彼の声56

2006年

9月30日

 物語の冒頭で何が起こったのか。何かが起こっているのだろうが、君には関係のないことだ。誰かは不安を隠しきれない。本当にそこには何もないのだろうか。何もないから何かをもたらそうとしているようだが、それが空疎な文章となっているらしい。誰かはそんな文章でかまわないのだろうか。もうあきらめているのかもしれない。何をやっても無駄だろう。弱音を吐くことがいいわけとなっている。意味がまったく通じないようだ。のどの奥からうめき声が聞こえてきて、いよいよ末期的な有様を呈している。ぼろぞうきんのような身体に誰の霊が取り憑いたわけでもなく、言葉がそう語りたいだけのようだ。言葉はどのようにも語りたい。たとえその身体がバラバラに飛び散っても、そこから文章を再構成したいらしい。たぶん何について語っているのでもなく、言葉そのものについて語っているのでもない。そこには常にそれ以外に何かが潜んでいて、そのどこにもありもしない何かが、言葉をしてすべての否定を語らせる。いつまでもそうではないと語りたいわけだ。それでは何ももたらせないだろう。そのつもりもないのに何かをもたらすわけにはいかないか。誰かの耳には虫の鳴き声がもたらされている。そして野良猫の腐乱死体を庭木の根元に埋めるとき、死体からあふれ出てきたウジの大群が、ぼとぼとこぼれ落ちる音を聞いたような気がする。誰かが毒でもまいているのか、あるいはウイルス性の感染症なのか、大量に生まれて増えすぎた野良猫が、ある時期にさしかかると、数日のうちに大量に死ぬ現象が、ここ数年は繰り返されている。それでもすべてが死ぬわけではなく、生き残った数匹が子を産んで、またどんどん増えてゆき、そしてある時期が来るとまた大量に死んでしまう。そんなことの繰り返しをどうしようというわけでもない。とりあえず猫には猫の社会があるらしく、猫は猫で勝手に生きているのだろう。動物は生まれて死ぬことを繰り返し、そこで生と死が循環しているらしい。人もそうなのか。意識はそうは思わないのかもしれない。文章の中で生き続けることを願うのか。それは誰の意識なのだろう。君は匿名の意識を目指しているのだろうか。海辺に打ち寄せる波のように、何からの周波数を帯びて、一定間隔で誰かの心に忍び寄る。誰かは何に共鳴しようとしているのか。どのような波が増幅され、また打ち消されてしまうのか。それらの何を知ろうとしているのでもない。それらとは何かの理由であり、何らかの存在価値かも知れないが、今さらそれらの文章に何の価値があると主張したいのか。たぶん君の主張は間違っているのだろうが。誰もその主張の内容を知り得ないのはどういうわけなのか。どういうわけでもなく、何を主張しているのでもない。何も主張しているのでもなければ、そこで終わりだろう。終わってしまっては困ってしまうか。困ってしまったら何かを主張してみればいい。そうすればまた何かが始まってしまうだろう。そんなことの繰り返しからまたろくでもない文章が構成されてしまう。そんなわけで嫌気がして、何もかも放棄して、どこか遠くへ逃げ出してしまうわけか。そんなことができるならやってみればいい。何か肯定できる内容がもたらされないものか。この世界の何を肯定すべきなのか。そういう設問ではうまくいかないのではないか。うまくいかないから何を肯定しているのでもなくなってしまい、結局すべてを否定して、空疎でおおざっぱな言説へと落ち込んでしまう。そんな内容が繰り返されているらしい。君は注意力が散漫で集中力に欠けている。それはどういうことだろうか。何に抗しきれていないのか。どこかにどのような誘惑が待ちかまえているのだろう。それでも君は徐々に正気を取り戻しつつあるようだ。ろくでもない文章でも正気を取り戻せるならかまわないのかもしれず、うまく立ち回ろうとする浅はかな心がストレスの原因となっているのかもしれない。ならば心を捨てて言葉に立ち返らなければならない。それはどういうことなのか。言葉ではうまく表現しきれていないが、その雰囲気はわかっているつもりか。そこからさらに文章を進化させなければならない。それができるとは思っていないが、愚かな行為を繰り返しているのは退屈か。冗談ばかりでは神経がすり切れてしまう。状況の変化に即した柔軟さを求めているのかもしれず、さらなる行き先を開拓してゆかなければならない。決まった方向には障害物しか待ち受けていないだろう。その障害物に突き当たり、越えることができずに迂回に迂回を重ね、もときた道に引き返せなくなってしまい、そこから先が迷路となってしまうようだ。たぶんどこかの周囲をぐるぐる回っているだけなのだろう。同じ言葉が繰り返し出現していることに気づいていないのだ。意識はそれに気づくことを意図的に避けている。そんなことが可能だろうか。面倒なので無理なことはなしにしてほしいか。この際だから何でもありでもかまわないのではないか。この際とはどの際なのだろう。何かの際にさしかかっているのだろうか。


9月29日

 翌朝には雨が止み、街では曇り空の下で人々がうごめいている。誰にとってもどうということはない毎日が続いているらしいが、それで人々の不満が爆発するわけでもない。この世界の中に画期的な何かが見いだされるはずもなく、誰かの思いこみの集大成のようなマンガの中に展開される強烈な印象とは無縁だ。しかしそれで何を否定しているわけでもなく、その世界はいつまでもそのままなのかもしれない。そんな状況で何を期待できるというのだろう。誰が何を期待しているとも思えず、どこに何が立ち現れているわけでもない。では不満の行き先には何が待ちかまえているのか。気がつけば美術館の入り口に立っていたりするのだろうか。ゴーギャンが描いた南島の光景を見つめているのは君ではない。画面には誰かの不満が渦巻いていたりするわけだが、そんな絵画をいつまでも眺めていても時が経つだけだ。そこから幻影以外の何が立ち現れてくるわけもなく、自らの行動にどのような変化をもたらすようなこともない。人はそれでも生き続けるが、それとこれとはまったくの無関係だろう。ただ時が過ぎ去り場所も消え去るだけだ。誰かが立ち去った後には何も残らないだろう。もとから何もなかったのだから、そこに何かをもたらそうとすること自体が無理な話だ。そしてそんなことを述べているうちに次第に意味不明に近づいてくるようだ。何を語っているのかわからなくなる。言葉を連ね続けようとすることは、どこまでも気休めの領域にとどまろうとする意志の表れなのか。そんな風に自らの行為を否定して何になるのだろう。また自家中毒に陥っている。まだそこまで至っていないだろう。さらに前述を否定して言葉の藪に迷い込む。どこに迷路があるというのか。そこはいつまでも迂回路を形成しているらしいが、回り道からどこへ向かっているのだろう。何かの中心部へ入ってゆきたいのだろうか。幻想の都市はどこにあるのだろう。それが東京だとは思わないか。誰もそんなことは思わないか。では君はどこから離れようとしているのだろう。立場が違えば自ずからその主張も違ってくるのかもしれない。人はいつまでも己の仕事に依存し続ける。精神的にも肉体的も限界なのかもしれない。それでも君は自分が見えていないふりをしたいらしく、いつまでも他人事のような態度をとり続ける。そこから何が生じてくるわけもないが、とりあえずは文章を構成し終えて一安心がしたいようだ。だからそこから何を新たに始められるわけもない。気力はだいぶ前に使い果たされているようだ。しかしそれで命が尽きるわけもなく、そこから先は惰性で生き続け、しばらくは間を持たせることに成功している。そしてそのつもりになれば、自意識を保っているような気になって、何とかそれ以外のことにも気が回り、砕け散った残骸を寄せ集めて、自己という廃棄物をかろうじて取り繕い、それで日々の雑事をこなしているようだ。要するに誰でもないのに一般人のふりをしているわけだ。君の本質は亡霊である。本当の姿は誰にも見えていない。そこに見えているのは仮の姿でもなく、どこかの風景が絶えず君の表面に映し出されているに過ぎない。それは自己満足にはほど遠い現状であり、そんな現状に自意識過剰な誰かが手を加え続け、どこにもありもしないような迷路を作り上げている。ひたすら現実感を見失い、空疎な作り話の中にこの世界があるように感じられ、意味のない雑誌の中吊り広告の内容を真に受ける。それで誰が破滅しているのだろうか。誰でもない虚構の中に生息する君が何を告発できるのだろう。現状の曖昧さに嫌気がさして、それに対してそれとは逆の何を提示したところで無駄だ。それらの言説の何もかもが間違っているような気がしてならない。何が間違っていようと、それ以外の何が正しかろうと、現状はそれらのすべてを肯定していて、それと同時にそのすべてを否定している。何がどうなろうと、それで何がどうなったことにもならない。出来事や事件は目の前を通り過ぎてゆくだけのようだ。それが偽りの現在を構成しているのだろうが、一方ではそれらのすべてが偽りではあり得ない。事実であり現実に起こっている出来事なのだから、フィクションではない。何を語ろうとその内容のすべては真実なのだろう。君たちがいつまでもそんな現実にこだわり続けるならば、それはやがて今とは違った価値観に行き着くだろう。人間がこの世界にとっては無駄な存在であることを知ってしまうわけか。人間の何が無駄かというと、そのすべてが無駄ということになるらしい。しかしそれはどこに提示されている結論なのか。たぶん人は死に得ない存在であるという限りにおいて無駄か。何のことやら意味がさっぱりわからないが、ではすでに死んでしまった人間は無駄ではないのだろうか。他の生物の栄養分として役に立っているとでも主張したいわけか。それこそ無駄でどうでもいいような結論ではないか。何となくその程度の結論で間に合ってしまいそうな雲行きに呆れてしまうか。ならば文章とは何だろう。


9月28日

 どうも人混みは苦手のようだ。話がまったくかみ合っていない。たまに出かけて疲れているだけか。疲れたから眠たくなる。そして眠気を紛らすために音楽でも聞いているわけか。それだけでは足りず、カフェインの力でも借りてさらに無理を押し通すつもりか。そんな予定調和では不満だろうか。何かを語るのが無理でないと思いたいのなら、少しは眠気をこらえて努力したらどうか。必死にならずに何をやっているつもりになれるだろう。画面には今さらのようにわかりきった言葉が連なっている。君は誰でもなく、ただの言葉に過ぎない。君はそれらの何に感情移入したいのか。それらとは何なのか。そんなことを述べたいわけではないが、言葉を連ねようとすれば、結局そんな文章になってしまうらしい。すでに限界に達していることは承知している。それ以外に何も述べられないこともわかっている。わかっていながらさらに言葉を連ねている。それが無理なのだろう。そんな無理をやろうとしている。無理だから唐突に違うことを述べたくなってくる。真夜中に誰と話がしたいわけでもない。また誰もいないのだから、誰でもいいというわけでもない。今進行中の話はそういう内容ではない。何が誰でもないのだろうか。何やら根気が足りないようで、やる気が眠気に勝てない日々が続いている。なぜそうなってしまうのだろう。それほど理由を知りたいとは思わないが、話の内容は何もなく、相変わらずの行き詰まり状態を解消できていない。結局元の木阿弥で、眠気に負けて眠ってしまうのだろうか、誰かはその行き詰まりをどうしようというのか。眠気に勝てない理由などない。眠たいからやる気がしないだけだ。それが皮肉な結果だとは思わないが、まだそんな場所で生き残っていたいのだろうか。誰について述べているわけではない。誰だかわからない誰かが何かを述べているらしい。君は虚無の中でひたすら断片化してしまい、何を述べているのかわからなくなっているのはもちろんのこと、自らの考えを言葉で表現できずにいるようだ。さらに絶望したいのなら、いい加減に死んでしまったらどうか。そういう選択肢は誰が保持しているのだろうか。何もしなければ何もできないのはいうまでもなく、何やら途方に暮れているらしく、そんなことを考えていたら、そこから先へ進めなくなってしまったようだ。どうせそれも嘘で、誰かの作り話なのだろう。だが内容が嘘であることに特別なこだわりはない。まだそこから遠ざかりきれていないようだが、それについて何を述べているわけでもなく、誰がどこで何をやっているわけでもない。何をどうしようとしているわけでもない。心は未だにそんなところでさまよっているのか。もはやそれは心とはいえないだろう。それは過去の時空だろう。すでにあれから何日が経過したのだろうか。いつまでそこにとどまるつもりなのか。言葉は何も示さない。そこには空虚以外の事象が存在したことがない。空虚が事象だといえるだろうか。いったい君は何をわかりたいのか。今はいつなのだろうか。言葉はどのような対象に当てはまるのだろうか。何に感情移入をしているのか知らないが、とりあえずまだ雨が降り続いている。さらに降り続き、朝まで降っているのかもしれない。先を急がなければならない。それがフィクションならそれでもかまわない。君はその先に連ねなければならぬ言葉を知っている。そんな嘘も時として有効に働くようだ。しかし何に対して有効なのか君にはわからない。たぶん誰かはそれでかまわないと思っているのだろう。何もわからないままに、すでに夜が明け、朝になっている。どうせ夕方頃には雨は止んでいるのだろう。それでどうなるわけでもなく、何をどうしようというのでもないらしい。いつものように何を述べているわけでもない。何かに心を奪われている。それに関してどのような情報がもたらされているわけではない。言葉は情報とは無縁でいられるらしい。そんな嘘がどこで通用するわけもないが、とりあえずそれらの言葉を繋げて文章を構成する必要に迫られている。利いた風な理想を主張して、それで何かを語っているつもりになりたいが、今さらそんなことをやって何になるのだろうか。君はその手の言動を皮肉混じりに馬鹿にしたいらしいが、そんな君にどんな主張があるというのか。今は夜だ。昨日も夜だった。明日もきっと夜になるだろう。人は夜を目指して働き続ける。そんなことはないと思いたい者も夜に存在している。君も何かを目指したいようだが、そもそも君は人ではないらしい。人ではないから言葉を発しない。要するにしゃべらないわけだ。何についてしゃべればいいのかわからない。誰と話がしたいのだろう。次第に眠くなってくる。一眠りした後なのにまだ眠たい。限りのない眠気にさいなまれている。そんな眠気があるだろうか。表現の仕方が間違っているのかもしれないが、何を戸惑っているわけでもなく、ただそこから先へ進みたいだけで、何が間違っていようがいまいが、それ以上の言葉がもたらされれば、それでかまわないのかもしれない。


9月27日

 夜はいつ始まっていつ終わるのだろう。雨音を聞きながら、野良猫が次々と死んでゆく。誰かが毒でもまいたのか。事実はどこまでが事実なのだろう。現実と妄想の区別ぐらいはついているのだろう。救急車が夜道を疾走してゆく。救急車は馬とは違うはずだ。救急病院が近くにあるらしく、不意にサイレンの音が鳴りやむ。猫は蛙でも食べているのだろうか。鼠が増殖を繰り返しているようで、廃屋の中では夜中物音が絶えない。秋は収穫の季節だ。刈り取って逆さに積まれた稲が長雨にさらされている。人の心も刈り取り時かもしれない。冬になってしまったら手遅れだろうか。相変わらずの意味不明に違いないが、まだ足の腫れが引けないようだ。君はそれほどまでに忙しいのだろうか。やる気がしないのにやり続けたら、そのうちストレスがもとで病気になってしまうだろう。すでにかなり病状が信仰しているのかもしれず、そうだとするともう余命幾ばくもないのだろうか。そんなはずではなかったか。手遅れになってから焦ってみても仕方ないが、まだ何もわかっていない段階で何を焦る必要があるだろうか。語りたいことは何も見当たらず、なぜかその場はつまらない雰囲気に包まれているようだが、それ以上何を語ろうと、何ら具体的な話にはならないようなので、それはそれで仕方のないことなのだろうか。まるで危機感が感じられないのは、もうすでに終わっている証拠かもしれない。別に過激なことを主張したいわけではないが、それにしてもなぜか言説が予定調和に陥ってしまっているようだ。彼にはそのような役が割り当てられているのだろうか。それに対して批判や皮肉などでは、人の心を惹きつけられないだろうが、それが間違ったやり方だという自覚さえあれば、少しはまともに振る舞うことができるかもしれない。人は目指すべきことに染まった時点でだめになる。何となくそこで限界に達してしまうのだろう。しかし何となくとはどういうことなのか。それに関して何もわからないから、ただ何となくとしか語りようがないわけか。この世界は何を求めているのではなく、君の行き先を限定しているのはそんなことではない。ではただ成り行きがそうなってしまうだけなのか。なるべくしてなってしまうのではなく、理由とも必然性とも無関係にそうなってしまうらしい。そうとしか思えないような結果に戸惑っている。しかしそれでも言葉を連ねなければならないようで、現に何かを述べ続けている状況のただ中に意識があるらしい。いったい何を言い尽くせばそこから逃れられるのか。逃れるために言葉を連ねているわけではない。逃れるどころかさらなる深みにはまるためにそんなことを述べている。ならばその深みとは何なのか。簡単には表現できないが、そこには何もないような気がするだけの深みなのかもしれず、深みであって浅瀬であるような深みなのだろうか。そんな深みなど嘘だろう。何もなければ深みではなく、浅瀬であれば深みではない。要するにただの間違った言葉を使っているに過ぎず、そこから何を救い出すこともできず、当然のことながらそれらの言説を意味の通るまともな領域まで引きずっていくこともできはしない。君は誤った方向へさらに一歩踏み出している。どうにも意味をつかみ損なっていることから生じる焦りで、苦し紛れに何やら言葉の抽象性へ逃れようとしているらしいが、語っているつもりの内容は相変わらずの意味不明にとどまっている。やはりそれでは何を述べているのでもないということか。それがそこから導き出された結論だろうか。何やら決定的に意味がない。そんな揺るぎない結論を覆すにはどうしたらいいのか。何もやり方を思いつかない。そんなわけで何となくそこでその話は終わっているような気がしてくる。もとから話も何もありはしない。それではだめなことは承知しているが、そんな風にしか語れないのだから、君は虚無の中で何を知ろうとしているのか。たぶん自らの破滅を知っているのだろう。それは予感を通り越して現実のものとなっている。もはや何を述べているのでもなく、連ねられた言葉は何も語らない。語る余地などどこにもありはしない。だがそれでも言葉を連ねようとしている。いったい君はいつ寝ているのか。とりあえず昨日の意識は定かでなかったかもしれないが、今日は比較的調子がいいようで、あまり朦朧とした感じではない。しかしなぜそうなってしまうのかがわからない。ただ焦っているだけで、他に何を語りたいわけでもないらしく、どこに語りたい事柄があるわけでもない。君はもはやそこで終わっているわけだ。終わっているのにその先へ進もうとして果たせない。それは何かの冗談だろうか。すでに何かしら述べているではないか。何も述べていないようなことを述べている。たぶんそれはそれでその場の状況なのであり、そんな状況を説明して何になるわけでもないが、そんな風に語り続けていると、次第に空白が文字で埋め尽くされてきて、それが意味のない言葉の羅列としても、それなりの自己満足に浸れるのではないか。


9月26日

 たまにはそんなことを思ってしまうらしい。過密スケジュールに対応できず、かなりやる気をなくしている。どこかで取り返すことができるだろうか。過ぎ去った時間を取り返すことはできない。では何を取り返すつもりなのか。それを思い出せない。過去にそんなことがあったかもしれないが、結局何も取り返すことはできない。適当に悩んでから、一夜明ければいつもの日常が待っている。またその日一日を過ごさなければならない。そんな具合になってしまった原因を知らず、知っても仕方がないと思っている。そんな嘘はつまらないか。まるでがらくたのような音楽だ。色盲の君にはその色が見えているのだろうか。すべてが灰色に見えたらおもしろいか。何も見えているつもりになれない。要するにつまらない思いを解消できないというわけか。今世の中ではどんなことが話題となっているのだろう。興味を惹くような現象を知ることができないらしいが、なぜそんなことには興味がないのか。そういえば今度の総理大臣は君と同じように意味不明なことを述べているではないか。たぶん脳みそが空っぽなのかもしれない。勉強のしすぎだろうか。国民も馬鹿だからちょうど釣り合いがとれているわけか。北朝鮮に連れ去られた人々を連れ戻したいそうだが、すぐに結果が出てしまうような気がする。何となく君はインドでカレーが食べたくなる。誰かは横浜の中華街で肉まんでも食べたいのか。そういう意味不明ではないのだろうか。本気になれないのはいつもの通りだ。現実の仕事と非現実的な妄想との背離はさらに修復しがたいものとなる。いったい何を目指しているのか。目指すべきものなど何もないと述べることは簡単だ。確かにそんな風に述べてきたのではなかったか。狭い範囲で競い合う人々が馬鹿らしく思えてくる。競争とはすべて競馬のようなものなのか。あれで何がわかるのだろう。視野を狭められて前方だけを見ながら、他より先にゴールに駆け込もうとしている。だがそれを拒否したら何者にもなれないだろう。現実に君は何者でもない。それでかまわないのなら、他に何をやればいいのか。誰かの意味不明な言動を非難しても仕方ないだろう。自らの馬鹿さ加減がわからないのは彼だけではない。本気になってはいけないところで感情的に激高してしまうのは、人間的な弱さの表れだ。受け入れがたい状況はいついかなる時でも君を包み込む。君は絶えずそこからはじき出されてしまい、誰からも見向きもされない片隅から、ひっそりとそれらの光景を眺めることしかできなくなってしまう。薄暗がりに覆われた地域で、じめじめした土を踏みしめながら、沈黙とともに曇り空を見上げながら、まだ一言も発していない現状をどうすることもできはしない。砂嵐はどこからやってくるのだろうか。眠気とともに何を知ることができるのか。何をやる時間がないのではなく、その時間帯でやるべき何かを知り得ない。そんなご都合主義的ないいわけとともに、今日も何もやらずに眠ってしまうのだろう。たぶん架空の現実の中でもその通りの展開を期待しているようだ。たぶん今は無駄な長引かせの最中なのだ。気に入らないのにそうなってしまうのには、何らかの理由があるのかもしれない。その理由を誰が明らかにすればいいのだろうか。無責任な君にはその役目はふさわしくない。まるでマンガに出てくる登場人物のような総理大臣に何ができるというのか。マンガの中では何か画期的な改革をやったことになるのかもしれない。少し冷房が効きすぎだろうか。今の時期に冷房はおかしいか。頭がおかしいのではなく、頭を取り巻く環境が狂っているのかもしれない。この世界では何が欠けているのだろうか。君の存在が欠けているわけか。戯れ言にもほどがあるだろうか。まだ趣旨をつかめていないらしい。もう十分に熟睡したはずだ。まだ眠り足りないとは言わせないか。誰に言わせてもらえないのだろうか。まだそんなところでこだわりを保持していたいのか。保てないものを保とうとするから無理が出てしまうのかもしれず、そんな無理を可能性の一種だと錯覚してしまうのだからなおのこと救われない。ならばどんなことがよくなる可能性だと思っているのか。この世界の何をよくしようと思っているのかわからない。人一人の力で何がよくなるというのか。そんな風には思わない。言葉は相変わらず君を裏切り続けている。何を語ろうとそれは君の言葉ではないらしい。だから君の知らないうちに数日が経ち、まったく日付的に合っていない間抜けな状況となっている。それで楽しいのか。とりあえず他人の不幸は楽しく思える。そこで死んでくれたらさらに楽しくなってしまう。そんな風に思いたくないのなら、その先にどのような言葉を繋げるべきなのか。何も思いつかないのはどうしたわけなのだろう。そこで限界なのであり、もうそろそろ終わりたくなっているのかもしれず、それと同時にそれらの馬鹿げた文章をうち捨てたくなっているのだろう。どうやらさらにつまらないことを述べてしまったようだ。


9月25日

 それらはすべて冗談に違いない。しかし君はそんな風には思わない。それらの何が名人芸なのだろう。誰かは今日もひたすら無駄なことを述べ続けている。たぶんその先に破綻が待ちかまえているのだろうが、破綻したときのいいわけには事欠かないようだ。そんなわけでいつまで経ってもその程度のレベルで愚行が繰り返され、結局は偽りの名人芸もそういうことでしかないらしい。では今さら何を言っても無駄なのか。世界の向こう側から何が言えるというのか。誰が何を言おうとしているのだろう。そういう話ではないような気がする、すでに物語は硬直化していて、それがこの世界の在り方に反映している。人々が思っているのはそういうことなのか。わかりやすいことには安易さがつきまとっているのだろうか。何が付随しているわけでもなく、それがフィクションなのだから仕方がないのかもしれない。そこで何が執り行われているわけでもなく、どのような判断が示されているわけでもない。ただそういう成り行きで事が運ばれているだけなのであって、それに対して君はあきらめることしかできず、何もない空間で何も思い浮かばない日々が続いているだけかもしれない。だが何が君をそうさせているかなどと問うてみても無駄で、君がどこで何をやっているかを知りうることはできず、本当のことは誰にもわからず、そのようにして何もわかりようのない状況が、勝手に物語側で設定されているだけかもしれず、そんなことをいくら考えてみても、何の結論にも至らないだろう。しかしそんな物語がどこにあるというのか。君はありもしない物語について何を述べようとしているわけなのか。そこまで言葉を弄しておいて、結論が何もないでは済まないのではないか。それに対するいいわけとしては、現状がつまらないのだから仕方がない。仕方がないだけではつまらないのならば、そこから話をおもしろくしなければならなくなるだろうか。無理におもしろおかしく語れば、やがて恐ろしい結果を招くだろう。そんなのも冗談の一種か。恐ろしい結果を想像できなければ、何が恐ろしいわけでもないだろう。どうやら君にはその先もないらしい。そんな風にしか思われないのだ。それでもひたすら言葉を連ねようとしている、それが恐ろしいことであるはずがなく、ただの不可能に過ぎない。不可能だからからこそやりがいがあるのか。そういう居直りは呆れられるだけだ。誰に呆れられるというのか。ただ無理なのにやろうとしているだけではないか。その時点ですでに言葉は無効のようだ。だがそんな風に卑下しながらも、さらにそこから無駄に言葉を連ねようとする。まったく不可能もいいところか。君ではないと言い張っている誰かは疲れているのかもしれないが、そんなことはわかりきっている、と別の誰かがつぶやいていて、もはやそういう偽りは通用するはずもなく、ただのいいわけにすらならないだろう。では述べているそれは何になるというのか。何やらそれらの文章は本当に恐ろしい行き詰まりにさしかかっているようで、なぜ君はその恐ろしさを認めようとしないのか、その顛末を記しているつもりの誰かには、君の考えがよくわからない。依然として現に体験しつつある行き詰まりを認めたくない状況にあるわけか。しかしそれはどのような行き詰まりなのだろう。君はそれらの何を認めようとしないのか。感知していることは何も認められないわけか。何を感知しているのかわからない。そんな風に思ってみても虚しいだけだ。たぶん現状はそうではないのかもしれないが、そのようにしか感じられないことが、すでに思考の限界を呈しているのだろうか。ここに至ってさらに何も述べていないような気がしてくる。実際に具体的な事例を何も提示できていないようだ。そしてそんな否定的な現状をどうすることもできない。しかしそれでも文章を続けていることに変わりはない。やはりそれは恐ろしい状況だろう。末期的な状態を呈しているのに、なおもそこから言葉を繋げようとしている。たぶんそんなことを述べるべきではないのだろうが、そんな風にしか述べられないのだから仕方がなく、仕方がないのだからそれらの文章が続いてしまうのだろう。しかしそんなごまかしが通用するのだろうか。いったいどこで通用しているのだろう。そこは架空の世界なのか。そことはどこなのだろうか。そうやって言葉が循環して、結果として文章が続いていってしまうのだろう。要するに君は無駄で無益なことを述べている。そしてすでにそんな結論が出ているのに、その先にさらなる文章を繋げてしまうらしい。意味のないことをさらにやり続けているようだ。恐ろしいのはそんな状況ではなく、君自身かもしれない。それは誰かの勝手な思いこみだろうか。誰が何を思いこんでみても、たぶんそんなことはお構いなしに、君は勝手にそれらの空疎な文章を増殖させようとするだろう。そしてそんな行為が君の心の内に虚無を呼び込んでいて、君自身の破滅を招いているのかもしれないが、それでも自らが滅び去っているとは思わないのだろうか。


9月24日

 何とかしようとしているらしい。誰が何を教えようとしているわけではないが、彼は何を伝えようとしているのか。まだその場所にとどまっているのだろうか。もう忘れた方がいいだろう。つまらないストーリーを思い浮かべている場合ではない。たぶん恐ろしい結末が待っているはずだ。今はまだそれを知り得ない時期にあるらしい。このままでは何をやってもうまくいかないことはわかりきっている。だからどうだというわけではないのかもしれないが、何もできないよりは、何かをやっている方がマシというわけにはいかないらしい。何かをやっていても、それを終わりまでやり遂げずに途中で放棄してしまっては、それは何やっていないことと同じになってしまうわけか。そう見なされてもかまわないのか。それでも何かをやっている、といくら自己主張を繰り返しても、周りは何も認めてくれないかもしれない。それとも周りの状況によっては、それでもかまわないような立場を得ることができるわけか。社会はその中で生き続ける人それぞれに役割分担が課されていて、その役割に応じた行為をしていればそれで済んでしまうような状況なのだろうか。そのようなシステムができあがっているところでは、それだけやっていれば生きてゆけるのかもしれない。だがどの程度までそれでうまくいくのだろうか。誰がそれで満足するというのだろう。人それぞれに役割が課されているというのは幻想か。実際にそうだとしてもそこには承伏しがたい不均衡が顕在化している。なぜ人々は努力してその役割を担わなければならないのか。どうして他人と競争しなければならないのだろう。その程度のことで躓いているようでは社会の中で生きてはゆけないか。生きてゆけなければ死ぬしかないのだろうか。そして実際に数多くの者たちが社会に適合できずにドロップアウトしていってしまうわけか。君はそのような状況の中でどうしたらいいのだろう。何とか生き続けている限り、それはこの社会に適合している証だろうか。しかし何のために生き抜かなければならないのだろう。そんな風に問いかけてしまうこと自体がおかしいか。考えなくてもいいことまで考えようとしている。だがそこで考えることから撤退するわけにはいかないのかもしれない。なぜ外では雨が降っているのだろうか。やはり無理なことを考えるべきではないのかもしれない。他人に諭すべきではないのかもしれない。利いた風なこうしゃく話では無効なのかもしれない。そんなわけでそれらの現象について説明することが困難になりつつある。ではそこでやめなければならないのだろうか。無益で無駄なことはやめておくべきなのか。余分なことを述べているようだ。正当化できないようなことを述べている。たぶんそこから先に述べるべき内容を見いだせないのだろう。だからそこで立ち往生してしまうわけか。またいつもの展開を蒸し返すしかやりようがないのだろうか。ひどい雨だ。土砂降りに近い。それが心配の種になっているわけか。真夜中に何を考えているのだろう。どんな言葉を連ねるべきなのか。そこからどのような行為に及ぼうとも、今さら言い逃れはできない。ただできないことをやろうとしているだけか。何ともやりようのない状況にはまっている。それでも何かを述べてゆかなければならないのだろうか。事前にどのような場合を想定してみてもうまくいかないような気がしてくる。どうやらぶっつけ本番でその場の即興に期待するしかなさそうだ。そこから逃げ出すわけにはいかないらしい。今はそんなことを考えるタイミングではないのかもしれないが、休まなければならない時期にさしかかっているのだろうか。休んでも何も解決しないだろう。何かを解決するために休むわけではなく、休むことによって気分転換になるだけか。気分転換はその場の一時しのぎにしかならないだろう。継続させるためには、時には一時しのぎも必要か。何を継続させようとしているのか。それは生き続けることになるのだろうか。それらの思いは絶えずその先を目指している。何かの波に乗って、その先を目指さなければならないようだ。たとえそれが思い違いだとしても、それをやらざるを得ないように思われてしまう。状況がそうさせるのだろうか。何に頼るわけにもいかないらしいが、そんなことでさえ他人の力を借りなければできないようなことのようだ。見えているものがまるで見えていない。そんなわだかまりが蓄積していって、いつかヒステリーとなって爆発してしまうのだろう。そんなよくあるパターンで鬱憤を晴らすのはよくない。形式や様式はいつも進化を促されている。たまには違う行為に及ぶべきなのだろう。とりあえず考えてばかりいないで、行動してみなければ状況の変化をもたらせない。それが気に入らなければ違う風にやってみればいいことだ。それをやったあとからそれなりの変化が結果となってついてくるだろう。行為に及ぶとはそういうことでしかない。そういうことの積み重ねが状況の改変につながっていくのかもしれない。


9月23日

 誰かがベトナムの思い出を語っている。それは遙か昔に起こった戦争のことだろうか。老人のこだわりはそこにしかない。黙っていればそんな風になってしまうのだろう。黙して語らないということではないらしい。不自然な言葉の連なりは不連続を解消できず、今日も欠陥だらけの文章となっているようだ。楽しさを醸し出すために悲しみを並べ立てる。それはくだらぬ言葉の連鎖となり、わざとらしく嘘をついていることを忘れさせる。眠気はどこへ飛んでいってしまったのだろう。空を飛んでゆく風船の行方を目で追っているわけではない。君はそれを無視する。神は森の奥深くに隠棲しているということらしい。ランボーはとうの昔に死んでいるはずだ。伝説にはどんな真実が隠されているというのか。そこで何を暴き立てようというのか。スキャンダラスな噂話には興味を持てない。朽ちかけた樹木を苔が覆う。ここは乾燥地帯のはずだろう。サハラ砂漠で白神山地の写真集を見ているわけではない。意味のないことを述べているだけのようだ。文章は何を夢見ているのか。それは文章ではなく誰かの意識だろう。意識は埼玉県辺りで交通事故でも眺めているのかもしれない。それは意識ではなく誰かのまなざしだろう。空想が途切れ途切れの断片を形成する。断片とは何なのか。少なくとも誰かの肉片ではなさそうだ。血だらけなのは地方都市で興行されているプロレス会場でわめいている悪役レスラーか。まだ血だらけになっているわけではない。たぶん今は退屈なマイクパフォーマンスに興じている最中だ。中にはその手の週刊誌を読んでいる者もいるらしい。そこでは誰が攻撃の対象なのだろうか。次期総理大臣の安倍晋三は退屈な男らしい。週刊誌にはそう書かれてあった。保守は昔から退屈と相場は決まっている。ならば他にどんな選択肢があるというのか。政治はつまらないが、なぜか夜を通して何かの結節点に到達できるかもしれない。それは分水嶺とどう違うのか。わざと横道に逸れているつもりのようだが、何が横道なのかわからず、すべてが横道のような気がしてくる。そこで何をどう述べても仕方がないのだろう。だから何を批判しようとも思わない。すでに神の手はひび割れている。それは何かの偶像だろう。酸性雨にさらされて溶けかかっている。これから何をどうしなければならないのか。今のところ君は何の責任も果たしていない。責任とは何なのか。面と向かって誰かを批判しなければならないのだろうか。当然のことのように、それについて思い当たる節は何もないが、とりあえずその言葉に従えば、少しでも善意を持ち合わせているなら、これから何らかの責任を果たさなければならないのだろう。だがすべてはフィクションの範疇で行われていることだ。他に何を考慮に入れる必要も感じない。責任の話はどうなったのだろう。その先へ続いているわけではない。ではこれから何をやるつもりになっているのか。物語はとうの昔に死んでいて、小説は最近になって死んだらしいが、そんなどうでもいいような断言を繰り返しているのはどこの誰なのか。人間がすべて死に絶えたのは今から数十年前のことだ。人が死んですべては影となる運命なのか。それが誰の影なのか知らないが、そんな運命もとうの昔に実現しているらしい。それは根も葉もない噂話ではなく、単なる妄想の産物か。そして誰がそんな物語的展開を期待しているわけでもなく、不意に思いつく内容をすべて文章に定着させようとは思わない。本当は何も思いつかないのではないか。それについて何を声高に主張するつもりもない。今どき批判に値するような人間の存在を知りたいか。それらの文章は何も答えない。すべては行き詰まるための準備段階に過ぎず、そこから興味を惹くような出来事に巡り会えるはずもない。それは夜の出来事なのかもしれず、何の変哲もない夜の闇の中に何があるわけでもなく、どこかの森や草原で、梟のまなざしが獲物を探しているだけのようだ。そしてそこから先に話が進まなくなる。ただ眠たくなっているだけかもしれない。君は誰の安眠を妨害しているのか。それは何かの罠なのだろうか。誰が罠を仕掛けているのだろう。ではまんまとその罠にはまって、そこで精神の過剰さを顕在化させてみたくなる。またわけのわからない嘘をついている。無理なことを述べているのだろうか。何をどう述べるのが無理なのだろうか。その先いつまでも無駄なことを述べて続けていられるだろうか。無駄だとは思いたくないのではないか。それをどうにかしなければならないとは思わないか。わからないことはわからないままでもかまわないか。今はそれしかあり得ないだろうが、いつかそれをわかろうとしている自分に気づくこともあるだろう。しかしそれで何をわかろうとしているわけではない。わかり得ぬことを探しているわけでもないが、すでにわかっていることを繰り返すのは退屈極まりないか。それで気が済むなら、そうしたいところかもしれない。そんなところまで気が回るような神経は持ち合わせていない。


