彼の声41

2004年

3月31日

 あなたは誘惑に負けた。磔にされたキリストに悪魔がそうささやく。誰がそんな場面を思い浮かべるだろう。そのままじっと動かずに時が経つ。君は何を信じているのだろうか。たぶん君を通り越して何かが到来しているのだろう。そうしている間にも時はさらに過ぎ去ろうとしている。今や予言者は完全に置いてきぼりだ。世界は誰が予言者なのか忘れてしまっている。もはやそんなことはどうでもいいことだろう。世紀末はあと数十年後にやってくるかも知れないが、そのときには別の予言者でも現れるだろうか。また同じようなペテンがまかり通るわけか。そんなわけはなさそうに思われる。ではすべてはあっけなく過ぎ去るばかりなのか。くだらぬ戦争の記憶も茶番劇の様相を呈しているだろうか。本当にそれは誰も予想し得なかった事態なのだろうか。どのような事態なのか誰も把握できていないか。誰も真面目に対応できない。まともな意見はことごとく無視され、意見のまともさそのものが否定の対象となってしまう。そんな風には誰も思わないだろうか。しかしまともな意見とはどのような意見なのだろう。それを知り得ないうちは、安易に自らをまともだと思ってはいけないか。まともなのは自らでなく他の誰かだろう。この世界はまともさを望んではいないはずだ。誰もがまともであってはおもしろくないか。限られたひとにぎりの人間がまともであって、その極めてまれに存在するまともな人間が、その他大勢の大多数を占めるまともでない人間たちに向かって、自分たちの言うことを聞けと命令する状況がまともだといえるか。やはりそれは極めてまともでないおかしな状況だといえるか。現状がそんなはずはないだろう。それは誰かの思い込みなのだろうか。虐げられていると感じている人間はよくそんな幻想を抱くものか。世間が自分の方を向いてくれないと困る、とでも妄想しているのだろうか。しかしその世間とはどんな世間なのだろうか。人それぞれで違う世間があるわけか。何やらあやふやな方向でものを述べているのかも知れない。世間体を気にしている人には、その人独自の思い込みの中に世間が構成されている。しかしそれが未来へつながるとは思えない。その未来は誰にとっての未来なのか。君に未来を体験する資格があるわけか。それはどんな資格なのだろう。資格などなくても誰の下にも未来はやってくるものか。だが未来に世間があるとは思わない。それは過去に属する概念であり、なぜそんな世間が未来永劫続いていかねばならないのかわからない。持続はいつも裏切られ、中断され、期待とは無縁の状況がやってくる。君の強がりや痩せ我慢は来るべき状況下では通用しないだろう。だが通用しなければ通用するように改良を加えるだけのことか。結局どのような状況が到来しようと物足りなく感じるように修正し続けるわけか。だから君が感じる世界はいつもつまらない。そしてつまらないからおもろくなるように何かを試みるのだろうか。しかしその結果としてどうなったのだろう。以前とどこが変わったのか。この世界に何を感じているのだろうか。また君は何も思わないとうそぶきたいのか。何か思っているのに、それは言葉に表さず、その代わりに何も思わないだのつまらないだのと繰り返すだけか。それでは本当につまらないだろう。ではそれ以外に何を表明できるだろう。どこかで精神がねじれていて、率直に本音を語れない状態になってしまったらしい。それでも言葉は適当に繰り出され、心は沈黙の荒野を君とは別人の誰かが突き進んでいく幻影を思い描く。それは君にとっては何の意味もない光景だろう。それはただのカッコつけなのか。何となく君の影は暇にまかせて虚しい気分を演出したいようだ。忘れた頃にまたもや性懲りもなく影が登場している。いつもの苦し紛れだろうか。わからないが意味不明になって満足したいようだ。そうやって蛇足を楽しみながら、無駄に言葉を連ねたい。現実にそれも暇つぶしには有効なのかも知れない。


3月30日

 何を思うでもなく、君はまだつまらないことを語っているのかも知れない。それは違うか。言葉を紡いでゆく苦労を知らない人はそこから離れてゆくだろう。そして幻想の世界へ一緒に連れて行ってほしいか。それは幻想ではなく映像だろう。しかしそこで誰の視線と出会おうとも、それは画面の向こう側から見つめる幻影にすぎないか。今こそ考えてみてくれ、友よ。君は誰が友なのか知り得ないだろう。知っていることは、そこに言葉が散らばっていることぐらいか。何もない空間には真空が存在するが、苦労はそれとは別の空間に作用する。若い時の苦労は買ってでもするものだ、と説教をたれる老人は、自分は苦労を重ねて成功したと思い込んでいるものだ。苦労した末に何も報われなかった人ならそんなことは言わないものか。他人に教えを垂れることは、自らの浅はかさを露呈させてしまう危険性があるのだろうか。世の中にはさして辛い思いなど経験せずに暮らしている人もいるだろう。辛い思い自体が人によって異なる。君は無意味な風景の中で苦労しているつもりのようだが、その苦労は何の足しにもならないのだろうか。偶然の出来事に振り回されてかつての思考を見失っている、と思い込みたいようだが、かつてどんな思考を保持していたかなんて今の状況下では関係ないか。何に関わろうとしているのかなんてわかるはずもない。だがそこで終わりにしてならないのかも知れない。しかし相変わらず説明は何の意味もなさないままか。何を説明しているのだろう。どんなに言葉を弄してみても決して結論には達しないだろう。結論に達し得ないように述べようとしている。仮に至ったとしても、そんな結論は無視してその先へ進むだろう。それは誰かの独り言だろうか。それを無視しながらもひたすら報われることを願う。どんな形であれ、報われていることの確証を得たくてひたすら言葉を繰り出しているのかも知れないが、一方では報われることをひたすら拒否し続けているようだ。願いや望みが矛盾しているのは誰にでもあり得ることか。それを目的によって偽りの一貫性に至ろうとは思わない。目的を設定して意識をそれに従わせることは、自らに嘘をついていることになる。無理にそんなことなどやらなくてもいいのに、それを達成した先に報われる瞬間が訪れると幻想してしまうわけだ。そんな自らの弱さを隠すために、自らに目的というノルマを課すのだろうか。そうやって苦労を強いることへの言い訳を用意するわけか。やがてそれらの苦労は実を結び、夢が実現して至福の時を味わうことになるだろう。そんな風に述べればやる気が出るだろうか。しかしやる気を出して何をやるつもりなのか。すでに何かをやっているではないか。その何かでは気に入らないのか。できればもっと気の利いたことを述べてみたいか。世間に流通している論調に迎合したいわけか。では努力していればいつかは報われるとかいう気休めを糧として、さらなる精進を重ねないといけないのだろうか。もし君がひねくれ者ならそんな風には思いたくないところか。意志薄弱な君はもう待ちくたびれたらしい。何を待っていたかさえ忘れてしまっている。それでもいつか何かの機会が訪れるだろう。その時には君はもういないかも知れない。君とは何の関係もない機会が君とは別の誰かの下に訪れるわけだ。しかし機会の逃したのは君ではないはずか。逃したのではなく、機会の方が君を避けているのかも知れない。君に機会を与えるのが面倒くさいのか。しかしそれは何の機会なのだろう。そうであるなら、君にとってはそんな機会などどうでもいいことか。たぶん君が求めている機会は君とは関わり合いのない機会かも知れない。君はそれとは違う偶然を求めている。誰も求めていない偶然の機会を求めているのかも知れない。だがそこで矛盾している。たぶんその矛盾のただ中にとどまっていたいのだろう。何の目的もなく、そんな一貫性を欠いた切れ切れの意識を保持していたいのか。


3月29日

 繰り返されるのはそんなことか。無駄に言葉を連ねているように感じられるが、語りにはまだ続きがあるらしい。しかし今日も君には時間がないと感じられている。だが時間がないのを言い訳にはしたくない。時間がなくても、結果的に何かしら成し遂げられればそれでかまわないのか。しかしそうやって何を期待しているのだろう。偶然の出来事はいつの日にか必然だと言いくるめられるだろうか。たぶん冗長な表現は嫌われるだろう。そう述べながら何を語っているのでもない。語らずともわかるようなことは語られないだろうが、わからないことは相変わらずわからないままである。ここには魔法の言葉などありはしない。あるのは同じような表現に依存した似たような言葉か。たぶんそれは何かに似ていると思われる。確かにさっきまで語っていたことと、これから語ろうとすることは似ている。それを途中で投げ出さずに、忍耐強く語っているつもりのようだ。何に耐えているのか君にはわかっていないか。何もない空虚の中で、何もないことに耐えているわけか。しかしそれではつまらない。ではもっと大げさなものに耐えているように装いたいのか。だがそれでは何か軽薄な印象を受けかねない。見え透いた嘘はやめてほしいか。くだらぬ断言には中身がない。しかし中身を求めるのなら、別の機会を待てばいいか。中身が何もないのに、何もない事実まで吐き出してどうするのか。では何もやることがない人は気晴らしに何を求めているのだろうか。例えばメロドラマのお涙ちょうだいシーンに、わざとらしく涙することを求めているのだろうか。たぶん多くの人から共感を得られた話には、わかりやすさが貼り付いているのだろう。そう思われるのは、共感と呼ばれる幻想を多くの人が信じているからか。幻想ではないと思うから信じられるのだろうか。いつの間にか君は文章のわかりやすさを信仰している。しかしそれは真実ではないことも承知している。そうやって嘘と冗談とともに真実を覆い隠そうとしている。そんなやり方でそれをやり遂げるだけの時間は、まだたっぷりあるはずだ。現実にはそんなわけはないが、紋切り型的にはそこでそんな表現が求められているはずか。それは君の勘違いだろうが、とりあえず時間がないのに、そんな状況は気にしていないように振る舞っているわけか。気にしている暇さえないらしい。暇さえないが、それでも説得力のある内容を求めている。それは無い物ねだりというものだろうか。実感としては何をねだっているわけでもないが、無い物ねだりと述べれば、そんな表現が状況に適合するような気がしてくる。だがやはりそれでは冗長な言い回しになっているか。ではどうすれば文章がすっきりするだろうか。打開策を模索しているわけではない。打開できないから苦悶していて、苦し紛れに安易な手段に頼ろうとする。とりあえず他人の真似などはしたくないと思いつつも、真似する対象を探し求めている。もちろん本当に真似しようというのではなく、真似ているように装いながらも、真似ている対象を馬鹿にしたいようだ。もちろんそれが本音とは思えない。ではただ無駄に言葉を弄しているだけか。無駄ではないと述べるだけの自信がないか。どうやら放浪者は自らがどこで彷徨っているのかを知らないらしい。積極的に知ろうとしていないようにも感じられる。要するにわけのわからない状況の中で彷徨っていたいわけか。そんな迷路の成り立ちは道路工事中の立て看板から生じた。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただ他人から嫌われることを恐れているわけか。それらの間につながりは何もなさそうだ。それでも日付的には、徐々に終わりへと近づいているつもりのようだ。だから言葉と言葉の間につながりを見いだせない現実は、この際無視すべきなのか。しかしいくらやってもやり足りないと同時に、常にやりすぎている事態に遭遇している。やりすぎているから言葉が足りなくなっているのであり、それによって同じ表現が繰り返される事態を招いている。しかしそれでかまわないわけはないだろう。


3月28日

 夕暮れ時に眠っている場合ではないらしい。今は切羽詰まった状況ではないのか。ではそれ風の表現で文章を構成すれば気が済むだろうか。気が済むわけもないが、一応は無駄な悪あがきをやっておくべきか。何かをやる気はあるが、現実には何もできないとき、そんな息苦しさに耐えかねて、画面から顔を背ける。たぶん今日もそれをやらないと先へ進めないらしい。何を語っているのか知らないが、繰り出されたそれら言説は絶えず循環している。そしてそれ以外に何もないときは、過去の時空からいつもの状況が押し寄せる。いったい君は何をやっているのか。想定される様々な行為の中から、何をやるかについての優先順位はない。その時々の状況に合わせて何かを適当にやっているつもりらしいが、そのことについてどのように語ろうと、それが奇異に感じられるのはなぜだろう。それは何かではなく具体的に何なのか、それを特定できないことがおかしいのか。またいつものパターンに陥りそうになる。君はいったいそこで何をやっているつもりなのか。つもりではなく、これからやろうとしているわけか。そのことについて、君はいつもうまく立ち回ることを心がけいるそうだが、そこから先に立ち回る場所がないことを知らない。その後の君がどうなったのか、それを知る人が未来の時空に存在し得るだろうか。しかしそれはいつの話なのか。いつでもかまわないのかも知れない。今は夜であり、夜空を見上げれば、暗闇の中に宇宙が広がっている。ならばそれは夜の話だろう。しかし夜空に輝く星々はただの星だ。それがどうかしたのか。それ以外に星が存在するだろうか。存在してほしいと願えば彗星でも現れるだろうか。君は何かの冗談のつもりでそんなことを語っているのだろうか。何となくわざとおかしなことを述べているような気がする。だがそれを続けていれば、いつか終わりの時を迎えられるはずか。そんな信念が揺らぐことはない。それは信念とはいえないだろう。投げやりな気持ちを信念と取り違えている。しかしそうやって何を続けているつもりなのか。つもりではなく現実に続けているようだ。だが未だに何を続けているのか、という問いに明確な答えはなさそうだ。そこで前もって用意された問いに答える義務はないだろう。しかしいったいどんな問いが用意されていたのだろう。そんなことは承知している。絶えず問い続けるという行為が用意されていたのか。だが絶えず、自らが何をやっているのか、と問うことのどこか用意された問いなのか。同じような言葉を循環させていると、次第になぜそうしているのか疑問に感じるようになるのか。そして何を続けているのかよくわからないが、それでも何かしら続けているという現実に嫌気がしてくる。今は問うことを続けているだけであり、なぜ問うのかよくわからないが、そのよくわからない状況から逃げてはだめなのか。だがなぜだめなのか理由がわからない。そういうわけでわからないことになっているようだが、たぶんそれは嘘なのだろう。君にはそのわからない理由がよくわかっている。わかっているがそれを言葉にできない。明確に語ってしまえばそこで終わりとなってしまう。それがとりあえずの答えだろうか。そして答えはいつも流動的に変化していき、かつての答えがいつの間にか問いとなっている。君ははじめから答えを提示しておきながら、それが問いだと執拗に主張しているようだ。ここで問われているのはそんなことではないはずか。問われていないことまで問おうとする態度は受け入れられない。しかし受け入れられるような問いもない。自らに何を問うてもそれは問いになっていない。それは問いではなく答えなのだ。どんなに言葉を弄しても答え以外にはなれないだろう。答えが導き出される途中において、もうすでに問いには何度も答えているはずだ。答えられないことにも無理に答えているかも知れない。そして間違うことをいとわないので、いくらでも間違った答えを提示してきたつもりか。ここで答えの正しさなど求めても仕方ないだろう。問いも答えもどうでもいいことのように思える。


3月27日

 日々どこかで愚かなことが行われている。だがそうでなければ人は何も思わなくなるだろう。その愚かな行為によって君の人格は形成されている。人格などというものに興味はないか。興味があるのはその後の成り行きか。誰かと誰かがどこで出会い、そしてどういう理由で別れたのか、などということに興味はないか。例えばそれが有名人だったら、にわかに興味を覚えるわけか。そこにはどのような仕掛けがあるのだろう。仕掛けなど何もなく、ただそういうことに興味があるだけだろう。人は希少価値というもの惹かれる。ありふれたことには興味を示さないが、しかしそういう人自身には希少価値があるわけはなく、そういったものに興味を示す人はありふれている。そして今や希少価値自体がありふれている。人々がそれを探しすぎるからありふれてしまうわけだ。同じものにみなの興味が集中してしまうと魅力が失われてしまうのかも知れない。他人と同じものを求めることが恥ずかしく感じられるようになる。人は絶えず幻想を追い求めている。自分独自の趣味を形成したいのだ。何かしらこだわりを持って生きていたい。自分だけが気に入っている、ある特定のものに価値を固定したいわけだ。そしてその特定のものに関しては、自分が第一人者だと自負したい。自らが設定した価値観に自らを縛りつけて、そんな自業自得のただ中で遊んでいたい。恥知らずな人々はそれを他人に強要したりする。そんな人が権力を握ったら大変だろう。だが自分の価値観を他人に強要せずにはいられないのが人間の性かも知れない。それが妥協を知らない飽くなき闘争心を生み出していることも否定できないが、強引なやり方で価値観を他人に認めさせ、そうやって支配欲を満足させることで快楽を得るやり方は、屈服させられた人々の間に反感をもたらす。そこからやがて復讐心が生み出され、容赦のないやり方で勝利の美酒に酔いしれている者に襲いかかるだろう。そこではやられたらやり返すのが正義を行使する唯一のやり方となる。苛烈な世界がそこで繰り広げられる。そんな世界が画面上に映し出されている。それを眺めながら何を思う。何も思わないわけにはいかないか。君はそれらの何に感動したつもりになっているのか。断片だけでは感動できないか。しかしそれらのすべてが映し出されることはないだろう。すべてではないからそんな世界を構成することが可能なのだ。そのような部分だけをかき集めてくればそんな風になるだけか。誰もがそれ以外があることを知っている。それ以外がないとやっていられなくなる。適当なところで妥協する余裕がないと息がつまる。譲れないことばかりでは疲れる。過酷な競争は何としても避けなければならない。そうするために人には知恵が備わっているわけか。それでも自己実現を望むならば、様々な駆け引きを身につける必要が生じてくる。時には他人をだまして利益をかすめ取るやり方が有効な場合もある。他人に目的のためなら手段を選ばないことを悟らせてはまずいわけだ。そのためにはだまさなければならない。だまして油断させておいて、もはや手遅れになるまでだまし続けることができれば成功だ。他人の優しさにつけ込み、しかもつけ込んでいることを悟らせない。そんなやり方で自己実現を図る人は多いが、たぶんそうやって他人を利用しなければ何もできないのかも知れない。互いに利用し合わなければ、何の進展も起こらない。他人から利用されていることを承知しながらも、それを逆手にとって自らの影響力を拡大しようとする人もいる。それを利用すればするほど、利用しているもの自体に染まってゆく。そんなまるでインフルエンザウィルスのように他人を侵し続けるやり方もある。案外仕掛けの正体とはそんなものなのかも知れない。特に人が抱いている欲望に働きかける類のものは蔓延しやすい。最大公約数的な欲望が標的となっていることは言うまでもない。そこに焦点を合わせて誘惑の罠をしけるわけだ。


3月26日

 何を考えすぎているのか不明だが、それはたぶん思い過ごしだろう。この世界の中で見聞する何事にも驚きを感じなくなって久しい。CMを挟んで何やら衝撃的な事実が明らかにされるそうだが、別にそれは誰が驚くようなものでもないだろう。しかしそのとき君は何を見聞して驚かなかったのか。肝心のそれが省かれているのは驚きか。驚く以前に意味不明だろう。誰が何を見聞きしたのかが不明のままでは誰も驚きようがないか。君は驚きを感じるような環境には暮らしていないのかも知れない。あるいはその場で多少は驚きを感じる時もあるかも知れないが、ただそれが記憶に残らないだけなのかも知れない。ではそれらは記憶に残るような驚きをもたらさないということか。記憶には残っているのかも知れないが、それを思い出そうと努力する気にはなれない代物なのかも知れない。要するにそれはつまらないものなのであり、つまらないものに無理に驚いたとしても、到底退屈を紛らすには至らず、結局疲労以外は何も感じないだろう。大げさなBGMとともに驚愕の真実と呼ばれるものがいくら明らかにされようと、それらの状況がどうなるわけでもない。ところでそれらの状況とは何なのか。それは人を驚かせて金を儲けようとする浅はかな魂胆が蔓延している状況のことか。なぜそれが浅はかだと思うのだろう。別に浅はかであってもかまわないだろう。その軽薄さによって人々は安心するのだから、何もそれは否定されるような行為ではないはずか。だからそれらの現象に遭遇したからといって、無理に驚く必要はないし、わざとらしく驚いても状況には何の変化ももたらさないだろう。そのような水準では何も変化せず、その機会は永遠に訪れないだろう。また君は気まぐれに何を語っているのか。とりあえず今は何かを語っているらしいが、それがどうしたわけでもない。切羽詰まっているはずなのに、張りつめた雰囲気を感じない。それらの意識は緊張感を知らないかのように弛緩しきっている。しかしそれでどうしたのだろう。確かに何かを語っているようだが、例えばそれは、画面上で演じられているありふれた物語のことでも述べているつもりなのか。そうやってまたもやありもしない物語について言及してしまいそうになる。何やらどこかの誰かはもはや疲れを通り越して、次第にハイな気分に近づきつつあるようだが、そんなわけはないと翌日の意識は思うだろうか。ハイな気分などというものには何の実態もない。それは誰の意識が感じる気分なのか。そんなことを語っているうちに、すでにその翌日を遙かに過ぎているような気もしてくる。驚きを感じないということは、長く生きていることから様々な経験が積み重なってきており、そのことで過去に経験した出来事と似た出来事に遭遇する機会が、相対的に多くなってきただけなのかも知れず、かつて経験したことと似たように感じられる出来事に驚かないのは当然のことかも知れない。またそのような経験について言葉を弄せば弄するほど、以前に語っていたことの繰り返しになってしまう。そんな内容で語りたくないのならば無理に語る必要はないか。何も君が語らなくても、他の誰かが同じようなことを語っていることだろう。しかし誰がそんなことを語るだろうか。いったい誰に期待しているのか。別に期待しているわけでもなく、いつものように何を思っているのでもない。誰もそんなことは望まないし、当然君も望まないだろう。そこにいかなる必然性も見出されるわけがないか。では必要もないのになぜ繰り返し執拗に語っているのだろう。必要でないと述べたのは嘘偽りか。あるいは実際には必要のないことをやり続ける一方で、意味もなくそれが必要だと思い込もうとしているだけか。自らに嘘をついているのかもしれない。たぶんそうすることが架空の君にとっては必要なのだ。必要だからこそ語り続けているわけか。ならばそう思いたければそう思っていればいいだろう。だが誰がそう思っているのか架空の君には知り得ない。君が知っていることは誰もが知っていて、君が知らないことは誰も知らないことだろうか。どこかの誰かはそんなはずはないと思いたい。何やらわけのわからないことを語っているようだ。


3月25日

 今さら奇跡を信じるわけには行かないが、場合によってはそれに近い状況になることもあるだろう。確率的にゼロパーセントはあり得ない。わずかでも可能性があればそれに向かって努力すべきなのか。絶えず危機的な状況に身を晒している者は、そうでない者より生き残る確率が高いというのは本当だろうか。その場の状況にもよるだろう。危機的な状況下で絶えず神経をすり減らしている者は、そうでない者より疲労しているだろうし、度重なる激務で心身が消耗しきっているかも知れず、そのことが原因で病気になったりして、結果的に短命に終る確率が高い場合もあり得るだろう。たぶん心身を鍛えるには、人によってタイミングがあり、時機を逸して鍛えても却って逆効果になってしまうのかも知れない。だが今がその時機だとは断言できない。いったい君は言葉を弄して何を鍛えているつもりなのか。キーボードを打つタイピング術でもマスターしようとしているのだろうか。よくわからないことをひたすら繰り返している。もうあまり考えを巡らすときではないらしいが、やはり何かしら考え続けていなければやっていられないようだ。しかし何を考えているかは直接言葉で示されない状態が続いている。いつも考えているとは述べられるのだが、その考えている内容がよくわからない。たぶん何かしら考えているのだろうが、意識はそれをどう表現したらいいのかわからないのかも知れない。どうも述べていることと考えていることの間にはかなりの背離があるような気がする。たぶんそれは裏腹の関係とは少し違うようで、互いが並行しながら推移していて、それがどこかで交わることはないのかも知れない。しかし意識はそれらが交わる点を絶えず模索し続ける。思考と言動が一致しなければならないという固定観念にとりつかれているように思われる。だが現実には一致していなくても言葉を繰り出すことは可能だ。しかしその繰り出された言葉が気に入らないのだろう。考えていることがまったく反映されていないような気がする。いったい君は何を考えているのだろうか。なぜそれが言葉として顕在化しないのか。どうして連ねられた言葉は君の思考とは無関係なのだろう。しかし現実の君にどのような思考があるというのか。それを言葉で表現できなければないも同然ではないのか。過去において、たまにはそれが述べられた機会があっただろうか。あったかも知れないし、なかったかも知れない。今はそれを思い出すことはできない。その代わりに思い出されるのは意味不明な言葉の羅列を構築しつつあるときか。そして構築された結果を読んで落胆しながら、そのような構築物の内容を疑わしく思う。いったいそこには何が述べられているのだろう。何かしらいい加減で適当なことが述べられているようだが、その結果に満足できないのはどうしてなのだろう。そんなことはわかりきったことで、そこに自らの思考が反映されていないように思われるからか。しかしその自らの思考とはどのような内容なのか。結果として言葉で示されない限り、その内容がわかる機会は永遠にやって来ないだろう。そしてそこで言葉が循環している。未だありもしない思考を巡って、あたかもそれがあることを前提としているかのように、それについて何やらよくわからない言葉が繰り返し連ねられる。すでにもう何度もおなじことを述べているような気になってくる。それはすでに語られたことではないのか。今さら何を述べているのだろう。そんなことはわかりきったことだと何度述べれば気が済むのか。それでもまだ語り足りないのか。では今からそれとは違うことを述べられるのか。やはりそんなことはわかりきったことか。たぶん君はわかっていながらそれらの状況を放置し続けているように思われる。それをやり続ける君は、もはや自らが確信犯であることもわかっているはずだ。そうでなければ継続は不可能だろう。


3月24日

 いったい彼らは何をやっているのだろう。現状としては、そして誰もいなくなった、とでも述べれば納得するだろうか。しかしそれで誰が納得するのか。とりあえずそこに居合わせた誰もが納得して欲しいわけか。だが誰が納得して欲しいと思っているのか。しかしそこに何があるというのか。それでも残った老人たちは勝ち誇りたいわけか。去り行く人は誰もがあっさり引き下がってしまうので、自分たちが残ったことに満足しつつも、内心焦っているのかも知れない。中には納得できずにまだやり続けたい者もいるらしいが、それらの未練がやめる方針に勝つことはないだろう。未練がましさは新たなる旅立ちには似合わない。去り行く人達は、負け残りが勝ち残ったと勘違いしていることを知っているのかも知れない。まともな人達が去った後に生じている、それらの状況に満ち溢れているものは、常にありふれた言葉で満たされ、架空の内面で幻想を追い求めることに疲れ果てた老人たちの姿だろうか。それでも残りかすたちはそれらの行為をやめようとしないだろう。まだ物語は終っていないと思い込んでいる。ではそれらの物語はいつ完結するのだろう。それに関して誰かは最近つまらないことを述べているようだ。彼らはさらなる道行きにおいて何を求めているのでもない。ただ現状に心身を合わせようとしているだけなのであり、それでも何かしら閉塞状況の出口になるような言説を模索しているつもりのようだが、やはり思考の対象となる具体的な主題を見出せないでいるようだ。そして大したことは何も見出せぬままに、徒に言葉を弄し続けている。その往生際ぎわの悪さには病的な感情も見えかくれする。起死回生の一撃が見出されることをひたすら信じているのかも知れない。だから実質的にはもうすでに終りかけている言説を執拗に蒸し返し、それらのすべてが終ってしまったとは到底思えない、と自らに言い聞かせているのかも知れない。だが彼らがそうまでして紡ぎ出そうとしている物語とは具体的に何なのか、それがここに至ってなお見えて来ない。ではそれが何かもわからずに、それ以上語る必要がどこにあるのだろう。必要がなくても語ることの意味とは何だろう。ならば今すぐ終りにしなければならないのか。終りにすることにどんな意味があるのか。いったい何をもって完了したといえるのか。まだ終ってはいないように感じられるのはどうしてなのか。しかし何が終らなければならないのかを知り得ない。残った人のうちで、誰が消えようと、それらの状況が変化することはない。相変わらず誰も自分が何を述べているのかわからない状態が続いている。君たちはそこから何をどうしたいのか。君たちが知っていることのすべてが、本当のすべてでないことはわかっているが、本当のすべてなど誰にも知り得ないだろうし、それどころか本当でない嘘のすべてさえ知り得ないのかも知れない。嘘も本当もすべてとはなり得ないのであり、それらを合わせてもまだすべてには達しないだろう。そしてそれは、単に本当と嘘とすべてという言葉の組合せから生じた言葉の連なりについて、あれやこれや推測で述べているだけであり、それを知っているか否かは、それを受け取る各人の思い込みの問題に過ぎないだろう。自分がすべてを知っていると思い込んでいるなら、何かのきっかけでその思い込みが覆されない限り、その人間にとってそれはすべてを知っていることになるだろう。確かにそう思い込んでいるうちにはそうなのかも知れないが、なぜそう思い込みたいのかがわからない。別にすべてなど知らなくてもいいと思えば、それでもかまわないだろうが、思慮の足りない人々は、必ず自分が興味を抱いていることのすべてを知りたがるものだ。要するに噂の真相を絶えず求めている。そしてそこから知ることの不可能な幻想が生まれるわけだ。自分が知っていることのすべてが自分に関係していると思い込む。そしてそんな幻想から馬鹿げた誇大妄想が生じることになる。自分と赤の他人との距離を無視して、赤の他人の生活や思想信条に介入しようと試みる。そんな何にでも興味を抱かせるメディア至上時代が、ストーカー的な人格を形成しているのかも知れない。


