彼の声24

2001年

5月31日

 近頃は自主的な判断が消極的に作用する場合が多い。自分の意向が反映される選択肢が用意されている場合には、積極的に何を選ぶこともなく、途中で降りてしまう。テレビを見ていても、これからがいいところなのに、なぜかそこで見るのをやめてしまう。だからなかなか盛り上がらない。だがそれで不満というわけではない。別に意味もなくことさらに盛り上がる必要はないだろうが、サッカーの試合を前半だけ見てやめてしまう。まだ一つもゴールが入っていないにもかかわらず、そこでテレビを消してしまう。盛り上がらなくても満足しているわけか。そうではなく、どうやらテレビを見続ける根気がないらしい。その後、思いなおして再び見てみたら、後半は楽勝の展開になっていた。どうやらゴールシーンを見損なってしまったようだ。一番いい場面を見逃してしまったらしい。だが、それで悔やんでいるわけでもない。それはそれでそういうことなのだ。その煮え切らない現状を受け入れてみよう。そこで本気になる必要はない。それでも雨が降ったりやんだりしているうちに、何か適当なことを思いつくだろう。そして思いついたら、すぐにそれを忘れてしまえばいいだろう。忘れたらまた何か適当なことを思いつくだろう。それと煮え切らないこととはあまり関係はないが、ここでの精神には実体が何も結びつかないようだ。頭に浮かんだ言葉は現実をすり抜けて、目的地とは正反対の地点へ到達する。たぶん十一時五十七分までには、なんとなくいくつかの出来事に遭遇するだろう。その時間は何かタイムリミットを構成しているのだろうか。それは知らないが、例えば、太陽が東の空に昇る回数だけ奇想天外な風景が網膜に構成されるわけではない。それはどういうことなのか。また何を述べているのかわからなくなる。それはいつものことだが、正気の沙汰ではないのかも知れない。だが青臭い文学的な狂気など、もはや嘲笑の対象でしかないだろう。


5月30日

 なぜか頭が重い。そういえば最後に床屋へ行ったのはいつのことか。伸びすぎた頭髪で頭が重くなる。頭が重くなったついでに自分が何を考えているのかわからなくなる。ところで、この平凡な日常生活の中で自分は何を感じ取っているのだろう。例えば、犬はたまに近くを通り過ぎる救急車のサイレンに反応して、その音が聞こえなくなるまで飽きもせず遠吠えを繰り返す。条件反射とはそういうことなんだろうか。犬にも気晴らしが必要なのだろう。手持ち無沙汰でつまらない現象に絡んでいるようだ。要するに、もう少し刺激的な光景に出くわしたいわけか。では、意味もなく柿の木の黒々とした鱗状の幹に毛虫でも這わせてみよう。果たしてそれで満足するだろうか。どこの誰が満足するのだろう。確かにそれは意味のないことだ。いったいそこからどのような効果を導き出したいのかよくわからない。どうやらおかしな周波数の電波をキャッチしているらしい。それでこうなってしまうわけか。下手な言い訳には苔が生えてくるだろう。このままでは気休めにいつもの予言が発動しそうになる。アヨロの次はメガワティで、その次が田中真紀子になってしまう、ということか。だが、それならミャンマーのスーチーやパキスタンのブットだってそうだ。インドのガンジー(父がネールの方)だってそうだった。アジア的世襲制ではそのような形が好まれているのだろうか。そうなると絶叫総理の立場はどうなるのか。彼だって世襲政治家だろう。ブッシュと似たようなものか。立場上、彼ら二人は金正日と変わらない。しかし、本当にそうなるだろうか。なろうとなるまいと、どうでもいいことではある。なったらなったで、軽薄に騒ぎ立てるだけなのだろう。たぶん世界的にその手の政治状況は末期的様相を呈しているのだろう。それの善し悪しもこの際どうでもいいことだろう。結局はこんな成り行きを受け入れる以外に道は残されていない。自分は彼らのやっている政治の内容など問わない。なぜだろう、今までの言動と矛盾してしまっているではないか。なぜ政治の内容を問えなくなってしまったのか。ことさらそれを問う立場ではなくなっているのかも知れない。いや、昔からそうだったのだ。そうだったにもかかわらず、不必要な問いを発していた。たぶん自分は彼らに向かって、痛みに耐えてよく頑張った!とは叫べない。それは件の相撲に感動していないからだろう。その場を盛り上げる立場なら、感動していなくても感動しなくてはならない。自分はその立場にはないから、こんなことも簡単に述べられる。武蔵丸の相撲は昔からそうだった。彼がこれまで、相手に貸しを作りながらうまく立ち回ってきたことを知っている。無理だと思われた若乃花の横綱昇進を実現し、引退寸前の曙の復活優勝に貢献した。自分が負けてみせることで相手に花を持たせる、それが彼のやり方だった。もちろんそれをせこい処世術だと蔑むつもりはない。あれはあれで立派な行為だろう。絶叫総理の条件反射が犬の遠吠えではないことを祈っている。


5月29日

 取り立てて何も感じないが、雲行きが怪しい。だが夕方の天候を気にしている暇はなさそうだ。刻々と迫りくるのは、恐怖や驚愕とは無縁の退屈な眠気になるのか。郊外の団地では相変わらずの事件が起きているようだが、やはりそれは驚きとは無縁の出来事なのだろう。ごくふつうのどこにでもありふれている日常生活の中で、何の変哲もない小市民達がふとした弾みで加害者になったり被害者になったりするだけのことだ。そこでは、今さら誰が何を諫めようと馬耳東風な生活慣習がすでにできあがってしまっていて、そのような時勢に押し流されながら暮らしていると、たまにはつまらぬ些細な感情の行き違いから、体力のない女性や老人や子供などが殺されたりするようだ。か細い神経しか持ち合わせていないから、少しの動揺ですぐキレて、弱者に対する暴力という形で爆発する。だが、今さら大の大人に向かって精神を鍛えろと言っても無駄だし、現実に鍛えようがないだろう。では、どうすればいいのだろう。その手のテレビ番組に投書でも送ったら、少しは気の利いた答えが提示されるかも知れない。そう都合よく事が運ぶかどうかは疑問だが、とりあえず番組内で取り上げられて何らかの方策が導き出されたら、それをありがたがってさっそく日常生活に取り入れてみたらいいだろう。案外すぐキレないための食事メニューなんかがあったりするかも知れない。そういえばプロバスケットの選手でNBAのフェニックス・サンズでポイント・ガードをやっているジェイソン・キッドはシーズン途中で妻に対する暴力が表沙汰になってしまい、警察に逮捕されてしばらく試合から遠ざかっていたが、彼はどうやって問題を解決したのだろう。その後釈放されて、試合に復帰したての頃は観客からのブーイングが凄まじかったのが記憶に新しい。さて、それがどうしたのだろう。どうしたわけでもない、まだ話の途中だ。確かに途中だが、これ以上は何もない。こうして、とりとめのない思いが深まりつつある暗闇の中へ吸い込まれて行くだけだろう。解決策なんかを探る気は端からないようだ。自分は当事者ではないのでそれを探る立場にはないのだろうか。当事者であったとしてもその立場にはないだろう。ではどこの誰がこれらの問題を解決すべきなのだろうか。さあ誰だろう。テレビ番組の司会者やコメンテーターか?自分にはよくわからない。


5月28日

 極彩色とはどのような色なのだろう。総天然色がそうなのだろうか。毒々しい色の充溢をそんな言葉で言い表せるだろうか。それとはニュアンスがだいぶ違っているかもしれない。それは特定の色というよりは、むしろ極めつきの彩りのことか。単に彩りが豪華絢爛なことなのかもしれない。ではたまには極彩色の夢でも見てみよう。夢を見てどうするのか。それでは何を述べたいのか内容がわからない。愚か者はできもしないことを夢見る。ならば、ここは愚か者のままでいてみよう。そんなことができるわけがない。愚か者は愚か者でいることすらできないわけか。それでは矛盾している。ではいったい愚か者とは何者なのだろう。何者でもない。言葉を重ねるうちに、どういうわけか愚か者が愚か者の範疇からはじき出されてしまったようだ。それはいつもの言葉遊びを繰り返しているだけかも知れない。そうこうしているうちに、もはや自分はいつの間にか愚か者でさえなくなり、それよりもさらに低い地帯に徘徊しているみたいだ。なぜそういう結論になってしまうのか。近頃は性急に結末へと至る傾向にあるらしい。まったく粘りがなく、堪え性がない。そこで循環しているのはくだらぬ夢ばかりなのだろうか。どうもそうらしい。完全に進むべき方向が見失われている。もっとも、端から進むべき方向などないわけだが。今まではその無方向性を隠蔽することで、かろうじてありもしない歩みを進めているように装ってきたわけだが、今やそんなごまかしさえも消え失せようとしているらしい。そんな言葉の廃墟の中で誰が踊っているのだろう。誰も踊りはしない。ただ、苦し紛れに踊っている振りをしているだけだ。それがいつまで続くかは不明なのか。だが、それが途切れそうでなかなか途切れないのはどうしたことだろう。いつ途切れてもかまわない立場の自分にはその辺がよくわからない。何かに導かれているのだろうか。


5月27日

 近頃は壁を這う蜘蛛がやけに元気がいい。外は真夜中へ近づくにしたがって街灯の明かりだけになりつつある。怒りにまかせてむやみやたらに人を殴らない方がいいらしい。殴った相手に死なれたら、朝のテレビニュースのトップ項目で報じられてしまう。では、どういう状況で殴ったらいいのだろうか。そういう問題ではないだろう。結果として他人を殴り殺したら弁解の余地がなくなってしまうのは当然のことだろう。では、そうなれば一方的に殴り殺された側の勝ちなのだろうか。そんなことは知らないが、事の是非は突発的な感情の爆発が招いた結果を見てから判断されるものかもしれない。その種の法は常にあと出しじゃんけんのように作用する。取り返しがつかなくなった時点から責任問題へと発展するわけだ。これではどこへも逃れようがない。どうやら灰色の孤独は茶番とともにやってくるようだ。だが今はその茶番が見あたらない。馬鹿げた行動は画面上から外には出られないようだ。どういうわけかモノローグは自分だけの世界ではないらしい。そして、なぜか意味もなくトリッキーな展開になる。自分が自分でないとき、この自分と別の自分が互いに互いの言表行為を批評し合う。そんなことはあり得ないだろうか。それの何がおかしいのだろう。どこがおかしいのだろう。わざと目が裏返る。どうしようもない袋小路からうまく抜け出す算段の内容がこれなのか。いつの間にか理性が行方知れずになっていることに気づく。不明なのは理性だけでないだろう。そこでは偽りの分裂症が装われているらしい。まったく身に覚えのないことだ。その状況から受けるイメージによって事の是非が左右されるだろう。谷川から滴り落ちる清涼な水を飲んでいるつもりが、実体は地下トンネルから湧き出した排水処理水だったりするわけか。中身は同じでも、事件の報じられ方によって、それに対する反響の質が大きく異なってくる。ならば、結局は人々の同情をいかに惹くかが問題となってくるのだろうか。どうもわざと茶化しているフシがある。では何を茶化しているつもりなのだろう。つもりではなく、本気で茶化しているらしい。より安全で暮らしやすい社会を築いてゆこうと日々たゆまぬ努力を惜しまぬ人々を馬鹿にしているようだ。またそのような行為に対する怒りなど何も湧いてこない。自分はどうなのだろう。電車の中で老人に席を譲った経験がないわけではない。だがそれよりも譲らないことの方が遙かに多い。自分自身は、混んでいるときには座席をなるべく詰めて座ろうと心がけてはいるが、詰めて座るように他人にお願いする勇気はない。とりあえず、よほどのことがない限り、触らぬ神に祟りなし、を信仰している。そういう面では世間で発言力のある良識派から非難される、見て見ぬ振りをする小市民、に分類されるような人間なのだろう。そういうわけで弁解も言い訳もできない立場だが、些細なことでカッとなり、怒り狂って赤の他人に殴りかかるほど無鉄砲ではないので、相対的には人畜無害な人間ではあるのだろう。


5月26日

 いびつな歩みは相変わらず微々たる前進の繰り返しのようだ。曇り空の下に湿気を帯びた蒸し暑い空気が漂っている。気分は最悪だが、わずかな合間を縫って吹いてくる微風がまだ救いかもしれない。つかの間の心地よさは気休め程度の安らぎをもたらす。たまにはその生暖かい風が雨を呼ぶこともあるらしい。突然降り注ぐにわか雨に心奪われたりするだろうか。気がついたら我を忘れてどしゃ降りのただ中に立ちつくしている。誰がずぶ濡れになっているのだろうか。たぶんそれは嘘だろう。そこに立ちつくしているのは自らが作り上げた幻影だったりするわけか。絵空事の世界で実体の希薄な影がずぶ濡れになる。そんなことはあり得ないか?どうも今ひとつ気乗りがしない。だがやる気がわかないのはいつものことだろう。そればかりでは、どこまで行ってもきりがない。ただとりとめのない思いが、さっきまでここら辺に漂っていた空虚の残り滓として、心のどこかに溜まり続けるだけだろう。それらの残滓が思考作用に抵抗している。できるだけここへとどまってほしいようだ。さらにこのまま待つことを強いられるかもしれない。目の前の霧はいつか晴れ渡るだろう。霧が晴れるまで待てばいい。だがそれがいつなのかはわからない。だから待っている間、退屈しのぎに何かをやらなければならないわけか。それでなぜ何かをやることになるのだろうか。あまり納得のいく説明とは言い難い。それは説明でさえないだろう。結局、何かをやる動機は微弱なままだ。問答無用の強迫観念が欠けている。例えば、世間には余興としての詩作ならいくらでもあるだろうし、それをやりたい人もいくらでもいるようだ。そんな人々が群れ集うイベントもいくらでもあるらしい。おおいにやってくれればいいだろう。ただ自分はやらないし、やりたくない。少なくとも今それをやる必然性は感じられない。その程度でとどまっていては情けなくなる。別に高尚さを目指しているわけでもないのだろうが、一度それをやってしまうと、もう後戻りできなくなるような気がする。たぶんそんな自分が情けなくなるだろう。そこで停滞しているのは自己嫌悪の塊なのか。だから安らぎは気休め程度でちょうど良いのかもしれない。焦らずに気長に待っていれば、天候の気まぐれで、雲間から陽の光が差し込むこともあるだろう。それはつかの間の出来事かもしれないが、さしあたって今はそんな光景でも眺めていたいものだ。空想に浸りきっている。


