彼の声1742026年5月19日「封建制にはなかった官僚制」現状の何が間違っているのかという問いに対して、そもそも間違っているわけではなく、世の中がこうなっていることの前提条件があるわけで、その前提条件には歴史的経緯や過去の成功体験、暗黙のルールとなっている世の中の常識、現状の社会を構成する構造的な利害関係があり、これらが現状に深く絡んでいていて、これらを客観的に紐解くことで、現状の課題の本質が見えてくるはずだが、現状の仕組みやシステムは、特定の時代背景や環境下で最大の効果を発揮するように設計されたものが少なくなく、そこから時代が変化しても、いったん構築されたインフラや評価基準がそのまま維持されていることが、現状とのズレを生んでいて、世の中の大多数の人が、それを当たり前のこととして疑わずに共有している前提が世の中の常識を構成していて、この常識やルールは社会の秩序を保つために機能する一方で、時に新しい発想や異質な意見を排除してまう構造的な制約にもなりうるから、現状のシステムによって利益を得ている層や、現状を変えることで生じるリスクを避けたがる人々の現状維持バイアスに囚われた心理が働いて、根本的な見直しがされにくく、何が間違っているのかと問い直しても、現状を前提とする利害関係の調整がつかず、結果的に対症療法的な対応にとどまることは多々あり、今ある状態がなぜそのようになっているのか、その基盤を一つずつ問い直すことは物事の本質に迫る重要な行為だが、現状を成り立たせている前提条件そのものを客観的に見直すためには、常識に囚われない態度や思考が必要であるものの、大半の人々はそれと自覚することなく意識が常識に囚われてしまっているから、現状を構成する前提条件に囚われた思考から脱するのは困難であり、だから現状の何が間違っているのかと問うこと自体、世の中の常識となっている暗黙のルールを疑う姿勢になれなければ、それが意識の中で先入観や固定観念や偏見を構成している限りは、依然として当たり前のことを当たり前とは考えない態度にはなり得ないという困難さを抱えているわけで、実際に何やら現状に対して批判的な言説を構成するために、テクノ資本主義という言葉が流行っているらしく、GAFAMなどの巨大IT企業による富の独占や監視社会化を批判的に捉えるための概念で、ヤニス・バルファキスの『テクノ封建制』などで、GAFAMがデジタル空間の領主のように振る舞い、ユーザーを農奴のように囲い込んで搾取していると批判し、テック・エリートなどの富裕層が気候変動などの危機から自分たちだけが逃れるために、特権的なテクノロジーを独占しているという言説が展開され、社会の構造的課題として広く警鐘が鳴らされているそうだが、批判に使われるテクノ資本主義という呼称が、自家撞着と指摘される背景には、資本主義が依存する市場の自由競争と、テクノロジーがもたらす情報の独占と中央集権化という二つの原理が根本的に矛盾しているという構造的な問題があり、古典的資本主義の前提は、多数の企業が公正なルールと価格競争の下で市場に参加し、需要と供給のバランスによって富が生み出されると仮定している一方で、テクノロジーの現実がもたらしているのは、検索エンジンやSNSなどのプラットフォームを握った少数の巨大IT企業がデータとネットワーク効果を独占していて、この結果、新規参入が阻害され、自由競争という資本主義の根幹が機能しなくなり、また資本主義の前提として、個人の財産や資産を明確に区分し、それを保護することで市場のインセンティブを高めるが、テクノロジーの現実がもたらしているのは、私たちの日常生活、行動履歴、感情といったデジタル・コモンズをデータとして抽出し、私企業が収奪・私有化していて、公的なものが自動的に私的な利益に変換される点が、近代の財産権の概念と矛盾を引き起こしていて、さらに資本主義の前提として、資本と労働を投下して財やサービスなどの新たな価値を生み出して、社会を豊かにすることを目指すが、テクノロジーの現実がもたらしているのは、アルゴリズムによる自動化が進むと、労働者の賃金よりも資本を持つ側の取り分が極端に増大し、また、価値の創造が、人間の生産的な労働ではなく、人々の関心を奪って、広告に誘導することに依存するようになり、資本主義本来の社会貢献的な意味合いが失われ、このように、テクノロジーの独占性や中央集権的な性質は、本来の資本主義が目指す自由や公正な分配と本質的に対立するため、この二つを結合させたテクノ資本主義という名称は、理論的な矛盾・自家撞着を孕んでいると批判されるが、以上の言説の中で、〜の前提、本来の〜、という言語表現に注目すれば、前世紀末から始まったIT革命によって、〜の前提や、本来〜が変わったにもかかわらず、未だに〜の前提や、本来の〜にこだわっていること自体が、何やら症候的な印象を受けるが、要するに従来の資本主義から連想される先入観や固定観念や偏見に囚われることによって、もっともらしい論理や理屈を導き出せると考えたくなってしまうわけで、IT革命によってその前提条件が変わったのに、未だにそれ以前の前提条件にこだわっているから、批判が可能になるという解釈で構わないのかどうかも、何か釈然としないが、まず疑わなければならないのは、バルファキスの『テクノ封建制』という題名の中の、封建制という言葉に注目すれば、封建制が歴史的に何によって終わりを迎えたのかについて考えてみると、中央集権的な絶対王政が封建制に取って替わったわけで、しかも官僚制を主体とする中央集権的な国家体制が民衆の自由を奪ってきた歴史が、今でも社会主義国や軍国主義体制の国々で続いている現状もあるわけだから、果たしてそういった現実から目を逸らす目的で、巨大IT企業を批判の槍玉に挙げているわけでもないだろうが、確かにそれらの巨大IT企業は市場の独占やプライバシー侵害などの観点から世界中で厳しい批判や規制の対象となっていて、主にEU諸国などの各国の政府や規制当局は、公正な競争や消費者保護を目的として、こうした巨大企業の監視を強化しているそうで、自社のサービスを優遇し、他社の参入や選択肢を不当に制限しているという独占的地位の乱用や、個人データの過剰な収集や、ネット上の監視網の構築に対する懸念や、利益を税率の低い国に移転し、適正な納税をしていないという批判など、こうした問題に対し、各国で独占禁止法に基づく事業の分割論や、厳正なデータ規制が議論される一方で、企業側は利便性の向上や技術革新を盾に反論を展開するなど、社会的な議論が続いているそうだが、そうやってうまく批判の範囲を狭めて、批判しやすい対象に絞り込んで批判する手法に騙されてはならないと述べるのも、ちょっと違うような気がするものの、現状で中央集権的な国家とテクノロジーの独占体制を敷いている国といえば、誰もがすぐに中国を思い浮かべるだろうが、GAFAMを批判するバルファキスが中国に対してどのようなことを述べているのか気になるところだが、バルファキスは、アメリカの巨大IT企業が資本主義を終わらせて、新たな搾取体制であるテクノ封建制を築いたと批判している一方で、中国についても同様に、国家と融合した独自の強大なデジタル封建領主として世界規模の覇権を争っていると述べていて、アメリカでは民間企業がデジタル空間を支配しているが、中国ではアリババやテンセントなどの巨大なテック企業が強権的な国家の管理下に置かれながらも、強力なプラットフォーマーとして農奴であるユーザーを支配していると指摘していて、バルファキスは、世界レベルで経済圏を持つ巨大プラットフォームは米中の2カ国にしか存在しないと捉えて、現代の米中対立は、単なる貿易や領土問題ではなく、世界中のユーザーを抱え込んでデータを吸い上げ、人の行動をコントロールするクラウド領主としての覇権抗争であると分析し、アメリカと中国の双方が、グローバルなデジタル植民地を構築しており、世界中の国々を両国のプラットフォームに依存する従属的な状態に陥れていると警告して、何やら「大国の興亡」的な見方に囚われているようだが、あくまでも封建制という言葉にこだわって、封建制に取って替わった絶対王政という言葉は死んでも口が裂けても言わない方針のようで、何かその辺に、絶対王政や近代の国民国家や現代の社会主義国や民主主義国や軍事的・警察的独裁体制の国々を支えている官僚制を、ITやAIなどのテクロジーが突き崩しつつある視点が抜け落ちているような気がするわけで、その辺に民主主義的な政治制度と共に、何か新たな視点や問題設定が必要なような気がするわけだ。5月18日「鍛錬することの意味」肉体の鍛錬は筋力や持久力といった身体機能を向上させることを目的とし、心の鍛錬は感情のコントロール、集中力、ストレス耐性などの精神力を強化することを目的とするそうだが、その種の鍛錬によって何が得られるのかというと、健康であり、心身の健康を維持するためにやるのだろうが、肉体に負荷をかけた運動、栄養摂取、十分な休息を組み合わせることで、筋繊維の回復を促し、筋力のアップ、柔軟性の向上、心肺機能の強化など、身体的なパフォーマンスの向上と健康維持が、フィジカルトレーニングの目的で、リラクゼーション、イメージトレーニング、思考の整理、認知の修正、マインドフルネスなどを活用して、集中力の維持、ストレスやプレッシャーの軽減、感情の安定、目的達成意欲の向上を目指すのが、メンタルトレーニングの目的だと言えるらしいが、カタカナ言葉の意味がよくわからないから、ちょっと検索すると、リラクゼーションとは、肉体的・精神的な緊張を解きほぐし、心身を休息させてリラックスさせる行為や状態を指し、ストレス解消や疲労回復、癒しを目的として行われ、筋肉の緊張を緩め、呼吸や心拍数を落ち着かせて、リラックス反応を体にもたらすことを目的として、医療行為である治療とは異なり、健康増進や癒しを提供するサービス全般を指すそうだが、わざわざ金銭的な負担までして、その種のサービスを利用して健康を維持したいかというと、金持ちやビジネスエリートやスポーツエリートや有閑マダムでないとそんなことはやらないだろうが、そういう方面にも何やら専門的なノウハウが蓄積しているらしく、思考の整理と認知の修正は、ストレスや不安に対処し、心を整える認知行動療法の中核となるアプローチで、瞬間的に頭に浮かぶ考えを客観的に見つめ直し、偏った捉え方をより柔軟でバランスの取れたものへと修正していき、思考を整理し、認知の歪みを修正するための具体的なステップと実践方法は、気持ちがモヤモヤした感情を抱いた時、まずはその時の状況と感情を言葉にして書き出して、どのような出来事があったか、その時、悲しみや怒りや不安など、どんな気分をどれくらいの強さや程度で感じたか、感情が動いた瞬間に、頭にパッと浮かんだ考えやイメージを自動思考と呼び、これを客観的に捉えることで、自分の思考の癖が見えてきて、例えば、〜に違いない、〜すべきだ、といった思い込みがないか、そんな自動思考の修正方法をマニュアル的に示してくれるサービスというのもあるそうで、自動思考には、認知の歪みを伴った、偏ったパターンが潜んでいることがあり、その代表的な10のパターンを知ることで、自分の思考を俯瞰しやすくなり、その中には、物事を全て、ゼロが百か、善か悪かで極端に捉える、白黒思考や、不安を感じるから危険なはずだ、などと、自分の感情を事実として受け取ってしまう、感情的な決めつけや、そんな自分の思考の癖についてカウンセリングを受け付ける、お悩み相談室などもあるらしく、対処法としては、客観的な根拠を探し出して、別の視点を代替思考として持つことが肝心だそうで、頭に浮かんだ考えが百パーセント正しいとは限らないと思うのは、誰もがそう思うところだろうが、事実をありのままに見つめ直し、別の解釈ができないかを検証するにも、知性をどれほど働かせることができるかも、普通に考えて個人差がありそうで、もし友人が同じ状況で悩んでいたら、自分はなんと声をかけるかなんてそんなことまでわざわざ想像してみるまでもなく、思考の整理や認知の修正を行う際には、思考記録表と呼ばれるワークシートを活用するのが一般的で、詳しい実践方法やワークシートの書き方については、その種の専門機関の認知再構成法の解説が参考になるそうで、認知の歪みと心理学的なアプローチの詳細は、うつ病における思考の癖と歪んだ認知を修正する心理学で深く学べるらしく、思考の癖は長年の経験によって形成されたものであり、一朝一夕には変わらず、自己流で進めるのが難しい場合や、強いストレスを感じる場合は、無理をせずに心療内科や精神科、専門のカウンセラーに相談することをすすめるそうで、まさにそんな成り行きが、フーコーの『狂気の歴史』などで述べられていた医学的な制度に個人が絡め取られてしまう過程を示しているように感じられて、ヤバそうな雰囲気を覚えるが、たぶん何気なく日常生活を送っているだけで、そんな日常生活を送れるだけの心身を持ち合わせているなら、それ以上に心身を鍛える必要はなく、確かに身体と心は切り離せない関係にあり、肉体の訓練・運動を行うことで脳内にエンドルフィンなどの神経伝達物質が分泌され、ストレスが軽減し精神が安定する効果も科学的に実証されているそうだが、必要以上に心身が鍛え上げられることによって、結果的に何が起こるかといえば、心身を鍛え上げることは、単なる体力や外見の向上だけでなく、エンドルフィンやセロトニンなどの脳内ホルモンの分泌を通じて、ストレス耐性の強化、自己肯定感の向上、そして心身相関のメカニズムによる感情の安定をもたらすそうで、過度なトレーニングで肉体に負荷がかかると、脳内で様々な物質が分泌され、その中でも、エンドルフィンは、強いストレスや痛みを和らげ、幸福感をもたらし、セロトニンは、精神を安定させ、ポジティな気分をもたらし、ドーパミンは、やる気を高め、モチベーションの向上につながり、心と体は密接につながっており、体を鍛えることで自律神経が整いやすくなり、筋トレなどの運動習慣は、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を低下させると言われており、体がエネルギーを効率的に使えるようになり、日常生活におけるぐったり感や疲労感が大幅に軽減されるそうで、日々鍛えることで肉体が変わっていき、筋肉がつき引き締まるのを、視覚的に実感することで、強い自信につながり、自分で自分をコントロールして成長させた、という達成感が自尊心を高め、仕事や人間関係においても前向きな影響を及ぼし、このように、心身を鍛えることは、身体能力の向上のみならず、脳科学的・心理的なアプローチで人生そのものを豊かにするポジティブな変化を引き起こすそうだが、こんなふうに良いことばかり並べられると、逆にヤバさを感じるわけで、それ以外のところで、何かしら無理が祟っていたり、歪みが生じているような気がするわけでもないが、それが何だかわからないわけではなく、要するに必要以上に幸福感やポジティブな気分やモチベーションを向上させなくても構わないし、必要以上というのがよくわからないのだが、自律神経が整わなくてもストレスホルモンが分泌されていても疲労感を覚えていても構わないなら、筋肉が付かなくても達成感や自尊心を高めなくても良いような気もしてきて、そんな気がするだけで、本当は楽してそうなるならそれでも構わないのだが、わざわざ苦労して心身を鍛えるのも嫌だから、ふざけるのもいい加減にしてほしいようなダメ人間タイプなのかも知れず、そういうところは何だか笑ってしまうが、自分はやらないが人知れず心身を鍛えている他人がいたら尊敬に値するだろうし、他人のそういうところはすごいと感心してしまうかも知れないが、他人は他人であり、自分は自分でしかなく、自分の身体に不調があっても心の歪みがあっても、これまで生きてきた結果だから、そういうところは否定的に受け止めるしかなく、その否定的な状態を変える必要があるのかどうかも、そのままでも構わないのかどうかも、今後の成り行き次第であって、何かのきっかけから前向きになって、自己変革を促すような成り行きへと持って行かれるなら、肯定的に受け止めるしかないが、現状ではそういう成り行きにはならないような気がするから、心身を鍛えるのとは別の方面でやらなければならないことがあるらしく、それが何だかわからないわけではなく、ただそれを大げさに表明するようなことではないのも確かなようで、わざわざ表明しなくても現にやっていることだと思うしかなく、そのやっていることが果たして心身を鍛えることにつながるのかというと、ある程度はそうなのかも知れないが、それとは違う方面にも作用している可能性もあるから、そちらの方で何か肯定的な効果や機能を発揮できるようにしたいのかも知れない。