彼の声175

2026年

7月17日「言葉のインフレ傾向から生まれる錯覚」

 差異を感じ取れない人は、いつも過去の歴史から極端な事例を持ち出して、それを現状で進行しつつある物事の成り行きに似ていると煽り立てて警鐘を鳴らし、そうやって絶えず最悪の事態の再来を警戒するように呼びかけるのだが、過去の極端な歴史を持ち出して現状の危機を煽る手法は、政治的・社会的な関心や恐怖心を惹きつける効果的なコミュニケーション戦略の一つだそうだが、こうしたアプローチには、最悪のシナリオを提示することで、人々に強い危機感を抱かせ、特定の政策への支持や反対、意識や行動の変容を促そうとしたり、過去の過ちや悲劇を繰り返さないための教訓として機能させ、現状の判断材料に最悪のケースを含めようとしたり、複雑な現状を単純化し、強い言葉やドラマチックな物語で人々の注意あるいはメディアの関心を惹きつけようとする意図があるそうで、その一方で、常に最悪の事態ばかりを強調する姿勢には、頻繁に警鐘を鳴らし過ぎると、人々はその脅威に慣れてしまい、本当に危険な状況が到来した際に危機感が伝わりにくくなる可能性や、恐怖と不安が過剰に煽られると、論理的で冷静な状況分析や、バランスの取れたリスク評価が難しくなる危険性があり、歴史の教訓を長期的な視野や慎重なリスク管理に活かすことと、恐怖を煽って大衆を意のままに動かそうとすることの間には大きな隔たりがあり、こうした言説に接する際には、その意図や背景を冷静に見極め、事実に基づいた客観的な情報と照らし合わせることが重要だそうだが、それに関して政治批判の場でよく用いられる事例として、西欧民主主義におけるファシズム告発のインフレ化が挙げられ、政治的権力の拡大や保守的な政策を批判する際、手続き的な正当性を無視して安易にファシズムや全体主義という極端なレッテルを貼る言説の過剰傾向を指し、ナチズムやイタリア・ファシズムなどの本来のファシズムは、議会制民主主義の完全な否定、暴力的な全体主義的な支配、特定の民族や人種への極端な差別などを指すのに対し、現在では、自身の政治的立場と異なる強権的な手法や、移民排斥、国家主義的な政策、あるいは単なるポピュリズムに至るまで、ありとあらゆる権力行使を非難する際の絶対的な悪の象徴としてこの言葉が濫用されるようになり、このインフレ傾向による国家批判や政治批判には、実際に民主主義の基盤を脅かすような危険な全体主義勢力が台頭してきた際、全てをファシズムと呼んできたがゆえに、本当に警戒すべき事態に対する警告の重みや言葉の持つ意味が失われ、相手を絶対悪のファシスト呼ばわりすることで、民主主義に不可欠な対話や妥協の余地が奪われ、社会の二極化が加速し、民主主義国家が治安維持や危機の管理のために行う正当な権力の行使や行政手続きさえも、ファシズム的であると過剰に告発されることで、国家の統治機能が著しく麻痺する事態を招く危険性が指摘されているそうだが、西欧の政治哲学においては、自由主義的な民主主義が危機に陥った時、議会政治の停滞を打破するために人々が決断や強力な指導者の登場を渇望し、それがファシズムへ移行するリスクが常に内在していると指摘され、現代の国家批判や政治批判は、この歴史的トラウマを背景に持ちながらも、その警戒心が過剰に先走り、あらゆる権力や伝統的な価値観をファシズムの兆候として告発するパラノイア的な状態に陥っていると分析されることがある一方で、現代の政治議論においてはこのように、民主主義を守るための正当な警戒心と、批判のための言葉のインフレ化との間でバランスが問われているそうだが、強権的な政治体制に対する恐怖を煽る際に持ち出されるのは、ファシズム的な政治手法と共に、共産主義への恐怖を煽るのもよくあるパターンだが、例えばソヴィエト社会主義、国民社会主義(ナチズム)、ケインズ経済学は、1920〜30年代の世界恐慌などの経済危機を背景に、国家による強力な経済介入を企てた点で共通しているが、その目的・手段・対象には明確な相違点があるそうで、共通点は、古典経済学における市場の自動調整機能には限界があり、政府が積極的に経済へ介入する必要性を主張し、目標として完全雇用の達成や、恐慌の克服といった国家的な危機脱却を共通の至上命題とした一方で、相違点は、マルクス・レーニン主義に基づいたソヴィエト社会主義が、資本主義の打倒と、生産手段の国家・社会による完全な所有・管理を目的として、国家による中央集権的な計画経済の中で、私有財産の廃止、国有化を掲げ、労働と雇用の扱いは、国家計画に基づく労働の強制と割り当てに基づき、労働組合は国家の統制下に入り、長期的には世界の共産主義化を目指すが、一国社会主義も併用するのに対して、国民社会主義は、資本主義体制の維持・利用と、総力戦体制と軍事力強化による生存圏の拡大を目指し、民間企業を存続・統制しつつ、国家が目標や価格を管理する統制経済の中で、国家に協力的な独占資本は保護される一方、ユダヤ人資産などは没収し、労働組合は解体してナチス直属のドイツ労働戦線へ統合され、雇用は国家事業等で確保され、ブロック経済による自給自足圏の形成と他国へ軍事侵略して資源の奪取を目指すのに対して、ケインズ経済学は、資本主義の救済と安定化を目標に掲げ、有効需要の創出による失業の克服と経済成長を目指し、市場メカニズムは維持しつつも、政府による財政政策・金融政策を講じ、資本家の意向は尊重しつつも、富の再分配や公共事業を通じて市場の歪みを是正し、労働者の権利や自由な労働市場を前提としつつ、失業保険などで生活を保障し、自由貿易と国際協調を基本としつつ、国内経済を保護するマクロ政策を推進することにあるそうで、もちろんこの比較はケインズ経済学の印象を良くするためのバイアスがかかっているように感じられるが、では現代のアメリカ・中国・EU・インドの経済政策を、かつてのソ連の共産主義、ナチスの国民社会主義、ケインズ主義と比較すると、結論から言えば、現代の国々は二十世紀のような、全て国有化、あるいは全て自由にするような極端な純粋体制を捨て、資本主義市場経済をベースにしながら、国家が強力に介入するというハイブリッド型混合経済で完全に共通しているが、しかし、国家が市場をどの程度コントロールするか、何のための介入か、という点において、二十世紀の影を引きずりながら明確な相違点を見せているそうで、際立っている共通点は、全国家がケインズ化・ナチス化している?と言えそうな点で、現代のグローバル経済において、レッセフェールと呼ばれる古典的な自由放任主義を貫いている大国は一つもなく、二十世紀の介入主義の手法を取り入れており、半導体やAI、電気自動車などの戦略分野において、アメリカ、中国、EU、インドの全てが巨額の政府補助金を投入し、自国産業を育成・保護していて、これはかつてのナチスの軍需産業統制や、ケインズ主義的な国家主導の開発に酷似しており、かつては自由貿易を推進していたはずのアメリカやEUも、安全保障を理由に高い関税を課し、これは新たな重商主義的な政策であり、自国主導のサプライチェーンを作ろうとしていて、これは二十世紀の自給自足体制の現代版と言えるそうで、その一方で、際立っている相違点は、二十世紀の体制から決別している点で、現代の政策は二十世紀の失敗から学んでおり、当時の体制とは明確に一線を画す相違点があるそうで、アメリカは、かつては、小さな政府と自由貿易を理想としていたが、中国の台頭に対抗するため、バイデン・トランプ両政権を通じて、産業補助金や関税を多用する国家が主導する資本主義へと変貌し、中国はかつてのソ連と同じ共産党の一党独裁体制だが、経済の仕組みは全く異なり、ソ連が私有財産と市場経済を完全否定して自滅したのに対し、中国は民間企業がGDPの6割、雇用の8割を創出しているのを認めつつ、アリババやテンセントのような巨大私企業の上層部を国家・党が厳しくコントロールし、これはソ連型社会主義よりも、むしろ形式的私有を認めたナチスの経済統制手法、あるいは戦後日本の開発主義をデジタル技術で極限まで高度化させたものに近いと言えるそうで、EUは、米中のような巨額の国家財政や強力な中央権力を持たないため、GDPR、環境規制、AI法などのルールを自ら作って、それに従わない企業を域内市場から排除するという手法をとり、これは二十世紀のどの体制にもなかった、現代特有の介入主義で、インドは、独立直後はソ連を模範とした計画経済の手法によって経済を停滞させたが、1990年代以降の市場開放で爆発的に成長し、現在は、国家がデジタル・インディアとして決済システムなどの基盤インフラを中央主導で整備して、その上で民間企業を自由に競争させるという、効率的な混合経済を展開しているそうで、現代の経済政策は、ソ連のような完全国有化は失敗する、ケインズのような市場への事後的な微調整だけでは、グローバルな覇権争いには勝てない、という教訓の上に立っているそうで、結果として、2026年現在の世界は、すべての国が自由な市場というエンジンを回しながらも、ハンドルは経済安全保障という国家の意志が握るという、二十世紀の介入主義がさらに複雑に進化したフェーズに突入していると言えるそうだが、単純にファシズムの恐怖や共産主義の恐怖を煽るだけでは通用しない世界になっているらしい。


7月16日「産業革命の変遷に伴う政治システムの変化」

 産業革命は、十八世紀後半のイギリスにおける綿工業の機械化(第1次)から始まり、その後、エネルギー源が石炭から石油・電力へ移行し大量生産が進み(第2次)、コンピューターによる自動化(第3次)、AIやIoTによる知的活動のデジタル化(第4次)へと変遷しているそうで、第1次産業革命は十八世紀後半からイギリスで始まり、蒸気機関を動力として綿織物などの軽工業が機械化され、工場制機械工業が成立し、第2次産業革命は十九世紀後半からアメリカやドイツを中心に、主要エネルギーが石炭から石油・電力へと移行して、内燃機関の活用や重化学工業、自動車産業などの発展により、分業に基づく大量生産方式が確立して、第3次産業革命は1970年代から始まり、コンピューターや電子工学の発展により、製造現場における単純作業の自動化やインターネットの普及が進み、第4次産業革命は、2010年代から、AI、IoT、ビッグデータを活用することで、工場や製品がネットワークでつながり、より高度な知的活動や自律的な生産、個別化されたニーズへの対応・マスカスタマイゼーションが可能になってきて、これらの技術革新は、生産性の飛躍的な向上をもたらした一方で、資本主義の確立や労働問題、環境悪化や貧富の差などの深刻な社会問題も引き起こしたそうだが、そんな中でも、石炭と石油が動力と移動の革命、電気が空間と時間の克服、半導体が情報と知性の拡張をもたらし、これにより、筋力や自然の力に依存していた社会から、化石燃料とデジタル技術で高度に自動化・グローバル化された現代文明へと劇的に変化し、石炭を活用して動力と産業の機械化が行われ、蒸気機関、大型の工場生産システム、鉄道や汽船などの大量輸送機関が生み出され、人間の労働力が機械に取って代わり、圧倒的な生産力がもたらされ、また、鉄道や蒸気船の普及により、人や物資の移動速度と距離が飛躍的に拡大して、地域的な経済がグローバルな市場へと変化し、石油を活用してモータリゼーションと化学工業が興り、自動車、航空機などの内燃機関、プラスチック、合成繊維、化学肥料などの石油化学工業、大型タンカーが生み出され、石炭よりもエネルギー密度が高く、液体で扱いやすい石油の登場により、自動車が日常の足となり、航空機で大陸間を数時間で移動できるようになり、さらに、石油を原料としたプラスチックなどの安価な製品が大量生産され、人々の生活様式と世界の物流が激変し、電気の活用によって生活様式の革新と社会インフラが整備され、発電所、送電ネットワーク、照明器具などの電灯、電話、ラジオ、テレビなどの家電製品が生み出され、エネルギーの生産地と消費地の分離が可能になり、工場は立地の自由度を増して生産性をさらに向上させ、電灯の普及は夜間の活動を可能にし、家電製品の普及は家事の負担を大幅に減らし、電力網は現代社会の神経系として、あらゆる産業を動かす基盤となり、半導体の活用によって情報化社会が到来して、トランジスタ、集積回路、マイクロプロセッサ、コンピューター、インターネット、AIなどが生み出され、アナログからデジタルへの情報革命が起こり、情報の処理・伝達の速度がネットワーク経由で光の速さになり、世界中のどこにいても瞬時に情報共有ができるグローバルな情報ネットワーク社会が形成され、同時に自動化とデジタル制御によってIoTや自動運転などの産業の構造が大きく変化し、これらのエネルギーと技術の連続的な発展は、人類の生産力を爆発的に向上させた一方で、地球温暖化をはじめとする環境問題や、化石燃料への依存などの新たな課題も生み出し、文明の持続可能性を模索する現代へとつながっているそうで、半導体の活用からさらなる技術的な進展として、光技術や量子技術の活用があるが、これらの技術については半導体から別の何かに置き換わるわけではなく、半導体が抱えていた限界を突破するために、光技術は電子・電気で動く半導体から光・レーザーで動く半導体への大転換が起こっていて、この技術は光電融合や光半導体と呼ばれ、次世代文明の基盤として実用化が近づいており、現在のコンピューターやAIは電子・電気を移動させて計算や通信を行なっているが、しかし、生成AIなどの爆発的な普及に伴い、2つの致命的な限界・壁に直面していて、1つ目は、電子が回路を通る際、抵抗によって大量の熱が発生し、このままAIが進化すると、データセンターの消費電力だけで国家レベルの電力を食い尽くすと言われているのと、2つ目は、電子による通信速度やデータ伝送量は物理的な限界に近づいており、チップ間でデータをやり取りする際の渋滞・ボトルネックが、AIの進化の足を引っ張るようになっている中で、光は電子とは違って、どれだけ高速で移動しても熱を出さず、異なる波長の光を重ねても同時に大量のデータを運べる、という圧倒的なメリットを持っていて、光技術への移行は、消費電力を劇的に削減でき、圧倒的な低遅延・超高速処理を実現でき、世界中を光で結ぶ巨大な1つの分散型コンピューターを構築でき、こうした光技術への移行は遠い未来の話ではなく、今まさに段階的に起きている現実で、すでに長距離の光ファイバー通信によってインターネット回線の大部分は光化されていて、AIデータセンター内のサーバーや、半導体ボード同士を光で結ぶ光電融合スイッチが商用化・量産化の段階に入っていて、エヌビディアやブロードコム、日本のNTTなどが巨額の投資を行い、覇権争いを繰り広げていて、最終的には、半導体チップの内部まで光の配線で結ばれるようになり、さらにその先には、光の性質をそのまま計算に利用する光量子コンピューターの実用化も視野に入っているそうで、石炭が蒸気、石油が内燃機関、電気が電力網、半導体が電子の計算で文明を駆動させたように、これからの時代は光による計算と通信が文明を次のステージへ進めると言われる一方で、量子技術は半導体技術の延長である部分と、全く異なる新しい原理である部分の両面を持っていて、物理的なものづくりとしては半導体の延長上にあるが、そこで起きている計算の仕組みは、従来の半導体とは百八十度異なる完全に新しい次元の技術で、チップ内で起きている計算の仕組みは従来の半導体の延長上では絶対に到達できない、物理法則の非連続が起きていて、従来の半導体は、電気が流れるか流れないかで1と0の2択で計算するのに対して、量子技術は原子や電子のミクロな世界だけで起きる0と1が同時に存在する重ね合わせや量子もつれという、直感に反する不思議な物理現象をそのまま計算に利用し、従来のスパコンで数億年かかる計算を、わずか数分で解くことが可能となるが、人類の文明という視点で見ると、量子技術は半導体を駆逐して置き換えるものではなく、実際には、超高速な計算を行う量子チップの周りを、これまでの半導体チップや光技術が取り囲み、制御やデータの出し入れを行うことになり、量子技術は半導体技術の延長線上で生まれた全く新しい物理原理の技術と言えるが、これらの産業の技術革新・産業革命の変遷は、単に生産技術を変えただけでなく、国家の統治機構や政治システムそのものを根本から作り替え、経済構造が農業から工業、そして情報・デジタルへと移行するにつれ、権力を持つ階級が変わり、それに対応するために政治システムも5段階を経て変化しているそうで、第一産業革命は、市民階級の台頭と近代民主主義の誕生を招き、それまでの土地を持つ貴族に代わり、工場を経営する産業資本家がブルジョワジーとして経済力を持ち、彼らが政治的発言権を求めた結果、イギリスの選挙法改正などを通じて議会政治と民主主義が発展し、自由な経済活動を邪魔されたくない資本家の意向を反映し、国家の役割は治安維持と国防だけに限定すべきとする自由放任主義が政治の基本方針となり、劣悪な環境で働かされる労働者階級がプロレタリアートとして誕生し、労働組合の結成や労働基準法の制定など、国家が労働問題に介入せざるを得なくなり、第二次産業革命は、国家の巨大化と福祉国家・総力戦体制を招き、資本主義の高度化により巨大独占企業が誕生した一方、貧富の格差拡大や経済の大恐慌が発生し、それに対応するために政治は自由放任主義を捨てて、失業保険の整備や公共事業を行う経済介入国家・福祉国家へと舵を切り、そして労働者階級の爆発的な増加により、ソ連などの社会主義・共産主義体制も誕生し、また、後発の工業国では経済危機を乗り切るために国家が経済・社会を完全に統制するファシズム・全体主義が台頭して、第二次世界大戦を引き起こし、大量生産技術は大量殺戮兵器の製造を可能にし、戦争は軍人だけでなく、国民全員の労働力と工業力を動員する総力戦となり、これを管理するために政府や官僚機構が肥大化したが、第三次産業革命は、グローバル化と新自由主義を招き、コンピューターとインターネットの普及により、人・モノ・カネが国境を越えて瞬時に移動するグローバル化が進み、国家による規制は経済成長の足枷と見なされ、規制緩和や国営企業の民営化を促す政治が主流となり、情報のデジタル化と流通スピードの向上は、中央集権的な計画経済の限界を露呈させ、社会主義体制の崩壊と資本主義政治システムの勝利をもたらし、第四次産業革命は、データの独占と民主主義の揺らぎを招き、GAFAMに代表される巨大テック企業が、一国の政府を凌ぐ経済力と個人のデータ・情報を握るようになり、政治システムは、これら超国籍企業をどう規制・課税するのかという新たな課題に直面し、またAIと顔認証、ビッグデータを用いた効率的な国民管理が可能になり、中国などの一部の国では極めて精緻な中央集権的・全体主義的な統治システム・デジタル権威主義が構築され、SNSのアルゴリズム・エコーチェンバー現象などにより、世論が極端に過激化・分断されやすくなり、既存の議会制民主主義や選挙システムがポピュリズムによって揺らぐようになり、第五次産業革命は、中央集権から分散型ガバナンスへと移行し、ブロックチェーン技術などの発展により、特定のリーダーや国家のインフラに依存しない、分散型自律組織のような新しい意思決定・統治の仕組みが試みられ、気候変動やAIの暴走リスクなど、一国では解決できない地球規模の課題に対し、国家という枠組みを超えた新しい国際政治のルール作り・ガバナンスが模索されていて、このように、産業革命の変遷は、誰が権力を握り、国家がどこまで個人の生活や経済に介入すべきか、という政治の根幹を常に変化させてきたが、現在の第四次・第五次産業革命は、従来の国境で区切られた国家という政治システムの前提そのものを問い直す段階に達しているそうだ。


7月15日「比較検討の曖昧さ」

 昔、柄谷行人が『探究2』あたりで述べていたことだが、一般性と特殊性と、普遍性と単独性は、比較対象になるかというと、哲学や文芸批評において比較対照される重要な概念だそうで、科学的・客観的な一般・特殊のペアと、詩的・実存的な普遍・単独のペアという異なる次元の対比として比較検討されるそうだが、科学的・論理的な次元の一般性と特殊性においては、一般性は、多くのものに共通して当てはまる性質や法則のことで、例えば、人間はみな死ぬということは、一般的な現象で、それに対して特殊性は、一般的なカテゴリの中の特定の事例や個別的な差異を指し、例えば、日本人は、犬という種の中で特定のダックスフントは、というと、それが特殊性を示す概念で、それに対して実存的・詩的次元の普遍性と単独性における、普遍性は、時間や空間を超越して例外なく妥当する絶対的な性質のことで、それに対して単独性は、思想家の柄谷行人やキェルケゴールなどが論じた概念で、他のいかなるものにも還元できない、この私などの、ただ一つのかけがえのない存在を指し、一般的な枠組みやカテゴリ・一般性に回収することができず、この4つの概念は、哲学において対比軸として比較され、一般性と特殊性は、客観的な分類や認識の軸で、例えば、一般論・人間一般と、その例外や特定のバリエーション・特殊なケースという論理的な比較が可能で、普遍性と単独性は、主体的な存在の軸で、普遍的な真理や歴史の中に、決して代わりのきかない単独者がいかにして立ち現れるか、という実存的な比較対照が行われ、このように、単に一般・特殊の論理的なグラデーションとして比較するだけでなく、一般・特殊の枠組みと普遍・単独という実存的な次元とを対比させることが、これらの概念を比較する際の最大の焦点となるそうだが、例えば以上の論述の中では、人間はみな死ぬということは、一般的な現象だと述べたが、では改めて、人間はみな死ぬということは、一般的な事実か?と問うと、人間はみな死ぬということは、時代や文化、地域を問わず、全人類に共通する普遍的かつ絶対的な事実で、古代から現代に至るまで、哲学や科学、宗教などあらゆる領域における議論の前提となってきたそうで、現代の自然科学において、人間の肉体は生物学的なプロセスを経て機能が停止し、いつかは朽ち果てるものとして扱われ、哲学者のマルティン・ハイデガーが、死へ向かう存在と表現したように、人間の有限性や自らの死を意識することは、思索の根本的なテーマとされてきて、世界中のほぼすべての宗教や神話において、死は生と切り離せないものと位置づけられており、死後の世界や魂の救済についての概念が存在し、このように人間は必ず死ぬという前提は、単なる一つの見解にとどまらず、人類が自身の生の意味や価値を理解するための、最も基本的な概念だそうだが、文脈から考えると、何が一般性で何が特殊性かという比較では、人間はみな死ぬということは、一般的な現象だが、それ自体を単独で取り上げると、普遍的な事実になると受け止めておけばいいのかと考えたくなるが、人間はみな死ぬという一般的な出来事の中で、特定の人物の〇〇が死んだ、という事実は、特殊な出来事に違いないだろうが、その特定の人物の中で、例えばイエスが死んだ、となると、神の子イエス=キリストが、全人類の罪を贖うために十字架にかけられた、という出来事は、それ自体単独の出来事になるかというと、キリスト教の神学におよび信仰において、その出来事は、歴史上いかなる死とも比較できない、唯一無二の単独の出来事であると捉えられるそうで、その理由は、単なる一人の人間の肉体的な死という枠組みを超え、十字架にかけられたのは、完全な人間であると同時に完全な神でもあるお方・キリストであるとされ、神であるお方が死を経験するという事実は、この出来事を普遍的な歴史の枠外に置いて考えなければならないと共に、全人類の罪を背負うという目的を持った出来事は、神の救済史において一度きりの完了した事柄だと、聖書の「ヘブライ人への手紙」などでは見なされているそうで、しかもキリストの死は死んで終わりではなく、三日目の復活とセットになることで、死に勝利するという人類史上唯一の出来事して完結し、したがって、歴史的な事件として記録される、誰かが十字架にかけられて処刑されたという事実は、刑罰における処刑方法としても、宗教における殉教という概念においても、特定の地域的・歴史的な期間の中では普遍的な出来事だが、その宗教的・神学的な意味合いにおいては、他のいかなる出来事にも還元できない絶対的な単独の出来事になるそうで、キリスト教などに関心のない人々にとっては、だからどうしたと言い返しても良さそうな大して重要でもない宗教的な伝説に過ぎないだろうが、それとは全く無関係な事例として、例えば、十九世紀半ばのイギリスにおける保健行政法制をめぐる議論は、主に国家による強制的な公衆衛生への介入と、地方自治および個人の自由の尊重の対立で、伝染病対策や上下水道の整備を進めるべきとする中央集権的な衛生改革派と、増税や干渉を嫌う地方自治体や自由主義者との間で激しい論争が展開され、それが中央集権か地方分権か、というレベルであると共に、政府による規制か規制緩和の自由主義かというレベルでも、一般的な環境衛生行政の中での一つの特殊な事例なのだろうが、産業革命期における急激な都市化により、コレラなどの伝染病が大流行した中で、エドウィン・チャドウィックらの衛生改革派が、疾病の背景には不衛生な都市環境があると主張し、国民の生命を守るためには、中央政府が強力な権限を持ち、全国一律の強制的な公衆衛生行政を行うべきだと訴え、それに対して、地方自治体や自由主義者は、強制的な介入や衛生委員会の設置、それに伴う新たな税の徴収に猛反発し、個人の自由や地方自治を侵害するものとして大反対したそうだが、当初は地方の抵抗が強く、1848年に制定された最初の公衆衛生法も、多くの自治体で強制力を持たない不完全な骨抜き法制だったが、しかし、その後度重なるコレラの猛威や科学的な衛生調査により、劣悪な環境は放置できないという認識が民衆の間に徐々に広がり、最終的に、この議論は国家による積極的な介入を認める方向へと収束して行ったそうで、そして1875年に制定された公衆衛生法は、それまで任意だった上下水道の整備や医療官の任命を自治体に義務化し、公衆衛生行政の大きな転換点となったそうだが、今日では政府や地方自治体にとって公衆衛生行政は普遍性を持った行政の役割となっている一方で、それさえも民営化すべきだという新自由主義的な主張もあって、実際に水道事業を民営化したが、それが採算が取れずにうまく行かず、大変なことになっている国もあるらしいから、一般的な傾向としては、民営化しても採算の合わない公共のインフラ事業は、国や地方自治体が税収を財源として行う以外ないというのが、共通の認識だろうが、採算が合わない公共インフラは税金で維持するしかないという考え方は、かつての伝統的な認識としては主流だったが、税金による公営化の一択ではなく、民間資金やノウハウを活用しつつ行政が補完するパブリック・プライベート・パートナーシップなどの手法が模索されているそうで、インフラの所有権は公的機関が残したまま運営権のみを民間企業に委託する手法で、料金徴収を伴う事業において、民間の経営ノウハウでコスト削減や収益向上を図り、税金投入をゼロまたは最小限に抑える試みが行われ、これまで税金で一律に低価格・無料で提供されてきた公共サービスについて、適正な価格へと改定したり、真に必要とする層にターゲットを絞った補助へ切り替えたりすることで独立採算に近づけるアプローチもとられ、鉄道やバスなどの交通インフラにおいて、黒字路線で得た利益を赤字路線や過疎の地域区間の維持に充てる手法で、民間企業であっても、沿線開発によって事業の多角化やエリア全体の価値向上とセットにすることで、全体として採算を合わせるビジネスモデルが構築されることもある一方で、水道や一部の公共交通など、住民の生命や生活に直結する基幹インフラについては、民間による利益追求を認めるとサービスの低下や撤退リスクがあるため、最終的には行政が税収を財源として直接責任を持つべきだという根強い合意も存在し、このように単なる完全民営化か税金による公営化かの二者択一ではなく、事業の性質に応じて官と民の役割を部分的に分担させる新しい仕組みが広く導入されているそうで、これらの比較をまとめると、何かこけおどしの表現を用いて特定の出来事や事件を大げさに煽り立てるには、普遍性と単独性の軸が使われることが多いが、日常の実用的な範囲内では一般性と特殊性の対比軸で間に合うことが多いと受け止めておけばいいのではないか。


7月14日「統治の必要性」

 一般的に言って、利害関係の薄い善意の連帯は、信頼と互恵性に基づいた社会的な資本や安心感を生み出すが、しかし、そこへ限られた資源をめぐって市場原理が介入すると、経済的な利害関係との間で深刻な対立が生じ、この二つの要素は、協調の促進と排除や搾取の温床という形で常に拮抗し、相互に作用し合い、善意の連帯がもたらす効果は、善意に基づくボランティア活動や相互扶助の形態をとり、地域社会やコミュニティにおける結束力を強め、有事の際のセーフティネットとして機能し、無償の信頼関係が基盤にあることで、過度な契約や法的拘束力に頼らずとも、スムーズな情報共有や稼働が可能になり、金銭的な価値では測れないケアや知識の共有が行われ、活動を通して人々の精神的な豊かさが向上するが、その一方で経済的利害関係が生み出す対立は、善意の共有地や共有資源に対して、経済的な自己利益を追求する者が過剰に搾取することで、善意の連帯が崩壊する対立構造を形成し、ケア労働などの無償の善意が経済市場に組み込まれると、効率性や利益が優先され、本来の思いやりや連帯感が損なわれると共に、場合によっては搾取にもつながり、結果的に人と人との間で摩擦が生じ、企業や労働者などの経済的な報酬を求める者と、善意や無償の貢献を期待する者との間で、評価やコスト負担をめぐる対立が起き、クラウドファンディングやギグエコノミーなどを通じて、善意のプロジェクトが資金調達という市場原理と結びつくことで実現可能になる一方で、資本の論理が優先され、当初の理念やコミュニティの連帯が形骸化するリスクを孕んでおり、社会的課題の解決と事業としての利益創出を両立させる過程で、収益性重視の姿勢が支援対象者の切り捨てや労働条件の悪化を招き、その内部や外部との対立を引き起こす恐れがあり、これら二つの要素は相反するものではなく、市場経済の中で善意の連帯を維持するためには、公正なルールやガバナンスが不可欠で、利害関係を適切に管理しつつ、連帯の持つ価値をどのように保護するかが、現代社会における重要な課題となっているそうだが、そういった簡単には答えの出ない課題に対して根本的な解決を求めようとすると、抽象的な幻覚や妄想に囚われることになるかも知れず、例えば、ヘーゲル哲学における国家とは、特殊な利害がぶつかり合う市民社会の限界を克服し、理性的・客観的な自由を社会制度として具体的に実現する人倫の最高形態であり、市民社会が自己の利己的な欲求を満たす場であるのに対し、国家は個人が真の共同体の一員として自己意識・自覚を獲得する、普遍的な理性の完成態と位置づけられ、市民社会は、個々人が自己の特殊な目的である自身の利益や欲求を追求するために、他者を手段として利用しながら関わり合う経済的・社会的なネットワークで、各自がバラバラに動くため、放っておけば貧富の差や階級対立が生じる場でもあり、市民社会にも法や警察が存在するが、それらは個人の利益を守るための外的なルールに過ぎず、社会全体の連帯や普遍性を伴った道徳的な目的を自発的に生み出す力は不十分であり、それに対してヘーゲルは、家族という愛情の共同体と、市民社会という利己的欲求の体系という、普遍性と特殊性が対立する二つの原理が、より高次の段階で統合・止揚された姿を国家と捉え、普遍性と特殊性の調和としての国家は、市民社会の活力を活かしつつも、個人の利己心を全体の善・普遍性へと向かわせる役割を果たし、抽象的な個人の頭の中にある理想としての自由ではなく、法律や政治制度、社会の習俗といった具体的な客観的精神としての自由を現実化し、市民社会の構成員は、国家という枠組みの中で、自己の利益を超えた責任ある一員として自己意識へと高められ、国家が個人の権利や自由を保障する存在であることを理解する愛国心や、理性が歴史的段階を経て自由を実現する到達点として位置づけられるそうで、そんな人物に現実の社会で出会うことはまずないだろうが、何やら哲学者を名乗る人物がヘーゲル哲学について語り出したら、ああこの人はヤバい妄想に取り憑かれているんだな、と思っておけば正気を保てそうだが、ヘーゲルに限らず、何を正当性の根拠として、どのように社会を導くかという、3つの合理的な統治術があり、近代以降、これらは社会の中で互いに対立・補完しながら併存しているそうで、その3つのうちの1つ目は、真理に基づく統治術で、宗教、歴史法則、科学などの普遍的な真理や特定の教説がその根拠や目的となり、その特徴は、個人の利益や欲望よりも、歴史の必然性やイデオロギーなどの大きな真理に基づいて、社会や人々をあるべき理想の姿へと導く統治のあり方であり、マルクス主義などがその代表例として挙げられ、2つ目は、主権国家の合理性に基づく統治術で、国家の維持・強化、領土と人口の管理を根拠や目的として、その特徴は、法や主権者の権力に基づき、国家を一つのまとまりとして統治する合理性で、絶対主義や重商主義のように、国家の利益や安全保障、政治的有効性を最大化することを目的に据え、3つ目が、経済主体の合理性に基づく統治術で、市場原理、個人の利益最大化、効率性などを根拠や目的として、その特徴は、市場こそが真理を決定するという新自由主義的な合理性で、統治の対象を国家の領民ではなく、自己の利益を追求する経済主体となる企業や個人として捉え、彼らが自由に競争・行動できるように環境を整備・介入する統治術となり、これらの中で何が良くて何が悪いかではないと考えるなら、程度や傾向の問題となってしまうが、結局はこれらの統治から生じてくる何か特定の不具合や不合理や不正行為などを挙げて批判することになるだろうが、それぞれの統治術は、時代ごとに、これが唯一の正しさである、というヘーゲル哲学のような強力なフィクションや常識を作り出し、それに対して不具合を突く意義は、批判によって、神の意志だから、国家の安全のためだから、市場のルールだから、という言い訳を剥ぎ取り、それが特定の権力構造が都合よく作ったルールに過ぎないことを暴き、そうすることによって、仕方のないこととして諦めていた社会問題が、人間の手で変えられる歴史的な産物に見えてくるそうで、また統治術は、法で縛るだけでなく、どのような人間がまともかという基準を作って、人々を内面から支配しようとするから、その不合理を突く意義は、真理の統治が異端を排除し、国家の統治が個人をただの資源として扱い、経済の統治が敗者を自己責任として切り捨てることを理解して、これらの歪みを批判することは、自分がそのような型にハマった人間として扱われることの拒否に結びつき、それが個人の尊厳と自由を取り戻す足掛かりとなり、歴史上、ある統治術の不条理を批判した結果、新しい統治術へと社会がシフトしてきた経緯がある一方で、新しい統治術もまた別の歪みを生み、例えば国家の強権的な管理である主権の統治を批判することで、個人の自由を伴う経済的な統治を勝ち取った結果、今度は過酷な格差と自己責任論という新自由主義の罠に直面し、そういう意味で現代の不条理を批判し続けることは、権力が形を変えて私たちを支配しようとするネクスト・ステージの罠にいち早く気づき、対抗策を練るためには不可欠で、各統治術における批判のターゲットの具体例としては、真理に基づく統治術は、異端審問、多様性の抑圧、思考停止の強要を招き、それを批判することによって、信仰や思想の自由、個人の内面の解放がもたらされ、主権国家の合理性に基づく統治術は、全体主義、人権侵害、国家による監視、戦争を招いて、それを批判することによって、個人の人権の確立、憲法による国家権力の制限がもたらされ、また経済主体の合理性に基づく統治術は、格差拡大、福祉の解体、メンタル疾患の自己責任化を招き、それを批判することによって、社会的セーフティネットの要求、善意の連帯の回復がもたらされたそうで、これから世の中で生じる不条理を批判する最大の意義は、私たちがどのような権力に、どのようにコントロールされているのか、という現在地を知るためには必要不可欠で、支配のメカニズムを正確に批判し分析できて初めて、私たちは別の生き方やよりマシな社会のルールを具体的に構想できるようになるそうで、批判とは、社会を破壊するためではなく、権力に絡め取られない自由な主体として生きるための実践的なレッスンなのだそうだが、こう述べておいて、実際には何を批判している自覚などないわけだ。


7月13日「ハーバーマスの思想を無効化するトランプと高市」

 そういえば、ハーバーマスが今年の3月に96歳で亡くなったらしいのだが、ハーバーマスは汎EU主義者なのかというと、単なる汎EU主義者という枠組みを超えて、明確に左翼ヨーロッパ主義者と位置づけられる代表的な知識人だそうで、彼は、ヨーロッパという多種多様な言語や歴史を持つ地域を、国民国家の枠組みを超えたひとつの政治共同体として統合する欧州連合の強力な推進論者で、ヨーロッパ主義は単なる理想論ではなく、現実的・哲学的な背景に基づいていて、経済のグローバル化が進む現代において、一国だけの国民国家では資本主義の暴走を抑え込み、民主的なコントロールを行うことが困難であると考え、国境を超えた民主主義の実現モデルとしてEUを支持しており、汎EU主義者である一方で、EUの現状を無批判に支持していたわけではなく、彼は、政治エリートやテクノラートによる統治連邦主義や、規制なき市場至上主義を強く批判し、市民の対話や参加に基づく、真に民主的なヨーロッパ統合を求めて、積極的に論陣を張り、最終的にカントの世界市民主義の理念に連なっており、ヨーロッパ統合を、国家間の対立を克服し、世界的な法秩序と平和へと至るための重要な第一歩として捉え、このように、彼は真の民主主義と社会的公正を伴うヨーロッパの統合を生涯にわたって提唱し続けた、極めて批判的かつ建設的なヨーロッパ主義者であったそうだが、フーコーとハーバーマスの関係は、二十世紀後半の現代思想における代表的な理性と権力をめぐる論争として知られているそうで、彼らは直接の対話も行なったが、理性の普遍性を擁護するハーバーマスと、権力から逃れられない理性の局所性を主張するフーコーの間には深い対立があり、理性に対するスタンスに関しては、ハーバーマスが、理性を対話やコミュニケーションを通じて相互理解と合意を生み出す普遍的な力と捉えて、近代の啓蒙主義が持つ解放的なポテンシャルを擁護したのに対して、フーコーは、理性や真理を歴史的・社会的に形成されたものと見なして、普遍的な理性の名の下に人々を管理・統制する権力と知の結託を批判し、権力と主体に対する考え方については、ハーバーマスが、権力は本来的なコミュニケーションを歪める抑圧的なものと見なし、理想的な対話状況を実現することで権力を克服できると考えたのに対して、フーコーは、権力は単に抑圧するだけでなく、人々の行動や思考そのものを生産し、個人として主体を作り出す潜在的なネットワークであると考え、ハーバーマスは著書『近代の哲学的ディスクルス』で、フーコーの思想を、権力に還元しすぎており、何が正しいかという批判の基準や規範を失っている相対主義や現在主義と厳しく批判し、フーコーも、ハーバーマスの目指す透明で普遍的なコミュニケーションは、逆に多様な価値観や抵抗を排除する全体主義的な暴力性を孕んでいると警戒し、この二人の対立は、近代社会における批判的であることの根拠をどこに求めるかという、現代哲学の根幹を問う重要な論争として現在も議論され続けているそうだが、そういえば、柄谷行人も昔、ハーバーマスを批判していたが、ハーバーマスのコミュニケーション的行為や討議倫理の理論について、国家や資本主義の権力関係を不可避なものとして温存しながら、既存の枠内での対話的な合意形成に終始していると批判し、ハーバーマスは、抑圧のない対話や討議を通じて普遍的な合意に達することを目指したのに対して、柄谷は、現実の社会には資本や国家の暴力による不均衡な権力関係が厳然と存在しており、そのような現実を括弧に入れた状態での純粋な対話や了解は不可能であると指摘し、ハーバーマスのいうコミュニケーションは、結果として既存の支配関係を追認・隠蔽してしまう恐れがあると捉え、自身の代表作『トランスクリティーク』などにおいて、カントの「超越論的批判」を独自に読み直し、ハーバーマスもカント哲学を継承しているが、柄谷によればハーバーマスはカントの批判精神を、他者や異質なものとの強い視差・ずれとして捉えず、単なる相互主観的な合意やコミュニティの再建へと矮小化してしまっていると批判し、ハーバーマスは資本主義や国家をシステムとして肯定しつつ、それらを生活世界の植民地化という暴走から守るために民主的な統制・対話が必要だと主張したのに対し、柄谷は、このアプローチは改良主義的であると見なし、資本や国家といった根源的なシステムそのもの乗り越える、あるいはアソシエーションによって止揚する実践的な運動こそが必要であると主張し、このように、ハーバーマスの対話的理性を信頼する態度に対して、権力や差異の非対称性を見据えたラディカルなカント主義、およびマルクス主義の視点から異論を唱えたそうだが、何かハーバーマスを批判しやすい左翼知識人と見なしたくなってしまうのだが、そこから思いっきり違う方面で、それらとは別のレベルで、トランプや高市を批判しやすい政治家と見なすと、もちろんトランプと高市を、同レベルの政治家と捉えるのもおかしいのかも知れないが、彼らがそれと自覚することなく批判しやすい政治家を演じてくれているからこそ、彼らを批判する者たちのわかりやすい批判が、その批判内容がわかりやすいだけに、スキャンダル、マナーや品格の欠如、国際協調の軽視などのわかりやすい批判が、無効化しやすい理由を挙げると、1つ目の理由は、支持層にとっては批判自体が勲章になることで、彼らの支持層は、既得権益層や既存メディアに対する強い不信感を抱いていて、そのため、エスタブリッシュメント・体制側やメディアから批判されること自体が、体制の代弁者から攻撃されている=自分たちのために戦ってくれている証拠と逆転して受け取られる傾向があるそうだが、2つ目は、価値観の対立が感情ではなく実利に基づいていて、有権者の多くは、彼らのパーソナリティや政治的手法ではなく、経済対策や国家安全保障といった具体的なメリットを重視しており、例えば、トランプの言動が下品である、高市首相が外交の場で特定の振る舞いをした、といった批判は、生活向上や国益の実感といった実利の前では優先度が下がり、3つ目は、情報の分断化とエコーチェンバーで、支持層と批判層で見ているメディアやSNSなどの情報空間が完全に分断されていて、批判的な報道や論理的な指摘は、支持層のコミュニティには届かず、むしろその内部でフェイクニュースとして処理されるため、議論の前提となるファクトが共有されず、4つ目は、エリート層へのアンチテーゼで、伝統的な政治家の持つ優等生的な振る舞いや耳障りの良い言葉が、不満を抱える層にはきれいごとや問題の先送りとして映る一方で、ルールや常識を破ることを恐れない強烈なリーダーシップが、むしろ力強さや変革への期待として評価されるため、生ぬるい批判は無効化され、この力学は政治的な分断をさらに深める要因となっており、単なる倫理観や正論による批判だけでは支持の切り崩しが難しくなっているそうだが、ハーバーマスの対話的理性やコミュニケーション的行為の理論などの思想は、トランプや高市を支持する層、あるいは現代のリアリズム政治の視点からは、きれいごと・理想主義的すぎる空論の典型として受け取られる傾向が非常に強いと言えるそうで、ハーバーマスは、偏見や権力関係を排除して、互いの了解を目指す理想的発話状況を重視しているが、SNSによる分断やエコーチェンバーが極まった現代政治において、支持層からは、現実の人間は理屈ではなく感情やアイデンティティで動く、対話で解決できるというのは知識人の幻想だ、と一蹴されやすいのが実態で、ハーバーマスの理論は、全員が納得する合意形成の手続き・プロセスを重視するが、トランプや高市の支持層が求めるのは、手続きに時間をかける政治ではなく、敵を打倒し、自国民の利益を今すぐ守るという迅速な決断力で、プロセス論にこだわる姿勢は、危機対応における弱さや議論の先延ばしと映り、ハーバーマスが掲げる普遍的な人権や民主主義のルールは、トランプのアメリカ・ファーストや高市の国益・伝統重視の姿勢とは対極にあり、支持層の目には、こうした普遍主義こそが、ローカルな文化や生活苦を無視し、ポリティカル・コレクトネスなどの正しい言葉遣いを強制してくるリベラル・エリートの独善と映り、強い反発を招く原因となり、ハーバーマスの思想は、政治のあるべき理想・規範を示すものとして学術的・制度的に今なお重要だが、トランプ・高市現象に代表される剥き出しの利害と感情の政治の現場においては、皮肉にも現実のパワーゲームを動かせない、無力なきれいごととして消費されやすい構造にあるそうだ。


7月12日「愛国心とトレードオフの関係」

 トレードオフの関係とは、一方を優先すれば、もう一方を犠牲にしなければならない、という両立しない関係のことで、あちらを立てればこちらが立たずの状態を示し、何かを得るには何かを手放さなければならないことを意味するが、例えば社会の中で民衆が最も愛国心を高めるのは平和な時より戦争の時かというと、平和な日常では個人の生活や身近なコミュニティに関心が向くのに対し、戦争という外敵の脅威が生じることで、民衆の意識は一気に国家という大きな枠組みへと統合され、この現象が起きる背景には、心理的、政治的、社会的な複数の要因が絡み合っているそうで、その中でも3つの要因を挙げると、1つ目は、内集団・外集団効果による連帯感の強化で、社会心理学では、外部に共通の敵となる外集団が現れると、内集団の内部の人間同士の結びつきが強まることが知られているそうで、平和な時に存在していた階級、政党、人種、宗教、格差などの国内の対立が、国家存亡の危機という大義の前に一時的に棚上げされて、自分たちの生命や文化が脅かされているという恐怖が、人々を同じ国民という強い一体感で結びつけ、2つ目は、政府による情報統制とプロパガンダで、戦争が始まると、政府は民衆を戦争へ動員するために、強力な情報統制と世論誘導を行い、自国の行為を防衛や正義として美化し、敵国を悪として描くことで、国民に向かって義務感と道徳的な高揚感を煽り立て、メディアを通じて国策標語などの、国に尽くすこと=善、という価値観を社会に浸透させ、異論を許さない空気を作り出し、3つ目は、歴史的な実例と限界で、この現象は多くの歴史的局面や、現代の紛争地でも観察され、第一世界大戦の開戦時、それまで激しく対立していたドイツやフランスの政党が政府への協力を表明し、民衆は熱狂して志願兵となり、現代の紛争地でも、外国から軍事侵攻を受けた国では、大統領の支持率が急上昇し、国旗を掲げて戦う市民が多く見られるそうだが、一方で、この戦争による愛国心の高まりには持続性の限界もあるそうで、戦争が長期化し、配給制による生活困窮、戦死者の増大、敗色の濃厚などが現実になると、民衆の不満は爆発し、むしろ政府への不信感が高まり、革命へと反転することが歴史の常で、平和な時の愛国心が郷土愛や文化への誇りといった穏やかなものであるのに対して、戦争時の愛国心は生存本能と結びついた強烈な防衛本能として現れ、そのため、民衆が最も目に見える形で、かつ爆発的に愛国心を高めるのは、平和な時よりも戦争の時であると言えるそうだが、では、愛国心と平和はトレードオフの関係かというと、愛国心と平和は必ずしもトレードオフではなく、どのような愛国心を持つか、またその愛国心がどのように政治的に利用されるかによって、愛国心は平和と共存することもあれば、平和を脅かすこともあるそうで、政治学や社会心理学では、愛国心を主にパトリオティズムとナショナリズムの2つの側面に分けて考え、トレードオフにならない場合は郷土愛・憲法的愛国心というパトリオティズムで、自国や郷土の文化、歴史、あるいは自由や民主主義といった理念を愛する態度になれば、自分の国を大切に思うと同様に、他国の人々がその国を大切に思う気持ちを理解でき、自国の平和と繁栄を守るためには、国際社会の平和が不可欠である、という論理につながりやすく、政府による協調的な外交を民衆が後押しすることにもなり、国際協調路線は対話の重視にも結びつき、他国との比較から自国の制度をより良くするための批判的な視点も含まれるため、盲目的な他国との対立を避ける傾向にもなる一方で、トレードオフになる場合は、国粋主義・盲目的愛国心という排他的ナショナリズムで、自国の優位性を強調し、他国を排除・軽視する態度になると、自国の利益は、他国の不利益によってのみ達成される、とゼロサム思考になり、愛国の証明として、外国への敵意や警戒心を煽るために、軍拡競争や外交的緊張関係を生み出しやすくもなり、国内の結束を高めるために外部に敵を作るという排他的な愛国心を利用する政治手法は、歴史的に多くの戦争の引き金となってきた経緯があるが、その一方で、平和を守るための愛国心という逆説もあるそうで、外国からの侵略に対して、国民が一丸となって国を守る意思を示している国は、侵略のコストが高いと受け止められ、他国から攻撃されにくくなり、この場合、愛国心は戦争を起こすためではなく、平和を維持するための盾として機能し、愛国心が自国への誇りと愛着に留まる限り、それは平和と共存可能である一方で、それが他国への敵意や優越感へと変質し、政治的に動員された時、愛国心と平和はトレードオフになるそうだが、ではパトリオティズムという自国への健全な愛着や帰属意識が育まれるためには、市民社会を構成する個々人の幸福の実現が極めて重要な条件かというと、それが絶対的な前提とは言い切れないのが歴史や社会の複雑なところだそうで、政治思想や社会学の視点からこの関係性を整理すると、幸福の実現がパトリオティズムを育む理想的なルートである一方で、不幸や逆境の中でパトリオティズムが芽生えるケースもあり、まずは憲法的パトリオティズムという幸福の実現が不可欠とする立場は、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスらが提唱した憲法的パトリオティズムの文脈では、個人の自由や幸福、権利が保障されていることが愛国心の前提となり、国民が、この国は自分の自由や安全、幸福を守ってくれる、と実感できて初めて、国への信頼と愛着の証しであるパトリオティズムが生まれ、市民社会の福祉や生活の質が向上するほど、この素晴らしい社会を維持し、次世代に引き継ぎたい、という自発的なパトリオティズムが強くなり、この視点では、個人の幸福や権利が軽視される国では、健全なパトリオティズムは育たず、移民の増加や社会の分断などの不満や離反が相次ぐと考えられるが、一方で、市民が必ずしも幸福とは言えない過酷な状況下でも、パトリオティズムあるいはそれに近い帰属意識が強力に育まれる現象が歴史的に見られるそうで、経済的困窮や政治的抑圧、大災害の発生などの逆境において、市民が共に苦難を乗り越える仲間としてお互いを認識した時、国家や地域社会への強い愛着が生まれ、現状の国家や政府には不満だが、自分たちの国土や文化、本来あるべき理想の国を愛しているからこそ、社会を良くしたいという、批判精神を伴った愛国心が生まれ、この場合、幸福はパトリオティズムの結果として目指すものであり、前提ではなくなるが、その際には、注意すべきすり替わりの危険性も孕んでいて、個人の幸福が実現されていない社会では、健全なパトリオティズムではなく、政治的に誘導された排他的なナショナリズムが育ちやすい、というリスクがあり、生活が苦しく幸福実感が低い市民に対し、政府が、他国または国内の特定の少数派が悪い、と敵を作り出すことで、市民の怒りの矛先を外へと逸らし、愛国心を強制的に植えつける手法があり、自分自身の私生活は不幸であっても、偉大な国家の一員である、という錯覚を同じような境遇の他者と共有することで、一時的な心理的充足感を得ようとする現象に結びつくが、まとめると、理想的な民主主義社会においては、個々人の幸福や権利の実現=パトリオティズムの醸成という好循環が不可欠で、自分が大切にされている実感が、国を大切に思う気持ちを育むが、しかし、市民が不幸な状況であっても、国を再建したいという願いからパトリオティズムが生まれることもあれば、逆にその不幸を政治的に利用されて、危険なナショナリズムへと歪められてしまうこともあり、市民の幸福は、パトリオティズムを健全で持続可能なものにするための防波堤であると言える一方で、しかし経済的な絆が個々人の利己心を高めると共に、市民社会の分離の原理となり、市民社会を解体へと導く一方で、他人に対する同情、好感、隣人愛などの利他的な絆が市民社会の結束を強める原理となり、パトリオティズムを育む市民社会を経済的に支える市場経済が、個々人の利己心を原動力として機能する限りで、利害関係による人々の分断や競争を激化させ、市民社会そのものを分解へと導く力を絶えず作用させている一方で、同情と結束の原理である利他的な絆が、アダム・スミスが『道徳感情論』で説いたように、人間は他者に対する同情や共感、好感といった感情を持っており、損得勘定を離れた隣人愛や利他的な行動は、市場原理によってバラバラになりがちな人々の間に信頼関係を築き、民衆が社会的結束を強める接着剤として機能し、このように近代社会は利己心による市場の拡大と、利他心や道徳感情による社会の統合という、相反する2つの原理の緊張関係の上に成り立っていると考えられ、経済的な発展が行き過ぎると社会が崩壊の危機に瀕するため、コミュニティにおける相互扶助や共感といった、利害なき利害関心に基づく利他的な紐帯が不可欠とされるそうだ。