5月25日

 今はどちらを向いて語りかけるべきなのだろう。さっきとは方角がだいぶ異なっているらしい。木々の合間から時折陽の光が差し込んで眠気を誘う。日頃の慌ただしさとはまるで関係のない風景が一瞬脳裏をかすめる。だが、そんなことにはお構いなしに貴重な時が無愛想に過ぎ去ってゆく。夕方からテレビを眺めていたら深夜の一時をまわってしまう。だが翌朝にはテレビの内容をきれいさっぱり忘れていることだろう。まったくそれは恐ろしい時間の無駄遣いかもしれない。おかげで余白の時を見いだせなくなった。どうやらこちらの都合では世界は回ってくれないらしい。では、誰の都合で世界は回っているのだろう。神か?ありきたりな答えだ。そうでないとしたら、実際はどうなのだろう。もっと気の利いた答えを用意してくる者はいないのだろうか。できれば、もっと鋭いことを述べられる人に出会ってみたいが、それは無い物ねだりなのかもしれない。現状では、外国のドキュメンタリー番組に出てくるナレーターの言葉程度で満足すべきだろう。それらはただ伝えている状況をありのままに述べているだけで、こちらがハッと驚くような鋭さとは無縁だが、日本のニュースショーの司会者やコメンテーターがやるようなウケ狙いがないだけでも、まだマシな方だろう。倫理観を欠いて照れ隠しを伴ったわざとらしい世間話の洪水には辟易するしかない。たぶんそれは日常会話の延長なのだろうが、近頃はそういう会話について行けなくなりつつある。相手に合わせることができなくなってきた。どうやら世間的には自分は陰気で無口な人間らしい。


5月24日

 必ずどこかで唐突な展開が待ち受けているらしい。それにいちいち驚きはしない。できればそれを否定してみたいようだが、何をどう否定したらいいのかよくわからない。ただそれがあまりにもおかしいので思わず笑ってしまうことは確かだろう。そういえばマキャベリは有名な君主論とともに共和論も著したらしい。彼の共和論がどのような内容なのか興味がある。もしかしたらそれを読めば、マキャベリがマキャベリストでないことが明らかになるかもしれない。たぶん世間に流通しているのは、彼とは何の関係もない紋切り型のマキャベリズムの方なのだろう。そういう紋切り型を利用した、その手の権謀術策がちりばめられた物語はやはり退屈である。プロレス的派閥抗争を今さら律儀に踏襲しても、何のリアリティも得られはしないだろう。どこかの大根役者達が抗争を繰り広げるための舞台などが、今どきどこに設えてあるのだろうか。たまにはギリシア時代に造られた円形劇場の廃墟の中で悲劇が演じられたりする。二千年前の観衆はそれに本気で見入っていたらしいが、はたして現代の観衆はその再現された悲劇に感情移入できたりするのだろうか。たぶん内容を理解できる者なら、齟齬や隔たりを伴った距離感を抱くかもしれない。そして歴史の堆積を実感するだろう。揺籃期の演劇をそのまま真に受けるわけには行かない。悲劇には悲劇に至る必然性があるのだろう。そこには当時の慣習や社会のシステムが投影されていることは確かだ。大衆によって英雄に祭り上げられた人物が悲劇的な最期を遂げる、そんなことが繰り返された歴史的経緯があるようだ。今の時代に飽きもせずそんなことが繰り返されるのだとしたら、知らず知らずのうちにそんな紋切り型の物語に絡め取られている人々はやはりどこかおかしいといわざるを得ない。少しはそういう退屈な展開にならないように努力してみたらどうか。過去から何も学んでいないのだとしたら、それは愚かさの限度を超えているだろう。


5月23日

 宮本武蔵にはどのような幻想がまとわりついているのだろうか。何やら数百年前に刀で殺し合いをしていたらしい。鉄砲を主力とした本格的な合戦が行われた後では、剣豪伝説は当時でも時代遅れだったかもしれない。彼はどこかの大名の剣術指南役にでもなりたかったのだろうか。どこへも行き場がなかったので、ただ各地を放浪して自らが身につけた力と技を試してみるぐらいしか道はなかったのだろう。とりあえず現代の宮本武蔵なら、有名な小説や漫画などを読めば、それなりに感動できるのだろう。その辺は坂本龍馬と似たような消費のされ方だろう。ひとりの凄い男が過去において存在していたのだ。それが現代流の解釈であるようだ。そういうものが未だに主流を占めているらしい。自分ならそんな切り口で過去の人物を取り上げたりしないだろう。たぶんそれほど過去の人物そのものには興味がわかないのかもしれない。それよりも片手間に武蔵が描いた絵には興味があるし、展示会でもあって行く機会があれば、是非見てみたいものだ。そういえばまだ彼の著作らしい五輪の書を読んだことがない。書店で見かけたら買って読んでみよう。それがどの程度のものなのだろうか。例えばブランショの書物より恐ろしい内容だったりするだろうか。現代に生きている自分にとっては、彼の剣術などどうでもいいのかもしれない。彼が佐々木小次郎に勝った巌流島の決闘を自分は戦略的にどう応用できるというのか。今どこかの誰かと真剣試合をしているわけでもないだろう。ただ彼の波瀾万丈に装飾された物語を見たり読んだりして感動すればそれで暇つぶし程度の効用はあるのかもしれないが、今は暇つぶしをやっている暇がない。たぶん当時の武蔵と今の自分が対決したら一撃で殺されしまうだろう。だが幸いなことにそういう状況はあり得ないので、いくら武蔵が強かろうと、それは自分には関係のないことだ(笑)。


5月22日

 相変わらず具体的な事象を欠いたまま、事件に出会うきっかけを見つけられないでいる。今までに歩んだ旅程とそこで過ごした時間が一致しないのはなぜか。意識の中では時間と距離がまったくかみ合っていない。足りないものはどこかへ流失してしまったのだろうか。長い間に生じた表面上のひび割れから水が漏れだしているようだ。それは何のたとえなのだろう。どこまでもいつまでも嗅覚は眠り続けているらしい。妄想が積み重なったガラクタの山の中から、真実が導き出されたりするはずもないだろう。では、虚言と妄言の混合物から真実を生成できるだろうか。菱形が三つ組み合わされてどこかの会社のマークになる。たぶん虚妄の象徴とは縁がなさそうだ。分散タイプの言葉は今や限界を超えつつある。デフォルメされた金管楽器の音を合図に演奏が始まる。現代音楽は数十年前の木霊を再現している。ノイズに満ちあふれた意味不明の音楽だ。鍵十字の軍隊は現代において、イスラエル国防軍の暴力と釣り合いがとれているのかもしれない。スターリングラードにそびえ立つ巨大な像は、果たして勝利の女神像なのだろうか。未だに共産主義は死んでいない。それは誰の台詞だろう。ハイウェイを降りて、白日夢のごとき光景を目にする。その内容はご想像に任せよう。たぶん具体性には嫌気がさしているのかもしれない。こうして、リアリティを見失いつつあるようだ。安易に現実を乗り越えたつもりになりたいものだ。希薄な日常の意識が非現実的な空想と結びつく。集中力は何も生み出さない。根気など端から廃棄されている。そこで身をまかせているものは何なのか。このまま行けば、どこかでクラゲに出会うだろう。楽しみの条件などを考察するまでもなく、誰かがそれなりの偏見を吹き込んでくれるはずだ。何かに依存したければ、甘えの対象を打ち砕いてみよう。他人の活躍に一喜一憂したければ、メディアから伝わってくる色付きの情報をそのまま受け流してみよう。何もかもを真摯に受け止めていたらきりがないだろう。息が詰まるような日常のどこかに空隙や余白が存在するかもしれない。今こそ、気にもとめられていない片隅の空気を掴んで、これ見よがしに無駄な悪あがきをやるべきなのか。だが性急な結論の提示では少々物足りない。さらなる緩やかさが求められているらしい。


5月21日

 暗闇の中を移動しながら、つまらぬ夢を見ているらしい。どういうわけか、ここに至って現実の切断面がはっきりと露呈してきているが、それはこれ以上の積み重ねは不可能ということなのか。その継続の不可能性について、ここでどうこう吟味しようというのではない。まだ性急に事を運ぶ気にはなれない。別に追いつめられて切羽詰まった感じはしていない。それでも、たぶんこのまま行けばどこかで途切れるだろう。そういう事態に必ず直面するはずだが、それを何とかやり過ごす手段を模索しているらしい。それは無駄な悪あがきだろうか。そうかもしれないが、やはり現状ではそれしかできないのだろう。そこで、壊れかけた過去の記憶から懐かしい思い出をたぐり寄せ、ただその場のいい加減な思いつきだけで何かを織り上げようとしている。ところで懐かしい思い出とは何か。それはどういう思い出なのだろう。どこまでも続く一本道から脇道へ入ったとたんに、そこで行き止まりになる。そこから先はどこへも行けない。なぜそこから元来た道へ引き返さないのだろうか。その理由をいちいち詮索してみるまでもない。なぜか夢の中では引き返せないのだ。引き返すという簡単なことが思いつかない。だからそこで立ち往生したまま途方に暮れてしまう。そこで都合よく夢から覚めたらかなり楽な展開なのだが、現実はそうはいかない。そこで立ち往生したままどうすることもできず、そこからは何の進展もなく、ただ立ち止まったまま、その場で体と心が凍りついているのだ。身も心も静止したまま、動き出すきっかけが何も見たらない。そこでどうすればいいのだろうか。夢の中ではどうすることもできない。ただ思考は循環するばかりで何の打開策も思い浮かばない。だから夢はもうやめよう。退屈になってきたので、仕方なしにそこから撤退する。夢などなかったことにしよう。こうして夢はいとも簡単に廃棄され、何か別の方面に意識を向ける。試しに背景の斜め後方から意識の外部へ探りを入れてみる。どうしてそうなるのだろう。それはかなりおかしな成り行きだ。そこから先は創作なのか。夢も含めて元から作り事なのだろう。夢のただ中に、いきなりフィクションを割り込ませているわけか。それはかなり不自然な挿入だろう。そうすることに何の説得力もない。なぜそうするのか説明できない。今わかっていることは、ここから向こう側に振り切れないようにすることなのか。ではここで振り切れてあちら側へ行ってしまうとどうなるのだろう。それはかなり抽象的な言い回しだ。それが具体的に何を指しているのかわからない。それはわからないままだが、あちら側へ行ったらどうなるか予想はつく。そうなるとここで思い出と戯れることができなくなる。ここはあちら側ではないからだ。だがここでの思い出とはいったい何なのか。その内容を是非とも知りたい。それはたぶんそう遠くない未来において、過去の思い出が空から降ってくるだろう。ロシアの宇宙ステーションはとうに落下したはずだが、その他にまだ何か落ちてくるわけなのか。たとえば、宇宙へのロマンをかき立てるかのように、何十億年も前に生成した彗星の本体が突然地上に降ってきたらおもしろいかもしれない。だがここで述べているのは、そういう直接に衝撃を伴うような物体ではないだろう。それは文明を直撃して、劇的に葬り去るような破壊力を持っているわけではない。そうではなく、その得体の知れないものは、今現存しているすべての事物を、あるがままに肯定するような効用を持っているのである。そこには否定性がまったく存在しない。それは毎度おなじみのでまかせなのか。ありもしない物が落ちくる幻影にとらわれている。この期に及んでまだわけのわからない未来を望んでいるらしい。まったく何を述べたいのかよくわからなくなってきた。


5月20日

 夜に風景がモニターの表面に折り畳まれているうちに、外はすっかり明るくなっている。また朝になり、今日も慌ただしい一日になるらしい。周りの風景ぐらいならいつでも眺めることはできるが、それで物事が見えているとはいえないのかもしれない。だが、別にそれほど見えていなくとも困りはしないだろう。取り立ててどうということはないような気がする。確かにある面ではそうなのだろうし、何もその面にばかり固執していても仕方がないだろう。何も見えなくても困らない、というほどの頑なさはないが、とりあえず何かの拍子に別の状況へ移行したら、その時はその時でそれなりに困ればいいし、たまには困ってみた方が少しは気分転換になるだろう。


5月19日

 視線と思考は一致しない。そのとき何を考えているかわかったものではない。だが、別に他人に知られては困るような疚しいはかりごとを計画しているわけでもない。おおかた、ただ漠然と明日のことでも考えているのだろう。そして明日のことを考えながら昨日のことも考えているらしい。どんな魂胆があってそうしているのかは知らないが、ついでに今日のことも考えてみよう。今日はこれから何をするつもりなのか。つもりであるなら、いくらでもやりたいことが見つかるのかもしれない。だが、実際にやっていることはいつものことでしかない。それ以外にやりようがないし、できないということか。本当に何を体験したのだろう。日付はすでに明日になっている。つかの間のにわか雨を体験した。雹も混じっていたらしい。少々驚いたがそれに対する感慨は何もない。


5月18日

 妙な気配を感じるが、それが何なのかはっきりしない。異変に気づきながら何の対処もできないのかもしれない。だが本当に気づいているのか怪しいものだ。それにこの世に異変などありふれているだろう。様々な異変が積み重なって今の状況を作り上げているのかもしれない。で、今の状況が異変を感じさせるわけか。冗談だろう。つまり、異変に気づきながら異変を感じられない。矛盾している。それは出来の悪い言葉遊びでしかないだろう。だからこの際、その時感じた異変の兆候は軽視して、何も対処策を講じずにいてみよう。それが何なのかわからないのだから、元から対策など講じようがない。もっともその方がよりスリリングな展開を体験できて楽しいかもしれない。で、それを体験しながら破滅するわけか。果たしてそんな余裕がまだ残っているだろうか。もはや破滅する余裕などありはしないだろうか。


5月17日

 ただ漠然とテレビ画面を見つめているときでも、心の片隅では何かしら考えているらしい。途切れ途切れに思い浮かぶ言葉の断片が、気づかないうちにまとまりのある奇怪な塊に成長している。今回はどうなのだろう。外気は夕方と翌朝の間で徐々に冷えてくる。その場の偶然で暑くなったり寒くなったりする気温の変動に合わせて、それ相応の不可思議な思いつきが内面に穿たれた虚空を横切り、怠惰な誘惑を携えておそってくる睡魔をはねのけながら、なぜか黙々と無駄な作業を繰り返す。それは本当に無駄なのか。できればそんな風に自らの行いを卑下したくないが、とりあえず言葉でリズムを刻む作業には否定的な見解をとっているらしい。中身が何もない。確かに心情的にはそれを無駄だと思いたくないだろう。少なくとも自意識はその動作を肯定したいようだ。では、結果的にそれが無駄だと気がつけば、少しはあきらめがつくだろうか。単調な言葉の繰り返しだけでは、この貧窮の時には耐えられない。しかしだからといって、何か目新しい事件にそうそう都合よく巡り会えるものでもないだろう。だから苦し紛れの打開策として、昔の記憶の再利用になってしまうのだろう。おおよそマンネリの原因とはそんなところか。その再利用され使い古された言い回しが、残り滓として時の経過とともに心の奥底へ蓄積されていくらしい。そしてそのような事態が進行してくると、意識の内側が残り滓でいっぱいになり、もはや外部から新しい刺激が入り込む余地がなくなり、結局は、仕方なしにその沈殿物を再々利用する羽目に陥るのだろうか。自家中毒とはそういう状態をいうのだろうか。しかしそれ以外に何がある。心の底では何かが単純化されているようだ。常に単純化する傾向にあるらしい。意識は世界を抽象的に捉えたがる。事物のあるがままに存在している状況には耐えられない。絶えずそれを偏見のオブラートで包んでいないと発狂してしまうかもしれない。それがここでの限界を構成しており、その限界を超えようと、さらなる徒労の試みが待っているらしい。


