彼の声21

2000年

11月30日

 たぶん何に対しても興味はない。唯一の例外もなくすべてに興味を失ってしまった。それが作り話の始まりだった。それは嘘だろう。それはわかりきったことだ。だが興味という言葉については何もリアリティを感じない。今は感じていない。たぶん、またいつかリアリティを感じるようになるのだろう。何か興味の湧くようなものに出会うだろう。それはいつだろうか。そのときになってみないとわからない。当たり前のことだ。だが、その当たり前のことに疑念を持っているらしい。いつかとはいつなのだろう。いつかなど永遠にやってこないのではないのか。それでもいい。それがいつやってきてもやってこなくてもどちらでもいいのだ。たぶん彼らは逆らうことしかできないだろう。それが思うつぼの展開を呼び込むことになる。そのような行為から神の意志が生じるのかもしれない。なぜか勝手に審判が下されるのだ。それが神の意志となる。無から有が生じてしまうわけだ。ありもしないことが現実に起こってしまう。彼らが逆らえば逆らうほど、その審判の効力はより強固なものとなるだろう。神の意志を生じさせているのは、彼らの感情的な抵抗そのものなのだろう。思い通りに事が運ばないことに対する、彼らの屈折した皮肉な表情に神が宿るらしい。ようするに彼らは、ざまあみろとしか言えない、それ以外に何の実行力もない無力な人々である。それがマスメディアに携わる人々の本質なのだろう。これでは何も変わりようがない。そういう者達がはびこっている世の中がこういう現実を生じさせているらしい。しかし、だからこそ、彼らはこのような現状に対して批判の声を上げるわけだ。そしてそのような声が大きくなればなるほど、彼らの頑なさに比例して、彼らの批判の対象もより頑なな態度を強めてしまうだろう。そうして、さらに両者の間の溝は深まり、結局は彼らの思い通りには行かなくなる。そこに神の意志が反映されているらしい。そこに神が出現するわけだ。そこで神の思い通りの展開を祝福するかのように、人々の理解を超えた出来事が起こってしまう。もう唖然とするより仕方ない事態になってしまう。だが、そこでも彼らは、我田引水のごとくに、自分達が主張していることを正当化する言説にひたすら終始するだろう。彼らにはそれしかできない。彼らのやっていることはただそれだけだろう。たぶんそうする以外の他の方法を編み出せないでいるのだ。せこいプライドにしがみつくことしかできない者に現実を変える力はない。これからも彼らは、自分達の知り得たいろいろな事件にあれこれ口を挟もうとするだろうが、その言説は、いつも言われる端から忘れ去られてしまうだろう。彼らが何か言うたびに、彼らの言っていることをあざ笑うかのような事件が発生するだろう。彼らは常に試されているのだ。どこまでその卑屈なゴミのような薄ら笑いを浮かべていられるかを競わされている。さらにひどい状況になるためにはその競い合いが欠かせないらしい。どうやら身の程知らずは死ぬまで身の程知らずで存在し続けなければいけないらしい。たぶんそれが神の意志なのだろう。しかしそこでいったい誰が権力を握っているのだろうか。それは彼らでもなく彼らが批判する対象でもなく、ましてや神でもない。誰も権力を握ることなどできはしない。彼らはメディア媒体上から、特権的に万人に向かって言葉を発することで権力を行使していると同時に、その毎度おなじみのオオカミ少年のような言説によって常に拘束されているのだ。それ以外の言葉を一言も発することはできないだろう。あとは、おまけとして、せいぜい自虐的に一般人の日常生活を演じてみせることぐらいだろう。親しみやすさを演出しているつもりなのだ。流行の趣味について語ることでウケをねらっている。大衆に媚びているわけだ。だが、それ以外に何ができるのだろうか。できないことを期待するわけにもいかないだろう。たとえば、今いる政治家を批判する前にそういう政治家を選んだ有権者を批判してみてはどうか。たぶんそうはしないで、そういう政治家が選ばれてしまう制度を批判して終わりなのだろう。しかし、どう考えても、彼らが必死になって浴びせる罵詈雑言にもかかわらず、そういう政治家が現実に選挙で選ばれている現状を考えたら、まず、真っ先に彼らが批判しなければならない対象は、そういう政治家を選んだ有権者になるのが筋だと思うが、そして、罵詈雑言を浴びせている政治家以上の罵詈雑言をその人物を選んだ有権者に浴びせてみてはどうかと思うが、それはとんだ見当違いなのだろうか。その辺が昔から彼らを信用していない理由のひとつとなっているらしい。そこには絶えず欺瞞や偽善の臭いが漂っている。ただ、もはや政治家個人を批判することが有効ではないことは、現状を見れば明らかなことだろう。


11月29日

 走っているわけでもないのに、前方しか見えない。たぶんそれは嘘だろう。歩いているわけでもないのに、試しに立ち止まってみる。べつに航海の途中ではないが、なぜか無風状態だ。波風は何も立たない。至って順調なのかもしれない。だが、順風満帆というわけではない。なぜこのような現状が順調と言えるのか。確かに順調に迷っている。迷路で迷っているのは相変わらずのことだ。それでいいのだ。まったくそこから抜け出る必要性を感じていない。そのままそこに留まっていればいい。譲歩する必要はいささかもない。何を譲歩すればいいのかわからない。思い当たる節は何もない。どうすることもできないし、今さら何をしても無駄だろう。だが一方でやり残したことも多少はあるだろう。今まで誰とも対峙したことはなかったし、交渉すらしたこともなかった。だがこの期に及んで、何か交渉しなければならいことがあったりするのだろうか。ここで交渉の場を設けられるだろうか。だが今さらいったい何を交渉するつもりなのか。交渉相手など誰もいないし、仮にいたとして、これらの拒絶に関して、何をどう交渉するつもりなのか。交渉の糸口はまるで見つからないだろう。今まで何か交渉するつもりだったのか。はたしてその程度のことで交渉する気があったのか。ところで交渉とは何だろう。しかし交渉相手もいないのに、なぜここで交渉に至るのだろうか。実際は交渉にすら至らない。はじめから何も交渉する必要がないからだ。今のところ交渉する材料など何も見あたらない。交渉する以前に、その手続きは、何もかもスムーズに運んでしまうだろう。その疾走や歩みや航海がスムーズだったと言えるかどうかはともかく、今までそれに対して何か反響があっただろうか。多少はあったかもしれない。だが、それらに対する反響とは何だろう。それらが多少なりともこれらに影響を及ぼしたのだろうか。たぶん及ぼしたのだろう。だが、その影響がとりたててどうということはない。ただ、そういう影響があっただけのことだ。反響は反響でしかなく、結果としてくだらぬ感情が生じただけのことだ。そしてその程度の感情に失望しただけのことだ。世の中はいかに愚かな人々で覆われているかがわかっただけだろう。だがどのような経緯でそのような反響が生じているのだろうか。そこにはあるシステムのようなものが介在しているのだろう。資本主義と呼ばれる主義でさえない主義によって欲望を植えつけられた者達がくだらぬ技巧を競い合う。競争心に煽られて倫理が欠如する。その結果、目先のつまらぬ栄光を手に入れようと必死になっているだけになる。小銭を手にして喜ぶわけだ。反響としてのこだまとはそういうものだろう。確かにこだまは返ってくる。どうやらこだまは何らかの見返りを求めているつもりらしい。散々くだらぬ行為で馬鹿を丸出しにして、その上にまだ何らかの報酬が欲しいのだろうか。厚かましいにも程がある。しかし、いったいどのような報酬を必要としているのだろうか。そもそも報酬とは何だろう。何かと何かが交換されなければならないということだろうか。今さら何と何を交換するつもりなのか。交換されるようなものを持ち合わせているだろうか。そんなものがはたして交換されることがあるだろうか。俄には信じられないことだ。交換される見返りとして何を差し出すつもりなのか。差し出されるものは何もないだろう。何も必要とはされないようだ。しかし本当に返ってくるのはこだまだけだろうか。それ以外に何が返ってくるというのか。ただ、こだまだけが返ってくる。何らかの反響がある。それはこだまだ。そこでは反響音がするだけだろう。何も交換されない。あいにく交換できるものは何も持ち合わせていないらしい。それでも強引に何かと何かを交換しようというのだろうか。それでは完全なフィクションになってしまうだろう。それでもいいのだろうか。それは架空の何かと何かの交換なのだろうか。とりあえず交換したことにしておくつもりなのだろうか。現実には何も交換されていないにも関わらず、そこで何かが交換されたように装うつもりなのだろうか。その架空取引によって何らかの利益が生み出されることになるらしい。だがわからない。依然として何もわからないままだ。


11月28日

 いったいユーモアのセンスはどこへ消えてしまったのだろう。そんなものははじめから持ち合わせていなかったのかもしれない。はじめから持ち合わせていたものとはなんだったのだろう。何も思い浮かばない。もしかしたら何も持ち合わせてはいなかったのかもしれない。ここまで至る途中で、何かのきっかけや偶然の成り行きで何を体得したのだろうか。理解していることは、何も所有することはできないということかもしれない。自己の中に何が蓄積されているわけでもない。外部からの刺激によって構築された神経回路網によって、行動や思考における何らかの動作手順が確立されているだけなのだろう。確かに様々な記憶が蓄積されているかもしれないが、それらは実体を伴わない幻影である。実体は常に自己の外部に存在する。あるのはその実体を理解するために参照する情報だけだろう。だが、その情報を所有していると言えるのだろうか。いったい誰が所有しているのだろうか。何かのきっかけや偶然の成り行きですぐに忘れてしまうようなものを本当に所有してると言えるだろうか。それらの情報は誰のものでもないのかもしれない。ただ一時的に記憶として留まっているだけのものなのだろう。それらは、活用されなければすぐに忘れられてしまう。しかしその機会はどうやって訪れるのだろうか。それを活用する目的で、必死に覚え込もうとする情報もあるだろうが、それが有用な情報だと気づくのは、偶然のきっかけやその場の成り行きによることがほとんどだろう。何かの機会に他人から教わったり説得されたりして、それが有用だと信じるに至るわけだ。だが、有用だと気づく前にすでに活用しているかもしれない。意識せずにそれらの情報を活用してしまっている方が、より自然な成り行きかもしれない。考える前に行動している場合の方が多い。その場の状況に応じて様々な反応が重なり合い、それが、全体として何らかの方向性を持った思考や行動であるように見なされる。それは、いつも何かが起こった後から事後的に見いだされるのだろう。その現象を説明するには、具体的な事例をいろいろ示し、そのおのおのについて別々に説明する必要がある。それぞれの対処法は、その事例の数だけ存在し得るだろう。そこに何か特別な共通項は存在しない。それだけ把握しておけばすべての事例に通用するものなどあり得ないだろう。世の中はそれほど甘くないはずだ。だが、どういうわけか人々は、いつもそのような最大公約数的なものにすがろうとしてしまう。それが存在すると必死になって信じ込もうとする傾向にあるようだ。まるで冗談か何かのように、理論物理学顔負けの究極の理論や法則を常に探し求めているわけだ。そして、これだけ覚えておけば大丈夫という安易なハウツー本にだまされ続けることになる。それは一見、最小限度のマナーや常識だけでもわかりたいという要求に、いかにも効率的な答えを提示しているように見えるが、逆に、それだけでも体得しておけば大丈夫というマナーや常識は無限に存在することを忘れさせ、無限にあるものを身につけることの非効率さに気づかない怠惰を絶えず促進し続けているだろう。そのような怠惰に付け込んで、非常識なマナーや常識はずれの常識が次から次へと粗製濫造されることになる。それを覚えたり体得したりしようとする者にとっては非効率極まりないことが、粗製濫造する側にとっては最も効率のよい商売となるだろう。例えばパソコン関連のハウツー本などはまさにそれの典型で、中途半端な知識ばかりが散りばめられていて、その中の一冊を読んだだけでは疑問ばかりが増殖してくるので、また一冊、もう一冊と買い込んでいくうちに、買った本の数だけ疑問が増えるということに気づいて、やっとハウツー本を買い続けることの非効率に気づくことになる。ハウツー本の内容を字義通りに解釈してはならず、そこで思考を働かせて改良や応用を加えなくてはうまく行かないことをようやく理解する。そして結局は、本の中で示されている事例とは微妙に異なる条件において、その条件独自の性質を自力で導き出さなくてはならなくなる。


11月27日

 お互いの視線が交錯する先には何もない。それは安易な逃げの態度だろう。見いだされた風景とはそういうものだ。その風景には何も見いだせない。それは風景ではなく、風景とは映らない光景なのだろう。そこではどの方角を向いても何を見ようとしても、常に焦点が定まらない。網膜にはどのような像も映し出されないだろう。何もかも著しく輪郭がぼやけているらしい。結局のところ何を述べたいのかがまったく不明確なのだ。はっきりした視線が存在できない。明確な視線を基にした言説が不可能となっているようだ。そこにあるのは、あやふやな言葉の積み重ねだけだろう。しかしそれを積み重ねていくほどに、お互いの視線はさらに相殺し合って、よりいっそう何も確定できない混沌状態へと突き進むのだろう。だが、ここで述べているお互いの視線とはなんだろう。いったい何と何、あるいは誰と誰の視線が重なり合うのか。それは何でもなく、誰でもない視線だろう。それはひとりの視線でもあり、また大勢の視線でもあり、さらに視線を送る対象が確定できない不在の視線でもある。その視線そのものが不明確なのだ。いったい誰が視線を送っているのかそれ自体が虚構かもしれない。場合によってはそれは無視の視線かもしれない。あえて無視していることをわからせるために、その無視のメッセージを送るために過剰な視線を注ぐという倒錯した視線である場合もあるだろう。たぶんそれが人々の限界を形作っているのだろう。それが躓きの石であり、破綻のきっかけとなるだろう。危険な戦術を安易に弄んでいるうちに自滅する。そして、すでに自滅していることすら自覚できないで、ありふれた言葉の亡霊となり、もはやなんの効力も失われた言説の背後で彷徨うことしかできなくなる。辺りに響き渡っている誰のものでもない言葉のこだまを所有していると錯覚し続ける。自らが自発的にその言葉を発していると思い込む。自分を超えた言葉の迸りを受け入れずに、頑なに無視し続ける、その態度が生み出す結末とはそういうものかもしれない。そういう哀しい人々の仲間になることは避けたい。だがそれ以外に何ができるというのか。辺りに漂っている言葉のこだま以外にどんな言葉が可能なのだろうか。たぶん可能なことは、言葉の亡霊となるより他にないのかもしれない。メディアを介して発言すれば、その言葉はすべてこだまとなってしまうだろう。そして発言者は、亡霊となることを受け入れざるを得ない立場に追い込まれる。みすぼらしい言葉の所有者として、そのメディアにしがみつくことしかできなくなってしまうようだ。どうもそのような状況しかあり得ないらしい。確かにそこは不毛の大地であり、実体のない亡霊だけが漂っている実りなき荒れ地なのだろう。しかも、そこに魅せられて不用意に足を踏み入れる亡霊志願者は後を絶たないらしい。しかし本当にそれ以外にやり方はないのだろうか。言葉は無害に加工された上でしか流通できないのだろうか。さらに生きている者が誰ひとりいない墓場でしか響かないのだろうか。もしそれしか可能でないのなら、なぜそんな可能性を受け入れなければならないのか。そのような状況だからこそ、積極的に不可能の側に留まり続けることが求められている。それは誰からの要請でもなく、そうすることしか倫理的に振る舞う余地はないように思われるのだ。だが、だからといってそのような立場を正当化することは不可能だ。ただそうすることしかできないのだし、ただ現実にそうやっているだけなのかもしれない。明確なことは何も言えないし、確固たる立場などはじめから存在し得ない。これからも、自らの存在する基盤は何もないだろうし、どこにも響かない虚無の言葉を出力し続けるだけだろう。たぶんこれの見返りは何も期待できないだろうし、期待する方がおかしいような言説を積み重ねてゆくことしかできないだろう。これはどこまで行ってもこういうものであり続けるより他はない。それが、この不可能な在り方を、他の可能な選択をする余地なく選んだ定めなのだ。


11月26日

 どこからともなく鼠が侵入してくる。張りぼての案山子は役に立たない。とっさの判断で迂回路に入り込んだ。どこをどう通ったのか覚えていないが、なんとか目的地にたどり着いた。だが言葉を忘れてしまったらしい。風景は以前とまったく変わりない。終わった後からならどのようなケチもつけられるだろう。相変わらず自分達の見通しの甘さはいっさい反省せずに、ただ当事者の行動を批判し続けているようだ。それが世論調査で幻想をふりまいた人々のやり方だ。まったく吐き気がするような言動だ。この期に及んでまだそんなことを言っている。そんな輩の批判などなんの説得力もないだろう。だが流通しているのはそんな批判ばかりだ。はじめは当事者と共犯関係を保ちながら、世論を誘導するナビゲーターのように振る舞っていながら、いったん自分達の思惑とは別の結果が出れば、今度は手のひらを返すように野次馬の振りをしながら当事者を非難してみせる。自分達の都合次第であっちについたりこっちについたりしているにもかかわらず、他人にはいつも変わらぬ首尾一貫性を平然と求めてくる。自分達の言動にはいっさい責任をとろうとしない者が、他人には倫理を押しつけてくる。まさに一連のおこないは、世論調査に同調した人々に対する悪質きわまりない裏切り行為である。しかしいったいいつまでそんなごまかしが通用するのだろうか。そういう恥知らずな面々が説く良識とはいったいどのようなものなのだろうか。自分達が批判している政治状況を無責任で無反省な自分達が支えていることをなぜわからないのだろうか。自分達の言動やおこないが今ある状況をつくり出していることをなぜわからないのだろうか。たぶんそんな輩に責任ある言動やこれまでのおこないに対する反省を求めること自体が間違いなのだ。軍国主義に荷担して国家を滅亡に導いた昔から、その体質は少しも変わっていないのだろう。だから今ある政治体制が変わるときは、それを批判しながら支えてきた彼らも一緒に滅びるときだ。そのとき彼らは、今まで共存共栄してきた、敵の振りをした仲間の自滅を嗤いながら滅び去るだろう。だが、これからどうなるにしろ、どうもいまいちピンとこない。このままの状況でもいいし、このままの状況ではなくなってもいい。自分にはどちらでも構わないのだ。このような批判にはあまり本気になれない。確かにそういう展開で述べていけば、そういう気持ちになってくる。罵詈雑言を並べ立てての勇ましいメディア批判に耽ることもできる。自分で自分の言動に酔うとは、こういうことを言うのかもしれない。だが一方では確実に冷めている。たぶんこんな述べ方では駄目なのだろう。いつの間にかそれがわかるようになった。しかし、ではどのような述べ方ならいいのか、それがよくわからない。もしかしたらそれは自分の勝手な思い違いで、基本的には、どんな述べ方でも構わないのかもしれない。ただ、もうそういう罵詈雑言形式には飽きているのだろう。どんなことでもそれを繰り返してやればいつかは飽きが来る。そういう次元では、確かに飽きがきているようだ。だが、そういう次元で判断していいのだろうか。たぶんそれでいいのだろう。もはや批判の中身など吟味する気力はない。面倒くさいのだ。ここではどのように述べても構わないのであり、はじめの批判を、その直後にあっさり否定してしまってもなんの不都合もないだろう。何もことさら首尾一貫性を堅持しなくてもいいだろう。それはかなり疲れるやり方だ。その場その場の状況次第で、ころころ意見が変わる方がより自然だし、これからの時代はそういう柔軟性が欠かせない。御都合主義もまんざら捨てたものでもない。何もかも信用できない状況なのだから、自分を信じることにそれほどの重要性は見いだせない。何も自分の視点を特別扱いすることもないし、他人の視点だろうと自分の視点だろうと、それがいったん固定されてしまったらそこで終わりなのだろう。


11月25日

 何か物音がしたようだ。たぶん空耳だろう。頭上から声がする。上を見た。誰もいない。今度は後ろからだ。背中がかゆくなってきた。急な坂道で大きくのけぞる。突然何かに引っ張られているような気がした。後ろを振り返る。振り返ったまま凍りつく。心臓の鼓動が聞こえてくる。思いもよらぬきっかけで後退する。そしてさらに後退し続ける。止めどなく後戻りしているらしい。後ろ向きで坂道を下っているようだ。ふとしたきっかけで思いもよらぬ展開が待ち受けている。どうやら未来は予定調和ばかりではないらしい。気がついたら辺り一面は静まりかえっている。だいぶ落ち着いたようだ。もう心臓の鼓動も聞こえない。背中のかゆみもだいぶ薄れた。宙に舞っているの埃の細かな粒だ。午後の日差しに照らされてきらきら光る。さて、これから何をすればいいのだろうか。窓を大きく開け放つ。新鮮な空気を吸いたかったらしい。毎晩のように同じ夢を見る。目覚まし時計で起こされる夢だ。朝飯を食べる夢も見る。現実に目覚まし時計で起こされて朝飯を食べている。昔黄色い夢を見たことがある。世界のすべてが黄色一色だ。嘘も方便だ。そんな夢を見たことはない。しかしそれがなんのための方便なのかがわからない。もう暖房が欠かせない季節だ。黄色は危険信号だ。世界のすべてが危険信号を発しているとでもいうのだろうか。なんの説得力もないこじつけだろう。それは方便ではない。嘘でもない。本当のところはよくわからない。口からでまかせに黄色を主題として語ってみた。それは何も実を結ばない。それは夕焼けの前触れなのだろう。唐突に日が沈む。辺りはもう真っ暗だ。墓は掘り起こされ、いつの間にか、そこは何もないただの空洞になる。中身はそっくり持ち去られ、博物館に展示される。それが学術調査の成果を物語るだろう。牢獄の中で仮面の騎士が泣きわめく。それをやりたくないらしい。黄色い夢を引きちぎって、皆に与えよう。レモンガスの中身を知りたい。墓の封印は自然に剥がれるだろう。もう何百年も風雨にさらされているのだ。とりとめがない思いはさらにバラバラになる。どうやら迷路で迷うことしかできないらしい。無性に波の音が聞きたくなった。意図的に道を踏み外す。なかなか主題に戻れない。思いもよらぬ展開に動揺する。黄色い世界はどんどん遠ざかる。まるで坂道を転げ落ちるように加速がつく。それを忘れるためにはさらなる遠ざかりが欠かせないだろう。もう光には頼らない。頼る必要がなくなったようだ。何よりも輝く必要を感じない。メタリックな光沢とはおさらばしよう。煙が目にしみる。不完全燃焼だ。このままでは一酸化炭素中毒が怖い。頭の中でサイレンが鳴り続けている。警告のサインは確認された。盛んに危険信号が発せられる。どろりとした黄色いペンキからシンナーの臭いが漂ってくる。シグナルは黄色く点滅し続ける。ブザーの音も日増しに大きくなってくる。侵入やら侵犯にさらされているようだ。しかし、この期に及んでいったい何を探知したのだろうか。もう疲労の蓄積は限界をはるかに超えている。だが、坂道をさらに転がり続ける。まだ気が済まぬようだ。まだ転がり足りない。まだ言葉の断片を積み重ねたいらしい。墓堀泥棒の期待に応えなければならない。ここから、さらなる魅惑を構築しよう。それは無理というものだ。もう充分転がっただろう。もう気が済んだはずだ。その上に何が望みなのか。重金属から何を取り出すつもりなのだろう。そんなにゴールドを抽出したいのか。すでに体は水銀で毒されているのに、さらなる中毒を望んでいるらしい。進んで廃人への道を歩むのはかなり安易なことだろう。これからは精神の覚醒とは無縁の生活を選んでみよう。そう宣言することは方便になるかもしれない。本当はどうでもいいことなのだ。まだ何も見いだせないだけだ。見いだす努力を怠っている。集中とは無縁の断片に囲まれて、覚醒とは無縁の生活を送っているらしい。だが、後退し続けることが前進し続けることに結びついているようだ。それは不思議な感覚だ。


11月24日

 もうそろそろこんな反復にも飽きてきた頃だろう。だいぶ前からうんざりしている。たぶんもう少し経てばさらにいやになるだろう。どんなにその場を取り繕うとも、何も癒されはしない。だがそれでもなお、どこまでも執拗に立ち向かってくるのだろう。まるで言葉を喋るゾンビのようだ。不死身の肉体に不滅の言葉が宿っているかのように感じられる。しかし実体はまるでない。肉体も言葉も出現するはるか以前に消滅している。そこではかろうじて何かが去った痕跡が見いだされるだけだ。そこは遺跡の大地かもしれない。だからそこで何を演じようと実効性は何もないだろう。実際そこでは何も行われない。形骸化した儀式さえも、だいぶ前に廃れてしまったようだ。今はそれがしばらく続いたことを物語る痕跡だけが残っている。たぶんそこは砂漠でさえないのだろう。空気も水も重力もないどこかの小惑星の表面に似ているかもしれない。そこにはクレーターだらけの歪な地形が広がっている。ただの荒れ地なのだ。草木はおろか苔や黴の類も生えることができない大地だ。そこはこれからもあり得ない土地であり続けるだろう。どこにも存在しない、あり得ない場所だ。たぶんウッドストックは、そこに集まった群衆の幻覚によって生み出された場所なのだろう。今またそこから何かが始まろうとしている。それが当時の決め台詞だった。いついかなる時でも、またどんな場所においても、絶えずそこから何かが始まろうとしているのだ。それは今でもそうだ。でこぼこの台地の片隅にある切り立った断崖の縁においても、そんな切羽詰まった場所からも、やはり何かが始まろうとしているのだ。それは永遠に始まろうとし続けるだろう。単にそれだけなのだ。ただ始まりを予告するだけだ。中身は何もない。それは予告編だけが無限に続く映画のようだ。当然その予告の上映に終わりはない。次々と様々な予告が入れ替わり立ち替わり上映され続ける。そこでは絶えず何かが予告され続けるのだ。そして、予告だけで本編の到来はあり得ないだろう。そこでの時間はすべて予告だけに費やされているので、本編の入り込む余地が残されていない。今や画面を見つめ続ける人々は、そんな世界に住んでいるらしい。退屈なのは当たり前だろう。ただ眺めるだけで他にやることがないのだから、人々は自然と怠惰になる。眺めているのはテレビ画面ばかりだろう。中には録画してまでそれを眺めたい輩もいるらしい。それは究極の暇つぶしなのかもしれない。そこで読む必要はない。書く必要もない。積極的に聞く必要もない。ただ眺めていれば時が進んでくれる。画面から放射される電磁波をただ一身に浴びていればそれで気が済むのだ。確かに人には無駄な時間も必要ではあるが、生活のすべての時間がテレビを眺めることで無駄となってしまうと、それはそれですごいことなのだろう。いつしかそんな生活から足を洗えなくなるのだろうか。今は、まだテレビのスイッチを切る気力が残っているようだ。なんとかそういう廃人への誘惑を断ち切れることができるらしい。また、なぜか忙しくてテレビを見る暇がない時もある。ということは、自分はまだ大丈夫なのだろうか。だが油断はできない。テレビ画面を見ながら、気がつくと数時間が経過していることもしばしばだ。その番組の内容など何も覚えていないのに、なぜかそれを飽きもせずに見続けることが可能らしい。しかし、なぜテレビ番組の内容を認めようとしないのだろうか。中にはすばらしい内容の番組もあるだろう。だが、そのすばらしい内容は認めない。暇つぶしにならないからだ。ためになる教養番組も同じ理由で認めないだろう。内容のあるテレビ番組はいっさい認めない。テレビにとっては内容そのものが余分である。そこでは、ただ画面から電磁波が放出されていればそれでいいだろう。砂嵐で構わない。しかしなぜそうなのだろう。それはたぶん明確な理由はないだろう。ただ、くつろいで怠惰を満喫しているとき、要らぬ緊張は癒しの妨げになることは確かだ。とりあえずはゆったりとくつろぎながら休みたい。それ以外に何も望まない。だからもう内容にはこだわらない。ただそこで電磁波のシャワーをまき散らしていればそれでいいのだろう。こちらはそれを退屈交じりに眺め続けるだけだ。


