彼の声69

2008年

11月30日

 否応なく退屈な時が過ぎ去っていく。そんな歳月になす術もなく立ち尽くすだけか。ただ相変わらず述べていることの意味がわからない。それをわかろうとしていないのだ。くだらないことがわかってしまうのが怖いのか。わかったつもりになるのも気に入らないか。今日も地上には人がうごめいている。何か目的があって行動しているのだろうが、大半の人は今を生きるので精一杯のようだ。政治家たちは相変わらず方法論で対立していて、政策を実行に移せずにいるらしい。それをやったとしても大した変化は望めそうもない。現に諸外国では次々に経済対策を実行しているが、それはありふれたことであり、日本の政治家たちもそれに倣ってやってみればいいだけのことでしかない。不景気も時が経てばうやむやになってしまうだろう。要するに彼らがやろうとしていることについて、本気になれないだけのことだ。たぶん悲惨な低賃金労働で人間社会はかろうじて保っている。中にはそれを悲惨だとも思っていない人が大勢いるのだろうから、きっとそれは君の気のせいかも知れないが、世界的に同じような傾向なのではないか。しかし君にとってはそういう人たちに同情できない現状もある。実際月給二十万円ぐらいで職安に募集をかけると、十中八九はひどい人がやってくる。たぶん普通の会社は、やめてもらってもかまわない人から順に首を切っていて、やめてもらっては困る人は、よほどのことがない限り手放そうとしない。だから必然的に職安はひどい人たちのたまり場となる。そして職安頼みの中小企業にとっては、従業員がそういうひどい人たちばかりになると倒産してしまうので、ひどい人たちを使い捨てにしながら、十人に一人いるかいないかのまともな人がやってくるのをひたすら待つしかなく、要するに人材的には運次第というわけだ。たぶんやってくるひどい人たちを教育して、まともな人に再生するのは至難の業かもしれない。それだけの暇もゆとりも力もない。よくありがちなひどい人の典型としては、最初は神妙な面持ちで仕事に取り組む姿勢を見せるが、一通り作業を覚えたら、あとはやりたい放題勝手なことをしまくり、他の従業員との連携など考えずに自分だけの流儀をひたすら押し通して、たちまち雰囲気を嫌な職場環境に変貌させる。また単純作業だけ根気よくやろうとして、従業員が少ないので一人で様々な作業を同時並行でやってもらわないと困るのに、ただ一つの作業を一日がかりでやっているだけで、それが周りの人の足を引っ張っていることに気づかず、自分は自分で自分の責任の範囲内で立派に仕事をしていると思い込んでいるらしく、要するに自分が自分で仕事をやっていればそれでよく、そのおかげで会社全体がどうなろうと知ったことではないようなのだ。だから結局そういう人はやめてもらうより他になくなるのだが、そういう自己中心的な人の履歴書を見ると数ヶ月から数年ごとに職を変えていて、たぶんそうやって失業する度にどんどん頑な人間となってゆき、その結果どんどん使い物にならない人となり、おそらく最後は日雇いなどの低賃金で劣悪な職場を渡り歩くことになるのだろう。人は一人で生きていきたければ、どこかの山奥で自給自足の生活でもしていればいいのであって、社会の中で普通に暮らしていくためには、周りの人とコミュニケーションをとりながら連携して共同作業をしていかなければならない。それはそれで当たり前のことなのだろうが、やはり一方で人は思い通りの勝手なことをやっていたいわけで、社会の中でそういうことができる立場になるには、他の人たちを操る能力が必要となる。他人を説得して信用させて、金や人や物を集めて使いながらやっていかなければならない。そういうことに成功すれば、結果的に自らの思い通りに事が運んだとでも思うのかもしれず、そんなわけで好き勝手なことができるようになるためには、それ相応の運や才能や努力や戦略が必要となり、誰もがそういうことをできるわけではなく、大半の人たちはそういう好き勝手なことをやっているつもりの人の下で働かされるわけだ。だが好き勝手にやりたい人が本当に自らの思い通りにやっているわけでもなく、自分に金を出してくれた人や自分の下で働いてくれている人の意見も聞かなければやっていけないわけで、結果的にそれらの人との共同作業によってしか成し遂げられないことの方が圧倒的に多いはずだ。自分が好き勝手にやっていると思っても、それは他の人たちがいてはじめて成り立っていることであって、その人に関わりのある人たちのサポートが必要不可欠なのだから、実際には好き勝手に生きているように思わされているだけなのかもしれず、真の意味で好き勝手にやりたい放題というのはあり得ない。思い通りにいっていると思っている時でも、たまたま偶然の巡り合わせによってもたらされたその時の状況によって、そう思わされているだけの可能性もあり、要するにその人の意志とか思惑とか意図とかは、その人だけのものではない。それはその人を取り巻く周りの人の意志や思惑や意図との相互作用によって成り立っていることでしかなく、それらを抜きにして単独であるわけではない。その辺がわかっていないと、ただの身勝手な馬鹿だ、と周りの人間から蔑まれてしまうことになる。


11月29日

 まだ数日前の時空から抜けられない。だがこの期に及んであきらめるわけにはいかないらしく、さらに前進させなければならないようだ。それ以外に理由などありはせず、ただ言葉を連ねようとして実際にそうしている。非人称的な感性のとりとめのなさと、漠然としたこの世界の感覚に降参しているわけではない。間違っているかもしれないが、それも冗談の一部なのだろう。それが正しい認識なら何の救いになるというのか。誰がこの世界に救いを求めているのか。勘違いも甚だしく、救いを求めるなら末法思想にでも染まって、あの世にでも求めればいいことだ。君は誰かに救われるが面倒くさいのか。誰かが神であるとすれば、あるいは何か特定の宗派にでも属するのが耐えられないか。別にそうなってもかまわないだろうし、そういう成り行きなら黙って従うまでだ。今の君は神も世界の存在も信じていない。何も信じられぬなら地獄へ堕ちろ。不意の意味不明な言葉の出現に驚くが、誰かが言わんとしていることがわからない。何かのお告げでもあるまい。相変わらず冗談でそんなことを述べているようで、まったく本気になれないのもいつものことだ。人はあやふや記憶と感覚を保持しようとしている。そこから何か新しい概念を導き出そうとしているのではなく、以前と変わらぬ態度や同じことを繰り返そうとしているわけだ。何と何を融合させればその繰り返しを阻止できるのか。できもしないことをやろうとしているわけではない。できればそこから逃れたくなり、何もやらずに怠けようとする。何かを考えるのが億劫になる。誰かはそれらの怠惰に逆らって言葉を記そうとしているわけだ。容易なことではない。その証拠に近頃は何に言及することもできなくなっていて、ひたすら自分が記した文章について語るばかりだ。だからもう限界だと述べているではないか。なぜそれを聞き入れてやめようとしないのか。何かまだ述べなければならない対象でもあるのだろうか。まったく笑わせてくれるような話の展開になっていない。心にもないことを誰かは記そうとして、それが外部からの作用であるかのように語ろうとしているが、それが苦し紛れで述べていることは明白か。だからもう何でもかまわないだろう。もとからそうなのではないか。ならば昔と同じようなことを述べていればいい。現にそうしているはずだ。何を述べてもそうなってしまい、新たな言説の対象を導き出せずにいるらしい。しかしそれで何が困るのか。それらの言説は何に頼り切っているわけでもなく、何か真似るべき書物を読む機会もない。たぶんそれを一日一時間でも確保できれば、また違った言説的展開を期待できそうだが、それを見つけられないのだから仕方がなく、もはやこの世界の現時点ではそんなものは存在し得ないのかもしれない。少なくとも過去にはないように思われる。だから君が君自身で何かを構成しなければならないのか。現に誰かが記しているそれでは不満なのだろうか。たぶんそれは来るべき書物ではなく、ただの言説になるだろう。誰の期待をも裏切るような、素っ気ない言説なのかも知れない。何の幻想も抱かせない、心を改めて読む必要もない言説だ。そんなどうでもいいようなことを想像してみるが、もうこの世界には芸術のたぐいは必要ないのかもしれない。必要なのは娯楽の対象か。人を楽しませるためにある事物だ。あと思い浮かぶものは、人生をどう生きるべきかとか、どうすれば金を儲けられるとか、試験に合格できるかとかいうハウツーものか。そういうのは大げさな書物である必要ななく、ブログとかメールマガジンで足りているのではないか。しかしそれでは学問はどうなってしまったのか。学生や研究者がその手の専門書を読めばいい。芸術も学問の対象であり、そういう人たちがそれに関する論文でも書いて、その手の学会や講義で発表し合えばいいだろう。たぶん一般人とはあまり関係がなくなっているのではないか。今の世の中では目的が不明確なものは受け入れ難いようで、何やらわけがわからないが、何となく無目的で記しているようなことは無意味で、どのようにも受け取り難いことは確かで、それに関して何を述べることもできないのではないか。ただ芸術に関してなら、メディアが取り上げるような有名人が手がけたものなら、その名前目当ての見物人が美術館のたぐいに多数押し掛けてくるような気がするのだが、他に何があるだろう。とりあえず何でもかまわないから宣伝すれば話題となり、それにつられて人々の関心を呼ぶという仕掛けか。そう述べてしまえば何でもくだらないことのように思えてくるが、本当にそれ以外に何があるというのか。何かそこに目的のごときものが介在しているわけか。少なくとも君にはわからない。ではいったい何について記すべきなのか。冗談でそんなことを述べているだけでは物足りないか。たぶん今はそれでもかまわないのだろう。それが皮肉と受け取られてもかまわず、世の中のすべての事象を小馬鹿にしているような印象を与えても、それはそれでそういうことだ。それ以外に他意はないのではないか。そこにあるのは疑念だけだ。なぜあんなものに興味を抱かなければならないのか。あんなものとは日頃から見せつけられているすべての現象に他ならないのだが、いったいそれ以外に何があるというのか。


11月28日

 それの何が皮肉なのか。何をうそぶいているわけでもなく、強がってみせる理由が見当たらない。これで日付的には何日前なのか。何も思い出せずに、相変わらず妄想のただ中に意識がある。それから君はどうなったのか。近くで誰かが外国語をしゃべっているみたいだ。暇つぶしに音楽を聴いているが、それが本当の暇なのかどうか、誰かは疑念を抱いている。ただ考えるのが面倒くさいだけではないのか。本当に誰かは何を考えたいのか。何が考え尽くされているのだろうか。すでにこの世界がどうなっているかはわかっているつもりなのではないか。浅はかな認識なら持ち合わせている。どこの誰が自らの欲望に忠実だとして、そのような欲望は外部からもたらされたもので、要するに他人の欲望を自分の欲望だと思い込んでいるわけだ。それらはメディアによってもたらされた欲望に違いない。それを受け入れるか否かは、それを信じるかどうかにかかっていて、それらの欲望に魅入られた人々がどうなったかを見れば、自分がそれを受け入れるかどうか判断することができそうだ。たぶんそれもメディアが伝えていることだろう。自分の思い通りに事を運ぶには様々な力が必要だ。いろいろな試行錯誤を試みた結果を受け入れられれば、その時点で思い通りになったと思い込むか、あるいは失敗してあきらめてしまうかのいずれかになるだろう。むろん作り話の中にいる君にとってはどうでもいいことだ。誰かが記しつつある作り話の内容はそういう話になっていない。現状では話にさえなっていないのかもしれず、何を記しているかも定かでない。要するに君は話の中で何もやっていないのだ。何をやっていることにもならず、そういうふうに記されていない。ならば君は人が抱く欲望を何だと思っているのか。他にやることがないから欲望の虜となっているように振る舞うことで、結果的に暇つぶしとして作用しているわけか。しかしそれは誰の考えとして示されているのか。君は話の中では何も語らない。誰かが語らせないようだ。誰かは君という言葉を使いつつ話を進めながらも、それはただの問いかけの対象としか使わず、それ以外は得体の知れぬ意見が誰でもない誰かによって述べられているだけのようだ。それはどういうことなのだろう。ただの文章上の欠陥か何かか。そうとられてもかまわない。実際にそうなのかもしれず、それで何を語っていることにもならないことも承知しているのだろう。結果的にそれがどんな意見を構成しているとも思えない。ところでさっきまでの人の欲望がどうたらこうたらいう話はどうなってしまったのか。語っているうちにそれ以上語るのがくだらなく思えてしまったのかもしれない。確かにそんなことはどうでもいいことに違いない。だがいつもそうやって逸脱してしまっていることも事実なので、もう少し根気よくそういう問題に食らいついて、結果的にまともなことを述べているように見せかけなければならない。現状では誰かは何かまとまったことを述べようとして、果たせずに終わっているわけだから、まだ努力が足りないということか。この世界には何らかの構造があり、それは流動的で、絶えず構造を変形させながら、それによって人々を惑わしたり励ましたりしながら、何か主体的に考えたり行動したりしているように思わせ、それらの流動的な構造があることを信じ込ませている。それが世界そのものなのだろう。人が各人の役割を課せられながら、それらの構造の一部を構成していて、何かそこで一定の動作を伴っていることは確かなところだが、君はそこでどうしようとしているのか。この世界からはみ出ることが可能だろうか。逸脱していった先にも構造があり、知らないうちにそれに絡めとられているようでは気に入らないか。流れ者には流れ者特有の役割があるらしい。黒澤映画の用心棒のような役割がその典型だろうか。構造としての世界から何らかの役割があてがわれようと、それに逆らうことはできるだろう。要するに君はならず者になろうとしているわけか。しかしならず者にも世界からあてがわれた役割があるとしたらどうだろう。何かの役に立つことを拒否して、そうすることで得られた自由とひきかえにして絶望的な不幸を背負い込むことがならず者の役割だとしたら、君はそれを受け入れることができるだろうか。受け入れられなければどうするのか。世界に対して自らの敗北を認め、今後は心を入れ替えて、かたぎの人間として人並みの幸福を手に入れるべく努力していればいいわけか。それは何かの冗談か。それ以上は馬鹿馬鹿しくて語る気になれない。それを何らの役割だと見なせばそういう話になってしまうだけで、そこに世界としての構造があると見なせば、そこからその構造に含まれる一人一人に何らかの役割が想定されてしまうだけだ。それでも暇つぶしの話としてはおもしろい内容になっているだろうか。それを受け取る人によって異なるだろう。君は子供だましだと思っているかもしれない。誰が流れ者であろうとならず者であろうと、だからどうだというわけでもなく、そういう振る舞い方にロマンを感じているような輩は、そのてのフィクションでもドキュメンタリーにでも接して満足すればよく、それで満足できなければ自らが放浪者にでもなってこの世界をさまよい歩いていればいい。


11月27日

 あまりよく説明できないが、以前とは少し景色が違って見える。世の中が曲がっているということか。そんなふうに言葉にすれば嘘になる。目の前に降りてきたのは誰でもない。神が降臨するような場所ではない。神は便利な言葉だ。困った時の神頼みか。静かに見つめているそれは死人の目つきになる。死人に目つきはない。脳に刺激が少ないのだ。それでわけがわからないのか。何もできない理由になっていない。君がわかろうとしているのではない。何かと何かの執拗なせめぎ合いには飽きている。見え透いた嘘が連なっているようだが、それでも以前より少しは良くなっているのだろうか。苦し紛れに語っている内容が馬鹿げている。精神的な成長とはいかなるところから生じて、それがわかるのはいつになるのだろうか。誰の知ったことでもなく、君には興味のないことか。それでも空は晴れていて、何かのついでにそんな言葉が空回りしている。そういうことを述べるのはおかしい。その時の思いは誰のためにあるのでもない。さらに関係がないようだ。ならば何が明日を作っているのだろう。ここでは神ではない。語っているのは作り話をしている者だ。それでいいのだろうか。何だか拍子抜けの気配を感じさせる。ひどい仕事ならいくらでもあるらしい。では今は何に耐えているのか。語るのが無理だと思われる。いつでも無理に挑戦しているわけではない。今はいつものように言葉を記している。少し奇をてらっているのかもしれない。自己言及的に言葉を繰り出しているのだ。意識してそうなるような成り行きに持っていっている。かゆいのを我慢するのは体に悪そうだ。気持ち的にも耐えられないだろう。言葉がそこから前進できなくなる。これ以上語ると、もはや正気には戻れなくなる。それは大げさな言い回しだ。ならば他に何を説明すればいいのか。気が向いたらその時の状況を説明してもらおう。それが面倒ならあきらめてしまえばいい。もはや何を述べてもいいのであって、いくらそれでについて述べても無駄になる。やはりわけがわからないままの方がよさそうだ。何でもないというのはくだらないことか。そうであってないような気がしてくる。要するにどちらであってもかまわない。それでもまともなことを述べている気になれるか。そんなことは一夜明ければ忘れている。いつまでたってもできないことはできない。笑ってしまうが、その事実を認めなければならず、何か打開策を模索する必要に迫られている。きっと気のせいだろう。そう述べて何に逆らっているのか。いったい何をどうしたいのか。それがわからなければ今まで通りになるしかない。たぶん何がどうなっても、そこから感覚の摩耗が始まってしまう。どのような出来事に遭遇しても何も感じられなくなる。そして人はいつまでたっても暴力に訴える。思い通りにならないことの腹いせにやることは決まっている。世界のどこかで大雨と雹が降る。心は何に関心を示しているわけではない。金持ちは贅沢がしたい。地球上には億万長者が一千万人いるそうだ。世の中が不況だからこそ一般市民とは違う生活様式に染まりたい。テロリストは人をたくさん殺して自らの存在を世間に知らしめしたい。それは国家に対する挑戦か。そこにどのような利害関係があるのか。国家のやり方が気に入らないからそんなことをやっているのだろう。君にとっては面倒くさいことだ。誰にとってもそうかもしれない。中にはそういうことに加担したい変わり者もいるのだろうが、あまり夢のない話だ。もっと楽に生きられないものか。それができないからテロリストになって命がけの聖戦に参加しているのだろう。君はどうなのか。架空の存在だから、誰かがそういう作り話を構成してくれれば、架空のテロリストになることもできるが、面倒くさそうな話だ。いったい何のために戦わなければならないのか。何か魅力的な目的を設定してくれないか。にわかに思いつくはずがないか。思いつけなければその先は何も語れなくなる。そんな嘘をついても無駄か。しかしテロリストにならなければそういう人はどうなってしまうのだろう。英雄的な行為に及べないことを口惜しく思う日々を送るわけか。地方のしがない貧乏人として平凡な一生を送ることを余儀なくされて、絶望的な気分になるだろうか。意味のないいい加減な空想をしてもくだらないが、どうせ生きていてもつまらないから、テロリストにでもなって劇的な興奮でも味わってみたいと思うか。誰がそう思うのか。それも何かの作り話なのだろう。誰かがいい加減な話を記している。半ばやけくそ気味か。そんなふうにとられても仕方のない状況だ。とりあえず架空の話がどうであれ、君には目的がない。テロリストになってもつまらないか。他人を殺していずれは自分も殺されるだけだ。生き残る可能性は一般人より少ないだろう。殺して殺されるまでの間に何を想うだろうか。攻撃対象の国家に憎悪の念をたぎらせているわけか。その極端な憎しみの感情が人殺しを何とも思わないようにさせていて、自らを殺人機械に作り上げているわけか。それともテロ組織に洗脳されていて、純粋にこの世界にとって良い行いをしているつもりになっているのだろうか。たぶんそれも誰かの作り話なのだろう。それらの想像に説得力があるとは思えず、ただの戯れ言のたぐいなのかもしれない。


11月26日

 まだその辺で粘っているらしい。なぜ必死で眠気をこらえているのか。意味のない行為だ。たぶん君の仕事は眠ることにある。睡眠の中に夢があり、夢のお告げを聞くことにある。また冗談でそんなことを述べているようだ。花の魅力はそんなところにはない。わけがわからない記述だ。どこかで何かが狂っているのだろう。何かから解放されているのだ。誰かの勘に狂いはない。それが何に対する反論なのかわからない。何かの具体性を導き出そうとしている。散文なら何でもありなのか。そこで何と何が関わっているとも思えない。何かに対するアンチテーゼであるわけでもなく、そんなことしか述べられないのだ。深く刻まれた額のしわが何を物語っているわけでもないのと同じように、成り行きまかせでもないのに記された言葉にどんな意図が刻み込まれているわけでもない。わかっているわけでもないことをひたすら述べている。理解できないことを記している。だからただのでたらめだろう。わかりきっているのはそういうことだ。しかしそれに意味はない。ならばまた酒とバラの日々だ。そんな曲を聴いている。軽いノリで深刻な事態を乗り切ろうとしているのか。何が深刻なのだろう。深く刻まれているのは誰かの額のしわか。酒とバラの日々はどうなったのか。暇つぶしに食いつくような内容ではない。そんなことを考えている場合なのだろうか。どんな具合になっているのだろうか。たぶんそうではないのだろう。そうではないと思いたいだけだ。そのとき何を想っていたのか忘れている。過去はそこから滑り落ちる。思い出の中で出来事でなくなってしまい、ありもしない架空の話を伴って、物語の一部となるのだろう。だから君は過去を懐かしんでいるのだ。理由がわからないか。別に理由など何もなく、ただそう思われるだけだ。そしてそのような惨状を見るに見かねて誰かがつぶやく。君はそのつぶやきの内容を知りたくなるが、誰かはそれを思いつけないのだ。顔がかゆくなる。誰の代わりでもありはしない。くだらぬこととして忘れ去るわけにはいかず、絶えず思い出していなければならない。君はそこで何かを導き出そうとしているようだ。言葉を記すのは作業の一部なのか。他に何を課せられているとも思えない。それらの作業は何を物語っているのだろう。何かがあり得ない方向性を示している。そんなのは嘘だろう。嘘だからこそそんなことを気軽に述べているわけだ。別にネタばらしをしているわけではない。何らかの因果律が働いていて、それに則って述べているわけだ。それが意味のないことなのだろうか。少なくとも何かの役に立つとは思えない。役に立とうとしているわけではないのだから、意味不明なままでかまわないのではないか。そして君に何を問うているわけではない。問われているのは誰かの姿勢か。近頃は批判することを忘れている。それはそれでかまわないのだろうが、このままでは何となく記されるあからさまな無内容に誰かの精神が耐えられないのではないか。そんな心配は杞憂だろう。だからこれ以上無意味なことを述べるなら、本当に気が狂ってしまえばいいということか。何をどうとらえても、最終的にはそうなってしまうだろう。確かに作り話の中ではそういう成り行きもありそうだが、実際にはどうなのだろう。そこから立ち直る兆しでも予感させる何かがあるわけか。君には知り得ないことだ。まだその先を記していない段階で何を推測しても信憑性はない。癖というものは直す気がなければいつまでも続くものだ。知らないうちに慢性化していて、ほとんど習慣と化している場合がほとんどだ。しかしそれを知ってしまったからといってどうなるものでもあるまい。今まで通りにストレスが加えられ、何かの病状が悪化したり小康状態を保ったりするだけだ。君はこれからもそういう成り行きを体験し続けるのだろう。そしていつの日かそれらの牢獄から解き放たれた時に自らの死を一瞬体験するわけだ。それが君の正真正銘の終わりだ。今はひたすら先延ばししようとしているが、いずれは結果がもたらされるだろう。それはたぶん誰のもとにももたらされる同じような結果なのだろう。今の君がひたすら避けて通ろうとしているのも、そうなるのが怖いからで、なるべくその場所を見ないようにしながら、迂回に迂回を重ねているわけだ。しかし本当にそれでいいのか。本当はそれらの真実を直視すべきではないのか。何を冗談に逃げているのか。そこから逃げざるを得ないのは精神的な弱さの顕われか。仮にそうであってもかまわない。君には精神など無効だ。どんな作用も及ぼさないほどのとるに足らない概念だ。何を強がっているのだろう。ただわけがわからないことを述べているのはいつもの通りだろうが、そこから無意識は何を導き出そうとしているのか。それが嘘ではあり得ない。言葉の連なりは今でも君を裏切り続け、君の思い通りには連ならないばかりか、必ず眠気を伴いながら遅れてくる。日付的に過去の文章となってしまうわけで、それはそれで当たり前のことなのだが、君はそれでも今にこだわり、常に過去の日付との間に生じるずれに苦しみ、思い悩み、誰かは言葉を記すのをあきらめようとしてしまうのだが、なぜかいつも切羽詰まったところで思いとどまり、気がつけば無理を繰り返している。


11月25日

 ついうとうとしてしまった。無意識に言葉を記そうとするが、誰かは画面上に何を塗っているのだろう。透明の液体が階段上を滴り落ちる。気休めに過ぎないことに気づき、それをやめて、代わりに夢を抱きたくなるが、だいぶ怠けてしまったらしく、取り返しが利くとは到底思えないような遅れを認識する。わかっているのなら、さっさとやってしまえばいい。できなければそこで終わりだ。君は何をつぶやいているのか。どんなに言葉が遅れてこようと君の知ったことではない。それでもまったく継続をあきらめてしまったわけではない。まだそれをやり直せると思っている。いくら述べてもたかが知れているはずで、まだそこまで述べていないことも知っている。途中で言葉を記すことを放棄して、いい加減に眠ってしまったのだ。だから誰かの知り得る範囲内でなら、君への回帰は当分ないだろう。しかし数日前にはどこで何をやっていたのだろう。君は確実にどこかへ行っていた。君が思いもしないところでは、誰かが信念を曲げて現実路線に転換している。どこかの場所で空を見上げたついでに、人と人との連携の必要性について誰かが説いている。おかしな文と文の接続だ。そのとき誰かは言葉を記しながら何に気づいたのか。もう少しの辛抱なのに、なぜそこから遠ざかるのか。描写力が足りないらしい。薬とは何だろう。言葉の病を治すためにどんな薬を使うつもりなのか。また腕と腿がかゆくなる。それとこれとは関係なく、相変わらずわかったようなわからないようないいわけを述べているようだが、それは誰かの哀しい物語だろうか。何がどうなってそうなってしまうのか。その成り行きを捕捉できずにいる。もう何でもかまわないのだろう。いつものようにそれを君が述べているのではない。別に誰が絵を描いているわけではなく、言葉を記しているつもりだろうが、わざと描かれた背景をずらして画用紙を切り取る。意味がわからなくなり、必要もないのに大げさに驚いてみせる。切り取るべき未来を間違えている。それは何かの冗談だろうが、では他に何を認めるべきなのか。認識の違いから何がもたらせるのだろう。君にはない視点で物事を考えられる。誰かがそんな嘘を鵜呑みにする。あくびを繰り返せば嫌なことを忘れられるわけではないが、何となく笑みが絶えない。何か楽しいことでもあったのだろうか。そこで誰が笑っているわけでもない。君以外は誰もが笑っているように見えるが、笑えるような状況ではない。自らの破滅を前にして背中がかゆくなる。嘘をつくのもいい加減にしてほしいか。何も思いつかないことにいらだっている。それも嘘の続きかもしれない。しかしどんな話題に興味があるわけでもなく、何について語りたいのでもない。ならばそこで終わりだ。本当に終わってしまったら、すばらしい未来が待ち受けているような気がするが、終わらせないためにはひたすら言葉を並べ続ければいい。そうすれば不幸になれるか。誰かは冗談でそんなことを述べている。生きている時間は限られている。寝ている時間もそうだ。不死身の空間では同じような時間がひたすら繰り返される。何もわからないということか。どうにも出せない。何を出そうとしていたのか。試行錯誤の末に、それを台無しにするようなでたらめを導き出す。またしても眠ってしまったようだ。いつものように疲れているのだろう。出せない答えを出そうとしているからそうなってしまうのだ。まともなことは何も問いかけていないのに、いきなり答えを求めている。たぶんそれが何だかわからないのだろう。わかるはずのないことをわかろうとしている。それは何だろう。要するにそれが知りたいわけだが、知り得ないのは当然のことだろうか。それとは何か。何でもないからそれなのではないか。そうとしか思えないようなことを述べている。その証拠にさっきからひたすら無内容だ。無内容のついでに何を示せばいいのか。何も示せなければどうするのか。とりあえず現状はこうなっているわけだ。言葉の病が言葉で示されている。そう思ってもらって差し支えないのはどういうことなのか。それは単なる思い込みではないか。心穏やかでなく、さっきからだいぶ気が散っている。戯れ言の連発に怒りが爆発するかもしれないが、笑って許してもらえないようだ。しかしそれで誰に許しを請うているわけでもない。日々何かの治療法が進化しているように思われ、それを利用してその先に言葉を連ねようとするが、たぶん文章的におかしい。何を述べているのかわからない。述べている対象がそれ自身なのだ。それ自身のそれとはそれのことであり、それはどこまでもそれでしかなく、延々と何もない状態が続いてしまうような、そんな様相を呈している。これが笑わずにいられるだろうか。もはやできないものはできないことを認めるべきだ。認めたからといって何がどうなるわけでもない。君の至らなさが行間から浮き出てくるだけだ。過ぎた冗談は冗談ではない。笑えるはずがなく、答えられないはずもない。何かに答えるという行為そのものが冗談につながってしまう。それを真に受けるべきではないのだろう。だから君にはまだその先があると思って差し支えないのだろうし、現にその先に誰かが言葉を記そうとしているのではないか。現状がそれなのであって、過去にも確認したことだが、猫に名がないのと同じように、彼にも君にも特定の固有名が宿っていない。それが長所となる。


11月24日

 なぜか様々なことを経験しつつ、気がつけば夜になっている。今は苦し紛れに何を述べているとも思えない。唐突に発せられる問いかけの内容が漠然としているが、疑念が生じているわけではない。それでも人はこの世界の中で何を求めているのか。世の中がどうなってほしいのだろう。思い通りになるとはどういうことなのか。そこから何が生じるのだろうか。利益とは何なのか。感動をもたらすような事象を知りたくなってくる。何もかもがはっきりしないようだ。問いかける対象を見出せない。腕がかゆい。言葉の羅列を記す作業に迷いが生じる。ここに何がもたらされているとも思えない。人が何のために生きているのでもないことは承知している。ならば最後の審判など行われない。世界は人が裁かれる理由を知らぬ。たとえ映画上で英雄や豪傑が殺し合いを演じようと、それがどうしたわけでもない。そこに価値を見出せない。人は仕事をしているだけで、それによって生活の糧を得ている。別に大金をせしめて遊んで暮らせる身分になることを夢見ているわけではない。それは悲惨な境遇でも幸せな境遇でもなさそうだ。それだけならどうということはなく、ただ日々仕事をしている。何がどうなっているわけでもなく、仕事をしているわけだ。しかしそれ以外の時間は暇つぶしの娯楽に興じているわけではない。たぶん君は何か考えているのだろう。金儲けの手段とかそういうことではなく、もっととりとめもないことを考えているはずだ。本当にこの世界には何もないのだろうか。いったい何があれば満足するのか。何も思いつかず、思い当たることもない。では何が不満なのだろう。心当たりはない。この世界はこの世界であり、別の世界ではない。ただこの世界の中に存在しているだけだ。そしてもう何もありはしない。思いがけぬ驚きがもたらされないことが不満なのか。人が求めているのはその程度のことか。後は幸せになったり、思い通りに事が運んだりすれば、それ満足なのだろうか。誰かはそのような至福の瞬間から遠ざかっている。そういう境遇に身を置いているのが、誰かでなくてもかまわないのではないか。誰でもなければそうなってしまうのだろう。何をどう語っても嘘になりそうだ。それがつまらない原因だろうか。いきなりわけがわからない。その辺で逸脱しているような気がする。何を語りたかったのか忘れてしまったらしい。そこで誰かの習性がわかってくる。ただいい加減に述べているだけだろう。それでも何となく不可能を追求しているように思われ、世間の常識に精一杯逆らっているのだろう。世の中で通用している価値観をすぐに否定してみせる。それは馬鹿げた強がりや痩せ我慢だろうか。なぜそれを素直に求めようとしないのか。ただのひねくれ者なのだろうか。どうも実感を伴っていないような気がしてくる。要するに文章上ではそんなことを述べているが、実際はそうでもなく、人並みに幸せになることを夢見ているのではないか。だが架空の人格にそれが可能だろうか。何が架空なのか。話の中ではそういうことになっているのだろう。言葉を記している者がそういう認識を持ち合わせている。そしてそういう世間的な紋切り型よりも信じていることがあるらしい。人はたいていの場合、その場の成り行きまかせに動いている。世間の紋切り型よりも偶然の巡り会わせに従うことの方が多い。少なくとも誰かの場合はそうだ。思い通りとかそういうことではなく、結果として思い通りになるならないに関わらず、常に成り行きまかせになる。たまに偶然に巡ってきた機会を捉えて積極的に動くこともあるが、それも偶然の巡り合わせなのであって、成り行きまかせの範疇だと思われる。そんなわけで誰かは自らが積極的になれる機会の到来を待ち続ける。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、自然の成り行きでそうなってしまうわけだ。だから計画性がまるで身に付かず、勘に頼って失敗を繰り返しているわけか。そういうこともなきにしもあらずだろうが、失敗すること自体が未来への可能性を示していると思い込み、常に変化し続けるには常に失敗し続けることが必要なのかもしれず、いったん何かに成功してしまうと、今度はそういうやり方の繰り返しとなってしまい、後は変化のない退屈な日々を過ごすだけとなり、そこで成長が止まってしまうだろう。しかし誰かは何を目指して成長し続けようとしているのか。変化するためには何かいいわけが必要なのだろうか。目的や目標はそれに向かってやり続けるためのいいわけだ。それがなければいいわけも要らず、目標や目的を設定する必要もなくなるだろう。要するにそれはでたらめでいいということか。そう思うならそう思っていてかまわないが、現状を考えれば、それだけではないような気もしてくるのであり、たぶんそれは目標や目的のために行動するだけではなく、自然の成り行きに合わせて行動していることが多いということだ。何かそう行動しなければうまくいかなくなってしまうことが多く、自分の感情を押し通して、あくまでも初志貫徹のごときやり方を貫くと、どこかで必ず摩擦や軋轢が生じて、それ以降がどうにもならなくなり、結果的に取り返しのつかぬ過ちを犯していることになる。だから今までにそういう失敗を繰り返してきた経験があるから、自分を抑えるべき時は抑えて、自然の成り行きに従うようになってきたのだろう。


11月23日

 打開策は何もない。他の誰かにやってもらえばいい。未だに過去の時空で何か適当なことを述べようとしているが、相変わらずまともな内容に至らない。まだ何も語らずにいる。何も思いつかないからそういうことになりそうだ。だからやめてしまえばいいのに、やめない理由などない。その代わりに待っているのは、酒を飲んでゴルフをやり放題ということらしい。そんな誰かの夢が叶うはずもなく、君は誰でもないのだから、これから何をやりにいくわけでもない。情けないか。そういうことではない。ならば人はこの世界で何をやりたいのか。君は何もやりたくない。何もやっていないのに飽きている。やる気がしないのはいつものことで、やりたいことは他人事か。意味がわからないが、もはや話すことなど何もありはしない。では何をひらめいたのか。君は誰かの物語を思い出せない。思い出そうとしていないのではないか。思い出す必要がないと思っていて、思い出そうとしても思い出せないとも思っている。では君は何を思い出そうとしているのか。誰かがそんなことを記している。思い出すべき物語などもとからなかったのではないか。そうだとしてもそれは何でもないことだ。ただ言葉を記していれば、それがすべてなのだ。すべてでなければどうだというのか。嵐を引き寄せているわけではない。それは意味不明だ。どうやらそれらの文章とは関わりのない言葉を思いついたらしいが、謎解きばかりではつまらない。解けない謎に魅力を感じているのではないか。そんなのは嘘だ。しかしなぜクイズはつまらないのか。すぐに答えが出てしまうのがくだらない。思わせぶりなのも面倒くさく、ためになるような気にさせられてしまうのも嫌な感じがする。実際は暇つぶしでしかない。しかしそこでクレームを付けているのは誰だろう。なかなか眠気が覚めないようで、焦点の定まらぬまなざしというのがあるとは思えないが、何となく何を見ているのでもないような気がしてくる。疑念を感じていることの大半は言いがかりに過ぎず、何でもないことなのかもしれない。実際にこの世界は何でもないことで満ちあふれている。感動しなければならないことなんて何もない。たぶん何かと何かを短絡させなければ感動など導き出せないだろうが、それでもすべては偶然の巡り合わせであり、そうなるのは必然の成り行きなのだ。君はさらにくだらないことを述べようとしている。真剣に語るような内容ではない。だがそれがわかりかけているのにわからないのはどういうことなのか。何をわかろうとしているのかわからない。怠惰な心はすぐに考えるのをやめて、いい加減に言葉を連ねようとしてしまう。たぶん何かをやるには論理的な飛躍が欠かせないのだ。考えているだけでは実践が伴わず、考えるのをやめた時、身体はわけがわからない行動に駆り立てられ、突飛な動作を伴いながら、やむにやまれぬことをやってしまうらしい。それがテロであれ何であれ、人間の本質的な衝動を物語っているわけか。馬鹿げた結論だ。誰かは本気で何を考えているのだろう。熟慮の末に逢着した言葉ではないが、たぶん君は何かを思い出すだろう。いずれはわかってしまうことだ。それでもすべてが無駄だとは思わないが、それ以前に何に対して有効な言説というものが存在しているのか。それを誰が知りたいのか。それとは無関係に誰かはつまらないことを述べているようで、何に対する返答を期待しているわけではない。何かを怠っているらしく、君にとっては考えられない事態が到来しているらしく、その信じられない光景を目の前にして、唖然とするしかなさそうだ。要するにまだそんなことを述べているわけだ。何かの途中でそこから離れる。急に関心を持てなくなってしまい、その場立ち去る。関心を持てなくなった理由などわかりきったことだろう。飽きてしまったのだ。だが他にやることがない。仕事以外に何があるのだろう。また嘘をついている。この世界にはすべてがある。それは当たり前のことであり、すべてがあるから世界なのである。確かにすべてがあるが、そのほとんどは君とは関わり合いのない物事だ。世界のすべてと関わり合いがあるのは神だけか。神話の中ではそうだ。神話以外でならどうだろう。世界のすべてと関わりがなければ神でなくなってしまうか。全能の神と称しているならそうだろう。全能でなければ神ではないのか。死んでしまったら神ではなくなるか。神が死んだらどうなるのか。クルクルパーになってしまうか。それは神ではなく総理大臣のことか。総理大臣なら死ぬ前からクルクルパーだ。どうやら誰かは苦し紛れの冗談を述べているようだ。そして言葉では何ももたらせないことに腹を立てている。それは何かの嘘に違いない。わざと間違ったことを記している。その場の雰囲気にのまれているのか。誰もそんなことは思わないだろう。まだその続きがありそうで、話になっていないのにその続きを記そうとしているが、たぶんわけがわからない。どうやらその先には空虚しかないらしく、いくらでも言葉を連ねられる反面、それらはすべて無内容になってしまうだろう。これからはそういう結果を前提として、さらに言葉を連ねていく覚悟が必要か。またわけがわからない嘘をついているようだが、それは言葉を記した結果から考えれば何とでも言えることか。