5月16日

 何気なしにふと林の中へ目をやると、枯れ枝に黴が生えている。蒸し暑い日々の到来とともに、もうすぐ燕が巣作りを始める頃だろうか。まだ五月の中旬だが、残雪が目に眩しい夏山へ、遭難者の白骨死体でも探しにゆこう。気まぐれにそんなやりもしないことを述べてみる。たぶん実行には移さないだろう。そんなことをやっている暇はないし、万が一白骨死体を発見したら、警察とかに連絡しなければならないし、後が面倒なことになりそうだ。だいいち山登りそのものがかなりきつそうだ。自分が遭難してしまうかもしれない。道からはみ出して崖から転げ落ちそうになる。急に飛び出した黒猫をひき殺しそうになりながらも、間一髪のところで何とか体勢を立て直す。小さな罠からは何とか這い出てきたらしい。気休めの静寂の中で一息つく。どこまでも曲がりくねって、いつまでも目が覚めない。もはや目覚まし時計は不要だろう。狼煙の幻影に見とれているうちに、いつしか夢の中から戻っていることに気づく。どうやらこの大地を焦がしているのは太陽だけではないらしい。地底の内部から灼熱のマグマが壊れた魂に呼びかけているようだ。だが、決起の呼びかけには応じられない。それはたぶん馬鹿げた妄想だろう。幻魔大戦の著者は今頃何をやっているのだろう。彼はまだわけのわからない幻覚の中に暮らしているのだろうか。想像力は時としてそれを用いる人の人格を破壊するのかもしれない。その破壊作用に身を委ねることで、人は果てしない無際限の夢を引き出せるわけか。しかしそこで何が破壊を被っているのだろう。人それぞれで犠牲の供物は違ってくるのだろうか。極めつけを見たければ、ニューギニアの奥地にでも行ってみるといい。バリのガムランぐらいでは物足りないだろう。熊野の山中で修験道でもやっている人なら、何か気の利いた幻覚を見た体験があるだろうか。山伏の格好をさせられて崖から吊されたら、人生が変わったりするのだろうか。やはりそんなことをやるほどの暇も気力もなさそうだ。そんな面倒なことをやるまでもなく、もうすでに、わけのわからない徒労の真っ只中で生きているような気がしてくる。おそらく他人に答えを求めても、今どきろくな答えは返ってこないだろう。軽薄な人生相談ばかりが幅を利かせ、それを真に受ける人々が支配する世なのだろう。たぶんそれは嘘なのだろうが、気休めにハウツーマニュアルでも読んでいれば、それなりの楽しい人生が送れるだろう。そうでないと困るような人々が巷にはあふれかえっているようだ。とりあえずはそれを肯定しなければ生きてゆけないような気がする。こうした人々の欲望を糧として、世界経済はダイナミックに動いてゆくらしい。......それも嘘か?


5月15日

 慌ただしい日々のただ中につかの間の安らぎを見いだしつつも、喧噪の中に死の影が忍び寄る。そこで誰が死ぬわけでもない。死の影は台本の中で省略されているらしい。そこで何か嘘のような本当の話を語り出す。脚本通りに演じる俳優が自らの死に出くわすわけはない。詩人は、銀行員や医者や道路工事の作業員よりは劣っているのだろう。それらの常人よりは、かなり低い位置からの視線を感じる。たぶん職業としては成り立たないのだ。それは仕事や労働ではない。だから彼らははじめから任務を解かれているらしい。神に奉仕していたのは昔の話だ。自らを正当化する理由が見当たらない。だが、彼らが邪魔者として社会からはじき出されているとも限らない。ただ詩人は存在しないだけなのかもしれない。そんな者はどこにも見当たらないのだろう。詩集を出版するようなプロの詩人は、詩人ではなく作家である。ライターは詩人からはかけ離れた存在だろう。詩人はクリエイティブとかアーティスティックと言った言葉とは無縁の存在なのだ。そこに存在しない者が何か形あるものを作れるだろうか。だから素人が詩を書き始めた時点で、それは詩人とはまったく無関係なものになってしまうだろう。詩人は自ら進んで詩など書きはしない。別に孔子が論語を書いたわけでもないし、ソクラテスに著作があるわけでもない。しかも孔子もソクラテスも詩人ではない。この世に詩人などあり得ない。詩人は、はじめから死んでいる死人なのかもしれない。


5月14日

 終盤にさしかかった将棋の対局を見損なう。それなりにルールが洗練されているそのゲームは、べつに退屈しのぎの一環で行われているわけでもないのだろうが、やはり退屈を紛らわすためには格好のお遊びかもしれない。プロのように何手先が読めなくともついつい見入ってしまう。そこで何に遭遇しているのだろうか。それはただの風景なのだろうか。日々画面上から伝わってくる数々の事件や話題に何を思えばいいのだろうか。その場でどのような感慨を述べられるだろうか。それはたぶん本心から述べているわけではないのだろう。例えば、被害者でもないのに殺人事件の容疑者に憎しみの感情を抱くことができるだろうか。また、メジャーリーグで連続安打記録を更新中の日本人選手が活躍している雄姿を見ながら、それを我がことのように喜べるだろうか。情報を伝える側の望み通りに感情が制御されるなら、凶悪な殺人事件の容疑者には憤り、日本人大リーガーの活躍には嬉しくなってしまうのだろうか。さあ、どうなのだろう。そうであったならさぞかし日々の暮らしが楽しいかもしれない。操り人形の毎日はバラ色の世界を浮遊する。荒れ地に生えているヨシュア・ツリーは身も心も燃えているだろうか。そんなわけはない。街々は情報の洪水に見舞われて、酸性雨が愛を燃焼させるわけがない。終わりなき旅で、彼らは探し求めているものを見つけられたのだろうか。なぜそこでU2が燃えていなければならないのか。アイルランドは感情が発火しやすい土地なのだろうか。そこにアメリカの砂漠は存在しないし、ユッカの木も生えてはいないだろう。オーストラリアの乾燥地帯では、強烈な直射日光に照らされてよくユーカリの林が山火事を引き起こし、燃え跡の焼け野原から若葉が吹き出す光景に巡り会えるかもしれない。そこでは、不毛の大地が緑あふれる大地と共存している。つまりそれはアイルランドにネバダ砂漠を出現させるようなものなのか。そして燃え上がる愛はニュージーランドでの死に結びついたりするらしい。吹きすさぶ風にあらがい、不毛の大地にしがみつきながら大空に両手を広げ、何か呪文のごとくに独り言をつぶやいている。その気の触れた青年も、今や誰もが認める中年のロックスターに成り上がっているようだ。ボノはスティングに似ている。


5月13日

 美しい日々には常に危険がつきまとう。だが、それがどのような危険なのか全く感知できない。何も考えてはいないし、思っていることも何もない。そしてどこをどう辿っても結局はこうなってしまうらしい。何をやるでもなしに、いつもの気まぐれが作動する。偶然が様々な可能性の中から一番つまらなそうなストーリーを選び出すだろう。それは感性の自動制御とでもいうのだろうか。それはたぶん病気でさえない。しかし、病気でもないのにそれらしい言葉を連ねてみる。どうやらまだ心臓の鼓動が聞こえている。だが、回復はかなり先のことになるだろう。いつものように何を述べているのかはっきりしない。しかしどうやらそこに日常の現実が隠されているらしい。そしてそのような感性のドライヴが可能な限り現実から遠ざかりつつあるようだ。あちら側で生成された意識は、もはやこちら側の現実には興味がないらしい。たぶん昔から興味はないのだろう。しかしそれでもなお、これが現実なのだ。これは美しい日々とは言い難い。そんな文章を読むことからこの現実を見いだすわけにはいかないようだ。日々の生活を書き綴ったつまらぬエッセイでも読んでみれば、少しは暇つぶしと気休めになるだろう。確かにそんな息抜きも必要かもしれないが、それだけでは我慢できない人もいるらしい。そういえば、事件の真相をえぐり出す雑誌はどうなったのだろう。なぜ最近はあれらのくすんだ紙の束に出会えないのだろう。一向に巡り会う機会に恵まれないようだ。もはや意識の中ではどうでもいいことになっているらしい。すでに自分とは全く関係のないメディアになってしまったようだ。探す気がないから、書店でも見かけなくなってしまったのだろう。まさか言論弾圧に巻き込まれているわけでもないだろう。その存在を見いだすに至らないだけで、単にそこまで神経が回らなくなったのだろう。老人になると、世の中の流行り廃りにはついてゆけないと感じるらしい。まだ老人ではないが、偏見とはそういうところから生まれるものだろうか。確かに意識の中では、どんどん影響が希薄になってゆくメディアに今さら言及する気にはなれない。そこで薄れようとしている気力を振り絞って嘘八百なことを述べると、たぶん彼らは美学に敗れようとしている。それは敗北の美学かもしれない。敗北の美学に敗れつつある。それはずいぶん込み入った表現だ。敗れることは、つかの間の美しさに酔いしれることだ。醜悪な表現でも時には美しく映ることもあるらしい。では誰にとって美しいのだろう。そこまでは想像力が働かない。世の中には敗北の美酒に酔いしれるという表現が存在するだろうか。今まさに彼らは敗北の美酒の中で溺れつつあるらしい。気まぐれにそんな表現で取り繕ってみたが、根拠は何もない。


5月12日

 ただ無気力な時が過ぎ去り、別に精根が尽き果てようとしているわけでもないが、ありきたりな幻想に浸りながらも、あてもなくどこまでも彷徨っているうちに、気がつけば昨日が今日になり、明日が一昨日になるだろう。なぜそうなるのかはわからないが、なぜか気まぐれにそうなってしまうのだろう。相変わらず何もわかろうとしていないようだ。単にそういう方面でも気力が失われているだけでなく、それをわかろうと努力することに対する拒絶は、さらに一層頑なになっている。で、それからどうなったのだろう。過去形ではなく、これからどうなるのだろう。あまりその気になれないが、そこで繰り出されるのはいつものパターンになるだろう。もはや怠惰の誘惑から逃れることは不可能なようだ。つまらぬ戯れ事につきあっているうちに、昔の思考形態の大部分を放棄しつつあるらしい。それが本気なのかどうかは不明だが、それでもいいだろう。本心からそうなることを願っているわけでもないだろう。だが変化などまったく望んでいないにも関わらず、なぜか気がつくと、意識が変わりつつあるという現実に直面しているようだ。それは本当だろうか。本当かどうかは知らない。たぶん、フィクションとしてはそういうことになっているのだろう。どうもコーヒーメーカーでドリップしたコーヒーは苦いだけかもしれない。とても珈琲通とは言い難い。なぜかそういう名前のコーヒーメーカーを使用している。しかしそれでも継続されるらしい。何が続いてゆくのかはっきりしないが、コーヒーが苦いくらいで途切れたりしない程度のことが続くようだ。確かに、今まさに事件そのものに直面しているのだろう。だがそれはコーヒーが苦い程度の事件なのだろう。メディアが騒ぐセンセーショナルな事件とはそんなものだろうか。たぶん、この場所まで伝わってくるうちに雑音が混じって劣化してしまい、どうでもいいことになってしまうのかもしれない。今は何も響かない環境で暮らしているらしい。もはや共振には至らないだろう。望んでいないことを無理強いする気にはなれない。


5月11日

 なぜか目の前を大勢の見知らぬ顔が走り抜ける。バッタの一種だろうか。いつか干ばつでも起こればイナゴが大量発生するかもしれない。のどが渇ききってもうろうとした意識は何を望んでいるのだろう。それとは無関係に、場末の映画館の薄汚れたスクリーンは蜃気楼の彼方に何か気の利いた楽園の景色でも映し出すかもしれない。そのとき指先に微かな空気の揺らぎを感じるのだろう。それはどういうことなのか。またどのような状況を暗示しているのだろう。どうでもいいことだ。たぶん何を述べているのでもない。ただそういう雰囲気になるだけのことだ。いつものように意味不明な展開に巻き込まれてしまう。海峡の対岸で海を隔てて向かい合う者同士は、遙かな距離を越えて意志の疎通が図られることを願っているらしい。融和と相互信頼のための構想ならいくらでも捏造できるだろうか。到達すべき地点には赤い薔薇が咲いている。約束の大地で交わされる微笑の挨拶は儀礼の範囲内にとどまるだろう。お互いに不信感をあらわにするのが関の山だ。そこから真の交渉が始まる。


5月10日

 どうやらまだここから離れられないようだ。ここでさらなる忍耐の持続が試されているらしい。自らの力が及ばない場所で決定が下されることは多い。この世の中には、自分の一存ではどうにもならないことがいくらでもあるのだろう。現状が思い通りに事が運んでいるかどうかはともかく、思いも寄らぬところから破綻が始まるのは世の常なのだろうか。必ずどこかに盲点があるらしい。実際、どうでもいいような慣例に拘束され、融通の利かぬ人々のくだらぬ思惑に振り回されているようだ。振り払っても振り払っても髪の毛に蠅がまとわりつく。整髪料の香りが好みなのだろう。腐った血には大きな黒蠅がたかり、家畜の糞には金蠅がとりつくだろう。放っておくと庭は雑草だらけになる。何がそうさせるのだろうか。生命力が旺盛な季節には、何をどうしようと結局は根負けしてしまうようだ。あきらめて季節が通り過ぎるのを待つしか手だてはないのかもしれない。たぶん五月蠅いのはハエだけではないのだろう。ごり押しほどうるさくて始末のおえないものはないようだ。この世では執拗な自己主張が旺盛な生命力に結びつくらしい。マスメディアが伝えている内容はそればかりなのかもしれない。


