彼の声19

2000年

7月31日

 視覚と聴覚の隙間から記述を断片的に継続させる。仮想平面上に表示される途切れ途切れの溝を言葉で埋めてゆく。内容は相変わらず不明確だ。あまりはっきりしたことは示されない。その隙間から架空の視線が構成される。そこから垣間見える光景は、どこかで見かけたつもりの何の変哲もない日常の現実空間だ。だが、その光景は記述の対象としては選ばれない。様々な記憶の中からは何も選ばない。選ぶつもりはない。選びたくても選べないのかも知れない。その光景をまるで覚えていないからだ。覚えていることといえば、ブラウン管のあちら側で繰り広げられる馬鹿騒ぎだけなのだろうか。あれに記憶も日常の光景も奪い去られているわけか。すべてが奪い去られているわけではない。だが、あらゆる光景があれの影響を受けている可能性がある。くだらぬ事件を引き起こす人々はあれからかなりの影響を受けているのだろう。影響を受けた犯罪ドラマの出来損ないのような事件を引き起こしてあれの餌食となっている。愚かなことだ。だが、その愚かさから逃れることは不可能だ。総理大臣さえ、三流コメディアンの出来損ないのような道化役を引き受けているではないか。まさに身も心もあれの奴隷状態だ。結局あれに影響を受けた人々はすべて出来損ないになってしまう。誰ひとりとしてまっとうな人間にはならない。それはなぜだろう。明確な答えは見つからないかも知れないが、たぶんブラウン管というフィルターを通過させると、すべてが出来損ないに見えてしまうのかも知れない。そしてその出来損ないを現実の出来事だと誤って認識してしまうと、それが伝染して自身が出来損ないになってしまうということだろうか。はたしてこんな見解にどれほどの説得力があるだろうか。よくはわからないが、これは自分の実感に忠実な見解であることは確かだ。ブラウン管のあちら側は卑屈な虚栄心の固まりが群れ集う場所だ。特に日本人は醜い。質問する側はわかりきった質問をごり押しして平然としているし、受け答えしている側も幾分困惑した表情を浮かべながらも、型にはまった台詞を律儀に返してくる。これは恐ろしい制度である。そこからの逸脱は画面から消えることを意味しているようだ。やはりそんな場所に長年しがみついていると出来損ないになって当然なのだろうか。しかしこれは本当だろうか。たぶん以上のことに対する反論は何も来ないので、これはこのまま残るわけだが、自分はそれほど本気ではないので、これはどうでもいいことに属するのだろう。


7月30日

 簡単に欠陥が露呈する。それはだいぶ前からわかっていることだ。しかし、相変わらずその欠陥は修正されない。根本的な欠陥は直しようがない。逆に、それは欠陥とは言わずに個性だと強弁することもできるだろう。だが、そこからさらに反転させて、例えば、個性的な人間は欠陥人間だと言えるだろうか。つまり、それを否定的に捉えるならば欠陥で、肯定的に捉えるならば個性となるのだろうか。それは、その場の状況を抜きにしてはそれが欠陥であるか個性であるかを判断するための明確な基準など存在しないだろう。それを判断する立場の違いで、それが欠陥であるか個性であるか意見が分かれるところだ。では、何をどのような立場で判断すればいいのだろうか。それもその場の状況を抜きにしては何も明確にはならない。このままでは具体的な事例を示せない。だから結局、何について何を述べようとしているのかまるでわからなくなる。たぶん、これは根本的な欠陥だろう。だが、今さらこの欠陥は直しようがない。だから、相変わらず欠陥が修正されないままここまで来てしまった。そして後戻りができなくなる。このように後戻りができなくなってから間違いに気づく。こういう状況はよくあることなのだろうか。だが、これをこのまま放置しては、何も具体的な事例に出会うことはできないだろう。しかし、さっきから度々でてくる具体的な事例とはどのようなものなのだろう。例えば自分が、ベース奏者のジャコ・パストリアスが死んだ年齢を越えようとしていることとかか?そこでその夭折した天才ミュージシャンの曲を紹介して、その曲の解説に突入するほど彼については詳しくない。だがそれはそれまでの話とは何の脈絡もない。苦し紛れの唐突な転回だし、意味不明で不連続だ。つまりそこから具体的な事例に接合することは無理なのであり、接合する気もないのに度々具体的な事例に言及することで、終わりかけの文章を無理矢理活性化させようとしてことごとく失敗しつつも、結果として終わりの先延ばしにある程度は成功したわけだ。しかしこのような先延ばしは愚かな行為だ。この文章には根本的な欠陥が露呈している。


7月29日

 図形と図形の対象は別のものであり、その図形と図形の対象の関係を言葉で説明すると、図形と図形の対象とそれらの関係を説明した文章の三者それぞれが別のものになる。例えばその対象とされる物体が現実の時空に存在するとして、その物体を指し示す図形は、仮にその物体と瓜二つの立体模型であったとしても、それはただ見られ眺められるためにのみ存在することになる。また物体そのものをショーケースに入れて展示するならば、そのような操作を施すことでその物体は、模型と同様に、ただ見られ眺められるためにのみ存在することになってしまう。そしてそれらの関係をこうして言葉で説明しているこのような文は、ただ読まれるためにのみ存在している。また、それを声に出して説明すれば、それはただ聞かれるためにのみ存在することになる。では、そのように見たり読んだり聞いたりされるものが指し示している実在する物体とは、いったい何のために存在しているのだろうか。たぶんそれは、人の手が加わっていない自然状態では、何のために、という目的論的な問いとは無関係に存在しているのだろう。実在する物体はそのような問いには当てはまらない存在なのだろう。何らかの物体をその他の物体から選別して取り出したとき、図形として見られ説明として読まれ聞かれることを目的とした二次的な生成物が生み出される。それは物体としての人間についても同様なことが言えるだろう。例えば、ある特定の人物に光を当てて、その人物の姿を映像や写真で見せ、その人物について言葉によって説明すること自体が、その人物についての目的になる。つまりそれは、ある特定の人物に興味を抱くのと同時に、その人物に対する目的が生み出されることになる。さらに、そのような対象が自分自身になってしまった場合、それは自ら目的意識を持って行動する人となるのだろう。その人は自分自身をその他の人々から興味を抱く対象として選別しており、そして、いつも自身を図形的に見たり眺めたりしており、またモノローグやダイアローグにおいて、絶えず自分について説明しようと試みる。つまり、そのような人の目的とは、その本質においては、まずは自分自身を見ること、そしてそのような自分を言葉で説明することに行き着くのかも知れない。


7月28日

 言葉で空洞を充たして、つかの間の安息を得る。しかしそれは空想上での出来事だ。実際に地下の空洞を充たしているのは多量の地下水だ。水位が下がれば鍾乳石でもできるかもしれない。その地層が石灰岩でできていれば、長い年月をかけて天井から見事な鍾乳石が垂れ下がることだろう。大昔に珊瑚が光合成によって吸収した二酸化炭素が炭酸カルシウムとして蓄積し、水に溶かされて奇怪な造形を形作る。中国南部の山水画に出てくるような尖った山々も、同じような石灰質の土壌らしい。こちらは、大地が雨水に溶かされて奇妙な地形を形作ったようだ。それを水墨画として描けば、床の間の掛け軸ができあがる。それと似たような地形であっても、トルコのカッパドキアからは山水画は生まれなかった。あちらは尖った山々をくりぬいて住居や教会を造り、キリスト教徒が隠れ住んだらしい。近い過去においては、その地形を舞台として不思議な映画が何本か撮られたと記憶している。その大半は題名さえ覚えていないのだが、その中で、確か有名な監督(フェリーニか?)の作品で「王女メディア」があったと思う。その題材はギリシア悲劇らしいが、映画の中では、まるで未開の原住民がうごめいているようで、西洋の桃源郷的性格を持つギリシア世界に対する幻想を見事に裏切っていて、しかもそちらの方が説得力を持っていると感じられた。確か王女メディアを黄金の羊の毛皮と共に奪い取ってくる青年が主人公の、「王女メディア」に至るまでの経緯を物語る映画も見たことがあるのだが、そちらの方は、よくありがちなギリシア神話の脳天気な英雄の冒険譚としての印象が強かっただけに、それとの落差があまりにも大きかったので、その後日談の「王女メディア」の印象はなおさら強烈だった。しかし、あれは何を物語っていたのだろうか。映像それ自体の印象ばかりは強烈だが、物語の内容にはあまり興味は湧かない。ただ主演の女優の顔が怖かったのと、荒涼とした風景の中で一緒に逃げた男を無造作に殺した場面は不気味ですらあった。当時は、ただ恐ろしい世界を受容するしか術がなかったのだろうか。あれがいったい何だったのか未だに釈然としないものがある。あの映像には、どのような言葉にも還元できないものがあるかも知れない。有名なギリシア悲劇自体が恐ろしい映像を撮るための単なる口実に過ぎなかったのだろうか。ただそれを見て唖然とするほかない映画というものが存在するのだろうか。


7月27日

 何の痕跡も見あたらない。残り滓さえない。そこにあるのは空洞だけだ。その空間を何かが移動したわけではない。だいぶ前に打ち捨てられた空間だ。中身をえぐり取られて空洞だけが残った。それがたまに陥没して地面に大きな穴が空く。地下の空洞が地上に顔を出す。そんな地域からは遠く離れている。雲が通りすぎて雨があがる。陥没地帯はどこにあるのだろう。それは大谷石の採掘跡なのだろうか。それともそんな題名の小説のことなのか。あれは戯れ事だったのか。空間を移動したのは雲だった。乾燥地帯に雨が降って洪水が起こったりした。電車も空間を移動するが、その軌道は話の中では定かでない。それを見る者の視点によって、あちらこちらにレールが移動するらしい。道筋がジグザグに動くのだ。それと共に、砂を踏みしめる足もジグザグにステップを踏む。何かを循環させるために大げさな舞台装置を構築してみせる。終わりを始まりにつなぐためにジグザグな歩みを利用するわけだ。終わりの頃には少年だった人物を、始まりにおいては老人で登場させる。そして老人は、これ見よがしに廃屋でジグザグなステップを踏む。何やら意味ありげな動作を装うわけだ。しかしこれは何の話なのだろう。場末の大衆食堂でラーメンの汁ををすすっている人々の世間話だったのか。その挿話を発展させただけかも知れない。では、夕暮れ時に街から電車で涼みにやってくる人々は何を語っていたのだろう。だが、夏の湘南は暑い。冷房の利いた屋内ならともかく、砂浜で洒落た会話を楽しみながら涼んでいる余裕などない。なるほど、あの辺はキザな願望などまったく受けつけない風土かも知れない。ではいったい何が陥没しているのだろうか。やはり妥当な線でいけば、大谷石の採掘跡が時折陥没するのだろう。誰も人目に隠れてジグザグなステップなど踏まないだろう。電車の軌道は固定されている。いつも脱線してジグザグな動きをするわけではない。年中暴走していては人員輸送の機能を果たせない。やはり映画の中でアクション俳優が乗っていないと、あまり脱線したり暴走したりはしないものだ。結局ジグザグな痕跡は洪水によってきれいさっぱり消えてしまった。老人がステップした足跡も残らない。残り滓さえない。そこにあるのは空洞だけだ。


7月26日

 そこに何があるというのか。あるのは痩せた土地とまばらに生えている雑草だけだ。一陣の風に砂埃が舞う。すでに涸れてしまった古い井戸もあったりする。はるか遠くを見渡せば、夕日に照らされて巨大な砂丘が延々と連なっている。どこかの画伯が描きそうな風景だ。よくありがちな遺跡のある風景とは、そんな感じだろうか。テレビの映像に記憶までが毒されている。乾燥した気候は物が腐りにくく、使い道のない土地は、そこに埋もれている過去の遺物の保存状態が良い。ロマンをかき立てる風土とは、そうした不毛の大地である場合が多いのか。その大本はローマ時代の廃墟の光景なのだろう。そこで、昔栄えた文明の痕跡にあれやこれや勝手な思いを馳せる。仮にそこから干からびた死体や骨のかけらなどが出土しても、死者は沈黙を守る。だが、生者の語る内容はいつも空っぽだ。現地の人々はもっぱら日当を稼ぐために汗を流す。そこで何かを語るのは学者だ。ラクダの呻き声に似ている。だが何も聞いていない。何をしゃべっているのか上の空だ。眼はいつも窓辺のカーテンの襞を数え上げていた。もしかしたら何も見ていないのかも知れない。なぜその語りがリアリティを持ち得ないのだろうか。見通しのよい場所では、木の枝は四方八方に伸びる。だが障害物のあるところでは、成長に不均衡やゆがみが生じる。外部からの力の相互作用によってその形は変化する。導き出されるのは否定的なものの見方ばかりだ。遺跡発掘の何が気に入らないのだろうか。なぜそれを肯定できないのか。別に取り立てて理由はない。ただ、それは否定的なものの見方ではないかも知れない。たぶんそれは死者のまなざしなのだろう。何もしゃべらずにひたすら沈黙を守り続ける死者のありえない眼球が何かを見つめているらしい。それは過去の痕跡ではなく、現代の残り滓なのかも知れない。たぶんそれは廃棄物なのだろう。


7月25日

 やっと見いだされたものをすぐさま打ち捨てる。見いだされたものが気に入らなかったらしい。見てくれが悪かったのだろうか。それとも虫の居所でも悪かったのだろうか。いずれにしろ、はじめから気に入らないものは、あとからどう加工してもしっくりこない。こうして幾分投げやりなやり方で、さしたる理由もないまま、無造作にその生成物は忘却の彼方へ置き去りにされた。だが、思い直してそれを再利用してみる。いつものやり方を変えてみよう。少しは反省が働くようになったのだろうか。それとも単なる気まぐれだろうか。しかしなぜそこから引き返すのか。理由も根拠も定かではない。そこから引き返していったい何を再利用しようというのだ。記憶のゴミ置き場のガラクタの山から何を引き出すつもりだ。だが、それでこの行き詰まりを打開できるのか。打開できずに、自らの限界を悟ったというわけか。才能の先細りを感じて、そこから先へ進んでも何も見いだせないと感じたのだろうか。だから過去の二番煎じでお茶を濁そうという魂胆か。だが、もうそんなごまかしは利かない。未来がないというその直感に何の根拠がある。それに、そこから引き返しても何も見いだせないかも知れない。見いだすものは過去のガラクタばかりだ。結局ところ、それはいつもながらの苦し紛れではないのか。どこまで行っても、またどこまで戻っても、使えるものは何も見いだせないので、ただ破れかぶれで転進を繰り返しているだけではないのか。それは紛れもなく敗北主義だ。しかしいったいこれが何に負けているというのだろうか。勝つ可能性もないのに敗北主義も何もない。だがしかし、いったい何に勝とうというのだろうか。結局これは勝利も敗北もない営みだろう。勝敗の対象となる相手はいないし、模範とする対象もない。模倣しようにも何を模倣すればいいのかわからない。ただわけのわからないものが生成されるだけだ。だがそれが気に入らないのだろう。くだらぬ勝敗の枠にはまりきらないのが気に入らないのだ。いつまで経っても勝敗を前提とするみすぼらしい価値観から抜け出せないわけだ。これが学校教育の効用というやつか?


7月24日

 いったい何を書いているのだろうか。よくわからない内容だ。不連続だ。それはどのような脈絡から生じた文章なのだろうか。自分で書いた文章がよくわからない。確かによくはわからないが、それがおもしろいかどうかもよくわからない。どうやら突然別のモードに入ったらしい。きっと今は何かの狭間なのだろう。もうすぐ書かなくなるのかも知れないし、まだ未練がましくつまらないことを書き続けるのかも知れない。そのどちらかへ向かう境目なのだろうか。それはどのような境界面なのだろうか。で、今何を書いているかといえば、自己言及だ。別に力任せにありふれたことを書いているわけではない。何かの歴史には興味がない。だがそれが何の歴史なのかがよくわからない。この間久しぶりに見た教育テレビでやっていたのだが、例えば、中国で発見された2万年前の人骨はどちらかといえば今の欧米の白人のような顔立ちをしているのだそうだ。また9千年前のアメリカ先住民の人骨も、専門家が復元すると同じように白人のような顔立ちをしているそうだ。その中のひとりはスタートレックのエンタープライズ号のピカード艦長にそっくりなんだそうな。どうやらモンゴロイド系の顔の特徴は比較的新しい時代に形成されたものらしい。それでも1万年やそこらの歴史はあるのだろう。だが、それが取り立ててどうというわけではない。人類学者でもない門外漢にはそれほど驚くような事実ではない。人種の歴史などその程度のことだ。ここ数万年で分化したものなのだろうし、たぶんこれから先も融合や隔離や離散などを繰り返し、様々に変転していくのだろう。どうもそのような歴史を肯定することはできないし、否定もできない。自分には関係のないことのように思われる。だがその海外ドキュメンタリーでは、遺骨をめぐる人類学者とアメリカ先住民との軋轢や、その人骨の顔立ちを報道したマスコミの人種的偏見が批判されてもいた。そのように、歴史を扱っていながら現代社会との関係や実態にも言及する姿勢に、制作者の良心を感じた。その二日後に見た「四大文明」とは偉い違いだ。確かに別の意味での感動はあるかも知れないが、今さらバックに流れる安易なシンセサイザー・ミュージックにうっとりしながら、悠久の歴史にロマンを感じるわけにはいかない。また、もうこけおどしのCG映像にはだまされはしない。莫大な予算をかけたのだろう。だが、想像力と創造力が欠如している。そして何よりも、意図的に政治権力闘争が排除されている。ああ、昔の人達はそんな暮らしをしていたんだ、それだけを伝えるために莫大な予算を湯水のように使ったのだろうか。その金はどこから出ているのか。


7月23日

 ストリングスとヒップホップはよく合う。それはSly&Robbieの発見だったのだろうか。今から十数年前のことだ。それ以前にカーティス・メイフィールドの存在がある。脈絡は何もない。だが恐ろしいアレンジメントだ。そのすべてが飛び散ってしまい、今は燃えかすでかろうじて食いつないでいるのか。それはわからない。確かにわけのわからない昂揚はない。こうして文字に刻まれる以前に、また衝撃的な音に巡り会いたい。もうすでにその萌芽は芽生えているのだろうか。見逃しているのかも知れない。世界の片隅で奏でられているのかも知れないが、今のところ自分には届いていない。すべてが汲み尽くされたわけでもないだろう。まだ無限の可能性があるかも知れない。まだ音の暗黒大陸には到達していないはずだ。その兆しを探してみよう。


