彼の声2

1997年

9月30日

 結局、アップルのスティーブ・ジョブズが、マイクロソフトのビル・ゲイツと同じように自社の利益を守るためには手段を選ばないように、アメリカも自国の利益を守るためには物事の道理や公正さを無視してありとあらゆる手段を講じているようだね。クレイ社のスーパーコンピュータを守るために、NECに言いがかりとしか思えないようなダンピングの嫌疑をかけて自国の市場から排除してしまうのも納得できるよ。日米軍事同盟の強化策の協議におけるアメリカの主張も、その論旨は極めてわかりやすくて単純明快だよ。要するに、日本はアメリカ軍が東アジアで円滑に行動できるように今よりもっと人と物と金を出せ、ということさ。もちろんそういうあからさまな表現は避けているし、紛争地域での邦人救出に協力するという言い訳も用意されているけど、実態は、おまえらを守ってやるから人と物と金を出して俺達に協力しろよ、というヤクザの脅しさ。でもそういうヤクザの論理は世界標準だよ。何しろ、実際に人と物と金を動かせば当然そこから何がしかの利益が生じると思われるし、日本もそのおこぼれにあずかっていると考えちゃう奴も出でくるんだよね。しかもその幻想の利益の分配をめぐって不満が生じちゃうのも資本主義(ヤクザの論理)の利潤追求原理からすれば当然の帰結だよね。自分たちに少しでも多くの利益を誘導したいのはこれまた当然だからね。おまえらは俺達に守られておもいっきり金もうけしているじゃねえか!いったい誰様のおかげで商売ができると思ってやがるんだ!俺達を怒らせたくなかったらもっと人と物と金を出せよ!こんな感じで要求をエスカレートさせるのは自然の摂理だよ。と、ここまでの話は弱肉強食の自然界のおとぎばなしさ。まあテレビの動物番組でも見ればこの程度のことは誰でも理解できるよね。でも誰でも理解できるおとぎばなしって結構強力なんだよ。人間も結局は動物の一種でしかないんだから自然の摂理から免れることはできないし、実際にそこから利益を得ていると思っている人にとっては、自らの利益を何としてでも死守しなければならないと感じ始めて、ついにはそうすることが自分にとっての義務であり使命であると錯覚しちゃうからね。それが伝統だとか慣習だとか言われるものだろうね。いわゆる人と自然との合一であり、自然との一体化によって人が自然の一部になっちゃうことさ。それって、何も森で山菜採りをしている人や渓流でイワナ釣りをしている人だけじゃないんだよ。つまり、在日米軍に対して反対闘争を繰り広げている人達は、今、底知れぬ大自然の脅威に直面しているわけだ。


9月28日

 ところでボクちゃんって何なの?キチガイなの?ボクちゃんは愛の戦士だぁ!無限大の脳天クルクルパーだぁ!だからさぁー、愛とクルクルパーとはどういう関連があるの?人を愛することとはクルクルパーになることだぁ!愛は人をキチガイにするんだぁ!だからボクちゃんはキチガイだぁ!無限大のキチガイだぁ!ボクちゃんは過激なキチガイさ、いつもクルクルパーだから叫び続けるのさ。何を叫ぶの?決まってるじゃないか!ギャーギャー叫ぶんだぁ!間抜けな君や内気な君の代わりにボクちゃんが叫んであげよう。そら!ギャー!ギャー!ギャー!君にも叫ぶチャンスをあげよう。そら叫べ!ほら叫べ!思う存分叫んでみろよ!・・・・・叫んだかい?叫んだ奴は馬鹿だよ。でも叫ばない奴はもっと馬鹿だよ。君が救いようのない馬鹿だからボクちゃんが叫んでいるんだ。君がおりこうさんのふりをしているのがボクちゃんには我慢がならないんだよ、本当は馬鹿なのに、哀れな奴なのに。だからボクちゃんが君の代わりに叫んであげるよ。君が叫ぶことができないのなら、せめてボクちゃんが踊らせてあげよう。さあ踊れ!夢中になって踊ってみなよ・・・・・君は不愉快なのかい?こんなわけのわからない文章を読んでしまって後悔してるんじゃないのかな?でもそんなことはどうでもいいことさ、君にボクちゃんが無償の愛を捧げよう、今、君はボクちゃんの無限大の愛に包まれているんだ。そうだ、ボクちゃんの無限大のクルクルパーも君に少し分けてあげよう。ボクちゃんはキチガイだけど慈悲深いんだ。内気な君にもいつか叫ぶチャンスが巡ってくることを祈っているよ、ボクちゃんばかりが一方的に叫んでいたんじゃ不公平だからね。毎晩寝る前に夜空の北極星に祈りを捧げよう、君がいつの日か立派な脳天クルクルパーになれるように。ボクちゃんは心やさしいキチガイさ、だからボクちゃんにやめろとかおしまいにしろとか言わないでくれよ、お願いだから言わないでくれ、ボクちゃんのガラスの心を傷つけないでくれよ。


9月26日

 ほぉー、何やら彼は語る対象のすべてを批判しているみたいなんだけど、彼の言説からいったい何がわかるのだろうか?さあね、少なくとも彼は、政治家やマスコミ関係者と違って、国民の味方になろうとはしていないようだね。それは当然だろう、彼はすべてを例外なく批判しようとしているのだから政治家やマスコミとともに国民も批判しているんだよ。そしてさらに政治家とマスコミと国民を批判している彼自身までも批判しちゃうのさ。何しろ彼は過剰な存在だからね。でもそうなると批判者としての彼の立場はどうなっちゃうんだろうか。自分を正当化する立場なんて彼にははじめからないよ。とりあえず、彼はそれらを批判する根拠や正当性のない立場にあり、いわば、どこにも存在しない場所から存在するすべてを批判しているのだろう。ん?少しニュアンスが違うかな。彼は存在しないものまで批判しているよ。彼は政治家やマスコミや国民が勝手に想像しているイメージとしての政治家やマスコミや国民を批判しているのだろう。それとともに、好き勝手に政治家やマスコミや国民のどこにも存在しない架空の理想像を互いに妄想しあっている実在する政治家やマスコミや国民を批判しているのだろう。もちろん、ついでに批判の対象としてそういう都合のいい政治家像やマスコミ像や国民像をイメージとして捏造している彼自身も批判していることも確かだけどね。なんだかややこしいけど、つまり、彼にはどこにも逃げ道のない場所で批判しているってことかな。逃げ道はあるよ。いやまてよ、確かな逃げ道があるとは断言できないが、逃げ道があるといえばあるし、ないといえばないようなところかな。それは文章上のレトリックに属することで、ただ逃げ道があると見せかけているだけかもしれないね。そうだね、彼は卑怯者なんだよね。要するに、彼は「私」として語らずに「彼」として、しかも、彼が語らずに、彼の語りを他の誰かが、例えば、「僕」や「ボクちゃん」が批評する形態を採っているんだからね。それってむちゃくちゃなごまかしだよ!ふざけんなよ!ボクちゃんはそういう彼を軽蔑しちゃうよっ!彼なんか大っきらいだぁ!早く死ねよ!ボクちゃんは彼なんかとはぜんぜん違うぜ!正々堂々と「正論」を語っちゃうぜ!ボクちゃんの愛は無限大だぁ!すべての馬鹿どもを無限大のクルクルパーにしてやるんだぁ!どうだい!エライだろ!スゴイだろ!ボクちゃんは天才だぁ!ボクちゃんは宇宙一の脳天クルクルパーだぁ!これがボクちゃんの「正論」だぁ!でも、これは批評とはいえないね、これもひとつのごまかしだね。