3月23日

 構成された言葉の配置がおかしい。意味をなさないのは毎度のことだが、それらの文章を記述している者までが無意味になろうとしている。意味を導き出そうとする気持ちと意識と、それを保持し続けようと試みる意志までがどこかに放り出され、意味不明に分散しながらバラバラになる。何を考えているのかわからないと思っているのが自分自身だとしたら、その自己は何を思っているのだろうか。たぶんそれをわかりたくないのかも知れない。わかってしまう自分を信じられないようだ。やはりそれは苦し紛れから生じる思いなのか。なぜそうなってしまうのだろうか。たぶんどこの誰がそれを読んでいるわけでもないだろうが、当初においては、それは何か冗談のつもりで記された文章だったかも知れないが、記述を重ねるうちに、いつしか本気になってしまい、くだらぬことに本気になっている自らに気づき、そんな自分に飽きれ果て、次第にもうやっていられないと思うようになる。たぶんいったんそうなってしまったらしめたものだろう。これまでにやってきたことがどうでもいいように思われ、まるで価値がないことを必死になってやってきた自らに愛想をつかし、そんな自分が今までの自分ではないように思われてくる。自由とはそういう状況をいうのかも知れない。今言葉を連ねている人間が何を考えているのか定かでない。特定の思考から解き放たれて空虚な気分を経験する。たぶんそれでいいのかもしれないが、ことの善し悪しとは無関係だろう。そんな状況を否定するつもりならいつでもいくらでも否定できるかも知れないが、まだ性急に結論を出すわけにはいかないような気がしてくる。否定的な断言に酔ってしまうことは避けなければならない。見通しのきかない状況での近視眼的な思考は無駄に誤解を招くだけか。しかし最終的にはそれらの状況によって何がもたらされるのだろう。それらの状況とはどんな状況なのか。それ以外に何も思い浮かばないとき、それらの背景にどんな雰囲気を構成しようとしているのか。要するにただの虚無なのか。だがそんな断言はすぐに意識から排除され、虚無の内容を言葉で表そうとしている。夜は何を思い出すために存在しているのか。かつてはそこに規則的な意識の逡巡があったかも知れないが、もはやなおざりにされつつあるその規則を今ごろになって持ち出すことに、どんな意義があるというのか。その規則とは何だったのか。それを思い出そうとするとまた元に戻らなければならない。たぶん過去と同じ状態を再現できるはずもないし、無理にそんな状況をこしらえても、その中で正気でいられるはずがない。ただ文章の上ではそう思いがちになっているだけか。では未来に向けてどんな規則を構築しようとしているのか。わけのわからない混濁した意識は、過去と未来の間にどんな連続性を示そうとしているのか。それが意識である確証もないのに何を述べようとしているのだろう。眠気に逆らいつつ何とか言葉を連ねているらしいが、それは昨晩のことだ。ならばいつものように何を述べているのか定かでないのも数日前のことか。では過ぎ去った時の中で何をやっていたのか思い出せなかったのはいつの日のことだろうか。いつの日でもなく、いつの日でもある。そんなことはよくあることで、いちいち特定の日付まで覚えていられないか。そんなわけで空虚に覆われた仮想空間の中に存在しているつもりの自己は、何一つまとまりに欠ける意識の断片を拾い集めた側から周囲にまき散らしている。今君はどこを向いて語っているのだろう。窓から眺めている景色の何が気に入っているのか。そこには何もないような気がしているのはどうしてなのか。しばらく間を置かれ、正気の振りをしながら何もない夜はまだ続いてゆくような予感がしている。君は意味のない夜明けに何を見出すのか。たぶんいつものように何も見出せないかも知れない。ではいったいどこを見ているのだろう。わざと見ている場所を特定できないように振舞う。何を思うでもなく、やはりそれでも何か適当なことを思っているつもりになる。ジグザグにぶれながらまっすぐに進んでいると思っている。どこへ進んでいるかは知らないままに、そんなことを感じているうちにも景色は次第に遠ざかり、もうすでに何も思い出せなくなるくらいに遠くへ行ってしまう。それらの出来事は何だったのか、その意味を理解できないうちに次の出来事に遭遇してしまう。だから出来事の内容を示すことができないのだろう。


3月22日

 誰かの記憶によると、君の気持ちは揺れているそうだ。暴力は世界を破壊する。そして暴力によって破壊された世界に言葉が蔓延る。そんなわけはないか。暴力をふるう者にとっては暴力も言葉も共存共栄でいきたいところか。言葉による暴力にはそんな願いが込められているのだろうか。君は何が暴力なのか思い当たる節はないか。要するに、精神薄弱者の暴力依存傾向が言葉の貧困を招いている、などと利いた風な意見を述べたいわけか。なるほど言葉と暴力を対立させて論じるなら、何となく説得力がありそうに感じられる。だが、暴力に頼らず話し合いで問題を解決しようとすれば時間がかかるし、話し合いを重ねるうちに、当初に抱いていた解決の有り様が変質していってしまう状況は大いにあり得る。そして話し合い自体が、現状維持を図るための時間稼ぎにしか思われない場合もあり得る。また暴力を振りかざす者に話し合いを提案するのは無駄かも知れない。いつの時代にも話し合いへの機運は暴力によって葬り去られてきた。最終的には暴力の行使こそが正義を実現するだろう。その手の漫画では、極悪非道な敵に勝つために必要とされる圧倒的な暴力が、度重なる苦難を乗り越えた末に正義を体現する英雄に付与される。途中で試みられる戦いを回避するための話し合いは必ず不調に終わり、結局は読者の期待を満足させるために、大げさな戦いが繰り広げられなければならない。どこかの誰かが唱えているテロとの戦いやそれに対抗する聖戦がマンガチックに感じられるのは、そうしたことからの影響だろうか。浅はかな人々の期待を満足させるために多くの命が失われるのも、漫画的な展開かも知れない。簡単に殺し合いになってしまうのは、人々がそれを求めているからなのか。建前としては平和を説き、本音としては殺し合いを見てみたい。現実には見ることができないので、格闘技見物あたりで妥協しているのかも知れない。もちろん痛い思いはしたくないので当事者にはなりたくない。あくまでも傍観者として見物したいだけなのかも知れない。しかしそのような成り行きの中に話し合いの入る余地があるのだろうか。冒険活劇が話し合いで終わってしまったら、それは理不尽な結末になるか。しかし現実の世界のどこで冒険活劇が行われているのだろう。画面上やスクリーン上に映るフィクションの世界以外にあり得るだろうか。実際に行われている戦争は冒険活劇とは違い、英雄が存在する余地はない。もちろん悪質なマスメディアが、自分たちの雑誌や新聞の部数や番組の視聴率を上げる目的で、特定の個人を英雄に仕立て上げて、軽薄な人々の気を惹こうとする場合はよくあるだろう。それはスポーツ選手や政治家などを英雄扱いするのと同じ手法かも知れないが、やはりそれらの報道を真に受けた一般人には戦争を肯定したい気持ちが芽生えるのだろうか。それがまかり通るのなら、それも仕方のないことか。そしてそれらの人々に考える余裕を与えないようにするには、識者と称する批評家もどきに難しいことを言わせれば、その内容を理解できないまでも、何となく納得した気にさせることができる。例えば、十九世紀の帝国主義的な思考では、国家間に生じる競争の一形態として戦争にも存在価値があるのかも知れないが、今日ではそれのバリエーションとして、国家対テロ組織という形態が浮上してきたということだ、などと意味ありげなことを説教させれば、何となく知識が身に付いたような気分になれるか。しかし話し合いはどこへ行ったのだろう。例えば、はじめから不調に終わることが目に見えていた北朝鮮の核開発に関する六カ国協議について、事前に協議の内容とは直接関係のない、日本人拉致問題について何か進展があるはず、と集中的に報じていたのは、どんな思惑に基づいていたのだろうか。やはり拉致被害者やその家族を登場させて、北朝鮮に対して憎しみや反感が増すようにをあおっていたわけか。戦争とは行かないまでも、話し合いなどは無駄だと日本国民に悟らせ、経済制裁などの対決へと持ち込みたいのだろうか。しかし仮に経済制裁を実施したとして、北朝鮮側とすれば国境を接する中国や韓国やロシアと交易していればいいわけで、それほどの痛手にはならないような気がするのだが。


3月21日

 いったいどこまでやるつもりなのか。もういい加減にあきらめたらどうか。君は誰に対して断念を勧めているのだろう。道半ばにしてまだ君は死につきまとわれているとは思わない。だが江戸時代の道行きは心中を表していたらしい。しかしこの場では誰と誰が心中することもなさそうだ。間違いに間違いを重ねながら、成り行きまかせにさらなる迂回路を模索する。しかし成り行きに逆らうことも成り行きには違いない。なぜそんなことを思うのか。友愛とは何だろう。無くなってしまったものに、あるいは亡くなってしまった者に何を思えばいいのか。近頃は感覚的に受け入れられない文章が多く見受けられる。なぜかいつまでも無駄なことを無駄なように語っているようだ。そのやり方はおかしいか。おかしいのではなく間違っているのかも知れない。あるいはたぶんそれは嘘に違いない。すでに終わりの予感は始まりから始まっているらしい。繰り出された言葉の端々に、断片的に何かの終わりが見え隠れしている。それはなぜだろう。あるいはなぜではなくどうしてなのか。やはり言葉の用法が間違っているようだ。どんなに工夫を凝らしてみても言葉がつながらない。たぶんそこには何らかの勘違いや思い違いがあるに違いない。しかしなぜこうもつまらないのだろう。いったい何をつまらないと感じているのか。他人を驚かすような話はもう要らないとするなら、いったい何を話せばいいのだろう。まだ正気に戻っているわけではないらしいが、またわけがわからなくなったらどうすればいいのか。元に戻って気を取り直し、そこから何をやろうというのか。やろうとしないことをやっているつもりか。あるいはいつものように何もやれるわけがないと思いたいのか。そう思いながらも、結果的に適当な文章が構成されていればそれでいいわけか。たぶんそれがやろうとしないことなのだろう。そしてそこで思い誤っているのかも知れない。だがいったんそうなってしまったら、もう元に戻れなくなっている。だが簡単に戻れないことが幸いしているのかも知れない。そこに戻ろうとして無理が生じていることも、状況的には有利に働いているはずか。何事も良いように思い込めば、何となく気持ちが晴れるということか。そういうわけで、それらの身の程知らずな振る舞いにも、何らかの未来があるのかも知れない。少なくとも何も強制されていないはずだ。無理強いされることなく無理を押し通すことが可能らしい。そしてそれは、いとも簡単に実現されつつあるように見せかけられている。わざとらしく嘘をつくなら、実際に簡単なのだから仕方がない、ということか。現実には簡単になされるようなものなど何一つありはしないだろう。確かに簡単ではないが、まるっきり不可能でもないようなことをやっているわけか。だが本当に何をやっているのだろうか。絶えず物事の本質から逸れてゆくような感じがする。言葉を繰り出せば繰り出すほど何もない空虚に近づく。しかしそうすることに不安は感じない。本質から逸れながら逆に本質に近づいているのかも知れない。もちろんそれは勘違いや思い違いの類だろう。だがだんだんそれでもかまわないような気がしてくる。元からそこに何があったわけでもない。そこに山があるから登るのとはわけが違うような気がする。動機など何でもよく、そのどうでもいいような動機がどんな結果に結びつくこともないように思われる。原因と結果の間には何の因果関係もなさそうだ。たぶんそれらは原因でも結果でもないのかも知れない。ではそこに何があるのだろう。元から何が原因で何が結果なのかが示されていないということか。それはそこではなくここにある事実かも知れない。ではここにある事実をふまえて何をすればいいのか。まず手始めに原因とは何かを探らなければならないか。そしてこれからどうすればいいのかを考えねばならない。しかしそれに対する解答はすでに持ち合わせていて、どんなに考えてみてもどうすればいいかなんてわかるはずがない。考える以前に、すでにどうにかしているのだ。


3月20日

 君は君自身から離れ、ついでにこの世界から遠ざかる。どうも君は話をまとめようとする気がないらしい。意識はいつもありふれた空想につきまとわれ、夢から醒めたよく朝には、白紙の上に適当な文字が記される。たぶんそこにはいい加減な作り話でも生じていることだろう。耳を澄ませば、誰かのつぶやき声が文字と文字の間から聞こえてくるかもしれない。そんなことはあり得ないか。それは何かの聞き違いだろうか。誰が聞いているわけでもなく、聞いているのではなく喋っているのか。では誰がその喋りを聞いて喜ぶのか。しかし何を語っているのかわからなくなってきた。たぶん眠っている意識は夢の中で何かを思っているのだろう。その夢物語の中で思いがけない事態に遭遇した君は、一瞬そんなはずはないと思うはずか。そして次の瞬間には、何を予想していたのか忘れていることに気づく。そのとき見ていたのは何かの幻影だろうか。幻影ではなく幻想的なアニメーションの一種だろう。しかしありふれた空想とはどんな内容なのだろう。どこで何を空想していたのか思い出せない。それは夢の大地で誰かが魔法を使って悪魔と戦う話か。そこで使われる魔法の種類は魅力的でなければならない。それはいったい誰にとって魅力的なのだろう。それはあからさまに魔法とは呼ばれず、結果としては魔法と同じような作用を及ぼすのだが、何やら疑似科学的な言説とともに超能力的な力として説明され、オタク系のアニメが好きな人々の間ではリアリティを持つような魔法もどきになるだろう。その手のアニメーションは原因と結果を短絡させることによって神秘的な魅力を引き出そうとする。そのためには何やら不思議な力を登場人物達に付与しなければならなくなる。また単純な勧善懲悪的な内容では飽きられてしまうので、敵と味方の間に微妙な人間関係を設定する。しかしそれがどうしたというのか。そんな説明ではまったくおもしろくない。おもしろくないからその先には無関係な言葉が連なるだろう。例えばどこかの液晶画面上に現れた怪しげな人影の頭上には、広大な闇があり、その果てしなく広がる闇夜の空に無数の星が輝いている。そこで誰が星空を眺めているのだろう。誰が何を眺めているわけでもないらしい。確かさっきまでは眺めているのではなく、何かつぶやいていたはずだ。では架空の誰かはそこで何をつぶやいていたのだろう。それを聞いているつもりの君にはそのつぶやきが耐えられない。だからつぶやきに抗って何やらつまらないことを述べているようだが、述べている内容がつまらないので、文章上ではその内容は省かれてしまい、仕方がないので、そのつぶやきには全く興味がないふりを装う。そして今や君は、ただ闇雲にすべてを否定しなければならなくなる。だがまるで呪文のように繰り返し唱えているそれらの否定的な意見は、いったい何を攻撃しているつもりなのか。実際にそこで否定されているのは、例えば誰もが自由に生きる権利だったりするわけだが、それは権利ではなく幻想ではないのか。生きる権利など否定しようとしまいと、やはりそれもどうでもいいことであり、権利があったりなかったりするのは、憲法か何かの文章に記されている言葉の上でのフィクションに属することだ。権利があろうとなかろうと、誰もがそのときの状況に左右されながらあるがままに生きているだけであり、それをどうにかしたければ、それなりの戦略に基づいて行動に訴えれば済むことだろう。しかしなぜどうにかしなければならないのだろう。たぶん行動を起こす理由など見つからないだろう。現に見つからないから何もできずにいるわけか。何もできないままにただ時間が過ぎさってゆくだけか。今は真夜中ではないはずだが、昼のただ中に何を思っているのだろう。言葉を連ねるには何も思わないわけにはいかないところか。何も語らずに何をやっているわけでもないが、沈黙に囲まれながら何も思わないのはおかしいか。


3月19日

 真夜中に何を思うでもないのはいつものことか。また真実を述べれば必ずそれに対する反発が起こるのもいつものことか。では世論調査の多数意見でも述べていれば何の反発も起こらないだろうか。倫理的にはそんなクズのような行為はつつしむべきなのだろう。しかしそれ以外に何を述べればいいのか。そんなことはすでにわかっていることだが、わかっていることを述べるには抵抗感がある。そこには何か偉そうな内容になってしまう危険性が潜んでいる。それでもたまには利いた風な意見も表明すべきだろうか。しかし、何の落度もなかったわけではないが、連日マイクやカメラを向けられ、質問とは名ばかりの抗議攻めに遭って、まるで集団リンチのようなやり方に耐えきれずに自殺してしまった養鶏業者や、また何の落度もなかったのに、自分が飼っている牛に狂牛病が出たことが周囲に知れて、そのことで子供が学校でいじめられたことにショックを受けて自殺してしまった母親などに、今さら同情しても仕方がないか。真面目な人の末路とはそういうものなのだろう。たぶんそういった人達は、自らに攻撃を仕掛けている対象がいかに馬鹿げた人達や制度であるかを知り得ないのだ。それが世の中のすべてではないどころか、そんな人達や制度などこの世界のほんの一部分を占めているにすぎず、それらを無視しても生きていくには何の不都合もないことを知り得ないのだ。それらの人達や制度が振りまく、世間の常識や良識というものを真に受けるほど愚かなことはない。だが馬鹿げた人達や制度にとっては、その程度の人々が大勢いないと困るのであり、そんな人々を相手に商売を繰り広げているのだから、世間の大半がそれぐらいでなければ、なかなかだましてものを売りつけることはできない。そしてそれは何も実体を伴ったものを売りつけることばかりではなく、自分たちがやっていることに関心を向けてくれさえすれば、それが利益につながる商売でもある。もうそれらの人達や属している機構は、実際の売り買いには直接関与しておらず、それらは昔ながらの商売の呈をなしてないのかも知れないが、とりあえずそれらの詐欺師あるいは詐欺師もどきにとっては、世の中の大勢が常にその程度で推移してくれることが望ましいのだろう。しかし誰があるいはどんな機構が詐欺師あるいはその立場を有しているのだろう。それは大勢の人々が日々接している情報の流通に関与し、あわよくばそれを受け取る側の意識を、自らが発する情報によって支配しようと目論む人達あるいは組織のことか。また何も完全に支配しようというのではなく、一刻でも魅了すればそれでかまわないのかも知れず、それで利益が出るのならそれに越したことはない人達、あるいは組織のことか。とりあえず彼らは広く浅く世の中の隅々にまで罠を仕掛け、その罠にはまってしまった人々をマインドコントロールしたいわけだ。何でもないことを繰り返し報じて、それを受け取る人々がその事態を深刻に受けとめるように、絶えず大げさに騒ぎ立てている。そんな人達や組織が特権階級を気取ってのさばり続けているうちは、いつまで経ってもそんな愚かしくも悲惨な事件が繰り返されることだろう。だからこそ、誰もがそのような特定の目的によって閉じられた装置には頼らずに、自らの思いや考えを様々な機会や場を利用して発信するべきであり、そのためにインターネットが存在するわけか。またずいぶんときれいごとの結論に至ってしまったようだが、とりあえずこの場ではその程度でもかまわないか。


3月18日

 晴れた日に誰かは何をしているのだろうか。たぶん何かやっているのだろうが、その何か以外には何をしているわけでもない。誰が何をやろうと、その誰かにとってはどうでもいいことか。そうやっていつまでも天気の話をしているわけにはいかないか。だがそれ以外に何があるのだろう。いつ雨が降っていたのか忘れてしまったが、話の内容の方は、また最近よく使うパターンになろうとしている。結果的に何を語っているのでもないようだが、今日も何かしら意味のない言葉を連ねているらしい。しかしそれ以上に何ができるのか。何もできないから、おかしな方向に話を進めているのだろう。しかしある一定の方向に偏らない話などありはしない。そうやって誰もが各自の都合に合わせて適当な話をでっちあげているわけか。そういつもいつもでっちあげられた話ばかりではないだろう。中には真実を語っている話もあるだろうし、たとえ話の内容が虚構であったとしても、寓意を通して世界の本質を物語っている話もあるはずか。ではどうやればそのような本質をでっちあげられるだろうか。だがなぜでっちあげなければならないのか。どうしてでっちあげることに固執するのだろう。見聞した通りに、あるいは思った通りに、素直に語ればそれで良いのではないか。それができないから悩んでいるわけか。だがいったい誰が悩んでいるというのか。どこの誰がでっちあげることに固執しているのだろう。現実に誰かが悩んでいるとして、それは当り前のことであり、むしろ悩まない方がおかしいのではないか。たぶん素直に語っている者にも何かしら悩みがあるはずだ。しかしその悩みは語ることとは無関係の悩みではないのか。なぜ率直に語ることが悩みをもたらすのだろう。例えば、なぜ素直にしか語れないのか、どうしてひねくれた見解を示せないのだろう、という悩みもあり得るかも知れないが、それはひねくれた想像でしかないだろう。無理矢理こじつけた感が否めない。それこそが素直に語る者を妬むひねくれ者が想像する、わざとらしいでっちあげにすぎないないか。そのような見解こそがひねくれた見解であり、そんな風に想像すること自体がひねくれ者の本質を物語っているだろうか。ならばいったいひねくれ者は何を悩んでいるのだろう。とりあえずひねくれ者らしくひねくれた見解を示せたのだからそれでいいのではないか。その程度では飽きたらないか。まだひねくれ足りないということか。できることならそのひねくれ者は、素直な者を装うことを目論んでいるのであり、率直な見解をでっちあげなければならない、ということになるだろうか。そんな物語が過去にあったかも知れないが、別にそれが大げさな物語である必要はなく、わかりやすい簡単な見解を示せたらそれでいいということか。しかしもうすでにわかりにくい話の最中なのではないか。それらのわざと込み入らせたような話は何を物語っているのだろうか。やはりひねくれ者の本質だけか。それ以外に何か寓意的な内容を含んでいるとでもいうのか。ただ寓意的な内容を含んでいるとほのめかしているだけか。そして何かに悩んでいるともほのめかしていたはずか。その二つを合わせれば、寓意的な内容をでっちあげられずに悩んでいるということになるだろうか。たぶん他に何か語っていたかも知れないが、結論としてはそんな安易なものでもかまわないか。それでも一応は何かやっていることに変わりはないか。しかしそれで満足できるはずもなく、絶えずそれ以上の話をでっちあげようとしていることは確かなようだが、現状ではなかなかうまくいっていないようだ。要するに日々見聞することもそれについて思うことも、どうでもいいようなことばかりなのか。


3月17日

 雨降る夜はいつのことだろう。いつの出来事でもなく、それは単なる作りごとか。架空の雨を想像してみよう。中には黒い雨というのもあるらしい。確かそんな題名の映画が有名なのかも知れない。白い雨は雪になるはずか。雪は雨ではないだろう。雨の降らない土地は珍しい。そんな風に思えるのは湿潤地帯に暮らしているからか。水星では雨は降らない。水曜日に雨が降らないこともある。海に降り注ぐ雨は無駄かも知れない。熱くなった頭を冷やす雨は有用なのか。放っておくと風邪をひくだけか。放っておかないはずがない。風邪になったら風邪薬でも服用すればいいだろう。風邪になるのはいつだろう。きっと忘れたころになるはずか。老人は風邪をこじらせて肺炎にかかって死ぬことが多い。そんな死に方は嫌か。できることなら死にたくないという思いは、心身が健康な時に抱くことが多いだろうか。人が死ぬ原因は千差万別であり、死因はいくらでもあるだろうか。たぶん人がいなくなれば誰も死にはしない。最後の人間が死んだ以降は誰も死なないだろう。何を当り前のことを述べているのか。誰も死にたくないのならみんな死んでしまえばいい。それなら当り前からは程遠い述べ方になるかも知れない。とりあえず死ぬためには生きなければならないはずだ。生き続けることによって絶えず死の危険に身をさらし続けることになる。いったん死んでしまったらもう二度と死ねなくなる。もちろん輪廻転生を信じていれば、何度でも死ねると思い込んでいられるか。そんな宗教にはおもしろみがないか。ちょっと安易すぎるような気がする。もう少し人の限界について思いをめぐらしてみるべきだろうか。何でもありならそれに越したことはないが、現状は至るところで制限だらけだ。多くの人々が自由という言葉が虚しく響く環境に暮らしている。そこでは誰もまともな死に方はできない。しかしまともな死に方とはどんなことだろうか。死に方にまともも何もあったものではないか。例えば夫婦そろって首吊り自殺を遂げた養鶏業者は、その数ヵ月前にはまともに暮らしていたはずだ。いったい誰が彼らを死に追いやったかは誰もが知っているところだが、それをあからさまに口にする者はいない。中にはいるかも知れないが、そういう発言はマスメディアによって無視されるだけなので、表面上は誰もそんなことは言わないことになっているようだ。一連の報道によって殺されたなんて誰も言うはずがない。要するにそんな社会なのだ。狂牛病騒ぎのときも何人か自殺したらしい。そんな風に一見平和な社会でも簡単に人は死んでしまうわけだから、何も自爆テロに驚く必要はない。人の命などその程度のものなのだ。そしてそんなやり方で何を主張しようと、誰も真に受けるはずがない。いちいち他人のやっていることに目くじらを立てる必要はなく、ある程度は無視していても何の不都合も感じないのかも知れないし、誰もが退屈しのぎに野次馬気分になりすぎているのかも知れない。そんな風に世の中を見聞するだけでは馬鹿になるだけだろう。馬鹿になってもかまわないのなら一日中テレビでも見ていればいい。そしてそれに飽きたら冒険にでも出かけよう。大陸横断とか世界一周とか命がけの山登りとか、暇つぶしの手段ならいくらでもあるだろう。人間馬鹿になれば何でもできるはずか。できるはずだが、実際にやってみればできないこともあることに気づくかも知れない。そうなれば少しはましな生き方ができるだろうか。別にましな生き方などする必要もないか。たぶん必要などあってもなくても、人は適当に生き、そして死んでゆくのだろう。