11月23日

 いつもの夜だ。たぶん昨日もこんな夜で明日もこんな夜だろう。ただそれだけのことだ。それがどうしたというのだろう。いつもこんな夜を過ごすことに何か見返りでも欲しいのだろうか。何も期待できない。それは筋違いというものだ。しかし、それがまったくの筋違いで勘違いであるにもかかわらず、依然として何かあり得ないことを期待しているらしい。ではその期待とは何だろう。わからない。何かを期待しているらしいのだが、それが具体的に何なのかはっきりしないようだ。もしかしたらそれは思い違いかもしれない。何かを期待しているということ自体が思い違いかもしれない。本当は何も期待していないのかもしれない。しかし、何も期待していないのだとすると、ここまで述べてきたことはいったい何だったのだろうか。それはまったく意味のないことになってしまう。だからとりあえず嘘でもいいから何かを期待していることにしておこう。そういうわけで何かを期待し続けていることになっているらしい。しかしなんということだ。それはどういうことなのか。なぜそんな展開になってしまうのか。冗談にもほどがあるだろう。別に意味などなくても構わない。それに、何かを期待することでどのような意味が生じるというのだろうか。それもよくわからないことだ。まったく何もかもわからないことだらけだ。だが、それいいのだろう。それでいいからこそ、こうしてこんな夜を毎日のように過ごしているのだろう。こうして同じようなことの繰り返しを体験しているわけだ。しかし、この単調な反復に中に何を期待しているのだろうか。またもや期待に遭遇してしまう。なぜか期待を繰り返す。どういうわけかそういう展開になってしまうようだ。今できることは何かを期待することだ。どうもそれしかできないらしい。しかしなぜそれしかできないのだろう。もっと何か具体的なことをやってみればいいではないか。だが、何かを期待すること以外に何を期待したらいいのだろうか。そうではなくて、期待すること以外のことをやってみればいい。それはもうすでにやっていることだ。現実にこうしてここまで述べてきた。だが、その述べてきた内容がよくわからない。何かを期待しているらしいが、その期待している何かがよくわからないらしい。いったい何を期待しているのだろうか。もしかしたらわかろうとしていないのかもしれない。確かにそれをわかろうとしなければわかるはずもない。ではなぜわかろうとしないのだろうか。それはわかろうとしなくてもいいからだろう。今それをわかろうとしなくてもなんの不都合もない。むしろ、わかろうとしない方が好都合なのかもしれない。どうやらそこで利害が合致しているらしい。それをわかろうとしないことで何らかの利益を得ているらしい。ではその利益とはなんだろう。それは、わかろうとしないことがこうして反復を繰り返すことを可能としていることだろう。おそらくそれをわかってしまったら、そこでお終いなのだ。つまり、それをわからない間は、それを繰り返すことができるということらしい。だから意図してそれをわかろうとすることを回避しているのだろう。それがわかろうとしない理由らしい。だがここで、わかろうとしない理由がわかってしまった。大丈夫なのだろうか。確かにここで、その期待が何かをわかろうとしない理由がわかってしまったが、まだ何を期待しているかまではわかっていない。しかし、いったんそのわかろうとしない理由が明らかになってしまうと、当然その理由に逆らいたくなる。それが性というものだ。そういう定めになっている。そして、だんだんその期待が何を求めているのかをわかりたくなってくる。わからずには気が済まなくなってくる。これは危ない傾向だ。はたしてこの欲求を止めることができるだろうか。だがそれを止める理由は何もない。もうここで反復を繰り返す必要はない。いったんここで中断すればいいことだろう。


11月22日

 まったく、どこまでいってもこんな展開になる。飽きもせずにいつまで経っても同じようなことばかり述べているようだ。たまには変わったことでも述べてみたいが、そればかりはどうにもならないらしい。もう何度同じ事を繰り返したのだろうか。何度やっても、それは以前にやったことの繰り返しのように感じられる。意識にまとわりついて離れないのはデジャビュばかりだ。そして、どうせこれから何を体験しても、それは過去に体験したことのように感じられてしまうのだろう。例えば、つぎはぎだらけのジーンズをはいた男が近寄ってくる。だがすれ違いざまには何も起こらない。こうして出来事の不在を体験する。だがそれは、体験と呼べるような体験ではないだろう。こうして出来事の不在と共に体験の不在も体験することになる。これから繰り返されるのはそんな体験なのだろう。土の色は茶色だと思い込んでいた幼稚園児のころ、なぜか太陽を赤いクレヨンで塗るのが不思議で堪らなかった。まぶしさに耐えながらも実際に眼で見てみると、明らかに黄色い色なのに、なぜか他のみんなはそろって赤く塗っていることに我慢がならなかったらしい。そこで自分はどうしたのだろう。何をやったのだろうか。そこから先がどうしても思い出せない。身から出た錆が全身を覆い尽くす。梅雨の雨上がりに錆びて赤く変色した鉄棒はどんな味がしただろう。舐めてみたことはあるが、その味がどうしても思い出せない。ところで真っ赤な太陽は本当はどういう色なのだろうか。一般的には、表面温度が比較的低い星は、赤みがかったオレンジ色で輝き、その反対に表面温度の高い星は青白く輝いているようだ。そして、その赤と青の間に、中くらいの表面温度の黄色い輝きの星々があるらしい。どうも信号機の色にもそれなりの根拠があるのかもしれない。その赤青黄色は光の三原色を構成しているのだろう。そしてまた、その三原色が均等に重なると白い光になる。ならば、星が燃え尽きる間際に生じる輝きを失った白色矮星の白色は、なぜか色に関してはバランスが取れているということになるだろうか。色的にはそうなのだろう。だがそれがどういう意味を持つかは知らないが、たぶんこれから先も知らないままなのだろう。こうして今度は意味の不在を体験することになる。しかし、不在の体験とは、こうも簡単で安易なものなのだろうか。おそらくそうなのだろう。だがこれが何を述べているのかはよくわからない。いったい何を述べているつもりなのか。つまり、こうして内容の不在を体験する。こうして体験するものは不在ばかりになる。不在ばかりが蓄積することになる。それはどこに蓄積するのだろうか。やはりこれらの言葉が不在の蓄積を示しているということなのだろう。しかし、なぜか不在ばかりなのに言葉はこうして存在しているらしい。では、なぜ言葉の不在は体験できないのだろうか。不在について語るかぎり、言葉でそれらの不在を示さなければならない。つまり、言葉の不在が不可能な代わりに、不在の言葉が必要とされてしまうらしい。その不在の言葉であらゆる不在を語らなければならならない。しかし不在の言葉はどこに存在しているのだろうか。ここには文字としての痕跡しかない。その痕跡が読まれる度に、そこから言葉が発生するとでもいうのだろうか。もしかしたら言葉は、はじめから不在なのかもしれない。確かにここにあるのは痕跡だけだ。だがそれが読まれると、そこから言葉が浮かび上がってくるらしい。つまり、不在の言葉は不在のまま生じるということだろうか。しかし、不在なのに生じてしまうとはどういうことなのか。それがそういうことだとすると、それはそういうこととしか言いようがない。現にそのような状態があり得るということだろう。今ここで起きているこの状態がそうなのかもしれない。不在が不可能であるのに、その不可能であるままに不在が存在している。しかも現実にそのような事態を当然のこととして受け入れているらしい。不可能であることが同時に可能でもある。ところで、ここでは何が不在なのだろうか。その言葉が思いつかない。要するに、何が不在なのかを示す言葉が不在である。


11月21日

 しかし何を述べているのだろうか。来るべき二十一世紀に向かって何か新しいことをやらねば、という強迫観念に凝り固まっていることは確かだろうが、それは、よくありがちな世紀末症候群のひとつなのだろうか。そのような現象を一括りにそう言い表すこともできるだろう。しかし、新しいことをやるには、何かそれをやるための口実がなくてはならない場合もあるだろう。だから世紀の変わり目は、それをやる格好の口実が存在する時期なのかもしれない。だが、何かをやるための理由とはそんなものだろうか。確かにそういう口実を基にした強引な物言いがはびこるのも、この世紀末の特徴なのだろう。だが、すでにもうそういう物言いには食傷気味で、新鮮な印象は何も受けないし、ほとんど何の説得力も感じていない。もしかしたら、そういうものにははじめからうさんくささしか感じていなかったのかもしれない。だが現実には、世紀の変わり目が時代の変わり目であったりする。たぶん、様々な方面へそういう雰囲気が伝播すれば、自ずからそうなってしまうのだろう。その辺はメディアの影響力を改めて思い知らされる。まあ娯楽としては、世紀末だ何だのと騒ぎ立てるのは愉快なことなのだろう。また来年になればなったで、二十一世紀の幕開けの年だとかいうふれこみで、わけのわからない盛り上がりをすることだろう。その手のイベントがある程度は時代が変わったという雰囲気を醸し出すのかもしれない。しかし時代が変わるとはそういうことなのだろうか。案外そういうことなのかもしれない。論理的に筋が通るように考慮された真面目くさった意見などはいっさい顧みられることはなく、ただその場限りの意味不明な大騒ぎをしているうちに、はたと我に返って周りを見渡してみたら、すっかり時代が変わっていることに気づいたりするのかもしれない。それはまるで浦島太郎のような展開だろう。でもそんなふうに大騒ぎしながら生きてみたら、結構楽しいのかもしれない。サッカーやバスケットボールで盛り上がる人々の気持ちも分からないではない。自分もテレビで試合を見ている間なら、少しはその盛り上がりにつき合えるような気もする。だがそれも浦和レッズのサポーターのような具合にはいかない。思いもよらぬ展開でのゴールシーンに興奮しながらも、まだどこか冷めているし、そういう盛り上がりに対する疑念もなくはない。常にこれでいいのかと自身に問い続けてしまうし、必ず熱くなるのと冷めてしまうのが同時にやってくるような気がする。たぶん、それを楽しめない性格なのだろう。また例えば、内閣不信任案に賛成できなかった加藤氏が同志と共に泣き出してしまうニュース映像を見ていて、なぜかやはり笑い出してしまった。何もその程度のことでそこまで思い詰めることはないのに、とどうしても部外者の立場からそう感じてしまうのだ。当人にしてみれば、自分の出処進退をかけた文字通り命がけの闘争であったのだろうが、そもそも森氏が命がけの闘争を挑むほどの相手なのか、敗れて泣きじゃくるに値するほどの人間なのか、どうもその辺に違和感を感じざるを得ない。なぜあの程度のことにかくも大勢の人々が真面目になって、加藤氏の敵として振る舞っていた人々までが、何とか敗軍の将を傷つけまいとして労をねぎらうような発言を繰り返すのか、ああいう薄気味悪い集団による善意は、自分には理解できない。まあ、あれも自民党をひとつにまとめるための一種の戦略的な配慮であることは確かなのだろうが、あれであの茶番劇的な映像を見た人々が自民党に対して好意を抱くのだとしたら、さらに自分には理解できなくなる。やはりその辺が、演歌的義理人情を信じ込むことができない自分の欠陥なのかもしれない。しかし欠陥は欠陥のままでいいとも思っている。ああいうおぞましいものは死ぬまで理解したくない。たぶんあの場で泣いていた議員さん達は、そしてそれに同情してしまう人々は、あまりにもナイーブにテレビのメロドラマに毒されているのだと思う。あんなシーンは、昔の青春ドラマ以外には、現実にはあり得ないシーンだろう。あとは、甲子園球児の作られたイメージからの影響もあるのかもしれない。また、そういえば、スポーツの試合に負けるとああなる人も結構いるだろうか。結構自分には関係のないところで、現実にああいうシーンが繰り返されているのかもしれない。


11月20日

 またしても暗闇から始まるらしい。いったい何が始まるのだろうか。確かに何かが始まるのかもしれないが、それよりもまず、単に暗闇という言葉が好きなのだろう。だからこれから何が始まるかについてはあまり関心がない。もちろん闇の世界についても興味はない。ここにあるのは真昼の世界だろう。夜であっても蛍光灯の光で明るい。しかし蛍光灯では物足りない。ならば真昼の光景を思い出してみよう。真昼の光の中に暗闇を見いだす。確かに言葉そのものはいつでも見いだされるだろう。また、覆いなどで光を遮断すれば、実際に現実の暗闇も見いだせる。だが、それを見いだしたからといって別に何をするわけでもない。ただ、暗闇という言葉と現実の暗闇が見いだされただけである。そこに意味は見いだせない。この闇は確かに暗い。この暗闇では遠い山並みを眺めることはできないようだ。なぜ遠くを見たくなるのだろうか。すぐに理由は導き出される。遠くを眺めるのが好きだからだ。要するに自分は暗闇という言葉と共に遠くを眺めるのが好きなようだ。では嫌いなものはなんだろう。それは要らぬお節介だろう。しかし何が要らぬお節介なのだろう。それはわかりきっていることだが、今それを述べる気にはならない。その場の怒りなどすぐに忘れられてしまうからだ。それ以前に退屈な茶番劇は確実に形骸化しつつある。もう斜陽を止めることなどできはしない。それでいいと思う。もはや小手先だけの話術ではどうしようもない。そんなことはかなり以前からわかっていることだ。さらに事態を悪化させるだけだろう。しかし、これ以上状況が悪化してもいいだろう。それで結構だ。はじめからそうなるようにレールが敷かれていたのだから、それは極めて当然な成り行きなのだろう。決断のできない小心者の目標など所詮幻想である。仮に目標が達成されようとも、そんな達成など大した事件になることもないだろう。それは、はじめからすべて間違っているから大した事態にならないからなのではなく、逆にそれはまったく正しいことなのであり、その程度で十分なのである。政治家は加藤氏程度でちょうどいいと思う。その判断は、まったく今の状況にマッチした決断力が反映されている。彼に身の丈以上の行動を期待してはならないし、それを望むことは無責任きわまりないことだろう。とりあえずはそれを非難する以前に、自分達が今までにどのような代議員を選挙で選んできたのか、そして、選択肢としてどのような人々が存在していたのか、それをしっかりと見極める必要があるだろう。またそのような現実がある中で、あのような政治家が脚光を浴びている現状からは何かわかるのだろうか。たぶんあれ以上は期待できないという現実が浮き彫りになるのかもしれない。そのような現実から出発すれば、自然と今後の成り行きも見えてくるかもしれない。今のところ、それに逆らって何をしようとしても無駄だと感じる。それと同時にまだわかっていないことや勘違いしていることもかなり多いだろう。その最たるものは、総理大臣になったら何ができるとか、政権与党になったらこの国を動かすことができるとかいう、そんなことが可能であるかのように思い込むことかもしれない。はたして首相の森氏に何ができているだろうか。また自由民主党という政党が本当にこの国を動かしているのだろうか。どうもそうはなっていない気がする。また、他の誰が首相になっても、また他のどの政党が与党になっても、それほど画期的に状況が変わるとも思えない。だから今は森氏でも自民党でもいいのだが、それと同時に他の誰が首相でもいいし、どんな政党が政権を担っても構わないのではないかとも思われる。それが総選挙から数ヶ月が経過した今、より鮮明になったと思われる。たぶんそれは多くの人々が薄々感じていることではないだろうか。しかしそんなことは口が裂けても公にできないのが、報道各社の悲惨な現状だろう。たとえそれを世論調査で察知しても主要な問題とは見なされず、あくまでも各党や各会派の政治家による前向きな政策論争を期待するつもりなのだろう。そして、たとえそれが空疎な議論や茶番であっても、それをその通りに伝えることしかできない。それ以外のことを何もできないのが致命的である。


11月19日

 一応の区切りは一応の終わりになるらしい。騒ぎの割りにはそれほど大した出来事ではなかったようだ。幕引きはあっけなく訪れるものだ。しかしそれでもまだ誰も懲りないだろう。また性懲りもなく世論調査を利用した権力行使が繰り返されるのだろう。馬鹿の一つ覚えとはこういうことを言うのかもしれない。だが、調子に乗ってそれをやるたびに、今ある制度の空洞化がより一層進むだろう。ありもしない国民の審判はさらに虚構化することになる。しかしそんなことはどうでもいいことだ。やりたければ好き勝手にどんどんやればいい。やらせておけばそれでいいのだ。それにひっかかってその気になった正義感はどんどん自滅すればいいだろう。神に意思があるとすれば、そのような方向で着々と思い通りに事が運んでいるのだろう。そんなものにあえて逆らうつもりはない。怒りさえ覚えない。はじめから思い違いで見当違いなのだ。そもそも伝えるべき事柄自体がはじめから間違っている。その上でやり方云々を言うことはまったく意味がない。それは滑稽でさえあるだろう。まだそんな時期ではない。機が熟する前に潰してしまうそのようなやり方は、まさに思うつぼである。それこそが狙い通りの展開なのだ。そんなことにいちいちヒステリー的な反応はしたくない。それでいいとしか述べようがない。それでいいだろう。それで十分だ。それ以上は望まない。あえて苦言を呈するまでもないだろう。誰が支配しているのでもない世界だ。神でさえ支配できないだろう。世界を征するのはスポーツ程度で十分だろう。世界制覇の野望は四年に一度のせこいオリンピック程度で叶えられるだろう。今や世界征服はその程度の次元でしか通用しないくだらぬ概念だろう。当たり前のことだが、多数決は多数決でしかない。そこで勝っても負けてもどちらでも構わないだろう。そんなものにあまり興味はない。それは自分が当事者ではないからだろう。自分は多数決を決する採決には参加できないし、また結果が国民の意思とかいうあやふやな概念とは違っていても、それほど驚かないし、憤りも感じないだろう。それは、その場に参加した人々の採決で決められること以外には何の正当性もないことだろう。そこにわけのわからぬ付加価値を勝手に加えても、そういう行為には何の正当性も説得力もないだろう。それをどのように言いくるめようとも、それはそれ、これはこれでしかない。議会制民主主義という制度の手順に、世論調査というやり方を付け加えようと必死なのはわからないでもないが、それを利用して自分達が新たな権益機関になりたがっているのが見え見えなところが、信頼性をまったく欠いている原因なのかもしれない。まったくみすぼらしくも悲惨な人々だと思う。そんなものだまされるのはよほどのお人好しか馬鹿かのどちらかだろう。そこに付け加えられるべき本当の現実は、もう誰も信じていないということだろう。それはだいぶ前からそうなのだ。そして今後もより一層信じなくなるだろうし、彼らの自業自得の自滅には誰も同情しないだろうことは当然の帰結となるだろう。しかし、そのような現象によって日本が変わるのではない。もはや日本などあり得ない。それは、この地域が日本と呼ばれなくても構わなくなるかもしれないということだ。たぶん今ある制度に訴えて自らの正当性を主張しなくても済むようになるだろう。それは制度に寄りかかって権力闘争にうつつを抜かす人々によって、制度自体が形骸化して有名無実の代物になってしまうからだ。制度を利用しなくてもうまく事が運ぶようになれば、その制度は機能しなくなるし、あってもなくてもどちらでもいいものは、廃棄されるか、または廃棄する手間を省くために単なる儀式的な手続きでとして残るか、そのいずれかになるだろう。たぶんそうなってみてはじめて自分達の愚かさに気づくことになるのだろうが、そうなるまであとどれくらいの手間暇がかかるのかは、今のところはっきりとはわからない。それもそうなってからでしかわからないことかもしれない。


11月18日

 言葉を慎重に選びながらも、どの言葉もすぐに打ち捨てられるだろう。冷蔵庫の中の蒲鉾は乾燥しすぎて干からびている。ラップに包んでおくのを忘れたらしい。微かな風の音だ。何やら罵り合いが始まっているようだ。坂の下で腐った人々が息巻いている。心が壊れているのはまだマシな方である。慣習に従って普通に生活している人々の方が醜いだろう。そこにあるの林檎の皮だけだ。中身は芯までかじりつくされてしまったようだ。遠くでしている微かな残響の中身は、林檎をかじる音しか聞こえてこない。坂の上では何もやっていないようだ。まったくの沈黙状態だ。どこからともなくやってくる。車が走り去る音がする。おそらく川の中州に取り残された人々は無視されるだろう。上流から大きな岩が流れてきた。桃から生まれた桃太郎が語る。鬼ヶ島の鬼とは大の仲良しだ。大きな桃が流れてきたのは十年後の昨日のことだ。たぶん複雑なことを語りたいのだろう。発想は単純だ。川の中州で車を走らす。もう四輪駆動車は要らないだろう。ノートルダム寺院には徒歩で行ける。ラジコンカーを操縦してスーパーの駐車場で遊んでいた。そこで崇拝されているのはナポレオンの棺だろう。人を指さしながら人差し指の爪がめくれ上がる。大きな呻き声だ。かなり痛いらしい。摩擦で頭が擦り切れる。そんなに切れる頭脳が欲しいそうだ。ギロチンから頭がこぼれ落ちる。残酷な光景とは反比例して、痛みはほとんど感じないそうだ。消防隊員が消火器を売りさばいている。派手にサイレンを鳴らしながら消防車でやって来る。それは嘘だろう。押し売り販売もここまできた。虫の居所が悪いと、たまには放火魔にもなるそうだ。それはケースバイケースかもしれない。消防法に違反していると因縁を付けて消化器を売りつける。それはどうだろう。まんざら出鱈目ともいえないところだ。税金の使い道はよくわからない。でこぼこの泥道を走るのが好きらしい。ラリー車で街中を砂利道や砂漠に変えられるだろうか。北欧のフィンランドならやりかねない。嘘だろう。北極圏でトナカイの肉を食べている人に聞いてみるといい。アイスランドでは温泉が湧いていることだろう。グリーンランドの竪穴式住居ではバイキングがくる病にかかったらしい。ビタミンDの不足からなるようだ。アザラシの肉はうまいだろうか。料理法にもよるだろう。ゆでただけで食べられたものではない。塩と胡椒が欠かせないのは贅沢だろうか。どちらも百円で買えるだろう。カムチャッカで熊に食われた写真家はアラスカで暮らしていた。なぜ桃太郎は鬼の面を着けていたのだろう。高橋英樹に聞いてみるといい。鬼門の方角は北東だ。その中州は北東の方角に位置していた。ノートルダムの地下墓地では鈴の音色が聞こえるらしい。それも嘘だろう。仮面の下は焼けただれていた。焼夷弾に焼かれたらしい。久しぶりに晴れた。坂の上に墓地がある。狭い道で車輪が側溝にはまる。勢いをつけたラジコンカーはスーパーの横を流れるどぶ川へ真っ逆さまだ。操縦を誤ったらしい。断首台からかん高い笑い声が聞こえてくる。絞首刑はかなり痛そうだ。それは乾いた笑いだろう。いくぶん皮肉混じりに語りかける。妄想の中で夢を見る。肝臓が壊れているらしい。冷たい視線で我に返る。冷蔵庫の中はかなり乾いているだろう。もやしにはまだ水分が残っていた。南の島の鍋の中には人肉と豚足が入り混じる。やはりそこでも塩と胡椒は欠かせないだろう。はたして天然塩にこだわるグルメの肉はうまいだろうか。たぶん気難しい味がするのだろう。食材にいくらこだわっていても、自分が食べられた場合の味までは考慮されていないだろう。桃太郎を食べても桃の食感は期待できないかもしれない。鬼ヶ島で鬼に料理されたそうだが、どんな味がしたのだろうか。桃太郎よりは林檎の方がうまそうだ。人肉がどんなにうまかろうと、アザラシの肉程度で我慢すべきなのだろう。それはベジタリアンには理解できない選択だろう。しかしベジタリアンはまずそうだ。一概にそうとも言い切れないか。


11月17日

 なぜ途中で止まってしまうのだろうか。確かその物語は中断したままだった。今のところ再開のめどはまったく立っていない。何か誓いの言葉が呟かれる場面で中断してしまったらしい。そこでどのような誓いの言葉が発せられるかが、いまひとつはっきりしていないようだ。そしていつまで経っても具体的な事象に出会うことはない。そこにあるのは抽象的な観念ばかりで、何ら実質的な話には進むことができないらしい。これでもかと場面がめまぐるしく変化するが、そこで発せられるべき肝心な言葉は一言も発せられず、そうこうしているうちに、いつも途中で話の筋が見失われてしまう。必ず躓きの時が訪れるらしい。どうもそれについて語ろうとすると、決まって意味不明な逸脱行為が繰り返されるようだ。そこから核心へ向かって一気に進めずに、その周りでぐるぐる回っているばかりで、その中に突入する機会をいつも逃してしまっているらしい。なぜそれを決断できずにいるのだろうか。確かに決断する勇気は持ち合わせていないだろう。だが、偶然に自分の意志とは関係なく決断するときが訪れることがあってもいいはずだ。そういう考えは、あまりにも虫がいい甘い希望だろうか。ともかくいつも決断は省略されて、絶えずぐるぐる回るだけの、意味不明で必然性のまったくない、ただ疲れるだけの周回運動だけが再開されてしまうようだ。しかし肝心な言葉とは何だろう。それをどのように発すればいいのだろうか。そこで何を述べればいいのか。そことはどこなのだろう。それはどのような機会なのだろうか。たぶんそれは一種の幻想なのかもしれない。幻想とはこれが終わることへの期待なのだろう。最後に及んで、最後にふさわしい最後の言葉が発せられることを期待しているのだ。核心へ向かって一気に進み、一応の決着をつけてそれで終わらせたいのだろう。だが、そうはならない。現実にそうなっていない。意識の上では終わらせたいのだが、終わらせたい意志が強いほど実際には終わらなくなるらしい。どうしようもなく、うんざりするほど続いてしまうのだ。なぜそうなるのかはわからないが、結果から見れば、意思とは裏腹に事が運ぶことになっている。事の成り行きとはそんなものなのだろう。もはや為す術はないだろう。ただひたすら勝手気ままな偶然の作用に耐え忍ぶだけだ。そしてわけのわからない成り行きに翻弄されるだけ翻弄されて、気がつけば当初の姿の影も形も欠片もなくなっている。それに気がつくのは残酷な瞬間だ。だが、そこで裏切られたとは思わないだろう。たぶん、それでいいのだ。そう思うことしかできなくなる。もはや認識や思考そのものが変質し、計画は頓挫し、構想は完全に砕け散っている。しかしなおそれでいいわけだ。そこで重要なのは、実際に崩壊過程を体験することだ。だがそれは、将来に役立てるためにそうするのではなく、ただその体験を受け入れること、そうしなければならないと同時に、そうするより他にないだろうということだ。その体験を未来に役立てるのではなく、ただ今を生きること、結局はそうなるしかないだろう。それは良い悪いの問題ではなく、単にそうなるのだ。そうなりざるを得ない。功利主義は未来があることを前提とした解決の先送りに基づいている。だが未来は常に不確定のままであり続ける。そこに解決という概念は結び付かないだろう。だから絶えず自転車操業的に明日ばかりを夢見続ける羽目になる。それはまさにエンドレスの目標設定であり、どこまでいってもキリがない。確かに、そこで生の快楽を味わうことができるだろう。人生をつくづくかみしめることもできる。何かしら生きる意味を見いだせるかもしれない。がんばって努力すれば夢が叶うことだってあるだろう。だが自分はそうしないだろう。そういうことができないのだ。そういうことはテレビ画面の向こう側の人々がやればいいことだ。自分は今を生きているらしい。今のところ幻想は何も見いだせない。


