彼の声45

2004年

11月30日

 意識は何を知りたいのだろう。あらゆることを知りたいわけではないが、あらゆることが知られているわけでもない。ではまだ知られていないことを知りたいのか。知りたいが知らなくてもかまわない。知りたくても知り得ない場合もあるだろう。とりあえず何を知りたいわけでもなく、知っていることを記述しようとしているだけか。君はまだ過去の時間の中でもがいているのか。もがいているのではなく嘘をついているのではないか。あるいは嘘をつきながらもがいているのか。何が嘘なのか知りたいか。君には何も知り得ないだろう。作り話の中ではそういう設定になっている。だがいつものようにそんなことはどうでもいいことか。しかしどうでもいいことしか述べられないだろう。誰がそんなことを思っているのだろうか。少なくとも君はそうは思わないか。だが何が見出されているわけではないが、何を見出そうとしているわけでもないらしい。大騒ぎするようなことなどどこにもありはしないか。誰もがプロ野球選手の去就に興味を持たなければいけないのだろうか。今は野球の季節ではない。野球の季節であっても興味がないのかも知れないが、その手のスポーツニュースを見ていることは多い。なぜそれを見ているのかわからない。たぶん一般の人々はそれを見て楽しまなければならないのだろう。本当にそんなことを思っているのだろうか。君はスポーツを馬鹿にしているのではないか。少なくとも話題の野球選手は君よりは稼いでいるのだろう。だがそれがどうしたわけでもない。スポーツネタではつまらないか。ではそれよりも過去の意識は、テレビで座頭市の映画を見ながら何を思えばいいのだろうか。苦し紛れに映画評論家的なことでも述べられるだろうか。少なくとも上映されていた当時はそこそこの話題作だったのだから、チャンバラシーンにすごみがある、とでも述べておけば事足りるわけでもないか。どこかの映画評論家ならもっと気の利いたことを述べているところか。だが今の意識はそんなことを述べたいわけでもない。とりあえず映画の中では人々が殺し合っているように見せかけられている。刀で斬られて鮮血が飛び散ったように見せかけられている。そんな光景は西部劇での決闘シーンよりは迫力があるだろうか。迫力があったからといってどうなるわけでもないか。今の意識はそんなところにこだわっているわけでもない。内戦状態のイラクでは本当の殺し合いが行われている。しかしイラクと座頭市はつながらないだろう。別にリアルな殺し合いが見たいわけでもない。ではいったい映画の中の何が見たいのだろう。見た当時の意識はそんなことは思いもしなかったはずか。映像なら何でもよく、ただそれを見ながら暇をつぶせればよかっただけか。娯楽の用途とはそんなものだろうか。それ以外に何を望むのか。感動できれば満足か。そんなことはわからない。感動できなくてもかまわないか。芸術という使い古された概念が映画について語る上で必要となってくるのだろうか。はたしてそれが思考の対象となりうるだろうか。ただそんなものだろう、と意味不明な高をくくっていたことは確かだ。本気になれるわけがない。なぜ人は画面を凝視しなければならないのか。別にそうしなければならないわけでもなく、そんなことをやっている人などどこにもいないか。文章とは関係なく何を感慨に耽っているのか。映画を見ることが馬鹿らしいと思っている君自身が、映画から必要とされていないのだろうか。ドラマの中で何かを演じている筋書き通りの人物にリアリティを感じないからといって、感情移入してはいけない理由にはならないか。ただそれをおかしいと思いながら、そのおかしさを放置している人々には欺瞞の臭いがする。ではそこにはどのようなおかしさが潜んでいるのだろう。他人の仕草を眺めているだけでしかないのに、それに関して利いた風な言葉を付け加えようとしていること自体が、かなりおかしな行為なのではないか。中にはその役者の演技がどうのこうの、と演技論のごとき話をできる者もいるらしく、それを真に受けてもっともらしく拝聴していいものかどうか、にわかにはどうしていいのかわからなくなる。それが暇つぶしの娯楽となっているならそれでいいのではないか。だがそういう水準を超えて何を述べても、内容のもっともらしさに反比例して滑稽さが増してゆくばかりだ。何を利いた風なことを述べているのか。たぶんそれらの娯楽に関しては、あまり深みに入り込まないはようにして、その表層で戯れながら、時の経過とともに話題から遠ざかってゆくのを待っていればいいだけのことか。そんなわけで何となくやり過ごしていたい気になってくる。


11月29日

 誰かは恐ろしい結末に近づいているのだろうか。結末とは何か。それは誰の結末になるのだろうか。誰かが死ぬのかも知れない。すでに死んでいるのか。だが死ぬことが恐ろしいことだとは限らないか。世のため人のために死んでもらった方がいい人などいくらでもいるか。それは具体的に誰のことなのだろう。差し障りがあるのでここでは述べられないか。別にわざわざ死んでもらわなくても人はいつかは死ぬだろう。だが結末とはそういうものではない。人の生死に関わりのない結末もあるだろう。どんな結末になって欲しいのか。無理はできない。無理に結末にしなくてもいいのか。結末になりようのない話になっているのかも知れない。別に結末を求めているわけでもないだろう。何に至ろうとしているのでもないか。言葉はどこから来てどこへ行くわけでもないらしい。何を考えているのか。何も考えていないのだろうか。少なくとも考えてようとしているのかも知れない。しかし結果的にはどのような考えにも至らないようだ。いつものようにただ時間だけが過ぎ去ってゆく。たぶんそれは求めていない状況なのだろう。もっと充実した時間を送りたいか。思い通りにいくはずがないだろうが、思い通りにいくように努力すべきか。今そうなるようにやっている最中か。無駄な努力だと思われる。少なくとも有用だとは思えないか。何をやっているのかわからない。なかなかまともな内容には至らない。どこにまともな内容があるわけでもなさそうだ。薄暗い朝の空は曇り気味のようで、あまり冷え込んではいない。そんな風に同じようなことならいくらでも述べられるだろうが、それではつまらないように思われる。しかしそれを避けようとしても、それ以外は何も得られずに、結局は同じ内容になってしまっているのかも知れない。本当に何もないのだろうか。何もないのならどうすればいいのだろう。だが誰に助けを求められるわけもないし、毎日が同じような体験の中に埋没している現状をどうすることもできない。たぶんそれが通常の日々であり、極めて順調に推移しているのだろう。だから何も述べることができなくなっているのか。もっと不幸にならなくてはいけないのか。冗談だろう。今さら何をどうやろうと、不幸になったり幸福になったりするわけがないか。そんな単純なものではなく、それ以前の段階で、決められたこと以外は何をどうすることもできない状況にはまりこんでいる。それによって不幸にも幸福にも至らない仕掛けになっているようだ。くだらない誘いは馬鹿らしく思われるし、しかもそれ以外には何もないので、何もやらずにいつも通りの日々を送るだけになってしまうようだ。その手のあからさまなものには魅力を感じないのかも知れない。何を求めているのかわからないが、少なくともそんなものは求めていないのだろう。仮想空間に浮遊している情報はすべてそんなものでしかないらしく、現実を変化させるような力を感じられない。しかしそれ以外を求めている暇はない。そんな日常を超えて求めようとする気にはならないようだ。また何を受け取ってもしっくりこないのかも知れない。それを真に受けることによってどうなるとも思われない。どうやら何かを見聞することによってはそれを超えるような体験には導かれないようだ。何をどうやっても超えることなどあり得ないか。それらの画面から何がもたらされているわけでもないか。情報が飽和状態になっていてそれ以上の入手が困難というわけでもないようだが、すかすかであっても何も入ってこない。要するにつまらないのだろう。おもしろいと思うことができないのかも知れない。おもしろくなければつまらないということになるのだろうか。そんな当たり前のことを疑問に思ってどうするのか。そう思えばおもしろくなるのだろうか。それはおもしろいのではなくおかしいのではないか。おかしいことはおもしろいか。おかしさはおもしろさにつながることもあるかも知れないが、おかしくてもおもしろくてもつまらないことには変わりがないか。おかしさとおもしろさとつまらなさが渾然一体となっているわけか。一体となっているわけでもなく、おもしろおかしく思っていることは事実だが、その一方で馬鹿らしくもつまらなくも思っている。何となくしらけているのかも知れない。醒めているのだろう。熱狂とは無縁なのか。熱狂することが馬鹿らしくもつまらなくも思える。喜ぶこととも無縁かも知れない。何に喜んでいいのかわからない。確かにつまらないことに狂喜することは不可能か。だから普通の感覚でいられるのかも知れない。普通であること以外はあり得ない日々を送っているだけか。


11月28日

 何かが蜃気楼のように見えている。今は夢の中か。現実にどう対処していいのかわからない。意識を包み込んでいる空虚は何を求めているのか。それらのどこに意識があるのだろう。それらとは何なのか。相変わらず何を述べているわけでもなさそうだ。そこに誰がいるわけでもなく、記述しかけの文章が放置されているだけか。少しうとうとして気づいてみれば、決まって夜明け前になっている。いつ眠ってしまったのか定かでない。しかしそこから大きく時間が飛んでしまい、結局またいつもの夜になっている。昼の間に何もやっていないわけもなく、何かをやったおかげで、疲れ果てて眠気を催しながら作業を再開しなければならなくなる。しかしそれらの文章はがらくたのような惨状だ。そこで求められているのは空虚ではなく、何らかの意味を伴った言葉の連なりだろうか。そんなことはわかりきったことか。しかし何者にも出会わずに見ず知らずの何者かについて語ることは可能か。語るにはその者についての情報が必要だろう。その者に関する情報を収集して、それらの情報を分析して、それを基に何らかの判断を下す必要に迫られているわけか。いったい何を推理したいのか。その者とは誰のことなのだろう。誰でもかまわないか。何となく何も述べないうちから面倒臭くなってきたらしく、何かを述べようとしたとたんに挫折してしまうようだ。また意志薄弱になった振りをしているのか。本気でそんなことを述べているわけではない。ただ何か適当なことを述べてしまう予感がしている。述べざるを得なくなるのだろうか。何を述べているのかよくわからない。頭の中がリセットしているらしい。だんだん破れかぶれになってきているのか。何が何だかわからなくなってくる。今はいつなのだろうか。さらなる停滞の時か。別に膿がたまっているわけではない。いつの間にか夢の中の蜃気楼は遠ざかってしまったらしく、またいつもの夜明け前に引き戻されている。今はあれから何日後なのか。意識が言葉からどんどん離れてゆく。それを食い止めることができないらしい。しかし意識とは別の動作がかろうじて言葉をつないでいるのかも知れない。それは何かの惰性なのか。はたして目覚めているのだろうか。鶏の鳴き声が聞こえてくる。月はどの辺に出ているのか。今の状況はどうなっているのだろう。やらなくてもいいことをやっている現状だろうか。無意味なことを継続している。何かに頼らなければどうにもならないのか。なぜそんなことをやっているのか。君はいつまで経ってもその者になれないようだ。語る対象になっていない。いつまで経っても何を語っているのでもない。文章の中には行動が不在だ。虚構の中で行動する必然性はないか。しかしどんなフィクションでもそこで誰かが動き回っているではないか。人々が右往左往している風を言葉や映像が装っている。人々はどこへ行けばいいのだろうか。どこへも行かずに文章の中にとどまっているだけか。そこで生まれそこで成長しそこで死ぬ。それは大河ドラマか何かの幻影か。カインとアベルは何をしていたのか。誰が何をしようとそんなことは二の次であり、今はただいい加減な気分でいたいだけか。君から遠ざかっているのは誰の記憶でもない。遠くの地で誰が抑留されているわけもないか。誰かの墓が朽ち果てようとしている。もうすでに後退局面なのだろうか。それでも言葉にしがみつき、そこから継続の可能性を探っているわけか。無理だろうか。無理を承知でさらなる無理を重ねようとしているのか。そんな風に思っているはずがないか。不安を打ち消すために強がりを述べているわけか。それが努力といえるだろうか。努力していることは確かかも知れないが、何のための努力なのか不明か。視点がどこに定まっているわけでもなく、老人が利いた風な台詞を読んでいるわけでもない。かといって雰囲気が自ずから言葉をしゃべっているわけでもない。果てしなく何もない空間が広がっているように思え、そんな幻想に浸っている意識が何を可能としているわけでもないように感じられるだけか。現状では具体的な事物が何も引っかかってこないようだ。どこまでも通り過ぎてしまう。立ち止まることを知らず、すり抜けることしかできないらしい。何を見聞してもそれがどうしたになってしまうのか。いったい何がどうしたのか。なぜそこには思う対象が見あたらないのだろう。何を思えばいいのかわからないか。そんな状況について何を思えばいいのだろう。ただ何も思わずに適当な言葉を連ねていればそれでいいのだろうか。それでいいとは思わないが、そんな風になってしまっている現状がそこにあるわけか。やはり何を述べているのか、それをどうすべきかわかりかねる。


11月27日

 何か気にくわないことでもあったのか。何に納得しているわけでもないが、そんな状況に嫌気が差しているらしい。できることならもっと建設的なことを述べてみたい。何もやらないうちから誰かはすでに黄昏れてしまったようだ。だが何も述べられない原因はどこにあるのだろうか。語彙に限界がある。少なくとも豊富ではない。わざとらしいことを述べているのかも知れない。すでに述べてしまったことを繰り返したくはないようだ。そんなことが可能だとは思わない。もっと簡単なことを述べられないものか。簡単に述べようと思えばそうしているはずか。しかし何を簡単に述べたらいいのだろう。豊かな社会には詐欺がつきものだ。そこはごまかしのあらゆる形態が試される場かも知れない。インチキ商売の正否はいかに他人を騙すかにかかっている。それをやっている者に良心の呵責など感じるはずもないか。しかしそれと何も述べられないこととの間にどのような関係があるのだろうか。詐欺が横行するような世の中は堕落しきっているということか。そこで堕落しているのは具体的に誰だろうか。堕落するしないという基準自体がいかなる効力も発揮していないような気がする。いつものようにそんなことはどうでもいいことの部類に入ってしまうのだろうか。たぶんそれでは何も問題は解決しいないのだろうが、未だかつて言葉によって問題が解決した例しがあっただろうか。別に問題を解決しようとして言葉を繰り出しているわけでもないだろう。いったい君はどんな問題に突き当たっているというのか。なぜそれを言葉で具体的に言い表せないのだろう。それが冗談だからか。それが嘘だと思えるのはどうしてなのか。昔はそれについて本気で思考していたのか。では昔と比べて何が進歩したといえるのか。何となくわかりかけてきたことが見失われてしまったらしい。だがそんなごまかしは通用しない。わかりかけてきたことを示せないのだから、それでは嘘になってしまう。わざとらしいごまかしを見せびらかすような行為は嫌がらせ以外の何ものでもないか。だがいったい誰に向かって嫌がらせをしているのか。たぶんそれも嘘かも知れない。ではそこには何が顕在化しているというのか。なかなか具体的な内容が出現しないのはどういうことだろう。とりあえず逡巡の繰り返しによって、無用な言葉が積み重なっているようだが、ためらい続けている必然性がどこにあるのだろうか。別に何をためらっているわけでもない。やはりそれこそが嘘なのか。しかしその場しのぎの嘘では何も解決しないだろう。うんざりするような停滞状況がさらに長引くだけか。もういい加減にあきらめてしまったらどうか。どこかからそんな声が聞こえてきたふりをしてみる。それが停滞から抜け出る手段なのか。本気で述べているわけではないが、どうも何も述べないうちから馬鹿らしく思えてきて、やる気をなくして何かに流され続ける。しかしそれでも言葉は適当に連なっているらしい。適当であるはずががないか。では何が間違っているのだろう。要するに自問自答を繰り返しているだけか。そんな状況に呆れ返っているのかも知れない。近頃は利いた風なことですら述べられなくなってしまったらしい。荒んだ雰囲気になるような仕掛けが蔓延しているのかも知れない。これでもかこれでもかと無理を押し通そうとする人々が増殖しているのだろうか。中にはネット上ではやりたい放題できると錯覚している人もいるかも知れない。そういう人が蔓延る一方で我慢を強いられている人も多いだろうか。何をどうすることもできはしないとあきらめるべきなのか。別にどんな攻撃を加えられているわけでもないだろう。もしかしたらそれに気づかないだけなのかも知れないが、気づいたところで嫌な気分になるだけだろうから、気づかないままでいた方がいいのかも知れない。精神衛生上はそれでいいのではないか。下手に仕返しなどを試みたら、それこそそんな人たちの仲間入りをしてしまうだろう。もっともいちいちいやがらせメールに仕返ししているほど暇も技術もあるわけでもないか。そういうことをやりたい人はそれなりに病んでいるのかも知れないから、それはそれでそっとしておいた方がいいのかも知れない。それにこちらが自意識過剰の被害妄想に陥っていることもあり得ないわけではないか。とりあえずそれはそれでそんなものでしかないのだろう。どうもそれに関しては関わり合いにならない方が良さそうだ。


11月26日

 意識はそこから遠く離れたところに生じているようだ。誰かは何を感じたいのだろう。誰の意識を認めたいのか。いい加減な感性に頼らずに、たまにはいつものと違う気分になりたいが、具体的に何をどうしているわけでもないようだ。誰かにとってはそんな気分では物足りないか。だが気分はまだどうにもなっていないだろう。しかしそれの何が問題なのだろうか。解けない問題を放り出して、それが夢だと気づかぬままに、ありふれた風景の中に溶け込んでゆく。それは少し違うと思うか。夢を見たのは昨晩のことだ。昨晩見た夢のことなど覚えていないか。たぶんそこから遠ざかっているのは、誰かの意識ではなく、その思考を経由して導き出された文章の内容だろう。その文章を通して、誰かは幻覚の到来を感じている。幻覚作用は夢の中に現れているのではなく、それらの文章を読むことによって生じているのかも知れない。しかしそこで誰が何を読んでいるわけでもない。文章の中にその文章の読者がいるわけではない。君はそこに誰かの意識が構成されていると思い込みたいのか。架空の意識にはその辺で勘違いが生じているようだ。いったい何が間違っているのだろうか。言葉の用法以外の何に悩まされているのだろうか。繰り出された言葉が現状から大きく外れているのかも知れないが、その外れ方にでも何か問題があるのか。不可視の世界で暮らしていると想像力が豊かになるそうだ。具体的な事物から遠ざかり、そこで何も見ようとしていないのかも知れない。それでも何らかの事物が見えているはずか。少なくとも君は画面を見つめている。ではそのとき脳裏をよぎったのは何だったのか。用法的には不安が胸をよぎるらしいが、不安の内容を具体的に特定できないようだ。この道を行けばいつか行き止まりにたどり着くだろうか。道半ばで何を迷っている振りをしているのか。困り果てるとすぐに冗談に逃げたくなるのは悪い癖だろうか。君は君自身が考えていることを認めようとしない。そんな限られた思考から逃れて、思考を超えた偶然によって繰り出された言葉の連なりに驚いてみたいらしい。だが実際にそれを読んでいるわけではない。文章の中に存在している架空の君にはその文章を読みようがないか。だからそれが冗談だと思いたいわけか。別に何に驚いているわけでもないだろう。今ひとつ本気になれない原因はそんなところにあるのだろうか。君はそれ以上の存在になりようがないし、文章の中では誰が何を思っているのでもない。誰かが何かを思っているように記述されているだけか。では読者はそれを読んで、誰かが何かを思っているように感じなければならないわけか。あたかもそこで何かが演じられているように思いこめるだろうか。そこまで仮想の世界に入り込む必要がどこにあるのか。どこかで何かがずれているような気がしてくる。たぶんわざとずらしているのだろうが、それをわかっていながら知らない振りをするのはいかがなものか。架空の世界はこの世界が崩壊した後から始まるのかも知れない。崩壊しなければリアリティを得られない。だから誰かが構成する物語の中では崩壊したことにしたいわけか。そうでないとこの世界の現実に負けてしまうだろう。現実の方が物語より遙かに複雑怪奇で魅力的に映るだろうか。そうではなく、魅力的に思う意識を遙かに超えているのかも知れない。意識では完全に捉えきることが不可能なのか。限定された言葉や概念では言い表しようがないか。だから人は物語の心地よい幻想の中に逃げ込んでしまうのか。現実の断片を組み合わせた不完全な構成物に憩いを見出し、それらの構造的な欠陥に魅力を見出すわけだ。それが過ちであるが故に愛おしく思われるのだろうか。現実とは比較にならない思い通りの世界に退いて、思い通りにならない現実を一時の間だけ忘れたいのか。あるいはそこから現実を思い通りにする術を見出したいわけか。まさか現実を物語のように見なしたいのだろうか。感動のドラマを現実の中に見出して、それが紛れもない真実であることを語りたいのかも知れない。それはどのようなこじつけになるのだろうか。そこに滑稽さを見ないようにすれば何とかなるだろうか。はたしてそのように意識を制御できるか。たぶん鉄アレイや金槌で家族を殴り殺した人は滑稽に映るだろう。誰かはそれを悲劇的なドラマ仕立てで語りたいだろうか。冗談ではないか。殺した人も殺された人も間が抜けているとしか思われない。倫理的には笑い話にはしたくないらしいが、その人殺しの光景を思い浮かべていると、何となく冗談のようにしか感じられないのはなぜだろう。あまり本気でそんなことを語りたくはないか。親から罵倒されればその親を殺したくなるのは当然のことかも知れない。たぶん子供などに本気で接してはいけないのかも知れない。それは間違った述べ方かも知れないが、積極的に間違わなければならない状況もあるだろう。自らの正しさを押し通すには、時には人殺しをもせざるを得なくなるか。ブッシュ氏のように何万人もの人を殺めなければならない場合もあるか。


11月25日

 どうもまともなことを述べられない状況が続いてるようで、しかも何もないのにまだそれを継続させたいらしい。いったいいつになったらまともなことを述べられるのか。そもそも何がまともなことなのだろう。そんなこともわからずに意識は無理なことばかりやろうとする。どうやらまた出だしから躓いているらしいが、空っぽの意識は何を考えているのだろうか。空っぽであるわけでもないか。何を考えているのでもないが、他に何があるわけでもない。その状態を意味不明な言葉を用いて表現するなら、空虚の表層から滲み出てくるある種の感情は、なぜかその感情とは裏腹の相容れない言葉を思い浮かべながら、その言葉を基に構成された文章を、感情とはまったく別の内容に構成しようとするが、結局は果たせず、思惑を外れたふがいない結果とともに生じた架空の挫折感が、中途半端な記述を通して表現されようとしている。だがそんなことを記述しながら笑ってしまうらしく、何を述べているのかよくわからないが、それでもそんなわけのわからない感慨を振り払って、意識は思考によって絶えずこの世界の断片をつかみ取ろうとしている。しかしつかみ取ってどうするのか。つかみ取れないのではないか。それは無理で無駄な試みなのだろうか。それとも冗談の一種か。冗談以前に嘘かも知れない。あるいは嘘でありながら冗談なのか。やはりおかしなことを述べているようだが、そんな不可解な感想とともに揺れ動いているあやふやな人格は、この世界のどこに何を見出せば納得するのか。何を見出しても納得するわけがないか。たぶん意識はこの世界には存在し得ないものを見出したいのかも知れない。そんなものは見出せないだろう。要するに君はありふれた不可能を目指しているわけか。そんなわけで、何がどうなっているのかもわからずに、それでもどういうわけか、どこかで無い物ねだりが横行しているような気配なのだが、どこかとはどこなのか。そんな場所など現実にありはしないだろうが、その手の無い物ねだりは空想すれば事足りることだろうか。空想だけでは満たされないことは言うまでもないが、いったいどんなことを空想しているのか。ただ思い通りにいった時のことを空想しているだけか。それが理想と呼ばれるものなのかも知れないが、理想とは何だろう。あるべき姿や状況が理想だとすると、そんな理想はどこにあるのだろう。どこかの誰かはなぜそれを求めようとするのか。求めようとしてもやる気が持続しないだろう。そんなことはやってみなければわからないか。しかし目指すべき理想像は常に不鮮明で、決してはっきりした像に結実することはなく、何も形あるものになるはずもなく、何も定まらないまま、わけのわからぬ流動的なあやふやさのただ中に、不在の幻影として、それに付随して生じる不特定多数の勝手な思い込みとともに、ただの影としての痕跡を残すだけなのか。実態のない影が痕跡を残すはずがないか。別に影に関してその性質までも実体化したいわけではない。それは雰囲気としての虚構の影でしかないのだろうか。誰が何を述べているのかわからないが、それによって何を投げかけているわけでもないらしく、そんな否認作用ばかりが強調されてしまうと、時間の経過とともに思索に耽った日々の痕跡すら言葉として表現できなくなるか。要するに何も見いだせなくなるわけか。それでも人は絶えず現状から飛躍したいと願っている。今とはまったくかけ離れた、現状とは明らかに違う有り様の中で生きていたいらしい。今より快適な暮らしを求めているわけか。自らの思いが隅々にまで行き渡った世界に住まうことを欲しているのか。冗談としてはそんな願望もありだろうか。しかしそんことを述べている顔がこわばっているのではないか。だんだん疲労の色を隠せなくなり、うろたえあわてふためいて、顕在化している誇大妄想を打ち消すのに躍起となっている。緊張が持続しない体質になっているようだ。しなやかさを忘れていないか。たぶんでたらめなことを述べているのだろうか。知らず知らずのうちに、途中から冗談になっているのかも知れない。どうも簡単なことを述べられない思考回路を有しているようだ。だがいくら言葉を弄しても、それらの嘘は真実にはなり得ないだろう。真実になるにはすべてが欠けている。それらの嘘は途方もない負債を抱えているわけか。なぜマイナスの状態から脱することができないのか。言葉だけでは具体的な出来事に遭遇し得ないからか。君自身にはまったく関わり合いのない言葉の連なりが、君とは別の人格を通して、どうでもいいことを夢想しているらしく、その人格を纏った幻影が、君自身を飛び越えて、闇の彼方へと遁走している最中なのか。君にとってそれは見え透いたフィクションと映るようだが、現実の網膜はそれらの幻影からどんな光を感じ取っているわけでもないらしい。


11月24日

 いつまで経っても無駄なことを述べているようだ。余裕もないのに何もしていない。せわしない振りをしているだけか。いつものように眠気に逆らいながら何かを思い出そうとしている。だが思い出してどうするのか。少なくとも何を極めようとしているのでもないことは確かなようだ。極めてしまったらそこで終わりだろう。何かつじつまの合わないことを述べているような気がする。思い出そうとしているのはそんなことではないか。そんなこととはどんなことなのだろう。このままでは何を思い出そうとしているのかわからないだろう。ただそうではないような気がするだけか。妄想の世界はとどまることを知らないらしい。しかし何を妄想しているのでもないだろう。他の誰かが構築しつつある妄想の世界に欠陥を感じている。それらの光景には何が欠けているのだろう。たぶん映像の中では時間が止まってしまってはいけないと思われるのかも知れない。だからどうしても人や物が動き回らなければならなくなり、それらの行動が全体として関係し合わなければ話が成立しなくなる。要するに話に無関係な動きが存在し得なくなってしまうわけだ。無関係な人々はどうでもいいような通行人として画面を通り過ぎるだけであり、話に関係する人だけに台詞が与えられて、それらの人々の間だけに通用する共通の話題しか存在できない時空が出現する。たとえ異なる話が同時進行していても、必ずそれらの話は同じ登場人物を介して関係し合うようになり、筋書きの中でアクセントを生み出す小波乱や大波乱を経由しながら、一つの話に融合する傾向にあるようだ。そして見る人に思いがけない驚きをもたらす波乱の原因は決まって暴力は担うことになっている。性急さは暴力に結びつく。それまでの穏やかな雰囲気は突然の暴力によってかき消され、そこから不安や怒りや悲しみなどの否定的な感情が導き出され、話に飽きさせないように配慮されているようだ。その辺がいかにもとってつけたような印象を受け、わざとらしく感じる要因となっているのだが、そのような暴力の行使は抗うことのできない欲望を伴って実行されるらしい。どうしてもそのような展開にしないと気が済まなくなるのだろう。しかし暴力が話の停滞を打ち破る突破口でしかないのはくだらなすぎるか。その手の話の何を見聞しても、そんな風にしか感じられないのはどうしたことか。言葉で表現しなければならないのは、そこから生じる強烈な印象ではないはずか。それを求めている意識は浅はかなのか。それらの奇妙奇天烈さばかりに心を奪われていると現実を見失うか。ドラマチックな展開というのもわざとらしいか。たぶんそんなこけおどし的な代物では心が動かないのだろう。しかし何を馬鹿にしているのでもないらしい。幻想の産物はそんなもので飾り立てられている。ただの現実はそれらを無効にしているようだ。あらかじめ仕組まれた成り行きを超えて偶然が作用するが、そうなる理由はどこにも見あたらない。そして何が感動的なわけもない。そこにはただの現実がある。物語の時空に支配された意識にはそれが気づかない。たぶん誰もがそれを自分勝手な物語に押し込めようとして果たせず、また試みのことごとくが失敗に終わっている事実を認めたがらないのか。はじめから無理があるのに、それをわかろうとしないらしい。わかっていてもそれを認めるわけにはいかないのか。漫画やアニメーションの中では人目を引きつけるための安易な効果や展開や仕掛けを多用しすぎているのだろうか。テレビドラマの中でもその手の事情は変わらないか。いつの頃からかそういうものが嘘っぽく感じられるようになってしまったようだが、あれらは人目を引きつけるために制作されているのだから、そうせざる得ない必然性というものがある。そういうわかりやすさから外れては存在し得ないのかも知れない。それ以外を求めてしまうことはおかしいのだろうか。たぶんそれらを積極的に見たいとは思わないだろうが、人目を逃れ去るものを捜し出そうと試みるのが、批評家の類がやることかも知れない。言葉の力によってそれが新たな魅力だと喧伝したいわけだ。だがそんな試みはもはや廃れているのだろう。世論調査的な多数決の論理が世の中の主流であることはいうまでもないことか。とりあえずそこにあるものはあるものとして認めなければならないか。そこから何を探し出そうとしているのでもないらしいが、探し出す前に認識している意味や概念だけで語るのは物足りないようだ。しかしだからといってそれ以外に何があるわけでもなく、新たに何を見つけ出そうとしているのでもないか。


11月23日

 いったい彼らは何を述べているのだろう。例えばそれは株式相場が上がったり下がったりする話か。今の君には関係のない話だろうか。たぶん世の中にはそれに関係のある人も大勢いるのだろうし、そういう人々がそういう話を求めているわけか。では関係のない君は、そういう話には今ひとつ本気になれないか。本気になるならない以前に興味がないか。興味がないわけではないが、それに関して何を語ろうとしているわけでもないだろう。そんな話題はどうでもいいことか。どうでもよくはないが、関係のない人がそれについて何を語っても、何がどうなるわけでもないだろう。だがそう述べてしまっては何も語る必要がなくなってしまうだろうか。そもそもその必要がないのだからそれは仕方のないことか。ではどうすればいいのだろうか。それについてはどうしようもないが、代わりにそれ以外のことでも語ればいいのだろうか。だが今はそれ以外のことなどあり得ないか。今とはいつのことなのか。今が今でないことがあり得るだろうか。たぶん今はすでに今ではなくなってしまったのかも知れない。では今は過去の今からどれほどの時が経ってしまったのか。今からいくら時が経とうと、そんなことはどうでもいいことであり、ついでにそんな話は退屈きわまりないだろうか。それ以前の問題として、ただ興味が湧いてこないだけか。別に時間としての今について語りたいわけでもないが、何かを語るには何に対しても興味を持たないわけにはいかないのだろうか。別に何を語ろうとしているわけでもないのだから、無理にそうする必要ないか。語ろうとしていなくても語っている現実があるだろう。しかしそれでは何を語りたいのか目標が定まらない。語る対象がなければ何を語っているのかわからないか。要するに語る対象を積極的に探し出す必要に迫られているわけか。だがそれと同時に探し出す気力が失せているのかも知れない。それではどうしようもないだろう。またどうしようもなく迷っているのだろうか。何を迷っているのだろう。それが迷いといえるだろうか。しかし何を迷っているのかもわからない状況で、それでも何かしら語っているらしく、だが別に何について語っているわけでもないが、たぶんそれは語ることについて否定的な内容となっているのかも知れない。確かに語っていながらその行為を否定的に捉えているようだが、意識は語ること自体を完全に否定するつもりはないようだ。実際に語らなくてもいいのに語っている現状を継続させているのだから、そのこと自体は否定しようがないだろう。それを否定するならやめなければならなくなるはずか。しかし明白に否定しているわけでもないのに、結果としては否定的なことを語っている状況があるようで、それでも語っていること自体は否定する対象とはなりがたく、何やらさっきから同じようなことを繰り返し述べているだけのような気がしてくる。ではなぜそれをやめられないのだろう。何となくその辺は微妙なところかも知れないが、そこにどうしようもなく迷いが生じているようで、意識はためらいと逡巡のただ中でもがいているらしい。だがそんな風に思っているのは誰なのか。それらしい思いを有する架空の人格がそんな文章を構成しているだけか。それではまた嘘になってしまうのか。実際には嘘ではないが、架空の人格が嘘だと見なしたいわけか。何をわけのわからないことを述べているのだろうか。またいつものように苦し紛れの言い逃れを実行しつつあるのだろうか。文章を構成しているのは現実の意識であり、架空の人格を文章の中に醸し出そうとしているのも現実の意識に他ならないか。しかしそれで都合が良いとは思っていないようで、どうも思い通りにいかずに、その結果がわけのわからない言葉の連なりとして、画面に生じてしまっている。はじめから無理なことをわかっていながら、ごり押しで言葉をつなげてきたような節もあり、何となく至らない状況の中で虚しさだけが降り積もって、精神がその重圧に耐えられなくなってきているのかも知れない。現に意識は意味もなくまどろんでいて、何も思いつかないままとなっているようだ。刺激を得るために何か強烈な光景を見たいところか。そんなものは妄想以外の何ものでもないか。別に妄想を求めているわけでもない。どんなに苦労しても、またうんざりするような話になっているのだろうか。冗談ではないか。わからないが、わかるわけがないだろう。どうもどこかの作り話のようにはいかないようだが、その手のわざとらしい作り話にはリアリティがないことも確かか。