7月11日「市民社会という統治の対象物」

 もっともらしい理屈には何かそうではないような見落としている点があるような気がするが、それが見つけられるかというとそうでもなく、むしろもっともらしいと感じるならその理屈を受け入れてもいいような気もするわけで、たぶん自分でも気づかないうちに、そのもっともらしく感じられる理屈の難点や矛盾点を見つけようとして見つけられないわけではなく、そんな理屈とは関係のない方面で思考しているらしく、それが何なのかといっても、それを自分では気づかないうちに考えているわけだから、自分が何を考えているのか気づいていないという意味不明な状況の中で考えていることになるが、考えているのではなく、その場の物事の成り行きに沿った行動や言動を促されているだけなのではないかと疑念を抱きながらも、その通りな面もそれなりにありそうで、自分自身が何に囚われながら動いているのかといえば、動いているのではなく考えているに過ぎないだろうが、単純に考えるなら社会に囚われながら興味や関心を持った物事というか、興味や関心を持つように仕向けられた物事について考えているのだろうが、何によってそう仕向けられているのかといえば、それも単純に考えるならメディアが関心を持つように仕向けてくる物事について考えるように仕向けられているのかも知れないが、フーコーによれば、我々がその中で生活し活動しているように感じられる市民社会は、狂気のようなものであり、セクシュアリティのようなものだと述べているが、フーコーは狂気やセクシュアリティを医学的な病や普遍的な人間の本質として捉えるのではなく、特定の時代や社会の権力と知によって歴史的に構築されたものだと考え、では狂気とは何かといえば、狂気とは時代ごとの理性が自分たちの正当性を保つために、境界線の外側へ排除した異質なものであり、中世においては狂気は理性と共存していて、ある種の真理を語るものと見なされていたが、しかし理性主義が台頭した十七世紀以降、社会にとって都合の悪い存在として非理性の烙印を押され、隔離されるようになり、十九世紀に誕生した精神医学は、狂気を病気として客観視することで治療の対象にし、フーコーはこれを、社会のルール・正常から外れた人間を管理・矯正するための権力の表れだと分析する一方で、ではセクシュアリティとは何かといえば、セクシュアリティもまた、生物学的な本能ではなく、近代社会の権力が人間を管理するために作り上げたシステム・性の装置だと考え、近代以前の社会では、性・快楽はもっと自由なものであったが、しかし近代以降、社会は性を規範に従って正常か異常かに分類・定義しようとし、フーコーは、性を科学的に分析しようとする医学や心理学の知こそが、かえって多様なセクシュアリティを生み出し、人々を監視・管理する権力として機能したと指摘し、権力によって作られた枠組みの中で自分がどう振る舞うかという自己のケアや、権力に抗いながら新しい生き方を模索する実践としての性・快楽のあり方を追求し、このようにしてフーコーは、狂気やセクシュアリティの定義を疑うことで、私たちが当たり前だと思っている基準や常識がいかに歴史的で恣意的なものかを明らかにしようとしたそうだが、では市民社会とは何なのかというと、十九世紀以来ずっと、市民社会は、統治、国家、国家機構、制度などに対し、自分を認めさせ、それと戦い、それに対抗し、それに叛逆し、それから逃れるような現実として参照されてきたが、この市民社会に対して付与されている現実性の度合いに関しては、慎重になる必要があるそうで、市民社会は、台座として役立ったり、国家ないし政治制度に対立するための原理として役立ったりするような、歴史的かつ自然的な所与ではなく、それは、近代統治テクノロジーの一部をなすもので、テクノロジーの純然たる産物であるという意味でもなければ、現実性を持っていないという意味でもなく、それは狂気のようなものでもあり、セクシュアリティのようなものでもあり、それは、相互作用の現実と呼べるようなものであり、すなわち、権力の諸関係とそうした諸関係から絶えず逃れ去るものとの間の作用から、いわば統治者と被統治者との境界面に、相互作用的で過渡的な諸形象が生まれるのであり、この諸形象が、いつの時にも存在してきたというわけではないにせよ、それでもやはり現実的なものとして、今の場合には市民社会、別の場合には狂気などと呼ばれうるのだということで、したがって、市民社会は、統治テクノロジーの形式そのもの、すなわち、それが経済プロセスの種別性とかかわるまさにその限りにおいて自らの自己制限を目標とするような統治テクノロジーの形式そのものと、完全に相関的であるように思われるそうで、それを近代における市民社会の概念的な大転換だと考えるなら、それまで法や政治的な絆、契約や統治の正当性に重きが置かれていた社会が、十八世紀後半以降、統治されるべき一つの自然的な経済空間へと変容した歴史的転換を指しているそうで、古典的な法的・政治的秩序としての市民社会は、モンテスキューやルソーなどの系譜で、国家の法や制度、政治的な参加のあり方によって特徴づけられる法的な枠組みとしての社会だが、新たな経済的・経済的システムとしての市民社会は、アダム・スミスやファーガソンなどのスコットランド啓蒙主義、およびその後の経済学の発展に伴う変化を被って、市場原理や分業などの自然な経済プロセスが自律的に展開する場としての社会と捉えられ、国家は社会を上から無理に統制するのではなく、人口、富の循環、市場などの自然発生的な経済活動のプロセスを尊重しつつ、いかにそれを管理・調整・誘導するかという統治性・ガバナンスの対象へと変化し、この変容により、市民社会は単なる政治的な共同体という枠を超えて、経済プロセスと統治メカニズムが交差する、近代特有の自己調整的な領域として捉え直されることになったそうだが、その市民社会についての公式的でもっともらしい定義というのが、疑わしいというか、そう言われればその通りだと感じられるのだが、市民社会とは、国家による強制的な支配に対抗する領域であると同時に、人々の自発的な規律や経済的な活動を促し、近代的な権力が社会を円滑に運営するための統治テクノロジーの一部として機能してきた歴史的所産であり、かつての絶対王政のような外部からの強制ではなく、市民自らが社会のルールや道徳、労働倫理を内面化するように仕向けるシステムで、市民社会は国家が直接管理するのではなく、経済的な利害関係や市場原理を通じて自動的に秩序が保たれるメカニズムとして構想され、家族や地域コミュニティ、NPOなどの諸組織は、国家権力を補完して、市民のケアや社会統合を自律的に行い、自律的な社会の形成は、国家にとっては統合のコストを下げ、同時に社会の動態を可視化・予測可能にする洗練されたテクノロジーとして働き、このように、市民社会は私たちが自由を享受する空間である一方で、近代的権力が機能するための不可欠な条件・基盤という二面性を持っているそうで、いかにもデモクラシーの推進者のバーニー・サンダースあたりが言いそうな内容も一部に含まれていそうな定義かも知れないが、それに対して何か引っかかるものを感じるとすれば、フーコーが狂気やセクシュアリティという概念を用いて何を述べていたのか、ということであり、フーコーが狂気やセクシュアリティの分析を通じて批判したのは、近代社会が誇る理性、科学、人道主義の嘘・欺瞞と、自発的に権力に従順になっていく現代人のあり方だそうで、精神医学や性科学の発展を人間の解放ではなく、より目に見えにくく、より強力になった新たな支配の仕組みとして批判的に告発したそうだが、近代の医学や科学は、客観的でニュートラルな真理を掲げているが、しかしフーコーは、これらが特定の人間を異常として排除し、社会をコントロールするための政治的装置であり、知識=権力の道具に過ぎないと批判し、精神病や性倒錯というレッテルは普遍的な病気の発見ではなく、社会のルールに従わない者を監視・排除するために、科学の名を借りて作り出された境界線であり、近代社会は、狂者を鎖から解き放ち、病院で治療するようになったことや、性をオープンに語るようになったことを、進歩や解放と呼ぶが、これはむしろ支配が洗練され、巧妙化しただけだと批判し、鎖につないだり監禁する暴力による支配から、精神分析やカウンセリングなどの心理的な介入による支配へと移行し、これにより、権力は人間の肉体だけではなく、心や魂まで支配するようになり、セクシュアリティの分析においては、人間が性の真理として自分の本心を知りたいと願うこと自体が、権力に操られた結果で、専門家に自分の性癖や悩みを告白し、診断してもらうことで、人々は自ら進んで、私は〇〇という人間であり、異常者あるいは正常者です、という枠に収まりに行き、結果として、近代人は権力に命令されるまでもなく、自分自身を監視・管理する従順な肉体へと作り変えられているそうで、フーコーが真に批判したかったのは、私たちは自由で理性的で、進歩した社会に生きている、という盲信で、近代社会が科学や治療という善意の顔をしながら、いかに人々の異質さを排除し、一律に管理し、規範に合うように自己管理を強いているかを暴き出し、そして私たちが当たり前と信じ込んでいる常識を疑い、そこから、いかにして別のあり方が可能かを模索しようとしたのだそうだ。


7月10日「統治術の進化」

 政府が行う国家統治に関して、古典的な統治術として考えられるのが、規律と訓練で、領土内に住む臣民を法や制度によって統制し、国家の秩序を保つ統治で、統治の対象となるのは、個人の身体・道徳、法的な権利で、統治の手段として使われるのが、法律、刑罰、学校や軍隊などの規律訓練施設で、その特徴は、主権者が定めたルールに従わせるというトップダウン型のアプローチで、統治形態は、君主が法によって領土と臣民からなる社会を支配する、という形態をとるが、近代以降は統計技術の発達により、人間集団を「人口」という生物学的・経済的な集合体として捉える技術が誕生し、現代の政府は、法による社会の統治をベースとしながらも、データに基づく人口の統治を組み合わせることで国家を運営していて、統治の本質は管理と調整で、集団としての人間を、出生率、死亡率、疾病、富などの統計データを通じて把握し、全体として繁栄させる統治で、統治の対象となるのは、全体としての人間集団で、自然なプロセスとしての人口動態を管理・調整するために、統治の手段として使われるのが、統計学、経済政策、公衆衛生、社会保障で、特徴は、人口には疾病や経済の変動に伴う自然な傾向や法則があるため、直接的に命令するのではなく、環境や条件を操作して望ましい方向へ誘導する、ボトムアップ・マネジメント型のアプローチで行い、法の支配と規律権力によって社会を統治することは、共同体の一員としての市民や主体を対象として、法律、権利、義務、倫理、イデオロギーを通じて、人々の行動を枠付け、方向づけるのに対して、生政治と生権力によって人口を統治することは、生物学的な集団としての人間や種としての生命を対象として、出生率、死亡率、平均寿命、疾病率などの統計データを通じて、集団全体の生を管理・最適化し、具体的には、国や自治体は、厚生労働省の人口動態調査や、総務省の国勢調査などのデータをもとに、人口の増減を分析し、少子高齢化などの変化する人口構成に合わせて、医療、介護、年金などの社会保障制度を調整し、また都市計画や公共交通などのインフラを人口規模に合わせて最適化して、出生率の低下に対しては、子育て支援策や教育無償化などを通じて環境を改善し、過疎化を防ぐためには地方創生のための移住支援や、地域産業を活性化するための地域資源の活用、企業誘致、人材確保などを行い、社会・経済システムの破綻を防ぎ、社会の統治が、法と規律によって正しい市民を作ろうとするのに対し、人口の統治は、統計と科学によって生物としての集団の生命力を最大化しようとする、と定義されるとしても、社会を統治する場合、権力は、人間はどう振る舞うべきか、という規範を、法や道徳によって提示し、これに従わない者は、犯罪者や異常者として排除または規律・訓練によって矯正しようとし、ここでは、個人の内面や法的な関係性が焦点となるのに対し、人口の統治では、人間を生き物の集団として扱い、集団内の個々の死は偶然だが、集団全体では、その死亡率は予測可能な規則性を示し、この傾向を踏まえて、権力は、個人の行動を力づくで変えるのではなく、税率、衛生環境、医療制度などの環境を管理・調整しつつコントロールし、これにより、集団全体の出生率の向上や病気が減少するように、望ましい方向へと誘導・調整しようとするわけで、現代の国家は、この双方の技術を複雑に組み合わせることで、民衆を統治していることになるが、この主権や規律訓練による社会や身体の統治の限界を突破し、新しく登場した人口を効率的に管理するために生み出されたのが自由主義的統治で、自由主義は単に国家の介入を減らす思想ではなく、人口という制御困難な対象を統治するための、もっとも合理的で高度な技術として登場してきたそうで、十八世紀までの重商主義や警察国家・内政国家は、社会の隅々まで法と規律でガチガチに管理しようとして、決定的な限界に直面し、全市民のパンの消費量や人の移動などを国が全て把握し、国が命令して適切な消費量や交通量に保つことは物理的に不可能で、物価を国が無理に固定すると、かえって物資の流通が麻痺し、飢饉が悪化して、上からの命令と規律を守らせるだけでは、社会がうまく回らないという事実が露呈し、そこで浮上したのが、単なる個人の集まりではない、統計結果から独自の法則を持つことがわかった、人口という概念で、人口は、市場の価格変動、伝染病の流行、死亡率、出生率など、国家が命令しても、その通りには動かない自然なプロセスに依存して変化し、臣民に向かって子供を何人産めと命令しても出生率は上がらず、つまり、人口は従来の法と命令による統治が通用しない、もう一つの限界を統治者に突きつけ、この規律の限界と人口の自然性という2つの限界を解決するために発明されたのが、自由主義的な統治術で、国家は、命令して従わせることを諦め、人々を自由に活動させ、その自然なプロセスを外側からコントロールする方針に切り替え、自由主義において、自由は市民が国家から勝ち取った権利であると同時に、国家が人口をうまく統治するために消費し、管理するためのインフラ・道具であり、人々に直接触れず、市場のルール、公衆衛生の環境、インフラなどを調整し、人々が自由に選択した経済活動や衛生行動の結果が、集団全体の富の増大や病気の減少などの最適なデータを得られるように誘導し、自由主義は、統治のし過ぎにならないような、これ以上介入すると人口の自然なバランスが崩れて逆効果になる、という境界線を常に測る、自己批判的な統治のシステムで、社会を力づくで統治することの限界と、人口という制御不能に見える対象の出現に対して、人に自由を与えて泳がせつつ、環境をコントロールすることで、結果的に人口全体を思い通りに誘導することが、自由主義的統治術の本質で、古典的自由主義から新自由主義、そして現代のアルゴリズムによる統治へと至る流れは、人間を直接コントロールするのをやめ、人間が動く環境をより細かく設計・操作していくプロセスの洗練化として捉えることができ、この統治形態の進化のメカニズムを、3つのステップで解説すると、1つ目のステップは、自由主義的統治、自然な市場の保護で、統治の前提として、市場や人口には、国家が手を出してはならない自然な法則・見えざる手が働いていると考え、統治手法としては、国家は統治対象から一歩引き、市場や個人の自由が害されないように法の枠組みや治安を維持する夜警国家的な役割に徹し、人を自由に泳がせることで、結果的に富や人口が最適化されるの待つ戦略で、それに対して2つ目のステップは、新自由主義的統治、市場の人工創出で、進化のポイントは、市場は放っておいても自然には生まれないから、国家が人工的に作り出さなければならないものへと認識が変わり、統治の手法としては、教育、医療、行政、個人の生き方まで、あらゆる空間に競争と市場原理を埋め込み、人間は単なる市民ではなく、自分自身の価値を絶えず高め続けることを強いられる、自己という資本の経営者・ホモエコノミクスとして生きるように動機づけられ、自由は放任されるのではなく、効率性を高めるために制度的に強制されるようになるそうで、さらに3つ目のステップは、アルゴリズムによる統治(環境管理型権力)、予測と最適化で、進化のポイントは、二十一世紀に至り、新自由主義がさらにデジタルデータと結びつき、人間への教育や動機づけすら不要にする究極の環境管理へ到達し、統治の手法としては、スマホや各種のセンサーから回収されたビッグデータとなる膨大な行動データをAIが解析して、個人の欲望やリスクを予測し、〜しなさい、と命令するのではなく、プラットフォームの画面に、おすすめ、検索結果、評価スコアなどを表示して、行動の選択肢が調整され、人間が自分の意志でそれを選んだと錯覚したまま、特定の行動へと誘導される仕組みで、かつての統治が、正しい市民や効率的な経営者という、行動の主体となる個人の、人間としての規範的なあり方を作ろうとしたのに対して、アルゴリズムは人間を単なるデータの束として処理し、社会のリスクを自動で排除・最適化する仕組みとなり、自由主義から新自由主義を経てアルゴリズムの統治に至るまでに、統治のスタンスが、自由をリスペクトする、から、自由を競争へと組織化する、を経て、自由の選択肢を先回りして設計する、へと至り、人間の扱いは、自然な意志を持つ主体から、利益を最大化する経営者を経て、予測可能なデータの集まりへと至り、統治のメカニズムは、法による外的な枠組みの維持から、社会全体の市場化・インセンティブを経て、アーキテクチャ・環境の自動調整へと至り、このように、権力はより目に見えない形へ、そして私たちの内面ではなく、私たちの周りの環境をハッキングする形へと進化を遂げているそうだ。


7月9日「統制の現代的な傾向」

 現代における経済・政治体制は、国家主導で民間を統制する大きな政府化という共通のベクトルを強めつつも、デジタル化や市場原理の導入を取り入れて大きく変容しているそうで、現存する中国やベトナムなどの社会主義国では、価格メカニズムや競争原理を全面的に導入する社会主義市場経済が定着しているとともに、AIやビッグデータを活用し、国家が経済全体の資源配分を最適化しようとする実験的な動きが見られ、自由市場の限界や格差への反動として、特に米中を中心とする大国で国家の介入が常態化していて、戦略物資の確保や経済安全保障を目的として、政府が民間企業への統制と補助金による誘導を強め、冷戦後の自由主義的なグローバル化から一転し、各国で産業政策が復活しており、半導体、AI、脱炭素など、国家の存立に関わる分野において、補助金や関税を用いた手厚い保護と統制が行われ、日本でも経済産業政策の新基軸などの議論に見られるように、戦略分野に対する官民連携投資が進められ、それらはかつての全体主義的な中央統制とは異なり、現代の傾向は市場経済の競争力と国家による戦略的な管理をいかに組み合わせるかという点に力点が置かれているそうで、これらの傾向は、個人の利己心=企業の利益追求=国家の国益最優先、という地続きの力学から生まれていて、システムが巨大化しただけで、本質はプレイヤーが自分の有利になるように行動した結果から生じており、このプロセスは、個人、企業、国家という3つのプレイヤーが連動して、個人の利己心から企業の囲い込みへ、企業の利益追求から国家の統制へ、政府による国益・自国ファーストの追求というプロセスで事態が進行していて、個人が便利になりたい、得をしたいと思って、利己的に動いた結果、GAFAMなどの巨大IT企業にデータが集中し、企業は自社を最も有利にしようとして、市場の自由な競争ではなく、他者を排除する独占・囲い込みを徹底的に追求し、企業が利己的に動いた結果、富の極端な偏りや、サプライチェーンの海外依存によるパンデミックや紛争時のリスク・脆弱性が生まれ、格差や不安を解消しようとして、個人や企業は国家による補助金や規制などの介入や保護を政府に求めるようになり、そんな要求や要請に応えようとする政府にとって、自国を最も有利にするとは、他国への依存を減らして、半導体やAIなどの戦略物資を内製化することになるので、自由貿易よりも自国の安全と利益を最優先した結果、政府が市場に介入して、産業をコントロールする統制経済や国家資本主義の傾向が必然的に強まり、アダム・スミスの古典的資本主義では、個人の利己心が見えざる手によって社会全体の利益になるとされたが、現代では、個人・企業・国家などのプレイヤーが、自身を極限にまで有利にしようと動いた結果、皮肉にも自由市場が縮小し、国家が経済全体を管理・統制する新時代の計画・統制経済のシステムへと先祖返りしているのが現状だそうだが、政治経済を考える上で法的主権者と経済的主権者という対立があるが、法的主権者が、建前的には国家の意思や法規範を最終決定する国民・国家であるのに対して、経済的主権者を、富の生産・分配・資本の配分を実質的に決定する市場・巨大資本だと定義すると、両者の関係は近代における政治的平等と経済的不平等の緊張関係そのもので、民主主義の国民主権の原則においては、法的主権者である国民が、選挙や議会制民主主義を通じて経済活動をコントロールし、独占禁止法や労働基準法などを制定し、市場の暴走や経済的弱者の搾取を防ぎ、国家の課税や財政支出も、主権者である国民が国会での議決を経て決定するのに対し、資本主義社会では、莫大な富や雇用を生み出す巨大企業や資本家が事実上の経済的主権者として絶大な力を持つため、法的主権者の意思決定が歪められるリスクが生じ、経済的利益を守るため、大企業や業界団体が法改正や規制緩和などの政治的な意思決定に強い影響力を及ぼそうとし、経済的主権者が投資や雇用の確保などをちらつかせると、政府などの法的主権者は彼らに有利な減税や規制緩和を行わざるを得なくなり、政治的民主主義を担う法的主権と資本主義を担う経済的主権は、互いに不可欠でありながらも矛盾を孕んでいて、憲法は法の下での平等を保障するが、市場原理は自然に格差を生み出し、経済的平等を実現しようとすれば、経済の停滞をもたらして、そうかといって行き過ぎた経済的不平等は、法的主権者である国民の政治への不信感を招き、そのため、各国は適切な富の再配分や租税公平主義を通じた格差是正により両者のバランスを保とうとするのだが、当然のことながら、個人・企業・国家は経済的主権者として同じレベルでは機能しておらず、法的な主権・枠組みにおいて国家が絶対的な頂点に立っているが、経済における影響力や自己決定権・経済的主権の力関係は、国家や巨大企業に対して一部の独裁的な国家指導者や企業経営者などを除いた一般の個人は圧倒的な劣勢に立たされており、国家は、法的主権と経済的主権を同時に、かつ最も強力に行使できる唯一の存在で、経済の根本である通貨の価値をコントロールし、強制的に富を回収でき、経済安全保障を大義名分に、輸出入の禁止や特定産業に補助金を出したり、市場の力学を力づくで変えることができ、絶対的なルールの支配者と言えるが、それに対して多国籍企業や巨大プラットフォーマーは、法的主権を持たないものの、国家に匹敵する、場合によってはそれを凌駕する経済的主権を行使しており、覇権的な力を持つ大国でなければ、有利な税制や規制緩和を認めなければ、工場や拠点を他の国へと移転するという脅しが可能で、巨大IT企業は、自らのプラットフォーム内で利用規約という独自の経済法秩序を敷き、個人や中小企業を統制しており、国家の介入を受けつつも、国家と相互依存・対等な交渉ができるレベルにある一方で、一般の個人は、主権を奪われた被支配者の地位に甘んじていて、アダム・スミスの時代には、消費者の選択が市場を動かすとされていたが、現代の個人は経済的主権をほぼ喪失しており、巨大IT企業などにネットインフラやプラットフォームを独占されているため、使わないという選択肢が実質的にあり得ず、アルゴリズムによって購買行動や思想まで誘導されており、自分の意志で商品を選んでいる、という前提自体が揺らいでいて、結果的に企業や国家が定めたルールとプラットフォーム内でしか動けないという従属的な存在にとどまり、大多数の個人には企業や国家による統制に従っているという明確な自覚はなく、むしろ、多くの人は自分の自由な意志で選択し、自発的に行動していると信じているそうで、この自覚のなさこそが、現代の企業や国家による統制が極めて強力かつ洗練されている証拠でもあり、なぜ個人は統制を自覚できないのか、その心理的・構造的な理由は主に4つあるそうで、1つ目は、利便性と自由のトレードオフ・無自覚な差し出しで、現代の統制はある意味で不快感のない統制であり、かつての独裁国家のような暴力や罰ではなく、圧倒的な便利さや快楽を通じて行われ、スマホ決済、GPS、SNS、パーソナライズされた広告など、個人がデータを差し出すことで得られる恩恵が大きすぎるため、個人は監視されているリスクを認知しつつも、目の前の利便性を自発的に選択するよう仕向けられ、2つ目は、監視資本主義による心理のハッキングで、社会学者のショシャナ・ズボフが提唱した「監視資本主義」が示す通り、巨大IT企業は個人を直接命令して動かすのではなく、裏側のアルゴリズムで個人の環境を操作して、AIはあなたの購買履歴や閲覧傾向から次に見るべき動画や欲しくなる商品を絶妙なタイミングで提示し、個人は自分で見つけて、自分で決めて買ったと自由意志の錯覚に陥るが、実際にはAIが敷いたレールの上を歩かされているだけで、その自覚がないため、抵抗する動機すら生まれず、3つ目は国家による見えないアーキテクチャの統制で、現代の国家による統制も、法的な強制力だけではなく、アーキテクチャ・社会の仕組みを通じて行われる傾向が強まっていて、例えば、マイナンバーカードやデジタル通貨の導入、各種給付金・税制優遇の手続きなど、システムそのものを国家の方針に従うのがスマートでお得という設計にしており、人々は国家に縛られるのではなく、社会の標準システムに適応しているだけだと認識するため、統制されている実感が希薄になり、4つ目は、正当性と危機感による自発的服従で、コロナ禍などのパンデミック、大規模な地震や災害、戦争、あるいは経済格差の拡大といった危機に直面した際、個人は自ら国家や企業の強力な管理を求め、安全のためなら、ある程度のプライバシーや自由の制限はやむを得ないと個人が納得しているため、それを統制ではなく保護や秩序と捉える傾向になるそうで、このように現代の一般的な個人は、国家や企業に強制的に従わされているのではなく、従うことが最も合理的で、快適で、安全であるように環境をデザインされている状態であり、したがって、多くの人は、自分が国家や企業の統制下にあるとは自覚しておらず、むしろデジタル技術のおかげで、人類史上もっとも自由で選択肢の多い時代を生きていると錯覚しているそうだ。


7月8日「経済的合理性の限界」

 フーコーが『生政治の誕生』の中で述べている、経済的合理性は、プロセスの全体の認識不可能性によって包囲されているだけでなく、その上に基礎付けられてもいる、という認識は、経済的合理性は、それを取り巻く全体像を把握できないという不確実性・認識不可能性に囲まれており、同時にその制約や未知の要素を前提することで初めて成立する、という洞察で、これは、組織論や社会科学における限定合理性や複雑系理論の核心を突いているそうで、なぜ経済的合理性が認識不可能性の上に基礎付けられるのか?ということが、なかなか理解し難いところだが、完全な情報が欠如していて、現実の経済や市場は極めて複雑であり、すべての変数や未来の事象を計算することは不可能である中でも、個人や企業などの経済主体は、すべての選択肢を評価することはできないから、むしろあえて全体の認識を放棄し、予測可能な範囲に対象を絞ることで初めて合理的な判断を下せるようになり、当然そのような判断の合理性には限界があり、経済活動のプロセスの全体を完璧に把握できないからこそ、市場の自動調整機能や情報の分業といったシステムが機能し、その限界の範囲内で経済的合理性が生じるが、経済的合理性の具体的な応用例は、例えば企業の経営判断においては、AIの台頭やグローバル経済の変動などの不確実な市場環境において、企業はすべてのリスクを計算することはできないため、内部統制やガバナンス、意思決定のプロセスを整備することで、その限界内で合理的な経営を行い、投資行動においては、投資家もまた、市場の全情報を把握することは不可能だからこそ、投資リスクを最小化しつつリターンを最大化するために、リスク分散を担うインデックス投資などの全体を把握せず市場の合理性に委ねる手法が選択され、アルゴリズム取引においては、金融市場における高速取引など、人間がその全体を認識・処理する能力を超えているからこそ、アルゴリズムによる最適化が経済的合理性を体現するプロセスとして機能するそうで、そして実践として理解された経済と、統治の介入のタイプとして、国家ないし主権者の行動形態のタイプとして理解された経済学は、ともに短い展望しか持ち得ないということであり、もし、長い展望、包括的で全体化する視線を持つと言い張る主権者がいるとしたら、この主権者は決して妄想しか見ないであろう、とフーコーは述べるが、実践としての経済活動や、国家の介入形態としての経済学は、複雑かつ動的な社会を相手にするために、長期的な全体像を完全に把握することはできず、これを理解せず、全知全能の視座を錯覚する主権者は、必然的に現実を見失ってしまうそうだが、アダム・スミスが『国富論』の中で、あらゆる人間は、正義の法を犯さない限り、自らの利害関心と自らの資本を自分の好きなところへともたらすことが可能でなければならないと述べ、一人一人が自分の利害関心に従って行動すれば、あらゆる経済プロセスの監視という、不可能な任務から解放されて、数多くのやり方で絶えず欺かれる危険に身を晒すこともなくなる、という趣旨の内容を述べているらしく、フーコーにはそれが欺瞞めいているように思われるそうで、欺瞞めいているというのは、これを次のように理解できるからで、すなわち、忠実であったりそうでなかったりする助言者たちに囲まれた、ただ一人の人間としての主権者は、もし彼が経済プロセスの全体性を監視しようという無限の任務を企てるとしたら、おそらく不誠実な行政官や重臣によって欺かれることであろう、という理解になるが、しかしこの一節はまた、次のようなことも意味していて、主権者は、重臣たちの不誠実さや、必然的に制御不可能な行政の複雑さによってのみ、間違いを犯すわけではなく、主権者は、いわば本質的かつ根本的な一つの理由によって間違いを犯し、主権者が間違いを犯さないことはあり得ず、それは経済プロセスの全体性を監視するという任務を適切に遂行するためには、いかなる人間的な知恵も知識も十分ではないからだ、という結論に至るのだが、それを現代のマルクス主義者がAIを活用することで可能な限り間違いをゼロに近づけられると主張しているのかどうかは、現時点では当人の主張をあまり深くは理解していないが、マルクスがアダム・スミスより重農主義者たちの方が先を行っていると考えたのは、経済プロセスの全体性をケネーが考案した経済表によって主権者が知ることができると考えたからだが、それが現代ではAIによって知ることができると考えられるかどうかも、一応はそれに対する見解がグーグル検索のAIによる概要に出てくるので、それを紹介すると、フランソワ・ケネーの「経済表」から、現代のAIを用いたデジタル・サイバースペース計画経済、サイバー・マルクス主義に至るまで、経済プロセス全体を数値化・可視化し、中央で完璧に把握・制御しようとする試みには、経済学、哲学、システム理論などの観点から、非常に強力で説得力のある限界論・不可能性の指摘・見解があり、これらの中央集権的な全体把握の試みに対する、もっともらしい4つの批判的見解を整理してみると、1つ目はハイエクの知識の不可能性と経済計算論争で、すでに亡くなっているハイエクによる批判は、AI計画経済の不可能性を突く最も有力な見解だそうで、経済を動かす知識の大部分は、個々の人間が現場で持つ言葉にできないノウハウなどの暗黙知やその時々の主観的な好みであり、これらは現場に分散しており、中央のAIにデータとして集約・送信すること自体が原理的に不可能で、経済の全体像は、誰かが事前に把握して計算するものではなく、自由な取引の結果として生じる価格というシグナルを通じて、結果的に調整される自生的秩序であるから、AIがいくら進化しても、存在しないデータを計算することはできないと考えられ、2つ目はルーカス批判と観察による対象の変化で、ノーベル経済学賞受賞者ロバート・ルーカスが提唱した「ルーカス批判」は、予測システムの致命的な欠陥を指摘していて、AIが過去の膨大なデータから経済の全体像と法則を完璧に把握しても、そのAIの把握に基づいて国やシステムが経済政策による介入を行なった瞬間、人間の側が先回りして行動を変えてしまい、物理的な自然現象と違い、経済の構成員である人間には意思があるから、予測モデルに基づいて行動を起こすと、その行動自体が前提を破壊するため、完璧な全体把握に基づくコントロールは常に失敗に終わるという見解であり、3つ目はグッドハートの法則と指標の形骸化で、ケネーの経済表もAIのアルゴリズムも、経済を把握するために特定の指標・データを用い、ここに、経済学者チャールズ・グッドハートが指摘した限界が立ちはだかり、ある社会的な指標が、政府などの統制目標になった瞬間、人々がその数字を操作・偽装し始めるため、その指標は指標として価値を失うという法則で、マルクス主義的なAIが全体の最適供給量を計算しようとしても、末端の人間や企業が自分たちの利益のためにデータを最適化あるいは偽装して入力するため、AIが把握している全体は現実から乖離した砂上の楼閣になるそうだが、4つ目は複雑系科学・カオス理論からの予測不可能性で、現代のシステム理論や複雑系科学からは、経済はバタフライ効果などが起きる複雑系システムであるため、計算能力の限界ではなく、原理的に全体把握は不可能であるとされ、経済は、一人の消費者の気まぐれや、一つの技術革新、突発的な天候不順などが連鎖し、全体に巨大な変動を起こすシステムで、量子コンピュータや超高度AIであっても、無限の未来の初期値を全て計測することはできないため、複雑系である経済プロセスの完璧なシミュレーションは数学的に不可能だそうで、確かにケネーの経済表は、経済を人間の身体の血液循環のように捉えた天才的な発明であったが、経済をあらかじめ設計された静的なマシーンとして扱ってしまった点に限界があり、現代のAIマルクス主義も、計算力が無限になればマシーンを完全に制御できるという、形を変えた同じ決定論の罠に陥っていると言え、ハイエクはこれを致命的な思い上がりと呼び、経済プロセスの全体はあらかじめ誰かに認識されるために存在しているのではなく、誰も全体を認識できないからこそ、一人一人の限定された合理性がつながり合って動き続けていると、最初の問いにあった構造へと回帰することになるそうだ。


7月7日「自由意志の活用」

 アダム・スミスが提唱した「見えざる手」の仕組みは、個々人が自分の利益だけを追求して行動しても、競争と市場の価格調整によって、結果的に社会全体が必要とするモノが適正な価格で行き渡るという経済の基本原理で、自分だけが儲けるために、他人が欲しがる良い製品を作ろうとしたり、コストを下げて安く売ろうとしたりして、より多くの利益を狙って多くの人が参入し競争することで、自然と価格は下がり、品質やサービスが向上し、個々の企業が売り上げを最大化しようと工夫を重ねる結果、雇用が生まれ、関連企業が潤い、経済全体が成長し、このメカニズムは、個人の欲求を糧にして社会を豊かにする資本主義の根幹をなす考え方だが、ただし、環境破壊や貧富の差など、市場の失敗を防ぐために、この理屈が健全に回るように国によるルール整備も同時に必要とされている、ということになるが、ファーガソンが『市民社会史』の中で、個人が自分自身のために儲けを得れば得るほど、彼は国富の総量を増大させるが、行政が深い巧緻によってこの対象に手を伸ばす度に、行政が物事の進行を中断させ、苦情の種を増やすことにしかならず、商人が自らの利害関心を忘れて国民的企図に従事する度に、幻覚と妄想の時は近い、と述べて、その証拠事例として、ある国はアメリカ北部に植民地を築こうとして、商人の行いと限られた知識をほとんど信用せず、政治家たちによるあらゆる方策を活用し、別の国は、各自に自分のことを考えさせ、自分のためになるような地位を選ばせておいた結果、後者の国の人々は、各自の短い展望と活発な産業とによって、繁栄する植民地を形成することになった一方で、前者の国の人々の大規模な企図が実現することはなかった、と述べて、このファーガソンの論述を引用したフーコーによれば、フランスとイギリスによるアメリカの植民地化の際、フランス人たちは、自らの計画、自らの行政、アメリカのフランス植民地にとって何が最良であるかについての自らの定義を携えてやってきて、その結果、彼らは大規模な企図を築き上げたものの、この大計画は決して理念としてしか実現され得ず、アメリカのフランス植民地は崩壊することになったのに対して、イギリス人たちは短い展望と共にやってきて、一人一人の直接的利益以外のいかなる計画も持っていなかったので、その結果、産業は活発となり植民地は繁栄することになった、ということになるそうだが、グーグルの検索に出てくるAIによる概要によると、この分析は、十九世紀のフランスの政治思想家であるアレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』などで展開されている歴史・社会学的考察と非常に合致しており、全体として非常に妥当性が高いと言えるそうで、トクヴィルをはじめとする歴史学者たちの分析に基づくと、この対比は以下の具体的な要因によって裏付けられており、フランス植民地の崩壊要因は、まずは、国家主導の大規模な統制で、フランス本国の絶対王政は、中央集権的な行政機構をそのまま植民地に持ち込んで、何が最善かを本国が定義し、厳格な官僚統制とカトリシズムの強制など身分制で人々を縛りつけたため、個人の自発的な経済活動や開拓者精神が阻害され、次いで、理念の優先と定住の失敗で、広大な領土を急速に獲得したものの、軍事拠点や毛皮交易のネットワーク維持が優先され、農耕を中心とした自立的で強固な社会基盤・コミュニティが根付かなかったのに対して、イギリス植民地の繁栄要因は、イギリス本国は、初期の段階において北米植民地を厳格に管理せず、事実上の「有益な怠慢」という方針をとり、これにより、植民地の人々は個人の経済的利益や自治を追求することができ、一人一人の開拓者たちが自身の生活と利益のために土地を切り開き、産業を興し、また、ピューリタンに代表されるように、個人の契約や自治に基づく強固な草の根のコミュニティが形成されたことで、社会全体が繁栄したが、ただし、この分析にはいくつかの補足点があり、イギリスの植民地が繁栄したのは、何の計画も持っていなかったからというよりも、本国からのトップダウンの計画や干渉がなく、個人の自由意志や契約、地方自治に委ねられていたからである、とする方がより正確だそうだが、もちろん植民地の繁栄と引き換えにして、先住民社会の壊滅的な崩壊の現実があったわけだが、有益な怠慢とは、十七世紀後半〜十八世紀半ばにイギリスが北米植民地に対してとった、貿易法などの規則を厳格に適用せず、植民地の自治を事実上黙認した政策で、イギリスは当初、重商主義に基づき植民地を管理しようとしたが、本国はヨーロッパでの戦争や内政に手一杯で、そこで、あえて規制を緩くすることで植民地の経済的利益を最大化し、植民地民のイギリス本国への忠誠心を保とうとし、この言葉は1775年にイギリスの政治家エドマンド・バークが議会で行なった演説に由来し、本国の厳しい統制がないまま放任されたことが、結果として植民地を大きく成長させ、自由の精神を育んだ、と称賛を込めて表現されたが、1763年に七年戦争が終了すると、イギリスは多額の戦争債務を抱え、財政難を解消するために、この「有益なる怠慢」を放棄し、本国が印紙法などを通じて植民地への課税と統制を厳格化し、重商主義政策を復活させようとした結果、植民地側は強く反発し、これがアメリカ独立戦争へとつながって行ったそうだが、戦前の日本による満州国の経営モデルは、極端なまでに強化され近代化されたフランス型の超・中央集権的計画経済型であり、イギリス型の植民地経営とは対極に位置するそうで、ただし、欧州の古典的なフランス型をも凌駕する独自の要素となる、軍部による統制とテクノラートによる実験場化の要素も持っていたため、フランス型の特徴を極限まで突き詰めた、まったく新しい国家主導型、あるいはソ連型に近いモデルと解釈するのが最も正確だそうで、では、なぜフランス型の系譜なのか?というと、フランス型植民地経営の本質は、本国による理念の持ち込み、中央集権的な行政統制、徹底した全体計画であり、満州国は、五族共和、王道楽土という壮大なスローガン・理念を掲げて建国され、これはフランスが、文明化の使命を掲げて自らの秩序を植民地に移植しようとした構図と非常によく似ており、イギリスのように個人の自由な商工業による実利の追求に任せるのではなく、関東軍と官僚テクノラートたちが主導し、満州産業開発五カ年計画などのガチガチの国家計画を策定し、基幹産業はすべて満鉄や満州重工業開発などの特殊会社による独占とされ、民間の自由競争は徹底的に排除されると共に、形の上では溥儀をトップとする独立国だったが、内実は総務庁を中心とする岸信介や星野直樹らの日本人官僚が行政の実権を握り、上意下達で全土をコントロールする中央集権体制であり、では、なぜイギリス型でないのか?というと、満州国経営は、イギリス型の短い展望や個人の直接的利益の放任とは真逆の思想で動いていて、満州での経済構築にあたり、日本の主導者、特に関東軍は、三井・三菱などの既存の大財閥が自己の利益や資本の論理で満州を支配することを極端に嫌い、個人の利益追求よりも、国防国家の完成という大計画のために、他のすべてが従属させられたため、イギリス型のような自由で活発な民間産業の自律的発展は許されないという事情があり、そして、フランス型を超えた新モデルと言える側面は、満州国はフランス型をベースにしながらも、十八〜十九世紀の欧州の植民地主義にはなかった二十世紀型の新要素を備えていて、そのため、どちらでもないとする見方も有力で、満州国は単なる搾取や定住のための植民地ではなく、日本本国がやがて迎える総力戦体制・高度国防国家のための、壮大な経済・社会実験の場であって、皮肉なことに、それは反共を掲げていた日本軍や、官僚主導のイノベーションを目指した革新官僚たちが、当時ソ連が成功させていた五カ年計画の計画経済モデルを強く模倣していたことにあり、国家が資本をコントロールし、重化学工業を強制的に興す手法は、フランス型というよりも、ソ連の国家資本主義に近い性質を持っていて、それはまた第二次世界大戦後に毛沢東の共産主義中国が大躍進政策で大失敗した事例とも重なり、まとめると、満州国は、イギリス型のような個人の実利に任せる放任主義を徹底的に否定し、フランス型のような国家の理念と中央集権的な大計画を極端なまでに突き詰めたモデルで、最終的には、ソ連の計画経済の手法をも取り入れた二十世紀型の総力戦統制モデルへと進化・異形化して行き、結果として、インフラや近代的な重化学工業の基盤という大計画の遺産が都市部に築かれたが、本国の敗戦と共にあっけなく崩壊したという点も、かつての北米フランス植民地の悲劇的な運命と重なるところがあるが、満州国のこの統制経済の仕組みは、のちの日本の戦後復興や高度経済成長を支えた通産省などの官僚主導システムの原型になったとも言われるそうだ。