5月17日「唯名論とは」唯物論とは、精神や心、観念よりも、物質が全ての根源である、と考える哲学の立場で、全ての事象は物質の働きによって説明できるとし、神の存在や霊魂など非物質的なものは認めず、または物質から派生したものと捉えるのが特徴で、そんな唯物論と対極にあるのが、唯心論や観念論で、唯物論では、物質が先にあり、そこから意識や精神が生まれると考え、経済や生活環境という物質的な土台が人の心を形作るとされるが、それに対して、唯心論では、精神や意識こそがこの世界の根源であり、物質は精神の働きによって作られたと考え、人の心が世界を認識することで初めて物質が存在するとされ、唯物論は、古くは古代ギリシャや古代インドなどにも見られたが、近代以降、自然科学の発展とともに、宇宙や生命を複雑な機械のように考える、機械論的唯物論や、マルクス主義において、社会の歴史や人間の意識も、物質的な生産力や経済の発展によって変化して行くと主張する、弁証法的唯物論などが唱えられ、哲学的な唯物論は、物質だけを信じる、という純粋な世界観だが、日常の会話やメディアでは、精神的な価値よりも、お金や財産などの物質的な豊かさや、目に見える利益を重視する生き方や考え方を指す言葉として、物質主義というニュアンスで使われることが多く、それに対して観念論は、唯心論と同じく、物質よりも意識、理性、観念などの精神を根源的・優先的なものとし、この世界にある事物は精神によって規定され存在していると考える哲学の立場であり、物体の実在を認める唯物論に対立する思想で、プラトンやカント、ヘーゲルなどが代表的な観念論者で、物質世界は意識や観念の産物であり、心の中に存在する観念=イデアによって規定され、バークリーが主張したように、私たちが知覚する世界は心の中に存在し、世界には独立した物質的実在があるとする実在論とは逆の立場で、知覚する主体の意識内容のみを認めるバークリーのような主観的観念論と、主体を超えた精神的な根源である、イデア、神、絶対理性を認めるプラトン的な客観的観念論と、主観と客観の対立を超えた包括的な精神の運動を考える、ヘーゲルのような絶対的観念論があり、プラトンは、現実の事物は影であり、完全な真実の世界であるイデアの写しである、とイデア論を主張し、カントは認識できるものは人間の認識能力の枠内の現象に限定し、モノ自体は認識できないとする、超越論的観念論を主張し、ヘーゲルは、弁証法を用いて、歴史や理性の発展によって世界が真理を体現する絶対精神に近づく、と主張したが、日常会話では、現実離れした理想的な考え、という意味で使われることもあり、これに対してドゥルーズの哲学は、従来の二元論的な唯物論と観念論の対立自体を拒否し、物質と精神を不可分なものとして捉える独自の立場をとり、哲学において、精神を根源とするのが観念論、物質を根源とするのが唯物論で、これに対してドゥルーズは、物質と精神を別の実体として分けず、生の力としての多様体や差異が形を変えて現れたものとして両者を同一視し、その哲学は解釈や文脈によって、唯物論としての側面と観念論としての側面とに分かれて、唯物論としての側面では、スピノザやマルクスの思想を継承し、超越的な存在である神やイデアを退け、現実の具体的な自然や身体、力動的なプロセスを重視する点から、内在的唯物論と呼ばれることもある一方で、観念論としての側面では、カントの超越論的哲学を発展させて、経験の背後にある条件としての超越論的場がいかにして思考やイデアを生み出すかを問うた点から、観念論的であると捉えられることもあって、このようにドゥルーズはどちらか一方に完全に与するのではなく、物質と観念を一つなぎのダイナミックな世界として捉える立場を貫いたそうだが、それらとはちょっと違うように感じられる、唯名論とは何なのかというと、唯名論は、中世ヨーロッパの普遍論争において、人間、動物、赤さ、といった普遍的概念は実在せず、個々の事物、個物のみが実在し、普遍は単なる名称、名前に過ぎないとする主張で、対立概念である実在論が、普遍的な型が先、とするのに対して、個別の具体物を重視し、現代の経験論や科学的アプローチの基礎となり、唯名論の核心は、実在するのは個々のもので、この花やあの人だけであり、それらをまとめる普遍的な植物や人間は、人間が付けた名前に過ぎないという考え方で、プラトンのイデア論で言われるような、普遍的な型が先に存在するという実在論に反対し、スコラ哲学における普遍論争で、実在論と対立したそうだが、代表的な人物としては、ロスケリヌスは、唯名論の初期の代表者で、普遍は声の響きに過ぎない、と主張し、アラベールは、唯名論と実在論を折衷し、普遍は単なる言葉ではなく概念である、主張し、オッカムは、14世紀に唯名論を大成し、ある事柄を説明する際、必要以上に多くの仮定を立てるべきではない、という後に科学や論理学の基本原則となるオッカムの剃刀を用いて、普遍の実在を否定し、経験的な知識を重視し、その歴史的意義と影響は、個物の観察や経験を重視する態度が、後のベーコンの経験論や、ガリレオ、ニュートンらによる近代科学革命の実証主義的な態度の基盤となり、近世以降は、唯名論的な傾向が主流となり、数学的対象や分類や種の存在論的な議論において現代でも関連し、型・普遍が実在すると主張する実在論に対し、この事物などの個物がまず存在するという視点が、中世の思想的制約を打破し、新しい知識体系をもたらしたそうだが、フーコーにおける唯名論的な面とは、狂気、権力、主体などに関して、普遍的な本質が実在するという考えを退け、歴史的に構築された具体的な名前や実践こそが現実を形作っているという方法論的な態度のことだそうで、実在論が人間の本質や狂気そのものに実体があると考えるのに対し、フーコーはこれらを時代や言語が生み出した名前や言説に過ぎないと考え、『狂気の歴史』などでは、狂気という普遍的な概念が実在するのではなく、時代ごとの社会制度や知の体系が狂気という概念を発明し、その概念に当てはまる特定の人間を排除し管理してきた過程が暴かれ、フーコーは権力を誰かが所有する大きな力、という実体的なものではなく、無数の人々の間で日々行使される関係性として捉え、この考え方はまさに権力を、個別の実践の総体と見なす唯名論そのもので、権力は上から押し付けられるだけでなく、人々の行動や思考を方向づける微細なプロセスの中で、ミクロ権力として機能していると主張し、フーコーは、歴史が一つの大きな目的や本質に向かって進歩するというヘーゲル的な歴史観、目的論や実在論的な歴史観を批判して、代わりに、時代ごとに知の枠組みであるエピステーメーがどのように歴史を断絶し、変化してきたかを詳細に記述し、自身の歴史記述を知の考古学や系譜学と呼んだのも、普遍的な歴史法則ではなく、個別の時代における行動の実践と言葉の規則のあり方を分析するためで、このようにフーコーは高尚で抽象的な人間性、理性、解放などの普遍的真理の存在を疑い、具体的な権力関係や言葉の規則である言説を分析することを生涯のテーマとして、この徹底した反本質主義・反実在論の姿勢が、その哲学の唯名論的な面と呼ばれるそうだが、蓮實重彦によればドゥルーズにとってギリシャとは、思考することが初めて概念の生産となり得た時代としてのプラトンのギリシャに他ならず、『哲学とは何か』のドゥルーズは、哲学を、概念を創造することに立脚した領域と定義しながら、それにことのほか精通していたのがプラトンだと説いており、だから概念というより体系を作り出したアリストテレスは、ギリシャ人とは見なされていないかのようで、超越性を想定しつつも一般性と特殊性の概念に従って全体や部分が語られてゆく形而上学的な体系からは概念など生まれようがなく、優れて20世紀的な小説家であるプルーストやカフカを鮮やかに論じてみせたドゥルーズだが、彼は肝心な瞬間、つまりは概念の生産に立ち会い、自らも率先してそれに加担しようとする時、決まってギリシャ人であるかのように振る舞ってみせ、ドゥルーズは、ギリシア人にまで遡る必要さえあったミシェル・フーコーのように、長い迂回を試みながら遥かな距離を踏査した後にそこへと辿り着いたのではなく、この20世紀の哲学者は、一度たりともギリシャの地を離れたためしがないとさえ言えて、一気に過去に身をおく、あのベルクソン的な体験のように、プラトンの時代に、一気に身をおくことのできるところが、ドゥルーズのドゥルーズたる所以なのだ、と『表象の奈落』で述べていて、実際、プラトンが哲学したのと同じようなやり方で哲学する理由など、一つとして見当たらないはずだ、と確信していて、プラトンを凌駕することなど不可能だし、プラトンが永久にやり遂げてしまったことを蒸し返しても、何の得にもならず、哲学する者は、二つの選択肢に直面せざるを得ず、それは哲学史をするか、プラトン的でない様々な問題にプラトンを接ぎ木するか、という二者択一に他ならず、実際にドゥルーズが選んだ選択肢が、その後者であることは、そのほとんどの著作が証明しているそうだ。5月16日「ナチュラリズムとヒューマニズムの問題点」自然崇拝といっても、アニミズムと混同していたのだが、自然崇拝とアニミズムはどう違うのかというと、アニミズムは、動物、植物、岩、滝、自然界の全てのものに霊魂や精霊が宿ると信じる思想であるのに対して、自然崇拝は、そのような自然の精霊や自然現象そのものを神聖なものとして崇める信仰であり、アニミズムは自然崇拝の基盤となる世界観と言えるそうだが、機械などの人工物にも霊魂や精霊が宿ると信じる思想も、一般的にアニミズムと呼ばれるそうで、有機物である生物だけでなく、無機物の石、道具、機械、自然現象など、ありとあらゆるものの中に霊魂や精霊などの霊的な存在が宿っていると考える世界観であり、確かに人工物も自然界の全てのものに含まれているから、自然と人工の対比から考えるのでは、うまくアニミズム思想を捉えられないわけだが、日本においても、道具に魂が宿るという考え方や、自然界のあらゆるものに神が宿るとする八百万の神の信仰が、このアニミズム的思考の代表的な例と言えるそうで、物事の存在の状態や構造や仕組みや動作などに意味や意図や意思や意志や意向や思惑などを読み取ろうとして、人の意識や精神作用の延長上で人以外の有機物や無機物にも意識や精神作用が働いていると思い込もうとすることから、それを働かせているのが神だと考えれば、そこから宗教が生じるのだろうが、人の意識や精神作用を脳内の構造や仕組みや神経伝達物質が伝わるメカニズムなどから説明しようとすれば、そういった機構や動作のない他の物事には人と同じような意識や精神作用は働かないと言えるだろうから、人と同様に脳の神経回路が発達している他の動物にも意識や精神作用があるらしいことは推測できるが、脳は人間の心身を制御している器官でしかなく、脳の作用や動作だけを特権化して語るというのも、何かずれた思考のようにも感じられるから、もっと広範囲に社会全体から及ぼされる作用として考えなければならない面もありそうで、単純に自然主義や人間主義が人間社会にどのような影響を及ぼしているのかと考えても、自然主義や人間主義は、現代の環境保全や個人の内面の重視、技術発展と自然との共生という面で、人間社会に大きな影響を与えていて、人間中心の環境破壊への反省から、自然の生態系保全や共生が求められる一方で、科学的な人間学に基づいて自然と文化の調和を追求する動きもあるらしいが、その一方で経済的合理性を追求する観点からエコロジストなどの環境活動家を攻撃する論理がありそうで、コスト、効率、経済成長などの経済的合理性を最優先する観点から、エコロジストなどの環境活動家を批判・攻撃する際に用いられる論理は、環境保護規制が強すぎると、企業の生産コストが増大し、国際競争力が低下し、環境優先の政策は、高いエネルギー価格を伴って一般家庭の生活費を圧迫し、人々の生活の質を低下させ、環境対策への投資は、教育、医療、基礎インフラなど他のもっと生産的な部門への投資を減少させ、全体的な経済効率を損ない、気候変動のような長期的な予測を必要とする不確実なリスクに対処するために、現時点での確実な経済活動を犠牲にするのは合理的でなく、今の技術で無理なものはいくら規制しても無理であり、逆に環境規制が技術の進化を妨げていて、化石燃料産業や資源開発関連など、環境負荷が高いとされる産業を規制することで、多くの雇用が失われ、地域経済が崩壊するという懸念があり、環境税の導入などが、低所得者層に重い負担を強いる結果になると批判したり、一部の活動家が恐怖をベースにしたメッセージを発信することで、現実的で合理的な解決策の検討を妨げているという指摘や、社会システムを根底から変えようとする急進的なアプローチは、社会の安定を崩し、秩序を混乱させるという批判もあり、これらの論理は、環境保護を否定するものではなく、環境対策にはコストがかかるため、経済的合理性や持続的可能性とのバランスが必要という文脈で使われることが多いそうだが、自然主義と人間中心主義・人道主義は、経済的な視点を完全に見落としているわけではなく、むしろ経済的合理性のみを追求する従来の主流経済学とは異なる視点から経済を捉えている、と解釈する方が正確で、これらは経済を単なる貨幣の流通や効率性の論理ではなく、人間の幸福や自然との調和の観点から再定義しようとしていて、自然主義の視点からは、十八世紀の重農主義などに見られるように、富の源泉は金銀ではなく、農業や自然の恵みから生まれるという視点や、人間の理性や認知は不完全であるという視点から、経済や社会の根底には不確実な蓋然性があることを指摘し、環境問題を背景に自然環境をコストと見なす現在の経済システムに対する批判的視点を提供し、人間主義の視点からは、近代資本主義が持続不可能になった原因として、人間がコスト・経費になるという矛盾を指摘し、人間を中心において経済構造を求め、単なる金銭的貧困だけでなく、ニーズという人間の内的な視点から多面的な貧困を提起し、アダム・スミスも『道徳感情論』で共感を重視したように、個人の利益追求だけでなく、中立的な立場の人に対する共感が社会の秩序や経済活動を支えるという考え方を示し、主流経済学が自己利益を最大化する存在としてホモ・エコノミクスを前提とするのに対して、ナチュラリズムやヒューマニズムは感情、倫理、共感を持つ人間を前提とする、数値化しにくい信頼、自然環境、福祉などの価値を重視する経済観を強調し、これらの思想は、現代における資本主義の限界を乗り越えるためのヒューマノミクス=人間性経済学の基礎となっているそうで、その種の考え方自体に問題があるとすれば、利益の最大化という経済的合理性に基づいた目的の遂行が、社会全体に貧富の格差という不条理をもたらすからこそ、資本主義市場経済が回って行くという逆説が、今のところは現状の経済の中で有効に機能して、利益の最大化という経済的合理性の追求が、結果として貧富の格差を生み出すからこそ、資本主義は回るという指摘は、このシステムが孕む最も根源的な矛盾であると共に原動力そのものでもあり、この逆説が機能する背景には、人間のつきない欲望と市場のメカニズムが深く結びついていて、個人の利益最大化は、他人よりも優れた価値や製品を生み出すことで達成され、競争の結果として勝者と敗者が生まれ、必然的に貧富の格差が生じ、しかも、この勝者が得られる圧倒的な富こそが、次の新たな挑戦者や投資家を駆り立てる強力なモチベーション・インセンティブとなるが、もし格差が存在せず、成果が全て平等に分配されるのであれば、市場におけるイノベーションや効率化の推進力が失われてしまうから、資本主義市場経済を拡大させるには生産設備や技術開発、研究のための巨額の投資が必要であり、一部の経済主体が利益を最大化して富を蓄積するからこそ、その剰余資金が金融市場や企業投資を通じて社会に還流されて、投資サイクルが新たな雇用や産業を生み出し、経済全体を拡大させる機能を果たすのであり、資本主義における不条理な格差は、同時に自分も上の階層に行きたいという上昇志向や、今の地位から転落したくないという恐怖を生み出して、この欲望と恐怖が合わさることで、人々はより一層、労働や消費、投資に励むようになり、つまり、格差という目標と恐怖が、アメとムチの役割を担っているからこそ、経済活動の歯車が絶えず回り続けるわけで、このように、経済的合理性の追求がもたらす格差は、単なる社会のバグ、不具合ではなく、システムを維持・拡張するための必要不可欠なエネルギー源として機能していて、その一方で、この格差の拡大が行き過ぎると、社会の分断や購買力の低下を招き、結果的に資本主義市場そのものの持続可能性を脅かすリスクも抱えていて、そのため、歴史的に見ても、公益を重視する思想や、富の再分配を行うための税制・社会保障制度などの経済的合理性にブレーキをかける仕組みが常に模索されてきたが、それはあくまでもブレーキであり、システム全体を作り変えようというのではなく、システムを保守運用して行くの必要な安全装置に他ならず、ハンドルを回してアクセルとブレーキを交互に踏んだり離したりしながら、経済活動を調整する仕組みを機能させようとしているわけだ。