9月24日

 「コクミン」て何だろうね。なんだか「コクミン」という言葉を利用して無責任な発言を繰り返している奴等が大勢いるんだけど、あいつらっていったいなんなんだろうね。なんであいつらは自分が発言する度にいちいち「コクミン」という言葉でその発言の内容を正当化するのかなあ。しかし、批判される側とする側がまったく同じ内容の事を述べているのは滑稽だよ。それによると、「コクミン」の世論によってサトーソームチョーチョーカンは辞任せざるを得なかったんだそうだ。何しろ、ソーリダイジンのハシモト君やカンジチョーのカトー君と、ニュースキャスターのクメ君やチクシ君が同じ事を言っているんだからね。さすがにやめたサトー君は「マスコミが騒いだおかげでやめさせられたんだ」と誠実に負け犬の遠吠えを披露していたのに、他の奴等はみんな「コクミン」の世論に卑屈なまでに同調しようとし、「コクミン」の味方を装うのに必死じゃないか。なんでそんなに「コクミン」に媚びを売るんだい?「国民の良識が永田町の常識に勝った!」なんてね。やっぱ政治家もニュースキャスターも「コクミン」あっての人気商売だから仕方ないのかな?でもあいつらの言っている「コクミン」てなんか変だよ。だいたい法案を作成するときに政治家は、国民の幅広い層の理解が必要だ、なんて言っておきながら、自分たちの都合に合わせて「有識者」なんて胡散臭い連中を十人くらい呼んで審議会やら公聴会やらを開いて、それで国民の意見を聞いて理解が得られたことにしちゃうんだからおかしいよね。テレビや新聞だって、日本の総人口は一億二千万人もいるのに、たかだか千人くらいにアンケートしただけでそれを「国民の世論」にしちゃうんだからね。いくら統計学的に信憑性があるっていったって、「国民はどう思っているんでしょうか?」と述べた後で調査結果を得意になって示してもそれにどれほどの説得力があるのかね。君は千人に誘導尋問のようなアンケート調査した結果としての「国民の世論」を信じられるかな?


9月22日

 しかしどうでもいいことかもしれないけれど、彼から遠く離れて憩いの時の中に君はいるようだね。それは彼の文章の中ではないみたいだ。彼の文章には登場しない君に向かって彼は書いているらしい。彼の文章の中にときどき書き込まれる言葉の「君」と、実在するかもしれない君とはまるで別の存在なんだね。僕は彼の文章の中に存在しているから君を知らないが、君は彼の文章を読むことによって僕を知る。僕自身は単なる言葉でありひとつの文字でしかないのに、君は言葉であり文字である僕を知ることになる。僕は内容のない、表面だけの存在だ。僕は気まぐれなんだ。飽きっぽいんだ。すぐいやになっちゃうから何も成し遂げられない。とまあ、こんなふうに彼が書いてくれると君は僕の性格を想像することができるだろう。しかしそれはあくまでも君の想像でしかなく、実際の僕は相変わらずひとつの言葉であり文字でしかない。僕の性格は君の想像でしかないのだから僕はそんな性格なんか無視できる。いや、僕は虚構の存在なのだから、この世に実在するかもしれない君の想像がわかるはずもない。それどころか、僕は実在するかもしれない彼すら知らないし、知り得ない立場にあるようだ。僕は彼の勝手な気まぐれで彼の文章の中に登場しているようだけど、この文章を書きつつある彼と僕との関係は、ただ一方的に彼が僕を書くばかりで、僕は彼に書かれるまま彼に対して何もできない立場にある。でも僕は彼に束縛されたままの奴隷ではないようだ。彼は僕を自由自在に書くことなんてできない。彼はいつ起こるとも限らない勝手な気まぐれがないと書けないんだよ。彼は彼自身の気まぐれを自由に起こすことはできない、彼にも限界はある。つまり、僕はサイコロの目であって偶然に依存して彼の文章中に存在するわけだ。しかし何故彼は僕自身の存在についてこうやって長々と書いているんだろうね?この文章を読んでいる君に僕のことを説明したいのかな?だけど、それにいったい何の意味があるのか僕にはまるでわからないよ。これも彼の単なる気まぐれなのかな?


9月20日

 「正論」ねえ、わけがわからないんだよね。結局、愛って何だろうね。例えば、ロッキード事件で有罪になった代議士の佐藤孝行氏に同情することかな?マスコミは国民の世論(よくわからないよね)を味方につけたつもりで、朝から晩まで一日中彼を追いかけ回してテレビカメラやマイクを突きつけてどうでもいいような紋切型の質問を繰り返して浴びせかけ、テレビ画面上や新聞の紙面上で彼を晒し者にしているわけなんだけど、それってダイアナに対するやり方とどう違うのかね?彼は嫌われ者だからそういうひどい仕打ちをしても許されるのかな?実際、マスコミは街頭で通行人に意見を聞いたりアンケートを取ったりして自分たちの行為を正当化しちゃっているんだけど、それでいいのかな?ダイアナのときはそういう過熱報道を良識派ぶって批判していたのに、今回は誰も何もお咎めなしかい?「よくやった!」ということですかね。自分の有罪を認めない強情な奴が権力ゲームで大臣の椅子を獲得しちゃったもんだから、そういう倫理や良識に反することは許せないから、マスコミが周りでギャーギャー騒いで正義の鉄槌を食らわしてやろうということですか。要するに、誰も批判出来ない状況ならやりたい放題どんなことでも法律に違反していない限りやってもよろしい、という暗黙の了解ができているわけですねえ。ロス疑惑の三浦和義氏のときと同じだね。さあ、キャンプファイヤーで佐藤孝行を燃やして環になってフォークダンスを踊ろう!みんなで騒げば楽しいね、騒ぎの薪をどんどん追加して炎をできるだけ大きくしようじゃないか!国民の世論の炎が盛大に燃え上がるように!まあ、やりたいならどうぞ勝手にやってもらって結構だけど、フォークダンスに参加しない無関心な人間を批判して欲しくないね。沈黙する自由くらいは認めて欲しいよ。


9月18日

 おやまあ、相変わらず彼はいじけたことを語っているね。本当にうんざりするよ、まったく性根の曲がったどうしようもない奴だよ。ここはひとつボクちゃんが「正論」というやつを堂々と主張してやろうじゃないか。人間心が大切だぁ!人を思いやる心だぁ!そこから愛が生まれるんだぁ!愛こそはすべてだぁ!All you need is loveだぁ!ボクちゃんは脳天クルクルパーだぁ!これがボクちゃんの無償の愛だね。君も脳天クルクルパーになりたいかい?でもいくら君が脳天クルクルパーになってもボクちゃんにはかなわないよ。何しろボクちゃんの脳天は銀河系中心部のブラックホールに直結していて、ブラックホールからボクちゃんの脳みそに無限大のクルクルパーが毎秒300万キロのスピードで降り注いでいるんだからね。いわばボクちゃんは銀河一の筋金入りの脳天クルクルパーなんだよ。ボクちゃんは無敵のクルクルパーだぁ!君は絶対にボクちゃんには勝てないんだぁ!どうだい?あきれたろう?これがボクちゃんの「正論」さ。カッコイイだろ?でも世の中には中途半端な脳天クルクルパーが多すぎるよね。変に他人に媚びへつらっているわりには調子に乗って正義の味方を気取っちゃう奴が多すぎるよ。どうでもいいことに興奮してねちねちといやみなことをしつこく言い立てるんだからやになっちゃうよ。それでもそういう奴って自分が優位な立場に居ると思っているところが間抜けだよね。周りの人間がそいつがギャーギャーわめいているところを見ているのがわからないのかなぁ?そんな奴でも受け入れてくれる場所があるんだろうか?そういうやな奴でも無償の愛で受け入れなくちゃいけないんだろうかね。何しろボクちゃんは脳天クルクルパーだからね。どんな奴でもOKさ!俺は無敵だぁ!待ってろよ!お前も無限大のクルクルパーにしてやるぜ!本気だよ〜、なんちゃって。中途半端な脳天クルクルパーってこういう脅し文句が結構好きなんだよね、恥ずかしいね。


