彼の声52

2006年

1月31日

 冗談でそんなことを思っているようだが、なぜ神は願いを叶えてくれないのだろう。神には何が君の望みなのかわからない。しかしいつから君は神を信じるようになったのか。そのときの君は無神論者の君ではないらしく、作り話の中では、君の思想信条などいくらでも取り替え可能だ。別に神が存在するなどとは思っていないが、戯れに神という言葉を使ってみただけかも知れない。またそんな子供だましの水準で話が推移している。たぶんそこから何か気の利いた言葉を継ぎ足さなければならないのだろうが、そのとき何かが架空の架け橋から落下する。何がどことどこの間の架け橋になるのだろうか。誰かがパレスチナとイスラエルの架け橋にでもなろうとしているわけか。冗談でそんなことを述べるのは誰かの倫理に反している。では何と何をつなぎ合わせるつもりなのか。まったくその辺が意味不明だが、それでも話的には致命傷になっていないと思っているらしく、そういう話ではないのかも知れないが、ではどういう話をしたかったのか。例えば翌日の空も曇っているだろうか。昨日はどうだったのか。今日は翌日ではないはずか。夕方には雨が降り出してきた。それは昨日の話だったのではないか。たぶんそういう話でもないのかも知れない。では昼の日差しの中で君は何を思っていたのだろう。明日になれば何を忘れ何を思うだろう。そういうことでもないような気がするのだが、そんな思いには関係なく、不在の誰かは写真の表面で黙っているらしい。そこに君の言葉があるわけでもなく、たぶん舞い落ちる枯れ葉でも眺めていたのだろう。他に何が舞い降りてきているわけでもないが、それでは物足りないと思うならば、気休めに新たな作り話でもでっち上げればいい。いったいそこから何が見えているのだろう。時折暗がりの中でライターの炎が光るが、闇はどこまでも闇でしかなく、文章的には暗闇の中で何かがうごめいてほしいのかも知れないが、実際には何の出来事にも遭遇しない。気晴らしの営みにはなりたくないようだ。そこには何が回帰しているのか。苦しみは快楽でももたらしているわけか。何事も君にとって都合の良い成り行きにはなりがたい。もうしばらく待っていれば、遠くから何かがやってくるのかも知れないが、君はそれを見過ごしてしまうらしい。君は疲れている。疲れているから陽気な気分でいられるのかも知れないが、そういう陽気さはいつ狂気に変わるとも限らないので、これからも注意深くそれらの成り行きを見守っていく必要があるだろう。だが誰が見守らなければならないかわからない。現状から導き出されるのはそういう話ではないはずか。狂気という言葉は安易に使われすぎている。要するに狂気という言葉が現実の狂気を無効にしているのかも知れない。それは実際の狂気とは無関係なのかも知れない。君はそこで何を見つけたつもりになっているのか。何を見つけたことにもならないかも知れないが、それでも心を覆う空虚の正体でも突き止めたつもりになれるだろうか。くだらぬ作り話もいい加減にやめてほしいか。やめてほしければそれとは違う話を思いつくしかないだろう。思いつけなければそれを続けるしかやりようがない。だがそういう方向での努力はしたくない。ではどうすればいいのか。そんなところで行き詰まっていても、誰も助けてはくれない。要するに自力で何とかしなければならないということか。だからそれを成し遂げるために言葉があるわけだ。そして君がそれについて何を思う必要もなく、言葉がそれとは無関係に連なってくれるだろう。君の影はそうなることを期待しているようだが、それではあまりにも他力本願すぎるだろうか。虹の架け橋の話はどこへ行ってしまったのか。虹の話などではなく、架け橋など冗談にすぎないことだ。ではそのとき君は何を眺めていたのか。記憶が文章に結びつかない。結びつけようとしていないだけかも知れず、それよりもさっきまでの作り話の方に興味があるらしいが、それはどんな内容だったのか。別に枯れ葉が降り積もった雑木林に踏み入っているわけではなく、別にそこで煙草を吸っているわけでもない。煙草の煙が目にしみるのと、それらの言動が胡散臭いのとは、何の関係もありはしない。そんなわけで作り話の方もそろそろネタ切れに近い。それが何を意味するかはわからないが、別に何も意味しなくてもかまわないことに変わりはないだろう。何となく言葉を連ねるうちにどうでもよくなってきたようだ。人は人でしかなく、神は神でしかない。神と人がどう関わっていようと、神が人になろうと、人が神になろうと、それはただの文章にしかならないだろう。そこで唐突に神について語りたいわけでもないらしい。


1月30日

 何かが投げ売り状態となっている。たぶんそれらは君の言葉ではないのだろう。しかしそれもそろそろ力尽きる頃のようだ。別に他人の揚げ足取りをしているわけでもなく、誰の足下が掬われているわけでもない。波に浸食された砂浜には波消しブロックがよく似合う。まだその段階ではそうなのだろう。ここに至ってなお本気で述べているのではないらしい。どこかでホームレスが生きる権利を主張している。誰にもそこで生きていく権利は持ち合わせているらしい。君もどこかで生きていることになっているのだろうか。まだ死亡通知を受け取っていないはずだ。どんな嘘に満たされているわけでもない。そこに充ち満ちているのは、架空の闇だ。君はホームレスにさえなれない。どこに暮らしているわけでもないのかも知れない。足取りなど辿っても無駄だろう。どこまでも地平線が続いている。藪の中からはうかがい知れぬ光景に違いない。別にそこで気が狂っているわけではないのだろう。気が狂うほどの高尚な精神など持ち合わせていない。ただ物について考え、それに対応した言葉を探り出す。それだけのことにどれほどの労力を注ぎ込んでいるのか。対立が決定的になってしまってはそこでお終いか。そうならないように、君なりに言葉を操っているつもりらしいが、それが時として要らぬ誤解を生んでしまうようだ。君は結局そこから遠ざかろうとして、逆に近づいてしまったらしい。さらに今の時空へ近づいている。自らが発したとりとめのない言葉が君をそこへ導いている。それも君の計算の内なのか。何を計算していたのか覚えはないが、たぶん無意識のうちに計算が行われていたのだろう。しかしまだ目覚めているのは奇蹟に近いか。どんなドラッグを使用したのか知らないが、何もそこまでやる必要はどこにもありはしない。とりあえず今の君にはビタミンCと睡眠が必要かも知れない。たぶん少し寝て起きれば、またいつもの日常に戻れるだろう。今さら過去の時間に戻りたくなったのか。戻りたければ何もやらなければいい。何もやらないわけにはいかないだろうか。まだやる気になっていると思われてはいい迷惑か。地平線の向こう側から微かに明日の足音が聞こえてくるか。明日になれば何も思い出せなくなるだろうか。もう明日は今日になってしまったらしく、案の定何も思い出せなくなる。今さらそんな嘘は通用しないか。そうではないと思うなら、それはどのような理由によるだろうか。明け方にどんな夢を見たのか。なぜかすっきりしないのだが、そこにどんな理由があるわけでもないらしい。そう述べるより仕方がないような気もする。そして何もかもが思い出されているのかも知れない。なぜかこだわりが消えてしまっていることに気づく。何にこだわっていたのかわからなくなる。意味不明だろうと意味があろうとどちらでもよく、ただそこに文章が記されていればそれでかまわないのかも知れない。たとえ読めない文章でも一向に気にならない。何かの表出を阻んでいた何かが氷解してしまい、その何かと共に自我も溶け出してしまったのかも知れない。今ではそれらのこだわりのすべてが消え去ってしまった。今こそ過去を振り返らなければならないのだろうか。そういう話ではないような気もするが、何も語ることがなければ、過去の記憶を手繰り寄せて、そこから言葉を紡ぎ出すしか方法はないのかも知れず、そんなやり方では退屈に思われるが、とりあえずやれるだけのことはやってみようとも思う。そのとき君は何を思っていたのだろう。何を感じていたのか。まだ夜が明けきらない。闇の中へ誰かの視線が分け入り、そこにある何らかの事物の存在を認識しようとしているらしい。迷っているのに迷いがないと思いたくなり、迷いを消し去った言葉の連なりを導き出そうとするが、一向に具体的な事物が現れてこないのはどういうわけなのか。何がそこで見えているのかを言葉で示せないのは、やはり心が迷っている証拠だろうか。何かが行ったり来たりしているようだが、それは君には関係のないことかも知れない。そこに示されているのは事物ではなく何かであり、いつまで経ってもその何かから抜け出ることができないようだ。そんな手探り状態が長引いているようで、さっきから同じような言葉が繰り返し出現し続けている。まだ外は闇に包まれたままらしい。


1月29日

 昨日のことなどもう覚えていないか。だが作り話にも飽きてきて頃だ。それでは話にならないではないか。全速力で駆け抜けているつもりなのか。時間は待ってはくれない。しかしアメリカ産の牛肉でも食いたくなったわけではないだろう。そんな話をしたいわけでもない。今は何らかの時空の中にいるに違いない。まわりくどいことを述べないでほしいか。別につまらなくてもかまわないのなら、そんなことを述べていればそれで気が済むのかも知れない。ニュースなどいくらでもありそうだ。きっと毎日がニュースの宝庫なのだろう。ならばそこで枯れ草は何を考えているのか。冗談ではないらしい。冗談にさえならないことを述べている。だが決まっているのはそんなことではない。何も決まらないから迷っているのだろう。だがそんなところで道草を食っていても仕方がない。まだ決定的な結末には至っていないはずだ。もう少し真面目に現状を考察してみたらどうか。何を検討したらいいのかわからないか。そこに至る道筋を詳細に検討してみたらいい。飽くなき闘争心がどこから湧いて出るのか知りたいか。時間と言葉と格闘して、それで最終的な勝利を収めようとしているわけではない。何のために闘っているわけでもない。できることなら暴力とは無縁でありたいが、何とか言葉で決着をつけようとしているのでもない。決着などつくはずもないだろう。その前に寿命が尽きてしまうような気がするが、それが誰の寿命なのかわからない。やはりこの世界については何も思わなくてもかまわないのかも知れない。そんな思いとは無関係に、勝手に言葉が連なってしまう。だからそこから遠ざからなければならないのか。そことはどこなのだろう。それはマスメディアに支配された領域だろうか。誰かがイラクで大けがを負ったらしい。身内の人間が戦闘に巻き込まれたりするらしい。ホリエモンとかいう競走馬はその後どうなったのだろう。それはどうでもいいような事件について語っていることなのか。馬刺しにあたると死んだりするわけか。いつか株で大もうけする夢を抱いている者がいたとしたら、そういう人物にはどんな人格が宿っているのだろうか。人格がどうあれ、何かをやろうとする積極性を見習わなければならないのか。君の知性はどんな水準で停滞しているのだろう。それはどういうレベルの知性なのだろうか。永眠している故人のことを思っているわけではない。友愛をどこにも見出せない。今の状況を端的に示している言葉を未だ知らないだけか。まだ見ぬ風景についてあれこれ想像してみても、未来が向こうからやってくるわけがない。まだそこまで至っていないだけのことでしかない。道が遠すぎるのかも知れず、そこに至る前に力尽きてしまい、行き倒れの屍を烏が啄んでいる。そんな光景がこの世界のどこに出現しているのか。それ以外にまだ語るべき光景があるだろうか。誰かはまた肺ガン検診を受けるのを忘れてしまったようだ。死のはるか手前で迷っている。言葉の他に何も出てこないが、無理に出てくるのはくしゃみだけか。何が体内から這い出てくるわけもなく、どこから闇が迫ってくるわけでもない。ただ遠ざかろうとしているだけだ。言葉も物も遠ざかろうとしている。それで正気を保てるわけがないだろう。虚無の前では焦りさえ遠ざかろうとする。眺めているのは無名の画家の絵か。コマーシャルの類かも知れない。何の推理も働かせていないのに、向こうから謎解きを迫ってくる。そこに現前している状況を無視したいが、またニュースの時間のようだ。今度は誰が主人公に仕立て上げられるのだろう。誰について語ってしまうのか。生け贄に捧げられたのはどんな人物なのか。すべては言葉でしかない。そしてすべては物でしかない。さらにすべてに精神が宿っているわけもなく、それを何かの精神作用だと見なす者は、どこかで足下を掬われているのだろう。まだ終わりには程遠い。これからが正念場かも知れないが、そんなことなど誰が知ったことでもなく、誰にそれが当てはまるわけでもない。とりあえず君はその影と共に何かを見つめているらしい。見つめられたら見つめ返さなければ石化してしまう。まだ不動の存在になるには早すぎるだろう。不在のままの方がマシなのか。公園に設置されている銅像には鳩の糞がこびりついているではないか。それが名誉の証なのか。


1月28日

 もう用意はできているだろうか。別に自殺する準備を整えているわけではない。甘美な瞬間の到来を願っているわけでもない。何か抽象的なことでも述べようとしているのだろうか。この世には分相応の領域というものがあるらしい。人にはその能力にふさわしい地位と待遇が与えられているのだろうか。拘置所の人物にもそれは当てはまるだろうか。有名人とは何だろう。有名になるとはどういうことなのか。それにふさわしい危険が待ちかまえているということか。何をやりすぎればそうなってしまうのだろうか。窓際の枯れ草にもそれが当てはまるとは思えない。枯れた雑草が辺り一面に横たわっている。どこまでも続く荒野を空想しているのかも知れない。実際にやったことは大したことはない。誰から金を巻き上げたわけでもないらしい。多くの人々は喜び勇んで金を貢いだわけか。結果的に儲かったのだろうか。今は何曜日なのだろう。たぶん今の二日か三日前になるのだろう。今から遠ざかろうとしていたのに、逆に近づいてきてしまったらしい。いつの間にかそういう事態になっている。ところで彼はエリートだったのだろうか。何をもってエリートと定義すればいいのだろう。高学歴ならそういうことなのか。ここ半月ほどメールを見るのを忘れていた。だがそれは誰宛のメールでもない。数種類あるメールアドレスの一つに過ぎない。映画の話はその後どうなったのだろう。何かおもしろい映画が上映されていたりするのだろうか。たぶん昨日の話の内容はそんなところだったのではないか。窓際の枯れ草も心なしか傾いている。君が眺めているのはそんな風景でしかなく、そこには荒野などありはしない。部屋の中に荒野が広がっていたら、それはテレビ画面上に映る幻影に違いない。それでも君には荒野がふさわしいだろうか。まったくこじつけにもならない意味不明か。そこから何を抽出しようとしているのだろう。虚無以外に何があるというのか。そういう思いはゴミ箱にでも捨ててしまえばいいだろうか。レトリックでもないのにそんなことができるわけがないか。何がそこでのレトリックだと思われるのだろう。レトリックとは何のことをいうのだろう。正確な意味もわからない言葉を使用していい加減なことを述べている。遠くに見える光の束は何を形作っているのか。それは何かの現象だろうか。何がそこでの出来事になるのか。今さら何を否認しても始まらないと思う。何を始まらせようとしているのでもないらしい。始まっているのはテレビドラマの類かも知れず、それを見ながら暇つぶしをしている余裕があったらそれで満足なのかも知れない。そうやって怠惰に流されながら、君は現実の時間から取り残されようとしていた。だからその状態から立ち直る必要があったわけか。しかし立ち直って昔と同じようなことを述べていても何の進歩もありはしない。誰が文章が進歩することを願っているというのか。内容が何も伴っていないのは相変わらずか。何が劣等感をもたらしているのだろう。卑屈なことを述べているのだろうか。いつの間にかそこで立ち止まっている自らに気づく。たぶんいつものようにすべてはフィクションであるということで片づけられてしまうのかも知れない。実際にその通りなのだから仕方がない。まだ夏には程遠い。雰囲気的にも落ち着きのなさがその場の空気に反映されている。いくらでも過ちを犯してもかまわないのかも知れない。それが愉快ならかまわないのだろう。何か冒険でもしているつもりなのか。そういうわけでまだ死ぬには程遠い環境の中で遊んでいる。遊んでいるつもりなら本気になることもないだろう。それは仕事から遠ざかろうとしている。もはや作業であるはずもなく、労働などではなおさらない。苦役であったり懲役であったりするわけもなく、ただふわふわと浮ついた文章の中に誰かの意識が出現しているらしい。言葉の連なりはその先へ向かって進んでゆくのだろうか。まともな文章を構成しようとして果たせず、砕け散ってしまった心を再構成させる暇もないままに、ただ前進させているだけのように思われるのだが、その原動力となっているのは、やはり虚無のなせる業なのか。いつまでもつきまとって離れない君の影にどんな思惑があるのか知らないが、空虚な衣装を纏って辺りを徘徊しているその影に、どんな思いを託しているわけでもない。


1月27日

 誰かは言葉を見せている。それらは読む必要のない言葉だ。今さら自らのやっていることに意味を求めても無駄だろう。すでに言葉を繰り出した時点である意味が付与されている。その意味が無意味だと思いたいのか。そんな都合良く世の中の仕組みができているわけがない。そうなってしまうのが鬱陶しいので、そんな仕組みとは無関係になりたいわけか。人はこの世に生まれてきた時点から世の中に組み込まれているのであり、人によっては生まれる前から、あるいは死後もそれらが醸し出している制度に拘束されているかも知れない。しかし制度とは何のことなのか。制度は制度としか呼ばれないものだ。それを制度と呼べばそれが制度と見なされる。ご都合主義的に何を述べているのだろう。君は制度の何たるかをわかっていないようだ。わかっていないことを利用していい加減なことを述べている。たぶんそれでもかまわないのだろう。何をどう述べようと君の勝手だが、君が何をどう述べても、それらの制度が揺らぐことなどあり得ない。そんな言動も織り込み済みなのであり、そんな行為も含めてそれらの制度は成り立っているわけだ。すべては制度の許容の範囲内に収まる。そんな制度の中で君は生きている。しかしそれで制度について説明したことになるのだろうか。その辺はよくわからないのだが、何となくそれを利用して言葉を連ねることは出来たと思われる。結果的にはその程度で満足しなければならないのかも知れず、それ以上のちゃんとした説明を望むなら、その手の専門家の書物でも読めば、文章のわかりやすさと読解力の程度にもよるだろうが、制度に対するそれなりの認識を得られるかも知れない。たぶん君はそんなものなど読む気がしないだろう。いい加減な知識のままでもいいと思っている。君が得たいのはそんな知識ではなく、どんな知識でもなく、さらなる空虚を得たいのだろうか。空虚と知識はどう違うのだろうか。知識も知識だけに終わるなら空虚と変わりないか。ではそこでどんな実践が可能だと思うのか。すでに並べている言葉の連なりが実践の一形態だと思いたいのか。君にはそれがわかっているはずだ。わかっていながらとぼけているのも実践の一つなのだろうか。しかしそれで何がもたらされるわけもない。ただそう思いたいだけで、誰かはそこに空虚がもたらされていると感じているらしい。それが君が求めていた空虚なんだろうか。有用性を欠いた言葉の連なりは、空虚そのものになれるだろうか。使い道のない言葉の並びにどんな意味を当てはめればいいのか。意味が君を求めている。それらに意味をつけてほしいそうだ。何らかの意味がないと文章ではなくなるのだろうか。それらのシステムに魅入られているのは君自身の不在だ。そこに特定の意図や思惑などあり得ず、何も見出せないように見せかけているのは誰の意図でもありはしない。あえて間違ったことを述べるなら、それも自然現象の一種なのだろう。言葉は自然に導かれて、わけのわからない文章として構成されるらしい。自然は君の不在を通して何を理解させようとしているわけでもない。誰の理解とも関係のないところでそれらの営みは行われているようだ。君はそれらの文章の中に出現するのをためらっている。だから君の身の上話など語られるはずもなく、君はただ君という言葉のみでそれらの文章の中に刻まれているに過ぎず、文章が君について何を述べようというのでもないらしい。あるいは何も述べられないというのでもないらしく、述べていることは何かの説明の類なのだろう。いつまでも無用な説明がつきまとう展開となっていて、無用であるからいつまでも続けていられるのかも知れない。言葉の有用性には限りがあり、有用であるなら、そこには必ず終わりがある。とりあえず何かを語り終えなければ、何の役にも立たないだろう。いつまでも語り続けられていれば、そこから実践へは移行できない。しかし役に立つ文章というものがこの世の中のどこにあるのだろうか。例えばどんな文章なら役に立つのか。それに関して思い当たる文章を具体的に示せない。たぶんそれを示してしまえば、すぐにそういう文章を馬鹿にしにかかるのかも知れない。他人の文章をこき下ろすのが君のやり口なのかも知れず、そんな常套手段の上にあぐらをかいて、いつまでも進歩から見放されている自らの愚かさに気づかないわけか。


1月26日

 そこで何か反省すべきことでもあるのだろうか。馬鹿げた思い込みを貫き通しても、それなりの結果を得られることがあるらしい。では具体的に何が得られたのか。それが空虚でないという証拠がどこにあるのだろう。それ以外の何を求めているわけでもない。いつもそうやって嘘をついてきたはずだ。多くの人々が楽しみや癒しを求めていることはわかっている。君もそれを求めているはずだ。何も好き好んで暴力を求めているわけではない。なぜそこで暴力なのだろう。他の誰かの闘争本能にでも火がついたわけか。単なる文章上の誤りなのかも知れない。では他に気づいた誤りを述べられるだろうか。そういうことを述べたいのではない。述べたくもないことを記してどうするのか。そこに何を記そうと誰かの勝手だったかも知れない。無論誰かとは誰でもない誰かだ。だがそうむやみやたらと開き直る理由はどこにもない。空虚も読む者にとっては行く手に立ちふさがる暴力の一種かも知れず、頼むから興味を惹くような内容を述べてほしいと願っているのかも知れない。だがそんな頼みを誰が聞かなければならないのか。現状はそういう水準で推移していない。何もない現状では何も推移しない。しかし以前はそこから遠ざかろうとしていたはずだ。遠ざかれないことを知りながら、遠ざかろうとする仕草ばかり繰り返していた。無駄なことをやるのには慣れている。もしかしたら君は千回に一回ぐらいは真実を述べられるのかも知れない。だが本当のことを述べるのに九百九十九回も嘘をつかなければならないとしたら、それはかなり骨の折れる作業となるだろう。だがそういう前提そのものが嘘だとしたら、そんなくだらない言葉遊びのパラドックスについて何を述べればいいのだろうか。眠気と共にあくびが出てくるが、例えばそこでどんな感慨を抱けばいいのか。抱く必要のないことを抱かなければならないわけか。別に無理に感慨など抱く必要はなく、そういうふざけた成り行きには逆らわなければならないだろう。君が逆らえるはずがないか。逆らってしまったら、それこそ嘘になってしまうだろうか。本気で逆らっているわけではない。逆らうにはそれなりの理由が必要なのかも知れず、理由を見出せない君に逆らう資格などありはしない。だが何も理由だとか資格だとかいう言葉を持ち出さなくても、そもそも逆らう対象がわからないのだから、そういう言説自体がはじめから無効なのではないか。それでもそれなりに言葉を連ねているつもりになれるだろうか。いくら言葉を連ねても、真実などどこにも示されはしないだろうが、そう述べて何を否定したいのかわからない。はじめから真実など示すつもりもないのに、どうしてそういうことを述べてしまうのか。やはりそう述べる理由など何もなく、ただその場の偶然からそんな言葉の連なりが記されているだけなのか。仮にそうだとしても、それについて何か述べたくなるのはどうしてなのか。答えの返ってくる見込みのない疑問をいくら並べても無駄なだけではないか。だがはじめから無駄なことを述べているのだから、それは当然の成り行きに違いない。それらのどこに否定すべき内容があるのか。ではそれらの何を肯定すればいいのか。無駄で無意味なことをいくら肯定しようと、それはどこまでも無駄で無意味であるだけで、それ以外に何がもたらされるわけでもないか。君はその辺で何か勘違いしていないか。たとえ心を虚無に覆われていても、それでも何か肯定的な幻想を抱いていたいのか。ではそこから何がどうなってほしいのか。目の前の視界が突然開けて、何かすばらしいアイディアがひらめいたりすれば、それはそれで気晴らしぐらいにはなるだろうが、なぜそれ以上を望まないのか。気晴らしを超えるような出来事に遭遇したいとは思わないのか。君はすばらしいという言葉を軽んじている。前もってすばらしいという意味を減じた上で、それを肯定できないような文章の中で、その気もないのにすばらしいと述べている。適当に言葉をはめ込んでいるような気がする。要するにそれを本気で述べていないのだろう。述べている最中に、どこからか空気が抜けているような文章に思われる。それで何について述べている気になれるのだろう。どんな気になろうと、そこには君の意思とは無関係な言葉の連なりが記されているだけか。


1月25日

 これから何と闘うつもりなのか。無意味な言葉と格闘しても無駄なだけか。しかしそれを見極めなければならない。それとは何だろう。それはそれという言葉以外に何を指しているのか。君には物の価値がわからない。物とは具体的に何を指しているのだろう。言葉も物もそれ自身が示している以外にどんな意味を持っているのだろう。それについて何か気の利いた見解を述べようとしているのではないらしく、ただそんなことを述べてみただけなのかも知れない。まだその程度では本題とはなりがたいが、何が本題だろうと、そんな本題などすぐに無視されてしまう。言葉の連なりは本題など求めていない。求めているのは空虚そのものの到来か。だがそうなる理由など何もありはしない。では理由以外に何があるというのか。そこで見過ごされているものは何なのか。君はそれが真実だと思いたいのだろうか。それらの何が真実なのだろう。ただそこに真実という言葉が記されていることが真実なのだろうか。それ以外の何が真実なのだろう。真実など探せば他にいくらでもあるだろう。どのような真実を探しているのでもないはずだ。要するにそこに示されている何もかもが真実なのかも知れない。嘘でさえ真実なのだろう。そんなわけはないか。どんなわけでもない。何のわけも述べられないのか。そういうわけではなく、どういうわけでもない。君の心は嘘を述べる方向へ傾いている。それを今さら修正できるはずがない。何をどう修正すればいいのかわからない。すでに何かを述べているらしい。それが架空の世界であるわけがないだろう。それについて何をどう述べようと、君の勝手なのではないか。君以外の誰の勝手であるはずがない。何もかもを語るつもりもないのに勝手も何もないだろう。君は何かのしがらみに囚われていて、そこから抜け出せずにいるだけか。だがそれは言葉とは無関係だ。君には何かを述べる時間も場所もあるはずだ。だからそうやっていつまでも無意味なことを述べているわけか。無意味なだけでなくまったくの無駄なのかも知れない。わかりきったことを述べないでほしい。では何が何かを述べる邪魔をしているのだろう。意味のある無駄ではないことを述べたいとは思わないのか。それを誰が思えばいいのかわからない。それはどういうことなのか。たぶん君には自らが何を述べているのかわからないのだろう。しかしそんな根拠の曖昧な憶測が真実であるはずがない。そう述べて何を指摘しているつもりなのか。誰がそう述べているのだろうか。自らが何を述べたいのかわからなくなるのだが、自らとは誰のことなのか。誰が自らである資格があるのだろう。彼にも私にもその資格があるとは思えない。では架空の存在である君が自らを語ることができるだろうか。言葉でしかない君にどんな内容を語れるというのか。それでも君が語っているとしたら、それはフィクションとなるしかない。君が何かを語っていると言葉で記されるに過ぎない。しかしその言葉を記しているのはいったい誰なのか。そこから先は読んでいる者の想像にまかせるしかないのだろうか。それ以前にわかりきっていることではないのか。なぜそこで事実を曖昧にして真実を隠さなければならないのか。要するに本気で語る気がしないということか。何を語っても嘘になってしまうような気がする。君の存在さえ架空なのだから、君について何を語っても嘘になることはわかりきっているはずだ。だから君には何の持ち合わせもない。物語に結びつくようなエピソードは何もない。ではそこから何を語るつもりなのか。それ以降に何を語ろうとしているのだろう。誰が何を語ろうとそれは君には関係のないことだ。そんな風に述べている当人にも無関係かも知れない。ただ言葉は言葉自身について述べている。それ以外に語る対象を見出せないらしく、そこから別の対象に移り変わる術を知らないかのように、ひたすらそれ自身を語りたいらしい。そうとしか思えないような無内容を示している。まったく呆れを通り越して、勘違いの感動をもたらすほどの無意味と無内容だ。なぜそうなってしまうのかはわかりきっているつもりだが、わかっていてもやめられないのはどういうことなのか。やはりどういうことでもなくそういうことでしかないわけか。だからそれがどういうことなのかがわからない。


1月24日

 何となく無理な雰囲気になりつつある。まだ精神的に立ち直れないようだ。いったい誰が立ち直れないのだろう。語りたいのはそんな話ではないはずか。何も語りたくないのかも知れない。予想はことごとく外れ、心の動揺を隠しきれなくなり、そのうち何を予想していたのかも思い出せなくなり、自らが何を語りたいのかもわからなくなる。そんな成り行きになるはずもないと思いたいが、それは君が決めることではない。君は何も選べないのであり、ただなるようにしかならない成り行きのただ中で、自らの意思とは無関係に動き回るだけだ。その場の雰囲気に動揺して、空気を読めずに、ひたすら勘違いの内容を語り続ける。そんなことが本当にあり得るだろうか。馬鹿なことを口走ってはならない。誰に対して口走っているのだろう。口走る対象が不在だとすれば、それは単なる独り言でしかない。では君の独り言の内容はどこにあるのか。そこに書かれている内容が独り言だとは思えないが、君はまだ沈黙を守っているのだろうか。どこからそれをうかがい知ることができるのか。たぶん君が記そうとしているのは沈黙の言葉なのだろう。無論本気でそんなことを述べているわけもなく、とりあえずの内容ばかりが延々と連なっているに過ぎない。取り立てて何を示しているのでもないのかも知れない。ではそこに示されている内容は何なのか。ただの無内容が言葉で示されているわけか。しかし無内容とはどんな内容なのだろう。文章に内容がないということは何を意味するのだろうか。それが無意味な文章といえるだろうか。しかしなぜそんな当たり前のことを改めて述べているのか。そこには見え透いた理由がありそうだ。理由などあとからいくらでもねつ造できるが、そんな理由に説得力が宿ることはないだろう。別に理由にこだわっているわけではないが、何かが狂っていることは確からしい。そこに理由を見出す以前に、そこで明らかとなっている不具合を修正すべきではないか。いったい何が明らかとなっているのだろう。文章の内容のなさか。情念は何もない。いきなりその言葉は何だろう。ではいつになったら朽ち果てるのだろう。何が朽ち果てようとしているのか。万物は常に変転している。流転した先で何が待ちかまえているかを知ろうとしているのではない。そういう話ではないはずだ。話の筋はどこへ行ったのだろう。沈黙を破っていきなり口走った内容は何だったのか。誰がどこで無口なふりをしていたのだろう。言葉がさらにずれている。何もかもがわからずじまいではいられない。その中の何かをわかったふりをしていないと、自分が馬鹿にされたような気になるらしい。誰かが君の噂をしているようだ。そんな気にさせるようなことをした覚えはない。話の内容はそんなことでもないらしい。では何か約束をした覚えはないか。誰に何を約束したのだろう。確約できることは何もないだろう。君は心を空虚に囚われていればそれで満足なのかも知れない。君の他には誰もいない時空で、何を思うでもなく、何を考えるでもない。それが君の不在を示しているのだろうか。他に何か覚えていることはないか。そのとき何を思っていたのだろう。何も思わないとすれば、何か思っていた時を思い出すことができるだろうか。なぜ何かを思わなければならないのか。思わなければ話にならないのだろうか。君はそこで何を話しているわけでもない。それは君の話でさえないのかも知れない。だがそれとは何のことなのか。君はそこで何かを知らなければならないが、知り得ないことまで知るつもりはない。たぶん語っているのは君ではなく、話したいのはそういうことではない。ただそこで何が足りないかを示したいだけなのかも知れず、その足りない何かが言葉によって示される時、話はそこで終わるのだろう。だからその足りない何かを探り出さなければならない。しかし探り出すのは君ではなく、そこに連ねられている言葉自身がそれを示さなければならず、君にはそれが不可能に思われるらしい。君とは無関係な言葉がそれらのどこに示されているのか。それらのすべては君自身について語っていることではないのか。だが誰がそんなことを指摘しているのだろう。話がそこに至ると必ずそんな言葉が出現してしまい、話の方向をはぐらかしにかかってしまうようだ。やはりそれで何を述べているのでもないのかも知れない。


1月23日

 本末転倒になりそうだ。何かがおかしい。閉じたまぶたの裏側で、光が射してくる位置を確認している。君はそこで他人の目を気にしていたのかも知れない。それが旅であるわけがない。すでに過去の話になってしまったようだ。心はどこかを移動し続けている。ごみごみした地帯を抜けると、そこには何の変哲もない風景が広がっていた。目的がそこにあるわけではないことはわかっている。それからしばらくして、わけのわからない成り行きを通過して、そこでの問答とは関係なく、どうでもいいようなトンネルをくぐり抜け、せっかく視界が開けてきたのに、どうやらその辺で眠気の限界に達してしまったらしく、あとのことは何も覚えていない。深夜に言葉を連ねようとして力尽き、夢の中でそれらの惨状を目の当たりにして、もはやごまかすことすらできなくなってきた。何をごまかせばいいのかわからない。どうしてもその続きが思いつかない。しかし何を切羽詰まっているのだろう。意図的に状況を無視したいらしい。君はそれらの結果からそれにふさわしい言葉を選ばなければならず、何もわざと難しいことを述べなくてもいいはずか。ただそれについて語ればいいことでしかないが、それともまだその時期ではないと思いたいのか。そんな思い込みが何をもたらそうとしているのだろう。現状の他に何がもたらされてほしいのか。他とは何だろう。他者の言葉の中にどんな意味が宿っているというのか。空疎な言葉の他に何があるのか。目の前の空間には何があるのだろう。物質的には空気がありそうだ。空気には窒素と酸素が含まれている。たぶん呼吸するには酸素が必要なのだろう。いわんとしていることとは無関係な言葉が連ねられる。疑り深いのは今に始まったことではない。ことさら事実を述べようとは思わない。何か事実なのかを見極めようとしているわけでもない。そんなでまかせも今に始まったことではないだろう。ただひねくれているだけのような気がする。ひねくれすぎて首が一回転してしまったらしい。わざと嘘をついてもつまらない。だがわざと真実を述べてもつまらない。心が感じている本当のことは、それらの語りには馴染まない。真実はどこまでも真実であろうとして、それについて語ろうとする意思を打ち砕くまで、真実であろうとすることをやめない。何も語れなくなるまで真実は嘘をつこうとする。それは嘘にはならないはずだ。語っている者が行う安易な自己正当化が許せないのだ。間違ってもおまえの語りであろうはずがない。誰がそれを語っているのでもなく、ただ真実がその場に出現しているに過ぎないことを、語り手は言葉でごまかそうとする。自らが語っていることが真実であるかのように見せかけてしまうわけだ。そんな偽装が許せないのだろう。だから真実は語り手をすり抜けて、それについて語っているつもりの言葉から限りなく遠ざかろうとしてしまう。もはや真実がどこにあるのか判別できないような無限の距離が必要になる。しかしそんな嘘が何になるのか。嘘ではなくそれが真実なのではないか。そこであっさり自らのでまかせを認めて何になるのだろう。そんな風に述べながら君は、真実から限りなく遠ざかろうとしているのではないか。それは無意識のなせる業かも知れない。君の心はすでに打ち砕かれているはずだ。気味悪いほどの静寂に包まれた偽装空間の中で、薄ら笑いの貼り付いた顔がそうなってしまった証となる。君はそれとは違う結果を求めていたのではなかったか。ただ単純にそれらの真実を知りたかっただけなのかも知れないが、それではあまりも簡単すぎるような気がして、それを認識しようとせず、結果的にいつもその場に立ち現れている真実を取り逃がしてしまう。真実を真実とは思いたくないのかも知れない。何とかそれが嘘であるように語りたいのだろう。そして他の誰かが真実を語るのも許さないのかも知れず、ひたすら自らが嘘について語っていると思い込みたいのだろう。だがなぜそれが嘘そのものなのではなく、嘘についてなのか。それらの偽装された嘘とは何なのか。どうもその辺から話の内容を把握できなくなりつつあるようだ。わざとそうしているのかも知れない。そうなるように意図的に話の筋をずらしている。たぶんそうしなければ話が続かないのだろう。それらの語りを継続させるために、わざとこんがらがったことを述べているのかも知れない。今さらわかりきったことを述べないでほしいか。