5月15日「反体制と神秘主義」カウンターカルチャー、反権威主義などの反体制と神秘主義は、主に支配的な社会システム、合理主義、既成宗教などの既存の秩序に対する異議申し立てという点で深く結びついているそうで、その中でもグノーシス主義、ルターの宗教改革、そしてヒッピームーブメントは、時代や文脈は異なるが、既存の権威の否定、内面的な覚醒や経験の重視、個人の解放という共通の核心的テーマでつながる思想的系譜として捉えられることがあり、これらは、物質世界を否定し、知識や霊知などの隠された世界の真理を追求する精神的な姿勢において、深い関連性を持っていて、神秘主義は、論理的な思考や科学的な合理性ではなく、主観的な体験や直感を重視して、近代社会が合理性と官僚制によって社会を統制する中、それに反発する人々は、理性を超えた神秘的な体験やスピリチュアリティに救済や真実を求め、1960年代から70年代にかけて、アメリカやヨーロッパを中心に、若者たちが既存の保守的な社会や物質主義、戦争に反対し、ドラッグ、瞑想、ヨーガ、東洋思想などの神秘主義的な実践を取り入れ、単なる個人的な探求ではなく、政治的な反体制運動の一部として機能したそうで、そんな神秘主義思想の源泉として知られるグノーシス主義は、2世紀から3世紀にかけてキリスト教の周辺で活発化した宗教・哲学的な潮流であり、後の西洋神秘主義思想の源泉として極めて重要な思想であり、最大の特徴は、救済は、神的な知恵であるグノーシスによって自己のうちなる神性を認識することで達成され、人間は本来、至高神の分身であるが、この不完全な物質世界に閉じ込められていて、真の自分は神の分身であると認識することによって、この居場所を間違えた状態から脱出し、本来の神的な次元へ帰還することができるとされ、物質世界は偽の神デミウルゴスによって創造された不完全な場所であるのに対して、霊的な世界プレローマは真の神である至高神のもの、という対立関係を重視し、旧約聖書の創造神は、真の神ではなく、人間を物質に縛り付ける低位な神デミウルゴスやアルコーンとされることが多く、デミウルゴスは宇宙を創造した職人、製造者で、プラトン哲学では造物主だが、グノーシス主義では偽の神とされ、ヤルダバオートという固有名でも呼ばれ、しばしば獅子の顔をした蛇の姿として描かれ、至高の光の領域であるプレローマのソフィアから生まれたとされ、自身を唯一の神であると誤解している傲慢な存在で、物質世界や人間の肉体・心魂を創造し、人間を肉体の牢獄に閉じ込めた張本人とされて、アルコーンは、世俗的権力者や統治者を意味するギリシャ語に由来し、第一のアルコーンであるデミウルゴスが生み出した7人の軍勢で、天上の各圏域を支配し、物質界を管理する悪魔的存在であり、人間の感情、欲望、恐怖などを支配し、精神的な目覚めであるグノーシスを妨げ、人間は物質的・心魂的な部分において、アルコーンの支配下にあるが、人間の内部には至高神に由来する神の火花スパークが隠されており、グノーシスによってこれに目覚めることが真の救済とされ、この概念は、キリスト教のデミウルゴスが旧約聖書の創造神ヤハウェを指す、異端的な解釈の根幹となっていて、正統キリスト教から異端とされたが、物質主義や当時の教会の権威への最大の異議申し立てであって、そこから千数百年時代を下った先で起こった、ルターの宗教改革は、教皇、免罪符など、ローマ・カトリック教会の権威を否定し、聖書と個人の信仰を重視し、神と個人の間で障害物のように立ちはだかる仲介者の教会組織を通さず、個人が直接神とつながることを主張して、カトリックという物質的・組織的な偽の権威に対する反乱を企て、ルターは神の恩寵を強調し、グノーシスが重視する個人の知識・霊知による自己救済とは異なるが、宗教的権威を解体しようとした点でつながる部分があって、そこからさらに数百年時代を下った先で起こったヒッピームーブメントは、物質主義、合理主義、社会制度、ベトナム戦争に反対し、精神的な自由、愛、自己発見を求めたカウンターカルチャーであり、ドラッグや東洋思想を通じて、この物質世界ではない、真の意識や内なる神を探求し、グノーシス主義が偽の神を否定したように、ヒッピーは偽の文明システムを否定して、物質的世界を嘘とし、精神的な覚醒を求める姿勢は、現代版のグノーシス主義と評されることもあり、東洋思想の中に、古代の善悪二元論的な世界観を共有する宗教的・思想的潮流があり、ゾロアスター教がその基礎を築き、グノーシス主義が精神的な知恵グノーシスによる救済を説き、それらをマニ教が統合して世界宗教として広めた経緯があって、古代ペルシアで成立したゾロアスター教は、善と光の最高神アフラ・マズタと悪と闇の邪神アンラ・マンユの抗争を特徴とする世界最古の二元論宗教であり、火を聖なるものとして崇拝し、グノーシス主義は、真の神が作った霊的世界と、偽の神デミウルゴスが作った物質世界を分ける二元論で、ササン朝ペルシアのマニ教は、ゾロアスター教の二元論、キリスト教のキリスト、仏教の倫理を組み合わせた光と闇の宗教であり、グノーシス主義的な知識による救済を重視して、ゾロアスター教の善と悪の峻別は、グノーシス主義やマニ教に強い影響を与えたとされ、マニ教はゾロアスター教の二元論的枠組みをベースにしつつ、グノーシス主義の要素を取り入れた混合宗教と言え、初期のグノーシス主義から影響を受けつつも、より組織化された普遍宗教を目指した点で異なり、これらは、古代世界において、闇と悪である物質に閉じ込められた光と善である霊を解放するという共通のテーマを追求したそうで、グノーシスが、偽の神デミウルゴスから魂を解放、ルターが、カトリック教会から個人の信仰を解放、ヒッピーが、社会システムや物質主義から精神・生活を解放、というこれら3つは、人間は物質的束縛や既存の組織である教会や国家による支配から脱し、自分自身の内なる真理によって救済・解放されるべきだ、という思想的連鎖の中にあり、それぞれが異なる時代における支配的な真実を語る権威に対する反逆であり、個人のうちなる世界を最も尊重する運動であったと言えるそうだが、そうした反逆に対してキリスト教会側は徹底した信者や修道士に対する管理で応じ、グノーシス主義を押さえ込もうとして、またルターの宗教改革に対しても反宗教改革・対抗宗教改革で応じ、トリエント公会議による教義の再確認、イエズス会の創設、異端審問の強化が挙げられ、そうした反逆が起こる度に教会側の組織体制や官僚制も強化されたわけだろうが、ヒッピームーブメントに対しても、政府、保守層、メディアなどの体制側は、様々な形で反動・抵抗を示し、体制側はヒッピーのライフスタイルを治安上の脅威と見なし、法的な手段で規制を強化し、ヒッピー文化で蔓延したLSDや大麻などの薬物使用に対し、厳しい取り締まりが行われ、ヒッピーが集まる拠点を警察が強制捜査し、逮捕者が続出し、自然の中で共同生活を送るコミューンに対し、衛生基準や建築基準法違反を理由に撤去を強制し、大手メディアは、ヒッピーを、不潔、怠惰、社会の敵として描き、市民の恐怖心を煽る報道によって、ベトナム戦争反対を掲げる彼らを、愛国心に欠ける非国民的・反米的な存在としてレッテルを貼り、従来の家族観や性道徳を否定するコミューン生活や自由恋愛を、倫理的な堕落として批判し、長髪や独特の服装は、社会人としての正気さや信頼がないと見なされ、一般的な雇用から排除されて、反体制運動が活発な大学では、学園闘争と結びついたヒッピー的な学生に対する学則の強化や停学処分が行われた一方で、体制側は、ヒッピー文化を完全に排除するのではなく、ファッションや音楽など、その特徴を商業的に利用し、反体制的な意味を削ぎ落とした大衆文化として受容して、タイダイ柄やフレアパンツなど、ヒッピーファッションが商業化され、誰もが着るトレンドとなり、そうしたカウンターカルチャーに結びついた真剣な反体制思想が、単なる流行やスタイルとして消費されることによって、社会変革のエネルギーは骨抜きにされたが、これらの外部からの反動に加え、薬物中毒、金銭的困窮、コミューンの失敗など、理想と現実のギャップが嫌気され、ヒッピームーブメントは急速に沈静化して、その後、1970年代に入ると、社会はディスコ文化に代表されるような、より洗練された、あるいは現実的な方向へとシフトし、結果として、ヒッピーの思想の一部は現代の環境保護運動やヒューマニズムに受け継がれたが、彼らが目指した革命的な社会変革は、体制側の強い反動によって抑え込まれたと言えるそうだ。5月14日「宗教と政治と経済と社会の関係」宗教と政治と経済は相互に深く影響し合っており、特に宗教は国民の倫理観や投票行動を通じて政治に、また税制優遇や献金を通じて経済活動に与える目に見えない力として機能していて、宗教法人は営利目的ではないため、一般の企業活動とは異なり税制上の優遇措置を受けているが、その経済活動や資産は強大であり、実質的に企業と同様の側面を持っていて、多くの民主主義国家では政教分離が原則だが、宗教団体が政治的イデオロギーに基づき、保守派の政治家や政党を支援したり、それに伴って政策形成にも影響を与えるケースもあり、宗教団体は寄付金や関連事業を通じて莫大な資金を動かしており、教育、医療、出版、建設など多岐にわたる事業を展開する巨大ビジネスとして機能している場合もあるが、それ以前に政治と経済が密接に結びついており、企業利益から支払われる税収は国家発展の基盤となっているため、企業の方でも政府が企業を利するような政策を実行してほしいので、そんな意向に合わせた政治的意見を持って政治に働きかけることになり、宗教の方でも宗教を世の中に広めるには経済活動を利用しなければならず、例えばイスラム教においては、経済活動は社会の一部であり、利子の禁止や貧者への喜捨が義務付けられ、そんなイスラム経済圏では宗教的理念に基づく経済システムが構築されている一方で、日本では、宗教法人は所得税、不動産取得税、固定資産税などの税制優遇を受けており、これが税制上の不公平として、時に政治的な議論の対象となるが、宗教は単なる個々人の精神的な支えではなく、歴史的に地域紛争や国際政治の背景にある価値観を形成し、政治や経済の動向を左右する要因となってきた経緯があり、現代社会においても宗教は、精神的な側面だけでなく、政治的な影響力と人やモノやカネなどの経済的なリソースを併せ持つ複合的な組織として活動していて、日本では約十八万の宗教法人があり、神道系の神社や仏教系の寺院やキリスト教系の教会やイスラム教のモスクなど、多岐にわたる宗教団体が法人として登録されており、特に神社や寺院の数が非常に多く、全国各地に存在することが特徴だが、アメリカでも約三十五万以上の教会や宗教団体が存在するとされており、日本よりも宗教団体の数や活動が活発で、ヨーロッパでも国によっては国教や登録宗教団体制度があって、宗教団体の法人格が認められているものの、フランスなどでは信教の自由を尊重しつつ、管理は行政面で厳格に行われる傾向があり、イスラム圏では、モスクを中心として宗教活動が行われ、法人組織というよりも、地域コミュニティや国が宗教を管理する体制が一般的で、日本では人口比に対する神社・寺院の密度が高く、地域単位で法人化されている傾向があり、世論調査などで無宗教と回答する人が多い中でも、初詣や冠婚葬祭などの行事を通じて仏教や神道が生活に根付いている一方で、海外では宗教が日常生活や政治、法制度に大きな役割を果たす国が多く、これらの違いは、法制度の違いや、宗教を日常生活の一部として捉えるか、信仰として強く意識するかの違いに起因していると言えるそうで、宗教を文化や慣習などの日常生活の一部として捉えることと、信仰として強く意識することの違いは、主に形式・慣習の重視か、神仏への帰依・個人の信念かという点にあり、日本人の多くは前者で、世界的には後者が一般的と言われているそうだが、宗教を文化や慣習などの生活の一部とする場合、教義の厳密な理解や盲目的な信従よりも、伝統行事や心地よい作法として捉えられ、お正月は神社、お盆はお寺など、特に意識せずとも生活に溶け込んでいて、墓参りや仏壇への合掌など、精神的な支えや共同体のつながりを重視する傾向にあり、日本特有の無宗教を装いつつも、文化として神道や仏教を実践する形だから、宗教を思想や哲学などと関連づけては捉え難いが、それに対して信仰として強く意識する場合の宗教は、神や超越的存在への信頼が行動の根幹となり、教義=ドグマを絶対視するような信仰形態となると、自身を明確に信者や教徒の側に位置づけ、神に帰依する存在として自覚を持ち、神との個人的な関係や、死生観、倫理観の絶対的な信仰の拠り所となり、毎日の礼拝、厳しい食事制限、特定の日曜礼拝への参加、教義に基づく戒律の遵守など、要するに神社における神主や寺院における僧侶などと一般人の間の区別や距離が、日本ほどはっきりと隔たっていないと言えそうだが、信じる対象への帰依が、生活のあらゆる選択に影響を及ぼす度合いや程度にも差があると言えて、まとめると、文化や慣習などの生活の一部としての宗教は、働きの重心が形式的・儀礼的で、主体が、家族、地域、習慣などに依存し、目的が、安心、絆、慰霊などにとどまり、行動も墓参りや初詣などに行く程度の、比較的軽い傾向になるのに対して、信仰や信念として強く意識する宗教は、働きの重心が確信・信念などの個人の心理にまで及び、主体は個人と神仏との強固な関係を求め、目的は、救済、真理の探究など思想や哲学や社会学など人文科学の分野にまで範囲を広げ、行動も特定の宗教団体による熱心な勧誘活動を引き起こしたり、程度によっては社会問題の様相を帯びるが、このように、前者は生活を整えるための文化であり、後者は人生の軸となる信念という違いがあるが、この二つは排他的なものではなく、軽い気持ちでちょっとしたきっかけから、日常的な慣習が深い信仰に結びつくこともあるから、侮れない影響力があり、現代の日本に住んでいると両者が地続きであることに気づきにくく、異なる宗教間や同じ宗教内でも宗派対立が高じて地域紛争にまで発展する事例も出てきて、それが宗教だけではなく政治や経済も絡んでくるから地域紛争が起こる原因が簡単には理解できないわけで、宗教間や宗派内の対立が地域紛争に発展する背景には、単なる信仰の違いだけでなく、政治的・経済的な要因が複雑に絡み合っていて、そこに歴史的な経緯も絡んでくるから、解決不可能な面があり、宗教が人々のアイデンティティの根幹に関わるために、対立を激化させる旗印としても利用されやすく、結果として泥沼化しやすい構造となっていて、宗教・アイデンティティの違いは、異なる神の教義、生活規範を持つグループ間での相互理解の不足や、信念の押し付けが対立の起点となり、またイスラム教のスンニ派とシーア派など、同じ宗教でも宗派の解釈の違いが政治的思想と結びつき、対立が先鋭化するケースもあり、同じ国の中でも多国的な地域の中でも宗教や宗派の人口比の違いが、特定の宗教のグループが少数派として政治的に排除されて不平等な扱いを受けることで、集団としてのアイデンティティが強まり、不満が蓄積され、また地域的な覇権争いを背景にして、大国や周辺国が異なる宗派や組織を支援し、自国の利害を代行させることで紛争が激化する事例も、イエメン内戦でのサウジアラビアとイランの対立では顕著な傾向を見せているが、さらにミャンマーの内戦においては少数派の民族への中央政府の弾圧が高じて政権が不安定化して、機を捉えて軍事クーデターが起こると共に、少数派の民族の方でも武装組織が主導権を握るから、内戦が泥沼化したが、これらの状況が、土地、水、鉱物資源などの経済的な利害関係にも及んでくると、表向きは宗教戦争の体裁をとりつつも、実質的には経済的権益の奪い合いの様相を呈して、貧困や経済格差が宗教的な対立を煽る燃料となり、不満を抱えた層が武力紛争に参加しやすくなり、宗教、土地、歴史的経緯が複雑に絡み合って、事態が混迷の度を深めると共に、これら複数の要因が重なるため、紛争は長期化して、難民や飢餓などの人道危機を引き起こす深刻な国際問題となるが、そうなっている中でも、絶えず劣勢に陥っている少数派で虐げられている側の味方を装うのは、現実の利害関係が薄い立場ならそうなりやすいのだが、逆に政治的・経済的に優位な側と直接の利害関係を築いていれば、どうしても人道的な観点から批判され非難されやすい立場になってしまうのも当然の成り行きだろうが、そこで国際法や平和憲法などを持ち出して自身や自身が所属する勢力の正義の主張を正当化できるか否かに関して、そこに文化的・慣習的な宗教が絡んでくるなんて、そんなのは理解の範疇の外側から作用してくる身勝手な事情に過ぎないだろうが、消極的に無宗教を装う態度にも、何かうまく苦境を切り抜けるための知恵が働いているようにも感じられてしまうわけだ。