彼の声43

2004年

7月31日

 そこに理由などありはしないだろう。それは理由にはならない。別に理由を探しているわけではない。しかしそれが理由になりうる条件とは何か。ただ小難しいことを述べたいだけなのか。それのどこに言説の連続性があるというのか。どこからか寄せ集めてきた言葉をただ適当に組み合わせて文章を構成しているに過ぎない。はたしてその文章の中にやめる理由や続ける理由が隠されていたりするだろうか。何やら的外れでわかりにくいことを述べているのかもしれない。目の前に存在しているものについて何を述べたらいいのかわからないか。何が現前しているわけでもないだろう。現れつつあるのはそれらの現実か。それらとは何か。君は何を求めているのだろう。それは逃げ口上の一種になるだろうか。わかりやすく説明しなければならない義務から逃げているわけか。面倒なので義務は果たされないかもしれない。面倒なのではなく、単にできないだけだろう。何かが出来損ないつつあるように思われる。出来損ないも一つの結果なのだろう。その逸脱の仕方が毎度おなじみになっているのかもしれない。それらの言葉の連なりが演じようとしているものは文章の出来損ないなのだろうか。それが一定の技巧として確立されているかは不明だが、なんとなく底が浅いやり方だと思われる。それは見え見えのやり口なのだろうか。魂胆は何なのか。ただ継続を企んでいること以外に何があるというのか。君はそれらの出来事から何を学んだのだろう。具体的な事件が欠如しているのにも関わらず、その不在の事件について述べることができるということか。しかし相変わらず何を述べているわけでもない。何も述べずに言葉を繰り出すやり方が確立されているわけか。そんなことはあり得ないかもしれないが、あり得ないからこそ、それが不在の事件になりうる。だがそんな表現はまやかしだろう。常識に馴染んだ意識にとっては、ただ粗雑なことを述べているだけのように思われる。論理的整合性を備えた思考に照らし合わせれば、稚拙な論理で取り繕っているだけのようにも思われる。要するに何をどう述べてみても、ごまかし以外の何ものでもないということか。そう思いたければ思っていればいいだろう。思うことならいくらでもできるか。ただ思っているだけでは何もできないだろう。思っていることを実行に移さなければ、何もやっていないのと同じことか。だが何もやらなくてもそれで済むなら、無理して何かをやろうとするよりは楽かもしれない。では思っているだけで何もやらなければいいだろう。やってもやらなくてもどちらでもかまわないであり、やったらやったでなにがしかの経験になるだろうし、やらなければやらなくても、それも一つの判断であり、経験なのかもしれない。しかしどちらでもかまわないなら、それ以後は何をどう述べればいいのだろうか。ただわからないということ以外に何を述べられるだろう。君はそんな状況を虚しいと思うわけか。君にとってはまったく肯定することの不可能な状態なのだろうか。だからどうだというわけでもないだろう。またいつもの決まり文句に到達してしまうのか。そして疲労感とともに虚無に包み込まれて、途方に暮れてしまうのがいつものパターンとなっている。そこまで述べたらそれでおしまいなのか。それではあまりにも安易だろうか。やはりそこから先へいかなければ倫理的に許されないか。何が倫理なのか。誰が君を許さないのだろう。それについて何か心当たりでもあるのだろうか。動揺を隠せないふりをしている。あえていつもの決め台詞で述べるなら、何を述べてもそのすべては冗談なのかもしれない。それでは身も蓋もないだろう。そしてそこまで述べる理由などどこにもありはしないか。


7月30日

 別に気晴らしを求めているわけではないが、気を紛らす暇がどこにあるのだろう。何もないのに何かがあるように装っているのは手品の類か。それでも何を述べているのでもなさそうだ。そこに何があるわけでもないが、それでもそこにあるのは何なのか。そんな問いに誰が答えられるというのか。どうやら何も求められてはいないようだ。求められてもいないものを誰がもたらしてくれるというのか。読んでもいない文章について何を述べればいいのか。その気があればこれから読んでみればいいだろう。もちろんその気もないのに読むことはないだろう。誰が読んでも誰が読まなくてもかまわない。すでに読み始めているとすれば、そこで読むのをやめてみよう。やめたからといって誰が困るわけでもない。それを読む読まないはその人の勝手にまかされている。面倒なので読ませようとする気が起きない。どんな誘惑の種を用意しておけば読んでくれるのか。そんなことをしようとしているわけではなさそうだ。ただ言葉を繰り出すだけで精一杯か。そんな方向に語りたいわけではないが、そうなってしまうのだからどうしようもない。そこら何をどうしようというのか。これが漫画なら適当な戦いが用意されていて、読む者の気を紛らしてくれる仕掛けになっているのだろう。またこれがテレビドラマなら、適当な感情のぶつかり合いが暇つぶしのネタとして提供されているわけか。いったい誰がそれを望んでいるのだろう。だが君はそれの何を批判しようとしているわけでもない。それ以外に何があるというのか。それは君の決まり文句でしかないだろう。たぶん君にもそれ以外は何もないのかもしれない。そういった見せ物にそれ以外を期待するのは筋違いかもしれない。では君はそれ以外には何を見ているのか。画面以外に何を見ているのだろう。日常の風景にはそれ以外の何があるのだろうか。ただつまらぬ諍いが連続しているだけか。それはそう思いたいのなら思っていればいいことでしかないか。人は人とは別のものを見ている。そして見るのが飽きたらやめればいいだろう。詩的な雰囲気でも醸し出したければ風の音でも聞いていれば事足りるだろうか。そんな回りくどいことなどやりたくはないか。実際に言葉で文章を構成しているではないか。現実には何を聞いているわけでもないだろう。ただ音楽とエアコンの音以外に何を聞いているのだろう。エアコンはさっき切ってしまったはずか。風はだいぶ前からやんでいるらしい。それでも何かの音を聞いているふりをしているのは君とは別の人格を持った人か。やはりそれは回りくどい文章表現かもしれない。途中で破綻しているように感じられるが、始めからおかしなことを述べていたかもしれない。たぶん何を述べようとしていたわけでもなかったのだろう。それらのどこかに何らかの告白が含まれているかもしれないが、意識にはそれを捉えることができずに、いつもの空虚をつかんで、何もないことを嘆いているだけなのか。それで事足りるのならそれに越したことはないか。たぶんそれで済まそうとは思っていないのだろうが、それ以外に何もないのだとしたら、どうするべきなのか。どうしようもできずに行き詰まってしまうわけか。それでもかまわないだろう。それ以外に何もできないのなら、それをひたすらやり続けていればいいだろう。気が済むまでやっていればいいと思うが、気が済むことなどあり得ないか。とりあえず気が済んだときが終わりの時なのかもしれない。そしてだいぶ前からその終わりの時を執拗に先延ばししているような気がする。なぜそうしているのかはわかっているのかもしれないが、わかっていながらわからないふりをしているわけか。あえてその件については触れないようにしているだけか。それに触れて、それについて述べれば、そこで終わりなのだろうか。それは実際にそうなってみればわかることか。


7月29日

 終わりの時が近づいているかもしれないのに、何をぐだぐだ言い訳を続けているのだろうか。何が終わろうとしているのかわかっているのにわからないふりをする。なぜか不思議なことを述べている。たぶんここからが腕の見せ所なのかもしれないが、期待は裏切られるために存在するらしい。もちろん何を期待しているのかわかっているのにわからないふりをする。やり方を変えなければ、マンネリからは抜け出られないような気がしてくる。しかし何をやればいいのだろう。そんなことを述べているうちに眠くなる。眠気に打ち勝つことはできないのだろうか。やはり何をどうやっても同じことしか語れないように思われてくる。今回もまともな内容には巡り会えないままに終わってしまうらしい。だいぶ前から間違っているのかもしれない。わかりきったことを今さら述べてみても何も始まらないだろうが、それでも強引に始まっているような気がする。何かを始めているつもりなのだろう。だが誰が何を始めても放っておかれるだろう。そんなことには興味がないと思われるだけか。君の思いは誰の思いでもないが、誰かの思いを真似している可能性もある。おそらくマンネリを脱することはできないだろう。マンネリの中で自己満足に陥っているのだ。急に頭が冴えてきたと感じるのはたぶん思い違いだろう。その何気ない仕草に意味も意図もありはしない。ただ何気なくそれを繰り返していることに何の目的もない。君が他の文章から抽出してきた言葉は、それらの意識には馴染まない類のものだ。それらはほとんど固有の意識を持たず、機械的な動作を繰り返す人々かもしれない。日常生活を送るだけなら意識などいらないのだろうか。却って意識や思考が生活の邪魔をしている場合もあり得るかもしれない。ただ何も思わず何も考えずに生きていけたら、どんなに楽な人生が送れることか。それは何かの冗談だろうか。気楽な思いはそれらとは決別すべきなのか。それらとは何なのか。決別すべき理由がどこにあるのだろう。決別すれば肩の荷が下りてさらに気楽になれるかもしれない。それらの思いを同じ状態に保つことはできない。感情はどこまでも意識を引きずってゆき、とりとめのない心理状態に自らを追いやってしまうだろう。何をやっていても、そのやっていることなど何の価値もないような気にさせる。何がそうさせるのか知らないが、何かそうなる必然性でもあるわけか。絶えず試行錯誤を繰り返しているように装い、試みに繰り出す馬鹿げた言葉の暴走には歯止めが利かないようだが、別に意識の内部が欲望で煮えたぎっていることなどあり得ないか。なぜ突然そこで欲望が出てくるのだろう。そんな風に述べれば、冗談で述べているつもりになっていることに気づくだろうか。ただ単に言葉に詰まって意味不明に逃げようとしているらしい。いつも君はそんなことを述べているのか。それらの言説には何らかの規則性でも見いだせるだろうか。では戯れにそれを導き出してみればいいわけか。その気もないのに、戯れにそんなことを述べているだけのようだ。しかしそれ以外に何を述べればいいのだろうか。そんな問いにも飽きてきた。何がそれを要求してくるのだろう。ではもういい加減にやめて欲しいと誰が思うだろうか。たぶんどこかで誰かが思っているかもしれないが、その思いがここへ届くことはないだろう。ここには誰もいないので、意識も思考もありはしない。それでもそれがあると思われるとしたら、それは君の意識でも思考でもないということだ。しかしそれはどういうことなのか。君とは関係のない誰かの意識や思考がここ以外のどこかにあるかもしれないが、それらについて何を思い、何を考えればいいのだろう。


7月28日

 君の思いとは関係のない言葉が散らかっている。そこで君は何にこだわっているのか。つまらない話はどこまでもつまらないだけか。何を語ろうとしても無駄か。相変わらず何を語っているわけでもなさそうに思える。どこで何をやっているのかわからない。それでも地道な努力はどこかで実を結ぶはずか。そんな信仰に興味はない。確か誰かはそんな展開が大嫌いなはずだ。だから繰り出される言葉に君のものはない。夏の空には積乱雲が立ち並ぶ。たぶん今は夜だろう。夜空は雲に閉ざされている。今にも雨が降り出してきそうに思える。誰かの眼は曇り空を見ているようだ。だが君にとってそれは架空の話のように思える。空を見るには何か理由が必要なのか。ただきれいだから見ているだけだろう。何をやるにも理由が必要というわけでもない。理由がなければ、ただ何となくやっていることばかりのような気がする。やっていることに現実感がない。しかし現状に対して何を思えばいいのだろう。誰が何を思えば君は納得するのか。たぶん誰かが君の思わないようなことを思っているのだろう。だがそれが何もやらないことの理由にはならないだろう。ただ何もできないだけなのかも知れない。理由がないなら勝手に作ればいい。ではそこにどんな理由を捏造できるだろう。仮にできたとしてどうなるというのか。仮の理由ではなく本当の理由を知りたい。理由を知れば何となく安心するかも知れないが、それが本当の理由にはなりそうもない。知りたいのではなく、切実な理由を求めているのかもしれない。だがどうやってもそれがもたらされる状況には至らないようだ。なぜそうなってしまうのか。そのとき君は何を思い出しているのだろう。思い出しているのではなく、適当な記憶を捏造しようとしているだけだ。人影のまばらな通りを抜けて、誰かの車はいずこともなく去ってしまう。別に車に用があるわけではないだろう。たぶんそれは思い出された情景などではなさそうだ。ただ今日も君の意志とは関係なく中途半端に言葉が連なろうとしているだけか。それらの現状は予定調和の成り行きになっているだろうか。予定調和だと思いたければそう思われるかもしれないが、どう思ってみても、誰も君の思いにまでは介入してこないだろう。もちろん影は何も語らない。なぜ語る必要があるのだろう。老人は遠い日々を思い、黄昏れた現状は言葉から見放されている。現状とは何か。現在の状況が現状なのだろうか。それが何なのかわかりかねるが、他の誰かにとっては何でもないと思われる。誰に老人の気持ちがわかるだろうか。わかろうとすればわかるかもしれないが、わかったからといってどうなるわけでもない。いつの間にか夜を通りすぎて、晴れた時には午後の日差しを受けて影ができる。それが君の影の正体か。正体は君自身だ。影は何色に見えるだろう。そんな問いに意味があるとは思えない。では薄暗い物陰から何を出現させれば現実になるだろうか。何を出現させてもそれは現実にはなり得ない。そんな断言を誰が信じるのか。現実にはそこで誰かが言葉を記述しているだけか。その誰かとは君のことなのか。しかしそれが本当の現実なのだろうか。記述しているのは文字だろう。では文字は言葉なのだろうか。文字の組み合わせによって言葉が生じ、言葉の組み合わせによって文章が生じる。もちろんそれで何を述べているのでもない。ただ適当に文章が構成されるだけだ。しかしそれが構成されているといえるのだろうか。構成からは程遠いバラバラな状態かもしれない。たぶんそれでも何らかの構成なのだろう。


7月27日

 いつの間にか多様な言葉はどこかへ去ってしまい、文章が朽ち果てようとしている。歳月は気ままな境遇を許さない。何かに追い立てられて、気がつけばどうにもならない状況のただ中でもがき苦しんでいる。しかしそれでも身勝手な期待を抱いているようだ。誰かはいつまで経っても悪あがきをやめられないらしい。あきらめの境地にはどうやったらなれるのだろう。いくら努力しても何がどうなるわけでもない、とは思いたくないのだろうか。突き詰めればどこかに突破口が開いているような気がするのは幻想か。ただ漠然とした思いに囚われていて、気持ちにめりはりがない。それは何かの悩みなのだろうか。何をどう述べてみてもしっくりこない。やはり何を述べればいいのかわからないが、何がやはりなのかもわからない。ここしばらくはまともなことを述べていないような気がする。繰り出された言葉が文章を構成していないような気もしている。そして何かがおかしいと感じられるが、それはいつものことのような気もする。なぜ夏は暑いのか。それは幼稚園児のような疑問か。おおざっぱに考えるとすれば、地球の半分が夏ならもう半分は冬だろう。それでは疑問の答えになっていないだろう。何を述べているのだろうか。別に夏が暑くても何の不思議もありはしない。そこには何か記号論的な目論見でもあるのか。いったい何が記号論なのか。確か薔薇の名前は記号論を扱っていたはずだ。そんな書物とは関係なく、ばらばらな思いはばらばらな言葉を導き出すだろうか。そこで助けを求めても助かるとは限らない。誰が助けを求めているのでもなく、誰が助かるわけでもない。簡単なことを難しく考えようとする傾向にある。修行僧は荒行の最中に空耳を求めているらしい。キーボードを叩けば集積回路上を電流が流れ、木霊はどこか遠くへ去ってゆく。闇の中には誰もいないが、抑揚のない声で何かを語りかける。ここでいい加減な嘘をつくとすれば、君には貪欲さが足りない。蛇口をひねれば水が出るが、何かを思えば言葉になるわけでもないだろう。そんなことはわかりきったことだろう。相変わらず何もないので当たり前のことを述べているようだが、それはくだらないことかもしれない。どこかで人が疲れているらしい。疲れているのは君ではないのか。真昼に洗濯機の音を聞いている。白昼夢の意味がわからない。とっさには思いつかないが、辞書で調べればすぐにわかるだろう。冬は晴れて寒く、夏は晴れて暑い。秋晴れの時期には紅葉が見られるか。山道で迷い、誰かが行方不明になる。夏山には魔物が棲んでいたりするのだろうか。テレビ画面の中では俳優が演技をしている。それがどうかしたのか。外では蝉が鳴いている。蝉と一緒に鳥も鳴いている。風はどこへ向かって吹いているのか。雲の流れを眺めながら何を思うだろう。どこかにいい加減な言葉が埋もれている。夏でもシベリア辺りへ行けば涼しいかもしれない。いつかマンモスの骨でも探しに行くつもりなのか。誰かはすでに出かけているのだろう。蚊に刺された腕がかゆい。夏のシベリアでは蚊が大発生しているらしい。いつかそんな映像を見たことがある。別にそれが衝撃的なことでもないだろう。野良犬が樹海から人骨を食えてくる。それもありふれているか。わざと違うことを述べているらしい。その手の小説の読み過ぎか。浮浪者が木の葉をちぎって明日の天気を占う。そんな占いがあるわけがない。想像力が無駄に浪費されているようだ。意味のない言葉の羅列に呆れているのかもしれない。何を読んでそう思うのだろう。意識は首が曲がった誰かの姿を想像する。そこで君は死んだふりをしているわけか。誰が気を失っているわけではない。まだ微かに意識があるようだ。夕暮れ時ににわか雨を額に受けて正気に戻るかも知れない。


7月26日

 やはりきっかけがつかめない。やめるきっかけもつかめない。では何かしら言葉を弄してみればいいだろう。だがこのままでは同じようなことしか述べられないだろう。はたして今の君は窮地に陥っているのだろうか。では過去の君はどうなのか。未来において君の存在は不明確だ。百年後に君は存在しているだろうか。それは今の君にとってはどうでもいいことか。昨日の君はそこで何を見ていたのか。君が読んでいる物語の中に君はいない。その代わりに誰かが何も考えずにどこかを見ている。だが虚構の眼は何を見ているのでもない。君は部屋の中にいるようだが、部屋の中には誰かがいるようだ。君がいる部屋と誰かがいる部屋は別の部屋なのか。別々の部屋に別々の意識が存在する。だが君が考えているのはそれとは無関係なことだ。誰かは君とは無関係か。そんなことを述べながら、物語はつまらない展開に陥っているらしい。ただそれを無視しながら、余白にはいつもの言葉が適当に連なっている。君は何を考えているのだろう。まだこれといって大したことは考えていないのに、すでに考えられることはすべて考えたつもりになっているわけか。そんなわけはないが、これ以上無理に考えてどうなるというのか。無理なら考えなければいいだろう。それでも考えているのだとしたら、結果的に無理ではないということか。そうやって未だに誰かはつまらないことを考えているようだ。考えているのは誰かではなく君ではないのか。では君は何を考えているのだろう。それはつまらないことなのであり、ただそう思いたいだけか。いったい君は何を考えているのか。考えている当人には分からないことなのか。そんなことはあり得ないか。意識がそれを捉えられないのなら、たぶん何も考えていないのだろう。考えられないのかもしれない。考えられないので、いつものように考える対象を探しているわけか。だが何も見当たらないので、なにげなしに遠くを見ている。思考の対象とはならないそれらの風景をただ眺めている。では具体的に何を見ているのだろう。意識は何を見ているのでもないと思いたいようだが、眠っているのでもない限り、網膜には何かが映っているだろう。ならば目に見えている何かについて誰かは語るべきなのか。見上げれば夏の空を雲が移動して行く。そんな何の変哲もない空を眺めながら、とりたてて何も思いたくはないが、心ならずも何かしら思ってしまうようだ。実際には思う前に言葉を連ねている。言葉を連ねてから、それを読んで、それらの文章について何かを思う。やっていることはそれだけか。今さら何をやるまでもないとは思うが、それでもさらに言葉を連ねようとしているらしい。いったい何をやっているのか。それに対して誰かが月並みなことを思う。無駄な悪あがきはやめた方がいいだろう。別の誰かはそれが無駄であるとは思わないか。そんなことを思っているうちに、窓の外では風景が目まぐるしく移り変わる。たぶん時間設定を間違えているのだろう。それはどういうことなのか。その動きに眼が対応しきれない。何かが早送りで動いているように思われる。それは何かの映像だろうか。別にテレビ画面を見ているわけでもないだろう。見ているのは車窓の風景か。そうであったとしたらどうだというのか。風に流されて移動する雲を目で追いながら、偏西風の存在でも確認しているつもりか。何を心にもないことを述べているのか。夏の暑さで頭がぼけてしまっているわけでもあるまい。だが君の心はどこにあるのだろう。心があろうとなかろうと、何も思わないわけには行かないようだが、必ずしも思っている内容が言葉や文章になるとは限らないか。そんなことを思っていると、眠気とともにため息が出る。そのため息の意味は何なのか。なぜそんなことまで述べなければならないのか。他に述べることがないから述べているだけなのか。そこで行き詰まる。そうではないと思いたいが、別の時間帯ではそうであってもかまわない。たぶん明日にはどちらでもいいと思うのだろう。


7月25日

 君はこれまでに何をやってきたのだろう。過去を振り返るにはまだ時期が早すぎるだろうか。振り返れば何がわかるというのだろう。確かに誰かはその時点で適当と思われるやり方を用いてここまでやって来た。しかし言葉を繰り出せば繰り出すほど、言葉を弄する対象について何も肯定できなくなる、というジレンマに直面してしまう。何をどう述べても、最終的には批判になってしまうようだ。それは当初に抱いていた思惑とは違う結果なのだろうか。ではそんな気に入らない気分を鎮めるには何を想像したらいいだろう。想像するだけでは不十分か。何をどう思ってみても、この世界は見たとおりの世界でしかないか。はたして君の見ている世界がこの世界なのか。別に本当の世界が別のところにあるとは思わない。これはこれであり、あれはあれでしかないだろう。もちろんそんな風に述べてみても、いつものようにとりたてて何を述べているのでもない。何かをやりすぎて何もできなくなってしまっているようだ。そうやって変化しようとする可能性の芽を摘んでいるわけか。様々な試行錯誤を経てここに至り、それでも何も変わったようには思えないが、それは気のせいだろうか。いったい君は何について述べているつもりなのか。繰り出されるのがそんな問いばかりでは何も変わりようがないだろう。それでも何かしら変化していると思いたい。たとえそれが肯定できない変化だとしても、そこからさらに変わる可能性があるかもしれない。そんなあやふやな可能性にかけてみようとは思わないが、とりあえずやり続けることしかできないらしい。前向きにも後ろ向きにも思いたくはないが、その時々の状況によって前向きになったり後ろ向きなったりするだけだ。どうもこれといった解釈や考え方を示せないようだ。ものの見方や考え方に一定の方向性を打ち出せずにいる。こうすれば良いということはあり得ないように思われる。良かれと思って何かをやると、必ずそれに対する反作用が起こって、思わぬ結果がもたらされてしまう。そしてその結果が良いのか悪いのか判断することができない。仮に判断したところで、そんな判断などお構いなく、状況はさらに予想外の推移を見せる。そんな展開に翻弄され、迷ったり悩んだりしているうちに、そのように思っている意識自体が過去の遺物と化すように、環境は更なる変化を被り、いつまでもそこにとどまっていたら置いてきぼりをくってしまうような事態となっている。そうだとすれば世の中が何も変わっていないどころではないだろう。要するに繰り出された言葉が世の中の変化に対応できずに、時代遅れになっているということか。そんな風に述べれば、それがそれらしい結論のように思われるが、はたしてそれで何かを語っていることになるのだろうか。やはりそんな語りを肯定することはできないか。何かを語っているうちに、絶えずそうではないと思いたくなってしまう。利いた風な意見にはすぐさま反発してしまう。わかりやすい内容には、そのわかりやすさゆえに、わかりにくい部分が省かれていると思いたくなる。わかりやすければわかりやすいところが欠陥なのであり、反対にわかりにくければわかりにくいところが欠陥なのであって、どちらにしても何か特定の方向で述べれば、それ以外の方向が省かれているところが欠陥となってしまい、それを避けるために全方向で述べようとすれば、今度は不可能に直面してしまう。どのように述べても欠陥や不可能を避けては通れないのではないか。ならばそれを受け入れる以外に方法はないのだろうか。何かを述べれば、必ずそれに対する肯定や否定が可能だということは、その対象が述べていない部分を、肯定したり否定したりすることによって述べることが可能であるということなのかもしれない。


7月24日

 すでに終わっているようだが、今から何を考えたらいいのだろう。そこで何も考えられずに困り果てているのは誰なのか。それでも誰かは無理に考えようとしているらしいが、今のところは考える対象を見いだせずにいるようだ。何も考えられないのはどうしたわけだろう。それが嘘だからか。もしかしたらもう何も考えなくてもいいのかもしれない。すでに考えられることはほとんど考えてしまったのではないか。では過去において何を考えてしまったのだろう。たぶん何かを考えてしまったのだろう。考えてしまった内容を簡単には思い出せないか。あるいはそんなことは改めて思い出すまでもないか。過去に何を考えていようと、そんなことは今の君には関係のないことか。あるいは関係があろうとなかろうと、今の君には関知しないことでしかないのかもしれない。過去と今では君を取り巻いている状況がまったく異なるだろうか。しかしそれが考えないための言い訳になるだろうか。そうやって何を無視しているのだろう。思考を無視することはできないが、意識的に無視しているつもりにはなれるだろう。だがそんなことを述べても無駄だろう。無視を装う行為自体が、今の君の敗北を認めていることになる。もちろんそんな敗北など認めるわけにはいかない。何に負けているのか不明か。わかっているくせに、しらを切っているだけか。何をどう考えても勝利からは程遠い状況だろう。始めから勝とうとしていないのだから、そんなことはわかりきったことか。いったい何に向かって勝負を挑んでいるのか。勝負を挑む対象はどこに存在しているのだろう。それは過去の時空に引っかかったままここまでやって来れないのかもしれない。それが何であれ、忘却の彼方から勝負を仕掛けてくることなど不可能だ。意識はもはやそれらの対象から、時間的にも空間的にもだいぶ遠ざかってしまったようだ。そんなわけで今は思考の俎上に上がるような対象は何もないということか。それ以前に積極的に対象を探そうとしていない。だから何も考えられないのか。そんな状態で何を考えたらいいのだろう。何も考えようがないか。考えるきっかけをつかめないらしい。そんなことでは過去に行われた自らの思考に敗北を喫している。そんな風には思わないか。誰がそんなことを思うだろう。仮にそう思ったとしたら、唐突に自らの敗北を悟ってしまうわけか。そんなはずがないと思うか。またはそれは馬鹿馬鹿しいと思うか。何を思っても無駄だろう。今の意識は依然として何を思考しているわけでもない。その代わりに、そうやってまた嘘をつく。思考しているわけでもないことが嘘なのか。では思考しているのだろうか。どちらでもないなんてあり得ないことか。たぶん何に負けているわけでもないだろう。そんな気休めを述べる暇があったら、もう少しまともに考えてみたらどうか。そして考えがまとまったら、その考えをもとに、何か気の利いた意見でも述べてみればいい。しかしそれ自体が気休めにほかならないだろう。では本当にどうすればいいのか。たぶんそこから架空の話でも始まるのだろう。もちろんそうしたところで、やはりそれも気休めにほかならないか。ただ何かが繰り返され、それに合わせて適当に言葉が循環するばかりか。たぶん君はそれでいいとは思わないだろう。だがそれ以上はあり得ないし、それ以下もあり得ない。それは過去の出来事でも未来の出来事でもなく、現時点での現状でしかない。意識は何もないことをいいことに、ただ気休めを求めるだけなのか。何もないから求めているのではなく、何かあるとすれば、それが気休めであり、気晴らしの娯楽なのかもしれない。それを避けて通ることはできないような気がする。もちろんそれを超えることもできはしないだろう。できることといえば、その延長上で言葉を弄することだけなのかもしれない。それでも誰かが何かを述べているとすれば、それはそういうこと以外にはあり得ない。ところで君は本当にそう思っているわけか。あるいはそれはまたいつもの嘘なのか。いったい君とは誰なんだろう。それは意識にとってはわかりきっていることであり、君にとってはわからないことでもある。