1月22日

 君は何を利用してそこにとどまるつもりなのか。昨日から話がまったく進んでいない。作り笑いにはもう飽きてきた頃だろうか。君はそこで誰について語っているのか。架空の話の中では、誰かはもがき苦しむことに慣れてしまったようだ。思わぬ結果に首をかしげながら、思い通りにならない成り行きの中であえいでいる。それが慣れた証なのか。それらの語りは誰のことを述べているわけでもなく、ただ架空の話の中に適当な苦しみが散らばっているだけか。君はそうやっていつまでもいい加減に語りたいのだろうか。それがいつまで持つのかわからないが、どこかで何かが狂っているのかも知れず、それらの狂乱騒ぎについては、誰のせいでもありはしない。誰もが責任のある立場から逃れているように思える。自らの立場を正当化する者にとって、いったんそのような状況になれば、そういった責任逃れの言葉を繰り出しざるを得なくなるのは、必然の成り行きだ。君にはそれが不可解に思われるようだが、それについて物事を単純化して文章を構成するのは愚かなことか。何が正しくて何が間違っているかを指摘する立場の者には、どんな責任が生じるのだろう。漫画は漫画の世界だけに起こりうる現象を扱っていて、映画は映画特有の映像と音響効果の上に成り立つ見せ物だ。君はそれらの何を許せないのか。そこから君独自の論を展開させなければならないようだが、そんな論を誰が知るわけもない。何がそこでの論となるのだろうか。そもそも論とは何なのか。すでに何かしら述べていることになっているらしいが、その何かしらという言葉がある種のごまかしなのだろう。ただ漠然とした対象を何かしらという言葉で示しているだけか。しかしいったいそれがどうしたというのか。そんな風にしか述べられないのだから、そんな風に述べるしかないだろう。他にリアリティを感じさせる言葉を知らない。誰もが見てきたことについて誰かが解説していて、適当に類似点を指摘した後に特異点を指摘したりする。すべての解説がそんなことの繰り返しなのだろうか。だが君はなぜ解説の中身について触れようとしないのか。それらの解説の中では具体的に何が述べられていたのか。そんなことなどすでに忘れてしまっている。時間の経過を考慮に入れていなかったらしく、解説の中で何が述べられていたかを忘れた頃に、それらの文章を記そうとしているように思われる。だから中身が何もないわけか。そんなごまかしは卑怯か。その辺で真意がわからなくなってくる。言葉を連ね始めて半日経ったそのときから、何をごまかしていたのかを忘れてしまったらしいが、そこから何をどう述べていいのかわからない。たぶん言葉が天から舞い降りてくるのを待たなければならないのだろう。だがなぜそんな表現に至ってしまうのかわからない。いったい誰がそこで待っているのか。誰が架空の夜空を見上げているのか。それは即興の演技に違いない。待ち受けていたのはいつもの夜の到来に過ぎないだろう。そして今日も結局何もわからずに、目を閉じて明日の朝を待ち続けなければならないのか。朝になって何が起こるわけでもないだろう。朝になったら死んでいたらどうしよう。何か心配事でもあるのだろうか。切り抜けなければならない困難とは何なのか。はたして今経験しつつある成り行きが困難なのだろうか。困難と思うなら困難なのだろう。だがその困難は終わりに近づいているとも思われる。あと数行で終わってしまうような困難が困難といえるだろうか。たぶん困難なのだろう。内容のなさに胸が張り裂けそうか。そんなことで胸が張り裂けるわけがない。困難はもっと別のところにあるのではないだろうか。言葉をいかに並べるかについては、気分次第でいかようにもできるが、その言葉の並びに誰が納得するかについては、誰も納得し得ないような気がする。何となく馬鹿らしく思われてくるしかないようだ。それについて何をどう解釈すればいいのだろうか。つまらない結果の提示に逃れようとしているようだ。だが誰の本心からそうしたいわけでもなく、誰もそれでいいとは思っていない。では仕方なくそんな成り行きの中に身を投じているに過ぎないのだろうか。そう思ってもらって一向にかまわないが、それでうまくいくはずがないとも思っている。どうにもならないことを、どうにかしようとしてはいけないのだろう。自分一人でどうにもならないのなら、他人の力を利用する以外にやりようがないのだろう。


1月21日

 何も思い浮かばないわけがないだろう。ただ精神的に疲労困憊しているだけだ。誰もがそうなのかも知れない。地縁血縁によって成り立っている社会なのだろう。一部ではそうではないのかも知れない。では友情とは何なのか。一方では友愛などと呼ばれる現象もある。君はそれらの何がわからないのか。それらの文章は何を示そうとしているのだろう。記している者さえわからない曖昧なニュアンスだろうか。それはカフェインから影響を受けた作用かも知れない。わかりやすい性格とはどのようなものなのか。それらの何がわかるわけがない。のめり込んでいる対象を明らかにすることができない。ついでに何を否定しているのかわからなくなる。すべてを否定しているわけではないはずか。この世に否定できないことなどありはしないが、そんな否定などすぐ無効になってしまう。すべてを否定した後には何もかもを肯定しなければならなくなる。そういう状況に追い込まれた人は気が狂ってしまうらしい。だがそれはその場しのぎの嘘かも知れない。ではいつか必ずこの世のすべてを肯定する時がやってくるだろうか。そうなった時に何も思わないことをやめる決心がつくかも知れず、肯定が作り出す美しい情景に感動することだろう。今はそれも嘘かも知れない。では嘘が本当になる日はいつやってくるのだろう。いつやってこようと、そのときになったらわかることでしなく、案外そのときにはそんなことは忘れているかも知れない。肯定や否定などという判断はその場の気まぐれでどちらにも振れるものだ。同じような現象が時空が違うだけで肯定されたり否定されたりする。人々はいつも馬鹿らしい現象を肯定してつまらない現象を否定するだけだ。要するに馬鹿らしいことがすばらしいわけだ。ではそれに反抗したい君はつまらないことに感動するわけか。それ以外に何があるのだろう。何もかもがあり、どこにも何もない。あると思えばいくらでもあり、ないと感じるならまったく何もない。何もなければ何もないと思うだけだ。他にどんなことを思えばいいのか。何がそこで麻痺しているのだろう。何が麻痺しているわけでもなく、すべてが麻痺しているのかも知れない。そんな風に思えば楽しいか。それがつまらないことの真相かも知れず、それの何が真相なのかわからないが、たぶん真相という言葉の使い方が間違っているのだろう。そんなやり方が楽しいわけがないか。その辺で君と誰かの見解が異なってしまうかも知れない。いったい誰が内容の楽しさを求めているのだろう。そしてつまらないから感動的なわけもない。ではすべては嘘だったのか。嘘なのではなく、単に意味不明なだけだろう。ただ何をやってもその中のひとにぎりの人々が成功する仕組みになっていることは確からしい。そういう成功者にメディアが焦点を当てて、みなが競争するように煽り立て、ますますひとにぎりの成功者を輝かせようとしているわけだ。たぶん成功へを夢を絶えず振りまきながら、それによって大多数の敗残者を盲目にしているのだろう。自らの愚かさを気づかせないようにしているわけだ。そんなゲームに喜び勇んで飛び込んでいく者の気が知れないか。誰もが機会さえ巡ってくればそうしたいのかも知れない。そんな状況で何を述べても無駄だろう。それがまともなやり方だとは思わないが、ではそれらのすべてがまともでないやり方なのかといえば、そうではないような気もする。まともなやり方など無効なのかも知れない。絶えず他人を出し抜かなければ自らが浮かばれない。まっとうなやり方にこだわり続ければ、どんどん沈んでいってしまい、いつも貧乏くじを引くことになってしまうわけか。それも違うような気がする。別に沈んでいっても貧乏くじを引いてもかまわないだろう。成功しようと失敗しようと、最終的にそんなことはどうでもいいことなのかも知れず、人はただ生まれて生きて死んでゆくことしかできはしない。その過程において言葉や物で身の回りをいかに飾り立てるかを競い合っているだけでしかない。そう考えてみれば、すべての人間が愚かしくもはかない人生を歩んでいることに気づかされるだろう。要するにそれらのすべては馬鹿らしいと同時に魅力的に思われてしまうようだ。だがそんなものに感動してどうするのか。そんなことを追求してどうするのだろう。


1月20日

 なぜか急ブレーキがかかったような状況に追い込まれている。興味がないということは、それを無視してもよいということか。いかに無視しようと君はそれから逃れられない。そこから遠ざかれないわけだ。君を取り巻くそれらの環境は君の存在を認めない。その空虚な意識は何を目指しているのでもないらしい。誰がそこにいるのだろうか。誰もいないはずがない。誰かの意志が介在して、それらの環境が構築されていることは確かだ。君はその場を覆う不可視の存在を知りたいのか。この世界以外に何があるわけでもない。存在するすべてがこの世界の一部でしかないことはわかりきったことだろう。しかし君はこの世界を知っているといえるだろうか。そのすべてを知ることはできない。それは存在ではなく不在ではないか。君は他人の空想や妄想の内容を知りたがっているのか。その辺で意味をぼかしてあやふやなことを述べようとしている。どうもそれは違うような気がする。君はつまらない話には興味がないのかも知れず、もしかしたらしゃれでおもしろおかしなことでも語りたくなったのだろうか。まさかこの期に及んで気が変わったとか述べるつもりなのか。しかしそれ以前には何を話す気になっていたのだろう。それらの言葉はいつもの逡巡と果てしない迷いをもたらす。何を躊躇しているのか。躊躇する理由など何もないはずだ。何がそんなに気に入らないのか。どうも言葉の並びに拭いがたい暗さを感じる。たぶん他人の立場や思惑など知ったことではないのだろう。ごり押し姿勢を貫き通せば、いつかは自分の主張が通るとでも思っているのかも知れないが、そんな単純なやり方でうまくいくのだろうか。それが世界中に広まっている一般的なやり方だとすれば、やはり最終的には暴力の応酬に発展するしかないのだろうか。他にどんな解決法を導き出すことができるのか。話し合いは果てしなく続き、決して解決に至ることはないだろう。解決させるために話し合うのではなく、互いの主張の違いを際立たせるために話し合っているのだろうか。そのまま話し合いは平行線を辿ってしまうらしく、何の歩み寄りももたらされないようだ。この世は和解することの困難な問題だらけなのだろうか。たぶんそのほとんどがだめなのかも知れない。誰もが他人の行為を許せない。それが弱肉強食社会の本質なのだろうか。作られた話にはどんな意味が内包されているのか。つまらない話なら空虚が宿るかも知れない。そんな空虚に踊らされて、人々は身の程知らずの夢でも見るのだろう。だがそんなことを述べている君にも夢を抱くような成り行きが待ちかまえているのだろうか。君は今どんな夢を見ているのだろう。何か得体の知れない者にでもなろうとしているわけか。そしてついに化けの皮が破がされる。それはいつの日のことになるのだろう。君はそこで何か特定の人物について予言しているわけではない。ただその場に漂っている言葉の雰囲気に流されながら、何かわけのわからないことを口走っているだけのようだ。だがいくらその先に言葉を弄してみても、話が先に進むはずがない。話を進ませないように言葉を弄しているのかも知れず、そこに限りなくとどまりたいのだろうか。いつまでもそこから動かないつもりなのか。すでにかかとまで地面にめり込んでいるのかも知れない。どうやら身体が重すぎるようで、その重さに膝が耐えきれなくなり、まともに歩けないような状態になってしまったらしい。そんな嘘ならおもしろいだろうか。お粗末なフィクションの断片を恥ずかしげもなく披露して何がおもしろいのか。たぶん君には事の真相が理解できないのだろう。何の事情も把握していないようだ。要するにいつものごとくわけがわからないだけか。わけがわかるような言葉の並びではないらしい。そんなわけで君はそれらの文章を本気で読む気がしなくなる。全身に行き渡っている脱力感に抗ってまで、まともな精神状態に戻ろうとは思わない。その辺でもう終わりなのかも知れず、終わらない話をいつまでも繰り返していても仕方がないとさえ思うだろう。だがそれで終わりようがないことに変わりはなく、終わらせられない話など話ではないのかも知れないが、そんな根も葉もないいい加減なことを述べていていいのだろうか。誰が何を述べているのかわからないだろうか。おそらく誰も何も口走っていないのだろう。


1月19日

 そこから何がわかるのか。原因を知らず理由も知らず、何も知ろうとしない心の内側を、どうやって明らかにするつもりなのか。何も明らかにできないと思い続けることから、わけのわからない言葉の連なりが構成されるのだろうか。それを見出して何を思うつもりなのだろう。何も見出されないと思い込み、何も思わないと思い続けるつもりなのか。そんな無意味なことを思い続けてどうしようというのだろう。無意味だと思われるから思い続けられるのか。何だかそれでは原因と結果が逆転しているような気がしてくる。しかし何が原因だろうと結果だろうと、そんなことはどうでもいいような気もするのだが、それでは何を述べているのかわからなくなる。やはりただ言葉を弄しているだけに過ぎず、結果的には何も述べていないのだろうか。君はそれでもかまわないと思うわけか。考えていることと思っていることと記していることに関連性を見出せない。そんな嘘は通用しないだろうか。どこで通用させようとしているのだろう。それらがどこにも通用しないような文章であるとすれば、それはそれで無意味なことを述べている証なのだから、願ったり叶ったりの展開なのだろうか。そうやって何を強がっているのか。強がりや痩せ我慢ではつまらないと思われ、それが気に入らない原因になっているのかも知れないが、では君が気に入るような展開がどういうものなのかについては、何の心当たりもありはしない。たぶんそれらの文章を記している誰かにとって、そんなことはどうでもいいことであって、君が何を思おうと知ったことではないのかも知れず、ただその場の状況に即した無内容を自然体で記しているに過ぎないのかも知れない。何となくそれでしっくり来るようなことを述べているらしく、そのことについては何の意図も思惑も感じられないようだ。だから自らが何を述べているのかわからなくなる。はたしてそれでいいのだろうか。よくてもよくなくても、現実としてそういう状況にあるわけだから、それを受け入れるにしろ受け入れ難いにしろ、君にはどうすることもできないことだろう。何となく呆れてくるようだが、唖然とするほどのことでもないだろう。たぶんそこでは何かが繰り返されていて、その繰り返しの中から誰かは継続への糸口を絶えず探り続けているのかも知れない。そしてそれが困難であり得るはずがなく、まるで不可能なことでもないのだろう。だからそれらの文章は続いている。そんな風に述べて自らを納得させるつもりなのか。たとえ誰が納得できなくても、続いてゆくものは続いてゆくしかない。続かなくなった時点で、はじめてそれらの困難さが浮き彫りにされるだけで、そうなるまでは続いてゆくしかないらしい。それで何を述べていることにもならないのかも知れないが、とりあえずはそんなことを述べている現状があるらしく、そこから遠く隔たることはできないようだ。君はそれでもかまわないと思っているのだろうか。誰がかまわないと思うだろう。誰も思わないなら、そこから何らかの変化が生じてくるかも知れず、その変化に沿った内容が導き出されるかも知れない。ならば君はそうなってほしいと思っているわけか。思ってみたところでどうなるわけでもないか。それらはどうにもならないような無内容を伴っているわけか。誰かは冬晴れの空を眺めながら、それについてどんな感慨を抱いているのだろう。雲は流れ上空の風の流れを感じさせ、風景の移ろいゆく様を眺めている自らが、何を見定めようとしているのか。できることならそんなはずがないと思いたい。何も思わない方が気楽かも知れない。何も思っていないふりをしているだけかも知れないが、何となく他人にそう思わせようとしたいらしく、いつもわざとらしく無表情を貫いているように思われる。それで現状を変えようとしても無理な話だろうか。いかんともしがたいことは他にいくらでもあるはずか。それについてどのように言葉を弄してみても仕方がないのか。しかし無駄だとわかっていても、何かしら言葉を弄さずにはいられないのが、誰かの特性なのかも知れない。しかし内容が何も見当たらないのはどうしたことだろう。現状を変えるには具体的な内容を伴わなければならず、それなくしてはいくら言葉を弄そうと、過去の繰り返しに堕するしかなくなってしまうだろうか。本気でそう思っているのか疑わしいか。


1月18日

 ルールとは何だろう。たぶん何かルール違反があったのかも知れないが、なぜほとんど寝ていないのか。それの何が間違っているのだろうか。眠れないのとルール違反は無関係かも知れない。しかし眠気とは何だろう。眠たいの眠れない場合、それは眠気を催していることになるのだろうか。それに関して空っぽの心は何も思わない。それが誰の心なのか君に心当たりなどあるはずもなく、また何も思わないような心が心であるはずがない。もしかしたら何も思わないというのは嘘かも知れず、そんなどうでもいいような嘘をつくような心なら想定可能だろうか。しかし心を想定してどうするのか。何かそこから話を構成するつもりなのか。そんなわけで誰かの空想の中に偽りの心があるらしい。そんな設定ではつまらないか。つまらないと思う以前に、まだ話が始まったばかりの段階で、つまらないか否かの判断を下すのは早すぎるような気がする。なぜ簡単に話から脱線してしまうのか。そうやってわざとらしく話をはぐらかすのはいつものパターンのようだが、もはやそんなやり口にも飽きてきた頃か。それでも誰かの意思に従うなら、その先を述べなければならないようだ。またいつものように無駄な文章を付け足さなければならなくなる。義務感からそうしているわけか。何も思わない君にどんな義務が課されているのか。君にはまだやらなければならないことがあるらしい。それは漠然とそう思っているだけのことかも知れないが、できるだけ今日の日付に近づきたいらしい。それが偽らざる本音であることを願いながらも、すかさず君はそうではないと述べたくなる。そうするのが嫌なのか。どんな理由があるのか知らないが、あるいは何の理由もないのかも知れないが、とりあえず君は誰かの意思を尊重する気にはなれないようだ。それも何かの義務感からそうしているのだろうか。君はそこで何をしなければならないのか。それも現状の煮詰まり具合を示す文章に違いない。それらのわけのわからない問答もその場の時間稼ぎに映ってしまう。しかし誰がそんな認識に至るのだろう。常に思っていることとは逆の内容を記したくなってくる。そしてそれに成功しているとは到底思えない。そんなことをいくらやっても無駄だろうが、無駄を承知でやらずにはいられないこともあるらしい。今がそれをやっている時なのかも知れない。まったく冗談にも程があるか。君は無駄な言葉を連ねながら、移りゆく時の流れと状況の変化をどう感じているのか。何も変わらないと思いたいのか。それとも少しずつ何かが変わり始めていると思うわけか。あるいはそのどちらでもないと思い込みたいのか。そうやって常に前述を否定したくなる気持ちは変わらないようだが、それで何を述べているつもりになれるのだろう。つもりではなく実際に何かを記していることは確かなようだが、それを読み返す気になれないのはどういうわけなのか。どういうわけでもなく、そういうことでしかなく、それについて何をどう思ってみても無駄なのかも知れず、要するにまたつまらない思考の逡巡にはまってしまっているだけなのかも知れない。だがそうなることも予定調和でしかなく、想定内の成り行きでしかないのだろう。今のところ馬鹿げた言葉の並びがまっとうなものに変化する兆しは感じられない。未だに君はそこから遠ざかる術を見出せないでいる。たぶん君には書くに値する出来事が欠けているのだろう。どうでもいいようなことならいくらでも書けるかも知れないが、それでは誰かの意思が許さず、そこで言葉を記そうとする意欲をそぎ取ってしまうのだろうか。だが現状ではそういう意図的な精神作用が有効に働いているとは思えず、読み返す気が起こらない文章が断続的に生成されている事実が、誰かの精神の無効性を物語っている。しかしそれが君の意図する事態だとすれば、現状にはどんな効用があるのだろう。要するに気が済まないから終われないということか。しかしそうやって終われない状態を続けることに何の意義があるのだろう。もとから自らのやっていることに意味や意義を見出すことは放棄していたのではなかったか。君には空虚という友人がついているはずだ。架空の存在であることに何の意味も見出せないことは、君にとって好都合だったはずだ。だから無責任に無意味な言葉を弄して、わけのわからない文章を構成できるのだろう。


1月17日

 誰かは何もできないのに何かできると思っているようだが、それの何が思い違いなのだろう。そもそも何もできないと見なすことが間違っているわけか。そんな前提で誰かの試みを否定するのは間違っているだろうか。たとえ間違っているとしても、それらの状況からはそんな言葉しか導き出せない。君にもできることとできないことがあるらしいことはわかっているつもりだが、できることでもできないことでもないことをやれるはずがない。それをやっているもしくはやろうとしているのは、君ではない。それどころか誰もそれをやっていないのではないか。やろうともしていない。それとは何だろう。そんなことがわかるわけがないか。それが何かもわからないのに、それをやるも何もあったものではない。また途中でひねくれてしまったらしく、まっとうな話にはなりがたい展開になろうとしている。なぜそうなってしまうのだろう。君に初めて出会ったのはいつのことだろう。君という言葉は何も答えない。なぜそれが彼でも彼女でも私でもないのか。誰か他の人格を思いつかないものか。気休め程度では何ももたらせない。そこには何かの力が働いていて、それは精神作用の一種なのかも知れない。深刻に受け止めるべき状況を知らず、思い込みには空疎な戯れ言がつきまとい、人はいくらでも死に、いくらでも生き返る。そんな話がどこに存在しているのか。空想にも限りがあるのかも知れない。新たに構成される文章には死臭が漂っている。そんなはずはないか。それは口からでまかせの類なのか。確かにこの世に口という言葉はあるらしいが、それは君という言葉が存在するのと同じ程度の意味をもたらすだろうか。そこでの意味とは何だろう。要するに雰囲気だけの文章に誰かの精神が染まっているわけだ。その程度ならやろうと思えばいつでも構成可能だ。それが君の作品でない証拠がどこにあるだろう。誰がそれを作り上げているわけでもなく、言葉の連なりが醸し出す雰囲気は君のものではない。だがあり得ない文章でもないはずだ。君はどこかで迷っている。それを続けるべきか否かを尋ねる対象を探しているのかも知れない。だがその対象が人としての人格を伴っているとは限らない。心に巣くう空虚に何を問いかけても、返ってくる答えを意識することはできないだろう。それは返答ではなく、問いかけに対して再度なされる問いかけのようなものだ。どこまで行っても問いかけにしかならない問いかけが繰り返されているだけのようだ。それに対して君は何も答えようがなく、その代わりに執拗な問いかけが繰り返される。なぜこの世界はそういう仕組みになっているのだろう。そういう仕組みとはどういう仕組みなのだろう。何となくわかっているようでいて、その実何もわかっていないのかも知れない。それは仕組みとは認識できないような仕組みなのかも知れず、その仕組みの中で言葉を弄すれば、みな同じような文章として出力されてしまうような具合なのだろうか。もしかしたそれは君特有の事情に基づいた仕組みかも知れない。この世界ではなく、君自身が言葉の病のようなものにかかっている可能性もある。そして言葉の病は予言をもたらす。その予言は高い頻度で的中するかも知れないが、誰もそれを知りながらも無視してしまうような予言であるらしい。おそらく君ごときに予言されてしまうと困ってしまうのだろう。予言とはしかるべき立場の者がしなければならないもので、関係のない者がいくら予言したところで、それは予言とは見なされないのかも知れない。だから近頃の君は予言するのを控えている。予言したところでどうなるわけでもなく、その予言が的中したところでどうなるわけでもない。要するに君が何を述べても無駄なのだ。そんな事情から君はさらにわけのわからないことを述べるようになってしまったらしい。そしてもはや何を述べているのかわからないことしか述べられなくなってしまったようだ。そんなわけで君の心は完全に空っぽで、何もない空虚に支配されている。それでもそれは嘘であって、その場の成り行きに沿ったフィクションなのだろうか。しかし作り話としては少し粗雑な構成になっているような気がする。もう少し気の利いた話をもたらせないものか。誰がそう思っているのか明らかになっていないだろう。そんなことはいちいち指摘しなくても、読んでいる者にはお見通しか。


1月16日

 夜になり空を覆う闇の中に転々と光が瞬いている。誰が下界を見下ろしているでもない空の下には、家々の屋根があり、屋根の下には当然天井があり、天井に付いた蛍光灯に照らされて、誰かの姿が浮かび上がる。そんなはずがないだろうか。誰の視点に沿ってそんな風に述べられるのか。架空の視点から文章を構成しているだけのようだが、それ以外にどんな語り方が可能だろうか。滑稽な手法を取り除いてしまえば、また以前と同じようなことを述べてしまうのだろうか。結果がどうなるかは述べてみないとわからない。君はそれについてどう思っているのだろうか。君は何も思わない。君の影なら無理矢理場違いな言葉を連ねて文章を構成しようとするが、まともな文章になったためしがない。そんなわけでまたいつものつまらない内容に終始してしまうようだ。語る前からそんなことを述べていていいのだろうか。すでに何かを語り始めているようだが、語っている内容に興味はない。尽きかけている言葉をかろうじてつなぎ止めているようだが、心が淀んでいる。それは誰の心なのだろう。君に心などあろうはずがない。そういう根拠のない決めつけはどこからなされているのか。心がない根拠を示す必要があるだろうか。心とは何だろう。精神とは何なのか。答えはすでに示されている。辞典で調べれば済むことでしかない。だがそんな意味を誰が信じているのか。辞典の中に示されている意味を否定しても仕方ない。客観的な意味とはそういうものなのだろう。君はそこから君独自の主観的な意味を再構成することができるだろうか。なぜそんなことをやらなければならないのか。別に今から何をやろうというのでもないらしい。すでに適当な言葉を並べて文章を構成しようとしているではないか。君はそれらの文章には興味がないのか。興味のあるなしにかかわらず、それらの文章の中に君という言葉が存在していることは確かだ。ではその君について君はこれから何を述べようとしているのだろう。君と君とは無関係ではあり得ないが、君はそんなことを述べたいわけではない。たぶん何かを述べるには君の根気が続かないのかも知れない。精神の集中が長続きしないわけだ。その辺に君の心の弱さが見え隠れしている。そして心の弱さを突いて、君とは無関係な文章が君の存在を浸食し始める。そうやって君自身を架空の文章の中に押し込めようとしているのかも知れない。それでもすべては虚構だと言い放つことができるだろうか。誰が言い放とうとしているのか。言い放つには何か勇気でも必要なのだろうか。何となく誰かがそこで嘘をついているらしい。嘘をつきながら何を考えているのか知らないが、考えがまとまるはずもなく、そこで何を考えているかなんて誰にもわからないだろう。そしてそんなことを述べているうちに、話の内容もかなりずれてきてしまったようで、それが何に対してずれているのかは誰かの想像にまかせるとしても、それらのずれが何を明らかにすることもないだろう。それはどういうことなのだろうか。それはいつもの決め台詞なのか。たぶん記している内容と当初に思い描いていた話の筋がずれているのだろう。君はそこで何を忘れているのか。忘れているのではなく、思いつかないのではないか。どちらも似たようなことだろうか。当初において君はそれらの文章を何に似せようとしていたのか。何かまともなことを述べているように装いたかったわけか。文章がまともになるには、語る対象が必要か。そんなこともわかりきったことで、ここでも度々指摘されてきたことかも知れないが、いったい何について語ればいいのだろうか。それもこれまでに数限りなく抱いてきた疑問だろう。同じことをいくら問い続けても、問い続ける限り答えに至ることはない。君はそうやっていつまでもどこまでも問い続けることしかできない。問い続けることで無駄に文章を継続させているだけだ。それが無意識の狙いなのであって、意識しないことによって、マンネリに対する良心の呵責から逃れている。本当にそうであったならどれほど救われていることか。何が救われているというのか。どんなに言葉を弄しても、架空の存在である君を救うことはできない。それらの文章は救うべき対象を間違えている。では君でないとすると、本当はそれによって誰を救い出さなければならないのか。文章で人を救えるはずもないか。そう述べながらもそれに対する反論を期待しているのかも知れない。


1月15日

 無言と沈黙の狭間で、意味不明が揺れ動いている。意識がそこから動かない。身体はどこで何をやっているのか。架空の話の中ではゆっくりと何かの毒が回り始めている。誰かの亡霊が他の誰かに取り憑いている。そんな作り話がどこから出てきたのか。作りかけの作り話を放棄するタイミングを見失う。そんなものはどこにも存在しないのかも知れない。それでも今さら何を語ろうとしているのか。たぶんそれは今ではないのだろう。その時はこの時ではなく、どの時でもないのかも知れない。要するに何も語れないのであり、何もないのに強引に語ろうとすると、まるで催眠術にかかったかのように次第に眠くなってくる。誰かはすでに眠ってしまったのかも知れない。眠っている場合ではないか。まだ話の続きが残っているはずだろう。これから話の続きを思いつかなければならないが、君にそんなことができるわけがない。しかし誰にそんなことがわかるのか。少なくともそれは君ではないのだろう。ではそうだとすると、誰か他に話のできる人物を捜した方がいいのかも知れない。もはや君にはやる気と根気が欠けている。そんな嘘は聞き飽きたか。もとからそんなものはありはしないか。だがそんないいわけも以前から繰り返し述べてきたことだ。ならばもう新しい言葉を導き出すのは不可能なのか。今からそれをどうやって否定すればいいのだろう。今さら自らの言動を否定できるわけもない。否定したらそこで自己崩壊してしまうか。何が自己崩壊するというのか。君はその時何を宣言したのか。もうやめると述べたかったのだろうか。そんなことはすでに忘れてしまった。思い出せないということは記憶にないということだろうか。たぶんそれも架空の話の一部に属する内容なのかも知れず、それによって何がどうなるわけでもないが、そんなことを述べながら話を続けようとしているらしく、それを続ければさらに話の無内容に拍車がかかり、もはや何を述べてもどうでもいいことになってしまうような気がするのだが、はたしてそれで話になっているのだろうか。君はそのとき何の話をしているつもりになっているのだろう。たぶんそうやって難局やら困難やらを切り抜けているつもりなのかも知れない。そしてそれが現状認識を誤らせ、大きな勘違いを生じさせているのだろう。まだ自らが生きていると思い違いをしている。なぜ生きていると思い込みたいのか。本当に君は生きているのだろうか。生きている証拠がこの世界のどこにあるのだろう。どうやったら生きていることを実感できるのか。死んでなければ生きていることになるのだろうか。では自らが死んでいない証拠がどこにあるのだろう。生や死の感覚がないとすれば、それはどういう状態で存在していることになるのか。何かそこから結論らしき言葉を導き出すことが可能だろうか。真面目にそんなことを問うているわけがない。そして真面目という言葉からは何も出てこないだろう。要するにはぐらかしているのだ。次いで馬鹿らしいと思いたくなる。また冗談もいい加減にしてほしいと述べたくなる。そういう水準では、生も死もフィクションの中で繰り広げられている言葉遊びの範囲内にある。現時点ではそれ以上のことは何も導き出せないだろう。だがもちろんそれがどうしたわけでもなく、相変わらず何について語っているわけでもないような気がしている。ところで君は何日前の日付でそれを語っているのだろうか。そんなこともこの際どうでもいいことか。その場で思いついた内容はそんなつまらないことだけか。昼の日差しに暖められながら、軽く眠気を催して、君はまた何かを忘れようとしている。できることならそれを二度と思い出したくないようだ。それとは何のことなのか。もうすでに忘れてしまったので、それは何のことでもなくなってしまったのかも知れず、それが何のことなのか探る気力も失せて、完全に気を失ってしまったらしい。はたしてそのときの君は生きているのか死んでいるのか。死んでいるとすれば、その死者は何を思いだしているつもりなのだろう。無理に矛盾したことを述べたくなってきたようだ。そして君は自らが生きる場所がないことを知っている。この世のどこにも居場所がなく、かといってあの世の存在を信じることもできずに、そこで何をどうしたらいいのかもわからず、自分が何を迷っているのかもわからない。


1月14日

 どこでどう間違ってしまったのかわからないのだが、今のところ何を間違えたのかはっきりしていない。ではなぜ間違っていると思われるのか。文章として意味がこんがらがっているだけなのかも知れない。あるいは言葉の並びそのものがおかしいわけか。結局ただ無駄に言葉を弄しているだけなのかも知れず、そんなわけで誰かはまだ架空の成り行きにしがみついているようだ。誰かの意識はまだ妄想のただ中にあるらしい。では君の実体はどこにあるのだろう。真実はどこにあるのだろう。それはどうのような真実になるのか。誰も真実など求めているわけがない。たぶんその代わりに当たり障りのないフィクションの到来でも望んでいるのだろう。だから依然としてそれが何の真実なのかわからないわけだ。だがそれが何の理由なのかわからない。真実という言葉だけが一人歩きしているような感じがする。たぶん事の真相や真実が明らかにならなければ話にならないのだろうが、それらはいったいどこに提示されるべきなのか。ここに示されている文章には何が含まれているのか。何がそれらの真実になるべきなのだろう。ここには何もないということ以外に何が示されているのか。別に誰がそれの真相を究明しようとしているわけでもなく、その場の気分に沿って適当な言葉を繰り出している他に何をやっているわけでもない。要するにわけがわからないだけなのかも知れず、たぶんそんな行き詰まりの状況に困り果て、誰かに弱音を吐かせたいのかも知れない。そこで何かをあきらめさせたいわけだ。だが何かとは何なのか。文章の継続ならすでにあきらめているような気もするのだが、そんな心の内を誰に見透かされているのだろうか。事の真相を知りたい誰かは、それらの語りの中に何を求めているのか。そこで未練がましくしがみついている当のものが、何の実態もない文章だとしたら、その後にどんな言葉を継ぎ足せばいいのだろうか。単に述べていることが意味不明なだけなのか。また何かのパラドックスにはまっているのかも知れない。もはやそうするしか言葉をつなげることは可能ではないらしい。無論本気でそう思っているわけではない。なぜ本気になれないのだろう。たぶん本気になるような状況ではないのだろう。その程度のことでしかないのかも知れない。不具合を抱えたままの機構がまかり通っているのだろう。君はそんな制度の不備を指摘するのではなく、不備を利用して何らかの利益を得たいだけなのかも知れず、その辺から人間的な弱さが浮き彫りになってくるのだろうか。話的にはそうなってしまう方がおもしろいわけか。はたしてそんな見え透いた嘘で他人をだませるのだろうか。ちなみにそんな嘘とはどんな嘘なのだろうか。誰かがだまされたふりをしてくれるかも知れない。だが君は誰をだまそうとしているわけでもない。また誰かはだまされることを楽しんでいるのでもないらしい。たとえだまされていることを悟ったとしても、怒りや憤りなどの表現がどこから湧いてくるのか。それは表現などではなく感情そのものなのではないか。だが君はそんな感情を抱いている人物の所在を突き止めていない。だからいつまで経っても一向に何もわからないままなのかも知れない。そこでまるで狐につままれたようだと述べるのは語法的に誤っているだろうか。では何をどう述べたら納得がいくのか。どう述べても納得などいくはずもない。はじめから納得しないつもりで話を進めてきたのかも知れず、それについて何をどう述べても君は気に入らないのだろう。だから未だに無駄なことをやり続けている。納得いくまでやり続けるつもりのようだが、どうなれば納得がいくのか、そのような状況をまったく想定していないのかも知れない。ではどうしたらいいのか。納得のいかぬまま、そのまま限りなく無駄に言葉を浪費して、わけのわからない無意味な話を継続させて、さらに虚無の深みにはまりこんでゆくしか道はないのだろうか。しかし君にはそれが虚無だなんてとても思えないのだが、それらの文章の何が虚無を連想させるのだろうか。君以外の誰がそんな印象を抱いているのか。それも今のところは何も明らかになっていないような気がするのだが、いったい君はそこから何を明らかにしようとしているのだろうか。誰が明らかにしようとしているのか。どうしてそれが君ではないといえるのか。さらに意味不明だろう。