5月13日「救済宗教の真実」何でもないような些細なきっかけからどうにもならない悲惨な現実がもたらされるのだとしても、いつものようにそんな現実など無視しなければならず、しかも無視したついでに悲惨な現実とは真逆の幻想を語ってみせるようなことをやれば、それが嘘の始まりなのかどうかも、悲惨な現実と真逆の幻想とで釣り合いが取れていれば、それで構わないようなことかも知れず、宗教による救済には実質が伴っていないと思うなら、それは違うと思っておいた方が良さそうで、そうではないと嘘をついておくべきで、宗教が語る救済こそが悲惨な現実とは裏返しの真実を物語っていて、救済宗教は、現世における病、死、苦痛、対人関係の崩壊といった悲惨な状態が、神仏への帰依や教えの実践によって、救いの状態に達することを意味しており、これは、現在の悲惨な状況そのものを最終的な現実ではないと否定し、より上位の価値をもつ現実へ転換するプロセスと捉え、現実がいかに悲惨であろうとも、信仰者は未来の救済を確信することで、現在の苦悩に新しい意味を見出すべきで、これは、過去の業や現在の過失に縛られるのではなく、希望ある未来から現在の生を照らし出すアプローチであるが、一方で、現実に悲惨な状況に置かれた人々が、宗教的な救済を求めながらも報われないケースもあり、救済を求めて入信したにもかかわらず、高額な献金や物品購入を強制され、かえって生活が困窮するケースや、貧困、虐待、病気などの悲惨な状況にある人を、宗教的教義を用いて、前世の罪や神からの試練として片付けるケースや、罪を憎んで、罪人を愛せ、という言葉が、逆に被害者や弱者に苦痛を与えるケースや、熱心に信仰して、ひたすら祈りを捧げても、奇跡や救済が訪れず、絶望が深まるケースなど、さらなる苦痛につながるケースがあるそうで、これらのケースは、信仰そのものの是非よりも、宗教が組織化された際の搾取構造や、苦痛の意味づけが当事者の真の救済にならない場合に顕著になるそうだが、救済を外から確認できる好転した状態として語る現代の宗教的な傾向に対して、そのような目に見える救いがなくても成立する信仰のあり方が議論されているそうで、救済は、悲惨な現実という前提があるからこそ成立し、その極端な反転として、人々を精神的に支える役割を持っているそうだが、ではキリスト教の牧者が実践する万人の救済とはどのようなものなのか、という問いはちょっとヤバそうな香りがするのだが、キリスト教における万人救済は、最終的に全ての人間、さらには悪魔までもが、神の愛によって救われる、という希望的・終末論的な見解で、これは伝統的な地獄の永続性を強調する教理とは対立することが多いが、一部の神学者や牧者によって神の絶対的な愛と全能性の帰結として語られるそうで、万人救済を説く牧者は、神は全ての人を愛し、救うことを望んでおり、その意志は最終的に実現すると信じていて、罪人や悪人であっても、死後、あるいは終末に神の愛にふれて悔い改め、最終的には救われるという希望を説き、地獄は永遠の刑罰ではなく、魂が神の愛に立ち返るための浄化のプロセスとして解釈されることがあり、この立場では、救いは、個人が死後に天国に行くことだけにとどまらず、神が全ての被造物を本来の善なる状態に戻すこと、万物の復興を指し、イエス・キリストの十字架の力は、全ての罪、全ての死を、克服するほどの強力なものであると強調され、万人救済の思想は古代の教父オリゲネスから現代に至るまで、いくつかの流れが存在するそうだが、多くの主流派・保守派教会では、この教えは、特定の聖書の記述と相容れないとして反論されており、どうせ最後は救われると人々が安易に考え、現在の信仰生活が軽視され、救いが神の約束ではなく権利のようになると懸念する声もあり、イエスを主と信じる者が救われる、という聖書の原則との整合性が議論の焦点となっていて、万人救済は、キリスト教神学において、愛は全てを覆う、という神の愛を重視するか、神は罪を裁く、という公義を重視するかによって見解が分かれるそうだが、牧者が万人の救済を確保しなければならないということが、二つのことを意味し、しかもその二つがまさに互いに結びついていなければならず、第一に、牧者は万人の救済を、つまり共同体全体の救済を保証しなければならなくなり、牧者は都市全体を引き受け、世界全体をさえ引き受けなければならない、とヨアンネス・クリュソストモスは言っていて、これはある意味で万人の救済だが、しかし各人の救済でもあり、いかなる羊も取るに足らぬ存在ではなく、羊の一頭たりとも、救済へと引き連れて行くこの指導の運動・操作を逃れてはならず、各人の救済は単に相対的に重要なのではなく、絶対的に重要であり、グレゴリウス・マグヌスは『司牧の書』で、牧者はそれぞれの羊に個別の共感を覚えなければならない、と述べて、ベネディクトゥスの『規則』には、修道院長は修道士の一人一人に、共同体の構成員の一人一人に、極端なまでの心遣いを見せるべきだとあり、司祭は、自分に委ねられている羊の一頭も失わないように、明敏さと精勤さによって努力せねばならない、と記されているそうだが、万人を救済するとはつまり、全体を救済し、各人を救済するということになり、あの際限なく繰り返されたザクロの隠喩と出会うことになるのはここにおいてだとフーコーは述べていて、イェルサレムの大祭司の衣服に象徴的に付されていたあのザクロで、ザクロは固い外皮に覆われて一体となっているが、中に入っている多くの粒がそれぞれの単独性を排除することはなく、それらの粒の単独性によって成り立っていて、それぞれの粒はザクロ本体と同じくらい重要だとされるそうだが、そんな修道院長がトップの共住修道院で実際に行われていたのが、何やら小泉進次郎が高校の野球部で経験したこととそっくり同じで笑ってしまうのだが、そんな牧者との比較で持ち出されるのが法学者で、古代ギリシアの市民権のある市民は二つのものによって導かれていて、二つのものとは法と説得であり、つまりポリスの命令か、人間たちの修辞かで、法を尊重することと、誰かに説得されるにまかせることであるのに対して、キリスト教的司牧は全く異なるものを組織したと言えるそうで、キリスト教は法の宗教ではなく、キリスト教は神の意志の宗教、神がそれぞれの人に個別にもつ意志の宗教であって、牧者は法律家ではないし、その代理人でさえなく、牧者の行動は常にそれぞれの局面に応じた個別なものとなり、キュプリアヌスは、彼らの全てを同じように取り扱ってはならず、民事裁判所が断罪するように彼らに一つだけの一般的措置を適用して断罪するということはしてはならず、それぞれの者を個別の事例に照らして取り扱うべき、だと言っていて、牧者は法律家ではないというこのテーマは、牧者と医師の比較にも見られ、牧者は根本的には判事ではなく、本質的には医師であり、それぞれの魂の病を引き受けるべき医師であり、同じ一つの方法が全ての者に適用されるということはなく、全ての者が同じ性格の本性に支配されているわけではなく、ある者に役立つ方法が他の者には有害だということは頻繁に起こり、確かに牧者は法を知らしめるべき者でもあるし、全ての人間に適用される神の意志を知らしめるべき者でもあり、構成員全てに適用される教会の決定を知らしめるべき者でもあり、ユダヤ教も本質的に言って法の宗教であるのだが、キリスト教的司牧に固有なものとしてさらに付け加わるものは、羊と羊を導く者との関係が全面的な依存関係だということだそうで、全面的依存ということは三つのことを意味し、第一にそれは服従関係だが、その服従は法への服従でも、秩序原則への服従でも、道理に適った厳命への服従でさえもなく、理性によって引き出される何らかの原則・結論への服従でもなく、これは、ある個人の他の個人に対する服従関係で、それが先輩後輩の上下関係だと言えそうに感じられるのだが、それが修道院内ではどんなに理不尽で意味不明な馬鹿げた命令であっても師の命令には絶対に従う、という服従関係から発せられる命令が、毎日のように試練となって修道士の心身に降りかかってくるのだから、死ぬまで何十年もそんな試練を潜り抜けてきた修道士がどんな人間になってしまうのかについては、何か想像を絶するヤバさを感じるのだが、そうやって試練を潜り抜けた先に到達する境地というのが、アパティアという情念のなさの境地なのだそうだが、別にそういうことの延長上で小泉進次郎という存在について何か考えられるわけでもないのだが、国会で今は防衛大臣の小泉進次郎に対して批判的なニュアンスを込めて追及しようとしている野党議員は、何か誤解しているところがありそうに感じられて、小泉進次郎が古代ギリシアの市民のように、法と説得によって導かれる人間だと思っているとすれば、そこに誤解や勘違いが生じているように感じられるのだが、どうもそうではないということが、進次郎を無能呼ばわりする人々についても言えそうな気がするわけだ。5月12日「羊飼いの比喩のリアリティ」公的な役職に就いていれば、ふとした拍子に不都合な真実や隠しておきたい嘘がメディアを通じて表に出てしまい、隠し事をしていた者や勢力をメディアを通じて叩きたい心境になるのもわかるが、それが叩く口実なのだから、そんな話題にすぐに飛びついて何か主張したい人々とは距離を置かないと見えてこない事の真相がありそうで、それが何なのかというと、正々堂々としていなくても、なりふりかまっていられない情勢や境遇というもあるだろうから、普通に考えて戦略的に振る舞っている延長上で卑劣な手を使ってでも事を有利に運ばなければならない状況というもあるだろうから、それを卑怯だと非難するのも結果的に負けた側から発せられるなら負け犬の遠吠えだと見なして無視すれば良いことになるのかならないのかも、その場での立場によって態度が変わってくる場合もありそうで、非難してくる者たちに向かって、彼らは叩く口実を探していると開き直ることが、それ以外に何かさらに重大な事実や真実を意図して隠しているわけでもなく、それが意図しないところで明るみに出てこようと、そんな何かを考えたいわけではなく、高市における自民党の総裁選や衆議院選挙に関連する醜聞や、トランプにおける大統領選挙やエプスタイン事件に関連する醜聞などが、そんな意図はないのに事の真相を見えなくさせる囮の役割を担っていると考えるなら、ではいったい何によってはぐらかされているのかといえば、前回のプラトンの喩えが見誤っているわけでもないのに、結果としてプラトンが退けた羊飼いの比喩が、プラトンが生きた時代から六百年ぐらい時代が下った頃に、人を集団にまとめて統べる技術として再利用され、それがキリスト教会を構成する官僚制の中で長い年月をかけて熟成され、そんな官僚制の統治技術がキリスト教会と同時並行的に発展した行政君主制へも伝播したと言えるかどうかも、直接の伝播ではないのだろうが、キリスト教会によって千数百年かけて統治されてきた民衆を今度は行政君主制が統治の対象とするわけだから、当然のこととして人を集団にまとめて操る手法が、キリスト教会と行政君主制で同じような傾向となると言える面もありそうなのだが、そういうことの延長上で、人と人を集団にまとめて操ろうとする官僚機構では、羊飼いが羊に対して絶対的に優越した存在であるのと同じではないにしても、個人の力では官僚機構には太刀打ちできない面もあるだろうし、少なくとも官僚機構と個人の関係は非対称・非相互的な関係であると言える面も出てきそうで、官僚機構が優位で個人が劣位にあり、双方向のやり取りは等価ではなく、バランスの取れていない関係や構造となっていると言えなくもなく、キリスト教会、絶対王政を支えていた行政君主制、それを受け継いた民主的な政府や独裁的な政府の行政機構、産業革命から発達した大企業の官僚機構などは、歴史的に組織の合理化・階層化という文脈で密接に関連し、相互に影響を与え合って発展してきたらしく、特に社会学者のマックス・ウェーバーによれば、近代社会は理性と効率を重視する合理的官僚制によって運営されており、その原型は中世の教会組織にあるとされ、ローマ・カトリック教会は、ヨーロッパにおいて最も古く、大規模で永続的な階層的官僚機構として機能しており、教皇を頂点とした厳格な階層構造、教区による地域統治、そして記録・文書による管理システムは、後の国家や企業の官僚制のモデルとなり、信仰という共通の理念に基づいて、地域を超えて統一された規則で組織を運営する手法は、現代の合理的官僚制の先駆けであり、中世後期から近世の絶対王政は、個人の能力に限界がある国王が広大な領土を統治するために、教会や領邦国家の家産的な構造を模倣して官僚組織を整備し、その中で専門的な知識を持つ官僚を貴族や法学徒などを取り込んで組織して、そうした官僚が国王の政治を補佐し、税制や行政を管理する体制を築きつつ、王権は教会の影響力からの独立・解放を図り、教会が持っていたような文書主義や合理的統治を取り入れ、絶対的な権力を確立したわけだが、そんな絶対王政の時代を経て、十九世紀以降の近代国家では、さらに専門化・効率化された合理的・合法的支配に基づく行政機構が成立し、職務権限の明確化、採用や昇給の試験制度、給与体系、そして完全な文書主義を特徴として、行政だけでなく、軍隊、病院、学校など、あらゆる大規模組織が、ウェーバー的な官僚制を採用して、産業革命以降、大規模な工場や株式会社が生まれると、国家の行政組織と同様に、効率的かつ合理的な管理が必要となり、大企業も明確な階層、役割分担、規則に基づく業務処理など、国家の行政機構とほぼ同じ官僚的な構造を持つようになり、効率と利益の最大化を目指し、感情や個人的な関係を排して非人格的に業務を処理する体制が構築されたわけで、それを歴史的連鎖としてまとめると、まずカトリック教会が階層的・組織的な運営手法を確立し、次いで絶対王政がそのシステムを取り入れて国家統治を行政君主制として組織化し、そのシステムがさらに精緻化され、近代的な行政機構へと発展し、また効率化を求める大企業もそのシステムを導入したと言えそうだが、そういう直線的な発展において抜けているのが、民主主義の論理で、それに関しては宗教改革の時期に生まれたカトリック教会と表面的には対立するプロテスタント教会の存在があるわけで、プロテスタント教会の官僚機構はカトリックのような教皇を中心とする中央集権組織とは異なり、分権的で行政的な組織を持ち、ドイツなどの