11月16日

 嘆きの壁に向かって復讐を誓う人々がいる。それは本当だろうか。ただそんな気がしただけだ。そこから先は空白の時となる。十年後に夏が来るだろう。熱い日差しで焼けこげる。フライパンで目玉焼きでも焼いてみよう。つまらぬ戯れ事に気を取られているうちに、ひまわりの種が尽きたようだ。空白の時は暗黒の空間で刻まれる。三年前の冬に誓いを立てた。五年前の秋は二度と繰り返さない。過去からの影響を振り切って、過去に影響を与えているらしい。思い出は未来には生まれるだろう。未来において過去の記憶を思い出す。嘆きの壁は触るたびに磨り減っていく。遠い未来において、その場所でもう嘆くことができなくなるかもしれない。たぶん救われる時は永久に来ないだろう。そこで嘆いているかぎり、救われることはない。それは救いを放棄した宗教だ。草むらの中で蟻が彷徨う。規則正しい塩基配列に綻びが生じる。そこで見いだされるのは、いつも唐突な出来事だ。その現象にまるで対処できていない。やっていることといえば、偶然の中に必然を読みとること、ただそれだけのために無駄な歳月を費やしている。その毎度おなじみのワンパターンにはだいぶ前から飽きがきている。もはや同じような情勢分析に一喜一憂するほどナイーヴにはなれない。だが分析をしている当人達には、それが未だにわからないようだ。自分達が世間に退屈な冷風しか送れないことにまだ気づいていないのかもしれない。それはだいぶ前から愚かさの極みに達しているのに、まだそれがやめられないらしい。もっとも、自主的にやめるわけにはいかないのだろう。そこには、ひたすらこれまでの惰性に追従することしかできない不自由さが見受けられる。今のメディアには出来事の結果だけを伝える勇気が欠如している。だから、どうしても予想せずにはいられなくなる。そのどのようにも加工できるあやふやな予想や予測の中に、自分達の主義主張を折り込ませたいわけだ。何という浅はかな態度だろう。そういうクズの伝統がこれから先の未来へも脈々と受け継がれていくことを思うと、やはり絶望的な気持ちになってくる。そのどうしようもない現実に直面すると、やはり嘆かずにはいられなくなる。だがそれは偽りの嘆きなのだろう。別に本気で嘆いているわけではない。また絶望的な気分にもなっていないだろう。ただそのように記述することが可能なのであり、実際にそう記述している。例えば、テレビでいくら身体障害者や末期癌患者を見せ物にしようと、それが嘆かわしいことには変わりない。そして実際にそのような行為をひどいやり方だと非難することはできる。そう記述することはできる。だがそこからは何も感じていない。現実にはどうでもいいことなのだ。画面の向こう側は常に他人事の世界だ。そこでどのような人間ドラマが繰り広げられていようと、しかもそれに対して感動したと好意的に記述することができても、実際は何も感じていないだろう。明日になればもう忘れている。また、誰がどんな経緯で日本の総理大臣になろうと、あと三年も経てばそれはどうでもいいことになるだろう。ところで、これもひとつの予想なのだろうか。そうかもしれない。では、その予想の中に折り込まれている自分の主義主張とは何だろうか。そんなことはどうでもいいということなのか。何という浅はかな態度だろう。こうして、すでに自分が否定的に捉えた行為を自ら実行してみると、以前の記述には何の拘束力もないことが明らかになる。結果として、自分で自分を裏切ってしまっても、何も罪悪感を感じないようだ。たぶんこれらは、偽りの記述であって、しかも偽りでない記述などあり得ない。しかしその一方で、真実を記述するやり方もあるらしい。偽りでない記述などあり得ないのに、なぜかそのあり得ない記述が唐突に出現するだろう。それはいつも未来において、これまでのやり方を裏切る形で現れる。つまり、真実の記述は偽りの記述として立ち現れる。どうとでもいえる記述が、なぜか真実の記述になったりするようだ。そのとき、真実がこれまでの真実とは異なると同時に、偽りもこれまでの偽りとは異なるだろう。


11月15日

 よくわからないが、どこかで誰かが何かを語り始める。彼は生きているかもしれない。だがその生き方が問題なのではない。まだ何も始まっていないのだ。始まる兆しさえない。何もかもが相変わらず曖昧な言説のままだ。確実なことは何も示されない。示しようがないだろう。そのことが及ぼす影響を測りかねている。しかし影響を云々する段階にすら至っていない。それはおかしなつながりだろう。どこで何がどのようにして何と出会うのだろうか。そこで、いったい何と何がつながれば、ある程度の始まりが生じるのだろうか。結局は何もわからないだろう。たぶんそこで生きているのは、どこかで何かを語っている誰かだろう。だから、そこで語られている内容まではわかるはずもない。そこには解きほぐすことが困難なもつれ合いが生じているらしい。情報ばかりが錯綜している一方で、現実の動きはまるで見えてこない。確実なことは何も起こらないだろう。そこには、不確定な静寂の中で、沈黙の重みで押しつぶされそうな雰囲気がある。未だに何も定まっていないし、何も確立されてはいない。もうすでに廃墟なのだから、また新たにそこで別の何かを確立する必要はないのだろう。そこからの離陸は不可能かもしれない。飛翔できるのは、無駄な期待と無益な想像力ばかりだ。そして宙に舞っているのは砂の微細粒子だ。羽毛は羽毛布団の中で固まっている。風の中で飛び散るのは猟師が撃った散弾銃の弾だろう。この冬もダウンジャケットを羽織るような寒さにはならないだろう。なぜだろう、また雨が降ってきた。しかし天候の変化は予測の範囲内だ。思い込みはいつもたわいのない疑問の連なりから始まる。雨と暖かさに包まれながら夜の闇に包まれて安堵する。外では下り坂と上り坂が錯綜しているようだ。平地を滑るように歩く。カンガルーとふんころがしがアフリカの動物園で出会うだろう。空飛ぶ円盤はフリスビーだろう。未確認飛行物体は雁の群だ。北海道ではダチョウが飼われているそうだ。その肉がうまいらしい。言葉の連なりは散弾のように飛び散り、意味不明な文章として浮遊するらしい。平地は窪地で行き止まる。そこから先は畑作地帯だ。ダイヤモンドの輝きは炭の黒さを連想させる。同じ成分なのに結びつきの構造が違うだけでなぜ正反対なのだろう。そこから何を導き出すつもりなのか。そこには希少価値と実用性が混在しているだろう。しかし結果として導き出されるものは無駄な努力だ。過剰な根性が徒労を生み出す。過大な期待が無惨な結果を導くだろう。民主主義が衆愚政治を生じさせるが、他に選択肢はない。そんなことははじめからわかっていることだ。わかっているがそれしかできないのだから仕方がないだろう。困ったときは宇宙人や超能力者が助けに来てくれるわけでもない。困ったときには困りっぱなしのまま時が過ぎるのを待つしか方法はない。それは手持ち無沙汰で退屈な時間だろう。他にとりたてて内容はないだろう。期待はいつの間にか忘却の彼方で消滅するだろう。結末とはそういうものだ。そこにあるのは、取り残された人々と変わり映えのしない日常生活だけだ。祭りの後の余韻に浸る間もなく、通常の業務に追い立てられてゆく。期待も希望も夢も、それらはただ忘れられるためにのみ存在する概念だ。人々はその自然の作用に抵抗して、思い出すことばかりに熱中するだろう。それを忘れることが許せないので、過去の再構成ばかりに情熱を傾ける。それが良い方に転べば、暇つぶしの娯楽にでも結実するのだろう。そこでは、同じ過去の出来事は何度でも再利用可能なものと信じられているようだ。そのようにして、結局は過去を思い出すことにばかり気を取られて、肝心な現在を忘れてしまうのだろう。あちらを思い出せばこちらを忘れてしまうことはよくあることだ。そして何事もなかったかのように、時間だけがただ過ぎ去ることだろう。結局そこには、取り残された人々の怨嗟の声が残響として微かに響く他は何も残らないだろう。それでいいと思う。


11月14日

 不思議な響きだ。まさか、野獣死すべし、の不協和音でもないだろうが、どこかで確実に野獣は死んでいるのだろう。死因はさしずめ煙草の吸いすぎによる肺ガンか肺気腫あたりだろうか。用語の使い方がさしあたっておかしいかもしれない。自分は煙草を吸ったことがないので、世間に流通している快楽のひとつを味わい損ねていると同時に、死亡原因のひとつとも無縁のまま死んで行くのかもしれない。いずれにせよ何がどうということはない。オーストリアのケーブルカーで焼け死んだ人々のように、人間は確実に戯れ事程度で命を落とす。また、やくざは刺されたり撃たれたりして命を落とす。死に方は人それぞれだが、自殺してしまう人を除けば、できれば死にたくないのが大部分の人々に共通する望みだろう。しかし、今のところ、全員が確実に死ぬ定めにあることは動かし難い宿命であるようだ。だが、これもとりたててどうということはない。ただそうであるだけのことである。死に意味や意義は見いだせない。このごろは、それに意味や意義を見いだそうとする、死に関する宗教的または哲学的あるいは文学的な言説にあまり興味を持てなくなってきた。だがそうかといって、今を生きることに精一杯というわけでもない。たぶん生や死にはあまり関心がないのだろう。ではどのようなことに興味や関心があるのだろうか。それは退屈な疑問だろう。とりあえずの答としては、興味を持てないことに興味があり、関心のないことに関心がある、とでもしておこう。やはりそれもどうでもいいことの部類に入るようだ。では、どうでもよくないこととは何だろう。しかしそれについても同様に、どうでもよくないことはどうでもいいことだとしか答えられない。たぶんここに記述すること自体がどうでもいいことなのだろう。そして、実際に、どうでもいいことを記述しているわけだ。何か積極的なことをここに記述する端から、それが嘘であるように思えてきてしまう。これはどうしたことだろう。どうもしない、ただそういうことなのだろう。だからといって、はじめからやり直す気にはならないし、現実にやり直せない分量がすでに蓄積してしまった。今さらここで何を後悔してみても、もう後の祭りである。しかし別に悲嘆にくれているわけでもない。これはこれでこういうものなのだ。今さらどうすることもできないし、どうなるわけでもないだろう。ここに味わい深い愛や甘い果実があるわけではない。そのような心の戯れ事とは無縁の、無味乾燥で殺伐とした荒れ地がただ無意味に広がるだけだ。また、ここではそれほど突拍子もないことが述べられているわけでもない。例えば、希望が宿命であったりはしないだろう。希望は希望であり、宿命は宿命である。希望と宿命は分離したまま、両者の距離は永遠に縮まらない。また、それらの間に絶望が割り入ってくるわけでもない。それらは単なるその場の成り行きで記述された言葉に過ぎない。仮に自分がいかに現在の状況に失望したり絶望したりしていようと、その場の成り行きでここに希望やら期待やらが書き込まれることがあるかもしれない。もちろん、その希望や期待は自分の願望などではなく、そこに記述される言葉の連なりが偶然に作用して、文章の成り行き上そこにその言葉が書き込まれないと不自然になってしまうときは、その言葉を使わざるを得なくなるからそうするまでのことだ。自分がそれついてどう思っていようと、そんな言葉の連なりが生じてしまうことがあるだろう。そのとき、自分の意志とは無関係に偶然が必然であるように思えてくる。そしてその必然であるような文章から、自分の方が影響を受けてしまうこともしばしばある。自分の記述した文章から影響を受けてしまうのだから、そのとき、原因と結果が完全に逆転しているように思えてくる。また、自分の思いもよらぬ事を自分で記述してしまうのだから、そのとき、その記述が自分の意思によって制御されているわけではないことを思い知らされることになる。そのような現実から、自己という概念の虚構性を改めて意識させられる。


11月13日

 それは意味不明なサンプリングだと思う。そしてサンプリング自体がひとつのごまかしである。様々な雑音の中から無作為にいくつかの雑音を抽出して、その抽出された雑音をヴォリュームいっぱいにまで増幅するわけだ。しかし、そこで聞こえている音はやはり雑音である。今そういう雑音をさかんにまき散らしているらしい。しかし、それらの雑音の他にいったい何があるのだろうか。確かに、それを雑音と見なしているから雑音なのである。大多数の人々は雑音とは見なしていないのだろう。多くの人にとって、それは意味や意義のあることであり、そこから利益を生み出すことのできるサンプリングなのだ。たぶんそれは見解の相違だろう。だが、その見解とやらは、どこの誰が作り出し、いったい誰に認められているのだろうか。別に誰が作り出しているわけでもない。たぶんそれは誰が作り出しても構わないし、また仮に、誰も作り出さなくとも、別に誰でも構わないどこかの誰かによって作り出されてしまうものなのだ。確かに個人の一存で共通の見解は作りだせない。しかしどうやらそこには、それが共通の見解であると信じ込まされるだけの真理が含まれているらしい。その真理は特定の個人によって作り出されるわけではなく、いつの間にかそれが、大勢の人達によって真理として共有されているのだ。そういう得体の知れない真理を含む言説が、今やこの社会全体に行き渡っているらしい。だが自分はその真理が信じられない。それはほとんど誰も認めることのできないひとつの見解だろう。では、自分が誰にも認められない見解を所有していることは、はたして意味のあることだろうか。もちろん無意味だろう。だが、その無意味な見解ばかりを所有していることは、自分が自由である証でもある。少なくとも共通の見解に拘束された人々よりは自由である。しかしその自由自体も無意味かもしれない。つまり現代において、自由であることは無意味なことのようだ。だがその反対に、何らかの意味を所有していることは、その意味に縛られて不自由になっていることの証かもしれない。だが不自由であることは大変居心地が良さそうだ。不自由であるという共通の了解事項を共有していることで、たぶん互いのコミュニケーションも円滑に進むのだろう。はたして、自分にその不自由を受け入れることができるだろうか。受け入れられないし、受け入れるつもりもないが、現実には無理矢理受け入れさせられているのだろう。つまり、受け入れられないと思うことは自由だが、実際には受け入れさせられている不自由が常にあると思う。どうやら今はそんな現実に拘束されているらしい。それは実際に誰もが嫌々受け入れさせられている共通の不自由なのかもしれない。しかし、そんな不自由には断固として抵抗していかなければならない。現実には受け入れさせられてはいるが、それに抵抗しているつもりになることは容易にできるだろう。そのように思うのは自分の勝手である。自分は誰もが認める真理の言説を所有していないし、それを大勢の人々に向かって発表する機会も与えられていないのだから、無意味に自由だと思うことはできるが、そのおかげて、人々に向かって権力を行使することはできない。つまり、ただ勝手に自由を夢想しているに過ぎないことになる。だが、今はそれで十分だと感じている。しかも、過去においても未来においてもそれで十分なのだろう。もちろんこれには何の根拠もないし、ただ現状肯定を過去や未来に延長しているだけである。つまり、これも誰とも共有できない無意味な見解のひとつである。そう、自分は無意味な見解ばかりを所有しているのである。まったく役に立たない見解ばかりだ。だから、今意味や意義があると思われている真理の言説を用いて権力を行使している人々との間には、とりあえず見解の相違があるのだろう。そしてその見解の相違によって、自分は正気を保っているらしい。


11月12日

 ドラマには出来事が多すぎる。次から次へと矢継ぎ早に休む間もなくいろいろな事件が起こる。放送時間や放映時間が限られているのだから、その辺は仕方がないのかもしれないが、やはり見ていて不自然だ。何か中身のある内容を伝えようとしている姿勢ばかりが感じられ、かなり押しつけがましい印象だ。山本周五郎がそれほど良いだろうか。ともかくそれがテレビドラマになるとあまり良いとは思われない。このごろは暇があるとテレビを見る習慣がまた復活してしまったのだが、なぜか画面上で人々が動き回っている後ろの背景ばかりに目がいってしまうことが多い。内容などどうでもよく、ただそこに映し出された風景が様々に移り変わっていく様子に心奪われるらしい。これは、無意識のうちにその番組の制作者達が伝えたい内容を無視したり、それを素通りしてしまうような神経回路網が脳内に形成されているということだろうか。まあそんな大げさな仕組みではないと思うが、なぜ制作者側がそのような情報を伝えようとしているのか、その理由がなんとなくわかってしまうと、とたんにしらけてしまうことは確かだろう。いつのころからかそのような人間の意図や思惑を超えたものを期待するようになった。超えたものというよりは、それらとは違った側面といったらいいだろうか、あるいは、特定の人格を基にしては説明できない現象に興味があるといえばいいだろうか、ともかくそこに思惑や意図を大きくはみ出た現実を感じ取ることができるらしい。たとえそれが人為的な行為であったとしても、そこに行為者自身の制御能力をはるかに超えた現実が生み出されているように思われる。しかも行為者は、自分がきっかけとなって生じた新たな現実につきまとわれ拘束され、そして未来への可能性に制限を加えられることになる。人々の行動はそれの繰り返しだ。そのような現実は、自分おこないが自分にはね返ってくる仕組みから成り立っているのだろう。それは常に予想や予測を裏切る形で身に降りかかる災難にたとえられる。または宝くじが当たるような万が一の幸運だろうか。そんなに極端な出来事でなくとも、変わり映えのしない平凡な日常生活の中にあっても、個人の意志程度では容易に変化し難い出来事の連続だろう。では、どのようにして現実を変えればいいのだろうか。確かにそこで真理を提示することは大切だ。報道各社の世論調査によると、国民の八割が森内閣を支持していないそうだ。つまりそれが今ある現実の真理として人々に提示されているらしい。そして、今こそ、その真理が履行されなければならないらしい。それが履行されるということは、つまり、早期に内閣の総辞職が実現することだそうだ。そのような誰もが納得するらしい真理の言説を行使できることが、権力を獲得することにつながるようだ。確かに、報道関係者から自民党の派閥の領袖まで、今その真理を口にして実際に森政権に圧力をかけている人は大勢いるようだ。まさに人々は現実に真理を叫ぶことで獲得した権力を振るっているわけだ。フーコーがそんなことを述べていたかもしれないが、その時々の現実に応じてその状況に即した真理が導き出され、そのとき権力を行使するということは、誰もが納得するその真理の言説を、その場に拘束された人々に向かって発表することなのかもしれない。独裁体制下では、その真理の言説の公表を封じるために、様々な弾圧手段が講じられるわけだが、一応民主主義が定着していると見なされる地域では、人々にそれが真理であると信じ込ませるための様々な手法が発達するようだ。それらの中で、今最も信じられている手法のひとつが、世論調査というものなのだろう。しかし大丈夫なのだろうか。国民の八割が自分達の味方だとか公言することは、かなり安易な言い方だろう。自分は、はじめから世論調査結果など信じていないのだが。


11月11日

 今さら狂気とは無縁だ。そんなものは無視して軽く飛翔したいところだが、現実の重みに耐えられるだろうか。たぶん耐えられないだろうが、重みなどことさらに感じたことはない。また、もちろん羽が生えているわけでもないので、飛翔などもできはしないだろう。そういうことで、はじめから行動範囲は限られているようだ。別に切羽詰まっているわけではない。何かを言いかけたが、途中で遮られた。どうやら話したかった内容とは違うことを語っていたらしい。ところで、今ここで何を話しているのだろう。話す前から何かを話しているらしい。そして話し終わってからも話が止まらない。どうしたものだろうか。その話の中身を思い出せない。確かに何かを話していたかもしれないが、そんな話は聞いたことがない。聞いたことがないので話せない。まったく記憶にございません。これでは何も届かない。では、何も届かないから何かを届けよう。しかし今さら誰に届けるのか。少なくとも彼ではないらしい。それでは意味がわからない。ここには彼は登場してくれないらしい。彼も忙しいのだろう。そう都合良く何度も来てはくれないだろう。お助けマンではないのだから、漫画やテレビドラマのような展開は期待できない。では、ここからいったい何を届ければいいのだろう。それはたぶん幻想か幻覚のようなものだろうか。そうかもしれないが、それはあまり気乗りしないものだ。本当にそれ以外に何もないのだろうか。ここには幻想と幻覚の他に何があるだろう。たぶん何かがあるのだろうが、何も見いだせない。見いだそうとする気力がない。だが、幻想と幻覚には幻滅している。なるほど、ここにはそれら以外に幻滅もあるらしい。それらと似たような言葉ならいろいろあるようだ。しかし幻滅にはうんざりしている。幻滅に幻滅しているようだ。ここには言葉以外に何もない。そんな言葉には吐き気がする。そうだ、吐き気がするような言葉もここにはある。夕暮れ時からはだいぶ時が経った。空からは闇が降り注いでいる。夜のとばりが冷気と共に降りてくる。北へ行けば、それに加えてオーロラのカーテンも降りてくるかもしれない。北欧神話が尽きる場所に氷の海が横たわっている。痩せたシロクマが獲物を探して氷上を走る。そこから届くのは重たい荷物だろう。中身はまだあけてない。すぐにはあけずに春になったらあけてみよう。なぜかはやる気持ちを抑えて無性に期待を長引かせたい。理由はないが春まで待ちたい。今はそんな気分に浸っている。コーヒー豆を挽きながら、物語の結末を空想する。もう妄想からは程遠い時期だ。鋭さはとは無関係だが、直感は何もない。そこで、間接的に聞いたことのない話を聞いたことはある。どこに行けば彼に会えるのだろうか。おそらく、ここで待っていても彼は来ないだろう。出会いは何も期待していない。とりあえず退屈しのぎにゴルゴダの丘を見物するとしよう。もう四十年近く待ち続けてはいるが、一向に見えてこない。そこで空白の時を埋め合わせようとは思わない。常にこのままであり、いつも眼が見えないままだ。狭い部屋の中で道に迷っているらしい。なぜそうなのかがわからないまま、納得させようと必死の努力が繰り広げられているわけなのだが、その一方で、納得とは程遠い結末ばかりが期待されている。瞼の裏に焼き付いているのは、ただの毛細血管だけだろう。そこに結末はないのに、何とかそれらに決着をつけて終わらせたいのだろう。だが、何か釈然としないまま長引いているらしい。希望と現実はかけ離れすぎているのだが、それら二つは容易に混じり合い、外部からろくでもないような台詞が用意されているらしい。よくわからない、ただそれだけなのだ。それ以外に言い表しようがない。たぶん、結末とは終わらないことなのだろう。


11月10日

 とりあえずはヒステリー的な反応が大部分なのだろう。ただそれだけらしい。懸命に無視しながらも反論を繰り返す。やはりゴミにはゴミのやり方しかできないのだろう。直接批判する度胸もない輩が何を言っても無駄なことだ。最低限その程度のこともできないのなら、この文章を読むのはもうやめて欲しい。これを書いている本人には何も届いていない。またその程度の輩がはびこっている日本だからこそ、首相は森氏程度で十分だと思う。世論調査などで森政権に反対する人々は、総選挙で森内閣を信任した自分達こそがゴミであることを忘れている。そんなゴミ達の自己主張には吐き気がする。調子に乗って偉そうな説教を垂れる前に、自分達の馬鹿さ加減を少しは自覚して欲しい。しかし、まあ、ゴミに何を言っても無駄だろう。ゴミには何も通用しない。いきり立ってこんなうんざりするようなことをいくら述べてみても、あちらはただ薄ら笑いを浮かべているだけだろう。その程度で熱くなってしまう自分の弱さを改めて実感させられる。もうこれ以上はやめておこう。さらに批判すれば自己嫌悪で立ち直れなくなる。たぶんこれも本気ではない。冗談の一種なのだろう。今さらヒステリーなどどうでもいいことだ。勝手に熱くなっていて欲しい。おそらくゴミはゴミではない。ゴミは良識ある社会人だと思う。善良な小市民を批判してはいけない。ここで今までの批判を全面撤回してみよう。こうして簡単に変節できるようになった。度胸のないのは自分の方だ。そして度胸がなくても結構だとも思う。今さら軟弱者がいきり立っても仕方がない。もう抵抗などできはしないだろう。過去のおいて、必死に抵抗してきた自分が間違っていたのだ。もう若くはないので、これからは事なかれ主義に徹してみようではないか。保守主義でも構わないだろう。勝手にやっていて欲しい。こちらはもう疲れたので何もやる気が起こらない。何もかもがあほくさい。自分にはもはや何もできない。もちろんこれまでも何もできなかった。はじめからお手上げ状態だ。たぶんこれからもお手上げ状態なのだろう。以上、これくらい弱気になれば許してくれるだろうか。しかしいったい誰が許してくれるのだろう。それがよくわからない。まあ、どうとでも述べられることは確かなようだ。こういういい加減なことはいくらでも述べられるだろう。まさに際限はない。個人の主義主張などいくらでも事の本質からはかけ離れられる。たぶん本質は別の所にあるのだろう。だが、今後も本質からは限りなく遠ざかって意味不明であやふやなことを述べ続けるのだろう。事の本質など知り得ない。本質を探求することが面倒なのだ。そしていつもお手上げ状態でも構わない。その方が気が楽だ。些細なことには目を瞑るし、陰湿な攻撃に対しても為すがままだ。自分にはもう何もできないのだ。何もやりたくないし、何もやる気がない。とりあえず、こうして自己嫌悪で気を紛らわすことしかできない。世界中の馬鹿騒ぎをただ眺めていることしかできない。ゴミ共に一矢を報いることもできはしないだろう。もはや反撃を試みる気力もなくなった。そういうわけで今さらながら沈黙を強いられているらしい。最近は沈黙の記述ばかりが優先されている。いいだろう、とことん沈黙するしか他に手だてはないようだ。これは哀しいことだが、そうするより仕方あるまい。他に何も妙案が思い浮かばない。何よりも本気になれないのだから黙るしかないのだろう。確かにその通りだと思う。しかし、過去において本気になっていた時期が少しでもあったのだろうか。昔のことは忘れてしまった。一年前の記憶さえほとんど定かでない。もはや自分が今まで述べていたことについてもわからないことだらけとなっているらしい。他人のことについてはなおさらわからない。だから安易な誘いはお断りだ。つまらない文章に対しては、ただつまらないとしかいいようがない。ゴミはゴミでしかない。この通り、もはや下手なお世辞さえ言えない状態なのだ。それほど失望は大きい。そしてそれは嘘でもある。


11月9日

 何を眺めていたのだろう。見渡すかぎりの草原だ。空の青さが目に焼き付いている。それはいつのことなのだろうか。そんなことは覚えていない。もはやすべては忘却の彼方だ。今はすべてが欠けている。何もかもが欠落している。それはどういうことなのか。躓きだけでまともな歩みをひとつもできないということなのか。たぶんきっかけがないのだろう。つかみ取るようなきっかけそのものが存在しない。だからどのように始めたらいいのかわからない。もはやどこからも何も始まらないだろう。だが、そんな状況からいつも始めざるを得ない。何も始まらないのに、そこからさらに何かしら始めてしまうわけだ。そんな矛盾が、何も始まらないのに何かを始めてしまうことを許しているのかもしれない。しかしそれはどういうことなのか。内容が何もないということだろう。だから何も期待できないだろう。これから何をやるにしても何も期待できない。しかしこれから何を期待していけばいいのだろうか。未来はいつも漠然とした期待に包まれているらしい。何も希望してはいないが、何かしら期待感を持たれているようだ。どうやら希望と期待は少し意味が違うようだ。違うかもしれないが、同じような意味だろう。希望しないが期待していることと、期待しないが希望していることの意味の違いは何だろう。答えられない。答えられないことを希望しないが期待している。このようにして、いつも何かが期待されているのだろう。今はその何かを見いだせないでいるようだ。期待しているが見いだせないでいるらしい。たぶん、ここでやっていることは無駄な努力の連続かもしれない。ここで述べられていることは常に無視される内容である。それは途方もない誤謬の蓄積だろう。だが、その蓄積さえ無視の対象だ。ここにすべての無視が集中している。視線のすべてが欠けているのだ。そして忘却も欠落している。そのことごとくが無視され、そして忘却すらされない。つまりここでは何も起こらないだろう。その替わりに、それはかぎりのない空の青さに結びついているのだ。それは悠久の時の流れを断ち切る空の青さだ。それはいつのことでもなく、常に今起きている出来事である。夜の暗闇でさえ空の青さに支配されている。それはまったくの出鱈目だ。そして忘却の連続だろう。今は、何ものにも代え難い忘却の時に支配されているのだ。空の青さを忘れて久しい。しかし明日晴れればまた思い出すだろう。見上げれば空の青さを思い出す。現実に晴れた空はとてつもなく青い。そこに吸い込まれそうなほど青い。絶望的なほどの青さだ。そこは恐ろしいほどの高みである。何ものをも拒絶する高さだ。しかしその高みからどうやって展開させるつもりなのだろうか。その場所から何を展開させなくてはならないのだろう。だが、その場所へたどり着いてもいないのに、なぜそんなことを考えるのだろう。未来への期待とは、今は見上げるほかないその不可能の高みへたどり着くことなのだろうか。すでに不可能だろう。はじめから不可能なのだ。高みへたどり着く前に不可能を実行してしまっている。今いるこの場所でさえ留まることは不可能だ。では、期待とは何なのか。それは不可能を忘却し続けることなのか。もうすでに不可能であることを忘却してしまうことなのだろうか。しかしなぜそう思うのだろう。不可能であることを実感しているからなのだろうか。なぜ不可能なのかを問うこと自体が不可能であるらしいからなのか。だが期待通りにそんなことはとっくに忘れてしまったらしい。不可能な現実は不可能なまま放置されている。それこそが無視の対象なのだ。依然として何も明らかでない。しかしそんなことも簡単に忘れてしまうだろう。リセットボタンはオンになったまま動かない。しかしそんな状態でいったい何が蓄積するのだろう。途方もない誤謬が蓄積するわけだ。そしてすべての無視も蓄積する。そしてさらに、無視する者達の屍も蓄積することになるだろう。もしかして、期待されているのは恐ろしい結末なのだろうか。そうではない、結末が存在しないことが期待されているのだ。すべてが忘却の彼方へ立ち去った跡にさえ、忘却が存在し続けるのだ。それは完全な結末の不在である。