1月13日

 もう無理なのかも知れないが、そこから何をやり直そうとしているのか。何もやり直せないわけでもないだろう。では希望の光がどこに瞬いているというのか。そういう語句の使用は不自然に思われる。だが何かをやろうとすると不具合が続出することになる。たぶんそんなことはわかりきったことなのだろうが、ふざけすぎで騒ぎすぎの世の中は相変わらずのようだ。この世におもしろおかしいことばかりがあふれかえるのは、誰もがつかの間の気休めを求めている証拠かも知れないが、それもわかりきったことでしかないか。しかし何がわからないのか。何もかもがわからないと感じられるのはどういうわけなのだろう。その辺で何となく不可解な雰囲気を感じるのだが、そんなすっきりしない状態がいつまでも続いていくのかも知れない。何もかもが信じられない心境のまま、他人を信じるとはどういうことなのだろうか。信用がなくなるのはどのような時なのだろう。そんな時がいつ訪れるのか。今がその時なのか。誰かにとってはそういう時なのかも知れない。脳天気な気分にはなれそうもない。君は何もわからないだろう。わからないことをわからないと述べるのはつまらない。そしていつものように知り得ないことを知ろうとしている。それが君の弱さかも知れない。知るつもりもないことを知ろうとするふりを繰り返している。本当はそんなことなど知りたくもないのではないか。また思考する対象を失っている。悪意の存在を疑うのはよくないことか。今の君にはそうする以外に仕方のない状況なのかも知れない。いったい何を説明すればいいのだろう。何も説明できなければ、何を語っているのかわからなくなる。もう何も語れないのかも知れない。何も語らずに言葉を並べている。おかしなところに変な噂が渦巻いている。そんな話の展開ならおもしろいだろうか。そこからさらに投げやりな語調になってしまうわけか。何もできない時には何をやったらいいのだろう。とりあえず呼吸を繰り返して生をつなぎ止めるべきだ。食事を取って栄養も補給しなければならない。だがそれで何もやっていないことになるのだろうか。それとこれとは違う次元の出来事かも知れない。もう君は語ることをあきらめてしまったらしい。だが君が語らなくても言葉は勝手に連なるだろう。誰が何を語っているのでもない。何も語らないから無意味な言葉が並んでしまうようだ。それはどういうことなのだろう。そう述べることが無意味な言葉の連なりになってしまうらしい。気分的にはそんなことしか述べられない。たぶんそれはごまかしやまやかしに違いないだろうが、そう述べている事実を否定することはできない。否定できないからそれを消し去ることができないのか。そんな理由もまやかしに違いない。それが悪循環を生じさせているのだろう。わけのわからない不快感を増幅させている。要するに否定的に消極的な出来事を引き起こしている。なぜそんな現実を認めようとしないのか。自らが何も語れないことを認められないらしい。認められないからこうして無駄に言葉を弄している。何か悪い夢でも見ているのか。それは誰の夢なのだろう。だが夢の中でも話には何の進展もないらしい。だからそれは何の話でもないのだろう。君は今さらどんな話をしているつもりなのか。それは自己言及以外の何ものでもないようだが、言及している自己がどこにあるのかわからない。きっとどこにもありはしないのだろう。今語っているのは君ではないのだろうか。それらの言葉は誰の持ち物でもなく、誰かの語りが行き詰まったところから、それらの言葉は連なってきているのかも知れない。だから内容が何も見出されないわけか。具体的にはどんなことが示されているのか。自らの思考力が低下していることが明らかとなっている。たぶんはっきりしていることはそれだけかも知れず、他はすべてあやふやなままなのだろうか。もう一度読み返してみれば何かが見えてくるかも知れないが、それが何を意味するのかを知ろうとする気になれない。やはりそんなことはどうでもいいように思われてくるらしく、それらの投げやりな語調について、どのように修正する気も起こらないようだ。君はそんなところで躓いていて、転んでよろけながらも、何かを述べるための努力をやめる気配はないようだ。だがそれで何を述べていることにもならない。


1月12日

 つまらないこだわりの中に誰かの意識がつなぎ止められている。文章を読み返すほどにうんざりしてきて、仕方なくもう一度やり直さなければならなくなる。それは些細なことでしかない。もはや学ぶものは何もないように思われてしまうが、それが間違いである理由を言葉で示せない。人々は何に興味を持っているのだろう。人それぞれで違うのではないか。そんなことを知りたいわけもないが、そんなこととはどんなことなのか。どんなことでもなくそんなことでもないのだろう。それでは何のことなのかわかりはしない。わからないからつまらなくなる。そんな文章を読み返すほどにうんざりしてくるか。何をそんなに苛立っているのか。冗談ではないと思っているのだろうか。それほどまでに嫌気が差しているわけか。そこからどうやって立ち直れるのだろう。もとから立ち直るつもりなどありはしないか。今の君に何ができるはずもない。手も足も出はしない。しかしそういう話ではなかったのではないか。いったい何が目的の文章なのだろう。人々は何を見ているのだろう。人々ではなく君は何を見ているのか。君の周りを取り巻いている風景の中に、風景とは無関係な出来事が含まれていると思われる。それはどのような出来事なのだろう。何も見出せないと思い続けることが、心の中に生じている空洞を想像させるらしい。被害妄想も妄想の内なのだろう。最悪の事態を想像することが、それに対するいいわけを考えさせる。いつも仕方がなかったでは済まないことかも知れない。君はそれらの無表情の裏に何を読み取ったつもりなのか。何か他人から馬鹿にされていると思いたいわけか。それについてどう思われてもかまわないのではないか。たとえ馬鹿にされようと、それをどうすることもできないのであり、結果的にそれに関する文章がどこかに提示されるだけだ。そしてそんな文章を今さら読み返す気にはなれない。だから何もかも忘れたふりをしているわけか。何を忘れたふりをしているのか。はたしてそれで忘れたことになるのだろうか。何も思い出せないから忘れてしまったのかも知れない。たぶんそこで何を予言していたわけでもないのだろう。ただそんな気がしただけで、今から思えばそれは大したことではなかったようだ。しかし何を思っていたのか思い出せないのはどうしたわけだろう。それは想定されていた状況ではなかったのかも知れない。出来事から意識が遠く隔たっているのかも知れない。だからそれらの出来事について何も感じないのだろうか。それらの内容に興味があるのではなく、出来事からもたらされた結果を利用したいらしい。そこから何らかの利益を得たいわけか。とどのつまりがそういう話になってしまうようだ。そこから先は面倒なので省略したくなってくる。そして何事に対しても本気になれなくなってしまう。この世の中にはくだらぬことしかないらしい。そんなふざけた思いがいつか打ち破られる日が来ることを期待しながらも、期待外れの毎日にうんざりしてくるようだ。だが誰がそんな日々を体験しているわけでもなく、それらの文章は誰でもない誰かに関する内容でしかない。要するにそれらのすべてはフィクションなのか。そんな文章を記している当人には、何のことやらさっぱりわからず、そこに生じている不可解な事態を理解できないらしい。それは誰を納得させるための文章でもなく、他者によるどんな理解も期待していないのかも知れない。その程度の内容を理解してほしくないのだろうか。まったく勘違いにも程があるか。だが誰がそこで勘違いしているのか。君は何を勘違いしているのだろう。別にそれほどやりたくないことをやっているわけでもないはずか。ただ無駄に言葉を弄しているはずもない。たぶんその場に生じているそんな思いこそが大きな勘違いなのかも知れない。実際にそれを読み返してみれば、内容を何も伴っていないことが明らかになるはずだ。そこから遠ざかろうとすればするほど、そんなことを述べている自身の存在に気づくことになる。だからそこにもたらされているものは空虚しかない。他に何も見当たらないのだから、それは限りなく真実に近い勘違いなのだろう。しかしそれはどういうことなのか。やはりどういうことでもなく、そういうことでもない。だがそんな嘘がいつまで通用するのか。通用してないから嘘がばればれなのではないか。


1月11日

 やる気を失ってからどれほどの月日が流れたのだろう。それは誰のやる気なのか。またそれらの妄想はどの辺で挫折してしまったのか。妄想とは何を指しているのか。誰に何を尋ねているのか。それでは話になっていないのではないか。要するにまたつまらないことを述べているらしい。なぜそれがおもしろいとは思わないのか。それで奇をてらったことを述べているつもりなのか。まだ何も述べていないのではないか。適当に言葉を弄した後ではそんな嘘は白々しいか。だが一方でそうではないような気もする。まだ何もわかっていないのかも知れない。君は何も持ち合わせていないようだ。そこには何もありはしない。それはいつもの決まり文句でしかない。君には何もわからないだろう。何かが葬り去られようとしている。何もやらなくても消え去ってしまうわけか。君はそこで何を目指しているのか。霊柩車で運ばれている死体がよみがえるわけがない。棺桶の中身は空っぽのままだ。なぜ話の中身を作り出せないのか。無から有を創造することは不可能だ。そこにはもとから何かがあるから、消え去る運命なのかも知れない。意識が消え去り、次いで身体も消失する。感情など制御できなくてもかまわない。もとから何もないのだから、猜疑心などが生まれる余地もない。それはただの矛盾でしかないようだ。これ以上大げさなことは述べられない。それの何が大げさに思われるのだろう。君の死体はどこへ行ってしまったのか。生きているのに死体も何もあったものではないか。死に神は架空の魂などほしくないのかも知れない。心も体も存在しないのに、そこに君がいるはずもないか。そして何を語っているのでもないらしいが、なぜそんなことを語らなければならないのか。もう飽きているのだろうか。何も語っていないのに何を語っていることになるのだろう。すべてを求めることはできない。すべての内容を知らないのにすべてはないだろう。どこで邪魔が入っているわけでもない。邪魔が入らないとやる気にならないのか。それも必然的に陥っている矛盾かも知れない。この世界から何の刺激も受けないならば、何もやる気が起きないのは当然のことだ。だから困っているのではないか。何に困っているわけでもなく、何不自由なく困っていないから困ってしまうわけだ。何かに困っていないと気が済まないのだろうか。それはつまらない逆説だろうか。だから無から有を生じさせようとしているのかも知れず、何もないのに何かがあるように見せかけたいのだろう。要するに見栄を張っているわけだ。たわいないことを述べているらしい。何を嫌っているのでもなく、何を好んでいるわけでもない。何かをやるきっかけを見失い、気力を削がれて死んでいるのかも知れない。だがそこで誰が死んでいるのかわからない。誰も死んでいないわけでもないだろう。しかし誰が死ぬ理由もない。ではなぜ君は死なないつもりなのか。文章の中で安易に死という言葉を多用しているだけのようだ。別に他意はない。不明確な語り方で誰かの意識をごまかしている。いつまでもそんな馬鹿話にはつき合っていられないか。たぶん誇大妄想的な話にはリアリティを感じないのだろう。それは誰の心象風景でもないが、それ以外に何も残っていないのかも知れない。そして説明が足りないようだ。何を説明しているのでもないとさえ思うようになる。だから呆れられてしまうのか。はじめから間が抜けているのだから、何もわざと被害妄想を装うこともないだろう。まだリラックスしきれていないらしい。完全にそうなる必要も感じられない。何か適当な緊張感が必要だろうか。誰かの思いはどこにも届かない。届いているのは意味不明な言葉の連なりだけのようだ。それは何の代わりでもなく、それ自身がすべてを言い表している。要するに存在そのものなのかも知れない。何の意味も伴わずに言葉の存在そのものが顕現しているのだろう。またそんなでまかせを述べているらしいが、それが真実だとはとても思えない。それは話の内容がもともとフィクションなのだから当然のことだ。要するに君はいつまで経ってもそこから遠ざかれないわけだ。遠ざかろうとすると、視界からすべてが消え去り、何を述べていいのかわからなくなってしまうらしい。そして途方に暮れていると、虚無の方から助け船をよこして、いったんそれに応じてしまうと、何やらわけのわからない言葉の連なりを記すことになるようだ。


1月10日

 何となくまた間違ったことを述べてみたくなる。例えば映画のどこが夢なのか。平面上を人影がうごめき回ることのどこにおもしろみがあるのだろう。冗談で何かを述べているらしい。たぶんそこには込み入った話が語られているのかも知れない。言葉は音声となって空間を伝わってくる。その時君は可視光を見ているはずだ。紫外線や赤外線を見ることはできない。だが別に日本経済がどうのこうの述べることに気恥ずかしさを覚えているわけでもあるまい。わざと文章を不連続に構成しているようだが、それでは毎度おなじみの意味不明だろう。だがそうなることがはじめからわかっていたわけでもないらしい。気休めに突飛なことを述べているわけでもない。君の言動には余裕が感じられない。どことなくぎこちない言葉遣いに感じられ、絶えず焦りながら言葉を発しているような気がしてならない。そこには読む気がしなくなるような馬鹿らしさが認められる。そこでやる気を失っているのははたして君なのだろうか。興味はどこを向いているのか。今の気分について何か気の利いたことを述べられるだろうか。今のことを語っているわけでもなく、少し前の気分について述べているのかも知れない。枯れてひからびた樹木は何も語りかけないものか。誰に向かって語っているわけでもなく、その場を覆っている虚無からも無視されているらしい。他人がどうあれ、自分に関して何も語ることがないのだとすれば、それはどのような状況に陥っていることになるのか。別に謎解きを行っているわけでもなく、どんな推理を働かせているわけでもない。ただ話の中身が何もないだけか。なぜ他の話の中には出来事が含まれているのか。他の話とは何を指すのか。そうやって無駄に言葉を弄しながらも、じわじわと何かの核心に近づいているのかも知れない。どこで話が途切れてしまったのだろうか。そこにはどんな思惑が渦巻いているのだろう。誰かがその辺でおかしくなる。別に精神に支障を来すような内容でもないだろう。それもほんの冗談のつもりらしく、でたらめに言葉を並べているような雰囲気を醸し出したいだけなのかも知れない。どんな話が語られているわけでもなく、何を述べているわけでもない。そしてそれによって何を否定しているわけでもない。それは文章以前の文章でしかないのかも知れず、その中でどんな主張が述べられているわけでもない。しかしそう述べることによって何を否定しているつもりなのか。ただ人の意識が空間や導線や光ファイバーの中を行き交い、その身体も電車や車や飛行機や船に乗せられて移動している。それについて何を思えばいいのか。人の歴史とは何のことなのか。文化とは文明とは何のことなのか。考えさせられるが考えられない。過去から何を学ばなければならないのだろう。なぜ世の中には教訓とかいうどうでもいいような言い伝えが蔓延るのか。そういうことではないような気がする。つまらない話のねつ造すべきではないらしい。誰かと誰かが別れたりくっついたりして、それで話になるのだとすれば、それはありふれたつまらない話に属することなのか。だがたぶんそんな風にして歴史が成り立ってきたのだろう。しかしそれの何がおもしろいのか。そう簡単に語ればつまらなくなるだけか。話の中に人おもしろがらせるエピソードをちりばめなければならない。俄には信じられないような偶然の重なりが人を感動させるのかも知れない。また同情やら反感やらの感情移入を許す出来事がなければおもしろくはない。だがそんなありふれた話にいつまでもつき合っていていいのだろうか。何の進歩もないような気がする。進歩がないからこそ馬鹿になれて、いつまでもそんな話に興味を持ち続けることができるのかも知れない。ではいったんそこからずれてしまったら、後はひたすらつまらなくなるだけか。興味を失ったら、そこから離れればいいことでしかない。そんな話から距離を取っている者など世の中にいくらでもいるはずか。だから君もそうしなければならないわけか。今さらそんな話を馬鹿にしている暇などありはしないはずだ。ならば君はそこから別の話に移行しなければならないわけか。しかし別の話とはどんな話なのか。そこに提示されているつまらない話がそうだと主張したいわけか。だがそれはおもしろいだとかつまらないだとか判断する以前の、まったく話になっていない話なのかも知れない。


1月9日

 確か今から数日後には雨が降っているのではないか。まだ過去の時空に属しているつもりなのか。いい加減にあきらめてしまえばいいのに、なぜこうもねばるのか。つまらない作り話につき合っている暇はなく、君の知ったことではないらしい。では何に興味があるのか。この世界の事象に興味を持つことは無理なのかも知れず、心はすでに妄想の海の中へ沈み始めている。そこで君という言葉は消滅してしまうのだろうか。君はどんな人格を有しているのだろう。すべてがうまくいかないことに関して何か思うことはないのか。うまくいっていないのに、経済的には至って順調なのはどうしてなのだろう。高望みしていないからか。何をやってもうまくいった例しがない、というのは嘘なのか。そんなのはものの感じ方でしかなく、端から見ればうまくいっているのかも知れない。それは何に関してうまくいっていることになるのだろうか。それも主観的な見解でしかない。本当はそんなことはどうでもいいことでしかなく、うまくいっていなくてもかまわないのではないか。感覚的にはどこにもこだわりが見当たらない状態らしい。意識がそこで途切れている。そこから先へ進めないようだ。疲れているのだろうか。そんないいわけは通用しないだろう。記憶が失われているのかも知れない。それはただの記憶ではなく歴史認識ではないのか。過去の歴史を忘れているつもりらしい。迷っているようだ。だが何を迷っているのかわからない。何もかも忘れてしまってもかまわないのではないか。しかし忘却作用を意識的に操作することなどできはしないだろう。何もしなくても忘れる時は忘れてしまう。その時何を忘れてしまったのかなんて覚えていない。過去の何が問題だったのか。何を信仰していたのか。書物はすべて過去の残骸か。それは君が思っていることではない。そしてそれは思い出せないこととは無関係だ。それはなぜだろう。まったく疑問の余地はない。それを認めなければならないようだ。だが何を認めたつもりになっているのか。何もできないことを認めなければならない。もはや手も足も出ない。その代わりに言葉を出しているつもりらしいが、やはりそれで何を述べているのでもないらしい。なぜ何も述べられないのか。その理由は現時点では知り得ないことではないのか。理由があって何も述べられないわけでもない。だが理由も意味もないわけではない。目標がないのかも知れない。何もやる気が起こらないが、何もやっていないわけではない。ただ仕事に勤しんでいるだけか。それが仕事なのだから仕方がない。それがすべてではないような気がするのだが、たぶんそれがすべてでもかまわないのだろう。馬鹿げているとは思えない。当たり前のことなのかも知れない。やって当たり前のことをやっているだけなのかも知れない。それで何か困ることでもあるのか。何も困らないから困っているのかも知れない。それはどういうことなのだろう。やっていることに幻想を抱けないということか。夢とは何だろう。夢を抱いて何を勘違いしたいのか。何におもしろがらなければならないのか。娯楽がおもしろいと思うか。ただテレビを見ているだけではつまらないか。刺激はどこからやってくるのだろう。何がそこでの感性なのか。例えば芸術作品と見るのと、それの制作に使われた道具を見るのとでは、どちらが感性に刺激を受けるだろうか。あるいは実際にそれらの道具を使って芸術作品を制作した人物を見れば感動するだろうか。君が何に感動しているのかわからない。そしてそれは何のための問答でもないような気がする。そこで何をやっているわけでもないような気がする。君は何と戯れているのだろう。何がそこで繰り広げられているのか。人々は何もやっていないような気がする。まだ何も結果に結びついていないようで、答えは何も出ていないように思われる。意図的に答えが出てしまうのを避けているのか。目の前に答えが突きつけられるのを恐れているわけか。有無も言わさぬ状況になってしまうのを避けているわけか。だがそれで何がわかるのだろう。答えが出ているのに何もわからないのでは話にならない。それは答えではなくなってしまうだろう。ならばいったいそれは何なのか。まさか答えが問いに転化されるわけでもあるまい。歴史上毎度のことにように繰り返されてきたその手の見え透いた予定調和にはうんざりしているはずか。


1月8日

 この世界には何がもたらされているのだろう。空虚の他に何がもたらされているのか。何もない空間がどんどん広がっているらしい。しかしそれが真空といえるだろうか。それらの言説では真空の定義が曖昧だ。科学者でもないのに真空について何を述べることができるのか。そういう言葉を安易に使うべきではないか。君の意識はそれらの言説からすぐにはみ出てしまうようだ。その空虚な心は真空中には位置していないらしい。空虚であっても、その中には何かしら思いが残っている。それが何でもないわけがないだろう。その述べている内容には適当な言葉がつまっているらしく、それを誰かは読まなければならないようだ。それは何かの義務感からそうしているのだろうか。まったくおもしろくないと思っているようだが、それは空間が真空であることとどのような関係があるのか。意味不明なこと以外は何の関係もありはしない。そこから何を探ろうとしても無駄だろう。何を取り返そうとしても無意味なのかも知れない。心の空虚感をつかめるわけがない。いくら空腹を装ってみても、詰め込むべき言葉などどこにも見当たらない。誰かのどん欲さは空振りに終わるしかない。そしてそんな必然をいくら否定しても、何がどうなるわけでもない。では何を黙って受け入れなければならないのか。今こそ何もないことを認めなければならないか。そんなことはとうに認めているはずで、今までに何度も述べてきたはずか。だがだめ押し気味にいくら述べても、それが嘘になってしまうのはどういうことなのだろう。それを嘘だと見なす理由は何なのか。その虚ろな目つきはどこから生じているのか。また話を逸らそうとしているらしい。それは現状を正視できない証拠か。偶然にもたらされた言葉の正しい意味を把握したくないのかも知れない。だがそんなに残酷なことを述べているわけでもない。ただつまらないと思われたくないだけか。ならばもっと冗談を多用すべきか。繰り出された言葉の裏側に気味の悪いぬめりが生じているのかも知れない。たぶんそんな表現もでまかせには違いないが、そういう粘着質的な体質は文章にはそぐわない性質か。とりあえず意味が流れ去り、そこには空虚だけが残っているのかも知れない。何を述べているのでもないと思わせたいわけか。何かを述べている風に装うことに失敗しているのかも知れない。そしてそんな失敗も予定調和の内なのだろう。何もかもが思惑通りだとは思わないが、文章から意味がはじき出され、何を述べているのかわからない状態しか構成できないのだろう。そして何を語っているのでもないらしい。それについてのそれがどこにも存在しない。だからそれらの文章はそれではなくなってしまう。どうしても焦点が定まらず、ある特定の内容に結実できずに、絶えずどこかへ流れ去ってしまうらしい。読むそばから消え去ってしまい、内容がまったく記憶に残らない。それはあり得ない文章なのだろう。要するに君は架空の文章について述べているわけか。もっとも君自身が架空の存在なのだから、それは仕方のないことか。要するにそこではいつもそんな予定調和の語りが繰り返されている。そんなことではつまらなくて当然なのであって、おもしろくするつもりもないのかも知れず、そこには話のおもしろさには一向に無頓着な意識が設定されているのだろうか。だが君が何を設定しているわけでもなく、そんな設定を誰が求めているわけでもない。無論それが何の冗談であるわけもない。たぶんいつものように嘘をついているだけなのだろう。君という存在自体が嘘の塊か。なぜ君ではなく私と言わないのか。文章の中では誰も何も言わない。そこにはただ言葉が記されていて、何かが述べられているだけだ。それで気が済まないのなら、さらに嘘を述べ続ければいいだけでしかなく、実際に君は自らが架空の存在であることを利用しながら、そこに君という言葉として存在し続けている。だが今さらそんなわかりきったことを述べてどうするのか。どうもしないからそう述べるより仕方がないのではないか。それ以外に君に関するどんな表現が可能なのだろう。君が君でなければはたして私になるのだろうか。私と君は違う言葉であり、君はどこまでも君であり、私もどこまでも私だ。それが嘘だと思うなら、それが嘘であることをどのように証明すべきなのか。証明する気もないのにそんなことを述べるのは欺瞞もいいところか。


1月7日

 たぶん何も思いつかないだろう。今はどんな状況なのだろうか。何について述べているのか。これ以上は何も思い浮かばないと思っている。この世界がどうなろうと君の知ったことではない。知ったことではないが、何かを知ることになるのかも知れない。そこに張り巡らされている掟のどこかにほころびが生じ始めている。掟とは何だろう。何が定められているとも思わないが、自由であるはずもないだろう。語りには限りがある。それらの語りは何に対して自由なのか。飽くなき努力などありはしない。努力にもいずれ飽きが来るということか。聴いている音楽にも飽きが来る。だがそれがどうしたというのだろう。そこからねばり強く言葉を繰り出さなければならない。しかし誰がそれを求めているのか。求められていることははっきりしていない。忘れていることや見失っている対象を明らかにできるわけもない。だからもっと外の世界に目を向けなければならないだろう。そこで何が行われているのかを見極めなければならない。だが君に見極められるはずがない。別に何を見ているわけでもない。なぜそこから降りてしまうのか。考えることを怠っているのかも知れない。答えなど何も導かれないからか。どこから何を導こうとしているのか。そこには何があると思われるのか。考えるきっかけがあればそれで十分だろう。では何を考えさせられているのか。努力して報われてしまったら何も叶わない。それでは何も叶ったことにはならないのだ。たぶんそこで痛い目に遭わなければならないのだろう。何度も挫折を経験しなければならず、不遇を耐え忍ばなければならないのだろう。それはどういうことなのか。君はそこで試されているわけか。しかしそれの何が試練なのだろうか。どんなに試練をくぐり抜けようと、何の結果ももたらされないことを望んでいるのではないか。努力が徒労に終わることが楽しいわけか。そうやって決まり文句を得ることから脱落したいわけか。結果を求めないとはそういうことかも知れない。安易な成功願望はくだらない。どうもそれでは間が抜けているような気がする。生きているとは結果に至らないことなのかも知れない。結果とは死を意味するのかも知れない。しかしそうまでして生きたいわけでもない。そうまでとはどういうことなのだろう。要するに本気になれないということか。それでは何のことやらさっぱりわからない。何を述べているつもりなのか。何も述べていないと思いたいのか。簡単に救いを求めるわけにはいかない。救われないことが生きている証なのかも知れず、救われてしまったらそこで終わってしまうが、別に終わってしまってもかまわないだろう。終われるものならさっさと終わってほしいか。結果に至れば終わりになるかも知れないが、それは君の努力程度でどうにかなるものではないのかも知れない。君一人の力ではどうにもならないような状況の中に身を置いているのだろう。だからこうしてひたすら語り続けているのかも知れないが、それが何を述べていることにもならないとしたら、それらの語りは徒労そのものになるだろうか。そうなることが君の狙いなのか。そこから予定調和的に大団円を迎えたいのか。そんな言葉を使う意図がわからない。ではその場面から遠ざかろうとしているのは誰なのか。それは誰でもなく言葉でしかない。言葉以外の何がもたらされているのだろう。それが言葉によって示されるものなら、それは事物ではなく、事物の影でしかない。語りの中で言葉は事物の影としての役割を担っているようだが、言葉以外に何もあり得ないのなら、そこには事物そのものは存在し得ないのではないか。だがそんな軽薄な哲学もどき的思考は好ましくない。もっと簡単に述べられることでしかないだろう。君は何について語っているつもりなのか。そんなことを知りたいわけもなく、それが嘘だということも知っている。だが嘘ではない言説がどこにあるのか。急に遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。たぶんそれが具体的な語りの内容なのだ。しかし具体的な内容がそれだけなら詐欺もいいところだ。ではフィクションとは何なのか。そのすべてが詐欺の類であるはずがない。フィクションの中でどんな真実が示されているのだろう。そんなどうでもいいことを突き止めるつもりもなく、今さらフィクションについて何を述べるつもりもない。


1月6日

 その辺が君の限界か。たぶんそれは違うと思う。思うことのすべてが違うような気がする。実際には何となく煮詰まっているだけなのかも知れない。はっきりしたことは何もわからない。だがそんなことを述べようとしているわけではない。すでにそんなことを述べているではないか。では何に呆れて何を思わなくなったのか。何も思いつかないのは誰の仕業なのか。誰のせいでもなく君のせいでもない。そんな風に考えるべきではないが、君にもできることとできないことがあるらしい。言葉が万能であるはずがない。述べていることの意味が理解できないのは毎度のことか。わざと理解しようとしていない。無理に理解すべきではないのかも知れない。それでも君はそれらの無表情のわけを知っている。そこには感動がないらしい。感動するような状況ではない。いったい何に感動すればいいのか。感動する必要のない状況の中で何を信じればいいのだろう。たぶん何も信じられないのだろうが、逆にそれを簡単に理解したい。何が逆なのかわからない。信じられない現実を信じようとするのではなく、信じようとしない意識を理解したいようだ。それは単にそんなややこしい心情をねつ造しているだけではないのか。それの何が心情なのだろう。君はそこから逃れたいらしい。そんなわざとらしい言葉が渦巻いている状況が気に入らないのだ。何を述べているのかわからなくなる。いったい君は何を述べているのか。述べているのは君ではない。君ではないと思いたい。君はそんな成り行きに反抗しているようだが、それで何に逆らっているのかさっぱりわからない。逆らいつつも逆らえない状況に追い込まれているのだろうか。しかしそれでは何もできはしないだろう。だが取り立てて何をやろうとしているわけでもなく、何かをやろうとする気力が萎えているのかも知れない。何かをやるにはそれをやる機会が巡ってこなければならない。せっかく巡ってきた機会を取り逃がしているのか。それを感知できなければそうなるしかない。しかしそれは誰にとっての機会なのか。そんなことを君が知るよしもない。過ぎ去ってしまった機会についてあれこれ推測してみても無駄だ。無駄だからこそそれが言葉の連なりを生じさせる原因となる。そんなでたらめでは何を述べていることにもならないだろう。まだ述べている何もかもが遠すぎるのだろうか。それに関して遠くから乾いた笑い声が響いてくる。笑いの主は照れ隠しに意味不明を装いたいらしく、やりたくてもやれないことについて、適当ないいわけを考えているようだ。何かそこから後戻りできない事情でもあるのだろうか。後戻りして何を得られるのか。それはよくわからないが、また遅れが生じてきていることは確かなようだ。語ること自体に興味をなくしているようで、それにつられて気力もなくなってきている。相変わらずきっかけがまったくつかめないが、これ以上書くために工夫を凝らすことはできない。なぜそこであきらめてしまうのか。どうしてそうなってしまうのか。それに対する批判の糸口を見出せない。だがそれが解決の糸口になるのではないのか。批判に値する現象を何も見出せなければ、それですべてが解決するとは思わないのだろうか。無理に批判するようなことは何もない。しかし何かを解決させるために書いているわけではない。本当はそんな行き詰まりの状況から逃れたいのではないか。内容のないことを書けば書くほど、さらに行き詰まりが深まるだけだ。そんなわかりきっていることをどうすることもできはしない。だから今は行き詰まるより仕方がないのだろう。だがそんな馬鹿げたことをいつまでも述べ続けられるだろうか。誰も助けてはくれないだろう。助けてほしいとも思わないか。誰が何を思っているわけでもなく、文章の背後にどんな意識が存在しているわけでもない。ただそんな風に装いたいだけで、本当は何らかの人格を有した意識があるのかも知れないが、それを明かしたところで何が解決するわけでもない。そしてそんなどうにもならない現状の中でしか、何かを述べることができないらしい。それで楽しいのならそれでかまわないのだろう。楽しいわけがないか。ではそれは苦しみの産物なのか。それとは何だろう。空想上の意識とそこから生じている文章がそれなのだろうか。そんなことがあり得るわけがない。


1月5日

 常識はずれの理由を考えているとは思わない。言葉の限界はどこにあるのだろう。君は戦略を軽視している。何をどうすれば戦略になるのか。誰がそんな風に見せかけているのだろうか。そこで誰と誰が戦っているわけでもない。では何を優先すべきなのか。それはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、そういうことでもなく、何のことやら意味不明に思われる。それの何が戦略なのか。ただ無意識を装っているだけではないのか。何を意識しているのかを知りたい。それは誰でもない誰かについて知りたいことなのか。架空の意識は知り得ないことを知ろうとしているようだが、それが何になるのかわからない。君は何も求めていないことになっている。まだ理由を思いつかないらしい。気が長すぎるのかも知れない。そんなことは思っていないようだが、なぜかそんなことを述べているようだ。思っていることと述べていることが一致しなくなっている。しかしそれがどうしたわけでもなく、何を述べているとも思えないような成り行きになっているようだが、それは虚構の成り行きなのだろうか。現実が見えなくなっているわけか。それはどのような現実なのだろう。始めからやり直さなければならないのだろうか。今さら手遅れに思われるのはなぜなのか。まだ理由に心当たりはないらしい。ならばもう少し具体的に述べてみたらどうか。このままでは夜はますます深くなり、精神的な重圧に耐えられなくなってくる。要するに話ができすぎているのだろう。それが退屈な気分を誘発しているらしい。人はそんな風に動けないものだし、演劇的な展開には何らかの思惑や意図が偶然性に勝っていて、そこには常に不自然な話の成り行きが認められる。それがリアリティを感じられない理由になるだろう。しかしそんな理由で何を批判しているのかが不明のままだ。そこで何かがうやむやのままに語られている。そういうやり方が気に入らない。たぶん現実には意図しない意図や無意識の思惑が介在していて、そういう不可思議な部分からリアリティを感じ取れるのかも知れない。実際にそこで何を感じているかなんてわかるはずがなく、文章となった感じていることは、ほとんど虚構に属する実感だろう。君の感覚はその辺で足踏みを繰り返している。一定のわかりやすい結論へ至ることができずに、不分明で明確さを著しく欠いた霧の中に自らの感覚を置き忘れてきたように感じられてしまう。要するにたわいない感覚を大げさな言葉でまわりくどく飾り立てているのだ。やはりそれで何を述べているのでもないと思われる。それが勘違いだとしたら、他に何を述べていいのかわからなくなる。勘違いでもいいから述べておかないと、他に述べることなどありはしないだろうが、そんな風に述べてしまうとくだらなく思えてくる。そしてくだらないの反対語が俄には思いつかない。すばらしいとはどのような状態なのか。そこにどんな驚きがあるのだろう。何が精神に宿っているわけでもなく、それらが何を示しているとも思えない。生じてはすぐに消え去ってしまう一瞬の思いにどんなすばらしさが宿っているというのか。君の意識はそういうまわりくどい言葉には宿らない。どこに何があるわけでもなく、その精神が指し示している当のものは、やはりいつもの空虚そのものなのか。まるで出がらしの番茶のような味がしてくる。少なくとも紅茶ではあり得ないだろう。要するに遠回しに紅茶が飲みたくなっただけのようだ。それ以外に何も思うところはないが、そこにたどり着くまでにいったいどれほど言葉を要したのか。短い断言では嘘になってしまう。何を言い放ってもそれは嘘になり、そんな嘘からそれらの文章は構成されているらしく、たわいない戯れ言の集積が深刻な行き違いでも生じさせているのだろうか。今そこで思っているのはそんなことでしかない。そしてその思っていることも嘘になってしまう。瞬く間に時が過ぎ去ってしまうようだ。今までに何を語ってきたのか。どうやら心の病が言葉に乗り移ったらしいが、そんな嘘にもあまり説得力はないようで、どうでもいいことを述べつつも、それが何かの戦略なのだと思っているのだが、それは誰の戦略でもなく、どんな思惑が介在しているわけでもないのだろう。それでうまくいくとは思っていないが、結果的にうまくいかなくとも、それはそれで誰にとっても仕方のないことなのかも知れない。ただそこに複数の意識が渦巻いているだけのようだ。


1月4日

 何がおかしいわけでもなく、それは誰のせいでもない。誰の仕業でもなく、そこで誰が何をやっているわけでもない。仕事は仕事でしかなく労働も作業も仕事の一部なのだろう。どうもこの世界がすべてではないらしい。この世界において、すべてということはあり得ないのかも知れない。言葉が現象を捉えきれていないのか。では今はどのような世の中なのだろう。どんな言葉が現状にフィットしているのか。誰かは自分を信じれば道が切り開けるなどという幻想を抱いている。何を見ているわけでもない。何を思っているわけでもない。何を感じているわけでもない。それでは何を考えているのだろう。何も答えになっていないのではないか。現状についてどんな言葉を当てはめてみても、これ以上は言葉の連なりに幻想を抱くことができない。何もやっていないのにこれ以上はないだろう。ではこれ以上語るのはやめた方がいいのだろうか。それが君の物語ならやめた方がいい。やめられないのなら破滅するしかないだろう。それ以外はあり得ない。しかしそれで誰が破滅するわけでもなく、誰も破滅させないようにすることが破滅そのものなのだ。そんな嘘ではつまらないだろうか。ではどんな嘘なら現状に適合するのか。君が何を述べようと何がどうなるわけでもない。それで何を説明しているのでもなく、誰が破滅しているわけでもないらしい。君が体験しつつある現実が破滅そのものだと思う。虚無の深みに底はない。たぶんそんな破滅では何とも思わないだろう。君はこれまでにもいつもどうにもならないところで持ちこたえてきたと思っている。それがどのような自負に結びついているのか知らないが、君自身はそれを理解できない。願いはどこで成就されるのか。すでに気がつかないところで成就されてしまったのかも知れない。しかし言葉が離散しているようだ。つまらないことに腹を立てていても仕方ないか。仕方のないところで何を述べているつもりなのか。何かを説明していることは確かなようだが、それだけではつまらないだろう。だが考えることや思うことのすべてが幻想ではないはずだ。またすべてという言葉を使っている。それの何が性懲りもないと感じるのだろう。なぜそれ以上を目指しているのか。それを超えることなどできはしないが、何を超えようとしているのか。そんな馬鹿げた成り行きの中に何を見ているのか。何も見当たらないから話の成り行きが無内容に推移しているわけだ。だからうんざりしてくるのだろう。そこで何を見ているわけではない。それらのどこからどこまでがこの世界に属しているわけでもなく、そのすべてを含めると世界からはみ出てしまうような気がしてくる。どこかに余分な事象があるらしいが、その取るに足らない事象に言及できるだろうか。君は物語の世界に入り込めずにいる。それを読む気がしないようだ。いつも眺めている映像にも飽きが来ている。では聴いている音楽はどうだろう。心はそこから遠く離れたい。そしてそれが現実逃避だとは認めたくないらしい。何となくおかしな雲行きになってきた。そう感じること自体が勘違いかも知れないが、まだそこまでたどり着いていないのかも知れない。そことは底のことだろうか。漢字変換に気に入らない部分でもあるわけか。まだ眠たくなるような時間でもないはずだ。さらにそこから離れようとしている。無理なことを述べようとしている。大げさな葬送曲に送られながら、どこかの霊柩車が火葬場に向かって動き出す。誰もそんな場面に出くわさずに、ただ現状を淡々とやり過ごそうとしている。僧侶の読経がどこかで響いている。この世の無常は嘘に違いない。平家物語等のフィクションの中でだけそうなのかも知れず、現実の世界では常に何かを思い続けている。なぜそれで無常観から遠ざかれるのか。常ならざるものを認識できないわけか。誰もがその場にとどまろうとしており、無常観に至るのを押しとどめ、そんな思いを心の内にしまい込もうとしている。気が狂いたくないのかも知れない。何もなければ気が狂うだろうか。君にとってはそれがつまらないことのように思える。それで急場をしのいだとは思いたくないのだろう。唐突に馬鹿げたことを述べているだけのようだ。意味など何もありはしない。それで気が狂うのを回避しているわけではなく、ただそこから遠ざかろうとしているだけのようだ。


