彼の声1732026年2月3日「予想通りの分析結果」何が予想外なのかと考えてみると、今がその機会ではないという結論が頭に浮かんで、今がそれを考える機会ではないのかどうかも、何のことやらさっぱりわからないのもいつものことだが、誰かが危機感を募らせようとしているのは確からしいが、差し迫った危機や問題の深刻さを強く自覚しているのかというと、識者やジャーナリストの類いがいつものように情勢を危惧しているのだから、そうやって危機感を募らせるのもいつもの光景なのだが、それをニヤニヤしながら見ている自分に危機意識があるわけがなく、そういう部分もあるだろうが、メディアで言われているそれを真に受けるわけには行かないという抵抗感の方が圧倒的とまでは行かないにしてもかなり大きいわけだから、それに関して何をどう考えてみても、それが自分にとっては安心材料のような気がするわけで、この先何が起こっても、全ては思惑通りに事が運んでいる最中だと思うしかなく、だから水増しされたガセ情報に一喜一憂している者たちの浮き足だった言動を真に受けるのも、演技としてそうなるのは当然なのだが、それが演技であることに気づかないとしたら、そんな自分を演じながら何を考えているのかもよくわからないわけで、それが誰にとって予想外の分析結果なのかも、知ったことではないような気がするわけだから、ここに至ってもなお情勢を楽観視しているのかも知れず、どんな結果がもたらされても、自然の成り行きでそうなっているのだから、それを肯定的に受け止めたいわけだが、何かの方便としてそう受け止めている感じもしないではないから、そんな受け止めを信用しているわけではなく、これから迫りくる危機自体が、いつもの調子でそれをかわすための試練だとも思えないから、何かそれが違っているとも思っているわけで、その何が違っているのかが、それほどわかりにくいことでもないような気がするわけだが、それに関して果たして批判勢力が経済に関しては素人集団なのかどうかが、批判対象に向かって経済オンチ呼ばわりする態度が、それを物語っていると言えそうなのだが、そうだとしても周りが見えていないのはお互い様なのだから、その程度のことで批判勢力を否定的に見ても仕方がないと思うしかなく、偉そうに言えた義理ではないわけだが、自然の成り行きには逆らえないのは確かだとしても、自然の成り行きに逆らってもいいわけで、稚拙な批判が逆効果だというわけではなく、その人が稚拙な批判をやらせるための役回りを課されているのだから、それをやるのが自然の成り行きに沿った行動になる限りで、なるほど自然の成り行きには逆らえないことを証し立てていると言えそうなのだが、そうやって批判勢力がオウンゴールしまくるのを、みんなで見て楽しんでいる光景が、果たして末期的な世界情勢なのかどうかも、自然の成り行きからすれば、それで構わないような気がするわけだから、そんなことをやっていればそれで済んでしまうようなことなのかも知れず、誰かが叱咤激励しているような気もする一方で、たぶん叱咤激励している側が、破滅の一歩手前で悪あがきの最中だと見えてしまって、そうやってバカ騒ぎが終わった宴の後から、どうしようもないことが明らかになるわけだから、そうなることをこれから予想してみても、単なる傍観者のたわごとになってしまうそうだから、いくら当事者ではない第三者のふりをしても、責任やリスクを負わない立場などあり得ないし、無責任に気楽なたわごとを述べる気にはなれず、それでも何とかして劣勢を跳ね返そうとしていると受け取っても構わないかどうかも、それもちょっとずれているようにも感じられて、何がずれているのかといえば、法的な違法性と経済的な功利性が比較する対象とはならないことを、どう表現すればいいのかわからないのだが、法的な違法性を強調することがそれほど効果があることなのかどうかも、それが昔と比べてどうなのかも、よくわからないというと、それに対して経済的な功利性というのも、あまり本気で信じられるようなことでもないだけに、もしかしたらどちらにしてもあまり決定的な判断材料とはならないとしたら、では何がそれほどまでに現状を動かしているのかというと、法的な合法性や違法性に頼って正しいことを述べようとしても、あるいは経済的な功利性に頼って妥当なことを述べようとしても、どちらにしても決定的なことを言い放とうとする者から、順番に顧みられなくなって行くのが自然な成り行きとなっているように感じられるから、確実にそうだとは言えないにしても、実際にそうなってしまう成り行きにとらわれてしまう者たちが批判勢力を形成しているように見えてしまうわけで、そうやって彼らが何を批判しても馬耳東風な風土が日本で生じていると考えても構わないかどうかも、今のところはそうでもない人も少数派として存在しているようにも見えるのだが、自分がその少数派に属していると言えるかどうかも、やはりちょっと違う成り行きにとらわれているようにも感じられるから、否応なくそれらとは一線を画しているような気がするわけで、だから合法性や違法性の判断基準に頼り切って何か述べようとすると、世の中の主流を構成する情勢からは置き去りにされてしまうような感じがする一方で、その人がそれほど合法性や違法性の判断基準に頼り切っているとは思えないのだが、その人も批判勢力を形成する代表的な人物であることもXなどでは確かだから、ちなみに町山智浩の言っている内容がベタすぎる、でAIによる概要がどんなものなのか紹介してみると、映画評論家・町山智浩氏の評論スタイルについては、多様な意見が存在していて、ご指摘のように、ベタという言葉が意味するかどうかも、AIが判断する、大衆的、予測可能、あるいは説明的と感じられる背景には、次のような特徴があると考えられ、まずはストーリーや背景の丁寧な解説として、映画のあらすじ、時代背景、監督の意図などをわかりやすく説明するスタイルが多く、マニアックな視点よりも、誰にでもわかる面白さを重視する傾向があり、文脈を意味するコンテキストの重視としては、映画そのものの映像美よりも、その映画が制作されたアメリカの政治・社会情勢、または監督の過去作との関連性を踏まえて解説するため、結論が王道になる傾向があり、わかりやすさの追求としては、苦い薬を包む綿菓子のような、物語の面白さという綿菓子で、社会問題という苦い薬を伝える、と言った表現で映画の価値を語るなど、大衆的な視点から映画を紐解く手法を好み、一方で、このベタなアプローチは、映画をあまり見ない層や、予備知識なしで楽しみたい層に対して、作品の魅力を瞬時に伝える初心者向けの解説として高く評価され、町山氏の評論は深層的な分析を求める層からはベタに映り、情報や娯楽を求める層からはわかりやすいと映る、という両面性を持っていると言えるそうだが、当人はこんな評価には断固反論するかも知れないが、一方で町山智浩の政治姿勢がリベラル左翼だと受け取られている、でAIによる概要がどんなものなのか紹介してみると、映画評論家・著述家の町山智浩さんは、その発言や著作の内容から、リベラル左翼(リベラル派、左派)的な政治姿勢を持っていると広く受け取られていて、特にアメリカ社会の構造的問題、格差、マイノリティの権利、そして保守的なトランプ大統領の政策に対する批判的な視点で知られ、具体的には次のような活動や発言が、その姿勢を特徴づけていて、トランプ大統領への批判として、トランプ氏の政策や、メイク・アメリカ・グレート・アゲイン(MAGA)運動に対して批判的であり、トランプ支持層の過激化を指摘するなど、アメリカ政治における右派的な動きを鋭く解説していて、社会的な不平等への言及としては、『99%対1%アメリカ格差ウォーズ』の著作に見られるように、富の偏りや格差問題をテーマにし、弱者や労働者側の立場を支持する姿勢を示していて、人権・マイノリティへの配慮としては、LGBTなどのマイノリティ理解や、社会的な権利を擁護するコメントを発しており、社会的な自由主義の姿勢が顕著で、「アメリカの日常」からの視点では、カリフォルニア州オークランド在住の視点から、メディアでは報じられないディープなアメリカ社会の現状を紹介し、アメリカ社会の歪みを解説して、このように、平等や多様性、社会的自由を重視するリベラル派のスタンスでアメリカ社会の動向を評論しているため、政治姿勢はリベラル左翼と捉えられているそうだが、肝心の日本の政治情勢には、全く触れようとしないのは、自分のAIへの質問がまずかったようだが、AIによる回答の範囲内では、なるほどと思わせるようなベタぶりではあるわけだ。2月2日「自由主義の自由とは」自由主義とか新自由主義とかいう、そこで言われている自由とは何なのかが、どうもわかっているようでいてわかりにくいような気がするわけだが、自由主義に関するフーコーの説明もわかりにくいのだが、なぜ自由主義という言い方をするのかというと、さらに自由主義的統治術という言い方をするのかというと、純然たる経済学説よりも、もしくは純然たる政治学説よりも、あるいは厳密な意味における自由主義の純然たる経済的かつ政治的選択よりも、はるかに一般的な現象に適用されるもので、新たな統治術を特徴づけるのは、自由主義というよりもはるかに自然主義であり、重農主義者やアダム・スミスなどによって語られる自由とは、個々人に認められる法的自由であるよりもはるかに、自然発生的で、経済プロセスに内的で本質的なメカニズムのことで、経済学者というよりもはるかに法学者であったカントにおいてさえもやはり、永遠平和は法権利によってではなく自然によって保障されるのだということを確認していて、十八世紀の半ばに姿を現すのは、統治の自然