7月22日

 どこまで話しただろうか。終わりから語るつもりが途中から語ってしまった。終わりを見いだせないので、途中からしか語ることしかできなかった。だが、始まりも見いだせない。すでに途中まで語ってしまっているので、改めて最初から語るわけにもいかない。誰もが権力を行使したいのだろうか。それとも主体的に行動した結果として、権力を行使したことになってしまうのだろうか。ほんの些細な盟約関係にあっても、それを共有する人々の間で権力闘争が勃発してしまうものなのだろうか。だが、戦略的にできるだけ闘争を回避しようとする。あからさまな闘争は避けつつも、しかし水面下では陰湿な中傷合戦というのもあることはあるが、ここでも戦略的見地からは、陰口はできるだけ聞き流すべきなのだろう。権力が行使される現場からはできるだけ遠ざかるのが無難なやり方だ。直接権力を行使する羽目に陥った人物はスケープゴートである場合が多い。御輿として担ぎ上げられ、梯子をはずされ、非難の矢面に立たされる。ありがちなパターンとしては、馬鹿なお調子者をその気にさせて権力者に祭り上げ、自分は黒幕としてその人物を影で操る場合がよくあるだろうか。それが紋切り型の物語のあらすじになる。もちろんそのような黒幕と死闘を繰り広げるのがアクション・ヒーローの物語だ。人はなぜそのようなパターンに魅力を感じるのだろう。安全地帯から壮絶な権力闘争を観戦するのが快感なんだろうか。その物語にどのような悲惨な結末が待っていようと、それを観戦する者には直接の危害は及ばない。ただ感動するばかりだ。行儀よく見る者に徹している限り、安全に感動できるはずだ。そこから逸脱して、スタジアムの外で別の闘争を繰り広げるのがフーリガンであるわけだが、彼らは安全地帯からフィールド上の犠牲者たちを見下ろす態度には飽き足らず、自分たちも進んで犠牲者になりたいようだ。闘技場で心身を磨り減らす奴隷たちを娯楽の対象として使い捨てにしているブルジョワジーを心の底から憎んでいる。だからあのように、これ見よがしに暴れまくるわけだ。闘争の真実を自ら体現しているわけだ。


7月21日

 ここに日常は存在しない。会話を求めず、ありきたりな話題から遠ざかる。だが、他者との闘争はありえない。闘争をできる限り回避している。事を荒立てたりはしない。闘争に勝利することなど求めない。闘争には勝てないからだ。勝とうと努力することができないからだ。公の場で競うべき技術もない。現時点では何も鼓舞するものはない。くだらぬ闘争は放棄しよう。安易に使われるわざとらしいはったりは見苦しい。今までそれに気づかずに、だいぶ無駄な努力をしてしまった。おおよそ、未だにそればかりの人もいるが、そんなものには飽きた。もう過剰な肯定はやらないことにした。何を肯定したらいいのかわからなくなってしまった。どこから話したらいいのだろう。終わりから語るべきなのか。それとも語ることを放棄して歌うべきなのか。歌うことはできない。だが語るのは面倒だ。結局は何もできやしない。語るべきことなど何もない。何を語ってもすべてが言い訳になってしまう。だがそれこそが嘘なのだ。たまにはこうして嫌気がさして絶望したふりでもしてみる。今まで過剰な肯定などしたことはない。ギャグ以外でわざとらしいはったりなどかましたこともない。闘争を放棄したことすらない。要するにすべてが嘘なのだ。なぜ嘘をつくのだろう。すべてが闘争であり、まさに戦争状態なのに、なぜ嘘をついてみせるのだろう。やはりこれはある種の戦略なのだろうか。だが、闘争に勝つことが目的ではないはずだ。闘争の中で勝ったり負けたりすることは、闘争の支配を受け入れることだ。権力の下僕の地位に甘んじていることだ。闘争状態を仕掛けているものにこそ抵抗すべきだ。我田引水のくだらぬ決起を呼びかける輩にこそ否を突きつけるべきだ。そして、法の支配すら拒絶すべきだ。盗聴法などのように、違法行為を見逃すために新たな法律が作られている現状に抵抗すべきだ。また、世論調査しか抵抗手段のない役立たずのマスコミも見捨てるべきだろう。しかし、いったい誰が見捨てるのだろう。それに、このような決起を呼びかけているのはいったい誰なのだ。これはわざとらしいはったりそのものではないのか。実際にマスコミを見捨てることのできる人など存在しないだろうし、このような決起に応じることができる人物も存在しないだろう。すべての人々は現状に貼りついている。フィクションでもない限り、そこから引き剥がすことなどできやしないだろう。


7月20日

 無視すべきことは何もない。考えるべきことも何もない。では、何が問題なのだろう。それは問題ではない。問題意識とは無縁だ。何も問題ではない。つまらぬ対象について語るべきことは何もない。では、何がつまらぬ対象なのだろう。世界に向けて情報を発信するとかいうコンセプトのことか?そんな情報はいらないということだろうか。必要な情報は限られている。だが、必要な情報だけを選択するわけにはいかない。必要な情報を探し出す過程で必ず多数のいらない情報に遭遇するだろう。必要な情報を探し出せない場合の方が多かったりした場合、頭の中はいらない情報だらけになってしまうだろう。しかし、いったい何が必要な情報なのだろうか。自身が必要だと思っている情報が本当に自分にとって必要な情報なのだろうか。その確信や確証はあまりない。必要な情報があるという前提自体がぐらついている。ただ探したければ探せばいいという世界なのだろうか。探せば探しただけ様々な情報に巡り会える。確かなことはそれだけかも知れない。それ以外は、それぞれの情報探索者の勝手な思い込みになるだろうか。あとは、ある特定の情報に価値があると多くの人々に思いこませることが戦略的な重要性を持つということか。それはプレゼンテーションの問題になるだろうか。ということは、問題とはプレゼンテーションのやり方ということか。また、それに付随して、プレゼンテーションの中身を見抜ける能力も問題となってくるだろうか。たとえば、そのプレゼンテーションに感化されて実際に商品とかを買ったら、ひどい不利益を被った場合、プレゼンテーションにだまされたことになる。そうなるとそのプレゼンテーションが詐欺であるかどうかが問題となり、訴訟を起こして法的手段に訴えるかどうかが問題となってくる。そんな経験が積み重なると、安易に情報にだまされぬように用心して情報に接するようになるのだろう。ということは、何でも疑ってかかり疑心暗鬼になるのも考えものだが、まずは何事にも経験を積むことが大切だ、という平凡な結論で良いのだろうか。たぶんそれで間違ってはいないだろうが、何かが欠けていることも確かだと思う。情報などなくても、適当な不自由を経験するだけで、ある程度は生きて行けるし、また、仮に情報がなくて死んだら死んだで、それでも構わないということだ。ある特定の情報にありがたみを感じること自体が、その情報を発信するプレゼンターの戦略に絡め取られている証拠だ。それで良いのか悪いのかは、実際にその情報を受け取っている人間が判断することだ。


7月19日

 Mac用の漢字コード(シフトJIS)と改行コード(CR)に変更すれば、AppleWorksでも(たぶんその他のテキスト・エディタでも)このファイルが表示されることに気がついた。今日偶然にJeditでコードを変更せずに表示させたら、毎度おなじみの文字化け状態になったので、もしやと思い、試しにCuTEでコード変換してからAppleWorksで見たら、案の定きれいに文字が表示された。まったく、これに気づくのにだいぶ時間がかかってしまった。まぁ、誰も直接は教えてくれないのだから仕方のないことだが、とりあえずは、何でも自力で解決しなければならないらしい。自分はそのような環境で生きるしかないのだろう。

 誰からも同じような台詞が口をついてでる。別々の環境で暮らしているはずなのに、なぜか語る内容が同じになってしまう。誰もがその時代の支配的言説に絡め取られている。思考パターンまでが同じになってしまっている。それ以外の考え方はなかなか理解されないだろう。今ある前提が確固たる基盤を形成していると信じて疑わない者ばかりだ。実際にその前提が崩壊してみないことには、自分たちの誤りについて誰も納得しないだろう。いや、実際は崩壊を崩壊と感じ取ることすらもできない鈍感な人々が多数派なのかも知れない。政治家は、崩壊という言葉をより穏便な言葉でごまかす方が得策なことを心得ている。何が起こっても大したことではなく、深刻な事態でも適切に対処したと言い張るだろう。もはや、マスメディアが大げさに騒いでも、それはいつもながらのオオカミ少年としか認識されない。その手の報道には日頃から慣れっこになってしまったようだ。人々には、すべてが連続して推移していると信じるしか術はない。亀裂や断層を無視するように馴致されてしまった。例えば、自然災害でローンの返済が終わっていない家屋を壊されたときぐらいしか、それを感じ取ることはできないのかも知れない。自らが途方にくれないうちは、今ある前提を信じて疑わずにそれを必死に守りながら生きていくことしかできない。つまり、それは保守主義に行き着く。どうやら大多数の人々はそのようにしか機能していないらしい。それが多数派を形成している人々の特徴だ。そのような人々の意識を変えることは不可能だろう。なにしろ、人々の意識を変えて世の中を良い方向へ改革してゆこう、というスローガン自体が多数派の人々に共有された市民の良識としての共通意識となっている。で、そのような共通意識が社会全体に行き渡っていて、実際の現状はこんな社会だ。たぶんこれからも大して変わらないような気がする。だが、自分はそのような共通意識は持ち合わせていない。そういう共通意識こそが、保守派のイデオロギーだと思っている。スローガンの中の「良い方向」で、自分たちのやっていることを如何様にも正当化できる。自分たちのやっていることが「良い方向」への改革なのだから。


7月18日

 どうもMac用のホームページ作成ソフトというジャンルは淘汰されてしまったらしい。そういうソフトはショップではほとんど姿を消してしまったようだ。それで、今日その場の気まぐれと勝手な思い込みでAppleWorks 6というのを買ってしまって大失敗した。このファイルがまともに表示されない。一万円近くをどぶに捨ててしまったかも知れない(これから未練がましく何らかの活用法を捻出するかも知れないが)。やはりMac用のワープロでは無理だったのだ。もしかしたら、という独りよがりの勝手な望みは簡単に打ち砕かれた。だが、一太郎やMS-Wordなら表示できるかも知れないが、一太郎はどうも今さら古いヴァージョンを買うことには抵抗があり(ジャストシステムは、Mac版では、数年前から新しいヴァージョンを出していないと記憶しているが、それは思い違いか?)、MS-Wordは政治信条的(笑)に買わない主義だ。それで、いつまでも文字化け探しに無駄な神経を注いでいても仕方ないので、今シェアウェアのJedit3.0を使ってこれを書いている。そのままこれを使い続けるためには2千5百円を支払わなくてはならないのだが、クレジットカードを持っていないので、現金書留で送金しなければならないらしい。まったく何を買うのにも面倒な世の中になってしまったものだ(簡単にネット経由でダウンロードして使える分には便利なのだが、カードを持っていない自分の場合は、代金の支払方法がネックとなる)。巷ではIT革命とかネットワーク社会とかいうのが到来しているらしいが、自分の実感としては、メディアが喧伝するほどの効率の良さや便利さからは程遠い状況だ。まあ、あまり突飛な幻想を抱かない方がいいのかもしれないし、その必要も感じていないが、とりあえずは市場経済の中で暮らしているのだから、すべてがフリーウェアとはいかないのだろう。作者や制作会社からの金銭的な見返りの要求を拒否するわけにはいかない。現にこのエディタは、このまま不具合がなければ代金を払うだけの価値のあるソフトだと思う。


7月17日

 草だらけの大地に彷徨う。歩くと雑草が足にからみつく。腕にとげが刺さって痛い。血が出た。だがそれはかすり傷程度だ。歩みを留めるほどの大事ではない。むしろそれは些細な嫌がらせだ。そういう小さな抵抗がこつこつと断続的に加わるのが自然の特質だろう。さてここはどこだろう。いったいどこを歩んでいるのだろう。どこまで行ってもきりがない。だが、一方的に前進いるわけではない。行ったり来たりしているからきりがないのだ。前に進んでいるつもりでも、無意識の揺り戻しがある。これはジグザグの歩みかも知れない。本当はきりがないほどの歩みではない。歩いた距離などたかが知れている。それに、実際に歩いているわけではない。ただ意識が記憶の海であてどなく彷徨っているだけだろう。その海で碇を降ろす場所など見つかりはしないだろう。何も定まらずに途方にくれる。気がつけば、知らず知らずのうちに元来た道を戻っているらしい。あるいは、どんどん横道にずれていってしまっているのかも知れない。どうやら前に進んでいるだけではないらしい。それと同時にぐるぐる回っているのだ。限りのない何重もの螺旋回転だ。螺旋回転をしながらその回転自体がさらに螺旋回転し、以下同様に次から次へとメタ・レヴェルでの螺旋回転に遭遇する。そんなCGアートを見てみたいものだ。その螺旋は、どこまで行ってもきりがない。だが、現実にはそれほど見事な連続構造は存在しない。必ずどこかに曲がり角がある。結局はそこで持続が途切れる。説明のできない不連続点や特異点が存在してしまう。行き止まりや乗り越えられない段差に直面する。道が道でなくなり、見渡す限りの草原や、視界のきかない深い藪の中で立ち往生してしまう場合もあるだろう。あるいは、その歩みの意味や目的がわからなくなるかも知れない。実際、わかろうとしていない。これは歩みではない。浮遊しているだけだ。意味や目的のない歩みは歩みではない。そこに歩みの構造を見いだせないのだ。歩みを歩みと見なす方向性を確定できない。結局何をやっているのかわけがわからなくなる。だが、例えば、海中を浮遊するクラゲには生物学的な構造が見いだされる。海流の流れに身を任せながら捕食活動を行っている。浮遊にも意味や目的を見いだすことは可能だ。つまり、彷徨うために浮遊しているわけだ。結論を出すことなど簡単だ。だが結論からこぼれ落ちてしまうものがある。簡単に言えば、結論は物事の単純化である。結論では何も解決しない。それは一時的な中断でしかない。解決を装われた結論とは便宜的な中断のことである。周囲を無理矢理納得させるための方便だ。自分自身に嘘を信じ込ませるための言い訳だ。だが、いつまでも結論には抵抗できない。ほどよい長さで中断させないとこちらが参ってしまう。


7月16日

 暗闇が到来している。その暗闇の彼方にまた別の暗闇が存在する。暗闇と暗闇は暗闇でつながっている。それらの暗闇は連続して存在するらしい。その暗闇の広がりが世界の広がりと一致する。空はどこまで上昇しても空だ。夜空に広がる暗闇には限りがない。地底の暗がりは底が見えない。洞穴の中からは水の滴る音がする。怪奇小説の地下室からは獣のうなり声がする。下水道からは鼠の鳴き声がする。排水溝からはゴキブリが這い出す。有刺鉄線の向こう側に施設がある。アクション小説の主人公は必ずそこに潜入を試みる。塀の向こう側には、日常世界からはかけ離れた摩訶不思議なことが行われているのだ。読者も主人公と共にそこで行われている衝撃的な光景を覗き見なければならない。とりあえずは、そこで単行本や文庫本の代金分ぐらいは驚かなければならない。それが読書の制度だ。幽霊屋敷の幽霊とどちらが衝撃的だろうか。時と場合と著者のテクニックによるのだろう。ホラー映画は怖いと相場が決まっている。たぶん意図的なギャグを除いて怖くないホラー映画は存在しないだろう。すべてを見せずに謎の部分を残しておくのが常套手段だ。その謎を利用して、突然の襲来などで観客を震え上がらせる。ベッドの下から突然大きなゴキブリが這い出てくるわけだ。それと大して変わらない。まったくホラーを馬鹿にしたような喩えだ。怖いのは嫌いなのであまり見ないだけかも知れない。物置の中で蛇が昼寝をしていた。それが衝撃的な光景なのだろうか。べつに物置に有刺鉄線は張り巡らされてはいない。鍵さえあれば誰でも出入りできるし、たまには蛇を見かけたりするだろう。日常世界とはそんなものだ。それを体験する時と場所と体験者の感度によるのだろう。結局はベッドの下から這い出てきたゴキブリや物置の中の蛇に驚く毎日なのだろうか。それだけではない。アクション小説を読んで紙面上の冒険を体験し、ホラー映画を見ながら死の恐怖を疑似体験する。それさえも日常の一部だ。日常では狂気さえも飼い慣らされている。画面や紙面のスクリーンによってわれわれは非日常の危険から保護されている。だから、スクリーンのこちら側でくつろいでいる感覚で日常の現実に接するとひどい目に遭うだろう。もしかしたら、メディアによって、保護膜として機能するスクリーンに慣らされてしまった無防備な人が大勢いるのかも知れない。


7月15日

 「彼の声」の16〜18までの文字化けを気づいた限りで修正した。特に18はひどかった。前半は文字化けだらけだった。どうもファイルの大きさが一定のレヴェルを越えると、初期に書いた文章において文字化けを起こしはじめるらしい。どうもファイルの先端部に文章を次々に付け足してゆくと、はじめの頃に書いた部分がおかしくなるようだ。ディジタルなのにファイルが劣化するなんてシャレにならない。要するに、このファイルがこのエディタの想定した容量をはるかに超えた分量に達しているということなのか。こう書いているうちにもここからはるか下にくだった部分で文字化けを起こしているかも知れない。なんということだ、またこれを書いた後にファイルの中をくまなく見て回らねばならない。やはり金に糸目を付けずに、Mac用の値段の高いホームページ作成ソフトを買う方向に意志が傾きはじめた。たぶん買っても、ソフトの便利な(自分にとっては不便になるかも知れない)機能をほとんど使わないような気がするが、とりあえず来週帰る途中にでも物色してみよう。