9月22日

 君はそれを知っているはずだ。まだ早すぎるのだろう。早すぎると同時に遅すぎるのだ。それがいつもの意味不明を招き、わざとらしい文章の延長を容易にさせる。国家について考える者は粗雑な論理に支配され、その構造ばかりに関心を向け、偶然の成り行きを排除する。たまたまそこにある国家が存在しているだけのことに、何らかの存在理由を導き出そうと躍起になっている。彼らは何を考慮に入れていないのだろうか。たとえば中国と日本を同列に扱うこと自体が荒唐無稽か。生成過程の違う二つの構造体について論じようとしているのに、同じ価値基準を用いて語ろうとすることに無理があるのだろう。物語とはそういうものなのか。中国と日本が違うように、アメリカと日本も違い、ロシアと日本も形態が異なる。しかしそこからどんな結論が導き出されるのだろう。結論が導き出されてしまうということ自体が虚構なのか。結論の何が正しいとも思わないが、結論が導き出されなければ話にならないだろう。だから結論が導き出された話はすべてフィクションだといいたいわけか。それではわけがわからない。結論に至ろうとしなくても、自然と結論が導かれてしまい、そして話が嘘になってしまうというわけか。そんな話がどこにあるのか。そんな決まり文句を繰り出さなくとも、結論などどこにでも転がっているはずだ。ではどこに言説の対象となる固有名が存在しているのだろうか。君は結論の他に何を必要としているのか。何かについて論じるのは馬鹿らしい。その何かが興味を惹く対象とはならない。君は絶えずそこから離脱しようとする。話の筋が宝探しのようになってしまっては、それは何かの物語そのものだ。リアリティがそこで消失してしまう。かつての落合信彦のようなことを述べてそんなに楽しいか。あるいは司馬遼太郎でもかまわないのか。そんな固有名には興味が湧かないか。なぜ架空の人々が物語の中で息づいているのだろうか。それがわからなければ物語など読む必要はないか。すべてが馬鹿げていると感じられようと、そこですべての内容をうち捨ててみても、結局は何ももたらされないのではないか。やることなすことのことごとくがしっくりこないとしても、そういう感覚を保持していないと、早晩物語の登場人物になりはててしまうだろう。いくらうまく立ち回ろうとしても無駄なのだ。作者の思い通りに操られていてはつまらない。浅はかな読者にくだらぬ感動をもたらすだけだ。そうならないためにも今は徹底して物語に逆らわなければならない。たぶんそんなのは嘘だろう。嘘でなければそこまで続かない。まだ詰めが甘いようだ。そしてまだ窮地に追い込まれたわけではない。世の中にはくだらぬ論理がまかり通っている。性懲りもなく同じようなことばかり述べているのでは、知恵が足りないような気がする。だがそれで力不足というわけでもない。架空の場では力など必要とされていないのかもしれない。何よりもセンスがない。だがそれはただの言い逃れに過ぎないだろう。スナック菓子ばかり食べていると口の中が荒れてしまう。わからないことはいくらでもあり、時にはそれをわかりたいとも思っているようだが、また無駄なことを述べているのだろうか。何かをやる口実に行き当たらない。まだたどり着いていない。そこから逃げてはいけない。誰かは意味を知りたいらしいが、無理にそれを理解する必要はない。時として乱雑な形態をとりながらも、読める者には読めるだろう。黙っていても言葉が自然に蓄積してくる。世に何を問うているわけでもなく、それほどの野心はないが、文章がまるで意味をなさない。たぶん以前とは違うことを述べているつもりなのだろう。感性の形態を見いだせないようだ。それらの何が重要だとも思えないが、地道に言葉を連ねるのが嫌になったのだろうか。もとから嫌だったのではないか。どこに何があるわけでもなく、ようやく見つけたそれもイミテーションに違いない。何がまがい物に見えるのだろう。君はそこで何を守り抜こうとしているのか。利益はどこにも見当たらず、気分も最悪か。そういう話ではない。外は久しぶりの曇り空だ。守るべきものなどどこにもありはしない。君にそれがわからないはずがない。わかろうとしなくてもわかってしまうだろう。だから何をやっても無駄だろう。また崖から転げ落ちる夢でも見たのだろうか。意味がわからないが、誰かはまだそこから降りていないのだろうか。当分降りるつもりはないのかもしれないが、案外降りたくても降りられないのかもしれない。言葉は君を裏切り続ける。誰にも知り得ないこと明らかにするつもりはないようだ。それは周知の事実に過ぎないことか。自らが語りたい内容に合う事実を取捨選択して、都合のいい歴史観を構成したいのか。無用な言葉の中では何も有用ではない。たぶんそれだけなのだろう。誰からも時とともに才能が去ってゆく。受け止めるべきなのはそんな事実ではない。それは事実ではない。ただ状況が君の周りをぐるぐる回っているだけか。言葉の循環は君の外側にあるらしい。


9月21日

 文章上に生じているつもりの虚構の時空で、散漫な言葉の群れに取り囲まれ、誰かの意識は気分が優れなくなる。感じているそれが頭痛の一種だろうか。認識はそれは違うと否定し続けるが、さっきよりさらに頭が重くなり、何が文章の始まりなのかわからなくなる。亡霊がそこに佇んでいるように見える。誰の姿でもなく、何に導かれてその場所へと迷い込んでしまったのか。だが誰がそこで後悔しているわけでもない現状に拍子抜けを感じ、意味のない幻想によって何を思い浮かべようと、それらの文章を誰に読んでもらおうとは思わない。またしても読むべき内容ではないようだ。それでもまだそれらの意見は誰かに影響を与え続けているようだ。誰に向かって何を告白しようと、そこから驚きはもたらされない。強烈な意味を伴うわけもなく、そこから先に何があるわけでもないが、それ以外の何を導き出せるだろうか。また文章が紋切り型に陥っているようだ。わざと過ちに気づかないふりをしつつも、次第に誰かの魂胆がわかりかけてくる。まだ中途半端な寒さでしかない。蒸し暑いような感覚も一方ではあり、また体調を崩して寝込んでしまうかもしれないが、そんな嘘では気分が乗ってこないようで、ついでに策に溺れて言葉に溺れ、他の何に溺れたら気が済むのだろうか。実際に海や川やプールで溺れてみれば、その程度では溺死に至らないことに気づくか。自らが現実の溺死に直面してしまっては、策に溺れることも言葉に溺れることもできなくなってしまうが、何に溺れようと、そこからさらに深く潜ることはできない。しかし体に重しでもつければ、命と引き替えにして、潜るのではなく、さらに深く沈んでゆくことができるはずか。そんなことを夢想しつつも、誰がそこで死ななければならないのか、該当する人物を想定していない。誰がその雰囲気を醸し出しているのでもなく、つまらない内容に動揺しても何がもたらされるわけもなく、その先にどんな言葉を配置しても仕方がない。最近ではいつもそうなのだから、その言葉の並びに不安を感じようと、何も驚くには当たらない。そういう意味では何だか昔と今とでは隔世の感があるようだが、文章がつまらなくなった分、少しは自意識過剰が修まったのかもしれない。今さら何を肯定的に捉えても仕方がないが、どうやらその辺で限界を突破できずにもがき苦しんでいるだけらしい。自らの至らなさを思い知らされているというわけか。何に思い知らされているのだろうか。たぶんそれほど苦労して導き出そうとしている言葉の連なりも、何かの役に立つ文章とはならないだろう。またそういう成り行きになってしまったことについて、今さら何を悔やんでみても始まらない。そんなことを述べるのにも飽きてきて、薄暗がりの静けさの中で横たわっている。感性がそういうレベルでは気に入らないか。もっと違うことを述べなくては気分も優れないままか。心の中で何かが流れ去っているようだが、あくびをしながら意外な結末に戸惑っているのかもしれない。まだ文章の結末には達していないはずだ。何でそんな風に過述べられないのか。絵に描かれた誰かの後ろ姿を眺めながら、表面に塗り込められた景色は、何らかの雰囲気に流されているように感じられるが、それは昔の記憶の中に沈みつつあり、さらに遠くの風景の中に人影はない。秋になってしまったのだろうか。秋になったからといって、そこには誰もいないわけではない。架空の君は霊魂の存在を信じているようだ。では君ではない君に何を問いかけているのだろう。今では問いかけている対象の存在を知らない。日の光を前進に浴びているのは、誰でもない誰かかもしれないが、なかなかその機会が巡ってこないようで、ここしばらくは装飾的な文章で満足しなければならず、未だに内容のなさを嘆いている場合ではないか。そのとき君は何を忘れていたのか。誰かは突然部屋の掃除を始めて、それを気晴らしに結びつけようとしているが、無駄なことはやらない方がいい。それは気晴らしにはならないだろう。何を血迷ってそんなことを述べてしまうのだろう。血迷うほどの過ちではないと思っている。ただ声を荒げているように見えないだけか。何を述べても何かの冗談には違いないが、そんなことを述べているうちに眠たくなってくる。述べてはいけないことではないが、述べる必要のないことだ。君をそこに縛り付けておくための文章なのかもしれない。それらの頸木から逃れられない理由がどこにあるのか。そんな風に思っていないからそうなってしまうわけか。別の時空で誰かは冬の歌を聴いている。意味が通るように文章を構成するのが面倒くさい。しかしそれは断念すべきことではない。いつかは何らかの物語的な展開を受け入れなければならなくなってしまうのか。そんな予感がしているわけではない。その場の成り行きに従って言葉を連ねているだけか。冬の到来はまだ先のようだ。雪が待ち遠しいわけもなく、夜の闇の中に猫の姿を見つけたつもりになるが、それではまったく言葉と意味がつながらない。


9月20日

 言葉と言葉の間に何かがある。それは空白に過ぎないかもしれないが、他に何も見当たらない。おそらく君は何も成し遂げられないだろう。確かに思いはそれほど強くなく、何を成功に導こうとしているのでもない。誰を陥れようとしているのでもない。誰かは君をどうしようとしているのか。どんな策略も計略も君には通用しない。では何を存在させようとしているのか。そこには何もありはしない。ありふれた結論に導かれようとしているわけか。そこは求めている場所ではない。誰の地位を奪い去ろうとしているのか。何も感じないのは誰の気配もしないということか。彼は呪われているのだろうか。神にはその呪縛を解くつもりがない。今はそのままでもかまわない。それどころか永久に呪われたままでもかまわないはずだ。君は神の存在など信じていない。信じていないからその土地に縛り付けられ、そこから外へ出られない定めにある。しかしそれで君自身は一向にかまわないと思っている。君は架空の存在でしかない。たぶんその先がないのだろう。離れるべき土地を想定できない。いいわけには事欠かないようだ。それがいいわけになっていない。もう少しまじめに言葉を連ねなければ内容が嘘になるだろう。嘘になってもかまわないのなら、そのままの内容を最後まで貫き通せばいい。おそらくそれで何を語っているのでもなくなるはずだ。誰かはそこから自らの影を作り出す。その影が君を苦しめている。君自身の存在が実体のない影なのではないか。だから君の言葉は空回りしているだけだ。さっきから何も述べようとしていない。それは何かのたとえ話かもしれないが、石の表面に文字を彫り込んでいるわけではない。焦らず慎重に事を運ぶ必要でもあるのだろうか。彼は自らの自己実現のために誰を利用しているつもりなのか。そう簡単に事は運ばないだろう。自己実現の中身そのものが低劣なのかもしれない。自らの志の低さに気づいていないわけか。しかし彼のこだわりの狭さにあきれかえってばかりいては、どこからも建設的な話は出てこない。少しは将来につながるような成り行きに持って行かなければ、何のために生きているわけでもなくなってしまうだろう。それでもかまわないのだろうか。かまわないのかと問われれば、かまわないとしか答えようがないが、それが嘘であることも承知している。たぶんそれとは別の道を模索しなければならないのだろう。だがそんなわかりきったことを今さら蒸し返してみても始まらない。最初からボタンを掛け違えているのだから、それを修正できないとしたら、そのままの状態で最後まで押し通すしかないのだろうか。しかし最後はいつやってくるのだろう。最後がいつやってくるかは神のみぞ知るか。神を信じていない君には関係のないことか。人は誰でも自らが大げさな境遇のただ中でもがき苦しんでいると思いこみたいものだ。それが物語幻想を生んでいるのだろう。いついかなる時でも物語の主人公でありたいわけだ。自分を中心として大げさな話が進行中であってほしい。そこからどのような態度が導き出されるのだろうか。ただの自己顕示欲でしかないわけか。ではなぜそういう態度があからさまににじみ出てくるのか。君にはそれらの拙劣さが理解できない。理解してあげようとする善意が皆無なのか。いらぬお節介はしない方がいいだろう。だがそこでいつまでも立ち往生していても、得るものは何もない。無駄に言葉を連ねるばかりで、何を述べようとしているのかよくわからなくなり、しまいには焦りから自滅してしまうだけか。平衡感を失い、足下の石ころに躓いて、転んだ拍子に忘れていた記憶が突然よみがえる。何を思いだしたのか。面倒なのでそれを言葉にするわけにはいかないらしい。たぶんそんなのは嘘だろう。そんなことはどうでもいいことなのではないか。早く終わらせたいのだろうか。終わってしまったらどうするつもりなのか。無駄な文章に手こずっているのが鬱陶しくてたまらない。それが無駄でないとはいわせない。誰かが何かをやらせない。そこで何を答えたらいいのだろうか。まだ終わっていないと強がってみせるべきなのか。そんなこともどうでもいいことなのか。君にはそこから先が見えないらしい。その先の展開を予測できない。予測してどうするのか。何をそんなに急いでいるのだろう。先を急いで終わりを早めたいのか。早く終わりたい理由ははっきりせず、いつまで経ってもそのままの姿勢で、機会を逃し続ける。終われないのに終わりたいが、終わってしまったらそこでおしまいだ。本当のおしまいを経験したことがないのだろうか。そうではなく、どういうことでもないのだろうか。無駄な言葉ばかりが積み重なり、そこから先はゴミ捨て場と化しているらしい。ゴミの中から何を探し出そうとしている。君はレアメタルの存在を認識しているのだろうか。それで困っているわけではなく、そこから何を導き出したいわけでもなく、ただの戯れ言を長引かせていることに負い目を感じているようだ。そんな終わり方では終われないか。


9月19日

 君は工夫という言葉の意味を知らないらしい。それで何を知ろうとしているのだろう。別に調子に乗っているわけではない。このままでは何やら最悪の結果を招きそうな気配だが、それでもかまわないと思っているのだろうか。現実にそうなってしまったあとから何を後悔すればいいのか。君にとってそれは最悪とは感じられないようだ。自らの将来を考えられない。どのような構想を持っているわけでもなく、ただ適当に言葉を並べているだけでは、何を述べていることにもなりはしない。いったい君は何を強がっているのだろう。いくら強がってみせても、何もないのだからそれは空元気のたぐいだ。そんなことは先刻承知の事柄か。ではそれでもそれをやめようとしないのはどういうわけなのか。理由は何もなく、ただ強がっていて、それでかまわないとも思っている。確か過去にもそんな理由があったはずだが、それは理由なき反抗という映画とは無関係だ。要するに無謀な試みの最中なのだ。そんなことをやってどうなるものでもないが、その無謀さとはどのような程度の話なのだろうか。死ぬ間際に至ってなお、自らが元気であることを主張するようなものか。本当に死ぬまで元気なのかもしれない。そんな嘘ならいくらでもつける。本当はそうでもないのかもしれないが、何がそうなのか理由がわからない。誰がどこで死のうが、それが君の結末なのではない。君がそれらの出来事の一部を構成しているだけだ。またそんなところで何もやらずに佇んでいる。君は幽霊のたぐいか。幽霊にはどんな主張があるのだろう。また何かが過ぎ去ってしまったのかもしれない。機会を逃してしまったのだろうか。何について語っているのかわからない。何か後ろめたいような思いがどこかに漂っている。それが何を意味するかはわからない。何もわからなければ何を述べているのでもない。そんなことはどうでもいいことだろうか。誰かはその先を見据えながら言葉を繰り出しているつもりなのか。なぜそれらの人々は世の中になじめないのだろう。物語の登場人物は架空の存在だ。君がそれらを構成しているのではない。自然と言葉が連なる様を眺めているのでもない。そこには誰かの作為が働いている。それは何かの賭だろうか。君は賭に敗れてもかまわないのか。何のための勝負なのだろう。敗れるために戦うつもりはないはずか。つまらないことにこだわっていてはそれらの勝負に巻き込まれてしまう。それが報われない努力であるはずがないか。何をどう述べても利用されているだけだ。何に利用されているのだろう。虚無が増殖するためにはそれらの言葉が必要か。なぜそれらの言葉が必要なのだろうか。何もないのに言葉があることが、誰にとって必要なのか。偉そうなことは何も言えない。誰もそんなことは望んでいないだろう。どうあがいても勝てはしない。それらの機構には何の問題もない。それは問題ではない。世の中がどうなろうと君には関係のないことだ。どうなろうとそれが気に入らないことに変わりはない。君にどうしろというのか。そんな話は聞いたことがない。しかし他にどんな話があるわけでもない。そういうことを述べていてかまわないのだろうか。何をそんなに迷っているのだろう。何を聞き入れてもらいたいのか。それは誰の自己主張でもなく、何らかの主張ですらない。本当に何を述べたいのかわからなくなってきた。誰にそれを認めてほしいわけでもない。たぶん何かの勘違いなのだろう。そんなことを述べていること自体がおかしい。だがおかしいと思うこと自体も勘違いの一種かもしれない。そこから逃れる手段を見いだせない。何を見いだそうとしているのではなく、何から逃れようとしているのでもない。そう述べて何かを否定しようとしている。言葉がその先へ続かないようだ。何を述べているのでもないことはつらいことなのだろうか。簡単にそれを表現できない。言葉ではないのかもしれないが、言葉でなければ何なのか。人々はそこに何を見ているのだろう。少しずつ何かの傾向が明らかになりつつある。それが無駄でないと断言できるだろうか。つまらない人々がつまらないことを述べているだけだろう。君はその内容を知りたいらしいが、それが明らかになることはなさそうだ。その理由を導き出せない。理由がないのかもしれない。それもいつもの主張の一部を構成しているようで、それらが総合されて文章ができあがるらしい。それを成し遂げようとする思いはそれほど強くはない。それほどのことでもないらしい。たぶん何も成し遂げられないだろう。誰が成し遂げようとしているのではなく、ただそのような雲行きを感じている。何かを主張することがそれほど馬鹿げたことだとは思わないが、その主張の中身に興味を持てない。何となく空回りしているような気がするらしい。自己主張の中身は何もなく、それは自己顕示欲の表れかもしれないが、自分の存在を際だたせようとすることが、どのような結果につながるのか、その結果に興味を持てないのだから、そんなこともどうでもいいことなのか。


9月18日

 さらにその時間帯から意識が飛んでいる。身体を離れて思考をどこかに及ぼそうとしているようだが、意識は現状の何を説明しているのか。何かを浪費しているようで、その何かによって行動を急かされている。偶然につかんだきっかけを利用しながら、虚無の中からつまらない言葉がわき上がってくる。やっとやる気になってきたようだが、それを無駄に使っている。もう無意識も邪魔をしないつもりか。妄想の一部が言葉と化している。それでも何も述べられないよりはマシだろうか。まともなことは何も述べられそうもない。それは危険な傾向かもしれない。わけのわからないことばかり述べていては、もう誰からも相手にされなくなってしまうだろうか。何を心配しているのか。心配しているようなふりをしているだけか。それは言葉であってふりでさえない。長生きしたければ静かに暮らすことだ。他人の注目を浴びるような行動に出てはならない。しかし誰の忠告に耳を傾けているわけではない。それが違うと思っている間は気も違っているままか。その場の空気は言葉を選ばない。だが言葉を選ばなければ文章を構成できないだろう。まともな文章にならなくてもいいのか。皮肉ばかりでは感性に嫌われてしまうだろう。バラバラに分散してしまっていて、着地点を見つけられない。だが驚きに値するような無内容ではない。君はまだその曲を覚えているだろうか。灰の降る町は公害問題に揺れていた。過ぎ去った昔は忘却の餌食となり、人は死んで生まれて世代交代が進んでゆく。過去につなぎ止められた思いは化石となって、いつの日にか誰にかに掘り起こされ、再発見されることを願っているはずか。それがつまらない歴史なら誰からも見向きもされないだろう。君に言葉は似合わない。的外れな認識を後生大事に抱えて身動きがとれなくなり、いずれ棺桶の中に取り込まれて、それらの未練がましい言葉とともに荼毘に付される運命なのか。天才とはいかなる者のことをいうのだろう。それにしても彼の出現はあまりにも遅すぎる。それでは彼についての物語が成り立たなくなり、誰が本当の彼なのかわからなくなる。真実は複数の彼を登場させようとしているのか。一つではない真実を絡み合わせて複数の時空間を構成できるだろうか。誰がそれをやろうとしているわけではない。意味が通るわけがない。砕け散った言葉の断片には何も宿っていないだろう。ガラスは磨り潰されて砂になり、人知れずどこかの浜辺に打ち上げられている。そして何もかもが無色透明になるだろう。問題なのは教育ではなく、大人を形作っている制度に問題があるらしいが、大人たちがそれを改めることなど不可能であり、子供にはなおのこと何もできはしない。しかしそれはどうでもいいことに違いない。問題に値しないような無内容だ。耳の穴がかゆいのは誰のせいでもありはしない。心が冷えているのは幻覚に違いない。そんな嘘をついても何も状況は変わらない。そのまま意味不明な内容を続けて記すべきなのか。君は状況に甘えているのだろうか。できないことをやろうとして、挫折してもなおそれをあきらめきれないらしい。我々はいつ何時でもほほえみ続ける。我々の中に君は存在しないが、それでもほほえみ続け、いつかそれが何らかの絵画になることを願っているように見えてしまう。それはどのような写真なのだろう。なぜか十数年ぶりにThe ChristiansのHarvest For The Worldを聴いた。そしてそのついでにTears for FearsのSea Songも聴いた。それらの曲から何を連想しているのか。連想して何になるのか。誰かが存在する原因となっているらしいが、意味がわからない。文章はまとまることを放棄している。意識も方々へ分散しているようで、大振りのオレンジのように味が薄い。そこで行き詰まってしまうのか。半身不随のRobert WyattはまだSea Songを歌っているだろうか。The Isley BrothersのHarvest For The Worldならいつでも聴けるだろう。しかし感性はすでにすり減っていて、何も感じない曲ばかり聴いている毎日かもしれない。どうということはない曲を聴いているときが心地良いが、その中の二曲がそれらなのだろうか。今の君にはもはやどうでもいいことに違いない。内容を見いだせずに音楽を聴いているだけのようだ。集中力を欠いて空白に言葉を連ねながら、歳月の経過に抗うこともできはしない。構成された文章は君の本心をつかみ損ねている。結局のところ何から遠ざかろうとしているのでもないらしい。遠ざかったつもりで振り返ってみれば、いつもの文章が性懲りもなく立ち現れている。いくつもの色からそれを選んだつもりが、そのすべてが灰色に塗りつぶされていることに気づく。そんな曲は聴いたことがないと思っていても、すり切れた感性には驚きが欠けている。またさらに遅れてしまうのだろう。いくら努力しているつもりでも、未来へ追いつくことは叶わない。その理由ははっきりしていて、それは君が過去の存在でしかないからだ。そんな断言のあとにどんな言葉を続けたらいいのだろう。


9月17日

 自然界には何らかの摂理が働いていて、何事も気分次第というわけにはいかないらしい。そんな所で何をやっているのだろう。人生を降りるとはどういうことなのか。たぶんそれだけでは物足りないだろう。多くの人は降りたついでに死んでしまう。死ぬだけでは物足りないか。能ある鷹は爪を隠し、死者は墓石を残す。言葉的には両者の間に何の関連性もありはしない。墓石には生前の業績でも記されているのだろうか。後世に名を残したい者は墓石にそんな虚しい仕掛けを施したいわけか。何が仕掛けなのだろう。始皇帝の墓でも掘り起こしてみれば、大げさな仕掛けが次から次へと出てくるかもしれないが、まさかそこから過去と現代と混同して、それの真似事をするために多額の金をかける者などどこにもいないだろう。では現代において見栄を張るとはどういうことなのか。いつまでくだらないことを述べ続けるつもりなのか。それがくだらないことだと感じられなくなるまでかもしれないが、それ以前に終わっている。君はまだ死ぬ気にはなれないようだ。根気がそこまで続かない。死まで至らずに眠ってしまう。何事も面倒な事態は避けなければならない。何が面倒なのかわからないが、何となくそう思ってしまうらしい。そんなわけで君は君自身を裏切り続けている。この世界には何もないと思っているにもかかわらず、それが嘘であることを証明しようとしている。無意識が意識の間違いを訂正しようとしている。本気になれないのに気がつけば本気になっている。死にものぐるいで己の死を避けようとしているわけか。実際にはそれほど切羽詰まっているわけではなく、ただそう述べて偽りの本気モードを退けようとしている。何も見いだせないのは誰のせいでもありはしない。それがまったくの無駄と思うなら、それは幸いなことかもしれず、それらの文章はそこであきらめられる可能性を秘めている。おもしろいと思うなら、その先に言葉を続けていくしかない。限りのない営みをいつまでも続けていく以外にあり得なくなる。だが見えている風景には興味を惹くものがない。心は何に惹きつけられているわけでもないらしい。なぜそんな仕組みになっているのだろう。嫌気がさしているのはどういうわけなのか。見えている場所がここには存在しないからか。その場所はここより遙か高みにあるらしく、そこまで登っていく気が起こらない。見ているだけで十分なのだろうか。だが空想の上の身体は宙に浮いている。音楽は時として人を狂わせるが、それは音楽に限らない。では眠気も君を狂わせるだろうか。身体のだるさは眠気からきているわけではない。どこまで行ってもどこにもたどり着かないことからくる焦りとあきらめが体調の不良をもたらしているのかもしれない。どうやらそこでやめな蹴れならないらしい。誰かが君に警告しているように感じられる。そろそろやめた方がいいのではないか。やめようにもやめられないとしたら、それは何かの病気だろう。病気でなければ何なのか。君は何を認めたくないのだろうか。鉄道の上の電車に乗りながら何を考えているのか。線路の両側には建物が建ち並び、そこに人が住んでいることを想像させる。それは当たり前のことだろうか。人は他人の存在にストレスを感じるらしい。自らと見解の異なる者の存在が鬱陶しくてたまらないようだ。人里離れた所に住んでいる山奥の仙人もどきは何を考えているのか。君は山奥で誰に出会うことになるのだろう。そこまで行く気がしないのはどういうわけなのか。そこは恐ろしい土地だろうか。さらに遠くを眺めている。まだヒマラヤに行ったことはない。では何か自慢できるようなことはないか。もう時間がないらしい。今日はどこで偽りの時を過ごせばいいのだろうか。その気もないのにそんなことを述べる理由を知りたい。できることならそんなスカスカの言葉の連なりから逃れて、もう少し内容の濃いことを述べてみたい。無い物ねだりをしている場合ではないだろう。何とかそんな現状と妥協しなければならず、虚無と和解してさらにその先を目指さなければならないか。馬鹿も休み休みというわけにはいかないらしく、いつまでも馬鹿のままでもかまわないのだろうが、その馬鹿の水準が一般的に通用する域に達しているのかどうか、どこかでそれらの馬鹿を試さなければならなくなるようで、そんな成り行きに従いながら、犯罪者となる者が後を絶たないわけか。君はそんなつまらない見解をどこで手に入れたのか。ニュースばかり見ていてはさらに馬鹿になるだけだろう。だがそれが始皇帝の時代から二千数百年経った現代において、一般人に課せられた使命なのかもしれない。誰かが馬鹿なことをしなければ話にならないわけで、その馬鹿者たちの生態を年がら年中ニュースで見せつけられているにもかかわらず、そんな馬鹿者たちに魅せられて、愚かにも同じような行為に及んでしまう者が後を絶たないのはどういうわけなのか。そこには何らかの無意識に隠された人間の深層心理が介在しているわけか。あるいは社会の構造がそうなっていて、人は誰でも程度の差こそあれ、そのような構造に支配されているわけか。


9月16日

 さて今日は何をどう述べているのだろうか。君が何を述べてようとしているわけでもないが、今さら何をどう思ってみても始まらない。すでに何かが始まっていて、また終わろうとしている。すぐに終わらせるわけにはいかないか。とりあえずいつ終わってもかまわないとうそぶきながらも、時間的に追い詰められていることに変わりはないらしい。今頃になって勘違いしてもらっては困るか。だがそれが思い違いだとはどうしても感じられない。これから何か画期的なことでも思いつきたいのか。それ以前にレコード針がすり減っている。要するにそれをだめにしてしまったようだ。突然の意味不明だろう。ふと見上げれば上空を鳥が旋回している。地上に何かの骨が転がっているのは、チベット高原の映像かもしれない。鳥葬が今でも行われているのだろうか。だがそれは君の記憶ではない。画面上にはいつもの言葉が並んでいる。いくつもの言葉が筒状の経に刻まれている。空想の上の記憶は曖昧だが、それを見つめながら、誰の目が死んでいるのだろう。唐突にマニ車を蹴り飛ばす。何かが空を切ったようだ。別にそれによって神の怒りに触れているわけではない。何となく口調が抑揚に欠けているような気がする。誰かの語りでは物事の強弱を感じ取れないようだ。数日後の蒸し暑さで頭がいかれてしまったようだ。風はどこへ向かって吹いているのだろう。部屋の中にいてはその風向も風速もわからないだろう。しかし誰が何を計ろうとしているのではない。外は闇に包まれているらしい。そこで誰かが商品の宣伝をしているようだ。誰かはそんなテレビ画面を飽きもせず見つめている。猫もついでに眺めているらしいが、つまらないということはまずい状況なのだろうか。なぜかそのままの姿勢で何かを語ろうとしている。何も語れるはずもないのに、現実に言葉を連ねようとしている。文章の中では何が起こっているのか。もうそこには誰もいないだろう。君はさらに誰もいない場所へ移動するつもりらしいが、そこで何を語れるというのか。世の中には何か興味深い現象が起こりつつあるようだが、積極的にそれを知ろうとしなければ何も語れないか。だが君がそれを呼び込んでいるわけではない。見知らぬ誰かが窓際から外を眺めている。無関心を装っているらしい。そこに誰かが座っているらしいが、その名を知りたいわけではない。君は君であり、君でないかもしれない。君の影に名前がついているわけがないが、誰が影の存在を気にしているのだろう。影をそこに置き去りにして、君にはその先へ赴いてもらわなければならないが、嘘に違いない。誰に命じられてそんなことを語っているわけでもない。目的は何もなく、語る理由もありはしない。闇は君に向かって何を訴えかけているのだろう。もう少し時事問題について語るべきなのか。それは独りよがりの見解を招く。実感が何も湧かないのに、政治も何もありはしない。誰かがそこで何かをやろうとしているのかもしれないが、それで世の中がどうなるわけでもなく、それについて何かを述べようとする者が、それをネタにして商売しているだけか。だがそれはいつもの見解でしかなく、そういう水準で誰かの興味をつなぎ止められる気がしない。では人々はどんなことに真剣にならなければならないのか。そこからどうやって抜け出ることができるのだろうか。言葉を連ねるほどに、彼らがやっていることのすべてが暇つぶしに思えてくるが、そう述べて誰のことを気にかけているのでもなく、この世に存在する誰が君という人格を所有しているでもない。ただ地球がぐるぐる回っているだけか。それはどういう見解なのだろう。何の答えにもなっていない。ただあくびやため息の中に真実があるとは思わないが、それでも目の前を様々な出来事が通り過ぎてゆく。そう思っているうちに意識が物語に汚染されていく。君はそれを間違ったことだと述べているのか。間違っているは君だけではなく、君の周りを取り巻いている状況そのものか。だがそれは誰の見解になるだろうか。そんなわけのわからない問いかけの意義を誰も知らない。誰にでもその人独自の考え方があるように感じられるが、それは誰の所有物でもありはせず、なぜ考えるのかといえば、それは状況によって考えさせられているのと同時に、考えられないようなことを考えようとしているのだ。そうなってしまっては困るような状況になることを密かに望んでいる。場合によってはこの地球が消滅してほしいと思うこともあるだろう。そんなことはあり得ないと思いたいが、一方ではそうなったらおもしろいと思っているらしい。要するに他愛のないことを考えているようだ。空想の域を出ないようなことばかりを思いつき、そんなことを思ってみても仕方がないと思いつつも、そんなことしか思いつかないことに退屈して、そこで考えることをやめてしまう。やがて何もない空疎感が思考停止を呼び込み、そこで何を述べる気も起こらなくなり、そこから先に言葉を繰り出せなくなって、そこで挫折してしまう。


