彼の声81

2010年

11月30日

 どうやら今日が今日であるために必要な今日という日付がここにありそうだ。嘘でも冗談でもない。やっとここまでたどり着き、何となく一安心か。それほど安心している場合でもないか。とりあえず言葉を記してそれを終わらせるとしよう。できないことではないが、何かの邪魔が入れば、たちまち遅れてきて、過去の日付となってしまうのだろうが、君はそれでもかまわないと思いながらも、何となく今という時と同調していたい気にもなる。それはたまたま巡ってきた機会でしかないが、それをそれとして、そういう気分でいたいのだろうか。誰かにはそれがわからないようだ。別に大したことではなく、いつも感じていることでしかないようだが、それを改めて実感してみると、何となくではなく、たぶんそれが今その時なのだと思うことが、新鮮な気持ちになるのかもしれない。それがどうしたわけでもないのだろうが、そういうことを述べていること自体がおかしな感覚を呼び寄せているのか。誰がそう感じているわけでもないのに、虚構の中で何を語ろうとしても、それは違うと思われ、語っているすべてが過去の出来事でしかない時、無意識は今や未来にあこがれを抱き、そこにたどり着いてみたいと思うのだろうか。今がそうなのではないか。今があるためにはどんな言葉が必要とされるのか。言葉は不要だ。語っているそれは過去に属している。今では誰も何も語らず、記された言葉は今という時を捉えられずに、叶わぬ願いでしかないような語りがそこに記されるだけで、君はそれとこれとは無関係だと思うようになる。

 それだけのことだ。それだけでしかないことが何を捉えているわけでもなく、他から何かを援用しつつ、それとは違った感覚を表現しようとしているわけだ。だから君は勘違いしてはならない。それだけのことにこだわる必要はなく、他の何を語る必要もなく、ただそこに佇んでいるだけで、何もかもが済んでしまうのだ。苦しむのは他人であり、場合によっては命を落とすのも他人だ。危険極まりない行動に魅せられて、自らも危ない橋を渡ってお宝を手に入れようとしてはいけない。それはあくまでも他人のやることであって、君はそれを黙って眺めていればいいのだ。気に入った音楽でも利きながら、あるいは薄ら笑いを浮かべながら、皮肉混じりの軽薄な言動を弄んでもかまわない。それで何かを述べていることになるのなら、そんなに楽なことはないではないか。傍観者の立場を占有していること自体が、心に余裕をもたらしているのだ。そこでいくら無責任なことを述べようと、誰も咎めたりしない。それは君の特権だ。君は自らが行使しうる権利を行使しているだけで、何ら悪びれる必要はなく、見物している対象に負い目を感じることもない。ただとりとめのない思いとともに、それらの出来事の進行途中で、驚いたり喜んだり悲しんだりしていれば時が経ち、やがて話が収束して、そういうことだと納得すればいいだけだ。それ以上の何を求める必要があろうか。無理に無い物ねだりをしても意味がない。

 他の誰かが何かを主張して、それに付随して何らかのパフォーマンスを繰り広げるかもしれないが、同調したり同情したりするには及ばない。君には関係のないことだ。わずかでも何か関係があると思うなら、それは幸運なことであり、誰かと同じ話題を共有できる幸せを満喫すればいいだけで、それ以上の何があるわけではなく、それ以上を求めて、おかしな行動にその身をゆだねてしまうのは危険だ。例えば共感の証しとして、勘違い気味に声をかけるのは言語道断か。何かと混同して、幻想を抱いてありもしない幻影を追いかけてしまうだけで、あきらめきれずにさらに何かを追い求めてしまうと、気づかないうちに虚構の世界の住人となるだけで、フィクションの中で語られる登場人物と成り果てて、上の空でひたすら夢見る日々を送ることになるのだろうか。今さらそんな嘘をついてみても、誰も信じはしない。ここは現実の世界であり、その中で誰かが言葉を記している。たぶん実際には誰もがそれに気づいてしまうのだ。いい加減くだらぬ夢を追い求めるのはやめにしてしまい、その時点でありふれた大人になっているわけか。そして今までに何を見聞してきたわけでもないことに気づき、自らが大した人間でないことにも気づき、程よい妥協点を探りつつ、この世界と折り合いを付けようとする。それと同時に今までやってきたことを振り返り、かなり無駄に時を浪費してきたことにも気づき、それを今から改めようとするが、気づいた時にはもう遅い。既に余命幾ばくもないことを悟り、急いで何かの境地に達しようとでもするわけか。それは各人の都合によって異なるだろう。


11月29日

 危うく奈落の底へ落ちかけたが、寸でのところで踏みとどまり、かろうじて今日の時間帯に舞い戻ってきた。そんなのは嘘だろう。きっと嘘に違いないが、そんなのはどうでもいいことか。何が嘘だろうと、愛は最後にやってくる。意味がわからないが、他の誰かがそんなことを語っていたかもしれない。それも嘘だろうか。何でもかんでも嘘だと指摘するのは意味不明か。でもそれで何か語っているとしたら、それは何なのか。何でもありはせず、何がどうなっているわけでもない。そして何を語っているわけでもない。君はそれで満足するだろうか。もう今日が過ぎ去ろうとしている。ではまた奈落の底か。そんなはずもないだろう。まだ何とかしようとしているらしい。たぶん何とかできるだろう。何の自信も根拠もないが、今はそう思うこととしよう。だから何がどうなるわけでもない。果たしてそう思うことによって事態が好転するだろうか。だからそんな大げさなことではなく、単に言葉を記しているだけで、その内容が空疎だろうと馬鹿げていようと、そんなことはどうでもいいのではないか。だからそう思いたいのか。実際にはどう思っているのだろうか。何とかしようと思っているわけだ。そして実際に何とかしようとしているらしい。それだけのことで、そんな思いに反して空疎でくだらないことを記しているはずだ。そうだと思うならそれをやめなければならないのだろうか。君にやめられるはずがない。

 その気がないからそうやって言葉を連ねている。わかりきったことを語り、つまらぬことを繰り返し、それでそれらの文章が出来上がり、それを君はくだらないと思い、わざとらしくも自己嫌悪に陥っているわけか。誰がそうなのか。君ではなく、他の誰かがそうなのだろうか。なぜそんな嘘をつくのか。そんなことを述べながらも、次第にエンジンがかかってきて、大急ぎで何かをやろうとして、さらに困惑の度を深めているようだが、君はそれでかまわないのだろう。今は誰もがそう思っているはずで、そのまま突っ走ればやがてゴールが見えてきて、そこに至ればそれで気が済んでしまうのかもしれないが、誰の気が済んでしまうわけでもなく、ただそう記しているだけで自己満足に浸っているとも思えず、誰かは自らの意識反して言葉が連なってしまうことに腹立っているとも思えないが、何となく心外なのかもしれない。結果が期待外なのは毎度のことか。だがそれが取り柄だろう。そんなのをいつまでも続けていられるのも、決して満足のいく結果を得られていないからなのかもしれず、だからさらに試行錯誤を繰り返して、納得のいく文章を模索し続けているのではないか。今さらそんな嘘をついても無駄か。それは冗談で述べるようなことではなく、何となく真面目になっているふりをしながら、真っ当な内容になることを目指しているのかもしれないが、それも嘘に思われてしまうのは、そう思っている心がひねくれているからだろうか。

 そうだとしてもそれでかまわないのか。何を語ってもかまわないのだから、それに対して何を思い、何かを感じようと、それは誰かの勝手か。たぶん何も根拠がなく、それが自由な語りにつながるわけでもなく、ただ同じような表現を延々と繰り返しているだけのようだが、それしかできないことが、それらを続けるための秘訣なのかもしれず、要するにそれらは有限で中身の濃い内容になるのを放棄する代わりに、無限の無内容を手に入れているのだろう。そんなでまかせを記しながらも、一方でそうではないような可能性を追求しているような気になり、そこには相反する思いが反映しているようで、だからどっちつかずの中途半端な結果に終わっているにもかかわらず、あくまでもそうではないと言い張っているような状況なのかもしれないが、本当のところは軽い気持ちでそう思っているだけで、真剣になってそんなことを語っているわけではなく、そんな素振りはまったく見せずに、何もかもがどうでもよく、ただいい加減に言葉が連なればそれでよく、そればかりだとつまらないが、つまらないなりにも所々にアクセントを利かせているつもりで、実際に何が利いているのか定かでないが、とりあえずは無駄に長々といいわけじみたことを述べつつも、それが本意ではないように見せかけるつもりで、あやふやなほのめかしとともに、それらの何かがそれらしい言葉の組み合わせとなるように、どこかで気配りしているのだろうが、細心の注意を払っているとも思えないところが、全体としていい加減に感じられる原因なのかも知れず、時にはそんな嘘もつきたくなるようだ。


11月28日

 ついに何かが途切れたか。実質的には違うようだが、はじめからそれについて語るのが無理であり、無理に語れば嘘になってしまい、そうなるのは当然の結果でしかなく、別にそうなったからといって驚くには当たらないが、何となくそれに関してくだらない気分となっているようだ。君はそれでかまわないのだろうか。君の話ではなく、批判の対象となっているのは君ではないのだから、別にかまうもかまわないも関係ないのではないか。しかし何が関係ないのか。ではいったいそれらの言説の中では誰が誰を批判しているのか。それ自体が架空の作り話なのだから、本当に誰かを批判するなら、批判の対象として、架空の誰かをねつ造する必要がありそうだが、これから語ろうとしている話の中身が、相変わらずまとまりを欠いていて、君には架空の語り手が何を語っているのかよくわからず、それどころか何かがそこで破綻しているように思われる。だからそれについて何を語る気にもならず、それはそれとして、そんな話などなかったことにして、そのままで済んでしまうような気にもなるが、それについてあえて語ろうとすれば、やはりわけがわからない話の内容になるしかないか。しかしそれだけ言葉を費やして述べていることが、単なる意味不明でかまわないのだろうか。君にはそれでかまわないと思われ、誰かにとっても何でもないことのように感じられ、結局はどうでもいい話となってしまうらしい。

 しかし今さらそれがどうしたというのか。現実にまだ何も語っていないようだ。とりあえずそれは、北朝鮮と韓国とアメリカとの間で行われている戦争ごっこの話ではない。それらの軍事演習は愉快なことか。少なくとも北朝鮮からの砲撃で人が死んでいるではないか。あちらでも死んでいるのだろうか。あちらにいる刈上げお坊ちゃんの実績になるという話だが、このまま全面戦争に発展したら冗談では済まなくなり、たぶんそうはならないような配慮がされているのだろうが、なったらなったでがんばってもらいたいが、こちらは何をがんばればいいのだろう。茶化すだけ茶化した後は、そのまま放置されるような話か。たぶんそうに違いなく、何事も本気になれない誰かにとっては、気まぐれの気晴らしのように語られるだけでしかない話となりそうだ。そして現にどうでもいいようなことを語るつもりらしく、今までに語ってきたすべてを否定するようなことになるのかもしれないが、簡単に否定してもらっては困るようなことを語ってきたとも思えず、その時点でたとえ重大な過ちを犯しているとしても、何がどうなってそうなっているとも思えない。そして急いでそこから離脱して、気がつけば中身が稀薄なことを述べていそうだ。要するにこの世界には何もなく、今のところは何も起こらず、どんな事件も無視しうる程度の出来事に過ぎない。そして後は時が過ぎ去るだけ過ぎ去り、そこで起こった何もかもが忘れ去られ、何事もなかったかのように何かが繰り返される。

 そしてまたここまでやってきた。本当に何もないというのは恐ろしいことか。何もないわけでもないのに、何もないと述べてしまうことがおかしいのだ。君はそこで何かが起こり、自身が関係して何かが生じることを待ち望んでいるわけか。いったいどんな事件に絡みたいのだろうか。まさか殺人事件の犯人になりたいわけでもないか。くだらぬことをほのめかすと、本当にそうなった時に不利な立場に追い込まれ、取り返しのつかない境遇に陥ってしまったら厄介か。ならば笑っている場合ではなく、軽はずみな言動は慎むべきだ。本気でそうなることを望んでいるわけでもなく、たぶんそれにまつわる何らかのフィクションでも構成したいのだろうが、何となく話をねつ造する以前から疲れているのはどうしたわけか。たぶん馬鹿げていると思い、虚しい努力はしない方がいいとでも考えているのか。そうならそうで、このまま空疎なことを延々と語り続けていればいいではないか。だからそれで何を批判される筋合いもなく、筋違いで批判されることもなく、何事にも本気になれない輩は、世間から無視されるだけだ、と高をくくっていればいいのかもしれないが、それでも何かしら主張があるのなら、それを正々堂々と真正面から言えば済むことか。そんなことを述べながらも、さらに笑いが止まらなくなり、危うく笑い死にしかけているのかもしれず、もはや何かの歯止めが利かなくなりつつあるようだが、それでも語り続けようと思っているのは、いかなる理由があってのことなのか。


11月27日

 なぜ雑音に悩まされるのか。それを何にたとえたらいいのか。そのとき見た光景が不意によみがえる。たぶんそうではない。やる気がしないのだろう。ならばそれについて語る必要はない。実際に語れないのだから、そういうことにしておこう。そこで何を否定しているのか。あるいは否定すべき対象を探しているのか。そういうことではないだろう。だからそれで何を否定しているのか。また例によってぐちゃぐちゃなことでも述べているのだろう。まったく馬鹿げているか。そう思うならどうしたらいいのか。そんなことは自分で考えて決めてほしいか。いったい何を考えればいいのだろう。君が考えているそれは何なのか。痛いところを指摘されて、何を狼狽しているわけでもない。すべてはいつものことなのだから、今さら何を驚く必要があるのか。相変わらず何も語らずに言葉を記している。それはくだらぬ矛盾になりそうで、やる気がしない原因のひとつとなるだろう。そんなわけで君はいつまでもそこにとどまり続け、虚無的な雰囲気を体現しているのかもしれず、ありふれた気分を醸し出すための言語表現となるだろうか。わけがわからないということか。たぶんそうだ。何がどうなってもそうなってしまい、もうそこであきらめるしかなさそうだが、その先に何を記したらいいのだろう。空疎以外に何を見出しているわけでもなく、虚構の中でそれを君が語ろうとしているわけだ。

 無駄に言葉を記せば文章が長くなり、意味もなくそういうことを述べているわけか。意味がないわけではなく、あるとすればそれは無意味か。だからそれなら意味がないのと同じことだ。またどこかでこんがらがっているのだろうか。何がそうかは知らないが、言葉がそれにつれてよりいっそう空疎な組み合わせになり、もはや実質的には何も述べていないことになってしまうか。だからそれでかまわないのだろう。君にはそれしかないのではないか。それとは何だろう。何でもないからそれなのか。だからそれはそれでしかないが、それでは話にならない。話になるには、それが具体的な固有名を伴っていないとならないわけか。では改めてそれとは何だろう。何も改まらず、それはそれのままだ。君には改められないというわけか。何を改めようとしていたのか。それを今から改めようではないか。まったく改まっていないそれを改めようとしている。おそらくそれは無理だろう。無理だからやらなければならず、無理にやろうとしているわけで、その結果としてやはり話になっていないようで、それがそれらの文章を構成している。それとは誰かが記している言葉のことか。そうだとしたらそれが正解なのか。言葉の組み合わせに正解などあり得ない。それが意味を担っていようといまいと、とにかく文章として読めればそれでいいのだろうか。何を問うているわけでもなく、何が問われているわけでもない。

 だからそれはそういうことなのか。しかしなぜそれがそういうことになってしまうのか。君にわかるわけがなく、誰にとっても理解できないことかもしれないが、とにかくそれはそういうことになり、君はそんな結果に困惑し、それを信じられなくなり、やがて無視するようになるだろう。それを無視して何かを語ろうとしているわけだ。それはその代わりの何かではなく、あくまでもそれ自身となり、それがそれであるために必要な何かをそれらの文章が含んでいて、それを読み進めていけば、それが何であるかわかるようになり、それほど違和感なく、それをそれと認識できるようになるかもしれないが、そうなったとしても、それはあくまでもそれに違いなく、それはそれ以外の何ものでもない。だからそれはそれという言葉で記されているわけで、それ以外の言葉がそれに当てはまるわけがない。君はそんな事実を目の前にしてあくびをする。眠いらしいが、それはそれが退屈な文章だからか。たとえそうだとしても、誰かはそれで満足しているはずで、誰に読ませるための文章を記しているわけでもなく、それを記している自らも、記し終わった後から読む気がしないようで、それはそれとして放置され、決して省みられることのないそれとなり、他の何かを連想させつつ、それについて語ろうとすれば、君は何となくそこで満足して、気が済んでしまうのだろう。そして何とかここまで記してきた誰かも、そんなところで立ち往生しつつも、それによって何かの行き過ぎを是正したとでも思っているのだろうか。


11月26日

 君はこの世界では何が欠かせないと思っているのか。くだらないことを思っている。どうにもならないようだが、そう思わざるを得ないような気がしてきて、何となく嫌な感じになっているようだ。人はいついかなる時でも自己主張がしたいらしい。だがその勝負に勝ってはならないようだ。いったいそれの何が勝負なのか。君にはそれがわかっていない。わかる必要もなさそうだ。とても現状ではゲームに参加しているような気がしない。だからわからないままでかまわないのだろう。無理にわからせようとすれば、何かを取り逃がしてしまいそうだ。君はそうなることを知っているのだろう。これは勝負でも何でもなく、ゲームに参加しているわけでもない。勝手にあちらでそういうシステムを作り上げているだけで、そのシステムが掬い上げる網にかかった意識を取り込むことによって、それらのシステムは維持されている。そういう作り話もありだろうか。何の説明でもない。何がシステムでもないだろう。ただそう思われるだけで、思わなければ、それらはシステムでも何でもない。ただの言葉か。君はそれらの言葉が記されていることを信じているのか。画面上には文字が映っているのを見ているわけか。しかしそれの何がゲームなのだろうか。君は何かを忘れている。そしてその何かを今思い出そうとしている。だからそれの何がゲームなのだろうか。君はそこで何を連想しているのか。それとゲームと何の関係があるのか。まだわからないのか。

 相変わらず話の行き先がが見えてこない。何か途中で破綻しているようにも感じられ、わからないことをわかろうとしていることに無理が生じているのかもしれず、それは当然だと思うが、誰がそう思っているわけでもなく、何となく誰かがでたらめなことを記しているだけかもしれない。そうだとしても、君はそれらの文字列から逃れられないだろう。それを読まなければならなくなり、読んで感想を述べなければならないか。それが嘘だとしても、何となくそう思わざるを得ず、そこで何かの神髄が語られているわけでもないが、冗談でそんなことを述べてみたくなり、わざとそう述べていることをしばらく忘れさせる何かがあるらしい。そんなわけで君は確実に何かを忘れ、その忘れていることと無関係な何かが、それらの話に介在して、何でもないようなことを述べている現状を知るに至り、そのどうでもいいような内容を読んでがっかりするだろうか。まだ読んでいる途中の段階だ。これからさらに読み進め、さらなる確信に至るのだろう。だからもうでたらめに言葉を記すのはやめた方がいい。そんなことをやっている間にも、確実に何かが過ぎ去っていて、それを悟った時には取り返しのつかない事態となっているはずだ。だから他に何をやれというのか。君はすでにそれを知っているはずだ。だからここまでやってきたのだろう。

 フィクションの中で君はそれを確かめようとしている。だが同時にそこから離れていってしまうわけだ。せっかくそれを知り得たのに、すぐに忘れ、謎の中に投げ込まれ、忘れてしまったそれを知ろうとする。語られているそれらがそんな虚構なのだから仕方がない。だから君はそれを改めようがないのか。今さら何を改めるつもりだったのか。それを知り得ないからこそ、それらの虚構が成立しているのだろう。だが現実には何が成り立っているわけでもなく、語ろうとしている何もかもが破綻しているはずだ。要するに話になっていないということか。実際にそうかもしれないが、なおも虚構の中で何かが成立しているはずで、それがそれらの文章が示すところかもしれない。しかしその内容が定かでない。いったいそこでは何が語られているのか。すべてはゲームだ。他の誰かがそんな確信に至るが、それがなぜ間違っているのか理解できない。心はまだそこから離れていないのかもしれず、何とかそれらゲームを維持しようとして、必死になってプレーヤーを募っているのだろうか。崩壊したシステムは二度とよみがえらない。何がシステムなのか知り得ないまま、君の前からそれらの何かは消え去り、もう読まれなくなってからだいぶ経つようだ。しかし書物とは何なのか。古本屋の書庫の片隅でほこりをかぶっているそれらが、きみにとって何を意味するというのか。読まれなければ何でもない。そしてそれらを読んで理解しようとしても、もはや何ももたらされないだろう。すべてが過ぎ去り、後は忘却の彼方で消え去るだけのようだ。


11月25日

 ところでその仕掛けで大丈夫なのか。影が何かを問いかけているらしいが、それに答える義務があるのだろうか。君はそこで考え込み、たぶん無視してしまうのだろう。また面倒くさくなってしまったのか。別にそういうわけではなく、取り立てて有用な答えを持ち合わせていないだけかもしれない。そんなことは役に立たないと思っているのか。別にそれがどうしたわけでもない。君がそこで何を答えようと、それらの情勢に変化をもたらすわけがない。ただそれだけのことか。今のままではそういうことになりそうだ。それで何かやけくそ気味な行動に出ているのか。そういうわけでもないだろうが、そう受け取られかねない情勢か。だがまだ依然として何の話でもないだろう。これから何を語るわけでもない。では語っているのは誰なのか。君が何かを語っている。そう思い込んでいるだけで、本当は誰もそこにいないはずだ。だから沈黙に包まれているのか。しかし語りたいのはそんな話ではなかったはずか。過去の経緯はどうでもいいか。どうでもよくはないが、たぶんそれは違うのだろう。何かそれとは異なる話の内容を持ち合わせていたはずだ。そしてそこでそれを語りだすはずだったのだろう。なぜかそれが肩すかしに終わって、困っているわけか。誰が困っているのだろう。とりあえず虚構の中にいるらしい君が困っている。ここはそういうことにしておきたいのか。だから何のことやらさっぱりわからない。

 気まぐれにそんなことを述べてみる。まだ時間があるはずだが、別にそれを有効に使おうとは思わず、それは何のための時間でもなく、誰かを戸惑わせるために必要な言葉の連なりの中で、時が経っているように感じられ、そういう時の流れの中で昔の記憶が不意によみがえり、何か確信めいた思いつきを持ち合わせていた時期があったらしいことがわかる。それは何だろう。この世界はやがて滅びるのか。そんなのはわかりきったことか。そうではないことはわかっている。たぶんその先に何らかの言葉が連なり、それが明らかになり、それを介して何らかの理解に至るのかもしれないが、今はそれがおぼろげながら見えてきて、何となくそれによって前向きな言説が導きだされるのかもしれず、それが何を意味するのかわかりかけているのだろう。それとは何だろう。何かの巡り合わせであり、やがて何かのきっかけをつかんで、それらの混迷を正すような成り行きになるのかもしれない。ではこの先明快なことを述べられる機会が訪れるのか。冗談ではないか。それの何が冗談でもないが、何となく誰かは馬鹿げたことを述べているのかもしれない。唐突にそんな思いに遮られ、またいつものように否定的な気分となり、それらを茶化しているような素振りを見せつつ、何かがどこかへ曲がっていってしまうようだ。そこで感覚がねじれてしまったのか。わざとそうしているのかもしれない。だからそれがいつもの成り行きなのだ。

 そんなわけで何かのきっかけでそんなことを述べている。それは気まぐれではなく、そういう成り行きに従って述べたまでのことか。どんなわけでもないだろう。現実には何もきっかけをつかめず、いつもの通りにいつものことをやり、以前と同じようなことを述べているだけか。何だかそれではがっかりするが、それもフィクションの中で思っていることなのか。実際の世界では誰かはそれに関してどう思っているのか。何もそんな回りくどい言い回しにしなくてもいいだろう。そう述べざるを得ないような成り行きになっているのか。わからないがそれがすべてらしい。何がわからないというのか。そう問う理由がわからない。あくまでもそれは行き当たりばったりの問いで、そこに何か必然性があるとは思えず、ただいい加減にいい加減なことを問いかけているまでか。仮にそうであったとしても、やはりそれでかまわないことになってしまうのかもしれず、他に何も思いつかなければそうなってしまうだろう。だからそれでかまわないのだ。やがて君はどこか遠くへ消え去る運命で、そんな君に何を投げかけようと、誰の知ったことでもない。要するに誰かは問いかける相手を間違っているのだ。沈黙しかもたらさないような相手に何を問う必要があるのか。それは相手でも何でもなく、ただの影でしかなく、自らの影に向かって何を問いかけても、まともな返答が期待できないのは当然のことで、それをわかっていながら執拗に問いかけるのは、ただの徒労をもたらすだけか。だがそれでもかまわず、問いかけているのだとしたら、それはわざとやっていること以外の何ものでもないか。


11月24日

 誰かは何をできないような気になることがあるらしいが、たとえできなくても、それでかまわないような気になっているかもしれず、実際にできないことで、何となく肩の荷が下りたような気がしているらしい。たぶんそれで気が済むはずがない。だが気が済まないままの心境を耐えることができそうだ。いつまでも心にわだかまりを抱えたまま生きていけるはずだ。生きられなくなったらそこで死ぬだけか。それはまったく冗談ではないだろうか。そんな成り行きを受け入れるわけにはいかないだろうか。ならばそこでどうにかしなければならず、現状を変えなければならなくなる。現状に生かされている君に変えられるのか。無理に変えようとすれば、君の生存している基盤が崩壊してしまうか。本当にそうなったらおもしろいだろう。だがその場の成り行きは君の思惑を簡単にはねつけ、どうやってもそれを変えようとしない。そして君は自らの無力感に苛まれ、かなり落ち込んで、今や心理的にほとんど立ち直れないうつ状態となっているのではないか。だからそれが現状を変える契機となるわけだ。打ちのめされて挫折感を味わい、何も手につかないか。実際に何もやっていないのではないか。とりあえずフィクションの中ではそういうことにしておこう。それを記している誰かも、以前そういう心理状態に陥った経験があるのではないか。今となってはそれがどうしたわけではないが、そういうことを通過して今に至り、何かの冗談とともにこの時空に存在しているわけか。そして未だにその存在理由を知り得ずにいるらしい。

 それから君はどうなったのだろう。何がわからないのか知らずに、それを知ろうとすれば、たぶんそれらの冗談に行き着く。それらとはそれらのことでしかなく、それらは様々なそれらとなる。それに接した人によって、それらに対する感じ方がそれぞれ異なるということか。ではその人にはどのような特性があるのか。何か各人の個性の違いによってそうなってしまうのだろうか。それを取り巻く状況によっても違うだろう。君はそこで言葉を使い分けられるだろうか。体験する様々な状況に応じて、語り方と言葉を使い分ける必要があるのだろうか。また冗談でそんなことを述べているのだろうか。そこで誰かは何を語ろうとしているのだろうか。何かと何かを混同して、別々の現象を同じ言葉と語り方によって説明しようとしているのか。それでかまわないのではないか。それで何を語ったことになるのか。たぶん何かについて語っていて、そのついでに何かの冗談を紛れ込ませていて、言説の体をなさないように言葉を操作しているのだろうか。だからそれが冗談だと述べているのではないか。しかし君にはわからず、それを記している誰かにもわからない。いったいそれはどういうことなのか。どういうことでもないからそうなってしまうのだろうか。そんなことを述べながらも本質的な何かの到来をやり過ごし、何とか事なきを得て、それらのでたらめさを保つことに成功したらしいが、それがどうしたわけでもなく、何かの徒労に終わっていることは確かなようだが、そうすることに何か特別な理由があるわけでもなく、ただまともなことを語るのが面倒なだけかもしれない。

 だがそう述べることによって意識は何かを捉えたようだ。まともな言説から外れていると思われることから、そこに何かの基準があることを理解し、たぶんその基準をクリアできないとそうなってしまうことがわかったのだろう。しかしその基準が何なのかは明確にはわからず、それはただ否定的に導きだされる基準でしかなく、語ってしまった後からそれに達していないと感じられるわけだ。それも冗談か何かのたぐいだろうか。そう思っている限りは、それが何だかわかることは永久になさそうだが、君はそれでもかまわないと思っているのではないか。それはわかるようなことではなく、たとえわかったと思っても、すぐさまそれは何かの勘違いだと思われ、わかり得ないことをわかってしまうことがそもそもおかしく、それをわかり得ないことがわかっている限りは、そういう意味でそういうことになるわけで、それが正しい理解だと思われる。だからとりあえずそれは何かの冗談だと思っておいて、それほど間違ってはいないように感じられ、そのままの状態を保つことは難しいだろうが、あるときそれがわかってしまったと感じたら、要するに勘違いの範囲内でわかってしまったことになるわけで、それも冗談のたぐいだと理解しておけばいいのだろうか。しかしそんなふうに述べてしまっていること自体も、冗談のたぐいになってしまいそうで、それを冗談だと見なせば、述べていることすべてが冗談になってしまうようで、それこそが勘違い以外の何ものでもないのではないか。だがそれでも君はかまわないと思っているようだ。だから誰かが記す虚構の中ではそうなのだろう。


11月23日

 まともに語ることは何もない。それは何を示しているのでもなく、何が語られているわけでもない。しかしそれとは何だろう。またそれか。もういい加減にうんざりしてきたか。たぶんこれから何をどう語ろうと、結局はそんなことを述べているはずだが、何かそういう成り行きに抗って、まともなことを述べようとする気があるのか。今のところは何もありはせず、いくらそんな成り行きに逆らっても、そんなことを延々と述べている現状を変えるには至らないだろう。要するに君はそこで何かを語るのをあきらめているわけだ。なぜそんな簡単にあきらめられるのか。別に君があきらめているわけではなく、そんなことを誰かが記しているだけか。それは執拗な記述で、いつまでもそれを続けようとしているらしく、そうすることがそういう空疎な結果を招いているのに、なぜかそれをやめられず、それどころかやめるわけにはいかないと頑なに思っているようで、なぜそう思っているのか、その理由を知りたいところだが、君はすでに知っているのではないか。知っているからやめられず、知らなくてもやめられないのだろう。理由とはそういうことか。まったく説得力がなさそうで、それの何が理由かもわからず、それではただの意味不明ではないかと思うが、本当はそうではないことも承知しているのだろう。君も誰かもそれを承知しながらも、そんなことを延々と繰り返している。そしてそれがくだらぬ結果を招いているわけだ。

 だからもういい加減にやめてほしいとも思っているわけか。それがわからない。何をわからないわけではなく、何をわかろうとしているのでもない。やはり何が何だかわからないが、誰かはただそう記すのみのようだ。そしてそれらの疑念や何かを簡単にやり過ごし、そこから遠ざかりながらも、いつまでもそのことにこだわり続け、気がつけばまたそんなことを繰り返しているわけだ。君はそれだけのことにこだわっているわけではないようだが、誰かのこだわりに束縛され、何かの成り行きに翻弄され、なぜか今はそれらのフィクションの中に息づき、他に何を考えるでもなく、ただ言葉として記され、そんな境遇を受け入れざるを得ず、そこから一歩も外へ出られないことを呪うこともなく、ただ記されるがままに存在し、やはりそれがどうしたわけでもなく、いくらそんなことを延々と述べてもどうということもなく、ただの言葉として方々の文章に出現するだけで、取り立てて特徴らしい特徴をまとっているとも思われず、何となくそういう意味として読まれ、ただそれだけのことに終始しているようだが、誰かはなおもそれを記述して、全体として何らかの意味を担うように言葉を配置したいようだが、今のところそれに成功しているとは到底思えない。やはりそれらはただの意味不明なのだろうか。そうだとしてもそれを記すことにこだわり続け、いつかは何らかの結果が出てくることを祈っているわけか。だからそれは冗談だろう。