11月8日

 そこにはいつも熱狂と興奮が渦巻いているらしい。衛星放送を見るかぎり、アメリカは相変わらずのスポーツ天国だ。この一週間で、バスケットボールとフットボールのそれぞれで驚異的な試合を二つも見た。いずれも試合終了間際までどちらが勝つかわからない、ハラハラドキドキのゲーム内容だった。そして今日、それと同じような試合をまた見てしまった。これで3度目だ。どうやら大統領選挙は今年最大のスポーツイベントであったようだ。まったくアメリカはどうしようもない地域である。そこで起こるあらゆる出来事のすべてが例外なく過剰なのだ。そこでは、どんな些細なことでも力一杯活動しなければ気が済まず、そしていつも奇蹟的な結末へと強引に持っていく。そのひとつひとつは偶然というほかない出来事なのだが、結末においては、まるでそうなることが当然のことのように事態が推移して奇蹟的な瞬間が導かれてしまう。それは意地でも奇蹟を起こさなければ気が済まないような展開なのだ。試合のルール自体にそのような奇蹟を生じさせるための様々な工夫が施されているのかもしれない。そして、その場に観客として居合わせた群衆は、もちろんその奇蹟的展開によって熱狂しなければ気が済まなくなる。当然試合会場は興奮のるつぼと化すほかない。もはや、やることなすことそうなるほかないような体制が出来上がっているようだ。それはすべての人々を不眠不休で興奮し続けさせるひとつのシステムとなっている。それらのことごとくが総じて演出過多であり装飾過剰である。しかもそれらはすべて同じフォーマットに基づいていて、人が大勢集まるところにはどこにでも、興奮と熱狂のカーニバル形式の盛り上がりが用意されているみたいだ。そして、そこから繰り出される快楽への刺激を、ただ熱狂することしか知らない群衆が同じように享受するわけだ。しかし、こんな馬鹿騒ぎがいつまで続くのだろうか。古代ギリシアのアテネにおける繁栄は三百年続いたそうだが、現時点で、もうすでに百年近くアメリカは繁栄しているようだから、あと二百年はこれが続く可能性があるということか。確か古代アテネでは、毎晩のように催される演劇の上演に民衆は酔いしれたらしいが、今のアメリカでは、あらゆることがすべてスポーツイベントになっていて、人々の興味は、ただそれに熱狂することへと過剰に集中しているようだ。だがそれもすでに飽和状態に達しつつあるのではないだろうか。もうこれより先はないような気がするのだ。それらのほとんどが、いつも限界ぎりぎりのことをさも当然のことのようにやっていて、その曲芸もどきの神業でかろうじて観衆の興味をつなぎ止めている感がある。だが、中には、もうだいぶ前からすでに衰退がはじまった領域もあるかもしれない。例えばメジャーリーグのレギュラーシーズンなどは、球場はガラガラで閑散としていて、熱狂や興奮からは程遠い雰囲気だ。テレビの画面からはそんな雰囲気が伝わってくる。そこでは、何やら退屈紛れのお約束で声援を送ったりウェーブを起こしたりしているだけのように見受けられる。また、何か冷めた雰囲気さえ感じられるときもある。観衆がかなりリラックスしていることは確かなようで、球場そのものを、ローマの古代遺跡か何かように見物に来た観光客ような印象さえ受ける。そこはまず第一にのんびりくつろぐ空間であり、たまたま目の前で野球が行われているだけであったりするかもしれない。たぶんそこで催されているベースボールショーは二の次なのであり、試合の進行状況や贔屓チームの勝ち負けがそれほど観客の神経や感情を刺激することはないように思われる。確か江戸時代の大相撲では、あまり力士同士の立ち合いは重視されず、むしろ土俵入りなどに人気があったらしい。観客は立ち合いよりも、力士の太った大きな体そのものを見て楽しんでいたのかもしれない。


11月7日

 キーボード奏者は技法に長けている。その蒐集家の名はハービーとか呼ばれているらしい。その構成と響きは確かに洗練されたセンスを感じさせる。それでいい、それがいいわけだ。それだけでいい。それだけで三十年近く経っても輝いている。もはやそれだけで不滅かもしれない。もちろんそれ以外でもかなりいい。しかし、それ以外しか持っていないものはクズだろう。だから、それを獲得するとしないでは雲泥の差となる。たぶん忘れられてもスライは響き続けるだろう。ハービーがスライなしでスライを響かせる。ここで言う技法とは、スライの音楽に驚いたその驚きを驚きのまま響かせる手法なのだろう。そこから影響を受けたことを率直に認め、しかもそのエッセンスをすべて吸収しながらも、それとはまったく別の構成でオリジナルと同じ響きを再現している。その控えめな在り方の中に周到な戦略が隠されている。またハービーは、バックミュージシャンとしてジャコやミルトンを響かせることに成功している。そういうやり方なら、ハービーだけではない、ウェインやパットだっているではないか。だがこの二人は主に響く側である。もちろんハービーも響く側でもあるが、センスと技量のある人々を結び付ける、より強力な接着剤となっているのは、いつもハービーだったと思う。たぶん結び付けたそのほとんどの音楽が、今なお輝きを失っていないだろう。別にそれを目指しているわけではない。目指そうとして目指せるものでもない。そんな機会などないし、仮にあったとしても、機会はいつも取り逃がしているだろう。そして今後は何も積極的に語ろうとしないつもりなのだろう。それは、今までに見失われたものが多すぎるからなのだろうか。だが、そんなことはもう何も覚えていない。過去の出来事はあらかた忘れてしまったらしい。そして今や、意識して意図的に見過ごしている。たてまえとしては、もう何も見あたらないことになっている。今では、何やらわけのわからないことを書いて、ひたすら沈黙を続けることしかできなくなってしまった。すべてはつまらぬ戯れ事だった。わかったことといえば、はじめから何もなかったということだ。そこにはただ錯覚があった。まだ善意が通用する余地があると勘違いをしていたのだ。そこに何かがあるかも知れないと思い違いをしていたのだ。だが、現実はそんな生易しいものではなかったようだ。結局そこに群れていたのは、せこいプライドとつまらぬ自尊心でいきり立つ愚かな人々ばかりだったかもしれない。そこは情報のゴミが文字や画像や映像や音声となって行き交う下水道であるかもしれない。情報ハイウェイになる前にすでに廃墟と化している感もある。もはや検索サイトはゴミの集積場となっている。だがそれでも、こんな早い段階で幻想を打ち砕かれて却って良かったと思う。それは現実の社会の縮図や反映などではなく、社会そのものなのだろう。反体制派が主張するように体制側の政治家や官僚だけが愚かなどでは決してない。体制側も反体制側も含めて、いつでもどこでも愚かな人は確実に存在している。しかも、社会に対して発言力や影響力のありそうな人ほど、その愚かさがいっそう目立つように思われる。その人が強気な口調で何かを述べれば述べるほどボロが次々と出て、その結果どんどん裸の王様状態へ近づくように感じられるのだ。もはや勇ましいことを言った者から順に化けの皮が自ずから剥がれて、現実にはせこい小心者であることが簡単にむきだしになる状況になってきているようだ。これこそが、これらのサイバースペースと呼ばれる廃墟時空間の効用であり効果だろう。今後こうした強権的な傾向が徐々に減ぜられてゆくのなら、こんな下水道やどぶ川のような環境も少しは役に立っていることになるだろう。しかしこれがいったい何の役に立っているのだろうか。それはあと何年かすれば、よりはっきりしたことが鮮明に浮き上がってくるのかもしれない。


11月6日

 これから何を思い出せばいいのだろうか。それは知らないが、たぶん何かしら偶然に思い出すだろう。だがその一方で、何も思い出せないだろう。それはどういうことなのか。何かを思い出すのと何も思い出せないときが同時にやって来る。そんなことがあり得るだろうか。それが妥当な述べ方かどうかはわからないが、現実とはそういうものかもしれない。そして思い出した先から忘れてしまう。重要なことは何も思い出せないが、どうでもいいことはよく思い出す。空白の時をよく思い出す。意識がぼやけているときのことをしょっちゅう思い出す。そうして、気がつくと、虚ろなときを反芻していることがしばしばある。何を思い出しているのでもなく、結局は何も思い出してはいないのだ。思い出したことを忘れ、忘れたことを思い出す。そしてすべてが虚ろなまま通り過ぎる。そんな状態では何も識別できないだろう。現実はすべて虚無に吸収されてしまう。そして、その吸収された意味不明な現実は、こうしてわけのわからない言葉となって出力されるらしい。それはどういうことなのか。いったいここで何をやっているのだろう。そんなことを知ることはできない。たぶん何もやっていないのだろう。何もやろうとしていないし、現実に何もできない。しかしそれでも何かをやっているらしい。それはどういうことなのか。それはどういうことでもなく、もはやどうしようもないことだ。どうしようもなく何かしらやっているのだろう。その何かしらを停止することが不可能なのだ。別に何をやっているわけでもないのに、それを停止させることができない。もうすでに何かしらが活動を開始しているようだ。だが、それがどのような活動なのかは皆目見当がつかない。だから、ここで何をやっているのかはわからないままなのだろう。もしかしたら、それは虚無というようなカッコのいい呼び方で表されるものではなく、まったくの暇つぶしなのかもしれない。そうであればたいぶ気が楽だろう。もはや、大げさな意味や意義を見いだすことからは、ほとんど遠く離れてしまったらしい。そして、失望することにも疲れた。さらにまた、笑うべき機会までも失ってしまった。笑えない。かといって、真面目になることはなおさらできないようだ。では何をしたらいいのだろうか。それがいまだにわからない。ここはもはや彼岸の彼方だ。それはいったいどこなのか。もしかしたらこれは冗談なのだろうか。確かに今述べていることは冗談の一種なのかもしれない。が、全然笑うことはできない。しかしこれは皮肉ではないらしい。そんなものは、もうだいぶ前に通り過ぎている。ただ、わからないのだ。そして、そのわからないことはどうでもいいことなのだ。わからなくてもいいことをわかろうとして、結局わからないままだ。そしてそれはどうでもいいことなのだ。確かにそんなことはどうでもいいことだ。だが、どうでもいいことだが、それをわかりたい。しかしそうなると、それはどうでもいいことではなくなるだろう。やはり結局は矛盾したことしか述べられないようだ。だが、これこそが今ある現実である。こんな現実にどう対処したらいいのだろう。どうやらそれも、わからないことの一部を形成しているようだ。これではまったく出口が見いだせない。だがそれでいいのだ。それでなぜいいのかはまたもやわからないが、やはりそれでいいのだろう。結局それもどうでもいいことなのだ。はじめから根拠など存在しない。何を述べているのかわからなくとも、なんの不都合も感じない。それは、暇つぶしよりもさらに低い位置からの言動かもしれない。だが、根拠がないのだから位置さえ存在しえないだろう。根拠も位置もないところから何かを語っているらしい。はじめからそうなのだ。それこそが、どうしようもない何かである。それはどこまで行っても、何か以上のものにはなりようがない。まったく恐ろしい無内容だ。確かにこれは虚無でさえないだろう。かといって、暇つぶしではあり得ない。つぶされる暇そのものが存在しないのだ。やはりこれは、わからないとしか言いようがないだろう。それ以外に何も見いだせないような不可解な現象だ。だが、その一方で、予定調和なのかもしれない。始めからわからないという前提でここまでやって来て、結局はわからないままだったのだから、これはたぶん予定調和なのだろう。それ以外にあり得ない。しかし、なぜここまで無内容を貫き通すのかが理解できない。今回はまったくサービス精神が欠如していたようだ。だが、それでもなお、それでいいのであり、そんなことはどうでもいいことなのだろう。


11月5日

 ここにひとつの現実がある。どうやら、今ここにあるありのままのこの状態が、ひとつの現実であるらしい。しかし、具体的にこの状態を指し示す言葉には巡り会えない。どういうわけか現実がそれに見合う言葉に結びつかない。確かにここには現実が存在するが、その現実を具体的な言葉に置き換える変換規則を見いだせないでいる。だがこの現実自体はすでに見いだされている。では、ここに見いだされた現実とはどのようなものなのだろうか。現実を何らかの言葉として定着させる手がかりはないものだろうか。その時々や場所によって絶えず変化する現実は、どのようなものでもあり、またどのようなものでもないだろう。しかし、そんな説明では何も言いようがない。そのどのようなものが具体的に何なのか、まずはそれが言葉によって指し示されなければ、そこから先へは何も述べられないだろう。言葉の対象となる現実とはいったい何なのか。なぜそれが明らかにならないのだろうか。たぶんそれは明らかにできないのだろう。では、ここから先へはどうやって話を進めてゆけばいいのだろうか。簡単なことだ。それは現実から言葉へ逃避すればいいだろう。言葉は危険な現実から身をかわすための避難所である。誰もが沈黙には耐えられない。ひとり孤独に山野を駆けめぐる修行僧ですら、沈黙せずにお経を唱える。山伏も何らや呪文らしきものを口にしながら修行しているらしい。ここでは、くだらぬ冗談で現実から離脱しつつ、その残り滓を文字として表現してみたらどうだろうか。それはよくありがちなやり方だが、そのとき、現実が現実でないものに変容を被るだろう。そこではしかるべき操作がしかるべき規則に基づいて行われ、まさにそれは、冗談のような現実ではない現実に変容してしまうだろう。結果として、言葉にできない現実が、その現実とはまるで無関係な言葉に置き換わる。だがその現実から逸脱した言葉もひとつの現実である。それは、奇怪な表現方法によって、驚きという現実を生み出す。またその一方で、通常のやり方もある。社会常識として行き渡っている慣習に従って、その現実に誰もが知っていると思われる言葉を当てはめると、ごく自然な印象を得られるかもしれない。それがきわめて妥当な言葉と現実の結びつきであるかのように思われる。それは漠然としたものだが、その地域で誰もが共有している規則らしきものは、綿密な調査を実施すれば、必ず事後的に見いだされる。通常その地域で暮らす人々は、ほとんど意識することなしに、そのような共有規則に合わせて言葉を使っているものだ。もちろん現実はまったくの逆であり、調査そのものが共有規則という現実を生み出しているのだ。それは、度重なる発表という権力行使によって地域の住民に知らしめて、人々の言語使用から生活形態までも一定の方向や範囲に限定しているかもしれない。そのような拘束こそが、その地域に一定の社会環境を形作っているだろう。だが、そんなやり方では何も面白くない。せっかくの意味不明な状態を常に取り逃がしている。それでは善悪の彼岸までは到達できそうもない。しかし、なぜここで善悪に彼岸に到達しなければならないのかは解らない。解らないことは冗談の一種かもしれない。たぶん現実に対する取り組み方がいい加減なのだろう。すべては中心から転げ落ちて周縁にたどり着くらしい。文化人類学的にはそうなのだろう。そこでは、かつての現実のなれの果てが、奇妙な言葉となって、調査文献の片隅にわずかな痕跡を残すのかもしれない。では、その現実のなれの果ては、言葉としてどのように刻まれるのだろうか。ケースバイケースだろう。面倒くさいことには触れたくない。どうでもいいことだ。それよりも、まだ絵としてキャンバスに描かれる方がいくらかはマシだろうか。それを比較することにあまり意味はない。それがたとえ音声や映像として記録されようとも、それらはもはや別の現実である。文字や絵や音声や映像が新たな現実となって、既存の現実に付け加えられる。その現実は貴重でも何でもなく、ただの選択対象でしかない。娯楽や学術の対象として、その時々で資料庫から持ち出されるわけだ。


11月4日

 鉄橋の袂に段ボールが散乱している。河川敷のゴルフ場に異臭が漂う。雨上がりの曇り空は何を暗示しているのだろうか。どこかで生きているらしい。真空地帯で濃密な時を過ごす。相変わらずの型にはまったやり方だ。何を述べているのだろう。何かを述べているらしい。何か言おうとしたとたんにはぐらかされる。もう何のことやらわからない。だが、やり直すことはできない。遠くの山並みは雲に隠れて見えない。否定されるのは青い空と午後の日差しだろうか。月は暗闇が好きなのだろう。星明かりすら遠ざける。その青い写真は幻想的だ。遠いスペインの空の下で何を想うのだろう。その老婆は死に神に呼ばれたと訴える。犬も必死の形相で吠え立てる。裁定は永遠に下されないだろう。誰も何も付け加えない。もはや訴えることをやめてしまったらしい。鉄球と鉄アレイが床に落ちる。もう何度も繰り返して落とされているらしい。雨に濡れた段ボールは何の役にも立たない。もう捨てるより仕方ないのだろう。そのまま川で流されて海の藻屑と消えるのだろう。循環しているのは雨水と海水だけなのだろうか。透きとおった地下水には重金属が含まれているかもしれない。地上ではみかんの季節だ。ひたすら食べてみる。地下の洞窟には誰もいない。人を呼ぶ声さえ届かない。呼ばれても返事をしたくない。睡眠時間は有限の時だ。だからいつも睡眠不足になる。朝になるともう少し眠りたい。快適な暮らしからは程遠い。いつも闇に紛れて徘徊する。闇夜の中では吸血鬼なのだろうか。そして、朝になると人間に戻るらしい。そんな虫のいい設定はフィクションにもない。朝日が眩しいぐらいでいちいち死んでいられない。そういう前提そのものが馬鹿げているのだ。伝統や慣習に縛れたままのフィクション自体が馬鹿げている。いちいち日本の政治状況などを憂うほど神経質ではない。かといって、開き直って現状を肯定するほど白痴でもない。知性を感じさせられない美しさとも無縁だ。ただ、どうでもいい。選挙違反で捕まる地方公務員の立場など知ったことではないし、しかもそれが、普通の小市民を一皮むけば容易に同じ立場になりうることぐらいはわかっているつもりだ。そして、抗議電話をかける人とそれに応対する人のメンタリティが大して変わらないだろうことも承知している。立場などいくらでも入れ替え可能なのだ。だから、知事は頭の固い保守的な職員にも頭を下げて協力をお願いしなければならない。現実にある固い地盤を、その通りのものとして受け入れるしか何もやりようがないだろう。まずはそういう現実を認めた上でスタートするしかない。その現実はほとんど変わりようがない。昔からそうなのだ。おそらく誰が変えようとしても変わらないだろう。変わるときは自ずから変わる以外にあり得ない。誰がやってもうまく行かない現実が、いつかは自発的に変わるときが来るだろう。そういう無根拠な述べ方は神秘主義かもしれないが、実際に変わるときが来れば変わってしまうのだから仕方がない。そのときが来るまでは、せいぜい無駄な抵抗を続けていくしか暇つぶしの方法は他に見つからないだろう。そういうわけで、これから行われる政治など暇つぶし程度のことだ。まったく期待していないから、適当にがんばって欲しい。完全な失敗に終わっても、それはそれで有意義な成果となるだろう。大丈夫だ、やれることは限られている。ただそれをやればいいだけのことだ。しかし、いったい誰を励ましているのだろうか。どうやら、海の藻屑と消えた腐乱死体の話でもしているらしい。あまり食欲をそそらない話だ。はるか昔、アウストラロピテクスは地面に二本足で立って歩いていたらしい。パンパースのお世話になっているのは誰なんだろう。たぶん、その辺で生まれた赤ん坊だろう。口が裂けてもその老人の名前は口に出せないのだろうか。自分は知らない。ただそれだけだ。その鉄アレイはかなりの重さだ。


11月3日

 吊り橋から身を投げたら竜宮城へ行けるらしい。蛇口をひねるとハブが飛び出す。水道管にガス管が接合されていた。その受話器は使い物にならない。フランス料理では、スプーンとフォークの代わりにラジカセが使用される。切れたコードを手繰り寄せると、つま先が軽くしびれた。赤い糸が途中で途切れて、水族館に波紋が広がる。ペン先とシャープペンシルの先はつながらない。車道と歩道の段差で躓いたとき、坂道と螺旋階段が結びつく。自分ではなく、代わりに仮面が告白するらしい。洗練を放棄しても退廃すらできない。ローマへの道は砂漠で途切れる。だが、メッカへの道は砂漠を横断する。それはきっと高速道路なのだろう。西海岸への幻想はハワイで充たされるだろう。そして結末は、バハマの青い空へ消える。急行列車は大西洋を横断できない。氷山に乗って冷蔵庫が流れ着く。ついでに流れ着いた漂流物は冷凍マグロだろう。浜辺で椰子の実を拾ったら、ついでにペットボトルも探してみるといい。中には使い捨てライターが入っているかもしれない。プラスチックに思い入れはない。淡い脱力感に充たされる。塩水は甘い香りがする。ネオンサインは壊れかけた記憶を呼び覚ます。犬の骨には遠い日の思い出がつまっているかもしれない。たぶん潮騒は山の上から聞こえてくるのだろう。この部屋では音の反響が鈍くなる。床一面が柔らかい。黴臭い絨毯だ。紫外線で洗濯できるだろうか。虫干しの意味を探ってみればいい。リセットするにはまだ早い。密封されたアルゴンガスから魅惑的な光が取り出される。赤土はどこかで露出するだろう。録音された昔の音からは何を取り出せばいいのだろう。すでに短波ラジオのアンテナは折れて先がどこかへ行ってしまった。かつてノイズミュージック音源として、貴重な役割を果たしていたこともある。宙吊りのスピーカーが今にも落ちてきそうだ。額縁の中の吊り橋は色あせて、今や壁紙の引き立て役にすらならない。通りで見かけた逃げ水は、蜃気楼と共に映像フィルムに定着されるだろう。皮膚に染みこんだ色素は、透明な保護膜を形作りながら過敏な神経を刺激し続ける。どこまでも続く終わりのない球面上から離脱を試みる。無駄な悪あがきだ。重力に逆らってわずかにジャンプしてみる。持続性は皆無だろう。何ものにも充たされない状態から、できるだけ遠ざかろうとしている。そのとき不満の捌け口は消失するしかない。確かに地球の中心に引きつけられていることは不満だろう。常に球面に貼りつくことしかできない。磔刑に処せられた人々はどこを見ていたのだろうか。夜空に流れ星を眺める余裕があっただろうか。中には仰向けになって死ぬ人々を呪いながら死んだ者もいたかもしれない。地球に貼りついたまま死ねる人は幸せなのだろうか。どうということはない比較だ。そこで見いだせるのは、たかが人の死でしかない。あとはありふれた棺に詰め込まれて移動するだけだ。例えば霊柩車と救急車が正面衝突をしたら面白いだろうか。そこで二つのありふれた出来事が一つの特異な出来事に融合する。だが、交通事故ならありふれているだろう。そこで霊柩車の中の死者が生き返って、救急車の中の怪我人が死んだりしたら面白いだろうか。どうでもいいことだ。黴臭い絨毯の上で黴臭いことを考えているらしい。赤い絨毯の上に椰子の実はない。だから砂浜ははるか彼方へ遠ざかる。それは駅の自動販売機に貼りついている広告だ。その場で缶コーヒーを飲んでリラックスして欲しいらしい。ずいぶん虫のいい話だ。できればもっとマシな環境でリラックスしたいものだ。しかし、はるか彼方の山並みから本当に潮騒の音が聞こえるだろうか。当然それは嘘である。でも、海から山びこが聞こえてきたら面白いかもしれない。たぶん重力には逆らえないのだろう。磔刑になるよりは地球に貼りついていた方がはるかに楽だ。わかりきっている。別に竜宮城に行きたいとも思わない。蛇口をひねれば水がでてくる。


11月2日

 どんな顔がお望みなのか。意味もなく笑うと引きつる目尻の皺は相変わらずだ。眉間と額と口元から鼻にかけても、しっかりと深い皺が刻まれていて、その不快な笑いに連動して、数が増したり溝が深くなったりするようだ。まさに顔全体が、その人物が今まで生きてきた結果を如実に物語っている。皺だらけのその顔は歳相応の老化を示しているのだろう。そして、その皮膚細胞にはもはや復元力が失われている。さらにまた、その喋り口にも、いつもの否定的見解がすっかり板に付いているようだ。脳細胞までが硬直しており、異物を吸収するだけの柔軟性に欠けている。人の老化とはそういうものなのだろうか。自分もあと三十年も生られたら、そんな老人になってしまうのかもしれない。だが、そんな否定的な側面ばかりでもないだろう。老化にも、見つけようと思えば何か肯定できる要素が見つかるかもしれない。そんな少しの救いを糧として老人は生きてゆけるだろうか。その救いとは何だろう。それは、現実の老人が見いだせばいいことだ。もし自分が老人になるまで生き残れたら、とりあえずは何か楽しい出来事でも探してみるとしよう。今は絶えず気の抜けない現実に直面し続けている。ただ時間ばかりが疾走しているようだ。机上の目覚まし時計の針はせわしなく回り続け、左腕に巻き付いている小さな四角の液晶画面上では、六十進法の規則通りに秒刻みで数字が増加し続けている。こんな状態で、はたして二十一世紀半ばまで生きられるだろうか。だが、なぜあと五十年近く生きるつもりなのだろう。それは、あと百年生きることは難しいからなのか。納得できる理由はない。だが、この先何年生きようと、とりあえず今必要なのは少しの休息かもしれない。生きることより休むことの方が大事だ。しかし、これがなかなか叶わない。現実はそんな望みなど簡単に打ち砕く。休息がいつも不足気味なのに、やっとのことでかろうじて見いだされた、この静かな時空間にも、どこからともなく得体の知れない虚無が忍び寄ってくる。まだ何かをやらなければならないらしい。まだ自分は生きなければならないらしい。いったいどこまでこれをやらせるつもりなのだろう。こうして、虚無は容赦なく睡眠時間を削りにやってくる。わけのわからない閃きで、眠気が一気に吹き飛んだ。まったく休むいとまを与えない。なにがなんでも苦悩を押しつけ、顔の皺を増やしたらしい。だが、それはまたしても嘘だ。そんな結びつきがどこあるというのか。苦悩の深さと顔の皺の数は必ずしも一致しないだろう。深い苦悩は無表情を生み出す。それは本当だろうか。いつものこじつけだ。苦悩が顔の表面にでているうちは、それほど深刻な状況ではないだろう。誰かにその苦悩をわかってもらいたいから、困った表情を浮かべるわけだ。それは他者と接触してコミュニケーションをはかれば、何とか解消するかもしれない苦悩である。だがそれを放棄したとき、人は無表情になる。肖像の顔は至って無表情だ。もう何十年も壁面に貼りついていて、いつも反対側にある窓の外を見つめ続けている。その画布は時間と共に朽ち果てる傾向にあるが、画布の表面に描かれた顔は歳を取らない。老化とは無縁の無表情をいつまでも保ち続けるだろう。また、その肖像の横にかかっている鏡の方はといえば、特定の顔を何も持たない。鏡は肖像とは別のやり方で老化を無視している。ただ、正面から視線を送る者の顔をその度ごとに映し出す。そこに映し出されるのは、いつも誰かの顔である。それらの顔は、ある時は若者であったり、またある時は老人であったりするのだが、映し出されるのは常に他人の顔である。そこに鏡自身の顔は存在しない。それを何気なく覗き込むと、視線の先には、左右が入れ替わった覗き込んだ者の顔があるだけだ。