7月6日「利害関心と利害関係の関係」

 利害関心とは、ある事柄や決定によって生じる利益・不利益と、個人的な関心事・欲求を合わせた概念で、個人の行動や社会的な意思決定の背景にある、自分にとって何が大切か、何を得て何を失うかという、あらゆるモチベーションの源泉を指し、この言葉は、大きく分けて2つの側面で構成されていて、利害は、金銭的な得失、地位や権力、物理的な損得など、客観的に評価できる実利のことであり、それに対して関心は、思想、価値観、感情、個人的なこだわりなど、特定の物事に対する興味や思考性のことであり、ビジネスや政治、交渉事においては、人が表面上で何を主張しているかだけでなく、その裏に隠れている、本当は何を求めているのかを把握することが極めて重要とされ、お互いの利害関心を正しく理解し合うことで、双方にメリットがある解決策を見出しやすくなり、専門家やメディアの意見を評価する際、その人がどのような経済的バックボーンや思想的立場を持っているかを読み解くことが、情報の客観的な判断につながり、利害関心と似た言葉に、利害関係があるが、これはある事柄によって一方が得をすれば、他方も影響を受けるような立場の結びつきを指す関係性の言葉で、一方、利害関心は、その個人の内面的な欲求や動機に焦点が当てられていて、利害関係と利害関心は、客観的な事実と、主観的な気持ち、という表裏一体の関係にあり、利害関係があるからこそ、利害関心が生まれる、という因果関係で結ばれていて、利害関係は、損得が一致、または衝突している客観的な状態や仕組みのことで、利害関心は、損得に直結するからこそ抱く、主観的な興味や動機のことで、この2つは、次のようなステップで深くつながっていて、まず関係が生まれ、次に関心が生まれ、それが行動につながり、例えば、ある人物が会社に入社すると、会社とその人物の間に労働と給与という利害関係が作られ、利害関係ができた結果、その人物は会社の業績が悪くなるとボーナスが減るかもしれないと思い、会社の動きに強い利害関心を持つようになり、利害関心を持つからこそ、ボーナスを減らされないように、もっと成果を上げよう、という具体的な行動が生まれるそうで、このように、ベースにある事実としての利害関係が、人間の心の中の目的としての利害関心を動かしていることになりそうだが、それとは一見無関係のように感じられそうな事例を取り上げてみると、例えば、映画の上映自体が直接のきっかけとなって一国の体制がひっくり返った事例は存在しないそうで、ただし、映画が国民の意識を覚醒させ、検閲の崩壊や反体制運動の起爆剤となって、政治体制を揺るがす重要な役割を果たした歴史的・社会的な事例はいくつかあるそうで、1つ目は、東欧革命における検閲の崩壊で、1989年のルーマニア革命では映画そのものが直接政権を倒したわけではないが、西側諸国の映画や暴力的なシーンを含む海賊版ビデオが国民に広く出回ったことが、当時のチャウシェスク政権の独裁の異常性を浮き彫りにし、独裁打倒の大きな原動力となったそうで、こうした映像文化の流入は、後の東京大学学術機関リポジトリなどに収められている論文等でも、共産主義体制の正当性を揺るがした要因の一つとして分析されているそうだが、2つ目は、チリのピノチェト独裁政権を終焉に導いた国民投票で、1988年に行われたチリのピノチェト大統領の信任を問う国民投票において、反対派のNO陣営にはわずか15分のテレビ枠が与えられ、この時彼らが制作したキャンペーンは、映画監督のパブロ・ララインらによって映画化され、アカデミー賞にもノミネートされた作品『NO』の題材となり、この映像運動は、人々に恐怖を克服する勇気を与え、独裁体制を合法的に終わらせる歴史的転換となり、3つ目は、社会の不条理を告発し、法改正や制度崩壊を招く事例があったと言えるかどうか疑わしいが、中国やイランなどの検閲の厳しい国々では、体制の闇や腐敗を描いたインディペンデント映画や地下映画が国際映画祭で高く評価され、世界的な世論となることで、結果的に自国の検閲体制そのものを弱めたり、国内の政治制度への見直しを迫る事例がしばしば見られるそうで、映画は本質的に、体制を直接打倒する武器ではなく、体制の不正を可視化し、人々の共感を呼び、革命を起こすための思想的・文化的な土壌を耕すメディアとして機能してきたと言えるそうだが、映画というメディアが生まれる前の出来事で、劇場での反体制的な演目の上演が、その日のうちにリアルは国家転覆・独立に直結したという、世界史上最も有名な事例が、1830年8月25日のベルギーでの暴動で、当時、ベルギーの民衆はオランダによる支配に強い不満を抱いており、その日に、ブリュッセルの劇場で、十七世紀にナポリの漁師が外国の圧政に対して立ち上がった実話を描いたオペラが上演され、劇中で『祖国への聖なる愛』という愛国的なアリアが歌われた瞬間、観客の興奮のボルテージが最高潮に達して、興奮した観客は「武器を取れ!」と叫びながら劇場を飛び出し、そのまま街頭の民衆と合流して暴動へと発展して、この暴動がベルギー独立革命の引き金となって、最終的にオランダからの独立を勝ち取って、新しい国家ベルギー王国が誕生したそうで、また映画そのものが直接クーデターを起こすわけではないが、独裁政権への抵抗運動を煽り立て、不正を暴いて政権を終わらせる原動力になった映画があり、『戒厳令』は、ウルグアイの左翼ゲリラによるアメリカ人警察顧問の誘拐事件をベースに、南米の軍事独裁政権の裏で、アメリカのCIAが凄惨な拷問や弾圧を支援していた闇を痛烈に告発した反体制映画で、この映画をはじめとする告発作品や劇中で描かれた不条理な現実が世界的な世論を動かし、1970年代以降南米各地で続いていた軍事独裁体制の正当性を大きく揺るがし、後の民政移管へ大きな潮流を作った記念碑的な作品とされているそうで、また『トガニ幼き瞳の告発』は、韓国の視覚障害者学校で実際に起きた、校長や教員による生徒への性的虐待と、それを揉み消した警察・司法の腐敗を描いた映画で、国家をひっくり返す革命ではないが、法律と社会体制をひっくり返した映画として有名で、上映後、あまりの理不尽さに激怒した数百万人の市民が立ち上がり、大統領府への著名活動に発展し、映画公開からわずか2ヶ月で、児童・障害者への性的暴力罪に対する公訴時効の廃止などを盛り込んだ、通称「トガニ法」という新法が国会で可決されたそうだが、逆に、革命を起こした体制側が革命を正当化するために、映画を最大限活用したケースもあり、『戦艦ポチョムキン』は、1905年に起きた帝政ロシアの圧政に対する戦艦の乗組員たちの反乱を描いた作品で、ロマノフ王朝を革命によってひっくり返して誕生したソビエト連邦が、自分たちの革命がいかに正しかったかを国民や世界に知らしめるためのプロパガンダとして作られ、映画としてのクオリティが凄まじく高かったため、映画を観た人々に反体制の炎を植え付ける力があるとして、当時のイギリスやフランスなどの資本主義諸国では長年にわたり上映禁止処分にされたそうで、歴史を振り返ると、映画が単体で国を滅ぼしたことはなく、なぜなら国家をひっくり返すには物理的な軍事力や数百万人の組織的な行動が必要だからだが、しかし、民衆の心の中に、この体制はおかしい、という不満のガスが溜まっているとき、映画の上映が、革命へと導く最後の導火線となって大爆発を引き起こすことは十分にあり得るそうで、だからこそ、今でも独裁国家や権威主義的な政府は、反体制的な映画の上映を最も恐れ、厳しく検閲しているそうだが、それをブラック企業告発映画として単純化すれば、ある大企業の過酷な労働環境を告発する映画が大ヒットしたとすると、観客側の労働者たちは、みんな同じ苦しみを味わっていたんだ!と団結して、給料のアップや労働時間短縮などの待遇改善を会社側に求め、体制側の経営陣は、会社のブランドイメージが落ちて売り上げが下がって損失を被るのを防ぐため、映画を嘘だと否定したり、抗議する社員を処分しようとし、これに対して一般の消費者は、この会社の製品をボイコットすべきだという正義感と、安くて便利だから使い続けたいという個人的な利益の間で葛藤し、このように反体制映画は眠っていた社会の矛盾をあぶり出して、人々を、社会を変えたい側と守りたい側のリアルな損得・意見の争いへと巻き込んでいくきっかけになるのだそうで、果たしてそれを利害関心と利害関係の関係に還元して語っても構わないようなことなのかどうかは、もちろん反体制側にとってはそうではなく、法的な次元での体制側の人道的な違法性を持ち出したいのではないか。


7月5日「自己利益の最大化を目指す理由」

 自らの利益を追求する利己的な個人が市場で自由に振る舞うことが、結果として社会全体の調和や他者の利益につながる、というアダム・スミス的な見えざる手の経済思想が支持されたのは、各人が自分の利害のみに従って行動しても、市場のメカニズムによってそれが自然と他者の利害と一致し、調和すると考えられるからで、自己利益の最大化を目指すことは、明確な目的がある場合には極めて合理的な行動だが、全員が自分の利益だけを追求すると社会全体としては損失を被るような状況や、長期的な信頼や評判を損なうケースでは合理的ではないと判断され、自己利益の最大化が合理的ではない、あるいは逆効果になるケースとして、3つのケースが挙げられるそうで、1つ目はゲーム理論のジレンマまたは囚人のジレンマで、全員が自分の利益だけを最大化しようとした結果、協力し合うよりも全員にとって悪い結果を招く現象で、例えば、価格競争において各社が自社の利益を求めて不当な値下げを行うと、業界全体の利益率が下がり共倒れするリスクがあり、2つ目はコモンズの悲劇または共有地の乱獲で、個人の利益を最大化する行動が、環境、社会資本、オフィスの共有スペースなどの共有の資源の枯渇を招き、結果として自分自身を含む全員の利益を奪う結果になるケースで、3つ目は長期的な信頼とネットワークの破壊で、短期的な利益を最大化するために、ルール違反や他者への不当な搾取を行うと、社会的な信用を失い、中長期的に得られるはずだったビジネスの機会や人間関係を失うことになり、トータルでは利益が減少し、このように一見すると合理的に思える利己的な行動も、視野を広く持って周囲との相互作用を勘案すれば、合理性を失い破綻する可能性があることに気づきそうだが、その一方で、自己利益の最大化を目指す明確な目的は、個人や企業が自身の経済的厚生、生産能力、そして長期的な成長のためのリソースを確保することにあり、この原則は、市場経済における最も根本的な意思決定の基準となっていて、これを実現するための主な目的と背景は3つの側面に分けられ、1つ目の側面は、経済主体別の具体的な目的で、個人の場合、所得や効用を最大化し、自身の生活水準や幸福度を向上させることで、企業の場合、利益を最大化し、企業価値を高めることで、2つ目の側面は、最大化を目指す主な理由で、生存とリスクへの蓄えとして、常に変化する市場や経済危機や災害などが起こるかも知れない不確実な未来を乗り越えるための内部留保やバッファ・ゆとりを蓄え、再投資と成長の原資として、新しい事業への投資、研究開発、人材確保などを通して、さらなる競争優位性を築き、社会的価値の創出として、持続的な成長を実現し、雇用維持や納税、株主への還元を通じて社会全体に貢献するための土台を作り、3つ目の側面は、経済学における限界原理で、ミクロ経済学の理論においては、利益最大化のための明確な条件が数式的に定義されていて、企業が利潤を最大化するためには、追加的に1単位を生産・販売したことで得られる限界収入と、それに伴って生じる限界費用が等しくなる点で、価格=限界費用となるように生産量を決定することが合理的な目的とされているそうで、このように、一見すると利己的に見える自己利益を最大化する目的が、経済学やビジネスの観点では、健全な競争を促して、資源の最適配分や社会全体の発展を支えるための不可欠な原動力として位置づけられているそうだが、それに対して、視野を広く持って周囲との相互作用を勘案することの最大の効用は、部分最適を避けた全体最適の実現と、予期せぬリスクやチャンスを早期に察知することにあり、単一の視点に囚われずシステム全体の動きを把握することで、より的確で柔軟な問題解決が可能になり、その主な効用は3点に分類され、1つ目の点は、俯瞰的な問題解決とイノベーションの促進に結びつき、多角的な視点の獲得は自分の担当領域だけでなく、他者や別部門などの立場を理解することで、根本的な原因やボトルネックを発見しやすくなり、新しいアイデアの創出は、異なる要素同士の相互作用を観察することが、これまで結びつかなかった知識や発想を組み合わせることを可能とし、2つ目の点は、リスクの事前回避と適応力の向上で、波及効果の予測は、ひとつの行動や変更が、周囲やそのシステム全体にどのような影響を及ぼすか、相互作用を予測でき、これにより、トラブルや二次災害を未然に防ぐことができ、変化への柔軟な対応によって、状況を広く捉えて、環境の変化や他者の動きにいち早く気づき、迅速に軌道修正を行うことができ、3つ目の点は、コミュニケーションの円滑化と信頼関係の構築で、共感力の向上によって、相手の立場や状況を想像できるようになり、適切な配慮やサポートができ、人間関係の良化やチームワークが向上し、建設的な合意形成は、自分の主張を通すだけでなく、全体の利害関係を調整しながら、全員にとって最もメリットのある落としどころを見つけやすくして、ビジネスや日常生活において、ひとつの物事に固執せず、常に全体と部分のつながりを意識することが重要だが、では、視野を広く持って周囲との相互作用を勘案することが利益の最大化に結びつくかというと、長期的な利益の最大化に直結するそうで、目先の部分的な利益や短期的な利益だけを追い求めると、周囲との摩擦を生んだり、将来のリスクを見落としたりして、結果的に大きな損失を招くことがあるから、全体を俯瞰し、相互作用を計算に入れることで、持続可能でより大きな利益を生み出すことができ、利益の最大化に結びつく主な理由は3つあり、1つ目の理由は、機会損失やリスクなど隠れたコストの削減で、予測不可能な損失を回避し、自社の行動がサプライチェーンや顧客、反発や法規制の変化などの社会に与える影響を予測できるから、将来の巨大な損害賠償やブランド価値失墜というコストを未然に防ぐことができ、無駄な投資をカットすることで、部分的な改善にとどまらず、システム全体のボトルネックを解消し、投資対効果が最も高い場所に資金を集中でき、2つ目の理由は、新たな市場や付加価値の創出で、業界の枠を超えて周囲の環境や他業種を観察することで、まだ誰も気づいていない顧客の潜在ニーズや、新しいビジネスモデルや、相乗効果を生むアライアンスなどを発見でき、競合との単なる価格競争から抜け出し、共通の生態系全体で価値を提供する仕組みを作ることで、高い利益率を維持でき、3つ目の理由は、取引先の顧客を買い叩くのではなく、周囲も利益を得られる相互作用を伴うウィンウィンの関係を作ることで、強固なパートナーシップが生まれ、結果として、安定した取引や共同開発が進み、自社の利益の規模自体が大きくなるそうで、その際に、短期的な利益と長期的な成長は、一見すると投資と回収のトレードオフ・二者択一に見えるが、しかし、視野を広く持ち、周囲との相互作用・シナジーを計算に入れることで、両者を同時に高める循環サイクルを作ることができるそうで、両立を可能にする1つ目の条件は、短期的な利益を未来への投資に即座に回せる仕組みがあることで、原資を循環させ、短期マーケティングで得たキャッシュを、即座に中長期の研究開発や人材育成に組み替える動線が必要で、2つ目の条件は、自社と顧客やパートナーなど周囲の利害がポジティブ・フィードバックの関係にあることで、自社が儲かるほど、顧客の満足度が上がり、パートナーの利益も増える好循環の関係性を構築することで、そのためには、人・モノ・カネなどの経営資源の配分ルールが明確であることが必要で、短期対長期の比率など、状況に応じた資産と資源の組み合わせのポートフォリオ基準をブレない軸としてあらかじめ決めておく必要があり、両立を実現するための具体的なアプローチとして考えられる1つ目は、資産・アセットの多重利用・レバレッジで、仕組みは、1つの製品やサービス開発で得た技術やデータを、短期的な販売と、長期的な新事業開発の両方に同時に使い回し、具体例としては、短期的な物販で顧客データを集めて即時利益を得る一方で、そのデータを分析してサブスクリプションなどの継続課金型の長期サービスを構築し、2つ目のアプローチは、バックキャスティング・逆算型の短期戦略で、仕組みは、長期的な展望で十年後の理想の姿をまず定義し、そこへ到達するために短期的な視点で今月売るべきものを決める手法で、メリットは、短期の営業活動が、全て長期的なブランド構築や顧客基盤の拡大に直結するため、目先の利益を追ってもブレず、3つ目のアプローチはエコシステム・共生圏を構築して主導することで、仕組みは、プラットフォームを構築し、参加者が増えるほど自社の短期利益も長期安定性も自動的に増していく構造を作り、具体例としては、自社製品の周辺ビジネスを他社に開放し、短期的には手数料収入を得つつ、他社が抜ければ顧客も困るほどの強力なネットワーク効果を長期的に築くことになるが、自らの利益の最大化を目指すには、その行為が他者にも受け入れ可能な環境を整備することが、一見して回り道に感じられるものの、共存共栄という幻想を抱ける範囲内で有効に機能する可能性があるわけだ。


7月4日「法権利の主体と利害関心の主体の異質性」

 法権利の主体と利害関心の主体は、近代における人間存在の二面性を示し、それぞれ全く異なる論理と機能を持つ、二つの異なる主体像で、法権利の主体の特徴は、権利と義務を担うことができる、抽象的かつ形式的・平等な主体で、役割は、主権者・国家に対して権利を主張し、法的な契約を結ぶことができる人格で、この主体においては、法的な意志が中心となり、それに対して利害関心の主体の特徴は、自らの欲望や利益、快楽の最大化を追求する、具体的で経済的な主体で、役割は、市場における交換や競争の中で、自身の利益に基づいて合理的に行動し、この主体においては、法的な意思ではなく、無数の衝動や計算が中心となり、両者の間の異質な点は、市場の論理・功利主義などの利害関心の主体の行動原理が、法の論理・正義などの法権利の主体には還元できず、法的なルールでは利害関心を完全にはコントロールすることができず、逆に利害関心の論理では法を直接導き出すこともできず、フーコーは、近代の自由主義的な統治・ガバメンタリティが、この抽象的な法権利の主体と具体的な利害関心の主体という、相矛盾する二つの人間を一つの社会の中で同時に統治・調整し続けるという困難な課題を抱えていると指摘して、近代社会は権利の平等という法的な枠組みと、欲望や利益の追求という経済的な動因が、互いに交わらないまま並存していて、交錯する構造の上に成り立っており、法的意志とは、個人の私的な損得勘定や利害関心によっては割り切れない、普遍的かつ客観的な正当性を持つ意志のあり方を指し、この概念は、法哲学や政治思想において法的主体と利害関心の主体を区別する際の重要な命題で、利害関心は、個人の欲望、快・不快、特定の目的といった個別的かつ主観的なものに依存し、これに対し、法的意志は万人に等しく妥当する普遍的な法形式を目指すものであるから、個人の打算・利害関心をどれほど積み重ねても、論理的に普遍的な法的意志を導出することはできず、功利主義のように利害関心を社会全体の幸福に拡張したとしても、それは多数派の利益という結果主義にとどまるのに対し、法的意志は、結果や効用の最大化ではなく、行為そのものが正義や権利の原理に合致しているかという義務や権利の相互性を根拠としていて、近代の統治機構において、権利の主体である法的主体と欲望や利益の主体である利害関心の主体は本来的に両立し難い別個の次元として扱われてきて、法は、単なる欲望の調整弁ではなく、それとは次元を異にする規範的原理として要請されるが、法解釈や法適用において、抽象的な法概念や論理的推論よりも、社会の具体的な利害関係や対立する利益の比較考量を優先させるべきだとする方法論もあり、十九世紀から二十世紀にかけてドイツで台頭したフィリップ・ヘックらの利益法学は、法律を抽象的な論理パズルとして扱う概念法学を激しく批判し、法律の背後には必ず特定の経済的・社会的な利害対立が存在するという事実を重視し、裁判官は、どの利益が法的にもっとも保護されるべきか、という現実的な利益衡量を行うべきだと主張したそうで、現代の法解釈において利益衡量は、対立する当事者の権利や個人的利益や社会的利益をはかりにかけ、より妥当で大きな社会的利益をもたらす結論を導き出すプロセスを指し、日本の民法や行政法などの解釈においても、条文の文字面や形式的な論理構成に固執するのではなく、人々の利害関係を調整するという目的が重視されているそうだが、法律の文言や立法者の意思などの法的意志を無条件に優先させると、社会の変化に伴う不条理や具体的な不正義を生む可能性があるが、一方で、利害関心を過剰に優先させすぎると、裁判官の恣意的な判断を招き、法的安定性が脅かされるため、法学方法論においては、法理論の枠組み・法的構成の中で論理的に検証しながら、実質的な利益衡量を行うことが求められているが、資本主義の歴史において、法による統制や倫理・法的意志は、常に利潤最大化を求める経済的利害関心の前に後退してきた経緯があり、この力学は法の抜け穴や規制緩和として表面化し、国家の統治能力さえも市場原理の前には妥協を強いられ、資本主義の黎明期には、イギリスなどで児童労働や長時間労働を禁じる工場法が制定される度に、資本家たちは競争力が失われるとして猛反発し、法の適用除外や緩和を勝ち取って、人権や健康の保護などの法的意志は、常に利潤追求の前に骨抜きにされ、アダム・スミス以来の自由放任主義・レッセ=フェールは、独占資本の形成と貧富の格差を拡大させ、市場の暴走を止める法的枠組みが不十分であったために、過剰生産が世界恐慌を引き起こして、さらには経済的利権を求めた帝国主義的対立が二度の世界大戦を引き起こし、冷戦終結以降、国境を越える巨大資本は、タックスヘイブンや規制緩和を武器にして膨張し、各国政府は、多国籍企業を自国に誘致するため、環境基準や労働法、税法を切り下げざるを得なくなり、結果として、国家の法的意志がグローバルな市場原理に敗北する構図が常態化し、今日では、プラットフォーマーと呼ばれる巨大IT企業が、国家の主権を凌駕する力を持っており、AIやアルゴリズムを用いた市場支配は、従来の独占禁止法や労働法といった法的枠組みを大きく超越し、法的規制が技術革新と経済的利得のスピードに追いつけない事態を生み出していて、このように、資本主義の歴史は、社会の公正や秩序を守ろうとする法的意志と、それを突破して利潤を拡大しようとする利害関心との、終わりのないイタチごっこ状態を招いて、そうした中でも常に経済的合理性が優位を占める形で情勢が展開してきたと言えそうで、近年における国内外の政治情勢も、各国の経済的・地政学的な利害関心・国益や有権者の利益を起点として大きく変化していて、特に、大国間の覇権争いや自国第一主義の台頭、そして国内の格差問題が、国際秩序と各国政府の政策決定を強く規定しており、米中対立の激化をはじめ、国家の安全保障と経済的利益が直結する経済安全保障が最重要課題となっていて、供給網・サプライチェーンの強靱化や先端技術の囲い込みなど、各国は自国の産業と利権を守るための経済ブロック化や同盟関係の再構築を進めていて、ロシアのウクライナ侵攻や中東情勢の緊迫化など、力による現状変更の試みが相次ぐ中、従来の国際法や多国間協調といった枠組みよりも、各国の国益や勢力均衡が優先される傾向が強まっていて、またグローバルサウスと呼ばれる新興・途上国が、特定の陣営に与せず自国の経済的・政治的な利益を最大化しようとして独自の外交を展開し、国際社会における発言力を高めようとする一方で、それと同時並行して、各国でインフレや雇用の不安定化、資源・エネルギー価格の高騰が深刻化しており、これが国民の生活不安に直結し、こうした経済的利害への不満を背景に、移民制限や自国産業の保護を訴える政治勢力が広く支持を集めて、貧富の格差を背景とした社会の分断が進む中、有権者は長期的な政策よりも短期的な恩恵や自身の利益を直接代弁するポピュリスト的な政治家や運動を支持する傾向が強まっており、日本においてもそうなっていると感じられるかも知れないが、日米同盟を基軸としながらも、米国への過度な依存を見直し、グローバルサウスや欧州、アジア各国との多層的な連携を強化する動きも加速しているそうで、大国間の対立に巻き込まれるリスクを減らし、日本の外交的自律性と経済的利益を守るための戦略と、少子高齢化や社会保障費の増大、財政負担といった構造的な課題に対し、多様化する有権者や産業界の利害をどのように調整し、合意形成を図るかが大きな政治的課題となっているそうで、これが日本の政治情勢を全く反映していないような意見だと感じられなくもなく、何か怪しいことを述べているような疑念を覚えざるを得ないかも知れないが、これは日頃からメディアを通じて法権利の主体を装った者たちの意見や主張に接していると感じられる違和感かも知れず、しかも利害関心の主体が法権利の主体を装いながらメディアを通じて法的秩序を守れと主張するものだから、なおのこと欺瞞や偽善の臭いが漂ってくるのかも知れないが、彼らがどんな事実や真実を隠して民衆を騙す行為に及んでいるのか、本心では悪意や利己的な考えを持っているにもかかわらず、表向きは親切心や道徳的な傾向を前面に打ち出して善人ぶっているのも、果たしてそれが虚栄心やエゴの表れなのかどうかも、今後とも明らかになることはないのかも知れない。


7月3日「社会の多様性」

 一般的に言って、政治体制の違いは、社会のあり方を根本から変化させ、権力の所在、人々の権利の範囲、情報の統制度合いが異なるため、社会の流動性、経済発展の方向性、そして文化的な自由度に大きな違いが生じるそうで、それに関して簡単に言えそうなことは、民主主義体制であれば、権力の源泉が国民にあり、定期的な選挙や言論の自由によって社会の意見が政治に反映され、個人の能力や努力次第で、自由に職業や社会階層を移動でき、多様な意見の衝突を経て、ボトムアップ型で少しずつ変化して行き、変化には時間がかかるが、個人の権利や多様性が尊重されやすい傾向になる一方で、権威主義や独裁的な傾向の強い政治体制であれば、一部の政党や特定の個人に権力が集中して、統制が行われ、支配層や特定のエリート層が固定化されやすく、一般市民の社会的上昇が阻害される恐れがあり、トップダウンで急速な改革やインフラ整備が行われる一方、市民の自由な活動は制限され、意思決定が非常に速い反面、体制に批判的な意見や社会運動は厳しく抑圧される傾向となって、そのような社会のあり方は、現代の価値観からすれば否定的に見られがちになるだろうが、そういう単純でわかりやすい傾向ではなく、例えば、個々人を包囲する法律を、社会的な標準や規範を定めることによって補強し、それを社会の隅々にまで行き渡らせようとする社会とは、法律によって人々をがんじがらめにするだけでなく、普通はこうあるべきで、これが標準だ、という無言のプレッシャーで人々の心の内面をコントロールして、法制度を内側から中継・延長して機能させる社会だそうで、人々を平均的な標準に無理やり当てはめ、そこから外れる者を排除・矯正しようとする息苦しい統治モデルを意味し、一般的には行き過ぎた管理社会を示しているそうだが、一般的な規格化および規格化不可能な者の排除から成るメカニズムを必要とする社会とは、まさにフーコーが規律訓練的社会や管理社会として分析したような、近代以降の国家システムを指し、その中で規格化・ノーマライゼーションの目的は、工場での大量生産や近代的な都市運営、軍隊、官僚制などを円滑に機能させるためには、社会の構成員が予測可能で同質化されている必要があり、そのためには、社会は学校や企業、病院といった施設を通じて、人々を正常な状態に飼い慣らし、国家運営を円滑に行うための効率的な歯車となるように教育・訓練・管理する必要がある、ということになりそうだが、そうした規格化が前提となる社会では、そこから外れた者、あるいは管理の枠組みや規格に適合できない者は、異常、逸脱、非効率と見なされ、監獄や精神病院などへ隔離されたり、労働市場や福祉システムから疎外されることになり、そういう傾向が極まった事例が、中国やロシアや北朝鮮にあるとされる強制収容所だと言えるが、もちろん民主的な体制の国家にも程度の差はあるにしても、刑務所から老人ホームに至るまで、収容者の傾向や種類や施設の管理形態を変えて、様々なバリエーションを伴って存在し、このようなシステムが駆動する背景には、資本主義社会においては、資本の最大化と生産性の向上を追求する過程で、平均的な能力や労働力を持たない者を不要なものとして弾く傾向があり、また国家による人口管理の面では、人々を出生率や死亡率、健康状態などを数値化した人口というひとつのまとまりとして捉え、管理しやすくするために画一的な基準や規格を当てはめる傾向にもあり、国家が社会を把握するために可読性を高めようとして、複雑な現実を単純化する傾向があるということで、例えば、偏差値や学習指導要項に基づいた学校教育、他にも医療、福祉、行政サービス、企業の採用活動などにおいて、評価や管理コストを下げるために画一的な基準が用いられ、このシステムにおいては、個人の多様な背景や個別具体的な状況より、全体の統計データや平均値への適合が優先されるため、枠に収まらない個人の実態が見過ごされがちになり、このように社会を効率的に管理しようとする手法は、近代国家の成立と発展においては不可欠であった反面で、個人の尊重や多様性の確保という現代社会の課題としばしば摩擦を生む原因にもなっていて、全体の効率化や社会秩序の維持を最優先事項とする社会において、規格化と排除は表裏一体のメカニズムとして機能するそうだが、それに対して、差異のシステムが最適化された社会とは、個人の能力や属性、価値観の多様性や差異を単なる格差や障害として排除するのではなく、システムとして有機的に統合して、社会全体の生産性と個人の幸福を最大化する社会モデルのことで、この概念は、個人の多様性・ダイバーシティをどう捉え、どう社会の経済や組織などのシステムに組み込むかという観点から、大きく3つの重要な側面に分けることができるそうで、1つ目は個人の差異の包摂・インクルージョンという面で、従来の社会が平均的な人間を基準に制度や労働環境を設計してきたのに対し、最適化された社会では、一人一人の異なる能力、身体的特徴、文化的背景などの差異を前提にしたシステムを構築し、そのメリットは、心身の障害やマイノリティとされる特性も、テクノロジーやリモートワークなどの柔軟な労働形態によって補完・適合されることで、貴重な労働力やアイデアとして社会に還元され、そうした個人の特性を活かす環境整備の事例は、厚生労働省がまとめる障害者雇用対策などを参照できるそうだが、2つ目は、多様性のシナジー効果・イノベーションの創出という面で、異なる意見や専門性、価値観が衝突・対立するのではなく、補完し合うシステムが機能している社会であり、メリットは、均質な集団では生まれにくい多角的な視点やイノベーションが促進され、そうなるには、異なる差異を単に並べるだけでなく、それらが公平に評価され、建設的に対話できるインフラが不可欠であるそうで、3つ目は、社会の公平性の担保、機会の平等という面で、最適化された差異のシステムは、属性による差別や機会の不平等を是正する機能を含み、そのメリットは、性別、年齢、人種、階層などによる不当な格差をなくし、個人の努力や成果に応じた適正な評価と流動性が確保され、ジェンダーや多様性に関する社会構造の分析については、経済産業省が主導するダイバーシティ経営の取り組みなどが参考になるそうだが、総じて言えることは、差異のシステムが最適化された社会とは、画一的な正解を押し付けるのではなく、違いを社会の構成要素として捉え、誰もが能力を発揮しやすく、かつ全体の利益が最大化されるよう巧妙にデザインされた社会と言えるそうで、それに関連して、揺れ動くプロセスに対して自由放任されているような社会とは、端的に言えば、国家が個々の活動に細かく介入するのではなく、多様な意見や価値観、社会的な変動が自然に調整されるプロセスを尊重・容認する社会を指し、この概念が持つ主な意味と背景は3つあり、1つ目は、社会を統治する上での自由主義という統治技術を分析する中で、権力があらゆる事象をコントロールするのではなく、社会の中で生じるゆらぎや自然なプロセスに一定の自由を与えることが、結果的に社会の最適化につながるという考え方で、2つ目は、この社会では、単一の価値観や完璧な秩序を強制せず、個人の実践を容認し、主流派とは異なる個々人や少数者の実践、生き方、意見などが社会の中で共存することを許容すると共に、社会が常に流動的であり、様々な摩擦や変化が起きることを前提として、3つ目は、経済学におけるアダム・スミスの「見えざる手」の概念とも通底していて、政府が市場や人々の活動を細かく管理・統制するのではなく、それぞれの自由な活動に任せることで、結果として社会全体がうまく回り、最適化されるという信頼に基づいており、このように社会は放置ではなく、自然な変動プロセスが持つ調整能力を最大限に活かし、多様性を許容するシステムとして捉えられているそうだが、また単に存在を許す・我慢するという消極的な寛容ではなく、異なる価値観や生活習慣が社会を構成する重要な要素であると積極的に認め合う状態・承認を指し、誰もが自分の実践や生き方を追求できるよう、社会的なバリアを取り除く仕組みづくりも含まれ、個人の道徳や価値観を直接的に教育や暴力で内面化させるのではなく、物理的な空間や情報の設計を通じて、人々が自発的に望ましい行動をとるように誘導される社会を目指し、個人の道徳や能力に頼るのではなく、制度やインセンティブの構造そのものを再設計し、人々の行動を自然と望ましい方向への導く社会システムを目指し、ミスが起きにくい・協力したくなるルールにゲームの仕組み自体を変え、人間の心理・行動的な傾向を利用し、強制することなく自然に正しい選択をさせる手法で、社会制度や経済のルールをあらかじめ設計し、参加者が自分自身の利益を追求して合理的に行動した結果として、社会全体の目標が達成されるようにして、個人や企業がそれぞれの利益だけを追求すると、結果的に社会全体が損をしてしまう社会的ジレンマを解決するには、個人の意識改革に頼るのではなく、どのようなルールであれば、人は協力せざるを得なくなるか?という視点を持つことで、より持続可能で強靭な社会を構築することができるそうだ。


7月2日「エンフォースメントの活用」

 単純な理屈や事実を否定する際、一見もっともらしく聞こえるものの、論点をすり替えたり極論を持ち出したりする屁理屈の典型例をいくつか挙げると、1つ目は、ゼロサム思考・極論へのすり替えで、〜ではないなら、完全に無意味だ、と、白黒思考や極論を持ち出して現実的な妥協点や部分的なメリットを否定する手法で、例としては、早寝早起きをしても病気になる時はなるから、健康法には意味がない、というのがあるそうで、2つ目は、対象の拡大解釈・滑り坂の論法で、それを認めたら、最後はとんでもない破滅に至る、と非現実的な飛躍を用いて、目の前の妥当なルールや意見を否定する手法で、例としては、ここでルールを1つでも緩めたら、最終的には無法地帯になってしまう、というのがあるそうで、3つ目は、多義性・言葉の定義の操作で、都合よく言葉の定義を拡大・縮小し、相手の主張をねじ曲げて否定する手法で、例としては、すぐやると言ったが、いつやるとは言っていない、というのがあるそうで、4つ目は、人身攻撃・動機へのすり替えで、議論の内容そのものではなく、主張している人の性格、過去の言動、または、そう主張することで得をするからだ、という動機を攻撃することで理屈を否定する手法で、例としては、そんなきれいごとを言うのは、自分が良く見られたいからだろう、というのがあるそうで、5つ目は、比較の対象をすり替える論法で、相手から指摘された問題に対し、あっちも同じことをやっている、もっと悪い奴がいる、と論点を別の対象に移し、自分の非をうやむやにする手法で、例としては、私が遅刻したことを責めるが、あなただって以前ミスしたはずだ、というのがあるそうだが、そういうことを言わせないための直接の対策となるわけではないが、屁理屈や言い訳を言うのをためらわせるような、損得勘定の観点から下手な抵抗を試みるのはやめておこうと思わせる措置や障壁というのがあるらしく、それが法執行や強制を意味するエンフォースメントというやり方で、法律や規制、ルールを実際に守らせるための措置を指すそうだが、直接的な面では、違反者への罰則や、強制的な取り締まり、ルールの実効性を確保する仕組み・法執行として、主にビジネスや法務、IT分野で用いられるそうで、そういった面での使われ方をいくつか挙げると、1つ目は法務・ビジネス面で、知的財産権・著作権の保護を目的として、偽ブランド品などを排除するために、商標権や著作権の侵害に対し、警告書の送付や、水際対策として税関での輸入差し止めを行なったり、損害賠償請求などの法的措置を行うことや、ライセンス違反に関して、ソフトウェアの使用許諾契約に違反していないか企業を監査し、不正利用に対して罰金を科すことであったりするが、2つ目は経済・行政におけるコンプライアンスの遵守と金融の分野で、会計基準のエンフォースメントは、上場企業が提出する財務書類が会計基準に適正に準拠しているかを確保し、不適切な決算を監視・是正することで、独占禁止法の執行に関しては、カルテルや不当な取引制限を行なった企業に対し、公正取引委員会が排除措置命令や課徴金納付命令を下すことであり、3つ目はセキュリティの方面で、IT・デジタルコンテンツに関して、コピーを防止する技術は、著作権で保護されたデジタルコンテンツの不正コピーや無断配信を防ぐため、機器やソフトウェアに制御機能を持たせることであり、ネットワークやゲームの規約を順守させるには、オンラインゲームやSNSにおいて、利用規約に違反したアカウントを強制的に利用停止にすることになるが、そういうことの延長上で、相手に言い訳や屁理屈を言わせないようにするために、エンフォースメント的なやり方で、ルールや約束を強制的に守らせるには、反論の余地や抜け穴をあらかじめ潰す仕組みを作ることが有効だそうで、心理的な抵抗感を高め、言い訳をためらわせるような具体的な対策を5つのアプローチで紹介すると、1つ目は、基準の完全な数値化・客観化で、主観が混じるルールは屁理屈の温床になるから、誰が見ても一発で白黒がつく基準を設定し、数値による定義としては、早く提出することではなく、締切日の17時ジャスト、1分でも過ぎたらシステムが自動で受け付けないとしたり、状態の定義としては、きれいに掃除すると共に、床に髪の毛が1本も落ちていない状態、かつゴミ箱が空であることと定義することでその基準を守らせ、2つ目は、不履行時のペナルティの事前合意と自動化で、事前に言い訳が通用しないペナルティを確定させ、違反時に感情を挟まず機械的に実行し、コミットメントの規約において、もし遅れた場合は、言い訳の理由を問わず〇〇の権利を失う、またはペナルティを支払う、という書面に事前に署名・捺印させ、機械的な自動執行において、システムや第三者や仲介者を挟み、言い訳を聞く前に、自動で預かり金の没収などのペナルティが発動する仕組みにしてルールを守らせ、3つ目は、プロセスの可視化・ログの採取で、知らなかった、やっていないという嘘や言い訳を、証拠によって即座に論破できる環境を作り、そのためには行動ログを共有できるように、作業進捗やアクセス履歴がリアルタイムで全員に見えるツールを導入して、文脈の録音・録画をして、会議や合意の瞬間を記録に残し、言った・言わないの屁理屈が生まれた瞬間にその証拠を提示できるようにしておくことで、ルールを守るようにし、4つ目は、承認プロセスの逆算型設計で、できなかった理由を後から言わせないように、事前にできることを本人の口から証明させるには、事前のチェックリストの義務化によって、作業の着手前に、必要なリソースは揃っているか、不明点はないかを、すべて本人にチェックさせ、YESと言った記録を残させ、また中間報告も義務化し、最終段階になってから、実は〇〇のせいで遅れた、と言い訳させないように、進捗率20%・50%の時点でアラートを出すルールを強制して、事前の約束を守らせ、5つ目は、言い訳のコストを最大化する仕組みにして、屁理屈を言うこと自体が本人にとって大損になる環境を作り、例えば公の場での説明義務が生じる仕組みにして、言い訳をする場合は1対1ではなく、関係者全員が出席する会議や共通のチャンネル・掲示板で公に理由を説明しなければならないルールにしたり、ピア・プレッシャー(同調圧力)が生じるように、個人だけの問題にせず、一人の遅れや違反がチーム全体の評価やボーナスに直結する連帯責任型の仕組みにすれば良いが、ルールを定め仕組みを作らないとエンフォースメントは機能しないわけだから、場合によっては膨大なコストがかかり、深刻な政治的不都合や社会的不都合が必然的に発生する可能性もあるそうで、ルールを厳格に執行しようとすればするほど、社会や組織には強い歪みや副作用が生じてきて、具体的な権力・利害の対立を招く政治的不都合は、監視社会への反発で、ルールの抜け穴をなくすには、ログの採取や監査などの強い監視が必要で、これはプライバシーの侵害や権力の暴走と受け取られて、激しい政治的批判を浴び、政権や指導者の支持率低下に直結し、また支持基盤・利害関係者との衝突を招く理由として、厳格なエンフォースメントは、これまで巧みな言い訳で切り抜けられるグレーゾーンで利益を得ていた業界や既得権益層を直撃し、ルールを厳しくした結果、強力な支持団体から見放されるという政治的敗北のリスクが生じ、さらには責任の押し付け合いという官僚主義の弊害に関しても、自動でペナルティが発動する仕組みを作ると、政治家や役人は融通が利かないと批判されるから、責任を取りたくない上層部が、エンフォースメントの仕組み化そのものを拒むケースが多発すると予想され、そしてコスト増大と硬直化を招く社会的不都合は、経済的・人的コストの増大については、ルールを作るだけでなく、違反を監視し、摘発し、処罰するには膨大な人件費やシステム投資が必要で、百円の不正を罰するために一万円の監視コストをかけるような、経済的非合理が社会全体で発生するリスクがあり、また言い訳や屁理屈を一切許さない社会は、極めて息苦しいものとなり、人々は失敗した時のペナルティを恐れて、新しい挑戦やイノベーション、柔軟なリスクテイクを全くしなくなるリスクもあり、さらには締切を1分過ぎたらシステムが自動遮断というような厳格さは、大災害や急病などの本当に正当な理由がある弱者まで機械的に排除してしまい、これが社会的な不公正や分断を生むリスクまであり、屁理屈や言い訳を潰すための完璧なエンフォースメントは、コストが高過ぎて社会が破綻するか厳格過ぎて息が詰まるという結果を招きかねないから、実際の社会や政治においては、あえてある程度の言い訳やグレーゾーンなど裁量の余地を残しておく方が、結果的に社会全体の運営コストや摩擦が低くなるという逆説的な現象が起きているそうだ。


7月1日「杉並区長選挙から浮かび上がる行政的課題」

 最近話題の杉並区長選挙で現職の岸本聡子氏が再選した結果からは、行政運営における対話と合意形成の難しさやSNSによる政治分断、公共事業の優先順位といった課題が浮かび上がっているそうで、近年の杉並区政および選挙戦を通じて顕在化した主な行政的・政治的問題点を朝日新聞や東京新聞などがいくつか挙げているらしく、それらを紹介してみると、まずは対話重視の行政手法に対する評価の二極化という点で、現区政は対話の区政を掲げ、区民の意見を吸い上げる手法を重視している一方で、対話ばかりでスピード感や意思決定が遅れているそうで、一部の特定層の意見に偏りやすいといった批判も根強く、行政運営のスピードと民主的な手続きのバランスが大きな論点となっているそうだが、またSNSによる分断と政策論争の形骸化という点で、選挙戦においては、政策や実績をめぐる議論よりも、SNS上での候補者や支援者による誹謗中傷や攻撃的な言動が過熱し、これにより本来の政策課題が霞んでしまい、インターネット空間における政治の分断やガバナンスへの悪影響が行政・地域社会の課題として浮き彫りになっているそうで、さらには公共事業の優先順位と方針転換による混乱という点で、地域インフラや大規模開発などの公共事業について、行政トップの交代によって方針や優先順位が大きく見直されるケースがあり、善福寺川の調節池工事や児童館見直しなどにおいて、行政の継続性が揺らぐことで、区民生活や中長期的な街づくりに混乱を招くリスクが指摘されているそうで、これらの点から、区議会との調整・合意形成の難航が予想され、区長が強く推進する政策に対して、区議会内の多数派との対立が起きやすく、円滑な行政執行のための調整コストが大きくなって、議会と行政、そして住民の三者間でいかに建設的な合意形成を図るかが、区政運営上の重要な課題となっているそうだが、日本に限らずアメリカなどでも、都市部で社会主義的な行政を掲げる首長が話題となり、都市部における所得再分配や手厚い福祉などの社会主義的な行政が成り立つ要因は、税収の安定だけが理由ではなく、人口と企業が集中して地方交付税に頼らずに済む強固な地方税収に加え、行政サービスのスケールメリットや、住民の行政関与への高い意識が揃っているからだそうで、都市部は人口密度が高く、多くの企業や商業施設が集積していて、これにより、住民税や固定資産税などの基幹税収が他の地方自治体に比べて圧倒的に大きく、景気の変動はあっても税収基盤自体は極めて安定し、多くの人が狭い地域に密集しているため、交通網、上下水道、公営住宅、福祉施設などのインフラやサービスを効率的に提供でき、一戸あたりのコストが下がるため、少ない予算で手厚い市民サービスを実現しやすく、また都市部には多様な人々が暮らしており、労働組合や市民団体などによる社会運動が活発に行われる傾向があり、生活環境の改善や格差是正に対する住民の要求も高く、行政側もこれに応える形で福祉政策や公共サービスの充実を図り、このように、高い人口密度による経済効率と都市部の政治力学が組み合わさることで、独自の充実した行政サービスが成り立っているそうだが、都市部で成立する手厚い行政サービスが地方や農村部などの国全体へ波及しづらいのは、圧倒的なコスト効率の差と利害関係の対立があるからで、地方は人口密度が低いため、インフラや福祉サービスの維持コストが跳ね上がり、バス1台、あるいは施設1箇所あたりの利用者が少なくなり、医療や介護の訪問、インフラ整備の移動距離が長く、一律のサービス提供には巨額の資金が必要で、また地方自治体の多くは、地方税などの自前の税収だけでは財政を賄えず、国からの地方交付税交付金や補助金に頼らざるを得ない状況で、都市部のような独自の上乗せサービスを実施する財政的余力がなく、また都市部と地方では、住民が求める政策の優先順位が根本的に異なり、都市部のニーズは、子育て支援、保育所の拡充、公共交通機関の維持、格差是正などになる一方で、地方のニーズは、過疎対策、農林水産業の振興、道路インフラの維持、高齢者医療などになり、一律の政策を国全体で進めようとすると、限られた予算の奪い合いになり、政治的な合意形成が難しくなるそうだが、そういう事情が地方自治体などにどんな傾向をもたらしているかというと、ちょっと前に市長のゴシップネタで話題となった、地方都市の前橋市の行政は、少子高齢化や人口減少への対策として、官民連携によるまちづくりと徹底したデジタル化を強力に推進している点が最大の特徴で、行政主導から脱却し、多様な課題解決に取り組んでいるそうで、近年の行政における3つの特徴的な傾向は、一つ目は、官民共創によるまちづくりで、かつてのシャッター街からの脱却を目指し、行政は規制緩和や基盤整備に回り、実際の施設開発や運営は民間クリエーターや事業者に委ねるボトムアップ型のまちづくりを推進しているそうで、何やら広告代理店などが絡んで、その種の怪しげな業者の商売に利用されていそうな印象を受けるが、前橋市アーバンデザインに基づき、中心市街地の空洞化対策として官民連携でエリア価値向上が行われているそうで、二つ目は、デジタル技術を活用したスマートシティ化で、市民の福祉の増進を掲げ、市役所のフルデジタル化や、デジタル田園都市構想に基づくスマートシティ化を全庁的に進めているそうで、マイナンバーカードと交通系ICカードを連携させ、デマンド交通の予約やリアルタイム路線検索が可能な市民向け交通プラットフォームを展開して、地域課題解決と地域経済循環を目的とした、独自のデジタル地域通貨を導入し、データ連携による給付金支給などをいち早く実現していて、母子手帳アプリをマイナンバーカードと連携させ、予防接種や定期検診の記録をスマートフォンで管理できるサービスを提供しているそうだが、三つ目は、子育て・教育都市としての魅力発信を重要施策に位置づけていて、待機児童ゼロの継続や、中核都市の中でもトップクラスの医師数を誇る強みを活かし、子育て世帯の移住定住促進策、第3子以降学校給食費の無料化などに注力しているそうで、何やら市の宣伝広報みたいな内容だが、前橋市独自の政策というよりは、日本政府のデジタル庁や内閣府が推進している、デジタル田園都市国家構想やスマートシティ推進のモデルケースであり、国が地方の中核都市に仕向け、交付金などの財政支援を行なって全国へ横並びに展開しようとしている政策の延長上にありそうで、その国が敷いたレールの上を走る中で、なぜ前橋市が全国トップクラスの先進事例として注目されているかという点において、同市特有の尖ったアプローチ・独自性があって、国が仕向けた政策でありながら、前橋市が独自と言われる理由が3点あるそうで、1点目は、国より早く動いていた地盤があったという点で、国がデジタル田園都市国家構想を本格的に打ち出したのは2021年末以降だが、すでに前橋市はそれより前の2016年に民間主導のビジョンを策定していて、つまり、国から言われたから始めたのではなく、もともと市と民間が独自に進めていたまちづくり構想に、後から国の政策と予算ががっちり噛み合ったという経緯があり、2点目は、「めぶくID」という手段の割り切りで、多くの自治体は、国のマイナポータルや既存の共通システムをそのまま使おうとして数々のトラブルに直面するが、一方で前橋市は民間企業の日本通信などと組み、マイナンバーカードの公的個人認証を利用した独自の電子ID「めぶくID」を自前で開発・運用していて、これは行政のシステムとしては異例のスピード感と割り切りであり、国も先進的な成功事例として後追いし、他の自治体へと横並びに展開するための協議会を前橋市主導で設立させているほどで、3点目は、民間企業の持ち出し・寄付の規模が違うという点で、国の補助金・交付金などを引っ張ってくるだけでなく、前橋市にはJINSの創業者をはじめとする地元の有力実業家たちが、巨額の私財を投じて街の再開発やデザインを主導しているという特異な背景があり、行政の予算や国の交付金だけに頼る他都市のスマートシティ計画に比べ、民間の本気度と資金力が圧倒的に高く、絵に描いた餅にならず、実際の街の変化として目に見える形になっているそうで、枠組みとしては、国が地方の中核都市に仕向けているデジタル田園都市や官民共創スマートシティそのものだが、国に言われる前から民間主導の土壌があり、独自のIDインフラを構築し、地元の民間マネーを巻き込んで猛スピードで実行したという点が、前橋市独自の傾向であり、強みだと言え、国の政策に乗せられているという側面は否定できないが、その波を日本で最も上手にとらえて、独自の価値に昇華させようとしているが、前橋市の行政の特徴だそうだ。


