彼の声170
2025年
9月12日「順当な成り行き」
なぜかうまい具合に事が運んで、結果的には現状が良い方向に進んでいるように感じられるとしたら、それに対して批判的な態度で臨んでいる者たちには納得が行かないかも知れないが、たぶん世界的に国家統治が危機に瀕していて、そのことだけを考慮に入れても、政府の行政全般がうまく行っていないことを示しているはずだが、なぜかそれがうまい具合に事が運んでいる証拠だとしたら、逆説的にそうなっているわけではなく、順当な成り行きとしてそうなっているのであり、そういう成り行きになっているからこそ、うまい具合に事が運んでいると世界情勢を捉えてみても構わないのかも知れず、例えばそれが経済の成り行きとして富める者がさらに富む一方で、貧しい者がさらに貧しくなるような成り行きだとしたら、少なくとも富める者に限ればうまい具合に事が運んでいる証拠だと言えるわけだが、もちろん実態としてはそうではなく、貧しい者たちの中からもわずかに富める者が現れる一方で、富める者たちの中からも没落して貧しくなってしまう者も現れるようなら、そうなることによって現状の資本主義市場経済がうまく回っていることになるのかというと、たぶんそれもそれとこれとは話が別で、産業の最先端の分野では日々事態が好転している一方で、それに対して粗探しをするなら、いくらでもうまく回っていない面も出てくるだろうが、ではそれが国家統治や政府の行政全般がうまく行っていないことと、どういう関係があるのかというと、資本主義市場経済がうまく回っていると、富める者がさらに富むから、そんな成り行きを羨ましくも妬ましくも思っている相対的に貧しい者たちの間で不満が高まって、鬱積した不満が何かのきっかけから爆発して世界各地で大規模な暴動が発生したりすれば、何やらそれによって暴動が発生した国々の政府の国家統治がうまく行っていないような印象がもたらされるとしたら、そうなることが果たして世の中の成り行きとして順当な進行なのかというと、たぶん人の経済活動の成り行きとして順当なのかも知れず、そうなるべくしてそうなるような世界情勢であれば、そうなって当然のことだと事態を捉えるしかないのかも知れないが、各国の政府がそれをどうにかできるかというと、警察や軍隊を使って暴動を鎮圧するしかなく、鎮圧に失敗すれば暴力革命へと発展するかも知れないが、それもそういう成り行きになれば、政府の国家統治がうまく行っていないことを印象づけるだろうが、世の中の成り行きとしては順当な進行なのかも知れず、結果的には民衆の間の不満のガス抜きとして暴動や暴力革命が起こるなら、そうなるのが順当な成り行きだと認識しておいても構わないが、それに関して最近でもネパールで大規模な暴動が発生して、現地の共産党政権がそれに対処できなかったようだが、それが何やら共産党政権でも汚職や腐敗が絶えないような状況で、ネパール自体が地理的な制約がありそうだから、国全体が貧困から抜け出せないようで、共産党政権といえどもうまく国を統治できない事情がありそうだが、では同じように地理的な制約がありそうな隣国のブータンはどうなのかといっても、さらには山岳地帯でも永世中立国のスイスやオーストリアやリヒテンシュタインなどとは歴史的な経緯が違うから一概には比較できないだろうが、確か王政だったのを打倒して共産党政権になったのだから、それ自体が革命に成功してそうなったといえるなら、一応は民主主義の勝利であるはずが、経済がうまく行かないと、統治もどうにもならないことを証しているようで、そういうところが政府による国家統治の限界を示していそうなのだが、それに関して昔の共産主義者に言わせれば、一国だけの共産主義革命がうまく行かないのは周辺国による経済的・軍事的な干渉があるからで、だから世界同時革命を目指さなければならないというあり得ない誇大妄想を抱いても、そんなことは実現不可能であるのもわかりきっているが、そこでも結果と原因を逆転させて、革命がうまく行かないのは資本主義市場経済が革命の邪魔をするからだと結論づけようものなら、実態としては資本主義市場経済が革命をもたらしたのを反対に捉えていることになりそうだが、今さらそんなわかりきった誤りを犯す革命家もいるはずもないが、そういうことの延長上で物事の成り行きを考えるなら、国家を統治する側の政府が経済を制御することによって行政がうまく回るような幻想を抱いてしまいがちになりそうで、そこでも結果と原因を逆転させて物事の成り行きを捉えていることに気づくなら、現状で無理なごり押しをやっている独裁的な政治家が陥っている誤りも、そのことに起