主義のようなもので、この統治術の根底にあると思われる自然主義、根源的な自然主義は、啓蒙専制主義をめぐる重農主義的な考えの中に非常にはっきりと現れていて、経済の自然発生的メカニズムが実際にあり、あらゆる統治は自らの目標に対立し、それとは反対のものでさえあるような諸効果を望まないのであれば、そうしたメカニズムを尊重しなければならず、こうしたことを重農主義者たちが発見する時、人々に対し彼らが望むように振る舞う自由を与えなければならないということではなく、統治は個々人の自然的で根本的で本質的な法権利を認めなければならないということでもなく、あるいは統治は可能な限り権威的でないものとならなければならないということでもなく、重農主義者たちがそこから結論することは、統治には経済的なメカニズムをその内奥の複雑な自然本性において認識する義務があるということであり、もちろん統治はそれをひとたび認識するやいなや、そうしたメカニズムを尊重しなければならなくなり、しかもそうしたメカニズムを尊重するとは、個々人の自由および個々人の根本的法権利を尊重するような法的骨組みを統治が自らに与えるようになるということではなく、それがただ単に、統治が自らの政策を、社会や市場や経済的流通において起こることについての、正確で、連続的で、明晰かつ判明であるような認識によって武装するようになるということで、したがって統治権力の制限は、個々人の自由を尊重することによって与えられるのではなく、ただ単に、統治が尊重する術を得る経済分析の明証性によって与えられることになり、統治は、明証性によって自らを制限するのであり、個々人の自由によって自らを制限するのではなく、したがって十八世紀の半ばに出現するのは、自由主義というよりもはるかに自然主義であり、しかしそれでもやはり自由主義という言葉を用いるのは可能であり、それは十七世紀および十八世紀初頭における権威的な統治がより寛容でより弛緩したより柔軟な統治へと移行しつつあるという意味ではなく、自由とは一つの普遍的なものであり、これが段階的な達成、あるいは量的な変動、あるいは多少とも重大な削除ないし多少とも大きな隠蔽を、時間を通じて提示するのだ、などと考えてはならず、自由は、時間および地理とともに特殊化する一つの普遍的なものではなく、自由主義的という言葉を用いるのは、まずここに確立しつつある統治実践が、しかじかの自由を尊重したり、しかじかの自由を保証したりすることに甘んじるものではなく、より根本的な言い方をするなら、この統治実践は自由を消費するもので、自由を消費するものであるというのも、この統治実践が機能しうるのは、実際にいくつかの自由がある限りにおいてのみであるからで、すなわち、市場の自由、売り手と買い手の自由、所有権の自由な行使、議論の自由、場合によっては表現の自由などが実際にあるその限りにおいてのみ、そのような統治実践が機能しうるということで、したがって新たな統治理性は自由を必要とし、新たな統治術は自由を消費するのであり、自由を消費するということはつまり、自由を生産しなければならないということでもあり、自由を生産し、組織化しなければならず、したがって新たな統治術は、自由を運営するものとして自らを提示することになり、もっともこれが意味するのは、自由であるべしという、すぐに見つかるような矛盾を備えた命令ではなく、自由主義が定式化するのは自由であるべしという命令ではなく、自由主義が定式化するのは単に、私はあなたが自由であるために必要なものを生産しよう、私は自由に振る舞う自由をあなたに与えよう、ということであり、そして同時に、自由主義が自由の命令であるよりもむしろ、自由でありうるための諸条件の運営であり組織化であるとするなら、そうした自由主義的な実践の核心そのものに、問題を孕んだ一つの関係が創設されることになり、すなわち、自由の生産と、自由を生産しながらそれを制限し破壊するリスクを持つようなものとの間の、常に変化し常に動的な一つの関係が創設されるということであり、フーコーが考えているような意味での自由主義、十八世紀に形成された新たな統治術として特徴づけることのできるこの自由主義は、その核心そのものに自由との生産的および破壊的な関係、自由の消費と破壊との関係を含意していて、一方では自由を生産しなければならないが、しかし他方では、自由を生産するという身振りそのものが、制限、管理、強制、脅迫に基づいた義務などが打ち立てられることを含意していて、これに関しては数々の例があって、もちろん交易の自由が必要だが、しかしもし管理せず制限しないないならば、そうした自由は実際にいかにして行使されうるかということになると、一国の他国に対する覇権によって交易の自由が制限され限定されてしまうことを避けるために、一連の措置や予防策などを組織化しようとしないならば、いかにして自由が実際に行使されうるかということになり、これは十九世紀初頭以来、ヨーロッパのすべての国々とアメリカが出会うことになる逆説で、この時期、十八世紀末の経済学者たちの説を受け入れた統治者たちは、交易の自由の秩序を打ち立てようとして、イギリスの覇権に出会うことになり、そして例えばアメリカの統治は、この問題をイギリスに対する反乱のために利用しつつ、十九世紀初頭からすでに保護関税を打ち立てて、イギリスの覇権によって危うくなると思われる交易の自由を救い出そうとすることになり、同様に国内市場にももちろん自由が必要で、しかしそれでもやはり市場があるためには、売り手だけなく買い手もいなければならないから、場合によっては市場を支援し、援助のメカニズムによって買い手を作り出すことが必要となり、また国内市場の自由があるためには、独占による諸効果があってはならないから、反独占的な法制が必要となり、さらに労働市場の自由も必要となるが、とはいえやはり、充分な数の労働者や、充分な能力と資格を持つ労働者や、政治的に武装解除されており労働市場に対して圧力を加えないような労働者がいなければならず、このように、途方もない法制、途方もない量の統治の介入を求める一種の吸引装置がここには働いていて、これによって、まさしく統治するために必要とされる自由の生産が保証されることになり、自由主義体制、自由主義的統治術において、行動様式の自由はそこに含意され、それによって呼び求められ必要とされ、それを調整するものとして役立つことになるが、それでもやはり、そうした自由は生産され、組織化される必要があるそうで、したがって、自由主義体制における自由は一つの所与ではなく、既成の区域として尊重しなければならないものでもなく、自由は絶えず製造されるような何かであり、自由主義、それは、自由を受け入れるものではなく、絶えず自由を製造しようとするもの、自由の製造によって提起される制約の問題、コストの問題といった、全てが伴うことになるそうだ。2月1日「世界の均衡」自分の意志に逆らってでも勝手にもっともらしいことを述べる気にはなれないのだが、世界の現状に関して、なぜか知らないが危うい均衡がかろうじて保たれているなんて思ってもいないのに、執拗にそれを突き崩そうとする働きかけが絶え間なく仕掛けられていると理解したくなるような世界情勢だと捉えてみても、何かそれが意味不明で、それによって疑念が解消するわけでもないのだが、世界をメディアでよく識者の類いが使うそれらしい言葉を使って捉えて、それに伴って提示される大ざっぱな論理に基づいてわかりやすく理解しようとしているわけではないとしたら、やはりそれとは違うところから、何をどうやってもうまく行かないやり方が試されているような成り行きにならざるを得ないと解釈しても、結果的に危うい均衡が一時的に保たれているように感じられるだけで、実際には絶えず均衡が崩れかけ崩れ続けているから、何とかしてそれを取り繕うための補修が絶え間なく試みられているから、そうすることによってかろうじて危うい均衡が保たれているように見えるだけで、それをどう捉えてみても、やっていることを正当化できるとも思えないし、無理に正当化しなくても構わなくても、それをやっている当事者にしてみれば、やっていることが絶え間なく批判され続けているわけだから、そんな批判に抗う意味でも、否応なくやっていることを正当化せざるを得ないわけで、しかも何を正当化しているのかが、それを正当化している当事者にもよくわかっていないから、そもそも自身のやっていることを正当化している自覚がないのかも知れないし、否応なく批判に抗えば、それが正当化していることになってしまうのだから、自動的にそうなってしまうようなことに、いちいちかまっていられないだろうし、そういう成り行きが絶え間なく続いている中では、その渦中にいるだけでも、そこで主導権を握って何かをやっている気になれるのかも知れず、実際に行われていることに関与している限りで、それが自身の意図や思惑を反映して行われていると思うしかなく、逆にそうは思われなければ、それを自身が思っている通りに修正を施さなければならず、そうしないと自身がその渦中にいる意味がないわけで、だから思い通りになるように絶えず修正を施そうとするのだろうが、その度に思わぬところから横槍が入るような事態に直面し続けるから、それに対しても絶えず対策を講じ続けなければならず、実際に対策が功を奏していると主張したいだろうが、主張している側からそれに対する批判も同時並行して開始され、普通に収拾がつかなくなっていそうだが、そうやって束の間の均衡が保たれているように見せようとするわけだから、今のところはそれで済んでいると受け止めるしかないのかも知れず、それも実際にはそれでは済まないから世界各地で争いが繰り広げられているのだが、様々な方面で様々な勢力が争いながらもかろうじて束の間の均衡が保たれているように感じられる程度のことだとは思っているのだが、そんなふうに情勢分析してみても、それでは分析になっていないから、具体的にAIの示すところによれば、今年の世界情勢は、米国第一主義の再燃による不確実性の増大と共に、インドの台頭によって経済地図が塗り替えられ、日本のGDPは世界第5位に下がり、そしてインフレ鎮静化と技術投資による安定を模索する局面で、米中対立や保護主義的な関税措置がサプライチェーンの再編を促す一方で、世界の経済成長は3%前後で推移する見通しだそうで、金利・物価高の緩和がプラス要因となるが、関税政策など不確実性も依然として高く、トランプ政権の保護主義的な政策に伴って、中国、カナダ、メキシコ等へさらなる関税を課して米国内への産業集積を狙うと、インフレ再燃の懸念が出て、中国やアジアでは、米国との摩擦によりサプライチェーンの再編が進行して、アメリカの関与に依存しない安全保障の模索がアジア各国で焦点となり、日本経済は、ドル建て名目GDPがインドに抜かれ、世界第5位に後退する見通しで、産業のトレンドとしてはAIなどの技術革新への投資が依然として強く、しかもトランプ政権の政策運営が貿易・投資コストの増大をもたらす可能性が高く、各国は自国の利益追求と安全保障と社会保障との間でバランスを取りながら、不安定な国際環境に対応する必要があるそうだが、そんな大ざっぱな分析が何の役に立つとも思えないが、気休め程度の知識として踏まえておけば良い程度のこととして、そんな認識を保持することになるだろうが、それに対して政治的な解決を目指すような成り行きにはなり難く、解決などではなく、政治経済的な競争の継続こそが自国を繁栄に導くと考えているわけでもないだろうが、政治家が口にする内容として、そんな趣旨を含んだ発言が事ある度に出力されることもあるにしても、実際の成り行きは政治家の発言を無視するような方向へと進むかも知れないし、それを無視するというよりは、そんな成り行きに応じた発言が政治家の発言として引き出されるような結果を招くかも知れないから、そんな成り行きに関わっている当事者が、その場で主導権を握っていることを誇示するために、当事者づらした政治家の方から成り行きに歩み寄ってくるような感じになるなら、そこで妥協や譲歩の交渉や取引が行われるから、うまく交渉や取引がまとまるなら、とりあえずの均衡が保たれるだろうが、それも一時的なものとなる限りで、一方では絶えずそんな均衡をぶち壊そうとして、妥協や譲歩の産物であるとりあえずの取り決めを反故にしようと仕掛けてくるから、そんなことをやり出したらきりがなく、きりがないからこそ、政治活動も経済活動もきりがなく続いて行くと情勢を捉えておけば、それなりに納得できるかも知れないが、またそこで各々が自らの信念に基づいて行動しているというよりは、信念をねじ曲げてでも、自身や自身が所属する勢力の利益に結びつくように行動しなければならない成り行きでもなく、自身や自身が所属する勢力の利益に結びつくように自身の信念を組み立てる成り行きになっているのかも知れないし、そういう成り行きの中で各々が行動しているから、その中で自身の信念を正当化できるように自らの主張も構成しなければならず、大抵がそうなってしまうと、もっともらしいことを主張している割には、実際にやっていることは功利主義の一言で片がつくような結果がもたらされて、そんな結果へと至る過程でもっともらしい理屈や論理などが持ち出されてくる限りで、そこから外れる余地も余裕もないような了見の狭さが目立ってしまって、それがその人の言動や行動からあからさまに窺えるから、その人の置かれた立場が、心が狭く、考え方や判断が柔軟性に欠け、偏狭で融通が利かない状態に対応しているようにも感じられ、物事を深く見通す見識や度量が不足していても務まるような立場であることも示していそうで、そんな立場が、視野が狭いとか、心が狭いとか、器が小さいとかいった言葉に言い換えられ、了見が広いの反対語として使われるだろうが、それが自身の考えに固執し、他人の意見を受け入れられない立場で、考えが偏っていて、狭い思考の範囲に囚われていて、状況に応じて考え方を変えたり、臨機応変に対応できず、広い心で物事を包み込むことができず、ひたすら細かいことにこだわるように仕向けられていても、それが戦略的なこだわりである限りで、演技としてそうなっているだけで、戦略に対応したキャラクターを演じるように仕向けられている限りで、それがその場の情勢に対応した立場でもある可能性も高いわけだ。 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