6月30日「お約束の条件反射を阻む要素」

 よくできた話とは、話の構成、教訓、感情の揺さぶりが緻密に計算された物語や逸話を指し、これらはプロットが美しく伏線が回収される話、人間の心理や本質を突いた寓話、短い言葉で深い納得感を与える例え話の3つに大別されるそうで、落語や寓話などで、人間の本質や矛盾を突いていて、人間の心理的な弱さや、一見正しい行動がもたらす皮肉な結末を綺麗に描いたストーリーとして有名な話は、例えば、古典落語で有名な『芝浜』は、大金を拾った怠け者の夫に、妻が、あれは夢だ、と嘘をついて改心させる物語で、夫が真面目に働き成功した数年後、妻が真実を明かした際の、また夢になるといけねえ、という夫の最後のオチのセリフが、夫婦の情愛と人間の成長を完璧に表現しているそうで、また、オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』は、貧しい夫婦が相手へのクリスマスプレゼントを買うため、妻は自慢の髪を売り、夫は先祖代々の時計を売る物語で、妻が買ったのは夫の時計の鎖、夫が買ったのは妻の髪用の櫛という、究極のすれ違いを物語っていて、お互いに役に立たない物を贈ることになるが、無償の愛という最高の贈り物を手に入れるという美しいプロットだそうで、またそれとは違う話の核心を一瞬で理解させる例え話やビジネス寓話で、複雑な真理や、人が陥りがちな思考の罠をシンプルな設定に落とし込んだ話としては、例えば、イソップ寓話の『3人のレンガ職人』は、同じレンガ積みの作業をしている3人に、旅人が何をしているのかと尋ねる話で、一人目は、レンガを積んでいる、二人目は、食うために壁を作っている、三人目は、多くの人の心の拠り所となる大聖堂を作っている、と答え、目的意識の有無で、同じ単純作業でもモチベーションと成果が全く変わるというマネジメントの本質を、誰にでもわかる光景が思い浮かぶ描写で説明していて、また、ダン・ケネディのマーケティングに関する例え話『サンタクロースを持つ男の子』は、裕福な従兄弟と同じ手紙を書いても、貧しい自分にはお下がりの服しかくれないサンタに怒った少年が、自分のために自分がサンタになると決意する話で、他人に依存せず、自分で結果をコントロールする重要性を子供の視点から描いており、ビジネスにおける当事者意識の必要性を痛烈に教えてくれるそうで、さらにそれとは異なる歴史や逸話に残る機転と大逆転の話で、権力者やピンチを知恵とユーモアで切り抜けるノンフィクションベースの物語としては、例えば、とんち話で有名な『一休さんの屏風の虎』は、将軍から、屏風に描かれた虎が夜な夜な暴れて困るから縛り上げてくれ、と無理難題を押し付けられる話で、では、私が縛りますので、まずは虎を屏風から追い出してください、と返すことで、相手が仕掛けた無理難題をそのまま相手に返す完璧なカウンターロジックになっていて、また江戸時代の説話で『渡世伝授車、いそはちの投網』は、投網の達人である漁師が、俺の腕なら藩の剣術指南役でも捕えられる、と自慢し、怒った指南役と真剣で立ち合うことになる話で、漁師はただ網を構えて動かず、指南役が斬りかかった瞬間に網を投げ、刀が網に絡まり、指南役は身動きが取れなくなり、飛び道具や道具の特性を活かせば、どれほど武芸に優れた達人でも封じ込めることができるという、技術の合理性を語る鮮やかな実話だそうで、よくできた話に共通する3大要素は、聞き手がこうなるだろうと予測した結果を、心地よく裏切る伏線回収やオチと、時代や国を問わず、誰もがなるほどと納得できる教訓や普遍的なメッセージがあることと、専門用語がなく、状況が頭の中で映画のように再生できて、映像が思い浮かぶシンプルさだそうで、それが現実にはあり得ないフィクション特有の話の展開や特徴であることを聞き手が思い至るいとまを与えない魅力的な話の構成にできれば良さそうだが、フィクション特有の話の展開や特徴は、すべての出来事やセリフに明確な意味や因果関係が存在する点にあり、現実の世界は偶然や不条理に満ちているが、フィクションの世界は読者や観客に伝えるために、話の構成の全てが極めて合理的にデザインされていて、その具体的は特徴は、会話と情報の不自然な効率化が挙げられ、日常会話では絶対に言わない、知っての通り、俺たちは十年前に〜、といった前提条件を、観客に伝えるためだけに喋ったり、日常会話で頻発する、あー、えーと、などの言い淀みや、話の本筋に関係のない雑談が全てカットされたり、次いで因果関係の伏線と絶対性が挙げられ、チェーホフの銃の法則と言われる、物語の序盤にピストルが登場したら、終盤までに必ず発砲されなければならないという作劇上のルールや、意味のない小道具や登場人物は登場しなかったり、街中で偶然宿敵に出会ったり、生き別れの家族が同じ職場にいるなど、現実では天文学的な確率の出来事が必然として起こり、悪人は必ず自滅するか報いを受け、善人はどれだけ苦しんでも最終的に救われるという、倫理的なカタルシスが約束され、現実の世界では悪人が勝ち逃げすることも多い事実を忘れさせ、そしてよくありがちなのがキャラクターと人間関係のデフォルメで、現実の人間は自身の置かれた状況やその場の気分で意見や態度がコロコロ変わる生き物だが、フィクションのキャラクターは、ツンデレ、熱血漢など、ブレない属性を維持し続け、見た目が怪しい人物は本当に黒幕であるか、あるいはミスリードの役割を担っており、容姿と性格の一致が起こったり、その人の外見がキャラクターの機能を説明していたり、主人公補正という、どれだけ致命傷を負っても死なず、ここ一番の勝負で必ず奇跡を起こすなど、世界のことわりが一人の人間に味方したり、さらには、世界観と表現のお約束として、登場人物が突然カメラ目線で読者に向かって語りかけたり、どうせこれはアニメだから、とメタ発言をしたりする、第四の壁の突破や、宇宙人や異世界の住人が、なぜか地球の言語や日本語を最初から流暢に話したり、回想シーンや技を叫んでいる間の数秒間が、現実の時間で何分間も引き延ばされたりと、フィクションは、こうした現実にあり得ないお約束を、あえて受け入れるという、作り手と受け手の間の暗黙のルールによって成り立っている一方で、フィクションではあり得ない現実の出来事は、事実は小説より奇なり、というこれまたお約束の言葉が示すように、伏線のなさや理不尽さ、そして因果関係の曖昧さが絡んだ特有の展開が見られ、作為的なプロットやルールが存在しないため、物語としては成立しにくいのが現実の特徴で、逆によくできた物語だと思われる話は、フィクションである可能性が高そうだが、それとは違う現実の出来事や物事の成り行きに見られる主な特徴として挙げられるものは、例えば、劇的な結末に至るまでの過程に、わかりやすい意味や教訓があるとは限らず、物語では重要な意味を持つ些細な出来事が、現実では単なる偶然やノイズとしてそのまま放置されることも多々あり、また、小説や映画であれば必ず活躍するはずの多くの人の興味や関心を惹きそうな魅力ある人物が途中で呆気なく退場したり、大して努力もしなかった小物の悪人と見られる人物が全く罰せられずに成功したり、何の魅力も取り柄もなさそうな人が意外と社会的な名声を手に入れたり、ごく小さな本筋とは無関係で枝葉末節な要因によって、巨大な計画が簡単に崩壊するような不条理な結果がもたらされたり、創作物ではわかりやすい起承転結の話の展開が意識されるが、実際にはダラダラと退屈な日常が続いたかと思えば、何の脈絡もなく破滅的なトラブルが唐突に発生するなど、予測不可能な断絶を繰り返し、また現実の悲劇やトラブルは、フィクションのようにきれいには解決せず、感動や教訓や気分をすっきりさせるようなカタルシスを生むことは稀で、後味が悪かったり、問題が完全に解決しないままフェードアウトしたりすることも少なくなく、それらの成り行きが、日頃からメディアを通じて物語的な話の展開や結末に慣れ親しんでいる人々にとっては違和感や不快感をもたらす要因や原因だと言えるかどうかも怪しいが、それを意識して現実とフィクションの違いだと認識できるかどうかも、そんな違いを認識できたとしても、それがどうしたと言われれば、何を返す気にもなれないが、フィクション特有のお約束の条件反射的反応ができることが、物語の良し悪しを決める判断基準になるかも知れないが、果たしてそれが現実に起こっていることの良し悪しを決める判断基準になってしまうと、それを意識して判断している気にはなれないだろうが、何かそういうところで、ちょっと待てよと勘が働いて、そこで立ち止まって自身が巻き込まれている物事について考えられるかどうかも、何となく今後の立ち振る舞いの結果に影響を及ぼすような気がするわけだ。


6月29日「AI活用の未来」

 資本主義経済が農業人口から労働力を吸い上げて発展してきた歴史は、初期の蓄積過程としては事実だが、先進国が成熟しきった現代や未来においては恒常的に成り立つ理屈ではなく、産業革命期のイギリス等では、農民が土地から切り離されて、産業予備軍として都市の労働者へと変わることで、安価で豊富な労働力が確保され、資本の急速な蓄積が実現したが、経済が高度に発展すると農業人口自体が激減し、例えば日本でも、農業従事者の高齢化と減少が進み、農村からの労働力供給源はすでに枯渇していて、現代および未来の資本主義経済は、特に先進国では、工業を中心とした大量の単純労働力よりも、ITやAIなどのテクノロジーを活用した知識集約型産業や高度なサービス業へのシフトを進めているそうで、農業人口の移動は、資本主義経済の立ち上がりを説明する局所的なモデルであり、今後は別の成長エンジンが必要となるそうだが、現代における主要な経済圏と位置づけられる、アメリカ、中国、EU、インドのうち、農業部門から資本主義経済へ余剰労働力を供給できるのは、インドが最大規模だが、中国やEUの一部にもまだ豊富な農業余剰人口が残っていて、インドは、総労働人口の約50〜55%が第一次産業の主に農業に従事しており、人口ボーナスを抱えていると言われるが、都市型産業や製造業が未だこの膨大な余剰人口を完全に吸収しきっておらず、巨大な産業予備軍を抱えていると言えるが、中国も、農業従事者が数億人単位で存在し、総人口の約20%以上を占めていて、彼らが都市へ出稼ぎ労働者として流入することで、安価な労働力を供給し、資本主義経済を支える原動力となっているそうで、EUは、全体としては農業の機械化・高度化が進んでいるが、東ヨーロッパの加盟国や一部の地中海諸国には、まだ他地域と比較して高い割合の農業人口が残存している一方で、アメリカでは、農業従事者は総人口の1〜2%程度しかなく、大規模資本による機械化農業が確立しているため、国内農村から搾取すべき余剰労働力はほぼ枯渇していて、中南米などからの移民に大きく依存する構造だったが、EUにもアフリカや東欧や中東から移民の流入が続いていて、一見してそれがアメリカと同じような余剰労働力の供給源として活用される可能性がありそうに考えられるが、アメリカとEUやイギリスなどの欧州における移民の受け入れは、経済構造の柔軟性、社会保障制度の設計、移民の動機の3点において決定的な違いがあるそうで、欧州で移民が社会を維持する上で重荷と捉えられやすい一方で、アメリカでは、排斥運動がありつつも、経済の成長エンジンであり続けた背景には、まずは、労働重視のアメリカと福祉重視の欧州という違いがあり、アメリカは手厚い移民定住・総合政策を持っておらず、入国した移民は、自力で働いて自活することが大前提となり、結果として、移民の労働参加率が自国民よりも高く、社会保障をもらう存在ではなく、税金を払う存在として機能しやすいため、長年にわたり巨額の財政プラスをもたらしてきたが、それに対して欧州諸国では医療、教育、住宅、失業手当などの社会保障制度が極めて充実しており、移民や難民が労働市場にうまく適合できない場合でも、人道的な観点から公的扶助が提供されるため、地元の納税者が、税金や社会保障費の逼迫などの財政負担に直結しやすく、社会的な重荷という印象を生みやすい構造となっていて、次いで、自発的経済移民と地政学的な難民・非自発的移民という違いがあり、アメリカでは、地理的に陸続きのメキシコや中南米、あるいはアジアからの移民が主流で、彼らの多くは不法入国を含め、アメリカで働いて稼ぐことを目的とした自発的な経済移民であり、スキルの高低に関わらず、最初から働く意欲を持っているのに対して、EU・イギリスでは、中東のシリア内戦やロシアのウクライナ侵攻、アフリカ諸国の政情不安に伴う難民・非自発的移民を地理的な近さから大量に受け入れてきて、難民は言語やスキルの壁からすぐに就労することが難しく、数年間は政府の支援に依存せざるを得ないため、純粋な労働力の供給として即座に経済を回す存在にはなりにくいのが実態であり、さらには、労働市場の流動性と高度なスキルを持つ人材と単純労働との間の労働の二極化を吸収する力にも違いがあり、アメリカでは、労働市場が非常に柔軟であり、シリコンバレーを支える高度人材から、農業や建設・サービス業を支える低スキルの単純労働者まで、経済の需要に応じて即座に労働力を吸収できる構造がある一方で、EU・イギリスでは、最低賃金の補償や解雇規制が厳しいために、言語の壁がある移民を企業が安易に雇い入れることが難しく、結果として移民の失業率が高止まりして、社会的な孤立や治安悪化の懸念を招きやすくなっているそうだが、ではなぜ経済にプラスであるはずのアメリカでも、現代において国境管理の厳格化などの移民排斥の機運が高まっているのかというと、国全体の経済成長というマクロな形で恩恵がもたらされる一方で、デメリットが特定の地域や労働者層に局所的に集中するからだそうで、南部国境から大量の移民がテキサスやニューヨークなどの特定の都市に押し寄せることで、現地の学校、病院、警察などの公共インフラや地方自治体の予算がパンクし、地域住民の生活にしわ寄せが及んで、安価な労働力が大量に流入することで、元からアメリカにいる低所得者層の賃金が上がりにくくなるという実害や心理的不安が生じており、資本を増やすための労働力という純粋な経済論理だけでは割り切れない、国家の治安、秩序の崩壊、不法行為への反発という感情・政治の論理が勝るようになっているためであり、資本主義経済において、アメリカは移民を使い捨て可能な労働力として冷徹に市場に組み込むシステムだったからこそ発展の足しにできていた一方で、欧州は移民を社会保障で包摂すべき人間として扱おうとしたシステムであったがゆえに、経済的なミスマッチが重荷となって問題化していたが、現代ではアメリカでも、地域社会のインフラ麻痺や国内の格差不満など、その冷徹な市場の吸収力の限界に達したため、欧州と同じように移民の排斥と国境閉鎖へと舵を切る機運が高まっているそうだが、その問題解決の試みとして、AIによる労働力代替が成功すれば、資本主義経済は歴史上最大の転換期と新たなフェーズを迎えるそうで、労働力を人間からAI・ロボットなどの資本へ完全に置き換える試みは、短期的には大きな摩擦を生むだろうが、長期的には資本主義の前提そのものを根底から覆す可能性を秘めていて、この変革が成功する場合と失敗に終わる場合、それぞれのシナリオと資本主義経済への影響は、AIによる代替が成功した場合、資本主義は人間の労働力を必要としない新しいゲームへ突入し、24時間365日稼働するAIとロボットにより、モノやサービスの生産コストが限りなくゼロに近づき、労働者を雇う必要がなくなるために、AIのオーナーとなる資本家に全ての富が集中する究極の格差社会が到来し、人間が労働市場から排除されて、誰も賃金を得られなくなり、どんなにAIが優れた製品を大量生産しても、それを買う人間がいなければ経済は回らないから、政府がAI企業に重税を課して、それを国民に現金給付として配ることで、無理やり消費者を維持する社会システムへの移行が予想されるそうだが、一方でAIによる代替が完全には成功せず、資本主義経済が現在の地平で行き詰まったり、あるいは部分的な自動化にとどまる説も有力で、経営分析やホワイトカラーなどの労働は代替できても、不規則な場所を掃除したり、建設現場で臨機応変に動いたり、介護するといったブルーカラーの肉体労働へのロボットの代替は、膨大なコストと技術的障壁が残り、また、AIの維持・学習には巨大な電力とデータセンターが必要であり、国の電力網やエネルギー供給が追いつかず、コスト面から人間に給料を払って働かせた方が安いという逆転現象が起きる可能性もあり、さらには、労働者が完全に排除されようとすれば、強力な労働組合や世論によるAI規制運動やネオ・ラッダイト運動が勃発して、一応は民主主義国であるアメリカなどでは民主党などに政権交代して、雇用を守るためにAIの導入に法的制限がかけられる可能性が極めて高いそうで、アメリカが移民の流入を阻止しつつAIでの代替を目指す場合、最も見落とされがちなのは人口減少による国内市場の縮小で、仮にAI代替が成功したとしても、現在の自由市場ベースの経済ではなく、政府が需要と供給をコントロールする管理された資本主義経済または新社会主義経済へと変貌せざるを得ないというのが、経済学的な帰結だそうだが、国内市場が縮小するとしても国外への輸出によって活路を見出せるかどうかも、今のトランプ政権の保護主義政策が仇となるような気がしないでもなく、ここ数年のハイパースケーラーのAI投資がどのような結末を迎えるかが、何らかの今後の指標となるのかも知れない。


6月28日「利潤率の低下傾向という一面的な見方」

 あまりマルクス経済学にはこだわりたくはないのだが、一応はマルクス経済学において、利潤率の傾向的低下の法則が修正・相殺されるのは、技術革新による生産性向上やグローバル化が、資本構成の高度化に伴う利潤率の低下圧力を上回るからで、これらは利潤率低下の阻止要因として機能するそうで、労働時間の延長や労働強化、技術革新によって生活必需品の安価な生産が可能となり、機械や原材料自体の生産性が向上し、価格が下落することで、資本全体の価値増大が抑えられ、また過剰人口の存在が労働力の供給を増やすから賃金水準を低く抑えられ、対外貿易の拡大によって、海外から安価な原材料や生活必需品を輸入することで、コストが下がり、工業製品を輸出している国であれば、それによって国内での利潤率が押し上げられ、さらに株式資本が増大して、株式による配当利息が分散されると、現実の利潤率が低く見えても、企業自身の蓄積活動へのダメージが和らげられ、これらが働くことで、長期的には低下に向かう利潤率が一時的に回復・維持されると説明されているそうだが、その一方で人的資本への投資は、労働者のスキルや知識を高めて労働生産性を劇的に向上させるため、利潤率の低下傾向を修正・相殺する強力な要因となるそうで、機械や原材料などの不変資本の低廉化を問題視するマルクス経済学の古典的な枠組みを超えて、現代の経済学では、人的資本投資が利潤率を回復させる核心的なメカニズムとして重視されているそうで、人的資本への投資が利潤率を修正する主な理由は、従来から言われている、労働者の能力向上により、短時間でより多くの価値を生み出せるようになり、結果として剰余価値の割合が高まる面よりは、高度な教育を受けた人材が新たな技術やビジネスモデルを生み出し、他社との差別化による、イノベーション・レントという超過利潤をもたらす面の方が大きく、そういった人材は労働者というよりは起業家的な存在であって、高価な機械設備や最先端ITツールを使いこなす能力が高まるため、資本の無駄な浪費が減り、投資対効果が最大化されるには、そうした機械設備や最先端のツールを効果的に組み合わせたシステムを構築する能力が起業家や企業家には求められ、単純なコスト競争から脱却し、ブランド力や知的財産などの無形資産を構築することで高い利潤率を維持しようとする役割は、やはり労働者的な立場の者ではなく、CEO的な役職を担う者となり、そういうところで人的資本への投資の対象が、労働者的な人材よりも企業家的な人材を生み出す方向へとシフトしているのが、現代的な傾向であり、現代の知識集約型社会においては、工場や機械への投資以上に、人間の知識やスキルへの投資が利潤率の維持・向上に決定的な影響を与えていると言えそうだが、また人的資本への投資と民主的な政治体制の間には、極めて強い相関関係と相互補完的な因果関係があり、政治学や開発経済学の実証研究において、この2つはどちらか一方のみで成り立つものではなく、互いを強化し合うサイクルを作ることがわかっているそうで、民主体制が人的資本投資を促進する理由は、民主主義国では、有権者の支持を得るために、政府が教育、医療、社会保障などの公共サービスへの投資を増やす強いインセンティブが働き、これによって独裁体制のように一部の特権階級だけでなく、広く国民全体へ投資が行き届きやすくなり、また言論の自由や法の支配が確立されているため、市民が自発的に資格取得や留学などのスキルアップを行うインセンティブが高まり、情報の自由と機会均等が実現すれば、努力や能力が正当に評価されやすい環境が整い、人的資本投資が民主体制を維持・安定させる理由は、人的資本の質が教育水準の向上になどによって高まることで、市民の情報リテラシーや論理的思考力が向上して、感情的なポピュリズムやデマに惑わされにくく、政策に基づいた理性的な投票行動が可能となり、高度なスキルを持った労働者が増えると所得水準が底上げされ、分厚い中間層が形成され、極端な経済的格差は政治の不安定化や過激主義の台頭を招くが、人的資本への投資は格差を是正し、民主主義の土台を安定させると言われているが、高度なスキルを活かせる職場環境をどう構築できるかというのが、何か絵に描いた餅のような、詰めの甘さを感じさせるところだが、教育は、個人の人権意識や市民としての義務感を育て、権力の暴走を監視し、不当な抑圧に対して、デモや投票、司法の利用などの制度を通じて抗議する能力を養うことにつながり、政治学における古典的な近代化理論においても、経済発展が教育水準を押し上げて人的資本の質を高め、それが民主主義を誕生させ、社会を安定させると主張されていて、現代のデータ分析でも、基礎教育への投資は民主主義と正の相関があり、より高度なガバナンスの構築には高度な人的資本が不可欠であると実証されているそうで、また、一見して直接産業の発展には役立たないとされる人文学・基礎科学などの学術分野への投資は、社会の持続可能性、制度の安定、そして未来の破壊的イノベーションの土台を支える決定的な役割を果たすそうで、短期的な利益を産まない分野への投資が、なぜ社会や経済に必要なのかといえば、民主的な社会制度の維持と解釈力の育成という面で、哲学、歴史学、文学などの人文学は、社会の正義、倫理、法秩序の根底にある価値観を言語化し、洗練させるとともに、社会的な規範の構築に貢献し、AIの倫理、遺伝子組み換え、格差問題などの答えが一つではない現代の倫理的・政治的課題に対して、歴史的文脈や多様な視点から議論し、合意を形成するための市民のリテラシーを養い、過去の歴史上の過ちを批判的に検証する学問は、戦争や独裁などの社会が誤った方向に進むセーフガードとして機能し、予測不可能な未来のイノベーションの種という面で、すぐに製品化できない物理学や数理科学などの基礎研究が、数十年後に巨大産業の基礎になる事例は、例えば量子力学が半導体を生み、純粋数学の数論がインターネットの暗号技術を支えているなど、枚挙にいとまがなく、平時には役に立たないように見える、例えば、特定ウィルス研究や稀少言語、地域研究などのニッチな専門分野の研究が、パンデミックや戦争・紛争などの地政学リスクの発生時には、国家や企業の命運を分ける知見となり、テクノロジーの社会実装という面では、AI、自動運転、ゲノム編集など、どんなに優れた技術が開発されても、人間社会がそれを受け入れるための倫理的・法的・社会的枠組みがなければ実装できず、これを設計するのが法学、社会学、倫理学であり、人的資本の柔軟性の向上という面では、特定の産業に直結する専門スキルは、技術の陳腐化とともに価値を失い、一方で、教養が養う批判的思考力、問題発見力、論理的コミュニケーション力は、産業構造が激変しても生き残る、生涯にわたる高い適応力を個人に与え続け、経済学の視点から見れば、これらの分野は社会的共通資本であり、市場原理に任せると過小供給になってしまうため、公的な投資が不可欠であるとされているそうだが、様々な専門分野で行われている研究を効果的に組み合わせて創造的破壊をもたらすには、それらの分野に精通していて、かつそれらを組み合わせるプロデュース能力が欠かせないとは考えられるが、明確なビジョンを掲げ、周囲の人や組織やリソースを巻き込んで新しい価値を作り出し、理想の結果へと導く総合的なスキルといっても、何かないものねだりのようなことを述べているに過ぎないが、世の中のニーズを捉え、何が求められているか、どうすれば現状を変えられるかを具体的に描き出す構想力や、描いたビジョンを実現するための具体的な道筋となるコンセプト、スケジュール、予算などを立て、迅速に意思決定を下す企画力・判断力や、自分の作りたいという思いと、市場やユーザーがそれをどう受け取るかのバランスと常に行き来する客観的な視点などの専門的なスキルが絡み合って成り立つのが、プロデュース能力だそうだが、そうした人材を人工的な教育システムによって創り出そうとする専門学校なども、探せばありそうだが、たぶんそういった人材は、他の様々な専門分野が重層的に絡み合った環境の中から出てくると考えるなら、とりあえず産業の厚みと学術的な機構の厚みがないと、それらを効果的に組み合わせて創造的破壊をもたらすイノベーションもそれを担う人材も企業も出てこないと考えておけばよく、そういう意味では一面的な見方からは導き出せない傾向なのかも知れない。


6月27日「コノテーションの使い方」

 ある種の書物を読んでいると意味がわかりそうでわからないカタカナ言葉に出くわすことが結構の頻度で起こるが、政治的コノテーションとは、ある言葉や表現が辞書的な意味を表すデノテーションとは別に、特定の政治的立場やイデオロギー、価値観を連想させる言外の意味・含蓄を持つことを指すそうで、なぜ政治的コノテーションが重要なのかといえば、言葉そのものには中立的であっても、社会の歴史的背景やメディアでの使われ方によって、特定の思想を帯びることがあり、言葉の裏にあるメッセージを連想させるものとして、例えば構造改革や規制緩和といった言葉は、単なる政治手段を意味するだけでなく、新自由主義などの特定の経済思想や政治スタンスを暗に示すコノテーションを持ち、それを対立を煽り立てるのに使って、政治的な議論において、相手を批判する際にレッテル貼りするために、否定的なコノテーションを持つ言葉が意図的に選ばれることがよくあるそうで、同じ現象や集団を指す場合でも、どのような意味を含んだ政治的コノテーションを持たせるかで表現が全く変わり、例えば、国境の壁や統制を強化する政策について、肯定的で保守的なコノテーションを持たせるには、治安維持や主権の保護を主張の前面に押し出せば良い一方で、否定的でリベラル的なコノテーションを持たせるには、排外主義や閉鎖的な印象を抱かせるような主張内容にすれば良く、また、伝統的な家族観の重視について、肯定的で保守的なコノテーションを持たせるには、家族の絆や美しい伝統といった印象を抱かせるような主張内容にすれば良い一方で、否定的でフェミニズム的なコノテーションを持たせるには、家父長性や個人の抑圧を連想させるような主張内容にすれば良いそうだが、自身が使う言葉や表現が文字通りの意味を超えて、政治的な意図、権力関係、イデオロギー、あるいは特定の政治的立場への支持・批判を暗黙のうちに連想させ、言外のニュアンスや含みを持たせることを狙っているわけだから、デノテーションが辞書的な客観的・文字通りの意味で、コノテーションが、文化、社会、文脈などによって付加される主観的・感情的な暗黙のニュアンスが連想されるイメージで、政治的コノテーションが含まれるといった場合、その言葉自体は中立的に感じられても、その言葉を選ぶ背景にある政治的な対立や特定の思想を呼び起こすフックになっている状態を指すそうで、特定の勢力をラベリングして批判に使う文脈として、共同体主義という言葉が使われる場合があり、文字通りの意味としては、地域や宗教などのコミュニティを重視する姿勢を示すが、そこに政治的コノテーションが付加されると、例えばフランスなどの文脈では、共和国の原則などのマジョリティの社会規範を受け入れず、閉鎖的に振る舞うムスリムなどマイノリティを暗黙のうちに批判・攻撃する政治的な武器として機能することがあるそうで、また、権力や社会構造の文脈では、権力やお上という言葉は、文字通りの意味では、他者を支配・統制する力、政府機関を指すが、そこに政治的コノテーションが付加されると、単なる機能としての力ではなく、多くの場合、汚職、陰謀、横暴、腐敗といったネガティブで反発を伴うイメージが自動的に連想されるように語られる場合があり、さらには言い換えによる印象操作として、政治家がよく使う、丁寧な説明を尽くす、という表現があり、文字通りの意味は、理解してもらえるようにわかりやすく解説する、となるが、誰もそうは受け取らないシチュエーションがあって、政治的コノテーションが付加される実際の政治の場では、これ以上は実質的な議論を拒否する、質問をはぐらかして幕引きを図る、という慇懃無礼な拒絶のメタメッセージとして受け取られることが少なくなく、こうした言葉の使い方がなぜ重要なのかといえば、現代の情報化社会や政治的議論において、言葉は単なる事実の伝達手段ではなく、中立な言葉を使っているように装いながら、客観的な言葉の意味のままでも伝わるような表現を使って、特定の勢力を有利にしたり、特定の層を排除したりする道具として機能し、時代や社会背景、話者の立場によって、同じ言葉でも全く異なる政治的コノテーションを帯びることがあり、言葉の裏にある政治的コノテーションを読み解くことは、メディアによる世論誘導や政治的な意図を見抜くためには重要なリテラシーとされているそうで、言外の含みを持たせたコノテーションを意図的に使うことで、話し手や書き手は、文字通りの意味のデノテーションだけでは不可能な、聞き手の心理や行動への強力な介入を実現でき、大衆の感情を揺り動かし、世論を誘導するフレーミング効果を狙って、客観的な事実を変えずに、言葉のニュアンスを変えるだけで、受け手の印象が正反対になるように操作しようとし、例えば、同じ軍事行動を、それを批判したり非難する立場からは、侵略行為と呼ぶ一方で、行動を正当化する立場からは、圧政や弾圧からの解放と呼ぶかも知れないし、事実の善悪を、論理的説明なしで受け手の意識に植え付けることができ、また防衛線を張り、批判をかわすために言い換えや婉曲表現を使う場合、直接言うと反発を招く不都合な事実を、ポジティブまたは中立な言葉で包み隠すことができ、例えば、クビや解雇を人員の最適化と言い換えたり、増税を社会保障の充実への財源確保を言い換えたりして、批判の矛先を鈍らせ、組織や政治のクリーンなイメージを保とうと意図して使いたがるが、また、コストをかけずに仲間意識を作る、犬笛・ドッグホイッスルとして機能させる場合もあり、特定のグループにしか伝わらないコノテーションを自身の主張や意見などに混ぜることで、周囲に気づかれずに味方へメッセージを送ることになり、政治家が特定の宗教的・思想的グループが好む隠語を演説に忍ばせ、一般層からの反発を避けつつ、コアな支持層の結束を高め、身内意識による連帯や絆を強める効果が得られ、さらには、思考を先回りし、議論の前提を支配するアジェンダ設定というやり方もあるそうで、特定の言葉を使い続けることで、その言葉が持つコノテーションの偏見や前提を社会の当たり前に書き換えることができ、例えば、育児休暇という意味の育休という言葉は、かつては仕事を休んでラクをしているというニュアンスのコノテーションが優勢だったが、育休を取るのが当たり前という風潮がメディアを通じて広められることで、現在は、親の義務・労働、という前向きな意味合いが強まっているそうで、社会の常識や議論のルールそのものを、その言葉を何度も繰り返し使い続けることで、その言葉を使っている当事者に有利な形に変えらるそうだが、コノテーションは、いわば言葉の裏に仕込まれた感情のスイッチだそうで、コノテーションを使っている者の意図などお見通しだと、それをこれ見よがしに取り上げて批判する者にはわかっているはずだが、その言外の含みに気づき、相手の隠された意図などお見通しだと批判する者は、自らの知的な優位性を確信しているように見えるがゆえに、いくつかの深刻な罠に陥りやすいそうで、一つ目は、ストローマンと呼ばれる藁人形論法の罠で、相手の言葉の裏を深読みし過ぎるあまり、相手が言ってもいない極端な意図を勝手に捏造し、それを叩いてしまう罠で、彼は〇〇と言ったが、これは暗にXXという極端な思想を意味していると決めつけ、客観的な事実に基づかない妄想ベースの批判になりやすく、周囲からは単なる過剰反応やレッテル貼りに見えてしまい、信用を失うそうだが、二つ目は、プロジェクションという認知の投影の罠で、相手のコノテーションを指摘しているつもりが、実は自分自身が持っている偏見や敵意を相手に映し出しているだけという罠で、自意識の中に、この勢力は常に悪巧みをしているという強い認知バイアスがあるため、批判対象に定めた相手の何気ない一言の全てに政治的意図があるように感じられてしまい、相手ではなく、自分自身の視野の狭さや攻撃性をユーチューブなどのSNSでのしゃべりの中でのオーバーアクションを介して世間に露呈することになり、三つ目の罠は、メタ議論への逃避という議論の泥沼化の罠で、言葉の文字通りの意味や、現実に解決すべき具体的な論点を無視し、相手の態度や言葉の選び方ばかりを攻めてしまう罠で、その言葉遣いには悪意があるとか、その言い方は差別的だとか、言葉の裏の探り合いのメタ議論に終始し、生産的な議論が完全にストップして、何一つ現実の課題が解決しないという悪循環に陥り、四つ目は、ここぞとばかりに軽薄な者たちが言いたがるブーメランの罠で、自分は相手の誘導を見抜ける知性や見識を持ち合わせた賢い人間だという自負があるわけでもないだろうが、自分自身が発しているコノテーションや偏見には全く無自覚になる罠で、相手を陰謀論者だの差別者だのと批判する自らの言葉が、どれほど攻撃的で政治的なコノテーションを帯びているかに気づけず、他のメディアや他者からダブルスタンダードであると見抜かれ、自身の社会的信用を失うことになり、総じて、コノテーションを、お見通しだと誇示する者は、深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているという状態に陥りがちになり、相手の心理操作を見破ったという全能感の自惚れ状態が、自らを別のバイアスの檻に閉じ込めてしまうのだそうだ。


6月26日「フィクションとしてのマルクス主義」

 興味のない話に付き合わされていると思うなら、何かそうではないような話の展開を期待したくなるが、他人が構成したフィクションを現実の世界に当てはめれば、それによって世界の本質を捉えたような気になり、それがフィクションであることを忘れてしまいそうになるが、労働力商品という概念を最初に使ったのはカール・マルクスで、その主著『資本論』において、労働者が資本家に売っているものは労働そのものではなく、労働を行う能力=労働力であると規定し、この労働力を一つの商品として捉えることで、資本家が利潤を得る仕組みを理論的に明らかにしたのだが、マルクス経済学において、労働者と労働力が切り離せないことは、労働力商品の最大の特徴であり、労働力商品は、労働者の肉体そのものを売るわけではなく、労働者は自分の労働力の所有権を保持したまま、使用権だけを時間単位で資本家に売っているから、切り離せなくても契約上、商品として成立し、労働力商品には独自の特殊性があり、労働力を売るためには、労働者自身が工場やオフィスに赴く必要があるが、機械とは違い、労働者の気分、体調、意欲によって発揮される価値が変動し、商品の質を維持するために、労働者は食事をとり、眠り、生活を営む必要があり、マルクスは、切り離せない労働力を丸ごと買い取った資本家が、支払った賃金以上の時間を労働させることによって利潤が生まれると考え、切り離せないからこそ、資本家が労働者を生産現場で直接支配できるという理論の根幹になり、その一方でマルクスは、資本家の労働を決して無視しておらず、むしろ明確に考慮に入れた上で分析し、資本家自身の労働と資本家が手にする利潤を切り離して捉え、資本家が工場や企業で行う、計画を立てる、指図する、サボらないように見張るなどの仕事を、監督労働や管理労働として認識していて、多くの人が一緒に働く現場では、オーケストラの指揮者のように、全体をまとめて指揮管理する役割がどうしても必要になり、これも一種の労働であると認め、マルクスは、資本家の収入を2つに分けて考え、経営管理としての労働の報酬と、資本そのものが生み出す利潤・搾取としての剰余価値に分けて、マルクスによれば、資本家が受け取っている莫大な富の大部分は、経営管理としての労働の報酬ではなく、労働者から吸い上げた剰余価値であり、これを証明する証拠として、経営を支配人に丸投げする資本家の存在を挙げ、資本家は会社が大きくなると、自分で管理労働をしなくなり、代わりに雇われ社長や工場長を支配人や現場監督として賃金労働者として雇うようになり、実務としての管理は雇われた支配人が行い、資本家は全く働かず、ただ株や工場などの資本を所有しているだけで利潤を受け取り、この現象こそが、資本家の利潤は、彼自身の労働から生まれているのではないということの動かぬ証拠であると考える一方で、資本家は商品が売れないリスクや会社が倒産するリスクを負っていて、資本家が得る利潤はこれらのリスクを引き受けた対価だとする考え方には、資本家が市場の競争にさらされ、リスクを冒して投資しなければ雇用も生まれず、そのリスク負担に対する報酬として利潤を得るのは正当である、と解釈するが、リスクを負っているからといって、ゼロから新しい富は生まれるわけではないと考え、市場のリスクや競争は、社会全体ですでに生み出された利益の総量を、資本家同士がどう分配するかを決める要素に過ぎず、リスクを冒して工場を建てても、そこで労働者が働いて価値を生まなければ利潤は1円も出てこないから、利潤の源泉はどこまで行っても労働者の労働であり、会社が倒産した時、資本家は財産を失うが、労働者も賃金という生活の糧を失い、しかも大資本家は会社を倒産させても、限定責任によって守られたり、別の資産で生き残れたりするが、労働者はひとたび失業すれば即座に生活困難に陥るリスクがあり、資本家のリスク対価は、市場経済を円滑に動かす資本家の役割を肯定的に説明する論理として正当性を持つが、一方でマルクスは、それを認めつつも、リスクを負うことが、なぜ他人の労働から利益を吸い上げてよい理由になるのか、という富の発生源に関する搾取の構造を本質的に批判し、どちらの解釈が正しいかというよりは、経済をどの角度から分析しているかの違いとなるが、労働者が努力や偶然によって資本家になる可能性を決して否定せず、労働者が貯蓄しそれを元手にして小さな親方になり、最終的に本格的な資本家へと出世していくプロセスを、資本主義の歴史的な発展経路の一つとして認めながらも、これをシステム全体としては、労働者階級が救われる解決策にはならないと考え、特定の労働者が成功して資本家になることは、市場経済の中で普通に起こりる現象だが、それでも誰かが労働者として働かなければ資本主義システムが回らないという構造そのものは変わらず、個人の階級移動が可能であることと、社会全体に資本家階級と労働者階級という支配・被支配の格差が存在し続けることは、完全に両立すると考え、しかも資本主義が高度に発達すると、労働者が資本家に成り上がることはどんどん不可能に近くなって行くと予測し、初期の資本主義経済下では、小さな元手があれば個人でも町工場を開いて資本家になれたが、成熟した後期資本主義経済下では、莫大な資金、大規模な機械設備、最新のテクノロジーなどの巨大な資本を持つ大企業同士が競争することになり、この段階になると、一人の労働者が給料をコツコツ貯めた程度では、大企業との競争に勝てるような設備を持つことはできず、むしろ競争に負けた中小の資本家が没落して労働者階級に転落していくことの方が多く、それによって資本の集中・集積が起こると指摘し、逆に労働者が資本家になれるチャンスが全くゼロではないという可能性そのものが、資本主義を延命させる安全弁であり、罠になっている、と後世のマルクス主義経済学者は分析し、もし百パーセント絶対に資本家になれないとしたら、労働者はシステムへの不満を爆発させ、すぐに革命を起こすはずで、努力すれば自分もあっち側へ行けるかも知れないというわずかな希望があるからこそ、労働者は現在の不平等な仕組みを受け入れてしまい、結果として資本主義が維持されるという側面があるが、マルクス自身は、資本主義を、人類の歴史を前進させるために絶対に通過しなければならない不可欠なシステムとして激賞していて、身分制度や迷信に縛られていた中世の封建制を資本主義のダイナミズムが破壊し、過去のすべての世代が作ったものを合わせても足元にも及ばないほどの、巨大な生産力とテクノロジーをわずかの期間で生み出し、マルクス主義においては資本主義は悪ではなく、むしろ人類が飢餓から脱却して、将来的に全員が豊かに暮らすための土台となる、生産力を作る歴史的ミッションを担ったシステムとして肯定され、資本主義が全くダメだから一から作り直そうという全否定ではなく、資本主義が作った素晴らしい生産力を肯定しているからこそ、それをさらに発展させるために次の社会へ進もうという論理になり、例えば、すべての労働がロボットなどのAIや自動化技術に置き換わったら、マルクス経済学の根本的なルールは、富を生み出すのは人間の労働だけであるという点で、資本主義が存続できなくり、ロボットは過去の労働の塊であり、自身が消費された分の電気代やメンテナンス費などの運用コスト以上の新しい価値を生み出さず、人間の労働者がゼロになれば、資本家が搾取する剰余価値もゼロになり、利潤が消滅し、労働者が全員解雇されて所得を失えばロボットが作った大量の製品を買う人もいなくなり、経済が完全にストップし、つまり全てを自動化することは、資本主義というシステムを自ら終わらせることになり、誰も働かなくてもロボットが勝手に富を生み出して、それを全員で山分けする社会が実現するそうで、そんなフィクションを誰が信じているのかというと、左派加速主義という思想に染まった勢力が存在しているらしく、これは、テクノロジーやAI、自動化を恐れて規制するのではなく、むしろ限界まで加速させて労働を徹底的に排除し、それによって資本主義を内側から崩壊させ、ベーシックインカムなどを伴ったポスト資本主義社会、共産主義社会へと移行しよう、という最先端のマルクス主義的なアプローチであるそうで、すべての労働がロボットに置き換わった時、終わるのはマルクス主義ではなく、人間が労働力という商品を売って生きる資本主義システムであり、マルクス主義にとってのロボットによる完全自動化は、人類が富の奪い合いや労働の苦痛から永遠に解放されるための究極のゴールとして位置づけられているそうだ。


6月25日「自由の認識と解釈」

 何が自由なのかもわからないままに、自由に関して勝手な幻想を抱くのはやめておいた方が良さそうで、意識が世の中の社会情勢や経済情勢や政治情勢からそれなりに無視できない影響を受けているのは確かだとしても、自身が何に囚われているのかもわからないまま思考を巡らしても、せいぜいが勘違いな認識や独りよがりな解釈にたどり着くだけかも知れず、それが世間並みの認識や解釈でしかないとしたら、この時代や文化において、大多数の人々が無意識のうちに共有している当たり前の価値観や常識に囚われているに過ぎないことだから、自身が暮らす地域社会や、日々の情報を受け取るマスメディア、慣習などを通じてそれらが形成され、個人の行動や判断の暗黙の指針として機能していると捉えておくだけでも、勘違いでも独りよがりでもない社会の共同幻想に結びついた認識や解釈だと受け止めておけば良いことなのかも知れず、それに対して自由についての一般的な認識は、他者や外部からの強制を受けず、自分の意志や欲求に従って行動できる状態を指し、しかも政治や哲学、社会通念など、どの文脈で捉えるかによってその解釈は多岐にわたるそうで、他から干渉を受けないことを重視した政治的・社会的な自由は、国家や権力、他者からの干渉や束縛を受けず、個人の領域が守られている状態を指し、表現の自由、思想・良心の自由、職業選択の自由などがこれにあたり、他者に危害を加えない限り、何をしても自由であるという近代自由主義の根幹をなす認識で、それに対して内面的な意思と責任を重んじる哲学的な自由とは、単に縛られないだけでなく、自身のあり方を自分で決定し、理想を実現する能力を指し、人間は自由という刑に処せられている、とサルトルが述べたように、人間は常に自分の行動や選択に責任を負う主体であるという厳しい解釈で、本能や衝動、外部の物理的な原因に動かされるのではなく、自ら立てた道徳法則や理性に従って自発的に行動することを自由と定義するそうで、また資本主義における選択肢を重視する経済的な自由は、市場経済において、個人や企業が政府の統制を受けず自由に財産を保有し、取引や競争を行える権利を指すそうで、この自由は、個人の能力発揮や経済発展の原動力とされる一方で、格差を生む要因にもなり得るそうだが、これらを考慮に入れつつも自己実現と規律に基づく日常的・心理的な自由の解釈は、日常生活において、本当の自由は単なるわがまま・放縦ではなく、他者や社会と調和しながら、自分自身の感情や欲望をコントロールし、自立する力・自己決定力を伴うものと認識されているそうで、自由という概念は、立場によって権利や責任、自己の確立など多様な意味を持つそうだが、それが世間並みの認識とは異質だと感じるなら、世間と社会とは違う概念だと考えられそうで、世間の常識とそこから生じる規範となると、公的な法律やルール以上に、日常生活や職場での振る舞いを縛り、空気を読む力や共同体内の暗黙の了解も含み、それに関して、例えば、個人がどう生きようがその人の勝手だと思うなら、それは世間体を気にしていないことを意味し、そうではなく、例えば学校を卒業して就職し、結婚してマイホームを持ち、定年を迎えるといった、世間的に推奨されやすい標準的な人生モデルに沿った人生を歩んでいれば、それが世間の空気を読んでいる証拠とまでは言えないものの、世間体や周囲からの目を気にし、集団の輪から外れることを避ける心理的な傾向に無意識のうちに従っていると解釈されても、何の不思議も感じられないだろうが、多くの日本人にとっては、世間と社会は異質な概念として扱われ、コミュニティとしての世間は、自分と直接・間接的につながりのある、家族、友人、職場、地域などの具体的な人々の集合体で、義理人情やお互い様の精神が強い反面、逸脱者には厳しく、一方で、ソサエティとしての社会は、自分と直接の利害関係がない人々や、客観的なルール・制度で成り立つ広範なシステムを指し、日本人の価値観における世間は、西洋の近代的な個人が自立して結びつく関係の総体である社会とは異なり、日本社会では個人よりも共同体の中の和を重んじる世間が優先されてきた歴史的背景があるそうだが、それが現代のインターネットやSNSが普及した状況の中で、表向きには誰もが多種多様な情報や価値観に触れられるようになるに従って、かつてのような単一の世間並みの認識は崩れつつあり、個人がそれぞれの価値観を選択して生きる多様性が広がっていると解釈したいところだが、実態はそうではないのかも知れず、世間からの束縛は、時には息苦しく感じられるだろうが、実は決断する疲れからの解放や、暗黙のルールに乗る安心感をもたらし、完全に自由であることは、常に自分で選択し責任を負うことと同義であって、それよりは世間の枠組みの中にいる方が心地良いと感じる心理的メリットが多く存在するそうで、世間のルールや常識に縛られて生きることで、選択と決断のコストが減り、何が正解かわからない現代において、一般的なルートや常識があらかじめ用意されていると、自分で一から正解を探す手間が省け、毎日の些細な決断や人生の大きな選択を世間に委ねることで、精神的な疲労を大幅に軽減でき、自分で決断して失敗すると大きなダメージを受けるが、世間の基準に従って失敗した場合は、運が悪かった、皆もやっていることだから、と自分を納得させやすくなり、それによって迷いが消え安心感がもたらされ、自由度が高いことは、時に、これで本当にいいのだろうか、という強い不安を生み出すが、世間体や社会通念という常識の枠組みは、生き方や行動の明確なガイドラインとして機能し、多数派の価値観や行動に同調することで、自分は世間と一体化したコミュニティの一員である、という強い所属感や承認を得ることができ、それによって共同体内で周囲との摩擦や衝突も回避でき、逆に個性を強く主張したり、独自の価値観に従って生きたりすると、周囲との摩擦が生じやすくなるから、波風を立てない処世術だと割り切って、世間の常識や暗黙のルールに従っている限り、周囲から浮くことは少なく、人間関係において無用な対立を避けることができ、そうなっている限りで、お互いが世間の一般常識を共有しているから、他者の言動を予測しやすく、日常生活を非常にスムーズに送ることが可能となり、逆に完全に独立して生きることは、社会からの孤立と紙一重になる危険性もあり、そうはならないようにするには、できるだけ世間の価値観を共有し、それに沿って生きることで、常に世間の多数派と同じ方向を向いているという連帯感や安心感を得られるが、あえて自由になることを選んで、世間という共同体内にとどまることから生じる窮屈さや息苦しさから解放されようとするか、あるいは多少の窮屈さや息苦しさには我慢しながら、世間という共同体内にとどまろうとするかの選択肢が、どのような機会をきっかけにして生じてくるかは、主にライフステージの変化、深刻な人間関係の摩擦、あるいは大きな環境の変動を契機に生じてくるそうで、人生の転換期においては、個人の役割や所属が変わるタイミングで、従来の世間を見つめ直す機会が生じ、就職・転職・定年退職などのタイミングで、学校や会社という特定の共同体から離れる、あるいは新しい環境へ入ることで、それまでの常識が絶対ではないと気づく契機になり、結婚・出産・育児などのタイミングでは、これまでとは異なる地域社会やママ友・パパ友コミュニティ、家族関係に組み込まれることで、新たな同調圧力に直面し、距離感をどうとるか迫られ、また身内の介護・死別のタイミングでは、従来の人間関係や付き合いを物理的に維持できなくなり、共同体へのコミットメントを見直さざるを得なくなるそうだが、決定的な人間関係の破綻や限界に直面するのは、共同体内の規範や人間関係に心身の限界を感じる瞬間でもあり、ハラスメントや村八分などの、共同体のルールから外れたことによる理不尽な扱いを受けたり、疎外された時や、過度な忖度や同調の強要による燃え尽きなど、空気を読むことや周囲の期待に応えることに疲弊し、心身の健康を損ないそうになった時や、政治、宗教、教育方針などで共同体の主流意見と決定的な対立が生じ、居心地の悪さが決定的になった時などがあり、個人的な価値観の変容によっても、外的要因ではなく、内面的な成長や気づきによって選択肢が生まれ、誰かからの評価や世間の目を気にすることよりも、自分自身の本音やありのままの生き方を優先したいという欲求が高まった時や、共同体にとらわれずに自由に生きている人と出会って、新しい生き方・価値観に触れることで、自分も別の生き方を選んでもいいのだ、と気づく時もあるそうだが、不可抗力などの外部環境の変化が作用して、個人の意思を超えたところで、従来の世間が強制的にリセットされる機会に巻き込まれる場合もあり、災害やパンデミックなどによって、日常生活や従来のコミュニティ機能が一時的に麻痺することで、本当に必要なつながりと手放しても構わない煩わしいしがらみとが選別されたり、収入の増減やライフスタイルの変化によって、それまで維持してきた交際費や付き合いを継続できなくなる状況も生じてくるから、自分から無理に苦労してきっかけを作ろうとしなくても、自然にそうなってしまうなら、そんな成り行きに乗らない手はないわけだ。


