彼の声27

2001年

11月30日

 かなり冷え込んできたようだ。指先が痺れている。おかしな成り行きだ。気がついたら二日後になってしまっている。そんなことはあり得ないだろう。どこまでも平行線をなぞり続ける。彼らはまだぎくしゃくした関係を解消できないでいるらしい。それは自分とは無関係なことだろう。必要に駆られて努力しているわけではない。その必要はない。だからそのままの関係を維持している。だが必要がないといえば、世の中のすべてがいらなくなる可能性がある。努力する必要はないが、努力しなければ何も成し遂げられないだろう。自由とは空疎な概念だ。人間とは虚無的な観念だ。そのどちらも実在した例しがない。それらは誰にとってもいらないものかも知れない。ところで、誰とは架空の登場人物のことなのか。そこから先は煙に巻かれてしまう。無内容なのは自分の意志に基づいているのだろうか。持ち合わせていないのは主語と述語のどちらなのだろう。そのどちらも存在しない場合、はたして文章が成り立つだろうか。どちらもあるからこうして言葉が繋がっているようだ。しかしその内容が自分には理解できない。理解したくないのかも知れない。明け方に目が覚めるのはいつものことだ。今までに何を見いだしたわけでもないし、何が導き出されたわけでもない。放っておいたら意識の空白はさらに広がり続け、二日おきが三日おきになりつつある。この調子でいったら、そう遠くない将来、ついには何もなくなってしまうだろう。言葉の断片化と意識の拡散化は止めどなく進行している。だがそれらは誰の言葉と意識なのだろうか。どうも自分のものではないような気がするのだが、今ここに言葉が記述されつつある画面上の内容は、生身の自分とはまったく無関係としか思われない。自分にとってこれらはまるで空疎な内容なのだろう。


11月29日

 作られた言葉を元にしてありもしない前提が打ち立てられている。それらのフィクションは何を構成しようとしているのだろう。予め定められた制度は一向に動作せず、それらの機構は空疎そのものを代表している。代表者が体現している民族は何を言い表しているのか。たぶん民族はひとつの方便なのだろう。誰もそれをはっきりとは否定できない概念なのだろうか。だが通過儀礼にしては犠牲者が多すぎるだろう。それが錯覚だとは誰も気づかない。誰もが自らの所属している民族と呼ばれる幻影に踊らされている。状況はかなり複雑な様相を呈しているが、それは彼らが信じている当の民族と呼ばれる概念が単純すぎるからだ。現状にマッチしていない概念を、無理矢理現状に当てはめようとするから、無用な軋轢や犠牲者を絶えず出し続けている。たぶん誰も彼らを助けはしないだろう。勝手に同士討ちをやらせておけば、それをやっているうちは、欧米諸国は安泰だ。殺し合いをするための武器を絶えず供給してやれば、関心が紛争地域内に注がれている間は、自分たちに刃が向かうことはないだろう。おそらく世界にはそういった常時戦争状態の場所が必要なのかも知れない。そうやってならず者たちを荒れ地に封じ込めておきさえすれば、先進諸国は平和がもたらす経済的な繁栄を謳歌できる。そのしくみに気づいて立ち上がったものたちはテロリストのレッテルを貼られ、容赦なく抹殺されてしまう。愚かなのはテロリストと呼ばれてしまう人たちの方であることは明白だ。欧米諸国の思うつぼなのかも知れない。怒り狂って自爆テロとかの無謀な行為をしてしまっては思うつぼなのだ。結果的に彼らにはそれしかやりようがなかったわけだが、やはりそれでは向こうの思うつぼにしかならないのだろう。たぶん繁栄している側からの言説としては、かなり虫のいい話かも知れないが、あれらの繁栄に嫉妬してはならないし、しかも否定してもならないのだろう。そして性急に別の道を模索する必要もない。また、今までに通り過ぎてきた過去へ戻ることもできない。自分たちの拠り所としていると思っている国家とか民族とか呼ばれる概念は、あちら側の所有物なのだ。そうかといって、もう一つの拠り所だと思っているこちら側の宗教は、過去の慣習に基づいているだけの時代遅れの代物だろう。資本主義経済に宗教で対抗するのはミスマッチもいいところだ。経済的に潤いたければ、各々で地道に経済活動をしていけばいいだけのことでしかない。まったく平凡な結論だが、それ以外にはやりようがないと思われる。欧米諸国が誘惑の罠として持ち出す、国家とか民族とか呼ばれる概念を安易に鵜呑みにするから勘違いが生まれてしまうのではないのか。それは人々を大地の一カ所に拘束して身動きが取れなくさせるゲットーのようなものだ。要するに現状は、国連を隠れ蓑してアフガニスタン・ゲットー化計画が進行中なのだろう。


11月28日

 作り話では、漆黒の闇に惹かれ、真冬の海に身を投ずる人がいる。おとぎ話では、悪魔はいつも暗闇の到来を期待している。フィクション上では自分もそうらしい。では、真実の顕現を期待しているのは誰なのか。現実の自分は何を期待しているのだろう。それは二日前の続きにしかならないだろう。では、何も期待していないのは誰なのか。この世に真実があるとすれば、その真実は役に立たないだろう。投げやりな気分はいい加減な断言に落ち着く。何も期待していないし、何も求めはしない。それは自分ではなく、これらの言葉の連なりから導き出された結論になる。自分は何か他の可能性を感じているらしい。言葉の断絶は音信不通とは違う。ところで神は神の存在を信じているだろうか。自分は自分の存在を信じてはいない。おそらく神もそうなのではないか。これまでのところ、特に目新しいことは何も起こっていない。これは警告なのか。神はこの現実と折り合いをつけられないでいるらしい。自分の方はどうなのだろう。嘘偽りのない気持ちではいられない。黄金色に輝く王冠を頭に戴くのは、その写真に映っている人物だ。人ではないが、導かれる答えは神にはならない。人生を謳歌しているのは海辺の漁師でしかないだろう。漁師は人とは違うのか。漁師はそこで省略された言葉を明らかにする必要を感じていない。見いだされるのは波間に浮かぶクラゲの幻影なのか。実物に刺されたら痛痒いそうだ。大漁でないのは網を揚げる前からわかっているらしい。意志と動作の食い違いを埋めることは難しい。何かをやりたくなる時は何もやらない時だ。やっている最中はそんなことは思わない。それのどこが食い違っているのだろうか。極めて当然な成り行きだろう。物事には順序がある。必ずしも原因と結果が無関係であるとは限らない。なぜあえて間違ったことを述べるのか。それは自分にはわからないし、神にもわからないだろう。こうなった原因は意志と動作の不連続ではない。意図的に不一致を装っているだけかも知れない。


11月27日

 名探偵は唐突に嘘を見破る。どうやら先が見えてきたようだ。虚構のペースは二日おきなのか。なぜそうなってしまうのだろう。真昼の光は眩しすぎる。それは理由にはならないだろう。やはり続けるための理由を探しているのだろうか。必要とされない知識は闇に葬り去られ、必要とされる知識は埃をかぶって店晒しにされている。それは何を暗示しているのだろう。現代において知識はもはや必要とされていないということなのか。知識全般においては必ずしもそうではないだろう。必要とされ、実際にそれを求めている人も大勢いるだろう。ならばなぜさっきはそう述べたのか。それは偏見に基づいた単なるあやふやな印象に過ぎないのかも知れない。その唐突な断言を裏付ける理由は何も見あたらないだろう。自分が求めているのはそのような知識ではないらしい。自分は知識の存在を信じられない。それは知識などではなく、本能から導き出された慣習や伝統などではないのか。なぜそれらと知識は違うのだろうか。両者の違いは、意識して頭を使って知るのが知識なら、無意識のうちに体で覚えるのが伝統や慣習である。だが、そのような区分けに何か積極的な意味があるだろうか。自分にとってそれらの違いはどうでもいいことのように感じられる。自分が求めているものは、今のところ言葉では言い表せない。あまり極端な思考力は必要とせず、そうかといって全面的に勘に頼っているわけでもなく、ただこの現実を感じている。この何もないようで何かありそうな現実をあるがままに感じていたい。だが、次の瞬間、それは嘘になるだろう。確かにある種の感性が重視された物語の中の登場人物は、そんな台詞を好んで吐くだろう。結局現実はそんな戯れ言を容易にすり抜けて、何もないようで何かあるようなあやふやな時空に吸い込まれてしまうだろう。自分は言葉では何も定着できないようだ。


11月26日

 なぜか明日やれることは今日やらなければならない。それはどういうわけなのか、誰に聞いてもわからない。聞く耳を持たないから何事も自分で判断しなければならないだろう。その頑なな性格は死ぬまで続くかも知れない。今や世界情勢は暇つぶしのネタと成り果てている。それはどこの話だろう。いつ果てるともなく続く諍いは、ある時は分散して散り散りとなり、またある時は思わぬ場所に出現する。何もやりようはないが、たぶん何かをやっていなくては気が済まぬ人々で世界は満ちあふれているらしい。それが絶えず発生する諍いの原因なのか。価値観の相違はどうやっても埋めようがないだろう。それでも何らかの判断と決断を下さなくてはならなくなる。なんともやりきれないことだが、ある程度は暴力によって未来を決定できる能力を有しているのだろう。それが国力というものなのか。そんなものに屈したくないのは誰しもが思うところかも知れないが、現実に圧倒的な暴力を見せつけられると、抵抗する気力が萎えてしまうのだろうか。だがその大地には確実に憎しみが刻みつけられるだろう。それが今後どのような状況や事件を招くのか、この時点ではなんとも言えないところか。世界は確実に変化し続けている。あまり過去の遺恨にとらわれずに生きられたら幸せになれるのかも知れないが、きれいさっぱり水に流すわけにもいかないだろう。そう簡単に何事も状況を操作しようと画策している者の思惑通りには進まないか。ふざけた連中の跋扈にはうんざりなので、できればそう願いたいものだ。それは無理かも知れないが、虎の威を借る狐のような腐ったマスメディアの鼻をあかすような事件を自分は期待している。またそれが暴力を介さないで行われれば、なおのこと好都合なのだが、それは所詮無い物ねだりなのか。


11月25日

 なぜいつまで経っても始まらないのだろうか。確かに開始の時は終わりから計測されるようだ。何かひとつのことが終わらないと始動できない。その行事の終わりを見計らって、誰にも気づかれずにこっそり始められるようにしなければ、なかなか事をスムーズに運ぶことは難しい。しかし、ここ今に至っていったい何を始めるつもりなのか。もうすでに実質的には始まっているのだろう。真空の力を利用して何かを出現させようと試みる。確かに嘘も方便だろう。結局は思いよらぬ偶然に期待してしまうわけだ。充たされぬ思いは、別のことでその欲求を充足させようとする。軟弱な人間にはそういう傾向が顕著に現れる。自分もそういう人間の内の一人だろうか。さあ、どうなのだろう。そんなやり方も選択肢の内のひとつとしては少しは魅力的に思われる。しかしなぜそんなことを突然に思うのか。何かやり切れぬ思いでも心の片隅に引っかかっているのだろうか。自分も何らかの慣習にとらわれているらしい。その地域特有の風土というものがあるように、土着の風習と生活習慣には歴史が息づいている。そう簡単にそれらに逆らっては生きて行けない。まだ機が熟してはいないらしい。その時期ではないようだ。これからも見定めなければならないことが、まだだいぶ残っているように感じられる。


11月24日

 闇とともにどこからともなく忍び寄るのは何だろうか。闇は闇でしかなく、闇以外の何ものでもない。時期的には闇ととも冷気が忍び寄ってくるだろう。では、光とともに何が忍び寄ってくるのだろう。今のところ何も忍び寄ってこない。蛍光灯の光の下でエアコンから吹いてくる暖気を感じているだけだ。ではそこには何が欠けているのか。たぶん孤独な環境には会話が欠けているのかも知れない。だが、今ここで別に誰と会話したいとも思わない。ここで必要とされているのは、会話ではなく、奇をてらった表現だろう。それは唐突な出現だった。君のことを思い出す。君は今何をしているだろうか。君は救いの神なのか。それは何の脈絡も感じられないモノローグでしかない。疑問とは何か。疑念が湧いてくるのはどのようなきっかけからなのだろう。あまりにも離れすぎて何も確認できない。天空に向かって空高く舞い上がるのは上昇気流だけだろうか。彼の地で解決の糸口を探しているのは誰だろう。思い込みとは何によってもたらされるのだろうか。泥沼とは何の喩えなのだろう。寓話の種類はどれくらいあるのだろうか。空の彼方からもたらされるものは芥子の実かも知れない。だが塵芥の類はもういらない。スイッチボタンはどこにでも出現するだろう。野を駆ける兎には猟人の罠が待ち受けている。文明には先行する文明が必要なのだ。西洋文明にはイスラム文明が先行していたが、それはここ一千年の間での話だ。赤く朱色に染め付けられた布は西風に棚引いている。徴は兆しを示す記号で満ちあふれている。逃れられない宿命から逃走を試みることが可能だと思い込んでいる。それが成功するかどうか、自分にはわからない。これから先がどうなるにしろ、あらゆる多様性をひとつの声で言い表すと、それは秘境的な表現になるほかないだろう。どのように言い表そうとも、意味を持つ言葉がどこかで停滞している。


11月23日

 紋切り型としては、秋の夜長は読書の時かも知れないが、その気はない。夜の季節は自分に何を求めているのだろう。闇に差し出すものは何もない。迫り来る夕闇は戸外を覆い尽くし、何をする間もなく夜の時間帯になる。青白い午後の月は今や頭上に光る蛍光灯の近傍で灯っている。地球の自転によって天空が回転しているように感じる。地動説を最初に唱えた西洋人は誰だったか。脇道へ逸れるのはいつものことだが、近頃はそれすらも飽きてきた。だが、そこから話を進めるぐらいしかやりようがない。今近づきつつあるのは、なし崩し的な破局なのか。このままでは和解の時は遙か彼方へ遠ざかるばかりだ。冗談としては、もはやお互いが誤解を通してしか分かり合えない。互いに互いの姿を見誤ったとき、真の和解の時が近づきつつあるとは皮肉な話だ。それは冗談ではなく、お互いにお互いが分かり合ったと感じること自体が誤解なのだ。外見を見誤らさせるための技術として化粧は存在する。しかし何を語っているのか不明確だ。相変わらず具体的な事物を特定できないように語っている。意味不明な言葉の断片をつなぎ合わせるとそうなるらしい。そもそもそういったやり方が間違っているのだろうか。何もわかっていないのに、なぜかわかっていると感じてしまう。だがそんな逆説は好まれないだろう。中身が空っぽのまま精神の集中状態から抜け出る。世の中にありふれている神秘主義は、その先を目指さなければならなくなる。何も気づかぬ間に自身も単純化作用を被る。だましのテクニックは意外と簡単なのかも知れない。何も求めないのは嘘も方便に属するだろう。さしあたっての良識派の目標とはそういうものなのか。かなりわかりづらいが、夢を見たい人には夢を与えなければならない。それは神の仕事だろう。死後の夢は輪廻になるらしい。それは絶望に対峙しているわずかな希望だ。では、何も見たくない人には何が与えられているのだろう。それがテレビ画面ということなのか。たぶん夜の視界は真っ暗闇だろう。


