彼の声174

2026年

4月3日「クラウゼヴィッツの名言」

 クラウゼヴィッツの『戦争論』は、戦争は政治の延長(他の手段による政治の継続)という名言に代表される、合理的な戦争観を説いた軍事古典で、敵の意志を屈服させる武力行使と定義し、政治の目的が戦争を支配すべきだと主張したそうで、戦争は他の手段をもってする政治の延長にほかならない、戦争とは、敵の意志を屈服させることを目的とする武力行使である、おおよそ戦争は、盲目的な激情に基づく行為ではない、戦争を支配するものは政治的な目的である、善良な気持ちから戦争を語るのは最悪、他国の危機に同盟国は真剣にならない、これらの言葉は、現代の国際情勢や戦略的思考を考える上でも依然として強い影響力を持っているそうだが、それに対してフーコーは、クラウゼヴィッツの定式を逆転して、政治とは他の手段によって継続された戦争であると考えて、これは三つのことを意味し、まず、私たちの社会のような社会において機能している権力関係は、そもそも歴史的に確定可能な一時期に戦争のなかで、また戦争によって、確立された一定の力関係に根ざしたものであり、そして、政治権力が、戦争を停止し市民社会に平和をもたらす、あるいは平和をもたらそうとするのは、戦争の作用を中断する、あるいは戦争の最後の戦いで現れた不均衡を中和化するためでは全くなく、この仮説に立つならば、政治権力の役割は、一種の静かな戦争によって、諸制度、経済的不平等、言語、そして各人の身体まで、この力関係を継続的に記入しなおし続けるものなのだということになり、これが、戦争は、他の手段によって継続された政治である、というクラウゼヴィッツの箴言の逆転に与えられるべき第一の意味で、政治とは、戦争において現れた力の不均衡の承認と更新である、というもので、このような命題逆転は、別のことも意味して、すなわち市民戦争=内戦と対になる表現として使われる市民平和の内部において、政治闘争や、権力に関する、権力のための抗争や、力関係の変更である、一方側の増大、転覆などの、そうした全ては、ひとつの政治体制における、戦争の継続であるとのみ解釈されることになり、それら全ては、戦争それ自体の逸話であり、戦争の断片化、および戦争の転移であると解読されることになり、平和とその諸制度の歴史を書く時でさえ、人は戦争の歴史を書くだけなのだということになり、またクラウゼヴィッツの命題の逆転は第三の意味もあり、それは、最終的決定を下すのは戦争である、つまり、最終的には武器が審判を下す力の対決が決めるのだということで、政治的なものの究極の姿は最終戦であって、最終戦こそ最後に、そしてまさしく最後にのみ、継続された戦争としての権力の行使を停止しうるものということになるが、AIによると、クラウゼヴィッツとフーコーの主な違いは、戦争を国家間の物理的暴力と捉えるか、社会全体に浸透する権力関係のメタファーと捉えるかという点にあり、フーコーはクラウゼヴィッツの有名な、戦争は他の手段をもってする政治の延長である、という定義を逆転させ、現代社会の権力構造を分析したそうだが、クラウゼヴィッツが戦争を、政治的目的を実現するための手段、暴力行為と捉えているのに対して、フーコーは、政治は他の手段をもってする戦争の延長である、とし、社会の根底に永続的な戦争である権力闘争が存在すると捉え、クラウゼヴィッツにとっての焦点が国家、軍隊、物理的な殺す権力の行使であるのに対し、フーコーにとっての焦点は、社会全体の規律、知識、監獄や病院などの制度、住民を管理する生権力になり、クラウゼヴィッツのアプローチが、国家間における物理的な殺す権力の行使であるのに対し、フーコーのアプローチが、生きている人間に介入・管理する、生かす権力である生権力の分析になり、クラウゼヴィッツの文脈が、近代国家の戦争と軍事戦略であるのに対して、フーコーの文脈が、現代社会における規律と管理の社会システムになるそうだが、フーコーは、クラウゼヴィッツが重視した戦争が物理的な暴力にとどまらず、現代社会においては、日々の教育や制度の中で、知識を通じて人々を支配する規律権力や生権力として機能していると主張し、クラウゼヴィッツの軍事的・古典的戦争論と、フーコーの社会構造的・批判的権力の違いが何かというと、ともに戦争や支配をテーマにしているが、その対象、目的、本質に対する捉え方が根本的に異なり、最大の違いは、戦争を政治の延長と見るか、政治や社会全体を戦争の延長と見るかという点にあるそうで、クラウゼヴィッツは、戦争は政治的相互作用の極限状態であり、他の手段による