 真昼の光源から光子が乱れ飛ぶ。熱線に肌を焼かれる。紫外線が降り注いでいる屋外でダメージが蓄積する。たぶん心身共に疲弊しているのだろう。だが限界ではない。休息する暇もまだある。ところで何を体験しているのだろう。今まで何を経験してきたのだろう。それはほんの些細な経験の蓄積だ。それは、一向に上達しないキーボードのタイピングのことだろうか。そんなところだ。そう、何もかも一向に上達しない。いつもせわしなくつっかえつっかえしながら、やっとのことでかろうじて不完全ながらも一応は成し遂げられる。それは成し遂げたとは言えないかも知れない。まるで達成感が希薄だ。常に課題が山積みだ。完璧な構築物からは程遠い、今にも崩れ落ちそうな積み木細工だ。しかし何がいったいそうなのか。いつも何を語っているのか定かではない。何かを構築しようと努力していないのであり、それを達成することを放棄しているのだ。いや、構築し達成することに価値を見いだせないのかも知れない。つまり、構築や達成を強いる何らかの要請に拘束されてないということだ。ようするに自由なのだ。今自由を体験し経験しつつある。何も構築しなくても良いし、それを達成しなくても何の不都合もないわけだ。これが今体験し経験しつつある自由の正体かも知れない。結局のところ自由は怠惰と結びつく。しかしこの記述は怠惰とどう結びついているのだろうか。こうして書かなくてもいいのに書いている。なぜ書かない自由を選ばないのだろう。それは、書くという行為に拘束されているからだ。ある次元では自由であるが別の次元では自由ではない。ある側面から見ると自由に見えるが、別の側面から見ると自由とは見えない。つまりこれは条件付きの自由と言えるかも知れない。しかし、条件が付いている自由は自由ではない。いや、それでは自由と自由を混同している。自由とはある条件の下でしか成立しない概念だ。何もかもが自由であることは不可能だ。必ず何らかの成立条件に拘束されたときしか自由は生まれない。自由でないときに自由は生じる。自由と感じるときは、同時にこのような矛盾も受け入れなくてはならない。つまり、自由と感じるときでさえ、自由が不可能であるという矛盾に拘束されているのだ。


7月14日

 同じ場所をぐるぐる回る競技はいくらでもある。それを観戦する人々が、競技の全貌をできるだけ公平に観戦できるようにするための配慮から、競技者は走るための狭いループの内に閉じ込められる。同じ走路を周回し続けなければならない。閑散とした陸上競技場で、どこかの誰かが競技者の走る姿を見続けている。それがモーター・スポーツなら、競技車両の爆音を聴く楽しみもある。フェラーリのエンジン音にうっとりする輩もたくさんいるらしい。バクチ抜きで競輪選手の躍動する肉体に見とれる人間もいるのだろうか。競馬の馬が疾走する姿だけを見にわざわざ競馬場まで足を運ぶ人の気持ちが分かるだろうか。そのいずれもが他愛のないことかも知れない。だが、逆に、真剣になることに何の価値があるのだろうか。では、何か特定の対象に価値観を抱くことが他愛のないことなのだろうか。すべてが大したこともない些細なことに取り囲まれて生きているのではないだろうか。だが、そこからどうすれば真剣になれるのだろうか。どうやって特定の対象に価値を見いだすことができるのだろう。気晴らしの趣味に真剣になれるだろうか。よくありがちな例は、反発を利用して真剣になるやり方だ。巨人嫌いのアンチ巨人ファンなどがその典型になると思う。自分もある程度はその口だろう。だがそれではつまらない。その程度では中途半端だと思う。中途半端だということは、それほど真剣ではない証拠かも知れない。そう、あまり野球を愛していないのかも知れない。では他に何か愛して止まないものがあるだろうか。たぶんないと思う。すべてから遠ざかってしまった。同じところをぐるぐる回っている人々が嫌いになってしまった。何かもがただ繰り返されるばかりだ。相変わらず空虚な中心から一定の距離を保ちつつ、一向に飽きる気配もなく、その周りをぐるぐる回っている。考えてみれば恐ろしい世界だ。よくその退屈な循環に耐えていられると感心してしまう。無意識の力は偉大なのか。ただ惰性や慣性の法則に忠実なだけなのか。毎年毎年季節の推移と共に様々なサイクルでぐるぐる回っている。中には四年に一度のサイクルもあるが、なぜ四年後に再び同じような催しが繰り返されるのか、人々は何に囚われているのだろうか。それはいったいどのような呪術なのだろうか。自分は何かのきっかけでそのようなものにリアリティを感じなくなった。人々のつまらぬ縄張り意識に嫌気がさしたのかも知れない。


7月13日

 何かについて批判し続けることはどこまで有効なのだろう。はたしてそれをいつまで持続させることができるのかもわからないのに、なぜそれほどまでに批判し続けなければならないのだろう。その批判は有効には機能していないのかも知れない。その批判によって何が変わったのか。あるいは、批判し続けることで事態がこれ以上悪化するのを防いでいるわけか。何も確かなことがわからない現状では何とでも言えるし、逆に何も言えないのかも知れない。これでは確かな効果などわかるわけがない。これらはそのような性質を持った試みなのかも知れない。交換するものが何も見あたらないのに、確かな感触を期待してはならない。それはまやかしに通じている。虫のいい話だ。それでは一種の詐欺だ。だから現時点では求めるものは何もない。また、差し出すものも何もない。だから、何も受け取ることはできない。それを期待しようにも何を期待していいのかがわからない。いったい何を求めているのだろう。それはどうでもいいことなのか。いずれにしても、いつまでもつまらぬ思想に惑わされているわけにはいかない。そのつまらぬ思想とは何だろう。浅はかな反権力の体系か?現に今存在する体制の存在意義を認めつつ、その体制をより良い方向に改良して行こうという姿勢なのか。確かに体制内批判者は安心して世間に認められる。だが、そういう姿勢は現状維持に貢献するばかりだ。いつの時代も体制内反主流派はもてはやされてきた。だがそのような人々によって行われたことは何だったのだろう。彼らは現体制の維持継続以外に何をやってきたのだろう。彼らこそが痛みを伴う改革の芽をことごとく摘み取ってきたのではないだろうか。たぶんこれから提示されるのも、昔ながらの気休めの提案ばかりだろう。発言ばかりが威勢はいいが、具体的な改革の展望は何もない。いったいいつまでそんなゴミにだまされ続けるのだろうか。本当にだまされているのだろうか。ただ、誰も本気で受けとめていないだけのような気もする。もはや誰も、メディアがもてはやす人物を信用しない時代に突入しつつあるのかも知れない。だが、そんな実感を抱くことこそが世間とずれている証拠だろうか。その辺の確かな感触は今のところ何もない。世間とか大衆とかいう漠然としたものが、はたして信用に足るものかどうかも疑わしい。それらは自分たちの権力を誇示するための道具なのだろう。自分たちの思考の空虚を覆い隠すために、世論調査という手段で自分たちの力を見せつける。世論調査の結果から出てくる多数意見が自分たちの主張なのだ。それを利用して、例えば、主張の中身は無視して、死刑に反対するお前は少数派だと抑圧しにかかるわけだ。つくづくいやな世の中だ。だが、それでも批判し続けなければならないのだろうか。


7月12日

 フーコーは、裁判によって人を処罰する制度そのものを批判しているし、有罪になった者を監獄に閉じ込めておく制度も批判していた。詳しくは『ミシェル・フーコー思考集成IV』を読んでいただきたいが(自分はまだ読み終わっていない)、では、例えば、裁判所や刑務所のない社会とはどのような社会になるだろうか。そうなるためには具体的にどうすればいいのだろうか。実利的な面を考慮すれば、刑事裁判をなくせば懲役刑や禁固刑がなくなるから、刑務所が必要なくなり、囚人の生活や管理に伴う財源が削減できそうだが、その場合、殺傷事件を起こした人をどうやって一般社会でそのまま生活させるかが問題となる。さらなる殺傷事件に及ばせないためにも、昔ながらの敵討ちや仇討ちなどの決闘は避けなければならない。とりあえずは何らかの民事調停で、被害者や遺族に対する賠償について、被害者と加害者あるいは双方の代理人も交えて全員が納得するまで十分に話し合われなければならないだろう。また、今マスコミがさかんに囃し立てている犯罪被害者に対する救済も、被害者やその家族に対する生活支援が主だったことになるだろうから、何よりも加害者が賠償を実行でるようにするためにも、また、借金苦に陥って再び犯罪を起こさない程度の普通の生活が送れるようにするためにも、なんらかの職を斡旋する必要もでてくるだろう。だがこんなことを述べると、何を甘っちょろいことを言っているのだ、そういう論理は凶悪犯には通用しない、殺人鬼を野放しにして極悪非道な犯行がさらに繰り返されたらどうするつもりだ、などと批判されそうだが、そうならないように、犯罪者に対する定期的なカウンセリングが必要だ、と性懲りもなく甘っちょろいことしか言えないのが現状である。つまり、そのような甘っちょろいことが通用する社会になるように、わざわざ凶悪事件を起こさずとも生きていけるような社会にしなくてはならないだろう。それはメディアが過度の金銭的・性的欲望を煽っている現状では不可能だと思うが、とりあえずは犯罪加害者が普通に生活を送れるだけの社会的度量が生まれることを期待しておこう。現時点では、こんな抽象的期待しか思い浮かばないし、それが実現するために具体的にどうすればいいかまでは、今のところ説得力のある考えは思いつかない。


7月11日

 今日ここへ来る途中秋葉原のLaOX MAC館へ寄って、PowerBookの電源アダプタを求めたら、PowerBook関係ではよくありがちな品切れで、代わりに店員さんが、PowerBookにも使えるからとiBookの電源アダプタを勧めるので、注文して待たされるのも他の店に探しに行くのも面倒なので、その大型のヨーヨーみたいな外観のiBookの電源アダプタを買って、ただいまPowerBookは充電中である。しかしエディタを探すのを忘れたので、性懲りもなく文字化けが不安なCuTE 0.6でこうして書いている。それからMacWEEKによると電源アダプタが壊れたのは落雷が原因かも知れないらしいので、「雷ガード」というOAタップ(ソケット)を一応買ってきたが、とりあえずこれからはコンセントの挿しっぱなしはなるべく控えるように心がけよう。エディタに関しては代金の支払いが面倒くさいがシェアウェアでも買った方がいいのかもしれないが、何を買ったらいいのかよくわからない。いくつかのフリーのエディタをこの間から試しているのだが、単なるエディタだとこのHTMLファイルが表示できないものが多い。どうもエディタの先入観としては、WinのWZエディタやUNIX系のMuleやEmacsが念頭にあるものだから、このファイルがそのまま表示できないのはどうしても納得がいかない。いったいこれが表示できない原因は何なのだろうか。素人なのでその辺がよくわからない。これは何か特殊なファイルのカテゴリーに属するものなんだろうか。何も意識せずに使っている側には、ただ文字が打ち込んであるだけとしか思われないのだが、それを半角英数や全角のかなにいちいち表示させるのがそれほど難しいことなのだろうか。それにテキストファイルではそれらは打ち込んだとおりにそのまま表示されるのに、それと同じように、打ち込んだとおりに表示しくれればそれで構わないのに(別にタグを隠さなくてもその方が大変わかりやすいのに)、HTMLファイルだとどうして表示できないのだろう。やはりそれはMacOSのプログラミングを勉強して自分でエディタを作ろうとしてみればわかることなのか。

 なるほど、その後、普通のエディタではなく、HTMLエディタとして探せば結構いろいろあることがわかった。


7月10日

 樹木が西日に照らされて斑模様の影をつくる。だが、ブラインド越しの風景には網戸が食い込んでいる。視界を遮るその青い網戸が気分をいくらか害す。不連続だ。どこかに不協和音が響き渡る。その境界面を隔てて同じ距離に別の現実が折り重なる。唐突に話が変化する。近所の街道沿いのブロック塀には未だに選挙ポスターが三枚ほど貼られている。その忘れ去られた選挙ポスターには雨風が当たって泥がこびりつき、紙の上の汚れた笑顔には更に茶色い泥が塗りたくられている。昔自民党から出馬して、何度目かのチャレンジで大量の選挙違反者を出しながらやっと当選した男が、今や民主党の候補者らしい。中学生のとき、街のアーケード通りでその熊川次男と握手したことがある。どこでどうなって彼がそうなったのか、事の経緯は知らないが、なかなか不思議な御時勢だ。確か中曽根が総理大臣だった頃、訪米団に加わって特別機のタラップから得意満面の笑顔で手を振っていた写真つきのビラを見たことがある。でも彼は、今回の総選挙では、小選挙区で自分の父や母も後援会に所属している県内有数の土建屋のぼんぼん(自民党)に大差で敗れたようだ。まだそのぼんぼんは若いから、たぶんこれから先も彼の当選は難しいのだろう。しかし考えてみればおかしなことだ。どう考えても変だ。国会での政治情勢とこの地方での選挙情勢はまるでマッチしていないように思える。これはギャグなんだろうか。そう考えても差し支えはないだろう。万年立候補おやじと土建屋の若旦那の組み合わせはユーモラスでさえある。この現実を目の当たりにしてしまうと、TVで政治について真面目顔で語っている人がアホに思えてくる。だがそれでいいのかもしれない。どちらが現実離れしているかは知りたくもないが、このような落差が、映像を介して伝播してくる下らぬ洗脳を無効にしてくれる。もちろんこれは勝手な印象であり、ここで取り上げた二人の政治家の実態はほとんど知らない。若旦那のほうは数年前の正月に実家に挨拶に来たときは、人当たりがよく好感を持たれそうな人物らしく振る舞っていた。たぶん後援会員の家を一軒一軒こまめに新年の挨拶をしてまわっていたのだろう。これが選挙の実態のひとつの側面なのだろうか。父は高校の柔道部の同窓生あたりからのしがらみで、選挙になると自民党の候補者を勝たせるべく動かなければならないようだ。今は昔ほどではなく、坩堝の中心からはだいぶ距離を取っているようだが、昔は尾身幸次を勝たせるために一軒一軒まわって歩いたことがあるらしい。


7月9日

 まとまりのない観念に捕らわれたまま、相変わらず何の方向性も見出せない。ただ雨音と雷鳴だけが憩いのBGMと化している。だが、もはやこれらの停滞した模索を見捨てる機会は失われた。見捨てる可能性はこれらの生成物自身によってだいぶ前に打ち砕かれた。そして、自我の関門を軽くやり過ごし、言葉の枝葉はすでに自分にはどうしようもできないほど複雑に繁茂してしまった。もはやその全体を把握することすらできないほどだ。今までに繰り出されたイメージの写像と合成には限りがない。その数は有限個だろうが、それぞれが組み合わさって生成する像は、読む度毎に違った実に多面的な意味を生じさせる。それは、大概はゴミ屑であるかも知れないが、ごくまれにダイヤモンドと錯覚するような思い込みを生じさせ、自分を打ちのめすときがある。つまり、それらの像は、今やどこにも存在しない空間で、有り得ない意識の断片や切れ端として刻々と離合集散を繰り返しているわけだ。それらの像に、ときには唖然とさせられ、またときには煩悶させられ、だが結局は、自分は囚われのまま何も介入できずに、ただそれを傍観することしか許されない。また、別の次元においては、もう至る所で道に迷って途方に暮れてばかりいる。何もかもが不可能なのだ。そこでは、はじめから解決が排除されているのは明白だ。意味に辿りつかないうちに次々と矢継ぎ早に方向転換を繰り返し、その目まぐるしさに感性がついてゆけない。はたして何を述べたいのだろう。これらの結論とは何なのか。いったいどこに行き着こうとしているのか。そして行きついた先にとどまることが可能なのか。だがそれらはすべて見え透いた設問だ。その答えはすでにわかっている。そこにとどまることなど不可能なのだ。解決そのものが顕現できずに、どこまで行っても暫定の結論や解決が勝手気ままに変化しながら絶えず先延ばしにされている。すべてが仮の結論であり解決だ。そして、そんなあやふやな仮設物にはとどまれない。もはやどこにも行き着かないことは明白である。それが明白であるのに見捨てることができない。生成物によって見捨てることを拒否されている。それを打ち壊そうとすれば自分が打ち砕かれるだろう。これは恐ろしい袋小路だ。どこまでも無限に疾走できるのに、その制限のないことが逆に袋小路を形成している。しかもすでにそんな結論が出ているのに、その結論が仮設物として簡単に打ち捨てられて、気がつけばどこでもない有り得ない場所で、何のきっかけも見出せずに途方に暮れている。ただそんな事態の繰り返しだ。だがときにはそれが楽しい。今このときもそうなのかもしれない。


7月8日

 酒も飲んでいないのに二日酔いみたいだ。起き抜けに目眩がする。軽い振動のあと急に前方が斜めに傾いた。気がついたらガラスの額縁が歪んで見える。視覚がぶれているようだ。轍に嵌まるとはこういうことか。あちらではドラム缶の縁を毛虫がぐるぐる回っている。こちらでは植木鉢の縁を蟻がぐるぐる回る。どうやら毛虫や蟻は、円軌道を無限に続く一本道と認識しているようだ。ちょっと脇にずれればすぐに堂々巡りから開放されるのに、それがなかなかわからないらしい。歩行するための回路が想定していない場所に入り込んでしまったのかもしれない。感覚のずれは相変わらず続いている。ちょっと脇にずれたら、それは限りのないずれにつながり、もう何がずれているかもわからないほど軌道から外れてしまったようだ。ただひたすら飽きもせずに同じゲームを繰り返す。要するに別の場所での堂々巡りを発見したわけだ。無限ループで精神の安定を図りたいのだろうか。現実逃避で別の現実を発見する。これが無意識の自己保存法則なのだろう。脳神経細胞間でニューロンがやり取りされている間に、電子回路上では電気信号が循環し続ける。電気抵抗で減衰した分は電源から新たに供給される。おそらくその何割かは核分裂反応によって生み出されているのだろう。自家発電でもやらない限り、電気の種類など選べない。ドイツでは地球にやさしい原子力を廃止する予定らしい。彼の地の産業界は反対しているらしいが、政府がそんな政策を打ち出せるだけでも大したものだ。しかしこう書くと、旧東ドイツ地域での失業率の増大や外国人排斥運動やネオナチの台頭などの負の側面を強調したがる人が必ず出てくるのだろうが、そういうやっかいな問題が山積しているにもかかわらず、今まで培ってきたしがらみをすっぱり断ち切ろうしてしまえるところが、どこかの国の政府とは偉い違いだ。しかしそれでも何の救いもない。根本的には何も解決しない。もっとも、すべてが解決するときが来るとしたら、それはこの地上から人類が一人残らず消え去ったときだろうが。とりあえず、ドイツのシュレーダーやイギリスのブレアやアメリカのクリントンなどが何をやったかなんて、あと数年もすれば誰も思い出せなくなる。今欧米で流行りの社民主義とはそういうものだろう。そんなものをうらやむのは愚かなことだ。


7月7日

 今朝PowerBookの電源アダプタをこじ開けて中身を見たら、AC入力のソケット付近の基盤が焼けこげていた。あとはコンデンサから白い固形物があふれ出しているようだった。どうやら新しい電源アダプタを買うまで、しばらくPowerBookはバッテリー切れで休眠状態になりそうだ。近くのヤマダ電気では当然のこと注文して取り寄せるしかないそうだから、来週帰る途中に秋葉原にでも寄って、Mac専門店で在庫があればそこで買うし、なければ注文するしかないのだろう。まったく、何の因果か知らないが、今日でPowerBookを買ってからちょうど一年が経つ。

