらいながら、フェードアウトしてしまえばいいわけで、そんなこんなでそこから意識が外れそうになっている。今日はもう少し進ませようと思っているようだが、欲をかけばたちまち停滞してしまうのだろう。本当に思い通りにはいかないもので、なかなか先へ進めない状態がしばらく続いてしまうかもしれない。


8月12日

 どうもこれではだめか。昨夜とは違って、気が変わったのだろうか。それは何のことなのか。誰に聞いているわけではないのはいつもの通りだ。またそうなってしまう。では誰に影響を及ぼそうとしているのか。そうではないような気がする。語っていること自体がおかしいのだろう。そして何となくやめておいた方がいいように思えてくる。やはり違うのだろうか。詳細な説明が省かれ、何について語っているのかわからないまま、続けて言葉を記してしまう。時間はまだありそうで、さらにおかしくなってしまう兆しもなきにしもあらずだが、とりあえず朝は曇っているようだ。蒸し暑いのだろう。まだ季節が移り変わる兆しは感じられず、外れた頭も外れっぱなしで、当分は復活することもないか。それでも何かを語りたいようだ。おかしいだろうか。おかしいに決まっているだろう。意味がわからないが、とにかくそれを続けるとしよう。時が経てばまた気が変わって、何かまともに語ろうとするのではないか。とにかく今はだめだ。我を見失い、意識の所有者が誰かもわからず、そこでひたすら笑い続ける。ところでここはどこだろうか。ひねくれている。少し手前でねじ曲がり、どこへたどり着いたかわからずにいる。そして何をやろうとしていたのか。何だか頭の中がごちゃごちゃしてきて、砂利道で転び、膝を擦りむいた夢を見るが、今ここでそんな空想をしているわけではない。たぶん嘘をついているのだろう。いつもと何も変わったことがない。言葉を記すタイミングを誤ったのか。それこそ意味不明か。君は自らがまだ成長しきっていないことに気づき、これから変わる余地があると思う。

 しかし何を語ったらいいのか。ここに至ってまだやらなければならないことがあるらしい。様々な価値観の中から何を選び取ろうとしているのか。そういう話ではないのではないか。被害妄想に陥ってしまってはだめだ。たぶん何かが君をどこかへと導こうとしているのだろう。そう思うしかない状況の中で、いったい君は何をやったらいいのだろうか。品格がない人はいつまでもそのままのようだが、そのままにとどまれる人は幸せなのだろうか。ラーメンの味にこだわり、どこの店がまずいだのうまいだの言っているうちは、そういう水準で生きているだけなのか。たぶんそれで何かを知っていることになるのだろうが、なぜそれではだめなのか。だめではないのではないか。そうなると君は何か勘違いしていることになるわけか。人は何を求めて生きているのだろうか。何にかけているとも思えない。コンビニ弁当でもかまわないし、適当な漫画を読みながら暇つぶしをしていてもかまわない。いったいこの状況はどうしたことなのか。北へ向かうにつれて雲行きが怪しくなってくる。たぶん人生を楽しめないのではないか。何事にも柔軟に対応してゆかなければならなし、それが何を意味するとも思えないが、ともかく様々な事態が同時に起こり、同時に対処しなければならない状況なのだろう。今求められているのはそういうことなのか。要するに状況の変化に対処し続けなければならないようだ。何事があっても続けてゆかなければならないこともあり、その中のひとつが言葉を記すことなのか。笑ってしまうが、宿命のごとき深刻さで受け止めているわけではない。戯れ事には違いない。

 そしてもうこんなところまでやってくる。少しは涼しくなっているのだろうか。息切れがしているわけではない。目を閉じるとすぐに眠ってしまう。寝不足というわけではないだろう。君は何にこだわりたいのか。そんなことを語っている場合ではない。もう少しの辛抱だ。やがて秋になり冬になってしまう。そうなったらどうなってしまうのだろうか。何かが変わっているのだろう。変わらない光景の中でも確実に何かが変わっているはずだ。その中で人は何かをあきらめている。これ以上を望めそうもないからあきらめてしまうのだろうか。立場が変わり、その違いが人をあきらめさせる。くだらぬ復讐心の虜となってしまう人もいるだろう。あきらめきれなければそうなってしまうわけか。では君は何をあきらめてしまったのか。何だかわからないが、まだ何かに導かれている最中だと思いたいのか。しかし行き着く先に待ち構えているのはどんな事態なのだろうか。別に予想しなくてもいいのではないか。無理に先回りせずに、そうなった時のことを楽しみにしていればいい。どうやらまだ先が長いように思われてくる。そんなことを思っていると、明日急に死んでしまうかもしれないが、とにかく今はまだ先が長いと思っているしかなさそうだ。どうせ君の感覚ではうまく事を運んでいる最中なのだろうから、そういうことにしておけば、まだ苦難を乗り切れる気力が残っていると思い込めるのではないか。いったん心身が固まってしまうと先がなくなり、そこであきらめなければならなくなり、後には機械仕掛けの同じような日々が待ち受けているわけか。たぶんそれも勘違いの思い込みに過ぎないのだろう。とにかく無意識の力を借りて、自身も気づかないうちに現状を変えようとしているみたいで、意識は黙ってそれらの成り行きに従うしかないらしい。


8月11日

 これでちょっとだけ遅れを取り戻すことができるだろうか。だが何を思っているわけでもない。夕焼け空を眺めるのは秋が似合っているだろうか。今は何の風情もありはしないか。探せば何かありそうだ。蛇口に雨蛙が数匹貼り付いている。ブルーセットを聴きながら何を思うのだろう。もう違う曲になっている。結局何も思わず、外を眺め、首を傾げてみるが、何が疑念を引き寄せる力を持っているとも思えず、ただあるがままの世界が広がっているようだ。人はくだらないことに興味を持ち、おかしなこだわりを身につけようとするが、すべては水泡に帰す。そうなってしまう途中が省略されているのだろうか。結果ばかりがすべてではない。つまらないからそれでもかまわないのだろう。蘇州夜曲の次はイヴァン・リンスのライヴか。老人になっても歌を歌っているようだ。かすれ声が多くなっても歌っている。ジョニ・ミッチェルはまるでブルース・シンガーのようなしゃがれ声になり、かつてのような高音が響かなくなっている。別にそれがどうしたわけでもないが、ふとした拍子に記憶がよみがえり、そんなことを思っている現実がある。たまに曲をダウンロードするが、今の音楽シーンがどうなっているかなんて興味はなく、それがたまたま今年リリースされた曲であったり、数年前の曲であったり、さらに数十年前の曲であったりするだけだ。なぜ昔はヒット曲を聴こうとしていたのか。テレビでもラジオでもベストテン番組がいろいろあったから、そこから影響を受けていたわけか。今では流行り廃りに関係なく、たぶん聴くことのできる範囲で曲をいろいろ聴いているに過ぎず、それでかまわないような気がしている。