3月16日

 あまり本気になれないのはいつものことだが、気まぐれに晴れ時々雨の天候を想像してみる。それはどうしたわけでもないだろう。晴れていても雨が降っていてもどれがどうしたわけでもない。ただ何となく気が晴れないので、支離滅裂な気分になりたいだけか。憂鬱な気分は天候からもたらされるときもあるだろうが、それ以外の要因で憂鬱になってしまった場合、晴れた空を眺めることが気分転換になるだろうか。時にはなる場合もあるだろう。どこかの誰かは相変わらず雑なことを述べている。誰でもない誰かは何でもないことに腹を立てている風を装う。いつもそんなポーズでは見苦しく感じられてしまうか。誰の目を意識しているわけでもない。たぶん何もかもが消失した後にそれらが何でもないことが明らかになるだろう。すべては生やさしいことだと誤解すべきなのだろうか。楽観的な気分は一時的な気休めをもたらす。それでもかまわないのかも知れないが、かまわないままでいると、それなりにかまわない状況が出現するのかも知れない。誰もが求めているのは一時の気晴らしか。それ以外は下らぬ夢や希望の類になるわけか。誰かが求めている物語ではそんな状況が繰り返される。例えば悲劇の主人公は求めていた絶望が手に入って狂喜する。そうでなければ主人公たり得ないことを承知しているらしく、自ら進んで死と戯れながら破滅への道を邁進するだろう。しかしそんなありふれた展開では感動しないが、人を感動させるために語っているのではない。また何か気の利いたことを述べたいわけでもないだろう。そこには何もありはしない。ただそんな風に思っているだけかも知れない。たぶんどこかの誰かは主人公にはなり得ない立場なのだ。そこに悲劇はない。それは笑えない状況だろうか。なぜ悲劇を笑う必要があるのか。ひねくれた性根だから皆が泣く場面では笑っていなければならないわけか。本当にそれらを笑う勇気を持ち合わせているのだろうか。ばかげた人々のことを思うと自然に笑いがこみ上げてくる。いったい誰がアメリカの大統領のことを笑えるだろうか。笑えなくとも馬鹿にすることは可能か。少なくとも偉大だとは思わない。だが状況はそんなことには目もくれない。顧みられないことばかりが行われている。振り返っている暇さえない。ただそんな具合に状況は進行してゆくばかりのようだ。事後報告あるいはアリバイ作りのためだけに言動は使用される。まずは取り返しのつかないことをやってしまった後で、そのことの是非をああだこうだと議論しているにすぎない。要するにやってしまった者勝ちということか。別に最終的に勝ったわけでもないのだろうが、とりあえずその場では、やってしまった方が気分が良いらしい。ざまあみろという気持ちに至りたいばかりに、我先に後先考えずに目先の利益を目指しているように思われる。しかもそれが最終的な利益に結びつかなくてもかまわない。利益に結びつかなければつかないで、そのときになってまた新たに何かやればいいだけであり、何ら反省する気はない。そういう刹那的なやり方が横行しているうちは、そんなやり方に身をまかせている方が気楽なのかも知れない。そうやって誰もが安易なことをやろうとして、結果的にややこしい事態に陥ってしまうわけなのだが、それもやり方を変える気配はない。それ以外のやり方を思いつかないのだから、とりあえずはそれで押し通すしかないのかも知れない。それが通用しているうちはそれでもかまわないのだろうが、はたして通用しなくなる事態が訪れるのだろうか。誰もそんなことは思いもしないだろうか。だから思いがけぬ事が起こり得るということか。


3月15日

 言葉にならない思いは記述を拒絶する。現状はどうしようもない状態のままに推移しているらしく、それについて何を語ればいいのかわからない。意識はいつものように空疎な思いに包まれているようで、何もない空白のただ中に存在する思いは、それ以上何を付け足すべきかを知り得ない。それ以外にどんな言葉を付け加えても余分な気がしてならない。とりあえずその先に何かを述べなければ、どんなに考えをめぐらそうとも、何もやっていないことになってしまうような気もするが、やはり目に見える結果が示されなければ何をやっているのかわからないだろうか。思考した結果を言葉で表現しなければ何もないのと同じことか。しかし言葉の他に何があるというのか。絵や音や映像があるが、この場ではそのような表現形態を持ち合わせていないので、今はただ無理を承知で言葉を記述するだけに留まる。そんなことはわかりきったことか。だがたとえそれがわかりきったことであっても、ここではわざとわからないふりをすべきなのか。なぜそうしなければならないかを知り得ない。そんなことを誰が知るはずもなく、そうすべき理由など何もないのかも知れないが、たぶんまだ何を述べているわけでもないのだろう。そして付け足されるべき言葉など何もありはしない。言葉を弄しているうちに何を知ろうとしていたのか忘れてしまったらしい。それは知ろうとして知ることができるようなものではないのかも知れず、たぶん誰もそんなことは知らないし、仮に知っているとしても、それを赤の他人に教える筋合いはないだろう。架空の人物が何を教えてくれるというのか。別に知り得ないことを知ろうとは思わない。それはおかしな言い草かも知れない。わかったことは知り得たことで、わからないことは知り得ないことであり、知ろうと思ってわかったことは知り得たことであり、わからなかったことは知り得なかったことになる。知り得ないことは知ろうと思わないわけにはいかないことだ。それを知ろうと思うから、結果的に知り得ないことが生ずるのであって、始めから知り得ないことなどありはしないだろう。現状がどうあれ、そこから何かを知ろうと試みなければならなくなる。なぜそれが何もない現状なのか思考せざるを得ない。なぜ何もないと思われるのか、その理由を探さなければならない。何もないわけはないだろう。何もないと思っていても、そこには何かあるはずか。たぶんそこには空虚があり、そしてそれは嘘になる。それが言葉にならないのは何もないからではない。少なくとも何かがあるのであり、その何かが言葉を繰り出す上で何らかの障害となっている。だがそんな風に述べていること自体が言葉を繰り出している証拠になっていて、別に言葉にならない思いなど抱いているはずもなく、よって語り手が嘘をついていることが明らかとなる。そんな簡単に現状を述べてしまうと何か物足りなく感じてしまうか。ならばそれに付け加えて、何らかの装飾的な文章表現が求められるだろうか。だが詩的表現の唐突な出現では今さらであり、いかにもわざとらしく思われる。またこの期に及んでの情景描写も取って付けたような感が拭えない。それらを付け加えるにはもうすでに語りすぎている。いったい今まで何を語ってきたのだろうか。読み返すと落胆し、自己嫌悪に陥るような内容だろうか。なんとなくそれでもかまわないような気はするが、もう少しまともにならないものか。


3月14日

 なぜそれほどまでにこだわるのだろう。何にこだわっているかは一目瞭然だが、それをあからさまに表現できずにいる。空を見上げて何を思う。猫が上を向いている。猫のことはどうでもいいが、何を見ているのか。何も見ていないのかも知れない。夢を見て何を思う。夢を見ながら眠っている。今日も思いを語る時間はなさそうだ。思いなどあるはずがない。君は眠りながら何をやろうとしているのだろう。それらの作業に対して情熱などあるわけもなく、冷めた思いのまま適当に意識を操作して、意味のない言葉を繰り出しているだけか。しかしそこからどうやって離れることができるだろう。誰がそこから旅立とうとしているのだろう。ありふれた台詞ならすぐに思いつく。何のためにこの世界は存在しているのだろう。君が何かを描き出すためにあるわけか。ではそこから旅立つのは誰なのか。すでに旅立っているのかも知れない。そしてもう何を語っても無駄だと思いたいわけか。あきらめが早すぎるだろうか。まだ何を告げられているわけでもない。誰にそんなことを告げればいいのか。そんなこととはどんな内容だろう。誰がその内容を知っているのだろうか。たぶん君はいつものようにわからないことを考えているようだ。見上げれば空が傾いている。時計の針が歪んで見えるのは夢の中だからか。山と谷に囲まれた地に何があるのだろう。たぶんそこには人が住んでいる。誰がそれらの集落を眺めているわけではない。何かをやるきっかけを探しているのかも知れない。きっかけはどこからともなくやってくると思いたいが、一向に現れる気配がない。いつまでの何をやるわけでもなく、誰かは見知らぬ人を求めて出かけてゆく。だがその辺に現れたのは雀の群であったりする。人の気配に気づいて一斉に飛び立つ。人は人でしかなく、それらの人々には名前すらなさそうだ。人は誰に出会うのか。人を人とは思わない人に出会うかも知れない。人は人ではなく、それは誰でもない。それでも人は誰かになろうと努力する。ちゃんとした名前と人格をほしがっている。中にはそれでも飽きたらずに、社会的な地位と名誉を求めて右往左往する人もいる。毎日各方面へを働きかけを欠かさない。たぶん彼らは自らの業績を認めてほしいのだろう。自分たちが今までに何をやってきたのか、それを振り返りながら自画自賛をしたいらしい。表彰されたいのだろう。それが栄光の瞬間なのか。そうやっていつまでも忘れ得ぬ人になりたいのか。そんな人を忘れてしまったら怒るだろうか。いつかは忘れてしまうだろう。一月も経てば忘れてしまう。一年も経てば思い出せなくなるかも知れないが、ある時何かのきっかけでふと思い出すこともあるだろうか。しかし思い出そうとはしないだろう。思い出そうとして思い出しているわけではない。それどころか思い出すのが鬱陶しいからすぐに忘れようとしている。いやな人のことはすぐに忘れたい。誰がいやな人なのか。君もいやな人の中に入るのだろうか。いやな理由はいくらでもありそうだが、何を忘れようとしていたのかを忘れている。それは嘘かも知れない。現実はその時の状況によって異なる。異なっているのはその時の思いか。思い出そうとしているのはその時の思いではなく、今思っているその内容かも知れない。その時とは今のことなのか。なぜそんな風に思いを短絡させるのだろう。ただ面倒なだけか。短絡させているのではなく、その時と今の間に何もないのかも知れない。少なくとも何かあったかも知れないが、それを思い出せずにいるだけか。案外それが真実かも知れない。だが思い出そうとして思い出せないのではなく、今は面倒なので思い出すつもりがないだけか。要するに考えるのが面倒で、それについて言葉を繰り出すのが面倒なのか。それにしてはずいぶん意味のないことを語ってきたような気がする。


3月13日

 どうでもいいわけはないだろう。何とかそれらの作業を完結させなければならない。苦悩を忘れられるはずがない。それは間違った行為かも知れない。いったんやりだしたら際限がなくなるのは仕方のないことなのか。意識の中ではとうに言説の連続性を保てない現実が突きつけられていた。そんなことはありふれた結末なのだろう。ありふれた日常の中にありふれた思いとともにありふれた結末が横たわっている。そしてそれがどうしたわけでもない。ただそれらをすべて無視しながら時は過ぎ去って行く。何かをやろうとすると、そのつかの間のやる気はすぐに忘れ去られ、忘却の彼方にかつてやりたかった夢が堆く積まれている光景を思い浮かべる。そこから先は空虚に支配された意識が続いてゆくらしい。たぶん瞬発力でたどり着けるのはそこまでなのだろう。できないことをやろうとすれば、何らかのごまかしが必要になってくる。漫才師は楽屋話を話のネタとして使っている。それでかまわないのならそれに越したことはないか。何も年がら年中語り続ける義務はないだろう。その辺で妥協しておかないと遠からず終わってしまうような気がする。とりあえずやれる範囲は限られていると思い込んでおけば、無理に言葉を連ねることもないだろう。その程度では満足できないのだろうが、満足させようとして言葉を弄すれば空虚を招き入れることとなる。その何もない空虚にいつまで精神が耐えられるのか。しかしそれをやめようとするとやめられない状況に追い込まれる。なぜそうなってしまうのかよくわからない。内心ではよくわかっているのかも知れないが、それを言葉で表明できない機構が存在しているらしい。実際によくわかっているとほのめかしているではないか。たぶんそこには何らかの意地が作用しているのだろう。では意地になって継続させているのはなぜか。それはただ継続が途切れてしまうのが気に入らないだけなのか。だがそれは理由にならない理由だろう。もう少し説得力のある理由をねつ造できないものか。しかしそれをねつ造してどうするのか。それでは単なるフィクションとなってしまう。そんな風に思いを巡らしているうちにそんなことはどうでもよくなってきた。そして何となく過ちを犯していることに気づき始める。やはりいつものように言葉を弄して空虚を呼び込んでいるようだ。それが過ちの正体なのだろうが、その過ちによって継続を保っているわけか。たぶんそれが目下のところは実態を反映した説明になるだろう。意識はそれでかまわないとは思っていないようだが、そんな意識に逆らって勝手に言葉が連なってしまう現実があるようだ。それはいかんともしがたいことか。どうすることもできないわけでもないような気はするが、それには膿を出し切るようにそれらの言葉を出し切らなければ、その先に立ち現れるかも知れないまともな言説には出会えないのかも知れない。もしかしたらそれは準備運動の一種なのかも知れない。それをやらないことにはちゃんとした言説を繰り出せないようだ。つまり空虚で無駄だと思われるそれも必要悪的な意味を持っているのだろうか。それがないとその先に進めないということか。しかしその先にはいつ進めるのだろう。何となくいつまでもそればかりのような気がするのだが、たまにはまともなことを述べているときもあるのだろうか。過去を振り返る余裕がないので何ともいえない面があるのかも知れない。それでもかまわないと思うのならそれで行くしかないか。だがわからないことはわからないままにしておくのは怠慢だろうか。わからないままにもわからないところでわかろうとしているのかも知れない。しかし何を述べているのかわからなくなってくる。どういうわけかそれらの言説は、何かの付け足しにすぎない、という気がしないでもない。気まぐれに何かいい加減なことを述べているだけなのか。たぶんそうなのかも知れないし、それ以外はやりようがないのかも知れない。そんな言説から影響を受けて意識の方も空虚に覆われつつあるようだ。


3月12日

 別にそんなことはどうでもいいことかも知れないが、気晴らしに試みた気分転換は思わぬ結果をもたらす。様々な紆余曲折を経て構成された文章は、もはや互いに無関係な言葉が羅列されているだけとしか思えない。そこで論理的な飛躍を期待しているの誰なのか。誰なのかではないだろう。それに応じてやけくそ気味の台詞が矢継ぎ早に繰り出される。誰かの暗い瞳は遠い夕焼けを眺めるでもなくあらぬ方角を見つめ、意識は偶然の巡り合わせに惑わされて過ちを許容しつつ、過去の記憶はそれを忘れようとする意志を裏切って、唐突に何か適当なことが思い出されたりするが、いつか聞いた雨音は外界のどこから響いてくるのだろう。音が伝わる媒体はいろいろありそうだが、その雨音を聞いたのはいつのことなのか。たぶんこれから雨音について何を述べようとしているわけでもなく、今思い出そうとしているのはそんなことではないはずか。過去の経緯などこの際どうでもいいことだろうか。ただそのいきさつを思い出したくないだけなのかも知れない。しかしそれを思い出さないことによってどんな効用が得られるというのだろうか。そんなやり方で怨恨を乗り越えることが可能だろうか。君はそれが怨恨だとは思わない。それは時間的な隔たりでしかなく、その隔たりを乗り越えて何が到来するというのか。この期に及んで何がやってくるわけもないだろう。やってくるのはいつもの明日か。どうやら間近に迫っているのは終わりの時ではなさそうだ。明日で空白の時が終わるはずがない。そんな予感とともに静かな夜は過ぎ去り、誰かは過去に吹きつけてきた風の音を懐かしむ。そして偶然の成り行きによって生じた気まぐれな思いを気にかける風もなく、相変わらずよくわからないことを想像し続けている。それは誰にとってもよくわからないことかも知れない。乗り越えようもないことを乗り越えられるわけがない。乗り越えるのではなく、避けて通ることしかできないだろう。知らず知らずのうちに際限のない回り道に誘われるわけだ。道に迷うためにそれらの回り道は存在しており、そこを歩んでいる途中で意味不明に苛まれてわけがわからなくなり、後悔の念を繰り返しながら、同時にもう手遅れになっていることを悟らされる。そこで繰り返し意識されるのは甘美な誘惑などではない。むき出しの感情を拒絶する理由を求めて、理性はなおも論理的な整合性を模索しているが、それが無駄な悪あがきだろうか。意識する身体をおいてどこかへ行けるはずもない。どこへも行けないから回り道の途中で立ち往生しているわけなのか。そんな風には思わない方が身のためか。それらの思いのどこが気まぐれなのか理解できない。気まぐれに思っていることはそれとは別のことか。ただ飽きもせず繰り返し同じことを考えているだけではないのか。しかしその同じことを説得力のある言葉で表現できないらしい。ではその代わりに何を述べているのだろう。何となく頭に浮かんだ台詞を適当に組み合わせて、いい加減な文章を構成しつつあるわけか。そしてそうは思いたくない意識が一方にはあるようだ。そう思うのが面倒なので、それについてはとりあえず無関心を決め込んで、何も思わなかったことにしておこう。はたしてそんなことができるのか。それらの込み入った事情をどう整理していいのかわかりかねる。たぶんわざと複雑なことを述べようとしているだけかも知れないが、いつものようにひねくれた方向から繰り出されたそれらの言葉は、毎度のことのようにまとまりを欠いて、離散的な分布を示しているのかも知れない。だがそれがどうだというのか。意識は継続を途切れさせないために終わりをもてあそび、それらの文章は無内容を繰り返してどこかへ行ってしまう。その行き先はそのときの偶然に左右される。繰り出された言葉の性質によって適当な振れ幅をもたらす。そしてそうやって導き出された結論らしき虚偽の振る舞いには何の意味もなさそうに思われる。やはりそんなことはどうでもいいことなのか。


3月11日

 知りすぎた君はなにがしかの報いを受けるだろう。それは何かの予言だろうか。別に知りすぎているとは思わないか。だが何も知らないわけでもないだろう。君には君特有の専門分野においては知りすぎている面もあるのかも知れないが、それ以外の分野においては知らないこともあるはずか。しかし何を説明しているわけでもない。報いとは何だろう。報われることで満足できるだろうか。君はそれが嘘だと信じている。説明とは無縁の分散状態の中に空虚な思いが漂っている。過ぎ去った時間の中に不信の念が取り残される。否定の連続の最中には何も信じていないわけではない。ただ何もかもを否定できるという確信を信じられないのかも知れない。それでは確信とはいえないのではないか。一方に固く信じている意識があり、もう一方にはそれを冷ややかに見つめている視点が存在する。たぶんそれは虚構だろう。何となく複雑な思いはあっさり否定したくなる。何かの到来を待ちくたびれて、何の到来を期待していたのか思い出せなくなる。たぶんこれからも様々な出来事が待ち受けているのかも知れないが、待ち望んでいた状況が到来することはないだろう。それはそうなり得ない要因を知り得ないからだ。その知り得ないことを積極的に知ろうとは思わない。何かが起こったあとから適当な説明が可能なことは確かなのだから、そうなる時を待てばいいのだろうか。待ちくたびれてそんなことは忘れ去ってしまうかも知れない。そんなわけでそのときはすでに到来しているのにそれに気づこうとはしない。それを説明するのが面倒なのか。面倒なら説明しなくてもいいわけか。たぶんそれでもかまわないと思いたいのだろう。それを説明しない場合は何かそれ相応の報いでも受けるのだろうか。いったいそれはどんな報いなのか。無視と忘却の憂き目にでも遭うわけか。その程度で済むのならそれでも一向にかまわないだろうか。それ以外に何を思いつけば気が済むのか。君には意識とそこから生じる言葉に対する不信感が根強くある。それが何事に対しても本気になれない意識を形作っているのだろうか。繰り出された言葉のすべてが無駄だとは思わないが、その大半はどうでもいいようなことの集積と思われる。何をどう説明しても嘘になってしまうような気がしてくる。だからいったん繰り出され連ねた言葉を振り返る気が起こらない。それらのほとんどがもはやうち捨てられたも同然の状態にあるのかも知れない。たいしたことは何一つない。それが何と比較されればいいのか、それに見合う存在を見いだせない。だがそんな意識を真に受けるわけにはいかないか。本気でそんなことを述べているわけではないようだ。今脳裏をよぎっているのは空虚の他に何があるだろう。しかしそれは空虚にさえならないようなただの何でもないことかも知れない。だが何でもなくてどうでもいいことばかりでは、これ以上は何もできなくなってしまうだろう。それらの空虚な気分の中から、かろうじて言葉になるような精神状態を見つけ出さなければならないか。たぶんそれがありもしないフィクションを形成するのかも知れないが、それはそれで肯定的に捉えなければならない現象といえるだろうか。誰がそんな現象の到来を待ち望んでいるのか。それは君の意識以外にはあり得ないことだろうか。たぶん君はそれでもかまわないのかも知れないが、他の人々にとってはどうなのだろう。そんなことの繰り返しではついて行けなくなるかも知れないか。しかしそれでも君はかまわないと感じているのだろう。要するに君は語りすぎているのだ。語りすぎて語ることがなくなってもまだ語り続けている。それで何が報われるのだろう。それでも何らかの報いを受けるだろうし、すでに報われているのかも知れない。君はそれによって何者にもなれないとは思わないだろう。すでに何者かになってしまっている。それでも君は何かを知っているはずだ。意識を空虚に覆われながらも、すでに何者かになってしまっているのに、それでも何かになろうとしている。


3月10日

 もはやそれらの作業は意味を失っている。何やらまたわけのわからない内容になってしまっているようだ。周りを取り巻く様々なしがらみを断ち切って自由になるにはどうしたらいいのか。それともしがらみを断ち切らなくても何とかなるのだろうか。あるいは何とかなったりならなかったりすること自体が勝手な幻想にすぎないのか。ではどちらでもかまわないのか。しがらみの意味にも自由の意味にもリアリティを感じない。それをしがらみと感じたり、それを断ち切って自由を手にすると感じたりすること自体が、ありふれた物語の中に現れる感情をなぞっているにすぎないのかも知れない。それは体験しつつある状況を物語の紋切り型に当てはめているだけなのか。そんな風にして物語の支配に屈しながら生きている人はどれほどいるのだろう。そういえばどこかの国の大統領は「テロとの戦い」=「聖戦」という物語的な図式の中にとらわれているのだろうか。すべてではないのかも知れないが、少なくともその種の演説をしている最中はそのような言葉に酔っている可能性がある。浅はかな人々はそこからすぐにキリスト教徒とイスラム教徒との戦い、というかつての十字軍から生じた文明の衝突の物語を持ち出したくなるだろう。しかし物語とは何なのか。なぜ人間社会には物語という紋切り型が流通するのだろう。そこにはある種の思考・行動様式が存在しているかも知れない。たとえば、夢に向かって努力する、という世の中の隅々にまで行き渡っている物語に忠実な人の思考や行動パターンはわかりやすく、そのような人に接している周りの人々に安心感をもたらす。そうやってその種の人は社会に受け入れられるわけだ。アメリカの大統領も「テロとの戦い」というわかりやすい物語を掲げることによってかつては高い支持率を誇っていた。たぶんどんな人もある程度はそのような物語に依存して生きている面を持っているのだろう。それがないと理解不能な人間と思われてしまうのかも知れない。不可解な事件を起こした犯罪者なども、裁判という手続きを介して検察と弁護士と裁判官とそれを報道するマスメディアによって、結局はわかりやすい物語の主人公に仕立て上げられてしまう。もしかしたらあらゆる人間のどんな思考や行動も、物語という翻訳装置を通過すれば、それらはすべて理解可能と見なされてしまうのかも知れない。そのようなわかりやすさや安心感によって社会の秩序は保たれているのだろうか。人々が不条理の蔓延によって発狂しないためには物語が必要なわけか。現実には様々な不条理がまかり通っているのかも知れないが、そんな現状から目をそらせるために物語が活用されているのだろうか。やはりある程度は現状から目をそらせていないと発狂してしまうわけか。そして都合の良い時だけ問題意識を持ってマスメディアの主張に同調すればいいのか。しかしそうやって正気を保っているつもりの人々にはたして変革の力が宿っているだろうか。何か社会を変革しなければならない理由があるのか?変革の理由が見出されること自体が、問題を解決して社会をよりよい方向へ導く、という物語に汚染されてしまっている証拠か。君にはそれ以上語る理由が見出せないか。現状を説明することは、わかりやすくて理解可能な物語を提示することにしかならないような気がしてくるのだが、それ以外に現状を説明する理由がどこにあるのだろう。別に理由を求めているわけでもないが、一応はなにがしかの理由を提示できればそれなりに安心するのかも知れない。しかしいったい誰が安心するのだろう。安心するということは、安心できない不条理から目をそらしていることにしかならないのではないか。では不条理を見つめることで何がもたらされるのか。狂気以外の何を求めようとしているのか。何かを求めようとすること自体が、理解可能で安心できる解答の存在を信じようとしているだけであり、それも物語の中の挿話にしかならないか。


3月9日

 微笑みの絶えない人は恐ろしい。たぶん君はそんな風には思わないだろう。君の微笑みはいつも苦し紛れだ。そんな君をどこかで誰かが想っている。しかし思い出される風景の中には誰もいない。むき出しのコンクリートの壁に囲まれた殺風景な部屋の中に埃が積もる。それはただの空き部屋だろう。考えようによってはこの世界はすばらしいものじゃない。そんな風に想っている君は、世界のすばらしさを理解できないのだろうか。しかしメディア以外の誰が世界のすばらしさを人々に伝えているのだろう。そもそも世界のどこがすばらしいのか、具体的な事例を示さなければ文章が意味不明だ。なぜすばらしいなどという言葉をとっさに思いついたのだろう。しかもなぜそれを否定したいのか。なぜこの世界がすばらしくないと述べなければならないのか。君の空想はそれとは別のところにあり、空想の世界は別にすばらしくない。君はこの世界を不確かな記憶に基づいて空想している。だがそんなことにはお構いなく、誰でもない架空の誰かが夜の静けさとともに風の音を聞いているとき、つながりを欠いた言葉が真実を語ろうとしている。意識の崩壊を崩壊しかけた意識は望み、そんな望みを叶えてくれるはずのない空虚が、それ以外は何も思わない意識の内部から滲み出てくる。たぶんそれに影響されて言葉の連なりがぎくしゃくしているはずだ。もう文章など読みたくはないとどこかから悲鳴が聞こえてくる。悲鳴を上げているのが君の精神ではないことを祈ろう。もちろんそれは誰が祈っているのでもなく、文章表現のバリエーションとしてそんな言い方があるのだろう。だが実態としては悲鳴ではなく沈黙が続いているのかも知れない。そして何も語らずに言葉を弄しているつもりのようだが、そんなのは嘘に決まっている。何も語らないように心がけながらも、結局は何かを語っているわけだ。それはただのひねくれ根性にすぎないか。ひねくれ者に微笑みかけても無駄なのか。たぶん世界のすばらしさを語る人は微笑みが絶えないのだろう。にこやかな笑顔ですばらしき世界を声高らかに歌い上げているかも知れない。その清らかでたくましい歌声はきっと天まで届くだろう。しかし何を述べているのだろう。述べている途中から皮肉な笑いが頭をもたげる。それが何となく嘘っぽく感じられるのはどうしてなのだろうか。君が本気でそんなことを述べているわけではないのは明らかか。その微笑みにはニュアンスの違いがあるだろうか。この世界には微笑みの国というのもある。それは確か東南アジアにあると記憶している。それらの微笑みの裏側には何があるのだろうか。毎度おなじみの歓楽街が連なっていて、そこへ団体客が欲望を漁りにやってくるわけか。しかしそんな紋切り型では飽き足らない人はどうすればいいのだろうか。中にはただ何もせずに旅を拒否する者も出てくるかも知れない。京都の寺ではそんな人々のために石庭が設けられている。ただそれを眺めていれば自然に時が過ぎ去り、日が暮れて意識は現実に戻らなければならない。ただそれだけのことでしかないのに、そこでの体験はその場限りのものでしかないとは思いたくない者もいて、石庭を介してこの世界のありように思いを馳せる人々は、おのおのが適当な考えに至って自己満足にでも耽るのだろうか。たぶんそれらの石庭を眺めて微笑む者は日本文化を馬鹿にしているのかも知れない。まさか、きゃーかわいい!と勘違いの歓声でも上げたらおもしろいだろうか。しかし寺院側としてはそれらの石庭に何を見出せば納得するのだろう。そんなことまで考えていないか。それらは拝観料を稼ぐための仕掛けにすぎないか。その寺では住職が今でも修学旅行の学生に向かって何やら利いた風な説教でもたれているのかも知れないが、その説教の内容を今ではまったく思い出せない。当時の高校生にはあまり理解できなかったし、ちょっと胡散臭い印象を持った記憶もある。また思い違いかも知れないが、もしかしたらその坊さんは口臭が臭かったかも知れない。