11月22日

 深入りはごめんだが、どうしようもなく深入りしてしまうらしい。誰が何に深入りしてしまうのかは知らないが、途中からどこかで引き返さなければならないと感じ始める。だがそのきっかけがつかめない。たぶん死に神が引き返すきっかけを与えないのだろう。山で死んだ登山者は何か思い残すことはないだろうか。何も思い残すことはない、というのは勇者が死に直面した時の台詞か。たぶん遭難者は間違っているのだろう。何が間違っているか間違う瞬間にはわからないが、確かにそのとき何らかの判断ミスが生じているのだろう。危険を知りながら山上の風景を見に行く人々はどのような報いを受けるのだろう。よくある結末としての遭難死は、どのような行為に対する報いなのだろうか。そこで引き返さないことから得られる代償なのか。だがそれはおかしな言葉づかいだろう。人それぞれかも知れないが、気の配分が間違っている。天空の峰は陽の光が織りなす幻影であることが多いそうだ。丸めがねの老人はおかしい。精神が軟化している。たぶん昔は硬直していたのだろう。久しぶりに平和ぼけの幻想を思い浮かべる。明るい陽ざしのただ中に遠くから忍び寄ってくるのは誰の影なのか。何に頼るでもなく、誰の助けを借りる術も知らず、空想上の黒い影は自力でここまでやってきた。たぶんここで何をするつもりもないのだろう。夢はどこかの誰かが叶えてくれるだろう。中高年の登山者のように気休めの観光で死ぬつもりはないらしいが、それはかなりおかしな成り行きになるだろう。誰も死にはしないが、それとは別の時空で丸めがねの老人が死につつある。その願いはすぐに叶えられる。近未来の出来事は簡単に予想がつく。予想は推測の域を出ないが、たぶん新しい人は皇太子妃が生むだろう。野獣はどこでも出没する。人には教育できない領域があるらしい。狸は車に轢かれて死につつある。教育の対象である子供は、この地上には存在しなかった。なぜか人は教育によっては育たない。それはなぜだろう。黒い影は馴致には適さず、自ずから誰の助けも借りずに育つ。誰が教えたのでもないし、誰から学んだのでもない。神秘主義思想とはそういうものだ。世界の終わりは世界の始まりと同時に進行している。


11月21日

 今はいつなのか。たぶん二日前だろう。明け方の深い眠りは突然の中断を被る。目覚まし時計のベルに連動して、頭の中で鳴り響いているのは、何かの警報なのだろうか。とりあえず今日も起きなければならないらしい。夜明け前の寒さに震えながらも機械的に起床する。蛍光灯の光で眠気が徐々に退いてゆく。外はまだ暗い。いつものことだが、何もやる気がしない。眠気と怠惰には勝てないようだが、そんな気持ちは無視して身体は勝手に動作する。いつものように何を思うでもなく何も感じずに昼の空洞をやり過ごす。それに対する言い訳は何も思いつかない。どこにでもありふれた退屈な日常なのだろう。だが、退屈紛れに趣味に走ったり、憂さ晴らしにスポーツ観戦する気にはなれない。空洞は空洞として受け止めるべきだろう。そこから逃げるわけにはいかない。そこで立ち止まらなければ、時流に押し流されてしまうだけだろう。安易な勝負をしてはいけないし、するつもりもない。人をたらし込む技術を磨いて成功を目指すようなまねはやらないほうがいい。


11月20日

 順序と序列は似たような意味だろうか。人には助かる順番があるらしい。まずは欧米人が誰よりも先んじて助からなければならないらしい。それが何にもまして最優先事項なのだ。もしかしたらそれ以外の人々の命はどうでもいいのかも知れない。たぶん彼らの眼中にはその他の人々の存在は考慮されていないのだろう。誰が助かろうと、そこから先の順番はどうでもいいらしい。その他の人々の間で協議でもして、勝手に助かる順番を決めてもらってかまわないそうだ。今なお人種差別や民族差別は特定に地域に根強く残っている。国家によって形作られた環境とはそういうものだ。自分にはどうすることもできない。しかしそれでも何かを語っているらしい。それはどういうことなのか。いったい何について語っているのだろう。何らかの気分と何らかの先入観に基づいた見解を述べている。その見解には現在の世界情勢が反映されているのかも知れない。金目当ての密告を奨励している国家にはたして正義があるだろうか。確かに報奨金の値段にもそれなりの根拠があるらしい。おたずね者はいつ見つかるのだろう。自分の周囲にはいないだろうから、その報奨金には縁はないだろうが、あまり後ろ暗いことはやりたくない。かつて自分たちのために義勇兵となって敵と戦ってくれた人を敵に売り渡すようなまねまでして、金を欲しがる人がいるだろうか。たぶん中にはいるのだろうが、そうまでして金を手にした場合、自分たちの信仰する神に対する背信行為にはならないのだろうか。少し物事をまじめに考えすぎているようだ。近頃は調子がおかしい。


11月19日

 しばらくの間、いつもの戯れ事から遠ざかる。それなりの環境が見渡す限りに広がっているが、それはたぶん牧歌的な光景ではない。のんびりとした雰囲気は何によって醸し出されるのだろう。揺れ動いているのは目の前の枯れ薄なのか。思い出すのはまったく別の光景だ。それとは無関係の別の時空に身を置いてみよう。画面上では誰かと誰かがどこかで対戦している。その日のニュースはすでに何時間も前に終わっている時間帯だ。記憶はかなりあやふやで、どうやら何かと何かが、頭の中で不可解に混ざり合っているようだ。それは録画だったかも知れない。彼の地では排他的な感情が奨励されている。彼の地でなくとも排他的なのは万国共通かも知れない。義勇兵の命乞いは許されない。彼らに待っているのは、死あるのみなのだろうか。先のことはまだわからない。その可能性は低いが、いつか生き延びる機会が訪れるかも知れない。だが本題はそれとも関係がない。それはつい最近の出来事だったかも知れない。その見せ物に酔いしれる間もなく、退屈であくびが出る。命がけでやっているわけでもないだろう。人気商売は浮き沈みが激しい。人気者はちょっとしたきっかけで瞬く間に画面上から消えていなくなる。四角いリングの上ではカリスマの終わりが用意されていた。たぶん彼がメディアに取り上げられて有頂天になっていたのは、ほんの一瞬の間だけだったかも知れない。格闘家の寿命は負ければ終わりなのだろう。彼は同じ相手に二度負けて信用をなくし、ついにはリングの上で泣き出した。そして何を思ったのか、それを見ている観客にひたすら謝り続ける。そんなぶざまであっけない幕切れが人々の脳裏に焼き付く。やはりそういう勝負は避けて通るのがその手の格闘家としての賢いやり方だったかも知れない。彼はそれでもまだ格闘家を続けるつもりなのか。もはや彼が最強でないことは誰の目にも明らかだろう。有名な柔術グループの一人を倒して少し人気が出て、漫画雑誌で人生相談などをやり始めたのがけちの付き始めだったのかも知れない。


11月18日

 晩秋に銀杏の葉が舞う。だが今が晩秋なのかわからない。地域によって異なるのだろう。のどの渇きはオアシスの幻影を招き寄せる。だがここでは砂漠こそが幻影だろう。なぜか殺風景な部屋の中で暖房の乾きにのどをやられる。風邪気味だったのは昨夜のことだ。だがそれも気のせいだったらしい。今はその兆候を感じない。そのうち自分は死ぬかも知れないが、それがいつなのか自分にはわからない。いつか風邪をこじらせて肺炎で死ぬ機会がやってくるかも知れないが、今のところそうなる予感はしていない。それはかなり大げさな取り越し苦労だろう。たぶん、そんな大げさなことが現実に起こる時が死ぬ時なのかも知れない。その昔飛び降り自殺した映画監督が葬式映画を撮って話題になったことがあった。今はその内容をほとんど覚えていないが、あれは一応喜劇映画に属するものだったのだろうか。まったく笑えなかったが、構成は喜劇仕立てだったように記憶している。確かそれがその人のデビュー作だったと思われる。その後盛らないラーメン屋をトラック運転手が救ったりするものや、税務署の役人がヤクザもどきから税金を取り立てるものが続いた。自分はそれらを映画館では一度も見たことはなく、もっぱらコマーシャルで細切れにされたものをテレビの再放映で見かけた。なぜかそれらは、自分にはすべて笑えないコメディーで一貫していたように感じられた。俳優がいつも真剣なまなざしで忙しなく動き回るそれらの映像空間には何かが欠けていた。もしかしたらそれは、撮影現場の張りつめた緊張感や息苦しさがそのまま映像に滲み出ていたからかも知れない。確かにそこでは、俳優や映画制作関係者が一緒になって仕事をしていたのであり、そのような仕事現場の雰囲気がそのまま映像に定着していたので笑えなかったのかも知れない。もしかしたらそれは自分の思い違いだったのだろうか。その人が映像を通して本当に訴えたかったことは、葬式やラーメン屋や税務署などを題材としたルポルタージュ風の社会的な問題提起だったのだろうか。しかし今となってはどうでもいいことなのかも知れない。なるほど、忘れ去られる人はいくらでもいるようだ。


11月17日

 滞留する空気は自然と湿り気を帯びてくる。調子に乗っているのは少数派なのか。確かに一部の地域ではそうなのかも知れないが、多数派側もこの機に乗じて調子に乗っているのかも知れない。自分の子供がニューヨークで起こったテロ事件に巻き込まれて死んだら、テロリストに復讐したくなるかも知れないが、そうかといって、アフガニスタンに報復爆撃しているアメリカのやり方には賛同しかねるそうだ。そういう複雑な心情をネット上で賛同者を募って交流しているらしい。発想がいかにも貧困だ。例えば、自分の子供がテロリストで、パレスチナ人の不幸な境遇に同情して、自爆テロとかをやったとしたらどう思うのだろうか。そういえば日本赤軍の親兄弟は今どのような心境なのだろうか。自分はあまりテロ事件を肴にして調子に乗る気にはなれない。結局アメリカもイスラエルと同じようなことをやっている。やられたらその何倍にもしてやり返すという点では、国家がやることはどこでも同じかも知れない。なんだか世界中の国々が、みんなでよってたかって弱い者いじめをしているようでいやな感じがする。自分は安全地帯からこれ見よがしに優勢な側に荷担したくはない。今さらタリバンを非難してどうなるものでもないだろう。アメリカのブッシュ大統領の夫人がラジオ演説でタリバンの女性抑圧を非難したとかがニュースで伝えられたが、なぜ今さらそんなことを持ち出すのだろう。それは命がけで女性解放運動をしてきた現地の女性活動家しか言う権利のないことだ。倫理観の欠如とはこういうことなのかも知れない。アメリカの尻馬に乗って、ここぞとばかりにやりたい放題やるから、いつまで経っても憎しみに駆られたテロを根絶できないのではないのか。


11月16日

 タリバンもあっけなく敗れ去って拍子抜けしてしまったが、とりあえずアフガニスタン全土からアメリカの攻撃目標が一掃されて、空爆ができなくなった時点が報復の狙い目なのかも知れない。今度はアメリカ本土の主要都市で原爆でも爆発させたらおもしろいだろう。そうなれば今度はどこの国が報復空爆されるのだろう。また強引なこじつけでイラクでも空爆する気だろうか。もっともテロリストにそこまでやれるはずもないか。しかしなぜ自分はそういう不謹慎で非常識なこと期待してしまうのだろう。期待が成就されれば何百万もの人々が死んでしまうというのに、薄ら笑いを浮かべながらこんな荒唐無稽で人非人なことを平然と記述している。わからない、まったく良心の呵責を覚えない。実現しそうもないことならいくらひどいことを書いてもかまわないのだろうか。ネット上では改造拳銃までが出回っているらしい。電光石火とは元々何を表現していたのだろう。雷鳴が轟いていたのは数ヶ月前のことだ。明け方に流れ星を見かける。たぶん直接肉眼ではっきりと見たのは生まれて初めてのことかも知れない。今は獅子座流星群の季節か。


11月15日

 かなり不自然な成り行きだ。理由は何もないが、いくらか支離滅裂なことを述べているらしい。たぶん設問の立て方がはじめから間違っているのだろう。文学とは何か。それは答える必要のない設問だ。どこかの文芸評論家なら気の利いた答えをいくらでも持ち合わせているかも知れないが、何かそれに関して学ばなければならないことでもあるのだろうか。文学そのものには積極的な意味はあまりないかも知れないが、気休めの意味ならいくらでもあるだろう。何も見いだせぬまま何もしない。ただ文字を記述するだけだ。それが文学の本質かも知れない。しかしいい加減な見解だ。明け方に寒さで目が覚める。蛍光灯を点けたまま寝てしまったらしい。近頃は少し横になるとそのまま寝てしまうことが多くなった。同じようなことが毎日繰り返されている。何かもっともらしい理由がなければそれをやめることができないのだろうか。確かにそれをやめる理由はないし、やめない理由も見あたらない。それは慣性の法則に従った惰性の習慣かも知れない。何をやるにしてもやらないにしても、そのきっかけを求める姿勢をやめられないらしい。世の中はそんな輩の集まりなのか。たぶん、他にやることがないので、思想家は社会変革の試案でも提示したがるのだろう。それは目の前の空虚からの逃亡かも知れない。また、メディアがメディアにはどんな役割があるかをメディア上で提示するのも、それと同じような事情があるのかも知れない。空虚を埋める理由を探しているのは誰でもない。すべての人々が何もない空虚からの逃亡を企てている。