9月16日

 このままでは日本が危ない!どうする日本!どうすりゃいいんだろうね?簡単さ、討論すればいいんだよ、朝まで生討論だ!べつに古代ギリシアの哲学者みたいに意見の一致に達するために討論するわけじゃないんだけれど(もっとも意見の一致なんて幻想だけどね)、とりあえず現実に発生していると感じちゃってる危機感をそのままにしておいちゃいけないらしいから、討論によってそう思っている自分に道理があることを主張しなくちゃね。あとは自分の考えの見せかけの正しさを演出するためのディベート話術で他の奴等に競り勝てばOKさ。ここで目立っておけばもしかしたら政府の審議会や自民党の勉強会にお呼びがかかるかもしれないね。ラッキー!さあ、みんなで討論だ!一生懸命馬鹿な大衆やアホな国会議員の先生たちに危機感を煽って成り上がろうぜ!ガッツだ!ひたすら喋り続けるんだ!運が良ければタレント議員だ!たとえ自分が論争に負けてもそんなのは無視さ。執拗に同じ言葉を繰り返して相手が疲れるのを待てばいい。それがだめならあの手この手で懐柔工作をやればいい。何でもありなんだから倫理や道徳を気にしてないでやりたい放題やればいい。がんばれニッポン!日本の危機を救うのは君たちだ!燃え上がるような言葉の感動的な衝撃力で馬鹿どもを魅了するんだ!それが君たちの使命だ!君たちの過剰な情熱が秘められた真理を明らかにするが、それは君たちが理解する権利のない真理だ。その真理によって、支離滅裂でつじつまの合わない議論が展開されているのに不思議と君たち同士はよくわかりあえるんだよ。どんなむちゃくちゃな討論でもわけ知り顔をすることによってお互いに真に通じあうんだ。それが君たちの貧しき連帯の証しさ。


9月14日

 しかし人に同情する振りをして、大変だ!大変だ!と騒いでまわる野次馬ってやな奴だよね。他の奴等に同情を強要して一緒に騒ぎたいだけなのに、自分はあたかも正義の味方であるかのように振る舞いたいだけなんだよ。そういう奴って人間のクズなんだろうけど、世間はそういう奴に拍手喝采を送ってしまうんだろう。何しろ暇つぶしの娯楽にはもってこいだからね。騒ぎを大きくしてみんなで一緒に騒いでいると楽しいだろう。みんな一時の共感と快楽を味わいたいんだよね。そうさ、キャンプファイヤーを囲んで環になってフォークダンスを踊りたいのさ。恥ずかしい行為もみんなでやればなんでもないさ、さあ環になって踊ろう、夢がかなうよ、わかりあえるよ。でもキャンプファイヤーで燃やされちゃう犠牲者の方は悲惨だね。スケープゴートってやつかな、でも彼も犠牲者にされちゃうような過ちを犯しちゃったんだから仕方ないよ。まあそれも結果としては世間の役に立ったんだからそれはそれで良いことなんだろうけど。しかし、いまだに小学生を殺しちゃった中学生をダシにして教育や社会問題について語っている人がいるのは驚きだね。いったいいつまで騒げば気が済むのかなあ。年末の今年の十大ニュースでもう一度大騒ぎして終わりかな?人殺しなんてそいつ個人の問題に還元しちゃまずいのかなあ。それじゃみんなが騒げないということなのか?しかしニュースを見ているとなんでもかんでも大騒ぎしているみたいなんだけど、案外騒いでいるのはマスコミ関係者だけだったりしてね。まあニュースなんて娯楽番組の一つであって、その内容をあまり真剣に受け止めるべきじゃないことは確かだね。あいつらと一緒になって騒いでいると流行遅れで時代遅れになっちゃうよ。


9月12日

 でも貧しい人は幸せだね。だってマザー・テレサがあの世から見守ってくれてるからね。え?しわしわのばあさんよりダイアナの方がいいだって?バチアタリだな君は、見方によっちゃダイアナも恐い人だよ。身長180センチで36歳のおばさんに迫ってこられたら並の日本人は逃げ出しちゃうよ。わお!これは完全に身長・年齢・女性差別だね。わー!許してください!フェミニストの皆さん!ん?これは身長が低い日本人差別も含んでいるかな?ここは何かを語るとそこには必ず差別が生じてしまうという一般論に還元して逃げるより仕方ないね。しかし、たかだかインドで行き倒れの人の面倒を見ていたばあさんにノーベル平和賞を贈ってしまう感性はいまだに理解を超えたものがあるよ。どういう政治的配慮が働いていたのかわからないけどノーベル賞って元々胡散臭いものだからね。要するにマザー・テレサはキリスト教会関係者の間では有名人だったからノーベル平和賞を獲得出来たんだろう。そういう意味では貴族の家柄に生まれたおかげでプリンセスになれたダイアナとそれほど違わないね。えー!それってむちゃくちゃなこじつけじゃないか。マザー・テレサはインドでは大変な苦労をしたと思うけどダイアナはどうなの?ダイアナだって保育園の保母さんとしてそれなりの苦労はしていたさ。プリンセスになってからも苦労が絶えなくて離婚しちゃって、離婚した後も報道陣に追いかけ回されていたわけだから同情の余地はあると思うけど。それは苦労の種類と質が違うよ、マザー・テレサは恵まれないインドの貧しい人たちにその半生をささげて貢献したんだ。世間体を気にして俄か慈善運動をしていたダイアナと比較すること自体がマザー・テレサへの冒涜だよ。馬鹿だなあ、それこそ職業差別だよ。だいたいダイアナもマザー・テレサも白人だから有名人になれたんだ。おやおや、今度は人種差別かな?