9月15日

 相変わらず何もありはしない。そんな嘘をつきながらも、何も見いだせない状況が続いているようだ。何事にも興味を持てないらしい。それもいつものことだろう。外では雨が降っている。刺激がないので眠くなる。そのような状況から抜け出せない。そこから遠ざかれない。指先に切り傷を見つけて驚いてみる。暇つぶしに何をやっているのか。理念から切り離されている。被害妄想はどこから生じるのだろう。椅子に座りながら深呼吸を繰り替えず。思いつくことは馬鹿げている。海や湖水で人が浮き上がり、周囲の人々におだてられて誰かが浮き上がっている。どこで誰が溺死しているのか。誰かは何に溺れているのだろう。そんな噂話に浮かれてその気になることもない。他人の不幸は他人のものだ。それで自らを利する気にはなれないか。何を利用しようとしているのでもなく、誰に利用されていることに気づく気にもなれない。ただおかしなことを述べているだけのようだ。おかしなことではなく当たり前のことか。論理は敵を作るためにあるらしい。それは論理的ではない。君の論理は退屈だ。だいぶ感情的になっているようだが、そこからどうやって感傷的な気分を醸し出すつもりなのか。今の状況がさっぱりわからない。いったいどれほど遅れてしまったのだろう。まだその状況になれていないようだ。君は誰にもなれはしない。それでも何かになろうとしている。それは人ではない何かか。誰が雨を呼び込んでいるのだろう。嵐をここまで引きずってきたのは誰なのだ。心当たりはなく、それらの言葉に関わる気がしない。気分は君を見捨てているようだ。一時的に雨脚は弱まり、その機を捉えて見知らぬ誰かがどこかへ走り去ろうとしているが、君は何も見ていない。その目は節穴か。だからタイミングを逃して遅れてしまうわけだ。だがそれが理由だとは思えない。フィクションの中で何もできない理由をねつ造しているとすれば、もっとおもしろそうなことを思いつくはずか。なぜそう述べてしまうのだろう。とりあえず理由はない。また無駄に言葉を弄している。それで何を語っているのでもないらしい。今の君に何ができるだろう。文字を記す以外のことを誰がやろうとしているのか。何をやれば満足するのだろう。冗談でそんなことを述べているようだ。言葉がそこで停滞しているらしい。感情が滞っている。理性には誠実さの欠片もありはしない。心がこもっていないのだろう。それ以前に内容がないのではないか。誰かが画面の向こうからこちらを見つめている。そのまなざしは冷めているようだ。ひどく落ち込んでいる。そんな言葉を配置すれば誰かの心の内を表現できるだろうか。そのついでに何を付け加えればいいのだろう。気まぐれに冗談を並べたくなるが、何も思いつかない。誰から影響を受けてそうなってしまったわけでもない。中身のない妄想の中に誰がいるのだろう。茶渋色した茶碗には誰の思いがこもっているというのか。かなり横道に逸れているだろうか。大したことのない無内容に呆れているらしい。そこから巻き返すことは不可能に近い。心はどちらになびいているのだろうか。すぐに出直すべきなのか。それをことさらに探し出そうとしているわけではない。意味がわからない。言葉がさらにずれている。それについてどんな印象を持っているのか。つまらない状況の中に心が埋もれている。同じことをいつまでも繰り返しているわけにはいかないか。それが君に課せられた定めなのだから仕方ない。誰がそんな定めを課しているわけでもなく、君もそんな言葉を真に受けるわけがないだろうが、だからこそそれが定めとなってしまうわけだ。そんなことはあり得ない。あり得ないと思うからそうなってしまう。出来事は信じられないからこそ起こるものだ。やがてそこから適当な言葉が導き出され、それが起こるべくして起こったような出来事だと思いこまれてしまうわけか。やはりそんなことはあり得ない。あり得ないと思うからそれを君は信じ込もうとする。そこで何が循環しているのだろうか。またくだらない成り行きに抗しきれず、同じような言葉の羅列につきあわされているらしい。実際にはそんな具合にはいかないはずだ。依然として何を述べているのでもない。何かを述べることができずに、ここに至ってなおのこと無内容となってしまうようだが、それで文章になってしまっている現状がある。今さらそれに批判しても始まらないか。何を始めようとしているのでもなく、言葉を繰り出しているつもりの自意識は、ひたすらそれらの文章を終わらせようとしているのかもしれない。そこに誰のまなざしが釘付けとなることもないだろう。柱の上の方に釘で打ち付けられているのは、数年前に引きはがしたカレンダーの残骸だ。その家の中では架空の螺旋階段が天井に向かって突き抜けようとしていて、蜘蛛が巣を張りながら階段を上へ上へと登り続けている。誰かはそこで何を空想しているのだろう。空虚な妄想の次は意味不明な幻想に心を支配されているわけか。子供だましにもならない内容だ。


9月14日

 人が人に出会い、そこで話をする。誰かと誰かの思考がそこで交差するらしいが、接点が何もなかったらどうするのか。そこで何を探っているのだろう。意味のない話のどこがおもしろいのだろうか。なぜそれがおかしいと思うのか。君は幼稚だと思う。そしてどこまでも愚かだとも思う。誰の話にも耳を貸さない。何となくそれでかまわないと感じている。退路を断って破滅への道を突き進んでいこうとしているわけか。それは誰の身の上話になるのか。決まった人格を設定できないらしいが、それらのフィクションは身の破滅以外に何をもたらそうとしているのだろう。そういう逃げ方は卑怯か。少しロマン主義に傾いていないか。そう述べる意味がわからない。たぶんそこで何かが省略されていて、欠落している文章の中でロマン主義について語られているのかもしれないが、それも逃げ口上のたぐいになりそうだ。それらの装置は何を煽り立てているのだろう。何が装置だと見なしたいのか。突然耳が遠くなる。何も有効には機能していないような気がしてくる。自己中心的な者は誰でも自意識過剰で自己顕示欲の塊か。それ以外の人間がどこにいるのだろう。気がつけば日の光が間断なく瞳の中に差し込んでくる。まぶしいと思うのはそのような瞬間だろうか。何かを吸い込んでアレルギー症状を引き起こす。言葉はずいぶん遠くからやってくるものだ。それだけ遠回りしないと意味不明には至れないだろうか。それは言葉本来の意味を取り戻す過程となっているようだが、なぜ君はそれを無視して言葉と言葉を短絡させてしまうのか。それは自然な成り行きだろう。ではなぜいつもそうならないのか。控えめな態度であり続けることはどれほどの苦痛を伴うのか。それに対する答えを探し求めているわけではない。誰がそうなることを回避しているのだろう。何かと何かがごちゃ混ぜになって出力されている。だが混ざり合っているのは二つの言葉ではなく、さらに多くの言葉を連想させる。しかし今の君では言葉と言葉の対位法を示せない。本当は何と何を混ぜ合わせているのでもなく、それらははじめから一つの文章に属している。ただその場でわけのわからなさを醸し出したいだけなのかもしれず、それは誰かの精神が錯乱状態を示している証なのかもしれないが、君はその状態を保持しなければならないのだろうか。それは誰の精神状態なのか。文章の内容がフィクションならわかりようがないか。では誰かの知らない間にそれらの言葉は葬り去られる運命なのか。誰がそれを成し遂げようとしているのか。たぶん君は誰のことを述べているのでもないのだろう。それに関して言葉は何を示しているわけでもない。別の時空ではそれは誰かの一時的な気の迷いを示しているのかもしれないが、今の段階では何を述べていることにもなりはしないだろう。ただ内容がつまらなく推移しているだけか。要するにそこで一休みなのだ。次第に馬鹿らしくなってくる。頭が混乱しているのではなく、体調が悪いのではないか。ここにきてようやく発熱作用に気づいたわけか。また風邪を引いたのだろうか。きっかけはいつのことか。無理に無理を重ねて、次第に悪化していく状況に抗しきれなくなってくる。しかしそこに何が見いだされているわけでもなく、何もない状況は変わりようがない。雑草すら生えないような不毛の大地と化している。しかし空気は澄み渡り、生命が汚物の塊であることを再認識させるような無色透明さがそこには醸し出されているのかもしれない。まったくのところそれは冗談ではないか。それらのどこからどこまでが冗談の範疇に属しているだろうか。まだそんなところで足踏み状態のようだ。なぜかそれは違うような気がする。強引に狂気のただ中から意識を引き抜こうとしている。だが正気に戻ればこの世がさらにつまらなく思えてくる。本当に何もありはしない。それに気づくまでにどれほどの回り道を経由してきたのか。今もそれが嘘だと思いたい。まったく勘違いであってほしい。そして回り道は完全な円に近づこうとしている。ただぐるぐる円の周りを回り続けるだけの動作しか残されていないようだ。本気でそんなことを思っているのだろうか。そこからすぐにでも逃げ出したくなってくるか。消え去るべきなのは君の意識ではなく、そこに立ち現れている円の方か。できればそれも何かの冗談だと思いたい。誰かは冗談でまたそんなことを述べている。そんなことを述べているうちにアレルギー反応も一段落したようで、何とか精神の現状も正気に戻りつつあるらしい。いったいあれらの錯乱状態は何だったのか。軽快な音楽がスピーカーから鳴り響いてきて、虚無からの遠ざかりに欺瞞を感じつつ、それが果たされたと思いこむことで、何やら爽快な気分になったつもりでいたいようだ。しばらくはそれでごまかせるだろうが、またいつもの虚無が背後から忍び寄ってきたとき、今度はどのような対処法が絞り出されるのか。何もない状況に変わりはない。それを承知の上でさらに言葉を繰り出しているわけだ。


9月13日

 別にそれが穴埋め問題とは限らない。君はそれをやりたくないようだ。形式的な問題でもない。気休めにでたらめなことを述べると、南方で嵐が吹き荒れ、治りかけの風邪がまたぶり返す。それはいつの話でもなく、今は冬ではない。久しぶりに蚊に刺され、何となく目が覚めたように感じられる。そんなきっかけが何を示しているというのか。きっかけでさえないか。なぜか数日前から頭痛に悩まされている。誰かの職業は言葉とは無縁だ。薄暗がりの中で何を削っているのか。職人芸と芸術の違いを説明できるだろうか。美しさとは何だろう。君は誰かの美的感覚を疑っている。だがそれでも誰かの哀しい歌声が感動を呼ぶ。そんな曲が過去の時空で鳴り響いている。太陽は何を照らしているのだろうか。それはまるで人工衛星が地球の周りをぐるぐる回っているみたいだ。何のたとえにもなっていない。耳を澄ませば遠くからかすかに誰かのうめき声が聞こえてこないか。それは虫の鳴き声だ。いつの間にか雨がやんでいる。昨日は一日中雨が降っていたはずだ。昨日の話をしているわけではない。それは別に興味深い成り行きではない。光明とは何だろう。必ずしも前途を悲観しているわけではなさそうだが、君はそこで挫折する。停滞は誰かのお家芸か。今やその手の挫折もありふれている。やる気がしないのはいつものことか。そこで語られている言葉はみすぼらしい。思い通りにいかないのは君のせいではなく、それを取り巻く状況のせいか。それでも何かが語られているらしい。それは誰の詩になるのだろうか。ただの意味不明だろう。遠くを見渡せば何に気づくだろうか。それらの出来事に関心を持てない。どこかの駅で誰かが立ち止まっている。とりとめのない迷いがそこで生じているらしい。ここからどこへ向かうべきか。それは迷いではないだろう。それはつまらない成り行きだ。未だに立ち直る可能性を感じられない。完全にタイミングを逸している。どうもそれは違うような気がする。またいつもと同じ成り行きかもしれない。そんなつまらないことを述べながらも、今ひとつ言葉がまとまらない。現世では何がどうなっているのだろうか。地上では何度目かの秋が到来している。老人は同じ季節を何度も経験しているようだ。君はまだ老人ではないが、他の老人は何を見ているのだろうか。たとえばこの地上には世界遺産を呼ばれる廃墟がある。屋久島は森の廃墟だろうか。言葉が矛盾していないか。人間がそれを設けているのだから、それは何らかの廃墟に違いない。誰かは何かに助けられて、かろうじてそこへ至ったようだが、その先は視界が不鮮明で、まだ何も見えてこない。未だにそんなところで迷っているらしい。今さら山登りもない。そんなことを思っているうちにも、状況はみるみる悪化してきて、目の前に立ちふさがっている障害を取り除けなくなる。今さら何を語るべきなのか。たぶんそれに関しては何も思い浮かばないだろう。誰かは自身が間違ったことを平気でやっていることに責任を感じているようだが、他の誰に責任を転嫁することもできず、それは誰のせいでもなく、君のせいでもない。文章がかなりおかしくなっているようだ。自覚があるとは到底思えないが、不協和音に悩まされて頭が痛くなる。それは二十年前の曲だ。何を聴いているわけでもない。唐突に違うことを述べたくなる。道とは何だろう。その道はどこへ至るのか。歩き疲れているのは道のせいではない。体力的に限界なのかもしれない。身体機能の低下とともに思考力も衰えてくる。何をやっても長続きしない。彼はそこで何を思い出そうとしているのだろう。それらの考え方には欠陥がありそうだ。ではなぜそこから遠ざかろうとしないのか。それは避けて通ることのできない欠陥なのか。文章の欠点はわかりすぎるくらいわかっているはずだ。意味がつながらず、もはや文章の体をなしていない。文字を記しているうちに身体が床に沈み込み、そのままゲル状になって意識がどこかへ流れ出しそうになる。そのついでに家屋も崩れ落ちそうになる。しかしそれらの幻覚を語るには真剣さが足りないようだ。もう何がくだらないなどと告発する気にもならず、ただ無批判に現状を肯定しそうになる。そこから何がもたらされるのか。今は停滞の時代なのだろうか。誰の心が狂気に支配されているのだろう。そんな言葉には誰もなびかない。ならば人は何によって単純化されるのか。どうすればもっと単純に生きられるようになるのだろう。本気で述べているのではない。では君は現状の何に困っているのか。何もないことの何が心配なのだろう。無用な心配は気が小さいことの証か。それは否定されるべき心境ではないだろう。そういう水準で何を語っているわけでもなく、細心の注意を払いながらも、暗闇からもたらされるわずかな言葉をきっかけとしたいらしいが、それで何を述べていることにもならないことは承知しているつもりか。ではそこからどう語ればいいのだろうか。


9月12日

 君はどこへ行ってみたいのか。目下のところ望みは何もなく、間違ってもニューヨークと呼ばれる田舎町へ行くことはないだろう。冗談で何かを述べているようだが、それでつまらない記憶を呼び覚ますには至らない。決まり文句的にはそんなことはどうでもいいことか。とりあえずそこから遠ざかるために君という存在が必要なのか。誰がそこから遠ざかろうとしているのだろう。それではまたいつもの話の繰り返しになってしまうだろう。今さらそんなことを述べている場合ではないはずか。そして君にはまだその先があるはずか。それもいつもと同じ話の展開か。もう話は終わってしまったのに、今さら先も何もありはしないだろう。終わってしまった話に今さら何を付け足そうとしているのか。それ以前に何の話をしていたのか忘れてしまったようだ。だがそれもいつもと同じ話の展開だろう。言葉はすでに出尽くしていて、そんなことばかり語っていてもその先へは進めない。なぜ彼は目的を単純化してしまうのか。彼とは誰なのだろう。何かの物語の中に出てくる登場人物のたぐいだろうか。しかし復讐とは何なのか。話を持続させるためには彼が復讐を成し遂げようとしなければならない。そのような設定を保つために彼の人格を操作しなければならず、復讐の原因となった出来事をより凄惨な許し難いものとして、彼が復讐を誓う動機に説得力を持たせなければならない。彼にとっては復讐がすべてであり、それを究極の目的としなければ、話を維持できなくなる。途中において彼を戸惑わせ迷わせる体験を経ながらも、結局は彼の復讐を成し遂げようとする思いを打ち砕くには至らずに、それどころかかえってその思いを強くしてしまう結果になり、結局は物語のクライマックスにおいて復讐の舞台が設定されているのだろう。物語とはそういうものだ。途中で挫折させてしまうわけにはいかないのだろう。挫折させようと邪魔をする輩などをいくらでも登場させても、そういう輩の登場回数が増えれば増えるほど相対的に話が長くなるだけで、結局はそういう邪魔者を振り払い、目の前に立ちふさがる困難を乗り切り、復讐を成し遂げようとする機会が訪れてしまうわけだ。そこで話が佳境に入り、物語は終わりに近づく。それは人と人とが物語上で対決するバリエーションの一種なのだろうか。君たちはそんな物語をおもしろいと思うはずだ。もちろん復讐は人と人との間でなされるものだけではなく、人と組織や組織同士の間でも可能だ。現にイスラムの戦士たちはアメリカやイスラエルに対して復讐しようとしているわけか。それは何のための復讐なのか。そんなことは君には関係のないことで、他の誰かの想像にまかせておけばいいことか。復讐しようとする対象を憎めば憎むほど、憎悪の念によって強くなれるらしいが、たぶんそれも物語的な論理なのだろう。何となく復讐を目指す者たちはそう思っているのだろうが、そこにどのような根拠があるというのか。ただ目的に向かった努力したい者たちは、自らが成し遂げたいことを、そんな論理によって正当化したいだけなのかもしれない。君はそれが無根拠であることを知っているわけか。なぜ無根拠だと断言できるのか。要するに物語的には復讐を目指す者が本気であってほしいのだろう。ほんの気まぐれで、遊び半分で復讐を目指しているようでは、物語そのものが成立しない。それでは話の内容がギャグや冗談になってしまうか。なぜその手のフィクションは登場人物のひたむきさを求めているのか。一途に復讐という目的に向かって突進していかなければならないのだろうか。忠臣蔵の大石内蔵助のように、途中で遊びほうけているように装うのは、あくまでも復讐の対象を欺くための偽装でなければならないのだろうか。なぜ物語はそうなってしまうだろう。結果的にその復讐が挫折するにしろ成功するにしろ、とりあえず復讐者は復讐を目指さなければ話が成り立たない。復讐する対象と対峙する場面を設定しないと話にならない。それがその手の物語のルールなのかもしれない。物語には他にもその手の決まり事が至る所に張り巡らされていて、そんな定型を踏まないと、それを堪能したい者たちにとっては奇異に感じられるのかもしれない。たぶんそのようなルールによって物語はその可能性を限定されているのだ。話の展開がそこから著しく外へはみ出てしまうと、それは物語ではなくなってしまうだろうか。君がそれに関して何を企んでいるのか知らないが、少なくともそのようなルールにリアリティを感じていないことだけは確かなようだ。君は本気になれない。本気で物語を堪能する気がないらしい。何よりも復讐という言葉に欺瞞を感じているようだ。人が復讐へと駆り立てられる条件とはいかなるものか。なぜ君はそんな感情に至らないのか。リベンジとか安易に口にする輩は馬鹿なのか。そんな言葉が流行った時期もあったかもしれないが、それが流行語である限りにおいて、本気でそれを行うつもりはないのだろう。たぶん復讐劇の中において死にものぐるいで行われる死闘場面よりも、にやけた口調でリベンジとか口にされる、そのような生ぬるい流行現象にリアリティを感じてしまうのだろう。


9月11日

 ついに本当の行き詰まりが近づいているようだ。こんなところで足踏み状態とは想定外もいいところか。それは流行言葉のたぐいか。どこかの都市で何かが起こって以来、ここ五年の間に何が起こったのだろうか。なぜあれから五年も経ってしまったのか。ただ時間が流れ去っただけで、他に理由などあるわけもない。理由がなければ何も述べられず、つまらないことにこだわりながら、どこの誰が死のうが生きようが、それとは無関係に君の心はますます空洞化している。その傾向は五年前からあまり変わっていない。そして穿たれた空洞の中に何がもたらされているわけもはなく、逆に思い出そうとする過去の出来事の何もかもが忘れ去られ、必死に保持しようとする記憶が、虚無からの忘却作用に抗うことができない。本当にそう思っているのだろうか。また本気ではないのだろう。そんな見解がどこから出てくるわけでもないが、それと同じようなことがどこかの時空で起こり、さらにまた同じようなことが忘れ去られ、その結果としてあのときと何も変わっていないと感じられてしまうわけか。それも理由になっていないのかもしれず、そんなはずがないと思いたいところだが、要するにそれに関する感覚が麻痺しているということか。麻痺しているのはどのような感覚なのか。感覚が麻痺しているのだから、そんなことがわかるはずがなく、わからなければ感覚が麻痺していることもわからないはずか。途中で間違ったことを述べている。どうやらつまらない言葉がそこで循環しているようだが、それでも誰かは相変わらずつまらない生き方を貫いているようで、それに当人が気づかないから、そんな風に生きているに過ぎないのかもしれない。過ぎないとはどういうことか。そこを過ぎてしまえば、また違う生き方が可能になるのだろうか。それでも相変わらず役に立たない文章を構成している。言葉はすでに出尽くしているはずだ。それらの文章はもはやいつ終わりを迎えても致し方のないような無内容に覆われている。それで彼は満足するだろうか。文章はすでに彼のもとを離れ、今ではいつ言葉を繰り出したのかも覚えていない。彼の不在でそれらの文章がどうにかなるわけでもなく、彼の代わりに誰かの影が適当に言葉を並べているようだが、それで誰かが何を述べているとも思えない。そこで何かを感知したり見聞したりする現象の何も重大だとも重要だとも思わない。実在する誰がそう思っているのでもないが、世の中で起こっているすべての出来事が、虚構の時空ではどうでもいいことになってしまうらしい。だがそれではわざわざ文字を記す必要がないではないか。必要もないのに誰でもない誰かは何を述べているのだろう。すでに何も述べられなくなっていると思うが、誰がそう思っているのでもないらしい。数日後の夜には急激に体感温度が下がってきている。やっと季節が移り変わり、秋になったようだ。来年の今頃もそんなことを思っているのだろう。しかしなぜそんな不必要なことを述べなければならないのだろう。他に述べるべき言葉が見つからないので、仕方なく関係のないことを述べながら、その先の言葉を模索しているのかもしれないが、何もないから雨音を聞いているわけでもない。それも不適切な文章には違いないが、理由を見つけられないのはいつものことだだろう。だがそれが理由ではないらしい。その辺に理由を述べられない事情が転がっていたらおもしろいか。おもしろくもつまらなくもなく、ただ投げやり何かを述べているだけだろう。ならばそんな言葉を繰り出していくうちに、そんなことを続けている理由に突き当たることができたらおもしろいか。誰が文章のおもしろさを求めているのか。たぶんそれも違っているのだろう。では何か適当なことを語り始められたら、それで少しは何もないことによる不安が解消するだろうか。安易な思いこみにその身を託すわけにはいかないらしいが、それは誰の身でもありはしない。もはや君は誰の身体にも宿らない。君はすでに亡霊のたぐいになっていて、誰かに助けられることもなく、誰の救助も必要としないから言葉の海で溺死してしまうわけか。そうなる理由がわからない。未だに理由が見つからない。大げさな理由を見つけようとするからそうなってしまうのであり、また何も見つからないうちに眠たくなり、やがて言葉を繰り出せなくなる。あくびとともにやる気が失われ、そんな状況をそのままにして、その場から立ち去りたくなってくる。まったく無駄なことを述べているようだ。いったん作られたものはやがて崩れ去る運命なのか。なぜ物事を単純化して考えようとするのだろう。そうしなければ精神的に保たないのだろうか。どこかに救いを求めなければ参ってしまうか。それが人間の弱さなのかもしれない。君はそこにたどり着けないだろう。途中であきらめて、挫折感の中に閉じこもろうとしてしまう。もうだめだと思うことで救われたつもりになりたい。そんな救いが救いといえるだろうか。それが救いならその救いは絶望的な救いに違いない。


9月10日

 数日後の夜空には雲が広がっている。空から時折雨が降ってくる。鳶がねらっている獲物は何なのか。意識は何かと何かを短絡させているらしい。物事やそれらが連関し合って起こる現象を単純化して考えれば、何かわかりやすい結論が出てくるだろうか。君はすぐにもそれが出てくることを望んでいるのか。それにしては無駄なことを述べている。何かを遠回しに述べて、それを誰にわからせようとしているわけでもなく、そうかといって自己満足を得たいがための言説にはほど遠く、いつものようにそこから遠ざかりながら近づこうとしているらしく、そんな矛盾をはらみながらも、文章は無内容に終始しているようだ。今は感覚の外側に意識がある。君はそんな自意識を自らのうちに連れ戻すつもりはないらしい。心の中で何かが漂白を繰り返しているようだ。なぜ簡単に失敗してしまうのだろうか。たぶん失敗しないと学ぶ気にならないからだろう。人は学ぶために失敗してしまうわけか。ただ原因と結果を逆転させているだけだ。そこに意味を打ち立てる気がしない。現実から何を学ぼうとしているのか。それは現実ではなく作り話の一種だろう。現実には作り話を語ることに失敗している。それが作り話ではなくなっているのかもしれないが、作り話の中で君は何に失敗しているのだろう。作り話の中で失敗している君と、その外で作り話を語ることに失敗している君との間にどんな関係があるのだろうか。ただそう述べて話をややこしくしているだけか。そういう欺瞞の構造には耐えられないか。現にそこから何を知ろうとしているわけでもなく、自らが失敗したり、あるいはそれによって成功したりしているとは到底思えないか。語ることに失敗することが君にとっての成功になるはずがない。成功したり失敗したりする、その判断基準がよくわからないが、それでも人々は様々なことをやっていて、それと同様に君も様々なことを考えているようだが、それでやるべきことをやっているとは思えず、そもそもやるべきことがわからないのだから、それは当然のことだろうか。たぶんそれは君自身の勝手な思いこみであり、現実には何かしらやり続けているようで、それが君のやるべきことなのかもしれず、君はそれをやるべくしてやっているのかもしれない。ただそう思いたいだけなのかもしれないが、その時点では誰がそう思いたいのかがわからない。君が特定の誰かと見なされないのはわかっていて、それが気に入らないこともわかっている。そしてそういう物言いでは嘘をついていることになる。つまらない自己言及に陥らないために、私ではなく君という言葉を使っているのかもしれないが、それで自己言及を避けているとは到底思えないか。何にこだわっているのかわからないが、できることならもう少し視野の広い目を持ちたいものだ。それとこれとは無関係だろう。そして今はさらに無駄なことを述べようとしている。疲れていることは間違いない。何か感覚が麻痺しているように感じられ、視線があらぬ方向に釘付けとなり、その先に何も見えていない。どこをどう通ってそこにたどり着いたのか。何か他に覚えているだろうか。いくらでも覚えているかもしれないが、それ以外のやり方を思いつかず、またそのやり方ではだめだということもわかっているはずだ。それらの試みは無効なのだろうか。言葉が意味をまとう暇がなく、そのような文章の構成になっていない。それではさらなる意味不明に導かれてしまいそうだ。心臓が痛いか。冷や汗が出てくるだろうか。死ぬ直前の痛みとはそういうものなのか。そんな嘘がどこで通用するのか。君はまるでわかっていないようだ。それ以上の言葉を導き出せないわけは、それは君自身が語っているわけではないからだ。しかしそんな安易な結論で誰が納得するだろうか。安易でなければ何を導き出せるわけでもない。その安易さの中に君の心が潜んでいて、それを維持することによって、ますます君自身の姿が明らかになるだろう。それらの言葉そのものが君という存在に違いない。その辺が架空の存在の限界なのかもしれない。君はその現実を理解しがたい。現実ではないのにそれが現実なのだ。それはどういうことなのか。それを知り得ない状況なのだろうか。外部からの操作によって君という人格が構成されようとしているのか。外部とは何なのか。そこにはどのような外部が設定されているのだろう。物語の虚構がまったく見えてこないのはどういうわけなのか。なぜそれを避けて通ろうとしているのか。虚空のどこを通過しているつもりなのか。それが事実に基づいていないのはどういうことなのか。なぜ言葉は事実をもたらせないのだろう。たぶん何かがそこで炸裂しているのだろう。心をそこに見いだそうとしている。そことは心の奥底のことか。それが何の意味をもたらすのか。何いかがそこで途切れそうになっている。すでに何も語れなくなってから数日が経過している。そしてもはやその時点で限界であることも承知していたはずだ。


9月9日

 どうも無駄な言葉が多すぎるようだ。無駄に時を過ごし、無駄に言葉を並べ、それ以上の展開を望まず、それ以下の領域には出向こうとせず、結局何も見いだせない。現状に以上も以下もないだろう。では現状とは何なのか。それに関して見いだされた言葉は、こうしてすべて無駄に連なっている。やる気がしないのは自然の成り行きだと思う。なぜ君はそれ以上を望まないのか。それ以上を想像できないか。現状では不満なのだろうか。それはわかりきったことか。少し嘘をつきすぎたようだが、そこで何を尋問しているのか。誰かは刑事でも探偵でもない。意識はそれらの演劇空間から遠ざかろうとしている。外では雨が降り続いているらしい。それは見たこともない光景だろうか。誰が何を見ているのかを知りたい。テレビの画面上で人影が揺れている。それは君の記憶ではないから言葉になりそうもない。そんな嘘は見え透いているだろうか。そうしているうちにもテレビ画面では何らかの争いごとが進行中だ。もっと演劇的感性を磨かねば、彼らが意図している計画を知り得ないか。そういうことを述べるのは無意味だろうか。どこかで何かが話し合われている。何について知りたいのだろう。それのどこまでが本心なのか。わからないことは他にもありそうだが、夜に爪を切ると不吉なことが起こるだろうか。そういうはぐらかしはいただけない。もともとそういう話ではなかったはずだ。切るのは爪ではなく、誰かと縁を切る話ではなかったか。さらに横道へ逸れている。不吉な予感がするのは、縁を切ると祟られるといううわさ話が原因となっているからだろうか。そんな話は聞いたことがないか。いったい何の話をしているのか。仕事の完璧さを自慢するような状況ではない。なぜろくでもないことに完璧さを目指すのだろう。何がもたらされる気配も感じられない状況で、こちらから行動を起こすべきではないかもしれない。ただ夜に爪が伸びていることに気づいただけか。それは一昨日の晩のことだ。何を語っているのか。話の内容がちんぷんかんぷんならそれも致し方ないだろうか。しかし本当にそれらの文章は無内容なのだろうか。そういうことではなく、くだらぬ袋小路にはまっているだけかもしれないが、意識してそう思われるように語っているのではないか。誰に思われているのかもわからず、誰が知り得たことがそこに記されているわけでもない。血を見ることが明らかなのに、皮膚のかさぶたを無理にはがそうとしてはいけない。ただの意味不明に過ぎないからだ。空想している内容がそれらのどこかに潜んでいるようだ。しかし何を空想しているのか。自由であることはそこから抜け出ることにはならない。考えを巡らして言葉を組み合わせ、そこから文章を構築してはいけないのだろうか。それが嘘に違いない。君に試行錯誤はいらない。わざとらしい表現になってしまうからか。理由など何もなく、要するにそこから逃げているだけのようだ。そのまま突き進んだら破滅してしまうか。それほど大それたことをしようとしているわけでもないか。のるかそるかの状況はとうに過ぎ去って、今は何を述べても役に立たないようなことを述べている。君はそれに関して論理的な思考を好まないようだ。感情的にどうでもいいこだわりを保持しているわけか。そう思いたければ思っていてかまわないだろう。そこから遠ざかろうとして果たせず、今に至っているのは誰でもない、君のことではないのか。そんなわかりきったことを今さら述べても仕方がないだろう。君は君自身に何を問いかけているのか。自らの生き方に修正を迫られている。それも嘘だろう。誰がそれを迫っているのだろう。脅迫を受けている対象そのものが曖昧か。それが君でないとすると、誰になったら納得するのか。君が誰になれるわけもない。ただそう語りながらも、話の終わりが迫っているらしく、それが今までの無理と嘘の限界を露呈させる。他愛のない嘘も終わってしまっては意味もない。しかし何が終わりを迎えているのだろうか。それが嘘ではないとすると、やはり本当に終わってしまうのだろうか。君はすでに終わっている。終わってしまったのだから、あとは始まるしかないだろう。しかし今さらながらそういう屁理屈は退屈に感じられる。まだ終わりの季節ではないのだろうか。季節と終わりは無関係だ。では何を思い出せないのか。終わりを想定すべき状況に近づいてない。だからまだ言葉を放棄するのは早すぎる。早すぎてもかまわないだろう。それは思ってもみなかったような結論になるだろう。すでに結論は出ているのではないか。それを想定して言葉を繰り出しているわけではない。まだ知りうる限りの言葉を持ち合わせているわけではない。ただよくわかっていないだけかもしれない。現状はどのような事態になっているのだろうか。まるでリアリティを感じないのはどのような現象なのだろう。それは現象ではなく、作り話の一種だろう。そして何も内容を導き出せぬままに終わってしまうらしい。