 はじめからやり直そう。またトゥーツのハーモニカを聴く。イヴァン・リンスの曲だが、オリジナルより洗練されていて、最後にイヴァン・リンス本人もちょっと歌っているのが、心に残り記憶に残る曲だ。ミルトン・ナシメントのトラヴェシアも同じように構成されている。それとは無関係だが、ゲットーの少年はまだどこかのラッパーがやっているだろうか。1989年のことか。もともとはマーヴィン・ゲイの曲だったような気がするが、ドニー・ハサウェイもライヴでやっていたはずかもしれず、それをガリアーノがラップでやったというわけか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。記憶が曖昧で、とにかく長い時が過ぎ去った。クロスビー・ステルス・ナッシュ&ヤングにもそんな曲があり、それをまたガリアーノがやっていた。だからそれから長い時が過ぎ去ったわけだ。リーダー格だったロブ・ギャラガーは別のバンドだかグループでやっているらしい。Two Banks Of Fourとはどういう意味だろうか。意味通りに訳せばそういうことになるわけか。それでも何だかわからない。何の変哲もないポップスをやっているわけではないのだろうが、まあそういう曲といえばそうなるだろう。昔のようなセンスではない。トーキング・ラウドというレーベルに所属していた輩全体が、そういう雰囲気を醸し出していたのかもしれない。アシッド・ジャズとかいう胡散臭い雰囲気だ。今聴くとジャズでも何でもないような感じなのだが、当時は何となくクラブ系の音楽だったように思われ、自分とはまったく関係のない世界でかかっていた音楽を聴いていたことになりそうだ。

 まあオズ・ノイとか普通にロック系ギタリストなのに、なぜかジャンルとしてはジャズみたいだし、その辺はよくわからないのだが、とにかくエレクトリック系音楽の中で、テクノだのハウスだのがあり、アシッド・ジャズも似たようなもので、さっきの蘇州夜曲もエレクトリック・ピアノのような音でやっていて、同系列の音楽に分類されてしまうのだろう。そんなわけでジャンルとか分類とかに関係なく、あまり固定観念を持たない方がいいみたいで、シェーンベルクとかなどはクラッシックに分類されるのに、かなりおかしな調子で歌われていて、時折まるで狂気の叫びのようにぶっ飛んでいるから、聴いていて恥ずかしくなってくるし、笑ってしまいそうになる。まあ正統派のクラッシックに分類されるであろうバッハの協奏曲なんかも、結婚式のBGMそのもので、イヤホンで聴いているからいいようなものの、例えばカーステレオかなんかで大音量で聴いていて、それを他人に聴かれたら恥ずかしくなってくるだろうが、でも何となく削除せずにたまに聴いていたりするわけだ。そんなわけでだんだんどうでもいい方向へ脱線してきたようで、もとからそういう方向だったかもしれないが、とりあえずこの辺がやめる潮時だろうか。後が続かないだろう。無理に続けようとすれば、またおかしくなってしまうような気がする。それでもかまわないといえばかまわないのだろうが、要するにこういう風に続いてしまうわけで、空疎なことを延々と述べてしまい、だんだんそういう引き延ばしに酔ってくるみたいだ。だからやめるべきか。


8月10日

 闇から糧を得られるだろうか。闇は何を物語るのか。闇の中にいるわけではない。夜だから照明のスイッチを切ればそうなるはずだ。そうしたいのか。何を思っているのだろうか。無理なのではないか。しかしなぜそれを続けようとしているのか。それだけのことだからか。そう述べる理由がわからない。気持ちをはぐらかそうとしているのか。何が足りないのか。くだらぬことを考えている。そう思いたいのだろう。今は昼だ。そしてすぐに夕方になり、夜になってしまう。仕事をしている最中か。雨が降り、いったん涼しくなったが、また暑くなる。まだしばらくは我慢の季節のようだ。またくだらないことを思っているのだろう。近頃はそればかりだ。ところで放浪の旅へ出かける準備は整ったのか。現状ではあり得ないだろう。どうやら君はあり得ないことを夢想しているらしい。しかし君に残された時間はあるのだろうか。勝手気ままに振る舞うことができるとは思えない。ではどうしたらいいのか。そんなことを望まなければいいわけか。ならばあきらめるとしよう。無論本気であきらめているわけではなく、そんなことを述べていること自体が無効なのかもしれない。では述べている意味がないか。気晴らし程度の効用はありそうだ。それ以上を望むことはない。現状では望めないからか。またおかしくなってくる。馬鹿げたことか。だが突き放してみても始まらない。絶望の中で暮らしているわけではない。むしろそれは贅沢な悩みのたぐいになってしまうのか。衣食住が足りていればそれでかまわないなら、そういうことになるだろう。

 それでも気に入らないなら、すべてを打ち壊しにすればいい。だがそれで何ができるわけでもなく、そのせいぜいが言葉を記すことぐらいで、それなら現状でもできているのではないか。他人によく思われたいわけでもないのだろうから、きっとこれからもこんな感じになるのではないか。馬鹿げていることは承知の上でこんなことを記しているだろうし、これ以外にはできないからこうなってしまうのだろう。だから嫌になってしまうわけか。でも何とかしようとしていることは確かなようで、こんなことの繰り返しから抜け出られるように、とりあえず努力していることになっているわけだ。それが何の努力なのか定かではない。そういう状況が致命的なのだろうか。でも四年に一度のオリンピックを目指しているのよりは、いくらかマシだろうか。マシでも何でもなく、比べようがないほどの愚かさに気づいていないだけか。君はそれほど愚かなのか。でも愚かだろうとなんだろうと、それが目的となってしまっては行けないのではないか。それとは何か。ただ闇雲に努力し続けることだろうか。闇雲ではなく、何か戦略的な倒錯のたぐいで、それで強がってみせるのもみっともないか。ではどうしたらいいのだろう。いつまで経ってもこうしているのではないか。それだけ継続できたら大したものだ。褒めてもらいたいのだろうか。たぶん褒められたものではない。まだそれらの内容を何とかできると思っている。無駄な悪あがきかもしれないが、そんなふうにして語り続けられたら、いつか何らかの境地に達することができるかもしれない。それもくだらぬ幻想のたぐいかもしれないが、そう思っていないとやっていられないのではないか。