6月24日「固定化された前提に対する反駁」

 現状において固定化された前提というのが具体的に何なのかに関して、あまりピンとくるものはないが、人間は常に自身の利益を最大化するために最も合理的で計算高い行動をとると仮定されてきたといっても、それに対して、行動経済学の台頭により、人間の認知バイアスや感情に左右される不合理な意思決定が前提として組み込まれるようになったらしく、例えば、株価が下がっても損失を確定させたくない感情から売却できず、損切りの機会を逃してさらに大損するとか、新しいプランの方がお得でも、変更による失敗を恐れて今のプランを続けたり、将来の健康や理想の体型よりも、目の前にあるお菓子の誘惑に勝てなかったり、将来のための貯蓄よりも、今すぐ使える商品や娯楽にお金を使ってしまったり、中身をよく知らないまま、みんなが並んでいるから良い店だと思い込んで並んでしまったり、周囲が買っているからという理由だけで、実体価値のない金融商品を高値で買ったり、過去のわずかな的中体験だけを拠り所にして、大半の負けた経験を無視してギャンブルを続けたり、自分が購入を決めた商品の、良い口コミだけを集めて悪い評判を無視したり、現金が減る痛みを感じにくいため、クレジットカードや電子マネーだと予算以上に買ってしまったり、と、これらの行動は行動経済学によって理論化されているそうだが、行動経済学が解き明かす不合理なバイアスに抗い、合理的な意思決定を下すための具体的な対策は、現在バイアス対策として、余ったら貯金するのではなく、給与天引きで自動積立にするとか、損切り拒否や高値づかみ対策として、ドルコスト平均法に従い、投資信託などを毎月一定額自動で購入し感情を排除するとか、損失回避バイアス対策として、購入価格から10%下がったら、理由を問わず売却すると事前に株式売却のルールを定めておくとか、ネットでの衝動買い対策として、欲しいと思ってからカゴに入れたまま三日間待ち、本当に必要か再考するとか、支払いの痛み鈍麻対策として、クレジットカードの限度額を低く設定する、またはスマートフォンの決済アプリからカード情報を削除するとか、同調バイアス・バンドワゴン効果対策として、セールの案内やSNSのトレンド通知をオフにし、周囲の流行から距離を置くとか、確証バイアス対策として、自分が買いたい商品のデメリットや最悪の口コミだけをあえて検索するとか、また自己中心バイアス対策として、友人が自分と同じ状況で悩んでいたら、どんなアドバイスを出すかを想像するとか、何となく枝葉末節の、ハウツー的な子供騙しのような対策の羅列のような気がしないでもないが、どうも合理的に物事を捉えない方が良いと勘が知らせてくるような気がして、誰にとっても合理的に思われたり不合理に思われたりする行動やバイアスとして、すでによくある事例としてネット上のお悩み相談の類いなどで取り上げられているものは、その解決法までがマニュアル化されているものも多いから、何となくリアリティを感じられず、それらがよくある話として紋切り型化の効果によって無害化されているわけでもないが、ネットのお悩み相談の類いは、よくある事例として最適解がテンプレ化されやすく、その紋切り型的で予定調和の回答が、当事者のリアリティを損なう原因となっているそうで、個別具体的な背景となる人間関係の力学や感情の機微が削ぎ落とされ、誰にでも当てはまる正論に置き換わったり、相談者が、ただ苦しみに共感して欲しいフェーズであっても、即座に効果的な解決策やアドバイスが提示されたり、相談と回答があまりに定型化していると、またこのパターンかと予定調和に感じ、生の感情や切実さが伝わりにくくなり、それらがリアリティを損なう原因となる一方で、紋切り型のマニュアル化された回答にも、客観的な視点を提供し、視野を広げる、第三者の専門機関へつなぐための道標になる、といった実用的なメリットはあるそうで、一概に予定調和の紋切り型的な話だと斬って捨てるわけにもいかないそうだが、求めているものが、今までにない、ハッとするような、気づきにくく、言語化困難な何かに関して語っている内容だと、それだけありがたみを感じられる反面、それ自体が解決するとか解決できるようなことではなく、そうすることのメリットもデメリットもはっきりせず、ただそんな成り行きに巻き込まれてしまうと、そうせざるを得なくなるようなことになってしまい、どうすれば良いのか悪いのか、悩むだけ無駄なことなのかも知れず、それが何なのかといっても、実際にそうなってみないとわからないどころか、そうなってもわからないから、自分でもわからないままそんな行為に及んでいると、それについては悩むとかそういうことではなく、お悩み相談の題材とはならないわけだが、その場の成り行きに身をまかせろと一概に言われるようなことでも、その場の成り行きがどういう成り行きなのかが事前にはわからないわけだから、結果的に成功とか失敗とかがはっきりした段階で、それがどういう成り行きだったのかがわかることもあるだろうが、そうなった時点でもはや結果を変えることができなければ、わざとらしくそこからもっともらしい教訓の類いを言語的に構成するにしても、その種の事後的な振り返りでは遅すぎるというか、手遅れになってから反省してみても、何かそれでは違うような気がするわけで、何かを掴み損ねているような感触だから、いかにそれをもっともらしく説明しようと、たぶんそれを説明する行為とは違うレベルで行動しなければならないのだろうが、だから何か良からぬことをやらかして、それに対する責任の追及のような行為をメディアを通じて喧伝するようなことが、何かもっともらしくも正義の行為のように思われるとしても、メディア的にはそれで構わないだろうが、すでにそんな思惑の裏をかいて何か良からぬ策を講じてうまく立ち回ってしまった後から、それをいくら批判されても非難されても、やったもん勝ちな結果を覆しようがなくなっていると現状を把握してみれば、そういうことなんじゃないかと素直に事態を受け止めるしかなく、そうなる過程において、いくらでも枝葉末節な過ちや誤りなど犯してしまっても構わないような成り行きになっていれば、実際にそういう成り行きになっているから、行動経済学的なバイアスに陥っても痛くも痒くもないどころか、逆にそういうバイアスに自意識が従っているから、それとは違う本質的なところで冷静な判断ができるような逆説があると信じたいのだが、だから自身が行動経済学的なバイアスなどに引っかかっていることを意識していれば、それらの枝葉末節な過ちや誤りをなん度も犯しながらも、肝心なところでうまく立ち回れるような柔軟性が身についていれば、かろうじて何とかなるような成り行きなのかも知れず、そういうのは他人に教えられるようなものでもないし、他人から教わるようなものでもなく、良し悪しとは無関係に否応なくそうなってしまうような成り行きに身をまかせてみないことにはくぐり抜けられない試練があって、そういう試練をくぐり抜けた挙句に、現に高市などは総理大臣になってしまったのだから、そいうことに関しては、やはりきれいごとばかり主張している左翼リベラルな人々なら、高市を見習えないどころか、苛烈な批判や非難で応じるしかないのも、立場上はそうならざるを得ないわけだが、それに対して行動経済学におけるバイアスは、人が物事を判断したり意思決定を下したりする際に陥る心理的な偏りや先入観・認知バイアスで、人間は常に合理的・論理的に判断するとは限らないという前提に基づき、非合理な行動を引き起こす主な原因とされ、現在バイアスは、将来の大きな利益よりも、目先の小さな快楽や利益を優先してしまう心理で、サンクコストバイアスは、すでに投資してしまい、回収できない時間やお金などのサンクコストを惜しむあまり、非合理な選択を続けてしまう心理で、現状維持バイアスは、現状に特に不満がなくても、変化や新しい選択に伴うリスクを恐れ、今の状態を維持しようとする心理で、確証バイアスは、自分の考えや思い込みに都合の良い情報ばかりを集め、都合に反する情報を無視してしまう心理で、フレーミング効果は、同じ事実や選択肢であっても、情報の伝え方によって、受け手の印象や判断が大きく変わってしまう現象だそうだが、バイアスは決して特殊な症状ではなく、人間が本質的に持っている脳のショートカット機能の代償として生じてきて、マーケティングや政策などでは、これらの心理的傾向を理解し、人々の行動をより良い方向へ促すために広く活用されているそうだ。


6月23日「技術革新に伴う価値や価格の変動とトレードオフの関係」

 技術革新による新規分野への投資は、投資がうまく行けばその分野の生産物の価値を高められる反面、既存の分野の需要を奪ったり、生産性を相対的に陳腐化させたりするため、既存分野の生産物の市場価値や価格を相対的に引き下げる傾向になり、これは経済学における創造的破壊や産業構造の高度化と呼ばれるメカニズムで説明でき、なぜ価値や価格が変動するのかといえば、新たに便利で魅力的な製品が生産物として登場すると、消費者の関心や予算がそちらへと向かい、従来の生産物の需要が減るため価格や価値が下がって、需要のシフトが起こり、イノベーションによって新たな生産手段や技術が確立されると、より安く、より大量にモノを作れるようになり、この影響を受けない従来の方法で作られた生産物は、相対的に高コストで価値が低いと見なされるようになり、生産性の向上による価格破壊が起こると共に、投資の価値のトレードオフも起こり、新規分野に資金や優秀な人材が大規模に流入すれば、その分野の技術開発がさらに加速し、新しい価値を次々と生み出していく一方で、従来の分野には十分な投資が行われなくなり、技術の進歩が止まってしまうため、時代のニーズとの間で乖離が生じ、結果として相対的な価値の低下がより顕著になるそうで、それは現在進行中のAI革命によって、他の産業分野の価値や価格が相対的に下がる動きにも、すでに一部のデジタル・知識セクターで顕著に現れ始めているそうで、マクロ経済全体や物理的なモノの価格を見ると、現在は過渡期にあり、逆に一時的な価格上昇を生み出している分野もあるそうで、相対的あるいは絶対的に価値や価格が下がっている分野は、AIの導入コストや処理コストが爆発的なスピードで低下している一方で、それまで情報の複製や処理に依存していた分野の価値や価格が相対的・絶対的に下落していて、デジタル・クリエイティブ領域において、生成AIの普及により、ウェブ製作費の市場相場が短期間で大幅に下落するケースや、簡易的なコーディング、データ入力、翻訳などの外注単価が急落して、ホワイトカラーの定型業務も、これまで人間が高い人件費をかけて行なっていたカスタマーサポートや簡単なレポート作成など知的労働を要するサービスのコストが構造的に下がっているが、反対に価値や価格が急上昇している分野は、AI革命に伴って大規模な投資が集中している、AIを動かすために絶対的に必要な物理的リソースの分野で、他産業と比べて相対的かつ絶対的に急上昇していて、特に半導体とハードウェアは、AIモデルの学習や運用に必要な画像処理半導体のGPUやデジタルメモリ、ストレージの需要が世界的に爆増し、この影響で、AIに関係のない一般のPCやスマートフォンの価格、自動車の製造コストが押し上げられ、エネルギー・電力分野では、大規模なデータセンターの増設に伴い、電力需要が急増して、これによりエネルギー価格が上昇し、伝統的なインフラ産業の価値や重要性が再評価されていて、長期的な視点では、AIによって全産業のモノを作ったりサービスを提供するコストなどの生産コストが引き下げられ、モノや既存のサービスの価値が下がり、生活コストが安くなると予測する専門家が多くいる一方で、現在の段階ではAI技術への莫大な投資という需要が先行しているため、エネルギーや半導体といった特定のボトルネックに資金が集中し、他産業の製品の価格が下がり切る前の調整局面にあるそうで、それに関して示唆を与える理屈として思い浮かぶのがトレードオフの理屈で、投資におけるトレードオフとは、何かを得ようとすれば、別の何かを犠牲にしなければならないという二者択一の関係を示し、リスクを抑えつつ高いリターンを出すような都合の良い投資は存在せず、投資の世界において、トレードオフとなる代表的な関係は、リスクとリターンのトレードオフでは、高いリターンを狙う場合、価格の変動幅が大きくなり、失敗すれば元本割れや大きな損失を被るリスクを受け入れる必要があり、逆にリスクを抑える場合は、安全性は高まるが、得られるリターンもそれだけ少なくなるが、安全性と収益性のトレードオフでは、預貯金などは元本が保証されており安全だが、金利が低くインフレによって実質的な価値が目減りするリスクがある一方で、株式・投資信託などは資産を大きく増やせるが、元本が保証されないから、失敗すれば元本割れを起こして資金が投資した額を割り込むリスクがあり、流動性と収益性のトレードオフでは、現金や普通預金などの流動性が高い資産は、いつでもすぐに使えるが、運用で増やすことはできない一方で、不動産や定期預金などの流動性が低い資産は、現金化するまでに時間がかかり、途中で解約しにくい代わりに、高い利回りや家賃収入を得られ、またインカムゲインとキャピタルゲインのトレードオフでは、インカムゲインを重視した投資をすれば、定期的な配当金や分配金、利息がもらえるが、株価などの急激な上昇による大きな値上がり益は期待しにくくなる一方で、キャピタルゲインを重視した投資をすれば、株価の値上がりによる大きな利益を狙えるが、配当金が全く出ないこともあり、そういう意味では完璧な投資先などなく、すべての要素を同時に満たすことは不可能で、そんな投資におけるトレードオフの理屈はAIの活用にも当てはまり、AIの導入や開発において、性能、コスト、速度、安全性などのすべての要素を同時に完璧に満たすことはできないそうで、何かを得るには、別の要素を犠牲にする必要があり、高い精度を狙う場合、大規模なAIモデルや膨大なデータが必要になり、開発費やサーバー代などのコストが跳ね上がり、逆にコストを抑える場合、安価または無料の軽量モデルで済む一方、回答の質や予測の精度は低下し、利便性を最優先にする場合、社員が自由にAIを使えば業務効率は劇的に向上する可能性はあるが、機密情報の漏洩や著作権侵害のリスクも高まり、安全性を最優先にする場合、厳格な利用ルールの設定や外部通信の遮断を行うため、安全だがAIの使い勝手や業務の進化スピードは確実に落ち、高度な処理を求める場合、AIが深く考えて正確な回答を出そうとする分だけ、処理に時間がかかりユーザーへの応答が遅くなり、即時性を求める場合、チャットボットなどで一瞬で返答させることができる反面、複雑な文脈の理解や深い分析はできず、ディープラーニングを使えば、極めて高い精度で予測や判別ができるが、AIがなぜその結論に至ったのかのプロセスが人間にはわからないブラックボックスになる一方で、伝統的な統計・機械学習法を使えば、なぜその結果になったのかの数式やルールなどの根拠を人間に百パーセント説明できるが、複雑なデータの予測精度は落ち、AIを活用する際も投資と同じく、目的に応じて何を最も重視し、何をどこまで妥協できるかという最適なバランスを見極める戦略が不可欠だそうだが、そうであっても、得ようとしている利益やリターンははっきりしているが、何を犠牲にしているのかがわかりづらかったりわからなかったりする事例もありそうで、技術革新の恩恵に与り生活が便利になったと幻想を抱かせる一方で、アルゴリズムのブラックボックス化、労働の分断と疎外、デジタル格差の固定化といった個人の生活実感として気づきにくい弊害を生み出していて、これらは便利さの裏側に隠れているため、問題が表面化した時にはすでに社会構造に深く根付いているという特徴があるそうだが、アルゴリズムのブラックボックス化と選択の知覚に関しては、AIやレコメンド機能を伴った推薦システムは、ユーザーの好みに合わせて情報を最適化して、フィルターバブルという見たい情報しか見えなくする現象やエコーチェンバーという似た意見が増幅される現象により、知らず知らずのうちに思考や価値観が偏ってしまい、自分が自由に選択していると錯覚させるため、多様性や客観的な事実を見失っていることに気づけなくなり、労働の細分化・機械化による労働の阻害に関しては、ギグエコノミー等のデジタルプラットフォームや高度なシステムは、労働を細切れのタスクに分解して、労働者をシステムの一部の歯車として機能させ、成果の全体像や自身の仕事の意義を見えにくくさせるから、労働へのやりがいやモチベーションの低下を招き、また労働者がシステムによって常に評価・管理されるため、精神的なプレッシャーが慢性化して、自身が何よって疲労し疲弊させられているのかがわからないままとなり、デジタル格差に関するデータ搾取と機会の不均衡に関しては、技術の恩恵はすべての人が平等に受けられるわけではなく、特にデータ社会においては、個人の行動履歴が企業によって収益化されて、便利な無料サービスを利用する対価として、知らず知らずのうちにパーソナルデータが提供・搾取されていて、また高齢者や一部の地域住民のような、データを持たない層やデジタル技術に不慣れな層は、行政サービスや就職、信用情報の面で不利を被る構造となっていて、認知負荷の拡大と情報の非対称性に関しては、技術の進歩によって処理すべき情報量が爆発的に増え、常に生成AIやコミュニケーションアプリなどの最新のツールを使いこなすことが求められ、常に何かを見落としているかも知れないという不安や、システムへの過度な依存によるテクノストレス・認知疲労が起こり、またシステムを作る側の企業と使う側の消費者の間で知識・情報の面で圧倒的な差が生まれ、知らず知らずのうちに不利な条件を飲まされているケースも少なくないそうだ。


6月22日「保護主義とブロック経済化の影響」

 一般的に言って保護主義とブロック経済化とは、1929年の世界恐慌後に当時の世界の大国が自国・自陣営の経済を守るために貿易制限や排他的な経済圏を形成した動きで、それによって自由貿易体制が崩壊し、世界貿易の縮小と政治的対立を招き、第二次世界大戦の遠因となった歴史的事象であり、背景としては、1929年にアメリカで起きた株価暴落をきっかけに、世界中の資本主義国へと波及した未曾有の世界的な大不況によって、経済的な打撃と大量の失業者に直面して、中でもアメリカの対応は、1930年にスムート・ホーリー法を制定し、史上最高水準の輸入関税をかけて自国の産業を保護しようとして、この動きに反発して他国も報復として関税を引き上げたことで、世界的な保護主義の連鎖が起こり、保護主義の傾向が強まる中、広大な植民地を持つ大国は、本国と植民地を一体化させた排他的な経済圏を形成し、中でもイギリスは、1932年のオタワ連邦会議でスターリング=ブロックを結成して、ブロック内の関税を引き下げて貿易を優遇する一方、ポンド圏外の国々には高い関税を課して締め出し、フランスも自国と植民地を結ぶ閉鎖的な経済圏を形成する一方で、それほど広大な植民地を持っておらず、輸出市場や資源へのアクセスを絶たれたアメリカ・ドイツ・日本・イタリアなどの国々は、自給自足的な勢力圏の拡大を目指し、これが軍事的な拡張主義へとつながって行き、結果的に、自由な市場が分断されたことで、国際貿易は大きく縮小して、経済全体の規模も縮小したことで、世界的な経済停滞が長期化して、経済的な対立が国際関係を悪化させ、これが第二次世界大戦の引き金となり、未曾有の死傷者数とインフラの破壊をもたらして、この歴史的な惨事の教訓から、第二次世界大戦後は、自由で無差別な多角的貿易体制を目指してGATT(関税および貿易に関する一般協定)やIMF(国際通貨基金)などの国際機関が設立されて、現在のWTO(世界貿易機関)へと引き継がれたが、二十一世紀に入ってから、米中対立を軸として経済的な分断を目指す動きが顕著な傾向となり、この傾向が新たな保護主義の台頭と世界的なブロック化の兆しを見せ始め、実際にAI、量子コンピューティング、軍事転用可能な先端半導体の分野で、米国は輸出規制や投資制限を強化し、中国への技術移転を厳しく阻止し、中国の製造業への依存度を引き下げるため、アメリカの同盟国間でのサプライチェーン構築を推進し、通商面でも高い関税の維持など、両国間の貿易障壁が高まっているが、完全な経済の分断は世界経済に壊滅的な打撃を与えるため、現在では主要先進国を中心にリスク軽減へと戦略が移行していて、安全保障上不可欠なコア技術や重要物資に絞って切り離しを行う、選択的デカップリングが主流となっていて、米中対立の長期化により、日本企業はかつての中国への投資の一極集中を見直して、東南アジアやインドやメキシコなどに生産拠点を分散させるチャイナプラスワン戦略を加速させたが、それもトランプ関税によって変更を余儀なくされ、アメリカへ直接投資を強いられ、さらに輸出管理法制や経済制裁の厳格化に伴い、サプライヤーのスクリーニングやコンプライアンス体制の強化も迫られ、アメリカが主導する経済安全保障を口実とした保護主義的な傾向に巻き込まれ、半導体、AI、レアアース・重要鉱物など先端技術や戦略物資において、特定の国への過度な依存を断ち切る動きが加速していて、なるべく価値観や利害を共有する同志国のみでサプライチェーンを強靭化・完結させようとし、これらは関税同盟のような明確な排他的ブロックとは異なり、多国間通商枠組みや、例えば米国主導や中国主導の枠組みなどの経済安保イニシアチブといった現代的な形で形成され、グローバルサウスと呼ばれる新興国・途上国は、米中いずれかの陣営に完全に従属するのではなく、自国の利益を最大化するため複数の経済圏と柔軟に連携する動きを見せていて、世界貿易機関WTOを中心とした多角的貿易体制よりも、2国間交渉や特定の有志国連合を重視する傾向が強まり、現代の状況は、1930年代の植民地をベースとした排他的なブロック経済とは異なり、デジタル技術や金融網、先端技術のサプライチェーンが分断の対象となっており、こうした分断がさらに進行すれば、コストの上昇やインフレを招き、世界全体の経済成長を抑制するリスクを孕んでいるそうだが、各国とも金融・財政政策において、政策余地が枯渇する事態となり、国家間の対立や紛争が慢性化した状態下でインフレが慢性化すると、金利上昇による債務負担と実質賃金の目減りが同時に進行し、経済の安定化が困難になり、経済危機に陥る度に異次元金融緩和などのゼロ金利政策や大規模な量的・質的金融緩和をやって経済の悪化を食い止めようとした結果、中央銀行のバランスシートを肥大化させ、政策の自由度を奪ってきた経緯があり、慢性的なインフレを抑え込むためには、利上げして金融引き締めをやる必要があるが、長きにわたる緩和で膨張した市場や政府債務に対して急激な利上げを行うと、景気後退や金融システムの不安を招くリスクがあり、そうかといって政府の財政悪化を懸念して、金利を据え置くようなことがあれば、中央銀行のインフレ抑制機能や通貨への信認が低下し、インフレが進行している局面でのバラマキや大規模な財政拡張などの、積極的な財政出動は、市場の需要をさらに刺激して、インフレを助長する逆効果をもたらす恐れがあり、すでに公債残高が積み上がっている財政赤字の拡大状況で、追加の財政支出を続ければ、財政の持続可能性に対する市場の懸念が高まり、そんな中で中東有事や台湾有事などに起因して、コストプッシュ型のインフレが定着し、家計の購買力や企業の収益が圧迫される中、有効な景気対策を打てなくなると、景気停滞と物価上昇が並存するスタグフレーション状態に陥る危険性が高まるだろうが、デフレ脱却を目指した長期の異次元金融緩和を経て、日本は現在、円安と資源高に起因するインフレ圧力に直面していて、実質金利の低下や通貨安がさらなるインフレを招く悪循環が指摘されているが、政府・日銀は金融正常化を進める一方で、財政制度等審議会などは財政拡張がインフレに与える影響を警戒し、安易な歳出拡大に警鐘を鳴らしている中で、慢性インフレに対処するには、需要管理だけでなく経済構造の変革が不可欠となるそうで、供給力を強化するには、単なる需要の底上げではなく、労働生産性の向上やAI・デジタル化を活用した技術革新、規制緩和を通じて経済全体の供給能力を底上げすることが求められ、中長期的な財政の健全性に対する市場の信認を維持するため、歳出構造の見直しやプライマリーバランスの目標達成が重要視されるが、経済の構造改革は、既得権益の打破や規制緩和、社会保障制度の見直しといった痛みを伴い、短期的には世論の反発を招きやすいため、政治的に敬遠されがちで、産業構造の変化やグローバル化によって、中間層の凋落や雇用不安といった構造的課題が放置され、有権者の間に政治不信や社会への不満が鬱積して、こうした不満をすくい上げる形で、エリート層への批判や、わかりやすいが実現困難な公約を掲げるポピュリズム勢力が支持を拡大し、ポピュリズム政党の台頭により、中長期的な経済政策よりも目先の人気取りや排外的な政策が優先されて、抜本的な構造改革はさらに遠のくという悪循環に陥り、民主政治は有権者の声を直接反映できる反面、減税やバラマキなど有権者にとって耳障りの良い政策が優先されやすくなり、持続可能な財政運営が阻害される傾向が生じる一方で、デジタル化やグリーンエネルギーへの移行など、中長期的に必須となる成長戦略や規制改革が進まないことで、国際競争力の低下や景気低迷を招く要因となるそうだが、グリーンエネルギーへの移行自体がかえってコスト高を招いて経済停滞を招くという意見もあって、その辺は今後の技術革新の動向にも影響を及ぼすだろうが、ポピュリズムが支持を集める背景となる格差や不満への処方箋がない限り、構造改革の遅れは解消されず、民主主義の機能不全を招くリスクが指摘され続けるにしても、安易に処方箋など求めないで、ポピュリズム勢力のやりたいようにやらせておくことが肝要なのかも知れず、かつてのファシズム、ナチズム、スターリニズムによる悲劇をすでに人類が経験しているわけだから、きっと二度目は喜劇や笑劇や茶番劇に終始するはずで、現に今もその種の演劇空間の舞台上で何やらそれふうの登場人物たちが茶番な政治劇を演じている最中だと事態を捉えておくだけでも、より冷静かつ客観的な現状認識へと至れるかも知れないが、それなりに取り返しのつかない惨事を招いている現実もあるわけだ。


6月21日「経済政策の循環と行き詰まり」

 完全雇用、価格の安定、国際収支の均衡、所得と富の再配分、社会財の提供は、経済学者リチャード・マスグレイブなどの伝統的な現代のマクロ経済学において、政府または国家が果たすべき5つの経済的目標・機能と定義されていて、これらは、市場の失敗を補い、国民の厚生を最大化するための統治の基本とされて、完全雇用は、働く意欲と能力があるすべての人が、適正な賃金で働ける状態を指し、統治の役割は、消費+投資+政府支出の有効需要が不足して発生する非自発的失業を解消するため、財政政策や金融政策によって経済全体の需要をコントロールすることにあり、価格の安定は、物価上昇をもたらすインフレーションや物価下落をもたらすデフレーションを防ぎ、貨幣価値を安定させることで、統治の役割は、中央銀行による金利の操作やマネーストックの調整などの金融政策や政府による適切な財政運営を通じて、過度な物価変動を抑え込むことにあり、国際収支の均衡は、輸出入や海外との資本取引などのバランスを保ち、特定の国への過度な依存や外貨不足、為替の乱高下を防ぐことで、統治の役割は、貿易協定の締結、関税・非関税障壁の管理、および国内の産業競争力強化を通じて、健全な対外経済関係を維持することにあり、所得と富の再配分は、自由な市場競争の結果生じる貧富の格差を是正し、社会の安定を図ることで、統治の役割は、所得税や相続税の累進課税制度などの税制と、年金、医療、介護などの社会保障制度を組み合わせることで富を再配分して、社会のセーフティネットを構築することにあり、社会財の提供は、市場のメカニズムだけでは十分に供給されない、あるいは供給が困難な財・サービスを提供することで、統治の役割は、警察、国防、司法、インフラ整備、基礎教育など、国民全体が最低限の生活水準を維持しながら、公正な競争に参加できるように政府が責任を持って供給することにあり、これら5つの目標は相互に関連していて、例えば、インフレを抑えすぎると失業が増えるなどトレードオフの関係になることもあり、統治においてはこれら全体のバランスをどのように取るかが常に重要な課題となるそうで、1955〜75年にかけて、イギリスの労働党政権が直面した失敗は、完全雇用と社会保障の維持が国際競争力の低下・インフレ・財政悪化のジレンマを引き起こし、いわゆる「英国病」を深刻化させたことに起因しており、完全雇用を最優先したことで内需が拡大し、輸入が増加した一方、イギリスの製造業は国際競争力を失い、好景気になると貿易赤字が膨らむため、政府は輸入制限やポンド切り下げ、増税などの景気過熱時の引き締めと、不況時の拡張政策の繰り返しとなる「ストップ・ゴー」政策を余儀なくされ、安定的な成長が阻害され、完全雇用の維持は労働市場における労働組合の交渉力を極端に高め、インフレ抑制のために賃金上昇を抑えようとする政府と、実質賃金の維持を求める労働組合との間で激しい対立が常態化し、これにより、高インフレと高失業が同居する経済停滞のスタグフレーションが引き起こされ、ゆりかごから墓場までと言われる社会財の提供を掲げた巨大な福祉国家体制は、税収基盤の弱いイギリス経済にとって過大な財政負担となり、限られた資源を福祉と公共投資に回した結果、産業の近代化に必要な企業の設備投資や技術革新への資金が不足し、さらなる生産性の低下を招くという悪循環に陥り、1970年代には深刻な経済危機と大規模なストライキの頻発を招いて、労働党政権の経済運営は行き詰まりを見せることになったそうだが、それに対して第二次世界大戦後の西ドイツの経済的な成功は、社会的市場経済の徹底、1948年の通貨改革によるマルクの安定、そしてマーシャル・プランによる支援と高品質な輸出主導型の産業構造が主な要因で、西ドイツが価格の安定と国際収支の均衡という目標を達成し、急速な発展を遂げた具体的な要因は、1948年の通貨改革で無価値になっていたライヒスマルクを廃止し、新通貨ドイツマルクを導入し、これによりインフレが収束し、労働者の勤労意欲や企業の投資意欲が回復し、ルートヴィヒ・エアハルト経済相が主導した社会的市場経済という経済システムは、市場における自由競争を徹底させつつ、競争から脱落した人々や社会的に弱い立場の人々を保護する手厚い社会保障を組み合わせることで、公正かつ安定した成長を実現し、中央銀行であるドイツ連邦銀行が、政治的な圧力から極めて高い独立性を保ち、インフレ抑制と物価の安定を至上命題として金融政策を運営したことで、ドイツマルクは世界的に最も信頼され、安定した通貨となり、価格の安定と強いマルクを背景に、輸出主導型の経済構造は高い国際競争力を維持して、特に世界的に需要が高かった機械や自動車などの資本財や生産材に特化した輸出産業を構築し、これが長期間にわたる持続的な経済成長の原動力となり、アメリカの戦後復興支援であるマーシャル・プランにより、破壊された生産設備の近代化と復興資金の確保に成功し、また、ドイツが元々持っていた高度な工業技術や熟練労働者の蓄積が、復興を加速させたそうだが、そんな西ドイツの戦後復興から影響を受けた、イギリスのサッチャー政権の新自由主義的な経済政策は、「英国病」と呼ばれた慢性的な不況の克服やインフレ退治には一定の成果を挙げた一方で、製造業の衰退や深刻な格差拡大をもたらしたため、その評価は功罪半ばし、現在でも議論が分かれているそうで、イギリス病の克服については、1970年代に蔓延していた高いインフレと低成長を抑え込み、経済の体質改善に貢献し、競争力の効果については、国営企業の民営化や規制緩和を断行して、市場原理を導入することで企業の効率化を図り、労働組合の改革については、経済の足かせとなっていた過度な労働組合の力を削ぎ、ストライキの抑制に成功したが、効率化を最優先した結果、炭鉱や鉄鋼などの伝統的な基幹産業が壊滅的な打撃を受け、地域経済が衰退し、産業の空洞化を招いて、富裕層向けの減税や福祉の削減により、貧富の差が拡大し、社会的な分断を招いて、製造業が衰退した代わりにロンドン・シティを中心とした金融業への依存度が高まり、その後の経済の脆弱性につながったという指摘もあり、このように、マクロ経済の立て直しという点では成功したとされる一方で、社会的な犠牲や長期的な産業構造の歪みを生んだことで、歴史的な評価は多面的となっているそうだが、では同時期のアメリカのレーガン政権はどうだったかというと、レーガン政権の経済政策である「レーガノミクス」は、インフレ退治と長期的な経済成長の基盤づくりに成功したと評価される一方で、深刻な財政赤字や格差拡大を招いたため、光と影の両面がある、というのが経済学的な一般的な見方で、インフレの抑制については、就任時に10%を超えていた高いインフレ率を、当時のFRBのポール・ボルカー議長による金利引き上げを伴った強力な金融引き締めと協調して低下させることに成功し、大幅な減税と規制緩和が民間投資や消費を刺激し、1980年代後半のアメリカ経済に長期的な拡大をもたらし、軍事費の増大を通じてソビエト連邦との軍拡競争を優位に進め、結果として冷戦終結の契機を作ったが、大幅な減税と国防費の膨張に対し、非軍事部門の歳出削減が追いつかず、財政赤字が巨額化し、また、これが高金利を招き、ドル高を通じて貿易赤字も拡大させ、富裕層や大企業への減税を重視した結果、経済成長の恩恵が低所得者層に行き届かず、社会的な格差が拡大し、このように、不況下の物価上昇というスタグフレーションに苦しむアメリカ経済を立て直し、強いアメリカを復活させた点は歴史的功績とされるが、財政規律の悪化や格差拡大という深刻な歪みも同時に生み出したそうで、そういった事例を踏まえて、現在の世界各国における経済政策の循環と行き詰まりは、自由貿易から保護主義への回帰と拡張財政・金融緩和の限界によるスタグフレーション的圧力というサイクルとして顕著に表れていて、これを裏付ける具体的な兆候として挙げられるのは、保護主義とブロック経済化の進行、金融・財政政策のカード切れとインフレの慢性化、GDP至上主義から生活実感・ウェルビーイングへの転換、ポピュリズムの台頭と構造改革の遅れ、の4点だそうで、他にもアメリカや欧州や中国における政策の失敗例もあるそうだが、今この時点でのもっともらしい意見や指摘や見解は、この時代に特有な限界とともに、後の時代においては、もっともらしくは思えなくなっているのかも知れない。


6月20日「モラルハザードとは」

 社会の秩序の崩壊や人や集団の暴走を防ぐ歯止めとして機能しているのは、法や制度といった外部からの強制力から、道徳や世間体のような内面・社会規範に至るまで、色々とありそうだが、憲法、刑法、行政処分、コンプライアンスなど、違反した際に直接的な罰則が伴う法制や、市場原理や罰金、税制など、損得勘定によって非合理的な行為や不祥事にブレーキをかける仕組みや、道徳、倫理、世間の目、SNSで炎上を恐れるとか、法律で裁かれない行動でも、社会的孤立や信用失墜を防ぐための抑止力としての社会規範や世間体や、その人が持つ価値観や宗教的信念、外部からの監視がない状況でも、内面から不正を思いとどまらせる最後の防波堤としての個人の倫理観や良心などがあり、これらが複雑に絡み合うことで、社会全体の安定が保たれているように感じられるだろうが、何かのきっかけからそれらの歯止めを突破してやらなければならないことややらざるを得ないことが生じてくるとしたら、人や集団が法制度や社会規範を破る行為に駆り立てられるのは、それら行為を正当化したくなる状況や情勢の中で、例えば不当な抑圧からの解放とか、生存の危機に直面していれば、そんなものなど守ってはいられなくなるだろうし、そうなっていること自体が、社会の秩序が崩壊して混乱状態に陥っていることを物語っていそうだが、混乱状態でなくても、社会規範自体が形骸化していて、世の中に悪徳が栄えるような不条理な事態に陥っていれば、正直者が馬鹿を見るような情勢になっているだろうから、卑怯なやり方や卑劣な行為に及んででも生き抜かなければならないと思うまでもなく、自身の生存本能に従って行動していれば自然とそうなってしまい、良心の呵責など感じている場合ではないが、他にも集団心理によるモラルハザードという、個人では持つことのない無責任な行動や倫理観の低下が、組織や群衆の中に入ることによって引き起こされる場合もあり、例えば、赤信号みんなで渡れば怖くない、という心理のように、責任の所在が曖昧になることで発生するそうで、集団内では、他の人もやっているとか、自分一人がやらなくても誰かがやるだろうとか、責任が細分化されることで、罪悪感が薄れ、大きな集団に紛れることで個人の特定が難しくなり、普段なら避けるような不正やルール違反に対する心理的なハードルが下がって手を染めやすくなり、周囲から同調圧力を感じて、集団内で主流となっている意見や行動に合わせなければならないというプレッシャーから、間違った判断に流されてしまい、みんなで決めたことだから、上司の指示だからと、本来は法令違反や不適切だとわかっていても、そんな行為を見過ごしてしまったり、匿名性の高いSNS空間で、特定の個人に対する誹謗中傷や攻撃が、正義や祭りとして集団化し、エスカレートしたり、混雑した場所での列の割り込みや、ゴミのポイ捨てなど、誰も守っていないから自分もいいだろうと規律が崩壊する現象などがあるそうだが、そうしたモラルハザードを防ぐための対策として、個人のモラルに頼るだけでは解決が難しく、集団の構造や環境にアプローチする必要があり、集団内で、個人の役割と責任範囲をはっきりと定め、評価基準を透明化して、明らかにおかしい行為や言動には、異論を唱えやすい環境を整え、集団の暴走を未然に防ぐことが重要だそうだが、それでも制定されたルールや道徳が、特定の状況下で個人の生存や尊厳を著しく脅かす場合、それを打開するための手段として、規範破りが正当化されるそうで、法や道徳が個人の生存や尊厳を脅かすのは、弱者や少数者の存在を想定していない硬直した運用がなされる場合や、特定の価値観や公益が絶対視され、個人の生命・自由が手段として扱われる状況で、制定されたルールは、想定された標準的な状況において機能するように設計されているが、個人の事情は複雑で、場合によってはルールが逆に暴力として機能してしまうケースもあり、自然災害や紛争、病気などの緊急事態において、厳格な書類や資格要件を満たせないため、避難所への収容、医療、食料配給などの公的な支援から排除されるケース、病気による体調不良や障害、家庭の事情といった個別の事情を考慮せず、一律の欠席・遅刻・退職扱いなどを適用し、社会的な孤立や経済的困窮に追い込むケースなどがあり、また社会の秩序や多数派の利益を最優先するあまり、個人の命や尊厳が軽視される状況や、戦争や感染症のパンデミックなどの非常事態下で、治安維持や感染症拡大防止を名目に、移動の自由やプライバシーが必要以上に奪われて、個人の生活が破壊されるケース、宗教観や家族観など伝統や特定のイデオロギーに基づく道徳が社会の規範となり、それに合わない生き方をする人々を犯罪者や異常者として糾弾・排除するケースなどがあり、さらに倫理や道徳的なジレンマにおいて、特定のルールを守ることが結果として誰かの生存を脅かすパラドックスとして、少数者を犠牲にして多数者を救うというような功利的な判断が絶対化された際に、犠牲にされる側の個人の尊厳が踏みにじられるケース、個人の、苦しみから解放されたい、尊厳ある死を迎えたい、という強い願いと、宗教的・伝統的な、命は神聖なものであり人為的に操作してはならない、という道徳規範が対立し、本人の自己決定権が法によって阻まれるケースなどもあり、制定されたルールや道徳は、本来、人々が平和に、人間らしく生きるための手段であるべきで、時代背景や価値観の変化に伴って、常にその妥当性を問い直し続ける必要があるが、時代遅れの道徳観や、実態にそぐわない不合理な制度が放置されている場合、その制度そのものに対する信頼が失われ、破られることが常態化して、また利益の最大化や組織の存続などの目標達成があまりにも重視され、それを達成するためなら、ルールを破ってでも結果を出せば良いという、目的と手段の倒錯した思考に陥るケースもあるそうで、そうした何かとセンシティブで思想信条的な問題が絡んできそうに感じられる場合ではなくても、一般的な意味でのモラルハザードとは、保険やセーフティネットなどの救済措置があることで、リスクに対する意識が薄れ、不注意や無責任な行動を引き起こす現象や、個人の倫理観の欠如ではなく、制度の構造によって生じる構造的な無責任状態を指し、主に情報の非対称性が存在する状況で発生し、保険分野では、自動車保険や医療保険に加入することで、損害をカバーしてもらえる、という安心感が生まれ、運転の注意力が低下したり、健康管理が疎かになる現象で、金融・経済分野では、経営破綻しても政府や中央銀行が救済してくれるという期待があると、金融機関や企業がリスクの高い投資や杜撰な経営に走りやすくなり、企業組織・雇用では、成果や業績に関係なく給与や雇用が保障されている環境では、従業員が努力を怠ったり、業務の手抜きをしやすくなり、そうなることを防ぐための対策としては、当事者が適切な行動をとることが自身の利益に直結するように、インセンティブの最適化や、行動が見えないことによる怠慢を防ぐために、業務プロセスの可視化や監視を行う、モニタリングの強化が挙げられるそうだが、動機づけという意味でのインセンティブというのも、例えば、従業員のモチベーションや成果を最大化するために、報酬、表彰、評価などの動機づけの仕組みを、個人の特性や組織の目標に合わせて最も効果的な状態に調整することだと言われても、何だか意味がわからないが、一律の金銭報酬とか、画一的なインセンティブ制度だけでは、多様な価値観を持つすべての社員のモチベーションを引き出すことは困難であり、インセンティブの最適化を行うことで、コスト対効果を高め、評価基準の透明性を高めて、納得感のある報酬体系を構築し、従業員の不平不満を解消したり、個人成績ばかりに固執せず、チームワークや中長期的な企業価値向上にもつながる設計にして、短期志向の防止に役立てたり、金銭だけでなく、表彰、特別休暇、自己実現の機会など、複数の報酬を最適に組み合わせて、多様なニーズへの対応を図り、最適化するための主なアプローチとしては、売上、新規獲得、顧客満足度などの達成すべきゴールに対し、それに連動する適切なKPI=重要業績評価指標と報酬のバランスを計算・設定し、目標と指標を精査し、金銭的報酬に加え、評価、人的環境、キャリアアップなどの非金銭的インセンティブを組み合わせ、インセンティブ報酬管理システムなどのテクノロジーを活用し、個々の従業員のパフォーマンスデータを分析して最適な報酬プランをシミュレーションし、適用するなどが挙げられるらしいが、そういう取り組みを専門に手掛けている分野に従事していない者にとっては、門外漢のような無関係な実感しか得られないかも知れない。


6月19日「技術革新と政治情勢の裏腹な関係」

 ここ数十年の産業の技術革新の傾向から窺えることは、情報革命が情報の集積と伝達を効率化し、続くAI革命がそれを解釈し、自律的に判断・創造する段階へと進化させ、この転換により、単なる知識の蓄積ではなく、人間の創造性や判断力の本質、そして真に付加価値を生む領域がどこかという、知のパラダイムシフトが浮き彫りになっているそうだが、情報革命の到達点は、インターネットを通じて、誰もが瞬時に世界中のあらゆる情報にアクセスできるようになったことであるが、得られた情報を活用して、AIが大量のデータを自律的に学習し、仮説の生成、プログラミング、デザイン、創薬などの高度な知的作業を自動化・効率化し、これにより、人間はゼロからアイデアを出すフェーズから、AIが出した複数の選択肢から最適なものを評価・編集するフェーズへと移行し、結果的に技術革新のスピードが増したはずで、特に生成AIの普及は、過去の技術革命よりも遥かに速いペースで社会に浸透して、あらゆる産業サイクルを劇的に加速させ、創薬や材料工学、ソフトウェア開発などの分野において、AIが仮説立案やシミュレーション、データ解析を瞬時に行い、新製品や技術の誕生にかかる期間が劇的に短縮されて、これまで人間の専門家しか行えなかった知的労働が自動化されたことで、業務効率化や新たなビジネスモデルの開発サイクルが早まって、誰でも手軽に高性能なAIツールにアクセスできるため、企業だけでなく個人でも新しいサービスのプロトタイプ作成や市場投入を短期間で行えるようになり、この技術革新の指数関数的なスピード化は、産業構造そのものを現在進行形で変化させ、AIが定型的な事務作業や基本的な分析、創作の一部を代替するようになったことで、人間の役割が絞り込まれ、感情に寄り添う力や、複雑な利害関係を調整するリーダーシップの重要性が高まり、何のためにその技術を使うのか、その活用形態はどうあるべきか、という哲学的な問いや意思決定は、依然として人間固有の領域である一方で、単純な情報処理やコーディングから、業務全体のプロセスを設計する力や、AIに対する適切な指示を出す力へ需要がシフトしていて、ビジネスや行政において、データに基づく未来予測やリスク分析が即座に行えるようになり、社会の意思決定サイクルが劇的に短縮されたが、技術の進化は、新たなリスクや課題も可視化させたそうで、フェイクニュースやディープフェイクが高度化し、情報の信頼性を見極めるメディアリテラシーがこれまで以上に問われるようになり、またAIツールを使いこなす層とそうでない層の間で、生産性や経済的な格差が拡大する懸念が現実化していて、技術革新がもたらす急激な社会構造の変化が、経済的・心理的な不安を生み出し、その不満の受け皿として排外主義や既存のエリートリベラル層への批判が結びつくことで、産業の技術革新、ポピュリズム・ファシズムの台頭、リベラル叩きの横行は、歴史的に見ても極めて高い確率で同時並行的に連鎖反応として発生するそうで、技術革新は生産性を飛躍的に高める一方で、従来の産業に従事していた労働者の雇用を奪い、富を一部の資本家や技術者に集中させ、これにより生じた巨大な経済格差が、社会の分断を決定づけて、急速な変化についてゆけない人々や、社会的地位を脅かされたと感じる層は強い不安を抱き、ポピュリズムやファシズムは、この恐怖心を利用し、移民、マイノリティ、既存の政治家などの特定の人々を問題の原因としてスケープゴートに仕立て上げて糾弾し、単純で強力な解決策を提示することで支持を集める一方で、技術革新を推進してきたのは多くの場合グローバルな市場経済で、多様性や寛容性を重視するリベラルなエリート層は、取り残された労働者階級の苦境に寄り添えていないと見なされがちで、これがリベラル叩きや反知性主義の横行へとつながるそうだが、歴史的な具体例としては、十九世紀の産業革命とその反動期における、産業革命による機械化が職を奪うと考えられたイギリスで起きたラッダイト運動は、初期の技術反発とポピュリズム的な暴動の一形態で、その時期、労働者の不安は後の過激な政治運動やファシズムの温床となり、二十世紀初頭の第二次産業革命と世界大戦の時期にも、フォードシステムに代表される大量生産体制の確立が資本主義を大きく変革させた時代、大衆社会の到来とともに、イタリアのファシズムやドイツのナチズムといった全体主義が台頭し、二十一世紀のデジタル・AI革命の時代においても、SNSの普及とAI・ITによる産業構想の激変が、現代のポピュリズム政党の台頭や、既存リベラルに対するバックラッシュを引き起こしていると言えるそうだが、バックラッシュとは政治的な文脈では、ジェンダー平等や人種差別解消、多様性を尊重する動きなど、社会を前進させようとする動きに対して起こる反発や保守化への揺り戻しを指し、フェミニズムやLGBTQ+の権利拡大などの進歩的な動きに対し、伝統的な価値観が壊されると危機感を持った層から起こる反対運動や法規制の後退などを指すそうで、大衆が左派リベラルを嫌う主な理由は、知識人やエリート層による上から目線の道徳的説教や、伝統的な価値観や共同体意識との衝突、そして理想主義的な政策が現実の経済や安全保障と乖離していると感じられる点にあるそうで、民衆から反発を招く具体的な要因は、大衆を見下すような態度、正しさを押し付ける道徳的・ポリコレ的説教が、エリートの偽善として反発を招き、国家、郷土、家族といった伝統的な価値観や帰属意識を否定・軽視するように映る姿勢が、多くの人々のアイデンティティや安定感を脅かすと受け取られ、理想や平等を優先するあまり、経済成長、雇用、財政、現実的な安全保障などの実利的な課題を軽視しているという不満もあるそうで、本来は寛容であるはずの主張が、他者への過度な干渉や言論統制のように感じられ、逆差別や社会の分断を生んでいるという指摘もあるそうだが、社会の急激な変化やポリコレの押し付けを警戒し、伝統的な共同体や既存の価値観を守りたいと考える人々が守りたい慣習とイデオロギーは、夫婦同性や古くからあるとされる男女の役割分担などを重視し、制度の変更によって家族の絆や地域社会の安定が崩れることを懸念し、自国の歴史、伝統文化、国旗・国歌などの象徴を重んじ、自虐史観的な言説や歴史の書き換えに対して抵抗感を示し、個人の権利ばかりを主張するのではなく、伝統的な地域コミュニティや集団の和などの同調性を大切にする慣習を守ろうとし、グローバリズムや過度な移民の受け入れに反対し、国家の利益や国境、自国民の雇用・安全を最優先にすべきだという思想で、個人の責任や努力を重視し、左翼リベラルが推し進める、結果の平等やマイノリティへの過度な配慮は不公平であると捉え、エリート層やリベラル知識人による抽象的な理想主義や規範よりも、現場の実感や古くからの常識こそが正しい社会の基盤である、と考えているそうだが、こうした情勢を功利主義的な観点から見ると、左派リベラルを嫌う大衆は、現状の社会秩序や経済システムの安定を図るためのバランサーや、エリート層の政策推進に対する正当化の根拠として利用される側面があり、この大衆の存在そのものが社会の功利を最大化する手段となり得るそうで、左派リベラルの掲げる急進的な構造改革や富裕層への増税や大企業への規制強化など再分配政策に反発する大衆は、既存の自由競争や資本主義的な経済的功利のシステムを支持する強固な基盤となり、彼らが現状維持やボトムアップ型の経済活動を支えることで、社会全体の生産性や総体的な富の最大化が維持され、リベラル層が推進しようとする多様性尊重や伝統的価値観の解体に対して、大衆層が反発を示すことは、社会のまとまりや連帯感を保つ機能を果たし、急激な変化は社会にコストと混乱をもたらすため、大衆の保守的な感情や常識がブレーキの役割を果たして、社会の崩壊を防ぐバランサーとして機能し、政治的な功利主義やポピュリズムの観点では、大衆の不満やリベラル嫌悪はそのまま強力な政治的エネルギーに変換され、一部の指導者や利益集団は、この大衆のルサンチマンや疎外感の感情を糾合することで、選挙での勝利や特定法案の推進など、自らの権力や利益の確保と最大化という目標を達成するための手段として利用しているそうだが、政治や経済の分野で幅広く分布している功利主義的な勢力は、意図してそんな思惑を抱きながら行動しているわけではなく、行動しているうちに自然とそんな傾向になってしまうから、そういう意味ではアダム・スミスの言う、見えざる手に導かれながら、そうなってしまうと考えられるのではないか。