 昨日は、ウケ狙いはよくないと述べておきながら、やはりこれはウケ狙いになるのだろうか。以前、平成の剣豪伝説について述べたことがあったが、佐々木小次郎、宮本武蔵に続いて登場したのは、柳生十兵衛ではなく、なんと金属バットが武器の武蔵坊弁慶であった。事件を起こした当初は、彼が弁慶であるとはまったく気がつかなかったが、今日、自分が事件を起こしたことで両親に迷惑がかかるので、これから誹謗中傷等の災難が降りかかるを不憫に思い、マスコミや世間にいじめられる前に自分の手で殺してしまおうと決意し、それを実行してしまうという大変律義なところや、自転車で奥州まで逃避行したその並外れた体力と根性を知り、行き着いた先は昔とは山を隔てた反対側の秋田だったが、彼こそは平成の武蔵坊弁慶その人であると確信するに至った。ただそれだけだ。ただそれだけが言いたかった。ただ、マスコミの事件報道のあり方が母親を殺害するきっかけをつくったことは確かなようだ。たぶんその件についての反省は何もないのだろうが、やはり、その手のワイドショーやニュースショー、あるいは週刊誌や月刊誌等を子供に見せるのは危険極まりないという結論になるだろうか。子供の過ちで親が殺されてはシャレにならないし、しかもまじめで正義感の強い人間に育てたのに、その子供が犯罪者になってしまうのだから、親としては本当にやりきれないところだろう。何の救いもない。しかしこんなエピソードも時間の波に押し流されて忘却の彼方に消え去るのみだ。かつて(今も)大人が子供に対して強制してきた坊主頭が今や子供同士のいじめの道具になってしまったことも含めて(坊主頭の理不尽な強制が原因で事件が起こったのに、たぶんそれを軽視して、毎度おなじみの子供の性格や育て方が問題としてすりかえられるのだろう)、今年も何の反省もなく、真夏の甲子園では坊主頭の高校生たちが互いの体力を消耗し合い、マスコミによってわざとらしい美談が全国津々浦々に飛び交うのだろう。まさに制度の力をまざまざと見せつけられる。


7月6日

 恐ろしい、さっきまでPowerBookで今日更新する文章を書き終えかけていたのに、最後の部分で、最近このファイルで文字化けが多くて直すのに一苦労だ、どうやらエディタに原因があるようで、また別のエディタを探そう、Win+WZエディタの頃が懐かしい、と書いてファイルを保存しようとしたとき、なんとPowerBookがバッテリー切れになってしまった。どうやら電源アダプタが壊れたらしく、それに気づかずに使い続けていたようだ。確かにコンセントが差し込まれた状態で四角い変電圧のボックスが熱くならない。というわけで、今、事務所でWin95+WZエディタを使ってこれを書いている(爆笑)。なんでこうなるのだろう。信じられない。信じてもらえないかもしれない。とりあえず、これから今日書いたことを思い出しながら新たに書いてみようと思う。

 相変わらず暗中模索の日々だ。だが安易に報われることを期待してはならないだろう。いまさら功利主義を目指すのはやめにしよう。つまらぬ報酬に縛られたくはない。また、ウケを狙って技巧に走るのもよくない。そのような技巧はすぐに色あせる。それに、すでにその手の技巧は使い果たしてしまった。もはやネタ切れである。だから今のところは、満足するような結果を出すために行うべき確実なやり方などない、と考えておくのが無難だろう。何事もやってみないことには結果まで辿り着けないので、とりあえずはやるしかないわけだが、ではどうやればいいのか、その方法をなかなか見出せないでいるのが現状だ。また、いつもその結果に満足できないのも事実だ。要求されている水準に常に達していないような気がする。しかし、いったい誰が要求しているのか。自然に考えるなら、自分自身がこれまで以上のレヴェルを求めているということなのだろうか。どうもそれは違うような気がする。自分にはあらためて考える余裕がない。毎日がぶっつけ本番だ。書物を読む時間さえ限られている。すでに限界だし、目一杯やっているつもりだ。だから自分が自分自身にこれ以上の努力を求めはしない。つまり、要求しているのは自分はなく、ましてや誰かでもない。人物ではない何かが働きかけているのだ。ようするに、これまでに書かれたこれらが、更なる水準での言葉の連なりを要求しているような気がしてならない。それについてはべつに根拠はないし、たぶん勝手な思い込みかもしれない。だが現時点で、それ以外に思い当たる節はない。それ以外にはうまく説明がつかない。それに、そういつも、「外部からの要請」や「空虚な衝動」といった抽象的な観念で逃げるわけにもいかなくなってきた。しかし、それが事実だとして、これ以上どうしろというのか、自分には皆目見当がつかない。それは自分が恣意的にどうにかできる事柄ではないように感じられる。これまでに書かれたこれらの内容が述べていることは、必ずしも自分の主義主張が反映されているわけではない。言葉や文章が組み合わさる過程で、自ずから生み出されてしまったものを、それを自分が読みながら残すか削除するかその時々で判断し、結果として残ったものがこれらの文章として存在している。そしてその時の判断は恣意的とは言い難い。ときには、自分にとっては都合が悪いと感じられる内容であるのに、削除したいのにどうしてもできないときがある。その結果、過去からの首尾一貫性を欠いてしまうし、以前に述べた事柄の間違いが浮き彫りされてしまったりすることもある。つまり、まるで自己保存本能を無視して、現時点での状況に照らし合わせて、その状況に適合する説得力だけを追求する方向に展開してしまう。このような方向性は自分には曲げられない。自分にはどうすることもできない。その時点で書かれた文章が自分を超えてしまっている。つまり、この要求は、自分を通りぬけてこれらの文章そのものになされているわけなんだろうか。そうなると、なおさら自分にはどうすることもできない。では、どうしたらいいのだろう。途方に暮れるしかないのか。わからない。


7月5日

 何か対象が特定されている関係はないだろうか。例えば、木の幹に巻き付いた蔓性植物にはしっかりとした対象が現前していて、巻き付く対象の樹木が自身が存在し生存する基盤となっている。そして、対象となる樹木に巻き付きながら、宿主に先んじて日当たりのよい場所にその枝葉を伸ばして行くか、あるいは、日当たりが悪くても充分生存できるような能力のあるものは枝葉のない宿主の幹の部分に葉を広げるかして、宿主の物質的基盤を土台として利用しながら宿主との共生関係を築く。中には、宿主を絞め殺してその場所を完全に占有する種類もあるようだ。ともかく巻き付かれる身の樹木にとっては、蔓性植物は何の利益にならないばかりか、場合によっては自らの命取りになりかねないやっかいな存在である。だが、生物学的な意味での生存競争とは、結局のところ他者の基盤を利用して自らの繁栄を図るやり方に行き着くだろう。自給自足の道を選ぶ者は、当然それを見つけた他者にとっては搾取の対象になる。ゼロからものを作るより、すでにあるものを利用する方が経済効率が良い。というより、厳密には自給自足自体が虚構の概念である。ゼロから物質はつくれない。常に材料をどこからかかっぱらってこなくてはならない。かっぱらってきたものを加工するための道具もはじめから存在するわけではない。旧石器時代においてさえ、石器が広範囲に流通していた証拠があるそうだ。その、他の地域からかっぱらいに来る者からその地域を守るために国家が誕生した、という素朴な国家起源説があることはあるのだが、強盗が支配者となってその地域の住民からの搾取を正当化するために国家が誕生した、というこれまた素朴な国家起源説も一方にはある。どちらの起源も素朴なレヴェルでは真実なのだろう。だが、今や様々な制度や利害関係が複雑に絡み合っていて、その程度の認識では立ち行かなくなったらしい。はたして、自分たちが国家から搾取されているという認識が多少なりともある人間が、いったいどれほど存在するのだろうか。あまり本気に受けとめていない人間がほとんどなのではないだろうか。自分もその中のひとりだ。だが、その一方で、国家が自分の身や財産を守ってくれていると本気で思っている人がいったいどれほどいるだろうか。やはりこの点に関してもあまり実感のない人がほとんどなのではないだろうか。当然自分もその中のひとりだ。たぶん国家だけが対象ではないのだろう。銀行や保険会社、金持ちなら資産運用会社や税理士、顧問弁護士、防犯のための警備会社、身近なところでは家族や友人など、様々な搾取と防衛の相互ネットワークが張り巡らされている。つまり、国家に対する依存意識が希薄だからこそ、きちんと抵抗すべきところはすべきであり、今や抵抗できる余裕のある人が大勢いるはずだと思う。政治家やマスコミが一体となって煽る危機感などを真に受ける必要のない人が大勢いるはずなのだ。そういう人々こそが国家にしがみついている権力者気取りに抵抗すべきだ。


7月4日

 率直に言えば、自分は気違いにはなりたくない。普段から自分の意識の中では狂気は排除されている。激情に駆られたときも、その感情に押し流されないように、無意識のうちになるべく正気を保とうと必死になっている。そのような努力が狂気に対して有効なのかどうかは不明だが、気が狂うのが恐ろしいので、そうやって狂気を排除しているつもりであることは確かだ。だが、そのコントロールがいつまでもつかはわからない。あるとき、何かのきっかけでたががはずれて、今まで抑圧されていたものが一気に爆発するかも知れない。だが、実際にそのように錯乱したとき、はたして自分は自身が気が狂っていることがわかるだろうか。仮に病院や世間が自分を気違いと認定しても、自分にはそれがわからないかも知れない。それが狂気というものなのだろうか。狂気とは結局のところなんだろう。一般的には、狂人は自分が狂人であることを認識できないらしい。とするならば、つまり狂気とは、自分は狂っていないと頑なに信じることなのだろうか。自分にとっては、自分が狂っていないという確証を得ることは困難に思える。例えば、ちょっとした何かの拍子に、後からどう考えてみても変な行動や言動をしてしまったとき、もしかしたら自分は気が狂っているのではないかという不安に駆られてしまうことがよくある。これらの文章を後で読み返したときにも同様に感じられることが多々ある。自分にとっては、それはよくありがちなことだ。では、そうだとすると、自分が狂っているのではないか、という疑いが、まだ気が狂っていない証拠になるだろうか。そうなると、自分は絶対に狂っていない、と確信を持って言い切る人は危ないということだろうか。さらにそれを拡張すれば、常々そういう無根拠な断言癖のある人間は要注意ということになるだろうか。もちろんそれだけでは判断できないだろう。周りの人間が自分に対してどう接してくるかも重要な判断材料になるかも知れない。例えば、いやに自分を気遣ってくれたり、急に親切になったりしだしたら、自分にその兆しがあると判断できるだろうか。つまり、自分に対する周囲の不自然な気遣いが怪しいということだろうか。ただ、自分には告知されずに末期癌とかで余命幾ばくもなかったりする場合もそんな雰囲気になるかも知れない。だが、そもそも真の狂人にはそのような判断ができない可能性がある。もしそうだとすると、自分が狂っているかいないかを自分で見極めることは不可能になってしまう。そうなると、自分が狂人であるかないかの判断は、他者に委ねられることになるだろう。だが、他者の判断はそのときの気分次第で恣意的なものになるかも知れない。狂人であるかないかの境界は依然として不明確なままだ。何が狂気なのかもよくわからないのに、独りよがりで狂気を排除したつもりになっていてはいけないのかも知れない。


7月3日

 どこかの土手に花が咲く。屋上の植木は干上がってしまった。雀の死骸に蟻がたかる。夢見る人にはおあつらえ向きの季節だ。汗の塩辛さと日焼けの跡が努力を物語る。ついでに気の触れた人々がスタジアムに押し寄せる。なるほど、この世はパラダイスなのだろう。だが、快楽に満たされた感情と共に何かが押し流される。繁栄しているはずなのに、精神的にも財政的もゆとりがない。道には自動車があふれかえっているのに、現実の生活は自転車操業が当たり前の世の中だ。これでは虚栄の宴だ。虚栄の中でしか饗宴は実現できないのだろうか。だが、いくらドンチャン騒ぎにうつつを抜かしていても、毎日がカーニヴァルというわけにも行くまい。そうかといって、いったん押し流されたものを今さら拾いには行けないだろう。だから常にそれの代用物が求められる。もったいないものばかりが打ち捨てられて、代わりに粗末なガラクタをあてがわれる。しかも、大概の人はそれで満足している。ガラクタに囲まれた生活が自分の身の丈に合っていると勘違いしている。この程度で満足すべきなのか。だが、そこで満足していては、結局は何も変わらない。現実の時間ばかりが押し流される。現状を維持するのに手一杯で、権力を行使する余裕がない。制度を押しつけてくる者に抵抗する機会が見失われる。奈落の底へ落ちるのが怖くて、いつまで経ってもガラクタを捨てられないのだ。その結果、贔屓のスポーツチームの活躍を自慢している一方で、自身は相変わらず地面にはいつくばって生きていることになる。この落差はいったい何だろう。何が欠けているのだろうか。ジジェク風に言うなら、どこかでジュイサンスを搾取されているということか。それとも、何かが思いもかけないところで浪費されているのだろうか。その何かとは何か。何かとは何かでしかないだろう。それは余白であり、空隙だ。何か現状とは違うものが入り込む余地だ。まだ何も書き込まれていない余白には、人々がこれから変化する可能性がある。


7月2日

 しかし、何が明らかになるのだろう。何かの構造だろうか。それとも何か具体的な事物が印象的な固有名を伴って出現したりするのだろうか。その可能性はあまりない。そう簡単に思いがけないものに出会えるものではない。仮に何かが出現するとしても、それは壁の染みみたいな取り立ててどうということはない瑣末なものかもしれない。そう頻繁に画期的で魅力のあるものが出現したりするわけがない。大概は期待はずれに終わるものだ。だがそれで何も不都合はない。人々は飽きもせず毎度おなじみを期待する。いや、期待はしないが、そうなると安堵するようだ。ふと腕時計を覗き込む。毎度おなじみの時計の回転だ。相変わらず秒針がうるさい。たまには逆方向に回ってほしいものだ。そんな時計でも考案すれば少しは暇つぶしになるかもしれない。雨上がりの曇空を背景にして、やせ衰えた人々を見つめる。寝たきりの老人が壁の染みを見つめながら涙を流す。何か遠い過去の出来事を思い出したらしい。それは本当だろうか。いつもながらの勝手な推察だ。だいぶ前から無言の時が到来している。また雨が降ってきた。今度はどしゃ降りだ。退屈な稲光と共に雷が大音量で鳴る。なるほど日常のアクセントとはこういうものなのか。だがこの程度では何も救われないだろ う。何事も大げさでないと救われた気持ちにはならないようだ。些細なことではありがたみがない。以前から最後の審判を期待していたらしいが、その時が来ないうちに自身に最後の時が訪れたようだ。たぶんこれが待ちこがれていた最後の審判なのだろう。そんなはずはないか?期待はずれだったのか、それともこの期に及んでまだ何かこの世に未練があるのか、必死になって手足をばたつかせて何かを求めているようだったが、とうとう最後の時までそれが何だかわからず終いだった。老人の最後はたいそう苦しそうだった。死の痙攣が止んで、死体を棺桶の中に移動したら、鼻から黒い血が流れ出した。老人は現実のいやな部分を一身に背負って、周りの人々の意識に物質としての死の実体を刻みつけながら、どこかへ旅立ったようだ。この顛末において何が救いだったのだろうか。死体にも未来があるということか?たぶん、墓の中の狭い空間に黄泉の国でも出現するのだろう。


7月1日

 なぜだろう。努力とは無縁のはずが、気がつけば、結果的には多大な努力をしてしまっているらしい。べつに毎日書かなくてもいいとは思うのだが、虚無を気取って無目的や無目標を標榜しているわりには、結果的には何かに向かって何やら書いているらしい。その「何か」が何なのかはよくわからない。というよりは、いつもその「何か」を捏造しながら、その捏造した「何か」を題材として書いているようなのだ。要するに書く動機が見あたらないのであり、動機を与えてくれるような対象が見つからないので、自らがそれを創り出していることになる。つまり、書く対象を自らが創作して、その創作物を対象として書いてしまっているのであり、以前から述べている通り、それはごまかしだと思う。つまり、書く動機自体がフィクションなのだ。ということは、はじめからすべてがフィクションということになる。だがそれはおかしい、それでは、あたかもすべてが自分の内部から生まれたことになる。では、その「内部」とは何か?突き詰めれば、「内部」とは空虚のことである。それも自分の捏造物でありフィクションだ。やはりそこでごまかしを是正しなければならなくなる。そこで思考を転回し、半ば強引に「外部」を導入することになる。「外部の思考」と呼ばれるものだ。そこでは、自分とは別の人格である、他者が導き出される。とりあえず、今までここで取り上げた著作や、ここで述べられてきた内容に従うなら、より妥当性を持ちうる回答としては、その「何かに向かって」の何かとは、他者のことであり、毎日他者に向かって何かを書いていることになるだろう。だが、ここでも本当のところはよくわからない。ここに至ってもあまりはっきりしないことがある。一概に他者といっても、その対象はあまりにも漠然としている。それだけでは具体性が皆無だ。他者が何なのか、いったい誰なのか、具体的には何も特定できずに今に至っている。他者はそれほど明確な目的や目標ではないのかも知れない。他者は、目的や目標としてはっきり定めることができない漠然とした概念だ。だが、その曖昧さがつけ入る隙を形成して、現実にはその隙間において書いているのだ。余白に文字を記入していると述べるのが妥当かも知れない。つまり、常になんとでもとれる空隙を残しておくことで、そのようなはっきりしない不明確な領域において書く可能性が生まれるわけだ。そう、どんな状況でも「何かを書く」と言い逃れができる。では、その「何かを書く」の「何か」とは何なのか、と問うならば、過去においては、以下に述べられている通りの内容であり、現在においては、今述べようとしているこの文章であり、未来においては、明日以降の文章で明らかになるだろう。