9月8日

 またいつもの行き詰まりらしいが、それでもできないことをやろうとしているようだ。その状況で何を正当化しようとしているのでもないが、とりあえず電卓には十二桁の数字が並んでいる。どうやらまともに言葉を繰り出せなくなってしまったらしい。ここは刹那的に振る舞わなければならないか。その意味を解さなくてもかまわないだろうか。なぜおかしなことを述べようとしているのか。計算機はその場の状況に応じた文字列を出力しているわけか。たぶんそういう話ではなく、言葉と言葉の間に別の言葉を無理矢理ねじ込もうとしているのだ。わけがわからなくなって当然のやり方がまかり通っていて、その結果おかしな文章がその場に構成されようとしている。たぶんそれでも予定調和になってしまうだろう。紅色の炎が思い出されて、最近はむやみやたらと鼠が増えている。やはりそれでは意味不明だ。誰かはいつの話をしているのか。だいぶ以前から何かがインフレーションを起こしているのかもしれず、それにつられて急激に文字数がふくれあがっているようだ。誰かは今朝方そんな夢を見たらしく、現実に生じている文章の貧困化に逆らって、さらに複雑怪奇な文字の連続を試してみたいようだ。要するにそれは妄想の域を出ていない。ただ闇雲に突き進む動作に心をゆだねているらしい。何が突き進んでいるのか。そういう幻想を夢見ているのだろうか。それの何が幻想なのか。それらの状況は君に何を知らせようとしているのか。わけがわからないのはいつものことであり、そこからさらに言葉を連ねて、その場に何らかの雰囲気を醸し出そうとしている。そしてそれはただの雰囲気でしかなく、まかり間違っても何らかの知識として蓄積することはない。時の経過とともにその場を流れ去り、やがて忘却の彼方へと消え去る運命だ。そうなってしまってはまずいわけか。それとは違う状況があり得るだろうか。たとえば誰にも知り得ない知識が、どこかの書物の中に埋もれているらしく、君はそれを知っているはずだ。それらの文章がそれを目指しているとしたら、それは勘違いもいいところだろうか。何を正当化する気にもならないが、その場を利用して君は何を知りたいのだろう。それは自らの運命か、はたまたそれらの文章の行き着く先か。どこへも行き着かぬ覚悟が君にはあるのか。すでにどこを漂流しているのか皆目見当がつかない。そのような事態になって初めて、それまでの歩みを後悔する羽目に陥るのかもしれない。本当にそんな具合になったら文章がわかりやすくなるだろうが、それを許さない仕掛けがどこかに働いていて、かろうじて後悔することを食い止めているようだ。しかし何となくそれは嘘っぽい。苦し紛れのいいわけがその場に出現しつつあるだけか。今はそれを受け入れるわけにはいかぬ事情でもあるのだろうか。どう思いを巡らせても何かを率直に認めることはできない。では誰かの妄想はどこへ行き着くのか。画面の奥底からたまらない笑みがこちらへ向かってくるが、それがいくら怖くても、液晶の表面から離脱することは不可能だ。画面に閉じこめられた恐怖はメディアに飼い慣らされている。どうあがいても外の世界へは出られず、仕方ないので小心者のくだらぬ記憶にすがりつこうとしている。誰かの妄想の中で自己完結する以外に納得のいく結果には至り得ないようだ。しかしそれがどうしたのだろう。何でもないことがそんなに怖いのか。君は恐怖以外に何を求めているのか。それは相変わらずの問いかけのようだ。翌日の闇に紛れて、意識は夜をさまよっている。結局誰かは独りよがりなことを語っているだけだ。作り話の中に何らかの内容を注入したいらしいが、それが君に関係のある内容となるかどうかは、そのときの気分次第かもしれない。なぜそこまでやらなければならないのか。何もない物語の中で架空の人物が空白の時を過ごしている。どこかに現状とは無関係な自分がいるらしいが、現状とは何だろう。思い当たることは何もない。それらの言葉に関連する現象を見いだせない。何もかもが常識の範囲内で起こっていて、一度その常道から外れたら、二度とそこへは戻れないか。常に奇をてらい、それが日常の一部と化すまで妄想をやめようとしない。だから誰かは年がら年中そんなことを述べているらしい。しかしそんなこととはどんなことなのか。それを誰が知りたいわけでもなく、また無駄なことを述べ続けている。そこからどんな感想を引き出そうとしているのか。いつものようにそれは違うと思われる。何かの限界に直面しているらしいが、今は誰かの思い過ごしにつきあっている暇はないようだ。行くべき道を知らず、戻るべき道を見失う。君はどこでさまよっているのだろうか。わかりようのないことをわかろうとしている。無駄で無益な試みに心を奪われているのだろうか。そう感じられて当然の無内容を文章は構成しているわけか。


9月7日

 何をそんなにふざけているのだろう。少し落ち着いて考えを巡らさなければならない。芸人ではないのだから、いつまでもウケねらいに走ってばかりではまずいだろう。誰の心を読もうとしているのか。どこかで誰かが自殺したようだが、その不吉な響きを感じ取っているわけではない。はだしのゲンはマンガの主人公だ。誰がそこで何を思いだしたのかはっきりしない。イランの古都にイスファファンという都市がある。高価なペルシャ絨毯がどこかで売りに出されている。何を点描しようとしているのか。カルナック神殿はエジプトにあるらしい。何を検索しているのか。それらの言葉には目的が伴わない。包帯の隙間からウジ虫がこぼれ落ちる。そこでもう限界だろう。過去に読んだマンガの内容を思い出しているわけではない。時が経てば誰もが死んでゆく。冬の空は晴れ渡っている。今は冬ではないはずだ。今のことを述べているわけではない。何となく矛盾したことを述べたくなる。かつて恐ろしい時代が過ぎ去っていった。今は平和なのだろうか。君にはまだ知らないことが多すぎるのかもしれない。その場で通用しているつまらない論理を信用する気にはならない。それが起こった原因など誰も知りはしない。人々は何に突き動かされているのか。欲動とはどのような意味なのだろう。わからないことわからないままにしておくのは倫理的に受け入れがたいか。意味を知ったところで何がどうなるわけでもない。文章中の固有名には何の意味もなく、どのような意図でそれがちりばめられているわけでもない。単なる偶然に過ぎないのだろうが、偶然で片付けるには惜しいような気もしてくる。そこからさらに意味不明な固有名を並べられるだろうか。君はそこで何をやろうとしているのか。それでようやく一息がつける。懐かしい言葉の並びに感動できるか。今の心境はそれとは違うらしい。がんばってはいけない。脱力感の中に誰かの心情が隠されている。それを探り出そうとしているわけではない。取り立てて何を記そうとしているわけでもなく、誰かの周りを取り巻く暗闇の中に何が潜んでいるわけでもない。ねじれの位置に行き違う意志が点在しているようだ。君はそこで何を覚えているのか。平常心でいれば焦らないのだろうか。冷静さを欠いて導き出された言葉の中に誰かの心が興味を示す表現があるらしい。心は何に反応しているのか。眠気を催しながらも、その先に言葉を繋げようとしている。見ようとしている風景の中に自らの価値観を閉じこめようとしている。民芸とは何なのか。芸術以外の何を取り戻そうとしているのだろう。死人の中に何かが息づいている。見慣れた茶碗の中に死者の魂を封じ込めようとしているのではないか。そんな器用なことが文章上では可能となるらしい。たぶんまた嘘をついているのだろう。しかしそれは信用を失うほどの嘘ではなく、誰にどのような危害を加えるわけでもない。君はそれらの嘘によって自らの心が傷ついていると思いたいようだが、思い違いにもほどがあるか。君はそれらの状況から何を学んできたのか。嘘から学ぶべきものなど何もないだろうか。またそうやって嘘をついている。たぶん何を承知しているわけでもないのだろう。知っている内容を文章によって明らかにしようとは思わない。文章はでたらめを記すためにある。君はそんな認識から離れることができないようだ。今でもありふれたことは述べたくないらしい。だが心ならずも奇抜な文章を求めているとすれば、それは違うと思う。とんだ勘違いだろうか。無意識ですら勘違いのただ中にあるらしい。君はそうやって自身が求めている内容から遠ざかろうとする。そしてわけがわからないとうそぶき、それで自己満足を得ようとしているのか。それでしてやったりとなるはずがない。まだ結末には到達していないようだ。何らかの結論に近づいていると気づいたときにはすでに身を翻して他の方角に向かって言葉を連ねようとしている。わざと回り道を選んで迂回し続けている。それも一つの方法だと思えば納得するだろうか。誰を納得させたいわけでもなく、自らが納得したいわけでもない。そう思い始めると同時に納得という言葉から急いで遠ざかり、常に何らかの疑念を表明していなければ気が済まない。いつも論理的に矛盾した状態でいたいらしい。それらの文章はいつまでも何かの付け足しに過ぎない内容を有している。余分であり無駄であるような状態を維持していたいようだ。本気になったらそこでおしまいか。おしまいにしたいのにそうはならない。そんな意思表示自体が嘘なのかもしれず、本音で語ればそれは君の文章ではなくなってしまう。だからすぐに眠たくなって、途中から読むのをあきらめざるを得ない。もういい加減にやめてほしくなる。そういう心境はヒステリーの一種だろうか。そんな風に語っていれば、いつか何らかの報いを受けるときがやってくるだろうか。しかし現状ではいつが収穫時なのかさっぱりわからない。もう過ぎ去ってしまったのかもしれない。


9月6日

 今日は久しぶりに朝からテレビが発狂している。皇族に男児が誕生したと連呼しているアナウンサーも、街頭で祝賀ムードを煽っている一般人も発狂している。ニュース画面を見ている限り、今日の日本は発狂列島だ。なるほどこの国はおかしな国だ。しかしそれらのすべてが空回り気味なのはどういうわけなのだろう。それらの大げさな見せびらかしの何が滑稽なのか。目を覚ますような具合にはいかないのだろうか。発狂している方が平静を保っているのよりは楽しいかもしれない。しかし楽しければ何でもありなのか。楽しくなければテレビじゃないか。馬鹿丸出しでもかまわないのか。美しき日本の実現を目指している次期総理大臣も、発狂中だろうか。彼らの美学とは何なのか。それらはまともに理解しようとしてはいけない現象なのかもしれない。君にとってはどうでもいいことか。しかしそれらの馬鹿騒ぎが子供たちの目にはどう映るだろう。大人の底の浅さが露呈した瞬間に立ち会っているような感じか。それは穿ちすぎの言いがかりに近い妄想か。大人が大人なら、子供も大人に似て、取り立てて何とも思わないのかもしれない。一過性の熱病のたぐいだと思っていれば、批判するまでもない些細なことか。取るに足りないことにこだわっていては、君も発狂している人々の仲間入りだ。だがミイラ取りがミイラになり、ゾンビや吸血鬼に噛まれてゾンビや吸血鬼になり、そうやって熱にうなされる人々が増えていくとは到底思えない。社交辞令ということかもしれず、儀礼的なものなのだろう。要するに本気になってはいけないということだ。そういう場合には、ある日突然気が触れたように振る舞わなければいけない決まりになっているわけか。NHKのアナウンサーがまるで地震情報のように同じ台詞を繰り返すのも、それはそれでそういう事態が起こった時を想定して、前もってそういうマニュアルが作成されており、アナウンサーは事前のマニュアル通りに台詞を発しなければならず、それを画面のこちら側から見ると、まるで発狂しているかのごとく映ってしまうのであり、かなり不自然な印象を持ってしまう。まるで北朝鮮の国営放送のように一方的な内容がごり押しされているように感じられてしまうわけだ。誰も表だっては批判できないようなことをここぞとばかりに繰り返し見せつけるそのやり方は、内容こそ他愛のないものであれ、まるでナチスドイツの宣伝映画のような有様だ。しかし今の時代にそれをやる目的は何なのか。そこから何らかの意図を探り出せるだろうか。まさか皇室が崇拝の対象だとは誰も思わないだろう。誰が皇位を継承しようと、皇族に政治的な発言をすることは許されていないようなので、そんなことはどうでもいいことでしかない。天皇が国家を支配しているわけでもない。ではあれらの分娩パフォーマンスにはどんな意図があるのだろうか。おそらく何らかの意図や目的があるのかもしれないが、それを取り立てて問題視するには及ばないのかもしれない。要するに意図も目的も無効であり、すべては形骸化しているのかもしれない。それこそが天皇制の本質であり、それを規定している憲法そのものの現実なのだろう。日本には天皇という名の国王がいるかのごとく振る舞うための儀式なのだ。それが何かのいいわけとして機能している。主権は国民にあるわけだが、国家の象徴は天皇であり、それは責任分担というより、責任逃れのいいわけを生み出す構造なのだ。どっちつかずの曖昧さを保ちながら、そのどちらもが国家という欧米由来の制度から逃れようとしているのではないか。本気で国家について考えようとせず、何となく天皇制という昔ながらの制度を引きずりながら、そういう日本の特殊性を外国の人々に理解してもらいたいようで、政権交代も満足に行えないことのいいわけとして、そのような風土が根付いていることを外国人に指摘してほしいのかもしれない。要するにそれは甘えの構造に近いが、それでも世界の中では相対的に繁栄していて、先進諸国の一員だという自負もあるので、それを推し進めている人たちにしてみれば、そのような土人の制度をむしろ世界に向けて誇りたい衝動に駆られているのかもしれない。とんだ勘違いもいいところだろうが、それはそれでどうということはないのだろうか。やはり君には関係のないことだとうそぶいていればそれでかまわないわけか。しかし税金を使ってそういうことがなされていることは確かであり、それは見過ごすわけにはいかない税金の無駄遣いだろうか。もちろん皇族も遊んでいるわけではなく、立派に仕事としての公務をこなしており、それによって少なからず国家に貢献しているのだから、国家の象徴として賞賛されるべき人々なのだろうか。たぶん無駄を省くには優先順位があり、皇室の存在が無駄ではないと思う人々が大勢いる現状では、そのままの状態が維持される他はあり得ないのだろう。それがこの国の制度なのだから仕方がないか。


9月5日

 倫理的にそれは許されないことか。いつまでも小手先のごまかしに頼っているわけにもいかず、たまには本音で語ってみようと思う。それは冗談なのかもしれないが、誰かがこの世からおさらばしようとしているらしい。簡単におさらばできるわけがない。他の誰かはそう思い、誰かの衝動的な行動を必死に思いとどまらせようとしている。どこかでそんな押し問答が繰り広げられているのだろうか。しかし反論の余地はない。何に対して反論しようとしているのかわからないか。これから反論すべき言動がどこかで発せられるわけか。語りようのない無内容を抱えながら、誰かがどこかでうろたえている。切羽詰まってまたそんなことを述べている。別にそれがキチガイ沙汰というわけでもないが、少なくとも正気ではないらしい。正気になろうとしていないのか。さらにいやな現実を前にして、何を語ればいいのか。いつまでもそれを繰り返す気はないが、それに対する応答はいつもと同じ内容になってしまう。世の中はそういう制度になっているらしい。積極的に何を語りたいわけでもないが、たぶんそういう話になってしまうのだろう。そこから遠ざかれるわけがない。惰性にまかせて言葉を連ねている。それを信じてもかまわないのだろうか。何を信じようとしているのだろう。それがわからなければ、信じたくても信じようがないではないか。それでもそれを信じているつもりになりたい。未来は誰のものでもなく、君に何がもたらされるわけでもないらしいが、それでも君は未来への可能性を信じることができるだろうか。そうではないだろう。具体的に信仰の対象を導き出せないだけか。ただ泥縄式に言葉をもたらそうとしているわけか。それは既知のパターンであり、そこから未来へ何を繋げようとしているのでもなく、今までの繰り返しを持続したいだけのようだ。翌日にはひたすら雨が降り続いている。それらの景色の中で何を捉えて述べているのだろうか。君はそこで何を見ているつもりなのか。まだ何も見るに至っていないのかもしれない。見るべきものが何もないというのは本当だろうか。誰がそう述べているのだろう。誰かがそう述べているのだとすれば、どこかに架空の人格を設定しなければならなくなる。それは実際にはあり得ない話になってしまうだろう。あり得ないから適当にその内容をごまかせるわけか。何もないのに何をごまかそうとしているのか。またろくでもない妄想に駆られているのかもしれないが、その内容を言葉では示せない。妄想を抱いているのが誰なのか特定できずにいるらしい。そんな話があり得るだろうか。それもごまかしの一種かもしれず、きみはそんなつまらぬごまかしで何かを述べているつもりになりたいようだ。その程度ではその気になれないか。別にその気になりたいとは思わないのではないか。それ以前に何もない。そしてそんな悲惨な状況をどうすることもできずに途方に暮れているのはいつものことだろう。それを悲惨だと思うなら、それ以外の状況を想定することができるだろうか。それらのどこからどこまでは実際の状況なのかわかりかねる。わけがわからないのもいつものことだろう。筋の通った文章を構成できないらしい。そこから遠ざかれずに、盛んに辺りを行ったり来たりしている。だがその辺を右往左往する理由を見いだせない。何かが違っていることは確かなようだが、それを言葉にできないのはどういうわけなのか。言葉にすれば嘘になる。そういう話をしたいのではない。だがどういう話をしたいのでもなく、それらの文章は話になっていないような気がしてくる。そこには過剰に無駄な言葉がつまっていて、何も語りたくないのに、そんな言葉が勝手に連なっているように感じられてしまう。言葉の連なりはそれを記している自らの意志とは無関係なのかもしれない。そして無関係でありながらも、心の中に勝手に侵入してくる。それをどうにかしろと主張しているように思われてしまう。今さらの修正は困難か。他と困難であってもそれをやり遂げるべきなのか。現実にやり遂げることは不可能に近い。そう思うなら途中でやめてしまえばいい。やめられるものならとっくにやめているところか。今したいのはそういう話ではないのだろうか。では何を否定すればいいのか。否定できることはいくらでもあるはずだ。ではなぜそれを実行しないのか。実行するには言葉が足りなすぎるか。それだけではなく、言葉を記す余白も足りなくなっている。それがそこでの現状だろう。つまらないことを述べているうちに、本当に何もかもがどうでもよくなってくるらしい。そんな怠惰に押し流されながらも、その現状認識の甘さを利用して、隙だらけの姿勢で何を述べようとしているのか。どうにもならずに言葉を放棄している。要するに沈黙の世界に閉じこもろうとしている。無理なことはやらない方がいい。無理して寿命を縮めて、何を達成したいのか。達成すべき目標がどこにあるのだろう。しかしそれでは元の木阿弥だ。今こそ破れかぶれでもかまわないから、ちゃんとした目標を定めるべきか。ちゃんとしていないのにそれはないだろう。


9月4日

 昼の日差しはまぶしすぎる。夜の暗闇はどうなのか。何となく時間感覚がはっきりしないらしい。いったい今はいつなのか。この時代に生きていることは間違いのないところか。誰が生きているわけでもなく、誰が暮らしているわけでもない。そんな誤った文章を記しているだけだ。それがどうしたわけでもないが、そういうことでしかない。人が生きていたり暮らしていたりすると、何かまずい事情でもあるのだろうか。その理由を思いつくにはまだしばらくの時間が必要だ。いくら思考を巡らそうとも、何も思いつきはしないだろう。では何も思いつかないふりぐらいならできるだろうか。結果的にはどちらも同じことではないか。ふりではなく本当に何も思いつかないらしい。だからそんなことを述べているわけなのか。それが理由になるはずがないだろう。何も語らずに言葉を示しているわけではない。他に示すべき内容がどこにあるのか。この期に及んで何を探しているわけでもない。それはいつもの決まり文句に違いないが、そこから何をどう述べたら気が済むのだろう。わけのわからないことを問いかけないでほしい。誰に向かって問いかけているのかわからないが、それで誰が困っているわけでもないだろう。それでも窮地に陥っているのだろうか。危機感がまるで欠如している。それでも何をこねくり回しているのか。それは誰かが発した言葉ではなく、その場の雰囲気なのかもしれない。無言の沈黙の中に、君の主張したい内容があるらしい。だがそれで機転が利いているとは言い難い。何かを取り逃して悔しがっているのはどこの誰なのか。それがその場で見受けられる真の姿なのか。ではその代わりに文章中には誰の姿が立ち現れているのだろう。それが君でない証拠がどこにあるのか。誰の言葉である証拠を見つけたいわけではなく、それらの言葉によって構成される真の文章を見いだしたいわけだ。無理な要求を唐突に提示しないでほしいか。たぶん君はそこから気の利いた内容に至りたいのだろうが、それをこれから提示するわけにはいかなくなる。それ以前に無駄な言葉が並べられていて、君が語りたい内容に至るには、さらなる迂回が必要なのかもしれない。ひととおり無駄に語り尽くした後に、ようやく君自身の主張に至る可能性が出てくる。普段はそこに至るまでに文章そのものが終わってしまい、ただ無駄に言葉を連ねただけの空疎のただ中にそれらの無内容が押し込められている。いったいそこで何を語っているのか、そんなことは誰にもわかるわけがなく、ただ困惑と落胆が行間から漂ってくるだけで、それ以外の何を求める気にもなれはしない。しかしそうやって誰かは何を告白しているのか。そしてなぜその誰かが君だと確信できないのか。君ではなく直接私という言葉を使わない理由は何なのか。私とは誰なのか。誰かでない者が私であるはずがないか。それならば君が私であるはずもない。なにやらそれらの文章をぶちこわしにしたい衝動に駆られている者がいるらしく、それが私だというのだろうか。しかしそれでは意味不明だろう。不明なのは意味ではなく、私自身ではないのか。なぜ君は私という言葉から逃げようとしているのか。それで不可思議な雰囲気を醸し出せば満足してしまうわけか。だが今の君に満足という精神状態があり得るだろうか。くだらぬ言葉遊びに終始するその姿勢には誠実さのかけらもありはしない。しかしそれは予定調和の展開ではないのかもしれない。様々な出来事が意識の前を通り過ぎ、それらに影響を受けて意識も絶えず様々に変化し続け、その時々で何らかの精神状態を示し続けている。いったいそれが何になるのだろう。利益という名の自己満足を得たいか。もう無駄な言葉はたくさんか。必要もないのに言葉を連ねることから逃れたいか。できもしないことを夢想する気にはならない。しかし永久にそれをやり続けているわけにはいかないだろう。無理を承知でそんなことを述べているらしい。そこから遠ざかれないのに遠ざかろうとしている。やっていることと思っていることが正反対だ。だから楽しくなってしまうのだろうか。苦しみと楽しみに区別はない。そんな思いはどうでもいいことなのかもしれないが、どこかで何かに引っかかってしまうようで、それを引っかかったままにしておきたい気持ちが芽生えてきて、そこから枝葉をのばして、日の光を吸収しようとしている。だがそれで言葉を何にたとえているわけでもない。言葉は絶えずそれ自身の中に日の光を閉じこめようとして、それができないことを考慮する気もなく、気がつけばすでに何かしら語り始めていて、それを記す者に勝手な先入観を植え付けようとしている。できもしないことを語らせて、後から後悔と後ろめたさをもたらし、やましい気分とともにさらにその先を語らせようとする。要するに語れば語るほど嘘を語らざるを得なくなり、その行き着く先が現実からかけ離れたご都合主義の世界なのだ。君は今その世界にどっぷり浸かっているわけか。そんなはずがないと思いつつもそうではないことを君は知っているらしい。


9月3日

 それらの言葉のどこに魅力があるのだろうか。美しさの定義が大幅に狂っている。それだけではないのだろうが、まるで無効な文章だと思う。端から役に立とうなどとは思っていないはずだ。確かにまったく役に立ちそうもない内容だが、それを何の役に立つように改良しなければならないのだろうか。君にそんなことがわかるはずがない。たぶん本気でそんな風に思っているわけではないのだろう。ならばそう述べる理由がわからなくなる。今さら政治の話もないが、何を語ろうと君の勝手ではないか。ではさっさと適当に語って済ませてしまおう。誰が総理大臣になろうと、そんなことはどうでもいいことには違いないが、画面を見ているうつろなまなざしには何が映っているのだろう。総理大臣になりたい人々はそれなりにその資格があるように思われるだけか。それで終わりだろうか。終わってしまったら別の話をしなければならない。別の話など何も思いつかないだろう。思いつかなければどうするのか。そこから視線が遠ざかるのはなぜなのか。目を逸らしているわけでもないのに、徐々に視界から文章が後退していってしまう。見えている文字が次第に透明になり、周りの景色に溶け込んで見えなくなってしまう。誰かがくだらない話をしているうちに、何となくそんな気がしてくるのだが、もはや正気の神経ではついて行けないような成り行きになりつつある。現実から議論が遊離している。君にはそんな茶番劇につきあっている暇はないらしい。やはりそれらの言説は君とは関係のない内容なのか。これから何かが起ころうとしているようだが、それが重要な出来事だと喧伝されればされるほど、君にはまったく関係のないことのように思われてしまう。状況的にはいやな人々がよってたかって世の中をどうにかしようとしているらしいが、なぜそれが君には無関係なことになってしまうのか。誰が何を試みようと、思い通りにいくはずがないことはわかりきっているのに、それでも彼らは世の中をどうにかしようとしている。それに対してどうなるわけでもないという確信が頭から離れない。目の前の空間で何かが宙に浮いていて、それが言葉だと思うわけを知りたいのだが、誰がそう思っているのかわからない。自意識はまたわけのわからない迂回路へ迷い込んでしまったらしい。民主主義とは何なのか。何かのお題目なのだろうか。すべてが馬鹿げていると思われる。色あせて見えるのは何なのだろう。そこで誰が何をやったらいいのかわからない。つまらない言葉を信じているわけではない。何を批判したいわけでもない。ただそれは違うと感じられる。まだ何を述べる気にもならない。気がつけば軽快な音楽が響いている。月明かりに照らされてそれとは無関係な言葉が連なり始める。そんなはずはないだろう。いつものでたらめでその場をごまかそうとしているのか。精神的に追い込まれているのか。またそこから逃げようとしているらしいが、さらにわからなくなる。だがつまらない原因を探ろうとしているわけではない。赤の他人を見下しているわけでもない。では何をしらけているのだろう。誰と誰が敵対しているというのか。その偽りの敵対によって他の誰をこの世界から締め出そうとしているのか。誰に心当たりがあるのだろう。特定の人格を誰と共有しようとも思わない。それは誰に見えている光景でもありはしない。何がそこで崩壊しようとしているのか。内容が馬鹿げていることは目に見えているはずだ。気持ちが散漫になっていて、注意力が著しく衰弱している。まだそこまで達していない。気まぐれな意識がどこかで見え隠れしている。なぜ嘘をつこうとしているのか。気まぐれで何かについて述べようとしている。君には何も見えていない。音楽とともに虫の鳴き声も聞こえてくる。やはりわけがわからないようだ。退屈にやられて夜が長くなる。三番目の背景を知りたいところだ。謎がそこに隠されているとは思えないが、出口に至る何らかのヒントを思いつくかもしれない。昔そんな音楽に出会ったことがありそうだ。巡り会うのは空虚だけではない。君にはもう一つの鍵が渡される。薄汚れた木製の扉を開けた先には何が待ち受けているのだろうか。誰かの笑顔が急に飛び込んでくるが、張りぼての人形に魂が宿ることはない。そこで知ることを前もって予想したい衝動に駆られ、勝手に道順を変更して、取り返しのつかない事態を招いてしまったらしい。まだそこにとどまっていられるのだろうか。天空の月はあのときからどれほど傾いたのか。思いついた言葉にはまったく印象がない。何を覚えていないのだろうか。覚えられる限りの英単語を列挙しているのは単なる暇つぶしに過ぎないわけか。即興的な旋律を思い出そうとしているようだ。誰がそれを奏でているわけでもなく、記憶の中で何かがうごめいていて、適当な思い出を組み合わせてありもしないことを導きだそうとしているようだ。それでどんな物語が奏でられるのか。それとも演奏者を知らぬ偶然がすべてを台無しにしてしまうのか。


9月2日

 つまらないところで行き詰まる。身動きがとれない。誰かの妄想の中では、まだ昨日の時間帯の中にとどまっているつもりのようだが、実際にはすでに翌日の夜になっている。遙か遠くで何かが炸裂している。天空のどこかに超新星でも出現しているのだろうか。脈絡のない嘘には感情移入できない。だがそれらの言葉を簡単に退けるわけにはいかない事情もある。他の誰かが刺激的な言葉を求めているのかもしれない。言葉だけでは刺激を感じないなら、映像や音声が必要になるだろうか。また君はテレビを見ているわけか。ありふれたアクション・シーンの何が刺激的だろう。求めているのはそういうメディアに関連した刺激ではないのかもしれない。ならば君は気晴らしに何を求めているのか。無い物ねだりもいい加減にやめておかないと、いつまで経ってもそこから外へ出られないのではないか。誰かは外へ出て何をやろうとしているのか。君は外から戻ってきて、疲れて眠くなっているようだ。だから外へ出られないどころの話ではなく、毎日外へ出て仕事をしなければならず、現実に外から戻ってきて疲れているのに、外へ出られないとはどういうことなのか。そう述べることによって気晴らしになっているのかもしれない。気晴らしで嘘をつき、ひたすらごまかしを求めている。それは無駄で意味のないことだ。本気になっていない証拠かもしれない。時間の経過が思考を許さない。そしてさらに時は流れ、意識はその場所から遠ざかる。それでも何かを考え続けているつもりのようだ。そんな風にして考え抜かれた結果として導かれた文章はどうなるのだろうか。内容は抽象的かつ形而上学的となり、否応なく現実の社会とは無関係になる。だが実際にそんな内容を導き出せるわけがない。本当にそんな内容になったとしたら、それは君の文章ではなくなるだろう。そんな嘘を誰が信じられるのか。嘘でもかまわないから誰かを信じさせなければならない。そして本当はそうでないと思いたい。君は意外と忘れっぽい。何を否定しているのかわからなくなる。合理的に説明しようとしても、そこから逸脱してしまう要素があるようだが、それを合理的に説明できるわけがない。どこかの荒野に小動物の骨が転がっている。それが自然の光景だとしたら、道ばたの雑草は何を感じているのだろうか。わざと意味不明なことを語っているに過ぎない。心は目に映った光景を思い浮かべられるらしいが、君の目には何も映っていない。では何かそれとは関係のないことを述べられないものか。さっきから君はしどろもどろの口調で何を語っているのか。辻褄の合わない言葉は心の動揺を反映しているらしい。切羽詰まってまたそこから逃げだそうとしているわけか。逃げられないからそんな風に語っているのではないか。何を語っているとも思えない状況で、意識は徐々にそこからはじき出されていってしまう。何かが違っているようだ。砂漠の上空に太陽が輝いている。真昼の木陰は秋の空気を感じさせる。今はそんなことを語りたいわけではない。ところで今日の話はどこでなされているのだろう。別の時空で誰かがよどみなく語り続けているらしい。そういう話にしておこう。本当は違うかもしれないが、それで急場を乗り切ろうとしているようだ。しかしつまらない自己言及にもほどがあるだろう。それは違うと思うなら、疑念を感じるのは話のどの部分なのか。夜空の月は誰を見下しているのだろうか。みすぼらしい文章の中に記されている君を馬鹿にしているわけではない。それ以上の何かがどこにあるのか。急に鳩が飛び立ち、屋根の上で猫が立ち上がる。上空を誰かの視線がさまよっている。どうやらまたしても想像力が限界に近づいているようだ。その先の四つ角から何かが飛び出してくるが、それらの言葉は何を説明しているのでもない。何もかもがごちゃ混ぜに推移しているようだが、それも長続きはしないだろう。横目で見ているのはそんな光景ではない。そこにはいつものように何もない。さっきまでは何かがあったかもしれないが、今は何もないということにしておこう。そういうことにしておけば、何も語らなくても済むはずだ。まったく冗談にもなりはしないが、何もないのに何を語ろうとしているのか。語る代わりに軽快な音楽を聴いている。当分は誰も相手にしないつもりらしいが、それでもまだ語る時間が残っているようで、また余分なことを述べるつもりだろう。それは出口のない迷路になっていて、いつものまなざしが何もない光景を眺めている。そしてその先に言葉をどう繋げていけばいいのかわからず、途方に暮れているようだ。まだ逃げ切れると思っているのか。現状は逃げようのない状況なのではないか。それにしても秋の虫はうるさい。夏の終わりに言葉が導き出され、その言葉を記しているつもりになり、持続させようとしているのはそんなつまらない内容になってしまったらしいが、それでもまだその先があるのだろうか。


9月1日

 挑発的な煽動にも飽きが来ているか。この時代に考えるべきことなど何もない。真剣になること自体が滑稽だ。誰がどこで命のやりとりをしているのか。毎日のようにくだらぬ殺人事件が起こり、それらを伝える報道の大洪水に呆れ、感性の痴呆化に拍車がかかる。そこから何を鍛えなければならないのだろう。貧窮の時を耐えることが肝心なのだろうか。紋切り型口調のメディアにつられて利いた風なことをぬかしている場合ではないか。こうしゃく話に命がけというわけでもあるまい。しかしどこの誰が悪いわけでもない。誰のせいにもできない。そういう世の中ということでしかない。中身のない人々が中身のないことをプレゼンテーションしているだけか。そんな風に否定的なことを述べても仕方がないだろう。しかし本来あるべき中身とは何なのか。人の中身とは何なのか。もったいぶって与党の総裁候補に名乗りを上げたところで、彼は何を述べているのだろうか。それほどわけのわからないことを述べているわけでもなさそうだが、何となくピンぼけの感は否めないか。述べていることに興味がないから内容が伝わってこないだけか。たぶんそれらの内容は君には関係のないことのようだ。ああいう見せびらかしに実質的な意味はないのかもしれない。ただの自己宣伝か。それ以外にどういう意味が付随してくるのか。情けない人々がその周りでうごめいているようで、間違ってもそんな場所には近づきたくない。だから心はそこから遠ざかり、いつものように音楽を聴きながら物思いに耽っているわけか。しかしその物思いの中身がわからない。何かに抗っているのだろうか。怠惰な雰囲気に逆らって、さらに言葉を繰り出そうとしているようだ。沈黙を守りながらも、本気になれないと嘘をついている。確かに本気ではないのだろう。それらの言葉のすべては戯れ言の範疇に属している。あんな人々が世の中の主流を形成しているのだろうか。誰が総理大臣になろうと、それによって何が変わるとも思えないが、それでも何かしら変化したと思いこんでいれば、多少のリアリティは感じられるのかもしれない。本気になるとはそう思いこむのと同じことのようだ。何らかの出来事を騒ぎ立てること自体がフィクションへの第一歩なのだろう。それについて語ることで、サスペンスドラマの登場人物に近づいてしまう。そのとき誰かの意識は恐ろしい勘違いを犯してしまっているわけだ。被害者の家族などは失った近親者に関する手記などを発表してしまい、浅はかな感情の虜となるらしい。いったい死者の魂がどこをさまよっているのだろう。言葉と言葉の間に誰かが潜んでいるわけか。なぜ君たちはそんなメロドラマ的な演出を好むのだろう。好むと好まざるとに関わらず、すべてを見せ物にしなければ気が済まないのかもしれない。この世に発生したすべての出来事は大衆の目にさらされる必要があるようだ。そして誰もがそこに好奇の目を注がなければならない。そんな決まりがどこにあるのか。どこにもありはしないから、それを君たちが制度として定着させようとするわけか。だが絶えずそのような試みが繰り返されると、挙げ句の果てには誰もが何に対しても飽きてくるだろう。視覚が特権化されすぎていて、それはのぞき趣味の一種に堕する。すでにそういう成り行きになっているのではないか。何でもかんでもどんな些細なつまらないことでも、それは興味をそそる対象となっているわけだ。だからそれをひたすら観察し続けるまなざしがちまたにはあふれかえっている。それも何かの妄想かもしれない。誰かに見られていると思いこむことが自意識過剰を誘発する。実際に君たちは何を眺め続けているのか。それはつまらぬ対象を眺め続ける君たち自身の姿かもしれず、誰かが何かの光景を眺めている映像を眺めながら、君たちは自分が正気であることを実感するわけだ。あんなに多くの人たちが眺めているのだから、自分たちの何かを眺め続ける姿勢も決して滑稽だとはいえないのではないか。そんなわけで世の中は多数決の原理で動いており、そこから眺め続ける行為が正当性を持つわけだ。しかし君は本気でそんなことを述べているのだろうか。それも戯れ言のたぐいか。なぜか論点が当初に述べていたところから少しずれてきたようだ。精神の集中が持続しない。それらの大半はフィクションでしかないが、それでも本心から述べている箇所も少しはあるのかもしれない。戯れ言であろうと真剣であろうと、そのような態度が内容に反映しているわけではなく、それらのどこに語り手の中身が露呈しているわけでもない。ただ内容が利いた風な言説に包まれている。君が忌み嫌う内容に近づきつつある。それで楽しいか。楽なわけはなく苦もなく何かを述べているわけでもない。ただ言葉を連ねるのが面倒なだけか。いい加減ででたらめなことを述べているときがもっとも和む瞬間かもしれない。