 午後になり、さらに日差しが強くなり、嫌な感じになってくる。君は耐えられるだろうか。冷房が効いている部屋で言葉を記しているだけなら、大したことにはなりようがないが、いろいろな都合があって、そうではない環境の中にいる時が危険か。それでも何とかするつもりなのだろう。果たして遅れを取り戻せるだろうか。まだそんなことを考えているようだ。だいぶ前にあきらめたのではなかったか。そしてもう息が続かない。今日はどこまで深く潜ったのだろうか。そんなはずがない。だんだん精神の集中が崩れてきたようだ。やけくそにならないうちに、とっとと終わらせることにしよう。君はそこで何を求めているのだろうか。勝手気ままに振る舞うための時間がほしいか。他に何があるというのか。でもまだ嘘をついているのではないか。それより大事なことがあるらしい。何よりもまともに語りたいのではないか。そのためならどのような犠牲もいとわないか。また作り話のようになってきた。それで何をしでかすというのか。これが刑事ドラマなら、犯罪者の心境と似てくるだろうか。だがこれはこれではなく、それでもなく、ただそんなことを記しているに過ぎない。それではだめか。だめだから信じられないのだろうか。ではもっとまともに語る方法があるはずか。それを模索すればいい。しているのではないか。方法を模索しながら、こんな状況に陥っているのだろう。要するにこれではだめだということか。だめならどうしたらいいのだろうか。だめでなくてもだめなのではないか。ではどちらにしてもだめか。要するにこれらの試みはだめな結果に導くためにやっていることなのか。そう思うとがっかりしてくるが、本当にそうなのだろうか。何か他に救いになるような解釈はないだろうか。これでもいいと思えるには、どのようにこれらを肯定すべきなのか。冗談か。


8月9日

 ため息をつく。うまくいかなくなると、とことんそうなってしまうらしい。それでも続けなければならず、うんざりしながらも、そんなことを思っているらしいが、それではだめなのだろうか。たぶんそういうことだ。精神的に追いつめられている。そう思えばいいのか。何だかおかしい。おかしくてもかまわない。今はその時ではない。では何をやる時なのだろう。その時を待っていたのではないか。君にわかるはずがない。たぶん違うと思われる。君は黙っていればいい。そのうちなんとかなるだろう。そういうことなのだろうか。何を迷っているのか。試練を乗り越えなければ結果にたどり着かないなら、そういう成り行きに従うまでだ。そうなる過程で何か納得がいくものを見つけることができるかもしれず、状況がそうなるように仕向けているのではないか。それならそれで一連の嫌がらせのような成り行きにも合点がいくか。しかし誰がそんなところで何かの高みを目指す必要があるのか。でもそれらの経験を言葉を記すことに転化していって、何らかの成果を得なければ、そういうことを体験している意味がない。別にそれが貴重な体験だとは思わないが、そういう成り行きになっている以上は、それを糧として、それについてではなく、それに触発されたような記述を試みるべきか。しかしそれはどういうことなのだろう。なぜ君はそこで生きているのか。もう少し疲れない生き方というのを模索すべきではないのか。

 君は現状に幻滅しているわけか。でも精神的にも肉体的にも鍛えられている。そうなる成り行きなのだから、そうなるより他はあり得ない。別に君が望んだことではなく、自然の成り行きでそうなってしまうのだから、何だか馬鹿げたことだと思うが、そんな状況を受け入れなければならず、それを拒否するという選択肢はあり得ないか。あり得たらどうだというのか。やはり何もかも投げ出して、どこか遠くへ行ってみたいか。しかし旅には終着点があるのではないか。なければどうなるのだろう。果てしない荒野へ向かって突き進み、途中でのたれ死にだろうか。そういう映画でも見てみたいところだが、それはありふれた願望だろうか。たぶんここには物語の世界とは無縁の何かがありそうだ。何かとは何なのか。日常の光景か。何でもないが、常に幻滅を伴い、心に重くのしかかってきて、夢をあきらめるように仕向けてくるわけか。お前は惨めな人間だ。笑っている場合ではないだろう。そのにやけた面に何を浴びせかければいいのだろうか。そんなことまではわからない。ただその何でもなさに感動すべきなのか。まったく何もありはせず、それらの光景には幻想を抱く隙間さえなく、たぶんすべてが不可能なのであり、現状以外はあり得ない。それが恐ろしいことなのだろうか。恐ろしくも何ともなく、ただの現実であり、淡々と体験するしかないような状況の中で、君はそんなことを思っているわけだ。

 それの何が気に入らないのか。現状の他に何があればいいのだろうか。醜い性根をさらけ出しているわけでもないだろう。君はそれを隠し持っているはずか。だが別に復讐したいわけでもないだろう。それはそれでそういうことなのであり、そんな現状を受け入れ、いつもその中で生きているはずだ。今もそうだろう。他の誰を困らせたいわけではなく、それで困っているとも思えない。そんな現状の中で生きているのだから、それは当然のことだろう。君はそれを当たり前のように受け止めるしかなく、そこから抜け出そうとしているのではなく、その中にとどまって、そういう成り行きを見据え、それを受け流すこともなく、取り込んでいるようだ。たぶんそこから記述が生み出され、そんなことを記しているのだろう。それでかまわないのではないか。それが君のやり方なのか。そう思っていればいい。それしかできないのだから、そういうことにしておこう。他に何もなく、どんな可能性があるわけでもなく、君はそこにつなぎ止められ、そういう状況の一部と化していて、たぶんそれが君自身のすべてなのだろう。他に何もありはせず、どんなふうになりたいのでもない。それは哀しいことでも惨めなことでもなく、ただの日常なのであり、自然の成り行きの中でそんなふうに行っていることなのだ。だからなるようにしかならないし、ならないようにはならないのは当たり前のことで、くだらぬ幻想を抱くべきではないのだろう。君はもうあきらめているのだろうか。何をあきらめているのか。そこが知りたいところのようだが、自然とわかるまではわからないままでもかまわないのかもしれない。