6月30日

 とうとうMP3の音楽ファイルが187曲で合計再生時間が15時間18分になった。ファイルの合計容量は840MBにもなる。まさか15時間もぶっ通しで聴く暇はないが、こうして1950年代から90年代ぐらいまでの選曲をランダムに聴いてみると、音楽そのものに、ある発展する方向性といったものがあまり見られないことに気づく。それぞれのミュージシャンが互いに影響を及ぼし合うといった側面はあるだろうが、音楽そのものは進化論とは無関係なのかも知れない。確かに録音再生技術や機材や楽器のテクノロジー面での進化はあっただろうが、実際に奏でられ歌われる曲には、50年代だから稚拙だとか90年代だから最先端だとかいった認識は当てはまらない。50年代だろうと90年代だろうと、各年代ごとに稚拙なものから最先端のものまでが同時代的に共存しているのではないだろうか。現に西暦2000年に至った現在においても、粗雑なアイドル歌謡曲的なものが昔とは別の形態をとりながらも相変わらずヒットしている。自分は昔からあまり通俗的な意味での「進化論」は信用していない。とりあえずは「進化」ではなく「変化」だと思っている。様々な分野に存在する楽天的な現状肯定論者は、今現在の状況に至った「変化」の肯定的な側面を「進化」と捉えているだけで、それは自身にとって都合のよい面だけを拡大解釈する恣意的な観念だと思う。そもそも生物学的な「進化」の概念を安易に他の分野に適用するやり方自体に疑問を感じる。彼らは一様に、その「変化」に伴って生じた、彼ら自身の言説とは矛盾する不都合な側面を、無意識あるいは意図的に無視して議論を進めていく。そのような態度は大変見苦しい。そのような反省が皆無の見苦しさには耐えられないので、この間の総選挙後からテレビのニュースショーはなるべく見ないようにしているし(元から受信料は払わないが)、新聞も読まないようにしているのだが(元から購読はしないが)、この間、電車の中の週刊誌の中吊り広告に、「自民党敗北、民主党勝利」という意味の太文字を見た瞬間から、......こりゃだめだ、が脳裏をかすめて、それ以来、新聞やテレビのない日々が続いているわけだ。玉砕や撤退を転進と発表した旧日本軍の大本営発表とどこが違うのか。この点に関してはMacWEEKの彼と同意見だ。


6月29日

 濃い紫が道一面に広がる。桑の実がアスファルトの上に落ちて、そこを通りかかった通行車両が踏みつぶしていく。この辺ではもう養蚕はやっていない。畑の隅に放置された桑の木は、数十年でたちまち大木となる。何かの気まぐれで偶然切り倒されずに生き残ったその桑の木は、毎年意味もなく濃い紫の実で路上ペインティングを続ける。これもひとつのパフォーマンス・アートなのだろうか。たまたまそこを通りかかった車との共同作業だ。こういうのをコラボレーション・アートとかいうのだろうか。もはや人知を越えた芸術活動だ。もちろんそれは自分の勝手な思い込み以外の何ものでもない。そういえば、アート・イベントの会場でミルク瓶を金槌で割っていくパフォーマンスをやっていた人は未だに健在なのだろうか。アメリカの美術館では、白い液体を頭からかぶる過激なパフォーマンスが却下され、その代わりに会場のフロアに米を蒔くパフォーマンスをやったらしい。自分には理解不能だ。もちろんそれは理解するためのパフォーマンスではないのだろう。『批評空間』がなくなってしまったので、その手の意味不明なものとは縁遠くなってしまった。では、理解とは別のそのような行為にはどのような効果があるだろうか。安易なものとしては衝撃という効果がある。テレビでよくやる衝撃の映像とかいうのと同じような効果を期待しているのだろうか。確かに、パフォーマンスが行われているその場の光景が、それを見る者に何らかの衝撃を与えるのかも知れないが、だが実感としては、その手の衝撃にはすぐに慣れてしまう。その光景に遭遇した瞬間から、時間の経過とともに衝撃体験の劣化がはじまる。その結果だいぶ時間が経つと、それはあまり奇異な光景とは思われなくなる。社会の一般常識を優先させる人格が、意識の中で奇異な風景の馴致と相対化作業を行い、自己の一貫性を損なうような都合の悪い記憶には「ハズレ」のコメントをつけて封印してしまう。「ハズレ」のレッテルを貼られたり烙印を押されたら、とりあえずそこでお終いだ。復活はよほどのことがない限り難しい。だが、先ほどの美術館のフロアに米を蒔くパフォーマンスには、さほどの衝撃は感じられない。研ぎ澄まされた鋭角の衝撃というのよりは、むしろ鈍角の奇妙なねじれを感じる。様々な多面的な意味や観念が渦巻いている、そのような単純に肯定も否定もできないものが好きだ。何よりも可能性が入り込む空隙が残されている。


6月28日

 空虚な場所で何かが重なり合う。実体を持たない二つの影がひとつになる。言葉と言葉、文と文が融合する。だが、それで何らかの実質を生み出せるのか。いったい何と何を組み合わせればいいのだろうか。何か意味を伴ったものを伝えたいらしいが、何もかもがあやふやだ。効果的な意味を生じさせるような組み合わせがなかなか思いつかない。やはり、言説が存在する根拠や前提となる固定点を設定し、そこからある方向性を打ち出すためにも、何か具体的な固有名の導入が必要かも知れない。確かに固有名を取り入れると、文の内容に具体性が生じ、それに付随して何らかの意味を伴うようになり、その内容は、固有名に伴う意味を共有している人々に受け入れられ、そのような傾向の人々の間ではある一定の力を発揮するだろう。だがその力は限定された範囲内にしか届かない。その特定の意味を共有しない人々にはまるで関心のない内容になる可能性がある。もしかしたらすべてがそのような制約の中でしか意味は生じないのかもしれない。だが伝えようとする意味がより広く行き渡るように、安易に意味の最大公約数を追求したならば、それは多くの人々に受け入れられる代わりに、ただ現状を追認しているだけの八方美人で人畜無害な内容になってしまう。それでは現状を変える効果は何も期待できなくなる。ようするに、どのような場合でも何らかの留保がつきまとうということだ。はじめから純粋無垢な言説は存在しないし、意味が固定されているわけでもない。常に何かが欠けている一方で、思いもしないところで過剰な内容を伴っている。また、何らかの思惑で意味がねじ曲げられて伝わるように操作されることもあるだろう。結局はそのような元から備わっている制約や意図的な操作が横行する中で、どのような言葉にどのような意味を付加させるか、また、固有名も含めてその効果的な組み合わせを模索し、それをどのようなタイミングで打ち出すかが重要になってくる。だが、その組み合わせは見かけ上は無限だが、使用できるヴァリエーションには限りがあるし、それを打ち出すタイミングも、限定的な時空間の中で打ち出さないと、時機を逸した言説は無意味になるどころか、かえって無用な反発を招き、逆効果になってしまう場合もあるだろう。


6月27日

 これからも何も見いだせないだろう。相変わらず具体的な事物に接近できない。自然と避けて通ろうとしている。避けて通れないものには眼を瞑る。自然と防御機構が作動する。逃げ道はない。ここにあるのは何もない空間だけだ。ただ音が響き渡る空間の中にいる。ここでは何も見えない。ここからの眺めは最悪だ。視覚から入ってくる映像には辟易した。もう何も読みたくない。文字を追う視線は疲れ切っている。読む気力が著しく減退した。疲れ切って荒れ地を彷徨う。ぬかるみで靴は泥だらけだ。まだ何か他に説明しなければいけないんだろうか。これをどう説明したらいいのだろう。誰に伝えたらいいのだろう。どこに手紙を書けばいいのだろう。どこへ向かって出発すればいいのだろう。その灰色の瞳は何を訴えているのだろう。風にたなびくスペードのエースにはどんな役割があるのだろう。何が表されているのだろう。その記号はどう読まれるべきなのか。どのようにも読まれるべきだ。また読み始められるために、どんな風にも読むことができる。そして、それを読み始めると、事実と嘘から真実が形成される。誰からも否認された真実だ。これからも誰もその真実を認めようとはしないだろう。だが、たとえ誰が見張っていようと、その不快な真実を語り続ける。だが、それをいったい誰が語ろうというのか。お前か?誰も語らないが、何かが語り続ける。特定の人間が語るわけではない。人でないとしたら、では何が語り続けるのか。空間そのものが真実を語り続ける。それは、人々にはもはやノイズとしか聞こえないだろう。だがノイズの灰に埋もれて身動きがとれなくなる。そして灰が再び燃え上がる。幻の炎が人々の抱く幻影を焼き尽くす。だが次の瞬間、あっけなく灰は消え去る。風にとばされ散り散りになる。真実はただ偶然の風に惑わされるばかりだ。本当は何も燃え上がらない。幻さえ存在できない。想像力ははじめから枯れている。雑草は除草剤で枯れている。除草剤が罠だったのだ。では、次に待ちかまえているのはどんな罠なんだろう。以前の罠はどんな仕掛けだったのだろう。思い出せない。罠にはまって何もかも忘れてしまった。どこかに罠があったなんて信じられない。どこかに抜け道があるなんて信じられない。罠は罠でない。罠でないからそれが罠として機能する。だから抜け道が罠として機能する。そんなこと俄には信じられない。何も信じられない。何も信じられないから、これからも何も見いだせないだろう。


6月26日

 昔のことを蒸し返してみよう。もう何年も前のことだが、私は彼だったことがある。そのとき私は私ではなかった。私は何者でもなかった。私はただ の彼だったのである。ただの彼がそこにいた。そこにいるのは彼自身だった。私ではなく彼自身だった。そんなことがありえるだろうか。ありえたかも知れない。彼は暗い洞窟の前に立っていた。辺りは静まりかえっていた。その場の光景を思い出せない。目の前は真っ暗闇だ。空白の時が経過した。しばらく経ったが、彼は依然としてその場に立ちつくしていた。そこからどこへも行けなかった。ただ立ちつくすのみだった。他には何もできなかった。しゃがむこともできずに立っていた。身動きできなかった。彼はそこで何を見たのだろう。何を聞いたのだろう。何を感じたのだろう。何を思い浮かべたのだろう。何を考えたのだろう。水の夢を見た。水の滴り落ちる音を聞いた。水の透明な色を見た。水の冷たさを感じた。眼を閉じて目の前の洞窟を思い浮かべた。洞窟の中に入っていく彼の姿を思い浮かべた。他には何も考えなかった。何も思いつかなかった。そして洞窟に背を向けて歩き始めた。洞窟の中に入ってゆく彼の姿を思い浮かべながら、次第に洞窟から遠ざかった。なぜ遠ざかったかはその理由は判然としない。記憶はあやふやだ。ただ歩きたかったのかも知れない。洞窟が怖かったのかも知れない。洞窟の中へ入ってゆく勇気がなかったのかも知れない。だが今度は歩き出したら止まれなかった。立ち止まれずに悩んだ。煩悶した。いつしか止まれない自分に腹が立った。歩くのに飽きた。ただその場に立ち止まって、永久に立ちつくしていたかった。しかし勝手に足が動いて、気がついたらその場から遠く隔たっていた。そして自分がどこにも留まれない運命を悟った。だがそれを悟った瞬間に自然と立ち止まることができた。悟りそのものが解消してしまった。今度は悟ったことが無意味になってしまった。自分は今まで何をしてきたのだろう。何かをやってきたらしい。何もやってこなかったのかも知れない。無駄なことを積極的にやってきたのだろうか。自分の中ではすべてが無意味だ。自分から遠ざかれば、何か意味が見つかるかも知れない。


6月26日

 もし、今流行の17歳が どうのこうのとか言っている幼稚な議論を真に受けている人がいたら、是非『ミシェル・フーコー思考集成 IV』の「98 善悪の彼岸」(133ページ)におけるフーコーとフランスの高校生との対話を読んでほしい。今の日本の現状を考えると、三十年前の当時、なぜあのようなレヴェルで高校生とフーコーの対話が成り立つのか自分には理解できない。それを読めば、今の日本の高校生の知識のレヴェルなど問題外なのは当然のこととしても、今の日本の知識人の平均レヴェルが当時のフランスのエリート高校生にさえ遠く及ばないことがよくわかるだろう。そこから少しだけ紹介しておこう。
ジャン=フランソワ 君のリセでは、例えば、親が労働者という生徒の割合は高い方ですか?

アラン 五割弱かな。

ジャン=フランソワ 歴史の授業で労働組合の話は?

アラン うちのクラスではありませんでした。

セルジュ 僕のところも同様です。カリキュラムを見ればわかります。低学年では過去のことしか教わりません。現代の運動や学説、ほんの少しでも反体制的な匂いのするものにたどり着くのは、十六、七歳になってからです。第三学年[=十四歳]になっても、国語の教師たちは頑として現代の作家を取り上げようとはしません。現実生活に関わりのある様々な問題については、一言もなし。そういう事柄にちょっとでも触れるのは、第一学年[=十六歳]か最終学年[=十七歳]になってからですが、その頃にはもう、それまでの教育ですっかり型にはめられています。

フーコー それこそまさに、現にいま言われ、為され、起こりつつあることを読解する原理-つまり、選別と排除の原理です。「生起することすべてのうち、きみが理解、いや関知できることといえば、過去において入念に抜き取られたものによって理解可能にされたことだけだ。そして実のところ、それが抜き取られたのは、その他の部分を理解不能にするためでしかない。」真理、人間、文化、エクリチュール、等々、その時々で呼び方は異なりますが、それらの形のもとに語られてきたのは、つねに、生起する事、すなわち出来事を払い除けることなのです。いわゆる歴史の連続性というものが、説明する機能を、フロイトやマルクスへの永劫「回帰」が、根拠づけるという機能を、それぞれ、明らかに担っているのです。いずれにせよ結局は、出来事という断絶を排除することが主たる目的です。大雑把に言ってしまえば、出来事と権力こそ、この現代社会において組織されている知から排除されたものなのです。これは、驚くにはあたらないことでしょう。というのも、(この知を決定する)階級の権力は、出来事など寄せつけぬものとして現れねばならないのですから。そして出来事は、危険であるがゆえに、名を与えられていない階級の権力がもつ連続性のなかで屈服させられ、崩壊してゆくしかないのです。では、プロレタリアートが展開する知はどうでしょうか。そこで問題となるのは、権力闘争、つまり、どのようなやり方で、出来事を惹き起こし、それに応え、それを回避するか等々といったことなのです。この知は前者とは絶対に相容れないでしょう。それは権力と出来事の周辺に焦点を当てているのですから。

 そういうわけで、教育の近代化に、今日の世界に対して教育を開くことに、幻想を抱くべきではないのです。教育の近代化において重要なのは、「ヒューマニズム」の伝統的な古い基盤を維持し、そして、いままで疎かにされてきた若干の近代的技術の迅速かつ効果的な修得を促進することなのですから。ヒューマニズムは社会組織の維持を保証し、技術はこの社会の発展を可能にしますが、それはあくまで、その固有の路線に沿ってなのです。

ジャン=フランソワ あなたのヒューマニズム批判とは、どういったものなのでしょうか。また知の伝達方法が異なる場合、どのような価値が、その代わりになるのでしょうか。

フーコー わたしの言うヒューマニズムとは、人々が西洋人に語りかけてきた言語の総体を意味しています。「たとえ権力を行使しなくとも、お前は主権者たりうる。いやそれどころか、権力を放棄すればするほど、また、何かを強制してくるものに従順であるほど、より一層お前は主権者となるだろう。」ヒューマニズム、まさにこれこそ、隷従する主権者を次から次へ捏造してきた当のものであり、魂(肉体に対しては主権を有し、神に従う)、意識(判断の秩序においては主権を有し、真理の秩序には従う)、個人(自らの諸権利については法的に主権を有し、自然の法則や社会の規則には従う)、基本的自由(内面的には主権を有し、外面的には自らの運命に同意し、これを認める)などがそれなのです。ヒューマニズムとはつまり、西洋において、権力への欲望に消去線をひくために-権力を欲することを禁じ、それを手に入れる可能性を排除するために用いられてきたものすべてを指す言葉であって、その中心を占めるのが、([主体=臣民]という)二重の意味を持つ語としての主体の理論です。それだから、西洋はかくも執拗に、この閂をこじ開けようとする手を片端から払い除けるわけです。この閂を攻めるには、二つのやり方があるでしょう。一つは、権力への意志の「脱従属化」(つまり、階級闘争として為される政治闘争)によって。そしてもう一つは、擬−主権者(pseudo-souvrain)としての主体を破壊する企て(これは文化批判と換言することも可能です。ダブーや制限、性差別などの廃止、共同生活の実践、ドラッグに対する規制解除、そして規範に従う個体性が自らを再編成し、更新するための、あらゆる禁止と閉鎖の破壊など)によるものです。そこで脳裏に浮かぶのが、われわれの文明がつまはじきにしてきた経験、文学の要素としてしか許容しなかった経験の数々です。

ジャン=フランソワ ルネッサンス以降のことでしょうか。

フーコー ローマ法以降ですね。われわれの文明の骨格ともいえるローマ法においてすでに、個体性は従属する主権と定義されています。私有財産制度が含意しているのは、所有者とは、彼の財産の唯一の主人であるが、それを活用するにせよ、悪用するにせよ、つねにみずからの所有の根拠となる法の総体に従うものだ、という考え方です。ローマの体制は国家を構造化し、所有を根拠づけていました。それは、権力を握る人々のみが行使し得る所有権という至高の権利を定着させることで、力への意志を従属させたのです。このやり取りにおいて、ヒューマニズムは制度化されました。

ジャン=ピエール 社会が構築するものは、すべてが巧みに支え合うようにできているようですね。社会とはその本質から言って、抑圧的なものではないでしょうか。自己を再生産し、自己の存在に固着しようと必死なのですから。いかに闘うか-われわれの相手は、保存と進化というひとつの一般法則が支配する不可分の包括的組織なのか、それとも、ある階級にとっては万物の秩序を維持する方が得であるのに対して、他の階級にとってはそれを覆す方が得になるような、より分化したまとまりなのか。わたしには明白な答えが出せません。第一の過程には同意し難く、また第二の過程は単純に過ぎるように思えるので。事実、社会体内部の相互依存というものがあり、それによって社会は自らを永続させているのです。

フーコー 五月革命は、ある本質的な答えをもたらしました。教育の管理下に置かれ、保守主義や反復といった負荷に様々な形で拘束された諸個人が、革命的な闘争を展開したのです。こうした点からも、五月革命において開かれた思想がもたらした危機は、きわめて意義深いものと言えます。これによって社会は困惑のうちに投げ出され、窮地を脱しようにも打つ手を見いだせずにいたのです。

ジャン=ピエール ヒューマニズムと社会的な抑圧を結びつける手段は、なにも教育に限りません。仕掛けは他にもあります。それも教育より根本的なものが、学校の前やその外に。