11月22日

 それの何がクールなのか。言葉と音が何かのふりをしている。誰かがどこかで熱病にうなされているのかもしれないが、少なくとも君はどこかの国の総理大臣のようなクルクルパーではない。たぶんこの世界は未曾有の危機に直面しているわけではないのだろう。確かにそうでないにしても、また今月もかなり遅れてしまったようだ。ひたすら無理なことをやろうとしているからそうなってしまうのか。無理は長続きしないようで、実際にはさらに怠けようとしている。それが虚構であることを願いつつ、冗談にもならないことを述べている。なぜ実際にやっていることが虚構なのか。意識がそこから逸脱してしまうのだろう。そして今日も愚にもつかない言動にかかりきりだ。誰かはあきらめて哀しげな曲を聴いている。虚無が偶然にその時間帯を占有しているだけだ。だがそれも数日前のことでしかなく、言葉が今の時間帯へたどり着けずにいるらしい。それを記すのが遅れている。ただそれだけのことなのに、それを克服できずにいるようだ。それとは何だろう。もとから愚問に答えなどあるはずもなく、言葉の病が自然に治癒するのを待たなければならないようで、まともなことを述べるには時間が必要だ。それはどれほどの時間というわけではなく、たぶんいつか何とかなるだろう、という現時点では望み薄の期待だ。実際に何ともならない現状が期待を裏切っている。いったい何がどうなればいいのだろう。相変わらず自らが何を述べているのかわからず、不安を隠せないようだが、ここに至ってなお強がってみせようする。そういう正確なのだから仕方がない。そしてかなりの間抜けなのに、自らの何を誇示したいのか。これ見よがしにする指摘がことごく外れていて、それらの的外れな主張を読む度に笑ってしまうが、この場合、謙虚さや奥ゆかしさという言葉は、どういう時に使えばいいのか皆目見当がつかない。いった君は誰のことを述べているのか。誰を馬鹿にしているわけではないはずなのに、何となく自らが馬鹿にされているような気がするらしく、それを気にするあまり、彼はいらだち焦り、自ら墓穴を掘っていることに気づかない。自意識過剰であることは確かだが、それを避けて通ることがなかなかできない。それが原因でいくら痛い目に遭おうとも、なおのこと自意識過剰になる。自分だけがすべてなのであり、自らが特別な存在だと思っている。痛い目に遭ったのは、自分が他人から嫉妬されていて、嫌がらせを受けていることの証しだと思い込み、さらに被害妄想を膨らませて、身に降りかかる幾多の苦難に耐え続ける悲劇の主人公を演じようとする。しかしそんな話をどこでねつ造しているのか。調子に乗って君はさらにくだらないことを述べようとしている。すべては架空の話だろうが、必ずしも身に覚えのないことではなさそうだ。それどころか誰もが通過しなければならない精神状態かもしれない。当たり前のことかもしれないが、自分にとって自分は特別な存在なのだろう。普通はそうだ。そういう認識から抜け出るのは難しい。自意識過剰な人にその人がただのありふれた人間だと認めさせるのは至難の業か。ありふれた人にも何かその人独自の特別な能力が宿っているのだろうか。その人はそう思い込みたいのだろうから、それは認めてやってもいいのではないか。ただその特別な能力が日々の日常の中では活かされていないということか。何となくそういう思い込みがありふれているような気もするのだが、ではその特別な能力はどこで発揮されなければならないのだろう。フィクションの中でか。それもありふれた話になる。だがありふれた話では感動できないというわけではないはずだ。たぶん君は話に感動したいのではなく、感動的な話を記したいのでもない。では他人が感動するような話を馬鹿にしたいのか。図星とは言わないまでも、それに近い感覚でありふれた人たちをおちょくりたいのかもしれない。しかし君のありふれた人の中の一人だ。そんなことを述べていること自体がありふれている。だがそれを記しているのは君ではない。嘘かもしれないが、嘘であってもかまわないが、たぶん君ではない誰かがそれらの言葉を記していることになっていて、そういう嘘もありふれたことか。しかし別にそう述べることによって、世の中の常識に挑戦しているわけでもないはずだ。ただ意図がわからない。どのような思惑が働いているのか。無理にそう述べているだけだ。だからそういう無理が続かないから遅れてしまう。それで何に逆らっていることにもならないはずだ。ひねくれているわけでもなく、至って普通なのだ。何を強がっているのでもない。何ももたらせずに途方に暮れているわけでもない。誰もが遠く離れた場所からここへ戻ってこようとしているのか。こことはどこなのか。今誰もが暮らしているこの世界のことだ。ならばすでに戻ってきているのではないか。それどころか戻って来るまでもなく、もとからここにいたはずだ。ここにいたはずなのに、心は妄想の虜となっていた。ここではない思い込みの世界に勝手に入ってゆき、そこで暮らしているつもりになっていたはずだ。好き勝手に振る舞いたいだけなのに、格好をつけて善人ぶったり悪人ぶったりしながら、自らがありふれた人間でないことを主張していたはずだ。


11月21日

 何となく笑ってしまうが、はじめから破綻しているらしい。話になっていないようだ。思いつくままに言葉を並べてみるが、まったくのでたらめだ。たぶんそんな状態で何かを語るのは無理だろう。ではどうするのか。その疲れた目は何を見ているのだろう。夕焼け空ではなさそうだ。まなざしが向かう先には曖昧な空間があり、決してありのままではない光景を想像する。いつものようにわけがわからなくなってくるが、それがどうしたのか。誰かの顔が暗闇の中に消え失せ、そんなことを思う間もなく忘れ、気づかぬうちに眠ってしまう。それは昨日ことだった。そういうことにしておいて、目覚めたらいつもの翌朝で、やはり文字を記すことにこだわれない意識に気づく。いつかの記憶が何かを呼び覚まそうとするが、そういうことではないらしい。積極的に何かを語る気がしない。ただやる気がしないのだ。だがそれが気に入らない状況ではない。やる気がしない分、暇な時間が増える。何もやらないことで、無意識のうちに気晴らしを求めているのだろう。それは考えられるようなことではないが、かえってやる気がしないのは楽しいことだ。何もしないでいると、下手な強がりを蹴散らして、沈黙がのしかかってくるが、気にしているわけではない。ただ言葉を記すのが億劫になる。語るのが面倒くさくてたまらない。そうしているうちにも夜になってしまい、ぼやぼやしていると明日になってしまうだろう。たぶん明日の昼は仕事をしているはずだ。そんなわけで言葉を記すことが気休めになるはずがなく、ただ時が経つのを静観できないだけだろう。それが気に入らないから何かを述べようとする。文句をつけたいわけだ。それらは際限を知らぬ無駄であり、無駄な言語空間が果てしなく広がっている。架空の話だろうが、現状ではそれが当たり前のことなのだろう。そう思い込んでいるのだから仕方がない。それほどまでにやる気がしないなら、また苦いコーヒーでも飲んでみたらどうか。そうする理由がわからない。やめるべきところをコーヒーでごまかそうとしているだけか。もっと物事を簡単に考えるべきだ。実際に切羽詰まっているのだろうが、コーヒーを飲んでも何も語れないか。その代わりにくだらないことを述べているではないか。そんな精神状態で終わりを求めるのは酷というものだ。本当に死んでしまうのではないか。その代わりに意味不明でわけがわからないことを述べている。今はそういうことにしておこう。降り続く雨が君を悩ませているわけではない。それほどの雨でもないだろう。別にこの世界から遠ざかるために言葉を記しているわけではなく、ただ椅子に座って画面を見ながらそれをやっているだけだ。要するにずれたことを述べているようで、今度はそれが気に入らないので、見慣れた風景を繰り返し眺める。そこで何かが破綻していないか。気づくはずもないが、心ならまだここにあり、何か適当なことを思っているのではないか。そしてようやくここまでやってきた。むろん記しているのは誰が傷つくような内容ではない。自然の成り行きで、そういうことを述べているつもりになっている。何か画期的なことをひらめくような状況ではなさそうだが、何とか意味不明を利用しながらかろうじて言葉を連ねている。しかしこんな現状がいつまで続くのか。いつまでも続けられる自信はないが、君には関係のないことだろう。何かの足しになるような情報にありつけず、語るのをあきらめかけているようだが、笑っている場合ではない。まだその続きがあるはずだ。たぶんそういうことなのだ。言葉の迷路から簡単に抜け出るわけにはいかないのだ。人はなぜそんなことを思うのだろう。そこに目的があるなんて信じられない。制度が架空の目的を求めているだけだろう。それが呪いに結びくなんて笑止千万かもしれないが、実際に偶然の巡り合わせからそういうことになってしまうのだから、ゴミとして片付けるわけにはいかなくなる。時間の経過では解決できないこともありそうだ。人がどこまでも愚かになれることは、それらの犯罪によって容易に証明できそうだが、なぜ賢く振る舞うことができないのかといえば、そこに理由などありはせず、別に罠が張り巡らされているわけでもなく、ただ感情の赴くままに意地を張り通せば、自ずからそういう成り行きにはまってしまうのだろう。君にはそういう結末しか残されていなかった。まだ制度的には決着がついていないようだが、そんなことはこの際どうでもよく、それを実行してしまった時点で、君の望みの大半は叶えられてしまったも同然なのだから、今はそれで満足すべきなのだ。後は付け足しのようなもので、これから何が起ころうとも、そんなのは退屈な儀式の一部でしかない。君は黙ってそれらの制度が機能している事実を確認すればそれで済んでしまうだろう。たとえその身がどうなろうと、もはや君の知ったことではない。そのとき賽を振ったのは君自身であり、結果として出た目が君の運命だったのだ。賽を振ってから何か適当な目が出るまでの一瞬が君の人生のすべてを物語っていて、その一瞬にすべてを賭けたのだから、それはそれで潔い選択であり、何の後悔もないはずだ。後から何を悔やんでも後の祭りには違いなく、もう一通りの話は済んでしまったのだから、後は本当の永眠がやってくるまで暇つぶしでもやっていればいいのかもしれない。


11月20日

 何を思いついたのか知らないが、答えが出ているのにわざわざ遠回りすることもないだろう。しかし目的は遠回りすることにあり、答えを出すために遠回りしているのではない。それは気まぐれに思いついた仮の目的だ。単なる暇つぶしが目的ではないのか。そんなわけで遠回りしている。手持ち無沙汰なのはわかるが、何もそこまで遠回りすることはないだろう。そんな怠惰のとばっちりを受けるのはどの方面なのか。誰が怠けているわけではない。言葉を記しているのだ。ならばそれは何の話の断片になるだろうか。もとの話がなく、パズルを合わせるように、それらの断片をつなぎ合わせても話にならない。では彼はそこで何をやろうとしていたのか。誰かが彼という言葉を記していたらしい。そして何もできずに途方に暮れて、今は暇つぶしに歌謡曲を聴いている。それはすぐにジャズに変わるだろう。また少し間を置くと、その時の彼は音楽に飽きているので、苦いだけのコーヒーを飲んでいる。豆が賞味期限切れであり、新しい袋を開けてみる。誰かの作り話には違いないが、それとこれとは関係のないことだ。それでも君の心の中で何かと何かが融合しつつあり、その何かについて語ることができるようで、文章のそれについて中で語っているようだが、結局それは嘘になるだろう。語っている内容が記されない。言葉と言葉が意味の通るようにつながらず、言葉遊びのゲームに興じていような気になってくる。それらの戯れはただの支離滅裂なのかもしれないが、何となく適当に嘘をつきながらも、成り行きとしてはそんなことを述べている。ひたすらそんな作業をこなしている割には、まだ何も確立できていないようだが、それらを司る理論とは何なのか。唐突にそんな言葉が出現する意味がわからないが、とにかく実践を有効に活用するためには何らかの理論が必要だ。また苦し紛れにでたらめを唱え、不具合の不連続をごまかそうとするが、手詰まりなのが見え透いていて、ひたすらくだらないことを述べているように感じられる。少なくともそれは呪文ではなさそうで、気休めにありもしない方角を指差している。東西南北前後左右上下の範囲から逸脱したいらしい。単純で馬鹿げた妄想にとらわれているようだが、それは君が思っていることではない。それの何がしてやったりなのだろう。たぶん何らかの認識へとたどり着こうとしているのだろうが、言葉足らずの感を拭えない。それを克服するにはどうしたらいいのだろうか。試しに来年は手帳を携えて行動してみよう。何を書き留めるでもなく、持っていれば何となく至福の感覚を空想できる。だがそれはいつもの意味不明だ。そういう緊張感がいつまで持続するのか。言葉と意識が均衡を保てなくなり、さっきからしきりによそ見しながら何かを観察している。そこに何もなければ、当たり前のことを当たり前のことと思うしかなく、誰かの意識はさらなる意味不明に遭遇しているようだが、何か他に思いついたことでもあるのか。己の勘を信じきれていないらしい。君の思惑が文章に反映されていないらしく、何をどうしようとしていたのかわからなくなってしまったようだが、未知の時空においてはまだその先に言葉が連なっているのだろうか。そうなることが君の望みなのか知らず、それが君次第だとは思えないが、他に何を想っているわけでもない。架空の話の中で興味を抱かせるような事件と遭遇しているとも思えず、たとえ何かが起こっていたとしても、それが偶然の巡り合わせでないことを示す証拠などありはせず、それとは違う何かを悟る瞬間を思い描きつつ、自らの内に何を待っているわけでもないことを知る。胡散臭い物言いに終始しているようだ。以前とは語調の体質が変わってしまったのだろう。だがそれでかまわない。君たちは何をやることによって生き残ろうとしているのか。忘却の彼方から何がやってきたのでもなく、現実のただ中にそう述べてしまう意識があるらしい。そこに何かが確実にある。日々疑念を生じさせるような何かがある。それが君を揺り動かす原動力となっているわけで、今も思わぬ事態に遭遇して心が動揺しているはずだ。嘘にしては何か真実味が宿っているだろうか。作り話の中ではそう思われ、君が適当に話を構成しているつもりになっている。だが実際にはいつもの画面を眺めていて、不意にそんなことを思いつき、言葉を記してみるが、今ひとつはっきりした内容にならない。それは予期せぬ事態ではないだろう。頭が思うように働かない。何が足りないのだろうか。テレビに依存して何を述べているわけでもなく、別にその手の感動の押し売りを眺めて、憤慨しているわけではなさそうだが、何となくそれを眺めていると不快な気がしてくる。君はなぜ過剰な善意を嫌うのか。誰もが感動して涙するような映像から目を背け、無機質なテクノサウンドに耳を傾ける。何かのアレルギー反応に違いない。無意識のうちに善意の裏返しの何かを感じ取っているようだが、そこで繰り広げられている安っぽいメロドラマをどうしようというのか。何がそんなに気に入らないのだろう。何も思いつかない。心当たりがないらしい。要するに話の内容が一向に明らかにならないままに言葉が記され、何か述べているような気になっている。馬鹿げているだろうか。馬鹿げているはずだ。空想の中で述べているのかもしれず、本当は何も述べていないのではないか。


11月19日

 空き地に砂利が敷き詰められている。駐車場か何かだろう。日が暮れて、あたりは薄暗くなっていて、そこには何もないような気がするが、はっきりしたことはわからない。感性がすり減っている。疲労困憊しているらしく、夜になるとすぐに眠ってしまうらしい。それの何がいいわけでもないが、近頃はそんなことの連続だ。まともなことを述べられない代わりに、夢の中でひたすら適当なことを述べているつもりになる。実際には何か考えているのだろうが、それが表に出てこないようだ。誰かがこの世界から見捨てられているようだ。何かの場面がそれを物語っているらしいが、君がそれを見ていたのではない。いったい虚無はそこで何を見つけたのだろうか。記されているのはいつもの決まり文句だ。誰かが何かを見つけた。ただそれだけのことで心躍らせるような状況ではない。別に時間をさかのぼらなくても、それは過去の出来事になるだろう。誰かが事件を起こし、それについて何か述べる人が出てくる。それはどんな感想なのだろう。何を述べてもどうにかなるだろう。それらのコメントが世間に何らかの影響を及ぼしていて、だから何を述べても無駄というわけでもないらしい。君は何についてどう思っているのか。社会現象のようなものについて語ろうとしているわけか。ひねくれたものの見方や考え方では世間に通用しないだろう。誰かが暇つぶしにそんなことを述べていた。好きなものや感動した現象を絶賛してみたらどうか。それがなければどうするのか。誰かはかなりひねくれている。他人を小馬鹿にしたくてうずうずしている。その手の作り話なら興味を持てるだろうか。時計が二分遅れている。興味を抱けないということか。何かを述べようとする手前で足踏みしているようだ。過去に犯した過ちについて今さら何を述べようとしているのか。何ももたらせないことが君をそこに向かわせる。そことはどこだろうか。得体の知れぬ場所ではない。たぶんここなのだろう。どこでもない場所がここなのだ。作り話の中ではそうであり、ここは何でもない空想の場所で、語るべきことを見出せない場所なのかもしれない。ならば何をそんなに気にしているのか。何も語れないならあきらめてしまえばいいのに、そこでひたすら粘っている理由を知りたくなるが、そこはここではなく、現実の場所かもしれない。実際には部屋の中だ。君は部屋の中で何を考えているのだろうか。さっきから同じような言葉が循環していないか。こだわりはない。そうなってしまっていても一向にかまわない。マンネリを恐れるような状況ではない。君はすでに自らに課せられた使命を忘れている。あとは言葉から自由になるのを待てばいい。もうすぐ何十年ぶりかで何もやらない時間が訪れるはずだ。近頃はそんな予感がしているらしい。一方でそんな期待が裏切られ、今まで通りにつまらないことを記す日々が続く可能性にもかけている。今後どうなってもかまわないような気がしている。誰かの死によってそれらの物語には幕が閉じられているはずだ。そしてそれによって、もう過去の出来事についてあれこれ批判する必要もなくなってしまった。だからここには語るべきことが何もなくなってしまったわけか。だが今さら死んだ誰かのせいにしても始まらない。継続をあきらめきれないのは君自身なのだから、最終的な責任は君にあるのだ。文章がつまらないのは君のせいだ。それがそこでの最後の言葉なのだろうか。だからどうしたわけでもない。誰もがこの世では架空の存在である。そんな嘘をついて何になるわけでもないが、何となくこの世界に対して違和感を抱いている。言葉が意味を通して出現し得ないようだ。最後でないとしたら、まだその続きがあるのだろうか。廃墟の中で何を続けているつもりなのか。構築されるべきものを破棄していないか。かなり精神的に衰弱しているようだ。ならばもはやそこから盛り返すことは不可能か。こんな時は何をどうすればいいのだろう。ノイローゼのたぐいかもしれず、その精神状態に合わせてわざとそんなことを述べている。ノイローゼにかかっているように見せかけたいのだ。見え透いた手だ。誰かの同情でもひきたいのだろうか。それともそれも冗談の続きか。そんなことを述べながらも何かをわかりかけているのかもしれない。今度は機会を見つけて、そのわかりかけていることについて語ってみないか。だが君は誰の指図にも従わず、ひたすらつまらないことにこだわり、その続きを追求し続けているようで、虚無の世界で何もない荒野を見つけたつもりになって、そこにとどまろうとすることに専念しているようだ。それは誰にとってもわけがわからないような架空の行為になる。作り話の中での出来事なのだから、実際には行為でさえなく、ただそれを語ることが唯一の行為と呼べるような出来事だろう。しかし現実には何を語っているのか。何を語っていることにもならず、語っていること自体が架空の出来事なのかもしれない。実際に記された文章の中で君が語っている内容がどこにも見当たらない。そんなことはないか。今一度よく読み返して、君が語っている痕跡らしき箇所を指摘してみたらどうか。しかし誰かは何を寝ぼけたことを述べているのか。何をどう語ろうと、それを記しているのは君ではなく、君という言葉を記しているのが君であるわけがない。


11月18日

 どうもこの時間帯になるとやる気が退いてしまう。また遅れてしまうのだろうか。いつものことに違いないが、気を取り直して言葉を並べてみよう。前置きはもういいか。今は夜だ。前置き以前の前提か。わけがわからない。何もない夜に何をするわけでもなく、ただ適当なことが執り行われ、それは架空の出来事を構成する。気持ちがそこで止まっているらしい。それは何らかの動作ではないか。いったん動き始めると簡単に終わることができない。見ているだけでは飽き足らず、癖になり、誰もそれをやめることができなくなる。何かの呪いかもしれないが、それに対してまたいつもの文句が記され、それに対する思いが述べられる。感覚が壊れ気味のようだが、それの何が馬鹿げたことなのだろう。いつものようにそうではないと思いたい。ではもう自己言及には飽きたか。自己がないのに自己言及はないだろうか。架空の話なのだから仕方がない。それだけならじり貧状態だ。ならば運も尽きてそこまでなのか。少し冷静になって、考え直した方がいい。何について語っているわけでもないのはいつものことでしかなく、それに飽きたらまともなことを述べようとするが、果たせずに終わっているらしい。窮地に陥っているのかもしれないが、どうやって乗り切ったらいいのかわからなくなる。たぶん焦ることはないのだろう。君は君のやり方を貫いていればいい。誰かがそんな気休めを述べているようだが、それで誰を励ましていることになるのだろうか。それらの言葉に誰が幻想を抱くわけもない。気持ちがそこに入っていけないようだ。意志が薄弱なのだ。何か適当な思いを強く持たなければその先へ進めないが、それでは意味がわからなくなる。その先へ進んでどうするのか。先へ進むこと自体が目的と化している。空疎な思いをどこまでも保持しているようで、ただひたすら言葉を連ねていれば、結果的にそれでいいような気になっているが、それ以外は何も考えられないのだろうか。苦境を脱するにはどれほどの時間が必要とされるのだろう。君が感じ取れるような変化ではなく、気づかないうちに徐々に変化しているのかもしれず、今はその流れに身をまかせていればいいのだろう。それも気休めのたぐいには違いないが、気が滅入ったままに過ごすよりは、気休めでもかまわないから、そんな思いを抱いていれば前向きに生きてゆけるかもしれない。だが君にはそれが冗談に思われてくる。状況に反発しているのか。継続の困難さでも自覚していて、安易な気休めを抱いてしまう自らを戒めているのか。それもそれでご苦労なことだが、今ひとつピンとこない。今回は勘が働かないようだ。だが何をどう述べたらいいかわからないのはいつものことだろう。いつも不可能から言説が出発しているはずで、述べられないことを述べているつもりになり、それを糧にしながら、途中で気力が切れないように、言葉をかろうじてつなげて今に至っている。しかし細心の注意も何もないだろう。やっていることは闇雲でぶっきらぼうなのだ。結果的には粗雑なことを述べているようだが、笑ってしまうだろうか。今がちょうどその時なのだ。結果を冷静にとらえなければならない。あれからかなりの月日が経っている。今さら客観的に自らの動作を見つめ直すことはできない。それが君の欠陥を形成しているわけか。それでも感覚がそこで途切れることはないだろう。欠陥こそが君自身なのだ。今度はそうきたか。馬鹿げているだろうか。当たり前のように馬鹿げている。述べている内容を見失っているのだ。文章が読めていない。ならばそこであきらめてしまったらいい。そういう才能を有しているわけだ。さらに馬鹿げているように思われ、画面の前で誰かが笑みを浮かべているようで、そのついでにその気になって冗談を連発したくなり、結果的には冗談になっていないようだが、どうしようもなく述べていることから記している言葉が逸脱していき、それも自己言及の罠にはまっていることを自覚させ、君には理解不能になる。いったい誰かは何を記しているのか。物語でないことは確からしいが、ではそれらの言葉にはどんな目的があるのか。にわかにはわからない。ならば物語の言葉にはどんな目的があるのだろう。簡単に述べるなら、人を楽しませるために物語がある。いつものようにそれだけではないと思いたいのだろう。しかしそれ以外の効用を積極的に主張する気がないようだ。知りたければ自分で知ろうとすればいい。何やらいい加減に言葉を連ねながらも、適当な紆余曲折を経て、何かの核心に至っているつもりになりたいようだが、それは思い違いだ。何かの勘違いがそういう成り行きを許している。何かではなく、君自身ではないのか。そのついでに何を想っているのだろうか。どさくさにまぎれてわけのわからない伝説を再現したいわけか。そう思っている時点でわけがわからない。さらにその先を目指すなら、それらの疑念に対するまともな答えを求めなければ、わけがわからないだけで終わってしまうような予感がする。今はそれでかまわないのだろうか。何を甘えているのかわけがわからないが、もう少し言説の中身を具体的な事象に適合させなければならない。しかし文章の終わりにきて何を寝ぼけたことを述べているのか。それも何かの冗談なのだろうか。


11月17日

 たぶんもう終わりだろう。それが最後の言葉だったのか。がっかりだろうか。だがもう済んでしまったことだ。あとは忘れ去られるしかない。誰かのことなんて早く忘れられてしまえばいい。結局没落できぬ存在にはなれなかったのだから、誰にとってもありふれた人間だったのだろう。君もやがてそうなってしまうわけか。この世に残された誰かの残像が作品として認められることはない。その亡霊に対して何も復讐心をかき立てられることもない。いったい君に何ができるというのか。君に向かって仕掛けられた罠ではなく、誰がそれにはまることもない。そこは無人の荒野だ。だからさらに遠くまでたどり着けるだろう。しかし何を述べているのか。死にゆく人は浮かばれない。言葉がそうしているのだ。そのうつろなまなざしが君を裏切っている。ところでそれは何の話の一部なのか。架空の話なのだろうか。意味がわからなくなるが、それは意味なのではない。わからないのは君の意図だ。何を推測しているわけではないが、特定の意図が介在しているとは思えない。それが誰かの思惑なのだろうか。ここに至って何でもないことを語るのはおかしい。誰がどこに至っているのかわからないが、言葉とは何だろう。わざとそんなことを述べている。わからないことを語ろうとしている。しかし空疎な出来事についてあまり熱く語るべきではない。誰を批判しているのでもなく、けなす対象を探す気になれないようだ。すべてを肯定できないことはわかっているが、肯定するつもりもないのに、無理に肯定することもないだろう。ならば何をゴミやくずだと思っているのか。海岸に木の杭が立ち並んでいる。それがどうしたわけでもなく、そんな画像を眺めながら何とも思わないだけか。風が吹いているのを感じることができるだろうか。地球上では無風状態の場所の方がまれだ。たぶんそういう解釈がずれているのだろう。わざとそんなことを述べているわけを知らないわけでもないが、要するに何もないのだ。それも嘘かもしれず、さっきから言葉が無駄に連なっているようで、とてもそれが喜ばしいことだとは思えない。何を当たり前のことを述べているのか。誰かはありもしない状況を空想するのにも飽きてきたようだ。文句が言えないのがそんなに苦痛なのだろうか。それがすべてではない。すべてでないことが気に入らないか。わからない。自らの敗北を認められないわけか。いったい君は何に負けているのというのか。この世のすべてに負けている。冗談を述べるならそういうことだが、実際のところはどうなのだろう。すべては架空であり、文章中に実際などない。実際に何がどうなっているわけではない。それが間違った認識であることも承知しているが、正しいことなど述べられる状況にない。またわけのわからぬ嘘をついているようで、自己嫌悪を伴っている。この世界のすべてはこわれものだ。いくら唐突な認識に至ろうと、それは違っている。たぶん老人は独りよがりな認識に至ろうとしている。誰がその危険性について警鐘を鳴らせるだろうか。限界があることはわかっているが、限度を知らぬ感情に悩まされる。すでに均衡は崩れていて、何かが崩壊状態にあるらしく、その何かを特定するために何をやっているとも思えず、誰かは自らの精神が崩れ去るがままにしているようだ。しかしそんなことが実際に可能だろうか。それも作り話の範囲内か。君の言動に期待しているわけではない。何よりも焦っているのではないか。事の真相を明らかにすることができずに焦っている。どこに秘密が隠されていることもなく、見たまま聞いたままの現状なのだから、あえて何もやることがない。そう述べればそれで十分なのではないか。他に述べることなどありはしない。現状では何もないということだ。いったいそれ以外に何があるというのか。それに対する曖昧な返答を期待しているわけではない。もうすでに時間切れだろう。これ以上の改善はあり得ない。野放図な語りの拡張は気持ちを散漫にさせる。ただ意味不明気味に言葉を付け足しているだけだ。それで何をわかろうとしているのか。自らの限界でも見極めたいのか。もうとっくに限界を通り過ぎているのではないか。それらはどこまで語っても何でもないことだ。それによって何がわかるわけでもなく、現状にどんな変化をもたらしているわけでもない。相変わらず昨日と同じようなことを語っているだけか。飽きもせず冗談でそんなことを述べているわけだ。ひたすら言葉を記している。それは感性の問題でも努力の問題でもないような気がする。ただの支離滅裂であり、闇雲に語り続けている。それらの言葉を意味が通るようにまとめる能力に欠けている。すべては戯れ言だ。そう断言してしまうこと自体が間違いなのだが、そう述べるより他ないような状況の中で何かいい加減に述べている。まったく抑制が利いていないようだ。異なる選択肢を提示できない。他人の顔色ばかり伺っているわけではないが、相手の出方待ちであることに変わりなく、常に受け身的な対応の中に、かろうじて誰かの本心が見え隠れしているような気がするわけで、それについて語ることは結局わけのわからない意味不明となるより他はない。いったい誰かは何について語っているのか。そしてなぜ君はそれをわかろうとしないのか。ただ面倒くさいだけでは納得できそうにない。


11月16日

 おもしろくないことに気づくこととつまらないことに気づくことは同じだ。それではつまらないと思う。気がつけば翌朝になっている。たぶん気がつかなくともそうなっているだろう。いつ気づいても翌朝になっているかもしれない。相変わらず何を語っているのでもなく、特定の話題を語る対象にできずにいるらしい。やはりそれではつまらないだろうか。いつものように君の知ったことではないらしい。何を知ろうとしているのでもなく、知り得た何を言葉で表現しているわけでもない。だが偶然の遭遇がなければ話にならないようでは、馬鹿げたいいわけが連なるしかない。現にそうなっているのではないか。そういういいわけがましい回りくどさがそれらの文章を構成しているわけだ。君はそこからどこまでも逃げ続け、追っ手もいないのにひっきりなしに後ろを振り返る。虚無にとらえられてしまうのがそんなに怖いのか。それについて誰が何を述べているのでもない。何がそうさせているわけでもなく、君が何をやっているわけでもない。どのような思惑が渦巻くもこともなく、そこには自然の光景が広がっている。何を嘆いているのか。何もないことがそんなに深刻な事態を招いているとは思えない。なぜこの世界には何もないのだろうか。どうしてそんな嘘をついてしまうのか。何もかもがあるが、それを思い通りに動かせないだけではないのか。それも認識の違いかもしれない。とらえどころがない。それらは言葉の連なりではないような気がする。では君が見ている画面には何が映っているのか。何となく退屈まぎれに嘘をつきたくなってくるのだろう。まだ日頃の何気ない動作をつかみきれていない。要するに言葉にならないわけか。それ以上に語っている意図がわからず、自らが何のために生きているのでもないような気がしてくる。何かを表現しきれていないのはわかっているが、そうしたところで何になるわけでもないだろう。疑念や疑問が絶えないようだ。君にどんな将来があるわけでもなく、あるのは退屈な日常だけか。そういう語り方を続けていればそうなるだろう。やがて飽きが来て、何か他のことをやりたくなってくるが、たとえ何をやったところで日常の延長になる。そういう状況で人に夢を抱かせるのは酷なことだ。この世界に何があるわけでもないことはわかりきっている。それは誰もが知っていることだ。何を勘違いしているのでもなければ、そういう認識に至るだろう。それが必然の帰結なのだろうか。反発するなら苦し紛れの冗談が待っている。だが従順になるには感情が邪魔をして、絶えずそれとは違うやり方を模索しようとする。馬鹿げているだろうか。たとえ馬鹿げていようと無謀だろうと、そんなふうにしか考えられないのではないか。現状から遠く離れて夢のような将来像を思い描き、そこに気休めや気晴らしを見出そうとするわけだ。夢を見ているだけでは気に入らないなら、そうなるように努力すればいい。皮肉ばかり述べていても性格がねじ曲がるばかりだろう。しかし何が皮肉だというのか。実際にはどのような成り行きになっているのか。人はひたすら働き続け。余暇を見つけては気晴らしの娯楽に興じている。たぶんそれだけの人生なのだろうが、そう述べてしまうと思わぬところから反発を買ってしまうはずだ。必ずそれだけではないと思いたくなってしまうのだろう。何か生き甲斐とか言う概念にすがろうとする人も出てきて、生き甲斐を感じるような生き方を模索することが生きる目的だとか思い込もうとする。だがそんなふうに言葉にすると嘘になってしまうことに気づかない。物語の中ではそれもありなのだろうか。現実の感性がそこからずれていて、絶えずそうではないと思い続け、君はそれとは違う見解を導き出そうとするが、果たせずに終わり、要するに人生の目的とか生き甲斐とか言うわかりやすい言葉を嫌い、絶えず謎であろうとするだろう。そんな大げさなものでもことでもなく、そういうことではないような気がしてくるわけだ。ではどういうことでもないのだろうか。ある特定の言葉ではつかみきれないような何かか。耳障りのいいことを述べてはいけないような気がしているだけか。たぶん誰もが物語の中に息づいているわけではないということだ。そういう予定調和の展開ではとらえきれないような何かを抱え込んでいて、それが何らかの欠落や過剰をもたらし、思い通りにいかないようにしているのだろう。本当は物語の中の登場人物たちでさえそういうものを抱え込んでいるはずなのだが、作者が話の分かりやすさを追求してしまうと、やはりただの物語になるしかないような馬鹿らしい結果を招いてしまうわけで、読者が納得するような物語であってはならないということだ。矛盾した話だが、娯楽として消費されてしまうような物語は忘れ去られてしまい、それに接して満足を得たつもりになっている人たちも記憶に残らない人たちだ。そうやってすべては何でもないことに含まれ、そういう物語とそこから満足得る人々が何でもないことの一部始終を構成しながら、全体として忘却の堆積物となっているのかもしれず、ゴミの集積場となっている夢の島のごとき景観を形作っているのだろう。そしてそれの地続きの大地から君が眺めているそれが文化というものなのかもしれない。しかしそれの何が皮肉な結果を招いているというのか。それらのゴミの一部を形成している人々が文化の担い手だからか。誰かはわざと反発を招くようなことを語っていないか。とらえようによってはそうなってしまうのだから、それは仕方のないことか。