8月8日

 外で蝉が鳴いている。もう夜だ。テレビを見ていたら、時間が経ってしまって、もうだめかもしれないが、ここから言葉を記してみよう。オリンピックも数日後のマラソンでは、優勝候補のケニアやエチオピア勢がお互いに削り合いをしてしまい、結果的に金メダル最右翼だったケニア選手と同じ姓の、キプロティクとかいうウガンダの選手が優勝してしまったようだ。漁父の利というやつか。そのついでに日本の選手も、あまり期待されていなかった人が六位入賞で、期待されていた後の二人は四十位台となって、惨敗だったようだ。勝負は終わってみなければわからないものだ。確かオリンピック前に、NHKが特集を組んで紹介したケニアの世界記録保持者も、エチオピアの有名な選手も、国の代表にすらなれず、あわてて番組の後半で紹介した金メダル最右翼の選手は、本番では一時独走態勢に入ったが、後半で失速して、結局三位の銅メダルに終わり、精緻な科学的な分析に基づいてあれほど番組で強調していた、ケニアやエチオピア勢の強さが、実際のレースではもろくも崩れ去り、誰も予想だにしなかったウガンダの選手が金メダルを取ってしまったのだから、大笑いもいいところか。そういえば四年前の北京五輪の前には、NHKは百メールでジャマイカのパウエルを主人公として特集をやっていたはずで、結果は誰もが知っているように、同じジャマイカのボルトが驚異的な走りで金メダルを取ってしまったわけで、まったく大外しもいいところだったはずだが、今度こそマラソンで、ケニアとエチオピアの一騎打ちのごときシナリオで、大げさにNHK特集をやったのに、残念でしたということか。テレビの前で笑い転げるほどではなかったが、久しぶりに愉快な気分になった。


8月7日

 今日も夜になってしまい、まだ何も記していないことに気づき、このままではだめだから、何とかしようと思うが、こんな具合だ。だめなのではないか。たぶんだめだろう。何も思いつかないのは相変わらずのようだ。現状の何を批判したらいいのか。何も見当たらない。だから無理だと思うわけか。それは君が求めている答えではない。では他に何を求めているのだろうか。遠くから花火を打ち上げている音が聞こえる。河川敷で花火大会のようだ。数日後のことだろう。しかしそこからどうやってここまでやってくるのか。隔たりが大きすぎるか。何のことだろう。何のことでもない。今ここに誰かがいる。それだけでかまわないのだろうか。かまうことはない。かまっていられないのではないか。それはどういうことなのか。何かが食い違っているようだ。それも気にするようなことではないのか。しかしおかしい。何となくそう思ってしまうらしい。それはおかしいことだろうか。無駄に言葉を連ねているだけみたいだ。でもそうなるより他はあり得ない。何だかそれでかまわないと思いたいようで、今さら後ろを振り向いても仕方ないだろう。しかし何の必然性があってそんなことを記しているのか。唐突すぎて意味不明か。ついでにそんな説明もおかしい。なぜそこで笑ってしまうのか。もう破れかぶれのごり押ししか残されていないわけか。そんなわけで何だかわからないが、強引に言葉を記しているようで、ため息ばかりが出てきて、何だかおかしくなってしまったらしい。こういうやり方はまずいのではないか。そんなことを述べている場合ではない。また何もせずに数時間が経ってしまったらしく、ふと我に返ったら、一日が終わろうとしている。確かにこのままではまずい。だが中身のないことを記している現状に変わりはない。ここからどうしたらいいのだろうか。わからなくなっているようで、困り果てているふうを装いながら、何とか状況を打開しようとしているわけか。打開できるわけがないか。だからかまわないのではないか。このまま通してしまってかまわないと思い、さらにごり押し状態となってしまうらしい。

 人にはその人固有の歴史というのがあるらしい。そんな映画を途切れ途切れに見たわけか。途中でオリンピック中継を見たりして、さらに途中で放送大学も見て、何を思ったか知らないが、思い悩んでいるふうも見せずに、どこへ向かうわけでもなく、机の上にある画面とにらめっこをしているとも思えず、そこから目をそらせば何が見えるわけでもなく、記述に集中できず、あらぬ方角から何が到来することもなく、気休めに音楽でも聴いてみようと思い立ち、iTunesを立ち上げて、何か聴いているようだが、それがどうしたわけでもないらしく、またため息が出て、冷静に対処できないことを腹立たしく思うわけでもなく、何だかどうでもよくなってきて、要するにこの程度のことなのだろうか。たぶんそういうことだ。気晴らしにもなりはしない。意味不明なだけなら、それはいつものことだ。そうならないように努力してきたわけではなく、何が水泡に帰してしまったわけでもないが、何だかそういうことなのだ。映画とは何だろう。作家がそこで何を実現しようとしているのか。それらの表現形態が、君に何をもたらしているのか。たぶんそういうことではないのだろう。君の悪意は通用しない世界だ。こけおどし的なことを述べているわけではない。そこに何か願望みたいなのが顕われているのだろうか。それにしてはお粗末すぎる舞台設定か。何も大げさに事を運ぶ必要などなく、もう少し自然な人を描き出せないものか。すぐにワケありの人が登場して、何やら不思議な雰囲気を醸し出そうとするばかりで、たぶんわかる人にはわかる程度で、その辺でお里が知れてしまうのであり、そういうところからしらけさせられてしまうのだろうが、たぶん漫画にも通ずるところかもしれないが、人はワケありであってはならないのだろう。そういうことを意識させた時点で、お粗末だと思われてしまうのであって、意識させない工夫が必要なのかもしれず、あからさまにそれを登場人物に説明させてはまずいのではないか。しかしそれで君は何を批判していることになるのか。たぶん具体的には何もなく、何を説明しているのかを悟られまいとしているみたいで、何となくそんな気がする程度にとどめ、そこはうやむやのままにしておいた方がよさそうだ。要するにまた面倒くさくなってしまったのか。


8月6日

 逃げてはいけないらしい。たとえつまらない内容になろうと、とりあえず言葉を記さなければ文章にならない。だが闇雲にそれはまずいだろう。わざとそんなことを記しているだけか。それにしても記しているうちに嫌悪感が増してくる。どうせそんなのは作り話か。なぜそう思うのか。考えるのが面倒くさいからか。どうやら完全に堕落しているようだ。無理もないが、話に無理がある。いったいどちらなのか。無理があるから空疎になる。そんなはずがないか。実際にそうなっているではないか。それは思い過ごしだろうか。どうやら考え過ぎるのもよくないらしい。しかし何を考えすぎているのか。どうもその辺もよくわからないようだ。そうやって言葉を記しているのがおかしくてたまらないか。そういうわけでもないだろう。何とかしたいのだから、そのまま何とかしているつもりになればいいではないか。何が出尽くしているわけでもなく、まだ何も語っていない段階だろう。しかし何なのか。君は何から学ぼうとしているのか。雨乞いの儀式をやっているわけではない。腕時計の針が進みすぎているのか。また支離滅裂になってきたが、やはりそこで見出されている様々な要素を鑑みて、総合的に判断しなければならないか。何を述べているのか。またごまかしのたぐいだろうか。あるひとつの要素から答えを導き出そうとしている。それはありふれた勘違いか。ハウツー的な思考に染まっているらしい。でもそれでかまわないのだろう。それで結果が出なければ、また別の方法を模索することになる。たぶんそんなことの繰り返しのうちに自足してしまうのだろうし、それで何か真っ当なことをやっている気になってしまうわけだ。そんな素人的な分析を仕事としてやっているとしたら、何となく恐ろしくなってくるか。お寒い状況のことは確かかもしれないが、他でそういうことをやってくれているおかげで、その隙をついて何とか切り回しているのかもしれない。どう見ても浅はかで視野が狭く、器が小さい人だ。そのくせ自己主張が強く、どうしても自分の手柄だと吹聴したいのだろう。君は本気になれない。その程度のことで何か行動に結びつけようとする気が起こらない。