フーコー まさしくその通りです。行動の場を大学の内部にもつか、外部におくか、それは、私のように長年教鞭をとってきたものにとって、ジレンマのひとつです。五月には大学は崩壊したと考えるべきでしょうか、問題は解決されたのだ、と。そうして、わたしも活動を共にしている数々のグループが現にしているように、他処へ視点を移すべきなのでしょうか。つまり、監獄や精神病院、司法、警察などの制度における抑圧に対する闘争へと。あるいはそれは、わたしを未だに悩ませているある明白な事実、つまり、大学の構造は旧態依然としており、この場で闘い続けねばならない、という明白な事実から目を背けさせるための方便に過ぎないのでしょうか。(『ミシェル・フーコー思考集成 IV』 136ページ〜139ページ)
 内容についてはいろいろ意見があると思うが、あらためて、ここで断っておかなければならないことは、フーコーと対話しているのは、テレビによく登場する訳知り顔の教育関係者やマスコミ関係者ではなく、単なる学校の生徒である。今の日本でこのような対話が成立するとは到底考えられないだろう。しかも驚くべきことに、フーコーは学生たちを自分と対等の人間として扱っている。そしてさらに、恥ずかしいことには、現代の日本の教育関係者やマスコミ関係者の意見は、フーコーが学生相手に悪い例としてあげている、「教育の近代化において重要なのは、「ヒューマニズム」の伝統的な古い基盤を維持し、そして、いままでに疎かにされてきた若干の近代的技術の迅速かつ効果的な修得を促進すること」、この例を一歩も外にでない意見であることだ。そして、まさに昨日の総選挙での結果は、日本の有権者が総体としては、「たとえ権力を行使しなくとも、お前は主権者たりうる。いやそれどころか、権力を放棄すればするほど、また、何かを強制してくる者に従順であるほど、より一層お前は主権者となるだろう」、とフーコーが規定した、西洋を体現する国民主権のヒューマニストそのまんまだということだ。まさに今の日本は、人々の行動様式や思考形態までが西洋の悪しき下僕と成り下がっているのかもしれない。


6月25日

 無い物ねだりの果てに見つけたものは所詮こんなものなんだろう。くだらぬ縄張り意識とともにみすぼらしいものを必死になって守ってきた人々はせいぜい意気消沈してほしい。むしろこの期に及んで意気盛んなのか。勘違いにもほどがある。決起の炎など幻想に過ぎない。そもそも決起する対象が不在だ。本来なら自分たちこそが真っ先に滅ぼされる立場なのに、過度な言葉と映像による装飾によって虚構の偶像をでっち上げ、自分たちを滅ぼす対象に向かって、その捏造物の専横に異議を唱えるために今こそ決起しろと呼びかけているのだから、はじめから物語の設定自体にかなりの無理がある。彼らは、自分たちこそが虚構の捏造物であり、情報統制によって人々を搾取していることに気づいているのだろうか。だが、だいぶ前から、多くの人々はこの自作自演のみすぼらしくも馬鹿馬鹿しいからくりに気づきはじめた。だまされているのは自分たちだと気づきはじめた。あいつらのいいように振り回されるのにはもううんざりだ。もはや決起を呼びかけている人間こそが欺瞞の徒であることは一目瞭然である。日頃は単なる気晴らしの娯楽でしかないものが、その時だけ真剣になってほしいと呼びかけること自体が欺瞞以外の何ものでもない。ではそのような欺瞞が白日の下にさらされたとき、彼らはどうしたらいいのだろう。所詮娯楽は娯楽以外の何ものでもないということならば、人々を白痴にするために娯楽はあるのだから、その時だけの無い物ねだりの真剣顔はやめて、本来の大衆白痴化計画に沿った娯楽そのものに徹してほしい。だが、もちろんそんなことはやらないだろう。真剣顔こそが究極の仮面であり、白痴的娯楽を広めるための言い訳として常に保持しておくべきものだからだ。欺瞞を隠すための免罪符として時折その仮面をちらつかせ、普段は馬鹿なことをやっている自分たちも、ちゃんと世のため人のために社会に貢献しているとアピールするわけだ。だがそれでも構わない。それでもなおのこと、それはそれで仕方のないことだ。無抵抗だ。多くの過ちとともに授けられた究極の過ちは、無抵抗だ。それでいいだろう。


6月24日

 炎のイメージは扱いにくい。炎はイメージではない。イメージそのものをすべて焼き尽くす力がある。扱いやすいのは火が消えた後に残る灰だ。灰のイメージには退廃への誘惑が備わっている。灰には炎のような力はない。燃えかすだからだ。実用としては山菜のあく抜きに使える。ちょっと不謹慎だが、誰もが内心では炎がすべてを焼き尽くしほしいと願っている。燃えかすの灰と戯れるためには、その前に炎の力が必要不可欠だ。だが、自力で炎を創り出すことはできない。放火魔は罪に問われる。だから、誰か他の人に放火魔役をやってほしいのだ。そして犠牲の十字架にかけられてほしい。つまり救世主とは放火魔の別称だ。そういう危険な役は誰も引き受けないだろう。だが火事場の野次馬なら誰もがやりたい役だ。燃えさかる炎に見とれていたい。すべてを焼き尽くす炎の力を安全地帯から見物したい。テレビニュースの災害事故現場映像を安全なお茶の間から見物するのと同じことだ。だから臨場感あふれる実況生中継の価値は高い。スポーツにしろあるいは他のイベントにしろ、人々はそうしたライヴ映像を求めている。だがその一方で、自らの昂揚を馴致すべく、すぐさま灰と戯れる。その燃えかすの灰とは何だろう。編集済みの録画映像や事件や事故を題材とした語りや批評のことか。人々はそうした口当たりの良い、あく抜きされたものに安堵する。だが、そうした偶然性を極力カットした調理済みのものはエントロピーが高い。灰は変化しづらい。結局人々は、炎を忘れ、灰と戯れて退廃することになる。安全地帯にいる限り、最終的には灰に依存して生きてゆくことしかできない。いつまでも単なる見物人の地位に甘んじていることしかできない。だがそれは幸せなことである。誰もが幸せになりたい。それが灰の力かも知れない。時が経てば跡形もなく消えてなくなる炎より、いつまでも執拗に残り続ける灰の方が恐ろしい。


6月23日

 数限りない失敗の経験ばかりが積み重なる。同じ過ちを何度も繰り返すばかりで、ちっとも先に進まない。その進歩の歩幅はほんの微々たるものでしかない。別にそれほど過大な成果を求めているわけではないのに、必ず何らかの不具合に直面し、そこで立ち往生してその先へ進めなくなる。現実は最小限度の慎ましい成功さえ許さない。放っておくと、もしかしたら誰かに呪われているのではないかと、意識は自然にありもしない被害妄想へと逃避しようとする。それでも、なんとかかろうじて精神的には踏みとどまっているのだが、まったく、強制的に途方にくれさせるために現実が存在するみたいだ。徹底的に思い通りに行かないということについては、まさに感動的でさえある。実際に感動した。そしていつのまにか、次から次へと自分の行動を邪魔しにやって来る現実に愛着さえ覚えるようになった。順風満帆な人生を送っている人がどこかに存在するなんて到底信じられない。比較的うまくいっているときには、必ず思いもよらぬ落とし穴が待ち受けており、あまりうまくいっていないときには、さらなる袋小路が待ち受けていて、本当ににっちもさっちもいかなくなる。そうなると、毎日神に祈っている人の気持ちが痛いほどわかるようになる。宗教はそのようなどうすることもできない不幸によって支えられているのだろう。人々は、もはや神に祈るぐらいしか手だてのない、自分たちの能力を超えたどうしようもない現実に否応なく直面してしまうわけだ。なぜだろう。やはりそれが当たり前なのか。まあ、物事の見方や考え方をもう少し肯定的な方向へずらせば、今よりはだいぶポジティヴな人生を送ることができるという意見については、それはよくわかる。そうしたいのはやまやまだ。小さいことにくよくよするな、少々の不都合には目をつぶってもっと気楽に生きていこう、自分の能力を超えている事象についてはさっさとあきらめて、自分のできることからこつこつやっていこう、と、容易な対処法はすぐに思いつく。では、なぜそれをやらないのか。思いついたが吉日で、今からでも遅くないから、すぐに軌道修正しようじゃないか。それができれば苦労はない。だがその一方で、それとは別の見方もある。わざと悲観論や被害妄想を装っているだけで、本当はそれほど真に受けてはいないのではないか。ようするに深刻ぶっているのは同情をひくための単なるポーズに過ぎないのではないか。その可能性もなきにしもあらずだ。まあ本当のところはよくわからない。これは書かれた文章だ。必ずしも本心を書いているわけはない。もしかしたら気晴らしや気まぐれでこんなことを書いているのかも知れない。


6月22日

 その写実的な油絵の画布上には焦げ目が数カ所ついている。煙草を押しつけたような痕だ。その絵の作者あるいは持ち主には、何か気に入らないことでもあったのだろうか。またひび割れが画面の全体にわたって入 り、所々剥落した箇所もある。その他には、埃だらけの薄汚れた画面からは、よくありがちな驚きや感動はそれほど伝わってこない。ただ無造作に、花を生けていないガラスの花瓶が、真正面からの光線を受けて画布のど真ん中に描かれている。だが、もしかしたらそれは花瓶ではなく、単なる置物かも知れないが、勝手に文章表現にひねりを加えたくて、描かれているものを花を生けていない花瓶と見なしてみた。その花瓶と見なされる置物は、透明のガラスの中に赤の色ガラスが溶かし込まれたタイプで、いびつな凹凸面が瓶底から開口部に向かって波打ちながら広がっていて、瓶全体としては歪んだラッパを形作っている。たぶんそれほど珍しい型の花瓶ではないだろう。また、なぜそれを描いたのか推測してみると、それほど積極的な理由はないように思える。おそらく習作として描いたとするのが無難な見方だろう。実際、何の変哲もない写実的な静物画である。たぶん無名の画家が描いた絵だ。何やらミミズがのたくったような署名の痕跡が微かに窺えるが、その部分の剥落が激しく、作者の名前を読みとることは無理のようだ。その保存状態のよくない絵は、空き家を打ち壊したとき、解体業者が瓦礫の中から見つけたものだ。今では物置の中の壊れたオルガンの横に埃をかぶったまま立てかけてある。おそらく、このまま永久に日の目を見ないまま朽ち果てるのだろう。そんな絵につまらぬ幻想を抱くわけにもいくまい。ありのままの現実をそのまま受け入れよう。だが、それでは夢のない話だ。感動できない話だ。それでは物足りないだろうか。では、絵の中の花瓶に真っ赤な薔薇でも挿してみようか。その絵をデジタルカメラで撮ってパソコンに取り込んで、画像ソフトでひび割れや剥落部や色のくすみを修正して、きれいになったところに真っ赤な薔薇の合成画像を貼り付けてみようじゃないか。それこそ夢のない話かも知れない。


6月21日

 もし自分が凶悪犯罪の被害者になったら、そしてそのとき、かろうじて殺されずに生き残ることができたなら、たぶんその犯罪に対してやりきれない思いに駆られるだろうし、癒しようのない心の傷を抱えてしまうかも知れない。場合によっては加害者を憎むだろうし、復讐心も芽生えるかも知れない。また、親兄弟や知り合いが犯罪に巻き込まれても、状況によっては同様な思いに駆られる可能性はある。だが、被害にあった人が、自分とは面識のない赤の他人だった場合、同情はするかも知れないが、たぶん犯罪者を憎む気にはならないだろう。もちろん裁判所が判決を下す懲罰以外に、さらに社会的制裁を加えようなどという気も起きないだろう。逆に、その人が受刑者の立場になった時には、その過酷な境遇に同情したくなる。刑務所の劣悪な環境で何年も拘束されると、更生するどころか、かえってさらに荒んだ人間になってしまうのではないかと心配になってくる。また、死刑囚に科せられる絞首刑はかなり残忍なやり方だと思うし、理性あるまともな人間のやる所業ではないとさえ思う。たとえば刑務所を出所した後に被害者を逆恨みして殺してしまう人とかは、今度犯罪を犯せばさらに重い罪に問われることを十分承知して、覚悟の上でやるわけだから、やはり、殺人を覚悟させるに至るような刑務所内での受刑者の扱いが問題なのではないかと思う。確かに罪を犯した人間は、それが公に発覚した場合、それ相応の罰を受けなくてはならなくなるわけだが、その罰がさらなる怨恨を生むような罰であってはならないということだろうか。また、マスコミが被害者の肉親の憎悪に凝り固まった感情的な恨み節をセンセーショナルに報道しながら、加害者に対してさらに追い打ちをかけるように鬼畜生だ死刑にしろと罵倒している最中に、また別の凶悪事件が発生してしまう現状を考えると、マスコミを中心として加害者の両親にまで謝罪を強要するような社会的制裁のありかた自体が、あまり犯罪抑止の効果がないどころか、その事件のあらましを詳細に伝えることから、それの模倣犯まで生み出してしまう悪循環に陥っている。はたしてこのような状況そのまま放置しておいていいのだろうか。だが、こんなことを述べると、何偉そうなことを言ってやがる、という反応を呼び込むだけなんだろうか。


6月20日

 この期に及んで何か救出すべき事物があるだろうか。しかし誰が救出しようというのだ。まさか自分がやらなければならないのか。はたして自分に救出可能なものがあるのか。それに、なんで、誰に頼まれたわけでもないのに、自ら進んでくだらぬ救世主役を買ってでなければいけないのか。やはりこれは冗談の一種か?たぶんそうだ。そういうわけで、しばらくこの与太話につきあわねばならないということか。で、何をどうやって救い出すつもりなのだ。そもそも、今危機に陥っているものとは何なのか。やはりそれは今流行の議会制民主主義というやつか。それはやめておこう。結果は結果として厳粛に受けとめるべきなのかもしれない。それほどの危機意識はないし、関心も進歩的マスコミの期待するほどはない。とりあえず明日不在者投票に行って来よう。しかし選挙間際になると、必ず、政権交代のハードルを高くする狙いで、政策がどうのこうの騒ぎ出す人々がいるが、毎度の事ながら、あまり真に受けることはできない。現時点での不況や財政破綻の責任をとらせたいのなら、政権交代させるために野党側に投票すればいいだけだ。でも、今の野党に政権担当能力がないと言うのなら、それは、これまで頻繁に政権交代をさせることによって、政権担当能力のある野党を育ててこなかった有権者の責任だ。政権交代か政権担当能力かのどちらを重視するかは、鶏が先か卵が先かの議論でしかなく、一応は国民主権がたてまえなのだから、国家がどうなろうと結局は国民がその責任を負うしかない。そんな簡単なことさえわからないのなら、政策以前の問題で、馬鹿な有権者に何を言っても無駄だろう。だが、今のままの政権でも取り立てて不都合はないだろう。ただ今まで通りの政治が繰り返されるだけだ。それでも構わないとは思う。このまま国民が政治に何も期待しない状況が定着すれば、国家権力そのものが衰退して、かえって人々の間に国家に頼らない自主独立の風土が育まれるだろう。とりあえず国家そのものは安楽死してほしいので、それならそれで構わない。だから今さら議会制民主主義など助けるには及ばない。もちろん自分一人で助けられるものでもないが(笑)。


6月19日

 見上げれば空ばかりだ。どこまでも空が広がる。どこまで眺めても限りがない。普段は空など見上げはしない。ひまがないからだ。今も空を見上げるひまがない。というか、見上げる機会がないのだろう。それに今見上げても夜だから真っ暗だろう。しかし、なぜ空を見上げるのかはよくわからないが、何かのきっかけで、ふと空の存在に気づくときがある。しかし気づいたからといって、それを見上げてどうなるわけでもない。ただ空の存在とその広さに気づくだけのことで、取り立てて他に何か特別な効用があるわけでもないだろう。まあ無理に理由をつければ、消極的な気分転換といった類になるだろうか。それではつまらないか?では、それを何らかの積極的な行為に結びつけなければならないだろうか。今ここで何らかの説得力のある意見を捏造しなければならないだろうか。それでは、この空の広がりを未来に託そうじゃないか。いきなり何を述べているのだろう。空の広がりを託す意味がよくわからないのだが、未来に何かを託すとは、いささかロマン主義的な発想だ。しかも、それがよくありがちなきれいな空気や水などではなく、ただの空の広がりを託すということは、結局は何も託さないのと同じことかも知れない。託すも託さないも、未来にも空は存在するだろうから、そんなものはわざわざ託すには及ばないものだ。そもそも、それを誰に託せばいいのかわからない。託すべき対象が不在だ。誰も真に受けてくれないような気がする。それどころか、正気を疑われるかも知れない。だが、他に何か未来に託すべき特別なものを守っているわけでもないし、現代において、自分が積極的に保護すべきものは何も見あたらない。すべてが移ろいゆくものばかりだ。たぶん、実際は無意識に何かつまらないものを守っているかも知れないが、それは、偶然の成り行きで気まぐれに守っているに過ぎず、守る権利もないのに行きがかり上なんとなく守っているだけで、次の瞬間には消えてなくなるようなはかないものだ。だからそんなものをことさら未来に押しつけることもあるまい。だから、ことさら自分が守らなくても維持されるもので、未来にも確実に存在するものを未来に託そうじゃないか。この空の広がりを未来に託そう。


6月18日

 気まぐれに空想する。いつまでたってもここに留まっている。どこかへ行こうとすると、なぜか元来た道を引き返している。要するにどこへも行けないのだ。いや、実際にはどこかへ出かけたのかも知れないが、常に途中で折れ曲がる。挫折というやつだ。暇つぶしに途中で折れ曲がる。挫折が好きなのかも知れない。そうして気がつくと、必ずここへ戻ってきている。ここが好きなのだろうか。遠くを眺めるのが好きなのだろう。ここは見晴らしがいい。木の切り株は北を向いていた。木はだいぶ前に切り倒されたらしく、今では白蟻の巣だ。辺りにはただ雑草が生えているだけだ。気分転換にサイコロを振ってみた。気まぐれに道が折れ曲がる。枝も折れ曲がる。どこまでも折れ曲がる。刃先はすでに欠けていた。柄も折れているので使い物にならない。まもなく衰えた人々の散歩の時間がやってくる。どこで彷徨っているのだろう。堂々巡りの果てには何がある。たぶん何もないだろう。わかりきったことを訊かないでほしい。単車の若者は駅前のロータリーをぐるぐる回っていた。早朝に夢遊病者が散歩する。昼間は人通りがない。夕方には車の往来が激しい。排ガスで肺ガンになった国道沿いの人は無口だ。すでに数ヶ月前に葬式を済ませてある。今では墓の中に納骨されているので口がきけない。火葬のおかげで口そのものがない。先ほどの夢遊病者はどこかで折れ曲がったらしい。折れ曲がった先は一本道だ。途中の坂を上っていくと、冷たい道は丘の上の畑で途切れる。そこで罪人と一緒に磔刑に処せられたわけでもないだろう。見捨てられた人々は自由人だ。その男は、十字架に張り付けられてからやっと神に見捨てられたことに気づいたのだそうだ。鈍感な男だ。気まぐれで利用されていたわけだ。で、当然のことながら、気づいたときにはもはや手遅れで、何も奇蹟は起こらないし、結局は何もできずにただ死んでしまった。雑草は先週撒いた除草剤で枯れてしまった。鎌で刈る必要はなくなった。枯れ草に囲まれて腐った木の切り株が残った。そこは何も生産されない土地になった。なぜ荒れ地が好きなのだろう。なぜか荒れ地に留まり続ける。しばらくしたら、また雑草が生えてくるのだろう。