7月23日

 何を詮索しているのだろう。考えるのが面倒だから、わからないことをそのままにしておきたい。そんな感性がわからない。気になることを気にしないようにしたい。話の前後で別の意識になっている。少し飛ばしすぎて何を述べているのかわからなくなる。いつものように後戻りしなければいけない状況に近づきつつあるのだろうか。また何かを思い出したふりをするわけか。月下の庭で猫がじっとしている。動きようがないのだろうか。なぜそう思うのか。ただ横になって寝ているだけだろう。そんな光景を誰が眺めているわけではない。誰かの空想が言葉として余白に記されるだけか。では他に思うところはないのか。どこに空想の源泉があるのだろう。それは歌の中にある。あるいは弦楽四重奏の中にあるかもしれない。でまかせにも限度があるか。語りの自由度が増しているように思えるのは見せかけに過ぎない。実際に何を見ているのでもない。見せかけの光景ですら見ていない。月が傾いているが、そこに眼があるわけではない。では月を見ているのは誰なのか。そんな問いかけに誰も答えようとは思わないか。何も思わないのに、何かしら思っているつもりになって、誰かに適当な思いを告白しているつもりになれるだろうか。その内容はいつか見たテレビドラマの中で俳優が発した台詞の受け売りになるだろうか。そんな簡単に紋切り型を取り込める者はいないか。たぶんそこに至ろうとする過程で、疑念が生じてしまうだろう。いったいそれは誰の言葉なのか。そんな風に問いを設定すること自体に無理がある。そこで誰が何を告白しているわけでもない。過去において誰がテレビドラマを見ているわけでもない。さっきから君は何も見ようとしないではないか。それは君の話ではないだろう。夜の庭を徘徊する猫の話でもないか。わざと関係のないことを述べている。では月のどの辺に眼が存在するのだろう。月は何を見ているのか。月が見ているのではなく、君は夢を見ているのかもしれない。それは夢ではなく、画面上に映し出された文字の連なりだろう。しかしそれで技巧を弄しているつもりか。それらの行間から何が漂ってくるのだろうか。それは見え透いた過ちの範疇に入るような文章かもしれない。過ぎたるは及ばざるが如し、なんて今さら述べても無駄か。案外それとは別の意味を担っているのかもしれない。それらについて君はどのような見解を持ち合わせているのだろうか。しかしそんな見解などに興味はないか。まだ何も聞いていないうちから、見解の内容を無視しているらしい。そんなことがあり得るだろうか。文章上では何でも可能か。結局は何を述べても嘘になってしまうようだ。それが嘘だと思うなら嘘なのだろう。別に嘘でなくてもかまわない。ただ嘘をついているふりをしているだけだとしても、それでかまわないだろう。それ以上述べるのが面倒なのか。乗り越えることの不可能な問題に直面しているわけでもないだろう。あり得ないことを語っているわけでもなさそうだ。ただ単に帳尻あわせに至ろうとしているだけか。そう思われても仕方がないか。君は途中で月の話をしたかったのか。ではそのとき月はどこにあったのだろう。どこにあろうとかまわないか。月の話ではなく、庭に寝そべっていた猫の話か。どちらも本題から外れている。やはり本題に至らないうちに、本題をないがしろにしながら、不在の本題の周りに、どうでもいい言葉がちりばめられているだけか。そんな説明ではわけがわからないか。いったい君は本題をどこに置き忘れてきたのだろう。そんな嘘は見え透いているか。では他に何を述べようとしたのか。すでに述べているそれらを述べようとしたわけではないのか。しかしそれでフィクションになっているのだろうか。それでもフィクションには違いないか。どうでもいいようなことを述べながら、何かに流されている自らに気づかないのか。そんな精神状態で気づきようがないだろう。もしかしたらそれも嘘かもしれない。


7月22日

 なぜか逡巡ばかりの内容になっている。何をためらっているのだろうか。それを明かさないのはどうしてなのか。それでは以前と同じ状況にしかならないのではないか。音楽は何も語らない。ただ声楽家が歌うだけか。それは音楽ではない。何を奏でているのだろう。語っている内容に飽きているのかもしれない。意味がわからない。間違っているのだろう。説明できないことを述べている。わざと関心の薄い対象を選んでいる。要するに嘘をついているわけか。自らを欺いているのだろう。そこに何らかの規則を見つけ出そうとしている。そしてその規則から逸脱したくなる。結局は堂々巡りを繰り返すばかりで、具体的なことは何も語られない。そんなことをいつまで続けられるのだろうか。別に続けようとは思わないが、結果的に続いてしまうのだとすれば、心ならずも続いてしまう状況をどうすればいいのだろう。別にどうしようとも思わないか。何をどう思うかは君の勝手に任せられている。そんな思いはただ無視されるだけだろう。もちろん誰が無視しているわけでもない。少なくとも君とは面識のない誰かが君の思いを無視するだけだ。君の思いが万人に伝わるはずがない。君のことを知らない人には何も伝わらないかもしれない。もちろん伝わらないからといって君がどうなるわけでもない。そんなことは君には関係のないことだろう。それは何でもないことなのか。そこから得られるものは何もない。それは当たり前のことだ。しかしその当たり前のことをどうにかしたいらしい。そんな状況を打ち破って、何かよく分からないことを伝えたいようだ。それは誰が誰に伝えるのではない。勝手に伝わってしまう場合が多いことを期待している。何がどうなろうと、何もどうならなくてもかまわない。結果は君のものではない。ただそれが結果であるに過ぎない。わけがわからないのならそういうことでしかない。内容が空疎ならそれに越したことはない。何も思考を伴わないのなら、他の誰かが考えればいい。君がどうすることもできなければ、他の誰かがどうにかしようとしているはずだ。何事も他人任せならかなり楽になるはずか。それは幻想かもしれない。もちろん幻想であってもかまわない。なんとなくいい加減に開き直ってしまえばいいのだろうか。ただそんな風に思いたいだけで、実際にはやるべきことをやろうとするのだろう。ではやるべきことでなければやる気がしないのだろうか。やる気がしないことまでやっているときもあるかもしれない。その場の気まぐれで何をやっているかは違ってくるだろう。そんな思いとは関係なく、絶えず何かをやっているのだろう。それが無駄であったり有用であったりしても、それはそのときの結果がそうなのだから、それはそれでそういうことでしかない。それ以上考えても仕方ないだろう。何が仕方ないのかよく分からないが、それもそういうことでしかないのだろう。いったいどこに基準があるというのか。どんな規則に従って行動しているのだろうか。そこまで考えてどうするのだろうか。そんなことを述べていれば気が済むのだろうか。気が済まないからさらに述べようとしているわけか。しかしそのような述べ方ではそんなに遠くまでは行けないような気がする。いくら述べても、結局は以前と同じことを述べているに過ぎないのか。それと同時にそんな気になって、虚しさがこみ上げてくるか。どこにこみ上げてくるのだろう。とりあえず何を語っているのでもなさそうに思える。さっきからかなり馬鹿げたことを述べているのではないか。そんな風に思えて、言葉に詰まってしまうか。詰まったら無理に吐き出せばいいだろう。たぶんこれからもそんなことの繰り返しになってしまうだろう。今はそれ以外にやりようがない。ところでいったい今はいつなのか。さっきからどれほどの時間が経過したのだろうか。


7月21日

 これからどうするべきか判断がつきかねる。結局、適当に迷った末に、終わりを回避しようとして始まりに結論を付け加える。始めに結論ありきでもかまわないか。それほど奇異なことでもないだろう。それでも無駄な試みになりそうな予感がしてくる。もはや限界は限界として認めなければならないか。その限界を超えて言葉を繰り出すつもりはない。限界を超えられないから避けて通るつもりか。避けて通れるような限界が限界といえるだろうか。何が限界なのかはっきりしない。誰かはそれを認識しているようだが、やっていることと思っていることが違うらしい。その限界を無視しているわけではないが、なんとなくそれはそれとして放置されているようだ。それらの文章を読んで君は何を思うだろう。何も思わなくてもさらに作業を続けられるだろうか。あまり真剣には読んでいないので、まだその境地に至っていないようだ。何の境地なのか不明だが、いつまで経っても何を悟っているわけでもなさそうだ。そんな風に嘘をついてみせるのはなぜか。何をはぐらかしているのか。あるいは強がっているのか。そして面倒なのではぐらかしを強がりだと思うわけか。では何がそれらの強がりを構成しているのだろう。強がりと弱音の区別が曖昧だが、今から述べるそれが強がりだと誰が思うだろう。いくら考えても何もはかどらない。構想ばかり練っていても埒が明かない。誰かは始めからそうなることを願っているわけか。たぶん願いは願いとして別の場所にあり、時間と場所を隔てて発生した同じような二つの出来事の間に生じている微妙な差違を見落として、それを感じ取れないことに君は落胆しているらしい。誰かの微かな心変わりを見逃してしまい、君によってもたらされた状況が心境の変化を招いていることにも気づかない。自業自得とはこのことをいうのだろうか。それでも性懲りもなく同じようなことを述べているつもりのようだが、やはりそれでも限界に直面している現実は変わらない。いったい構成された文章がどんな意味になるようにしたいのか。仮にそれが分かればどのような結果に至るのだろう。君自身はどのような結果になるようにしたいわけでもない。思い通りの結果を求めているわけではないらしい。ただ途中で語りの調子を変えたいだけか。これまではかなり錯乱していたように思われる。だがそれは違う時間帯での出来事だろう。このままでは精神まで錯乱してしまうか。錯乱したくてもしたくなくても、するときはするのかもしれないが、その際君の思いは無視されるだけか。あるいは君とは無関係な別の意識が異常を来すかも知れない。そんな都合のいいように事が運ぶわけがないか。何も回りくどい表現に逃げなくてもいいだろう。だが素直になれないのは今に始まったことではない。それで何をかわしたつもりなのか。何か避けては通れない状況でもあるのだろうか。とりあえず平静を装ってから話の本題に入るべきなのだろう。それが君の間合いなのかもしれないが、本題などどこにもありはしない。ただわざとらしく心にもないことを述べている自身に驚いてみせる。そこで誰が錯乱してるのだろう。ただ言葉が混乱しているだけか。それでもあやふやな文章を構成しようとしている。何かの本質を避けて限りなく迂回し続ける。これなら途中を美的に飾りたてる必要はないか。歪んだ思考が美的な映像を作り上げる。どのように歪んでいるのだろうか。ただ映像を多くの人に見せびらかそうとしているだけだ。それの何が歪んでいるのだろう。分かりやすさを求める心は大衆に屈している。要するに大げさなアクションによって人目を引きつけなければならなくなる。たぶんそれがさもしい現実を構成しているのだが、そんなやり方を馬鹿にして芸術作品を目指す者たちは、アカデミズムに屈している。小難しいことを述べる人々を相手にしているわけだ。その思考は特定の主義主張を構築できずにいるらしい。そんなことは眼中にないのかもしれない。すべてを悟ると何もできなくなるということだ。悟ってしまったらどうしたらいいのだろうか。ただ何もできなくなること以外に何があるのだろう。では何かをやり続けるためには、容易に悟らないための配慮が必要なのだろうか。しかしいったい何を悟ったつもりになっているのだろう。誰が誰のために生きているわけでもない。それに気がついてる誰かは何を求めているのだろう。日々を過ごしているそれぞれの時間と場所によって、求めているものは異なってくるだろうか。求める対象はその場の成り行きに左右されるわけか。


7月20日

 いったんそれをやり始めたらきりがないようだが、そこから得るものは何もない。得ようとしたものは得る前に得られている。それでは以前と変わらないだろう。相変わらずの言葉の並びに呆れ果てる。しかしそれが現状から得られた言葉の並びなのか。いつか状況にフィットした言説が出現する時が来るのだろうか。それはいつになるのだろう。だがそうなってしまうのは似合わないか。簡単にそれを許すわけがない。記述を阻んでいる悪霊はまだ退散しないようだ。何が悪霊なのか知らないが、それが悪霊だと思っているうちはそうなのだろう。様々な人々に内在するそれぞれの意識は互いに無視しあい、各自がまるでバラバラなことを述べているようだ。それらのどこに共通する認識が潜んでいるのだろう。それを知りたければどこかへ行けばいいのか。竹林の中に誰かの隠れ家があるらしい。それは誰の隠れ家などではなく、ただの雀の巣か。そこから何も聞こえてこないのはどうしたわけか。それらの沈黙は何を指し示しているのだろう。どこからか聞こえてくるのはいつかの風の音か。誰かは仕事の合間にいい加減なことをやっているらしい。君はそれらの行為をどこから始めたらいいのだろうか。気晴らしに書かれた文章には始まりが省かれている。仕事の一部ではないのだから、それでかまわないのか。気が向いたときにでも、省かれた始まりを後から付け加えよう。夕暮れ時の車内では細かな埃が舞っている。それを吸い込みたくなければ呼吸を止めるしかない。何を馬鹿なことを空想しているのか。煙草の香りを愛でている人物は、電池切れの腕時計をいつまでそのままにしておくつもりなのか。その間に何か適当な言葉を差し挟んでおくべきか。煙草の煙はマナーに逆らうものか。いつものようにそれとこれとは関係のないことだろう。誰かは始めから文章の構築を放棄しているのか。部屋の中では、埃が降り積もって掃除の時期が迫り来る。何かが積もって山になるほどほったらかしにはできないようだ。それでも何とか工夫しながら、貧窮の時を切り抜けなければならない。本音を押し隠しながら建前を並べ立てる。しかし君が用意した台詞はどこに差し挟めばいいのだろう。悪霊は区切りの良いところで退散できるだろうか。そこでは怨霊を退散させる祈祷でも行われているわけか。文脈を意識できない。少なくともそれが事件と関わることはあり得ないか。君が事件を事件と思わないのは、その事件について何も述べる立場にはないからか。君が何かを思うのはそれは偶発的な出来事であり、仕組まれた儀式ではないはずだ。だが思いとは別に形式的に言葉を並べ立てる一方で、それに嫌気が差して気が抜けた一瞬を狙って何かを思い出す。それによって君は何に反撃を加えたいのだろうか。それ以前に君自身にはどのような攻撃が加えられているというのだろう。何も攻撃されているわけではないと思う。ではそれとは別の場所で語っているそれは誰の物語なのか。別の場所はフィクションの中にある。そのフィクションを構築しなければ、フィクションの中で何も語りようがないだろう。いったい君の意識はどこで何をやっているのか。何もないのだから、誰も台詞など発しようがないではないか。たぶんそれは台詞などではない。誰かの独白の中に住まう気まぐれな偶然が、周りの状況を無視して適当に言葉を繰り出しているだけか。それは悪霊でさえない。悪霊以前に生じている何かの雰囲気なのかもしれない。悪霊の方はそれとは無関係に、どこか別のフィクションの中に言葉として定着しているだろう。悪霊を感じたければそれを読めばいいか。試しに検索サイトで調べてみれば、いくつものそれらしい悪霊に出会えることだろう。そしてそれくらいで満足していれば、悪霊も君を苦しめるのをあきらめて、忘却の彼方へと退散してくれるかもしれない。


7月19日

 それらの語り方が気に入らない。海で溺れて人が死ぬ。山で遭難している人もいる。高速道路で追突事故が発生している。人身事故で電車が遅れる。窓越しに外の風景を眺めながら、窓ガラスに映るテレビ画面も同時に見ている。画面の中で人々はただ当たり前のことをやっているだけなのに、誰かにとってそれらの行為は奇異に映るらしい。なぜ否定的な感慨しか抱けないのか。過去から連綿と続けられている慣習を個人の力でそう簡単に覆すことはできない。認識している制度に新たな地平を付け加えることは容易にできない。それは過去から現在までの間に多くの者たちが踏み固めてきた古い大地なのかもしれない。そこにどんな可能性があるのだろうか。架空の書物は幻覚作用をもたらす。新しい言葉には不快感が付属している。それは君の思い違いか。どのような言説に巡り合おうと、それをどう解釈するかは、その言葉を受け取る者次第か。それの何が新しいのか分かりかねる。何が不快なのかも分からない。不快感を誘発させるには、それがどんな言葉なのか説明しなければいいのか。そんなやり方のどこが新しいのだろう。では他にどんなやり方があるのか。別に人を不快にさせるために語っているわけではない。いつの間にか冒頭とは関係のないことを語っているらしい。言説がどこかへ押し出されてしまう。そこでは語るための基盤が存在しない。何も語れないのにさらに言葉を繰り出そうとしているようだ。なぜそう思われるのか。そのような捉え方では気に入らないか。ではそれとは別の観点で判断するなら、迷走を繰り返しているように思われる。たぶんこれからさらに別の要素がよせ集められて、話が一層錯綜してしまうのかもしれないが、それでは予定調和の結末を予感させる。要するにわけがわからなくなってしまうということか。そして最終的に、それがどうした、と述べたいわけか。まだ具体的なことは何も語っていないうちから、いきなりそんな決め台詞を述べてしまってはしらけるばかりか。わざと場をしらけさせようとしているわけではない。ではいったいこれから何を述べようとしているのだろう。今さらまともなことを述べられるだろうか。確かにブラインド越しに見える昼の光景に感動する要素は見つけられないが、意識はとりたてて何を見つけようとしているわけでもない。たぶん何に感動したいわけでもないのだろう。では何のために言葉を連ねているのか。それは惰性でやっていることなのか。理由が不在ではいけないわけか。あるタイミングではそうなのかもしれない。かつては理由を求めていた時期もあったのだろう。季節が移り変わり、心境も変化して、述べている内容も以前とは違ってきてしまったらしい。それはまるで他人事のようにしか思われない過去だろうか。今はそこから先を求めている。先には何もないのかもしれないが、とりあえずその先の状態に至ることを目指しているのかもしれない。その過渡的な段階として、現状の文章が構成されているわけか。過去の風景は額縁の中で無視の対象となるだけか。何を無視しているわけでもないだろう。そこでは虚無に至ろうとする情熱でも燻っているのだろうか。結果的に虚無を目指しているとしても、その過程では何に至ろうとしているわけでもないと思いたい。たぶん語りすぎているのだろう。語りすぎて、語る対象を通りすぎてしまっている。その結果として、対象を無視して語っているように感じられてしまう。思い違いの意識は何が対象なのか特定できない。しかしそれも嘘なのかもしれない。ただ単に語る対象に興味を持てないのだ。それについて語っている意識は、そんなことを語ろうとは思っていない。ではどんなことを語りたいのかといえば、それが分からないのかもしれない。ただ分からないのに適当に語っている現実があるだけか。


7月18日

 抽象的な台詞を考えながら、日常生活の中でそんなことを口走るはずがないと思いつつも、それでも気の利いた格好の良いことを述べてみたくなる。要するに見栄を張りだけのようだ。そんな生身の君からは遠く離れた言葉の群れを、余白に連ねて悦に入りたいのか。身近に感じられることは、世間話の中に出現する紋切り型の台詞しかないのだろうか。たぶん君はわざと嘘をついているのだろう。見え透いた嘘とはこういうことを言うのだろうか。それはどういうことなのか。どんな嘘をつけば納得するだろう。何を語っても、どうせ何も見いだせずに終わってしまうのだろう。そんなあきらめの台詞も嘘のうちに入るのだろうか。フィクションと戯れているつもりが、いつの間にかそれとはまったく異なることを述べようとしてる自分に気づく。すでに本心から語っているのかもしれない。やはりそれはいつものことなのか。いつも四六時中本気でいられるはずがないか。だが一面的な解釈では、登場人物の微妙な心境の変化を捉えきれない。何かを延々と語っているうちに、中途半端に話が途切れようとしている。そんなことはもうどうでもいいと思いたいようだ。いったい君は何を読んでいるのか。君の話は分かり難くて、とても最後まで聞いていられない。ぎくしゃくした物語の成り行きを無視して、途中で話を飛ばしてしまう。読み進んでいくうちになんとなく飽きてきたようだ。詳しく話すのが面倒なのか。あるいは話している自分が理解していればそれでいいのか。どこかで繰り広げられている会話は、よくあるパターンをなぞりながら、不意に驚いてみせたりしている。本当は何も驚いていない。例えばそれはどんなことなのだろう。壁の表面に小さな染みを見つけて誰かがうろたえる。それは血飛沫の痕だろうか。穿ちすぎの詮索好きはわざとらしい。壁に掛かった絵をよく見ると、ありふれた景色の中に細い亀裂が刻まれている。絵の具が固まってひびが入っているだけだ。しかしそれを見ているのは君でない。君はそれを見ている人物をただ眺めているだけか。そんなありもしないことを思い描いているとき、ふと空気の流れを感じて、微風の風上に人の気配を感じる。フィクションの中ではそこに謎の人物が姿を現す。物語の外部に存在している君は、誰もいない部屋の隅に一瞥をくれてから、傾いた額縁に囲まれた風景を眺めながら、過去の出来事に思いを馳せる。偶然にそうしているだけのようだ。そのときの思い出は何ももたらさないだろう。面倒くさいので言葉にはできない。郷愁はいつの間にか心に巣くっているものか。誰かが思い描いた夢の中では、懐かしい風景の中に人々は暮らしている。それは掛け軸に描かれた風景かもしれない。そこには人々の影が描かれているのか。たぶん見たままの風景を描いているのではないのだろう。手本となる自然の配置が前もって提示されているのかもしれない。描き方にも一定の規則があるようだ。急峻な岩山や枝ぶりが極端な松など、当時の美的な定型に沿って描かなければ、まともには扱ってもらえないか。それらの何が桃源郷なのか。桃源郷なら別の絵の中に存在するだろう。桃の木の下で何を誓えば人々の興味を誘うだろうか。三国志では何かを誓い合っていたかもしれない。そこで絵でも描いてみれば、何か気が利いた台詞を思いつくかもしれない。絵を描きたいなら絵だけを描いていればいいか。暇があれば絵の具とキャンバスでも買ってくればいい。黒く塗りつぶされたキャンバスがどこかの物置に放置されている。そこからくだらないエピソードでも構築したいのか。話の内容がよく分からないか。もしかしたら比喩的に何かを述べようとしていたのかもしれない。そこから寓話的に何らかの意味を導きだせるだろうか。


7月17日

 またいつもの悪い癖が出てしまったようだ。性懲りもないとはどのような行為のことをいうのか。相変わらず無駄に言葉を連ねているようだが、そのわりには何を述べているわけでもない。内容は至って空疎な状態で推移している。たぶん君はそれとは別の何かを述べようとしているらしいが、今のところ何を述べられるわけでもなさそうに思える。ただそうやって何もない現状を説明しようとしているだけか。説明する前に説明の対象を特定できないようだ。いったい現状の何を説明したいのか。また説明したくもないことを説明しているように感じられるのだが、それで何の説明になっているのだろうか。結局は何も説明できていないのではないか。何かが説明の邪魔をしている。陽の光を遮っているものは何なのか。君の影の中に誰かの意識が存在している。説明に困って妄想に逃げるつもりか。その辺が君の限界を形作っているわけか。今さら何をどうやっても説明にはならないだろう。その代わりに君は何か別の人格を演じているのかもしれない。なぜそれを説明しようとしないのか。それが何なのかわからないからか。すでに何かしら説明しつつある。簡単に述べるなら、君は君の影を演じようとしている。影を演じることによって、君の意識とは違う性格を醸し出したいらしい。戯れに君は君ではないと思い込みたいわけか。自己に言及するのではなく、ありもしない幻影の告白を構成してみたいようだ。しかし今のところ告白の内容がどこにも見当たらない。仮面は本当に告白できるのか。それは誰かの小説の題名か。影は仮面でさえないだろう。影には実態が皆無なのか。それでは話にならないだろう。別にここで影のありもしない身の上話を捏造しようとは思わないが、それでは何をどうしようとしているのだろう。君にはどうしようもできないから、影の力を借りようとしているだけか。しかし実態のない影にどんな力があるというのか。もとから何もありはしないか。要するに何もないのに何かを述べようとしているわけか。意識はすでに何かしら述べているつもりになってきたようだ。確かに何も述べていないわけではないが、果たしてそんな述べ方でいいのだろうか。誰がいいと思うだろう。導き出されたそれらは君にとっても受け入れ難い内容になっているかもしれない。誰もそれらの試みを認めようとしないだろうか。誰が認めてくれるというのか。たとえそれが無内容であったとしても、影にとってそれは許容の範囲内なのだろうか。確かにそれでも何か述べているのだから、まるっきり無内容ではないのかもしれない。しかし死ぬほど退屈な内容になっているのかもしれない。ただ愚かなことを繰り返し演じている。演じているのではなく述べているのだろう。そうやって的外れなことを語りながら、君の意識は君の外部にも内部にも踏み込めない状態を保っているのかもしれない。説話的な内容は何も語らずに、ただ自己言及的に言葉を連ねて、しかも内面の告白を避けている。それがここでの説明になるだろうか。やはり何を述べているのでもなさそうに思える。ただ苦悩の痕跡をたどりながら、苦悩している当の意識から適当な距離を保って、無関心を装いつつ外部から眺めている。何を眺めても気が晴れることはないだろう。それとは違うことを語りたかったのに、それができずに、惰性に負けていることに気づく。それに勝とうとは思わない。勝てるわけがないだろう。それは勝負の範疇での行為には結びつかない。ただ延々と誰かが語り続けるだけの行為なのか。終わりも始まりもありはしない。語りに付随している意識は常に過渡的な状態に留まり続けることしか出来はしない。それ以前にも以後にも進めない。


7月16日

 いつかの君は何を模索していたのか。記憶から引き出されるのは雰囲気だけの無意味な話ばかりか。何を読み返しているのだろう。絶えず制度を改善していかなければ、不具合が増大してしまうのはわかりきったことだ。世の中の変化に対応した柔軟な運用と修正が求められている。硬直した形態を維持しようとすると、必ず無理が生じて、結果的に時代からも世界からも取り残されてしまうだろう。これだけをやっていれば事足りるということはあり得ない。以前と同じやり方が通用する期間は思ったより短いはずだ。昔やっていたことの蒸し返しが通用すると思ってしまうのは危険な兆候だろうか。兆候というよりは、その時点ですでに終わっているのかもしれない。それを見て喜んだり感動している人たちも終わっているのか。そんなはずはないと思いたいところか。終わっているとはどういうことなのだろう。そのような代物に対する評価なのか。この道一筋何十年という人も終わっているのだろうか。そういう人は死んだときに後継者がいなければそこで終わりということになるのだろう。とりあえずはそれをやめるまでは終わっていないということになるだろうか。ならばもういい加減にやめて欲しいか。まだ何十年もやっていないだろう。何十年もしないうちにやめてしまったら中途半端か。ではそれが続けるための言い訳にでもなるわけか。何とでも言い逃れは利くだろうか。しかしそれで逃れたことにはなりそうもない。逃れようのない状況のただ中にいるらしい。終わりにも継続にも、そうする理由が必要とされるだろうか。君は何のためにそれをやっているのだろう。それはありふれた回答を引き出すための罠か。そんな罠から逃れるためにやっているのかもしれない。たぶんそれもありふれた回答の一種になるだろう。ただ逃げているだけでは何も得られないが、何を得ようとしているのでもない。ではこれまで通りに逃げていればいいのか。そんなはずはないと思いたいわけか。逃げてばかりいないで、たまには立ち向かわなければいけないらしいが、何に立ち向かえばいいのか、立ち向かう対象がわからない。要するに対象がわからないと述べて逃げているわけだ。そんな語り方が気に入らないようだ。言葉のつながりがわざとらしく、そこに葛藤が感じられない。ではわざとらしく思い悩んだり迷ったりして、それらを大げさに告白してみせれば感動を呼ぶだろうか。感動を呼んでどうするのか。そういうことは太宰治の小説でも読めば事足りるか。あるいはナレーション付きのスポーツドキュメンタリーでも見れば、同じような感動を味わえるかもしれない。競技や試合に負けて行き詰まったりして、それでも苦悩の表情を浮かべながら黙々と練習に励む姿に感動したりするだろうか。そして番組のクライマックスにおいて、運命の競技や試合が待ち受けていたりして、そこで勝ったり負けたりして、やはり大げさなナレーションとともに感動したりするわけだ。しかし君はなぜ笑いながらそんなことを述べているのか。過去においてその手のスポーツ漫画を読みすぎているからそうなってしまうのだろうか。そんな君は人間失格だろうか。そういえば太宰治の「人間失格」を読んで感動できたか。何十年も前のことは忘れてしまったらしい。なんとなくそんなことを述べているうちに、だんだん阿呆臭くなってくる。例えば天才ベース奏者のジャコ・パストリアスの人生などはそういうものなのだろうか。彼はなぜ簡単に落ちぶれて死んでしまったのだろうか。やはり彼は人間失格だからか。彼の最高傑作だと評されている白夜のジャケットのCDを聴きながら、彼の人生の短さを嘆きたいとは思わないが、そんなものなのかという感慨以外はなさそうに思われる。