8月31日

 人が政治的に振る舞うとき、その困惑の表情は誰のものなのか。周囲の気流をかき乱して心のよどみを取り去り、気を落ち着けてわざとらしく到来する決め台詞に備えているようだ。実際にどんな奇声が発せられるのか。誰がそこで吠えているのだろう。誰かが怒りにまかせてわめいているようだ。それはあり得ない怒鳴り声になるだろうか。もはや言葉ではないのかもしれない。君はいつでも無責任に言葉を繰り出そうとする。ありふれた表現を嫌っているらしいが、その代わりに同じような言葉をでたらめに組み合わせて、偽りの驚きをもたらしたいようだ。本当は誰も驚いていないだろう。たとえそれが嘘偽りであろうと、それによって虚しさがこみ上げてくることを承知していようと、すでに翌日の夜になってしまったらしい。昨日のことは忘れたつもりになっているようだ。無駄な思考は空疎な言葉を呼び込み、内面の静寂は落ち着きすら感じさせる。その余勢を駆って昨日よりもさらに馬鹿げた内容を導き出したいか。どういう意味なのか不明確に思われる。文章の意味すら定まっていないうちから、いい加減に言葉を連ね、そのわけのわからなさをおもしろがっているようだが、ふとしたきっかけで思いついた何かもかもがだめなわけではない。それらのいくつかは何らかの結果をもたらすかもしれない。では思いつきがどのような気休めとなるのだろう。翌日の暗闇とともに誰かの煽動的な台詞を思い出すが、君には打倒すべき対象の存在に心当たりがない。このままでもかまわないと思っているし、さらに状況が悪くなっても一向にかまわないとさえ思っている。もとから君の存在は無視されているのだから、その時点で心がひねくれていて、そのような状況が善意を奪い去っている。間違っても社会の役に立とうなどとは思わない。すべては君には関係のないことなのだ。確かに今の君にとってはそうかもしれないが、いったい今後どこの誰が君を必要とするのだろうか。しかしなぜそこから虐げられた者に特有な恨み節が出てこないのか。だから呪うべき対象を見いだせないのだろう。感情が欠如しているようで、どこまでも心が希薄化していって、言葉は自ずから分散して、何を述べているのかわからなくなる。まとまりを欠いた内容はいつものことだが、忘れた頃にそれとは別の何かが思い出されるのもいつものことか。誰かは何もないことに対する窮余の策として、それらの記憶をよみがえらせるつもりのようだ。箪笥の引き出しから黄ばんだ新聞紙が出てくる。ただそれだけのことにどんな意味があるのだろう。何に気づいているわけでもないが、何かを忘れているようだ。そう思いこむことによって言葉を絞りだそうとしているわけか。実際にやってみなければわからない。関わっている現象に覚えがない。壁から誰かの顔が浮き出ている。何かのレリーフではないか。言葉で表面の凹凸を表現したいらしいが、そのざらざらした肌触りを心地よく感じているわけではない。皮膚がすり切れて血がにじみ出す。そんな想像が何に当てはまるのだろう。それは言葉の癖だろう。言葉と言葉のつながり方に不自然な傾きを感じる。わざとわけのわからないことを述べている。黴菌に目をやられて盲目になる。そんな都合よく何も見えなくなるはずがない。見えているものを見ていないように装っている。そうやって言葉を組み合わせて文章を構成しようとする。自らの立場をわかっていないらしい。そこで何をやるべきなのか。すべては消え去る運命のようだ。だがそのすべての中に君の立場は含まれていない。それが君のご都合主義を形成しているわけか。他にどんなことを考えているのだろう。自らの感性を信じなければならない。何を受け流しているのだろう。椅子にもたれかかり、そのまま崩れ落ちる。その辺が君の限界なのだろう。笑いとは無縁の結果を認めようとしている。誰かはそんな成り行きを傍観し続ける。手出しする気がない。何か複雑なことをやろうとしているのか。現状を認められないらしい。もう眠くなってしまったようだ。本気で何を考えようとしているのだろうか。後で苦労するはずだ。人は誰でも去りゆく機会を受け入れなければならない。それを批判して何になるというのか。失敗を失敗として自覚すべきか。いいわけは何もない。みっともないままでもかまわないのかもしれない。導き出されるものを見つめているようだ。それが言葉とは限らない。人格が顔にへばりつく。彼に何を期待していたわけでもない。微妙な言語表現を要するような状況なのか。君のままでは無理だ。何のことやらさっぱりわからなくなる。さっきまで何を考えていたのだろう。そこからどう体勢を立て直すつもりなのか。強引なこじつけから何かを導き出せるだろうか。まだその先の展開を考えている。いい加減に無理なことを認めるべきだろう。いつまでも抽象的な話に終始しているようで、何も具体的なことが明らかにならない。そこから話をおもしろくすることは不可能に近い。


8月30日

 気分が乗ってこない。何となくまた現実から逃避しているようだ。言葉を記すことに何の意味もありはしない。たぶんそれが勘違いの始まりだろう。誰かは誰かの期待を裏切っているらしい。閉塞感とは何なのか。行き詰まりを解消しなければならない。誰のプライドを挫こうとしているのだろう。何に耐えなければならないのか。この感覚を忘れてはならない。誰に向かって指図しているのか。また無駄に言葉を弄しているようだ。手加減しているのだろうか。そこかしこに欠陥が浮き出てくる。俗物が大手を振って歩いてくる。それを見ると目がつぶれるか。物理的な作用など何もありはしない。誰もが目立ちたいのだろうか。何をきっかけにしてそんな思いつきに至るのか。偶然に言葉が導き出されるだけか。秋がさらに近づいているようだ。何かが間近に迫っている。短絡的に物事を考えている。どこまでもつきまとうつもりのようだ。そこから抜け出ようとしている。君は現実から何も学べないようだ。それは妄想の産物だろう。他に何を示そうとしているのか。それに関して何か思い当たる節はないか。ただの勘違いでは済まない問題なのだろうか。君はそれを馬鹿にしている。そうなってしまう成り行きを無視しようとしている。結果がすべてではない。結果から何を考えようと、それは予定調和の結論に至るだけだ。しかしそれで済ましてしまってもかまわないのだろう。面倒くさい過程を省いて、すぐに結論へと直行できるではないか。それが思考の単純化を招こうと一向にかまわない。君は見る必要のないものを見て、考える必要のないことを考えている。それで貧窮の時を乗り切れるだろうか。それは明らかな誤りだろう。使用する言葉が間違っているのではないか。別に単純な結論へ達しようとしているわけではないらしい。ただそれに対応する言葉を持ち合わせていないだけか。君はそこから何も思いつかないだろう。逃げ切れずに観念してしまうのか。あきらめようのない結果が提示されている。今さら何を述べても仕方がないだろうか。ではそこからどう述べるべきなのか。どんな言葉が行く手を遮っているのだろう。それは言葉ではなく状況に違いない。状況という言葉かもしれない。だが今日はまだ何も述べていない。無言のままひたすら言葉を記し続けている。それがそこでの現状なのだろうか。しかしそれで何を実感できるというのか。単なる言葉の付け足しに過ぎない。そこから視線をそらすことができない。画面は絶えず心を惹きつけながら裏切り続ける。無駄な時間を過ごしているように感じさせる。何ももたらされないのだから、期待はずれだと思うしかないようだ。季節が終わろうとしている。次の季節が巡ってくる。人の季節が終わり、機械の季節が巡ってくる。そんな妄想は二十世紀的だ。何もないことを認めるわけにはいかない。この世界には何があるのだろうか。君はこの世界に何をもたらそうとしているのだろう。言葉以外に何をもたらせるのか。言葉でさえ誰にも届かないような内容になっている。もはや君が間違っているのは疑いようのない事実だ。自らが間違っていることに何の不都合も感じないのか。それを自覚できるはずがない。とりあえずそのことに納得すべきか。納得しつつその先を目指すべきか。その先には何があるのだろうか。白骨死体でも発見したいわけか。誰が富士の樹海に分け入ろうとしているのだろう。話のそらすにはそんなやり方があるらしい。しかしそれでそらしたことになるのだろうか。見え透いたごまかしにしらけてしまう。そこで君は誰を見損なっているのだろう。そんな成り行きになるはずではなかったはずか。はじめから気に入らないのだから仕方ない。物質的な幻影を探している。要するに探索自体が矛盾しているわけだ。ただ言葉を検索しているだけではないか。それで何をわかろうとしているわけではないらしい。そんな成り行きに興味はなく、本当に求めているのは、それとは違う文章の出現か。それはいつもの無い物ねだりとなってしまう。一瞬出口へたどり着いたような気がしたのだが、とんだ思い違いだったようだ。まだ答えといえるような結論は何も導き出されていない。迷路で迷って焦燥の念を抱き、気休めの音楽に浸かりながら、次なる文章を模索している。どうせ同じような表現がまかり通るのだろう。そこで結論とはなりたくないようだ。だからさらに馬鹿らしいことを述べてしまい、羞恥の泥沼にはまりこむ。そういう話ではないはずだ。どういうことを述べているわけでもなく、たぶんそういうことを述べ続けているのだろう。それは君が述べたいこととは大きく隔たっていて、落胆とため息をもたらし、まともな思考から意識を遠ざける。そんな精神作用から逃れることはできず、その代わりにどうでもいいような結論を記す羽目に陥ってしまう。何となくそこから遠ざかれていないような気がしてくる。それで何を語っていることになるのか。


8月29日

 執拗に夏がぶり返してくる。毎度のことのように暑さに負けているらしい。仕組みはいくらでもあり、仕組みの中で歯車のように機能すべく、人は絶えず教育され続けているのだろう。行き着く先を知らない人々が一心不乱に努力を繰り返す。思考が固まり行動が固定するわけか。そんな風にして安全な人々を製造し続けているつもりかもしれないが、歩留まりが悪すぎないか。それで事件事故として話題を提供してくれるのだから、出来損ないや欠陥品にも一定の役割があるのだろう。しかしそういうシステム論的な言説は退屈極まりないか。その程度で満足すべきだろうか。何かを否定的に考えれば、すべてが否定的に考えられてしまう。気持ちを前向きに保たなければならないだろうか。そこから遠ざかるわけにはいかない。通り過ぎてしまってもかまわないから、絶えず近づき続けようとしなければ、言葉を失ってしまうだろう。君にはそれができない。今ひとつ勇気に欠けている。社会に挑戦しているわけではない。戦いを挑むべき相手の存在を知らない。挑発的な言葉を繰り出しているとは思わない。それは当たり前のことではないか。当たり前のことを述べるのにどれほどの苦労が必要なのだろう。なぜそれが当たり前のことだと思うのか。君は何を恐れているのだろうか。この世のどこかに破綻の原因でも潜んでいるわけか。すでにそれらの文章は破綻している。どうもまた文章は限界に達しているらしい。そこで何らかの法則を見つけたつもりになれるだろうか。他に何もありはしない。人は人として生きられず、他の誰かとして生きたいようだ。君には君独自の考えがあってしかるべきだが、それを強引に取り去って、世の中を支配している制度に合わせようとしている。なぜ制度が人々の心まで支配しているのだろう。制度がなければ個々の構成員が好き勝手に降る舞い始め、収拾がつかなくなってしまい、文明そのものが崩壊してしまうだろうか。そういう仮定の話にはリアリティがない。制度を利用している者がいる限り、制度がなくなるはずがない。制度を利用している者たちも執拗にいつまでも存在し続けるだろう。制度とそれを利用する者たちのどちらが先に生まれたわけではなく、人々が集団としてあり続ける限り、そこには一定の制度が生じてくる。制度はそのような集団とともに分業体制が必要なわけだ。制度が集団に属する個々の構成員に様々な役割分担を課す。そのような制度の維持継続が文明そのものなのかもしれない。そして文明が制度を強化し続け、人々をその文明の勢力圏に囲い込む。制度を維持継続させるためには、その支配下に多数の人々を留め置かなければならない。その制度の目的とは何なのか。何を達成すべく制度が日々革新され続けるべきなのか。制度が人々を幸せにしようとしている。それは制度による拘束と引き替えにした幸せだ。制度が人々に課したルールを守らなければ幸せにはなれないらしい。しかし幸せになるとはどういうことなのか。人それぞれで異なると思いたいらしいが、それは制度がもたらすようなものではないだろう。では制度は何をしているのだろう。人が幸せになるための手助けでもしているのだろうか。誰もが同じような夢を見させるために制度があるわけか。より多くの人が幸せになるためには最大公約数的なものを目指さなければならず、誰もが同じような価値観を共有しながら、互いに競争し切磋琢磨しながら、同じような目標に向かって努力すべきか。そのような生き方を制度が決めているはずだ。要するに単純明快な生き方を誰もが目指してほしいというわけだ。人々は同じ方角を向いて歩んでほしいわけだ。そこから何らかの矛盾や不具合が生じるかもしれないが、とりあえずそれは放っておいて、その先を目指して前へ進むべきなのか。矛盾や不具合は改めなければならないだろう。誰もが納得するような制度の修正が求められているようだ。どこかの政治家はそんな意識を利用して新しい憲法を作るべきだと主張している。もっともなことかもしれないが、意識の方はできればそんな制度から自由でありたいと願っている。制度に拘束されながらも、制度とは違う方向へ思考の対象を探しに行っているらしい。なぜ人は自己実現にこだわり続けるのか。いずれ時が経てば消えてしまう心身をどうしようというのか。自らがその時代に生きていた証を後世に残しておきたいわけか。つまらないこだわりはそんなところから生じるようだ。自らの存在を主張したい人々はそんな思いに凝り固まっている。そんなわけで過剰な自己主張がこの世界には渦巻いている。夏の暑ささながらに、鬱陶しいむさ苦しさが辺り一帯を覆い尽くしているのだろうか。誰がそれをやめさせることができるのか。君はそこから遠ざかりたいわけか。たとえ遠ざかれたとしても、別の地域には別の暑苦しさが待ち受けている。どこへ行ってもその手の輩がのさばっているのだろう。


8月28日

 惰性の営みは果てしなく続くのだろうか。誰かは言葉と時間をさらに無駄遣いしている。何かを改めなければならないのかもしれないが、尋常な精神状態ではないらしい。本気でそう感じているのだろうか。だがそれでもそれらの状況はまだそれを続けようとしている。続ける主体が存在しないのに文章はそれを続けようとしている。そういうのはまやかしだろう。それはまともな状況ではないようだが、そういう言葉の並びは好きではない。だが今さら好き嫌いの水準で何かを感じているわけでもないはずだ。何かが限界に近づいているのに、それの何が限界なのかわかろうとしていない。では何をどうすれば限界を回避できるのか。わからないのに回避できるわけがないだろう。現実にはそういうわけでもないか。わけがわからないのは君のせいではない。今さら責任逃れもないだろうが、どこからか誰かの責任を回避する言葉を導き出そうとしているようだ。まだそこに幻影が立ち現れているのだろうか。幻影とは何なのか。予定調和なのではないか。文章は幻影の言説へと論点をずらそうとしているようだが、そういうやり方はくだらない。誰もがそこから逃げようとしている。もはやわけがわからないのだから、心を支配にかかる幻影から逃げようがないだろう。君はそれをどうすることもできない。気力が萎えてきて、ますます述べていることがわからなくなる。頭がおかしいのかもしれない。それも逃げ台詞の一種か。頭がおかしいのではないとしたら、それが普通なのだろうか。何がおかしいと思っているのだろう。迷っているわけか。本当に迷っているとすれば、成り行き的にはそこから迷路が出現することになるのだが、それも現実から逃げている言説に違いない。何もないことから必死に逃げようとしている。だがそこから先にどのように言葉を並べたらいいのかわからない。今さらなぜそんなわかりきったことを述べているのか。いつものように理由など何も感じられない。たぶんそれに気づいていないのだろう。気づこうとする気配さえ感じられない。考えるのが面倒なのかもしれない。興味を持てないのだろう。とりあえずこの世は幻影の一部ではないらしく、何となく現実を実感しているように感じられる。馬鹿げたことを述べている現状を認識しているようだ。そこからどう言葉を繋げるつもりなのか。何となくそんな言葉の連なりでもかまわないのような気がする。そのような行為が人生を無駄遣いしているように思われ、そこから何を導き出そうとする気にもなれず、ただ無駄に言葉を弄している現状でかまわないように感じられてしまう。そんなことはどうでもいいことなのだろうか。本当は何か他にもっともらしいことを述べていたいのかもしれないが、その対象を思いつかないのだから、どうしようもなくそうなってしまうらしい。電車の中で赤ん坊が泣いているようだ。よくある光景といえばそうなのだろうが、それに関心を持てない気分もよくあることか。何があるわけでもないらしい。何もないがそれがこの世界なのだから、そのような現状の中で生きていくことしかできない。人はそこから幻想を見いだし、幻影を追い求め、結果として何らかの暇つぶしとなっているのかもしれず、それが無駄や無意味ではないと思いこもうとしているのだろう。しかし現状に対するそのような解釈はありふれていて、退屈に思われる。否定的な言説ではだめらしい。それではだめなのかもしれないが、それ以外にどのような解釈を導き出せるというのか。現状の何を肯定すればいいのかわからない。肯定できる現象を何も感知できないというわけか。君が述べている内容はどうなのか。自らが述べている内容を否定してどうするのだろう。この世界に目的を設定しても仕方がないか。なぜそれを目的に結びつけようとするのだろう。それでも何かをやらなければならないとしたら、何をやればいいのだろうか。君には何も動機が見当たらない。この世界がどうなってもかまわないのだとすれば、それに対して何をやる気にもならないのは当然の成り行きか。何に対しても本気になれないのも当たり前のことかもしれない。何もかもが馬鹿げたことの繰り返しとなっているようだ。だが誰もが虚しいことにこだわりを見いだしているわけでもないはずか。人々が行っていることに積極的な異議を見いだせるだろうか。誰もが自分たちはいったい何をやっているのかと自問自答しているわけではない。しかしそこにどんな意味を付け加えれば現状に対する前向きな言説を構成するに至るだろうか。何も思いつかないところをみると、やはり現状で顕在化してる何もかもを否定し尽くさなければ気が済まないようだ。しかしそんなことをやってみたところで、よりいっそう虚しさが深まるばかりなのではないか。そしてそんな嘘をいつまでも繰り返したところで、何がわかるわけでもなく、さらに虚無の支配に身をまかせることにしかならないだろう。それでも君はかまわないのだろうか。たぶんそういう水準で物事を考えているのではないのかもしれず、実際には現状に対する何らかの認識に近づいているのかもしれない。まだそれを言葉で表現するには至っていないのかもしれない。


8月27日

 他人の言動が気になるだろうか。他人の動作が気にかかるか。誰が何を考えているのかを知りたいところか。それは誰の好みなのだろう。自由に物事について考えてみたいが、それが自由だとは思わない。考える対象に依存して思考を巡らしているだけのようだ。しかし何について考えているのかはっきりしない。何も思い浮かばないのに強引に言葉を並べているだけか。ならば自由とは何だろう。何が自由なわけもない。何を目指しているわけでもなく、何か適当な思索に耽ってみたいが、また少しわけがわからなくなっているらしい。何が間違っているのだろうか。根本的に間違っている。それでは何が間違っているのかわからないではないか。君はそれを知っているはずだ。白々しくそんなことを述べながら、惰性の中に意識が引っかかっているようだ。今は夜らしい。それは昨晩のことだ。すでに翌日の夜になっている。何をためらっているのか。何もためらっていない。昨日と今日と明日では状況が違っているようだ。今は無理をしてはいけない。その程度では無理とは見なさないだろう。それはおかしな言いぐさだ。なぜそんな風に述べてしまうのか。語る対象が存在しない。たぶん馬鹿なのだろう。誰が馬鹿なのか。何を馬鹿にしているのか。物語的な展開に嫌気がさす。君は人を感動させるドラマが嫌いなのか。君は評論家が嫌いのようだ。それでも健康なのだろうか。健全な精神のはずがない。そしていつものように嘘をついている。病んでいるのはフィクションの中にうずくまっている人影の方だ。病んでいるのではなく、死んでいるのではないか。死人ならそこからどこへ向かうつもりなのだろうか。誰に足が生えているのか。目に見えているものが見えていない。心は想像上の概念のようだ。どこにあるわけでもなく、しかもそこにあるかのように語られる。語っているのは誰でもない。誰もそこにいないかのように語っている。だから誰が語っているのか。ようやく涼しくなってきたのに、やはり疲れているらしい。眠い原因はわかっているつもりだ。その眠気に助けられて、何をどう述べても、その内容は否定だらけになってしまうようだ。眠気が何を助けているとも思えないが、それでも助けられているのだろうか。言葉で何を描こうとしているわけでもない。描くのではなく、語ろうとしているらしい。期待は裏切られる運命にある。当てが外れて何も描けなくなる。何があるわけでもなく、何も見いだせないのは誰のせいでもありはしない。発作は今に始まったことではない。それらの喘息は嘘なのか。そんなふりをしているだけのようだ。意識は絶えず幻想にとらわれている。誰かはいつまでも意味のないことを述べているつもりのようだ。文章は相変わらずまともな内容を伴わない。そこからどのように言葉を連ねるべきなのか。だからといってそこから遠ざかりたいわけではない。遠ざかれないから何かを語ろうとしている。そんなことがあり得るだろうか。あり得ないから何も語れないわけか。君は話のあり得ない展開を模索し続ける。無理を承知であり得ない文章を構成しようとする。それが無理だとわかっているわけか。そんなのは嘘に決まっている。いったん前述を否定しなければその先へ進めない。それは何かのご都合主義だろうか。君は誰の都合でそこへ存在していることになっているのか。複雑な事情は何もない。ただ誰かが君という言葉を使っているに過ぎない。そしてそれが気に入らないらしく、盛んに誰かは君に関する疑念を抱く。なぜそこに存在しているのか、その存在理由を問い続け、いくら問うても答えが出てこないことは承知していながらも、なお執拗に問い続ける。要するに無理なことを語り続けているようだ。そんなことを述べて何になるのかもわからず、もういい加減にやめてしまってもかまわないのに、それでもそんなことを語り続けている。それはどういうことなのか。そういう問いに何の意味もありはしない。君はそこで問い続けなければならず、それを語り続けなければならない宿命にあるらしい。そんなのは嘘に決まっているだろうが、実際にそれをやめられないのだから、なぜそうなるのか、その理由を見いださなければならない。たとえそれが無理だとしても、そう問い続けなければならない。なぜいかにしてそれらの文章は生成されるのか。それを知りたいのだろうか。誰が知らなければならないのだろう。まだそれを探求する時間が残っているだろうか。なぜ探求しなければならないのか。理由など知らなくて当然の成り行きに思える。またつまらない内容に凝り固まっている。それが君の癖なのか。誰の癖であってもかまわない。そこに記されている言葉が君からもたらされているとは思わない。誰が君のことを述べているのか。時代も世界も君とは無関係に変化し続けている。つまらない言説に影響を受けながら、言葉が自然にねじ曲がり、他のどの言葉とも交わらずに分散し続けているらしい。


8月26日

 何とかしなければならないと思いながらも焦っているうちに、もう終わってしまったのだろうか。何を続けようとしているのか。言葉が続かなくなって、そこでおしまいとなる。そうではないと思いたい。誰かがつまらない妄想にとりつかれているようだ。そういう話はありふれている。しかしそのありふれている話の内容を導き出せない。そんな思いに至ってしまう原因は何なのか。原因など何もなく、そういう成り行きなのだから、それは仕方のないことだ。仕方がなければ何でもありだろう。自己嫌悪し陥ってしまいそうな展開だ。どこかに罠が張り巡らされているわけか。意味のない成り行きに嫌気がさす。それらの意味を知ろうとしないのは毎度のことだ。のどが渇いたので無味無臭の液体を飲み干す。缶コーヒーでは不満か。感じているのは何か残骸かもしれない。気分が乗ってきたときに、得体の知れぬ不安感が襲来する。はたしてそんなやり方でかまわないのか。風景はいつまでも動かない。君がそれを見ているわけではない。誰もついてこられないような速さだ。そこで何がうごめいているのだろうか。時の流れをつかみ損ねる。感覚が君の期待を裏切って、くだらぬ感慨をもたらす。ありふれた話に感動しているようだ。わざとらしく感嘆の声を上げる者まで野次馬として登場する。たぶん現実の話ではないのだろう。腐臭が漂っているのは現実ではない。ではなぜそこまで話を長引かせるのか。誰かがそれを待ち望んでいる。そうなることを受け入れるつもりなのか。そうなるとはどうなることになるのか。誰にもわかりようのないことを、わざとわからないように述べている。そんなやり方がどこで受け入れられるのか。誰に媚びているわけでもない。もう何が何だかわからない。パニック状態で何を語るつもりなのか。本当にそう思っているのだろうか。冗談交じりにつまらない言葉が循環しているだけだ。気持ちだけが先走っている。状況は決して甘くない。甘くなければ辛いのか。そういう話ではないだろう。君は何に気づかなければならないのか。彼の言動には裏がある。彼とは誰のことを指すのか。何かターゲットとなる人物でも探し当てたのだろうか。そんなはずがなく、彼とはどのような彼でもなく、彼は浅はかな功利主義に染まっているらしい。功利主義とは何なのか。君はそこで何を知り得る立場にあるというのか。すでに知っているはずだ。君は何もかも知っていて、それらの事情を承知している。そしてそういう劇的な展開には憤りを感じている。それが人の生きる道なのか。生きる道なのだろう。なぜ君はそれをわかろうとしないのだろう。わかっているからそんな気分になってしまうのか。たぶんそんな話ではない。まだ何も語っていないはずだ。ただつまらないことを述べている。演劇空間でリアリティを醸し出すのは無理なのだ。そう述べて誰の反発を誘っているわけではない。何を知らしめたいわけでもなく、知り得ないことをことさら知ろうとしているわけでもない。政治的駆け引きから妥協以外の何が生まれるわけでもない。そんなくだらぬ思いはとうに消え去って、今は夕闇の中で画面を見つめている。何も複雑なことを語ろうとしているわけではない。疑念を抱いている。なぜそうなってしまうのだろう。何かがずれている。そんなことしか述べられない。すべてが無効になってしまいそうだ。世界は誰を待っているわけではない。具体的に何がどうなっているのか。人々の行動にどんな意味をもたらそうとしているのか。世の中の役に立つようなことをやれば、それでいいのだろうか。そんな基準で行動しているわけではない。ただ闇雲に言葉を弄しているだけだ。それで何になるわけもなく、それだけでも無性に疲れてくる。君はそうやって日々の大半を過ごしているのだろうか。一日の半分は他の仕事に費やされているのではないか。そんなことを述べてもいいわけにもならない。何のいいわけでもないが、遅れの原因は怠惰にあるとしておこう。そして何とか遅れを取り戻しても、何がどうなるわけでもない。どうにもならない状態に変わりはなく、どのようなことを述べていたいわけでもない。とりあえず人は行動しなければならないようだ。無駄口ばかりたたいていても、状況はそのままだ。現状に何の変化ももたらせない。季節は秋に近づいているのだろうか。それとこれとは無関係かもしれないが、黙っていても状況は変化してしまう。意識はそれに対応し切れていないようだ。そんなわけで気分は最悪なのに涼しい。そんなことがあり得るだろうか。また嘘をついているのだろう。それでもまだ何も語っていないように思われる。まったくどうかしているらしい。どうにかなりそうなのではなく、すでにどうかしてしまったようだ。どうかしたついでにまともな物言いに近づいてくる。冷静な対応を期待しているのだろうか。酒とバラの日々とはどのような日々なのだろう。


8月25日

 たぶんそんな結末では気が済まないのだろう。何かがおかしい。それはいつものことだろう。おかしくなければ文章がおもしろくならないか。つまらなくてもかまわない。あっさり否定してどうするのか。何かが崩れ去ってしまったようだが、気づくのが遅すぎたらしい。くだらぬこだわりが崩壊状態を呈している。そんな言いぐさはないだろう。夏はどこへ行っても虫だらけだ。夏に関して記憶に残る映像はない。映像ではなく、実際に見た光景を思い出すべきだ。君は真実を知らない。それは真昼の残像か。それが真実なのだろうか。少なくともそれは事実ではない。そうやって気がつけば延々とわけのわからないことを述べている。それでも人は汗をかく。暑いから汗をかいている。体を動かせば発汗して当然か。行く手を蜘蛛の巣がふさぎ、足下をムカデが通り、頭をアシナガバチがかすめる。どうやら虫は疲れを知らないらしい。そんなはずはないだろう。君は嘘をついているのだろうか。異なる時空で体験した出来事がごちゃ混ぜになって表現されているようだ。カフェインの作用で神経が麻痺している。そんなはずもないだろう。日が傾く頃には目がかすんでいる。人の目に蛍光灯の光が反射する。何を驚いているのか。誰を驚かしているのだろうか。ようやく暑さも一段落したらしい。多くの人々はまるで機械のように働いている。そして言葉は労働から遠ざかる。それが無償の行為だといえるのだろうか。誰かが予期せぬ出来事にうろたえる。君には関係のないことだ。だが人が虫だとは思わないか。労働が君のすべてだとは思わない。どれほど働いたところで、死ぬほどの苦労ではないだろう。それほど窮地に陥っているわけではなく、本当はすべてを知っているのだと思う。神はすべてをお見通しか。神のことを述べているのではない。ならば人の末路は悲惨だろうか。誰が黙って死んでくれるわけではない。少なくとも死ぬまでは生きているらしい。とりあえずその場では誰も死にたいとは思わない。自殺する人はどうなのか。そんなのは論外もいいところか。自殺者だって死ぬまでは生きているはずだ。そんなことを述べて何になるのだろうか。生きていくのは面倒だが、死ぬほどの苦しみを背負っているわけではない。たまにはそんな人もいるのだろう。そこに至る成り行きに問題があるらしい。個人の思考には限界がある。目下のところは何も感じられない。時間がそうさせているらしい。状況が君を追い詰めている。知らず知らずのうちにそこへ追い詰められてしまう。追い詰められていった先には場所がない。そこはどこでもない。生きていくための余地がなくなってしまうわけだ。語りかける対象を知らない者に何を語らせるつもりなのか。君がすべてを知っているはずがない。何を否定しているのだろう。すべてを知っていることが気に入らないらしい。そんな成り行きが君を追い詰めているが、追い詰められた君は至って元気のようだ。余裕の笑みさえ浮かべている。たぶんそれは強がりややせ我慢とは違うのだろう。余裕があるはずがない。それが余裕でないとすると何なのか。何でもなく、ただそう言葉が記されているだけなのかもしれない。理由など導き出そうとは思わない。枯れ草の匂いをかいでいる。いったん寝ころぶと容易には起き上がれなくなる。人には分相応な対応が待っている。誰かが接待されているらしい。ただ闇雲に言葉をつなげている。聞き覚えのある曲が連なる。まだそこまで行っていないはずだ。どこにわかりやすさがあるのだろう。蜂に刺されたのは数週間前のことだ。いいわけを述べているわけではない。夜空にちりばめられた星々が輝き出すのは冬になってからだ。ただおかしい。おかしくて笑い出すほどではないが、とにかくおかしい。それは意志の力ではどうにもならないものかもしれない。無理なのだろうか。何が無理だと思っているのか。翌朝は空が曇っている。最悪の状態ではないが、飽きてしまったようだ。どうにかしたいらしい。やる気があるとは思えない。つまらない話のままだ。何らかの文法があるらしい。背景が固まっている。光の変化によって表情が異なる。なぜそこに美を見いだそうとするのだろう。時の移ろいについて行けない。知っているのはそれだけだろうか。力が足りない。天井から蜘蛛がぶら下がっている。急いでどこかへ隠れようとしている。それをどうしようと思っているわけではない。そんな場所で何ができるだろうか。蝶が舞い、鳥が飛ぶ。何が気に入らないのか。昨晩は何にうろたえていたのか。まだそこまで行っていないようだ。ニュースの中に非日常が潜んでいる。どこまでそれを信じられるのか。それを見つけられない。岩に刻まれた文字を解読しようとしているのではない。外を眺めている。言葉を失っている。そういう文章ではない。つまらない情勢を無視するわけにはいかない。何を傍観しなければならないのか。この世界には何が欠けているのだろう。すべてが欠けている。それはこの世界ではないのではないか。


8月24日

 蝉が鳴いている。禅寺の庭園を思い出す。空想をやめて現実の時空に戻らなければらない。それは違うと思う。気が変わったのかもしれない。昔のセンスを取り戻そうとしている。虚無を見限り、世界の積極的な肯定を望んでいる。誰にそれを託すつもりなのか。何も見えていないようだ。それを継続しなければならない。ふとした弾みで新しい言葉が並び出す。冗談にもほどがあるだろう。いくら冗談を使っても、皮肉には至りそうもない。限界を超えた地平に到達したわけだ。思いこみが激しい。くだらぬ妄想にならないように注意すべきだ。君はそれを知り得る立場に至った。知らないことを知っていると思いこみ、それについていい加減に語り始め、どこかで何かを見いだしているつもりらしい。それは予期せぬ出来事だ。何を予想していたわけでもない。現実を甘く見ていたのだ。しかし今さら焦っても仕方がない。そう思っているだけで、本当は焦っていないのかもしれない。何を否定してみても仕方がない。夜の闇はすべてを包み込み、心は孤独を楽しんでいる。すべてを拒否できるわけがない。だから虚無を受け入れているわけか。それは誰かの思惑通りの成り行きになっている。記しかけの言葉を削除しながら、何かを導き出そうとしている。果てしない相互批判の中から、心理的な偏見を取り除き、どのような意味も含まない言葉を構成したい。それの何を否定すればいいのか。何かに導かれながら、そんな文章が現れてしまう。君はその存在を認める。認めざるを得ないような立場にはない。そして容認すべき状況を知らない。ただ意味を解さないだけだ。本当の意味はわかっている。本当に理解しているのか。理解していなければ、それも意味不明な文章と見なされてしまい、それらのすべては無価値なものとなってしまうだろう。君の思惑は別のところにあるらしい。それ明らかにできない事情でもあるのか。思惑とは何だろう。夜の闇を引き裂けるわけもない。認めがたい言葉の連なりに文章としての装飾を施す。ただ句読点を適当に配置するだけだろう。それをできるとは思わない。自らの行為を不可能だと思う。すでにそう述べているではないか。日々新しい文章が生成されているのは冗談であり、それは過去の蒸し返しに過ぎない。嘘だと思うなら、読み返してみればいい。たぶん君は嘘だと思う。そんなことはないと現状をかたくなに否定する。君という人格はそこから生成したのだ。過去の蒸し返しの中から誰かの影が出現する。爽快な気分にはなれそうもなく、君はすぐに文章から離脱してしまう。見いだされた言葉の連なりをいつまでも否定し続ける。もう彼の顔も覚えていないはずだ。何かに気づいたとき、その瞬間は昨日の時間帯に属している。昨日のことは何も覚えていないはずだ。だからそこから遠ざからなければならなくなる。さらに言葉から遠ざかるために、過去の記憶を忘れ去らなければならない。それらの成り行きを信じてみようではないか。そこから時間を取り戻さなければならない。すべてが解決に向かうことを願っている。同時並行して様々な事件に巻き込まれているようだ。君には受け入れがたい成り行きになっている。知恵を絞らなければ何ももたらされないだろう。誰かは何ももたらされないことを願っていて、その誰かが君でないことを祈ろう。話が明らかに矛盾しているのではないか。何を求めているのか。どんな結果がもたらされるのか知らないが、それで行き詰まりから抜け出せるだろうか。君はすでに結果を知っているのかもしれない。誰かは確実に後数ヶ月でいなくなり、他の誰かとも縁が切れるだろう。だがそれで事件が解決するとは思えない。不幸の手紙の件はどうなったのだろうか。うまく立ち回ってそれを無効化しようとしている。後は時間の経過が解決してくれるはずだ。それで解決に至らなければどうなってしまうのか。たぶんどうにもならないのかもしれない。そんなことはどうでもいいことなのか。解決しなくてもかまわないのか。それらの何が解決といえるのかわからない。解決したと思っても、実際は何も解決していないのかもしれない。はたして思惑通りに事が運ぶことが解決といえるだろうか。案外そうでない方が好ましいのかもしれない。絶えず何かに苦しめられている方が気分的に楽なのかもしれない。それはどういう矛盾なのか。絶えず矛盾した心理状態でいたいのか。そんなことはあり得ない。君は強がって嘘をついている。その方が妥当な解釈になりそうだ。たぶんそうであってもかまわないのだろう。実態としてはどちらでもかまわない。嘘をついているなら、それを信じよう。自らが自らに嘘をついていると思っていればいい。そんなこともどうでもいいことだ。しかしそれでは元の木阿弥なのではないか。今までとは違うことを述べているつもりが、気がつけば疑問と回答とそれに対する拒否の繰り返しとなっていて、いつもの話に落ち着いてしまっている。たぶんそんな話の展開でもかまわないのかもしれない。