11月22日

 簡単に自殺する人々が世間の注目を集めているらしい。ネット上で知り合い、意気投合して一つの場所に集まって、全員で自動車に乗り込み、車中で七輪を焚いて一酸化炭素中毒で死ぬ。昔よりは死にたい人が手軽に死ねる世の中になったということか。生きていてもつまらないなら、自殺してしまった方がいいのだろうか。しかし自殺するのは面倒臭いだろう。自殺する気力もない者は生き続けるわけか。まあ死にたければ死ねばいいし、死ぬのが面倒なら生き続ければいいということか。そういう述べ方は強がりの一種かも知れない。ならば本当は死ぬのが怖いということにしておこう。とりあえずこの先も生き続けることが前提となって、それらの文章は構成されているのかも知れない。生きているうちはそれを継続させなければならないようだ。生きているのも仕方がないが、死んでしまっても仕方がないだろう。どちらにしてもどうしようもないらしい。それでも別に望みを絶たれているわけでもないのか。絶望したければしていればいい。絶望自体が判断の対象外だ。そんな言葉では感性が動かない。はじめから何を望んでいるわけでもない、と嘘をついているのだろう。どうも君の思考から自殺という動作は出てこないようだ。それは今のところ選択肢としては存在しないらしい。しかし他にどのような選択肢があるわけでもなく、ただ生き続けているだけだ。それでいいのだろうか。良いか悪いかなんてどうでもいいことか。ただ何となく生き続けているということでしかない。それ以上の状態を望んでいるわけでもないか。自殺はそれ以下の状態なのだろうか。そんなことはわからない。生きている理由も死ぬ理由も知ろうとしていないのかも知れない。そんなことは知る必要のないことか。そこになぜという言葉は馴染まない。なぜ生きているのでもなく、なぜ死ぬのでもない。ただ人は生きて死ぬだけか。どうもいわんとしていることからずれてきてしまったようだ。何を述べようとしていたのだろう。この段階ではわかりかねるか。実態としては何を述べているのでもないらしい。それは自殺に関する世間話程度の内容か。なぜ君は死にたくないのだろう。生きたくもないし死にたくもない、と架空の君なら答えたいところか。別に君は生かされているわけでもないか。生かされていなければ死ぬ必要もないということか。しかしそれは嘘くさいか。生きている人の気持ちもわからないのに、死ぬ気でいる人の気持ちなんてわかるわけがないか。だが気持ちがわからないからといって、自殺者の思いを理解できないわけでもないか。遺書でも読めば何となくわかるだろう。だが世間の人々にとって自殺はかなり迷惑なようだ。ただ自動車の中で見ず知らずの人たちが集団で死んでいる光景を気味悪がっているだけか。そんな暗い話題で世間話しても盛り上がれないか。ならばとりあえず諸悪の根源をインターネットにでも押しつけておけば一応の収まりがつくだろうか。君にはそれがわからない。インターネットにもいろいろな用途があり、その一つが集団自殺を行う上での連絡手段なのかも知れない。電話や手紙ではなかなかできなかったことが、インターネットを介すれば可能となったわけだ。インターネットは自殺願望の人たちにとっても便利なメディアなのだろう。同じ志の人たちが簡単に連絡し合うことができて、共通の目的を早急に実現することができる。ためらう期間を省略して一気に自殺へとなだれ込めるわけだ。それは自殺のファーストフード化とでも呼べばいいのだろうか。何でも便利になればいいってものでもないかも知れないが、何をやるにも便利になるようにしたい目的でインターネットが活用されていることは確かだろう。そんな風潮についてどんな思いを抱いているわけでもないか。ただそういうことについて行けないような気がするだけか。誰かの感性はそんな状況から遠く隔たっているのかも知れない。要するに時代遅れということか。しかし今では時代という概念自体が無効なのかも知れず、何らかの状態を時代遅れと見なすこと自体が時代遅れなのかも知れない。たぶん現代は時代とは呼べないような期間なのかも知れない。とりあえず自殺する人々が無名の存在ならすぐに忘れ去られ、有名人が自殺すれば、あれやこれやメディアが自殺に至った経緯を詮索するだけのようだ。そんな話題で一般の人々は世間話を繰り返す。やはりそんな世の中はつまらないと思うか。だが何がつまらなくても、大半の人々は生き続けようとしているらしい。自殺者にとってそれは驚異的なことだと思わないか。


11月21日

 誰かは願いが叶って何かがどうにかなってしまう。気が触れる一歩手前なのか。それはほんの些細な願いでしかないのだから、驚喜するほどのことでもないだろう。単に今の日付に近づきつつあるだけのことか。それがどうかしたのだろうか。何もしない傍観者にはわからないことかも知れないが、何かをやっている当事者にとっては疲労と迷いの産物でしかないだろう。迷ったついでに何を迷っていたのか忘れてしまったらしい。今さらこそくな手段は使いたくないか。ごまかしはいつまでも利いていない。いつかは事実を事実として受け入れなければならなくなる。何もない事実をどうやって受け入れることができようか。そんなことは言葉が許さないか。つかの間に繰り出された敗北宣言はあっさり否定されてしまうらしい。そもそも敗れ去る対象が不在なのだから、何も自意識過剰気味に空虚に対して負けを認めることはないだろう。何をどう問いかけてみようと空虚は何も答えてはくれない。答える術が元々存在しないのだから答えようがないか。いったい空虚に対して何をどうして欲しかったのか。何をもたらして欲しかったのだろう。それはどのような状況なのか。ただ何もないなんて絶対にあり得ないことか。例えば目に映っている景色には何かがあるはずか。そこには当たり前のように光と闇がある。その当たり前さに飽きたら、何か適当なことを空想すれば済むことか。それで済まないならどうすればいいのか。実際に行動に出たらいいだろう。妄想に忠実な行動は犯罪になってしまうかも知れないが、その辺は現実と妥協しながらうまく切り抜けるべきなのか。うまく切り抜けられたら満足できるだろうか。それとも別に失敗してもかまわないか。ところでいったい何を空想しているのか。その手の空想にはきりがないか。きりがなくてもやがて飽きが来るだろう。空想に飽きたら何をすればいいのか。別に何もやらなくてもいいだろう。何もやらなければ自然と言葉が湧き出てくる。君にとっては無用な言葉かも知れないが、他の誰かの気晴らしになっているかも知れない。しかしそれでいいのだろうか。だが言葉に有用性を求めたらどうなってしまうのか。運が良ければ何かの商売と結びつくだろうか。誰かは言葉で金儲けがしたいわけか。そんな者はいくらでもいるのだろうが、ではそれらの金儲け専用の文章でも読んでみるか。別に金儲けだけが目的なわけでもないか。金儲けする前に何か多くの人々に見せびらかしたい内容があるはずだ。まず君はそれを読んで感動しなければならないはずか。別に無理に感動しなくても、書物を買ってくれさえすればそれでいいはずか。それを著した当人にとっては、そんなはずはないと思いたいところか。なぜ近頃の君は書物を読もうとしないのだろう。読めば影響を受けて、そこから語る対象を授かるかも知れないのに、何ともったいない日々を送っているのか。読む気がしないのは現実に読む暇がないからか。読む時間を作ろうと思えば作れるだろうに、そこまで気が回らないらしい。疲労と迷いがそれをさせてはくれないのかも知れず、意識は現実に対処するだけで手一杯なのかも知れない。もはや成り行きはそういう段階に至ってしまっているようだ。だから何もないのに何かを述べ続けている現状があるわけか。しかしやはりそれがどうしたわけでもないらしい。気まぐれに繰り出された言葉にとっては、意識がどう思ってみても知ったことではなく、そんなのは無視を決め込んでいるらしい。だが言葉にそんなことができるだろうか。誰かは言葉に意識が宿っているとでも妄想しているわけか。それが本当ならおもしろいところだが、いつの間にか作り話に突入している可能性もなきにしもあらずか。虚構の中で何がどうなっていようと、そんなのはすべて嘘だと見なせるか。だがそれに対して嘘の中に真実があるとでも反論できるだろうか。誰が反論したいのかわからないが、それらの内容が嘘であれ真実であれ、そんな風に語りたかったわけではなかった。誰が語っているのか。それは曖昧な話者と話の対象を掛け持っている君のことなのか。どうも結論に至りそうもないので、わざと話をこんがらがせようとしている節がある。そして語っているうちにその内容がつまらなく思えてきたようだ。やはり安易に切り抜けてしまってはいけなかったのかも知れない。もう少し悩み迷う必要があったわけか。しかしそれは面倒だしうざったいから、適当なところで見切りをつけたい衝動に駆られているようだ。だからこんな風になってしまっているわけか。まあ、こうなってしまったのだから、済んでしまったことを後悔してみても始まらないか。どうやら終わろうとして始めて、終わり間際にまだ始まっていないことに気づいてしまったらしい。


11月20日

 それを饒舌と呼んでいいものかどうか迷うところだが、あまり中身のあることを述べているのではなさそうだ。別にしゃべっているわけでもないか。しゃべっているとすれば独り言がほとんどだろうか。しかしそれがどうしたわけでもなく、そんなことは誰が知ったことでもないだろう。そこにどんな雰囲気がもたらされているわけでもない。なぜそれが雰囲気なのだろう。何を活用したらいいのかわからなくなる。やはり本当に言葉が出尽くしてしまったのだろうか。今さら世界情勢も何もあったものではないか。不具合は世界の至る所に噴出しているかも知れないが、一方ではそれが利益の源泉でもあるわけだから、積極的に改めなくても、それほどの不都合は感じていないのかも知れない。それはこれまでもそうであったし、これからもそうなのだろう。そんなわけで命が助かりたいなら、一刻も早く紛争地域から逃げた方がいいということか。もちろん逃げても生活の基盤がなければ野垂れ死にか。そんなわけで経済的・政治的・民族的理由から逃げられない人々がそこにとどまっていて、毎日が死と隣り合わせの日々を暮らしているわけか。一方、平和な地域でも犯罪が蔓延り、凶悪事件が毎日のように起こり、メディアから流れてくる事件の詳細な情報を受け取って、人々はそれをネタに世間話で暇つぶしをする毎日を送っているわけか。しかしそんな状況がおもしろいと思うだろうか。そんな風に語れば気が晴れるか。どうもつまらないことを述べているように感じられてならない。テレビをつければお仕着せの感動にうんざりして、皮相なユーモアに薄ら笑いを浮かべている。そんなに否定的なことを述べなくてもいいだろう。君にはそれ以外があるはずか。しかしそれ以外でわざとらしく行き詰まっているのではなかったか。別にわざとらしいわけではなく、それは構造的に避けられない状況なのではないか。何かを述べ続ければ、自ずから述べるべきことがなくなり、それ以上は何も述べられなくなってしまうのではないか。しかしそんな風に思えば気が晴れるか。そういう当たり前の成り行きでは気に入らないのか。ではどう述べたらいいのだろう。何をどんな風に述べても、それは気まぐれや流行り廃りの一種にしかならないだろうか。やはりそれでは気に入らないのか。では気分次第でその場の成り行きに合わせて、落ち込んだり立ち直ったりしている状況を、そのまま述べていればいいだろう。またもや否定的な結論に至ってしまっているだろうか。本当はそんな風には思っていないはずか。君にとって戦争や凶悪事件などは、実質的にはどうでもいい他人事にしか過ぎないのかも知れない。実際に巻き込まれてみないことには本気になれないのかもしれない。だがそれについて語れば、間接的にでも巻き込まれていることになるのだろうか。それについて意見を述べなければならない状況とは、どのような必然性に基づいているのだろうか。それについて語る者には、傍観者的な立場以外に、どのような立場が用意されているのだろうか。君は傍観者ですらない。傍観する暇さえないのだろうか。何を傍観しているわけでもなく、ただそれについて述べているだけか。様々な利害関係の上に、様々な立場をとる者や、それが属する国々や、それらの国家を束ねた連合体などがひしめき合っている現状が、そこにはあるらしい。そんな状況についてどう述べたらいいのだろう。それらの状況は君には関係のないことなのだろうか。実質的な変化を促すような発言をする立場にはないということか。そんな風に思うと、何となく述べることが馬鹿らしくなってくるか。それでも無駄を承知で述べ続けた方がいいのだろうか。どうなるわけでもないのに、何を述べ続けようとしているのか。さあ、そんなことはその場の気分次第でどうにでも述べてしまうことか。どうにでも述べている現状そのものがそれの無効を宣告しているのかも知れないが、別におもしろおかしさを醸し出そうとしているわけでもないのだから、それでもかまわないのかも知れない。ウケねらいは卑しい行為に思われるか。そんなことはどこかのお笑い芸人にでもまかせておけば、君よりはよほどうまくやってのけるだろう。しかしそれも現状を変えるには無効な行いかも知れない。だがなぜ何かを述べることによって現状が変わるのか。そんな風に思うことがそもそも間違っているのだろうか。ではどうすればいいのか。そもそも現状を変えようと思って何かをする必要があるのだろうか。たぶんその必要があると思っている者は、現実に何かをしているのだろう。思っても思わなくても現状は絶えず変化し続けるとは思うが、それと語りとは直接つながっていないのかも知れない。


11月19日

 不意に意識がどこからか戻ってくる。それは自分には関係のないことなのか。いくら執拗に続けようとしても、もう終わりの季節なのだろうか。年度末には後数ヶ月あるだろう。別にそれがどうしたわけでもないだろうが、狭い範囲内で意識は何を思っているのか。そして意識とは関係のない誰かは何をやっているのか。誰かは何かをやっているらしいが、どうもおかしな展開になりつつあるようだ。たぶん何もできなくなっているのだろう。やろうとして実際に何かをやっているにもかかわらず、やはり何もできなくなっているようだ。やっていることが気に入らないらしい。ならばもはやこのまま言葉を繰り出すことができなくなってしまうのだろうか。まったくやる気が出てこない。どうしたらやる気が出てくるだろうか。何かおもしろいことを思いつかないものか。今がつまらないから思いつかないか。つまらないと思うからつまらないのであり、おもしろいと思えばおもしろくなるだろうか。何をつまらないことを述べているのだろうか。なぜか馬鹿らしいことしか述べられないようだ。今はいつの明け方なのか。今はもう翌日の夕方か。それらの文章はすでにだいぶ過去の時間帯に属しているようだ。いったい外界はどうなっているのだろう。さっき見てきたとおりなのかも知れない。いつものように状況は、君の思いとは無関係に推移しているようだ。何事も思い通りにはいかないらしい。なぜそれらの作業は意識から消え去ろうとしているのだろう。言葉の断片が音の欠片と結びつくことはない。だからどうだというわけでもないが、気乗りがしないのは聴いている音楽がマンネリ化しているせいにしたくなる。本当はそんなことよりも、もっと本質的な原因があるらしいが、それを述べたらそこで終わりとなってしまうような気がする。しかし何が終わろうとしているのだろう。終わりは安易な選択肢か。終われないのにどうして終わろうとするのだろう。誰が終われないと思っているのだろう。ただそうやって終わりをもてあそんでいるに過ぎないか。ならばもはや言葉を続ける必然性はないと思うわけか。成すべきことはすでに果たされたと思っているのか。何を成したのか記憶にない。しかしそこからどのようにも言葉をつなげない現実があるだろう。そんなのは嘘か。嘘だと思うなら確かめてみればいいだろう。今が確かめている最中なのか。メディアは連日のように少女殺害事件を報道しているだけか。それとこれとは無関係なのだろうか。これとは何だろう。何も述べることがないように思えることか。それ以外のこれがあるだろうか。しかしそんなことはどうでもいいことだろう。気晴らしに紅葉の写真でも撮ってみようか。気晴らしになるはずがないか。そんな些細な思いを否定しても始まらないか。何が始まらないのかはわかっているつもりか。そんなことを思っているうちに、憩いの時は瞬く間に過ぎ去り、せわしない毎日に埋もれて何も思わないようになってしまうだろう。日常はどこまでも続いていて、それらのどこに結節点や転換点があるわけでもなさそうだ。些細な出来事が鱗状に連なっていて、意識はそれらについて思うことを拒絶しているようだ。ただ頑なに何も思わないようにしているらしい。いったい何を思えばいいのか、そんなことを誰に尋ねているわけでもなく、苦し紛れにそんな問いかけが生じてしまうだけなのか。何となくため息が出る。君はこれからどうなるのだろう。ところでなぜ君は架空の人格を有している設定になっているのか。そんなややこしい前提を利用して何を回避したいのか。それは終わりか。そこで終わりはどのようないいわけとして機能するのだろう。もはや述べることが何もないから終わってしまったことにしたいのか。そんな終わり方では気に入らないのか。気に入らなくても終わるときは終わるはずか。何となくそんな雰囲気になりつつあるようだ。本当にそれで終わってしまったらおもしろいか。別におもしろく終わろうとしているわけでもないだろう。何か大々的に派手なフィナーレでも準備してみたらどうか。それは空疎な仕掛けにしかならないような気がする。要するに思っているだけで、実際には何もせず、ただ素っ気なく尻切れトンボ気味にフェードアウトするだけか。それはある種の音楽を聴いたときの高揚感と重なり合う部分もあるかも知れない。何を述べているのだろう。そんなことを述べているうちに少しはやる気になったのか。やる気になったら何をやればいいのだろうか。何をやる気になっているのか不明か。


11月18日

 気晴らしに何もできなくなってしまう。それ以上は言葉が続かないようだ。彼らはつまらない事件に群がっている。彼らとは誰なのか。最近はそれらの物語とは無縁に暮らしているらしいが、架空の君は何も思わない。では架空ではなく現実の君は何を思っているのだろう。本当に何も思っていないのか。思いたいことは何もないわけか。本当にそうなのだろうか。それが嘘であったらおもしろいだろうか。別におもしろいわけでもないか。嘘の内容にもよるだろうか。何となく何も述べられない状況のようだ。そんなわけで、どんなわけでもないかも知れないが、またもやそこには何もないことになっているらしい。なぜそうなってしまうのだろう。昨日の事は何も思い出せないのだろうか。あのときは何を述べていたのか。今日もあやふやなことを述べていたいのか。そんな風には思わないか。別にそれは求めていたことではないだろう。だがそれ以外には何も述べられないのかも知れない。さっきからまるで言葉がかみ合っていないようだ。まだはっきりしたことは何も述べていないのではないか。どうもしっくりこない。それは以前と同じような気持ちなのか。昨日はそんなことを述べていたような気がする。何かがおかしいのかも知れない。何がおかしいのかわからないが、ただそんな気がするだけか。何を探ろうとしているのだろうか。それらの状況にはつまらない部分が欠けている。状況をただおもしろく見せようとしているのだけか。言葉を錯綜させてわけがわからなくなりたいのか。そこで行き詰まっているのか。なぜそんな風に状況を捉えてしまうのだろう。仕事がメインではないのかも知れない。多くの人々は仕事そっちのけで探偵ごっこがしたいらしい。誰もが退屈しているのかも知れない。謎を求めて推理を働かせてみたいのか。世間を騒がせるような事件について利いた風な意見を述べてみたいのだろうか。そのとき君はどんな立場を占有しているのだろう。被害者でも加害者でもなく、ただの傍観者でもなく、やはりそれについて一言物申したいらしい。では何を君に申し上げたらいいのだろうか。この世界は何でできているのだろう。うわさ話か何かか。それとも世間話でできているのだろうか。一部分はそうかも知れない。そのすべてが何でできているかなんてどうでもいいことか。どうでもよくはないが、そんなことには無関心だろうか。無関心であるなら何も述べられなくなってしまうか。またもや何もなくなってしまい、ただ状況に流されている自分に気づく。調子に乗ってつまらぬ事を述べるわけにはいかないのか。そんな風には思わないか。それは以前と同じ台詞か。それで君は満足してくれるだろうか。誰を満足させたいのかわからない。そんな白々しい展開には飽きてくるだろうか。別に調子に乗っているわけではない。ではどんな風な精神状態なのか。そんなことを知りたいわけではないか。君が知りたいのは事件の真相であり、そのときの犯人の心境なのだろうか。そんなものでは本気になれないか。しかし娯楽と無縁でいられるはずがないだろう。ではまだ何か述べていないことがあるだろうか。何もないならどうして述べ続けているのか。それにはそれなりの事情でもあるのか。やめられない事情とはどんなものなのだろう。ひたすら同じようなことを述べていたいだけなのか。そんなくだらないことをやり続けていていいのか。どうやらそれが限界らしいが、限界の先に言葉を連ねていたい。そんな風には思わないか。何も思わないことはないだろう。何かしら思っているのかも知れないが、それはさっきから述べていることとは無関係なのかも知れない。たぶん君は興味のないことを述べているのだろう。それで気晴らしになると思うか。気晴らしのためにやっているのではないのか。それが気晴らしであったなら、どれほど救いになることか。それで救われるわけがないか。ただどうにもならないだけなのかも知れない。とりあえず君のやっていることは救いとは無関係なのだろう。誰も救われないだろうし、誰を救うつもりもないわけか。そこにあるのはただのつまらない言葉の羅列になっているわけか。そうかも知れないが、そうであったとしても、それ以外にやりようがないのだから、それはそれである種の真実には違いない。もはやどうにもならない状態に近づいているのかも知れない。それでもいつかはどうにかなるだろうと思い続けている。それは無駄な思いになるのか。何を思ってみても無駄だと思いたいか。本当に何を思っているのだろう。


11月17日

 それは違うような気がする。どう違うのかわからないが、何となく違うと思われる。そんな述べ方では納得できないか。別に納得しようとしているわけでもないか。どのような結果を求めているわけでもない。ただ生きているだけか。別に生きているわけでもないだろう。死んでいるわけでもない。何かが邪魔をしているのかも知れない。わかろうとすることを放棄するように操作されている。しかし何をわかるまいとしているのだろう。常に葛藤と共に生きているつもりなのか。すべての感情の発露を封鎖している気でいるらしいが、それがどういうことなのかわかっていない。もっと簡単なことをやるつもりはないのか。すべてを見通せるわけもないだろうが、そのための努力を惜しんでいるわけでもないだろう。ではなぜそれが無駄だと悟らないのか。そんなことを考えているうちに頭痛がしてくるか。もっと無欲になった方がいいだろうか。心にもないことを述べているようだ。そんなことを思っているわけではない。なぜそうやって否定を繰り返すのだろう。まだ何ももたらされてはいないようだ。この世界を美しいとは思わないか。ある面においてはそうかも知れないが、別の面では違った感想を抱かせるか。そんなありふれた答えを期待していたわけではない。答えなど初めから期待していないのではないか。それを誰が述べているのかわかりかねるか。たぶん何かを述べるような人格を設けていないのかも知れない。それはどういう嘘なのか。それとも嘘ではないと述べておきたいのか。要するに醒めていると言うことだろうか。この世界のどこに興味を抱く対象があるわけでもない。たぶんそれは安易な判断だろう。本当はそんなことなどどうでもいいことか。では本当でなければ興味深い現象なのだろうか。何を述べているのだろう。何をどうやって説明しているのか。だが何もわからなくてもそれらの語りは継続されているらしい。そんな風に思いたいのではなく、何も思いたくないのでもなく、本当のところはよくわからないのだが、何となくそういうことにしておきたいようだ。君は心を閉ざしているようだが、君の心はそれを裏切っている。そんな風ならまだ少しは救いがあるのだろうか。雨音を聞きながら何を述べているのだろう。実際には何も述べていないのかも知れないが、言葉が適当に連なっているのだろうか。それは言葉なのか、それとも何なのか。何でもなく、ただの文章でしかないものなのか。意識はそれを読み返したいとも思わないか。しかしそれでいいわけはないだろう。何とか他人にわかりやすく思っていることを伝えたい。そんな善意がそれらの文章のどこにあるのだろう。わかりやすく語るためには善意が必要なのか。単に技術的な問題で済ますことはできないものか。事を簡単に考えては本質を見逃してしまうだろうか。だが今はそんな段階ではなく、それ以前の水準で行き詰まっているのではないか。何を述べているのかわからない。何をどのように述べるべきかわからない。そんなことがわかるはずがないと思っている。それでは何も述べられなくなってしまうかというと、そんなわけにはいかないらしい。ただ何も述べずに言葉を連ねている状況がある。そんなことがあり得るだろうか。何か君は勘違いをしていないか。別に勘違いであってもかまわないか。それが勘違いであるならば、それがそのままであっても何ら不都合を感じないだろう。勘違いであるがままに言葉を連ねているだけか。それが紛れもない現状なのだろうか。それ以上考えるのが面倒なので、そんな風に思い込んでいたくなるか。それで済むならそれに越したことはないか。なせそれで済んでしまうのか。現状をどう思おうともそれは君の自由か。だが自由という概念はとりとめがない。どこからどこまでは自由なのか自由と不自由の境界が不明確だ。そういう言葉の欠陥を突いて適当に文章を構成しているわけか。ただあやふやなことを述べているだけなのかも知れない。どこまでも意味不明を装いたいのか。わざとそうしているわけではなく、ただ自然とそうなってしまっていて、それ以外にやりようがないのだろうか。あるいはいくらでもやりようはあるが、それ以外のやり方に魅力を感じないのか。それはその場の都合でしかないのかも知れない。その場の都合に合わせてそんなやり方が選択されているだけかも知れない。要するにその場ではそんなやり方が適当だと思われるわけか。しかしそれを誰が思っているのでもなく、誰も思わないような文章が自ずから生じているに過ぎないのではないか。そんなことがあるだろうか。やはりそれは嘘なのか。しかしたとえ嘘であったとしても、そんな風にしか思えないのだから、それはそれで仕方のないことなのかも知れない。


11月16日

 なぜつまらないことを考えているのだろうか。現実とはそんなものか。そんなものでなければどんなものなのか。ここは漫画の世界ではない。興味深い出来事が頻発するわけでもない。それを認められなければ、現実は幻想の産物にでもなるか。別に幻想を求めているわけでもないが、やはり興味深い出来事の頻発を期待しているわけか。しかしそうなればどうなるというのか。いつもおもしろいと思うわけか。常に楽しい気分でいられるわけか。何を想像しているのだろう。それはどのような出来事なのか。現状がつまらないからそんなことを想像しているのだろうか。何かを想像していれば楽しくなって満足か。いつもそうとは限らないか。現状との落差を感じて虚しくなってしまうだろうか。何もない現状に落胆しているわけか。どうすれば何かが生まれるのだろうか。それらのつまらない作業ををやめれば、その後から必ず何かが生じるだろうか。それが信じられない。やめたくはないのに、いずれはやめなければならなくなるだろう。本当にやめるつもりなのか。そのつもりはないので、今はやめるときではないだろう。ではいつやめればいいのか。やめるときはいつやってくるのだろうか。いつかはやってくるのだろう。だがいつまで経ってもやってこない場合はどうしたらいいのか。そんなことまで心配までする必要はないか。必ずいつかはやめてしまうのだろうから、それがいつなのか知る必要はなく、それは実際にやめたときにわかることだ。だから今からそんなことを考えても始まらないか。今は何を始めようとしているのでもなく、ただ現状に埋没しているだけか。そこからどうやって抜け出せるだろうか。そんなことは今さら考えるようなことではないか。空想上に構成されている別の時空では、誰かがもうやめてしまっているかも知れない。それでやめたことになるのだろうか。やめている誰かを空想することがやめたことになるわけがないか。何となく嘘をついているような雰囲気を感じているらしい。そしてなぜかやっていられない現実に直面しているようだ。どうあってもやり続けている現実をどうすることもできない。それ以外にどうしろと言うのだろう。何を空想しているのだろうか。何かそうあるべき世界でも思い描いているわけか。そして理想と現実の落差に驚いているのか。別に驚くべきことでもないだろう。どこに理想があるわけでもない。では空想の世界も虚無に浸食されていて欲しいか。すべてが虚無感に満たされたとき、それ以外の出来事に驚くことがあるだろうか。別に驚きたいわけでもないだろう。どんな出来事に遭遇しても驚かないような気がするのは、まだ驚くべき出来事に出会っていないからか。それはまだ予定調和の範囲内で生きている証拠か。いつかそれを知るときがくるだろうか。真の驚異に直面して茫然自失となることを期待しているわけか。しかしそうやってすぐに想像を絶するような出来事を期待するのも、いつもの予定調和の思考なのではないか。それはどういうことなのか。現実にはどんな出来事を体験しているわけでもない。ただ想像をふくらませて現状の空虚を満たそうとしているだけではないのか。そういう欲求は一般的には何らかの娯楽へと向かうのだろう。どこかへ出かけていって何かをやりたくなり、それを満たすための用途に応じた様々な施設が営業している。結局はそういった娯楽施設が栄えるほど、世の中には空虚が蔓延り、中にはより危険なスリルを求めて犯罪行為に走る者も出てくるだろう。ただ普通に生活するだけでは満足できない者が多いほど、荒んだ事件が増えるのだろうか。やはりこの世界には虚無が蔓延しているわけか。そんなありふれた結論では満足できないか。もっとわけのわからないことを述べたいのか。そうやってそれらの現実から逃げたいわけか。だがここに至っても何について考えを巡らしているわけでもない。では意識はどこへたどり着こうとしているのだろうか。何を目指しているわけでもない。どこにも目指すべき目標などありはしない。到達しつつある地点はいつも出発点にしか過ぎない。しかし誰がそんなことを思っているのか。それは漫画の中に登場する主人公の台詞か。誰かはそんな風に思いたいわけか。誰でもない誰かならどう思うだろう。つまらぬ言葉遊びだと思うか。緊張が持続せず、すぐにふやけた言葉を並べてしまうらしい。空虚以外に何を語っているわけでもないらしい。常に何もない状態から何かを見出そうとしているが、何が見出されるわけもなく、苦し紛れにわざとらしい雰囲気を醸し出しているだけかも知れない。