1月3日

 君の目は節穴か。誰かの意識の中では、何か幻想的な光景を目にする機会でも巡ってきているようだが、それについて君は何も語れない。誰かは何を夢見ているのか。夢の中ではどこまでも何が続いているのだろうか。それは君の道ではない。それらの時空では誰が何を求めているわけでもなく、またどこに誰がいるわけでもなく、そこで何があったか知らないが、それからあまり話に進展はなさそうだ。それは何の話でもないような気がするのだが、何か気がかりなことでもあるのだろうか。もとから何について語っているのかわからず、そこに言葉を重ねるほど、さらにわからなくなってきたようだ。それらの話の何が気に入らないのだろう。世間に対して警鐘を鳴らしているつもりの輩を、安易に軽蔑するわけにはいかない。君もその手の輩なのではないか。しかしなぜそこから無責任になれないのだろう。それこそが大きなお世話の要らぬお節介であり、逆説的に無責任そのものなのかも知れない。その手の言説は何に逆らっているわけでもなく、それで何を否定しているのでもないような気がする。メディアは常に何かを流行らそうとしている。ひたすら騒ぎ立てたいのだ。そこに特定の意図や思惑などありはしない。しかしそれを見聞している君は何を思うわけでもなく、ただ見聞きした何もかもを忘れようとして、実際に忘れてしまうだろう。君は忘れることによって精神的に楽になりたいのかも知れず、忘れながらもさらにそれらの馬鹿騒ぎを眺め続けている。理由や目的は何もない。何を望んでいるわけでもなく、世の中がどうなってほしいとも思わない。だが別にそのような状況に絶望しているわけでもなく、また何をあきらめているわけでもない。ただそうやって要らぬ言葉を並べながら、早く時が過ぎ去ってほしいと思っているのかも知れない。自らが何に関心を持っているのかよくわからないようだ。そんな風にして無責任を装いながら、そこから先に何を述べればいいのだろうか。近頃はどうも世の中に行き渡っている話題から隔たっているらしい。意識が世間の関心から遠のいているようだ。しかし本気でそんなことを思っているわけではない。戯れに無関心を装っているだけかも知れず、そんな偽装に心を奪われているのだろう。それはどういうことなのか。本当はどんな思惑を有しているのだろうか。何が君の狙いなのだろうか。本心ではこの世がどうなってほしいのか。個人の力で世の中を変えようとしているのか。冗談としてならそんなのもありだろうが、ただ何がどうなってほしいとも思っていないことは確かなようだ。自らが日頃どんな仕打ちを受けているのかわかっていない。いったい誰がそんなことを述べているのだろう。そこには誰もいないのではなかったか。そんな嘘があり得るだろうか。では誰か適当な人物を話の主人公に据えなければならないか。それはおかしな成り行きだ。実際に君が語っていることは代わり映えがしない。たぶんそれらの世界では同じような事件が切れ目なく起こり続け、同じことが際限なく繰り返されているだけなのだろう。そして人々はそんなことの繰り返しに嫌気が差している。君はそこで何をあきらめようとしているのか。興味を抱く対象が何も現れなくても、それでもまだあきらめるわけにはいかないのだろうか。いったい何をあきらめなければならないのか。あきらめる対象まで存在していない。あきらめるにはそれ以前に何かをやろうとしなければならない。ではそこから何かやらなければならないことが導き出せるだろうか。いったい何をやらなければならないのか。そして何をあきらめて、その代わりにまた何をやり始めなければならないのか。今日もテレビ画面上では訳知り顔で何かが語られているようだ。そんな風にして説明し見解を示さなければ、その先へは進めないらしい。しかしそれで君が満足するはずがなく、何よりもそういう話の展開が気に入らないらしく、何となくその辺で見物している対象に対する興味を失ってしまうらしい。話のターゲットはもっと別のところにあるのではないか。ではそれについて何か差し障りのない範囲で述べられるだろうか。またどこかへ脱線しようとしているわけか。ただそんなことを述べている現状があるらしい。


1月2日

 人は誰でも歳月を過ごすことによって、何か適当な幻想を抱くようだ。老いの自覚を否定すべきではないが、誰にも一応はプライドというものがあるらしい。くだらぬこだわりを心のうちに秘めながら、必死でつまらぬ言葉を並べている。今はある日の夜で、そこで君はある文章を読んでいる。それは自らが記しつつある文章で、言葉を連ねながらそれを読んでいる。そんな当たり前のことが不可思議に思われる。それからしばらくして眠たくなり、気がつけばまたいつもの現実に引き戻されている。さっきまで何を説明していたのだろうか。それはいつもの冗談かも知れないが、それらの文章では現状を説明しきれていないような気がする。今ひとつわからないことがあるようだ。なし崩し的に現在の日付に近づこうとしているらしい。最終的に何を望んでいるのか知らないが、そんな見通しは甘すぎる。では何をうろたえているのだろう。言葉は何の効力も発揮しない。そこで何をあきらめているのだろうか。試みは無駄であることを自覚している。君は何によって鍛えられているのか。無駄な試みを繰り返すことによって何を得ているのか。わかっているのにわからない風を装い、疲れていないのに疲れた風を装い、何を述べているかもわかっているはずか。そうする意図がわからない。自らの存在を否定すること以外に、まともな主張を述べたことがあるだろうか。それがまともでないことはわかっている。今日は何曜日なのか。今年は西暦で何年になるのだろう。この世のすべてが滅び去るのはいつになるのか。その時が来るまで死は待ってくれない。今から何十年か後に誰がその死を迎えるのだろうか。明日は誰が死ぬのだろう。誰も死ぬつもりはないらしい。君はまだ生きようとしている。生きようとしているから言葉の連なりの中に自らの名を探し続けている。しかしそんな嘘が文章のどこに記されているのだろうか。それで何を否定しているわけでもなく、否定できないことを否定しているわけでもないらしい。君は何を否定できないのかを知らないから、平気でその手の嘘を見過ごしてしまう。それがどんな嘘であろうと、つまらない嘘をわざわざ記すほど面倒なことはない。そしてさらに気分的にはどうでもよくなってくる。今はもう夢の中かも知れないが、明日の天気を占うつもりはない。投げやりな言葉が連なっているだけか。それでも馬鹿げた幻想に浸りながら、前向きな人生を歩んでいる。たぶん冗談で皮肉交じりにそんなことを述べているのかも知れない。何がそこで衰えているのだろうか。若くして獲得されたアイデンティティは、年月の経過にともなく摩耗作用によって、次第にそれを保持するのが困難になってきて、何となくそういう状況に危機感を抱くようになるらしく、それを紛らすために時として突飛な行動に出る者もいるようだ。それが今この時なのだろうか。それが冗談でないとすると、何を本気になって今からやろうとしているのだろう。誰もが好き勝手なことをやりたいらしいが、それが本当にやりたいことだったかどうかは、当人の思い込み次第だ。君はそこで思いがけない効果が発動することを期待している。やりたいことがやりたくなったことだという真実を認めがたいようだが、どこで心変わりしたかは、誰の知るところでもないらしい。本当にやりたかったことなどどこにもありはしない。夢を叶えようとする傲慢さがもてはやされている今、それが思いがけない軋轢を生じさせていることを知っておかなければならない。たぶんそういうごり押しによって迷惑を被り、嫌な思いをしている人が多数存在していることが忘れられていて、他人の夢によって好き勝手に生きることを断念されられている人が大多数を占めている現状が、社会を荒んだ状態にしているのかも知れない。ひとにぎりの成功者を崇め奉るような風潮が続いてゆく限り、人々は自らの夢を追い求めて好き勝手に振る舞おうとするだろう。そして夢に破れ挫折した者たちが、ひねくれたり復讐心をたぎらせたりして、他人に対する嫌がらせのようなことをやりたがるわけだ。しかしそんな単純な論理だけで生きて行けるのだろうか。


1月1日

 それらの試みには計画性がない。なぜいい加減に言葉を求めるのだろう。それはおかしな状況ではなく、通常ではありもしない状況だろう。どんなに文章を記してみても、君が気に入るような言葉はどこにも見当たらないようだ。言葉のゴミが大量に廃棄されている。あともう少しでやり遂げられるのに、そこでまるで図ったかのようにいつもの邪魔が入る。少しタイミングがよすぎるようだ。だが見えているのはそんなことではない。そこに何か適当な意味がもたらさせるが、物語は始まる前から終わっている。何かを語り始めようとする意欲に欠けている。君では役不足なのか。そういうことを主張したいのではない。今から数時間前には何を眺めていたのだろう。樫の木に絡まっていた蔦は、根元から切られて枯れてしまったようだが、窓際の雑草はまだ枯れずに残っている。文字がどこかに記されているらしい。影はそこからどんな展開を望んでいるのか。無意識をどう活用できるだろうか。そこで何を予知していたのか。そんなことはどうでもいいことだろう。いつどこで地震が起ころうと、過去の時空に存在している限り、君にはまったく関係のないことだ。自意識と何も関係を築けないのは虚しいことかも知れないが、そこから未来の時空に移動して、誰の気持ちを推し量ろうとしているのか。年が明けても何の展望も開けない。去年の段階でまだやり残したことがある。だが今さらそれを未練がましく蒸し返すつもりはなく、そんな成り行きを無視して、真昼の空を見上げれば、相変わらず雲は西から東へ流れ、日の光が作る陰影を刻々と変化させている。たぶん君は何かを語りたいのだろうが、思いつくことは何もなく、退屈な日常に埋もれながら怠惰に流され、そんな状況を無理矢理肯定しようとして、もう何も思うまいと心に固く誓っている。そんな虚無的な日々も終わりが近いようだ。そんな根拠のない予感が思い違いであることを肯定できず、苦し紛れの助け船も出てこないようで、結局どうにもならない現状を悲観して、どこか遠くへ行ってしまいたくなる。そこから逃げられるわけがないだろう。逃げるつもりもないのに、逃げるふりをするのは欺瞞もいいところか。逃げ込むあてなどどこにもありはしない。相変わらずの退屈なテレビ画面の中へ、気晴らしの意識を向けさせるのにも飽きてしまったらしい。言葉を連ねるのが嫌になってしまったのだろうか。気を取り直してそこから逸脱しようと試みるが、壊れたままの頭脳が回復する兆しは見えず、それでも強がり痩せ我慢的に振る舞うのにも疲れたらしいが、また同じようなことを述べている自らを見放すことができず、なぜそこまでやる必要があるのかわからないが、結果的に何をやっているわけでもないことにしたいらしい。それで何を打ち消そうとしているわけでもなく、ただ何かしらつまらないことを述べているようだが、やはり何を述べているわけでもないような気がするだけだ。だがそこから何も述べられないわけでもないだろう。何となくそんなことを述べているのであり、そんな君は意味不明に毒されているといえるだろうか。たまには意味のある文章を構成してみたいか。だが依然として何を述べたいのかが明らかになっていない。それは無理だろう。何も述べたくないのかも知れないが、何かしら述べている事実を受け止めなければならない。なぜ君はそんな風に述べてしまうのか。何となくそこからわけがわからなくなってくる。つまらないことを述べているのだろう。つまらないから嫌気が差す。やりたくもないことをやっているのではないか。やりたいことが見つからないのか。そんなことを述べている場合ではない。では老いて朽ち果てるのがそんなに嫌なのか。当たり前の現象に逆らうのは馬鹿げている。それは誰の興味を惹くような現象ではない。それが無理なことはわかっている。何をどうすれば無理ではなくなるのだろうか。黙っていては何もわからないが、沈黙に支配された状況の中で、言葉を発することが苦痛であるのは当然だ。だからそこで沈黙せざるを得ない。どうも何も変わっていないらしい。何か不具合でも発生したのだろうか。ようやく今年になったのに、また足止めを食っている。そこからいくらでも語りたいのなら、さっさと語ればいいだろうが、語れないのに語れるわけがないだろう。


2005年

12月31日

 どこかで泡を食っているらしい。蟹ではあるまいに、そんなに泡を吹いてもてんかん発作を装うこともできず、ただ洗濯機のふたを開けてのぞき込んでいるだけか。別にそこから遠ざかろうとしているわけでもない。精神状態が危ぶまれるかも知れないが、どうあってもそれをやり遂げなければならないらしい。それは馬鹿げたこだわりだろうか。何となく割り切っているようだが、その程度のものなのだろうか。何に目覚めたのかわからない。やる気とはそういうものではないはずか。そういうものではないとすると、どういうものなのか。そんなことを知ろうとは思わない。なりふり構わずに言葉を記しているつもりらしいが、そこにどんな計算が働いているのか。どうせ忘れ去られてしまうのなら、せいぜい適当に現実と戯れた方がいいわけか。君はそんな現実を知らないのだろうか。わけのわからないふりをするのもわざとらしい。寝たふりをしているわけでもなかったようだ。影はまだ長い。それが何を意味するかは誰の想像にまかせればいいのか。君は本当に何もわかっていないようだ。わかりようのないことを知ろうとしているわけでもない。冗談からは程遠いそれらの言い回しを、どのように受け止めればいいのだろう。感性はとうに擦り切れて、何の出がらしでもなく、残滓さえ残っていないような気がしたのだが、まだ紅茶でも飲むつもりらしい。君にはそれがわからない。どこで語り方を間違えてしまったのか。そんなわけにはいかないだろう。初心を忘れべからずといっても、何を忘れてしまったのか覚えていないではないか。他に何を思い出そうとしているわけでもなく、それはそのときの成り行きと運命が定めるところのものか。ただわけがわからない。そこから遠ざかりすぎているのかも知れず、そこへ近づきすぎているのかも知れない。しかしそんな矛盾はありふれている。いわんとしていることが不明確だ。それで一通り何かを述べたつもりになっているようだが、まだ何も述べていないような気がするのはどういうわけか。それが実感なのだから仕方がない。決して紛れもない嘘だとは思わない。ほんの少しでも事実の欠片を感じ取ったら、それを限りなく膨らませて、ありふれたフィクションでも構成してみたいのか。しかしそこからどうやって戻ってきたのだろうか。まだ夢の中でもがいている最中ではなかったのか。誰がそうしているのか。誰も見当たらないのは君が闇の中にいる証拠だろうか。まだそんなことを述べている。いい加減にまともなふりをしてみたらどうか。正気を取り戻したことを高らかに宣言してみたらどうか。それこそ狂気の沙汰か。言葉遊びに限りはないようだ。有限の言葉を使って無限であるように見せかけているつもりらしい。何がそこでの無限なのか。冗談も有限の範囲内にとどまっている。君の愚かさが無限大だと自身を卑下してみたいか。つまらない冗談はやめにしよう。どうやってもそれを超えることは不可能だ。言葉を超えて文章を構成することはできない。それは何かの勘違いに違いない。そんな言い草はないだろう。誰と誰が対話しているのかわからない。本気にならなくてもその程度のことは可能だ。君は本気という状態を知らないだけか。そんなことを述べているうちにもう飽きてきた。次第に眠たくなってくる。ではそれで今回はお終いになってしまうのだろうか。わけのわからないことを述べすぎている。いい加減に振る舞いすぎている。馬鹿げたことを述べすぎている。だがそれがおもしろいのだから仕方がないだろう。そういうやり方は好ましくないが、それでもまだ嫌気が差していないとすれば、それは恐ろしい忍耐力を想像させる。たぶんそれらの精神は狂っているのかも知れない。君はそう述べて誰を脅しているつもりなのか。それともまだ先が長いことを暗示させたいわけか。そんな嘘は聞き飽きたか。まだ何も聞いていないような気もするが、そのとき何を思い浮かべていたのか忘れてしまったらしい。意識のどこかがおかしいのかも知れないが、それでもそれを利用しない手はないと思いつつも、それらの文章が誰に利用されているのかは、君には知りようのないことかも知れない。たぶん知らない方が身のためだろう。


12月30日

 無理してかなり粗雑なことを述べているようだ。馬鹿げていることに変わりはない。冗談にも程があるが、本気で冗談を述べるほど野暮でもないつもりらしい。本当のところはわからない。よみがえってくるのはゾンビなどでなく、不死身の肉体でもない。何がそこでよみがえっているのか。本当のところはよくわからない。どうでもいいことをわかっても仕方がない。肝心なことを忘れてもらっては困るらしい。はたして君の目的は何なのか。知りたいのはそんなことではない。それは何なのだろうか。忘れた頃に過去の記憶がよみがえるが、それはゾンビなどではない。同じことを何度述べれば気が済むのだろう。もったいぶらずに君に教えてほしい。それは君ではない。何かがこんがらがっているのかも知れない。もう二度と過ちは犯すまい、と心に誓ってもそんなことはすぐに忘れてしまう。それは誰のための犯罪でもない。フィクションの中でつまらぬ出来事が繰り返されているだけだ。しかし本当に知りたいのはそんなことではない。わざと間違えているのだろう。そんなに過ちが続くはずがない。誰に脅しをかけてくるのだろうか。電話の主を知りたいわけではないが、そこでにやけているのは君ではないらしい。無言電話は執拗に繰り返され、やがてそれが直接的な暴力にでも発展するのだろうか。現代人の行動パターンにはそういう傾向があるようだ。それでも君の匿名性は保たれる。やはり冗談ではないのだろうか。今こそ目を覚ますべきなのか。目を覚まして何をすればいいのだろう。夢でも見てみたらいいのか。そんな冗談が誰に通用するはずもなく、伝達すべき言葉をなおざりにしてしまう。だからまともな文章が必要なのか。だが今さらそんなことを述べても無駄だろう。予定調和を目指して言葉を構成することに、えもいわれぬ快楽を見出そうとすれば、それは自らが正気でない証になるだろうか。それこそ言葉の無駄だろう。何を出し惜しみする必要があるのか。まさかそこであきらめてしまうわけにもいかないか。だからこうして言葉を連ねているのだろう。だがそんなわかりきったことを今さら述べないでほしい。また背中が痒くなるだろう。それこそ意味不明の最たる表現だ。言葉の単調さを何で紛らわせばいいのか。次第に虚無が重さを増してきて、支えきれなくなって発狂したらおもしろいか。誰のことを述べているのでもないらしい。何をおもしろがっているわけでもなく、それらの言葉を誰に捧げようとしているのでもない。ただそこには何もないだけか。何もないからつまらなくなり、たぶんその辺で苦しくなってしまうのだろう。何かがスピンしているらしく、そこから正気がはじき出され、残っているものを認識できなくなり、要するに何も述べられなくなるというわけだ。かなり馬鹿げているだろうか。君にはそれが認めがたい。そんな成り行きは嫌いだ。だがそこで空虚な爆発を繰り返しても仕方がない。わざとらしすぎることはやるべきではない。しかしやるべきことをやってきたわけでもない。ならその先にどんな展開を用意すればいいのか。夢見る瞳に虚無を垂れ流すわけにもいかない。夢想の妨げになるようなことは述べるべきでない。幻想の丘から転げ落ちるように駆け下りてくるのは、誰のリアリズムでもなく、その逃走の道筋を示しているのもリアリズムではない。誰が指し示しているのでもない領域へ飛翔できるはずもなく、説明に値するような現象のただ中に存在するわけでもない。やはりそれはどうでもいいような出来事なのか。骰子を転がして、それをどんなきっかけにしたいのか。見えているものを違う見方に従わせようとしているようだが、そんなことがはたして可能だろうか。単なる言葉の言い換えになってしまうような気がする。成功という邪念を振り払い、結果的に何が見出されるわけでもない領域に踏みとどまることができるだろうか。誰がそれをやろうとしているのか。ため息交じりに暗澹とした未来を想像する。来年の今頃はどうなっているのだろう。まだ正気に戻っていないかも知れない。そんなのは嘘だとは思っているようだが、どんな精神状態が正気を体現しているのか疑問に思う。君はそこから何を導き出そうとしているのだろう。


12月29日

 何がそうさせるわけでもなく、ただ言葉を連ねているだけだ。言葉は無限にあるらしい。根拠など何もない。見つめている先にはブラインドが降りているだけだ。偽りの暗闇は蛍光灯の明かりに滅ぼされる。そんなはずがない。足もとがおぼつかないのは老いた証拠かも知れないが、それは誰のことを述べているのでもない。何を承知しないのか。そうなってしまうことを認められないようだ。禁止薬物の力を借りているわけでもない。正気のふりをするのに疲れただけだろう。君の意識からはまともな言葉を見出せない。そうなってしまうことに嫌悪感を抱いているのかも知れない。他人は何を糧として生きているのだろうか。別に他人の心配をしているわけでもなく、自分の心配を怠っているわけでもない。そんな言葉がどこにあるのか。基本的な構文を忘れている。ただ怠けているだけだろう。意味不明な怠惰に流され、ろくでもない他人のこだわりに振り回され、それが何かの妨害工作であるような気もしてくるが、本気になれるわけがない。それはあり得ないことかも知れない。先を急いでいるつもりが後戻りをしている。わざとそうしているのだから救いようがない。なぜそんなことにこだわるのか。そうまでして続けたいのだろうか。君はまだそのときのことを覚えているのだろうか。いきなり過去に戻ってどうするのだろう。何の感慨もないのに、何か適当な感想でも求められているらしい。まだそこから話をつなげようとしている。もうその辺でその話はやめた方がいいだろう。まだ何も話していないではないか。様々な色が押し寄せる。それはどんな夢なのだろう。そこで想像力が尽きている。正気に戻ろうとしているのは君ではない。精神の集中を保っていたいらしいが、何かに邪魔されて、言葉を記している感覚を一瞬失う。その感激をついて様々な色が押し寄せる。まさかそこから絵を描かなければならないのか。切り立った断崖から落ちてゆくような感覚を味わう。唐突に不連続なのかも知れない。文章の不連続を利用して話の転調を図っているつもりのようだ。意味がない無駄な試みに思われる。無意味な試みは嫌いだろうか。無駄だから魅力があると勘違いするのではないか。すべてが機能的なら無味乾燥になってしまう。要するにそこでのおもしろさはわけのわからない思い込みから生じているわけだ。だが何をおもしろがっているわけでもない。本気で語りかけるには間が空きすぎている。その気もないのに本気も何もあってものではない。はじめから本気で語ることを断念しているような節もある。言葉の使い方がぎこちない。ただ無駄なことばかり述べているだけのようだ。過ぎ去った文章からは何ももたらされない。今さら何を読み返そうとしているのか。無理に遅れを取り戻そうとすれば、何か馬鹿げた成り行きでももたらされるだろうか。しかしそこから遠ざかっても何もない。君は虚無に近づきすぎているのだろうか。それを虚無だと思うこと自体が大きな勘違いか。それはそれでしかなく、それという言葉でしかない。そんなわかりきったことに疑問を差し挟むのはおかしい。それともわざとおかしなことを述べようとしているだけか。そこで何か忘れているとすれば、それは皮肉を述べることだろうか。それの何が皮肉な成り行きなのか。それでしかないそれについて何を述べているつもりなのか。画面に映る自らの姿を見たことがあるだろうか。何も映っていない画面に日の光が反射している。謎解きには飽きているはずだ。うんざりするような推理ゲームにも飽き飽きしているようだが、何がそこでの紋切り型なのか。みんな刑事コロンボのような台詞を多用している。知能犯気取りは死んだ方がいい。現に死んでしまったことになっている。それが暇つぶしの感想だとは思えない。とても脚本が粗雑だなんて夢にも思っていないのだろう。尽きかけたやる気をかろうじてつなぎ止めているのは、そんな馬鹿げた話でしかない。やはりそこで死んだ方がいいかも知れないが、そんなのも偽りの演技のうちでしかなく、他に何も思うところはなく、役者のわざとらしい言い回しに辟易しながら、それでも文章のネタを提供してくれたことに感謝しなければならない。しかしふぬけた人格はさらにすかすかになっているようだ。


12月28日

 述べたいことは冗談ではないのか。手抜き工事もいい加減にしてほしいか。わざとそうしているのだから呆れてものもいえない。そんな題名の曲が過去にあったかも知れない。まだ君は笑っているのだろうか。どこからどこまでが君の領分なのだろう。領域を区切る境界線がどこに引かれているのか。冷たい視線を感じるのはどこまで踏み込んだ瞬間なのだろう。踏み入るべき地域を取り違えている。山奥深く分け入って遭難したいのか。今は冬だろう。冬山で遭難するほどの蛮勇は持ち合わせていない。それらの無鉄砲さは別人のものだろう。だから中途半端なままなのかも知れない。何をどう表現したらいいのかわからない。何も言い表せないとしたら、それらの言葉はどこから生じてくるのか。足下から忍び寄る寒さに負けてしまいそうだ。だからその辺で妥協しなければならないのか。真昼の空は何も語らない。真空ではないから何かしら物質が漂っているのかも知れないが、意識の中に入り込んでくるような執拗さはない。冬の日差しを浴びて何を思うでもなく、流れる雲にどんな感慨を抱くこともない。すべては君には関係のないことだ。それがすべてでないと思うなら、いったい何がもたらされているのだろう。見え透いた嘘をつかないでほしい。状況を見誤っている。まだそこまでいっていないだろう。感じているのはそんなことではない。失われた感性は二度とこの身には戻らないが、そこからさらに何とかしようとしている。何を覆そうとしているのか。何か斬新なアイディアでも思いついたのか。見透かされた魂胆をどういう具合に変更しようというのだろう。それほど思いを遂げようとは思わない。無理に言葉を求めているわけではない。思いの強さは挫折を味わうためにある。それが方便だとは思わない。何が自然と湧き上がってくるわけでもないらしい。雲は風に流されて視界から消え去ってしまう。はるか遠くに見えているのは蜃気楼であるわけがない。どうも現実を把握できないようだ。事態は悪い方向へ推移しつつあるのだろうか。まとまりを欠いた言葉の群れに埋もれて、いつものように何を述べているのかわからなくなっているようだ。君はそこで自らの限界を悟り、どうにもならない現状に疲れて自暴自棄になり、戻るべき大地から遠ざかり、宙に浮き頓挫した計画を懐かしむばかりか。本当に何を述べているのかわからなくなる。戻る術を知らぬ意識は夢遊病のように辺りを徘徊し続け、ひたすら意味不明かつ複雑怪奇なことを述べようとしている。そんな意識がどこから生じてくるのか。それでもまだ正気に戻った時のことでも心配しているのだろうか。可能性はまだ残されているような気がするが、それがどのようになる可能性なのかわからない。変化の度合いが想定外の値を示している。だからそこからさらに違うことを述べようとしているわけか。そんなはずがあるわけがない。どこまで行ったらあきらめがつくのだろうか。文章の内容が正気に戻るには、何らかの生け贄などが必要かも知れないが、そんな思い違いにも笑ってしまえるだろうか。明らかに常軌を逸して何かを述べているらしい。思い描いていた結末を見失う。暗闇の中で指をかみ続け、何か適当なことを考えているふりをし続けているようだが、考えがまとまることはあり得ない。今は真昼ではない。いったいいつからそんなことを述べていたのだろうか。途中で何度か中断したようだが、気がついてみれば、またいつもの闇の中だ。暗中模索ばかりで、誰かはそんな成り行きの単調さを呪っているらしい。何をどう考えてみてもおかしいと思われる。現実に経験している状況は、どこかで言葉を纏うことを夢見ているのかも知れないが、忘却の彼方から妄想が襲来してきて、つまらぬ現実などすべて流し去ってしまうらしい。今はそんなおかしな言葉遣いを容認しなければならない。これが貧窮の時を形成しているわけだ。言葉の連なりに肯定的な意義を見出せず、何もかもを否定した衝動に駆られつつも、かろうじてそんな現状の中に自らの意識があることを認めなければならない。それが君自身を構成しているのだ。文章はこれからもそんな君を活用しながら、適当にいい加減に記されてゆくだろう。君がどこまで耐えられるだろうか。


12月27日

 ねじがねじ切れて使い物にならなくなってしまった。錆びついているのを無理矢理力ませにねじればそうなって当然だろう。だがそれで何を述べているわけでもない。それでも何かしら述べていることになるのだろうか。偶然に生じた空白の時を利用できない。言葉は何も語らない。身体が言葉についてこない。要するに身動きが取れないということか。冬に鳥がさえずることもあるだろう。うまくかみ合っていないようだ。地面が揺れ動いているように感じられるのは、地震のせいではなく、足下から何かが突き出る前兆だろうか。何を述べているつもりなのか。這いつくばって誰かがにらんでいる。にらんでいる対象をにらんでいるのではなく、画面の向こう側から誰もいない部屋の隅をにらんでいる。そんな嘘を信じられるはずもなく、嘘を信じるには言葉が足りないようだ。まだカレンダーを貼るタイミングではないだろう。それは何かのポスターだったかも知れない。そこで何が矛盾しているのか。壊れかけた精神を立て直すつもりはなく、言葉も意味不明のままに連なってもかまわないような気がする。それが冗談だと思うなら、たぶんそれは何かの勘違いなのだろう。勘違いであってもかまわないだろうか。誰に許しを請うわけもなく、ただ勝手に壊れたままの文章をそのまま放置し続けている。それで何がわかるわけもなく、何を知ろうとしているわけでもない。それらの無責任を放任するしか、その先に続ける方法はないのだろう。それが馬鹿げていることは確かだが、真面目になるのはさらに愚かなことか。何となく文章がよろけている。足下ばかり見ていても視界が開けるわけもない。何かの感覚がなおざりにされているのかも知れない。君はここから何かについて語らなければならない。唐突に何を述べようとしているのか。何を微笑んでいるのか。要するに何もないのだろう。そんな意味のない言葉につられて髭面の男も笑っている。君が見ている画面上には何が映っているのか。聴いている音楽が楽しそうなのか。まだ足下が揺れている。まるでトランポリンの上を歩いているようだ。まだ何も意味を見出せない。顔をしかめて困ったふりをしている。無理に遅れを取り戻すのは気が進まないようだが、今はそれを実行する時なのかも知れない。これから消化試合をやろうというのか。相手は誰なのだろう。相手もいないのに試合も何もあったものではないか。わざと間違えているつもりなのか。そんな簡単に事が運ぶわけもない。手許が狂っているのかも知れない。だが修正など利くわけもない。何か肝心なことを忘れていないか。まだ時間稼ぎが足りないらしいが、それも計算のうちか。何の計算なのかわからない。それはこれからほざく冗談の数でも計算しているのかも知れない。それとは君のことなのだろうか。成り行きまかせの言葉もそろそろ尽きかけている。もっと簡単にきっかけをつかめないものか。それは何のきっかけだったのか。無理なことを述べている。無理をしなければ時間の経過に追いつけない。何かそこで矛盾していないか。笑っていられるのも今のうちか。誰がそんな冗談にもならない言葉で笑えるのか。運もつきもないのだろう。どちらも同じ意味を有しているが、そんな意味に用はない。用があるのは無意味だけか。それで用を足せるだろうか。そこからどうするつもりなのか。何をどうするつもりなのか。今さら策を弄するわけもない。何が幸運を呼ぶことになるのか。それらの文章の馬鹿らしさに呆れてくれるだろうか。それで何がわかるのだろう。気が抜けてやる気も失せている。それほど本気になっているわけでもなく、無理に何を語ろうとしているわけでもない。ではもう終わりなのだろうか。あきらめるのはまだ早いか。あきらめてもかまわないが、どうやったらあきらめたことになるのか。言葉を連ねるのをやめたらいい。無駄な悪あがきをやめたらいい。だがそんな言葉を吐いたとたんに足下の床が揺れ始める。それは目眩の一種かも知れない。たぶんそれらの言葉をなかったことにしたいのだろう。もうそんなことは忘れてしまっている。ただ馬鹿げた感覚だけが微かに残っているようだ。そこから何をどうしたら気が済むのか。そんなことを誰が知り得るだろうか。君はさらにろくでもないことを述べている。


12月26日

 わざとらしく驚いてみせるのは馬鹿げているだろうか。これはいったいどういうことなのか。どういうことでもなく、そういうことでもないのだろう。ただ意味のない言葉が連なっているに過ぎない。他に何もありはしない。どうでもいいような情報に溺れているのかも知れない。まともなことを述べるのは無理そうだ。そんな馬鹿げた思いのままに、何を述べているわけでもないらしい。冷静でいられるはずがない。そんな風に述べている意味がわからない。他がないのだからそんな成り行きでもかまわないのではないか。君には先を見通す能力が欠けている。ただ成り行きまかせにおかしなことを述べているだけだろうか。おかしいとは思わない。つまらないと思っているだけのようだ。何かの暗示にかかっているのかも知れない。話の筋が見え透いている。勘違いにも程があるだろうか。できるはずのないことをやろうとしているだけか。そんな言葉は使い飽きたかもしれない。何かはっとするような台詞がひらめかないものか。またいつもの無い物ねだりに陥っている。こうなったらさらに馬鹿げたことでも述べるしかないようだ。君の思い通りの成り行きになるわけがない。すべてはお見通しのはずだ。何を見通しているわけでもないのに、そんなことを述べてみる。無駄に言葉を弄さなければその先へ進めない。日付は去年のままではやる気がしない。そこに言葉をねじ込まなければ道は開けない。それは怪物などではない。単なるゴム人形の類か。見ているものが情けない。もっと別の興味が湧くようなものをねつ造しなければ、何とも述べようがない。馬鹿げているのお互い様か。誰と誰がそこで見つめ合っているのか。化け物だとか妖怪の類では画面に封印する価値もない。それは何かの反則技だろうか。道を切り開いているつもりが、藪の中でめくらめっぽうに鉈を振り回しているに過ぎない。篠ごやでかすり傷を負い、破傷風になって死んだ人もいる。それは誰のなせる業でもない。過去に息づいている亡霊は、誰を惑わしているわけでもない。そこから何らかの話が生まれて、その話がつまらなければ忘れ去られてしまうだけか。誰がそこから去ってゆくのだろう。立ち去る者を引き留める理由を見出せず、去りゆく心を懐かしむ間もなく、わけがわからず言葉を連ねるばかりのようだ。誰もそれ以上を望まないのかも知れない。まだそんなところでうろついている。うろつく理由など何もありはせず、うろつけなければ消え去るのみだということを知らないわけでもない。だからそこから何をしようと思ってみても、結果的に何をしていることにもならないことは承知している。それでは文章にならないだろう。どうにもならないから今がある。今もすぐに過ぎ去ってしまい、かといって未来を先取りするわけにも行かず、何も見出せぬままに、どこかに取り残されているらしい。それが去年の時空なのだろうか。何を語っても何も理由になっていないだろう。説明にすらなっていないような気がする。誰がどこでどうなったのかよくわからない。もういい加減にあきらめたらどうなのか。きらめきともひらめきとも無縁の状態で、何をどう語ったらいいのか。それが今の心境なのだろうか。いくら思い悩んでも無駄なようだ。だから何かを探さなければならない。何も見当たらないのに言葉を探している。窓際の枯れ草ばかり眺めていても、脳裏に何が浮かんでくるわけもなく、そんな言葉遣いそのものが誤りとしか思えなくなる。だからそこから語り出さなければならないのだ。だからではなくしかしなのではないか。この際そんなことはどうでもいいことか。そんな破れかぶれの闇雲な言葉の連なりは見苦しい。わけがわからないのなら何も考えなければいい。そこから何を思い出すでもなく、他に取るべき道もありはしない。君はやるべきことをやっていないようだ。さらに虚無的な響きを纏わなければ、何事に対しても興味を抱けなくなるだろう。そんなでたらめは通用しないだろうか。通用しないのなら、他に新たな逃げ口上でも探さなければならないのか。それはどういうことなのだろうか。どういうことでもなくそういうことなのだろう。要するにどこまで行っても意味不明なのだ。