7月15日

 君はそこから動かない。誰かは昔の記憶を頼りに適当なフィクションを構築しようとしている。君がまだ君であった頃、世の中では何が流行っていたのだろうか。それは現代の話ではないらしい。矛盾のない秩序を夢見て、そのような制度を構築しようと日夜勉学に励んでいる人もまだいるらしい。本当にそれは現代の話ではないのだろうか。また誰かの決め台詞が思い浮かぶ。何かまだやり残したことはないか。遠からず意識の中で何かがついえ去る。それでも誰かはまだあきらめきれないらしい。しかし期待は裏切られ、希望は忘れ去られてしまった。この期に及んで君は何を待っているのか。何を待っているのか知らないが、どんなに待っても何も到来しないだろう。今は世紀末ではない。君は出現する機会を失ってしまったのだ。浅はかにも予言を信じた君が愚かだったのだ。それらの現象は完全に終わってしまったようだ。今は出来事からも見放されている。出来事が君を避けているようだ。君の周囲では何も起こらないように配慮されているのかもしれない。君は不幸の到来から守られている代わりに、状況には何も手出しできないようになっているのだろうか。ただひたすらじっと動かないことを強いられているようだ。そんな何もできないことが、君を単なる傍観者に仕立て上げている。しかしこれといって何を傍観しているわけでもなく、ただ何もない状況の中ににつなぎ止められている。空白を眺める他にできることといえば、ありきたりな妄想を抱くことだけか。何を妄想しているのだろう。何かを画策している姿でも想像しているわけか。君にはまだ起死回生を呼び込むための計画がある。そんな妄想に引きずられながら、まだあきらめきれずにいるようだ。そんな状況に精神が耐えられなくなっている。だから強引にこれから何かをやろうとしている。何かとは何なのだろう。それはいつまで経っても何かにしかならないような何かで、具体的な何かになることはないだろう。それでもやろうとしているらしいが、さっきから一向にやるべきことが見えてこない。たぶんそれはこれからやるべきことではなく、すでにやってしまっていることだろう。もうかなり以前から何かをやってきた。これからその続きをやろうというのか。仮にそれをやっても、何も捉えきれずに、空振りに終わってしまうだろう。これまでがことごとく空振りの連続だったのだから、これからもそうなりそうな予感がしている。結局は何もやっていないことになってしまうだろう。だから君は待ち続けなければならない。すでに待つことは終わってしまったのかもしれないが、さらに無駄な待ち時間を過ごさなければならない。なぜ待たなければならないのか。他の誰かはそれとは別のことを述べている。誰に告げられたわけでもないが、もう何も待たなくてもいいのかもしれない。ただそんな気がするだけか。では本当の君はいつ出現するのだろう。それは今なのか。だが文字を書き込もうとしている余白には、何もない空虚が出現し続けるだけか。やはりそこではまだ何もやっていないことになっているのか。神経のすべては何かを見せるために費やされている。なぜそれを眺めているのだろう。ただ眺めているだけでは退屈なのではないか。それはただ文字が連続しているだけの平面だろう。そしてそこに書き込まれている言葉の意味など、いちいち確かめるまでもないか。そこに何が書かれているかなんて、読まなくてもわかるだろう。読んでも時間の無駄か。すでに無駄な時間を過ごしている最中か。しかしなぜそんな言い草になってしまうのか。それが必ずしも無駄でないと思うのは、まだ前向きに生きている証拠になるだろうか。


7月14日

 気がづけばまた誰かがテレビを見ている。見飽きていると思っているのにそれでも見てしまう。それはもう病気の一種かもしれない。簡単にいえばテレビ依存症なのだろうか。確かさっきまでは乾ききった大地が画面に映し出されていた。乾いているとはどういうことなのだろう。たぶん画面の向こうは乾いているのだろう。灼熱の砂漠でありがちな冒険者が歩いている。もちろん形式的には彼の役柄は冒険者ではなく、単なるテレビレポーターの類だろう。現に画面のこちら側に向かって、その場所がいかに暑く乾ききっているかをわかりやすく説明しようとしている。しかしこちら側はかなり蒸し暑い。湿気を含んだ大気のどこが乾いているのだろう。冷房の効いた室内は乾いている。心まで乾ききっている。それは似非文学的な表現か。では乾いた意識は何を感じ取っているのだろう。退屈な毎日で死にそうか。いや、蒸し暑さで死にそうだろうか。すでに誰かは死んでいるのかもしれない。だが誰が死のうとそれは他愛のないことだ。他愛のない出来事が連続している。他では様々な出来事が起こっているようだが、今ここでは何が起こっているのだろうか。本当に誰かが死んでいるわけか。それは何かの比喩だろうか。比喩ではなく本当に死んでいる場合もあり得る。例えば暑さで頭が死んでいる。だが死んでいるのにどうして言葉を連ねられるのか。死んでいるのではなく、ただ死にそうに感じているだけだろう。もっとも冷房の効いた室内でそんなことを述べても説得力がないか。たぶん頭の中で何かが起こっているのだろう。神経回路上で電気信号が錯綜している。そうやってくだらぬ妄想が形作られて、妄想から生じたフィクションの中で、他愛のない出来事が起こり続けている。通常はその程度の出来事で言葉を弄するには至らないのかもしれない。何が通常なのか。しかしそれでは何も述べられなくなる。それでも何か述べられるとしたら他に何があるだろう。やはりそれも他愛のないことか。しかし何でもかんでも他愛のないことで片付けてしまえるだろうか。やろうと思えばできるかもしれないが、それでは言説がくだらぬ水準にとどまるしかないだろう。ではどうすればいいのか。例えばこれは何かのゲームなのか。ゲームについて何を述べられるだろう。今の君はいつかプレイしたゲームの内容についてあれこれ論評するような立場にはないか。世の中にはゲーム評論というジャンルもあるかもしれないが、やっている当人にとってそれは他愛のないことではないのだろう。しかし他愛があろうとなかろうと君にとってはどうでもいいことか。それはいつもの決め台詞のバリエーションに含まれるだろう。結局は何を述べているのでもない。何を述べても無意味に思われる。もちろん無意味だからどうだというわけではない。無意味を取り除いたら何もなくなってしまうだろう。本当に何もなくなってしまったら何を思えばいいのだろう。日が沈み、日がまた昇り、明日になったら何か言葉を弄するに値する出来事に巡り会えるだろうか。何を期待しているのだろう。期待は忘却とともに消え去るのみか。明日も同じようなことの連続になるかもしれない。それが常に到来している出来事なのだろう。だがいつかは乾ききった大地にも雨が降ることもあるだろう。現にどこかで雨が降っている。いつかこの蒸し暑さに耐えかねて誰かがどこかへ飛び出す。なぜそれが君ではなく誰かなのか。それも他愛のない出来事に含まれるだろうか。それでも決定的な破綻に陥ることはない。それは心の空虚を覆い隠すために企てられたわざとらしい動作に違いない。そんなことをやって、ただ虚しいだけの心境を一時的に忘れたいだけなのか。しかしそれを忘れてどうするのか。ここに至ってまだ何も述べていないような気がするだけか。確かに言葉は適当に連なるが、それらは君が述べようとしている内容ではない。だが君は何を述べようとしているのかわからない。ただ夏の蒸し暑さに耐えている。まだこれからいくらでも暑くなるのだろう。そう思っていないとやっていられないか。何をやっていられないのだろう。そんなことを思っているうちに季節は移り変わり、あっと言う間に秋になっているかもしれない。それは誰の願望なのだろう。


7月13日

 また何を述べているのかわけがわからなくなってきたようだ。それらの意味不明な動作から何かを導けるだろうか。誰かは目を凝らして遠くを見つめている。何も見えはしないだろう。別に盲目になってしまったわけではない。目を閉じて数日前を振り返る。やはり時間には追いつけないようだ。何も思い浮かべられずに焦りを覚え、結局は何も考えがまとまらないうちに、これから適当な文章が構成されようとしている。たぶんそれが冒頭の一文ではないだろう。後から適当な蛇足が付け加えられる。それはいつもの機械的な動作なのか。機械は機械固有の思考を宿している。それは設計者と使用者の思考だろうか。適当な場所に適当な機械が設置されている。そこで君は何を探しているのだろう。機械の運転に関するマニュアルか何かか。すでに駆動している機械をどうやって止めればいいのかわからない。思い通りの結果が出るように動作を微調整したいのに、何をどうやっていいのかわからない。君には応用力と想像力と決断力が不足している。それは無意味な見解だ。見解を述べている暇があれば、現状をどうにかして欲しいか。それでも何か述べているのだから、別に失語症というわけではないらしい。要するに君は機械を用いて文章を構成しようとしているわけか。そんなことはわかりきったことだろう。何かに依存していないと文章一つ構成できない。それは危険な兆候だろうか。始めからそうなのだからそれは仕方のないことだ。機械によって表現が制約を受ける。では言葉に関してはそれ以上の展開は不可能か。なぜそう思うのか理由が分からない。語る対象を特定できないうちは意味不明になりざるを得ない。君にはできそうもないことを君はやろうとしている。能力の限界を超えている。しかし君の能力とは何だろう。見いだされているのはそんなことではない。刺激のない無感動に包まれている意識は何を見いだしたのか。すでにこの状況が見いだされているではないか。ただ何もないのに何かを述べている。調子の外れたことを述べているのかもしれない。頭の中で何かごちゃごちゃしているようだ。日々変化する意識をどうやって文章の中に定着できるのだろう。できることなら首尾一貫した話にならないものか。そんなことができるわけがない。努力しないうちからあきらめてはいけないか。そのとき無意識は何を求めているのか。どこかで意識を制御しているだけかもしれない。誰かは興味のない話をしたがっているらしい。なぜ興味を持たれたくないのだろうか。ウケねらいをする必要を感じないのはどうしてなのだろう。そこに金銭が絡んでいないからその必要はないのだろうか。しかしどう考えても清廉潔白などではあり得ない。たぶんそれらの言葉を別の言葉で翻訳しなければ、何を述べているのかわかりようがないのかもしれない。何かそのときの気分に流されている感じがしている。それでもたまには霊感が到来するらしく、突然何かがひらめくときもあるようだ。奇妙な感覚がどこからともなくもたらされる。たぶん君はこの世界を馬鹿にしたいのだろう。批判する気も起こらないほど呆れ返っているのだろう。だがそんな台詞は安易なその場しのぎに利用されるだけだ。本当はもっと慎重な言葉遣いを目指しているはずか。ではどうしたらいいのだろう。君は世界中の人々から馬鹿にされたいのか。どうやってもそんな風になるほど有名にはなれないだろう。では何を困っているのか。困ったときには愛という言葉を使えばいい。その場限りの言い逃れとしては、すべては愛するがゆえに述べたことということにしておけばいい。やはりそれでは意味不明だろうか。それらのどこに愛があるのか。とりあえず愛という言葉ならいくらでも使用可能か。あるいはそれは恥ずかしくて容易には使えない言葉か。


7月12日

 文と文の間に意味が通るような文を構成しなければならない。だが石版に刻まれた異国の文字を読めるはずもない。鏡に映るそれはまるで屍同然の身なりか。人々の装いは日々刻々と変化するだろう。微かに響いている音は人の声か。誰かが墓の底から助けを求めている。もうここには何もない。では地上には何があるというのか。地上のどこへ行けば何に出会えるのか。そこで思考する対象に出会えるだろうか。巡り会うのが空白の時ばかりでは何ともやりようがない。それでも君は適当な思いを抱いているようだ。それが適当がどうかは人によって異なるかもしれないが、天上では理解しがたい光景に出くわしたりするらしい。なぜ天上界の話になってしまうのだろう。別に目の前の光景を理解する必要はないだろう。そうやっていつものように空虚から何かを抽出しようとしている。また際限のない戯れに囚われているようだ。だが技巧を弄する以前に、技巧とは言えない段階にとどまっている。彼は白夜の夜に何を見たのだろう。オーロラが出現する季節ではないと思われる。それはただのコンパクトディスクか。ディスクの表面に映る顔を眺める。誰かが画面の向こう側から呪文を唱えている。見え透いたことを述べない方がよさそうだ。読経も呪文を唱えるのと同じようなものか。呪文には何かよからぬ目的があるのと同じように、読経する人にも何らかの思惑があるのだろうか。よくありがちな目的として、健康を保つために読経する人もいるだろうか。それは写経とどう違うのか。健康を保つことがよからぬ目的とはいえないだろう。そんなことを思っているうちにも、画面はどんどん移り変わってしまう。それは空想上の画面になるかもしれない。君は文字が連なる画面以外には何も見ていない。たぶんそれは理解しがたい光景ではないだろう。画面から意識の中に何かが戻ってくる。光はどこかで乱反射しているようだ。それをプリズムを用いて七色に分光してみたいか。網膜を通して見えるのは光以外に何があるのだろう。幻影は目で見ているわけではない。目の網膜には映らないものを見ているような気がするだけか。それは幻影などではない。わずか五年の歳月によって人はどう変わるのだろう。変わり果てた姿は何を物語っているのか。変貌の激しさは、その地域の発展や衰退を示しているわけか。変わらない光景を保つにはどうしたらいいのか。雨が降っている。雨の香りと雨音を思い出す。それはいつの雨なのか。君は誰も必要としないだろう。君自身が君から必要とされていない。そう思っているのは君の意識ではない。利用する価値がないのかもしれない。少なくとも呪い殺されるようなことはやっていないはずか。気のせいかもしれない。何が気のせいなのだろう。幻影を見たのが気のせいなのか。何を空想しているのだろう。雲の切れ間から陽の光が差し込む。今見えている空は幻影などではない。だが今は夜かもしれない。腐臭を放つ屍は誰の変わり果てた姿なのか。それは映像表現の一種か。しかしそれが健康そうに見えるだろうか。誰が写経に励んでいるわけでもない。逆光の中で立ちすくむ人影に見覚えはない。秘密の三景の一つが白夜の季節に出現する。そんな思わせぶりに他意はない。ただ何かを空想しているだけか。音楽が人を狂わす時代があるように思われるのは勘違いだろう。世の中の移り変わりが激しいときには、人も次々と生まれては消えゆくだけだ。そんな時代に殉じて消え去った人々を、今さら物語によってよみがえらせようとは思わない。それだけの力量はなさそうだ。それは力量というよりは倫理の問題かもしれない。なんとなくあざとそうに思われてしまいたくない。小利口に振る舞っているつもりの人は下心が透けて見える。いったい誰がそんなことをやっているのか。


7月11日

 まともなことを述べるにはあとどれくらい無意味なことを述べればいいのか。無理だろう。無意味なことを述べていてはまともなことは述べられない。ではどうすればいいのか。前後の文脈がつながらないのは気が狂っているからか。そういう述べ方自体がとても正気とは思えない。笑いをこらえながらいつものフィクションへと逃げ込んでしまうらしい。そうやって現実から逃避し続ける。何を悩んでいるのだろう。悩んでいるのではなく、悩もうとしても悩めないのかもしれない。悩むような心境からは程遠い。では久しぶりの曇り空の下で、蝉の鳴き声を聞きながら何を見ているのだろうか。たぶん空を見ているだけなのだろう。しかし別に空模様を気にしているわけではない。天気の話には飽き飽きしている。意識はもっと意味のある内容を求めているのかもしれないが、君の存在には意味がない。なぜ意味がないのか。意味がないから適当な意味を付与しようとしているわけか。それでどうにかなるのだろうか。それは浅はかな行為かもしれないが、それによって君がこの世界に存在しているという確証を得たい。君自身は君の存在を実感したい。そうやってまた嘘をついているのだろう。それはあり得ないことだ。君が君でないという現実を君は無視している。そんな現実は知らないが、何が現実なのか話の中では定かでない。君が語っていることは、他の何かの動きと連動しているのかもしれない。試しにサイクロイド曲線上に感情の高低を重ね合わせてみる。何がサイクロイドなのか。意味不明だろう。難しい単語を用いて体裁を取り繕いたいようだ。それはどんな意味なのだろう。君はそこで何を無視しているのだろう。思惑通りには行かない現状から意味を抽出しようとしている。そのためには何を無視する必要があるのか。やはり話の前後の文脈を無視して、唐突にわけのわからないことを述べてみるべきなのか。意味不明に陥らないためにはそうするべきではないだろう。しかし今さら路線変更はできない。すでに手遅れなのかもしれない。現実に何をどのように述べてみても、それは現実ではないような気がしている。ただそこには、別々の時間に生じた様々な思惑が重なり合っている。まだ忘れられていない思惑のいくつかが意志を構成しているのだろう。それが心という言葉で表現される概念なのだろうか。その心から感情や思考が生じているのか。それらのどこまでが人の心から生じたものなのかはっきりしないが、そのすべてが心という言葉で表現できる概念と連関しているわけでもなさそうだ。とてもそんな風には思えない。君には心がない。それはまたいつもの嘘だろうか。なぜ心を嫌うのか。心に依存しない君の意識は、心とは考え方もやり方も微妙に異なる。そこで見えていると思っているものは心の幻影だろう。ただ心を幻想だと思いたいだけか。それは本質的なことではないかもしれない。何が本質なのかは、その対象の捉え方によって違ってくるのかもしれない。医学的な心臓が心であるはずがないか。なぜ臓器である心臓と心を絡めようとするのか。脳や心臓とは違う次元で語っているはずだ。では君が求めている思考の対象とは何なのか。対象はそこら中に散らばっている。別に脳や心臓を思考の対象としてもかまわないだろう。また途中が抜けているようだ。そこに至る過程が抜け落ちている。なぜ意図的に文脈から外れようとするのだろう。そうやってわざと破綻を装う。わざとではなく、必然的に破綻しているのではないか。今まで何を語ってきたのだろう。要するに人の心などに興味はないということか。それは何かの強がりが反映しているのかもしれない。結局何を述べても何ももたらされないか。水は限りなく透明に近い青色をもたらす。夕焼け色の空を見上げて青色を探している。意識していることのどこまでが意識の作用によって生じていることなのだろう。そこには必ず他と区別できる境界線が引かれているのだろうか。その線が目に見えていれば安心できるわけか。見えるわけがないだろう。


7月10日

 相変わらず失敗の連続を経験しつつあるようだが、まだ懲りずにやるつもりなのだろうか。誰に何を聞いているのだろう。これがフィクションなら、どこからともなくこんな声が聞こえてくるかもしれない。やりたければやってみればいい。いくら失敗してもかまわない。しかしそれは君の意志とは反対の動作なのではないか。それでもかまわないのか。確かにやりたくなくてもやっている状況もあり得る。だがいくらやりたくても何もやらせてもらえないときだってある。それをやらせる権限は誰にあるのか。そして何もやらせてもらえないときは、干されているということか。干されて干からびてミイラとなり果てる。そんなミイラはあり得ないか。アジの干物ではない。しかしそれらの何が失敗しているのだろう。君は失敗のただ中で何を感じているつもりなのか。本当に失敗したと思っているのだろうか。どうも成功であっても失敗であっても、そのどちらであってもかまわないような気がしている。要するにまだ出来事のただ中で、難局を切り抜けられずにいるだけなのではないか。もちろん意識はそれが難局だなんて少しも思ってもいないのだが、未だ切り抜けていないのだから、結果的にそれは難局だと見なしてもかまわないような気もしている。切り抜けられない状況のただ中で何をやっているのだろう。相変わらずもがき苦しんでいるふりをしているだけか。そんな風に思い込んでいると楽しいか。何が楽しいのか。わざといつもとは違うことを述べようとして、結果的に失敗に終わっているだけのようだ。作り話の中の窮地にはどこか楽しそうな雰囲気が漂っている。人格の自由度が物語の制約を受けて削られていて、作者が設定した枠内から逸脱できずに窮屈な感じを受ける。架空の意識が縮こまってしまう。だから状況的に絶体絶命のピンチであっても、誰が窮地に陥っているわけでもなく、誰かがそれを演じているだけなのだから、それほど深刻そうには感じられない。ではそれが本当の話だとしたらどうだというのか。過去にそんな出来事があったわけか。過去の話なら解決済みだろう。解決していなければ忘れてしまえばいい。忘れられないのなら、時折思い起こしてみるべきか。思い出して再検討でもしていれば気が晴れるだろうか。やはりそれは暇つぶし程度の効用を期待しているわけか。しかしそれだけではおもしろくないか。別におもろくなければならないわけでもないだろう。別にどこかの誰かと内容のおもしろさを競い合っているわけでもない。そしてそれをやるために死に物狂いというわけでもない。本気になれないのはいつものことか。いったいどのような状態が本気になったときなのだろう。どうやら途中から違う話になってきているらしい。偶然に頼って誰かの意志を無視してしまったのか。いや、まだ継続の意志は変わらない。ただ継続に嫌気が差している意識は、何も思わずに何かを眺めている。無視されていてもかまわないのか。それでもそれを文章にすると何か以外にはなり得ないのだろうか。具体的なものを言葉で構成できていないのか。具体的なものとは、ここでは何になるのだろう。沈まない太陽は北欧の白夜を思わせる。君は何を見ているのか。それはパノラマ的な景色に見える。本当に見ているものに興味を惹かれているようだが、思っていることはそれとは別のようだ。何かを眺めながら、その何かとは関係のないことを思っている。もちろんそれもいつものことだろう。しかしその思っていることにも飽きてきた。さっきまで何を思っていたのだろう。いきなり時間が飛んでいる。どうも空白の時間においては意識の存在が省略されているようだ。本当に今はいつなのだろうか。君の意識はどこで何をやっているのか。別に時空を飛び越えて北欧の白夜を体験していたわけでもないだろう。地平線をかすめながら太陽の軌道が正弦波のように上下している連続画像を見ているだけか。それがどうしたわけでもない。どうかしているのは、何を述べているのか定かでない言葉の連なりの方だ。なぜ唐突に北欧の白夜の話になってしまうのか。それは話ではなく画像だろう。


7月9日

 空疎な内容が繰り返される。なぜいつも同じようなことを語ってしまうのだろう。いったいそこで誰が語っているのか。相変わらず君は何も語ろうとしない。意識はどこかで停滞し続ける。つまらないことはどうやってもつまらない。早朝から壊れかけている。さっきから何をやっているつもりなのか。出だしから君にはふさわしくない天候を予感させる。そんなはずはないか。精神的に壊れているのかもしれない。どんな天気が君にふさわしいかなんてわかるわけがないだろう。そのときの空模様などもう覚えていない。そんなわけで、どんなわけなのか知らないが、いつものように日付とは無関係に何かを思い出そうとしているようだが、実際には架空の出来事を言葉で構成しようとしているだけなのかもしれない。そんなのはわかりきったことか。確かにわかりきったことかもしれないが、それでもなお、何かを思い出そうとしている。開き直ってフィクションを語るのが気に入らないのか。そう語っていること自体がすでにフィクションなのかもしれない。では何かを思い出そうとしているのも嘘なのか。本当に思い出してしまうのが怖いか。思い出すのが面倒なので、何も思い出せはしないだろう、と思い続ける。思い出したのはそんな台詞か。すでに何かを思い出しているのではないか。思い出しても、それを言葉にするのが億劫になる。言葉にならない思いなど何の役にも立たないか。役に立つようなことは、言葉にする以前に実践で利用されるはずか。そして実践でうまく行ったやり方が言葉で表現されて、社会に広まるわけか。そんなことの繰り返しの上に人間社会は成り立っているわけか。だからどうだというのか。そんな功利主義的な内容はありふれているが、それが人々に求められているのだろう。確か以前にそんなことを述べていたことがあったかもしれない。そのとき他に何を述べていたのか思い出せない。他のことはどうでもいいだろう。別にそのときと同じように語る必要はないだろう。しかし君が語ろうとしている内容は、誰からも求められていない無内容かもしれない。箸にも棒にも掛からない気休めの娯楽にさえならないようなことを語っているわけか。それほど卑下するようなことでもないか。とりあえずそれでも思い出そうとしているらしい。そして思い出そうとすればするほど無駄に時間を費やし、時間をかけて語れば語るほど、そこに嘘の内容が添加される。それは思い出された内容ではない。そこに作り話の入り込む余地が生まれつつあるわけか。誰かは渇いたのどを潤すために水を求めているようだ。水なら近所のコンビニで買えばいいだろう。買う金が惜しければ公園の水でも飲めばいい。ここは不毛の砂漠などではない。誰に向かって語りかけているのか。それは何と関係があるのか。暑さで意識がはっきりしないか。しかしそれはいつの話なのだろう。誰かはそこから何かを語りたいのかもしれないが、君にとってそんなことはどうでもいいことか。何をどう述べてようと本気にはなれない。そんなことを語ってどうするのか。何を考えているのだろう。思い浮かぶのは枝葉末節なことばかりか。そこに物事の本質などありはしない。本質そのものがわからない。やはり以前と同じようなことを述べているようだ。具体的に何を語る状況にもないらしい。何もやれる状況に至っていないのに、唐突にこれから何をやるつもりなのか。これから新たに何をやるのでもなく、それはまたしてもすでにやっていることの継続にしかならないことをやるしかないようだ。そんな風には思いたくないか。それでも思い出そうとしている。別に記憶喪失でもないのに、すでに何度も思い出していることを、また執拗に思い出そうとしている。何かがひらめいたときの状況を思い出したいようだが、それはどんなときだったのだろう。そんなときがそう度々到来するわけもないのに、そのときのことを思い出そうとしている。その時君は何をやっていたのだろう。たぶん何かをやっていたはずだが、それはまたしても何かでしなく、その何かが何なのかわからない。


7月8日

 どうもわからない。昔話の中で君は何を妄想しているのか。昔といえるほど昔のことでもないだろう。君が何を心配してみても、天地が崩れ去るわけがない。くだらぬ心配は杞憂に終わるしかないだろう。たぶんそれはあり得ないことだ。確かに一部ではそんな話があるらしいが、そうではないだろう。なぜそうではないといえるのか。機会が通りすぎてしまったので、わかりやすいことを述べられなくなる。権限が何も与えられていない状況で、そんなことができるわけがないか。何もやろうとは思わないが、何をやろうとしているのか。ただ何も思わなくても、適当な文章が形成されてしまうだろう。だが君が求めているのはそんなものではないはずか。それは誰が求めているのでもないのに、空白に適当な言葉が連なってしまう現象なのだろう。しかし相変わらず内容がないようだ。それは何かの駄洒落なのだろうか。何かではなく何なのか。そう述べてしまえる目的は何なのか。それはわざとらしい問いだ。なげやりな態度は夢や目標を抱いている人々には理解不能か。別に自暴自棄になっているわけでもないだろう。意識はすでに夢が叶ってしまった後の時期に入っているのかもしれない。そのときの夢とは何だったのだろう。そのときとはどの時なのか。その先へ進んでしまった意識にとっては、忘れてしまった夢を思い出すことなど面倒くさいだけか。忘れた頃に突然それが思い出されるときもあるだろうか。ただ今は空腹なのかもしれない。何が空腹なのか。それは何かの比喩なのかもしれない。では空腹と夢とはどう関係するわけか。比喩的には空腹を満たすことが夢を叶えることになるのだろうか。それでは動物と変わらないではないか。なぜ動物と人間を区別しなければいけないのか。動物が大志を抱いたりするわけか。もしかしたら動物だからそんなことができるのかもしれない。逆説的にありもしないことを夢想しているだけのようだ。夢見る動物は夢の中で獲物にありついて満足するわけか。それは獏か何かのことをいっているのかもしれない。しかし夢を食べる動物も夢を見るのだろうか。自分の見た夢を自分で食べていては、自分の尻尾に噛みついている蛇のようではないか。もしかしたらそれは人間特有の現象かもしれない。もちろん現実にはそう思い込んでいる人が多いだけで、実際には自分の抱いている夢は他人からもたらされたものだ。他人が語る夢に憧れて、自分もその他人を真似て同じような夢を抱くようになるだけだろう。とりあえずそこにオリジナリティはない。ただ話の尾ひれがついて、夢がより誇大妄想化することはあっても、それは他の固体の行動を真似るという動物的な行動の一種にすぎないだろう。ではそこに人間固有の作用を見ることはできないのだろうか。そんなことは知らない。その手の学者なら見ることができるのではないか。ここではそんなことはどうでもいいことか。それは述べる内容にもよるだろう。ではどんな内容を述べているのだろう。それもわざとらしい問いだろう。そんなことは一目瞭然でわかりきっている。他に何を問えるというのか。だが問われていることは何なのか。やはりそんなことはどうでもいいことか。夢と同じように誰かにとってはどうでもよくはないのかもしれないが、どうも違うような気がしている。途中から興味の薄い方向へ逸れていってしまったように思える。何を述べようとしていたのかわからなくなってしまったらしい。そのときの意識は、何かそれらの内容とは別のことを述べようとしていたのかもしれないが、結果的にそれはどうでもよくなってしまったらしい。別に燃えているわけではないが、比喩的には不完全燃焼状態なのだろうか。