11月1日

 いつまで経っても浅はかな考察だ。どうやら、さらなる衝突や摩擦が生じる可能性は完全に消えてしまったらしい。それは大変ありがたいことだが、その一方で、もはや偽りの出会いはあり得ないことが証明された。とりあえずは今後も誰と出会うこともないだろう。はじめから出会う可能性そのものが欠如しているようだ。それは格闘技ではないのだから、戦いのリングなどというものがそう都合よく設定されているはずがない。そこで許容されない他者は、おそらく常にスピンアウトする宿命なのだろう。だから、これからも何が起こるわけでもなく、このままの状態がさらにもうしばらく続いて行くだろうし、さらなる空白の時が言葉によって演出されるだろう。そこには余分な語りだけが存在できる。そして、何もない貧窮のただ中で、何を語っているわけでもないのに、なぜかそのまま意味のない語りが継続して行くことになるのだが、それでも依然としてこの状況は変わりようがないだろう。しかも、すでに余白さえ使い果たした感もあるのに、さらに、言葉を刻み込む場所は周囲のどこにも見あたらないのにもかかわらず、どういうわけかそんなふうにして続けられてしまうわけだ。そしてさらに、今や充満する空白はそこから溢れ出し、他人の領分にまで浸透し始めているようだ。それらの語りは、あらゆる言説を腐食させる性質が備わっているかもしれない。だがそれへの対処は何も持ち合わせていないし、対処する理由もない。それを語る理由などはじめから存在しない。ただ、何の根拠もないのに、他人のことは自分のことだと思っているわけだ。つまり、他人に向けられた語りは自分に向けられた語りであり、さらに他の誰かに向けられた語りでもあるらしい。そして、そういう思い込みだけの対称性が無根拠であるにもかかわらず、その無根拠を、語るすべての者たちが共有することによって、なぜか無根拠が根拠に無根拠のまま入れ替わり、結果としてひとつの根拠を形成し、その無根拠さが彼らが積極的に語る理由になっている。無根拠だからこそ語るわけだ。そして語る理由がないからこそ、語ることができるわけだ。こうして、まったく辻褄の合わないことを辻褄が合わないまま述べている途中で、いつものようにわけがわからなくなる。だが、そんな突然の割り込みもいつも通りの展開なのだろう。それは無理なこじつけであると同時に、休息として機能しているらしい。自分達の存在理由の不在を忘れるためにも休息は必要なのだろう。だがそんな休息さえも、何の根拠もないこじつけである。休む必要もないのに、その必然性が皆無なのに、なぜか休むことにこだわらなくてはいけなくなる。当然のことは当然のことではないのに、それがさも当然のごとく機能する。そしてさらなるわけのわからない展開を引き起こすことになるだろう。しかしこれだけでも、ほとんど救いようのないこんがらがりようなのにもかかわらず、その上に、さらにどこかの得体の知れない表面に意味不明な文字を記入しようとしているらしい。まさにとどまることを知らぬ不可解な記述作業の連続だ。それらの行為は、かなり前から常軌を逸しているかもしれない。だが、それはすでにわかりきっていることだろう。わかりきっているにもかかわらず、さらにわけのわからないことが記述されなければならないようだ。まさに現状は驚異的でさえあるのだが、案外このねじれにねじれた状況が心地良いわけだ。実際、誰もこの状況から抜け出すつもりはないらしいし、ここからもっと変なふうになって欲しいと内心願っているのかもしれない節さえもあるようなのだ。やがてやってくる結末を思い描きながら期待に胸膨らませていながらも、現実にやっていることはといえば、この状況の継続に努力しているのだから不思議だ。そこには矛盾や無根拠といった辻褄の合わぬことを楽しむ姿勢すら感じられる。


10月31日

 結局はこんなものだ。何を述べたいのかまるでわからない。まったく理解できない。本当に何を述べたかったのだろう。われながらあきれてしまう。だが意味不明なのは毎度のことだ。たぶん何を述べたいのでもない。ただ、何かを述べているだけなのだろう。自分には自分の述べていることがわからない。そこでは何かが繰り返され、同じようなことが循環しているらしい。それはいつも何かであり、常に同じような何かなのだろう。自分にわかることは、何かの拍子に、以前に述べたことと同じようなフレーズが不意に出現することぐらいだ。そのことに気づいてはじめて、その同じようなことがまた繰り返されていることを実感する。このようにすべてはぐるぐる回っているらしい。なぜそうなるのかはよくわからないが、どうしようもなくそうなってしまうようだ。これらはすべて堂々めぐりなのだろうか。たぶんある側面から捉えればそうなるのだろう。記述のパターンがすべて同じなのだ。では、それをどう読めばいいのだろうか。読む側が、勝手に違う意味を付け加えながら読めばいいのだろうか。そんな読み方ができるのならば、実際にやってみればいい。言うは易しだ。だが、どうしてもそれができなければ、別にそれらを同じ意味に解釈してもいいだろう。無理して強引に違う意味を付け加えることはない。そんな読み方しかできないのなら、それでも構わない。この際、解釈などどうでもいい。ある一定の分量で記述が存在していればそれでいいのだ。これはいくぶん投げやりな意見だろうか。そうかもしれない。このような自問自答の形式では、そんな意見も出てきて当然だろう。もはや何もかもどうでもよくなってきた。たぶんこのセリフが期待されていたのだろう。予定調和の展開にはまっている。モノローグとはこういうものかもしれない。空虚な余白に意味のない言葉を刻むしか、ほかにやりようがないわけだ。これは限りのない静止状態だ。なぜか無の場所に引き寄せられて身動きが取れないでいるらしい。なぜそうなってしまったのだろう。それはこれを続けてきたからだろう。これを無理に継続させているうちに、何かのきっかけで斜面を下へ下へと下っていって、そこで行き止まりになり、その窪んだ場に落ち込んで、気がついたらそこから抜け出られなくなってしまったようだ。つまり、このような経緯が、この場での物語のバリエーションの一つなのだろう。たしか、お池にはまってさあ大変、とかいう歌があった。それと同じような状況なのかもしれない。ではこれから、ドジョウが出てきてこんにちは、坊ちゃん一緒に遊びましょう、となるのだろうか。しかし考えてみれば、この歌の展開もかなり意味不明だ。ドングリがドジョウと一緒に遊んでどうしたというのか。ここで何か意味深な推理を働かせなければならないわけか。しかし、自分は記号学者やクイズ回答者ではないので、そんなことをやるまでもない。たぶんそれはそのまま、ドングリとドジョウが遊んで終わりなのだ。もしかしたら、その歌詞には2番があるのかもしれないが、そんなどうでもいいことまでは調べない。面倒だからそこで終わりで構わないだろう。意味不明は意味不明のままでなんの不都合もない。たぶんその歌に2番があるとすれば、犬のおまわりさんみたいな内容になるのだろう。ここでは勝手にそう思い込んでおこう。しかしそれは本当だろうか。そのことで悩んだら夜も眠れなくなるわけか。地下鉄をどうやって地下に入れたのかで悩んだりするわけか。たぶんその程度の悩みならなんの苦労もないだろう。悩みがみんなその程度なら、この世から自殺者がいなくなるだろう。もちろん、そうでなくても、自殺者は、結果的には自殺してこの世からいなくなるわけだが。


10月30日

 小手先のテクニックは結構重宝かもしれない。退屈な引き延ばしに少しは感動してくれるだろうか。誰が感動するのだろう。いつか雪が降るだろう。今も世界のどこかで降っているかもしれない。サハラ砂漠に雪が降る。ニューギニアにも雪が降る。そんな雪景色を眺めてみたいものだ。忘れた頃に雪は降る。小笠原の海にシャチが舞う。舞台で舞い降りるのは紙吹雪かもしれない。そんな偶然が演出される。岬の突端で釣りをする。冬のプールには鯉が泳ぐ。舞台照明の下で獅子が舞う。釣り天狗とは、どのような人のことを言うのだろうか。テンポが突然乱れる。拍子抜けとはこういうことを言うのだろうか。連想されるものには何か関連がありそうだ。讃岐平野で真魚が舞う。そして奥の院で干からびる。ピカレスクの主人公は銃弾に倒れた。矢が顔面に突き刺さる。銃弾が耳をかすめる。霊山に集うのは観光客だ。そこで疲れる。憑かれるわけではない。斜面を登るとくたびれる。石段は何の役にも立たない。斜面にはエスカレーターが必要だろう。能舞台で舞うのは猿だ。薪能では火の粉が舞う。それにつられて霊も舞う。憑かれた役者は操り人形だ。粘着テープにゴキブリが貼り付く。ネズミも貼り付くらしい。だがモグラは地面の下だ。ときどき地面から這い出てくる。猫はモグラも食べるらしい。ネズミよりは不味そうだ。能舞台では、猿と一緒に狐も舞うかもしれない。歌舞伎と能を混同しているだろうか。名物は讃岐うどんだそうだ。だしにはあまりこだわらない。そばもそうだ。なぜラーメンだけがだしにうるさいのか。それは妙な風習だろう。だが、ネズミやモグラを食べるよりは麺類の方が人間的だろう。しかし猫はキャットフードも食べる。猫専用の加工食品までが流通する世の中だ。たまにはインスタントラーメンでも食べたいものだ。こだわりの味にはこだわらない。味にうるさいやつは、モグラだけを食べる猫と同じだろう。だがそこにどのような結びつきがあるのかわからない。一度時計仕掛けのオレンジでも見たらどうか。ニューギニアで人肉を食べた人は、現地で雪景色でも眺めたのだろうか。たぶん屋台でラーメンでもすすりたかったのだろう。それでもまだモグラを食べるよりはマシかもしれない。学校の先生によると、人間は猫よりは高等な生物らしい。それがひとつの価値観を形成している。わからないのはうどんのだしがやけに濃いことだ。たぶんそれもひとつの価値観なのだろう。だしが濃いとスカを思い出す。スカパラダイスはキューバやジャマイカにでも存在するのだろうか。中米のことはあまり詳しくない。パナマに亡命したがったペルー人も、スカパラダイスに憧れていたのかもしれない。あの辺ではラーメン屋は見当たらないだろう。たぶんジャマイカ人はラーメン嫌いなのだろう。では讃岐うどんはどうだろうか。比較の対象にはなりづらい。レゲエとサッカーと讃岐うどんは比較できない。では、それにモグラを加えてみたらどうだろうか。さらにわけがわからなくなる。フジモリ大統領は今ごろ醤油せんべいでも食べていることだろう。急にせんべいが食べたくなった。だが部屋の中で食べると、破片が散らばるのが難点だ。噛んだときの音も大きいので、周りに赤の他人がいるところでは食べづらい。しかしモグラを食べるのよりはかなりマシだろう。マシどころではない。モグラなど食べられたものではない。たぶんそこが猫と人間の違いだろう。猫はせんべいもモグラも食べられる。だが、それがうらやましいとは思わない。それは当たり前のことだ。確かニューギニアの高山には雪が降ると記憶している。


10月29日

 天候の変化を簡単に言えば、そのだいたいは、晴れのち曇りのち雨のち曇りのち晴れというふうに推移するだろうか。おおかたそんなサイクルが繰り返されることが多いと思う。そこに、季節によっては雪や雹なども差し挟まれることがあるかもしれないが、たまには空から大きな隕石でも降ってきて欲しいものだ。あとはミサイルや火山灰や飛行機やロケットや人工衛星や死の灰や鳥の糞や黄砂や杉花粉といったところだろうか。いつの間にか天候とは関係のない話になってしまったが、その展開が取り立ててどうということはない。たいしたことは何も述べていない。天気の話など退屈極まりない。ただの雨だ。別にその天候は嵐の前触れなどではなさそうだ。たぶん今日は雨だったが明日は晴れるのだろう。まったくどうということはない平凡な雨だ。しかしなぜ雨なのだろうか。いつもは平凡な天気の移り変わりなどにいちいち気を止めたりしない。どうやら、今はいつもではないらしい。だが、たとえ今がいつもではないとしても、いつもではないが別に非常時でもないだろう。では、いつもではない今はいったいどのような時なのだろうか。どのような時でもない。おそらく、たまにはいつもではない時もあるのだろう。しかし、いつもではないのに、どうしてこんなにも何も起こらないのだろうか。ことのほか静かだ。快適でさえある。それはたぶん、非常ではないので何も起こらないのだろう。だが、いつもは何かが起こっているのだろうか。特別なことは何も起こらないが、ただいつも通りのことが起こっている。しかし、たぶん今もいつも通りのことが起こっているだろう。では、なぜ今がいつもの時とは違うのか。今はいつもの時とほとんど区別がつかない。ただ、今はいつもではないらしい。おそらく明日もいつもではないだろう。昨日もいつもではなかったはずだ。つまり、いつもいつもではないのだ。これはいったい何を述べているのだろうか。これは屁理屈と似たような述べ方かもしれない。だが、そうかもしれないが、屁理屈がいったいどういうものなのか思い出せない。屁理屈とはどんな感じだったか、それを思い出すのがめんどうだ。いまさらそれを思考するのは煩わしい。たぶんこれはいつのものことなのだろう。いつもはいつもではないのに、これはいつものことなのだろう。これでは辻褄が合わない。だが、たぶんこの辻褄が合わないのもいつものことなのだろう。こうして、いつもではないのに、いつものことが連続してしまう。これもいつものことだ。要するに、いつもではないにも関わらず、依然としていつものことだらけなのだ。これはどうしたことだろう。今がいつもではないと述べた途端に、いつものことだらけの展開になったらしい。それはよくあるパターンだ。ついでに、よくあるパターンはいつものことだろう。このような展開は辻褄が合っている。辻褄が合わないのはいつものことだ、と述べる展開はよくあるパターンであり、その展開はいつものやり方と辻褄が合う。わざと辻褄の合わないことを述べては、それはいつものことだと言って、それとは別の次元で辻褄を合わす。大部分がそんなことの繰り返しだ。しかしなぜそんな無意味なことを繰り返すのだろうか。さあ、それは、これを読んだ人々を失望させるためには、ぜひともやっておかねばならないことなのかもしれない。もう読むなということだろうか。たぶんそんな意味もあるのだろう。だが、そのことに関しては、現時点ではよく分からないし、明確な意識も認識もない。しかし、以前ここで、誰も読まないような文章を書いてみせると述べたこともあったようだ。はたして近い将来それが実現するのだろうか。自分としては、そうなってもならなくてもどちらでもいい。昔述べたことについてはあまり関心はなさそうだ。


10月28日

 不寛容と非寛容の違いがわからない。つまらぬ意地を張り通すことはいったいどちらになるのだろうか。その人物にどれほどの度量があるというのか。度量も技量もない。赤道付近では季節もない。日本では、春先は三月だろう。真夜中に雨音を聞いたのはいつのことだったか。満月を見たときの感動はありふれているだろうか。近い季節は冬だ。雨雲のはるか上空で、オリオン座がゆっくりと旋回していく。この辺では時の流れが一定しているらしい。淀みのない歩みだ。まるでレゲエのリズムみたいに気だるい速度を保っている。きっかけをつかめぬまま、今日もまた宇宙遊泳を楽しんでいるらしい。いつものことだ。いつか満天の星の下で、唐突に猫の耳と蛇の目を思い出すだろう。だが、それが何かを暗示しているわけではなさそうだ。何事も利用できないものは関心を持たれない。そんなくだらぬせめぎ合いを無視して、とりあえず先へと進んでみよう。修正は後からいくらでもできそうだ。意見の集約は果たされぬままだ。それはいくぶんまとまりを欠く意見だった。そこでは慣例や儀礼は無視される。それもいつものことなのだろうか。そして更なる混沌が待ち受けているだろう。それもよくありがちな展開だ。見いだされるのは、いつも死にそうな人々である。死人と区別がつかないような相貌に囲まれている。禅寺で修行すると、誰もがそんな顔になる。そんな顔でも、何かしら語りたいらしい。そして、どこかの道端で意味のない会話が交わされることになる。交差点で立ち往生してしまう。信号がまもなく点滅しだすだろう。三分近く怪獣と格闘しているウルトラマンのようなものだ。どうやら、カラスのくちばしに誓って嘘を貫き通すらしい。カラスもいい迷惑だ。どうでもいいことだが、彼自身による解説はいつも支離滅裂だ。もしかしたら、それは解説ではないのかもしれない。勘違いしているのは自分の方なのか。しかしそんな事情は端から無視されて、同じことは明日も繰り返されるのだろう。だが、未来のある地点では、拍手が鳴り止まない。そんなにあの怒鳴り声に感動したのだろうか。それは儀礼的なものではないらしい。かといって、それほど熱狂しているわけでもなさそうだ。そういうどっちつかずの状態は居心地が悪い。何を見ているのだろうか。何かを見ているのだろう。そして次の瞬間には何も見ていない。繰り返されるのはいつもそのような動作だ。それは明日も繰り返されるだろう。簡単な動作に終わりはない。心臓が止まったり、脳が死んだら、誰か別の人物に乗り移ろう。乗り換え可能なものは電車やバスだけではないらしい。たとえば、旅客機も乗り換え可能だ。昔は軽快さに憧れていた時期もあったようだ。付け足しばかりの現状からは想像できないこともある。重くなるだけ軽くなる。期待されていることは失望させることだ。これから期待されるのは踏み外しだけなのだろうか。それは欲望とは何の関係もないことだろう。たとえば、階段で躓いて怪我をする人もいる。おおかた、怪我の功名で脳震盪でも起こすのだろう。なぜそれが功名なのか想像できない。発想が貧困だ。だが、別に発明家を目指しているわけではない。何かがずれているようで、大幅に食い違っている。若いうちは歯並びの矯正が必要なのだろう。それは砂浜の戯れと一緒だ。河原の堤防で土砂降りに遭う。しかし依然として目が覚めないらしい。冷水をを浴びせられる。そのやかんの形状には見覚えがある。どうやら、ゴールポストにもたれかかっているらしい。物干し竿を振り回しながらその老人は息絶えた。それが物語の始まりだろう。嵐の夜が待ち遠しい少年は、発想が貧困だ。だがそれが何を意味するわけでもない。それは単なる付け足しなのだろう。


10月27日

 このごろはまるで意味不明なことばかり口走っているらしい。しかし完全にボケているわけではなさそうだ。いきなり口の中が苦くなる。この辺が意味不明なところだろう。たぶん無意識にコーヒーでも飲んだのだろう。不健康だ。だが、ひとたび健康法などに凝りだすと、自分のやっていることの滑稽さがわからなくなるそうだ。普通の感覚では、自分の尿を飲んでまで健康になりたくはないだろう。それよりも、値段が異常に高い変な銘柄のお茶でも飲む程度に留めておく方が、周りの人たちにとっては安心できるかもしれない。健康よりも世間体の方が大事だ。毎日尿を飲んでいることが近所のうわさにでもなれば、恥ずかしくて家族が町内を出歩けなくなる。しかし、そんな町内共同体的な拘束もだんだん廃れる傾向にあるようだ。周りに危害を加えないかぎり、個人がどんなに突飛なことをやっていようと、あまり関心を持たれない時代が到来しようとしているのだろうか。さあ、それはわからない。たぶん程度の差があるだろう。そしてまた、そのときの成り行き次第でどうにでもなる。たまたま偶然に関心を持たれないだけかもしれないし、その反対に、些細などうでもいいことが、突然注目の的になってしまうこともある。実際にそうなってみないことには何とも言えないし、それは何かが起こった結果からしかわからないことだ。だが、そんなことはさして重要なことではない。しかも、日常生活において重要なことなど何もない。近頃はそんな認識が優先されているらしい。重要なのは、たとえば国会での政治家の言動などがそうだ。たぶんそういうものは、ある種の人たちにとっては、その発言のすべてが重要なのだろう。だが、自分はそれについてあまり関心がない。つまり、そういう種類の重要なことには関心がないらしい。しかし一方で、重要でないことにも関心がない。さらに、何が重要なのか、そして何が重要でないのか、そんなことにも関心がない。ただ、現時点ではそれらについて関心がないだけなのだろう。これから何かのきっかけで、偶然に巡り会った何らかの事物について、その重要性を認識することがあるかもしれない。今あるのは、そういうあやふやな可能性だけだ。すべてが馬鹿げているとは思いたくない。また、人々の行動のことごとくが滑稽だとも思いたくない。中には洗練されたやり方もあるのだろうし、センスのある人も少しはいるのだろう。ただ、そういうやり方やそういう人たちは、メディアの表面には決して立ち現れないだけなのだろう。それが今の時代での賢いやり方であり、まっとうな人たちの方法なのだろう。たぶん、すべてが大根役者の三文芝居であるのは、単なる表面を埋め尽くす風景にすぎない。たぶん報道するやり方そのものが機能障害を起こしているのかもしれない。何をどう伝えても大根役者の三文芝居になってしまうのは、その顕著な兆候だと思う。たぶんそれ自体は昔からそうだったのかもしれないが、自分の周りでは、そういうやり方は馬鹿にされて笑い話のネタに使われることは多いが、それを真に受けて同調する人にはめったにお目にかかれない。大変な時代になったものだ。いつの間にか、その三文芝居を信じてもらえなくなったのはどうしてなのだろうか。肯定的に解釈するなら、それは価値観の多様性が生まれつつある証拠なのかもしれない。だが、メディアに映し出される風景の中の人々は、相変わらずその三文芝居に同調しているようだ。どうやら、その波に取り残されるだろう人々も結構いるのだろうか。実感としては、現実と画面上や紙面上との落差はかなりあるし、その辺のギャップは広がるばかりなのだが、それがどのようなことなのかは今のところよく分からない。とりあえず、それが徐々に進行していくのか、それともこの先いっきに加速するかは現時点では判断できないが、何かが着実に変わりはじめていることだけは確かなようだ。


10月26日

 その中途半端な語りに、何か気の利いた言葉を付け足してみよう。気まぐれにあり得ないことを考えてみる。三年後の記憶を思い出す。三年後の記憶を四年後に思い出すかもしれない。それはあり得ることだろう。一見あり得ないことに、少し条件を付け足せば、もしかしたらあり得ることになるかもしれない。そんな期待を抱かせては、いつも幻滅を味わうことになるのだろうか。躓きの石はどこにあるのだろう。たぶんどこかに転がっているのだろう。それをわざわざ探しに行こうとは思わないが、たまには思いっ切り転んでみたいものだ。心にもないことは簡単に言える。実際は、しょっちゅう躓いては転んでばかりいるのかもしれない。だが、転んでいるが転ばない。それはあり得ないことだろうか。どのように転んでいるのかわからない。わからないことはよくわからない。だから転んでいても転ばないことにしている。だがその一方で、転ぶはずのないところで、わざとらしく躓いて転んだふりをしてみせる。しかし、ふりをしているということは、実際には転んでいる。ところで、何を言っているのだろう。わけがわからなくなる。あり得ないことを語るのはあり得ることだ。だが、あり得ることを語るのもあり得ることだろう。それらを応用すれば、あり得ることを語るのはあり得ないことだ、ということはあり得ない、というあり得ない事例が導き出される。言葉遊びとはそういうものだろうか。ずいぶん雑な言い回しだ。だがそれでいいのだろう。その程度のやり方で戯れていれば、つまらぬことはすぐに忘れてしまうだろう。その程度のことで、返答などを期待してはならない。それらの効果など知るよしもない。たぶんはじめから無効なのだ。はるか彼方から届いた返答は、忘れた頃に思い出されるだろう。答えは、それが無効になった頃に見いだされるものだ。その反対に、間違ったやり方はいつの時代でも有効だ。それが間違っていることがわかった後でさえ有効であり続ける。そして、正しい答えはいつの世でも無視され、絶えず見失われ続けるだろう。わざと紛失するわけだ。そして忘れた頃に、申し訳程度に聞き取れないほどの小声でかろうじてつぶやかれる。だが、その程度で無視していたことの免罪になるらしい。そんな答えは誰もが知っている。知られてはいるが、それが公にされては困る人々によって封印されているだけだ。存在しているが、そしてその存在もある程度は知られているのだが、にもかかわらず、なぜかなかったこととして処理されてしまう。だから自然と馬脚をあらわすことになる。そんなやり方が度重なり、無理がしだいに明らかになる。そればかりだとさすがにうんざりしてしまう。そしておのずからひとつの見解にたどり着く。そんな連中は信用できない。しかしそれでも、それが間違っていると薄々感じていながら、そのやり方をやめるわけにはいかないのだろう。それをやめたら嘘で築き上げた自分たちの立場が危うくなる。だから自分たちと同じ過ちを犯している他人を批判しては、自分たちの過ちが公になるのを必死に防いでいるわけだ。もちろん防いでいるつもりでも、はじめからばれているのは周知の事実だ。やはりそんな連中の批判を真に受けるわけにはいかない。どうやら、あまり寛容にならなくても済みそうだ。自分は何もしなくても、向こうが勝手に滅んでしまうのだろう。しかしそんな楽な展開になるなんて信じられない。たぶんそれは嘘だろう。今はそう思っていよう。当分の間は何もやらなくてもよさそうだ。今のところ正解を知るには及ばない。答えは忘れた頃に明らかになるだろう。まだまだ先は長いようだ。とりあえず今はこんなことしかできないだろう。


10月25日

 そこに哲学など存在しない。思考の純粋さなど維持できるわけがない。暗闇は絶えず循環する。世界は半日ごとに暗闇に閉ざされるだろう。たった半日で陽の光から解放されるわけだ。その現象が何を意味するだろうか。どうも一日の半分を占める暗闇を持て余しているらしい。なぜ人々はファシズムを求めるのだろう。たぶんどこかに懲らしめてほしい悪人でもいるのだろう。それで絶えず国家に対して懲罰や制裁の実行を要求し続けているようだ。利用されやすいのは、そういった正義の発動を待ち望んでいる人々だ。つけ入る隙はいくらでもある。そしていったんつけ込まれると後戻りができなくなる。そうした需要はいまだに多いようだ。こうして、ファシズムの供給先は一向に減らないまま、事態はそのときの気まぐれで良い方向にも悪い方向にも進展してゆき、平穏に過ぎゆく一日に絶えず不快なアクセントを刻みつけることになる。もうそんなことはやめろと言われても、やめることなどできはしない。我々は真剣にこの問題に取り組んでいるのだ。人を訴える勇気の欠如した軟弱者にけちをつけられる筋合いはない。国に断固たる処置を求めていくことは我々の権利であり義務でもある。それはそうなのだろう。怒りをあらわにしていきり立っている人々には何も反論できない。反論できないし助けられない。そして救いようがない。やはりそうした人たちには国家による救済が必要となってしまう。こうして国家は、報われない人たちを救済することで自らの存続を図るだろう。必要だから存在する、すでに存在している機構や制度は、必要だから存在しているのだ。それらを守っていくのが保守主義であり、そのような機構や制度の破壊には、保守陣営からの抵抗が不可欠だ。それらを守ろうとすればするほど、かえって存在していることの矛盾が明らかになる。かつて必要であったものは、これからは必ずしも必要とはされなくなるかもしれない。その、かもしれない、をいったいどれくらいの人が信じることができるだろうか。今のところ説得力は何もないだろう。そうなる見通しもまるで持ち合わせてはいない。だから信じてもらえなくてもいい。これから懲罰や救済の必要がなくなるなんて俄には信じ難いことだ。そんな認識で一向にかまわない。何よりも本気ではないのだから、別に熱くなって討論するつもりはないし、積極的に説得するつもりもない。そんなことはどうでもいいのだ。宗教とは違い、信じれば救われるとは限らないのだから、そのことについて自分が責任を背負い込む必要などまったく感じていないし、そして、それがまったくの無根拠であるだけに、なお一層楽観的になれる。それはたぶん、従来からのものの考え方を一時的に放棄しているのだろう。もはや原因と結果の間に因果関係があるなんて信じられない。それは元から因果関係があったのではなく、あとから因果関係を推測して当てはめたに過ぎない。ある出来事を結果の原因と見なし、そしてまたある出来事を、その原因の結果と見なしたまでのことだ。確かにそういうふうに述べればそんな感じもする。だが、こんな見解もあまり本気で述べているわけではない。もう何に対しても、自分が直接関係のないことにまでいきり立つファシスト体質がほとほといやになったらしい。だんだんわかってきてしまった。そういう体質の人々こそが、この世界の、あるいはこの国のこうした現状が継続することを何よりも必要としているのだ。だからまずやらなければいけないことは、そうした人々よりも、より魅力的な述べ方をすることである。そして、そんな述べ方を広めながら、そうした人々の存在可能な余地を徐々に減らしていかなければならない。しかし、まあそんなことは現時点ではほとんど不可能だろう。だから、今のところその程度の認識でかまわないのだろう。やはりこれも本気で述べているのではないらしい。