政治の継続と定義するのに対し、フーコーは、戦争は社会を支配する社会関係の暗号である、と述べ、権力関係を絶えざる闘争、あるいは戦争の継続として捉え、クラウゼヴィッツは国家が主体であり、敵の軍隊を撃破し、政治的目標である国家意志を強制することが戦争の目的だと捉えているのに対し、フーコーは、国家だけでなく、社会全体、学校、病院、軍隊などに分散した権力が対象を物理的に消滅させるのではなく、管理し、従属させることが、生権力の目的だと捉え、クラウゼヴィッツが戦争の性質を、現実には摩擦や制限が生じるにしても、暴力の絶対化を伴う、物理的な武力衝突と捉えるのに対して、フーコーは権力の性質を、物理的な暴力だけでなく、知識、制度、監視、規範を通じて個人の内面に介入する微視的な力と捉え、クラウゼヴィッツが軍事力を敵を殺し、物理的に圧倒するためのツールと捉えるのに対して、フーコーは知識=権力を、真理や知識そのものが権力によって形作られ、社会構造を支配する手段となっていると論じ、クラウゼヴィッツの主張の特徴が、十九世紀的・国家中心的な視点、軍事的な戦略、戦術、兵站、意志の衝突に焦点を当てているのに対し、フーコーの主張の特徴は、二十世紀後半の構造主義・ポスト構造主義的な視点だとAIは捉えているが、現代社会の支配体系や規律、人口管理などの生政治に焦点を当てていて、クラウゼヴィッツは、国家対国家の物理的・軍事的な闘争を戦略的に分析したが、フーコーは、社会の隅々にまで浸透した規律や監視を伴った生権力が、いかに人々の主体性を奪い、支配を維持しているかを批判的に解明し、フーコーは、クラウゼヴィッツ的な戦争の枠組みを、現代の社会そのものの支配関係に拡大・再解釈したと言えるそうだが、問題なのは、権力の規則立てられかつ正当な諸形態を、それらの中心において、つまり権力の一般的メカニズム、あるいは権力の全体的効果と言えるものの中で分析することではなく、問題となっているのは、それとは反対に、権力をその末端で、その究極的な輪郭の中で、権力が毛細状になるところで捉えることで、つまり権力の最も局在的な、最も局所的な諸形態と制度の中で、特にこの権力を組織し、その範囲を定める法的諸規則から、権力自身がはみ出してしまい、こうした規則を越えて延長し、ある制度の中で自己の役割をあてがい、あるいくつかの技法の中で実体化し、物質的な、時には暴力的な介入の道具を手に入れるその場で権力を捉えることが重要だそうだが、どこでいかにして懲罰権が、哲学が提示するような主権、君主法あるいは民主法の主権の中で成立するのかを探求するかわりに、実際に懲罰、懲罰権が、拷問であれ、投獄であれ、局地の、地方の、実在のいくつかの制度の中で、それも実際の懲罰装置の制度的、物理的、法規的、かつ暴力的な世界においてどのように実体化したのかを知ろうとしたのだそうだ。


4月2日「うわべだけの会話」

 うわべだけで何か述べているように思われることが何なのかというと、それがうわべだけで述べていることが相手にもわかってしまうとまずいのかといっても、場合によっては相手にもそれとわかるようにうわべだけで述べているわけで、そうなると何か殺伐とした雰囲気を感じてしまうが、なぜそうなってしまうのかといっても、そんな調子でも構わないようなシチュエーションがあって、雑談や社交辞令などのうわべだけの会話は、人間関係のトラブルを避け、円滑に社会生活を送るための潤滑油として非常に有用で、深い話をする必要はなく、表面的な会話で十分である場合がありそうだが、お疲れ様です、というすれ違った職場の同僚への挨拶や、天気、ニュース、週末の予定など、職場のエレベーターや給湯室での短い会話や、取引先との会議前のアイスブレイクの時など、簡単な挨拶や社交辞令の場での会話や、パーティーや交流会、バイト先などで出会った人との会話や、お互いのプライベートに踏み込まないことがマナーとされる状況など、初対面やあまり親しくない人と会話する時や、職場や近所付き合いで、最低限の関係を保つ必要がある場合や、嫌われているかもと感じる相手と事務的に対応する場合など、苦手な人や関わりを深めたくない人と接触する時や、人前で話すのが苦手な場合、あえて事務的・形式的な会話でその場をやり過ごそうとしたり、急いでいる時に立ち話で捕まった場合など、時間的な余裕がない時にはそうならざるを得ず、これらのシチュエーションでは、相手が心地よいと感じる表面的な話題を話すことで、気まずい沈黙を避け、良い印象を残しつつ、心の距離を適切に保つことが肝要だそうだが、そればかりが目立つようだと