6月18日「新自由主義と法治国家の関係」

 新自由主義的な経済統治に関して、ハイエクは、法治国家ないし法の支配の原則の経済秩序への適用が意味することを、政府は事前に定められた普遍的かつ形式的なルールのみに従い、特定の人々や状況に対して恣意的な介入を行わないこと、と定義したそうで、政府は、予見可能性を保証するため、経済活動のルールを事前に制定して公表しておかなければならず、これにより、個人や企業は将来の計画を立てることが可能になり、また特定の目的や結果を定めない形式的なルールに従い、特定の個人や企業を名指しして利益や負担を与えたり、特定の結果をもたらそうとする、特定の価格水準や所得分配を実現したりするような介入主義は排除され、さらに市場のメカニズムを尊重し、政府は競争の枠組みとなるルールを整備するにとどめ、価格決定や資源配分といった経済活動の具体的な内容は、市場における自生的秩序に委ねるべきだとし、ハイエクは、『隷従への道』などの主著において、政府による中央計画経済や広範な経済介入は、必然的に法の支配を破壊し、権力者の恣意的な人の支配や全体主義へとつながると強く警告したそうで、これが何を意味するのかというと、例えば物価高騰の兆候が確認されたら中央銀行が利上げするというのが、事前に定めておく予見可能で形式的なルールと言えるかどうかは、事前に定めておく予見可能なルール=フォワードガイダンスや金融政策のルールとして機能するが、しかし、経済状況に応じて柔軟な判断が求められるため、完全に機械的で固定的なルールとは見なされないそうで、中央銀行が物価目標として、例えば+2%を超過・上振れするリスクがあると判断した際、どのように動くかという基本方針を事前に表明しておくことは、市場に予見可能性を与えるため、立派なルールの役割を果たし、経済学では、物価上昇率や景気の過熱具合に応じて政策金利を機械的に調整する、テーラー・ルールという代表的な規範が存在し、この考え方に沿ったものであれば、事前に設定されたルールと評価できるが、物価高騰の兆候をどのように定義するかは非常に曖昧で、原油高や為替変動などの一時的なコストプッシュ要因なのか、賃金の上昇を伴う基調的なインフレなのかを見極める必要があり、中央銀行は複数の経済指標や先行きの見通し、展望レポートなどから総合的に判断し、兆候が出てから即座に判断するか、景気への悪影響を考慮して少し様子を見るのかなど、実行のタイミングは中央銀行の裁量や判断が大きく介在するそうで、経済学では古くから中央銀行の運営について議論がなされていて、ルール主義は、市場の期待を安定させやすく、予期せぬインフレを防ぐ効果が高いとされ、裁量主義は、パンデミックや金融危機などの予期せぬ経済ショックが起きた際に、柔軟かつ機動的な対応が可能となり、日本銀行やFRBなどの実際の中央銀行は、この中間に位置していて、物価の安定という大前提の基本ルールや方針をあらかじめ公開して市場の予見可能性を高めつつ、実際の利上げのタイミングや幅についてはその時の経済環境に応じて柔軟に調整する、ルールに縛られた裁量を採用しているそうだが、中央銀行による政策金利の上げ下げによって、世の中で有利になったり不利になったりする人や企業が出てくるとしても、こうなれば金利を上げる可能性が高くなり、ああなれば金利を下げる可能性が高くなるという傾向が、前もって示されていれば、人や企業はそれに対応して行動するしかなく、それが経済への介入の普遍的かつ形式的なルールを体現しているとすれば、経済への介入は形式的なものにとどまる一方で、社会への介入は積極的なものになり、新自由主義における社会介入主義とは、市場の自由化を進める一方で、国家があえて社会や個人の生活に積極的に介入し、競争原理や自己責任を強制する統治手法を指すそうで、例えば、ワークフェア、労働強制型福祉という、失業手当などの受給条件を厳しくして、職業訓練や就労活動を義務付ける制度があり、福祉の依存体質を脱却させる名目で、国家が個人の労働市場への参加を積極的に管理する手法で、またナッジ理論という、行動経済学の活用で、強制的な法律や規制によらず、人々の選択の構造をデザインし、自発的に望ましい行動をとるよう誘導する介入手法があり、例として健康増進や省エネの促進などで用いられるそうで、さらに教育や医療の準市場化は、公立学校の運営に民間企業の経営手法を導入したり、数値目標などの評価性を導入したりして、競争させるシステムで、公共サービスを市場原理で統制し、これらの事例は、単に国家が何もしないのではなく、市場で生き残れる主体を育成・管理するために国家が社会に積極的に介入する、という新自由主義の統治的特徴を示しているそうだが、こういう事例を持ち出すと、左翼リベラル勢力がその失敗例を挙げて、新自由主義的な統治への批判的な言説を構成しやすくなるだろうが、フーコーによれば、今や法律が、一人一人が自分の責任で自由に行うゲームのための規則以外の何者でもあるべきでないとするなら、その時、司法的なものは逆に、単なる法律の適用という機能に還元される代わりに、新たな自律性と重要性とを獲得することになり、真の経済主体が、交換する人間でもなければ、消費者でも生産者でもなく、企業であるような、自由主義社会において、企業が単に一つの制度ではなく、経済領野の中で行動するある種のやり方、目標や戦術などを備えた計画や企図に応じて競争するという形で行動するある種のやり方であるような、経済的かつ社会的体制となり、そのようなものとしての企業社会において、法律が個々人に対し自由企業という形の下で好きなように行動する可能性を残しておくようになればなるほど、また、社会において企業という単位に特徴的な多数多様でダイナミックな形態が発達すればするほど、それと同時に、そうした様々に異なる単位の間の摩擦は多大なものとなり、衝突の機会、訴訟の機会が増加することになり、経済調整が、競争の形式的属性によって自然発生的になされるのに対し、社会的調整に関しては、衝突や、不正な行動様式、一方が他方に対して与える被害などの社会的調整に関しては、社会的介入主義が要求されるようになり、つまり、ゲームの規則の枠組みの中における仲裁としての司法による社会的介入主義が要求されるようになるということであり、企業を増加させれば、摩擦、環境への影響などを増加させることになり、その結果、経済主体を自由化しそれぞれのゲームをプレーさせておけばおくほど、つまり経済主体を自由化すればするほど、それと同時に、一つの計画によって定められていた潜在的官吏の地位からそうした主体を切り離すことになり、必然的に裁判官を増加させることになり、官吏が減少するにつれて、というよりむしろ、計画に備わっていた経済行動が脱官吏化され、企業のダイナミズムが波及するにつれて、それと同時に、ますます数多くの司法的審級ないし仲裁の審級が必要となって行き、社会介入主義を伴う競争市場経済を企図するということ、そしてその社会介入主義は、それ自身、企業という単位を根本的な経済主体として再評価することを中心とした制度的な刷新を含意しているということは、ただ単に、現在における資本主義の危機の純然たる帰結のみでもなければ、そうした危機の一つのイデオロギーあるいは一つの経済理論あるいは一つの政治的選択への投影のみでもなく、ここに誕生しつつあるもの、それは、おそらく短い期間、あるいは多少とも長い期間にわたって、新たな統治術となるような何か、あるいは自由主義統治術のある種の刷新のような何かであるように思われるそうだが、そこから半世紀近くが経った現在において、以上に述べたような新自由主義的統治術も、絶えず左翼リベラル勢力から批判や非難を浴びながらも、その不具合や欠陥を繰り返し指摘されながらも世の中に定着しているように感じられるし、もちろんそんな統治を促す資本主義市場経済も延々と続いているし、それに対して相変わらず資本主義は行き詰まってその終わりが近いと予言し続けるマルクス主義的な主張もいくらでもその種の著作の中で語られている現状もあるだろうから、そういった終わりなき挑戦だとか、終わりなき戦いだとか、終わりなき悪夢だとか、他にも終わりなき〜と表現したくなるような物事の成り行きの中で、どうしてもそれらの統治術と言えるような誘導的試みが、結局それほどにはうまく行かないから、逆に創意工夫を凝らしながら手を替え品を替えて続けられている現状があるような気がするわけだが、その必ずしもうまく行かないから試行錯誤の機会をもたらして終わりようがなくなるという逆説が、資本主義市場経済が終わらない理由なんじゃないかと結論づけたくなるわけだ。


6月17日「政治と経済の現実」

 誰もがすぐに気づきそうなことは、民主主義国家において完全な計画経済を実施することは、理論的および実践的に極めて困難であるということで、国家があらゆる資源の配分や生産、価格の決定を中央集権的に管理するには、個人の自由や市場の競争原理を大幅に制限する必要があり、市場には無数の商品と消費者の多様なニーズが存在し、中央政府がこれら全てを正確に把握し、最適な生産計画を計算することは現実的に不可能で、職業選択の自由や消費者の購買の自由を認めた場合、中央の計画通りに経済を動かすことは困難で、強権的な統制なしには計画の維持は困難で、資源の配分方法を民主的なプロセスで決定しようとすると、莫大な時間と議論を要し、急激な経済運営や迅速な政策決定が求められる局面では対応が困難となり、計画経済は民主主義国家では実施不可能と言われているが、ただし、国家が経済へ全く介入しないわけではなく、多くの民主主義国家では、資本主義をベースとしつつ、インフラ整備や社会保障、環境規制などの分野において、部分的な計画や政府の介入を取り入れているそうで、歴史的には資本主義市場経済と民主主義の親和性は高いとされていて、これは両者が自由と平等という理念を共有しているからであり、経済発展と民主化の条件は、経済成長によって所得の水準が向上し、中産階級が台頭してくると、政治的な民主化が促されるという傾向が、欧米の近代化の歴史から導き出され、所得の格差が小さいほど民主主義体制が維持されやすいというデータも示されていて、経済発展による民衆の富裕化と共に教育水準が向上し、市民の政治的権利への意識が高まり、独裁体制を不安定化させる要因となる一方で、根本的に資本主義は市場の競争原理を是とし、競争した結果から経済格差が生じてくるから、民主主義は全ての人の平等を前提とするため、本質的に矛盾を孕んでいて、こうした資本主義の下で生じる貧富の格差を、民主的な選挙制度を通じて、社会保障の充実などの再分配で調整できることが資本主義と民主主義の両立の条件となり、権力を監視する制度や、私有財産を守る法の支配が確立されていることが、その前提条件となるが、一般的には資本主義+自由民主主義の体制が西側諸国では構築されている一方で、中国のように、高度な市場経済を導入しつつも一党独裁体制を維持するケースもあり、かつてのソ連のように計画経済と共産党独裁が結びついたケースもあるから、政治的自由と経済的自由は必ずしもセットで発展するわけではなく、それぞれの国が持つ歴史的背景や社会構造によって、適合する形態は異なり、過度な経済的不平等は民主主義を機能不全に陥れるというのが政治学や経済学における一般的な見解で、適度な競争やインセンティブは資本主義の成長に必要だが、競争の結果として格差が拡大し過ぎると、民主政治の根幹が揺らぎ、富裕層が政治献金やロビー活動を通じて権力を独占しやすくなり、経済的な階級対立が激化し、国民の合意形成や連帯感が失われ、貧困層などの不遇な層が政治システムそのものに絶望し、政治参加しなくなるか、極端なポピュリズムへと民衆の支持が向かい、強いリーダーシップによる強権的な政治体制を求める声が高まることになり、そういう意味では民主主義が健全に機能するには、ある程度の社会的・経済的な平等が不可欠であるとされていて、富の再配分や、教育・医療などの機会の平等を保障することが、民主的な社会の安定につながり、経済的な不平等を是正するために、政治的な民主主義の拡大や深化を目指す動きが活発化する傾向にあるそうだが、果たして日本の現状が、貧困層などの不遇な層が政治システムそのものに絶望し、政治参加しなくなるか、極端なポピュリズムへと民衆の支持が向かい、強いリーダーシップによる強権的な政治体制を求める声が高まっている状態だと言えるかどうかも、そのままそんな典型事例が当てはまっているわけではないものの、それらしい雰囲気がメディア的には醸し出されていることは、誰もが薄々感じ取っているのではないかと情勢分析したくなるわけだが、それもリベラル的な考え方に当てはめればそう感じられる程度の現状なのかも知れず、そういうリベラル的な考え方にはそれなりに抵抗感を覚えるのだが、そのままリベラル的な考え方に沿って論を進めると、政治的民主主義が目指される理由として、選挙を通じて多数派の意思が反映されることで、富裕層への課税強化や社会保障の拡充などの、格差是正の政策が通りやすくなる一方で、経済的な格差があまりに拡大すると、一部の富裕層や大企業が政治に過剰な影響力を持つようになり、民主主義の根幹が脅かされるから、教育や雇用へのアクセスなど、全ての人が生まれに関わらず公平なスタートラインに立てるように、法や制度の改正を目指すことが重要で、これは社会的包摂という、年齢、性別、経済状態に関わらず、全ての人々を政治的・経済的な意思決定プロセスから取り残さないことを目指す考え方で、それに関連して、経済民主主義という、政治的な民主主義が実現されても経済的不平等が残る場合、完全な民主主義とは言えないとし、企業の意思決定への労働者の参加などを提唱する概念があり、この主張が一見して正しいことを述べているように感じられるのだが、社会的包摂や経済民主主義が正しい理念であると感じられる一方で、現状がそれに反していることを示す証拠には、深刻な富の集中、労働環境の二極化、政治へのアクセス格差の3点が挙げられ、これらは、万人が社会に参画し、経済的利益や決定権を共有する理想から現実が遠ざかっていることを裏付けているそうで、経済民主主義は生産手段や利益が広く共有されることを目指すが、現実には一部の層への富の集中が進み、世界の上位1%の富裕層が、世界の全資産の過半数を所有し続けていて、労働生産性が向上しても労働者の実質賃金は長期的に停滞し、労働者や地域社会よりも、株主への利益還元が優先される傾向が強く、社会包摂の観点では、全ての人が安定した雇用と生活を保障されるべきだが、労働市場は階層化され、雇用形態によって賃金の額や福利厚生に大きな格差が存在し、就業形態の違いにより、失業保険や社会保障から漏れる人々が出てきて、フルタイムで働いても貧困ラインを下回る層が一定数存在する現状もあり、経済民主主義や社会包摂は、市民が社会の意思決定に関与することを求めるが、現状では構造的な障壁が存在し、巨大企業やロビー団体が政治プロセスに不当な影響力を行使している現状もあり、その一方で低所得層や若年層の投票率が低く、彼らの意見が政策に反映されにくく、また社会的マイノリティや女性が、重要な意思決定機関である企業の役員会や自治体の議会などに十分参加できていない現状もあるそうだが、そんな現状認識も何か違うような、世の中の現実からズレているような気がするわけで、グーグル検索などから出力されるAIによるまとめ的な主張や分析や見解からは求めようがない世の中の傾向があるらしいと感じているのだが、それが何なのかというと、現状を認めるとか認めないとか、認め難いが認めざるを得ないとか、理想と現実の間で許容し難い差異があるから、その差異をできる限り縮めて理想状態へと漸近的に近づけなければならないとか、そういう主張ではなく、現状を利用して何ができるかというと実践的な活動となりそうで、しかも現状で否定的に捉えられている傾向を利用する必要があり、それも否定的な傾向を肯定的な傾向へと変えようとするのではなく、ただ単に否定的な傾向から利益を引き出そうとする試みが世の中の各方面・各分野で行われているように感じられるわけで、そういう意味ではリベラル的な傾向の各種の勢力が批判している対象を利用しつつ、そこから多くの人や団体が利益を引き出そうとしているわけで、彼らが批判している対象を、彼らと一緒になって批判するのではなく、批判の対象となっている人や勢力のやっていることを利用して、そこから利益を得ようとしているわけで、そしてそんな傾向の活動もリベラル的な傾向の各種の勢力が批判の対象として否定的に語ろうとしているわけだから、ますますそれらの傾向を否定的に語ろうとする人や勢力が世の中の多数派から見放されてジリ貧に陥っているかというと、それもそう単純に事態を捉えてしまうと勘違いの原因となってしまいそうで、彼らも彼らでそれを否定的に語ることで彼らの支持者から利益を得ているわけだから、そんな利益を得る行為に関してはお互い様な経済活動を誰もが共有している現状があるわけだ。


6月16日「資本主義の通俗的な定式化」

 何かうまく回らないサイクルがあるらしく、何が回らないのかというと、単純に経済が回らないと考えるのも的外れかも知れないが、それに関して比喩的な表現を持ち出すなら、自由主義的であるということは、マンチェスター学派のように、自動車をあらゆる方向に向かって好き勝手に走らせておくことではなく、そんなことをすれば絶えず交通渋滞や交通事故が起こって収拾がつかなくなり、また計画主義者のように、すべての自動車に対してその発車時刻とその道程とを定めることでもなく、そんなことをすれば計画を立てるだけでも膨大な時間を費やし、計画通りに事を進めるためのコストも膨大にかかることになり、自由主義的であること、それは一つの交通法規を課すことであり、ただし乗合馬車の時代と高速交通機関の時代とではその法規が異なるということを認めつつそれを課すことである、ということらしいが、これはルールに基づく自由主義の本質を見事に捉えた比喩だそうで、自由放任主義と中央集権的な計画主義のどちらでもなく、時代の変化に応じた法制度の設計こそが、自由主義の役割であると説いているそうで、自由とは無法地帯であることではなく、誰もが安全かつ円滑に目的地へ向かえるための公正なゲームのルールが存在して初めて成立するという考え方であるそうだが、その一方で資本主義社会における矛盾、袋小路、非合理性とは、経済の無限の拡大を求めるシステムが、人間の生存や社会の安定と衝突して生じる構造的な諸問題を指すそうで、資本主義は富を生み出すシステムだが、その過程で自己矛盾を引き起こし、売るための商品を大量に作り続け、消費能力を超過すれば、過剰生産となり、資本の集中によって貧富の差が拡大すれば、富の二極化がもたらされ、労働者は自らの労働や製品の主人ではなく、製造する機械の歯車として扱われ、そのシステムが行き詰まると、容易には抜け出せない袋小路を形成し、無限の経済成長を目指せば、資源の枯渇と環境負荷の増大という地球環境の限界に直面し、金融資本の肥大化は実体経済から乖離してマネーゲームを常態化させ、経済のグローバル化は格差を拡大させ、民主的な合意形成を困難にして、個人や企業の合理的な利益追求の行動が、社会全体にとっては不条理な結果をもたらし、功利的な利益の追求が、逆に人間性の喪失と環境破壊を招いて、幸福になろうとして荒んだ社会環境をもたらすという目的と結果の乖離が生じ、また各企業が人件費を削って競争力を高めようとすれば、社会全体の購買力が落ちるという皮肉な逆説が生じ、さらに人の命や時間、自然など、すべての価値が価格に換算されるという価値の貨幣化によって、金銭的な価値以外の価値が無視されると、価格のないものの過小評価、社会的・モラル的な退廃、および社会の持続可能性の崩壊という3つの重大な不合理が生じ、生態系の機能や生物多様性などの価値は数値化・貨幣化しにくいため、経済的な利益が優先されると、不可逆的な環境破壊を招く危険性があり、また育児、介護、家事などのケア労働は貨幣換算されにくく、GDPなどの経済指標から除外され、社会的に過小評価され、金銭に換算できない感謝や道徳といった社会規範に基づく行動が、金銭的なインセンティブに置き換わることでモラルが低下し、あらゆるものを市場で取引可能にすると、富裕層は道徳や生命の安全までも金銭で買えるようになり、貧富の差が本質的な格差へと直結し、経済面でも利益やコストといった貨幣価値のみを目標にすると、それを達成するために品質の低下や不正、長期的なリスクの無視が引き起こされ、社会面でも伝統芸能や地域の祭りのような文化的・共同体的な価値を観光資源という経済価値としてのみ捉え直すことで、本来の歴史的意義や共同体の絆が失われ、このように、あらゆる価値を金銭的な単一のものさしで測ろうとすることで、人間の幸福や社会の存立基盤そのものが損なわれるという構造的な矛盾が生じるそうだが、マルクス主義による資本の論理の通俗的な定式化とは、資本の運動形態を貨幣ー商品ー貨幣+剰余価値という循環の図式として簡潔に表現したものを指し、この定式化は、資本が自己の価値を増殖させながら際限なく拡大していく運動法則を象徴していて、資本家が最初に持っている資本を使って、原材料や労働力を購入し、生産された商品を販売し、元の資金よりも剰余価値の分だけ増大した貨幣を回収するという、元手を超えて増加した利潤である剰余価値がどこから生じてくるのかに関して、批判的な言説を構成するのがマルクス主義の特徴と言えそうだが、資本の論理のプロセスは、世の中のあらゆるものや労働力を市場で交換可能な商品に変えることで商品化の拡大が促され、労働者が生み出した価値のうち、賃金として支払われる以上の部分を剰余価値と見なし、その剰余価値を資本家が無償で取得するというのが、マルクス主義の論理なのだが、商品が売れなかったり、安い価格でしか売れずに赤字となってしまうリスクを考慮に入れていないように感じられるが、獲得した剰余価値を再び資本に組み込み、さらなる利潤を求めて拡大再生産を繰り返すことで、資本の目的が消費ではなく、価値をどこまでも増殖させ続けること自体にあり、本来は人間が豊かに生きるための生産が、資本を増やすための手段へと転倒するのが、資本の論理が通俗化される背景だそうで、普通に考えて、そういった資本が増殖するサイクルがうまく回って行くとは限らないから、サイクルがうまく回らずに行き詰まったケースに着目すれば、そこから資本主義社会の矛盾や袋小路や非合理性を導き出すことができるだろうが、フーコーによれば、資本主義のあらゆる歴史的形象を資本とその蓄積の論理に関連づけようとする限り、マルクス主義者が予言したように、資本主義が現在表明している歴史的袋小路によって資本主義の終焉がしるしづけられることになるわけだが、実際に終わる終わると十九世紀の昔から延々と言われ続けられながらも現状では終わっていないわけだから、マルクス主義には何か見込み違いがありそうに思われるのだが、それに関連して資本主義を存続させるための新自由主義的な法規制とは、市場の競争原理を最大限に働かせるために、国家があえて創り出すルールの体系を指すそうだが、政府の役割を単なる小さな政府へと縮小させるのではなく、市場を機能させるための法的インフラを能動的に再構築する点が特徴で、競争を促す市場開放と規制緩和に関しては、市場の公正な競争環境を守るための規制、独占禁止法の運用強化や、既存の免許や認可を廃止し、企業の新規参入を促す法律、異業種間の参入規制の撤廃や、郵便や通信などの公営事業を民間企業に移行させる特別措置法、国営企業の民営化法、国境を越えたモノやサービスの自由な移動を認める条約、自由貿易協定などがあり、労働市場の流動化と柔軟性の確保に関しては、非正規雇用の解禁や対象業務の拡大を行う労働法制、労働者派遣法の改正や、労働契約法などにおける解雇ルールの明確化・金銭解決制度の導入、雇用規制の緩和や、地域間格差を容認し、経済実態に合わせた柔軟な賃金設定への誘導、制定賃金の改訂見直しなどがあり、また資本移動の自由化と金融改革に関しては、外国為替及び外国貿易法の改正などによる資本取引の自由化、金融ビッグバン関連法や、会社法改正等による株主利益の最大化と、経営陣へのインセンティブ付与、コーポレートガバナンス改革などがあり、サービス提供の民間委託に関しては、公共施設の建設・運営に民間の資本とノウハウを導入する法律、民間資金等活用事業法や、行政サービスの効率化と競争原理の導入、公立学校や病院の民営化・独立行政法人化などがあるそうで、これらの全てがうまく回っているわけではなく、何かと不具合や不祥事が出て批判や非難の的となっている制度改正もあるだろうが、これらの法規制は、資本が国境を超えて利潤を追求し、経済全体の効率性を高める原動力となってきた一方で、競争の激化や雇用形態の多様化をもたらしたことで、格差の拡大や社会保障の弱体化といった新たな課題も生み出しているそうだが、これらの新自由主義的な試みがもたらしているのは、法的介入主義と呼びうるような側面であり、実際、もし問題となっているのが、資本そのものの論理そのものから派生する資本主義そのものではなく、経済的かつ制度的総体によって構成された一つの特異な資本主義であるとするなら、そうした総体に介入すること、別の資本主義を自らのために発明するようなやり方で介入することが可能でなければならないそうだ。


6月15日「富の再分配の是非」

 貧富の格差拡大は、資本主義市場経済の内在的な性質と、国家権力による市場への介入や規制の歪みが複合的に作用して発生するそうで、特定の要因だけが原因ではなく、主な要因を挙げると、資本から得られる収益率が労働による経済成長率を上回る傾向があり、資産を持つ者が富を再生産しやすい構造があり、世代を超えた富の相続や蓄積により、スタート時点での機会の不均等と格差の固定化が進み、独占や寡占の進行、外部不経済など、市場のメカニズムだけでは適正な資源配分が保たれなくなる現象が起こりやすく、特定の企業や業界が国家に働きかけ、許認可や補助金などの既得権益を得ることで市場競争が制限されたり、過度な免許制度や規制が新規参入を阻害し、既存の大企業が超過利潤を得やすい環境が作り出されたり、最低賃金や労働法制のあり方によって、労働分配率が低下しやすく、貧富の格差が拡大する要因になり、格差の拡大を防ぐためには、資本の論理に対する税制や社会保障や、国家による公正な競争環境の維持が重要となり、格差是正には富の再分配が必要だと言われることに関して、富の再分配とは、政府が税金や社会保障などを通じて、高所得者や大企業から多くの財源を集め、それを社会保障や福祉、公共サービスなどの形で低所得者や経済的弱者へ移転する仕組みのことで、なぜ再分配が必要なのかといえば、資本主義経済では自然と富の偏在が生じるため、行き過ぎた貧富の差を防いで、全ての人が人間らしく生活できる最低限の生活水準を保障し、格差の拡大による社会分断や治安悪化を防ぎ、経済の持続的な成長を支えることにあるそうで、その仕組みとしては、所得が高い人ほど高い税率を適用する累進課税、相続や贈与によって富が固定化・独占されるのを防ぐ、相続税や贈与税などの資産への課税、そうやって集めた税金を、年金、医療保険、介護保険、生活保護などの社会保障給付に使い、公立学校、公共図書館、公営住宅など、低価格または無料で利用できるサービスの提供へも使うが、こうした富の再分配には多くのメリットがある一方、経済活動を阻害する側面もあるため、バランスが議論の対象となり、例えば高所得者への影響として税負担が重すぎると、労働意欲や投資意欲が低下するリスクが指摘され、どこまでを政府による再配分に頼り、どこからを自助努力や民間寄付に任せるべきかという政治的・経済的な論点が存在するそうだが、現状の世界的な傾向として顕著になっているのが富のAIインフラへの投資となっているわけだから、再分配よりも投資の方に人々の関心が向いていると考えるのも、それ自体が比較の対象とはならないかも知れないが、新自由主義的に考えるなら、経済の調整が機能するのことの前提条件として、労働する人々と労働しない人々がいることや、高給と薄給とがあることや、価格が上昇したり低下したりすることも必要で、誰かが操作しなくても、需要と供給のバランスによって価格が自動的に調整される仕組みを、市場メカニズムによる経済調整と言い、需要が供給を上回るときには価格が上がり、供給が需要を上回るときには価格が下がり、これが繰り返されることで、最終的に需要と供給が一致する適正な価格へと落ち着き、そのような市場の調整の振れ幅が極端に上下動しないようにするために、中央銀行が金利や世の中に出回る通貨の量を調節し、景気が加熱すれば利上げして資金を借りにくくし、不景気の時には利下げして資金を借りやすくし、政府が税金の徴収額や公共事業の支出額を調節し、不景気の時には公共事業を増やし、好景気の時には増税や歳出削減を行なって景気を安定させるそうだが、経済の調整が機能している状態とは、物価や金利、賃金などが市場の需要と供給に応じて柔軟に変動して、景気の過熱や冷え込みを自動的または政策的に抑えながら、経済全体が安定的に成長している状態を指し、経済の調整が機能していない場合、バブル崩壊や深刻なデフレ・インフレ、高い失業率などを引き起こすそうだが、経済の調整を機能させるには、あるいは景気や市場の安定化を目指すには、金融政策、財政政策、構造改革の3つを連動させることが不可欠で、市場の自動調整機能だけに頼らず、政府と中央銀行が景気変動に合わせて適切に介入し、経済の過熱や冷え込みを防ぐ必要があり、中央銀行による金融政策と政府による財政政策に加え、変化する時代に合わせて、経済がスムーズに新しい産業へと移行できる環境を整える必要があり、成長産業へ人材がスムーズに移動できるよう、リスキリングや転職支援を強化したり、新規参入を促す規制緩和や、研究開発への投資を行い、経済全体の生産性を引き上げることが重要だそうで、何やらここでも政府の宣伝に騙されている感を拭えないが、資本主義市場経済においては、競争原理と成功を目指す強い動機づけを機能させるために、ある程度の富の不均衡や不平等が必然的に発生し、作用すると考えられるが、その許容範囲や経済にもたらす影響については、肯定的な側面と否定的な側面の双方が存在するそうで、肯定的な側面は、成功者に富が集中することが、イノベーションや事業拡大を目指す強い動機となり、資本が利益を生む機会を求めて移動することで、市場における資源の最適配分が促進され、資本の蓄積が投資や雇用を拡大させ、結果的に社会全体の富や生活水準の向上につながる原動力となるそうで、否定的な側面は、富が固定化されると、低所得層の才能や能力を発揮する機会が奪われ、社会の流動性が低下し、中間層が没落し富が一部の層に集中し過ぎると、社会全体の消費性向が低下し、経済成長が抑制される要因となり、極端な格差は社会の分断や政治的不安定を招き、結果として市場経済の基盤である法秩序や民主主義を脅かす恐れがあるそうで、資本主義は放置すれば不平等を拡大させる傾向があり、これが長期的な課題となっていて、現代において市場経済が機能している多くの国では、市場の効率性を維持しつつも、累進課税や社会保障制度を通じて富の再分配を行い、格差の極端な拡大を防ぐバランスが模索されているそうで、市場を機能させるための不平等と、社会を維持するための公平性のバランスをどうとるかは、経済政策における中心的なテーマだそうだが、真の根本的な社会政策はただ一つ、経済成長のみであると、新自由主義的に結論づけるわけにはいかない事情があるらしく、経済成長だけでは社会的な格差拡大が是正されず、社会的排除や貧困の固定化を招き、市場原理の徹底は、教育や医療などの基礎的サービスを商品化して、所得によるアクセス格差を生み出し、さらに、環境破壊や少子高齢化といった課題は、経済成長のみでは解決できず、富裕層の利益が拡大しても、それが低所得層に自動的に滴り落ちるとは限らず、成長の果実は資本を持つ層に集中しやすく、かえって格差が拡大し、小さな政府を志向する新自由主義は、公的扶助や社会保障を削減し、これによって、競争から脱落した人々がセーフティネットから漏れる事態が発生し、教育や医療の市場化は、個人の経済力によるアクセス格差を生み出し、スタートラインの平等が失われ、貧困の世代間連鎖が固定化され、環境問題や公害などの外部不経済は、市場メカニズムの中で自動的に調整されず、規制や公的介入なしには持続可能な社会基盤が損なわれ、高齢者、障害者、難病患者など、市場における生産活動に参加できない層が存在している以上は、彼らの生存権を守るためには、再分配政策が不可欠だそうで、何やら経産省、厚労省、財務省、文科省、環境省などの文書からの引用が並んでいるようで、何だか新自由主義的な問いを投げかける度に政府の官僚機構からの反論が出力されてくるみたいで笑ってしまうが、それらのことごとくが現代的な支配的な良識から生じてくる文脈の中ではもっともらしく感じられる内容ばかりなのだから、どうしても国家統治を担う政府の官僚機構としては、富の再分配を行う役割は、是が非でも政府が主導権を握ってそれを執り行いたいという意向の表れだと解釈しておけば良いのか悪いのか、そういうひねくれた見方ではなく、政府でないと富の再分配は行えないと素直にこちらの負けを認めておいた方がよさそうだが、アメリカでも、リバタリアン的な無政府資本主義の発達を抑え込むために、トランプ政権が国家主導の経済介入や保護主義的な傾向を強めているように見えるものの、実態としては、規制緩和や減税や公的医療保険の削減などの小さな政府を目指す新自由主義的なアプローチを基本としているわけだ。


6月14日「新自由主義の基本テーゼ」

 サン=シモン主義からナチズムまで続く合理化のサイクルとは、十九世紀初頭の産業社会構想から二十世紀半ばの全体主義に至る、西洋近代の技術と国家の結合による社会改造の歴史を指す概念で、フランスの社会主義者アンリ・ド・サン=シモンが提唱した科学と産業による社会の計画的組織化の思想が、後のテクノラートや社会工学の思想を経て、最終的にナチスの全体主義的な国家総動員体制にまで通底していく歴史的プロセスを問題化していて、サン=シモン主義は、産業や科学技術の発展こそが社会の繁栄をもたらすとして、技術者や実業家が指揮する計画的な産業社会の実現を目指し、社会の富の源泉は産業とその生産活動にあるとして、労働者、学者、技術者、実業家などの生産者が社会の中心となるべきだと主張し、当時の支配階級であった貴族や聖職者などの寄生者を排除して、能力主義的な社会を目指し、また自由競争による無政府状態や貧富の差を批判し、中央集権的な計画経済や金融システムによって生産力を発展させることを構想し、さらに従来の特権化した既存の宗教を否定し、万人の平等と相互扶助、特に最貧困層の道徳的・肉体的な状態の改善を目指す新しい道徳・宗教を提唱し、そしてサン=シモンの死後、彼の弟子たちによってこの思想は組織化され、一種の宗教的な結社へと発展し、彼らが提唱した金融機関の設立やインフラの整備、大陸横断鉄道やスエズ運河の建設といった壮大な構想は、その後のフランス第二帝政における資本主義的発展や産業政策に多大な影響を与え、またマルクス以前の初期社会主義の一つとして、後の科学的社会主義にも影響を与えた思想史上の重要な転換点と位置付けられているそうだが、フランスの安倍晋三的な存在であるナポレオン三世は、馬上のサン=シモン主義者と呼ばれ、ルイ=ナポレオンは、大統領・皇帝となる前の亡命時代に、サン=シモン主義から強い影響を受けており、政治的な自由よりもまず産業の発展と富の増大を優先する考えを持っていて、権力を掌握して自ら近代化政策を牽引していく姿と、単なる思索にとどまらず軍隊や騎乗の権力を駆使した実践的な姿勢にかけてこのように呼ばれ、彼の思想は、1850年代から60年代にかけての具体的な政策に色濃く反映されているそうで、フランス全土を繋ぐ鉄道網の構築、大銀行の設立による大規模投資の促進、ジョルジュ・オスマンによるパリの都市改造、大規模な道路・上下水道の整備など、政治的な自由よりも経済的な富の増強と国力の増大を優先したその姿勢が、この言葉に集約されていて、鉄道建設や都市計画などを通じて、技術・金融エリートが社会を上から合理化する手法が確立され、二十世紀に入り、資本主義が高度に発達するにつれ、独占資本と国家の癒着が進み、社会全体の効率化・統制化が進み、戦争や経済恐慌などに起因して自由主義的な議会制民主主義が機能不全に陥った際、この合理化と組織化の熱狂が、効率と統合を最優先する全体主義へと移行し、実際にナチスは効率化の名の下に、経済、労働、国民生活の全てを国家の目標に向けて徹底的に組織化し、次第に組織の合理化が歯止めを失い、戦争遂行やホロコーストといった非人間的なシステムへと転化し、究極の負の合理化に行き着き、破局的な結果を招いたわけだが、このサイクルは、啓蒙思想に端を発する人間理性による進歩への信頼が、科学技術の発展とともに、いかにして管理社会や国家暴力へと変容しうるかという近代西洋のジレンマを示しているそうだが、ナチスの時代を同時代的な体験として生きた新自由主義経済学者ヴァルター・オイケンは、フライブルク大学で現象学者エトムント・フッサールと親交を持ち、フッサールから主に認識論的基礎づけ、人間性の全体的把握、超越論的観念論の3点を学び、この哲学的な影響は、単なる市場放任主義を否定し、国家が公正な競争秩序を構築しなければならないとするオイケンの経済思想の基盤となっているそうで、フッサールの現象学は、経済学を単なる数字やイデオロギーの分析に還元することを戒め、オイケンはこれを応用し、経済現象の背後にある人間の本質や制度の構造を厳密に分析する方法論を構築し、またフッサールから、人間を単なる経済的な動物としてではなく、より広い精神的・歴史的な文脈に生きる存在として捉える視点を学び、市場における自由を哲学的に位置づけ、市場が個人を権力から守るためのシステムでなければならないという思想に繋がり、フッサールの生活世界や本質直感の概念は、オイケンが複雑な経済社会の中からその背後にある経済体制を見出す力となり、経済が自生的に機能するだけでなく、人為的かつ倫理的な法・制度の枠組みによって支えられねばならないというオルド自由主義の基本テーゼを生み出したが、新自由主義が直面する根源的な問題の一つは、まさに政治権力の包括的な行使を、市場経済の諸原理に基づいてどのように規則づけ、制限するかという点にあり、この思想は、単なる国家の排除ではなく、市場のメカニズムが適切に機能するための法秩序や制度を国家がどのように構築・管理すべきか、という統治のあり方を最大の課題としており、新自由主義の理論、特にドイツのオルド自由主義やアメリカのシカゴ学派においては、国家の役割が次のように再定義されていて、市場は自然発生的なものではなく、国家が積極的な法的枠組を整備して初めて機能すると考え、政治権力の恣意的な介入を防ぐために、競争を維持するための独占禁止法などの普遍的なルールを構築し、国家自身も市場原理に従って自らの権力行使を制限し、経済の効率性を阻害しないように統治手法を規律づけることを目指すそうで、フーコーの分析によれば、新自由主義は単なる経済政策にとどまらず、それは政治権力の行使そのものを、市場の経済的合理性に服させるための包括的な統治術であると指摘され、社会の市場化は、医療、教育、福祉など本来は非市場的な領域にまで、競争やコスト対効果という経済原理を適用し、企業の主体化は、個人を自己を経営する企業家として捉え直し、統治の対象とし、権力の権限は、政治権力が恣意的に価値や富の分配に介入することを防ぎ、市場の自己調整機能に委ねることで、権力を間接的に規則づけ、政治権力を市場原理に基づいて規則づけようとするこのアプローチは、現代において深刻な矛盾や批判も生み出していて、市場における競争原理を絶対視することで、勝者と敗者の間に深刻な経済格差や社会排除を生むリスクがあり、政治的な合意形成や民主的な手続きよりも市場の効率性や評価が優先されることで、民主主義の力が弱まることが指摘されているそうだが、市場経済は競争原理とイノベーションを通じて国家の非効率性を是正し、新たなシステムを構築して社会を変革する大きな力を持ってはいるが、同時に市場の失敗や格差を生むため、国家による適切な介入や再配分が不可欠であるそうで、市場メカニズムが社会に与える影響として、非効率・汚職・停滞などの国家の欠陥を是正する効果としては、官民の競争を促し、公共サービスの効率と品質を向上させ、価格メカニズムにより、需要と供給のバランスを保ち無駄を省き、規制緩和などを通じ、硬直化した利権構造や独占を解体し、透明性の高い市場ルールにより、恣意的な権力行使や腐敗を抑制する効果があるそうで、国家への新たな形式の付与という面では、グローバル化への適応として、世界市場での競争力を維持するため、国家の法制度やガバナンスを国際標準へアップデートさせ、官民連携の推進としては、インフラ整備や行政運営に民間資本や経営手法を取り入れ、規制行政への転換としては、国家の役割を直接の担い手から公正な競争環境の監視・ルールメイカーへとシフトさせるが、そういった試みが社会変革を促す面もあるが、限界もあるそうで、新技術の普及や多様なサービスの創出を通じて、市民の利便性や豊かさを劇的に高めるが、環境破壊や格差拡大、独占化など、市場だけでは解決できない問題も生じるから、市場原理のみではカバーできない貧困や医療などの課題に対処するため、国家の再配分機能が必要となるそうだが、この手の議論で何かというと国家の再配分という言葉が持ち出されるのも、具体的に何をどうすればいいのか不明確だから疑わしく感じられるが、市場経済は社会を強力に変革するが、その恩恵を最大化し暴走を防ぐためには、国家による適切な法規制や福祉政策などが常に求められるそうだが、国家という制度に欠陥があることがわかっていても、最終的に国家を活用して何とかしなければならないという自己矛盾も引っかかるところだが、ではどうすればいいのかという問いに対する回答を持ち合わせていないので、今のところは引き下がるしかないわけだ。


6月13日「自分語りの罠」

 現状でうまくいっているとかいっていないとかが、現時点の結果からわかるとすれば、自分にとって都合の良い点だけ選んでそこを強調すれば、うまくいっているという幻想を抱けるが、それが幻想に過ぎないことを理解できるかというと、人間は無意識のうちに自分の先入観や思い込みを肯定しようとする確証バイアスを持っているそうで、この作用によって、良い結果ばかりに目を向け、自分にとってネガティブな事実を無意識に無視したり過小評価したりすることで、心の安らぎや満足感を得ることは、人間の防衛本能の一つだそうだが、そんな心理的メカニズムに起因するリスクとしては、自分に都合の良い情報だけを集めて、全体を客観視できなくなる状態に陥ったり、都合の悪い現実を直視できず、自分を納得させるための言い訳を作ってしまったり、自己評価と客観的な状態に乖離が生まれ、周囲との摩擦や信頼関係の悪化を招くことがあるそうだが、都合の良い部分に注目して前向きなエネルギーに変えることはモチベーション向上に役立つこともあるが、それが現実逃避になっていないか、その全体像を客観的に把握できているかを見極めることが大切だそうで、もし現時点での自分が置かれた状況を客観的に評価したい、あるいは偏った見方から抜け出したいのであれば、現状の中でうまくいっていない点を書き出してみるとか、第三者から見てどう映るか想像してみるとか、理想と現実のギャップを冷静に数値化してみるとか、そういった観点から整理してみることも有効だそうだが、そういうことではないような気がするなら、何なのかというと、例えば自分が今までに歩んできた人生の経験をよくできた物語のような構造にまとめ上げたくなる心理との関連で指摘できるのは、一貫性のない出来事に意味を見出し、自己のアイデンティティを確立し、未来へのモチベーションを高めるために、そんな心理的合理化作用が生じるらしく、心理学や脳科学では、人間は単なる事実の羅列よりも、感情や背景が伴うストーリーで物事を理解するようにできているそうで、過去の選択や失敗に筋道を通すことで、今の自分がここにいる理由を説明しやすくなり、苦難の経験やその時期を成長のための試練として物語に組み込むことで、つらい記憶をポジティブに再解釈でき、過去・現在・未来をひと繋ぎにすることで、自分が物語の主人公として今後どう動くべきかという指針を作り出すそうで、脳は本質的に論理の加工装置ではなく、物語の加工装置であり、情報に因果関係を持たせることで連続的な印象を加え、これまで歩んできた自分の人生を記憶しやすくするそうだが、そんなポジティブな人生の物語体験が幻想に過ぎないことも確かで、それに対してシニカルな視点を持つことが何を意味するのかといえば、そんなご都合主義に染まった自己欺瞞の打破、他者の視点の獲得、そして新しい物語への再構築を意味するそうで、主観的なナラティブを伴った自分語りの罠に気づき、より客観的かつ柔軟に生きるためのプロセスで、失敗を成長の糧と無理に結論づけるなど、過去を都合よく解釈してきた自分に気づくことで、きれいごとの裏にある嫉妬、恐怖、エゴといったドロドロした本心を認め、傷つかないために張っていたプライドや嘘のストーリーを剥ぎ取り、自分がどう生きたかだけでなく、それが他者にどう映っていたかを想像し、時には被害妄想気味に抱く自分は悲劇の主人公だという思い込みを疑い、客観的な事実へと切り離すことで、成功を自分の実力と過信せず、偶然の巡り合わせや環境のおかげという側面に気づき、そんなふうにして固定化された自分のストーリーを一度壊し、書き換える余白を作ることで、完璧ではない現実を受け入れ、等身大の自分として今後の選択の幅を広げて、変化する世の中の情勢に対応できる柔軟性を確保しようとするが、このように、シニカルな視点は単なる自虐や絶望ではなく、自分自身を縛っている物語の呪いを解くための強力なツールとして機能することもあるそうだが、こんなふうにAIの助けを借りてもっともらしく述べてくると、思いっきり嘘っぽいことを語っているみたいで笑ってしまうが、主観的な語りは個人の経験に基づく解釈となって、一般的にはナラティブと呼ばれ、ナラティブは、客観的・絶対的な事実そのものではなく、その人が世界をどう捉え、どのような意味を見出しているかという主観的なストーリーテリングを重視する概念で、その主な特徴は、一人称の視点で語り手自身の経験や感情が中心となり、主観的な意味づけを伴い、起きた出来事に対して、自分がどう感じ、どう解釈したかに焦点を当て、他者とのコミュニケーションを通じて自身の解釈を再構築していくプロセスとなり、客観的で作り込まれた筋書きを示すストーリーとは異なり、個人の内面や生の体験に寄り添う語りとして心理学、医療、ビジネス、社会学などで広く使われているそうで、客観的な事実ではなく、語り手の主観的な経験、感情、そしてそこから生じる意味づけに焦点を当てた語りとなるために、固定された結末があるわけではなく、聞き手の解釈が加わることで意味が変化し続ける双方向的なプロセスを伴い、ビジネス・マーケティングにおいて、企業発信の広告ではなく、ユーザー各々の体験や価値観を主体とする共創を重視する手法となり、ユーザーが自身を主人公として語ることで、ブランドとの深い結びつきを生み出し、臨床心理・医療の分野においては、患者自身が自分の抱える問題を物語として語り、それを医療従事者が傾聴し受け止める、ナラティブ・アプローチが代表的で、患者自身の思い込みによる支配的な物語から、別の解釈を見つける手助けをし、エンターティンメントにおいては、決まった結末をただ追うのではなく、プレイヤーや観客が自分の選択や解釈を通じて物語を体験・補完していく形式を指し、政治・社会の分野においては、ある事象をどのように語るかによって、人々の現実理解や意識を形作る手法として分析されるそうで、単なる情報の羅列や結果をそのまま提示するのではなく、その背景にあるプロセスや価値観を共有する手段として注目されているそうだが、ナラティブ的な語りの構造には語り手自身の経験、主観、感情が強く反映されるため、客観的な事実や他者の視点が抜け落ちやすい傾向があり、具体的には、客観的な事実、弱者や無関係な第三者の声、沈黙している事象、社会の構造的要因、そして多面的な解釈が欠けがちな要素として挙げられ、そんなのはわかりきっていることだろうが、ナラティブは個人の主観的真実を優先するのと裏腹に、科学的な証拠や統計的事実が無視されることがあり、語り手にとって都合の良い情報が強調されがちになるため、他人の視点や異なる背景が省略され、語る能力や機会を持たない人々の視点が欠落し、語りの中に登場しない第三者の存在が無視されがちになり、個人の選択や運命を伴ってドラマチックに語られると、その背景にある社会構造や制度上の問題が隠れやすくなり、またナラティブは意味のある筋書きを好む傾向があり、意味づけできない偶然の巡り合わせや混沌としたその場の情勢が見えにくくなり、そうなると共同幻想として共感を呼ぶ一方で、無意識のバイアスを生むリスクも伴い、そして客観性の欠如や倫理面での課題などの注意点と限界が存在し、過度な脚色による信頼性の低下、事実の歪曲、そして個人の解釈に依存するため、客観的なデータとして扱えない点などが挙げられ、注意点としては、ストーリーを魅力的に見せようとして、事実から逸脱した演出をしないこと、語り手のプライバシー保護や、過去のトラウマを刺激しないための慎重な対応が必要、一つの物語が唯一の正解ではないことを認識すること、語りには虚偽が混ざる可能性もあるため、ファクトチェックを怠らないこと、などが挙げられ、ナラティブの限界としては、あくまで特定の個人の解釈であるため、大規模な集団や普遍的なデータとして扱うことができず、語り手の意図とは異なる伝わり方をしたり、反発を招いたりするリスクがあり、ナラティブは定性的な情報であるため、数値などの定量データで示すべき客観的根拠の代わりにはならない、などが挙げられるそうだが、普通はこれがナラティブだなんて前置きして語られるわけでもないから、話の途中からナラティブ的自己体験談へと引き込まれて、個人的な感想の類いに共感して、そうやって集団の中で共同幻想として特有の偏見やこだわりや固定観念などが集団内のルールや慣習を伴って定着してしまうと、そんな幻想を共有しない他の集団や他人との間で面倒でややこしい摩擦や争いが起こる場合もあるわけだが、その当事者になれば、自身と価値観を共有しないよそ者と敵対関係を形成しておいた方が、自身が属する集団の内部では居心地が良くなるのではないか。