10月24日

 はじめからやり直そう。毎回必ずはじめからやり直されるのだ。そして絶えず同じことが別の形で反復され、永遠に何も結実することはない。そこにあるのは単なる反復の軌跡だけだ。あらゆることはいったん忘れ去られ、結局すべてはご破算になる。リセットされてしまうらしい。そして、考慮されていたあらゆる前提を無視して、不連続な断層面を横切り、唐突に途中からわけのわからない言葉が導入される。いつもそんなやり方の繰り返しだった。内面はいつも空っぽのままなのかもしれない。だが、空っぽだからこそ、また何かが響くのかもしれない。その、何もない閉鎖空間の中で、周りからじわじわ押し寄せてくる反響音に耳を傾けてみよう。自分の発した音が空間の内壁にぶつかり、複雑に反射し減衰し干渉しあいながら、はじめに発せられた音が反響によって変形されながらも何重にも合成され、結果として、今まで聞いたことのないような不可思議な音となって自分に向かって押し寄せてくる。そんな状況を想像してみる。そんな反響音を響かせることのできる形状の内部空間を構築できるだろうか。それはたとえばコンサートホールと同じような機能を果たすことになるかもしれない。だが、そこで何を奏でているつもりなのだろう。自分には何も聞こえていないときもあるのだが。方便で無の音がするとでも言うつもりなのか。たぶん自分一人では何も奏でられないのだろう。だから、当然その内部空間には、外部からの入力経路が確保されていなければならないだろう。音源として外部からのインプットがないと内部空間で音は響かない。いつまでも、虚空で無の音を奏でている、では通用しないだろう。禅問答だけではいつかは飽きがくる。それで、絶えず外部から音の素材を調達してくる必要が生じるわけだ。だからそれは完全な閉鎖空間であってはならない。そしてさらに、はじめから誰もいない内部で音を響かせるだけでは無意味だ。それでは何もやっていないのと同じことだ。つまり、外部からの入力経路だけではなく、外部への出力経路も確保されていなければならない。それが無の音でないのなら、外部へ向かってその音を発信しなければならなくなる。魅惑によって音自体が発信者に働きかけ、その支配域から離脱し、その音独自の伝播力を持ち始めるようになる。そして、その音が、何かの偶然で外部にいる誰かに届いたならば、今度は、その人物の周りで響いている別の音と干渉しあうことになり、さらにその音は共鳴しあって増幅するか、さもなければ打ち消しあって減衰するかして、増幅した場合は、またさらに別の場所まで伝播していって、別の音と干渉しあう機会が訪れるかもしれない。このようにして様々な音が様々に干渉しあい、この世界には音の多様空間が形成されるだろう。現にあるがままの世界とは、そのような音の響き合い中に存在しているのかもしれない。しかしこのような説明に何の意味があるのだろう。どこまでも抽象的な方法論の域を出ない。まさにすべてが同じことの繰り返しだ。これは今まで、飽くことなく何度も繰り返され、そしてまた、何度やっても絶えず同じこの場所へ戻ってきた。まさに予定調和そのものだ。いや、予定調和すら越えている。どうやらここから先へは一歩も前進できないようだ。いったいいつまでこの同じことのヴァリエーションを繰り返して奏でられるのだろうか。まさか無限にやれるわけでもあるまい。実際は、述べていることとは裏腹に、外部から素材を何も調達できていないようだ。同じものを毎回使って何とかその場を凌いでいるらしい。だが嘘は繰り返し使える。どうやら、素材の代替物として嘘を使用しているらしい。そいうわけで、素材を何も調達できていないというのは真っ赤な嘘であって、外部から調達してきた素材を嘘で加工しているというのが実状により近いだろう。だから、どこまでが生の素材でどこからが嘘なのか判別がつきにくい。場合によってはすべてが嘘である可能性もあるだろう。そうなると、何を言っているのかさらにわけがわからなくなる。


10月23日

 いったいこれからどうなるのだろう。それはわかりきったことだ。たまにはどうにかなることもあるだろうが、基本的にはどうにもならないだろう。それは盤石の地盤である。いたるところに不可能の溝が刻まれている。このどうしようもなく揺るぎようのない基盤の上では、何をどうやってもびくともしないだろう。人工の壁はすぐにでも崩れることがあるが、自然に生成された岩盤を素手だけで削るのはたいそう難儀なことだ。ただ、無駄な悪あがきと知りながらも、様々な可能性を想定して、これから巡ってくると思われる出来事についていろいろ思考していたらしいが、それらはあまりにもネガティヴな杞憂に終始していた。何よりも否定的な思考には魅力を感じない。それらは単なる思い過ごしであって、たぶんすべては心配しすぎであり、考えすぎなのだろう。考えれば考えるほど、いつも危機感ばかりを煽ることにつながり、自然と臆病な選択をするはめになる。その結果、現状維持が精一杯で、なにひとつ他の可能性を試せないでいる。しかし、そんなやり方がいつまでも続くはずがない。いつかは途中で抜け落ちた希望や絶望の断片を探しに行かなければならなくなる。そのときが来たらいったんこれは中断することになるのだろうか。将来のことは不明確だ。だがそれは将来のことではないかもしれない。もうすでにその時が到来している可能性もなきにしもあらずだ。確かに言葉だけでは物足りないと感じ始めている。だがここで中断して他に何をやろうというのか。ここには言葉しかない。あるのはこれらの物足りない言葉の束だけのようだ。そして、無駄な努力と薄々感じながらも、これらの言葉で内側に開いた大きな穴をふさごうとしているらしい。おそらく無理だろう。不可能なことだ。そんなものでふさげるはずがない。だいいち、なぜそれをふさがなくてはならないのか、いつまでも開いたままでも一向にかまわないはずだ。その程度の空虚には容易に耐えられるだろうし、実際にこれまでは耐えてきたのだろう。ところで、なんでそんなところに大きな穴が開いているのか。いったい、大きな穴とは何だろう。それに、そもそも内側とは何なのか。どこの内側なのか。仮に内側があるとするなら、それの外側はどうなっているのだろうか。何も明らかではない。はじめから説明が欠落しているようだ。その欠落した箇所を埋め合わせるための言葉はどこにあるのだろうか。それはどこにもないだろう。説明しようがないから欠落しているのは当然である。すでに言葉は尽きているのかもしれない。だがそんなことなど知るよしもない。何をどう知ればいいのか。そんな抽象的なことなど誰も何も教えてはくれないし、それをこちらから積極的に知ろうとさえ思わない。それに、もう何もないのなら、とっくに終わっているはずだ。だが、とうに言葉は尽き、とっくの昔に終わっているはずなのに、なぜかこうして続いている。こんな現状をどのように受け入れればいいのだろうか。どうこの現実と折り合いをつければいいのかわからない。しかしこれは本音なのだろうか。どうも違うような気がする。やはり、意図的にある方向へ向かうことから導き出される、ある種の心情というものを作っている可能性が高いだろう。なんとなく困惑しているような気分を自分で演出しているのかもしれない。しかし他に述べることはないのだろうか。たぶんないのだろうが、しかし、だいたいここまで述べてきたことも、他に述べることがないので、仕方なくフィクションとして述べてきた事柄でしかないだろう。つまり、何も述べることがないのにもかかわらず、実際にこうして何かしら述べることができたわけだ。これはいったいどういうことなのか。よくはわからないが、こういうこととしか言いようのないことだ。自分にはこれをどうしたらいいかなどということは一向にわからないままだ。ただ、何度も堅固な岩盤にぶち当たっては跳ね返されるだけだ。


10月22日

 相変わらず離散系の形態を取っているらしい。言葉の断片が周りに浮遊しながら適当に散らばっているだけだ。これ以上は変化しようがない。どうもそれらを結びつける引力が乏しいようだ。力を一点に集中させることができないらしい。しかし抽象的な言い回しだ。具体的に何を述べているのだろうか。これらは単なる雰囲気だけの印象について語っているだけなのだろうか。だが、いまさら言葉に具体性を求めてもはじまらない。はじめからあやふやなことしか述べられなかったはずだ。これらは所詮具体性を切り捨てることでしか成り立たない語りなのだろうか。たぶんこの状態でいくら語ろうとも、これらは決して具体的な物語などに結実することはないだろう。しかしこんな断言さえ本気で述べているとは思われない。たまたま気まぐれに断言的言説を用いてみただけのことのようだ。では、本当は何をしてみたのだ。あまり話の前後関係を気にせずに、まったく関係のない話を突然あり得ない箇所に差し挟んでみたい。いつもそんな誘惑に駆られる。それによって無意味な気晴らしを味わいたいらしい。それ以外に何があるだろうか。確かに世の中には重大な局面というものがあるのだろう。だがその出来事とはあまり関係のない生活をしていると、その重大性を実感することは甚だ難しい。たとえそれに関心を抱いてその重大性を実感したところで、それに関与することができない以上、何ともやりようがない。できることといえば、ただ無関心を装ってそれをやり過ごすことだけだろう。いつもできることは限られている。だがそのできることすら別にやらなくてもいいわけだ。しかしこのように述べていることと実際にやっていることはまったく異なってしまう。実際にはやらなくてもいいことまでやってしまうし、場合によっては不可能なことまでやろうとするだろう。まるで言動が一致しないのは極めて自然な成り行きだ。たとえば、ひたすら約束を守ろうとすることが、かえって結果的に約束を破るきっかけとなってしまうことはよくあることだ。約束には、はじめから履行が困難な要素が含まれていることが多い。だからこそわざわざ誓約書まで作成してそれを守るように念を押すわけだ。だがそんな紙切れなど、所詮ただの紙切れでしかない。偶然のきっかけから生まれてしまう新たな状況が、紙切れ上の拘束など簡単に破棄してしまうかもしれない。しかも世の中は、ある程度はそのような約束破りや裏切り行為によって成り立っている側面があるだろう。その時代の状況にもよるが、結局は、一定の約束には捕らわれない臨機応変な対応をした者が生き残ってしまう場合の方が多いだろう。たぶん約束の破り方ひとつにしても、様々な戦略的な効果を引き出すやり方があるのだろう。もちろんそのやり方に潜む一定の規則や公式を馬鹿正直に信じていても成功するとは限らない。二千年前の孫子の兵法をそのまま現代に適用できるほど状況は甘くない。より現状にマッチした様々な改良や応用が不可欠だろう。だが、こんなことをいくら述べてみても、実践してみないかぎり、問題点はひとつも明らかにはならない。しかし実践とはなんだろう。いったい何を実践したらいいのだろう。問題に至る前に、すでに大きな疑問にぶつかっている。もしかしたら、実践とはこれのことなのか。


10月21日

 真夜中はたぶん埃っぽいだろう。健康に悪い。夜明け前は夜更けのことだろうか。時間が少しずれているようだ。夕暮れ時からはだいぶ時間が過去に遡る。記憶の片隅に留めておいたことをもう覚えていない。つまらぬことはすぐに忘れてしまうらしい。その名前は過去の残滓の中にある。誰が呼んだのか。誰に呼ばれたわけでもない。別に挨拶をする必要もないだろう。その機会は永久に閉ざされた。不自然なつながりを感じる。その場はいつになく淀んだ空気だった。そしてだんだん雲行きが怪しくなってきた。突然駅前でギターがかき鳴らされる。若者がいつものように大声で歌い出す。電車から人が大勢降りてきたようだ。その歩道橋は車の排気ガスで煤ぼけていた。ディーゼル車の往来が激しい。相変わらず予感は何もない。未来の予感とともに過去の記憶を思い出す予感も感じられない。予感のない季節に入ったのだろう。その季節は冬なのか。冬ではないが、もう冬が間近なようだ。その季節とは関係がないが、真昼の光景は真夏の光景だった。猫の瞳孔が極端に細くなる。メタリックな塗装の所々がはがれ落ちて、その部分から赤錆が吹き出している。それはたぶん人工真珠なのだろう。それがひとつふたつみっつ、辺りに散らばっている。真珠の輝きに興味はない。だがその色はパールホワイトとでも呼ぶのだろうか。砂の輝きと赤錆に囲まれて、妙に不自然な色のコントラストだ。潮の香りが漂う中、放置された廃車が錆びて朽ち果てるがままだ。海も赤く錆びることがあるのだろうか。赤潮に巡り会ったのはいつのことだったか。そのとき腐った魚は輝いていただろうか。わかりきったことに戸惑うことはできない。焼き魚は死んではいるがうまい。完全に腐っているわけではないが、少し腐りかけているらしい。ではどこに行けば新鮮な魚に出会えるだろうか。それは簡単なことだ。別に黒潮の流れに乗って旅するまでもないだろう。近所のスーパーに行けば、新鮮でなおかつ死んだ魚に出会えるだろう。そして、古本屋にでも行けば、埃っぽい死んだ料理漫画に出会えるかもしれない。忘れられた漫画はいくらでもある。その作者の名前などいちいち覚えてはいない。だが、その漫画にも新鮮だった期間があったのかもしれない。それは長くはないが短くもない。確かにそこで分相応の時間が与えられていたらしい。そんな時間が人々の記憶の中ではいつも宙づり状態にあるようだ。思い入れとはそういうものだ。だが、それも長くは続かない。いずれは読み捨てられた雑誌とともに、その場限りの感動もゴミ箱行きなのだろう。すべてはゴミ箱から始まり、そしてすべてはゴミ箱で終わる。そんな格言などありはしないだろう。確かに始まりは近いが、近いままで一向に始まらないし、終わりは遠いまま、どこまで行っても遠ざかり続けるようだ。では、今は過渡期なのだろうか。過渡期でさえない。時間は死んだまま、ゆっくりと着実に腐ってゆく。だが、腐りながらも堅実に生きているらしい。きっと誰かがまた失われた時代とでも哀愁を込めて呼びそうな気配だが、死んだ時間に生きている感覚とはどういうものなのだろう。今がその時間ということなのか。さあ、あまり実感がない。何もかもが希薄に感じられる。騒いでいるのはテレビ画面の向こう側だけだが、自分にとってはどうでもいいことだ。ところで今自分は何を考えているのだろうか。たぶん何かを考えているのだろう。その何かとはいろいろなことだろう。だがそれらについて考えをめぐらす暇はない。面倒なことは嫌いだ。そんな思考停止状態のさなかに、休む間もなく眠気が襲ってくる。素直に寝てしまえばいいのに、そこで休めないのが面倒な性格の疲れるところだ。


10月20日

 やることなすことのことごとくがうまくいかないことばかりだが、たぶん、それはごく自然なことであって、反対にうまくいくときこそが異常事態なのかもしれない。だから、宝くじを買えば、その十中八九以上は当たらないことを嘆くことになる。それでも何かの偶然でたまたまうまくいくときもあるにはあるのだが、うまく行ったときとうまくいかないときの違いがわからない。その両者に差異を当てはめられない。どちらの場合であってもそれほど違わないような気さえするのだ。たぶん、これからも、そのほとんどがうまくいかずに、浮かぬ顔をして退屈な日々を送ることになるかもしれないが、それでもたまにはうまくいくときもあるのだろう。だが、そんな日が来ることをひたすら待ち続けているわけではない。別にうまくいかなくてもどうということはない。それでもこの通り生きている。だが、別に生きているからどうということはないのではない。別に死んでいてもかまわないわけだ。たぶん人は生きていたり死んでいたりするのだろう。たまたま今は生きているらしい。だから実際にこうして嘆いたり悩んだりしている。だがそれは本当だろうか。本当は、過去において経験したその素振りを真似て、嘆いたり悩んだりしているふりをしているだけではないのか。どうやらあまり本気にはなれないようだ。本気で怒り狂ったりできないように、本気で嘆いたり悩んだりはできないらしい。今の自分にできることは、嘆いたり悩んだりしている、と記述することだ。そしてそれに続いて、さも当然のごとく、本気にはなれない、と記述する。まったく、いつものお決まりのパターンだ。だがそれは思惑通りの展開なのかもしれない。結果としてうまくいっているわけだ。しかし今度はそれが気に入らなくなる。どうしてうまくいっているのに浮かぬ顔つきのままなのだろうか。さっきまではうまくいかないことで嘆いたり悩んだりしていたのに、今度は、うまくいっていることで嘆いたり悩んだりするらしい。要するに、うまくいってもいかなくても、どちらの場合も気に入らないのだ。たぶんどんな結果になっても不満なのだろう。どうやらその不機嫌な気持ちは、不可能な結果を待ち望む意志に起因しているらしい。あり得ないことが起こらないかぎり、いつも浮かぬ顔をしているわけだ。だからどんな結果も受けつけない。なぜかそのような態度が自然に身についたらしい。まったく疲れる性格だ。妥協というものを知らないらしい。ではこれからどうすればいいのだろう。どうすることもできない。たぶんこのままの態度が続いてゆくのだろう。ところで、このような態度の人間を何と名付けたらいいだろうか。さしずめ分からず屋とでも呼ぶのだろうか。しかし、物事の道理がわからぬ人間がわからぬ道理とは何だろう。どんな結果が出てもそれが気に入らないことも、それもひとつの物事の道理なのではないだろうか。だが、そんな屁理屈を述べること自体が、自分が分からず屋である証拠かもしれない。これはもしかしたらすごいことかもしれない。自分で自分が分からず屋であることを自覚できるということはすごいことだろうか。だが、またしても、それこそ思惑通りの展開かもしれない。まったくの予定調和だ。もちろん、それが気に入らない。そういう収まるべきところに収まるオチにはいささかうんざりしている。自己言及は無限に続くメビウスの環だ。どこまで行っても裏と表の区別もつかぬ面上を回り続ける。だがそこを回り続けているかぎり、永遠に思惑通りなのだろう。だがそんな展開はうんざりだ。ではどのような展開がお望みなのか。たぶんどんな展開でも気に入らないのだろう。


10月19日

 何から語ったらいいのだろう。その頑なな態度を少し緩めて、傍らにあるクリーム色をした辞書の適当なページを開いてみよう。ただの言葉とその意味に出くわす。まどろみかけた意識はさらにいっそうまどろんだまま、それとは無関係に、まるで何事もなかったかのように言葉の蓄積は続いてゆく。三頭身の人形が一列に並んでいた。人形の配置から読み取れるのは順位と序列と〜だろう。〜は、取替可能なその場の話題だ。どうやら別の何かを探していたらしい。まあ、気長に待つとしよう。優雅さからはかなりかけ離れているが、その悠長ともとれる態度が過去の時代に実を結ぶ。こちら側の世界は相変わらず殺風景だ。その動かしがたい事実はいつも無視される。それは放置されたままわずかな時間を経験し、気がつけばいつの間にか消えてなくなっている。何かが絶えず生成し続けているのは確かだが、この淀んだ空気に邪魔されて、なかなかこちら側へ到達できないようだ。途中であきらめて、何かしら気を紛らすことしかできないようだ。その気休めの動作とともに、殺風景のただ中にとどまり続ける。もはや存在しない向こう側の思い出に浸り続ける人々もいるが、それとは少しやり方が異なるらしい。いまさらぐれた野球青年を叱り飛ばすわけにもゆくまい。世間の期待通りにぐれてみせたのだから、それはそれであっぱれなことだ。スポーツ新聞や週刊誌も、端境期に格好の話題を提供してくれて、内心感謝感激していることだろう。たぶん、好きなものは野球野球野球野球野球野球野球野球、その次の次あたりが車と彼女になるのだろうか。そんなに好きなものがいっぱいあるのだから、さぞや幸せな人生を送っていることだろう。日々の生活に追われてぐれることさえできない一般の人々からすれば、そんな生き方はただただうらやましいかぎりだろう。ただ、自分にはあまり関係のないことだ。ふと見上げれば、蛍光灯が眩しく輝いている。天井と屋根を突き抜ければ、そこには夜の曇り空が広がっているだろう。出会うものは、せいぜいのところそんなものだ。季節は巡り今は秋だ。循環し、反復するのは、季節だけではない。車輪は至るところに存在している。その拘束された円運動から逸脱してみたいのは、すべての人の願うところだ。螺旋の夢を描いてみたい。そんな衝動に駆られて、生活が破綻を来す。道端で凍死する夢を見る。そんな夢を実現させた詩人もいるらしい。道半ばで出くわすものは、挫折か死の他に何があるだろう。あったとしても大した快楽ではない。終わりがなかなか見えてこないとき、いきなりその快楽はやってくる。もうやめてしまおうか、という誘惑に駆られるわけだが、だが、なぜかいつもその誘惑に屈しそこなってしまう。不器用なのかもしれない。おそらくそうなのだろう。ノリの悪い人間は誘惑からもシカトされてしまうのかもしれない。そして、終わりそびれて、このぎこちない動作はまだ続いてゆくようだ。時はいつも緩慢にしか進まない。それは常につっかえつっかえの歩みだ。もはや時計にさえ置いていかれそうだ。車輪は今にも止まりそうなのに、よく見るとかすかに回っている。何がそれを回しているかは不明だ。しかし自力で車輪は回らない。これは偉大な発明や発見とは無関係のことだろう。どこにでもあると同時にどこにもない。現実にはどのような言葉とも一致しない。その動きはどこから見ても明らかにはならない。しかしそれはかすかに奏でられているらしい。そこに見いだされたのは、何かと何かの間にある隙間である。それは何もない空隙だが、絶えず移動し続けて、どこからともなく現実の影を収集してくる。それらは、何かの作用でひとりでに集まってくるのかもしれない。だが、その影を目にするのはほんのわずかな時間だ。おそらくそれは、一瞬の幻なのだろう。幻でさえないかもしれない。本当はその空隙には何もない。しかし言葉の蓄積は依然止まらない。


10月18日

 暗がりから這い出てきた。昼の光がやけに眩しい。今年はくもの巣の当たり年だ。空いたスペースの至る所に糸が張り巡らされている。それだけ獲物の虫が豊富だったということだろうか。だが寒さに負けてそろそろ死ぬのだろう。樫の木に蔦が絡むように、商品には執拗に宣伝文句が絡みつく。それを売りさばくために、情報のネットワークが至る所に張り巡らされている。だが今度はその情報自体が商品になりつつある。今やメディア全体が商品カタログ化してしまった観がある。今の状況は、商品ではなく商品カタログを売りさばくための競い合いが激化しているということらしい。それの最たるものがパソコン雑誌だろう。新製品を見るために雑誌を買い、その宣伝文句に乗せられて買ったパソコンに、雑誌付録のCD-ROMからインターネット閲覧ソフトを入れて、そしてその閲覧ソフトを使ってインターネット上でまた別の商品カタログを物色することになる。結局何が商品で何がカタログなのかわからなくなる。おそらくそのすべてが商品であり、商品を見るためにカタログを買い、そしてまた、カタログを見るために商品を買っている。だが、我々がこの商品循環システムから受け取るものはそれだけなのだろうか。たぶんそれだけなのだろう。その他は単なるおまけかもしれない。しかし、付録のCD-ROM欲しさでたまにそれらのカタログ雑誌を買う身からすると、当然商品よりもおまけの方が欲しいわけだ。もちろん、それも商品を買わせる側の戦略にまんまとはまっていることになるわけだが、そのとき、それらのあふれ出る商品情報の間に挟まれて、かろうじて何か商品以外のものをかいま見ることができる。そういう、ことさら利益を期待してないと思われる作品に出くわすと、少しの間安堵感に包まれ、なんとなくうれしくなってしまう。たぶん、それらを作っている人々は別のところで生計を立てているには違いないが、損得勘定抜きでただ勝手に作る、それを実践するだけの余裕を持ちたいものだし、是非できるだけそれを持続させて欲しいとも思う。そこが商売の主戦場になっている人々からすれば、このような言い方は許せないことだろうか。だが、何でもありなのがこの世の中だろう。大木に絡みつく蔓植物のように、この世界的な商品循環システムが存続するかぎり、そこにこれからも執拗にアンチ商品を作りながら絡みついて行って欲しい。それを期待している。だがそれは、別に意図してやっていることではなく、結果としてそうなっているだけなのだろう。それの邪魔をしようとして何か策を弄しているのならば、それらの行為が抑圧や弾圧の対象になるだけの理由や正当性が生じるかもしれないが、実際に彼らは、けっこう気前よく商品を買い続けているし、その商品を利用して商売とは無関係なものを作っているのだから、それは別に非難される筋合いのない行為だろうし、案外彼らのような非商品生産者の存在が、それらの商売を支えていたりするのかもしれない。つまり、商売がすべてではない人々によって、すべての商売人が養われている可能性があるということだ。よって、商売人には彼らが非商品を作り続けることを止めることはできないし、その権利もないのかもしれない。これはどうしようもないことなのだろう。もちろんそれが気に入らない商売人たちは、機会を狙っては彼らを商売に引きずり込もうと誘惑してくるのだが、たとえ必死になって努力しても、運がないと大した儲けにはありつけないことはわかりきっていることだし、何よりも金銭的な誘惑よりも怠惰や気楽さへの誘惑の方が常に勝ってしまうだろう。それこそが非商品を出現させる源泉である。もちろんそこに妥協のないものを作るという倫理観が加わったらなおのこと良い。今後そのような領域がさらに拡大することを期待しよう。


10月17日

 幸運はどこにでも至る所に転がっているのかもしれない。だがそれを拾い上げようとは思わない。拾い上げる程度の努力さえできないらしい。面倒くさいのだ。これは危険な傾向だろうか。試しに危険な兆しを感じてみる。だが、なぜ試しにそんな兆しを感じることできるのかがわからない。また、それがどの程度危険なのかもわからない。つまり、こんないい加減なことを平然と語ってしまうところが危険な傾向かもしれない。ところで、これからどんな危険が待ち受けているのだろう。それはすでに到来している。試しに未来から、実際に待ち受けていた危険を過去形で語ってみよう。なぜそんなことが語れるのか。それは知らない。知ったことではないし、現時点での自分には知りようのないことだ。わからないことは知らないと述べてやり過ごそうじゃないか。さて、ついさっき何かにぶつかったらしいが、何の痛みも感じなかった。本当にぶつかったのだろうか。何も確証はない。感触は何もなかった。財布もすられていないようだ。突然見知らぬ人から声をかけられた。やくざではないらしい。子供じゃあるまいし、誘拐されることもないだろう。自分の身代金はいったいいくらぐらいだろうか。それは実際に誘拐されてみないとわからないだろう。こんな話では、どうも現実感が希薄なようだ。まるで状況に切迫感がない。たとえば、頭上から大きな岩が落ちてきたらどうだろう。それはあくまでも仮定の話だから危険ではない。仮定の話なら何とでも言えるし、それに対してどのような認識も下せるだろう。たぶん、それは幸せの兆しなのだろう。根拠は何もない。勝手にそう思いこむ。そして次の瞬間には忘れてしまう。幸せな気分にいつまでも浸っていないで、すぐにそれを忘れてしまうことこそが幸運なのかもしれない。それがなぜかは知らない。だがそれで危険を回避したことになるのだろうか。それでいったい何を避けたのか。たぶんそれは、頭上から落ちてきた大きな岩を間一髪で避けたのだろう。だがそれは仮定の話だ。しかしそんなことはどうでもいいことかもしれない。おそらくまた嘘をついているのだろう。なぜそんな嘘を語ってしまうのかはわからない。これも危険な傾向だろうか。こんな無内容なことを語っていること自体が危険な兆しなのだろうか。そうかもしれないし、また同時に、将来幸せになる兆しかもしれない。これも根拠がない。ならば、不幸のままでいることの方が安全なのだろうか。一概にそうともいえないだろう。ただ、危険と安全と幸せと不幸を出鱈目に結びつけているだけだ。なぜそんなことをことさらやってみせるのか、その意図がよくわからない。無内容を装うためにはこんなことまでやらなければならないのだろうか。これも悪ふざけの一種かもしれない。悪ふざけには感動できない。わざとらしいから。たぶん、これから話が唐突に急展開するのだろう。たとえば、電話とテレビが壊れた後に何が残るのだろうか。それらなしで人々の日常会話が成り立つだろうか。おそらく百年前は成り立っていたのだろう。だから将来への見通しも案外明るいのかもしれない。何かがなくなっても、また別の何かが新たに生まれる。新たに生まれたものによって既存のものが駆逐される場合もある。それらの存在領域は、偶然の成り行きで拡大したり縮小したりするのだろう。だが、それらの運命が賽の一振りで決まったりするだろうか。運命の行く宛てを賽の目にたとえればそうなのだろう。しかしそこに実質的な意味はない。それはいかにも偶然の成り行きをうまく説明しているようでいて、実際にはなにひとつその内容について述べていない。それはどこまで行ってもたとえ話の域を出ないことだ。だが、ならば運命が決まった後から、その決定過程について様々な角度から様々な要因を抽出して、いくらもっともらしい仮説を詳しく述べてみたところで、一度決まったその運命を変えることはできないだろう。その説明の可能性は未来への教訓にあるわけで、確かにそれは功利的にためになることかもしれないが、そこに人を魅了するような力は備わっていないだろう。そう、偶然としかいいようのない、何の前触れもなく突然もたらされる運命こそが人々を魅了するのだ。誰もが青天の霹靂を密かに期待している。だから雷に打たれて丸焦げになった人は幸運なのだ。時として悲惨な死に方が幸運に結びつく。逆説的だが、非業の最期を迎えた人は誰よりも幸せかもしれない。たとえば、白鯨とともに海中に消えたエイハブ船長は幸せだが、策略によってセイレーンを打ち負かし、生きてこの世に戻ってきたオデュッセウスには、さらなる不幸が待ち受けている。だがそんなことはどうでもいい。それらすべては、気晴らしの作り話の世界で起こった出来事だ。それ自体に功利的な教訓などは含まれていない。それを荒唐無稽にも退屈な日常生活に結びつけて、そこから強引に教訓を導き出すのはハウツー本の作者ぐらいなものだろう。