、中身のない空疎な人間だと思われるかも知れないし、世渡り上手だと思われる程度でもなければ、意識してなるべく目立たないように心がけているわけでもなく、ただ何となくそうなっているだけで、部分的にそういう面もある程度で、そればかりではなく、たぶんそういうシチュエーションでうまく振る舞う必要もなく、うまく会話が噛み合わずに気まずい沈黙に耐えているぐらいがちょうど良かったりするわけで、どうでもいいようなところで気を使うのが嫌なら、うわべだけ相手の話に合わせるようなことはやらない方がいいと割り切ってしまえば、嫌われ者で構わないような開き直りへと導かれてしまうだろうが、イーロン・マスクがビデオ会議で従業員に解雇を言い渡す場面などを見てしまうと、何かゾッとするものを感じるが、その徹底した合理主義と冷徹なまでのスピード感を象徴する挿話として、複数の文脈で知られているそうで、会議の効率を極端に重視しており、無益な参加者に対して非常に厳しいことで知られていて、会議中に発言しなかったり、貢献していないと見なした従業員に対し、君は何も発言していないが、なぜここにいるんだ?と問い詰め、その場で退席や解雇を命じることがあると報じられていて、従業員に対して、会議に貢献していないと感じたら、すぐに退出しても失礼には当たらず、むしろ、そこに留まって時間を無駄にすることの方が失礼だというルールを徹底させているそうで、ツイッター買収の時、会議やメールを通じて、かつてない規模の解雇を行い、全従業員の約半分をメール一本で解雇し、多くの社員は、会議に呼ばれる前に社内システムへのアクセス権を遮断され、自分が解雇されたことを知り、その後の社内会議やメールで、長時間かつ高強度で働くか、退職金を受け取って去るかの選択を迫り、さらに多くの従業員が会社を離れ、テスラでも2024年4月には、全従業員の一割以上に相当する一万四千人規模の解雇をメールで通知し、スペースXではマスクの言動を批判する公開書簡を提出した従業員を、経営陣との会議や調整を経ることなく即座に解雇した事例もあり、トランプ政権下での役割に関連し、連邦政府職員の大量解雇についても、雑草の根を断つ必要がある、と強い言葉で言及し、2025年3月には、夜の10時に突然の全体会議を開き、株価低迷の中でも従業員に結束を求めるなど、予測不能なマネジメントスタイルを続けているそうで、こうしたエピソードは、ビジネスメディアで、残酷だが効率的なやり方として、しばしば取り上げられているらしいが、労働者の権利が法律でそれなりに守られている日本でも、それとは別のより陰湿なやり方で従業員を解雇しようとする場合もありそうだが、うわべだけの会話で無駄に時間をつぶすようなことをやられたら、イーロン・マスクなら激怒するかどうかも、それが仕事中なら、それも仕事内容にもよるかも知れないし、キャバクラのおねーさんなら、そういうことをやるのが仕事に含まれるだろうから、その辺は何とも言えないところだが、人によってもその人の立場によっても、その場の状況や情勢によっても、それがどうでもいいようなシチュエーションとはならない場合もありそうだが、それでもどうでもいいような場面で気を遣わざるを得なくなるのは、世の中の多くの人が抱える気疲れの原因だそうで、心理的な負担や疲労につながる行動だそうだが、これは気を遣って相手に配慮するというよりは、自己防衛や最適化などの心理作用が無意識に働いて、そういった自己に対する気遣いが過剰となっている状態と言えて、この状態が続くと、社会生活に支障をきたす過適用や気疲れにつながり、そうなってしまう理由としては、全てを完璧にこなそうとするあまり、どうでもいいような細かい部分にも目が向いてしまい、相手からどう思われているか、嫌われていないか、見捨てられていないかを過剰に恐れ、相手の反応を過剰に予測して、絶えずそれに先回りして行動しようとして、自分の気持ちより相手の機嫌を最優先にして、そんな過剰なご機嫌取りやゴマすりがかえって災いして、相手から下に見られたり軽くあしらわれたりすると逆効果と言えそうだが、そんな状態を抜け出して、心を楽にするには、どうでもいいと割り切ることが肝心だそうで、全ての人の期待に応えなくていい、嫌われてもいいと自分に許可を出して、相手が何かをしてくれる、理解してくれるという期待を手放して、相手の機嫌よりも、まずは自分の気持ちや体力や気力を優先し、小さな頼み事から断る練習をして、自分を守る境界線を引き、誰かと関わることで生まれるストレスから距離を置き、無意識に力が入ってしまっていることに気づくことが、改善の第一歩で、自分の心と体を守るために、必要のない配慮はしない選択をすることが肝要だそうだが、それも立場上、その場の状況や情勢によっては、それができない場合も出てくるから、誰もがイーロン・マスクのような立場にはなれないこともわかりきっていて、時には相手に気に入られるために、お世辞を言ったり、媚を売ったりしても、それも相手に魂胆を見透かされている場合がほとんどだろうから、ソフトバンクの孫さんみたいにトランプに取り入って、かえって巨額の資金を工面する事態となっているのも、そうなるのも承知でそんなことをやっているんだろうが、もちろんトランプの方でも利用価値の高い奴には、それなりに応対するのだろうから、お互い様な面もありそうだが、何の能力も金も奴なら、相手にされないだろうから、時の権力者に取り入るというのも、それなりに能力や金のある奴らがそういう行為に及んでいると見ておけばいいわけだが、ビジネスや学校などの人間関係において、時にネガティブに捉えられることもあるにしても、円滑なコミュニケーションや処世術の一環として活用される側面もあり、職場では上司への適切な配慮や評価を高めるための手段として議論されることがあるそうで、もちろん冷徹な合理主義者のイーロン・マスクには通用しないだろうが、教育現場でも、内申点などのために先生のご機嫌取りが必要になる場面があるとの指摘もあるそうで、そんなのはAIの出力結果に過ぎないから、怪しいと思えば信用しないに限る内容かも知れない。


4月1日「わかっていないこと」

 何かわかっていないことがあるとすれば、それが自分には関係のないことであるなら、わかっていなくても安心できるかというと、関係ないのだからわかっていなくてもそれほど深刻な事態でもないと思うにしても、関係ないかどうかなんて、それがわかっていないなら、というか何がわかっていないのかが、自分に関係のあることかどうかもわからない場合、深刻な事態かどうかもわからないし、そこで話の前提が崩れてしまうような不安感に襲われるわけでもないが、わかっていないことが自分に関係のあることかどうかなんて、そう簡単にわかるわけでもないなら、あまりわかっていないことについて心配するのも、杞憂に終わる可能性も高そうで、心配するのではなく、何がわかっていないのかをわかろうとするのかも知れず、それもわかっていない内容にもよるだろうが、わかろうとする過程でわかってくることもわからないままになってしまうことも出てきて、そこでわかっていないこととわかってきたことの仕分け作業をやっているような感覚が得られるなら、少しは安心できるかも知れず、安心したくてそんなことを考えていたり、わからないことを調べていたりするなら、そんな作業に没頭している限りで、気が紛れるかも知れないが、何もわからないうちからそんなことを想像してみること自体が、何だか想像するだけ無駄なような気がするが、先行きを懸念するのは誰でも気休めに心配するようなことだから、何かのついでにそうなってしまうのだろうが、心配の種が何かの利害関心に囚われていることでしかなければ、それも誰もが資本主義市場経済の中で暮らしているからだと達観してみたところで、そこから何かもっともらしい思いつきに至るとも限らず、その逆に、あり得ない妄想に囚われている可能性も捨てきれないから、それが何なのかを考えてみれば、おおよそ偏見や固定観念や先入観などのこだわりに行き着きそうで、それが自分に特有のこだわりなのか、それとも世間から有形無形の影響を及ぼされた結果として妄想される集団的な共同幻想の類いなのかも、どちらであっても勝手に頭の中で自分の都合に合わせて、それらが混じり合っているのかも知れないから、そうなっている限りでそんな世間の一部として自分の頭の中で自意識が構成されていることに思い至るかも知れないが、それがどうしたわけでもないと、またもや調子に乗って達観してみたところで、いくら何を達観してみても自らの愚かさを拭い去ることなどできはせず、結局だから何だと開き直ることしかできないようで、最近は連日イランがどうしたアメリカがどうしたイスラエルがどうしたとニュースに気を取られているうちに、それとは別のところで何かが絶え間なく進展しているようで、それが何だかわからないでは話にならないが、例えば、仮想通貨に量子リスクがあるとかないとか、暗号解読のハードルが低下する恐れをグーグルが研究者の論文の中で警告しただのと、さっそくメディアが話題を提供しているようで、米グーグルの研究者が、将来の量子コンピューターがビットコインなどのデジタル