9月10日

 おそらく世の中でもっとも強力なものは「貧しさの連帯」だろうね。自分たちのわかるものだけを一生懸命集団で保持しようとする一方で、自分たちのわからないものに出くわしたら感情的になって力の限り何としてでもそれを排除しようとするんだ。それが人間の群れとしての動物的な習性であることは疑い得ないよ。やさしさだの思いやりだの愛情だのもっともらしいことを理由にしていても、結局それが集団の自己防衛本能の一部でしかないのは哀しいことだね。でも彼等はそれが人間に固有の知性であると勘違いしているところが救いようがないのかもね。そんなものは集団を維持するために必然的に彼等に生じる強制的な義務にしか過ぎないのに、彼等はそれが自分たちを守るための権利だと勘違いしているのさ。群れの構造的な力学によって不自由を自由だと錯覚させられてしまうんだ。でもそれが彼等にとっては幸福に思えるんだよ。つまり、自由を排除した場所に生じる幸福って結局そういうものでしかありえないということさ。それでも彼等は幸せなんだよ。でも本当の幸せって案外そういうものなのかもしれないね。しかし「貧しさの連帯」を共有出来ることが幸福になるための必須条件とはね。何かどこかの宗教教団みたいだね。いや、そもそも国家自体がそのような性質を先験的に帯びているんじゃないのかな。外国人を排除する論理なんかまさに「貧しさの連帯」そのものだろ。でもはじめから国家が存在していたわけではないのだから昔はみんな外国人だったはずだよね。違うよ、そもそも国家自体がなかったんだから昔は国民も外国人もいなかったんだよ。


9月8日

 結局無駄なんだろうね、彼が何をどうやっても現実は何も変わらないのさ。相変わらず声のでかい奴がのさばり続けるままだよ。現実を変えるにはさらに大きな声の奴が必要なんだろう。だけどそうなるとますます状況は悪くなる一方じゃないか。そうさ、現実を変えようとすれば悪くなる方にしか変わらないのさ。彼にはせいぜい現実を露呈させることしかできないんだろう。でもいくら現実を暴露しても無視されたら何にもならないね。そう、無駄な試みなんだ。そこからは何の利益も得られないどころか、彼だけが一方的に傷つく仕組みになっているんだ。現実は変えようとしてもいけないし、あらわにしようとしてもいけないんだ。ただ現実にしたがって黙って生きて行くしかないんだろうね。まさになすがままの無力な自分がむきだしにされるのさ。でもそれでいいのかな。彼はそんな現実に納得できるのかな。そんな現実を受け入れることができるのだろうか。さあね、それは彼に聞いてみればいいんじゃないの?僕にはどうでもいいことさ。僕は現実なんて知らないよ。何が現実なのか、どこが現実なのか、そんなの知らないよ、わからないよ。何もかもどうでもいいことさ。僕は彼の物語の登場人物なんだから彼の気まぐれでたまに文章の中に出現するだけさ。まあ何も考えなくてもいいし気楽な存在だよ。もちろん今のところこの待遇については何の不満もないよ。エラソーなことを述べた見返りとして何か重大な責任のある役なんかを背負わされちゃいやだからね。ともかく彼にはこれからも悲惨な人生を歩んで行ってもらおうじゃないか。それが彼にはお似合いだよ。


9月6日

 おやおや、今度はえらくまっとうな意見じゃないか。それが分別のある大人の常識的な意見なんだろうね。でも何かときめくものがないなあ。何かテレビでコメントしている評論家みたいで、要するに紋切型なんだよね。それじゃあ自由がないような気がするんだ。もっと何か過剰な感じを出せないものだろうかねえ。やはり、対人恐怖症も自閉症も閉所恐怖症も、すべての病気を肯定してほしいよ。彼が一生懸命ふざけていたら誉めてほしいんだ。だってそれを批判しちゃったら哀しくなっちゃうだろ?そういう奴は哀しい人だよ。野暮っていうのかなあ。ボクちゃんいじけちゃうよ。いいんだいいんだ、ボクちゃんは部屋に閉じこもって無限モノローグの世界で一人でふざけて一人で盛り上がっているよ。それがボクちゃんの戦略であり戦術であり常套手段さ。君なんかせいぜい優雅に理性的に余裕たっぷりに大人の態度で決めてくれよ。ボクちゃんは卑怯者だから惨めに逃げ回って負け犬の遠吠えを君に浴びせかけてやるのさ。そんなことじゃ君はくじけないだろうがボクちゃんはくじけちゃうんだ。そして押し入れの中でしくしく泣いているんだ。うわ〜ん!ボクちゃんミジメ。もう立ち直れないよ。これからどうやって生きていけばいいんだ。誰かボクちゃんを助けてくれよお。あ、助けてくれなくてもいいかな、だって助けてくれた人の言うこときくのやだもん。そういう偽善者がいちばん嫌いなんだ。ボクちゃんはいつでもどこでも一人ぼっちが好きなんだよ。偽善者のおじさんやおばさんと話しているとゲロが出ちゃいそうになるよ。だからボクちゃんは押し入れの中に隠れているのが好きなんだ。まさか押し入れの中までは君も入ってこれないだろ?


9月4日

 なんだか彼は決意表明みたいなことを語っているらしいね。どうしてそんなに勇ましいのか理解に苦しむよ。間接的に冷静に語っているつもりが、語っているうちに感情がたかぶってしまって、最後の方はまるで青年の主張じゃないか。情けないよね。それが彼の限界なんだろうね。もっと優雅に理性的に余裕たっぷりに語ることができないのかなぁ。やはり下品に育つと下品な語り方しかできないんだろうか。まあともかく彼が嘘をついているのは確かだよ。彼が何もできない存在だったり無力な存在なわけないよ。すべては嘘っぱちさ、彼がいつ誰に負けたっていうのさ、誰と何を論争したっていうんだ。要するに論争を回避してただ逃げ回っているだけじゃないか。これは負けないためにひたすら逃げ回っている彼の自己弁護であり自己正当化なのさ。それが彼の卑怯な戦術であり戦略だよ。つまり、他人との会話を恐れて自閉しているのは彼自身なんだ。彼の考えている共同体なんか世界の何処にも存在しない架空のものさ。自分の都合にあわせて仮想の共同体を設定してそれを攻撃してみせるのが彼の常套手段なのさ。まるで現実性がないね。彼こそが自分の創り上げた架空の共同体のたった一人の住人なんだ。そこでは彼のモノローグが無限に循環するばかりさ。彼は外の世界が恐いんだ、対人恐怖症なんだ、自閉症なんだ。自分には何もないと必死になって思い込もうとして、一生懸命ふざけているだけさ。そして相変わらず世間から逃げ回っているんだ。彼は子どものふりをしている大人だよ。醜いね。でもこの彼が彼を批判するやり方は楽だよ。そこに他者が存在しないからモノローグはいつまでも続けられるのさ。


9月2日

 彼は論争を好む人間が苦手なんだ。論争のための論争を繰り返す騒ぎ屋が嫌いなんだ。彼はそもそも他人と争って勝つことなんてできないだろう。論争する以前に彼に勝ち目がないことを知ってしまうから。彼には何もない、世間の一般常識も、価値の基準も、守るべきものも、譲るべきものも、戦略や戦術も、彼には何もないんだ。ただ負け続けるだけだ。勝とうとしないし勝つ気もない。勝ちたくないんだよ。したがって、彼は世間の一般常識を振りかざして論争を挑んでくる人間に対しては無力だ。精神は粉々に打ち砕かれ、為すがままに惨めな敗北に晒されるしかない。でも批判は止めない。彼は批判し続ける。批判し続けることの代償として負け続けるのさ。しかし決して本気ではないだろう。彼は本気ではないが、ふざけているのでもない。本気の状態が欠けているのでもない。彼には何もないんだ。何かが欠けていて何もないのではなく、過剰に何もないんだ。何もかもが過剰なんだ。人と論争して何かを埋め合わせる隙間なんかないんだ。彼には騒ぎ屋と交際するのに必要な凹凸なんて存在しない。常に通り過ぎてしまうし、常に語り過ぎてしまうだろう。彼は常に過ぎた存在でしかないだろう。彼は過去の存在であり未来の存在である。ただ君の横を通り過ぎて行くばかりだ。君は彼に話し掛けることなんてできやしないんだ。君は世間の一般常識というモノローグの共同体の中で自閉することしかできないんだよ。それが君のみすぼらしい世界なんだ。君の貧しい精神にぴったりじゃないか。でも君は幸福だろう。みすぼらしい世界に住んで貧しい心をみんなで分かち合える君は幸せだよ。つまり、みんなで助け合って幸せな共同体を維持していく義務が君にはあるってことさ。そのためには彼に話し掛けている暇はないよ。仲間同士の絆をお互いに確かめ合って協力して彼を排除しなければならない。共同体の和を乱す不埒な輩は力を合わせて断固粛正すべきさ。それが君の住んでいる世界の掟さ。哀しいね。君の世界では自分勝手な行動や言動は許されないんだ。常に仲間同士で通じ合っている掟に忠実でなくちゃ排除されちゃうのさ。例えば匿名で何かを語るような奴は卑怯者と見做されて非難の対象にされちゃうのさ。恐いね。でもそれが幸せを保つ秘訣さ。匿名の自由を犠牲にして仲間同士の和を維持するんだ。よそ者が君たちの共同体に入るときは村人全員に頭を下げてまわらないと不安なんだろ?それがムラの掟なんだろ?ムラビトというのはお互いに気心の知れたもの同士でしかまともに会話もできないような奴らの集まりなのかい?醜いね。でも彼は会話それ自体ができない人間なんだ。君と彼とは永久に会話できないのさ。彼には何もできないんだ。無力な存在なんだ。何もできないから、無力だから、こうして語っているんだ。