11月15日

 何かを語ることによって何をどうしようというわけでもないのに、また何やらわけのわからないことを述べているようで、その場での雰囲気だけはやる気のようだが、肝心の言葉がついてこないらしい。この時期の蚊は執拗だ。明かりを消すと蚊の羽音が近づいてきて寝ていられない。夏でもないのに顔を蚊に刺されるのは腹立たしいか。どうやら今日は寝不足気味になりそうだ。それに体調も優れないか。何となくそんな状況が馬鹿らしく思われてくる。なぜ深夜に起きているのだろう。今は眠ってしまえばいいことか。しかしすでに時間帯は翌日の昼になっているようだ。テレビでは毎度のことながら拉致被害者の家族が北朝鮮の対応に怒っているようだが、やれるものならもったいぶらずにさっさと経済制裁でも何でもやってみればいいだろう。アメリなどは日本からの輸出に対して、事ある度にダンピングの疑いをかけて、すぐに経済制裁に踏み切っているのだから、日本だってこの際、大国気取りで調子に乗ってやってみればいいだろう。とりあえず北朝鮮も、アメリカとは違った意味で軍国主義的な体質なのだから、人の命などいくら奪っても、そんなことはどうでもいいことなのだろうし、日本からさらってきた数十人だか数百人だかの拉致被害者の安否など、今さら調べろと言われても、自国民が飢餓で脱国したり、数百万人が死んでいたりする現状から見れば、どうでもいいことだろうし、そんなことまでいちいち丁寧に対応していられないのではないか。日本だってかつての軍国主義時代にやった朝鮮人の従軍慰安婦だの、朝鮮・中国人の強制労働だのの問題を、うやむやにしてきた過去があるのだから、いくらそれとこれとは別問題だと言い張ってみても、何となく大同小異のような気がする。北朝鮮がもはや拉致問題など解決済みだと主張するのと、日本の右翼系政治家が、南京大虐殺などなかったと言い放つのと、それほど言っていることに変わりはないのではないか。まあ北朝鮮も現状では東アジアのお荷物国なのだから、あんまり意地など張っていないで、さっさと韓国と一緒になってしまった方がいいだろう。南北が統一されてしまえば、核問題も拉致問題も一挙に解決してしまうような気がする。また以前にも述べたことだが、とりあえず統一してからの数年間ぐらいは、朝鮮労働党に統一議会の三分の一の議席を配分して、残りの三分の二には現在の韓国議会の議員をそのままスライドさせて、大統領には韓国の大統領が就いて、旧北朝鮮国内には中国軍とロシア軍を駐留させて治安維持に当たらせれば、在韓米軍との釣り合いもとれるし、それで丸く収まると思うのだが、どうなんだろうか。そして数年経って政情が安定した時点で統一議会選挙と大統領選挙を実施すればいいだろう。はったり男の小泉氏も一度はそんな提案を大々的にぶちあげてみれば、実現するかしないかの次元とは無縁になってしまうかも知れないが、ウケねらい的にはそんなのもありだろう。まあ無理とは思うが。馬鹿の一つ覚えのようにテロとの戦いに凝り固まっているどこかの国の大統領とは、そろそろ一線を画してみたらどうか。たぶん以上に述べたことは、利いた風な意見の範囲内での戯れ言でしかないのかも知れないが、何となくどうでもいいことに多大なエネルギーが注ぎ込まれているだけのような気がして、例えばイランの核疑惑を穏便に済ませようとして尽力しているヨーロッパの国々と比べると、著しく思考や言動に柔軟性が欠けているように感じられる。何かこれでもかこれでもかと報じられる拉致問題などは、それについて語っている人々の語る方向性が、どうしようもなく一つの方向に凝り固まっていて、何か問題が解決して欲しくないかのような印象を受ける。まさか言論統制でもされているわけでもないだろうに、ただひたすら感情的になって、同じようなことを繰り返し訴えかけることしかできないようだ。そんなものを見る度にうんざりした気持ちになって、もういい加減あきらめたらどうか、と思ってしまうのは自分だけだろうか。もちろんそう思うのと同時に、あきらめることなど絶対にできないのだろうとも思われるのだが、どうもこうにもできないことを繰り返し要求し続ける人々が哀れに感じる。そうやって善意のさらし者になっている人々を批判してはいけないのだろうか。そういうものを繰り返し見てしまうと、何となくやりきれない気持ちになってくる。


11月14日

 どうにもこうにも始まりのきっかけがつかめない。何かやろうとすると眠気を催してしまう。すでに他の仕事で疲れているらしい。なぜいつもいつもそうなってしまうのか。定まらぬ気持ちをそのままにしながら、何となく漠然とした思いに覆われているうちに、また翌日の夜になってしまったようだ。今から何を始めようとしているのか。そこから何が始まるわけでもないが、まだ何も始まっていないのかも知れない。始まりの語りが面倒臭いので、いつも途中から語っているように思われるかも知れないが、それでもそこには何らかの思考が反映された文章が構築されているのだろうか。たぶんそれらの思考のどこかに解決の糸口があり、また出口のない迷路が存在しているのかも知れない。あるいは何を考えているとも思えないようなことが述べられているのかも知れない。いったい他人はそれらの文章に何を求めているのだろう。どこかの誰かは怠惰にまかせてまた同じようなことを述べてしまうらしい。何を迷っているのだろう。この世界のどこに迷路があるのか。無限に広がっているようで、実は閉じているこの世界に、出口を探そうとするのは無駄な試みか。それは誰のことでもないかも知れないが、いったい君たちはどこを彷徨っているのだろう。彷徨う人々は彷徨い続けるだけで、この世界に積極的な価値を見いだせない。それらの意識はさらに怠惰になり続けているのかも知れない。君はどうにかなるかも知れない機会を見送り続けている。なぜチャンスをみすみす逃しているのか。怠惰な意識は何を認識しているのだろう。たぶん君にはこの世界を他人がするようには認識できないのだろう。ではそれをどのように認識しているのだろうか。誰かが認識しているように認識できれば少しは気休めになるだろうか。どんな風に認識すればうまくいくのか。うまく言葉がつながらないようだ。そのときの気分はいつもと同じようなものか。別にその存在を認めようとは思わないが、魂という言葉を唐突に思い出し、その言葉に積極的な意味を付加しようとするが、そのための文章を構築できない。そこにあるのはいつものまなざしか。いったい何を見つめているのだろう。何が存在しているわけでもないだろう。どんなに思考する理由を探しても無意味には太刀打ちできない。眠れない日々を乗り越えたいから、もう投げやりな態度はやめにしようと思うが、それができたら苦労はない。ひねくれた感情はそれ以上の何を求めているのでもなさそうだ。死ぬまで苦労していればいいと思う。どういうわけか突き放されてしまうらしい。しかしこのままでは立ち直れないので、気晴らしに無駄なことを思いたくなる。いつこの世界に平和な時が訪れるのか。平和という言葉自体に欠陥がある。未だにそんなところで立ち止まっているのか。何を述べてもやる気に見放された心には、怠惰が蔓延ってしまうようだが、このままでは日付がさらに遅れ気味になるのだろうか。そんなことはどうでもいいことか。それともまだ体勢を立て直すチャンスが訪れるのを期待しているわけか。今がその機会なのか。だが機会を捉えて効果的に言葉を繰り出すことはできそうもない。意識はそれとは違う雰囲気に浸っているらしい。何を述べても無駄なような気がするだけか。ではどんな風に述べれば無駄でなくなるのだろう。無駄でなくなるはずがないと思われるのに、さらに述べようとするのはどうしてなのか。何も思いつかないのに、なぜそれを語ろうとしているのだろう。そこからどうやって話のつじつまを合わせることができるのか。話の内容を知りたいか。紋切り型の羅列ばかりで、内容など何もありはしないか。語る前からあきらめてしまうようだ。本当に何もないのだろうか。何かがあると思えば何かに出くわすだろうか。つまらない文章に出くわしているわけか。それをつまらないと思わないようにするにはどうしたらいいのか。すでにどうにかしようとしているではないか。そこから飛躍しようとしている。無謀なことを述べようとしているようだ。どこかに突き抜けたいとでも思っているわけか。だが迷路の方はどうなってしまったのだろう。迷路の壁を突き破って無理矢理直進してみたらどうだろう。そうすれば今より軽薄になれるだろうか。わざとらしい迂回をやめて、単刀直入にものを述べられるようになるか。そんな風になったら、さらにつまらなくなってしまうか。君は短い文章が嫌いなのだろうか。たぶんそうしたら、何も述べることがなくなってしまい、それらの試みが台無しになってしまうのだろうか。そうなってしまってもかまわないような気もするが、やはりまだ現時点では、いつまでも無駄なことを述べていたい、という思いの方が優先されているのだろうか。しかし誰かは何について語っているのだろう。誰かとは君のことではないのか。そんなことはどうでもよくて、それについては何をどう語っても無意味であり、文章上では誰かと君に区別などないのかも知れない。しかしどうしていちいち無駄なことを語ってしまうのだろう。そんなことばかりが繰り返されている。


11月13日

 いつの間にか沈黙が間延びしているように思われる。言葉をを忘れかけている。ありふれたことを語りたいのに、何かがそれを許さないように感じられ、そこで作業が立ち往生しているようだ。また始まらなくなってしまったらしい。やる気がしないのか。それは毎度のことかも知れないが、何もやらずにいる振りをしながら、気晴らしに馬鹿げたことを考えている。馬鹿げたこととは何なのか。まさか世界征服とか叫んで笑いをとりたいのだろうか。そんなことで笑うような状況でもないだろう。何となく呆れを通り越して、その後にどんな言葉をつなげたらいいのかわかりかねる。どういうわけか心がよどんでいるようで、何かが停滞したまま沈殿しているらしい。それはヘドロか何かの類か。さっきから何を笑っているのだろう。微笑している余裕はあるようだが、なぜ微笑んでいるのか、そのわけをうかがい知ることはできない。うかがい知るようなことではないだろう。ただわけもなく笑っているだけか。壊れているのかも知れない。何が壊れているのかを考えている暇さえない。別に忙しい時間帯ではないだろう。意識は気まぐれに廃墟を思い浮かべて、その中で空虚がくつろいでいるようだ。意識はどこにあるのだろう。それは意識ではないのかも知れない。またいつかと同じ言い回しになっているのか。いつものようにくだらぬことを思っているようだ。しかし思っているのは誰でもなく、文章のつながりを保つ上で、誰でもない誰かがくだらぬことを思っていることにしたいらしい。それはとんでもないご都合主義だろうか。今はそれ以外にあり得ないのだから致し方ないか。そうやって雑でいい加減な内容を呼び込んでいるのかも知れないが、今回はそんな風にしか語れない成り行きになっているようで、それをどうやって軌道修正したらいいのかわからないらしい。いくら何を思っても、それが言葉の連なりに反映しないこともあるようだ。言葉の連なりは誰の思いとも無縁のままでいたいのか。そこにそんな意志があるわけでもないのだろうが、文章から構成される架空の人格は、他人の思惑にその思考や行動を左右されたくないのだろうか。なぜかさらにあり得ないことを述べているようだ。しかしそんな戯れ言もいい加減にして、どこか適当なところで妥協しなければならないのだろう。妥協しなければ孤独のままか。架空の君はそんなはずはないと思いたいのか。現実の誰がそれを許してくれるだろうか。別に他人の許しを請うようなことではないだろう。ただ君が何を思いたいのかわからない。ならばさらに無理を重ねなければならなくなるだろう。それがどんな無理なのか知りたいか。たぶん無理をしてみればわかることかも知れないが、君はそんなことには無関心を装っている。なるようにしかならない状況の中でいくらもがいてみても、やはりなるようにしかならないだろう。そんな状況に対してどうすればいいのかわかるはずがないだろう。では思い通りにならない状況に失望し絶望してみたいか。あるいはもはや一縷の望みも捨て去るほどの悲壮感を漂わせたいか。しかしそれはどのような冗談なのだろう。架空の人格が何を望んでいるわけでもないか。元から絶望するほどの希望を抱いていたわけでもないか。また何に失望しているわけでもないだろう。別に思い通りにしようとしているわけでもないか。どんな理想があるわけでもないか。だがそうやって何を否定しようとしているのか。この世界のすべてを否定できるだろうか。今まで語ってきたことはいきなりそんな誇大妄想的なことにはつながらないだろう。何も思い浮かばないから、苦し紛れに安易な方向へ進んでしまう傾向にあるようだ。それではまともなことを述べるのをあきらめなければならなくなる。またそうやって逃げ道ばかり探していると、さらに無内容に拍車がかかってしまう。もはや意識にはそれに歯止めをかける力が残っていないのかも知れない。気がつけば戯れ言ばかり述べている現実のただ中に存在しているらしい。しかしそれは逃れようのない状況だろうか。たぶんそうやって何とか気が狂わないようにしているのかも知れない。平静を取り繕っているわけか。放っておけば本当に何かが砕け散ってしまうのだろうか。あるいは砕け散ってしまいたいのだろうか。歯止めとなっている何かが崩れて感情の防波堤が決壊して欲しいか。しかしさっきから何の話をしているのだろう。話の内容が今ひとつ不明かも知れないが、それが気に入らないのか。気に入らないのなら、たまには利いた風なことを語ってみたらいいか。すでに語っているような気がする。ありふれた内容をありふれた言葉を用いて述べているらしい。しかしもはやそんな嘘は通用しない状況を招いているのか。何が招いているのだろうか。それらの言葉の連なりが招いているのかも知れない。


11月12日

 何も思わないうちに季節はもう冬になっているのだろうか。一夜明けたら寒くなっていた。風のない冷えた朝に何を思っているのだろう。今日も朝からつまらないことを思っているらしい。しかし今はもう朝ではない。それから何時間も経ってから、なぜそんなことを思うのか。君は第二次世界大戦におけるスターリングラードの攻防戦を知っているだろうか。何気なしにテレビをつけたらニュースをやっていて、イラクのファルージャがスターリングラードと化しているようだが、それでもアメリカ軍は当時のドイツ軍のように負けることはないようだ。誰がそんなことを思っているのだろう。現時点では誰もがそんな風にしか思えないだろうか。だがあのような惨状が泥沼状態でないとすると、そう思わせる原因は何なのか。大統領選でも勝利したし、兵士が数十人が戦死したぐらいではまだ余裕なのだろうか。戦力に差がありすぎるか。しかしそんな状態がいつまでも続いていく可能性はある。決着は永遠につかないような気がする。アメリカは絶対に負けないし、いつ何時でも勝利することができるようだが、それでもテロリストたちは生き延びるだろう。もはや国と国の戦争ではないのだから、片方の国がいくら勝利を宣言したところで、それで決着がついたことにはならない。勝利する対象が自らの負けを認めるわけがないだろう。テロリストたちには降伏する必要も必然性もありはしない。生きているうちはひたすらテロ行為を継続させていればいいだけだ。金と人材の供給が絶たれない限り、いつまでもそれを続けようとするだろう。そこにアメリカ軍やアメリカの民間人やアメリカに追随する人々がいる限り、テロを行う理由が生まれてしまうわけだ。もちろんテロ攻撃がなくならない限り、アメリカも軍隊を退かせることができない状況になっている。それどころかテロの脅威があるからこそ軍隊の存在理由があるわけで、簡単にテロをやめられたら、かえって軍隊の活動が支障を来すことがあるのかも知れない。テロのおかげでアメリカ軍は世界中に進駐していられるのであり、今やテロの脅威はアメリカ軍にとってはなくてはならない必要不可欠な要素なのかも知れない。そんな風に考えると、ある側面においては、この世界はテロリストとアメリカ軍に支配されている、といえるかも知れない。ではそこで支配されているのは、何らかの気分か精神的な何かか。そんな風に思いたければ思っていればいいだろう。大半の人は戦争ではなく、MLBやNFLやNBAなどを見ながら暇をつぶしているだけか。スポーツ娯楽に心のある部分を支配されている。それは支配とは言わないか。もうそんな話には飽きてしまったのか。いったいどこにアメリカ軍がいるのだろう。テレビ画面の向こう側で戦争ごっこをやっているではないか。それはごっこではなく本当の戦闘なのだろうか。実際に敵やそれに巻き込まれた民間人を殺害していれば、本当の戦争なのだろうか。それよりはNFLの方がおもしろいか。戦争は娯楽にはならないのだろうか。娯楽で人が殺されたらたまらないものがあるか。ブッシュの娯楽や息抜きのために殺されているイラク人は悲惨なのかも知れない。それは息抜きや娯楽ではなく、れっきとした商売だろう。では彼らは何を売っているのだろうか。自由と民主主義という名の死そのものを売りさばいているのかも知れない。もちろん自由と民主主義を売り込んだついでに、憎悪や反感を買いながらテロとの戦いを遂行しなければならないアメリカ兵も悲惨か。たぶん君はそんな風には思わないだろう。生身の君にとっては、ここから遠く離れた地域で、赤の他人が適当なことをやっているように感じているだけか。そしてその適当なことが人殺しなのかも知れない。それらの行為が適当でないとすると、何が間違っているのだろう。何かが間違っているのかも知れないが、その間違いを改めることができないからこそ、彼らはそうやって執拗に過ちを繰り返しているわけか。しかし君がそんな説明で納得するわけがない。そこにもっともらしい理由など何もないのかも知れない。ただ単にやられたらやり返しているだけなのかも知れず、そのやり返すこと自体に攻撃の正当性が宿るわけだ。もちろんそんな単純な思考は排除される傾向にあり、その辺の事情通に言わせれば、何やら世界戦略のごとき壮大な野望やら計画やらを有していることになっていて、それに基づいて戦争を遂行している風を装っているようなのだが、そんなものとは無関係な傍観者にとっては、そういうまだるっこしい概念はどうでもいいことだ。ならば君が求めているものは何なのか。気休めの音楽か何かか。それを意識せずに商売できる環境を求めているわけか。だから君の意識はそこから遠ざかろうとしているわけか。


11月11日

 気まぐれに余計なことをしてしまったらしく、その副産物として思わぬ出来事に出くわして、さらに作業が遅れてしまっている。しかし誰かの意識の中では、そんな嘘を口実にして毎度おなじみの怠惰が頭をもたげはじめたようで、やる気のない投げやりで散漫な態度が、わざとらしい遅延行為にさらに拍車をかけている。しかし実態として何が遅くなっているのだろうか。また本当にそれは嘘なのか。何が嘘で何が本当なのだろうか。いったい君はそこで何をやっているのだろう。実際には何もやっていないから、作業が進まないのだろうか。誰かは何をどうやって進めようとしているのだろうか。語っている当人は誰でもないのに、そんなことを述べるわけにはいかないか。誰が何を語っているわけでもないとすると、それらの文章はどこから生じているのだろうか。語っているうちに何となく飽きてくる。だがただ何もやらずにテレビばかり見ていると、まぶたが重くなってくる。しかし昨日の夜中に眠気を振り払っているつもりの意識は、今では何を求めているわけでもない。そんな意識など存在するはずがないか。そのときには確かに心地よい眠りの時が近づいていたのかも知れないが、何もやらずじまいでは不安に駆られてしまい、おちおち寝ていられないか。だから蛍光灯の明かりをつけておいて、まぶしさに気づいて目を覚ませるようにしているわけか。それは意味のないことかも知れない。やっていることと思っていることが矛盾しているようだ。やるべきことをやり終えて安心して眠りにつきたいのに、それができないので、とりあえず眠りについて、目が覚めてから何かをやろうという魂胆らしいが、現実にはそんな成り行きになるはずもなく、何もできずに、しかも寝不足気味になり、苦し紛れに繰り出された粗雑でせわしない言葉が、いい加減な意味を伴いながら、うわべだけ脳裏をかすめて、ただどうでもいいような時空に吸収されてゆくばかりか。言葉を弄するだけの暇がありながら、その暇を活用できないでいるようだが、そのじれったい焦燥感に突き動かされながら、気の遠くなるような作業を進めているらしいことは、紛れもない事実のようだ。しかしそれで進めているつもりなのか。いつまで経っても以前と似たようなことしか述べられない気がするのだが、それは気のせいなのだろうか。たぶん気のせいではなく、それは確かな事実なのかも知れないが、それ以外のやり方を見いだせないのだから、それをやりざるを得ないらしい。そんなわけで結局それらの言説空間は、誰かの意識に何ももたらしはしないだろう。ただそれとは無関係な架空の風がどこかへ吹き抜けているらしい。いったん記述された文章など、読まれた後はどうでもいいものでしかないのかも知れず、思うがままに言葉を操れない意識が、焦りとともに繰り出した稚拙な言い回しを、文字として定着させようとしているわけだが、結局はその試みが常に失敗に終わっている現実を、むき出しのままさらしているだけでしかないようだ。要するに何を述べているのでもないのだろう。そんなことはわかりきったことか。あるいは致し方ないことか。それが明白になったとき、誰かの意識はどこかへ退いているようだ。だが何をためらっているわけでもないのだろう。ただ架空の意識が作業を続けているだけか。やはり誰が何を語っているわけでもない。またこれから意識はどこへ向かうわけでもない。さらに付け加えるなら、どこから来たわけでもなく、どこへ何しにいくわけでもないか。雨が降っているらしい。それ以外に何も見いだせないのだろうか。またどこかで大雨状態のようだ。雨の中には何があるのだろう。そこにどんな概念や意味を紛れ込ませたいのか。やはり誰が何を問いかけているわけでもないらしい。誰かはただ何も考えずにそれらの光景を眺めている。雨は明け方に止み、早朝から近くの国道を行き交う大型車のうなり声が聞こえている。また雨が降ってきたようだ。何となく誰かの思いとは関係なく、それらの状況は推移しているらしい。何かが断続的に続いているようだが、意識がそれに追いつかない。別に無理して追いつこうとしているわけではなく、また完全に状況を無視しているわけでもないらしい。追いつこうと必死に努力すると、逆に遠ざかってしまうのか。こちらから遠ざかろうとすると、向こうから近づいてくる。両者の間には一定の距離があるようで、また別の視点から眺めると、完全にそれらの姿が重なり合っているようにも見えてしまう。しかし相変わらず何を述べているのでもないらしい。いったいそれはどういうことなのだろう。そんな問いかけはわざとらしいか。


11月10日

 今日も何となく意味不明のようだが、何の意味が不明なのかわからないか。とりあえず昨日と比べて何か変わったことはなかったか。ところで誰かはそれからどんな心境に至ったのか。ネット自殺でもする気になったのだろうか。自殺したければすればいいことでしかないか。たぶんそれは冗談の一種なのだろうが、冗談で死なれたら周りの家族や友人や職場関係者はたまったものではないか。もっとも中にはうっとうしい奴がいなくなってせいせいしている者もいるかも知れない。しかしそれはあくまでも架空の話の域を出ない内容でしかない。他人がどうしようと君には関係のないことかも知れない。君は君で相変わらず停滞気味の毎日を過ごしている最中か。少なくともそれで満足はしていないのだろうが、何となく何も思い浮かばないようで、たまに深夜に寝汗をかいて気分が優れなくなる。ここ数日はこの時期としてはかなり暑い方かも知れない。明け方に目が覚めた直後に、意識がもうろうとした状態の中で、さっきまで体験していたはずの、夢の中で起こった出来事や、そこで行動していた幻覚の記憶が、何かが退いてゆくように徐々に忘れ去られてゆく。それからしばらく経った今はもう何も覚えていないようだ。しかしその今からもさらに数時間が経過している。当たり前のことだが今は絶えず過去になりつつある。たぶん意識の中では何がどうなったわけでもないのだろうが、それでも時間の経過が早すぎるか。どうも言葉を連ねようとしている意識は、それをやれるだけの時間から置いてきぼりを食っているようで、文章を記述している日時からも完全に見放されようとしている。それはどういうことなのだろうか。要するに遅れているということか。それは以前に経験したパターンだろうか。あるいは今度こそ本当にお終いになってしまうのか。そうなったらなったで仕方ないだろうが、今はそうならないように、何らかの工夫を施さなければならない事態に直面しているわけか。だが今さら何をどのように工夫できるのか。工夫という言葉からは程遠いことを述べているのかも知れない。いったいそれらの実態はどうなっているのだろう。つまりもう語ることが何もないということか。そう述べてしまえばお終いにすることができるだろうか。執拗に言葉を連ねることに飽きているのか。飽きているのではなく、ただ疲れているだけではないのか。とりあえずここには何もなくはないが、それを言葉に結びつけることができないのかも知れない。しかしここに至って本当にまだ述べるようなことがあるのだろうか。そんなことがあるはずがないか。ではあるはずのないことを述べることならできるか。それではフィクションになってしまうだろう。フィクションでもかまわないか。もしかしたらこれから適当な内容に巡り会うかも知れない。そんな風に期待するのは安易で無責任きわまりないか。たぶん何かをやろうとすれば、それに伴って周囲から思っても見なかった作用が働き、やろうとしていた意識が変容を被ってしまうのかも知れない。それはしばしば出鼻をくじかれるような成り行きになり、結局はやる気を失い、何もできなくなってしまう。しかし次第にそれが嘘であることに気づき、何もできないどころか、何か利いた風なことを記述している自分自身の存在がうっとうしく感じられるようになり、そんな自己嫌悪に抗いながらも、何とか気持ちを奮い立たせて強引に述べようとすると、当初において述べたかったこととはまるで違うことを述べてしまっている現実に直面する。適当にいい加減に思い悩みながら、あるいは悩んでいる振りを装いながら、様々な試行錯誤や紆余曲折を経ながらも、結局は述べたくもないことを述べてしまっているのであり、しかもそれをやめることができなくなっているわけだ。それはあたかも自分の意志に反してやっているように思われ、さらにそれをやり続けることによって、結果的にやっていることに沿った新たな意志が生じて、それ以前の意志を乗り越え駆逐してしまっている現実に驚愕することとなる。自らの意志が内面ではなく、自分とは無関係な外部から供給されていることに気づいてしまうわけだ。だがはたして自発的でない意志が意志といえるのだろうか。それも形態としての意志の有り様なのだろうか。自らがどんな意志を持っているのかわからなくなる。そんなわけで誰かは気休めにシェーンベルクの狂ったような音楽を聴いている。それでどうなるわけでもないか。しかしどうにもならなくともかまわないわけか。気晴らしや暇つぶしになってさえくれればそれでいいのだろうか。


11月9日

 またどうにもならないような状況になってしまうのか。そして結局はどうにもならないのにどうしてどうにかなってしまうのだろう。まだどうにかなっているわけでもないか。では何かを思えばいつもそれを裏切るような成り行きになってしまうのはどうしてなのか。それはそんな思いが浅はかだからか。それについて何を問うわけでもなく、何も問えないわけでもないらしい。そんな問いに対する答えは無用なのかも知れない。ならば答える必要のない問いも無用か。それでは何をどう問い、何をどう答えていいのかわからなくなるか。はじめから無用なことを述べているのかも知れない。それでも自然とそこから問いが生じてしまうと思われるのは、何かの勘違いだろうか。思い違いならまだ救いがあるのかも知れないが、それは単なる思い違いではなく、思い違いであって欲しいと思いたいのであり、そこには必ず何らかの原因があると思い込みたいのか。だからそんな思い込みこそが浅はかなのだ。無理に何かを生じさせようとしているだけではないのか。それはただ単にとりとめのない行為なのかも知れない。そして漠然とした思いにとらわれているだけなのか。だいいち何が問いなのかはっきりしない。さっきまでの問いは問いではなかったのか。それでも白々しくまだどんな問いが発せられているわけでもないと述べたいわけか。それとも強引に別の問いを繰り出したつもりになりたいわけか。何も問われていない状況で、どうしてそうなってしまうかを問いたいのだろうか。それでは虚しい解答しか期待できないだろう。そんなことははじめからわかりきっていることか。たぶんそれについてはどうにでも答えられそうで、しかもそこから導かれる答えはすべて間違っているような気がする。要するにまたしてもただそう思い込みたいだけなのか。ではそんな思い込みに嫌気が差したときにはどうすればいいのだろう。とりあえず何をどう思ってみても、人はいつか死ぬだろうし、またいつか生まれてくるだろう。しかしそれが何の解答になっているのだろう。唐突に不自然な解答が導き出されているだけか。それは何に対する解答でもないような気がする。漠然としたとりとめのない問いから逃げだそうとして、どうでもいいような当たり前のことを述べているだけか。それらの何に興味を抱けるのだろうか。確かに人は死んだり生まれたりしているが、それらのすべてが何か興味深い出来事だと思われるわけでもないだろう。ただそんな出来事が頻発している世界がここに生じているに過ぎない。実際にそこから何が生まれてきたわけでもなく、誰が何を生み出そうとしているのでもない。もしかしたら何も生じてはいないのかも知れず、ただ既存の物質の様態がめまぐるしく変化しているに過ぎないのかも知れない。原子的なレベルでは確かにそうなのだろうが、それよりも大きなマクロ的な視点に立てば、そこから生まれてくるように思われるものは様々にあるようで、さらに言葉的な水準においては、たとえそれが人でなくても、特定の固有名を持って生まれてくる者もいるらしい。者なのに人でないとすると、いったいそこで何が生まれてくるように思われるのだろうか。例えば君にはどんな名前が必要なのだろう。そんなことは人ではなく意識もない君にはわからないか。それは君に問うような質問ではないか。本当はそこに君などという者はいないはずか。真夜中の時間帯にはほとんどの意識は眠りにつき、闇はどんな思考も受け付けない。それは誰の思い込みなのだろうか。暗闇の向こう側には何があるのだろう。それは誰の意識がねつ造した問いだろうか。そこに誰の意識が働いているのだろう。何もないのに何を述べようとしているわけか。何もなければ何も述べられないはずか。そこには何があるというのか。誰が何を焦っているのだろう。何も見いだせずにその場しのぎの言葉を模索しているらしいが、そのような態度に分別があるようには思われないか。ではどのような成り行きで誰かは行き詰まっているのだろう。時間に追われているわけか、あるいはすでに見放されてしまったのか。それとは別のことをやっているうちに、またいつものように夜が明けてしまったらしいが、それは毎度のことなのだから仕方がないだろう。結局はすっきりしない意味不明な言葉を繰り出すだけか。どうやら誰かは毎日に同じようなことを述べているようだ。たぶんそうなることは述べる前からわかっていたはずか。きっと未来の誰かも性懲りもなく同じようなことを述べているのだろう。いったい彼はどこで何をやっているのか。何をやっているわけでもなく、何を述べているわけでもないらしい。ただそんな風に嘘をついているだけなのか。しかしもうすぐ翌日の昼の時間帯になろうとしている。車窓から遠ざかる風景を目で追いながら、この世界の部分的な有様を眺め続けている。やはり意識には何がもたらされているわけでもないらしい。晴れた空には雲一つなく、どこまでもありふれた世界が広がっている。そして意識は相変わらず何を思っているわけでもないようだ。


11月8日

 そんな風に思うことの何が勇み足なのだろうか。それらの出来事はだいぶ演出過多な儀式になっているようで、それに沿って繰り出された言葉も人々の感情に訴えかけるような内容になっていて、出来事の悲惨さに見合うような同情を誘う雰囲気を醸し出そうとしているらしい。報道機関が注目する誰かの葬儀もどきとはそういうものだろうか。不特定多数の人々に見せびらかすために、音や映像がわざとらしく調整されているように感じられる。なぜそんなものがニュースになるのだろうか。そこには見る人を特定の心境に導くための仕掛けが施されてあるのだろうか。別に何を勘繰っているわけでもないか。誰もそんな風に思うわけがない。では何をどう思っているのだろう。そんな思いなるように誘導されるがままに思っているわけか。そんなものを眺めているとあくびが出るか。きっと寝不足で眠たいのだろう。土砂崩れで亡くなった子供をネタにして、くさい芝居のような代物が演じられていることに憤っているわけか。他人のやることをとやかく批判すべきではないか。たぶんそれは述べてはいけないことなのだろうが、誰かはそんな風に思っているらしい。思っているうちに何となく許せないような気がしてくる。しかしそんな風に述べるべきではないか。無用な反感を買うだけか。災害に対応した虚偽の慰めなど無視していればいいだろう。無視できないからそんな風に述べてしまうのだろう。それが誰かの欠点であり、他の誰かに精神的な弱さを悟られてしまうだろうか。おかしなことを述べているのかも知れないが、何が導かれているわけでもなく、そこで言葉が中断されているわけでもない。たぶんそれはそれだけのことなのであり、別に誰がそれを求めているわけでもないが、報道とはそんな風に状況を演出しなければ気が済まない制度なのだろう。どのような出来事も人々の都合に合わせた儀式に変形することによって、そのような人々を構成員とする共同体の中で解消されなければならない。そうやって自然現象を人間の論理に組み込んでいるつもりになるわけだ。そうしなければいたたまれないのだろうか。そんなものを批判しても仕方がないか。それ以上に何も述べようがないか。なぜ君はそういう行為を軽蔑しているのだろう。何をとやかく言ってもどうなるわけでもない。人は自らに都合の良いこと以外は何も述べられないのかも知れない。わざとその身を破滅に追い込むほど倒錯することもないか。何とか生き延びなければならないらしい。そしてできることなら繁栄を謳歌したいのだろう。そのためにはあれこれ工夫を施さなければならなくなる。それは間違ったことではないのかも知れない。それらの人々にとっては正しい行いなのだろう。だがどうやってそれを受け入れられようか。どこの誰が受け入れなければならないのか。それが君でない理由がどこにあるのだろう。そんな理由などどこにもないと思いたいか。本当にそう思うなら、君は人非人になってしまうのだろうか。しかし人でなければ君は何なのか。何でもないのかも知れない。やはりそんなことはどうでもいいことなのであって、ただ思ったことをそのまま述べているように装えば気が済むことか。本当は違うのかも知れないが、そんなことをどう述べていいのかわかりかねる。述べることは装うことでしかないのかも知れず、それは必ずしも本当の気持ちを反映しているわけではないのだろうか。たぶん本当に述べたいことはほとんど述べられていないのかも知れない。その場の間に合わせに何かしら述べている場合がその大半なのか。だがそう述べてしまうと他に何を述べていいのかわからなくなってしまう。そのような方向で突き詰めると何も述べられなくなってしまうだろう。別に何も述べなくてもかまわないのであり、取り立てて述べるようなことは何もないのかも知れない。ただ気分次第でその場の雰囲気を適当に取り寄せて、本気になれないままにいい加減なことを語り続けているだけなのか。そんな風に状況を語ることができれば、気楽な気分になれるだろうか。そんなことを述べているうちにまた地震のようだ。まったく性懲りもなく何を述べているのでもないらしいが、それでも何かしら言葉が連なっている。誰かはそんな成り行きを容認できるだろうか。認められないというのなら、それとは別のやり方を模索してみればいい。そうするにはまた別の偶然と遭遇する必要があるのかも知れない。すべての可能性は偶然の中にあるらしい。しかし偶然は偶然にしかやってこない。それを必然だと見なすにはどのような勘違いが必要なのだろう。