連邦教会では宗務庁が統治機構として機能した歴史があり、現代では日本基督教団のような教団が、全国の教会や関連組織を管理する現代的な行政組織を運営しているそうで、特徴としてはローマ教皇のような絶対的な権力を持つトップが存在せず、各教会が独立性を保ちやすく、正教会の総主教庁のように、教義的な頂点というより、効率的な運営のための行政組織が発達していて、プロテスタントへの転換は地元の信仰と官僚機構を完全に支配する目的もあったそうで、牧師と呼ばれるプロテスタントの指導者は、司教のような聖職的権限を持たず、信者と対等な立場で教会運営・礼拝・説教を担当し、結婚も可能で、上から目線ではなく、フレンドリーな住民目線で、信者の住民たちを懐柔しやすい利点があり、信徒が参加する形で、官僚機構の構成にも信徒が直接関与する点が多いところが、民主主義の理念を反映しているように感じられて、17〜18世紀にイギリスで生まれたメソジスト派やクエーカー教徒などは、社会正義や慈善活動、平和主義を重視する姿勢で共通しており、そういうところは日本の憲法9条信者などとも思想的に通底しているだろうから、左派リベラル系の思想の原型がそこから生じたと捉えるのも考え過ぎな感も拭えないが、その辺はウェーバーの主要な著作である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べられていることとつながってくる面もありそうだが、そういった世の中の全ての官僚機構が陰謀論的にグルになって結託しているわけでもなく、官僚機構の機構自体が人間的な感情や思考を直接持ち合わせているわけではないのもわかりきったことだが、高市やトランプも、彼らもそれらの官僚機構を活用しなければ政治を行えないわけだから、実際に機構を利用して政治を行なっているわけで、機構がお膳立てした舞台の上で政治家を演じている限りで、官僚機構に自身が操られている感覚はないだろうが、むしろ機構を操りながら、しかも機構自体を改革したいし、彼らの言うことを聞くように、彼らの思い通りに動くように、機構を改造している最中かも知れないし、それに対して各省庁の官僚機構の側としては、直接にはそんな意図も思惑も意向も抱いていないしても、本質的には民衆の統治を行うための機構なのだから、統治に利用できる政治家の味方を装うわけで、その過程で、政治が左に寄り過ぎて行き詰まったら、右の政治家や政党を応援し、右に寄り過ぎて行き詰まったら、今度は左の政治家や政党を応援すると考えられるわけでもないのだが、今この時期に盛んに高市やトランプの醜聞を持ち出して煽り立てようとする傾向が窺えるとしたら、官僚機構が応援している政治家や政党が右に寄り過ぎて行き詰まってきた証拠だと言えるかどうかも、教会が信者に対して罪を告白して懺悔するように促すことで、その信者をコントロールする成り行きを思い浮かべるなら、政治家が醜聞につながるようなことをやるように誘導しておいてから、いざとなったら、その醜聞をバラして為政者の首をすげ替えようとすることが、田中角栄のロッキード事件などを思い返せば、なんとなくそのリアリティが感じられるわけだ。5月11日「プラトンの比喩がトランプと高市に当てはまるか?」今回は左翼リベラルな人々が喜びそうな内容となりそうで、何となくヤバそうな気配を感じてしまい、やめようかどうしようか迷いながらも、何とかうまく反発や反感をかわすことができるかどうかも、たぶん無理なんじゃないかと事前にあきらめてしまいそうだが、哲学者のプラトンが、政治家の比喩として適切なのが、羊飼いではなく織物工だと述べた真意をどう説明できるか、ということなんだが、ヒントとしては、羊飼いの喩えは、羊飼いが世話をする羊を民衆に見立てるのと、織物工の喩えは、織物工が織る織物を都市国家ポリスに見立てるのとの比較になるが、そこからわかってくるのが何なのかを、クロードに答えてもらうと、プラトンの『政治家』における、この比喩の転換は非常に深い意味を持っていて、羊飼いの比喩の問題点は、羊飼いは羊に対して絶対的に優越した存在で、羊飼いは羊とは異なる種であり、羊より本質的に高等な存在であるのに対し、羊は羊飼いに一方的に世話される対象であり、受動的な客体に過ぎず、羊飼いと羊の関係は非対称・非相互的な関係であるから、もしこれを政治に当てはめると、統治者は民衆とは種族的に異なる超人的存在でなければならない、という含意になってしまい、現実の人間の政治家は民衆と同じ人間であり、この比喩は根本的に破綻していて、プラトンはこれを自覚的に退け、それに対して、織物工の比喩の優位性は、織物工が織るのは布・織物=ポリス・都市国家であり、ここに決定的な違いがあって、統治の対象が、羊飼いの比喩では、民衆であり受動的な羊となるのに対して、織物工の比喩では、ポリスという構造・秩序であり、素材との関係は、羊飼いの比喩では、素材より上位の異種的存在であるのに対して、織物工の比喩では、市民などの素材を組み合わせる技術者であり、統治のイメージとしては、羊飼いの比喩では、養育・支配・管理であるのに対して、織物工の比喩では、編み合わせ・調和・統合となって、市民の位置付けは、羊飼いの比喩では、世話をされる客体であるのに対して、織物工の比喩では、織物を構成する能動的な縦糸・横糸となるが、プラトンが言いたかったのは、政治家の仕事はポリスという秩序を織り上げることであり、具体的には、勇敢な気質を持つ人々(縦糸)と節制的・温和な気質を持つ人々(横糸)を互いに絡み合わせ、一つの統一体として編み上げることが、政治家の技術だとされ、つまり政治家とは、民衆を支配・管理する者ではなく、異なる徳や気質を持つ市民たちを、ポリスという共同体の秩序へと統合する編み手であって、羊飼いの比喩では統治者と民衆の垂直的な支配関係しか表現できない一方で、織物工の比喩は、多様な人間を組み合わせてポリスという統一的秩序を生み出し、差異の調和による共同体の構築を目指す、という政治の本質を正確に捉えており、プラトンはここで、政治を支配の技術ではなく統合の技術・編成の技術として再定義しているのであり、これが比喩を転換した最大の真意と言えるそうだが、そこでまた無理難題的な問いをクロードに投げかけて、アメリカのトランプ大統領や日本の高市首相にプラトンが述べているような織物工的な面を挙げることができるだろうか?と単純に問いかけたわけではなく、本当の問いかけは、もう少し複雑でややこしいのだが、あえてその部分は省略して、それに対するクロードの回答は、前置きとしてこれはプラトンの分析枠組みを解剖のメスとして使う試みであり、両者を称賛するものではなく、むしろその逆の結論に至ることが多いそうで、まずはトランプの織物工的な側面は、縦糸と横糸の選別、ただし排除によって、という捉え方で、織物工は異なる気質の市民を編み合わせるが、トランプがやっていることは逆に、編み込む糸と捨てる糸を峻別することで、関税政策・移民政策は、アメリカの製造業の労働者という特定の糸を強調し、グローバル経済という布全体を解いて再織りしようとする行為とも読めるし、MAGAという運動は、バラバラだった白人労働者層・福音派・孤立主義者という異質な糸を一枚の布に仕上げたという点では、確かに編む技術を持っていたが、しかしここに決定的な欠陥があり、プラトンの織物工はポリス全体を布として織るのに対し、トランプが織るのは支持者連合という部分布に過ぎず、残りの糸は切り捨てられ、これは織物工ではなく、布を引き裂く者であり、次いで高市の織物工的な側面は、国力という織物のビジョンに関して、高市首相は、外交力・防衛力・経済力・技術力・情報力・人材力を強くすることを政権の柱に掲げており、これは一見ポリスという織物の縦糸と横糸を多元的に強化する構想であり、織物工的なビジョンとも読めるし、連立という編み直しについても、高市政権は26年続いた自公連携を終わらせ、自民・維新の新たな連立へ移行し、これは既存の布を解いて新しい政治的織物を編み直す行為であり、その意味では織物工的な再編成の試みと言えるが、しかしここにも欠陥があり、高市首相は周りに任せず、課題を抱え込み一人で判断する傾向があるとされ、また台湾有事をめぐる答弁では日中対立を招いたとも指摘され、プラトンの織物工の本質は糸と糸を絡ませること、つまり他者との調和にあり、一人で抱え込み対立を生む政治スタイルは、織物工というより機織り機を独占する職人であり、布は織れても、市民が参加できない構造であり、結論として、両者に共通する擬似織物工の病理を挙げると、何を織るかについて、プラトンが理想とする織物工がポリス全体なのに対して、トランプ・高市的な現実は、支持連合的な国家イメージで、誰のために織るのかについては、プラトンが理想とする織物工が全市民の調和を織るのに対して、トランプ・高市的な現実は、特定層・国家的な強さを織り、編む姿勢については、プラトンが理想とする織物工が対話・統合であるのに対して、トランプ・高市的な現実は、排除・強引な統合であり、糸の扱いについては、プラトンが理想とする織物工が全ての糸を活かすのに対し、トランプ・高市的な現実は、不要な糸は切るというやり方で、両者が織物工的に見える瞬間があるとすれば、それは、大きなビジョンで社会を再編しようとする意志を持っているからであり、しかしプラトンが求めた織物工との決定的な差は、本物の織物工は、布の美しさのために自我を消すが、彼らは布ではなく、自分の像を織っている、ということであり、これがプラトンの比喩が暴き出す、現代のポピュリスト政治家の本質的な問題と言えるそうで、あちゃ〜、クロードはやっちまっているなあ〜、と思いながらも、何とかしなければと思って、では彼らが反面教師的な役割を担って、今後、彼らを利用して、世の中が良い方向にまとまる可能性などがあれば示してほしい、と問いかけたら、逆説的な希望として、悪い織物工が世界を編み直す可能性として考えられるのが、歴史的先例では破壊者が触媒になるパターンがあり、歴史的に見ると、秩序を壊した者が、新しい秩序への渇望を生み出した例は少なくなく、ナポレオンの侵略がヨーロッパ各国のナショナリズムを覚醒させ、近代国家の形成につながったり、世界恐慌やファシズムの惨禍が国連・IMF・福祉国家という戦後の世界秩序を構築し、米ソ冷戦が核不拡散条約・欧州連合の加速をもたらして、いずれも、これではいけない、という共有された危機感が、新しい布を織る動機になっていて、トランプが触媒になりうる可能性は、多極化世界という逆説的な贈り物で、トランプ関税・同盟軽視政策は、アメリカへの依存を疑問視させ、これが皮肉にも、EUの戦略的自律の議論を加速させ、日本・韓国・オーストラリアなど同盟国がアメリカ抜きの安全保障網を模索し始め、グローバルサウスが独自の経済圏を形成しようとする動きもあり、つまりトランプは意図せず、アメリカ一極支配という古い布を解いて、多極的な新しい布が織られる契機を作っていて、またアメリカ国内でも対抗的な織物工の出現を招いていて、強い反発は強い対抗勢力を生み出し、トランプ政権下で、市民社会・NGO・地方自治体レベルの連帯が強化され、若い世代の政治参加率が歴史的に上昇して、民主主義とは何か、という根源的問いが広く共有され、これはまさにプラトンが言う意味での市民が糸として自覚するプロセスであって、そして高市が触媒になりうる可能性は、まずは強い国家への渇望が照らし出す空白であり、高市政権の国家主義的な方向性は、同時に、日本社会が長年先送りにしてきた安全保障・経済的自立の議論を表面化させ、隣国との対立激化が逆に、東アジアにおける多国間対話の必要性を痛感させて、強さのみを追求する政治への違和感から、ケアや包摂を重視する対抗言説が力を持ち始める可能性があり、次いで自公解体という古い布の解体で、26年間続いた自公連立の終焉は、日本政治の固定化したパターンを崩し、これは混乱でもあるが、同時に新しい政治的組み合わせが生まれる余白でもあって、固まり過ぎた布は新しい糸を受けつけないから、一時的な混乱は旧来の秩序を再編成する機会となりやすく、両者に共通する反面教師的な効果は、疑似織物工の失敗が、何かがおかしい、という広範な共感をもたらし、これまでに政治に無関心だった市民が糸として自覚することで、本物の織物工が現れる土壌が整い、この構造で重要なのは、怒りや失望が、正しく方向づけられれば、民主主義の燃料になるという点だが、ただし、この希望には条件があり、楽観論で終わらせないために言えば、反面教師効果が実際に良い方向へ向かうためには三つの条件が必要で、一つ目は失敗の言語化で、破壊が何を破壊したかを、市民が明確に言語化できることが重要で、感情的な反発だけでは新しい布は織れず、プラトン的に言えば、なぜ彼らが織物工失格なのかを理解する市民の知性が必要であり、二つ目は次の織物工候補の存在で、反面教師は問いを立てるが、答えは出さず、トランプ・高市への反発が、単に別のポピュリズムを産むだけでは堂々巡りであり、三つ目は時間的余裕で、布が完全に解ける前に、新しく織り始める必要があり、民主主義制度そのものが損壊しきってしまえば、反面教師効果も発揮できなくなり、これが最大のリスクであり、総括として、悪い織物工の最大の貢献は、人々に本物の織物工とは何かを問わせることにあり、トランプと高市は、意図せずして、現代社会が忘れかけていた問いを突きつけていて、政治とは支配か、それとも統合か、国家とは強さか、それとも市民の編み合わせか、私たちは羊か、それとも布を構成する糸か、この問いが広く共有されること自体が、プラトンが夢見た哲人政治家を求める土壌の形成であり、現時点で期待できる最も現実的な良い方向かも知れないそうだが、プラトンが生きた当時の時代背景が、現代のアメリカを連想させるアテネと現代の中国を連想させるスパルタが戦争して、スパルタが勝利してアテネが没落した、というひどい時代状況の中で、プラトンは理想的な政治家や国家を否応なく思い描かざるを得ない立場だったわけで、しかもプラトン本人は民主主義に対して批判的なスタンスだったのだから、それを考慮に入れておいた方が良さそうなのだが。