7月7日

 わざとらしい憂いは空回りせざるを得ない。それで誰かの行く末を心配しているわけではない。またこの国の将来を心配しているわけでもない。ただ思い通りにならないから憂国の士になってしまうわけか。それに対して、何も思わない意識は何を思えばいいのだろう。何も思わなければいい。何も思わないではいられないのなら、何か適当なことでも思っていればいい。それでも飽き足らない人は発言の機会を求めるようになる。この状況をどうにかしなければならないようだ。誰かと議論を戦わせたいわけか。頭の中の集積回路が加熱しているらしい。そんな様子は無視してただ沈黙を装っている。ふりをしているだけか。くだらないことに関わり合いたくはないか。だがそれでは、何もしないうちに時間だけが過ぎ行くようだ。架空の君はどこかにいると思い込んでいる未知の人々に向かって何を語りかけているのか。少なくともそんなことを語りかけているわけではない。軽い気持ちで空白の時を過ごしているうちに、テレビ画面から目を引き離せなくなってしまう。それでかまわないのだろうか。そればかりでは何もできなくなってしまうだろうか。そんなことはお構いなしに画面上では狂態が繰り広げられている。見ている者の意識などにいちいちかまっていられないことは承知しているが、いったい何を考えているのか。何も考えていないのかもしれない。もちろんそれを見ているこちら側も何も考えていないのかもしれない。別にそれが狂態だなんて思わない。ただ成り行きでそう述べているだけのようだ。とりあえず現状を打開して作業を再開させなければならないので、意識の方から何かを調整しなければならないようだ。また得体の知れない何かに助けを求めているらしい。別に助からなくてもいいだろう。何に溺れかけているわけでもない。また何に思いを馳せているわけでもないが、いつも同じ気持ちでいられるはずがない。ただ他にやり方はないものか。いつも考えていることはそんなことばかりか。たぶんそれも計算の内なのだろう。決定的な破綻を回避しつつ、予定調和の内に留まり続ける。それでも何かが少しずつ変化してきているのだろうか。近頃の君ははったりが利いているのかもしれない。君が仮講した別の場面では、誰かが氷を噛み砕きながら考えている。何をやり損なっているのだろう。つまらぬこだわりは短い年月に洗い流される。何が洗い流すのだろう。言葉はどこにあるのか。あるとき博打打ちは望みを絶つ。何に絶望すればいいのか。つきからも見放されている。君はもう終わりだ。博徒は何を賭けていたのか。それは何かの決め台詞なのか。終わりだなんてこれっぽっちも思っていない。終わっていないのなら、これから何をやればいいのか。何をやろうと、空白の領域がますます拡大するだけだ。やる気は失せているのに適当な言葉が自動的に連なる。情熱とは何だろう。空虚にも情熱があるのだろうか。何かに夢中になっているときなどに情熱を感じられるわけか。それは誰の情熱なのだろう。誰が夢中になっているのか。君は覚めている。君の心に情熱を感じられないのはどうしてなのか。ただ何かに酔っているのではないと思い込みたいだけか。くだらぬ語り口に酔っているだけで、覚めていると思っているのは思い違いかもしれない。もしかしたら睡眠中かもしれない。睡眠中に何ができるのか。たぶん呼吸をしているのだろう。そして何かに巡り会うのは別の時間帯だろう。それは今ではない。今はただ何も考えずに眠るだけか。それだけではつまらないか。つまらないからこうして無駄に言葉を弄しているわけか。もちろんそれが無駄だとは思っていないのだが、結果的に無駄であったとしてもかまわないだろう。無駄であろうとなかろうと、君にはどうしようもできない。


7月6日

 また作業が遅れ始めたようだ。だが余白のどこに文字を書き込む場所があるのだろう。何も記述できそうもない君は苦しいのか。苦しいからどうだというのか。近頃はわけのわからない開き直りが流行っているらしい。本当に何を苦しんでいるのだろう。だがそれが苦難であるはずがないか。誰か他の人が災難に遭っているのかもしれない。しかし困難のただ中でもがき苦しんでいる人物は嘘をついている。その人物とは誰のことなのだろう。そんな設定のどこがおもしろいのか。まだ何も設定されていないのではないか。それらの何が真実なのだろう。それらとは何のことなのか。真実の中には嘘も含まれている。それが嘘であるはずがないか。またもやそれとは何なのか。それが見つからずに苦労している。苦労はしているようだが、誰がもがき苦しんでいるわけでもない。それが特定の人物であるはずがない。ではそれとは何なのか。ただ言葉としてのそれが循環しているだけか。何が循環しようと結果はわかっている。結局はわからずじまいになるらしい。それについて本気にはなれない。それがそれでしかないことに精神が耐えられない。できることなら、それがもう少しマシなそれであって欲しい。それではなく、ちゃんとした固有名で呼ばれたいか。それがそれでなくなったら、それではなくなってしまうだろう。しかし寝ても覚めてもそればかりでは気が滅入ってしまう。ではそれ以外に何を否定しているのか。なぜ否定しなければならないのか。寝過ごしてしまったら、いつかの朝に目覚めるだろうか。何かはぐらかそうとしているらしい。それがわかるのはいつになるのか。いつかの朝にそれがわかったりするわけか。しかしそれが困難に直面していることになるのだろうか。そして困難に直面して、わざとらしくもがき苦しんでみせるわけか。なぜそうなってしまうのだろう。どうも何かから逃げているような気がする。だがそんな気になるのも予定調和のうちだろう。それに次は何かになってしまうのもいつものことか。それでも逃げ道を模索しているわけか。なぜそこから逃げなければならないのか。そこには何もないから耐えられないのだろうか。何もないわけではなく、それや何かがあるらしいが、それや何かが何なのかわからないところが苦しいようだ。それはたとえようのない状況だと思われる。問うことをやめて、何もかも放棄してしまいたくなる。何かが何なのかわかろうとしなくてもいいだろう。それはいつまで経っても何かのままなのであり、それが特定の何かになってしまったらおかしいのではないか。唐突に特定の固有名が登場してしまっては不自然だろうか。君には何がおかしいのかわからない。それをわかろうとしていないのは誰でもない。君はすでにわかっているはずだ。いつの間にかそれは否定しがたい無内容になっている。だが語っていることは思っていることとは違う。語っているときは何を思っているのか意識していない。ただ口の中が苦くなる。それは意識とどう関係するのか。誰かがもがき苦しんでいるのは物語の中でのことか。そして物語などいくらでもある。君は方々にあるそれらの物語を無視して、無理に言葉をひねり出そうとしている。ただ結果に期待しているわけではない。思考している最中にそれとは別の思いに囚われてしまい、思考自体がつまらなく思えてくる。しかしそんなことを述べているうちに、興味を抱いた別の思いも忘れてしまう。そのとき何を思っていたのだろう。それは君には関係のないことか。ただ無関係だと思いたいだけのようだ。関係などあると思えばいくらでも思い込むことはできるだろう。


7月5日

 なぜそうなってしまうのだろう。やる気が失せているのは誰だろう。真実を語るのが面倒なので、またもや架空の話になってしまうのか。誰かがどこかへ走り去る。誰かとともに行ってしまうのは時間だけではない。誰かがさっきまで踏みとどまっていた場所もどこかへ流れ去る。流れ去るのは場所だけではない。さっきまで抱いていた思いも跡形もなく消え失せる。思いに跡形などないか。君は無駄に言葉を連ねながらどこへたどり着こうとしているのか。椰子の実が流れ着くのはどこかの海岸にでもなるのだろうか。架空の海から何が流れ着くのか。流れ着くように仕向けるのが面倒だから、いつの間にか何もかも流れ去ってしまうことにしておこう。そんな風に感じられるのはどうしてなのか。理由を知りたいか。君は文章の主語を探している。言葉はどこにも見当たらないようだ。まだ空虚という言葉を使う余地があるだろうか。そこは空虚な思いに満たされている。そことはどこなのだろう。それが空虚でないとすると、何に満たされているのか。誰かは満たされぬ思いをどこかに持っていきたいようだ。迷路の出口へ進みたい。そしてついでに、どこかに隠されている宝を探し当てたい。それはゲームなのだろう。君は君が誰なのか知っている。しかしそれはゲームのプランにはないことだ。それは公然の秘密ではない。しかし誰も知らない秘密は秘密とはいえないか。君はそれについて何を知っているのか。たぶん誰かがそれを知っているのだろう。今のところそれは君ではないらしい。ではそこで人知れず何かを知るのは誰なのか。誰も秘密を知る立場にはない。しかしそれは秘密ではないはずか。それを知るのは君の知らない誰かになるのだろうか。誰かが知っているのはそれだけではない。他に何を知っているのだろう。君もそれを知っているはずだ。知らないとしたらどうだというのか。覚えがないということか。それらの問答がつまらないのだ。それが率直な感想になるだろうか。それは前回と同じようなことだろうか。前回とはいつの前回なのだろう。まったく覚えがない。君は前回の過ちから何を学ぼうとしているのか。そこから学ぶべきものは何もないのだろうか。謙虚な気持ちがない。欠けているのはそれだけか。欠けているだけではなく、過剰に突出している部分もいくらかありそうだ。これから何を語ろうとしているのか知りたいか。それを知ってどうするのだろう。世の中にはいくら努力しても知り得ないこともある。そんなことに興味はない。そのときの気分を再現しようとは思わないか。要するに自らフィクションを構成したいわけか。フィクションの登場人物がフィクションを構成したいらしい。それはできない話ではない。君の感性はどの程度まで把握可能なのか。君は君について何をつかんでいると思っているのだろう。それは何かの秘密なのか。ではいつか隠されている感情が日の目を見ることになるのだろうか。架空の人と人との出会いはどこで実現することになるのだろう。今すぐここで出会いが実現してしまう。わざとそんなことを語っているようだ。気分は最悪か。絶体絶命の誰かはそれに類する台詞を繰り出していた。映画の中だから大丈夫だろう。演技しているだけだから死ぬはずがない。台本上でも危機を乗り切ることになっているはずだ。そして仕事が終われば大金が転がり込む。それはただの見せ物以上の何かを見る者にもたらしたいらしいが、その何かにだまされてその気になって生きている人が多すぎるか。なぜそれほどまでに懐疑的になれるのだろう。それの何が懐疑的なのか。それらの中の何を疑っているのだろうか。すべてではないにしても、いったん疑い出したら切りがなく疑い続け、結局はそのすべてを否定的な言説で覆い尽くそうとしてしまう。たぶんそうなった時点で気持ちが退いてしまうのだろう。やはりそれではつまらないと思うか。その途中で何かを見失っていると思われる。


7月4日

 相変わらず何を述べているのかわけがわからない。わけのわからないことにはどんな効用があるのだろうか。効用も何もそれがどうしたわけでもないか。何とかそこに一定の意味を構成しようとして、試行錯誤を繰り返しているようだが、結果的には失敗しているだけか。そんな状況がいつまで続くのだろうか。たぶんそれが利いた風な内容になってしまえば、そこで了ってしまうのだろう。そうならないように、意図的にわけがわからなくしているわけか。そこまで恣意的に述べているわけでもないだろう。しかしそんな自問自答状態ではつまらなく思えてくる。つまらないから、それとはまったく違う表現を文章に盛り込もうとしてしまう。そして調子に乗って盛り込みすぎてしまうと、内容が不連続となり、その結果わけのわからない文章となってしまうらしい。それも一つの回答になるだろうか。しかしそれは何に対する回答なのか。誰の問いかけに応じているのか。そんなことはわかりきっているのに、なぜわかりきっていることにわざと疑問を呈するのか。それもわけのわからなさを助長すべく試みられる、意味不明な問いかけの一つのパターンか。必ずしも意味は不明ではない。見いだそうと試みれば、そこに明確な意味や意図が立ち現れるだろう。今はどうなのか。意識は見いだそうと試みているのだろうか。試みているのかもしれないが、その試みのほとんどは失敗に終わっているのかもしれない。そして失敗していた方がなんとなくいいような気もする。仮に見いだされても、それらの意味や意図を信じられない。本当にそうなのかまったく確信が持てない。君は意図的に何をやろうとしているのか。また果たして見いだされた意味で満足できるのだろうか。自らにどのような能動性があるのだろう。またそのような意味になってしまうことに納得している意識とは誰の意識なのか。それらはただ難しく考えようとしているだけなのか。わざと込み入らせようとしているだけか。すっきりした精神状態ではいたくないわけか。ただごちゃごちゃ入り組んだ構造を愛でているのだろうか。構造が複雑であるほど何がどうなるというのか。要するにわけがわからなくなるだけのようだ。そんな現状を肯定も否定もできない。いや、肯定しようと思えば肯定できるし、否定しようと思えば否定できるだろう。肯定も否定もどちらでもいいような気がする一方で、そのどちらでもないような精神状態でもあるらしい。どうもそのような判断基準とは違う方面で何かを模索しているのかもしれない。そしてまた同時に、何を模索しているのでもないような気もしてくる。言葉は適当に繰り出されているものの、やはり何を述べているのでもないような気がしている。思考する対象がそのまま文章の内容とはならないようだ。語っていくうちに、自然とそこから意味のない領域にはみ出ていってしまう。絶えず揺れ動きながら、意図から外れた移動を繰り返す。そして結果として立ち現れてくるのは、どうしようもないわけのわからなさなのか。意識は常にそれ以外へと言葉の連なりを導きたいようだが、それらの試みのことごとくは失敗に終わり、しかもそれでかまわないと思い始めてしまう。それは仕方のないことなのだろうか。それ以外はあり得ないわけか。まれにそれ以外になっているときもあるのだろうか。よくはわからないが、そうなっていると思い込みたいときもあるように感じられる。たぶんそこに何らかの救いを求めているのだろう。もちろんそれを信じているわけではなく、懐疑の心が気まぐれにそれもありかと思うだけか。それは一瞬の気晴らしなのかもしれない。ちょっとだけ触れて、面倒なことにならないうちに急いでそこから立ち去ってしまう。何かをつかんでそれに囚われてしまうよりも、何もない自由が優先されてしまうようだ。しかし何もないと衰弱してしまうので、たまにそのときの気まぐれで、何らかの対象をつかんだつもりになってみるのか。ではちなみに今は何をつかんでいるつもりなのか。


7月3日

 今日も誰かがどこかで死にかけている。アフリカあたりでは道端で野垂れ死んでいる人が多いだろうか。それは偏見かもしれない。アジアでも中南米でもロシアでも中近東でも、世界中どこでも行くところへ行けば、そんな光景が垣間見られるだろうか。日本でも都会へ行けば、まれにホームレスが同じようは死に方をしている場面に出くわすかもしれない。しかしそれがどうかしたのか。それも結局はフィクションの一種だと思われる。現実には人知れず死んで行く場合が多いのかもしれない。そこに焦点を当て、それについて語り始めると、とたんにそれらの死はすべて虚構になってしまうのだ。そこに視点や論点を導入すること自体がフィクションを招いている。他人の死について語っている時点で嘘になってしまうだろう。君はそんな風には思わないか。サスペンスドラマでは人が岩場に追い詰められる。崖の上からカメラが荒海や渓谷を覗き込む。なぜそんな場所で殺人事件が起こるのだろうか。ドラマのロケ地としてそんなところしか撮影許可が下りないのかもしれない。あるいは見る者に束の間のスリルをもたらすには、そんな場所が最適なのか。しかしそんな理由が介在して、そんなシーンが構成されているとすれば、興醒めとなってしまうだろうか。そんな風に語ればなんとなくそんな気になるか。そこで人の死はどこへ行ってしまったのだろう。そこで死にかけている誰かの意識は、いつか見たそれらの光景を覚えているだろうか。ニュースによると、凶悪犯は自分の人殺し体験の自慢をしたくてしょうがないそうだ。刑務所に行けばそんな自慢話があちらこちらから聞かれるわけか。そういう意味では人殺しなど大したことではないのだろう。それは空き地に雑草が蔓延り、ベランダの植木は枯れているのと同じようなものか。同じであるはずがないか。ところで水はどこにあるのだろう。火星の地中深くにでも存在しているわけか。それはどこかの科学者の言い分か。雑草は土と水のあるところではどこでも生えてくるだろうか。別に雑草の話をしたかったわけではないが、なんとなくそこへ流されてしまう。そうなってしまう理由は何もないだろう。気分次第で雑草が好きになるときもあるのだろう。雑草が蔓延り続けているところでは人影がない。草を刈る人が見当たらない。誰かはそんな場所が好きなのか。廃屋が山の中で樹木に埋もれている。山村に人がいなくなれば、いつかはそうなるのだろう。行くところへ行けばそんな光景に出くわすこともあるだろうか。だが今は行くところへ行く気はないらしい。わざわざ出かけていくのが面倒なのか。たぶんそんなときにフィクションが構成されるのだろう。そうやって妄想の言語空間がどこかに生じているわけか。そこでは誰もが軽はずみに言葉を配しているようだ。しかし誰もいないのになぜ言葉が生じているのだろう。それは嘘だろう。独白には人一人いれば足りてしまうだろう。たぶん余白はそんな言葉で埋め尽くされている。夜に紛れて猫がどこかへ出かけて行く。誘惑の香りはどこから漂ってくるのだろう。架空の人物が闇の中で手繰り寄せているものは何だろう。それらの手探り状態は何のたとえなのか。それが探偵なら何かの手がかりを得るかもしれない。しかし現状では何もたとえになっていないようだ。強引に構成されたそれらは、現実に存在しているそれらではない。感触としては形あるものではないようだ。そして語っているうちに次第に馬鹿らしくなり、語り飽きてきたので、気まぐれに真昼の光景を思い浮かべる。しかし真昼に内容を求めるのも面倒だ。そんなことでは結局は何もない空間に向かってわざとらしく問い続けるしかなくなってしまうだろう。具体的に何を問うつもりなのか。闇はどこにあるのか。たぶん地球の反対側は闇に包まれている。だが他に誰もいないのになぜそんな答えが返ってくるのだろう。それもフィクションのなせる業だと述べたいわけか。しかし誰が述べたいのかはっきりしない。それはいつもの欠陥が露呈しているだけだ。


7月2日

 空白の時はなかなか埋まりそうもない。対象らしき現象に接しているつもりでも、言葉を思い浮かべるまでには至らない。また何を述べているのでもなさそうだ。なかなか語りが始まらないようだが、何を語ろうとしているのだろう。何を問いかけているのでもない。なぜ始まりからあきらめてしまうのか。何を述べようと言葉はどこにも響かない。何を否定しているつもりなのか。そんなことを述べたいわけでもない。音でないのだから響くはずがない。比喩的な表現でそんなことを述べているつもりなのか。つもりではなく実際に述べている。それらにつもりはないが、たぶんそこに興味を惹くものは何もないのだろう。いったい誰の興味に応えているつもりなのか。どうも今回はつもりばかりが連続してしまう。それはある夜の出来事だった。出来事はそれではない。そんな昔のことは忘れてしまった。忘れかけていたことが出来事になる。たぶん今は過去でない。ではなぜ今が夜なのか。出来事がどこにあるのだろうか。何もない現実が真実である理由を見いだせない。それとは何だろう。そんな表現はおかしいか。確かにおかしいが、どこがおかしいのだろう。同じ言葉が繰り返されている。意識は依然として部屋の中にとどまっている。そこからどこへ行けるはずもないだろう。何を見いだそうとしているのでもないし、何が見いだされるのを期待しているわけでもない。夜はやがて更ける。それを知ろうとしているわけでもないだろう。それとは何なのか。出来事がどこに起こったのか。意識が出来事の中身を知るまでには至っていないのだろう。それはどういうことなのか。何かが引き伸ばされているように思われる。そしてその先へ進もうとする意識を阻害している。意味のない言葉に埋もれて、何を述べてようとしているのかわからなくなる。言葉が求めていたのはそんな状況なのだろうか。今の君にメッセージは似合わない。似合わないからどうだというのか。何もないことを示すのも一つのメッセージには違いないが、それが君のメッセージである必要はないだろう。では他に何か送るべきメッセージでも持ち合わせているのか。腕時計の電池が切れたままのようだ。それを誰に伝えたいのだろう。それで空虚と戯れているつもりなのか。やはり何かがおかしいと思われる。夜中に中古車のオークション情報を見ている。それで空っぽの心が満たされるわけか。それの何がおかしいのだろう。君はリオデジャネイロへ行ったことがあるだろうか。ブラジルの未来世紀はどうなっているのだろう。そんな映画を断片的に見たことがある。今では内容を完全には覚えていないかもしれない。確かそれは未来ではなく過去の話に属していたはずだ。全体主義という過去か。普通の若者は政治についてあまり興味はないだろう。それはファッションとどう違うのだろうか。流行り廃りの言説に支配されているところはどちらも同じようなものか。車のデザインにも流行り廃りはあるだろう。例えばキャディラックが昔のような型だけだと思ったら大間違いのようだ。国産車とそれほど変わらない型のキャディラックもあるらしい。しかしそれと政治とどう関係するわけか。車と政治は無関係か。まるっきり無関係というわけでもないが、すでに期日前投票を済ませてある。後は中古車でも買えばいいわけか。しかし車を買ってどうするわけでもどうなるわけでもなさそうだ。それはわからないか。だが仮にどうにかなってどうするのか。いつ買うとも知れない車を利用して言葉を連ねているだけか。ある夜の出来事とは、後から思えば夜中に中古車情報を見ていたことかもしれない。たぶん後になれば、どうにかなっている自意識に気づくかもしれない。しかし後とはどれほど後のことなのだろう。死ぬ直前のことか。それほど先のことでもないかもしれない。例えば買った中古車で事故死して意識は唐突に幕を閉じてしまうわけか。それは何かの啓示だろうか。事故死するから車を買ってはいけないわけか。そんな展開もあり得るだろう。だが仮にそうなったからといってどうなるわけでもない。ただ死ぬだけだ。


7月1日

 それは構造的な不具合ではない。季節は移り変わり、それにつれて意識が思っている内容も適当に変化するようだ。それは思い込みに過ぎないのだろうか。バランス感覚とは何だろう。この世界のどこが均衡が取れているのか。相変わらず些細な環境の変化に心は動揺し続ける。無理矢理取ってつけたような出来事を、物語に付け加えることに、感性は疲れているのではないか。過去にやり残した仕事のことを、今でも片時も忘れたことはない。しかしそれが仕事だといえるだろうか。それとはどんな仕事なのか。またいつものはぐらかしになってしまう。人はいくらでも死ぬ。言葉はいくらでも構成可能だろうか。だがそれがメッセージだとは思わない。何を学ぶにも遅すぎるのだろうか。たぶんそんなはずはないと思いたいのだろう。世の中には一握りの本物と、その他大勢のイミテーションが存在しているのだそうだ。それは貴重品願望の一種かもしれない。現実には本物が多すぎて、それを模倣する気も起きない状況なのかもしれない。利益を期待できない代物を真似る必然性はないか。逆に模造品の存在を貴重だと思えば、気晴らし程度のおもしろさを感じられるかもしれない。ではいったい何が模造品なのか。例えば言葉自体が現実に存在する物を真似ているといえるだろうか。真似ているのではなく、指示しているのではないか。そして物自体に名前を与えているわけか。だがそこから先に思考は及ばないだろう。ただそれだけのことか。それだけのことにこだわる必要はないか。では何にこだわれば新たな認識へと到達できるだろうか。そんな風に思っているうちは無理だろう。気づいたときにはすでに認識を通りすぎている。捉えようのないことを捉えようとしているだけなのか。しかしそれでは何もやっていないことになってしまうのではないか。そう述べながらも意識は何かを捉えているのかもしれない。本物と偽物の境界線は本物幻想に基づいて引かれる。言葉の散らばりが適当な意味を構成している。それらの幻想は誰によって広められたのか。そこに何かがあるように思われるのはなぜだろう。実際には史実に基づいて物語が構成されているだけか。歴史上のある時点で誰かが興味深い行動を起こしたらしい。それが今でないのには何か理由があるのだろうか。過去に真実を求めないと何か差し支えでもあるのか。そしてそこで現代の有名人が登場しないことには見せ物として成り立たないらしい。君はそれらの物語が移り変わる様をただ眺めている。別にそこにカタルシスを求めているわけではない。何を昇華できるのだろう。内面のどこに攻撃的な本能が宿っているのか。さっきまで言葉に定着されていると思っていた意味が変容してきているように思われる。思い悩めば悩むほど、悩んでいる内容が馬鹿らしく思えてくる。そして気づいたときには何を悩んでいたのか忘れてしまう。また悩んでいた内容が記述されていないことにも気づく。それを文章として構成する気が起こらない。さっきから同じことが繰り返されているだけのような気がしている。さっきではなく、もうだいぶ前からそうなのかもしれないが、それが何なのか示されていない。示す気がないのだろう。情緒的に戦争について語る時代ではない。そこではただ人が死んだり生き残ったりしているだけか。そして大義が何なのか忘れ去られようとしている。そんなものがあるわけがないか。礼節などわきまえている場合でもないらしい。対岸の火事ばかり見物していても無駄かもしれない。それでもまだ世界平和を祈る人もいるわけか。それも無駄なことのように思われるが、やりざるを得ない立場の人もいるらしい。そうやって君は余白に無駄なことを書き込んでいるつもりなのか。今はわからない。何らかのシステムに組み込まれてしまっているのかもしれない。そんなこと以外にやりようがないのか。そう思われるのならそう思っていればいいだろう。それ以外に何を思えば気が済むのか。現時点でそんなことがわかるはずがないか。


6月30日

 何気ない写真の表面に虫の死骸が貼り付いている。たぶん世界と君は無関係だ。出だしから何を述べているのだろう。どうやってそれを継続させたいのか。何を思いながら作業を進めているのだろう。それは過去の出来事なのか。そしてなぜ未来に思いを馳せなければならないのか。どこかで現在の時刻に追いつけるかもしれない。それは微かな光明が見えている証拠だろうか。でまかせかもしれない。架空の物語の中では、螺旋状の階段を上へ昇っている最中らしい。下降してくるのは透明なエレベーターか。そこで何を見いだそうというのでもない。あるいは何を否定したいわけでもない。否定したい状況は他にあるらしい。たぶんその機会を待ち望んでいるのだろう。木陰の下から蔓が伸びつつある。早く切らないと木の幹に絡みつく。根こそぎにしないとまた執拗に生えてくる。雰囲気的にはそんな状況か。だが焦って何をやっても無駄だろう。遠からず誰かの意識は幻影の虜になってしまうだろう。そこには何らかの思惑が関与している。では思惑の内容とは何か。ただエスカレーターで躓く老人が多いらしい。それは何のたとえなのか。階段とエレベーターの間にエスカレーターがあるわけか。たぶんそれは内容ではない。内容がないから代わりにエスカレーターの話になってしまう。それが代わりになるとは思えない。壊れているのかもしれない。意識は何に対して反発しているのか。無限の世界は幻想の産物らしい。絶えず利いた風なことを語りたい欲望は、映像との共鳴現象の一部を構成している。それは演出による結果なのだろう。木を見て森を見ないのは誰もが気づかない過ちだろうか。誰も過ちだとは思っていないだろう。エッシャーのだまし絵を見たことがあるだろうか。連続する水路を流れる水の流れが途中で逆流している。未来が過去の原因となってしまう。映像表現の演出はそればかりのような気がする。はじめに結果ありきで、そのような結果になるようにあれこれ工夫を凝らしているだけではないのか。そんな制作者の思惑通りの結末がこれ見よがしに提示される。そこには途中で必ず綻びが出てしまう。無理を承知で強引に結論へ導きこうとする意志が見え見えになってしまう。必ずそうならなくては気が済まないのだろう。たぶんそんな見苦しくもわざとらしい展開を少しでも緩和するためにスポーツ中継があるのだろう。スポーツなら予想外の勝ち負けを体験できる。もちろん体験しているつもりになれるだけだ。ただ他人が勝ったり負けたりしている光景を眺めているだけか。さらに勝っても負けても紋切り型の結論が用意されている。それは解説者の感想でも聞けばわかることか。とりあえず実況者とともに興奮しなければならないのだろう。それはニュースでも同じことか。どう見ても予想外の結末なのに、それに対するコメントによって予想の範囲内に言いくるめるわけだ。コメントする者がどうあっても自分の思考が及ぶ範囲内の出来事だと述べたいのだろう。そうしなければコメント商売は成り立たないか。絶句してばかりでは仕事とはいえないだろう。しかしナイーブな人々はそんなコメントを真に受けることで現実をフィクションと取り違えてしまうわけだ。出来事をありきたりな言葉で言い表せば、たちまち現実がフィクションに変化してしまうことに気づかない人が多すぎるのかもしれない。出来事が言葉と映像によって幻影になってしまうことに無自覚な人が多すぎるか。しかしそれがこの世界を構成するリアリティそのものなのかもしれない。今やリアリティとは言葉と映像によって再構成されたもののことを言うのだろう。それを幻影だと断じてしまってはリアリティが成り立たないか。リアリティこそがフィクションだと述べてもピンと来ないか。それはほとんど間違った認識になってしまうかもしれない。