 それでもたぶん何をあきらめているわけでもないはずだ。架空の君ではなく、実在する誰かが何かを記しているのであり、それらの記述もその一部を構成しているようで、読む者が読めば、そこから何らかの意味や雰囲気を感じ取れるはずで、何かを読むとはそのような体験をもたらし、そこからそれを記している誰かの意志を超えた何かをつかみ取り、その何かによって何らかの理解に至ることが、それらの現象を構成しているのだろうが、たぶんそれをなかなか理解し得ないことが、何となく読むことを敬遠しがちな気分をもたらしているのだろうが、それはそれでそういうことであり、何ら否定されることでもなく、読みたくなければ読まなければいいのであって、そこからどんな理解に至ろうと、やはりそれは貴重でも何でもない、ただのありふれた経験のたぐいになるだろうが、君はそれについてどう思っているのか。何とも思わなければ何でもないことであり、あまり真に受けるようなことでもないだろう。たぶんそれらは喜怒哀楽とは無縁の無感動を呼び起こしているのかもしれず、読むことによって何がもたらされるのでもないような、また読む気になれば簡単に読めるが、別に読まなくてもかまわないような、損得勘定とは無縁の行為であり、そうするか否かは、その時の気分次第でかまわないようなことでしかないのだろうが、そうすることによって仮に何らかの感動や感慨がもたらされたとしたら、それはそれでかまわないのではないか。


11月22日

 どういうわけか安易なことを語っているらしい。それはどういうわけでもなく、何を茶化しているとも思えず、それらの何を真に受けて語っているのでもなさそうで、やはりそれらは安易でご都合主義的な話に違いない。要するに苦し紛れになると、いつもそうなってしまうのだろう。外では雨が降り続いているようだ。相変わらず誰かは何も思わないで言葉を記す。そんなことが可能かどうかわからないが、とりあえずそういう言語表現がしっくりくるような成り行きなのだろう。それ以外に何があるわけでもなく、何をどう思っているのでもなさそうだが、そこで何を語ろうとも、記されるのはそれ以外の何かだ。常にそこから外れているのであり、逸脱のための逸脱のような語りになってしまう。君はそういう成り行きを無視しながら何を思うだろう。どうでもいいが、そんなことはなしにしてもらいたいか。たぶんどこから達観しているところがあり、もはやあきらめているのかもしれないが、やはり何となくそれらとは違う展開を期待してしまい、そうならない現実を受け止めるわけにはいかず、それを忘れて違うことを考えるつもりらしいが、誰が何をどうしようと、結局記されるのはそんな言葉の連なりになりそうだ。それの何が我慢できないのか知らないが、言葉は誰の思いも無視して連なり、そうなることで誰の希望を打ち砕いているわけでもないだろうが、誰が何を望んでいようと、絶えずそうではない何かを追い求めているわけでもないだろうが、結果的にはそうなってしまうのであり、それがそこに記されているのだろう。

 そして君はあきらめたふりをして、黙ってそれを読み、それに関して何を思うこともなく、その場を立ち去り、どこかへ消えてしまうのだろうが、それで誰ががっかりするわけでもなく、何が期待外れに終わったわけでもない。それはそれでそうなって当然の成り行きで、そういうことの積み重なりがその場を構成し、そういうことがそこには記されているのだろう。そしてそれは何でもないこととして、誰がそれをどうするわけでもなく、君がどうなるわけでもなく、その後の君も誰の知るところでもない。君はどうにもならずに、何がどうなるわけでもないらしい。要するに君が君でないということを、他の誰が証明できるわけでもなく、君自身もそれをやるつもりはなく、そんなことはどうでもいいこととして、それはそれとして片づけられてしまって、何でもないことを何でもないように語ることの難しさを、その場で再認識させられたとも思えず、それらはどこまで記してもただの文章なのだから、努力と精進を積み重ねれば、それ以外になるような幻想を抱くべきではないのかもしれず、それはそれとして受け止めなければならないのだろうが、何がどうなってそうなってしまうかは、依然として謎のままか。それも君にとってはどうでもいいことのひとつには違いない。君は君ではなく、君にさえなれない君でしかない。要するにどこまでも君という言葉でくくられる概念に過ぎず、それ以外の何者でもありはしない。

 しかし他の誰がそのような状況を求めているのか。そうなってしまうことの何がいけないのだろうか。おそらく何もいけなくはないだろうが、それを求めているのが、仮に特定の誰であろうと、それによって誰がどうなるわけでもなく、現状は現状のままに推移して、やがてあきらめの境地に落ち着くのかもしれないが、君はそうなってしまった誰かを哀れむ心境になれるだろうか。たぶん誰の境遇を哀れんでいるわけでもなく、逆に人として追い込まれるすべての境遇が哀れむべき対象なのかもしれないが、仮にそれを哀れんだとして、また自らもそんな境遇に追い込まれるとして、それで何がどうなったといえるのか。何もいえないのかもしれないが、何となく自らに訪れたそんな定めを呪ってみても、冗談以外の何ものにもなり得ず、それらのありふれた定めの中で悲劇の主人公を気取ること自体が、嘲笑の対象にしかならず、それを笑われ、自らも自らを自虐的に笑い、それで済んでしまうということが、何か信じられないような話の結末になっているとも思えず、まだその続きがあって、さらに延々とそんなことが飽きもせず繰り返されるのが人生だと達観しようとしまいと、やはりどうでもいいようなよくないようなそれらの成り行きは自然と続き、本当に神経をすり減らしながら真剣に何かをやっているそばから、現実にはそれから徒労に終わろうとしていることに、誰が気づくことができようか。君に気づけるはずもないか。


11月21日

 誰かは何かを空想しているようだが、それは何かの映像の記憶だろうか。頭上からレンガが落ちてくる。あるいは何かの正夢だろうか。実際にそれが落ちてきて怪我でもするわけか。わからないがそんなこともあるかもしれない。陸上競技場に鳥が舞う。それはテレビで見かけた映像に違いないが、何を意味するものでもないだろう。他の誰かも感傷に浸っている暇はなく、何がそうなのかわからないが、きっと今は天気予報でも見ているのだろう。翌日は雨らしく、昼前からパラパラと雨粒が落ちてきて、すぐに本降りになるが、そんなふうにして無駄に言葉を記すことが気晴らしになりそうだ。それでも何がどうしたわけでもなく、冷蔵庫と洗濯機の稼働音を聞きながら、黙っているようだ。頭の中で何かの意味が散らばっている。それらをどう結びつけて文章を構成しようとしているのか。わけがわからないでは済まないだろう。誰かが見ている映画では閉鎖的な世界観が提示され、その中で誰かと誰かが争っているようだが、やはりそれで何がどうなっているわけでもなく、君に居場所があるとは思えない。人は何を見て、それについてどう思っているのだろうか。無駄に言葉を費やして、何について語ろうとしているのか。誰かの感覚はすり減っていて、それらの未来をまったく予測できない。何を予測し、何を予言しようとしているわけでもなく、ただの傍観者のふりをしながら、見たまま感じたままのことを文章にしているわけでもない。

 たぶんあり得ない近未来像を提示したいのだ。それは君たちがたどり着けない場所であり、何かの高みなのか。あるいはまたいつもの冗談を述べているのか。そうなると何が冗談なのかわからなくなるようで、結果としてどうでもいいことになってしまうのだろうが、やはりそれらの救いのない成り行きにも、何かの可能性を見出したいのかもしれず、何とかして、何かの呪縛から解放されて、自由で愉快な思考形態を確立したいのかもしれないが、そう述べている意味がわからず、何について述べているのかも不明のまま、何やらその辺に偽の救いを見つけ、それにすがるふりをしながらも、そんな動作を軽蔑し、何やらくだらぬゲームに参加してしまっている自らの境遇を呪い、それが何かの呪縛であることを悟り、それについて語ろうとして果たせず、語り得ない何かをそれと混同し、次第に何を語っているのかわからなくなり、もとからわかっていないかもしれないが、何となくそういうのを含めて、すべてが冗談であるような気になり、何か重大な出来事をやり過ごし、それが決定的な事件に発展するのを避け、それでその場を取り繕った気になるが、本当のところは何がどうなったのかを把握できずにいる。君はそれでそれらの内容を理解できただろうか。できるはずのないことを理解しようとしているのか。それでも何かを語っている気になっているとしたら、何に勇気づけられて、それらの語りを続けていることになるのか。

 しかし気分転換とは何なのか。なぜそうやって現実から逃避しようと試みるのか。いつも失敗しているではないか。そして何かに挫折しても何とも思わず、いつも最後までやり遂げようとはしない。たぶん最後まで踏破してしまったら、そこで終わってしまうから、何かが終わってしまうのが怖いのか。それもあるだろうが、何よりも根気がなく、精神の集中が長続きしないことが、無意識のうちにそうなってしまうのを回避しているのかもしれない。果たしてそんなことがあり得るだろうか。別にフィクションの中ではあり得るだろうし、仮に現実の世界でそうなったとしても、それでかまわないのではないか。別に誰が困るわけでもなく、かえって君にとっては、そういう成り行きは好都合ではないのか。積極的に何を働きかけなくても、何もしなくてもそれらの秩序が崩壊してしまえば、むきになってそれらに歯向かう必要もないからか。しかし秩序とは何なのか。どこからに何かの固定的な秩序があり、勇気ある者はそれに歯向かって、それらを崩壊に導かなければならない義務でも生じているわけか。そんなフィクションならいくらでもありそうで、英雄気取りの誰かが徒手空拳で活躍して、ついには巨大な悪の組織を破滅に導いてしまうわけか。それは何やら幼稚な物語的展開ではないか。だが何を馬鹿にしようとしまいと、多くの人々に感動をもたらすにはその手のわかりやすい話が必要か。だがいつか君がそれを物語るとは思えず、誰かもそんな話をそれらの場で記しはしないだろう。


11月20日

 またずいぶんと遠回りしてきたようだが、まったく話にならない。そう思ってはならないようだが、思うだけは思っておいた方がいい。だがそれは何の話なのか。たぶん何の話でもなかったはずだ。だから迷っているのではないか。では何に迷っているのだろうか。今はそんなことまで知る必要はない。ならばいつ知ればいいのだろう。何を知ろうとしているのでもなく、知りたいのはそんなことではない。大げさなことを語ろうというのでもない。それどころか何も語りたくないのかもしれない。だが依然として知りたいのはそういうことではない。何をどこまで語っても、そこに知りたいことはない。はじめからそういう話だったのだろうか。そのとき君は何を語り始めたのか。だからそういう話ではなかったはずだ。まだそこまで話していないのではないか。君はそこで何を話していたのか。その内容を取り立てて知りたいとは思わないが、何となくそれを語ってほしいような気がする。なぜか飛行機事故で死んだギタリストは多い。死んだ当人の曲を聴きながら、他で死んだギタリストのことを思う。だがそれは君が話そうとしていたことではない。そのとき君は何も話そうとしなかった。それもフィクションの一部なのだから、そういうことにしておいてかまわないのではないか。だからそれは何の話なのか。

 たぶん思いついたのはそういうことだ。コルトレーンの顔がぼやけていて、吹いているサックスにピントが合っているようだ。ただそれだけのことのようだ。他に語ることがなく、それも取り立てて語る必要のないことだ。今はそう思っているのだろう。過去においてもそう思っていた。たぶんこれからもそう思うはずだ。テレビをつければ感動の名場面でも再放送されているのだろうか。勝負とは何だろう。断片的に過去の言葉が思い出され、それをつなげてみるが、文章になっていないようだ。それの何かのフィクションの断片に違いなく、本気でそんなことを語っているわけではない。絶えずそれを否定したくなってきて、何が何だかわからなくなり、時折そんな嘘をついてみても、やはりそれも否定されるべき無内容なのか。そうかもしれないが、今はそれしかない。それは本当だろうか。何が本当なのかわからないが、そんなことはどうでもいいのではなかったか。確かに焦っているのはわかるが、それを無理に語るのはおかしいことだ。何を語っても、それだけのことでしかない。必死に努力しているつもりが、現実には空回りしているのも承知しているが、やはりそれだけのことでしかなく、何を語っても何でもないことか。そして何が現実となったわけでもなく、それを実際にどうにかしたわけでもない。

 それは何のことでもなく、気まぐれに何を思いついたわけでもなく、その場の思いつきで横道に逸れ、逸脱に逸脱を重ね、あげくの果てに道に迷って、それからどうしたのか。他に何をやっているわけでもなく、相変わらず言葉を記している。それだけのことで手一杯なのか。君にはまだ何もわからない。何もわかろうとしないようだが、何を苦しがっているのだろうか。ざっと辺りを見渡したところ、本質的なものが何もない。何が本質なのかもわからず、語っているすべてがどうでもいいことのように思えてくる。だから苦しいのだろうか。そうではないと思いたい。本当はそうなのに、それを無理に否定したいらしいが、たとえ否定したところで何になるのか。感知した事物を片っ端から否定した結果がこれか。これが現実なのか。これとは何だろう。別に何でもないが、現実はどのような状態になっているのか。君はできないことをやろうとしている。そしてそこから話がまったく進んでいない。そんな現状に業を煮やして、別の方向を模索しようとするが、思うように方向転換できずにいるらしい。ならばそこから何をやろうとしているのか。何もできはしない。誰かも記すべき言葉を見出せなくなっている。君は本当にそこで苦しんでいるのか。笑っているのに苦しい。苦笑いというやつか。もしかしたら鬱なのかもしれない。だがそれがどうしたわけでもなく、そんな嘘をつきながらも、気がつけば立ち直っていて、さらに誰かは言葉を記している。なぜそれを続けようとするのか。


11月19日

 君はなぜそこにいるのか。他の誰に存在理由があるというのか。いったいこの世界には誰がいるのだろう。語っている何もかもが漠然としている。理由などありはせず、誰が存在しているのでもない。君は何も見ていない。見る必要がないのだろう。何も見る必要はない。実際に何も見ていないではないか。では今誰かが見ているそれらは何なのか。たぶん何かの光景だろう。そしてその光景の中に他の誰かがいるらしく、現実に何かが存在しているらしい。心がどうにかなっている。そう思うならそういうことになりそうだが、具体的に何がどうなっているのかはわからない。とにかくそこに文字が記され、何事か語られているらしく、それについて君が何をどう思っているのかを知りたいわけではない。誰かはそこまで精神的には追い込まれていない。まだまだ余裕があるらしく、誰の存在を無視しても、それをやり遂げる自信があるようだ。時にはそんな嘘をついてみたいのかもしれないが、それがまったく意味不明で話になっていないことも嘘に含まれるのだろうか。そして何が何だかわからず、誰かは言葉を記すのをあきらめそうになっている。いったいそれらは何の話だったのか。今となってはそれら断片が文章の所々でバラバラに記されているに過ぎず、部分的には読めるにしても、そのすべては把握できなくなっているようで、ひとつのまとまった話としてはまったくわからなくなっているようだ。そうなってしまったのは誰のせいなのか。

 確かに何を把握するにしても限界があり、それを理解しようとすると、たちまちわけのわからぬ意味不明に突き当たって、それについて何をどう語ったらいいのかまるで見当がつかなくなり、結局まともに語るのをあきらめてしまう。だからその代わりにふざけたことを述べて、でたらめに言葉を記しているわけか。だが依然としてそれの何がでたらめなのかわからない。たぶん何もでたらめではないのだろう。ただわからないだけで、その代わりに何も記していないのだ。それは嘘かもしれないが、何となくそうやってどうでもいいような嘘をついている現状があり、それを認めざるを得ないような話の流れとなっているらしい。君はまた性懲りもなく嘘をついているのだろうか。何が嘘なのかわからないが、そんなわけで何を把握するのにも限界がある。そして何もわからないなりにも、それで何がわかったのだろう。だからわからないと述べている。それでは何も語っていないの同じことか。だがそれを語っているのは誰なのか。そしてそれが君ではないと主張しているのは君なのか。君は何かのついでに何を語っているわけでもなく、どうも他の誰かもそうではないらしく、そこに記される誰も彼もが、そんなことはどうでもいいと思っているのだろう。またそんな嘘をついて、誰もがわけがわからないようなふりをしているようだが、少なくとも君はそう思っているのではないはずだ。だがなぜそんなことがわかるのか。また誰かは嘘をついている。

 しかし話の中身が見当たらないし、無理に語ろうとするからそうなることはわかっているはずだが、やはり無理に中身のないことを語らざるを得ず、そうするだけの切実な理由がありそうで、その理由をここで述べるわけにはいかないようだが、そんなのはわかりきったことだろうか。そうだとすればあえてをれを語ることはないはずか。その辺の心境の変化を捉えきれていないようで、それに関して誰が何を思っているのか知らないが、君がまたそんなことを思っているふりをしつつ、本当はそれとは別のことを思っていて、いつまでたってもそれが記されないことに業を煮やして、その代わりに語っているのを途中で打ち切り、その内容を文章から消し去ろうとするが、実際に文章を読んでいないので、何がその内容なのかわからない。現実にそんなことがあり得るのか。何を疑問に思ってみても、そんな疑問は無視される。疑問に答えるのが面倒くさいのだ。別に君が答えようとしているわけでもないだろう。誰が面倒くさがっているとも思えない。言葉を記している誰かはそれに関しては何も考えていないようで、要するに疑問に対する答えが用意されていないのだ。無理して答える必要ないようなくだらない疑問には違いない。ならば現実には何もあり得ないのか。いきなりそう考えるにも無理がありそうで、そこからどこにも至りそうもないのに、いきなり答えに至るのは不自然極まりないか。現に今のところは何の前触れもない。いったい君は何に答えようとしていたのか。それがわからないからそんなふうに述べてしまうのだろうか。


11月18日

 誰かは偶然の巡り会わせに賭けているのだろうか。それはどういうことなのか。具体的に何を賭けているわけでもあるまい。しかし何かのきっかけが巡ってくることを信じているようだ。それが冗談としか思えない状況なのに、なぜか心の中の何かが死んでいないように感じられる。もうあきらめてしまってもかまわないのに、身にまとっているその雰囲気は、まったく何もあきらめていないように思われ、もうすでに敗残者だと悟ってもおかしくないのに、そんな気はこれっぽっちもないようだ。いったいどこからそんな自信がみなぎってくるのか。君にはそれが冗談か何かのようにしか思われないのだろうが、別にわざとらしく道化を演じようとする素振りは見せていない。今さら卑屈に振る舞うのは面倒くさいのだろうか。心はどこかに抜けているように見え、なぜか空っぽの人格を有している。それはどういうことなのか。それはまるで何にたとえたら、すっきりした表現を得るに至るのだろう。今のところはかなり回りくどく、でたらめで意味不明な何かがそれらの文章を支配しているみたいだが、それはそれを記している誰かの人格が、そのまま反映した結果だろうか。そんな虚構をそのまま真に受けるほど愚かでもあるまい。でたらめであることは、ある意味で理にかなっていることかもしれない。そしてそれもでたらめな言説の一部となるだろう。

 それで楽しいか。たぶん楽しかろう。画面の前で笑っているのだから、楽しくないはずがない。目下のところは何かが快調なのだろう。思わず笑みがこぼれるほど快調なのか。それとも深刻な実情に反して、虚勢を張り、強がりの演技をしている最中なのだろうか。あまりに楽観的すぎて、拍子抜けの面もあるようだが、どうも何も真に受けていないようで、何がどうなろうと、何に困っていようと、それに本気で対処しようとする気がないのかもしれない。そんなわけでこのところの誰かはどこかおかしい。まさかその死が間近に迫っているわけでもあるまい。もしかしたらそんなふうに感じていること自体が危ない兆しなのか。そうだとしたらどうしたらいいのだろうか。他の誰の指図を受ける気もないのに、どうしたらいいのだろうかはないだろう。それも何かの冗談か。誰かは自らが死ぬ直前にも関わらず、それを真に受けることができないようだが、たぶんそれは虚構の死であると思っているのだろう。自らはそんなフィクションを記している立場で、死ぬのはあくまでその中の登場人物のうちの誰かか。いったい誰がそんな物語の中で暮らしているというのか。それもずいぶんとおかしな理屈だ。それらの中では人の死さえ不在なのか。生身の人間が誰もいなければ、とりあえずはそうだ。

 しかし誰が何を述べているのだろう。君は愚かなのか。そうであるとしても、君が快適な言語環境の中で暮らしているとは言いがたい。別に何も言うつもりはないのだから、それでかまわないはずだ。君はそこで苦しむがいい。誰かが誰かに向かってそう告げるが、それ自体が芝居がかっているのだから、どこかの舞台かテレビドラマの中での発言だろう。とりあえずそこから生じているのはガラクタのたぐいになる。君にはそれがわかっているはずで、本当は誰も苦しんでおらず、そんなことにはならないような策が講じられているのだろう。しかしそれはどういうことなのか。それらの登場人物たちは皆そこで台本どおりの台詞と演技を強いられているわけなのか。君はそれの何がおかしいと思うのか。たぶんそれが現実の世界で起こっていることだから、おかしく不自然に感じられるのではないか。だが本当はこの世界で暮らす誰もが、現実の世界で虚構の登場人物を演じようとしているのだとしたら、それは恐ろしいことかもしれない。よく人に向かって将来の夢などを問う場面がメディア上に出現するが、それは自らの夢の中に登場する虚構の人物になるように、これからそれを演じろ、というメディアからの命令なのかもしれず、その命令を真に受けて、夢に向かってまっしぐらに努力することが、要するにその人に課せられた使命となるわけだ。


11月17日

 どうもくだらぬ二項対立を利用するのは気が退けるか。そういうやり方は好ましくないらしく、本来両者は二つでセットとなって機能しているわけで、お互いに相手の足りないところを補い合う関係となっていて、それであるひとつのシステムを円滑に作動させるのに役立っているはずだ。それが労働と娯楽という概念になるだろうか。だからどうしたというのか。それも冗談のたぐいだと主張したいのか。誰がそんなことを主張しているのだろう。やはり毎度おなじみのように、何かが違っていて、とりあえずわかりきったことを主張するのは、それが冗談と受け取られかねない危険性があるらしい。だからいったい何がそうなのだろうか。その辺で誰かが何かをごまかしているような気がするのだろう。たぶんそれとは違うことを考えているのだ。だがその考えが言説として記されるには、まだ時期が早いのかもしれないが、実際には何も考えていない可能性もあり、こんなふうにうだうだといいわけじみたことを述べているのは、かなり怪しい感じがする。本当は何も考えていないのではないか。そしてそう述べたくてそんなことを記しているのかもしれない。だからそれが何なのだろうか。何に反発しているわけでもなく、それに対してどんな反論が用意されているとも思えず、何なのだと問えば、何でもないと返答する以外にあり得ないのではないか。だからこんなことを述べているわけか。それはどういうことなのか。

 疑念の表明が度重なっていることを無視しながら、何かを煙に巻くようなことも述べながらも、実際には何も考えていないようで、そんなふりをしながら、新たに何かを思いつこうとしているらしいが、それでうまくいくとも思えず、そんなふうに語っているそばから、足下の地盤が揺らぎ始め、フィクションの中で地割れでも起こって、その中へと架空の人物が真っ逆さまに落ちてゆく。だからそれは何のたとえなのか。比喩でもなければ何でもなく、まったくのでたらめで、ただの意味不明なのだろうか。それに関しては何とも言いようがなく、ただの言葉の使いようでしかないのかもしれないが、それで何を述べているのかと言えば、いったい何を述べているのだろう。語っている途中からわからなくなってしまったらしい。たぶんそんなことを語るべきではなかったのかもしれない。では他に何を語ったらいいのだろうか。その辺でわからなくなり、何となくそれでもかまわないと思うようになる。そしてその後はどうなったのだろうか。君が誰かの代わりに何を思いついたとも思えず、文章がそこで途切れているのかもしれない。この期に至って誰かはまだ冗談を述べようとしているのか。しかしそれの何が冗談なのだろう。まだ何も述べていないような気がするのはいつものことかもしれず、そんなことが繰り返し記されている現状もいつもの通りだろう。そこからは何も出てこない。

 君はそこで何を語るのをためらっていたのか。気のない話の先に何があるわけでもなく、何が先細りとなっているわけでもない。そういうことを述べる前に述べておかなければならないことでもあるのだろうか。それは何かから逃れるために必要な迂回となるわけか。そんなはずがない。誰が誰に反論しようとしているのか。そういう話ではないはずか。そこから何かを考え直してほしいのだろうか。また無理なことを述べているようだ。行き詰まっているのか。何に行き詰まっているのだろう。それは君の想像にまかせるとしよう。とりあえず誰かはまだその先に言葉が連なっていると思う。そうなってほしいのだろうか。現実にそうなっているではないか。たぶん夢幻ではなく、なぜか何かを述べているらしい。そして必要もないのに言葉が連なり、空疎な中身の文章がそこに構成されているはずだ。誰かがそれを読むのか。読んでいるではないか。だがそれが読むに値するとは思えない。ならば読まなければいいのに、なぜか読んで、その無内容ぶりに呆れ、今さらながらその出来映えに対する不平不満でも述べているつもりになれるだろうか。まだ何が出来上がっているわけでもない。誰かはその途上において、それの感性を放棄しながら横道に逸れ、何かを台無しにしつつも、何とかそれと引き換えにして正気を保とうとしているらしいが、結果としてそれがどうなったかはまだ不明のままだ。もしかしたらそれでもかまわないのかもしれない。


11月16日

 本当にもう一息なのだろうか。何がそうなのかわからないが、どうもそこまで気力が続かないような気がするし、やはり何かの途中であきらめてしまうのか。何か壁にぶち当たっているような気もしてくるが、たぶんそういう紋切り型的な表現がおかしいのかもしれない。そう考えても何かが違っている。しかしその何かがわからない。またそれか。近頃はそんなことばかり述べているような気がするが、なぜそう思うのだろう。そんなことを思っているうちに眠たくなり、気がつけば忘れてしまっているらしく、そしてまたそんなことを述べているわけだが、たぶんそんなことは忘れてしまってかまわないのだろう。だがそれらのわだかまりをきれいさっぱり水に流せるのか。何のことを述べているのだろうか。何のことでもなく、君が考えているのとは別のことだ。ではやはりそれとは関係がないのだろうか。だから何のことを述べているのか。どうもその辺で話が停滞しているらしく、そこから先へ進んでいかないようだ。逃げ道はいくらでもありそうで、語るのが面倒になれば、すぐにそちら側へ話が逸れていってしまい、さっきまで何を語ろうとしていたのかわからなくなり、さらにそんなことはどうでもよくなってしまうらしいが、果たしてそれで話になっているのだろうか。そういうのはごまかし以外の何ものでもなく、できることなら避けたいが、避けきれないから必然的にそうなってしまうのだろう。ちなみに今回もそうだ。

 とりあえず人には働く必然性がありそうで、働かざるを得ないから働いているのだろう。そのことに取り立てて問題はない。たぶんそういう水準で何を述べても無駄なのだ。それらのどこにも救いがないことは明らかで、そういう成り行きの中に人は投げ込まれていて、働くことに生き甲斐を感じるように強いられているのだから、そういう人たちが世界中に満ちあふれていることになる。そういう意味でこの世界は労働者のものだ。労働者以外にどんな人間が存在しているというのか。遊び人も労働者なのだろうか。そういうのは人とは見なされないのではないか。だからそういう水準で物事を捉えてはならず、もっと労働の質とか量というものに踏み込んで、何か利いた風なことを論じるべきなのだろう。だが誰かはそういうのには興味を持てない。なぜ人は働きながら生き続けなければならないのか。そういう無理な疑問を差し挟んで、絶えずそういう水準から逸脱しようとする。言葉としては労働も労働者もつまらない概念か。夢も希望もありはせず、そういう本質的な問題から離れ、もっと枝葉末節的な、例えば娯楽の中に救いを見出そうとしてしまうが、それはそういうものを通じて幻想を振りまいているメディアによる、ある種の洗脳の結果なのだろうか。それもあるにはあるが、基本的に何よりも働くのが嫌いであり、嫌いなのに働かざるを得ないことからきているのかもしれない。

 たぶん多くの人たちが、働いている時より遊んでいる時の方が楽しいはずだ。しかし遊ぶには働いて稼がなければならず、遊んでいるだけでは生きていけず、仕事に生き甲斐を感じているように思い込もうとはしているものの、それが何かの建前であり、きれいごとであることも一方では承知しているはずだ。とりあえず人が生きていくには絶えず苦痛や苦悩が伴い、その主な原因が労働であったりするわけで、何とか嫌々働くのではなく、前向きに積極的に働いていこうと思い、結果的に無理をしているような気もするのだが、それで何とかそういう問題は解決したように装っているのかもしれない。しかし相変わらず日々の労働に束縛されていることに、嫌悪感を感じているのは確かで、いくら厳格な倫理的あるいは道徳的な思い込みによって、それを押さえ込もうとしても、拭いがたい感覚なのではないか。果たして君はそこから自由になれるだろうか。うまく立ち回って多額の金銭を得て、嫌な労働から解放されたいと思うのは、誰しもが思うところかもしれないが、それに成功するのは一握りの者に過ぎず、たとえそうなったとしても、そこで立ち止まることができなくなり、さらなる成功を求めて、さらなる労働に自らを駆り立てる者も多いだろう。だがそうなってしまうと、もうそれは労働とは思わず、好きでやっている遊びと変わらなくなるわけだが、それに社会貢献だとかいうもっともらしい理由付けを行ったりして、自分の行いを正当化したがるのだろう。それは馬鹿げたことか。やっている当人はまったくそうは思わないだろう。そういうわけで今日も人は虚しいことをやっているのだが、君はそういうことには無関心か。


11月15日

 今さら何を語ろうとも思わないが、ちなみに今は昨日の夜だろうか。誰に向かって何を語っているわけでもないはいつものことか。君はそこで何をやっているのだろうか。誰もそういうことに興味があるとは思えず、何について語ろうとしているのでもないのだろうが、とりあえず回りくどく言葉を記し、そんな文章を構成してみようか。そんな嘘をついてみても虚しいだけで、とても思い通りの展開とは言いがたいか。それでかまわないのだろう。何を語ってもそうなってしまうのだから、それは仕方のないことか。毎度のことなので、そんなふうに語るのにもなれているようだ。今の誰かにとって、空疎な語りはお手の物だ。本当はそうではないと思いたいのだろうが、実際に出来上がった文章がそうなのだから、それはそれとして受け入れなければならず、君はそれについていかなる反論も持ち合わせていないはずだ。ならばそれでいいのだろうか。たぶんよくはないが、そうなってしまったことを改められずにいるらしい。もうだいぶ言葉が連なっている。そしてそこであきらめている。ではもう何も語ることがないのだろうか。そうかも知れないが、それが昨日の夜の状況だった。今日はまだ何も記していない。それが嘘だというわけか。誰がそう思うのか。たぶん何を思っても何のことでもなく、何がそう思わせるのでもないらしい。要するに君はそれについて語るのが面倒くさいのか。それはいつものことであり、そうあらねばならない現状か。