11月14日

 気晴らしの嘘はどこかへ消えてなくなった。どういうわけか操り人形に腹話術が加わる。それらは真剣に成功を目指しているように見える。当分の間は気休めは何もなさそうだ。見せかけの静止と停滞は一時的なものなのか。その装置は慣性の法則に沿って動作するらしい。彼らはそこで何を見誤ったのだろう。いったいこの事態の急展開を誰が想像できただろうか。誰かの思惑通りの展開なのかも知れないが、専門家が提示していた常識や前提は脆くも崩れ去ったように思える。変化はいつどこから起きるのだろうか。昨日から何が変わったわけでもない。変わったのは日付ぐらいなものだ。では世界はいつから変わったのだろうか。たぶん昨日から風向きでも変わったのだろう。何が変わったわけでないが、何かが変わったらしい。昼間の時間帯はとっくの昔に終わっていた。もう外は真っ暗だ。日が暮れてからだいぶ経つ。時期的には夜の長い季節に入っている。その宗教とは無縁だが、ラマダンはいつからなのか。べつに断食をやる必要もないだろう。確か去年の今頃も同じようなことをやっていた。生きていたから呼吸をしていたのだろう。何か大事件でもあったのだろうか。たぶん何かあったのだろう。空を旋回するヘリコプターがうるさいが、それも自分には関わり合いのないことなのか。人が大勢死んだらしいが、自分の周囲ではそれほど死んでいないだろう。至って平穏で、何の騒ぎにも巻き込まれていないようだ。ざわめきはいつも遠くから聞こえてくる。確かに自分はその光景を画面越しに眺めていたが、べつにそれについて冷静にも感情的にもなれない。あまり反応がないようだ。相変わらずコーヒーの味は苦いままだし、空気の成分も以前とそれほど変わらないだろう。いや、昔から比べれば、二酸化炭素の割合が少し増えているのかも知れない。その分少しは地球が温暖化したのだろう。それもこれも化石燃料の大量消費が原因なのか。ありふれた結論に一歩近づいている。ところで化石燃料はいつ枯渇するのだろうか。石油や天然ガスは埋蔵量に限りがあるようだが、石炭ならあと数千年は大丈夫らしい。何も狂っているのは原理主義者だけではなさそうだ。中には情勢の変化に小躍りしている人もいることだろうが、一足先に戦争ゲームから降りた人々もいるらしい。馬鹿らしくてもうやっていられないのだろう。さすがに寒さには勝てない。寒冷地では冬眠の季節が近づいているのかも知れない。近所の安売り店では少し前から今年も灯油の販売を始めている。コスモスの花が咲くのはいつだろう。確か菊の花は秋咲くように記憶していたが、コスモスも同じ時期だったかも知れない。それとこれは無関係だろう。カオスにもそれなりの法則を導きだせる場合もあるが、べつに法則があろうとなかろうと自分には関係のないことかも知れない。おそらく世界が変わっても自分は変わらないだろう。人は幸福になるために生まれてきたのなら自分は人ではないらしい。変わり身の早さは幸福になるための必要不可欠な前提条件であるようだが、自分はその変化にはついて行けそうもない。自分は世界から取り残されるだろう。その方が気が楽だ。気の毒なのは戦時下の住民ではなく、それを画面越しに眺めている一般大衆の方なのかも知れない。退屈で何もやることがない状況が気の毒なのか。


11月13日

 ふとした偶然の巡り合わせで、新幹線の二階から白い富士山を眺める。しばらく見とれていた。今さらその霊山に何を思うのだろう。何か適当な祈りでも捧げるべきかも知れない。誰がそうするべきなのかは知らない。知らぬ間に季節は移り変わっていた。相変わらずのあわただしい毎日で、月日の経つのも忘れがちになる。この時期に何か気の利いた感慨はないだろうか。俄には何も思いつかないが、なぜかこれでも二十一世紀の最初の年なのだ。ここ数年で大衆から見捨てられた人はかなり多いだろうか。誰が誰を見捨てているのか。だが、大衆に特定の個人を見捨てるような何かまとまった意見や意志があるのだろうか。あるとして、それは蟻や蜂の群れが示す行動パターンのようなものなのか。自分もマクロ的に見ればその大衆の一部に属しているといえるのだろう。暇な時はただ漠然とテレビ画面を見続けている。つまらぬ番組に見とれて、時間を著しく浪費しているらしい。大衆の行動パターンとはこういうものなのかも知れない。そして、眠気に気づけば深夜になっている。もうすでに明日になってしまっているようだ。空白の時間を過ごしてしまったことに後悔があるとすれば、思考する努力を怠っていたことか。だが何をどう考えればいいのか、それがわからない。テレビを見ていない時の時間は、見ている時よりかなり長く感じられる。ゆっくりととした時の流れによって、気持ちにゆとりまでが生じているかも知れない。大画面テレビには危うい魔力がある。見ているうちに視聴覚がそこへ釘付けになってしまって、少し視線を逸らすのにも多大な意志の力を要する。何か感心させられるような内容を伴っているとは感じられないのだが、ただ画面を見入ってしまっているのだ。しかもそれは明日にも忘れてしまうような内容であることが多い。なぜそのような映像依存症ともいえる状態になってしまうのだろう。よくわからないが、このままでは何もしないでただいたずらに時間ばかりが経過してしまうので、この現状を打破するために、要するに何かをやらなければならないようだ。その何かとは何だろう。またもや堂々巡りの無限循環になるのか。何をやらなければならないかはわかっているつもりだ。以前もそんなことを述べていたようだ。もうすでにやっているのかも知れない。こうして空白に文字を刻むことが、その何かのうちのひとつなのだろう。だがそれに内容が伴っているだろうか。内容とは何なのか。例えば何か文明についての大げさな意見が含まれていれば、それで内容があるといえるだろうか。どうも話の進め方がおかしい。内容に具体性が乏しいのはいつものことだが、それ以前に、特定の対象を決められない状況になってしまう。言葉を要する必然性が感じられない対象ばかりに自分は囲まれて生きているらしい。とりあえず今回は白い富士山について、雪化粧という通俗的な言い方をいかに拒否するかをあれこれ思案しているうちに、まったくそれとは関係のない方向へ逸脱してしまった。どうしてこうなってしまうのだろう。自分にそれがわかるはずもないだろう。


11月12日

 犯罪ネットワークは特定の大地を必要としない。何かをやる度ごとに過渡的で移動可能な拠点を確保できれば、ネットワーク上にそれぞれの役割に応じた結節点を構築できる。愚か者は見つからないものを探し出そうとしている。相対主義者は見つけられるものから探し出そうとするだろう。誰が何を探し出そうとしているのかは明白だ。朝夕のテレビニュースでも見れば、いやというほどそれに関する実況映像を見せつけられるだろう。大地を巡る争いごとは古い慣習に基づいている。未来は主人公なき世界となるだろう。それは物語ではなく、主語のない自由詩によって語られる。その内容はどこまでもあやふやなままだ。ところで、正義の決まり文句を発していた勇者は今どこで何をしているのか。なぜ決定的な断言が立ち現れないのだろう。誰もがその手の情報については疑心暗鬼になっているということなのか。たぶんいつかは勝利を収めるだろう。それが物量作戦の必然だ。多大な浪費に比例してそれ相応の勝利が約束されている。何らかの区切りがついた時点で勝利宣言をすれば、それがその時点での一応の勝利と見なされる。あとはメディアを総動員して、自分たちの側の勝利を全世界に向かって印象づければそれで一件落着だ。とりあえずそれで収まりがつくのならそれでもかまわないだろうか。そんな形の決着に不平不満のある者は、物陰に隠れてこっそり陰口でも叩くぐらいしか、不満のはけ口は用意されていないのだろう。これから体験する未来とはそんなものになってしまうのだろうか。まったくひどい話だが、倫理なき社会にはそんなやり方がお似合いなのだろう。


11月11日

 国家に従属した人々は、将来に禍根を残すような行為を今やろうとしている。何を見つけようとしているのかすら忘れてしまったらしい。このままでは何も見つからないだろう。たぶん、大きな勘違いをしているのだろう。彼らはある人物を捜しているのではなく、本当は追憶の日々を思い出しているのだ。人々は未来において、過去の追憶に浸り続けるだろう。栄光の一瞬だけが思い出のすべてになるかもしれない。すでにそんな未来が実現しかかっている。今すべてのメディアで幅を利かせているのは昔話の反復と循環でしかない。機能的にそれしかできないのだ。既成の価値しか受けつけないのは今に始まったことではないが、未来への可能性が皆無なのも今に始まったことではないのかも知れない。すで確立されたフォーマットの継承者を、未知の可能性を秘めた救世主のごときはやし立てるのは見苦しい限りだ。その一方で過去に存在した偉人の墓石を積み重ねながら死の神殿を築き上げようとしている。結局のところ彼らが守っているのは、彼ら自身の内面にへばり付いた等身大のみすぼらしい自尊心だけかも知れない。互いに共有されているのは愚かな嫉妬心以外にあり得ない。まずは他人の行いを馬鹿にすること、それだけで生きているような人々だ。


11月10日

 すでに未来への遺産は過去の映像になってしまった。自分は何を見誤っているのだろうか。内面に宿る不死鳥の幻影は伝説の火の鳥とはどう違うのだろうか。平面上の絵空事とは決定的に違う。だが、それでも極彩色の曼陀羅に内在する小宇宙にはまだ到達していない。それはかなり不自然な展開になっている。そんなぎこちない表現では、こけおどし程度の効果しか発揮されないだろう。ここは釣り合いを取るために、ありきたりなことを述べるとしよう。街で偶然に見かけた風景には感動できなかった。苔むした庭園はカレンダーの表面に印刷されている。灯りを消してブラインドの隙間から夜景を見つめる。ここは何階だろうか。作り話の中では13階が存在するらしい。階段の手摺りには複雑なレリーフが刻まれている。退屈な情景描写は会話を示す括弧とともにいつしか憩いの空白を形成するだろう。やはりそこには何も存在しないようだ。それでもまだ無の境地にはほど遠いだろうが、言葉は文字に取り憑いてそれ以外に何もない空洞を形成するほかあり得ない。もはや述べていることはまったくの意味不明だが、たぶん、これもひとつの挑発には変わりない。いったい粗雑な表現で誰を挑発しているつもりなのか。


11月9日

 どこかの誰かは見えない敵と戦うだろう。べつに何と戦っているわけでもないが、この一進一退はいつまで続くのだろう。幻影の敵はいつまで経っても幻影のままかも知れない。その実体は何もない。期待されているような劇的な展開にはなりそうもない。しかしどこの誰が何を期待しているのだろう。べつにこれからどこへ行くわけでもなく、どこへも行かずにどこかへ行こうとしているようだ。つまり、いつもの堂々巡りなのか。いつ何かがやってくるわけでもなく、誰も何もやってこない。たぶんいつまで経っても平和はやって来ないだろう。ところで、どのような状態が平和といえるのだろう。案外戦争状態が平和状態なのかのかも知れない。冗談ではなく、望んでいたのはそんな状況だったのか。それでも状況は変わらない。それらの戦いには敗れるべきなのか。架空の話ではどうしようもない。だが何が架空なのかよくわからない。話の内容はどこかへ消え失せる。いつの間にか具体的なことを何も述べられなくなる。戯れに何を語っているつもりなのか。


11月8日

 何を考えているのかはっきりしない。あやふやな知識では何も知り得ない。膠着状態とはどのような状態なのだろう。小康状態とはどう違うのか。どちらの状態もわかりづらい。ここに見あたらないものは、いつまで経ってもどこにも見あたらないだろう。否定の連続だ。肯定できる要素が何もない。肯定したくてもできないらしい。否定的な見解は安易な逃げ道を作り出す。安易なやり方では不満が残る。逃げ道へは逃げようがない。そこで行き止まりなのかも知れない。それでもいつか何かが導き出されるのだろうか。がらくたの中からダイヤモンドを探し出す気はない。いつまで経ってもがらくたはがらくたのままなのか。しかし何ががらくたなのかよくわからない。この暗闇はいつか終わりを告げるのだろうか。だがこれが暗闇ならいつまでも暗闇だろう。夜は暗いままでかまわない。朝になったら明るくなるだろう。蛍光灯には昼にも夜にも縁がない。スイッチを入れれば光がともる。それで夜が昼に変わるわけでもないが、深夜の光は生活のリズムを狂わせる。


11月7日

 続けるためのきっかけが何もない。それはポーズなのか。その暗い相貌にさらなる陰りが差す。現実をまったく見いだせない。それで悩んでいるのだろうか。誰が苦悩しているわけでもないが、誰もが苦悩するのかも知れない。無理を押し通せば、将来必ず歪みが生じるだろう。だが、歪みのない状況はあり得ない。しかしそれのどこが歪んでいるのだろう。言葉を重ねるうちに何で悩んでいるのかよくわからなくなる。その苦悩は幻影だったのか。それともいつか見せかけの苦悩で本気になったりするわけか。闇は闇でしかない。その闇に向かって吠えているのは犬以外の誰なのか。誰でもない、それはただの犬だろう。闇の中では言葉が繋がらない。突然の転換は吠える犬を必要としている。それは無意味な偶然だろう。偶然のきっかけばかりを追い求め、さらなる怠惰を引き起こす。喧騒のただ中に憩いの場所を探し求め、それが蜃気楼に過ぎないことを知る。見いだされるのは意味の宿らない言葉の断片でしかないらしい。どうやら意識が内容を拒否しているようだ。


11月6日

 真夜中に絨毯の上で記憶が途絶える。数時間の空白の後、背中の痛みで目が覚める。昨日は何をやっていたのだろう。つま先が軽く痺れて、蛍光灯の光がやけに眩しい。外灯の記憶は数時間前の出来事だ。それは一瞬の眩暈だった。紋切り型の表現とはこうやって導き出されるのか。雨上がりの夜明けからしばらく沈黙が続く。暗い朝だ。外の暗さに少し動揺する。今日はどこで何を探していたのか、真昼の記憶が見あたらない。探していたのはいつもの風景だ。夕方に乾いた風が吹く。木枯らしはのどの渇きをもたらすのか。遠くの空にそびえ立つ入道雲を眺めていたのはいつのことだろう。たぶん今はもう冬なのかも知れない。来年の春にはどうにかなっているのかも知れない。何がどうなっているかは今はわからないが、たぶん何かがどうにかなっていることだろう。状況は絶えず移り変わる。そのとき自分はまだ生きているだろうか。未来のことはわからない。何らかの予想は可能だろうが、その予想にあまり明確な根拠はない。道端に落ちている枯れ枝の未来を誰も知ることはないだろう。末路とは未来の出来事ではなく、すでに起こってしまった誰かの身の上話なのだろう。さっきから何も語っていない。言葉は容易に出てくるのだが、それが筋の通った物語にならないだけだ。根拠のない予想は明らかにできないということらしい。だからひたすら沈黙を守っているわけなのか。語りの再開はしばらく待たねばならないようだ。しかしこれのどこが沈黙なのだろうか。何を持って沈黙と定義しているのか判然としない。確かに何も述べていないような気になる。だが、何も言わずに言葉を記述する、そんな沈黙があり得るだろうか。今は黙って何を示しているのだろう。何も示されないし、何も語られることはないだろう。