 せこく立ち回ろうとすると小狡くなり、それに気づかないと、さらに悲惨な人へと変貌するようだ。たぶん他人から馬鹿にされていることに気づかないのだろう。君は不意を突いているのだろうか。同じようにせこく生きている人たちと友達になれそうだが、やはりそれらのみみっちい考え方に同調するわけにはいかないようだ。もう少し何とかならないものか。下には下がいて、上には上がいるのだろうが、何だかそれらの階層構造がくだらないような気がして、そんなのとは無縁でいたいようで、心が次第に離れていってしまうらしい。本質的なところを押さえておかなければ、いつまで経っても枝葉末節的なハウツー論の域を出ない。しかし何が本質なのだろうか。たぶん気づかない人は一生気づかないだろう。気づきようがない。狭い範囲内を死守することに汲々としていて、自分の領分をちょっとでも侵されたと感じれば、とたんに攻撃的になり、平気で嫌がらせをやってしまうのだろう。やはり世の中にはそんなふうにはなりたくない人の典型のような人が結構いるようだ。思い込みが激しく、程度の差があるのかもしれないが、中でも最悪の程度の人がサイコパスとでも呼ばれているのかもしれないが、今回の場合はそれとは少し意味がずれているかもしれない。要するに自らが小者であることに気づかない小者といった程度のことでしかなく、大それたことはやらかさない代わりに、口をついて出る言葉の端々から悪意が感じられ、そういう意味ではわかりやすいのかもしれないが、ああ感情的になっているなと思われるときもあり、また保守的で薄っぺらな正義漢面をする時もあるのだが、そういう人が漫画の『ワンピース』などを読んでいたりして、どうして自分が『ワンピース』の中に出てくるヤラレ役みたいであることに気づかないのか、その辺が理解しがたいところだが、ともかくろくでもない君に、何となくそう思われてしまうところが一番悲惨か。


8月5日

 またここで眠ってしまうのか。そうなるといつまで経っても遅れたままだ。なぜそうなってしまうのか。気力がない。限界だからか。そうかも知れず、もうここに至れば無理に語る必要がないのかも知れない。要するにこれ以上はまとに語れないということか。言葉が出尽くしているのだろうか。わからないがそうかも知れない。言葉の組み合わせなど無限にあるだろう。でも意味を伴っている組み合わせは限られていて、それがまともな内容を伴っているとなると、どうしても難しくなってしまうのだろうか。そんなふうに考えること自体がおかしいのではないか。もう翌日になっている。数日後は少し涼しくなってきたようだ。それにしても語ることがない。その代わりにくだらないことばかり記しているようだ。それではだめだろうか。だめに決まっているが、そうなるしかないらしい。もっと早く気づくべきだ。何に気づけばよかったのか。まだ気づいていないようだ。要するにやめるべき時期を大幅に過ぎてしまっていて、何が何だかわからないまま、途中から惰性で記してきたわけか。しかも本心からそう思っているわけではなく、まだ記そうとしているのだから、まったく懲りていない。今頃首を傾げても無駄か。ハエや蚊につきまとわれ、苛立ち紛れにそんなことを記しているようだが、それからどうしたのか。殺虫剤をかけただけか。そして興味のないことばかりに気を取られ、何を探求するつもりだったのか覚えていない。確かに目的などはもとからありはしない。それらは何をもたらすための記述ではなく、ただの気晴らしでやっていることに過ぎないのかもしれず、それならそれで、そういうことだと割り切って言葉を記せばいいと思うが、どうせそれだけでは物足りないのだろう。ではそうではないということか。そう思いたいだけで、実際はその通りなのではないか。そうでなければ何なのか。そこからが苦闘の始まりだったのだろうか。なぜそうなってしまうのか。実際には何もそうではないからか。語ろうとしていないことを語っている現実があり、語りたくないことを無理に語り、それを改めようとして改まらず、相変わらずそんな調子で言葉を記していて、嫌になってしまう。それは嘘かもしれないが、実際にはそれで何とかしているつもりになっている。

 それがお決まりのパターンなのだろうか。何かを考えようとすると、ますますわからなくなり、苦し紛れに言葉を記すが、そうではないような気になり、さらに別の何か思いついたような気になり、それを記そうとすると、こうなってしまうわけか。回りくどそうだが、結局記しているのは単純なことで、そうではなく、それが嫌だということに過ぎない。だからどうなっているわけでもないだろう。そんなわけで空疎なこと以外は何を記しているとも思わないが、またそれを否定するのか。それでもよくやっている部類に入るのだろうか。そうだとしても気休めにもなりはしない。ではどうしたらいいのか。何か政治的な話題などを語ればいいわけか。その場の思いつきにしてはありふれていて、新鮮味がないが、とりあえず民主主義とは何か。冗談のたぐいだろうか。唐突にそれはなく、大上段に振りかぶったふりをしながら、苦し紛れの民主主義頼みといったところか。頼まれても向こうが迷惑だろうか。要するに民主主義という言葉だけなのかもしれない。どんなにそれを追求してみたところで、中身が伴わなければ、ただの愚民主主義だ。それは言葉遊びのたぐいだろうか。またそんな嘘をつく。ならばもう少し何とかなるような努力が必要だ。やはりそうではないだろうか。では具体的に民主主義の何が問題なのだろうか。もうすっかりそれに関する知識が失われている。しかしどうでもいいと思われてしまう時が一番危険なのではないか。でも今後何の再来があるとも思えない。過去の呪われた歴史は過去にとどまり、来るべき未来においては、そうではないような成り行きが待ち構えていることだろう。それは何かの予言なのか。それともまたそれもどうでもいいことなのか。とにかくその場で君は君を活かさなければならない。政治とは無縁の分野かもしれないが、そこで何か納得できるものをつかみ取らなければ、何のために生きてきたのかわからなくなってしまう。今でさえそうなのだから、何もやらなければ今後もそういうことになりそうだ。まったく冗談では済まなくなる。だからそれが冗談のたぐいなのだろう。それの何がそうなのだろうか。どうもやっていることと考えていることがかけ離れているようだ。では両者はまったくの無関係なのか。そうとも言い切れないが、これからつかみ取ろうとしている認識は、今やっている仕事の中にはないらしい。なぜそう思うのだろうか。なぜかこれから記されようとしている内容は、現実の仕事を前提としてないようで、それどころかそんな現状は否定されるしかないらしい。ではなぜそうなってしまうのか。そこが問題なのだろうか。実際には仕事によって生かされているのに、それを否定していること自体がおかしいのであり、そのギャップを埋め合わせるために、それらの試みがあるのではないか。試みとは記述のことだろうか。