6月29日

 なぜ意識は冒頭に戻ってきたのか。たぶんそれは君の意識ではない。手法的に誠実さを欠いていると思われる。それはどのようなやり方なのだろう。やり方以前のやり方かもしれない。暇にまかせて暇を浪費している。それは以前から繰り返されてきた手法だろう。暇があるなら、浜辺で貝殻でも拾い集めていればいいだろう。しかし画面の向こう側にある浜辺に行くことはできない。時期的にも過去の映像かもしれない。それは過去の心象風景か。過去の世界であやふやなことが語られつつあるようだが、その時点で君は何を求めているのでもない。文章の結末の方で誰かが何かを語っているらしいが、それは君とは関係のない内容だろう。何を迷っているのか。迷いはいつから迷いとして立ち現れているのか。架空の物語の中で何を語ればいいのか。小説とはどのような文章から構成されているのか。漫画の中で漫画家が漫画を読んでいる。くだらない言葉遊びの範囲内で言動は推移しているようだ。だがそこにおいて人はしゃべらない。英語で語りかける者は人ではなく、英会話学校の生徒だろう。君は日本語の意味を取り違えている。この世界のどこに人類が存在するのか。どうも左肩の筋肉に不具合が生じているようだ。たぶん文章の中で過去と未来が逆転してしまっている。だがその最中においても、君の思考はどこへも向かわず、ただそのことについてのみ作動するらしい。今は過去なのか未来なのか。今は今でしかないだろう。ある時点でのすべての情報は娯楽に向かって繰り出されている。だが見せ物ばかりでは飽きてしまう。なぜそこで風景を見せようとするのか。しかしそれの何が風景なのか。そこに興味を惹くような中身があるとすれば、それは何だろう。君はそこに娯楽以外の中身を期待しているわけか。人々は何を求めているのだろうか。人によってそれぞれ求めているものは異なるだろう。君は何を求めているのか。過去の断片を取り出して言葉にしてみると、いつか繰り返した話になってしまう。また蛍光灯をつけっぱなしにして眠ってしまったらしい。まぶしさで目覚めていやな思いがする。夢を見ていたわけではない。誰かがどこかで何かを思い描いている。唐突に場違いな言葉が思い浮かぶ。プラネタリウムで冬の星座を眺めているつもりか。花瓶の模様に引きつけられる。相変わらずの意味不明か。水瓶座の季節はいつだろう。そこで何を述べているのでもないらしい。いくら努力しても何も得られない。そんな成り行きが好きなのか。そんな結果は承服しかねるか。それらの結果の何に納得すればいいのか。どこからともなく別の声が響く。現実はそれとはまったく違うと思いたい。努力は何のためにあるのだろう。なぜそんな問いかけになってしまうのか。無駄な努力は果てしない。そうやって誰にも得られない文字列を導き出そうとしているわけか。またそうやってわざとらしい技巧に走っているのだろうか。話はいつも未完のままに、意識は未知の領域に踏み込んでいるつもりなのか。結果をぶち壊しにしている。何をやっても戯れ言を得るだけだろう。それに反論するための文句が見当たらない。記憶の断片は方々へ散逸している。意識は雰囲気だけの思考に満たされ、それで適当な歳月を過ごさなければならない。いつまでも同じことをやっているらしい。そんな風には思いたくないか。そこに記述されている文章は、過去からどのように変化してきたのか。次第に中身が希薄になりつつあるのだろうか。それでも過去の文章を読み返す気にはならないか。たぶんそこに思想が欠けているのだろう。それは思想ではなく誰かが唱えているお題目だ。そんなお題目なら日本の政治家でも唱えられる。ユッスーの歌詞には魅力を感じなくなった。なんとなく十数年前に感じた幻影が消え失せてしまったように思われる。


6月28日

 昼と夜の合間に何を思う。焦燥のただ中で何も思いつかず、なんとなく終わりを予感させる気配を感じている。意識は生きているのか死んでいるのか分からない。この世界は何から構成されているのだろう。こんな状態で未来を信じることができるだろうか。世の中がこれ以上良くなると思い込めるだろうか。何を根拠に信じられるのだろうか。浅はかな思いには何も理由を見いだせないか。何を考えても無駄に思われ、何ら有用性と巡り合っている気がしない。有効な方策を見いだせずに、ただ無為に流されているように思われる。何に流されているのだろう。川が流れて行く方角は君の行き先とは関係なさそうだ。今はどんな出来事に囚われているのか。架空の意識にとっては、やっていることのすべてが無駄だと思われるようだが、現実にはそれは嘘だろう。実際にそれなりの利潤を得ているのではないか。しかしその利潤と作業はほとんど無関係に思われる。二つの時間の一方で無駄なことをやっているらしく、それを継続させるためにもう一方の時間が存在しているのだが、そこから得られる利益は無駄な試みには反映されていないようだ。だからなぜそんなことをやっているのか理由を見いだせない。では余白を文字で埋める作業はいつまで続くのか。それらはほとんど惰性で続いている行為かも知れない。そして後には意志も意識も介さない言葉の群れが現れる。そんな状況で何を述べてもすべてはまやかしか。しかしそれらの何がまやかしなのかわからない。わかろうとするのが面倒くさい。では具体的に何を述べているのだろう。相変わらずおかしなことを述べている。いったい誰が何を述べているのか。たぶん君が何か適当なことを記述しているのだろう。少し前の君はまやかしという言葉が好きらしい。しかしいつまでもまやかしの中に埋もれていても、作業は一向に進まない。そうこうしているうちに、妄想の世界では、壊れていた記憶装置の修理が終わり、次第に過去の忌まわしい記憶がよみがえってくる。そんなはずはないだろう。あちら側の世界では、それはいつの出来事なのか。あちら側には何があるのだろう。こちら側には何もない。今の君にはどちらの側にも何もないような気がする。あちらとこちらを隔てる境界線はどこにあるのだろう。身につけたつもりの軽薄な知識を用いて、この世界で起こっている出来事の何を馬鹿にしたいのか。何が大衆蔑視なのか。蔑視する対象がどこにいるのだろう。人はどこにもいないのかもしれない。漫画はまやかしだが、文学もまやかしだろう。それらのどこにも真実は語られていない。真実こそがあり得ない虚構なのかもしれない。誰がそれを心から叫んでいるわけでもない。まともな神経の持ち主なら、むやみやたらに叫びはしないか。それが文章として提示された場合、心の叫びは幻聴として響く。そしてそれはあり得ない虚構の叫びになる。そこで何かが燃え尽きている。対象を言葉と入れ替えて、思考はどこへも行けなくなり、いったん語ってしまった対象に戻れなくなる。出発した地点が原点ではないのか。その結果、架空の話の中で架空の出来事が起こる。そこで乗り越える壁などというものは存在ない。たぶん物自体が欠けているのだろう。それ以上何を説明すべきなのか。それ以外に何が必要とされているのか。例えばそこには音楽があるのかもしれない。だがそれで安易な逃げ道を見いだせるだろうか。なぜそれが安易だと思われるのだろうか。そこに教訓的なメッセージが潜んでいたりするわけか。やはりそんなやり方では本気になれそうもない。もちろん本気になった時点で勘違いの罠にはまっているのだろうが、それ以外にどうすればいいのか方策を見いだせずにいる。たぶん無理に迷路の出口を探す必要はないのかもしれない。


6月27日

 雨音を聞きながら他に何かを聴いている。それは砂が流れる音かもしれない。あるいはピアノの音色か。だがそんなことを述べていることに意味はない。述べた後から意味をこじつけても仕方がないだろう。だが本気で仕方がないと思っているわけではない。ただその場の成り行きで、気まぐれにそんなことを述べてみただけかもしれない。何を述べても述べなくてもいいのだろうか。何がそうさせているわけでもないか。その場の状況がそうさせているだけなのか。説明としてはそれでかまわないのかもしれないが、どうもそれ以外のことを述べてみたくなる。心のどこかにそんな意識が潜んでいるようだ。そんな意識がさっきから顕在化しているわけか。さっきから誰が夜空を見上げているのだろうか。唐突につながりを欠いて何を述べているのだろう。別に伝染病に感染しているわけでもないだろう。やはり言葉のつながりが見えてこないか。影はその話題にはあまり乗り気でないようだ。影にも意識が取り憑いているらしい。それは霊魂の一種か。通常霊は仏壇や墓地に宿るらしい。拝む人はそこに霊があることを暗黙の前提として拝んでいる。そこに何もなければ拝む必要はないか。実際には何もないわけではなく、位牌や墓石に刻まれた死者の名前がある。伝染病で死んだ人も、そこに名前が刻まれている限り、拝みの対象にはなるだろう。名もなき行き倒れの人は、無縁仏として坊さんが拝んでくれるかもしれない。ところで人はなぜ拝むのか。死者が成仏して欲しいからか。亡霊となって災いをもたらさぬために拝むわけか。拝むだけでそのような効果を期待するのは虫がよすぎるか。例えば死者が生前有力者だったら、その名を冠した神社でも建立すべきなのだろうか。そこまでやるような奇特な人がどこにいるのだろう。各地にその手の神社が点在している現状を思えば、過去にはその手の人が大勢いたらしい。今はどうなのだろう。人知れず自分専用の神社を造っている金持ちもいるのかもしれない。何か御利益を期待してそんなことをやっているわけか。神仏に頼るようでは先が見えている証拠だろうか。神頼みには真剣さが足りないか。真剣になって祈れば祈るほど、他の手段がおろそかになってしまうか。とりあえず八方手を尽くして、やれることはすべてやってからでないと、最後の神頼みに持ち込んではいけないか。そんなことをやって何になるだろう。商売がうまくいったり、難関校に合格したりするわけか。運はそうやって切り開くものだろうか。もちろん本気でそんなことを思っているわけではない。なんとなくステレオタイプな展開を馬鹿にしているだけのように感じられる。しかし何を述べようとしてそうなってしまったのか。言葉を連ねているわりには、実態として何を述べてるわけでもなさそうか。つまらない水準でうごめいているだけらしい。どこかで躓いてみたいか。それが階段の上でなら怪我をするだろう。現実に躓いている。フィクションの中でも躓いている。よろめいてどこかへ流される。形式にこだわっているのは馬鹿げたことだと思うわけか。人々はなぜそんな展開に感動できるのだろう。しかし人々が抱いている関心から離れて何を述べられるだろう。それでも何かを伝えようとしなければ駄目なのか。ではどこに興味深い対象があると思っているのか。たぶん君の知らないどこかにあるのだろう。現時点でそれを知ることはできない。今までに知り得たことは、ほんの一部分にしか過ぎないことは承知しているつもりだが、これ以上何を知ろうとしたいのか。それを知ってどうするのか。仮に知ったところでどうなるわけでもないか。一応はどうにかなるのかもしれないが、とりあえず知ってみないことには何も始まらないだろう。ならば知ろうとしてみればいい。是非それを知って欲しい。


6月26日

 今日はこれから何をどうすればいいのか。そんなことは誰に聞かなくてもわかっているはずか。すでにどうにかしようとしているではないか。夜空に向かってどうするのだろう。夜空ではない。いつものように誰がどうするわけでもない。夜空に見えるのは空飛ぶ円盤かもしれない。そんなはずはないか。夜空を見ているわけではない。それと同じように、たぶん昨日は昨日ではないはずだ。なぜ夜空と昨日が同じなのだろうか。君は昨日を振り返れない。今は昨日より過去なのだから、数日後の未来を振り返れるはずがない。振り返れば振り返った分だけ、振り返っている記憶を数日後の未来において忘れてしまうだろう。それはどこまでいってもフィクションの領域にとどまる記憶か。それでも昨日を振り返ってみるか。そこで何を反省すればいいのか。思考は何に対して働かせればいいのか。どこにも働いていないような気がしてくる。だがすぐにそれを否定したくなる。見栄を張って何かを考えているつもりになりたいようだ。しかし今は悠長なことはとてもやっていられないか。それほど忙しいわけでもないが、とりあえず思考を働かせる以前に、適当な言葉を繰り出さなければならない。なぜそうしなければならないのか理由は定かでないが、適当に言葉を弄んだ後から、その場の偶然で出現した言葉の連なりを、いい加減に分析しているつもりのようだ。要するに何をやっているのだろう。昔の詩人は夜空に向かって吠えていたらしい。まるで犬のような人だったのか。現代において誰がそうする必要があるのだろう。そんな仮定はわざとらしいか。ただあり得ないことをあり得ないことのように述べているだけか。あまり作為的に語る気にはなれない。それは冗談にはならないのかもしれない。目指しているのは冗談とは違うのだろうか。何が冗談なのか。夜空に向かって吠えることが冗談なのかもしれない。吠えているだけでは言葉にならない。犬は犬で人は人だろう。吠えるのではなく、言葉を繰り出すことが必要なのか。世の中には必ずしも必要でない人もいるかもしれない。吠えているだけで用が足りる人もいるだろうか。いつでも四六時中喧嘩腰の人ならそれでもいいのかもしれない。漫画のやられ役にはそんなキャラクターが多いか。話を分かりやすくするためにはそんな人物が欠かせないか。特定の人物に脚光を当てるにはそんなやられ役の存在が欠かせない。なぜ安易な物語にはそんな構図が必要なのか。それは誰のために物語なのだろう。そんな風に分かりやすさを求める人たちはどれほどいるというのか。最終的に勝ったり負けたりしないと気が済まない人がどれほどいるのだろう。そんな争い事が絶えないと話にならない物語が世間にはどれほど流通しているのか。人が行動するには争う相手が必要なのか。他人と争わなければ何もやってないことになってしまうだろうか。人と人の間には差違が横たわっていて、その差違を認められないことから争いが生じて、最終的にどちらかが折れて、自分が認識していた差違より、相手が主張する差違を優先させるまで、争い事は続くわけか。しかしそうなったからといってどうなるのだろうか。勝った側の主張を基にしたルールが制定されるわけか。そのルールに従わない者は、ルールを作った者や組織と争わなければならない。そんなことの繰り返しによって世の中は推移しているのだろうか。心優しき者はそれだけではないと思いたいところか。ではそれ以外に何があるというのだろう。譲り合いの精神が必要か。何かの標語のようだ。それはシルバーシートのことか。そんなルールを制定した者は誰なのだろう。やはりそこには電車やバスの中で座席に腰掛けたいという老人の願いが反映されているのだろうか。ではやはりそのルールに従わない者は、老人でもないのにシルバーシートに座るべきなのか。座席が空いていれば座ってもいいのかもしれない。後から老人が乗ってきても、譲るのが面倒なら座り続けるべきか。声をかける勇気がないならそうすべきかもしれない。それはおかしな述べ方か。実際にはそうすべきではないと思いつつもそうしている人が大半かも知れない。それは強制するようなルールではないような気がする。マナーという言葉で分類されるようなものに強制力はない。それをやれる心のゆとりがすべての人に備わっているわけではないのだろう。それはそういうことでしかないか。そんなことにいちいち目くじらを立てても仕方がない。どうしてそんな従いたい者だけが従えばいいだけのルールばかりでは世の中は成り立たないのだろうか。人に強制を強いるようなルールを徐々に減らしていく方向で世の中が推移していけば、それだけそこに暮らす人の自由度が増すことは確かだと考えられるが、そうなるためにはどうしたらいいのだろうか。


6月25日

 いつまでも天候について語っている場合ではないか。では他に何を語れというのだろう。時間的には今は夜だろう。天気の次は時間か。それは今の時間ではない。今でなければいつの時間について語ればいいのか。今がいつなのかわかっているが、いつものように正確な日付ではない。そこには何が表示されているのだろうか。ただの時計か。それ以外に何が見えているのか。それは何かの画像かもしれない。様々な色が混じり合い、カラフルな光景が形成されている。そこには適当な絵が描かれている。誰かにとっては適当でないかもしれないが、君にとっては適当な絵だと思われる。くどい言い回しだが、適当だと思われる基準が何なのかわからない。それはわからせようとしてわかるようなものではないか。しかしそれではわからないままではないか。気まぐれに柱に突き刺さった画びょうを抜いている。それは適当な表現ではないだろう。なぜ唐突にそんなことを述べるのかわからないが、何も述べられないよりはマシか。途中に付け加えるべき言葉を思いつかない。写真の表面に疲れた顔で歌っている人物が写っている。別にそれは心霊写真などではない。誰かが土埃舞う空き地でサッカーに興じている。何をやるべきか迷う余地などどこにもない。湿気に覆われた地帯では、薄汚れたゴム手袋からムカデが這い出てくる。机の上でつぶされたゴキブリの残骸を片付けながら何を思う。すべては写真の表面上で起こっている出来事なのか。鏡に映る姿は輪郭が希薄だ。靄の中で黄色い光が道を横切る。架空の君にそんなことがわかるわけがない。それは誰かの思考だろうか。残骸に囲まれて空気の重みを知ろうとする。今は夜なのか。崩れかけた壁にもたれかかり、彼は何を示そうとしているのか。希望がどこにあるのかわからない。この世には何もないが、あの世はこの世の続きではない。意識の連続性を確保することはできないだろう。君はこの世によみがえっているのではない。ただ写真の表面に一瞬の残像が貼り付いているに過ぎない。それについて写真家どう思おうと君には関係のないことだ。希望とはそういうわけのわからなさの後から出現するものか。だがそれもでまかせに過ぎないだろう。茶の色を愛でている人は暇なのか。こぼれ落ちる水道水を何で受け止めるべきなのか。バラバラに言葉を配置しているつもりなのか。そこに配置すべき基盤があるとは思えない。まるで音の残骸をつなぎ合わせたような曲だ。何を聴いているのか。同じような曲が延々と続いている。それは曲ではなく絵画だったはずか。当初においてはそうだったかもしれない。何を述べても無駄だと思う。メディアはすぐ単純な台詞に飛びついてしまうだろう。まともなことを述べようとしても、それらはみな軽薄なキャッチフレーズと化してしまう。君にそれと戦う権利などない。戦っている場合ではないだろう。フィクションの中で戦っても作者の思うつぼでしかない。誰が作者なのか知らないが、君はそこから逃れてどこかへ消え失せなければならない。そんなことがどうして可能なのか。君がいなくなれば、作品は未完のままどこかへ打ち捨てられなければならない。それは常に作品以前の習作でしかなかったのだから、それはそれで当然の帰結かもしれない。つながりを著しく欠いて、物語が出現する余地がないようだ。それらは単なる断片の寄せ集めに過ぎないのか。何の断片だったのか。安易な言葉の使用は禁物か。また幻想や空虚という言葉が思い浮かぶわけか。たまにはそれとは違った言葉を使うことができるだろうか。どこに使う余地があるのだろう。作品がどこにあるわけでもなく、打ち捨てられるべきものなどどこにもありはしない。はじめからそんな物語など存在し得ないのだ。あるのは何かが終わった後に残った燃え滓だけか。もはや燃焼する材料さえどこにも残っていないようだ。


6月24日

 雨がやんでまた蒸し暑さが増してきたようだ。しかし相変わらずやっていることに進展はない。何がどうなっているのかわからずにいる。わかろうとしていないのだろう。わかりたくないのかもしれない。思い通りにいかない現状に敗れ去っているわけか。わかっていることはそれだけか。それだけではないと思いたい。それ以上の出来事に巡り会いたい。やはり不可能を感じているようだ。作業は限界に近づいている。その限界が何なのかわかろうとしないようだ。意識は何を求めているのだろう。あるいは何も求めてはいないのだろうか。神経回路が壊れているのかもしれない。利いた風な意見の出力はごめん被りたい。絶えず分からず屋的な状態にとどまっていたいのか。それで気が治まるのならそれでもかまわないだろうか。ところで君たちは何を求めているのか。何を見つけ出せば満足するのだろう。そんなことを知ることは不可能かも知れない。それぞれの思いは千差万別であり、その範囲に明確な区切りは存在しないだろう。君たちの定義自体があやふやだ。定義などどこにもないのかもしれない。たぶん君たちは何も語らないだろう。これらの現状について語りようがないのか。何をどう語ったらいいのか見当がつかないか。それは途方もないことなのだろうか。無内容は限界を知らない。その気になったらどこまでも言葉を連ねられる。それらの文章は特定の意識を必要としないようだ。主張を持たないことは致命的なことではないらしい。それが時には科学的な知識に基づいてフィクションを構成するときもあるが、それでも何を述べているか不明のままだ。あり得ない話ではない。しかしどことなく嘘臭さが漂う。おかしな情念に操られて、どうでもいいような日常の慣習がごり押しされている。そんなことに心奪われていたいわけでもないだろう。なぜか否定的な気分でいたいようだ。それらの雰囲気をどうしても容認できない。いったい人々はどこに群れ集っているのか。それは多数の情念が指し示す方角に存在するのだろうか。例えば蜃気楼か何かだろうか。砂漠のただ中にオアシスがあるように見えるだけか。暴力的な欲望を満足させるために様々な娯楽が提供されているだけなのか。しかしそれらはみな見聞することしかできない。画面の向こう側でうごめいているだけだ。視覚と聴覚だけの疑似体験には限界がある。ではそれに飽き足らない人々は、触覚を伴った身体による直接的な快楽を求めているわけか。しかしそこにも疑似体験を介在させる余地があるのかもしれない。どこまでも直接性を回避できるだろうか。回避すればするほどそれの反動による暴力犯罪が蔓延するのかもしれない。抑制を利かすことはますますできなくなる。それが現状に適合した雰囲気なのだろうか。メディアから繰り出される情報を真に受けた拡大解釈の一種かもしれない。画面を消して紙面を閉じればいつもの静寂が戻ってくる。これが紛れもない現実なのだろう。さっきまで情報に踊らされていた情念はどこかへ消え去り、意識はただの空虚に覆われる。本当にそこには何もないのだろうか。外から鳥のさえずりが聞こえてくるが、それは幻聴だろうか。幻聴はスピーカーから聞こえてくる騒がしい雑音の方か。機械が作り出す音と自然の音との間に何か相違でもあるのだろうか。両者とも鼓膜の振動を介して聞こえているのだからそれほどの違いはないだろう。違いを感じ取っているとすれば、たぶんそこには思い込みが潜んでいる。その思い込みを肯定したい人は、やはりメディアからの情報に踊らされているのかもしれない。それが現代風の自然崇拝を構成しているわけか。もちろん昔風の自然崇拝も、当時のメディアである教会やら寺院やら神殿やらから発せられた情報を元として構成されていたのかもしれない。そしてさらにさかのぼれば、山や森や川や滝や海や湖や空から直接情報を受け取っていたわけか。それは今もそうだろう。


6月23日

 君は何を馬鹿にしているのか。馬鹿にしているのではなく批判しているのではないのか。だが君は君の知らないところで誰かに馬鹿にされているかもしれない。馬鹿にされたままでもかまわないのか。誰に馬鹿にされているのか知らないのだからどうしようもないだろう。また知り得ないことまで知ろうとは思わないか。では今知り得ていることは何だろう。外では雨が降っている。ならば雨が降り続いていることについて何を思うのか。ただ雨が降っていると思うだけか。そう思っているうちは雨が降っているのだろう。そんなはずはないか。君は状況的に雨が降っていることが気に入らないわけか。気に入らないからどうだというのか。そんなことはどうでもいいことか。では何か他に気に入らないことでもあるのだろうか。例えば、気に入らない人は早くいなくなって欲しいか。そう思っているうちはいなくならないだろう。そんなはずはないか。あるいはそんなケースもあり得るか。気に入らない人と和解しなければ、その人はいつまでもそこに居続けるだろう。しかしそれではいやな思いが募るばかりではないか。絶えず緊張状態のただ中にいると、ストレスから病気になってしまうかもしれない。君は気に入らない人と一緒にいると緊張するわけか。だが気に入らないにも程度がある。精神的に耐えられる程度の気にいらなさであれば、それほど苦痛を感じることにもならないか。また相手が自分より愚かだという確信があれば、苦痛を感じるどころか、しばらくは優越感に浸っていられるだろうか。とりあえずそんな風に思いたければ思っていればいいだろう。いつか自分の愚かさに気づくときが来るかもしれない。気づいたからどうだというのか。そのときが来たらわざとらしく改心したつもりになればいいわけか。それまではいやな思いのままでいればいいだろう。しかし誰がそのままでいられるだろうか。風に吹かれて心変わりがしてしまう。雨はもうやんだのだろうか。やんでいるとしたらまた降ってくるだろう。誰かは執拗に雨が降り続くことを願う。本当に願っているのだろうか。では戯れに心にもないことを述べているだけなのか。考えてみれば、別にそれほど気に入らないわけではない。別にどこの誰が気に入らないわけでもない。たぶんそれは嘘だろう。なんとなく述べた後から嘘だと気づく。そしてそれはつまらないことかもしれない。見聞する何もかもが気に入らないわけではないが、世の中には気に入らないことが多すぎるのかもしれない。だから何かしら批判したくなるのか。で、今は何を批判したいのだろう。何が痛烈に批判したいことでもあるのか。批判する対象を探しているわけか。たぶん探してもまともな内容は得られないだろう。現時点では何を批判すべきかわからない。今までに繰り出された数々の批判と同じような批判ではつまらないか。冗談にも程があるだろうか。何を卑下しているのだろう。言葉を重ねるうちに、いつものように何を批判しようとしていたのか忘れてしまったらしい。そしてそれが最近の逃げ口上になっているようだ。本当はむかついていることが山ほどあるのかもしれないが、とてもそんな雰囲気には見えないか。何を述べても、結局すべてはどうでもいいことに思えてくる。具体的な内容に至らないうちに気持ちが萎えてしまうようだ。そして気がつくと、無駄に言葉を弄しているだけのように感じられる。薄暗い戸外に目をやると、まだ雨が降っていることに気づく。確か冒頭では雨について語ろうとしていたはずだったが、その話の続きはどうなったのだろう。たぶんどうにもならなかったのだろう。雨は雨のままで何に転じることもなく、降り続く雨をただひたすら眺めているだけか。だがそれを誰が眺めているのか。君は画面に向かってただ何かを述べているだけのようだ。それは独り言の一種だろうか。