11月5日

 寝ている暇がないようだが、睡眠時間は削りたくても削れない。歩いていると眠気で自然と前屈みになってくる。肉体が空気の重みに耐えきれないらしい。そんなことがあり得るだろうか。それは嘘かも知れない。だいぶ表現が誇張されている。感情と何かが混ざり合い、昨日と今日の区別がつかない。昨日は夕暮れ時に何を思い出していたのだろう。何か思い違いや勘違いとは違う感覚に支配されているようだ。何かが足りない。それは昨日の出来事だった。南へ向かうにつれて雨足が強くなる。なぜか夜の雨は生暖かい。偶然の気晴らしは四年前の気分転換から続いている。季節が移り変わるように、自分にも何らかの感情の起伏があるらしい。躁鬱とまではいかないが、何らかの上り下りを経験しているらしい。いつか気持ちも晴れるだろう。今は雨の中を傘も差さずにひたすら歩く。ついさっきまでは群衆に囲まれながら無言の時を過ごしていたはずだ。ただ人々の息づかいだけが辺りに漂い、まったく意味に結びつくような言葉を失っているが、閉めきった車内には自然と湿気が増してくる。皮膚呼吸ばかりに依存しているらしい。長い沈黙の後に久しぶりに繰り出される言葉は何だろう。何かしら思いつくが、内容を伴わない。どこまでが本気なのだろうか。こだまはやまびことは限らない。それは別々の名称であったりする。新幹線の呼び名の場合もあるだろう。どうやらあまり乗り気ではないらしい。さっきからやる気が朽ち果てている。何を語っているのだろう。それはいったいいつのことなんだろう。道にもたまには行き止まりがある。


11月4日

 勝負に出るとはどういうことなのか。才能があったりなかったりすることを他人はどうやって知るのだろうか。自分のやりたいことについて、才能がないと知ってそれを断念したりする人がいるだろうか。なぜそんな場所で停滞しているのだろう。映画はそれを見る者に対して何を呼びかけているのだろう。ありきたりな社会通念に従わせようとしているのかも知れない。人は誰でも自らの成功を目指して勝負に出なければならない。確かに映画の中ではそのような勝負の時が到来する。またテレビのオーディション番組などでも同様の機会が訪れる。しかしそこで決断を迫られているのは誰なのだろう。それを見ている者には何もできない。一方、画面上やスクリーン上に登場する人々にも何もできない。事前に決められた形式に基づいて行動することしかできない。せいぜいがコントローラーの表面に付いているボタンを押してゲームに参加することぐらいだ。勝負に打って出いるつもりの肉体は、ゲームコントローラーの延長に過ぎない。決断を下す前にそんなゲームの前提条件に絡め取られているのだ。そこでは誰も勝負に出るか出ないかの決断を迫られてはいないだろう。ただ何もしないうちに時に追い越され、老いてゆくばかりだ。実際に誰が老いているのかは定かでないが、誰でもなく、すべての人が老いてゆく宿命にあるだろう。死への可能性はすべての生を覆っている。たぶん今は、勝負に打って出る時ではなく、静かに睡眠する時かも知れない。勝負は他人がやるものだ。その無惨な結果は画面上や紙面上に示されている。勝負をする度にその肉体と精神に老いが刻まれる。そうやって刻まれた心と体の皺の数だけ人々は死に近づくわけか。それは今メディア全体を覆っている人生メロドラマの本質かも知れない。人々にはそれぞれの生に見合ったメロドラマがあてがわれ、どこからともなく聞こえてくる伴奏に踊らされながらその時々で勝負に打って出るわけだ。しかし誰が伴奏しているのだろう。いったい何をやるべきかをどこの誰が決めているのだろう。実際は誰も伴奏していないし、何も決められていない。踊り出すために伴奏を望んでいる人々が、メディアから繰り出される大量の情報を、自分が生きていくための伴奏だと勝手に思い込んでいるだけなのかも知れない。現代は誰もがそういった伴奏なしでは生きられない時代になっているのだろうか。だが傍観者に伴奏は不必要だ。踊らされているのは、画面上や紙面上に登場する人々であって、踊りもせずにそれをただ眺めているだけの人々には、伴奏は必要ないだろう。案外メロドラマの登場人物は少数派かも知れない。大多数の人々はそこで繰り広げられている、伴奏に踊らされながら絶えず勝負に出て無惨な結果をもたらすそれらのメロドラマを、単なる息抜きの娯楽として余裕の笑みを浮かべながら見下しているだけなのかも知れない。そんなものはすぐに忘れ去られて当然なのかも知れない。それは一度に大量に流通し、消費される商品の宿命なのか。


11月3日

 雲が雨を呼び、雨が風を呼ぶ。同時に聞こえてくるのは風と雨の音だ。簡単な動作は二番煎じになるだろう。しばらくして、雲間から陽の光が差し込む。神の気配は空に満ちあふれている。空の雄大な眺めから神が導き出される。嘘とはこういうことなのか。他にどういう嘘があるのだろう。様々な嘘はあるだろうが、しかしなぜ今ここでことさら嘘をつくのか。神を求めているのは誰なのだろうか。神を求めているのは神自身なのか。では神は誰なのか。誰でもない、例えば晴れた日に公園でゲートボールを楽しむ老人達が神かも知れない。あるいは動物園の猿山の猿たちが神である場合もあるだろう。時として世界の一部分が神として顕在化する。神が細部に宿ったりすることもあるのだろう。だがそんな神はまやかしだ。だが、まやかしでない神を未だ知らない。それを信じる者を正当化しない神は存在しない。人々に必要とされない神は忘れ去られる。神を必要としない者は神を信じる者から蔑められる。人々は絶えず神に不寛容を求め続ける。場合によっては、他の宗派を攻撃するために神は存在している。そんなまやかしの水準にとどまっている限り、神を信じながら冒とくしていることに変わりはない。今までそんなまやかしが神々の歴史を構成してきた。


11月2日

 まだどこまでも続くのか。果てしない道に呆然とする。憩いのオアシスはどこにあるのだろう。いつまでも過去を思い出しているばかりで、一向に未来への道筋が見えてこない。急カーブの先にしばらくは小休止が続いているらしい。持久力には縁がない。やりかけたことはやりかけたまま、埃が降り積もる。濁流に押し流されたわけでもないが、元いた場所へ戻れない。砂上の足跡はすぐに消え去り、次から次へと前進を促される。そこで何を催促されているのだろう。常に時間と共に生きなければならない。過去を振り返る暇もなく過去を思い出し、理由もわからぬままにひたすら不必要な苦痛を呼び込んでいるようだ。痕跡は痛みの抜け殻になり、後味の悪い結末が待ちかまえている。余韻とはどういうことなのか。空蝉は夏の名残になるだろうか。秋の余韻に浸る間もなく冬になるだろう。楓の葉は北米大陸に降り積もる。誰がそれを払い除けられるだろう。世界に不幸の種を振りまいている。野に咲く花は背高泡立草だ。自由にも限度がある。だが、限度のある自由では満足できない。行く手を阻む不自由に打ちのめされる。ついでに阻む者にも打ちのめされる。白けた空気には我慢ができない。その場の空気には二酸化炭素が充満している。急激な気圧の変化にはついて行けない。耳の中が痒い。ピアノの音には耐えられない。雰囲気は最悪に近づいているようだ。作り話の断片とは相容れない頑固な意志の存在を感じる。身をまかせているのはソファーでも肘掛け椅子でもなく、鉄筋コンクリートの壁で囲まれた空間だ。閉塞感に耐えられず、どこか遠くへ逃げてしまいたい衝動に駆られながらも、そうした逃避願望に支配された自己をねじ伏せ、かろうじてその場にとどまり続ける。たぶんそんな話が即興で捏造されているのだろう。とどまることなどできはしないが、逃げおおせる自信もない。そこへとどまってどうなるものでもないが、逃げ続けてどうなるものでもないだろう。結局何も決まらないのだ。超えられない限界もないが、超えられる限界もないだろう。何の基準も設定できぬまま、ただどこまでも道が続いている。


11月1日

 月が変わったがあまり寒くはないようだ。寒さの本番はこれからなのだろう。もっともこの地域での寒さはたかが知れている。それは生ぬるい寒さとでも表現されるだろうか。おかしな言い回しになる。世界旅行は水平線の彼方へ沈むだろう。なぜ人は旅に出るのだろう。他人は旅をするかも知れないが、旅人は地平線の彼方へ消えゆくだろう。その消えゆく旅人は何を言いたいのだろう。遊牧民には定住する場所がないのか。夢遊病患者には落ち着いて食事する病棟がないのだろうか。旅回りの楽団は場末の映画館で何を演奏できるだろうか。どさ回りのサーカスには興行するための空き地や公園が必要だろう。なぜ狂人の心には火の言葉が宿るのだろう。出鱈目な夢想が終わりを告げることはない。歯車が狂っているわけではない。設計は完璧だし、極めて精巧な作りになっている。レンタルビデオで時計仕掛けのオレンジでも見てみればいい。クオーツ時計に生じる誤差は無視できるような誤差ではないらしい。近頃は、正確な時刻情報を発信する電波送信所からの電波を受信して、絶えず時刻を補正している電波時計というものがある。自分は一度も見たことがないのでその映画の内容を知らない。景品でもらった電波時計なら今ここにある。いったい何を語っているつもりなのか。何も語らないつもりが、いつの間にか嘘と真実を交互に語っている。それでもどこかで歯車が狂っているはずはないだろう。偶然の適用は無限の組み合わせを生じさせる。だがそこで何と何が組み合わさるのだろう。例えば、夢を追い求め続けることをごり押しすると、どのような事態を招くのだろう。たぶんいつか話題になるだろう。そして、良心的なメディアに取り上げられて、すぐに忘れ去られるつかの間のエピソードと化すわけか。それで満足できるだろうか。何かを目指すとはそういうことなのか。金色のメダルがそんなに欲しいのか。休み休みに馬鹿話を繰り広げると有名人になれるだろうか。嘘の吹き溜まりは本屋の文庫本コーナーに憑依している。実際に犯人を追いかけているのは逃亡者の方なのか。そこから逃げ出すことはできない。千切れた腕時計には犯行時刻が刻まれていたりする。そんな話をいったいどこから仕入れてきたのだろう。 人々はディズニーのファンタジアでも見れば納得するのだろう、今まで見てきたアニメーションがいかに貧相だったかを。だが、今さらそんなこけおどしには興味を持てない。映像による特殊効果だけでは満足できないのだ。では他に何を求めているのか。劇場や居間で見聞きするような静的な体験も、旅での動的な体験も、なぜか空疎に感じられてしまう。他にやることがないのだろうか。やるべきことはいくらでもあるかも知れない。ただそれをやろうとやるまいと不満は残るだろう。


10月31日

 どこかで誰かがささやく。そんなおとぎ話のようなことはあり得ない。そこに差し挟まれた挿話は退屈きわまりない内容だった。気晴らしに風の歌を聴いてみよう。無風状態の中でその帆船は碇を降ろす。誰もいない海の上にカモメを見かけるらしい。子供達の歌声はどこまで響くのだろう。あれらは、時が過ぎ去ればいつか消えゆくつかの間の響きだ。今は何も聞こえてこない。海鳥の鳴き声は港町のゴミ捨て場から聞こえてくる。内陸地方ではカラスが幅を利かせている。鷲は田舎者なのか。山奥では月の輪熊が絶滅の危機に瀕しているらしい。熊の肉は狂牛病とは関係ないので、金銭感覚の麻痺した人なら食べることは可能かも知れない。うずらの卵は強烈な糞尿の臭いと伴に生産されている。無方向で乱雑なそれぞれの知識には何の関連も見あたらない。ここに提示されているすべては互いに無関係なのだろう。何も交差せずにただ言葉が並置されるだけだ。苦し紛れに吐き出される内容物には酸臭が漂う。それを受け流しながら話を先に進めよう。だが、先には進まないだろう。進めようとすれば後退し、当初の方針を無理に貫こうとすれば、自ずから脱線する。結局はそんなことの繰り返ししかあり得ない。まったく思い通りにはいかないものなのだが、それでもかまわない。はじめからあきらめている。あきらめていながら、一方では、偶然の到来を待ちわびているようだ。いったい自分は何を考えているのか、その意図をまったく読みとれない。過去の自分は何を考え、それを未来の自分はどう評価しようとするのだろうか。たぶん今の自分は過去の自分とも未来の自分とも関われないだろう。過去現在未来と続く自己の一貫性を信じられないでいるらしい。それは自己が自己に向かって語りかける虚構の物語上での一貫性なのだ。その中では時の流れも首尾一貫した虚構でしかないだろう。現実の時間に連続性はなく、意識の中でそれらは途切れ途切れの記憶に分散して存在する。