6月17日

 自然とはどのように生成するのだろう。反響音が微かに聞こえる。どこかに空洞があるらしい。そこで響いている空気の振動がどこかへ伝わる。自然は自然には生まれない。だから自然は保護されるべき貴重な環境なのだそうだ。一旦荒らされた自然環境は二度と回復しない。だがそんなものは自然ではない。どうやら現実の自然と別の自然が混じり合っている。人間が保護するような環境は自然環境とはいえない。それは庭園や盆栽の延長上の自然だ。それはどのようなニュアンスで使われる自然なのだろう。それは政治的言説用の自然なのだろう。正義の徒は自然環境を守りたい。だから都合のいい自然は守られる。だが都合の悪い自然は人々の目のかたきだ。人間が作り出した環境から派生した野良猫やカラスはいやがられる。希少価値がない。それどころか人々に危害を加える。何が言いたいのだ。たぶん空洞について語っているのだろう。なおも反響音がこだまする。ユダヤ人も希少価値がない。イヌイットでなくては意味がない。誰が同志なのかわからなくなる。だがアメリカ人はありふれている。希少価値とは無縁の存在だ。同じ猫でも、対馬や西表島にいる山猫には希少価値がある。同じ日本に住んでいても地域差があるということか。金とダイヤモンドを比較できるだろうか。何が金で何がダイヤモンドなのだろう。近所の野良猫は何にたとえられるのだろうか。どのようなたとえなら納得してくれるだろうか。近所の野良猫はユダヤ人か?それともアメリカ人か。では早朝にゴミを食い散らかすカラスは日本人か。黒猫でも白猫でもネズミを捕る猫は良い猫だ。中国の指導者はそんなことを言ったらしい。では役立たずのカラスは厄介者か。こだまの正体はそんなたわいもないことなのか。遠くの山並みが無言でうなずく。何かを肯定しているらしい。だが何か肯定されているのかわからない。チベットのラマ僧は日焼けしている。だがチベットに庭園があるだろうか。枯山水には感動できない。禅僧の問答には飽きた。どちらも奇形の自然に属する。では、どんな自然なら感動するのか。自然崇拝に感動できるか?大木を崇拝することと、滝を崇拝することの間に、どのような類似点を指摘できるだろうか。禅問答とはそういうものなのか。崇高さとはほど遠い問答だった。すべてが入り混じっている。


6月16日

 すぐ近くに逃げ水が映るアスファルトに面して猫が佇んでいる。通りの斜め向かいの公園を覗き込む。前方の信号をにらみながら急いでいる。せわしない早歩きだ。通りですれ違いざまに何かがこぼれ落ちた。それはビー玉でもパチンコ玉でもない。小銭が道に散らばる。公園のベンチに老人が佇んでいる。猫と老人の視線が交差する先にコンビニがある。幼児がコアラの形をした菓子を食べていた。ユーカリの木は成長が早いらしい。忘れた頃にコーラが飲みたくなる。公園の木は毛虫だらけだ。枝分かれした幹の途中に何かがひっかかっている。コンビニのポリ袋だ。雨上がりの空に虹が架かる。そんな光景をテレビのブラウン管越しに眺める。ブラウン管から虹色の光線が飛び散る。光が散乱した彼方に別の光源が存在する。空の彼方から太陽の炎が放射される。乳母車から火を吹く竜の絵本が落ちる。エルマーという名の少年の冒険譚だろう。ここは風景だけの世界だ。遠くの青い森が熱い空気を透して揺らめく。爆音が近づいてくる。車の中のサングラスが何かを訴えかける。おおかた自分の車と横に座っている彼女を見せびらかしたいのだろう。オープンカーとはそういうものなのか。心地よいスピーカーの振動に充たされているようだ。街宣車の右翼と似た部分もある。少年の心の拠り所は反発にある。青年の拠り所は車と彼女か。では、中年の拠り所が会社で老人の拠り所が死か?青竹がしなり、雀の群が飛び立つ。中国では生まれ変わって鳥になった話は多い。爆音がさらに近づいてくる。すべてが航空機の爆音にかき消される。夢のまた夢の先に何があるのだろう。見上げれば、高圧線の鉄塔が空を切り裂いてそびえている。海を切り裂いてモーゼは逃げたそうだ。機影は見えないが、爆音はまだうるさい。風がない。のどが渇いた。ようやく辺りが静まりかえる。たとえ世界が粉々に砕け散っても償いの時は来ないだろう。因果律をぶち破ってすべてが偶然に支配されるとき、人々は歴史の厳しさに直面する。独りよがりの復讐心が誰からも見向きもされなくなったとき、自分たちの愚かさを悟るだろう。だが、その時は来ない。だから、死ぬまで自分で自分を裏切り続けることしかできない。


6月15日

 どこまでも行く気はなかったのにここまで来た。どこへ行き着くのかも知らずに、どこへ向かっているかもわからずにここまで来たが、いったいここがどこなのかわからない。とりあえず、ここで何をやればいいのか。何もやる気がしない。やる気はしないが何かが書かれる。彼は今頃どこで何をやっているのだろうか。相変わらず神出鬼没だろうか。相変わらず何かを探し求めているのだろうか。荒れ果てた廃墟の中で何を探しているのか。知りたいことは山ほどある。どうしてなのか教えてほしい。どうして旅を続けているのかを。その旅はどこで終わるのだろうか。どこかで立ち止まる日が来たりするのだろうか。もしその日が来たとして、そこでどうやって終わればいいのだろうか。朝になれば跡形もなく消えてなくなるというのなら、夜明けはいつやって来るのか。やがて朝が来て、一度も逢ったことのない人に微笑みかける日がやってくる。そこで何かを思い出す。まだ何かを覚えているらしい。あの時の記憶の断片が不意に訴えかける。どうか蘇らせてほしい。あの鮮明な出来事をここに再現してほしい。十字架の下で誓った約束を覚えているだろうか。忘れているのなら思い出してほしい。そしてここで、今こそあれを履行してもらいたい。あの約束を実行してもらいたい。今さらあれはできない。できない代わりに、あのファルセット・ヴォイスでも思い出してほしい。とりあえず、ウエイン・ショーターの「ネイティヴ・ダンサー」でも聴いてほしい。そこで遠い記憶 に出会う。「砂浜の岬」に出会うだろう。以前、そこを通り過ぎたはずだ。あそこを通り過ぎたあと行方知れずになった。それはもう二十年以上も前の話だ。だが自分は最近それを知った。かなりの年代差がある。今さらあれは再現できない。もう後戻りはできない。美しい思い出は永遠にあそこで立ち止まっている。どんどん自分から遠ざかって行くのみだ。なぜそうなのか、誰か教えてくれるだろうか。いや、教えてくれなくてもいい。昔に立ち戻るのが面倒くさいのだ。彼は永遠に荒れ地で何かを探し求めているだけだろう。二十年以上も前の荒れ地に留まっている。今さらあそこへ行く気にはならない。


6月14日

 今、世の中に生じている様々な現象の中で、いったいどこに焦点を合わせるべきだろうか。日常の真理に?そんな真理が存在するのだろうか。かなりおかしな問いの立て方だ。あまりにも唐突で漠然としている。何を言いたいのかよくわからない。つまり、日常生活の中に埋もれていて、普段は覆い隠されていて人々に気づかれないものに光を当てれば、そこから何か真理が見えてくるということだろうか。だが、普段は気づかれないものにどうやって気づけばいいのだろう。また、それに気づいたとして、その中から何を探し出せばいいのだろうか。その中の何が真理なのか見極められるだろうか。すべては想像の域を出ないので、大抵はそこで行き詰まる。そして、その行き詰まりを打開するために、結局は苦し紛れにフィクションを導入する。これまた想像上の心理的な内面の世界を構築することになる。その想像的に構築された内部の世界が真理を見つけるための探求の場所となるわけだ。それはどこまでも仮の場所である。決して現実の場所にはならない。そして、その中のどこからも見えない心理的な内部の一点に焦点を合わせる。そうやって現実にはありえない内部の場所から、さらなる想像上の探求が展開して行く。そこから見える世界の全体はどんな風に見えるのだろうか。例えば、それがただのありきたりな日常の風景に見えるのだろうか。想像上のありえない内部の一点からありきたりな現実の日常が見えるとしたら、その日常の風景は虚構ということになるのか。いや、それが日常の真理だ。退屈な日常を忘れるために虚構の現実へのめり込んで行くことが、日常の真理へと行き着く。理解できない世界を理解したいという無理が、勝手な思い込みを生じさせる。その思い込みや迷信で世界を理解したつもりになりたいわけだ。では、それ以外に世界を理解する手だてはないのだろうか。たぶん想像以外で世界を理解することは困難かもしれない。それが科学的な方法であっても、結局は観察され計測された数値から世界を想像している。そのような客観的とされる世界は、物理的な距離や時間や力学的・電磁気的・量子的な相互作用の範囲内に限定される。あるいは生物学的な世界も想像できるだろうが、それも限定的な分野でしか通用しない世界観だ。とりあえず世界を理解することは困難であり、理解したと思っている世界は想像上の世界である。そしてその想像上の世界は不確実である。自分の理解している世界と他人の理解している世界は違うと想像できる。それがどのようにずれていてどこが食い違っているのかも想像の域を出ない。お互いにディスカッションして合意し差異を埋めても、なお違和感が残るだろう。だがそれをやり続けなければ、世界について何も理解できない。それをやらないと、永遠に思い込みや迷信のままだ。


6月13日

 ジジェクの『幻想の感染』をようやく読み終えた。後半は内容を把握することで手一杯になり、なかなかここで文章を取り上げる余裕がなかったが、最後の辺で、ごくごく常識的でまっとうなわかりやすい意見を見つけたので、その部分を紹介しておこう。
 ここで注意しなければならないのは、ロゴジンスキーが再構成しているカント的操作の複雑さを見逃さないことである。この操作は、カントは「まっすぐ目的に向かわず」、途中でひっかかったままだというよくあるヘーゲル的批判を逆転する-カントは根源的否定性の深淵の手前で止まるのだ。ロゴジンスキーによれば、「カント哲学」という学術的な外見の奥の「真のカント」は、まさにまっすぐ目的に向かうのを拒否するところにある。カントが「まっすぐ目的に向かう」ときは、主体は完全な自己解体の深淵に飲み込まれ、悪魔的<悪>に入るありえない一歩を達成し、道徳が停止し、当の現実がばらばらになって<異形のもの>になる。カントの「倫理的厳格」という誤ったイメージとは逆に、このカントにとっては、倫理の最後の支えは、無条件の固執(「あきらめるな」、目標にまっすぐ向かえ、世界が滅ぶとも、正義はなさるべし fiat iustitia pereat mundus)という姿勢にあるのではなく、主体が自分を抑制し、深淵の手前で止まることのできる度量にある。「<法>」は主体が自身に課す制約の名である-たとえば、別の人間に対しては、その人に対する距離を維持することを強い、あるいはその人の秘密に立ち入るのを控えることを強いる「敬意」の名である......。(『幻想の感染』352〜353ページ)
 当たり前のことだが、何事にも、競合する他者を押しのけながら夢に向かってまっしぐら、というスポーツ・受験勉強・ベンチャービジネス的姿勢ではだめであり、「主体が自分を抑制し、深淵の手前で止まることのできる度量」、また「別の人間に対しては、その人に対する距離を維持すること」、「あるいはその人の秘密に立ち入るのを控えること」、という「倫理の最後の支え」が必要だということであり、これらの欠如した人間は、万が一、成功して大金持ちになるか、あるいは失敗して犯罪者になるかのどちらかだろう。


6月12日

 自民党内で森首相を批判している人々は、その人が衆議院選挙に立候補する予定であるならば、当然のこと、落選したくて立候補するわけではなく、当選したくて立候補するのだろう。で、その森首相を一生懸命批判する姿勢が有権者の支持を集め、多くの人々がその候補者や自民党に投票して、結果的に政権与党が議席の過半数を獲得したならば、これまた当然のこと森政権は継続する。だが、そうなると、森首相に対する批判とはいったい何だったのだろう、ということになる。今度の総選挙では、日本の有権者の馬鹿さ加減がどの程度のものなのかはっきりするだろう。くれぐれも世界の恥さらしにならないことを祈る(半分はそうなることを期待している)。


6月11日

 戦争状態でもないのに、生きのびなければならないそうだ。誰がどのようにして生きのびなければならないのだろう。自分には関係のない話だが、業界内での生き残りをかけて怒濤の売り込み攻勢をかけるそうだ。だから誰が?架空の販売促進運動について話をでっち上げているわけか?まぁそんなところだろう。だが陣頭指揮する予定の人物が消えてしまった。徹夜の連続で疲れてしまったのか、目下のところ行方不明のままだ。近日中にも警察に捜索願が出されるだろう。だが、別に金を持ち逃げされたわけでもないので、彼がいなくてもさして支障はない。売り込み攻勢はこのまま継続されるらしい。だが、おかげで責任の所在があやふやになってしまった。誰も責任をとれなくなった。もちろん誰も責任なんかとりたくはない。それで、失敗した場合は、話をうやむやにして一応の収拾をつけるつもりらしい。販売促進運動などなかったことにする。トカゲの尻尾切り用に無理矢理スケープゴートをでっち上げて、そいつに詰め腹を切らせるのも気が引けるから。だがそうなると、結局何をやっていたのかわからなくなる。だがそれで万事がうまく収まる。わからないことをやっていたのだから、当然、失敗の反省などしない。仮に、万が一成功したところで何の感慨もない。成功したらしたで、その事後処理が面倒くさい。戦国時代の戦じゃあるまいし、論功行賞などやりたくもない。だからもう販売促進運動などどうでもよくなった。だんだん尻すぼみになって、近頃はその話題は誰も口にしなくなった。そして、本当に何をやっていたのかわからなくなった。だいいち失敗したのか成功したのかよくわからない。何もかもあやふやになり、陣頭指揮する予定だった人物とともにそれは完全に忘れられてしまった。無理にも忘れようという雰囲気さえある。これはいったいどういうわけなんだろう。もうそれを思い出すことさえできない。思い出そうにも、思い出そうとする対象そのものが存在しないのだから、無理に一連の事件を思い出す必要もない。すでにそれは存在しないことになっている。とうに存在しないことで口裏合わせはできている。だから今さら話を蒸し返すつもりはない。ではこれは何の話なのか。話を蒸し返さずに、似たような話をでっち上げたわけか?


6月10日

 鳥のさえずりを聞いている。さっき猫の鳴き声も聞いた。犬も吠えていた。だが、馬のいななきは聞かない。身近に馬がいないからだろう。きっと競馬中継でも見ればテレビから聞こえてくるかもしれない。人々は自分たちの守っているものがいかにみすぼらしいものかをわかっている。それを重々承知している。だが、わかっていながらそれを捨て去ることができない。今まで必死に守り通してきたそれを捨て去れば、自分たちの存在価値がなくなってしまうから。それをやってしまっては自分たちの愚かさや惨めさを自ら認めてしまうことになる。それは絶対に容認できないことだ。だからそれを守り続けるしか術を知らない。しかも、それを守り続けることが変化を阻害していることすら理解しているのに、変化しなければならないことさえわかっているのに、なおのことそれができない。できない理由が自分たちの側にあることもわかっている。だがそこまで理解していながら、なお現状維持のために変化の芽をつみ取ろうとしているわけだ。これは哀しい現実だ。結局は自分たちの許容範囲の変化でお茶を濁そうと画策しているわけだ。それがぎりぎりの妥協線だ。だが、中途半端な妥協は現状維持の結果を招くだけだろう。もちろんそれでもいいわけだ。努力はしたけれど、こんな結果になってしまいました、と言い訳ができるし、社会に何かしら貢献した気にもなれる。そして今まで通りの生活も維持される。こうして過去から現在を通じて未来に抜ける見かけの上での連続性が維持されるらしい。はたしてそうなるのだろうか。人々の目論見通りにことが運べば、それはそれでおもしろいかもしれない。終わりなき日常とやらで平穏快適に過ごしたいのだろう。そうなればいい。自分たちが真の白痴になったことを自覚しながらも、その白痴状態がことのほか快適であることを実感すればいいだろう。人畜無害な鳥のさえずりや猫の鳴き声程度をよろこんでもてはやしていればいいのだろう。人々は忘れ去られるために存在している。自分たちから積極的に忘れ去られた存在になろうとするわけだ。それでもいいのかもしれない。英雄などスポーツ選手程度で十分だ。何も一般大衆が主役である必要はない。


6月9日

 癒しの季節ではない。8月15日までにはまだ間がある。はたして百年後も8月15日があるのだろうか。自分には関係のないことかもしれない。たぶん百年後には存在していないだろうから。国家の季節が過ぎ去ろうとしている。しかし、盲目になるための歩みは止まらない。すべてが白日の下にさらされているのに、それは奇妙な現象だ。自然に親指の爪が湾曲しはじめる。それはもうすでに主題ではなくなっている。だいぶ前から明らかに問題の配置がずれている。だが、実感は何もなかった。予感もしなかった。ふとしたきっかけでそれに気づいた。以前とは風景の構図がまるで変わってしまった。だが、まるで人々は気づかない。相変わらず以前と変わらぬ演技をしようとしている。それが無効であることに気づかない。今さらやっても無駄なのに、右翼が右翼を演じ、左翼が左翼を演じている。彼らは風景にだまされているわけか?たぶん自分たちから積極的にだまされたつもりになっているのかもしれない。だまされたつもりになっていないと不安なのだろう。状況が人々の裏をかいているわけではない。人々の方が、状況に裏をかかれたつもりにならないと満足しないのだ。何事にも驚いてみたいという欲望が充満している。頭の中がスポーツ新聞の一面状態なのだ。現実は当たり前のごとく変化するだけだ。自然な成り行きだ。つまり、偶然の成り行きでこうなってしまったのだろう。気まぐれな成り行きだ。別にこうならなくても良かったのに、お節介にも人々を助けようとしているらしい。助けるほどの価値のある人々ではないのに、見るに見かねて介入してきたのか、それとも何か別の思惑でもあるのだろうか。それは知らない。知りようがない。ただ、よくはわからないが、人々はそんな成り行きに戸惑うだろう。だが、相変わらず自分たちの思惑をはるかに越えたところで起こっているこれらの出来事には気づかない。依然として誰もが盲目のままなのだ。見えているものを直に感じ取れない。自分たちの思考の枠組みに当てはめて間接的に観察することしかできない。その障害のおかげで、誰もが今起こっている変化を取り逃がしている。そのおかげで、誰にも気づかれずに変化できるのだろう。だから、もしそれを眺めることができるとすれば、状況があたかも人々の裏をかいているように見えるのかもしれない。


