彼の声175

2026年

6月1日「二つの自由主義」

 一般的にそう呼ばれているかどうかは何とも言えないところだが、自由主義には二種類があるらしく、よく言われるのが、良い意味で使われるリベラルと悪い意味で使われるリバタリアンだが、自由の捉え方に関して、自由至上主義がリバタリアンで、自由主義のリベラルとの違いは、個人の自由を守るために政府が介入すべきか否か、という国家の役割に対する考え方に違いがあるらしく、どちらも個人の尊重を重視するが、リバタリアンの方は、政府の介入は悪と考え、徹底した小さな政府を主張し、自己責任に基づく完全な自由競争を重視して、政府による規制や税金の徴収を最小限に抑えるべきだと考え、経済活動だけでなく、思想やライフスタイルにおいても個人の選択の自由を最大限に尊重するのに対して、リベラルの方は、すべての人が平等に自由を享受するためには、政府が積極的に介入・是正すべきだと考え、社会的弱者へのセーフティネットや富の再配分・福祉や累進課税などによって、差別禁止などを推進し、機会の平等を重視し、国家の力で社会的な不平等を解決することで真の自由が守られると考えるそうだが、これはリベラル側から自由主義の悪い面を担う役回りとなる設定として、リバタリアンという概念が導き出されたように感じられるが、実際にはそうではないようで、リバタリアニズムは、リベラリズムの悪い面という意図的な設定で生まれたものではなく、むしろ古典的自由主義を極限まで突き詰めた結果として独立した思想体系であり、リバタリアニズムがリベラリズムの批判対象となりやすい点は、個人の自由と自己責任を至上とするため、弱者への公的支援や福祉国家的な再配分を個人の権利侵害と見なす傾向があることと、政府による規制を最小化し、自由市場に任せる傾向が、結果として、この一切の強制を排除し、完全な自己責任を求める極端な姿勢が、機会の平等や福祉国家を重視するリベラル的な立場からは、格差の固定化や社会的弱者の切り捨てを正当化する冷酷な思想として批判される構造を生んでいるそうだが、ここまでの説明によれば、リベラルが善でリバタリアンが悪というレッテルを貼りやすいのだが、そういうわかりやすい善と悪とに切り分けやすい自由の捉え方とは別の面から二つの自由主義を捉えると、一つ目は人権から出発して主権的権力を創設しようとする自由主義で、国家や権力を先在のものとせず、個人の人権である自然権を保護するための手段として国家や政府などの主権的権力を社会契約によって構築しようとする近代立憲主義や社会契約説などの政治哲学から導き出されるもので、この系譜の自由主義は古典的自由主義と呼ばれ、国家が存在しない自然状態において、すべての個人が生まれながらにして生命・自由・財産などの不可侵の権利である人権を持っていると考えるが、自然状態では人権を守るための客観的なルールや裁判官がないため、権利が侵害される危険があり、そこで人々は、自らの人権をより確実なものとして相互に保障するため、契約を結んで主権的権力を担う国家を創設し、この権力は人権を守るという目的のために作られた手段にすぎないため、創設された国家主権には厳格な限界が存在し、目的を個人の自由と権利の擁護とし、そのための手段として、権力の一極集中を防ぐために、三権分立などの権力の分立を図り、そんな国家への抵抗権として、国家が人権を侵害するような場合には、主権者である国民は政府を改廃する権利を持つとされ、この人権先行・権力創設型の自由主義を体系化した哲学者たちには、主著の『統治二論』で、人権、特に財産権を保護するために、人々の同意に基づいて社会契約によって統治権力が創設されることを論じた、近代自由主義の父と呼ばれるジョン・ロックや、『社会契約論』で、人民の各個人が公共の利益を担う存在として主権者となり、自らを統治する人民主権の政治的権力を創設するメカニズムを提示したジャン=ジャック・ルソーや、国家を権利保障のために結集した人々の集合と捉え、法による支配である立憲主義を構想したイマヌエル・カントなどがいて、この考え方は、現代の近代立憲主義の根幹となっていて、国家は主権や統治権力を持つが、それはすべて基本的人権の尊重という土台の上に成り立っており、主権行使も人権を侵害することは許されないという制約を設け、この関係性は日本国憲法にける三大原則である、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義にも明確に受け継がれているそうだが、現状の世界情勢や国内情勢を見渡すと、何か絵に描いた餅のような理想論だと受け止められているのではないかと感じられるわけで、これに対して二つ目の自由主義は、統治的実践から出発して、有用性という観点から統治の能力の限界と諸個人の独立圏とを定義づけようとする、ラディカル・功利主義的なもので、この二つは互いにはっきり区別されるものではあるが、互いに排他的であるわけではないが、二つ目の自由主義は、自由主義的統治性・ガバメンタリティの核心的な問題意識から生じてきて、近代の自由主義は、生まれながらの自然権として自由が与えられているという伝統的な前提から離れ、むしろ統治という実践において、統治し過ぎることへの批判から出発し、自由主義において国家の介入は、統治される者の自発的な活動を阻害し、統治そのものの目的である、富や人口の繁栄などの社会的な有用性を損なうという観点から制限され、つまり、どのように統治すれば最も有用か、また統治はそもそも何のために必要かという計算と合理性の中から、統治能力の限界が逆説的に導き出されることから、個人の自由や権利は天賦の権利として先験的に与えられているだけでなく、統治にとって有用な存在として個人を守るためのメカニズムとして定義され、フーコーの講義『生政治の誕生』での議論では、国家は市民社会という相関物を生み出して、その中で活動する諸個人の利益の独立性を確保することが、結果として統治全体の最適化につながると考え、この自由主義は、時代と共にクラシックなものから、市場競争を社会原理とする新自由主義へと変容し、現在我々が直面している統治のあり方にも大きな影響を与え続けているそうで、また自由と安全の確保、両者によって要請される制御手続きと国家介入の諸形式こそが自由主義の逆説をなしていて、自由主義が抱えるこの根本的なジレンマは、国家権力を制限して個人の自由を守ろうとする本来の目的が、裏腹に個人の生命や財産を保護するための統制や介入を国家に要請してしまうという、近代政治哲学の核心を突く鋭い洞察であり、この自由主義の逆説は、トマス・ホッブスらに見られるように、人は外部の脅威に怯える自然状態では本来の自由を行使できないから、個人の自由を保障するためには、まずは国家が法と秩序によって物理的な安全を担保しなければならないというジレンマがあり、安全を確保し、かつ市場の独占や格差などの暴走を防ぐためには、規制や再配分といった国家の介入が不可欠だが、国家の権力の役割が拡大すればするほど、本来守るべき個人の自由が国家によって侵されるリスクが国家の管理社会化と共に高まるわけで、十九世紀の自由主義から出てきた夜警国家論は国家の不介入を理想としたが、資本主義の発展に伴う貧富の格差拡大などの社会的矛盾を解決するため、二十世紀以降の福祉国家的自由主義は、結果の平等をある程度担保するため積極的な介入へと舵を切ったこの変容そのものが逆説の証明と言えるが、自由主義は常にどこまでが個人の自由で、どこからが安全のための国家介入かという境界線の引き直しを迫られ続けているそうだが、それを国家のジレンマと捉えること自体が、古典的自由主義論の限界から導き出された思考なんじゃないかと考えたいわけだが、それに関してはまだ自分自身の考えがまとまっていないので、再度フーコーの講義『生政治の誕生』を読んで、何かそれとは違う傾向の認識が導き出されるなら、それを示してみようと思う。