8月31日

 イヤッホーッ!ボクちゃん参上!暴走族だぜぇ!なかなか恥ずかしいオープニングだろ?でもゲイジュツについて二度も知ったかぶりの知識をひけらかしている彼よりはマシさ。まったく恥ずかしいよね。何が自己陶酔型のピアニストなんだろうねぇ。何が暇つぶしの娯楽なのさ。それで何かを語ったつもりなんだからおめでたいよ。彼も結局は付け焼きの知識を振り回すイナカモノなのさ。その点ボクちゃんは違うよ、はじめから知識なんか無視さ。ボクちゃんはただ暴走するだけさ、Like a rolling stone!転がって行くだけだぜぇ!ベイビィ!OK!ロックンロ〜ル!え?ただふざけているだけだって?ハニー、悲しませるんじゃないぜぇ、わかりきったことをきかないでくれよぉ、当り前だろ、ふざけているのさベイビィ。そして頭が爆発しているのさ!脳みそ暴走族だぜぇ!うーっ、決まったぁ、恥ずかしいネーミングが決まりすぎだぜベイビィ!ボクちゃんは脳みそ暴走族だぁ!ゲイジュツは爆発だぁ!おや?岡本太郎かな?オカモトタロー見参!必殺技は自爆だぁ!これがいつまでも続くと思ったら大間違いだよ。彼は既に過去の人なんだ。もう戻ってこないと思うよ。彼の声も遠い過去の物語になってしまうのかもしれないね。ところで彼は何かまともなことを主張していたのかな?彼は支離滅裂の四散状態なんじゃないかと思うんだ。その砕け散った精神がいつの日にかまた復活するのだろうか?復活して欲しくないね。それが起こらないことを願って今回は終わりにしよう。もう彼なんかいらないね。


8月29日

 いったい彼はいつまで語り続けるつもりなのかな?まさか彼は自分の語りつつある物語に自分で感動しちゃっているのかな?だとしたら彼は単なる馬鹿野郎だね。自己陶酔型のピアニストの演奏なんてBGMにもならないよ。だいたい昔から単なる壁飾りにしかすぎなかった絵画が芸術であるわけないでしょう。絵画は絵画であって芸術は芸術さ。じゃあゲイジュツっていったい何なの?決まっているじゃないか、暇つぶしの娯楽だよ。ほら、今回はこんなに早く彼の紋切型に到達できたじゃないか。何ももったいぶってゴッホの挿話なんか持ち出すことはないんだ。芸術なんて大量生産される工業製品とでも定義しておけばそれで終わりだったのさ。こっちの方がゴッホの絵なんかより百倍も良心的だろう?君なんか自家用車のフォルムの流体力学的な芸術性についてうん蓄をかたむけてそれで満足すべきだよ。いや、パソコンケースの視覚的芸術性やキーボードでタイプするときの感覚的芸術性について考察するほうがより今日的かもしれないね。ともかく、君も来たるべき次の世紀に向けてもっと自分の頭脳をシャープに研ぎ澄ますべきだと思うよ。21世紀は本格的なマルチメディア社会が到来するのだから、それに向けて芸術もマルチメディア的に理論武装すべきさ。君もせいぜい時代に乗り遅れないように一生懸命コンピューターのお勉強をしてくれよ。努力すればいつかは報われるんだろう?君の安心する物語では結末はいつもハッピーエンドになるはずさ。君は未来の芸術家なのさ。コンピューター万歳!マルチメディア万歳!芸術万歳!ありゃまあ、今回は恥ずかしい終わり方だねぇ。


8月27日

 君はアホなのかな?例えばゴッホの絵を見て感動したりしちゃうのかい?でもねえ、もしそうだとしたら君は決して彼の絵に感動しているわけではないよ。生前に絵が一つも売れなかったり、耳を切ったり、ピストル自殺しちゃったりした、気が狂った男の悲惨な人生に感動しているんだ。そして世間の評判によって君は安心して感動するんだ。たぶん彼が無名の画家だったら、君は感動するどころか彼の存在さえ知らないだろうね。もしかしたら君はオークションで取り引きされる彼の絵の価格にも感動してるんじゃないのかな。君がアホだなんて冗談だよ。世間が保証しない限り何も感動できない君は悲惨な人間だよ。でもそういう悲惨な群衆が美術館を支えているんだ。世間が認める名画を見物しに美術館に足を運んでいる彼ら無しには芸術は成り立たないのさ。要するに彼らが世間なんだね。今や芸術は彼らのものさ。べつに気が狂った悲惨な男なんて無視されるがままだね。彼がぽんち絵を数十枚も残しているようなら、死んだ後に少しは世間に注目されるかもしれないよ。いや、彼が有名人の子息なら生きてるうちに個展の一つも開けるかな。でも勘違いしちゃいけないよ。君は芸術に本当の良さがあるなんて思ってないかい?人知れず修行を積んでそれを極めれば芸術の本当の良さが分かるなんて錯覚してないかい?冗談じゃないよ、それこそ君たちが安心して感動する物語じゃないか。世間が認めるのが良い芸術さ。それが当たり前だよ。君のような悲惨な群衆が感動できるのが良い芸術なのさ。それ以外の芸術なんて存在しないよ。じゃあゲイジュツっていったい何なのかな?決まってるじゃないか、暇つぶしの娯楽さ。出たあ!やっと彼の紋切型が出たじゃん!いつ出るかいつ出るかとずいぶん気をもませちゃって、やっと出たね!おめでとう!これで今回も安心して終われるよ。