5月9日

 空白の時はなかなかやってこない。雨上がりのぬかるみで靴が泥だらけになる。今でもその一瞬を鮮明に覚えているだろうか。どこでその書物と出会ったのか、もはやその記憶はだいぶ薄れつつある。どうやら哲学的な問いにも流行り廃りがあるらしい。そこで見いだされるそれらの言葉の中にも、その時代の何らかの流行を感じ取れるだろうか。いつまでも彷徨っている魂は神秘的な装いを纏うらしい。それはたぶん偽りの装いだろう。その時代においていったい誰が問いを発しているといえるのか。もはや死人以外は誰もいない。だが死人が新たに言葉を発することはないだろう。すでにその言葉の所有権は失われているようだ。確かに今もどこかで論語が読まれているらしい。そこで失われているのは生身の孔子だけではない。もはや補うことの不可能な気配が辺りを漂う。亡霊はそこで何かを眺めているらしい。現実の光景とは無縁の神秘的な山水画の表面に古代の哲人が描き出される。もはや風景とは感じられない。見る人によっては、それは単なる装飾された模様でしかないのかもしれない。湖の畔で仙人が釣りに興じている。昔とは墨の濃淡の度合いが微妙に異なっているようだ。以前とはまるで趣が違って見える。架空の時空で年輪が刻まれている。それを描く者にもそれ相応の年月を感じさせる何らかの時が過ぎ去ったのだろう。その先で自然と心地よい脱力感に包まれる。もはや何を述べたいのかよくわからなくなるだろう。たぶん、誰の作品を評価しているわけでもなく、そこで架空の作者像でも思い描いてみればいいだろう。自らの想像力と思考力の限界を悟ることができるかもしれない。そのつぎはぎだらけの織物のどこに魅力が宿るだろうか。どこかの奇特な御仁は、模様のまるで異なる布と布の不自然なつなぎ目に心奪われるわけか。いつの間にか、哲学的な問いとは全く無関係な結末に遭遇しているようだ。無意味な迂回をいつまでも試みながら、何かを完全に忘れようとしているらしい。それから、そこで語り継がれてきた果てしなき物語はどうなったのだろう。霧の中に消えゆく道をまだもう少し辿ってみる必要が生じているようだ。気まぐれに回り道を楽しんでいるうちに、自然と意識は眠気に支配される時間帯に近づいている。


5月8日

 雲が分厚く垂れ込めて陽ざしを遮り、暗い昼に蒸し暑さが加わる。なぜか外は雨だ。昨晩からこんな天候だったらしい。もはやその時空に意識はないようだ。その時点で何を考えていたのか思い出せない。過去からここまでの距離を辿り直すことができない。なぜか軽い忘却に包まれている。いつかまたくだらぬことを思い出す時期が来るだろう。絶え間ない試行錯誤の最中に、どこからかありふれた喧噪が聞こえてくる。たどり着くと、そこにはもう何もなくなっている。やっとの思いでここまで引きずられてきた。大地との摩擦で感情の棘が磨り減っている。ナイフの幻影に怯え、石にかじりついても前進するという強迫観念にとりつかれ、雨に打たれ、雪の中に倒れ込み、自分には影がないことに気づくこともあるだろう。鏡に映った自分の姿を透過しつつ、結果的には生き延びているらしい。死の影とは、いつ頃から意識しはじめるものなのだろう。


5月7日

 真夜中に川のせせらぎが聞こえてくる。さっきから聞こえていた犬のうなり声が急におさまる。急ブレーキでも踏んだのだろう、アスファルトの上にタイヤの跡がついている。苦労とは無関係に人は老いるらしい。その白髪頭はこれまで何を経験してきたのだろう。おおかた普通のありふれた経験ばかりだろう。では何が普通の経験なのだろう。それが特別でないことは確かだ。皮膚が異様に黒いのはゴルフのやり過ぎかもしれない。では自分はどうなのか。何が苦労で何が快楽なのか、その区別がつくだろうか。苦労と快楽が結びつくことはまれだ。だがそんなものにとらわれるのは面倒だ。どちらも苦手な部類にはいる。苦労を苦労とは思わず、快楽を快楽とは感じない。この世に苦痛など存在しない。それは見え透いた嘘だろう。たぶん、時や場所を選ばずに、至る所で苦痛だらけなのに、それでもなお、苦痛そのものは存在しないと言い張ることはできる。快楽も苦痛の一種かもしれない。


5月6日

 赤ん坊には親が絵本を読んで聞かせてやると知能の発達が促進されるそうだ。で、そうなるように効果的な絵本の読ませ方のハウツーマニュアルが作成されて、そのマニュアル通りに絵本を読んで聞かせてやると、賢いお子さまができあがるらしい。たぶんその番組の内容を真に受けてそれを実践する親の何割かは、うまくいかずに育児ノイローゼにでもなるのだろう。では、そこでうまくいかない原因は何だろうか。で、その原因を徹底調査して、調査結果を考慮した修正マニュアルが作成されたりして、またもやそれを真に受けて実践する親の何割かは育児ノイローゼにでもなるのかもしれない。何度マニュアルを修正しようと、うまくいかない事例が必ずでてくるだろう。そうなる理由は分かりきっている。他人が作成したマニュアル通りに子育てをするその姿勢そのものが間違っているのだろう。ではどうすればうまくいくのだろうか。さあ、知らない(笑)。たぶん、うまくいかないのが当たり前なのかもしれない。うまくいく方がおかしい。数年前に評判になった映画で、英才教育を受けたピアニストのほとんど栄光とは無縁の挫折だらけの半生を描いた物語でも見たら、少しはそれがわかるかもしれない。


5月5日

 世の中には汗だくでショービジネスをやっている人達もいる。テレビの画面上ではなにやら抗争が勃発しているようだ。筋書きによれば、それはなぜか突然の出来事だったらしい。リングの周辺ではよく筋書き通りに事件が起こる。柔道の元世界チャンピオンがわめいている。近頃のプロレス中継には、かつてのような強烈な印象が見当たらない。それは流血の惨事がないからなのかもしれないが、その独特のまったりとしたテンポにはどうしても身を委ねることができない。そこで何を見ればいいのだろう。たぶん素手でけんかをすれば、プロレスラーには勝てないだろう。その鍛え抜かれた筋肉を眺めながら、そんなことを思い浮かべたりすれば、その程度でとりあえずは満足しなければならないのかもしれない。それと同時進行で行われているらしいプロ野球中継とを交互に見比べながら、何となく退屈な週末の夜をやり過ごす。テレビで見ると、それらは両方とも実況者の過剰な言葉で埋め尽くされている。大げさな言葉によって視聴者の興奮を煽っているつもりなのだろうが、そこでどう興奮すればいいのかわからない。確かに画面上ではそれなりの見せ物が催されていて、その催し物に参加している人々が舞台上でせわしなく動き回っている光景にそれなりに感動できるだろう。そして、それらの参加者の行動にいちいち注釈を付け加えるのが実況者の役目なのだろう。なるほどおもしろい仕掛けにはなっているらしい。しばらく見続けることはできた。そして今はテレビを消してこの液晶画面上に文字を打ち込んでいる。窓の外は相変わらずの夜だ。いつもの暗闇が辺り一帯を覆っている。否定的な言葉ならいくらでも繰り出せるだろう。どうでもいいような対象に向かって否定の言葉を投げつけている。そのような感情の軌道には飽き飽きしているにもかかわらず、そこから未だに抜け出せていないようだ。見聞しつつあるすべてにおいて、興味が薄れているらしい。だから適当に批判すれば事が足りてしまう。そこで効率を追求するだけならば、それで良いのかもしれない。それ以外に何を求めているのだろうか。行き当たりばったりの偶然性でも必要だろうか。しかしそれならわざわざ求めなくてもあちらから勝手にやってくる。近頃はそればかりではないのか。そればかりに頼り切っている。だが、偶然性に流されるがままにさせておいて、その実何らかのせこい計算が働いているのかもしれない。そこにはどのような計算が働いているのだろうか。それはわかりきったことだろう。ここであえて述べることもあるまい。


5月4日

 なにやら日本海の対岸にある彼の地では、浦安市の湾岸にある遊園地はわざわざ偽造パスポートまで用意してくるほどの魅力があるらしい。ご当人はなかなかファンキーな人のようだ。そこいらにいる常人とはまったくかけ離れた常識と頭脳の持ち主なのだろう。そのような人間が生きていける環境が存在しているらしいことがわかっただけでも、この世界の奥行きの深さを実感できるというものだ。そんな冗談のような現実もとりあえず肯定してみよう。だが、肯定した後のことは何も決まっていない。何をどうするわけでもなく、ただ肯定してみるだけだ。つかの間の青い空を見上げながら、それとは全く別なことを思う。そこで青い空の中に何を見つけたのだろう。別に中空に浮かぶ空飛ぶ円盤を確認したわけではない。何が飛んでこようと別段驚きはしないだろう。そこで誰が叫んでいるわけでもない。もはやどこからも叫び声など聞こえてはこないだろう。ざわめきは背景の中に退き、感動とは無縁の静けさが辺りを包み込んでいる。ここはすでに砂の岬も荒れ地も存在しない大地だ。この現実の世界に暗黒大陸などない。それでも何か物音が聞こえるだろうか。それは想像上の幻聴なのか。それが具体的にどういうことなのか判然としない。確かにその時何かを思いだしていたはずだ。どうやらその時飛んでいたのは空飛ぶ円盤ではなく、意識が飛んでいたらしい。それはいつものことなのだろう。辺り一面に飛び散っていた言葉の断片が、地球の自転に伴う遠心力によってさらなる離散を被ってしまう。そんな具合に事態が推移すればおもしろいかもしれないが、実際はどうなのだろうか。曲がりくねった道の先には何があるのだろう。外見は変化しながらも変わらない核心部分が溶け始め、今まさに混沌の渦の中に沈み込んでゆく。いったい何が沈み込んでゆくのだろう。描写する対象がこの辺では見当たらない。いったん埋没してしまった言葉を再び浮かび上がらせるのは至難の業かもしれない。気がつけばいつもの風景だ。言葉の配置はおなじみのパターンにはまっている。どこから語ろうと結局はこうなってしまう宿命にあるようだ。何も語らずに空虚な何かを語っているつもりになる。それが何の意味や事件とも結びつかずにただ延々と繰り返される。気がつけばそればかりになっているようだ。そこで何かにのめり込んでいるらしいことはわかるが、そののめり込み方が幾分冗長気味で退屈な雰囲気を醸し出している。


5月3日

 椅子の上でマンボを踊る。どこの誰が踊っているのだろう。そんなことはフィクション以外ではあり得ないだろう。マンボを流行らせたのはキューバ人だったが、当のキューバではマンボは流行らなかったらしい。後にゲバラのテーマソングになる曲を作ったその人物は、メキシコでその生涯を閉じた。まだノスタルジアという映画を覚えているだろうか。すでにその内容を忘れてしまったらしい。なぜか葬儀でマンボを踊る集団に出くわしたりするらしい。覚えているのはまるで関係のない場面だ。笑えそうで笑えない状況に出くわす。早朝に、テレビではおかしな体操をやっていることがある。音楽に合わせて規則的に体を動かすこと、その習慣はいつの頃から始まったことなのだろう。健康信仰は無害な宗教とでもいうべきだろうか。できる限り五体満足で長生きがしたい、そんな欲望に突き動かされつつ、人々は毎朝体操をやっている。それは偏見だろう。人生の黄昏にさしかかった人々にとって、残された唯一の暇つぶしとはそういうものだろうか。さらなる嫌みを述べると反感を買うだろう。ひねくれ者には気晴らしの冗談としか映らないが、それを日々やっている人々にとっては、当然のこと冗談ではない。それを冗談だとみなす者の方こそおかしい。


5月2日

 虚無と俳句の間に挟まれた日々の記憶はまだどこかに保存されているらしい。その無意味な記憶は、遠い昔の日々に郷愁を抱いている意識をどこかに置き去りにして、未来から過去へ暇つぶしの時間が逆流していく。だが、遠くの風景は遠いまま、こちらまで出向いてくることはないだろう。壁に掛かったまま、ただ観賞用の風景になり果てている。たぶん、そこで行き止まりの袋小路だ。閉じた空間で出口を見失い、天井裏に閉じこめられたネズミの集団は共食いを始める。末期的な状況は、いつも決まってそんな手順を律儀に踏襲しつつ、人は破滅に追い込まれて行くのだろうか。そしてこの地上に空洞が出現する。モニュメントバレーの風景はすでにありふれているだろうか。昔流行った西部劇ではよく見かけられる風景だ。今どうなっているのだろう。たまにはフォードの映画で先住民の襲撃に遭遇したりするのだろうか。そこで干涸らびたイカの足をくわえて逃げる。駅馬車の逃走経路を猫とともに散策する。そんな嘘にはリアリティが欠けているだろう。どうも力が入らなくなってきた。肩の力が抜けているのと同時に、いつもとはだいぶ異なる思考形態が発動しているらしい。妥協への欲求は、いったんそれを許すと歯止めが利かなくなるようだ。この辺が限界ではあるのは確かだろう。


5月1日

 なかなか今起こっているすべて現実を肯定することは難しい。この社会の仕組みについて疑問を感じることはたくさんある。これからも将来にわたって、疑問が何もない状況になるような事態にはなり得ないだろう。しかしだからといって、自分の五官を通じて感じるすべての現実を否定することも不可能だろう。たぶん、この程度の現状なら肯定してもいいのかもしれないが、とりあえずは肯定も否定もしない態度を保って行きたい気もしてくる。しかし、そんなことが可能だろうか。それについて何か述べれば、結局は肯定否定のどちらかの論調になりざるを得ないかもしれない。テレビを見ているうちに眠ってしまったらしく、気がついたら翌々日の深夜になっていた。その間の一日がかなり慌ただしかったので、まだ体の疲れが抜け切れていないようだ。どうもこのごろは気がつけば遅れ気味になってしまうようだ。この辺が限界なのだろうか。体から徐々にカフェインが抜けてくる。この曇り空にもだいぶ慣れてきたようだ。翌々日の外は雨だ。これはまだ大げさな暗闇とは言い難い。闇の到来に恐怖し、血相を変えてことさら叫ぶには及ばない。そんな物語でも仮構してみよう。それはおかしな展開だ。何を述べているのか訳が分からなくなる。仮に大げさな暗闇が到来しようと、別に叫ぶには至らないのかもしれない。現実の世界では夜になればいつでも暗闇はやってくる。それを大げさに騒ぎ立てることはあり得ない。だから、もったいぶった調子で精神の闇について語る気はしない。そんな話をありがたがって拝聴する気にもなれない。そんな闇よりも、むしろ光の中にこそ強烈な狂気が宿ると思われる。精神的なハイテンションのただ中で、人々は歓喜に包まれて狂人になる。気が狂うということは最大級の喜びなのだろう。では歓喜の歌を合唱するのは狂気の沙汰に見えるだろうか。また舞台の上の歌手や役者達に万雷の拍手喝采を浴びせることは、そこで演じられた非日常的な狂った光景に対する熱烈な支持の顕れなのだろうか。そしてそこで感動の余韻に浸りながらも、もっと凄いさらなる狂気の到来を望む観客はアンコールまで要求するわけか。自分が記述した狂気の文字に感染されて、いささか表現がオーバーになる。それはともかく、我を失い感極まって歓喜の絶頂に達することが、狂気の真の姿になるだろうか。ならばそれとは反対に、いつも暗く陰鬱な雰囲気を漂わせている人はどうなのだろうか。鬱病の人は至って冷静だといえるのか。しかしなぜ狂気の反対が正常ではなく、陰鬱な冷静さなのだろう。これは今の心境の正当化とも受け取れる表現だ。なぜか言葉のつながりがぎくしゃくしてしまう。