12月25日

 その手の思想には飽きている。美的造形を褒め称えることにも興味を持てないか。それを持続させることに意義があるのかも知れない。そこから何をわかろうとしているのだろうか。それに興味があるのだろうか。興味がなければわかろうとするわけがないか。君は自分自身を見損なっていないか。具体的に何がどうなっているのか。歴史とはそういうものなのだろう。過ぎ去った時を後から愛でるものなのか。しかしなぜ去年のままなのか。見出された時はそのような時ではない。何も見えはしない。何らかの工夫が必要なようだ。すべてが幻想であるはずがない。何が見出されているわけでもなく、否定する対象などどこにもありはしない。何もないのでいつも笑っているわけか。それで意味不明をもてあそんでいることになるのだろうか。窓際の雑草はまだ枯れずに残っている。まったくやる気にならないようだ。冗談で何を述べているのか。どこまで行っても何も見当たらない。そんな道があるわけがない。やはり何かについて述べなければならないのだろうか。切ない望みとは何なのか。求められている広い見地とは何だろう。目的があって結果がついてくる。それが運命なのだろうか。当たり前のことだろう。君はそういう成り行きから逃れられなのだ。それは馬鹿らしいことかも知れないが、君が運命を引き受けなければ、他の誰かに役割が回っていくだけだ。そんな風に思えば少しは気休めになるだろうか。それが何の気休めなのか不明だが、何となく何かをわかりかけているような気がしてくる。つまらない役割があったものだ。誰かはそれが不満らしいが、いつか真実が明らかになる時もくるだろう。君には知り得ないところで何かが進行中のようだ。眠たいのなら寝てしまえばいいだろう。明日の朝になればまた同じような一日が待っている。何を述べようとそれは変わらない。無理なものは無理でしかない。枯れて萎れてしまった雑草に何がわかるというのか。転がる石のように何が転がってゆくのだろう。そういうことを述べているのではないのかも知れない。意味などわかりはしない。言わんとしていることなどとうに忘れてしまったようだ。君は誰に向かって何を語ろうとしていたのか。たぶんまだ何も述べていないのだろう。述べるべきことがどこにも見当たらない。たぶん君はどこにもいなくなるだろう。つまらないこだわりが墓穴を掘ってしまったのだろう。しかしそんなのがありだろうか。君は何もしないうちから消え去る運命なのか。その程度では話にならないということか。人はみんな使い捨てられる運命なのかも知れない。しかし君のつまらないこだわりとは何のことなのか。続けることに意地になっているということか。だが意志の力だけではどうにもならないこともある。どうにもならないからこういうどうしようもない事態に陥っているわけか。今度ばかりは年貢の納め時か。誰かに忠誠を誓って策謀を巡らせていることが身の危険をまねく。君は何からそれを学んだのか。時代遅れと思われてもかまわない。用無しになったら忠誠を誓った誰かから見捨てられるだけか。それが裏切りといえるだろうか。みんなそこで勘違いをしているわけだ。そういう組織形態そのものが幻想の共同体を形成しているだけだろう。そんな話はいつの時代でもどこにも散見される現象に過ぎない。そういうのを避けるにはどうしたらいいのだろうか。戦国武将のような真似を本気で受け止めないことが肝心だろうか。フィクションの中ではそんなことがおもしろおかしく語られているだろうが、それを現実の世界に当てはめるのは幼稚すぎる。真に受けてそれのまねごとでもやろうものなら、周囲から笑われるだけだろうか。そこには誰の意向が働いているというのか。何となくその辺からやばい匂いが漂ってきている。本気になってはならないと思いつつ、何やらその手の権力争いを端から眺める気にはなれない。あまりにも見え透いていて、今さらそんなことに血道を上げる必要もないような気がしてくる。たぶんやめた方がいいのかも知れない。馬鹿らしい考えはさっさと捨てるべきのようだ。それが身のためであり、みっともない真似をやらないために平常心でも装っていた方がいいだろう。


12月24日

 何も述べていないのかも知れない。今は今日の今ではないらしい。何の構想もありはしない。それらに関しては共同作業をしているわけでもない。誰かの戦略について何を思っているわけでもなく、それについて何を述べているわけでもない。何もなければつまらないだけだろう。そこから何を提言するつもりなのか。国際的な枠組みとは何のことなのか。中には国家間の枠組みについてあれこれ述べている人もいるらしいが、人のやっていることが国家が行うべきことに直結するとは思えない。誰が国家を動かしているわけではないように思える。国家という組織的な枠組みの中で、何らかの役割や立場を有する人がいて、それぞれに割り当てられた仕事を淡々とこなしているに過ぎない。そこに何か魅力的な内容があるのだろうか。やれアメリカがどうしたの、今度は中国がどうしたのと述べてみても、そのような言説に幻想を抱けないような時代になってしまったのではないか。国家について一つの筋道を立ててそれに沿ったことを述べづらくなっているのかも知れない。国家の役割がなくなってしまったわけではないが、例えば昔ながらの富国強兵路線を踏襲することについて、アメリカや中国や北朝鮮あたりならもっともらしい理由が導き出されるかも知れないが、日本ではどうなのだろう。まずは財政再建が最優先課題であり、あまり国家そのものを軍事的に強くする、とかいう考えには至らないような気がする。現状では経済的な利益を軍備増強に注ぎ込む必然性がないのかも知れない。とりあえず資本主義で市場経済なのだから、公務員の特殊法人への天下りなどの、不平等な権益などをなくして、誰もが公平に金儲けできる機会があるように思われる制度に改変したら、それでいいということだろうか。これまでどおりマスメディアなどが一部の不当に甘い汁を吸っている輩を暴き立て、政治家や政党が尽力して、そういうことができないような制度に改変していったら、それで国民の信任を得られるような国家になるのだろう。それ以外に何か足りないものがあるだろうか。好景気になり、失業者が減り、犯罪が減り、治安がよくなり、近隣諸国との外交関係も良好になり、国内外の困っている地域には援助を惜しまず、そんなきれいごとを達成できたらすごいことだろうか。そうなるためにはどうしたらいいのだろうか。やり方はいくらでもあるだろうし、答えはいくらでもあるのだろう。しかし本当にそうなるかどうかはやってみなければわからない。そんなことを述べているうちに何となく馬鹿らしくなってくるらしい。現状ではそんなわけにはいかないことはわかりきったことか。個人が何をどうしたらいいかなんて考えるのは無駄なのかも知れない。そうなるためのビジョンやら提言やらを誰が述べているのだろうか。テレビや新聞や雑誌で誰かが述べているかも知れない。どこかの政党の勉強会で誰かが述べているかも知れない。著書の中で著者が述べているかも知れない。インターネット上でその手の書き込みが流布されているかも知れない。たぶんそれらが世の中には行き渡っていて、なおかつこんな現状があるわけだ。これは当たり前のことだが、恐ろしいことかも知れない。何がどのように恐ろしいのだろうか。答えがいくらでも出ているのに、現状はそれらの答えからは程遠いということだ。何をどうすればいいかなんていくらでも述べることができそうだ。述べるだけならいくらでも述べられる。無責任にいい加減なことをどんどん述べられる。それがその手の言説がはまる落とし穴だろうか。言説などいくら説得力があろうと無視されたらそれでお終いなのか。述べた後には何も残らない。言葉は中身のない空虚から構成されていて、いくらまともなことを述べても、意図的に無視されたら、どこにも伝わらないものなのかも知れない。気に入らなければ真に受けなければいいだけで、文章が言わんとしていることを理解しなければいいわけだ。理屈では人は動かない。では何で人は動くのだろうか。くだらぬしがらみとか、金銭的な欲望とかで人を動かすことが可能だろうか。


12月23日

 時流に合わせられない。そんな嘘は嫌いだろうか。信念は何もない。それが君の信念か。何かに追いつめられているのだろうか。何ものにも代え難い貴重な体験というものを与えてほしいか。神がそれをもたらしてくれる。そんな冗談はつまらない。すべてが時々刻々と変化している。たぶんいくら言葉を弄しても、何を知ることにもならないだろう。簡単に言葉の数を増やしたいだけだ。今より容易に言葉を連ねたい。無理を言わないでほしい。本当にそれが君の望みなのだろうか。他にどんな望みがあるというのか。それについて何とも思わないのはどういうことなのか。誰が何とも思わないのか。文章が干からびてミイラ化しているかも知れないが、そんなのは嘘に決まっている。どうもそういうのは違うようだ。それでは何を意図しているのかわからない。枯れかけの雑草はなかなか枯れきらないようだ。小さな花が次々と咲き続け、毎日大量の種を床にまき散らす。これが地面だったら春になれば辺り一面が雑草だらけになるわけか。思いついたのはそんなことか。想像力が貧困だろうか。それを君はどうするつもりなのか。無理にありもしないことを想像してみる必要はない。必要もないのに述べているそれらの文章の方はどうなのか。今はなくとも後から必要になってくるはずだ。そんな思い込みに何の根拠があるのか。後からそれが必要であったか否かがわかる時がくるだろう。だが明日になればそんなことは忘れているはずだ。だからそんなことはわからなくてもかまわない。もう少し思考対象を広げてみたらどうだろう。誰がそれを提案しているのか。内なる神が何か助け船でも出しているのだろうか。たぶんそれも嘘に違いないが、初めの嘘は何だったのか。それを探り出すには手間がかかりすぎる。また嘘をついているらしい。君は何をそんなに嘘を用いて否定しているのか。話があらぬ方向へ逸れてしまうのを嘘という言葉で防いでいるのだろうか。そんな説明が本当だとは思えない。別にそれも嘘でもかまわないだろう。嘘か本当かの判断を下すのが面倒になってきた。どちらと判断してみても、その判断自体が誤りのような気もしてくる。もちろんそのときの判断が誤りであってもかまわない。それが正しい判断であるはずがないか。判断しなくてもかまわないだろうか。誰がそれを了承してくれるのだろう。誰の了承を得るつもりもないのだろう。何を述べてもかまわないのなら、逆に何も述べなくてもかまわないのだろうか。そこで何を決断することになっていたのか。すでに決断は下されているのではないか。それは終わっているのにまだ続けるという決断だろうか。そうであってほしいと誰が願っているのか。誰の願いが叶えられるわけでもない。叶える対象がどこにいるのかもわからないのに、他力本願もいい加減にあきらめてほしいような気がする。少なくともそこで精神の集中が持続しなくなっているのはわかっている。気持ちが散漫なままでは、何を述べても間が抜けているような感じになる。何もないのだから仕方がないだろう。誰かがそんな状態を言葉中毒とでも揶揄するだろうか。いつの間にか他人にからかわれるような内容を獲得しているかも知れない。それはそれで願ったり叶ったりだろうか。本気でそんな風に思っているわけでもなく、文章の流れ的には、そんな風に述べてみるのもしっくり来るかも知れないと思っているだけか。後からそんな言葉を付け足しているだけで、その時点ではそんなことを思ったりしないはずだ。しかし何を思っていたのか忘れている。もうあれから何日が経過したのか忘れてしまっている。まさかそこからまだやる気になっているわけでもないだろう。過ぎゆく時間に言葉が対応できていない。だからそこでやめなければならない。答えはもはやそこに提示されているはずだ。それに逆らうことはできない。やめたければいつやめてもかまわない。だがそうまでしてやめなければならないのだろうか。ではさらに長引かせなければならないのか。それは君自身がそこで判断することだろう。それ以上続けても無駄だと判断するならそこでやめればいい。


12月22日

 行き先を変更できずに、何か得体の知れぬ場所へ連れて行かれてしまうらしい。それに関しては何の情報も知らされず、何をどうしたらいいのかわからない。対処不能な事態に陥っているのか。かなり遠くから馬鹿騒ぎの気配が伝わってくるが、何がそれらを冗談に駆り立てるのか。たぶんそんなことはどうでもいいことなのだろう。君はそこで何を見せつけられているのか。そこにはどんな世界が広がっているように感じられるのか。それに関して何か真剣になって考えさせられるような出来事がもたらされているのだろうか。意味不明な嘘をつくならば、この世はあの世からもたらされている。だからこの世から何を批判しても無駄だろう。何をどのように述べても終わりは終わりであって、そこにどんな言葉が付け足されているわけでもない。たぶんいつものように何を語っているわけでもないのだろう。ところで何が終わっているのだろうか。どうも今年中には遅れを取り戻せそうにないらしく、それどころかさらに遅れてしまいそうな気配だ。もう完全に壊れてしまったのかも知れない。頭の中で何かが壊れている。だがそんな言葉はありふれている。ありふれているからこそ安心して使える言葉なのであり、本当に壊れていたら、君は何も語れなくなってしまうだろう。それの何が気に入らないのだろうか。何もないのに何かを語れてしまうことが気に入らないのかも知れない。気に入らないからといって、他に何ができるわけでもないだろう。調子に乗っていないことは確かなようだが、何を偉そうに述べているわけでもなく、頭ごなしに他人を批判しているわけでもない。要するに人畜無害なことを述べているに過ぎず、いくら述べても何の感慨にも至らない。それで精神的に追いつめられているわけか。まだそこまで状況が進展していないのではないか。ここにある現実のすべてを否定していいわけではないが、それでも何かしら気に入るような言葉を模索しているうちは、それなりの積極性を有していて、前向きに生きている証拠なのではないだろうか。だがいくらせかしても出てこない言葉は出てこないだろう。性急に結果を求めても無駄である。世の中には生き急いでいる人々が多すぎるのかも知れない。だがそこで本気になるとはどういうことなのか。生き急ぐことが本気である証拠となるわけか。その辺の意味がよくわからないのだが、その通りのことを述べてしまうと誰かが頭に来るらしい。それでは何のための冗談なのかわからない。君は冗談を用いて誰に攻撃を加えているつもりなのか。他人の文章に説得力を見出せず、自らの述べていることとは何の関係もないように思えてしまう。後から思えば、それは単なる思い過ごしだったのかも知れない。そんな精神状態で何ができるというのか。何もできないから何かを語ろうとするのは、卑怯なやり方だが、それでも世の中の不満のガス抜きになっているのかも知れず、そんな冗談が誰からも認められないことはわかっているつもりだ。それどころか冗談とは思われていないような気もしてくる。だがなぜそんな冗談に本気で反論する必要がどこにあるのだろう。そんなことがわかるわけもなく、何を述べても推測の域を出ないことでしかない。またそんなわけのわからない文脈を察知して、誰かが反発しているらしいが、それに対してわかりやすいことを述べるために努力していることも確かで、これまでにも幾度となく文章に修正を施しているはずだが、結果的にはさらにわけがわからなくなってしまうらしく、そんな過ちを繰り返すのがそこでの成り行きとなっていて、そんなことをやっているうちに、次第に時間の経過について行けなくなり、それによって君の心は傷ついている。それこそが意味不明だろう。努力が徒労に終わっている現状に嫌気が差しているのだろうか。だがそれが君のスタイルなのだから、それはそれで仕方のないことなのではないか。しかしそう述べることが何の慰めになっているのかわからない。そんなありきたりな嘘ではつまらないだろう。それでもわけがわからないようだが、いったいそれらの何が謎なのか。この世界はクイズで成り立っているのだろうか。そうである証拠がどこにあるというのか。それこそが見え透いた嘘に違いないが、もはや何を見せられても納得するわけがない。すべての反応が期待外れであることに変わりはなく、誰もその場の空気を読めていないことはわかりきっている。その証拠に何を突きつけられても、誰も何の動作も引き起こさない。そして誰もがその場の静けさに逆らうことはできない。まるでそこから急ブレーキがかかったかのように突然動かなくなり、何もできなくなってしまう。そのような事態に至ったことについて何か原因があるのだろうか。心当たりは誰にもなく、何も思いつかないのだからわかるわけがないだろう。今さらそんな嘘をついてどうしようというのだ。何が嘘なのかわからないか、あるいはどうもできないということか。急速に何もできなくなっているのかも知れない。すべての事象が身の回りから遠くへ退いていってしまうように思われ、そうなってからなおのこと何かを述べようとするらしい。何も思いつかないのに言葉が連なってくる。もうそこからの挽回は不可能だと思えるのに、まだその無内容の続きを記そうとしてしまう。何かが常軌を逸していることは確からしいが、それを制御できないようで、なすがままにしておくしかやりようがないみたいだ。そして今や記している日付も文章も君の所有物ではなくなってしまった。誰がそんなことを記しているわけでもなくなっている。それは今感じていることでさえなく、それらの文章に何が記されているのかもわからない。だがそんなまわりくどいことを述べなくとも、何もないことはすでにわかっているはずだろう。そしてどこにも逃げ道がないこともわかっているはずだ。言葉がまったく響いてこない。何もかもが静けさに飲み込まれてしまったのか。それはあり得ない文章だ。そこには何かが省略されているらしく、意図的に肝心なことは何も述べられていないかのよう装われている。もはや何かを語る精神状態にはないらしい。しかしそれは誰の精神なのだろう。認識することのすべてが馬鹿らしく思われる。そんな嘘も聞き飽きたはずだ。それはもはや精神とは呼べない代物なのではないか。ただ惰性が何かを述べさせている。そんなわけで答えはすでに出てしまったらしい。答えが出た後に何を付け加えようとしても無駄だ。それ以上は何を述べても空疎に思われてしまう。だが無理を承知でそこまでやってきたのではなかったか。その無理がようやく今になって効力を発揮し始めてきて、本当に何を述べるのも無理になってしまったのか。これ以上無理を重ねても無駄であることがわかってしまったらしい。だからそこであきらめようとしている。ならばいったんあきらめてみることだ。誰が誰に向かって指図しているのか。自らに何を言い聞かせているのだろうか。できるはずのないことを命じるのはやめてほしい。虚構の中でそんなことを言っても無駄か。


12月21日

 なぜか一通りたまっていた膿は出尽くしたような気はする。しかしそれで誰かの本性をわかったつもりになれるだろうか。わかっているのはそんなことではない。そんなことはわかっているはずだ。誰かはさらに老け込んでしまったようだ。その場にはさらなる停滞の時が到来しているらしい。自らいかにどうでもいいことに関わっていたのかを思い知らされたような気になる。それらのすべては否定されるべき結果なのだろうか。それでも気持ちの中では、何かがこんがらがっているようで、それに関する思い通りの言葉が見つからずに、相変わらずの文章にはまともな意味を見出せず、ただ自らが何を述べているのかわからなくなる。だがそういう認識がそもそも間違っているのかも知れず、述べている内容はそこに示されているとおりの内容でしかなく、それの何がわからないのかわからないのはいつものことだが、どうもわからないと述べているだけでは、そのわからなさを正確には表現できないような気がする。だがそれで何を述べているとも思えないことも確かだ。これからそれらの文章はどうなってしまうのだろうか。どうにもならずに最終的には継続をあきらめるしかないのかも知れない。だからこれ以上いくら皮肉を述べても無駄だろう。それらの何が皮肉に思われるのか。それは何に対する皮肉なのか。皮肉な対象などどこにもありはしない。何もないのに皮肉はないだろう。それは皮肉な巡り合わせだ。そこに巡ってきたものが皮肉でないとすると何なのか。ただ文章の内容がつまらないと思っていて、しかも君には何がつまらないのかわからない。今さら何を改めようもないのかも知れないが、そんな言葉遊びでは気がひけるらしい。だが他のどこから言葉が降ってくるわけもなく、新たに見出された時空にも何があるわけでもなく、そんな状況に誰が落胆している風も感じられず、どんな意識のねつ造をもはね除ける空虚に対して、どんな言葉を用いて挑み続けているとは思えず、挫折を装う君の文章に興味があるわけでもなく、うなだれている生身の体が、窓際の枯れ草に励まされているわけでもないらしい。要するに意味不明なのだろうか。わざとそうしているだけだろう。少し耳が遠くなってしまったのかも知れず、微かに聞こえてくる床の軋みに鈍感なのかも知れない。なぜそこから遠ざかれないのか。いつものように理由など何もない。どこから遠ざかろうとしているかもわからないのに、なぜそんな風に思うのか理由がわからない。いつまで経っても話は始まりもせず、始まっていないので終わりもしないだけか。ついでに具体的な進展も何もなさそうだ。誰かが何かを進展させようとしている形跡がない。そこに何らかの意図を感じていることは確からしいが、眠気に阻まれてそこから先が出てこない。目の前を通り過ぎる何に対してもリアリティを感じない。目の前には画面しかないだろう。冗談でそんなことを述べているのだろうか。冗談がおもしろいとは限らない。そんな冗談にもならないことがおもしろいわけがないだろう。少し前にそれらの言葉を冗談と感じたのは気のせいだったかも知れない。そこで認識していることに興味はないが、闇夜に紛れて新たに何をやろうとしているのか。そこに人影など見出せるはずもない。画面上では誰かがうごめいているではないか。やることも何もありはしないが、それでも何も思いつかないわけではないらしく、たぶんそれに関してあまりにも何も語らないので、呆れているのだろう。単に言葉遣いが間違っているのかも知れない。そこで奪い去られているのは時間なのか場所なのか。あるいはそれ以外の何なのだろうか。誰に何を奪い去られているのかはっきりしないが、どうせそんなのは嘘に決まっているだろう。またつまらないことを考えているらしい。これから何もない現状をどうしようというのか。現状に折れて、安易でわかりやすいことを述べようとしているのだろうか。しかしなぜそこで殺されてしまうのだろう。どうして笑いながら死んでゆくのか。はたして死や笑いは文章のわかりやすさに結びつくだろうか。それだけでは何ともいえない。それについて何を語っているのでもない。それどころか何についても何も語っていないような気がする。そんなことはわかりきっていることか。わからないからそんな風に述べているのではないか。物事を単純に解釈しすぎているのではないか。だから何も残らない。言葉を差し挟む隙さえない。少なくとも時間が過ぎ去った空洞の中には、何かの影や痕跡でも残っていそうなものだが、それを探している手間をかけられないのか。意識が何かに取り憑かれているのかも知れない。それは君の時間でも場所でもない。何かを根気よく並べているつもりらしいが、その並べている当のものは君を必要としていないようだ。しかし君の他に誰がいるのか。君は何に裏切られているのだろうか。君から何を引き出すこともできない。やる気も努力もその対象ではないらしい。君は誰の存在を認めようとしているのか。君以外の存在を認識できないから今がある。しかしそれで何がわかるというのか。何もわからないからそんなことを述べているのだろう。それはどのようなことでもなく、ただのつまらない無内容に過ぎない。眠気と共に他人のことなどどうでもよくなってくる。それも過ちの一つだろうか。何かがそこで過ぎ去っているらしい。馬鹿げたゲームにはまっているのだろうか。人はいつ何時でも自らが生きていることを実感していたいようだ。だがもう使い物にならなくなってしまった者たちはどうすればいいのか。話が飛んでいる。わざと飛ばしているのだろう。使用済みになってしまったら、墓石の下で永眠するより他はあり得ない。何となく結論は初めから定まっているような気がする。しかしそれが言葉で示されるまでには、多大な時間を要するのかも知れず、途中で何を述べているのかわからなくなりつつも、未だに君は破滅に向かって歩んでいることになるらしい。やはりそれで何を述べているのでもなく、空虚に覆われた頭の存在が鬱陶しく感じている。まだそんなところで何かを述べていることに対して、何をどう述べてゆけばいいのだろう。そういうことではない。何を否定していることにもなりはしない。仰向けに転がって天井をいくら見つめ続けても、わずかに生じている心の隙間がさらに広がることもなく、隙間から何が浸みだしてくるわけでもない。何となくそんなことを述べながらも、何を述べているのかわかっていないようだ。たぶん今はいつでもなく、そこはどんな場所でもないのだろう。虚構の中で何を述べているわけでもないようなことを述べているだけのようだ。それはただの矛盾を含んだ内容でしかなく、他に何もないのでわざとそんな風に語るしかやりようがないのかも知れない。要するに現状は馬鹿げている。


12月20日

 内なる声に従っているつもりらしいが、やはりわからない。それは誰の未来でもない。どんな出来事についてどんな見解を示そうと、未来を変えることはできない。そういう見解には何の根拠もないはずだが、過去の時間に属している君には、そこでどのような嘘をつこうと関係のないことだ。這い出ることの叶わぬ奈落の底で、天井を見上げる毎日が続いている。それが何を意味しているのかわからない。馬鹿げた思いを抱きすぎなのか。だが何が馬鹿げているのかわからない。人々は何を追求しているのだろう。ローンや保険や資産運用で踊らされて、誰もがぎりぎりのことをやっているのだろうか。それが虚栄だなんて間違っても思わないだろうが、繁栄を謳歌するということはそういうことなのかも知れない。そういうやり方を推し進めた結果として、今の世の中があり、これからもさらなる深化が待ち受けているのだろう。豊かな生活という幻想にすがる人々が増え続けるわけだ。だがそれを本気で批判してはならないような気もする。その対極に田舎で畑でも耕して、質素ながらものんびり暮らす自給自足の生活がある。老人はそこから癒しを得たいのかも知れず、それもある意味では豊かな生活といえるだろうか。物質的な豊かさではなく心の豊かさというヤツか。しかしなぜ君にはそういう生活が馬鹿らしく思えるのか。それはまるで絵に描いた餅というヤツか。安易にそんな風に思うのもどうか。たぶんそれだけではないのかも知れず、そういう現象をメディアが大げさに伝えているだけで、そういうことをやっているのは、ほんのひとにぎりの人々に過ぎないのかも知れない。何よりもそういう話には現実感を伴わない。どんなにリアリティを伴っていようと、何らかの思惑を持って、それを伝えようとする意図が感じられる限りにおいて、今ある現実からは程遠い内容になってしまうようだ。要するにそれらの内容はメディアが作り上げた物語の中の現実でしかなく、恣意的な情報操作から生まれたご都合主義の産物なのだろう。しかし実際に自らが体験しつつある現実とはどのようなものなのだろうか。まったくとりとめがないように思われ、一つの物語などにまとまるはずのない複数の現実が、相互に干渉を及ぼしながら、わけのわからない成り行きのただ中に放り出されているような感覚だ。過ぎ去る時間に追いつこうとして、必死に努力しているつもりが、気がついてみればすべては遅れに遅れ、結局述べているのは数日前のことになってしまい、述べていることと述べようとしていることがずれてしまい、まったく何をやっているのかわからなくなって、無駄で無意味なことばかり述べているように思われてくる。そうは思いたくないのだが、そんな思いなど述べている内容からは完全に無視されているように思われ、自らの意図や思惑とはまったく無関係に、ただどうでもいいような言葉が延々と連なり、それは上空を流れ去る雲のように、次から次へと意識を素通りして、誰かの気持ちや感情などまったく意に介さず、ほとんど記憶に残ることもなく、痕跡として画面上に空疎な文字だけ残して、その場をさっさと立ち去るだけのようだ。いったいそれはどういうことなのか。たぶんどういうことでもなく、そういうことでしかないのだろう。やはりそんなわけのわからない成り行きを伴った現実はとりとめがないだけで、何か一定の方向性があるわけでもなく、まとまった内容があるわけでもない。もちろん意識がそれを拒絶していることは確かなようで、それらの現実の中から、恣意的な取捨選択を施して、ご都合主義的な物語を作り上げようとするのは、避けられない人の弱さなのかも知れず、そんな独りよがりな物語の中の主人公となって、それで何となく自己実現を図っているような気になりたいのかも知れない、それが自らの達成すべき夢や目標となってしまうことも、ありがちな精神作用からもたらされた結果なのだろうか。しかし人がそうしないとするならば、他に何かやるべきことがあるのだろうか。自らの努力によって実現すべきことが何もなければ、その先には何が待ち受けているのか。まともな答えなどあるわけもないか。生きていることに意味などありはせず、それでも意味があるとするなら、それは強引なこじつけによってねつ造された意味に違いない。だが意味がないからといって、死ねばいいわけでもない。生きているなら少なくとも死ぬまでは生き続けるしかない。だからといって生きていること自体に、大げさな意味など見出す必要もないのではないか。それでもそこに意味が見出されるとすれば、それは思い違いや勘違いからもたらされる意味に違いない。そして生きていることに意味などないということ自体が、人にとっては間違った主張になる。思い違いや勘違いでもかまわないから、生きていることに意味を見出さなければ、多くの人は生きて行けないだろうからだ。人々は自らが体験しつつあるとりとめのない現実の中に、心の支えを見出したいのであり、そんな自らが達成すべき事柄を自分勝手に設定して、それに向かって努力している間は、生きていると実感できるだけなのかも知れず、それが独りよがりの幻想でしかなかったと気づいてしまったら、そこで人生が終わってしまうだろう。もちろんそこからさらに生き続けたいなら、新たな目標設定が必要であり、それに成功すれば、そこからさらなる努力の日々が続いてゆくのだろう。まったくご苦労なことかも知れないが、もちろん実際にはそんなに単線的な歩みであるはずがなく、様々な紆余曲折とわけのわからない回り道や停滞が途中に待ち受けていて、誰もがありふれた波瀾万丈を経験するのだろうが、そのような成り行きに何の意味があるというのか。そこに肯定的あるいは否定的な意味を当てはめようとすれば、何らかの意味が導き出されるのかも知れないが、それについて何をどう思ってみても仕方がないような気がする。どうも意識はその辺で何とも思わないような状態に行き着いてしまったらしく、そこがそのような方向での思考の限界点なのかも知れない。そこから先は思考の及ぶ範囲ではないのだろうか。そこから先に何があるというのか。はたしてそんな作り話でおもしろいだろうか。何となく話が逸れていってしまうらしい。これ以上馬鹿げたことを述べられないように思われてくる。またどうでもいいようなことを述べていたのだろうか。自らが述べていたことに関してあまり本気にはなれない。しかしそんなことはどうでもいいで終わってしまっていいのだろうか。たぶんどんな風に思っているのでもないのだろう。どうでもいいことと思えばどうでもいいことになってしまい、何かそれらの言説の中でこだわる箇所があるとすれば、それについて何らかの見解が導き出されるかも知れない。それはそういうことでしかないらしい。


12月19日

 不毛の大地で精神が干からびている。それは意味不明な比喩を装っているが、さらなる高みがどこにあるわけでもない。見下ろしているのは最も低い地点だ。足下には地面があるしかない。どうやら地に足がついているらしい。飛翔していたのは夢の中での出来事か。それ以外の何が出来事となっているのだろう。まるで雲の上を歩いているような気がする。夢と現実が重なり合うわけがないだろう。そんな事態を求めていたわけではない。風邪を引いてから言葉の並びがおかしくなってしまったようだ。意識がどこかで途切れている。これから薬の効き目が長持ちしてくれるだろうか。たぶん苦悩にはまだその先があるのだろう。そこで引き裂かれているのは何なのか。そんな大げさな表現は好まないはずだ。誰が何を求めているのだろうか。さえない表情を浮かべながら、画面から目を背ける。そこで鏡が砕け散る。ガラスの欠片が足裏に突き刺さる。想像力の貧困がそんな言葉の並びを許している。肩で息をしながら階段を駆け上がろうとするが、それの何が間違っているのかわからない。曇っているのはどこの空なのか。すべてはなかったことにしたいらしい。絶望の中にわずかな希望の欠片が残っているのかも知れない。それは反則だろう。どこまで歩めばそれがわかるだろうか。気が済むまで歩いてゆけば、どこまでも続く道の上にいることを知るだろう。雪に混じって砂が飛び散っている。枯れかけの雑草が何かを言いたげだ。そんな場所で何をやっているのか。わけのわからない世の中だ。君はそうやって嘘をついている。どこによくなるきっかけがのぞいているのか。もっとわけがわかるようなことを述べてみたらどうか。それらの言葉の連なりに君の意識が刷り込まれているのだろう。言葉だけで体がない。意識だけが画面に貼り付いている。急にサボテンに刺されたくなってくる。架空の人物が何を考えているわけではなく、ただ得体の知れないことが記されているらしい。何を説明しようとしていたのか忘れてしまったようだ。だが忘れてしまいたいことははっきりと覚えている。そんな文章には興味が湧かないだろうか。観測気球などという代物が今さら役に立つわけもない。とどめを刺されてどこかの道ばたに散らばっている。それは投げ捨てられたゴミかも知れない。映画のスクリーンには影が映っている。誰がそれを取り除けるわけもない。砂利石が跳ねてこめかみに当たったのが致命傷なのか。そんなはずがないと思いながらも、そこからそう遠くへは行けないはずだとふんでいるらしい。どのような物語の中に迷い込んでいるのだろうか。追跡者は残忍な笑いでも浮かべているのが定番だろう。批評の対象が定まらずにいるが、何となく皮肉の一つも述べて、その場はお開きにしたいような気になってくる。とりあえず無知を装う君には何もわからない。断片だけで何を想像すればいいのか。なぜ話にならないようなことを述べているのだろうか。宿命とはそういうものだ。導かれていった先が虚無だったのだから、そこには何もありはしない。だからそこから後戻りしたくなるのだろう。目覚めているのはどの意識なのか。誰がどちらの方角を向いているのだろう。君は頼りにならない。誰かの声が静かに響く。これから何をやればいいのだろう。やりたいことをやっているわけではない。では誰にそれをやらされているのか。この期に及んで気の利いた皮肉を発することができるだろうか。結果はいつも期待外れに終わるだろう。誰かの思い通りに状況が推移するわけがない。君はそれ以上遠ざかることはない。安易な寄り道のしすぎだろう。いったい何を上達させようとしているのか。嘘のつき方がうまくなっているわけもなく、何を語ろうとしているわけでもない。何となく胃もたれがしてくる。その代わりに何を考えているのか。不連続と非連続の間にどんな差異があるというのか。言葉の断片の寄せ集めでは何を述べていることにもならない。それではますます虚無に近づいてしまうのではないか。水増しされた意味不明に手こずりながら、何を見失っているのだろうか。すべてを見失っているわけでもなく、それは今ではもう忘れてしまった記憶の中にあるのかも知れず、それを知ろうとすれば、代わりにありふれた出来事がよみがえるだろう。忘れられない想い出に浸っている暇はない。それらの出来事とは忘却によって逸れることはできても、その意味をつかみ取ることは叶わぬ代物なのではないか。いい加減に偽りの解釈を施すなら、そこにあるのは愛であり、すべてを肯定する力なのかも知れない。しかしそれで何かわかったような気になるだろうか。何かに取り憑かれているような気がするだけか。だが誰も君を守ってはくれないだろう。君は絶えず読まれる対象となっているに過ぎない。そこからどのような心境の変化を期待できるのだろうか。それとこれとはまったくつながらない話だ。誰かがどこかでうめいている。腹でも痛いのか、笑いすぎて筋肉痛なのかも知れないが、たぶん笑う対象を間違えているのだろう。笑える状況にはまったくなっていない。風邪薬を飲んでいくらか楽になったのだろうか。風邪になってもならなくても、先が見えない状況に変わりはない。どこかで迷っているらしく、彷徨っているふりをしているのかも知れない。時間は見直す隙を与えてくれない。考えられないことを考えようとしているだけか。見上げれば天井に蛍光灯が光っている。殺虫剤の先には夜の闇が広がっている。わざとそんなことを述べている。それでは何を考えているのかわからない。まだ完全には神経回路が修復してないのかも知れない。沈黙を強いるような言葉の並びになっていて、君はそこから逃げられない。それでもまだ読むつもりなのか。それは何かの罠かも知れず、その罠にはまってもがき苦しんでいるのは誰なのか。君自身は常にただの傍観者に過ぎない。もがき苦しんでいる当人にとって見れば、そんな傍観者の存在が目障りで仕方がないのだろうが、そこから手を出せるはずもなく、傍観者気取りの亡霊たちに周りを取り囲まれて、その気になって演じている姿が滑稽に映るようだ。それはクサイ演技なのかも知れない。愚か者を演じる意図など何もないのだろう。わざとそうしているわけでもなく、誰かの本能に従った結果がそれらの演技となって立ち現れているようだ。誰かはそこで誰のふりをしているのか。それは何かの事件の真犯人であったりするわけか。テレビはそれを見ている君たちに何を伝えているつもりなのか。事件の解決の仕方が、事件ごとに千差万別を装っているようでおもしろそうだ。たぶんそれが勘違いのもとなのだろう。時間がすべてを解決に導いてくれるだろう。時間の経過こそがすべての事件をありふれた現象に変えてしまう。解決を目指している限りそうなるより他はあり得ない。