10月30日

 悪い夢でも見たのだろうか、真夜中に冷や汗とともに目を覚ます。今は夏ではない。季節はずれの寝汗なのか。なぜかこのところ怠惰とともに気がゆるんで、心身共に弛緩しきっているようだ。緊張が持続しないのはいつものことで、まるで集中力を欠いているのも今に始まったことではないだろう。それがなぜそうなのかはわかっているつもりだ。疲れているのだろう。時には風邪気味であったり胃腸の具合が悪かったりしているが、それらはすべて気のせいかも知れない。何でそうなるのかは無意識のうちにわからない振りをしているだけかも知れない。要するに退屈を紛らすために勝手に体調が悪くなるのだろう。だが退屈なのも気のせいかも知れない。現実にはかなり忙しいのだろう。たぶんこれは気のせいではないようだ。こんなことをやっている場合ではない。だが、現実にはこんなことをやっている場合なのだ。すでに煩雑な仕事を片づけて、本来ならばくつろぎのひとときを過ごしている時間帯だろう。つまりとりたてて忙しくはないが、やはりこんなことをやっている場合ではないらしい。だが、これ以外はできないらしい。これでもくつろいでいることには変わりがないかも知れない。自分にとってのくつろぎのひとときとは今なのだろうか。しかしこれでくつろいでいることになるのだろうか。わからない、くつろぎという言葉がどのような状態を指す言葉なのか判然としない。少なくとも現状では、安眠からはほど遠い状態らしい。これからも眠れぬ夜が連続してしまうのだろうか。何を悩んでいるわけでもないのに、なぜか眠りたい時間に眠れない。べつに心と体が引き裂かれているわけでもないのだろうが、周りの状況が心安らかに眠らせてくれないようだ。いつも忙しなく明日がやってきて、何もやる気もしないのに、うんざりするような仕事をこなさなくてはならない。そんな毎日の連続で人々は老いてゆくのだろうか。


10月29日

 気まぐれに嘘をついてみる。たまには時流に流される。ところで時流とは何だろう。感覚が麻痺しているようだ。何の感覚か知らないが、時の流れは今どこへ向かっているのだろうか。自分にはわからない。それに関しては何も思い浮かばない。気休めの思考はつまらない。天下国家について論じるのは、国会議員とその取り巻きだけでたくさんなのだろうか。過去において日本社会がどうであったのか、また今現在がどうなっているのか、そして未来へ向かってどう変わってゆくのか、例えばこの程度のことに関して、何か気の利いたことを述べられるだろうか。自分にはできない。そんなことを述べる気も起こらない。自分には、この日本と呼ばれるまとまった地域について何も述べる気が起こらない。以前は知ったかぶりなことを語っていたようだったが、今に至ってそれができなくなった。評論家気取りで粗雑なことを述べていた過去の自分が理解できない。これからはさらに粗雑なことしか述べられないだろう。嘘を承知で次のような馬鹿げた疑問が導き出される。日本とは何だろう。少なくともそれはひとつの行政区分であることは確かだ。そしてどこかの誰かがこうも訴えているかも知れない。日本と呼ばれる行政区域の公共機構が機能不全に陥っている。こんな内容の言説はいつもどこかで流布されていることだろう。だが、それについては大丈夫だ。今現在、総理大臣の小泉氏を中心とした亡国の有志の方々が、日本国の破滅に向けて努力している最中であり、それを大多数の国民も支持しているようだから、反国家主義者の自分がことさら何かやる必要はないだろう。構造改革とは国家機構を解体し、新たに再編成することだ。新たに再編成されたものが国家になるとは限らない。改革論者の思惑通りに事が運ぶはずがない。しかしそれがどうなるかは自分にもわからないことだ。仮に思惑通りに事が運んで、日本国が再生されてもいいような気もしてくる。自分にとってはどちらでもいいことなのかも知れない。この国がこの先どうなろうと自分はほとんど影響を受けないような気がする。もし構造改革が成功でもしたら、少数派の反体制派マスコミのみなさんが悔しがるだけだろう。たぶん自分は少数派でも多数派でもない。そのどちらからも無視された空気のような存在でしかあり得ないだろう。ようするに派閥外の人間なのであり、単なる一般市民なのだろう。自分のような一般市民にとっては、それらはあまり関心が湧かない。例えば不況で苦しんでいる人々の中には、国が何とかしてほしいと切実に願っている人もいるかも知れないが、国が何とかできないからこのような状態なのだから、それは土台無理な願いだろう。何とかできるようならとっくに何とかしているはずだ。少なくとも、何とかしようと努力はしているのだろうし、これからも努力はしていくだろうが、とりあえず現状がこんな具合であることは確かだ。この現実はなんともしようがないだろう。たぶんこれでいいのだ。努力しようとする姿勢は評価しよう。本音としてはどうでもいいことなのだが、反体制派的言説には食傷気味なので、ここは亡国の徒の小泉氏を評価しておこう(笑)。


10月28日

 明け方に曇り空を眺める。雨が近いようだ。確か天気予報はそんな内容だった。午前中には雨が降り出した。そして今は止んでいる。星空が屋根の上に広がっていることだろう。こうして一日が徒労に費やされる。やる気がしないのに働くのは辛いことだ。それとは関係ないが、老人は死に際にどんな夢を見るのだろう。事故死した若者には将来どんな可能性があったのだろうか。思いつくのはそんなことばかりなのか。なぜ人々は暇つぶしの話題に事欠かないのだろう。屋根を叩く雨音が星空が幻想だったことを告げる。そのとき自分はどのような表情を浮かべているのだろう。将棋漫画と同じように囲碁漫画もテニス漫画もアニメを見る限り子供だましだった。感情的なライバルと高笑い野郎の出現が大人の見るものではないことを悟らせる。そんな型にはまったキャラクターが子供達に現実を見失わせるのだろう。今大ヒットしているアニメ映画は人々にどのような現実を見失わせているのだろう。死に際に夢を見る老人や事故死した若者の将来について、討論でもしてみたらおもしろいだろうか。いったい誰と誰が討論するのだろう。互いに向き合って語り合う場面を画面上で見かける。彼らはいったい誰に向かって語りかけているのだろう。そこにはいもしない虚構の聴衆が想定されているのかも知れない。やはり思いつくのはそんなことばかりなのか。また雨足が強くなる。明け方にはこの雨も止んでいるだろう。もう明日になってしまった。


10月27日

 何もやる必然性はないので、いつものように何もしない。これはどうしたことだろう。無意味な言葉はさらに分散し続け、やはり結局何のまとまりも生じないだろう。それでも無駄に時間を費やして、無意識のうちにも何かを出現させようとはしているらしい。たぶん、いったい何を訴えたいのかわからないが、いつか偶然に出現するかも知れない未知の主張を夢想でもしているのだろう。無の思想とは、思想なき空っぽの思想のことだろうか。それでも何らかの思想を装っていることにでもなるのだろうか。何もやる気はしないのだが、何となく言葉を積み重ねる。やっていることはただそれだけなのだ。それはやはり無駄で無意味なことなのだろうか。少なくとも積極的にはなれないことは確かだ。こうしているうちにも、この世界の変化に伴って、時間が経過し続けている。自分にとっては無意味で無駄な時間だ。そう感じることしかできないらしい。そんな認識によって怠けていることが可能となるようだ。もはや突然の転調などを期待したりはしない。このままでも大して不都合を感じないだろう。それは昔の台詞だった。あれからどれくらい月日が経ったのか。そこで何をやろうとしていたのか、また、ここで何をやろうとしているのか、確かに何かをやっているようだし、何らかの結果や成果もわずかながら感じ取ることはできるだろう。だが、積極的に何かを求めているわけではないので、結果などにこだわれない。やはりどうでもいいことなのか。そうかといって厭世的な気分にもなれないが、怖ろしく間抜けな状況に思われる。ほとんど世の中は馬鹿げたもので充満しているように思われるのだが、一方で、これが当然なのであり、これ以外にあり得ないとさえ思われる。たぶんこれと違う状況になることは不可能なのだろう。意味不明なギャグや冗談の圧倒的な洪水の合間に、時たまニュースキャスターの真面目な顔が映し出される。これが世界のすべてなのだろう。雲の切れ間などどこにもない。あるのは悪ふざけの連発だけだ。こんな状況で本気になってはまずいし、本気などという言葉は冗談の一種に過ぎないだろう。本気になったら笑われるだけかも知れない。つまり本気は本気ではないのだ。もちろん冗談もギャグも本気ではない。やる気がしないのも、単にやる気がしないだけではなく、やる気があるのは気の触れた人だけであるのを際立たせるために、ほとんどの人はやる気がしていないように見えるのかも知れない。たぶん見当違いなことを述べているのかも知れないが、やはり自分にはそう思われる。なぜそうなのだろうか。おそらく今の時代にやる気があるのはテロリストぐらいなものだろう。


10月26日

 いつもの画面は時間感覚が欠如している。真っ暗なまま眠っている間に二日が経過してしまう。意識はその間どこで何をしていたのだろうか。だがそれでも無意識に身体は勝手に動作し続ける。それが日常のすべてなのか。たぶん意識は日常とは別の場所を必要としているのかも知れないが、あいにくこの大地から離れて存在することはできないだろう。このどうしようもない現実に束縛されながらこれらの意識は実在しているらしい。現実に生じている矛盾の是正を放棄した制度は下らぬもののように思われるが、それでも制度の維持に躍起になっている人々の意識もこの世界に実在している。自由と民主主義を維持するために、不自由と国家主義を強化しているそれらの人々は、要するに理想を捨てて現実主義に傾きつつあるようだ。今やテロによって自由と民主主義を保証している国家そのものの土台や基盤が揺らぎ、脅かされているという認識を共有しているのだから、この際、少々の不自由は覚悟して国家の構成員としての義務を果たしてもらわなければならない。具体的な内容は不明確だが、ただ漠然とそんな雰囲気の蔓延を期待しているようだ。それは妄想の一種だろう。現実にそんなイメージが流通しているのは画面上や紙面上の一部でしかない。それはあながち誤りではないのかも知れないが、現実には、それ以外のまったく無関係な要素が大多数の人々の意識を覆っているようだ。すでに多くの人々は、国家を通して発せられるプロパガンダにはあまり反応しなくなってきているような気がする。制度として押しつけられている自由と民主主義にも、積極的に興味を示すような人はまれなのかも知れない。画面上ではお笑い番組と選挙速報が同列に扱われている。もちろん一方は特別番組なのだが、それを見ている側からすれば、どちらも同じ画面上での出来事には変わりがない。それらのどこにも個人の自由意志が反映されているとは思われない。ただ一方的に画面のあちら側によって放映されているだけなのであり、マスメディアが世論調査でまとめ上げた多数意見をそれなりに反映した結果が画面や紙面を通じて示されているだけなのだ。どうも個人としてはそんなあやふやなものに従う気にはなれないのだろう。では人々はいったい何に従って生きているのだろうか。何か積極的に従うような主義や思想が流行していたりするのだろうか。自分にはわからない。そんなものが昔の共産主義のように流行したりはしないだろう。他人のことは知らないが、とりあえず自分はただ漠然と生きているだけだろう。もしかしたら今世界で自分たちの思想信条に基づいて本気になって怒っているのは、真面目なイスラム教徒ぐらいなものかも知れない。それとは無関係な自分は、すべてにおいて本気になれない。ひょっとして、アメリカという国家とそこに暮らしているアメリカ人と呼ばれる人々は、世界最強の大馬鹿の集まりなような気がするだけである。もちろん本気で述べているわけではないのだが、ただ漠然とそんな気がする。大馬鹿だからこそ、あんなことを平然とやれるのだろう。何の感情も抜きに、単純にそう思うだけである。


10月25日

 嘘がバレても困らないように、簡単な言い訳をいつも用意しておいた方がいい。熱き血潮は死語と化す。途中で話の辻褄が合わなくなる。それとは関係のないことだが、酒に酔ってばかりの毎日とは縁がない。ただ闇雲に努力することもできない。しかし、そうかといって何もやらないわけでもないらしい。結局は何かしらやろうとしているし、現実に何かをやる毎日になっているようだ。これはどういうことなのか。言葉の上での逡巡は内容を何も伴わないが、退屈な日々をやり過ごす口実にはなるだろう。何かをやっているように装うことで、現実に生じている怠惰をごまかしているのだ。しかしそれでごまかしているつもりなのか。つもりであって、実際は怠けているらしいのだが、それはごましているどころか、結局は言葉の無内容がそれをごまかせないことを暗黙のうちに物語ってしまうだろう。そんなわけで、何もやりようがないのに何かしらやらざるを得ない日々が繰り返されてしまうわけなのか。何も思わないのに、何かを思っている振りをするのは不誠実な態度だろうか。だがそれ以外にどうしろというのだろうか。好奇心に駆られ、アフガニスタンにまで出かけていくフリージャーナリストに良識があるかどうかは知らないが、それはどう見ても火事場の野次馬でしかないだろう。だがそういうスパイもどきの人々がいるからこそ、こうして画面上や紙面上で安全に戦争を見物できるわけなのか。たぶん炭疽菌をばらまいた人は、こういうお茶の間感覚で他人の不幸を見物できる人々の存在が許せないのかも知れない。


10月24日

 避けて通ろうとしても避けられない現実に直面している。その話題にはついて行けない。詩人がその生涯を閉じるとき、何を思うだろうか。予定調和の展開としては、死の幻影とともに後悔の念が呼び覚まされる。殺風景な部屋の片隅に綿埃が溜まっている。海底に堆積した地層の中からその化石は見つかるだろう。さっきから忙しなく何を探しているのだろう。崩れかけた煉瓦の塀を乗り越え、夢の中で見失った意識を探している。だいぶ前に踊り場で足を踏み外していた。汚れた大地は血まみれでなくとも夕焼けに赤く染まるだろう。大きな勘違いのただ中に夕日と月が同居している。それはあり得ない現実ではない。大地の裂け目は山岳地帯と隣り合わせだ。背骨の痛みに耐えながら階段を転げ落ち続けるようなわけのわからない状況を想像してみる。とってつけたような不自然な言葉の羅列は、何も語らずに不可思議な雰囲気を醸し出す。だがそれが不可思議に感じられるのは、勝手な思い込みでしかないのかも知れない。ここには自分の感覚以外はない。ここにあるのは詩人の言葉ではないらしい。だから霊感はどこからも到来しないだろう。まだ生涯を閉じるような状況ではないらしい。当たり前のことだが、不慮の死は突然に人々の日常生活を中断させる。それは永遠に再開されない中断なのだが、それで生涯を閉じることができなくなる。死は、生涯を閉じさせる余裕など与えないような迅速さで、ありもしない詩人の言葉を奪い去るだろう。