8月23日

 誰かが時代をかけて抜けて逝ったらしい。どこかの文章でそんなことが述べられていた。死ねば惜しいと思う。友愛には自己犠牲が伴うのか。足りない言葉は後から付け足せばいいのだろうか。それは誰の台詞に含まれるのか。わかっていることには興味がないが、わからないことはわからないままだろう。どこかに何かしら工夫が凝らされているようだが、それらの技術は現代では廃れてしまったらしい。語ることは技術なのだろうか。技術でなければ何なのか。その場で感じた疑念を利用して、当たり前のことを平然と述べられるだろうか。君はそこで何を主張しているのか。冗談で何を述べているわけではないが、何を述べても現実感が伴わないのはどういうことなのか。とりあえず馬鹿にならなければ突拍子もない行動には出られない。小心者は下手な小細工でその場の停滞を乗り切ろうとしている。だから緊張感が漂っているのだろうか。本気にならなければ誰からも認められないか。遊び半分で言葉を弄していれば、いつまでもくだらぬ水準にとどまっていられるわけか。それに飽き足らなければどうしたらいいわけか。戯れ言で満足すべき時間帯に、真剣に語りかけようとする者が現れる。その場の空気を読み取れていないようだ。しかし空気とは何だろう。以前にもそんなことを述べていた者がいたらしい。遠くから誰かを呼んでいる声がする。誰が呼んでいるわけでもなく、ただそよ風に乗って腐臭が漂ってきただけかもしれない。森の奥で殺人事件が起こり、首を切断された死体が推理小説の中で発見されたようだ。そんな語り方に欺瞞を感じて、誰かは気分を害しているらしい。どこまでもしらを切り続けるつもりか。嘘も千回繰り返せば真実になるだろうか。知らぬ存ぜぬは知っていることの証となるか。そこで何を特定したいわけでもなく、何もかも曖昧なままにして、なし崩し的に文章を継続させようとしている。それで何を説明していることになるのか。そこにはあたかも架空の文章があるかのように思われているのだろうか。文章はそれ自体しかないだろう。それ以外に何を知りたいのか。案外知っていることは他にもありそうだ。それは案外ではなく、知っていて当たり前のことかもしれない。探偵は容易には知り得ないことを知りたいらしいが、君は探偵ではなく、推理小説を読んでいるわけでもない。ではまだそれを知る時間が残っているだろうか。君の真意をつかみ切れていない。何もやらない時間ならいくらでもありそうだ。何かをやろうとすると、瞬く間に時が過ぎ去り、未来が駆け足でやってくる。気がつくとその未来も追い越して、意識は空想と妄想の領域へと迷い込む。誰かは粗雑な言語表現に呆れているらしい。どこまで耐えられるだろうか。心のどこかに灰色の領域があるのかもしれない。たぶんそれは何かをするための時間なのだろう。心を閉ざして他人を貶む。あり得ない結末に至りたい。ありもしない真実を告げる機会を探っている。それで少しは本気になれるだろうか。昔のことは忘れてしまった。それはいつの話になるのか。誰かの想像にまかせながら、何を想像しているかを知りたいわけではない。そこから遠ざかれないことが、それを知るのを妨げている。どこから何がもたらされているのでもなく、誰が何をもたらしたいわけでもない。それはどういうことでもなく、どのような状況がもたらされているわけでもない。できることなら、それを知りたいのだ。できもしないのにそう思っている。今から何をやろうとしているのか。どうでもいいような時間が残っているらしく、そこからどうでもいいような文章が生成されるわけだ。たぶん君はそれを打ち破りたいのだろう。それらの状況を打破しなければ何も述べられなくなる。そういう思いこみに基づいて今の君が文章上に構成されている。君はそれが気に入らない。雨空を引き裂いて日差しをもたらしたいのか。待てばいつかは晴れるだろう。なぜか適当に晴れてしまうわけだ。それが偶然の出来事だと思いたい。偶然に文章を記し、偶然につまらない出来事の到来を望んでいる。それから何をやろうとするのか。試みはすべて失敗に終わっているはずか。それらなそれで何ら困るところではないだろう。望まれていない結末も望むところではない。それはどういう心境なのか。ただ誤っているだけかもしれず、その意味を知ろうとしていない。またおかしなことを述べているようだ。意味のない文章が続いている。蛍光灯の光がまぶしすぎるのか。夜が明けようとしている。いつ寝ていつ起きたのかわからない毎日が続いている。そこから何がわかるのか。惰性の領域から言葉が発せられている。それをやめることはできないのだろう。遠くに人影が揺らめいている。それは空想のたぐいだろう。いつまでもつまらない思いを保持している。それは誰の言葉なのか。そこで継続をあきらめようとしている。無駄に言葉を弄しすぎか。


8月22日

 夜の闇から雨音が聞こえてくる。それは昨晩のことだろう。外灯に虫が集まっているようだが、何が目当てでもなさそうだ。光を目指して虫が集まってくる。人はなぜ行動するのか。様々な理由があり、また何の必然性もない場合もある。そして誰がその理由を知りたいわけでもなく、そこから何が導き出されるわけでもない。ただ何かしら行動を繰り返しているようだ。それらの行動はどんな思考に支配されているのか。理由がなければ思考もないか。考えるのが面倒くさいから行動しているのだろうか。そんなやり方でも生きてゆけるらしい。勘だけでうまくやっていることに自信を持っている輩も多いだろう。しかし勘には考えるという意味もあるらしい。ならば直感だけで生きていけるだろうか。直感でさえ無意識が瞬間的に状況判断を下しているのかもしれない。勘も直感も思考には属さないにせよ、考えていることには変わりないか。では考えることで何がわかるのだろう。自らが行動する理由でも考えているわけか。何となくそれを正当化したくなるらしい。君は社会の役に立つために生きているのではないのか。なぜそう思いこまなければならないのか。そう思わなければ疚しさでも感じるわけか。陰で何か後ろめたいことでもやっているのだろうか。そうだとすればそれを告白することによって物語を構成できるだろう。そんなやり方はありふれていて、やる気がしないだろうか。要するに行動しない理由がそこで生じているわけだ。だがそんな理由で楽しさを表現できるだろうか。何が楽しいのだろう。必ずしも楽しいか楽しくないかが行動の指針になるわけではない。なぜそんな言葉を並べたがるのか。社会は何らかのシステムを必要としている。国家は官僚機構を必要としている。それはどうしようもない成り行きのただ中で変遷し続けている。そんな形態を維持し続けている。政治家はどうすることもできない。ただ制度の中で操られ、どうでもいいような目標を自らに課せられた使命だと思いこむ。運命は誰に味方しているのか。誰がそれを利用しているのだろう。意見を一つに収斂させてはならないのか。意志を強めてはならないのだろう。矛盾や不具合をそのままにして、そこから何も構築すべきではない。怠惰にかぶれ、退屈な雰囲気を保持しようとしている。そこで何を放棄しているのか。あるいは何と何を揚棄しなければならないのか。複雑なものを単純化しても、そのすべてを捉えたことにはならない。行き詰まりの原因は知りすぎていることにあるわけか。何を知りすぎているのかわからないというのは嘘だろう。そこから何かを導き出さなければならないこともわかっているつもりか。知りすぎているジャンルは知ろうとしていることとは別の方向にあるらしい。知識と目的がマッチしていないわけか。それは専門的な知識を必要としているのだろうか。君はいったい何を知りたいのだろう。知り得ないことはいくらでもあるはずだ。知りたいのに知り得ないわけではない。何を知りたいのかわからないわけでもないだろう。ではなぜそこで途方に暮れてしまうのか。何も説明していないのではないか。説明を試みているわけではない。説明するには情報が足りなすぎるか。このままでは結局また何について述べているのでもないことになってしまいそうだ。だが本気でそんな嘘をついているのではない。語る対象を見いだせない。それは君が語ろうとしていることとは無関係だ。記された言葉が考えることにつながらず、思考を妨げているようだ。誰がそこで考えようとしているのだろう。何を考えているつもりなのか。なぜそのような言葉が連なってしまうのか。君は言葉から逃げていて、そのついでに現実からも逃げている。要するに何も説明できなくなっているわけか。いつか弾けると思っていたことが、すでに弾けてしまった後だと気づいてしまう。今は何かの残骸のただ中で結論とは無縁な思考を巡らせている。そしてそれでは何の説明にもなっていないのだろう。知らないうちに何もかもが終わってしまったのだろうか。それを導き出せないうちに、何の拠り所もなく、導き出そうとしていることがどうでもいいように思われ、いつまでもそんなことにこだわっていては、他に何もできなくなってしまうだろう。ただ時間を浪費しているだけのような気がしてくる。ではそのような思考から導き出された言葉のすべてが無駄で無効なものなのだろうか。いったい何について語っているのだろう。何ももたらされてないわけでもないだろう。中身のない文章がもたらされている。ただ言葉だけが連なり、誰の興味も引かないような無内容が連続していて、そんな言葉の連なりに嫌気がさしているわけか。それがいやなら何か利いた風なことを述べなければならないのだろうか。他に何を述べられるというのか。ただそこから遠ざかりたい一心でそんなことを述べ続けているのがそこでの現状に違いない。何から遠ざかろうとしているのだろう。誰かはどのような現状のただ中に生息しているのか。


8月21日

 なぜか継続が滞っているらしい。それを拒む心が文章中に現れている。状況がそれを許すとしても、いくらでも言葉をつなげられるわけではない。それらの手法には限界がある。そこまで根気が続かないだろう。根気が続かなくても文章は続いてしまうようだが、言葉を発するタイミングを逸していることは確かなようだ。誰かはただ無言で文字を記し続けているだけか。そこからどこへ向かおうとしているのだろう。どこへも向かわずにそこへとどまっているだけか。何もない場所で何も思わない日々が続いているらしい。それが架空の誰かに関して述べている内容なのか。誰かが君のことを空想しているようだが、その誰かが君でないことは明らかだ。それらのどこにも君に関する出来事が含まれていない。君は言葉以外に何もない文章の中で何を思考できるだろう。誰かの存在を想像できない。誰かはいつまで経っても誰でもなく、君以外の誰かを導き出すことはできない。それでも時間的に間に合わせようとしているらしく、さらに適当な無内容を記しているらしい。無理なことはわかっているはずだ。無理でなければそんな風には語らないだろう。誰が病魔と闘っているのか。そんな話ではない。そうでなければどんな話にもなりはしない。どこまで述べても何も語れなくなってしまう。それはどういうことなのか。単なる文法的な誤りか。そうでなければ本気で述べていることなのだろうか。どこにきっかけが待ち受けているのだろう。誰も何も待っていてはくれないのかもしれず、待ちぼうけどころか完全に無視されているのかもしれない。状況はさらに悪化しているわけか。そうでなければ何かしら内容を導き出せるはずだ。それが勘違いの始まりなのだろうか。他の誰が何をしてくれるわけでもなく、自らも何もできないのだから、そこはいつまでも空虚な場になっている。それで満足すべきなのだろうか。やはりその辺が限界のようだ。すべての可能性が遠のいているように思われる。どうにもならないとはそういうことなのか。それでもどうにかしようとしているのだから、ますますわけがわからなくなるのも当然のことかもしれない。空虚を空虚であるように語ることの何が不毛なのだろうか。荒野では言葉が自然に負けているということか。それらの何をはっきりさせているわけではなく、状況を言葉で表現し切れていないだけなのかも知れず、そんな現状に不満を抱きながらも、たぶんそこから違う文章を導き出そうと試行錯誤をやっている最中なのか。しかし結果として何が導き出されているわけでもなく、そこからどのような展望は開けているわけでもない。ただそれをひたすら繰り返しているだけのようだ。要するにさらに無理な状況を招いているということか。それは自業自得なのだろうか。たぶんそうに違いないのだろうが、今さらそれを改めることはできない。改められないのだから、そのままひたすら空疎な内容を続けていくしかないのだろう。それで誰が困るというのか。君は困っていないのだろうか。困りようがない状況の中に君という言葉が記されている。どうやら君は困ることのできない立場にあるらしく、文章上では飽きもせず君という言葉が連呼されているわけか。誰がそれを呼んでいるのか。あるいは呼びもされていないのに勝手に君が出現してしまうわけか。そんなことはどうでもいいことか。君にとっては文章上にいくら君という言葉が記されていようと、君自身には直接関係のないことかもしれず、君が君である可能性など知ったことではないか。なぜかそう述べていると眠気が襲ってくる。もうそれらの文章には飽きたという徴だろうか。その兆しは遙か昔から感じられていたかもしれず、それがようやく今になって顕在化していたわけではなく、文章を記し始めていた頃からすでにそれがつまらないものだとわかっていたのかもしれない。そしてそんなことをいくらやっても無駄だということもあらかじめ承知していたのではなかったか。そんな昔のことはとうに忘れてしまったようだが、いつも本気にはなれないということも、そこから説明がつくだろうか。説明したところで何になるのか。さらにどうでもいいようなことを述べているようで、それについていかなる正当化もできないような内容になりつつある。なぜそうなってしまうのだろう。理由など分かり切ったことかもしれないが、それをあえて無視してそんなことを述べているのだから、それはそれで了解済みの無内容なのだろう。今の君にどうしろというのか。どうやってやめさせることができるだろうか。誰がそれをやめさせようとしているのか。君には何も心当たりはなく、誰の行為をやめさせるためにそんな文章が記されているのでもありはしない。そういうことではないだろう。確かにそういうことではないのかもしれないが、ならばどういうことかといわれても、どういうことでもありもしないとしか述べようがない。


8月20日

 なぜそこまでやってしまうのか。そこまでやらなければ何も導き出せないのだとしたら、通常の精神状態では何も出てこないということか。確かにそこには何もありはしない。いくら焦ってみても何も出てこない。何も出てこなければさらに焦りが深まり、君はそこで立ち往生していることに絶望してしまうか。それほど大げさなことでもないだろう。それほど焦っているわけでもなく、精神的に深刻な鬱状態になっているわけでもない。もう何もかもあきらめの境地に至っているのかもしれない。そしてそんな風にして文章を続けることに嫌悪感を抱いている。戯れ言の積み重なりの中から何か気の利いた内容を探し出せるだろうか。そんなものを求めているわけではない。誰が反論を繰り返しているのか。それは誰でもなく、何となく文章のつながりを保とうとすると、そんなことを述べなければならなくなるだけか。それで何を述べていることにもならないのかもしれないが、君には君独自のやり方があって当然か。そういう話ではないだろう。しかし何が独自のやり方なのか。たぶんそれらの文章には終わりも始まりもない。そしてそういういい加減さに嫌悪感を抱いているのは君ではないらしい。君であってもかまわないか。他に誰が該当するというのか。ただそう語られているだけで、何を記しているのかもわからないのに、君はそこで誰のことを述べようとしているのだろうか。またいつもの誰でもない誰かになってしまうわけか。たぶんそれはいつもながらの泥縄式なのだろう。要するに現状ではそんなことしか述べられない。それで何か不都合でも生じているわけか。開き直ってどうするのだろう。ならば君はそれでかまわないと思っているのだろうか。それは何に対する疑念なのか。そんなことはわからなくてもかまわない。しかし何もわかっていないのに先を急いでどうするのか。何もない現状を説明して何になるのか。何かを利用しなければそこから前へは進めそうもなく、日付的な遅れを解消できず、またその先で適当に行き詰まってしまうだろう。現状はもはや見え透いた嘘ではどうにもならない状況だろうか。それを知るために君が何を試みようとしているのか知らないが、安易な方法は慎むべきだ。気を抜けばまた馬鹿げた思いにとらわれているらしい。昨日から指先が痛む。呪詛とは何だろう。誰が呪いをかけられているのか。同じような言葉が連ねられ、同じような文章が続いている。君の困惑とは裏腹に誰かがそれらの文章を記し続ける。それが言葉の力なのか。言葉ではないと思いたい。誰がそう思いたいのか知らないが、雰囲気にだまされている。その場はどのような雰囲気に包まれているのだろうか。言葉が真実の出現を不可能にしている。すぐに疑念の表明に導かれてしまい、気がつけばそればかりが繰り返される。そんな不毛なやり方がが許されているうちは、まともな内容を獲得できそうもない。何がまともなのかもわからないままに、かなり現状からずれたことを述べ続けているようだ。それが真実でないとすると立ち現れているのは何なのか。困惑と当惑の違いを説明する気はない。どうしたらいいのか。君は何を見つめているのだろう。タイミングを計っている。ただそのタイミングで言葉を繰り出すのは的外れになるだろう。それがおもしろいらしい。たぶん水を飲みすぎているのだろう。今はそれとは無関係な文章を構成したい。そこに誰のねらいがあるのだろうか。何をねらって言葉を繰り出しているのか。少なくとも吐き気を催すような雰囲気ではない。誰を恨んでいるわけでもなく、恨みを買っているとは思えない。そう述べて誰を責めているわけでもない。言葉に惑わされている。タイミングを読み違えている。それでかまわないのだろうか。それしかできないのだから、そう述べてしまうのは仕方のないことだ。たぶん君には何か魂胆があって、それでわざと窮地に陥っている風を装っているのだろう。本当に絶体絶命のピンチなのかもしれない。何が絶体絶命なのかわからない。君はもうすぐ死んでしまうわけか。その兆候を感じ取っているのか。しかし誰が君と呼ばれる人格を有しているのか。それは人格ではなく、君という言葉それ自身だ。そしてその辺でわけがわからなくなる。そこで展開されている話の内容を知り得ない。だからさらにこんがらがってしまいそうになる。そこで待つべきなのか、それともさらに違うことを述べてしまうべきなのか。だがそれは君の言葉ではない。自信がないのかもしれない。そのまま続けてしまっていいのだろうか。誰がそこで悩んでいるのか。それは苦悩するほどの悩みではない。はたして悩むことは楽しいのだろうか。たぶん不満のはけ口を提供しているわけではないのだろう。そして幻想を世の中に広めようとしているわけでもなく、娯楽の一部となることに抗っているのかもしれないが、何の感慨ももたらせないような内容を構成したいわけではない。しかし感慨とは何なのか。そこで言葉の用法を間違えているだろうか。君はそこで何を考えているのか。大事なことを忘れていないか。それは何なのか。


8月19日

 なぜそれを理解できないのか。つまらない事実に言葉が対応できない。だがわけがわからないというのは嘘だろう。それについて考えているうちに、何となくまた日が暮れて、そんな気分をどうすることもできないままに、また翌日になってしまったらしい。何が揺らいでいるのか。それが自信が揺らいでいると表現できない。余裕がありすぎて何も思いつかないのか。そうではないだろう。そんなことを述べていると、今日も戯れ言の連発になってしまう。だがそれは昨日の気分の続きだろう。そんな気分を記しているうちに言葉が水増しされ、無駄で意味不明な文章がいくらでも積み上がる。どこに積み上がっているのかというと、それは架空の場所に違いない。そしてそこから妄想が生じ、見たこともない風景のただ中に出口があると思いこむ。フィクションの中では誰かがそう思っているのだろうが、君が思うのは無理なのだろうか。そう思いこんでどこへ至りたいのか。そこへたどり着くにはどうしたらいいのだろう。そこがどこだかわからないのに、なぜそこを目指さなければならないのか。本当に出口がそこにあるのだろうか。きみはその架空の出口から先を目指しているわけか。それが目指すべきものではないことはわかっているはずだ。なぜわかっていると述べなければならないのか。たぶん気がつけば出口から外へ出てしまっているのかもしれず、出口とはそこから出なければ出口だと認識できないのかもしれない。しかしそれがどうしたというのだろう。つまらない話にはまって何を真に受けているのか。現実にそう記しているのだから、真に受けざるを得ないか。しかしそれは何の出口なのだろう。君はどこから出てどこへ至りたいのだろうか。それがわかれば苦労はしないのかもしれないが、わからなければ何を述べているのかもわからないだろう。君はそれをわかろうとしていない。君には現実に対する理解が欠けている。見聞し体験しているそれらの何が現実で何が妄想なのか区別できずにいるらしい。妄想も現実もいっしょくたになって君の経験を構成しているらしい。それでも君は君自身を取り巻いている文明のただ中で思考しているといえるのか。文明とは何だろう。それは永続するものなのか。文明がやがて途切れることを考慮に入れるべきだろうか。そうだとすれば君はやがて消えてなくなるものに心を奪われている。心とは何だろう。それが何らかの限界を構成しているらしい。つまらない仕事から何かが生まれ、それがこれから君の行く手を遮ることになるのかもしれず、たぶんそのおかげで命拾いをするはずだ。それは何かの予言なのか。予言とは何だろう。無駄な語りからありもしない未来が空想される。その空想される未来にどれほど心は関われるのか。心が関わる必要はないか。そこで何かがはじけ、はじけ飛んだ先に言葉がもたらされる。その言葉の意味を知りたい。言葉の背後から響いている音楽は何でもかまわない。奏でられているのは音楽ではないのかもしれない。それが音楽でないとしたら、言葉はどこからもたらされるのか。言葉と音楽とはいかなる関係にあるのだろう。いい加減なことを述べているようだ。文章の中では意味を定められずにいるようだ。誰が文章の中から呼びかけているのか。それが出口につながるとは思えない。架空の登場人物はそこから出ようとしているとは思えない。君はそこから出られない。君の勘違いはそこから生じている。君は簡単に理解できることを感知できず、浅はかな質問を次から次へと無駄に並べ立てる。まるで考えるという動作を知らないようだ。だからそこで停滞しているのか。落ち着いて考えを巡らせば自ずから答えが導き出されるはずだ。本気でそんなことを思っているのか。本当はそういう話ではないのかもしれない。考えていることはそれとは別問題になりそうだ。何が問題とも思えず、そこで何かが消え去ろうとしている。それは君が考えていることではない。君は何も思いつかず、疲れて寝て、また翌朝に起きて、そこから遠ざかれていないことに気づく。夏の日差しは体力を消耗し、気持ちを萎えさせるのだろうか。汗だくになりながら、気まぐれに何を述べているのだろう。それが仮想空間からもたらされた状況なのか。何を見つけ出したと思いこみたいのか。何ももたらさせないことがはっきりしてきたのかもしれない。とりあえず君が何かをもたらさなければならないようだが、何を考えることもできない。何も考えられない。それでも何かを考えている風を装いたい。そこから何かが出現するらしい。それはごまかしの一種だろうか。あるいは意味のない言葉の連なりなのか。そうだとしたら幻滅してしまうか。誰が幻滅する必要があるだろう。もとからくだらぬ夢を追い求めているわけではない。そこへとどまる必然性はないはずだ。それでもまだ夏は終わらないのか。なぜ暑くもないのに暑いと感じるのだろう。君がそう思っているわけではなく、誰が何を思っているわけでもなく、それは文章に記されていることに過ぎない。


8月18日

 自己言及について君は何を知っているのか。別にそんなことを述べたいわけではない。言葉が一つの連続した文章にまとまろうとせず、誰かがそれらの分散にいらだっているようだ。まともなことを何も述べられないことからくるいらだちをどうすることもできず、苦し紛れに何かを探しているようだが、洞察力が欠けている。分散力は洞察力とは無関係なのか。誰かに備わっているかもしれない洞察力と、それとは関係ないだろう。わざと言葉を分散させているわけではなく、自然とそんな具合になってしまうように装っていることが、わざとそうしているように思われてしまうのかもしれないが、それは誤りでも正解でもない。冗談でそんな風に述べていることについて、少なくとも誰かに何らかの誤解を生じさせているのかもしれないが、たぶん何かを探しているというのは嘘だろう。探している主体を定められないのか。意味が通らないらしく、それを否定すればそれだけ言葉が余分に連なるが、それでも君は自らの敗北を認めようとしない。何に負けているのか理解できず、それを認めるには違和感があるらしい。しかし違和感とは何なのか。その場で思いついた即興のでまかせか。とりあえずそれ以外に何も思いつかないようだが、そこには何が残っているわけではなく、それが空虚だとは思いたくないらしい。空虚でなければ冗談の一種だろう。そしてそんなのはでたらめの当てずっぽうに違いない。ではそれは何のための努力なのか。誰がそれらのごまかしを認めてくれるのだろうか。君はそこで何を感じ取っているのか。それは断じて破滅の予感ではないはずか。そういう大げさな気配は誰にも感じ取れない。だから予言者気取りの詐欺師たちは年がら年中大衆に向かって危機感をあおっている。何かが起こったときに自分たちの予言が当たったと喧伝しまくるためには、年がら年中近い将来に未曾有の危機が訪れるとオオカミ少年のごとき警鐘を繰り返していなければならない。それも何かの作り話なのだろうか。君にはそれを語る義務でもあるのか。まだ何も語っていないと思いこみたいのなら、それらの言葉はどこから生じてきたのだろうか。そこから何を導き出そうとしているのか。虚無以外は何も出てこないか。言葉の意味を感じ取れずにいるらしい。いったい何を述べているのだろう。君は誰の言説を真に受けているのか。それが抽象的な物言いだとは思えない。どうも遙か遠くから何らかの言語作用が微弱な力を及ぼしているらしく、だからその場では何も気づかない。物質的な存在感を感じられないのだ。君が何について語っているのかわからない。誰がわからないと感じているのかもわからない。どうやらその辺でそれらの文章は破綻を来しているようだ。だからおもしろいのだろうか。何がおもしろいと思われるのか。内容がないのにおもしろいも何もあり得ないか。そうだとしてもおもしろいと感じられるなら、それは嘘に違いないか。あるいはそれらの破綻具合が、何か興味深い兆候でも示しているのだろうか。そう述べることに誰の意図も感じられない。これから何をやろうとしているのかわからない。たぶん言葉を弄して文章を記そうとしているのだろう。すでに何かしら言葉を連ねている。それがそこでの現状なのかもしれないが、ところで現状とは何だろう。それはいつの現状なのか。過去の現状はすでに現状ではないか。ただ無駄に言葉を弄していることに何か理由を付け加えるとすれば、それは避けなければならない状況だろうか。理由になっていないような気がする。理由を導き出せないわけか。安易な言説の出現に理由などあるはずがない。別に理由を探しているわけではなく、理由になりうるような言説を導き出せないだけか。それは君の言葉ではなく、誰の言葉でもなく、誰かの言葉でもない。要するに何も示されはしないのだ。それがその場を浸食している虚無の正体か。虚無は虚無であり、虚無に正体があるわけではない。それが真実を示すわけもなく、ただの言葉であり、言葉でさえないのかもしれず、どこにも至らないような感情の断片に過ぎない。しかしその感情が何を表しているわけでもなく、それが言葉として文章の中に示されているわけでもない。相変わらず君は何も述べようとせず、ただ言葉だけが適当に連なろうとする。そこに何があるわけでもない。それも嘘か。たぶんそう思いたいのだろう。分不相応な待遇に嫌気がさしているのか。誰がそんな状況にあるとも思えない。願っているのは人ではないのかもしれない。この世界がどうなることをそこで願っているのか。平和への願いがどこに届けば満足するのだろう。天空のどこかで瞬いている星座を構成する星々に何が届こうとしているのか。それは人の願いではない。永遠に何を託しているとも思えない。ただ君にはそれが理解できない。理解できないような内容となっている。


8月17日

 誰かは試しに地面を傾けてみる。そんな文章表現はあり得ないか。でたらめな旋律に寄りかかりながら、気分転換にろくでもない妄想を抱いているつもりになる。それは君の動作ではない。なぜそこで引き下がるのか。妥協するタイミングを心得ているわけではない。君には妥協する余地がない。そう思うのは何かの勘違いかもしれないが、とりあえず今はそう思っていて差し支えないのかもしれない。どうせこれから何ができるわけでもない。何もできないから言葉を連ねているわけか。誰かがそう思いたいだけか。誰もそんなことを思っているわけではなく、何を思っているわけでもない。そんなはずはないと思いたいところだが、誰が個人の信仰をもてあそんでいるのだろう。何を信じているのか。誰かが何かを信じていることを貶してもかまわないのか。それで楽しければかまわないのかもしれないが、やり過ぎは思わぬとばっちりを食らうだろう。しかしそれは結局何の話にもつながらず、意味不明のまま忘れ去られてしまうような成り行きになるだろう。要するに何の話をしているのでもなく、ただ適当に言葉を並べているに過ぎない。君は切羽詰まって時間的に追い込まれなければ、まともな内容を文章としてもたらせないようだ。今はただ弛緩しきっている。考えることを放棄している。迷路から出ようとしていない。そしてそれらすべては嘘のような気がする。本当に何を述べているのでもないのだろうか。それで誰に貸しを作っているつもりなのか。思いとは裏腹に何をやろうとしているのか。たぶんそれも嘘に違いない。わざと間違った言葉を選んでいる。そう思いたいのならそれでもかまわないか。そこからどう立ち直ろうとしているのか。立ち直るつもりはないのかもしれず、誰かはいつまでも心の底で劣等感を抱いているらしい。そこからどんな物語を構成できるだろうか。夢はそこに貼りつかない。だが誰かの夢に接着剤が必要だとは思えない。だからしばらく物陰から様子見をしているわけか。そんな話の展開は意味不明だ。しかしそれが誰かの望むところなら、そこから君は何をやるつもりなのか。何とか狭い出口を押し広げて、どこか得体の知れぬ大地へ歩み出そうとしている。まだ始まったばかりだろう。虚無はいつでも襲来するだろう。誰に襲いかかるわけでもなく、君という言葉を蝕み続け、言葉の意味とは相容れないような文章を構成しようとする。それは誰のねらいでもあり得ず、無意識でさえ関与できぬほどの無関係を形成しようとしている。君はすでに用済みとなっているわけか。そのような成り行きではそうならざるを得ないが、別の時空では、誰かがまた性懲りもなく君という言葉を使って意味不明な文章を構成しようとしている。君が不滅であるわけがないが、君という言葉を使いたくなるような環境が、どこかに生じているのかもしれず、誰かはその裏をかいて君を亡き者にしようと試みているようだが、それらの文章はどこまで言葉を並べていっても物語には結実せず、気がつけばまた君という言葉に寄りかかって、どうでもいいような言葉を連ねている現状があるらしい。それはどうしようもない癖のようなものかもしれず、それ抜きには何も成立できないような特異点を形成しているのだろうか。だがその誰かとは断じて神のことではないか。何を想像していようと、そんな貧しい想像から神が生まれるはずがなく、神について何を述べようとしているのでもない。では君が神なのか。そう考えても一向に差し支えないが、それではすべてが嘘になってしまうかもしれない。文章の内容がフィクションならそれでもかまわないか。かまうかまわないの問題ではなく、どのような問題も含みはしない。ただそこから遠ざかるためにわけのわからない言葉を弄しているに過ぎず、そんな嘘からその先に言葉を連ねるきっかけを探っているらしい。要するに出口の先にはさらなる意味不明が待ちかまえているということか。そんなことを述べて何になるのか。その問いに対する答えはどこにもありはせず、問い自体がどうでもいいことかもしれず、何を問う必然性もありはしないのだ。本当にそうであったなら、その先の先には何が待ちかまえているわけか。今はそんなことを気にかけている場合ではないのではないか。他人を馬鹿にしている暇があったら、自己卑下を繰り返す癖を改めなければならない。だがそれでは文章がつながらないだろう。気がつけばがらくたのような文章ができあがっていて、そんな現状に嫌気がさした君は、そこからさらに遠ざかろうと試みるのだろう。無駄に言葉を弄して、さらに込み入った内容を求めて、自らが迷うための迷路を構築し続け、それらの迂回を通して、終わりのない世界を鑑賞しているつもりになる。そんなものが芸術であるわけはなく、芸術に感動するための神経回路を持ち合わせていないことに気づいたふりをする。たぶんそれでも何を述べていることにもならないのだろう。