因しているのかというと、そうだとしても政治家にはそういうことしかできないと言えるようなことかも知れないから、あまり政治家に過大な期待や幻想を抱いても、結局は落胆や幻滅しかもたらさないことにもなりそうで、どうしても人の思考の構造的な欠陥として、絶えず結果と原因を逆転させることによって何か画期的な認識や理解や解決策がひらめいたかのような勘違いが生じてくるのかも知れないし、それに対して物事の順当な成り行きがどうなのかというと、資本主義市場経済の発展が人々に民主主義の幻想を抱かせる一方で、国家統治のレベルで民主主義を実現しようとしても、経済的な発展が伴わないと必ず政府の運営が財政的に行き詰まることになると考えても良さそうだが、その一方で政治の力で資本主義市場経済を発展させようとしても、政府の運営が財政的に行き詰まることにもなりそうで、今や世界各国の政府が財政的な行き詰まりに直面しているわけだから、原因を資本主義市場経済の発展だと考えても良さそうなのだが、そういう意味では資本主義市場経済がうまく回っているから世界各国の政府が財政的な行き詰まりに直面していると考えても良さそうなのかというと、また結果と原因を逆転させて世界各国の政府が財政的に行き詰まっているから資本主義市場経済がうまく回っているとは言えないわけで、要するに資本主義市場経済がうまく回るように配慮しているうちに、政府の財政赤字が膨らんで、財政的な危機に直面していると考えられるわけで、その逆ではないのもわかりきっていることだが、どうしてもそんな政府を批判する側が、政府の政策がうまく行っていないから経済もうまく行っていないし国民の間で貧困が蔓延していると安易に批判するわけで、果たしてそれを結果と原因の取り違えだと言えるかというと、批判する側はそうは思わないだろうし、そんな批判を真に受ける人もそうは思わないはずだが、ではそれの何が間違っているのかと問いたくなるわけでもないが、それも物事の順当な成り行きとしてそうなっているわけで、国民の間で貧困が蔓延していれば政府が悪いんだと短絡的に考えるのも、物事の順当な成り行きとしてそうなるわけで、本当は資本主義市場経済がうまく回っているからそうなるにしても、経済がうまく回っているのに国内で貧困が蔓延するとは、どう考えてみてもおかしいと思うのも当然の成り行きなわけだ。
9月11日「マニュアルに沿った解釈」
現状の世界では何か不可思議なことが起こっているような気もしないではなく、それが状況や情勢の捉えようによってはそう感じられる程度のことであるなら、世の中の成り行きをわざとひねって解釈したいのかというと、意識して曲解したいわけでもないのだが、素直にデータに基づいて、こういうデータが出たらこう解釈すれば良いというマニュアル的な判断に沿った解釈ができるかどうかも、何かそれとは目のつけどころが違うようなことを述べたいわけでもないのだが、それがマニュアルに沿った解釈とは違うとしたら、それに関してわかりやすい事例を挙げられるかどうかもうまく説明できないのだが、昔から自分が信用できないと感じるのが、新自由主義に対するリベラル勢力による否定的かつ批判的な意見であって、そこで紋切り型的な批判の言説が成り立っているから、その種のマニュアル的な批判の傾向が危うく感じられると共に、それとはちょっと方向も傾向も違うのだが、参政党や国民民主党などに対しても、何かそんなことの延長上でマニュアルに沿った批判の言説が成り立ってくるようにも思われるわけで、その種のマニュアル的な批判の言説に乗っかって議論を継続している人たちの意見や主張の内容が総じて同じような紋切り型的な傾向に感じられるとしたら、それも危うい傾向なのかも知れず、言っていることに新鮮味ないから安心できるような逆説が、リベラル勢力が何かの罠にハマっているようにも思われるから、それに関して何やら警鐘を鳴らしたいわけでもなく、どうも多くの人々が納得できるようなことが言えないような気がして、だからそれで構わないとも思えないだろうが、たぶん昔ながらの定型の思考の枠組みに意識が捉えられているとそういう傾向に導かれて、誰もが同じような批判の言説を繰り出そうとして、それがバーニー・サンダースの何番煎じのような形態を獲得してしまうと共に、バーニー・サンダース自身も誰かの何番煎じかも知れず、しかもそれが肯定的な印象まで伴ってくるから、それで構わないような心理状態に囚われてしまうのかも知れないが、そんな彼らがどんな方面へと誘導されているのかというと、彼らにとって批判しやすい勢力の言動を批判するような方面へと誘導されていると解釈できるから、それが危うい傾向なのかというと、危ういどころか多くの人々がそれによって安心できるわけだから、簡単に批判できるような他人の言動を批判していれば済んでしまうこと自体が危ういとは感じられないのも、当然の心理状態ではあるものの、それが現状の世の中の成り行きに沿っているレベルではそう感じられるが、それとは別の歴史的な成り行きから考えると、それが危うい傾向のように感じられるかというと、それに関してできればわかりやすく説明したいのだが、わかりやすい批判対象がメディアによって提示されているわけだから、それを批判すること自体もマニュアル的な判断に沿った言動になるだろうから、そういう成り行きになって当然なのだが、だからそうなってしまう人たちや勢力はそうなっていても構わないし、否応なくそうなってしまうのだから、それこそが現状の世の中で働いている成り行きの一部を構成していて、そういう成り行きをメディアを通して多く人々が知っているわけだが、それを知っているはずなのに、それに気づいていないという逆説が成り立ってしまい、何かそこで多くの人々が錯覚に陥っているような気がしてしまうのだが、たぶん誰もが錯覚に陥っているからこそ、格好の批判対象として参政党が出現したと解釈できるかというと、勝手にそう解釈しているだけで、そう解釈することについて何か納得できるような根拠を示せるかというと、それが今のところはよくわからないのだから、わからないままでも構わないような気がしてしまうのだが、しかも日本ではそうなっている一方で、世界ではトランプが格好の批判対象となっているような気もするわけで、それも何かの錯覚が起因してそうなっているわけではなく、実際に何の錯覚でもなくそうなっているわけで、そんな事態をどう解釈してみてもしっくりこないような感じなのだが、そんな世の中の成り行きや風潮を批判するのは容易いのだが、容易いということが軽率なのかというと、逆にそんな世の中の成り行きや風潮に沿うように振る舞うことも軽率な振る舞いだと言えそうで、ではそれを容易く批判することも軽率な振る舞いだと言えるかというと、立場によっては年がら年中毎度のことのように延々と批判しているのだから、そういう批判する振る舞いが許されている立場というのもありそうで、それに関してすぐに気づくことは、日本の首相ならトランプのことを面と向かっては批判はできないが、フランスの大統領ならそれができそうな立場なのであるから、そこに立場の違いがありそうなのだが、現状ではフランスのマクロン大統領の方がだいぶ劣勢に立たされているように感じられるのだが、それでも相変わらず面と向かってトランプを批判しても構わない立場なのはどういうことなのかというと、たぶん経済的な面で日本とフランスではアメリカへの依存度が異なり、しかもフランスとアメリカの間にはEUがあるから、それが直接の立場ではなく間接的な立場を形成しているような感じがするわけだが、それでもトランプとは対等の立場で互いが互いを批判し合っているのに対して、日本の首相がトランプのことを面と向かって批判するわけには行かない立場だとすれば、どうしても山本太郎が言うようにアメリカと日本が主従関係のような感じになっていて、しかもそうなっていることを日本人の誰もが知っているはずなのに、そんなことには気づいていないように振る舞うわけで、そういう振る舞いが正義の味方の左翼リベラル勢力にはあからさまに気に食わないことの最たる傾向であり、嫌な恥ずかしい風潮だと理解しているかどうかも、それもあからさまにそう述べてはまずいような現状があることを認められるかというと、それをどう解釈してみてもしっくりこないような感じなのかも知れないが、たぶんそれがそういうレベルでそう思うようなことではなく、もっとそういう嫌な卑しい感情を突き放して、威張っている奴はそのまま威張らせておけば良いと功利的に事態を捉えていて、そういう商売人的な対応だと、政治が良くならないと考えるなら、相手がどんな奴でもフランスの大統領のように言うべき時には言うべきことを平然と言ってしまっても構わないような態度に出れば良いわけだが、そういうところはイーロン・マスクも下手に出るようなゲスな商売人とは違って、トランプと喧嘩別れしてでも商売を続けているわけだが、それが今後自民党の高市早苗なんかが日本初の女性首相なんかになってしまうと、どうもトランプのアメリカにはゲスな商売人のような態度で下手に出る一方で、習近平の中国に対しては敵対的な態度になってしまうと、それもあからさまに虎の威を借る狐のような態度に見えてしまうと、知性に欠けるみっともない態度に見えてしまいそうで、できればそういうわかりやすいマニュアル的な態度はやめた方が良さそうに思われるわけだ。