10月23日

 「文学メルマ!」と「環境gooメールニュース」の退会完了メールが来ていた。メールマガジンの解除・退会フォームにメールアドレスを入力しても、登録されていないと表示されていたのに、これはどういうことなのだろう。やはり文句は言ってみるものなのか。真相はよくわからないが、とりあえず悩みごとが少し減ってよかった。以前eグループというところのメールマガジンを解除しようとして、なかなか解除させてもらえず、発行元にメールのヘッダを送って、メールマガジンを配信しているサーバーを突き止めて、何とか解除にこぎつけたことがあったが、それより以前には、LInuxブームのときに入ったRed Hat Linux系のメーリングリストは解除フォームに入力してもまったく解除できず、困った人々がメーリングリストに文句を投稿すると、解除のやり方が間違っているのだと逆に非難されるようなこともあった。また自分は、わけのわからないメールが大量に送りつけられてきて、メールに記されている内容に従って、解除フォームにメールアドレスを入力すると、さらに大量のメールが送りつけられてくるような罠にはまって、メールアドレスの変更はできないとするプロバイダのドリームネットを退会する羽目に陥ったこともあった。いったい人の神経を逆なでするような行為によってどのような利益が発生するのだろうか。それを生み出す仕組みというやつを是非とも知りたいものだ。例えば何人にメールを配信すればいくらとかいう歩合制に基づいて、そのようなシステムは成り立っていたりするわけか。だとしたら、そんな迷惑メールの中で宣伝されている商品を買う気になる人などほとんどいないだろうから、そのメール配信業者に広告料を支払っている企業は、商品が売れないばかりか企業イメージも悪くなる一方で、まったくのぼったくりの詐欺行為に遭っていることになるだろう。たぶんそういう自らが食い物にされていることに気がつかない企業がある限り、そのような迷惑承知の広告メールの大量配信システムはなくならないだろう。もしかしたらこの世界的な不況の原因は、無から有を生じさせるような情報配信業者の利益が、商品の製造販売業者の利益を食いつぶしていることにあるかも知れない。商品の広告宣伝費は怖ろしく高い。例えば、かなりマイナーな部類に入るプロのアイスホッケーチームの中でも、最も経営が厳しいらしい日光アイスバックスのユニフォームに企業のロゴマーク縫いつけて、ホームのスケートリンクの側面の壁に商品の宣伝広告を出すのに五百万かかるそうだ。それがスポーツ振興のために損得勘定抜きで五百万出すのなら文句はないが、やはり金を出す側の責任者は何らかの宣伝効果を期待しているようだ。そういう下心を見透かされてわけのわからない悪質な業者に広告宣伝費をぼったくられでもしたら、そのような業者が配信する迷惑メール等で企業と消費者の双方が不利益を被ることになるという筋書きなのか。たぶん、世の中が不況でもそういった広告宣伝費の相場が下がらないようならば、広告業界に暗黙の価格カルテルでもあって、そこでの利益がその他の業種の利益を吸い上げていることで、結果として景気回復を阻害していることになるだろう。しかし本当にそうなのだろうか、その辺の実情はまったく知らない。なるほどたまにはもっともらしいことを述べることもできるようだが、それを述べている本人には内容そのものに信憑性を感じられない。たぶんあまり本気で述べているわけではないのだろう。


10月22日

 そこで身を焦がしているのは演技の一部として貼り付けられた意志だ。燃え上がる炎は画面上の幻影でしかない。今さら何をやろうとも何も見いだせはしないだろう。矛盾だらけの現実は真実からはほど遠いが、その真実が嘘であることを証しているのだろう。その嘘を本当であるように言いくるめる技術では解消できないほど、その真実は人々の現前に剥き出しになっている。苦痛を伴わない限り、誰も嘘以外のことを述べることはできない。誰も進んでそんな現状を変えようとは思わないだろう。他愛のない嘘を共有しながらその場を丸く収めれば、それでとりあえずは日常を切り抜けられるのだ。そうやって退屈な毎日をやり過ごしていれば、いつか終末の時が訪れるだろう。それはこの世の終わりなどではなく、例えばテレビドラマの最終回かも知れない。そうやって毎日どうということのない終末が到来し続ける。たぶん戦争の終わりもそれと同じようなものだろう。ある日テレビニュースや新聞でそれが告げられるだけだ。そしてまた、何事もなかったかのように退屈な毎日が続いて行く。そこに教訓などを求めるのは偽善以外の何ものでもないだろう。悲惨な戦争を二度と起こさない、という安易で無責任な決意こそが現状をやり過ごすための口実になっているのかも知れない。だが、それ以外に何があるというのか、何ができるのだろう。


10月21日

 虚構への情熱は沈静化しながら別の思考が分散する。何も考えていないということなのか。使命感に突き動かされているのは偽りの感情なのだろう。それは偽装に基づいている。振りをしているだけなのだ。何を見ようと心がふるえるようなことはない。不正と暴虐はこの世界の一部なのだ。それを当たり前のこととして受け止めること以外に何も始まらないだろう。制度が矛盾しているのは当然のことなのであり、その矛盾をいかに避けて通るか、そんなやり方ばかりが蔓延るのも仕方のないことだろう。自分勝手に目標を設定して、それに向かって努力している振りを装えば、矛盾を忘れることは容易にできるらしい。忙しなく何かをやっていることが、矛盾から背を向けている口実になる。リアルな現実を実感しようとわざとらしく汗をかいている。がんばるという言葉は、それから目を背けていることに対する言い訳なのであり、何も考えていないことへの免罪符にしかならない。煮えたぎるような怒りの矛先は永遠に定まらないだろう。そして現状を肯定するための言葉も到来しないだろう。何をどうしようと、最終的にこの世界にまかり通っているのは、相手を暴力で脅す行為でしかない。そのような理性と寛容に対する絶望感が人々をテロへと駆り立てる。強大な軍事力を有する国が、制度の存続と大衆の支持に基づいてそれを実行し続ける限り、暴力の連鎖は終わらない。もし暴力を実行している側からそれを終わらせようとするするならば、その者は自らの権力を、場合によってはイスラエルの元首相のように自らの命をも失うだろう。


10月20日

 痛みを伴うのはどんな状況になったときなのか。想像上の痛みが一人歩きしている。資本主義に未来はない。あるのは今だけだ。未来が永遠にやってこないのが資本主義が成立する上での大前提となるだろう。今すぐには債務を全額返済できないが、利子だけなら支払うことは可能だ。そんな状況が今を成り立たせている。利子を支払い続けることが資本主義的なサイクルの継続に繋がる。何もないところから利潤は生み出されないが、利子は何を元にして生み出されるのだろうか。利子の中身はよくわからない。時間の経過とともに定期的に支払わなければならないことは確かなのだが、利子を支払う分の利益を何らかの手段で常に確保しなければ破綻は目に見えている。右肩上がりの成長をし続けない限りそれは不可能に思われる。現状では、世界経済のこれ以上の拡大は無理なのではないだろうか。しかしそれでも成長への模索は止まらないだろう。その手の専門家達は、どんな些細なところからでも利潤を絞りそうとその探求に余念がない。その結果として能う限りの無駄を省き、できうる限りの効率化を実現させるような、まさにぎりぎりのところで切磋琢磨しなければ生きられないような社会になりつつあるのだろうか。そのような競技スポーツ的な進化の先に待っているのはどんな結末なのだろうか。自分はだいぶ前からそんな風潮に嫌気がさしている。競争にはついて行けない気がする。だが一方では、それが生物的な生存競争の本質であるようにも思われる。この世界で生きて行く限り、そのような競争は避けられないのだとしたら、競争に敗れて死んだ方がマシかも知れない。気軽にメールマガジンを申し込んだら解除できなくなっていた。「文学メルマ!」も「環境gooメールニュース」も解除できない。自分たちの利益のためなら手段を選ばない、そんな輩がこの世界を支配している。こんな状況の中で倫理を求めるのはまったくのお笑いぐさなのかも知れない。卑劣なテロは許さない、とか真顔で言っている人の気が知れない。


10月19日

 冗談はいつまでも冗談であり続けるだろう。空白は郷愁とは相容れない。平面は白紙のままだ。そこには無限の時も無限の土地も残されていない。閉塞空間には屍が積み重なる。自由になる時空はどこにも存在しないが、それでも自由を追い求めているのだろう。この期に及んで自由を求めるのは贅沢なのだろうか。たぶん実現不可能な自由を夢想している。何ものにも束縛されない自由と戯れたいのだろう。そうしたいが現実にはできないのはわかっている。自由を追い求めるのは自由だが、それが必ずしも自由に繋がるとは限らない。自由は永遠に実現されないだろう。自由を唱える者は嘘をついている。自由という牢獄につながれている。自由という文字は不自由だ。融通が利かない。たぶん自由より冗談の方が自由なのかも知れない。冗談には脱力感が伴う。冗談を言う度に力が抜けてくる。とどまることを知らない冗談は、今つまらぬ方向に凝り固まっている力を解放してくれるだろう。一時的なことかも知れないが、救いとはそんなものだろう。長続きしないからこそ救いになる。つまらぬ夢には軽薄な救いがふさわしい。つまらぬ冗談によって自尊心を打ち砕かれた傷心のアメリカに世界各国が歩み寄る。今こそ世界各国が力を合わせて卑劣なテロを根絶しなければならない。その通りだ、主張していることは極めて正しい。今後も国家が生き延びるためには、多少の犠牲は覚悟の上で、この試練をくぐり抜けていかなければならないのだろう。たぶんテロがなくなったときが、国家がこの地上から滅び去るときだ。真のグローバリゼーションは国家を必要としない。テロの目標が国家なら、国家をなくせば国家テロもテロ国家もなくなるだろう。冗談とはこういうことなのだ。実現不可能だが目指しているものはこのような冗談になる他ない。自爆テロも炭疽菌も冗談の一種には違いない。ブラックユーモアということか。


10月18日

 どのように生きようと、生きていることには変わりはない。またいつ死んでもどうなるものでもないし、死ぬときは死ぬときで、死んでしまうこともあるだろう。やはり生きることや死ぬことに積極的な意味や意義を見いだせない。それだけでは判断材料が不足しているのだろうか。例えば、生きているときはどう振る舞えばいいのか、何も思い浮かばない。ただ眼に飛び込んでくる情報を受け流しているだけかも知れない。どう振る舞うかまで行かずに、とりあえず安易な安らぎに包まれていたいらしい。ぬるま湯に浸かっているだけで、何もやる気がしないのだろう。そして課せられた仕事だけで手一杯で、他のことをやる余裕がない。情報とは何なのだろうか。情報を受け取ったからといって、その後何をどうすればいいのだろうか。何もやりようがない。それらは自分にはどうすることもできない情報なのだ。その地域では物が破壊され、人が殺されるだけなのだろう。つまり、荒涼とした大地に殺伐とした現実がある。ただそれだけでしかない。後は、そこから遠く離れた会議場では、偉そうな人々が政治ショーを繰り広げている。空調の利いた快適な室内から、合法的に破壊指令が発せられる。この世界ではこのように事態が進行するしかないのか。自分たちは痛みをできるだけ伴わないように配慮しながら、攻撃相手には最大限の痛みを押しつけてくる。実際に彼らがやっていることはそういうことでしかない。いかにそれを効率よく押し進めるかを、絶えず検討しているわけだ。やはりそういった手合いには、現実の痛みがどういうものなのかを、実際に死に直面した時の恐怖や絶望感を体験してもらわなければならないだろう。そういうことを知らしめるためにテロが存在するのかも知れない。もしそうだとするならば、神はそうやって富む者と貧しい者との間に釣り合いを取っているのだろうか。だが人々にとってその釣り合いは著しく不均衡に思われるだろう。どこが釣り合っているのか誰にもわからない。いったいどのような結果が望まれているのか、そんな期待を打ち砕くために、今ある現実が存在しているのだろうか。


10月17日

 何もかもが雑音に含まれる。雑音は耳障りだ。おおよそ心地のよい雑音はないだろう。雑音に包まれながら不快な時を過ごすのは堪らないだろうか。だからヘッドホンという道具がこの世に存在するのかも知れない。難聴の原因は、雑音に耐えられない精神の弱さに起因しているのだろうか。しかしそんなことはどうでもいいことなのか。自分の気に入った音楽に包まれながら世界の喧噪をやり過ごしていれば、確かに少しはストレス解消になるだろう。こんな世界なのだからたとえ難聴になっても仕方のないことかも知れない。雑音を意識できるだけでもまともな神経の持ち主である証拠かも知れない。心頭滅却して痩せ我慢を繰り返すよりは、いくらか健全なのだろう。いずれにしても、気休めには変わりがないだろう。それも長続きはしない。心変わりはすぐにやってくる。たまには雑音に耐えるのも気晴らしになるかも知れない。そんな気持ちと隣り合わせなのだろう。


10月16日

 意味がないことはすでに気がついている。何をどうしようと停滞には逆らえない。たまには突然歩みが止まるだろう。しかしここでは、たまにではなくいつも止まっているのかも知れない。状況は何も深化せず、ただ流れ去るだけなのだろうか。時の流れに身をまかせていると、何をするのもいやになる。すべてが怠惰を求めているのかも知れない。変わりたくなくなるのだ。そして自然は何も語らなくなる。それは意識が自然の一部と化した証かも知れない。考えることは自然に逆らうことだ。それはどだい無理なことなのだろう。普通は、何を考えようと考えないことよりはマシに思われるが、考えることは精神に無理を強いることでもあるらしい。それは疲れることだ。疲れるから安らぎを求め続け、それに浸り込んでそこからなかなか抜け出ることができなくなる。怠けているらしいが、誰が怠惰な自分を責められようか。誰でもなく自分が自分を責めているのだ。それは自己嫌悪の始まりなのか。鬱状態に陥るきっかけはこうして形作られるのだろう。


10月15日

 辺りは沈黙に支配されている。そこで何を感じているのでもない。夜はいつまでも夜だが、いつかは朝が来る。たぶんいつかは朝が来るだろう。だが、その朝がどのような朝なのかは知らない。それは夜に属する時間帯に到来するかも知れない。それはどういうことなのか。深夜に目が覚めると朝だった。意味不明な幻覚に陥るきっかけはいつでもどこにでもあるだろう。今この世界で何を見聞したいわけでもないが、否応なく無関心でいられないものを見聞きさせられるだろう。それでも無関心でいられるかとせき立てられる。興味や関心を持つように強いられる。誰が強いているのでもなく、自分が自分に強いているのかも知れない。それは自家中毒だろうか。とりあえず何かをやらねばならない。こうしてわけのわからない使命感に揺り動かされて、疲れることを述べ続ける羽目に陥っているらしい。何を述べても無駄なのだ。それはわかっているつもりだが、やはりその無駄なことを続けるしか能がなさそうだ。