3月8日

 君は苦し紛れに何を思っているのだろう。しかし何を苦しがっているのか。たぶん何か思っているはずだと思いたいわけだ。心の奥底にはまだ何かあるのだろうか。何かあるかも知れないが、形あるものは何もなさそうだ。その時々で何があるかは違ってくるだろう。影は君の本心を知りたがっている。それが苦し紛れであるはずがない。しかし影とは何なのか。それはただの影のことか。そうであってそうではないか。虚構の部分も含んでいるが、それを影と呼ぶ根拠は何もなさそうだ。わざとらしく影という言葉を使って意味不明になろうとしている。あるいは影に思わせぶりな雰囲気を担わせてそれ風の効果を期待しているわけか。そしていい加減な言説に終始する。要するにそこには何もないのに、影を利用して何かあるように装っているわけか。だが本当に何もないのだから、何を装っているかは特定されないだろう。何を装っているかなんて、装っているものは何でも構わない。当然のことながら虚構の影には偽りの思いが託されており、その言葉によって何かを連想して欲しいということか。要するにそんな類の言葉を使って誰かの興味をつなぎ止めたいのだろう。しかしその誰かは特定の誰かではなく、誰でも構わない誰かでしかないから、誰からの興味も期待していないし、結果的に誰からも無視されても構わないか。しかし君はなぜそんな風に思うのか。たぶん話の展開上そうなってしまっただけかも知れず、そんなことはどうでもいいことだろう。ただ言葉が適当に連なっていればそれで構わないのかも知れない。そしてそう思っているのは君ではなくてもよく、君も含めた誰もそんなことは思っていなくても構わない。もちろん思っているのは君以外の誰でもないし、現実には君以外ではあり得ないことになっているかも知れないが、それは話の内容からそんな風に推測されるかも知れないだけで、本当の君はそうは思わなくても構わない。たとえば心の奥底にそんな君自身が影を装って存在していることにしても何ら不都合はない。そしてなぜそんなものが存在しているのかは、その理由や根拠はなくても構わないだろうし、その場の気まぐれでなんとなくそんな言葉が導き出されたに過ぎないのかも知れない。そしてそんなことを述べれば不思議な気分になれるのかも知れない。だからそれが影という言葉である必然性はないのは当然だろう。その他の何でも構わないのに、偶然のなりゆきで影が導き出された。そんな雰囲気になれる言葉なら何でもよかったのであり、しかし思いついた言葉はたまたま影という言葉だったわけだ。ただそれだけのことで他には何もなさそうに思える。ただ思いついた言葉を利用して文章を構成しているだけか。ではなぜ君はそれをやらなければならないのか。やる前からやる気は失せていて、やはり今日もまともな内容からは程遠い結果になっているのかも知れない。いつものように君はそこで、それらの言葉の連なりを眺めながら、何を思っているのだろう。たぶん何かを思っているのだろう。様々なことを思っている。だがそれらはすべては退屈に感じられ、退屈に感じている君を無気力にさせる。そしていつもの虚無感に心を覆われ、それでも無理にやっていることを途中で投げ出すわけにはいかないと感じている。どうしてそんな風に思ってしまうのか。積極的に何らかの使命感に燃えているわけでもないだろう。ただそれらを継続させてきたから、それを途絶えさせるわけにはいかなくなってしまっただけか。そんななりゆきが君の思いを形成しているわけか。そうやって何かを思いながら見ながら、思っている心はそれを通り過ぎる。どうやら思っていることとは無関係なことを考えているようだ。気まぐれにいつか見た風景を思い出そうとしている。君は遠い記憶を呼び覚まして何を作り上げようとしているのか。何も作り上げるわけでもなく、ただ言葉を弄しているだけか。


3月7日

 今日も夜は次第に更けて行き、しばらく前から君は行き詰まったまま途方に暮れている。この期に及んでごまかしは通用しないだろう。通用させてもかまわないとは思うが、なぜか意識はそれをためらっている。しかしごまかしとはどういうことなのか。それをごまかしと見なすなら、すでにだいぶ以前からごまかしにごまかしを重ねている現状があるのに、それをためらって何をやろうというのだろう。要するにためらいながらも今後もごまかしを続けるということか。それがごかましと思いたければ思っていてかまわないか。君以外にとっては何をごまかしているのかわかりかねるだろうか。まだそれほどの極限状態でもないような気もしている。いったい何が極限状態なのだろう。かつて世界各地で戦争などに伴って生じた過去の様々な極限状態から我々は何を学んだのだろう。近所にある墓地から誰かの亡霊が這い出て来て、君に何か適当なことを語りかけている。なぜ唐突にそんな嘘をついているのだろう。亡霊は何を語るのか。どこの誰が亡霊なのだろうか。たぶん首つり自殺でもすれば、君も亡霊になれるかも知れない。たぶん亡霊は何かを求めている。誰かの亡霊は生きている手応えがほしいようだ。だが暗闇の中で踊るダンサーに誰が気を止めるだろう。なぜ亡霊が踊らなければならないのか。そんな話は嘘に決まっている。まだ亡霊は亡霊になりきれていないらしい。外では犬が犬を食べている。亡霊が眺める光景はどこか残酷に感じられる。いつか歌われた歌詞の内容を思い出そうとしているのか。見上げれば天井がぐるぐる回っていて、空飛ぶ円盤を見た話をしたくなる。文章の完璧さを追求していれば、いつかは何もない空虚を言葉で表現できるようになるだろうか。間違いだらけの文章のどこが完璧さを表しているのか。思い込みだけで何ができると思う。途中で折れ曲がってしまった意志が使い物になるわけがない。挫折感を糧にして復讐を果たそうとする感情は浅はかに思われる。それがどこかの漫画が喚起する感情でしかないか。亡霊を無視し続ける我々は何も学ばないだろう。悲惨な戦争を二度と繰り返したくないというのなら、悲惨ではない戦争を演出したくなってくる。それらを悲惨とは思わなければいいわけか。要は気の持ちようになってしまう。戦争だけが特別なことではないはずか。過去の失敗を教訓として、たとえそれが戦争であろうと、今度はうまくやろうとするわけだ。現にアフガニスタンやイラクでの戦争はうまくやっているつもりなのだから、それはそれで一つの成果なのかも知れない。味方の戦死者の数が過去のそれよりは極端に少なく抑えていること自体は成功といえるだろう。戦争を批判するマスメディアは失敗した面を選んで報道しているわけで、それを割り引いて考えるなら、やはり成功には違いない。メンツや誇りを捨てて実利を得る方向で動いていれば破局的な敗北を喫する事態には至らないだろう。それを言論によって突き崩すのは容易なことではなさそうだ。つけいる隙を見つけにくく、仮にそれを見つけたとしても、力がそこまで届かない場合がほとんどかも知れない。たぶんマスメディア上では誰が何を述べても無駄なのだ。しかもそれ以外はあり得ないのだからどうしようもない。だからそのような現状を教訓として、我々がそれとは別の道を模索しなければならないのは当然の帰結か。しかしなぜそれが不可能を求めることに行き着くのだろう。不可能を不可能とは思わないわけにはいかないか。ただ単にそうではないと思っているだけかも知れない。君は何ら戦争状態を特別視していないし、悲惨な状況だとも思わない。そのような現象の中に希望さえあると思っている。それが悲惨なら、ニュースショーで馬鹿な人間がくだらぬ説教をたれたり、同じ人間がスポーツネタで馬鹿騒ぎしているような状況も同じように悲惨だろう。そしてマスメディアからもたらされるそれらの情報を真に受けることぐらい悲惨な状況はあり得ない。そうやって我々は日々考える時間を失い続けているわけだ。できることならそうではないと思いたいが、その思いを捨て去ることはできないようだ。


3月6日

 今日も誰かが利いた風なことを語っている。本当にこの世界には永遠に残るものなど何もないか。確かに形あるものはいつかは崩れ去り、すべての生成物はいつかは灰燼に帰すだろう。そんなことはわかりきったことかも知れないが、今はどうしてもそれを認めたくない状況にあるらしい。ありふれた内容を物語るうちに風景を見失い、いつか見た光景を思い出せなくなる。何かを物語っているつもりの言葉には現実感が欠けている。現実には誰も何も物語っていないのかも知れない。物語から遠く隔たっている君はそれらの内容を知り得ない。なぜ遠く隔たっているといえるのか。少なくとも君がこれまで歩んできた紆余曲折だらけの迂回路は何かを物語っている。過ぎ去った日々をどうやって忘れられるだろう。二度と戻ってこないそのときの気持ちをどうやって再現するつもりなのか。表現を託しているつもりの言葉にはいつも裏切られる。たぶん君はわざと嘘をついている。それ以上何も知ろうとしない態度にはどのような偽りが潜んでいるのだろう。知り得ないことは他にもありそうだが、それらの偽りを取り除くことはできない。嘘とはどんな嘘なのか。見知らぬ場所で新鮮な思いになりたいわけか。今感じているそれらの現実感は希薄に思える。あり得ない事態を想定して何を語っているのか。たぶん何を求めているのでもない。ただ繰り出された言葉がつながらないような気がしている。半日後の日差しの下にそれとは違った思いがあるかも知れないが、時間的に分散してしまっている思いや言葉を一つにまとめることはできない。それらをまとめようとすれば当然嘘になるが、そんな嘘でも何も言わないよりはマシだろうか。嘘でもかまわないから何か主張しなければ気が済まないのか。何か形あるものを構成したい気持ちを払いのけることはできない。そうやって物語る言葉をねつ造して、その嘘に見合った風景を配し、偽りの光景を想像しながら構成するわけだが、そんなことを繰り返すうちに、次第にそれだけでは気が済まなくなってくる。他に誰か登場人物でも必要なのだろうか。しかし架空の君たちはそこで何を競い合っているのか。なぜ唐突に競い合うのだろう。いつの間にかゲームの中につなぎ止められているようだ。別に参加したくなければやめてもかまわない。くだらぬ遊びに全知全霊を傾けていなければ生きて行けないわけでもないだろう。それでも同じような者たちと群れていなければ気が休まらないのか。それはどんな気休めなのだろうか。気休め程度のことでは納得できないか。ではそれ以上に何を思えば納得するのか。納得したくて言葉を弄しているわけでもないか。君たちはただその辺で彷徨い続けたいだけなのかも知れない。しかし彷徨っているだけでは、これから体験する状況を前もって選ぶことなどできないか。たぶんそんな状況には耐えられないだろう。耐えられないから他の選択肢を空想するのであり、そして何を空想しているのか想像しているのかも知れない。それは他の誰にも知り得ないことか。想像力を使って知り得たつもりにはなれるだろう。それはつかの間の安心をもたらすと同時に心に隙を生じさせ、そんな油断をめがけて思いもしなかった事態が到来するわけだ。彷徨う思いはそのような事態によってさらに励起させられる。しかし驚きや感動を求めることばかりにかまけていると現実を見失う。知らず知らずのうちに妄想の虜となってしまう。君はそれでもかまわないのかも知れない。自らの妄想から導き出された言葉を弄してファンタジーでも構築したいのだろうか。たぶんそのようなファンタジーの中にかつて君がやりたかったことが隠されているのだろう。無意識のうちにその思いを言葉で表現したくなるのかも知れない。空虚の中に住まう意識はそんな行為の繰り返しから安らぎを得ようとしている。しかしそればかりではそれ以外の可能性を犠牲にしていることにならないか。それ以外とはどのような可能性なのだろう。他に何か有望な選択肢でもあって、現状ではそれに気づいていないわけか。では君たちはそれを見込んでこれから何をやるつもりなのか。


3月5日

 誰が生意気なことを述べているのでもないらしい。いったい君はこの世界の何を知っているというのだろうか。誰が空腹を耐えているでもない。まだ君たちは本当の貧困を知らぬ。ではメディアを通して伝わってくるあれらの状況は嘘の貧困だとでも言うのか。嘘ではないが本当でもないだろう。あれらの貧困は演出された貧困とでも言えば妥当な感じがする。貧困を演じる舞台がメディアによって設置されていて、その舞台上で貧しさが演じられているのだ。そしてその演技をあれやこれや批評するわけだ。だが誰が批評するわけでもなく、その役割を担っている人々はただの幻影にすぎない。どこからともなく幽霊のように登場して、それらの登場人物たちの様態によってこの世界の貧困が示される。たぶんこれ以上いくら述べても無駄だろう。君たちはそれを知らないようだが、それとは何かという問いがいつもながらの紋切り型を誘発する。それはどういうことだろう。最近は君の意志を感じることができないのだが、その代わりにどこかの誰かが黄昏時に意味不明を認識しているようだ。君はそれを利用して何を述べようとしているのか。たぶん誰かには何を述べるつもりもなさそうに見えるのだろう。また誰かが適当なことを述べようとしているだが、誰が何を述べようとしているのか不明だ。たぶんどこかで影が復活しようとしているようだが、相変わらず君はそこで何を述べようとしているのでもないらしい。今さら何を述べてみても嘘になるだろう。それでも影は、君がどこで何を述べようとしているかを知りたいようだ。影に限ってそんなはずはないか。知りたいのではなく、君が今直面している現状について何か述べたいのだ。しかしのその何かがわからない。たぶんそれは誰にも知りようのない何かなのかも知れず、そのわからないことを利用して、何もないのに何かとして存在しているように装っているだけなのかもしれない。要するに影も幻影の一種なのか。そんなことは以前からわかりきったことだろう。そんなわけもないと同時にそんなわけで君が何を述べても無効なのか。しかしそんなわけの理由が未だ述べられていないような気がする。そこには何か語る上での何か不備でもあるのだろうか。それがあるとしたらどうだというのか。誰かがその欠陥を告発すべきなのか。誰が告発しなければならないのかを知りたいのは誰だろう。その際に何か気の利いた台詞でも持ち合わせていた方がいいわけか。だが言葉には限界がある。限界がないのが限界を構成している。そんな台詞がいつ発せられるのか知らないが、たぶんそれは君たちには到底思いつかぬ台詞だろう。それはどこにも存在しない台詞だから、発せられるまでは知りようがないか。しかし依然として、未だ台詞が発せられる以前に、何を述べようとしているかを知りたいのはどうしたことだろう。何を知りたいのかを知りたいなどということはどだい不可能なことか。誰がそれを知ろうとしているのかは知らないが、これまでのところ君は知りたい内容について具体的には何も述べていないはずだが、それでも何か述べていると思い込んでいる。そこにはいつもの何もない空虚しか存在しないはずだが、物は考え方次第でどのようにも解釈可能であり、何も存在しないのに空虚が存在するはずがなく、それは禅問答か何かのバリエーションだろうか。何か過去の遺物でも持ち出して字数稼ぎでもやっているつもりなのか。それ以外に何をやろうとしているのだろうか。たぶん必死になって何かを思い出そうとしているのだろう。その何かを思い出せないから苦悩しているわけか。何も思い出せないときは、それを想像すれば事足りるだろうか。では何を想像したらいいのか。たぶん何も思い出せないし、何も想像できないだろう。自己の記憶力と想像力を否定してどうするのか。どうするわけもなく、その代わりに適当な言葉を連ねているだけか。継続とはそういうものなのか。そんなわけで意識はまだそれを続けようとしているらしい。


3月4日

 たぶん今日もこれといって何を述べようとしているわけでもないが、結果的には何か述べていることは確かなようだ。だが確かなことは何も言えない。実際にこれまでのところは何を言っているわけでもないらしい。まだそれらの思考が意味を伴った内容に至っていないのだろうか。そこで誰が何を求めているのか知らないが、どこかの誰かには求めていないものが手に入るかも知れない。多くの人は自らの死を求めている。それを知り得ない人がたくさんいる。知らず知らずのうちに死を求めている自らに気づかない。必死になって生きているつもりでいるわけだ。そういう人々は死にものぐるいで生きていることの意味を誤って解釈している。それらの死をおそれない勇気は最終的には自爆テロにでも行き着くだろうか。同じような心境の人は世の中に掃いて捨てるほどいるかも知れない。たとえば真剣になるとはそういうことだろうか。そうだとしたら、真剣な気持ちで物事に取り組むことのどこが誤っているのだろう。それ自体は別に誤りとはいえず、その取り組んでいる内容に時として誤りが潜んでいるということか。自爆テロを企てる者も真剣な気持ちでそれに取り組んでいることに変わりはない。また誤りであるどころか彼らにとってはそれが正しい行いなのだ。個々の人の判断でそれらの行為は正しかったり誤っていたりするわけだ。たぶんそのような水準で普遍的な価値判断を求めるのは無意味なことかも知れない。行為の正しさをひたすら追い求めること自体が独善主義に陥る危険性があるのか。また普遍的な判断基準を設定して、多くの人々がその基準を採用するように求めるのにも限界があるだろう。これさえやっておけばいい、というような万能のやり方を思い描くのにも無理がある。流動的な状況に合わせて絶えずやり方を修正していなければ、やがて立ち行かなくなることは目に見えている。物事の本質は表層の変化の中にある。この世界の本質は本質的でないということかも知れない。どうでもいいように思われる物事の中にどうでもいいような内容があり、しかしそれを無視していては状況を把握できない。取るに足りないと思われることは本当に取るに足りないことなのだが、しかし人々の意識はその取るに足りないことに支配されている。人々は些細な感情の行き違いから殺し合いを始めてしまう。あとから思えば馬鹿げたことのように思われるが、その渦中にいる間は馬鹿げたことに命がけで取り組んでいるわけだ。そのような行為が正気の沙汰でないと思われるのは野次馬特有の心境でしかないのかも知れない。狂人は自らの狂気を把握できずに本気で行動している。スポーツ・ニュースでも見れば、大の大人が棒切れの真ん中に球を当てることに死にものぐるいで取り組んでいる光景を目にすることだろう。そのような行為も大金が絡めば立派な仕事となってしまう現実は驚愕に値するだろうか。別に誰も驚きはしないし、それどころか棒切れに当たった球が遠くへ飛べば歓喜したりするわけだ。人々が日々行っていることや感じていることは、そういったことのバリエーションでしかない。それが当たり前のことのように思われる物事の本質は本質的でない。別にそれがあってもなくてもかまわないようなことにこだわりざるを得ない宿命の中に人々は生きている。たぶんそれ以外には何もないのだ。何もないのに何かがあると思い込むことで人は自らの文明の存在を意識することができる。たぶん人以外の誰かからすれば、この地上では毛の抜けた裸の猿が布切れをつけて何やら適当にうごめいているだけにすぎないのかも知れない。人間に対する見方のバリエーションとしてはそのような視点もあり得るだろうか。だが人以外の誰かとは誰のことなのか。それは君に決まっているだろう。そういうわけで君はあり得ない存在となってしまうわけか。ところで君がすでに手に入れているものは何だろう。それはいつもの空虚か何かの類だろうか。手に入れようとして入るようなものを求めているわけではないらしいが、それがまるで不可能だとは思わない。何も求めていないわけではないのだろうが、結果として君にも求めていないものが手に入ってしまうだろう。それが君の死でないとすると何なのか。人でない君が人のように死ぬことはあり得ないというわけか。


3月3日

 どう考えても不具合が生じているはずなのだが、それでもそれでまかり通ってしまうわけか。なぜそんな成り行きになってしまうのだろうか。しかしそれは恐ろしくも普通の展開なのかも知れない。互いに相容れない立場をどうすることもできないのに、そこから何とかうまくやっていこうとする。この世の中にその程度の矛盾などいくらでもあるか。たぶんどこかで勘違いが働いているのだろうが、そんな勘違いなどいくらでも無視できるし、勘違いをそのままにしておける状況などいくらでもあるだろう。それを改める機会など永遠に巡ってこない場合がほとんどかも知れない。そんな行き詰まりをそのままにして月日が経ち、いつの間にかそんなことはどうでもいいことになってしまう。本当はどうでもよくはないのに、どうでもいいと思い込もうとして、それに異議を唱える人などいるはずもない。どうやら行き詰まりの向こう側には、もう一つの行き詰まりがありそうだが、仮にあったとしてもそれも放置されたまま、ただ歳月を経るだけなのかも知れない。そんなどうしようもない現実のただ中で、心は陽気な気分に包まれている一方で、いつまで経っても何もやろうとしない。そのような雰囲気の中に自足してしまっていて、それ以上いくら言葉を弄してみても焼け石に水のように感じられ、実際に何ももたらされずに、ただ空疎な文章が次から次へと繰り出されるばかりのようだ。そうした状況の中でも、君は相変わらず何を思っているのでも考えているのでもなさそうに振る舞う。君の代わりにどこかの誰かが何かいい加減なことを考えているような気がして、その誰かは君とは無関係な見ず知らずの別人かも知れないが、別にそれを君が考えていることにしても何の不都合もないように思われる。たぶん誰が何を考えようとどうなるものでもなさそうだし、それらの状況はなるようにしかならないだろう。しかし君は見ず知らずの人々に何を期待しているのだろう。それらの人々を利用して何か利益を得たいわけか。そしてそんな毎度おなじみの展開に気晴らしや救いを求めているわけなのか。しかし気晴らしや救いが何の利益になるのだろう。気晴らしや救いに比べれば利益などどうでもいいことか。では君はいつでも無益な行為に命がけなわけか。それは行為ではなく思いや感じでしかないし、別に命がけで思ったり感じたりはしないだろう。平和な地域や時代には命をかけるほどの行為は必要ない。そんな時代や場所でやる命がけは勘違いである場合がほとんどだろう。それは何らかのフィクションにはまっている者にあり得る現象かも知れない。何か命をかけて守らなければならない大義があると勘違いしている。それは狂気の沙汰では済まされぬ勘違いかも知れない。現にそれらの勘違いで多数の人々が死んでいる状況にあるのかも知れず、その勘違いに対抗して別の勘違いも蔓延っている。たぶんそれらの勘違いに身を捧げている人々にとっては、そこに人道主義的なきれい事をはね除けるリアリティを感じているのかも知れない。しかしそんなことは君にとってはどうでもいいことにすぎないか。それは君とは無関係な人々が無関係な地域でやっていることにすぎないのであり、もちろん本当はそうではないのかも知れず、何からの形で君もどこかでそれらの現象に関係しながら生きているのかも知れないが、そんなことをいちいち気にとめているほど暇ではないらしい。君は君以外の人々に君にはない人格を求めている一方で、君以外の人々にはまともな人格が皆無だと思っている。そしてそんな矛盾を語って悦に入る。もちろんそれと同時にその程度ではだめだとも思っている。いつもの無い物ねだりには飽き飽きしている。たぶんそれは何かの冗談だろう。冗談でないのならそれ以外の何かだ。つまらぬ身の上話には飽き飽きしているはずか。自己満足に浸るための自慢話にも辟易している。重大な事実などどこにも隠れていないだろう。そこにはあるがままの現実しかない。それ以外に何を妄想してもかまわないが、それらの妄想には限りがないだろう。想像と実感の間にどのような関連があるだろうか。君は実感をもとにして何を想像しているのだろう。たぶん実感としては何も想像していないし、何を述べているのかわからない。積極的には何も述べようとしてないのかも知れない。


3月2日

 つまらないことならいくらでもあるだろうか。何を見ているわけでもないのに何かを見てしまうこともあるようだ。実際に君が何を見ているのか知らないが、どうもドラマチックな展開とは行かないようだ。なぜそれらの物語には見せ場が必要なのか。見ている者の気を引かなければならないから、クライマックスという大げさな見せ場を設けなければいけなくなるのか。そんなわけで時代劇にはチャンバラ・シーンがつきものとなる。それはまるでとってつけたような展開だ。そんなものなどなくてもかまわないと思うが、そういうお約束の場面がないとお茶の間の人々は納得しないだろうか。そういう人々にとってはそれがなければ時代劇とはいえないのかも知れない。たとえば始めから終わりまでチャンバラ・シーンが一度も出てこない江戸時代のドラマがあったら、それは画期的なことだろうか。コメディ以外では誰もそんなものなど見る気はしないか。とりあえずその手のドラマには刀による斬り合いなどの暴力シーンが欠かせない。たとえば浮世絵師でも主人公に据えればチャンバラなしでも話になるか。しかしそうなると何やら芸術に関する紋切り型の見解が出現してしまったりして、別に意味でウケねらい気味の内容になってしまうかも知れない。伝説の浮世絵師に関する驚異的なエピソードを大げさに披露することによって人々の興味を惹こうとするわけか。あるいは謎の浮世絵師の足跡を探偵的にたどりながらミステリー仕立てにまとめるわけか。そんな内容がこれまで何度も繰り返されてきたような気がする。江戸時代以外では、たとえば平安時代の貴族の生活を恋愛ドラマ風にアレンジして見せたりするパターンもあったはずだ。そんな風に現代人の思惑を過去の時代に反映させようとする試みはどこなく浅はかに感じられる。何となく過去を利用して、現代に横たわっている不都合な事象を避けて通ろうとしているような気がしてならない。それは多くの人々が日々体験しつつある、物語の題材とは決してなり得ない、何でもない日常の日々だろうか。たとえばそれは、朝早く起きて会社に向かい、昼は仕事に明け暮れ、仕事が終われば帰宅して、何も考えずに夕方から深夜にかけて何時間もテレビを見続けている実態であったりするか。ただそれを延々と繰り返しているドラマなどあり得ないか。実際の現代劇ではどうだろうか。たとえば争いごとをスマートに見せるためには法廷シーンが欠かせないか。裁判沙汰を利用して知性的なことをやっているように見せかけるわけか。正義派の弁護士が登場すれば一応は格好がつくだろうか。大学病院のエリート医師と正義派弁護士が医療事故を巡って法廷で対決するわけか。何やら最近流行っているテレビドラマのような話になってきた。やはりそんな話も最終的にはウケねらいということか。しかし君は皮肉以外に何も述べることができないのか。それのどこか皮肉なのか。それでは何か不都合なことでもあるのか。そういう安易さが気に入らないわけか。そしてできれば内容をもう少し高尚なものに近づけたいわけか。誰が高尚さを期待しているのかわからないし、何を述べても現実感が希薄だ。リアリズムとはいったい何だろう。リアリティのない話がリアリズムを標榜しているのかも知れない。そんな物語がもてはやされる世の中なのか。別にもてはやされているわけでもないだろう。それらのほとんどは大した話ではないのかも知れない。そして誰もそれ以上を求める必要はない。気晴らしの娯楽にそれ以上の何を期待しているのか。しかし君は何を馬鹿にしているのか。馬鹿にされる側の君が何を述べようと説得力も持たないだろう。しかし誰がそんな自己卑下を真に受けるのか。話の内容のすべてが嘘くさく感じられる。しかしなぜそんな風に感じられるのかわからない。とりあえず内容がおもしろくないのなら仕方がないだろう。ならばそのわけのわからないこだわりは捨てて、その程度で納得していればいいだろう。いつまでもあり得ない話を空想しているわけにはいかない。現にある話には全面的ではないにしても、少しは興味を惹かれる部分もあるはずか。しかし依然として、何を見てそんなことを述べているのかわからないままか。別にわからなくてもいいだろう。


3月1日

 もしかしたら昔からこうだったのかも知れない。ただ、それらの対象についてどう感じるか、その感じ方が歳月の経過とともに変わってきたのだろうか。本当にすべてがどうでもいいことなのだろうか。答えはすでに出ている。それを否定することはできない。見たまま感じたままに語ることはできない。それとこれとは違う動作になる。すでに出ている答えとは違う答えを導き出そうとしているのか。一つの対象から複数の答えを導き出すことができるか。それは一つの対象とは限らない。複数の対象が複雑に絡み合っている状態から、様々な答えが導き出される。それらに対する見方や感じ方は無数にある。しかしそんな見解では何もわからない。無秩序な多様性の存在を肯定しているだけか。本当は答えなど何も持ち合わせていないようだ。そんなものには興味さえないか。それによって何が達成されるわけでもない。何を悲観しているわけでもないが、冷めた態度が日増しに強くなってくる。将来は将来で適当な未来がやってくるだろう。つまらぬ感情がその時々に生じることだろう。しかしそれらが積み重なることはなく、適当に流れ去り、また適当に溜まってしまったりするのだろう。そこからさらに適当な進展があったりする。だがそれだけではどうなるわけでもない。何かが欠けていると同時に過剰なのか。普通に思われることが普通に起こり、それ以外のことにはそれ以外の感慨を抱くだけか。それらの思いに特別な意味はない。たぶん普通であったりなかったりするだけであり、それ以外は何も導き出せないだろう。同じような言葉がいつまでも連なり、無感動と無感覚がもたらされる。そう思いたくなければ思わなければいい。もしかしたらそれとは違った結果に導かれるかも知れないが、君の関知するところではない。そんな思いを超えてどこまでもそれらの言葉は連なるだろう。浅はかな思いは浅はかな世界を映し出す。たぶん世の中には浅はかでない世界もあるのだろう。つまらない水準にとどまりたければそうすればいい。それでいいのならそれでかまわないし、それ以外を求めたければ求めてみるがいい。何をどうやろうとそれなりの結果を見いだせるだろう。語気を荒げて批判する人は、物足りない気分に耐えられない。もっと何かすごい出来事を期待しているのだろう。それに遭遇できないうちは批判する姿勢を改められないのかも知れない。ならば気が済むまで批判を繰り返せばいいだろう。いずれは分かり合える瞬間に巡り会えるだろう。その際誰と誰が分かり合えるかは、そのときが来てみないことにはわからない。気まぐれな偶然が適当に作用して、思いがけない人々に和解の機会が訪れる。そしてつかの間の春を謳歌した後は神のみぞ知るか。案外神も知り得ないような展開が待ち受けていたりするだろうか。たとえそうなったとしても、適当に驚いていれば時が過ぎ去って、心地よい忘却作用を味わえるかも知れない。それは相互理解の外に普通の世界が広がっていることを示している。似たような物語は本に閉じられて本棚へ仕舞われるだけか。それらのバリエーションはいくらでも可能なのであり、それらが現実を凌駕することはあり得ない。そんな風に思われるのは、たぶん日々それらの物語を繰り出しているそれらのメディアからの影響なのかも知れない。なぜ彼らは現実に後れをとり、現実に敗れ続けるのか。未来を先取りしたつもりで過去を提示する。未来でさえ現実には過去の遺物を反映した空想でしかないのはどうしたことなのか。なぜそこには超えられない限界が立ちふさがっているのだろうか。なぜそんな現状を受け入れられないのか。君たちが追い求めている理想は、理想からは程遠い欠陥だらけの物語だ。そしてそれらの欠陥によって君たちは夢を抱くことができる。欠陥がなければ何も思う必要はないだろう。何かを思っていること自体が、その思っているものをまだ得られていないことを示している。お互いに分かり合えていないから分かり合おうとしているわけで、永遠に分かり合えないからいつまでも分かり合おうとしているわけだ。それらの思いは思いを遂げられない間だけ意識の内に存在し続け、思い遂げたりそれをあきらめたとたんに忘れ去られるだろう。そんなわけですべての思いは最終的には忘却をもたらすわけか。そうは思わないのならそれでもかまわないか。