11月15日

 別に願ってもない機会が訪れたわけでもないだろう。チャンスでもピンチでもなく、何でもない機会だ。誰でもない誰かは虚無に出会っているのだろうか。少なくとも君ではなく、誰かでもないのだろう。そしていつものように誰かがわけのわからないことを語り出す。そこで駆使されているのは技ではない。技術的にはまったくの空疎だ。もはやどのように言葉を組み合わせても何でもないことにしかならず、だから気まぐれに発した戯れ言が命取りになるとは思えない。少なくともそれで意表をついているとも思えない。気まぐれに語っているのはそれだけだ。何を語っても戯れ言の範囲内に収まる。何も語っていないのだから、何を語っているわけでもない。前述を否定してもそれで矛盾しているわけでもない。何でもないのだからそう思ってもらって結構だ。たぶん語っているのは日常の出来事ではない。日常が文章から欠落している。だが日常以外も欠落していて、すべてが欠落しているのかもしれない。そしてそれが何のせいだとも思えず、それを語っている自らがどんな出来事を招いているとも思えなくなり、そんなふうに思っている心が何かの空洞なのかもしれない。そんな音楽を聴いているからそんな気分になる。それは嘘だろう。何かの限界を超えた先にはどんな地平が見えてくるのだろうか。大げさな物言いだが、何かとは何なのか。それは何の限界だったのか。改めてそれを語ることもない。語れないのだからそれはそれのままにとどまる。何が何だかわからないが、現状ではでたらめに言葉を並べているだけのようだ。たぶんそれが正解だが、記された言葉がそこから逸脱している。要するにわざと間違っているわけで、何をどう間違っているのか考えないまま、ただ間違っていると思い込む。たぶんそういう思い込みが間違っているのだろう。それで何の問題もない。少なくともそこで問題なのは思考ではない。改めて何を考えることもなく、文章は言葉以外には何ももたらせず、それは当たり前のことだが、何か中身があるわけではなく、実質的には空っぽの文章だ。いつの頃からかそんなことを延々と述べ続けている。そしてそれを語っているのは誰でもないのに、誰かがそれを記している。そんなのも嘘に決まっているだろうが、気が変わればそうでもないようで、唐突にまともなことを語っているような気になるが、それもいつもの冗談に違いない。そして何かがそこから離れてゆき、何でもない雰囲気のただ中に誰かの意識がある。誰かとは誰だろう。ただ記された言葉の意味がわからない。それで何を語っているのでもないはずだ。それで気に入らないなら、改めて今わかっていることを反復したいらしい。しかしそんなことをやっても何が違うというのか。それらの差異がどこにあるのか。気を取り直して君はゴミ箱に何かを放り込む。言葉を記すことで現実から逃げているわけだ。そこに何が襲来しているのか定かではないが、言葉を虚無から身を守る盾として使っている気でいる。間違っているだろうか。何かの崩壊が近づいているように思えるのはいつもの勘違いだろう。しかし本当に君の精神が崩壊してしまったらどうするのだろう。備えあれば憂いなしとはいかないようだが、それらの文章は何に対して備えているのだろうか。崩壊を前もって予言しても意味がないように思える。なぜ今のうちにそんなことを思わなければならないのだろう。何かの攻撃に備えているとは思えない。語っているのは盾と矛の話ではない。冗談の続きでそんなことを述べているだけか。たぶんその先に何が見出される予定もなく、それでも何かを語ることは気休めに過ぎないことは承知しているようだが、少なくとも読書によって血が吹き出るようなことにはならず、たぶん頭がかゆくなるだけだろう。今はそんなことを語るしかない。まだ何かのスイッチが入らないようで、このままの方が気楽なのではないか。何についても語らない方が身のためか。意識がどこかへ流されていっている。どこへでも飛んでいってしまうわけではないが、何となく浮ついた気分でいるらしい。今さら君には考えられないことを語るつもりはなく、不可能に挑戦することをあきらめてしまったらしく、もとからそんなつもりではなかったように思い込む。作り話の中ではそうだ。現実の世界はどうなっているのだろう。言葉の連なりが一定の意味を担ってまとまる兆しが見えてこない。それはわざとそう記しているのだから仕方がなく、もっとまともなことを述べたければ、それなりに考えをまとめて語る対象を定めなければならない。そんなことが誰かに可能だとは思えないか。しかし誰かとは誰なのか。君でないことは確かだが、言葉を記している誰かは何をしらばっくれているのだろう。体中から感じてくるかゆみに耐えているわけでもあるまい。頭上の雲間から下界を覗き込んでいるのは神ではない。ただの空想に決まっているが、何か映像がそんなことを抱かせる。だがそれとこれとは関係のない話で、それもこれも君とは無関係だ。要するに何でもないことなのだ。しかしそれでは話にならない。誰かは何とか君に関して述べようとするが、もう遅い。すでにそれらのでたらめな文章は終わろうとしていて、どうやらまたしても無駄で意味不明なことを延々と述べてきたらしく、徒労感しか残らないような結果を招いているようだ。


11月14日

 独りよがりなんじゃないだろうか。人は自ら定めた思考範囲と行動範囲を頑に守る限り、ロボットになるしかない。また雨音がしている。誰かがそんなことを思っているようで、他の誰も何も思いたくないわけではない。刺激が必要なのだろうか。彼のペースにはまらないうちに、次なる一手が必要だ。月並みな変化を求めているわけだ。何がありふれているのか。君にどんな態度が求められているのか。考えすぎても妙案など何も出てこない。君はただそれらの文章を読み続けている。無理なのだろう。何が無理なのかはわかっているはずだが、それでも誰かは言葉を記し続け、くだらぬ現状を何とかしようとしている。言葉は空振りに終わり、誰の心に何を訴えかけているとも思えない。君はそれの何が不満なのか。わざと論点をずらしている。議論などもとからなかったことにしたいのか。誰かは残忍な行為に及びたいらしいが、それは作り話の中で行われようとしていることで、現世では別のことを考えている。何かが麻痺しているのかもしれないが、意味がわからない。できないことをやろうとしているわけではなく、まだその時期ではないということか。まだしばらくの時間の経過が必要なのかもしれないが、狭い了見では対応しきれない。いったい誰かは何のことを述べているのか。抽象的な解釈など許さない何かか。ますますわけがわからなくなり、本当にでたらめなことを述べているように思えてくる。とりあえず自然に体質が変わるのを待つしかないようだ。何もかもが中途半端なまま放置されている現状では、そこから先にどんな言葉を連ねようとしても、何を述べているのでもなくなるのがオチだ。それでも経験に違いないが、それらの失敗からどんな教訓が引き出されるというのか。ただの支離滅裂ならもう何度も経験しているはずだが、さらにそれを繰り返してしまう傾向にあるらしい。すでに末期症状を呈している。そうだとするともはや手遅れなのか。何やら楽しい事態に陥ってしまったようだが、それでもそれらの経験から学ぶことがあるようだ。賽は振られ、何か適当な目が出ているのだ。時代ではない。自家中毒にも限界がありそうだ。自分だけがすべてだなんてあり得ないことだ。だから自己実現にもほどがあるだろう。仕事は仕事であり、作業はただの作業なのだ。そこから幻想を求めようとしている。馬鹿げたことだろうか。誰かが自己中心派を徐々に追いつめてゆく。そんな話を空想しているわけか。気持ちが散漫で問題を絞り込めていないようだ。人は何のために生きているのか。そんな愚問の解答が得られることを期待しているわけではない。では何を長引かせているのだろうか。緩慢な終焉を言葉で演出しているとも思えない。ならばどこかへ至る過程でも物語っているのだろうか。あるいは闇雲な思索の果てに謎解きのこつでもつかんだのか。そこへ至る途中だとしても、意味不明すぎるのではないか。まともな言説をもたらせないようだ。それに対する批判の言葉は尽きないが、やはり何も的を射ていないようだ。何がどうなってそうなっているわけではなく、何かの当てずっぽうの堆積がそんな言説になっているのであり、そこに深い意味や意図や思惑が含まれているわけではない。常にそれ以下の存在なのだ。何かの高みを目指す必要のない成り行きとなっている。だから今さらあら探しもないだろう。君はそれによって目を覚まそうとしているのだろうか。理由がわからない。それとも単に必要のないことを述べているのだろうか。理由の定かでない言動にも、それ相応の返答が求められている。彼の頭が壊れていることは承知していて、それは織り込み済みでそれらの言説を展開しているのだから、結果的に何がどうなっているのでもない。君が何にこだわっていようと、そんなのは無視されて当然だ。言説はさらにわけがわからなくなるが、たぶん何がどうなっているわけでもないのだろう。それが現状なのだから、それについて語ればいい。今語っているのがそれか。自業自得であり自家中毒も極まっている。それが気に入らないなら、誰かの妄想を述べてみればいい。人は他人と連携して作業を進めなければならない。自分一人でできることはたかが知れている。世間では大麻汚染が広がっているそうだが、大麻に飽きたら、チョコレート中毒にでもなればいい。誰かがチョコレートは合法的な麻薬だと言っていた。それで何を思いついたのか。何も思いつかなければチョコレートでも食べてみればいい。買いに行くのが面倒か。何を買いにゆくのか忘れてしまうだろうか。そんな嘘をついて記憶喪失のふりをしてみるが、それでもわからない。何がわからないのか忘れてしまった。それが何を意味するのかわからない。なぜそういう風に述べてしまうのか。誰に何を問うているのでもなく、自らの置かれた状況について客観的な判断がつかないようだ。何もはっきりせず、何をはっきりさせたらいいのかわからない。それでもどこかへ追い込まれているわけか。行き詰まりを打開できないのだろうか。誰の知ったことでもなく、誰も知らないようなことにこだわっているわけでもない。たぶんひたすら言葉を無駄に費やしながら、何もない貧窮の時を体験しているのであり、そこからどこへ至ろうとしているのでもなく、そこで意味もなく行き詰まり続けているわけだ。ただそれだけのことだ。


11月13日

 たぶん今日はでたらめすぎて文章になっていないはずだ。それで思い悩んでいる。何も思いつかず、何ももたらせない。気晴らしをかねて、夜中に誰かがどこかを歩いているようだが、それは思い過ごしだろう。何を考えているのだろうか。歩き方が不自然だ。闇雲に言葉を記すが、依然として何ももたらせない。言葉を記すことの限界を感じている。外では雨が降っているようだが、君のせいではない。誰のせいでもありはしないのは承知しているはずだが、意味も理由もなく、気まぐれにそんなことを述べてみる。馬鹿げているだろうか。たぶんそうだが、面倒くさいのでどうでもよくなり、雨などもうとっくにやんでしまったことにしておこう。それは嘘だろう。いくら空を見上げても、君には関係のない天候であり、誰かが記しているのは、誰にとってもどうでもいい話になっている。それが的外れなのだ。そういつもいつも台本どおりにいくはずもないか。台本などどこにも見当たらず、なぜそういうことを述べてしまうのかよくわからない。ただわけがわからないだけか。映画的にはそういう展開だが、それらの文章は映画とは関係ないだろう。幻影は幻影の範囲内で幻影なのだ。だからそれがどうしたわけでもなく、何かひたすら意味不明なことを述べている。そしてそんなことを述べているうちに、次第にその時の記憶が鮮明によみがえってくるが、何かが気温の低下と湿気を伴って到来している。いったい誰かは何を思い出したのか。そういう文章だ。昨日とは少し様子が違う。頭に来ているのだろう。そう思っている。内心違うと思っているようだが、心の動揺を隠せない。たぶん冗談だろう。目が覚めて、しばらく何かから遠ざかっていたようだ。気がつけばまた曖昧なことを述べている。わかっているのはそういうことではない。とりあえずそこから出なければならないのだ。いつもの迷路だろう。君の仕事は何なのか。人を状況に応じて機能させなければならない。そうすれば何かを手に入れることができる。だが現状はどうなのか。結果的に手に入れた物もそうだろうか。それは宝物ではなく、がらくたのたぐいか。何を否定するまでもなく、知識が足りないのだろう。がらくたでも何ももたらされないよりはマシか。安易な意見を述べているようだが、事が済んでからなら何とでもいえるだろう。何が済んでいるというのか。君の時間が終わっている。今はそれについて述べているわけだ。たぶん違うのだろう。何かが違っている。それは君の時間ではない。つまらないことを述べている時間が終わろうとしている。それはいつも感じていることだが、まだその続きがあるのだろうか。何を目指しているわけでもないので、続きなどあるわけがないだろう。続けられないから行き詰まっているのだ。続いているではないか。いくら開き直って虚無的な内容を記してみても、虚しいだけだ。そして虚しいだけではつまらない。ならば他に何があるというのだろう。何もなければもう自家中毒的に言葉を連ねるのをやめたらいい。一度やめたら幸せになれるはずだ。やめられないからそんなことを述べているのだろうが、一向にやめるつもりがないらしい。やめられない理由などない。君はそこで嘘をついている。嘘の他に何がつけるというのか。雨がやんだのはいつのことか。君はさっきまでの苦悩を忘れているようで、そこで何をやろうとしていたのか思い出せなくなっている。それが何かが違っていることの正体なのかもしれない。正体とは何だろう。今の君には何を語る余地もない。だから語っているのは君ではない。だが君でなければ誰でもないだろう。そういう成り行きがつまらない。それは何らかの真実に違いないが、そこからどんな話の展開が待ち受けているわけでもなく、ただ延々とそんなことを述べ続け、嫌になるほどそういう成り行きが繰り返され、そこで時間切れとなってしまうらしい。今日という一日が終わってしまう。実際に終わろうとしているのに、何を続けようとしているのか。明日があるわけもなく、明後日もないだろう。それでも言葉を記している。続かない話を続けようとしている。話になっていない。いったい何について語っているのか。そういうことを延々と語っているわけだ。当たり前のように気に入らないようだ。それで夜が明け朝になってしまったらどうするのだろう。明日は明日でどうにかしようとするだろう。そして昨日と同じようなことを語っている誰かに気づき、わざとらしく愕然としたふりでもするわけか。たぶんそれだけでは終わらないだろう。君には何らかの企みがあると思っている。それが顕在化する時を待てば、何となくさっきまでとは違った話の展開を期待できるはずだが、それは要するに幻想を抱くことに等しいような気がして、とりあえず今は乗り気ではない。本当は何も思いつかないだけだ。要するに予定長の台本がないだけではなく、すべてを台無しにしてまいたいわけだ。わけがわからないままにすべてを終わらせてしまいたい。たぶん今がその時なのだろうが、まだ余分に言葉を連ねようして、その先を見据えて無駄に文章を続けようとする。君にはそれがわからない。わかろうとしていないのと同時に、いくらわかろうとしてもわかり得ないと思われ、そこであきらめざるを得ないような成り行きとなっている。それも見え透いた嘘だろうか。


11月12日

 以前と同じような状況だ。たぶんそういうことなのだろう。何かを見定めている。何かではないだろう。何かの存在を否定している。存在ではない。もういいのではないか。でたらめでもかまわないのか。そういうことになりそうだ。安易な気持ちで言葉を記す。理由など何でもかまわず、なくてもかまわない。忘れてしまったらしい。何となく忘れたつもりになっている。いい加減にそこから離れたい。きれいさっぱり忘れてしまいたい。些細な行き違いは見逃してほしいのだろうか。相変わらず目的がわからない。そこにとどまっている意味がない。眠りたくないのだろうか。永眠したいのではないか。趣旨も目的も違っていそうだ。どこまでも現世から遠ざかるには言葉が足らない。その気もないのにそんなことを述べている。間違っているようだ。何に気づいたわけでもない。どこまでも違っていそうだ。勘違いの原因を提示できるとは思わない。たぶん気分の問題ではない。思いついたのはそんなことだ。具体性に乏しく、気分次第でやめてもかまわないだろうか。誰に了解を求めているわけでもなく、たぶんいつもの自問自答なのだろうが、今ひとつ乗り気でない。目の前で何かが砕け散っていたのはいつかの記憶だ。いつでもありはしない。そんなふうに言葉を記すことができるだけだ。やはりそれは簡単なことに違いなく、考えることを放棄しているに等しい。それでかまわない。今はそうなってしまうのだろう。どこまでも違うような気がするのだが、そういう流れなのだ。それは気に入らないことではない。やはり何もかもが以前と同じだ。夢の中ではなく、現実にそうなのだ。前にもそうなってしまったことがある。たぶんそのままやり遂げてしまうのだろう。無駄に言葉を連ねている。無意識がそうさせるのだ。遅れている現状に嫌気がさしているのかもしれない。無理にそうしているわけではない。無理ならとっくにやめているだろう。少なくともそれが可能なのだ。呆れてしまうが、そうなってしまうようだ。何でもないことはどこまでも何でもないことに終始するらしい。言葉もそうなってしまい、期待はずれなのにある意味では期待通りの展開になる。同じ言葉を執拗に連ねて、何らかの意味作用を連想させる。それで何を導き出そうとしているのか。君はそれを知っていながら知らないふりをする。そういうやり方なのだから呆れてしまう。ものもいえなくなるか。冗談ではないと思っているが、実際には冗談なのだろう。何が来ていないのか。感情ではない。意味を見失い、言葉が自然に分散し始めるが、願ってもない状況だろうか。虚無にとってはそうだ。影が何を語ることもない。その足で踏んでいるのは君の影だ。語っている意図が分からなくなり、それでもかまわないと思うようになる。誰に向かって語りかけているのでもない。誰かがそう思っている。前向きな気持ちにはなれず、黙ってその場を立ち去る。ものを語る感覚をつかめていないようだ。言葉が足らない。そして表現に行き詰まる。複雑なことを語りたいのではない。ただ気がつかないだけかもしれない。何も語り得ないことに気づいていない。実際に何も語っていない。言葉の並びが君の感情移入を拒否している。だからそこで何を試みても失敗に終わるだろう。話になっていない。何もないからそうなってしまう。君が眠りにつく頃、きっとどこかで何かが語られていることだろう。だがそれを文章にするわけにはいかず、知らないのだからどうしようもない。記憶になく、経験したこともない事態でもない。要するに言葉を必要としないわけだ。では今は何を述べているのか。何も述べずに言葉を記しているだけか。述べることと記すことを分割して、誰かの都合のいいように使い分けている。冗談にもほどがあるだろうか。冗談だとは思っていないようだが、それでも苦しい言い逃れに終始している。もう限界のようだ。何も記せなくなり、気づいたら翌朝になっていたようだ。そして相変わらずこの世界に意識がある。結果的に何を求めていたわけではなかったようで、ただ睡眠不足の解消に役立った時間を経験する。老後とは何なのか。永眠する前に過ごす時間のことか。誰にそれが当てはまるのだろう。何はともあれ時間の問題だったようだ。君にもやがてこの世界から立ち去る時がやってくる。その時になってから焦っても意味がない。今はなぜ焦らないようにしているのか。冷静でいられる時間を確保して、そこで考えなければならない。感情が邪魔をして、うまく仕事が回らないようになっている。思い通りにいかないことで焦りを生じさせているわけだ。それが日常茶飯事でしかないのに、やはり気に入らない。それでも考えてゆかなければならないのだろう。問題は問題としてそのまま放置するわけにはいかないらしい。しかし何が問題なのだろう。君をこの世界に呼び戻して何をやらせようというのか。誰かは話のきっかけを模索している。さらに語りたいらしい。言葉を記しているだけでは不満なのか。内容はどこへ行ってしまったのだろう。どこへ行くわけもなく、そこに顕在化していないだけだ。何も述べられないということか。たとえそうであっても記述は止まらない。何を思いつくわけでもなく、その内容に関係なく、ひたすら言葉を記そうとしていて、それが馬鹿げていることに気づいていながらやめられない。


11月11日

 あまり信用されていないようだ。何かが違っているのは毎度のことであり、違っていることすら利用するつもりだ。要するに何でもありなのだろう。別にこの世界について考えているわけではない。ただ何かを述べているだけで、何がどうなるわけでもない。それは良くできた作文かもしれないが、興味はない。それの何を見抜いているわけでもない。ただそれとは何だろう。それは永遠の課題か何かか。問われているものから意識が遠ざかる。何か適当なことでもひらめいたのだろうか。そこへ至ることはないだろう。そことはどこなのか。場所でも時間でもなく、何かいい加減なことを述べている。それも通らなければならない過程の一つだ。どこへ至るでもなく、道に迷っているのでもない。気分は自由の刑に処せられている。何だか嘘っぽいことだ。気がつけば時間が経つのが遅くなっている。何かが足りない。それとか何かとかいう言葉に代わる具体性を帯びた言葉が欲しいところだ。実際に何も思いつかないのだから、それは無理だろう。言葉に対するアレルギー反応が激しすぎる。とても無言ではいられない。誰かによれば今こそ理論ではなく実践が必要だそうだが、それは理論に基づいた実践になるだろうか。どちらも必要なのではないか。人間としてはそうなのだろう。では神としてはどうなのか。それは信仰の問題になるだろう。陰湿な対応には嫌気がさす。不満に思っているようだが、それを受け入れなければならず、その辺でうまく言葉が回っていればよしとしなければならない。たぶん未だに何について語っているのでもない。昔懐かしい曲を聴いている。それがどうしたわけでもなく、その先に言葉をつなげることが肝心だ。しかしそれで何を語っていることになるのか。疑念を抱く必要はない。何もなくても言葉は間に合っていて、それでもうまく立ち回っているつもりになれる。本気で何かを主張することはない。何をやっても悪戦苦闘のただ中にいることに変わりはない。心の内部が荒廃しているのだろう。病んでいる。冗談で述べるには重すぎる状況だ。気候的に乾ききっているのかもしれない。妄想のたぐいだと斬って捨てることもできない。いくら空疎なことを述べていようと、少なくとも何らかの現実を物語っているはずだ。何かのストレスによってそれらの症状が現れているのだろうか。一時間も我慢ができないようだ。遠くで犬が吠えている。そんな情景を誰かが空想している。まだ何か必要だろうか。現実は妄想ではない。毒が完全に抜けきっていないようだが、意識がもうろうとしているのは虚構か。これから何かがどうにかなってしまうのだろう。事件か何かが起こる。今もその延長上にいるらしい。何かの進行の邪魔をしているのは君自身だ。心配しているのは病状ではない。すでに彼は死んでしまったはずだ。死ぬ間際の彼の枕元には何が舞い降りたのか。すべては空想の範囲内での出来事に違いない。この世界で何をやっても何かの範囲内に収まるしかない。それが限界なのだから、そこから先は妄想になる。誰かが君を呼んでいるようだが、別に死神のお世話になるほどのことでもないだろう。現にまだ生きている。それに気づくまでにはまだ相当の時間を要することだろう。未だに何に気づけばいいのかわからず、ひたすら悩み続けているようで、それは解消不能の違和感になる。内部から誰かの自我を突き上げてくるものがあり、押さえ込もうとすればするほど激しく突き上げてくる。気が狂う一歩手前の状況だろうか。嘘に決まっている。実際はやる気をなくしているのか。無気力のただ中でありふれた妄想を抱いている。それは目新しい感覚ではなく、いつも思っている内容に基づいていて、それの延長上に似たような心象風景が広がっているだけだ。そして気がつけば、まったくのでたらめに遭遇している。たぶん物事を大げさに捉えすぎているのだろう。冗談でしかないことを真に受け取っている。いつだって真剣に取り組まないと気が済まないタチなのか。その割には怠け心を押さえ込めず、作業をさぼって窮地に陥ることが多いようだ。何かを勘ぐり過ぎだろうか。話にまったく脈絡がない。リラックスしたいのだろう。さらにわけがわからなくなるのはいつもの兆候だ。言葉が心から離れてゆき、君の思いとは無関係に連なってしまい、結果的に感情の入り込む余地もないことを述べている。ただの文章ができ上がっているわけだ。他にどんな状況をもたらしているわけでもなく、それについて何を検討しているわけでもない。君の意志とも無関係なので反省することもできない。確かに心は何かから離れつつあるようだが、その何かがわからないまま、さらなる言葉の連なりの発生を許している。その何かがこれなのではないか。ではこれとは何だろう。誰かが記している文章そのものか。答えが出てしまえば簡単なことだ。冗談ではないのだろう。誰に問うているのでもなく、君はどこにも現れていない。何を見失ってしまったわけではなく、ただそこで消失している。そこはどこでもない場所であり、どのような時間にも属さない一瞬のうちに、何が生じているわけでもないだろう。それは断じて君ではない。何かの冗談なのだろうが、まるで文章になっていないようだ。何を語ればいいのか不明だ。そこまで追いつめられているとは思えないが、現実はそこにあるらしい。それはどのような現実なのだろう。


11月10日

 数日後の空はまだ曇っているようだ。理由がないわけではないが、とりあえずどこかへ向かって移動している最中に言葉を記してみる。いつものように決まった話ではない。今にも雨が降り出しそうな雲行きの下で、他に何を想うこともなく、郊外の家並みを眺めている。何をどこに届かせようとしているのでもない。やはり言葉ではないのだ。実際に記しているのが言葉だとしても、そこに何があるとも思えない。いい加減に突っ走ってもかまわないのだろうが、今はその気になれず、すでに見失ってしまったものを、時間をかけてでも取り戻そうとするかのように、現状では知り得ない何かについてゆっくり考えているらしいが、何かの思い過ごしかもしれない。言葉が余分なのだ。文章を大げさに見せかけようとしている。またいつもの悪い癖が始まってしまったらしい。君は虚無を言葉で飾り立てようとしているようだが、それはすでに虚無ではなく、単なる文章に違いない。少なくともそこでは何かについて語っているのだ。その何かを文章上に定着させたいところだろうが、それが未だにわからないままであり、わからないのにそれについて述べようとしている。結局それらの文章が何を指し示しているとも思えず、たぶんまた言葉に詰まっていて、また流れゆく光景を眺めながら、軽い行き詰まりをやり過ごそうとしているようだが、不意に何かを思いつく。ここは何でもない世界なのに、日々様々な不具合が生じていて、実際日々困っているようで、それの連続がそれらの時空のすべてなのだ。流れゆく光景はどうなったのだろう。人家が次第に疎らになり、それと入れ替わりに畑が広がるようになる。そして駅だ。電車がそこに止まる。やはりただの世界の中に誰かの意識があるようだ。たぶん世界情勢はくだらない。政治家や官僚は自国の利益を確保しようとしているつもりなのだろう。それに沿って当たり前の行動や言動を延々と続け、それは一見機械やロボットのたぐいに近いように見えるが、彼らと国家を結びつけるものは何なのか。できれば国家ではなく世界全体と結びついてもらいたいが、とりあえず税金を払っている住民たちを統治しなければならない。世界の中で国家と国家が競争しているように見せかけている限り、その手の官僚機構は安泰なのであり、統治下にある住民の一人一人がどう感じているか知らないが、国家間競争を当然のことだと思っている人が多ければ多いほど、彼らの国家意識もより強固なものになるのかもしれず、官僚機構にとっては願ってもない状況となっているのだろう。要するにそれは無駄の極みだ。国家を維持するためにやたらと機構が肥大化する。それの究極の形が国民のすべてが国家公務員になることか。そうなれば貨幣経済も要らなくなり、物を買わなくても、衣食住のすべてを国家が支給してくれれば、貧困問題も表面上は解決してしまうかもしれない。しかしそれには世界全体がその手の共産主義に移行しなければならない。一国でも資本主義国があれば、そちらの方が経済効率がいいから、たちまち共産主義が破綻してしまうだろう。資本主義社会では競争に敗れた者たちは放っておかれ、その結果多くの人々が貧困に喘いでいるわけだが、共産主義社会では建前上はすべての人々が同じ生活水準を維持できることになっているので、貧困に喘ぐ人がいなくなる分それだけコストがかかり、その結果資本主義社会に比べて経済効率が悪くなるわけだが、そうならないためにもすべての国家が一挙に同じ共産主義になってしまえばいいわけで、そうなれば国家が複数存在する必要はなく、世界全体が一つの国家で間に合ってしまい、その結果世界が統一されて、国家間で競争することもなくなってしまうわけだ。それの何が無駄の極みなのか。国家ごとの軍隊も要らなくなり、かえって無駄が省かれ、より円滑に人々を統治できるシステムが確立されるだろう。しかし官僚主義には夢がない。自由もなく退屈で窮屈だ。要するに勝手なことをやれなくなり、人々は幻想を抱けなくなってしまう。確かに今の時点で生きている者にとってはそうだろうが、生まれながら官僚主義だけしか知らなければ、それが当たり前のことになり、何とも思わないのかもしれない。それでも野望を抱く者は立身出世主義に染まって、官僚機構の頂点を占有する立場の役職を目指せばいいわけか。そうなるとそこから出世競争が生まれ、次第に高い地位の者たちが贅沢できるような制度になっていって、より高い地位に就いた者は、自分たちの権限を使って勝手なことをやるようになり、例えば自分たちの子弟を優遇して、自分と同じ地位に就かせるように便宜を図るようになり、その辺から社会全体がカースト制のようになって、低い地位の者たちは高い地位の者たちから差別され貶められ、高い地位の者たちが贅沢している分、低い地位の者たちには必要最低限の生活物資も滞るようになり、悲惨な生活を強いられるようになるわけだ。その辺が以前の社会主義国の内部ではよくあるパターンだったのかもしれないが、そうならないためにはどうしたらいいのだろう。万人にとって公平な競争システムというのを恒久的に維持できるような制度というのが果たして可能だろうか。何となくその辺から夢物語のようなことを語る輩が出現するのかもしれないが、冗談以外なら、そういうのはあり得ないような気がしてくる。それでも誰かは何を夢見ているのか。それともひたすら冗談で済まそうとしているわけか。


11月9日

 いつものお粗末なやり方だ。いつまでたっても格好つけ体質が抜けきれず、ひたすらそれにこだわり続け、結果的に墓穴を掘っている。それは毒ではないらしいが、それとは何だろう。何でもなければ嘘になる。彼のことではないが、また例によっておかしなことを述べている。いくらそれらの言説の内容が馬鹿げていようと、そこからどんな水準へ移行することもできない。たぶんそういうやり方ではそうなってしまう。それではだめか。君は本当にだめになってしまうのだろうか。なったらなったで、そういう状況を受け入れなければならず、それが現状を構成しているわけだから、今は不満だろうが、それはそれでそういうことであり、他のどういうことでもなく、ただわけがわからない。それでも人は何かについて語りたい。いつまでも語っていたいわけではないが、とりあえず話をしておもしろがりたいわけだ。ひたすら沈黙しているわけにはいかないのだろう。そんなわけで人には言葉が必要なのだ。誰かと話をしている時間が必要らしい。病的でなければ誰もがそういう精神構造を有しているのだから、それを欲しているわけだ。それに何の不思議があるわけでもなく、当たり前のことだろう。君はそういう社会の中で何を語っているのか。何かしら語っているはずだが、記憶に残らない。そんなことはどうでもいいことだからか。たぶん新たなことを語るために、無意識のうちに昔のことは忘れようとしているのだ。当たり前のことを述べないでほしいか。いったいそんな言い草がどこから出てきたのか。それが気に入らないわけか。わけがわからないだけでは気に入らないのだろう。気に入らなければ何か他のことを述べる必要に迫られ、嘘でもかまわないから、とりあえず適当に述べてみるが、要領を得ず、途中からしどろもどろになって、その場を取り繕うためのごまかしを思案するが、何も思いつかず、結局はその場を覆う虚無感に負けてしまい、別に何かの勝ち負けが生じるような状況でないのに、何となく現実に負けた気分になって、何に打ちのめされたわけでもないのに、打ちのめされた気分になってしまい、そこから先に何かを継続させられなくなる。それは嘘に決まっている。やはり切羽詰まるとそんなことを述べているようだ。かなり馬鹿げているだろうか。たぶんそれが正解だろうが、一方ではひたすらそこから逸脱したいとも思っていて、やがて誰かがそうなるきっかけをつかむことを祈りつつ、試しにさらなる先まで言葉を並べてみるが、やはりどうしたわけでもなさそうだ。そこで何を期待していたのか。ところでいつかのヒステリーはどこへ行ってしまったのか。誰かが大声で叫び続けている状況を思い浮かべてほしい。それが君でない保証がどこにあるのだろう。何かの揺り戻しが到来しつつある。冗談の震度計はどの目盛り上にあるのか。わけがわからないのはいつものことだ。頭の中で何かがこんがらがっているのだろう。そこから言葉を直接取り出せない。何かの障害物が立ちふさがっており、今まで歩んできた道とは別の迂回路を模索しなければならないか。たぶんそれは違うと思われる。今まで通りでかまわないのではないか。別の人格が何かの双六の振り出しまで引き戻そうとする。無駄な試みだ。意味をなさない文字列が君をどこかへ運んで行ってしまうらしい。そんな妄想のたぐいに惑わされ、まともな言説を断念させてしまうらしい。それも勘違いの続きになるだろうか。はじめはどんな勘違いから生じた文字列なのか。読みたくもない文章とは違い、何らかの魅力を秘めているのかもしれず、それが誤った道へと誘い込んでいるのだろうが、相変わらずそれがどうしたわけでもない。君はいつも何でもないことについて述べているはずだ。そう思っていないと正気を保てないか。それほどのプレッシャーを感じているとは思えない。ただ気楽に冗談を記しているに過ぎず、それ以上の精度や水準に至るのを放棄しているみたいだ。いい加減ででたらめではっきりしたことは何も述べられない。そういう思い込みはやがて嘘になるだろう。誰かはそれに対する何らかの評価を真に受けて、本気になってしまうわけだ。誰かそんな話を知らないか。誰でもかまわないから、そこから立ち去ってほしいか。誰かが多重人格の持ち主というわけでもないだろう。作り話の中でもそれは違うと思われるが、話を作っているのは他の誰かということになっているので、いずれにしろ君には関係のないことだ。今さら語り得ないことを語っているわけでもなく、その状態からさらなる貧窮の時が来ようと、君には何ももたらされないだろう。それが君にとっては幸運なことになりそうだ。続けるためにはそれが必要不可欠なのかもしれない。しかしこれから何を続けようとしているのか。白々しいことを述べないでほしいか。今のが一番白々しい。白々しくも馬鹿馬鹿しい。冗談では収まりきらないほどの空虚だ。それも何らかの状況を反映しているのだろうが、その場の空気をどうしたいわけでもなく、雰囲気をどう変えたいわけでもない。君は自分にとって不利な状況をそのまま放置しすぎていたようだ。今はもうそれが当たり前のような状況となってしまい、取り返しもつかないし、それでどうしたわけでもない。今となってはどうしようもないことのようだ。


11月8日

 相変わらず心の裏側からは何も見えてこない。目の前の光景を見ているだけだが、それの何が不満なのか。きっと嘘をついているのだろう。いつものことであり、何でもないことなのだろうが、そこからしか言葉をつなげられないわけだ。ありもしないことを述べていたらフィクションでも構成できるだろうか。それだけでは心もとない。もっとまともな内容を追求できるようにしなければならない。それは誰の願望なのか。何かを馬鹿にしたりおちょくっているつもりはなれるが、それだけでは虚しいわけか。いっそのことそれを突き詰めてみたらどうか。だから誰かはそうしているのだろう。記された文章の内容はそんな誰かを嫌っているのかもしれない。だからいつまで経ってもできもしない妄想を抱いているわけだ。いつも満足からはほど遠い内容に終始している。ただいつまでも無駄なことを語り続け、それでは不満なのだろうが、一方でそれに甘んじている誰かが自意識の中にいるらしい。受け入れられないことを受け入れようとしているわけだ。やはりそれはご苦労なことだが、いつまでたってもそれではいけないのだろう。いけないからこうして無駄に言葉を連ねている。理由になっていないようだ。それ以外に何も思いつかなければ、そうなってしまうわけだ。いったい君は死ぬまでの間に何をやろうとしているのか。設問の立て方がありふれている。何も導き出せていないのにそれはないだろう。語るべき内容を知らず、ただ闇雲に言葉を記しているだけで、他は何もありはしない。それで何がわかるというのか。何もないことがわかっているはずだが、それだけでいいのか。そこから冗談について語るわけにはいかないらしい。もっと物事について簡単に考えてみたらどうか。何かがこんがらがっているようだ。人はそれについて何を想うのか。ただ地上を人々が右往左往しているだけではいけないのだろうか。そこに何か興味深い現象を見なければ話にならず、何もかもが何でもないことになってしまう。例えば人が何かを演じるとはどういうことなのか。脈絡を感じられない。話になっていないのだろう。何かから逸脱しているようだが、何を演じてもかまわないでは話にならず、たぶん特定の人格を演じなければならないのだろう。作り話の中で作られた人格を演じるわけだ。何らかの欠如の周りに言葉を使って人格らしき浮遊物を構成したいわけだ。地に足がついていない。大地に這いつくばらなくてもかまわない。それらの言説の中では何かが崩壊してほしいと思う。たぶん突発的に事件が起こってほしいのだ。話を前進させるにはそれが必要だ。何となく何かが展開しているように見せかけなければならず、やはりそこで複数の人格が右往左往している必要が生じる。何も起こらなければ話ではない。些細な感情の行き違いでもかまわないから、記述するに足る根拠を示すことが大切だ。君がどういう理由でそれらの文章を構成するにしろ、ともかくそこで何かが起こることが肝心だ。そこに居合わせた者たちのそれに対する反応を記述して、話にするわけだ。手っ取り早く誰かと誰かをけんかさせるのもいい。言葉のやり取りや暴力の応酬を記述すれば話になる。しかしそうする目的は何なのか。言葉によって話を構成したい。少なくともそれは虚しい試みではない。読み返してみて、興味深い内容になっていたら大成功だ。自己満足に浸れる。君はそれでは満足できないだろう。それを読んだ他人から賞賛されたいわけか。君の才能を認めてほしいか。しかしそれは何のための才能なのか。それの何が大成功なのだろう。誰かは何かを説明しているつもりだ。そこでひたすら架空の物語について説明したいのか。実際には何もありはせず、それは空疎な文章となるだろう。開き直ればそれでかまわない。そうでなければ、何かそれとは違った展開を思い浮かべてみよう。君に何ができるというのか。誰かがそんな決まり文句を記述する。話ではない。話にならないことを記すべきだ。誰が誰に向かって命令しているのか。そこから思っても見なかった言語的展開を導き出すのだ。君が指差す方角には星々が瞬いている。誰かが傍らで夜空を眺めている。そんなことを文章が想像させる。誰かの記述を打ち砕くことは叶わない。君がそう思っているのではなく、誰もそんなことは思っていないが、それでもそれがそこでの真実になるだろう。何かをもたらすことが誰かの使命なのか。冗談を言うならそういうことだ。話の脈絡を感じられないのもそういう理由からだ。君はさらに言葉を連ねる。すべてはフィクションなのだから何でもありなのに、語っている内容は相変わらずの展開を示している。何を述べているのでもなく、語彙の貧困さを埋め合わす言葉を知らず、いつまでもそこに仮想された架空の大地にとどまり続け、それが何を意味するわけでもなく、ただひたすらそんなことを述べているようだが、それで何がわかるわけもなく、わかっていることは文章に示されている。だがそれを読んでどんな感想を抱こうと、何を知り得たことにもならないだろう。虚無以外は示されない。それが思い違いだとしたら、何か他の現象に感動してみればいい。それで何をもたらせるとも思えないが、気晴らしや気休め程度の効用はあるだろう。たぶんそれがそこでの真実になる。