10月14日

 今自由と民主主義はどのような脅威にさらされているのだろうか。例えば、アラブの湾岸諸国の中で欧米型の自由と民主主義が一番根付いている国はイランだろう。イランでは旧来の王制を倒したイスラム革命以後、曲がりなりにも議会選挙や大統領選挙が行われていて、依然としてイスラム教指導者に強力な発言権があるのは確かだが、現在では表向きは一応選挙で選ばれた議員や大統領を中心として政治が行われているようだ。しかしイランは、外交的には欧米と一線を画していて、あまり親密な関係にはない。それとは対照的に、イランやアメリカと戦争状態あるイラクを除いた他の湾岸諸国は、民主的な議会も選挙もなく、国内において自由と民主主義を認めないばかりか、王族やその取り巻きの既得権益を守るために、民主制を実現させる可能性の萌芽までもつみ取っているらしいのだが、にもかかわらず、サウジアラビアを筆頭とするそれらの反自由反民主主義的な王制や首長制の国々を、自由と民主主義の庇護者を標榜するアメリカは支援している。どうやら、アメリカにとっては、それらの地域の自由と民主主義の実現は、必ずしも最優先に推進すべき対象ではないようなのだ。そこには、その地域に埋蔵されている石油や天然ガスなどの地下資源を欧米や日本に安定供給するためには、それらの諸国に政情不安が起こっては困る、という経済的な事情があることは確かだが、こうした自由と民主主義を抑圧している親米的な湾岸諸国が、欧米や日本の自由と民主主義を経済的に支えているのだとしたら、これほど矛盾した話はないだろう。これはまさに古代のギリシア市民の直接民主制が、それに加わることのできない女性や奴隷によって支えられていたのと似てなくもない。このような第三世界からの搾取によって成り立っている繁栄は、やはり搾取されている側からのテロの脅威にさらさられる他ないのだろうか。こうした観点から、自分は今回のアメリカが仕掛けた世界的なテロ撲滅キャンペーンには賛同できない。もっとも個人の意思表示などは何の影響力もないだろうが。


10月13日

 記憶は絶えず過去へと遡り、抜けかけた気力は未だに抜け続ける。まだそれをやる気力が残っているだろうか。それが何かは知らないが、あれなら少しは知っている。たぶんあれとはそれのことなのかも知れない。こうしていつものあやふやさに浸かり込む。なぜそこで気分転換のユーモアのひとつも思いつかないのだろう。この雰囲気ではそんな気分にはなれない。相変わらずのいつもの夜に包まれている。辺りに漂う夜の静けさで、記憶に染み込んだ世界の喧噪が洗い流される。ここで沈黙しても、誰も自分を批判することはできない。自分が非難の対象になることはないだろう。自分に自分を見せびらかすことなどできはしない。何よりもそんなことをやる必要がない。世の中に広めるべき主張が自分にはない。世間に向かって何も主張する気はない。何よりも自分は世間と向き合うつもりがない。今自分が対峙しているのは世間ではない。特定の個人でもない。自分には対峙すべき社会や人物が存在しない。あるのは勝手な思い込みだけかも知れない。自分はこの世界とは無縁な存在なのだ。たぶん自分は生身の自分でさえないだろう。つまりこの自分は存在しない自分なのだ。だからそんな自分など、どうでもいいのだろう。この世界は、自分には関わり合いのない世界だし、世界の方でも自分の存在など気にも留めない。そもそも世界に何らかの意志や考えがあるわけではなし、自分にも何の意図も思惑もないだろう。そして、ここに並べられている言葉の連なりも、自分には何の関係もないものだ。自分とは、この文章が日本語として解読可能になるために必要とされる主語の中のひとつでしかない。ここで述べている自分と自分は自分とは無縁な存在なのだ。自分が使う自分は複数の自分が存在する。その時々で使用される自分にいちいち気を留めることもないし、要するに、その時の気分次第で、言葉と言葉の間に自分という言葉を置いてみて、それで前後の言葉が文章の一部として機能すればそれでかまわないのだろう。だから、そのような自分には自己という大げさな観念は付随しない。自分には自己も生身の肉体もない。それはその文章に含まれているただの気まぐれな言葉でしかない。そんな言葉としての自分に思い入れは抱けないだろう。すべてが自分に関わり合いのないことだし、自分さえも関わり合いがないのだ。だから自分は何も主張しないし、自分固有の思考などはじめから存在しない。ここでは自分は主張しないのはもちろんのこと、自分以外の誰も何も主張しないだろう。ありふれていて使い古された無数の退屈な言葉が、虚空に反響し合うだけなのかも知れない。それはまた、平面に映し出された空虚な言葉の染みなのだ。そして、状況によってどんな風にも解釈されうる偶然の波動でもある。自分は何も思わないし考えない。誰もそんなことなどできはしないのだ。思ったり考えたりできるのは、虚構の物語上での話だ。それらはすべて嘘なのだろう。すべてがそこらへんに転がっている石と変わりがない。動物以下でさえないだろう。


10月12日

 ことのついでに語られる挿話には力が宿らない。何も思いつかないが、あり得ない思いは明け方に挿入される。そこに差し挟まれた時空は思念から生じているのではなさそうだ。よけいなことは何も念じていない。しかし邪念とは何だろう。なぜ念じなければいけないのか。相変わらず余白が埋まらない。大地には何も降り積もらないようだ。まだ枯れ葉散る季節ではないらしい。それでも少し余裕が生じ始めている。わずかながらも光明が見え始めている。べつにトンネルを通過しつつあるわけでもないだろうが、辺り一面を覆っていた暗闇に陽の光が射し始める。未来は日没までは明るい。それは予言ではなく昼の時間を意味している。毎日が空白の時を形成している。昼は何もない時間帯なのか。そこで何を念じようと、よけいな思いにしかならない。思うことも考えることも退けられ、ただそこにあるのは陽の光だけかも知れない。労働とはそういうものなのか。明るく振る舞っているのは考えるいとまがないことの証なのかも知れない。それは無駄な時間なのに必要な時間なのだろう。意志と行動の不一致だが、そこで呼吸するには、うんざりするような昼の時間が必要不可欠なのだ。生きてゆくためには、真昼の光景から目を背けることはできない。すべての矛盾はそこから生じていて、しかもそれなしではこの社会そのものが存在できない。不幸がないと幸福に価値が伴わない。不幸だからこそ人々は幸福を求める。つまり絶えず幸福を追い求めている人は、客観的には不幸な状態にとどまっていることになるだろうか。確かにそのような人にとっては、この世界に満ちあふれているのは不幸ばかりに思われるのだろう。その意味では、まさにこれから目指すべき目標が無限にあるということなのか。


10月11日

 雲が渦巻いて空高く舞い上がる。気まぐれな風向きだ。暗黒の日に東の国から西風が吹く。なぜ風向きが逆なのだろうか。それで思い出すのは西方の言葉遊びなのか。そう都合よく事が運ぶわけがない。どこかで見つけてきた紙切れには暗号すら書かれていない。いったい誰を捜して旅をしているのだろう。秋の夜長は際限がない。すべてが夜なのかも知れない。およそ無益な試みは夜から始まるのかも知れない。こうして見知らぬ人影の行方を探り続ける。陰こそが夜の始まりなのか。やはりその意味を掴みかねる。すべてが愉快なのか。そうであってほしい、そう願いたいものだ。意識が四散していて、言葉の意味が希薄だ。元に戻るにはまだだいぶ時間がかかるだろう。空白の時を楽しんでいるのかも知れない。動作が遅れ続ける。しかしこの現状はどうしたものか。気持ちばかりが前のめりになり、体はベッドに横たわったまま、いつまでもテレビ画面を見続けている。それは廃人の日常に近いかも知れない。思い出される過去は再生機能がついているらしいが、録画されていた映像はただの砂嵐だった。能力の限界にはまだ達していない。しかし眠気にはさすがに勝てない。それでもわずかに残っている気力を振り絞って、ほとんど興味の薄れた歩みを無理にも継続させようとしているらしいが、いったいここに残された時間は後どれくらいあるのだろうか。冗談だけでは、わずかしか生きられないだろう。これからもつまらぬ事件はいくらでも起こりそうだが、そこに精神の痕跡は見あたらないだろう。魂は別の時空で漂う。


10月10日

 陽ざしはどこにもある。どこの誰か知らないが、空に向かって何か呟いている。天国への階段はどこにあるのだろう。外は雨だが画面の中でも雨が降っている。地底の王国にも光がある。蛍光灯の光は地球の裏側でも夜を照らす。闇夜に飛ぶ烏は昼の光を思い出すかも知れないが、今さら天寿を全うするわけにはいかないらしい。そこで指令を発している者は誰の名を騙っているのか。輝ける未来を約束された者に逆らえば地獄へ堕ちるだろう。ただ、地獄へ堕ちる人々にも希望はある。地獄へ堕ちるにしても、とりあえず死ぬまでは大丈夫だ。天命を逃れる術はどこにあるのだろう。光の源が天国にあるとは限らない。だが地底にはなさそうだ。氷柱状の鍾乳石には、懐中電灯から放射された記憶が刻み込まれているらしい。間違っても慟哭には至りそうもない。泣くという行為はどんな心境から生じるのだろう。その涙は、浅はかな行為が発端となっているのかも知れない。誰も同情するはずもなく、泣きはしないだろう。すべての驚きをかき集めても、映像に驚愕すべき内容は宿らない。自分には怒りが欠けている。心の叫びを用意するほどの緊張はない。たぶん廃墟で後片づけの最中なのだろう。冗談の兆しはまだないが、誰の口からも暗号がささやかれるようになったとき、すべての時空で暇つぶしの銅鑼が響き渡る。それがゲーム開始の合図なのだだろう。さしあたって攻撃目標が不明確なので、はじめの一歩に至るまでにはだいぶ時間がかかるだろう。そうなる前に何をやろうとしていたのか忘れてしまうかも知れない。自分はあの時何をやるつもりだったのだろうか。だがそれ以前にあの時とはどの時なのか。たぶん、どんな時でもなく、あの時なのだろう。それはすべての時なのであり、同時にすべての場所なのだろう。


10月9日

 世論調査に応じる人の中に、テロへの支持を公然と口にするような人はひとりもいないだろう。何のための世論調査なのか、ただわざとらしいだけでしかない。人々が何を主張したいかは、どのような種類の報道を真に受けているかによって決まるのだろう。それ以外に必要不可欠な確認事項が存在するだろうか。多数意見はどうでもいいような結論を導き出すために予め用意されている。情報に踊らされるいとまもなく、ただそれらの洪水を受け流しているらしい。読む暇がないので、項目だけを見ることしかできない。最近はそれさえも怠っている。代わりに何をやっているのかといえば、暇を見つけては半世紀も前の文章を読み返している。それで何がわかるわけでもないが、何か言葉を探しているらしい。ありふれた紋切り型ではなく、しかも理解可能な言葉の組み合わせを模索しているのかも知れない。無限は実現不可能なのではなく、今ここに存在している。言葉の組み合わせはほとんど無限通りあるのだから、この現実を誰もが理解できるような組み合わせは、紋切り型以外にも気の利いたものがありそうだ。それを示すことが、今起こっているこれらの現実を理解することに繋がるかも知れない。なぜそうしなければならないのか。どうも自分には世間に流通している多数意見というものが、謂われのない迷信に基づいているような気がしてならない。それを明らかにするためには、紋切り型の羅列では納得できないのだろう。国家とテロリズムとの対決だとかいう、それらしき二項対立で説明すれは大方の人は納得するだろうが、なぜテロが発生してしまうのか、その理由が不明確だし、国家の側で意図的に隠蔽している理由があり、その理由そのものが、同時に国家の存在理由であったりする可能性まで導き出されてしまうかも知れない。現実にほとんどすべての国家には、テロリズムと同じ事をやれる軍隊や警察機構が存在している。実際に国家とテロ集団が共有しているのは、暴力による住民への働きかけだ。それは公認の暴力と非公認の暴力ではあるが、中身にそれほどの大差はないだろう。その行為を認めているのは、国家と国家間ギルドである国際連合やEU、それにNATOなどの軍事同盟であって、ただ自分たちで自分たちの行為を正当化しているだけだ。そこにどのような正義が付加されていようと、それらは何の疑いもなく、敵を殺めるために行うお手盛りの暴力でしかない。鶏が先か卵が先かは知らないし、ここでそれを問う必然性は感じないが、例えばイスラエルという国家に対してパレスチナ住民がやっているように、暴力には暴力で対抗するしか術はないだろう。より強大な暴力装置を有している側が、率先して暴力行為をやめない限り、やはりそれに対する抵抗運動は、同質の暴力で行わざるを得ないだろう。


10月8日

 ぼやけた視界の向こう側にいつもの画面がある。何もやらずに世の中の行く末でも心配しているつもりなのだろうか。相変わらず何も考えていない。現状についてあまり考える気が起こらない。思考する糸口が見つからない。これからいくら人が死のうとどうでもいいことのように思われる。惰眠をむさぼるには打ってつけの時代に入ろうとしているのだろうか。事件とは無関係の一般市民は、それぞれに割り当てられた仕事に精を出していれば、それで何も文句を言われない立場にあるのかも知れない。フィクションとは、それを前提とした上で世の中に流通することができるのだ。だが、自分にはそれらの作り話は共有不可能だ。赤の他人と苦楽をともにしているわけではない。ましてや、自分はイスラム教徒でもキリスト教徒でもユダヤ教徒でも仏教徒でもない。たぶんそのような類の人と価値観を共有する土台が欠けているのだろう。宗教を拠り所にして何か行動を起こそうとする人々には違和感を覚える。それ以外に頼るものがないのだとしたら、仕方のないところかも知れないが、では自分の拠り所は何なのだろうか。おそらく明確な拠り所は何もない。いくら神に頼っても、神は人々に何も与えはしないだろう。人間の方が、ただ勝手に生きて死ぬだけだ。そして自分たちの行動の軌跡を、後から神のお導きの結果だと正当化しているにすぎない。そんな弱者の集まりがどこかの荒れ地で騒いでいる。ある所では星模様や海賊連合の旗の下で、またある所では、姿の見えない唯一神に向かってひれ伏しながら、お互いに呪いの言葉を唱え合っている。やられたらやり返すのがこの世界に共通する唯一の掟であるならば、その掟をうち破る勇気が必要とされているのかも知れないが、それは彼らが信奉している神の意志に背くことでもあるらしい。また例えば自由と民主主義を未開地域の言葉に翻訳するなら、それは憤怒の感情と暴力を意味する言葉に変換できるだろうか。たぶん宗教は口実なのだ。というより一見対立しているように見える彼らは、資本主義というより普遍的で広汎な宗教を共有しているのだろう。富める者と貧しき者、資産を持つ者と持たざる者、搾取する側とされる側、両者の格差がもたらす物質的な豊かさの幻影が不寛容と暴力の源となっている。何が豊かで何が貧しいとされているのか、それを無言のうちに定義している資本主義的な価値観そのものが、ここでのフィクションなのかも知れない。