6月8日

 遠くからこだまが返ってくる。どこまで歩んできたのだろう。そして今の状況はどうなっているのだろうか。駆け引きにうつつを抜かして本質を忘れている。別に忘れているわけではない。本質そのものを知らない。それを知る手段を見いだせない。また、駆け引きも自己流で、はたしてこんなやり方でいいのか何も確信を持てない。ではいったい何をやっているのだろうか。実際にやっていることは何だろうか。そして、なぜそれに確信を持てないのだろうか。本当に駆け引きにうつつを抜かしているつもりなのか。そして、本質を伴わない形だけの軽薄な儀礼でもやっているつもりなのか。どうもそういうつもりではないらしい。それでは、この期に及んで政治的駆け引きをやっているつもりの保守政治家と大して変わらない。もはや口先だけでいくら政策論争をしようとしても、普通の人々はだまされないだろう。だが、心情的にだまされたつもりになる、普通でない人々の方が多いということか?それなら仕方がない。これからもみっともないまねをやり続けてくれたまえ。自分は相変わらず傍観者にしかなれないだろう。本当はそうではないはずだった。こんなはずではなかったのか?それは知らない。だが、相変わらず自分の意識を知らずに状況に依存しっぱなしだ。その状況はどこに存在するのだろう。そこで何を考えているのか。距離について?自分の精神とは遠く隔たっている。どこに精神があるのかわからない。どこかへ置き忘れてきたようだ。だが、今さら捜しにはいけない。すでに迷路の中だ。どちらへ進めばいいのやら、皆目見当がつかない。疲れ果てて、迷路の途中でうずくまる。地面の匂いをかいでみる。微かに土の匂いがする。だが、他人の足音は聞こえない。迷路の中には自分一人しかいないのか。ところで、これはどんなゲームなのだろう。どこかで複数のゲームが同時進行しているらしい。そんな気配がする。そんなあやふやな予感ばかりだ。そのゲームに自分も参加しているらしい。だがプレイをしている自覚がまるでない。傍観者としてのリアリティしか感じない。だが、この多元的なゲームを維持継続するつもりはない。他の参加者の立場を認めるつもりもない。共生への模索を放棄している。そういう流行のお題目にはリアリティを感じない。それに、たががはずれている。緊張感がない。述べていることが支離滅裂だ。誰が述べているのか理解できない。自分とのコンタクトを拒否されている。感じることのできるのは風ばかりだ。だが、風の中には誰もいない。自分さえも存在していない。この風はどこから吹いてくるのだろう。やはり内奥から吹いてくるのだろうか?だが、空っぽの内奥からどうやって風が起きるのだろう。


6月7日

 何もない貧窮の時の中で、何を希求しているのだろうか。何もないのに何を求めるというのだ。例えば、内奥のリアリティか?内奥がどこにある?表面だけだ。奥行きがない。だから内容は何もないじゃないか。そう見えるだけかもしれない。本当は希望を詰め込むための何らかの容器を保有しているのだろうか。だが、実感としては、心の奥底には何も存在しない。何も確認できない。底が割れて、内容物がどこかへ抜けてしまったのだろうか。それがどこへ行ったかは知らない。だが未練は何もない。元々大した内容ではなかった。放っておけば、また適当なガラクタでいっぱいになるだろう。ガラクタで満たされるための容器しか持ち合わせてはいない。無用の長物といったところか。それしか使い道のない容器だ。しかし、別に荒廃しているわけはない。元々そうなのだ。虚無の地平からやってきたのだから、幻想とは無縁だ。夢など抱きようがない。だから今以上に荒廃しようがない。また、それ以外にはなりようがない。それ以外には何も求めていないのだから。それははじめからわかっていることだ。例えば、事件を起こすような人は、まだ何らかの希望を持っている。希望をかなえようとして事件を起こすわけだから、そういう人間は、まだまだ見込みのある人間だ。やはり救われなければならないだろう。救いたい方はどうぞ懸命に救ってやってほしい。迷える子羊を真理の光で正しい方向へ導いてやってほしい。だが、救われようとしない人間は救われなくても構わない。よけいなお節介はやめてほしい。ただ何も見いさせずに途方にくれさせておけばいいだろう。退屈しのぎに、鳥のさえずりにでも耳を傾けさせておけばいい。放っておけば、その時々で、気まぐれに何かをやるだろう。積み木を積み上げては崩していれば、だんだん時が過ぎてゆく。いずれは、社会との摩擦によって削られて、気がつけば、跡形もなく消えているだろう。だが、実際にそうなるだろうか。どうも違うような気がする。徐々に何かが見いだされつつある。それは錯覚かもしれないが、何かに導かれながら行動しているのかもしれない。時々そんな気になることがある。なぜこうなのかはわからないが、妙につじつまが合ってしまう。自分の内部に外部が形成されつつあるのかもしれない。内奥は外部に抜けている。内奥の底に外部のリアリティがある。だが、これでは何を語っているのかよくわからない。もうしばらく時が必要なのか。


6月6日

 一般的には(正しくは?)、心がどす黒いではなく、腹黒いと言うのかもしれない。でもそう言うとちょっとニュアンスが変わってくるかもしれない。腹黒い人は心が汚い人よりもさらにより卑しい人のように感じられる。心を無視した権謀術策を重視するという意味が加味されるだろうか。ところで、現実の心臓も腹も直接の機能は心理作用とは関係のない器官だ。当たり前のことだが、現実には心が汚かったり腹が黒かったりはしないだろう。その様態を指し示す象徴として、昔からの慣習に沿って便宜的に心や腹が使用されているだけで、心臓や腹自体には特に意味はない。つまり、その物体を指す言葉と物体そのものはまったく別個の存在だ。

 ロマン主義は音楽によって人の心の有り様を表現しているらしい。確かに曲に歌が入ると、その歌詞の内容を作者の心情吐露と捉えることが多い。だが、現実に作詞者がそのとき感じたありのままの心情を綴っているとは考えにくく、それを音楽の規則に従って再構築し直すことで、元の心情とはだいぶ性質の違ったものになる。また一方で、ある程度はその歌を聴いた人々の反響を考慮した、架空の心情としてフィクションを創作しているわけで、それを直接に人の心の働きに還元して説明するのは、ちょっと違うような気がする。それでは作者の音楽に対する情熱や姿勢がそっくり抜けてしまって、単なるセンチメンタリズムになるだけでなく、作品の最も根本にある、作者自身や作者の思惑をも越えた作品そのものの存在を無視した議論になってしまう。音楽はそれの生成と同時に、独白や内省として見いだされる、実際に人々が抱く心情とは異なる、他者に聴かれるために存在するという、音楽そのものの機能や性質を帯びた芸術として存在しはじめる。確かに、歌詞が言葉によって人の心の動きを描写し、旋律が音程や音色によって感情の高まりや、その反対の鬱状態をたどるとされているが、結果として構築され奏でられる音楽は、作者の個人的な心理作用からはかけ離れた、不特定多数の聴衆に向かって提示された音が鳴り響く空間そのものとして、独特の輝きを発するのではないか。


6月5日

 今日は時間がないのでいい加減なものでお茶を濁しておこう。

 灰皿の中に一円玉が溜まる。ハエの死骸と胃薬の錠剤も一緒だ。そのどれもが使われることのないゴミと化している。もちろんタバコは吸わないので、灰皿そのものが無用の物だ。ここには、底に透かし彫りの入ったガラスの灰皿とアルミの灰皿の二種類があるが、どちらもきれいなままだ。確かにタバコを吸わないから肺はきれいかもしれない。だが心はどす黒く汚れている。それは本当なのか?さあ実際はどうだろうか。ただそういう展開の文章はよくありがちなので、他に何も思い浮かばなかったので、苦し紛れに、〜はきれいだが〜は汚れている、という展開に従って、心にもないことを書いてみた。紋切り型としては、顔はきれいだが心が汚れているのがよくあるパターンだろう。だが、なぜそういうパターンが好まれるのだろうか。ブスな人々を救うための方便を導き出すために必要なんだろうか。だが、あからさまに顔はブスだが心はきれいと言えば、それは救いではなくセクハラになるだろう。一般的にはブスとは言わずに健康的と言う方便もある。うまいやり方としては、相手に自分はブスだと言わせるように誘導しておいて、そんなことはない、確かにそんなに美人じゃないけれど、心はきれいじゃないか、と慰めの言葉をかけてやれば、その場はうまく収まるのかもしれない。いや、三文芝居じゃあるまいし、現実にそんな真面目くさったわざとらしい会話はきいたことがない。だが、似たようなニュアンスの会話なら何度かきいたことがあるかもしれない。だが、実際、偽善の徒はそこまで計算して会話しているだろうか。ホストとかはそんなことをしゃべるのだろうか。その場の成り行きや雰囲気を無視してその部分だけ取り出すと、いまいちリアリティが感じられない。しかしこんなことを述べていること自体、心がどす黒い証拠か?


6月4日

 主旋律と伴奏を区別しないような構成を目指す。主役と脇役の配置を無効にしたい。だが、すべてが平坦で、何の起伏もなく一様というわけではない。すべてが別々に違う方向へ展開していく。そして様々な要素が融合しつつ、同時に分散し、また分散しつつ融合する。そのように世界を認識できるだろうか。だか認識できなくても構わない。認識することより行為することの方が重要だ。ひとりの人間がすべてを把握することはできない。その思考力には限界がある。他者の協力を仰いでも、結果は相対的な範囲内に留まるだろう。だからすべてを捉えることはできない。では、そのような状況で何をどのようにやりたいのか。自分はいったいどうすればいいのだろうか。無理に言葉にすれば、無限の感覚と無意識の助けを借りて、その捉えることのできない展開を実行したい、となるだろうか。つまり自分の意志や思考にはとらわれない行動を求めている。それは、自分はどうすればいいのか、という問いそのものを無効にするような行動だ。自己の意志や思考では実現できないことを実現しなければならない。と同時に、安易な外部から誘惑に屈せずに、世の中の流れから形成される矮小な目的意識にはとらわれずに行動しなければならない。いや、そうではなく、自分や主体には、とりあえずくだらぬ夢に向かっての努力をやらせておけばいいのかもしれない。一方では世間並みの幸福を求めさせておけば、ある程度は気休めになるだろう。だが、それと同時に、自分や主体とは関係のない行動が展開されることを期待する。生ぬるい小市民の自分にはどうすることもできない恐ろしい行為が、自分の意志を無視しながら自分とともに展開されてしまうわけだ。その結果、自分の行為によって自分の意志が打ち砕かれるのを見せつけられる。気休めの夢が木っ端微塵に破砕される。昔の人は、そこに天や神の意志を見いだすだろうが、そういう宗教的な言葉は馴染まない。旧約聖書以外から導き出される、安易な救いにつながるような言葉は避けるべきだ。それは紛れもない 外部からの要請だ。自己の内面さえ絶えず外部から浸食されている。


6月3日

 湿気が多い。梅雨が間近なのだろう。夕立の後少し涼しくなった。人々を打ち倒すために人々が存在する。何をやるにしろ他人と競わなくてはならない。そしてすべてが数字に還元される。相手より、より遠くへ、より早く、より速く、より高得点を上げなければならない。その過程がどうであれ、結果として表示される数字は誰もが納得せざるを得ない客観的な基準である。それが公正な競争だ。それが大衆文化というものらしい。それを積極的に肯定する人々が存在する。そんな世界がある。避けては通れぬ世界だ。テレビをつければ、いやなものを毎日見せつけられる。恐ろしい肯定の力を見せつけられる。他人の醜悪な夢に視線が釘付けだ。その夢に向かってひたすら努力する二度と後戻りのできない映像と、その過程や結果に感動を強要してくるナレーションに打ちのめされる。画面上の彼らは、もう二度と取り返しのきかないことをやっている。彼らは、時の偶然に左右される気まぐれな点数によって精神を破壊される。そして、そのときの激情に駆られた狂乱の映像が、それを見る人々の精神を破壊しにかかる。やはりこの世は地獄なのだろうか。いや、地獄は画面上に構成されているだけだ。画面のこちら側の現実社会では、誰も表立っては競争していない。たまにレクリエーションの一環として順位をつけるときもある。だがおおかたの人間は本気にはならない。本気になっている人間はシャレのきかないやつだと馬鹿にされる。どうやら大衆文化に毒されていない人間がまだまだ大勢存在しているらしい。表向きはそう見える。だから、これからは物事の表面しか見ないようにしよう。弱肉強食の大衆文化を無視しながら生きていこう。そんなことができるだろうか。不可能かもしれない。公正な競争という弱肉強食を避けては通れないのだろうか。そして、その公正な競争の対極に地縁血縁カルテルが存在していることになっている。そのどちらかを選べと脅迫されているらしい。できればどちらもごめんこうむりたい。だが第三の道など存在しない。だからたぶん何も選ばないだろう。必要もないのに無理して選ぶ必要はない。とりあえず他人事として片づけたふりをしよう。


6月2日

 捕らわれの身の人に借金を強制的にさせて金を引き出して、熱湯をかけたりして凄惨なリンチをした挙げ句に殺しちゃ った。なぜそんなに凶悪な人間に育つのかぁ?さぁ人それぞれなのだろう。それでは納得しないかぁ?では、適当な理由を捏造してみよう。マスコミがスポーツとかを推進して競争心を煽っているから、そのマスコミが提示する夢に向かって努力することができなかったりして競争から落ちこぼれてあぶれた人達は、自然といじけてひねくれて、自分が世間やマスコミから無視されていると思い込み、そのことを逆恨みしてああなっちゃうんじゃないだろうか(笑)。あまり説得力があるとは思われない。でも、スポーツにしろ受験勉強にしろ就職活動にしろ、当然のことだが、マスコミが伝えるのはつねに一生懸命努力している人達だ。そして彼らが報道するような、オリンピック(またはパラリンピック)に出場したり注目されている大学や企業に入れる人は、ほんの一握りの人達であることは確かだ。まあ、下町の商店街の良心的な店主やボランティアで地域社会に貢献している小市民なら好感を持って報道するのだろうが、例えば、ひねくれ者の不良少年や仕事もせずにぶらぶらしている若者などの、努力を放棄した人々を肯定的に取り上げることなど絶対に不可能だろう。彼らが改心して更生への道を歩む過程なら報道するのだろうが。私はそういう差別はしない(ホントかぁ?)。ま、人それぞれだか らな(爆笑)。

 あまり詳しくは知らないが、確かイエスも釈迦も親鸞も、悪人こそ救われなければならない、と説いたはずだ。ならば、もし今の日本に真の宗教指導者を自負する人間がいるのなら、その人は、今こそ、神戸の酒鬼薔薇少年や栃木の熱湯リンチ青年やバスジャック牛刀少年などの凶悪な人達を救うべく積極的に行動しなければならないだろう。何も申し開きができぬまま、世間から一方的に糾弾されるがままの社会的弱者を救うのが本来の宗教家の使命だったはずだ。そこで自らの信仰の真価が試される。宗教家としての能力や資質が問われている。最近流行の馬鹿な小市民をだまして金を巻き上げるような行為は宗教とは無関係だ。日本全国の宗教家諸君よ!今こそ極悪非道の民を救うべく一致団結して真の宗教運動を組織するときだ!ここでの諸君のがんばりによって、来るべき21世紀が神の世紀になるかどうかがかかっていると言っても過言ではない。日本が神の国として世界中から尊敬と羨望を一身に集めるようになるためにも、今こそ諸君が立ち上がらなくてはいけない。森首相の夢を実現させるためにも、また、イエスや釈迦や親鸞のように、偉大な宗教指導者として歴史に自らの思想と名前を残すためにも、せいぜいがんばってくれたまえ(笑)。


6月1日

 いつの頃からだろうか、言葉を探し求めている。ただ漠然と言葉を探している。時には過去の記憶をたどりながら、また時には辞書の頁を闇雲にめくりながら、さらには偶然買ったCDの歌詞の翻訳などからも探したりしているのだが、一向に探している言葉が見つからない。気に入った言葉が見つからない。そもそもそれがどんな言葉なのかよくわからないのだから、見つからなくて当然といえば当然なのだが、だがそれでもなんとなく探していることは確かだ。何もはっきりしないし、曖昧なまま、目的もないのに探している。つまり、探すことが目的なのだろうが、なぜ探しているのかがわからない。今のところそれを探す動機や理由自体がはっきりしないし、その言葉を探しだした後何をするつもりなのか、当然そんなことまでは何も考えていない。いったいこれはどういうことなのだろうか。何を述べたいわけなんだろうか。何を述べているのかわからない。例えば、それは何かの拍子に突然口をついて出てきそうな言葉かもしれない、だが、すぐに思いつきそうでなかなか思いつかない、そんなありきたりなことをくどくど述べているわけなのか。どうもそれとは少し違うらしい。

 「Heart Of Gold」、金の心だ。ニール・ヤングはどのようにしてその輝くような言葉を見いだしたのだろうか。単純に、ゴールドラッシュの後だからそうなったのか。いや、正確に言うなら、前作の『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』の後から見いだされたらしい。だが歌詞の内容はそれほどポジティヴではない。その曲の最後は、And I'm getting old、で終わっている。言葉は見いだされたようだが、「金の心」そのものはまだ見つかっていないらしい。それを探し求めて放浪の旅を続けているようだ。ハリウッドにも行ったし、レッドウッドにも行った。海を越えて探しにも行ったらしい。そして、その成り行きは完結したりはせず、当然のことながら、そして歳をとってゆく、で終わる。まあ永遠に見つからないのだろう。なぜなら、すでに見いだされているからだ。「金の心」は言葉として顕現している。さらに、歌としても詞としても曲としても顕現している。「金の心」を探し求める物語が「金の心」そのものである。