4月30日

 閉じたブラインドの手前で急に昼の光景がよみがえってくる。今はそこで何をやっているのか。空気がよどみ、眠気が増して反応が鈍くなる。すぐには考えがまとまらないようだ。周りの雰囲気に流されるがままに、闇に紛れて辺りをさまよい続けるのだろう。いつまでも目覚めるきっかけを見失い、さらなる停滞の時が到来する。緊張感と躍動感に欠けているらしい。それからどうなったのだろう。まだ眠り続けているらしい。未だに腐ったまま朽ち果てる気配はない。そこで止まっているらしい。そのままでいいだろう。だがその言葉が気に入らない。まわりくどい言い回しに退屈しながらも、かろうじて絶望の夜から解放されて、はっきりしない雨が早朝から降り続いている。久しぶりの雨も少しは気晴らしになるようだ。外は雨なのに心の中は晴れ晴れとしている。なぜ心が晴れ渡っているのか、その理由がわからない。わかる必然性を感じない。わかるように努力する理由を見いだせない。相変わらずきっかけには出会えない。そう都合の良い成り行きにはいかないのだろう。その兆しは何もない。だが気分は爽快だ。それと反比例していつもの嘘に精彩がない。そんなことがあり得るだろうか。爽快な気分それ自体が嘘かもしれない。心にもないことをわざとらしく偽るのがこの場での慣習なのだろうか。ここでよくありがちな展開を求めるならば、答えはいつも風の中にある。それは何もないのと同じことかもしれない。とりあえずそれは、外の天気に関係なく、気分次第で心が晴れたり曇ったりしているらしい。それが嘘偽りなのだろう。その場で発せられた言葉の組み合わせとグルーヴ感から、そのときの意識や感情とは無関係にそんな記述が導き出されたりする。それは記述によって作られた心境なのか。たぶん、そこには現実が抜けているのだろう。リアリティがまるで希薄だ。本当にそんなことを感じているわけではないかもしれないが、その場で構築されたフィクションの中では、晴れたり曇ったり雨だったりしているらしい。それは現実の天気にはほとんど対応していない。確かに外界の変化に対応して人々の意識も変化しているのだろうが、その変化は天気だけではないのだろう。その程度のことなのか。気休めとしてはそんな結論を信じてみよう。だが、依然として何も変わっていない部分もかなりある。


4月29日

 気まぐれに付け足した余分な項目が字余りを誘発する。そういうことではないはずだ。ふとしたきっかけで何か足りないものに気づく。そんな都合の良い精神構造ではないだろう。前言をうち消しながら何かを探し求めているらしい。その何かが見つからないうちは、何かはいつまでも何かのままだろう。空虚な何かが、ただ循環するばかりだ。やはり虚無は自然に繰り返される宿命にあるようだ。もうだいぶ前から、そんな言説には嫌気がさしていたのではなかったのか。だが自然には逆らえないらしい。屋根をたたく雨音で目を覚ます。久しぶりの雨で古傷がうずく人もいるかもしれない。脇腹が少し痒い。雨音とスティールドラムの音が自然に混じり合って、霊感を活性化させているのだろうか。気分は励起状態のまま、別の時空へと移動する。空気の規則的な振動が画面上のその場が物悲しい雰囲気になるのをくい止めているようだ。見たこともない光景を見たいというありがちな期待は、延々と続く退屈な説明のうちに忘れられ、なし崩し的にはぐらかされる。湿り気とともにやってきた重苦しい空気には不吉な響きが入り混じっている。それは思い違いだろう。破綻する一歩手前の雰囲気を敏感に察知しているつもりなのだろうが、そこにはやはり何かが不足しているらしい。カメレオンの皮膚の色がさっきとは微妙に異なっているようだ。ガラスケースの中の爬虫類を観察しても世界を知ったことにはならないだろう。さっきとは明らかに曲調が違う。明るい雰囲気を醸し出していたスティールドラムの音は後方へと退き、それと入れ替わって砂嵐が到来する。今は朝までテレビ番組は途切れることなく続いている。砂嵐の画面の魅力は昔より増しているのだろうか。空想上の宇宙では彗星が地球に接近してきているらしい。直径が5キロぐらいの塊が落ちてくると、現代文明はこの地上から消えてなくなるだろうか。ロマンの代償としては、それはいささか過酷な選択だろうか。神の予定表には、そんな事件も書き込まれているだろうか。暇があったらバベルの塔の物語でも思い起こしてみよう。スペースシャトルの爆発事故からすでに十五年くらい経過したようだ。事前に何人もの技術者が爆発の危険性を指摘しておきながら、また発射前日にも、爆発するから低温環境での発射はやめるようにとテレビ会議で強硬に主張する者が大勢いたのに、すでに発射は気象条件や技術的なトラブルによって度重なる延期状態で、これ以上の延期には周りの人々が耐えられないので、それらの反対を強引に押し切って発射したら、見事に予想通りの大爆発を引き起こして、七人の尊い命を失う結果になったのだそうだ。なるほど、時が経てば事の真相が明らかになることもあるらしい。今回の気まぐれの付け足しはスペースシャトルの爆発事故だったのか。


4月28日

 リラックスが何かを生み出すことがあるのか。さっきまで何を思っていたのか忘れてしまった。スローなテンポで紡ぎ出された感情の糸はどこかで途切れる。その途切れた先から再び空白の時間が流れ始める。どうやら、何とか、かろうじて、やっとのことで、そんな表現がぴったりの展開になってしまう。これ以上何を望むつもりなのか。安物のソファーにもたれかかり、ただ天井の一点を見つめながらリラックスしていればそれで満足なのか。しかしそれでリラックスしているといえるのだろうか。単に放心状態でいるだけではないのか。時計の進みがやけに早く感じられる。ついさっきまではまだ夕暮れ時だったのに、気がつけばもう深夜に近づきつつある。このままでは何もやらないうちに、またもや明日になってしまうらしい。いったいどうやってこの空白の時間を浪費したらいいものか。その言葉はおかしい。誰も時間を浪費しようとは思わない。そのとき何を考えていたのか、または何も考えていなかったのか、その間の記憶が全くない。意識の推移をほとんど感じ取れていないようだ。だが、たぶんこのままでもいいだろう。若き日の志しは、このまま何もせずに朽ち果ててゆく。それは全くの嘘八百かもしれない。なるほど、心にもないことを記述するのが文学なのだろうか。しかし心にもないことは嘘なのだろうか。現実にここには安物のソファーさえない。ソファーを買えないほど貧乏な暮らしをしてるわけではないが、リラックスという言葉はソファーを連想させるらしい。そして作り物の意識の中では、幻想のソファーにもたれかかりながら身も心も朽ち果ててゆくのだろう。確かに安物のソファーは安っぽい倒錯に結びつくようだ。こんな戯れ言では不十分だろう。しかし、ここからどう展開させれば満足するのか。どうやっても不満な結果にしかならないだろう。この程度のドライヴでは涅槃には遠く及ばないだろう。ペットボトルの底に少し残っていた紅茶の味は少し甘かった。他愛のない嘘がソファーの幻影と戯れる。いつかそんな記憶を思い出すこともあるだろう。


4月27日

 晴れてすがすがしいとでも言えば、この天気を言い表したことになるだろうか。新緑がまぶしい季節になったようだ。こんな状態が長続きするはずもないだろうが、とりあえず久しぶりに気持ちのいい気候のようだ。そして、どうやら数ヶ月後には、断末魔の叫びを聞ける可能性もでてきた。いつもながら根拠は何もないが、そして誰もいなくなった、という展開に状況は近づきつつある。今回は道連れがかなり多い。メディアの支援を取り付けた今度の犠牲者達が落ち目になったとき、そうした状況は決定的なものになるだろう。もうすでに、やばそうな雰囲気をかぎつけた人々は、我関せずの態度をとりながら、早々と傍観者の立場を決め込んでいるらしい。とりあえずはそれが賢明な選択なのだろう。自分にはもとから傍観者の立場しか用意されていないので、ほとんど関係のないことだろうが、表舞台でこれから非難の矢面に立たされる人々にとっては、今後かなり辛い展開になるのだろうことは想像に難くない。テレビを見ていると、どうもそのことに鈍感な者達がかなりいるようだ。いらぬお節介かもしれないが、そんなに犠牲者達と親密になってしまって本当に大丈夫なのだろうか。そのにやけた面は、これから迫りくる危険に対してほとんど無防備な印象を受ける。たぶんそれは誰が仕掛けた罠でもないのだろうが、結果的には良識派を自称する人々を破滅に追い込むような仕掛けになっているようだ。国家を活性化しているつもりが、逆にその存在を希薄化させてしまう。現実にはそのような方向での努力しかできないだろう。それはそれで歓迎すべきことかもしれない。こうなったら、できるだけ多くの良識派を道連れにして混沌の海深くへ沈んでほしい気もするが、現実にはそうはならないだろう。ある時突然、すべてはなかったことになって、誰も何も、その件に関しては口をつぐむようになる可能性が高い。今、何もやらないうちから舞い上がってはしゃいでいる人々は、自分たちの犯した過ちに責任をとれるような輩では断じてない。どうやら今回ばかりは老人の不安が的中するだろう。


4月26日

 なぜか靖国神社に公式参拝するかしないかが、朝日新聞にとっては何にもまして重大な関心事であるようだ。記者会見に登場した新閣僚全員に同じ質問をぶつけて、場を白けさせているようだ。大変ご苦労なことだ。やはり嫌がらせもあそこまで徹底すれば、それなりに評価されるべきなのだろうか。どこの誰が評価するのだろう。これは8月15日前後の紙面が見物だろうか。忘れられているかもしれない。自分にとっては全くの関心外だが、そうなればどうせ中国やら韓国やらが毎度のことのように非難でもするのだろう。中国といえば、例の接触事故以来、アメリカが自国近くの公海上で偵察飛行を繰り返していることを非難しているらしいが、中国も同じ共産主義国のよしみでキューバ辺りにでも頼み込んで、軍事基地でも借り受けて、アメリカの東海岸の近海で偵察飛行でもやり始めれば、結構おもしろいかもしれない(笑)。自分はどちらの味方でもないので、これについてもあまり関心はない。社民党が主張しているように、この際日米安保はやめて、平和友好条約にでも移行する時期なのかもしれないが、まだそういう思い切ったことをできる日本ではないだろう。国家と経済が密接に結びついていると思われている状況では、中国よりもアメリカと仲良くしておいた方が得だという認識が大勢を占めるだろう。アメリカには自由と豊かさがある。外に向かって開かれた社会が彼の地には存在している。サッカーを除いてそこはメジャーな世界のプロスポーツのすべてが集結する場所かもしれない。世界の学術・芸術・スポーツ・産業のほとんどの分野が、アメリカという地域なしでは成り立たないのだろう。だが、それらが必ずしも国家としてのアメリカと重なっているとは思えない。その中で、大統領のブッシュの政策など、何の影響力もないように感じられる。もしかしたらホワイトハウスや連邦議会なしでも今のアメリカならやっていけるのではないだろうか。かなり荒唐無稽で全く説得力はないかもしれないが、自分には合衆国政府や連邦議会はアメリカの本質ではないように感じられる。アメリカに本質などないといえば、そうかもしれないが、アメリカには何でも詰め込める余地がまだかなりあるように思われる。どうも今の日本や韓国や中国には、そういう無駄な余白みたいなものがないような気がしてならない。


4月25日

 よくわからないが、どうもおかしい。いきなり嘘をつくと、なぜか季節はずれの大雪だ。粉雪が舞う北の大地にはロマンがある。そんな思いこみを胸に秘め、はるばる南の島からやってきた者はすぐにその場で凍死した。そんな話は聞いたことがない。土蔵の中で斜め後ろから彫像を眺める。その彫像は二宮金次郎の銅像に似ている。鏡に映ったその顔は左右が逆さまだ。しばらく前から、上下が逆さまになった画面に見とれているらしい。逆転の発想とは、逆立ちしながら疲労困憊することだろうか。逆立ちする必然は何もないが、血が頭に溜まって苦しそうだ。どうもさっきから、わざとおかしなことを述べようとしているらしい。しかもそれが全くかみ合っていない。どうやら作り話にも限界があるようだ。いや、限界があるのは作り話ではなく、それを記述しようとする者の想像力の方かもしれない。


4月24日

 何かを述べはじめると、決まっていつもながらのおかしな展開になる。少なくともそこで迷っていることは確かなようだ。試行錯誤とはどのような実践のことを言うのだろう。確かにそのやり方には何らかの可能性があるかも知れないが、その場限りのぎくしゃくした言葉のやりとりだけが、唯一のやり方とは思えない。なぜ別の可能性を見いだせないのだろうか。いつも思いもよらぬ言葉の配列に遭遇し、ただ困惑ばかりが深まる。いったいこれは何なのか。なぜか隣り合う言葉同士がことさらに不可能なつながりを追い求めているような形で、一つの文章に融合し、それを記述しようとする者の思惑を常に裏切る方向へ進みながら、そんな傾向を頑なに実践しているらしい。そこには何らかの積極的な徴候が見受けられるだろう。だがその言葉の並びはまったくの解読不能だ。単にわけがわからないだけではそれを肯定できない。端から現前へ向かう方途を放棄しているようにしか思われない。それはもはや常軌を逸している証しだろうか。いったいいつからこんな言葉の分布が形成されはじめたのだろう。単に事態の推移に従ってだんだんおかしくなってきたわけではないようだ。そうかといって、原因不明の突然変異とも言い難い気がする。そこにはそうなる必然があるような気がしてならない。ただ、現時点ではよくわからない、わかっていることはそれ以外に思いつかないのか。そこから知り得る傾向は度重なる疑問の蓄積だけなのか。他に何が明らかになっているのだろう。要するに少し難しく状況を捕らえすぎで、単にそれだけではないような気がするだけなのかも知れないが、やはりよくわからない。なぜか方々で、度々いきなりの唐突な転調が到来してしまうことがよくある。そこで一過性の俄雨に見舞われる。頭上を大きな雲が通り過ぎようとしている。こうして、過渡的な経験を通過しつつあるらしい。やはりつながりがおかしい。たぶんこれは、自己言及か何かのつもりらしいが、どうしても苦し紛れの悪あがきともとれる内容となっている。自分が何を述べているのか自分でさえわからない。自分で自分の意図をはかりかねているようだ。だが、まったく辻褄が合わないにもかかわらず、ここから先へ進む気になっているらしい。しかし、はたしてそれが前進と言えるのだろうか。それは何とも言えないが、とりあえずこの先へ進んでみよう。だが、前進しているつもりで実際には停滞している。そう思って差し支えないだろう。逆に積極的にそうであってほしい。今さら前進などしたくない。だがそう思った瞬間から、今度は前進しはじめるだろう。そんな思い通りに行かないことばかりで疲れているようだ。そういうジグザグな逡巡をいつも繰り返しているだけかもしれない。