5月10日「心理学的なはぐらかし」語っている対象への関わりの程度がそれについての認識に違いをもたらすと考えても、用いられているそれを屁理屈と感じるか、あるいは理屈としてもっともらしく感じられるかが、どちらも適当に織り交ぜながら語っているように感じられると、わざとそう語ろうとしているのではなく、屁理屈をもっともらしく感じられるように語りたいと思っているわけではないとしても、結果的にそうなってしまっていると感じられるなら、意図せずにそうなっていることになるだろうが、語っている当人が屁理屈だとは感じられないだけで、人を騙そうとしているわけでもないどころか、自分が信じられるもっともらしい理屈に基づいてを語っているつもりなのだろうが、それとは裏腹に批判しようと躍起になっているように見えるなら、ただ単に焦っていることの表れに過ぎないと言えそうだが、自身や自身が所属しているつもりの勢力が劣勢に立たされていると感じるから、相対的に優位な立場となっている勢力を批判せずにはいられないと現状分析する気にはならないにしても、批判しようと躍起になる心境は、主に自己防衛や承認欲求の補填に起因すると考えられ、他者を攻撃することで、自身の劣等感を隠し、自尊心を保とうとする心理的な防衛メカニズムが働いているとAIに指摘されるまでもなく、そんなふうに心理的な面からもっともらしく言われると、余計に腹が立ちそうで、おもしろがってAIの分析を記すと、自分には価値がない、あるいは不幸であると感じており、他人を下げて自分を優位に見せたいのは、強い劣等感と自己肯定感の低下の表れで、正しくありたいという欲求が強く、他人の不完全さを許せない一方で、そんな他人から批判されることを人一倍恐れているから、先手を打って相手を攻撃することで自分を守ろうとすることが、完璧主義と恐怖心の表れで、そうやって他人を批判して、周囲に認められることで、自分の優位性や正当性を確認したいという欲求が、承認欲求の強さの表れで、日常的なストレスや不満を、批判しやすそうに見える対象を探し批判することで発散する行為は、フラストレーションの解消になるが、そんな行動や言動の特徴は、本質的でない部分や、些細なミスにこだわり、それを執拗に問題視することが、細かな粗探しに陥り、自分が認めたくない自分自身の悪い部分を批判相手に見出して、それを攻撃するような自己投影にも陥り、皮肉や否定的な言葉を使って、自分がより賢い、あるいは優れているとアピールする、マウンティングともなりやすいが、自分が正しく相手を正さなければならない、という強い使命感が、実は自らの孤独感や劣等感を隠すケースで、メサイアコンプレックス=救世主妄想と呼ばれるそうで、誰かを救わなければならない、人助けをする使命があると強く思い込んで、過剰に他者の人生に介入したり、自己犠牲的に尽くしたりする心理状態であり、本人は善意で行なっているが、その根底には自尊心の低さがあって、人助けを通じて自分の価値を確認して、それを誇示したいという欲求が隠れていて、それによく当てはまるケースが、山本太郎だと言うのはちょっと酷だが、その主な特徴は、私しか救えないという使命感が先行して、自立を促すのとは裏腹に、結果的に依存関係を作り出してしまい、自分の生活を顧みずに、他人を救うために多大な時間やエネルギーを注ぎ込んで、過剰な自己犠牲によって心身が消耗してしまい、良かれと思って行う救助が、相手にとっては支配や命令に感じられ、かえって反発や反感を買うから、余計に精神的に参ってしまうわけだが、他にも、求められていないのに助言や解決策を押し付け、感謝されないと怒りや徒労感を感じる、アドバイス中毒というもあるらしく、その原因と心理は、自分には価値がないと感じており、他人を助けることで、自分は必要な人間だと認められたい、という低い自己肯定感や、自分は正しく他人は間違っているという独善的な考えに至る、完璧主義や、自分の問題から目を背けるために、他人の問題を解決しようとする、責任感のすり替えなどがあるらしいが、注意すべき点は、一見、献身的で優しい人に見えるが、その本質は、他人を救うことで自分が救われたい、という自己愛的な面があり、結果として、周囲と対立したり、相手を心理的に支配して疲弊させたりすることがあるから、その克服や対処法は、相手の課題は相手のものとして、自分の人生に集中して、自分と相手との間に境界線を引き、まずは自分自身が幸せになることで、他者への過剰な依存を減らし、自分のケアを優先して、相手が自分で立ち上がる力を信頼し、見守り、何もしない勇気を持つことが肝心だそうだが、誰かを批判したくなるという心理の裏側には、自分自身を認めてほしい、傷つきたくないという脆い心があり、それが自分を守りたいという生存本能の表れで、批判や否定が多い人は、無意識のうちに敵と味方を作り、敵と見なした相手に対して攻撃的な姿勢を取ることで、孤独感を埋めようとして、敵対関係を構築する傾向にあり、このように、批判に躍起になる人は、実が心の中で深い怯えや自信のなさを抱えており、攻撃的な行動はその裏返しであることが多いと言えるが、但しAIは不正確な表示をすることがあるため、生成された回答を再確認するようにしてほしいそうで、なんじゃそりゃ?逃げ口上か?と思ったついでに、実際に起こっている出来事や問題に対する批判をはぐらかすために心理学的な面から逆批判を展開するのは愚劣じゃないか、と思うのも当然の反応だが、ご指摘の通り、具体的な問題や事実に基づく批判に対し、その中身や論点には触れず、批判者の動機や心理状態を攻撃して論点をすり替える手法は、議論の場において非常に不誠実で愚劣と感じられる行動であり、心理学的なアプローチを用いて逆批判を展開する行為、いわゆる心理分析によるレッテル貼りなどは、次のような点で問題視されるそうで、事実の議論から心理の議論へと、本来の議題から逃げるためのテクニックで、それを論点のすり替えと呼び、また批判の内容が正しいかどうかに関わらず、批判する人の人格や心の健康に問題があるかのように見せかけることで、批判の正当性を損なおうとする行為で、それを精神分析的攻撃と呼ぶそうで、九州大学の分析によると社会的な矛盾や愚かしさを敢えて正当化したり、それを逆手に取って破壊的な方向へ誘導する悪魔の策略のような局面においても、こうした論理のすり替えが好まれる傾向が示唆され、このような手法は健全な対話を阻害し、本質的な解決を遅らせるため、批判をはぐらかすための姑息な戦術として多くの人から反発を買うそうで、理屈と屁理屈の区別がつかない問題として、環境破壊や貧富の差の拡大などを肯定する際に、それが否応なく出てくると考えたいのだが、それらの現代的な社会課題を、経済発展や効率化の観点から肯定する理屈や、責任転嫁する屁理屈の類いは、主に経済合理性を最優先する文脈で語られることが多いそうで、環境破壊を肯定・正当化する論理において、経済成長の過程で環境犠牲は避けられないとする、短期的・利己的な視点が目立ち、経済的必要性から出てくる理屈は、開発代償論として、発展途上国が工業化し、貧困から脱出するためには、先進国がかつて行なったような森林伐採や汚染物質の排出などの環境破壊も、一定の段階では必要悪であり、そして環境クズネッツ曲線から言えることとして、経済が成長すれば、生活水準が向上し、結果として環境保護技術に投資できるため、最初は環境を汚染しても最終的にはクリーンになるという主張があるそうで、それに対して詭弁となる屁理屈としては、自然の復元力への過信から、自然は人間が汚しても、いつかは自分で再生するから、急いで対策しなくていい、という責任転嫁や、また生活向上の名目から、環境を守って生活が苦しいままなのと、自然を壊して便利になるのと、どっちがいい?と選択を極端化して、利便性を優先させる世論へと誘導する手法もあるそうで、そして貧富の差拡大を肯定・正当化する論理においては、格差は個人の努力や能力の結果であり、社会全体の活性化には必要であるとする考え方で、理屈としては、富裕層や大企業がより多くの富を得れば、その利益が自然と下層の層へ流れて行き、結果的に全体が潤うというトリクルダウン理論の主張や、逆に格差があるからこそ、人は努力し、投資し、イノベーションが生まれ、平等すぎると停滞する、という競争と動機づけ論や、貧富の差は、教育、労働倫理、リスクを取る能力の違いによって生じるもので、正当な結果である、という自己責任論がある一方で、詭弁となる屁理屈は、飢え死にするほどの絶対的貧困ではないのだから、平均より低いだけの相対的貧困は問題ではない、と格差の深刻さを過小評価する、相対的貧困の容認論や、格差がない社会は、上を目指せない不自由な社会だ、という格差=自由の証の主張があるそうで、両方を肯定する屁理屈の共通点は、環境破壊や格差拡大を、別の肯定的な文脈にすり替える手法で、環境や貧困層などの犠牲の上に、大多数の豊かさが成り立っている、という現状肯定の犠牲は必要論や、環境問題も格差問題も、皆が十分に豊かになってから技術や資金で解決すれば良いとする、後でケアすればいい論などがあるらしく、これらの主張はサステナブル=持続可能な社会の実現を阻害する要因として、しばしば批判されているそうだが、以上に挙げた理屈と屁理屈の両方共にマルクス主義者やグレタさん系の環境活動家などには批判可能なのだろうが、どうもそれ自体がはぐらかされているような気がするわけで、それをなんとかしたいわけだ。5月9日「現実の世界で起こっていること」物事の連続的なつながりに基づいて歴史を解釈することは、過去の様々な経緯や事情の複雑な絡み合いを単純化することによって理解しやすくなるが、というか単純化が理解することに直結するのかどうかも、むしろ理解できない偶発的な出来事を語ることが、そのまま歴史を語ることになると考えるのもちょっと極端過ぎるが、それに対して物事の因果関係に基づいて語るのが歴史物語と呼ばれるジャンルなのかも知れないし、決定論的な見方、歴史は繰り返す、あるいは歴史は繰り返すが韻を踏む、進歩史観的な解釈など、そんなふうに歴史を理解しても構わないような気はするのだが、それに対しても、色々とAIが言うには、決定論的な見方から生じる誤解は、過去の出来事が単一の因果関係だけでつながっているように見えるからで、あたかも現状の状況が必然であったかのような錯覚に陥るのは、実際には多くの偶発的な要素や代替的な可能性が存在していたことを見落としているからで、またマルクスが、歴史は一度目は悲劇、二度目は喜劇となる、と述べたように、表面的な事象の連続性だけで判断すると、似たような出来事が全く同じ構図で繰り返されていると誤解する原因となり、本質的な状況や背景が異なることを見落としている可能性が高く、また歴史を単一の進歩や発展の一直線な過程として捉えて、過去の時代を現代と比べて、一方的に劣った時代と評価したり、低く見積もる態度も誤解を生み、特定の連続的な物語に沿って歴史が解釈されると、その枠に収まらない多様な視点や資料が無視されるから、物語を通じた歴史理解はわかりやすい反面、真実の複雑性を見失わせるリスクがあるため、複数の視点から考えることや因果関係から導き出された根拠を疑う姿勢が重要となるそうだが、具体的に何を疑っているのかというと、どういうわけか歴史の連続的なつながりではなく、偶然の巡り合わせのような結果を疑っているわけで、しかも疑いながらも、もっともらしい物事の因果関係を語りたいわけだから、当然ないものねだりとなってしまい、よくできた歴史物語から外れて不連続な歴史を語ることの不可能性に直面してしまうわけで、というのは嘘で、目下のところ直面しているのは歴史を物語ることの困難さではなく、今ここで現状の世界で起こっていることを語る困難さに直面しているような気もするわけで、トランプ政権のやっていることを否定的に批判的に語るのは簡単なのだろうが、それを語っている人たちの内容に魅力を感じないものだから、何かわざとひねくれたことを語ろうとして失敗しているような気がするわけで、それと同時に安易な左翼リベラル批判にもこじつけ的な抵抗感も覚える一方で、左翼リベラル勢力の主張や意見にも抵抗感を覚えるものだから、どうもないものねだりなことばかり考えているような気がして、うまく考えがまとまらないまま、こうして何か述べている最中に思うのは、世界の現状をもっともらしく語るように仕向けてくるのは、メディアの機能がそれを利用しているユーザーにそうさせると考えるなら、納得は行かないまでも、それに類する結論が出力されてくるような気がして、人々に今世の中で起こっていることを認識させ理解させることがメディアの使命だと考えるのも、もちろんそれだけが目的でもないだろうが、何となくそう思われることだから、そういうことだと結論づけても構わないだろうが、一方でそうは決めつけられない部分もありそうで、陰謀論的にメディアの意図や思惑や意向を推測するのではなく、メディアといってもいくらでもその種類や分野が細分化されているから、わざと分散的に様々な物事の関連性や因果関係を無視して考えられるわけでもないのもわかりきったことであるにしても、そこでも様々な意図や思惑や意向が絡み合いながら世界中で無数のメディアが形成されていると考えるしかないが、トランプやトランプ政権について考えるなら、やはり他の勢力とのつながりの中で敵対関係や同盟関係や中立関係などから考えるしかなく、それに関連して日本の高市政権の動向にも、何か言及しなければならないことが出てくるかも知れないが、それらについて何か大変な事態になっているとは、どうしても考えられないわけで、しかも現状が非常事態になっているとか、そういうことではないとわざと考えたいのかも知れないが、人間は自分自身の歴史を作るが、思うがままではなく、自分で選んだ環境の下でもなく、すぐ目の前にある、与えられ、持ち越されてきた環境の下で作るのであり、死せるすべての世代の伝統が、悪魔のように生ける者の頭脳を押さえつけているから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、未だかつてあり得なかったものを作り出そうとしているかに見えるとき、まさにそんな革命の最高潮の時期に、人間は己れの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊どもを呼び出し、この亡霊どもから名前とスローガンと衣装を借り、この由緒ある扮装と借り物の台詞で世界史の新しい場面を演じようとするのであり、かくてルターは使徒パウロに仮装し、1789年から1814年までの革命はローマ共和国とローマ帝国の衣装をまとい、1848年の革命は、あるときは1789年をもじり他のときには1793年から1795年に至る革命的伝統をもじるぐらいのことしかできはしなかったのであり、また、こんなふうに、新しい外国語を覚えた初心者はいつもその言葉を母国語に話し戻すが、彼が新しい言葉の精神を我がものとし、その言葉を自由に使いこなせるのは、やっと、彼が新しい言葉を母国語に換えることなしに操り、しかも使っているときは生まれついた言葉を忘れるようになってからなのであるとマルクスは語っているのだが、この箇所は、人間が歴史の主体でありながら、伝統、制度、イデオロギーなどの過去の遺産に縛られ、それを再利用しながらでしか新しい時代を創り出せない、という歴史的な制約を描写した一説であり、この認識に基づいて、マルクスは歴史の動態や革命の限界を分析し、そこには構造的制約と過去の亡霊と言語のメタファーがあり、構造的制約とは、人間は自発的に歴史を創るのではなく、先人から引き継いだ、持ち越されてきた環境の制約下にある、ということで、過去の亡霊とは、危機的な状況下で人々は過去の歴史的衣装や言葉を借りて、新しい事態を乗り切ろうとする、ということで、言語のメタファーとは、新しい社会を築くことも新しい言語を学ぶことに似ており、慣れ親しんだ過去のパラダイムである母国語から脱却し、真に新しい創造に至るまでの過程を表現しているそうで、この考え方は、マルクス主義における構造と主体、あるいは過去からいかにして未来を切り開くかという問題意識の基礎となっているそうで、トランプが持ち出している過去の亡霊や衣装が、アメリカを再び偉大にというMAGAの再来や、強すぎる米通商法301条の再利用や、司法への不信感と被害者意識だと断定するのは、それはちょっと違うような気がするが、それだけではないという根拠が何なのかというと、それも過去の事件に関して言われていることであり、トランプがホワイトハウスから持ち出したのが、過去の亡霊や衣装だけでなく、国家安全保障に関わる非常に機微な機密情報を含む公文書であったという根拠は、米司法省の捜査と起訴状によって示されていて、2021年の退任時に、国防、情報、核能力に関する機密文書などが大量にフロリダの別荘に持ち出されて、FBIの家宅捜索で、箱に入った機密文書が回収されて、その中には、新聞と衣装に混在して保管されていたものも含まれていて、国家機密の不適切な保管、隠蔽、司法妨害の疑いで、2023年6月にスパイ防止法違反など7つの罪で起訴され、起訴状によると、トランプ自身が未解除の機密文書を他者に見せながら、秘密情報だと発言したとされ、2026年2月にもこの事件に関連する捜査報告書の公開禁止に関する法的な動きが報じられており、現在進行形で裁判が続いていて、これらの証拠により、持ち出された物品がただの思い出の品ではなく、法的に規制されるべき機密文書であったことが示されているそうだ。