 それがわからない。何がわからないのでもなく、それがわからない。だから大したことはなく、何がどうなっても他人事か。ではいったいこの世界はこれからどうなってしまうのか。どうにもならない。どうなろうと君の知ったことではないはずだ。今世界中で繰り広げられているはずの国家単位での経済競争など、メディアが作り上げたフィクションだ。国際会議で集まった各国の首脳たちもそんなフィクションを信じ込んでいるようだが、それは愚かなことだ。たぶん物事の本質は別のところにあり、どんなに利いた風な見解をその現象に当てはめてみても、そのほとんどがずれているか、あるいは的外れになってしまうように思える。たぶん何かが違っているのだ。議論の前提となっている現状に大きな勘違いが含まれているのだろう。この世界に暮らす人々は何かによって踊らされている。経済的に豊かになろうとしていることが、その行き着く先を見えなくしていて、何かそれを追求することで、明るい未来の到来を招き寄せている、と思い込みたいのだろうが、それが現状にはとどまれなくしているわけで、何か世界中の人々が同じ目標に向かって努力しているかのごとき幻想をもたらしているのだろう。それが違っているのか。たぶんすべての現象は過渡現象であり、定常状態はあり得ず、絶えず経済競争が悲惨な労働を必要としていることを、それに加わっていると思い込んでいる誰もが忘れているのではないか。

 もしこのまま世界中で経済競争を繰り広げてゆけば、低所得者たちが低賃金で汗だくになって働いている劣悪な労働環境が、果たしてこの世界からなくなるだろうか。例えば科学技術の進歩で、将来的にはそういう労働はロボットが担うことにでもなるのだろうか。では今現在そういう仕事をやっている人たちは今後どうなってゆくのだろう。たぶんどうにかなってゆくのだろうが、それ以前に労働とは何なのか。なぜ人は働かなければならないのか。その辺でどうしても疑念を抱かざるを得ず、金を稼ぐために働くというシステムそのものが、人にとってなぜ必要なのだろうか。現状を見ればそんなのは当たり前のことで、そんなことに疑念を抱くのは正気の沙汰でないわけだが、やはりその当たり前のことがおかしいように思えてしまう。それに関して冗談を述べるなら、果たしていつまでもこんなことをやっていていいのか。稼がなければ暮らしてゆけないのなら、いつまでもやっているしかないだろう。それ以外にはどんな選択肢もなく、そうせざるを得ないから、多くの人々がそうしているわけで、経済的な豊かさを謳歌するために一心不乱に働いているはずだ。だがそれが冗談だと思う理由は何だろう。なぜそれが馬鹿げていると思えるのか。その辺がおかしいのだろうが、なぜおかしいのかはよくわからず、今日も誰かはどうしようもない成り行きに従いながら働いているのだろう。


11月14日

 それはありふれたことかもしれない。それでもどうも最近は何かが違っている。君はそこで何を見出そうとしているのか。自らが君という言葉で記されているそれが、何の話でもないのが気に入らないのだろうか。今さら誰が君でもなく、それを記している誰かも誰でもないはずだ。そして話の中身も何でもない。そういうのがおかしな具合となっている証拠か。もっとまともに内容のあることを語ったらどうか。それができないからそうなってしまうのか。とりあえずそんなことをいくら語ったところで、何がどうなるわけでもなく、ひたすら空疎なことが記されている現状を、そのまま持続させていることにしかならない。そしてそれは今さら述べるまでもなく、わかりきったことだろう。だが君はそのわかりきったことを理解できない。するつもりがなく、そんなことを理解しなくてもかまわないと思っているらしい。なぜそれを認めなければならないのか。それも理解できず、そうしているうちに何を理解できないのか忘れてしまう。ではいったい何を理解すべきなのか。だからそういう語り方がおかしいのだ。それを理解すべきなのか。たぶんそういうのが根本的に間違っていて、違っていると思っていることのすべてなのだろう。すべてではなく一部か。すべてでも一部でも何でもかまわないのではないか。何となく言葉を記しているうちに、どうでもよくなってきているのかもしれず、何が違っていようといまいと、そんなことはどうでもいいのではないか。だからそういうのが違っているのではないか。

 たぶん事実が違っているようだが、あやふやに何の根拠もなく、そんなことを述べてもかまわないのだろうか。どうせ語っているすべてが嘘に決まっている。そこでは誰が何を語っているわけでもない。実質的にはそうだろう。だが架空の虚構の中では、君が何かを語っているふりをしているのではないか。だからそれで語っていることにはならないだろう。しかしフィクションとしての語りならそれでかまわないのかもしれない。だから誰がどこに向かって反駁しているのか。それで何かのつじつまあわせに貢献しているとは思えないが、それで何がどうしたというのか。誰かは君が語っている内容を知りたくなる。文章の意味的な整合性が崩れているのは毎度のことのようだが、少なくとも君はそれに関して何か反論する必要があるのではないか。フィクションの中で現実の世界に向かって反論してどうするのか。実際に何が問われているわけでもないだろう。そして相変わらず何を語っているのでもないらしい。つまり君はそこで行き詰まっているのだ。そんなその場限りの結論を打ち破る力が君にあるとも思えず、誰が君に向かって諭しているとも思えない。ただ誰かがそんなことを記していて、それらの記述の中で何らかの主張があるのかもしれないが、それは誰の主張なのだろうか。その中で何かが壊れかけているようだ。中身は今さら修復しようがないほどぐずぐずになっているのかもしれず、君は絶望のあまりこれからどうなってしまうのか。そんなふうにして誰かは今さら冗談を述べようとしている。

 それはいつもの時間ではなく、かなりずれていることは確かなようだが、腕時計の時刻が合っていないのだろうか。だが仮にでたらめな時刻だとしても、今さら何と合わせる必要があるのか。我が道を行くような成り行きに持っていきたいのか。それは誰もが思うことで、ご都合主義的な強引さを隠そうともせずに、これから誰かがどうにかするらしいが、それでうまくいったとして、どこか感情的なしこりが残らないものか。案外君はそうなることを願っているのではないか。何とか何でもいいから、心の隙をついて、一発逆転の展開に持っていきたいらしく、さっきからしきりにそのチャンスをうかがっているように見える。だから見え見えの動作が仇となり、さらなる敗北へと一直線の展開になるのが、そこから生じるありふれた展開なのかもしれないが、君はそれに気づいているような素振りを見せつつも、なおのことわざとらしく一発逆転狙いの姿勢を見せつけ、そう見せかけておいて、何か秘策があるように装いたいのだろうか。わからないが、そうだとしてもそれが見え透いているように思われる。だからもうだめだろう。これ以上の成り行きはあり得ず、その成り行きに従って、自動的に君は破滅する。だがたとえ破滅しようと、君はそれを認めないだろうことはわかりきっているが、果たしてその姿勢をいつまで崩さず、その場に立ちすくんでいられるだろうか。そんなことを続ける必要がないのに、何とか虚勢を張って、自らが健在であることを知らしめたいのだろうが、その知らしめる相手が不在であり、その場で相づちを打つものなど誰もおらず、他に何もない廃墟の中で、ひたすら存在し続けるふりをしていることが、どこまでも愚かで虚しい行為であることなど、百も承知のはずなのに、なおもそこに居座り続けるのはいかがなものか。それも何かの冗談か。それとも他に行くあてがないから、そこで延々と踏ん張っているわけか。誰かにはまったくわけがわからず、冗談にもほどがあると思いたいのだろうが、それ以上に何を思うわけでもなく、そんなのは無視していればそれで済んでしまうのだろう。


11月13日

 また冗談のように同じ言葉の繰り返しとなり、何となく呆れてしまうらしい。しかしそれとは何なのか。たぶんそれではなく、これなのだろうが、相変わらずそれもこれも何でもないことだ。君はそれを理解するのをあきらめて、気休めに音楽を聴いているみたいだが、やはり言葉が何も出てこないようで、誰かはそんなことを気にする素振りも見せずに、興味のないことを記している。ちなみに他の誰かのささやき声がどこかに記されているようだが、たぶんそれとこれとは無関係だ。そんなわけでまた何かがわけがわからないことを述べているようだが、やはり本質的には何を述べているわけでもなさそうで、誰かも何かも関係なく、それらの文章が記されている画面は、今日も退屈に閉じられる。どうやら君は誰にも考えるいとまを与えないらしい。そこでは誰も何も語ることを許されず、物語のひとつも生まれはしない。君はこれから生じる可能性のあるそれらの物語には興味がないのか。まったく興味がないとすれば、君にはどんな物語がお似合いなのか。何に興味があるとも思えないが、ちなみに他ではどんな物語が生じているのかといえば、架空の物語が様々な書物に記されているようだが、たぶんそれとこれとは無関係で、語られているそれらは何の物語でもなく、ただの無駄話のたぐいかも知れず、それ以前にそこでは何がどうなっているわけでもないようで、とりあえずそんな無駄話さえ、無関心とともに漂っている周囲の雑音にかき消され、未だ心の空洞に響き渡っている得体の知れぬささやき声を打ち消すには至っていないらしいが、君にはそれが何を意味するとも思えず、誰かはぐしゃぐしゃなことを述べすぎているようだ。

 だが架空の物語の中では、とりあえず何かがどうにかなっているはずで、そのほとんどはでたらめな内容でしかないが、一応はその登場人物である君は、それからどうなったのだろうか。どこからどこまでが話の中身なのかわからないが、少なくともそれらは君に関する話ではなさそうだ。そして冷めた顔して画面に向き合っている誰かも、それが何だかわからず、自分がそれを記していながら、なぜそうなってしまったのかもわからず、何となくそこから先にどんな言葉を記したらいいのか迷っているようだが、やはり結果的に何がどうなっているわけでもないので、それ以上の何かを求めるわけにはいかないのだろう。この先にどんな話の展開が待ち受けていようと、偶然の巡り会わせに生じる何を鵜呑みにするわけにもいかず、絶えず疑念を抱いているようだが、それが何に対する疑念かといえば、それはこの世界そのものを含めたすべての存在に対する疑念なのか。苦し紛れにわざと大げさなことを述べているようだが、どうでもいいのにそれはないか。とりあえず何がどうでもいいのかわからない。それを受けて、君がそれをどうしたいのかもわからない。しかしそれでは何かの繰り返しになってしまう。だから同じ言葉が繰り返し記されているのではないか。たぶんそう思うならそういうことにしておきたいのだろう。誰がそういうことにしておきたいのかわからないが、とりあえずそこからすべてが始まろうとしているわけだ。

 しかし気分が重たい。本当に何をどうしたらいいのかわからず、どうも記している途中の言葉の連なりは、どこか得体の知れない地域へ迷い込んでしまったようだ。そして意識は何がどうなってしまったのかわからず、記すべき言葉を思いつかない。要するに何も語れなくなってしまったわけか。そして眠ってしまったようだ。ならばもうこの辺が限界だろうか。そう思うならそれでかまわないか。かなりわけがわからぬ話の内容になっていて、話の中身を把握できなくなっている。意識がもうろうとしているのだろうか。たぶんそうなのだろうが、何かの不意をつかれて、どうにもならなくなってしまったのかもしれず、それで何がどうなったわけでもないだろうが、現状がそれらしく、どうにもならなくなっているようで、それが楽しくてたまらない、と嘘をつく気にもなれない。どうやら不必要に強がってみせることもできない。今は睡眠中で夢の中か。そんな冗談も通じないらしい。とりあえず現実は現実で、夢うつつでもなく、ここにこうして意識があり、また何か悪戦苦闘状態なのかもしれないが、そこから抜け出ようとは思わず、それらの精神がぼろぼろの状態を見据えて、そこから何かを見出さなければならず、それがしばしの停滞を生み出そうと、そこを通過しなければその先へ到達できなそうなので、それはそれとして受け入れるつもりなのだろうか。受け入れたからといってどうなるわけでもあるまい。現状がそれなのだから、それはそういうことだ。それ以外の何ものでもなく、誰かはそれをどう解釈したらいいのかわからないだけかもしれない。


11月12日

 なぜか知らないが、どこかに昨日の言葉が記されている。誰かができないと思っているかもしれないが、たぶん君はそれができないはずがないと思っているのだ。確かにやろうと思えばできるはずだ。ならばそう思わなければいい。やりたくないのならそういうことか。疲れているのだろう。だからそれをやらなければいい。そんなことはわかりすぎるくらいにわかっているだろうが、とりあえず他の誰かがそう思っていて、それに影響されながら、またいびつなことを述べている。君は眠たくないのか。深夜だから眠いはずだ。喉が痛いのは空気が乾いているからかもしれない。もうすぐ冬だ。そしてもう不具合は解消されたのではないか。それが大したことではないことを知り、何となく拍子抜けになっているはずだ。気がつけば馬鹿げた思い込みが解消している。何かが冷めてしまったらしい。他に何が気になっているのか。久しぶりに言葉を記しているみたいだが、また一段と内容が空疎になっているらしい。このまま状況で続けられるのか。どうせまた途中で眠ってしまうのだろう。だからわかりきったことをわかっているふりをしている。それが外れているとは思わない。確かにそれはそれでしかない。それ今さら持ち出してあげつらうこともないだろう。すでに心がそこから離れているから、もう無理なんじゃないだろうか。去りがたくも去ろうとして、途中で立ち止まることもできはしない。

 どこにも居場所を見出し得ない君が、すでにそこから外れていることは承知しているが、他の誰がその範囲内に入っているとも思えず、それ以前に君が外れているそこが、どこにあるのかわからない。そんなところはどこにもなく、そこがそこではない場を空想しているだけか。誰がそれを空想しているというのか。誰かが記している作り話の中で、君が空想しているとは思えないか。誰が思えないのか。だからそういう話ではないのだろう。まだ何も話していないのにそれはないか。しかしそれとは何なのか。そればかりでそこから先へ話が進まず、何も内容がもたらせないまま、悪戦苦闘の最中か。いったい何がそうなのか。相変わらずそんな無内容に終始しているようで、そのうち呆れてものもいえない状態になりそうだが、いったんそうなってしまってから、また語りだすには何が必要となるのだろうか。そういう話ではないことを証明する必要でも生じているわけか。何がそうなのかわからない。確かにそうではないような気がするが、何がそうではないのかがわからないまま、気がつけばあくびが立て続けに出ている。誰かはそれを記すのに適当な言葉が思い浮かばず、もうやる気をなくしてしまったらしく、テレビを見ながら何を思っているのだろう。何も思わず、くだらぬ気分でそのままにしておくとしよう。語ることが何もないはずか。

 それにしてもすぐに誰かが死ぬはずがない。改めて何かに気づいてしまったらしく、文章を読むことが辛くなる。本当に何もないのだろうか。まだフィクションの中であがいているのだろうか。たぶんそこで何かを思いついたのだ。人の痛みとは何か。君は何を知らないというのか。指摘されているのはそれではない。見慣れた風景の中に何かがあると思っている。選んだ言葉が間違っているのではないか。本当は何も思いついていないようだ。さっきからちぐはぐなことを述べている。つじつまが合わず、文章が意味不明になっている。おそらく間が持たないのだろうが、それは何の間なのか。思考を巡らせても思いつかないときもありそうだ。そしていきなり外れたことを述べている。そういつもいつも的外れなことを述べているわけでもなく、たまにはまともに語っているような気がするのだが、何となくそれがおかしいような気がしてきて、またわざと空疎なことを述べていることにも気づき、なぜそうするのか理由が定かでないのだろうが、やはりここはそれを継続すべきだとも思い、それ以上の何かをもたらそうとしているわけでもなく、ひたすら無意味な内容を目指し、それを実現しているつもりになり、やはり君がそこから外れていることを後悔するつもりはなさそうで、大真面目で何かについて議論するのを避け、そういうのを小馬鹿にしつつ、さらなるまどろみの中へと意識を導いているようだ。


11月11日

 それは空耳なのか幻聴なのかわからない。何かの雑音が聞こえてくる。だが誰かの影は、別に何を語っているわけでもないようだ。どこからか定かでないが、ささやき声のようなものが聞こえてくる。しかし架空の話の中で悪夢にうなされているわけでもあるまい。現実の世界では誰かが音楽を聴いている。そしてそこで何が起こったのだろうか。何に急かされているわけでもない。ではどこからどこまでが現実なのか。君が何かを語ろうとしているのは嘘なのか。そう記せばそうなってしまうだろう。それも違うか。何が違っているわけではなく、すべてが違っているのだろうか。今さらそんなことを指摘してどうするのか。もう違うことを語ってしまっている。しかしそれはいつもながらの空疎な語りではないか。それでもかまわないと思っているのなら、そのまま語り続ければいい。今はそれ以外に選択肢がないのではないか。そうだとしても、なおのことおかしな語りを繰り返してまう。今はそういうことを語っているようだ。だから何なのか。やはり何もないとそうなってしまうらしい。ただそれだけのことのようで、誰かはまた無理に言葉を記そうとしているのだろう。そして気乗りしない言葉を並べ、文章が空疎な内容になろうとしているのを気に留めず、後はひたすらその作業に没頭するだけか。そんなわけがない。たぶんそうだろう。本当はどちらなのか。あるいはどちらでもないのか。そんな逡巡を本気でやっているとも思えず、何かの時間稼ぎなのかもしれず、そうしているうちに何か思いつくかもしれないとでも思っているのだろうか。

 誰がそう思っているのか。そしてそんなわかりきったことを問う必要がどこにあるのか。たぶんそれは字数稼ぎに違いない。何も語ることがないのに語っているふりをしようとして、結果的におかしな精神状態とともにでたらめな語りを容認してしまう。そんなことがあり得るだろうか。それともそれもフィクションの中で起こっている現象か。だがその他に何が語られているというのか。誰かが言葉を組み合わせて虚無的な文章を構成している。君にはそう思えるだけだ。そしてそんなことにはまったく興味を持てない。いったい誰がそんな嘘をつけと命じたのだ。作り話の中ではそれが誰の台詞なのか不明のようだが、画面上の三人はそれぞれ別の方角を向いている。それを眺めているうちに、ふと何か思いついたのかもしれないが、それが誰かの記述内容に反映されたかどうかは定かでない。そこで誰かは何を見たのだろうか。君が見たのではないことは確かなことだろうか。たぶん誰がそんなことを語りたがっているのでもないだろう。君はそんな画面を凝視し続けられるだろうか。なぜそんなことをしなければならないのか。そこには君という言葉を含んだ文章が記されているだけだ。その記された君という言葉が、画面を凝視し続けている君といかなる関係があるのだろう。記述の途中で話の筋が脱線状態になり、そんな偶然の巡り会わせに誰かが感動してしまい、そこから先である時でたらめな語りが始められたらしく、そんな経緯で今に至っているのだろう。たぶんそれが事の真相に違いない。

 だから何に急かされているのでもなく、自然とそういうことを記して状況が生まれ、そこで語られているでたらめが、またしても誰かを感動に導いているのかもしれず、今度はそれの再現を狙って言葉を連ねる作業が開始され、それがさらにおかしな状況をもたらしているわけか。そんなわけで君は気が狂っているのだろうか。それが冗談であることを祈っている。誰が祈っているのか知らないが、誰も君が狂っているとは思わず、君自身がこの世に存在していないとも思っていないようで、今では誰でも君になり得るし、それの何が君の特権というわけでもないが、何となく君が何を思っていようと、それが君特有の思いだとは思えない。誰もが思いつくことを思っていて、そんな思いに従って君は行動しているわけだ。では具体的に何を考えているのだろうか。例えばこの世の終わりについてか。そんなことを誰かが考えていることもあるだろうが、少なくとも今は違っていて、誰かの分身でしかない君が、それらの文章をどう終わらせるべきか思案しているようだ。気まぐれにそんな嘘をついてみた。たぶんそれは冗談とはならず、それとは少しずれた何かを空想させるような作用を持っているのかもしれないが、なぜそう語ってしまうのかはわからない。ただの意味不明として片づけてもかまわない。たぶんほとんどそうだろう。だがそう考えてしまうと、何かが違ってくるように感じられ、今度はそれとは違う何かを模索して、そんな試みの継続がそこでは重要だと思うようになるが、たぶんそれが無駄で無意味な試みであることもわかってしまい、しらけると同時に感動するが、その感動が何を意味するかはやはりわからない。


11月10日

 まったく君は何を勘違いしているのか。そういうことに違いないとすれば、どこかで何かが外れているのだろう。そして今になってその外れた何かを探しているわけか。もう遅い。探したところで何が見つかるのだろうか。たとえ何も見つからなくても、そんな現状を悲観しているわけではなく、ただ呆れているだけか。そしてその欠如を埋めることができなくて、誰かが困っているのかもしれないが、それが君の勘違いをもたらしているわけではない。では他の何をもたらしているのだろう。笑いか冗談か何かか。そうとも思われるが、その他の可能性としては、その場では余分な何かがもたらされているのかもしれない。そしてそれが君にとっては躓きの石となり、そこで判断を見誤っているのだ。それによって君は考えなくてもいいことまで考え、何か自分がのけ者にされているかのごとき被害妄想を誘発し、自己防御的に何か策を講じなければならなくなっている。そして実際にくだらぬ行動と愚かな言動を繰り返して、結局は自己崩壊に導かれてしまうわけだが、そこでいつもながらの冗談を述べるなら、事の経緯はそういう説明に集約され、その結果としてもたらされたのがそれらの言説であり、君はその中に閉じ込められ、ひたすら自らの勘違いを正当化し続けることしかできなくなり、何かに気づく機会を永遠に失ってしまうだろう。しかし何を回りくどく説明しようとしているのか。誰かが説明しているつもりになっているのは、たぶん何についてでもなく、あえて述べるとすれば、架空の何かについて語っているだけかもしれない。

 そう述べてまた何かをごまかしている。そしてわざとらしくもそんなことを述べながらも、それでかまわないと思っているわけだ。どうせ具体的には些細なことでしかなく、自己防御だの自己崩壊だのと大げさな言葉が記されているが、実際に体験しつつあるのはたわいないことであり、そういう些細な経緯にこだわっている小さな人々にとっては、極めて真剣に対処しているつもりになれることかもしれないが、そういうことに無関心な君にとっては、取るに足らないどうでもいいことにしかならないだろう。本気になれない以上はどこまでもそういうことでしかなく、君はすぐにそのことを忘れてしまい、自らの失敗から生まれた苦い教訓を未来の時空で生かせなくなってしまうのだ。それが冗談でなくして何になるというのか。たぶん笑い話のたぐいで後世に語り継がれたらおもしろいだろうが、別に取り立てて記憶に残るようなことではないので、当然のことながら誰の記憶からも消え去り、未来の時空においては、そんな出来事が起こったことさえ誰も覚えていないはずだ。たぶんそれでかまわないのだ。世界はそれ以上の何を求めることもなく、期待がやがて忘却に至るまでの道筋を、どこの誰が語り継ごうとしても、結局は時空による風化作用には勝てず、語り手の物語は挫折するしかなく、かろうじて何かの抜け殻のごとき空洞を残すにとどまるかもしれないが、やがて何かのきっかけでその空洞も壊れ、すべては塵芥に帰すだろう。だからそれは何について語っている言説なのだ。やはりいくら語っても架空の何かでしかないわけか。

 それならそれでかまわないのではないか。今ならそう思えるが、後から思えば愚かなことだと悔やんでしまうのかもしれず、もっとマシで具体的なことについて語ればよかったと思うのだろう。だがそれが誰の思いなのか定かでなく、語っている主体も不確かで、文章全体がフィクションの出来損ないのように感じられ、それも誰がそう感じているのかわからないのだが、たぶんその辺がおかしな具合になっていて、君がそれを真に受け取れないのも、もっともなことのようで、それについて何を語ればいいのかわからないのも、うなずけるところか。だから誰かはそれらの言説の何を肯定したいのだ。そしてそれらが何でもないことである、という主張はどこから出てくるのか。君がそれを肯定しているとは到底思えず、別に何を肯定しようと否定しようと、君の勝手なのだろうが、しかしなぜそんな文章の中で君は存在し続けるのか。それもおかしな疑問で、答えの出ない問いでしかないか。だからそれで君はかまわないのだろう。何を肯定したいのでも否定したいのでもなく、ただそこに君という言葉が記されていることについては、何とも思わず、どうでもいいことでしかないわけか。その辺で誰かが疲れて、文章を記すのが嫌になってくる、まったくとりとめのない話をいくら文章上で展開させても、たぶん徒労に終わるだけだ。だが君にとってはそれがいいのだろう。何でもないことを疲れるまで語り、その結果がさらに何でもないことになってしまうことが、たまらなくおもしろくもつまらなくもないが、そこがいいのだろう。もちろんそこでいいと思うことによって、何を肯定していることにもならないわけだ。それは嘘だろうか。


11月9日

 興味のないことをあえて話題にしてみせるまでもなく、そんなこととは無関係に、興味があろうとなかろうと、話題にもならないことを平然と語っているとも思えず、そこでは誰も何も語っていないのではないか、という疑念とともに、誰かが何かを記そうとして、結果的にそれが果たされたのかどうかわからないが、何やらそこに言葉の連なりが表示されているようだ。言葉を記すのはくだらない行為だろうか。それは記す内容にもよるだろうが、すでにそれを読むまでもなく、わかりきったこととして片付けてしまいたくなっているようで、とりあえず誰かが記している言葉の連なりの内容は、くだらないことにしておきたい。そこで展開されるフィクションではそういうことが述べられていて、それに誰が同意するまでもなく、何となく君はしらけきっているみたいだが、そんな否定的な思いとは裏腹に、作り話のどこかで何かが活況を呈しているようで、誰かはそこから目を背けつつ、なぜか何もない場所へと心を引きつけられ、ここには何もないと断言する癖がついてしまったらしい。やはりそれは嘘をついていることになるのだろうか。その場で何を語ろうと、どうせ虚構なのだから、何かもっとおもしろおかしく語って、それを読む人を喜ばせたらどうか。しかしなぜそう思うのか。君はそれでも十分におもしろおかしいとでも思っているのだろうか。誰に向かってそう説いているとも思えないところが、それらの語りのどうしようもなさを証し立てているのかもしれず、相変わらずその辺で何がどうなっているのかはっきりしないようだ。

 しかし説明とは何なのか。例えば変わらないことへのこだわりが、何か悪いことのように説いているのかもしれないが、すべてを変えられるわけがなく、とりあえず不具合が生じていると思われる箇所を是正すればいいだけで、他はうまく回っているのならば、そのままでいいのだろうが、そこで何がうまく回っているのかの説明が欠けている。だからそれがフィクションなのだろうから、その辺は誰かの想像にまかせて、ありふれた事情を想定しておけばいいのであって、それらの不具合がどこで生じているのかも、そんなのは虚構の範囲内で生じているだけで、誰にとってもそれはどうでもいいことなのだろう。そして君にそれがわかるはずがない。君は君自身に何を求めているのでもなく、ただ黙ってそれらの光景を眺めている君が、積極的に何をやれるわけでもないことを自覚しつつ、やはりそのまま黙り続けていればいいだけのことでしかなく、そういう君の無力さを君自身が肯定すべきなのか。少なくともそういう状況を受け入れてほしいのかもしれず、誰がそう思っているのでもなく、なぜか知らないが、誰かが記す文章にはそういうことが記されているわけだ。しかし誰かはそう記すことで、何を回避しているのだろうか。実際に記されている文章の内容など、すでに破綻しきっていて、まったくのでたらめで、読むに耐えないほど、わけがわからないではないか。

 だから具体的に何を説明しているのかわからない。どうやらその辺をわかりやすく説明できないようで、その場の安易な思いつきで言葉を連ねようとするが、話のつじつまが合わなくなっているように思われ、何とかそれを改めようとしているのだが、その段階ではすでに手遅れになっているようで、今さらできないことは明白で、そのままのやり方で押し通してしまうつもりのようだが、これから中途半端に何を語ろうと、ひたすらわけがわからず、それを語ることに何の必然性も見出せず、それでかまわないと自らに言い聞かせながらも、それらの文章的なおかしさを否定できはしない。やはりどこかで区切りを付けて、だらだらと自堕落に言葉を垂れ流しないような方策を実行に移すべきなのか。だからそう述べていること自体がかなりおかしく、わけがわからぬことを唐突に述べている印象を拭えず、それがおかしいことがわかっているのに、なぜそんなことを述べてしまうのかわからないようで、そこには何か気づかぬところで無意識の介在があり、何らかの論理を適用すれば、語っているすべてが何らかの構図に収まるように見えてくるのだろうか。とりあえずそれを病気として片付けるなら、それはさしづめ言葉の病といったところかもしれないが、そんな病に頭を冒されている実感もないまま、とりあえず言葉が連なってさえいれば、病でも何でもかまわず、たとえ病的に言葉を記し続けているとしても、外部の世界には何の影響も及ぼしていないように思われ、それらは心の中で起こっている葛藤のごとくに矮小化して捉えられているのだろう。


11月8日

 どうも何かの途中から何かの進行が停滞しているようで、それについて何か過ちを犯してしまったように思えてくるが、それが偶然の巡り合わせであることは百も承知なのに、やはりそうなる前に何か別の選択肢がなかったか、無駄に思いを巡らして、あれこれ過去の記憶をたどっている最中なのだろうか。そうだとしてもそれがどうしたわけでもなく、何となくこれは何かの機会なのだと確信しつつも、そんなことを述べている誰かを愚かしく思い、誰がそう思っているのかわからないままに、それらの文章が記されてしまうのだろう。そしてそれがどうでもいいような空疎な内容であることを予感させ、できればそうなることを回避したいと思っているようだが、たぶん何かに魅入られたようにそうなってしまうことだろう。しかしあらかじめそんなことを予言しておいて、その後に誰かは何を記すつもりなのか。今記しつつあるのがそれなのだろうか。そう思っておいて差し支えない。そして確実にその先に言葉が連なってゆくだろう。それは冗談か何かか。まさか今さら冗談に逃げるつもりなのか。そうかもしれないし、今回はそうではないかもしれない。どこへも逃げ道を見出せず、開き直ってまともなことを述べようとするのだろうか。しようとしてできるようなことでもあるまい。ならば結果からまともであるか否かを判断してほしいか。しかしこの期に及んで何を判断することがあろうか。結果的に何でもなければ判断しようがないか。

 それに関しては特に語ることがない。しかしそれとは何なのだろうか。要するに何も語ることがないということか。君に関してはそうだ。誰に関してもそうではないのか。少なくともそういうことを語りたいのではなさそうだ。たぶん君はそこで何らかの出来事に遭遇して、それを体験したのだ。そして何かを思ったのだろう。例えばそれは退屈な出来事なのだろうか。その時はそう思ったのかもしれないが、後から思い出すとそうではなかったのか。どうせくだらぬ思い込みを介在させるとそうなってしまうのだろう。何か脚色のような出来事の歪曲作用が生じているのか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。だからそれを肯定するのが面倒くさいのだろう。とりあえず肯定した理由を語るのが嫌なのか。心が怠惰に傾きつつあるようだ。実際にまったくとりとめがなく、何を考えているのでもない状態がどこまでも続いているはずだ。それで何を述べていることになるのだろう。君は冗談に逃げているつもりだろうが、現実には冗談にもならないことが述べられていて、それらは読むに値しない文章となっているのかもしれない。気がつけば辺りは苦痛が支配する領域になりつつあり、何かを述べるのが嫌になり、それを記すのが苦痛を伴っているようで、もはや愉快な雰囲気を作る余裕もなく、やはり語っていることが冗談になっていないようだ。