12月18日

 何の進展も期待できない。認識が甘すぎるのかも知れない。もはや手遅れなのに、まだその先に言葉を連ねようとしている。部屋の隅に埃がたまっているようだ。電卓の液晶画面には細かな傷が付いている。昔斜め後ろから見下ろされていたのは誰だったのか。それに何の意味があるのかわからない。すばらしいということの意味を取り違えているようだ。すべてがうまくいくとはそういうことなのかも知れないが、何もないことのすばらしさに感動している。たぶんまた間違ったことを述べているのだろう。書く苦しみの中に誰かの精神が息づいている。それは過去の話なのか。誰がそれを求めているのだろうか。まだそこから遠ざかっていないような気がする。かえって以前より近づいているのかも知れない。それが死期でないことを祈ろう。おびえたふりをするのもわざとらしい。画面が暗くなってくる。季節感がないのは冬が嫌いだからか。君の意識には興味を感じられない。小手先のごまかしは通用しないようだ。要するに期待を裏切っているのだろう。流行り廃りの渦に巻き込まれて、くだらぬ主張を精一杯叫んでいる。そんな人生もあるらしい。首が曲がっているのはどういうわけなのか。どこに理解できる解答が潜んでいるのか。すべてはその場で思いついたアドリブ的な言説に違いない。それの何が気に入らないのだろう。まともに語ろうとすれば長くなる。むやみやたらと感情に訴えかける。自らのやっていることに意味があるとは思えない。人は死ねば静かになり、無口な者はさらに無口になる。それが気に入らないのなら、早くこの世から消えてほしい。だが何をせかしているわけでもない。生き急ぐには暴飲暴食でもしていれば、それで早めに片がつくだろう。君は今も過去ばかり見つめている。未来に対する視線が失われているようだ。それ以外の出会いなどあり得ない。それらの意識はどこかへ飛ばされてしまったのかも知れない。何も見出せないのには理由などありはしない。そう思い込んでいるだけなのだろう。そこには数多くの意味の不確かな言葉が見出されているはずだ。だがそれについて何を思ってみても違うような気がしてくる。常にそうではないと思っている。そうなっていることを否定し続けたいらしい。行き詰まりの現状を無視している。のんきにテレビなど見ている場合ではない。では何をやっている場合なのだろう。何もやらずに寝ている場合かも知れない。今はそんな風にしかやっていられない場合なのかも知れない。そうなる理由は何なのだろうか。ただ何もできないだけなのか。たぶん何をやっている場合でもないのかも知れない。現に何も思いつかないのだから仕方がない。風邪でも引いてしまったわけか。寝ていると寒気がしてくる。ついでに背中のかゆみは何とかならないものか。まだ正気に戻っていないのかも知れない。そこまでやる必要はないのだろう。何となく意味不明気味に弱音を吐きたくなってくる。体調の変化に言葉がついてこない。そんなことがあり得るだろうか。たぶん現状がつまらないだけなのかも知れないが、何とかそこから話を進めなければ話にならないだろう。君は何の話をしたいのか。それは真夜中に何かを思いつくという話なのか。何か適当なことでも思い出したのか。窓際の植木には雑草が伸びすぎている。それが何の反映なのかわからない。怠惰であればそうなってしまうのだろうか。まだそれ特有の症状が現れていないようだ。そこから何かを見出すつもりらしいが、目の前にある画面にはつまらなそうに文字が連なっている。なぜこの状態からその先が考えられるのだろうか。暗闇の中で星空めがけてどうでもいいような気分が何かを叫ぼうとしている。何を必死になってこらえているのだろう。まだすべてが終わったわけではない。これから終わらせようと画策しているらしいが、やっていることはそれとはまったく無関係に思われる。何かを思い出さなければ何もできはしない。妄想を繰り返した果てに何か新しい言葉でも発見できるだろうか。それは誰の期待でもなく、そんなことはすぐに忘れ去りたいのかも知れない。いつまでも話が続いていくわけでもない。その時点で君が目指しているのは、早くその話を終わらせたいということでしかない。だから焦りながらも先を急いでいるのか。その一方で無理を承知で話を引き延ばしている。なぜそこで速やかに終わらせられないのか。いったいその先に何を期待しているのだろう。何かそれとは違うことを語る時が到来するとでも思っているのか。それは期待外れもいいところだろう。過剰な期待はすでに忘却に変わりつつある。気がつけばつまらない内容が続いていて、そして気づいた時には風邪を引いているわけだ。それは冬特有の日常なのかも知れず、毎年そんな嫌な思いをしつつ、次第に年老いていってしまうのだろう。放っておいても死期が近づいてくるのだから、今さら焦ることもないだろう。だからそんな状況の中でもがき苦しんでいるわけか。何がだからなのか言葉がつながらないような気がするのだが、何となくその場はそれでかまわないのだろう。それ以外に何も導き出せないのだから、そこはそんな処理で開き直るしかやりようがない。そんなことを述べながらも次第に正気が戻ってくるような気もしてくるのだが、それは気のせいかも知れない。歯が痛いのだがどの部分が痛いのかわからない。思い出したのはそんなことらしい。やはりそれは期待外れもいいところか。初めから何を期待していたわけでもないはずだ。期待外れになることを期待していたのかも知れない。だがそれの何が予定調和なのだろうか。そこに提示されているどのような文章が見え透いているのか。そんなことがわかるわけもなく、ただ今は眠たいだけなのかも知れず、眠気に耐えかねて眠ってしまいそうになりたいだけなのかも知れない。おかしいことはわかっているが、それの何がおかしいのか説明できずにいる。何かがそうつぶやかせるらしいのだが、何がつぶやかせているのかわからない。見出された時を有効利用していないのかも知れない。何をどうすればそれを我がものとすることができるのだろう。ただ闇雲に言葉を弄しているだけではだめなことはわかっているつもりだが、それ以外のやり方をまったく思いつかないようで、悩み苦しみながらも、気がつけば何かを述べているらしいが、それは以前から述べていることとそれほど変わらないような気がして、それが期待外れの感を生じさせているようだ。それではだめだということをわかっていながら、さらにそのだめなことを述べ続けている現状をどうすることもできない。やはりそんなことがありうるだろうか、と続けて述べざるを得ない。冗談ではないと思いながらも冗談で満足していなければならないのだろうか。それともそんなはずがないと思い続けることが肝心なのか。


12月17日

 たまに陰惨な光景を思い出す。それが嘘をつく理由にはならない。ストレスがたまっているらしい。いつもの感覚がわからなくなる。さっきまで何を述べようとしていたのか。誰かが何かを見ているようだ。何かが一向に見えてこない。完全に首が折れている。人はそうやって死ぬらしい。丘の上から転げ落ちる。それは誰のための自由なのだろうか。何を見ているわけでもない。見えてこない現象を想像している。足が磨り減ってしまったのだろうか。この世界はどこまでも続いているらしい。見よう見まねで何ができるのか。自らが張り巡らした罠だ。死んだ者は二度と戻ってこないが、それがどうしたわけでもない。自然が何を決めているわけでもない。君には何が見えているのだろう。何ら受け止めるべき現実を感じられない。苦悩の原因は別のところにあるようだが、別の場所がどこにあるのか。経験に差が出ている。ありふれたことは述べたくないらしい。そこに見出されている言葉の何がありふれているわけでもない。気の利いた意見はゴミ箱めがけて一目散に走り去る。転げ回っているのはダニの類か。掃除機が騒音と共に何かを濾し取っているらしい。難しい言葉は文章には適さない。君にはそれが見えているはずだが、見えているものについて語っているわけではない。まだ疲れていないのなら、つまらない話を中断して、コーヒーでも飲んだらどうか。それは何かの用意なのだろうか。まさか死ぬための準備などではあるまい。簡単に死という言葉が使われることに理由などありはしないだろうが、何か不吉な兆しでも感じているのかも知れない。それを頑なに認めたがらない理由も知らない。文章がそこで不連続を形作る。君は笑いの欠如した人間だ。馬鹿だから死ぬわけでもないだろう。要するに呆れているわけだ。この世から消え去るのは滑稽きわまりない。それによって何を狙っているわけでもない。文章がまったくつながっていないような気がする。それは以前に感じた味だろう。数日前に紅茶を飲んだかも知れない。灼熱の地獄には雪が降り続いている。頭の中で二つの場面が重なり合っているらしい。見失っている言葉はどの場面にも出てこない。わざとわかりにくいことを述べているだけのようだ。何かにかき回されていて、何だかわからないことにこだわっている。それらのどこに折衷主義を感じることができるだろうか。何が混入しているのかを探り当てることができるだろうか。わかっていることがなおざりにされている。人の心はどこから降ってくるのか。何が降臨すれば畏怖の対象となるのか。戯れ言のどこに何かが到来する兆しが感じられるのだろうか。酔っているわけではない。その何かにかけているわけでもない。ばくちを打つには愚かさが足りなすぎる。勇気が出てくる源泉のありかを知りたい。わかりすぎるくらいにわかっていることをなぜ隠そうとしているのか。探しているものを見つけることができただろうか。まだ修行が足りないのは誰でもなく、それらの修行はみな愚かな行為に違いない。何が返ってくるのだろう。他人を傷つけるのがそんなに楽しいか。ドラマの中ではそんな台詞が繰り返される。乾いた笑いを誘うために四苦八苦しているようだ。ぎこちないことばかり述べている。そこから遠く離れているのは何なのか。それでも何かしら言葉が連なっているように見えるのは目の錯覚だろうか。だが適当なことはいい加減なことではないだろう。次第に堕落の兆しがはっきりした輪郭を纏うようになる。そこから逃げているのは意識などではなく、そこから先が思いつかない君自身の身体そのものだ。堕落が許されるような状況にはいない。甘えの対象がどこにあるのだろうか。今さら幼稚園児のふりをするわけにはいかないようだ。いつまでも無理を押し通そうとしているわけでもないらしい。だが瀕死の重傷を負っているわけでもない。傷口がぱっくり開いて、血が噴き出している。どこかの映画の中ではそんな場面があったはずだ。わざと意味不明を装っているのだろうか。冬の寒さで雑草が枯れ始めている。落ち葉の下で虫が冬眠しているらしい。昆虫の死骸をカビが蝕んでいる。そう述べていることに意図も他意もありはしない。何を訝しく思っているのだろう。混じり合うことのない言葉の束は何を形作っているのか。無惨な屍をどこにさらしているのだろう。何かの香りを感じているらしい。微かな感触がどこからともなく到来している。見出されていると思われるものを感じ取っているのかも知れない。あるいはそれらの文章の欠陥があらわになっているのだろうか。見えているのはそんなものではないか。それらの眼は何を見ようとしているのか。何を勘違いしたいのか。誰がそこを通り過ぎているわけではなく、誰もが勘違いを犯したいらしい。思いがけない出来事に遭遇してしまうのが怖いのだ。だから判断をメディアに頼りきっているわけか。自らが決断を下す機会など永久に訪れないだろう。そこにはどんな言葉が省略されているのだろうか。誰かの傷口に辛子を塗り込んでいる。何がそこで灰燼に帰しているのだろうか。なぜ舞台の上から見下しているのだろう。そこでは被害妄想が育まれ、犯罪の温床になっているのかも知れないが、何を述べてもどこに突き当たるわけでもないらしい。そこからどうなるにしろ、さらに言葉を弄さなければ、何の風景にも出くわさないだろう。愛でているのはそれらの風景ではなく、絶えず移り変わり行く時間的な流れに他ならない。固定した視点を持ち合わせていない出来事の連なりが、あり得ない主張を繰り返している。限られた時間の中で何かを獲得することなど不可能に近い。そこには場所がない。何か適当な行為をするための場所がどこにも見当たらない。そこで思っていることのすべてが幻想になり、時が経てばそんな状況に幻滅するだけだろう。誰も君の精神的な成長など期待していない。君は常にそのままで朽ち果てるべきなのだ。朽ちぬ身体がどこにあるのだろう。意味を伴わない言葉がどこにあるというのか。君は老いながら、そこでどんな幻想を抱いているのか。浅はかさを追求しようとしているのかも知れず、何の実りももたらされない行為をやり続けていたいのかも知れない。それが誰の幻想に結びつくのだろうか。そこで何かが語られているように思わせたいだけなのか。ではどうすれば無関係な言葉をすべて一つの文章の中に融合させることができるだろうか。そういうつまらぬことを考えているわけでもないだろう。たぶんそれは誰の考えでもなく、その場しのぎのいい加減な疑念に違いなく、本気で答えを見出すつもりのない、浅はかな疑問でしかない。ただ何かを述べているように装いたいだけか。しかしそれでもまだそれらの困惑を払拭すべく、何やら気の利いたことを述べようとしているらしいが、それも幻想の類なのだろうか。


12月16日

 つぎはぎだらけの文章にはまったく魅力を感じないが、話の核のようなものが一向に見えてこない。見えているのはそんなものではない。視覚が何かに遮られ、また文章のどこかに不具合が生じているらしいが、全体のバランスを考えて、それを考慮しながら何かを述べなければならないそうだ。それで何がわかるのだろうか。出てくるのはあくびだけで、脈絡のない成り行きから、不確かなことを述べてみたくなる。述べていることはそんな風にしかならない。病は気から生じるらしいが、気休めはどこから生じるのだろう。気休めのアドバイスらしき意見はどこから生じてくるのか。夜の雪を眺めつつ、また性懲りもなくいい加減なことを記そうとしている。調子に乗っていくつもの過ちを犯し続ける。そんな美しき日々がいつまで続くのだろうか。少なくともそれは君の日々ではない。霊柩車がどこかの火葬場に到着する。さて今日の獲物は何なのか。気力が萎えて何かがたわんでいる。そこで光が屈折しているらしい。屈折しているのではなく、ねじ曲がっているのではないか。それは光ではなく意味のない文章だ。仮想空間の中で賽が振られ、出た目の数だけ何をすればいいのか。頭の中に架空の骰子が転がっている。空っぽの頭の中からカラカラと乾いた音が聞こえてくる。完全に壊れてしまっているらしい。そんな故障続きの機械は余命幾ばくもないが、まだいくらか時間がありそうだ。それは何をやるための時間でもないが、とりあえず気に入らないことはさっさと忘れて、そこで見出された時から遠く離れ、君の身体はその場所からも遠ざかり、身体に付属している意識は、遠ざかりつつある風景の中で、見たこともない現象に遭遇する。見たこともないので言葉では表現不可能だが、それは君の都合でしかない。何を簡単にあきらめているのか。軟弱な君に反抗している影は、そんな成り行きに逆らいつつも、そこから何かを構成しようとしている。何をそんなに軽蔑しているのだろう。虚無の言葉がさらに増殖していく。そこに風穴が開いているのかも知れない。何かがそこから漏れ出ているのか。思考がまったく働かずに、いつものように何を述べているのかわからなくなる。未来を先取りするわけにはいかないが、雪はいつまで降り続くのだろうか。それは未来の出来事などではない。たぶん雪はいつまでも降り続いているのかも知れず、それがどんな状況をもたらすわけでもないのだろう。誰かは本気でそう思っているらしい。本気で語りたかったのは、雪に関することではなかったはずか。ではそこで何かを忘れていたことに気づくわけか。意味不明かも知れないが、戯れに記憶喪失のふりでもしてみたいようだ。話の成り行き的には、そんな風に展開していってほしいか。さらに意味不明になりたいのかも知れず、それは気休めの行為を超えて、誰の意識をも消し去って、架空の身体もどこかに行ってしまうらしい。ついでに君の意識もどこかに四散する。そんな風にしてすべての事象が過ぎ去った後に残るものは、いつもの空虚に違いない。ここにとどまるのがそんなに嫌なのか。そこから走り去るのは時間だけではなさそうだ。出来事が心の内側に折りたたまれて、誰かが祈りの最中に倒れる。遠くから僧侶の読経が聞こえてくるようだが、それでもまだ君は死なないのだろうか。往生際の悪さは天下一品だ。何もやらずにそんなことができるわけがない。雪の中で誰かの思いが散り散りになっていくように思えて、床にしたたり落ちた水のように、心の中で動揺が広がってゆく。たぶんわけがわからないだろう。それでもまだ君という言葉を使い続けるつもりなのか。今さら人間などという主語を使うつもりはない。君は見えているものを見ようとしない。そしてまともなことは何も述べたくはない。そこで何もかもをあきらめてしまいたくなるらしい。それでは何となく辛くなってしまうような気がするのだが、根を詰めれば詰めるほどさらに何かがおかしくなってしまう。それで嫌気が差してくるわけか。ではそんなに嫌なら、何かさっきまでとは別のことを語る気になっただろうか。それでも安易に時事問題的な内容には逃げたくないようだ。今世間では何が流行っているのだろうか。ただ気持ちが寒さに負けているだけか。誰かはそこで馬鹿らしいことを述べているようだ。なぜそれでも人は生き続けるのだろうか。何か他にやりたいことでもあるわけか。やり残したことをどこかで思い出すが、そのどこかがどこにあるわけでもなく、それはここではないどこかになるのだろう。それでは思い出したことにはならないではないか。まだ戯れ言に終止符を打てないようだ。そんな風にして、どこまでもそれを続けてしまいそうな予感がする。たぶんそれが本気で語りたかった内容なのだろう。そしてそれはどのような態度に基づいて語られているわけでもなく、誰の本音を反映しているわけでもない。誰かはもうやめてほしいと思っている。無理な話をどこまでも推し進めないでほしい。それ以前の段階で話になっていないのではないか。昼の日差しにやられて、何かの残像が夜になっても意識に残っているようだ。そこからどのように言葉をつなげようとしているわけでもなく、まるででたらめなことを記しているだけかも知れず、それはどんな文章表現にも至らない。そうなってしまった原因は昼の日差しの度を超したまぶしさなどではなく、網膜が雪の白さに焼かれてしまったわけでもない。それ以外に何が見出されているのだろうか。何をわかろうとしていないのか。理由を求めているわけでもないのに、必死にそうなってしまった理由を探し回っている。意味がないのはそのような行為そのものなのだろうか。そんなことを述べていること自体に意味はない。ただそこで適当に言葉が連なっていればそれでかまわないのかも知れず、そんなわかりきったことをいちいち述べていること自体にも、何の意味もありはしないのだろう。それ以外の部分に何か意味があるとすれば、それはそこに醸し出されている無意味以外にはあり得ない。要するにそれらのすべてが意味不明に思われるということか。そのすべてがどれほどの範囲を網羅しているかは知らないが、それは誰にとっても知ったことではなく、何を知り得る対象としているのでもないのかも知れず、ただ何となくそこに醸し出されている無知を利用して、知っていることに意味などありはしないことを、他の誰かにわからせたいだけなのかも知れない。しかしそれでどうしたわけでもないだろう。たぶん何の足しにもならないことを述べているのだ。何のためにそんなことを述べているわけでもないことが、そこでの自由を構成しているのであり、もちろんそんな自由は何でもないことであって、何でもないからこそ、それが自由でいられる理由となっているのかも知れず、また理由など何もないからこそ、そんな矛盾を介して語る自由を夢想できるのかも知れない。何がそうする理由となりうるのか。


12月15日

 何か鬱陶しいことを述べている。君はできるはずもないことやろうとしている。そんなことを述べるのが君のはったりにでもなるだろうか。そんなことは語り飽きているはずだ。何かをわかろうとすることは、何もわからないことに絶望することにつながる。そんな結果はありふれているだろう。まだ結果を得るには早すぎるだろうか。何かが始まったばかりだというのに、結果も何もあったものではない。何を語っているのでもない。そこまで行かないうちに終わってしまいそうだ。それとは違うことを述べようとしている。そんなはずがないか。否定できないことを肯定できるだろうか。まだまともな内容に至らないようだ。いつものパターンとしては、そこで夜に気づくはずだ。何もやらないうちに、もう夜になってしまったらしい。夜半を過ぎて、深夜に何を述べているのだろう。何か難しいことを述べられるだろうか。とっさに何を思いつくのだろうか。外に出てみれば、まだ月明かりを感じることができるかも知れない。そこで何を眺めているのだろう。そんなつまらない成り行きに飽きてくる。それは成り行き以前の問題かも知れない。わざとそんなことを述べている。そこで何も思わないわけがない。そんな決めつけが気に入らないので、いつものようにありもしない思いをねつ造しなければならなくなる。理由になっていないだろう。何かを述べるには理由が必要かも知れない。現状はそんなところか。またそんなことを述べている現状があるようだ。暗闇の中で何を見ているつもりになれるのか。まだ何も思い至らないように思われる。たぶんそんな風に思っているのだろう。そこに何かがあるらしい。そういうことになっているのだ。そういう風に語らなければ、何の現実感も感じられない。しかしそれでは虚無感が現実感そのものだ。またもやそんなことを述べている。何をどう述べてもそうなってしまうらしい。それに飽きて他に何をしようというのか。できるはずもないことを夢想しているだけか。耳を澄ませば何かの雑音でも聞こえてくるだろうか。まだある種の人々は仕事の最中なのか。車で深夜の道路を行き来するのは運送業者の類だろうか。あくびと共に居眠り運転でもしたくなるのか。なぜ人は自らの死に近づきたくなるのだろうか。そういうことではないだろう。たぶんこの世界に終わりはない。なぜそこからそんな結論に導かれるのか。何かの酔狂でも感じているらしい。では酔っぱらいは車を運転しない方がいいだろう。わざと意味不明なことを述べるのもおかしい。急激にわけがわからなくなってきたようだ。毎度同じパターンでは腹の虫が治まらない。ただ単に腹が減ってきただけだろう。それでやけくそ気味になれるかも知れない。そんな偽りの言葉では心に響いてこない。だからいい加減のなすがままになってしまうのか。それとは逆のことを述べようとするが、現状がそれを許さない。たぶんそこでは修正が利かないのだろう。語り出したら止まらない。止まってしまえばそこで終わりか。ならば今すぐ終わりたくなるか。そんなわけで終わりにしたいらしい。そこで途切れてしまいそうになるが、本当に途切れるのだろうか。冗談がそこから始まるのかも知れない。そして納得がいかなくなる。さらに続けてしまうことに虚しさを感じる。どうせうまくいかないはずだ。誰を笑わせようとしているのでもない。笑いたいのに笑えない状況なのかも知れず、そんな状況の中で本気になっている人々が馬鹿らしく思えてくる。本当に馬鹿なのだろうか。実際に馬鹿になれるだろうか。その辺が今ひとつはっきりしないようだが、何となく馬鹿なのかも知れない。人々はそこで何をやっているのか。君こそそこで何をやっているのだ。ただテレビのお笑い番組を見ながら笑っているだけか。それで馬鹿になれたら本当におめでたいか。そこから誰が何を目指すことができるだろうか。君なら何を目指せるのか。馬鹿になったついでに幸せになりたいか。それともわざと不幸になりたいのだろうか。そういう簡単な話ではないはずか。馬鹿になれといわれて、はいそうですかとはならない。本物の馬鹿は生まれつきなのかも知れず、それはある種の天才かも知れない。エジソンやアインシュタインは馬鹿の天才か。そんなつまらない述べ方では嫌か。そこには何かが省かれていて、天才になるには努力が必要となるわけだ。それも馬鹿な話に属するかも知れない。何かそこから適当な続きでも用意しているのか。何もないからそんな話になってしまう。お笑い番組にはその手の飛躍はつきものだ。わざと馬鹿な話を語り続けるのがその本質なのだろう。だがそれではまったく笑えない。文章にしているから笑えないだけか。別に笑わそうとして何を述べているのでもない。ただ辻褄が合っていないだけだろう。はじめからやけくそ気味なのだから、そういう内容になってしまうだけか。君は疲れているのだろうか。だがなぜそこで眠らなければならないのか。眠たいから眠ってしまいたいだけか。はたしてそれが君の意思になるだろうか。今はただ本能の赴くままに振る舞いたいのかも知れないが、たかが眠たいだけのことで何を述べているのだろうか。たぶんそこでわからなくなってしまうのだろう。わからないと苛ついてくるか。そんなことを述べたいわけでもないのに、実際にそんなことを述べている現状に、ますます苛立ちの感が強くなってくる。だがそれでも言葉はその先へ連なってしまうらしい。それが嫌気が差している現状そのものになっているようだ。君はそこでそんなことしか感じられないらしい。たぶんそれでかまわないのだろう。そうしなければ、また何も述べられなくなってしまうだけか。そうやって無理に述べているうちに、また何か適当なことを思いつくことがあるかも知れず、だから今は無駄なことを述べることも必要なのか。それで納得するわけにはいかないが、そういう現状を通過しないと、その先の言葉をつかめないのかも知れない。たぶん未来の時空には来たるべき言葉と文章が待ちかまえているのだろう。そんな風に思っていないとやっていられないか。やっていられないのならやめてしまえばいいだろうが、なぜかそれは受け入れがたいようだ。無駄でつまらぬことを述べながらも、ここは少しでも前進しなければならないらしい。まったく難儀な成り行きにうんざりしてくるが、それが君の定めらしく、そんな定めであるように思い込んでいることこそが、勘違い以外の何ものでもないのかも知れないが、やはりここは勘違いを抱き続けるべきなのかも知れない。勘違いや思い違いがないと、ここまでは続けられないだろう。正気に戻って冷静になってしまえば、たぶんこんな馬鹿げたことは語れないだろう。そういう意味では語れないことを語っている現状があるらしく、君はここで不可能に挑戦していることになるのだろう。


12月14日

 それらのどこに言葉が見出されているのか。何もないのに言葉が詰まっている。そんな文章はまやかしだろう。しかしまやかし以外にどんな文章が存在し得るだろうか。例えばこんな文章もあるだろう。限りのない夢に終わりはない。夢想の終着点がどこにも見当たらない。それが悪夢だと思うなら、悪夢の内容を示してほしい。なぜそこから本文に入らないのだろう。何がそれらの序文で、それがどのような本文への橋渡しになるのか。そんな文章はどこにも見当たらない。君にはそれが納得できないかも知れないが、まだ何を述べているのでもなく、これから何を述べようとしているのでもない。語りたいことは特に何もなさそうに思えるが、それでも文章を記そうとしている者が、この世のどこかにいるらしい。君にはそれが理解できない。要するにその者は詐欺師の類なのかも知れない。それでも他に何も見出されないのだから、仕方がないだろうか。そこから何か適当な内容を導き出したければ、何をどうすれば何が見出されるのだろうか。たぶん冗談でも述べれば誰かが笑ってくれるかも知れない。そんないい加減なことを述べていていいのだろうか。突然こめかみに鋭い痛みが走る。たぶん現実に見出されているのはそんな言葉ではないはずだ。君には君のやり方があり、君はそこで何かを思っている。君はそこで何かを記している。ただそれだけのことなのか。それ以外に何もないのだから、たぶんそれだけのことなのだろう。それ以外に何をごまかしているというのか。どのような言葉を持ってしても、何もないことに変わりはない。ここには何もないと述べる以外に適切な言葉は見当たらない。それでもそれ以外の言葉を連ねようとするならば、それらの文章の始まりには、いかなる言葉がふさわしいだろうか。ふさわしい言葉がどこにも見当たらないが、何もないのにそれなりに言葉を繰り出しながら、何とか挫折を避けている。だが避けているつもりが、それこそが挫折そのものなのかも知れず、自らが書き記している言葉にまったく心当たりがない。過去の君が知っているのはそんな内容ではない。それはどういうことなのか。たぶんそれではないということだろう。それはまるで身動きが取れずに縛られた椅子の上で夢想を続けているようなものか。そんな夢想が何を意味するのか。ただ何もできないから夢想を繰り返しているだけなのだろうか。もっと何かを肯定するような内容にならないものか。実際にはかなりの距離を移動してきたはずだが、それでもまだそんなところでうろついている自らが情けなくなってくる。それはどういうことなのか。距離の長さに幻想があるのだろうか。いくら移動を繰り返しても、虚無の深みにはまっていることに変わりはないだろう。そしてそんな無駄で無意味なことを述べているうちに年が暮れてしまうだろう。終わりの月に至っても躓いたままで、挫折したまま年を越してしまうわけか。このままでは終われないと思いつつも、しかしこのままでもかまわないとも思ってしまう。それはかまうかまわないの問題ではないだろう。どのような問題でさえないのかも知れず、何やら頭の中で無駄に言葉が錯綜しているようだが、そんな見え透いた嘘をつきながら、わざと混乱を招いているだけなのだろうか。その混乱に乗じて何を考えているわけでもないが、どうも語れば語るほど考えがまとまらず、語りにも支障を来しているようで、まともなタイミングで言葉が出てこないらしく、またそれと別の時間帯では、何となくそれは違うような気もしてくる。たぶんそんな気がするだけで、違うと思われる根拠は何も思いつかないのだから、それも嘘に違いない。あるいはそんなことはどうでもいいことか。要するにどうでもいいような嘘をついているつもりなのだろう。かなりそれらの無内容に焦りを感じているようだ。ところでそれらの文章を書き始める前にどんな思いがあったのだろう。いきなり思い出せるわけもなく、今さらそんなところまで記憶をさかのぼれないか。まだ気持ちの整理がついていないうちに、結果がそんな風になってしまっていることに、かなり動揺しているらしい。確かにそんなことはどうでもいいことかも知れないが、すべてがどうでもいいことに思えてしまうことに、君は驚いているのかも知れない。いったい君はそこで何を述べているのだろうか。まともなことは何も述べていないと思いたい。状況が切羽詰まっていることに変わりはないが、そんな無内容を述べているようでは、まだ心に余裕があるらしい。しかしその余裕がどんな言葉をもたらすわけでもなさそうだ。まともな言葉は何も思い浮かばない。その代わりにもたらされるのは、何も思いつかないことに対する言い訳の言葉だけか。そしてそれらの言葉によって、何をわかろうとしているわけでもなく、もちろんわからないことには答えようがない。しかし何に対して答えなければならないのだろうか。そんな嘘はありふれているだろうか。君にはそれの何が嘘なのかわからないだろう。たぶんそれは言い訳ではなく、言い逃れの言葉なのかも知れない。その後に君がどんな言い逃れを用意しているにしろ、とりあえず今ある現状を改めて見つめ直さなければならない。しかし見直すべき現状がどこにあるのだろう。まるで廃墟のような文章がどこにあるかは、君自身が一番よくわかっているはずだ。ここにあるのが現状そのものなのではないか。だがここにあるのはここにある現状だけなのか。それはどのような現状なのだろう。現状の中のどの現状に関心があるのだろう。それはどういうことなのか。あるいはすべての現状に対して無関心を装うことができるだろうか。また無理なことを述べようとしているらしいが、ここにある確からしい現状の一つとして、ここにある内容は、この現状が属している時間に追いつけないということらしい。要するにまただいぶ遅れてしまっていることに改めて気づいたわけだ。またそんなわかりきったことにわざとらしく気づいたふりをしていて、その現状を深刻に受け止めているふりをする。そんな台詞も嘘のバリエーションの一つかも知れないが、実際には精神的にかなりきついのかも知れない。それが嫌なら、そんなどうでもいいような現状に終止符を打つべきか。どうやって終止符を打てるのだろう。何となくその辺で迷いがあるのかも知れないが、そこからどうやって抜け出るつもりなのか。あるいはもうあきらめてしまったのか。そんなことばかり考えていても一向に埒が明かない。何もない現状についてどんなに不満を抱いていても、現状はただ現状のままあり続けている。いつまでそんな状態が続いてゆくのだろう。そんなことを知りたいわけもなく、何を知ろうとしているのかも知らず、ただやる気がしないのなら、さっさとやめてしまえばいい。しかしそんなことばかり述べていても仕方がない。


12月13日

 一時的にくだらぬ妄想は何も抱けなくなってしまったらしいが、それほどの困難に直面しているわけでもない。どうも寒さとそれに付随して到来したらしい怠惰によって、まったくやる気がしなくなってしまったらしく、それで何となく楽しい気分になっているようだ。たぶんそれでかまわないのだろう。もうほとんどあきらめてしまったらしく、かえってその方が気が楽になっているような気もしてくる。しかしそこから何を述べるつもりなのか。たぶんいつものように結果的にはどうでもいいようなことが記されるだろうが、記された文字は記そうとする言葉とは無関係になのかも知れない。そんなことがあり得るだろうか。やはりつまらぬことを述べているようで、いつか来た道を引き返しているような気もする。だがそれで事態を解決できるだろうか。解決しようとしているのではなく、解消しようとしているのかも知れない。何に勝とうとしているのでもなく、怠惰な雰囲気に負けているだけかも知れない。それは久しぶりの風景だ。風景ではなく光景なのではないか。どちらも似たような言葉に違いないが、君はその風景の中で何をやっているつもりなのか。怠惰な雰囲気に流されて、ただ移り変わる風景を眺めている。ここ数年で世の中がそれほど変わったとは思えない。相変わらずの事件や事故や自然現象に囲まれているようで、それで関してメディア上で誰かが騒ぎ立てているだけだろう。それでも人々は生き続けているらしく、どこか適当な場所と時間の中でうごめいているようだ。それを伝え合う上での何らかの技術的な進展はあったらしく、それに対応して人々の意識も少しずつなら変化したのかも知れないが、その自己主張の形態は何ら変わりがない。自らの生息領域の保持と拡大に余念がなく、そのための手段をあれやこれや弄して、自らが生き述べられるように必死で動き回っているらしい。だがそんな動物の生態学的な見地から何を述べてみても、あまり心には響いてこないだろう。いったいそれ以外にどう現状を言い表せば納得できるだろうか。文化だの芸術だので文章を飾り立てれば、何となく文化人類学的な表現に近づくだろうか。だがそれで何を述べていることになるのか。別に今さらそんなことを述べたいわけでもないだろう。述べたいことが何もない。雲一つ見当たらない青空の下でそんな空虚な思いを抱いている。何もなくても時は過ぎゆき、生きている場所も適当に移動していくようだ。要するに君の言葉はそこで終わっているのだろう。終わっているのに続けようとすることから、意識の中で矛盾が生じているのかも知れない。だが今度はその矛盾を利用して言葉を連ねようとしている。だからそれがいつもの同じ風景を感じさせているわけだ。そんな風景が常に存在していて、その何もない風景の一部とかしている自らを、必死になってそこから引きはがそうとしているのかも知れない。まだ必死さが足りないのだろうか。もう少し本気になってみたらどうか。誰が本気になればいいのだろう。本気になれないのなら、そんなことはやめてしまえば済むことかも知れないが、誰がそれをやめればいいのだろうか。言葉がそこで停滞しているようで、そしてその停滞から抜け出そうとしているわけか。さっきまで聴いていた曲が過ぎ去ってしまったようだ。つまらない利害関係に縛られたくはないが、その利害関係の中から自らの意識が生じている。自己実現を果たすことと、曲芸的な言葉の連なり方を提示することが、誰かの利益になるらしいが、利益とは何を意味するのか。金銭的な獲得なら他のところでやっているはずだ。ではそれをやらなければどのような不利益を被るのか。それは単なる達成感に過ぎないことではないのか。浅はかな達成感を得たいがために、恐ろしい精神的な迂回を経て、無駄で有害なことを述べ続けているわけか。それの何が有害に思われるのか。何の利益ももたらさないことは無害なのではないか。心の中に思い上がった達成感がたまってゆく。それが自らの立場を見失わせる原因となっている。何の立場もありはしないのに、達成感によって何かを述べたつもりになり、それによって何らかの立場を獲得したと勘違いしてしまうことになる。いったいそこで何が達成されているというのか。何の現実感もありはしない。ただの空虚が蓄積されてゆくだけだろう。さらなる思い上がりを誘発するだけか。やはりそれで何を述べているわけでもないらしい。実質的には何も述べられていないのに、言葉だけが延々と連なっていく。それが文章を記すことの本質を形成しているようだ。そこには何もありはしない。ただあるのは空疎な言葉の連なりだけなのだろう。それで嫌気が差してしまうわけだが、そこでやめようとしないのも確かな事実になっている。さらにそれらの空虚を推し進めてゆかなければならない。それは限りのない言葉の無駄を形成するような気がするのだが、やはり一方ではそれでもかまわないと思いたくなってくる。あたかもそれが架空に存在している君の望みであるかのように、それらの文章は継続されてゆかなければならない。それは恐ろしいことだろうか。しかし人々の営みと似ているのかも知れない。つまらぬ出来事を引き起こし、その出来事が大げさに伝わって、さらなる関心の的となり、そんな出来事の周りに群がるのが格好の暇つぶしとなる。そんなどうでもいいような流行り廃りの繰り返しの中で、世の中の情勢は適当にいい加減に推移し続けているようだが、そんな世論の動向を真に受けることができるだろうか。どうでもいいことはどうでもいいことでしかないが、そのどうでもいいことに意識を支配されているのだから、そんな意識を共有している人々もどうでもいいような存在でしかないのかも知れないが、いったいそれ以外の状況がどこにあるのだろう。なぜそんなことに真剣に取り組まなければならないのか。真剣になれなくても、それが自らの生死にかかわってくれば、嫌でも真剣にならざるを得ないか。そんな死活問題に対しても本気になれないならば、もはや生きている意味がなくなってしまうだろうか。しかし生きている意味がないということは、死ぬ意味がないことにもならないか。生きることも死ぬことも本気にならなければ成し得ない行為に違いない。だがそのどちらでもないとするとどういうことになるのだろうか。たぶんそれでも生きていることになるのだろう。惰性で生きているということか。何となくそれでおもしろいと感じてしまうらしい。何もやっていないわけでもないが、とりあえずは生きて呼吸でもしているのだろう。何となくそんな現状が馬鹿げたことに感じられてしまうのだが、それでもそれを肯定しながら未来へ続いてゆく時間を過ごしていく以外はあり得ないようだ。それが誰かの宿命らしく、そんな誰かのいい加減な行く末を、君はいつも苦々しく思っているのだろうか。