6月12日「波動的な作用」

 それが何の波なのかよくわからないのだが、その波に乗り切れないような感じなのだから、勝手な思い込みかも知れないが、言葉や思考や感情が放つエネルギー的な波動が、周囲や自分自身に影響を与えていると感じられるのは、大抵は気のせいで片付けられる程度のことに過ぎないが、それが何から影響を受けてそうなっているのかということが、言葉や思考や感情が世の中の社会情勢や政治情勢や経済情勢から影響を受けて生じてくるのは、何となく誰もがそう感じられることだとは思うが、それが何やら新自由主義的な社会情勢から生じてくると考えるのも、それだけではないと考えるのが、普通の感覚だとは思うが、最近はそんなことは意識しないが、社会の潜在的な領域で働いている暗黙のルールというか、それが決まりきったルールでもないのだが、すでに何十年も前から普通に市民権を獲得しているので、それを改めて新自由主義的統治だなんて強調しては言われないだろうが、新自由主義的統治術とは、国家が直接的に市民を統制するのではなく、もちろん直接的に統制している面もあることは踏まえた上で、市場原理や競争メカニズムを利用して人々の自発的な行動を促し、管理・調整する政治・社会的な手法を指し、個人を自立した経営者として振る舞わせることで、社会全体を効率的に運営しようとする仕組みだそうで、この統治術は、単なる経済政策にとどまらず、人々の生き方や考え方にまで市場のロジックを浸透させ、国家は最低限のセーフティネットのみを提供し、個人の生活やキャリアは自己責任で管理させ、自分自身の能力、健康、時間などを資本とみなし、市場の価値を生み出すために絶えず自己投資を行い、企業だけなく、個人や学校、自治体に至るまで、あらゆる組織や関係性を競争原理で評価するという、そんな新自由主義的なルールを社会全体に浸透させる統治手法となるだろうが、かつての規律社会の中で行われていた統治は、法律やルールなどを権力によって直接的に人々の行動を禁止・強制していたが、そういった統治手法も程度の差はあるものの、依然として現代でも続いているのだが、それに加えて新自由主義的統治術では、人々の、豊かになりたい、成功したいという欲望や自発性を刺激し、自ら進んで競争社会に適応するように仕向けるのが最大の特徴だそうで、そういった手法をリベラル的な価値観から否定的・批判的に取り上げるなら、具体的な制度で、例えば評価システムの導入については、公務員や教員、研究者への成果主義やKPIという重要業績評価指標の導入や、民営化と規制緩和については、公共サービスの民間委託や、非正規雇用の拡大による労働市場の流動化や、自己啓発の推奨については、スキルアップや自己投資が社会的に推奨され、それが強迫観念に変わる現象などが挙げられるそうだが、そんな統治術により、経済の効率化や個人の自由な選択肢が増える一方で、競争に敗れた者や自己管理が困難な者が社会から排除・孤立しやすくなるという問題も指摘されているそうだが、そういう面を強調してそれを批判に活用すれば、何やらもっともらしいことを述べているように感じられるとしても、そういう批判が歯止めとして作用するから、社会が全面的にそういう傾向にはならないことが重要で、その辺の調整が働いている状態を保つことが、新自由主義的統治術における調整作用だと言えるとすれば、そんな批判から何が生じてくるのかと言えば、市場原理や自己責任を絶対視する手法から脱却して、国家による積極的な介入や再分配、環境・社会問題の解決を重視する、ポスト新自由主義や新たな枠組みが生じてくるそうだが、市場の自己調整機能を過信せず、完全雇用や社会公正、格差是正のための国家主権と再分配を強調し、気候変動や地政学リスクに対し、国家が主導して戦略物資のサプライチェーンの再構築やグリーン産業への大規模投資を行い、事後的な救済や福祉ではなく、教育や育児など人的資本への事前投資を重視し、社会全体の包摂性と競争力を両立させ、AIやビッグデータを駆使して、個人の行動を誘導しながら、結果的に効率的で最適化された社会秩序を構築しようとするテクノロジー主導の統治が構想されるそうだが、これらは従来の小さな政府から積極的な役割を果たす政府への移行を共通の基盤としているそうで、予想通りの国家主義への回帰が見られるわけだが、政府の官僚機構を未来永劫持続させるための統治術だと揶揄するわけにも行かないが、国債を発行し過ぎて絶えず債務超過の危機にある政府が、小さな政府であったためしなどなかった前提をあっさり忘れて、債務超過状態を何とかして改善させようとしていた時期を、小さな政府と言えるわけでもなく、資本主義市場経済を絶えず政府のコントロール下に置こうとする意図がどこから生じてくるとも言えないが、政府の統治対象として何が導き出されるかといえば、一般的にはそれが市民社会であると同時に、政府自体が市民社会によって構成されていると言えなくもなく、リベラル勢力の政治活動の大前提として、政府や行政の力で困っている人々を救いたいという意向が絶えず窺えるのだが、資本主義市場経済によって絶えず生活に困窮する人々が生み出されるという認識もありそうで、だから何とかして政府主導で資本主義市場経済をコントロールして、その種の困っている人々が生み出されないような経済の体制や制度を構築しなければならないと考えているわけでもないだろうが、それが社会そのものから生み出される困っている人々を政府の力で何とかして救い出したいという意向の表れでもありそうで、そういうところでも必要最低限の生活を保障する生活保護制度が講じられている面もあるが、必ずしも全面的に救われるわけでもないことが重要であるように思われるのだが、行政の側では絶えず生活保護受給者を減らしたいという思惑が生じてくる一方で、その対象となる人々が現にいるのに救わないのはおかしいと批判して、行政の思惑や対応に待ったをかけようとする勢力が出てくることも、そういうところでもそうしたせめぎ合いの中で調整が行われていると考えるなら、それも新自由主義的な統治術に含まれるわけでもないが、そういうところで何とかして公正な制度にしたいと働きかけを行なっている勢力が活動している限りで、調整的な政府の役割が生じてくるわけだが、それも全面的にそういう役割が生じてくるわけではなく、絶えず部分的に生じている限りで、他にも様々な役割がある中で調整を伴っていて、そのような役割に費やす予算を絶えず小さな規模に抑えたいという思惑も生じてくるだろうから、そこでもどの方面にどれだけ予算を配分するかをめぐって、普通に予算を増やしたい側と削りたい側との間で絶えずせめぎ合いが生じていると想像できるが、現状でもそうなっていると考えるなら、そうした状況が一見すると危ういバランスの上でかろうじて均衡がとられているように見えるかも知れないが、絶えず揺れ動いていることは確かで、そんな中でも何か一方的な主張や批判を仕掛けてくる人や勢力が目立ってしまうのを、危機感を抱きながら危うい傾向だと受け止めても、昔からそんな主張や批判を繰り返しているのがわかっている限りで、そういう方面で絶えずそんな主張や批判がまかり通るように仕掛けているわけだから、それが今に始まったわけでもないことが認識されるわけで、絶えずそうやって互いに受け入れがたい主張や批判を仕掛ける様々な人や勢力による競合状態や競争状態を、政府が維持しようとしているわけでも、それをコントロールしようとしているわけではなくても、自然にそうなっているように感じられるなら、そんな自然状態を放置しているわけでもなく、絶えずそこに介入しようとしていることも確かだが、全面的に介入しようとしているわけではなく、それなりに圧力を加えてコントロールしようとはしているとしても、それも完全にコントロールすることはできないわけだから、それを新自由主義的統治術が効果を発揮しているからそうなっているとも言えないような中途半端なところでうやむやなままに情勢が推移していて、それをあからさまにそうなっているのを何とかしろと批判すると、そんな批判が空回りしているような印象を受けるわけで、だからといって批判するには批判対象をあからさまに批判しないと、批判とは言えなくなってしまうから、批判せずにはいられなくなってしまい、そんな全面的な批判をどう受け止めれば納得が行くわけでもないから、批判対象となっている人物や勢力を批判している者たちと一緒になって批判する気にはならないところが、なるほどそう思っている自分が彼らとも競合状態や競争状態に置かれているのだと認識しないわけには行かないわけだ。


6月11日「批判を避ける口実と対案としての構想」

 例えば国会での質問と答弁のやり取りが、何かの口実としてそんなことが行われているとしたら、それが何なのかというと、まさか資本主義社会と何か関係があるとか、それとこれとは次元の異なる現実なんじゃないかとは思うが、資本主義における経済的合理性とは、コストを最小化し利益を最大化する効率的なメカニズムを指すそうだが、その一方で非合理性とは、全体の最適を追求した結果として生じる環境破壊や社会格差、過剰競争など、システム全体にとって不条理で矛盾した現象を意味するそうで、経済的合理性が、市場原理を通じて資源の最適な配分や技術革新を促す仕組みであり、需要と供給のバランスで価格が自動的に調整され、企業が利益を求めて競争することで、優れた製品やサービスが生まれ、分業や機械化によって、生産が飛躍的に高まり、新しい技術や市場への投資が活発に行われる反面、そんな経済的合理性を極限にまで追求する過程で、社会や人間性にとってマイナスとなる構造的矛盾・非合理性が生じ、人間を豊かにするための経済が、利益拡大のために人間を従属させる現象が起こり、資本の自己増殖が極端な所得格差を生み、社会の分断を招いて、利益にならない自然環境の保全コストなどが無視される一方で、企業間の激しい競争が過剰生産やバブル崩壊などの経済的混乱を引き起こすようになり、そんな資本主義が抱える非合理性を克服するために、現在では様々な新しいアプローチが模索されて、従来の利益率などの財務情報に加えて、環境・社会・ガバナンスという三つの非財務情報を考慮して投資先を選別する手法として、ESG投資や、財務的な利益の追求と並行して、社会課題や環境問題の解決に貢献し、そのポジティブな効果を測定・管理する投資手法として、インパクト投資や、株主利益だけでなく、従業員や地域社会などのステークホルダーの幸福を重視する考え方として、公益資本主義などがあるそうだが、ESGのEが環境、Sが社会、Gがガバナンスで、気候変動への対策、温室効果ガスの削減、再生可能エネルギーの活用、水資源の保全、廃棄物削減などが環境投資で、人権の尊重、労働環境の改善、多様性の推進、地域社会への貢献が社会投資で、法令遵守、経営の透明性、役員報酬の妥当性、不正防止の取り組みなどがガバナンス投資で、従来の企業価値は売り上げや利益など財務情報の数字で測られてきたが、気候変動による災害リスクや、労働問題による企業イメージの失墜、不祥事など非財務的なリスクが企業経営に致命的な打撃を与えることが認識されるようになり、そのため中長期的に持続可能な成長ができる企業を見極める尺度としてESGが重視されるようになり、実際にESGに配慮した企業は、環境・社会リスクへの対応力が高く、長期的なリスクマネジメントに優れているため、安定したリターンが期待できるそうだが、ESGの評価基準は格付け機関によって異なり、統一された絶対的な基準はなく、投資を行う際には、スコアの数値だけでなく、どのような取り組みを行なっている企業なのかを自身で見極めることも重要だそうで、これも何かの口実でこういう評価基準を設定していることは確からしいのだが、それとは意味合いが違うようなインパクト投資に関して、国際的なネットワークであるグローバル・インパクト・インヴェスティング・ネットワークや金融庁の指針では、インパクト投資の4大要素として、次の4つの要素を満たすことが求められているそうだが、まずは投資前から明確な社会・環境的課題の解決を意図していること、次いで投資収益の創出を目指していること、さらに株式や債券、ファンドなど幅広い投資資産を活用することであり、そして投資後、生み出された社会的・環境的効果を定量・定性的に測定し、管理することが挙げられていて、ESG投資が、環境・社会・ガバナンスへの配慮を怠らない企業を選別して、投資リスクを減らすことに主眼を置くのに対し、インパクト投資は、投資を通じて社会や環境に直接的で具体的な良い変化・インパクトをもたらすことを直接的な目的としているそうで、温室効果ガス排出量の削減、マイクロファイナンスでの途上国支援、多様性の尊重やジェンダー平等の推進など、日本においても金融庁がインパクトファイナンスに関する基本指針を公表するなど、新しい資本主義の形として推進されているそうだが、その他にも、公益資本主義とは、株主の利益だけを最優先するのではなく、従業員、顧客、取引先、地域社会、環境など、企業に関係する全てのステークホルダー・利害関係者の利益を重視し、社会全体の幸福や豊かさを追求する経済のあり方が提唱されていて、実業家の原丈人氏が2007年に提唱した概念であり、近年の株主至上主義による経済格差や社会の分断を解決するための新しい資本主義の形として注目されているそうで、従来の資本主義との違いは、米英型の株主資本主義が、会社は株主のものと定義し、短期的な株価上昇や長期的な配当の最大化を最優先するのに対し、公益資本主義は、会社は社会の公器と定義し、持続的な成長と生み出した利益の公正な分配を目的としていて、公益資本主義の理念を実現するため、企業経営において次の3点が重要視されているそうで、第一に利益を株主だけに偏らせず、従業員や取引先などへ適正に還元し、第二に短期的な利益追求だけでなく、長期的な視野を持って事業や人材育成に投資して、第三に既存の枠組みにとらわれず、社会に貢献する新技術や新サービスに果敢に挑戦する姿勢が重視され、日本では古くから、三方よしという、売り手よし、買い手よし、世間よしの精神が根付いていて、公益資本主義はこの考え方を現代のグローバル経済に合わせてアップデートしたモデルと言えるそうだが、いかにも日本の立憲民主党あたりの政治家に好まれそうな修正資本主義的な考え方であるように思われるのだが、こうした考え方が十九世紀に生きたマルクスが『資本論』などで指摘した、資本の矛盾した論理を改めるような認識を得られているかというと、もちろん今の時代は、マルクスが生きていた時代より経済的に豊かになっていると言える人々もいるにはいるだろうが、資本の矛盾した論理とは、資本主義というシステムが自らの成長を追求する過程で、必然的に自己破壊的な要素を生み出してしまう構造的なジレンマを指し、主な矛盾は、利潤の最大化を目指す行動が、結果的に経済全体の成長を阻害し、格差や恐慌を引き起こす現象として現れ、製品は多くの労働者が協力して作り上げるのに対して、その利益は生産手段を持つ資本家が独占し、生産力が高まるほど、富の偏在と社会的な分断が深刻化し、企業は競争に勝つため、機械化や設備投資などの不変資本を増やし、利益の源泉である生身の労働者などの可変資本の割合は相対的に低下し、その結果、投資額に対する利益率は長期的に低下傾向に陥るが、技術革新がその都度、利益率の低下を食い止め、資本家は利潤を増やすため、労働者の賃金を低く抑えようとして、多くの労働者は商品を買う購買力を失い、最終的に消費されない商品が溢れ、過剰生産恐慌を引き起こす前に、生産調整を迫られるだろうが、今ではマルクスが生きていた時代とは違って、各種の調整がそれなりに機能するから、定期的な経済恐慌など起こらないわけだが、現状を批判的に捉えるための口実として利用されるのが、マルクス的な資本の矛盾した論理の強調だとすれば、そうした論理を深刻なことだと問題視しておいてから、それに対してリベラル的な構想が主張されると、何やらうまく行くような幻想が得られそうなのだが、例えば資本主義における利潤追求のための環境破壊、格差の拡大、労働の疎外などの経済的非合理性を解消する新たな社会的合理性とは、交換価値の最大化ではなく、人間と自然の共存・発達を基準とした価値の充足を中心とするシステムであり、市場原理を乗り越え、民主的計画や社会ニーズに基づき富の生産と分配を組織する思想として構想されて、この合理性は、既存のシステムを根底から否定するわけではなく、協同組合、NPO、地域通貨、参加型予算制度など、現在の社会の内部で芽生えつつある実践を拡張していくことによって具体化されていくそうで、たぶんそういったリベラル的な構想から外れる論理が、新自由主義的統治術によって実際に実践されている現実があるらしいのだが、それが見えにくいというか、今ひとつわかりにくいというか、少なくともリベラル的な言説の中では無視されているように感じられるわけだ。


6月10日「何か騙されている感覚」

 現状がこうなっている原因や理由を見つけ出そうとしても、いくらでも原因や理由が見つかってくるわけでもないだろうが、AIがそれをもっともらしく説明できるということが、何か違うような気がして、だからといって、システム的にもっともらしく説明しないわけにはいかないのだろうが、現状が現状である理由や原因を説明しようとする動機は、主に問題解決や目標達成のためには必要だと思われ、現状と事前にこうあるべきと考えていた理想とのギャップや、先行き不透明で不確実な世界において、なぜこうなっているのかについてもっともらしく説明できれば、心理的な安心感や納得感が得られるだろうし、そしてそんな説明から将来への肯定的な展望や予測などを導き出せれば、なおのこと安心や納得が得られそうだが、それが幻想に過ぎないなんて先回りして不安を煽るのも、何かマッチポンプのような欺瞞を覚えるが、少なくとも現状で顕在化している問題を解決するには、それが解決できるなんて到底思えないとしても、一応は理想と現実のギャップを客観的に認識するには、現状の課題を発見しなければならないだろうし、何か不具合や問題が発生していることに気づいたら、そうなっていることの根本的な原因を突き止めて、それを何とかしなければいけないとは思うが、そういうことじゃないとわかっているような気もしてくるから、要するに根本的な原因などないんじゃないかと考えたくなってくるような現状なのかも知れず、単純に不具合の原因を突き止めてそれを直せるなら実際にそうしているわけで、現実にはそれができないから、あるいはできそうにないから困っていたり悩んでいたりするわけで、そういうところで単純にアドバイザー的な立場の者に助言を求めるような成り行きにはならないだろうし、理由や原因のわからない不透明感や不確実性から生じてくる不安や恐怖に耐えるしかなく、それをお悩み相談のような気休め的なアドバイスでは解消できそうにないから、実際に行動や言動に訴えることで、現状をどうにかしようとしているわけで、しかも考えていることとやってることの辻褄が合わないというか、考えていることがダイレクトに行動へと出力されるわけではなく、どう考えても問題解決の行動には結びつかないのに、むしろさらに事態をややこしくしているようにも思われるとしたら、なぜそうなってしまうのかと考えてみても、そう考えること自体も、さらに事態をややこしくしてしまうような行動にしか結びつかないとしたら、そもそも問題の解決を考えることが、問題解決のための行動や言動がつながっていないということにもなりそうで、それに結びついたりつながったりする行動が何なのかというと、なぜか考えられるのが、物や情報やサービスの売買であるなら、問題解決に必要な物や情報やサービスを手に入れるために売買するのだろうが、もちろん売買の他にも貸借があるわけだが、問題解決に必要な物や情報やサービスを得るための売買や貸借が、さらなるややこしい問題を生じさせるとしたら、それが何なのかというと、要するにその種の売買や貸借から生じてくる問題であり、第一に金銭トラブルの類いになりそうだが、第二にそうやって得た物や情報やサービスが役に立たなかったり、しかも単純に役に立たないだけではなく、問題解決には確かに役に立ったとしても、それ以外のところから新たな問題が生じてくる可能性もあるわけで、何かやればやっただけ、そこから思いがけない問題が生じてくるわけで、トラブルを解決しようとした行動が新たなトラブルの火種になるなんてよくあるケースだろうが、そんなことは百も承知だと、そうなった後から冷静になって自身がやったことを振り返れば言えるようなことなのだろうが、そういうところで不具合や誤りに気づいて、それを直せる手段がわかっているなら、可能な限りで直そうとすれば良いが、直そうとすることによって新たな問題が生じてくることもわかっているかというと、そんなのは実際に直そうとしてみないことには何とも言えないケースが多いのかも知れず、具体的には、問題解決のために物や情報を売買・貸借することが、かえって生み出す、さらなるややこしい問題とは、所有権や権利をめぐる法的トラブル、金銭的な依存関係や経済的リスク、そして情報の非対称性から生じる搾取や詐欺だそうで、これらは解決したはずの問題をより複雑な構造に変えてしまい、具体的に引き起こされる問題は、例えば、譲渡したはずの物が第三者に転売され、誰が本当の所有者かわからなくなったり、情報を借りた、または購入した側が勝手に二次利用し、著作権侵害や情報漏洩を招いたり、貸与されたシステムやサービスに不具合が生じた際、解決責任が貸し手、借り手、開発者のどこにあるか紛糾したり、権利と責任の複雑化が生じたりするケースや、維持費や更新料が想定以上に嵩み、資金繰りが悪化したり、特定のサービスやシステムに依存し過ぎてしまい、他への乗り換えができなくなったり、解決資金を借り入れたことで新たな返済負担を抱え、本来の目的以外の資金繰りに追われたりする、金銭的リスクや依存の問題が生じてくるケースや、他にも専門知識の差を利用されて、役に立たない情報や高額なサポートを高値で売りつけられたり、専門サービスに頼り切ることで、問題の根本原因が理解できず、自力での解決能力が失われるブラックボックス化に追い込まれたり、複雑な利用規約やリース契約により、不利な条件を押し付けられたりするケースがあるそうだが、それらを思いがけず自作自演でやってしまっているとしたら、もちろんそれに気づいていないわけで、それが何なのかというと、それこそがマッチポンプなのだろうが、自分で問題を起こしておきながら、自分で解決策を講じようとして、それに成功したり失敗したりする中で、周囲を巻き込んで、周囲から利益を得ようとしたり、そんなことができるかというと、それもよくあるケースとして、自分の利益や評価を得るために自作自演で問題を起こし、自分でそれを解決して恩を着せるような偽善的な手法や行為が想定されるらしいが、放火魔が放火の第一発見者で、火事を発見して消防に通報した者が放火を疑われるのもよくあるケースかも知れないが、具体的な使われ方として、欠陥住宅を売りつけておいてからリフォーム業者を装って訪問して、欠陥を指摘してリフォーム費用を稼ぐなどの手法も想定されそうだが、それも単純にそうなるわけでもなければ、そうなった結果からそういう解釈もできる程度のことなのかも知れず、何らかの問題や課題に対して、状況を改善するための具体的な手段や対策を考え、実際に実行に移すまでには至らないことも多いわけで、そのために必要な現状の分析、原因の特定、適切な対策の立案といった流れに持っていけるかどうかも、そういったプロセスの中で紆余曲折の迷いや逡巡を繰り返している間に、どうでもよくなってしまえば、どうでもいいようなことでしかなかったのだろうが、というかそこで繰り返している紆余曲折の迷いや逡巡が問題解決の行動そのものであったりして、そんなわけがないと思うなら、そう思っておいても構わないだろうが、それが明確な問題解決にはつながらないことが肝要なのかも知れず、また明確な問題解決に導かれるような成り行きが結果的に示されたり、それが成功例として好意的に語られたりするメディア的なプレゼンの類いには何か裏があると疑ってしまうが、そうはいっても何でもかんでも疑ってかかるのも、その程度や傾向にもよるだろうが、絶えず問題意識を抱きながらそれについて考える機会を求めているような姿勢や態度というのも、それが実際の行動や言動に結びつけばジャーナリストのような立場になれるだろうが、それに対しても何か騙されている感覚を覚えるとしたら、うまくそれらの問題をやり過ごそうとしていると現状を捉えたくもなり、実際に今も自分が多少なりとも関係している問題や課題の類いを、ややこしくも都合の良いようにねじ曲げて捉えながらも、何とかしてやり過ごそうとしている最中なのかも知れない。


6月9日「自由主義的統治術」

 自由主義には政治的自由主義と経済的自由主義があり、政治的自由主義は個人の権利と民主的な政治参加の自由を守ることを目的とし、経済的自由主義は国家の介入を最小限に抑え、自由な市場競争を重視することを目的とする思想で、政治の文脈では国家からの個人の自由を求め、経済の文脈では国家からの市場の自由を求めるが、果たしてそんな区別でいいのかというと、一般的にはそうだが、そもそも国家とは何なのかと考えてみるまでもなく、フーコーによれば、自由主義を広い意味に理解しなければならず、ただ単に外的な法権利によるのではないような統治の制限の原理を正確にどこに見出せばよいのか、そして、そうした制限の諸効果をどのように計算すれば良いのかが問われて、自由主義、それは、より狭い意味では、統治行動の諸形態と諸領域を最大限に制限しようとする解決法であり、また、自由主義とは、統治実践の制限を規定するための取引方法の組織化でもあり、憲法、国会、世論、報道、委員会、アンケートなど、また近代的統治性のうちの一つは、次の事実によって特徴づけられ、すなわち、法陳述によって形式化された諸限界に衝突する代わりに、真理陳述という観点から定式化された内在的諸限界を自らに与える、という事実によってだが、もちろんそれらは、相次いで登場する二つのシステムでもなければ、克服しがたく衝突することになる二つのシステムでさえもなく、その異質性が意味するのは、矛盾ではなく、緊張、摩擦、相互的非両立性、調節の成功ないし失敗、不安定な混合などであり、それはまた、決して完了することがないために絶えずやり直される任務で、一致を打ち立てたり、あるいは少なくとも共通の体制を打ち立てたりする任務を意識していて、それは知が統治に対して命じる自己制限を法権利のもとで定めるという任務であり、その任務は十八世紀から今日に至るまでに二つの形態をとることになり、統治理性、それは統治理性自身の制限の必要性に問いかけて、統治実践の中で到達し地位を与えることの可能な法権利を、自由なままにしておくべきことを通して見分けようとすることで、そのようにして、啓蒙された統治すなわち自己制限された統治の目標、方策、手段について問いかけ、そうした統治は、所有の法権利、生活物質の法権利、労働の法権利などに場を設けることが可能であるかを判断し、根本的な法権利に対して問いかけ、その全てを一気に価値づけるという形態、そしてそこから出発して、統治の自己調整がそうした法権利の全てを再生産するという条件でのみ、統治を形成させておくこと、統治の従属の革命の方法、必要十分な法的残余に基づく方法、それが自由主義的実践であり、徹底的な統治の条件付けの方法、それが革命の手続きであり、第二の指摘として、自由主義に特徴的な統治理性のそのような自己制限は、国家理性の体制に対して異質な関係にあり、国家理性は、統治実践に対し無際限の介入領域を開く一方で、他方においては諸国家間の競争に基づくバランスという原理によって制限された国家的目標を自らに与えるが、それに対して自由主義的理性による統治実践の自己制限は、国際的目標の分裂と帝国主義による無制限の目標の登場とをもたらしたわけで、国家理性は、諸国家間の競争に基づく均衡のために帝国的原理が消滅したことと相関的なものであったのに対し、自由主義的理性は、帝国的原理の活性化と相関的であり、ただしそうした活性化は帝国という形態のもとではなく、帝国主義という形態のもとで行われ、そしてこのことは、諸個人間、諸企業間の自由競争の原理と関係していて、内的介入の領域と国際的行動の領野に関して、制限された目標と無制限の目標との間の相互浸透があり、第三の指摘として、自由主義的理性は、そのような統治に固有の諸対象と諸実践の自然性から出発して、統治の自己制限として打ち立てられるということであり、この自然性とはどのようなものなのかというと、それは富の自然であろうか?確かにその通りであるが、ただし、増大したり減少したり、停滞したり流通したりする支払い手段としての富の自然性であるが、しかしそれはむしろ、生産されるもの、有用であり利用されるもの、経済上のパートナーの間で交換されるものとしての財の自然性であり、それはまた、諸個人の自然性でもあるが、もっとも、従順であったりそうでなかったりする臣民としての諸個人ではなく、経済的自然性に結びつけられたものとしての諸個人で、その数、その寿命、その健康、その行動様式が、経済プロセスと複合的かつ錯綜した関係にあるようなものとしての諸個人であり、政治経済学の出現とともに、つまり統治実践そのものへの制限的原理の導入とともに、重要な置換、というよりもむしろ二重化が起こり、というのも、政治的主権の行使の対象であった法権利の主体が、それ自身、統治によって運営される必要のある人口として現れるからであり、ここに生政治の組織化がその出発点を見出すが、しかし一見して明らかな通り、そこにあるのは、それよりもはるかに大きな何かの一部、すなわちあの新たな統治理性の一部に過ぎないなら、自由主義を、生政治の一般的枠組みとして研究することが重要であるそうで、確立しつつある自由主義的な統治実践は、しかじかの自由を尊重したり、しかじかの自由を保障したりすることに甘んじるものではなく、より根本的な言い方をするなら、この統治実践は自由を消費するものであり、というのも、この統治実践が機能しうるのは、実際にいくつかの自由がある限りにおいてのみ機能し、すなわち、市場の自由、売り手と買い手の自由、所有権の自由な行使、議論の自由、場合によっては表現の自由などが実際にある限りにおいてのみ、そのような統治実践が機能しうるということであり、したがって新たな統治理性は自由を必要とし、新たな統治術は自由を消費するのであり、自由を消費するということはつまり、自由を生産しなければならないということでもあり、自由を生産し、組織化しなければならないということで、したがって新たな統治術は、自由を運営するものとしての自らを提示することになり、もっともこれが意味するのは、自由であるべしという、ただちに見つかるような矛盾を備えた命令ではなく、自由主義が定式化するのは単に、私はあなたが自由であるために必要なものを生産しよう、私は自由に振る舞う自由をあなたに与えよう、ということであって、そして同時に、この自由主義が自由の命令であるよりも、むしろ自由でありうるための諸条件の運営であり組織化であるとするなら、そうした自由主義的な実践の核心そのものに、問題を孕んだ一つの関係が創設されることになり、すなわち、自由の生産と、自由を生産しながらもそれを制限し破壊するリスクを持つようなものとの間の、常に変化し常に動的な一つの関係が、そこに創設されるということであって、フーコーが考えているような意味での自由主義、十八世紀に形成された新たな統治術として特徴づけることのできる自由主義は、その核心そのものに自由との生産的および破壊的な関係を含意していて、一方では自由を生産しなければならないが、しかし他方では、自由を生産するという身振りそのものが、制限、管理、強制、脅迫に基づいた義務などが打ち立てられることを含意していて、これに関してはもちろん数々の例があり、もちろん交易の自由が必要だが、もし管理せず、制限しないならば、そうした自由は実際にいかにして行使されうるか、一国の他国に対する覇権によって交易の自由が制限され限定されてしまうことを避けるために、一連の措置や予防策などを組織しようとしないならば、いかにして自由が実際に行使されうるのか、これは、十九世紀初頭以来、ヨーロッパのすべての国々とアメリカが出会うことになる逆説で、この時期、十八世紀末の経済学者たちの説を受け入れた統治者たちは、交易の自由の秩序を打ち立てようとして、イギリスの覇権に出会うことになり、そしてたとえばアメリカの統治は、この問題をイギリスに対する反乱のために利用しつつ、十九世紀初頭からすでに保護関税を打ち立て、イギリスの覇権によって危うくなると思われる交易の自由を救い出そうとすることになり、同様に、国内市場にももちろん自由が必要であるから、自由な市場があるためには、売り手だけではなく買い手もいなければならないから、場合によっては市場を支援し、援助のメカニズムによって買い手を作り出すことが必要となるわけだ。


6月8日「生産的な議論」

 それをたわいないと馬鹿にしたり貶してしまったらそれっきりとなってしまいそうだが、他人の言動が何に反応してそうなるのかも、そうなった後からもっともらしく説明できるに越したことはないが、実際にどうなったのかというと、他人ではなく自分の言動の方に興味が向くなら、軽はずみな発言や行動とは、物事の結果や他者への影響を十分に考えず、ちょっとした思いつきやその場の勢いで言動に及んでしまうことを指すそうで、ビジネスや人間関係において、信用を大きく損なう原因となるから注意が必要だそうだが、果たしてそれが信用を大きく損なう言動なのかどうかも、違うような気がする程度のことなのだが、議論している相手の言葉尻を捉えて批判しているような気もしなくはないから、そうなるのも普通に考えられることで、相手の発言の本質や文脈を無視して揚げ足を取るように些細な表現のミスや不適切な単語だけを切り取って攻撃することになってしまっても、建設的な議論を妨げる不毛な論法であるのもわかりきったことで、その種の論点のすり替えや揚げ足取りや本質の無視やマウンティングの類いも、ディベート術の一種だと捉えておけば良さそうで、それがなぜ起こるのかと問われるまでもなく、劣勢に立たされて、本筋の議論では勝てないことを悟っているから、相手を感情的にさせ、議論の主導権を奪いたいだけの、その場の論争に勝つことや、相手を論破することだけが目的だと受け取られても仕方がないような言動に及んでしまえば、別にそれがどうしたわけでもなく、そういうことかと受け止めるしかないが、今時そんな不毛な議論もないだろうと軽く無視するなら、何やら粗雑なフィクションの中で架空の対話が再構成されているに過ぎず、利害を意識できないならあまり気にするようなことでもないだろうが、本来は相手の論理の矛盾や根拠の弱さを指摘し、より良い結論を導き出す目的で討論が行われるとしても、ただ言葉尻を捉える批判は相手を打ち負かすことが目的となっているから、生産的な結果を生まない不毛な議論となるにしても、それで構わないと判断しているからそうなる場合もありそうで、言葉尻を捉えられた場合、それに反論しようとすると相手の土俵に乗せられてしまうから、私が言いたかったのは〇〇ではなく、〜ということです、と本来の論点に引き戻すのが最も有効な対処法とされているそうだが、生産的な結果を期待するというのも勝手な幻想に過ぎないとしたら、不毛な議論でも困らない立場を維持できるなら、その種の議論から得られるものが、エンタメ的に不毛な議論をおもしろがる人々の需要を当てにしていると言えそうで、かえって中身のない議論である方が都合が良いから、エンタメ的にその種の不毛な議論へと持って行こうとしていると認識しておけば良さそうで、楽しむ分には何やら明らかにされては困るような不都合な真実を暴露されるような不測の事態を招かずに穏便に事を収めようとするなら、議論の途中から頃合いを見計らって、論点のすり替えや揚げ足取りや議論の本質を無視したマウティングの取り合いなどへと誘導して、ぐだぐだな話の展開へと持込めれば、うまくやったことになるのかも知れず、そういったはぐらかし戦術が繰り広げられている限りでその場をコントロールしていると言えるなら、それ自体が交渉術に含まれている可能性も想定しておいた方が無難なのかも知れないし、ではそこで何が交渉されているのかといえば、議論している双方が痛み分けとなる程度の決着で妥協しようとしていると捉えられなくもなく、お互いに都合の悪い点には触れないようにしようという暗黙の申し合わせが前もって成立していなくても、議論して行くうちに共通の利益としてそれが認識されてくれば、もうこれ以上は痛いところを突かれないようにするための自己防衛本能が働いて、まるで示し合わせたかのように、あうんの呼吸でぐだぐだな話の展開へと持って行ければ、なるほどこういう話の顛末にしておけばいいんだなと納得できるわけでもないだろうが、それが何かの見せ物として議論している者たちの共同作業の一部始終が提示されているなら、それを観ている者はそういうことなんだと受け止めるしかないが、それがエンタメ的な見せ物なのではなく、実際の会議か何かで交わされる議論であるなら、これ見よがしなことはあまり行われないだろうし、中身などつまらなくても構わないし、議論自体の質が問題なのではなく、では何なのかというと、そこで決められたことに基づいて物事が動いて行けば、行われた議論もそれなりに効果を上げたことになるはずだが、話がまとまらず、何も決まらなくても、そこで議論を行なったことによって、その後の事態が好転するなら、それでも構わないだろうから、たとえ事態が好転しなかったとしても、それでも構わない立場というもありそうだが、議論しても好転も暗転もしないなら、議論自体が無駄だったのかというと、無駄であっても構わない立場というのもありそうだが、いくら不毛な仮定を挙げて行ってもきりがないが、いくら議論してもきりがないなら、それもそういうことだと受け止めるしかなく、では議論の必要性とは何なのかといえば、それをもっともらしく示すとすれば、議論は、単一の視点による偏りや見落としを防ぎ、より質の高いアイデアや意思決定を生み出すために不可欠で、関係者間の認識を議論によってすり合わせることで、物事を実行に移すための合意形成をスムーズにする役割を担っていて、自分一人では気づけなかった盲点や新しいアイデアを発見でき、互いの意見をぶつけ合い、問題を精査することで施策や結論の質が高まり、リスクやデメリットを事前に洗い出し、深い洞察が得られ、議論のプロセスを共有することで関係者の納得感が高まり、建設的な議論にするためのポイントは、相手の指摘を人格攻撃と捉えず、課題解決のチャンスと考え、相手の意見を最後まで聞き、多様な価値観を認め、それが何を決定し改善するための議論なのかを常に意識することが肝要だそうだが、そういう建設的な議論の型にはまるような議論になるとは限らず、相手の非を追及する裁判的な討論になると、お互いの理解や課題の解決を放棄し、ひたすら相手の過失や責任を証明して負けを認めさせることに執着する不毛なコミュニケーションとなるが、未来の解決策よりも、過去の言動の矛盾を責め立て、相手を論破することを目的とし、責められた側も自己保身に走り、建設的な意見交換が完全に停止すると共に、非を認めると立場や評価が下がると恐れて、逆ギレして攻撃的な態度を取るようになり、論理的な問題解決よりも自分を否定されたという感情の反発が勝り、自分が正しいことを証明し、相手を間違った存在に仕立て上げようとするそうだが、そうなればしめたもので、やはりそういう不毛な議論へと持って行くことで、議論と並行して行われていることから、議論に加わっている者たちやそんな議論にならない議論を観て嫌気がさして否定的な感情を募らせる人々の関心を逸せることに成功したことになるが、その議論と並行して行われていることが何なのかということが、意外と誰もが気づかない盲点となるのかも知れず、要するにそこから関心を逸らせる対象となる者たちが邪魔なのであって、それが何の邪魔になるのかというと、議論と並行して行われていることの邪魔になるわけで、だから邪魔な奴らは不毛な議論に関心を奪われるように仕向けられて、実際に行われていることから除外されてしまうわけで、除外といっても、関心を奪われながらも、気づかないうちに関係していることになるだろうが、同じ社会の中で生活しているわけだから無関係であるはずがないのだが、だから世の中で不毛な議論や、その議論の中で攻撃対象や責任追及の対象となっている者や勢力を、攻撃していたり責任追及している者たちや勢力と一緒になってそこへと関心を向けながら騒ぎ立てていると、気づかないうちに梯子を外されて、不利な立場に陥ってしまうとも限らないが、だからといって意識してうまく立ち回ろうとしなくても、絶えず物事を生産する役割を意識していれば、そこで生産されている物事が自分にとって足しになるのか、それとも足しになるどころか、かえってそれに関わってしまうことによって、足を引っ張られることになるのかを見極める必要に迫られていても、意外とそれにも気づきにくいわけで、世間で話題となるようにメディアが盛り上げようとしているのだから、少しはその種の不毛な議論にも目配せしておかないと、世間の話題に疎くなるから、それも心配だとしても、その辺の加減や配分を自分でも気づかないうちに調整しているような感覚なのかも知れない。


6月7日「カントの怪しげな理屈」

 自然の成り行きや偶然の巡り合わせではその現象を説明できないとしたら、説明も何も、ちゃんとした道理や理屈や論理や理論などを用いて説明しないと、説明とは言えないかも知れないが、それが怪しげな理屈や論理に感じられるとしたら、現代において怪しげな理屈や論理として挙げられるものは、科学的な装いを見せながらも根拠を持たない疑似科学や、複雑な事象を単純な悪玉のせいにする陰謀論や、感情論を論理で補強したように見せかける詭弁の3つに大別されるそうだが、疑似科学として挙げられるのは、マイナスイオンや波動などの科学用語を悪用したものや、根拠となる臨床試験が不明確であったりするものや、陰謀論として挙げられるのは、複雑な社会問題を特定の巨大組織の陰謀で説明するものや、反証されるとそれ自体が陰謀の証拠だと主張するものや、ネット上の詭弁として挙げられるのは、専門用語やデータをごちゃ混ぜにして煙に巻く手法や、論点をずらして相手を人格攻撃するものや、みんなが言っているから正しいという多数派への訴えなどがあり、怪しい理屈を見抜くためには、提示された情報の裏付けを冷静に確認することが重要だそうで、その情報が個人の感想やSNSの噂ではなく、信頼できる機関や専門家によるものか調べて、都合の良いデータだけを切り取っていないか確認し、恐怖や不安、強い怒りを煽ってくる情報とはいったん距離を置くことが肝要だそうだが、現代ではなく十八世紀末にカントが主著『永遠平和のために』の中で唱えた主張は、永遠平和は単なる空想ではなく、人類が理性の力によって実現し、また目指すべき必然的な到達目標であると考え、人間の利己的な性質や戦争の惨禍という現実を踏まえつつも、自然のメカニズムや理性の働きによって、最終的に平和が保証されるという論理的な道筋を描き、人間が道徳的に完全でなくても、自然の計画やメカニズムによって強制的に平和へと導かれる仕組みがあると考え、人間や国家が自分の利益を追求しようとする利己心を利用して、自然は人類を世界中に分散させ、言語や文化の違いによって対立させ、その結果、対立や戦争のコストがあまりに大きいため、国家は自衛と存続のために法と秩序による平和の枠組みを作らざるを得なくなる、と考えたカントは、自然状態である戦争を終わらせるために、三つのレベルでの法秩序の確立を主張し、第一のレベルでは各国内部における共和政の樹立を促す国家市民法、第二のレベルでは自由な諸国家による平和的な連合、ゆるやかな連盟の構築を促す国際法、第三のレベルでは訪問権を基礎とした、地球規模での平和的な交流を促す世界市民法の確立を主張し、カントは、特に国民主権に基づく共和政が平和をもたらす唯一の体制であると信じており、共和政では、戦争をするかどうかに市民の同意が必要で、自分の財産や命を失う戦争の惨禍を引き受けるのは市民自身であるから、市民は開戦に対してきわめて慎重になるため、戦争が起こりにくくなると考え、この著作の付録においてカントは、道徳を無視して政治的打算のみに走る政治的道徳家を批判し、政治的道徳家とは、自らの政治的利益や都合に合わせて道徳の原理をねじ曲げ、正当化に利用するような政治指導者や思想家を指すそうだが、政治は理性の法である道徳に従うべきという道徳的政治家の理想を掲げ、正しいことを追求する行為こそが、結果として平和をもたらすと考えていたそうだが、果たしてこれらの主張は現代でも通用しているかどうかに関しては、現代の国際法や平和構築の基礎となっており、その主要な理念は今でも十分に通用するそうで、特に、各国の政体を共和制にすることと、国際連盟や国際連合のような平和維持機構を作ることは、現代の民主的平和論や国際秩序の土台となっているそうだが、武力行使や内政干渉の禁止など、絶対的な平和を目指すカントの理想と、現代の現実的な国際政治との間には、大きなギャップも存在していて、現代でも通用する重要な主張として、各国の政治体制を共和制にすることは、権力者が独断で戦争を決められないシステムにするには不可欠であり、これは現代における民主主義国同士は戦争としないという経験則である民主的平和論の先駆けで、また国際連盟・連合のような平和連合の設立は、各国が独立を保ちつつ、戦争を防ぐための連盟を作るという構想として、今日の国際連合や欧州連合の原型として実現していて、それによって戦争を防いだかというと必ずしもそうではないが、世界市民法による交流は、異なる国の人々が平和的に交流する権利を認め、これは現在のグローバリズムや国際的な人的交流、人権思想の土台となっているそうで、その一方で現代の国際政治では通用しにくい課題となる点は、カントが定めた予備条項の中には、現代の複雑な国際社会においては厳格に守ることが難しいものも含まれており、将来の戦争の火種をひそかに残した平和条約の禁止は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約など、現実の歴史ではこれが守られず、さらなる紛争を招いた事例が多々あり、また常備軍の段階的廃止は一向に進まず、カントは、常備軍は他国を脅かし、軍拡競争を招くため廃止すべきだとしたが、今日の現実では、自国の安全保障や国際治安維持のために一定の軍備や抑止力が必要とされており、完全廃止は非現実的とされて、国家の負債である国債による戦争資金の調達禁止については、カントは借金をして戦争することを禁じたが、現在の国家運営や防衛において国債の発行は不可欠な経済活動となっていて、武力行使については、現代では独裁者による自国民の虐殺や人権侵害を防ぐために、国連主導での人道的な軍事介入が行われることがあり、これは内政不干渉を絶対視するカントの思想とは衝突するケースであり、カントの『永遠平和のために』は、私たちが目指すべき倫理的な目標としては今も色褪せない輝きを持っているが、一方でそれを現実の国際社会にどう適用するかは、現代を生きる私たちに残された大きな課題と言えるそうだが、どうもカントの理屈は怪しいのではないかと疑念を抱いていて、そもそも人々の利己心に囚われた意識が共和制となるのを阻んでいると簡単に言えるようなことではないのだが、逆に絶えず特定の勢力が支配する独裁体制となるように仕向けられるから、戦争を避けられない政治システムが現代においては構築されているのではないかと考えられる一方で、戦争にもコストがかかるが、国家体制の維持にも資本主義市場経済の維持にもコストがかかり、政府の官僚機構の維持にも、社会保障システムの維持にもコストがかかるから、建前としてはコストをできるだけかけずに国家を運営する体制へと自然に向かうわけでもない代わりに、人や企業の活動を法律で規制するようなやり方とは違うやり方が模索されているような成り行きもありそうで、それが何なのかというと、人や企業の自由な経済競争を維持するための自由主義的な統治実践を推し進めることになるだろうが、要するに人や企業などの活動を絶えず経済競争が伴うように仕向けられるなら、それがゼロサム的なゲームにならなければ、何らかの物や情報やサービスが生産され続けるから、そんな商品の売買や貸借によって利益が得られて、そこから税収を得られる限りで、その税収に基づいて政府による国家運営も継続することになり、その種の経済活動が盛んになるように仕向けられる限りで国家運営も継続されることになるという理屈なんじゃないかと単純に考えても構わないかどうかも、ではどうやれば経済活動を盛んにすることができるのかというところが、地理的・地政学的な限界も絡んでくるから、こうすれば良いという回答が出てくるとも限らないが、人や企業の行き過ぎた活動を法律で規制して個人の人権を尊重するとか、そういうこととは違う方面であることは確かで、法治主義的なやり方がなくなるわけでもないが、その一方で政治的な独裁体制を築いて、政権と癒着した勢力が富を独占する状態になってしまっても、うまく行かないことは確かだから、政治や行政には魅力がないような体制にしなければならないと考えてみたところで、それが具体的にどういう体制なのかもよくわからないが、比喩として例を挙げるなら、プロスポーツの統治機構のような政府の機構になれば、統治機構ではなく、実際に活躍するプレーヤーや球団などに利益がもたらされるシステムとなり、そうなればあまり文句は出ないかも知れないが、比喩ではなく、実際に統治機構をどうするかが問題となってくるから、その辺のところは自然の成り行きや偶然の巡り合わせでどうにかならなくても、どうにもならないなりに事態が進行して行くしかないだろうし、こんなことを述べているだけで、うまく行くようなやり方が導き出されてくるわけでもないもわかりきったことなのではないか。