4月23日

 電球色の蛍光灯の下に黄色い闇が忍び寄る。影までが黄色い。影ではなく光だろう。それは作りごとの照明なのだろう。部屋中が黄色い幻覚で充たされているようだ。幻覚ではなく現実だろう。使われない暖炉には数年前に焼けこげた黒い燃え滓が残っている。それを何に喩えているつもりなのか。突然に何かが閃くこともある。たまには何らかの意味を悟るのだろう。啓示とは何だろう。どこかで聞いたような台詞に飽き、頭の中が黄色くなる。あまりにも特定の色にこだわりすぎかも知れない。ありふれた台詞を言えば、桜の木の下には死体が埋まっているそうだ。ではイチョウの木の下には銀杏が埋まっているかも知れない。ツリー上の枝に黄緑色の若葉が一斉に芽吹く。紅葉の季節にはまだ遠いようだ。あと半年もある。葉が黄色く色づくのに、なぜか紅葉と言わなければならない。よく見ると交差点では黄色信号が点滅している。それを無視して突っ込むと硝煙の香りが漂ってくるだろう。44口径の神話は片手で撃つと肩が外れるというたわいのないものだった。イーストウッドはどうだった。少なくとも作りごとの世界では肩は外れない。それが神話を形成したりするわけか。現実の世界では本当に肩が外れるかも知れない。しかしなぜ44口径で撃たなければならないのだろう。それは映画だからだろう。刑事が初めから自動小銃を乱射したりしない。映画の中でもそうだ。自動小銃は犯人側が乱射するものと相場は決まっている。ワルサーP38で撃つのはルパン3世と相場は決まっているだろうか。それはつまらぬ脱線なのか。まったく素直ではない。意識のどこかでしらけているらしい。それが戯れ言の限界を告げている。だが、囲炉裏の灰の中でまだ微かに熾き火が燃えているようだ。火はもはや残り滓だけで生きているわけか。それでもまだ家庭用の小型焼却炉の内部に付着しているダイオキシン程度の毒が残っているだろうか。曇り空の切れ間から時折弱い陽の光が眼球に差し込む。春の空もたまにはまばたきをするらしい。ベランダのアルミ冊の隙き間から硬い常緑樹の葉が煌めいて映る。それがどこで液晶画面上の言葉と繋がるのだろう。リボルバーは自動小銃ではない。そんな当たり前のことを意識の外で混同しているように見える。たぶんその間には説明の言葉が抜けている。そこに納まるべきかなり長い挿話が省略されているようだ。突然の転調はいつものことなのだろう。何かを付け足すつもりが大きな欠如を生み出している。どうやら空隙に何らかの痕跡を刻み込む作業は徒労に終わったようだ。


4月22日

 意味のない暗闇を抜けて、一夜明けたら晴れて北風が思いのほか強い。やはり気のせいなのか、心なしか地軸が斜に傾いているような気がする。それはいつものことだろう。今日は釣り日和なのだろうか。確か今日は何の日でもないだろう。もしかしたら人名事典でも調べれば、誰かの誕生日を見い出すかも知れないが、ここでそれを探すつもりはないし、ことさら誕生日を見つける必然性は何もない。なんとかここまで辿り着いた。もう夜になる。あやふやな夢を追い求めているうちに歳月が積み重なる。やがて夢は樽の中で色づきはじめたウィスキーのように静かに熟成され、それが無駄ではなかったかのように何らかの価値を纏ったりするだろう。夢見る人はそんな救いを求めている。そう願いたいものだ。生ぬるい嘘は百害あって一利なしだろうか。だが一利などいらないだろう。百害でもあるだけありがたいところだ。百害でこの空虚を埋め尽くしてもらおう。机上の空論でなら何とでも言えるだろう。だが、これは空論ですらないかも知れない。間違ってもこれは世界情勢の分析でないことは確かだろう。大袈裟な言葉は嫌いだが、何かを主張しようとすると、決まってその手の言葉を使用せざるを得なくなる。やはりそれは欠陥だろうか。世界情勢について語ることが安易な選択なのかも知れない。それだけで自分が体験しつつある現実から逃げている。ここにあるこの現実を直視できないから、ここではないどこかへ目を向けたくなる。その距離感が恣意的な操作を可能としている。こうして、得意になって語っている世界はフィクションになる。結局はそんなことの繰り返しなのか。


4月21日

 格子状の模様を見つめていると目が疲れる。なぜか背景全体が格子縞で占められているようだ。他意は何もない。ただそういう背景なのだ。イライラしながら現実を見失い、気がつけばチェックメイトなのか。だが、今さらチェスのルールを知る気にはならない。自分の意志は二の次であり、何事にも天の意向が優先されるらしいが、その意向の真意がわからない。相変わらず脳はふやけたままで、あまり使い物にはならないようだ。たぶん天に意向も真意もないのだろう。そう思うしか何もやりようがない。そう認識したうえで、自分は何がやりたいのか。いったい何をやろうとしているのか。何もやるつもりはないし、実際に何をしているわけでもなさそうだ。やはりそんな意志はどうでいいことかも知れない。要するにすべての現実から逃避しているのだろう。もはや逃れられない状況すらやり過ごしたつもりになっている。本当にやり過ごしているかどうかは疑問だが、とりあえずそのつもりのようだ。それでうまく切り抜けられたらしめたものだ。しかし未だかつて切り抜けられたためしがない。何が困難を感じさせるのか、それをわかろうとしていないようだ。わかりたくないのかも知れない。結局何もやりようがない。だが、別にやりようのないことをやらなければならないわけでもないだろう。やろうとしていることは極めて単純なことだ。まずはそれをやってみたらいい。たぶん行うのは難しで、言うは易しなのだろう。こうして意味のない言葉を重ねているうちに気が抜てしまう。もうすでに、何に苛ついていたのか忘れてしまった。


4月20日

 どうやら寄せ集めの言葉にはまったくつながりがないようだ。分散し過ぎてほとんど強度が失われる。だが不可能な要求には応えられない。この期に及んで何を主張したいのだろう。風が強い昼に銀色の幻影を見たい。強烈な真夏の日ざしの中で夢を見る。それは何年前の夏だったのだろう。銀色の閃光に打たれてしばらく意識を失っていたらしい。そんな偽の記憶が粗製濫造されている。いつまで経っても戯れ事は尽きないようだ。それがこの現状を象徴しているらしい。なぜか閃きは驚きとは無縁だ。その輝きは誰を魅了しようとしているのか。ノルウェー製の家具にはフィヨルドの香りがする。そんな嘘に酔う気にはなれない。笛吹けど民は踊らずか。それは不可能ではなく、不可解な行動に映るだろう。救国の戦士達は、ただいま全国を講演行脚の真っ最中なのだろうか。まったく、どこにわけのわからない輩が湧いて出るか知らないが、なぜかアメリカにはサムライが出現しているそうだ。今さら何を言っても始まらないわけでもないだろうが、とりあえず大衆娯楽としては野球場にサムライが出没した方が面白いのだろう。たぶん大統領には誰がなってもかまわないのと同じ程度には、どこの誰が野球をしようとそれほどの違和感はない。それと同程度には、どこの誰が総裁になろうと総理大臣になろうとそれほど驚かないだろう。ある程度は嘘を承知で、そこに人物の器だの資質だのを導入しなければやっていられないのもわからなくはない。メディアが発表するそれらの評価を真に受けとるほどナイーブではないが、それが真剣になって批判するようなことでもないのは確かだ。その結果がどうなろうと、とりたててどうということはない。その程度の小波瀾に何を戸惑う必要があるだろうか。大いに戸惑ってみようではないか。少し声がかすれている。夜になり、また冷えてきたらしい。変動しているのは相場だけではないようだ。この世は興味のない結果がすべてなのかも知れない。必要のないことばかりに囲まれているのが現状なのだから、戸惑う必要のない状況に戸惑わなければならないのは当然のことだろう。


4月19日

 ゲットーの少年は成長していつしか大人になる。世界には黒人がいて白人がいて、黄色い人々がいるらしい。そういう分類の仕方から何かを学んだようだ。つまらぬ知識から導き出されるのは、月並みでありふれた偏見の一種かも知れない。アフロヘアーに何らかのアイデンティティーを見い出したいそうだ。数十年前ならそれで通用したのだろう。今でも限られた地域でなら通用するかも知れない。流行の最先端は虚無に支配されている。そこで何が流行っているというのか。流行っているものなどいくらでもあるだろう。それらすべてにいちいち目配せしている暇などない。そこには何らかのサンプリングが介在しているようだ。どのようなものを調査するか、その対象を変えれば自ずから結果も違ったものになるだろう。南風が吹き付ける地域では、カリブの風がバタフライ効果でハリケーンになったりするらしい。そんな解釈もあるが、いつもながらの意味不明だ。そこで何を述べたいのだろう。まったく例え話になっていないような気がしてくる。例えば、流行の時代と問題の時代の狭間であり得ない現象が生じているわけでもない。ならば、これ見よがしに自然環境の破壊を嘆いてみせたりすれば、何となくヒーロー気分を味わうことができるかも知れない。一昔前ならそれもありだったのだろう。今ではそれだけでは不十分で、環境破壊を食い止めるための何らかの提案と実践をたずさえて議論に臨まなければ相手にされないだろう。どうやら、特定の言説の流行もそれほど長続きはしないようだ。事態の進行状況に対応して繰り出される言説や行動もそれなりに進化してゆくらしい。だがその進行状況を見極められたりするわけか。いったい誰が見極めるのだろう。自分は見極めているつもりなのだろうか。そうは思っていない。その辺の所はかなり怪しい。思いっきり勘違いしている可能性もなきにしもあらずだ。ただ勘に頼っているだけで、苦し紛れの言葉を発して右往左往しているだけかも知れない。かつて金の鉱脈を嗅ぎ付けて、大勢のろくでなし達がこの場所へ殺到したらしい。ブームが去った今でも、ごくわずかな人々はひたすら徒労に汗を流しているのだろうか。まさか血尿が出るまで努力することもないだろう。まだ常軌を逸していないような気はするが、この程度では満足できないらしい。結局は行くところまで行って、感情のインフレーションを体験しないと気が済まないのだろう。それがこの社会の制度というのなら、そんな気もしてくる。確かにそういう意味では、芸術は爆発なのだろう。デフレでは困る人々が目下の所は発言力があるようだ。日本だけではなく、アメリカやEUがゼロ金利政策になったらかなり面白くはなるだろうが.........。


4月18日

 桜が散りはじめて数日が経ち、雑木林が黄緑色に染まりだす。虚無的な風景だ。その印象は信用できない。地平線も水平線も限りがなく、どこまでも続いているかのように思われる。山塊のただなかで道に迷う。誰が迷っているのだろう。マタイの受難はかなり長い。そのスローなテンポにはついてゆけず、いつもの居眠りがはじまる。産業用ロボットはいつまでも同じ動作を繰り返しているわけでもなさそうだ。絶えず微妙なずれを修正しなくてはならない。わずかなずれでカオス系の計算値は大きく異なる。丘の上の車が炎上している。その手のテレビの見過ぎだろう。その幻影は画面上から生み出される。そこで何らかの計算が働いているわけか。何かの痕跡が次々に写し出される。旧石器時代は現代で造り出される。おそらく苦肉の作であり、苦心の作なのだろう。黒曜石の輝きには欺瞞と打算が写し出されているらしい。回転木馬は遊園地で回っているが、陽の光を浴びて手にもったアイスクリームが溶けかけているようだ。笑顔は長続きしないだろう。戻ってくるはずのない報酬はマイナスに振れている。不安定な砂地で足下がおぼつかないようだ。成功の高みから一般人を見下ろしているつもりらしいが、はたしてそれが成功と言えるのだろうか。それどころかまったくの失敗作かも知れないのに、その隙だらけの余裕は底の浅さを露呈している。間抜けに映るだけかも知れない。そんな人々が何かを喋っている。わからない、コメントは差し控えさせていただく。何を述べたらいいのかわからない。ひとつひとつの音の積み重なりが驚きをもたらすことを理解できないでいる。未だ改悛には程遠いらしい。たぶんそこに至る以前に、何が過ちなのかわからないだろう。確かに地平線も水平線もどこまでも続いているかも知れないが、実際は凹凸を形成している障害物によって至る所で途切れている。見ているそれは決して全景ではない。今も窪地から空を見上げている。もはやその願いは空に届かないだろう。そうかといって、地中を掘り進むわけにも行かない。意識は彷徨い続ける。確かな輪郭を何も見いだせないし、かといって何も見えないわけでもなく、現に見えている事物の存在を認められないでいる。だがそれ無しでは何もできないだろう。要するに、それを認めることは大変不愉快なのだろう。そのどっちつかずの立場から、ただ虚無的な光景を眺めているらしい。そこで見失われているのは未来でも過去でもない。意識して盲目を装うことは、見え透いた嘘だろう。自らの卑劣さが体中から滲み出てくる。それは無駄な悪あがきかも知れない。必死になって自らあげている悲鳴を聞かないように策略を巡らしているつもりなのだ。端から見れば、それはただ滑稽に映るだけだ。その永久に回転木馬が回り続けるかのような思い違いは、少しづつ是正していかなければならないだろう。地中にうごめくミミズの夢はあり得ない。たぶん、この暗号があり得ない幻想を呼び込むだろう。