12月12日

 今日は疑念以外の何かを示すことができるような気がする。今日はいつなのだろう。まだ過去の時間に属しているのだろう。偏頭痛がしてくるようだ。確かに虚構の中ではそうなのかも知れない。頭蓋骨でも歪んでいるのだろう。まだしばらくは休ませてくれない。必要な休息が消散する。そんな表現はおかしい。休息の中で時が刻まれている。しばらく時計を眺めていたようだ。それで何となく動いていることを実感する。まだ言葉が足りないのではないか。それはもう少し先まで行ってみなければわからないことだ。今何かを思案している最中かも知れない。息つく暇もないわけではない。夜空の月はどちらを向いているのか。かなり遠くまで来たような気がするが、部屋の中で眠たくなっていることに変わりはない。君はどこから後退してしまったのか。それで独り立ちしたつもりになっている。それが自らの言葉でないことはわかりきっているはずだ。君の思い通りに行くはずのないことをやっている。しかし批判の矛先が君に向いていないのはどういうわけなのか。見え透いたレトリックを用いて破滅をかわす魂胆なのか。すでに破滅しているような気がするのだが、誰が破滅しているのかわからない。架空の人物の誰かに破滅を担わせれば、君は助かったつもりになれるだろうか。誰か他に破滅したい人間はいないものか。そこに漂う虚無的な雰囲気に流されて、何を見失っているのか。それ以降につながりようのない文章を配置して、言葉につまって途方に暮れてみる。それが君の物語になるはずがない。だがそんなことは些末なことに過ぎないだろう。だが他の何にこだわっているわけでもなく、意識の大半を占める空洞を何で埋め合わせることもできない。何かのモードに支配されているような気もする。何となく様式美の罠に文章がはまっているのかも知れない。それは何年前の出来事なのだろう。とぼけるのもいい加減にしてほしいか。過去の時空から何を予測しているわけでもない。何とか罠をふりほどこうとしてもがいているようだ。言葉尻を捉えてそんな雰囲気を感じ取っているつもりらしい。たぶんそうではないと思いたいのだろう。君がやってきたことはすべて無駄だったのか。そんなことを語りたいわけでもないのだろう。まだ感性は死んでいないと思っている。誰がそう思っているわけでもないが、誰かが過去にそんなことを述べていたかも知れない。しかし説明が長すぎないか。説明をしているうちに、何を説明しているのか忘れてしまったのではないか。当初においては何かの支配から逃れるための努力について語っていたはずだが、次いでそんな努力は勘違い以外の何ものでもないという結論に至り、挙げ句の果てにはその支配形態に絡め取られて、自ら率先してメディアによる精神の支配を正当化するまでになってしまったのではないか。そんな物語がどこかにいるらしい老人の脳裏を一瞬かすめ、その衰えきった精神の中では処理しきれずに、うやむやのうちに忘れ去られてしまったのだろう。今もどこかで生きているのだろうか。それは何年前に聴いた音楽なのか。さっきまでの話を忘れさせるだけの力がその音楽に宿っているだろうか。いったい何を忘れようとしていたのか。いくら言葉を弄しても、まだ何も述べていないような気がする。馬鹿げた騒ぎの中で、誰かが押しつぶされてしまったらしい。そんなフィクションを構成する間もなく、状況が適当な出来事を伴いながら、ゆっくり動き出すだろう。自らの本望を遂げるための活動を開始する。過去の君が求めていたものは何だったのか。今となってはそれを思い出すこともできない。思い描いていた構想とかいうものが、どこかで提示されていたのかも知れないが、言葉の森林に分け入って、それを探し出す手間をかける気にはなれない。もはや衰えた感性をよみがえらせることは不可能となってしまったようだ。だから今ある状況が君の意識を支配している。そこから逃れることはできそうもない。それは君がそれ以外の状況の到来を望んでいるのとは裏腹の関係を成している。君がそれを望めば望むほど、それとは違う現状の中に拘束されてしまうわけだ。そして思いとはかけ離れていることに悩み苦しみ続けることになるだろう。現状が気に入らないことの原因は君の無い物ねだりにあるようだ。だがそんな思いに至るたびに、ますます無い物ねだりの感を強めてしまうのかも知れない。その不満の念は、いつか思いがけない作用をまねいて、破滅が決定的となったりするのだろうか。今はそれでもかまわないと述べておこう。述べた先からそんなことはすぐに忘れてしまい、歳月の経過とともに、一時的な身の破滅などどうでもいいことの類でしかなくなってしまうのかも知れない。自らが述べていることを真に受けるわけにはいかないのであり、本気になれないのはいつもの通りだ。今日もそれ以上の飛躍には至らない。思考は一時停止を繰り返しながら、その都度現状確認に余念がないようだが、正気を保つためにはそのくだらない思考動作をやめるわけにはいかない。まだその程度で済んでいるのだから、それはそれで気楽に振る舞える範囲内なのかも知れない。そこからある一線を越えて、根を詰めて何かをやろうとすれば、必ずそこで挫折してしまうだろう。そういう意味で多少の時間的な遅れは仕方のないところだ。あまり厳格にルールを適用してしまえば、現実と理想の背離がますます加速され、何か精神的に耐えられなくなってしまうかも知れない。だからいい加減に語っていないと、やばい状態を避けられなくなる。そういう意味ではまだ気休め程度の背離で済んでいるだけでも幸運なのだろう。現に述べたいことは何もないと述べていれば、何となくそれで気が休まるような気がしてくる。現状が終わり得ないことに変わりはないが、そんな現状の中でしか生きられないことも確かだ。だからいつまでも悩み苦しんでいるのかも知れないが、そんな精神的な苦しみが今ある意識を支えているのだろう。そしてどこまで行ってもそんな現状が待ち受けているようだ。いったい転機はいつ訪れるのだろう。そのままで終わってしまうのなら、そんな運命はつまらなすぎるか。では何か他におもしろいことはないだろうか。心はすでにそこから離れているらしい。それが誰の心なのかはっきりしないが、では現状に拘束されているつもりの意識は誰の意識なのだろうか。面倒なので君の心はそこにはないことにしておくか。心と共に君の意識もどこか遠くへ飛んでいったしまったらしい。そんなあり得ない妄想を抱いていると気分転換にでもなりそうだ。暗い話はいい加減に終わりにしたくなったのか。何となくそう思っていると、そんなことはどうでもいいように思えてきて、また何が何だかわからないふりをしたくなってきたようだ。今はそれでかまわないのだろう。


12月11日

 真実に至る道は幾通りもあるらしいが、無用な自己主張は調和を乱す。それが予定調和であるわけがない。実際に何をやっているのかわからない。どういうわけでそうなってしまうのだろうか。知っていることを包み隠さず述べればいいだろう。さらにわからなくなってしまったようだ。何も見出されないと述べながらも、実際には何かを見出しつつあるようで、それは誰かの苦しみに違いない。だがすかさずそれらの苦悩は嘘かも知れないと述べてみる。本気になるのが嫌なのか。何が起こっても不思議ではなさそうだ。偽りの苦しみが遠ざかり、風が強くなる。言葉は未だに見ている光景を描き出していないようだ。君が語りたいのは風の話ではない。そこでは誰が何と闘っているのだろうか。良心の呵責でも感じているのだろうか。まともな答えを求めているわけではない。そこにはありふれた言葉しかない。意識の外に何らかの世界が広がっているようだが、わざとまぶたを閉じて、瞳は何を見ようとしているのか。見えない空気の流れでも感じているつもりなのか。外の世界には言葉が伝わらない。その代わりに暗闇が存在する。それは盲目を装うための闇だ。何が見えないふりをしているわけでもないが、めくらのふりしている意図など何もない。君が盲目ではないのはわかりきったことだ。やる気がしないのもわかっている。やる気は目的に振り回されていて、意識は何もない明日に向かっている。希望はどこにも存在しないらしい。だがそれで何がどうなるわけでもない。虚無の言葉で何を飾り立てているわけでもない。何かが復活する機会などどこにもありはしない。復活させる対象が何も思い浮かばないのではないか。何かに対する思い入れを探しているのかも知れないが、その対象となりそうな事物が見当たらない。外の世界はそれについて何も教えてくれそうもない。行き詰まりの原因はどこにでも転がっているようで、仕方がないので、まだそんなところで何かを述べている。何も述べずに述べているつもりになっているだけだ。それで何がわかるのだろう。戯れに不可視の光景を思い描いている。キザなことを述べると、何かにかぶれてじんましんでも出るだけか。そしてアレルギー症状が進行してゆく。記している文章がつまらない言葉の連なりに思えてくる。そこから見る間に枝葉が伸びて、入り組んできて、日差しが遮られ、それは春の景色に思われるかも知れないが、それとは無関係な何かを主張しなければならなくなる。ぎりぎりのところで踏みとどまっているつもりなのか。いくら言葉を弄して文章を続けても、わからないことに変わりはないだろう。内容を何も思いつかないのだから仕方がない。君はそれらの文章をどこへ導こうとしているのか。ゴミの集積場へ導いているのかも知れない。いつまでも続けていると粗大ゴミになってしまうだろう。それで本望だというのなら、そんな強がりは早急に打ち砕かれなければならない。無理を承知でそんなことを述べているのはわかっている。君が経験する出来事は文章の構築には結びつかない。それをやめさせるために出来事が立ちふさがっているわけだ。それについて何も述べさせないようにしているのかも知れず、そんな苦境の前に挫折を促しているのだろうか。そんなことの連続によって何がおもしろく思われるのか。おもしろいことなど何もない。だからそんな状況が君を追いつめているわけだ。だがそれで何を理解したことになるのだろう。もうその辺でやめた方がいいだろう。そこからいくら言葉をつなげてみたところで、何を述べていることにもならないはずだ。いつまで意地を張ってみたところで、何がもたらされるわけでもない。ならばそこであきらめてしまえばいい。それでもあきらめきれないのはわかりきったことか。現に何かしら意味のないことを述べているのではないか。だが今さらそんなことを確認してみたところで、何がどうなるわけでもない。何をどうしようとしているのだろう。もはや自己実現などというくだらぬ段階ではないだろう。そこにどんな自己があるというのか。足下から大地が崩れ去る。確固とした地表など無意味だ。気がつけば足場がなくなっている。身体が宙に浮いているような感覚を得る。そこに自己の存在を認めないということは、どのような結果を招くのだろうか。身体の中に自己が間借りしているわけがない。切り抜けられるような状況だとは思えない。それが無理であることは始めからわかっていたことだ。ではそこから何を始めていたのだろうか。それはただ単に言葉を先につなげるという行為以外にどんな意味を担っていたのか。次第に先細りの不安に打ち勝てなくなってくる。時間に追い抜かれてしまい、まったく追いつけなくなり、取り残されていることに耐えられなくなってくる。だからその先を求めているのだ。その先に何かが到来すると思い込み、それがかろうじてやり続ける支えとなっている。なぜそんな思いに至ってしまうのか。そんな内容ではつまらなすぎる。ただ闇雲に言葉を弄して、それで終わりに対する不安をかき消しているだけだろう。そんな精神的な弱さを突いて虚無が進入してくる。もう何も述べることはないだろう。早く徒労を終わりにして楽になればいいだろう。なぜそれをやめようとしないのか。ただやめられないからやめようとしないだけか。何の理由にもなっていないような気がしてくるが、さらに何かを述べなければならない。思い通りに行かないのには慣れている。思い通りに行くはずがないだろう。しかし天命を待つ気にはなれない。人事などいくらも尽くしてない。まだこれからやることがあると思っている。たぶん死の直前までそんなことを思っているのだろう。何事もあきらめが肝心だが、不幸になるにはあきらめないことが肝心だ。そして同じことを繰り返すことも肝心であり、それをやりすぎることも感じなのだろう。他人から呆れられるまでやらなければならず、呆れられてもやり続けなければならない。そしてやり続けることの目的など何もありはしない。何のためにやっているのでもないことが、延々と同じことをやり続ける秘訣なのかも知れないが、そこまで述べれば気が済むのだろうか。何となくいつものように馬鹿らしくなってきたか。そしてわけがわからなくなり、それでもかまわないと思うようになるわけか。何という回り道なのだろう。そんな感慨に至るためにここまで来たわけではないはずだ。そんな骨折り損のくたびれもうけ状態を楽しむことができるだろうか。誰に向かって何を述べているのか。こうも強がってみせるのには、何かわけがありそうに思えるのだが、思い当たる理由が何もなく、一向に何も見出せない状況の中で、何をどう述べていいのかわからなくなるだけのようだ。本当にまだその先があるのだろうか。その先において何を述べたらいいのか。


12月10日

 どこかで転換点が待ちかまえているのだろうか。君は長すぎる文章に嫌気が差している。もっと単刀直入に用件を述べてほしい。何かの邪魔が入っているのかも知れないが、とりあえず今は忙しくない。ならばやる気のでない理由がわからないか。言葉を繰り出すタイミングが合っていないのかも知れず、出鼻を挫かれて、曖昧模糊とした雰囲気に流され、何を述べているのかわからなくなる。そこからどんな話に持っていくつもりなのか。たぶんそれはわざとらしい話の展開になると思われるが、なぜかそこで黙ってしまうらしい。そうなってしまう理由など何もありはしない。それらの沈黙にはどんな意図と思惑が込められているのだろうか。意図や思惑をねつ造している暇がない。そして何を疑問に思っているわけでもない。今は疑念を抱くような雰囲気でない。ただ話の到達点が遠すぎるのかも知れず、それに比例して空白の時間が長くなっている。何もできずに最近はかなり人相が悪くなってきた。誰かはなぜか気がゆるんでしまったらしい。それでも何もやっていないわけではないはずだ。画面上に映っているニュースではありきたりなことばかりが述べられているが、いつものようにそれの何が気に入らないのかわからない。誰かが気を利かせて、もっとマシなことを述べたらいいのだろうか。しかし何がマシであるかについて確固とした基準はなく、語ることのすべてがくだらないことのように思われてくる。君にはそれが不満に思われるのか。何事にも心が動かず、すぐに飽きてしまうだろう。飽きてしまうからまた新しい何かを求めて、誰もが気晴らしとしてのニュースに群がっているのではないか。だがそれで何を批判したいわけでもなく、何となくそこでの時流に乗って、それなりに提供される娯楽を享受するぐらいしか、人の生きる道はあり得ないのではないか。もちろんそれで生きている実感が得られるわけもなく、生きていようと死んでいようと、人一人に何か決定的な重要性があるわけでもない。何が重要であるかについて、人それぞれで重要性に対する認識も違ってくるだろう。だがそれで何を述べていることになるのか。君にとっては何が重要なのだろうか。明確なことは何もわからない。それが重要であろうとなかろうと、そんなものは行動の指針にも判断材料にもならないのかも知れない。客観的にはやるべきことなど何もありはしないのではないか。だがやるべきことばかりやっているわけでもなく、やらなくてもいいことばかりやっているわけでもない。やってしまった後から悔やんだりするだけか。それでは何をやっても反省の材料にしかならないのかも知れないが、やっていることのすべてが失敗の連続であるとすれば、成功とはどういう状況になることなのか。そんなことは実際に成功してみなければわからない。そしてそういう意味での成功などあり得ない。何事にも失敗し続けなければ、やる気を失ってしまうのではないか。もちろんそんな心配など杞憂でしかないが、すでにやる気を失っている今こそが成功を体験していることになるのではないか。そんな状態が成功の証なら、そんな成功など要らないだろうか。それでも誰かが成功を必要としているのだろう。言葉としては自らがやってきた結果が成功だと認められたい。だが現実にはそんなことはどちらでもかまわない。何が成功で何が失敗なのかについて、明確な認識をもてないようだ。やはりそこでも判断基準の曖昧さが、何らかの認識に至るのを邪魔する障害となっているらしく、判断するには至らずに、結局そんなことはどうでもよくなってしまい、何事にも本気になれない原因はその辺にあるのかも知れない。いったいそれ以外に何を思えばいいのだろう。自らが実際に行っていることと、現実に述べている内容には、ほとんど関連性がないのかも知れない。たぶんそれでは何を述べていることにもならないのだろうが、何らかの対象についてどう述べてみても、本気でそんなことを述べているわけではないことになってしまう。それはどういう嘘なのだろうか。嘘ではないと思いたいようだが、嘘をついているつもりの当人にとっては、どちらでもかまわないのだろう。だがそれがどういうことでもないとすれば、そこから先にどう述べていいのかわからなくなる。それはどこまでいってもどういうことにもならないように思われ、どうにもならないから途方に暮れてしまい、ますます困惑の度が深まってくるようだ。そして困惑すればするほどおもしろくなる。嫌がらせとはそういうものなのだろう。どこまでも感情の根が伸びてくる。何をどこまでやってもきりがないらしい。すでにそれを止めることができなくなっている。感情的になればなるほど、何をやっても満たされなくなってくる。どこに歯止めを設定すればいいのかわからなくなる。もはや歯止めが利かないのだから無駄なのかも知れない。それは恐ろしいことだろうか。そんな暴走の軌跡を言葉でなぞるのは楽しいか。言葉がどこにあるわけでもない。感情を言葉に変換するのを忘れているらしい。君はそれらの状況のどこにも出現しないだろう。神が降臨するのは虚無の大地だ。人間の汚らわしい感情などすべて無視されてしまう。くだらぬ思い込みはすべてご破算にして、何もない場所で何も思わない精神が真空を糧として空間的に膨張し続けている。それはあたかも妄想を伴わない誇大妄想を内蔵しているかのように思われてしまう。たぶん矛盾しているのだろうが、矛盾していなければ何も生じてこないだろう。世界の真の姿がそこにあるのかも知れない。何もないからこの世界は認識の対象となっているのだろう。何かがあれば、それは利用の対象となってしまう。そこから利益を出さなければならなくなるだろう。無から有を生じさせる自信が詐欺師にはあるらしいが、そんなことを繰り返していて虚しくならないか。何もなければそれについて何も述べる必要はない。しかしそれでも君は沈黙の言葉を必要としている。すべての意識を沈黙させるには、それに応じた言葉が求められるのだろうか。言葉で他人を黙らせてどうするのか。静かな日々を送りたいのだろうか。だが静けさの支配にどこまで耐えられるのか。そう述べて誰を心配しているわけでもなく、何に耐えられないわけでもない。もはやそんなレベルはとうにクリアしているつもりだ。その自信がどんな勘違いを呼び込んでいるのかを知りたいところだが、やはりそれで何を述べているのでもないことを確認したいらしい。ただの言葉には文章としてのまとまりが求められているようで、そこから何らかの文章が構成されていなければならず、そのわけのわからない文章の内容について、何らかの説明が求められているのだろうが、はたしてそれで説明になっているのだろうか。たぶんそこで何かが説明されていて、少なくとも現時点ではそう思われる。


12月9日

 それがそれほど気になっているわけでもないが、遠い歌声が近づいてくる気配はない。そんな耳の遠さと比例して無関心が猛威をふるってくる。そんなことは無視してしまってかまわないのではないか。部屋の中が乾きすぎているのかも知れない。冬になると皮膚が切れてくる。どこに何があるかはわかっているつもりだ。だから何をやろうとしているのか。ただ機会が訪れるのを待っていたら、老いて死んでしまうだろう。そんな悠長なことはやっていられないか。今さら何を焦ってみても始まらない。何を始めようとしているのかさえはっきりしない状況で、他に何か思うことでもあるのだろうか。それがそもそも違っているのではないか。冗談でそんなことを述べているわけではない。何が冗談なのかわかって述べているのだろうか。だからそれを知りたいと思っている。即興でそんなことを述べてしまう原因を知りたい。理由がどこから湧いて出るのか。何かがそこには存在しているはずだ。そんな風に思い込みたいだけなのだろう。まさかそこから馬鹿の一つ覚えが発動するわけもあるまい。どこかでそれらの悪循環を断ち切りたいのは山々だが、それをどう思っているかはそのときの話の成り行きにもよるだろう。わかっていることはわかっていないことだ。それを知ろうとしてないのかも知れない。夜はさらに長くなりそうで、それを知ろうとするための時間はまだ十分残されているように思えるのだが、それとは別のことをやるための時間は全くない。だからひたすら考え続けなければならないようだが、そんなことを述べているうちに、何となく馬鹿らしく思えてくる。たぶんそうではないのだろう。何よりもこの状況を楽しまなければならない。この状況とはどんな状況でもなく、どういう状況でもない。ただ言葉がそんな風に連なっているだけのことだ。そんなことは君の知ったことではないはずだ。何が何だかわからなければ、それでかまわないのだろうか。それがどういうことだなんて思わない方が身のためだろう。誰の身のためでもないことは思わない方がいい。だからさらにいい加減なことを述べられる。まるで何かにせかされているかのように語っている。冬の寒さが身にしみるのは誰のせいでもなく、ただ単に今が冬だからだ。そんな返答を期待しながら、さらにどうでもいいような気分が増してゆく。誰に嫌われているわけでも、誰を嫌っているわけでもないが、それで誰の気分を害しているわけでもないはずだ。好き嫌いなら食の好みでも述べていれば、それで何か述べている風を装えるのではないか。音楽は誰を選り好みしているわけでもなく、ただそこで音が鳴っているに過ぎない。それについて何を述べたらいいのだろう。まだその端緒に着いたばかりではないのか。聴きたくないのなら、座っている椅子を回転させて、目でも回していたら気が散って、音楽どころの騒ぎではないだろう。わざと言葉をずらしている。芸術は軽薄だ。それの何を軽蔑したらおもしろいだろうか。そこに意味があるとは思えないから、何となく無駄なものを見ているようで、見ているうちに楽しくなってくる。絵は言葉に毒され、音楽は感情に毒されている。脳みそが腐っているのかも知れないが、そんな見え透いた嘘はありふれているだろう。そこで何かが二重に否定されているようだが、文章の中には絵も音楽もあり得ず、そこでは対象が不在のまま文字に置換されているに過ぎない。それがフィクションのきっかけとなっている。要するにあり得ないことを述べているのだ。それはあり得たかも知れないことではなく、未だかつて存在せず、これから先も不在のままにあり続ける対象について語られている。だから何を述べても欺瞞を払拭できないわけか。それを真実などとは思わない方が身のためだ。嘘で塗り固められた虚無の塊が文章そのものなのかも知れない。よくそんな嘘がまかり通るものだ。それの何が嘘なのか、君に指摘することが可能だろうか。だが嘘は指摘するものではなく、堪能するものなのではないか。嘘を堪能して虚無を感じ取るのが、そこでの正しい理解なのかも知れないが、それで何になるのだろうか。そんな冗談をどこまで許容できるかが、そこでの懐の深さにでもなるのだろうか。何となくそれは間違った解釈のように思える。いったいどこで過ちを犯してしまったのだろう。正しい認識が嫌いだから、わざと誤ったことを述べているように装っているわけか。そんな芸当を行う必然性がどこにあるのか。要するに言葉につまって、何が何だかわからなくなりたいだけなのだろうか。調子が外れていて、言葉を虚無で飾り立てているだけなような気がしてくる。それでも一瞬の間だけ正しいことを述べていたような気がするのだが、それについてどのような判断を下したらいいのかわからなくなる。たぶんそれは正しいことでも間違ったことでもないのかも知れない。ひたすら言葉を弄しすぎて、不必要なことまで述べていることは確かだが、一方ではそれでかまわないとも思っている。誰かの見本となるような文章を記してはならない。まとまりを著しく欠いて、焦点がどこにも定まっていないようにしなければならない。そんな嘘でも気休めぐらいにはなるだろうか。それでも何も述べないよりは少しは楽しい気分になるかも知れない。そしてそこを通り過ぎれば、いつもの虚無が到来する。何を述べているのでもないと思うようになり、それ以外に何も感じないのが当然のことのように思われてくる。たぶん誰かはそんな成り行きを求めていたのだろう。まさにこうして願いが叶ったわけだ。そんな嘘ではまだ気が休まらないだろうか。ではこれからどんな嘘をつけばいいのだろうか。嘘は飽きたから、その代わりに真実でも述べてほしいか。それこそ無い物ねだりになってしまう。フィクションに何か真実があるとすれば、それは馬鹿な人々が顕揚したがる類のものかもしれない。要するに自分が感じ取ったつもりの勘違い的な感動を他人に押しつけたいわけだ。そこに真実があればそれだけでその作品が尊いものだとでも思い込みたい。だがそれで何を批判したいわけでもない。現に君も虚構の中に真実を求めている当人なのではないか。感動によって気分を高揚させたいのだろう。思いがけないことを知って感激したいのではないか。そんなありふれた思いに至らなければ、何を感じ取ったことにもならないのではないか。だから君はそこで何かを発見しなければならなくなる。いつまでも虚無を言い訳にして意味不明を装ってばかりいられなくなるはずだ。言葉の連なりの中で、何かしら確かな意味を見出さなければならない。そしてその意味をそれとは別の言葉で理解する必要が生じてくるだろう。意味とはそれとは別の言葉で言い換えることだからだ。そうなって初めて文章を理解したことになるのではないか。そんな嘘ではつまらないか。


12月8日

 誰かは猜疑心の塊に一言物申したい。それの何が気に入らないのだろう。すでに知っていることを述べているつもりだ。それ以外に何を述べられるだろうか。音楽はメッセージだそうだ。そんな不確かなことを述べていると気が楽だ。感情はただ何かを否定したい。それは誰の感情でもなく、他に何を考えているのでもないらしい。感触が違っている。また何かいい加減なことでも思いついたのだろうか。意識はつまらない誘惑に負けそうになっている。誰かは禁句になっている言葉を探しているようだ。しかしそんなに苦しいのだろうか。何を苦しがっているのか。どこからその状況を入手したのだろう。怒りがどこから湧き上がることもない。わけがわからないのは楽しいか。解けない謎のコレクションが必要だ。それを理解したくないのかも知れない。空はどこまでも青い。まだ外は冬なのだろうか。枯れ葉の間から何が這い出してくるわけもない。君の意識はどこでこの世界とつながっているのだろうか。世界は動かない。動いていると感じているのは世界ではなく、この世界でなくて何なのだろう。言葉がそこで負けている。自己正当化とはそういうものだ。過ちを何度も繰り返し、しかもそれを認めようとしない。君はどこで現実と折り合いをつけるつもりなのか。そこから逃げてどうするのか。不在の誰かとわかりあえるはずがないだろう。そこで透視術でも用いようとしているのか。いったい何が透けて見えるだろうか。見えてくるものに心当たりはない。それは戯れ言の類だろう。箴言に至るはずもない。少し耳が遠いらしい。変化しようとしているのは君ではない。急な状況の変化に合わせることができないようだ。歩調を変えるのは至難の業か。それは魔法の類かも知れない。魔法によって君は生まれ変わるだろう。そんな嘘は唐突すぎる。批判される筋合いは何もない。自由は無批判に受容可能なのか。それが自由だとしたら、単なる独りよがりでしかない。根拠を示せと言われても、すぐにそんな要求を呑めるはずもない。幻想という言葉は使いたくないようだ。ただ記憶にないと述べるしかやりようがない。君はそこから逃げている。どこまで逃げ切れるだろうか。逃げ切れなくなったらどうするのか。逃げているうちに何か妙案でも思いつくだろう。成り行きまかせに振る舞い続けることしかできはしない。それが君のやり方なのだから仕方ない。そんなことを述べているうちに、さらに本題から逸脱し続け、藪の中から蛇でも飛び出すかも知れないが、それで事の真相が明らかになることはないだろう。君は疲れているのだ。本来の姿を見失っている。だがそんな気休めは無視するだけのようだ。いったい何を励まされているのだろうか。すぐにでもできるようなことをやろうとしているわけではない。いくら強がって見せても無駄だろう。もう手の内は知れ渡っている。後はどのように追いつめられていくかが今後の検討課題となっているに過ぎない。簡単にあきらめずに、その先へ言葉をつなげていく以外にやりようはないだろう。時間的に追いつめられているのに、まだ何かそれとは違うやり方を模索し続けているようだが、たぶん現状をまったく把握していないのだろう。ではそこで音を上げて、あきらめてしまえば楽になるだろうか。やれるはずもないことをやっていられるわけもない。君はそこで何かの可能性にかけているのかも知れないが、現状でうまくいくとは到底思えない。そんなことはもう忘れてしまえばいいのではないか。嫌なことは忘れて、何か新たに別のことをやってみたらどうなのか。たぶんそれも嘘に違いない。どこへも逃げられない状況から逃げようとしても無駄だ。もはやそこには言葉しかないのであって、そこにあると思っている複数の言葉を組み合わせて、その場の状況に合わせた文章を構成しなければならない。何もないのに、言葉があると思い込んでいるようだ。それは哀れな勘違いかも知れない。言葉に救いを求めても裏切られるだけだろう。確実なことは何もなく、そのことごとくが曖昧なことしか述べられない。君はそれをどこまで容認できるのか。何をもって理解したことになるのだろう。互いに理解し合えないことを前提としながらも、何を説明しているのだろうか。説明する前から意味不明になってしまうことはわかりきっていることなのか。そんな説明がどこにあるのだろう。いったいそこで何を説明しているつもりなのか。説明不可能なことでも説明しているつもりなのか。そんな無駄な説明が説明といえるのか。君にはそれがわかっている。改めて説明を受けなくても、そんなことはすでに承知しているはずだ。だからそこから逃げ出そうと画策しているのではないか。もうだめになることはわかっていて、沈没しかかった船から一刻も早く逃げ出そうとしている。しかしそんなたとえが何になるのだろう。もうすでに遠ざかりすぎるくらいに遠ざかってしまったのではないか。時間的にも距離的にもこれ以上は遠ざかれないほど遠ざかっているはずだ。もはやそこで何が行われているのかもわからないほど遠くまで来てしまったような気がする。確かに言葉の上ではいくらでも遠ざかれる。場合によっては無限の時間と距離を隔てることも可能だ。だがそんなことをやって何になるのか。何かそれでメリットでも生ずるのだろうか。そんなことがわかるはずもなく、それを理解するには、危険を顧みずにそこへできるだけ接近しなければならないのであり、たとえそれが近視眼的な情景になろうと、そうしなければ何も得られない。そこから離れすぎているということは、それとはまったく無関係になるということでしかない。それでも君はいいのだろうか。それで気が済むとは到底思えないだろうが、なぜそれをそれほどまでに毛嫌いしているのか。さっきから述べている対象がまったく定まっていない。何かについて述べることは、その何かに依存してしまうことになるが、ではそんな依存関係を断ち切ってしまったら、他に何を述べることができるだろうか。対象からどんどん遠ざかってしまったら、述べている内容が空疎になるだけではないのか。要するに君は何かにのめり込むことができないのだ。君には絶えず語る対象との無限の距離が必要となる。それが何事にも本気になれない原因ではないのか。だがそんな結論をどこまで信じていいのかわからない。それで何かを述べたことになるのだろうか。そんな心配までする必要はないだろう。君には君のやり方があり、そのやり方に従うか逆らうかは、そのときの君の気分次第なのではないか。そこにどんな嗜好が反映されているわけでもなく、ただそのときの成り行きから、それにフィットした言葉が取捨選択されていると思いたいようで、それ以外の判断基準は存在しないかのように語りたいらしいが、本当にそんなことを信じていいのだろうか。


12月7日

 何かが食い違っているのだろうか。何もかもすべてが食い違いすぎているのかも知れない。それで何となく嫌気が差しているような気がする。だからこれ以上は何を述べても意味がないだろう。そんなあきらめの境地に至りたいのか。そしてさらにわざとらしいことを述べている。たぶん季節は冬なのだろう。数日後の空は晴れ渡り、そんな天候以外に他に何も感じることができず、何となくつまらないことを述べているようだが、それ以外に何を述べてもあまり気休めにはならないだろう。翌朝のけだるい雰囲気の中で何を思うだろうか。それは君が述べていることではない。述べているのは誰でもない誰かだと思いたいらしく、その誰かは無駄な言葉とともにまた分けのわからないことを述べようとしている。さらに意味不明なことを述べるつもりのようだ。たぶんそれは嘘であって、そうやって記された文字とは別のことを思っているのだろうが、案外それが架空の本音なのかも知れず、その偽りの本音には中身が伴わないだろう。確かに意味不明なことを述べているようだ。しかしそれ以外に何があるのだろう。例えば世の中で日々起こっている事件や事故によって何が変わるわけでもなく、それらの出来事には過去に繰り返されたのと同じような反応がつきものであり、それに対する思いもほとんどが織り込み済みの内容に違いない。人々の意識は過去からの連続を保持したいのだろう。だがそんなわかりきったことを述べないでほしいか。それの何が気に入らないわけでもないが、ただ君がわかっている範囲内で何か適当なことを述べてほしいだけか。ならばこの際その手の意味不明からは完全に決別すべきなのだろうか。しかし君がわかっていることとは具体的に何なのか。できることならそれらの状況を誰にでもわかるような言葉で説明してほしいが、そこには簡単な説明に使用できる言葉が何一つ見当たらない。だがそれでは何も述べられないだろう。何も述べられないのに、何かわざとらしくもいいわけじみたことを延々と続けてしまっているのではないか。やはりそれでは何を述べているでもないことになるのだろうか。君はそれでかまわないのか。現にそうやってだんだん曖昧なことを述べ始めているようだが、どうやらそれらの現象をわかるきっかけがつかめないらしい。ならばその文章はまたいつもの意味不明になるより仕方ないだろう。君はそうやって自身にはできないことを述べようとしている。そしてすでにそれに対して説明することをあきらめてしまったらしい。説明するのが面倒なので、あきらめたふりをしているだけか。だがそんな論理のすり替えが通用するわけがない。通用しなければ無視すれば済むことか。ではそのときの判断は誤りなのだろうか。それでもそれで何とか難局を切り抜けたつもりになっている。打開できないことを打開したつもりになっている。だがそれでは何を述べているのかわけがわからないだろう。意味不明では何も述べていないのと同じではないか。やはり何も述べてはいないのだろうか。たぶん述べたいことが何もないのだろう。だがそれではそこで終わりなのではないか。現実には何も終わっていない。では何か終わりたいのに終われない事情でもあるのだろうか。また嘘をついているのかもしれず、だんだんと話が込み入ってきたような気がするのだが、一向に何を述べているのかよくわからないことに変わりはないような気もしてくる。いったい君はそこで何を述べているつもりなのか。述べている当人にもわからないようなことを述べているのだろうか。要するに精神的に疲弊しきっているのではないか。何かが擦り切れてしまっているようだ。この世の中に興味を惹くような出来事が何もない。なぜ人々はこの地上で意味もなくうごめいているのだろうか。彼らにとってはなにがしかの意味があるのかも知れないが、君にはそれがわからない。無意識のうちではわかっているのかも知れないが、それが意識の表層に昇ってきて、言葉として文章に結実することがないのだ。たぶんそんな説明もでまかせに違いない。ただそんな風にして何かしら語り続けていることに、内心安心しているのかも知れない。まだ正気を保っていると思い込んでいる。語り続けているうちは何とかなっていると思いたいのだろう。そういう考えは浅はかきわまりないだろうか。そんなことをやり続けていることに対する自己嫌悪と、それでも語りの継続を保っていると思い込んでいる気休めとの間で、誰かの意識は絶えず揺れ動き、両者の間を行ったり来たりしているらしい。しかしそれで何を述べていることになるのだろうか。結果としてうんざりするような文章が構成されているのかも知れない。何もかもが馬鹿らしく思えてきて、まったく話にならないようだ。そんな精神状態のままでいつまでも生きていくのだろうか。そんな馬鹿げた話はないだろう。だからそこから抜け出そうとして、何やら延々と試行錯誤を繰り返しているような気もするのだが、結果は何も出てきていないようで、いつまで経ってもそんなことの繰り返しが続いているだけのようだ。そんな風に思っていると次第に気が滅入ってきて、さらに精神的な鬱状態が長引いてしまうらしい。君は本気でそんな風に現状を分析しているのだろうか。やはりそこからそんなことは冗談だと決めつけて、無理矢理明るく振る舞おうとするわけか。それがわざとらしく思われてしまうことの原因かも知れない。しかし誰がそう思っているのかがわからない。誰もそんな風には思っていないのかも知れず、それはただの思い過ごしであり、そんな勘違いを糧にしてそれらの文章を長引かせているだけなのかも知れない。それでもわざとらしくも浅はかなやり方だろうか。しかし君はそんな自らの愚かさを、それらの文章を記すことによって引き受けているのではないだろうか。誰か他にまともな文章に出くわした例しがあっただろうか。述べる必要のないことばかりが世間には氾濫しているような気がしないか。そんなことはわかりきっているだろう、と思うことばかりのような気がしないか。なぜそうなるかはわかっているが、それを文章にして説明するのは困難を極める。だからさっきからそれを説明しようとして、結果としてそれがなかなかうまくいかずに四苦八苦しているのではないか。要するにそれで意味不明になっているのだろう。何かを説明し損ねていて、それで文章のすべてを台無しにしてしまっているのかも知れない。そしてそれらの失敗は精神的な苦痛を伴って自らにダメージを与え続けているのかも知れない。またおかしな心境になってきたようだ。何かもがどうでもいいような気になってくる。いくら失敗を重ねても、同じ失敗を何度も繰り返しても、気がつけば意識はまたその場所へ舞い戻ってきている。そしてまた以前を同じようなことを述べようとして、いつものように語り損ねて失敗を繰り返すのだろう。はたしてそれでかまわないのだろうか。