10月16日

 いつもの強がりとやせ我慢はどこへ行ったのだろう。さあ、どこかへ行ったらしいが、行き先は承知していない。見当のつく心情もある。意味不明な展開もある。行き先は皆目見当がつかない。霧の中を行くと、5マイル先に標識があるだろう。だがそこから先へは進めない。サーカスの曲芸師には、転ばぬ先の杖がない。雨に歌えば、霧が晴れるだろう。空中ブランコが絡み合い、防護ネットへ向かって真っ逆さまだ。そこでありきたりな心情吐露を期待されているらしい。蚊取り線香はどこへ行ったのだろう。麦わら帽子が宙に舞う。まだ覚えているだろうか。冬の陽の木霊を思い出したのか。西に傾いたオレンジ色の日差しに照らされて、雨乞いの儀式に参加していた。雪はいつでも降っている。風に吹かれてやって来た。そのとき脱出の糸口を見つけた。坂を上りながら下っていたとき、原付バイクに乗っている自分に気づいた。風の記憶が頼りだった。どこでその行き先を見つけたのだろうか。曇り空が嘘のようだ。血の雨が降る。どこかで降っていることだろう。それは中国から伝来したらしい。湾曲した画面だ。白黒映像は珍しい。黒い雨に濡れている。相変わらず七色の夢を見る。総天然色の光景の背後には奈良の薬師寺がある。黒光りしていた。その物体が微笑む。微笑んだままだ。微笑んだまま黒光りしている。埃を被った銅像もある。煤払いの季節はいつだったか。誰も拝まなくなった。石の顔は擦り減って目鼻立ちが消失している。雪が積もって寒そうだ。霙の季節に何を思うのか。路の泥濘みに足を取られていた。草刈機の音がうるさい。今は秋なのだろうか。遠い日の思い出からはどれくらい離れているだろうか。ニール・ヤングがぶっきらぼうに歌っていた。そんなに過去の話ではない。それが自分にとっての未来の姿だろう。どこかに落ち着く。見果てぬ夢に惑わされたままかもしれない。最果ての大地から誰かの歌声が聞こえる。それは南海の海底からも聞こえてくるだろう。夢見る老人がハーモニカを吹いている。それはスティービー・ワンダーの吹くハーモニカにどれくらい似ているだろうか。遠い夕日を眺めるより、近くの夜空を見上げよう。薄汚れたメモ帳の片隅に空白の時がある。細部にはこだわらない。振動するスピーカーの形状からそのときの心情を読み取ろう。さして重要なことではないらしい。明日には明日のスピーカーがある。昨日はいつも沈黙したまま、余白に曲がりくねった文字を刻むだけだ。力こそが正義だ。自分は正義の味方ではない。いつも力が抜けている。どこかに力の限界があるのだろう。不徹底なやり方を好む。本気にはなれそうもない。ああ言えばこう言う。それで勝ち誇っているらしい。本気ではないのでそれも仕方ないだろう。世の中は不快な笑いに満ち満ちている。それで笑っているつもりらしい。自分もつられて笑ってしまう。なぜそんな笑いで我慢しているのか。滑稽だ。心情吐露は滑稽だ。何も言う気にはならない。だが明日がある。明日は不必要にやって来る。もう少しで笑わずに済ませられそうだ。そんな予感がする。老いも若きも行ってしまう。逝ってしまうわけだ。死ぬということだ。これが笑わずに済ませられようか。曲がり角で転がっている。自動車にはねられたらしい。まとまりのある話題とは、いつも交通事故現場で発生するのだろう。支離滅裂のままだ。ひき逃げされて乗っていた自転車がめちゃめちゃだ。どこかでサイレンの音がドップラー効果を引き起こす。これほど間の抜けた効果はないだろう。風が絶えず通りすぎる。風速計を手に入れたいものだ。君の手のひらに四つ葉のクローバーを届けたい。さて、どこで見つけたらいいものか。はたして雀卓の上に幸運は存在するのだろうか。


10月15日

 見渡したわけでもないのに、見渡すかぎりの曇り空だ。なぜ見渡さないのだろう。高台がないので空を見渡せない。それは嘘だろう。昼に空を見上げたら曇り空だった。今はもう夜だ。明日もまた夜が来るのだろう。昨日の夜の出来事を思い出してみる。昼の間に時計が進む。ここから一万キロも西へ行けば、何時間か時間が遅くなるだろう。南にはいくつかの鳥島がある。そのさらに南には深い海溝があるらしい。その沖合いからもこの曇り空を見上げることができるだろうか。たぶんこのせせこましい日本の方角を見渡せば、目がつぶれるだろう。それも嘘だ。犬と猫が混じり合ってロボットが生まれた。用途は何もない。ただ戯れるだけの愛玩用だ。肉を切らせて骨を断つ。肉も骨もどちらも痛いだろう。その痛みを和らげるために曇り空が必要らしい。空を見上げていれば何もかも忘れてしまうらしい。痛みさえも。夜空を見上げている。星は見えない。昨晩は満月だったのだろうか。やけに外が明るかった。月明かりが眩しいほどだった。道が分かれている。曇り空の下に道がある。どこに行っても道がある。道に痛みはないだろう。月明かりの届かない森の奥深くにも道はあるらしい。けものみちはロボット用の舗装道路だ。骨も肉もないので痛みは感じないのだろう。そこへ何時間か遅れて到着したのだが、なんとか昼の時間には間に合ったようだ。舗装道路なので痛みは感じない。見上げれば、また曇り空だ。月も星も見えない。しばらく前に方向指示機が壊れてしまって、右折するのが面倒になった。肉も骨も痛いだろうから、フライドチキンを買って食べた。なぜアイスクリームが合うのだろうか。体内に脂肪が蓄積する。本当に嘘も方便なんだろうか。スケートボードとサーフボードが正面衝突する。ワゴン車にはサーフボードが積んであり、そこにスケボー野郎が突っ込む。自殺行為は電車に突っ込むことかもしれない。見上げた曇り空から見下される。ジェット機はうるさい。空港反対派は何十年も見下されてきた。だが季節外れのスケボー野郎には関係のないことだ。森の奥の舗装道路には脇に痴漢注意の立て札がかかっていた。そこを通り抜ければ畑ばかりだ。町のパソコン教室と英会話学校とスポーツクラブが同居しているビルには、組事務所も入っているらしい。痴漢注意の立て札とどちらが物騒だろうか。見慣れた空にも不意に銃弾が飛び交う。威嚇発砲が絶えない地域もあるらしい。地雷を踏んで片足を失った姿が痛々しい。なぜ人を殺してはいけないのか。極東には、そんな問いが通用する社会もあるそうだ。まじめに答えようとすれば滑稽に見える。答えは曇り空が知っているだろう。誰もそんなことに疑問を抱かない。人を殺していけないわけではない。それは問いではなく、答えだろう。誰かが命の大切さを訴えれば、それへの返答として、なぜ人を殺してはいけないのか、が発せられる。そして、それへの答えは曇り空が知っている。星空の季節が近いようだ。ワールドシリーズもまもなく決着がつくだろう。一部の人たちがそれを見て楽しむ。南海の孤島では鳥がさえずる。北の大地では空を見上げて孤独を楽しむ。狩猟民族はいつの時代も少数派だった。時代以前は多数派だったらしい。数千年かかってようやく農民の時代が過ぎ去ろうとしている。狩猟人は今また復活を遂げている。金や商品や情報を狩猟する時代がやって来た。今の時代の狩猟民族は消費者と呼ばれているらしい。農業から派生した生産者の立場は年々弱くなっているのだろうか。それは幻想かもしれない。どうだろうか、本当のところは曇り空が知っているだろう。明日は青空だろうか。天気予報でも見るといい。


10月14日

 相変わらずはっきりしたことはわからない。何も見えてこないし、何を見たらいいのかもわからない。見たいと思うものが何も見えてこない。常に何かを見てはいるが、それが必ずしも見たいと思うようなものではないらしい。別に何も見たくないわけではないのだが、取り立てて何か特定のものを見ようとは思わない。確かに見えるものなら何でも見ているらしいが、それを特に見ようとして見ているわけではない。意識して何かを見ようとすると、いつも肩透かしを食らうような感じがする。いつの間にかそれは見ようとしたものではなくなっていることが多い。それを見ようと思い立ったときと実際に見てしまったときには、何かしら意識にずれが生じているようだ。実際にそれを見たときには、もう見たいとは思わなくなっているらしい。実際に見てしまうと、過去において見たいと思ったその動機が納得できなるのかもしれない。それは期待外れだったということだろうか。それもあるかもしれないが、何か別のものを見てしまったという疑いがどこからともなく沸いてくる。それは見ようとしていたものとは違うものではないのか、どこかで本物と偽物のすり替えがあったのではないか、といったん疑い出すとそれが止まらなくなる。人はなぜこんなものに納得するのか、こんなまやかしのどこがいいのか、もしかしたら、そんなことは先刻承知で、だいたい世の中こんなものだと割り切っているのではないか、それが期待外れだったときの感想になるだろうか。また、それとは別の場合もあるかもしれない。思ってもみなかった驚きを感じることもまれにある。それは当初から思っていたものが偽物で、現実に見たこれこそが本物だと実感するときだ。自分の想像を超えたものとはそんな感覚を生じさせるものだ。だが一方でそれは、よくありがちな罠にはまる瞬間でもある。感動と嫉妬は裏腹の関係にある。すぐさまそんな驚きは封じ込める。決してそんなものには驚かないと誓う。そんなものは見なかったことにしよう。無視して当然のものだ。とりあえず、世の中こんなものだというつまらない割り切りを優先させることになる。そこから屈折した心情が形成されることになる。まずは、あんなものは絶対に認めない、といきりたつ。そして無理にもバカにしなければ気が済まなくなる。何とか欠点を見つけたつもりになってそれをことさらあげつらう。つまり、それを見たときの驚きは簡単に封じ込めることはできるが、そこから生じる否定の感情は封じ込められない。人間は臆病で弱い生き物なのだろう。結局は既存の権威にすがることでしか新しいものを認めることはできないのかもしれない。だがらノーベル賞受賞者をしきりに賛美したがる。人やものを全面的に賛美することは、今までさんざん吐き出してきた後ろめたい否定の感情の裏返しだ。そんな卑屈な人間にはなりたくない。人は疾しさに苛まれながらしか生きられないのだろうか。その疾しさを打ち消そうとして神に救いを求めるのかもしれない。罪滅ぼしというやつだ。あとは、自分が悪人だと開き直ることだろうか。滑稽な無頼に走ったりするわけだ。要するに、その驚きのただ中にとどまれる者は誰もいないということか。たぶんその瞬間の見たとおり感じたとおりをそのまま受け取り持続させる謙虚さが必要なのだろう。だがそんなことがはたして可能だろうか。安易に戦略や戦術に頼る前に確認しておかなければならないことが何かあるようだが、その何かがなかなかわかりづらいのかもしれない。だが、そこでとどまらない限り、死ぬまで世の中はこんなもののままだろう。たぶん、その結論に達する前に、何かを打ち捨てているのだろう。その捨ててしまったものは二度と取り返しのきかないものかもしれない。


10月13日

 斜線付きの主体とは何を示しているのだろうか。それが主体の一種であることは確かだが、そこに何らかの意識を見つけることは可能なのか。そして、そこにはどのような意思が表示されているのだろうか。その主体は何を考えているのだろう。いずれも自分には答えを導き出せない問いだ。そもそもその問いの内容自体がまったく的外れかもしれない。それが使われる本来の文脈からは大幅に逸脱して、全く見当違いの疑問を抱いているだけかもしれない。主体そのものの意味を正確に把握していないにもかかわらず、その上にさらにわけのわからない斜線付きの主体とかいう概念について述べようとしているのだから、要するに土台もないのにいきなり屋上を造るようなもので、それは無謀な試みというよりは、初めから不可能なことである。やはりそのやり方はどう考えても出鱈目である。たぶんそのような概念についての考察は、自分ようなレヴェルでは関与できない領域なのかもしれない。にもかかわらず、これからそれについて何かを述べようとしているのだから、それが出鱈目なのは初めから明らかである。しかし自分の関与できる領域は、出鱈目以外にいったい何があるだろう。領域も何も言及する対象自体がない。もしかすると、その出鱈目からも追放されているかもしれない。出鱈目に述べる対象自体がそもそも見つからないのだからどうしようもない。しかし出鱈目さえ使用できないとすると、では、これから何を語ればいいのだろうか。そこからどこへ行けばいいのだろうか。どこへも行くあてはない。もはや何も見いだせない上に、その場しのぎの出鱈目さえ許されないらしい。いったいこれからどうすればいいのだろうか。何も分からずに、ただただ途方にくれるばかりだ。というのはたぶん嘘だろう。それは比較的簡単なことかもしれない。安易な対処法ならいくらでも見つかるだろう。そして、今まさにそのうちのひとつを実行しているではないか。つまり、とりあえず、こうやって悩んでいるふりをすればいいわけだ。初めから斜線付きの主体のことなどどうでもよかったのであり、それを真正面から取り上げて、そのあり方について真摯に取り組むつもりなど毛頭なかった。とりあえずは、ただ悩むための材料が欲しかっただけのようだ。が、しかしそれもまた嘘なのだろう。それは結果としてそうなっただけで、たぶん初めは、偶然の気まぐれでそんな用語を使ってしまって、使った後から、さあどうしたものか、その後の展開をどうしたらいいのかうまい対処法がわからずに悩んでしまったのだろう。それは悩んでいるふりなどではなく、一時的ではあれ、本当に悩んでいたのかもしれない。だがそれは比較的軽い悩みであって、容易に解消できる程度の悩みだった。しかし簡単に解消できる悩みが悩みといえるだろうか。それは悩みでさえなく、ましてや悩んでいるふりなどではあり得ない。つまり、斜線付きの主体程度のことで、悩みが生ずることなどあり得ないということだ。別に悩んでいるわけでもないのに悩んでいると述べられる、それが嘘の現実だ。いったい自分は何を操作しているつもりなのだろう。たぶん自分はそれを現実には操作できないのにもかかわらず、実際に操作しているつもりなのだろう。要するに自分が操作しているつもりのものとは、その斜線付きの主体なのかもしれない。やはりそれは全くの出鱈目なのか。だが虚構以外で主体が生ずる余地はない。人はただ主体を想像することしかできない。それを主体だと指し示すことなどできはしない。主体は、現実には虚構の概念として操作するものだ。何かを行った結果として、その行為に自分が積極的に関わったと感じたならば、そのとき、なんとなく自分が主体的に行動できたと思うのであり、結果的にそこに主体を想像することができる。そこで自分の主体性を確認するわけだ。その反対に、自分の思いや主張とはほとんど無関係に事が運んでしまうような場合、そこに主体を想像することはできないだろう。ではそのとき自分は何をやっていたのだろうか。確かに自分もその行為に関わっていたはずなのに、その結果の中に自分の関与を確認することができないとき、大抵の人はたぶん不愉快に感ずるのだろう。それは、そこに自分の主体の痕跡を見いだすことができないからなのか。そうだとすれば、要は気持ちの持ちようになってしまう。例えば、どんな些細なことにも、そこに自分の意識を同化すれば、常に主体を感ずることができるようになるだろう。要するに、何にでも首を突っ込んで賛同すればいいのであり、日頃から他人の主張に感心したら、即座に、自分もそう思っていた、と思い込む訓練を積めば、たぶん思いのほか主体的で快適な人生を歩めるかもしれないだろう。それが斜線付きの主体が操作している主体の正体なのだろうか。やはりこれも出鱈目のなせる技か?わからないが、全くこれらは嘘だらけかもしれない。


10月12日

 理論的な考察ならいくらでもある。それに基づいてなされる試論や試案も掃いて捨てるほどあるのかもしれない。そんな提言や提案ばかりが堆く積み上げられる一方で、それらが実践に移されることはまれだろう。たぶん人は、実現のあてもないことを空想するのが好きなのかもしれない。現実の生活では限られた範囲内でしか行動できない。そのことへの不満の反動として、意識の中で、妄想や空想などに費やされる比重が飛躍的に増大するのだろう。しかし実践とはなんだろう。ある意味では、理論的な考察を行うことが実践であり、試論や試案を提示することが実践であったりする。何やら思考してそれを文章にまとめて発表することが実践であり得るわけだ。だがそれらは一体なんのための実践なのだろうか。世の中がそのような実践ばかりになってしまったら、もう誰も現実には行動しなくなってしまうのだろうか。いつの時代も実際に汗をかきながら労働する人々は報われないのかもしれない。もちろんその行為がテレビ画面上の出来事なら話は別だが。確かギリシア神話の中のオデュッセウスの冒険には、その歌声を耳にすると海に引きずり込まれて二度と生きて戻っては来られないという、セイレーンの歌声を、死なずに聴きたいがために、船の漕ぎ手たちには耳栓をさせて、自分の身は、海に引きずり込まれないように船上に縄でつなぎ止めて、その海域にさしかかるとどこからともなく聞こえてくる、この世のものとは思われない怪しい歌声を、しっかと堪能したとかいう話があるようだが、実際に耳栓をしてせっせと船を漕いでいた労働者たちは、その快楽を何も味わうことができずにいるのに、ただ船上に縛り付けられているだけであとは何もしないオデュッセウスだけが、それを聴いた他の誰もが死に直面した恐ろしい歌声を生きたまま聴くことができたわけだ。ここでのオデュッセウスは、神の側ではなく明らかに人間の側に属している。これが、人が神に打ち勝つために身につけた知恵というものの起源なのだろうか。たぶんそれは、セイレーンの側からすれば、不当な策略であり、悪知恵に属するものだろう。今の時代に戦略とか戦術とかの重要性を盛んに唱えている人たちは、当然のこと船の漕ぎ手たちではなくオデュッセウスになりたいのだろうが、彼らが成功するためには、その陰に、ただ利用されるだけで分け前が相対的に少ない労働者の存在が欠かせないということだろうか。たとえその快楽とは無縁の労働作業をできるだけ機械に肩代わりさせても、今度はその機械の設計製造販売運搬設置保守点検過程で、やはり何らかの労働者的役割を担う人たちを必要とせざるを得なくなるだろう。例えば、現代において船の漕ぎ手に属する人たちとは、どのような職種の人たちになるだろうか。それは、原発内で作業する人とかゴミの収集人とか運送業の人とかいろいろあるだろうが、昔、下水道工事の作業をやっていた人が、たまたま近くにある家庭ゴミの収集所にやってきたゴミ収集車の作業を見ながら、ゴミ屋はクセエからやだよな、と笑いながらつぶやいていたの聞いたことがあるが、そういう自分は下水管を道路の下に敷設する作業で泥だらけだ。そして、そのつぶやきを聞いて、どっちも大してカワラネエだろう、と心の中でつぶやいた自分はといえば、その工事現場のガードマンとして、真っ青な恥ずかしい制服と変なヘルメットをかぶってオレンジ色の棒切れを手に、日に焼けながら通行止めの看板の前に突っ立っていたのだった。ここではたと気がづいたのだが、セイレーンの歌声とは、案外、船の漕ぎ手たちの、俺達はなんでこんなイヤなことをヤラナケリャナラネエンダ、という不平不満のつぶやきだったかもしれないということだ(笑)。


10月11日

 相変わらず以前と似たような人々が批判の俎上に載っているようだ。いや、それは似たような人ではなく、幾人かの毎度おなじみの人たちが批判の対象としてローテーションで順繰りに回っているのが実情だろう。これは行き詰まり状態なのだろうか。たぶんそうなのだろうが、だがその状態をあえて保つことが、固定客の心を掴んで離さない秘訣なのかもしれない。それは客商売を続けるためには必要な定石の一つなのだろうか。しかし、このままではマンネリから抜ける出ることはできないような気がするが、それも致し方ないことなのか。たぶんそんな心配は大きなお世話だろう。あえてマンネリを続けているのだろうから、それはいらぬおせっかいだろう。それに、あそこはあそこで一つの内部空間を形成していて、その中ではいくら批判しても許されるのであり、その批判に外部のメディアが反応しない限り、いたって人畜無害な批判のままだろう。そして、その批判対象は、不用意にかみついてやぶ蛇にならないように、ただ批判が忘れ去られるまで黙って耐えながら、相手に言いたいだけ言わせておけば、時が経てば何事もなかったかのようにまた以前と変わらぬ生活を送れるのかもしれない。つまり、あれらは、批判する側とされる側の双方の間にある、プロレス的な暗黙の駆け引きが成り立つ限りにおいて、反権力だとか反体制だとかの昔ながらのキャッチフレーズで、かろうじて少数の事情通ぶった客を呼べるのであって、そういう予定調和的な均衡の上に成り立っている商売なのだろう。要するに、一見したところ体制側に抵抗しているように見えるあれらの売文業者も、実は現体制の維持継続に一役買っているわけだ。将来もしかしたら抵抗勢力を形成するかもしれない者たちを、自分たちの商売に引きずり込んで消耗させ、その処遇に不満のある者は場合によっては使い捨てにし、結果的に自分たちの商売にとって脅威となりかねない抵抗の芽を事前に摘み取っている。飼い殺しというやつだ。そして客がそこから快楽を受け取る限り、その商売も維持継続され、同時に、抵抗しようとする人々をそこで堰止めるための、変革を阻む壁であり続ける。もしそうだとすると、この社会を支配している権力機構に欠陥やつけ込む隙はないのだろうか。たぶん、欠陥でさえそれを逆手にとって、それと闘争を繰り返しながらも、ある方面からは抱き込み工作によって、また別の方面からは隔離工作によって(例えばそこを良識のある人は立ち入らぬようにゲットー地区に指定したりして)、徐々に無害で安全な方向に馴致し、結果としてそこから苦痛ではなく快楽が生じるようになったとき、それらは支配のために都合のよい機能を持つ新たな道具としてしまうのかもしれない。人々はそこから快楽を受け取る限りにおいて、そのような商売を積極的に支持し続けるだろう。そして、そこで真理を語ってしまうことはむしろ誤りなのだ。そういう者は、今ある予定調和を乱し、快楽の供給を途絶えさせ、苦痛をもたらすことになるのだから、積極的に無視や排除の対象になってしまうだろう。シャレのわからないやつは煙たがられる。苦痛をもたらす者は誰にも受け入れられない。だが、安易な快楽の供給をもたらす者は人畜無害だ。だからフーコーは、戦略的な快楽の供給こそが世の中を変革させる可能性があると述べていたのかもしれない。しかし、では具体的にどうすればいいのか。自分には今のところそれがわからない。


10月10日

 しかし、なぜそこで唐突に海辺で戯れるのか、その辺の展開がよくわからない。ただ、それでなんとなく前後の文章がつながっているような気もする。たぶんその程度の認識でかまわないのかもしれない。現実に何を述べているのかよくわからないのだから、それをあえて深く考える必要はないのだろう。そう、いきなり意味もなく風が吹いてきたり、夜の星空を見上げたりしているわけだ。要するに意味不明なのだ。そこで何か大切なことを訴えかけているのでもないし、また何か深刻な事態が起きつつあるわけでもない。その部分では何も主張しないし、そこでは何も起こらない。だからといって、それは悲しむべきことでも喜ぶべきことでもない。あるいはまた、退屈で死にそうというのでもない。そこではただそうなるだけのことだ。確かに退屈だが、別に死にそうなほど退屈しているわけではない。それは、夢見ることに必死な人々ほどは忙しくないだけなのかもしれない。たぶんこれが普通なのだろう。自分にとってはこれが通常のペースなのだ。だが、何もやらないことを後悔する気にはならない。何かをやらなければとは思わない。いまさら焦っても仕方がない。焦る時期はとっくの昔に過ぎ去ってしまった。いくぶんヒステリー気味になってあくせく努力する必要性を見失って久しい。なぜそういう過剰なエネルギーが消え失せてしまったのだろうか。それは、もう終わりが近いことの証かもしれない。まあ、そうなったらなったで、それも仕方のないことだが、今のところはそんな予感はしない。たぶん、終わりは思いもかけないときに突然やって来るのかもしれない。せいぜいそのときが来たら感動するとしよう。死にたくなくても死ぬときは死ぬのだろう。そんな死のリアリズムをことさら顕揚する気にはならないが、どこかのマラソンランナーのように、苦しくても楽しいと言うだけの根性は持ち合わせていない。別に競争しているわけではないのだから、苦しいときはただ苦しいだけだろう。それが本当に楽しくてニコニコしているのなら、それはそれですごいことなのだろうが、自分は別にそんな笑顔に勇気づけられはしないし、それをまねしようとも思わない。それはそれでそういうことであり、ここにあるこういう状況とはマッチしないことだ。ここにあるのはただの静止状態だ。今のところ、この状態からモードが切り替わるきっかけがやって来る兆しはない。それは地震と同じで何の前触れもなく突然にやって来るのだろうか。つまり、今の自分には、終わりの予感を感じ取れないように、モードが切り替わる前触れも感知できないということなのか。はたして終わりが来る前に、かつてのような活動モードに切り替わる時期がやって来るのだろうか。だが仮にその時期が来たとして、そのとき自分は何をやればいいのだろうか。たぶんそのときが来たら何かしらやることがわかるのだろう。わかる前にすでにやりだしているのかもしれないが、別にそんな時期が来ることを積極的に望んでいはいないし、期待に胸をときめかせているわけでもない。それどころか、もしかしたら、そうなる事態を避けようと画策しているかもしれない。このまま静かな生活が続くことを秘かに望んでいる可能性もある。だが、自分の思っていることなど自分には分からない。このようなモノローグによって吐き出される言葉は、それがどんなに大量に放出されようとも、それらは何もない虚空にただ一方的に吸い込まれるだけだ。こちらには何も戻ってこないし、いっさいが反響せずにあちら側へ消えてしまう。そこでは、何かをしゃべっているようでいて、実際には無言の言葉がただあてもなく浮遊しているにすぎない。そこに話者の本心を期待するのは的外れもいいところだろう。


10月9日

 南風が西風になり、そして少しの間、北風に変わった。今は無風状態だ。静けさを感じている。何も感じないよりはマシだろう。どこまで網が張り巡らされているのだろう。そのネットワークに乗って無限の彼方まで届くだろうか。届きはしないだろう。他人の足を引っ張ることしかできない醜い人ばかりだ。彼らの自慢は自らの度量の狭さを誇示することだ。そして仲間たちと一緒に薄ら笑いを浮かべる。たぶんそれでいいのだ。そこにいくばくかの可能性があるのだろう。その可能性を後生大事に守っていればいい。自分はその可能性がないから気楽だ。やることは何もない。海辺で戯れるまでもない。今さら砂にまみれて遊ぼうとは思わない。それは遊びではなくビジネスだと錯覚する輩もいる。すべてが目まぐるしく移り変わっていくわけではない。いまだにハードロックで通用する領域もある。あるのは1970年代だけだ。まるでエルヴィスやビートルズなどは存在しないかのように70年代だけがある。すべてはそこで燃え尽きたのだ。だがその燃え尽きた灰の中から生まれてきたものもある。それがかろうじてここまで生き延びてきた。それは何も可能性のない気楽さから、これまで勝手気ままに振舞ってきた。これからもそうなるのだろう。欲望や感情の奴隷にはなれない。何よりも意欲がない。自己や自意識の奴隷になることもごめんだ。ここは、競争に勝てば何でも言える世界だ。そんな自由を獲得する気はない。だが、それらすべてを肯定しなければならないようだ。自らはそうなるつもりのないものを肯定しなければならない。厄介なことだ。そうならないためには、なぜかそうなることを肯定しなければならないらしい。しかしなぜそんなねじれた戦術を必要とするのだろうか。やはりそれらを否定しながら奴隷になってしまった人々の存在は重い。こうすればこうなるということを身をもって示して人柱になった人々の行為に報いなければならない。しかしどう報いればいいのかがわからない。はたしてこんなやり方でいいのだろうか。たぶん結果は何も出てこないような気がする。これでいいのなら気は楽だ。だが、今までそれらをちゃんと肯定してきただろうか。どうもそうではないらしい。否定してばかりいたような気がする。このままでは自分も奴隷になってしまうのだろうか。今からでも遅くはない、肯定しなければいけない。そうだ、夢や目標に向かって努力することは良いことだ。自分はやらないだろうが、おそらくそれは良いことなのだ。そうだ、競争があるからこそ技術革新が生まれる。より良い未来を築くためには、皆が知恵を出し合い、お互いの競い合いの中から新しいものの考え方や発明が生まれるのだ。自分はやらないが、他の人は頑張って欲しい。世界は常に犠牲者を必要としている。自ら進んで奴隷になる人々によってこの世界は成り立っている。彼らの英雄的行為を安易に否定してはならない。頑張れ頑張れみんな頑張れ、それでいいのだ。彼らが自らの犠牲とひきかえにして与えてくれる夢や勇気や感動を、我々は、彼らに対する慈しみや敬意とともに、ありがたく消費しなければならないらしい。