11月7日

 目がおかしい。その目で何を見上げているわけでもないが、明け方の空は曇っている。今日は一日曇っているのかもしれない。誰かの意識が空のどこかに存在しているようだ。言葉は文章上では踊らない。暗闇から物音がしているが、意識の背後に何が忍び寄っているわけでもなく、心に何が取り憑いているとも思えない。精神が不安定だ。生身の体が見当たらない。君はまだ幽霊ではないはずだ。どこかで誰かの意志が生きているのかもしれない。確かに作り話の中ではそれが記されているが、現実の世界ではどうなっているのだろうか。目的を見失い、迂回路に入ってしまったのかもしれず、その兆候が何を示しているのかわからないが、現実の感触の何が確かとも思えない。とりあえず心が狭い人は幸せ者だ。きっと誰かが君を助けてくれるだろう。視野の狭い人ならどうだろう。まだ完全な盲目ではない。では気休めとは何なのか。君に何が見えているのか。夕闇が迫っている。相変わらずの曇り空だ。夜が来て朝になる。また時間と気持ちが合わずに、さらに言葉を記すのが遅れてしまうのだろう。それでもまだやるべきことが残っているようだ。かすかな記憶が誰かをそうさせる。それは何なのか。今からそれを考えているようでは手遅れだ。たぶん何でもない。やるべきことなんて何もありはしない。それがとりあえずの結論で、しばらくはそう思っていればいいだろう。いつか思い出すだろう。しかし何を思い出せばいいのか。思い通りに思い出すことはできない。それではだめなのか。何か他に文句でもあるわけか。どうも今日は言葉が連ならない。何もないのだから当たり前か。今は今日ではなく数日前だ。それがどうしたわけでもないだろう。いったいそこで何を語るつもりだったのか。何かの会合から帰ってきたら頭の中が真っ白だ。心の動揺を隠せない。そういうことではない。ここで言葉を記して文章を構成するはずだったらしいが、なぜかやる気にならない。それは昨晩のことだ。そんなやり方ではだめだと思っているようだが、そう思っているのは誰の意識なのだろうか。ここでは誰も語っていない。作り話の中に登場人物が現れない。誰かが何も語らずに言葉を記している。それは作り話の中ではなく、実際にはどこまでも自己言及に頼り切っていて、内容は戯れ言に過ぎないだろう。この世界に対して不平不満があるらしい。それ以外に何があるというのか。語る内容ではないが、選り好みしている段階ではない。まだ不平不満の内容を述べていなかったようだ。何もなければそれでかまわないだろう。何がかまわないのかわからないが、君に何がわかるというのか。誰に何を問うているのだろう。問いかける場所と時間と相手を間違えている。当初はそんなことを述べるつもりではなかった。それも何かの冗談だろうか。今では冗談にもなっていないようだ。本当に何に関して何を述べようとしているのか。例えば景気後退の原因を何のせいにしても無駄だろうか。物が売れなければ製造業の派遣労働者は解雇されるしかない。新たな仕事先を探せなければ悲惨な境遇に陥ってしまうわけか。職がなければ家族を養うことができず、生活が成り立たない。それがどうしたわけなのか。ただ困っている。暮らしに困らないためには必要最低限の生活費を用意しなければならない。くだらないことか。何がくだらないのだろう。それは難しい問題だ。人は何のために生きているのだろうか。知らないが、生きていくためには衣食住が必要だ。死んでからなら葬儀と墓地の費用が必要か。だから何だというのか。君はこの世界に何ももたらせないだろう。それは予言か何かか。なぜ言葉に逆らうのだろう。君の知ったことではない。誰も知らないことだ。雨が何かを知らせてくれるだろう。すべては空想の範囲内だろうか。どのような記憶を記しているわけでもない。それでもそれが言葉の連なりになっている。わけがわからない。わざとそう思っている。わからないふりをしているのだ。わからないはずがない。何とかしようと思っているだけだ。何ともできないのにご苦労なことだ。今は何日目の夜だろう。あれからどれほどの月日が経ったというのか。君には関係のないことのように思えてくるが、実際はそうでない。やがて死にゆく人にはわからないことだ。実情を説明しなければならないが、まだその段階ではなく、今はさらに無駄な言葉を並べて、やる気をなくさなければならない。そんなわけでしばらく虚無の影には黙ってもらわなければならず、その間隙を突いて無駄なことを述べる必要がある。意味がわからないが、そういうことなのだ。今はわけのわからないことを述べているのだから、それでかまわない。たぶんこれからもそうなってしまうだろう。この世界には何があるというのか。できれば興味を持たなくてもいいような事象に巡り会えないものか。だから今がそうなのではないか。まさにその時が到来しているわけか。どこまでも普遍的な情景を目の前にして何を想うだろう。まさにわけがわからない。それはただの光景だろう。夜に出会う。また後数時間経てば朝になり、じきに明日の昼に行き着くだろう。たぶんそこで何も思わず、記憶に残らない時空で何を想うこともない。すべては過去なのだ。過去でなければどうなるのか。たぶんどうにもならない。


11月6日

 何の変哲もありはしない。そんな光景を目の当たりにしている。そういう表現は間違っている。たぶん何がどうしたわけでもない。何かを見限っている。それは面倒な事態だ。結果がどうなろうと動くしかないだろう。心が動き、気持ちが動く。それだけではないはずだ。具体的に何を述べているのか。たぶん何を語っているのでもない。今は真夜中に違いない。君は何もできないことを確認する。そういう話ではなかったはずだ。それも違うと思われる。たぶんまた話にならないだろう。それでも言葉を並べている。近頃はそればかりだ。そんなことばかり述べている。誰の意図も思惑も感じられず、ただそんな言葉が連なる。それで何を説明していることになるのか。それも窮地に陥らないためには必要なことか。それとは何だろう。何かの兆候だろうか。何がそれを示しているのか。無駄な試みだと思っている。そう思うしかないような現状だ。誰かは現実を見据えている。何に直面しても至って平静を装うつもりらしい。そんなのは無理だろうか。いったいどんな状況を迎えているというのか。君にわかるはずがない。誰も知らないそれらの状況が人知れず進行中のようだが、誰も知らないのにそれについて語るつもりでいるのは誰なのか。冗談でそんなことを述べているのだろう。他に何も思いつかないことから生じた苦し紛れの打開策か何かなのだろうか。それも君にわかるはずがないか。よほどのことがない限り、死者を悪く言う人はいない。言ってみたところで、何の利益にもならないからか。死人に口無しだから安心できるのかもしれない。果たしてこの世界は広いのか狭いのか知らないが、未だに西洋だの東洋だのの区分けによって言説を展開させるのには無理があるかもしれず、この世界の様々な地域で何が起きようと、そこにどのような思惑や理念が影響を及ぼしていようと、洋の東西とかいう基準で比較検討するような時代ではないのではないか。もっと簡単に考えるならば、この世界は一つであり、同じ世界の中で人々が暮らしているに過ぎないのではないか。例えば同じ東洋という区分下にある中国とインドと中近東のイスラム世界とは、捉えようによってはそれぞれにまったく違う文化圏であり、同じ西洋でも北アメリカとヨーロッパとロシアについては同様なことが言えるのではないか。もちろん西洋にも東洋にも属さない中南米やアフリカやオセアニア地域のことも忘れてはならず、それらの地域に西洋と東洋の境界線を引くのは無理がありそうに思われ、強引に引いたところで意味がないような気がする。たぶんより現実的な区分けをするなら、単に地理的な地域区分を適用すればいいわけで、自然で当たり前な区分けとしては、ヨーロッパ、アフリカ、中近東、インド、東南アジア、中国、ロシア、東アジア、オセアニア、北アメリカ、中南米、などと区分すればいいだろうし、もちろんさらに細かく区分けしても大雑把に区分けしてかまわず、今やたいていの地域間では人が自由に行き来できるのだから、ましてやインターネットを通して世界は一つにつながっているのであり、特権的な権力者たちだけではなく、一般人までが異なる地域間で手軽にコミュニケーションすることが可能である。だから今さら地域間の文化的あるいは経済的な差異や格差を強調して、そこから地域ごとの優劣をつけて、それを競争に結びつけようとするのもせこい話だ。論理的にも倫理的におかしいのではないか。そんなわけでこれからは特定の地域や国家だけではなく、世界全体が平和になって繁栄するように、各地域や国家の垣根を越えて互いに連携しながら知恵を絞って、世界市民としてそうなるように努力すべきではないか。何か特定の地域で問題が起きたら国家ごとでも地域ごとでも互いに助け合うことが重要であり、国家間や地域間で経済的な優劣が生じないように策を講じていかなければならず、そのために国連などの国際機関が存在しているはずだ。きれいごと的な理念としてはそういうことだろう。だがそんなことを考えていられるような立場がどこにあるのだろうか。どこかの大統領ならそんなことを日々考えていればいいわけか。あるいは今は世界的に不況の時期だから、まずは自国の経済を立て直すことを優先させるべきなのか。国家間や地域間が相互に依存し合っている現状を考えれば、自国だけというわけにはいかないだろうし、これまでのように他国や他地域を犠牲にして自国の繁栄を維持するやり方にも限界が来ているのではないか。しかし一国や一地域だけ繁栄させることの限界とは何なのか。そう思い込んでいるだけで、実態はそうではなく、要するに繁栄と退廃や貧困が表裏一体となっていることを見ようとしてこなかっただけなのかもしれない。繁栄しているといってもそれは一握りの者たちが経済的に潤っているだけで、大多数の者たちは相変わらず貧困に喘いでいるのが、これまでのパターンだったのではないか。まともな職業に就いている者たちでも、大半は借金で家や車を買っているわけで、後はわずかな自己資金で日々をやりくりして、かろうじて自転車操業をやっているだけだろう。そして景気が悪くなって職を失ったらそこで終わりだ。果たしてそれが繁栄だったのだろうか。


11月5日

 また何かが壊れているようだ。壊れているのはなぜか。何が壊れているのか。何を探しているわけでもなく、答えがどこにも見当たらず、返答に窮している。ならば何も壊れていないのだろう。とりあえず壊れかけのPCはバッテリーを交換した。その画面上では次第に虚無の視界が広がってゆき、やがて真っ暗になってしまうが、それで終わりではない。意味のない光景を目の前にして、コーヒーを飲みながら物思いにふける。そこに記されているのは架空の意識だ。雑念を追い払おうとしても何かが邪魔をしている。無の境地からはほど遠い。何かに対するアレルギー反応が著しい。だがそれで何がどうなっているわけでもなく、結果的に意識は夜のただ中にいる。たぶん今思っているのは架空の意識ではないはずだ。実際に何かを感じているが、それは他人の死ではない。君は死の兆候が自らに降りかかるのを避けているのだろうか。どこかで末期ガン患者が死んだようだ。それは君とは関係のないことだ。相変わらずわけがわからないことを述べているようだが、これから何を述べるべきだろうか。短時間で何が改善するわけもない。そういう思い込みこそ勘違いのたぐいではないか。ではどうにもならなくなった状況をどうしようとしているのか。それが何に対する批判になっているのか。死を前提とした生には限界がある。誰かは余命幾ばくもなかったのだろう。おそらく批判がそこまで届かないうちに、その身体は消え去ってしまったようだ。そして今は意識もない。ならばそこには誰かの他に誰がいるというのか。君が誰かになれる可能性はない。なぜそんなふうに思ってしまうのか。少し機嫌が悪いのかもしれず、さらにどうでもいいようなことを述べていることに気づく。誰の死も認められない。死んだら惜しい人を亡くしたことになるのだろう。君は誰かが亡くなった後にそれらの文章をどうしようというのか。他の誰かは病室でそれを訊くのをためらっている。たぶんそれが最後の言葉ではないと思う。そして君は誰もいなくなった後のことを考える。誰かにはまだ仕事が残されていて、そこから遠ざかるわけにはいかないらしい。しかし時間がない。成り行き的に安易にやめるわけにはいかなくなり、途方に暮れてしまうが、下弦の月が西の空に傾く頃、何か適当なことを思いついたふりをする。意図の定かでない状況を招いている。それはいつの時間帯での出来事になるのか。どのような状況にもならないかもしれない。その時のことは何も思い出せず、またしばらくしたら眠ってしまうらしい。どこの誰が死のうと生き返ろうと、別にそれでこの世界がどうなるわけでもない。目が覚めたら昨日の出来事を思い出してみる。それは誰の意思でもなく、どのような意向が反映された結果でもない。新陳代謝のスピードが鈍っているようだ。だから心に刺激を与え続けて、何かをもたらそうとしているらしいが、相変わらず結果が伴わず、落胆が勝ってしまう。皮膚感覚がない。それでも心は何かを必死で取り戻そうとしている。それは昔の感覚ではなく、未知の予感だ。だがそれは何が到来する予感でもなく、嵐の予感ではない。それでも真夜中に強風が吹き荒れ、翌朝は冷え込むだろう。数日後の天気予報ではそういう予想がされていた。翌朝の誰かは何を見ているのだろう。時間が誰かの姿を見失わせる。目的が違うのではないか。見えている光景が顔を曇らせる。無駄な意識だ。病気で死ぬのは無念だろうか。誰もがそうだ。もうあきらめたらどうか。とっくに誰かは死んでいる。君はどうするのか。相変わらず関係のないことか。確かに誰かは死んでいる。毎日多くの人が死に、多くの人が生まれている。それは当たり前のことかもしれない。特定の誰の生や死に価値があるとも思えない。この世界には何か特別な固有名を伴った人物が存在しているわけか。自分は自分ではなく、君は誰でもない。それが逃げの言葉になっている。特定の名前を持つことから逃げているわけだ。誰でもないことは責任逃れのたぐいなのか。自らの行動や言動に対して無責任な立場を確保しているつもりなのか。戯れ言には違いない。今の君は何について語っているのか。以前の君を否定し難い。どのように言葉を費やしても文章にならない。そしてそれがどういう嘘なのかわからない。でたらめだろう。文章は意味にたどり着けないようだ。それは誰かの悪い癖だ。そこからなかなか言葉が連ならない。はじめから何を述べているわけでもないのだから、そうなって当然だろう。君は未だに正気に戻れない。そこは架空の世界なのだ。君に何がわかるわけもない。語る必要がないのに語ろうとしている。たぶん何について語ることもできないだろう。終わりまでたどり着けない。たどり着こうとしていないのかもしれず、わざとたどり着けないようなことを述べているのだろう。そんなわけで結果的に君は自らの終わりを拒絶している。何となくそれは嘘っぽいが、言葉に詰まって精神的に追い込まれ、一方でそれが冗談のように思われ、何か死という言葉を弄んでいるようにも思われてくるのだが、現実に何を述べているのかと言えば、その実態は相変わらずの意味不明に思われてしまい、結局何を述べているのでもないことにしてしまいたくなる。本当にそうなのだろうか。しかし疑念を抱く対象がはっきりしない文章だ。


11月4日

 気まぐれに否定的な言葉を連ねてみるが、興味がない。関心を持てない。それは昨日のことだ。やがて昨日が昨日でなくなり、一昨日とか明後日になってしまうだろう。いったいそれの何が矛盾しているのか。君に自らの矛盾を問いただしたところで何の返答も返ってこないだろう。今の君が作り話の中の君でないことは明らかだ。だからどうだというのか。それが誰かの口癖か何かだと主張したいわけか。意味のないことを述べながら、愚昧な雰囲気を誰かが醸し出している。たぶん今日はこんな感じに終始してしまうのだろう。適当なことではない。要するにいい加減なのだ。あとはくだらぬことを述べるしかない。馬鹿げたことだろうか。誰に問いかけているのかわからないが、たぶんそうなのだ。それが誰からの返答なのかわからない。しらばっくれるのもいい加減にしてもらいたいか。そんなことしか述べられない。だらけてしまったらしい。緊張が持続しない。空っぽのようだが、心に何を満たさなければいけないのか。その代わりに理由もなく空疎なことを述べなければならない。それで何が満たされるわけでもないが、気晴らしにもならない行為が君をどこかへ向かわせる。どこでもないどこかか。それがどこにもありもしない場所でも暗示していることになるのだろうか。やはりくだらない。何を卑下しているわけでもなく、何となく否定的な気分になる。そんな現状の中で言葉を記しているらしい。何かのアレルギー反応があるのかもしれない。背中がかゆくなったのは気のせいだ。他に何があるわけでもなく、ただ言葉だけが記される。それは間違っても絵画などではなく、ただの文字列だ。何を間違ったことを述べているのか。君のことではない。そういう行為が気晴らしになることはないだろう。誰も犯罪者ではない。わざとそんなことを述べている。他に何もないからそうなってしまうのだろう。君はマイルスもどきを聴きながら何かいい加減なことを考える。誰を批判しようというのでもない。どんな現象を誰かのせいにしても仕方のないことか。たぶんそこに原因としての固有名が必要になってくるのだろうが、君の思った通りにはならない。だが誰かがそれを求めている限り、固有名の登場は必要不可欠だ。夢に幻滅すれば、人は必要以上のものを必要としなくなり、必要最低限のものだけで暮らそうとするはずだ。たぶんそれは良い兆候なのだろう。しかし余分なものとは何なのか。例えばテレビが提供する自作自演の娯楽はつまらないか。それがおもしろければ気に入らないようだ。何をおもしろがっているわけでもない。またそれについて誰に何を問うているわけでもない。問いかける対象がまったく見当たらない。だが語っているのは君ではない。言葉が何を示しているのでもない。ならばそれは何かのまじないか。少なくとも呪いではない。しかしなぜそんなことを述べてしまうのだろう。何かの歯車が回っているのだろうが、そこで君が何を見出したわけでもない。ただそんな成り行きに従うまでだ。それで何を開き直っているわけでもない。できるだけ多くの利益を得るために人は経済的な効率を追求するが、追求しすぎると人が要らなくなってしまう。要らなくなった人は職を失い、貧困状態に陥り、社会から疎外された存在となってしまう。それの何が矛盾しているのか。たとえ矛盾していようとそんなのは無視して、ありふれた政治家は八方美人的な主張をするだろう。一方では持続的な経済成長を維持しつつ、産業の国際競争力を高めなければならず、もう一方では福祉政策を充実させなければならない。福祉ばかり優先させれば経済が停滞し、産業の国際競争力ばかり高めようとすれば貧困層が増加する。嘘やごまかしがなければそれらの両立できないのではないか。まったくこの世界では無駄で非効率な競争ばかりが繰り広げられていて、競争に勝った一握りの成功者を生み出すために、競争に敗れ脱落したおびただしい数の敗残者を生じさせてしまうわけで、成功者にはメディアを通じて華々しい脚光が浴びせられる一方で、それを人口的には圧倒的多数を占める敗残者たちが崇め奉るような構造の存在を果たして君は信じられるだろうか。たぶんそれらの人々を敗残者などと見なしてはいけないのだろう。メディアに登場する固有名を伴った特定の人々を生かすためにその他大勢が存在するわけではない。しかし文化とは何なのか。それらの何が文化なのだろう。それらの競争が結果的にどのような文化を作り上げているのだろうか。それらの文化が人々の精神構造にどのような影響を及ぼしているのか。それに関する見解などいくらでもあるかもしれない。ではこれまでに何か説得力のある著作などが話題になってきたのだろうか。たぶん探せば適当な書物が見つかるだろうから、それを読んでみればいい。読んで納得できなければ、自分の見解を文章で示して、それらの著作で示されている見解と比較検討してみればいいだろう。それで何がわかるというのか。たぶん何かしらわかるだろう。そしてそのわかったことを文章で示してみればいい。だが今の君にそれができると思っているのか。誰が思っているのだろうか。君以外の誰がそこにいると思っているのか。誰もいなければ君もいないだろう。少なくとも君の存在が確認できれば、そこに何らかの意識があるのかもしれない。


11月3日

 たぶんできないだろう。どう考えてもできそうもない。だからやろうとしているわけだ。無茶なことを述べている。冗談のたぐいに違いない。そして翌朝に目を覚ます。できないから眠ってしまったらしい。できるわけがないだろう。しかし何をやろうとしていたのか。ただ言葉を並べているだけではだめなのか。わからないのかもしれない。違うのだろうか。何が違っているのかわからない。終わりとはどういうことなのか。何かが終わりの兆候を示している。ところで誰かはデュランデュランというポップグルーブを覚えているだろうか。1980年代の中期頃に活躍していて、当時のロックファンなどは、彼らの音楽を軟弱なディスコサウンドと馬鹿にしていたが、確か世界的なヒット曲もあって、結構有名なバンドだったと記憶している。そのデュランデュランのキーボード奏者のマネをしていたのが小室哲哉で、ボーカリストのマネをしていたのが宇都宮ナントカという人で、あと一人のメンバーを合わせてTMネットワークとかいうバンドがあったと思う。今も続いているのだろうか。しかし例えばブルース・スプリングスティーンのマネをして売れた人なら、佐野元春、尾崎豊、渡辺美里、中村あゆみ、浜田省吾、長渕剛など、老若男女入り混じってかなりいると思われるが、デュランデュランのマネをして売れたのはTMネットワークぐらいなものだろう。だからどうだというわけでもない。彼らの音楽を聴いているわけでもない。小室哲哉が事業に失敗して借金まみれになったあげくの果てに詐欺罪の容疑で逮捕されるのは、翌日の日付だ。実際には数日後に言葉を記しているので、時間的に前後してしまう。もちろんそれだからどうだというわけでもない。ただ人は誰かのマネをしないと利益を得られないものなのか。独創的という言葉が冗談に思われる。人間社会は他人のマネをすることで成り立っているわけだ。それでも君は他人の独創的な作品に接して感動したりする。きっと幻想を抱いているのだろう。例えばピカソに絵について誰かはどう思うだろうか。あれの何に感動しなければならないのか。無理に感動する必要はない。要するに値段の高い絵だ。四万年前の洞窟壁画にでも感動しておいた方がいいかもしれない。ところで音楽の方はどうなってしまったのか。得体の知れぬジャズを聴いている。あまり特定の固有名にはこだわらなくなってしまったようだ。ジャズ以外なら今でもアイズリー・ジャスパー・アイズリーのキャラバン・オブ・ラブでも聴けば感動するのではないか。だが果たしてその手の感動でいいのだろうか。どうも感動するためにだけに音楽を聴いているでもないような気がしてくる。気晴らしや気休めならジャズで間に合っている。ではメッセージとかはどうだろう。何か気が利いたことが歌われているわけか。その曲はボビー・ウーマックのアメリカンドリームだ。曲の中に使われているキング牧師の演説に感動する人は、オバマの演説にも感動してしまうだろうか。キング牧師の抱いていた夢がオバマによって実現することを願っているのかもしれない。君がそれらの何に感動したとしても、それで何がどうなるわけでもない。しかしそれ以外では何かがどうにかなっているのではないか。どうにもならなければ、君自身が何とかすればいい。今も冗談で何とかしている最中なのだろう。君はいつまでたってもそういう人間だ。年がら年中冗談を述べていないと落ち着かない。万が一でも真剣に何かについて議論したらまずいのだろう。君が君でなくなってしまうだろうか。突然iPodにマイルスの顔が浮かび上がる。テクノサウンドのようなものに弱々しくトランペットをかぶせている。ジャズは何でもありなのだからそれもありなのだろう。片方の眼球がいくぶんあっちを向いているのは、キース・リチャーズのそれだ。テリー伊藤などとは迫力が違うような気もするが、同じ人間なのだからそれも相対的な範囲内なのだろう。まったく人はどんどん老いて死んでいくらしい。感傷に浸るような死人に巡り会っているわけではないが、誰かの顔を見ていると今にも死にそうな気がしてくる。在りし日の誰かは、自然の情景と人の感情を同時に歌い上げているような歌に感動してしまうだろう。それは中国の詩か何かのたぐいに通じるものがありそうだ。嘘でもかまわないからそんなでたらめを述べていると、その気になって勘違いな感動に浸ることができるだろうか。たぶん作り話の中でならそれもありだ。それ風の言葉を並べておけばそんな雰囲気を醸し出すことができそうだが、そういうやり方でいいのだろうか。実際にやってみればいい。やってみればできるかどうかわかるはずだ。しかしできたところで効果は一瞬だろう。持続することはないだろうし、させる気もない。君は格好をつけたいだけのように思われる。格好をつけることと感動することはどこでどうやって結びつくのか。格好良ければそれで感動してしまうわけか。見た目が格好良くなくてもサザンオールスターズのように長続きするバンドもある。勝手にシンドバット以外は独創性が皆無だが、どこかで聴いたような音楽を延々とやっているのにも才能が必要なのかもしれない。だからどうだというわけでもなく、何を批判しているのでもないが、日頃からそういう音楽に染まっていても、それなりの感動を味わえるのだろう。


11月2日

 君は今さら見栄を張りたいのだろうか。世の中にはここではないどこかという場所があるらしく、そんなところが観光名所や世界遺産にでもなるのだろう。数日後は晴れて湿度が低い。メディア上では誰かが好き勝手に振る舞っているようだが、それについては結局何を騒ぎ立てることもできず、当人は何かのどさくさにまぎれて目的を遂げようとしている。たぶん君は何も果たせずに終わってしまうのだろう。できれば君もそんな成り行きに至りたいものだが、冗談でそんなことを述べているのだから、本気ではないのだろう。かなり馬鹿げている。今日も内容を見出せず、取り立てて何を語っているわけでもなく、ただ言葉を並べているだけではらちがあかないのはもちろんのこと、わけのわからない内容にどんな修正を施してても、内容がおかしいことに変わりはない。そんなわけで相変わらずの文章の出来の悪さに悩まされる。わざと悩んでいるふりをしているわけだ。言葉的におかしいが、そう述べることが、たとえそれが作り話ではあっても、実感に近いのだろう。作り話の中では誰かが焦りを感じているのかもしれないが、君は何をそんなにうろたえているのか、理由が不明だが、そこにわかりやすい理由がなければ、そういう判断そのものが無効だ。うろたえているというのも嘘の一部なのか。それでは話にならない。虚無は無駄以外は何も語らないようにしているのかもしれず、いったん沈黙を破ってしまったら取り返しがつかなくなるだろうか。絶対に真実を述べてはいけないという決まりはない。それはどういうことなのか。さらにわけがわからない。だがそんな意味不明に耐えているのは君に限ったことではない。このままでは誰が何を語ろうと何でもなくなってしまうだろう。それで君は満足なのか。心に巣くう虚無がそんな状況を招いているようだ。相変わらずくだらぬことを述べている。誰がそれを記しているのか知らないが、いい加減に真実を語ってほしいか。果たして現状が真実を物語っているのだろうか。そんなのも嘘に決まっているだろうが、そうなってしまったことを他の誰のせいにしてもしっくりこない。ただ話にならないだけかもしれず、言葉がいい加減に連なっていることについて、誰が何を想っているわけでもない。君は過去の何を想っているのか。栄光とは何のことか。失われた過去は二度と戻ってこない。たぶんそれは実際に起こった出来事ではなく、架空の出来事から君がどんな影響を被っているわけでもなく、そこで誰かが語っている内容を文章の中に見出せないのはいつものことだが、そんな状況で、誰かがどうにかなってしまう可能性について議論しても始まらない。誰もいないのだから議論の余地などありはせず、誰かの影を見失った君が、行く当てもないのにどこかへ向かって歩み出すに過ぎない。今さら何にこだわっても仕方がなく、いつまでも架空の議論につきあいきれるはずもなく、これ以上わけがわからないことに首を突っ込んでいるわけにもいかない。確かに理由がなければ行動に至れないのかもしれないが、過去の時空で何かの現象が起こってしまった原因を探っているわけではない。だから理由もなく言葉を連ねるのはつらい作業になるだろう。ひっきりなしに襲ってくる眠気に打ち勝つことができない。だがそれでもここまで述べてきたようで、これも自己言及もどきなのだろうが、そんな現状をどうにかしなければと思っていることは確かなようだ。そう思っているうちは苦悩が果てしなく続いてしまうように思われ、うんざりしてしまうのだろう。果たしてそれでも続ける必要があるのだろうか。どんな内容にも至らないのに言葉を連ねているのはおかしい。たぶんそこで幻想を抱けないのが問題なのだろうが、仮に幻想を抱けるとしたらどんな幻想がそれらの文章には似合っているのか。わけがわからない。そういう前提がおかしいのだ。やはりそれは苦し紛れに思われてしまい、そこでどのような冗談を繰り出しても、心に余裕がない分つまらない。それはそれだけのことなのであって、幻想すら抱けない精神状態を醸し出しているのだろう。そんなわけでそれらの文章の中にはもはや冗談すら入り込む余地もないのかもしれない。それでは困ってしまうだろうか。何も語れなくなってしまうだろう。虚無はそれを狙っているのだろうか。それは被害妄想か何かか。たぶんそんなふうに想われてしまう状況なのだろう。読むことを怠った結果として、内容が空疎になってしまったのだ。結局言葉をまともに記すには、他の文章を読んで、それを参考としなければならないということか。それもある程度の真実を含んでいる。そんなわけで行き詰まったら他人の文章を読まなければならない。しかし呼んでいる暇を作れない現状があり、それが書物から遠ざかる流れを作っているのだろう。それとはどのような現状なのか。それについて語ることができない現状なのだろうか。君が何を知っているとも思えない。誰かには言葉を記す上で違和感があるらしく、それについて記す気がしないことが多すぎるかもしれず、それは読む気がしない書物の多さに比例しているのだろう。それについて書かれた書物を読むことにも、それについて書くことにも価値を見出せないような現象に周りを取り囲まれながら暮らしているのかもしれない。願わくばそれが何かの勘違いであってほしいのだろうが、今のところはそんな気を覆すような書物にも現象にも巡り会えないのだから仕方ない。


11月1日

 たぶんまた眠らなければならないだろう。眠らなければ死んでしまうか。死んでしまえばいい。笑い事ではない。死んでしまったら悩まなくてもよくなるわけだが、悩んでいないと張り合いがない。やはりそれは笑い事のたぐいかもしれない。笑って済ませる問題ではない。問題でさえないのではないか。何が問題なのだろう。問題を認識できないのが問題か。人はいくらでもこの地上にうごめいている。たぶんそれは問題ではない。誰に何を頼っているわけでもなく、そこでどんな連携や提携が成り立っているわけでもない。ただの独りよがりだろう。それ以上の何を求めようとしているのか。君には関係のないことだ。ならば君に関係のあることを述べてみればいい。その方が興味がわくだろう。それが無理ならあきらめて、毎度おなじみの虚無について語ればいい。そしてこの世を取り巻く空疎について語ればいい。それらの何が空疎なのか。感知しているすべてが実体を伴っているではないか。それらの関係や結びつきの在り方が空疎なのか。何を媒介しているのだろう。ありふれて抽象的なことを述べているようだ。具体的な事物については何も述べられなくなる。脳裏の向こう側でこれまでに見聞してきた出来事が走馬灯のように流れ去り、それらのすべてがどうでもいいことのように思われてしまう。本当にそんなふうに感じ取っているのだとしたら、何も述べられなくて当然のことか。しかしそうだとしたらどうだというのか。何を問い直しても無駄だろう。問いかける対象が間違っているのかもしれない。何を問いかけていたのだろう。もはや何をどうしたらいいかなんて言う段階ではなく、何をどうすべきか決断しなければならないのかもしれない。それも冗談の続きだろうか。いつものように君は馬鹿げたことを述べているらしく、そんなことを述べているうちに頭の中が煙たくなり、紫の煙を妄想したつもりで、そんな音楽を聴いたことがありそうな気がしてきて、そこで何かの逸脱を試みるが、馬鹿らしくなって途中でやめてしまう。そういう成り行きは嫌いのようだ。言葉に無理がありすぎる。苦し紛れの試みがまるで見当違いなのだ。それでは何を煙に巻いていることにもならず、自らが偶然に左右される成り行きに振り回されて、何の成果も得られないままに、そこであきらめてしまうのか。誰が何をあきらめようと君の知ったことではない。たぶん君にそれ以上の継続は無理だろう。精神の有り様が希薄になっているようだ。それはどういうことなのか。言語的な作り事か。ますますわけがわからなくなる。それで何を捉えていることにもならないだろう。もはや言葉も君を捨て去って、主語の不在を導こうとしている。たぶん日本語になっていないだろう。今はそれでかまわない。まともなことを語るのが面倒くさくなってしまったようで、また投げやりな気分になる。現状と意識が背離しているようだ。おもしろいことを述べようとすると、つまらない現実が邪魔をするのだが、それは気のせいかもしれず、つまらない現実が何なのか、具体的に示せないことが嘘であるかのように思われる。すべてが現実なのであり、それがどうしたわけでもないことがつまらないということか。わからない。何をどう述べてみても違うような気がして、語っているそれがフィクションになってしまい、現実について述べていることが作り話でしかないわけだ。言葉が現実を示せない。そしてそう述べていることも嘘になってしまう。何を述べてもそんな堂々巡りから逃れられない。具体的な何について述べているとも思えず、語る対象が作り話を語っていることそのものなのだ。しかしそれでの何が作り話なのか。現実について述べられないということが嘘なのだろうか。そうだとしたどうだというのか。君はそこで焦っているみたいだ。語る対象を他に見つけられずに焦っている。それが現実であり真実なのか。だとしたら何だというのか。要するにそれらの作り話についてわけのわからないことを述べ続けるしかないというのか。何がわけがわからないのだろう。わかっていてわざとそんなことを述べ続けているのではないか。そうだとしたら何なのか。結局何でもないことを述べている現実があるということだ。それで納得がいくだろうか。納得しなければどうだというのか。何か他に違うことを述べられるだろうか。冗談を述べるならそういうことになるのかもしれないが、冗談以外でなら何も述べられない。ならばこれも冗談の続きか。たぶんそうに違いなく、他に何も述べられないから冗談を述べるしかなく、そんなつまらない現実がここにあるのだろう。そしてそれがどうしたわけでもなく、他に何も述べられないから、同じようなことを延々と繰り返しているのだろう。それがここでの自己言及だ。文章が文章について述べているわけだ。君が誰かについて述べているのではなく、誰かが何について述べているのでもなく、誰でもない誰かが君について述べているのでもない。君も誰かも誰でもない誰かも、それらの文章にとっては語る対象外なのだろう。それがそこでの嘘を形成し得るだろうか。それの何が嘘なのか。間違ってもフィクションとは言い難い。何でもない内容がフィクションを形成するわけがなく、何でもないことはどこまでも何でもないこと以外にあり得ない。