 何かについて真剣に語ることがおかしな行為に結びついている。君はそれに気づいているのだろうか。語っている何もかもが空疎でまとまりがなく、どこまでもとりとめがなく、まったくのでたらめになりつつあるようだ。そうならそうでかまわないのだろう。願ってもない機会がもたらされたわけでもないだろうが、何となく機会を捉えて言葉を繰り出し、それが思っても見なかった結果をもたらし、心に動揺が生じ、反射的にだから何だと強がってみせるようだが、それで何も隠せないことに気づき、誰かは焦っているのだろうか。確実に言えることは何もない。何も持ち合わせがないわけではないが、それを安易に語る材料にはできないようで、どうもそれなりに考えがまとまるまでにはまだ時間がかかりそうだ。君にそれができるとは思えないし、他に何をやらせようとしているわけでもないのに、思わせぶりに語るのはおかしい。何か不自然な印象を受け、そこに何らかの必然性をねつ造するのにも抵抗がある。もうどうでもいいことではなくなってきているのかもしれない。それを何とかしようとしている限り、ある程度の生真面目さは必要なのだろうが、それを語る前から鼻で笑っていては話にならないのではないか。しかし他に何が必要なのだろうか。君自身の過去でも語って、誰かの同情でも惹きたいのか。そんなチャチなことを語るべきでないことはわかっているはずか。


11月7日

 今は翌日の夜だろうか。何を思うこともなく、誰がそんなことを思っているわけでもなく、君がどこで何をやっているとも思えないが、誰のことを述べているわけでもない。しかし君とは誰なのか。それはいつもながらのくだらぬ問いか。それほどでもないような気もするが、今日は何か語るべきことがあるような気もしているらしい。とりあえず人は絶えずどこかで凝り固まろうとする傾向にあるようだ。自分のスタイルを確立して安心したいのか。あるいは変化し続けることから逸脱して、何らかの定常状態を保とうとしているのだろうか。その辺が何とも不可思議だが、いったんそうなってしまった人は悲惨な境遇にあるのかもしれない。しかしその悲惨な境遇というのが、いわゆる幸福な状態だとしたら、いったい幸福とは何なのか。そういう幸福の何が悲惨なのだろう。そんなふうに述べておいて、またずいぶんと乱暴なこじつけに走っているのではないか。だがそう思わざるを得ない光景を目の当たりにして、どういうわけか誰かは驚き、そうなってしまった人を恐れ、もはや何を言っても無駄だと悟り、匙を投げてしまいそうになる。その手のヤバい人は世の中にはいくらでもいる、と自分に言い聞かせながらも、何となくそういう悲惨な幸福に包まれて自足しきっている人を前にして、どうしたらいいのかわからなくなっているのかもしれない。

 とにかく当人は何か特定の動作ばかりを追求しているようで、一見そういう方面では優秀そうに感じられるのだが、どう見てもそれが仕事上の本質とは無関係の、要するに枝葉末節的な動作でしかない場合、どうもその人には、人として欠かせない何か重要な感覚が失われているように感じられ、当然本人は一生懸命努力はしているのだろうが、かえってそのことで周りの人たちを不快にさせながらも、それに気づかずに平然と行動し、振る舞い続けることから、周囲の人たちはその人に何か重大な欠陥があることを確信する。しかし彼はといえば、そのことに気づかないばかりか、彼が日頃から心がけているこだわりによって、作業が遅延して支障を来たし、そのことで何か注意しようものなら、食ってかかるような口調で抗議してきて、自分はただ言われたことを言われた通りに作業しているだけで、それの何が悪いのか、と逆に注意してきた者を言い負かそうとしてくる。なぜ人はそういう低次元で自らのこだわりを頑なに守ろうとするのか。そしてそのこだわりというのが整理整頓だというのだから、何となく周りの人たちは呆れてしまう。要するに時間をかけて身の回りを過度に整理整頓しないと気が済まないらしく、私生活でそれをやるならどうぞ好き勝手にやってもらってかまわないのだろうが、職場にもその流儀を持ち込んで、ひたすらそれにこだわり続け、周りの人間がやったことを、改めてやり直すようなことをするから、嫌がられているのに、そうするのが当然のことと思っている節があり、その方面での有能さを自己主張しているように見えてしまい、さらに周囲の人々は不快感を募らせる。

 人はどのような環境下で育てばそういう性格を身につけてしまうのだろうか。それともそういうのは何か心の病に分類される症候なのか。そんなことを思いながら、誰かはその人が一心不乱に整理整頓し続ける姿を見ていられなくなり、その場のすぐに立ち去りたい衝動に駆られ、実際にそうしてしまうことが多いのだろうが、たとえ声をかけて、それらの動作がおかしいことを遠回しに指摘しようとしても、たぶん聞く耳を持たないだろうことはわかりきったことで、何とも哀しいような虚しい気分でいるらしく、今ではそれはそれでそういうことだとあきらめ、要するに職場では整理整頓ロボットが動作中なのだという認識を持っているように装って、とりあえずそれにも何らかの利用価値を見出して、その動作にふさわしい作業を割り当てる方向に考えが傾きつつあり、その辺を割り切れば何とかなるだろうと思い込もうとしているようだが、現実にどうなるかはまだ不透明な段階のようだ。とにかくいったん雇用契約を結んでしまったのだから、彼にも扶養家族がいるようだし、簡単に首を切るわけにもいかず、どうせ真正面からやめるように言えば、後がこじれることは確実だろう。内容証明のような書類が届き、訴訟沙汰にでもなったらヤバそうだ。


11月6日

 また日付を昨日まで巻き返してきたのか。まったくご苦労なことだ。どうせならこのまま今日を通り越して、明日の日付まで先取りしてみたらどうか。無理なことをやろうとしている。今日の日付を維持することさえままならないのに、未来の日々を過去から語ることはできない。架空の未来なら可能だろう。そんなことを述べているうちにたちまち眠くなり、やる気をなくし、昨日の日付で記される文章さえ仕上げることができなくなる。内容は大したことはないのに、どうしてもできないらしい。いい加減に語ってしまえばいいのであって、実際にそうしているのに、そこまで到達することができないようだ。君はそれをいかんともしがたいことに憤っているのか。そこで語っているのは君ではないだろう。誰も語っていないという話の設定だったはずか。そんなことはどうでもいい。ただの無駄話の中で何を思っているのでもなく、他に何を語ろうとしているのでもないらしい。ただ語っているのはそういうことだ。ひたすら語り、ひたすらくだらないと思い、それが当然の帰結だとも思う。それ以外には何もなく、それを超えることは不可能だ。だからそんなのは嘘だと思うわけか。そう思う理由などどこにも見当たらず、そんな嘘をつきながらも、そう記している自らをくだらなく思い、結局は自己嫌悪に陥るわけか。そんな作り話がおもしろいとは思えないが、何かを語るとはそういうことなのかもしれないが、同時に君はそれが間違っていると思いたいのだろう。誰かは正しい行いと記述を思いつかないようだ。何に関して正しいのかもわからない。

 しかしそれとは何か。いったい誰がそれを知っているのだろう。見つからない答えを見つけようとは思わないが、それに関して君は何を考えているのか。今さらそれが何だかわからないとは言わせない雰囲気がある。何かをわかろうとする行為から外れ、とりあえずできもしないことを他の誰かにやらせようとしているのは、メディア上で語っている誰かになるだろう。彼らはすでに起こってしまった出来事を解説したい。この世界で起こっている様々な出来事のうちから、人々が興味を持ちそうなことや、この世界で暮らしていく上で知っておかなければならないと判断したことについて、それがどういうことなのか、それをどう捉えるべきなのか、それが人々にどのような影響を及ぼし、それにどう対処すべきなのか、それらをもっともらしく伝えたいのかもしれないが、君はそういう一連のメディア現象についてどう思っているのか。果たしてどこまで真に受けているのだろうか。君はそれらを何かの冗談のように笑い飛ばし、それについて誰かが記す言説には、そういうことを真摯に語ろうとする連中をどこか馬鹿にしているような雰囲気がある。しかしなぜ執拗に分からず屋的にそれらの情報に抵抗するのか。無理にねじ曲げて解釈しようとして、あげくの果てにわけのわからぬ結論を導きだし、それでどうにかした気でいるらしいが、ただ誰からも無視されるだけで、自らの愚かさを証明する以外に何の効果も効能ももたらさないのではないか。

 しかし今はそれでかまわないと思いたい。その誰でもない誰かによる語りをたまには肯定したい気分だ。確かに馬鹿げたことを延々と述べているようだが、それで話になっているのなら、たとえ内容が荒唐無稽であろうと、あるいは意味不明なことを述べていようと、そんなことはどうでもいいのではないか。ただ言葉が適当に連なって文章を構成してさえいれば、それはそれでそういうことでしかなく、それについてどう思っても、それは読む者の勝手だろうが、実際には誰もそこまで読んでいないのかもしれず、そこに読むための文章など何ひとつ存在していない場合もあり得る。もしかしたらそれらは読むための文章ではなく、それを眺めて楽しむためのものでしかないのかもしれない。ああそこに何かが記されている、と認識しさえすればそれでかまわないのであり、あとは一瞥してそこから目を背け、他の景色を見やれば、そんな文章がその画面上に映っていたことなどすぐに忘れてしまうか。だから今はそれでかまわない、とあえて述べておこうではないか。理由は何もなく、なぜそう述べるのかわからないが、何となくそう述べてしまいそうになるような状況なのかもしれず、君の不在とは無関係に、何か適当なことを語らなければならず、それを語れば語るほど、内容が空疎になり、そんな語りが記されている文章に何か特定の意味があるとは思えず、あえてそれについて何か述べるすれば、それはそういう文章なのだと納得するしかない。


11月5日

 そんなのはわかりきったことだが、語る必然性をまったく見出せないまま時が経ち、気がつけばもうこんな時間になっている。誰かはまたやる気を失い、言葉を記すのが遅れてしまうらしい。さらにどこまでもそんな成り行きになろうとしている。記しているフィクションの中では相変わらず誰が何を問うこともなく、それらの言説の中では何が問われることもない。そう語ってしまうことによって、誰かはさらにやる気をなくしているはずだ。実際に何も語れなくなっている。だがそれはいつものことだ。そしていつもそんな境遇から言葉を記しているはずだ。しかしそんな試みも間もなく挫折するだろう。内容がくだらないからそうなってしまうのだろうか。それだけではなく、根本的に何も語ることがないのではないか。ではもうそんな嘘はやめにしよう。それの何が嘘なのだろうか。嘘でないなら続ける理由を知らせてほしい。誰がどこから知らせてくれるのだろうか。だからそういうのが嘘なのだろう。君に知らせる術はない。それどころかその件に関しては、その場に居合わせた誰もが否定的な見解を持ち合わせている。それは何の話なのか。それはどの件でもなく、何の話でも見解でもない。だからそれが否定的に語られているのではないか。それとは何だろう。何でもなければそれでもない。そしてそれはどれでもなく、その辺から架空の話がでたらめの内容になり始めていて、君はそれをどうすることもできず、そんな話を誰もが語る必然性を感じない。事実誰もそれを語っていないので、話自体が存在しないようだ。

 どうやら何かの途中から架空の話がおかしくなってきたようで、君はそれをいつものこととしてやり過ごしつつ、その場に意識をとどめようとするが、誰の意識が何のためにとどまろうとしているのでもなく、そんなことが記されている状況の中に、たまたま君という言葉があるに過ぎない。たぶんそれは何かのついでにあるに違いなく、それが必ずしもなければならないというわけでもない。君はそんな現状に失望しているのだろうか。それは昔からそうだ。くだらぬ状況に嫌気がさしているのはもちろんのこと、それをどうにもできない自らにも失望しているはずだ。確かそれがそこで話された内容だったはずで、それ以外には何もなかったはずだ。そんなのは嘘に決まっているだろう。架空の話の至る所で、そんなことを語ろうとして果たせず、結局は黙るしかないようで、君はそこでひたすら沈黙しているはずだ。それもそこで記されている嘘の類なのだろうか。不在の君にそれがわかるはずがない。そんなわけでそこでは相変わらずくだらない内容が記されつつあるようだが、なぜ君はそれを放置し続けるのか。他に語ることが何もないから止めようがないのか。別に何を止めようとしているわけでもないだろう。それどころがさらに誰かが言葉を連ね、もはやどうにも後戻りができなくなるまでそれを続けようとしているのだろう。君もそれを承知しているはずだ。それを積極的には止めようとしないのが何よりの証拠か。

 たぶんそれに関しては何がわからないのかわからない。何をどうしたらどうなるのかさえ、皆目見当がつかず、言葉を記せば記すほど内容が空疎でおかしくなってしまうのではないか。そうだとしてもさらに何かを語ろうとしている現状に変わりはなく、それを誰が変えようとしているわけでもなく、実際に誰も変えられないだろう。どうもそれに関して、何かが決定的にいかれているような気がするが、どこかで歯止めが利かなくなっていて、精神のどこかが壊れているように思われるのだが、ところで以前から試みようとしていた、文章をまともな内容にする努力はどこでどうなってしまったのか。とうの昔にそれをあきらめて、今はなすがままその時の感情に流され、その場の気分次第で記そうとする言葉がどこへでもでたらめに逸脱してしまっているわけか。それもその場限りのくだらぬ思いつきで、そういう説明に説得力が宿ることはないだろう。何をどう考えてもまともなことを思いつかず、まるでがらくたのようなことをひたすら語り、語る必然性とは無縁の、理由のない堕落を止めどなく出し続け、もういい加減にやめてしまおうと思うのだが、やめられるはずもなく、ここでやめるわけにはいかないのだろう。どうせならまともなことを述べてからやめたいか。しかしそのまともなこととは何なのか。それさえもわからず、いたずらに言葉を費やして文章を長引かせ、それを記している者を自己嫌悪に陥らせながらも、さらに空疎な無内容を目指す記述が続いていってしまうらしい。


11月4日

 何となく昨晩は何もやらずに眠ってしまったらしく、そして今は翌日の昼のようだ。相変わらず取り立てて語ることがなく、無理に語ろうとしても果たせず、実際にこうして空疎なことを語っても、あまり意味はないようだが、とにかく空は晴れていて、日差しが暖かい。昼だから晴れているように見えるのか。またわけのわからないことを述べ始めないうちに、正気を取り戻そうとするとしよう。まだ夜になっていないらしい。仕事の合間の昼休みに何を思うこともなく、別に何がどうしたわけでもないらしい。ではまた眠ってしまうのか。疲れているはずだが、いつ睡眠時間があるというのか。すでに翌日の夜になっている。夕方までには仕事を終えたらしいが、ぼやぼやしているとまた二日遅れか。別に空疎なことを毎日記す必要はないだろう。一日おきでもかまわないのではないか。本当は何でもかまわないのだろうが、いったんかまわなくなると、もう何も記さなくてもかまわないと思うようになるのではないか。実際に君はそう思っているはずだが、君の意向通りに事が運ぶこともない。たいていはそのまま誰の意向とも無関係に言葉が連なるだけか。誰が何をどうしたいわけでもないのだから、そういうことになるのが自然の成り行きか。そうだとしても依然としてお粗末な文章だが、現実にそうなってしまうのだから仕方ない。

 馬鹿げていることはわかっている。誰に語っているのでもなく、何を語っているのでもないはずだ。だからそういう前提がおかしいのだろう。それの何が前提なのだろうか。君の存在が前提か。前提とは何か。その辺でおかしな具合となっている。それでも君は何とかしようとしている。だがそこからまともな内容にするのは至難の業か。しかしそのまま放っておくわけにも行くまい。君にはそれがわかっているはずだ。何がわかっているというのか。そんなことを記しているうちに誰かが飽きてきたようだ。なぜそんなくだらぬ話になってしまうのだろうか。誰かも何とかしたいのだろうが、いかんともしがたいようだ。そのうち何とかなるだろう。君は楽観的な気分にはなれないようだが、たぶんそのうち何とかなるだろう。冗談でそう思っているのかもしれない。しかしそれの何が冗談なのだろうか。やはり述べていることが馬鹿げていて、冗談という言葉を使う場面ではないのではないか。ではどんな場面なのだろうか。どんな場面でもなく、ただそれ以外の場面で誰かが言葉を記しているだけのようで、そんな説明さえおかしく感じられる雰囲気の中でそれらは行われている。まったくどうかしている。そんなことをいくら述べても、記された文章がおかしいことに変わりはないが、それでも君はそれらをどうにかしようとしているわけだ。

 結局どうにもできないだろう。虚構の存在でしかない君に、それらをどうにかする力があるとは思えない。だが現実にそう述べているのは誰なのか。誰が何を思っているのだろうか。君ではないのだろう。文章上に存在している君という言葉には、現世での不在の影がつきまとっている。だがそんなのも嘘か冗談かどちらかに違いない。君は作り話の中で途方に暮れるばかりだ。しかし何を唖然としているのか。まるっきりでたらめというわけでもない内容に、何かを付け足せば、それらの文章が本当らしく感じられるわけでもないだろう。相変わらず君は何に言及するわけでもなく、そんなことを記している誰かが、君に関する物語を構築しようとしているわけでもなく、その代わりにただひたすらそんなことを述べられ、それを記している誰かを苦悩のどん底へと陥れているわけか。それも違うと思われる。かなり違っているのではないか。何も困っていないのに困っているふりをしているわけでもなく、苦悩する以前にわけがわからず、自らが記していることの意味がわかっていないのではないか。いったい誰かは何を記しているのだろう。その記されている文章の内容を、相変わらず君は知り得ない。知り得る立場にはないということだ。そしてそれがどうしたわけでもなく、なぜそうなってしまうのかがわからないままだ。だからやはりどこかがおかしいのではないか。それは誰かの頭がおかしいか、記している文章の内容がおかしいか、あるいはそのどちらもがおかしいか、そんなことを君がわかるわけもなく、すべては君とは無関係なのではないか。


11月3日

 下界では夜だろうか。天上界ではどうなのか。君の知ったことではないか。たぶん体験しているそれはどんな現象でもない。では何を否定しているのだろうか。何も否定せず、その代わりに馬鹿げたことを述べているのかもしれない。不意にこの世界のすべてを肯定したい気になる。誰かの気まぐれだろうか。だが相変わらず何について述べているわけではない。まだ何も定まっていないらしい。君にとっては好都合か。何を根拠にそんなことを述べるのか。ただの意味不明な戯れ言のたぐいか。君はそう願うだろう。なぜか知らないが、そういうことにしておきたい。まともに語るのが面倒なのか。そうかもしれず、相変わらず誰かは疲れているのだろう。今日は言葉を記す気がしないか。だからそう願いたいものだ。誰かはこの世界に起こっている出来事に参加したい。何でも口出しせずにはいられないか。そういうことでもないのだろうか。自らが渦中の中心で何か振る舞いたいのではないか。それもわからない。なぜそうしたいのだろうか。気休めにテレビでも見ておいた方がいい。それの何が気休めになるのかわからない。要するにそんなたわいないことならすぐに語れるのだ。それの何がたわいないのだろうか。何となくそんなことを述べているうちにくだらない気分となる。君は完全に堕落してしまったのか。往時の姿を思い出せない。

 それは単純なやり方に違いない。雑なことを述べていればいいのだ。だが本当にそれでいいのだろうか。何を迷っているのだろう。そう述べてしまうことが雑なのではないか。だから何となくくだらなく思えてくるのだろう。他の何に気づいたわけでもなく、それらの言葉の並びがつまらないことに気づいたらしい。いつまでもテレビ画面に見とれていては何も語れない。いい加減にこちらに向き直って、言葉を記してほしいか。どうやらまともには行かないようだ。内容がますますくだらなくなりそうだ。それでかまわないのだろうか。それを誰に問うているのでもないだろう。それは君自身が答えるべきことか。誰もそうは思わない。そうはいかないと確信しているらしい。そうは問屋が卸さないというわけか。なぜわざとくだらないことを述べているのだろう。やはり意味不明だろうか。そう思うならそれでもかまわないか。誰に何を思わせようとしているでもない。少なくともそれが誰かの戦略というわけではない。そこにどんな目的があるというのか。おぼろげながら何かの記憶がよみがえってくる。あの時君は何を語っていたのだろうか。それもあのときの記憶ではない。映像を見ながら、何かを思う。難しいことだ。何も思えないのだから、何かを思うしかない。そういうことではないような気がするが、難しい判断を迫られる。そんな状況を思いついたようだ。嘘かもしれないが、その辺に何かこだわりでもあるのだろうか。

 なぜか危険な言葉の並びとなりそうだ。本当に馬鹿にしているのか。風邪を引いているのかもしれない。そんな気がしているだけか。たぶんそうに違いないが、翌朝になればわかる。だから面倒くさいのだ。ちゃんと語るのが面倒くさい。どうやら本当に危険な精神状態になってきたようだ。本当だろうか。冗談でそんなことを述べているのではないか。夜で暗闇しか見えないのに、窓の外を眺めているのはおかしいだろうか。何やら作り話の中で架空の意識が考え込んでいる。そうではない。そんなことを述べてみても無駄なのか。何を無駄にしたいわけでもない。わけのわからぬ言葉を費やして無駄に文章を長引かせている。言葉の並びが支離滅裂なのか。いつもの通りだ。何を語りたいのでもなく、何をどうしたいのでもなく、他に何があるのだろうか。何もなければそうなるだけか。たぶん君はそうではないと思いたいのだろう。だがそうはいかず、結果としてこうなっている。それがどうしたわけでもないのに、こんな結果なのだ。情けない結果か。どうもそれは違うような気がするだけか。思っていたのとは違う結果になっただけだ。そしてそこから心が外れ、どこかあてどない言葉の並びとなり、何を語っているのかわからなくなり、そしてとどのつまりがこうなってしまったわけか。それが面倒くさいのだろうか。何かを主張するのが面倒くさいことは確かだが、なぜそこで主張する必要があるのか。いったい何を蒸し返そうとしているのか。だからそれはくだらないと述べているだろう。


11月2日

 そして今日になり、さらなる何かが記されようとしているが、どうせ大した無内容ではないだろう。少なくとも何らかの内容が含まれているはずだ。日差しがまぶしく、そこで何を語っているのでもないような気になり、実際に語っているそれらの内容を忘れがちになるが、それが何だかわからないわけではなく、きっと君は何か適当な内容を把握しているはずだ。その場を取り繕い、何とかしようとしている意図も、それらの言動から感じられ、たぶんそのまま言葉を記していけば何とかなるのだろう。だがそれでも君は何かを信じられずにいるらしい。行き先が不明なのは致し方のないことか。それは何の行き先なのだろうか。少なくとも君の行き先ではない。誰の行き先でもなく、それはあくまでも何かの行き先なのか。それでは意味不明ではないか。たぶん何かが何であってもかまわないのであって、君であっても誰かであってもかまわないのに、なぜか君でも誰かでもない何かの行き先だと述べたがり、その述べてしまう意図がわからないのだが、たぶんそこにも深淵な何かが介在して、そんな嘘をつきながらも、それでそういうことになってしまうことを裏付けるつもりもなく、何となくそういうことを述べているだけなのだろうが、そんなふうに述べてしまうことが、それらの文章のおかしさの原因となっているだろうか。そんなことは架空の存在でしかない君にわかるはずがない。君に何をわからせようとしているのではなく、何をわかったつもりになりたいのでもない。ただそれはそういうことに過ぎず、それ以外の何ものでもないか。

 とにかく休んでいる暇はなさそうに感じられ、何かが特定されたり定まらないうちに言葉を記そうとしているのかもしれず、そんなことが可能かどうか知らないだろうが、何を知らなくても言葉が記され、君の頭をますます混乱させる結果となるのかもしれない。果たしてそれも冗談のたぐいだろうか。そうかもしれないが、そんなことはどうでもよく、どうでもいいのにそんなことを記してしまうことが、ここでの過ちであり、何かの根本から間違っているのかもしれない。そしてそれでかまわないと思ってしまうのもおかしなことになり、まったく語っている何もかもがおかしいのに、そんなやり方がどこかでまかり通るとは思っていないのだろうが、何となくそれでかまわないと思っているらしく、今はかまわないが、あとで後悔して、もう手遅れとなってしまってから悔やんでいるのは愚かなことだと思うのだろう。そんなわけで何を語っても冗談となり、それらの何を真に受けていいのかわからなくなるが、何も真に受ける必要はなく、もっと他に真面目に取り組むべきことがあるのかもしれない。だがそれでもなおそれを続けてしまう理由をどこにも見出せず、理由もなくそんなことを述べてしまうのが、さらなる愚かさを招いているのも承知しているのに、わかっていながらそれをやめることができずにいるらしく、たぶん誰かが本気でわかっているとは思えないが、本気でわかるとはどういうことなのかもわからずにいるようだ。

 君にはそれがわからない。おそらく誰にもわからないのだろうが、果たしてそれをわかる必要があるとも思えない。わかろうとしなくてもいいのだろうか。現時点ではそうかもしれず、いつまでたってもわからなくてもかまわないのかもしれない。たぶん誰にとってもそれはそういうことなのだろう。そこで何を見出そうともせずにわかることはあり得ない。そんなわけで君はそこで何も見出し得ないだろう。だいいちそれをわかろうとしないのだから見出せない。だがそれはいったいどういうことなのか。その辺から何かがおかしな具合に絡まり合い、何かを理解するのを阻んでいるような気がするのだが、何かとは何か。それは誰かの記述か。そんな感じもするし、それ以前に誰かが聴いている音楽がそれを阻んでいるような気もしてくるが、本誌的にはそこにどんな原因があるわけでもなく、何をどうしようと、そんなことはそれらの記述とは無関係なのかもしれないが、なぜそんなことを記してしまうのかわからず、それは何か惰性で記していることなのかもしれず、単にそれを続けようとしているから続いてしまっているだけで、それ以上の意図も意味もなく、そんなことでしかないような言葉の連なりに、どのような原因を当てはめるのもおかしく思われ、そんなふうにしてそれらを継続させることに、いかなる肯定的な意義も見出し得ないのは当然のことだろうか。どんなわけでもないが、そんなわけで、見上げればまたしても青空だ。それ以上の光景をそれらの文章は見出し得ないのだろう。


11月1日

 誰かはふと青天の霹靂という出来事に巡り会いたくなる。そしてそれがどういうことなのか知りたくなる。知る前に体験するのだから、体験すると同時に知ることになるのではないか。また何かの冗談なのか。きっと何かの気まぐれだろう。翌朝は久しぶりに晴れていて、相変わらず何を思うこともない。きっとそうだ。何がそうなのか知り得ないが、たぶんそうなのだ。そうであり、何でもないことなのだ。そう述べるほど何でもないことが無駄に記されるばかりか。そうかもしれないが、それでかまわないのだろう。なぜそういう具合になってしまうのか。それを知る必要はないのだろうか。たぶんそういうことになるのだろう。今はそう思うしかないらしく、誰かの気まぐれでそう思っているだけかもしれない。そんなふうに感じられるのだ。見上げれば空が青い。それだけのことだろう。なぜもっと違ったことを思いつかないのか。焦れば焦るほどそうなってしまう。またその場の思いつきでわけのわからぬことを述べようとしている。それが嫌ならもういい加減にそういうやり方はやめてしまったらどうか。またできもしないことをやろうとしている。近頃の君はそればかりなのか。ここは面倒くさいので、そうではないと述べておこう。やはり何が面倒くさいのかわからないが、そんなふうに語るべきではないのだろうが、そう語ってしまっている現実があり、それを改められずに今に至っているのだろう。誰かにはそういうやり方がお似合いなのだ。

 君はそこから外れて何を思うこともなく、外れた外部があるとも思っていない。すべては相互に依存し合い、関係し合っている。そんなことはわかりきったことだろう。どのように依存し合い、関係し合っているのかを明らかにしなければ、何を述べていることにもならないのではないか。だからそんなこともわかりきっているはずだ。絶えずその先を見据えて言葉を繰り出し、結果的に何らかの見解を表明できれば、それで何かを述べているつもりになれるのではないか。別に何を述べているつもりになりたいわけでもないのに、なぜそういうことを述べてしまうのだろう。やはりその辺がわからず、わかっているのにわからないふりをしているのかもしれないが、とにかくわからないことにしておきたいのかもしれない。なぜそういうことにしておきたいのか。その理由も定かでないのに、なぜそういうことを述べてしまうのだろう。それもかなりおかしなことかもしれず、それがその場限りのご都合主義的な成り行きまかせで述べているのだろうが、何となく不思議に思われ、次いでそれはそれでかまわないような気になってくるのだろう。たぶんその場ではそれが当たり前のことではないのか。要するに君は当たり前のように語り、それに対して誰かが当たり前のような見解を述べている。果たしてそれでかまわないのだろうか。言葉を記すごとに次第に行き詰まりつつあるのかもしれず、そんな光景を目にして愉快でたまらないわけか。

 緩やかに時は流れ、今まさに機が熟しているとは思わないが、なぜ緩やかに時が流れていると思われるのか、その理由をこの世界に見出すことはない。まるででたらめに言葉を繰り出している。そんな気がしてきて、その先を考えるにあたり、やはり今までやってきたことを反省せずにはいられないだろうか。まったくおかしい。そう述べていることが嘘みたいに思われ、嘘ではない証拠に何を提示したらいいのかわからないが、とにかく先を急いで、それらのでたらめな言葉の連なりにけりをつけるつもりで、そんなことを述べているのかもしれず、実際にそうなってしまっている現状をどうすることもできないようだ。たぶん君には無理だろう。誰にとっても無理だからそうなってしまっているのだ。それは嘘か。嘘ならもっと他のやり方を示せないものか。知らず知らずのうちに無い物ねだりになってしまっているだろうか。そうであってもかまわない。それらはそういうたぐいの文章なのだから、それはそれでそういうことにしておけば、万事が丸く収まり、それらのでたらめを無視しながら通り過ぎることが可能だろうか。そうなってしまえばしめたものか。そんな嘘を書き捨てて、誰かはその先に言葉を連ねようとしている。まったくどうということはないことを記しながらも、それを不思議に思い、そんな言葉の連なりが形成されてしまうことに驚きを隠せない。まったく冗談とも本気ともとられかねないようなことを述べている。


10月31日

 何はともあれ、ようやくここまでたどり着き、ひと息つく暇もなく、何となくそんなことを述べているつもりになりたいのだろうが、物事の本質を見失っているつもりもなさそうで、本当か嘘か知らないが、何やらそんなことを語りつつ、誰かは難局を切り抜けた気になりたいらしい。実際はどうかというと、かなり先まで行ってみないことには判断を下しようがないようで、そう述べることによって何がどうなったわけでもないのに、不用意に早合点するのは禁物で、何を判断するのも時期尚早なのだろうが、あやふやなことばかりが目の前を通り過ぎていて、確かに焦る気持ちもわからないではない。確実なことは何も言えず、何をどう語ってもはっきりせず、何が正しいわけでも間違っているわけでもない。それどころか正しいことが間違っていて、間違っていることが正しかったりすることもあるようで、そしてそれさえも無視し得る誤差の範囲内にしかなく、本当はどちらでもかまわなかったりするわけで、何をどう述べてもかまわない代わりに、述べていることのすべてが不確実なのかもしれず、要するにそういう状況下では沈黙を守りとおすことが賢明なのだろうか。だが沈黙していれば無視されてしまうか。では嘘八百のでたらめを並べて、自らが愚かであるかのように装い、隙をついて気を緩めた相手に致命的な一撃でも食らわせれば、それで勝利の自己満足に浸れるか。しかしそう述べる時の君は、いったい何を念頭に置いて語っているのか。