5月8日「現象学への反駁」いきなり提示される哲学的な問答の類いにはアレルギー反応が伴うのも、結構な割合で誰もが拒否したくなる感触を伴ってそう感じるところかも知れないが、狂気は存在するが何ほどのものでもないと現象学は言うけれども、実は言わなければならないのはその反対で、狂気は存在しないが、だからといって何でもないわけではないということだからだ、という文章をどう解釈したら良いのかというと、現象学は事象そのものへ向かい、狂気的な体験も一つの生きられた体験として捉えた上で、狂気を客観的な異常や欠如として解釈するのではなく、その人なりの狂気の世界は存在していると認めるが、しかし、それは同時に狂気を理解可能な世界という視点に還元してしまう危険性があり、患者の狂気を、彼にはそう見えているんだね、と健常者の認識の枠組みの中で処理し、その徹底的な他者性や、既存の理性体系を崩壊させる力を過小評価している、という批判であり、それに対して、狂気は存在しない、という意味での狂気とは、客観的な病気や実体として最初から存在するものではない、という意味で、狂気は、社会や理性、医学的言説によって正常が定義された結果、その裏返しとして創り出されたカテゴリーに過ぎないという視点であり、確かに実在はしないが、そうかといって無視できないわけではなく、狂気は実体としては存在しないが、それが存在しないものとしてレッテルを貼られ、隔離され、支配されるという効果や現実は猛烈に存在していて、この言説は、狂気を外側にある異物としてではなく、社会の内部で、正常という幻影を維持するために抑圧されている、もう一つの真実の形として捉えるべきと主張しており、実在せず実体がないからこそ、逆に、理性が何でもないと片付けようとするのに逆らって、何でもないわけではない、無視できない、根源的な力を秘めている、という逆説で意識され、この視点は、椎名麟三のような文学的な人間描写における絶対的な疎外や言葉の崩壊の経験とも響き合うものだそうで、なるほどAIによる解説は上手いと感心してしまうが、お手並み拝見はこれくらいにして、では、統治する、は、君臨する、と同じではなく、指揮する、とも、法をなす、とも同じではなく、法をなす、とは要するに、私が法律だ、と振る舞って他の者たちを従わせることを指し、これに対して統治するとは、主権者である、封建君主である、領主である、判事である、将軍である、地主である、師である、教師であるといったことと同じではなく、つまり統治するということには何か特有なところがあり、この概念がカバーする権力はどのようなものかがわかる必要がある、という文章をどう解釈したら良いのかというと、統治する、という概念を、君臨、指揮、法作成、あるいは封建的な支配形態である、主権、領主、判事、指導者と区別して理解しようとする視点は、ミシェル・フーコーが提唱したガバナンス=統治性の議論に極めて近い、非常に本質的な洞察で、統治する、は、私が法律だ、と強制する暴力的な支配や、絶対的な命令とは異なり、この概念がカバーする権力は、法をなすことが対象とする人間を従順な主体として扱うのに対し、統治は対象を行動主体として扱い、領土を支配し、臣民に服従を強いることではなく、人口の健康、福祉、産業、習慣など、生活の細部にわたって管理し調整する権力であり、住民の生活そのものへと働きかけ、人々の行動や、彼らの行動しうる範囲を構成し、富の増大、健康、秩序といった、より良い方向へと導く手法で、また、指揮することが直接的な、〜せよ、という命令であるのに対し、統治は間接的な手法を用い、フーコーはこれを、行動の行動に対する指導、と呼び、人々が自発的に、統治者の望む行動をとるように、環境や状況を設計し、統治は、対象となる人間の自由を奪って従わせるのではなく、対象の自由や主体性を前提として、なおかつ、その自由を機能させることで、結果的に秩序を維持し、また、教師、師などの指導的な要素は含みつつも、それらと異なる点は、この権力が技術=ガバナンス・テクニックであるという点で、警察、統計、経済政策、公衆衛生、教育など、人々の生活を内側から制御する、ソフトパワー的な手法を用い、単なる権力闘争ではなく、いかに効率的、かつ合理的に人々を統治するか、という知に基づいていて、統治するとは、個人・集団などの自律的な主体が自発的に秩序に適応する環境を作り出し、彼らの行動を導くことで、人口の福祉と国家の安全を同時に最大化しようとする合理的な権力技術であり、これは、私が法律だ、という法主権的な権力ではなく、あなたの生活を豊かにするために、私は環境を管理・整備する、という、現代的なガバナンスの核心部分だそうだが、ちょっとフーコーから離れて、自分が統治に関して念頭に置いているのは、特にそう意識している人は少ないどころか、大半の良心的な人々は、それとは逆のことを絶えず考えているのではないか、と普通に考えられることで、それが、現状の世界情勢からなし崩し的に否応なくそうなってしまうようなことであり、それは、貧富の格差の拡大傾向をそのままにしても構わないような統治手法へと、各国の政府の統治が自然にそうなっていくのではないか、と考えられるのだが、それについては、貧富の格差拡大を前提、あるいは容認した上で、社会的な混乱を避ける、または維持するための統治手法として、主に、市場原理を最優先し、結果の不平等を、自己責任や能力の差として正当化する構造に基づいていて、それを悪く言えば、新自由主義的・市場絶対主義的な構造改革と捉え、労働市場を流動化させ、それを批判する人はすぐに非正規雇用の拡大に結びつくと批判するのだが、法人税の引き下げを行い、企業や富裕層の活動を最大化し、格差は個人の能力や努力の差であるとし、これも個人の生まれ育った環境や経緯に左右されることだから簡単に批判できることだが、政府による積極的な所得再分配は労働意欲を削ぐとして抑制し、富裕層や大企業が富めば、最終的には低所得層にも利益が浸透するというトリクルダウン理論の前提に基づき、これもそうはならないとさんざん批判されてきたことだが、上層への投資を優先し、公的サービスの縮小と、民営化を進めて、小さな政府への転換を促し、医療や介護、教育の自己負担分を増やして、公的支援を自助で補う形にして、社会保障費を削減し、生活保護などを厳格化し、真に生存が困難な層への限定的な支援にとどめて、セーフティネットを限定化し、機会の平等を強調して、結果の平等ではなく、機会の平等さえあれば十分である、というナラティブ=語りを社会に浸透させ、格差は能力が高い人間が報われる正当な結果であるとし、格差に対する不満を個人の成長意欲へ転換させて、能力主義を強調し、経済的不安を煽ることで、現状維持を望む心理や、格差是正を求める富裕層や大企業への増税などへの反発を生み出して、不安の誘発と団結の阻害を狙い、世代間、雇用形態間などの貧困層や中産階級同士の対立を煽り、統治者への不満の矛先を分散させて、不満の分断を図り、格差拡大に伴う治安悪化に備え、警察力や監視システムを強化し、反政府的な動きを早期に封じ込め、これらの手法は、経済成長や競争力の強化をもたらす可能性があるが、同時に持続的な格差の固定化、社会的な不平等の拡大、貧困の連鎖を招くリスクが指摘されており、資本主義の矛盾により、こうした手法は長期的には社会の安定を揺るがす可能性があるため、不平等是正とのバランスを模索する意見も多くあるそうで、さすがのAIも無理難題を問えば、容易に批判しやすい回答しか出すことができないようだが、フーコーが『監獄の誕生』などで指摘したような、刑務所の制度が、囚人が更生するどころか、再犯を助長するだけで、かえって犯罪の温床になってしまうとか、さんざんその欠陥や不具合を指摘され続けながらも、いまだに社会の秩序を維持するなどの一定の機能を果たし続けて、制度に関わる人や団体に利益をもたらしていることの延長上で、例えば貧富の格差拡大の傾向も、何らかの肯定的な効果や効用をもたらしているのではないかと考えたくなってしまうのだが、それもAIが言うには、貧富の格差拡大は、一般的には社会不安や健康格差などの悪影響が強調されるが、経済学的な視点や競争原理に基づいて、肯定的な効果や効用が挙げられることがあり、富が一部の富裕層に集中することで、大規模な投資や研究開発などの失敗するリスクの高い事業に投資が供給されやすくなり、産業の発展やイノベーションが加速する可能性が指摘され、富裕層のようになりたい、という経済的なインセンティブが働くことで、個人がスキル習得や能力向上など教育への投資に励むようになり、社会全体の労働生産性が向上する動機付けになると考えられ、富裕層の活発な消費や投資が経済全体を活性化し、結果として全体的な富が増大するという考え方もあり、所得の二極化は、技術進歩やグローバル化に伴う労働市場の構造変化に対する適応として発生する側面もあり、効率的な人材配置が進むことで産業構造が転換されるきっかけになる場合があるが、一方で、これらの効果は、格差が適度である場合に機能しやすいものであり、格差が過度に拡大すると、貧困の固定化や教育機会の減少、経済成長の阻害などの問題が深刻化することは多くの研究で示唆されているそうで、なるほど、現代のマルクス主義者にも批判の機会が与えられている程度の経済的な調整が、今のところは機能しているのかも知れない。5月7日「国家の比喩としての家」国家統治の喩えとして家父長による大家族の統治を持ち出すのも、国王の王子時代に王宮の教育係が持ち出すありふれた喩え話だったらしいが、反マキャヴェッリ的な思想家の類いが持ち出すのも、その種の喩え話になるらしく、統治者と呼ばれうるのは帝王、皇帝、王、君主、領主、行政官、高位聖職者、判事、その他これに類する者たちで、統治術を扱う人々は、家を統治する、魂を統治する、子供を統治する、地方を統治する、修道院・修道会を統治する、家族を統治する、ということを絶えず指摘するようになっていたらしく、統治するというのは所謂支配の意味合いだけでなく、切り盛りする、管理する、世話をするといったニュアンスもあるそうだから、それほどおかしなことを述べているわけでもないだろうが、統治は一家の父、修道院長、子供や弟子に対する教育家や師など多くの人が行うことで、統治形式は複数あり、国家の内部で複数の統治が行われるわけだから、複数かつ内在的であるということで、この活動はマキャヴェッリの君主が体現している超越的単独性とは根本的に対立するそうだが、ルソーが『百科全書』に書いた「政治経済学」の項には、経済というエコノミーないしオイコノミアという単語は、家=オイコスと法=ノモスに由来し、家族全体の共通善のためになされる賢明な家の統治を表すに過ぎず、この用語の意味が次いで、大家族たる国家の統治に拡張されたが、家族と国家という、これら二つの社会の一方に固有であるような操行の規則が、他方にも当てはまることなどあり得ず、この二つの社会は、同じように管理するには大きさが違いすぎ、一方の家の統治の方では父が自分で全てを見ることができるのに対して、他方の国家統治の方では首長は他人の目を借りなければほとんど何も見えず、この二つの間には常に極端な違いがある、という趣旨の内容を述べているらしいが、国家を統治するとは経済を作動させることで、国家全体という水準で一つの経済を作動させることであり、それは、家族や財産に対して一家の父が行う監視・制御に劣らず注意深いものとなり、重農主義者のケネーが良き統治のことを経済的統治として語っているのも、統治術とはまさしく、経済という形式・モデルで権力を行使する術だということらしく、ギョーム・ド・ラ・ペリエールという反マキャヴェッリの論客も、統治とは物事の正しい処置であり、その物事をふさわしい目的まで躁導するという任務を人は負う、と述べているらしいが、それに対してマキャヴェッリにとっての権力の対象・標的は、領土であり、その領土に住んでいる人々であり、中世から十六世紀に至る公法における主権は、物事などに対しては行使されなかった、とフーコーは述べていて、権力はまずは領土に対して行使され、その結果、そこに住んでいる臣民に行使されるものだったそうだが、その意味で、領土はマキャヴェッリの領国の根本的要素でもあり、法哲学者・法理論家が定義するような主権者の法的主権の根本的要素でもあるそうで、ここで領土と臣民を統治することを目指すマキャヴェッリ的な統治思想と、経済的統治という人間と物事とからなる複合体を統治することを目指す反マキャヴェッリ的な統治思想の対立を安易に考えてしまうのだが、統治とは物事の統治のことである、というのと、主権から導き出される循環論的な統治の論理のどちらが説得力があるかと考えるのもおかしいのだが、フーコーが言うには、主権が単純な権利として提示されたことは一度もなく、主権者は良い主権者たるべく常に一つの目的を提示しなければならず、その目的とはつまり共通善、万人の救済であり、主権者としての権威が授けられたのはただ、彼らがそれを用いて公益をもたらし維持するためだからであって、国家にとって有利なことでない限り、主権者は何も自分自身に有利に計らってはならず、そこで絶えず引き合いに出され、主権の目的自体として立てられている共通善なるもの、万人の救済なるもの、法学者も語っている共通善なるものとはどんなものなのかというと、法学者・神学者の主張によれば、共通善が存在するのはすべての臣民がもれなく法に従い、割り振られた任務をきちんと行い、与えられた職をきちんと実践し、打ち立てられている秩序を尊重する限りにおいてであり、つまり共通善とは、本質的に言って法への服従だということであり、それは現世の主権者の法への服従でもあるし、絶対的主権者たる神の法への服従でもあり、この法への服従でのことに他ならず、主権の目的は循環的だということであり、善とは法への服従であり、つまり主権が自ら提示する善とは人々の主権に対する服従のことで、この本質的な循環性は、理論的構造・道徳的正当化・実践的効果がどのようなものであれ、マキャヴェッリが言っていたこととさほど違わず、彼が表明していたところによれば、君主の主要な目的は自分の領国を維持することでなければならず、ここでは人は相変わらず、この主権の循環、領国の循環の中にいるそうだが、それに対して、ラ・ペリエールの新しい定義には、これとは別の目的が出現していて、この定義によれば、統治とは物事を処置する正しいやり方であるが、その物事は、法学者たちが言っていたような、共通善という形式へではなく、ふさわしい目的へと躁導されるのであり、このことが含意するのは、それぞれに特有の目的が複数あり、例えば、統治はできるだけ多くの富を生産するように計らう必要があり、統治はまた、人々が充分な食糧を提供されるように計らう必要があり、そして最後に統治は、人口が増殖しうるように計らう必要があり、それらが統治の目的自体になり、この様々に異なる目的に到達するために行われるのが物事の処置であり、この処置という単語は重要で、かつて主権において主権の目的である法への服従に到達することを可能にしていたのが法自体であったのに対して、ここでは人間たちに法を課すことが問題ではなく、物事を処置することが問題となり、つまり法よりもむしろ戦術を用いること、というか法を戦術として最大限に用いることが問題となり、いくつかの手段を用いてコレコレの目的が達成されるように計らうことが問題となり、ここには重要な断絶があるとフーコーは思っているようで、主権の目的が主権自体にあって、主権は道具を法という形で自分自身から引き出すのに対して、統治の目的は、統治が導く当の対象である物事の中にあり、統治の目的は、統治によって導かれるプロセスの完成・最適化・強化の中に求められるべきとされて、統治の道具は法ではなく、様々な戦術になり、したがってこれは法の後退であり、というより、統治のあるべき形から見れば、法は主要な道具ではなく、十七世紀全体に見られるテーマ、十八世紀の経済学者・重農主義者のテクストで述べられている説明によれば、統治の諸目的に実際に到達できるのは、明らかに法によってはないということだそうだが、ラ・ペリエールの述べていることによれば、真の統治者は統治にあたって、剣を必要とするようであってはならず、真の統治者は怒りより忍耐を持っていなければならず、統治者という人物において本質的であるべきは殺害権ではなく、自分の力を引き立たせる権利でもなく、それに対してどのような実定的なプラスの価値を持つ内容を与えることができるかというと、その内容こそ知恵と勤勉さであり、知恵とは伝統的には、人間の法と神の法を知り、正義と公正さを知っていることだが、ここで言われる知恵とは、統治者にとって必要となる知恵のことで、つまりまさしく物事についての認識、到達可能な到達するように計らうべき諸目標についての認識のことで、目標に到達するために用いるべき処置こそが、主権者の知恵を構成する認識となり、勤勉の方はというと、自分は統治される側の者たちに奉仕するべく存在し行動するのだ、と考える限りにおいてのみ主権者、いやむしろ統治者は統治すべきだとする根拠であることになり、ここでもまた、ラ・ペリエールは一家の父という例を参照して、一家の父とは家の誰よりも早く起床し、誰よりも遅く就寝する者であり、あらゆるものに目を配る者であり、なぜなら、一家の父は自分自身を家に奉仕する者と見なしているからであるそうだ。