10月31日

 何とかすんなりと先月をクリアしようとしている。そう思い通りに事が運んでくれればいいが、実際に今月になってみないことには安心できない。できない時にはまったくできなくなってしまうこともある。そんな言葉が余分であることは承知しているのだろうが、そこから文章に入らないと継続のきっかけがつかめない。そしていつものパターンとしては、次いでこの世界について疑念を感じる必要があるようだ。いったいこの世界はどうなってしまったのだろう。君の知ったことではない。何が君をそうさせるのか。おおかた冗談でそんなことを述べているのだろう。移動中の電車の中で何を想っても、それは自問自答の範囲内だ。無駄に問いかけることに飽きているのではないか。それは以前にも表明していたはずだが、だからどうだというわけでもなく、それもいつものことだ。たぶんそこで思考が停滞しているのだろう。何かのスイッチがなかなか入らず、無駄に言葉を費やしているうちに、考えることを忘れてしまい、そのまま惰性で文章を記そうとする。そしてそれがどうしたわけでもない。そんなことの繰り返しなのだ。何かそこから抜け出る妙案を思いつかないものか。あきらめているのにそんなことを述べている。あきらめきれないのだろう。それ以外に感じることがないようだ。君はそれで不満のようだが、渋々現状維持に奔走しているはずだ。作り話の中ではそうだ。またいつもの嘘をついているらしい。そんなやり方で言葉の貧窮状態を抜け出せるわけもなく、わかっていながらそれを続けようとする。君は間違っている。たとえ間違っていようと、それを続けようとする。それで生き残ろうとしているわけだ。まったくあり得ない文章的な展開か。そればかりなのだから、それで大目に見てほしいか。何を見てもそういうことでしかない。誰が見てもそれは何でもないことだ。少なくとも君はそう思っている。いけないのではないか。あるいはそれでもかまわないのか。たぶんいけないのだろう。現実が君を無気力にさせるが、現実のせいにしてはいけない。すべては君に降りかかってくる災難だ。そう思って被害妄想に陥りたいのか。他に何を妄想すればいいのだろうか。そんなのは必要ない。必要なのはまともな文章を記すことか。できないことを目指さないでほしいか。ではできることは何なのだろう。ただ働くことだけか。実際に働いているのではないか。働かないよりは働いた方がいい。労働を強いられている状況を変えようとは思わない。ただ文章を記す気になれないだけか。今記しているのは何なのか。わからない。わからなくてもかまわないと思っている。わかり得ないのではないか。わかろうとしていないだけだ。何をわかればいいのだろうか。この世界の何を理解できるのか。世界ではないのかもしれない。たぶん何でもないことだ。何でもありだったらどうなるというのか。別にそれでもかまわないが、それで何がどうなるわけでもない。思っていることと実際に起こっていることは違う。実際には思い通りにならないようなことしか起こらない。君の思いなど無視されてしかるべきか。いったい現状の何をどうしたいと思っているのか。それも何でもないことかもしれない。どうしたいと思っても、どうにかなることは限られている。そしてそんなわかりきったことをいくら述べても仕方がないが、いくらでも述べられることも確かだ。だからそんなことは何でもないのだ。いくら語っても何でもないことを語っているに過ぎず、要するに人畜無害なことを語っているらしい。果たしてそれで気分が晴れるだろうか。そうなるためにはさらなる紆余曲折と試行錯誤を必要とするだろう。たぶん君にどんなやり方を思いつけるわけもなく、ひたすらそんなことを述べ続けるしかないようだ。それが気に入らないならやめてしまえばいい。たぶんそれもいつものヒステリーだろうが、それでも何とかここまでやってきた。今さら何を馬鹿にするでも批判するでもなく、この世の出来事に関してどんな言葉で説明しようと、何が満たされるものでもないだろう。気に入らないことはいつまでも気に入らない。どこまでも気に入らず、何をどう述べても気に入らないはずだ。だから何だというわけでもないが、その他にどんな言葉を費やそうと、それ以上のことは大して述べられないだろう。少なくとも今の状況を受け入れている限り、そんなことばかり述べられてしまう。それを今さらどうしようというわけでもないが、無駄な悪あがきならまだしばらく続けられそうだから、やめなければそれを続けるしかない。やめてしまえばそこで終わってしまう。ただそれだけのことに言葉を費やすのは心苦しいか。それでもできてしまうのだから、それを提示するまでで、いくら内容がつまらなくても、それはそういうことでしかない。それ以上の何を望んでいるというのか。わからなければわからないなりに、その自業自得気味の文章を読み返してみたらどうか。あからさまな欠陥でも見つけられるだろうか。欠陥は欠陥としてどのように修正すればいいのだろう。何をそんなに迷っているのか。別に血迷っているわけではなく、至って冷静だと思っているらしいが、果たしてそれでいいのだろうか。それではいけないからそんなことを述べていて、それとは違う何かを示そうとしているのではないか。そうだとしたらどうだというのか。


10月30日

 どこをどうやってここまで来たのかわからないのだが、気がついたらここにいた。フィクションの中で誰かがうごめいている。ゴキブリか何かのたぐいだろうか。何かとは何だろう。くだらない問答が繰り返されている。それが何かの実態なのだろう。君は何をしらばっくれているのか。なぜか自らが語っている内容を理解できない。言葉の迷路にはもう飽きてしまったのか。それは迷路などではない。ただ行ったり来たりしているだけでは暇つぶしにならない。暇つぶしで何をやっているわけでもない。言葉の連なりが君を避けて遠ざかり、その代わりに目の前に別の何かが見えているようだ。とりあえず出口はすぐそこにある。目指すべき方向はわかっていて、出口に向かってまっしぐらに駆けてゆけばいい。しかしそれは何の話なのだろうか。そう述べてしまうと、今度は出口が一向に見えてこない。なぜか半日前からトーンダウンしてしまう。今の君には出口が見えていないようだ。たぶん語りたいのは出口の話ではない。作り話の中では陰謀を疑ってはならない。読んでいるのは悲惨な歴史だ。暗闇が誰かを呼んでいるようだが、そこで暇つぶしを楽しんでいるわけではない。盲目気味の君には何も楽しめない。楽しめる雰囲気ではない。何もないから楽しめない。実際には何もかもがありすぎるのではないか。適当でいい加減なことを語っていながら、何かが違っていることに気づく。それはだいぶ前からわかっていることだが、君は正しいことを述べられずにいるらしい。現時点ではそれが違うと思われ、違っている原因を探りたくなるが、それは冗談のたぐいではないか。今の君は眠いだけなのだ。くだらぬことにかかりきりで疲れている。そう思いたいのなら思っていればいいが、眠いだけで、他の何で調子に乗るようなことではないのではないか。いったい何について語っているのか。そこに記された言葉は誰も攻撃の対象とは見なさず、何について語っているわけでもない。たぶん誰かによって語ることを無理強いされているのだろう。だから君はもう限界なのか。今さら自らの誇大妄想について語るわけにはいかない。用いようとしている知識に過大な期待を抱いている。この状況での知ったかぶりは禁物だ。語る対象を見出せないのに語ろうとしている。そんなわけでもはや君は試練を乗り越えるのはあきらめてしまったようだ。そして眠ってしまい、気がついたら翌朝になっている。今はそれから半日が経過しているはずだ。君はそこで何に気づいたのか。つまらないことを述べていたらしい。だがそこからまともな言説につなげようとしているのかもしれない。軌道修正するために、無駄に言葉を連ねている。以前はそこで何らかのごまかしが語られていて、それが本意ではないような気がしながらも、そこで妥協していた。だが結果として何がどうなったわけでもないことを幸いと捉え、さらにごまかしを続け、それで万事が滞りなく済んでいたはずだ。きっと何かの勘違いだったのだろう。しかし今さら反省しても遅い。それを躊躇しているうちに、話の出口が塞がってしまったらしい。テレビ画面を眺めていたら、そのまま眠ってしまったようだ。ただそれだけのことで話になるわけがない。まだ工夫が足りないようだ。君の工夫などたかが知れているだろう。ただ無理に語ろうとしている。それは誰の声なのか。誰が何を語っているとも思えない。それはすでに語っていたことだ。また意識の不在を言葉で表現しようとしている。それがどうしたとも思えないが、やはり何のことやらわからない。成り行きの紆余曲折に心を奪われているうちに、肝心の内容が抜け落ちていることに気づかない。結果的に空疎な内容にならざるを得ない。それの何が楽しいのだろう。まだあきらめていないことが誰かの記述を促しているようだが、何となくしらけてしまっている。心が乗ってこない。やる気になれないということだ。君にそれを伝えようとするが、うまく伝わらないようで、誰かはすでに言葉を記している。やはりわけがわからない。心の病だろうか。心身症のたぐいか。君は心身症の意味を知らない。冗談だと思いたいが、君は冗談ではないと思っている。何かのついでにどんな言葉を繰り出せばいいのだろうか。この世界のことなどどうでもいい。そう思える誰かがどこに存在し得るだろうか。さらなる変化球を投じようとしている。野球をやっているわけではない。テレビで見ているのではないか。それは数日後のことだ。言葉がそんなふうに連なると気が楽になる。何を語っているのでもなく、適当に述べている。無意識がそうさせているのかもしれない。情景が何も見えてこないからそうなってしまう。心が動かない。別の意味で動揺しているのではないか。わざとそんなことを述べているだけか。そうだとしたらどうなのだろう。心癒されて和んでしまうだろうか。理解とはどういうことなのか。この世界の何を理解すればわかったことになるのだろう。何をわかろうとしているのか。そこが知りたいわけではないが、何も知りたくないわけでもない。やはりどうでもいいことかもしれず、何をどう理解しようと、それでわかったことにはならないのだろう。とにかく言葉を記して迷路を作り上げることに専念すべきだが、そうする理由を見出せず、迷っているわけでもなく、結局何をどう切り抜けようとしているのでもないらしい。


10月29日

 しかしわからない。果たしてすべては他人事だろうか。君がそう思っているわけではないが、誰もがそう思っているのかもしれない。いったい何についてそう思っているのか。たぶん何でもないことだ。何をどう思ってもかまわない。くだらぬことを述べているのだろう。実態としてはそうだが、何をどうしたいのかはっきりしないようだ。たぶんその辺に限界があることはわかっている。君は精神的に追い込まれている。よくあることだ。やがて立ち直れなくなるだろう。それもよくあることだが、何となくそれが楽しい。愉快なのかもしれない。またいつもの嘘でもついているのだろう。なぜそうなってしまうのか理解できない。それは理解する必要のないことだ。君が求めているのは娯楽ではない。何を求めてもそれは違うだろう。何も求めていないことになる。わざとそんなふうに述べているのだ。疲れているはずだ。昼の疲れがたまっている。ならばもう眠たくなってもいい頃か。まったくどうしようもない。結局眠気には逆らえず、性懲りもなく怠惰の誘惑に負けて、眠ってしまう。それでどうしたのだろう。何がどうなっているわけでもなく、ただ夜になったので眠ってしまうわけだ。君はそこから何をどうしようとしているのか。さっきまではテレビを見ていたようだ。何も思いつかない。数日前にくだらぬことを語りすぎたのか。影響はそんなところから来ているようだが、何かの後遺症かもしれない。だが何のせいにしても始まらない。語ることをあきらめているのだ。そこがわからない。いったい何を考えているのか。君の語りに何を期待しているわけではない。君はそこで終わりなのだ。何も語らずに退場願うとしよう。だからわからなくなる。何を語っているのかわからない。たぶんそれを意識してしまうと、語ることなどどうでもよくなってしまうのだろう。そんなことをしているうちに傷口が徐々に塞がっていって、やがてその時の失敗を忘れてしまうだろう。まだ咳がおさまっていないようだ。時々喘息の発作が出てしまう。そして何を述べているわけでもないのに言葉が並んでしまう。自然の成り行きなのだろう。今さら焦っても無駄だ。ここまで来ると何もできはしない。何か適当ないいわけが待ち構えている。いい加減なのだ。焦点が定まらない。言葉が分散していて、文章としてまとまりを欠いているようだ。それが自然の流れだというのか。君が望んでいたのはそういう成り行きではない。ただ黙って何もしないことが最良の選択か。だがそれで何を否定しようとしているのか。この世の何を否定しても意味がない。否定すること自体に根拠がない。何か馬鹿げていないか。何について語っていたのかを忘れている。たぶんわからないだろう。人は感情で動くものだ。感情だけで動いている。気に入らないことをどうにかしたいらしい。論理的に正しいことを覆したいのかもしれない。それはどういうことなのか。にわかには何も思いつかず、でまかせだと思うしかないようだ。何らかの嗜好上の紆余曲折があったらしいが、その詳細はよくわからない。たぶんまだ何も思いつかない。ただ時間だけが淡々と過ぎてゆく。もう君のことなどかまっていられないらしい。せわしなく動き回るその姿に焦りが感じられ、余裕がないように見える。まだあきらめていないらしい。無理を押してよくやってきたものだ。今はそのがんばりを認めざるを得ない。疲れきっていて何を語っているのか意味不明だが、とりあえず言葉を連ねている。無駄な努力とはそういうことなのだ。とっさの機転で別の事情は何とかなったらしいが、今日の日付に追いつくのは断念せざるを得ない。なぜ言葉を記すことから外れてしまうような事態に陥るのか。他の誰が何をしても無駄だということか。だがそれでも君はあきらめない。何もやらないよりはやってみた方があきらめがつくか。いったい何をあきらめなければならないのか。まだそれ以上の結果を出していないようだが、たぶん冗談で言葉を繰り出しているわけではない。ここで一気に畳み掛けて何とかするつもりなのだろうが、まだ先が長い。怠ける余裕を与えずに考えを巡らせて、何かを語るべきなのだ。適当なことでもいい加減なことでもかまわない。君はおかしな勝負を挑まれている。いやがられるのはわかっているのに勝手に振る舞いたいのだろう。他人にこびるわけにはいかないらしいが、それでもそこから利益を出したい。盗人猛々しいというわけか。やりたい放題なことを平然とやってしまいたいのだろうが、そこにせこい計算が働いていて、何とか合法的な範囲内で楽して富を得たい。何となくそれが矛盾していることは承知しているようだが、それでも譲歩はあり得ない。どこまでも自分を押し通さなければ納得しないらしい。無理してごり押しすれば何とかなると思っているようで、ひたすらそれを繰り返しつつ、自分のやり方を曲げられず、それ以外の選択肢など思いもつかない。はじめから何も思わないようにしているのかもしれず、ただ自分だけがすべてなのだ。迷惑を被っている周りの人のことなど考えたこともなく、ある一定の範囲内に限定された価値観にとらわれたまま、視野を意図的に狭くして突き進んでいき、どこまでもあてもなく前進し続け、ただ前に進むことだけが目的と化しているわけだ。


10月28日

 さらに何を続けようとしているのだろう。無理に決まっているだろうか。たぶんそういう成り行きになってしまいそうだ。眠気をこらえて言葉を記す。すでに終わっているのではないか。たぶんまだ今日だろう。完全に終わっているわけではない。無理なことを続けているようだが、ある程度はそれで功を奏しているらしい。なぜそう思えるのだろう。実感しているのだから、たとえそれが勘違いであろうとなかろうと、とにかくそれを続けていくしかないだろう。それとは違う意識が何かを考えている。この世界には何が必要なのだろうか。何も思いつかないが、その気になっているのならそれでかまわない。何か適当なことを思いついたつもりになればいい。それほど本気で問いかけているとも思えない。誰かが陽気に歌っている。気晴らしのたぐいだろう。なぜか今はそう思いたい。何に直面しているわけでもない。だいぶ視力が衰えた。誰かは何かの賭けに出ているのかもしれないが、君の知ったことではない。君が知るべきなのは君自身についてだ。さらにあり得ないことを述べている。焼きが回ってしまったのか。誰かは機械ではない。別に金属疲労が起こったわけではない。それでも何かが折れ曲がっている。何もかもが違っているのかもしれないが、結果的に何が起こっているのだろうか。何かの作用でこうなってしまったのだろう。どこまでもそんな感じだ。もたらされた状況を深読みしても無駄だ。きっと勘違いに終わるだろう。今さら何を仕掛けても失敗に終わるだけだ。たぶんそれは罠ではない。今まさに貧窮の時を乗り切ろうとしている最中なのだろう。そこで君は折れ曲がる。何かが前進を阻んでいるようで、夢に見た眺望とはだいぶ違った有り様となっている。予感が外れて困っているわけか。そういう話でもないらしい。何とか現状を維持しようとしているのかもしれないが、それとは違った方向性も出てきているようにも思え、すでに何を語ろうとしていたのか忘れている。今さらそれはないか。そこまででかかっていた言葉を引っ込めた時点でわけがわからなくなり、そこからどうやってここまで語ってきたのかよくわからない。いったい今は何を説明しているのか。取り立てて何を説明しようとしているわけでもなく、その代わりにたぶん今後の期待について語ろうとしているのだろう。何を期待されているのか。さらにわけがわからなくなってほしいということか。誰かは居眠りの最中のようだ。雷に打たれて黒こげになってしまったわけではない。それの何が冗談でもなく、他の何が何かを物語っているわけでもない。終わりの季節はとっくに通り過ぎている。そこに居合わせた誰もが到達すべき季節を知らないらしい。自ずから季節は変わるだろう。当たり前のように何かが循環している。だから風邪を引いてしまったわけではない。やはり本気なのだろうか。何がそうなって本気になるというのか。言葉の並びがまったくのでたらめだ。しかしそれで的を射ていると思われるのはなぜだろう。現状とはそういうことの集積から成り立っている。ごまかしもここに極まれりというわけか。安直に考えるまでもないことだ。答えはすでに出尽くしている。だがそれのどれもが間違っているらしい。君の解答は答えにすらなっていない。そんなこんなで何かを述べているわけで、その内容がそれらの文章として空白に刻まれているのだ。あり得ない話だ。思い違いのたぐいかもしれないが、現実の一部を構成している文字列が誰かを悩ませる。果たして終わりの言葉がどこに記されているというのか。少なくともそれは人間の終わりではない。気まぐれにそんなことを述べてみるが、それで万事がうまくいくとは限らない。たぶんそれはその場限りのごまかしなのだ。他で通用するはずがない。無理にごり押しすれば必ず行き詰まるたぐいのやり方に違いない。だから誰かは途中でやめてしまったのだろう。無意識のうちにそれらの限界に気づいていたわけだ。だから今がある。今こうしてでたらめなことを述べている現状があるらしい。それで良かったのか悪かったのか、今のところはわからないが、少なくともさらに遠くへ言葉を連ねようとしているらしく、その行き先が不明のまま、それを続行中のようだ。それが現状の一部であり、ある意味ではすべてでもあるが、それに満足していないことだけは確かなようだ。気がつけばこうして自己言及もどきに振れているようで、気がつかなくてもそうなってしまう現状がある。それのどこが楽しいのだろうか。たぶん内心楽をしていると思っているのだろう。造作もないことだ。逆に手間をかければかけるほどわけがわからなくなってしまうようで、今でさえそうなのに、これ以上のわけのわからなさに精神が耐えられるかどうかは疑問だが、方向性としてはそうなってしまうように思われ、いずれこういうやり方にも限界が訪れるだろう。だから今のうちはやりたい放題の最中なのだろうか。君に答えを求めても無駄だ。作り話的にはまともに答えられる精神状態ではなく、そういうことにしておいて、他に何を述べることもなく、ひたすら沈黙を守りつつ、代わりに誰かが言葉を記している。だがそれが現状の説明だとは思えない。それも作り話の一部なのか。しかし決して物語に結びつくような話の成り行きではない。


10月27日

 かなり老いてしまったようだ。たぶんどうなっているわけでもないらしい。自然の成り行きだろう。今がギャンブルのチャンスなのだ。終わりのない虚無の到来に惑わされるが、ただの文字列に違いない。悩んでも仕方のないことだ。人々は何かの宗教に入れ込んでいる。ギャンブルのチャンスなのではなく、ビジネスチャンスなのではないか。冷静に考えればそういうことだろうが、実質的にそれはギャンブルになるだろう。ギャンブルこそがビジネスなのだ。宗教的にはそういうことだ。原因と結果を短絡させている。それが必要とされているのだろう。君はそれらの不具合を克服しなければならない。宗教的には無理に決まっているので、それは技術的な問題になる。宗教も人類が発明した技術の一種だろう。同じ幻想を抱かせることで人々を一つの目的にまとめあげるのが宗教だったのではないか。それを信じて参加すれば利益を得られるような幻想を振りまいているはずだ。だがそれは誰かの説明に過ぎず、そんな説明では君を納得させることはできない。誰も納得しないだろう。もう少し詳しく説明してくれないか。君は何を期待しているのか。そこで何かの装置が生き残ろうとしている。さらにわかりにくくなるようだが、わざとそうしているのだろう。納得のいく説明など期待すべきではない。君も生き残りたいのだろう。本気に受け取る必要はなく、すべては冗談で述べていることだ。世の中には冗談でなければ述べられないこともあるらしい。本気になると嘘になる。たぶん冗談ではなく、自らの生死をかけてギャンブルに参加するようになってしまうと、心に余裕がなくなってしまうのだろう。現実にそれらの人々にとっては自分たちの生活がかかっていることになる。だが娯楽の一環でギャンブルに興じているようでは、本当の醍醐味を味わえない。そこへのめり込んで破滅を体験するまではわからないことだ。しかしそうなってしまえば終わりなのだ。そんなわけでたいそう楽しそうな世の中になっている。誰かの冗談には切実さが欠けている。本気ではないのだろう。資本主義は幸福になるために利用する装置であり、要するに落とし穴なのだ。全面的に罠にはまって、一か八かの勝負に出るか、あるいは足首あたりまで浸かって、他の本気な皆様方におつきあいするか、そんな選択肢がありそうだ。そして言葉を使って述べることができるのはこの程度のことだ。あとは実践あるのみか。やってみたらいい。その気があるなら、破滅するまで賭場のゲームに参加してもらえば本望だ。悪魔に心を売って大成功でも夢見たらおもしろい。それは漫画的な成り行きだろう。それらの言葉を本気に受け取るべきではない。一気に何かを成し遂げようとしてはいけない。日頃の地道な努力を継続させることで、いつかそれなりの結果を打ち立てることができれば、それで何かしら成し遂げたことになるのだろう。だから焦ってはいけない。性急に事を運ぼうとすれば、必ず何かに躓いてしまうだろう。ちょっとしたことでも転んで怪我を負ってしまう。これまでに経験した数々の失敗によって、君にはそれが嫌というほどわかっているはずだ。そんな経験の積み重ねを今後に役立ててほしい。そしていつか必ず成功することを祈っている。ならばもうお別れか。それがお別れの言葉なのか。冗談ではない。何をそんなに笑っているのだろう。あくびが出てきて眠たくなってきたことを悟る。無理をしてはいけない。だが今は無理ではないはずだ。心身に無理強いをさせているわけではない。ならばそこからさらに言説を深めていったらいい。できればの話だが。できはしないだろう。たぶん君にできることはそんなことではない。明日は眠くてしようがなくなり、結局は元の木阿弥で、遅れを取り戻せなくなってしまうわけだ。いくら不敵な笑みを浮かべて画面の前に座っても、肝心の言葉が出てこなければ仕方がない。だがここでやらなければいつやるというのか。そんな自問自答がくだらない。予定調和の展開にうんざりしてくるか。何も理解されることはないだろう。気持ちなどいくらでも修正可能だ。出来の悪い作り話の中ではそうだ。下手な付け足しによってすべてを台無しにしているわけだ。それでかまわない。何となくそんな気分なのだから、それはそれでそういうことだろう。またいつかそんなことを述べる機会が巡ってきて、今と同じようなジレンマに直面するはずだ。誰かには語りすぎるという事態が必要なのだ。そんなわけで気休めに聴いている音楽は、マイルスとマイルスもどきが入り交じって、不思議な雰囲気を醸し出している。何に関心があるわけでもないが、マイルスもどきの方が後発なのだからうまいに決まっている。マイルスのエッセンスをこれでもかと押し出しながら奏でているわけで、それはちょっとくどいような気もしてくるが、リスペクトしているのだから、その程度がちょうどいいのかもしれない。しかしなぜそこで改行しないのだろうか。その前後でまったく違う内容なのだから、普通なら改行して区切るべきではないか。ただ面倒くさいだけではないだろう。だが原文とは違った形態のメディアでは、改行しまくり状態だ。文節ごとに改行しているのではないか。そこに何らかの経緯があることは承知しているが、どちらが読みやすいかといえば後者の方だろうか。


10月26日

 些細なことから疑念が生じて徐々に膨らんでゆく。疑心暗鬼になっているのだろう。どこかへ誘導されているような気もするが、それに関して何を知っているわけではない。それの何が秘密なのかわからない。たぶん何の話でもなく、その場の思いつきが中途半端なまま打ち捨てられてしまったのだろう。成長できずにそこで途絶えてしまったわけだ。そんな文章の断片は塵や芥のたぐいだろうか。何に関する考察なのか不明のままだ。それでも君はそこから言葉をつなげようとしている。まったくご苦労なことだ。誰かにとっては意味不明に思われるだけかもしれない。まるで作り話のように言葉が構成されているが、それでも具体的に何を語っているのかわからない。たぶん何について述べているのでもないのだろう。ひたすら言葉を並べている。それはあり得ない話だ。なぜそんなことを述べてしまうのだろうか。ただおかしいだけではないのか。そういう気もしてくるが、それだけでは話にならない。誰かは不条理な成り行きや結末に話が導かれることを期待しているのだろう。人は恐いもの見たさでそんな光景に巡り会いたい。もちろん当事者としてではなく、傍観者として見物していたいのだ。今や誰もがそれができてしまう世界に住んでいるわけで、この時代の人類に蔓延しているメディア病のたぐいなのかもしれない。だが当事者意識が希薄なことを非難するのは筋違いで、そうならざるを得ないような構造の中で誰もが暮らしているわけだ。一握りの当事者たちを観客席から大勢の人々が眺めている。要するにそれが娯楽の本質かもしれない。眺めるだけでは飽き足らぬ人々は、テレビゲームのたぐいを利用して擬似的に当事者気分を味わうこともできる。だが無理にメディア病を克服することもないだろう。それは楽しむためにかかる病であり、同じ価値観のもとに大勢の人たちが集まることで、大衆的な結束を図るためには欠かせない祭のようなものだ。君は何を馬鹿にしたいのか。祭は当事者として参加することに意義があるらしい。ならば参加してみればいい。自らがネット上に情報発信でもしていれば気休めになるだろう。それで何をどうしたいわけでもない。何らかの意思表明にはなるだろうが、ただ間違っていることに否の意思を示しているだけか。それらのやり方の何が間違っているというのか。様々なことが間違っていると思われ、それをひとつひとつあげていくのが面倒なので、そうした方法をとっているわけだ。ならばそうした方法とは何なのか。うやむやのうちに何か適当でいい加減なことを述べている。何もないことにかこつけて、苦し紛れの冗談を発しているのだ。日常の単調な作業から一時的に逃れた気でいたいのかもしれない。それも趣味や娯楽のたぐいに違いない。途中からわざと論点をずらしている。悲惨な状況から目を背けているわけか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。結局のところはどちらでもかまわないのだろうし、どちらでもないかもしれない。ご都合主義に染まった人々は趣味と実益の間に接点を模索している。両者をかねるような立場を占有して、快楽主義者のような気分でいたいのだろう。画期的な何かを世の中に広く知らしめたいのかもしれないが、誰に向かって述べているのかわからない。特定の対象などありはせず、それは思い込みと妄想のただ中に自らの読者を設けているようなものか。すべては架空の出来事について語っていることだ。それを信じているか否かで、現実感や温度差も生じてくる。どこかの誰かが世界恐慌などという言葉に踊らされて何かもっともらしい意見を述べている。実際に職を失って路頭に迷う人は御愁傷様だが、それにかこつけて世の注目を浴びる機会をうかがっている者たちもいるらしく、何となくこの世界がどのような状況になろうと、そんなことはどうでもいいように思われてくる。要するに退屈しのぎの世界恐慌なのだ。誰もがそれを信じれば救われるわけではないが、事の深刻さなどを映像や音声によって演出してみせたところで、何がどうなるわけでもなく、どうならないわけでもない。どちらもありで、どちらも無効かもしれない。人は成長して知識や勘や技術を身につけるかもしれないが、この世界もそうだ。昔の経験から何か適当な事態の到来を予想してみせるが、それも織り込み済みのことであり、そういうこともふまえた上で事態が進行してゆくのだろう。そこから何をどう感じ取ろうと、状況は絶えずその上をいっている。人の予言など裏切るようにしか推移しない。そして誰もが思っても見なかった結果を期待しているわけであり、この世界が魅惑のワンダーランドとなってほしいのだろうが、そう思い通りに事が運ぶとは思えない。しかしそれはいったい誰の思い通りなのか。少なくとも君はそんなふうには思っていないはずだ。何かの思い違いではないのか。だがそうだとしたらこの世界のあるべき姿とはどんな感じになるのだろうか。今ある姿があるべき姿だとは思えないのか。はたして今の君に客観的かつ正しい認識が可能だろうか。もしかしたら思っているそれがそうなのかもしれない。冗談を述べるならそういうことだろうが、冗談以外の結論などここではありはしない。そんなわけで何の根拠もなく、君が認識している世界がこの世界だ。


10月25日

 それで少しは気分が晴れただろうか。何について何を根拠にそんな憶測を導き出すのか。別に何を推測しているわけでもなく、ただそんなことを述べているだけだ。何の意味もありはしない。少なくとも意味がないと断言しているわけではないが、誰がそこから遠ざかっているわけでもなく、遠ざかるべき何かがそこに生じているとも思えない。何かの気晴らしでそんなことを述べているとすれば、それ自体が気晴らしなのではないか。だがそれで気分が乗ってきているとは思えず、相変わらずいつ墜落するかわからないような低空飛行の状態で、何とか持ちこたえているような気がするだけか。何に関して何を述べているわけでもない。たぶんやけくそ気味にそんなことを述べているのだろう。もしかしたらそれも的外れか。そうだとしても気にしないだろう。とりあえず言葉が連なっていればいいわけだ。今さら無い物ねだりをするわけにもいかないということだろうが、現状では夢見る気分になれそうもないのはもちろんのこと、なぜそう思ってしまうのか明確な理由があるわけでもない。君はそういうやり方が気に入らないのだろうか。誰のどういうやり方が気に入らないのだろうか。そういう言い直しが気に入らないとなるだろう。何となく調子に乗っていると思われ、それで気楽な気分を醸し出していることは明らかだ。この程度でもかまわないのか。たぶんそういうことだろう。たぶん何かを語るとはそういうことなのだ。少なくとも現時点ではそうだ。そんなていたらくを受け入れている。それは冗談か何かに違いない。それで何とかしているつもりなのだ。まったく勘違いもいいところだ。だがそれが誰かの真骨頂だとしたら、それはくだらなさの極みかもしれない。だがそれで楽しい気分になれる。楽しければ何でもかまわないような気分なのかもしれない。無理にそんなことを述べているのだろう。そこにはまともなことを述べられないことから生じるやましさが感じられ、何となくそれで何かを説明したような気になれるが、本当のところは情けないのではないか。まったくの自己嫌悪か。それも冗談に違いない。どれもこれも冗談だと見なせば無責任な気分になれる。それは何かの思い違いかもしれないが、それでも結構だ。そんなふうに語っているうちにやる気が失せ、やがて何も語れなくなってしまうような気になり、それらのすべてを包み込む虚無に恐れをなし、さらなる心の内側に引きこもってしまうだろうか。何が引きこもるというのか。それは誰の意識でも意志でもなく、ただの言葉に違いないが、その辺で予定調和気味にわけがわからなくなり、何か他の気分転換につながるような文字列を探る展開になりそうだが、そこまでいかないうちに方向転換でもして、それが過ちだと悟った時にはもう遅く、取り返しのつかないことをやってしまったと後悔しながらも、それまでの努力が無に帰して、かえってさっぱりした気分を得て、その程度のことにこだわっていた自らの偏狭さに愕然として、とりあえず何が何だかわからなかったことにして、何となくその場の破綻を最小限に抑えようとしてしまうらしいが、それが何なのか。わざとらしい疑念を抱かなくとも、ただ何でもないことが繰り返されているだけではないか。言葉の上ではそうであって、何の実態も伴っていなければそういうことになってしまうだろう。では君はそれを眺めて満足してしまうわけか。それらの逸脱加減がとんでもないとは思わない。たぶん大したことはないのだろう。君にとってはそうであり、誰にとってもそうなのかもしれない。そもそも語る必要のないことを語り続けているのだから、そんなのは当たり前の範囲内の逸脱に違いない。誰かに求められているのはそういうことではない。何も求められていないのではないか。そんなふうに思うならその通りだろう。君はそこから遠ざかろうとしていたはずだ。今では何のことやらさっぱりわからない。君は君自身について何を知っているというのか。いつも君は無言だ。そこにいないのだから当たり前だ。文章上では常に不在なのだ。存在についての解釈が間違っているのかもしれないが、それで不都合が生じているとは思えない。誰かは物事について深く考えるのが面倒になってしまったようだ。まともな論理ではない。限界があることは承知している。だがそれ以上何について考察すればいいのだろうか。その辺からわからなくなり、途方に暮れてしまいそうだ。実際にそうなっている。疲れているのかもしれない。そしていつものように投げやりになっている。根気が続かない。しかしそれでも楽しげに意味のないことを述べている。季節は秋なのか。時間帯は深夜かもしれない。誰の時間でも季節でもなく、世界の一部なのだ。人はどこまでも愚かだ。音楽に癒される。そしてすべてを忘れよう。誰のことも思い出せなくなり、孤独を知るだろう。死を迎えるまでもない。すでに何も覚えていない。感傷的な気分になり、失われた記憶を求めて旅に出る。誰の事情でもない。何を反映した言説だとも思えない。君はさらに眠くなり、気がつけば翌朝になっている。確かに翌朝だ。夕べは何を述べていたのか思い出せないが、何となくそれでかまわないような気がして、その先に適当な言葉を継ぎ足しているのだろうが、おそらく何でもないような内容になっているのだろう。


10月24日

 これで少しは現実に近づいただろうか。冗談ではなく、そんな気がしているのだが、たぶん冗談であってもかまわないだろう。現に記しているのはどうでもいいようなことだ。君の感覚からはそんなことしか感じられない。やはり冗談であってはならないのだろうか。それは結果から判断することであり、今の君には関係のないことだろう。君はただそれらの言葉の並びを眺めていればいい。何が記されているか理解する必要はなく、何かの模様を見るように見ていればいいはずだ。それで何がもたらされているわけでもないだろう。君はそこから何を導き出すこともできはしない。傍観者は空模様を眺める要領でそこで立ちすくんでいればいい。また嘘をついてしまったらしい。だが真実とは何だろう。嘘などこれっぽっちもついているとは思わない。では誰が何を述べているのだろうか。そこでまた言葉に行き詰まってしまうらしい。わざとそうしているのだろう。何を語るそぶりも見せずに言葉を記すだけ記して、結局その内容を把握できなくなり、投げやりな気分で自問自答を繰り返す。そこから何がわかるというのか。君について語っているわけではない。誰が何を語ろうと、それをとやかく言う筋合いはなく、結果的に何も語っていなくとも結構なのだ。誰かが記しているそれは文章ではない。言葉の連なりが文章だとは限らないか。わけのわからないことを述べているようだ。それは気晴らしに関して述べられた内容の一種かもしれないが、それはまぎれもない文章だろう。誰かは否定する対象を間違っているようだ。やはりわざと間違っているのだろうか。そう思うならそれでかまわないが、それ以降にどのような話の展開を期待しているのか。展開など何もありはせず、その場の思いつき以前のでたらめが適当に記されるにとどまるだろう。だがそれで何を説明しているのでもない。まだ何について語っているとも思えず、これから語る対象を探そうとしているようだが、記された言葉がそれを許さない。いったい言葉以外の何について語るべきなのか。それは君の知ったことではないはずだ。誰の知ったことでもない。もとから誰もいないのだから、何かを知ろうとする意志などあり得ない。あり得ないからそれについて語るのが楽しいわけだ。いつもながら何の理由にもなっていない。君は楽しい理由がわからない。では何が不満なのか。わけがわからないだけでは不満か。その場に構成されている簡単な関係を導き出したい。そもそも誰かは何について語っているのだろう。君はそれをどう思っているのか。どうも思っていなければ何でもないことだ。冗談でそんなことを述べているわけでもないはずか。たぶん自らが何を語っているのかわからなくなっているのだろう。それはいつものことであり、今に始まったことではないが、いい加減にそういう状態を脱しないと、まともなことは何も述べられない。それが楽しい気分に結びつくなんてでたらめもいいところだ。だがそう述べないとその後が続かないのではないか。しかしその後に何を続けようとしているのか。くだらぬ自己言及以外に何があるというのか。それがあればそれで事足りるだろう。少なくとも今はそんな成り行きになっている。誰もそれを止められず、誰もいないのだからそれは当然だろうが、君はそれを眺めてどう思っているのだろうか。何を眺めているのかわからない。それらの文章を読む気がしないのかもしれない。文字の並びを眺めるだけ眺めてそれで満足したつもりになる。誰かの作り話の中ではそうかもしれず、その作り話がどこに記されているのかわからないのだが、そういうことを述べている誰かにとっては、そんなことなどどうでもいいことだ。君はそれ以上の存在ではなく、架空の存在なのだから、実在しない存在なのだ。それで何か矛盾しているような気分になれるだろうか。そんな気分になったところで気晴らしにもならないか。だがその状況で誰が気晴らしを求めているというのか。何か知らず知らずのうちに深刻な状況に陥っているわけでもあるまい。ただの戯れ言が延々と記されている。そう思ってもらって結構だが、まともな内容に巡り会えず、何か期待はずれに感じられるとしたら、それは結構なことだ。たぶんそれでかまわないのだろう。実際に何について語る気も起こらない。それらの文字列を眺めているとそんな気分になってしまうらしい。そこで誰かの思考が止まっているのだ。なぜそうなってしまったかについて語る気も起こらない。語れないのではないか。いったい何について語れば納得するのか。誰を納得させるつもりなのか。現時点では何に納得することもできないだろう。その気がないのに納得してどうするのか。君は誰かを買いかぶっていないか。それほどの思い入れはないはずか。では何をどうしたらいいのだろうか。たぶん何かをどうにかしながらも、そんなことを述べているのだろう。まったく救い難い無内容だ。そしてそれが楽しい。冗談にもならないことを述べているのが楽しい。そういう無責任な感覚が誰かを堕落させるが、そこからもたらされるのが空疎な感覚だとしても、なおのこと楽しい。ならば果たして君はそんなどうでもいいような文章を読んで何を想うだろう。それは過去の出来事ではなく、今現に起こっている謎の一端に過ぎず、誰かの秘密がそこに隠されているかもしれない。冗談を述べるならそういうことだ。