11月7日

 何もやる気はしないが、それでも今日は通常の労働を経験したらしい。ここ数年間は毎週そうなのだから、それがどうしたわけでもないだろう。今日は世間的には休日だったらしいが、どんな具合だったのだろう。何の具合なのか。面倒なので誰かがどこかで黙っているらしいが、どうやったらその沈黙を破って適当な言葉を引き出すことができるだろうか。秋なのに気候的には暖かいようだ。そんなことに興味はないか。興味はないがそう述べることしかできないらしい。それは言葉の残骸か何かなのだろうか。それ以外の何になるのだろうか。植物の残骸は腐葉土になるらしいが、虫の残骸が何を語りかけているわけでもないか。鼠の死骸はどうなるのか。どうにもならないだろうが、人は死んで灰になるらしい。火葬された場合はそうなるのだろう。君の死んだまなざしは何を見ているのだろう。今日も誰かは何を見ているわけでもない。それではらちが明かないだろう。ではそれとは別の視線の先には何があるのだろう。苦痛で顔がゆがんでいる。誰かがそこで敗れ去ろうとしている。勝敗はどこにでも至る所にあるらしい。なぜ君はそこから顔を背けているのか。意識はそんな世界からどこかへ立ち去ろうとしているらしい。またどこに思いを馳せているわけでもなく、現実にはまったく歯が立たないようだが、争点は何もないわけだから、何を争っているわけでもないか。いつもの否定力はどこへ消えてしまったのか。何を否定したいのか。そんな問いかけに答える対象はない。存在しない意識を構成しようとしているわけではない。たぶんどこかにあるのかも知れない。あり得ない出来事が起こったときに何を思えばいいのだろう。今はそんなことを思いたいわけでもないか。いつものように何も思いはしない、と嘘をつきたいだけか。しかしなぜ執拗に次から次へと試練が到来するのだろう。なぜ疲れ切っているのか。誰がそんな風に思っているわけでもなく、そこでは誰もが安らぎを得たいような気分に近づいている。たぶんそれはありふれた物語の中でのことだろう。それでも君は絶えず何かを求めている。新鮮な感覚を得るにはどうしたらいいのだろう。これから何をやりたいのかわからないが、新しいことを述べるには新しい体験が必要なのだろうか。必要であるかも知れないが、必要と思われるときは何も到来せず、必要とは思わないときに、不必要な出来事が洪水のように押し寄せてくる。そんな風に思えたら楽しいか。何が楽しいわけでもないか。ただ疲れるだけだろうか。そうは思いたくないか。そこで何を経験しているわけでもなく、そこ以外でどうでもいいような出来事に遭遇しているだけかも知れないが、そんな経験によっても、何かが着実に蓄積しているようだ。それは君にとってまったく無駄なことなのだろうか。無駄であるかないかは将来においてわかることか。それとも経験が無駄にならないように努力しなければならないのか。それは何かの勘違いかも知れないが、たとえ無駄な努力であってもかまわないだろう。あるいは努力しなくてもかまわないか。しかし何をどう努力しようとしているのか。すでに無駄な努力をしている最中なのか。そうかも知れないが、そうでないかも知れない。そんなことがわかったところで、あるいはわからなかったとしても、そこから何が導き出されるわけでもないか。それでも何かが導き出されているとしたら、それは疲労以外の何ものでもないか。そんなにそれらの状況を否定したいのか。誰が否定しているわけでもなく、文章のつながり的にはそう述べなければならないのかも知れない。しかし何を述べているのか意識が理解していないようだ。それを理解できなければ何を否定する必要もないか。ただ否定的な文章を構成しながら、何を否定したいわけでもなく、否定する対象を見いだせずにいるらしい。それはどういうことなのか。ただ虚構のまなざしは何を見ているわけでもないということか。そんな風には思わないだろうか。そこにははじめからまなざしなどありはしないだろう。何を見ているわけではないと述べていたではないか。そのついでに何を語っているのでも、述べているのでもないと思いたいわけか。そんな風になれば満足するだろうか。誰がどんなことに満足するのだろう。もし満足できないのなら、はじめからやり直せばいいことか。何をまとめようとしているのか。そんなやり方はわざとらしいか。もしわざとらしいと思うなら、他の誰かがそれとは違うことをやればいいことか。そんなことを繰り返してもつまらないだけか。もしそう思うなら、繰り返すのをやめればいい。


11月6日

 どうも始まりがしっくりこないようだ。さっきまで何の話をしていたのだろう。話をしていたのはどこかの司祭だったかも知れないが、君はキリスト教には興味がないらしい。はたして宗教が娯楽になるのだろうか。誰かがどこかでしらけているようだが、気晴らしの話はまた善と悪のせめぎ合いなのか。それでは話が単純すぎるだろう。別の場所で誰が何を語っているわけでもないようだが、それについて語ってしまうと、何となくくだらない話になってくる。何かが行ったり来たりしているらしい。それはどんな思いなのか。何を逡巡しているのだろう。いつまでもためらい続けているようで、そこから先へ一歩も踏み出せずにいる。要するにそれは毎度おなじみの現象で、以前に語ったはずの話を飽きもせず繰り返していることに意識が気づかない。同じような言葉が同じような状況の中で、繰り返し出てきてしまう。そんなわけでまた以前と同じようなことを語っているらしいが、それらの悪循環を断ち切ることができない。なぜそうなってしまうのだろう。それが悪循環だからか。そう思っているほど悪循環でもないだろう。気休めを述べている場合ではないか。しかし本気でそれが悪循環だなんて思っていないか。別に悪循環でもかまわないか。悪循環を経験しなくては悪循環を克服することはできないか。しかし何を克服しようとしているわけでもないらしい。またそれ以上に何を述べているわけでもない。世の中は矛盾だらけかも知れないが、そんなことはどうでもいいことであり、同時にどうでもよくないことなのか。あるいは冗談なのかも知れない。何が冗談なのだろうか。たぶん何かが冗談なのだろう。冗談で語っているようでいて、たまに本気になる場合もあるらしい。その場の成り行き次第でどうにでもなるのだろうか。何がどうにでもなるわけでもないか。とりあえずそんなことを語りたかったわけでもないのだろう。どうも悪魔は話を込み入らせながらも、結局は自滅する運命のようだ。それが映画なのだから仕方がないか。最後に善が悪に打ち勝たなければ、映画としてのオチにはならないか。そんな話はうんざりか。君が悪魔だからうんざりしてしまうわけか。別に君が悪魔であるわけがないか。では君は神なのか。それではあまりにも安易であり、冗談にすらなり得ないか。誰が悪魔で誰が神であろうと、そのどちらでもなく、そんな自覚とは無縁の君には関係のないことか。まんざら無関係というわけでもないか。ついさっきまでそんな大げさな映画を見ていたはずか。これから先もそんな話が目白押しかも知れない。やはりそれは悪循環なのだろうか。そんなことは君の知ったことではないか。どうしても無関係だと思いたいわけか。どうも今日は悪循環という言葉が悪循環しているらしい。わざとそうしている嫌いもあるようだ。だが君は偶然がそうさせているのだと思い込みたいのかも知れない。まさかそれが神の意志であるはずがないだろう。何を笑っているのか。今度はどこかで悪魔が笑っていることにしたいのか。何を述べているのだろう。何が冗談なのかわからなくなるか。それはどんな冗談でもないのだろうか。そんな風に思うのはおかしいか。では唐突にこの世界について何を考えればいいのだろうか。それもおかしな成り行きだろうか。偶然にそんな歌を聴いている。世界の子供たちを守らなければならないらしい。歌っている彼はユニセフに協力しているわけでもないだろう。なぜ世界を守ることが子供たちを守ることにつながるのか。誰かは、未来を担うことになる子供たちを守らなければならない、と歌に託して訴えかけているわけか。今さらそんな歌詞は白々しいか。そんなことを語りたかったわけではないか。単に歌っているだけか。ではわざと支離滅裂なことを語ってみたいか。そんな風に見せかけたいらしい。しかしいったんそこで立ち止まってみる必要があるだろう。君はいつから投げやりな気分になってしまったのか。どうも話に無理があるような気がする。何とか主人公を話の最後まで生かしておかなければならないという義務感がその無理を生じさせているのかも知れない。それは圧倒的な力で主人公を殺そうとする敵に、不自然な手加減を加えさせる結果を招いている。そこで見ている感性をしらけさせる。笑ってしまうシリアスな場面を醸し出しているわけだ。アホくさいと思わせてしまうらしい。やはりそれは冗談の一種なのか。画面を通して見ると、この世の中はどこまでも滑稽に映る。なぜそんな話にしなければならないのか。なぜ人は自らの都合に合わせて何かを物語らなければならないのか。それでも感情の赴くままに語っているつもりなのだろうか。あるいは無責任に語っているのか。


11月5日

 状況は何もさせてくれないようだ。それも冗談の一種か。しかし時間が止まっているわけではない。また明日になってしまったらしい。どうも言葉を繰り出すタイミングがワンテンポ遅れてしまっている。それで深夜に拍子抜け状態になっているわけか。ただ漠然としているだけか。近くの国道も交通量が多くなってきた。県境を越えた付近の通行止めが解除されたのだろう。肺癌の素となる大型トラックが頻繁に通っているいるらしい。しかしまだ地震は収まらないようだ。余震の回数はだいぶ減ったようだが、気がつけば忘れた頃に揺れている。いったいあの辺の地下はどうなっているのか。要するに群発地震というやつなのか。最初の揺れを超えるものはもう起こらないのだろうから、その点では少しは楽かもしれないが、依然として避難している人にとっては、この状況はたまったものではないのだろう。だが君には関係のないことか。君は何もできずに途方に暮れているだけか。またいつもの嘘をついているらしい。それでも何とかするつもりらしいが、本当に何とかなるのだろうか。この世界はどうなっているのだろう。どうにかなっているわけか。そんな風には思わないか。君の世界観はよくわからない。なぜそこには規則性がないのだろうか。意識はすべてから遠ざかろうとしている。別に何に支配されているわけでもない。誰がどこの国の大統領になったからといって、何がどうなるわけでもないと思う。それはただの出来事なのであり、直接君の生活に影響を及ぼすことはない。君は相変わらずいつもの区間を行ったり来たりする毎日を送るだけだろう。なぜそこから逸脱できないのか。自分から逸脱しようとしていないからか。そんな生活に甘んじているのは楽しいか。楽しくはないがそれが君の領分なのか。今はそれで満足しているように感じられる。そうやってまた嘘をついているらしいが、それ以外にあり得ないことを知っているつもりのようだ。それは冗談ではないか。何となくそうなってしまっているらしい。もう何も思わないのだろうか。そんなことまではわからない。どこかの誰かのように脳死に至っているわけではないか。しかし何を譲歩しているのだろう。何をやめようとしているのか。やめられるはずがないだろう。それこそ冗談ではないか。何を述べているのかわからないか。だんだん無気力になってくる。これからどうすればいいのかわからなくなる。君は地震の被災者でもないのに途方に暮れているわけか。自由が欲しいか。世界中を歩き回って野垂れ死にでもしたいのか。それの何が自由なのか。ただ欲望に引きずられているだけか。どこかの国の大統領は野望に引きずられてその地位まで登りつめたわけか。中には夢に引きずられて行方知れずになった者もいるらしいが、いったいそれらの何が自由なのだろう。別に自由を求めているわけではないのかも知れない。ただそんな風に生きている姿が自由に見える場合もあるのだろう。要するに自由な雰囲気を想像しているわけか。不自由な現実と自由な空想を比較するのは虚しいか。想像しているうちに馬鹿らしくなってくるか。しかし自由に生きるために何を犠牲にしているわけでもないだろう。自由に生きていないのだから何の犠牲も払う必要はないか。それでも何かが犠牲になっているとしたら、それはやはり自由に生きようとする欲求だろうか。それでは循環論になってしまうか。そこで何が足りないのかわからなくなる。あるいはわかりきったことをあえて述べずにいるだけか。君はそれが何だか知っているはずだ。知っているがそれについてはわざと言及しないつもりなのか。わざとではなく、現状では言及することが不可能なのかも知れない。なぜそうなってしまっているのだろう。理由など何もないような気がするが、それでも理由を導き出そうとしているようだ。ただ続けるために言葉を繰り出しているのか。それが目的なのだろうか。そう思ってしまったら終わりか。何が終わりになるのだろう。たぶん何かが終わりになってしまうのだろう。君はその何かをわかろうとしていない。わかろうとするのが面倒なのかも知れない。わかりたくないのか。夜明け前の空は曇っているが、晴れ渡ったらわかる気になるのか。そのときになってみればわかることなのか。たぶん忘れているだろう。何となく馬鹿らしいことを述べているらしいが、気分はすこぶる良いわけでもなく、そんな述べ方がわざとらしいように思える。たぶん何もないのだろう。何もないから無駄に言葉を弄しているわけか。しかしそれであきらめがつくだろうか。あきらめきれないから、執拗に続けようとしているわけか。


11月4日

 話題は果てしなく続くようだが、話題にばかりかまけていてはいけないらしい。だが別に何に心を奪われているわけではない。どこかの誰かは何もないのに書かなければいけなくなる。何を書けばいいのか思いを巡らしているうちに、何もない状況の中で次第に嫌気が差してくるようだが、それでも深夜に目が覚めてしまうわけか。それはどのようなフィクションなのだろう。もうその時間帯にしか言葉を繰り出すいとまがなくなってしまうほど追いつめられているのか。所詮は本業でないわけだ。何かの合間にかろうじて続けようとしているだけか。それでもやり続けようとしているだけマシかも知れないが、気を抜けばすぐに遅れがちになり、時の流れに対応できなくなる。過去の時間帯で悪戦苦闘している状況になってしまう。今もそんな成り行きのようだ。どうにもこうにも疲労と眠気に打ち勝つことはできないようだ。無理なのはわかっているつもりか。やっていることが果てしなくとりとめもない。何について述べようとしても、何となく飽きてくる。そんなことを述べようとしているわけではないことに気づいてしまうわけか。それでも強迫観念の虜になっているように見せかけて、無理矢理心にもないことを述べてしまうのか。自然とそのような言葉が繰り出されてしまうわけか。そしていつものように嘘をついている。どのように述べてもそうなってしまうのだから、それを避けることはできないようだ。だからやり続けることが可能となっているわけか。不可能なことが可能なように、見え透いた嘘をついているらしい。だが本心からそんな風には思っていないのかも知れない。いつもやり終えればしてやったりとでもほくそ笑んでいるわけか。それほどうぬぼれているわけでもないか。何もない空虚でしかない思いをどんな言葉で飾り立てているわけか。それほど大げさな振る舞いではないはずか。ではすべては戯れ言の域で演じられているわけか。何かを演じるほどフィクションに浸っているわけではない。陶酔には程遠いろくでもないことが述べられている。誰かと誰かがどこかで待ち合わせをしているわけでもなく、どこかに用意周到な仕掛けがしてあるわけでもなく、ただ何を述べているのか手探り状態で進もうとしているだけか。どこへ進んでいるのかさえはっきりしていないようだ。なにやらいいわけめいたことを語っているようだが、それが何だかわからない。唐突に言葉つながっていないような気がする。意識はどこかへ流れ去ってしまったらしく、行方知れずの意識を現実の引き戻すことが困難になりつつある。本当にそんな状況なのか今ひとつ確信できないようだが、やはり誰が何を述べているのでもないような気になってくる。意識はどこへ行ってしまったのだろうか。それが無の境地というやつか。冗談もほどほどにして欲しいか。たぶんそんなことを述べていると、気が軽くなったようなつもりになるのかも知れない。軽い気分で軽いことを述べているように錯覚できて、本当な深刻なのかも知れない状況を一時忘れたような思いになれるのか。それで済むのなら好都合なのだろうか。気持ち的にはそうかも知れないが、状況的に追いつめられていることには変わりないか。意識はそうでもないと思いたいようだ。さらにどちらでもかまわないと思いたくなる。とりあえず気晴らしに言葉を連ねられれば、それで満足しなければならないのだろうか。今の状況はそんなところか。限られた時間内ではそれでもかまわないのかも知れない。無限の時間が与えられているわけではないのだから、それに沿った語りになってしまうのはやむを得ないか。やむを得ないがそれでは不満なのかも知れない。できればしてやったりの満足感に浸りたいのだろう。いつもあきらめてばかりでは精神衛生上よくないか。たとえ満足からは程遠くても、少しでも明日につながる希望を見出したいところか。そんな無い物ねだりもいい加減にして欲しいか。別にそれの何が不都合なわけでもないだろう。夢や希望とともに前向きに事態を捉えていないと精神的に参ってしまうだろうか。すでに降参状態なのではないか。何に降参しているつもりなのだろう。つもりではなく本当に参っているのではないか。だいぶ以前から行き詰まっているはずか。それなのに何で続いているのだろう。行き詰まっているのは嘘なのか。単なる誰かの思い違いなのか。君はそうやって何を述べ続けているつもりなのか。それは何でもなく、それらはただの冗談なのだろうか。そうであったなら、少しは救いになっているのかも知れない。たまには本気になっている部分もあるのかも知れないが、その大半は君の思いから外れたことを述べているらしい。たぶんそれらの語りは君個人の所有物ではないのだろう。誰のものでもあり得ず、その場が醸し出す雰囲気を捉えているだけかも知れない。


11月3日

 誰かはそれらの結果に少し驚いている。でもある程度は予想していた結果だし、そうなることはうすうす感づいていたようだ。でたらめな社会がそれにふさわしい誰かを再び指導者として選んだ。形式的にはそういうことなのだろう。平和を愛する人々にとっては信じられないことかも知れないが、それは紛れもなくこの地球上で起こった出来事であり、それは許し難い暴挙に思われるかも知れないが、受け入れざるを得ない現実なのだろう。多くの人々はそれが気に入らないようだが、選ばれた人物にとっても恐ろしいことなのかも知れない。その人物は何のために存在しているのだろう。彼がすべてに責任を背負っているわけではないだろう。とりあえず恐ろしいことを遂行するためには欠かせない最重要人物なのかも知れないが、結果的には誰でもよかったのかも知れない。ベトナム戦争で勲章をもらったことを自慢する一方で、帰ってきて反戦活動をしていた過去を隠していた、ケリーのような中途半端な馬鹿より、親のコネを利用して兵役逃れをしていた馬鹿全開のブッシュの方が、こいつが大統領なら仕方がないか、とあきらめもつくし、そういう人物が大統領に選ばれた方が、かえって平均的なアメリカ人の本音がむき出しになっているように感じられるから、ある意味では潔いのではないか。アメリカ以外に住んでいる人々は嫌な感じがするかも知れないが、アメリカ人なら彼を選んで正解なのかも知れない。彼こそが現在のアメリカを象徴する人間なのだ。そんなわけでそれらのうんざりするような制度はいつまでも維持継続されるらしいが、できることなら誰もがそこから逃れたくなるだろうか。だがそこから逃れようがないことは誰もが承知しているはずか。君はいつまでそれを無視している風を装えるだろうか。無理にそんなことをやろうとしているわけでもないか。それについてどのように語ろうと、否応なく逃れようがないことに気づいてしまうだけか。テロとの戦いという正義が人殺しを正当化するとき、それに異を唱えることがはたして有効なのだろうか。それでどうにかなるとでも思っているのか。また石油を利用した金儲けを優先させることで、人々を死に追いやっている現実についてはどう思っているのだろうか。貧しき人々が小銭を稼ぐぐらいなら人畜無害なのはわかっているが、豊かな人々がさらに豊かになろうとすることが、どうして有害なのか理解できないわけか。それをやればやるほどこの世界がどうにもこうにも救いようがなくなることが、明白になってくるのかも知れない。貧しき者と豊かな者がわかりあえるはずがないだろう。両者の立場の違いは直接の利害関係から生じていることだ。それを生ぬるい愛や平和から変化させようとすることは、現実をわかろうとしないことが現状に適合した態度なのであり、助ける者と助けられる者の関係を固定化して維持継続させる制度なのである。そのようにして愚かになりきることが、この世で生きていく上では有利に働くのだろうか。誰もが愚かならそうなのかも知れない。愚かになりきれない者は絶望と結びつくか。そんな絶望などたかが知れているか。本当にこの世界に見出されているのはそんなことなのか。なぜそんなことを肯定しなければならないのだろうか。何を信じればそうなってしまうのか。たぶんそれを押し通した結果は数年後に明らかになるかも知れないが、明らかにならなければ数十年後には忘れ去られているかも知れない。これからは人々がどれほど愚かになれるか、それを競い合わなければならない時代に突入しているわけか。だが君は本当にそれを実感しているのだろうか。それともそれは何らかの戦略的な意志に基づいたイデオロギー的な思い込みか。君はこれから何をしたいと思っているのだろうか。すでにそれは明らかになっている。誰かはそれを知っていながら無視している。積極的にそんなことを知りたいとは思わないか。知りたいことは宇宙の彼方にでもあるのか。そんなことはわからないが、たとえ現状をどのように解釈しても、これまで通りの世の中が続いてゆくだけかも知れない。誰もそれについてはどう思っているわけでもなく、本当にそれが恐ろしいことだなんて絶対に思わない。歴史上それよりも残虐な出来事などいくらでもあったはずで、誰もがそれに気づいているわけではないが、何かがこれから終焉を迎えつつあるとしても、終わりの時はいつまでも先延ばしにされるだけか。本当にテロとの戦いはまだ終わらないのだろうか。そう思っている人は、嫌な世の中だと感じるだけか。現実にはこれからが本番なのかも知れず、まったく終わる気配さえ感じられないのかも知れない。当事者の誰もがこのままで終わらせようとは思わないだろうが、何となくこのまま続いても仕方がないような気がするのは、傍観者の無責任な感想に過ぎないか。


11月2日

 何を見せつけられているのでもない。どう述べていいのかわからないが、ただ見せかけの姿が見せかけられている。しかしそれを見ようとしているわけではない。だが見えないわけでもない。見えているものはすでに見てしまったらしい。そしてそれを見てどう思うこともなく、やがて時は流れ、今はもう別の時空の中に移動して、何を見ているのでもない。興味はどこにあるのだろう。何を見たいのか。強引に見たいものを思い浮かべようとは思わないか。想像力はどこへ働いているのだろう。何を想像しようとしているのでもないか。何も想像できはしないか。何もしていないようだ。いったい何について語っているのだろう。そんなことはわかっているつもりか。それともわかりようがないか。それを見ることによって何がわかったのか。何かがわかったはずか。君はそれをわかっているはずだ。わかっていなくてもわかっている風を装っている。それが何なのかわかりたいか。あるいはわからなくてもかまわないか。無理にわかろうとしなくてもいいだろう。わかりたいはずがないか。わかりたくなければ何もわからずじまいだろうか。別にわからずじまいでもかまわないか。そんなものには興味がないか。元から何もないのだから、興味も何もありはしないか。その辺がよくわからないか。よくわからないがやはり何も述べてはいないようだ。何を述べたらいいか迷っているわけか。それを肯定的に解釈すればそういうことになるだろう。しかし何を肯定したらいいのだろう。はたして肯定できるものを持ち合わせているだろうか。何かを肯定できるとしたら、それは以前に想定された範囲内での肯定なのか。以前とはいつ以前のことなのか。本当にそれを肯定していいのだろうか。例えば虚無に包まれている現状を肯定してどうするのだろう。なぜそれが虚無だと感じられるのだろう。そんな風にしてどこへ逃れ去ろうとしているのか。現状を捉えきれずに、苦し紛れにそれを虚無だと見なして否定しているだけではないのか。虚無という言葉の使用は現状を否定的に捉えていることになるのだろうか。それを肯定するには、虚無ではなく少なくともそこに何かがなくてはならないのか。そこに何かがあることを言葉で示さなければならないか。しかし何もない現状をどうやったら肯定できるだろう。何もなくはないだろう。必ずそこには何かがあるはずか。例えばそこには空気があり、ある種の雰囲気が漂っている。それはどのように感じられるのだろうか。あるいは何の気配も感じられないか。現状はどのような精神的境地を導いているのだろう。本当に何もなければそれは無の境地ということか。無の境地とは仏教的には虚無ではないはずか。別に仏教を信じているわけでもないが、無の境地に至ればどうなるというのか。何らかの悟りを開けるわけか。それで何を悟っているというのだろう。万物は流転し変化し続け、決して一つの場所に思いがとどまることはないということか。そんな言葉で何を悟っていることになるのだろうか。悟りとはそういうものではないのか。何となく冗談のように思えてくるが、それの何が間違っているのだろう。どうもまだ何も述べているわけではないような気がしてくる。何かを述べるに至ることを避け続けているようだ。なぜそうなってしまうのだろうか。ボブ・ディラン風に答えは風の中にあるからか。そんな決まり文句で満足できるはずもないか。まだ風の中にあると決まったわけではないだろう。例えばそれは心の中にあるのかも知れず、また人の意識が及ばない外部にあるのかも知れない。だがそれでも何を述べていることにもならないか。結局はそれがどこにあるのかわからずじまいになろうとしている。言葉だけではどこに至ることもできないか。それはどのような境地でもなく、ただ物事の表面をそれ風の言葉でなぞっているに過ぎないのか。それで何がわかるのだろう。わかるはずがないと思いたいわけか。それは当たり前のことで、言葉はそれをわかるためにあるのではなく、事物の前に障害物を打ち立て、それが何だかわからないようにしているだけのようだ。言葉を弄してわけのわからない迷路を作り上げようとしているわけか。あるときはそれを大げさに見立て、またあるときはそれを隠蔽し、さらには肯定したり否定したりする。要するに絶えず事物を都合に合わせて歪曲しようとしているのか。しかしそれ以外に物事を表現する手段があるだろうか。たとえそれに音や映像を付け足しても、それの延長上にあるのに過ぎないのではないか。では何となく本当らしく見せようとしているそれらの行為をどうやって肯定したらいいのだろう。現状では肯定するのも否定するのも言葉を用いてするしかなさそうだ。しかしそれでは現状から逃げていることになりはしまいか。そんなことはわからないか。


11月1日

 どこかの誰かは批判することは否定することではないと述べたいようだが、意識は当然それとは違うことを思っている。感情的には他人のやっていることを否定したいわけだ。確かに理性によってもたらされた虚構の思いは否定する行為を拒絶しているかも知れないが、はたしてそれを続けることができるだろうか。それでも理性に逆らって否定しようとするなら、今さら何を否定したいのだろう。要するに何でもいくらでもあらゆることを否定したいのだろうか。そのような思いを君はどうやって押さえ込んでいるのだろうか。本心から押さえ込んでいるはずがないか。理性などという概念はまやかしに過ぎないか。そんなものは嘘に決まっているだろうか。ところで君はそこから何か変化するきっかけを見つけたのだろうか。意識はそれにふさわしい言葉を探しているようだが、今のところは何も見あたらない。では今の気分はどうなのだろう。何かを否定したくて仕方がないのだろうか。だが否定する対象がどこにあるのだろう。それを見つける気はないようで、また他に何もやる気もしないようで、何となくいつもの性懲りもない無気力な精神状態が続いているらしい。まるで自分のことが他人事のように感じられるのもいつものことだろう。そうやって誰かはまた同じようなことを述べているのだろうか。それは誰かではなく君のことなのではないか。何を執拗に問いただしているのだろう。別に執拗というわけでもないか。架空の君のことなど誰も知りようがないのかも知れないが、それを強引にねつ造すれば、相変わらず君も誰かと同じように何を求めているのでもないらしい。さっきまでは変化するきっかけを求めていたのではなかったのか。それは気まぐれなその場の思いつきに過ぎないのであって、たぶんそれが嘘であることは言うまでもないか。ねつ造しているのだから嘘に決まっているだろう。ところで君は何をねつ造しているのだろう。確か君に関して知り得たことをねつ造していたはずか。架空の君の思いを言葉によって構成しようとしていたのだろうか。それら作業はそんなことに過ぎないのか。とりあえずそれに関してそれ以上はどうにもこうにも何も述べる理由はなさそうで、実際には適当にそれ風の言葉が連なっているだけのようだが、現実には意識は何を述べているのでも語っているのでもないようだ。しかし何かを述べたり語ったりするということはどういうことなのだろうか。今さらそんな問いはないか。それについて強引に述べるならば、気まぐれにわざとらしいことを語るならば、昨今の相次ぐ台風や地震などによってもたらされた災害や、またテロとの戦いという名のむごたらしい戦争の泥沼状態などからわかることは何だろう。人々がそこで何を訴えかけているのかといえば、やはり命の尊さということになるだろうか。確かに一般的には命は尊いものなのかも知れない。そんなことは当たり前のことだろうか。しかしそういう述べ方は悪意に満ちているかも知れない。本心に逆らってわざとありふれたことを述べようとしている。また君はくだらぬやり方で他人の気持ちをもてあそぼうとしているのだろうか。とりあえずどうあってもひねくれたことしか述べられないらしいが、本当にそんなことを実感しているわけではない。ではそこからいったい何を語りたいのか。今のところ何を語ろうとしているのか不明のままか。いったい君は何を述べたいのだろうか。おまえらみんなおかしいぞ!と叫びたいのか。本当にそんな風に思っているのか。しかしこの世界に暮らす人々がおかしくなかったら、何も思うことはなくなってしまうか。それ以外に何を思えばいいのだろう。そんなことがわかるわけはないか。何をわかろうとしているのか意味不明か。そんなことはわかりきったことだ。ひねくれ者の君は冗談で命の尊さを実感しようとしているらしい。そのような語り方は嘘っぽい響きを伴っている。どうしても本気になれない。本当は何を実感しようとしているわけでもないのだろう。何の実感も伴わずに言葉だけがいい加減にうねっているだけか。それらの文章は適当な揺れとともに振動している。そんな風に語りながら心は何を動揺しているのだろう。何も導き出せずに困惑するばかりか。だがそれでも命があるだけも儲けものなのだろうか。誰もそんな風に思うことはないだろう。平和なのだから仕方がないか。だがわざと嘘をついている状態では何をどう述べても冗談になってしまうだろう。本当はそのような環境に暮らしているわけではない。どこまでも果てしなく出来事が連なっているただ中でどうしようもなく生きているだけか。この世は次から次へと矢継ぎ早に予定や予期せぬ事態が目白押しなのかも知れない。命がどこにあるかなんて誰も知りはしない。それはどこかにあるようなものではないか。