2月29日

 やらなければならないという君からの脅しに屈して何か述べてるらしいが、何を述べているのか君自身にはわからないようだ。確かにまるでやる気が起こらないのに何か述べている。たぶんさっきから無内容に陥っているのかも知れない。そんな状態では何についてどのように語ろうと、その内容は変わらないだろう。要するに内容がないということなのか。矛盾しているのはいつものことだが、行き詰まりを感じながらも、なぜか偶然にそれを見つけ出す。それとは何だろう。それはそれでしかないか。だがそれについて急いで書くと間違えるから、仮に書き上げることができたとしても、その達成感に浸っている余裕はない。意識は別に急いでいるわけではないようだが、後で読み返して誤りが判明した箇所には修正を加えつつ、さらにおかしな表現がないか読み返している。たぶん君は意味の通らないことを述べている。退屈にまかせてわざと間違えているのかも知れないが、それが意図的に繰り返される理由は何だろう。そんなことの繰り返しの中から何がわかるのか。とりあえず誤りがわかるだろう。では誤りに気づいたときに君は何を思うのだろう。ただ単純にしまったと思うだけか。そして思い通りに行かぬ状況に苛立つわけか。何かをやろうとすれば必ず妨害が入り、そんなことの繰り返しによって、さらに被害妄想が強まる。確かに思い通りには行かないのはいつものことであって、もうそんな状況にも慣れてしまっているわけだが、やはりそれが積み重なるにつれてストレスがたまってくるように感じられるのだろう。ちりも積もれば山となるわけもないが、その内実は産廃の不法投棄現場のような様相を呈しているかも知れない。中途半端な挫折によってうち捨てられたゴミがたまりすぎている。そしてさらに憂鬱な気分が増してくる。たぶんそんな精神状態で立ち直りは期待できないだろう。このままではそこから先はあり得ない。そこで何もかもがお終いなのかも知れない。何がお終いなのかわからないが、お終いのただ中で何もお終いではないと思いたいの当然のことか。何かをあきらめきれずにいるのは万人に共通した思いだろうか。なぜそう思うのか。そう思う根拠がどこにあるのだろう。根拠などいくらでもねつ造できるかも知れないが、それが説得力を持つかどうかは疑わしい。ではどうすればいいのだろう。まさかここで、まだ始まったばかりではないか、と強がってみせるのもわざとらしい。そんなことを述べているうちは、確かにまだ何も始まっていないのかも知れないが、そうやって絶えず始まりの機会を逃し続け、次第に何をやっているのかわからなくなる。要するに言葉を弄してあきらめの思いを紛らそうとしているだけなのか。そんなごまかしがいつまでも通用すると思っているのか。別に通用するとは思っていないが、通用しないままでもかまわないし、それ以前に通用させる対象自体が不明のままだ。そうやってやる気はいつも不完全燃焼に終わってしまうように思われるが、次の瞬間にはやる気などもとからありはしなかったことに気づき、思うことと気づいたことに隔たりを感じている。それはどういうことなのか。どういうことでもなくそういうことなのだろうか。しかしそんなやり方で信念を貫き通せると思っているわけか。それはどのような信念なのか。何を疑っているのだろう。たとえば疑い続けることが君の信念だとするなら満足できるだろうか。どこの誰が満足するのか。別に何もかもが信じられないわけではないが、とりあえず何かを信じる心を疑っていることは確かなようだ。そしてわかりやすい言説を信じられない。そんなことがわかるはずがないと思い続けていたいらしい。それはモラトリアム的な態度だろうか。そうであってもかまわないのだろうか。しかしそれだけでは面倒なので、気分次第でそんな思いなど適当に裏切って、たまにはわかりやさを追求したいときもある。要するにそんなことはどうでもいいのか。しかしそれではやはり同じようなことの繰り返しになってしまうのか。飽き飽きしながらも繰り返されるそれらの言葉には一定のパターンがあるらしい。物事にはあきらめが肝心なときもあるようだが、それをわかろうとしない場合はどうやってあきらめることができるだろうか。あきらめきれないのにあきらめる方法などあるはずもない。君は今不可能について語っているわけか。そんな大げさなことではなく、ただあきらめきれない未練がましさを言葉で表現しているだけか。しかしそれでも少しずつ態度を変えて行かなければならない。今までにわかっていることを整理して、少しは意味のある文章にまとめていかなければならない。だがたぶんそれはでまかせに違いない。


2月28日

 当たり前のこととはどんなことだろう。今日も地球の重力に引っ張られながら誰もが地上に立ちつくしている。寝たきりの人も寝たまま地球の中心方向に引っ張られていることだろう。しかしそれがどうしたというのだろう。君はまだそんなことにこだわっているのか。こだわっているのではなく、こだわりを見いだせないから重力の話になってしまうのかも知れない。この世界には重力以外にどんな力が働いているのだろう。今さらもったいぶって権力の話でもするつもりだったのか。思考力の減退に伴って笑い話の方に比重が傾きつつあるようだが、君には何が笑い話なのかわからない。笑えない話にもならない水準でそれらはいい加減に推移しているだけか。何事も焦りは禁物かも知れないが、これが焦らずにいられようか。なぜか焦っているさなかに、唐突に場違いな台詞を思い出す。この期に及んで何か言い残すことはないか。死刑執行の当日にそんなことをいわれたら麻原尊師はどうするだろうか。何となくその場で笑い転げるような気がする。どうせ被害者に対してどんなに謝罪しても死刑にされてしまうのだから、謝っても仕方がないし謝り損だろう。きっと金正日同志も日本のニュースショーでも見ながら笑い転げていることだろう。おおっ!ぼくちゃんの顔が出ない日はないじゃないか。誰かが電車の中で新聞の競艇欄を血走った目つきで熱心に読んでいる。今日のレースで誰が勝つのか、賭ける対象を真剣に検討しているのかも知れないが、そんな光景を横目で見ながら、英国の競馬場は日本のそれとは違い、着飾った紳士淑女が語らう社交の場だとかいう識者の話を思い出す。要するにきれい事でしかない。たぶんそれらの紳士淑女はくだらぬ演技でもしているのだろう。ままごと遊びと同じように競馬場ごっこをやっているわけか。もちろんそう述べてしまうのは大きな間違いであり、建前としてはきれい事で包まないと、賭け事は庶民の娯楽として成り立たないのかも知れない。たぶん日本のギャンブラーの大半は遊びの範囲を逸脱して賭け事にのめり込みすぎている。まじめすぎて遊びと仕事の区別がつかなくなってしまうようだ。たぶんまじめで真剣な人ほどのめり込み、結果として自己破産に近づくのかも知れない。しかしそれがどうしたのか。他人がどうなろうとその人の勝手ではないのか。誰が何を語っているのでもなく、何かを語ろうとしている誰かが進むべき道はどこかで途切れ、その先へ向かおうとする思いはそこで断ち切られる。面倒なのでそんな思いはそこで忘れてしまいたくなる。その気持ちもわからないではない。誰が何を表現しようとしているのかわからない。しかしそこで自暴自棄になってはまずいか。何もできずに焦って過ちを犯す人は多い。だがたとえそれが過ちであってもかまわないか。何もしないよりは積極的に過ちを犯し続けている方が気晴らしにはなるだろうか。いつの間にか風はやんでいるらしく、あたりは静寂に包まれている。時折近くの国道を通り過ぎる車の音以外は何も聞こえてこない。そして今はそれから数日が経過しているが、やはり相変わらず何を述べているのでもなさそうだ。とりあえず言葉を弄しているらしいが、一向に話の中身が見えてこない。そうは思えないか。何を思っているのでもなく、思ってもいないことを述べようとしているのだ。そんなわけはないか。そんなわけがあるとしたらどうだというのか。たぶんいつかの君はすでにそんなことを述べていた。ただ単にそういうことでしかない。要するに何を述べようとしているわけでもない。言葉につまって途方に暮れている振りをしているだけなのか。途方に暮れながら日が暮れて、いつか見たそれらの光景はすべての思いから遠ざかる。蛍光灯か発せられた光は水面で屈折して、それを見ている者の屈折した思いとは無関係に、途中の熱帯魚に反射しながら水槽の底に到達する。なりふり構わず装ってみせる見せかけの強がりが外見のみすぼらしさを誘う。嘘を述べるならファッションセンスがいまいちのようだ。誰かのファッションはスーツにジーンズを組み合わせているそうだ。似合っていないのか外見そのものがファッションとは無縁なのか知らないが、そんなわけでまだ戯れ言から遠ざかっていないようだ。偽りの思いでは誰かの真心には到達できないのだろうか。だがもし到達できたらどうだというのか。どうもしないとしたら他に何をやればいいのだろう。


2月27日

 夜の暗闇の中で強風にあおられて誰かが立ちすくんでいるようだが、体が飛ばされるほどの強風でもないらしい。動けないのはそれが誰かの銅像だからか。たぶん銅像は動けないから酸性雨によって少しずつ溶けて行くだろう。生身の人間なら酸性雨を浴びれば禿げるところか。別に放射線ではないのだからそれほどのことはないか。禿げる要因は別のところにあり、通常なら雨に濡れて風邪を引く程度か。しかしそんなことはどうでもいいことか。人によっては深刻な問題かも知れないが、それは少なくとも酸性雨に比べればどうでもいい個人的な問題に属することか。現に酸性雨について論じている人は禿げていて、自らの禿頭より酸性雨の方が重要な問題であるような口ぶりだ。しかしやはりそれがどうしたわけでもない。ただ単に眠いのだ。酸性雨も頭髪の後退も眠気には勝てそうにない。では銅像はそれとどう関連しているのか。有名なロダンの考える人ではなく、生身の眠る人の方に興味があるわけか。君はカミーユ・クローデルの彫刻に感動できるだろうか。確か彼女の兄か弟のクローデルは外交官で劇作家であったかも知れない。しかしそれもやはりどうでもいい挿話になってしまうか。確かに暗闇の世界ではそんなことはどうでもいいことだ。光がなければ何も見えないが、闇がなければ光を感じることはできない。彫刻にも時代によって流行の形態があるらしく、それらの流行を考慮しなければならず、ずぶの素人が何の先入観もなくそれだけを見ただけでは何もわからないようだ。しかしカミーユの不幸な人生がなければそれらの作品は成立しないのだろうか。それでは彫刻の普遍性を導き出せないのではないか。別に彫刻に普遍性を見いだしたい人はいないか。だが作者の個人的な事情が作品に反映しているように思いこめば、それで感動したことになるのだろうか。たぶん多くの人々はそれで感動しているつもりなのかもしれない。しかしそれ以外に何があるというのか。またもや以前に何度も繰り返されたような台詞に出くわしている。それ以外に何かがなければいけないのだろうか。その何かとは、やはり普遍性とかいう抽象的な概念のことか。その普遍性とは何だろう。どのようにしたら普遍性を感じることができるのか。それは何らかの技巧的な要素だろうか。たとえばその作品がうまく作られていると感じることが普遍性につながるのだろうか。あるいはそれを美しいと感じることが普遍性そのものであったりするだろうか。そんな簡単な感じ方では作品の普遍性を唱える識者気取りは納得しないか。何となくそれなりの格調高い言葉で表現しなければ普遍性には到達できないか。しかしその作品についていくら多言を要しようと、彫刻は彫刻でしかなく、別にそれが賞賛の言葉の塊であるはずがない。なぜ単なる見るという行為に複雑怪奇な言語表現を当てはめなければならないのか。作品そのものではなく、作品の解説を読んで感動してどうするのだろう。すべての作品に先んじてそれに対する評論が優先されるのだろうか。確かに評論の中で見受けられる小難しい内容を理解したつもりになれば、多少なりとも優越感に浸れるかも知れないが、知識人ぶってそれの受け売りをするような人は恥ずかしく見える。しかし受け売り以外に評論の有効な活用法があるだろうか。もしかしてそれは活用してはいけない文章なのかも知れない。活用しようとすればとたんにパクリとなり、評論家に対して負い目を感じるようになってしまうか。卑屈な感情が頭をもたげてくる。何となく知識人もどきでそんな人を多く見かけるように思われるが、そんなお里が知れるような人ほど自己顕示欲が強いのかも知れない。しかし肝心の普遍性はどこへ行ったのだろう。やはりいくら多言を弄しても普遍性にはたどり着きそうにないが、案外すでにそれらの普遍性からかけ離れた言説の中に答えは出ているのかも知れない。それとは気づかずに普遍性を通り過ぎてしまい、その代わりに評論に関する下世話な現実をあげつらって、その手のメディアが繰り出す紋切り型をなぞっているだけか。やはりその辺が限界を形作っているのかも知れないが、それもこの際どうでもいいことになるか。それらの限界を利用して何か適当なことを述べることができたわけだから、それではそれでその程度の結果が導き出されたにすぎないことか。


2月26日

 気に入らないことを探しているの誰だろう。おもろくないことは他にもあるのだろうか。何がおもしろくないわけではなさそうだが、焦点の定まらぬ目つきを鏡が映している。相変わらず風が強い。だがうつろな思いが風に飛ばされてどこかへ飛んでいってしまうわけもないか。たぶんこの世はそんな調子で続いてゆくのだろうが、そんな調子の内容を思いつかぬままに、そんな雰囲気をやり過ごしている。いつものように何を述べているのでもなさそうだ。やっと機会が巡ってきたというのに、そんな調子ではどうにもならないだろう。それでも適当に作業をやり続けているらしい。やむことのない何かの流れは意識をどこかへ運び去るだけか。だがどこまで行ってもどこにも行き着かぬそれらの流れに、今さら逆らうつもりはない。救急車のサイレンの音が近づいてくるが、それがつかの間の気晴らしにでもなるだろうか。だがそれはさっきまでの状況で、今はそれも聞こえなくなり、相変わらず風が強い。低気圧でも近づいているのだろう。寒冷前線が通り過ぎたら少しは寒くなるだろうか。寒くなったところでどうなるわけでもなく、空虚に包まれた心に何をもたらすわけもないか。しかし空虚でさえ心をどうすることもできはしないだろう。もうなれてしまったらしく、何も感じないことに自足してしまっているらしい。それでは空虚に包まれている意味がないだろう。もっと執拗にとりついて意識を苦しめなければならないのに、何となくそれらの作用には拍子抜けしてしまった感がある。この居心地の良さはどうしたことだろう。不快な感情はどこかへ消え去ってしまったのか。それではおもしろくないか。どうにもならない不快さのただ中でもがき苦しんでいなければ君らしくないか。たぶんそれは嘘かも知れない。そんな嘘が今までのフィクションを構成してきたのだろう。本当は感情などもとからなかったのかも知れない。感情ではなく、適当な感情を構成しようとする思考が存在していた。もちろんそんな思考も虚構に含まれる。もとからあったものなど何もなく、そこにはただの空虚があっただけか。何かがあったわけではなく、何もなかったのだ。何もないことがあったわけではない。そうやってだんだん言葉を込み入らせるのが君のやり方か。だがそれでも何か述べているわけではない。それらの状態を言葉で表現することに無理があるのか。その辺に思考と表現とやり方に限界を感じる。しかしそれでもそこから先へ進んでみよう。先へ進む理由は何もないと同時に、何かあるかも知れないが、それを明かすわけにはいかないらしい。理由などどうでもいいと同時に、それを述べてしまうのはつまらない。君は原点を見失っていると同時に、そこへ立ち戻ることを拒否している。そこからの影響を避けながらも無視できない愚かさをどうすることもできない。馬鹿げた人々が馬鹿げたことを述べている状況をどうすることもできはしない。ただそれらの言説を批判するにも疲れてきたのか。誰もが相変わらずを望んでいる状況には、どうにもできない救いようのなさがあると思われるが、その相変わらずが彼らにとっては唯一の救いなのだから、その前では無力以外ではあり得ないだろう。何しろそれらを批判する側がそれに依存していなければ生きて行けないのだから、批判自体が無効であるどころか、批判している当のものの延命に力を貸しているどうしようもない現状を、批判によってどう変えられるというのか。そんな今の時代に飽きもせず同じような批判を繰り返す者自身が、逆に批判されるべき対象なのではないだろうか。しかしこの期に及んでそんなことをいくら述べても無効だ。状況は何も変わらないし、それでも変わる可能性があるとすれば、それとはまったく無関係なところから変わって行くような気がしている。だが気がしていること自体がすでに勘違いなのかも知れず、現実に変化のただ中に生きているのに、それに気づかないだけなのかも知れない。毎度おなじみの批判勢力はもはや何の力も持ち得なくなっていて、批判対象自体が希薄化の一途をたどっているのかも知れない。やがてそんなものはどうでもよくなってしまう時代がやってくるだろうか。そうなってしまうまでどれほどの歳月を要するのだろう。はたして君が生きているうちにこの世界がそんな風になってしまうのだろうか。たぶんそれを見極めるためだけでもまだ生きている価値はありそうか。


2月25日

 夜の庭を見渡すと窓明かりに照らされて猫の目が光っている。春が近いのかも知れない。暖房ももうすぐ必要なくなるだろう。しかし何もない。相変わらず苦し紛れの言い回しには余裕が感じられない。いつまでも笑っていると目尻のしわが深くなる。年をとるとおもしろくもないのに笑う習慣が身に付くようだ。身に覚えのある人は不快感をあらわにするだろうか。観察はどのような方向にも働くらしい。だが他愛のないこだわりが勝手な方向にねじ曲げる。流行現象に合わせようとする強迫観念がつまらぬ嗜好を招き寄せる。それではいつものパターンの繰り返しではないか。勇み足を犯さないうちに進むべき方向を修正しておこう。そんなことはどうでもいいことだろう。しかしそれを行わなければ先へ進めないのでやりざるを得ない。そうやって無理を承知でいつものやり方を貫こうとしているが、たとえそれを成し遂げたとしても、大した結果は期待できないことも知っているはずだ。それでもそのような作業にこだわっているのはなぜだろう。またもやそんな疑問で間を持たせようとしているのか。だが困ったときの奥の手は封印しているつもりだ。奥の手などあるわけがないだろう。あったとしたらとっくの昔に使っているはずか。たぶん書物を読まなければならない。映像を見ているだけでは何も残らない。それらの印象は瞬く間に忘れ去られ、その場限りが絶え間なく繰り出されているだけか。その一方でそれとは無縁の日常が果てしなく続いてゆく。たぶんそれらの日々が創造力を奪っている。それは何かの言い訳であり負け惜しみに違いない。愚痴を述べたければ他でやってほしいか。そんなたわごとは無視して先へ進んでみよう。その先があったらの話だが。人それぞれでやっていることが違うから、他のやり方ぐらいいくらでもありそうなものだが、それらのほとんどには魅力がないし興味を惹かないのは、行為者が視野狭窄に陥っている証拠か。他人の心配をしている場合ではないか。それは他人ではなく、他人でさえない何者にもなり得ない意識以前のぼやけた雰囲気だろうか。それはおかしな言い回しだ。どうやら言葉が表現形態になり損ねているようだ。南から吹きつけるなま暖かい風とともにいい加減な言葉遣いを押し通す。それでその場を切り抜けることができればしめたものか。しめたと思ったらそれ以降はそればかりになってしまうのだろうか。いつか手痛いしっぺ返しを食らうかも知れない。だから同じようなやり方をいつまでもやっているわけにはいかないわけか。しかしその理由がどこに示されているのだろうか。たぶんそんなやり方でも、時と場合によっては有効であったりするのかも知れない。中には伝統工芸として確立されて、人間国宝になったりする人もいる。だがそれはひとにぎりの世間的な成功例にすぎないだろう。だいいちそんなやり方で成功してしまうこと自体が、近い将来に待ち受けている滅亡の要因を形作っている。他の誰も受け継ぐことの不可能なレベルまで高められた職人芸的なものはそこでお終いなのだ。その時点で袋小路にはまっている。隙だらけでは散漫な印象しかもたらさないが、ある程度は未完成な部分がなければそれ以上の発展は望めないだろう。しかしそれはどういうことなのか。雑なことを述べるための口実なのか。何となく抽象的なことを述べているような気もするが、たまに利いた風な意見になってしまうことが君の弱点なのかも知れない。そんなわけでそこから先へはなかなか進むことができないらしく、いつまで経ってもその程度の言説で我慢しなければならない状況のただ中にいるようだ。何を述べようとしているのか定かでなく、話の方向も絶えず変更せざるを得ない状況に陥っている。だがその一方で方向などどうでもいいと思っていたりするので、要するにあまりまともなことは語りたくないようだ。誰がそんなことを思っているのかさえ定かでない。その場の思いつきは単なる気まぐれなのであり、本当のところは誰の思いでもないのかも知れない。誰もそんなことは思っていないのと同時に、誰もがそう思う可能性は誰に向かっても開かれている。しかしそれは毒にも薬にもならないどうでもいいような代物である可能性が高いか。それでも何もないよりはいくらかマシだろうか。それともただの余分な戯れ言でしかないか。


2月24日

 よくわからないのだが、いったい何がわからないのかわからない。君は何を笑っているのか。笑っているのではなく、笑えない状況に陥ってしまったことを嘆いているわけか。そんなわけもないだろう。笑っている現実と笑えない状況とはだいぶ事情が異なるようだが、世の中には笑えないおかしさというものがあるだろうか。どこかの誰かはそれを知っているかも知れないが、今となってはそのとき何がおかしかったのか思い出せないだろう。たぶん君が思い出そうとしていたのは、それとは違った状況かも知れない。要するにそんなことはどうでもいいことか。現にそのとき何かを思い出していたはずだが、なぜか未だにそれを言葉で表現する気がないようだ。君はその代わりに実体験からはかけ離れた空想を物語るだろう。現実の世の中をなめているのだろうか。容易には思い通りに行かない世界がおもしろくないようだ。しかし思い通りの世界を空想するのも容易くはないか。空想の中の何が思い通りなのかよくわからない。たぶん現実から背を向けて空想してしまうこと自体が、思い通りには行かない現実を物語っているのかもしれない。要するに君は空想が現実のものとなってほしいが、一向にそうならない現状を嘆いているわけか。それはいつもの無い物ねだりであって、何かを空想してしまった時点で現状に敗北を喫しているのかも知れない。心ならずも敗北感を抱いてしまうことが許せないのだろうか。なぜ君はそれを敗北だと決めつけるのか。君が決めつけているのではなく、言葉のつながりを保つためには、そんな表現の方が自然に思われるだけか。君にはそれは不自然なつながりに思えるのか。誰がそう思えるのかわからないが、そんなよくわからない理由で、君の意志に反する文章が君の手によってできあがりつつあるようだ。それは思わしくない結果そのものだろうか。思わしくない結果を招いたことが即敗北を示しているということか。では何かを物語る者は最初からそれらの現実に負けているわけか。現実に負けたから空想の世界に逃げ込んでいるわけか。空想すること以外に何もできないから、空想から導き出されたありもしない話で自己正当化しなければならず、やはり自らの正当性を主張するためには、不特定多数の人々に向かってその内容を報告しなければならなくなるのか。しかし報告する対象ならありもしないことではなくてもかまわないのではないか。現実に見聞きしたことを報告すれば空想する手間を省けるだろうか。しかしそれでは安易なジャーナリズムと同じになってしまうか。手間を省いて何を期待できるだろうか。その手の人々は手間を省いてリアリズムを手に入れたいらしい。そしてそのような手法が世のため人のためになっていると思い込み、それらの情報を受け取る人々が安眠できるように微力ながら手助けしているつもりになるわけか。できれば安眠したままついでに永眠してほしいか。放っておいてもいつかは永眠する機会が巡ってくるだろう。だがそれがジャーナリズム的な報告とどう関係するのか。世の中は今日も永眠できずに未練がましく生き残ろうとする人々でごった返しているはずか。やはり何を語っているのかわからなくなってきたか。そうやっていつもの安易な脱線状態を長引かせようとしているわけか。たぶんそれらの実態は空疎そのものかも知れない。ではそれらの空疎を利用して何を導き出そうとしているのか。たぶん空疎な空想以外は何も導き出せないだろう。現実には何もできないのだから、そんなことをやっているだけなのかも知れず、もちろんそのような行為も本気でやっているわけではないらしい。それ以外に何も思いつかなかったのだろうが、本当にそれ以外はあり得ないのか。そんな状態で言葉を繰り出す限り、そうなってしまうしかあり得ないのではないか。そしてそんなことをやっているうちに何を考えていたのか忘れてしまったらしい。さらにそれを思い出す気が起こらない。始めから何もないのだから思い出せるわけがないか。思い出そうとしていたのはそれとは違う内容かも知れないが、それはこれから新たに構築しなければならないことかも知れない。思い出すのではなく考え出さなければならないか。だが意識はそこで途切れしまう。そこから先が思い出せないようだ。たぶん眠ってしまって覚えていないのだろう。あるいは面倒くさいから眠ってしまったことにしているのかも知れない。そういうわけで何を考え出そうとしていたのか思い出せずにいるようだ。