8月16日

 それで何がわかるというのか。何もわからなければ誰が満足するのだろう。誰も満足しなければ何がわかるのだろうか。たぶん誰もがその件については無関心になる。無関心になればすべては忘れ去られるだろう。忘れがたい風景もついでに忘れ去られる。そんな風にして時代は移り変わり、人も死んで生まれてきて、総入れ替えといかないまでも、確実に伝統が衰退する。言葉など人が使わなければすぐに消えてしまう。そんなことにこだわっていればすぐに時代遅れとなってしまうだろうか。それでもかまわないのなら、そこから遠く離れようとしなくてもかまわないだろう。無理に離れる必要はないか。離れたくなければとどまっていればいい。いつまでもとどまり続け、やがて石像のごとき固まった心身を手に入れることができるだろう。しかし心身が固まってしまったらどうなるのか。そこでフィクションが終わり、その先に言葉をつなげなくなってしまうか。そんな心配は無用で、君が語れなくても、他の誰かが何かしら適当に語ってくれるだろう。言葉の継続はいつも他人まかせであり、そこから何が生じてこようと、それは君とは無関係なことだ。そんなことを述べてしまってかまわないのか。別に誰のことを述べているわけでもなく、誰の心配をしているわけでもなく、何を見据えて言葉を繰り出しているわけでもない。そこには君のあずかり知らぬ真実が隠されているかもしれないが、その真実によって誰が傷つくわけでもない。案外それは誰とも関係のないことかもしれず、この世に存在しているすべての人々の心をすり抜けて、未来に出現するだろう誰かに宛てて発せられた言葉かもしれない。だから今の君には関係のない言葉なのか。だがそれでは君の存在はまったくの無用ではないか。君が存在しているとすれば、未来に出現するだろう誰かの不在が明らかになるわけでもない。君と誰かには接点がなく、何を交わすこともなく、ただ別々の時空に存在しているに過ぎない。それでは話にならない。話にならないから物語も不在となり、誰についての身の上話も不必要になるだろう。そんな案配で話を続けられるだろうか。何となくそれでかまわないと思うのはどういうわけなのか。理由を求めているのは誰なのか。そこに誰かが存在する理由など見当たらない。君が述べようとすることも皆目見当がつかない。だがそれですべてが白紙状態というわけではなく、相変わらずそこにはどうでもいいような言葉が記されていて、それを読みながら眠気を覚える精神も想定できるだろう。君はそこにとどまる必然性を感じないはずだ。だからそこから遠ざかろうとして、必死にもがいているふりをして、そこではふりが余分な言葉に違いないが、どうしても必死さを真に受けることはできないので、やはりそこではふりをしていると述べなければならない。それで本気モードから離脱して、かろうじて正気を保つことができる。しかしその時点でも正気とは何なのか。それは気が狂う一歩手前の正気だろうか。そこから正気を保ち続けられるとは到底思えないのだが、では正気と保ち続けるにはどうしたらいいのか。そのつもりもないのにそんなことを問いかけていいのだろうか。いったい誰に向かって問いかけているのか。そこにいるのは資本主義の狂気に魅せられた野蛮人のたぐいではないのか。それを肯定していること自体、気が狂っている証拠か。たぶんこの時代で気が狂っている人々は、きわめて常識的な精神の持ち主なのかもしれず、別の時代では正気の沙汰でないことを必死になってやっている人々なのだろう。わけのわからない仕事に従事している人が多すぎて、それらのすべてについて満足のいく言説を用意するには、まったく概念も言葉も足りていない。全世界にわたる経済的な不均衡は、金の流れに人がついて行けなくしていることが主な原因なのかもしれない。一方では単純労働によって単純に金を得ることしか行われず、それとはまったく異なるもう一方の側では、金をぐるぐる回し続けることによって雪だるま式に資産価値を増大させて、天文学的な数字に短時間でたどり着いてしまうわけだ。単純労働を強いられている側では相対的に貧乏になり、錬金術にいそしんでいる側から貧困を押しつけられるはめになる。それは克服しがたい格差を生み、虐げられている者たちの不満は鬱積し、もはやテロに訴えるしかやり場がなくなってしまうだろうか。もちろんそれもほんの一握りの者たちで、大半の者たちは、ただ黙って普通に生きてゆくことしかできないだろう。それでも生きていけるうちは渋々実りの少ない仕事に従事していくしかないだろう。夢を見たければ勝手に見ればいい。競争に勝ち抜いた一握りの者たちがそれを実現させるだけだ。その他大勢の者たちはその成功物語を見せつけられながら、黙って暮らすしかあり得ない。それでも幸せを感じられたらしめたものか。


8月15日

 何もわからないのに何をわかろうとしているのか。一難去ってまた一難という展開だと思っているのだろうか。まあなるようにしかならないのだろうから、それはそれで願ったり叶ったりだとうそぶいていれば気が済むことかもしれないが、それでは言葉の用法としてニュアンスが少しずれているだろうか。そんなことはこの際どうでもいいことで、そこで感じられる曖昧な雰囲気とはまったく関係のないことかもしれないが、この際とはどの際なのかわからない。そんな風に述べながらも、またどんどん話がずれていってしまうらしいが、そこで君はどんなきっかけをつかんだのか。まだ死ぬには早すぎるか。そういうことではないだろう。死ぬのなんのとうそぶいているうちは、そんなことはどうでもいいことに過ぎない。本当に死にたいわけではなく、真に絶望のどん底にいるわけでもない。ただ暇つぶしにそう述べているだけで、それを真に受ける者の出現期待しているわけでもなく、そこで連ねられているほとんどの言葉は戯れ言の領域で組み合わさり、どうでもいいような文章を形成しているのかもしれない。君の心は靖国神社などには興味を示さないのか。総理大臣が神社に行くだけのことが大がかりなイベントと化している事態について、何も感じるところではないが、その神社に祀られている英霊とかにどんな価値があるというのか。そこでは死者が物言う存在となっているわけか。神社に行って不戦の誓いを立てるとかいっている総理大臣は、本気でそんなことを思っているのだろうか。戦わずして参拝に反対しているマスメディアと戦っているつもりなのだろうか。君には理解できないような内容になりつつあるらしい。到底理解しようとも思わないが、伊勢神宮だの靖国神社に参拝すること自体、何らかのパフォーマンスには違いないのだろうが、そこにはそれらの寺社勢力を擁する圧力団体の存在でもあるのだろう。そしてそれらの圧力団体の機嫌を損ねないためにも、とりあえずは参拝しておかなければならないわけか。近隣諸国の反対を押し切ってまで参拝しなければならないということは、要するにそれらの宗教勢力がこの国の政治に少なからず影響を及ぼしているということか。宗教団体の圧力に屈しているようでは、政教分離の大原則も形骸化して久しいのかもしれないが、憲法でまで規定されている天皇制自体が宗教の一種なのだから、この国は昔から宗教国家なのだろう。数十年前の戦没者を慰霊する形骸化した儀式と、現実の社会で生じている諸問題がいっしょくたに論じられているのだから、それを真に受ける人々は悲惨なほど愚かしい。本当に頭がどうかしているのではないだろうか。それらの何もかもが幻想で片付けられるわけではないが、総理大臣が神社に参拝したぐらいで大騒ぎするような状況はどうにかしなければいけないのかもしれない。現状ではできるわけもなさそうだが、そんな特殊な神社は早急に解体してしまった方がいいだろう。英霊などという存在が価値を持ち、それについてまじめに語られなければ済まないような状況はかなりおかしい。死者はどこまでも死者であり、いつまで経っても忘れてはならないような死者は現世に災いをもたらす死者である。それは現世に生きる人々に頸木を課す存在に他ならない。死者を弔う儀式を正当化しようとする者たちは、早晩呪術師のたぐいになるだろう。人々が無関心に傾かないように、必死になって死者へ振り向かせようとして、メディアを駆使して慰霊の風景を繰り返し見せつける。たぶんそれも形骸化した儀式の一部に過ぎないが、そのような風景がその時期になると氾濫していることに勇気づけられ、自らやその属している組織が世の中に何らかの影響を及ぼしていると思いこみ、そこから自己満足を得るのだろうか。要するにそれもコマーシャルの一種なのだ。慰霊のための施設を運営するには、有名人が参拝してくれればそれだけ宣伝効果も大きいというわけだ。周辺諸国の反対を押し切ってまで、国を代表する総理大臣が参拝してくれるのだから、それだけ靖国神社は重要な存在ということになる。明らかに他のあまたの神社よりはランクが上である。それは伊勢神宮にも匹敵する重要度だろうか。他から一目置かれるような存在なのだから、それだけ人も金も集まるだろうし、施設の維持運営もうまくいくことは間違いない。そういう点では神社も資本主義に染まっていて、それも何らかの商売なのだろうし、そこに祀られている英霊たちも神社にとっては商売道具の一種に違いない。何しろそれらの英霊たちの遺族たちが参拝することによって莫大な金が入るだろう。いったいそこには何人の英霊が祀られているのか。そんなわけで靖国神社はそこに祀られている神の数だけ儲かる神社なのかもしれない。しかし死人で商売していること自体、葬儀屋とどこが違うのか。


8月14日

 わかろうとしていないのかもしれない。君にはわからない。君はそれを肯定できないだろう。信じていることは何もない。すべてを信じられなくなってきた。だがその程度のことなのか。その程度で転向できるだろうか。唐突にわけのわからないことを述べているようだが、きっかけはそのうち向こうからやってくる。それが何のきっかけなのか知らないが、とりあえずきっかけさえあれば後はどうにでもなると思いこんでいるようだ。たぶんそれは何をやるためのきっかけでもないのだろう。だが言葉としてはそれでいいのかもしれない。意味不明なら何とでも受け取ることが可能だ。しかしそれで何を受け取っているわけでもない。何も受け取らずに言葉を受け流す。それで文章を構成できたらそんなに楽なことはない。すでに何を述べているのか忘れている。それでかまわないなら何でもありに違いない。何でもありなら何をどうしようと君の勝手か。誰の勝手で何をどう述べているわけでもなく、どうにも述べられないから文章が意味不明になる。だがことさらに意味を求めているのではない。どんな意味がもたらされようとそんなことはどうでもいいことか。ではどうでもいいのに何を述べているのか。何かしら適当なことを述べているのだろう。もちろんそれでいいはずがなく、何かしら内容をもたらそうと努力しているらしき傾向も一方ではあるようだ。たぶんそれは無駄で無益な試みになるだろう。それを試みなければ理由も見当たらず、必然性も見いだせない。そこから何を導き出すつもりなのか。言葉だけでは物足りないか。だが言葉の他に何があるのだ。言葉に意味がついてくるわけがない。どんなにあがいてもそこから抜け出すことはできない。だから楽しい気分でいられるのか。それらは無責任極まりない言動だ。何がそれの言動となっているのか。そういう問いかけに意味はない。それは問いかけですらない。単なる引き延ばしの言葉だ。また時間稼ぎをしているのか。何かが出てくるまでそんな言動に終始している。実際のところそこで何をやっているのだろう。君には行き場がない。そこからどこへも移動できないのだ。それでも意味もなく生き続けている。何のいいわけにもならないていたらくだ。またおかしな文章表現が生じているようだが、それで何を述べているのかよくわからない。それらのわけのわからなさは装われたものだろうか。なぜそうなるのだろう。それだけでは何も述べられないが、それで少しは現実に近づいただろうか。かなり無駄な回り道を通ってきたことだけは確かかもしれない。そのすべてを否定したいわけではないが、何となくつまらなく思えてくる。その程度のことであきらめてはいけないような気がしてくる。何もなければそこに言葉を生じさせればいい。それは安易な解決法か。それで何が解決しているのか。何も解決させる気はない。君が解決させるのではなく、時の流れがすべてを解決してくれるのかもしれない。無言の歳月は残酷だ。希望など受けつけてくれるはずがない。誰の都合を考えて時が流れるわけもない。現状では人は生きて死ぬだけだろう。なぜそれを肯定しなければいけないのだろうか。わざわざ肯定するには及ばないか。それは当たり前の現象なのだから、そこにおかしな希望を付け加えるのはおかしい。たぶんそのような行為自体が余分なのだろう。ただ黙って歳月の経過を体験していればいいだけか。並の神経では黙っていられるはずがなく、多くの者たちが無駄に人生を飾り立てようとするだろう。そこに願望を見いだし、それを実現させるために努力を繰り返す。それが無駄な努力かどうかは努力した結果次第で見解の分かれるところか。ではなぜそれが無駄でないと思いたいのか。結果を求める人たちは単純明快になりたいのだろうか。自らが歓喜の瞬間に居合わせたいか。ならばそうなることを目指してひたすら努力し続けるべきなのか。実際にそうしてみれば、そのときになって何かわかるだろうか。わかるときにはわかるかもしれないが、わからないままならそこであきらめるしかないか。ではもしあきらめてしまったら、その後はどうすればいいのだろう。あきらめきれないのではないだろうか。さらに未練がましく努力を繰り返すのではないか。それが老人に残された生きる希望となっているのかもしれず、誰かはそんな希望のただ中で死にたいと願っているのかもしれない。絶望のただ中では死んでも死にきれないのなら、死にきれず幽霊にでもなって、辺りを徘徊することになるだろうか。そこから先はフィクションの世界になってしまうだろう。君にはそれがお似合いかもしれないが、君とは誰のことなのか。ただ面倒なので君という言葉を便宜的に使っているだけで、特定の誰のことを述べているのでもないような気がしてくる。ところで君はそれがどうなったのか。まだその続きがあるのだろうか。


8月13日

 何かと何かの合間に言葉を繰り出しているうちに夜になってしまったようだ。いつものことでしかないが、虚しさがよりいっそう深まる。だがやらなければならないことはやっておかなければならない。たとえ文法的に間違っていようと、そこで何かを強調しておかないと、決意のほどが明らかにならないか。いったい何が強調されているのか。つまらない文章がそこに記されているらしい。君はそれを認めざるを得ない立場にあるらしく、認めることに悔しさがにじみ出ているわけでもないが、今は黙ってその作業をこなしている最中だ。この世界に何があるというのだろう。それがすべてなのかもしれないが、そのすべてを知り得る立場にはない。誰かはそんな現状認識に嫌気がさしているところか。だがたとえ君と誰かを文章の中で使い分けても、何を述べていることにもならないだろう。それらの文章は何を述べているわけでもない。何かをかすかにあきらめているのかもしれないが、そのかすかな何かが希望だとしたら、それで君はおしまいなのだろうか。おしまいならその先はないわけか。しかしそれおしまいだからといって、別に死ぬわけでもない。それは本当のおしまいではなく、誰かが語っている偽りのおしまいであって、そこから何らかのフィクションが生じるきっかけとなるようなおしまいなのかもしれず、そのフィクションが生じる可能性こそが君にとっての希望なのではないか。現に君はそこから言葉をつなげようとしている。それが新たな文章を構成して、何らかの可能性を示してくれるような予感がするのは、何かの勘違いか。結果的に勘違いであろうとなかろうと、そこから言葉が連なってくれさえすれば、それでかまわないのではないか。たとえその文章が無内容であったとしても、とりあえず何かを達成したわけだから、それはそれで一つの結果となっているのだろう。そしてその結果について何を述べても、それはどうでもいいことかもしれないが、それについて述べることで、一応は文章の継続が保たれるらしく、それも何らかの達成の可能性を秘めているのだろう。もちろんそんなごまかしで満足するわけがないが、とりあえずは意識はそこから別の道筋をたどろうとしているようだ。そこに何があるとも思えないが、今の君には心を浸食する虚無ですら文章を継続させるきっかけとなっている。できることならそこから虚無の深淵をのぞき込んでみたい。気が狂うかもしれないが、それならそれでかまわない。それも一つのフィクションでしかなく、本当の君など文章のどこにも存在せず、言葉としての君が文章上で気が狂っているふりをしているだけで、事の深刻さなどどこにも醸し出されない。要するに物語の中で誰が気が狂おうと、それはすべてフィクションでしかなく、そんな当たり前の事態を深刻に受け止める輩がナイーブすぎるのだ。そこにどのようなリアリティがちりばめられていようと、それを信じない者にとっては、それらすべては虚構に過ぎず、たとえそれが史実をもとに語られていようと、そこから何を導き出す必要はない。そこでつまらぬ親切心から作者の意図をくみ取って感情移入しようと、それは文章に心を操られているだけで、何を知り得たことにもならず、ただの勘違いを誘発されているに過ぎない。その勘違いとはこの世界の単純化によってもたらされるご都合主義の産物である。だから文学は信用できない。そこから生じるリアリティにはすべてが欠けている。どのようなリアリティが醸し出されようと、それは部分的な領域内での嘘を含んだ現実感であり、それを真に受けてしまうと、逆に現実を見失い、物語の筋書きに踊らされていることに気づかなくなる。たぶんそれだけではだめなのだろう。だから我々はそれを批判しながら読み直し、それらの物語には欠けている現実を思考によって導き出す必要が生じてくる。それは冗談ではないか。何となく途中から馬鹿げたことを語っている誰かの存在に気づく。その誰かとは誰だろう。少なくともそれは誰でもない誰かではなく、誰も知らない誰かでもない。つまり我々はそこから現実感を得たいと願っているわけだ。しかし我々とは誰なのか。古今東西文章上に記される我々が我々であった例しはない。少なくとも我々は君たちのことを指しているわけではなく、君たちも文章上に記されている我々の実在を知らない。そして実在とは現実の世界でうごめいている我々が実在することではなく、フィクションに魂を売った作者の惨状を憂うような心を持ち合わせているわけではない我々が、架空の我々だとして、それらの我々が何を語ろうとしているわけではない現状について、作者が何を語ろうとしているわけではないことについて、何ら関心を持っているわけではないようだ。そんなまだるっこしい嘘にはつきあっていられないか。


8月12日

 心身はどこかに追い詰められているのだろうか。際限なく時間に追い回されて、苦し紛れに言葉を繰り出し始める。それは無理だろう。無理はいつも承知しているはずだが、それほど切羽詰まっているのか。どこかで誰かの信念が揺らぎ始めているようだ。信念とは何なのか。腐ってもまともな文章を目指さなければならないだろう。しかしそれで何がわかるのか。君はその瞬間を見逃すわけにはいかないらしい。迷いが生じたそのときから君は現世への出現を試みる。だが生身の肉体をまとっているわけではなく、いつもの意味不明な言葉が君の拠り所となるようだ。精神の拠り所は空虚そのものだ。何もないから焦って言葉を繰り出し、そこから遠ざかろうとする。遠くに見えているのは名も知らぬ山脈のたぐいか。名前など地図を見ればすぐにわかるだろう。今は面倒なので先を急ごう。まだ一縷の望みはあると思いこんでいる。だがそれでその先にこだわりの風景が現れるのだろうか。心は特定の風景を目指しているわけでないが、意識はどこかの庭園に迷い込んでいる。そのつもりになるのも冗談の一種かもしれないが、そういう筋書きはいつものパターンだ。しかし風景とは何だろう。誰が風景に溶け込もうとしているのか。そんなはずではなかった。後から悔やんでみても仕方がないが、そこから何を知り得ることもなく、何も知らない風を装うわけもなく、さりとてわかっていることが他にあるわけでもない。言葉を適当に連ねることによって、疑念だらけの精神状態から抜け出られるとも思えないが、要するにそれは何かの時間稼ぎになっているのかもしれない。何かに夢中になることで、現実に心を浸食し続ける虚無からの作用を忘れようとしている。しかしそれでどうなるわけでもなく、そこに心の動揺でも映っていればおもしろいかもしれないが、何が映っているわけでもなく、そこから何を語ろうとしているわけでもない。何もないのだから仕方がないだろう。それでもその先を目指して文章を継続させるつもりなのか。しかしその先に何があるというのか。その先に行ってみなければそれはわからない。ただつまらないことを述べているだけでは、そこで停滞し続けるだけだろう。現状はそれに近いか。それほど内容にこだわらなければ、適当に言葉を連ねられるかもしれないが、とりあえずその目には何も映らない。眼球が退化してしまったのだろうか。そんな嘘は通用しない。別に洞窟の中で暮らしているわけではないはずか。それでも見えない風景に絡め取られて、誰かは絵画の一部となってしまう。それも嘘に違いない。そしてそんな風に述べながら、誰かはフィクションの匂いを感じ取っているようだが、それは郷愁の一種だろうか。ノスタルジアは精神の退化を呼び込む。過去の時空で何を探しているのか。自意識はどこで何をやっているのか。いったい幻想はどこからもたらされるのか。その正体を明らかにしたいか。それは今から何年前のことだろう。そんな言葉もフィクションを呼び込むきっかけとなっているのかもしれないが、そこから物語の作者になるつもりはない。もう文章に対するこだわりは消えてしまったのか。適切な表現を追い求めるならば、それは文章ではなく文学か。どうして卑しいことを述べているのか。卑屈さのただ中で何にこだわっていたのだろう。遠くの空に雲が見えている。何の変哲もない一日が過ぎようとしている。いったいこの世界で何に興味を抱くべきなのか。ただ言葉を連ねているだけでは何も思いつかず、誰かは好奇心を失っているようだ。その代わりに世界を空虚で満たそうとしているのか。それは実現不可能な誇大妄想だ。それの何を批判したいわけではないが、この世界では勝手なことをやりたい人が勝手なことをやろうとしている。すでに誰かは勝手な言動を繰り返している。勝手気ままに生きていられたらどれほど気楽なことか。しかし身勝手な言動に終始するお気楽人生は長続きしない。幻想の自由は君を裏切り続ける。言葉だけでは何ももたらせない。なぜそこにとどまっているのだろう。まったくフィクションになっていないだろう。それ以前の問題なのかもしれず、言葉を弄して何を語っているとも思えない。そこに語りたいことはないようだ。君はそこから逃げている。何かそれとは違う展開を期待しているのかもしれない。現実逃避の心に何も期待できるわけがない。実際にはさらに遅れてしまうらしく、いったい今は現在の日付から何日前のことなのかわからなくなる。君には何もできない。それ以外のことを語るのは不可能か。それはいつの話なのだろう。今は夕暮れ時の時間帯か。そうでなければ真夜中に気まぐれを起こし、どこかへ幽体離脱でもしているところか。示したかったのはそういう言葉ではないだろう。


8月11日

 たぶんこれから様々な不具合が吹き出てくるのだろうが、それでもまだ切り札を温存しておくつもりか。何を隠しているのか知らないが、どうもそれは違うような気がする。それらの言葉をどう組み合わせても、否定的な内容しかもたらせないようだ。それらのどこがおかしいわけではないが、なぜ暇にまかせてそんなことばかり述べているのか。そうやっていつまでも無駄でつまらない内容を繰り返すつもりなのか。少なくともそれはわけのわからない内容ではないはずだ。たぶんそう述べながらも何かを利用しているのだろう。言葉を弄するのに何も利用していないはずがない。君はそこまでの変化を望まないのか。それはどのような変化なのか。いつもと何ら変わっていない。要するにその場の空気をつかめていない。そういうことではないだろう。それで何とか難局を切り抜けたつもりか。まだその先が長そうだ。だがその先で君の望みが叶う可能性はない。君はそれらの状況とは無関係なのか。関係を持ちたいとは思わない。だから誰とも出会えない。誰を待っているわけでもない。あるいは誰が待っているわけでもない。それはただの言葉でしかない。誰がそれらの言葉を待っているのだろう。何かが到来し続けている。待っていても何ももたらされないだろう。心は待つことに疲れている。いっこうに何も現れないことに落胆している。たぶんそこから立ち去らなければならないのだ。夏は何ももたらされない季節なのか。君にはそれが理解できないようだが、君の望みとは何なのか。叶わぬ望みには興味はないか。何を叶えようとしているわけではない。君はそれを否定したいようで、つまらないことを延々と述べ続けているらしいが、それで否定していることにはならないだろう。誰かはことあるたびに論理的に飛躍して、精神的に飛躍する機会を取り逃がしている。それも君には関係のないことだろう。それで何を否定しているわけではない。現状を考慮していないのかもしれない。それで何をもたらそうとしているのか。空虚以外の何かを捉えたいが、つかんだつもりの掌を開けば、そこからかすかに湿り気を含んだ空気が解き放たれるだけだ。粗雑な言語表現では何を述べてもその気にならない。だからそこで停滞してしまうのか。だがその気になるとはどういうことなのか。その気になっても何もできないことに変わりはないようだ。そんな気分を君は理解できない。それを理解できない変わりに迷路の存在を感じ取っている。さっきから同じようなことばかり述べている。人は誰でもそこから離れたい。人でなければ離れられないわけでもないが、君はそこにとどまり続ける。何を勘違いしているのだろう。勘違いできるような状況ではないか。この世界で起こっているすべての現象がつまらなく思えてくる。誰がそこで行方不明となっているのだろう。君はそこから何を探しているのか。なぜ興味を持てないのだろうか。危険が潜んでいることに違いはない。危険を危険と感じられないことに安心してしまうことがそもそもの勘違いなのか。何かが麻痺しているのかもしれないが、それをそのまま放置してもかまわないように思えてしまうのはどういうわけなのだろう。生きることにも死ぬことにもリアリティを感じられない。それらのすべてが馬鹿らしいわけではないが、何となくそう感じる神経には普通の感覚が欠けているような気がしてくる。何を見失っているわけでもなく、自分を見失っている現状はもとからそうなのかもしれない。自分がどこで何をやっているわけでもない。わからないと思う心はそこからやってくるのか。やってくるのは自らの影でしかないか。その影を心はどうしたいのだろう。いつものようにすべては幻想だと思いたいのか。そんなことを思ってみても、それでどうなるわけでもないだろう。どうにもならないから今の現状があるわけだ。それは何ら複雑な状態ではなく、ただ現実逃避を試みているだけかもしれない。馬鹿げた不具合が延々と連なり、それが馬鹿げていると感じられる限り、いつまでも君の心から離れることはないだろう。誰にもどうにもできないような事態が進行中のようだ。諸行無常どころではなく、それが当たり前のことでしかないのだから、それについて何を否定してみても、それに関するすべての言説は無効に違いない。そんなわけで君は解決という言葉から見放されているらしい。だからそれについていくら語っても、それをそれと認識できないような言葉が連なってしまい、結局何を述べているのかわからなくなり、そんな現状に嫌気がさして、さらにそこから遠ざかろうとする仕草を暗示させるような言葉を文章にちりばめながらも、それが果たせないことかくるストレスでいらついている。誰がそこで押しつぶされそうになっているのか。


8月10日

 文章上では意識の連続性を確保できない。何かの中毒症状が出ているのかもしれない。君はそこから先に言葉をつなげたいのに、意識は過去へ引きこもろうとする。今は二日前の日付で語っているつもりのようだ。なぜ人々は戦争を繰り返しながらも平和を望むのか。戦争を遂行している人々と平和を望んでいる人々は違うのではないか。その手の人々は戦争によって平和を勝ち取りたいのだろう。平和は屍の上に築かれる。敵の屍の数が多ければ多いほど、平和がより強固なものとなるのだろうか。たぶん平和が訪れた時点で、そういう状況になってしまうのだとすれば、それは仕方のないことか。この世に憎むべき敵が存在する限り、恒久的な平和はもたらされない。そんな殺伐とした論理について君はどう思っているのか。今も世界で繰り返されていることに興味はないのか。何も語っていない時間が長すぎるのか。とりあえず今は六十数年前ではない。なぜ今さらそんな過去にこだわらなければならないのか。それについて語るための根拠は何もないが、いつ目が覚めたのだろう。昼は仕事をしていたはずか。面倒なので意識はそこから飛んでいる。そんな文章は文法的に間違っている。どこかで言葉も途切れてしまったらしい。なぜそこから逃れられないのか。言葉は絶えず自分自身へ戻ってくる。語る対象もそれ自身へと遡行する。だからどうしたというのか。誰かの頭はまったく意味を解さない。確かにその場で意味を解するのは面倒なようだが、その一方で言葉では表現できない感覚を忘れるわけにはいかないか。それらの何が唾棄すべき事柄でもない。時折発せられる挑発的な文句は若気の至りか。どこかではどうでもいいようなことがひたすら推奨され続けているようだが、この世のどこにどうでもよくないことがあるわけでもなく、意識が照準を定めたそれらの現象にどんな説明を施してみても、そこから誰かの本心が導き出されるはずがない。その程度ではまったく心にかすりもしないようだ。まだ折り返し点にも達していないのか。達したところでそこにどんな思想があるわけでもない。思想などという幻想にかぶれている暇はない。君の姿はどこにも見受けられず、ただ馬鹿げた議論が画面上で繰り広げられているだけか。しかしそれで安心してはならないのだろう。そんなことは誰もが承知していることかもしれない。君にとってもどうでもいいことだ。どうでもいいことでなければ、そんなことを述べるはずがないだろう。それ以外には何も述べられないのだから、それはそれで仕方のないことではないか。君たちに何の権利や義務が生じているわけでもなく、反論の機会が与えられているわけでもなく、そこで何を述べようとどうにもならないような状況の中で、ひたすら適当でつまらない内容を述べ続けているだけだ。そんなことははじめからわかりきっていたことであり、そんな風にして議論を交わすことがほとんど人畜無害だからこそ、そんなことをいつまでも述べていられるのだ。そして何もそれは君たちに限ったことではなく、画面上に登場するすべての者たちに当てはまることなのかもしれず、この世界が安定しているとすれば、そんな者たちの存在がそれらの安定に寄与しているのだろう。だが君はそこから遠ざかることも逃げることもできはしない。ただその場で傍観者の役割さえ与えられない状況に甘んじているだけか。君はそこから自由であるべきなのかもしれない。そう述べて何を卑下しているわけでもなく、現実にそんな状況のただ中に存在しているのだから、そんな現状を真摯に受け止めるしかないのかもしれず、それ以上でも以下でもない状況の中で、ひたすら生き続けている現実を直視する必要があるらしい。そしてそれはどういうことでもなくそういうことでもないのだろう。ではなぜそこに記されている文章を読む気がしないのだろう。読み進めることを妨害するような障害や困難がどこに待ちかまえているとも思えない。すでに困難のただ中にいるのかもしれないが、それは複数の困難であり、様々な困難が複雑に絡み合い、そのどれ一つとして決定的な破綻をもたらさず、すべての困難がそこにいつまでもとどまろうとしているようだ。それは困難を困難と感じさせないようにするための試練なのか。そんな試練が試練であるはずがないか。確かにそれも一つの試練なのかもしれないが、それは脱出困難な試練となっているのだろうか。なぜそこから抜け出さなければならないのか。それが困難ならやはりそこから抜け出すべきなのか。だが何となくそれは無理なような気がする。困難な状況でなければ何もやる気にならないか。それらの困難こそが君の生きる糧となっているのかもしれず、困難が君自身を文章上に存在させているのではないか。しかしそんな幻想を抱いているのは誰なのだろう。


8月9日

 どこを探しても何もありはしない。何もないのに何をそんなに悩んでいるのだろう。たぶん誰かは自らが悩んでいる事実を隠そうとしている。それは本当に事実なのだろうか。ついに行き詰まりから抜け出せなくなってしまったのか。その程度ならまだ何とかなるか。しかし何とかしてどうするのだろう。何とかしなくても悩み続けていても、そんなことはたいしたことではない。たぶん何もない状況をどうすることもできはしない。そんな風に現状を分析していると楽しいか。今の君には分析するほどの思考力はないか。誰の思考力について誰が述べているのだろう。相変わらず語り手を見いだせない文章となっているが、それは嘘に違いない。語っている内容が何もないのに何かしら語っているのは自分自身か。内容とは何なのか。語っているつもりの自分自身という存在にはどんな意味があるのか。意味のことを述べているわけではなく、君自身の謎について考えているわけでもない。君について考えることを放棄しているのではないか。いったい君という言葉の何が謎だというのか。どこの誰に謎が付随しているとも思えないか。君という言葉自体について考えているわけではなく、君と呼ばれる架空の存在の意味を知りたいのではないか。しかし何を述べても心に響いてこない現状をどうすることもできはしない。そして何をどうすることもできないのではなく、そんな文法的な不具合を無視して、その先にひたすら言葉を連ねている現状を打破したいわけでもない。彼はそんな状態を嫌い、変化を求めているようだが、そんな状態とは何なのか。またわざと過ちのただ中にとどまろうとしているらしいが、変化とは何なのか。この世界の何をもって変化と規定すればいいのだろう。そんな文章はおかしい。世の中は常に変化し続けていて、ただそれは誰かの意向を無視するような変化に違いない。そして君は変化した結果を受け止めなければならない。受け止めるということは認めることにつながるのだろうか。いったい何を認めなければならないのか。この世が変化し続けていることはわかるが、それを認めてどうするのか。誰が何を認めようと、そんなこととは無関係に、さらに世の中は変化し続ける。要するにそんなことはどうでもいいことだ。どうでもいいことだからこそ、無責任にそれを認めてしまうわけだ。しかしそれでいったい君たちは何を認めていることになるのだろう。本当にそれらは何もない現状なのだろうか。それが嘘の認識だとしたら、真実はどこにあるのだろう。誰かは何もないことを意地でも認めたくないわけか。しかしそれは誰の意地となるわけか。誰かではなく君の意見を記してみたいか。君にまともな意見などありはしないだろう。架空の君が架空の文章の中で意見を述べるとすれば、それはどういうことになるのか。文章が架空のものならどうということもない。実際に記された文章の中で君の意見を表現してみたい。そこにはどんな言葉が連なっているのか。その件について君の記憶は何も残っていない。文章中にも何も記録されていないのではないか。だからそれが何になるというのか。考えることを放棄しているのは君自身のようだ。そこから君の限界がかいま見えてくるだろうか。何かを先延ばしにしていることが見え見えか。ならば先延ばしにされている何かを今こそ提示すべきだろうか。そんな勇気が君あるとは思えない。誰が思えないと思っているのだろう。思えなければ君はどうするのか。君が何を思っているわけではない。それらのどこかに当たり前の結論が隠れているのかもしれないが、今はそれを明らかにするわけにはいかないか。たとえ明らかにしたところでどうなるわけもない。何もやらないうちから何をあきらめているのか。それらの文章は空虚に支配されていて、君の思いなどはじめから除外されている。君自身が存在している痕跡さえ消されている。君はどこまでも架空の領域にとどまり続け、決して現実の時空に出現する機会は巡ってこないだろう。誰が君を引きずり出そうとしているわけでもなく、君自身もその機会をうかがっているわけでもない。それらの文章の内容に具体性はない。具体的に何をやりたいわけでもなく、誰に何をやってほしいわけでもなく、君は君で文章の中で言葉として記されているに過ぎない。生きているわけでも死んでいるわけでもなく、ただそこに記されているわけだ。たぶん現状とはそういうものでしかないのだろう。それ以外に真実と呼べるようなものは何もないか。だがはたしてその真実に魅力があるだろうか。魅力のあるなしではなく、ただ単にどうでもいいことでしかないか。では要するにどうでもいいような言葉が適当に連なって文章が構成されているわけか。そしてそれがどうしたわけもなく、どうしようもないわけでもない。それらはただの文章でしかない。