8月25日

 やっぱ僕と私の対話なんて笑えないよね。だってそれって対話じゃなくて独り言じゃん。完全なモノローグだよ。アホな話だよね。どうして彼ってユーモアのセンスがないんだろうね。悲しいなあ。君はどう思っているんだろうね。君は少しは笑えたのかい?僕なんか退屈で死にそうだったよ。まったくこんな無駄話なんかもうやめちゃえよ!なんていらついてもしょうがないかな。だって結局僕なんて架空の存在でしかないし、彼の物語の登場人物でしかないんだもんね。もう勝手にしろよ!いじけちゃうぞ!うんざりだよ!まだ僕に何か語らせたいのかい?いい加減にしろよ!何を語ればいいんだよ!な〜んちゃって(笑)、調子いいじゃん、結構語っているようだね、フフフフフ…。その調子だぜベイビィ!ロックンロール!でもさあ、なんかむなしくないかい?寒くないかい?でもまだ夏だよ、暑いよ、残暑だよ。確かに暑いけど心の中はシベリアだよ。一足先に木枯らしが吹いているのさ。なんか叙情的だろ?今日のボクって。そうさ、ボクってシロクマなのさ。寒いのが好きなんだ。だってしょうがないじゃないか、彼のユーモアのセンスがチクシ君並みなんだから寒いのは当り前さ。悲しいなあ…。悲しくてじぇんじぇん笑えないよ。君はこの程度でも笑えるのかい?もし笑えるようなら君は幸せ者だよ、おめでたいよ。僕なんかとっくの昔から脳死状態だよ。でも臓器提供の承諾書に同意するのだけはやめようね。僕は反社会的(死語)な存在なんだ。どうだい、勇ましいだろ、エゴイストなのさ。エゴイストは寒いのさ。どうだい、かっこいいだろ?寒くて寒くて脳みそが凍傷にかかっているのさ。頭の中が吹雪だと気持ちいいぜぇ!君も吹雪の中で遭難しないようにせいぜいカタギの人間として生きて行けよ!ベイビィ!なんか今日は頭がクルクルパーだよ。


8月23日

 ボクってちょっと軽薄かなぁ?おやおや今度は僕の懺悔かい?ザンゲじゃないよ、言い訳だよ。彼は軽率だけど僕は軽薄なんだよ。僕も彼も軽いのさ。私はどうなんだい?私は重いのかなぁ、何か深刻なことを毎日考えているんだろうか?深刻なことって何?深刻なことって、例えば日本の社会情勢について思いを巡らせたりすることですかぁ?ほら、チクシ君なんかが毎日「タジソウロン」で日本の未来について憂えて見せるじゃないか、あれだよ。えーっ!あれはイワユル一発ギャグの一種でしょう。でも笑えないよ。でもセンダミツオだって笑えないギャグでお仕事してるんだぜ、あの白髪頭のしわしわおじさんだって同じさ。でもそれじゃあ私は日本のギャグについて深刻に憂えてみなければならないのかな?チクシ君のギャグでは笑えませんか?木曜日の「タジソウロン」なかなかスバラシイことを述べていたではありませんか。チクシ君によれば、行革会議の議論も結構だが、各省庁の統廃合だけではなく、その仕事内容も見直されなければならないそうで、今のままの仕事内容ではいらない省庁ばかりだそうだ。例えば、製薬会社と癒着ばかり繰り返して国民を薬害の被害者にした厚生省はいらないのはもちろんだが、国民の税金を無駄使いして必要のないダムや道路を造って日本各地の自然を破壊している建設省もいらないし、凶悪事件ばかり起こす若者を教育によって創り上げてきた文部省もいらないそうだ。うーん、スバラシイ!ニュース23を見ている真摯な国民のみなさんも拍手喝采だよ。よっ、千両役者!日本一!でもそれで笑えるか?想像力ないねぇキミは。思い浮かべてごらん、チクシ君が国民の代弁者としてエラソーに演説を打っている光景を。そうだよ、国民の代弁者はハシモト君なんだ。そうさ、立場の違いなのさ、もしチクシ君がソーリダイジンになっちゃったらハシモト君みたいなことしか言えなくなっちゃうのさ。じゃあハシモト君は言いたいことを言いたければソーリダイジンをやめてニュースキャスターになればいいのかい?違うな、ただ単にチクシ君がニュースキャスターでハシモト君がソーリダイジンなだけなのさ。彼らは自分の役柄に応じたセリフを割り当てられているだけなんだよ。つまり立場の違いは役柄の違いなんだね。でもどーしてそれで笑えるの?君もしつこいなぁ、またこんなに長くなっちゃったじゃないか。想像してごらんよ、チクシ君が自分の言いたいことを言っていると錯覚している光景を。えーっ!それで笑える?くどいなぁ!だから言ったじゃないか、チクシ君はセンダミツオみたいなもんだって。


8月21日

 だいたい彼の言動って軽率だよね。「もののけ姫」なんて見てもいないのに批判しているじゃないか。確かに宮崎アニメの少女が観客や宮崎自身にとっての従軍慰安婦なのはわかるけど、実際に見てから批判すべきじゃないのかい?そんなんじゃ他人の紋切型を批判する資格はないよ。彼は宮崎の紋切型を彼の紋切型で批判しているだけじゃないか。それにエラソーにマスコミ批判なんかを繰り返しているけど、それはマスコミに対する彼自身の嫉妬の裏返しだよ。彼もクメヒロシやチクシテツヤみたいに一般大衆に向かってカッコつけた物言いでエラソーに何か訴えたいんじゃないの?ヤーな奴だよね。彼も結局は俗人でしかないのさ。こんな場所で何を主張しても無駄だとわかっているくせに、ヒステリックにギャーギャーわめいているだけだよ。なんか悲惨な奴。でもそんな惨めな彼にも何か救いはないのかな?君はどう思う?やっぱ救われないのが救いなのかな?何か誉めてやるところはないの?彼の良いところは言い訳しないところだね。ずいぶんひどいこと言ってきたけど、それについて言い訳しないのは立派じゃないか。だって批判したことをいちいち言い訳してたら救われちゃうじゃないか。おや?これは彼の言動かな?僕が語っているのに彼が割り込んできたのかぁ?でもそれって言い訳じゃないの?結局彼も言い訳したいんだぁ。やっぱ彼も俗人でしかないね。僕は彼が俗人でしかないのが不満みたいだねぇ。まさか彼に聖人君主か何かになって欲しいのかい?それこそ俗人の浅はかな考えだよ。あれ?今度は僕に対する批判かい?今度は誰が喋っているんだろうねぇ。彼さ、彼が喋っているのさ。今度は誰が喋っているんだぁ!君かい?まさか君が喋っているのか?君は常に聞き役でしかないと思っていたけどねぇ。違うよ、君なんかじゃない。私が喋っているんだよ。本当かい?僕には私が喋っているなんて信じられないよ。だいたい彼の物語の登場人物でしかない私に喋ることなんかできるのかな?それは僕だって同じじゃないか。彼の物語の登場人物の僕がなんで喋っているんだ?それに今回はちょっと長すぎるよ。君もうっとうしい無駄なオシャベリにさぞや退屈しているんだろうね。ごめんよ、もう終わるから許してね。