4月17日

 それは宿命ではない。すれ違いには慣れている。なぜそこで会うことになったのか、その経緯は未だにはっきりしない面がある。偶然にしてはあまりにも周到な準備が施されている。計画の詳細はよくわからないが、少なくとも、そこで生成した出来事の時間的な順序や事物の配置が、様々な出会いのきっかけをつくったことは確かだろう。だが、その仕組まれた運命の出会いはまったくの空振りに終わるだろう。あからさまな欲望は腰砕けになり、期待外れの脱力感と拍子抜けに見舞われる。それが当然の帰結かも知れない。これは予言ではなく、今実際に起こっている現実そのものだろう。「解任」ではなく「懐妊」という言葉を嬉々として使用する者は、何があってもはしゃぎたいようだ。その時を本当に待ち望んでいるかどうかは定かでないが、それを待望すること自体が見当外れであり、もはやメディアによる情報支配にも限界があるだろう。仮に期待通りに事が運んだとしても、それはそういうことでしかない。単に自然の摂理が作動したまでのことだ。数年前に皇室盛り上げキャンペーンを先導していた大物議員は、今やKSD事件の被告となって拘置所の中で生活しているのだろうか。しかしこちらはこちらで何を期待しているのだろう。自分が何を企んでいるのか、その真意をはかりかねている。時がくればその全貌が明らかになったりするわけか。そう単純な成りゆきにはなりそうもない。たぶんそれは計画であって計画でないような、何も事前に決められていない企みなのだろう。今は何も企んでいない、といっても差し支えないような具合になっているようだ。確かにそこでは、何らかの感性のドライヴが存在しているだろう。その軌跡は未来へ向かって延びているらしいが、軌道がどこを通過するかはまだ決定していないのだろう。しかし何を述べているのだろう。まだ何も述べていないような気さえする。内容は何も定まらないまま、ただわけのわからない言葉が規則的に繰り出されているだけかも知れない。いつものことだが、まったく本気になれないのだ。例えば、教育問題という問題は存在しないだろう。それは問題ではなく間違った答えだ。少なくとも今も昔も、教師の仕事は、自分が受け持っている授業の内容を定められた時間内で生徒に理解させることでしかないだろう。それ以外の進路指導や生活指導等は枝葉末節な事柄であるにもかかわらず、自分の子供の将来の成功を願う親や、自分達の出身校や所属している学校を、学術やスポーツなどで世間に名の通った有名校にしたい、あるいは現に有名校であるステータスを維持したい、と願う卒業生や理事会や、その意向を真に受けた勘違い教師達の夢や希望や目的が、本来の仕事内容を歪めているだけだ。目の前に人参をぶら下げられて、いつまでも走り続けられる馬がいるだろうか。無垢な生徒達に勝手な夢を吹き込んで、その夢に向かって努力しろと命令する前に、まずは自分達が教えている授業内容をわからせることが先決だろう。それだけで十分だろう。それは試験に出るとか将来必ず役に立つとかいう短絡的で功利的なことではなく、今世の中にはどのような思考形態が存在し流通しているのか、そしてそれらがこの社会にどのように反映されていて、どのような仕組みや制度を形作っているのか、それらを授業を通して生徒が知るように仕向ければそれで十分なはずだ。夢や希望は大人達が押し付けるものではなく、子供達が偶然のきっかけから勝手に抱くにまかせればそれでいいはずだ。なぜ子供の心の中にまで大人が立ち入らなくてはいけないのだろう。それは余計なおせっかいでしかない。


4月16日

 どこかの浜辺に潮が満ちてくる。よくありがちな経過を辿ると、そこで、まるで何かに引き寄せられたかのように事件が発生する。今は潮干狩りの季節なのだろうか。だがそれは事件ではない。ならば、例えば水死体が打ち上げられたりするわけか。なるほど、こうして何となく探偵小説のような成り行きになったりするわけだ。だがそれも戯れ事だろう。そういつも死体に遭遇するわけはないが、やはりそれは、その手のドラマの中ではいつものことだ。確かに、何の予告もなく、思いがけない不意打ちによって、当事者を困らせるために、つまらぬ出来事がわざわざそこまでやってくる。だがそれは一過性の事件だ。人が殺されないと話の進行に支障をきたす。そんな予定調和の展開にいささかうんざりさせられるが、もう慣れてしまっていて、それはいくぶん新鮮味に欠ける毎度お馴染みの現象でしかないだろう。もはや罠にはまった気分にもなれない。間違っても、そんな展開が至福の時をもたらすことはないだろう。しかし、肝心の事件の内容はどこへ置き忘れてきたのだろう。何やら否定的な言辞を弄んでいるが、結局は何も語らずにその話は終わってしまっているらしい。それで何か不都合でもあるのだろうか。そこで話が終わる理由が見当たらないのだ。たぶん面倒なのだろう。それでもなぜか空は晴れ渡っている。雲がひとつも見当たらない。しかし天気は理由に結びつかない。全く何の脈絡もない転調だ。昼の暖かい日ざしの中でまだ桜が散っている地域もあるらしい。要するに暇なのだろう。別に暇を持て余しているわけでもないが、余暇を有効に使うことができないようだ。いつも無駄な昼寝で時間を浪費してしまう。そこで巡り会える時間は、ここに見い出された時間の切れ端になる。その余った時間の中で耳を澄ませば、どこからかそれらしき音が聞こえてくるだろう。遠くから雑音混じりで微かに聞こえてくるその音をやり過ごすことはできる。今さらそんな音にはあまり興味が湧かない。なぜか言葉が不協和音を奏でているようだ。やはりそれもいつものことなのか。いつもはうるさく吠えたてていた。久しく犬の遠吠えを聞かない。たぶんその犬はキャットフードでも食べているのだろう。ミャ〜。


4月15日

 次々に起こる様々なトラブルになんとか対処しているうちに、気がつけばもう夜だ。いつものように何もやる気が起こらない。それで、つまらぬ記憶を追いかけて気を紛らしているらしい。昔は何もしないうちに、朝になり昼になり夕方になり夜になった。最近では考えられない状況だろう。言葉のバランスが悪い。夕闇にまぎれて姿が見えなくなる。見えないのは姿だけではなさそうだ。どこに消えたわけでもなく、部屋の中でテレビニュースを見ているだけだろう。相変わらず感情が消失しているらしい。無表情であるばかりでなく、意識の中には何も見当たらないようだ。過去の残滓さえ見失われている。それを探し出す気が起こらない。アクションヒーローが映画の中で活躍する。探している宝物はどこへ行けば見つかるだろうか。スフィンクスの目の中にヒントが隠されているだろう。もしかしたらスターウォーズの続編の中で見い出されるものがそれかも知れない。火星の大地にはある人物の墓標が立っている。どこかで見かけた顔だった。忘れかけた記憶の片隅に微かな思い出が残っている。幽玄の心は十九世紀のパリで花開く。離散系の言葉は飛び飛びの場の中に痕跡を印すようだ。中には物好きな人もいる。行列に並んで牛丼を食べたい人もいる。中ではアルバイトの中年おばさんが店長に口答えしている。その現実はどこで見い出されるのだろう。フィクションの中の虚構が現世にあふれだす。きっかけなどない。与えられているのは、どこかで拾ってきたデタラメな言葉だけなのか。気休めの言葉が見つからないまま、街角では放置自転車を老人が撤去している。作業はいつまで経っても終わらないだろう。それは彼らの寿命を凌駕する。仕事とはそんなものなのかも知れない。用水路に捨てられた自転車は、やがて朽ち果てるだろう。薄汚れた熊のぬいぐるみを収集している人々にはわからないことだ。地の果てに至上の時が訪れることはない。そこはかつて広大な干潟だったらしい。そんな記憶が見い出され続けるのだろう。


4月14日

 竹薮の中で風の音を聞く。巻貝の貝殻に耳を近付けると海の音が聞こえてくる。砂浜に打ち上げられた椰子の実は誰かに拾われるかも知れない。玉石は灰に埋もれて姿を消す。足が竦んで階段の途中でうずくまる。何を述べているのかよく分からない。それを無理に記述しようとすると、必ずわけが分からなくなる。たぶん焼き物にはあまり興味はないのだろう。確か本物の曜変天目茶碗は三個しか現存していないと記憶している。そのいずれもが国宝だったかも知れない。最近は多くの陶芸家がその再現に挑んでいるらしいが、成功した例はあるのだろうか。試作品は幾らかあるらしいが、それに成功したニュースはまだ聞いたことがない。しかし素人目には単なる斑模様の茶碗でしかない物が、それほどの価値を持つ訳は何なのだろうか。稀少価値以外にそれが人々の心を魅了する理由はなんだろうか。たぶん現物を見れば何かしら分かるかも知れないが、どこかで公開されているだろうか。是非それが展示される機会に巡り会いたいものだ。それとも、その幻の茶碗を探しに出かけようか。どこへ探しに行こうとしているのか。皆目見当がつかないが、少なくとも今後チベットかどこかの骨董市で稀に見かけられたりする可能性はないだろう。それがなぜチベットなのか分からないが、そんな気がしてくる。チベットの神秘的な雰囲気だけで何もかもが見い出されるわけもないだろう。


4月13日

 何をやろうと無駄というのなら、何もやりようがない。途方に暮れるばかりだ。ただとりあえず気が済むまで努力してみれば本当に無駄かどうか分かるかも知れない。だからやってみるしかないだろう。何も知らないわけではないが、知りたい内容を理解したい。それが無駄な努力でもかまわないだろう。それ以外に何が望みなのだろう。もしかしたらそれ以外にも何か別の望みがあるのかも知れないが、今のところ意識の表面には昇ってきていないようだ。しかし実践とはなんだろう。試しに、どこにでもありそうな風景の中で、どこにでもありそうな会話をする。そんな会話の内容などいちいち覚えてはいない。覚えていなくても困らないだろう。それはどこにもあり得ない状況かも知れない。架空の風景の中で架空の会話を楽しんでいる振りを装っているのだろう。もしそうであったなら、少しは気休めになるだろう。気分的にはそうであってほしいのだが、実際はそうはいかないだろう。ことの成り行きはそれとは全く異なる。昨日から冷え込んできたようだ。なぜか急に寒くなる。別にそれがどうしたわけでもないが、寒冷前線が去った後に虹を見た。そのとき、冷たい雨に打たれて何を想ったのだろう。そのときの心境など何も覚えていない。過去をいちいち振り返るのは面倒だ。もう何も想いはしない。周りでは、どうということはない毎日が適当に過ぎ去ってゆくだけだろう。春に日ざしの中で、昼にはカラスの鳴き声が騒がしい。夕方には救急車のサイレンの音が遠ざかり、犬の遠吠えも止むだろう。目を閉じると眠気が襲ってくる。それ以外に何が起っているのだろうか。たぶん、いろいろな出来事は起きているのだろう。ところで昨日の話はどこへいったのだろう。またもや忘却の彼方なのだろうか。


4月12日

 とりたててやることがないので、またもや自家中毒になる。気紛れに架空の迷路で迷った振りをしているらしい。相変わらず本気にはなれないようだが、たまには焦ってみたりするらしい。どこでどう道を間違えたのか、回り回って元来た道を逆戻りしていることに気付く。堂々回りとはこんな状況のことをいうのだろう。いや、この状況はそれとは少し違うのかも知れない。何を述べても無駄かも知れないが、それでも気晴らしに何かしら述べているようだ。しかし何を述べているのかよく分からない。だがそれでいいらしい。たぶんそれでいいのだろう。それ以外に何を述べることができるというのか。何か別のことを述べられるかも知れない。だが、今さら何か真っ当なことを述べる気はしない。そんな状況ではないようだ。それどころか、これ以上は何もやらなくてもいいかも知れない。それは以前からそうだろう。昔から何もやらなくてもよかったのであり、いままでやってきたことといえば、いらぬおせっかい以外には何もやっていないのかも知れない。近ごろは妙に辺りが騒がしくなってきたように感じる。まだ何もやっていないのに、意識はすでに終わっているかのごとき錯覚に包まれている。たぶん、それは錯覚などではなく、紛れもない現実だと言いたいのだろうが、そんな実感は何も湧いてこない。たしかに意識全体が錯覚に覆われているのに、なぜそれが実感に結びつかないのだろうか。全く楽観的な気分から離れられない。未だに未来への可能性を信じているようなのだ。良くなる根拠は何も見い出されないのに、なぜそれが絶望に結びつかないのだろうか。より良い未来の到来などは期待しない。絶えず不安定で不確実な状況を望んでいるらしい。間違っても誰かの計画通りに事が運んでほしくはないのだろう。


4月11日

 天にも昇る気分とはどのような気分なのだろう。気紛れに歩道橋の上から下を覗き込む。瓦屋根の上から三毛猫に見つめられる。昼には椅子の上に猿顔が立ち上がる。階段を降りたところに灰皿が林立している。そこから闇雲に前進し続けていると、いつの間にか天井が低くなりつつあることに気付く。人々は何気なく大気に押しつぶされているようだ。両足が地面にめり込んでいる。この圧迫感は何だろう。少し息苦しさを感じる。天からは程遠い奈落の底からわめいている人々がいるようだ。たぶん選挙ではなく世論調査が総理大臣を決めるだろう。冗談でいえば、世界のすべては冗談で構成されているだろう。この世界はたぶん冗談の一種なのかも知れない。それは嘘だろう。それどころではなく、本当にすべてが冗談なのだろう。この世界の外も冗談で満ちている。それはすべてが冗談であると同時に、その冗談がすべての真理を含んでいる。真理は真実には結びつかずに冗談を呼び込むようだ。この世界が何なのかはっきりしないが、そのすべてが物理的な物質から成り立っているわけではないらしい。確かに物質と物質の間には隙間がある。たぶん、その隙間が何らかの空間を構成しているのだろう。そこに冗談の生じる空間が出現している。それはまったくいい加減で、可能な限り手抜きを施された穴だらけの張りぼて空間なのかも知れない。だが、正視に耐えられないような、その期待外れの外観に人々が真顔で怒りだすほど、さらなる滑稽な展開を呼び込むだろう。今期待されているのはそういう展開なのだろう。しかしそんな展開を誰が期待しているのだろうか。たぶん私が期待しているのだろう。


4月10日

 しかしこの期に及んで誰が叫ぶというのだろう。現実にはもう誰も叫んでいないだろう。もはや叫ぶ対象は見失われ、誰も何も叫べなくなるだろう。そんな時期がやってきたりするわけか。それは予言の一種なのか。世紀末はとっくの昔に過ぎ去った。今どき予言者は流行らない。誰もそんな予言を必要としないだろう。かつて叫んでいた人々はいつまでも外れた予言の言い訳に終始する。結局はそんなことしかできないだろう。まったく現実を把握できていない。彼らにとっては、現状に対処することなど二の次になる。失墜した自らの信用を回復せんがためにせこく立ち回る。かつて吹聴した大言壮語はなかったことにしてもらいたいようだ。いつの間にかそれらのガラクタは放置され、何の後始末もつけていない事実は忘れ去られる。とりあえず、昔ことを蒸し返されるような面倒な事態は避けて通る。実際は避けられないのに避けて通った振りをする。だが、そんな戦略がはたしてどこまで通じるのだろうか。やっていることといえば、昔と同じようにただ妄言を弄しているだけだ。こうして滅びゆく人々の行く末はすでに決定しているようだ。たぶん起死回生の策はないだろう。それでも一応はそれがある振りを装うだろう。そのように振る舞って時間稼ぎをしているつもりになる。まったくそればかりだ。他にやることがないのだろうか。たぶんない。おそらく何もないだろう。自分の立場や行いを正当化するために赤の他人を利用する。ようするに彼らのできることはそれだけなのだ。やはり彼らはクズでしかないらしい。


4月9日

 叫んでいる。誰かが叫んでいるだろう。確かに叫んでいるが、そんな叫びなど届かないだろう。ここでは何も聞こえない。いつものように言っていることとやっていることが違う。自民党の派閥争いを国民無視と批判していながら、自分達はわずか千人に対するアンケート調査結果を国民の声だと偽って発表して、その千人以外の数千万人の国民の存在を無視している。それは、千人に意見を聞けばその他の数千万人は以下同様で構わない、というまさに国民無視の反民主主義を実践していながら、その明白な矛盾については一言の説明もないまま、批判対象の自民党には、その千人のアンケート調査結果を国民の声として耳を傾けろと迫っている。なぜこんな愚劣なやり方を平然と何十年も繰り返しているのだろうか。例えばこれが教育問題になると、とたんに、一人一人の個性を大切にして、子供それぞれの習熟度に対応した教育を行うべき、という、これもまた何十年も前から言われている、個人や個性の尊重を訴えてしまうわけだが、それがなぜか世論調査になると、国民の一人一人の意見や個性など全く無視して、千人に画一的な質問を一方的に押し付け、その他の数千万人は以下同様で片付けてしまう。本当に彼らはこの矛盾に気付いていないのだろうか。