10月31日

 それは何かの映像だろうか。枯れ葉が舞っている。それは絵かも知れない。いつまで経っても何も思いはしないか。そんな状況に浸っているだけか。なぜ妄想を言葉にできないのだろう。何に執着しているわけではない。偶然がそうさせているのかも知れない。しかしそれが幸運であるわけがないか。奇跡が起こることを望むのはよくないらしい。偶然は偶然にしか起こらないものだろうか。それを偶然と見なすならばそういうことになるだろう。なぜそれを奇跡だと見なしたいのか。だが依然として偶然は偶然でしかない。なぜそれは偶然でしかないのだろう。偶然に何が訪れているのだろうか。たぶん何も訪れてはいないのだろう。それは偶然ではないような気がする。何となく必然的な成り行きに思われる。それが偶然であることを信じられないのか。何らかの原因を探したくなってくる。何かを取り違えているのかも知れない。ただそれはそうかも知れないというだけで、本当のところはわからないが、そんなことはどうでもいいことなのだろう。それは単に信仰の問題なのかも知れない。要するに怠惰な意識は思考することを怠り、それを信仰の問題として片づけたいわけだ。では何をどんな風に信じれば満足するのだろう。その偶然を奇跡だと信じていれば幸せになれるか。幸せになってどうするのか。どうにもなりはしない。ただ幸せになるだけか。だがそんな風に思いを簡略化していいのだろうか。ただそう思うだけのことなのか。現状を幸せに思ったり、不幸せに思ったりしていれば、それでいいのだろうか。本気でそう思っているわけはないか。ただ部分的に、とりあえずの思いとして、あるいは戯れに、間に合わせの思いとして、そんな言葉を用いてそのときの思いを表現しておけば、それでいいのだろうか。それでいい場合もあるだろう。そんな言葉で気が済む人もいるはずだ。それらの感情を愛だの恋だのと呼んでいれば間に合ってしまう人もいる。ではどうしてそんな言葉を平気で使ってしまう人を馬鹿にしようとするのか。誰が馬鹿にしようとしているのだろう。またそこに架空の人物を設定しようとしているのか。誰が設定しようとしているのだろう。何となく本筋から逸れてしまっているように思われる。もうそこで話は終わっているのではないか。しかしそれで何がわかったことになるのか。何もわからずじまいだろうか。それとも何かしらわかった気がするだろうか。誰に尋ねているのだろう。確信には至らない。それははじめから欠けているものだ。何らかの試行錯誤によって確信に至ろうとしているわけではない。自らの現状を幸福だと思うことはある種の勘違いなのかも知れない。盲目になっている自らに気づかないだけではないのか。しかしそれでも人は進んで盲目になろうとするだろう。現状を肯定するということは、そこで思考を放棄することなのか。歩みを止めて、そこで眠りにつき、自分勝手な夢を見続けようとすることなのか。だが現状の不具合をいつまでも無視し続けることができるだろうか。不具合から必死になって目を背け続けることが本当に幸福なのだろうか。それは幸福であると同時に不幸でもあるということかも知れない。幸福でも不幸でもどちらでもかまわない。その状況に浸っている当人には何らかの確信があるのかも知れないが、それはただ信じて疑わない姿勢を賢明に維持しているだけなのかも知れない。無理に作り笑顔を絶やさないようにしているのと同じことか。確かにそうやって自己満足に浸っていれば幸福でいられるのだろう。しかしなぜそれが欺瞞に思われるのだろう。なぜそれらの幸福が不快に感じられてしまうのか。何となく悩むことを怠っているだけのように見えてしまうのはなぜなのか。悩んでも仕方がないだけか。誰に不平不満をぶつければいいのか。そんな対象などどこにもありはしないではないか。誰が何をやってくれるわけでもないだろう。今さら何に頼るわけにもいかないはずか。そんな状況の中で無理に自己正当化する必要があるだろうか。何をやってもどうにもならないのに、その上どんな自己を顕示すれば気が済むのだろう。どうして認められたいのか。認められる対象がどこにあるのか。だがそれらを否定すればきりがなくなってしまうか。ならば適当なところで妥協して、幸福になった方が得だろうか。しかしそれが幸福といえるだろうか。そんな幸福などいらないか。幸福も不幸もどちらもいらないか。いらなくてもどちらかの状況になっているはずか。他人からどう思われようとどうしようもないか。別に何を求めているわけでもないのだから、積極的にどのような状況に至ろうとしているのでもない。たぶんいくら言葉を連ねても何を獲得することもないだろう。ただそうしているだけなのかも知れない。


10月30日

 たぶん翌日の空は曇っているだろう。すでに翌日になってしまっているようだ。それは架空の君には関係ないことかも知れないが、これから何を語ろうとしているわけでもないが、とりあえず今日も世界の片隅で人が死んでいるようだ。だが別に君が死んでいるわけでもないか。なぜ他人の死が君に関係あるのだろう。死んだ人が君と同じ国民だからか。たぶんそんな関係で他人の死に興味を持つのかも知れないが、仮に君が死んだからといって、誰が騒ぎ立てるわけでもないか。それは君の死に方にもよるだろう。他人が注目するような死に方なら、興味を持たれるのかも知れない。というよりニュースで取り上げられるような死に方なら、その死は大げさに騒ぎ立てられるのだろう。別に騒ぎ立てられれば死んだ甲斐があるというものでもないだろうが、無視されるよりはマシなのだろうか。死人が何を思うわけでもないか。その死人はもう君のことなど忘れてしまったか。君は気まぐれで死人のことを思い出そうとしているようだが、死人は君のことなど何も覚えていないはずか。だいいち君は死人とは面識がないだろう。ただニュースで死人が生存中の映像を見ただけではないか。何か囚われの身で助けを求めていたような気がするが、記憶はそれ以上のことを覚えていないらしい。おそらくあと何十年も経てば誰が何を覚えているわけでもなくなってしまうのだろう。それでも誰かが何か覚えているはずか。死人は自らを忘却の対象として語られたくはないか。いつまでも自らの死を覚えていて欲しいだろうか。いったい誰が覚えているのだろう。覚えている人も死んでしまったら仕方がないか。では死ぬ以前に有名人にでもなっておけばよかったのだろうか。今さらそんなことを述べてみても後の祭りだろう。たぶん君は死人を題材にして何を語ろうとしているのでもない。他人は何を覚えているのだろう。君は死んでもあの世で強引に語っているのかも知れないが、誰がそれを語っているようにも思えないか。生きている人間には何もわかりはしないだろう。架空の人物がそれを語ってしまったら、生身の話者は他に何も語れなくなってしまうか。なぜそんな風に思うのだろう。案外今がそんな状況なのかも知れない。誰が語っているわけでもないのに、なぜかつまらない話が進行中のようだ。その中で誰が生きているのだろう。すでに誰かが死んでいるのではないか。そんな話は嘘に違いないか。それらの物語の中では誰も生きられないと思いたいのか。では君はなぜこれ見よがしなことを語ってしまうのか。それが商売だからか。そんな商売はごめん被りたいか。ちょっと待ってもらいたいか。君が何を語っているのかわからないだろう。それはいつものことなのではないか。それはいつの講演での話なのか。詳しいことは何も伝えずにそんな風に話を進めてしまうのは卑怯か。そのようなやり方でしか言葉を繰り出せないのだから、それはそれで仕方のないことか。しかしそれでは意味不明だろう。では意味不明のついでに、いつも待ち合わせ場所は夢の中にあるらしい。しかし昨晩はどんな夢を見たわけでもないのだろう。まだ夢の中には何ももたらされていないか。深夜に目が覚めたら、ただ雨音が激しくなってきただけのようだ。それは昨夜の記憶だろうか。覚えているのはそんなことでしかないが、それがどうしたわけでもないか。それで何が変わるわけでもないだろう。何を変えようとしているわけでもない。雨水で何かが浸食されているのかも知れない。それで何を捉えていることになるのだろう。いったい何を述べているのか。そのわけのわからなさが誰かの限界を露呈させているのだろうか。それは限界ではないのかも知れない。何かの可能性だと思いたいのか。例えばそれは心が虚無に浸食される可能性か。すでにそんな状態なのだろうか。ではそれを誰に見せたいのか。それは何かの舞台なのだろうか。舞台の上から何を見せびらかしているのか。意識は何も述べられずに空腹感が増して行く。そんな飢餓状態がもたらされているのだろうか。ただそう思いたいだけか。どうやってその思い込みを捨てられるだろうか。どんな風に語れば満足するのだろうか。たぶんそのときの意識はおかしなことを述べていたいのだろう。だが文章になっていないのかも知れない。そのときの気分は言葉にはならない。しかし言葉にならない思いは歌になるわけでもない。崩れたままさらに崩れ去るだけかも知れないが、何を崩そうとしているわけでもなく、それはただ自然の作用なのか。もたらされているのはそんなものでしかないのだろうか。少し息継ぎが必要かも知れない。だがそれ以上の生存は不可能だろう。すでに誰かの首は切断されていたらしい。


10月29日

 何となくわからないが、どうやら無駄なことを述べようとしている。それの何が気に入らないのか。なぜ夢の中で追われていたのだろう。いきなり夢の中はないかも知れないが、思うように終われないから、終わりから追われていたのだろうか。現実には時間に追われている。なぜか筋肉痛で目が覚める。さっきまで夢を見ながらあえいでいたようだ。振り払っても振り払っても何かが追いかけてくるのだが、その夢は何を暗示していたのか。両腕がしびれている。しびれている理由はわかっているが、別にこれからそれを述べようというのではない。どうもこれから作業を再開しなければならないようで、机に座れば当たり前のことだが画面が傾いている。傾いた画面をしばらく眺めながら、まだ何を述べているのでもないらしいことに気づく。そこから文字以外に何が見えているわけでもなく、別に開き直っているわけでもないが、君はそこに書かれた嘘を無視している。この感覚は何だろう。何が感覚なのか。腕がしびれている感覚が何を呼び込んでいるのだろう。未知の冒険か何かか。それが冒険とは言い難いが、冒険とは何だろう。何が冒険なのか。でまかせに何を述べているのでもないが、ただ繰り出された言葉が現状に合っていないだけか。だがこれからどんな言葉が提示されようと、そんなことは感知しない。別にどんな言葉が提示されるわけでもないか。どうもまたいつものパターンにはまっているように感じられるだけか。当たり前のことしか述べられない状況下では、それ以外に何も述べる必要はないのかも知れない。だから不要なことを述べようとするのか。何がだからなのか。そういう状況が気に入らないからそうなってしまうのだろうか。何となく述べていることが馬鹿らしく思われるとき、そんな思いに逆らって別の何を述べようとしているのだろう。しかしまだ何も述べられないのか。苦し紛れにいい加減なことを思いつく。誰が輝ける太陽なのか。それはどこかの詩の一節かも知れないが、そんな思いに至るはずがない。なぜそうやってすぐに否定するのだろう。今が夜だからか。もうすぐ夜明けだ。だがそんなことを語りたいわけではない。無言の君には輝ける太陽が必要かも知れないが、まだ夜だから夜明けを待てばいいだろう。夜が明けてしまったらまたいつもの日常が始まるだけだが、それとは別の太陽が、架空の人格を伴って、文字と文字の境目に出現しようとしている。そんなのは嘘か。醸し出されているのは人格ではなく、暗闇の雰囲気でしかない。太陽は暗闇ではないだろう。そこに出現しているのは単なる文字の羅列か。羅列とは何か。暗がりの中でその意味を調べるのは面倒か。何が太陽であるわけでもなく、面倒なのでとりあえずどう述べていいのかわからないと述べておこう。しかしそれでも述べている。突然なぜ太陽という文字が出現するのか。それがわざとらしくも意味不明に思われ、だんだん投げやりな気分になってくる。太陽などどうでもいい言葉に過ぎないか。そんな現状が馬鹿らしく思われ、無理矢理文章を構成しようとしている現状に突き当たる。疲れているのかもしれない。何もなければ疲れるはずがないが、それでも疲れている。そんなことはわかりきったことか。なぜ当たり前のことを当たり前のように述べなければならないのか。そんな風にしか述べられないのだから仕方ないだろう。ここで焦っても仕方がない。何かが変わろうとしているように思いたいが、繰り出された言葉は一向に変わる気配がないようで、誰かの思いはことごとく裏切られているらしい。文字を読むたびに脱力感が増していくだけか。しかしそれに苛まれているわけでもないか。たぶん結果的にはそんな成り行きによって意識は生きながらえているのかも知れない。架空の意識がいい加減な思いとともに文章の中に存在し続けているわけだ。それを可能としているのがそれらの無駄や無意味なのだろうか。もちろんそれで満足しているわけではないが、そのような過程を経ながら言葉が繰り出されている現状があるだけか。それを否定したければ、別の述べ方でも模索すればいいのだろうか。そんな風には思いたくないが、その状況から逃れられないことは確かなようだ。やはりそれ以外にやりようがないのか。そうとしか思えないのはどうしてなのか。それはどういうことなのか。そんな問いは無意味かつ無駄であるだけか。ならばそこから何をどう展開させればいいのだろう。何を苛立っているのだろう。どうやらまだあきらめの境地には至っていないらしいが、そんな境地に到達してはまずいだろうか。ではどうすればいいのか。例えばそれが何らかの病に関連づけられたら少しは救いになるか。だが今さら気の病もないか。


10月28日

 君が何をどう語ろうとしているかはわかっている。だがもうその語り口は飽きているかもしれない。いつまでも変化するきっかけをつかめずに、また同じようなことを述べようとしている。そこからどのように変わりたいわけでもないらしい。また何が見出されるわけでもないようだ。つかの間の時間はもうそこで終わっているはずだ。過ぎ去っているのは時間だけではなく、そこにあるのはどのような見解でもない。たぶんまだ何も見出されてはいないだろう。ただ無駄に時間は費やされ、同じような言葉がどこまでも循環しているだけのようだ。そしてまたいつものように否定的な感慨に突き当たっている。もたらされているのはそんなものでしかない。だがそんなメッセージはもう忘れている頃か。あれからだいぶ時間が経っている。忘れられるはずがないだろうか。別に忘れようとしているわけでないが、その忘れられない出来事を誰に向かって語っているわけでもないらしい。また何が語られているわけでもないようだ。それもいつものことなのだろうか。いったい何を否定しているのだろう。何事も都合よく考えなければ息がつまるか。都合よく考えられないから息がつまるしかないようだ。では息がつまれば窒息してしまうわけか。それは架空の出来事かも知れない。頭の中がこんがらがっている。わざとそのように語っているだけか。しかしまだ何も見いだせないのか。とりあえず正気の沙汰ではないらしい。支離滅裂に言葉が散らばっているようだ。それはいつもの嘘だろう。以前からそうなのかも知れない。それでも何かしら述べているわけか。誰かが何か適当なことを述べている。別に君が述べているわけではないのか。君はこれからどうなることを求めているのだろうか。相変わらず何も語れずに迷っているだけか。何を語ろうとしているわけではないのだから、それは仕方のないことだろう。取り立てて何かを語るような状況にはなっていないのかも知れない。その何かがないのだから語りようがないか。ないのではなく見いだせないだけか。見いだせないのではなく導き出せないのだろうか。どちらにしろそれができないのだから仕方がないか。ただ君にはそれがわからない。どうしようもなく、そのような行為を否定する以外に語りようがないようだ。そして否定しながらも、それをやってしまっている。たぶんそんな風には思っていないのだろう。最終的には何とかなると思っている。確かに何とかなるが、それで満足することはないか。その何とかなりようが受け入れられないのか。ただ何を述べているのかわからないだけか。たぶんそこからが問題なのだ。そこからどうすればいいのだろう。どうにかすればいいのだろう。そんなことはわかっているか。現にそうやってどうにかしているわけだ。迷いながら迷っている風を装っている。それを語っているわけだ。それでも語っているつもりらしい。語ろうと努力しているわけだ。しかしそれが気に入らない。そんなことはわかっているはずか。わかっているならなぜそれを繰り返すのか。それしかできないから繰り返されるわけか。そして誰もがそれをやっている。毎日同じようなことをやっている。それが仕事なのであって、仕事以外にはやりようがないわけだが、仕事以外でも同じようなことを繰り返している。そんな風に思ってしまうと絶望的な気分になるか。何事もそのような成り行きになっているのかも知れない。しかし絶望したら絶望しっぱなしになってしまい、それ以外に何もやりようがないのはどうしたわけだろう。なぜ君はつまらないことを考え、それに基づいてつまらないことを延々と繰り返しているのだろう。そんな風に思ってしまうのはどういうわけなのか。わけなど何もなく、ただそのような成り行きになってしまうだけか。そうやりながら何か得体の知れない状況に導かれているのかも知れない。迷っている風を装いながらも、実は着実に前進しているのかも知れないが、その前進しているつもりの先に何が待ち受けているかは、まったくわからないままのようだ。ただ意味もなく語り続けているとしか感じられない。そんな風に語ることができるのはどういうわけなのか。やはりどういうわけでもないのだろうか。何かを繰り返しているからそうなってしまうだけか。それでかまわないのか。かまわないわけはないが、結果的にそうなってしまうのだから仕方がない。仕方がないが、そこにとどまるつもりはなく、何とか少しでも状況を改善させようと無駄な努力を繰り返しているわけか。いつかはそれが無駄ではなかったと思い返したいだけか。そんないつかがいつやってくるかは現時点では皆目見当がつかない。そんなことはわかりようがないか。


10月27日

 今日はNHKが発狂しているみたいだ。どうも昼間から延々と土砂崩れ現場での救出作業を中継放送していたようだ。ご苦労なことなのだろうか。何とも述べようがない。またイラクでは間抜けな若者がテログループに捕まって、数日後には首を切り落とされる運命のようだ。それもご苦労なことなのだろうか。何とも述べようがないか。よくわからないことばかりか。それは嘘だろう。そんなことはわかっているはずか。とりあえず現地の人はどうにもならないらしい。いつかはどうにかなるのだろう。若者は首から上と胴体が別れ別れになって無言の帰国をするわけか。それもそれであり得ない話ではない。卑劣なテロを許さない人たちも、それで少しは気晴らしになるのだろうか。生活にアクセントを求めているわけか。やはりわからないか。そう述べるとわからない話になってしまうだろう。すでに正論は尽きている。要するに正しくないことを述べているわけか。これが本気でいられようか。そこで何かをやっている人たちは本気にならざるを得ないだろう。だが本気になったからといってどうなるわけでもないか。本気になるならないにかかわらず、どうにかなるときはどうにかなるのだろうし、どうにもならないときはどうにもならないだろう。どうにかなるかならないかは、そのときの状況や成り行きと、そこでやっている人の努力次第か。しかしそれでいいのだろうか。それでいいと思う人にとってはそれでいいのだろう。君はなぜそういう当たり前のことが気に入らないのか。それだけではないような気がするだけか。では何か他に必要なものでもあるのだろうか。それは気晴らしや息抜きなどか。だがそれも当たり前のことではないのか。当たり前のことだけではつまらないだろうか。それ以外に何があるというのだろう。あるのはただの自然だけだろう。自然以外には何もない。しかしそれでは何もないのと同じことか。それでも誰かは何もないのに何かがあると思っている。何かがなければ何もかもが無意味になってしまう。その何かを求めて、馬鹿な若者たちは世界中を旅している。その中には戦争状態の国に入って命を落とす者もいるのだろう。本当に何もないとすれば、それを確かめなければならなくなるわけだ。だから行動の自由が許されている者は、それを確かめるために旅をしなければならなくなる。彼らは何を求めているのでもないが、それでも何かを求めている。矛盾しているようだが、その矛盾を受け入れなければ何もできはしないだろう。それを受け入れられない者は、特定の地域に定住してそこで定職について、つまらない一生を過ごすしかなくなるだろう。多くの者たちはいつかはそうなってしまうのだろう。何もないことがわかってしまうわけか。何かを探しに行くのが面倒な場合もあるだろう。何の目的もなしにわざわざ旅をするほど余裕はないか。旅をするならそこに何か目的がなければならないか。例えばそこには美しい景色があったり、くつろげる温泉があったりすればいいのだろうか。またはそこには荒々しい自然があり、その自然と命がけの格闘をして、ついにはそれを征服したつもりにでもなれば気分が高揚するだろうか。世界最高峰の山に登ったり、大陸や海洋を横断したり、極点に到達したりしようとするわけか。それをやりたければ蛮勇をふるってやればいいだろう。そこに何があるというのか。自己顕示欲を満足させたいわけか。それもそれをやるだけの立派な理由になるだろうか。そう述べてしまうと何となく馬鹿らしいような気がしてくる。この世界とはそんなものなのだろうか。それは世界ではなく、単なる人間社会のある側面に過ぎないのかも知れない。世界には自然以外に何もないが、それを思い込みや妄想によって何かあるように錯覚しているだけか。少なくともそこには何らかの気分を醸し出す状況と成り行きがある。それを求めて人は行動するわけか。どこかへ行けば何かがあるような思い込みとともに、とりあえずそこへ行ってみなければならないし、そこへ行って何かをやらなければならないのだろう。そこで何をやるかは行ってみないとわからないか。しかしそれだけなのだろうか。それ以外に何かがないと気が済まないか。それとは何だろう。例えばその何かとは夢とか希望とか金銭的な利益とかか。なぜそんなありふれたものしか思い浮かばないのだろう。貴重なものはありふれているからか。それらの何が貴重なのだろう。それで理由になっているのか。何となくそれでは矛盾しているだろうか。面倒なのでそれでもかまわないか。


10月26日

 どこへも逃れられない果てしない世界の片隅で、誰にもなれない君は言葉以外に何を用意しているのだろうか。何となくそこには無意識のうちに逃げ口上が生じているようだ。何が逃げ口上なのだろう。では物語的には君にはなれない誰かは、今日も適当な答えを導き出せずに苦悩しているわけか。そしていつものように知りようのないことを誰もいない場所に向かって問いかけながら、不可能を承知で解答を求めているわけか。当然のことながら誰も何も答えようがないだろう。何を説明しているのかわかりようがない。どうも何かをわざと取り違えているように感じられるが、同時にそんな風に感じられること自体が嘘だと思われる。結局それについては何も語りようがない。なぜ直接それらの文章に言及できないのだろうか。何の変哲もないただの文章でしかないのに、なぜそれについては何も述べられないのか。いったい何を恐れているのだろう。恐れるほどの内容でもないだろう。それどころか最近は内容自体が見あたらない。以前からそうだったのかも知れない。何を述べているのだろうか。それについてはなんだかよくわからないのが現状らしいが、それについてどう答えたらいいのかわからない。いらだちを覚え、勝手に感情的になって、それをヒステリー気味に爆発させれば、少しは気が晴れるだろうか。しかしそこからどう退避したらいいのだろうか。今さら退屈なテレビ鑑賞へと逃げ込むわけにはいかないか。気晴らしのスポーツ観戦などは見飽きているはずか。それでも見てしまうのだからどうしようもないか。そんなことを思いながらも、思考と行動は一向にかみ合わず、依然として意識は狭い範囲内で行ったり来たりしているだけか。何も思いつかないのはもちろんのこと、以前と似たようなことばかり述べているのも相変わらずなのかも知れない。そんな代わり映えのない状況が延々と続いているだけなのか。ただそう思われるだけであって、本当は変化し続けているのに、意識がそれを感知できないだけなのかも知れない。要するに鈍感になってしまったのか。鈍感になった分変化したともいえるか。しかし昔は鋭敏な感性を持ち合わせていたのだろうか。その辺がどうかは今ひとつ自信のないところか。昔がどうであったかなんてあまり確かな記憶はない。今と比べてどう違っているわけでもないような気がしてくる。それについて今はほとんど思い出せないようで、思い出そうとすればするほど、何となく思い出すのが面倒になってきて、そんなことはどうでもいいような気になってきて、どうしようもなく怠惰に流されてしまうようだ。そう思われるのはどうしてなのか。どうしてなのかも何もあったものではないか。ただそうなってしまうのだから仕方がない。そこにどんな理由を見いだせるわけでもなく、ただ同じようなことを述べているだけのようだ。それを性懲りもなく繰り返し循環させてしまっているのも相変わらずか。だがそんなことを述べようとしていたわけでもないだろう。他に何も述べようがないのだろうか。その辺がよくわからない。そんなことを思っているうちに空は白みはじめ、夜が明け朝になろうとしている。またいつもの状況に近づきつつあるようだ。結局はいくら考えても何ももたらされなかったらしく、ただ無駄に時間が過ぎ去り、その分無駄な言葉が繰り出され、無駄に神経を使い、諸々のエネルギーが浪費されたのだろう。夕べから降り続いていた雨はすでに上がっているようだ。数日前の地震のおかげで近くの国道を行き交う車の量は減り、道は空いている。国道をまっすぐ北上すれば通行止めになってしまうので、貨物を扱う大型車が迂回しなければならないのだろう。しかし今さら一時的に交通量が減っても手遅れで、すでに国道沿いで数十年暮らしてきた人の多くが肺癌で亡くなっている現実もあるらしく、地震で死ぬのも癌で死ぬのも悲惨なことか。それはそれでそういうことでしかないが、どちらもどうしようもないことなのかも知れない。もちろん連日の無内容も地震程度の出来事ではどうすることもできない。要するに言葉には結びつかないのだろう。述べようとしていることはそんなことではないのかもしれないが、では何を述べようとしているかというと、何も思い浮かばない現状があり、そんな現状のただ中で延々と言い訳じみたことを述べているようだ。そればかりでは虚しくなってしまうだろうか。そんなことはわかりきっていることか。それもそれで仕方のないことか。しかし仕方がないでは済まないのかも知れず、そろそろ何か適当にそれとは違うことを述べなければならない事態になりつつあるようだ。


10月25日

 君はそれに気づいていないようだ。何に気づいていなければおもしろいだろうか。別におもしろいことなんて何もないか。ではおもしろくするためにはどうしたらいいのだろう。別におもしろくしようとは思っていない。それはいつもの強がりか。何を強がっているのか。それほど強がっているわけでもないか。何となく怖じ気づいてしまったのか。思いはどこにもつながらないらしい。それ以前に何も思っていないのかも知れない。どこにも行く当てがない。すでに来てしまったのだろうか。どこに来たのか知りたいのか。誰の行き先に興味があるわけでもないらしい。どうもリアリティを感じられない。たぶん何もしなければそのままどこかへ行ってしまうのだろう。放浪に目的があるはずがない。ただあてどなく彷徨っている。誰が彷徨い続けているのかは知らない。誰も彷徨ってなどいないのではないか。そう思いたければ思っていればいいだろう。何も思わないのにどう思えばいいのか。思うことすら忘れてしまったようだ。もちろん誰が忘れたかなんて誰も知らないだろう。知っているとすればそれはどこかの誰かになるだけか。君が知っているのはそんなことばかりか。知っているのではなく、記述しているわけだ。知らないことまで文章に記されているかも知れない。誰が何を知らないのだろう。そんなことは知りたくもないか。あるいは知らないことを知っているように装いたいのか。あのときの君の瞳には何が写っていたのか。たぶん目を開いていれば何かしら写っているのだろう。そんなことを知りたいわけでもないか。君は迷いながらも空虚のただ中で何をしているのでもない。ただひたすら迷い続けるだけか。そんな状況もありだろうか。それも言葉遊びの範囲内での予定調和なのか。ならばどうすればいいのか。どうにもならないのにどうすればいいかなんてわかるはずがないか。それでもどうにかしたいわけか。無理なことをやろうとしている。しかし無理なのにできてしまったらどうなるのだろう。やはりどうにかなるだけか。君も人間の端くれなら何か適当に考えたらどうか。すでに考えているのかも知れない。では手始めに現状を把握してみよう。現状は何もない。それで終わりなのだろうか。すでに現状の把握は終わっているわけか。手始めがいきなり終わりに結びついてしまう。そうではないだろう。そうではないと思いたい。まだ彷徨わなければならないのか。どこを彷徨っているのかわからないか。たぶん君には未来がない。何を求めているのか不明のままだ。そこには何かが欠けている。意識が存在していないのかも知れない。空虚に覆われていて存在する余地がないのだろうか。何となく思うことが煩わしくなっている。何も思えないのか。何をどう思えばいいのかわからないのか。誰が思っているのだろう。君ではない誰かがそこで適当に思っているらしく、不在の意識は君の思いをどこかに押しのけてしまったのか。それは嘘だろう。何となくそれは嘘だと思われる。嘘ではないと思いたいが、それは見え透いたフィクションなのだ。言葉を組み合わせて無理矢理作り出した架空の思いだ。しかしそれは果てしない思いにつながっている。思うことをやめられなくなる。思ってもいないのに、言葉によって思いをねつ造し続けている。そこで繰り返されているのはそんなことでしかないだろう。それを超えて思うことなどできはしない。要するに何か思っていると思い込んでいるわけだ。たぶんそれが思うことの真相なのかも知れない。ではなぜそう思い込んでしまうのだろう。何かを思うことができると信じたいのかも知れない。それを信じられなくなったら、頭がどうにかなってしまうだろうか。すでに君の頭はどうにかなっているようだ。それはおもしろいか。頭がどうにかなってしまったら自然と笑いがこみ上げてくるだろうか。別に笑っているわけではないが、笑っているように記さなければならないか。誰が笑っているのでもないのだろうが、何となく文章の中では笑いという言葉が多くなっているらしい。しかしそれで本当におもしろいのだろうか。なぜかつまらなそうに笑いという言葉を記述している姿が思い浮かぶか。誰が文章を記述しているのか。どの文章を記述しているのだろう。なぜ誰かが記述しているのはこの文章ではないのか。それはその誰かが君ではないからか。そんな当たり前のことを述べているとおもしろいか。君にはそれがわからない。わからないがわかったつもりになってもかまわないと思っているらしい。はたしてそれでいいのだろうか。いいと思うならいいのだろう。知り得たことはそんなことか。


10月24日

 例えば今について何をどう解釈したらいいのだろうか。気がつけばいつの間にか続いている現状はとりとめがない。それが何となく無駄だと思いながらも、自分でも理解できないことを執拗に述べ続けているようだが、本当にそう思っているのだろうか。述べ続けているというのはいつもの嘘か。別に嘘でも何でもかまわないだろう。すでに終わりの時をだいぶ通り過ぎていて、どのように述べても終われないままに、さらに何か適当なことを述べ始めようとしている。そうやって常に始まりの言葉を導き出そうと試みているらしく、いい加減なその場の気分次第で中断したり再開したりしながら、何かを適当に述べ続けているようだが、結局は言葉から見放された文章が構成されている現状がある。それは耐え難い空虚でももたらしているのだろうか。何が空虚なのかわからないが、どうして耐え難いのだろうか。別に空虚など耐える必要はないのではないか。空虚ではない状況がどこにあるというのか。なぜそれが空虚だと思うのだろう。そこでは何も語っていないのに、自然と言葉が連なってしまうからだろうか。それが自然と感じられるのはどうしてなのか。言葉と言葉のつなぎ目がなめらかだと錯覚しているからか。無理にそんな風に思うように意識を制御しているわけか。意識が意識を制御できるだろうか。それもまた制御していると錯覚しているだけか。しかしそんなことはどうでもいいことかも知れない。いつものようにどうでもいいと思うことで、そこに生じている深刻な矛盾から逃げているのだろうか。だが本当にそれが深刻な矛盾と思っているかどうか疑わしいか。深刻な状況からも見放されているのかも知れず、本当にどうでもいいような状態のただ中に生きているとしたら、それは絶望的な状況なのだろうか。しかし絶望的な状況が深刻ではないのか。状況が深刻であろうと絶望的であろうと、そんなことはどうでもいいことか。ではどうでもいいこと以外には何があるのだろう。それ以外に何もないから空虚だと感じるわけか。しかしそれで現状を否定していることにはならない。空虚以外に何もなければ他に何を否定できるだろう。比較する他の状態がないのだから肯定したり否定したりすることは不可能か。それでもそれらの空虚を否定したいわけか。君は自分の能力を過信しすぎているのかも知れない。否定作用を使いすぎて、もはや空虚しか認識できなくなってしまったのだろうか。ではそんな状態からどうやって抜け出せるだろうか。ただ黙ってそれらの空虚が通り過ぎるのをじっと待っていれば、いつかはそれとは違う認識が到来するだろうか。そうなることを待ちながら、その先を見据えて今は虚しい否定作業を継続しているつもりのようだが、その先を見据えるとはどういうことなのか。その先に何を求めているのだろう。はたして君にその先がくると思われるか。少なくとも明日はやってくるかも知れないが、明日を通り越して何をやろうとしているのか。通り越せるわけがないか。では遠い未来にどんな出来事が起こることを想定しているのだろう。そのとき未知の時空には何が広がっているのだろうか。それについては何も思い浮かばないし、何も説明できないような気がする。未来のことなどどうでもいいことか。そうやってまたいつもの台詞に逆戻りなのだろうか。面倒なので、未来ではなく誰かの過去に適当な興味を抱いているのか。誰も知らない過去に隠された秘密を知りたいか。あるいはそれも面倒なので、気晴らしに賽を振って出た目の数だけ進んでみるか。だがこれから経験するだろう余計な明日をどうすればいいのだろう。それは明日になってみればわかることか。明日にならなくてもある程度はわかってしまうかも知れない。では予想している明日には何がもたらされているのだろう。また今日と同じようにわけのわからないことを述べているのだろうか。わけのわからないことが当たり前となってからどれほどの時が流れたのだろう。それは感慨に耽っている動作なのか。何となくそう思って差し支えはなさそうだ。しかしやはりそんなこともどうでもいいことの範疇にはいるだろう。何かを述べれば述べるほど虚しさが募るばかりなのだろうか。何となくフィクション的にはそれでいいのかも知れないが、なぜ本当のことを語れないのだろうか。本当のことが嘘だからか。いきなり冗談を述べてしまっているのだろうか。こみ上げてくる意味不明な笑いをこらえながら、誰かのわざとらしい高笑いを思い出す。心から笑っていないのに、笑っている風を装うその嘘の笑いには、何とかその場を取り繕う必死さが感じられるか。たぶん君はわかっていないのだ。そのことがわからないから笑わざるを得ない。そんなことを思っていると、だんだんこの世界の有り様が馬鹿らしく思えてくるか。別に無理してそう思わなくてもいいだろう。