 たぶんそれが誰かが語るでたらめのすべてなのかもしれない。君はそんな嘘をついてしてやったりとなることもなく、未だ一言も言葉を発しない。別に何か言う場面でもないだろう。何について何を語っているのでもないのだから、それに対しては無反応で応じるしかないか。本当はそれほどのことでもなく、冗談のひとつも発して、誰かの機嫌を取り、その場を取り繕うのが人としての普通の対応となるだろうか。だがそんなことを誰が誰に向かって説教しているわけでもない。要するに何でもないことであり、そういうことは枝葉末節なことになりそうで、別にことさらに物事の本質をそれらの言説によって捉えようとしているのでもないのだろうが、何となくたまにはそういう気にもなりたくなってくるようだ。まったく何でもかんでも嘘や冗談でごまかすのにも疲れてきたらしい。たまには正論でも述べてみたらどうか。だが正面からそう述べてしまうと誰かの失笑を買い、それこそが冗談となってしまいそうで、そんなふうに述べてしまってはまずい雰囲気になるだろう。だからもう少し遠回しに事を運び、やはり何を述べても何でもないような雰囲気を醸し出さなければならなくなる。しかしそれも嘘の類だろう。本当はもっとはっきりしたことを述べたいのではないか。だがそれは具体的にどんなことなのだろうか。君にはその辺がわからず、わかりようのない状況にその意識が包まれているように思われる。

 しかし何を述べているつもりでいるのか。たぶん何について語っているわけでもないと思いたいのだろうが、確実に何かについて述べているわけで、それについてはっきりしたことがわからないのがもどかしく、わざとわかろうとしないのではないかという疑念を感じながらも、他で言説の確実性を取り返すわけにも行かず、やはりそんなふうに語っていくしかないらしく、その辺をもどかしく思いながらも、それについて語っているふりをしながら、本当はそれとは別のことを語ろうとしているかのように装い、無関心なふりをしつつも、実際はそれを語っているわけだ。どうしようもなくそれを語っているはずだ。時にはそこから逃げ出したくなるのかもしれないが、今までは逃げ出さなかったと思っているらしい。逃げ出すも何も架空の話なのだから、何かから逃げ出そうも何も、そんな逃げ出す対象など何もなく、逆に何もないから、そこから逃げ出し得ないのであり、逃げる素振りも許さないのが、それらの虚無的な言説空間なのではないか。だが空間も何も、言葉が記されている平面上に空間などあり得ず、あるとすればそれは架空の空間であって、逃げ出す必要すらない場でしかない。しかしそれで何を述べているつもりになれるのか。たぶん何のつもりでもなく、とにかく何かを述べているのだろう。ひたすら何かを述べていて、もう述べることさえどうでもよくなっているほど述べているのだ。


10月30日

 どうやら先月の日付が長引きそうだ。今は翌月の夜になっている。そしてまたしても何も思わずに誰かが言葉を記しているらしい。どうもこうすればこうなるという法則らしき因果律とは別の成り行きを体験しつつあるのではないか。それが君が知り得ない法則に基づく現象だとすると、今度はそれを導きださなければならないというわけではなく、ともかくその場の成り行きに順応して、何とか難局を乗り切りたいのかもしれず、別に難局というほどのことでもないのだろうが、絶えずそこで暗中模索が繰り返されていることに変わりはなさそうだ。何がどうこうというわけでもないのだが、何となくその辺でわかりかけていることもあるようで、狭い範囲でまとまろうとする気はわからないでもないが、何となくそれではだめのような気がしている。その辺をうまく説明できないのだが、たぶん人は放っておかれると、自らの思考を単純化してしまう傾向にあるのかもしれない。要するに退嬰的になってしまうということか。それとは少し意味が違うかもしれない。だが何かを考える上で、自らの考え方を疑ってみなければ、思考していることにならないのではないか。別に考えなくてもいいことかもしれない。そういう思考がたどり着けない外側に何かの真理が存在しているわけか。そうかもしれないし、あるいはそうではないのかもしれない。どちらでもかまわないか。しかし君は何について考えているのだろう。

 たぶん何について考えているのでもない。考えていることと考えていないことのどちらでもない場合もあり得るだろうか。ただ何となくそう思っている。それだけでしかないだろう。今はそう思うしかない。それらの現象について何をどう分析しても虚しいだけか。たしかに虚しいようだが、それで探求を怠る気はなさそうだ。誰かは絶えず自らの思考の外側で探求を繰り返しているのではないか。きっとそれは気のせいだ。では今からでも遅くないから、何かに対して謝りにいかなければならないのだろうか。そんなつもりもないのにそういうことを表明してみせるのも、何かの戦略なのだろうか。しかし何かとは何なのか。何でもないから何かなのか。それでも何かがないと成り立たない文章なのだから、それは何かのままでかまわないのではないか。そしてそれをうまく表現できないのだが、ひたすらその何かについての説明に終始しているみたいだ。それだけのことだろう。それだけだから他には何もないのか。そう考えてもらっても結構かもしれない。ところで君はその何かについて説明できるのか。そこで誰かは何について説明しているのだろうか。要するにそう問うことはできるというわけだ。ただしそれに対する答えが導きだされることはない。別に答えなど要らないのではないか。現に何に対しても答えようのない状況になりつつある。

 しかし君に何がわかるのか。誰が君に問いかけているのでもない以上、何がわかったとも言えないだろう。だが語っていることが虚構なのだから、都合良く架空の登場人物が話の中に出現して、聡明ぶって鮮やかな謎解きでも展開してみたらどうか。人はそういうすっきりした話の展開を求めているのではないか。だがそれらの話が人にそういう爽快感をもたらそうとしているのではないのだから、相変わらず意味不明で定かでないことを述べ続けていてもかまわないのではないか。誰に向かって何を語っているとも思えないのだろう。それどころか自らに語りかけているのでもないらしく、言葉が自らの意志に関係なく連なってしまうのだから、そこに特定の語り手など存在し得ない。そんな嘘を平気で述べているのだから呆れてしまうか。だが誰が嘘をついているとも思えないだろう。だから嘘に呆れているというのも嘘に決まっている。君はそんな状況に苛立っているのだろうか。思い通りにならないことがそんなに嫌か。誰でも嫌だろう。だがこの世は思い通りに行かないことばかりか。そういう紋切り型的なことを述べてしまうのも、思い通りに行っていないことの表れか。そうかもしれないが、そんなことでめげているとも思えず、誰がめげていようといまいと、勝手に言葉が連なり、君の思惑などどこかへ置いてきぼりになってしまうだけだ。とりあえずそれらは誰のための文章でもなく、誰が書き記している文章でもない、と嘘をついてこう。


10月29日

 何を語りたいわけでもないのにそれはないだろう。何をどこまで努力したのか知らないが、それでも言葉の連なりはどこへも到達できない。はじめからそういう話なのだから、それはそれで仕方のないことだ。どうせ内容のあることは何も語れずに眠ってしまうのだろう。とりあえず架空の話の中では、いつものように誰が何を思っているのか定かでない。近頃はそればかりで呆れてしまうが、何となく誰かが記してしまうのはそんな言葉の連なりだ。そればかりではつまらない。ではどうしたらいいのだろうか。何も思いつかず、何も語れない。君ができることは限られていて、それは何かについて語ることだ。何かとは何なのか。虚空に向かってそう問いかけることしかできはしない。しかしそれがどうしたのか。そんな嘘は記し飽きたか。君も今さらそれはないと思っているはずだ。何をどう記してもどこへも到達できないのは、それは誰かが記している言葉の連なりに行き先がないからだ。目的がなく目標がない。そんなのはわかりきっていることなのに、今さらながらその致命的な欠陥に悩まされる。冗談だろう。冗談には違いないが、誰かはそれしか記せないのだから、君は黙ってそれを受け入れるしかないだろう。君にとってそれはあり得ないことか。実際には何がどうなっているわけでもなく、何を受け入れさせようとしているのでもない。ただそこにそんな言葉が記されているだけだ。君はそれについてどう思っているのか。外では相変わらず雨が降っている。

 誰かが雨音を聞きながら音楽も聴いているようだが、画面上に並ぶ言葉に見とれている場合ではないらしい。君はなぜそれを読まないのか。まさか文字が読めないわけでもあるまい。そこには何が記されているのか。それを確かめてみたらいい。しかし時刻を確かめてどうするのか。今は何をやる時でもなく、そこで誰かが言葉を記しているだけか。それが君にはわからない。なぜ言葉を記しているのに、内容がないのか。相変わらず外では雨が降っているというのに、部屋の中ではそれが何だかわからない。意味的におかしいだろう。いったいそれは何なのか。過去の記憶ではない。いくら今までにやってきたことを顧みようと、そこには誰かが不在だ。心の空洞はいつも人跡未踏の荒野だったはずだ。それの何が嘘なのか。神も君のことは知っていない。それらのフィクションの中では神も君も不在のはずか。それらの話とは関係ない。そこには誰の存在が証明されているわけでもなく、その部屋には誰もいないだけで、そこでは何も語られていない。ただひたすら言葉が記されているのだ。そして君にはそれが何だかわからない。しかしなぜそんなことを延々と語っているのか。実質的には何も語っていないではないか。だから君にはそれが何だかわからないのではないか。だが実際には同じ言葉が繰り返し記されているだけで、ただ君がそれをわかろうとしていないだけか。そう思うならそれでもかまわない。

 ところでまだ時間は残されているのだろうか。言葉を記す時間ならいくらでもあるはずか。では書物を読む時間はどうなのか。残されていると思われるのはそれらとは違う時間か。作り話の中では君がそれを確かめようとしている。それが嘘だと思うなら、それらの書物を読んでみるがいい。しかしどこに架空の書物があるというのか。誰かの頭の中身は空っぽなのか。それが誰かが知らない話なのか。君ならそれを知っているというのか。そこに何があるわけでもないだろう。お宝がそれらのどこに隠されているわけでもなく、誰が何を探しまわっているのでもなさそうで、やはりそこには誰もいない。何者も不在で、どこで何をやっているのでもなく、君が何を語ろうとしているのでもない。誰かが記しつつある言葉の連なりには行き着く先がなく、行くあてもなく記された言葉がさまよっている。たぶんそんなのは嘘であり得ないことなのだろうが、何かのたとえということもあるだろうか。まさか君がそれを知っているというのか。もし知っているならそれを教えてほしい。知らなければその場を立ち去ってほしいか。何をどうしろと命令しているわけでもなく、その場で気ままに会話を楽しもうとしているわけでもなさそうだ。要するに相変わらず君には語ることがない。だからやることが何もないので、無言でその場に立ち尽くすまでか。別にそれに関してひねくれた見解を述べようというのではない。


10月28日

 なぜか眠ってしまったようだ。外では雨が降っている。いつものように疲れているのだろうが、誰かが記しつつあるフィクションの中では、何がどうなっているのだろうか。君はこの世界に何ももたらせずに今に至り、未だに何をすべきか迷い、暗中模索の日々を送っている。それらの物語もどこにも至っていないらしい。現状ではそう思うしかなく、その先に言葉が続かないようだ。本当に何も出てこない。やはり君には無理なのだろうか。話の中で君に何か特定の役割が設定されているとは思えない。誰がそう思えないのか知らないが、誰かは急に自らが記している内容を否定したくなり、危うく言葉を記すのをやめてしまいそうになる。何か天からの啓示でも聞こえてしまったのか。お前のやっていることは無駄で意味がない。もういい加減におしまいにしたらどうか。ではこれ以上語るのはやめた方がいいのだろうか。今さらそんなことを思っても手遅れだ。天はその件について何を考えているのだろうか。それらの何が天なのか。天に関しては心当たりはない。だいいち意味がわからないだろう。では話の中で君はこの世界から何を学んだのか。それがそもそも違うのかもしれない。学んだつもりになっているのは君ではなく、他の誰かだろう。誰かはいたずらに言葉を弄して、文章を記してはいけないことを学んだろうか。それはまったくの嘘に違いない。今度はそう思い込んで、さらに無駄で意味のないことを語ろうとする。そんなわけでもはや誰かの語りについては歯止めが利かないようだ。

 語る必然性を探しているのなら、それはお門違いだ。そこは不毛の荒野であり、そこに君が存在する理由などはじめからありはせず、そこにいること自体が嘘なのだ。君はこの世界のどこにも存在せず、そんなふうに語る必然性もなく、どんなふうに語っているのか知らないが、とにかくそこで何かを語るのはやめた方がいい。だがやめる以前にいったいどこで何を語っているのか。それを君は知りたがっているのかも知れず、あわせて自らがひたすら沈黙を強いられている理由も知りたいのだろう。そしてたぶん不毛の荒野などどこにもない。少なくともそれらの話の中には出てこない。だからそういう話ではないということか。しかし作り話的には不毛の荒野で何かをやっていた方が、何となく魅力的に言葉が響くような気もしてくるが、しかし実際に君はそこで何をやっているのだろうか。その辺がよくわからず、そこから先の話の内容が思いつかない。しかし君ではないとすると、いったい誰が不毛の荒野で何をしているのだろうか。どうやらそういう話ではなさそうだ。不毛の荒野にはそれが存在する必然性がないらしい。その言葉は必要ではないということか。回りくどく言えばそうなる。それの何が回りくどいのかわからないが、誰かが何となくそんな雰囲気を感じ取ったらしい。確かに意味不明で不毛と言えば不毛なことを述べているようだ。それが荒野のただ中で語られているわけではないことは承知しているが、誰かが部屋の中で何を記しているのかは知らない。

 とりあえずそこで誰が何を語っているとしても、もう少し中身のあることを語ってほしい気もするが、たとえ君がそう願っているとしても、何よりもその願いが聞き入れられる対象が不在だ。誰かはすでにやる気をなくしていて、無理に語ろうとしても、語る内容を見出せずにいるらしく、その代わりに語っている内容といえば、ごらんの通りのぐだぐだのいいわけでしかなさそうだ。しかしなぜそれでもひたすら語ろうとするのか。そこにどんな思惑も介在しておらず、もしあったとしても、それはとうの昔に忘れ去られてしまったことで、今となってはそれらはただの形骸化された言葉の連なりに過ぎず、何のためでも何に関してでもない文章となっている。何かを目指した時からかなりの歳月が経っていて、今語っているつもりの意識にしてみれば、語る目的も目標も定かでなく、なぜ語っているのかわからないのはもちろんのこと、自らが語っているという自覚さえすり減ってしまい、とにかく何が何だかわからないが、そこで言葉を記している誰かが画面の前に存在しているらしく、それが誰だかわからないのだが、少なくとも何かを語っているつもりの自分ではないような気がしているのかもしれず、その辺から虚構の文章に突入しているのかもしれないが、どうもその先がよくわからず、いつもそこで言葉が出てこなくなり、そのあとにどういう言葉を記したらいいのかもわからなくなっているようだ。君はそんなのは嘘だと思っているのだろうが、話の中ではその君が何者なのかも定かでないようだ。


10月27日

 なるほど君は病気なのか。また冗談でそんなことを述べている。何を身につけてもどうということはなく、それらは単なる装飾品に過ぎない。だがそれが魅力なのだろうか。だがその手の魅力には嫌悪感を抱いているのかもしれない。本当だろうか。それにしては最近それらの画像ばかりを見ていることが多いではないか。だから病気だと言っているだろう。それがフィクションならどんな顔をして語るのか。それは誰の顔でもなく、顔という言葉か。違うと思っている。何かが違うのではなく、すべてが違うのか。しかし何がそれのすべてなのだろう。すべてはこの世界の中にある。それが真実だと思うなら、その後にどんな言葉を記せばいいのだろうか。後も先もありはしない。君はこの世界から出られないのだ。そのことが何を意味するわけでもなく、それはただの世迷い言なのだろう。そして気がつけば誰かが音楽を聴いている。関係ないと言えば関係ないことなのだろうが、自らがどこにも行き着かず、いつまでもそこにとどまり続けていることからくるストレスで死にそうになっているのか。誰が精神的に追いつめられているのか。だからまるで気晴らしに音楽を聴いているばかりの毎日なのだろうか。ここはそんなことはないと述べておこう。ここはどこでもないどこかではなく、今まさにここで暮らしているここなのだ。ただそれだけのことで死にそうになっているとは思えないか。誰が何を思ってみても、それらはどこかに吸収され、まるで何事もなかったかのように平静を装っている。

 だからそこには何もなく、現実に対する否定的な感情をぶつける壁もない。誰が何を語ろうと何も返ってこない。至って無反応なのだ。君はそれが我慢ならないらしいが、それは冗談だろう。そこに何があろうとなかろうと、誰かが語っているのは常にフィクションなのだ。虚構の中で何を語ろうとしても、それは何でもないことだ。しかし何が何でもないことなのか。君は現に困っているではないか。何も語れずに困っているはずだ。何を困っているのだろうか。語れないのは君ではなく、他の誰かだろう。そして他の誰かが何かを語っているつもりになり、それらの空疎な何かがここに記されているわけか。現実には何も記されていない。言葉が記されているのに内容がないか。内容はあるにはあるが、それが空疎な内容なのか。その辺が君にはよくわからないのだろうか。だからそこで立ち止まらずに、もっと先のことを考えたらどうか。今がなければ先もない。そこで何を思いついたのか知らないが、言葉の並びはさらにわけがわからなくなり、空疎で意味不明となるだろう。やはり君は何も語っていないようだ。誰かも君に関しては何も語っていないはずで、それらのフィクションの中では君など存在していないのではないか。しかしそれらとは何なのか。そこではどんなことが語られているのか。それは架空の話だから、未だに何も語られていないはずか。

 未だに何も語られることのないフィクションについて君は何を語ろうとしているのか。だから何も語れないのだろう。何も思いついてないはずだ。すでに疲れている。ここまでひたすら内容のないことを記してきた誰かも疲れているはずだ。しかしなぜ何も思いつかないのか。すでに限界を超えて語りすぎたから何も思いつかないのか。たぶん何がどうなってこうなってしまったかわからなくなっていて、それでも言葉を記そうとするとこうなってしまう。後はひたすら自己言及の繰り返しか。そして虚しくなり、虚しさに負け、そこで言葉を記すのをやめてしまい、それがありふれた話の展開となり、どうでもいいようなことを延々と語っている自分に嫌気がさしてきて、自己嫌悪が積み重なり、それからどうなってしまうのか思いつかず、その辺で本当に語るのをやめてしまうつもりなのか。だから先のことはわからない。未だに音楽を聴いている誰かは、すでに翌朝に近いことに気づき、もう寝てしまった方がいいと思うが、なぜか当てもないのに粘っているらしく、どうにかしてそれらの文章を締めくくりたいのだろう。無理なことかもしれない。どう考えてもそれを語り終わるのは二日後になってしまう。ではなぜそれが無理となってしまったのか。何も思いつかないからか。何も捨てられないから、新たな言葉を獲得できずにいる。


10月26日

 その件については何も承知していない。そこで何を語っているわけでもないだろう。ではもう何も語る気がしないか。ならば無理に語ることはない。これから君が何を語ろうと、やはりどうでもいいようなことしか語れないのかもしれない。君が何かを語ることによって、この世界がどうなるわけでもなく、別に何をどうにかしようとして語っているとも思えない。君はそういう語り方が気に入らないはずだ。だがそう語ることによって何かをわかったつもりになれるのか。わかるために語っているわけではなく、迷うために語っているのではないか。そんなのは嘘かもしれないが、たぶんそんなことははじめからわかっていたはずだ。そこで何がわかったのか知らないが、そこから先に何を記すかが問題となることもわかっていた。だからそれで何がわかったのか。わからないから迷っているのだろう。君はそんな根拠の希薄な迷いを無視して先を急ぐ。そういえば今ままでに誰かは何を語ってきたのだろうか。あるいはそこで何が問題となっていたのか。そこで語っているのはそういうことではなく、何も問題とはなっていない。今回はまだ馬鹿げたことを何も語っていないはずだ。果たして今はそうだろうか。何が今なのか。今ではないなら明日になるだろう。また記述が遅れて明日になるだけか。内容がないから今日のうちに語り終えるのは無理なのか。そして眠たくなって寝てしまう。また夢の中でくだらないことを考えているようだが、とにかく今日は冷える。一気に冬になったみたいだ。そして翌朝にはさらに冷える。もう明日になってしまったようで、しかも昼を軽く通り越して夜になっている。

 相変わらず誰かは無理なことを語っているようだが、苦し紛れに何を記しているのだろうか。その内容をここから伺い知ることは難しいが、何となく馬鹿げていると思われる。君はすでに画面から目を背け、虚構の世界で他のことをやっているようだ。フィクションとしてはそれもありだろうか。何も語らずにフィクションはないか。しかし話の内容はどこへ行ったのだろう。君はそこで何を探しているわけでもない。話などもとからなかったのだ。誰かがどこかで不自然なほど騒いでいるかもしれないが、それは演劇か何かでわざと騒いでいるだけだ。そこで醸し出されているつもりの不自然な印象は、それが演技だからだろう。人為的に作られた雰囲気でない限り、それは誰のものでもなく、他の誰かによってもたらされた雰囲気だ。述べていることはわけがわからないが、何となくそんな言葉の並びでいいような気がしている。別にそれほど正確に意味が通らなくてもかまわない。何となくそんなことを述べていればそれでいいのだろう。もう君はあきらめている。だからどんなにいい加減な言葉の並びでも、誰からも文句はこない。誰かがそう思っているだけで、他の誰かにとっては何でもないことかもしれない。だが君はそれだけで満足できるだろうか。人は無駄に高い商品を買う病にかかっているようだが、君は安いまがい物を買うのが性に合っているようだ。本当は高いブランド物が欲しいのだろうが、何となく途中でひねくれて、結局それとは違う物を買ってしまう。それが君にとっては冗談の続きなのか。

 どうも浅はかなことを述べているようだ。そんな気がしてならないのだろう。その辺がよくわからないが、君は病にかかっている。ここはそういうことにしておかなければ、そこから先に話が進まない。また冗談でそんなことを述べている。だがそこから何が導きだされているのか。言葉の他に何があるというのか。別に貴重なお宝をゲットしたわけではない。意味がわからないが、普通はそういうことにならないのではないか。ではどうなってしまうのだろう。また行き詰まってどうにもならなくなってしまうのか。だから君には何も語ることができない。そんなはずがないと思うかもしれないが、実際に何も語っていないようで、そこで誰かが言葉を記しているだけだ。近頃はひたすらそうしている。それの何がおもしろいのか。つまらなくてもそういうことやっている。要するに自己満足に他ならないのだろうが、それは誰のための自己満足なのだろう。君に決まっているか。だからそれが冗談だというのだ。それは誰のための自己満足でもなく、そこに居合わせた誰もが不満を抱いているのかもしれない。いったい君は何を語っているのか。そんな問いに誰も答えられず、皆が困り果てているのだろうか。だがそんなフィクションはどこにも記されていない。誰かが記しているそれらは、君とは何の関係もないただの文章だ。


10月25日

 相変わらず翌日は曇り空だ。別に晴れた日も雨の日もあったのだろうが、なぜか曇り空の下で人がうごめいている。文章的にはそう記すことに意味も理由もありはしない。やはりそれはどうでもいいことには違いないが、実際に誰かが曇り空の下でうごめいていることは確かだ。君はそんな何でもないことを語る勇気があるだろうか。別に勇気があるか否かもここではどうでもいいことではないのか。それもそうに違いないが、何となく誰かがそう記している。他に何があるというのか。朝から蒸し暑いのに、秋だから誰もが上着を着込んで、汗をにじませながら通勤通学の最中か。満員電車の中ではそうかもしれないが、間もなくそういう時間帯から遠ざかり、他にやるべきことをやっているのだろう。そこでやるべきことがないのは幸いだろうか。無職なら辛いかもしれない。だが金さえあれば無職でも幸いか。ところで幸いと辛いという言葉は、日本語における漢字としては似ていて、意味的には反対の部類に入るだろう。しかしそれがどうしたのか。苦し紛れの気まぐれで思いつくのは、いつもそんなどうでもいいことでしかなく、そういう挿話がその先で展開されるどんな話の伏線になることもない。ならばそれは不要な話だろうか。他に何もないのだから、少なくとも現時点では、それが何らかの必要性をまとって記されているのではないか。それもなければ話すことなど何もなくなってしまい、そういう意味ではそんなたわいない話でも、それらの文章には必要不可欠なのか。ではまたしてもそんなことを述べながら、誰かは冗談に逃げているつもりになれるだろうか。もしそうだとしても、それらの文章に記されているだけの存在である君には、どうすることもできない。そんなわけで、やはり現状ではまともな方向へ軌道修正するのは無理だろう。それどころかもはや何がまともなのかもわからない。

 しかし何がまともだと思われるのか。それらの社会では、何らかの職業を持ち、そこで日々働いていれば、一応はまともな人間として見られているはずで、あとは結婚していて子供でもいれば、安心して接することのできる存在となるだろうか。しかし文章的なまともさとは何だろう。それとは違うのかもしれないが、とりあえず日々のニュースや新聞等から伝えられる時事的な話題に言及していれば、それで内容のまともさをまとうことができるかもしれない。では今巷では何が話題となっているのだろうか。例えば中国国内で起こっている反日デモにでも言及してみればいいのか。あるいは為替の円高が日本の輸出産業に及ぼす影響に関して、何か利いた風な指摘でも披露すべきなのか。さらにまた、熱帯雨林などを国内に抱える開発途上国の生物資源について、欧米先進国がそれを利用する上での途上国との利益分配に関して、何か妙案でも思いついたらそれをここで述べるべきなのか。君に述べられるはずがないか。たぶんそれらはすべて君とは無関係なことだ。厳密には何かしら多少は関係があるのかもしれないが、特にそれらについて語る必要性を感じられないという程度のことで、無関係だと言い切ることができそうだ。たぶんこの世に暮らす誰かがそれらのテレビや新聞などを見ながら何を思っても、それを文章に記すか否かは、何となくどうでもいいようなことに思われてしまう。それらの諸問題を誰が解決しようとしているのでもないし、おそらく当事者気取りの利害関係者たちが、互いの主張をぶつけ合う場として会議でも開き、そこで何かが話し合われるのだろう。

 君にはそんな内容の文章がまともだとは到底思えない。何がまともかもわからないのに、それはないということか。別にまともでなくてもかまわないのではないか。そうであるならそういうことで押し通せばいいのではないか。それができないから、何やら世間の風潮に同調したくなり、その結果として時事問題について得意になって語り、語っているうちに自分の主張らしき世間の主張に感染して、文章の中でありふれた問題提起をしたがり、それがまともな内容の文章だと思われてしまうのか。だからそれが冗談のすべてなのだ。君はわざとそれが冗談だと言い放ち、自分がそれらの風潮とは無関係だと主張したいようだが、そう述べた時点で、すでにそれらの世間に染まっていて、たぶん積極的にも消極的にも、その中の一員として振る舞っているのではないか。斜に構えて批判的な言説を弄しながらも、そうした世間を何か世直し的な言説で支えようとしているのだ。そうなってしまったらおしまいか。おしまいとはならないだろうが、それが世間にとって有用で鋭い指摘だと思われれば、君もそれらの世間の仲間入りができるかもしれない。しかし世間とは何か。君は無意識のうちに凡庸なことを主張しているのではないか。何をどうしようというのでもないとうそぶきながらも、何か未練がましく時事問題について語り、何やら他の人々がこちらを振り向いてほしいと願っているのではないか。そうだとしたら笑ってしまうか。いったい君の何を笑えばいいのだろうか。何もなく、何もないと嘘をつき、何でもないことを述べていると嘘をつき、それがフィクションの中で述べていると嘘をついているだけではないか。


10月24日

 相変わらず何も思いつかないままに、なぜか夜になり、外では雨が降っているらしい。近頃はそればかりのようだが、別になぜ夜になったわけではなく、時が流れ、そこで歳月が積み重なったとも思えず、何となくここまできてしまっただけのようだ。人はこの先に何を期待しているのか。人によってもそれは異なるだろうが、とりあえずは誰かが何かを期待している。君はすべてをあきらめて、あとはひたすら沈黙を守るばかりかもしれないが、とりあえずそんな姿勢には陥らないようにしているのかもしれず、わけのわからぬでたらめな文章を記しつつも、そこから何らかの可能性を見出そうとしているのだろう。文章の中にその兆しを読み取ろうとしているのかもしれない。そんなのは冗談かもしれないが、冗談は冗談なりに楽観的な気分をもたらしているのだろう。いつかはまともなことを述べるようになるのかもしれない。そうなったら愉快か。いつも行き詰まっているのに、なぜそう思ってしまうのだろうか。とりあえず今はそれらの何が冗談だとも思えない。時が経てば昔を振り返ってそう思うこともあるだろう。たぶん誰かは冗談を述べているつもりなのだろう。そして心境の変化とは無関係に、そんなことを大真面目に考えている。何を許容しているのでもないだろうが、そんなこととはそんなこと以外のどんなことなのか。それが実態であり、そんなふうにしていつも冗談に逃げているわけだ。

 本当はそれ以外に何も思いつかない。述べていることが絶えず何かの説明になるように言葉を費やしている。そんなことを語っているわけだ。それはどういうことでもなく、それとはそれらのすべてのことだ。君はまったく未来が見えていないようだ。それで何を語ったつもりになれるというのか。しかしここでの未来とは何だろう。何もないのに未来も何もないか。では何かあるとでも思わせぶりに語ればいいのか。ここには確実に何かがある。それは虚無であり、虚空か。少なくとも否定的に語られるような何かではない。何かの断片でさえなく、何かそのものがある。では何かとは何だろう。それは言葉のたぐいか。そうではなく何かの影かもしれない。誰かにはそれも違うと思われる。では何なのか。どうやら言葉がでは言い表せない何かがあるらしい。そんなものが何かといえるだろうか。言葉を用いてそれを表現しようとしていることは確かだ。だから手こずっているのだろう。確かにそれにまつわるフィクションの中ではそうだった。そんなふうにしてまたでたらめを述べてしまうらしいが、君はそれ以外の何を欲しているのか。しかし何でもないような何かとは何だろう。何でもないことか。そうに違いないが、それを超えて語るわけにはいかないのか。誰がそれを語ろうとしているのだろう。そこから誰でもない誰かが語っているという逃げ道でも用意しているわけか。客観的には誰が何を用意しているわけではなく、不用意にでたらめを述べているだけか。そして語っていることがわからなくなり、それでかまわないと思い始める。

 いったい何がどうなっているのだろうか。何がどういうことではなく、たぶんそれがどういうことでもなく、そんなことを延々と語っているに過ぎないが、なぜそうなってしまうのかわからず、別にそれで途方に暮れるわけでもないだろうが、何となく愉快な気持ちになり、それを維持するためにはさらなるでたらめが必要となるだろうか。何を維持したいのでもないのだろうが、君にはそこで語られていることが空疎に感じられ、もういい加減にやめてほしいと思うだろう。しかしなぜそこまで堕落してしまったのか。それらのどこに肯定できるような内容が宿っているとも思えず、ただ無駄に無意味な言葉を費やして、それで文章を構成している気でいることが、かなりどうかしていると思われるのだろう。それでもそれらのどこかに救いがあると思い込み、そんな気休めを思うこと自体がくだらないのだろうが、そのくだらなさのただ中に、密かに期待している何かがあると思っているのだろう。誰かがそう思っている。そういうことにしておきたいのだろう。それで何かを語っている気になっているわけだ。それは馬鹿にされるべきことかもしれないし、誰にとってもどうでもいいことなのだろう。たぶんそこで何かが壊れているのだ。それは何かの感覚であり、誰かの感性なのだろうが、フィクションの中ではそれが肯定されるべきことかもしれない。誰かは自らの感性をぶっ壊しながらどうでもいいことを語っている。