2月23日

 どこかの誰かは切羽詰まってから何をやっているのだろう。たぶんそこには何の意図も思惑もない。意味不明な表現を使うなら、何かの抜け殻がそこからだいぶ離れたところで朽ち果てようとしている。それは何のたとえなのか今のところは不明かも知れないが、いずれ何かのこじつけに使われるかも知れないので、今はとりあえず記憶にとどめておこう。しかしそれは誰の記憶にもならないだろう。やはり何を述べているのかよくわからない。その受け入れがたい言葉の起伏をどう見ればいいのかわからないか。調子が狂っているようでいて、その狂っているような調子によって継続が保たれている。またそれ以上は無理を重ねるべきでないと思われるが、無理を押し通すことでかろうじて平静を保っていることも確からしい。しかしそれらの文章表現はかなりおかしい。そして何かどこかの奥底から笑いの感情がこみ上げてくるような予感がしている。笑えない状況で無理に笑おうとするのは体に悪いかも知れないが、精神衛生上は笑いが必要なのだろう。しかしそれは誰の精神でもなく、文字として記された言葉の上での精神でしかないか。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただ感性は意味不明な表現にとどまろうとするばかりだ。やはり今回もあまり本気ではないらしい。それは感性ではなく意識が何かくだらぬ思考形態に毒されているだけなのか。あらゆる感情の発露に先駆けて、ひねくれた思考を前面に押し出してみたら、そんな風にねじ曲がった言語表現を許してしまうわけか。しかしその場合、良識と呼ばれる社会とのつながりを保とうとする意識はどこにあるのか。たぶんどこかに置き忘れてきたのかも知れないが、今からそれを探しに行く余裕はなさそうだ。おそらくそれは何かの冗談だろう。意識はまだそれらの呪縛から逃れられずにいるらしい。冗談ではないものが冗談としか思われなくなるとき、ひねくれた感性はそれを利用して適当な文章を構築しようとするだろう。そしてそのときそれしか可能でないことを悟る。他にやり方を見いだせないのだから、そんな風に言葉を連ねる以外にやりようがなくなるわけか。それらの行為には何か効用でもあるのだろうか。暇ではないのに暇にまかせて何かをやっているつもりになれる。無駄なことをやっているという実感とともに、意識は絶えずその実感を裏切るような言葉の連なりを追い求める。その辺が君のねらい目なのだろうか。結果としてうまく回っていけばそれでかまわないのだろうか。本気でないのをいいことにして、一時的に本気になったつもりになれるのだろう。そうやっていつも同じ雰囲気を保とうとしているようだが、それが成功していない状況をもたらしたい。要するに皮肉な結果をもたらしたいわけなのか。皮肉以上の無内容を望んでいるのかも知れない。無内容ではなく無感覚の中での憩いのひとときをもたらしたいのか。無内容の前に適当な内容がすでにあるはずか。言葉を文字にすれば錬金術のように詐欺的な内容が生じてしまうだろう。いとも簡単にそのときの思いを再現したつもりになれるが、それは際限ではなく新たな虚構の構築につながってしまうわけか。たぶんそれでもかまわないのだろう。初めに抱いた思い自体が後から言葉によって構成された幻想なのかも知れない。そうやって君はフィクションにリアリティを感じているわけか。ありもしない思いを絶対にありもしないとは思わないだろう。構築された文章によってありもしない思いが現前していたように錯覚させられるわけか。それは錯覚ではなく実感なのだからどうしようもない。そのときそこには確かにそのような思いを抱いていた意識があったのだからどうしようもないか。そんな議論を延々と続けていくと、結局はそれを信じるか信じないかの話になってしまうか。やはりそれが君のねらい目なのだろう。そうやっていつまでもそれらをやり続けるのが君の目的なのだろうか。目的ではなく成り行きから導き出された結果そのものか。必ずしも意図的にそうなるわけではないようだ。では初めから意図など介在させないことがそれらの継続を保つ秘訣なのか。しかしそんな問い自体がそれらの継続に貢献する仕組みになっている。


2月22日

 今は夕闇が迫りくる頃からだいぶ時間が経っている。別にそれがどうしたわけでもないか。そんなことはどうでもいいことかも知れない。しかし今求めているのは、そういったどうでもいいことなのかも知れない。確かに今も誰かが何かを求めていることに変わりはない。それは誰かではなく君であってもかまわないだろうか。君はそれとは別のものを求めているのか。たとえばいつものようにここにはない何かを求め、それが何なのか特定できずにいるわけか。それでは何も求めていないのと同じことかも知れないが、もしかしたら本当に何も求めていないのかも知れない。文学的な表現を使うなら、堕落した意識には何も求められはしない。軽薄な誰かならここはそんな風に述べるところか。しかし何を述べても無駄である。岬の先には海が広がっている。それとこれとは関係ないだろう。風は今どこから吹きつけているのだろうか。そうやって誰かを煙に巻くつもりなのか。しかしそれらの蛇はとうにとぐろを巻いてひからびている。それは漢方薬の材料にでもなるのだろうか。そんなことは知ったことではないかも知れないが、軒先につるされた干し大根はいつまで経っても漬け物樽へ移されない。漬け物が趣味の老人はとうの昔にあの世へ旅立ってしまったのか。あのろれつの回らない口調はいつの日か思い出されることもあるだろうか。たぶんそんなことも君の知ったことではないか。別に目が回るほどの忙しさを経験しているわけでもないが、目が回るのは自らの体が回っているからか。それはおかしな表現だろうか。では鵜の目鷹の目とはどのような意味なのだろうか。ボクサーの目つきはそんな表現を受け入れるだろうか。嘘つきの言うことを信じるなら、濃いコーヒーには乳酸菌を殺す働きがあるらしい。そんなことがあるはずがないかも知れないが、中国の仙人はいつの頃からか北朝鮮に移り住んでいるそうだ。仙人とはちょっと太り気味でシークレットブーツでも履いている人物のことか。彼には何か人目を避ける理由でもあるのだろうか。もはや誰にとってもそんなことはどうでもいいことか。いつもまでもそのときはやってこないだろう。過去のただ中で未来はいつやってくるのだろう。そんなことを思いながら過去にこだわり続け、すでに到来しつつある未来から背を向けて彼は何を語っているのだろう。語っているのは彼ではなく君か。そういうわけで君には未来がないが、どういうわけか君にはそれがわからない。わからないのでとりあえず未来の言説を構成してみよう。予言の言葉には興味はないか。誰が占いを信じるのか。天気予報は何を占っているのだろうか。今を犠牲にして何をやっているつもりなのか。どこかの誰かは、占っているのではなくあくまでも予報している、と言い張るだろう。ある夜に始めからやり直そうと思うが、その夜は既に過ぎ去ってしまったらしい。天気予報を見ているうちに数年が過ぎ去ってしまう。そんなことがあるわけがないとは思うが、夜明け前に今が夜ではないことに気づいて夢から覚め、昼寝の最中に電話のベルで起こされる。文法的にはどこが誤っているのだろう。そのとき軽いめまいを覚えたように思えた。たぶんしばらくしたら何を述べていたのか忘れてしまうかも知れない。どうやってそこから脱出することができようか。ただ迷ってばかりの日々を送っていたのはいつのことか。そうではないのかも知れない。違う話の最中にそれとは違うことを考えていたはずだ。何を考えていたのか思い出せないのは君ではなく彼の方か。確か明日は昨日より時間的に前だったかも知れない。不愉快になってしまうのはなぜだろう。何から遠ざかろうとしているのか。歌声の中に誰かの思惑は見え隠れしている。そんなことがあるはずもないか。いつか彼はつながりのない言葉が君の意を介さずに連なっている光景を見るだろう。それをいくらやろうと何も導き出されないだろう。きっと誰も結末までたどり着けなくなる。それをまだ誰も知らないのが歯がゆいのか。しかし焦れてしまったらそこでお終いだ。平静を装いながらも、そんな心理状態からは程遠い感覚のただ中に意識はある。何とか言葉をつなげて意味にたどり着こうとしているらしい。それでは十分でないことをわかっていながら、なおもそれを執拗に繰り返すのは、それ以外にやりようがないからか。たぶん誰かは苦悩しているのかも知れない。それが嘘っぱちでないことを祈ろう。


2月21日

 なぜ誰もが同じようなことを思うのだろう。しかし誰がそんなことを思っているのか。その一方で、誰でもない誰かは依然として何を思っているのでもないらしい。やはり何を述べているのか意味不明になりそうだ。それらの意味不明のさなかに何を思い出せるだろうか。放浪者は唐突に何かを思いつく。要するに放浪者という言葉を思いつく。思い出したのではなく思いついたわけか。なぜ思いついたのかよくわからないが、その思いつきに何か意味があるのだろうか。いったん途絶えた言葉は二度と同じようには展開させないつもりか。それでいったいどんな話を展開させているつもりなのか。いつものように何を述べているのでもなさそうか。それでも何か述べていることには変わりないか。何を述べなくても内容のない言葉が自然に連なってゆくわけか。それはどういうことなのだろう。ただそれではつまらないと思われるだけか。つまるつまらないはこの際大した問題とはならないか。もはや君は放浪者ではないはずか。それどころか放浪していたことなどかつて一度もなかったはずか。今日もどこかで誰かが旅人の振りをしている。旅人を偽装する人々はどうやったら現実から目をそらせるかを競い合う。そんなはずはなく、中には世界の現実をその目に焼き付けるために旅を続けていると思いこむ人もいるか。たぶんリゾート地でもそれ相応の現実に出くわすだろう。何も旅に出なくても日常の現実に出くわしているはずか。だがたぶん誰かが思い出しているのはそれとは違う現実かも知れない。たとえばそれは妄想する日々を送っていた現実かもしれない。誰かには放浪者になる夢を抱いていた時期でもあるのだろうか。漫画や小説の中の放浪者ならいくらでもいるだろう。世界を経巡る代わりに紙の表面上をページからページへ移りゆく者たちはありふれているか。あるいは映画フィルムのコマからコマへ移動する。だが単なる見せ物でしかないそれらが真の放浪者だといえるだろうか。では放浪者とはどういう人々なのだろう。都会の片隅で段ボールにくるまれている人々が現実の放浪者だと思うか。だがそれらは放浪者ではなく定住者かも知れない。フィクションではない現実の放浪者に出会うことはまれだろう。ほとんど出会うことはあり得ないかも知れない。貨物船で旅する人や中には貨車に飛び乗って旅する人もいるらしい。去年あたりから缶コーヒーのコマーシャルでそれのまねごとが演じられていたが、それが違法行為であることでも誰かから指摘されたのか、途中から貨車に飛び乗るシーンは見られなくなってしまった。確かに走っている貨車に飛び乗ること自体危険な行為だし、貨車といえども無賃乗車なのだから違法行為には違いない。以前ドキュメンタリー番組で見たそれらの人々の中には、貨車から飛び降りた際に怪我を負った人もいた。アメリカには今でも数人でグループを組んでそんなことをやっている人々がいるらしい。番組の制作者にはそれをヒッピーの延長線上で論じたい雰囲気があった。一方貨物船に乗って旅する人の物語には何やら哀愁が漂っているように思われた。数十年ぶりに再会した旧友とお互いに禿げてしまったことを笑い合う場面が思い出される。たぶん彼はジャーナリストの類だったかも知れない。しかしなぜ人々は旅をするのだろう。そんな問いに同じような答えはあり得ないか。移動していなければ精神的にやっていけない事情でもあるのだろう。あるいは自由という言葉にあこがれているのかも知れない。その身は定住というしがらみから解き放たれて、それとは別の移動し続けるというしがらみにゆだねられる。絶えず移動し続けてどこへも行き着かないことは、決して自由ではありないか。そこには立ち止まることが許されない不自由があるだろうか。物語的には立ち止まったところが墓場にでもなるのだろうか。ロマンを感じさせるとはそんな成り行きになるだろうか。定住者側から見れば確かにそれがロマンティックに思えるかも知れない。放浪者の希望のない哀れな末路を映像として眺めながら感動するわけか。要するに無い物ねだりがそんな思いに反映されるということか。やはり気晴らしの娯楽とはそういうものになるしかないのか。


2月20日

 とりとめのない時間のただ中で、何を思うでもなく何かやっているらしい。我々はこれからもそんな光景に出くわすだろう。それがすべてでないことはわかりきっているが、やはりそのような現象に気をとられながら生きてゆくしかないのだろうか。この世界に暮らしている限り、誰もが世の中の流行り廃りを意識しているわけか。それらに敏感にならざるを得ないわけか。だがそれ以外に何があるだろう。何か重要な事物の存在を見落としているのだろうか。そんなはずはなく、流行り廃りがすべてだと思うことができるのだが、いったい他に何があるのだろう。本当に何か重大な事象があったりするわけか。重大であるかないかは人それぞれで感じ方が違うか。たぶん日々経験するそれらすべてが重大だとは思わないだろう。それと気づかずに取り返しのつかないことをやっているかも知れないが、実感としては、取るに足らない些細な出来事が時間の経過とともに、意識の中に徐々に積み重なってくる場合がほとんどか。ではそれらに関して我々はどう思っているのだろうか。我々ではなく君はどう思っているのか。君の中にも我々の中にも、個々の人物によって様々な思いがあるはずか。君はそんな思いの中で何を探し求めているのだろうか。別に探しているわけもなく、言葉によって適当な思いを構成しているだけか。だがそれは思いではなくフィクションではないのか。他の誰かの利いた風な意見もそんな感じで出力されるだけのか。老いとはどういうことだろう。それらの言動からは老いが滲み出てくる。画面に映っている彼は、毎晩のように気の利いたことを述べているつもりらしいのだが、たまにそれを端から聞いていると、何かちぐはぐで意味不明にしか聞こえないのはどうしたことか。なぜ彼はそんなことを述べなければならないのか。彼が積極的に述べているのではなくて、それらの放送形態が彼にそんな内容を述べさせているだけなのかも知れないが、しゃべり専門の人がそういった現実を見失っているように感じられて、何か見るたびにいつも哀れに感じられてしまう。それは文章を書く専門の人にもいえることか。しかし彼らは本当に現実を見失っているのだろうか。もしかしたら彼らがしゃべりの糧としている現実そのものが、支離滅裂でわけのわからないものなのではないか。とりあえず彼らはそれとは気づかずに、結果的にそれらの雰囲気をしゃべりで忠実に再現しているのではないか。しかし実態としては何かくだらぬことに踊らされているようで間抜けに見える。それ専門であり続けることは、他の何かを犠牲にしないとやっていけないのだろうか。それを長くやり続けるとその辺の感性が狂ってくるように思われる。それでも当人は何か中身のあることを述べていると思っているのかもしれないが、周りに批判してくれる人がいないとそうなるしかないのか。それではなおのこと悲惨になってしまう。日頃から他人が落ちぶれることを願っている人たちにとっては、それが格好の獲物になるのかも知れないが、悲惨な人から繰り出されたそれらの言説を真に受けている人は、さらに悲惨な状況に陥る可能性もあるか。できればそんな状況は避けて通りたいところか。しかしあれらの人々は元からああだったのだろうか。今までそれに気づかなかったわけでもないだろうが、うすうす感づいていながらもそれを放置してきた経緯もあったりするか。何か彼らにはそれを無視して有り余る魅力でもあったのだろうか。とりあえず酒場の世間話レベルとしては、日給三万円の臨時ボーナス目当てで自衛隊員の誰もがイラクへ行きたいらしいし、誰もが日頃の訓練ばかりでは退屈なので実戦で武器を使ってみたい衝動に駆られているらしい。普通ならその程度でその件に関してはお終いか。建前はどうあれ、それが本音に近い実感なのかも知れない。野次馬は誰もがそう思いたいのだ。だからといって、君がそれをおもしろおかしく述べてみたところでどうしようもないだろう。相変わらず君はそれらの状況を楽しめない。野次馬などになれるはずもないが、傍観者であることは変わりない。たぶんそこには様々な思惑が働いているのだろうが、それらの思惑が現状に合っているとはとても思えない。それらはただの宣伝合戦であって、ほとんど実体を伴っていないのかも知れない。意識の大半が妄想にとらわれている。


2月19日

 いったいそれらの虚しい行為は何のためにやっていることなのか。何となくすべては台無しになりつつあるようだ。手遅れになってから妙案を思いつくことはよくあるが、また君は袋小路の手前で無駄なことを考えている。何か他に抜け道がないものか。抜け道がないからそんなことを思うわけだ。しかしいついかなる時でも困難は容赦なくやってくる。切羽詰まってどうしようもなくなった段階で、さらにそれに追い打ちをかけるような事件が起こる。始めから無理だと思われたのだが、思わぬことは本当に思っても見なかったことではなかった。それはどういうことなのだろう。予想通りの結果に落胆しているわけか。とりあえず済んでしまったことは仕方のないことで、早く気持ちを切り替えないとまずいことになる。だが君の都合がこの世界に反映されるわけがない。そんなことは当たり前のことだと思いつつも、意識はまだ無謀な試みの最中にとどまっているようだが、いつでも逃げる準備を整えておいた方がよさそうだ。なぜそんなことをいつまでも繰り返すのか理解できない。そんなわけで不具合の連続でふさぎ込み、君はその件に関して何も語る気が起こらない。現に未だに何を物語っているのでもなさそうだが、それでも君とは無関係に思われる適当な虚構の中では、別の事態がゆっくりと推移していて、何かが起こるはずだった場所では、未だに何も起きていないように感じられるが、別の場所では思わぬ出来事に遭遇しているはずだ。誰が何に遭遇しているのか。それはニュースなどを見れば日常茶飯事で毎日のように発生していることか。唐突にありふれたことを述べるならば、まったく油断も隙もあったものではない。誰かが不在のうちにそれらの場では空き巣まがいの行為が横行する。ところで対話とは無縁のそれらのゲームはまだ継続中なのだろうか。すでに終わってしまったところもあるようだ。そして何かが終わって悲観的な気分になった誰かは、この地上には夢がないと思う。人によっては火星の赤茶けた大地にロマンを感じるらしいが、たぶんここは砂漠ではないらしい。現実の夢に見放された誰かは夢の中でサーカスでも見物しているのかもしれない。またそれとは別の誰かは、犬の鳴き声とサイレンの音ともに自発的に何を語っているのでもなく、それらの状況に何かいい加減なことを語らされているようで、それからしばらくして暴走族の爆音が遠ざかる。通り過ぎる者たちには明日がない。土曜の夜に集う人々には何かがない。誰かが導き出したそれらの成り行きを理解しようとは思わないが、真実は今どこにあるのだろう。どこにあると思っているのか。ところ変われば品も代わり、同じ状況について述べている内容も変わってくる。暇にまかせて導き出されたそれらの内容は何となくおかしい。真摯な告白は場をしらけさせる。君はそこで何か場違いなことを述べているわけだ。そうならないためにはどうしたらいいのだろう。とりあえずその状況では自らの思いを明かさないことが肝要らしい。その代わりにまったく無関係なことを述べてみる。たとえそれがフィクションにすぎなくてもかまわない。もしかしたら現実以上のリアリティを宿しているかも知れない。ところでそれは何かのおまじないなのか。偶発的な出来事をどうやって利用したらいいのだろう。利用するつもりもないのにその方法を知りたがるのは誰なのか。その存在が消滅するためにはどんな代価を払わなければならないのか。たぶん君は何もわかっていないのかも知れない。そうやって今度はそのわかっていないことを利用するつもりらしいが、はたしてそれで利用しているといえるのか。それでも時間的な隔たりと空間的な隔たりを利用しているつもりらしい。要するに此処と彼処と過去と未来を組み合わせることによって、それらのフィクションは構成されている。たとえば日本のメディアが日本人向けに伝える大リーグ情報と、アメリカのメディアがアメリカ人向けに伝えるそれとはどれほど違っているのだろうか。


2月18日

 誰かはどうあっても同じことを繰り返すわけにはいかないと思っているらしいが、はたしてその結果は何を物語っているのだろう。それらの文章に大した意味はないし、その内容もいい加減なことが記されているだけか。とりあえず何か特定の意図があってやっていることではなさそうだ。ただ何かがどこかでずれている。そんな状況では遠からず行き詰まるだろう。どうやら当初に抱いていた無限の可能は嘘偽りのようだ。いつそんなことを思っていたのかすでに忘れている。しかしなぜその程度で完結してしまうのか。なぜそれ以上を求めないのだろう。やはりそれ以上は不可能なのか。始めから無理があったのかも知れない。閉じた世界の中で開かれた対話が可能だろうか。そこで誰と誰が対話する必要があるのか。そんな状態で何に感動できるだろうか。感動できなくて嫌気がさしているわけか。何やら軽はずみを利用して意識の中に何かが出現しているようだ。その何かが君を操って作業を進めようとしている。いったい何度中断して何度再開したのだろう。誰にやる気があるというのか。気力はとうに尽きているようだが、空虚が勝手に言葉を繰り出してくれる。そんなことがあるはずもないか。しかし非難の言葉は的を著しく外れているようだ。それを発している誰かは内容を読まずに否定するのが慣習となりつつある。君はこれからどうなるのだろう。君はどこから言葉をサンプリングしてきて、それらの文章を構築しているのか。それ以上の否定的な見解はごめん被りたいところだが、何が劣っているのでもなく、誰が疲れているのでもない。何を賭けてその場に臨んでいるのでもない。そんなものに何の興味もないが、興味を惹かぬ話題とは何のことだろう。文中の彼とは誰のことを指すのか。たぶん君は馬鹿げたことを述べている。外部から聞こえてくる雑音は何を君に伝えようとしているのだろう。それに気づかぬ君に何も伝わるはずもないか。君はいつどこで死ぬのだろう。それはこれまでとこれからの言動にもよるか。それではこれから死ぬまで間に何をやっていればいいのかわからない。暇つぶし程度ではいけないのだろうか。暇つぶしの内容にもよるか。気まぐれに何かくだらぬ予言でも発したくなる。これから世界はどうなっていくのだろう。何かのきっかけでどうにかなるのだろうか。もうすでにどうにかなっているかも知れない。しかしたとえ世界がどうにかなっていようと架空の君には関係ないことか。さっきからどうも気に入らぬことがあるようだが、そんなことはお構いなしに、いつものように意識は深夜の時間帯を通り過ぎようとしている。別にこれから何を述べようとしているのでもないが、そうやって飽きもせず言葉を連ねているらしい。それで君は君自身を語っているといえるだろうか。なぜ君自身を語らなければいけないのか知らないが、君は君でないのだからそんなことを語れるはずもないか。では君が君でないとするといったい君は誰なのか。要するに暇にまかせてそんな文句を導き出したかったわけか。そしてそんなことはどうでもいいことか。求めている言葉そんなものではないだろう。もっと斬新で新鮮な語り口を夢見ながらも、それから程遠い現状に苛立っているのだろうか。何を述べようとしているのかよくわからない。世間で話題となっていること以外に何を語ればいいのか。メディアを批判しながらメディアからもたらされる情報に頼っていては情けないか。しかしそうやって語る範囲を狭めていては何も語れなくなってしまうだろう。つまり始めからまともに語ることは不可能なのか。その不可能のただ中でまともでないことを語りつつあるわけか。だから意味不明でわけのわからない内容になり、それが気に入らないらしいが、それをどうすることもできずにいる。現にだいぶ前から何も思いつかない代わりに、無駄な言葉ばかり連なってしまい、次第にそれらの存在が思考の作動を阻害し始め、さらなる無内容を呼び込もうとしている。それでもかまわず言葉を連ね続けるべきかどうか迷うところか。


2月17日

 別にその状況をどうしたいわけでなく、そんな状況を招いた原因を探ろうとしているのでもない。世の中は結果がすべてか。とりあえずはその通りだろう。その結果を無視していいのなら、確かにその通りかも知れない。要するに君はすべての結果を無視したいわけか。無視できない結果まで無視して何をやろうとしているのか。結果をいちいち気にしてたら何もできなくなってしまうのも一つの真実ではあるが、勝手なことをやる口実としてはそれもありか。確かにそれもありかも知れないが、それをやった結果に誰が責任をとるのだろう。君は無責任な奴だから当然責任などとるわけがない。だがそんな見解に何の意味もありはしない。しかしその意味のない見解を利用して、そこから先に言葉を積み重ねているのは誰なのか。それは君以外にあり得ないか。他に誰がそんなことをやっているのか。そんなことは誰もがやっている当たり前のことかも知れない。しかし意味を求めないで言葉を連ねてどうするのか。君は求めないが、誰か他に求めたい人がいて、君が連ねた言葉を読んで勝手な解釈を施したいその誰かが、恣意的に意味を導き出せばいいことなのだろうか。そうやって君は何かややこしいことを述べているようだが、いつものように本気でそんなことを思っているわけではないのだろう。実態としてはどこかで何かが食い違っているのだ。もちろんその食い違いも利用して言葉を連ねている。この際利用できるものは何でも利用しなければ、それで何がどうなるのか。述べている途中からそんなことはどうでもよくなってしまったようだ。言説の連続性などいくら中断してもかまわない。文章と文章の間に関連性を見いだせなくなる。ではそれらの言葉には意味の他に何が宿っているのだろう。他の何によって意味を退けることが可能なのか。否応なくそうなってしまう結果を無視することは不可能なのか。その空虚な思いを切り抜けた先に、何か憩いの時空でも待ちかまえているとすれば、それで少しは希望を持てるだろうか。たぶんそれは勝手な幻想に違いない。それらの否定作用はとどまることを知らず、それが通り過ぎた跡には意味あるものは何も残さない。だが誰かはその無意味な時空にも何らかの意味を求めている。そしてそれらの意味が有効に機能して、誰かにとっては意義深い世界を構成しつつあると思いこんでいる。たぶんその思い込みを否定しても無駄だろう。たとえそれが勘違いであったとしても、すがりつく対象がそれしかないのだから仕方がない。やはりその誰かの結末は哀れなものになるだろうか。しかしそんなことは遠からずどうでもいいことになるだろう。それでも君は誰かを覚えている。君が未来永劫君であり続けるためには、その誰かの醜態を思い出していなければならない。それは反面教師的なものでさえないのだが、戒めとしてではなく、誰もがそうなってしまう可能性として、その必然的な結果を無視し続けることで、その醜態と共に生き続けなければならなくなる。しかしそれはどういうことなのか。要するに君はいつものようにわけかのわからない意味不明を目指しているわけか。どこへも行き着かない結果知らずの途中へとどまり続ける。何も目指さないことも目指さずに、何かの途中でそれとは違うことを思っている。どうでもいいようで、そう思うと今度はどうでもよくはないようで、さらにそんなことはどうでもよくなってきて、しかし今度はそれではいけないと思い始める。ただそんなことが繰り返されているだけなのだろうか。決してそうではないと思いたいが、結果的にはそうなっている部分もあるようだ。もうそれ以上はないのかも知れない。その代わりにそれの隣にそれと似たような言葉が延々と連なっているわけか。何かがどんどんずれてゆく途上に、君の思いが適当に変化しつつ存在し続ける。そんな思いを変化させ続けるために、適当な空虚が必要とされているわけか。だがその空虚の中にどんな言葉を放り込んでみても、それは違うと思う。そうではないのか。


2月16日

 今日も必要のない状況が長引いているようで、なかなか作業時間を確保できない。その何もできない時間とともに精神を蝕んでいる空虚は、いつまで経っても消散する気配がない。君は何に対して寛容を装っているのか。許せない人々に対して寛容でいられるはずもないか。しかしなぜ許せないのか、その理由が意識の中で欠落している。改めてその理由を知るつもりはないのだろうか。それを知ってどうするのだろう。そんなことを誰が知るよしもないか。それを知る手だてを思いつかない。ならば許せない人々も許すべきなのか。たぶん許したついでに忘れ去るのだろう。君は千の夢と何を持っていたのか。夜空に輝く星々と何を比較しようとしているのか。手に余る砂粒の一つ一つを星に見立ててどうするのだろう。指の隙間からみるみるうちに砂がこぼれ落ちてゆく。実現するはずのない夢はいつの間にか放棄され、その代わりに何もない空間を頭の中に思い浮かべる。結果的には別に何を思っているわけでもなさそうだ。千日間も夢を見続けることが本当に可能だろうか。人が生まれてから何十年も生きていれば、結果的にはそれくらいの夢は見るだろうか。今はそれを忘れているだけなのかも知れない。竹藪の中には竹が生えていて、杉が植林された森には杉が生えている。そんな当たり前の状態と同じように、意識の中には適当な思い込みが根を張っている。そこから逃げてはいけないようだ。逃げようのない世界で誰かは暮らしているわけか。逃げられないのにいったいどこへ逃げようとしているのか。単に意志と行動が食い違っているだけか。逃げられないので以前に繰り出された言葉を再利用する羽目になる。話し合う言葉はどこかで途切れるべきなのか。何かのきっかけで途切れたとして、そこから何をやればいいのだろう。雨がやんで雲の切れ間から日の光が差し込むように、それがどうしたのだろう。そこで何がどうなったというのか。それが何を述べるために繰り出された言葉なのか忘れてしまったらしい。君は変わり身が早すぎて、さっきまで何を述べようとしていたのか思い出せなくなる。人々は破滅以外に何を待っているのだろうか。夜明け前に気が狂うわけでもないか。人々から逸れていったものは何も人々をだましていたわけではなく、人々が要求したものをもたらしたのかも知れない。人々にとってはそれが気に入らないのだろう。自分たちの求めていたものがあまりにもみすぼらしいので、それを受け入れることがどうしてもできない。中にはそんなものを求めていたわけではない、と嘘をつく不届き者までいる。何も無い物ねだりをしていたわけではないだろうに、なぜ今ある現状を認めようとしないのだろうか。ここにあるこれこそが君たちが求めていた世界そのもののはずだ。これが気に入らないのなら、我々にはもうこれ以上はどうすることもできないだろう。しかし我々とは誰のことを指すのか。君は我々の中には入らないのだろうか。そんなことを君が知るよしもないが、とりあえず我々にはまだ成すべきことでもあるのだろうか。それがあるかどうかに関わりなく、言葉を繰り出さなければならないのか。それが成すべきことだとは到底思えないか。いったい誰がそう思っているのかを知りたい。我々はそれを知りたい。それを知ってどうするわけでもないが、とりあえずその程度は知っておきたいところか。知りたいそこに希望でもあるのだろうか。人々は絶望から逃れるために希望にすがりつく。その結果としてそこいら中にむやみやたらと希望が氾濫する事態となる。そんな希望の大安売り状態の中で希望には希望としての価値がなくなってしまう。だからそこから絶望に貴重価値が発生してしまうわけだ。安易に希望ばかり追い求めていると、むしろ絶望することに魅力を感じてしまう。そんな中から破滅願望という倒錯の形態が導き出されるのかも知れない。もちろん本気でそんなことを思っているわけではない。何となくそう思っている振りをしていると愉快な気分になるだけか。