6月22日

 それは何かのお笑い種か。どこかの誰かは死ぬことや生きることに理由を見いだしたいらしい。何か理由があって、それによって人は死んだり生きたりするわけか。そんな風に思い込めば精神的に救われたりするのだろうか。そんな人は精神科のカウンセリングでも受けた方がよさそうだ。生きている人はただなんとなく生きているだけだろう。たまに生きている自身に気づく。自分は生きていると思い込もうとする。死んでしまえば死んだことには気づかないか。とりあえずナイーブな人は心のケアが必要らしい。そこに何が見いだされるわけでもないが、見いだしたい人には何かが見いだされるのだろう。背中に腕が回らなくなる。気分次第で死んだりする人もいるらしい。気が滅入っている人もいるそうだ。ブルースを聴きながら背中がかゆくなる。孫の手が欲しいところか。気が滅入る原因が分からないか。理由と言い訳との間にどのような違いがあるのだろうか。自分のやっていることに言い訳したい人にとってはそれが理由なのか。そして言い訳に行き詰まってしまったら死ぬしかないのだろうか。しかし何も永遠に沈黙していなくてもよさそうなものだ。ではその代わりに遺言状でも書けばいいのか。そんな暇がある人は幸せか。君には何もない。何もないから生きてるようだ。とりあえず生きているのだから、そのまま惰性で生きて行く方が、何もしない分だけ楽かもしれない。しかしそれが生きる理由になるだろうか。何が理由なのか定かでない。楽だから生きているというのは嘘だろう。苦しくても生きているかもしれない。それほど生きることにこだわっているわけでもないだろうが、死ぬことにこだわっているわけでもなさそうだ。何か強烈な衝動に囚われているわけではない。物事を深刻に感じられなくなっているだけなのかもしれない。そこに選択肢などいくらでもあり、また選択の余地など全くない。人は選ぶが選んでいるわけではない。ただそうなってしまうだけだ。たぶんそんなものではないのだろう。何か理由を見いだしたつもりになっていることに何の救いもない。しかしそれは誰の視点なのか。当人は救われた気になるかもしれない。それで救われてしまうのかもしれないが、そんな救いに何の価値があるのか。当人にとってそれは至福の瞬間なのかもしれない。なんとなくその程度で救われてしまうのは虚しい気がするが、そういう人が実際に大勢いるのだとすれば、それはそれで仕方のないことか。世の中がそんな風になっているのだとしたら、そういうことなのだろう。生きる理由を見つけて死ぬことを思いとどまってしまうとかいう話はお粗末に感じられる。その程度の人間は逆に死んでしまってもかまわないのではないか。なぜそんな展開になってしまうのだろう。命が大切であったりなかったりすることに何のリアリティも感じないのはどうしてなのか。理由が簡単に見つかってしまうこと自体がおかしい。そこには様々な精神的な葛藤が用意されていて、そんな試練を乗り越えた末に生きる喜びとやらを感じてしまうこと自体がフィクションなのではないか。それで済んでしまう人々は幼稚である。だが何が幼稚なのか不明だ。なんとなくそう思うだけでは説得力がない。どうもその辺に言葉では伝えられない何かがあるらしい。死ねば周囲の人が悲しむとかいうレベルの話ではなくて、要するに死んだ後に残る死体の処理が面倒なのだ。葬儀の費用やその段取りに気を使い、また火葬場で焼いた後に残る遺骨を入れる墓も用意しなければならない。だから天寿を全うして死ぬのは仕方ないにしても、なるべくならそれ以外では死なないで欲しい。とりあえず周囲に迷惑をかけたくなければ、その程度のことで生きていればいいのではないか。もちろん生きていることで周囲に迷惑をかけている人は、その周囲の人たちは当人が早く死んで欲しいと願っているのかもしれない。通常人の生死はそのようなレベルで処理されていると思われる。あまり情緒的に考えてしまうとフィクションの中で自家中毒に陥るだけだ。


6月21日

 どうも行事が立て込んでいるようで、さらに記述が遅れてしまうようで、やる気がまったく出ないらしい。そしてわざとらしく何をやる気なのかわからなくなる。わかっているのにわからないと述べてみる。これ以上何を述べても苦痛が増していくばかりか。しかし何が苦しく何が痛いのだろう。その場では、文字として苦痛という言葉が必要な雰囲気なのか。なぜそのような言葉が必要なのかわからない。そのような言葉に合うような何かが苦しくて何かが痛いのか。だが意識はその何かを知ろうとしていない。それは知ろうとして知り得るものではないのか。どうやら苦し紛れに回りくどいことを述べているようだ。思い通りにはいかないにしても、もう少しマシな内容にならないものか。相変わらず始まりにおいて無駄に言葉を弄している。だがそこからしか始められないのかもしれない。それ以外にどのように始められるというのか。それは始まりではないのかもしれない。何とか始めようと無為な試みを繰り返しているうちに、すでに始まりを通り越していることに気づく。そしてわけのわからない言葉の羅列を眺めながら、意識が何を知りたいのかわからなくなる。その状況は苦痛なのだろうか。本当にそれは苦しみや痛みを伴うものなのか。途中から何を述べているのかわからなくなるのはいつものことだろう。そしていつものように何かが微妙にずれているように思われる。しかしその思いはわざとらしく感じる。いったい誰がそう感じているのだろう。思っているのと感じているのが同一人物だった場合どうなるのか。そんな矛盾はありふれているだろうか。両者には時間差があって、まずは思って、その後から感じてしまったのだろう。ではそれについてどう思っているのか。執拗に何かが繰り返されているらしい。何か表現できないものの周りをぐるぐる回っているような気がして、また過去の意識と擦れ違いざまに適当な虚無を喰らい、いつもの意味不明に思いが収束しそうな気になってくる。そんな表現自体が意味不明か。戯れに何を述べようとしているのか。理解できない行為によって更なる混迷を呼び込みたいのだろうか。誰が何を呼び込みたいわけでもないか。ただそれらの文章には微かに過ちの雰囲気が感じられるだけか。やはりそれもいつものことのように思われる。そして更なる言葉の循環が後に待ち構えているのだろう。言葉はそれに付随する思いとともにどこかを循環している。それを捉えきれない意識は、それらがどこを巡っているのかわからなくなり、それを無理に感じ取ろうとすると、得られた言葉の連なりはたちまち虚無へと分解されてしまう。それ以上はどのように述べようと、また偶然の作用によって確率的にどんな結末に至ろうと、その結末にはほとんど必然性を見いだせないだろう。ただそうなってもならなくてもいいような気がするだけだ。そしてそこで見栄を張って利いた風なことを述べ分だけ、意識の寿命が縮むだけか。いずれは化けの皮がはがれるときがやってくる。そんな風に語りを進展させることしかできないのは誤っている。別に何が進展しているわけでもないだろう。ただ前言を安易に打ち消したいだけか。どこまでも何を述べたいのかわからないらしい。しかしそのわけのわからなさは、当初においては、何か見覚えのある光景を導き出したい衝動に基づいて形成されたものらしい。後から読み返してみれば、結局はいつものパターンから逃れていないことに気づくだろう。それをいつまでも続けられるはずがない。このまま続けても、どこへも行き着きそうにない。それらは収斂することを知らない。しかしそれらとは何なのだろう。君は何を述べたいのか。何も述べたくはないのに、惰性で言葉を連ねているだけか。そのとき意識は、飽くことを知らぬ虚無の営みに飲み込まれているのだろうか。しかし明け方の曇り空を見ながら何を思っているのか。いったいいつになったら終われるのか。本当に求めているのはそんなことなのか。心の中に巣くう別の意識は正気でないことを望む。だがそれが狂気と結びつくとは限らない。安易な決めつけは嫌いらしい。


6月20日

 誰かは何かをやろうとしていた。数日前の意気込みはどこへ行ったのだろう。試行を重ねるうちに何もできなくなる。行き詰まってしまったらしい。これ以上何を思えばいいのか。収拾がつかない思いは言葉を遠ざける。何かがバラバラになる。そんなことを思いながらも、なんとなくいつものパターンに陥っているようだ。その遅れ続けている現状をどうやって立て直したらいいのかわからない。そんな風に弱音を吐き続けたら、それが適当な長さの文章になるかもしれない。何を思いついているのだろう。思いついているのは、そんなわけのわからないことばかりではないだろう。すべてはなるようにしかならないのはわかりきったことだが、たまにはならないようなことがなって欲しいような気もする。閉塞状況のただ中で視界が開けて欲しい。不可能と思われることが実現して欲しい。要するにこの期に及んで無い物ねだりしかできないのか。慌ただしい毎日の中で、君は何を思っているのか。あるいは何も思っていないのか。何も思わないわけがないか。何も記憶にないとすれば、それは忘れてしまっていることになるのだろうか。そのとき君は何をやっていたのか。たぶん何かしらやっていたのだろう。そして行き詰まり、挫折してしまったわけだ。満足できる内容を得られずに苛立っている。疲れているから苛立っているのか。あまり深刻に考えたくはない。ところで君はなぜ娯楽の効用を軽く見ているのか。くだらないことに熱中する勇気を持ち合わせていない。憂さ晴らしを嫌う誠実さを捨てきれないようだ。そんなことには価値を見いだせないのだろうか。何が価値なのか理解できないようだ。そこから一歩を踏み出せぬまま固まり続ける。感性が石化しているらしい。愉快だと思われる事象からわざと背を向けている。素直になれない。それはやせ我慢の一種だろうか。もっとマシなことに巡り会えないものか。基準が高すぎるのだろうか。それはどんな基準なのだろう。基準自体が曖昧なようだ。なんとなくそれ以上考えるのが面倒なので、思っていることのすべてをフィクションで片付けてしまいたくなってくる。すべてが虚構であるはずがないか。虚構の中では、思いもしないことまで思っていることになっているようだ。そんな風に感じているつもりになれば、少しは気が晴れるだろうか。しかしいったい何を思いもしなかったのか。今ここでそんなことを述べているなんて昨日の晩には想像できたか。偶然に様々な出来事が重なって、それに対処すること以外は何もできない状況の中にいるらしい。それでもある程度は予想の範囲内で言葉を連ねていることになるのだろうか。朝方の蒸し暑さに耐えられず、思わず目を覚ます。悪夢にうなされたわけでもないのに、気がつけば汗だくになっている。それはいつの記憶になるのだろう。現実の日付は虚構の時間からさらに遠のいている。そして相変わらず脈絡を感じない。たぶんそれらの出来事との関係を構築できないのだろう。文章を構成しようとすればするほど、言葉はどこまでも遅延し続ける。それは昆虫の歩みに似ているかもしれない。いくら這いずり回っても、まだ道を横切れずにもがいている。そのうち通りかかった車に轢かれて、アスファルトに貼り付いたまま動かなくなる。それがここ数日の状況を物語ってるといえるだろうか。いったい何を述べたいのか。それは毎度おなじみの意味不明か。今まで何を探していたのか忘れたふりをしている。本当に迷っているのかもしれない。あるいは血迷っているのか。誰が血迷ったふりをしているのだろう。昨晩に予想していたのはそんなことではないはずか。ではどうなることを期待していたのだろう。その時の意識は何を期待したわけでもなさそうだ。また利いた風なことを述べて、誰に媚びようとしているのでもない。


6月19日

 どこかの誰かは暇もないのに何を語っているのだろう。本当は暇がないわけではない。暇があるときは休んでいる。だから無駄に言葉を連ねている暇がないのか。君にとってそれは不適当な言葉かもしれない。ただ暇な時に何をどう述べていいのかわからなくなる。無理に何かを述べようとするとこうなる。それはやはり無駄な悪あがきなのか。それから数日が過ぎ去っている。日付的にはだいぶ過去の話になりつつあるようだ。世界では相変わらず多くの人々が死んでいるようだ。それは当たり前のことだろうか。何も大げさなフィクションを映画館まで見に行かなくてもそれなりの物語に巡り会える。その大半は他愛もない話だろう。それでもそんな状況に甘んじていなければ気が狂ってしまうか。それで何も不都合を感じていないのならそれでもかまわないだろう。人の心は簡単には変わらない。その不都合に思える習慣も、出来得る限り維持しようと試みるだろう。それが保守主義を支えている。後は口先でごまかしているだけだ。それでいいのなら、それをやっていればいいだけか。他に選択肢がないと思い込んでいればいいだろう。それでもそれなりに状況は推移するのだろうか。口先だけの偽りの改革も、それなりに説得力が宿るような状況になってしまうのだろうか。たぶんそんなことしかできはしないのだろうし、それがこの国の限界を形成しているのかもしれない。そこに住んでいる人たちにしてみればその程度で十分なのだろう。それが国民と呼ばれる人たちの現状に合っているのだろう。もちろんそれはこの国に特有のことだとは思わない。欧米の民主主義を過大に評価する気にはなれないし、またそれに反感を抱いてテロ活動を行っているイスラム教徒に同情する気にもなれない。彼らが主張するイスラムの戒律に基づいた宗教国家なるものも、彼らなりの幻想の産物でしかないような気がする。単なる行政区分でしかない国家にどんな思い入れを抱いてみても、それは単なる勘違いにしかならないのではないか。結局は異質な者を排除する想像上の共同体以上のものにはならないだろう。皆が同じ価値観を共有して幸せに暮らしたいだけなのではないか。そんな幻想は遠からず破綻するに決まっている。それはイスラエルの政治的な指導者がナチスによるホロコーストから何も学んでいないのと同じことだ。いや、学んでいないのではなく、自分たちとは違う宗教を信じる人々を国家から除去するやり方をナチスから学んだわけか。もちろんそれと同じことをイスラム急進派も目指しているようだが、ただ両者の相違は、アメリカの敵か味方かという点で立場が異なっているに過ぎない。とりあえずイスラエルもイスラム急進派もアメリカも、暴力で敵を殲滅すること以外に方法を見いだせないようだ。たぶんそれが国家にくだらぬ幻想を抱く人々が直面している限界なのかもしれない。イラクに自由をもたらしたいのなら、さっさと公正な選挙を実施して、どうせまともに選挙を行えば勝ってしまう、人口の多数派を占めるイスラム教シーア派を中心とする勢力に、政権を委譲してしまえばいいだろうに、それでは隣国のイランと同じになってしまうので、それは絶対避けなければならないわけだからややこしくなる。どうしてもアメリカの意に沿うような傀儡国家にしなければ、戦争をやった意味がない。そうしないと石油の利権を失う危険が生じるわけか。なんとなく馬鹿なことをやっているような気がするのだが、たぶん後から思えば、つまらぬ思惑やこだわりによって多くの人々を死に追いやった、という後悔が残るだけなのかもしれない。そういう意味ではあまり北朝鮮のやっていることを馬鹿にはできないだろう。自国の利益しか眼中にないのはどこの国家も同じことなのではないか。もちろん自国の利益が必ずしも自国民の利益と合致するとは限らず、その国の政権を担っている勢力の権力を維持するために、多くの自国民が死んだり不利益を被らなければならないわけだ。


6月18日

 なんとなく始まりがない。それで可能なのか。それで何ができると思われるのか。それとは何だろう。それは始まりではない。始まりには別の表現が必要とされる。たぶん終わりの時において始まりを夢想しているのだろう。もうすぐ終わってしまうのに、そこからどう話を展開させようとしているのか。そこにどんな台詞を招聘しているつもりなのだろう。何かが憑いているようだが、それは悪霊か何かのつもりか。テレビ画面の中から繰り出される魔法は誰にとっても偽りに思える。だが君はそれらの魔法を幼児のように信じている風を装う。そんな君のそぶりはわざとらしい。そこで用いられているのは別の力か。そこに立ちふさがるありふれた障害物を乗り越えた先に、妄想とは違う本来の世界が広がっていることは確かなようだが、そこで妄想が終わりとはならない。現実の世界に生じている出来事を信じられないのか。では放っておけばまた妄想の世界に逆戻りか。君が求めているものはいつも妄想の産物なのか。行きすぎた想像力は妄想の虜となる。だがそれを恐れてはいけないようだ。すべてはそこから始まると思い込んでいる。言葉を発する行為自体が、妄想に対する沈黙を破ることから始められなければならない。しかし沈黙を破ればいつもの世間話だ。一通り気が済むまで世間話が繰り返される。そしてその先はまたもや沈黙の時間帯に移り行くらしい。いったいいつになったら対話が始まるのだろう。所詮そんなものは幻想でしかないのか。これから対話する相手の姿を妄想する。姿は思い浮かべられるが、その者が発する言葉までは思いつかないか。ではまたもや沈黙の暗がりの中にさまよい込む。そんな暗闇の中から一日が始まり、その暗闇の中に意識は消え行く。たぶん夢を見ることから物語は始まるのだろう。安易な始まりだ。それらは独白の産物なのか。物語の中の登場人物はすべて自分の分身でしかないのか。自分とは違う他者など想像しようがないか。それが妄想の限界なのだろうか。しかしそれでも何も始められないよりはマシか。とにかく何かを始めてみよう。それが無駄なことかもしれないと思っても、そんな思いは無視して始めてみよう。すでに始まっているらしい。いつから始まっているのか。意識はまだ何も始まっているとは思えない。たぶん登場人物たちの誰もが気づかぬうちに何かが始まっているのだろう。そんな台詞はつまらないか。いつどこでどんな台詞が発せられたのだろう。すべては読む者の想像に任せよう。嘘だろう。物語などどこにもない。それを知るには何か別の知性が必要なのだろうか。それが何なのかわからずにいるらしい。偶然の巡り合わせで聴いているその曲は、機関車の音が効果音として使われている。その理由を誰も知らないのは当然のことか。少なくともまだ何について語っているわけでもないらしい。すべては偽りなのだが、そうは思いたくないらしい。誰が思いたくないのか。誰かは偽りの中に何らかの真実が見いだされることを願っている。誰が願っているのか。どこかの誰かは冷静を装いながら混乱を演出しているつもりなのだ。内心では動揺していて、とても平静でいられない。何によって動揺してしまったのかも思い出せない。それも嘘だろう。しかし沈む夕日に向かって何を叫ぶこともない。なぜそこで叫ばなければならないのか。今は時間的には夕方なのか。では今眺めている車窓の外で移り行く風景の中に何を見いだしたいのだろう。外を歩けば、蒸し暑さは汗とともに適当な刺激をもたらすだろう。しかし今は冷房が効いている車内では無表情を維持する。安定した地域では時はどこへも流れて行かないように感じられるが、それでもほとんど感じ取れない何かがわずかに変化しているようだ。何も思い通りにはいかないようだが、なんとなく時の流れと状況の変化を信じられるようになっているらしい。それに逆らって何かをやろうとしても、何も得られないようだ。休息の時間帯は、やるべきことがあってもそれをやらずに休息しているべきなのかもしれない。無理にやろうとしても何も進まない事実に気づく。言葉の連なりはつまらぬ方向へ流れるばかりのようだ。


6月17日

 ドラマティックな展開は爽快な気分を誘う。そこには何が欠けているのだろう。考えるのが面倒なのか。出来事の強度が結末に向かって恣意的に調整されている。偶然に派生する逸脱が意図的に排除されている。それに代わって、わざとらしく仕組まれた紆余曲折を経ながら、期待通りの結末に至るわけだ。その過程をいかに本当らしく見せるかが演出家の腕の見せ所なのか。それが作り事であることを、驚きや感動によって忘れさせなければならない。見ているものを疑似体験させようと仕掛けてくる。誰かのこだわりはそんなところから生じてくるらしい。それが他愛のない代物であるわけがないか。当人にとっては全知全霊を傾けて制作した一大傑作と思われるのかもしれない。観衆の期待を裏切るまいとする配慮が随所に見られる。しかしなぜそんなことがわかってしまうのか。いったんそれを知ってしまっては、制作者の期待通りに感動できないかもしれない。その時君は何かを見失っている。穿った見方や考え方では捉えられない純粋な感動を忘れている。何が純粋なのかわからない。たぶん君の思考には純粋という言葉は馴染まないのかもしれない。とりあえず金儲けを目的として見せ物は制作されている。作品そのものについて語ろうとするときにはそんな前提は無視すべきなのか。多くの人の賛同を得られなければ儲からないのだから、当然それを考慮した内容になってしまうのは致し方のないことか。しかしそれ以外に作品を制作する必然性を見いだせるだろうか。それが自己満足のためだけの作品なら、大金と莫大な資材や労力を費やす必要はないだろう。しかしなぜそんな代物が大衆の娯楽として存在しているのだろうか。なぜ人々はそれを見て感動しなければならないのか。もしかしてそんなものはもはやいらないのではないか。ただ過去からの惰性で見ている人が大勢いるということでしかないのかもしれない。たぶん二十世紀にはそれが必要とされていたのだろう。十九世紀のヨーロッパがオペラを必要としていたように、二十世紀後半の世界は大げさなハリウッド映画を必要としていたのではないか。世界が単純であるという思い込みを全世界に広める目的でそれらは流通していた。テロとの戦いを掲げて世界に偽りの亀裂を生じさせているつもりの人々も、そんな単純思考の申し子かもしれない。自分たちの利益が他人の利益にならないことを百も承知で、なおも自分たちの利益を追求することしかできない。それが正義なのだからやめるにやめられない。経済活動と連動した軍事力の行使に正義があるとすれば、それは金儲けを正当化すること以外に目的を見いだせないだろう。実態としては石油の利権を維持するために軍隊を駐留させているわけだが、それでは通らないので、表向きの言い訳として民主化という大義が必要とされている。しかしその隣国の世界最大の石油埋蔵量を誇る王国の民主化には言及できない。要するに友好的な態度を示せば、その国の制度が民主的であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいことになってしまう。自分たちに利益をもたらす限り、それがどんな素性であろうとかまわないのであり、そのことについては不問にしているわけだ。そんな見え透いた構造があからさまに丸見えであるにもかかわらず、そういうことをやっている国家とそれに属する人々や団体と友好的に付き合っていかなければならない。そんな不具合を誰も解消しようとはしないようだ。それが不具合だなんて思うはずがない。それらの関係から経済的な利益が期待される限り、やめるにやめられないのだ。倫理的な態度など経済的な利益の前では、打ち捨てられるべき妄想に過ぎなくなる。とりあえず自分たちのやっている経済活動を適当な言葉を用いて正当化しなければならないし、現実にそれ類する言説ならいくらでも構成可能かもしれない。理由など有り余るほど提供されている。そこに疑問を呈すること自体がおかしいのか。何事も民主主義という大義名分の前では無力となってしまうようだ。民主的な過程を経て代表者が選ばれた場合、その代表者のやることは一応は尊重されなければならず、たとえそれが過ちだと思われても、やはりそれをやめさせるためには、民主的な手続きを経なければやめさせることはできない。それが制度なのだから、それを突き崩すことは容易でない。果たして執拗なテロの継続でそれが可能なのだろうか。


6月16日

 影はまともなことが嫌いなようだ。まともさのただ中に考える契機があると思われるのが気に入らないらしい。いつもそうやって言葉を繰り出すきっかけを探している意識を嫌っている。だから耐えきれなくなってそこから逸脱してしまうようだ。そんなわけで君の心臓はまだ動いているらしいが、相変わらず何も思わない。無理に何も思わないふりをしている。何も思わなくても言葉は自然と繰り出されてしまうだろう。しかしそれがどうしたわけではない。見上げれば空高く鳥が舞っている。意味もなく走り出すのは犬か。犬がペースメーカーなのか。盲導犬はテレビドラマに登場する。それがどうしたのか。感性が徐々に壊れてくる。そんな嘘はわざとらしい。語りの軽さはどこへ行ったのだろう。もうすでに軽くなっているのではないか。そして意味がないのもいつものことか。動物学者なら犬の行動について何らかの意味を見いだすかもしれない。しかし犬の話はつまらない。では他に何を語りたいのか。現実に何を語っているのか。今は何時なのだろう。写真の中の腕時計は動かない。電池切れか。それもわざと述べている範疇の言説か。誰もそんなことには驚かない。驚きをもたらしたい者は、それとは違う言語表現を求めている。時計は写真の中にあるわけではない。カタログや広告の中にあるかもしれない。それも写真の範疇だろう。いまさらごまかしを通用させたいわけではない。しかしそれらのどこに魅力があるのだろうか。どこかで常軌を逸しているのかもしれない。芸術は無駄な努力の積み重なりから成り立っている。広告写真が芸術か。君はそれをただ見ているだけだ。見れば見るほど引き込まれる。それは君がだまされている証拠か。それが芸術であるはずがない。君は芸術とは無縁の人間を知っているだろうか。彼らは何をやっているのか。それをやっている者たちの真剣な表情には虚無感が漂っている。勝利者の栄光は敗者に一時的な陶酔をもたらす。勝利に至らなかった現実があらぬ妄想を抱かせる。目の前の勝利者に向かってどんな言葉を投げかけたらいいのだろう。フィクションの中では労いの台詞でも生じさせてみようか。そしてその場限りのつまらぬ思い入れを破棄したくなる。そこから逃げ出したくなる。そんなシーンから遠ざかり、無意識のうちにチャンネルを切り替えていることに気づく。なぜ楽しめないのだろうか。勝ち負けの範囲内ではときめかないのか。君は堕落しているようだ。真剣な討議から降りてしまっている。そこに討議が成り立つわけがない。たぶんそれも追憶に属する過去の記憶の断片なのかもしれない。では友愛とは何か。友愛と勝敗との間に、何が深刻な不一致だと思わせるのか。その時の君は君自身ではない。君自身である前に特定の人格を伴っていない。君はなぜ登場人物について語れないのか。それらの物語の中に君の姿を確認できない。しかし君の代わりに影は何を語っているのだろう。わざと支離滅裂を装いつつ、そこに憩いの時を見いだそうとしている。渋さや苦さの味覚とともに何を飲もうとしているのか。いつの間にか話は不連続に推移しているらしい。まだ取り返しのつかない事態ではないと思っているらしいが、依然として闇の中には何も見えてこない。だが蛍光灯に照らされた部屋の中に闇があるとは思えない。別にそこから遠くを見渡しているわけでもない。ただ当初の構想から大きく逸脱してしまった語りの帳尻を何とか合わせたいと思っている。そしてそれ以上は言葉を滞らせたくない。やはりわざと言葉遣いを間違えているのだろうか。そんな風には思わないか。君の起源は誰のうちにあるのだろう。物語ることが憂さ晴らしになっていないか。静寂さを醸し出している映像にスリルを期待するのはおかしい。それらの言葉に関連を見つけ出せないのは当然のことか。ならばもう一度偶然の軌跡をたどってみよう。そんな気力がどこにあるのか。笑いとは無縁の意味不明を何に転化させるつもりなのだろう。それでも何を述べているのでもないと嘘をつくわけか。


6月15日

 これから主張すべきことを教えて欲しい。誰が何を主張すべきなのかわからない。未だ訴えかけるべき内容に巡り会えない。誰に何を訴えかけようとしているのかわからない。たぶんその必要はないだろう。他の誰かが何かを主張しているだろうし、誰かに向かって何か適当なことを訴えかけているだろう。議会があるところには選挙がある。議会の議員に立候補する者が何かを主張し、有権者に向かって何かを訴えかけている。そんな制度の中で適当な主張が流通している。その程度でいいのではないか。それ以上を望んでも仕方がないのではないか。争点は何もなさそうに思える。争うべき理由を見いだせない。投票すべき理由が見当たらない。そこには何もないように思われる。君は何を見ているのか。たぶん何も見ていないのかもしれない。誰かの視覚は闇の中で閉ざされている。意識はどこにあるのだろう。エアコンの音の他に何を聴いているのか。それは何かの音楽だろうか。それでも君は世の中が良くなる可能性にかけている。世の中の何が良くなることを望んでいるのか。それはただの感じ方の問題だろうか。良くなったと思えばいいわけか。そんな風には思わないか。誰が国家を支えているのだろう。支えているようには見えない。はじめから支えることを放棄している。君はなぜ税金を払っているのか。公務員を養っていると思っているわけか。公務員の方ではそんなことは思っていないだろう。偉そうな人々は国民を管理していると思っている。君は公務員による税金の無駄遣いをたしなめようとは思わない。彼らはただ給料をもらって仕事をしているだけか。しかしなぜそれが戯れ事になってしまうのか。何が戯れ事なのか。戯れ事は戯れ事でしかないが、それ以上を求めることはできない。それをやればやるほど終わりにも始まりにも到達できない。芳しい結果を得られずに、さえない表情を浮かべながら、いったいそこからどこへ行くつもりなのか。どこへ行く当てもない。そうやってただ前述を否定することしかできないようだ。言葉を繰り出す対象を見いだせないのに、希薄な意志はこれから何をやる気でいるのか。何をやろうとしても、すぐにやる気にはならないだろう。無理にやろうとすれば、同じような言葉の繰り返しになってしまう。無意味な逡巡から抜け出られなくなる。意識がどこを経巡っているのかは知らないが、なぜそうなるのか原因はわかっているつもりだ。ただその原因を言葉で表現できないようだ。わかっているのに言葉にならない。なぜそうなってしまうのだろう。それの何がわからないのか、何をわかろうとしているのかわからない。何を思い何を考えているのだろうか。それらは無意味な問いの繰り返しになっている。そしてそんなことをやっているうちに、結局はまた昨日と同じようなことを述べていることに気づく。できれば昨日とは別の方向に意識を向けたいところだが、故意にそう仕向けようとすると眠たくなる。眠たくなると、さっきまで何をやろうとしていたのか思い出せなくなる。環境が変われば何か別なことを思いつくかもしれないが、現状ではあり得ないことだ。時がたてば徐々に変化するかもしれないが、その時はすでに忘れているだろう。何を忘れたのか思い出せなくなる。その時君は何をやろうとしていたのか。たぶん何かをやろうとしていたのだろう。その何かが何なのか思い出せない。そこで巡り会うのは空虚な思い以外にあり得ない。それが誰の思いなのかは定かでないが、どこかの誰かが退屈そうな雰囲気を纏っている。ただそんな風に見えるだけか。そこから何が導き出されるわけでもない。なぜそこから文章を構築しなければならないのか。君はそのわけを知っている。空虚を繰り返して存在を無視する。その必然性はない。それが無駄だと思うことが無駄な抵抗を形成している。そこで何かを肯定したいわけか。まだ思考すべき余白は残っているだろうか。無意識が作用して何が構成されようとしているのだろう。意識は始まりの直前に何を見つけたのだろうか。意識と無意識を区別できない。見いだされた時はいつもの趣を示している。そんな風にしか感じられない。ところで公務員の話はどこへ行ったのだろう。そんなことはどうでもいいことかも知れない。実感としては、税金を払うのは無駄なような気がするが、税金を払える余力があるうちは払い続けるだけか。それらの税金が何に使われようと文句を言えない立場にあるわけか。怠惰がそうさせる。中にはそれにつけ込んでやりたい放題の公務員もいるわけか。やらせておけばいいと思うか。