8月4日

 どうも長過ぎるだろうか。もう少し短めにした方がはかどるのではないか。それもそうだ。このままでは遅れたままだ。無理をしなければ追いつけないことはわかっているが、追いつこうとする気になれないようだ。それにしても人は人が関わっている社会から何を学んでいるのか。美学とは何だろう。美学に染まると勝てなくなるわけか。技をかけて一本を取る柔道、という美学に染まってしまった時点で、金メダルから遠ざかってしまったということか。でも格好をつけたことを語る柄ではないだろう。指導している監督者が、美学とは無縁の巨大なオランウータンのような顔をしているわけだから、その辺に勘違いがあったのだろうか。どうせ格好の悪い体型で、普段から汗だくになりながら格好の悪いことをやっているわけだから、何でもかまわないから手段を選ばずに、がむしゃらに勝ちにこだわる姿勢でやっていれば、少しは違った結果になったのだろうか。まあ言うのは簡単で、誰もがそうやれば、自ずから特定の国に偏ったメダル数にはならないはずで、別に今回の結果でも納得がいくのではないか。だからどうしたわけでもなく、勝負には勝ち負けがつきもので、勝つ者がいれば負ける者もいるということだ。無関係な君にはそんなことしか言えないようだ。もう見飽きたから、世界規模の大げさな運動会もさっさと終わってほしいか。また誰かの反感を買うようなことを述べてしまうのは君の悪い癖か。

 ところで君はそれらの記述を楽しんでいるのだろうか。苦行のような成り行きはごめんか。あまり本気にはなれず、力が抜けているので遅れたままになりつつあるようだ。しかし人のやることには理解できない面があるらしい。空は晴れているようだ。ケニアやジャマイカでは、ただ走ることだけに賭けている人たちが大勢いるらしい。貧困から抜け出すためにスポーツを利用しているわけだから、ご苦労なことだ。正気とは思えないか。その地域ではそれが正気の沙汰なのだろう。別の地域ではどうなのか。どこでも競争が激化しているところはあるのだろうし、心も体もぶっ壊しながら、そんなことをやるのに必死なのだろう。そういうことをやっていないと気が済まないのだろうから、やりたい人にはやってもらうしかなく、勝利という結果を追い求めて、実際にそうなれば自己満足を得るのだろうから、まあそういうことが病みつきになるのも無理はない。そこまでできない人たちは途中で脱落してゆくだけなのだろうか。競い合いにはそうした過酷さがつきものだろうし、苦労して勝ち残った人にはそれなりの報酬が送られるべきなのだろう。たぶん賞賛されるべきことなのだ。恐ろしいことか。人々はそうやって選別されて、勝者と敗者とに分別されるべきなのか。まるでゴミの分別のようなことを述べているようだが、悪意がこもっているだろうか。冗談のたぐいだろう。確かに金は希少な金属に違いないが、それとは無縁であろうとなかろうと、何がどうしたわけでもないだろう。

 また面倒くさくなっているようだ。何にうんざりしているのだろうか。どこから閉め出されているわけでもなさそうだが、コンビニでもスーパーでもポイントカードばかりで嫌になる。そしてスイカも買ってしまったので、財布が各種のカードでふくれあがり、本当にうんざりさせられる。ポイントカードほど不便で馬鹿げたものはない。レジで提示を求められたときに、持っていないと不快になるだけだ。少しの割引と引き替えにして、消費者の個人情報を盗み取ろうとする魂胆が愚劣そのものだ。原発再稼働反対も結構だろうが、個人的にはポイントカード拒否運動が盛り上がらないものかと思っている。そして最終的にはポイントカードを発行しているコンビニやスーパーで不買運動などが起こったらおもしろそうだ。しかしもちろん今時ポイントカードのないコンビニやスーパーなどほとんどないから、これも冗談のたぐいになってしまうのだろうか。笑っている場合ではない。何が冗談なのだろうか。


8月3日

 どうも考え直す機会がまだ訪れないようだ。しかし仕事とは何なのか。本質的に人が仕事を続けるのは無理なのではないか。仕事自体が人には適さないたぐいの行為なのではないか。たぶん人は一生遊びほうけているのが一番適しているのではないか。経済的にそれができないから、いやいや仕事をして金を稼ぐしかなく、その辺で無理がかかって、結果的に寿命を縮めているわけなのか。また冗談でそんなことを述べているようだが、先日生活保護状態から抜け出すために仕事を探している若者のことを扱っているテレビ番組で見て、どう見てもあんたには仕事は無理だとしか感じられず、そういう人たちの自立を支援している仕事もあるようで、何だか無駄で遠回りで恐ろしいことをやっているみたいに思われる。やはり人はいつでも不可能に挑戦しなければならないのだろうか。たぶんそれでも自立できる可能性に賭けているのだろうが、生活保護受給者で仕事ができなそうな人は、例えば生活保護費を支給している役所が臨時職員か何かで雇って、雑用でも掃除でも何でもかまわないから、そういう仕事をさせる以外にないのではないか。安く使えば人件費の削減にもなるだろうし、民間の会社も使えない人を雇わされて嫌な思いをすることもないだろう。しかしたぶん実際にはそうならないのだろう。ではまたそれも冗談なのだろうか。君にとっては冗談に違いない。世の中では人の善意や悪意とは無関係に不可能なことがまかり通るしかないらしい。だからそれも冗談のたぐいなのだろう。それ以外にはあり得ないのか。まともに取り扱うようなことではないらしい。君はそんなごまかしの中でしか考えられないのだろう。