2月15日

 非常識は常識の範囲内にある。だから困ったときには非常識が通用してしまう。そんな風に思って非常識を多用しているのは誰だろう。それはまたしても固有名が特定されない誰でもない誰かになってしまうのか。しかしその程度の非常識ではおもしろくないかも知れない。ではつまらない非常識で君たちは我慢しなければならないのか。で、非常識に我慢できなくなったら、また常識的な言動に終始していればいいわけか。そんな虫のいい話は聞いたことがないか。国家主義者の言い分を真に受けることはできない。季節は着実に移り変わろうとしているのに、彼らは自分たちの話の抽象性を理解できない。昔から彼らはああだったのだろうか。そうだとするとこの十数年で何が変わったのか。時代の推移とともに絶えずその時代に合った言動を模索していなければ、以前は説得力を持っていた内容でも簡単に時代遅れになってしまうということか。なぜそんな感慨を抱かなければならないのか。たぶん君たちには理性が欠けているのだろう。意地になって自らの殻に閉じこもろうとしている。本当に必要な人材を利用したいのに利用できない事情があるらしい。だからその代わりに毎度おなじみの人々とその意見で間に合わせようとしているようだが、そのせこい根性が命取りとなっている。そんな状態で何をどう述べてみても無駄だろう。間に合わせの言説は矛盾だらけで何の説得力もない。その浅はかさが良識の一部を形成していると思っているのだから救いようがないか。自分たちの主張とそれの拠り所となっている国家や憲法が何か特別なものだと勘違いしている。そんなものはいくらでも代替えが利くのに、それらが唯一無比のものだと思いこもうとしている。歴史的にも現状でもそんなことはあり得ない。その時々のいい加減な思惑から国境線が引かれ、その国境線の内側が国という一つの単位で区切られているだけなのであり、それはどこまでもとりあえずのものでしかなく、それらの枠組みがいついかなるきっかけで変更されてもおかしくはない可動性を持っている。それらの行政単位から普遍性を導き出そうとする試みは間違っている。国民の総意に基づいた憲法など実質的にはあり得ない。国民の総意自体が一部の人たちが利用するためのフィクションなのだ。国民全体の意志が言葉通りの意志であるはずがない。現実には誰もそんな意志など持ち合わせていないだろう。せいぜいが最大公約数的な多数意見が統計学的に導き出されるだけだ。そんなものを利用しようとする魂胆が馬鹿げているのかも知れない。しかし馬鹿な人々はその作り出された多数意見に同調しようとする傾向にある。フィクションが現実にあると錯覚するわけだ。しかもそれが何らかの力を持っていて、それが実現してほしいと願い、多数意見が実現すれば世の中がよくなると思いこむ。はたして人々が守るべき規範となるべきものが憲法なのだろうか。なぜあらかじめ前提となっている総意に従わなければならないのか。どうして人間の行動に前もってたがをはめておかなければならないのだろう。従うべき指針がなければ何もできないような人間の集まりが国民なら、それらはすべて幼稚園児のようなものになってしまうだろう。そんな風に考えていくと、やはり国家はとりあえずのものであり、いずれは解消されるべき行政単位なのではないだろうか。たとえば世界中の国境を取り払って、都市や郡単位だけで行政サービスを行っても人々は一向に困らないのではないか。税金を二重に取られないだけでもかなりのコスト削減になると思われるが、それで何か問題でもあるのだろうか。とりあえず国家が存在する限り、そこには支配する側とされる側との戦いを物語る大がかりなフィクションが温存されるだろう。市民によるデモ行進とそれを鎮圧しようとする治安部隊との流血の惨事などを、マスメディアがセンセーショナルに報道することで、国家の存在を人々に知らしめるという物語には飽き飽きしているのだが、また同じような愚挙が繰り返されるのだろうか。


2月14日

 意識はどこへ赴いているのでもなさそうだ。気がつくと頭が重くなっている。それは憂鬱な気分を言い表しているのか。君はさっきまで何を述べていたのだろう。記述された言葉の連なりはいつものようにぎくしゃくしている。後から読み返してみるとおかしな箇所に気づく。どうも架空の人物は過去のどこかで些細な過ちを犯してしまったらしい。しかしそれがどうしたというのか。過ちなど探せばいくらでも見つかるか。過ちに気づいて急いで正しい言葉遣いに訂正してみたところで、それで過ぎ去った時間を取り戻すことはできない。そんなことをいちいち気にしていては何もできなくなるか。とりあえず過ちを犯して気づいたら、それを後から訂正しつつも、言葉の連なりをその先へ進めてみなければならなくなる。やはり結局やっていることはそんなことの繰り返しになってしまうようだ。そこにはそれ以外に何もないように思われ、何もないからそこで行き詰まってしまう。それらの言葉は何を連想させるのか。それで孤独を退けたつもりになれるだろうか。なぜ君は孤独だと思われるのか。それは文章を継続させる何かの手法なのだろうか。ありがちな展開として、何かの抑圧がそれらの孤独を生み出しているとでもいうのか。それは何かではなく制度だと指摘する人もいるが、制度に反対する人々は、それらの制度が多くの人々によって支えられている現実をどう解釈すればいいのか。制度に逆らう者を孤立させる仕組みはどうやって確立されたのか。孤独な者たちはただ制度を守る人々を挑発するためだけに生きているわけではないらしい。どこの誰がトリックスターであるわけもないか。現実の君は何に逆らって生きているのでもなさそうだ。それどころか君には制度をうまく利用しながら生き延びている感もある。君にとってそれらの決まり事は制度でさえなく、時には単なる自然環境の一部としか感じられず、ただ感性の赴くままに彷徨っているだけにすぎない場合もありそうだ。立ちふさがる困難を何とか切り抜けてしまう力でもあるのだろうか。それらが逆境であるとは言い難く、逆境をバネにして飛躍しようとするような気分にはなれないのかも知れない。孤独も抑圧も制度もそれほどのものではなさそうだ。そんな言葉に絡め取られて深刻ぶるほど本気にはなれない。むしろ生ぬるいとさえ思われるそれらの困難に依存して生きている危険性があり、その危険でもないのに危険性という言葉を使ってしまう感性をどうにかしなければならないか。現実にどうにすればいいのか。いつものようにそんなことがわかるはずもなく、ただそのわからなさを利用して言葉を連ねている現状に甘えているだけかも知れない。ただ冗談にならない冗談らしきことを述べているだけか。それとも本気になれないことは冗談では済まされない深刻さを物語っているわけか。何もないのに本気になれるはずもないか。その何もない空虚の中にはどのような真実が隠されているのだろうか。たぶん何もないという真実だろう。そしてその真実は心の中に隠しておいてほしい。誰にそんなことを要請しているのか。それはいつものように誰でもない誰かになるだろうか。たぶんそうやって何を述べているわけでもなさそうだ。過去に発せられた予言の言葉の中に真実は何も残っていない。そのとき君は誰でもない誰かの誕生を祝福しているわけでもない。意味不明な財宝の在処は海の底か。そんな空虚のただ中で一般の人々に幻想を求めるのは酷か。しかし一般ではない人々がどこにいるというのか。たぶんそのようなやり方は倫理的でない。そしてその辺に散らばっている言葉の断片をいくらかき集めても何も生まれはしない。しかし君は自分の言葉など持っているはずもなく、他人の言葉をどう組み合わせて利用するかが問題となっているわけか。しかし何をどう組み合わせても意味不明になってしまうのはどうしたことか。どうしたわけでもなく、単に言葉が足らないだけか。いったい君はそれらの言葉を用いて誰に何を伝えようとしているのか。


2月13日

 ただ漠然とした気分に包まれていて、何をどうしていいかもわからず、今や万人に共通する不具合には魅力を感じられない。かつて公民権運動の象徴的な存在であったキング牧師は、私には夢がある、と述べて黒人の市民権獲得を目指していたのかも知れないが、空虚の中に生息している君の意識には抵抗する対象が一向に見えてこない。実感としては何もやらなくてもいいと思われる。そんな君でもBobby WomackのAmerican Dreamには感動するだろうか。こうしているうちにも時は過ぎ去り、過ぎ去った時間だけそのときの記憶も遠ざかるか。意識はいつも矛盾のただ中にあるようだ。大衆運動の指導的な存在には常にいかがわしさがつきまとう。そんなことをやる必要はないのかも知れない。今も昔も大衆などはメディアの支配に屈した単なる軽薄な人々の集まりか。彼らを助ける必要などまったくないのであり、彼らは煽動者たちの言動に踊らされて、愚かさのただ中で暮らしていればそれでいいのかも知れないか。だが今やそんな馬鹿な大衆もすっかり少数派になってしまっているのかも知れない。それでも君は生き残らなければならないのか。キング牧師はとうの昔に殺されて土の下で永眠しているはずだ。だからといって始めからやり直すわけにもいかないか。しかしいるはずのない大衆におもねる煽動者気取りも、いずれはいなくなるかも知れない。まさかそれに対抗してピカレスク的な役を演じているつもりの、討論番組などでよく見受けられた勘違い気味の人々もいなくなるのだろうか。そういえば猪瀬直樹とかいう人物もそれのバリエーションだったかも知れないが、それらの人々が生息できていた環境とはいかなるものだったのか。今となってはただアホくさい印象しか残っていない。いったいあれらの馬鹿騒ぎは何だったのか。なぜ時が経つとすべてが馬鹿げたこととしか思われなくなるのだろうか。彼らが先代の天皇が亡くなったときの、あの滑稽な雰囲気を克服したとは到底思えない。あのとき緊張した顔して何かくだらぬことを物申していた人たちが、未だに平然と利いた風なことを述べている光景を目にすると、テレビ画面に向かって思わず、お前ら早く消えてくれよ、と言いたくなる。たぶん多くの人々にとってはすでに忘れ去ってしまった醜態なのだろう。今の天皇には長生きしてもらって、それらの人々がすべて死に絶えるまで生きていてほしいような気がする。あのときと同じような愚を繰り返さないためにも、国家も天皇制もすべてが形骸化するまでは生きていてほしい。とりあえず大衆が絶滅すれば、誰も安易な気持ちで敬う対象など求めたりしないだろう。それは君の大きな勘違いかも知れないが、たとえ勘違いであったとしても、最終的にはそうなるような予感がしている。現に状況がそのような方向へ向かっているのではないだろうか。なぜそんな風に思うのかよくわからないか。理由など後からいくらでもねつ造できるかも知れない。論理的な思考とは無縁の感性は、そんな思いばかり意識にもたらすようだ。それらの思いの中にはどうしてもまじめになれない部分があるのだが、愚直に論理性を追求しようとすることは、結局は利いた風な意見を述べることにつながってしまうような気がするらしい。そういう愚直な人々はみな柔軟性がない白髪の老人と化している。何とかそれらの老人たちがこの世から消え去るまでは、君はそれらの作業を続けるつもりらしいが、はたしてそんなことが可能だろうか。まあ無理だろう。そのうち内容がないことに嫌気がさして、突然やめてしまうのかも知れないが、目下のところそれが君にとっての"I Have A Dream"になりうるだろうか。とりあえずそれらのすべては論理とは無縁の気分次第に頼らざるを得ないか。今はただそのときの気まぐれを利用して言葉を弄しているらしいが、また忘れた頃に論理的な思考が復活するかも知れない。しかし愚直さとは何だろう。彼らの論理にはなぜあれほどまでに魅力が欠如しているのか。


2月12日

 そこには何らかの限界が横たわっている。人々はその限界を通して世界を眺めている。旅人はよそ者の視点で現地を眺めることしかできない。そうやって自らの都合に忠実な世界観を構築しようとする。しかしただ考えるだけでは何ももたらせない。世の中はそんな単純にはできていないが、世の中について考えるという行為が、単純な見解を好んで用いようとする傾向を持っている。なぜ君はそんな言葉を使いたがるのか。彼らにはそれをあきらめきれない理由があるようだ。何となくいつものパターンになりつつある。現地のイラク人に足元を見られて金を搾り取られようとしている。日本政府は安易に困っている人々を助けすぎなのか。解決の糸口が見つからないとき、それとは無関係な要因を思ってみる。まだカフェインの量が足りないのだろうか。何かを解決する代わりに新たな問題を浮上させてしまうのがいつものパターンか。わかりやすくするために普通の用法を使わなければならない。しかし抽象的な概念を忘れていた。創意工夫とは何か。なぜそんな言葉が思い浮かぶのだろう。それらの対象から導き出された内容の何が問題なのか。この期に及んで何が良くて何が悪いかなどわかったところで、もう手遅れか。そのような評価が固まってきた頃には、すでにそれらは過去の出来事となっている。事の善悪を判断する基準そのものが、時代や地域によって異なる。ところでこの世界には何か共通の基準というものがあるのだろうか。そんなものがあると信じているのはどこの誰なのか。単純に才能があったりなかったりすることに興味はないが、それらの血の滲むような努力といわれるものを積極的に評価しようとは思わない。だがそれらとは何のことを述べているのでもない。妄想は誰にでもそれを所有したくなる気分にさせるもなのか。軽い気持ちでそれらの妄想と戯れているうちに、いつしかそれの虜となっていることに気づかなくなる。自分だけでは何一つできないのかも知れないが、それが孤独とは無縁の状況であることを君は知っている。何もかわされる可能性のない無言のやりとりの中に真実が横たわっている。我々には贅沢をする機会があり、飢えた人々にはそれがないだけだ。その点で人間にも地域間で格差が生じているわけか。たぶんその格差を固定することによって、豊かな人々は自らの優位を保とうしているのだろう。しかしそこに誰がいるというのか。知識に飢えた人々が世の中のどこにいるのだろう。映画やスポーツなどの興行的な催し物ばかりに気をとられているうちに、内面の空洞化にか気づかなくなるか。それは言葉通りの意味において、それらの光景に目を奪われているわけか。そして目と直結している心も奪われていくのだろうか。しかしそんな単純な成り行きで内面の空洞化は進行していくだろうか。それらの光景から感銘を受けることがはたして空洞化に結びつくだろうか。なぜそんなものに感動するのだろうか。感動するためにはそれほど多くの言葉を必要とするだろうか。真の感動に言葉はいらないか。そんな風に述べることもできるだろう。思考するために感動するのではない。むしろ意識は思考からは切り離された一時の快楽を得たいのかも知れない。そんな欲望のはけ口としてあれらの光景は必要とされているのか。日々生じている不具合を忘れて熱狂したいわけか。本当にそんなものが必要なのか。それは世の中の仕組みであり制度なのではないだろうか。他人が見たいと思っているものを自分も見て感動したいと思わせるような制度の中で生きているにすぎないのではないか。それは他人の仕草を真似ることと同じで、それによって考える手間を省いているのかも知れない。そういう点では思考は無駄な行為となっているのだろうか。難しいことは考えないで、とにかくそれらを見て感動していればいいのかも知れない。そうすれば君の周りに君と同じように感動している仲間を見いだすことができるだろう。だが今の君に同じものを見て感動を分かち合う仲間たちとともに、白痴的な連帯の環に入っていく勇気があるとは到底思えないか。


2月11日

 あってもなくてもかまわないのがファーストフードの類かも知れない。それらの味にそれほどのこだわりがないのなら、暇な時にスーパーで材料を買ってきて自分で作れば、それほど苦労しなくてもできるようなものだろう。その手の料理本でも参考にして手間暇かければもっとうまいものができるかも知れない。また金を惜しまなくていいなら、もっと高級なレストランへ行って似たようなものを食べればいいことか。本当に牛丼程度のものにこだわっている物好きな人が大勢いるのだろうか。仮にいるとすればそれはブランド志向のようなものか。要するにそれを作って売っている側の論理で騒いでいるのであり、確かに今まで材料として輸入してきたアメリカ産の牛肉が狂牛病騒ぎで入ってこなくなったのだから、牛丼店にしてみれば深刻な問題なのだろうが、それを食べてきた側にとっては、代わりの選択肢はいくらでもあるわけだから、それほどの深刻さはないだろう。別にそれがなくなったからといって餓死するわけでもない。ファーストフードがなければスローフードでも食べていればいいだろう。その方が心身の健康にはいいのではないか。情報はそれを伝える側の論理で伝えているのであり、それを受け取る側の事情など反映される余地はないのか。メディア側は双方向コミュニケーションとかいうものを目指しているのかも知れないが、やはりそれはメディア側の事情を反映させた宣伝文句でしかないか。自分たちの都合の良い部分だけは双方向にしたいらしいが、公表されては都合の悪い部分は無視するか言論による攻撃によって封じ込めるかのどちらかになるだろう。あくまでも直接のお客様はスポンサーとなっている個々の企業なのであり、NHKにとっては政府与党になるだろうか。第一にそれらのお客様の意向を反映させなければ商売にはならないか。もちろんスポンサー企業や政府与党の後ろにはそれらのお客様となっている一般の人々が存在するわけだが、それらの視聴者と呼ばれる人々にどれほど配慮しているかは、その実態はよくわからない。確かに内容に関して苦情や抗議の電話を入れてくる一部のうるさい人々に対しては、不適切な表現があったとか述べてその場で謝罪する光景はしばしば見受けられるが、それはその場限りのものであり、それだけにとどまる場合がほとんどかもしれない。それでいいのならそれでかまわないか。誰に配慮するわけでもなく言いたいことをただ言っているだけよりはマシか。とりあえず最近は牛丼とイラクと北朝鮮が人々の関心を惹くためのネタなのだろうから、それらに関してせいぜいおもしろおかしく報道してくれれば、それで誰かの気晴らしにはなるのだろうが、君にとってはそのどれもがどうでもいいようなことに思われるのはどうしてなのだろうか。なぜ一部の人々にはそれらが真剣になって検討しなければならない問題となっているのだろう。それ以外に不具合はいくらでもあるのかも知れないが、それらの不具合に対する対処の仕方に何か問題でもあるのか。誰が直接それらに対処しているわけなのか。報道する人々もその当事者に入るのだろうか。彼らが何かを伝えたがっていることは確かなようだが、伝えてどうするのだろう。それらの情報を受け取る側に何を期待しているのだろう。我々はそれらの情報を受け取ってどうすればいいのだろうか。何か世間話で彼らの受け売りでもしていればいいのか。そんなことをやっていればその場の暇つぶし程度の効用を得られるのか。君にはそれらの行為がくだらないことのように思われるが、それ以外のことを思いつかないことに対して疑念を抱いている。それらに対する利いた風な意見はもうたくさんだ。そんなことを何遍も唱えようとどうなるものでもないだろう。ただなるようにしかならない現状をどうすることもできはしない。馬鹿げたことがまかり通る世の中がこれまで通り続いてゆくだけにしかならない。とりあえずそれで彼らは安泰なのだろうから、それはそれで仕方のないことなのかも知れない。


2月10日

 それらをそのままにしておいていいのだろうか。君はなぜそんなことを述べるのか。本当にそんなものに見とれているはずはないかも知れないが、落日の光景に見とれているうちに、何かをする機会を見失い、それに対する落胆から、むやみやたらに周囲の空気が重たくなる。そんな風に感じるのは重力か何かの影響だろうか。そんなはずはないだろう。どうやらくだらぬ嘘を思いつくのにも限界が近づいてきたようだ。しかしその限界をやり過ごして他の言葉を探しているらしい。どこかの誰かには傾きつつある自らの体勢を立て直す力と暇がないらしい。そもそもそれらの作業は、それまでに主流を形成していた様々な価値観が崩壊してしまった後からやり始めたことだった。今となっては何が崩壊したのかよくわからなくなってしまったようだが、そんな風に思えたのはどうしてだったのだろう。それらの思い込みは間違いだったのか。どこで何を間違えたのか心当たりはないが、それが仮に間違っていようといまいと、そろそろ何かの形が見えてくる頃か。しかしそれは何の形なのだろうか。教訓話程度の内容でお茶を濁していてはいけないか。世間で話題となっているようなことには興味がないか。とりあえずそれらをやり遂げるためには何かを断念しなければならないらしく、たとえばそれが世間話の類になるのだろうか。それとは別の時空ではそんな風には思わないが、いったい批評とはどのような行為なのだろう。何を批評しているつもりなのかはっきりしないが、それは批評ではないのかも知れない。それらの文章を目で追っていくと、そのほとんどが意味不明でいびつな印象しか残らないのだが、別に言葉にならない気持ちを誰に伝えようとしているわけでもないのだから、もう少し具体的なことを述べるべきではないのか。しかし誰かに忠告でもしているつもりなのか。ただそんな意識とは無関係な言葉を適当に繰り出しているだけのようだ。いったいそれをやめるきっかけはどこからやってくるのだろう。どこからともなくやってくるわけもないか。やってくるのではなく、その場に突如として生じてしまうのかも知れない。いつまで経ってもぎくしゃくした感じが残ってしまう。きっと忘れた頃に気がつけばやめているのかも知れない。誰がどこで彷徨っているのか知らないが、それは何かの旅ではないはずか。凍てついた大地から海を渡って吹き込んでくる風の音を聞いてどうするのか。テレビの前でそれを聞いて何を感じられるのか。それはたとえば実際に日本海沿岸の地域まで行って聞いてみないことにはわからない話か。とりあえずその状況をどうにかしなければならない。しかし現実にはなかなかそこまでやる気にならないので、やはりテレビ画面を見て雰囲気だけ味わえばいいことなのか。それで今はどんな気分なのだろうか。心を閉ざして内面にしがみついている自我と戯れる?どうしてそれを受け入れられようか。それはどのような強がりなのだろう。人畜無害なことなどに興味はないが、何が人畜無害なのかを知りたい。また何を思い出そうとしているのか。考える余裕をまったく感じられない状況の中で、それらの意識は空虚から逃れるために別の空虚をこしらえているみたいだ。根拠は何もないが、語る前からわかっていることはたくさんあるように思われる。それらの大半は始めに結論ありきなのかも知れない。たぶん誰もわかりづらいことをわかろうとはしないだろう。確かにそれらは滑稽な動作や言語表現で人を笑わせようなものではないが、ただわかりづらいからといって、簡単に興味を失っていいものなのか。そうではないのかも知れないが、今の君にはそうではない理由がわからない。考えようとする水準が違っているのかも知れない。君は何を嘆いているのだろう。自らの感性が招いたそれらの空虚をどうしたらいいのか。そんなことが誰にわかるはずもないか。何もできずに迷い続けることによって何がもたらされるのだろう。現状では何がもたらされたかを知る環境にはないのかも知れない。


2月9日

 君たちはたぶんこれからも画面上でいつのも顔ぶれが昔と同じ論理に基づいて同じようなことを語り合う光景を目にするだろう。彼らは死ぬまでそれを繰り返すだけの存在なのであり、もうそれ以外に可能性のない人々になってしまっているのだ。未来のない人々は気楽なものだ。だが君にそれを嗤う資格があるのか。資格などなくても嗤ってもいいのかも知れない。別に嗤う必要などなく、ただ無視していればそれでかまわないのかも知れないが、それでは文章を紡ぐネタにはならないから、一応はそれに触れておかなければならない成り行きに従って言葉を連ねているだけか。何について批評するつもりもないのに、それらの雰囲気だけ適当に利用しているわけか。たぶんそれらの文章は冗談について述べているのだ。他人と連帯しているつもりで孤独な労働に明け暮れているのは誰なのか。そんな誰かに他の誰が気を遣う必要があるだろう。そのとき唐突な台詞を耳にして一瞬たじろいだ振りをする。あなた方の神を力づくで奪ってみよ。それがいったい誰に向かって発せられた挑発の台詞なのかよくわからない。それらは宗教にはなり得ない性質を伴って存在している。元から君には自らの主張を叫ぶ場など与えられていないはずか。しかし抑圧されているのは君だけではない。君と反目しあっている振りをしている者たちも、君とは別の事情によって虐げられているのだ。しかしそのことについては何も理解する必要はないし、勝手に自滅しようとしている者たちに同情などいらないだろう。もはや彼らのことなど眼中にはないはずか。もはや神は神ではなく、ただの滑稽な道化者でしかない。現実に昔から神などではなかった。神とは呼ばれずに何と呼ばれていたのか忘れてしまったが、今後も君がどれほど酷い扱いを受けようと、誰も助けてはくれないだろうが、君に助けなど必要ないのかも知れない。それは酷い扱いなどではなく、君もそうは思っていないだろう。有無を言わせぬ匿名性を利用して言いたい放題の君が今さら何を述べているのか。そんな君に反発する者は勝手に自滅するだけだろう。そんな彼らの醜態をおもしろがって眺めているのはいったい誰なのか。実際に君は傍観者気取りでただ眺めているだけのようだ。そのような構図の中ではいったい誰が神の位置を占めているのだろう。人々は悪魔も神になれる世界に暮らしているようだが、今となっては神も悪魔も他愛のないものか。それらのせいぜいが子供向けのアニメーションの中で時たま影を落とす存在にすぎないか。それを見ている者たちはもはや宗教とは無縁になってしまったそれらの影に気づくことさえない。それらは単なる香辛料程度の存在になってしまったのか。もちろん香辛料も物によっては数百年前には金と同等以上の高価な存在であった時期もあったらしいのと同様に、神も悪魔も魔女裁判などが全盛時の西洋では人々の意識を支配していたこともあったようだが、この先そんな状況が再来するとは思えない。とりあえず神でも悪魔でもない君が立ち現れるのは今日じゃない。すでに昨日となってしまった時間帯に、ちょっとの間部屋の片隅に腰掛けていたかも知れないが、空虚はそんな君の存在を気にとめる風もなく、ただ時間が刻々と過ぎ去ってゆくばかり時空の中にその領域を広げつつあるようだ。そんなわけで時計の秒針が一秒おきに動く度に、相対的に君の寿命は次第に縮んでゆくのだろう。それでも君は残された時間を考慮に入れずに別のことを考え続け、ただ無駄に時間を費やすのか。もはやその先には何もないのに、その先を想像し続けるわけか。だがそれ以上何をどう考えようと、やがてそれらの記憶は忘れ去られ、この世界から消えてしまうのに、それでも君の意識は過去の体験にこだわり、それを後世に伝えようと努力しているようだ。だが具体的に何を伝えようとしているのかよくわからない。君はそれらの中で何を顕揚しているつもりなのか、それを目の前の空虚は知りたがっているのだろうか。そんなわけはないか。