6月14日

 何かをやり遂げたと思ったとき、お前はすでに自己満足に陥っている。お前とは誰なのか。言葉は常に循環する。始まりも終わりもなく、途中の枝先に引っかかっている。何が引っかかっているのだろう。それが言葉であるはずがないか。循環しているのは言葉ではなく、その場の気分なのではないか。気がつけばまた始まりに戻ってしまっている。どうしても終われないし、それ以上に始められない状態のただ中に意識はとどまる。そしてやる気を失ってから、もうすでに夜になっている。やらなければという思いが先走り、考えがまとまらないうちに、焦りを感じながらも、不用意に無意味な言葉を繰り出してしまい、その結果、気が引けるような語りになっているのかも知れない。意識はそれらの状況をどうにかしたいらしいが、何をどうしたらいいのかわからない。すでにどうにかしているのではないか。しかし何を説明しようとしているのか。またいつもの困難に直面しているつもりなのか。困難の中身を捉えられない。たぶんそれは問いかけではないのだろう。枝葉末節な事柄を過大評価している。いきなりそう断じると嘘になってしまうかも知れないが、否定しておきながら、なおも何を問いかけているのだろう。そこで何かが繰り返されている。それは何かではなく無意味な問いかけだろう。そうやって架空の問答を装うのは行き詰まっている証拠だろうか。何もないと、すぐに苦し紛れの問いかけに走ってしまうようだ。いったい何を考えているのか。他人の思考はよくわからない。君は他人ではない。他人の振りをしているだけか。しかし語っている本人が他人であるはずがないだろう。そんなことはわからない。文章中に記述された君はただの君でしかない。記述している君は文章の外部に存在しているのだろうか。そんなことを突き詰めて考えるとわけがわからなくなるか。考えるのが面倒なので、矢継ぎ早に繰り返される様々な問いかけの真意まではわかろうとしない。そこに真意があるはずがないか。真意があるなしにかかわらず、それらの語りが始まったきっかけがよくわからないのだが、とりあえず誰かは文章の文法的な主語を探しているようだ。誰が語っているのかを知りたいらしい。ところでそれの何がおもしろいのか。それほどおもしろさを求めているわけではない。その段階ではおもしろくないが、例えばそこから突然あり得ないことが起こるとおもしろいか。だがそれは誰にとってあり得ないことなのか。今はそんなことを知る手間をかけられない状況か。そうやって、そこから逸脱するような内容を醸し出すために、行間に新たな文章を付け加えてしまう行為は、あり得ないことではなく、いつものありふれた手法だろう。しかしどう工夫しても、まともな内容に至らないのはどうしたことか。どこかで虚無が培養されているのかも知れない。そしてそれとは別のどこかで、わかりきった真実が隠蔽されている。意識が別々の場所に生成している虚無と真実を同時に占有することはできない。それがあたかも可能なように見せかけることができるとしたら、それは倫理観が欠如している。とりあえずここには何もない。おそらくそれは嘘だろうが、そんな風にしか語れないだろう。それらの困難について、努力の末に何を知り得たのか。それがフィクションの一部だとしたら、例えば意識がたどり着いた先には闇があるかも知れない。それは夜の闇でしかない。誰かが求めていた闇は幻想の彼方へと消え去る。そこで何が困難を形成しているのか。さっきから定かでない語りの対象をさらなる語りによって確定することはできない。どこかで何かが間違っているようだ。そもそも何が困難なのかわからない。わからないことを語ろうとするから困難が伴うようだ。たぶんそれが間違っているのだろう。それでも相変わらず虚無は持続している。間違っていることなど無視してしまうのだろう。結局何を語っているのでもない。君はそれを知っているのだろうか。誰を想定して何を問いかけているのだろう。言葉に酔い、気の利いたことを語っていると思い込み、そんな意識を基盤として、調子に乗ってさらに語ってしまうのは危険な兆候か。そのときの君は虚無を意識していないのだろうか。意識は別の事象に心奪われている。そういうことにしておこう。だが依然として何をどう解釈すればいいのかわからない。ただ意味不明なことを述べているだけなのか。実感としては眠い。現時点では眠気に勝る誘惑などあり得ない。


6月13日

 その件についてどんな感想にたどり着くだろうか。死ぬ人は死ぬだろうし、そこで死なない人もいるのだろう。何か皮肉を述べてみないか。瞑想の果てに下世話な話題に飛びついてもくだらないだけか。それらの言説は格好のいい語り方とは無縁になるだろう。世の中はこれからどんな風になるだろうか。どんな風にもなるだろうし、どんな風にもならないかも知れない。君の思いとは逆の状況になっても、誰が困るというのか。求めているのはそんなものではない。目に見えるものを突き放す純粋な言葉が欲しい。現実の君は何を述べているのだろう。何を探しているのでもない。何を語ろうとしても、まともな表現には至らないようだ。何も述べはしない。ただ沈黙に覆われている。そんな風には思わないか。そこで何を見ているのか知らないが、それは幻影などではなく、現実に存在する事物だろう。感じ取るすべてが幻影ではない。何をもって幻影だと見なすのか。幻影とは何なのか。現実に見えているそれらが幻影であるはずがないか。安易に幻影という言葉を使いすぎていないか。幻影だとか幻想だとかいう言葉は、使い方によっては格好のいい語り方を可能にするかも知れないが、そればかりをことさら強調してもつまらないだけか。何も見えてこない。相変わらず思いと言葉が適当に錯綜しているだけで、意味のある文章として構成されることはなさそうだ。別にそれでもかまわないか。現状ではそんなことしかできないわけか。そんな風には思わないか。沈黙の時はさらに引き延ばされ、口をついて出る嘆きを直前で打ち消してしまう。幻想とは何だろう。禁断症状も幻想からの作用が関係しているのか。何がしたくて何を禁じられているのか。意識はそこから果てしなく拡散したいようだ。そこがどこなのか特定できないほど薄められている。実用的な説明を欠いて、いつものように何を述べているのかわからないことを肯定したいらしい。何とか言葉をつなげたいようだ。それはどのような修練と見なされるのだろうか。誰かがどこかで修行をしているつもりになっているわけか。たぶんそこは山奥ではなく、海の上でもない。紙の上で切り紙細工の人形が燃えている。火災の原因は幻影を求める意識から生じている。炎の部分を切り取って、それを水に浸して中和すると、何か述べているような気になる。そんなはずはないだろう。でたらめな言葉を駆使して、幻覚をもたらしたつもりになっているだけか。誰が幻影を見いだせるのか。退屈な気分を乗り越えたい。それとは別の意識は薔薇の花を思い浮かべているらしい。時間的にはどちらが過去の意識なのか。薔薇と炎との間にどんな関係があるのか。薔薇には刺がある。誰かの感性にも棘がある。それで何を刺すつもりなのか。つもりであって、実際にはどうなるかやってみるまでは不明のままか。君はそんな風には思わない。棘で刺されても背中が痒いだけか。なぜ背中を刺すのだろう。虫さされの薬を塗れないところが刺されるわけか。刺しているのは虫ではない。それがどんな状態を示しているのだろう。何をどう述べても不明のままか。虚無を言葉で打ち破ろうとしても無駄か。何が導かれるのでもなく、誰が何を導こうとしているのでもない。そんな状況の中で何かがうごめいている。そう思われるだけで、それらの大半は気のせいで片づけられる。具体的に何を見てそう思ったのだろう。心の中で何が揺れ動いているのか。揺れ動いているのは監視カメラのレンズに張られた蜘蛛の糸か。また偶然の言葉にはぐらかされる。それらの複眼が何を見ているわけでもない。触覚で感じ取ろうとしても、触れるものは何もないはずか。どこかに閉じこめられているわけか。幽閉されているのは怪奇小説に出てくる化け物か。そこで蜘蛛が巨大化しているはずがない。ただレンズによって拡大されて見えるだけだ。晴れた空に蜘蛛の巣が張られ、その向こう側に仮想空間が横たわっているはずもない。どうもつながりをわざと間違えているようだ。何を否定しようとしているのかわからなくなる。否定の連鎖がいつか肯定に結びつくわけもないか。何が求められているのだろう。決まりきった言語表現で何を述べればいいのだろう。どんな言説を利用したいのか。さらなる錯綜を表現したいのか。意識は何が錯綜しているのかわからない。


6月12日

 気まぐれに背を向けている対象を思い出す。なぜそれについて語れないのか。感性が合わないのかも知れない。しかしどうして無理に語ろうと試みるのだろう。振り返って何を確認したいのか。目を背けている当のものは本当に存在するのだろうか。そんな疑念を払拭したいわけか。たぶん結果が出るには時間がかかるだろう。影が物語るフィクションの中では、結論は忘れた頃に導き出されるようだが、そこで誰が何を導き出しているわけでもなく、様々な紆余曲折を経て偶然に出現したその状況が、それなりの結論を物語っているように感じられるだろう。それは特定の意図や思惑を無視しているように思われて、それを恣意的に物語ってきた者を落胆させるかも知れない。そんなはずではなかったのか。だが予定通りに事が運ぶはずがない。もちろん予定通りに事が運んでいると思い込むことは可能だ。そんな思い込みに勇気づけられて勘違いをさらに推し進めている者もいる。その勘違いがいつか成功に導かれることを祈っておこう。君はわざと勘違いを犯しているつもりらしい。そうやって目の前にある事実をねじ曲げて解釈している。それはどだい無理を押し通すことにしかならないのを承知で、ひたすら不可能なことを語ろうとするばかりのようだ。そしてその途中で挫折して途方に暮れているわけか。そんな風には思わないか。いったい誰に問いかけているのか。それが限界なのか。何が限界なのだろう。途中に語り損ねた内容が隠れている。それではそのことについてまた始まりに立ち返って語り出さなければならないのか。そんなことの繰り返しから疲労が生じてくるのかも知れない。そこからどこかへ到達できるだろうか。いつまで経っても堂々巡りの繰り返しにしかならないような気がするのだが、それでも何らかの結論にたどり着くことを期待したいのだろうか。ではどうすれば期待できるような心境になれるだろうか。わかりきった結論には至りたくない。まだわかろうとしないらしい。それが無駄であるとは思いたくないのか。途中から何を語っているのかわからなくなる。無理に語ろうとすれば内容を見失う。目の前には何があるというのか。それを事実だと認められるだろうか。光の中に何らかの実体が浮かび上がってくる。それに触れることもできるだろう。君は呼吸しているらしいが、息がつまるように感じられるのはなぜだろう。どこに迷い込んでいるのかわからない。それでもそこが通過点なのだろうか。幻影のただ中へ逃げ込みたい衝動に駆られるが、意識はそこで必死に耐えている。無駄だろう。幻想に頼らずにそこを通り過ぎることはできない。しかし通り過ぎた先にはいつもの風景が広がっている。逃れられない現実が感性に付着している。それを肯定できるだろうか。安易な状況へは戻れない。戻ったら風景に溶け込んでしまうだけか。風景に溶け込んだ人々には考える術がないのかも知れない。制度に組み込まれている現状に無自覚な人々には自らの存在について確信があるようだ。自らが現存していることに何の疑いも抱いていないのかも知れない。自分が単なる物語の登場人物でしかないなんて思いもしないか。様々なフィクションに踊らされている自らの意識を信じているのだろうか。昨日の意識と今日に意識が連続していると思いこめる人は幸いだ。気分次第とその場の偶然でどうにでもなってしまっている現状を理解できないのかも知れない。それが幻想の正体なのだろうか。しかし幻想がその確固たる精神の基盤を支えているのだから、それ自体が幻想の一部を構成しているということなのか。そんな精神構造自体がフィクションから生じているのかも知れない。そういうことなら、なおさらそれらのフィクションを信じていなければならないだろう。しかし彼らは何に背を向けているのだろうか。フィクションとはいったい何なのか。今感じ取っている現実こそが様々な思い込みからくるフィクションの合成物だとすると、本当の現実はどこにあるのだろう。現実はここにあり、その現実を思い込みによってねじ曲げて感じ取っているだけか。もちろん誰もねじ曲げているとは思わないだろうが、なぜ意識はそんな疑念にとらわれているのだろうか。物事をただそのまま見ることはできるが、それを感じる段階で受け入れ可能なオブラートに包まなければ意識には到達できないということか。そんな風には思わないか。誰がそんな風に思っているのか。


6月11日

 今日も人が世界中でうごめいている。人がその辺に転がっている石ころと同じに見えてしまうのはどうしてなのか。意識はそれらに価値を見いだせない。何も考えたくはないが、やはり何らかの言葉が繰り出されてしまうようだ。だが何を語ろうと、それほど他人の気を惹こうとしなくてもいいのではないか。そんな風に考えると何となく疲れてくる。どこか言い訳じみていないか。そこから先に不都合な展開が待ちかまえているようで、いつも決まってそこで立ち往生してしまう。そんなことは無視して、適当な結末に導かれたいが、何をやっているのか定かでないのはいつもの通りか。また例のごとく中断が長引いていることは確かだが、何となく無駄なことをやっているような気がして、そこから先へ進めない。まったく効率的でない。誰か効率的なやり方を知らないか。いったい何を効率的にやればいいのだろう。何も好きこのんでそんなことをやっているわけではないか。そんなこととはどんなことなのだろう。ところでさっきから何を述べているのか。もちろん冗談で述べているわけでもないが、前置きはこの辺で切り上げて、本題に入らなければならない。前置きのまま終わってもいけないし、やっつけ仕事になってはいけないだろう。だが実際にはいけないことをやってしまうらしい。意味不明でもそれなりに行き詰まる。それでも道はどこまでも続いているように思われるが、道半ばにして何が見出されるわけでもない。そしてそんなことを述べているわけでもないと思いたい。そんなどうでもいいことを述べているうちに、次第に何かが無限に繰り返されているような気がしてくる。たぶんそんなことを述べているわけではないのだろう。では君は君自身に何をわからせたいのか。そんな風に語りたいわけではない。では何を語りたいのか。例えばアウシュビッツについて何か語りたいことでもあるのだろうか。強制収容施設においてやっていることは、程度の差こそあれ、どこでも似たような虐待が行われている。強制的に収容するという行為自体が虐待なのだから、そこからどんな酷い行為が派生しても驚くには値しないだろう。それらはやっている者たちがやれる範囲内でやっていることでしかない。今はそんなことを語りたいわけではない。それを必要とする社会がここに存在するということだ。その者の意志に反して、何かを強要しなければやっていかれない社会がここにある。他人に嫌な役をあてがわなければ、自らの行為を成し得ないような構造が至る所に存在する。それを仕事と割り切ってやれるかどうか、それに逆らえる権利があるのか。どこにも自由などないということか。そんなシステムに乗っかって、調子に乗って権力を行使して何がおもしろいのだろう。やっていることはそればかりではないか。しかしそれで何かをやっているつもりなのか。ただ適当に述べているだけか。何もやっていないような気がする。どこかにいい加減なカラクリがありそうだ。その仕掛けに沿って何かを語らなければならない。すべてを失うとはどのようなことなのか。それがすべてではないと思う。命まで奪ってもまだ奪い足りないような気にさせる何かがあるのかも知れない。人々の記憶を消し去りたい。そこには以前から何もなかったということにしたいわけか。しかしそれを無理にやればやるほど、後から記憶がよみがえってくる。それは謎解きや秘密を暴くための素材となりやすく、メディアの好奇心を満足させるための対象となるだろう。過去の悲劇は格好の題材なのか。過去だけでなく、今行われていることを過去と重ね合わせて論じ、それを批判として提示するやり方もある。しかしそこに魅力があるわけではない。どこに魅力があるのだろう。そこから何を語ろうとしているのか。行き過ぎた行為を是正しようというのではない。ではそれをそのままに放置しておいていいのだろうか。かまわないような気もするが、かまわないままにはならないだろう。いったい何をどうすればいいのか。何もできないような気がしてくる。批判や非難の効力を信じられなくなる。彼らは何を批判しているつもりなのか。現状を肯定できない理由は何なのか。何を肯定したいわけでもない。また何を否定したいわけでもない。ただあきらめきれない人々が大勢いるだけのようだ。彼らは現状を何とかしたいと思っているのだろう。


6月10日

 そんな役柄は願い下げにしてもらいたいところか。それらの目標はいつ目標になったのか。夢が叶うとき、何が叶ったのか検証できずにいるようだ。何を述べているのだろう。そんなのがありか。それがわかるきっかけはどこからやってくるのか。ここ数日はどこからもやってこないようだ。それは何のきっかけになるだろう。やめるきっかけになるのを恐れているわけか。夕暮れ時には安易な気分になる。フィクションは安易だそうだ。誰がそんなことを述べているのでもない。だからフィクションが安易だというのは嘘になる。そんなのはインチキだろう。始まりの先端に触れてみたい。それは抽象的な表現だろう。そこでうまい話を探しているのは誰だろう。別の曲へ切り替わって、うまい話が何なのかわからなくなる。これから何が始まろうとしているのだろう。始まりの途中で結末を予想している。退屈な宝探しの物語を変奏する気にはなれない。何も感じない代わりに風の音を感じる。まだ終わるわけにはいかないらしいが、特定の意識を見いだせずにいる。そこにロマンを感じない。ロマンとは無縁の内容になりつつあるらしい。だがそこに思考はないと思われる。何もない夜更けに何を思う。夜明けの空は何を意識しているのか。そこに意識はない。恣意的に何かを画策しているわけではないようだ。では君は何を目指しているのだろう。誰が何を目指しているのか。そんな風には思わないか。何を思えばいいのだろう。何を慌てているのか。それは今の状況ではない。輪ゴムがのびて、やがて切れる。何を緊張しているのだろう。それも今の状況ではない。今は雨が降り続いている。明日には別の状況になるだろう。やがて雨がやんで晴れることもあるだろう。意識はすでに晴れた空の下にいる。しかしそれに何の意味があるのか。それは何ら重要な意味を持たないか。天気予報をやっている人にとっては特定の意味を持つかも知れない。だがそこから先へ言葉をつなげられなくなる。何をもったいぶっているのか。もったいぶっているわけでもない。君は何も語ろうとしない。風を感じて、その場にとどまる。そこからどこへも行けないわけでもない。意識はいつもどこかへ赴こうとしている。実際にどこへ行ってしまったのか。赴いた先がどこかは知らない。何を目指しているわけでもなく、明確な目標を見いだせずにいるようだ。何を愛おしんでいるのか。そういう言葉遣いは好かない。君はどこにもいないだろう。どこへも行かないのは君ではない。何も見いだせないから君が存在する。そんな語りは冗談だろう。冗談でも信じられるのか。もったいぶっているのではなく、かいかぶっているのか。それとこれとはまったく関係のない言葉だ。あきらめが肝心なのか。あるいはあきらめきれずにいる意識を捨て去るべきなのか。そんなことができるはずもないか。いったい何について語っているのだろう。輪ゴムはどこかに飛んでいってしまったらしい。見あたらないのは輪ゴムだけではない。本気になれない。醸し出される雰囲気に馴染めない。存在とは何なのか。何がそこに存在しているのだろう。ある種の空気を含んでいるようだ。存在を否定するわけにはいかない。行間に言葉の重みを感じている。そんな風には述べられない。投げやりな発言は慎むべきか。それでも投げやりになりざるを得ないか。信じられないことだが、事実を信じられないことに変わりはない。焦っているのではない。ここからが正念場なのか。たぶんそれは冗談だろう。言葉に重みなどあるわけがないし、行間に言葉など存在しない。では正念場とはどういうことなのか。何も重大な場面に突入しているわけでもない。すべては成り行き次第で進行しているだけのように思える。何らかの空気に包まれている。その雰囲気が異様なだけか。とりあえず輪ゴムはここにある。いつの間にか戻ってきている。まさかブーメランではあるまい。しかし君の思考と輪ゴムがどう関係しているのか。そんなことを述べたかったわけではなさそうだが、それ以外にあり得なかったのだから、それはそれでそれなりの内容になりざるを得ない。たぶんそんなことはどうでもいいことかも知れない。ただその場で適当な言葉の群れが舞っているにすぎない。


6月9日

 この世の中に暮らしている限り、ほとんどの人々は金儲けをしなければならない。結果的に儲からなくても金は必要だ。それは当たり前のことだろうか。生きていくためには金銭的な収入が欠かせない。金がなければ何もできなくなる。そして生産物であれ労働力であれ、有形無形のものを売らなければ金を得ることはできない。そして金がなければものを買うことはできない。たぶん自給自足の生活はほとんど成り立たないだろう。そうした金銭を介在させる物流システムを否定することは不可能か。そのような基盤の上に、今ある文明社会が構成されているわけか。そんなことは誰もが了解していることか。了解していなくても、そこから逃れることはできない。ではまともな神経の持ち主なら、そのようなシステムに忠実な生き方を選ぶべきなのか。反抗してもシステムに組み込まれてしまうだろう。他に選択肢があるのだろうか。正気でなければそれを見つけられるかも知れない。だがそれはまやかしになるだろうか。まやかしでなければ物や情報を売って金を儲ける行為を否定できないか。否定するにしても、それは商売に対する倫理的な基準のようなものを求めることぐらいか。だがそれは気休めに思われる。基本的には、あらゆる手段を用いて競争相手を出し抜かなければ生き残れない、という大前提がある限り、公正さを求めることが気休めでしかないのなら、それ以上は何も述べられなくなる。では少しは前向きになって、その倫理的な基準について検討して、何か気の利いた意見を導き出さなければならないのか。しかしそういう思考は魅力的でない。やはり何となくありふれているような気がする。なぜありふれていると魅力を感じないのか。新鮮な感覚ではなくなるからか。何となくそれでは現状に負けているような気がする。それとは違う何か突拍子もない意見に達したいのだろうが、それでは自己満足に浸れるが、実現性は皆無か。たぶんそこから現状を変えることは不可能なのかも知れない。しかしなぜ現状を変えなければならないのか、何か現状のままでは不都合なことでもあるのか。その理由を導き出せないか。現状は現状で、君の思考とは無関係に存在していて、そんな現状は君の主張を無視している。個人の勝手な考えが何を変えられるわけもないか。それは無視されてしかるべき考えなのか。だが何を考えているのだろうか。さっきまで何か適当なことを考えていたかも知れないが、それが明かされることはないだろう。明かすべきものが見あたらない。今ひとつ真剣さが足りないようだ。そんな状況ではないだろう。とりあえず根本から制度を変えることはできない。変わる要因が見あたらない。たぶん誰が変えるのでもない。変えようとして変えられるものでもない。変えられるように見せかけているのは歴史に恣意的な解釈がなせる業か。あたかも特定の誰かが世の中を変えたかのように後から語ることはできる。しかしそれでいいのだろうか。何となくそれもありふれていて退屈だろうか。娯楽ならその程度でも十分かも知れない。娯楽で世の中が変わるならそんなに楽なことはないか。それでもいいような気がしてくる。現実にそうなったら、それはそれで愉快なことだろう。あまり真面目に物事を考えたくなくなるだろう。馬鹿らしく思えるようになってしまえばいいわけか。何事も冗談で済ませられるような世の中になってほしいか。何をやっても何をやっているような気にはなれなくなるだろうか。現実に何をやっているわけでもなく、それでもその場の成り行きで何かしらやっているようだが、そんな現状に満足しているわけでもないが、それ以外にやりようがなさそうだ。たぶんこれからもそんなことの繰り返しになるだろう。もはやそんなことぐらいしかできそうにない。いったいそこに何があるというのか。それなりの現状が横たわっているらしい。そんな現状に踊らされているわけでもないようだが、中にはその気になって踊っている人もいるらしく、それを端から眺めるでもなく、それとは別の方角を向いて何かしら思っていることもある。何を思っているか定かでないが、その時々の状況に対応しているつもりの言葉を模索し続ける。


6月8日

 そんな大げさな話ではない。問題はどこにあるのだろう。受験予備校にでも通えば毎日が問題ばかりの生活かも知れない。それとこれとでは問題の質が異なるだろうか。問題にもいろいろな種類がありそうだ。今直面している問題はどのような種類の問題なのだろう。この世界に生じている様々な問題をどのように分類すればわかりやすくなるだろうか。そんな大げさな話ではないだろう。問題を意識せずに呼吸を繰り返す。呼吸は問題とは無関係か。生きているから呼吸しているわけか。呼吸が止まったら死んでしまうかも知れない。生身の肉体を有する意識は消えてなくなるか。では、例えば書物から生じている意識なら、呼吸の束縛から逃れられるだろうか。しかし誰がその意識の存在を感じ取ることができようか。それを意識と見なしていいのだろうか。書物だけではなく、映像や音楽からも意識が見出されてしまうかも知れない。死者の思い出から幽霊が生じるように、人の意識が関与して生み出された事象から二次的な意識が発生している。発生しているように感じられるだけか。それは人と呼ばれる動物から生じている意識とどう違うのだろう。意識は何ら特別なものではないのかも知れない。現在世の中に広く流布しているイデオロギーにおいては、命という概念を何か特別な価値と見なす傾向にあるようだが、意識をそれと類似させて、何かかけがえのない特別な概念と見なしてもつまらないだけか。命は社会の利害関係から構成されている。時として命はそれがあるだけで尊いこととされるが、一方で、その社会と敵対する者の命は簡単に奪い去ってもかまわない対象となる。それは人間の命に限ったことではなく、例えば害虫や雑草ならいくらでも殺したり枯らしたりしてもかまわないが、それが観賞の対象となる動植物になると、とたんに人間が保護しなければならない貴重な命を有していることになってしまう。要するに命の価値はその社会に暮らす人の都合によって決まる。自分たちに利益をもたらすと思われる命は大切にされ、害をもたらすと思われる命は容赦なく消し去る。そんな風にして命の存亡は残酷なご都合主義に基づいて決定される。おおよそ博愛思想などというものは、それを隠すための方便にすぎないのか。もちろん愛することと殺害することは必ずしも矛盾しない。状況によっては愛すればこそ殺すとかいう主張がまかり通ることもあり得るだろうか。殺人鬼は自分によって命を奪われる人々を愛している。自らの欲望の顕在化である殺人には欠かせない命ある人々を愛さないわけはない。他人の命を奪うことが欲望を満たすことであって、それが自らの利益につながるわけだから、やはり殺人鬼にとっても命は特別な価値を有する尊い概念に違いないか。たぶんそういう意味では殺人鬼もこの社会の一員なのだろう。社会に蔓延するご都合主義の一端を担っている。大切な命を奪い去ることで、逆に命の価値を高める結果を招いている。何か間違ったことを述べているだろうか。無理矢理良識をねじ曲げて解釈していると思われるか。たぶん間違っているのだろう。これが正しかったら誰も救われなくなるか。そんな大げさな話ではないか。意識はそれについて何を思っているのだろう。何か適当なことを考えているのかも知れない。意識はどこに宿るのか。死者にも宿るかも知れない。そこに意識があると思えば、それが意識になる。そういう意味で意識は命以上にご都合主義に染まっているのかも知れない。しかし意識のあるなしはどうでもいいことだ。意識があろうとなかろうと、それらの対象は存在している。それは誰のための意識でもなく、ただそこに意識を感じ取ることが可能なだけだ。それによって利益をもたらそうと不利益をもたらそうと、何となくその辺に意識が漂っているように思われる。それはありふれた勘違いかも知れないが、勘違いであってもなくてもかまわないだろう。何やらそこにものがあり、その形状や性質や動作が意識を構成しているように思われる。そしてそこに意識を感じ取る者は、それをどう感じ取ってもかまわないだろう。あるいは感じ取れなくてもかまわない。そこに何かがあるらしいが、仮になくてもかまわない。君は誰に話しかけているのでもないが、その誰かが誰であってもかまわない。何となくそこから何らかの作用が働いているのかも知れない。