10月23日

 それはただの出来事であり、任意の時間と空間の中にその存在を見いだせるだろう。いつかそれが起こるきっかけを感じ取れるだろうか。何も感じ取れなければ気分が悪いか。ただそこには何かがあるようでないような気がするだけか。たぶんそれらのどこかに意識を目覚めさせる機構が存在しているのかも知れない。君は予言者にでもなりたいのか。しかしそれとは何だろう。それは思考の限界を形作っている何かかも知れないが、適当な苦労と気まぐれな偶然の成り行きとともにそれを感じ取るとき、そこには何が出現するのだろう。それとは無関係な内容の文章が構成されようとしているだけか。なんだかわからないそれを捉えることはできない。意識の中に何かを見出そうと試みるが、相変わらず何も思い浮かばない。何を焦っているのだろう。これが焦らずにいられようか。冷静でいられない原因は何なのか。本音としては今の気分はどうなのか。やはり何を求めているのでもないらしい。何がやはりなのだろう。ただ何も求まらないような問題を解いているだけか。それではいくら試行錯誤を繰り返しても解けるわけがないか。どうも誰かの思考はどこかで座礁してしまったらしい。考えは何もまとまらないままに、ただ時間だけが過ぎ去ろうとしている。さらに何を考えていたのか忘れようとしている。昨日の夜は何を考えていたのだろう。影は誰の記憶を呼び戻そうとしているのか。影ではなく君自身はどうなのか。思考は何を導き出そうとしているのか。それは思考ではないのかも知れない。思考の及ばない領域で意識とは無関係な言葉が繰り出されるのだろうか。なぜ唐突にそう考えるのだろう。考える糸口をつかめないから、それとは無関係な文章を構成しようとしているのか。それはどんな内容なのだろう。架空の物語の中では真昼の光景が静かに閉じようとしている。何の脈絡もなく意味不明になるわけか。別に何を思いたいわけでもなく、君は明くる日の夕闇の中に何か適当な言い訳を見出したのかも知れない。そこには文章を構築する前に用意されている逃げ道があるようだ。そんな成り行き的に見出されたのはただの廃墟でしかないか。しかし廃墟を埋め尽くす砂はどこにあるのだろう。それはどこか異国の砂漠地帯にあったかも知れないが、ここにはくだらぬ言葉の連なり以外には何もない。ではその事実を誰に告白すればいいのだろう。もちろん誰に心を開いて何を告白しようとしているわけでもなく、紋切り型的には廃墟は砂に埋もれていないければならないのか。まったくそんな風には思わないか。思わなければ動揺の色を隠せないだろう。何が揺れているのだろう。揺れる心は揺れるまなざしを探し出す。揺れているのは君自身か。それはどんな立場なのか。別に誰かの立場を揺るがすような暴露話を持ち合わせているわけでもない。それは何かの冗談だろうか。ではいったい何が揺れているのだろうか。ただ動揺しているだけか。そしてそのついでに何かが揺れて落下する。面倒なので鏡が割れて、写っている風景が四散する。もはや何が写っていたのかわからない。さらに面倒になり、少々投げやり気味に虫食い状態の白黒写真を燃やしてしまう。紙を燃やして火をつける。それは放火魔か何かの心境を模している動作だろうか。さっきから心は何を迷っているのだろう。迷路の先には夕闇が迫っているらしい。迫りくる運命は悲劇を予感させるだろうか。そんな運命は誰も知らないか。それは誰の運命なのだろう。君は君の運命を知らない。知り得ないのかも知れない。それは本当に君の運命なのだろうか。運命でないとしたら何なのか。何かの偶然かも知れない。自然は気まぐれに変化するが、その変化を予言によって言い当てようとすることは愚かな行為だろうか。そんなことは気象予報士にでもまかせておけばいいか。しかしそれ以外に何を求めているのだろう。何を知りたいのか。やはり誰もが知り得ないことを知りたいという欲望に突き動かされながら生きているのだろうか。それを知ってどうするのだろう。知ればどうにかなるのかも知れないが、知らなくてもどうにかなるのかも知れない。それ以前に知りようのないことは知り得ないだけか。知りたくてもそれを知る方法はないのかも知れない。あるとしたらどうだというのか。その方法を知りたいだけか。何もわからずにただ途方に暮れている。誰が途方に暮れているのだろう。地震で被災した人たちが途方に暮れているのだろうか。君はそうではないのかも知れない。少なくとも君は被災者ではないはずか。


10月22日

 出だしからまとまりを欠いて、どうにも今日もまともにはいきそうもない。何も見いだせず、何も導かれない。そんなわけで何となく気持ちが途切れようとしている。それでもいつまで続けるつもりなのか知らないが、それらの継続は虚無以外は何ももたらさないだろう。そう思われるのはどうしてなのか。この期に及んでまだ何か述べたいことでもあるわけか。別に何を述べようというのでもないようだが、空虚な時空にはまりこみながら、また何を思い出そうとしているのだろうか。時間の経過を感じながら焦りを覚えはじめ、結局は何とかしなければとでも思うようになるのだろうか。すでにそう思い始めているのではないか。そういうわけで架空の意識は無理矢理気分を高揚させたいらしく、気持ちを奮い立たせてまた作業を再開させたいようだが、別にそれ以外に何を求めているわけでもない。しかしそれ以外には何もないので、相変わらず何も思いつかず、それでも強引に思いを巡らして、いつものようにいい加減な気分になりつつある。近頃は深夜に目が覚めないと何もできなくなってしまったようだ。何もできないのに何を適当に述べようとしているのか。たとえ目覚めても何ができるわけでもないか。意識は相変わらず虚無に包まれているようで、たぶんそれらの虚無には深刻さと重みが欠けていて、そんな精神状態で本気になれないのはいつものことだろう。君はそこで何を勘違いしているのだろう。どうもそれは違うと思うわけか。それとはどんなことなのだろう。今さら何を否定したいのだろうか。誰かは何かを否定しすぎているのだろうか。否定しながら何を伝えたいのだろう。それがわからないか。わかろうとしていないだけか。なぜそんなことを述べているのかわからないが、そんなに否定したければいつまでも否定し続けていればいいだろう。それは今の君とは関係のないことだ。しかし君は今以外に存在し得ないから、それと関係する時は永遠に訪れないだろう。すべては過去の話に属する。過去は永久にやってこない。だがなぜそこで過去は繰り返すと主張しないのか。それの何が気に入らないのか。過去に何を要求できるだろう。過去がどうなって欲しいのだろう。過ぎ去った出来事が懐かしいとでも思えばそれで満足か。では誰にそう思わせたいのか。いったい誰がどこにいるのだろうか。話の中に誰を登場させたいのだろう。そうすることによって何か虚偽の慰めでも求めているわけか。何を求めているのでも、何をねらっているのでも、何を必要としているのでもないか。では他に何があるというのか。我々はそこから何を受け取っているつもりなのだろう。唐突に出現する我々とは誰のことを指しているのか。たぶんその場の都合で我々という言葉を使っているだけかも知れない。何がその場の都合なのだろう。では我々には何の意味もないのだろうか。それは言葉の使用法に関する問題だろうか。確かそれはいつか述べたことかも知れない。しかしそんなことを述べている間にも確実に何かが過ぎ去りつつある。それは過去の時間と空間だろうか。そんなことはどうでもいいことで、たぶんそれに関して今は何も思っていないのだろう。何も思っていないし、おそらく何も知らないのだろう。何をわざとらしく嘘をついているのか。それは何かの方便か。そんなことを述べてどうなるわけでもないか。今さらこれ見よがしにアクロバティックなことを語っているつもりはないか。ではその他に何か訴えたいことでもあるのか。何か他に主張があることは良いことなのか。君は今何を主張しているつもりなのだろうか。あるいは主張など元から何もなかったのか。では伝えるべき内容を持たないことは悪いことなのだろうか。事の善し悪しを判断するための材料がまだそろっていないのかも知れないが、そんなものがその場でそろうはずがないか。ただその場の思いつきで適当なことを述べているだけかも知れないが、それが適当だとは到底思えない。怠惰な認識ではいつもいい加減なことが適当だと見なされてしまうようだ。要するに誰かは虚しさを糧として語り続けているわけか。そんなはずはないと思いながらも、その現実をどうすることもできない。いつからそうなってしまったのか。いつからでもなく、いつでもそうなのかも知れず、それによってかろうじて正気を保っているのだろうか。それこそ正気の沙汰ではないか。時折屋根から樫の実が落ちた音が響く。正気ではないと思いたいわけか。面倒なのでそれでもかまわないだろう。ただ夜明け前の時間帯に昨日の意識は存在しているようだ。それで何かの釣り合いを保っているつもりなのだろう。


10月21日

 何となく狂気の沙汰になりつつあるようだ。それがどういうことかわからないか。そんな風に感じるだけか。言葉では表現できないような感覚を得たわけでもないだろう。言葉以外に何がもたらされているというのか。突然思い出したように何かをやろうとしているようで、そのときだけ精神を集中させることができるような気がするするのだが、すぐにそれが思い違いであることがわかる。さっきから何も進んでいない現状に気づくわけだ。何となく今日も何も見いだせないらしい。それもすぐに嘘になってしまうのか。言葉で言い表せないことは伝わらないだろうか。それでもわかろうとすればその人なりにわかってしまう場合もあるかも知れない。その大半は勘違いに基づいているかも知れないが、それもそれである種の知識には違いない。それをわかったつもりになろうとしている。誰かにはすでにそのことをわかっているはずか。わかっているつもりがそれとはまったく違うことをわかってしまっているか。それらの思考や体験で何がわかったのか。語っていることとやっていることは違うということか。語っていることもやっていることの範疇には入るだろう。それらの行為の中に語っていることも含まれる。やっていることについて語っているその内容が、必ずしもやっていることそれ自体を忠実になぞっているわけではないらしい。それらの語りには脚色がつきものか。脚色しておもしろおかしく、あるいは誰もが感動するような話に仕立て上げてしまうと、やっていることよりも語っていることの方がメインになってしまい、そんな語りばかりが脚光を浴びてしまうと、その語りの材料となっているやっていることは人々の関心を失う。そして結局は語りばかりが一人歩きをし始めて、その中身は空疎な内容となるだろう。名人芸的な語りとはそういうものだ。どうでもいいような話のネタを元として、その場の聴衆や読者の意向に沿うように、ためになる話や笑い話や感動話が仕立て上げられる。人々はそれを聞いたり読んだりすれば、一時的に気分が高揚したりするかも知れないが、それはその場限りの気晴らしにしかならないだろう。話の内容よりもその名人芸的な語り口に惑わされている。たぶん娯楽としての語りならそれでいいのかも知れないが、中には語っている本人が本気で勘違いしている場合があるような気がする。当人は語る題材となった事件そのものを伝えたいだけなのに、それを見聞する人々はそれを伝える語り口に魅了されているだけでしかないことに気づかない。そうなると話者はいらだちを覚えるようになるかも知れない。社会の変革を促すために語っているつもりなのに、そして大勢の人々がその語りを聞いたり読んだりしているはずなのに、相変わらず同じような状況のままに世の中は推移している、とでも思ってしまうだろうか。そのような現状に焦りやいらだちを覚えながら、さらにしつこく語り進めてしまうと、結局は語る材料が枯渇してきて、紋切り型を多用した空疎な内容になるか、あるいは全くのフィクションを語るようになってしまうか、そんな末路を辿ってしまうのだろうか。もちろんそこで語っている当人には言い訳じみた思いが生じている。自分は誰もが話の内容を理解できるようにわかりやすく丁寧に、あるいは人々の関心を持続させるために、時折ユーモアやウイットを交えながら語っているつもりだ、などと主張したいのかも知れない。実際それを見聞した人々からも好意的な反応が返ってくる。たぶんそれで満足しなければならないのだろう。満足してその話は終わりにしなければならない。終わりにできなければ、二匹目の泥鰌を求めて同じような話を延々と繰り返すことになるのだろう。そしていつしか語る人とそれを求める観客との間に信頼関係が生まれ、それは共同体的に閉じた枠内だけで影響を及ぼし合うようになり、外の世界からは孤立してしまうだろうか。以前と同じ快楽を得たいがために同じようなことを語り、それを聞いて以前と同じ快楽に浸りたいから同じような語りを見聞しにいく。そんなリピーター状態になってしまったら、それでお終いなのかも知れないが、そうなって初めてその手の商売は成り立つのであって、絶えずそういう悲惨な現状から利益を得ようとしているわけだ。もちろんそれで社会が変革するわけもなく、かえって変革しない方が儲かってしまうのである。そのような状態を固定し続けることでそのような関係は成り立っているのだから、それが変化してしまっては困るわけか。以前と同じようなことを語れなくなってしまうし、それを以前と同じような精神状態で見聞できなくなってしまうだろう。


10月20日

 また雨が降っている。台風か近づいているのだから仕方ないだろう。たぶんそれは誰かの幻想ではない。明日は暑くなるのだろうか。もう秋だからそれほど暑くはならないか。そんなことを述べているうちに台風は通り過ぎてしまうのかも知れない。通り過ぎないうちに作業を終えたいか。それは無理のようで、すでに風は止み雨もそれほど強くは降っていないらしい。テレビの台風情報によると、どうやら台風の進行方向からずれているみたいだ。そんなことはどうでもいいことか。死者や行方不明者はかなり出ているらしいが、いつの間にか眠ってしまったらしく、停電に気づいて目が覚めたら朝方になっていた。もうすでに台風は太平洋に抜けつつある。また日付がずれているわけか。なぜ昨日の内容にならないのだろうか。それは今が昨日ではないからか。そんなことはわかっているが、何となくまた意味のないことを述べてしまいそうだ。すでに述べてしまっているのかも知れないが、それによってどうなるわけでもないか。どうにもならないが、それでも言葉が連なっているのだから、どうにかなっているということか。確かにどうにかなっているようだが、それはどうしようもない内容になってしまうのかも知れない。君はそれに気づいている。気づいているのではなく、それに近づいているのであって、気づいている風を装いたいのか。たぶんそれを読んでも内容を把握できないのだろう。読んでさえいないのであり、読んでいるつもりで現実には読めていないのかも知れない。元から読めるような内容ではないのだろうか。いったいそれらは誰を対象とした読み物なのか。読み得ない内容を誰に提示しているつもりなのか。誰にも読み得ないわけでもないだろう。君はそれを読んでいるつもりなのか。できあがってもいないものを読むつもりはないか。ではいったいいつできあがるのか。できあがったときがそのときか。何となくそんなものを読めるわけがないと思っている。そこには乗り越えられない事態が横たわっていて、それを前にしてどうしたものか考えあぐねている。要するに相変わらず行き詰まっているということか。ただそう思いたいだけか。そうは思いたくないがそう思ってしまうわけか。それでどうしろというのか。どうにもできないと思うわけか。どうにもできなければどうにもならないだろうか。面倒なのでそんな思いはそのまま置き去りにしておいて、それとは別のことを思ってみよう。それでどうにもならない状態を切り抜けたつもりになるわけか。つもりになるだけでいいのか。本当にそのつもりになっているのだろうか。あるいはつもりではなく、本当に事態を切り抜けられるのだろうか。また嘘をついていると思うわけか。何となくそんな気配を感じている。風は緩やかに梢を揺らして、微かに響く雨音が心地良いとは思わないが、そんなことしか述べられない誰かの神経を逆なでしているわけでもないらしい。そこにはただの自然があるだけか。しかしそれでかまわないのだろうか。それを超えて何を述べられるのか。超えられるとは思えないか。雨がまだ降り続いている事実は揺らぎようがないが、時が経てば晴れている現実に遭遇するかも知れない。しかしそれでは嘘をついていることにはならない。確かにそのように述べている内容に嘘はないだろう。今の天候が雨ならいつかは晴れるわけだ。しかしそれで何を述べていることになるのか。自然の仕組みがそうなっているということは誰もが知っていることだろう。そう述べる意義を見いだせないか。ではやはりそれで何を述べているわけでもないということになるのだろうか。何も述べられないから自然と内容が天気の話になってしまうわけか。ではどうやっても何もない状態から抜け出られないのか。別にどうやっているわけでもないか。ただ自然とそんなことを述べているだけなのか。何となくわからなくなってきたが、そこに誰の意識が介在しているわけでもないらしい。ありのままの自然は利いた風な言葉を受け付ける環境にはないようだ。それをねじ曲げて解釈したりしないとおもしろいことは述べられないのか。話をおもしろくしたければそうすればいいだろう。だがおもしろくできないとすれば、それはありのままの自然を物語っていることになるのかも知れない。それが紛れもない事実なのだろう。そうでなければフィクションになってしまうが、その方がおもしろいのは当たり前のことだろうか。ありがちな展開に持ち込んで、それに接する人たちをあるときは安心させ、またあるときは不安にさせ、さらにあるときはおもしろがらせ、最終的には感動に導くのが、人工的な構成物としてのフィクションなのだろう。それに対して自然はただ自然のままなのであり、基本的には無表情だ。そこに何らかの表情を想像してしまうのは、それはそれに接する人々のそのときの心理状態や思い込みによるものなのかも知れない。人はいつでも自然に勝手な思いを当てはめている。中には畏敬の念とか抱いて崇め奉っている人もいるらしい。


10月19日

 前回はどうもおかしなことを述べていたらしく、常識的にはたぶん筋肉をつける前に過食により脂肪が付いているのであって、脂肪を減らす目的で運動することが必要なのだろう。その辺で何となく理屈が破綻して屁理屈になってしまっているのだろうか。あるいは無意識のうちにわざとそうなるように語っているのか。意図的に滑稽なことを述べているのかも知れないが、それは許容できる限度を超えているだろうか。しかし結果的には運動することによって筋肉がつくことには変わりないか。それなら最初から過食を避ければいいのだろうが、それができないところが物質的に豊かな地域で暮らしている証拠であり、いずれにしろそれらの行為は馬鹿げているように思えるが、結果的には無駄な運動をしなければならなくなってしまうのだろう。健康を保つためにはそうしなければならない。しかしそのような一連の過程こそが不健康そのものなのかも知れず、人は誰でもそうならざるを得ない体質を抱えているわけか。なぜ太ってしまうのかといえば、それは理由のない義務感といったところか。科学的あるいは社会的にはちゃんとした理由はあるようだが、それを理由とは考えたくないだけか。無理にそうしているのだろうか、あるいは無理がたたってそうなってしまうのか。そのままでは疲れがとれそうもない。心のどこかに隙が生じているのだろう。だがそんなことはどうでもいいことか。雨音を聞きながら何を思っているのでもないらしい。雨音と思っていることは何の関係があるのだろうか。くだらないと思えるのはどんなことなのか。雨音を聞いていることがくだらないのだろうか。聞きたくなくても聞こえてしまうのだから仕方がないか。別に雨音が世の中の喧噪を消してくれるわけでもない。誰が思っているようにも世の中は動いて行かない。それが気に入らないからくだらないと思えるのだろうか。そうなのかも知れないが、そんなつまらない思いの形成を避けて通ることはできない。とりあえず何を思ってみても仕方のないことなのか。そうかも知れないし、そうではないのかも知れない。そうは思えないが、それでも思いつく大半はくだらないことばかりか。それで良いのだろうか。良いわけがないだろう。しかしそれでも作業は続けられてしまうようだ。何を続けているわけでもないが、何かが続いてしまうらしい。意識は言葉の連なりを反映せず、誰かの思いを言葉の連なりが無視しているようにも思える。それ以上は呆れてものも言えないか。何がそれ以上なのだろう。実際にさっきから何も言っていないか。それでもかまわないと思いたいのか。誰かの思いがどんな内容だろうが、それとは無関係に何かを述べていたいわけか。しかし何を述べているのか定かではない。いつものように誰が何を述べているのでもないのだろう。意識には何を述べたらいいのか判断がつかないらしく、その場の雰囲気に適合する言葉を導き出せないようだ。何をどう思ってみても、外で降っているのは言葉ではなく相変わらずの雨だ。雨と言葉はどう違うのか。それはわざとらしい問いの範疇に入るだろうか。ではそれとは違う問いを発してみたいか。人はなぜそれを考えるのか。誰も思いつかないような奇抜な問いを探しているわけか。それは問いではなく答えだろう。そうやって何とか切り抜けようとしている。何かを見出そうと努力しているつもりなのか。だがそれが努力といえるだろうか。どこかへ通じる道を切り開かなければならないのかも知れないが、そうは思っていないようだ。それどころか何とも思っていないのかも知れない。努力とは別の何かを求めている。たぶんそのときの気まぐれでそう思っているだけなのだろう。何も思っていないときに何かを求めている。その何かは何でもかまわない。音でも光でもその場の気晴らしになればそれでかまわないのかも知れない。今はただ雨音を聞いている。それは理由を見いだせないことか。それ以外に何を語るわけにもいかないのか。ついて行けない展開になろうとしているわけか。出来事がなければ語ることはできないということか。それでも語ろうとするのは頭がいかれている証拠か。頭で語っているわけではないか。頭は技巧と切り離すことはできない。巧みに語るには頭脳の助けが必要か。しかし語る必然性を見いだせないとき、それでも語ろうとすることに何が関係しているのだろうか。どうやってそれ以外に何もない状況をごまかそうとしているのか。言葉を繰り出すことによってそこから逃げているのか。厳密には何もなくはないのかも知れないが、そう思いたいだけなのかも知れない。


10月18日

 短絡的な思考は誰かの思うつぼなのか。そこにはどんな願いが込められているのか。唐突な予言は何を意味しているのだろう。暴力の連鎖もやがて終わりの時を迎えるだろう。誰かはそのような状況が許せないらしい。人々が平常心でいることは難しいか。正気でもなく狂気でもなく、何がどこまでも続いているわけでもないが、強引に何を考えているのだろう。なし崩し的におかしな気分だが、何か得体の知れない苦しみとともに暮らしたくはないか。別に得体が知れないわけではないだろう。では気晴らしにどんな言葉を連ねるべきか。気晴らしになるわけがないか。どう考えてもそれは苦しみ以外の何ものでもないようだ。誰かは原子力発電所の必要性を訴え、軍隊の駐留を正当化しなければならない。なぜそのような現状に反対してはいけないのか。そこに多額の金と人がつぎ込まれているからか。人々がやりたいこととはそういうことなのだろうか。逆らおうとしてもそれが無理だということに気づかされる。意識はどこから遠く離れてしまったのだろう。何かに引き寄せられている感覚はもう無い。興味を抱いていた当時の対象からどれほど隔たってしまったのか。こだわっていたことがどうでもいいように思われるのはどうしてなのか。今さら何を問いかけているのか。どこに向かって問いかけているのだろう。問いかけるべき対象さえないのか。では何を述べているのだろう。いくら述べても何も出てこないか。いくらも述べているわけではないか。何も述べずに言葉を連ねているつもりか。意識はどこに存在しているのか。言葉の中に人影はない。言葉の外には時間と空間があるらしい。言葉はそこで止まっているわけか。時間からも空間からも見放されている。別に誰がそう思っているわけではなく、それは事実そのものか。できることならそういった事実からは遠く隔たっていたいか。都合の悪いことは忘れていつまでも夢見る気分を味わっていたいか。それらの何が夢なのか。夢に向かって争い競い合うことのすべてか。そういう光景をただ眺めていたいわけか。強靱でしなやかな肉体が繰り出す信じられないような動きに感動していたいか。それを目で追ってばかりいても運動にはならないだろう。別にスポーツなど無くてもかまわない。それをやってどうなるわけでもないだろうし、それを見ても興奮したり感動したりするだけだ。たぶん運動する理由が欠けているのかも知れない。それは思い違いか。もっともらしい理由などいくらでもねつ造可能か。わざわざねつ造しなくとも真の理由があるらしい。なぜそれでも理由が欠けていると思うのか。スポーツについて考える理由が見あたらないということか。人々は気晴らしに何を競い合っているのだろう。そういった気晴らしが無くなれば、何となく現状について真剣に考えるようになるのだろうか。そんなことを期待するのはおかしいか。現状を無視している。わざわざ無理に体を動かさなくても普通に暮らせるのではないだろうか。運動することによって体に無駄な筋肉を蓄えているだけか。使う必要のない筋肉を保つために、無駄な栄養を摂取しなければならず、そのために金を使わなければならない。そうやって金にものをいわせて貧しい国に暮らす人々の食料を横取りしているのかも知れない。豊かな国々のスポーツが世界的な飢餓と貧困を招いているわけか。冗談もほどほどにして欲しいか。なぜそれが冗談ではないと思うのだろう。結局は誰もが戦争状態が好きなのか。実際に殺し合いができないから、好奇心旺盛な人々は、娯楽を目的とした様々なゲームによって、それを疑似体験しているわけか。あるいはスポーツで体を動かすことによって、血湧き肉躍る感覚を求めているのだろうか。気に入らない相手をぶちのめしてみたいか。それが本音なのだろうか。この世界ではどこまでも生存競争の原理が支配しているのか。別に生存するためにをそれをやっているわけでもないだろう。とりあえず生きるために必要な衣食住は確保しておいて、さらにその上に気晴らしのための娯楽が必要なのだ。要するに遊んでいたいわけか。だがそんなふざけた願望がまかり通るだろうか。生きるために精一杯の人々には、ただふざけているとしか思えないのかも知れない。しかしそのふざけているとしか思えないことに多大な労力が注ぎ込まれている現状がある。たぶんそれはただ単にすさまじい無駄遣いなのだろう。それ以外にはどのようにも見なせない代物なのかも知れない。人々が抱いている夢の正体とはそんなものでしかないのだろうか。


10月17日

 そんなことはどうでもいいことかも知れないが、関心の的となっている出来事をわざわざ探す必要はなく、適当な画面を眺めていれば向こうから勝手にやってくる。煩わしいのでそれを避けて、避けたついでに口をついて出た言葉は、どこかの空白に影響を及ぼしているらしい。きっと誰かはまともではなくなるだろう。誰がそうなるのだろう。誰がそこで何をやっているというのか。今はそれに答えている暇はないか。では君の意識はその他に何を持ち合わせているのか。まわりくどい言い方で何を述べようとしているのだろう。いつものように何を述べているのではないのかも知れないが、何かの拍子に虫に刺されて皮膚が腫れ上がる。冬でも蚊に刺される地域に暮らすのはうっとうしいか。今はまだ冬ではないだろう。やはりそんなことはどうでもいいことか。わざとどうでもいいことを述べているのだろう。何となく思いは空白を包み込んでいる。どこかに何もない空間があるらしい。そこで誰が何を求めているのだろう。何を求めているのでもないのは誰なのか。それは君ではないのか。その話には君の他に誰が存在しているつもりなのだろう。そんなことは語っている本人に尋ねてみればいい。では進むべき道を尋ねているのは誰なのか。別に今は諸子百家の時代ではないはずか。どこに哲学があるというのか。そんなものは道路標識や地図やカーナビがあれば必要ないか。別に煩わしい問題に首をつっこもうとしているわけではない。今の状況の何が問題なのだろう。政治的経済的社会的問題なら他の誰かに聞いて欲しいか。どこかに憎しみが渦巻いている地域でもあるのだろうか。それは白々しい物言いになるだろうか。その地域がどこにあるかなんて誰でも知っていることか。しかし憎しみ争うほど愚かなことがあるだろうか。確かにそれは愚かなことかも知れないが、様々な事情や成り行きから、それをやりざるを得ない状況に追い込まれている人ならいくらでもいるだろう。人々が平和に暮らせない理由などいくらでも導き出せそうだ。では何をどうすればそうならずに済むのだろうか。それでは済まないから争わなければならないのか。たぶんどのような思想や宗教や哲学をもってしても、人々の間に生じている差異を解消することは不可能だろう。時としてそれは我慢がならないことなのだろうが、何とかそこをこらえて、できることならことを穏便に済ませたいところか。しかし穏便に済ませられないから対立が生じて、結局は攻撃的な感情に火をつけてしまうわけか。経済的に豊かになれる人は限られているのかも知れないが、何に生き甲斐を見出そうと、はたしてそれに何の価値があるのだろうか。そんなもので満足しているのは馬鹿らしいか。それをくだらないと思えばいくらでもくだらなく思えてしまうものだろうか。何かのきっかけでどこから欲が生じるとも限らないが、そこで生じている欲望に忠実に生きられないのはどうしたことなのだろうか。たぶん君は物語の主人公ではないのかも知れない。欲望に魅入られる前に冷めている。結果が見えてしまうのかも知れない。いや、受け入れざるを得ない結果がくだらなく思えてしまうのかも知れない。そんなわけでいつも本気になれないし、真に受け取れないのだろう。目の前の現実が何かの冗談のような気がしてしまう。努力と運などによって成功している人々がみすぼらしく見えてしまうのだろうか。なぜそんなことにこだわり続けられるのだろう。例えばそこで話題となっているのはボールにバットを当てて飛ばす人か。当て方が良ければ見ている人たちが騒ぎ立て、結果として大金が手に入るわけか。ここではなぜそんな単純化がまかり通ってしまうのだろう。別にそれを馬鹿にしているわけでもないのだろうが、何となく関心が薄いのかも知れない。人間の可能性とは何だろう。それは個々の人間の勝手な思い込みの集積物だろうか。それを具現しているのが図書館や博物館などの類か。そんな風にして人々の想像力は果てしなく広がり続けるのだろうか。今のところ誰が何を想像しているのか定かではないが、それは様々な想像なのだろう。夢見る人々には何らかの希望が幻想として見えているようだ。それを実現させるために毎度おなじみの努力が繰り返され、それに成功する人や失敗するがいるわけか。それともそんな単純には人々の行動を割り切れないか。例えば君はどうなのか。なぜ何を目指しているのでもないと嘘をついているのか。そう述べるのは何かの戦略なのだろうか。そして最終的には成功するつもりなのか。そんな風ならわかりやすいのかも知れないが、どうもそうではないような気がしている。そのような野心めいた意識からは隔たっている感じがしている。意識がそれらの作業に入り込む隙がないのかも知れない。


10月16日

 どうも意味不明だ。たぶん今日もわけがわからない。ただ単に言葉を込み入らせているだけか。何をわかろうとしているのか知らないが、君にはわからないことがまだあるらしい。誰にもそれはあるだろう。そんなことはわかっているが、それについて何を知っているのだろう。なぜそれをわかろうとしないのか。君以外の誰がわかろうとしないのか。別にそれをわかりたいわけではないか。それとは何なのか。たぶんそんなことはわからないだろう。そんなことを知りたいわけではないか。わからないこととは何のだろうか。この世には誰にも知り得ないことがあるようだが、君はそんなことを知りたいわけではないらしい。君は誰もが知っていることを知らない振りをしている。それを知っていると思われるのが煩わしいのか。なぜ煩わしいと思えるのか。何が煩わしいのだろう。例えばそれは何がどうなることを暗示しているのか。別に暗示していることが煩わしいわけではないだろう。天空の様態は何を暗示しているのだろう。占星術を信じているのは誰なのだろう。占い師なら信じているかも知れない。君が知りようのないことを占い師なら知っているだろうか。いつかそれを知ることができるかも知れない。だが仮に知ることができたとしても、それを君に伝えることはできないかも知れない。たぶん君は占い師に出会うことはないだろう。出会っている君がいるとすれば、それは君ではない別の君か。この世界には君が複数存在しているらしい。たぶんついでに彼も多数存在するのだろう。君は彼とはどういうつながりがあるのか。そんなことは知らないか。どこかの君は何も知らないのにわかってしまう。何をわかったしまったのかは、どこかにいるかも知れない君に直接聞いてみてくれ。彼はそんな君のことなど知ったことではないらしい。君も彼もどこにいるかなんて知ったことではないか。君は彼とは無関係なのか。それは君には理解の水準を超えていることかも知れない。では君は何を体験しつつあるのか。それを体験して初めてわかることなんて、体験する以前の君にはわかりようがないか。体験できることは限られている。では体験できないことを疑似体験してもわかりようがないか。体験と疑似体験はどう違うのか。まずは最初に何らかの体験があって、その体験が魅力的に思われるから、それを何度も体験しているつもりになりたいことを目的として、人工的な疑似体験装置といえるようなものが生み出されるのか。しかしそれでは個性が無くなってしまうだろう。個々の人間が何を体験しているか、その違いによって、それぞれの人間に特有の個性が生じているのだろうから、多くの人が同じような疑似体験ばかりを求めてしまうと、この世は画一的な人の集団ばかりになってしまうのではないか。そうなっては何がまずいのだろうか。様々な個性があるから、それぞれの個性の持ち主にはそれに応じた様々な可能性が生まれるのであって、画一的な人々には画一的な可能性しかなくなってしまい、可能性が少ない人々はいずれ滅んでしまう危険性でもあるのだろうか。だから個性は貴重だとでもいうわけか。それはありふれた意見だろうか。ではその貴重だと思われている個性にはどんな可能性だあるのだろう。別に誰も貴重だなんて思っていないか。ではどう思っているのか。過去の体験によって生じている個性が、これから体験する未来の出来事とどう絡み合うのだろうか。君はそんなことを知りたいわけか。それはいつかわかることかも知れないし、わからないままかも知れないし、それがわかるかわからないかは、いつかわかることかも知れないし、やはりわからないままなのかも知れない。君はこの世界がどうなってもかまわないと思っている。たぶん君はこれからも苦しみ続けるのだろう。嫌なことをやり続けなければならない。それをやり続けながら絶えずストレスを感じ続けているはずか。いつかはもうやっていられなくなるのだろうか。そうなることを望んでいるわけか。その望みはいつ叶うのだろう。そんなことは今の段階では知り得ないか。知りようが無く知り得ないが、だいたいの見当はついているかもしれない。そのときがいつやってくるかは、そのときが来たらわかることだろうか。そのとき君は何を実感するのだろうか。ついに望みが叶ったと思えるだろうか。それをやめることができて幸せに思ったりするだろうか。何をつまらぬことを想像しようとしているのか。あるいはそれは何らかの達成感と結びついたりするのだろうか。そうなればしめたものか。何がしめたと思うことなのか、あるいはしまったと思うこともあるだろうか。もしかしたらしめたとしまったが同時に思われるかも知れないが、それでは何を述べているのか意味不明になってしまうだろう。もちろん意味不明なることが望むところなのかも知れない。