 しかしこれから何をするつもりなのだろうか。何をしても、たどり着くのは空疎な思いに違いない。いつもと同じことか。いつものように言葉を記して、誰かが画面を覗き込み、言葉の連なりを読んでみるが、落胆の色を隠せない。君が眺めているのもそんな光景か。君にはそれがいつもの光景だとは思えない。では誰かはそこで何を語っているつもりなのか。何を語っていようと、君にとって何も好都合とはならない。そんな状況でしかないのだろうから、またでたらめに頼るしかなさそうだ。すでに何を述べているのか定かでないはずか。ここからどうするつもりなのか。何を否定しているとも思えないが、この世界には何もないでかまわないのか。それが近頃の逃げ口上なのだろうか。そういうわけでもない。ただ何もかもがありすぎて何も語れないということか。それも違うと思われる。これから先は何も起こらないだろう。どうもそういうことではないらしい。ではすべて思い違いなのか。思いと行動が結びつかない。無意識のうちに行動している。だから何を思っても、それとは無関係なのか。結局そこに人がいるだけか。意識が宿っている。そしてそうではないような気がするだけのようだ。世界に人は要らないのかもしれない。では他に何が必要なのか。言葉が必要か。人がいなければ言葉も生じないのではないか。言葉なら今ここで記しているではないか。そういうことではない。空疎な内容が気に入らないのか。なぜそう思うのだろう。そう思わなければいいのではないか。やはりおかしい。もうすぐ夜になる。たぶん気に入らなければ、記述している内容を変えればいいのだろう。空疎でないように見せかければいいのか。読んでそう思わなければいい。なぜそう思ってしまうのか。さらにおかしくなっている。ではそれも改めればいい。改められないからそうなってしまうのではないか。君は改められなくてもかまわないと思う。改めるのが面倒くさいのだろう。

 音楽は麻薬だ。あり得ないことをあり得ると思っているようだ。くだらないことだろうか。作り話の中で謎解きが行われ、それを読んだ誰かが興味を持つ。何でもないことなのに、そういう成り行きの中で君は考えているらしい。みんな疲れているのだろう。君が読みたいのはそんな内容ではないのか。何を読みたいわけでもなく、そんなことを記している現実があるだけか。何もおかしなことはない。おかしいのはそんなこと述べている自分自身だろうか。自分がおかしいのはいつものことだ。急に言葉を記せなくなり、無理に記そうとすると、内容がでたらめになり、それを読み返すと自己嫌悪に陥ってしまうわけか。だからそれが冗談なのだ。無理に語るべきではないらしい。夜になったようだが、ここから何か思いつくだろうか。思いつかなければ、いったん語りを中断すればいいだけだ。無理に語ろうとするとおかしくなり、おかしくなると収拾がつかなくなるか。こんな状況になり、とりとめがなくなり、どうでもいいような気になり、投げやりになって、それからどうするのだろうか。だから語るのをやめればいい。またそれか。同じことの繰り返しになっている。ここからどう語っても、良くなる可能性はないようだから、気休めとしての音楽が必要なのか。そんなわけで音楽を聴いているらしい。これも現実逃避の手段となっているわけか。たぶん誰かがそうではないと思うのだろう。そうではないような在り方を模索すべきだ。しかしそれは何の在り方なのか。フィクションではないから、人の存在は変えられそうもない。ありのままを受け入れるべきか。数日後に宝くじが外れていることがわかり、遊んで暮らせない現実に引き戻される。もう夢を追い求めるのはやめた方がよさそうだが、たぶん懲りないだろう。


8月2日

 眠いが少し言葉を記しておこう。独りよがりなことを語っていてはいけない。読むとそう思うのだろうか。それで考え直す気になったのか。何を考え直せば、独りよがりの自己中状態から抜け出せるというのか。しかしそれは何のための記述なのか。自己満足を得たいがためのそれなのか。そうとばかりもいえないか。ならばもう少し高尚な目的がほしいところか。高尚とは何だろう。それは冗談だと思う。高尚とは別の意味では冗談か。目的も何もありはしない。それは目的ではない。だがそれとは何なのか。またそれだ。目的でさえないということか。何をどうやってもそのままだろう。どうしてもそうなってしまい、そこで何かがおかしくなってくる。おかしいのは君ではないか。あるいは天気がおかしいのか。数日後は少し涼しくなったではないか。それがどうかしたわけでもないが、気象情報によれば、大気の状態が不安定なのだそうだ。君の知ったことではない。時折雨が降っている。誰かが嵐を引っ張ってきたのだろう。フィクションならそういうことになりそうだが、現実にはあり得ないことか。わけがわからない。君はそこで何を見出そうとしているのだろう。何かの幻影が見えているのだろうか。実際は何でもない。だが本当にこの世界には何もないのだろうか。そういう疑問が外れている。そして蝉が鳴いている。それだけか。それだけではないから、この世界があるわけだ。何もないことに感動しているわけではない。そんな嘘をついていることも、どうでもいいことか。たぶんこの世界にはすべてがある。すべてという意味や状況ではそういうことなのだろう。君はそれで事足りるのか。たぶんそうなるだろう。

 たぶん君がやり遂げようとしていることは、目的から生じた動作ではない。その場の成り行きがそうさせているのであり、君を君足らしめている様々な要素が、君をそういう行動に駆り立てているのだ。だがそういう説明では納得がいかないのだろう。何か明確な目的がないと、この先に言葉をつなげていけないだろうか。無理ならやめてしまえばいい。それはわかっているところだが、やめるまでは続けなければならず、とりあえず今はその途中の段階か。それは本当だろうか。それの何が嘘だというのか。もうやっていられないから嘘なのか。そうやって言葉を記しているわけだ。またわからなくなり、これ以上は何も語れないことに気づくが、これまでも何も語ってこなかったのではないかとも思い、何かを語るという動作そのものに疑念を抱く。だからそれはあり得ないことだろう。疑念と抱くこと自体がおかしいのであり、誰かによって記された文章の中では何かしら語られていて、それをもって語っていることにしたいのであり、そんなことにまで疑念を抱いているときりがなくなり、終いにはこの世の何もかもにも疑いの念を抱かざるを得なくなってしまうのではないか。要するに君は哲学者気取りで、何やら抽象的な存在論のたぐいに染まっていて、実世界から完全に外れているのだ。そんなことがあり得るだろうか。そこで何を想像しているのか。それもまた冗談のたぐいだと片付ければ済むことなのか。そういう方面ではそういうことだろう。また別の方面では、そんなことについて真剣に討議したりしている人たちもいるのだろうが、とりあえず君はその柄でないようだ。遠くから雷鳴が響いてくる。降るならパラパラ雨ではなく、もっと激しく降ってほしいか。