6月7日

 何かが足りないと感じているのはどうしてなのか。どうしたわけでもない。足りないのは言葉を書き留める余白か。君は君自身が何を思っているかを知らずにいる。そんなことは誰にとっても当たり前のことだろう。だが当たり前のことが簡単に否定されてしまうのはなぜだろう。自分自身について語っていると勘違いしながら日記を書いている人は多い。ではそこに書かれているそれらの話題はどこからくるのだろう。それは本当に自分に関する出来事なのか。自分とは無関係だとすると、他にどのような関係を持っているのだろうか。関係など探せばいくらでも見いだせるのかも知れないが、例えば日々どこかで話題となっているそれらは、メディアが集中砲火的に騒ぎ立てるほどの出来事だろうか。彼らはなぜそんなことを気にかけるのだろう。たぶんそれは、彼らにとってはどうでもいいことではないのだろう。一つの事柄について集中砲火的に騒ぎ立てるのがメディアの役割なのだ。人々の興味をそこに集中させなければ商売にならない。そうすることによって世の中が何かに翻弄されている雰囲気を醸し出したいわけだ。情報によって世界をかき回しているつもりなのか。人々の興味の矛先を自分たちが伝える情報の方へと常に向けさせておきたい。そうやってできるだけ多くの人々の興味をつなぎ止めておきたい。君はそれを憂慮すべき問題だとでも思っているわけか。別に思っているわけではないらしい。ではなぜ君はそれに反発して、そんなことはどうでもいいことだと思うのだろう。無理に興味のない振りをしている。そして何も気にかけていないように振る舞うが、それは嘘だと思われる。矛盾しているようだが、自らはそれについて何も語っているつもりもないと思いながらも、そんな思いとは裏腹に、それらについて常に否定的な姿勢を保ちながら語り出す。君にそのつもりはなくても、他の誰かがそれについて語っている内容が気に入らないらしい。そんな状況が許せないわけか。しかし君にとってそれがどうだというのか。そんな状況から抜け出せない自らの境遇を呪っているわけか。何も呪うことはないだろう。本当に呪っているわけではなく、その場の成り行きからそんな言語表現が導き出されているだけかも知れない。意に反してそんな状況に流されている。ではそこから人々が話題を共有することはいかにして可能だろう。君と同じ問題意識を他の人々にも共有してもらいたくて、そんなことを述べているのか。だが皆が同じ問題意識になっては気に入らないから、そんなことを述べているのではなかったのか。ただ他の人々とは違う問題を提示したいだけなのか。しかしそこに他の人々はいない。それは人々ではなく、言葉の連なりが醸し出すある種の雰囲気かも知れない。ではなぜ君はそこで気分を害しているのか。君に合わせて他の誰かがその場の雰囲気を修正しようとしている。それで気に入るとでも思っているのか。たぶん意識は安易に不可能を求めているのだろう。しかしそれは本当に不可能なことなのか。分からず屋の君が不可能の認識に至ることは不可避かも知れない。いつも不可能だと思い込むことで可能性から逃げている。そもそも人々が同じ話題を共有する可能性をわざと否定している。意識することのすべてが分散してほしいと思いながらも、自らの主張に多くの人々が同意してほしいと思っている。それが問題として認識されること自体が、その問題の共有を前提としている。共有されない問題は問題ではなく、他の人々にとってはどうでもいいことだ。では問題が共有されることを嫌う君は、それが問題となることを意図的に回避すべきなのか。それも不可能の一種だろう。別種の不可能を夢想している。不可能は冗談の一種なのか。実体としては何を述べようとしているのでもないが、結果的に何か述べているのであり、ただそれに関する同じような種類の言葉を錯綜させて、その連なりの中で自足しているだけか。そのとき君は何を思っているのか。思っているのではなく、言葉を弄しているのだ。誰もそんなことは思わないように願いながらも、一方ではそれが嘘になってほしいとも願っている。やはり何を述べているのかわからなくなる。わかっていることをわざとわからなくしているということか。そしてわからなくなった振りをしている自らに満足しているわけか。誰がそれで満足できるだろうか。


6月6日

 何をどうやっても考える時間をひねり出せないようだが、そんな事情を考慮しているわけにはいかないらしく、思考することを意識しながらも、無意識が勝手に記述している振りをする。要するに何も考えていないということか。そこに意識が入り込んでいる時間はわずかに感じられる。そことはどこなのか。いかに大金がかけられていようと、またどんなに巧みな展開が用意されていようと、語りとそれに付随する映像は時が経てば終わるだろう。結果を見れば大したことではないと思われる。そして事前に何を期待していたのか忘れている自らに気づく。求めているのはそんな内容ではない。性急に結果を求めてはすべてが台無しになる。そこから徐々に語りを改善していかなければならない。それは前向きな意見になるだろうか。あるいはその場しのぎの嘘なのか。そこで何を思っているわけでもないか。ではそこに何か謎でもあるのだろうか。謎と見なせば何でも謎になるか。謎解きゲームで暇つぶしでもやるつもりなのか。そんな風には考えていないようだ。考えているのは君ではない。しかしそんな断言はすぐに無効になる。君は何かを考えようとしている。映像と言葉の関係について思考を巡らす。それらの映像はどんな言葉を求めているのだろうか。ただ通り過ぎるだけではなく、立ち止まって何か肯定的な言葉を発してほしいのだろうか。讃辞を期待しているわけか。批判は要らないか。馬鹿にされたくはないか。誰がそれを馬鹿にするのだろう。君は馬鹿にしているのか。例えば、正体不明の殺人鬼に立ち向かう刑事たちの物語をどう思っているのだろう。そのとき何か思っていたはずか。だがすでに終わってしまった映像について何を思い出せるだろう。それの続編でも見ればまた何か思うかも知れない。なぜ刑事たちは生き残るのか。生き残らなければ続編を立ち上げられないからか。危機一髪を切り抜けられるのは台本がそうなっているからか。なぜ物語には主人公が必要なのだろう。登場人物がすべて平等な立場を占めていては、特定の出来事について物語れなくなるからか。なぜ特定の出来事に焦点が当てられるのだろう。その出来事が興味深いと思われるからか。つまらない出来事について語っても、人々の興味を惹くことはできないか。それは語り方次第かも知れない。些細なできことも大げさに騒ぎ立ててみせれば、何かしら気を惹くことができるかも知れない。しかし些細な出来事が殺人事件だと思うか。それを些細だと見なす根拠は何なのか。何と比較して些細なのだろう。他の何かと比較するという考え方がつまらないか。何と比較してもつまらないか。人によってはつまらないとは思わないだろう。だがあまりにも安易に殺人事件へと至りすぎていないか。何が何でも人が殺されなければ気が済まないように思われる。なぜ人は復讐に駆り立てられるのだろう。復讐に駆り立てられなければ人を殺せないからか。復讐者を登場させなければ物語が成り立たないからか。それは難儀なことだとは思わないか。君は面倒くさがり屋なのか。そんなことにいちいち目くじらを立てずに、もう少し物語の意図に忠実な内容を提供できないものか。それが欠点だとは思っていないようだが、なぜ登場人物たちの視点から語れないのだろう。冷めた意見は物語とは一向に交わらない。物語の外部からいちゃもんをつけているだけではないのか。そんな風に受け取られても仕方のないようなことを語っているらしい。それは本気になれていない証拠だろうか。わからないが、ただ犯人が殺人を犯す背景が紋切り型のように思われるだけか。たぶん殺人の理由が明かされた時点で鼻白むのかも知れない。見ている者の同情を誘うような見え見えの理由に興ざめしてしまうわけか。なるほど物語のツボとはそういうところにあるわけか。しかしそれはニュースなどでも見受けられる実際の殺人事件にも欠かせないオチだろう。強引にそんな理由づけを試みるコメンテーターの類はいくらでもいそうだ。そんな犯人にも同情の余地があったりなかったりすることを基準にして、殺人事件についてああだこうだ論評したいのかも知れない。そういう思考が物語と現実を相互に浸食しながら退屈に結びつけている。


6月5日

 それらの状況が気に入らない。それについて考えてみるが、相応の文章を導き出せずにいるようだ。どうにも言葉がつながらないらしく、少し焦っているようだが、具体的に何を述べているのだろうか。それは手続き上の問題だろうか。言葉を繰り出すのに何の手続きが必要なのか。語り出す前に、ある程度段取りを整えておく必要があるが、いつものようにそれなしに事を進めているようだ。その結果その場の思いつきで安易に思考を繰り返すが、何を考えているのか考えている当人もよくわからない。無理を重ねても望まれない出現は無視される。空虚以外にどんな内容が期待されているのか。思い当たるような期待は意識の中にはなさそうだ。そんなことを考えているうちに頭が重くなる。やはり軽くそこから逸脱して意味不明を装うべきなのか。そうすることがどんな目的に叶うのかを知りたい。誰かは目的のためには手段を選ばず、別の誰かは手段としての策におぼれて目的を見失い、さらに別の誰かは唐突に歌い出す。その歌は今では廃れて歌われなくなっているはずか。そんなことはどうでもいいことだろう。別に歌の話をしているわけではない。誰もその歌を知りたいとは思わない。時は流れて、流れるはずのない歌まで流される。君はもう誰かの歌声を思い出せなくなる。思い出せないのはそればかりではない。消え去る思いは消え去るだけか。何が消え去るのだろう。意識は消え去った何かの痕跡を探している。それを探してどうするのか。それについて何を語りたいのだろう。やはり何を述べているわけではないらしく、ただわけがわからないだけか。そうやって無駄に言葉を弄することしかできない。しかしなぜ人は物語ろうとするのだろう。何を物語っているのか定かでないのに、それでも語っている現実に安堵しているわけか。具体的な対象には一向に至らないままで、それでも正気を保っていられるだろうか。正気も狂気も無視して、ただ機械的に何かしら語っているだけか。君の頭脳は精密機械ではない。それどころか、そのほとんどがいかれている。なぜ内容に至らないのだろう。至るはずがないだろう。狂気にさえ至らない。他人から見られていることを意識しているつもりになって、何か気の利いたことを語りたいとは思うが、記述の段階になって、そんな思いはことごとく無視されてしまうようだ。誰が何を見ているかを知りたいか。ところで眼は何を見ているのか。誰かはいつまで同じことをやっているのか。少なくとも始めからやり直すことは不可能だ。戻り道はない。だが別にそれが深刻な状況だとは思わない。意識がそんなことを思っているわけでもない。君の望みは何なのか。誰かの望まれていない出現をどう思うのか。意識は何も思わない。今を感じていたいと思うのは勘違いのなせる業か。しかしそれでも現実感を求めている。その結果として、求めていない言葉が出力され、何をやろうにも、やっていることを把握できなくなる。それは何かの葛藤であって、意識の中で争いごとをシミュレートしているわけか。だが誰かの意に反して、戦いは常に暇つぶしの様相を呈する。戦っている人間や組織は、他にやることがないのかも知れない。それがフィクションにしろ現実にしろ、それ以外を見いだせないのはどういうことなのか。状況を分析しようとしているわけではないらしい。ただ繰り出された言葉が錯綜するばかりか。何をやっても無駄だろう。だがそんな簡単にあきらめたりしないだろう。しかし争うための材料は何もない。では、それは何を構成するための材料なのか。戦わずして惰眠をむさぼりたいわけか。戦わないための戦略などつまらないだけか。戦わなければ見せ物として機能しないだろう。何らかの戦いを見せるためにテレビ画面や映画のスクリーンは存在する。ではそれらから遠ざかるためには、戦いに興味を抱かなければいいわけか。そんなわけにはいかない。遠ざかることなどできはしないだろう。そんな風に語りたいわけではない。大局的な見地に立って思考を巡らせるべきか。しかしそれで何を述べているわけでもない。たぶん冗談でわざと間違ったことを述べようとしている。なぜ言説は冗談以外に至らないのか。結論に至るのがあまりにも容易だからか。途中のほとんどが省かれているのかも知れない。


6月4日

 新緑の季節が過ぎゆくにつれて毛虫が増えてくる。出だしがおかしい。君が感じているのはそんなことではないはずか。眺めている画面からは何が感じられるだろうか。騒がしさと空しさが混じり合う。何となく無駄な抵抗を繰り返しているように見える。そこで彼らは誰に媚びているつもりなのか。君はそのとき何を見損なったのか。そんなものに興味はない。メディアは彼らに何をやらせたいのか。戦術を転換したいが、一向に態度が定まらないようだ。それはまるで幼稚園児の遊技のように見える。馬鹿にしたいのなら、もう少しマシな対象を選んだ方がいい。それには誰かがまともなことを述べなければならない。誰かと誰かが属する集団はメディアうけをねらいすぎている。そこで何を探しているのか。探しているのではない。そんなことはわかっている。では捜し物は何だろう。捜すのが面倒になり、捜し物をわざと忘れている。常に忘れ続けている。誰かと誰かは出会う機会を逃している。そんなことはないだろう。構成しつつある内容に飽きてくる。そこで何を読んでいるのか。昨日と同じことをやっている場合ではない。それでは遅すぎる。機会は永遠に訪れない。ではその代わりにこれから何をやればいいのか。君は実際に何をやろうとしているのか。何をやっている場合でもないか。頭の中がごちゃごちゃしてくる。そして次第に眠気を催すようになり、やる気が失せる。人々はまるで働きアリの集団のように動き回る。そこに人間性を感じることはできない。人間性自体が思い込みに基づいたフィクションから導き出された概念かも知れない。しかしアリの巣の中に人が住んでいるわけはない。朽ちた廃屋の中にはシロアリが巣くっている。また辞書に載っている例文によると、盛り場には暴力団が巣くっているそうだ。愚かなのだろう。愚かさのただ中でもがいているだけか。ここは夜の世界だ。昼の世界は陽が昇れば到来するだろう。この世界は貴重でも何でもない。人間的な思い込みを取り去れば、かけがえがないわけでもない。ではなぜこの文明や社会を否定できるのか。それは否定的な言説を構成するためのものなのか。この大地は人々が争うために使われる。捜しているものは、人格を伴った人ではないのかも知れない。人形のような物体か。だが人形でさえ思い通りにはならないだろう。やがて朽ち果てる。だから求めているものはそれ以下になる。捜している意識には何も理解できない。たぶん忘れた頃に何らかの機会がやってくるだろう。君はそれだけでは気に入らないか。では他に何がやってくるのか。それは適当な未来か。そのときがくるまで我慢できるだろうか。何を耐えているのだ。ただほとぼりが冷めるまで自粛しているだけか。確か以前もそんなことをやっていた。何かが起こるたびに一時的に見え透いた態度をとる。そして忘れた頃に戻ってくる。そんなことの繰り返しの中でまた同じようなことが起こり、またそれに対する同じような言説が乱れ飛ぶ。メディアはそんな目くらましをただ反復させているだけか。それを真に受ける者たちは愚かだ。真に受けようがないか。また同じことやっていると思うだけか。君はそう思いたいわけだ。君ではない誰かもそれを支持するつもりのようだ。だがそれではつまらない。意識して述べれば違う文章が手に入る。憩いの場は架空の時空に存在する。それは現実の出来事とはならない。この世界にそれをもたらすことはできない。もたらされるのは退屈な時間とつまらない場所だけか。前向きな人はそんな風には思わないか。話すことに前向きな人は自ら何を語ろうともしない。語らずに話すことなど不可能か。それでも誰かが語っていると思い込んでいるその内容は、それ以前の時空から抽出された言葉から成り立っている。そうやって過去は未来に再構成される。もちろん過去と未来は違う性質を持つ。過去は未来へ思いを託し、未来はその託された思いを裏切ろうとする。常に偶然を利用して思いを断ち切ろうとしている。たぶん思い通りの展開になるのが嫌なのだろう。誰かの思い通りになってしまったら退屈か。やはりそんな風には思いたくないか。


6月3日

 誰かは毎日のように同じ道を経巡る。それが日課なのか。それが通勤や通学なら、そんな人はいくらでもいるだろう。できることなら、それとは別の機会に別の道へ迷い込みたい。君はいつも話題だけを先行させる手法を真に受ける。近頃は何が流行っているのだろうか。それらの流行り廃りをどう評価すればいいのか。いつもそんなことばかり考えているわけではない。誰が何を思っているわけでもない。何を否定しているつもりなのか。君の人格はあらかじめ思考の対象から排除されている。それは人格ではなく、特性だろう。特性のない男は小説の登場人物になる。双六上では、さいころを振って出た目の数だけ歩を進めてみる。試しに何をやってみようか。虚構の中で架空の人物が何か思った振りをする。簡単なことならすぐに述べることができるだろうか。何を逃げているのか。殉教者たちを褒め称えてはならない。家族や民族や国家のために死ぬことはないだろう。自らの死をもって守らなければならないものなどありふれた幻影にすぎない。誰のためにも何のためにも死ぬことはない。ところで死ぬのは面倒臭くないか。生きている人間に実際に死ぬ者の気持ちなどわかるはずがないか。では遺書や手記の中に書かれている言葉は嘘なのか。もしそれを信じるなら、嘘ではなくなるかも知れないが、誰に向かってそれを述べているのだろう。それは架空の誰かか。架空とは思わないだろうが、死んだ後の自分が存在しない世界を夢想しているのだから、架空と変わらないだろう。それでも残された遺族や友人に何を伝えたいのか。身勝手な自分の願望か。その辺で想像力が限界に近づいているのかも知れない。実際はどこへ近づいているのでもないが、気まぐれに思いもしないどこかへ近づいているのだろう。その近づいているどこかが限界だと君は思うわけか。まわりくどくて何を伝えたいのか意味不明だ。それ以前に伝えたい内容が抜け落ちている。死者は何も伝えたがらない。伝えようとする意志が死体には存在しない。死体の状態や、死体に付けられた痕跡から、生きている者が想像を働かせるだけか。遺書も手記も痕跡の一種だろうか。それらの言葉は死者が死ぬ前の意志を反映しているのだろう。死につつある意識が書くことによって何かを伝えたかったのだ。そんなものを真に受けるのか。内容にもよるか。内容がなければ、いつものように本気にはなれないか。ではこれからどんな内容をねつ造してみようか。それがフィクションなら気楽なものか。しかしその気楽さが嘘の兆候を示している。フィクションなのだから嘘であることは当然だろう。遺書も手記もここにはない。その代わりに誰かが上を向きながら歩く。画面の中から誰かが見上げれば、空は青いそうだ。夜に見上げれば星が見えるだろうか。もちろん実際には見上げていない。それも嘘なのか。だがそこから何とかしなければならないようだ。たぶん気の利いたことは何もできないだろうが、外は風が強い。強風の中を鳥がどこかへ飛び去る。それをねらっているわけではない。獲物は別のところにある。言葉はわざと目的を表さない。あるいは目的以外に何も表しはしない。架空の意識は、そのどちらでもないことを望んでいるのか。だが真実に見せかけるために特定の出来事をなぞったりしない。そんな風に思っているうちは何も示せない。またそこからどこへも戻ることはできない。君は何を否定しているのか。否定することを何に転じれば肯定を示せるのか。肯定できない。対象を表象しなければならないが、表象する対象が見つからない。しかし言葉とその対象となるものを一致させなければわけがわからなくなってしまう。それは無理だろうか。それを肯定できるはずもなく、かといって、肯定できなければ否定しかないわけでもない。どうも肯定も否定もしない態度をとりたくなってしまう。決定的な状態になることから逃げている。いつもそんな風に思っているわけでもないが、今はそれ以外には何も思いたくないようだ。もちろんそんな結果になることは肯定できないが、そうやって次第に袋小路へと追いつめられてしまう。


6月2日

 寝て起きたらいつもの朝になっている。また周回遅れになってしまうのか。何とはなしに前回と同じ轍を踏んでいるかも知れない。見る見る間に意識が別の方向へと誘導されてしまう。はじめからやる気もないのに、やる気が失せたように思い込み、継続の意志は内面のどこかへ紛れ込んで見えなくなり、その代わりにいつもの光景が迫ってくる。何が展開されようとしているのか。街の雑踏の中で見ず知らずの誰かになった気分を装う。誰かはそこで何を求めようとしているのか。そこでやっていることはいつもと一緒なのか。ここはいつまで経っても部屋の中だ。何が前回と異なるのだろう。意味不明の展開に嫌気が差して、誰かの演技を試みる。そんなつもりの意識を思い出す。たぶんそれはありふれた話であり、例えばテレビ画面上でよく見かける俳優が、仲間割れの殺し合いを映画やテレビドラマさながらにやってみせるだけか。それと似たようなシーンを紙面上で想像してみる。細切れになった映像の中に、今の雰囲気に合うような台詞を探しているのかも知れない。あるいはそんな物語の欠陥を探し出そうと試みている。そんな話はつまらないか。だが、それ以外に何があるのだろう。それ以外にもよくあるパターンを知っているはずだ。例えば、登場人物が何らかの身体的障害を負っていたり、不治の病に冒されていたりしなければ感動できないのは、いわゆるヘレン・ケラー症候群の一種かも知れない。そこで誰が意味を求めているわけではない。たぶん何を知りたいとも思わない。君はそんな紋切り型を避けて、何らかの成果を上げたいのかも知れない。それでことさらに前進を望んでいるのだろうか。何もない時空へと突き進んでいるつもりなのか。そこに何もないとは思わないだろう。ただやっていることが見え透いている。だがそれをどう思おうとその人の勝手か。その勝手な想像力にまかせてあらぬ出来事を空想している。そしてまた途中で停滞していると感じている。何をそこに見ているのだろう。簡単なことを簡単に済ますことはできない。あらかじめ提示されているやり方に則って、決められた手順を踏んで、過去との連続性を確保しながら、いつかの事件と似た結論を導き出さなければ気が済まない。そうやってそこに何らかの理由を見出さなければ納得できないか。たかが子供のけんかがエスカレートして死に至っただけだろう。それはそれでそういうことでしかないか。しかしそれとこれとは別の問題だろう。それは何でこれは何なのか。それもこれも似たような経過を辿ろうとしているだけのようだ。語っている内容も、まるで腫れ物に触るような慎重さを感じさせる。しかしいったいそれらのどこからが話の本題に入っているのだろう。何となく挫折しそうになりながらも、意識はいつものように何か特定の内容に至ることを断念しようとしている。どうやっても至れり尽くせりといかないものだ。偶然が作用して彼らの努力が水の泡となる。だが何が水泡に帰したからといってどうなるものものでもない。子供が子供を殺したからどうだというのか。そういうことを述べているわけではないらしい。たぶんそんなことをやりたかったのではないはずか。はっきりしない言語的表現は語る対象を見いさせぬまま、適当な流れの中で何かが推移するだろう。その流れをいつまでも維持したいわけではない。定まらぬ対象を見出そうと試みるが、依然として何も定まらない。目標を定めてそれについて語らなければならないが、それは不可能な試みに思われるかも知れない。風に梢が揺れているように、意識の中で何かが揺れている。それでは的を射ることができないか。照準を合わせても、合わせた先には何も見あたらない。さっきまで見えていたものは何かの幻影だったのか。では今まで述べてきたことはうやむやにすべきなのか。それで機転を利かせているつもりなのか。感情の中に何か別の意識が割り込んできたようだ。その結果、だいぶ冗長なことを述べているようだが、やはり何を述べているのか定かではない。しかしそれでいいのかも知れない。だが誰がいいと思っているのか。まだ忍耐が足りないのだろう。


6月1日

 雨空を眺めながら、別にあらぬ事を考えているわけでもない。君には何もなさそうだが、君の影は何か主張したいことでもあるだろうか。誰かはくだらぬ二重人格を気取っているわけか。思っているのも考えているのもそんな人格ではない。様々な人々が様々なことを考えていると思っているようだが、君一人が考えていることはそれほど多くない。誰かが本を読み、音楽を聴き、映像を見る。携帯電話で付属のゲームを楽しんでいる。新聞の活字に眼を走らせ、何か気の利いた意見でも思いついたか。受け売り的な意見でも満足できるだろうか。多くの人が誰かと同じ意見を持ち得ないのは当たり前のことかも知れない。メディアの言うことに従う必要はない。正確にはメディアの中で意見を述べている人と同じ意見を持つ必要はない。内容がつまらないと思うなら忘れてしまえばいいことだ。忘れられないなら腹を立てていればいい。積極的に他の何に同調しようしているのでもなく、ただその場の成り行きに合わせて行動している。大同団結する必要はないだろう。力は常に方々へ分散している状態が望ましいか。人々の力に幻想を抱いてはいけない。集団的な結束力は当てにならない。力には力で対抗しても無駄ということだ。たぶん煽動には無関心でいなければならないのだろう。何か特定の意見に凝り固まっても何がどうなるわけでもない。それは君がそう思うだけで、他の誰かはそうは思っていないかも知れないだけか。誰かが提起した問題をみなで共有しても、それが何になるのか。たぶん何らかの結果を得られるのだろうが、その結果に利益を期待しても虚しいだけだ。それでは問題提起した誰かの思うつぼか。そこには行動する基盤が生まれてこない。なぜ誰かの意見に従って行動しなければならないのだろう。どうして赤の他人の呼びかけに応じなければいけないのか。そうしなければ人と人とのつながりを構築できないか。人と人がつながって何をやろうというのか。何かを生み出すためにはそうしなければならないのか。そしてそれによって生じた結果に満足したり、あるいは不満に思ったりしていればいいわけか。しかしそこから何が生み出されるのだろう。様々なつながりによって様々な事象が生み出される。しかしそれがどうしたというのか。たぶん結果的にどうにかなったのだろう。世の中にはどうにかしたいことがいろいろあるらしく、それを多くの人が協力しながらどうにかしなければならないということか。しかしそれでどうにかなって、それからどうしたらいいのか。またどうにかしなければならないことが新たに待ちかまえていて、それもどうにかしなければならなくなる。たぶんどうにかしているうちに疲れてしまうのだろう。たまにはやっていられなくなる。年がら年中それの繰り返しで嫌気が差してしまう。なぜそんなことばかりなのか。それをやり続けるためには何か適当な気晴らしでも必要か。しかし所詮気晴らしは気晴らしでしかない。何となくどうでもいいように思えてくる。やっていることに幻想などを抱いている気にはなれない。ただそれはそういうことでしかない。それ以外にあまり意味を見いだせない。人はなぜ特定の事象に興味を惹かれたり魅力を感じたりするのだろう。成り行きでたまたまそんな意識を構成しているだけなのか。それがそのときの社会情勢などから導き出されたりするわけか。要するに流行現象なのだろうか。そんな流行に身も心も浸していれば安らげるかも知れない。他人と同じ思いを共有していたい。そうすることで安心を得られる。たぶんそこに何らかの求心力が生じるのだろう。確かに誰か特定の人格が、自らの利益を図るためにそれを画策する場合もあるだろうが、それがどうしたのか。それに成功した者が偉いわけでもないか。いや、それが偉いと思わせるようにし向けることも可能か。しかしそんな思惑に同調しても虚しいだけだ。何となく他人に踊らされているようで情けなくなってくる。しかしそれで気持ちが安らぐ人がいても、それはそれでそういうことでしかないだろう。そんなことの積み重なりの上にこんな世の中が生じているのだから、それはそれでそういうことなのだろう。それについて肯定も否定もできないか。