10月23日

 いつもの言葉が循環している。何をそんなに黙っているのか。自分に問いかけてどうするのだろう。そういう話ではない。差し障りが内容に表れる。たぶんそういう言葉の並びが自然の成り行きを反映している。単なる冗談ではない。そういう雰囲気がなきにしもあらずか。きっと気のせいだろう。何も感じないならそんなことは記さない。君はまだ何かの前にいる。不可能を可能とすべく思考を巡らせて何かを試みようとしている。それらの努力が嘘ではないことを信じよう。何を信用しているわけでもないが、そこから抜け出たいらしい。今月中は無理だ。それでかまわないと思う。やりたいことをやったらいい。それがやりたいことだとは思えないだけだ。虚無にやりたいことは似合わない。他に何が気に入らないというのか。言葉を連ねる行為が気に入らない。それをやめてしまえば何が残るだろう。何も残らなくてもかまわない。では何を目指しているのか。現状がどうなってほしいのだろう。変化を望まないわけか。かなり安易に問いかけているようだ。懲りていない。何度失敗しても失敗を繰り返す。結果が常に失敗であってもかまわない。たぶんそれは何らかの兆候を示しているはずだ。変化する兆しを感じている。今は誰かの魂の意向に従うまでだ。間違っていてもかまわない。間違うはずがないだろう。君は正しいことを述べているはずだ。思い違いであってもそれは正しい。朝日に掌をかざしてみても間違いに気づかない。それは何のまじないなのだろう。君は未だに決め台詞を知らない。その時の記憶が欠落しているようだ。君には理解できないのだろう。何も思いつかないのだ。そこから遠ざかるための方法を知らない。考えていては手遅れになってしまう。考えるより前に行動しなければならない。後から結果について考えればいい。思考は失敗のいいわけとなるだけだ。それだけの荒唐無稽に何を捧げようとしているのか。試みはいつも裏切られ、君の思惑を外れてどこかへ行き着くだろう。それがその時点での結果なのだ。結果としてわかっているのはそういうことだ。試みたことを後悔してはならない。試みたこと自体が変化そのものだからだ。その時点で以前からは確実に変わっているはずだ。意識はそれを感じ取ればいい。何も変わらないなんて嘘だと思えばいい。本当に変化したはずだろう。変わってしまったのだから、その変化を認めるべきだ。いったん変わってしまえば、自ずからその先に道が開けるだろう。今はそれを実感していればいい。そこから産みの苦しみ以上の何かを経験したはずだ。単なる思い込みであってもかまわない。思い込んでいるだけでそこから遠ざかれる。そしてそこから先に新たな言葉が連なっている。それに気づけばそういうことだと実感できるだろう。変化とはそういうことなのだ。そこに立ち止まって振り返るべきではない。疾走している最中なのだから、わざわざ立ち止まる必要はない。いったん立ち止まれば、夢から覚めて現実の停滞へとまた逆戻りだ。だから今は夢でも現実でもかまわないから、急いで駆け抜けるべきなのだ。そこで言葉を繰り出すペースを保つことが重要だ。何について述べているのでもなく、ただ言葉を並べているに過ぎないことを自覚すべきだ。それが間違った認識であってもかまわないだろう。今は間違ったことを述べるのが正しい行いなのだから、それを着実に実行し続けるべきだ。根拠など示すには及ばない。それはそれでそういうことなのだから、それを誰がどうしようと君の知ったことではない。君が知るべきなのはそういうことではなく、誰かがそんなことを述べているということだ。つまらない冗談ではあり得ない。それはただの言説なのだ。ひたすら何かを説明しているのだろう。嘘か本当か知らないが、知っていることを語っているわけではない。君には知り得ないことがここで語られているわけだ。そしてこことはどこでもないここであり、でたらめの場所でも空間でもなく、画面の前に誰かのまなざしがあるだけの場だ。それについて誰が何を語る必要があるだろう。ただ同じような言葉が繰り返し記され、それがまぎれもない現実であることが示されようとしている。実際に誰が何について語っているのかを知りたくなるが、知る必要のないことであることも承知すべきだ。何も知らないわけではないだろうが、知っていることがそれらの語りを妨げているわけではない。どこにどのような影響が及んでいようと、それはそういうことなのだから、君がとやかく言う筋合いはない。そのままスムーズに言葉を連ねてゆけば済んでしまうような文章に違いなく、そんな文章が記されつつあることに感動している意識を認めないわけではないが、やはりそれは何でもないことだ。そんなふうに言葉を記している自らの存在を意識している。そこで何でもないことが続けられているわけで、それについて何をどう述べようと、それはそういうことの延長上にあり、そのような言葉の連なりが君をある意味で存在させている。虚無を経由して言葉が文字になり、そんなふうに述べている意識を生じさせている。君はそれを待っていたのだ。説明になっていないようなことを述べながらも、それが自然の成り行きに沿った試みであることを感じている。そんな疾走感を保つ必要があったわけだ。


10月22日

 そんなことはないだろう。唐突に何がどうしたわけでもないが、どうも頭がぼけてしまったらしい。耳元で不協和音が鳴り止まず、それがうるさくて何も考えられずにいる。そんな嘘は通用しないか。なぜ終わらずに続けているのか。フィクションの中で何を続けているとしても、そこでは何も終わらせられないようだ。それどころかさらに不協和音を鳴らし続けようとしている。それ以外は何ももたらせず、だからそこから先には何もない。ただ意味不明気味に言葉が続いているだけだ。気分的にはそういうことだが、もう少し気の利いたことを述べてみないか。例えばどこかの空洞に言葉が降り積もっている。それはくだらぬイメージでしかなく、本当は何が何だかわからないはずだ。その場しのぎの冗談としても心がこもっていない。そして予定調和気味にいつもの台詞の到来だ。君に何がわかるというのか。泥縄式に何を探しているのか。とりあえず逃げ道がどこにも見当たらないので、今はそれを必死で探さなければならないようだが、どうせ探しても見つかりはしないだろう。今のところは探す理由も見当たらず、たぶん探す気がないのだろう。ならばさっきまでの君は何を探そうとしていたのか。それは逃げ道などではなく、終わりの言葉を探していたのではなかったか。そこで何かを終わらせようとしていたはずだが、今はもう忘れてしまったらしい。だが他に何を思いついたわけではない。君には何もわからない。わかるはずがない。だがわからないのはいいことだ。わからないことを簡単にわかってしまうのはおかしい。おかしければ話にならないか。では君は他に何を求めているのか。他など何もなく、それでも何かをわかろうとしている。たぶんそれをわかろうとしているらしい。それとは何か。それだろう。さっきまではわかろうとしている当のものを探していたようだが、今の君に心当たりはない。ならば神は誰を導いているのか。誰でもないだろう。誰かが信じているそれは宗教ではなく、ただの言葉だ。君は言葉さえも信じていない。誰かと君では会話にならない。お互いに主張することは何もなく、論議が平行線をたどることもない。実際には誰もそこにはいないのであり、誰も神の代わりはできない。そして予言を発することが困難となる。それだけではないはずだ。さっきまでの話はどこへ行ったのだろう。君はそこであきらめてしまうのだろうか。そんなことはなく、何やらおもしろくなってきたようだ。でたらめな言葉の並びがおかしい。まるでチンプンカンプンなことを述べている。たぶんそこに希望がありそうだ。誰かは何も導き出せないことに絶望しているわけではない。苦し紛れにそう述べてしまうことがおもしろいと思っている。それは一種の開き直りというやつか。それ以上だろう。嘘かもしれないが、何となくそういうことなのだろう。どういうことでもなく、そういうことなのだ。そういうことに意味などない。意味がないからおもしろいのであり、君には何もわかっていないのだ。だからチンプンカンプンだと述べているのだろうが、それでも楽しい。誰かが楽しいと記している。まったくの嘘だろう。嘘でも楽しければかまわない。何も考えないことはこんなにも楽なのか。作り話の中ではどうしようもないことだ。それの何がチャンスなのだろうか。チャンスというのは何でもないことだ。だから今はチャンスではない。それ以前に誰がチャンスだと思っていたのだろうか。そもそもここから抜け出るチャンスはいつ巡ってくるのか。そういうことではなく、何がわからないのかわからない。君は何かを見失っている。自分も含めて何もかもを見失っている。そう述べているのは自分ではない。誰かがそんなふうに語っているわけだ。それを君は意味不明だと思いたい。それがここでの逃げ道なのだろうか。それの何が逃げ道となっているのか。むやみに言葉を繰り出すことによって何を忘れようとしているのだろう。やたらと意味のない問いかけを繰り返しているのはわざとらしい。あきらめてしまったのだろうか。現状ではそうかもしれないし、そうではないかもしれない。今のところ君にはわからない。何かをわかる機会がなかなか巡ってこないようだ。虚無は君にわかるわけがないと思っている。わからないという言葉の他に何も見当たらず、それ以外に語ることもない。だからいつまでも空疎なことを述べている。それがここでの現状だ。それがどこまでも続いてゆくらしい。現実に嫌になるほど続いている。だから楽しいのだろう。誰かはそれが楽しいと思っている。冗談でそう思っているのだ。少なくとも誰かが思い描いている作り話の中ではそうだ。君はそれが嘘だと思っている。そこには誰もいないのに、作り話も何もありはしないだろう。その通りだ。今はその通りだと述べておこう。誰もいない代わりにある種の感情が渦巻いていて、それは何かの皮肉に違いない。何を述べても無駄だと思いたいのだ。そして密かにそんなことはないという慰めの言葉が返ってくるのを期待している。そんな思いつきは嘘に決まっているだろうか。嘘でなければ何だというのか。嘘以外にどんな肯定があり得るだろう。何もない現状を肯定的に捉えたい。これ以上は無い物ねだりなどしていられないか。いつそんなことをやっていたのだろう。


10月21日

 また深夜に目を覚ましてしまう。本気でそれを肯定しているわけではないが、人にはやらなければならないことがあるらしい。とりあえずはそういうことであり、たとえ言葉を無駄に費やそうとも、何とか語り続けなければならない。無内容でもかまわないのか。そんな疑念を差し挟むのもいいだろう。必ずやり遂げなければならないと思う。嘘かもしれないが、君には確信がありそうだ。記された言葉が意識をどこかへ導いている。心ではない。うまくなるとはどういうことか。それで何を語らなければならないのか。誰かがその場に居座りを決め込んでいる。拒否反応があるようだ。それに対して何をどう対処できるだろうか。君の仕事ではない。影から譲り受けたのは空の場所か。そこからどんな影響力も行使できないし、実質的は何ももたらせない。傷がどこかへ飛び火している。それでも動じないと言ったら嘘になるかもしれないが、何とか精神的に持ちこたえているようだ。感情が湿り気を含んでいるとは思えない。成り行きとしてはそうなって当然なのだ。言葉の連なりに絵画的な遠近法が適用されているわけではない。心は渇ききっており、どのような水準でそうなっているわけでもなく、ただ乾燥しているだけか。そう思い込んでいるだけかもしれず、言葉を選んで感性の鋭さを試しているのだろう。勘違いもいいところか。時間ならいくらでもあるだろう。何を語ろうと空疎になってしまう状況なのだ。君は意味をあきらめなければならない。そして考えるべきなのだ。状況的に追い込まれている。虚無によって囲い込まれている。ここはもはや無の境地だろうか。ここではなくどこでもない場に追い込まれている。身動きが取れないはずだ。しかしそれでも強がっている。相変わらず述べていることが的外れなのだ。それでもかまわないとうそぶいている。空疎なままの空元気だ。なぜ人はそこまで自らを追い込むのか。君は人ではない。他人事ではないはずだ。今こそ自らを追い込みつつ、プレッシャーのただ中で言葉を繰り出さなければならない。そんなのは嘘に決まっているが、そういう紋切り型がその手の状況下で広まっている。競争とか勝負事のたぐいだろう。君はそれを冗談の一種だと思っている。そんなのは嘘だ。嘘に違いない。だがそうやって何を否定しているのか。何を強がる必要があるのだろうか。その気になって言葉を繰り出すが冷静さを欠いている。やはりそれでかまわないのか。レベルが違うのだろう。心の渇きも自己言及の範囲内でのことだ。外へ向かって広げられないようなレベルなのだ。要するに自業自得で独りよがりなのだ。それ以上の力が出てこないようだ。それでもここまでやってきたのだから、それはそれで評価しなければならないだろうが、どう考えてもその程度のことだ。誰かは語るに値しないようなことを語っているらしい。それが君でないことを祈ろう。君にはまだやらなければならないことがあるはずだ。そこでやめるわけにはいかない事情がある。そんなことにはおかまいなしに虚無による心の浸食にさらされているわけだが、やはりそれがどうしたわけでもない。それは必然的な成り行きなのであり、語りすぎれば自ずから何も語ることがなくなってしまい、途方に暮れてしまうはずだ。そういう貧窮の時を通過しなければその先へ進めない。その先に何があるわけでもないだろうが、とりあえずは何か言葉を並べて、それを読み返す動作を繰り返してみることだ。君の感性がどの程度のものなのかわかってくるはずだ。今さらそれを高めることはできないだろう。そういう水準でしか述べられないならば、それを貫いて語ることしかできないだろう。馬鹿げている。確かに進化を考慮していない。では冗談なのだろうか。やってみればわかることだ。すでにそんなことを述べているのではないか。だから進歩がないと見なすべきか。進歩がなければ発展もないだろうか。それでもこれ以上の水準を構築しようとしている。無理だろう。それを否定したければ語り続けてみればいい。すでにそうしているはずだ。さっきから言葉が循環している。何かが限界に近づきつつあるらしい。見え透いた嘘に決まっている。すべてが予定調和なのだ。現状が気に入らないからそう感じてしまう。それがどうしたわけでもないが、君にとっては破棄すべき言葉の連なりだ。現状がそうさせてくれないことはわかっているが、思いとは背離しているようだ。そしてそれらの文章の中から誰かが何を求めている。たぶんそういう話を語ろうとしているはずだ。君にはわからないことであり、誰かが見ている夢の続きを再現するわけにはいかないらしい。そこで途方に暮れている。やりようのないことをやろうとしているのかもしれず、今のところそこにつなげるべき言葉が見当たらない。だから話が進展せずにあきらめの言葉が繰り返されて嫌になってくるが、それでもその先を目指そうとして、違う言葉を記そうとする。たぶんいつものように失敗に終わるだろう。君にはできない話が展開されているような幻想を得たいわけだ。そしてそこで自己満足とともに達成感も得たいわけで、そんな都合良く話が進展しないのはもちろんのことだが、誰かはそういう幻想からはなれられず、いつまでたってもあきらめようとしない。それが予定調和の展開をもたらしていることも承知しているはずだが、一向にやめようとしない。


10月20日

 それは遠くない未来の出来事だ。誰が破滅するわけでもない。そう思いたいだけで、それとは裏腹に不吉な予感が脳裏をよぎる。物語の中ではそういうことになっていて、だから何だというわけでもないが、誰かがどこかで死ぬにしても、まだ話の終わりには間があるらしい。まだ話を立て直す時間があるようで、その時点では物語を奏でられるような気がしている。そんな勘違いを前面に押し出しながら、誰かが調子づいているようだが、そう簡単に思惑通りにはいかないだろう。神はまだその気になっていない。気まぐれに何を語るかわからない。簡単にいくような成り行きになっているのに、なぜそれをあっさり捨ててしまうのだろうか。もったいないにもほどがある。送られてきた手紙を読むのが億劫のようだ。君に確認できるようなことではない。興味がないのだろう。だがそこから何かを語ろうとする。何でもないことにこだわっているのかもしれず、文章になっていないような言葉の連なりを執拗に記している。やはり君にはわからないことだ。だからそこから遠ざかるには及ばない。物語がどこで終わろうと大したことではない。話の内容をわかろうとしていないだけだ。強がりを述べるならそういうことだろう。時間的に追いつめられているのではないか。仮にそうであったとしても、語っている内容はいつもの通りだ。仮ではなく実際にそうなっている。外では雨が降っている。今から数日後のことだろう。昨日のことでもかまわないが、それについては語る気になれないからそんなことを述べている。他に何を語るつもりだったのか。少なくともこれからのことではない。何かを考えているつもりになっているようだが、意識がまとまりを欠いているらしい。散漫なのだ。雨がやんだようだ。過労としてそのつもりでいるらしいが、何かを思っているうちに長い時が過ぎ去る。何も思っていなかったのだろう。無気力に負けて考えがまとまらない。そして実際に語っていることはそれとは違い、中身を伴わない。それの何が違っているというのか。君はそれが何だか知っているはずだが、それを知るためには何をやったらいいのだろう。さらに無駄な年月を過ごすべきだ。冗談でそんなことを述べているようだが、当人はそのつもりになっている。まさかそれを信じているふうには思えないが、わかっていることについて、これ以上は何を述べているつもりもない。嘘だろう。そしてわけがわからない。いつものことであり、それで少しは話が進展しているつもりになれるようだが、きっと気のせいだろう。何となくそんなことを述べていたのだ。今はそう思うしかない。やめる以前に態度を決めかねているようだ。それで曖昧なことばかり記しているのだろうか。曖昧なのではなく、無意味なのだ。それもわずかに違っているかもしれない。とりあえず集中が持続しないようだ。気持ちのどこかで何かが外れている。それで答えが返ってこないようなことを述べている。何を答えてほしいのかわからず、君はそれだけではないと思いたいのだろう。頭の中が炸裂している。それも嘘かもしれず、そんな幻想を記している気でいるのだろう。大げさなことを述べて、気分転換がしたいようだ。わずかに話が前進しつつあるらしく、いつまでも迷路の中に留まり、何も考えずに成り行きを見守っているわけにはいかなくなり、きっとそれも嘘だろうとは思うが、何かのストレスがそうさせているように思われ、そのつもりもないのにそんなことを述べ続け、君は誰でもない誰かのようなことを述べているらしい。頭の中の炸裂はどうなったのだろう。それで生身の体が砕け散るようなことにはならない。たぶんそれも妄想のたぐいだ。では妄想とは関係のないことを述べられないのか。他に何が気になっているわけでもなく、テレビでも見たら何かの結果がわかってしまう。知りたかったら見たらいい。それは何でもないことだ。君の都合で世の中が動いているわけではない。そしてそれは他人には関係のないことだ。その時の気分がわからないが、そこは何かの場所だ。君が何をする場所でもないが、徐々にそこへ近づいていく。近くに馬鹿の天国という場所があるらしいが、それとこれとは関係ないようだ。たぶん君が語る番ではない。聴いているのは何かの音楽だろう。誰かがどこかでそんなことを述べていたらしく、意味不明な言葉を継ぎ足して、それとは関係のないただでたらめに仕立て上げる。それは誰の本望でもありはせず、誰かの望むような成り行きにはならないわけだ。その場の状況がそうさせているのだろう。だからもういい加減にやめたらどうかと提案している。何の話なのだろうか。先が見えてくるとついふざけてしまうらしい。悪い癖だが、それで救われている部分もありそうで、何かを続けていくには息抜きが必要だ。いいわけがましく、そんなつもりでいるらしく、ひとまずそこで何とかできたように思えてくる。それがそこでのやり方なのだから、今は黙ってそれに従って、そのようなことを述べていなければならない。冗談であってもかまわない。それ以上は何も進展させられないだろう。話になっていないようだ。気持ちが感情を押さえ込んで、それ以上の暴走を食い止めている。意味不明なままではどうしようもなく、もっと何か具体的でまともなことを述べていたいような気もしてくる。


10月19日

 今は終わりから遠くない。何かが終わろうとしている。そんな予感がする。終わりは何かの手前まで来ている。幻想の彼方ではない。終わりが始まろうとしている。そこからどこへ行くこともないだろう。たぶん影はそんなことを語りにきたわけではない。君に引導を渡しにきたのかもしれない。君がはぐらかしと無視によって認めようとしない当のものを黙って目の前に置いて去っていったらしい。だが興味があるのはそういうことではない。君は終わりから逃げているのだ。自らの言語的限界から背を向けている。すべての機能を使うほどお人好しではない。だが背水の陣からはほど遠い。わけのわからないことを述べているに過ぎず、文と文の間に意味的なつながりを構築しようとしているわけではない。その辺のところを勘違いしないでほしい。幻想は何もない。幻想に過ぎないのに言葉がそれを否定する。何かの到来を拒否している。それが嫌ならあきらめろ。完結させることなど眼中にないようだ。また漠然とした思いにとらわれる。これから先は何をどうやったらいいのか。視野を狭めて目的を見出そうとしている。それは何をやるための目的なのか。頭の中にもやがかかっているみたいだ。何を思いつこうとしているのでもない。気分が乗ってこないようだ。暗黒の大地に神が降り立つ。幻想から導き出された言葉ではない。画面を見ているに過ぎない。何かから他の何かを連想しようとしている。安易な考えに染まっているようだ。そんな都合良く別の事象が見えてくるわけでもない。ここにあるのは現状だ。早くそれを済ませて次に進みたいらしいが、やはりそういう成り行きではない。つまらなくてもかまわないはずだが、それでも言葉が出てこない。容易ならざる事態に直面しているわけか。笑ってしまう。作り笑いが引きつっている。そういうやり方では困る。灯台もと暗しだ。何のたとえなのかわからない。まだ苦し紛れの段階ではない。反応する言葉が偏っている。でたらめな言葉の羅列なのかもしれず、意味に結びつかないのはもちろんのこと、投げやりな印象を受ける。これではまずい。時間はまだあるはずだ。有り余っているわけではないが、冗談ばかり述べていてはもったいないだろう。この世界と真正面から向き合うのが怖いか。誰の台詞なのか。わざとらしい支離滅裂にも飽きているはずだ。まっとうなことを述べるのがつらくなる。嘘なら気楽だろう。すべてがそうなるわけではない。誰かの論理に従わされる。まだまだ君は甘いのだ。だから余裕も人一倍無駄遣いできる。それの何が余裕なのか。余裕があるから強がりを言っていられるわけか。足下をすくわれてしまうだろう。君にとっては望むところか。下手な会話もどきでごまかしている。緊張感がない。緊迫した状況ではないのだろう。誰かの心がすり減っているようだ。幻想に過ぎない。またしてもそういうことらしい。やればできることをやろうとしない。いつまでたってもそういう状況下で暮らしている。事を急ぎすぎているのだろう。性急に結果を求めるあまり、途中の風景を眺めている余裕がない。確かそこに答えが示されていたはずだ。答えを見落として結果も何もあったものではないか。間違った結果ならそれもありだろう。しかしわざと間違えて何をもたらそうとしているのか。それ以前にいったい何を間違えているつもりなのか。君に問うても無駄だ。完全にやる気を失っている。いずれはもと来た道へ戻っていくだろうが、それまでに無駄な言葉を費やさなければならないようだ。いつまでそこにとどまるのかわからない。延々と留まるほどの忍耐はないはずだが、精神的にかなりの辛抱強さを身につけてしまったのかもしれず、執拗に同じような言葉を記し続ける可能性はなきにしもあらずだ。だからしばらくはつまらなくても仕方のないところか。そういう言語的な展開を繰り返すことで、そこから少しずつずれていくような感触を得られればしめたものだ。決して思惑通りにはいかないのは承知するとしても、少しは変化する可能性を信じないと、気が狂ってしまうだろうか。そんなやわな精神でもないだろう。君にはわかっているはずだ。戯れ事に過ぎないことをやっているだけなのに、それで思い悩むなんて嘘に決まっている。そんなふりをしているだけだろう。本気にならなければそういうことになる。冗談でそんなことを述べているつもりなら、それでかまわないのだが、君にとっては何がかまわないのか理解できないのも無理はない。言葉は君とは関係ない。本気になる必要もないのに、この世界について考えているのだから、それはどうでもいいことであると同時に、何かを知りたいという切実な思いから来ていることだ。誰かはそうに違いないと感じつつも、それを真に受けられない立場にあるようで、何事も冗談にくるめて述べなければ真実には近づけないという偏見にとらわれている。だがこれまでに一度たりとも真実に近づこうとしたことがあっただろうか。嘘ばかりついてその場の照れ隠しに見せかけてきただけではないか。それがその都度導き出してきた言葉の連なりだとするなら、そこから何がわかるのか。わかろうとしなければわからないようなことは述べていないつもりだ。誰がそう述べているのだろう。誰かがそれを記しているようで、それをくだらないことだとは思うまい。


10月18日

 わからないことはどこまでもわからない。何をわかろうとしているのかわからないということだ。話になっていないのだろう。君にはできないことを誰かがやっていて、君はそれを利用して言葉を連ねなければならない。それにしても音楽の音量がでかすぎる。幸せを先取りしすぎるのはよくない。その前に君は何かを広めなければならない。言葉ではない。わかっているのはそういうことだ。君はそれを嫌っているようだが、嫌う理由がわからない。現状がどうあろうと、それに組しなければ意味がない。積極的にしろ消極的にしろ、何かに関わるべきなのだ。何かの結果に一喜一憂するほどでもないが、とりあえず現実の中に意識があると思っている。そこにある種の感情が芽生えているようだが、君の感情ではない。ただの感情という言葉が記される。わざと嘘をついているようだ。見え透いたことを述べている。他に何も語ることがないのは明白だ。他など何もありはしないが、他以外もない。要するに何もないということだ。誰かが冗談でそんなことを述べているようだが、その心の中を覗き込むことはできない。誰が何を騒いでいるのだろうか。埃が宙を舞う。関係ないだろう。獲物を探しているわけではない。ではどんな言葉を広めようとしているのか。冗談の範囲内で何かを述べている。それだけだろう。他には何もないはずだ。断片的な台詞を思い出す。意味など何もありはしないが、時間稼ぎにはなりそうだ。人は思わぬところでくつろいでいる。何かに見せかけて商品の宣伝をしたいだけなのだろう。スパムブログというやつか。くだらぬ世の中だ。やってる本人たちは遊び半分本気半分なのだろうが、あわよくば金儲けができればそれに越したことはない。ところで君はそれの何を批判したいのだろうか。わざととぼけてみせる理由はない。馬鹿にしたいのはそういうことではないはずだ。本当は何も馬鹿にしたくない。感情がそうさせるらしい。何かを馬鹿にして勝ち誇る姿が不細工だ。勘違いでしかない。せこさのただ中に人間の弱さがかいま見られ、それに関して何を述べようとも思わないが、何となく哀れな印象を与える。他人とのやり取りのことごとくがけんか腰に見えてしまうのは、自分だけがすべてであることと関係がありそうだ。見慣れたいつもの風景の中で肩肘はって生きていくことが苦にならない。調子に乗って深みにはまらなければいいが、それも運命だと思ってあきらめるべきかもしれない。他人から馬鹿にされるのを極端に嫌うあまり、その狭い視野で物事の一面しか捉えられない。ある意味で単細胞タイプなのだろう。陰口を叩かれながらからかわれるのがオチか。馬鹿にしたければいくらでも馬鹿にすればいい。自分は本当に馬鹿なのかもしれない。そう思うしかないような結果がもたらされている。君が担うべきなのはそういう話の中にある事実であり、今さらそれ以外の何をわかろうとしても無駄だ。そこからいつものように意味がわからなくなるが、その場しのぎの言説としてはリラックスしている印象だ。何かをあきらめているに違いない。無駄に語ることには慣れているのだろう。嘘を述べても何とも思わない。真実に至らないだけのことだ。これから語ろうとしている内容が問題なのではない。すでに意識は言葉のつらなりから遠ざかりつつある。興味を保てない。文章が君の介入を拒否している。あり得ないことだ。すでに風邪の苦しみは忘れてしまったらしく、体力と気力が回復しつつあることを実感している。それもあり得ないことか。あり得なければどうなってしまうわけか。それも冗談かもしれず、冗談になっていないのに冗談だと述べるしかないようだ。状況的にはそうなのであり、それ以上に何かを真剣に語ることはしない。中途半端がちょうどいい。だめのようだ。そこで挫折する。確かに挫折するが、それでどうなるわけでもなく、相変わらず無駄な言葉が並んでいく。自虐的な言葉の並びになる。だからわからないのか。理由になっていない。そんな精神状態で何を予測しても的外れだ。君は何に投資していたのか。冗談の続きではなく、それほど間違っているわけでもない。しばらくは様子見の段階にとどまる。何かの熱が冷めてしまったのかもしれない。自業自得なのだ。できないことをやろうとするからそうなってしまう。だがそうならざるを得ないのが苦しいところだ。無理なのだろう。妙案などありはしない。何をやっても無駄だが、何もやらないのは致命的な結果をもたらす。そうなってしまえば楽しくなってしまうだろう。何がどうなって国家が滅びるわけではない。そういう思い込みがあることは認めよう。本当は何もないわけではなく、それについてはなるべく語らないようにしているのかもしれない。しかしそれとは何だろう。何も思い浮かばないのだから、もとからそれなどなかったのではないか。そういうことなのかもしれない。どうもその時の記憶が曖昧だ。何を語ろうとしていたわけでもなかったかもしれない。そんなふうにしてひたすら中身のない文章を記しているようだが、君はその後どうなってしまうのだろうか。さらに遅れてしまえばやがてやる気をなくてやめてしまうだろう。たぶんその時が来るまでそれらの作業を続けていればいいのかもしれない。何もなければそうなってしまう。


10月17日

 何かが終わろうとしているのに、いくら語ってもすっきりした気分にはなれない。気に入らないことならいくらでもあるだろうが、まだそれについていくらも語っていないはずだ。この世界の至る所が不具合だらけに見えるのは、それについて考えるためのきっかけとなっているからか。そこに何か問題があって、それを解かなければならない、という使命感を生じさせている。そんなのは嘘かもしれない。誰かは要らぬお節介を焼きたいわけか。お仕着せがましい態度はいただけないが、独りよがりなことをそれほどやりたいわけでもない。たぶんそのとき君は良心的な行いを嫌うだろう。時には不意に何かを思い立ち、画面に目を近づけるが、その先には何もない。決してそれ以上執拗に語ることはしない。ではいったい何について述べているのか。わざと文章的に破綻させているようにも感じられ、結果としてまともな内容を導き出せずにいるらしい。言葉を記しているのが君ではないのだから、それも結構だ。では誰がそれらの言葉を記しているのか。誰でもなければ君でもない。君には見えていないものを言葉によって見せようというのではなく、ただ語っているように見せかけているのでもない。本当は誰かが適当に語っているのではないか。画面をよく見れば、そこに言葉が記されているような気がする。誰かが意識の空白を意識しているだけかもしれず、それがどういうことかわからないようだ。どういうことでもないのだろうが、黙っていればそういうことなのだろう。黙っていなければ誰かが何かを語っているはずだ。それを語らなければ沈黙の時が到来する。また何かの周りを同じような言葉が巡回しているらしい。そんなやり方で言葉は尽きないのかもしれないが、それを記している間は黙って記しているだけだ。しかし中身がない。それを意識できないだけだろう。冗談のたぐいかもしれない。それらの悪戦苦闘の軌跡が冗談に思われ、それの何がかまわないのかを知りたくなるが、何もむきになる必要は感じられず、今のところはそれについて語るつもりはないらしい。本当は何も語れないのではないか。誰かにとってはそれが偽らざる実感となるだろう。だから冗談ではないらしい。少なくとも今のところは冗談とはならない。それどころか情けないと感じているのではないか。現にそこから先に言葉が進まない。昔の記憶が急によみがえってきて、誰かのやる気を打ち砕く。神はそんなていたらくでは困るのだろうか。誰が困ろうと困るまいと、やはり今のところはわからない。心は何を導き出そうとしているのでもないらしい。だから今は黙るしかないようだ。黙して語らず、何を語ることもできなくなり、これまでに自らが語っていたことが無に帰すような状況を迎えている嘘に気づく。この場合は嘘ではなく現実ではないのだろうか。しかし現実とは何なのか。君が体験しつつあるそれらの時空が現実そのものなのではないか。少なくとも誰かの思い込みの中で現実の出来事が並べ替えられて再構成されているわけではない。たぶんどこかで見かけたそれは映画の広告だろう。赤壁の戦いの頃の日本は弥生時代だ。邪馬台国の卑弥呼がどうたらこうたらしていた時期だ。例えば日本の鎌倉時代の頃で、中国ではすでに元王朝だ。その千年前が三国志の時代であり、日本史では鎌倉時代以降がかなり長いが、中国史では元以前がかなり長い。元の後の王朝は明と清しかなく、後は中華民国と中華人民共和国で、すでに近現代なのだ。君はそこからどんな事実を導き出したいのか。たぶんそういうことではないのだろう。トロイア戦争と赤壁の戦いが時期を数年隔てて同じようなスペクタクル映画になっていたらしい。それはあと数十年後に感じられる認識だ。その頃には両者ともに忘れ去られた映画となっているだろう。だが馬鹿にするような対象を、未来の認識を先取りしながら馬鹿にするなんて荒唐無稽もいいところだ。それ自体が嘘の塊に違いない。今から二千年後にニューヨークの同時多発テロとアフガン・イラク戦争を題材としたスペクタクル映画が撮られたらおもしろい。ブッシュとビンラディンが恋敵になっていたりしたら大笑いだろうが、今から二千年前に事件が起きていたら、案外そういうことになっていて、百億の制作費をかけてそれらの事件を大げさな娯楽超大作としてしまうのかもしれない。それらの何が正気の沙汰でないかは火を見るよりも明らかだが、現代人の大半はそうは思わないだろう。ひょっとしたら君もその映画を見て感動してしまうかもしれない。まったく時代に限定された認識なんてその程度のものなのはわかっているが、それでもそんな娯楽にうつつを抜かしている誰もがそのことに気づいていないのは当たり前のことで、それをことさらに批判するのもくだらないような気がして、何となくそれらは苦し紛れの冗談のような気もするのだが、今は馬鹿げたことでも述べていないと言葉が続かないようだ。君には君のやり方があるらしい。君でないとそんなところまで気づいたふりはできない。やる必要のないことをやりながら、述べる必要のないことまで述べることによって、何とか言葉的なまとまりを確保しようとしているわけだ。要するに馬鹿げているのは君の方だ。それも技術的な方便の一種なのだろうが、かなり回りくどい印象を拭えない。


10月16日

 ここ数日でまただいぶ遅れてしまったようだが、やっと事務系の仕事も一段落ついたようで、これで少しは言葉を記す暇ができれば幸いだ。喘息気味の状態のまま何とか家路につくが、相変わらず何を想うこともない。過去は過去で今は今だ。それ以外は未来に起こる出来事となるだろう。未来へ向かって何を想い描くこともなく、未知の体験を期待するほど状況は甘くないようだ。いつもの日々の中でいつもの作業を続けているだろう。ありふれた時間が過ぎ去り、さらにありふれた時間が到来する。君が退屈に耐えている間に世の中は確実に移り変わり、やがて何もない日々のただ中で、時代遅れの感性によって心が固まっている自らに気づくはずだ。だがそれで何を否定したつもりになれるのか。君はまだ何かにその辛抱強さを試されているのだろうか。たぶん今は試練の時ではない。放っておいてもどうにかなってしまう。ゲットーの少年たちは成長してどこか遠くへ向かって歩み出す。彼らが誰かの物語の餌食となることもあるだろう。世界は狭くて広い。隣人が何を考えているかに誰もが興味を抱けるわけではない。もう君のことを忘れてしまいそうになる。さっきまで誰と会話していたのだろうか。架空の対談ではあり得ない。記された言葉が醸し出すのは現実に対する違和感だけか。君が何かを感触を得るとしても、それは誰の思考が反映された結果でもない。でも確かさっき何かを思いついたはずだ。それは過去の出来事だ。誰かはまだ考えるつもりのようだ。この世界について無駄に考察する。無駄ではないと思いたいのだろうが、結果的には何ももたらせないので、それは無駄な思索に違いない。だから今は何に耽ることもない。一安心したいのだろう。早く終わらせたいのに終わらない。いつまでたっても中途半端なことを述べている。そういう性分なのだろう。そうではないと思っていたのはいつの日のことか。君についてくるのは砂埃と虚無の影だけか。何が言いたいのか。文句をつけるのは筋違いだ。すでに言葉を記しているではないか。わかっているのはそういうことだ。わかっていないことは山ほどあるが、それの何を気にかけているわけでもない。ただ誰かが言葉を記している。ひたすら語れないようなことを語ろうとしている。考えるより先に何を記せるというのか。まだそれに気づいていないだけだ。そう思い込みたいのだろう。現に思い込んでいる。君には何もできない。やり遂げようとしているそれは何でもないことだ。君がそれを背負っているわけではない。そこに何か克服不可能な課題があるようで、それで頭がどうにかなっているらしい。何とかしたいのはやまやまだが、誰かに何とかできるほどやわな困難でもないらしい。その先に何かが待ち構えているのだろうが、現状ではそこまでたどり着けそうもない。かなり眠たくなっている。昼の作業で力を使い切ってしまったようだ。人はなぜ働いているのだろうか。なぜ生き残ろうとするのか。何もそれに対する単純な答えを探しているわけではない。わけのわからない制度の中で、その不合理な手続きに振り回され、自ら何をやっているのかわからなくなり、現実にやっている作業の意味を理解できなくなる。なぜそんなふうに語ってしまうのか。パット・メセニーの音楽に心癒され、そんなこととは無関係だが、それでもかまわないとも思わないが、何とか正気を保っているような気になる。少なくとも気が狂っているわけではないらしい。眠気に負けてついうとうとしながらも、とりあえずそれを終わらせて一段落付けようと思う。何を述べているのでもない。架空の世界ではいつもそうだ。架空でなくても世界には違いない。何を述べているのでもなくても、何かしら述べているつもりになれる。嘘だと思ってみてもかまわない。ここは氷の世界ではない。感動的な話をしたくてうずうずしている輩はその手のテレビ番組でも見ればいい。君にとってはすべてが無駄な話だ。何について語ろうともそれは変わらず、無駄で無意味な試みを肯定したい。ひねくれ者でも反骨精神の持ち主でもなく、日々の単調な作業で心をすり減らして、何を目の前にしても無感動でいられるわけもないだろう。涙が出てくるのはあくびのせいだ。あくびとくしゃみと乾いた咳が順繰りに出てくる。誰かが見ているのはそんな光景なのだろう。だが目の前でどこの誰が死にかけているわけでもない。誰かは完全に眠ってしまったようだ。ついさっきまではそうだった。そして目が覚めたら周りの風景が一変しているわけでもなく、誰かの余興に何を想うこともない。おかしな言葉の並びだ。どうでもいいならもっと違ったことを述べられるはずだが、実際にはそうならない。近頃は世界情勢からも遠ざかり、中途半端に政治批判を展開することもなく、そうかといって何に呆れているふうもなく、馬鹿にすべき対象からも遠く離れ、何でもないことをひたすら述べ続けているように思えてくるが、そこにどんな心境の変化があったわけでもないらしい。いつまでたっても何も思わないようで、それは心ではなく、ただの抜け殻に違いない。まるっきり空疎ではあっても、何となくそれでかまわないような気がして、何を改めようとも思わないのはどうしたことだろう。それが何かの精神的な境地なのだろうか。そうだとしても何に感動しているわけでもない。