9月10日「予測の精度」
過去のデータから何がわかるかというと、普通に考えて過去の傾向がわかりそうだが、ではそんな過去の傾向から現状の傾向や将来の傾向まで予想したり予測したくなるかというと、そうするならそれでも構わないが、予想したり予測したとしても、確実にこうだと言えるようになるには、実際にそうなってからでないと確かなことは言えないだろうが、予想や予測なのだから、そうなる前にどうなるかを予想したり予測するわけで、だからその時点では確かなことは言えないものの、何となくならそうなるのではないかと言えそうで、それが何となくという表現では納得できないなら、実際にそうなってから、事前の予想や予測と比べてみて判断すれば良いだろうし、そうなってからではもう遅いと思うなら、不確かな時点で事前の予想や予測から判断するしかなく、そんな不確かな時点での判断など信用できないなら、予想や予測など当てにできないと思っておけば良いはずだが、実際に精度の高い予測ができることが明らかになれば、というか実績として予想や予測が当たる可能性が確率的に高いことが明らかになっているなら、そんな予想や予測なら信用できそうだが、それも過去の実績である限りで、その予想や予測が外れる可能性もゼロにはならないだろうから、そんなことも考慮に入れて判断するしかないだろうし、それ以前に具体的にどんな予想や予測を念頭においてこんなことを述べているのかも定かではないなら、こんなことを述べていること自体も仮の話である限りで、そもそも予想や予測を信用できるかできないか以前の段階で述べているに過ぎず、全く当てにならないことを述べているだけかも知れないが、実際に過去のデータから特徴的な傾向を読み取って、それを将来の予想や予測に活かすつもりでこんなことを述べているわけではなく、それに対して懐疑的な立場からこんなことを述べているようで、はなから疑っているならすでに結論も出ていて、予想や予測など当てにならないと思っているなら、その思っている度合いや程度が予想や予測の種類にもよるだろうし、疑っているといっても、どうせ天気予報程度なら信用するのだろうから、その程度のこととして予想や予測を疑っているのであり、もちろん天気予報程度であっても、それが自らの活動に無視できない程の影響を及ぼすようなら、そんな予想や予測も場合によっては深刻に受け止める機会も巡ってくるかも知れないが、それも仮の話で述べている範囲内では、現状では軽く受け止める程度のことかも知れず、もし自分が住んでいる周辺で災害警報が発せられる事態となれば、それを深刻に受け止めざるを得ないだろうが、そんな機会が巡ってくるまでは何とも言えず、今日の天気が晴れとか曇りとか雨とかいう程度では軽く受け止めるだろうから、そんな程度の予想や予測なら、わりと判断を誤らないだろうが、では判断を誤るような予想や予測が何なのかといっても、すぐには思い浮かばないが、それがさも重要で重大で深刻なことであるかのように誇張されたり強調されるような表現を伴った予想や予測などが示された際には、それを真に受けてしまうと判断を誤る可能性も高まるのかも知れず、では果たして実際に自分がそんな実例をこれまでに実体験したかというと、それもすぐには思い出せないが、たまたまアメリカの雇用統計の年次改定が発表されて、今年の3月までの過去一年間の雇用者数が91万人も下方修正されて、改めて統計データの不確かさが明らかになったわけだが、発表の数日前には大幅な下方修正が予想されていて、実際にそれが発表されると株価が大暴落するかのような予想もネット界隈では出回っていて、例によって株式投資系ユーチューバーが株価暴落を煽っていたわけだが、実際に発表されてみると、予想通りの過去に類を見ないほどの大幅な下方修正だったにも関わらず、暴落しないどころか、逆に株価が上がってしまって拍子抜けだったのだが、要するに統計データの大幅な下方修正が発表されるという予想は当たったのだが、その発表によって株価が大暴落するという予想は今のところは外れていて、統計データの大幅な下方修正と株価大暴落が結びつかないことが、今のところは明らかになっているわけで、しかも雇用者数の大幅な下方修正が明らかになったわけだから、もうすでに景気後退が始まっていたことも明らかになったはずだが、そうなると景気後退によって株価が大暴落するという予想も今のところはそうではないような結果がもたらされていて、これからそうなるのかも知れないし、株価大暴落を煽っているユーチューバーにしてみれば、そら見たことかとこれから株価大暴落が起こるぞ!