8月8日

 君はそこで何を覚えているのだろう。何を覚えていようとそれは違うらしい。何かその場では誰かの行動を阻止する力が働いているようだ。今はその力に従った方がいいのだろうか。しかしそのおかげでまた言葉が遅れ始めてしまう。そんな風にして偶然の出来事は君を戸惑わせ、心がそこから離れられなくなる。いったいそこから何を導き出せるのだろうか。ただ動揺しているだけでは何の話にもなりはしない。それ以上は何もわからなくなる。しかしこの期に及んでこの何をわかればいいのか。この期とは何のことなのか。何もわからないのは毎度のことで、実際にはわかろうとする代わりに言葉を並べている。ではなぜ言葉をひたすら並べなければならないのか。誰かはそんなつまらない言葉遊びに退屈しているようだが、それしかもたらされないような状況をどうすることもできず、落胆した君はさらに何もできなくなってしまう。その場合君と誰かとは別人として動作するらしく、そこに存在しているつもりの意識は、誰が試みているのでもない意味不明な語りの中で、何とか二人の登場人物を確保したことになる。それから君はどうするのだろうか。それらの登場人物に何かを語らせなければならない。それはどういうことなのか。ただどうでもいいことを述べているのかもしれず、誰かはそこで無意識を活用できなくなってしまったらしいが、はたしてそれが正しい現状認識なのだろうか。意識の中では何が正しいのか不明のままだが、君は正しい結論に魅力を感じられない。正しい行いは正しい結論に至り、行いも結論も間違っていることを忘れさせる。そこで君は何を勘違いしているのだろう。そういう矛盾はありふれているだろうか。少なくとも意味不明ではない。とりあえず言葉は意味を伴っているようで、誰かはそれを理解したいらしい。この世界で現実に何が問題となっているのだろう。ただ人が生まれて死んで、生きているうちは右往左往しているだけだが、それに関して何をどう語ればいいのか。どう語っても実感が何も湧いてこない。それは実感ではなく思考しなければ導き出せないことなのではないか。さっきから横目で何を見ているのか。そこで何が起こっているわけでもない。何を見てもそれは有限の事象だと思われる。言葉の限界はどこにでもあるらしいが、誰かはその限界を無視して言葉を連ねようとしている。たぶん何も導き出せはしないが、それがその時点でもたらされている文章なのだから仕方ない。はじめから何もできないことはわかっていたはずだ。そしてそこには何もないこともわかっていたはずだ。ではもうそれ以上は不具合を是正することは不可能か。この世のどこに不具合が生じているのだろう。それらの何を不具合と見なしたらいいのか、あるいは何もかもが不具合だと見なしたらいいのか。しかしそれらとは何だろう。何もかもがそれらなのだろうか。このままではどうなってしまうかもしれない。そんなとりとめもない文章に接しながら、誰かがそこで何らかの警鐘を鳴らしているのかもしれないが、はっきりしたことは何もわからない。そこからどうなってしまってもかまわないような気がする反面、可能ならばどうにかなってしまうことを阻止する気もあるようで、それにはどうしたらいいのか、その方法を見いだす必要性を感じているときもたまにはあるらしいが、その必要性を説く他の者たちの言説にはリアリティを感じない。彼らの言説はいつも過ぎ去った歴史についてわかりやすく説明されているだけだ。それどころか現在の社会構造についても説得力のある説明が度々なされているようだが、彼らは世界の過去と現在を正確に説明しているのに、なぜそこから未来を導き出せないのか。彼らが説く実現すべき理念に向かって我々は何をすればいいのだろう。現状では実際に行動することはできない。人も心もバラバラに散在しているだけで、それらを一つの目的として達成させるために結集させることなど不可能だろう。しかし達成すべき一つの目的とは何なのか。目的などこの世界のどこにも見当たらないか。たぶん誰もが別々のことやっていてもかまわないのかもしれない。この世に存在するあらゆる事物は絶えず分散しなければならず、それは誰のためでも何のためでもなく、ただ我々の意識はあらゆる事象から遠ざからなければならない。つまらぬこだわりからそれは生まれないし、それについていくら勘違いしていてもかまわないだろう。世界について何を知っているわけでもなく、それ以外の何を知りたいわけでもない。しかしそれとは何のことなのか。何かのシステムのことか。いったい君はどのような動機で行動しているのか。たぶんそれを何とかしなければならない。何とかしなければ先へ進めないらしい。しかし先へ進んでどうするのか。そこにいつまでもとどまっているわけにはいかないのだろうか。だがとどまるとはどういうことなのか。どこかで停滞しているということか。心は何に満たされているわけでもなく、それが空虚であるはずもなく、ただ何もないだけか。何もないということはそれほど深刻な状態なのか。それの何が深刻なのだろうか。


8月7日

 ひたすら沈黙に取り囲まれながら、何を聴いているのだろう。そんな話はつまらない。目標という幻想に心を支配されていないと、まともに文章を構成できないか。薄ら笑いのような発作から解放されて、また苦し紛れに言葉を連ねているのか。その場に立ちこめている空虚は誰の心配をしているわけではない。そんな作り話は意味不明だろうか。使い慣れた言葉には新鮮な驚きが欠けている。それらの嘘はさらにでたらめな内容を求めているらしいが、その実態がどんな具合になっているのか。不老不死を夢見て、誰かは作り話の中で仙人の真似事をやり出した。気持ちが揺らいでいるのか。文章の構造的な欠陥が露呈しているのかもしれない。他に何を試みているわけでもなく、ただ言葉と言葉を意味が通るように組み合わせることはできず、著しくまとまりを欠く言葉の断片が、さらに方々へ飛び散り、収拾のつかなくなった作業は途中で中断され、計画は完全に暗礁に乗り上げたまま、いつまで経っても再開されることはなく、誰かは半ばあきらめ気味に、それとは別の文章を記す準備を始める。それの何が内容となっているのか。君はいつまでも虚しい努力を繰り返していることの意味を問うわけにはいかない。虚しさには実感が伴わない。ただそう思いこもうとしているだけか。どこまでそれらの成り行きに身をまかせたらいいのだろう。現実はそれとは別のところにあり、意識はいつも誰かからのメッセージを取り逃がしている。近頃はまったく呼びかけに答えてくれない。すでに虚構の影は死んでいるのだろうか。知らないうちに遠くまできてしまったようだ。遠くに見える山並みは君を必要としていない。君は登山家ではないが、山が登山家を必要としているのではなく、登山家が山を必要としているのだろう。それと同じように文章が君を必要としているわけではない。溶けかけた氷がグラスの中に浮かんでいる。濁った水には何が溶け込んでいるのか。よどんだ水には泥が溶け込んでいる。自然は誰のものなのか。誰がナレーションの助けを借りながら自然を眺めているのだろう。泥の中には微生物がいるらしいが、誰かはそこから何を語れるというのか。文章の中には何が潜んでいるのか。風景は言葉に溶け込むことができるだろうか。それは地形的な特徴だろうか。その地域の形状が人間を作り出す。国家はどこから作り出されるのか。川はしばらく蛇行を繰り返し、その水はやがて海に注ぎ込む。その先に何が待ちかまえているわけでもないらしい。言葉はどこで尽きるのか。何も響かないのはどういうわけなのか。その楽器には弦が張られていないのかもしれず、それでも言葉をつなげようとすれば、誰かは無駄に言葉を連ねすぎていることになる。それは蛇足かもしれないが、蛇が鼠を飲み込み、鼠が壁に穴を開ける。順序が逆なのではないか。時間は言葉を介して後戻りを繰り返す。それも前後が逆だろう。そんな風にして毎度のことのように何かいいわけじみたことを語っていないか。それが君の持ち味だろう。君はいいわけの意味を解していないようだ。それらの言葉は常に否定的に作用しているらしいが、夏の夕焼け空は君に向かって何も語りかけてこない。それでも君は何かしら語っていることになるのだろうか。そんなことを語っている場合ではないはずか。崩れかけた文章を立て直すのには骨が折れるか。だが言葉がつながらないのは毎度のことだろう。そんな成り行きのただ中では、意味不明になってしまうのが当然のことように思われ、内容をもたらせないことから来る自責の念が蓄積して、心身ともに限界に達しているのかもしれない。何かが遅れ続けている。気に入らない言葉は使いたくない。問題は何なのか。すぐに原因を特定することはできないが、どうも感性は容易に切り抜けられない状況に陥っているらしい。何をどこまで述べてもそうなってしまうわけだ。どこかに出口が隠れているのかもしれないが、君はそれを知り得ない立場にある。積極的に知ろうとしていないのだから、別に知らなくてもかまわないだろうが、何かのきっかけでそれを知ってしまった場合、それでどうにかなることもないような気がする。とりあえず何から何まで思い通りにはいかないことは確かで、適当な出来事を通して関係する様々な思惑や意図が様々に交錯して、それらが一つの目的に収斂することは決してないのかもしれない。何よりも各人の利害が一致しておらず、どのような形で利害を調整するにしても、それを行う意志が存在しない状況にあるらしい。しかし本当にそうなっているのだろうか。蒸し暑さで頭が変になっているのかもしれない。水分とともに何かを補給し続けなければならず、そこから汗がしたたり落ちてくる。継続など無理に決まっているだろう。そこには修復不能な溝が掘られていて、そこを越えてどこかに行ってしまうわけにはいかないらしい。だからいつまで経っても苦し紛れなのか。


8月6日

 それはアレルギーの一種だろうか。少なくとも何かを語っているようだが、それらの実態を理解しているわけではない。影は何の実体も伴わず、そこからいくら言葉を繰り出しても、その場に存在する現実感を獲得できはしない。他に何を導き出せば気が済むのか。気が済むのではなく、ようはわかったつもりになればいいのか。それとこれとどう違うのだろう。いったい君はどのような現実のただ中にいるのか。何かにかぶれて体中がかゆくなる。そのときの状況を言葉で示せるだろうか。リアリズムとは何だろう。ほとぼりが冷めた後から発作が始まる。薄暗がりの中に何かがうずくまっているように見える。恐る恐る近づいてみれば、何かが適当に散らばっているらしく、たぶんそれは死体の切れ端ではなく、生ゴミのたぐいだろう。かすかに異臭が漂っているようだ。君はそれらの言葉を馬鹿にしているわけか。誰を挑発しているわけでもない。それらの言葉は何を示しているのだろうか。わかっていることは何もなく、無理にそれをわかろうとしているわけでもない。何を悲観しても仕方ないか。もしかしたら鬱状態なのではないか。心の底から何かが湧いてくるが、実感は何もない。それは実感ではないだろう。何も問題がないように思われるとき、そこから深刻な問題が顕在化してくる。意識は日常から離れて何から逃げているのだろうか。日常から逃げることはできない。経験はそんな状況を深化させる。そんな運命を黙って受け入れるつもりか。それともまた無意識の悪あがきが始まるのだろうか。それは無理だろう。無理に違いない。無理だと思いこみたいだけか。偶然にもたらされている言葉の連なりに心が寄りかかっている。どこまでも言葉に依存していなければ正気を保てないのか。この世界ではあらゆる出来事が複雑に絡み合っているようだ。それが何を形成しているとも思えないが、そんな状況の中で意識が何かに絡め取られていることは確かなようで、現にそこから遠ざかることができないでいる。しかし何に引き留められているのかわからない。まだ言葉を連ね足りないのだろうか。たぶんどこに何が待ちかまえているわけでもなく、成り行きに従って進んでゆけば、簡単にすり抜けられてしまうような障害物なのか。そんな甘い考えはすぐに打ち壊される。それどころかさらに事情を込み入らせて、わけがわからなくなってしまうだろう。君にはそういう才能があるようだが、それで困るのは君自身か。そして何に困っているのかわからないのだろう。無意識のうちに何かを遂行している。本人には自身が何をやっているのか気づかず、それによって何かがもたらされているのだろうが、それは君には関係のない出来事だ。相変わらず君はあらゆる出来事から見放されていて、いつもつんぼ桟敷に座らされているいるようだ。まったく無責任な野次馬にもなれはしない。それでいていったん当事者の真似事でもしようものなら、思わぬ反発を買ってしまうらしい。君にはその資格さえないのだろうか。いったい何をやろうとしているのか。それは何を行う資格なのか。すべては架空の話であり、そのどうでもいいような話の中に架空の君が絡め取られているようだ。この世界で見聞されるすべては架空の話から生じているわけか。誰がそれをもたらそうとしているわけではない。君には何のことやらさっぱりわからず、心当たりは何もない。それはどういうことなのだろう。そういう話の筋書きになっているわけか。筋書きも何もあったものではない。実態としては何の話でもないらしい。そこにはどんな成り行きが示されているのだろうか。話が込み入っていて、言葉で簡単に説明することは無理なのか。簡単に説明しようとしているわけではなく、説明を放棄しようとしているのかもしれない。自分でも何を語っているのかわからない。そんな話があるはずがないだろう。それは何かの嘘に違いない。嘘でなければ言葉を連ねるうちに何らかの真実がかいま見えるはずか。何もないのに何を見ようとしているのか。飛び散る汗は画面の向こう側に見えている。誰かが炎天下の中で動き回っているらしい。窓から見えるのは夜の闇だ。闇だけの風景では文章にならないか。ならば何かそれとは違うことを想像してみればいい。誰かは未来の姿をかいま見ようとして、建物に穿たれたのぞき窓から夜の暗闇を凝視する。星空の下に冬の枯れ野が広がっているが、まだ夏まっただ中だ。急ぎすぎるのはよくないことだ。つまらぬ時間を先取りしても無益な誤解を生むだけだ。そこからじっくり考えてみよう。何を考えられて、他に何を考えられないのか。間違えていたり勘違いしていたりすることに慣れすぎているのか。ようやくそれがわかるようになってきた。それで少しは現実感を獲得できただろうか。


8月5日

 本当に何もなくてもかまわないのだろうか。言葉はそれでも連なってしまう。文章はこの世界の現状を反映していない。君は運に見放されつつあるようだ。だがそれならそれで君でなくなってしまえばいいのではないか。君が君でなければ君は何者になったつもりでいられるのか。もとから何者でもないのが君のはずだ。君という存在自体が架空のことだ。文章上に何が示されようと、それはすべて君とは無関係に違いない。そんなわけで誰かは毎度のことながら意味を導き出せず、特定の内容をもたらせずにいる。どうも自らが記しつつある文章全体を把握できていないらしい。そんな案配なのにこれから何を書き記すべきなのか。何を語ろうとしているわけでもないのに言葉は適当に連なり、いったん記された言葉はどこまでも分散し続け、決して意味の通るような文章になろうとしない。なぜそうなってしまうのかわからないが、そんな状況から逃れようとして、近頃は奇妙なつじつま合わせが流行っているようで、それはその場だけで通用する何かの儀式なのかもしれないが、儀式とは何だろう。儀式として成り立つような行為がどこで行われているのか。どこで行われているわけでもなく、ただそんな言葉が何も思い浮かばないことに対するいいわけとして機能しているだけなのかもしれず、そのような状況ではありふれた内容しかもたらせず、誰かの言動もそれにつられておかしくなる。では具体的に何がおかしいのだろう。たとえば戦争と平和は言葉だけの問題でしかない。この世が戦争状態であろうと、平和であろうと、そこに普段の行いが反映されているわけではない。それらはただの言葉なのだ。君たちはなぜ他人の不幸をおもしろがっているのか。そういう毎度おなじみの文章形式にはうんざりさせられるか。意味のない自問自答に終わりはない。そこには目的がない。架空の話の中では会話が成り立たない。複数の人物を登場させるのが面倒くさいのか。今はそれしかできないのだから仕方がない。それ以外に何ができるというのか。文章を読んでいる誰かが積極的にそんな文章を求めているとは思えないが、たとえ求めているものとは違う文章が自らにもたらされたとしても、それによってどんな不都合が生じるわけもなく、意識はただそれを継続させてゆくしかやりようがないようだが、他に誰がそれに興味を示すこともなく、それが間違いだとしても、それらの過ちについて後から振り返ることもない。ただ根気強く言葉を並べ続ける。それらは誰を振り向かせるための文章でもない。少なくともそこには何らかの技術が介在しているのだろうが、そんな文章の成り立ちを離れて修正を施すことはできないだろう。無理に内容を記そうとすれば、たちまち言葉と言葉の間に作用している力の均衡が崩れ、わけのわからない紆余曲折と意味不明をもたらすだけか。ちょうど今がその状態ではないのか。なぜそこから逃げようとするのか。逃げることは遠ざかることになるのだろうか。何から遠ざかろうとしているわけではない。君はそう述べて言葉を記す理由や動機から逃げている。実際に遠ざかりつつあるようだが、理由も動機も曖昧なままに、それでも苦し紛れに言葉を繰り出そうとしている。何をそんなに苦しがっているのか。誰がそこでもがき苦しんでいるのだろう。誰がそこにいるわけでもなく、君はもがき苦しんでいるのは自分ではないと思いこもうとしているらしいが、いったいどこまで強情を張るつもりなのか。そのうちまた言葉を記すことができなくなってしまうのではないか。目下のところ恐れていることはそれだけか。それ以外に何もないというのは嘘だろう。まるでとってつけたような不自然さだ。しかし君の過去に何があったというのか。それは誰の過去なのだろう。君であるはずがないと思いたい。誰のものでもない曖昧な記憶はありもしないフィクションを構成しようとしている。君に過去などあるわけがない。しかしそんな断言がどこでなされているのか。語る対象を見失い、自らの過去を忘れ去り、そこで誰かが途方に暮れているふりをする。他に何を認識すべきなのか。それは認識ではなく、見解に違いない。では君は誰の見解を述べているつもりなのか。言葉のでたらめな配置が何をもたらすのか。しかしそれで文章が意味不明を装うことはできない。意味の有無はそれを読む者の判断による。それを読めば何らかの意味を知ることとなるだろう。それが君の無責任なねらいなのではないか。自分から積極的に意味を提示しようとはせず、常に結論も見解も曖昧にぼかされている。本当に自ら主張することがないのだろうか。無意味を目指すこと以外に何を主張すれば納得できるだろうか。それでは何を目指していることにもならないのではないか。未だにモラトリアムのぬるま湯につかっていたいわけか。目的がないのは卑怯な戦略だろうか。


8月4日

 なぜかうまくいっていないらしい。どうも今ひとつ言葉を文章にまとめられない。言葉に何を託しているわけではないが、文章の中に誰かの誤謬を見いだす。それは違うだろう。そこで意識が途切れ、眠気に惑わされていることに気づく。いつの間にか視線が固定され、視線は偽りの遠近法を施されている。そんなことがあり得るのだろうか。そこから先に何が待ちかまえているのか。何がそんな言葉の連なりを導き、誰がそうさせているのだろう。誰もそんなことは知らないか。やはりそれらの文章は意味不明のようだ。そうなってしまう原因はわからないが、とりあえず知っていることをみんな話してみればいい。他にどんなことについて話したらいいのか。彼はそれを理解できないだろう。そんな風に語るのはおかしいのではないか。誰が何を思っているのか。君が思っているほど彼は愚かではないはずだ。誰が虚栄心の固まりというわけでもなく、誰に未来が託されているわけでもない。それが気に入らないのなら、その趣旨を直接伝えればいいだろう。とりあえずこの世には何もない。何がないのかわからないが、君には君独自の言い回しがあるのではないか。君はそこから見聞を広めなければならない。誰かの見解を信用している暇はない。やはり君には関わりのないことなのか。とりあえずこの世に神の国が実現されるはずがないとは思うが、本当にそうだろうか。イスラエルがイスラム教徒との聖戦に勝利することによって神の国を建設した場合、その神の国にはユダヤ教徒とキリスト教徒のうちのどちらが入れるのか。イスラエルの味方のアメリカ人は全員ユダヤ教に改宗する必要があるだろうか。キリストはイスラエルの味方なのだろうか。ユダヤ教徒とキリスト教徒は遙か昔に和解しているのだろうか。なにやら一部では今回の戦争が聖書に記されている神の国の建設にたとえられているそうだが、それについて君はどう思っているのだろうか。そんなわけのわからない妄想が冗談で済むようなことなのか。以前に君ならそれを真に受けていたところだが、今の君は何を冗談に見立てているのだろうか。退屈なドタバタ喜劇に夢中になるほど幼稚ではないにしても、君はそこからどこへ消えたのか。誰も君の変幻自在な立ち回りなど期待していない。どこかに歌舞伎者がいるのかもしれないが、それについて何を述べる立場にもない。たぶんそこに何があるわけもなく、どんな思惑が渦巻いているわけでもないのだろう。自己中心的な者たちは相変わらず暴力的な言動に終始している。終わりの日々はいついかなる時にもやってきて、そこでどう耐えるかが今後の飛躍につながるのだろうか。しかし飛躍とは何だろう。自らの思い描いた成功の軌跡を妄想でなぞることの何が飛躍なのか。この世には安易に夢を追い求める輩が多すぎるのだろうか。誰もがそうせざるを得ない時代状況なのかもしれない。他に何もないからみすぼらしい夢にすがるしかやることがないのか。それは誰の精神的な貧困を示しているのだろう。いったい誰がそこに存在しているのか。しかし今さら昔はよかった式に言葉を連ねるのはくだらなすぎる。精神的に豊かだった時代がかつてあっただろうか。奴隷制の古代ギリシアやローマがよかったとは到底思えない。あったのはいつの時代もただ弱肉強食の自然が支配する世界だけのようだ。自己実現を達成するために人を使い、自分に有利な状況を利用しまくる者たちがひしめき合うような世界だ。ではこの世は軟弱な神経の持ち主にはうんざりするようなことばかりだろうか。それでも何とか生きてゆかなければならない。たぶんそれでは生きている範疇に入らないのかもしれない。では生きていることとはどのような状況をいうのか。毎日が争いごとの連続なのだろうか。いったい君は何を考えているのか。無理なことばかり起こり続ける。しかもそれが深刻な事態だとは思わない。ではこれからどうすればいいのだろうか。すでにどうにかしているのではないか。自らが主体的にどうにかしているような気になれるのだろう。どうにかなってしまうようなシステムの中で暮らしているはずだ。どうにかなるための仕掛けが至る所に仕掛けられていて、それがシステムの不具合なのではなく、それを糧とする者たちを生かすために必要な仕組みなのだ。トラブルはそれを解決する者たちの仕事となるわけだ。だがそんなことはわかりきっているはずだ。すでにそれらのシステムに浸食されているわけだから、それは受け入れざるを得ない成り行きなのだ。疲れる成り行きなのだが、そのシステムに乗っかってしのいでいくしかないだろう。どんなに気をつけていても魔が差せばそんな事態を招くしかないようだ。心の隙を突いてまたしてもうんざりするような出来事が強引に割り込んでくる。


8月3日

 忘れた頃に危機が訪れ、思いもしなかったような波乱を巻き起こす。どうもそこで事態の収拾がつかなくなっているのかもしれない。君に何がわかるというのか。それらのつまらないこだわりはどこまで続くのだろう。どこかで誰かの感情が絡んできて、何となくすべてを台無しにしているようだが、何も悲嘆に暮れることはないだろう。何をそんなに困っているのか。困っているふりをしているだけか。嘘でもかまわないから、その状況を何とかしなければならない。誰かはそんな風に思いこんでいるつもりになりたい。何とかしようとしても何もできないからそう思われてしまうらしい。何をどうしたらいいのかわからず途方に暮れているらしいが、それでも確実に何かが増幅されて、他の何かが減衰している。それで何を強調していることになるのだろうか。具体的なことは何も述べられなくなる。ただそれだけのことにこだわるのはおかしいのではないか。その場に渦巻いている虚栄心とは何か。エゴイズムに凝り固まった人々は何を思っているのか。心は何を見分けられるのだろう。何もなければ何もわからないだろう。では本当に何もわからなければどうするのか。たぶんどうにもできないだろう。君にはどうにもできないから、また他人の言葉に流されている。その息苦しさをなんと表現したらいいのか。無理に無理を重ねて、つまらないこだわりを獲得して、そこで黄昏れてしまうわけか。誰が老人になってしまうのだろう。いつかは誰もがそうなってしまうのかもしれないが、そのまま死ぬまでつまらない感情を後生大事に保持するつもりなのか。そのつもりがなくてもそうなってしまう人はいくらでもいそうだ。ではそれの何が冗談なのだろう。冗談のつもりで何を述べているのだろうか。確かにそういう言葉遣いは君のものではない。途中で文章が破綻していて、言葉と言葉のつながりを維持できないのはいつもの通りだ。そして知らないうちにどこからともなく何かが到来しているようだが、やはりそれも君の言葉ではない。そして今は言葉を繰り出す余裕がない。何かがどこからかはい出てきているようだが、人間の本性はどこから出てくるのだろうか。誰かはそこで何をやりたいのか。自己実現とはどのような意味を担っているのか。何をあきらめきれないのだろう。どうしてもそれらのすべてが幻想だとは思えないらしい。そんな意味のないことを述べながらも、意識は何かの限界に近づいているようだが、たぶんそれがすべてではないのだろう。どこまでも不可能な状況に近づき続けているように感じられ、それが何を示すのかわからないが、何か適当な状況を示していることは間違いなさそうだ。しかしそれを知り得る立場にはない。君にいったい何がわかるというのだろう。それでも何かをわかろうとしているのだろうか。たとえばどこかに何かが落ちていて、それが何の変哲もない石ころであったなら、誰がそれを拾い上げるだろうか。そこに何か特別な事情があるわけではなく、誰がゴミの不法投棄のことを述べているのでもない。ただ誰かが何かをごまかしているように感じられてしまう。現に誰もがそうしているのかもしれない。本来ならそれを誰かが告発するところか。どこかにわけのわからない噂が渦巻いていて、そんな噂の真相を知りたいところか。だが事の真相を知るにはまだ先が長そうだ。いつ答えが導き出されるのだろう。忘れた頃に何かに気づくかもしれないが、今から何を期待しているわけではなく、たぶん何が出てくることもないだろう。架空のモグラが地中のどこかを掘り進みながら、別のどこかに顔を出そうとしているだけか。そんな話がそれらのフィクションを構成しているらしく、それらのどこに真実があるとも思えないが、今さら焦ってみても仕方がないだろう。焦る必要を感じられず、そうかといって取り立てて平静を装っているわけでもない。今の君に何ができるというのか。何もできないとは思わないし、少なくとも何かができるはずで、実際に何かしらやっているのだろう。ただそれが有効に機能しているとは思えないだけか。ではどうしたらいいのか。やっていることが何になるのだろうか。ただ無駄なことをやっているだけか。その辺が結論の落としどころなのか。無駄で無意味なことをやり続けているようで、フィクションの中ではそうなのだろう。しかし君にはそれがフィクションだとは思えない。この世界が虚構の産物であるわけがない。ではいったい真実はどこにあるのだろうか。それを無理に知ろうとは思わないか。知り得ないことを知ろうとしているわけではない。君にはそこから先に言葉を連ねる権利が残っている。ただそれが誰の嘘なのかわからない。それはわかり得ないことかもしれないが、誰が無理にわかろうとしているわけではない。別にそんなことは知りたいとも思わない。


8月2日

 とりあえず地球上にある陸地には、南極大陸を除いてそのほとんどに国境線が引かれているらしいが、国境線とは何と何を区切る境目なのだろうか。たぶん誰かの意識はそれに対するわかりきった回答を拒否しているのだろうが、そうする理由を今ひとつわかりかねる。国と国が境を接する場所に何があり、それが存在することにどんな必然性があるのか。場所の位置は不変不動ではなく、国家間の力関係によって絶えず変更を繰り返す。しかしそれでは答えになっていないような気がする。国境のあるなしに関係なく、誰が何を問いかけているのかわからない。何となく焦点がぼやけているようだ。誰かは君に何をやらせようとしているのか。今は何も考えられない。なぜ途中で思考を止めてしまうのだろう。実感としては何も湧いてこない。ただ世の中が狂っているとは思わない。何も狂っていないこと自体が狂っているのではないか。そういう逆説的な言い回しに大した意味はない。そんなのは嘘に決まっているだろう。語っている途中から方向性を見失ってしまう。すでに墜落してしまったのだろうか。頭の中で何が旋回しているのだろう。なぜ君は気が狂っていることを認めないのか。フィクションの中でなら何でもありのはずだ。映画の中では犯罪者がヒーローのはずだろう。それは映画の内容によって異なるのではないか。そんなことを述べたいわけではない。なぜブッシュ氏はアメリカの同盟国のイスラエルが破滅の道を突き進んでいるのを止めようとしないのか。だがどうして戦争に勝つことが破滅につながるのだろう。そんなことはそのときになってみなければわからないことか。そもそも何を持ってイスラエルが破滅したと見なせるのか。それもそのときになってみなければわからないことか。ただ現状からそんな予感が生じてくるだけか。だがそんなことは君の知ったことではないだろう。イスラエルという国家がどうなろうと君自身に何の影響があるわけでもない。ただ彼らが戦争をすればするほどガソリンの価格が上がるだけか。そういう水準では君にも何らかの影響を及ぼしているのかもしれないが、それがどうしたというのか。どうしたわけでもないように思われてしまうのはどういうわけなのだろう。やはり君にはあまり関係のないことらしい。ただそれはアメリカにもいえることだが、あれほど多くの人を殺戮してただで済むわけがないと思うのは、何も君ひとりが感ずるところではなく、誰しもが思うところだろう。知らないうちに激動の時代に突入しているのだろうか。何の実感も湧いてこない。神経が麻痺しているのかもしれないが、そんな時代の状況を感じ取る必然性はないのではないか。誰もが同時代の状況に無自覚でいてもかまわないような気がする。やはりそんなのはどうでもいいことだろうか。今から何十年後かに生きている人々がこの時代を振り返ったとき、その時代が激動の時代だったと感じるだけか。とりあえず何をどう感じようとかまわないのだろうが、国家単位で大量殺戮を繰り返すのにはうんざりさせられるだろう。なんだか無駄に人の命を消費しているようで、もったいないように思われる。やはり戦争の選択肢は前もって放棄しておいた方が無難なのかもしれない。戦争であれスポーツであれ、国家単位で争うのはよくないことではないか。何よりもその国の国民が醜く見えてしまう。自らも国民であることが恥ずかしく感じられる。国家について本気で考えること自体が間違いなのではないか。政治家なら本気で考えざるを得ない立場になってしまうのだろうが、どうしても国家が存在するという前提を取り払うことはできず、そこから思考を始めると、当然のごとく自国民優遇政策しか導き出されなくなってしまい、戦争という手段を選択した場合、自国を守るためなら多国民をいくら殺してもかまわないようなやり方しかできなくなってしまうのではないか。たぶん国家という幻想の構造がそう簡単になくなるとは思えないが、そうだとしてもなおのこと、自国民も他国民も生かすようなやり方を模索しなければいけないのではないか。たとえ隣国と敵対していようと、それを和解の方向へ持って行くための努力を怠ってはならないだろう。もちろんリアリズムに染まった人々からすれば、そんなことは甘っちょろいきれい事であり、国家と国家とは互いに経済や文化やスポーツや芸術の分野などで競争して、切磋琢磨してこそ良好な関係が築ける、とかいう意見が幅をきかせているのかもしれないが、なぜそれらが国家単位で行われなければならないのか、という疑念を抱かざるを得ない。それらは何のための競争なのか。絶えず他国を出し抜き、自らの国の立場を優位に位置づけたいだけではないのか。外国人も同じ人間でしかないのに、人間同士が動物的な生存競争を繰り広げているようで、何となくそんなことに本気になっている人々が悲惨に思えてくる。


8月1日

 この世界に君の居場所はない。だからフィクションの中に隠れているわけか。しかしまだそのフィクションに実体がない。はたしてそれはどんな内容なのだろうか。それをこれから言葉で構成しなければならないのだろうか。だがその件について何か君は勘違いしているのではないか。無意識のうちに強引に話を作ろうとしているようだが、君が話を作るのではない。まず他の誰かが君の話を語り出さなければ話にならないだろう。君はいつまで経ってもフィクションの中の住人だ。そのフィクションが誰かによって構成されなければ、君という存在はあり得ない。しかしそんな話がどこに生成されようとしているのか。君の知らないどこかで君のことが語られているかもしれないが、それは君には関係のない話だ。フィクションの中で君自身はまだ何も語り始めていない。君がこれから何か語り始めるだろう何かが君に関係する内容となるだろうか。はたして君は君自身について語ることができるのか。そんな嘘がいつまで通用するのだろう。今ですら通用していないのではないか。いくら言葉を弄しても、何を語っているのでもないことに変わりはない。架空の君に物語の構築などできるわけがない。ではどうすればいいのだろう。どうもしないし何も語らないわけか。ひたすら言葉を弄している現状ではそんなことなどあり得ない。あり得ないからこそ、自然とわけのわからない言葉が連なってしまうわけか。そんな現状を君はどうすることもできないだろう。君の力ではどうすることもできない状況が続いている。それが君につきまとっている宿命なのか。そうだとしたらどうなのか。その状況はそのまま受け流していればいいのだろうか。しかしそれで何を受け流しているつもりになるのだろう。具体的に何がどうなっているのか。君にはそんなこともわからないのだろうか。きっとそれも何かの嘘に決まっている。そう思うならいったい真実はどこにあるのだろう。どこかに真実があるとしても、君にそれを探り当てられるはずがない。君はいつまで経っても嘘の存在でのままであり、虚構の幻影であり、その実体は空虚そのものだ。君がそんな状況に抗えるはずがない。抗う理由も意志もない。しかし誰がそんなことを語っているのか。誰が君のことを知っているのか。それは誰でもない誰かだろうか。たぶんそういう言葉が嘘をつき通すためのいいわけとなっているのではないか。だから君はそこから自らが存在しようとして、隙をうかがっている。いつか言葉と言葉の隙間からそれが記されている平面を突き破って、君の実体が出現してくるだろうか。それはどのような実体なのか。仮にそのときが訪れるとして、そのときがきたらわかることになるのだろうか。たぶん何がわかるわけでもないような気がする。誰がわかるようになるわけでもなく、何をわかろうとしているわけでもない。それはどういうことにもならず、ただわけがわからないような状況になるだけかもしれない。そしてそういう文章が記されている平面を誰が眺めているわけでもないのだろう。誰にも理解不能な文章がどこまでも続いてゆく。そのような状況は入り口も出口もないような閉塞空間を思い出させるが、それを思い出しているつもりの実体はどこにも存在しない。いったいそれらの文章を記しているつもりの意識はどこの誰に宿っているのか。なぜそんなことまで不明確なのだろう。ただわけがわからないだけで済むような問題ではないのではないか。だがそれらの何が問題なのか。わけがわからないことはそんなに問題なのだろうか。文章はそれを読む者に何かをわからせなければならない義務でも担っているのだろうか。もしそうだとしたら、内容をわからせるためにはどう文章を修正したらいいのか。誰がその問いに答えてくれるわけもなく、わからないことは永久にわからずじまいになってしまう可能性がある。現に君はそこから何も導き出せはしない。しかしその断言はどこから出てくるのだろう。どうも君はそう述べて現実に抗っているらしい。どうにもできない状況なのにそこからさらに言葉を引き出そうとしている。それは無駄で無意味な言葉の断片に違いないが、それ以上の何も思いつかないのはどういうわけなのか。たぶんその先に何もできないことのいいわけが待ち受けているのだろうが、何とかしなければいけないという思いばかりが空回りして、その先へ進めなくなっている。そんなどうにもならない状況を放置し続けるとどうなるのだろうか。どうにもなりはしないと高をくくっていると、そのうちに気が狂っている自らに気づかなくなってしまうかもしれない。ならばたまには本気になったらどうなのか。だがいつも冗談ばかり述べていたおかげで、本気になるという精神状態を忘れてしまったようだ。