10月15日

 意識は何かしらメッセージを有しているようだが、それが言葉となって表に出てくることはないらしい。そのとき彼は何と戦っているのだろう。いつもながらの怠惰と戦っているわけか。しかしそれらの状況はどこから生じているのか。そこで君は何に反発しているのか。何かを意識しているそれらのどこまでが君自身なのか。そんなことがわかるわけもないか。では何もわからず意味不明にでもなるか。たぶん切羽詰まっているのだろう。これからどうなるわけでもないが、そうやってあり得ない雰囲気を醸し出そうとしているわけか。あり得ないわけがないか。しかし繰り出された言葉が思惑を裏切っている。どんな思惑があるのだろう。相変わらずの状況に何を訴えかけているわけでもない。それでもその先に何らかの状況が待ち受けているわけか。君はそれに耐えられないのだろうか。それともさらなる変化を見届けようとしているのか。何が変わっているわけでもなく、何を変えようとしているわけでもないか。では積極性とはどういうことなのか。消極的なのでそんなことはわからないか。ではなぜ言葉につまってしまうのか。それは何もないからだ。焦りはどこからやってくるのだろう。君はただ焦っている。だが怠惰な気持ちを大切にしなければならない理由がどこにあるのだろう。そして何を述べているのかわからなくなるか。本当に何だかよくわからないのだが、君はこれからどんな領域に足を踏み出そうとしているのか。もうだいぶ以前から踏み出しているのかも知れない。ではそこでわかっていることは何なのか。何を認識しているのでもない。何を語っているわけでもない。語ろうとしていることが見えてこない。しかしそれでは決して静かな日々には到達できないだろう。ただ風が吹いているだけか。風と君の思惑が重なることはないだろう。それはどういうことなのか。別に試練を求めているわけではない。すでに鍛えられているのかも知れない。それは自ら望んだ鍛錬ではないが、そのように振る舞わなければどうにもならないということか。何をどう振る舞っているつもりなのか。そこには確かに限界が存在していて、それを克服できずにいるらしい。ではその限界の手前で右往左往しているだけか。しかしそんな状態でも語り続けている。それは奇妙な現象なのだろうか。そんな状態にはもう耐えられないか。何に耐えられないのだろう。そんな状態がどこにあるのだろう。それは今の状態なのだろうか。それをわかろうとしていない。まるで他人事のように思われる。そんな風に思わない代わりに何らかの救いを求めているのかも知れない。抜け出せない状態をどうすることもできずに、何に救われたいのか。何の救いも見いだせないとき、夜明け前の風にどんな思いを託せば気が済むのか。それは嘘だろう。そんなことはわからないか。たぶんつまらないことなのだろう。何となく黄昏れているのかも知れない。老人でもないのに冗談だろうか。外を見れば風に吹かれて鳥が飛んで行く。それがどうしたわけでもないのだが、架空の思いは一向にとりとめがない。何を思っているのはわかるわけがないか。しかし誰がそう思っているのだろう。それは誰でもないただの空虚か。何らかの構成物でさえないらしい。ただ言葉の連なりの出来具合から、そこに何らかの意識を想定しているだけかも知れない。そんなのは意識であるわけがないか。風になびいている梢に意識があるはずもない。では人の意識はそれとはどう違うのか。それはよりも多少は複雑な作用を伴っているだけか。世の中の流れに揺らぎながら何かしらそれなりのことを思っているように感じられるだけか。それについてどう思ってみても、それはそんな風になっているだけなのだろうか。それでは気にくわないのか。気にくわないのならば、どうやってそれを超える概念を提示すればいいのか。仮に提示できたからといって、それでどうなるわけでもないか。いや、どうにかなるのかも知れない。何となく肯定的な気分になれるのかも知れない。心の中のもやもやが晴れ渡り、すがすがしい気分になりたいか。さらに風が強くなるが、曇り空はそのまま居座っているようだ。とりあえずどんな風に思ってみても、それでどうにかなるのかも知れないが、そのどうにかなった状態から、さらにどう思っても、またその思いとともに、またさらにどうにかなるだけだろう。そんなことが繰り返されるだけかも知れない。


10月14日

 やはり無から有は生じないか。昨日の文章は読みたくないらしい。床に液体が流れ出している。死後硬直の時間にはまだ早いだろうか。死後の世界に何が出現するのか。はたして君は天国へ行けるだろうか。何を考えているのだろう。どうも最近はくだらないことばかり考えているようだ。これからどのようなことを述べるべきなのか、その指針のようなものが見あたらない。冬の北風が待ち遠しい。それとこれとは無関係か。まだ君は何も述べていないはずだ。死人に口なしというわけか。何かが壊れて、さらに意味不明を呼び込もうとしているのか。人間とはそんなものだろうか。登場人物の誰が人間なのだろう。そのすべては単なる言葉の断片に過ぎないか。そこで誰が死んだわけでもないが、おそらく別の場所では誰かしら死んでいるのだろう。言葉遊びの中では確かに君は死んでいることになっているようだが、それが事実だとは到底思えないか。いつもながらそれらの言説には何かが欠けている。それとは無関係かも知れないが、君には信念が欠けている。そして繰り出された言葉が構成する文章には脈絡が欠けている。他に欠けているものはないのだろうか。せわしないピアノの演奏には間が欠けているか。いったい真実はどこにあるのだろう。なぜそんなものを求めているのか。たぶん秩序の中に真実があるのかも知れないが、それが何の秩序なのか君には知りようがないか。繰り出された言葉にはどんな秩序があるのだろう。考えるいとまを与えない。誰もそんなことは考えていないのかも知れない。その考えていない人々の中に君も入るわけか。誰が入っているわけでもないが、それでは前言と矛盾してしまうか。何となくずれているのだろうか。君の思考はどこへ逸脱しようとしているのか。何かの調子が緩急を想像させる。何を怠けていて、何がせわしないのだろう。ただうんざりしているだけだろうか。気分は最悪なのか。たぶん君は考えすぎであり、それについて勘ぐりすぎているのかも知れない。うまくいかないのは当然なのであり、そのうまくいかないことについてあれこれ不平を思っても何も始まらないか。うまくいかない状況のただ中で暮らしているのだから、それはそれでただ耐えている現実があるだけかも知れない。君の力にも思考にも文章を構成する能力にも限界はつきものだろう。それは結果を期待できない無駄な試行錯誤でしかないのだろうか。しかしそれによって何を悩んでいるのか。いくら悩んでも結果は動かないか。別に結果を動かそうとしているわけでもないか。何か得体の知れないものが去ってから久しい。そして結果は不動のものとなった。何がどうなろうと何かしら述べている現実を終わらせることができない。だが別の意識はそれが結果ではないと思っている。ドラマの中の登場人物は何に復讐しているつもりなのだろう。それはくだらぬ成り行きではないのか。人工の事件が作り事の世界で生じているだけか。呆れた自然はどこかへ退いているのかも知れない。わざとらしい話に関わり合いになるのはごめん被りたいか。それよりも忙しさをどうにかしなければ身が持たないというわけか。そんなわけで突き放された視線は宙をさまよっている。だが身体は動かない。夜行性ではないらしい。しかし一向に話の内容が見えてこない。別に虚栄心に浸りたいわけではないので、何もないことを素直に認めなければならないか。無理にそうする必要はないだろう。それらはただ惰性で続けられていることに過ぎないか。何となくわかったようなわからないようなことを述べているのかも知れない。途中からどうなってしまったのだろう。ドラマの中では誰かが何かを推理しなければならないようだが、そこでわかっていないことは前もって物語の筋書きに記されていることだ。では君はその筋書に沿って推理しているわけか。そして最終的には事件の犯人を探り当ててしまうだろう。そこに至る過程でのハラハラドキドキがおもしろいと思うわけか。おもしろければそのドラマを毎週見ていればいいだろう。見てどうなるわけでもないが、何となくおもしろそうに思われる。それの何が不満なのだろう。不満を述べだしたらきりがないか。きりがなければいつまでも述べていればいいか。そうするだけの気力に欠けている。ただ無気力というわけでもないが、無気力を装うことはできる。装うだけの気力があれば十分だろうか。しかし必要なのはそんなことではない。そんなことではないと思いたいだけか。何に反論しているつもりなのか。君はそこに生じている邪念の正体を突き止めたのか。それの何が邪念なのだろう。今日も怠惰を貫き通したと思うことが邪念なのか。


10月13日

 そこでは何が停止しているのだろう。死人の人体では心臓が停止している。たぶん君は何も語っていない。では実際に語っているのは君とは別人なのか。心の中で架空の誰かが語っているらしいが、何を語っているかは君にはわからない。君は何にこだわっていたのだろう。何を知ろうとしているつもりなのか。このままでは何も知り得ないだろう。それを知るためにはまだやらなければならないことでもあるのだろうか。そんなことは誰も知るよしもない。誰も知り得ないことは知る必要はないか。知っていることはそれだけか。知らないことはいくらでもあるだろう。たぶん君は飽きているのだろう。何もやらないで退屈しているのか。それが退屈といえるだろうか。では何をやっているつもりなのか。ただ夜明けを感じているだけか。何もできなくて夜明けを迎えてそれ満足なのか。何となく疲れがとれたような気がする。たぶんそれが現実なのだろう。夢から覚めてどう思っているわけでもない。ただ夢はどこかへ遠のいた。意識が目覚めて何もないことに気づく。鳥のさえずりを聞いてこの世界に戻ってきたことを知る。元からそうなのだろう。時間が止まっていたのはほんの一瞬でしかなかった。その間に何もできなかったことに気づいただけか。内容を持ち得ない文章の虜となっている。意識はそこからどこへも行けずに立ち往生か。それでも肉体は移動し続ける。ただ仕事をやるために生きているらしい。しかし関心がどこを向いているのだろう。謎解き推理ドラマに感動しているだけか。そう思っていればどれだけ救われるか。空虚な君にも関心を持てる対象があったらしい。しかし何かが意識の中で支えている。つまってしまってそこから先へ出てこない。いったい何が気に入らないのだろう。何かに見とれて言葉を連ねることを放棄している。テレビのチャンネルを頻繁に切り替えながら何も思わない自分自身に嫌気が差す。そんな風に思えるうちはまだ疲れている証拠か。君には書くことがない。それだけでも致命傷か。何を傷ついているのだろうか。傷心の日々が長く続いているわけか。行き詰まりを打開できずに焦っているわけか。だが焦りながらも適当にもがいているはずか。もがきながら無駄な言葉を絞り出す。外部の世界にはまだ文章を差し入れる隙間があるらしい。そこに刻まれる文字には生気がないが、それは元から冷めている。風が止まり空気が固体化する。何も起こらず道には車が行き交っている。それでも何かが起こっているとすれば、それは何だろう。たぶんそれを知り得ないことが困難をもたらしているのだろう。気休めの感動がどこにも存在しないことが、この世界のとりとめのなさを感じさせる。何をどうやってみても、それをやっただけまた元の位置まで押し戻される。確かにそれだけ前進したはずなのに、またその先にやるべきことが積み重なる。ただ時間は過ぎ去り、意識はどこかへ置いてきぼりなのか。いつも違う風景を眺めていたいとは思わないが、代わり映えのしない日常の中で気晴らしの娯楽に浸っていることが許せないようだ。しかしいくら許せなくとも、それをやることしか他に選択肢はないらしい。要するに頭がどうかしてしまうのかも知れない。現実に押しつぶされて身動きがとれなくなってしまうわけだ。やはりそれは気に入らないことだろうか。気に入らなければ自殺でもするか。そんな逃避願望が成就されたところで何がどうなるわけでもないだろうが、ただそうやって人は着実に老いて行くのだろうし、それに耐えられない人は自殺でもしてしまうのだろう。しかしそれ以外に何があるというのか。人はただ夢や幻想に向かった生きているわけか。現実はどこにあるのだろう。ここにあるのは現実以外の何なのか。あり得ない現実などではないだろう。仮想空間もありふれた現実に満ちている。それを取り巻く現実にふさわしくあろうとしているわけだ。何かをやろうとして何もできないとき、それをあきらめるか否かで、感じられる世界も変わってくるのだろうか。いったい何を感じられるのだろうか。それを感じられたらどうなるのか。ならば実際にどうなるのか確かめてみる必要があるか。だから人は行動しなければならないのか。しかし行動した結果に満足するだろうか。満足したければしてみればいい。何となくそれなりの視界が開けてくるかも知れない。また別の風景にでも遭遇できるわけか。だがそれを眺め続けてどうするのだろうか。気に入らなければまた行動してみればいいか。そんなことを繰り返しているうちに、やはりこの世界のとりとめのなさに気づくのだろうか。しかしどれでどうしたというのだろう。たぶん結果的には何とかしているわけか。


10月12日

 気分は爽快とはいえない天候をどう思うでもなく、何となく雨に打たれながら誰かが冷たい缶コーヒーを飲んでいる。そんな光景を思い浮かべてどうするつもりなのか。現実の意識は何を思っているのでもないらしい。何となく眺めているのは誰かが新聞を読んでいる写真だろう。来たるべきものはそんなものではないか。別に写真の中の人物に心臓の鼓動を感じるわけではない。誰もが生き延びるために何をやっているのでもない。そんなことは意識の表層には昇ってこない。どこかの壁に描かれた落書きを不快に思うこともないか。それらのどこに芸術的な要素が見出されるのか。見る人が見ればそう感じることもあるのだろう。だが何を急いでいるのでも慌てているのでもない。性急に芸術を求めてしまう意識は思慮が足りないのかも知れない。それは芸術という言葉に惑わされているだけか。それらの人々の中で道化の役割を担っているのは誰なのか。なぜ大勢の人を笑わせなければならないのだろう。無理にコント仕立てに持ち込むのは虚しすぎるか。放浪者の心は哀しい自由を暗示させ、道化師の振る舞いは束縛感を誘う。常にそれを見る人の冷ややかな視線に射抜かれている。そこにいる人々が話題を共有しなければならない理由など何もない。ただ入場料という金の束縛によって一つの場所に閉じこめられているだけか。そのとき君は何を述べているのだろう。それはいつもの台詞なのだろうか。思い出はどこから湧いて出るのか。冗談で述べるなら、君の愛はどこに向かって微笑んでいるのか。それは誰の歌詞なのだろう。誰が何を歌っているのでもない。まとわりついて離れないのは歌声ではなく、秋の長雨からもたらされる湿気と憂鬱な気分か。涼しいのに汗をかいているのはどうしたことか。ところで勇気は何のためにあるのだろう。そこで何を告白しなければならないのか。コップ一杯の水が神聖であるわけがないか。キリストはペテン師とともに存在している。いつの時代でもイエスはペテン師なのだ。出現しつつある神に信用は何もない。人々は神のペテンに驚くだけか。嘘つきは嘘以外に何をつけるのだろう。しかしそのペテンを信じれば誰もが幸せになれるのかも知れない。世界はここにとどまっているのではない。やがて幸せな人々は忘れ去られ、人々はまた別の価値観を見出そうとするだろう。宗教では満たされぬ思いが別の拠り所を必要としている。しかし精神的な拠り所を求める行為自体が面倒臭いように思われる。わざわざそんなものを求めなくても、ただ虚しいままでも生きていけるのではないだろうか。怠惰な心には虚しさが似合うか。コルトレーンのジャイアント・ステップスでも聴いていればそれだけで満たされるだろうか。満たされてどうするのか。また別のコルトレーンも聴いてみたくなるのだろうか。そこまでファンでもないか。部屋の中は湿気っているのに、たぶん聴いている音は乾いているかも知れない。すさまじい音の構成者は癌であっけなく死んでしまったらしい。だからどうだというわけでもない。ただそういう事実があるだけか。それによって何がもたらされるわけでもない。そこからくだらない人間ドラマを構成してしまうのは音楽に対する冒涜かも知れない。神はいくら冒涜されてもかまわないが、別に音楽まで冒涜される必然性はないか。聖歌隊の合唱も神よりはマシな雰囲気を醸し出しているかも知れない。それはどういうことなのだろうか。述べていることにかなり無理があるか。何となくいい加減な精神状態にあるらしい。それは誰の意識でもなく、たぶんどこかの時空で彷徨っている架空の人格から生じているのだろう。君はさらにあり得ないことを述べているのか。すでに誰かの物語は終わっているはずか。だが君が知っているのはそんなことではない。まるでサーカスのような謎解きには嫌気が差している。そういう方向でいくら工夫を凝らそうと、それは単なる作り話の域を出ないことであり、そんな作り話の精巧さを競うことは馬鹿げているだろう。そうは思わないか。ではただその場の雰囲気に流されながらいい加減に語っていたいだけなのか。そう思われてもかまわないか。そんな言葉の連なりから誰かの微笑みが生まれるだろうか。そんなことまではわからないか。君は戦わずして戦い続け、戦っているうちに戦っていることを忘れ、そのうち眠ってしまうだろう。笑いながら永眠してしまうわけか。はたしてそれは将来起こり得る出来事なのだろうか。それともその場の思いつきで、ただの時間稼ぎの空間稼ぎなのか。誰がそんな嘘っぱちにつき合っていられるだろうか。やはり何を述べているのか定かでないようだが、それでも決して絶望したりしないだろう。別に絶望してもかまわないか。


10月11日

 何かが成された後から思えば、その成し遂げられた結果を肯定せざるを得なくなる。人は自らの行為を正当化するために言葉を操る。君はそれを拒否できるだろうか。それの何を転倒させたいのか。それとは逆のことを述べられるだろうか。不可能を可能と思い込んでも虚しいだけか。自然は自然のままでかまわないだろう。そこに作為を感じるのは自然ではないからか。不自然なことを述べてみたい。戯れに真剣な振りをしている。深刻ぶった表情で何を思い悩んでいるのか。わざとらしく悩むべき内容を探している。何を極端に嫌っているわけでもない。理解可能なことは考えたくない。意図的に接続詞を排して語っているのだろうか。しかしそれによってどんな効果を期待しているのでもないらしく、ただ何となくその場の成り行き任せに流されているだけなのかも知れない。いつものようにきっかけがつかめない。物事の否定的な面ばかりを強調しても釣り合いを欠くだけだが、それがどんな釣り合いなのか不明のままか。いったい何と何の均衡を保とうとしなければならないのか。睡眠と仮眠のバランスが崩れ去っているようだ。何となく嫌気が差して、一刻も早くそこを逃れ去りたい気分になる。たぶんここからの継続は気分次第だろう。どこまでも遠くへ行きたいと思う心境は現状を憎んでいる。わずかな労力で多大な利益を生み出したいとも思う。どこからそんな発想が生まれてくるのだろう。もう昔のことは思い出せないところまで来てしまったようだが、まだ遙か遠くまで歩んできたわけではないらしく、昨日の記憶が十年前の出来事を思い出している。月並みな意見は安心感を招くのだろうか。それが良いことなのか悪いことなのか、にわかには判断がつきかねるか。どこからそんな台詞が到来してしまうのだろうか。著しくバランスを欠いた言説は何を連想させるのだろう。それはただの思い込みかも知れないが、何を思い込んでいるのか知りたいところか。想像力はその時代の文化的限界に制約を受けるらしい。人はなぜ人を超える意識を構成できないのだろうか。それは人が人でしかないからか。唐突に何が脳裏をかすめたのか思い出したのだろうか。君は人ではない。もちろん神でもないだろう。神は神を超える思考がもたらした概念ではない。人々は単純な成り行きに感動する。わけのわからない出来事を理解しようとは思わないか。不思議に思えば興味を抱くかも知れない。たぶん不可解な成り行きに戸惑っているのだろう。君の意識はそれらの現象にはついて行けないと思う。それが現象だとは思えないか。ただ空白の表面に文字が並んでいるだけか。それを超えて何を導き出せばいいのだろう。超えることのできない限界はどこに設定されているのか。何か禁止事項でもなければこれ以上は語れないか。まだ語ろうとする限り、何を制限されているのか思い当たる節はないままか。適切な内容を逸脱しているかも知れない。何が適切ではないかは誰かの想像にまかせよう。君には何も決められない。暗中模索のつもりのようだが、それを言い訳として、確かなことは何も述べられないように装っている。君の現状がそれを許しているのか。別に何が許されないわけでもないだろう。許していることは他にもありそうだ。ところで何を拒否できるか思い出しただろうか。忘れた頃にその言葉を思い出したらしい。要するに君は怠惰の増殖を許しているわけだ。目の前にあるのはただの画面に過ぎないのであり、そこに誰の思いが反映されているわけでもない。何も結論を急いで提示しようとは思わない。直接反論できないような者の性根は腐っている。いくら一つの話題で馬鹿騒ぎしても、それを永続させることは不可能なのであり、また新たな別の話題で馬鹿騒ぎしながら、結局は時間を浪費しなければならなくなる。それが悪循環でなくて何なのだろう。そんなことを繰り返しているうちにすべては忘却の彼方へと遠ざかるだけだ。それ以外に何を眺めていれば気が済むのか。気晴らしの話題ならいくらでもあるか。赤の他人がどこかで活躍しているらしい。それを話題として取り上げてああだこうだと褒め称えなければならない。いったいそれが君たちの生活と何の関係があるのか。そこにどんな関係をねつ造すれば気が済むのか。どこかの誰かの活躍に勇気づけられたとか紋切り型の発言をすれば事足りるわけか。君にはそれがわからない。なぜそれらの光景に感動しなければならないのだろう。何をどう述べようと気晴らしは気晴らしでしかなく、それを超えて真剣な表情を装うのは馬鹿げている。たぶん誰もそれ以上を求めていないのかも知れない。あまり根源的にものを考えてはならないのだろう。ただ状況に流されていればそのうち忘れてしまうだろう。そして忘れてしまったらまた思い出せばいい。あのときの感動をもう一度反芻していれば少しは気晴らしになるのだろう。だがそんなことを繰り返しているうちに、いつか死んでしまうのかも知れない。君はそれで納得できるのか。


10月10日

 廃墟に雨が降り注ぎ、土色のくすんだ風景をどうしようというのか。自然がどうにかするのだろう。別にどうにかしようとしているわけではない。言葉が適当な雰囲気を醸し出そうとしている。耽美的な意識は文化的な枠組みの範囲内でどこを向いているのか。単にわかっていないのかも知れない。荒野にロマンを求めるの心は逃避願望によって構成されているのだろうか。何から逃げだそうとしているのか。求めているロマンそのものからか。空虚な思いは何を求めているわけでもないか。そうやって誰かの期待はいつも裏切られる。別に何を目指しているわけでもないが、たぶん人間の目的は勘違いに基づいているのだろう。ではそれらの言葉によって何を批判しているのか。それはそのときの成り行き任せか。いつかの風景はすでに脳裏から消えている。どこかの誰かは気力も萎えて、目的意識も消え去っている。何を探していたのかわからないか。とりあえず無くしたものを探しているのではなさそうだ。君には鳥が必要だ。それは余分な思いだろう。焼き鳥でも食べたいのか。それらの思い込みにはどのような文章が影響を及ぼしているのだろう。少なくともそれは批判の対象になっていないようだ。その代わりに繰り出された言葉はわけのわからない残像を記憶しているかも知れない。それはどんな思い込みに基づいているのだろう。架空の心には微かな印象が残っている。そのあやふやな印象は自らの嘘に気づかない。誰も何を真に受ければいいのかわからないか。いったい何を強制されているのだろうか。君はどのような風景に感動しているつもりなのか。なぜそれを恐ろしいと思うのだろう。夜だからか。君は一人で何をしたいのか。何かをしたいのは別人か。例えば、映画の中に出てくる英雄は誰の願望が反映された産物なのだろう。唐突にそんなことを思っているわけではないか。ではなぜそれが現実を反映していないと思うのだろう。一人の人間が何をやれるというのか。何かをやり遂げてしまうのが物語の特性だ。そこで物語は特定の個人や組織を際立たせようとするのだろう。たぶんそれが夢が目指している理想形態なのだろう。夢はいつも特別な存在を構成したい。要するに物語の主人公を作り上げたいのだ。誰かが何か偉大な業績を成し遂げたという結果を提示したい。しかしなぜそうやって現実をねじ曲げようとするのだろう。ねじ曲げているとは思わないか。ただメディアが支配する現実の社会はそういう存在になりたい者を必要としている。そのような者の存在を報道番組は必要としている。才能という幻想を伴ったアイドルやらヒーローやらを粗製濫造して金儲けでもしたいわけか。それはそれとは別の芸能プロダクション的な思惑か。たぶんそういった報道によって、何らかのシステムによって選ばれた人間が何か優れた人材だということを示したいわけか。それを見聞する人々に目指すべき目標を提示しているわけだ。夢に向かってがんばれと無責任に煽動し続ける。ではそのような煽動が実在する現状は何を説明しているのだろうか。特定の人間に富や話題が集中することを正当化しているだけか。人と人の間に序列でも設けたいわけか。確かに序列は社会の秩序を維持するために必要なのだろう。だがそれは結果に過ぎないか。何やら特定の役割を担った者が適当に機能しているだけだろう。役柄が恣意的に振り分けられている。それらの物語には、ひとにぎりの成功者と大多数の一般人と、そして夢にあぶれてひねくれてしまった犯罪者たちが登場している。彼らは夢やぶれて落胆して、行き詰まり、中には金に困って人殺しまでやらなければならない者までいる。そういう人々は犯罪報道の餌食となるわけか。転落の人生をこれ見よがしに読み上げられ、言葉による攻撃の対象となり、極めつきをやってしまった者は犯罪小説やドラマのネタを提供させられるわけか。この社会ではそんなシステムが有効に機能しているらしい。もしかしたらメディアによって提供される夢の数だけ犯罪が生まれているのかも知れない。では近頃の犯罪者の増加傾向は、この世には夢が多すぎるということを物語っているわけか。幻想を安易に抱く者たちは浅はかだということか。その浅はかさが積極的に奨励されているのだから、それは仕方のないことか。たぶん成功する夢を抱いてはるばる海外からやってきて、結局は強盗団になってしまうような人たちの現状などが、日本の社会の本質を如実に物語っているのかも知れない。中には最初から犯罪目的でやってくる人たちなどもいるわけだから、よほどこの社会に浮遊している夢は魅力的なのだろう。


10月9日

 それは何のたとえなのか。釣りをする人は釣り針が刺さったときの痛みを思い出せるだろうか。それでは相変わらずの意味不明か。さっきまで何を思っていたのか思い出せるか。無意識のうちに鈍感な心を振り払おうとしているようだが、別にそれで冴えた状態になろうとしているわけではない。感情の赴くままに少し調子に乗りすぎているかも知れない。何を読んでいたのだろう。読みもせずに書物を投げ捨てる。そのときの気分はいかがなものか。脾臓が痛むか。わけのわからない感覚を探しているのだろうか。本当の探し物は何なのか。将来の君はそのことについてどう思っているだろうか。ところで求めていたものは手に入ったのだろうか。精神的にかなり疲れているらしい。肉体的な疲労はどうか。何かまとまり欠けているかも知れない。情報処理の速度が落ちている。脳の反応速度が回復していないようだ。そんな風に思われるのはどうしてなのだろう。くだらぬ言葉遊びに飽きていることは承知している。そんなことを語りたいわけではない。ではいったい何について語ろうとしているのか。例えばそれは命の大切さについてとかか。またいつもの逆説を用いて利いた風なことを語っているつもりになりたいわけか。何となく語る前からくだらぬ雰囲気に包まれようとしている。要するに極端な例を持ち出して興味を惹こうとたくらんでいるわけか。だがそれではあまりにも見え透いているだろう。テロリストは自爆することでイスラム教徒の命の大切さを訴えている、とか、殺人鬼は他人の命を奪うことで自分の命の大切さを訴えている、などと語れば誰が満足するだろうか。それでは逆説になっていないだろう。やはり君は相当疲れているようだ。そこにはどんな認識が欠けているのだろうか。君は君自身の欠陥を見つけられないだろう。間違っているのにそれが嘘だと思っている。それで何か不都合でもあるのだろうか。嘘と間違いは意味的にどこで重なっているのだろう。別に意識をどこかにおびき寄せようとしているのではない。それらの嘘が囮になっているわけでもないか。たぶん誰かの命は死に神が握っているのだろう。君はまだ誰でもない誰かに過ぎない。それはどういう逃げ口上なのだろう。躓きをごまかすわけにはいかないか。はじめから君に命などありはしない。そこで話をねじ曲げているようだ。それで述べなければならないことから解放されたつもりか。それともそれを思い出すための時間が欲しいだけか。しかし何を思い出そうとしているのか。それは命の大切さか。言葉ではないかも知れない。それは何かの情景だろうか。意識はただ迷っているだけかも知れない。誰かが命の存在を認識している。だがそれが言葉上のレトリックに過ぎないと思われるのはなぜだろう。誰かが死ねば惜しい人を亡くしたと思うのは思い違いなのか。邪魔者が消え去ってせいせいしているか。なぜ人が死んですがすがしい気分になれるのだろう。成り行き的にはそんな精神状態もありだと感じるのはどうしてなのか。君は誰かに殺意を抱いているわけか。時としてそれが正しい判断を呼び込むかも知れない。君はどんな状況下でも生き延びたいらしい。決して目の前の絶望を認めようとしない。物語的には自分が生き残るためには他人の命を奪っても仕方がないと思っている。そんなありふれた話で満足するのは屈辱だが、それも生き延びるためには仕方のないことか。だが死ぬ側の論理はさらにありふれているだろうか。他人の命を救うために、自らの命を差し出す覚悟ができていたりする人物が、どこかの物語の中に存在するらしい。そのような話の中で命と呼ばれる概念はどのような働きを担っているのだろうか。話を大げさにして人目を惹くためには、命のやりとりを持ち出さなければならないということか。たとえそれがフィクションであったとしても、命がけの者たちを馬鹿にしてはならない、という暗黙の了解でもできているのだろうか。人の死は馬鹿らしくもユーモラスである、などと述べてはいけない雰囲気でもどこかで漂っているわけか。アニメの中で死を不用意に馬鹿にするのはやられキャラというわけか。命を大切に思わない者は、物語的には常に敗北する側にいるのかも知れないが、君がその手の物語の成り行きに従うか否かは、そのときの気分次第かも知れない。別にそこでどんな物語を構築しようとしているわけでもないのだから、何も物語の定型に従う筋合いはないだろう。だがなぜそうやって物語から遠ざかろうとするのか。なぜ物語が書かれた書物を投げ捨ててしまうのか。それは何かの批評のつもりなのだろうか。