10月15日

 誰かはいつまでも自分のやり方に固執しているようだが、そこに違和感がある。それはどういうことなのか。無理があるということだ。そして挫折して結果的に元の木阿弥となっている。それがわからないと思いたい。いったい何がわからないつもりなのだろうか。誰かは孤独なのか。深夜にめまいがしているようだ。気がつけば目が覚めている。付け込む隙はいくらでもあるようだが、付け加えるべき言葉が見つからない。そのついでにわけのわからないことを述べるとすると、何かと何かを対立的に捉える語り方に違和感を覚える。そこで迷ってはいけないのだろうか。そこから何が生じているのだろうか。未知の領域を歩んでいるわけではない。何かを見失っていることは確かだが、それがわからないようだ。そんなやり方で言葉を連ねている。そんなやり方とはこんなやり方なのだ。それ以外は何もわからない。やり方ではないのかもしれない。とりあえず何かについて語らなければならないが、何か批判するようなことでもあるのだろうか。それは安易な考えだ。では他に何ができるというのか。何もできないからこんな状況になっているわけだ。本当に何もない。なぜか黙って画面を見つめている。誰かが目指しているのは誰にもわからないことだ。そう述べている意図もわからない。要するに何も思いつけないということだ。君はさらにあきらめているようだ。そして決断の時がやってくる。言葉を弄び過ぎだったのだろう。もはや何について述べているのでもない。君には何もわかり得ないだろう。しかしそれでもあきらめきれないようだ。少なくとも誰かは何かをわかりたいらしい。現状を理解したいのだ。この世界がどうなっているのか、それを言葉で説明してみたい。君には無理なことだ。そういう決めつけはよくないだろうか。ではやってみなければわからないと述べるべきか。冗談でそんなことを述べているらしい。冗談でなければ正気でないのだろう。いったい何について語っているのか。君はそれを知りたいと思う。そして文章は次第にでたらめな内容に近づいている。それ以上の何を望めるというのか。君のおかれている現状では何も望めないだろう。そう思わせる何かが現状の中に潜んでいる。君にはそれがわからないのか。わかるような状況にはなっていないのだろう。それで不気味に笑っているわけなのか。笑う理由がわからない。それは照れ笑いや苦笑いのたぐいなのか。誰かの忍耐にも限界がありそうだが、なぜひたすら耐え続けるのだろうか。ただ黙って意味もなく語り続けるわけにはいかないらしい。そこでは絶えず語る理由が求められているはずだ。少なくとも誰かが構成しようとする作り話の中ではそうだ。それはくだらぬフィクションに違いない。いったいどうやってここに来たのだろうか。まだ迷路の中で道に迷っている。わかりやすい過ちを繰り返しているようだ。ひたすらそんなことを語っている。この世界はどうにもなっていない。それは確実に言えることだ。人々はまともな神経でいるようだ。そこにあるのは狂気ではなく、常識のたぐいだろう。視野が狭い。誰がそれを誇示しているとも思えない。もう意味的なつながりなど無視してもかまわない。そうなってしまうのだからしようがない。無理に言葉をねじ曲げて記すのはやめにしよう。開き直って無為なことを述べていればいいのではないか。君に何ができるというのか。つまらないことの繰り返しによってこの世界は成り立っている。そう思いたければ思っていればいい。君にはそれとは別の可能性が宿っていたはずだが、出し惜しみしているうちに出なくなってしまい、今ではそれが何だかわからなくなっているようだ。なぜそれを間違えてしまうのか。たぶん誰に尋ねているのでもなく、そこに誰がいるでもない。相変わらず何もわからないのだ。君にはそんなことしかわからない。それは何でもないことであり、心がどうにかなってしまった証のようでもある。何を述べても無駄なような雰囲気の中で、虚無は君に何を述べさせようとしているのか。そんなことがわかるわけがなく、やはり君には何もわからない。そんな精神状態であわてて何を訂正してもわけがわからないだけだ。後から言葉を訂正するのは君の役目ではなく、君は間違ったことを述べ続けるのが結果的に真の役割を担っていることになるわけだ。理由が示されていない。文章のどこにも君がそうする理由が示されていない。それはどういうことなのか。何もないということだ。何ができるわけでもなく、何もできないわけでもない。それは君が一番よくわかっていることだ。それ以外に適当な言葉を導き出せない。何も思いつかないのだろう。ならば君はそこで終わってしまうのか。何が終わろうとしているのかわからないが、とりあえずわかったふりをしている。君に何ができるだろうか。他には何もできない。では誰かは君に何を伝えようとしているのか。もう終わりというのは本当だろうか。誰かが事件に巻き込まれている。そんなことは日常茶飯事だ。君が述べようとしているはそれではないと思う。だがそれに対して誰が何を否定しているのかはっきりしない。まだ無駄に言葉を連ねる必要があるのかもしれず、もう少しの辛抱なのだろう。その後に何がやってくるのか定かでない。君にとっては何でもかまわないはずだ。


10月14日

 何だか相変わらず切羽詰まっている。他にやらなければならないことが多すぎて、言葉を記している時間がないのだろう。苦し紛れに記してみても、内容も空疎だ。それでかまわないならそんなふうに語ればいいのだろうが、何となく物足りない気がしてくる。しかし他に何も出てこない。そしてそれが当然のことだと思っている。たぶん今の君には何かを語る必要がないのだ。必要がないのに無理に語ろうとするから、そうなってしまうわけだが、それでわざとらしく思い悩むわけだ。フィクションとはそういうものであり、そういう嘘をついているから、それが空疎な話を構成する。何やらわかったようなことを述べているが、何を把握しているわけでもなさそうだ。無知であることを楽しんでいる気配さえある。調子に乗っているのだろう。しかしそれの何が認められないのか。現状に甘んじている自らを馬鹿にしているわけではない。馬鹿にされている状況を利用しなければならない。それでかまわないのだろう。意味不明に思われるかもしれないが、それで何か適当なことを語っているふうを装えるなら結構なことだ。意地を張るようなことではなく、本当にわかっていないのかもしれない。わかっていないならなおさら無知を装うべきだ。調子に乗るような内容ではない。いつまでも謙虚な態度を装っているとどうなるのか。その辺がわからないところだが、他人のやっていることを馬鹿にしたいのかもしれない。自分がすべてなのだろう。それらの惨状を考慮に入れていない。そんなわけで彼からは距離をとっておくべきなのかもしれない。その場の流れ的にはそうなのだろう。それに関して具体的なことは何も記されない。君がやっているのはそういうことだ。何かをうまく回していかなければならないが、それでうまくいっていることになるのだろうか。そう思い込んでいるうちはそうなのだろう。少なくとも何かを語っていることになる。それだけが君の狙いではないのだろうが、そんな現状を維持していることだけは確かなようだ。そして今日も疲れて寝てしまい、気づいたら翌朝になっている。たぶん休日がないのだろう。何かの冗談でそんなことを述べているに違いない。君にはそれがわかっているのだろうか。何かの成り行きに巻き込まれているわけだ。それ以外に何がもたらされているわけでもなく、ひたすら無駄に考え続け、自らが何をやるべきか悩んでいるらしい。たぶん何もやらなくてもかまわないのだろう。誰にできるわけでもないことが君にできるわけがない。だから何もできなくなってしまっているわけだ。君にはわかりようがない理由で、君はそこにとどまっている。本当に何も語らなくてもかまわないのだろうか。ただ課された作業をこなしていれば日が暮れて夜になるだろう。夜になれば眠くなって寝てしまい、目が覚めれば翌朝だ。そんな日々を繰り返して、自身の寿命が来るのを待っていればいい。死ねば退屈な作業から解放されるだろう。そんな作り話ではつまらないか。つまらなければ、何か死ぬまでにやるべきことでも考えていればいい。それが暇つぶしになるとは限らないが、何も考えられないなら、考えようとしている間は暇つぶしになる。だから暇つぶしになるようなことを考えていればいい。緊張感がまったくない。ひたすら同じような言説が繰り返され、目指しているそれが言説以前の何かであることを忘れさせる。とりあえずそれに関して何も思いつかないようだ。それらの無内容はすでに予定調和の展開になっている。語っていることと現実の日々で考えていることの間に縮めることのできない隔たりを感じている。それでも笑っていられるのはどういうわけか。そのすべてが君には関係のないことだからか。何かを記すためには欠かせない精神の集中が持続しない。近頃はすぐにあきらめてしまう癖がついてしまったようだが、それでも遅れを取り戻せる機会がやってくるのをひたすら待たなければならないのだろうか。怠惰な雰囲気に流されて、さらに遅れてしまうような気がしてくる。君にはできないことだ。だからそれ以降の話の展開を望めないらしい。限界はとうに超えているはずだ。この世に夢や希望があったりするのは幼稚な願望がそうさせるのだろう。人はその場でしゃがみ込む。自らが何もできないことを悟り、目的を見失うことをあきらめる。君には目的があり、その目的を達成するために生きているはずだ。誰かの作り話の中ではそういうことになっている。君はその作り話の内容を知りたくなるが、君には関係のないところでその作り話は語られているので、知ることができない。いったい君の目的とは何なのか。誰がそれを知っているのだろうか。そのすべてがフィクションだとは思えない。それに関してはまだ何も語られていない。君に語ることはできないだろう。君に関する話を知っている誰かはどこにいるのか。それらはすべて無駄な言葉だ。話になっていないのだからどうしようもない。君はそこで語ることをあきらめている。そしてその場に居合わせた誰も語れなくなる。言葉が不在なのだ。心が沈黙に押しつぶされ、声が出てこない。そんな状況を想像できるだろうか。何を想像したからといってどうなるものでもないだろう。何もないのだから仕方がない。そういう思い込みに心を支配されている。


10月13日

 何となくわからなくなる。それはいつものことだ。まずそう記さなければ文章が始まらない。特に今日はそうだ。何にかまけているわけでもないが、言葉を記している暇がない。だがそういういいわけは通じないだろう。実際に今ここで言葉を記しているはずだ。何を守ろうとしているのでもない。でまかせにそんなことを述べてみるが、意味がわからない。やはり何かが違っているのだろう。勘違いのたぐいだ。それについて何かを語ることはできるが、現実を変えるには至らない。誰かがそんな現実について語っている。やる気がしないようだ。そして何を語っているわけでもないことに気づく。体がだるい。何を考えることもできなくなり、横になっていると気が遠くなる。そういう嘘も時と場合によっては真実に迫っている気がしてくる。無理を強いているのだろう。すべてが悪化しているのかもしれない。そこから立ち直るのには長い年月がかかりそうだ。この先において何がどうなろうと、それを記すことははない。この世界には様々な失敗が渦巻いている。それらの失敗がそれらの状況を構成している。そしてここに今がある。数日前の今だ。フィクションはそういう内容によって構成される。空疎だろう。何を物語っているとも思えず、何かが開店休業中のようだ。それでもまだ言葉を記すつもりらしい。額の傷は治らないが、腕の傷跡は数ヶ月で消え去ろうとしている。首の傷も癒えてきた。かゆくなると掻いてしまうから治らないのだ。それも時間の問題だろう。そう思いたい。それで何の話をしているつもりなのか。数ヶ月前に虫に刺された痕が化膿してから、様々な体調異変に悩まされているようだが、そんな状況を語って何をもたらしたいのだろうか。どんな意図があろうとなかろうと、何がもたらされようと、そんなのは何の問題にもならない。誰が何を蒸し返そうとしているわけではない。何とかしようとしているのだ。そして徒労に終わろうとしている。まだ何もかもが終わっていない。終わろうとしているのに終わっていないようだ。何かの途中で眠ってしまったらしい。起きてしまったら今見ている夢の内容を忘れてしまうだろう。それはこそくなやり口に違いない。誰かが冗談でそんなことを述べているようだ。いつもの成り行きに染まっているらしいが、現実はどこにあるのか。少なくとも夢の彼方にはない。文章には使いようがない状況だ。経験を捨て去るべきか。抽象的なことを述べようとしているが、わかっていないらしい。内容とは何か。それは心が安らぐためには必要な迂回路なのか。誰かにその先を語ってほしい。君には無理なのだろう。すでに早朝になっている。何とかそれらの行き詰まりから抜け出なければならないが、まだ辛抱が足りないらしく、安易に言葉を並べて切り抜けようともがいている。だからこそくなやり口だと非難されているわけだ。誰かが思っているのはそんなことのようだ。君にとってはわけがわからないだろう。それで何を見出すつもりなのか。他の誰かのアジテーションをすり抜け、挑発に乗らないように身構えている誰かの背中を押して、奈落の底に突き落とす。わけがわからないまま、誰かは夢から覚めて虚しい気分になるだろう。何かがそこまで到達していないのだ。言葉が届かない。何とかしようとしている気持ちはわかるが、それでは支離滅裂の極みだろう。気に入らないのならそこから退場してしまえばいい。まだいくらか心に余裕がありそうだ。何かを何とかするためにここまでやってきた。作業を続けると傷口が汗で濡れて、かゆくなって思わず掻いてしまうらしい。今の君にとっては何もかもが重労働なのかもしれない。まだそれらの痛みに耐え続けている。何とかしなければいけないのだろう。現に何とかしているではないか。だがそれは自己満足の範囲内で勝手なことを述べているに過ぎず、客観的な評価からはほど遠い内容だ。誰かがそれでもかまわないと思っているようだ。君の認識では当たり前のことを当たり前のように述べているだけだ。それが現状を呼び込んでいる。それは自己言及的な現状であり、誰かはそれが気に入らず、自分を見失って狼狽しているわけではないが、そういう言葉はまるでとってつけような不自然さを醸し出す。それでもその気になってそれらの作業を終わらせようとしているらしい。結果的には何とかなるものなのだろう。そう思いたいだけで、現実には惨憺たる結果を招いていることは承知しているが、君にとってはそれでも一安心なのだろう。何とかなったような気になって、その次の段階へと進みたい。朝起きたらそんな夢を見ていたことに気づき、愕然とするわけでもなく、それらの驚きようのない平凡さを呪うわけでもない。それがすべてで当たり前のことなのだから、黙ってそういう成り行きを受け入れている現状がある。それでもそこまでやってきている。そんな事実に安心したいわけで、何とかそれを通過できたことを何かの糧としたいのだろう。気分的には壮快といかないまでも、何ものにもとらわれない心境に一歩でも近づけたように思い込み、そこから自己満足を得ている。虚しいことだが仕方がない。だが少なくともそれでわけがわからないわけではない。どんなこじつけをも拒否して、自然にそんなことを述べている現状を大切にしなければならないのだろう。


10月12日

 何となくそんな成り行きでこんな状況となっている。相変わらず言葉を記そうとしているようだ。話に進展はない。それは話ではないはずだ。その件に関して何がわかっているわけではない。無駄な言葉が連続している。たぶん何もないのだろう。そこに誰かの感情が表れている。先は長い。話になっていないようだが、そういうことだ。パット・メセニーの音楽をどう思う。そこから癒しを得ている。そういう作用を否定してはまずいのだろうか。少なくとも否定的な作用ではない。年を経るとそうなってしまうのだろうか。イヴァン・リンスも癒し系の音楽に移行している。若い頃は怒れる若者的な紋切り型に染まるのが社会の習わしなのかもしれない。だから若い頃から癒し系の音楽をやっている者は信用できないか。別にそういうことではないだろう。先が見えないようだ。それとは関係のない話になる。年寄りになってもとんがった音楽をやっている者もいるだろう。たわいない戯れ言ではつまらない。お前には何が見えているのか。君が引きつけている印象は君のそれではない。間違った機会を捉えて言葉が繰り出され、本質から外れたところで戯れ言を文章の中に忍ばす。もはや特定の何について語っているのではない。何かを用いてそこまでたどり着こうとしているわけだ。視力が一方的に衰え、すべてが見えているのに何も見えないとうそぶく。使っている言葉が間違っているのは明らかだ。何を語るのもセンスの問題らしい。そういう割り切り方が話の中身を無視する温床となる。だがそれも現状を何とか変えようとする表れに他ならない。それで何を考えているのか。誰がそれを知りたいわけでもないだろう。そういう憶測が怪しい。それでも少し調子に乗ってきたようだ。何を何とかしようとしているのか。そういう無駄な問いかけならお手の物だ。馬鹿らしい。その辺で息切れのようだ。冷ややかな気配を感じ取り、意識が駆け足で高所から降りてくる。わけがわからない表現でごまかしているように思える。誰かから発せられた相互作用なのだろうが、それで何がどうなったとも思えない。危機を回避しようとするやり方が間違っているのではないか。それで何を回復させようとしているのか。少なくともそれが景気でないことは確かなところだ。何かのブームに乗り遅れているのかもしれない。そして今はそうならないことを願わずにはいられない。だが時が経てば画面が暗くなり、やがて休眠状態になるだろう。それは誰かのまなざしだ。絵の表面上からじっとこちらを見ている。受け入れているのは、そういう状況ではない。君は至って気まぐれなのだ。何か勘違いしていないか。巨大な山に取り付いている人影は、力の虚しさを物語る。紅葉の季節なのだろう。決まりきった未来では飽き足らない。だから何かが起こってほしいと思うわけだ。変化するきっかけをつかみ取ろうとしている。それも虚しい試みだと知っていながらも、思い違いであることを祈っている。万に一つの可能性にかけているのかもしれない。だが別にさいころを振っているわけではない。誰かが振り出しに戻りたいとだだをこねている。無理な願いをあえて唱えているわけだ。どこからともなく不協和音が聞こえてくる。音楽ではあり得ない。皆がそう思いたいのだ。それは騒音の一種だと認識したいようだ。だがまだその日には間に合いそうに思える。思い直すのは今この時なのだ。何かを取り逃がしている気がする。運を自らのうちに引き寄せようとしているのではない。たぶんそこから一気呵成にたたみかけるべきなのだろうが、それができない。誰かの期待を裏切りたいらしい。わざとそうしているのだろう。今や株価の急降下を嘆くことが一種の娯楽と化している。それが不況の入り口だそうだ。金融市場の安定化を急ぐあまり、物事の本質を見失っている。誰もがギャンブルに興じていることに無自覚なのだ。借金をすること自体が賭けだ。返せなければ破産してしまうような借金をしなければ暮らしていけないのだとしたら、やはりそれはのるかそるかのギャンブルに違いない。例えば数十年のローンを組んで家を建ててから職を失ってしまったら、それは悲劇には違いないのだろうが、そういうやり方が世界的に当たり前なのだ。それは誰もが周知の事実であり、かつ何とも思っていないことだ。実際に破産してしまった人たちは御愁傷様でしかない。資本主義社会の落とし穴を落とし穴だとも思っていないのだ。実際に借金を返せなくなってしまった人たちの数が、未だに返せる見込みがあると思い込んでいる人たちの数を上回らない限り、誰もそれを制度の欠陥だとは思わないだろう。金を返せる見込みがあることを前提とした上でしか成り立たないような仕組みは、やはりどこかで破綻するしかないことはわかっているのだろうが、実際に破綻する事例が多くなってくると、とたんに人々は騒ぎ出す。だがそれでもやはりそういう制度を改めるつもりにはなれないようで、借金を返すための借金の工面や、国家による資本注入などという掟破りのやり方を使って、何とか現行の制度を維持しようとしているのだから、社会にはかなりの無理がたまっているはずだ。果たしてそれで乗り切ってしまったら、数年後には何事もなかったかのように、同じような借金資本主義が全盛になっているのだろうか。


10月11日

 たぶん今は朝なのだろう。すでに昼に近い。あれから数時間が経過したようだが、あくびをかみ殺しながらも何を述べていいのかわからなくなる。馬鹿なのではないか。何でもありなのだからそういうことだ。誰に頼っているわけでもなく、自分の仕事をやらなければならないだけだろう。それでも誰かが冗談でそんなことを述べている意図をわかろうとしているようだ。わかるはずがない。感情がどこかに押し込められているとも思えず、意識が心の中で窮屈な思いをしているわけでもなく、確かに解放された気分からはほど遠いが、何となくその場所を離れようとしている。意味はない。たぶん地上のどこかを移動しているのだろう。どこまでも移動し続けるが、ほんの数時間のことだろう。グレートジャーニーとかいうのは後世の幻想に過ぎない。当時の実態など何もわからない。ではいったい何について語ろうとしているのか。今は意味不明でかまわないとは思わず、少しは現状に抵抗しなければならないと思う。言葉を記しているのは数日前のことだ。そんないつもの嘘をつきながらも、飽き足らない現状をどうにかしなければならないのだろう。君は何に反対したいのか。何がそこでの悪あがきとなるのだろうか。国家が追い込まれていることは確かだが、金融機関への資本注入が最後の悪あがきとはならないだろう。誰もがそれが最後だとは思っていないはずだ。まだその先があるような気がしているのだろう。しかしその先とは何なのか。どのような事態が待っているのだろうか。何も待っていないのではないか。事件など待つ必要はない。待っていなくても必ず向こうからやってくる。冗談を述べるならそういうことだ。たぶん負の連鎖を断ち切れば、その代わりにとんでもないことが起こる。そう思っておいて差し支えない。ではとんでもないこととはどんなことなのか。要するに想像を絶する出来事が起こってほしいと思っているのだろう。心が馬鹿げているようだ。それが誰かの願望なのであり、この世界が何かとてつもない危機に陥るのを火事場の野次馬のように眺めていたい。要するに誰もが無責任な立場になろうとしているわけだ。それが君ではないと思いたいのだろうが、嘘に決まっているだろう。映画などでは満足できないのだ。眺めているだけでは飽き足らない。ならば何か適当な娯楽でも世界に向かって提示してみればいい。君が誰にも想像もつかないような途方もないものを提示できるわけがない。大げさすぎるのは嫌いだ。君が見せびらかそうとしているのは虚無以外にあり得ない。それでは以前と変わらず予定調和だろう。馬鹿げたことを語っているうちに眠たくなってくる。どうやら語っている内容が君に示された結論からはかけ離れているようだ。結論とは何なのか。結局何も起こらないということか。それらの疑心暗鬼のすべては世界宗教の範囲内で起こっていることだ。だまし合いの最中にだまされるのが悪いと開き直っている。それが何を意味するかわからないが、面倒なので居眠りの最中にわけのわからない夢を見たことにしておこう。さらに意味不明だ。たぶんあともう少しでやってくる現実は、皆が期待するようなスペクタクル映画的なそれではなく、地味で淡々とした成り行きになるだろう。まるで他人事のような気がするだけで、何の感動ももたらさない。それ以上は考える必要がないようなことだ。恐慌の到来を喜ぶ必要もないし、肩すかしを食らってよろけても誰も助けてくれないだろう。何を予想しても外れてしまうような気がする。その手の予想屋たちは予想する必要のないことを必死こいて予想しようとしている。そんなことを指摘しても要らぬおせっかいなのかもしれないが、どうでもいいことだと思ってみても、それも仕方のないことだ。語ろうとしているそれからはほど遠い心境にたどり着くまでだ。考えが一向にまとまらず、わざと支離滅裂になろうとする。まだそんな段階ではない。やけになってもそれは違うと思われ、眠いのを我慢して、無理にやるようなことではないのだ。少し気が散っていないか。もはや誰もがやっていることにもどのような正当性もない。すべての行為が挫けているのかもしれない。それにしては挫けすぎている。求めているのは冒険などではない。たぶん外は晴れているのだ。それは誰の思考とも無関係に晴れている。そしてその辺が人間社会の限界なのかもしれない。人間が想像することのできる限界を超えて現実の世界が広がっている。そして虚無がそこに暮らしている人々を無視するように作用を及ぼしている。無の作用は果てしなく、無言以前の完全なる無だ。人とは関係のないところでどのような思惑が行き交っているわけでもなく、自然が自然としてあるだけだ。人は常に自然の一部であり、自然から疎外されているわけではない。意識がそれを見落としていて、人は自分たちの想像力でこの世界を構成しようとしているのだが、その見落としがあるために、人の想像力で構成された世界からは不完全な認識しか得られない。人は人と自然と対立させ、人と人をも対立させ、自然から利益を絞り出すとともに他人からも利益を絞り出そうとする。そうすることで利益が得られるような幻想にとらわれているわけだ。そして実際に利益が得られたと感じているそれは、単なるゲームのルールそのものであり、人間社会内の決め事のひとつでしかない。それを使って何かができるという決まりなのだ。


10月10日

 誰かが語っているのはその程度のことだ。危機感を募らせているのはどこも同じだ。君はその範疇にいない。それの何が危機なのだろう。それらの感情はどこから来ているのか。誰がそう思っているのか。そんなことに答える義務はない。誰もそんなことまで考えていないはずだ。まだすべてが終わったわけではない。現にこうして言葉を記している現状がある。そう思ってしまうのは誰かの勝手だ。すべてが終わった後から言葉を記しているのかもしれない。ではすべてとは何なのか。何がそこでのすべてだったのか。感情がどこかで途切れている。自らの思い通りにならないことはわかっているはずだ。だからそんなことを述べているのではないか。君に何を期待しても無駄だ。どこか適当なところで凝り固まっている。思い直している状況ではない。どこまでも違っているのだ。何をどう述べてもそうなってしまう。人が人でなくなることはないだろう。生きているうちはそうだ。死んでしまったらわからないか。そういう可能性に言及すること自体がくだらない。漫画か何かの話だ。人が人でなくなる条件を空想している。今がその時なのか。そういう脅し文句に続く言葉が見当たらない。何か思い直すことでもあるらしい。それをどうやって見出すつもりなのか。今さらそれはない。君には何も見つからない。見渡す限りの荒野ではなく、ただの電車の車内だ。何を話しても空疎になるだけだ。やがて虚しくなり、そんな冗談も言えなくなる。そして沈黙してしまうわけだ。眠ってしまうのも暇つぶしの続きになる。居眠りの最中だ。真剣なまなざしが画面から逸れて、あてもなく夜の景色の中をさまよい、そこに何を見出すこともなく、ただそんなことを述べて暇つぶしの延長を続けている。それだけではないと思いたいのだろう。思いたくないことを思っているわけだ。そうやって言葉数がかさんでいき、何でもないことがさらに続けられている現状を認めざるを得なくなり、認められないことまで認めていることに気づく。まだその程度なのだ。誰かはたわいないことを語っている。たぶんそれが誰かにとっての日課なのだろう。散歩と同じだ。いつまでも散歩を続け、他にやるべきことを忘れてしまう。自業自得なのだろう。気が変わるならそこから抜け出たいが、その気配は感じられず、ひたすら言葉を記して惰眠をむさぼる。それが誰かの宿命に思えてくるが、そんなことにはおかまいなく、空疎な作業はなおも続けられ、それ自体が行き詰まりそのものなのに、実際に行き詰まることはない。そこで矛盾が放置されているのだ。もうすぐそれも終わるだろうが、もうすぐがいつなのか見当がつかない。誰かが語っていることはなおも外れている。世界のただ中に置いてきぼりなのかもしれないが、それがどうしたわけでもなく。ただの妄想のたぐいだと思わせておけばそれでかまわないのだろう。誰がそれを認めるのか。認められないことだ。断じてそうであってはならない。まだそんなことにこだわっていること自体が哀れなのだ。まったく人はどこまでも愚かに振る舞おうとするらしい。それが何を示していることになるのか知らないが、ただの言葉の羅列と見なすわけにもいかないらしい。たとえどこまでもそうであったとしても、そうだと認めるわけにはいかない。強情なのだから仕方がない。くだらないことはくだらないのだろう。それだけのことでしかない。それ以上の何ものでもない。だがいくらそう述べても無駄なような気がする。それ以外を知らないのだから、それをやるしかないのだろう。それをどうするべきでもない。そういうことなのだから、君はそれをどうすることもできず、ただ黙ってそれらが記されている画面を眺め続けるしかない。いくら眺めても何の感想にも至らないだろう。君は君から拒絶されているらしい。君でさえないのだ。誰かは誰でもなく、君は君でさえない。もはや何でもないことがすべてとなり、それ以外も何でもないのだ。君も誰かもそれでかまわないと思うようになる。興味すら抱くなり、自らが何をやっているのかわからなくなる。何かを記しているようだが、その内容はただの雰囲気に過ぎず、そこに醸し出されている何でもないことを物語ってすらいない。切羽詰まっているのではないか。そうであることを願いつつ、それでもなお無関心を装い、すべては他人事のように捉えようとする。案外それで楽しいのかもしれないが、それはとどのつまりを過ぎた後でのことだ。意味がわからないのだが、それで合っているのだろうか。たぶん現実に何を合わせようとしているのでもないのだろう。だがそれももう少しの辛抱だ。やがて終わってしまうだろう。何かが終わり、一安心してしまい、次いで忘れ去ろうとする。もうやっていられないということだ。終わる以前からやっていられなくなり、どうでもいいような気分で適当に言葉を記していることに気づくが、それでもそれ以上の何かを期待しているのかもしれず、そう思わせる目くらましのような欲望をそのまま放置して、何でもないことにこだわろうとする。本当に何でもないことなのだ。暑苦しくなってくるような言葉の連なりだが、内容が虚無であることを裏切ってしまえば、やがて楽しくなってしまうだろう。楽な気分で適当な嘘でもついていればそれでかまわない。


10月9日

 何もやる気にならないのに、なぜその気になっているのかわからない。いったいどういうつもりなのだろう。数日前から無駄な問いかけが解禁となってしまったらしい。それでかまわないのだろう。君には君のやり方というものあるらしく、その調子でがんばっていればいつか必ず現実の今日にたどり着けるだろう。着実に言葉を記していればそれでかまわないのだ。どうも崩壊前に一度持ち直すようだ。何でもありにして危機を乗り切ろうとしているのだろう。だが何でもありが別の困難を生み、やがて何でもありではいられなくなり、遅かれ早かれ崩壊する運命にあるようだ。そんなわけですでに命運は尽きているようで、世界経済の末路は決まってしまったらしい。そんな君の判断が間違っていればそれでかまわない。もうかつての繁栄には戻れない。だが戻れなけば困ってしまうわけではない。新たな困難のただ中で生きていけばいい。何か突き放されたような気分になるだろう。それでもやる気になっているのだろうか。それならそれでかまわず、そういうことはどういうことでもない。ずるずる行ってしまうわけにはいかない。何とか盛り返そうとしているのだろう。答えに窮している。貧窮の時が到来する。実際はそうではないだろう。大金を使っていないだけだ。誰かは自分を見失っている。よくわからないことを述べているようだ。それでどうしたのだろう。無駄な問いかけはその後どうなったのか。底値を打ったと思っている。見方はどこでも慎重だ。長い目で見れば間違った方向へ誘導されているのだろう。それの何が間違っているというのか。間違っている理由を見出せない。だが何でもないというわけでもないだろう。そこには何かしら理由や原因があるはずだが、それをどうやって探り出そうとしているのでもないのだから、やはりわからず終いになりそうだ。言葉を記すのに理由や原因や動機があったらつまらないか。君は神経衰弱なのだ。本気になれないのはそういうところから来ている。述べているのが馬鹿げているのは承知しているとしても、それをどうしたらいいのだろうか。願わくばその辺で終わりにしたい。心の奥底にたまっているヘドロを一気に吐き出して、何とかすっきりしたくなるが、今は夏ではない。何も語らなくてもかまわないのだ。何かが麻痺している。君が知っているそれはもう時代遅れだ。知らなくてもいいことまで知る必要はない。今の時代にふさわしい内容などありはしない。君が思いつかないだけだ。おそらく誰も思いつかないだろう。だから空疎なことを述べているのだろう。他に述べることがないのだからそれは仕方のないことだ。今は黙って音楽でも聴いているのが無難な態度だ。何を述べてもそれは違うと思われてしまう。今もそうだ。いつまでもそうであり、ここからは永久に違うと思われる。せいぜいそう思っていればいい。後からすべては冗談だったことに気づくはずだ。語っていることに中身など何もなくても結構だ。なぜか何も語らないうちから開き直ってしまう。その辺の心境がよくわからない。自分で自分のことをわかろうとしてはいけない。そう思っているそれが自分なのだから、それはそういうことだ。どういうことでもなく、それにかこつけて誰かは一眠りしてしまったらしい。意味不明だろう。なかなか本音が出てこないようだ。だがいつまでもわけがわからないでは気が済まないだろう。誰の気が済まないのか。それが知りたいわけでもなく、他の何が知りたいわけでもない。誰かはいつまでたっても空疎なことを述べているようだ。顔が歪んでくる。鏡が砕け散る。たぶんそういうことではない。どういうことでもなく、何も述べられなくなっているだけだ。気がつけばそんなことを述べているわけで、それは空疎なことなのだろう。何かの繰り返しに違いない。画面に映った画像がぼやけているようだが、それは君のせいではない。君はそこで何かを終えようとしているのだ。今さらそれをどうこう批判するつもりはなく、黙ってそれは違うと思っていればそれで済んでしまう。何のことはない、今まで通りの何でもないことだ。そこで精神を集中させるには及ばず、ただ勝手なことを記していればそれでいいのだ。もう少し気楽になれないものか。目的は何もないはずだ。それによって何か賞でもとろうとしているのでもない。ただ目的もなく、理由もなしに言葉を記している。それがどうしたわけでもない。完全に投げやりな気分となっている。他の誰の好き勝手な振る舞いも許してしまう。平和とはそういうことではないのか。そこで何がどうなっているわけでもない。他の何に操られているわけでもなく、言葉を記している自らに操られているわけでもない。自らが自らを操ることはないだろう。そこに醸し出されている虚無を操作しているわけでもない。だからそれは何でもないこととなってしまう。君には関係のない言葉が連なっているわけだ。たぶんそういうことなのだろう。他の何を確認しているわけではなく、そこから何が導き出されているわけでもない。少なくともまだ終わってしまう成り行きにはなっていないようだ。君がわざと終わりを延期している。そう思いたいのなら思っていればいい。どうやらくだらぬことを述べてしまったようだ。同じような言葉がひっきりなしに出現している。