2月8日

 遭難者はまるで何か特別な経験をしてきたように振る舞うつもりはなさそうだ。君が道に迷っている間にまただいぶ時間が経ってしまったようだ。自らの経験を語るのが面倒なので誰かは何もない日々を送っている。君には何かをやる時間がない。ただ怠けているだけかもしれないが、とりあえずの現状はそんなことになっている。時の流れについて行けずに、過ぎ去った時の経過に沿って発生した記憶を省いて、そこに同じような文章の繰り返しを挿入して間に合わせている。いったい何を間に合わせているのだろう。間に合っていないから日付の移り変わりについて行けないのではないか。確かについて行けないが、これから時間調整でもして、それでこの場が現在の時空になったことにしたいらしい。実際には何もやっていないような気がしてくるが、とりあえず今は何かを思い出さなければならないようだ。いつか思ったことはさらなる過去の記憶を呼び覚ますか。もうとっくに日は暮れているのに、どこへも行かずに部屋の中で何もせずじっと息を殺していた。そして物語の中では何かありふれたことを述べている。それはいったいいつの話なのだろう。誰かは目標を達成したら別の夢を目標に置き換えて、別の人生を送ろうとしている。フィクションとしてはそれでかまわないのかも知れないが、そうやって君たちは他人の言葉を利用して、自らの生き方を構築しようとするわけか。君はそこで誰のことを述べているのか。誰のことでもなさそうだが、それ以外に何ができるだろう。しかしなぜ未だに彼らはそんなことをやっているのだろう。誰が何をやっているわけでもないか。昔の価値観を後生大事に保持している一方で、それに基づいた言説をいつまでも繰り返している自らの過ちに気づこうとはしない。なぜそれが過ちになるのかその理由を知りたいか。誰もそんなことは知りたくもないだろう。その代わりにパンとコーンスープだけでは味気ないが、それ以外に何を求められるのかを知りたいか。そんなことも知りたいはずはなく、その代わりに、なぜ生魚は生臭く、安物の肉には獣の臭いがこびりついているのかを知りたいか。野生の肉にはそう簡単には食べられないようになっていて、意図的にそれ特有のイヤな臭いが塗り込められているのかも知れない。そんなことがあるわけがないか。腐臭に群がるカラスなら何でも食べるだろう。それらをただ眺めるだけなら、自然とは無縁のロマンを感じることができるかも知れない。この地球に生息しているほとんどの生物は他の生物の死骸を利用して生きている。たぶんそれは人にも当てはまるのだろう。どのように甘ったるい言葉で言いくるめようと、そこには他人の生を奪わなければ生きて行けない仕組みが厳然とあるに違いない。そんな行為を正当化しようとは思わない。ただきれい事を装いながらそれをやろうとしている者たちを許すことができない。たぶんその辺から君の感情が生まれているのだろう。それらの感情をどう取り扱うべきなのか、未だにわかりかねるところがあるようだ。その先にどう言葉をつなげていけばいいのだろう。相変わらず具体的に何を述べているわけもなさそうだが、あきらめるのはまだ早いか。時期的にはまだ年の始まりから間もなく、季節はまだ冬のただ中にある。季節と時期とは無関係かも知れないが、画面上では時機を逸して無駄なこと述べようとする人々もいるらしく、たぶんそこには廃棄されるべき言葉があるようだ。それらの画面は画質以外には改善される余地はもうないかも知れないが、そこから受け取るもう後戻りが利かないことから生じる薄っぺらい絶望感に触れながら、逆にそれを無視することで感じられる高揚した気分を沈めるために、誰かがカード占いに興じているらしい。誰かとともに、同時にその誰かを排除して、その誰かが消された空間に、それを補うつもりで適当な言葉が配される。期待されている結末はどのようなものになるだろう。それは何の結末なのか。それとも結末ではなく何かの始まりなのか。


2月7日

 誰かは空しさのただ中にこの世界があると思う。ボールゲームの練習光景を飽きもせず報道する人々とともに無意味な感慨に包まれる。人によってはそれらのすべては他人事の範疇かもしれないが、単にそうした類の需要と供給の環の中に留まれる意識を持ち得ないだけか。ただ何を楽しもうとその人の勝手だろうとは思う。別にそれに対する模範解答を求めているわけでもないので、次第にそれらの対象から離れつつあるようだ。娯楽に肯定的な意味を求めるつもりはないが、特定の何を否定するつもりもないようだ。すべてはあるがままに存在するしかない。人々の幻想や思惑とともにあり続けている。無理をしてまでそんなものを擁護するのはおかしい。君たちはそれらを眺め続けるように宿命づけられているかもしれないが、中にはそんな宿命とは無縁の人もいることは確かなようだ。どこの誰の技が上達しようが、誰が文句をたれようが、どっちが勝とうが負けようが、それでもそれらはあり続けるのだろう。ただそれだけのことなのであり、思い入れの強い人にとっては、それ以上に思われるのかもしれない。誰かはできればそこから逸脱したいようだ。気休めを求めながらも、それを拒否する素振りを見せる。そしていつものようにあり得ない心境に至ることを願う。つまらないことはつまらないこととして済ませられる意識を持ちたい。無理におもしろがることに精神的な苦痛を覚える現状を改善したいようだ。それは他人に対する配慮なのか。では半ばあきらめかけている現状をどうすれば変えられるだろうか。本気でそんなことを思っているのか。たぶん話の成り行きとしてそういう方向に行ってしまうだけなのだろう。どこまでが実感でどこまでが本気だなんて誰にもわかるはずもないか。現状に手を加えようとすればきりがなくなるような気がする。また盆栽いじりのようなことをやる状況にはないと思われる。そんな風に思っているうちに、いったい何について語っていたのかよくわからなくなる。さっきまで誰の話に耳を傾けていたわけでもない。話から逸脱しようにも話自体が雲散霧消してしまう。生まれては消えゆく雰囲気にいちいち気を遣う必要もないが、それでも意識を向ける対象を求めて虚空を彷徨い、その対象を利用しながらとりとめもないことを思い、それについて言葉を弄して、それに飽きれば別の対象に照準を定めようとする。たぶんそんなことの繰り返しの中から空しさが滲み出てくるのだろう。生きるということはそれ以外に何か気休めでも求めているのだろうか。探せば何か見つかるかもしれないが、見つかったそれに全知全霊を傾けるほどの勇気はないかもしれない。実際に全知全霊を傾けている人々を画面の中に見かけるが、どうしてもそれらの行為に同調することはできない。四角い画面上ではどうしても本気になっている人々が滑稽に映るのかもしれない。なんと馬鹿げたことに心身をすり減らしているのかと思う。たぶんクローズアップがいけないのかもしれない。大写しにされたそれらの表情のどれもが間抜け面をさらしているように思われる。別に鼻毛が飛び出しているわけでもないのに、なぜそんな風に思われるのか。それらの表情の真剣さが、ゲーム規則の単純さと相容れないのか。何でそんな顔して棒切れを振り回しているのか。無理な運動の連続で怪我をしてまでそれらにこだわり続けるのか。ショーアップされた大げさな演出とともに、なぜそれらを盛り上げる必要が生じるのだろう。それらの継続に大金をつぎ込む必要性がどこから生まれるのか。それらを巡って多くの人々の思惑が交錯していることは確かだが、それらの単純なゲームを成り立たせるために、多大な資金と労力がつぎ込まれている現状の犠牲になっているものがあるとすれば、それは何だろう。やはりそれは理性と呼ばれる精神作用になるだろうか。だがそれが理性という言葉で表されると、とたんにつまらなくなる。では何かそれ以外の魅力的な言葉や文章表現を模索しなければならないか。


2月6日

 つまらぬ技巧は墓穴への近道かもしれないが、なぜ何らかの雰囲気を纏わなければ受け入れがたい内容となってしまうのか。なぜ人々はありふれた雰囲気を纏ったそれらを受け入れているのだろう。ただ単に安心できるということ以外に何があるのだろう。それらはフィクションの性質に頼りきっていて、いつもありのままの現実をデフォルメして伝えようとしている。しかしありのままの現実こそがフィクションであるという矛盾に気づいていない。たぶんそこまで考えを及ぼす必要はないのかもしれない。とりあえず何でもかんでも物語仕立てにしないと現実とは感じられないのだろうか。しかしそれでつまらぬ内容をおもしろおかしく再構成できるだろうか。別にそれらの出来事をつまらないとは思っていないのだろう。実際に君もそれらをおもしろおかしく感じているはずだ。だからことさら文章の説得力によって人々に同意を求めようとは思わない。誰の同意を求めなくてもいいように、事前の下準備によってあらかじめ誰もが同意することを前提として、それらの出来事は画面上に繰り広げられているのだ。しかし実際にそれらは何を物語っているのか。目に見える事物には何が反映されているのだろう。見えなくてもいいものまで見えているわけでもないが、人々は取り立てて何を見ているわけもなく、ただ辺りの景色を眺めているだけのようで、それと同時に、実際には見えている景色を効果音によって絶えず忘れている。そうやりながらいつまで経っても何も思いつかないように、意識を制御されているのかもしれない、それらの現実にどうやって立ち向かえばいいのだろうか。君が立ち向かえるはずもないか。それでも君ではない誰かはそれらの作業を持続させるつもりのようだ。それらとは何のことだろう。誰かとは誰のことなのか。気分次第でやったりやらなかったりしながら、結果的に予定調和を回避しているつもりらしいが、ここでは起こるはずだった出来事など何も起こらないだろう。元から何もないのだから、人々の意表をつく出来事などあり得ない。起こるはずだったのはそれらの空虚な物語の結末か。下界では気まぐれな天候に左右されて農作物の価格が変動する。そして人々の思惑が複雑に絡み合って株価が変動する。君たちにとってはこの世界が下界であるはずがないか。鳥瞰的な神の視点など嘘そのものだと思われるわけか。なぜ唐突に神という言葉が現れるのだろうか。偶然に導き出されたそれらの言葉の連なりは何を物語っているのだろう。どのような作用によってどんな雰囲気を生み出せるのか。それらの雰囲気には偽りの香りが漂っている。誰がそれらの出来事を生み出しているわけでもないか。誰かの思惑はどこにも反映されていないようだ。止めどない時の流れに押しやられてしまう。夜には夜以外を求め、昼には何もしなかった日々を懐かしむ。それらの言葉はどこで互いのつながりを見いだすのか。人々は画面を見ながら何を思っているのか、そんなものは人それぞれだろう。危険が差し迫っていると騒ぎ立てる人はいるにはいるが、それほどの切迫感は感じられない。冬の青空の下でただ道路を車が行き交っているだけのようだ。何を調整しているわけでもなく、意味不明な感情の行き場所を探しているわけでもない。すべては完全なすべてよりも部分的なすべてであることを望むだろう。絶えずそれ以外の選択肢を排除できない。君は理性が感情から派生していることを知っている。やりきれない思いが理性に働きかけ、道理の叶った行動を夢見る。だが夢見るだけで実現した例しはない。時間を無駄に使うわけにはいかないが、それらの無駄な時間を経由しないと結果にはたどり着けないだろう。迂回する理由らしき理由は見つからないが、迂回しなければ何も成し遂げられないのか。しかし言葉を整理しなければ意味に結びつきそうにない。成すべきことが何一つ見つからない一方で、やらなくてもいいことばかりをやらなければならない羽目に陥っているのかもしれない。


2月5日

 目が覚めると闇に包まれている。それは心の闇などではなく、目の前に広がる夜の闇か。闇に不思議な雰囲気を宿らせようとしているのはありふれた手法か。闇の中から現れるのは大げさな化け物でしかないか。そんな発想しかできない君はテレビアニメの見過ぎかもしれない。リアルな雰囲気を醸し出すにはそこにホームレスでも登場させるべきか。そんな映画もあったようだ。たぶんそれは心温まる内容にでも仕上がっているのだろう。世知辛い世の中には何らかの救いが提示されるべきなのか。言葉的に世知辛いとくれば、心温まる話と相場は決まっている。やはりそんなことしか思いつかない君はテレビの見過ぎなのか。で、実際に闇の彼方からもたらされるのは近くの道を行き交う車の音だけか。それを利用して虚しいアイディアを形作ろうとしているらしい。そんな風には思いたくないが、何を語ろうとそれらは単なる言葉遊びの域を出ないようだ。それでも虚しさに打ち勝って何か適当なことを語るべきか。しかし何もない深夜に何があるのか。たぶん何もないのかもしれないが、いったいこの世の中には何があるのだろうか。それはわかりきったことか。この世界にはすべてがある。では妄想の中にもすべてがあるだろうか。すべてがあるかどうかわからないが、とりあえず文章の中にはすべてという言葉がある。ではすべて以外に何があるのか。それとは別のすべてでもあるのだろうか。君はそんな風に語りながらも、何もやる理由が見あたらないので、そうやって何かやる理由を強引にねつ造しようとしているのか。あるいは何かをやってしまった後から、そのやってしまったことを正当化するような理由を考えているのか。君はそれらの言葉の何に惹かれているのだろう。それらが醸し出すどんな雰囲気に惹かれているのか。たぶん君は無関心に惹かれている。そこには空虚の他に何があるだろうか。とりあえず何か述べれば言葉が生じる。それ以外に何か忘却の彼方から立ち現れる対象を思い出さなければならないか。なぜその必要があるのかを知らない。何かがどこかへ誘われようとしている。それは誰の意識になるだろうか。別に君の意識でなくてもかまわないだろう。深夜に繰り出される言葉には生気が感じられない。何かの抜け殻が無意味な言葉を発しているだけか。その他に何を述べても的を外れているように思われる。的を射るための的が不在のようだ。何もないことを嘘で包んで一時的に覆い隠すことはできても、そこから生まれる疲労を押しとどめることはできない。空虚の中で追いつめられて、精魂が尽き果てようとするとき、疲労の感覚を忘れていたことに気づく。そういえば誰かはかなり疲れていたのだ。しかしそれはいつの話なのか。疲労のただ中で無理に言葉を繰り出そうとすれば、つぎはぎだらけの文章しかもたらせないようだが、それでもそこに記された言葉には、大げさな定義から逃れ去る身軽さが生じているかもしれない。意味がないのはそれらの存在そのものか。だがなぜそうやってひたすら無意味になろうとするのか。しかし無意味になろうとしてなれない部分もある。どこかの誰かはそこに何かしら肯定的な意味を見いだそうと努める。わずかでもかまわないから無意味ではない部分を顕揚したいらしい。無意味でない変わりに虚しいだけか。では虚しいと思う意識は何を生み出すのだろう。それらの空虚を言葉で埋めることができるだろうか。それは結果的に無益な試みになるだろうか。別にそれに対して何らかの応答が必要とされているわけではない。書かれた文字はいつまでも読まれぬまま消え失せてもかまわない。それらが消え去ってしまうことに誰が責任を負うこともないだろう。それらの言葉はどんな実態を反映しているのか。何らかの苦しみが宿っていたりするわけか。たぶんそれ以外に何を主張しているわけでもない。そんな表現が妥当かどうかわからないが、意識はしばらく前から眠気に苛まれている。


2月4日

 何を何度やっても思わしい結果に巡り会えず、それを呼び込むきっかけからも見放され、それでもいつかは状況が変わり、気が変わる機会が訪れるのを待ちながら、さらに君はそれとは別の機会を探し求めている。なぜそれが別の機会になるのだろう。君が求めているのは思いもしなかった機会なのであって、また思わしくない結果なのかもしれず、つまり君は求めていないことを求めている。ではそれは今訪れているこの機会なのではないか。そしてそれは、既に過ぎ去ってしまった決して思わしいとは思えなかった機会だったのかもしれない。何か矛盾したことを述べているだろうか。いったいそれはどういうことなのだろう。後から思うのは、いつも絶好の機会を逃し続けているような気がするということか。たぶんそれは気のせいだろう。ただそう思いたいだけなのであって、逃した魚がでかかったと思うのはよくある心理作用なのかもしれない。結局君が探し求めているのは、フィクションの中で実現するような偽りの機会になるだろう。それは想像の中ではあり得たかもしれないが、現実にはあり得ない出来事になるだろうか。空想だけが頼りの過去からはだいぶ遠ざかったつもりが、未だに過去の妄想の中でもがき苦しんでいるわけか。あまり苦しんでいる実感はないのだが、なぜ今体験しつつある現状をそんな風に思いたいのか。別に思っているのではなく語っているだけか。君は思いもしないことを語れるのだろうか。何となくそれができたらおもしろいような気がするが、実際に何を語っているのかよくわからない。よくわからないが何かを語っているらしい。とりあえずそんなよくわからない語りとともに夜も更けてくる。夜空を見上げれば宇宙の過去を見ることができる。星々の光が地球に到達するまでにかなりの時間を要するから、今見ている夜空の星々はすべて過去の姿になる。目で見えるものはすべて過去の事物だ。それなら耳から聞こえてくるものもすべて過去の音だろう。光より音が伝わる速度の方が圧倒的に遅いから、同じ距離から伝わってくるものなら、見えるものより聞こえるもの方が昔のものになるだろう。もちろん近くにあるものはそれほど昔のものではない。何かに遮られていたり隠れていなければ、ほとんど今の時空に存在する事物を見聞することができる。しかし自分を含む人々は何を見たり聞いたりしているのか。何が思考の邪魔をしているのだろうか。見聞している事物から何を受け取っているのだろう。それは何らかの情報だろうか。邪魔な情報はいらないか。情報の内容をわかろうとしていない。ただそれらを文章にできないだけか。何もないのだから、それを文章にできるわけもないか。次第に考えるのが面倒になり、いったん作業をやめて、また始めからやり直さなければならなくなる。たぶん苦し紛れの思いつきには内容がないのだろう。それは何も思いついていないということか。それともさっき思いついたことをもう忘れてしまったのか。何もかも忘れてしまえるわけもないが、誰かが忘れようとしている出来事を、ことさら思い出させようとしているわけでもないらしい。ただそうやって記憶がどこかへ押し出されてゆくような気がする。無為の心は限りある時間を無駄に使って何かを構成しようとしている。それとも君は何か勘違いをしているのか。時の経過を感じながらこれからどうするのか。君の外側に何か語りたいことでもあるのか。たぶん君の内側には何もないだろう。だからといって無理にそれを生じさせようとしているわけでもない。しかしここから先へはどうしても進めないような気がしている。ではここで一休みということになるだろうか。それではまた昨日と同じ道を歩んでいることになってしまう。まだ心のどこかで気休めを求めている。郷愁の作動は偽りの力に起因する。そこで君は過去への郷愁を無視して考えなければならない。しかし何が郷愁なのだろう。過ぎ去った日々の何を懐かしんでいるのか。


2月3日

 君はこれから何について語ろうとしているのか。なぜ人は部分的な利害しか述べていない言葉にだまされるのだろうか。彼らの利いた風な言葉遣いによる語りかけには惑わされないことが肝要なのかもしれないが、それがその人の思いと合致してしまうと、その他のあやふやな要素を考慮に入れなくてもかまわなくなってしまうらしい。そういう浅はかなご都合主義によって思考することを怠ってしまう人が多すぎるか。格好の良い台詞にはすぐに飛びつき、それに対する吟味や判断を停止させ、それ以上の検討は控えてしまう。だまされないためには、そこでちょっと我慢して、いや待てよ、を介在させる必要があるのかもしれないが、そこで立ち止まれない人が、安易なキャッチフレーズによって煽動されやすい層を形成しているのだろうか。しかしそんな語りによって、いったい君は何について警鐘を鳴らしているつもりなのか。何も具体的な対象が出てこないない話で惑わそうとしているのは、君の方ではないのか。それに対してどんな返答が可能だろうか。いいわけが始まるときりがないので、きりのいいところで話を打ち切るべきか。まだ何の話をしているのか定かでないようだが、言葉が出尽くした先に作業の開始が控えている。それ以上に語りたいのに状況に合った言葉が出てこないか。言葉が出なければそれ以上は何もできないはずか。それ以外に何ができるのか。しかしそれでも君はつまらぬことを考えようとしている。何事もあきらめが肝心だとは決して思いたくないらしい。だから同じような言葉が循環してしまうわけか。そこで誰が何を思っているのか知らないが、別に誰がそんなことを思っているわけではない。それは誰ではなく君が思っていることか。君は絶えず思っているのとは違うことを考えている。そんなことが可能なはずがない。ただ思っていることとは違うことを考えようとしているだけで、現実には考えられなくて焦っているのかもしれない。そしていつものように何を述べているのかわけがわからなくなるのが、予定調和の筋書き通りの展開だろうか。何やら頭がこんがらがっているいるようだが、こんがらがっているのは頭ではなく言葉遣いかもしれない。君はそんな風に思わないか。とりあえずどうやってそれらの困難を切り抜けられるだろうか。そう思っている時点でその半分は切り抜けられたはずか。では残りの半分をどうやって切り抜けようか。別に切り抜けられなくてもかまわないだろう。切り抜けられなかったらどうしよう。またもや無限の対話の助けを借りなければその先へ進めない状況になっているのだろうか。しかし誰がそれで満足できるのか。どこかの誰かは個人的な嗜好が万人において繰り広げられる光景を夢想しながら死にゆくわけか。いったい誰が死にゆくつもりなのか。いい加減な意識がいきなりわけのわからぬことを述べている。君は意識が何を彼らにわからせたいのかを知りたいところだが、いったいどこの誰が知りたいのかがわからない。意味不明な衝撃はその意味を確定させるまでは何度でも繰り返され、擦り切れたぼろ雑巾のようになってもまだそれを使い続けたい。しかし仮にそれを使用し尽くしても、なおそれを乗り越えることはできないだろう。はじめからきりのない無限状態の似非対話に、いくら新たにどうでもいいような言葉を付け加えてみても、それが無限であることに変わりはない。それがそれ以上に進展することはなく、疲労からそこから後退せざるを得ない意識をただ影がせせら笑うばかりか。もはや笑い返す気力も持ち合わせていない。いったいそこで何が起こっているのかを、知っていながら知らない振りをしているだけか。君はただ嘘でもいいから静かな返答を受け取りたいだけか。だが辺りは静かすぎて何も聞こえはしないだろう。応答などを求めるのは間違っていることは承知しているが、その代わりに自らの問いがこだまとなって虚空に響き渡るのを空想しているわけか。誰がそんな光景を空想しているのだろう。とりあえず空白に言葉として記された君は何も思わない。そして依然としてそこには誰もいないだろう。ただ人格を伴わない匿名の意識が現れたり消えたりしているだけのようだ。


2月2日

 それらの出来事は人々の無関心をはねのけて話題となるような力でもあるのだろうか。力があろうとなかろうと、現にその件について君は無関心を装い、どこかの誰かのようにことさら非難を浴びせようとは思わない。革新政党の国会議員のような言い草には魅力を感じない。昔は似たようなことを述べていたのにどうしてそれをやめてしまったのか。いつの間にか心変わりをしてしまったらしく、往時の勇ましい台詞は今ではすっかりなりを潜めている。あのような言い方も一つの流行現象でしかなかったということかもしれない。流行の波が去った後に、もはやあれらの言葉が有効に機能するとは思えない。そんなわけであれらの主張は今となっては人々には受け入れがたいものとなっているようだ。主張の前提となっている憲法自体が、人々の意識の中ではどうでもいい時代遅れの代物と化している。とりあえず憲法違反を犯しても何ら罰せられないのだから形骸化は避けられないところか。そんな柔らかな無法状態の中で、一部の人々はそれらの対象が醸し出す情緒的な気分に流されてしまっているようで、何やら黄色い旗を掲げてイラクへ派遣される自衛隊員が無事に帰還することを祈っているらしく、時代遅れの憲法遵守派の人々も、自らの論理のよりどころとなるべき憲法自体の希薄化にうすうす感づいているらしく、黄色い旗とともに祈る人々の軽薄な行為を愚かで馬鹿げたことだと斬って捨てるわけにはいかないらしい。そういえば数ヶ月前には、部活動のOBが殺されたら全員で黒い喪章をつけてプレーしていた大学もあったはずだ。確か数年前にアメリカで起きた同時多発テロの時はアメリカ全土がそうだった。NBAの選手はみな黒いリボンを肩に付けてプレーしていたし、犠牲となった地元警察の帽子をかぶってプレーしたメジャー・リーグの球団もあったはずか。それらの行為を儀礼的なものだと馬鹿にしてもどうなるものでもないか。部隊が派遣される地元では心を込めて隊員たちの無事を祈っている人が大半を占めているのだろうし、困っているイラクの人々を日本の代表して自衛隊が助けてほしいと心から願っている人もいるはずか。要するにそれらの人々のほとんどが未だに国家というしがらみから逃れられないでいるということか。現に政府と呼ばれる行政機関があり、信じられないような巨額の財政赤字を背負いながらも未だに機能しているらしく、そのようなものがある限り国家というものの存在を信じざるを得ないというところだろうか。実感としては、イラクのサマワという地方都市に行くだけで、あんなに大騒ぎしなくてもいいと思うし、単なる偽善的な政治外交パフォーマンスとしか感じられないのだが、実際に他国の部隊には死者が出ているのだから、自衛隊も一応は軍隊なのだし仮に死者が出ても何の不思議もないところだろう。今のイラクはそんな状況なのだから、それはそれで仕方のないことかもしれない。それについて反対も賛成もなく、政府とそれを担う政党とその支持者の皆さんが形式的には国民の了解を得てやっていることに対して、君個人が反対しても賛成しても何の影響もないということでしかない。とりあえず実質的には戦闘状態にある地域に、形式的には軍事力を放棄している日本が、実質的には軍隊である自衛隊を派兵するのだから、まあ憲法違反なのだろう。しかしその憲法違反を取り締まる機関がないのだから、憲法違反など政府がやろうと思えばやりたい放題というところか。憲法よりはそのときの政治情勢を優先させた方が得策と考えてのことなのであって、それが良いか悪いかは別にして、そんな風にやりたいのだからやってもらうしかないだろう。とりあえず日米同盟が最優先ということか。これがイラクではなく直接の利害関係のない今も戦闘状態のアフリカの名も知れぬような国だったら、おそらくその国の人々が困っていても自衛隊を派遣するようなことはしないだろう。外交上のおつきあいとはそういうものでしかないか。


2月1日

 宵越しの金は持たないのが誰かのポリシーとなっているわけではないだろうが、たぶん貧乏人ほど全財産に対して金を使う割合は高いように思われる。では貯蓄率の高い人ほど金持ちになるわけか。経済通を自任している人ならそれとは違った見解を持ち合わせていて、さかんに有効な金の使い方というやつを指南したがっているのかもしれないが、それは持ち金を増やすように金を使うということだろう。それは最終的には誰もが目指していることかもしれないが、そんなうまい話がどこにでも転がっているわけもなく、それらの大半が詐欺の類かもしれず、そこにはあたかも増える可能性があるかのように錯覚させておいて、逆に金を巻き上げようとする者たちが待ちかまえていることだろう。たぶんその手の業者が横行しているのが今の世の中なのだろう。それらが繁栄しているということは、その手の詐欺にだまされやすい人々が大勢いるということか。もしかしたらだまされることが快楽と結びついているのかもしれない。それが娯楽の一部を形成している場合もある。つまらないことに金を使うのは馬鹿らしいが、つまらないことをおもしろく感じてしまうのだから救いようがなくなる。騒々しい店内では壁に向かって人が椅子の上に貼り付いている。パチンコ屋は愚か者の天国か。だが愚か者にも明日がある。きっと明日になれば同じことが繰り返されるだろう。しかし金はどこから湧いて出るのか。散財しても借金があるか。ここ数年で自己破産が急増しているらしい。それでも君にはまだ可能性があるのだろうか。君に可能なことは不可能なことを試みることか。結果的に成し遂げられたら不可能ではなくなるはずか。それは何かの思い違いだろう。では不可能と思われることはやらずじまいになるしかないか。やらないよりはやった方がマシだと思うなら、とりあえずできそうなところからやっておこうか。ここ数年の君は大金を使う暇も度胸も持ち合わせていない。その大半は衣食住と音楽CDに費やされているだけのようだ。油絵に描き出された去りゆく人は、車椅子に乗って遠くを見つめている。メキシコかどこかで保養中に死んでしまったらしい。そしてインドの聖なる川にその遺灰は流される。ミンガスの遺灰は実際にガンジス川へ流されたらしい。ジョニ・ミッチェルの『ミンガス』にはそんなことが記されていた。ビートルズが好きな人は何を思うだろうか。彼らを馬鹿にはできない。君もあれらの音楽の一部分には好感を持っているはずだ。たぶん世の中には様々な種類の音楽が満ちあふれていて、それらの大半が同時に共存できる環境にあるのかもしれない。人々の嗜好が千差万別になってしまえば、一度に多くの人が同じ話題で盛り上がることもないだろう。マスメディアが煽り立てる大規模な流行現象がなくなることが、くだらぬ競争を回避できる唯一の道かもしれない。現実にそうなりつつあるのだろうか。はたして一つの夢に向かって大勢の人々が群がるという不幸が消え去るだろうか。多くの者たちの競い合いの中から発明や発見が生まれ、その結果として人類の進歩が実現する、という二十世紀的な幻想がいつ無効になるのだろう。電車の網棚に置き去りにされたスポーツ紙の表紙には有名な格闘家に蹴られて倒された者がうずくまっている。そんな状態でいったい誰を屈服させるつもりなのか。たぶんやる前にはそう思っていたのか。そんな状態で攻撃的な感情をむき出しにできるはずもないか。直接の接触で肉体を消耗するボクサーの寿命は短そうだ。どこの誰がボクサーであるはずもないか。パーキンソン病になるとどのような症状があらわれるのだろう。君はアリのことを思い出したわけか。思い出したからと言って文章につながるわけでもなさそうだ。また今日も何を述べているのでもなさそうだ。それでもまだ夜明けには間に合いそうだ。間に合わなければ作業は明日に続いてゆくだけか。もうすっかり夜は明けている。