5月6日「現代の安全テクノロジー」法秩序を機能させる法システムと規律訓練型権力を担う規律システムは、現代社会において独立したものではなく、互いに絡み合い、補完し合いながら社会秩序を構成していて、法システムは外的な刑罰などの強制によって行為の是非を判断するのに対し、規律システムは学校、工場、軍隊などの閉鎖空間で身体を訓練して、自動的に服従する主体を生み出す権力技術だが、法律、規制、裁判などの法システムと社会規範、組織のルール、倫理などの規律システムが複雑化する現代において、安全テクノロジーはこれらをシームレスに連携させ、機能させるための不可欠な役割を果たしており、その主な役割は、自動化、可視化、信頼の基礎構築の3点であるそうで、法規範の自動的な適用とコンプライアンスの強化の観点から、安全テクノロジーは法的・規律的な要求事項をシステム内に埋め込み、違反を未然に防ぐ役割を担っており、コードによる法執行は、契約内容を自動執行するスマートコントラクトや、規制基準を満たさない操作をブロックするIoTセキュリティなど、ルールを物理的なコードとしてシステムを実装して、リアルタイムの監視と強制は、データ改ざんの検知や不正アクセス防止技術を用いて、法律や社内規定の違反をリアルタイムで検知し、安全な状態を維持することを目的としており、リスク・コミュニケーションの可視化と最適化の観点から、技術的知見と法的な解釈を統合して、社会全体のリスク認知を調整する役割を担っており、客観的リスク評価は、AI技術等を用いて、損害発生の確率や規模をデータに基づいて客観的に算出して、法的な責任範囲や安全基準の策定を支援し、法の透明性の向上させることは、複雑な法制度や技術的リスクを、AIや可視化ツールを用いて専門家以外にも理解しやすくし、納得感のある安全規律を形成し、デジタルトラストの基盤構築の観点からは、法律が求める安全・安心を、技術的に保証することで、法システムと規律システムが機能する基盤を作る役割を担っており、コンフィデンシャルコンピューティングは、データ活用とプライバシー保護を両立させる技術など、デジタル上の信頼を技術的に担保し、その俊敏性を向上させるために、変化する社会のニーズや法改正に合わせて、ソフトウェアを迅速に更新し、常に適切な法適用環境を維持し、これらの役割を通じて安全テクノロジーは単なるツールの域を超え、ルールと技術の統合的運用を実現し、法と技術が共同する安心できる社会の基盤となっているそうだが、文章のつながりとしては、これで大丈夫そうな感触を得るが、述べている内容が何のことやら、自分にはさっぱりわからないという印象を持たざるを得ないから、もう少し具体的な事例を交えると、安全テクノロジーの歴史は、事故が起きた後の被害軽減から、事故を未然に防ぐ事故回避、そしてAI技術を活用した自動化・協調安全へと進化してきて、具体的には、自動車安全技術を例にして3つのフェーズに大別できるそうで、まずは黎明期において機械式安全装置が開発され、受動的安全:パッシブセーフティを実現する、事故の衝撃から人間を守る技術として発展して、1940〜60年代に衝撃を吸収するボディ構造やボルボが開発した3点式シートベルトの普及、1970〜80年代にエアバッグの導入、緊急ロック式巻取り装置の義務化が法律で定められ、次いで電子制御・運転支援による能動的安全を実現するアクティブセーフティの技術が広まり、事故そのものを未然に防ぐ、ブレーキや走行安定性を電子制御する技術が発展して、1970年代後半〜90年代にアンチロック・ブレーキ・システムやトラクション・コントロール、横滑り防止装置が実用化、2000年代以降に衝突被害を軽減する自動ブレーキや車線逸脱警報など、運転支援システムが搭載され、高度な安全技術を実現するためのAIによる総合制御・自動運転の段階になると、カメラやセンサーを駆使してAIが周囲の状況を把握し、危険を検知してシステムが自動で制御を行い、人間・機械・信号機や道路などのインフラが通信し合い、事故の要素自体を排除する安全コンセプトや、運転の主体が人からシステムへ移り、衝突回避だけでなく、事故そのものを発生させないレベルを目指した進化が現在進行形で起こっていて、1980年代までの受動的安全を担うパッシブセーフティの段階での技術は、シートベルト、エアバッグなどがあり、1990〜2010年代までの能動的安全を担うアクティブセーフティの段階での技術は、ABS、ESC、自動ブレーキなどがあり、2020年代以降では、高度安全・協調安全を担う技術として、AI、自動運転、通信連携などがあり、こんなふうに自動車関連の技術ではうまくその歴史的な変遷を説明できるが、法システムと規律システムと安全システムの関係性となると、法システム、規律システム、安全システムは、現代社会において人々の生活と権利を守るために相互に依存し、連携していて、これら3つのシステムの中で、法システムは、基礎・フレームワークとして機能し、その定義は、国家によって刑罰などの強制力を持ち、制度化された社会のルールを担い、役割としては、個人の尊厳や基本的人権を保障し、社会の公平な安定を担保し、特徴は、憲法を頂点すると法的段階構造を持っていて、次いで規律システムは、人々に行動規範を示して自律を促し、その定義は、法や規則に基づき、個人が自律的・継続的に守るべき行動規範に従い義務的行為を行わせるシステムで、役割は、法システムを社会の現場で機能させ、安定した秩序を維持することにあり、特徴は、法システムによって定められた禁止事項・罰則が、人々の行動の必要性や制限を形成するように作動し、そして安全システムは、法システムと規律システムが安定的に動作するように各方面の動作を調整して、社会の中で安全な状態が保たれるように作動し続け、定義は、法と規律の運用によって実現される、リスクの管理、生命、財産が保護されている状態で、役割は、人々が安心して社会生活を送れる環境の確保、特徴は、法と規律が総合的に運用されることで、安全システムが機能するが、安全システムが機能していれば、法と規律が守られていることになるから、循環論的な特徴もありそうで、関係性の図式は、法システムが、何が正しいかのルールを定め、そのルールに基づいて、規律システムが人の行動を規制し、その結果、社会の安全システムが実現する、と説明されるが、この説明では安全システムそれ自体を法システムと規律システムからしか説明していないから、要するに安全システムの内部で法システムと規律システムが作動していることになり、それはそうだとしても、何かはぐらかされたような疑念を覚えるのだが、その連携のメカニズムは、法システムが予測可能性を持つことで、社会の規律も安定し、法的安定性が実現して、一般的ルールである法的規制と、技術的な制限や利便性を伴ったアーキテクチャが相互に補完して、安全システムを構築するが、技術の進化や社会の変化に対し、法システムが追いつかない場合、新たな規律システムや安全システムの策定が求められ、具体的には、自動運転などの分野では、法的な制裁と安全技術の双方が、ルールと技術の統合的運用として機能し、安全システムを実現しているそうだが、最近の憲法を守れ!的なデモや集会を盛んにメディアが取り上げる傾向も、何やらメディアの安全システムが作動していることの表れなのではないかと勘ぐりたくなってしまうわけだ。5月5日「ワクチン接種と新自由主義的なやり方の共通点」今回はクロードの出力結果の丸写しとなってしまいそうだが、十七世紀から十八世紀にかけては小氷期の最も厳しい時期と重なっていて、ヨーロッパ各地では平均気温の低下・不規則な降雨・霜害が頻発して、1640年代はフランス・スペイン各地で穀物の凶作から食糧暴動などの政情不安が相次ぎ、1693〜94年にはヨーロッパ規模の大飢饉が起こり、フランスだけで百万人を超える死者が出たとされ、各地で暴動が発生し、1709年にも大寒波による壊滅的な凶作に起因して、フランスなどで深刻な飢饉と暴動が起こり、1788〜89年にも凶作と厳寒からパンの高騰がフランス革命勃発の直接に引き金になったとされるが、同時代的に日本でも江戸時代に凶作と飢饉で百姓一揆が頻発していたが、ただし留意すべき点として、因果関係は複合的で、必ずしも凶作から暴動が発生するという単線的なパターンではなく、穀物市場と流通の問題もあって、凶作でなくても、商人による買い占め、輸出・価格高騰が引き起こしたとも言われ、国家の救貧制度や穀物の備蓄政策の有無が結果を大きく左右して、租税への民衆の不満や戦争があるところに食糧危機が重なると暴動が起こりやすく、暴動の形態も多様で、製粉業者・穀物商への襲撃、価格統制の強要に対する反発など、必ずしも支配層への反乱ではないケースも多かったそうだが、それに対して自由主義の先駆けとなった重農主義者たちが、重商主義的な政策が食糧難を悪化させたと主張して、ケネー、テュルゴー、ミラボーらが主張した核心は、重商主義的規制を伴う穀物取引への国家介入こそが、不作を飢饉・暴動に転化させる構造的原因だ、という議論で、主張のもっともらしいと思える点は、フランスをはじめ多くの国では、州間の穀物移動の禁止・制限、不作時の輸出禁止令、平時は輸入関税を課し、公定価格の強制、これらの規制は価格シグナルを殺す効果があって、不作地域に余剰地域から穀物が流れ込むという市場メカニズムが働かず、商人が備蓄・転売のインセンティブを失い、結果として局地的な飢饉が解消されないまま固定化され、スミスも『国富論』でほぼ同じ診断をしており、一定の経済学的根拠があり、輸出奨励・禁止の朝令暮改が農業への投資を阻害し、重商主義国家はしばしば、豊作時に輸出を奨励して国際収支を稼ごうとする一方で、不作になると突然輸出禁止に転じ、これは農民・地主にとって価格予測を不可能にし、農地への排水・肥料・農具などの長期投資を抑制し、重農主義者の農業こそ富の源泉という主張に結びつけると、重商主義が農業生産力の向上を妨げたという批判は一定の説得力を持ち、また他国の重商主義政策との連鎖効果を伴って、各国が競争的に穀物輸出を制限・禁止すると、国際市場での穀物融通が機能しなくなり、ある国の不作が隣国からの輸入で緩和されるはずが、隣国も輸出禁止にしているため救済されず、結果としてローカルな不作がヨーロッパ規模の食糧危機に増幅され、これは現代の経済学でも、輸出禁止の囚人のジレンマとして知られる問題で、2007〜08年の世界食糧危機でも同様のメカニズムが観察され、重農主義者の直感には先見性があったと言えて、さらに都市偏重の政治経済が農村を収奪した面もあり、重商主義は本質的に製造業や商業や都市を優遇する思想であり、パンの公定価格を低く抑え、それが都市民の利益となる一方で、農民の損失となり、農業税の重さも農民を疲弊させ、農地を放棄した民が都市に流れ込んで、農村の余剰が都市・国家・軍事に吸い上げられる構造となっていて、これにより農民の再投資余力・備蓄余力が削られ、一度の不作で即座に生存危機に陥りやすい脆弱な農村構造が固定化した、という批判は歴史的証拠とよく整合するが、そういう主張に対する限界や反論もあり、1709年や1788年のような極端な凶作は政策の失敗だけでは説明しきれず、気候要因を過小評価しており、テュルゴーが1774〜76年に穀物取引を自由化したところ、かえって価格高騰と粉屋戦争と呼ばれる暴動が起きて自由化は失敗し、道路・情報・商人ネットワークが未発達な状況で自由化しても価格シグナルは機能せず、市場インフラの欠如が露呈し、自由市場が効率的な配分をしても、貧農には購買力がなく飢えるという分配の問題は残り、重農主義者の主張の評価として、規制が問題を悪化させたという診断においては相当もっともらしいが、自由化すれば解決するという処方箋は単純すぎた、というのが現代の評価で、テュルゴーの自由化実験の失敗は、正しい診断+間違った処方、という知的悲劇を象徴しており、経済政策史上の重要な教訓として今も参照されるそうだが、なぜかそこから議論を一変させ、重農主義者が主張する自由主義的なやり方と、当時の天然痘の流行を抑えるために始まったワクチン接種の医療政策との共通点を挙げるとすると、表面的な対比としては、一見すると逆に見えるそうで、重農主義の自由化は、国家の介入を減らせという主張に対して、天然痘ワクチン政策は、逆に国家の介入を増やしたわけで、また重農主義が規制の撤廃を主張しているのに対して、天然痘のワクチン政策は、強制接種であり、接種の義務化を行い、一見した印象としては重農主義が自由主義であるのに対して、ワクチン政策は国家主義的であるが、この対比は表面的で、深層にある共通の構造は、まず自然の秩序への信頼という共通の哲学があり、重農主義の核心概念は自然的秩序であり、ケネーは、農業は自然が富を生む唯一の源泉で、国家の人工的介入は自然の流れを歪め、だから介入を取り除けば秩序は自然に回復する、と主張し、天然痘ワクチン接種の思想的基盤も実は同じ構造を持っていて、1796年のジェンナーの種痘は、それ以前の中国やトルコなどで行われていた人痘接種の延長線上にあり、人痘接種の論理は、自然の病気のプロセスを模倣・利用して免疫を得るというもので、つまり、自然が持つメカニズムを人工的に遮断するのではなく、自然のロジックに乗る発想で、自然の秩序を尊重し、それを利用する、という認識論的態度が共通していて、また予防と流通というシステム思考の導入に関して、重農主義者の革新性は、食糧危機を個別の不作の問題ではなく、システムの問題として捉えたことにあり、問題は、穀物が足りないではなく、穀物が適切に流通していない、ということで、解決策は、備蓄を増やすではなく、流通システムを機能させる、となる一方で、種痘政策も同じシステム思考を持ち、問題は、病人を治療するのではなく、感染連鎖をシステムとして断ち切り、解決策は、罹患者を隔離・治療するではなく、集団免疫という社会状態を作り出すことにあり、個人への対処から社会システム設計へという発想の転換が共通して、これは十八世紀という時代が生んだ、社会を機械・有機体として設計可能だ、という啓蒙主義的確信の表れだそうで、個人への介入を社会全体の利益で正当化する論理であり、重農主義の穀物自由化は個々の農民・商人の取引の自由を保護するが、目的は自由それ自体ではなく、自由にさせることで社会全体の食糧供給を安定させることにある一方で、十九世紀初頭に各国で義務化が始まる種痘の強制接種政策は、個人の身体に針を刺すという介入を強制するが、目的は個人の健康ではなく、集団免疫によって社会全体の疫病リスクを下げることにあり、個人の扱い方が自由にするのと強制するのでは真逆でも、正当化の論理は、社会システム全体の最適化で共通していて、これはまさに後のベンサムの最大多数の最大幸福という功利主義が体系化する思考の先駆けで、それはまた国家の役割の質的転換をもたらして、一見、重農主義は国家の縮小、種痘政策は国家の拡大に見えるが、実は両者が要求しているのは、規制する国家から管理・設計する国家への転換を意味して、重農主義が穀物市場を細かく規制するのをやめて、代わりに市場が機能するためのインフラ・情報・法的枠組みを整備する国家を目指している一方で、種痘政策は、個別の病人を治療することに加えて、人口全体を管理対象として予防的に介入する国家を実現しようとしていて、フーコーが生政治と呼んだ、人口を統治対象とする近代国家の誕生が両者に共通する歴史的文脈だそうで、まとめると、社会という複雑なシステムを、自然の論理を利用しながら、合理的に設計・管理できる、という啓蒙主義的確信が、経済政策と医療政策の両方を同時に変革しつつあったということだが、さらにそこから時代を飛んで、1970 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