8月19日

 私は奪い去られた存在なんだ。べつに私が語っているんじゃないんだよ。彼さ、彼が語っているのさ。もちろんそれを書いているのは私なんだけどね。彼は物事の表層を批判しているだけなんだ。べつに奥深い真理について語っているわけじゃない。ただ表層に飛び交っている言葉の群れを適当に彼なりに並べ替えているだけなのさ。そんなに心配しなくてもいいよ。言葉の配置を並べ替えるやり方は誰もがやっている方法だからね。だから私は彼が語っている物語の登場人物の一人にすぎないってことさ。虚構の存在ってわけさ。君もそうなんだろう?彼の物語の登場人物なんだろう。でも君も私も主人公じゃない。じゃあ誰が主人公なんだろうね。君はもちろん知っているよね、彼の物語には主人公なんて存在しないってことを。彼の物語なんて退屈さ。二日に一遍同じ事を飽きもせずに何ヶ月も語ってるんだもんね。なんでこんなことやっているんだろうね。君は知っているかい。彼の物語の登場人物にしかすぎない君が知っているわけないか。僕も知らないんだ。ここで断っておくけど、僕は私じゃないよ。僕は第三の登場人物さ。私には飽き飽きしていたんだ。そこで僕が登場ってわけさ。少しは新鮮な響きだろ?ボクって。彼は僕がお気に入りかもしれないよ、少なくとも君よりはね。ところで私って男なのか女なのかわからないなぁ。君は私に会ったことあるのかい?もしかして私って彼女なのかな?彼には彼女がいるんだろうか?疑問ていろいろ尽きないね。もちろん今語っているのは僕だよねぇ。彼が語っている物語の中で僕が語っているんだと僕は理解しているんだけれど、それでいいのかな?君はどう思う?でも最初は私が語っていたんじゃないかなぁ。しかし私は彼が語っているって言っていたような気がしたんだけどねぇ。まあどっちでもいいかもね、こんなことはどうでもいいことさ。こんなんでいいかなぁ。それくらい語れば十分でしょう。君もあんまり長すぎると読むのが面倒なんだろう?じゃあこれくらいで終わりにするよ。


8月17日

 今年も8月15日をもって何事もなく「戦争反省週間」は終了した。これで来年まで「二度と悲惨な戦争を繰り返すな!」という退屈なキャッチフレーズ(平和への祈り)を聞かなくてすむ。確か「交通安全週間」のチャッチフレーズは「シートベルトを締めて安全運転を心がけよう!」だったと思う。そういえば秋になれば「読書週間」がやってくるからそのキャッチフレーズでも考えてみよう。「難しい書物をたくさん読んで脳みそ爆発させよう!」…ちょっと退屈だ。その前に「もののけ姫」でも見て感動して俄かエコロジストになる必要があるかもしれない。こんなことなら「愛鳥週間」にはバードウォッチングに行っておくべきだったかもしれない。日本はラムサール条約に批准しているらしい。豊かな自然環境を生かして村おこしをしよう。環境保護で観光誘致だ。取り合えず道路整備と駐車場建設だ。ペンションとキャンプ場も造ろう。豊かな自然は金になる。村長さんも大喜び、〇〇建設さんからの接待攻勢で二重の喜び、これで来年の村長選挙も楽勝だ。戦争なんて心配ないよ。映画の中でいたいけな娘さんが悪と戦ってくれているじゃないか。バットマンだってロビン君と一緒にシュワちゃんと戦争ゲームで遊んでいる。映画の中ではいのちがけだけど、見てるこっちは遊び半分なのさ。君は宮崎駿と宮崎勤が同一人物なのを知っているかい。勤君が殺した少女たちが駿君の映画に主人公として登場しているんだよ。彼女たちは勤=駿によって映画に吸い込まれちゃったんだ。そしてお金もうけの道具として日夜映画の画面上で悪の手先と戦わされるんだ。かわいそうな少女奴隷。もちろんそれを仕掛けているのは宮崎勤=駿なのさ。つまり、戦争も映画の中に吸い込まれちゃったんだね。戦争の悲惨さは映画の中で繰り返されるんだね。これは僕の妄想なんかじゃないんだ。単なる冗談だよ。


8月15日

 馬鹿は馬鹿でしかないのだろうが、自分が聡明であると思い込んでいる馬鹿ほど始末の悪いものはない。問題を設定して答えを導き出そうとすることの何処が聡明なのだろうか。べつに問題が先験的に存在しているわけではなく、ただ答えを語りたいがためにわざわざ問題を捏造しているにすぎないのに、問題を指摘してまわることが目的となり、原因と結果を取り違えている自分に気付かない。問題がないと生きていけないのだ。彼らが主張している人生の目的とか目標と呼ばれるものはたかがその程度のことだ。目的や目標を捏造して馬鹿になれと説教しているに過ぎない。確かに馬鹿になれば幸福になれるだろう。目的や目標に向かって努力している間は幸福だ。しかしそれは自分たちと同じ生き方を強要しているだけだ。彼らは不幸になる自由を容認できない。人間はすべて幸福を目指すべきだ、という全体主義に洗脳されている。社会全体がそうした一元論に支配されていないと不安なのだ。自分の予期せぬ事件に出くわさぬようにいたるところに問題を捏造してまわり、絶えず自分の理解可能な物語に還元しようと試みる。もちろん物語にははじめから答えが用意されていて、それをもったいぶって開陳することが彼らの使命なのだ。その予定調和の語りを競うのが聡明さであると思い込んでいるのが「知識人」と呼ばれる人種なのだろう。


8月13日

 善意の連帯を煽り立てる様々な今日的諸問題。それは誰もが知っている物語に還元されて当事者たちを抑圧する。例えば沖縄問題。抑圧にあえぐ少数民族の自立の運動の物語に還元され、それに対して人道的な加担をするべきだと訴える良識派と、国益という抽象的な概念を口実にして現状維持をもくろむ保守派とに分かれて、偽りの対立を形成して双方が深刻な議論を交わしているように演じながらまわりに善意の連帯を強要する。そしてそれは、米軍基地用地の収用に関する法律問題とか沖縄と本土との所得の格差という経済問題などに変奏されて、問題の種類と複雑さを増して総論賛成各論反対などという方向に転じて議論がうやむやになったりもするが、それが今日的諸問題についての語り方であるらしい。なぜ当事者でもないのに雄弁に語りたがるのだろうか。ニュースで話題になっているから自分たちが良識派であることをお互いに確認するための証しとして語ってみせるのだろうか。そのような善意の賛同者を批判してはいけないのか。しかし自分が賛同者として連帯する義務はないだろう。他人事をあたかも自分の問題として引き受けて物語を語るような愚かな行為は慎まなければならない。他人事は他人事として語られなければならないし、それを放棄して他人の問題に感情移入することは、かえって当事者たちの抑圧につながるだろう。自分がこれほどまでに真剣に考えてやっているのにおまえらは何をやっているんだ!それがファシズムの原因となる。「いのちがけ」などというセリフを真剣な顔でつぶやくような輩は警戒すべきだろう。


8月11日

 それを知っているという確信。自分がある物に関する知識を有していて、それについて語ることができるという思い込み。そして実際に語ってしまうその瞬間、それについての物語が生成し、同時にそれを語っている者の物語(人生)も生じてしまう。これで大丈夫だ、人や物が接触した際に生じた事件を物語によってやり過ごすことができる。事件を物語に還元して事件をやり過ごす。人や物も知識に還元してやり過ごす。便利でかつ効率的な方法だ。そのような還元によって作り出された物語を、あたかも暇つぶしで見ているテレビ画面のようにやり過ごすことができる。世の中で何が起ころうと、直接の物理的被害が及ばない限り、自分は安泰なのだ。テレビ画面に映し出された物語をただやり過ごしてさえいれば、取りあえずの自己保存は図られる。そうやって世間に流通している物語に染まっていれば、幸福な一生を送ることができるだろう。もう何も恐くなんかない、自分は世間を知っている。もう何もさみしくなんかない、自分には同調者が大勢いるんだ。自分たちがマジョリティを形成しているんだ。自分たちが主役なんだ、国民主権だぁ!屁理屈をこねて世間の意向のことごとくに反対するようなひねくれ者は排除しよう!粛正だぁ!それが民主主義だ!それがファシズムだ!