4月8日

 風に煽られて紙切れが中に舞う。その表面にはこんなことを書かれているのだろう。ついに祈りが天に届く。誰を誹謗しているのでもない。朽ち果てた思想にしがみついている。自分のやっていることに気がつかない。そんな台詞は聞き飽きた。だが、どうもそれだけではないらしい。瞑想と沈黙の生活を望む人々は洞窟で暮らしている。孤独に充たされることで精神的な快楽が得られる。修行者が求めているのは精神の充足感だけなのだろうか。それとも何か別の対象へ道が開けていたりするわけか。では、神や人間以外に対象を見つけられるだろうか。他に対象はいくらでもあるだろう。対象など何でもいいのかも知れない。何でもいいが、気が進まない。いくらでもあるはずなのに、特定のものを選べない。眠たいのだ。


4月7日

 様々な場所で途方もなく長い年月が経過したらしい。まるでパズル合わせのように、言葉の断片をつなぎ合わせてみる。方々に散らばっている詩人の絶筆を収集しているそうだ。たぶん彼は嘘をついているのだろう。いったい誰が詩人と言えるのか。該当する人物を知らない。うらぶれて辺りを彷徨う。海辺での散歩が憩いのひとときを招き寄せる。そんな生活に憧れているわけでもない。迷っているだけなのだろう。いつものことだ。それは架空の放浪かもしれない。仮想空間で偽りの旅をしているつもりなのだ。体はどこへも行かないのに、意識は移動していると思っている。意識に足は生えていない。鳥のように大空へ羽ばたくわけでもない。大地につなぎ留められて、なぜか真上を見上げながらぐるぐる回っている。回転しながら地中にめり込む。このまま地球の裏側まで掘り進めるだろうか。その気もないのに荒唐無稽な物言いで不満を紛らしているのかも知れない。


4月6日

 灰色の川が屏風に塗り込まれている。腐食した銀は暗闇を内包する。数百年の歳月が黒い水の流れを描き出す。だが、そんなことはどうでもいい。四角い画面上では何も感じない。死人の言葉は埋もれたまま二度と日の目を見ないだろう。壁画の表面で作者が笑っている。その内面は空虚だ。そこに情熱は皆無だ。蝉の抜け殻を描写する。ハイパーリアルな表面とは裏腹に、中身はどろどろの液体が詰まっている。六角形の陣形から紫の煙りが立ち上る。それが魔法の徴であってほしいのだろう。瞑想に耽っているうちに三日が経った。積み上げられたレンガを叩き割る。空手家は無駄な動作が多すぎる。やる必要のないことまでやらなければならない。そうすることがその状況での習わしなのだろう。深夜の通りで暴走族が群れるのもそうだ。何を夢見ているわけでもない。感性を磨耗させて日常生活の退屈さに耐えているだけなのだろう。誰もが暇を持て余しているようだ。だからスポーツニュースを真に受けて、他人の動向に一喜一憂してみる。


4月5日

 この地上には、まだ踏破されていない土地があるらしい。未知の領域が存在したりするわけか。人知れず秘境に楽園が存在する。それはよくありがちなストーリーを呼び込む。それはどこにあるのだろう。物語上で探検したりすると、ついにはそこへ行き着くだろう。そこへ到達するまでが、ハラハラドキドキの冒険活劇の様相を呈することになる。こうして未知の領域はありふれた非知の領域へと変化するのだろう。非知の領域ならどこにでもありそうだ。本屋へ行けばいくらでも見つけられそうだ。それは知とは関係がない。別に隠れていて見えないのではない。すでに見えているものを、改めて見えるようにする。それは遠い過去の記憶ではない。見知らぬ遠い土地にあるわけでもない。今ここに活字や漫画や映像として存在している。それは技術によって生産されたひとつの商品である。そして絶えまない技術革新によって、いつも新た装いをまとって人々の視覚を刺激し続けるだろう。たぶん明日に思い出されるのは未来の風景だろう。明日よりさらに先の出来事が過去の記憶として思い出される。未来と過去がそこで融合するわけだ。だが、その先に時間があるのだろうか。それはすでに過ぎ去った時間なのではないだろうか。もはや賞味期限切れであるにも関わらず、来るべき世界を描くという約束はとうに忘れ去られ、それを待ちくたびれて関心も消え失せた記憶すら遠い過去の時間の中で置き去りにされている。すべてが過ぎ去った今、そんな状況の中で、はたして未来に可能性があるのだろうか。それでもまだ、架空の未来へ期待し続ける人々がいるだろうか。デジタル技術を駆使した架空の映像に見とれていることが、はたして希望とどう結びつくというのか。たぶん何らかの希望が託されているのだろうが、金銭面での実利を期待する制作者側の希望以外に、そこには何があるのだろうか。確かに一時的に夢を見させてくれる。それで満足すべきなのかも知れない。人々はわざわざ金を払って夢を見なければならないらしい。


4月4日

 木の葉舞う季節から遠く離れ、暖かい春の日ざしの中で、陽気な暗闇と戯れる。灰色の野良猫はどこかへ旅立ったらしい。それが雲の彼方でないことを祈ろう。その辺に生えている雑草にも花が咲いている。ふと、勝手な思い込みをしたい衝動に駆られてみる。そのしぶとい生命力は何を暗示しているのだろう。退屈な問いに答えなどない。いや、問いに答える行為そのものが退屈なのかも知れない。もちろん、戯れに投げかけた問いに親切に答えてくれるお人好しの登場などを期待しているわけでもない。たぶん、空虚な思いで自然と戯れている振りをしているだけなのだろう。だがそれが目一杯の表現でないことはわかりきっている。まるで本気にはなれないのだ。そして、苦し紛れに繰り出された言葉はどことなく不自然な連なりになる。何も見い出されない虚空からふいに不在の場所が出現したように感じられる。それはどこにもあり得ない幻の空間なのか。そこに何があるというのか。何もないから不在の場所であり、あり得ない空間だから幻なのだろう。ひとつの記述が二つに分かれる。言葉の配置を変えて同じことを二度述べてみる。そこで何かを強調したいらしい。何らかの組み合わせや配列を指し示したいのだろう。現実と虚構の組み合わせではない。不在の場所で幻影を求めているようだ。まったくあり得ない状況を希求しているらしい。何を述べているのかわけがわからないが、それも一応は言葉の連なりではあるだろう。具体性のかけらすら見当たらない。いや、当初は具体的な風景が見い出されていたのだが、それが続かない。紫の花を咲かせた雑草が群生する土地からは遠く離れた場所にいるので、その風景にリアリティを感じなくなっているのだろう。もう夜も更けてきた。今さらそこへは引き返せない。見上げれば寒空に星が散らばっているだろう。また明け方に冷え込んで、昼は暑くなる。そんなことをくり返しながら、しだいに気温は上昇していくのだろう。こうして虚空から現実の空間へ意識が戻ってくる。そんな戯れに試みられる偽りの往復運動で心が充たされたつもりになる。そんなやり方で何を埋め合せたつもりなのか。それは何の代用品なのだろうか。たぶん、本当の生き方などないだろう。生き方が定められていないから、人は迷いながら生きて行くことになる。それはそういうことでしかなく、それの代用品などあり得ない。真理の有効射程は時間的にも空間的にも殊の外短い。それが有効に機能している場所から少し外れると、とたんに、それとは別の真理が支配するテリトリーに入ってしまうだろう。それは中国に不時着した米軍の偵察機と同じようなものだ。二つの真理の境界線上で軋轢が生じ、二つの価値観の間で人々は迷う。たぶんこれからもそんなことの繰り返しが続いて行くのだろう。そして、そこから逃れようとしてはいけないのかも知れない。そのどちらか一方を選び取ってはいけないのだ。安定を望んでそれをやれば、おそらくそこで終わりだ。終わった人々の言動はみすぼらしい。だから、絶えず不安定な境界線上に留まらなければならないのだろうか。その辺はなんとも言えないところだ。自分にはあまりはっきりしたことはわからない。ただ、自分が何をどう思おうと、なるようになってしまうのだろう。


4月3日

 眠気に逆らい、また地球の重力に逆らいながらなんとか立ち上がる。いつもより体が重く感じられる。一時期と比べればだいぶ症状は改善したようだが、花粉症なのか風邪なのか、あるいはその両方なのか、医者の診察を受けていないので本当のところはよくわからない。春の天候は目まぐるしく変化する。急に暑くなったと思ったら、すぐさま寒くなってきた。軟弱者には過酷な気候だ。体が気候の変動についてゆけない。この変動につられて風景も微妙に変化しているようだ。巷では見かけない若者がうろついているようだ。動作がぎこちなく、環境に不馴れな印象を受ける。日本ではこの時期が一年の節目なのだ。新入生やら新入社員やらが、これまでの環境とは異なる場所で暮らし始めたから、そう感じるのかも知れない。人々はそういうフレッシュな若者の未来に期待しているのだろう。その結果、自然と現実逃避の捌け口がそこへ向かうらしい。若者に向かって何か言いたい人々が大量発生している。しかし、この社会に適応するように学校教育によって調教され選別されてきた人間に何ができるだろうか。たぶん何かできるのだろうし、実際に何かをやりつつあるのだろう。確かに、人間にとって動物は調教すべきものとして存在するらしい。では、例えばペットの躾と子供の教育はどう違うのだろうか。ペットも子供も、この社会に馴染むように訓練を受ける。いい加減だが、面白いからとりあえずここではそれらを混同してみよう。この社会を存続させて行くために、大人は子供を調教しなくてはならない。もちろん、その教育と呼ばれる調教に対して子供達が反発するのも、システムは織り込み済みであって、今度はその反発の度合いによって選別が適用される。表向きは子供それぞれの敵性に合った職業が割り当てられることになるのかも知れないが、現実には調教に反発して社会制度に適応できなかった人々の生きる余地はほとんど残されてないだろう。だがそうかといって、すぐに死ねるわけでもない。そういう人々にはそれなりの生き方が用意されている。ある者は引きこもったまま身動きがとれなくなったり、またある者は職にあぶれて犯罪に走ったり路上生活者になったりするのかも知れない。たぶんそういう人々も必要悪として社会が必要としているのだろう。例えばそういう人々が存在しないと、ニュースやドキュメンタリー番組は成り立たない。また、犯罪者がいないと警察の存在理由が消失してしまう。要するに、大枠としては、これらも制度の一部を構成しているのだろうし、教育と呼ばれる調教が正常に機能している証だろう。こうしてこの社会は今後とも存続して行くらしい。


4月2日

 どうもこの現実に向き合うのには、かなりの精神的な疲労を伴うようだ。考えただけでめまいがしてくる。まだ果てしない航海の真っ最中だとでもいいたげな成り行きとなっている。どうやら、神はさらなる消耗をお望みらしい。そのうち、本当に何もなくなって、残ったものは、黒く汚れた消しゴムの滓だけになるかも知れない。そうまでしてやる必要はないだろう。全くおかしな話だ。たぶんこの辺でやめるべきなのだろうが、現実にはやめられないし、実際やめないだろう。そういう成り行きであり、そういう展開に巻き込まれているらしい。そこにあるのは意味不明な暗闇だけだろう。その真っ暗な空間の中では、どこかのミステリー小説みたいに、そう都合よくうめき声やわめき声がするはずもない。操り人形のような人格が退屈まぎれに生成したりはしない。そう簡単にフィクションを受け入れるわけには行かないのだろう。そういう方向での逃避は不可能になっているらしい。テレビで目をそらしたりウォークマンで耳を塞いだりせずに、そこに横たわっているなんとも捕らえ所のない現実に真正面から向き合わなければならないのだろうか。それは抽象的な表現だ。おそらくそれではダメだろう。まだ何か足りないのだろうか。いやそうではなく、圧倒的に不足しているのかも知れない。


4月1日

 息苦しく感じて深夜に目が覚める。体中汗だくになる。そんな事実はないかも知れない。たぶんそれは作り話だろう。このところ、生活のリズムがいつもとは違ってきたようだ。だが、出てくる言葉の配列は毎度お馴染みのパターンだ。相変わらずの冷めた言葉の羅列になる。いつも冷静でいられるわけはないが、常に平静を装っていることは確かだ。退屈しのぎにつまらぬ人格を演じているらしい。そんな下らぬ演技はいいかげんやめようとは感じているが、今のところその兆しはないようだ。やめたくてもすぐにはやめられないのだろう。何かが変化を邪魔しているらしい。どうも自意識は首尾一貫性をお望みのようだ。まるでタペストリーのように過去の慣習が脳の大脳皮質に縫い込まれているのかも知れない。それをリセットするのは容易ではないだろう。ほとんど不可能なことかも知れない。たまには意識してそのどこかを変えてみたくなるが、それも長続きしたためしはない。気紛れな試みは飽きやすい。いつも途中で挫折して、元の退屈な習慣に戻ってしまう。それでもごくまれに、いつもとはまったく違う言葉の連なりになってしまうこともあるが、それもほんの一瞬のことだ。すぐに何ごともなかったかのように事態は推移する。その瞬間、日常の時空に亀裂が走ったように感じられたりするのは、たぶん気のせいだろう。その程度では、日頃の鬱な気分が少しは晴れたような気になるぐらいで、根本的な変化に至るきっかけにはなり難いだろう。要するに、現状ではつかの間の気休めを求めることぐらいしかできないのかも知れない。しかし、その気休めがなければ生きていけないだろう。今やそんな気休めだけがこの生命維持装置の駆動源になっているみたいだ。それ以外に、今ここで何を求めることができるのだろう。ここで見い出されるのはそんなものしかないのだろうか。他に何があるのだろう。気がつけば壁の一点に黒い染みが生じている。目がぐるぐる回っているらしい。静止できない。それを見つめる度に激しく視線が上下する。そのうち、胸が張り裂けんばかりに動悸が高鳴り、その場へ卒倒しそうになる。たぶんそれは嘘だろう。無理に見い出そうとすれば嘘の言葉が導き出される。荒唐無稽なフィクションに遭遇しているようだ。どうやら意識の内部では、俄には計測し難い歪みが徐々に広がりつつあるようだ。はたしてそれも嘘なのか。嘘なのかも知れない。何となく、この状況からそんな感触を得たつもりになる。確かにそれは、無視し得るごく小さな歪みなのだろう。静寂の中に今し方過ぎ去った嵐の残骸が散らばっている。そんなものを今さら取り立てて無視するにも及ばないか。