10月8日

 やれることはみんなやってみるらしい。苦し紛れに決まっている。言葉を製造しているわけではないが、とりあえずはじめからやり直そう。あぐらをかいている。目がつぶれていて何も見えない。そんな話がどこにあったのか。誰かは風景を見失っている。失速しているのだ。どうも完全に遅れを取り戻せなくなってきた。昔の勘を取り戻すことができない。この辺がやめ時だろうか。本当に潮時なのかもしれない。現実にやる気がなくなってくる。君はもう限界なのだろう。では他に語る人格があるのだろうか。誰が何を語ればいいのだろう。誰がそれを決めるのか。ここには誰もいない。誰もいないが意志がある。フィクションだからそうなるのだろう。茶番劇がまだどこかで続いているようだ。君がそれに加わることはない。面倒くさいのだ。それは君の意志ではない。相変わらず君は何もやろうとしない。君が君ではないからだ。また誰かが嘘をついている。それも面倒くさい話だ。だが今はそれを認めなければ話が前へ進まない。くだらぬことを述べなければ話の終わりまで到達できない。アレルギー反応ではない。断じてそれは違うと思う。確実なことは何も言えない。何か適当でないことを語っているのかもしれない。間違っているのだろう。ただ何が間違っているのかわからない。果たして正しいことを述べているのだろうか。君が問われる筋合いではない。では誰かは何を問うているのか。何もわからない。すべてはどうでもいいことか。誰が何を求めているとも知らないが、すべてが終わりを求めていることは確かなところだ。絶えず何かが終息に向かわなければならず、片時も終わりの感覚を忘れることはない。ただ調子に乗っているだけだろう。だからわからないと述べている。君にはすべてがわからないことだらけだ。そんな状況で誰かは何を期待しているのか。取り立てて難解な語り方を目指しているわけではない。文章としての完璧さを追求しているわけではないが、どこかにほころびが見受けられ、そこから虚無につけ込まれる。そう述べているのがおかしく、わけがわからない。いったい誰がそんなことを述べているのか。たぶん君ではないが、無駄な言葉が多すぎるのだ。君は無駄に虜となる。嘘に決まっているだろう。何が嘘なのか。何のことやらわからない。何がわからないのだろうか。コーヒーを飲んでいるだけのことだが、君は紅茶を飲みたかったのか。これから飲めばいい。そんな状況の何がおかしいのかわからない。状況が長続きしないようだ。つまらないのだから好都合だ。仕事以外に何もない。それだけのことだ。何に感動しているのでもない。特定の宗教が世界を席巻している。神は君のことを述べているのではない。またもや意味がわからなくなる。政治に勝てるのだろうか。何を持って勝とうとしているのか。槍でも剣でもなく、ますますわけがわからなくなる。もはや妄想の段階をも飛び越している。だからわからないと述べているだろう。どうでもいいことに違いない。ただ闇雲に言葉を記し続ける。打開策とはそういうことか。ふざけている。それ以外の何があるのか。あるから問いかけているのではないか。憶測に違いない。意味的には合っているだろう。そしてだらけている。何がどうしたというのか。そんな問いかけが連続しているが、答えを返す対象を知らない。あてがないのだろう。では何をやっているのか。そういうことではないはずだ。取り上げるべき内容ではないだろう。まだその件については何も語っていないのではないか。元に戻りつつあるのだろう。変調を来したのはつい最近のことだが、それについて君が何を知っているわけではない。つんぼ桟敷におかれていたわけではないが、与り知らないことを語れるはずもない。他の誰かが憶測で語っているだけだ。誰も実情を知らない。たぶん何かを求めているのだろう。驚きとともに感動したいのだ。無理を言わないでほしい。今のこの状況に何を語れるというのか。この場に何も持ち合わせがないことは君もわかっているはずだ。しかし誰かは誰を説得しているのだろうか。君は誰でもない。それがそれらの作り話を構成する上での前提のはずだ。そんな前提がどこにあるというのか。君はかなり焦っているようだ。そう見えるのは誰かの目が節穴だからだろうか。またしてもわけがわからない。実質的には誰が誰について語っているわけでもなく、君は君で誰でもないはずだ。さらに投げやりになっているようだ。もう架空の話のことなど何も話したくない。まったく終わりたくても終われなくなってしまうだろう。それで誰が困るのだろう。虚無は誰も読まないようなくだらぬ話を構成しようとしている。くだらなければ大衆的にはおもしろいはずで、おもしろければみんなが読むはずだが、ここには相変わらず誰もない。君はもう昔の君のことなど覚えていない。君には君としての人格が備わっていない。それで何を今さら語ろうとするのか。だからはじめからやり直そうと言っているではないか。それは架空の話の中でのことだ。現実には何を語っているのだろうか。文字を記す速度がにわかに速くなる。もう数日後の今日が終わろうとしているようだ。明日になってしまっては誰かが困るはずだ。だからやけくそ気味に言葉を記しているのではないか。まったく馬鹿げている。


10月7日

 こうなってしまうのはなぜなのか。久しぶりに無意味な問いかけが続いている。こうするしかないようだ。他に何があるのだろう。何もなければこうなってしまう。こうなってしまえばああなってしまうらしい。つまらないことだ。何でもないからつまらない。そしてやる気がしない。君はまだ疲れている。北風にあたったら喘息のように咳が止まらなくなる。部屋の中ではなぜかそれが嘘のようにおさまる。何かの攻撃にさらされているようだ。見当違いのいいわけを思いつくが、それを記すわけにはいかないらしい。今はあくびをかみ殺して画面を見つめている。文字が小さい。危機を食い止めることはできないだろう。なぜならそれは危機ではないからだ。付け焼きの知識からは何も生まれない。君はそれを恐れている。ごまかしが通用しなくなり、自らの浅はかさが露見する。それは不思議な響きだ。感覚を伴わない衝撃だ。言葉が進まない。文字を記しているではないか。それは君の言い分だ。利害関係を見出せない。感情が難解になってくる。知識がどこで何をやっているのか。そういう話ではなかったはずだ。危機のはずだが実感がわいてこない。ならばもっと簡単に切り抜けたらどうか。投げやりな態度で意味不明を連発すれば終わってしまう。それでも何かをもたらしている。寒くなってくれば咳が出る。ただそれだけの危機だ。冗談を述べるならそういうことだ。本当はまさに死ぬ直前なのではないか。それこそ冗談に違いない。バニラフレーバーの紅茶は不自然だ。ハーブティーよりはマシか。淡白な音だ。素っ気ない音楽を聴いている。それは何もしていない証拠となり、考えが行き詰まっていることを意味する。もっと気楽に文字を連ねればいいのだ。こだわりが邪魔をしているというなら、それを捨て去れば済むことだ。何を恐れていたわけではない。国家が機能不全に陥っているのは喜ばしいことだ。テロに対しても金融恐慌に対しても同じことだ。君たちは問題を部分的にしか把握していない。どこかで誰かが綱渡りの最中のようだ。危ない橋を渡る必要はない。君に残された時間は限られている。あと百年ぐらいだろうか。冗談ばかり述べているようだ。紅茶を飲んだら正気に戻ったのか。それを正気とは言わないだろう。ただの悪ふざけの最中のようだ。誰かを怒らせているのかもしれない。そんな文字列ではつまらない。たぶんそうだ。暇をつぶしていたのは君ではない。ドラマチックにはなりようがない。すべては作り事なのだから台本どおりの話の進行だ。それは馬鹿げた話だ。話になっていないのだから馬鹿げている。君はその馬鹿げていることを終わらせられない。劇的な終末などではない。徐々に違う風景へと変わっていく。どこかの壁に絵の具で塗り込められているのだろう。固定観念に誰かの行動形態を押し込めたいのだろう。虚しい行為だ。そういう試みがまだ終わっていない。テロとマネーゲームがこの世界をひとつにしている。それは世界統一前夜に起こっている出来事に違いない。嘘か本当か知らないが、そんなことを述べてみたくなった。何を解説しているわけではない。自ら抱いた妄想はその場の気分次第でどうにでもなる。今はそんな気分なのだ。冷や汗が出てくる。何となくそのようだ。文章になっていないだけだろう。よく読めば何か主張らしきものが紛れ込んでいるはずだ。気休めなのかもしれない。君は面倒くさい人のようだ。結局何者にもなれはしない。それなりに努力しているのに、どういうわけかそれが無効なのだ。努力している事実が気に入らない。映画とは何だろう。テレビを見ている人には気づかれない。音楽を聴いている人は無視しているらしい。無意味な問いだ。まったくどこもかしこも間違いだらけだ。だからやる気がなくなってしまったのではないか。君は現実を見ていない。いつも影の方ばかり振り向く。何がその目に焼き付いているわけでもないだろう。衝撃的な映像から目を背ける。わざとらしい歌声だ。目にした光景を忘れようとしている。何に感動しているわけではない。誰かがまくしたてている言葉に嫌気がさす。偶然に聴いているのはアブドゥル・ラヒームか。ランダムな選曲なのだからそうなる。何を語っているとも思えない。音楽なのだから語っているのではない。和んでいるとも思えない。なぜそんなことにこだわっているのか。君に問いたいが、問うているのが君自身なのだから、自問自答に期待しているわけだ。まともな答えが出てくることはないだろう。言葉に幻想を抱いている時代ではない。驚くべき対象に出会えないのだから仕方がないだろう。そして何とかここまでやってきた。誰かの亡霊が部屋の中で眠っているようだ。君に語りかけているのではない。誰にとってもそれは奇妙な状況であり、君を差し置いて影が語っているようだ。誰かが何かを思っているのだろう。空想の対象が欲望に結びつけば妄想になる。当たり前のことを述べて何が変わったのだろう。腐りかけのリンゴを目にしているわけではない。見ているのは画面上に並んだ言葉の連なりだ。何の変哲もない文章なのだろう。君にとってはそうだろうが、読む人が読めば文章とは見なさないのではないか。何かの羅列が文章になるわけがなく、つながりを欠いた言葉と言葉が文章に結びつくわけもなく、意味をまとうこともない。


10月6日

 わからないが無駄な言葉が多すぎる。そうしないと文章にならないのではないか。やはり闇雲に意味もなくあらゆることに関して問いかけないと、語ることに行き詰まってしまう。実際には何も語っていないのではないか。もう限界なのだろう。終わりが確実に近づいているようだ。それが何の終わりかわからないが、誰かは無駄に言葉を連ねることによって自らの命をすり減らしているのだろうか。冗談ではないだろう。何も思いつかない時はくだらぬ冗談を記すしかないようだ。冗談になっていないようで、かなり馬鹿げている。物事の本質から遠く離れて枝葉末節なことを語ろうとしている。言葉を弄することに手間取っているうちに、現実の時間からどんどんおいていかれているようだ。時間に追いつけないことが焦りをもたらしているわけだが、今日は何だか気持ちが浮ついているような気がして、そんな精神状態でまともなことを述べられるとは思えず、もういつあきらめてもかまわないのに、誰かはそれができない。この期に及んでそれほど深刻な事態ではないと思っている。努力すればまだ現実の時間に追いつけると思っているらしい。君はそんな希望を捨てていない。そんな状況に束縛される運命のようだ。たぶんは誰かは間違っているのだろう。自然と無理の文字が脳裏から浮き出てくるが、それはもとからわかっていたことだ。そういう表現に多少の違和感はあるのだろうが、それに代わる言葉がまだ何も出てこない。何か状況がごちゃごちゃしすぎているような気がする。意識はうまく言葉を連ねようとしているのだろうが、結果として導き出されたそれは失望を伴う。趣味や余技で何か適当なことを述べているだけだ。内容が非政治的だ。君はそれを非難するつもりはないが、やはり誰かは間違っているのだろう。それほど勘違いではないが、それに対する感想はなく、誰かの思い違いとも違う。本当の感動がないのだ。本心からそう述べていない。できれば信念を持って何かについて述べてほしい。いつも冗談ばかりでは己を信じられなくなる。しかしそんな気構えのようなことばかり表明しても空疎だ。これから何を語るのかわからない。おそらく何に関しても何も語れない。今はそういうことを述べている。なぜか知らないが、そういうことのようだ。ひたすら言葉が空回りしているのだ。そういう状況を目にしても君には何もできない。得られた情報を活用していないようだ。君独自の見解を示せない。そんなものなどもとからありはしない。だからいらついている。それらの状況の中では個人の見解など必要とされない。多くの言説が何かを吐き捨てるように非難の言葉を発している。自らを直接否定するにはそんな行為が欠かせないようだ。そこに至る経緯を知らず、そのような行為に及ぶ理由もわからない。たぶん話になっていない。怠惰な時を過ごしてしまったらしい。相変わらず君はその場から離れられず、ため息ばかりついている。他にやることがないのだろう。おそらくそう思っている。本当に何もやることがない。これはすばらしいことだ。何もやらなくても生きていけるらしい。何もやらないのだから、生きていないのかもしれない。夜が暑すぎるのだろう。昼の仕事がきつかったとかの理由もありそうだ。あり得ない理由だが、誰かの心に何かが引っかかっている。本当に蒸し暑くなる。言葉がつながらない理由がありそうだ。焦っているのはいつものことだ。今はそうではないような気がする。何か他に課題がありそうだが、今のところはわからない。何も思いつかないので投げやりな気分だ。ここから何をどうしたらいいのかわからなくなる。まだ病み上がりなので無理をしてはまずいが、これ以上遅れるわけにはいかない。無理をしない程度に夜更かししても意味がない。夜更かしをすることが無理なのだ。なぜそうなっているのか理由を探る気はない。無理なものは無理らしい。やめる決断を迫られている。やめられないのにやめなければならない。やめてほしいのだろう。すぐにやめてほしいのになかなかやめてくれないのだから、いらだって当たり前だ。君の思い通りにはならない。君は死ぬのではないか。さっきから咳が止まらない。市販の風邪薬が切れて半日経ったら咳が止まらなくなってきた。咳を鎮めるためにはまた買ってこないとだめらしい。その時点で内容を求めるのは無理だったようだ。またしても空疎な言葉が連なっている。君にはお似合いの状況だ。これから果てしなく言葉が連なっていくのだ。そんな妄想を誰かが抱いているらしいが、君には関係のないことだろう。ここに至ってまだ君は冷静さを失いたくないようだ。たぶんそこに誰かの感情が介在しているのだろう。それ以上の結果を求めたがり、当てもなくさまよっているだけではないことを君にわからせようとするが、君に言葉が届くわけがなく、君はそれ以前の無関係な関係でありたいと願っているのだろう。本当にそれらの文章の内容と君の思想との間に関係はない。時折誰かの感情が露見して、妙な具合に文章の内容がねじ曲がるのだが、その時の君の態度は我関せずを頑に貫き、そこからもたらされる空疎な意味とはひたすら無関係であろうとする。それが何を意味するかわからないのだが、たぶんそれらの文章の中に誰かの意向が反映されるのが我慢ならないのだろう。しかしそれを記しているのは誰かの方だ。君にはどうにもならない文章なのだ。


10月5日

 誰かが何かを拒んでいる。対策が後手に回っているようだ。そんなことを述べてもよくわからない。具体的には何が問題でもない。つまらないと思っている。文章がつまらない。何も記せなくなってしまったのかもしれない。それで何を批判したいのでもなく、ただ問いつめることができずにいる。精神的に追い込まれてしまったらしい。このままでは何もせずに終わってしまうだろう。きっと悩んでいるのだろう。わけがわからない。それが逃げ道だ。それほど逃げまくっているわけではない。確実に無理だ。ゲームが破綻している。もはやルールなどあったものではない。意識は何を想像しているのでもないようだ。ただの意味不明だろう。何も見出せず、圧倒的に言葉が足りない。そう感じてしまうのだからそういうことだ。文章になっていないようだ。何をするにも慎重になっている。ただ何もしていないだけだ。冗談でそんなことを述べているのだろう。だからつまらない。つまらない理由になっていない。そして音楽を聴いている。君は全盛時よりファンク系のマイルスの方が好きだ。正統派のジャズを知らないのだろう。知らなくてもかまわない。何でもありがジャズであり、ジャズそのものが正統派の音楽ではないのだから、気軽に聴いて、良ければそれでかまわない。そういう音楽なのだからそれでいいのだ。だがそれで何だということではなく、何となくマイルスを聴いてそう思ったに過ぎない。演奏がうまい人ならいくらでもいる。別にマイルスを崇め奉っているわけではないのだから、そういううまい人を聴けばそれで済んでしまう時代だ。気晴らしに音楽を聴いているのだからそれでかまわない。それ以外の用途を知らない。今はそうなのだろう。過去も未来もわからない。過去はわかっている部分もありそうだが、それは物語的な水準でそうなのだろう。それで感動しているつもりになれる。それでもかまわないはずだが、それは作り話であり、本当の過去ではないような気がする。本当の過去などどこにもありはしない。過ぎ去ってしまったから過去なのであり、今ではどこにもないから過去なのだ。しかし過去を難しく考えすぎているようだ。考えているふりをしているようなことを述べている。今の君に何がわかるわけがない。そして君は投げやりなことを述べ始めたようだ。何を気にしているわけでもないのに、そんな案配になってしまう。やっていることに意味を求めている。それは当たり前のことだ。当たり前のことを語らなければ文章が意味を伴わない。ここ数日で体調が急激に回復している。君の代わりに他の誰かが身代わりで死んでくれたのだろう。そんな嘘を安易に記すとバチが当たる。取り返しがつかなくなり、それでかまわないと思うようになる。他に何を知るつもりでもない。すでに知っているそれを知らなかったように振る舞うまでだ。そんなわけで君には何ももたらされず、何もなかったことになりそうだ。いったい何について語っていたのかわからなくなり、それはいつものことだと思う。そういう作り話なのだろう。気がつけば何かの世界が君を待っているようだ。今それに気づいたわけではない。途中から無駄なことを語っているのだろう。安易に金儲けができれば、安易に大損することもあるのだろう。苦労して金を貯めたら、それを苦労して使うべきだ。金の使い道を思いつかず、大いに悩むべきなのだろう。うまい話に簡単に乗ったら、転落するのも早い。それは作用反作用の法則に基づいている。さらにそれはでまかせに違いない。言葉の連なりを無理に長引かせているようだが、それで何をわかったことにもならない。君はそんなつもりではなかったと思いたいのだろう。何か違うことを語りたかったようだが、言葉を記しているうちにそうなってしまう。そして今は呪文を唱えている。確かにそんな作り話を思いついていた。語られることのない話だ。ごまかしなのだろうが、ごまかしようのない無内容をさらしている。自己嫌悪に陥り、口をつぐんで何かを打ち消す。たぶん何でもないのだろう。何を語ることもなく、すぐさまそれらの言葉の連なりを否定しにかかる。いつまでも押し黙っていては困る。君の思い通りにはいかないようだ。誰かは世界的な株価の値下がりが一過性では困るらしい。だがパニック売りだけでは長続きしないだろう。絶望する前に皆が一致団結して買い支えに出るかもしれない。今さらそれはないだろう。何かが覆されて、そうなってしまったらつまらない。野次馬たちは何かの崩壊を目にしたいのだ。十数年前の共産主義の崩壊はおもしろかったはずだ。今では過ぎ去った出来事のひとつに過ぎない。だからまた新たな崩壊を目撃したいのだろう。だが崩壊は一過性であり、崩壊したままではいられない。たぶんそんな大騒ぎも一段落して、徐々に安定した秩序が機能し始めると、その手の騒ぎ屋は退屈を持て余すようになる。何かまたでかい事件が起こることを期待しているはずだ。そういう期待は裏切られないものだ。世の中が退屈だとそれを揺さぶるようなことが起こらないとつまらない。そう思ってしまう意識にとっては、起こるなら天変地異だろうと何だろうと何でもかまわないのだろう。要するに誰かは無責任な立場でそれを眺めていたのいだ。まるでスペクタクル映画を見るように眺めていたいのだ。それは馬鹿げた欲望に違いない。


10月4日

 またいつもの一日の中に意識がある。どこから舞い戻ってきたわけではない。退屈なことをやっているようだ。車窓から見える風景は代わり映えせず、同じ地域の中で行ったり来たりしているのだろう。好奇心を満たすようなものではない。その間の思いつきだけで述べている。何か適当なことを記しているようだ。飽きているのだろう。機械の出力を低い水準で押さえている。想像力が誰かの邪魔をしている。何でもない日々にメリハリでもつけようとしているのだろうが、記している言葉が無効だ。今のところは何も導き出していないようだ。過ぎ去ろうとする時間は追憶の何かを残すでもなく、曇り空を背景として身体が動き続け、それが何でもないことを確認するつもりもないのに、やはり何でもないような気分をもたらし、朝焼けを見たのはかなり昔のような気がしてくる。まったく現状とは関係ないのだろう。眠たくなってくる時間帯だが、人は今日も仕事に向かう。そういう成り行きなのだから、そういう行動の最中なのだ。通勤時間帯ということだ。部数目当てで危機感を煽りたいメディアは大げさな中刷り広告を出している。何を心配しているのかわからなくなる。これが世界恐慌なら大したことはない。一九九〇年代の失われた十年があの程度だったのだから、今の君にはピンとこないのかもしれない。何がバブルだったのかもはっきりせず、実感がわいてこない。それなりに苦労しているのに、それが過ぎ去った今となってはどうでもいいことのように思われる。今もそれなりに苦労している最中なのだろうが、それが当たり前のように思われてしまうのだから世話がない。要するに他の人生を知らないということだ。リストラされ離婚してギャンブル狂いの借金苦でまるで絵に描いたような転落の人生を歩んできた末に、人生に絶望して放火してその場に居合わせた十数人を巻き添えで殺してしまうような人とはわけが違うのだ。そんなドラマチックなわけにはいかないのだろう。それほどまでとはいかないにしても、世の中には悲惨な成り行きに巻き込まれている人が山ほどいるはずだ。現状の捉え方によっては君もその中の一人に入るかもしれないが、やはり実感がわいてこない。それ以外にどのような可能性があったのかもわからず、今はそれ以上の何もないような気がしている。意識が何を望んで何を断念しようとしているのかもわからない。成り行きまかせなのは当然としても、そうではない状況を知らないのだからどうにもならない。何も比較する対象がないように思え、それはそれでそういうことでしかないような気がしている。どこかの誰かがいくらアメリカ経済が崩壊寸前だと主張しても、彼の地でアメフトだの野球だので脳天気に盛上がっている人々を目にする度に、だから何だと思うしかない。あんな馬鹿騒ぎを平気でやっていられるのだから大したことはないのだろう。これからどうなるかわからないが、もしかしたら世界の人口の三分の二ぐらいが貧困に喘いでいるとしても、そんなのはおかまいなしに残りの三分の一の人々を対象として娯楽産業は全盛を保っていられるのではないか。現状はそれ以上かもしれない。この世界には貧困の蔓延が必要不可欠なのだ。人はいくらでも愚かになれる。賢くあろうとすることが愚かさの蔓延につながる。愚かな人が大勢いないと、ごく一部の賢い人たちが特権的な利益を享受できないだろう。大金持ちが一人存在するためにはおびただしい数の貧乏人が必要となる。それは一流のスポーツ選手が存在するためにその何百倍もの二流三流が存在しているのと同じことだ。皆が一流になることを目指している限り、そういう構造の存在を二流三流の人たちも認めざるを得ないだろう。だから何だというわけでもないが、それに代わる世界の実現を目指しているわけでもなく、そう考えることが馬鹿げているようにも思え、何か目新しい思想や物事の捉え方に感心してしまうようなことからも遠ざかり、どのような言説に接しても、肯定的な内容は皆まやかしのような思われてしまうわけだが、それでもこの世界を肯定的に捉えるための努力は欠かせないようだ。何を否定するにもとりあえず現状は認めなければならない。偶然にそうなっているのかもしれないが、現状がこうなっていることには何らかの必然性があり、嘘や方便でもかまわないから、いやでもこうなっていることの理由を探らなければ言説にならない。なぜこうなっているのかを問わなければその先に言葉が連ならないようだが、君はそれが不可能だと思っている。そんなことができるわけがない。そして忘れたふりをする。現実にこれからやろうとすることを思い出せなくなる。つまらないことにこだわりすぎているのだろう。だからすべてはなかったことにしよう。くだらないことを述べてしまったらしい。しかしそういう終わり方は本意ではない。不本意なら何か適当なことを述べるべきだが、そのためには偶然の巡り会わせに期待しなければならず、今何も思いつかなければそのままになってしまうだろう。たぶん今はそのままに終わるべきなのだろう。株価が上がろうが下がろうが直接関係ないのだから、そんなことまで考えるべきではないのかもしれず、世の中が不景気だろうと好景気だろうと、君にどんな機会が巡ってくることもないと思う。


10月3日

 なぜかゆとりがあるようだ。ここからどこへ向かっているわけでもなく、たぶんどこかへ向かっているのだろうが、どこでもかまわないのかもしれない。しょっぱなからあやふやなことを述べている。たどり着こうとしているところが違うのだ。わかっているのはそういうことではない。くだらぬ時間稼ぎをしている。否定することでもないようだが、それも違っているのかもしれない。誰について述べているのでもない。誰かがそんなことを述べている。ただそれだけのことだ。それは娯楽ではない。誰もそんなことに気を使っていないようだ。言葉がそこまで届かないのだろう。何ももたらそうとしてない。それがそこでの気分なのだろう。君はようやくそこまでたどり着こうとしている。誰の手助けも必要しない試みだ。そう思っているのならそれは独りよがりな感覚だ。大事なことを忘れているのだろう。たぶんそれをないがしろにしているに違いない。まだそんなことを気にしている段階だ。何を顧みようとしているのでもなく、反省点が見当たらない。その先に何が待ち構えているとも思えない。それでもどこかで立ち直ろうとしているらしく、その気になって言葉を連ねている最中のようだ。そしてわざとそんなことを述べている。それ以上どうやって孤独になろうとしているのかわからず、まるで他人事のような言説を弄ぶ。それでどうなるわけでもない。わかりきったことを繰り返さないでほしい。まだ君は気づいていないようだ。自らが孤独からかけ離れた境遇にあることを認めようとしない。そういうわけでそれは君の物語ではない。誰かの話から離れようとしてる。夜の時間帯において昼の出来事が忘れられている。君が体験したのは昨日の出来事ではない。今日は今日で急がしすぎる一日だったようだ。そして今は音楽を聴いている。言葉を記すのは今日も後回しだ。明日になったら何か思いつくだろう。それが昨日の出来事になるはずがない。意味を解さないようなことだ。語っているのはそれでもない。さらにずれてしまう。そろそろまとまらないとそのままになってしまうだろう。自ずからまとまるのを待っていたら明日になってしまう。それでかまわないと思っているようだが、突然咳が止まらなくなり、我にかえって辺りを見回すが、何があるわけでもない。そこからどこへ向かおうとしているわけでもない。目算がどこかで狂っているのはわかっている。これからも修正することは叶わないだろう。それでかまわないと思っているうちはその通りになるだけだ。面倒くさいからそんなふうに思っているのだ。遅れた時間を取り返すことはできない。君はそれを承知している。だから何でもかまわないと思っているのだろう。そこに誰かの思惑が介在して、わけのわからない言葉の錯綜を見せるが、誰に操られてそうなっているのでもなく、偶然の巡り合わせでそのような言葉の連なりになっているだけだろう。君にはそういう技能があるらしい。何の役にも立ちそうにないが、それが欠点であり長所なのだ。それを押し進めてその場を取り繕い、貧窮の時間帯を乗り切らなければならない。わかっているのはそういうことではない。わからないからそんなことを述べている。わかっていたらもっと具体的なことを述べているはずだ。この世界はわからない。君は無知である以前に、虚無に魅せられている。それがどういうことなのかわからないわけだ。わかろうとする理由が見当たらない。わかり得ないことばかり探求しようとしているわけではない。わかり得ないままでもかまわないのだが、何がわからないのかわからないわけではなさそうだ。ただの無言だ。音楽を聴きながら沈黙を守っている。そんな当たり前のことに疑念を抱く。それの何が楽しいわけではない。言葉を記すのも虚無まかせで、楽をしているのかもしれない。疲れているから楽をしたいのだろう。そして今日の終わりに近づいている。時間的にはそうだ。空間的にはただ移動しているだけのようだ。それに何の意味があるわけでもなく、家路についているのだろう。そしてまだ何か記すべき言葉が残っている。虚無と空疎に意味を担わせたい。負担が重そうだ。また咳が止まらなくなる。だがそれが終わりに近づいている証拠だとは認めたくないようだ。誰が不治の病を患っているわけではなく、あくまでもそれは軽い風邪のたぐいだ。嘘でもかまわないからそう思いたい。まんざら嘘ではないのだろう。君は自らの体調には無頓着なのだ。そして取り返しのつかない状態になってから慌てふためくのだろう。その時にはもう遅い。しかし遅すぎる状況がたまらないのだ。そういう状況に身を置いてみないとわからない。何がわからないのかはわかっているつもりだ。君がうろたえる姿を想像してみるがいい。たぶんそこに何があるわけでもない。ただ自らの死に直面しているだけだ。何でもない状況とはそういうことだ。どこから足を踏み外したわけでもなく、必然的な成り行きの中で満足しきっている。もう後がない。先もなく、時間がそこで途絶えてしまい、何もやりようがなくなって、何となくそれでかまわないと思い始める。いつものことだ。何も驚くにはあたらない。誰が誰を見捨てたわけでもなく、自然に心臓の鼓動が止まってしまっただけだ。その時が寿命を迎えた時なのだ。だからそこで満足しなければならない。たとえいい加減な嘘であってもそれはそういうことだ。


10月2日

 だらけているようだ。前方を凝視していると何かに気づく。例えば行き止まりの前に黒い猫がいる。心がそこから逃げている。まだ遅れを気にしているようだが、この際日付など問題でない。運命とはそういうことだ。誰かはそう思いたいだけのようだ。そして気まぐれに何かを語ろうとしている。単調な作業に嫌気がさして、そこから遠ざかりたいと思っていたのは昨日のことだ。他にどんな理由があるわけではない。結果的に遠ざかろうとしても遠ざかれないのは、何かにこだわっている証に違いない。それが踏みとどまっている理由になり、そして何かが意識の中で滞留している。いくらとどまってもわだかまりが解けるわけがない。わかっているのはそういうことだ。さっぱりしないので、数日前とは違う風邪薬を服用する。気分は爽快とはいかないようだが、気休め程度の効果はありそうだ。信じる心をないがしろにしてはならない。そこから何を否定しても無駄だ。苦し紛れのドラマ仕立てはいただけない。わかりやすさを求めているわけではないが、何がわかりにくいのかわからない。それは決まりきったことだ。何も思いつかないのだろう。夏の冷房で体調を崩してしまったようだが、今は秋だ。まだ蒸し暑さに悩まされている。それは数日前のことだろう。いくら天気予報を見ても明日が晴れるわけではない。心を曇らせる原因を取り除くこともできず、ただ音楽を聴きながら画面を眺め続ける。それはオズ・ノイがもたらした雰囲気だ。無理に気づかせようとしているのではない。確かに何かの歯車が狂っている。そんな気がしているようだが、そこからどうするつもりもない。本当に気づいたのはそういうことだ。真夜中に何を探しているわけでもない。たぶん何かが違っている。それは仕方のないことだ。人には人それぞれに定められた運命があるらしい。それを超えて行動することはできない。誰かが壁にぶち当たっているようだ。他人事ではないはずだ。まったく良くなる兆しが見えてこないが、強がり的にはそれでかまわないようだ。なぜそうなってしまうのかわからないが、今はそれでかまわない。かまわないと思っていればそれで済んでしまいそうだ。興味がわいてこないのだからどうしようもない。不幸に見える人々は実際に不幸だ。他に何を想っているのでもないらしい。どこかの部屋の中で事件が起こり、金属片が壁に突き刺さっている。何かの爆発の痕跡だろう。過去には千載一遇の機会を逃した時もあった。誰かの記憶は曖昧で、はっきりしないのはその文章も同じだ。何かをはっきりさせるにはそれなりの言葉が要る。試しに何か適当なことを語らなければならない。風邪薬を飲むと次第に意識がはっきりしてくる。気のせいかもしれないが、今はそれだけが頼りだ。そして気がつけばまたしても何でもないのだ。心に突き刺さっている何かのわずかな断片が君を悩ませる。取り除くには言葉が足りない。君が君でなくなるきっかけがそこに封印されていると思い込み、無意識のうちに避け続けているようだ。触れたくないのだろう。別の世界では気まぐれに何か事件を起こしてもかまわないらしい。君にそんな権利を分け与えよう。実際に誰かがそうなっているようだ。ストレスから免疫力が低下している。軽い風邪でしかないのに、何か不治の病のように感じられてしまうのは、やはりいつまでたっても治らないからだろう。額の傷も数ヶ月経っても治らない。そんなことを気にするあまり、気が散って何も語れなくなり、気がつけばさかんに雨音から気を逸らそうとしている。そうではない。たぶんそれでもない。架空の世界はそんな状況ではないはずだ。失敗から何を学んだわけでもなく、まったく学習効果が得られないということに気づく。君はそこであきらめて、代わりにでたらめなことを述べているようだ。いつまでたっても苦し紛れなのだ。何のことやらさっぱりわからない。そして誰もいなくなった。夢の中ではそうだ。架空の世界の話ではない。たぶんこの世界で何かが起きているのだろう。少なくとも誰かはそう思っている。そこにこだわるべき対象があり、君はそれについて何か語らなければならなくなる。何かが確実にずれているのだ。それはわかっている。その語らなければならない何かについて、それをどう説明していいのかわからない。たぶんその黒猫は君に救ってほしくて、道路の真ん中で雨に打たれながらうずくまっていたのだ。君が車で通りかかるまでに他の車にひかれていなかったのが奇蹟だ。そんなわけで君は黒猫を立て続けに二匹も救わなければならない運命だったようだ。だが二匹目は死にそうだ。肺炎か何かに罹っていて、もう助からないと本能的に悟り、車にひかれて楽に死にたかったのかもしれないが、君はそれを車に乗せて運び、他の野良猫が暮らしている軒先の段ボール箱の中に放り込んだ。それだけのことだ。それが夕方の記憶の一部を構成しているようだ。何でもないことなのだろう。数日前に黒猫と一緒に道端にいた白猫の姿が見当たらなかったが、おそらくこの雨では助からない。誰かがどこからか持ってきて置き去りにしていったのだろうが、死んだら腐って土に還るまでだ。いつかの狸のように車にひかれてぺしゃんこになり、腐臭を放ちながら消え去るまで放置されるかもしれない。


10月1日

 近頃はひたすら問いかけることをやめてしまったようだ。そうなってしまったのかを問うわけにはいかない。安易に理由を求めようとすると、また無駄な問いかけの連続となってしまいそうだ。そのとき何かがどうにかなっているのだろう。投げやりな気分に終止符を打つことができず、まったく言葉が前に進まなくなってしまったようだ。その時はその時だろう。それでもここまでやってきた。続けることに意味や意義があるわけではない。今さら何を肯定したり正当化したりしても虚しくなるだけだ。内容を導き出せない理由などわかりきっている。たぶんそのすべてが意味不明ではない。たとえ空疎なことを述べていても、何かしら意味を生じさせているのだろう。何かがうまくいかなくなっていることは確かだが、まったく言葉を記せなくなってしまったわけではない。実際に何か記しているようだが、その作業が遅々として進まなくなっている。まだ数日前の日付で何か記している。数日前からそうなのだからどうしようもない。何も思いつかないのだから仕方がないだろう。少なくともそこで何かが可能でなくなってしまったらしく、それに関して何らかの知識が忘れ去られてしまったようだが、何を覚えているわけでもない。誰がこんな場所で何をやっているとも思えない。物語の空間ではないのだろうが、架空のどこかで何か打ちのめされた気分になっているようだ。そんなふうに思いながらも誰かがひたすら言葉を記している。この世の何を批判しようとしているのでもなく、他の誰を批判しても無駄のようだ。批判する感覚がわからない。本当に何もかもがうまくいかない日というのがあるらしい。焦りが焦りを呼んで些細な失敗の連続から自信をなくしている。そして誰かが実在しない誰かのように振る舞っているようで、結局何でもないことばかり述べているらしいが、誰かが無内容だと批判するその内容を知りたくなる。現時点では何も知る理由がなく、なぜそうなってしまうのかわからなくてもかまわない。そして文章として意味のつながりを欠いているようだ。たぶん君はそこで何かを見たのだろう。何も見ていなければそういう心境にはならない。しかしあきらめるわけにはいかないのだろう。無理だと自覚していても、困難を乗り切らなければならないようだ。乗り切れなければどうにもならず、どうにもならなければやめるしかない。だからやめたらいいと思っているようだが、やめられない理由もないのにやめられない。だがそんな嘘は無効だ。何とかしなければならないのは誰でもない。君でもありはしない。やめる代わりに何かが追求されている。誰かは理解に苦しんでいるのだろう。無駄に言葉を連ねることがそこでの作業だ。それ以外はあり得ないような状況になっている。そしてその欠陥に気づかない。やる気ばかりが空回りしている。何を感じているのでもないようだが、無意識のうちに何らかの雰囲気をつかみ取ろうとしているらしく、誰かはそれを顕在化させるために言葉を連ねているつもりだ。それがうまくいくとは思えない。たわいない物語の方がおもしろい。何かが違っているのだろう。記しているのはそんな言葉ではない。どこまでも何でもないことを述べている。物語とは記されている言葉の質と種類が違う。それでも何らかの進展を期待しているのだろうが、それで文章の何が変わるとも思えず、記し続けようとする意志ばかりが空回りするだけで、結局誰かの虚しい願いは叶えられないだろう。その理由を知ることもない。世界は何も叶えるわけにはいかないらしい。願いなどそう簡単に叶えられるものではない。いくら努力しても叶えられない方がおもしろそうだ。現状ではそんな意地悪な成り行きになるしかない。そううなるともう何を語っても無駄なようだ。そこから先に到達不可能な領域があるらしく、そこを目指すのを断念してしまえば楽になるのだろうが、断念してしまうと他にやることがなくなってしまう。やはり困難を克服するにはごまかししかあり得ないようだ。すでにごまかしの最中だ。まるで話になっていないが、何がごまかしなのかわからない。だが別にわからないように語っているのではなく、ただそれは当たり前のことなのだ。球面上をどこまで歩いていっても球面の中心にはたどり着かない。球面に特定の中心などなく、それはこの地球にも当てはまる。もとからこの世界に中心などありはしなかったのだ。アメリカが中心だったわけではない。世界に中心があるとすればそれは世界そのものだ。今や世界全体が世界の中心となりつつある。世界中どこへ行っても文明に出会うことだろう。それは特定の地域に限定されるようなものではなく、たぶん世界文明であり地球文明なのだろう。誰も気づかない間にそうなってしまったのかもしれず、世界中に張り巡らされた情報通信網の発展と、オリンピックやワールドカップなどの世界的なイベント世界中の人々が見て楽しむことによって、誰もが同じ価値観を共有するようになってしまったのかもしれない。冗談を述べるならそういうことだ。冗談でなければ嘘になってしまう。もはやどこの国の住民であろうとなかろうと、同じように働き、暮らしているはずだ。資本主義が世界全体を覆っている。そして誰もが地球の温暖化問題について考えているのかもしれない。しかしそれが冗談でなくして何になるわけでもなく、ただ時が過ぎ行くままに、誰もが自らの終わりに直面しているわけだ。