8月9日

 同じ話題をめぐり、同じ言葉について語りうることを前提として群れ集うものたち、そういうアホな群衆がインターネットを必要としているらしい。そして、その言葉の意味とは裏腹にネット上では閉鎖的な村社会が数多く形成されつつある。その村落共同体の成員としてお互いに一致団結し、自分たちのページのアクセスカウンターの数字を少しでも増やすために無駄話と巡回を繰り返す。タコ壺型社会の原型がそこに誕生する。しかし巡回していないと不安なのだ。自分にとって何かよからぬ噂がBBS上で話題になっているかもしれない。自分が無視されているのでは、と自意識過剰の疑心暗鬼に陥る。他人と対話したいのに話題についてゆけない。それでも何か書き込みたい。卑屈な自尊心が邪魔をして強がりや痩せ我慢を隠そうとする。下手な言葉遊びをして悦に入っているバカもいる。道化を気取ってふざけていても、急に真面目になったり真剣に討論しようとしたりして、思慮の足りなさや思考の貧しさが露呈する。バカ踊りを踊っている仮面の奥に生真面目な本当の自分を温存させようとする浅はかさ、愚かさ。しかしそんな醜い面ばかりではないだろう。嘘でもいいから薔薇色のインターネット像でも語ってみようじゃないか。インターネットが閉鎖的な村社会だなんて嘘だ。インターネットは外に向かって開かれているし、誰でも利用できる。そこにアクセスしているすべての人間が平等に対話できる自由で民主的なアクティヴネットワークなんだ。ネットを利用している人は「世界市民」なんだ。最後に冗談の一つでもかましておこうじゃないか。おまえは世界のことを知っているつもりだが、世界はおまえのことなんて知らないぞ!


8月7日

 希望はないが絶望もない。希望があれば絶望もあるだろう。ドラマチックな生き方ができるかもしれない。夢が破れて絶望の果てに真実の愛をつかむんだ。なかなか感動的じゃないか。人生こうでなくちゃいけない。しかしそこで終わりだ。その先がない。その先はどうやって生きていくんだ。昔の思い出に浸りながら静かに余生を送ればいいのか。過去の栄光に感情移入して老いぼれてゆくばかりの余生。やはりそれもある種の絶望ではある。それが希望があれば絶望もある生き方なのか。希望や絶望があると馬鹿になれるのかもしれない。だが馬鹿であることは絶望的なことだ。その先がない。後は死ぬだけだ。しかし愛がない。愛はどうなったのだ。愛は何処へ行ったんだ。真実の愛をつかむんじゃなかったのか。やはり希望も絶望もない方がいいだろう。ともかく偽の愛で我慢しよう。くだらない退屈さと戯れよう。もう何もない、何処へ行っても何もない。何処まで行っても何もないだろう。希望はないが絶望もないだろう。それは幸運な兆しだ。幸福ではないが幸運だ。馬鹿げた希望や絶望に遭遇しないだけ幸運だ。後は何があるんだ。過去も未来も現在も何もない。前も後も何もない。それは幸運なことだ。希望も絶望もやり過ごそう。


8月5日

 不可視のものを求める心、見えないものを見ようとする情熱。目的やら目標やらを設定するには願ってもない口実だ。本当の愛を見つけよう、愛を探しに旅に出よう。本当の自分を探し出そう、自分探しの大冒険に出発しよう。今ここにはないもの、それはやさしさだ、本当のやさしさを見出すためにはどうしたらいいんだ。本当の愛、本当の自分、本当のやさしさ、世界のどこかに本当のものが隠されている、それを探しに行こう、隠された財宝を掘り起こそう。洞窟に映し出された自分の影におびえていないで、洞窟の外を見よう。そして、自分がとらわれていた心の洞窟から這い出よう。見てごらん、外は明るい世界だ、見えるものすべてが新鮮に映るだろう。自分は今生まれ変わったんだ、これからは前向きに生きていこうじゃないか。醜い過去は振り返らずに上を向いて歩いて行こう。空がきれいだ、夜になれば星が瞬き天の川が天空を横切るだろう。大宇宙の壮大さに比べれば自分はなんてちっぽけな存在なんだろう。そんなちっぽけな自分にも本当の愛や本当のやさしさが宿っているんだ。もう大丈夫さ、自分自身を見つめていれば何も恐くなんかない。あの燃えるような赤い夕陽に向かって走り出そう。夕陽に手をかざしてみれば赤い血潮が目に映る。わかるだろうか、この気持ちが、みんなみんな生きているんだ友達なんだ。べつにクスリでラリっているわけではない、単なる冗談だ。


8月3日

 嘘をついて欺瞞の上に虚構の真実を構築してみよう。なぜ何もかもがくだらないのだろうか。それは何もかもがくだらないと思っているからだ。本当はすばらしいのにくだらないと卑下している。すばらしいこととはなんだろう。すばらしいことだろう。何がすばらしいのだろう。何かがすばらしいのだろう。そうだ、すばらしい過去もあるし、すばらしい未来もある。現在もすばらしい。すべてがすばらしいんだ。明るい、何もかもが明るい。光り輝いている。すばらしいことだ。すべてが光り輝いている。何もかもが目が眩むほど光り輝いている。眩しい、輝きで目が見えないほどだ。いったい何が輝いているのかわからない。すばらしさが光り輝いているのだろう。しかし眩しくてすばらしさが見えない。すばらしさは見るものではなくわかるものだ。あなたにこのすばらしさがわかるだろうか。わからなければあなたはくだらない人間だ。あなたもくだらないし、あなたのまわりもくだらない。あなたの住んでいる世界もくだらない。すべてがくだらない。本当にくだらない。何もかもがくだらない。なぜ何もかもがくだらないのだろう。それは何もかもがくだらないと思っているからだ。では誰がそう思っているのだ。私だ、私がそう思っているからすべてがくだらないのだ。私とは誰だ。私だ、私がそう思っているから私が私だ。あなたが私のことを私と認めてくれるなら、あなたにとっても私は私になるだろう。


8月1日

 今年もまた儀式の季節がやってきた。広島・長崎の原爆投下記念日、終戦(敗戦)記念日、戦争の悲惨さを風化させないために儀式があるらしい。いつまで続くのか、次の戦争が始まるまで。儀式は続くが戦争の記憶は風化する。物言わぬ戦死者たちの代弁者が勝手に自らのイデオロギーをわめき散らすだけだろう。しかし無関心だ。また例によって天皇の戦争責任があるだのないだのの議論が一部で繰り返されるのだろうか。大日本帝国憲法下で、国家の唯一の主権者で、陸海軍の最高司令官と規定されていた天皇に戦争責任があるのは当たり前だが、そのような形式的な責任論を情念でねじまげる輩がまた例のごとく、天皇は戦争を望んでいなかった、戦争を回避しようとしていた、軍部が権力を握っていて天皇に実質的な権限はなかった、無条件降伏の英断をなされたのは天皇陛下だ、などと主張するのだろうが、やはり無関心だ。もういいだろう、忘れよう、元従軍慰安婦ももうすぐ寿命が尽きて死ぬだろう。戦争体験者もあと二十年もしたらそのほとんどが灰になって骨壷の中だ。ドイツのように個人の賠償に応じてまで偽善者面をすることはないだろう。卑怯者のままでいいじゃないか。勇ましいスローガンを叫ぶのはやめて、みんなアジアに頭を下げて卑屈に生きていこうじゃないか(笑)。もちろんアジアの過去なんて忘れて無関心・無責任のフリをしよう。日本なんてもう落ち目だ。