10月23日

 どうやら昨日にさえたどり着けそうにない。無理に言葉を記しても苦し紛れで支離滅裂な内容になるだけか。そうかもしれないが、何となくそれでもかまわずに前進させたくなってきたようだ。外では雨が降っているようだ。記そうとしているのは冗談ではない。たぶんそうだ。だが結果は違うだろう。つまらない冗談をつぶやきながら、何か他のことを考えている。作り話の中でそんなことを語っていたかもしれず、それの真偽を確かめる気はないようだが、そうではないと思いたい。何がそうではないのだろう。冗談でなければそういう成り行きにはならないのではないか。そういえば病はどこへ行ったのだろうか。快癒したのか。頭が痛いか。それはフィクションではないはずだ。だが言葉を記さなければならない。義務でもないのにそうしたいらしい。やはり頭がおかしいのではないか。雨が君の行く手を遮っているわけでもないだろうに、なぜかそんなふうに思ってしまい、物事に対する感じ方がどこかおかしいのだろう。だからもう君に未来はないと思う。それは何の話なのか。もたらされるのは誰の未来でもないのだから、このままでは君に未来があるとは思えない。その辺の理由がよくわからないが、誰かはでたらめなことを記しているのだろうか。たぶんそうだろう。絶えずそれは何かのでまかせなのだ。

 それはどういうことなのだろう。それ以前に何がそれなのか。もしかしたら何もそれではないのかもしれない。だからそれはそれなのではないか。何でもないからそれなのか。何をどう記してみても、それはそれ以外のそれではない。だからそれがどうしたのか。そんなことを述べているうちに何かの歯止めが利かなくなり、まただらだらと意味不明で退屈なことを記してしまう。だからもう開き直ってそれを続けたらいいのではないか。他のやり方を思いつかないのだからそれをやるしかないだろう。それも冗談の続きなのか。わからないがそういうことらしい。本当は何か具体的な現象について語ろうとしていたはずか。語りたければ語ればいいではないか。そんなことを言われるまでもなく、すでに語っているはずだ。君はそれを語っている。それがここで語られている空疎な内容なのだろうか。そう思うならそう思っていればいい。そう思っているだけ君は幸せか。わけのわからぬ冗談だ。そんなのは嘘で、君は何とも思っていないはずで、何も思わずに文字が並んだ画面を眺めているだけか。確かにその時はそうだった。今はどうなのだろうか。ひたすら無駄に言葉を連ねている誰かを軽蔑しているわけか。わからないがそういうことではなく、同時にたぶんそうだろう。それらの何が矛盾しているとも思えず、そこで何が語られているわけでもないらしい。

 取り立てて何を語る必要も感じられず、ただ適当に言葉を記していれば、それで空疎な文章が出来上がってしまうのだから、それならそれでかまわないはずだ。誰も何も困らず、主張したいことが何もないのに、何を語る必要もないのは当たり前のことあって、それについてももっともなことか。ではなぜ言葉を記して文章を構成しようとしているのか。その理由がわからず、それについて説明するつもりもなく、そしてその先に記されるべき言葉が何なのか、それを誰が予測しようとしているわけでもない。どうやらまだまともな文章からはほど遠いことを記しているみたいだ。そう述べているうちにも、何かの狂いが生じているようで、違和感を覚えてしまうのだろうが、それを修正する手間を惜しんで、その先に言葉を記してしまうので、さらにわけがわからなくなって、予定調和の意味不明を完全に通り越して、何だかわからぬ不毛の領域に言葉の連なりが迷い込んでしまったようだ。もはやどうあがいてもここから抜け出ることはできないか。だがそれこそが冗談なのではないか。たぶんどこから抜け出ようとしているのでもなく、何がどこへ入り込んでしまったわけでもない。ただそんなことを語っているだけではないか。いつもながらのくだらぬ語りで、そう断言して、そこでおしまいにしてしまってもかまわない。やはり何をどう語ろうと、結局はそれだけのことのようだ。しかしそれだけでここまで語ってしまうこと自体がかなりおかしな状況だ。


10月22日

 つまらないから、そんな話はやめておこう。では代わりに何を話そうか。どうもその辺から虚構の語りが始まってしまうらしい。そんなはずがないか。君が考えていることではない。まるで文章になっていないではないか。では何を焦っているのか。だからそんなはずがない。簡単に何を否定しているのか。まったく物語になっていないのではないか。話にならないということだろう。今のところは文字が記された画面を眺めているだけか。何を語ったらいいのかわからない。昨日は何も語らなかった。果たして今日もそうだろうか。そうだとしても言葉を記そうとしている。話にならないのにそれはないか。そうなってしまうから言葉が連なっているのではないか。そうであったとしても、君はそれを肯定しなければならないだろう。そんなのは嘘か。嘘でなければ気が狂ってしまうだろうか。だから冗談なのかもしれない。その辺がまったくわからなくなり、何とか理解しようとしているのだろうが、頭の中で何かが空転しているようだ。そしてますますまともな語りから言葉の連なりが離れてゆくらしいが、そんな状況とは関係なく、数日後の空は曇っていて、雲が分厚く空を覆い、今にも雨が降ってきそうだ。これでは気晴らしの文句も思いつかないか。しかし何か他に言い分があるのか。文句がなければその先に進むとしよう。

 君のもとには他人の忠告というものが届いてこない。耳が聞こえないのか。その代わりでもないが、雑音ならいくらでも聞こえてくるはずだ。しかしそれらのどこに忠告が隠れているのかわからない。君は何を読んでいるのだろうか。ただ画面を覗き込んでいるはずだ。それ以外は何もしてない。今はそういう話になっているのだろうか。今ではなく二日前の日付で、そこに記された言葉の連なりの中で、ますます何かが遅れてくる。そんな気がしているだけで、実際はそうでもないのではないか。しかし遅れてくる何かとは何なのか。オートマチックの腕時計はどんどん時間が進んでしまう。それは安物なのだから仕方のないことか。だがそれと何かとは無関係だろうか。相変わらず意味をなさない話になっているようだ。遅れているのは何かを思いつくまでの時間か。しかし何を思いつこうとしているのか。それがわかるとは思えない。ただ何かを思いつかないだけかもしれない。そしていい加減に言葉を記し、意味的なつながりなど気にかける素振りも見せず、ひたすら言葉を記そうとしている。それが誰かの勘違いなのかわからないが、すべてはそんな成り行きにゆだねられていて、そこに君の物語が入り込む余地などありはしない。そうやって誰かは言葉を記しているのだ。だからそれが何でもないことだと思うのもうなずけるか。

 今はそう思えるのだろう。結果と原因を取り違え、そんなのは嘘だと高をくくり、それらのどこに真実が宿っているとも思えないが、とりあえずそこから脱出して、やりたいことをやってみたい気になるが、現状がそれを許さない。雑でいい加減で、そのあとにいかなる言葉がつながろうと、そんなのはどうでもいいことになってしまうのだろう。そして君は呆れ、早々にそこから離脱する準備を始める。だがそれは何の話なのか。何でもないから話にもならないのか。そうだとしても言葉が連なり、それらが文章を装っているようだ。読む価値など何のありはしないが、それを記さなければならない理由もありはしないか。だからそういうことを述べたかったわけではないはずだ。それはわかりすぎるくらいにわかっていることかもしれない。だからこうして誰かが画面の前で苦悶しているわけだ。君にとってはそんなのは嘘に決まっているだろう。何が嘘なのかわからないが、そうだとすると、そういう状況はまったくリアリティに欠け、君を不快にするような成り行きの中で、それらの文章が記されようとしているわけか。誰が不快に思っているのではなく、君自身がそこで不在となっていることが、君を苛立たせていて、それによって君が誰に無視されているのでもないだろうが、何となく居心地が悪そうに思える立場を強いられているようだ。それはどういうことなのだろうか。


10月21日

 近頃はそればかりだが、何かがおかしい。本当は何がおかしいのでもないだろうが、この世界は広く、それをくまなく探しまわることは無理だ。しかしこの世界のどこに価値ある事物が見つかるとも思えない。ところで今日はまだ今日なのか。今現在の時間としてはそうだろうが、どうせやる気をなくて遅れてしまうのかもしれない。たぶん目が覚めれば翌朝になっているはずだ。誰かは未だにそんなことを述べている。しかし何が未だなのだろうか。苦し紛れに記された言葉がくだらなく思えてきて、それらのわざとらしい意味不明ぶりに笑ってしまうか。あるいは単に馬鹿げているだけだろうか。しかし何がそうなのだろう。ただ単にそういう言葉の並びに呆れているのかもしれない。だが自らが述べていることをいくら否定してもつまらないだけだ。もう少しそれらの言葉の連なりを肯定的にとらえられないものか。おそらく誰かの感情がそれを阻んでいるのだ。君は架空のどこかで馬鹿げた振る舞いを演じることが多すぎる。本当は何もやっていないということか。そんなわけでますますわけがわからなくなるようだが、たぶん今日もまた何か勘違いしているのだろう。まったく意味がわからない。君にはわからないことが多すぎるようだ。そしてまたやる気がしなくなるのか。別にそれでかまわないではないか。そうだとしても何の問題もないだろう。面倒くさいからそういうことにしておこう。

 そしてまた翌朝になり、少し焦り、つまらない何かを求めているようだが、きっかけももたらせない。本当は何も求めていないのではないか。相変わらず求めている何かを知り得ない。いったい何かとは何なのか。空模様を見上げながら、何となくそれとは違うことを考えている。何が違っているのだろうか。たぶん何も違っていないだろう。そんなわけで結局今は翌日の夜だ。どうしてもその日に文章を完成させられないようだ。それは自らの怠惰が招いた結果だろうか。たぶんそうではなく、もはや記すべきことが何もないのだ。それも何かの冗談か。何をどう記しても、それは違うと思われ、もっとマシな内容で文章を構成したいのに、結果はそうはなりがたい。ふと画面を見やれば、何かの画像が誰かを見つめている。もうあきらめたらどうだ。何かを諭すように投げかけられたつぶやきをかわす気力も残っていないようで、別にそれを真正面から受け止めるようなことはしないだろうが、君はどこかで自らの手遅れを呪う気にもなれず、何となくそこで和み、何を語ろうとしていたのか思い出せず、たぶんそれも嘘の類だろうと高をくくり、どうでもよくなってしまうようだ。何をどうしたいわけでもなく、自然とそうなってしまい、君は自らが何者でもないことを悟り、そこから先では何も語れないことを知り、その手前でとどまり、後ろを振り向いたままテレビでも見るのが関の山か。何が関の山なのか意味がおかしいか。

 そしてまたここまできてしまった。何もないのにそういうわけで、何がわけなのかわからず、ただ無駄に言葉を記すだけか。他の誰かが音楽に合わせて何かを語り、それを君が記すつもりはないようで、言葉を記す作業は誰かにまかせて、目を閉じてくだらぬ何かを空想するが、それで何がどうなったわけでもなく、滅びの一歩手前で何を後悔することもなく、そんな書物を焼却炉に投げ込み、古本屋では何も買わなかったことにしようか。たぶんフィクションの中ではそうではない。君は何かを期待していたはずで、書物を読めばそれがわかると確信していたはずだが、それも嘘か何かが作用してそう思わせていただけか。それも違う。どれもこれも違っていて、はじめから君は何も期待していなかったはずだ。誰かの記述がたどる末路を傍観者気取りで眺め続け、そこに未来がないことを見抜いていた。時にはそんな嘘をついて誰かの動揺を誘い、それらが何かの物語となるように仕向けていたはずだが、それも冗談か何かで思っていたことか。そうだとしてもとりあえずはここまでやってきた。ここから先に何があるとも思えないが、これからも言葉を記して、それらの空疎な響きを愛でるとしよう。またそんなわけのわからぬ嘘をついて、どんな効果を狙っているのか不明だろうが、何となくそういうことで、記された文章とは無関係に何かを思い、その思っていることを記すことはなく、それとは違う何かを記しながら、それが自分とは無関係であると思い込み、わざとそんな嘘をつきながら、その辺で一区切りつけようとする。


10月20日

 どうも今日は何もないようだ。言葉が自然に出てこない。しかしそれの何が嘘なのだろうか。嘘でもなければ真実でもなく、虚構の中で何を語ろうとしても、それは何でもないことか。それが虚構ではないとしたらどうなのか。虚構だろうと現実の世界だろうと、そんなことも何でもないか。では何を語ったらいいのだろう。今それを語っているではないか。君の代わりに他の誰かがいつものように空疎なことを語っているはずだ。それがここで記すべきフィクションなのではないのか。それは冗談に違いない。しかし状況が違うだろう。君はこれまでに何を学んできたのか。ではここで臨機応変の対応を期待されているのだろうか。しかしいったい誰がそれを期待しているのか。思い当たる人物を君は知らない。たぶん君が知り得ない他の誰かがそれを期待しているのだ。ここはそういうことにしておこう。誰かがそんなことを記しているようだが、君が自らが属している虚構の物語の中で知り得ることは限られていて、君がそれを知っていなくても、それは当たり前のことであり、相変わらず何でもないことになるだろう。だからそこから話が進まず、君の物語とは無関係なことが記されようとしているわけだ。そんなわけがないか。たぶんそれも冗談のつもりで述べていることか。誰かがそう思うなら、それも致し方のないことだろうし、それとは違う話の展開を期待しているのなら、それは期待外れに終わるはずだ。

 それでかまわないのだろう。その一方でそんなはずではなかったはずか。ではそのとき君は何を語ろうとしていたのか。もうかなり昔のことで、その時の印象も希薄であり、今となっては思い出せないことかもしれない。たぶん君が語ろうとしていたのではなく、他の誰かが語ろうとしていたのではないか。しかしなぜ今になってそういうことを述べているのだろうか。それがそれほど重要なこととは思えず、今の現状には影響を及ぼしていないのではないか。だからどう考えてもその時はその時であって、そんなにその時が気にかかるのなら、そのとき誰かが語っていた内容をそのとき記せばよかったのだ。今さらそれはないだろう。そして何を今さら後悔する必要があるのか。今どこかで誰が何を悔やんでいるのか不明だ。もしどこかで誰かが悔やんでいるとしても、そんなことは君とは無関係だ。それではおかしく、それについてまともに語れていないのではないか。途中からわけがわからなくなっているようだ。そこで君は何について語っているのか。頭の中が混乱しているらしいが、そうだとしても何かがおかしい。おかしいのは誰かの方か。誰かは面倒くさいので自らを見失い、虚構の中で何かの語りを披露しているつもりになるが、途中で話のつじつまが合わなくなり、そこから先を語るのを放棄して、何処ともなく消え去り、誰かか立ち去ったあとに何が生じているわけでもなく、いつまでたってもその場は誰もいない空洞に違いはない。

 さらに話が意味不明になってきたようだが、今さらはじめからやり直すわけにはいかないのはもちろんのこと、ここまできたら最後までそれらのわけがわからぬことを語り通さなければならなくなり、そこで何を貫こうとしているのかもわからないが、少なくともその原動力となっているのは意地でも根性でもない。ただの惰性で語っているのか。ではもうその辺であきらめたらどうか。見上げれば星のない曇り空だ。夜だからそうなのか。たぶん今は夜なのだろう。時間的はそうに違いなく、それがどうしたわけでもないが、そんなふうに語っていれば、話の終わりにたどり着けそうだ。実質的には何も語っていないが、それでかまわないと思っているはずで、その証拠に誰かはそれらの言葉の連なりが自然に連なるがままにまかせている。もはや君の意志とは関係なく、勝手に言葉が並んでゆき、君の存在も不在も無視しながら、そこに記されているのだ。ならばその場ではもはや君の出る幕はないのか。出るも何も、もとからそこには何もなかったのではないか。何も語られず、何も記されない。そういう状況がそこには生じていて、それが君を自らの希薄化に追い込んでいる。だがそんなことが実際にあり得るとは思えない。だからそれがフィクションとして語られているすべてなのだ。君はまだそれに気づいてない。そういう作用が君とは無関係に進行中だと高をくくっていて、自らはただの傍観者に過ぎないと思い込んでいるわけだ。だからそれが君に関するフィクションなのかもしれない。


10月19日

 それらの漫画の中での大げさな対決の行方は、いつまでも引き延ばされるがままになり、一向に決着がつかず、誰かと誰かが戦い続けている間は話が続き、読者の興味をつなぎ止めているのだろう。それらの構造は至って簡単で単純なのか。だがそこから君は何を引き出そうとしているのか。それは言葉でも雰囲気でもなく、倦怠感でさえないだろう。そこでは誰かを利用して目的を達成する気でいるのだが、その目的が明らかになることはなく、仮の目的ならいくらでもねつ造可能なのだろうが、真の目的がどこにあるかは、それがどこにあるのかはっきりせず、たぶん物語の終わりに至ってもわからないのかもしれず、そんなものなど始めからなかったかのように思われ、何もわからずじまいのまま、ある日唐突にそれらの文章は消滅してしまうだろう。君はそんな結末になることを願っているのか。それではやはり無理な話だったのかもしれない。しかし何がそうだったのか。その対象となるべき話がどこにも見たらず、目下のところはそれを探しまわっているわけでもなく、ただ面倒くさいので、何もやらずに窓の外を眺めているだけか。君にはそれが誰の物語なのかわからない。たぶん君自身がそれを語っているのではないのだろうし、誰もそれを語る必要を感じていないのだろうが、誰に頼まれたわけでもないのに何を語るべきなのか、考えあぐねているところもあり、結局は何も思いつかず、どうにもならなってしまい、窮余の策として、無駄に言葉を連ねて、何か妙案を思いつくまでの時間稼ぎでもやっているつもりなのか。

 それがわからない。それとは何だろう。何でもないからそれなのか。何を説明しているわけでもない。何もないから説明になっていないのだろうか。そういうわけではなく、相変わらず言葉が適当に連なっているはずだが、それがどうしたわけでもなく、どうもしないからそんな具合に空疎な言葉が連なり、それがあてのない虚無的な文章を構成しているらしいが、それはそれ自身についての説明になっていること自体がおかしい。そう思われてしまうのだから、やはりそれはそういうことでしかないのだろう。そしてそんな冗談の次には無関心がくる。それでは本当にだめなのか。だめでなければこれからもそれを続けるつもりか。そうだとしてもこの何でもない状況を変えることはないだろう。どうあがいてもそれはそういうことでしかなく、それについては何の幻想も抱けない。それどころかもはやあきらめの境地に至っていて、それしかできないような気になり、次第にそれ以外の可能性を模索しなくなって、そんな無内容で文章が固定されてしまうのではないか。近頃はそんな危機感さえ抱くようになる。そういう物語なのだから仕方ないだろう。だがどういう物語でもなく、それらはまったく話になってないような言葉の連なりであることも確かだ。では何を語りたいのか。そして実際に何を語っているのだろうか。それに関しては未だ何もわかっていないのではないか。それはわざとらしい嘘にもなりうるし、むき出しの真実にもなりうるだろうか。

 相変わらずそんなことは君の知ったことではないのかもしれないが、誰かがそれを語りだそうとすると眠くなり、目が覚めたら翌朝になっていて、手の施しようのないほど何かの状態が悪化していて、もはやどうにもならないことを悟り、そこで何かが終わってしまう。そこから先は何をどうしたらいいのかわからなくなり、君はまたどこかへ消え去り、残された言葉の連なりが何かを語ることもない。そんなことがあり得るだろうか。たぶん何がどうなっているわけでもないことは確かだが、そうではないと思いたいのだろう。架空の地平に手が届かず、周りを見渡せば、得られるものが何もなく、何もないことを確かめつつも、そこから何かをつかみ取ろうとして、手探り状態になり、あたりが暗闇に包まれていることに気づき、あわてて照明を点け、今が深夜であることを知る。かなりの間眠っていたらしい。睡眠中は夢でも見ていたのだろうか。何を思い出そうとしているわけでもないが、そこで言葉を記していたことは事実のようだ。だがそれでも昨日の日付だ。君はどこまでもそこにとどまっているわけにはいかず、考えがまとまらないうちに意識の中からいなくなり、立ち去った後に何かの痕跡が残っているようだが、誰かはそれをどう捉えたらいいのかわからず、言葉にできずに焦っているようだ。だからもうその辺でいいのではないだろうか。さっさと終わりにして、また一眠りするとしよう。いくら粘ってみても、何も出てこない状況に変わりはない。


10月18日

 何が冗談であるわけがないのに、それらの何を恐れているわけでもなく、それらが何だかわからないだけのことなのに、何となくそこで疲れているようだ。それでどうしたのか。どうもしないのだろう。曇り空の下で人がうごめいていて、それが翌日の光景だとわかるが、過去にもそれと似たような光景に出くわしたはずで、そのとき何とも思わなかったことが思い出されて、今もそうだと気づき、そのついでにそんなふうに何かを語っている自らに気づく。何かとはそれらの光景のことか。そうだとしても何に感動したわけでもなく、それが何の変哲もない日常の光景であることが、何の驚きももたらせないことにも、別に感動しているわけでもない。だからそこで君は毎度のことのように行き詰まってしまうのか。それがどうしたわけでもないのに、言葉に詰まって途方に暮れる。おかしな言語表現だ。当たり前なのにそう感じている。きっと気のせいだろう。そしてしばらくの間は何もしていないようだ。たぶんそういう成り行きを想定していなかったのだろう。そんなわけで行き詰まっている君をどこかに置き去りにして、架空の物語が語り進められ、そんなはずがないという思っている君を使って、何かを語るわけにはいかなくなり、それとは違う何かを模索することにするらしいが、はたしてそれでうまく行くのだろうか。くだらぬ冗談の続きには閉口させられるはずだ。誰がそうなるのだろうか。君にはそれが冗談だとは思えず、それらの文章を読むことによって、何やら本気で何かを目指しているような気にさせるらしい。

 おそらくそれが冗談なのだろう。どんなわけでもないのだろうが、そんなわけで君は冗談に敗れ去り、その場から退散して、あとは誰が冗談の続きを語ればいいのかわからなくなり、何となく誰かは文章を記すことに行き詰まったつもりになり、自らが何かの物語の内部で煩悶していることを忘れ、別にそのことが常軌を逸した行動を誘発することにもならないのだろうが、苦し紛れに何をするわけでもなく、それが唐突な内容であることも無視して、本当に何をどうしたらいいのかわからなくなり、そのあとはどうなってしまったのだろう。自らの内に強い意志の存在を感知できず、ただその場の状況に流されるがままに、そこで起こった出来事を何かのきっかけにしたいのだろうが、君はそこからどのような行動に出たのだろうか。それを今さら思い出すつもりか。思い出したところで、それがそれらの文章に反映されることはない。今の君は退屈にやられて、心が虚脱状態にあり、そのうつろな眼が何を映すこともなく、ただ疲れきっているだけのようだが、相変わらず具体的に何だどうなったわけでもなく、それらの変わらない状況が君を押しつぶすこともなく、そういう状況によって自らが生かされていることを自覚するしかない。現代においてはそこで暮らす誰もがただの人でしかないことを自覚すべきのだろうが、それに逆らって目立ちたがりの虚栄心を発揮したところでたかが知れていて、何者になれるわけでもないだろう。

 しかしそこで君は何をあきらめているのか。どこかで流通している何かを、その手でつかみ取りたいのか。それで今までの努力が報われるとでも思っているようだが、本当にそうなったらおもしろいではないか。そこから誰かはそうならないような前提で話を進めたくなるらしいが、何者かになることをはじめからあきらめているのは、どこかにいるならず者の誰かなのだろうか。そうだとしても心はすでに何かの限界に近づきつつあり、何か耐えられないような気で、それらの作業を無理にこなそうとしているのかもしれないが、果たしてそんな自らの内に不幸を呼び込むようなやり方でいいのか。しかしそれで何が可能となり、そこからどんな結果がもたらされるのか。たぶん君はその結果にかけているのかもしれず、何かを犠牲にしなければつかみ取れないような何かを求めているのであり、それが命がけの試みとは思えないが、何となく虚しい努力のように感じられ、無駄で無意味なことにこだわり、それによって人生を棒に振ってしまうように思われてしまうのだろうが、たぶんそれが誰の人生でもないことも承知しているのではないか。この世界に暮らす誰もがその他大勢の中の一人にしか過ぎない状況で、そこで誰がどう生きようと、その者が自らの努力や周囲の助けによって、幸せになったり不幸せになったりして、仮に有名人にでもなれば、その業績を世間に認められて、どこかで表彰されるだけでしかない。たぶん君はそれが虚しい結果だとは思わないのだろうし、むしろ誇るべきことではないかとも内心思っているのだろうが、果たしてそれらの忘れ去られるべき人々はそれについてどう思っているのだろうか。


10月17日

 しかしそれは何の物語なのか。そう問うことが何らかの物語を誘発しているとは思わないが、誰が何を思っているのでもないことも、ここで交わされた取り決めなのだろう。だが君と影と誰かが何を交わしたわけではない。そう記せばそうなっているように思われてしまうだけか。だが相変わらず誰がそれを思っているとも思えない。誰も思わないから他の誰かが思っていることにしなければ、それらの文章は成り立たないのではないか。しかしどこに文章があるとも思えず、少なくともそこで連なっている言葉が文章を構成しているとは思えないが、やはり誰が思えないと思っているのでもなく、そういう具合に言葉が連なっているに過ぎない。だからそこで何を語っても、それは実際に誰が思っていることでもなく、そういう並びで言葉が連なっているだけだ。そしてそんな言葉の連なり具合にどんな幻想が宿っているわけでもなく、君は何も幻想を抱かず、たぶんそれとは無関係に誰かが何かを思っているのだろう。そしてその思っていることが文章として記されることはない。なぜそんなふうに感じてしまうのかわからないが、何を感じているのでもない誰かがそんなことを記していること自体が不可思議な現象なのだろうか。ここではそういうことにしておいても何ら不都合はないのかもしれないが、何となくそう思っている誰かが、そこで生じさせているつもりの架空の思惑に従うなら、やはりそうではないと思うしかないようで、それらの文章は君とは無関係な何かを内包していて、その何かが誰かの心の中に引っかかっているように思われ、そうではない何かと認識されているのだろう。

 それは何かのいいわけなのだろうか。誰かはそうであってほしいのではないか。言葉を用いて文章を構成するには、それ相応の理由が求められ、そうでなければ無根拠で空疎な文章となるしかないように思われ、それを実際に記している誰かが、その頭を虚無におかされていると思うのも仕方のないところか。それについてはわからないと思う。わからないことにしておこう。何よりもそこで思考を働かせるのが面倒なのだ。君は面倒なのでそれについては何も考えないことにしていて、その目が疲れたので、一時的に言葉を記すのを中断したがっている誰かの頭の中に、君が住まうとは思えない。しかしそれはいったいどういうことなのか。憩いのひとときにはその種の問いが不可欠か。虚空の向かってそう問いかけて、誰かは何かをリセットする。だから面倒くさがり屋だと思われて当然か。君はそんなふうに言葉を記すべきではない。君とは誰のことなのか。また無駄に言葉が費やされて、何が何だかわからなくなり、誰かが焦っていることは確からしいが、それで何がどうなるわけでもなく、そこから先は何かの付け足しになるのだろうが、別にそれで誰が困るわけでもないだろう。君の心はそこからすでに外れていて、誰でもない誰かがそれに代わってその場を占めているのであり、その誰かに従いながら、虚空から繰り出されたそれらの言葉は、適当にいい加減に並んでいるようで、それらの何が文章であるわけではなく、おそらく誰も何も語っていないだろう。

 何かを語るとはそういう行いの延長上に生じているのだろうか。いったい何が生じているというのか、と問うことからそれらの文章が生じているわけだ。それがわざとらしくも馬鹿げたことだと思っているのだろうが、そんなふうに語っているつもりの架空の誰かについて、誰が何を語る義務も筋合いもありはせず、やはりそこでは勝手に言葉が並んでいることにしておいた方が、どこかに存在しているつもりの誰かにとっては好都合なのだろうし、画面上にそんなふうに言葉を並べているつもりの君にとっても、まんざらでもないようで、いやがる素振りも見せずに、それらの作り話の中に収まり、君という言葉となって誰かに記されることを当然のことのように思うのも、それがフィクションだという前提を受け入れている証拠か。だが何が証拠だと断言できるのか。何を断言しているわけでもなく、そこに記された何かがそう告げている内容が、誰かにはそういうことらしいと思われるだけで、それで何が解決したわけでもなく、誰がそこでの解決を望んでいるわけでもなく、解決されるべき問題などどこにも見当たらず、それが問題だと思うこと自体が間違っている可能性があり、そういう可能性がどこに生じているとも思わないが、そう述べてわざとらしい矛盾を生じさせようとしている誰かにしてみたところで、自らの存在を確かなものだとは思わないだろう。すべての存在はフィクションの中で生じている幻影かもしれないし、それを実在していると思うことが嘲笑の対象になるとも思えないが、何となく冗談でそんなことを述べているような気がするだけかもしれない。


10月16日

 未だに何も語る気がしないのは誰にとっても同じことかもしれず、そんなわけがわからないフィクションがどこにあるのか誰も知らず、たとえそれらの作り話がどこで語られようと、君にとってはどうでもいいことであり、ただ他の誰かが適当に言葉を記しているだけでしかないようだが、君にはそれがおかしくてたまらないらしい。君はまだ他にやらなければならないことをやっていないのだろうか。それは何なのか。今はそれについて語らなければならないようだが、未だ何も語っていない現状が、君には語る必要ないことだと告げている。だからそれだけのことだろう。それだけでは仕方ないのではないか。では他に何について語らなければならないのか。他ではなく、誰かが記しているかもしれないそれについて君は語っているつもりなのだろう。今語っているこれが、君が語っているつもりのすべてに違いない。だからそれはそれでそういうことなのだ。ならば誰かとは君のことなのだろうか。そう思っているのならそれでかまわない。それでは不満なら、また無駄に言葉を費やして、誰もない誰かが語っているそれらについて、他の誰かが語らなければならないだろう。それでもかまわないのではないか。そんなふうに語るならそれでもかまわない。それ以外の何があるというのか。そしてそれ以降に語るすべてが蛇足に過ぎないことも知るべきか。

 それでは蛇足の続きを語るとしよう。誰もそれを望んでいないのではないか。誰かが望むと望まないとに関わらず、言葉が勝手に連なってゆくのだから、それは仕方のないことか。では君はもうあきらめているのだろうか。言葉の勝手な暴走を食い止められず、自らの無力さを悟っているわけか。話はそういうことではない。そういうことでもあるが、それとは違う方向へと言葉の連なりを延ばしてゆく。君はそれを信じてかまわないのだろうか。今さら何を信じろというのか。別に神に向かって命令を下しているわけではない。たぶん君は神ではない。君と神とでは言葉が違う。ではそれらの言葉を使って文章を構成しているのは誰なのか。だからそういう問いでは誰かの心を響かせられず、共鳴現象から何かの増幅を望めない。何かとは何か。その気があるなら気の向くままにそれをさぐりあてたらいいのではないか。君は面倒なのでそこで思考を止め、それ以上は考えないようにしているはずだ。何を探してもそこには何もありはしない。そういうことにしておこうか。だが誰もそんなことは信じていないだろう。何を信じようとしても裏切られ、信じている当の物事から置いてきぼりを食ってしまうのは誰なのか。君には何も持ち合わせがありはせず、作り話の中では一文無しなのに、現実の世界ではそうではない。それは恐ろしいことだろうか。

 何かと関わり合っている以上は、そこから何らかの影響を被っていて、無意識のうちに損得勘定が働き、認めざるを得ない存在がいくらでもありそうだが、それでもこの世界とは無関係を装えるとは思えず、関係ないと思い込むなら、それはフィクションの中で思っていることだ。だがそうだとすれば何なのか。何がどうしたわけでもないだろう。そう思うのは空疎な強がりと厭世観でも絡んでそうなっているわけか。そうだとしたら何なのか。あくまでもそういう姿勢を崩さないなら、やがて世捨て人にでもなれるのだろうか。例えば富士山麓の樹海で仙人のように振る舞えるのか。それは意味不明な架空の小説の断片にでもなるかもしれないが、そんなものをこれから書き上げる気にはなれず、たぶんそれらは架空の領域で、誰かの妄想とともに成り立っているのだろう。だからありもしない文章について、ことさら語るつもりにはなれず、それがこれからどこかで存在するようになることを望んでいるとも思えず、少なくとも何かのほのめかしには違いないが、今のところは何を実現させるつもりもないらしい。君はそのための努力を怠っているのか。努力も何も、そういうのは他の時空で発揮されていることであり、それらの文章が書き連ねられている時空では、何の努力も払われないことが建前となっていて、ただ勝手に言葉が連なってしまうという嘘がまかり通るような成り行きなのだ。


10月15日

 どうもしばらくぶりに我にかえった気がする。作り話の中ではそうかもしれないが、君には虚栄心というものがないのか。それらの何が邪魔なのだろうか。しかし何をそんなに笑っているのだろう。言葉を記すのにはもう飽きている頃だ。いったいそれで何を語るつもりなのか。そしてそれらの空疎な語りの中で何を認めてほしいのか。いくら自己に言及しようと、自らの存在が明らかになることはない。そう思っているのならそういうことになるだろう。どういうことになってもかまわないから、そうなってもかまわないわけか。君はそこで何も答えない。何も返答を持ち合わせていないようだ。では君はそこから何を語るつもりなのか。今さらそんなことを記しても無駄だ。何を今さら述べているのだろう。別にそういうことではない。別も何もなく、命の別状もない。意味不明だがそういうことになるのだろう。だからそこで笑い転げているわけか。やはり作り話の中ではそういうことになるらしい。南の島の光景でも思い浮かべながら、気のない顔してテレビの風景でも眺めているのは誰なのか。唐突におかしな文を差し挟みながら君は何を思うのだろう。誰でもない誰かにしたところで、それらの状況を完全に把握しているわけではない。だから君はおかしな気分になっているようだ。

 音楽は音楽だろう。それがジャズだろうとテクノだろうと、そういつもいつも、そこで何かを考えるきっかけを与えてくれるわけではない。だからわざと音楽を聴いている。ほんの気晴らしのつもりか。そういうことではなく、ただの寄り道だろう。そこから何がわかるわけでもなく、何もわからないから音楽を聴いているだけか。たぶんそれも思い違いのたぐいだ。誰かが語る物語においては、この世界のどこかに迷宮があるらしく、地下にある迷宮では、何やら得体の知れぬ怪物が待ち構えていて、そこに隠された宝を侵入者から守っているらしい。それも何かのフィクションの中で語られていることなのだろうが、そこでの考え違いを改める方法を日常の中で学ばなければならない。そんなことができると思っているのか。誰かがそう思いたいらしいが、まずは何が違っているのかを知ることから始めなければならない。本当に何が違っているのだろうか。また正しい認識に至れば何がどうなるというのか。だからそういうことではないのかもしれず、君はそこで何かから抜け出そうとしているのだ。嫌な現実から背を向けて、虚構の世界で憩いのひとときでも過ごそうとしているのだろうか。しかし体験している何が虚構なのか把握できずにいるらしい。たぶん何も虚構ではなく、何もかもが現実でしかないのではないか。そうだとしたらどうしたらいいのか。

 記している文章が無駄に長過ぎるのか。あるいは肝心な何かを語り損ねるほど短すぎるのか。短すぎるとしたら、そこで語り損ねている何かとは何か。君には誰かが執拗に無駄で無意味なことばかり述べているとしか感じられず、必要がなければ何も語らなくてもいいのではないかと思う。誰かには君がそんなことを思っているとは思えない。誰が何を思っているとしても、たぶんそれは無視してもかまわないほど何でもないことなのだろう。だから他から何を言われようと聞く耳を持っていないのであり、その辺の何かがまともになってないことは確からしい。そして誰かはいくらでも空疎なことを語り続ける。そんなことはないだろう。語っている内容は空疎ではなく、何かしら意味があるはずか。確かに意味はあるだろう。しかしなぜそんなことを述べているのだろうか。意味もなく言葉を記していることに意味があると思っている。それが気晴らしや気休めのたぐいではおかしいか。それにしてはだいぶ苦労しているようだ。かなり手こずっている。気晴らしになるどころか、気分は一向に晴れないはずだ。そしてどんなに言葉を連ねても、まともな文章からはほど遠い内容なので、不快で気休めにもならず、その煮ても焼いても食えないようなどうにもならない言葉の並びに嫌悪感さえ抱いている。だから嫌ならやめたらいいのではないか。


10月14日

 どうも能力に限界がありそうで、動画を見るには非力なマシンのようだ。そろそろ買い替えのタイミングなのかもしれない。面倒くさいからこの際高いやつを買うのも選択肢のひとつだろうが、どうなるかはその時になってみないとわからないようだ。だが本当に誰かは買う気でいるのだろうか。だからその時になってみないとわからないことだ。そしてその時がいつになるかも今のところはわからない。たぶん今はその気がないのだろう。そんなことはどうでもいいのか。面倒なので何とも思わないことにしておこう。何に関してそうなのか理解できなくなっている。君は今カビくさいプーアル茶を飲んでいる。もちろんそれはフィクションの中でか。なぜその必要があるのかわからないが、とりあえずそういうことにしておこう。別に生死をかけた大げさなゲームに参加しているわけではない。そんな成り行きがある映画をテレビで見ていただけか。君はそこで何を祈っていたのだろう。途中でチャンネルを切り替えてしまったのでわからなくなる。いったいそれは何の話だったのだろう。相変わらず話にまとまりがない。わざとそうしているのはもちろんだろうが、何がわざとなのかわからないのもいつもの通りか。どうやら君には未来を見通す能力がないらしい。そして眠たくなってきたのであくびが出る。しかし何がそんなにおかしいのか。笑いたければいくらでも笑ってかまわないのに、そこから先には何も言葉が出てこない。だからそういう話だったのではないか。そして君は途方に暮れるはずだった。

 どうやらゲームが終わってしまったらしい。君はそれらのどこかに偽りの仮面を見出そうとしているが、その意味がわからずにいる。話の中ではそういうことだ。そして意味もわからず言葉を記しているのは誰でもない。また呆れているのだろうか。そういう話の展開には飽きているということか。どうでもいいはずで、何を語るにしても、結局は意味不明のまま終わってしまうのだろう。そこで何が終わるのかといえば、それは何かでしかなく、誰かが記し続ける架空の物語が終わることはない。要するにそんなものはもとからあり得ないのだろう。君はどこにも何も描かれていない絵を見たことがあるだろうか。どこかの架空の時空でそれを眺めているはずだ。だから話になっていないのでわけがわからず、そういうことを述べている理由も定かでない。そういえば誰かの金属アレルギーはどこでどうなったのか。少しは治癒に向かっているのだろうか。疲れてきたので横になりたくなり、自らがそこから外れていることを自覚しそうになるが、寸でのところで気を取り直し、誰かはまたどうでもいいような言葉を画面上で並べ始め、少し前に見たテレビ映画の内容を思い出そうとする。たぶん誰かは執念深いのかもしれない。だが無理をして体調を崩しても損なだけだ。だからさっきまではあきらめて寝てしまうつもりだったのだろう。実際にそうなってしまったのではないか。本当に眠ってしまったらしく、誰かの影が焦っているようだ。だがそれもここでは作り話のたぐいに違いない。こことはどこなのか。

 まだ続ける気があるのだろうか。誰かはわからないが、君はそのつもりらしい。ちなみに君はそこから何を導きだすのか。何を試みようとしても、テレビドラマの結末のような具合には行かず、いつまでもそこにとどまっているわけにも行かないことを誰かが思い知るだろう。誰かとはこの場合は君のことになるのだろうか。それはどの場合でもなく、そこには何の可能性もない。どうなることもないのであって、至って平静を装いつつも、心の中では焦りまくりで、絶えずそれとは別のことを考えているように思われ、具体的に何を考えているのかが記されることはないが、かなり眠くなっていることは確からしく、もはやそれ以外の認識を言葉にすることは不可能に思われ、要するにそこで思っているのはそういうことだったのだ。ただ眠い。それではいささか拍子抜けだというのなら、他に何を思いついたことにしたらいいのか。何を思いつこうと、そこから先には睡眠時間がある。寝て起きて、翌朝になってしまえば何も思い出せなくなるはずか。そういうわけにもいかないか。ではどうしたらいいのか。どうもせずにそこであきらめてしまえば、あとはどうにかなるだろう。面倒くさいからそういうことにしておこう。そうではなくて何も語れないだけだろう。それがわかっていながら、それ以外のことを記そうとして、またいつもの挫折を味わってしまうのかもしれず、もういい加減に眠ってしまえばいいのだろうが、そんなふうに言葉を記していること自体が徒労感を招くだけであることは誰もが承知しているはずだ。


10月13日

 どうも見た目が安っぽい。そう見えてしまうのは致し方ないところか。まあ腕時計のたぐいなのだから、取り立てて意味はなく、実用以外の意味としては腕飾りでしかないが、そんなところにこだわりを持つほど心に余裕がないか。やはりその辺から先が言語表現として無理があるようで、気が利いたことは何も思いつかず、記述に行き詰まって、どこかで七転八倒しているらしいが、虚構の外側から眺めてみると、どう見ても誰がもがき苦しんでいるようにも感じられず、誰かはまたありもしないことを語ろうとしていたようだ。本当は何を眺めているのではなく、そんな架空の視線など誰かが記す虚構の中ではあり得ないのではないか。それ以前に虚構自体が存在しないかもしれず、たぶんその辺でまたわけがわからなくなっているのだろう。いったい君に何がわかるというのか。それはいつかの決まり文句だ。別にそれが悪いわけではないが、ただ空疎なことを述べているだけで、実際がそうだからそうなってしまっているのであり、君にはもうそれほど時間がないにもかかわらず、あえて遠回りしていたのでは、どこかにたどり着く途中で時間切れか。そうなったらなったでおもしろいではないか。何も達成せずに何かが終わってしまうのであり、確かそんな話もかつてはあったのではないか。ところでさっきまでは何のことを述べていたのか。知っているのにあえてそう問う理由はない。理由を適当にねつ造しようとすれば、わざとらしく何かを思いついたふりをして、ただその何かが邪魔であることを再確認するだけで、過去に何を確認したのか思い出せず、別にしなくていいのに途方に暮れ、君にとってはすべてがそうかもしれないが、それはどこかの誰かにとっては必要不可欠な迂回になるだろう。わざとそうしないと言葉が適当に連ならないのだ。しかし連ならなくなっても、いったいそれで誰が困るのか。誰も困らないではないのか。だがそれではおもしろくない。そこから冒頭のことに関しては、どうもデザインがぱっと見できれいに見えるものは、すぐに飽きられ、それとは違って、例えば個性的なデフォルメによって、当初は違和感を感じさせるものや、逆に一見何の変哲もないのに、よく見るとちょっとしたアクセントがあしらわれているものなどが、長く飽きのこないデザインのように思われてしまうようだ。

 なぜそんな嘘をつくのかわからないが、誰かはそこで何を述べているのでもない。それでもそこに何かあるとしたら、それらはあまり説得力のある説明とはいえないが、虚構の中で誰が自らの話に説得力を持たせようとしているのでもなく、誰かが何を説明するつもりもなく、何かを説明しているだけなのだろう。だから架空の話に出てくる登場人物のつもりの君は、そこで何に挑戦しているのでもなく、そこに何か特定の目標があるわけではなく、別に攻撃の対象もなく、誰に向かって何を語ろうとしているのでもない。そういう話の内容にしたいだけなのかもしれず、そこで君が発しているつもりの架空のメッセージはどこにも伝わらず、そこで何を主張しているのかさえ当人がわからないのあり、そう述べていることが架空の説明なのかもしれないが、なぜそうなってしまうのか。それは誰かが述べているつもりのことが、わざとらしくも意味不明すぎるからか。そんなはずがないだろう。それらのどこにも主張がないわけではなく、ただ言葉を記しているつもりの誰かが、それを信用していないことは明白で、自らが記しているつもりの虚構の中で、仮に誰が何を主張しようと、それらすべてが冗談のつもりで述べていることになってしまい、そこで述べられている内容は何一つ真に受けるようなことではないと思われ、誰がそう思っているのかわからないが、とりあえずそれで何かを語っているつもりになりたいと同時に、それらがすべて本当にそう思っているのとは無関係に記述されているように思われたいのだろう。しかしわけがわからないが、やはりそれは冗談でそう述べていることなるのだろうか。たぶんそうに違いなく、なるべく本気に受け取られないように、ひたすら無駄で無意味な説明を繰り返しているのかもしれない。


10月12日

 それが今日なのだろうか。今日でなければそういうことになる。他の誰と何を競い合っているわけではないし、他に何を求めているわけでもない。しかし他ではない何かとは何なのか。それは何でもない何かなのだろうか。そんなことはわかりきっているではないか。わかりきっているからこそ、それが何だか具体的に答えられないのだろう。だからやはりそんな何かがあるとは思わない方がいいのではないか。では他にどう思えばいいのか。だからそう思っていればいいだけのことでしかない。それがくだらぬ問答だと思っていればいい。そしてそう思うしかないような成り行きの中にその身をおいていることを自覚すべきか。しかし実際に何を自覚しているのだろうか。今までにそんな自覚とは無関係に言葉を記してきたのではなかったか。それともそれも自ら無意識のうちについて嘘の一部をなしながら、文章としてそこに記されているわけか。だがそれがどうしたのだろうか。そこで何がわからないのかわからないのだが、そういうことだと思っていればそれで済んでしまうようなことをあえて問い、それに対する答えを無理矢理ひねり出そうとしているだけではないのか。だがそれもすでに明らかになっていることであり、ここで改めて問うことではないような気がしている。ならば他に何を問うべきなのか。あるいは問うことなど何もありはしないのか。

 だが何も問わなければ言説とはなりがたい。ならば言説でなくてもかまわないのではないか。例えばそれはどこまでも冗談のたぐいであり、真に受けるような内容は一切含んでおらず、そのまま読み捨てたらいい内容なのではないか。それが本当ならそういうことになりそうで、そう述べていること自体も嘘の一部なのだから、それこそが冗談なのかもしれない。そんなわけで誰かはだいぶ無理な解釈に陥っているらしい。しかもまったくでたらめなことを述べているのだろうか。論理的整合性が希薄か。そんな大げさなことではないだろう。何となくくだらないように思えてくるが、そこから巻き返しが可能だろうか。たぶんだれてしまって、まともな心境には至れないだろう。とりあえずあまりその手の情報を鵜呑みにするわけにはいかないらしく、何となくそれを記すのをためらい、できることなら避けて通りたくなり、実際にはそれとは無関係なことを記すようだ。まったく面倒くさいことになりそうだが、次第にそれもやる気がしなくなり、誰かは眠くなって寝てしまうのだろうか。そして翌朝になり、昨日と同じ気分でやる気がしないままのようだ。だから何も言葉が見つからないということか。まともに語ろうとするとそうなってしまい、その気がないのにそんな言葉を記してしまうわけか。それはどういうことでもなく、無駄に文章を記しているだけのようで、気がつけば同じような言葉が繰り返し記されているわけか。そんなわけで君がやることは同じことの繰り返しとなる。

 君は自分がやっていることが気に入らないのか。それは自業自得というやつか。どうでもいいがそんなことでもないのだろう。ただ語る必要のないことを語るのが現代的な言説のスタイルとなっているのではないか。それはくだらぬことだろうか。たわいないことだと思うが、そういう成り行きに絡めとられて、そういうことを語らなければならないのは、きわめて自然な流れだろうか。その場で言葉を記す構造が、そういう文章の記述を強いているのではないか。何の動機もないわけではないが、記述を継続したいという意志だけではそうなって当然の成り行きになるだけだろうか。そうかもしれないし、語らなくてもいいことまで語る必要に迫られながら、さらにそれを無理に記してしまうという愚を押し進めているのだから、そうなるのが当たり前のことだとしても、やはりそれをやらざるを得ないというのはいかんともしがたいところか。馬鹿げたやり方であり、もう誰かは呆れ返っているのかもしれないが、やはりそういうことなのだろう。君にはどうすることもできず、他人のやっていることを批判するような立場にはないことを自覚するしかないようで、それ以上に何を述べたらいいのかわからないが、とにかくそういうことしか述べられないわけで、今後ともそんなふうにしか語れないとすれば、どうも誰かは自らが気を病んでしまう危険性を感じているようだ。だからそれは自業自得だと述べているではないか。


10月11日

 今さらそんなことを語ってみても仕方がないが、たぶんそこから先が出てこないのだろう。そこでそういうことは思いつくが、やはりそれはそういうことでしかなく、そこから先に何かの物語が続くわけではないらしい。それ以外の何に言及することもなく、そんなふうにしか事態は推移しないようだ。そして何を記すべきかわからなくなり、途方に暮れるのと同時に空疎な言葉の連なりが現れる。それがそこでの成り行きなのか。翌日の空は曇っているようで、そんな今を音楽を聴きながら過ごしている。そうやって時間と空間を通過しつつ、やがてどうなってしまうのだろう。それはその時になったらわかることか。別にわからなくてもかまわないが、何がしゃくに触るわけでもなく、そうあるべき状態というのを想像できずにいるらしく、そこでどうなってもかまわないのだろうが、仮にどうなってしまったとしても、特に大したことはないのだろう。要するにどうにかなること自体がどうでもいいことでしかないのかもしれず、そこに何か適当に目的が設けられるとしても、そんな目的に向かって努力しようとしまいと、とるに足りない結果となって、落胆とともに自らにもたらされるだけか。結局何がどうなったわけでもなく、元の木阿弥とならないまでも、程度の軽い期待外れに終わるしかないようだ。そして君はわざとらしく挫折してしまうわけか。それもまた冗談のたぐいとなりそうだ。

 本当はそうは思わない。何とも思わないわけでもないのだろう。思いがけない結末が待ち受けているのかもしれず、誰かは密かにそうなることを願っているのかもしれないが、本当にそうなったとして、何かそれの対処法というものがあるのだろうか。意外な結果にはただあっけにとられていればいいのだろうか。そうなった時には自然とそれへの対処ができているかもしれない。たぶんその時にやっていることがそれなのだろう。未来の時空のどこかでもがき苦しんでいる君の姿がそれなのか。だがそう述べて誰かが何を想像しているとも思えず、未来は相変わらず未知の時空に属している。依然として君はそれが何を意味しているのかわからないままだ。誰かが記述している空疎なそれが、果たして新しいジャンルなのか。くだらない妄想の果てに何を思っているのだろう。ふとそんなことを思いながらも、誰かがそんなやり方を全うできるとは思えず、どうせまた利いた風な意見を披露して悦に入りながらも、同時に自己嫌悪にでも陥るのだろうか。だから冗談だと述べているわけか。そんな自己の肥大化を押しとどめながら、今度はそれとは違った気分を導きだそうとして、言葉の連なりをその先に延ばそうとしているらしく、たぶんそれが無益なことだと悟りながらも、それがやめられるはずがないとも確信している。

 本当に君はそう思っているのだろうか。それを否定するのは簡単か。そんなはずがないだろう。すべては作り話であり、虚構の中で誰かがわけのわからぬことを述べているだけか。試しに何かを否定してみせるが、その否定している当のものがそこには不在であることを知りながら、知っているそれを代置することもなく、そこから外れて何を述べられるとも思わず、自らが何を疑っているのか知り得ていないことに気づかず、そんなフィクションを延々と語り続け、そこから先は何を述べたらいいのかわからないまま、やはりそこから何かを語ってしまうのだろうか。だからその辺が自らの限界であることはわかっているようだ。しかしその自らが誰にとっての自らなのかわからない。それが誰でもないはずがないか。誰かの言説はそれが属している時代の限界を超えることはない。それはわかりきったことだろうか。たぶんそうであったとしても、何かを語らないわけにはいかないのだ。ノーベル賞受賞者がマスコミの紋切り型的な質問に嫌々答えながらも、あたかも俄教育評論家のごとき振る舞いを演じてしまうことが、滑稽の極みであることに気づくには、いったいどのような言説が必要とされるのか。そんなことはその時代に住まう人間にはわからないことだろうし、わかる必要もないことなのだろう。


10月10日

 もううんざりするしかないかもしれないが、やはり誰かが何かを語りだす。それはいつもの空疎で中身のない語りになるだろう。君はそんなふうに語れるだろうか。誰が何を試しているわけではなく、そこで何ができるか、その可能性の有無を確かめているわけでもない。そこで試されているのは誰かが繰り出す言語表現のバリエーションだとも思えない。単に語っているのだろう。今はそうとしか思えず、それだけのことにかかりきりになるのもおかしなことか。それは何の利益ももたらさないからおかしいのか。だが無益であることがそれが存在可能な唯一の条件かもしれず、何か誰かにとって有益なことを述べているとしたら、何となくしらけてしまうような気がする。結局は功利主義的な言説となってしまうわけか。それでかまわないだろう。確かにかまわないが、一方で面倒くさい。誰に頼まれたわけでもないのに、何かのために何かを述べることに、何となく違和感でも感じているのだろうか。それ以上の避けるべき何かかもしれない。避けては通れないが、あえて避けて通らないと、何かの罠にはまってしまうわけか。そんなことはない。ただ生真面目に何かを語ってしまうのが面倒くさいだけかもしれず、できることならそういうのを避けて、無益でくだらない語りに終始したいのかもしれず、今がそれを実践している最中なのだろうか。そうだとしてもどうということはない。

 生きるか死ぬか、それの選択を迫られているのはテレビドラマの中でのことか。面倒くさいのはどこも一緒か。人はすぐに面倒くさいことを考え、面倒くさいやり方でそれを叶えようとする。ご苦労なことかもしれないが、何となくそれは徒労に終わるような気がして、実際に何らかの思い込みにとらわれていない限り、そういうことになるだろう。世の中には何がしかの結果が出たと思い込むしかないような輩が多すぎるのか。それもそれでご苦労なことだが、やはりそれが仕事ともなると、どうしても結果が欲しいところだ。無為自然の境地ではいられないわけで、すぐに欲が出て墓穴を掘ってしまい、それ以降は嫌な成り行きになってしまうのだろうが、それでもそういう結果にすがりつき、あとはあらぬ幻想を抱きながら、何かの幻影を追い求めるまでか。実際に多くの人がそうなっている。辺り一面に不快感をまき散らしながら、どこまでも自らに付き従い、己が自分自身の影でしかないことに気づかず、さらに我を押し通そうとすれば、その結果は自ずから明らかとなり、もはやどうでもいいような結果しかもたらしていないのに、それで自らを貫き通したと確信して、その辺で自らの愚かさを美化したがっているわけだ。だがそんなふうに語ったところで、相変わらず何を述べていることにもなりはしないか。

 君はそこで何かの紋切り型を発見している。それはありふれた言語表現のたぐいになるかもしれないが、そこで何に浸りきっているのでもなく、自ら打ち立てたそれらの構築物を放棄する気にはならない。何とかしてそういう結果を、誰かが記した文章に定着させようとしているのかもしれない。君はそれが可能だと思われる。誰がそう思っているのでもないだろうが、何となくありふれた言語表現から脱却したつもりになり、そこで自己満足に浸りたいのだろうが、そうするだけの余裕がなく、次の瞬間には急いでそれを否定して、それ以外の思惑があるかのように装い、自らが思っていることが、何か途方もない効果をどこかに及ぼしているような幻想にとらわれ、そんなことを語っている自らに至上の価値があるかのように思い込み、それが誰かが記したフィクションの中だとしても、そういう語りによって確実に自らの存在を証し立てたと自画自賛している自らを、鏡に映して見入っている自らを思い描くわけか。それはどういうことなのか。それ自体があり得ないことであり、誰かがそんな嘘をついているだけなのだろうか。面倒くさいからそういうことにしておくか。いったい誰がそこで語ることを面倒くさがっているのか。少なくとも君ではないと述べて、その場を丸く収めようとしているのは、それを読んでいるつもりの誰でもない誰かか。どうでもいいが、まったくくだらないことを述べているのかもしれない。


10月9日

 これでも昨日の段階か。それは昨日のことで、今は二日後の夜だ。何がそうなのか。それは何でもないことの続きなのか。行ったこともないのに砂漠の光景など思い浮かぶはずがないだろうが、気まぐれにそんなことを記してみる。冗談か何かか。あまりしっくりこないのは当然としても、それでは話にならない。何も話すつもりもないので、話になっていなくて結構だろう。それでも言葉を記そうとしている。別に試練を課されているわけでもないのに、どう考えてもどうでもいいようなそれを避け、何とかその場にたどり着こうとしている。別にたどり着いたからといって何があるわけでもなく、その場で考え込むまでのことか。だが実際には何を考え込んでいるわけでもないはずだ。本当に何も思い浮かばない。そしてさらに言葉を連ねてゆくが、いつものように中身が空疎だ。身軽に虚無をかわすわけにはいかないらしい。なぜそんなことを記しているのか。そう問いかけるために記しているのではないか。まったく馬鹿げたことかもしれないが、それを馬鹿げたことだと断じてみたいからそう記しているのではないか。どう述べてみても記した内容に返ってくる。わざとそう述べているからそうなのか。そんなふうにも思われ、それが何を意味するとも思えないのだろうが、やはりおかしなことを述べていることになるのかもしれない。そんなふうに語ればそうなるだろう。

 しかし君はなぜそんな無駄で無益なことばかりを考えているのか。誰かはそうは思わないのだろうか。たぶん思っているのは誰でもない。君もそうは思わないだろう。まるで呪文でも唱えているがごとくに何かをつぶやくこともなく、ひたすら言葉を記しているようだが、それがどうしたわけでもないのはどうしたことか。どうもしないからそう思ってしまうらしい。実際に延々とそんなことを繰り返していて、まったく世間の話題に疎くなる。何がどうなろうと人は人で、人であるからには言葉を操って何らかの自己表現に向かうのかもしれないが、何も表現しない自己表現というのもフィクションの中では可能だろうか。だがそれで何を思いついたとも思えない。つまらない思いつきはその場限りで誰かの記憶から消え去るまでのことか。それでもそんなことを思いつき、それが嘘だとは思えなくなるのかもしれない。だがそんな嘘をついて、誰かは何を表現しているつもりなのか。この世は虚無で覆われているわけではないらしい。見上げれば空があるだけか。では空には何があるのだろう。何かがあり、それが興味を引く対象ならば、誰かがそれについて語ろうとするのではないか。君は何かをそんなふうに思っているようだ。だが何かとは何か。何か以外の何ものでもないわけもなく、それ以外の何かになることもない。君はそこで何も思わず、そして眠気を覚え、そのまま眠ってしまうらしいが、それは何かのフィクションなのだろうか。

 何でもないように事は進展して、何らかの結果を示したりするだろうが、それが途中経過でしかないことはわかっているようで、あまり真に受けることもない。ただそれだけのことではないのかもしれないが、その他の可能性も大したことはないと感じられ、何がどうなろうと、結果的には何もどうにもならないような気がしている。それが偽らざる感慨のたぐいになるだろうか。よくここまで続けてきたものだ。何を続けてきたのかは知らない。知らないことにしておこう。たぶんこれからも知ろうとはしないだろう。知ってしまったら嫌になってしまうか。嫌になってもそれまでのことだ。もうどうにもならないのであって、どうにかしようとも思っていないのかもしれない。実際にどうにもならないだろう。君はそれでも何かに対して異議申し立てでもするつもりか。冗談でならそれもありか。では冗談でなければどうするのか。知らぬ存ぜぬでしらをきりとおすまでか。だからわからないと述べてしまうわけか。何に関して何を述べているのかはっきりしない。それはいつものことで、今さらそれを改めようとは思わないだろう。そんなふうにしか語れないのだ。そしてそれがそこでの習慣ともなっている。だからもういい加減にやめたくなるのかもしれないが、なぜかそこからさらに言葉が続いてしまい、誰かは執拗に言葉を記そうとする。意味もなくそんなことを語り続け、何が定かになることもないが、その止めどない言葉の連なりがそこでの文章なのだから、それはもうあきらめるしかないか。


10月8日

 またそこで何かが止まってしまう。どうせフィクションの中で架空の登場人物が何かに見とれていたのだろう。だがそんな回りくどい文章表現には嫌気がさしていたのではないか。たぶん君は嘘をついている。ここはそういうことにしておこう。ではそこで早々と語るのをあきらめてしまうのか。要するにそんなことを語っているわけだ。しかし何で次から次へと邪魔が入るのだろうか。そんなに言葉を記すのが悪いことなのか。いったい何がそうさせるのだろう。わけがわからないとはそういうことなのか。どんどん窮地に陥って、終いにはどうなってしまうのか。どうにもならないわけがない。過ちを犯して、窮地に陥り、そしてその次には何が待ち受けているのか。何かの崩壊か。すでに崩れ去っているのではないか。そして何かを見極めようとして、その先に言葉を記す。本当にできるのか。何ができるというのだろう。たぶん何もできはしない。そう記すこと以外は何もできない。ならば何もできないからそこで終わりか。それはわからない。できれば終わりたくないのかもしれず、そのまま空疎な言葉を連ねて文章を記したいのだろう。今となってはそれはできない相談か。わからないがそういうことかもしれず、そこで本当に何かをおしまいにしなければならないのかもしれないが、それが文章を書き記すことになるか否かは、誰かのがんばり次第か。だがなぜ障害物が次から次へと前方に立ちふさがるのだろうか。取り立てて大したことは何も記していないのに、何でそんなことばかり起こって、やる気を削ぐような成り行きになってしまうのだろうか。よくわからないが、そういうことらしく、どうしてもそれをやめさせようとしているとしか思えなくなり、そんな被害妄想を振り払えば払うほど、なおいっそうそうなってしまうらしく、もうそれは呆れ返るほどの執拗さで迫ってくるようだ。できることなら相手にしたくない。