 しかしその先はどうしてほしいのか。もっとその辺の思考を深めてほしいのだろうか。何だかわからなくなり、理解できないと見るや、すぐさまはぐらかしにかかってしまいそうだ。なぜそうなってしまうのだろう。述べていることがたわいないからか。それもあるが、自信を持てないことは確からしく、たぶんどうでもいいような気分で、後はごまかすしかないのだろう。ごまかせなかったらどうするのか。なぜそう思うのか。今日は何だかおかしい。今日ではないだろう。おかしいのは数日前の誰かか。そんなことはどうでもよく、何でもいいのではないか。誰がどの時点でおかしくなってもかまわないということか。ますますおかしなことを述べているようだ。ふざけ過ぎだろうか。完全に気が抜けている。何だかわからないまま、途中から内容を把握できなくなっているみたいだ。文章を読み返す気力がない。とても正気とは思えないが、何がどうなっているわけでもないらしい。読み返す必要さえないのだろう。何だかそれでかまわないような気になり、さらに続けて言葉を記す。すべては無駄で無意味なことか。そう思いたいだけだろう。実際はそうではない。それもそうではないと思いたいだけか。本当はどちらでもかまわないのではないか。それもそう思いたいからそう記しているに過ぎないことに気づき、さらに致命的な墓穴を掘っているような気になる。でも笑ってしまうか。本質的なことは何も述べていないのではないか。その場の思いつきばかりで、支離滅裂なことを述べようとしている。もう破れかぶれなのか。それともそれも計算の内で、文章の中で演技でもしているような気分なのだろうか。勘違いもいいところか。でも何だかそう記している時が楽しいのかもしれず、それでつかの間うまくいっているような気になっているわけか。どうやらそれも思い違いのたぐいに違いない。


8月1日

 どうも記述に集中できない。ここから何か思いつくだろうか。無理なのではないか。もう時間が時間だ。でも何か語ろうとしている。寒くて凍えそうか。エアコンを切った方がいいが、切ったら今度は暑くなる。どうしたらいいのだろうか。言葉を記すのをやめたらどうか。どうせ空疎なことしか記せないのだから、今日はやめておくべきだ。それでやめてしまったのだろうか。どうやらエアコンをつけたまま眠ってしまったらしい。いつものことだろう。もう五日後か。これほど遅れたことはかつてもあったはずだが、もうだめなのではないか。ここからどうしろというのか。誰に訊いているわけでもない。ここで求められるただひとつか。やめることだ。あきらめてやめれば楽になる。たぶんそういうことでしかない。それ以外にはあり得ない。そう思うならそうすればいいではないか。でも実際はやめていないのはどういうことなのか。言葉を記すのをあきらめきれないということか。そういう問題でもないだろう。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。そうだとしても、それはそれでそういうことでしかなく、要するにやめたいのにやめられないということだ。意地を張っているわけか。それでもかまわないだろう。でもいくら意地を張ってもこんなことしか記せない。今度はそれが気に入らなくなり、そんなことしか記せないのならやめた方がいいと思うようになり、だからさっきからそう思っていることに気づくわけだ。でもやめられない。君はそれを続けようとしているらしい。今は現状に耐えることしかできない。耐えながらも機会が巡ってくるのを待つ。そう思うしかないのだろう。朝は静かだ。何日後の朝なのか。

 現状を打破したいのか。あり得ないことだ。そうなる前に押しつぶされそうか。何に押しつぶされるのか。周りの空気か何かか。なら現状に染まればいい。ますますわけがわからなくなるだけだろう。そしてまたやる気がなくなってくる。なぜそうなってしまうのだろう。そうなるように仕向けているのか。何とかするつもりだったのではないのか。昼も間を見つけて言葉を記す。何も記すことがないのに記しているから苦しいだろう。そして今は夜だ。Harvest For The Worldを久しぶりに聴く。数分の出来事だ。今は別の曲を聴いている。何と対峙していたわけでもなかったらしい。梢が風で揺れている。観賞するような雰囲気ではない。改めて考えるまでもなく、言葉を記せばいいのだ。それだけで事足りる。どうでもいいようなことか。ブラッド・メルドーの曲はどれも長い。深刻な状況なのだろうか。曲からそんな雰囲気を感じ取るが、どうせ君の勘違いだろう。そんなことを記しているうちに、何とかしようとする気が出てきたのか。依然として何もありはしないのに、何とかしつつあるようだ。着々と何かが進行中か。いつでもそうだろう。ただいつもはそれが君とは無関係というだけか。今回もそうではないのか。そうであってもかまわないか。そうなるといつもパターンとなって、何となく合点がいくだろうか。別にそうならなくてもかまわない。そうであってもかまわないのに、なぜそうならないのだろう。まだそれに関しては何も語っていないではないか。なぜそうなってしまうのだろう。それは語ることではないからか。またおかしな方向へ記述が進んでしまう。そうならないための方策を巡らすべきか。今それをやろうとしているのではないか。そんな嘘をついてどうするのか。何となく何かがどこかへねじれそうになっている。それも嘘だろうか。何となくそんな気がするだけか。

 そこへとどまっているわけにはいかないのか。それは誰の台詞になるのだろう。作り話の中ではすべてが流動的に進行中で、まだ何も固まっていない。確実なことは何も言えないというわけか。誰が何を言っているわけでもないだろう。ただ言葉を記しているだけで、それ以外に何が生じているとも思えない。では誰がそう思っているのか。君にそれを求めるのは酷か。意味がわからない。闇の中で誰かが叫んでいるようだ。映画でも見ているのか。ただ音楽を聴いている。もう少し真面目になれないものか。これでもかなり真面目にやっているつもりのようだが、わけがわからないのが致命的か。だが贅沢を言っている場合ではない。この状況で言葉を記しているだけでもすごいことなのではないか。またそれも嘘か。いったいいつになったらまともなことを語る気になるのか。でもちゃんと言葉は記されている。内容が空疎だろうと、ひたすらわけがわからないことを述べていようと、それが記されている事実は事実として受け止めなければならず、それだけでも大したものだろう。それも嘘なのではないか。君は心にもないことを思うのが好きなのか。そういうことでもないような気もするが、今は何でもかまわない。何とかしつつあるのだろうから、それはそれで肯定的に捉えなければならないと思う。誰がそんなことを思っているのだろう。たぶんそんなことはわからなくてもかまわないのだろう。これまでもそうしてきたし、これからもそうするつもりなのだろうから、そんな記述を眺めながら何を思っても、黙って受け流すしかなさそうだ。人生山あり谷ありなのではなく、谷あり谷ありであってもおもしろいと思う。実際にはそうではなく、さらに谷あり崖ありか。山でも谷でも崖でもかまわないか。それらはただの言葉であり、そこから連想される意味など無視していれば、何でもないことか。