10月8日

 分析の結果、いくつかの兆候が見られるようだ。その中の一つは、何かありもしない風景を構築しようとしているらしいことだ。過去の記憶を合成して、その場で偶然に思いついただけの大して意味のない木や山や川や建物から、どこにでもありそうな風景を構成してみる。だが、そこから何をやるわけでもない。そこからは何も発展しない。ただ、どこにでもありそうで実際にはありもしない風景を思い浮かべるだけだ。そこで終りだ。そして見い出されたものはすぐに捨ててしまう。それをなぜ捨てるのかは、今のところよくわからないが、ただ何かについて思考する度に何らかの風景が次から次へと見い出され、そして、その見い出された風景を次から次へと捨て去るらしい。それがどんな意味をもつことなのか、確認する間もなく次の瞬間には捨ててしまうようだ。それがどういうことなのか、それがいったい何につながるのかはよくわからない。だが、そんな意味のわからない不毛な作業のうちにも、そこには何か得体の知れないものが生じているらしい。風景を思い浮かべることはその都度そこで止まってしまうが、それとは別の場所において何かが蓄積するらしい。それが見い出された兆候のうちの一つだ。そこから何を導き出すつもりなのか。試しにその蓄積物について語ってみよう。たぶんそこでは何かのアナロジーについて語っているらしい。その次々に捨てられた風景から類推されるものは何だろう。もっともこの場合、類推は単なるきっかけに過ぎず、類推の意味とはまるで別の結果が出てくる。類推とはまったく違うことをやっているようだ。実際、それらの風景とは全く関係のない風景が導き出される。類推は類推でありながら類推ではなく、類推から導き出された風景は、元の風景とは似ても似つかない風景だ。だがそれは風景から別の風景を類推した結果なのだ。そして、導き出された風景から、さらにまったく別の風景を類推によって導き出し、以下同様にその作業を続けていくと、類推によって様々な風景が連鎖的に生成する。それらは、すべてはじめに思い浮かべた元の風景から類推されたものにも関わらず、それとは全く無関係に見えるだろう。しかしなぜそれらが類推から生成したことになるのか。風景の生成は類推とは全く関係のないことではないのか。結果として元の風景とは無関係に見えるのならば、それらは類推された風景とはいえないはずだ。だが、一見無関係に見えるものこそアナロジーの源泉なのだ。はじめから類推の仕方がおかしい。それは誤った類推の仕方だ。類推にはあらかじめ二つの対象が必要であり、その二つの対象に見られる類似点などの関係項を求めるのが、本来の類推のやり方だろう。一つの風景だけから何かを類推することなど不可能だ。そこには何かが欠けている。その欠けているものとは、もう一つの別の分析対象である。それはその風景を思い浮かべた人物であるらしい。つまり、その人物とその思い浮かべた風景から、その人の心理状態とやらが類推されるわけだ。だが、その人物とはいったいなんだろう。その風景とその人物からどのような関係が打ち立てられるのか。普通に考えるなら、人間と風景は全く別の概念だ。それなのに、そこには、その人がどのような風景を思い浮かべたら、その人の心理状態は〜だ、という関係式のごときものが確立されているらしい。それは一種の記号論なのだろう。思い浮かべた風景の中に登場する、人や動植物や建物などの個々の事物の数や配置が、何らかの意味を持ってくるらしい。だが、そこにはもう一つの分析対象が存在する。その風景を分析する前に、あらかじめその人の生活状況を詳しく調べあげている。だがそうなると、ただ単に、生活状況から直接心理状態を導き出せばいいだけではないのか。なぜ、もったいぶってわざわざそんなまわりくどいことをやるのだろうか。それは、類推が風景から別の風景を導き出すための単なるきっかけであるように、思い浮かべた風景は生活状況から心理状態を導き出すための単なるきっかけに過ぎず、その風景自体は心理状態とは全くの無関係なのであり、要するに、生活状態から心理状態を類推するだけでは、ただの当たり前のことになってしまい、それでは何のおもしろみもないので、そこで、こけおどしのはったりをかますために、わざわざいかにもその思い浮かべた風景が分析のための重要な鍵を握っているかを強調して、一種の目くらましやっているに過ぎないのではないだろうか。やはりそれは似非科学の領域に入ることなのだろうか。


10月7日

 そこに記述された言葉の連なりは、いくぶん変わった意味合いを含みながらも、何か気になる述べ方を繰り返している。そこでは、絶えず否定しつつも何かを期待しているらしいことがわかる。つまり、言及する対象に向けて執拗に繰り返される否定の連なりを、どこかで一挙にすべてを肯定へ繋げようと画策しているように思われる。否定の連続から何か肯定的なものが導き出されることを期待しているようだ。それは著しくおかしなことだ。なぜはじめから肯定せずに、否定から肯定への迂回路を構築しなければならないのか。なぜそんなまわりくどいことをやる必要があるのか。それに、今まで述べてきたすべての否定を、すべての肯定へと結びつけることがはたして可能なのだろうか。どこでどうやって全肯定へと繋げるつもりなのか。その方法やそれをやる時期はいっこうに見えてこないし、今のところそれに向けて何の前触れも素振りもない。やっていることはといえば、相変わらず言説対象を否定することばかりだ。いったいいつになったら肯定的な語りが始まるのだろう。もうだいぶ前からそんな期待を持ったことさえ忘れていた。待ちくたびれて、すでに期待など忘却の彼方だ。いつそんな期待を抱いたのだろう。まるで覚えていない。今は何も期待していない。今あるのは自分も含むすべてに対する幻滅だけだ。いまだに全肯定とは全く逆の全否定のままだ。そこからいっこうに抜け出せないでいる。些細なことでも肯定する手がかりさえない。しかし今述べているこれらは、いったい何を物語っているのだろうか。何を述べているのか。相変わらず何も定かではない。それが現実に起こった事件や出来事についてなら、その中で言及される特定の固有名から、その言説とこの世界とのつながりを導き出せるかも知れない。だがそんな手がかりはいっさいない。ただ、何かを否定してから肯定することの意義や手順について語っているらしい。たぶんこれは架空の話なのだろう。こんなふうに語っているそばから、これらの語りを架空の話だと否定して見せる。そういうわけで、これはすべてを否定している現状について語っているようだ。たぶんこれは嘘だろう。いくら否定を否定しても、それが肯定につながるとは限らない。否定はどこまで否定しても否定のままかも知れない。だがそれでも否定し続けるだろう。それは、すべてを肯定するためには欠かせない手続きだ。すべてを否定すればその反対の概念がなくなり、否定そのものが無意味になる。要するに否定には肯定が欠かせない。圧倒的大多数の肯定があってこそ、希少価値としての否定が輝きを発する。つまり、その状況下で否定の意志表示をするには、英雄的な勇気や決断が必要とされる、とかいう錯覚が蔓延しているから、下らぬ目立ちたがり屋がカッコつけて大げさにこれ見よがしに否定して見せたりするわけだ。そういう愚かな風習は断ち切らねばならない。そんなことを否定するなど全くの無意味だ。今こそ何もかもすべてを肯定しなければならない。だが、しなければならないが、実際はやらない。しなければならないことはことごとく実行に移されないのが世の常だろう。自分も含めて人々は相変わらず中途半端な否定的言説をもてあそぶばかりだ。すべての目論みは怠惰の中で変質してしまう。何かをやろうとすればことごとく摩擦が生じて変形してしまう。それらの抵抗の中で人々は、有効な戦略とか戦術とかを編みだしたつもりになって、現実には期待と結果の妥協点を模索することしかできない。つまり、思い通りの結果になったとひたすら自分に言い聞かせるわけだ。要するに、自分に嘘をつくことが有効な戦略であり戦術なのだろう。


10月6日

 いつかどこかで誰かに巡り会うこともある。それは避けようのないことだ。しかし、それがどうしたというのか。いまさらそこで何をどうしたらいいかなんて何もわからない。どこかの橋の上で見知らぬ人とすれ違う。そんなところで何も期待はしないし、現実に何も起こらない。では、いつどんな場所なら期待できるのか。そしてそこで何を期待したらいいのだろう。中には偶然の成行きで何かを期待するはめに陥る人もいるらしいが、その幻想を抱かせる対象は、はじめからそれほど魅力的に見えたのだろうか。そうかも知れない。数限りない失望を経験しつつも、ある特定の人物に幻想を抱く毎度おなじみのやり方は、いっこうに衰える気配はない。そこにひとりの人間が存在するらしい。名前を持ったひとりの人間が紛れもなくはっきりと実在している。そんなことが現実にあり得るわけだ。で、その人物にいったい何を期待したのだろう。そのへんが今ひとつはっきりしないところだ。その期待の中身については、何も語りたがらない。そこに話題に及ぶと不自然に話が逸される。今では、その幻想を抱かせる人物に対して何か複雑な感情が芽生えているようだ。期待外れでありながら、その外れ方が許せないらしい。たぶんそれらは期待以上のことだからだ。それらは人の期待とは無関係に生成しているものだ。誰も預り知らぬところで言葉が自然に蓄積しつつある。誰かが意図して操作しているわけではない。もう誰も操作できないのだ。もはや操作を介在させる余地はない。そのような領域からはとっくにはみ出している。これからは特定の人物に巡り会うことはないだろう。実在する人間からは遠く隔たっている。そこは場所でさえない。ただ空中に漂う空虚な間だ。空と空の間に挟まれた厚みも奥行きもないひとつの点でありながら、余白だらけで形も定かでないアメーバ状の域であったりする。また、すべてがデタラメでありながら、何もかもが透けていて、それを透かした向う側の風景だけがおぼろげに見える。しかもすでにどこか遠くへ行ってしまった後で、その痕跡すら残っていない。そこに何が存在していたのか、想像すらできないだろう。もはやそんなものに期待や幻想を挿入することはできない。それを解読するのに必要な法則や形式が存在しないので、何を述べているのかさえはっきりしなくなった。たぶんそれは何も述べていないのに、何かを述べているように感じとれるのだろう。そう、確かに何かを述べているのだ、何かを。いつまで経っても何かでしかない何かを述べているらしい。どこまでもいつまでも何かを述べ続ける。しかしそれがどうしたというのか。どうもしない。それは何も結実しないだけだ。だが、そんなあり方にどこまで耐えられるのだろうか。関係のないことなのだろう。耐える耐えないの問題ではなく、それを感じとる精神や肉体とは別の営みであるようだ。それは営みでさえなく、行動することなく生成するものだ。静止から生み出される。もはや可能性や不可能性とも関係がない。ただそうなるだけのことだ。


10月5日

 疲れているらしい。少し体がだるい。頭上から流れ込む心地よい冷気でひと息つく。まだ暑い。すでに十月なのに、なぜこうも暑いのだろうか。いまだに冷房が欠かせない。だが、毎年こんな感じだったかも知れない。一年前の十月の記憶はあやふやだ。やはり関東地方は一年の半分が夏なのだろうか。今回はかなりきつかったが、どうやら今年の夏もなんとか乗り切ったようだ。だがあと半年もすればまた暑くなるのだろう。この世界の気候や風土は、死ぬまで安らぎを与えない構造になっているのかも知れない。そしてこんな世界に対して、人々は絶えず抵抗し続けているようだ。だが、自らの命を賭して抵抗し続けるパレスチナの人々が置かれている状況から比べれば、ちょっと暑いだけで下らぬ不平を述べるだけの自分は、かなり恵まれている方かも知れない。もちろん、はなからそんなことは比較の対象外だ。彼らと自分を比較するなどほとんど無意味なことだろう。彼らと自分との間に横たわる距離は途方もなく長い。物理的にも感覚的にも恐ろしく遠く隔たっている。精神的にも肉体的にも徐々に追い詰められつつある彼らにとって、もはやその土地に留まることのみが、彼らが生きていることの証となっているように感じられる。そこまでやってもまだ先があるのだろうか。もうすでに何度も限界を越えて、事態は期待を裏切る方向へ進展してしまったのに、さらなる地獄巡りが待ちうけているのだろうか。その土地に留まるためには、さらに多くの血が流されなければならないのだろうか。まったく軟弱者の自分にとっては想像を絶する世界だ。おそらく自分は彼らに何もしてあげられないだろう。彼らの悲惨な状況を物語るニュース映像を見ても、今の自分には何もできないのだ。もちろん、過去の自分にも未来の自分にも何もできないだろう。おそらく双方の政府の間で何らかの妥協が成立して、時が経てば事態は一時的に鎮静化の方向へ向かうだろう。衝突が起こるたびに、死傷者の数が増えたところで関係各国が事態の鎮静化に乗り出し、まもなく一時的な休戦が成立する。これまではそれの繰り返しだった。これからもそれが繰り返されるのだろうか。それでも徐々にではあるが、お互いの戦争状態を回避するような条約的拘束が生まれつつあるのかも知れない。とりあえずは双方の人々の住み分けを確定して、それぞれの区域をそれぞれの政府が統治すれば、双方に不満を残しつつも、そこで紛争に一応の区切りがつくのだろう。それがこの時代の国民国家制の限界だ。かつてのように、お互いが何の不都合も感じずに同じ地域に混じりあって暮らせるようになるには、まだかなりの年月を必要とするだろう。だが、はたしてこれからそんな時代が訪れるだろうか。やはりそれは、双方の経済的繁栄によってお互いの宗教が形骸化することが必要不可欠かも知れない。つまりそれは、軟弱者になることだ。現時点での彼らには到底受け入れ難いそんな事態にならない限り、今あるような紛争はなくならないような気がする。双方に誇り高き戦士が生きられる余地が残されている間は今までのような武力衝突は避けられない。しかし彼らを物質的豊かさで骨抜きにする以外に方法がないのだとすれば、この世界は実にふざけた世界だと思う。もしこの世に神がいるとするなら、それは絶対に人の思い通りにはさせない筋金入りのひねくれ者だろう(笑)。


10月4日

 たぶんスポーツはひとつの冗談なのだろう。競技者がそれを真剣にやっているように見えれば見えるほど滑稽に見える。しかしなぜそれが自分には滑稽に見えてしまうのだろう。本当は感動しているのに、それを隠すために、無理に滑稽に見えると嘘をついているわけではないらしい。例えばサーカスとスポーツとの境界線はどこにあるのだろう。それらは、一般人が通常の生活で体験する活動の限界を越えている。あれらを見たときの正直な感想は、そこまでやるか、という驚きがまず最初にくるだろう。それは競技者ではなく、それを見ている観衆の側についての感想だ。それが余暇を過ごすための気晴らしにやる遊び程度なら理解できる。見ている側もそういうレヴェルで見ているのなら何の問題もないし、いたって平和そのものだろう。やっている側は競争なのだから真剣になるのは仕方がない。しかし見ている人々は、なぜそれを娯楽と割り切らずに、やれ夢だ努力だ感動だ勇気だと、みっともないヒューマニズムを持ち出して擁護しようとするのだろうか。例えば大の大人が真剣になって集団でひとつのボールを追いかけ回しているぶざまな姿を笑い飛ばしてはいけないのだろうか。また、鼻に洗濯バサミみたいなのを挟んでプールのなかで逆さ踊りをしている集団のどこが感動的なのか。それをおかしいと感じている人は本当に一人もいないのだろうか。昔ビートたけしが、コマネチとかアンドリアノフとかおかしな格好で叫んで笑いをとっていたが、その手のギャグはもうはやらないようだ。その時の状況によるが、他人が一所懸命努力している姿ほどおかしなものはないだろう。世の中はその程度のことさえ言えない不寛容な社会になりつつあるのだろうか。いやそうではなく、それが例えばプロスポーツなら、まだ珍プレーで笑いをとる余地が残されている。だがそれがオリンピックとなると、とたんに日本という国が全面に出てきて、たいしてとれもしない国別のメダルの数がどうのこうのという話になってしまう。その結果、期待されながらメダルをとれなくて泣いてしまう悲惨な選手まで出てくる。まったく笑いからは程遠い世界であり、高校野球での郷土の期待と同じ種類のおおよそスポーツからはかけ離れた、ナショナリズムがむき出しの醜い感情がにじみ出る。そしてパラリンピックではなおさら笑えない。その姿を笑えば、非難されるどころではなく、それがしかるべき社会的地位の人なら、周りから袋叩きに遭うかも知れない。たぶん、競技している選手の中には軽い気持ちで参加している人もいるのに、それを伝える側は、自らの身体的なハンディを乗り越えてひたすら努力する姿が感動的だ、という大げさでくさい物語をさも当然のことのように押しつけてくる。ともかく、多くの人にとっては、それらのイベントは全くの他人事であるはずで、そこでの結果がそのまま自分たちの生活に直結するような重大事ではないはずなのに、なぜそれほど真剣になって大騒ぎするのだろうか。要するに国と結託したメディアのイベント商売にのせられた馬鹿な消費者なのだろうか。そうは思いたくないし、メディアが押しつけてくる判で押したような押し着せの感動にはうんざりしている人もたくさんいることを期待しよう。


10月3日

 なぜ誰もが賛美するものを批判し続けるのだろう。人の神経を逆なでするようなイベントには耐えられない。やはり見苦しい祭典とそれに携わる人々は批判せざるを得ない。敢えて嫌われるようなことしか述べられないのには我ながらうんざりさせられるが、やる度に自己嫌悪を覚えながらもこれからも批判していくのだろう。どうやら自分はとことん疲れる性格のようだ。世界的大運動会と報道ファシズムの組合せは何とか早く廃れてほしい。たぶんそれが自分の願いなのだろう。もちろん、誰もがそれに心の底から踊らされているわけではなく、本気で熱狂しているのはほんの一部の人々かもしれない。報道ファシズム体制を敷いているのも、東アジアの国々と社会主義諸国だけだろう。優勝種目が十個に満たない分不相応のこの国で不快な報道ファシズムが盛んなのは、たぶん滑稽な例外なのかもしれない。もちろんこの国の人々だけが不快だったわけではない。バスケットボールの準決勝と決勝において、アメリカのNBAのプロ選手に対して、地元オーストラリアの観衆が大きなブーイングを浴びせていたのは象徴的な出来事だったろう。準決勝と決勝でそれぞれ対戦したリトアニアとフランスの選手たちは、NBAプレーヤーのシュートをことごとくファールで防いだ。そしてファールが度重なるとフリースローが与えられるわけだが、フリースローになると今度は見ている観衆が盛んにブーイングを浴びせ、シュートがはずれると一斉に歓声をあげた。そして審判はNBAとは微妙に異なる国際ルールを厳格に適用して、おそらくNBAではファールにならないようなプレーにもファールをとり、NBAでは得点として認められるシュートを得点とは認めなかった。華麗なプレーをファールとし、見事なシュートをノーカウントとした。だが相手チームと観衆と審判がグルになってかかってきても、結局勝ったのはアメリカチームだった。度重なるファールとブーイングにしまいにはある選手がキレて、アメリカの応援団に、もっと大声で自分たちを応援しろと怒鳴っていた。しかしそれでも彼らは勝った。きわどい接戦にはなったが何とか勝利した。それをテレビで見ていて、やれ平和の祭典とか民族や国家間の融和とか、きれい事をいくら並べていても、紛れもなくそこで行われていることは争いごとであり戦争の延長上だと実感した。まともにやり合っては勝てないので陰湿なファール作戦をやり続ける相手チームや、元から力が格上のアメリカが勝ってはおもしろくないので、執拗にブーイングを浴びせ続ける観衆のいったいどこに平和や融和を求める心があるのか。もちろんこれがすべてではないことは重々承知している。かつてミュンヘン五輪でパレスチナゲリラによってイスラエル選手が皆殺しにされたのもアトランタ五輪で爆破事件が起こったのも、単なる突発的な事件にすぎないのだろう。だが、同じバスケットボールの試合なら、そういう偽善的なお題目がいっさいないNBAの方がはるかにマシな試合を楽しめるだろう。またサッカーなら各国のプロリーグやワールドカップで楽しめばいいし、柔道なら例えば体重無差別時間無制限の一本勝負にすれば、誰も結果に対して文句を言えなくなるかもしれない。それはスポーツではなく果たし合いになるが。つまり、所詮争いごとでしかないものに、中途半端な偽善を差し挟む行為そのものが、かえって大きな矛盾を露呈させることになる。だが、それでもなおきれい事の決まり文句をしゃべり続ける者が存在し続けるのだろう。要するに彼らは、その下らぬ祭典を継続させるために、その批判者と戦争状態なのだ。平和の祭典を言論による戦争で守り抜こうとしているわけだ。たぶんこんな批判も無視されるだろう。


10月2日

 存在しない今を探し求めてここまでやってきた。だが、意味不明な成り行きとわけのわからない紆余曲折を経て見いだされたものは、すべて過去の残骸ばかりだった。こうなることははじめからわかっていた。なのにどうしてここまでやってきたのだろう。理由などない。はじめからわかっていたかどうかも怪しいものだ。ただそこではそう述べることが文章の自然な流れなのだろう。どうやら、またもや成り行きまかせで出鱈目なことを書いているらしい。本当に存在しない今を探し求めていたわけではないだろう。実際にはそんなものを探し求めてはいないはずだ。その気もないのにあらぬ事を自然に書けるようになった。無意識の内に話の的をはずしている。ところで、過去において何かを探していたことがあっただろうか。それはあったに違いない。これまでにいろいろなものを探してきたのだろう。そう、それはいろいろなものだ。いろいろなもの以外は探していないのかもしれない。それはいついかなる時でもいろいろなものだった。それは何か特定の事物ではないらしい。そのいろいろなものに対する欲望が、ひとつの事物に結集することはなかった。すべての探求は最初から分散していたのだ。そんなことがあり得るだろうか。それがあり得たらおもしろいだろう。だが、それは何も探していないのと同じことではないのか。同じことかもしれないし、そうではないのかもしれない。何かを探すことにそれほどのこだわりはない。これから何を探そうとも、それほど本気で探す気にはならないだろう。なぜだろう、なぜ本気で真剣になって探求しようとしないのか。何かを探し出しても、それはすべて過去の残骸に過ぎないからなのか。だが本当にそんなことを思っているのだろうか。それはでまかせの出鱈目ではないのか。たぶんそうなのだろうが、そうだとしても、何かを探す身振りそのものが、ただ気まぐれな思いつきでそんな動作を装っているに過ぎないのかもしれない。そういうわけで、どこにでも、いかなる場所にもお節介な素人探偵は登場するに違いない。誰もがつかの間の謎解きゲームに参加したい。自分探しの旅の前に、是非とも他人の秘密を知っておきたいものだ。そこに秘密があればの話だが。秘密があった方がおもしろいから、なければ勝手に秘密をでっち上げようじゃないか。他人の秘密を勝手にでっち上げておいて、それを真剣に探す素振りを装うわけだ。それが謎解きゲームの本質だろう。虚構の探偵物語はこうして出来上がる。テレビゲームから犯罪小説まで、すべてがそのフォーマット上のヴァリエーションでしかない。それがわかっていながらその手のものを楽しもうというのだから、そこには意図した盲目が介在しなければならない。例えば、すでに見いだされているものがそれらしい雰囲気を伴ってわざとらしく登場したら、大げさに驚いたりしてみせる。その手のものに慣れてくると、そんな動作が自然に身についてくる。つまり、それを体験している者も謎解きゲームの登場人物と化していることになる。架空の登場人物と同次元の世界に入り込んでいる。それは物語に感情移入するどころの話ではない。自身がその物語の標的となっているのだ。気がつけば同じような無数の物語に多大な金銭を貢ぐ羽目に陥っている。本棚からは、かろうじて資源ゴミ程度の価値しかない文庫本が溢れ出し、もはや片づけようのない薄汚れた部屋の床一面には、似たような筋書きのテレビゲームソフトが足の踏み場もないほど散らばっていることだろう。そうなるともう手の施しようがなくなり、それでもなお正気を保とうとするなら、部屋全体を放棄してどこかへ逃亡でもするしか立ち直る方法はなくなるかもしれない。


10月1日

 闇夜に真昼の光景を思い出す。瓦礫の中から薄汚れた金庫が出てきた。作り話としてはよくありがちな話だ。皆の期待に反して中は空っぽだった。現実には中から大金が出てきたりする。誰もがどこかで思いもかけぬ金に巡り会うことを期待しているのかもしれない。実際に巡り会う人もいるのだろう。それは余分な巡り会いだ。またよけいな時間がやってきた。昼と夜の合間に空白の時が訪れる。札束は銀行の金庫の中にでも眠っていることだろう。瓦礫は明日にも大型ダンプがすべて運び去るだろう。真夏の時は完全に過ぎ去った。半月にも及ぶ馬鹿騒ぎも今日で終わりだそうだ。明日から逆転していた季節が正常に戻ることだろう。騒音公害をまき散らしていた元凶も、みんなこの退屈な場所へ戻ってくる。おそらく、また別の夢でも追い求めるのだろう。現実を無視して夢から夢へ渡り歩いているうちに歳をとって、身体機能が停止したら廃棄処分だ。あとに残るのは灰だけなのだろうか。いや、思い出の品や記録映像などが倉庫の片隅にしばらくは残る。だが、あとに残るものよりは、今ある生を大事にしなければならない。今現実に生きていること、それこそが掛け替えのないことだ。二度と取り返しのきかない今を大切にして生きていこう。そんな抽象的な慰めを信じられるだろうか。信じられない。今という時が現実に存在するなんて到底信じることはできない。今は瞬間だ。今の時間はゼロ秒である。そのゼロ秒をどうしろいうのか。そのゼロ秒間の間にいったい何をやれるだろうか。たぶん現実には何もできないだろう。今という時間は、実際には何かをやっている最中なのである。認識できる時間は過去か未来しかない。今は過去を参照しつつ未来に向かって何かをやっている途中の瞬間なのだろう。そう、馬鹿者共が夢に向かって努力しているその一瞬のあり得ない時だ。その輝きはほんの一瞬であり、すぐに過去の出来事となってしまう。輝き続けるのは光源の蛍光灯とか太陽のことだ。過去の栄光に依存した未来は悲惨なものとなるかもしれない。あの人は今、とかいう企画で追い回されて惨めな境遇を公衆の面前にさらけだす。それが過去の栄光の代償だとしたら、その企画はかつてその栄光を讃えた人々による嫌がらせであり復讐である。つい先日まで大騒ぎしていた人々は、同時にそういう企画に嬉々として賛同する醜悪な人々に変身するだろう。まったくひどい世の中だ。では、そうならないためにはどうしたらいいのだろう。それはその手の人々が考えることだ。過去の栄光とは無縁の自分には関係がないことだ。自分は馬鹿騒ぎにも嫌がらせにも賛同しない。それらのイベントは何をどうやろうとも大衆の暇つぶしに貢献するだけだ。反面教師という側面以外に、人々に何か考えさせるきっかけを与えるような肯定的要素は何もない。それでもなおそれらを賛美しようとするならば、このひどい世の中にさらに拍車がかかるだけだろう。だが、こんなことをいくら述べても無駄かもしれない。それらを利用して利益が導き出されているうちはやめられない。まだ、そんなイベントはやめてしまえという声はごく少数らしい。もはや何も元には戻らない。しかしその戻るべき元は元から存在しない。元そのものが虚構の産物だ。だが相変わらず過去を顧みろと叫び続ける人々は存在する。つまり、過去へも未来へもどこへも行き場のない世界だ。そして、今という時さえ存在しない。