 そんなわけで迫りくる障害物は乗り越えられないから、できることなら避けながら、何とか前進するとしよう。取り立てて何を主張したいわけでもなく、要するに何も主張できないのに言葉を記そうとしているわけで、そんなのは無理であることはわかっているのに、やはりそうするしかないらしい。だが君にはそれがわからず、それどころか何か勘違いしているのかもしれない。なぜそうなってしまうのかわからないだけかもしれないが、何となく誰かはそういうことしか記せなくなってしまい、それ以外は何も思いつかなくなってしまったらしい。ならばもはや廃人状態なのか。そういうこと以前にもう終わってしまったらしい。しかし何が終わったのかわからない。文章の中で何かが終わった終わったと触れ回っているうちに、何も終わっていないことに気づいたりするわけか。そうなったら本当のハッピーエンドにでもなるのだろうか。そんなことはわからないが、そういうことでしかないのは痛いほどよくわかったりするらしい。要するにどうでもいいことなのか。しかしなぜそんなことをやっているのだろうか。そんな問いばかりが繰り返されるが、一向に答えを導きだせずにいるらしい。だからなかなか立ち直れず、まともな文章を記せないのだろうか。またそんなことを記しているのか。しかしそんなこととはどんなことなのか。それはそんなことに決まっている。笑いながらも結局はそんなことを記しているわけだ。何と馬鹿げたことか。しかしそれを馬鹿げたことだと見なしても虚しいだけか。それはそれ以外の何ものでもなく、それ以外の何も記すことができなくなっていて、まったくどうでもいいことだが、迷いに迷っているわけでもないのに、そんなことばかり思っているのはおかしいのかもしれず、誰かはそんなことをフィクションの中で記しているつもりなのに、実際にはどう思っているのか定かでなく、そういうふうに感じているのかさえよくわからずにいるらしい。しかしそれがどうしたというのか。どうもしないからここまで書き進めてきたのではないか。はたして君はそんな嘘が信じられるだろうか。何が果たしてなのかわからないが、それが何かを記すことによっている生じている宿命だとしても、やはりそんなことはどうでもいいことだ。たとえそれが強がりや痩せ我慢だとしても、それを肯定も否定もできなくなってしまったらしく、やはりそんなことはどうでもいいとしか思えなくなっているようだ。


10月7日

 どうやら今月は遅れてしまうことが決定的となってしまったようだ。この期に及んでどう考えても遅れを取り返すのは無理か。何も思いつかないのに無理に言葉を記すことはない。そんなことはわかりきっているが、やはり言葉を記すしかないらしい。なぜそうなってしまうのだろうか。またわかりきっていることを問い、誰に問いかけているのでもないのだろうが、なぜそうなってしまうのか。君がわざとやっているのだろう。だがそんな結論ではつまらないか。ではどういう結論を示せば満足するのか。意識が何かの虜となっているらしい。そう思いたければ思っていればいい。何の結論にも至らないだけか。そんなふうに語っているのだからそういうことになりそうで、他に何も語ることがない。ならば困っているのだろうか。しかし何に関してそういうことを述べているのか。何も困っていないように思われ、何に関して何を述べているようにも思われない。至って頭の中が空っぽなのだろう。要するに何も語れなくなっているのだ。とりあえずはそういう結論で済ましておこう。結果的にはそれでも何かを語っていることになる。何かと内容の支離滅裂さを競うはずが、対象となるべき文章を知らず、別にどこかで孤軍奮闘しているとも思えないが、虚構の中では何となくそういうことになるようで、それで何とか周りを取り囲む虚無と折り合いをつけているつもりになり、一安心といったところか。

 しかしなぜ何も出てこないのだろうか。実質的には何を語っているのでもないからか。たぶんそれでも何かを語っている。君はこの世界に向かって何かを問いかけているのだ。それは無視される範囲内での問いかけになるだろう。別に返答を期待していないということか。答えようのないことを問いかけている。それはどういう問いかけなのか。人はこの世に存在しているつもりになっているが、きっとそれは気のせいだろう。意識が存在していて、何かを思っているということがおかしいのか。そんな次元の話ではない。苦みの少ない茶を飲む。誰かが画面を見つめたまま動こうとしない。そんな光景をどこから眺めているつもりになっているのか。また誰かが冗談でそんなことを述べているようだが、そこから話がつながらなくなり、そんなことはどうでもよくなってしまうのもいつものことになるだろうか。そんなふうに無駄に言葉を連ねているのもいつもの繰り返しかもしれない。それは文章を構成を打ち壊しにしたい意志の表れか。何でもないのだろうが、何となく外で降っている雨に気が行ってしまうらしい。だがそれで何に気をとられているとも思えないのが矛盾しているだろうか。やはりそういう話ではない。何を語ってもそうなってしまうのか。そうではなく、何も語っているつもりはないのに、何かを語っている気になっているのだ。どうも頭の中には複数の意識が同居しているのかもしれない。そんな嘘をついても文章的な矛盾を解決できるとは思わない。たぶんそれでもそこまで言葉を記してきたのだから、それはそれでぬか喜び的に喜ぶべきところかもしれない。

 そして君はどこかへ消え去り、その場に取り残された誰かが文章の中で何かを語っているふりをする。そんな虚構がどこにあるというのか。どこにもありはせず、やはり結果としては何を語っているのでもない。くだらない言葉遊びのたぐいか。別にそうであってもかまわない。それ以前に心は醒めていて、酒を飲んでいるわけでもないのに、そんなことを思い、その思っていることが虚構の中で語られているのだろうか。誰かはまた嘘をついてしまったらしいが、別に気にするようなことではない。何でもないことを述べているだけのようだ。虚構の中ではそんなふうにしか事態が進まない。それは事態というほどのことでもなく、たぶん空洞の中で何も起こらない光景を想像するようなものだ。またそれが違っているのだろうか。何かの思い違いなのか。まったく言葉がつながらず、文章になっていないような気もするが、それはそれで君の思い通りの結果を得ているのかもしれず、そんなふうに語ることが君のもくろみを反映した結果となっているのだろう。君は最初からつまらないことを述べるつもりでいたらしい。今さらそんな嘘をついてどうするのか。意味がなく、誰の思惑も意図も感じられず、ただ無駄に無意味なことが記されているだけではないか。一応はそれでかまわないことにはなっているのだろうが、そればかりだと飽きられてしまう。だからそんなわけで君は自らの勘違いに気づかずにいるのであり、自らの哀れな境遇を意識せずにいるはずで、そういう成り行きが君を無視し得る存在におとしめているのではないか。そんなわけはないと思いたいところだが、仮にそうだとしても、それでかまわないと思うしかないようだ。


10月6日

 また言葉を記す行為が停滞しているようだ。妄想の中で何かが部屋の中にこもっている。それが何だかわからないのはいつものことだとしても、取り立ててわかろうとしていないのに、わかるわけもないことも承知していて、だから何だというわけでもなく、たぶんその辺で行き詰まってしまうのだろう。要するに虚構の中に意識があるわけで、本気で何を述べているのでもないらしい。それはいつものことだろう。そして面倒くさいから作り話の中でも時が過ぎ去り、そんなことが歌われた曲を聴きながら、そんなこととは誰かの想像にまかせるとして、相変わらず何が何だかわからないうちに、何かが徒労に終わっているらしいことを確信する。それでも続けて言葉を記す気か。あるいはそれをやめて、怠惰に頭を蝕まれるままにしておくつもりか。まったく呆れてしまうか。呆れてものもいえない精神状態というわけでもないだろうが、また誰かが執拗に言葉を記しているようで、何がどうなってもそれだけは譲れないというわけでもないだろうが、別に誰に何を譲ろうとしているわけでもないことは明らかで、君がそこで考えていることは、すでにそういう水準にはないということなのかもしれない。しかし唐突に何を述べているのだろうか。別に唐突でもないだろう。そして何がそうさせるのでもない。だから意味もなく何かを批判することもなく、それに関してどこかで誰かと切り結ぶこともない。おそらく時代が違うのだろう。しかしそれの何が馬鹿馬鹿しいのだろうか。そんなふうに語るべきではないのかもしれない。たぶん何を語っても、それはどうでもいいようなことだ。テレビを見ながらそんなことを思っている。なぜ人々はありふれたことをひたすら語ろうとするのか。そうだとは思わないからか。彼らがありふれたことを語らなければ行き詰まってしまう。何も語れなくなってしまうのだ。ありふれたこと以外に何があるというのか。他に何かあるかもしれないが、それは語り得ないことであり、なぜ語らないうちからそう決めつけるのかわからないが、実際に語っていないことは確かであって、それが何よりの証拠になるのかもしれないが、相変わらず君は何がそうなのかわからない。

 別に何がわからないのかわかっているわけでもないだろうが、それがわからないだけでは、何となく物足りなく思ってしまい、他に何かが足りている状況を想像しているわけではなく、その足りている状況をどうしたいわけでもないのだろうが、それはそこで君が存在し続けていると思っているフィクションとは無関係かも知れない。では君は何と関係があるというのだろう。ところで君は何を主張したいのか。それがわからず、自らに問い続けているうちに、問うことに飽きてしまい、すっかり眠ってしまったらしいが、今のところは何も問う理由となっていないようで、気がつけばさらに記述が遅れているはずで、今さらできないものはできないのだから、それは致し方のないところかだろうが、それでも粘り強く言葉を記し続け、それで何かを語っていることになれば、一件落着となるのだろうが、そういう語り自体が意味不明でわけがわからないだろうか。そう思うならそういうことになるだろうし、たぶんそれは君が何かの限界に直面している証しとなるはずだ。だからますますわけがわからなくなり、何かを途中で投げ出したくなるのかもしれないが、それでもその何かが何なのかわかっているつもりになって、さらにその先に言葉を連ね、結果的にその何かを知り得たりすれば、それでかまわないことにでもなるのか。だからその辺がわかりそうでわからないところなのかもしれず、絶対にわかるはずがないと思いつつも、しかし執拗に何を語っているかを問い続ければ、たぶん何も語っていないと思い込むことが嘘になるかもしれず、それでも言葉を連ねている現状はいつもの通りであり、近頃はそればかりで気疲れしてしまっているかもしれないが、たぶんそんなことを述べても無駄だろう。それは何に対して無駄だというわけではなく、すべてに対して無駄なのであって、だから何を語ろうとしても無駄だという思い込みが、虚構の中でなされた思い込みということになり、そういう思い込み自体がおかしいことは承知しつつも、それでもそう思うしかないように感じられ、どうやらそんな記述が二日遅れの気配がするが、それ以外には何も思いつかず、ただ無駄に時が流れ、それからそれらの文章はどうなってしまったわけでもなく、周りを見回してみれば、ざっとこんな具合になってしまっているのだろう。


10月5日

 夜に雨が降っている。それは昨晩のことだ。どうやら何も思わないまま一日が経ってしまったらしい。だからどうしたわけでもなく、別にそれが気になっているわけではないだろうが、誰かはまたそんな嘘をついているようだ。近頃はそればかりか。そればかりではまずいのか。そう思っているのならそういうことになるだろう。だがそれはフィクションのたぐいだ。君はフィクションの中でそんなふうに述べているわけだ。しかしそれはあり得ないことだ。君にとってはあり得ないが、それを語っているつもりの誰かにとってはあり得るかもしれない。だからどうしたというのか。そこにどのような事情があろうと、そんなのはどうでもいいことだろう。確かにどうでもいいが、そんなふうに語らなければ現状では埒が明かない。実際にそんなことを語っているわけだ。そしてたぶんそれは嘘になるだろう。しかしそれの何が嘘なのだろう。君はそれが嘘ではないことを知っている。それは君が虚構の中の登場人物である証しとなるだろうか。だから今さら何を主張しても無駄だ。だがなぜそれが無駄なのか定かでない。そこに取り立てて理由がなくてもかまわないのではないか。何となく無駄に思えるだけかもしれず、その程度の水準で誰かはどうでもいいことを語っているのではないか。あまり気乗りしないのもそのためか。そうだとしてもそこまで語ってきたようで、その先へ向かってさらに言葉を連ねようとしている。それはまったく無駄で無益な試みに違いない。ならばやめたらいいだろう。君は誰かがそう述べてしまうのが気に入らないらしい。

 明日は晴れるそうだ。確かにそれは明日だろう。いったい君はどの日付で語っているのか。誰かが語っているのは昨日の日付だろう。それにしてもそういう話ではない。もう少し何か違うことを語った方が気晴らしになりそうだ。どうでもいいことばかり語っていると気を病んでしまう。ひたすらそんなことばかり語っているから嫌になってしまったのではないか。ならばもう語れないか。そういうわけにはいかないらしく、何事も継続することが肝心であり、たとえ空疎な内容であろうと、また語る目的が定かでなかろうと、とりあえず語り続けることがここでの最優先事項になる。何でもかまわないのだから、それが嘘であろうと虚構であろうとかまわないだろうが、しかしあまりも無内容であると、何となく言葉を記している当人が自己嫌悪に陥ってしまうか。そうだとしてもその先に言葉の連なりがあるらしい。なぜか知らないがそういう成り行きになっているようだ。要するにそこ意識が存在すること自体が場違いであり、そんなものなどもとから必要なく、それとは無関係に言葉が記されるべきなのだ。それはあり得ないことだろうか。実際に何も中身のない文章が記させれいるではないか。ただそう思っているだけだろう。たとえ虚無的であっても、何かしら中身があるはずか。だからそう思いたいのだ。そしてそう思うことで満足したいのだろう。それは馬鹿げたことだろうか。何も馬鹿げたことではない。

 君はそれを否定したいのだ。何を否定しているわけでもないのにそれを否定したい。やはりそれは馬鹿げたことではないのか。そして君はそこで疲れている。馬鹿げたことを述べているから疲れてしまうのか。疲れたから音楽を聴いている。本当に疲れているのだろうか。そういう問いには答えようがない。どこまでいっても自問自答になってしまうからか。そして何を述べているわけでもないことに気づき、さらに嫌気がさしてくるだろうか。君にそれがわかるわけがない。君は君自身について述べているのではないのか。そこで何を述べていようといまいと、それは君の勝手だろうか。君にそれがわかるとは思えない。それは誰にもわからないことか。誰にわかるようなことではなく、何かをわかろうとすることでもない。それどころかそれについて何もわからなくてもいいのかもしれない。いったい何をわかろうとしていたのか。それがわからないのだから、別にわかる必要はないだろう。あいわからずそんなことばかり述べているのだから、そこで何もわからないのは当たり前のことだろう。だいいち話にもなっていないではないか。そこで誰が何を語っているというのか。誰も何も語っていないからそういう言葉の並びになっているのではないか。わからないがそこでの実態はそういうことだろう。どういうことでもなくそういうことなのだ。要するに何でもないということか。それでかまわない。


10月4日

 誰が自らの非を認めたがるだろうか。状況によってはそれもあるかもしれないが、今は何を認めたいわけでもないはずか。それにしても何かが変だ。そう思いたいだけで、君はどこかで自足してしまっているような気がするらしく、盛んにそれに逆らおうとするが果たせず、もうこれ以上は何の進展も望めそうもない。しかしそこで何を進展させようとしていたのか。それらの虚無的な話がそれ以上進展するとは到底思えない。それは冗談だろう。だいいち君は何が虚無的な話なのかわからず、君の中ではそれ自体が存在していないのかもしれず、その有無を含めて、これから何をどう語ればいいのかわからない。だから実態としてはさらにおかしなことを述べようとしている。確かにそうなったらおもしろい。何が確かなのかわからないが、そういうことで、そこ先に言葉を記すこととしようか。誰がそうするわけでもなく、たぶん何かの堂々巡りに陥っているのだろう。そして君は毎度のことのように行き詰まり、そこから先は何も語れなくなる。だから冗談だと述べているではないか。もう無理をするのはやめにしよう。自らに何を禁じているわけでもない。絶えず何かをどうにかしようとしているはずで、そのために日夜努力している。本音はともかく建前としてはそういうことになっているようだ。ではそこから何を語るつもりなのか。もうすでに語っているつもりのそれか。そうであったらそういうことになるだろう。

 ではそうでなければどうなるのだろうか。世の中で起こっている現象について、何か利いた風なことでも語るつもりか。そうすることが虚無的な言説に陥らないためには是が非でも必要か。たぶんそうに違いない。そしてそうに違いないと記すことが、そこでの冗談だと思われるようだ。誰がそう思うのだろうか。それは君に決まっているだろう。だがそれではそれ自体が堂々巡りそのものではないか。本気で何も語るつもりがないらしい。何かが変なのではなく、そこで何かが外れているのだ。その外れている何かを巡って言説が構成されようとしている。それは本当だろうか。本当も何も、そういうことを述べているのだから、それはそれに違いなく、そうでしかないようなことを実際に語っているのだろうが、それがよくわからない。だから何がよくわからないのか。なぜそうした言葉の堂々巡りになってしまうのだろうか。もはや語ることが何もないからそうなってしまうのか。ならばこれからも延々とそんなことを記していくつもりなのか。実際にそうなったらおもしろい。だが本当にそうなりかけているのではないか。それらの意識は語ることが何もない状況から出発して、この世界の中で語る対象を見出そうとして、世の中の様々な現象について言葉を弄して文章を構成してきたはずだが、やはりここにきて、何か語り得る対象があるというのが幻想に過ぎず、本当は何も語ることがないという事実に気づいたのだろうか。それも何かの冗談か。

 しかしいったい何のために語らなければならないのか。そういう問い自体が社会によってねつ造された虚構か。ねつ造したのは社会ではなく、そうした社会から影響を受けた君自身だろう。だからそういう物語ならそれでもかまわないが、実際はまったく違っているのではないか。では今やそれが君にはわかりかけているというのか。誰がわかりかけているのだろう。すぐさまそういう脱線に至ることにによって、君は何もわかっていないことになりそうで、そんなふうにして、またしても冗談に逃げてしまいそうになるのを、何とかかろうじてそこで踏みとどまりつつも、その場で何を述べたらいいのかわからなくなり、やはり自らがわかっていないのではないかと思いたくなるようだが、それはどういうことなのか。どういうことでもないだろう。たぶんそれがわからないままでもいいのかもしれない。なるほどそういう逃げ方もあるらしく、現状維持を続けるためには、そうやって何かをわかろうとしつつも、同時にわからなくてもかまわないという逃げ道も作っておいて、その間でわざとらしく逡巡を繰り返していれば、そんな文章が出来上がってしまうわけか。しかしそういう戦略は見え透いていないか。だからそういう自問自答さえも、そういう戦略に含まれてしまい、何かをわかろうとしたり、わからなくてもいいと思ってしまったり、それではだめなのではないと自らに問うてみたり、それに対していい加減にその場限りの答えをねつ造してみたりすれば、それがそこでの文章となってしまうらしい。


10月3日

 また語っているのは昨日のことか。やる気がしないので、明日になってしまっただけだ。誰かはそこで何かを学んだらしいが、結果的には何も身についていない。そんな実感を抱いて、それが違うらしいことを悟りたいようだ。そうやってまた嘘をついている。だが別にそれでかまわないではないか。嘘だと思うならそう思わせておけばいい。誰かは黙って言葉を記すのみだ。それが何を意味するわけでもなく、ただそういうことなのだ。それだけのことをやっている。だからどうにもならないのではないか。何をどうしようとしているわけでもなく、どうにもならない現状を記している。ひたすらそういうことでしかない。そして何も語れなくなり、途方に暮れてしまうか。そういうことだったら、それは楽しい現実に違いない。実際は違うのだろうか。何も語れないどころか、語れないのに語っているではないか。何も語れないと語っている。それはくだらぬことらしいが、そんなふうにしか語れず、それ以外の語り方を知り得ない。だからそれが嘘なのではないか。もしそうだとしても嘘しか語れないのだから、そんなふうにしか語っていない現状を君はどうすることもできないだろう。それは今の誰かに課せられた語り方なのだ。何がそれを課しているとも思えないのだろうが、状況がそういう語り方を誰かに課しているのだろう。そう思えばそういうことになりそうだ。他にどう思ってもかまわないのだろうが、何となくそう思うとしっくりきそうに思えるらしく、とりあえずの結論として、そういう状況によってそういう語り方を強いられていることにしてしまいたいようで、むろんそれは何でもないことだ。

 だから誰かはそんなふうに語っている。それがどうしたわけでもないのに、そういう語り方かを強いられ、語りもしないのに語っているそれらの無内容に耐え続け、さらにどうでもいいような言葉を連ね、よりいっそう内容が空疎になることを受け入れているらしいが、果たしてそれでいいのだろうか。良くないと思うなら、何か他に具体的でまともなことを記してみるがいい。それは天のお告げだろうか。そんな冗談で返してみても虚しいだけか。やはり君はそうではないと思いたいのか。ではいったい現状において何について語れるのか。他人がどう思っていようと、人は絶えず努力し続けなければならない。とりたてて何に向かっているわけでもないのに、とりあえず努力を惜しまない姿勢が重要なのか。だから誰かは言葉を記す努力を惜しまないのか。この期に及んで冗談を述べるなら、そういうことになるだろう。だがしかしそれは努力とは呼べないのではないか。だから冗談だと前置きしているわけか。何を語ってもそうなってしまうのだから、努力してそうしているわけではないはずか。そしてそこから抜け出られないことに気づくに及んで、なお一層それらの無駄な努力を押し進めようとしている。まったくとんでもない話だろうか。そうだとしても、やはり誰かはそれでかまわないと思っているはずだ。では君の役割はそれを見届けることなのか。別に誰がそんな役を割り振られているわけでもなく、それも冗談のたぐいなのかもしれず、誰に頼まれたわけでもないのに、自らにそういう役割があると思い込めば、そういうことになるだけのことだろう。誰かはそれでかまわないと思う。

 そういうわけでもう何でもかまわないのだろうが、唯一誰かの要望があるとすれば、できることならそんな中にも何かの気配を感じ取ってほしいか。そんなのは無理だ。もはやそれらの文章に幻想を抱くことはできず、ただの空疎以外の何ものでもない代物に、いったいどんな可能性を見出せるのか。人は誰でも道に迷い、目の前にある複数の選択肢のどれを選んだらいいのかわからず、思い悩むこともあるだろう。しかし今語りつつある無内容はそういうことではないのだ。ではどういうことなのか。それらのすべては何でもなく、何でもないからどうにもならないことなのだろう。実際にはそれ以外の何が語られることもなく、ひたすらそれに対する自問自答や説明が続き、それだけで文章の大半が占められてしまうことさえある。毎日そればかり語っていると頭がおかしくなりそうか。だが誰が語っているわけでもなく、そこにそういうことが記されているだけで、誰もそこにはいない。それが現状なのだから、それ以外を望む必要はないように思われ、現実に不必要だからそれだではないのか。ならばそれでかまわないだろう。何も思い悩む必要はなく、途方に暮れるような現状ではないはずだ、しかしそれではだめらしい。根拠も理由もなく、とりあえずだめのようだ。まがい物はいつまでもまがい物であり、それが何のたとえにもならないようなまがい物であることがだめなのか。だがそれとは何だろう。それは誰かの魂のことなのか。君はそんなふうには思わない。たとえすべてが戯れ言であろうと、それを否定するには及ばない。


10月2日

 あらゆることがうまく回り始め、何となくそういうことで一件落着しそうになるが、その前に何があったのだろうか。そうではないと思う。たぶん違うのだろう。気がつけばそんなことばかり述べている。そうではないと思いたいのだろう。後先考えず、そのままどうにかなってしまうのだろうが、果たしてそれでいいのか。良くなくても結局はそうなってしまうわけだ。だからやはり何かが違う。まだ誰も何も述べていないようだ。沈黙に包まれた仮想空間に誰がいるわけでもなく、作り話にも何もなりはしない空洞がどこかにあるらしい。そのがらんどうの中に誰かは何を生じさせようとしているのか。たぶん声となって言葉が響き渡ることもないだろう。要するにそんなふうに語りたいわけだ。それでも何かを語っているつもりになっている。実際にそうだろう。君が何かを語り、その存在が架空の君を成り立たせている。そんなことがあり得るだろうか。あるはずがないからそんなことを述べているのか。君はそれでもついにお宝を探し当てた気でいるようで、毎日それを眺めて自己満足に浸っている。それの何がお宝なのだろうか。そんな話は聞いたことがなく、何かの間違いだとは思うが、わざとそうやって話を別の方向に逸らそうとしているのだろう。本当はその手のうちに虚無以外の何があるわけでもなく、自分でそれに気づきながらも、なおも思わせぶりなことを述べて、誰かの興味を引きつけておきたいのではないか。だがなぜそうする必要があるのか。その辺からまったくわからなくなり、いつもながらの意味不明の印象を拭えず、それ以上は何を詮索しても無駄なような気になり、そこでまた沈黙するしかないらしい。

 君はどこか間違っている。そんなわかりきったことをいくら指摘したところで、この先何がどうなるわけでもないが、とにかく先を急がなければならず、魅惑的な機械に魂が吸い取られないうちに、言葉を記し終わる必要がありそうだ。しかしなぜそうなのかわからないが、その場の思いつきにはわけのわからなさがつきまとう。それで誰かを苦しめているつもりになれるだろうか。ただの機械式時計に違いない。誰かはそれを買って眺めている。それだけのことに文章を記す価値があるわけがない。だがそういう思い込みこそが危険な兆候か。それの何が危険なのか。未だに何を求めているわけでもなく、何がどうなってほしいわけでもないはずだ。では何をそんなに否定しにかかるのか。やはりわけがわからない原因がその辺にあると思っているわけか。その場のでたらめだ。何をどう考えてもそうなってしまう。そして君は困ったことになり、要するに行き詰まってしまうわけだ。しかし何を語っているのだろうか。まったく判断がつかず、どこでどうなっているのかわからないまま、その先にさらなる言葉が待ち受けていて、言葉と言葉を組み合わせて文章を記しているつもりが、後で読み返してみると、文と文のつながりが希薄で、筋の通った話になっていないような気がして、文章の至る所に闇雲にでたらめを配置しているだけのように感じられ、やはりそれで何を述べているのかわからなくなる。

 そんなやり方でかまわないのだろうか。神がそう告げている。嘘に決まっているだろう。たぶんそうくると思って、また違った言葉の配置でも用意しておいたのか。できるわけがないと思っているのだろう。たぶん君にはできないだろうが、他の誰かがやってくれるはずだ。だが今さら推敲の余地などない。今語っているのがそれなのだ。だからそんなのは嘘に決まっていると思いたいわけか。君の思っていることは先刻お見通しか。そんなわけでもないだろうが、何となくそんなふうに述べていると気が楽になり、さらにいい加減に言葉を連ねて、それを何かの気晴らしにしたくなってしまうのだろうか。誰に頼まれたわけでもないのに、誰かがそんなこと語っているらしい。それは君に代わって語っているわけではない。誰が誰の代弁者でもなく、誰もがそこから外れたいだけで、限りなく逸脱して鬱陶しい現実を忘れたいのかもしれない。忘れられるわけがない。だがもうすでに忘れてしまっているそれは範疇に入らないのか。そんなことはとうの昔に忘れてしまったようだ。君が忘れようとしているのは、すでに忘れてしまったあの時の記憶か。別にそれの何が矛盾しているわけでもないだろう。君はまさにその時覚えていたそれを忘れたふりをしているだけか。そうだとしてもどうということはなく、これまで通り誰かが記した架空のフィクションの中に存在し続けるだろう。君はそう思いたいのだ。実際には何を思っているわけででもないが、作り話の中ではそういうことになっている。


10月1日

 相変わらずいい加減に言葉を記しているうちに、どうやらまた今月に入ってしまったようだ。しかしまだやる気があるかどうかははっきりしない。言葉を記していくうちに次第に君の存在が希薄になり、別に君が何を語っているわけでもないのに、文章上に記されている誰かが君とは違う君となり、君という言葉が指示する対象が他の誰かと入れ替わってしまうに思われるが、そんなのは嘘だろうか。どうも論理的にちゃんと考慮していないので、勘をたよりに適当に言葉を並べてしまうから、結果的に意味不明でわけのわからないことを述べてしまうらしい。だがそれもいつものことだろう。何を語ってもそうなってしまうのだから、それはそれでそういうこととして受け止めればいいだけか。要するに君は何も語っていないのだ。しかしそれの何が要するにということになるのだろう。だから何かをでたらめに述べているわけか。君にはその文章の内容が理解できない。それは当たり前だろうか。いったい何に関して述べているのだろう。わからないならそれでかまわず、実際に君はわかろうとしていないのではないか。いったい何がわかればいいのだろうか。それがわからなければ、わからなくてもかまわないはずか。何だかわざと言葉を堂々巡りさせているような気がするが、やはりそれでかまわないわけか。たぶんそういうことだ。無駄に言葉を連ねてそれで満足したいらしい。当面はそういうことでその場を取り繕うようだが、かなり馬鹿げているように思われ、そういう見え透いたごまかしから抜け出せず、誰かは自己嫌悪に陥ってしまうだろうか。

 たぶん冗談で済ますような気にはなれない。そんなふうに述べてしまうと何かが壊れているような気になるらしい。それは誰かの人格か。そんなものなどもとからありはしないか。フィクションの中ではそうだ。それも架空のフィクションか。フィクション自体が架空の物語なのだから、架空のフィクションなどあり得ないか。それともそれもまた何かの冗談なのか。しかしいったいそこで何に心を奪われているのか。さっきから何もやっていない。フィクションなのに何も物語れない。それはどういうことなのか。君はこの世界にとって用のない人物だ。何に関しても興味がない。どのような現象にも出来事にも無関心を装い、ただ厭世的に皮肉を並べて、それで何か気が利いたことを語ったような気になる。そんなのは嘘だろうか。今さら何を否定しても意味をなさず、別にそこで何も語らずに何かを得ようとは思わないが、何を語っても得られるものが何もないような気もしてきて、そろそろそこから退散したくなり、抜け出すタイミングを計りつつ、忙しなく辺りを見回しているようだ。そんなことが過去の記憶の中から不意によみがえってくるが、やはり話の途中が忘れられ、どのような経緯でそうなったかわからなくなっているらしい。たぶんそういうフィクションを語りたかったのではないだろうが、話になっていないのはいつものことで、まったく断片的にしか語られず、そこで何を語ろうとしていたのかはっきりしないまま、たぶんその辺で改行しようとしているのだろう。

 要するに今日はそういうことで何とかなるような気でいる。ともかく君が興味を抱いていることが、誰かにとって関心事になる機会は永久にやってこないだろう。君も誰かもそういう存在ではあり得ない。それらの文章上で彼らの物語が語られることはないというわけだ。たぶんそれは詐欺でも何でもなく、きっと言葉を記している誰かには空想できないことなのだろう。そこでも何かが壊れていて、集めている言葉に歯止めがかからなくなり、記している言葉など何でもよくなり、言葉の限られた組み合わせから文章を構成する気がなくなって、それらの意味などどうでもよくなり、それによってたとえ文と文が意味的につながらなくても、それでかまわないように思われてきて、その結果がそれらの説明を招いているのか。いったい誰かは何を説明しているのだろうか。たぶんそこでも無駄で余計な何かが作用しているはずで、それによってそんな説明がなされているのだろう。そして際限のない無駄話が延々と記され、君を困惑させる。そこにどのような意図も思惑も見出せずに、君は次第にどうでもいいような気分となり、読むのをためらい、次いで無関心を装い、さらにそれらの言葉の連なりを遠ざけるようになる。もうその時点でおしまいなのだ。勘弁してほしいか。できることならその辺でやめてもらいたいか。それらの物語でも何でもないような言葉の連なりから一刻も早く解放され、明日に備えて睡眠をとるべきか。だがそれが寄り道や回り道を形成して、そこに意識を誘い込もうとしている。なぜそこから逃れられないのか。