12月6日

 いつか願いが叶うときが訪れるはずだ。そんな幻想を墓場の下で抱いている死者がいるらしい。だが気がひけるのはどういうことなのだろうか。いつものようにやる気がしないということか。すでに生前の願いは生前に叶ってしまったのだろう。死者に願いなどありはしない。何かが文章の中で却下されてしまったらしい。もはや生きていないのにこの感覚は何だろう。フィクションの中ではあり得ることかも知れない。別に見せしめに生け贄にされているわけでない。そんな風には思えないのだから、何の影響も及んでいないのだろう。どこから何が影響を及ぼしているかを知ろうとしているわけではないが、何となくそんなことを述べてしまうようだ。今は今であり、今年は今年でしかないのだろう。また来年になっても同じようなことをやっているのだろうか。それに関して何の感慨も抱けないようだ。ただ時間が淡々と経過している。君はそれで何を述べているつもりなのだろう。他人のことはわからないが、自分のこともわからないように思える。君が他人でないとすると、自分はどこにいるのだろうか。存在している時空をどこに設定すればしっくり来るだろうか。誰かはフィクションの中で何を語ろうとしているのか。その誰かは他人ではないのだろうか。そんなことをいくら述べても自分は一向に見えてこないだろう。自分の姿など見る気も失せるか。ありふれたその他大勢のどこかに自分が存在しているのだろうか。それで本気になれるはずがない。それでまた語るのが馬鹿らしくなっているのだろうか。だが他に何もありはしないだろう。だから行き詰まっているわけだ。何事も思うようにはいかず、思わぬところから沈黙の時間が到来する。それについてあれこれ詮索しても何も得られないだろう。しかしそこからどのように話を展開させればいいのだろうか。そんなことを述べていること自体がおかしいのかも知れない。だから切羽詰まって他人の言葉に頼ろうとしてしまうわけか。それが苦し紛れの飛躍をもたらしている。それはただ単に不連続を隠蔽しているだけだが、何となくそれでもかまわないような気もしてくる。君はそこで何に甘えているのか。言葉が足りないことが甘えの理由になるだろうか。何か見たこともない光景に出くわしてみたい。聴いたこともない音楽に出くわしてみたい。そんな思いをいつまで持続できるというのか。それが生きる目的にでもなりうるだろうか。君は幻想を求めている。ならば雪を待つしかないだろう。雪が降れば少しは気分転換にでもなりそうだが、雪国に暮らしている人々にしてみれば理解不能かも知れない。憂鬱な季節に何を思っているのだろう。寒さに音を上げてしまったわけか。そんなことはどうでもいいことだろうか。それらの文章にあまり思い入れはない。いい思いをさせてもらっていないのかも知れない。あるのは苦痛と焦燥だけか。そしてそんなことならやめたらいいと述べてしまう。そんなことの繰り返しには嫌気が差しているはずではなかったのか。それでも繰り返してしまうわけか。やはり君の文章は理解できない。まったく読み返す気になれないらしい。誰がそんな思いを抱いているのだろう。それでも何かしら述べなければならないようだ。不必要なことを語り始めている。それらの文章は誰にとって必要なのだろうか。何を笑っているのだろう。乾いた笑いの後はわざとらしくため息でもつくわけか。どこかで誰かが真剣な眼差しになっているようだ。それはいつかの自分の幻影かも知れない。生きることに真剣になれる時期というものがあるらしい。それはまだ何かを信じて疑わなかった頃のことだ。あきらめることを知らずに、ひたすら何かを思い続けていたときもあったはずだ。それが今はどうなってしまったのだろうか。何も信じられずに、いくらでもあきらめてしまえるらしい。そんなことが簡単にできてしまう。もう老いてしまったのだろうか。誰が老人になってしまったのだろう。そういう話なら興味が湧くわけか。そういうことではなく、どういうことでもない。ならどうするのだろうか。どうもせずに、黙って時流に従うだけか。それでもどうにかしていることになるのだろうか。未だに何とかしようとしているらしい。まだあきらめきれずに、無駄な努力を繰り返している。老人なのにご苦労なことだ。気力が萎えてしまったらそこで終わりだろう。そんな状態では死んでいるのと同じことか。だから悪戦苦闘しているふりをしているわけか。ふりではなく、本当にあきらめてはいないのではないか。何かがそこで止まっている。相変わらず時は過ぎ去りつつあるのに、何となく意識がそこから時の経過に合わせることが困難になっているのかも知れない。まだ去年の心境のままなのだろうか。それは何年前の心境なのか。まだ若いと思っているわけか。その勘違いを手放すことができないようだ。聴いている音楽も若い頃のままなのではないか。しかしそれがどうしたのだろう。そういうことを述べていること自体がおかしいのかも知れない。今はいったいいつなのだろうか。それは今ではなく、数年前の今なのではないか。何やら不毛なことを述べ続けている。だが世紀末はいつ過ぎ去ってしまったのだろうか。二十一世紀に入ってからは時間感覚が失われてしまったらしい。それまでの時間とは明らかに違う時間を経験しているような気がする。時間の進み方がまるで違うような気がする。この五年の間に何か記憶に残るような出来事があっただろうか。それは世紀末の失われた十年間どころの騒ぎではないような気がするのだが、別に何を騒ぎたいわけでもなく、ただ沈黙が永久に支配しているような時間が続いているように感じられる。すでにこの世界は終わってしまったのではないだろうか。そして終わった後には何も始まっていないのではないか。この状況から何が始まることができるだろうか。何も始まらなければ終わりもありはしない。だが本当にそんな感慨を抱いているとすれば、そういうメンタリティはすでに前の時代に属している証なのではないか。今進行中の時代について行けずに、思考も意識も前の時代で止まったままので、何も感じ取ることができないだけなのかも知れない。ところでそんなフィクションならおもしろいだろうか。時代に逆らって何を強がろうとしているのか。ただ世の中とは相容れない自らの思いを正当化したいだけか。別にそういうわけではなく、それで何かを語っているつもりになれるのだとしたら、それでその場は丸く収まり、そういう語り方でよかったことになってしまうだけだ。そしてそんな付け足し気味の蛇足も、それなりの迂回路を形成しおり、そこからさらに違う道を辿ることが可能となるらしい。それが何かの思い違いないことを祈るが、それなりに言葉遊びを堪能していただけただろうか。誰に向かって何を述べているわけでもないが、何となくいつもとは違うことを述べているつもりになっているようだ。


12月5日

 何となくやる気になっているらしい。しかし主張したいことは何もない。何か矛盾していないか。別にそれでもかまわないだろう。ただ寒いだけか。もう夜になってしまったようだ。そんなことはわかっているはずだ。誰にそれをわからせたいのでもない。何か無駄なことを述べているようだ。だがそれはいつもの成り行きだろう。何もないのだから仕方がないだろう。そこで終わってしまいそうだ。終わらないためには忘れていることを思い出さなければならない。無理なことを述べようとしている。無駄で無理なら述べない方がマシだろう。何を述べようとしているのでもないらしい。世の中の流れに逆らうのはいい加減にやめた方がいい。そんなことを述べているわけではない。それどころかどんなことを述べているわけでもない。たぶんそれは嘘に違いないが、それでも何を述べているのでもないらしい。心の中で何かの棲み分けができているのだろうか。述べていることが意味不明に思われる。わざとそうしているのだろう。そうする以外にやりようがないらしい。しかしそれはそこでお終いになるだろう。それ以上は続けることが困難になっている。だからそれとは別のことを述べなければならなくなる。すでに述べているそれではだめらしい。そこから何も言葉をつなげられなくなる。そんな状態では何もできはしないだろう。そんなことを述べている状況に精神が耐えられなくなる。それでもまだ君はやり続けるつもりらしい。まったく往生際が悪い。なぜそうやっていつまでも意地を張り通すのか。その理由を知りたくないか。意味がわからない。では知りたくないのだろうか。いつまでも笑っていられるはずがない。その意味がわからない。それからそうなった経緯を知りたくないか。何も知りたくないのなら、それ以上は何も語らなくてもいいのだろうか。その状態を超える方法を模索しているらしい。人はいつまで同じ内容を述べ続けられるのだろうか。君は本当にそこから遠ざかりたいのか。その途中で考え直す機会でも訪れているのだろうか。今さら見え透いた嘘をついてどうするつもりなのか。それはすでに述べたことだろう。視野が確実に狭まっている。なぜか普通に言葉を記せない。そんなことがあるはずがない。何を信じられないのかわからなくなるが、それも嘘かも知れない。誰と誰が画面上で戦っているわけでもなく、それは演技でありショーの一部に過ぎない。そんな見せ物に感動している自分が恥ずかしくなる。そうではないはずだ。これまでのところ真実は何も語られていないようだ。安易な成り行きがどこまでも繰り広げられているだけのようだ。それはそれでそういうことでしかないのかも知れない。だがそこに至って述べたいことが何もないのはどうしたことだろう。他人の考えていることがわからない。たまにはわかるときもあるのではないか。わかったつもりになれるときがある。自分の考えていることがわからない。たまにはわかったつもりになれるときがあるだろうか。グラスの底に自らの顔が映っている。画面上でうごめいている人影は別人のものだろう。君がそれを認めていいのだろうか。何を認めようとしているのだ。子供のように話すことはできない。大人のように語りかけることもできはしない。君が認めようとしていることは、そのどちらでもないのだろう。何となく力がどこからか湧いて出てきたような気がする。それが嘘だとしたら、他に何を語ることになるのだろうか。冗談の隣に空き地が広がっている。乾いた寒風を受けながら、晴れた夜空を見上げているわけでもない。冗談以前に何か述べるべきことがあるのではないか。素直になれなければ、何事もうまくはいかないだろう。だがうまく語ろうとしているのでもないらしい。とりとめもないように思える。まだそこまで到達していないのかも知れない。たぶんそこを通り過ぎてからしばらく経って、何となくそのことに気づくのかも知れない。何にしろ君には関係のないことが連続しているようだ。物語を彩る人々は操り人形の類だろうか。何かに操られてそこまでやってきたらしいが、その先に待ち受けている未知の出来事が誰に何をもたらすわけでもない。誰も出来事が起こるのを待ってはくれないだけかも知れない。それを待つだけの精神的な余裕が欠如しているのだろう。だからがむしゃらに前進しようとする。その突進した先にどんな罠が仕掛けられているかなんて、誰も知ろうとはしないだろう。君が探っているのはそんなことではないようだ。ただしゃにむに言葉を連ねているわけでもなさそうに見える。それでも何か考えているのだろうか。何とか何もない状況に対処しなければならない。嘘でもいいから何かあるように振る舞いたい。そんな仕草は見え透いている。君にはすでに結果がわかってしまっているのかも知れない。だから済ました顔して黙っていられるのだ。この世は犯罪者のためにある。被害者など泣き寝入りしていればいいのかも知れない。そこから得られるものは虚無だけか。人は走り去るために生きているのだ。走り去った先に待ち受けている終着点が死だ。そんな風に思いたくないのなら、せいぜい死ぬまでの暇つぶしに深呼吸でも繰り返していればいい。健康には深呼吸がいいらしい。何を深刻ぶっても始まらないが、始まる前に終わってしまうのかも知れない。それは何かの予告編のようなものか。映画など予告編だけで十分なのかも知れない。本編を見る前に終わっているものが大半だろうが、そんなことはわかりきっているだろうか。そこから何が導き出されているのだろう。俳優が演じる犯罪もどきに感動して、何となく気分が高揚してくるだろうか。だがそれで何を述べていることにもならない。スクリーンの近くに漂っている暗闇の中に、視覚から逃れ去ろうとする幻影でも捉えているわけか。そうであり得たかも知れない仮想世界の中に、誰かの夢が反映されている。そのとき脳裏を横切る閃光が何を物語るというのか。恣意的な光によって焼き付けられた影の中に、何かの刻印でも感じ取れるだろうか。徴は何も感じられない。それは何の兆候でもなさそうに思われる。何かが好転する兆しはまだない。そこで誰が何を言い放っているのでもない。何もわからないから言葉がその先につながってゆくのだろう。それが本当の理由でないことはわかっている。君はまだそこにとどまり続けるらしい。その程度で満足すべきなのか。どの程度で満足すべきかなんてわかるわけがない。程度の間に差異を感じられないのだから、満足の尺度となる基準がない。だからまだそんなところで何かを語り続けられるのだろう。要するにわけがわからないのだ。まったく何もないように感じられてしまい、それでも何かあるとするなら、それはただの文章でしかない。そしてその文章の内容に興味を持てないのかも知れない。


12月4日

 気分が優れないようだ。意識は肉体を離れて、次第にその後方へと退きながら、何もする気も起こらない自らをあきらめ、本当に何も思わなくなってしまったらしい。空白に記された言葉から意味が遠ざかっていく。本当にそんな風に感じられるわけもないだろう。創作には嘘がつきものか。それが創作といえるのか。また何を述べているのでもなくなってしまったようだ。単調な言葉の連なり方に嫌気が差しているようだが、君はそれをわかっていないのではないか。たぶんいつまで経ってもわからないだろう。わかろうとする気がないらしい。くだらぬことをわかっても仕方ない。何よりもその抽象的な言葉が理解できない。誰と誰が同じ夢を見ているわけではない。荒野に狼の遠吠えが響き渡る。自己実現の最新形態は醜い。単に無理を押し通そうとしているだけだ。それらの音には虚無的な響きが染み込んでいる。結果として何がどうなろうと、誰の知ったことではなく、その場に居合わせるのも憚られるような成り行きに、どんな感想を漏らしたらいいのかわからない。それは誰にわかるようなことでもないだろう。他人の興味は君の興味ではない。それが何のことやらさっぱりわからない。それらの文字は何も語っていないのではないか。強引に空虚な言葉を繰り返し記しても、意味不明になるしかないようだ。いったいそこで何がひらめいたのだろう。文字の形には魅力を感じられない。何かが分散しているようだ。気分が乗ってこない。すでに出遅れてしまったらしい。君は心身症なのだろうか。それは何かの嫌がらせなのか。誰に対して何が為されているのでもない。静けさに気が散って何もできなくなる。そういう現象ではないだろう。それらの状況の中で、誰かが馬鹿げたことを述べているだけだ。それについて何かを述べるには気がひけているのかも知れない。そこでねじれているのは空間ではなく、部屋を通り抜ける空気の流れだろう。そんなごまかしが通用すると思うか。換気口に蜘蛛の巣が張られている。墓の中では人の呼吸を感じられないようだ。みんな死んでしまったのだろうか。死んで火葬されれば墓の中に入れるだろう。ではそれらの妄想はどこからもたらされるのか。気がつかないうちにおかしなことを述べているようだ。わざとらしく嘘をついている。その嘘に誰が気づいてほしいのかわからない。それは違うと思う。正しいことは何も述べていないだろう。その辺で虚無の心が揺れ動いているのかも知れないが、虚無に心などあるはずもない。君はそこでできないことをやろうとしている。無理な状況を覆したいようだ。言葉の切れ端についている妄想を膨らませて、試しに適当な文章を構成してみたいが、それが無理だと思うわけか。無理ならおもしろいだろうか。誰もそんなことを思っているわけでもない。今さらながら何を否定しているのかわからなくなる。さっきまで何を思っていたのか思い出せないようだ。ただ思い出そうとしてないだけかも知れない。もう話は終わってしまったのだろうか。何かを無理矢理終わらせようとしているようだが、そうする意味を理解しようとしているのは誰だろうか。何も理由になっていないだろう。話の辻褄合わせが文章の内容に追いついていないだけだ。誰もそんなことは述べていない。この世界が終わろうとしているのは今ではない。わけのわからないことを述べる暇があったら、他にやるべきことを思い出してみたらどうか。思い出そうとして思い出されることには魅力が欠けている。思いがけないことを思い出してしまったとき、そこからありふれた物語でも語り始められるわけか。そんなことを述べるためにそこまで歩んできたわけではないのだろう。それでも君は何かを知っているつもりになりたいらしい。要するに知ったかぶりを装いたいわけだ。この世の中について知ったかぶったことを述べて、何やら気の利いたことを述べたつもりになりたいわけか。その感性の幼稚さに際限がないようだ。どこまで愚かなのか底が知れない。それで何を批判していることになるのだろう。そこから何がわかるというのだ。どうやら心がねじれているようだ。何を批判しているわけでもないらしい。世の中では誰もが自らが持っていると信ずる才能を伸ばしたいと思っている。自分独自の価値観に基づいた世界を構築しようとしている。自分が思い描いている何らかの秩序を構築したいのだろう。そんな欲望を減じる権利など他の誰にもありはしない。自己主張の機会を奪うことを正当化できるわけもない。すべてが競争なのかも知れない。愚かしくも馬鹿げた競争を強いられている。だがそれについてどうこう述べてみても始まらないだろう。やりたければ勝手にやってもらうしかない。結果がどんなに悲惨なものであろうと、他の誰に責任があるわけでもない。彼は自らの夢を食い尽くしているだけだ。それが老いにつながっていく。君は君であって君ではないのかも知れない。そのふやけた脳みそで何を考えているのでもない。戯れにめいっぱい高望みでもしてみよう。そんなどうでもいい話はさっさとお仕舞いにして、夜の星空でも眺めていれば気が済むだろう。そこに人の感情が入り込む余地はない。宇宙は人でなければ神でもない。人の妄想は夜空に星座を当てはめて、風景を汚しているのかも知れない。枯れ葉から何を連想すればいいのだろう。そういう思考が生じてくる理由を知りたいのか。たぶん何を哀れんでいるのでもないのだろう。言葉を並べてどこへ至りたいのでもない。この社会の中で通用させようとは思わないのかも知れない。それらの文章が目指している域には何もありはしない。それでは何も目指してないのと同じことではないのか。どこへ向かっているのでもなく、無意識が何らかの結論が導き出される機会を阻んでいるようだが、何の根拠もありはしない。それが嘘だと思っても差し支えない。嘘であろうと本当であろうと、そんなことはどうでもいいことなのかも知れない。それはいつもの決め台詞なのだろうか。さっきまでの話はどこへ行ってしまったのだろう。何か興味が急激に失せてしまったかのように思われる。潤滑剤が足りないようだ、まともに機構が動作しないようだが、そんな嘘もわざとらしすぎる。おかしな引き延ばし法にかぶれているらしい。何か特定の決まりがあるわけでもなく、かといって何の決まりもないわけでもなく、何となくその辺で終わりにしたいと思うような地点があるらしく、少なくともそこまでは語り続けたいようだが、そういう無意味な説明がすべてをぶちこわしにしているのかも知れず、何を壊しているのかわからないが、そこに何らかの調和があるとすれば、その調和はいつもの予定調和なのだろう。語る必要のないことを語ることからそれらの予定調和が生じているのかも知れない。はたしてそれで君の気が済むのだろうか。


12月3日

 そんなはずはないだろう。作り話には飽きている。いかれた頭には何か刺激がほしいようだ。しかし空虚の他に何があるわけでもない。そこには憎しみの感情があるらしい。人間ができていない証拠だろう。加害者も被害者も幼稚なのだろう。どこかに他人を憎むために必要な出来事でもあるのだろうか。人の死に何か意味があるらしい。それの何に驚いているわけでもなく、ただそれが何だかわからないだけだ。それに関して何を思っても無意味である。移ろう眺めは誰のものでもない。他人のせいにしてはならない。憎しみの言葉は無効だ。天は何も見ていない。では何を肯定したらいいのだろう。答えが導き出されることはない。知っていることはそれだけではないはずだ。空杯には何も充たされていない。創作とはそういうことかも知れないが、何もできないからといって、惨めな思いをしているわけではない。そこには何らかの文章が存在している。絶えずそんな思いになることはない。想像力にも限界がありそうだ。それを認めようとしている。何も動いていないようだ。そこから空間をねじりながら妄想が広がっていく。そんなことはどうでもいいことだろう。やはりそこに何が見出されているわけでもないらしい。仕事をするということは、その仕事をしている自らの保身に動いているということだ。自分がやっていることを正当化しなければならない。それは哀しいことだろう。つまらない情念に凝り固まっている。そんなことを述べていて恥ずかしくないのだろうか。何をそこで思いだしているのか。思い出したくないことが山ほどありそうだ。叩けばいくらでも埃が出てきそうだ。埃まみれの汗まみれなのだろう。その場の即興が何の役に立つのだろう。何かおもしろいことを思いついたふりをしている。意地になっているのかも知れない。そこから遠くへ行きたい。暗闇の世界にも飽き飽きしているところだ。だが今は夜なのだから仕方がない。できることならそこで何かが見出されてほしいが、できもしないことをいくら望んでも仕方がない。革命はいつ終わったのだろう。改革とは何なのか。まだそんな段階にとどまっている。見え透いた嘘をつきすぎのようだ。人はどこまでも人でしかなく、誰が悪魔になれるはずもなく、鬼畜になったつもりの幻想に浸って、誰かがどこかでわけのわからないことをやっているだけなのか。それはつまらない感情に結びついている。そしてどうにもならないことをどうにかしようとしている。それは冗談ではないのか。何かを見落としていて、大事なことを忘れている。それが何かの脅し文句に映るらしい。そんなことを誰かが思っていることにしておこう。それらの文章はそんな様相を呈している。結局何を述べているのでもない。わかっていることはそんなことなのか。君はいつも崖っぷちから生還することばかり考えているようだが、いつかそこから墜落して死んでしまうだろう。アクロバット的な物言いでは間が持たない。だから今すぐ死ぬわけでもないが、徐々に追いつめられていることは確からしい。戯れにそんな思いに浸ってみる。やはり冗談なのだろうか。誰もそんなことを思っているわけではない。何が哀しくて哀歌を歌わなければならないのか。窓際の植物が枯れかけている。水がほしいのだろう。君はサボテンなどではない。何かを断念しているようだ。それでも余裕で何かを述べ続けているが、そんな浅はかな論では説得力を持ち得ない。水の話はそれからどんな展開を迎えるのか。水を得た魚が石の上を泳ぐわけがないか。それは過去の話題であり、今では石の中に化石となって閉じこめられている。過去において誰かが馬鹿なことを述べていたらしい。君にはそれがよくわからない。君なら我々にもっとマシなものを用意するだろう。それで誰を挑発しているわけでもない。何も見出せないのなら、何か適当な作り話でもねつ造してみせれば満足するだろう。それだけの力が今の君に備わっているとは思えないが、では他に何をやったらいいのだろうか。まだそんな時期ではないのかも知れない。破れかぶれになるに時期尚早だ。危険を顧みず闇雲に前進することはない。ではそれで何がわかるのだろう。まだやる気でいることを自覚できるだろうか。そんなわけのわからない言葉の連なりの先には、得体の知れない何かが待ちかまえているようだが、どうしてもそれを恐れる気にはなれない。たとえそれが終わりであったとしても、肩の荷が下りてすっきりしてしまうだけだろう。他に何の感慨に至ることもなさそうだ。君が思い描いている未来はそこにはなく、その代わりに当たり障りのない成り行きが待っているらしい。何の支障も来さないような出来事が待ち受けている。それは幻想でも何でもなく、実際にそうなってしまうのだから、予定調和もここに極まってしまうだろう。そうなる理由も根拠もありはしない。何となくそんな風にしか思えないのだから仕方がない。いったいそれらの成り行きのどこに躓きのきっかけがあるのだろう。なぜ危機が訪れないのだ。そうなる状況にはないのだからしょうがないだろう。要するに何とも思っていないというわけだ。この先に何が起こってもかまわない。もはや何もかもあきらめてしまったのであり、何をあきらめているのかも思いつかないのだから、やはりそんなことはどうでもいいことなのだろう。君はいったい何をあきらめているのか。例えばこの世界の支配者になることをあきらめたのか。そんな冗談では心が動かない。言葉によって誰の心を動かそうとしているのでもなさそうだ。思いには際限がなく、時にはそれが誇大妄想になることもあるだろう。何も実現不可能なことを思い続けていてもかまわないだろう。本気でそんなことを思っているのではないのだから、それに関していくら嘘をついてもかまわない。何やら複数の相異なる思いが錯綜しているようで、それを文章が消化し切れていないのだろう。それも何とか硬直化した物言いになることは、かろうじて避けられているのかも知れない。しかしいったい何を説明しているつもりなのか。結論はすでに提示されている。まだ何とかやりようがあるということだ。そこから先に何かを述べられる可能性がある。雑なことを述べながらも、かろうじて述べていることの意味をつかんでいるのかも知れない。それがすぐにだめになるとは思えない。仮にだめになったとしても、そこからいくらでも修正は可能だ。だからその先にわずかな光明が見えているつもりなのだろう。今こそ空全体を覆い尽くす闇を否定して、その中で微かに見え隠れする光を肯定しなければならないのだろうか。それも冗談ではないのか。わざと間違ったことを述べながらも、回り道を歩み続け、歩んでいるうちに自らがどこを歩んでいるのかを忘れてしまう。たぶんそれが君のやり方であり、予定調和の展開なのだろう。


12月2日

 星が輝く冬の夜空に何を見出しているのだろう。外部からの刺激に乏しい。ただ月と星が見えているだけだろう。部屋の中では今も不毛な作業が続いている。臆病者に用はない。知りすぎるには遅すぎたのかも知れない。まだ話にならないようだ。苦悩とはどのような作用からもたらされるのだろう。そこから遠ざかる必要がある。額にしわが深く刻まれている。悩んでいるのはそんなことではない。人がどこかで生きているらしい。それは何かの動物だろうか。毛の長い黒猫に出会う。君はどこを見ているのか。何となくやる気がしない。なにをやろうとしているのかわからないが、そこで何に見とれているわけでもない。頭はどこに付いているのだろう。血の巡りが悪く、どこかに膿がたまっていたようだ。冗談ではない。つまらないことを述べているようだ。誰がそれを調べたわけでもないだろう。何か秘密でも隠されているのだろうか。目標に向かって努力できる人は幸せだ。君が被害妄想に陥らないことを祈ろう。虚無は何を利用しているわけでもなく、いつまでも無知を装っていても仕方がないのかも知れないが、未来を切り開ける可能性がそこにあるかも知れない。しかし方法を考えあぐねているようだ。他にどこを見ているのでもない。この世界に見るべきところなど何もありはしない。君はどの世界を見ているのか。そこには誰かの想像をはるかに超えた世界が広がっているのかも知れない。君はそれを見るのではなく、感じ取らなければならない。そしてそれを言葉で示さなければ何もわからないだろう。しかしそこから何を知りたいのだろう。そんなことはわからないままでもかまわないのかも知れないが、その前に何をわかろうとしているのかを知りたい。だがそれを述べるには言葉が足りず、言葉を収集するために必要な素材を求めている最中かも知れない。しかし君が試みているのはそんなことではない。何を述べているのかわかりかねるが、思考力がかなり衰退しているらしく、そんないいわけは聞き飽きたかも知れないが、そこからまるで言葉が先に進まないようだ。今こそ虚無の助けが必要なのか。他に誰が助けてくれるというのだろう。虚無に人格があるわけでもないが、何かを動かそうとすると、腕が言うことを聞かず、手がしびれてきて、何を記しているのかわからなくなる。それは文字でさえなく、何かの記号かも知れないが、そんな見え透いた嘘をついている状況ではないはずだ。それがどんな状況なのかもわからないくせに、そんなことを述べていて虚しくならないか。君はそれでもかまわないのだろう。無理に何かを述べようとすると、頭のどこかが拒否反応を起こすらしい。次いで何も言い出せなくなる。無言のままに惨状は確実に深まっているのかも知れない。だが君にはその悲惨さが理解できない。それではまずいのだろうか。気分がおかしいことを思い出す。誰かの心の中で何かが進行中のようだ。虚無が心の奥底から何かを取り出している。意識の最深部に穿たれた傷跡から、どす黒い血が噴き出している。実際にそんなことがあり得るだろうか。それが何の作り話なのかわからないが、君の感情が心のどこかに現れているのかも知れない。世界の本質がどこにあるのかわからない。見たこともない赤い月が架空の油絵に描かれている。そして劇の中では誰かが恐怖に駆られて逃げ出そうとしている。結局何もまとまらず、文章の体を成していないような気がする。体がさらに硬く石化しているのかも知れない。まったくどうでもいいことを述べているのだろうか。それでは何もやりたくない理由になっていないだろう。張りつめた緊張感を再現できるはずもなく、また何を述べているでもないことになってしまうらしい。君は本気になりたいわけなのか。しかし話が何もないようだ。これから何の話をするつもりだったのか。過去においては刺激的な言葉に頼りすぎていた。過去の君はあちら側へ行ってしまったまま、こちら側へ帰ってこれなくなってしまったようだ。だがそれを今の君が嘆き悲しむ理由はないだろう。過去の君がいなくなってしまったおかげで、今の君が物語の空洞の中に出現したわけなのだから、君は今ある自由を謳歌しなければならない。何もない自由が自由なのか。そんな自由がどこにあるのだろう。君が自由を謳歌するには、また別の新しい日々が用意されなければならない。たぶんそこから真の物語が始まるのだろう。エピソードが何もない物語は物語とはいえない。何が原因でそうなってしまったのか。それを思考の対象としていないのにもかかわらず。本当は何のことなのかわかっていないのかも知れない。架空の存在でしかない君が、いったい何を考えているというのだろう。それは以前の君に対する疑念だ。今の君はそこからどう変化したのか。ただそれらの文章を記しているだけで、何となく後からそれらの文章を読んでいると目が痛くなってくる。気のない文字がごちゃごちゃ組み合わせているだけで、君の真意がまったく見えてこない。そしてもはや語るべきことはすべて語り尽くされてしまったような錯覚を覚える。要するに文章そのものが荒廃しているのだ。それで何を述べているわけでもないのに、言葉が多すぎるのだ。しかも言葉と言葉が意味的につながらない。それぞれの言葉の断片が内省的になりすぎているのかも知れない。またわけのわからないことを語り始めたようだ。それで何が明らかになっているわけでもないが、ただ執拗に迷っているだけで、それを言葉にしたらここまで来たらしいが、それがここでの真実なのだろうか。まるで気が抜けてしまって、ふぬけたことを述べ続けているだけではないか。それでもやはり何かを述べていることに違いはないだろうが、そこから述べていることを正当化する気にはなれない。ただまだその先があるような気がして、できうる限り何かを述べながら、その先へ向かってゆきたいらしいが、それが飽くなき挑戦などという紋切り型には受け取られたくないようだ。ただの戯れ言に過ぎないだろう。そうやって深刻な現状を軽く受け流したいらしい。本当に何が深刻なのかわからないのだ。君には事の重大性や深刻さが理解できないらしい。なぜそれらの無内容を深刻に受け止める必要があるのか。何か大げさな物言いを毛嫌いしているような節があり、そこからつまらぬ嘘や冗談が派生しているのだろう。君の戯れ言はそこから生じているはずだ。もはや手の施しようがないほど遅れてしまっているのに、まだ何かをやっているふりをしていたいらしく、現実にどうでもいいような言葉が連なっている現状から目を背け、何かを述べているつもりになりたいらしいが、その一方で確実に虚しさを実感しているはずだ。そんなことをいくら述べても無駄だということを、わかりすぎるくらいわかっているはずだ。だから君に未来はあり得ない。


12月1日

 青ざめた顔に朝日が当たっている。これから何が打ち明けられるわけでもなく、いつものようにただの作り話にしかならないだろう。何を心配しているわけでもない。立ち止まって何を考え込んでいるわけでもなく、何かを祈っているのかも知れず、腐敗臭を放っている屍を見つめているわけでもない。それは書物の中の一場面に過ぎないだろう。相変わらず物語は停滞しているようだ。そこで繰り広げられている争いごとは、つまらぬ意地の張り合いとしか見なされず、イデオロギーも見解の相違も生物学的に見れば取るに足りない些細なことでしかない。おそらく君にできることは何もない。君は精神的にさらに落ち込み、何をやったらいいのかわからなくなる。それが予定調和の展開であることは言うまでもなく、それは何かの褒美になるかも知れない。無意味な試みを繰り返した報いに他ならない。もはや夏の蒸し暑さははるか遠くへ退いている。そんな季節において、心の中で何が燃え尽きているのかわからず、冗談を飛ばしあっていたのはほんの一瞬の出来事なのだろうか。見果てぬ夢は見果てぬままに、そこから何が変化するわけでもなく、何かの幻影を追い求めながら、夜に滑り込もうとする意識をかろうじて昼の段階に押しとどめ、希望の兆しを感じ取ろうとして、むやみやたらと流行りの映像を物色しているらしいが、そこにあるのは何かの二番煎じに過ぎない代物だ。結局何も見出せぬまま、虚無の窓から微かに吹き込む風を肌に感じながら、何を思っているわけでもないらしい。だがまだ可能性は残っているはずだ。それはよくなる可能性ではないかも知れないが、何らかの状態に変化する可能性に違いない。思い過ごしであるはずがない。だからすでに気力が尽きていようと、そこから何かを語り始めなければならない。意志の力が及ぶ範囲は決して広くはないが、何を心配しても始まらないだろう。やるべきことなど何もなくても、何かしらやっている現状がある。そこで戯れているのは誰の意識でもない。言葉によって何を伝えようとしているのでもなく、すべての能動性を拒否しながらも、そこには何かをやろうとする意志がある。その何かがいつも不明確であり、何にでもなりうる反面、何ものにもならないような性質を有しているのかも知れないが、それでも絶えず何かをやろうとする意志が反映されているようだ。しかしその述べている全体を把握しきれていないらしい。記憶容量をはるかに超えているのかも知れない。それでは何を述べていることにもならないだろうか。そこで何を忘れているのだろう。そこにあったのはただの力だけか。力任せに言葉の連なりを前進させ続けている。いちいち何を述べているかなんて検証していたない。その都度立ち止まっているわけにはいかないようで、流れの中でその状況にフィットするような言葉を選んで出力させているだけらしい。そして去りゆく過去に何を託しているわけでもなく、未だ見出せない終わりの言葉を探りながら、それが宿命ではないと確信している。気が付けば闇を引き裂いて朝が訪れていて、妄想の中では空を引き裂いて神が舞い降りている。そこで話が終わってくれるだろうか。空想の発端に夢があるわけでもない。そこにあるのはただの文章でしかないようだ。道は陸を横切り、海に達しているらしく、北の海には雪が舞い降りている。それが文章でないとすると、言葉がどこに記されればいいのだろうか。おかしな疑問を無理矢理文章で表現しているらしい。君は何かに打ちのめされているようだ。まだそんなことしか述べていないではないか。だがどこに油断があったわけでもない。画面上では何かが得意げに響き渡っている。何を高らかに宣言すれば気が済むのだろう。紫外線が肌を焼いてゴルフ場で誰かが黒くなっている。もとから黒い男は異国のプロゴルファーだろう。言葉がそこからこぼれ落ち、何かの感情を伝えようとしているらしいが、一方でひどい苦痛を伴っているようだ。それは無駄に筋肉を使った報いかも知れない。上空では雲が無表情を装いながら、風に流されるがままに移動し続ける。風に流されながらもさらに時は流れ、切り倒された後に残った切り株が、風雨にさらされながら次第に朽ちてゆく。そこでは何と何が一体化しているのだろう。何かを怠っていたらしい。何を我がものとしている風もなく、自らが所有していない物を理解しなければならない。そんなことが可能だと思い込んでみる。そこから遠くへ離れてみれば、欠けている何かに気づくかも知れない。物事の過剰な見せびらかしの中で、現実感が次第に薄れて行き、そこに集中している力の硬直感を理解できなくなる。強引に何を主張しているのだろうか。墓石の下から死体がうめき続ける。盲目になった方がまだマシなのかも知れないが、それを許さない状況に周囲を囲まれていて、絶えず視覚を刺激され続ける宿命なのだろう。つまらない目的に縛られて、何を述べても紋切り型に堕しているようだが、いい加減に夢に振り回されて、何か格好がついているような幻想に支配されているらしい。そこから逃れ去ることは無理なようで、絶えず何かを思い続けていなければ気が休まることはなく、そんな努力を強いられている人々のことを気の毒に思っても仕方がないだろう。なぜそういう方向へ人は行動してしまうのだろうか。他人よりがんばれば他人の上に立つことができる。それは浅はかな野望に違いないが、そんな優越感に浸る未来を夢見ながら、誰かは今日も努力を惜しまないらしい。それは際限のない欲望に基づいているのだろう。そんな欲望に忠実な者はありふれた成功を手にすることができるかも知れないが、その一方では挫折が悲しみでももたらすのだろうか。人々は何に打ちのめされようとしているのか。それはありふれた野心を超えて作動する己の死だ。気力はそこまで届かない。なぜそんなことをやり続けているのかわからなくなる時が不意にやってくる。そんなところで右往左往しているのが馬鹿らしくなってくる。しかしそれ以上を求めるのは無理だろう。とりあえず何かを断念しなければならない。無理を承知でそこまでやってきたことを認めなければならない。まだやり抜く力が残っているかも知れないが、そんなことは取るに足りない力でしかないだろう。時折降る小雨を眺めながら、終わってみれば些細なことにこだわっていた愚かさを思い知る。またいつもの夜の時間に意識が吸い込まれようとしているらしい。未だにゲームは続いているのかも知れない。だがもはやそんなことはどうでもいいことだろう。ただつかの間の安らぎがほしいだけなのか。それとも見当違いもいい加減にしてほしいか。世間の良識などあてにならないのはわかりきっていることだが、そんなものにすがりついている人々が哀れに思われてならないか。だが他人の心配をしている場合ではない。