資産を保護する暗号技術の一部を、従来想定より少ない資源で解読できる可能性があると警告したそうで、ビットコインなど持っていない人には関係のない話だと軽くみておくと、何か将来においてとんでもないことになるかどうかも、確かにそんなことなど現時点ではわかりようがないが、グーグルは差し迫った崩壊を予測するものではなく、業界に対応の時間を与えるための警告だと位置付けたそうで、自社のセキュリティーシステムを2029年までに全面的に耐量子暗号へ移行する計画を示しているそうだが、そんなのは以前から言われていたことだから、そんな話題をなぜメディアがこのタイミングで取り上げたのかと考えてみたところで、その意図など自分にはわかりようがないから、現時点は何でもないことには違いないだろうが、今さら取り立ててそんなことを知りたかったわけでもないし、たまたまネットでニュース・メディアを見たら、そんな話題が目についただけで、それこそが自分には大して関係も関心も興味もないことだと、今のところはそう思うしかないが、では他に何を知りたかったのかというと、それもニュース・メディアに気を取られているうちに忘れてしまったのかどうかも、この時点では思い出せないわけで、ここでそんなことを思い出す必要さえ感じられないのだから、完全にそれらのニュース・メディアによって、何かをはぐらかされているような気もしないではないが、すでに何を考えていたのかも思い出せないのだから、それが聞きたいことや問題の核心を意図的にずらされて、問おうとした何かを得体の知れない何かによって、適当にあしらわれて煙に巻かれていることになるのかどうかも、その得体の知れない何かの正体もわからないのだから、そんなふうに思ってしまうこと自体が、自らの勝手な妄想に過ぎないとしても、何かによって、あるいは何かから影響を及ぼされて、現時点ではあり得ないことを妄想してしまうのかどうかも、それが何なのかといっても、やはり依然としてそんなことなどわかりようがないのだが、こうやってわざと何かの本筋とは違う話をしてごまかしていると受け取られるなら、本筋とは何なのかもわかりようがなく、それに対してもどかしさや不誠実さを感じるならその通りで、いくら問うてもまともに答えなど返ってこないから、かえって問うたびに謎が深まりそうで、その謎が何なのかもわかりようがなく、自身が直面している問題から逃れるために、ひたすら答えを避けて、それに取り組むのを先延ばしにしているとも思えないが、こちらはそれを追及しているのに、話をはぐらかされている場合、相手は本音を言いたくないのか、その話自体をそこで終わらせたいと感じている可能性が高いそうだが、何がそうなのかといっても、元から真剣な話などにはなりようがなく、その種のニュース・メディアがどんな話題を提供していると考えても、それが需要に応えた話題かどうかも、それがユーチューブ動画なら再生回数や高評価などによってわかるだろうから、再生回数を稼げそうな話題を提供する方向へと自然と動画の傾向も推移して行くだろうと推測できそうだが、それが何なのかといっても、その種の動画を視聴しているうちに、自然とそんな傾向がわかりそうで、そういうことの繰り返しからその方面での市場のコンセンサスも形成されてくると考えておけば無難な感じがするわけで、そんなふうにしてその種の動画を視聴するたびに、そちらの方面へ意識も関心も誘導されて行ってしまい、それが何なのかといっても、ただ単にそういう話題に興味や関心が向くように仕向けられていると考えればその通りのような気がするのだが、たぶんそうなったところで、自分の自意識がその種の話題に慣らされているに過ぎないから、そういう方面に向かって自意識が構成されてくるとしても、やはり何でもないことなのではないかと思ってしまうのだが、たぶんそれも自分の利害などに直接かかわってくることだとは思えないわけで、自分とは関係のない社会のどこかで見ず知らずの他人が活動していることをメディアにいちいち伝えられても、そこから自分にとってその活動が有利に働くか不利に働くかなんて、そんなことを思いつくわけでも考えられるわけでもない限りで、自分とは無関係だと思うしかないのだろうが、それも気づかないところから自らに何らかの影響を及ぼしてくるとしても、そんな影響などたかが知れていると軽視できるかどうかも、影響を及ぼしてくる物事にもよるだろうから、その辺はその物事が何なのかによって自らの対応も変わってくるだろうが、話の内容は相変わらず取り止めがないようで、何でもないようなことを述べているに過ぎないわけだ。