6月6日「犯罪者の知」

 犯罪者に対して「お前は何をしたのか」ではなく「お前は誰なのか」と問うことは、犯罪を単なる法律違反として処理するのではなく、その背景にある生い立ちや人間性、社会的な孤立に着目して、根本的な更生と再犯防止を目指すアプローチを意味するそうだが、「何をしたか」に焦点を当てすぎると、その人は罪を犯した存在=犯罪者というレッテルで固定されてしまうから、「あなたは誰か」と問いかけることで、その人が本来持っている人間性や感情、人間関係に光を当て、社会から孤立させないようにする狙いがあり、多くの犯罪は、貧困、虐待、精神疾患、教育の欠如、孤独など、個人の責任だけでは片付けられない社会構造的な問題やトラウマが起因していて、「誰なのか」を知ることは、「なぜそのような行動に至ったのか」という根本的な原因を理解し、適切なケアや福祉的支援に繋げるために不可欠で、自分が「誰であるか」「なぜこのような人間になったのか」を見つめ直すプロセスは、単なる刑罰の受容ではなく、被害者や社会に対する真の責任感や、人間としての回復を促すと言われていて、このように、この問いは社会のルールを破った者を排除するのではなく、社会の中で傷つき、道を誤った一人の人間として理解し、再び社会の一員として迎え入れるための対話の出発点として重要視されているそうだが、何かこれがゾッとするようなことが述べられているように感じられて、このゾッとする感じが何なのかというと、犯罪者に対してお前は何をしたのか?と問うことから、お前は誰なのか?と問うことによって、刑罰的なものに備わる法陳述の機能が真理陳述の問題によって変容させられる、というフーコー的な言説にすると、近代の刑事司法システムが抱える客観的な法規範である、何をしたか、と主観的な人間存在である、誰であるか、の矛盾や変容を突いていて、主に十八世紀以前の、かつての刑事司法は、犯された罪そのもの、すなわち、何をしたか、という客観的な法律違反の事実を裁いていて、このとき、刑罰は法という主権者の意志に対する違反として機能し、裁かれるのは行為そのものであり、法廷における陳述は、法典と照らし合わせてその行為が違法か適当かを決定する純粋な法陳述であるのに対して、近代以降、刑事司法は犯罪者の行為だけなくその背景にある人間性や動機、さらには危険性を問うようになり、お前は誰なのか?という問いは、犯罪者を法を犯した者としてではなく、なぜそのような行動をとったのか、どのような環境や精神構造、あるいは遺伝的・社会的な要因を持った人間なのか、という探求へと向かわせ、ここで法廷に導入されるのは、精神医学、心理学、犯罪学、社会学といった人間科学の知であり、お前は誰なのか?という真理陳述が法陳述に組み込まれることで、法は本来、善悪や適法か違法かを裁くものだが、真理陳述が介入すると、行為の善悪よりも、その人が社会的に正常か異常か、治療可能か不可能かが焦点になり、刑罰の目的が罪の償い、応報から、その人自身の矯正・改善・治療や社会防衛・危険人物の隔離へと変容し、犯罪者の内面や生い立ちを暴き出して、専門知によって真実の人間像を言語化することは、新たな形の権力、規律訓練権力や生権力を個人に行使することに他ならず、何をしたかを裁く法陳述の空間に、お前は誰なのか、という真理陳述が入り込むことで、近代の刑罰は単なる罪と罰の体系を超えて、人間の主体そのものを管理・評価・矯正するシステムへと変容する、と述べられると、合点がいくわけでもないのだが、確かにそうなると実際に行なった犯罪的な行為だけなく、社会の中で暮らす人の潜在的な犯罪性にまで言及せずにはいられない人間のおしゃべりな傾向を真に受ける人が出てくることも想像に難くなく、例えば、犯罪心理学の本当のヤバさは、異常な犯人の心を暴くだけではなく、誰もが特定の状況下では恐ろしい犯罪者になり得る、という人間の心の脆さや、そのメカニズムを科学的に証明してしまう点にあり、単なるフィクションのプロファイリングにとどまらず、私たちの日常のすぐ隣にある狂気と闇を浮き彫りにする、といったもっともらしい物言いを本気で信じてしまう人が世の中にどれほどいるかも、素人の自分には何とも言えないところだが、権力を与えられると普通の人がサディスト化するなど、個人の性格より置かれた環境が凶暴性を引き出し、多くの犯罪者に共通するのは生まれつきの悪ではなく、衝動や欲求を抑えきれない自己統制の弱さで、共感や良心が欠如したサイコパスは、特殊な怪物ではなく社会に溶け込んで日常的に息を潜めていることが実証されていて、権威者の指示には人間が簡単に残虐な行為へ加担してしまう事実も確認されていて、カルトや悪質なセミナー、ブラック組織などは、特殊な心理誘導を用いて、正常な判断力を奪い、人間を狂信的な行動に走らせ、人間の記憶は非常に脆く、強い誘導やプレッシャーを受けることで、実際には起きていない犯罪を自分がやったと本気で信じ込んでしまうそうで、この心理的メカニズムの解明により、強引な取り調べや誘導尋問がいかに簡単に虚偽の自白を引き出してしまうかも明らかにされている一方で、残虐な事件や無差別殺人が大きく報道されると、それを学習して、自分も目立ちたいという承認欲求から次の模倣犯が誘導され、匿名化されたSNS空間は、人々の攻撃性を増幅させ、日常的な誹謗中傷から大規模な炎上・犯罪加担までを引き起こす土壌となっているそうだが、このようなことを述べると、何か真理を述べているように感じられること自体が、社会の中でこの手の犯罪心理学に関する真理陳述の体制が成立していることを示す明らかな兆候のようで、その体制に多くの人々の意識が絡め取られているから、何かそれらに関する言説の内容がもっともらしく感じられてしまい、それはお前は何をしたのか?ではなく、お前は誰なのか?と問うことの理由がもっともらしく感じられることにも言えるだろうが、そういうことの延長上で何かもっともらしく感じられるような言説が世間で流行っていれば、そこで真理陳述の体制が成立しているといちいち指摘して回るのも馬鹿げているが、それが錯誤でも錯覚でもなく、実際に真理として機能しているわけだから、現実にそんな真理に基づいて多くの人々が思考し行動して言説を繰り出しているわけで、多くの人がその種の言説の内容を信じて、それに従って活動している限りで、それが真理であることが証明されると考えると、それが証明だと言えるかどうかも、そんなのは証明ではないかも知れないが、そう言えば数年前までまことしやかな経済原理だと結構多くの支持者を獲得していたMMT理論も、実際それをどこかの国の政府が取り入れて成功した事例が出てくれば、そこで真理陳述の体制が成立したことになったのだろうが、それをかつての重商主義や重農主義といった事例と比較するわけにも行かないが、たぶん社会主義やマルクス主義などから派生してきたものだとは認識しているが、その現代貨幣理論であるMMTの政策提言を正式に採用し、完全に実行した政府はこれまで存在しないそうだが、ただし、日本や米国などにおいて、中央銀行が政府の国債を大量に買い入れて財政を支える、という事実上の財政ファイナンスが拡大しており、これが疑似MMTとして議論されることはあるそうだから、自国通貨を発行できる政府は破綻しない、という考えを公式な政策方針として掲げた国はなく、伝統的な経済学では、財政赤字の拡大はインフレや金利上昇を招くとされ、MMTは主流派から強く批判され、MMTが主張する、インフレ率を見ながら増税等で需要を調整するという手法は、政治的に実行が困難とされていても、日銀が長年にわたり大量の国債を買い続けて、政府の借金が膨らみ続けても財政破綻していない事例としてMMT論者から注目され、アメリカでもコロナ禍において巨額の財政支出を行い、中央銀行のFRBが国債を引き受ける形で資金を供給したことは疑似MMTと呼ばれたわけだから、かつての重商主義者や重農主義者の言説が一時期において真理陳述の体制を体現する真理として機能していたように、後世の歴史学において、この時期の真理陳述の体制を体現していたのはMMT理論だったなんて言われたら笑ってしまうだろうが、重商主義や重農主義がある時期を境にその限界が露呈して、それ以降は真理ではなくなったように、MMT理論もすでに真理ではなくなったのか否かは、誰もがそれとなく感じとっていることなのではないか。


6月5日「空気を読むことの是非」

 普通に社会の中で生きて活動していれば、自然の成り行きには逆らわない方が良さそうだとはおぼろげながらもそう感じられるところだが、その自然の成り行きに感じられるのが何なのかというと、それが世の中の空気を読むだとかそういうことだと思えば、何となくその通りのような気がするが、どうもそれでは単純すぎるような気がするとしたら何なのかというと、空気を読むだけでなく空気に逆らうのも自然の成り行きに感じられて、要するにそこで空気を読む側と空気に逆らう側とに分かれて対立して争うことも自然の成り行きに感じられるなら、そこから空気を読んだり空気に逆らったりせずに、どう振る舞えば良いかなんて考えてしまうことも自然の成り行きと言えるかどうかも、では読んだり逆らったりする空気とは何なのかと考えてみると、そんな空気が存在するわけでもないが、それが錯誤でもなく、錯覚でもなければ、そんな空気があるように感じられてしまうから、それを読んだりそれに逆らったりすれば、空気を読む側と空気に逆らう側で対立関係が生じると言えそうで、そうなるとそこで空気を読んでそんな空気に従った方が得か損か、逆に空気に逆らった方が得か損か、といった判断を迫られるかというと、それもそんな空気への関わりの程度にもよりそうで、そんなふうに考えてみれば、その場の空気を読んでそれに従うか逆らうか、空気を読んだ方が得なのか損なのか、空気に従った方が得なのか損なのか、空気に逆らった方が得なのか損なのか、それともそんな空気への関わりを薄めたり関わるのを回避した方が得なのか損なのか、といったそれぞれの分岐点で分かれ道が生じてくるだろうが、それが具体的にどういうことなのかも、それを意識できるかどうかも、それだけでは判断材料とはならないし、それ以前に大抵はどこでどう振る舞っても、結果的にそうなった後から振り返ってみるなら、そうなってしまったのが自然な流れのように感じられるだろうし、そうでなければ妙に何か特定の法や道徳などの社会の規範的なこだわりを意識してしまって、そういった規範に照らし合わせて判断すれば、その場の空気に逆らって何か倫理的な主張をするように仕向けられてしまって、そうなると空気を読んでそんな空気に従いながら行動したり言動を繰り出したりする輩から激しい反発を招いたり反感を買ってひどい目に遭うと、何やら殉教者のような境遇に陥ってしまったことが意識されるかも知れないが、実際に歴史に名を残すのがその種の殉教者的な存在だとしても、無名のその他大勢の空気を読んで世の中の流れに乗って活動している者たちにとっては、そんなごく一握りの殉教者的な存在に感銘を受けるとも限らないが、殉教者的存在とは、自らの信念・信仰・大義のために、迫害や苦難、死を受け入れてでもその理想を貫き通す人物であり、歴史や物語における典型例として、自身の信念を捨てるくらいなら死を選ぶ宗教的な殉教者や、国家や組織の変革に人生を捧げた政治的指導者、そして他者の救済のために自らを犠牲にする物語に登場する架空のキャラクターなどが挙げられるそうで、宗教的な殉教者の典型として挙げられる、キリスト教の聖ステファノは、キリスト教史上、最初の殉教者・プロトマルティルとして知られ、自らの信仰を公言し、迫害されて投石で処刑される際、神に迫害者たちの赦しを祈りながら亡くなったそうで、またパウロ三木と日本二十六聖人は、豊臣秀吉の時代、キリシタン禁教令により京都で捕えられ、長崎まで約千キロの道のりを歩かされた後に十字架にかけられた宣教師と信徒たちで、最年少は十二歳であり、過酷な状況下でも信仰を捨てず、称賛の歌を歌いながら処刑されたと記録されているそうで、政治・思想における殉教者の典型として、ジャンヌ・ダルクは、百年戦争時のフランスを救った国民的ヒロインだが、異端審問によって魔女の烙印を押され、火刑に処せられて、後に名誉回復が行われ列聖として崇敬され、祖国と神への忠誠を貫いた象徴として、現在も殉教者的存在の代表格とされているそうで、社会的変革と非暴力の殉教者として、ソクラテスは、ギリシアの哲学者であり、若者を堕落させ、国家の神々を信じていない、という不当な告発を受け、裁判で自らの哲学と真理を曲げず、死刑を受け入れ、自らの思想のために死を選んだ西洋哲学における最初の殉教者的存在とも言えるそうで、またキング牧師は、アメリカの公民権運動の指導者で、人種差別撤廃と平和的な平等を訴え続け、多くの迫害を受けながらも非暴力の信念を貫き、最終的に暗殺され、また救済と利他の殉教者として、コルベ神父は、第二次世界大戦中アウシュビッツの強制収容所で、餓死刑に選ばれた見知らぬ家族持ちの男性の身代わりとして、自ら進んで餓死室に入り殉死したカトリックの司祭で、他者の命を救うための究極の自己犠牲の典型として知られているそうで、他にも創作物のキャラクターで、自身の命を顧みず、弱き者を守るための盾となり、信念を貫いて戦うキャラクター像は、大衆文化において現代の殉教者的カタルシスを生み出す典型例であり、そんな殉教者的な存在からカタルシスを得ている者たちが実際に殉教者的な行為に及ぶわけでもないのも、それを欺瞞的な逆説と皮肉るのも酷な話だが、殉教という行為があまりに美化されることで、権力者や体制側にとって都合の良いイデオロギーとして利用される可能性を危惧するのも、日本で言えば戦時中の神風特攻隊を美化する風潮などがあったはずで、それに感銘を受ける側も、その行為がもたらす悲惨さや不条理さを理解しつつも、そこにある人間的な強さに惹かれてしまうという、身を引き裂かれるような葛藤や逆説的な心理を抱えているという側面があり、どのような状況や思想的な文脈で欺瞞的な逆説という言葉が使われるかによって、議論の焦点が大きく変わってくるそうだが、ジャンヌ・ダルクは、歴史的に宗教上の殉教者であると同時に、時代や立場によっては政治思想の殉教者としても扱われ、その評価は、彼女の信仰を重視するか、フランスという国民国家の誕生や象徴としての側面を重視するかで異なるそうで、カトリック教会における公式的な立場では宗教的な殉教者であり、1431年の異端審問では魔女とされて火刑に処されたが、死後に風向きが変わって、1456年に復権裁判で無罪が証明され、カトリック教会によって殉教者と宣言され、その後、1920年には正式に聖人となり、彼女はあくまで神の声や天使や聖人の啓示に従って行動して、それを貫き通したため、宗教的信念を貫いて命を落とした殉教者と位置付けられるそうだが、一方で、近代以降はフランスの国民統合の象徴や愛国心の殉教者として政治的に利用されることが多々あり、十九世紀の歴史家ミシュレなどの影響により、彼女は神の意志を信じて外国からの支配を退け、フランスの祖国を救った民衆の英雄や国民国家のシンボルとして神聖化され、ナポレオン以降、王党派や愛国主義者などの右派は、彼女を王権の伝統と守護者として称え、共和派などの左派は、第三身分の民衆の代表や自由思想の代弁者として扱うなど、時代ごとの政治的主張のシンボル的な殉教者として利用されてきた歴史があり、彼女自身は当時のシャルル七世の王位継承問題という政治的・宗教的争いの最中におり、敵対するイングランドとブルゴーニュ派によって政治的な思惑から異端・魔女として裁かれ、この観点で彼女は、権力闘争に巻き込まれて政治的に処刑された人物という見方も成り立ち、ジャンヌ・ダルクは、建前的には、神への絶対的な信仰を貫いた宗教的殉教者でありながら、後世の人間によってフランスのナショナリズムや各々の政治思想を正当化するための殉教者という役割を担わされてきた、多面的な存在だと言えるそうだが、例えばカトリックの教会関係者という立場で、そっち方面の職場環境や生活環境の中で生活する割合の大きいフランス周辺に住んでいる人なら、やはり建前上は、ジャンヌ・ダルクを宗教的な殉教者として取り扱う可能性が高くなりそうだが、日本に住んでいるキリスト教とはあまり縁のない西洋の歴史好きの人なら、単なる歴史上の人物以上でも以下でもない存在に過ぎないだろうし、別にソクラテスのように哲学的に際立った思想的な特徴もなければ、例えば天草四郎のような存在として戦争の際に味方の兵士の士気を鼓舞するために神聖性を帯びたシンボルとして担ぎ出された象徴的な存在なんじゃないかと想像したくなってしまうわけだ。


6月4日「政治経済学とは」

 ルソーは『百科全書』の項目「政治経済学」において、家計(家政)と国家経営を明確に区別し、国家の目的は「一般意志」に従って人民の幸福と自由を実現することであると論じたそうで、国家を統治者と人民からなる一つの生命体と見なし、その行動原理を「一般意志」と定義し、政府の役割は、この一般意志に従って法を執行することで、国家運営(政治経済)において最も重要なことは、常に公共の利益を目指す一般意志に全ての市民が従うことだと説き、一般意志を機能させるためには、市民一人ひとりが道徳的な「徳」を持ち、「祖国愛」を抱くことが不可欠であるとし、ルソーは極端な貧富の差を「最大の悪」と批判し、政府の重要な責務として、富の極端な不平等を防ぎ、租税などを通じて市民の平等を保つべきであると主張し、この『百科全書』の論考は、後の主著『社会契約論』の基礎となる政治哲学の原型となっているそうだが、もっともらしいことを言う奴の典型例みたいな内容で、カントやプラトンなどと共に、現代の良識派や批判派などにも多大な影響を及ぼしていると言いたくなってしまうが、そんなルソーは絶対王政や封建社会を批判した思想家として知られ、その過激な変革志向や抽象的な理性主義が、後の近代保守主義の代表者たちから強烈な批判と攻撃の対象となり、近代保守主義の創始者エドマンド・バークは、個人の抽象的な理性を過信し、伝統や慣習を破壊して社会を急進的に作り替えようとするルソーの思想を批判し、ルソー主義こそがフランス革命における暴力や恐怖政治の元凶であると断罪し、二十世紀以降の保守派やリベラルの論者からも、ルソーの唱える「一般意志」の概念が、個人の自由を国家という全体に埋没させ、民主的な独裁である全体主義につながる危険性があると批判されてきて、ルソーの存命中にも、『社会契約論』や『エミール』における既存の教会や体制の批判が問題視され、当時の保守的な政治体制であったフランスやジュネーヴの政府から発禁処分や逮捕状を出され、亡命生活を余儀なくされたそうだが、一方で、ルソーの政治思想そのものは、古代ローマや彼の祖国ジュネーヴの古き良き共和性を理想としており、近代化や商業化による道徳の退廃を嫌うという非常に保守的・復古的な側面も持っているそうで、そのため、純粋な革新主義者というよりは、失われた古い価値に固執した保守的な思想家という現代の学術的な見方もあり、これを現代に当てはめると、高市やその取り巻き連中や、維新や参政党などの政治家たちや、いわゆるネトウヨたちを、エセ保守と断罪する古き良き右翼たちにも通じるところもありそうだが、微妙にそういう対立軸とはズレそうな重農主義者たちが、合法的な絶対君主制・専制主義を理想としたのは、人為的な政策や議会の介入を排除し、自然の法則にかなった自由放任経済をトップダウンで強力に推進するためだそうで、彼らは自然の理にかなった経済法則こそが社会を繁栄させると信じていて、この理想を実現するには、利害関係で対立しがちな議会や多数決よりも、全知全能の正しい啓蒙君主がトップダウンで統治する方が合理的だと考え、当時の絶対王政下では、商工業を保護・独占する重商主義が主流であったのを、彼らはこの介入こそが経済を歪めると批判して、強大な権力を持つ君主の力によって、市場の自由放任・レッセフェールを強制的に実現しようとし、富の源泉は農業の生産物であると考えた彼らは、土地所有者である地主が経済的な基盤を握るべきと考え、この秩序を守るためには、強力な王権によって私有財産制度が保証されている必要があり、重農主義における専制とは、王の気まぐれな独裁ではなく、自然法則に基づいた法の支配を行う強力な君主制=合法的な専制主義を意味し、経済的な自由(自由放任)と政治的な強制力(専制君主)を両立させようとしたのが重農主義の大きな特徴だそうだが、そういう意味ではルソーの思想と比べて、重農主義は現代では通用しない過渡的な時代がかった思想だと捉えられ、富の源泉は農業生産のみであるという点では現代の経済には適合しないが、国家が経済に介入する重商主義を批判し、自由放任や自由貿易の重要性を初めて体系的に提唱した点で、近代経済学の土台となった重要な思想で、経済を生産から消費までの一連の循環として捉える視点は、マクロ経済学の原型となり、富の源泉を土地と見なし、純生産物として真に価値を生み出せるのは農業だけであると主張したことによって、単なる商取引における交換差益ではなく、生産そのものに目を向けるきっかけを作り、創始者のケネーの『経済表』は、農業で生み出された富が社会の生産階級、不生産階級、土地所有者階級などの各階級をどのように循環するかを初めて図解したもので、この分析は経済をバラバラの取引ではなく、相互に連関する全体システムとして捉える近代経済学の先駆けとなり、経済には神や自然が定めた自然秩序があり、政府が介入するよりも個人の自由な経済活動に任せる方が富が最大化されると説き、この考え方は後のアダム・スミスらに引き継がれ、アダム・スミスは重農主義の理論を高く評価し、その自由貿易の精神を取り入れ、重農主義の生産と流通に関する視点は、スミスの『国富論』をはじめとする古典派経済学の骨格形成に決定的な影響を与え、重農主義は農業だけが富を生むという点で行き詰まったが、経済活動の背後にある法則性を解明し、国家による統制からの脱却を主張したことで、政治経済学を一つの独立した学問へと押し上げたそうだが、フーコーによると、十六世紀、十七世紀、さらにはそれ以前から、十八世紀の半ばに至るまで、課税、関税率、製造法の規則体系、穀物価格の規制、市場の実践の保護と体系化といったものに関わる一連の実践が存在していたが、こうした全ては、主権的法権利、封建的法権利の行使として、慣習の維持として、国庫にとって有効な富裕化の手法として、しかじかのカテゴリーの臣民の不満による反乱を防ぐための技術として考察されていたが、結局そうした全ての実践は、様々に異なる出来事および様々に異なる合理化の原理から出発して考察されていたのに対し、十八世紀の半ば以来、関税率から課税や市場と生産の調整などへと向かうそうした様々な実践の間に、考察され熟慮された一つの整合性を打ち立てることが可能となり、この整合性を打ち立てるのが、諸々の理解可能メカニズムで、そうしたメカニズムによって、様々に異なる実践とその諸効果とは互いに結びつけられて、その結果、そうした全ての実践が良いものであるか悪いものであるかを、法や道徳原則に基づいてではなく、それ自身が真と偽との分割に従うことになる諸命題に基づいて判断することが可能となり、したがって、統治活動の一面が丸ごと新たな真理の体制へと移行するということであり、この真理の体制は、以前に統治術が提起しえたあらゆる問題の位置をずらすという根本的効果をもたらすことになり、かつての問題とは統治者が、私は道徳の法、自然の法、神の法などに十分に適合的なやり方で統治しているだろうか、という問いで、それは統治の適合性の問題であったのに対して、国家理性の時代、十六世紀および十七世紀において、問題は、十分なだけ統治しているだろうか、すなわち、国家をそのあるべき姿にまでもたらすため、国家をその最大の力にまでもたらすために、十分なだけの強度とともに、十分根本的に、十分細部にわたって統治しているだろうか、というものになり、そして今や、問題は、過大と過小との境界において、統治の操作に内在的な必然となる事物の自然本性が、私に対して定める最大と最小の間で、私はうまく統治しているだろうか、という統治の自己制限の原理としての真理の体制の出現であり、これは現実として存在しないもの、真と偽の正当な体制に属するような形では存在しないものを、現実の中で印づけて真と偽の正当な体制に従わせるという、この契機こそ、フーコーが扱っている唯名論的な事柄において、政治と経済とからなる非対称的両極性の誕生を印づけるもので、政治と経済、これらは、存在する事物でもなければ、錯誤でもなく、錯覚でもなく、イデオロギーでもなく、それらは存在しない何かではあるけれども、しかし、真と偽とを分割する真理の体制に属するものとして現実の中に組み入れられている何かなのだそうだが、なるほどルソーがそれを法や道徳に基づいてもっともらしく語ってみせたから、当時の支配体制から激しい拒否反応を伴って弾圧の対象となったのかと考えてみると、今の時代でも左翼リベラル勢力が国家主義的な支配体制から激しい拒否反応を伴って弾圧の対象となってしまう経緯がわかるような気がするわけだが、今のところはそれが自分の勝手な印象に過ぎないので、本当のところは何とも言えないわけだ。


6月3日「彼らの狙いという想像物」

 社会の中で人や集団が行う活動に関して、その外部から課される法規制の類いと内部で行われる調整のどちらもがその活動を律する効果がありそうだが、律するとは、一定の基準を設けて、物事や人の行動をコントロール・判断することを意味し、外部からの他律と内部の自律が組み合わさって作用すると考えれば良さそうだが、何か目的や目標があるから行動を律する必要に迫られると考えれば、それが何なのかといえば、意外とはっきりとは目的や目標が定まらないわけではなく、活動に関わっている者たちが意識している目的や目標とは違うところで、それとは別の目的や目標が集団意識の中で形成されるわけでもないのだが、別に何かの罠であるわけでもないのに、人が自身の目的を自覚しそれを遂行しようとしたり、また目標を達成するために活動していくと、必ずそうなるわけでもないのだが、それも目的や目標の具体的な中身にもよるのだろうが、自らを律しようとしたり、あるいは集団を律しようとしたりする際には、その目的や目標に合わせて律しようとするから、実際にそれに合わせて一定の傾向が生じてくるわけだが、そんな傾向から目的や目標が何なのかが外部からも窺い知れるようになると考えれば、そうやって外部から観察している者が、観察対象となっている人物や特定の集団が、どんな意図や思惑や意向を抱いたり伴いながら活動しているのかが推測することができるというか、それが推測している者の思い違いや勘違いな場合もあるにしても、ああ、こいつは、こいつらは、これこれこういう狙いで動いているのかと推測したくなってくるわけで、そんな推測が合っているか違っているかではなく、それが根拠の確かな推測だとは思えないなら、根拠もないのに勝手に想像するのが憶測となって、自身の言説に合うような、あるいは自身の決めつけを正当化するような状況証拠の類いを並べて、これはこういうことなんだと断言したくなるだろうから、そいつの勝手な憶測に基づいた断言の類いを信じるのも愚かしいと思うなら、そういった推測や憶測の類いを真に受けてはいないことになってしまうのだが、もちろん客観的な事実やデータに基づいて推測しているつもりであるのがはっきりしていれば信じたくもなってくるのだが、それも言説の中の断言を裏付けるような事実やデータが示されるのだろうから、そういうことだと思っておくしかないわけで、そんな断言を伴った言説が何かの創作的な物語の構造に似ているとすれば、なるほどそういう物語から影響を受けてその種の言説が構成されているのかと、それも勝手にそんなふうに想像したくなってしまうのだが、またずいぶんと回りくどいことを述べてしまったが、それが邪な思惑が絡んでその種の言説が構成されているとは思えないわけだから、良かれと思ってそんな断言を繰り出すわけだろうから、それはそれとしてそういうことだと受け止めるしかなく、そういうことを述べたいんだから、そのまま放っておけばいいんだろうが、そんな断言を繰り出している者も自律的にも他律的にも物語の紋切り型的な型枠に意識や思考を囚われながら、その型枠に基づいた言説を構成しているわけで、それを馬鹿にしたり貶したりする筋合いもなければ、やはりそういうことだと受け止めるしかなく、その種の言説に出くわすと、いつものように昔読んだ蓮實重彦の『小説から遠く離れて』が思い出されて、なるほど果たして自分が述べていることはその種の紋切り型的な物語からの影響を振り切っているのかどうかも、自分では気づかないから、その辺のところはよくわからないのだが、他人の言説なら、ああそういうことか、と勝手にそう決めつけたくなってしまうわけで、要するにそれが彼らの狙いだとはっきりわかったとしても、彼ら自身もそういう狙いで活動しているとしても、彼らがそういう狙いで動いていることが状況証拠から明らかだと説明して、そんな説明がかなりの信ぴょう性を伴ってもっともらしいと感じられても、確かにそういう言説のレベルではそういうことなんだろうが、それはそういうことなんじゃないかで済ませてしまっても構わないのだが、彼らをそういう活動に駆り立てている他律的かつ自律的な要因が作用したり影響しているわけで、そんなことを知ったところで何がどうなるわけでもなく、言説のレベルで話の内容が興味深いならそれでいいんじゃないかと思っておいても構わないのだが、その種の物語に騙されてはならないというわけではなく、仮に物語通りの説明を信じても騙されていることにもならないんじゃないかとも思われるのだから、そういうことではないと無理に思わなくても構わないのだが、そこでも騙されるか騙されないかが問題となるわけではなく、エンタメ的なレベルで物語を楽しんでいるなら、そういうことでしかないと思う一方で、ある特定の物語の傾向に囚われた者たちの言説から窺い知れるのが、なるほど批判する者たちと批判される者たちとの間で共有されている言説空間であることも、確かな実感を伴ってそう思われるのだから、そういう言説的なフォーマットに則って言説を繰り出している限りは、その種の言説空間の中に意識や思考を囚われていることになりそうで、そこでもそれの良し悪しとは関係のないところで自律的かつ他律的な制御を受けていることになると事態を捉えても構わないかどうかも、そう捉えたところで何がどうなるわけでもないと思うなら、何かそこからそんな状況に対する批判的な言説を構成する気にもなれないわけで、その辺が微妙に焦ったいというか心苦しいというか、何とも言えない残念な感覚に囚われるしかなく、それをうまく表現することができないまま、何と言ったらいいかわからなくなって途方に暮れてしまい、そういう物語に囚われた者たちによってメディア空間が直接運営されているわけではなく、間接的に影響を及ぼされているに過ぎないにしても、それにしても、それを何かの末期的な事態だと思ってしまうのも、ちょっと違うことは、これまでの経緯から考えるならそういうことではなく、後から振り返ってみれば、ちょっとした紆余曲折を伴った何かの通過点に過ぎないのだろうが、ともかく彼らと一緒になって批判する側へと身を投じることもなく、また陰謀論的な黒幕探しに向かうわけでもないから、そんな連中とは距離を置いて、いくら他律的な効果を狙って法整備や制度創設ばかりをやったところで、それに対する自律的な抵抗や反発も考慮に入れながら活動するしかなく、その自律的な抵抗や反発というのも、本当に自律的なものなのかどうかも、他でもそのような活動が伴ってくるなら、自身を取り巻く自然や社会からの作用や影響でそうなっているとしか考えられないのだが、そんな作用や影響を受けながらその人にとって都合の良いことだけ述べる権利が当然その人にあると考えておけばいいのだろうが、それを言うなら、今回の多くの者たちを巻き込んだメディア的な盛り上がりも、よくできた物語であることも承知しておかないと、それが紛れもない確かな事実や真実を含んでいるとしても、やはりよくできた物語なのだから、何となく警戒してしまうわけで、別に騙すつもりもないのだろうし、騙されている感覚もないのだが、どうも後から梯子を外されるとも思えないが、騒いでいる皆が認めたくないことが進行中であるような感覚に囚われていて、彼らが批判している対象がそれをやるに当たって主体的な役割を担うわけでもないのだが、彼らが連日のように批判をやり続けなければならない境遇へと追い込まれている感覚もないだろうが、それに対して批判対象となっている者たちの方でも、彼らの批判疲れを待って反撃に出るつもりも今のところはなさそうであるにしても、何かそれに対して静観するにとどめているように感じられる自分自身も、そんなこととは無関係な方面でやらなければならないことがあるらしく、それに関して目的や目標に一応は囚われていて、今もそれをやり始めている最中なのかも知れないが、それが自分にとっての目的なのかどうかも、目標達成のために活動中なのかどうかも、そう思っているつもりではいるのだが、目的を遂行できなくても、目標達成とはならなくても、そんなことはどうでもいいような世の中の成り行きの中で生きているような気がしてならないわけだから、どうもそれも身勝手な勘違いや思い違いの類いなのかも知れないし、しかもその種の勘違いや思い違いに囚われているから、今もこうして何か述べているのではないかと、こんな現状を疑っているわけだ。


6月2日「大衆が渇望するディストピア的な世界」

 現状では世界的に立憲民主主義の限界が明らかになりつつあると理解しても構わないのかというと、ファシズムが全盛だった昔からそうなのかも知れないし、今でもそうなのかも知れないが、どうもそういう事態の捉え方では済まないような世界情勢であり、それに呼応した国内情勢なのかも知れず、それに関して自分は民主主義とファシズムの対立は偽りの対立だと考えているのだが、民主主義とファシズムの対立は、歴史的および政治理論的な観点から、本質的な対立であるとされる一方で、民主主義のプロセスそのものがファシズムを生み出す危険性を孕んでいる、という意味で、根源的には地続きであり、それが偽りの対立、あるいは同床異夢である、という見方もあるそうで、政治制度や人権の観点からは、両者は両立しない正反対の体制と位置付けられ、民主主義は、国民主権、基本的人権の尊重、権力分立、言論の自由などを基盤として、多様な意見の寛容と合意形成を重視する一方で、ファシズムは、独裁主義、国家至上主義、全体主義を掲げ、反対派の徹底した弾圧、個人の自由よりも国家の利益や繁栄を最優先する、という根本的な違いがあるように考えられるが、一方で、歴史学や社会思想史の観点からは、両者の境界線が曖昧になるケースが指摘され、デモクラシーの暴走という観点から、ファシズムは、議会制民主主義という合法的なシステムや、ポピュリズムという熱狂的な大衆の支持を足掛かりにして台頭することがあり、政治学者のカール・シュミットなどの議論に見られるように、民主主義の平時とファシズムの非常時における独裁は、危機に際して入れ替わる表裏一体の統治形態と捉えられることもあり、これらを踏まえると、この対立は、政治理念・制度のレベルでは明確に異なる対立であるが、大衆の熱狂を源泉とする点や統治の技術的な側面においては、決して無関係ではなく、民主主義の内部にファシズムの種が内包されている、二面性をもつテーマとして議論されているそうだが、普通に考えてなぜ非常事態になるのかといえば、経済がおかしくなるからで、経済がおかしくなって社会が動乱状態となれば、その機会を捉えてファシズム勢力が台頭してくると考えれば良さそうだが、そうしたファシズム勢力が戦争を起こすことによって事態を乗り切ろうとするのも、これまでの歴史的経緯から明らかとなっていると考えるなら、ファシズム勢力が政治的な主導権を握ったら、戦争が近いと予想したくなってしまうわけだが、現状の事態はそんな単純なことではないとしても、そう語るともっともらしく感じられるから、戦争反対とセットになってファシズム批判の言説がメディアを通じて出回ることが多いのだろうが、ではなぜ経済危機などの社会の動乱時にファシズム勢力が民衆の不満や期待を糾合できるのかといえば、経済危機を政治の力で立て直せると大衆に幻想させようとするからで、実際に政治勢力がそうした幻想を社会に振り撒くわけで、しかも必ずしもうまく行かないから、既存の民主主義や議会政治が機能不全に陥る中、強力な指導力で迅速な解決策を提示し、さらに過激なナショナリズムによって国家への帰属意識や社会変革の幻想を振り撒くのもファシズム勢力の特徴と言えるだろうが、実際にも第一次世界大戦後の混乱や世界恐慌による経済危機や社会不安が続く中、議論ばかりで決定が遅い議会制民主主義に対して、民衆の間で失望が広がって、カリスマ的な指導者が強力なリーダーシップで現状を打破しているように見える姿が、救世主として大衆の目には魅力的に映り、失業やインフレーションに苦しむ大衆や中間層に対し、雇用や社会の安定を約束する具体的な政策やその幻想を提示し、生活不安を取り除こうとし、また民衆の怒りや不満の矛先を特定の少数派や外国の脅威に向けさせることで、社会問題を単純化し、国民の間に敵に対する共通の連帯感を生み出し、さらに敗戦や不条理な国際条約などによって傷ついた国民のプライドを刺激して、民族的な優越感を煽ることで、国家と個人を一体化させ、国民全体に生きがいや誇りを取り戻させようとするなどの、過去のありがちな歴史的経緯が今の世界でも通用しているのかどうかも、それ以外にも色々とファシズム台頭の要因がありそうだが、その種の現実から離れて、フィクションに暗黒世界や管理社会などのディストピア的な設定が多いのは、現在の現実社会が抱える問題や不安を極端な形で描き出すことで、強いメッセージや教訓を伝えるのに適しているからだそうで、圧倒的な逆境が物語のドラマを生み出す理由でもあるそうで、それが現実社会への風刺と警告になり、現在の政治的抑圧、監視社会、テクノロジーの過剰な進歩、環境破壊といった現代社会の否定的な傾向をフィクションの中で極限にまで推し進めることで、このままでは現実がこうなってしまうかも知れない、という強い批判と警鐘を鳴らすことができ、平和で秩序あるユートピア的な物語の設定では、大きな事件や対立が生まれにくい側面がある一方で、ディストピア的設定では、絶対的な権力や極限状態が存在するため、主人公がそれに立ち向かったり、理不尽な状況下でどう生きるかを描くことで、非常にエモーショナルで魅力的なストーリーが展開されやすくなって、読者や視聴者は安全な日常にいながら、絶対に行きたくない、あり得ない世界を疑似体験し、絶望的な状況を乗り越える主人公の姿を見ることで、スリルや開放感、カタルシスを得ることができるそうだが、フィクションにおいて民主主義がうまく機能している世界が描かれにくいのは、対立と葛藤こそが物語の原動力であり、完成された平和なシステムはドラマを生みにくいからだそうで、民主主義の理想である合意形成や平和な政権交代は非常に合理的だが、フィクションにおいては停滞や波乱に欠けるため、退屈な描写になりがちで、独裁者や絶対君主に対抗する選ばれし勇者が登場する方が、個人の成長や打倒すべき明確な悪、劇的な変化を描きやすく、また皇帝が支配する帝国のような階層社会は、豪華な城や壮大な軍隊などの明確なヴィジュアルを持ちやすく、世界観の構築が容易である一方、逆に民主主義が描かれる場合には、機能不全や崩壊の危機にスポットライトが当たり、腐敗した政治家、多数決の暴走、世論の分断などを描くことで、権力の恐ろしさや冷酷卑劣な狡猾さに直面した登場人物が、理想と現実のギャップに悩み苦しむような政治的なジレンマを際立たせて、民主主義の暗黒面を強調できるわけで、そんなわけでフィクションにおいて民主主義がうまく機能する社会が描かれにくいのは、民主主義そのものに魅力がないからではなく、物語の推進力となる葛藤・ドラマを生み出しにくく、映像作品や小説などの劇的な物語が成立するには、明確な対立、困難な決断、劇的な変化といった要素が欠かせず、民主主義が理想的な形で機能している社会が抱える本質的な性質は、これらと相反することが多いそうで、民主主義は対話、妥協、合意形成などの退屈な手続きを踏むプロセスを重んじ、これらの要素は現実の政治としては健全で重要だが、フィクションのエンターテインメントとしては、進行が遅い、地味である、と受け取られがちで、例えば独裁制や帝国主義であれば、圧政者を倒すという明確なゴールを設定できる一方、民主主義における問題は、有権者の無関心、社会の分断、制度の不備など、構造的で地味なものが多く、誰か一人の悪人を倒せば問題が解決するようなカタルシスを得にくく、現状では高市をその種の悪人に見立てて、SNSなどのメディア上では盛況となっているわけだが、物語では一人の英雄やカリスマ的な指導者が困難を打破する展開が好まれて、トランプがそれを目指しているどうかも気になるところだが、しかし、権力が分散され、多数決や合議制で物事が決まる民主主義のシステムは、個人のスーパーヒーローの活躍を描くスペースを狭めてしまい、このようにして、民主主義が完璧に機能している社会は、平和で安定している、ということが同時に、ドラマが生まれにくいため、あえて描かれる場合には、その民主主義がいかにして機能不全に陥るかや、機能しているように見えて、その裏に隠されたディストピア性といった問題提起を伴うことが多くなるそうだが、世の中の一般大衆が民主主義的な政治に退屈しきっていて、無意識のうちにディストピア的な世界になるのを渇望していると想像してみると、そんなことはないと誰しもが建前のレベルでは否定するところかも知れないが、最近話題のピーター・ティールの予言なども、意外とその種の大衆の願望と同期しているのかも知れない。


6月1日「二つの自由主義」

 一般的にそう呼ばれているかどうかは何とも言えないところだが、自由主義には二種類があるらしく、よく言われるのが、良い意味で使われるリベラルと悪い意味で使われるリバタリアンだが、自由の捉え方に関して、自由至上主義がリバタリアンで、自由主義のリベラルとの違いは、個人の自由を守るために政府が介入すべきか否か、という国家の役割に対する考え方に違いがあるらしく、どちらも個人の尊重を重視するが、リバタリアンの方は、政府の介入は悪と考え、徹底した小さな政府を主張し、自己責任に基づく完全な自由競争を重視して、政府による規制や税金の徴収を最小限に抑えるべきだと考え、経済活動だけでなく、思想やライフスタイルにおいても個人の選択の自由を最大限に尊重するのに対して、リベラルの方は、すべての人が平等に自由を享受するためには、政府が積極的に介入・是正すべきだと考え、社会的弱者へのセーフティネットや富の再配分・福祉や累進課税などによって、差別禁止などを推進し、機会の平等を重視し、国家の力で社会的な不平等を解決することで真の自由が守られると考えるそうだが、これはリベラル側から自由主義の悪い面を担う役回りとなる設定として、リバタリアンという概念が導き出されたように感じられるが、実際にはそうではないようで、リバタリアニズムは、リベラリズムの悪い面という意図的な設定で生まれたものではなく、むしろ古典的自由主義を極限まで突き詰めた結果として独立した思想体系であり、リバタリアニズムがリベラリズムの批判対象となりやすい点は、個人の自由と自己責任を至上とするため、弱者への公的支援や福祉国家的な再配分を個人の権利侵害と見なす傾向があることと、政府による規制を最小化し、自由市場に任せる傾向が、結果として、この一切の強制を排除し、完全な自己責任を求める極端な姿勢が、機会の平等や福祉国家を重視するリベラル的な立場からは、格差の固定化や社会的弱者の切り捨てを正当化する冷酷な思想として批判される構造を生んでいるそうだが、ここまでの説明によれば、リベラルが善でリバタリアンが悪というレッテルを貼りやすいのだが、そういうわかりやすい善と悪とに切り分けやすい自由の捉え方とは別の面から二つの自由主義を捉えると、一つ目は人権から出発して主権的権力を創設しようとする自由主義で、国家や権力を先在のものとせず、個人の人権である自然権を保護するための手段として国家や政府などの主権的権力を社会契約によって構築しようとする近代立憲主義や社会契約説などの政治哲学から導き出されるもので、この系譜の自由主義は古典的自由主義と呼ばれ、国家が存在しない自然状態において、すべての個人が生まれながらにして生命・自由・財産などの不可侵の権利である人権を持っていると考えるが、自然状態では人権を守るための客観的なルールや裁判官がないため、権利が侵害される危険があり、そこで人々は、自らの人権をより確実なものとして相互に保障するため、契約を結んで主権的権力を担う国家を創設し、この権力は人権を守るという目的のために作られた手段にすぎないため、創設された国家主権には厳格な限界が存在し、目的を個人の自由と権利の擁護とし、そのための手段として、権力の一極集中を防ぐために、三権分立などの権力の分立を図り、そんな国家への抵抗権として、国家が人権を侵害するような場合には、主権者である国民は政府を改廃する権利を持つとされ、この人権先行・権力創設型の自由主義を体系化した哲学者たちには、主著の『統治二論』で、人権、特に財産権を保護するために、人々の同意に基づいて社会契約によって統治権力が創設されることを論じた、近代自由主義の父と呼ばれるジョン・ロックや、『社会契約論』で、人民の各個人が公共の利益を担う存在として主権者となり、自らを統治する人民主権の政治的権力を創設するメカニズムを提示したジャン=ジャック・ルソーや、国家を権利保障のために結集した人々の集合と捉え、法による支配である立憲主義を構想したイマヌエル・カントなどがいて、この考え方は、現代の近代立憲主義の根幹となっていて、国家は主権や統治権力を持つが、それはすべて基本的人権の尊重という土台の上に成り立っており、主権行使も人権を侵害することは許されないという制約を設け、この関係性は日本国憲法にける三大原則である、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義にも明確に受け継がれているそうだが、現状の世界情勢や国内情勢を見渡すと、何か絵に描いた餅のような理想論だと受け止められているのではないかと感じられるわけで、これに対して二つ目の自由主義は、統治的実践から出発して、有用性という観点から統治の能力の限界と諸個人の独立圏とを定義づけようとする、ラディカル・功利主義的なもので、この二つは互いにはっきり区別されるものではあるが、互いに排他的であるわけではないが、二つ目の自由主義は、自由主義的統治性・ガバメンタリティの核心的な問題意識から生じてきて、近代の自由主義は、生まれながらの自然権として自由が与えられているという伝統的な前提から離れ、むしろ統治という実践において、統治し過ぎることへの批判から出発し、自由主義において国家の介入は、統治される者の自発的な活動を阻害し、統治そのものの目的である、富や人口の繁栄などの社会的な有用性を損なうという観点から制限され、つまり、どのように統治すれば最も有用か、また統治はそもそも何のために必要かという計算と合理性の中から、統治能力の限界が逆説的に導き出されることから、個人の自由や権利は天賦の権利として先験的に与えられているだけでなく、統治にとって有用な存在として個人を守るためのメカニズムとして定義され、フーコーの講義『生政治の誕生』での議論では、国家は市民社会という相関物を生み出して、その中で活動する諸個人の利益の独立性を確保することが、結果として統治全体の最適化につながると考え、この自由主義は、時代と共にクラシックなものから、市場競争を社会原理とする新自由主義へと変容し、現在我々が直面している統治のあり方にも大きな影響を与え続けているそうで、また自由と安全の確保、両者によって要請される制御手続きと国家介入の諸形式こそが自由主義の逆説をなしていて、自由主義が抱えるこの根本的なジレンマは、国家権力を制限して個人の自由を守ろうとする本来の目的が、裏腹に個人の生命や財産を保護するための統制や介入を国家に要請してしまうという、近代政治哲学の核心を突く鋭い洞察であり、この自由主義の逆説は、トマス・ホッブスらに見られるように、人は外部の脅威に怯える自然状態では本来の自由を行使できないから、個人の自由を保障するためには、まずは国家が法と秩序によって物理的な安全を担保しなければならないというジレンマがあり、安全を確保し、かつ市場の独占や格差などの暴走を防ぐためには、規制や再配分といった国家の介入が不可欠だが、国家の権力の役割が拡大すればするほど、本来守るべき個人の自由が国家によって侵されるリスクが国家の管理社会化と共に高まるわけで、十九世紀の自由主義から出てきた夜警国家論は国家の不介入を理想としたが、資本主義の発展に伴う貧富の格差拡大などの社会的矛盾を解決するため、二十世紀以降の福祉国家的自由主義は、結果の平等をある程度担保するため積極的な介入へと舵を切ったこの変容そのものが逆説の証明と言えるが、自由主義は常にどこまでが個人の自由で、どこからが安全のための国家介入かという境界線の引き直しを迫られ続けているそうだが、それを国家のジレンマと捉えること自体が、古典的自由主義論の限界から導き出された思考なんじゃないかと考えたいわけだが、それに関してはまだ自分自身の考えがまとまっていないので、再度フーコーの講義『生政治の誕生』を読んで、何かそれとは違う傾向の認識が導き出されるなら、それを示してみようと思う。