10月7日

 破れかぶれとはどういう状況なのだろう。現状とは他愛のないものだ。継ぎ足しの連続は不自然な言い回しを可能としているようだ。それで何が明らかになったというのか。確かに何かが明らかになっているのかも知れないが、納得からはほど遠い結論に変わりはない。だが、まだ結論を出すのは早すぎるかも知れない。結果はまだ途中経過でしかないということか。ではこの先に何を期待すればいいのだろう。期待はできないし、今は肯定的な結果を期待する状況ではないだろう。実際何も期待していない。まったく期待はしないが、今は無駄な努力を試みるには打ってつけの環境になっているらしい。良識派に属している人々は、戦争反対、と叫べば気が済むだろうか。土の下で永眠している死者は、安眠妨害の騒音に悩まされるだろう。その気もないのに遠足に強制参加させられている人々は、いつ自らの死を覚悟する羽目に陥ってしまうのだろう。巻き込まれているのはどんな状況なのだろう。生死のやりとりをする現場からはほど遠いから、それほどの緊迫感は感じないだろうが、事件は何の前ぶれもなく突然やってくる。気が動転する間もなく、死は迅速に作用するだろう。終わりは思いの外あっけない。まだやろうとしていたことがあったのに、永遠の中断を余儀なくされ、後は儀礼的な慣習のなすがままに、この世から葬り去られるしかないのだろう。現実にどこの誰がそうなるかは、その場の気まぐれが決定するのだろうか。一応はシナリオが存在する気配はするが、シナリオ通りに事が運ぶような事態は偶然が許さない。それでも予定通りだとすると、それはまだ序章に過ぎないのか。


10月6日

 何をどうしようと批判すべきものは何も生じないだろう。指導者とその取り巻きは情報を集め、戦略を練る。そして決断の時はあっけなく過ぎ去るだろう。その後に続く出来事は単なる付け足しに過ぎない。その時何を決断したのか、決断を下した当事者にはわからない。理解を超える出来事の到来を予測することは不可能だ。決断はすでに別の時空で下されていた。当事者の決断を無視する形で事態は進行するだろうし、すでに事態は予期せぬ方向へ歩み始めている。それらを収拾することなどできはしないだろう。大地に蒔かれた不幸の種は、人々の欲望に促されて、そのうち発芽するかも知れないが、その時が来たら更なる指令が発せられるだろう。敵を殲滅せよ、そんな言葉で兵士達は踊らされるのだろうか。それは安易なやり方には違いないが、確実な方法なのだろう。ただ命令すればいいのだ。否の言葉が発せられる余地はもはやあり得ない。すでに時間切れなのだから猶予は存在しないのだろう。野蛮人は文明人のことだ。この世に文明人以外の人間が存在することはあり得ない。物語の登場人物はいつも哀れな姿を晒しだす。何かしら感情を顕わにする場面が恒例行事のように巡ってくる。その時の態度は、文明人が野蛮人であることを証しているのかも知れない。文明とは野蛮な暴力によって築き上げられるのか。


10月5日

 たぶん自分は誰の味方でもないし、敵でもないだろう。少なくとも今はそう思っている。相手がたとえテロリストだろうと過激派だろうと、自分は彼らを敵とは見なさないだろう。直接の被害に遭っていないので、そう思うことができる。まだそれだけ余裕があるわけだ。自分自身は何ら特別な存在ではない。とりあえずアメリカの大統領やイギリスの首相とは立場が違うので、こんなことを述べることもできるのだろう。それと同じように日本の総理大臣とも立場が違うので、アメリカの味方にならなくても、べつにどこからも非難されないだろう。なんということだろう、要するに自分は誰からもどこからも自由でいられるのだろうか。確かにこの水準では、何を述べてみても、どこからも反発も非難も受けない立場でいられる。無視されているのだから、何を述べても大丈夫なのだろう。つまり言論の自由とは何よりもマイナーでいることを前提として有効であるらしい。影響力の無効性が自由の有効性を保証する。物事の関係を相対的に捉えるならば確かにそうなる。それ以外に無傷で自由を維持することはできないのかも知れない。そのような自由を広めることは可能だろうか。どう広めればいいのか。仮に広めた時点でそれは自由ではなくなるだろう。誰もが同じ自由を共有してはならない。それは自由とは言えなくなる。たぶん世論を形成してはいけないのだろう。誰もがそれぞれバラバラの意見を述べ合って、何一つまとまった結論に達し得ない状況を大切にしなくてはならない。そうである限りにおいて人は自由でいられる。自分に危害が及ばない範囲内でならば、必ずしも多数意見や世論の動向に従う必要はない。不必要に同調しようとするから、結果的に物言えぬ息苦しい社会になってしまうのであって、不自由を共有しながら身動きが取れない硬直した立場に追い込まれてしまうのかも知れない。


10月4日

 発せられた言葉に有用な意味が宿ることはまれだ。わかっていることはたかが知れている。それ反してわからないことは底なしなのかも知れない。何を述べてもそれなりに説得力を持つ。悲観論の基準はその時の都合で様々に変化を遂げるらしい。今が修羅場なのか、まだ先があるのか、そのどちらも当たっていたりするのかも知れない。はずれがなくて、すべてが当たりだったら、予想が当たることに何の価値も意味も宿らなくなるだろう。できればそうであってもらいたい。当たろうとはずれようと、予想や予言は未来に影響力を行使しようとして、言葉を弄しているに過ぎない。しかもそういうやり方が本当に有効なのかどうかは、結果からしか判断できないだろう。だが事件が起こってからでは遅すぎる。すでに決着がついてから過去の予想が当たったのはずれたの言ってみてもはじまらない。それらははじめから無効なのかも知れない。予想し予言を発した瞬間から、何の効力もないのだ。発言の内容通りの効力を求めてはいけない。それでは挑発にすらならない。効力のすべては、予言の対象が予言に反発して、それとは別の行動にでるようにし向けられるか否かにかかってくる。予言は、その内容に反して、人々を予測不能な未来に導かなければならない。積極的に躓きの石であるべきなのだ。それらはただ迷路の入り口を示すのみなのである。多様性に満ちた世界を、誘惑の言葉によってさらに攪拌する役割が予言には備わっているのだろう。それらの言葉は何を目指しているのでもなく、様々な状況の相互作用によって魅惑的な陽炎のように発生しているだけなのかも知れない。人の意志や感情が織り込まれたものは予言とは言えない。それは単なる願望に過ぎないのであり、予言者の利益を目指す偽の予言だろう。


10月3日

 この雲ひとつない青空は晴々とした気持ちを反映しているのかもしれない。どこの誰が爽快感を実感しているかは知らないが、闇が闇でしかないのと同じように、青空は青空でしかない。天候に連動して気分もころころ変わるのだろう。晴れたついでに翌朝は冷えるだろう。何を述べようとも無駄である部分と有用である部分に分かれるのかも知れないが、そのどちらでもかまわないと思う心境に意識が覆われている。相変わらず価値観が消失しているようだ。これ自体が無用な存在以外の何ものでもないのはわかっているが、だがしかし、何かしら役に立つ言説というものには魅力を感じない。言文一致と呼ばれる幻影に絡め取られているものは、その時点でのその社会に流通している決まり文句の集合体になるだろう。言語使用の慣習と同じ言葉の使い方には、限定された意味しか宿らない。それらはこの社会の潮流に同調しすぎている分、時が経つにつれて色あせ、早々に陳腐化する危険性を持っている。確かにどんな言葉の使い方にも自ずから限界というものがあるのかも知れないが、できることならその限界をうち破るように試みるのが、よりまっとうなやり方であるように思われる。だがそれは、ある種のスポーツとどう違うのだろう。必死の形相で新記録を目指しているあれらの人々には、はじめから基準や目標が存在している。その基準や目標をクリアするための努力が実れば、達成感とともに至福の時が到来するのだろう。だが明確な基準や目標のないこれらの試みには、何よりもそのような救いそのものが不在だ。何をどう述べてみても、どこの誰からも祝福はされないだろうし、何の評価も得られないだろう。それでもまだやり続けるのだとしたら、いったい何を原動力としてこれらは継続されているのか。それは糧とはなり得ないが、やはりそれなのだろう。それは例えば将来獲得を期待される未来の読者などでは決してなく、現状そのものなのだ。今ここで感じている、この世界の現状そのものが、どうしようもなく何かを述べずにはいられなくしているのだろう。確かに沈黙することも可能だ。黙っていた方が気が楽だし、無用な焦燥感を呼び込むこともないだろう。ではなぜそうしないのか、それがわからない。


10月2日

 誰が何を用いて呪いをかけているか知らないが、呪われた人々は祈ることしかできない。災禍がその時空を通り過ぎるとき、呪術師は世界に向かって何を語りかけるのだろう。焼け跡に灰が降り積もるように無用な言葉が費やされる。報酬は時として気まぐれに振る舞われるものだ。そこには利益の分配を巡って些細ないざこざまで発生している。どうやれば事態の収拾がつくのかまったくわからない。誰も分け前が不均衡であることの責任を取る立場にはないらしい。そのことによって生じた被害の規模さえ定かではない。償いの対象は不明確なままに、ただ一方的な脅し文句ばかりが流通している。しかし誰がどのような脅威にさらされているのか。彼らにまともな思考力が宿ることはあり得ないが、それでも現状に対して何かしら反応しなければならない。それが当然のことのように反応せざるを得ないのだろう。生きることも死ぬことも現状に対するある種の反応であることに変わりはない。とりあえず限られた語彙の中から、この現状に対応していると思われる言葉を選び出して、それなりの見解を構成しなければならない。現実に不安という言葉を巡って事態は進行しつつある。その進行が悪い方に向かっているのか良い方へ向かっているのかは、将来の結果から判断されることになるだろう。今さら処方箋的な言説は必要ないだろう。現状を受け入れるも何も、現状そのものが把握不可能なのだ。自分はどのような呪いに絡め取られているのか。それはどうすれば払い除けられるのだろう。まったくわからないし、わかりようがない。それらに対する努力は、すべて無駄な模索かも知れない。心理的な影響以外に、呪術にあまり過大な実効性は期待できない。だから祈祷師にはなかなかお呼びがかからない。雄弁な心理学者や精神科医の方が現状をより詳細に説明できるだろうか。ただ言葉が巧みなだけかも知れない。彼らの処方箋は、現実の危機に対しては無効だが、幻想の危機感を煽り立てることについては、ある程度の効力を発する。すでに大衆に受けいられる術を身につけているらしい。彼らは大衆との共謀関係を構築するために必要なある一定の形式を共有しているのだ。しかし大衆という概念は粗雑で不明確なものだ。誰かがかつて述べたような共同幻想の水準では、何を言っても始まらないし終わらないだろう。それはただ現状を肯定することに繋がるしかない。


10月1日

 おそらく夢は子供達が見るものなのだろう。夢見る時期はとっくの昔に過ぎ去り、いつの頃からか夢を見るには苦痛を伴うようになる。何の変哲もない眺めが夢の視界に広がっている。たまには雨上がりの空に虹が見えるかも知れない。今さら何を求めようと、すでに砕け散ってしまった断片には興味を持てない。ここに至って単純な結論ならすぐにでも出せるが、あまり情勢を単純化して伝えるべきでないだろう。つまらぬ戯れ言だけがもてはやされるのは仕方がない。曖昧な述べ方は嫌いだが、否応なく曖昧さのただ中にいるらしい。自分らしさの欠片もない。ところで自分らしさとは何だろう。それを自ら知ることができたならば、かなりおめでたい神経の持ち主である証拠になるだろう。それで判断を見誤っているわけではないが、ただおめでたいだけの人は幸せだ。雨中を傘もささずにここまでやってきた。いったい夜には闇以外の何があるというのか。過剰な言葉の連なりからはそれ相応の物語が紡ぎ出されるだろう。しかし、そんな物語にはうんざりしている。だがそれ以外に選択肢がないとしたらどうだろう。焦燥には限りがなく、ただ得体の知れない不安だけが頭の中を駆けめぐる。明晰さからはほど遠い頭脳なのだろう。毎度のことながら手探り状態になる。これから向かうべき先には適当な未来が待ち受けているのだろう。遭遇するすべてが偶然に左右されているのかも知れない。運命とはそういうものなのか。意識はすでに明日の時間の中にあるようだ。なぜそこになにがしかの構造を見いだせないのだろうか。交錯する様々な思考を順序立てて並べ直すことなど不可能だ。一度にすべてが到来しているようだ。物事を関連づけて考える余裕などない。休息するいとまも与えられていないらしい。おそらく立ち止まることさえできないだろう。それでもどうにか理解可能な形を提示しなければならない。そのような切羽詰まった状況からつまらぬ物語が生み出されるのだ。だがそれがつまらないかどうかは他人が判断することだ。はたしてここに神話が形成される余地などがあるだろうか。なぜ唐突に神話という言葉が出現してしまうのか。今さら神の物語もないだろう。神ではなく現実そのものを見つめなければならない。しかしこの現実から神が導き出されてしまうとしたらどうだろう。たぶん少し頭がおかしいのかも知れない。苦し紛れの神頼みなのか。神は言葉だけにとどめておくべきなのかも知れない。何でもかんでも神の仕業にするのもかなり馬鹿げている。たぶん事の成り行きや結果が納得し難いので、そこに神という言葉を当てはめざるを得なくなるのだろう。神は証明の対象ではない。神話が神の物語であるとは限らない。そこでは、正義は打ち砕かれ、理性は無視され、人道は踏みにじられ、ただ非情で残酷な結末だけが正当性を獲得するのだ。それが物語のあるべき姿なのか。その酷薄な真実に耐えられなければ、夢を見るべきなのだろう。子供達のように夢を見るべきなのだ。そして癒しの音楽に耳を傾けるべきなのだ。少しの間はそれで救われるだろう。