10月8日

 誰が何を思ったのか知らないが、誰かの要求は忽然と消え失せた。それについて君の考えを知りたいところか。君と同様に別に誰が何を考えているわけでもない。そこにははじめから何もないのかも知れず、何もないのにこれから何を述べようとしているわけでもないか。そこに何も見あたらない理由は何だろうか。何かシステムに不具合でも生じているのだろうか。そうだとすれば君はその不具合をどうしようというのか。不具合は不具合のまま放置しておいていいのだろうか。まだ不具合の存在を確認したわけではないし、それについて何を知っているわけでもない。もちろんシステムの不具合を突いてどこに進入したわけでもない。それとこれとは別問題かも知れない。それとは何でこれとは何だろう。誰もが自らの行為を正当化したい。今さら何を問いかけても無理に語ろうとしても手遅れか。誰に尽くしているとも思わない。死力を尽くして行為しているわけでもない。当然誠意を尽くすべき相手の存在など知らない。依然として誰が何を求めているのか明らかでないが、それによって自らの惨めさを思い知らされたわけでもない。もちろんどこの誰に何を思い知らしめようとしているわけでもない。なぜ他人に媚びなくてはならないのだろうか。金が欲しいのか。何も卑屈に振る舞うことはないか。誰に向かってものを述べているのか。それはまた架空の誰かになるのだろうか。誰かの仕事とはそういうものなのだろうか。それが仕事として成立しているとは思えないか。君はそれ以外に何を持ち合わせているのか。何もないとしたら、それが何の慰めになるのか。いったい誰に慰められているのだろう。かなり以前からここには誰もいない。誰もいない部屋の中で架空の君は何を待ち望んでいるのでもない。ではこの先どうすればいいのだろう。誰かの立場や発言や行動の論理的整合性でも追求したいか。君は馬鹿らしいと思っている。扉の蝶番が外れている。それはいつの時点での記述なのだろう。扉の向こうから聞こえてくるのは雨音だけか。様々なことが言い尽くされている。この世界には使い古された台詞以外は存在し得ないようだ。それらの言説は常に台無しになったままか。瞬間的には気が晴れるような気がするかも知れないが、それを語っている毎度おなじみの顔を見るとうんざりしてしまう。君はそれについて何を語っているのでもない。何かしら思うところがあるのかも知れないが、いつまでも沈黙状態から抜け出られずにいるらしい。もはや黙るしかやりようがない。完全に言葉を失っている。要するに呆れてものも言えない状態なのか。何に呆れているのだろう。誰の自己正当化に呆れているのか。どんな主張に呆れ返っているのだろうか。架空の意識は何かに引き寄せられているように感じている。たぶん君は自らが強運の持ち主だと勘違いしているのだろう。なぜそれが勘違いなのか。目の前で感電の火花が散っているのに、まだ自らが生きていることに感動しているわけか。なぜ君は感電死しなかったのだろう。それがただの偶然だとしたら、やはり強運だということか。結果論的にはそうかも知れないが、単なる勘違いである可能性は残っている。強運の持ち主もいつかは死ぬだろう。そのとき死ななかったことと将来死んでしまうことの間にどんな違いがあるのか。君はいつ死んでも何の不思議はないし、またいつ生きていても何の不思議もない。君がどう生きてどう死のうと、他の人々にとっては無視される存在でしかないだろう。もちろんそれは他の誰にとってもいえることであり、どこの誰が国民栄誉賞をもらおうとノーベル賞をもらおうと、架空の君にとってはどうでもいいことなのだろう。君はただ仮想空間の中で黙っていることしかできない。他にどんな動作を期待されているわけでもない。それについて肯定も否定もせず、何となく面倒臭いので、夢も見ずにどこかへ消え去る。この世のどこに希望を抱く可能性を見いだせるのだろう。何を見いだせば誰が納得するのだろう。どこにでかければ気休めの出来事に遭遇できるのか。それを求めている気になれる状況がどこにあるのだろうか。それはどんな思い違いを伴って出現するのだろう。何をぐだぐだ述べているのか。他にやることが見つからないようだ。意識は退屈を持て余している。さっきからすべてが馬鹿らしいと思っているようだが、それでもその馬鹿らしさから文章が生まれている現実を直視できない。それはおかしな事態だろうか。わからないがいつもの意味不明には違いないか。


10月7日

 またおかしな方向へ飛躍しようとしているのだろうか。それは飛躍ではなく逸脱だろう。そんな世界の中心で君は何を願っているのでもない。それは何かの流行語なのだろうか。どこかで水のしぶきが飛び散る。水が流れているらしく、せせらぎが聞こえてくる。すべてはなるようにしかならないが、面倒なので、その現象に何が影響を及ぼしているかをわかろうとはしない。たぶん仮想空間では痛みがないのだろう。痛みを覚えているのは気のせいか。架空の人間はなぜか心が痛むらしい。誰かが繰り出した言葉によって心が痛んでいることになっているのだろうか。なぜそこで痛みに耐えているのか。だが苦しんでいるのは君ではないはずか。それが何のための努力なのか知らないが、誰がそこで修行しているわけでもない。画面上では雨が降り始めようとしている。なぜありふれた映像とシンクロしようとしているのだろう。何に連動して言葉を繰り出しているのでもないか。気休めの言葉以外の何を伴っているわけでもないか。君はそこで何が見出されていると思うのか。それが何らかのメッセージとなる可能性があると思われるわけか。しかしそれら文章には誰の思いが反映されているのだろう。君は何も思っていないのではなかったか。やはりそれは架空の人物の思いなのだろうか。そんな結論ではつまらないか。では作者は何を思っているのか。何かしら思っているのかも知れないが、作者の思いは架空の思いとは無関係のような気がする。誰が何をやっているわけでもないが、それをやればやるほどどうなってしまうのだろう。生半可なことでは仮想空間に住まう人物には太刀打ちできそうもない。こちらが思っていることとはまるで違うことをたくらんでいるらしい。そんな話なら興味を惹くだろうか。いったい誰を対象として話の内容が構成されているのか。何となく話になっていないような気がしてくる。君はすぐにどこかへ隠れてしまうようだ。しかしそれがゲームだなんて思い込むのは浅はかだ。ゲームは作り話やスポーツの中でしか機能しない。現実はゲームを超えてどこへでも君の感情を引きずっていき、意味不明な状況の中に取り残された君を放置したまま、どこか見知らぬ時空の中へ消え失せる。そんな格好良く推移するわけもないか。それは誰かが抱いている幻想だろうか。本当は退屈なゲームの中に現実があるわけか。そう思いたければテレビでも見ていればいいだろう。テレビの中では現実を簡略化する論理が働いており、そこでは現実がわかりやすく説明されているかも知れない。それでは何も説明していないのと同じことか。そうは思わないが、そう思いたければ勝手に思い込んでいればいいだろう。たぶん誰かの感覚はそこから著しく逸脱しているのだろう。誰かはその逸脱を理解できない。その逸脱はいつ是正されるのか。それについては何の方策もなく、ただいつの間にか正常化していることに気づきたいだけか。言葉を繰り出すサイクルを以前の状態に戻したいだけかも知れない。そしてそれとは無関係に思いを巡らしているつもりになっている。それは何か自己欺瞞のような気がするのだが、現実には誰かが誰かを愛している。おそらくその愛の意味は不明だろう。単になんだかわからない感情に愛という言葉を当てはめているに過ぎない。何かの弾みで返答に窮すれば、それが愛だと言い逃れがしたいわけか。そのとき愛は何の方便になっているのだろう。ところでそれとは何だろう。例えばそれとは世界情勢のことか。そう思う君の思考回路は、どんなニュースに影響を受けているのだろうか。はたしてそこに思考が存在するのだろうか。少なくとも何からの思いならありそうだ。その思いとは何だろう。そこではただ言葉が循環しているだけのようだ。その程度の答えならすでにどこかに提示されているはずか。面倒なので何も答えようとしていない。いったい何に答えるべきなのか。応答すべきメッセージがどこにも見あたらない。やはり君は何を求めているのでもないらしい。ではどんな事態になってもただ静観しているだけか。静観する余裕がどこにあるのだろう。ならばもっと熱く語り合って欲しいと思っているのはどこの誰なのか。そんな無責任きわまりない思いを抱いている者は、いつか自らの思いの空虚さに気づくことがあるのだろうか。それが空虚だなんて夢にも思わずに一生を送ってしまうかも知れない。たぶん君はその手の人々に負け続けているのだろう。もちろん別に勝負を挑んでいるわけでもないし、負け続けていることが屈辱だとは思わないか。ただ他に頼るべきものが何もないことを知っているだけか。


10月6日

 なぜか調子が狂わされているようだ。慎重に言葉を選んで、今にも壊れそうな対話をかろうじて維持しているつもりか。いつから対話が成り立っていたのだろう。やはりそれは何かの間違いか、あるいは想像上の出来事か。それは何かの方便なのだろうか。どんな目的を果たすためにその方便は使われているのか。どうしてそんなに冷めているのだろう。いつかのこだわりはどこへ消え失せたのか。彼方から何が忍び寄ってくるのだろう。闇と冷気に包まれて、今は秋だと思う。他にも他愛のないことを思っているのか。眼は何を眺めているのだろう。まだ時間が止まることはない。別のところではもう止まっているのかも知れない。誰かがどこかで止めようとしている。なぜだろう。なぜ何もないところから始まらなければならないのか。どうしてそこから逸れていってしまうのだろう。言葉はどこからでもやってくるが、何となくつまらない世の中だと思う。なぜか時間に追われているらしく、またすぐに追い越されてしまっているのかも知れない。過去に置き去りにされてしまうのを必死に食い止めようとしているわけか。今さらそんなことをやっても無駄だろうか。さらに無内容になっているらしい。明け方の寒さで目覚め、かろうじて言葉をつないでいるつもりらしいが、何を述べているとも思われない。時も人も言葉も超えられないのは当然のことか。そこで終わりとなってしまう現実をどうやってねじ曲げるつもりなのか。自分ではどうにかしていると思い込んでいるのだろうか。しかしいつもかろうじて繰り出される言葉には嫌気が差しているようだ。それ以上に何も述べられないことでストレスが溜まっているのだろうか。なぜ風を感じることができないのだろうか。何が起ころうと無関心になってしまったのはいつからなのか。それでもまだ興味深い現象に巡り会えると思っている。そう思うことで何を肯定したいのだろう。君はどんな否定から逃れたいのか。すでに破滅していると思い込んでいるのは誰だろう。何がその状態を維持しようとして、どこからどんな作用が働いているのだろうか。いつの間にか夜が明けている。どうしても何かを継続させたいようだが、それが無益なことだと誰が悟っているのだろうか。今さら何を思ってみても始まらないらしく、それをやればやるほど、さらに無内容に拍車がかかろうとしている。そんな風に感じながらも、それをやり遂げるつもりらしい。もはや君にはどうすることもできない。どうすることもできないが、どうにかしようとして、何となくもがき苦しんでいるように感じられる自らを、別の自分が冷ややかに眺めている。にやにや笑いながら、君はまだやるつもりなのか、とあらぬ方角を向きながら微かにつぶやいている。それで満足なのか。それの何が不満なのだろう。不満をあげたらきりがないか。現状では何もかもが不満に思われるか。どのように思っても、その不満が解消されることはないだろう。思うのではなく、やらなければならない。実際に不満を取り除くべく行動しなければならないだろう。それをやらないで何を述べても無駄だ。しかしその無駄の最中に言葉があるらしい。それはどのような言葉なのか。さっきから繰り出されているそれらがそれなのか。それ以外にはあり得ないのだろうか。あり得ないからそんな事態になってしまったのではないか。たぶんそれで満足を求めるのは無理もいいところだろう。やはりそれ以外にはあり得ない状況の中で生きるしかないのだろうか。それで生きていると思うか。そうは思わないが、現実には生きている。その意識と現実のずれを解消することができないでいるということか。だから君はもがき苦しんでいるつもりなのか。しかしそれ以外に生きようがあるだろうか。その事態を避けることはできないのか。たぶん何らかの救いでも見いだせれば、それで不満は解消されるのかも知れない。しかし意識はそうなることを頑なに拒絶するだろう。不満がなくなることが気に入らないどころか、自ら積極的に不満を求めている節がある。不満状態を維持しようとして、わざと無内容の言葉を繰り出し続け、その状態のままで続けようとしている。この世に興味を惹く話題など一つもないことを、自らを虚無の犠牲にすることで示そうとしているのだろうか。そんな大げさなことでもないか。フィクション的にはそんな誇大妄想もありかも知れないが、それは本心ではなく、本当は興味を惹く話題が言葉に結びついていないだけではないのか。言葉を繰り出す対象が無内容となっているだけのようだ。それでいいのだろうか。何となく馬鹿らしくなってくるか。


10月5日

 話の核を見いだせずにいるとき、予感はどこかで意識を呼び覚まそうとしている。もうやめた方がいいのかも知れない。それでも続ける理由がどこにも見あたらない。そこで君は現実に敗れ去るわけか。敗れ去った後に何をすればいいのだろうか。他に何かやることが待っているのか。奇妙な車がどこかを巡回している。車は猿をはねて停車したのかも知れない。そんな夢を見たらしいが、はっきりした内容を思い出せない。夢の中で退屈なときには何をやっているのだろう。無益なことを想像しても無駄か。何に気づいているのでもないが、気づいたときには明日になっている。たぶん明日になっても同じようなことをやっているのだろうが、いつもそれとは違う感覚を求めている。どうも生活のサイクルがまた微妙に狂い始めているようだ。やる気はしないが、何となく眠たくなってくる。今宵の夢見はいかがなものか。さっきまでだいぶ長く寝ていたようだが、どこかで何が尽きているわけでもない。話に終わりがないというのは本当だろうか。それは何の話なのか。夢の中で岡本太郎は何を言っていたのか。終わりはどこにあるのだろう。お前はすでに死んでいる。確かに数百年後にはすでに死んでいる。君はそれを語ろうとして語っているわけではなく、それらの語りは何に従っているわけでもない。成り行き的には怠惰に従っているのかも知れない。一方見る人のいない画面上では、ただ誰かが延々としゃべり続けている。ひたすら同じような雰囲気を醸し出そうとしているかのようにその語りは続いている。それは何のためというのではなく、単にそこから逃れることはできないことを示しているだけか。何かそこに出来事があるとすれば、それは偶然の巡り合わせだと思いたくなる。偶然に何を思いだしたのだろう。それ以外に何があるのかわからないが、それ以前に意識はこの世界に対して何を要求しているのだろう。何らかの出来事に巻き込まれたいか。巻き込まれてどうするのだろう。困り果てて何をどうしたらいいのかわからなくなるのか。そうなったらおもしろいだろうか。現実のおもしろさを体験したのかも知れないが、相変わらずこれからどうしたものか考えあぐねている。とりあえず答えが見あたらないのに、嘘でもいいから強引に答えようとしているわけか。誰にも知り得ないことを知ったつもりになり、何となくそれについて語っている自らに気づく。何を語っているのか自分でもわからい。誰がそれをわかるように翻訳してくれるのだろう。君は幻影を見たことがあるか。いくらやっても終わりまではたどり着けそうにないか。いくら考えを巡らしても虚しさが募るばかりか。何を思っているのかよくわからないが、そんな台詞は今の感覚には当てはまらないか。いったいどこまで行こうとしているのか。思いは自分を超えてどこかへ飛躍しそうになるが、それでも依然として何をもたらしているのでもないらしい。ただいつものように空虚の中に言葉が連なるばかりのようだ。それは決して得難い体験ではなさそうに思える。ありふれた思いが適当に積み重なり、それに関連して生成した言葉の群れは、たぶんありふれた日常に吸収されていくのだろう。どうしてそこで虚しいと感じないのか。そこで繰り返されているのはそんな現象だろうか。思いはとりとめのない別の思いによってどこまでも逸らされてゆく。もう何を思っていたのか忘れるまでその運動は執拗に続いてゆくのだろうか。現実の時間帯では何が行われているのか。ただ適当なことをやっているだけか。適当なこととはどんなことなのか。そんなことまでは覚えていないか。別にそれを思い出して欲しいわけではない。思い出している最中に眠ってしまったようだ。たぶん今日も何を語っているのでもないらしい。思いと繰り出された言葉はいつものように食い違っている。それらの言葉の組み合わせには飽きてきたのかもしれない。そんなことは始めからわかっていることだろう。君の思考にはそこから先がないようだ。その先にどう言葉をつなげたらいいのかがわからない。だからいつもそこから同じように循環してしまうのか。もういい加減にやめて欲しいが、なぜかその循環のただ中にとどまっていたいらしい。なぜ相反する思いを同時に満たそうとするのだろう。そんなことは不可能であることは承知しているはずなのに、気がつけば、性懲りもなくそんな事態に陥ってしまい、困り果てている自らを冷ややかに眺めている。実際に誰が眺めているのでもないだろうが、言葉的にはそんな感じがしているわけか。


10月4日

 何かを利用したいらしいが、君が抱いているその利用の仕方が何となくおかしい。何がおかしいのだろう。何で笑っているのだろうか。なぜおかしくもないのに笑っているのか。それがおかしいはずがないと思いたいのか。そういう語り口がわからない。わざとそんな風に振る舞っている。それでは単なる言葉の引き延ばしに過ぎないだろう。どうにも笑えない状況に陥っているのかも知れない。今までに経験したことのない不思議な出来事に遭遇しているわけか。だがそれの何が不思議なのだろう。不思議だと思うから不思議なのか。しかしそれが不思議だと思われる理由が見あたらないか。理由もないのに不思議だと思っているわけか。何となくその嘘がわからない。別に不思議であってもかまわないだろう。それについて考えるのは無駄かも知れない。いくら考えても結論にはたどり着かないか。テレビをつければ、どこかの老人は元気であることを誇っているらしいが、今の君は元気からは程遠い。それらを見たり読んだりしているだけでは元気が出ないか。それ以前につまらないか。それ以前に何を求めているのだろう。君とは別の誰かは戦争を求めている。たぶん戦争は利益を生み出すと思っているのだろう。人々は様々な種類の利益を求めている。戦争がもたらす利益も魅力的に思えるのかも知れない。しかし戦争は何かのためになっているのだろうか。例えば増えすぎた世界の人口を戦争によって減らせるだろうか。それによって確かに大勢の人が死んでいるが、それでも人口は増え続けているらしい。それはダイエットに失敗したときのリバウンド現象に似てなくもないか。自分たちが滅びるかも知れないという危機意識が、逆に動物としての繁殖力に火をつける結果になっているのだろうか。それは無理にやせようとすればするほど、逆に脂肪を蓄えようとする自己防御本能を目覚めさせてしまうのと同じようなことか。では戦争より有効な人減らしの方法があるだろうか。自然に従うことだ。神はそう言うかも知れない。誰が神なのか。それは人間の存在を自己正当化する本能が生み出した虚像か。虚像ではなく人の思いがご都合的に反映した実像そのものか。しかし今さら神はないか。ならば科学者ならどうか。自らが推奨する科学技術を発展させて、世界がより住みやすくなるように改造すべきか。世界が人間にとって快適な環境なるようにするための道具が科学技術ということになるだろうか。そうであるなら戦争は科学技術の誤った使い方にでもなるのか。雰囲気だけで愛や平和を訴える人々ならそう思うところか。技術は使われるためにあるのであり、誤った使用法としても正しい使用法としても、それに不具合がなければ、その使用目的に沿う形で機能するようになっている。そしてそれが使用された後から、人がその使用法の正誤を判断するだけか。そんな技術なしでは人間は生きては行かれない。ただ自然に従っていればそのうち人間は消えてなくなるだろうか。それは人間ではなく動物になるということか。しかしそんなあやふやな結論では気に入らないか。技術などあって当たり前のものか。技術の有無で議論を進めるのはおかしいか。人は技術的に生き、そして技術的に死ぬ。何をやるにもその初期条件として技術の存在が前提となっている。技術をどう使うかはそれを使用する者の勝手だろうか。勝手にならない面もあるか。規制が張り巡らされている。ルールに沿った形で使わないと法律違反か。もちろん違反行為を知りながら使わなければならない状況の人もいるだろう。自らが生き残るためには使えるものは何でも使わなければならなくなってしまうか。もちろん死ぬための技術だってある。だからどうだというのだろう。そこから利いた風な結論を導き出すのは至難の業か。そのような水準でこの世界をどのようにしたいわけでもないらしい。どうすればこの世界がうまく回っていくのだろうか。とりあえず君はそれを考える必要性を感じていない。今の君にはその必要がないのだろうか。それは出過ぎた真似であり、君の能力を超えた行為だろうか。少なくともそれについて議論している人々の仲間には入れてもらえないかも知れない。しかし議論したからといってどうなるものでもなさそうだが、それでも議論せずにはいられない人々もいるらしい。何となくそれは違うと思われるのは勘違いだろうか。どうも利用の仕方が根本的に間違っているのかも知れない。


10月3日

 別に過去を振り返っているわけでもない。君は何を信じているのか。あのとき流れ星を見たことを信じているわけか。誰が見たのか思い出せない。誰が何を信じているのだろう。簡単に振り出しに戻ってくる。どこまで症状が進んでいたのか記憶にない。何が進行していたのだろう。それが病だと思うわけか。その時点では何が病なのかわからなかったのかも知れない。君は何もわかろうとしていない。あるいはわかっているのにわからない振りをしている。しらばっくれているというわけか。わざとそうしている理由は何だろう。わざとらしい振る舞いに魅力を感じているのか。やはりそれは言葉遊びの一種なのだろうか。いったい何を述べようとしているのか。その辺がよくわからない原因なのかも知れない。自らの生き方を美化している人は醜いだろうか。どの辺が醜いのだろう。そんなことには答えられないか。誰に答えを要求しているのかわからない。なぜ醜くてはいけないのか。言葉の意味としては否定的な評価が含まれている。君は何を見せたいのだろう。その心の醜さを見せることが可能だろうか。それは言動や文章からわかることかも知れない。しかしそれを悟られてはまずいか。何を悟られまいとしているのだろう。嘘をついていることは百も承知か。それが嘘だとなぜわかったのか。誰がわかったのだろうか。君は誰の嘘を見抜いたつもりになっているのか。それがどのような嘘なのか説明できそうもない。どうも創作意欲が減退しているようだ。嘘一つねつ造することもできはしない。なぜそれが適当な作り話に結びつかないのだろうか。すべてが白紙に戻ろうとしているのかも知れない。もうそこに何が記されているのかについては無関心らしい。無関心を装っているのではなく、本当に関心を持てないのかも知れない。今世の中では何が話題となっているのだろう。きっと世の中にある地域ごとに話題も異なるのだろう。その中で何か感動するような話題でもあるのだろうか。たとえそれに巡り会ったところで、何に感動しているわけでもなく、ただ感動しているつもりになっているだけかも知れない。君はこれから何に巡り会おうとしているのだろう。すでに巡り会っているではないか。つまらぬトラブルに巻き込まれている。それの何がトラブルなのかよくわからないのだが、君はどうすることもできない状態に変わりはない。たぶん醜い人々がいろいろ動いているのだろう。しかしなぜそれが他人事としか思えないのか。何となくそれでうまくいくような気がするわけか。また、たとえうまくいかなくても、それはそれでうまくいかなかった結果を受け入れるつもりなのか。そこから先は妄想の領域だと思われる。被害妄想となったり加害妄想となったりして、何らかの犯罪に発展したりするのだろうか。そうなったらなったでおもしろいか。それの何を評価することができるだろうか。暇つぶし程度の感情でももたらしてくれるだろうか。だがいったい何に対して怒らなければならないのかわからない。そうなるだけの気力に欠けているのかも知れない。その辺は当人がどう思っているのか知りたいところか。それは何をやっている当人なのだろう。とりあえず何をやるにしても、悔いの残らない結果などを期待してはいけないのかも知れない。それは結果が出た時点での思い込みの問題だろう。思わしくなければ悔いが残って当然か。それは当人の執念と努力とそのときの状況と偶然の作用にもよるだろうか。なぜ君は結果を求めないのだろうか。結果を目の当たりにするのが怖いのか。それを直視できないのだろうか。その状態から一歩を踏み出せずにいる理由はそんなところか。すでにだいぶ以前から躊躇し続けているのかも知れない。吹っ切れずにいるということだろうか。迷っている状態を継続することの何に魅力を感じているのだろう。ただ迷い続け、さらに迷い続け、いつしかどうなるわけでもなく、執拗に迷い続けているつもりのようだが、それをやり続けることで何か貴重なものを失っているのかも知れない。それが何なのかわかるまで迷っている振りを続けるつもりなのか。そんなことはあり得ないだろうか。またそれによって貴重何かがわかるはずもないか。別にそれを見つけられなくてもわからなくてもかまわないのかも知れない。要するにそれが貴重だとは思えないということか。それが何なのかもわからないのに、どうして貴重でないといえるのだろう。何なのかわからないのだから、現時点では貴重であるともないともいえないだろう。とりあえずその何かよくわからないものを手に入れたあとから、それがどういうものか判断してみよう。別に手に入らなくてもかまわないか。なぜ本気になれないのか。そんなものに本気になれるはずがないか。


10月2日

 それを誰が望んでいるわけでもないが、別に説得力がなくても神は存在するのだろう。しかし存在しているからといって、何がもたらされるわけでもない。神に頼る者は神から見放される。そんなはずはないだろうか。君は神ではなく、空虚に頼って言葉を連ねようとしているのか。そんなはずはないか。頼るべき対象を積極的には求めていないわけか。何を強がっているのだろう。何を笑っているのだろうか。今日は何曜日なのか。植物が枯れようとしている。人類が滅亡しても昆虫は生き残るかも知れない。そのとき神は昆虫に何を啓示しようとするのだろう。なぜそれが人間でなければだめなのか。昆虫のどこが気に入らないのか。生物の何が滅び去るわけでもないらしい。生物がいなくても物質は存在している。物質が存在していなくても空間がある。その空間で何が起こるわけでもないが、そこで絶望しているのは誰でもない。誰もいない空間で誰が絶望できるだろう。しかしなぜ望みが絶たれていないと思うのか。何を望んでいるのか定かでないからか。また意味のない迂回を繰り返そうとしている。万有の力は無力から生じている。それは物質の集積から生じているに過ぎない。わざと無気力を装っても、そこから何らかの希望が生まれてくるだろう。それは絶望と同種の希望かも知れない。何となくまた嘘をついているらしい。どこから逸脱しているのかわからなくなるが、そこに希望がある。そこから語り始められるからか。予測は完全に間違っていたようだ。それらはゲームでも競争でもない。希望とは何だろう。無から有が生じて、虚無の空間がひたすら拡大し続ける。なぜそれを深刻な事態だと思わないのだろうか。不合理が是正されないならばそうなるしかないのだろうか。たぶんそれは認識の相違なのだろう。事態そのものが思い込みから誤認された錯覚かも知れない。いったい何を予測していたのか。それがわからないのに、なぜ予測が間違っていたといえるのか。例えばこの世がどのような世界になると思っていたのか。どのようになることを望んでいたのだろう。現状の何を否定しても、あるいは否認しても無駄か。今まさに認められない言葉の連なりが実在しようとしているわけか。そんな大げさなものでもないだろう。それをどのように非難しようと仕方のないことか。あるいは今からでも決して遅くはなく、まだ少しは修正のしようがあるだろうか。それとももう手遅れで、駄文をいくら修正しても駄文には変わりないか。影は何を駄文だと認識しているのだろう。そんなわかりきった問いははじめから無効だ。それを有効だと見なすためにはどんな勘違いが必要なのだろう。いったい何を勘違いしたいのか。どんな風に思い込めば、それらに希望を持てるのだろう。たぶんどんな策略も戦略も役に立たないのかも知れない。そして君は自らの無力を思い知るのだろうか。しかし何に打ちのめされているのか明らかでない。それはただの世界だろう。どのような世界でもなく、ただの世界でしかない。ただそこで迷っているだけなのかも知れない。強引に結論を導き出そうとして、絶えず失敗している。だがそれでもまだ懲りないらしい。意識の中では果敢に挑戦しているつもりのようだが、何に挑戦しているのか明らかでない。そしてどこかに誘いの手招きが生じているらしいが、なぜかそれを無視している。なぜ可能性を追求しないのか。それが可能だとは思えないからか。もしかしたら可能かも知れないが、それをやるのが面倒なのか。なぜ真意を明かさないのだろう。真意を構成し得ないからか。真意もないのに何を思っているのだろう。ただあやふやに言葉を弄しているに過ぎないのか。君には何もわからないだろう。もちろんどこかの誰かがわかっているわけでもない。それを知ることは無意味であり、不可能なのかも知れない。わかっていることはたかが知れていると同時に、わからないことはわからないままでいいのかも知れない。事の真相ばかり求めるのは趣味が悪いが、それは趣味の問題でもなさそうだ。永平寺には道元禅師からのメッセージという小冊子が、売っているのかもらえるのかわからないが、とりあえず存在しているようだ。そこには何となくわかったようなわからないような言葉の連なりがきれいな風景写真とともに載っている。結論が記されているようで、しかしそれが結論になっていないように感じられる。どうも何を述べているのでもないように思われる。


10月1日

 どうも今回も根気が足りないらしい。思い通りに行かず、心中穏やかではないということか。そのとき君は何をしていたのだろう。何もせずに何を伝えたいのか。そんなことはいちいち覚えていないか。ではその覚えていない時間帯で、君が何を考えていたのか知りたいか。何をはぐらかしているのか。ここは夢の中だろうか。夢の中で何を思いだしているのでもない。今日はどこで何をしていたのだろう。そんなことはわかりきっているが、心に深く刻まれた記憶はもう忘れたつもりになっている。忘れられないから忘れたつもりになる。忘れられないから忘れたい。そして思い出そうとするから思い出せなくなる。その代わりに思い出そうとしないことを思い出す。それ以外に時々思い出すのはつまらないことか。つまらないことでは気に入らないか。気に入らないことだらけでは不快になってしまうか。不快になったからといって、それをどうすることもできない。不快であるのはいつものことであり、もちろんそれによって大した不具合が生じているわけでもないのだが、今さら何を糾弾するつもりなのか。何を怠けているのだろう。怒りの矛先は過去に消滅している。怒る対象を感知できない。では何もしていないとき、何か適当なことが思い浮かんだか。何もしていないわけでもないだろう。何もない虚無の空間では何が強要されているのだろう。仮想空間からはメールが送られてくる。憂さ晴らしにメールを送りつける人は多いが、必ずしもそれが憂さ晴らしになっているわけではないらしい。その意味のない内容に苛立っているわけではないが、例えばアダルトサイトの案内メールなどを毎日何通も送りつけてくる人などは、やはりそれは仕事でやっていることなのか。その執拗さには呆れるが、まあご苦労なことなのだろうか。そんな日常の光景には海が欠けている。低地では酸素が濃すぎるのかも知れない。霧の向こう側には桃源郷がある。闇の向こう側が見えないわけではないらしい。そこでは何が発生しているか知り得るだろうか。無数の虫が飛び回っている。そのような光景に誰が驚くのか。世界中が蚊だらけになる夢を見たことでもあるのか。空の片隅から雲が湧いて出て、足下では潮が退いている。乾いた心には星空の季節が近い。誰かがいつものように嘘をついているらしいが、解決の糸口はどこにあるのだろう。何を解決したいのか。わざと不正確なことを述べているとき、性懲りもないのは誰なのか。その件について君はまともに語ってしまうことを恐れている。自らが自らについて正確に語れるだろうか。誰が架空の独白に正確さを求めるだろう。そこで終われない意識には執念深い影が取り憑いている。それは思いもしなかった展開を予感させるかも知れないが、どこで何が食い違っているのでもない。どこの誰が不協和音を用いて何を奏でているわけでもないのだろうが、聞こえてくるそのすべてを不快に思っているのは誰だろう。放浪しているつもりの修験者や托鉢僧にはどんな言い訳があるのだろう。誰が放浪しているつもりなのか。中途半端にわかったつもりになって、誰もいない闇に向かって語りかける。それはわかりにくい表現かも知れないが、他に何を考えているわけでもなく、それでも何かしら思うとき、たぶんそこから作業が始まるのかも知れない。しかしその一方で何が終わったと思っているのか。始まる以前に終わっていることに関して、何かしら述べられるだろうか。何が可能で何が不可能なのだろう。つまらない言葉は果てしなく続くだろうか。それをつまらないと思っているうちは続いてゆくのかも知れない。もっとおもしろいことを語りたいわけか。もうそろそろ口を閉ざしたらどうか。冗談ではないか。まだそこから逸脱していないではないか。それ以外には何も述べていないような気がする。ならば沈黙から学ばねばならなくなるだろう。つまらぬことを述べている場合ではないか。それの何が矛盾しているかはわかっている。それ以上に何を行えばいいのだろうか。意味不明でも何かを伝えなければならないのか。