と煽り立てのボルテージも否が応でも高まりそうだが、すでに統計データの精度が少なくとも不正確であって、そんな不正確な統計データを基にして予測を立てたところで、そんな不正確な予測を信用できるかというと、今この時点で統計データの大幅な下方修正が明らかになったからには少なくとも今年の3月までの一年間は不正確な統計データに基づいて予測が行われていたことが明らかになったということであり、そこから当時のバイデン政権が大統領選挙で不利にならないようにデータを改竄して、景気後退に陥っていないかのように装っていたとかの陰謀論が出てくることを予想してしまうが、実際に今年の3月までの過去一年間にわたって不正確なデータが発表されてきたおかげで株価が大して下がらずに済んできたわけで、しかも今年の4月にトランプが貿易相手国に高関税を課すことを発表して株価が大暴落したことでガス抜きが完了して、また株価が上がってしまって今に至っているのだから、結果的にはうまく景気後退をごまかすことに成功しているかどうかも、それも今後の成り行き次第でどうなるとも判断しづらいところだが、おかげで変なふうに事態がこじれてしまって、今に至っても延々と景気後退+株価大暴落を予想し続けるユーチューバーの人も自身の調子が狂っていることに気づいているかどうかも定かではないにしても、現時点では何だか雲行きが怪しくなってきて、これから素直に景気後退+株価大暴落が起これば、確かにユーチューバーの人の努力もそれなりに報われるかも知れないが、実際にそうなったとしても、そこへと至る過程の途中の段階に今があるわけだから、この時点では変な違和感を覚えていて、おかしな紆余曲折が実際に起こっているわけで、今ここで体験しているこの状況をどう捉えても納得が行かないだろうし、すでに7月の時点で株価のピークだからここで株を売って現金比率を高めておいた方が良いというアドバイスを真に受けた人が、本当にそうしていたなら、そこからもう何度も株価の最高値を更新している現状についてどう思っているかなんて、実際にユーチューバーのアドバイスを真に受ける人がどれほどいるかも何とも言えないところだが、他人のアドバイスを真に受けるか否かは自己責任の範疇で判断することであるのもわかりきったことだから、別にそれがどうしたわけでもないと思っておけば済むようなことではあるわけだ。
9月9日「ポピュリストとファシストの違い」
人を単純に二種類に分けて考えるのも、ちょっと安易すぎるような気もしないではないのだが、左派やリベラル派の言い分としては、いつものように右派のポピュリストが嘘をついていて、SNSなどでデマを広めていると主張するわけだが、そうだとしても世論調査では右派のポピュリズム勢力への支持率が高いのはどうすることもできないし、かつて民衆がヒトラーやムッソリーニなどのファシストに騙されたように、多くの人々がポピュリストの嘘やデマに騙されていると主張するかも知れないが、実態はそうではないと考えるなら、人を騙すとか騙されるとかいう意味合いで捉える状況ではないのかも知れず、今や多くの民衆が右派のポピュリストそれ自身なのであって、そんな状況を左翼やリベラルな人々の側から考えるなら、彼らがSNSや各種のネット掲示板などを使って左翼やリベラル勢力を誹謗中傷する嘘やデマを拡散していると認識したくなるのだが、そんな認識で構わないのかというと、それに関して山本太郎が日本人ファーストと言っている連中はアメリカファーストなんだと言っているかどうかは詳しくは知らないが、普通に考えて功利的な思惑からそう受け取っても構わないし、〇〇ファーストだろうが何だろうが、自己の利益を優先させるのは普通にそういう態度や姿勢であっても構わないし、それに対して左翼リベラル的な建前が、困っている他人を助けようというきれいごとであるなら、そんなのは偽善や欺瞞じゃないかと思うのも、山本太郎を含めてポピュリストたちが今の日本は大変なことになっていると騒ぎ立てるから、それを真に受けた民衆が他人を助けている場合じゃないと心理的に余裕がなくなって、きれいごとを言っている左翼リベラル勢力を攻撃していると事態を単純化して捉えても構わないかというと、そんな粗雑な単純化が気に食わないなら、もっと事態を込みらせて様々な事情や経緯を考慮して複雑に捉えてみたいのだが、そうなるとわかりやすく説明することができなくなってしまうだろうが、とりあえずはポピュリストからファシストへの進化の過程を考えてみると、ポピュリストは、大変だ!大変だ!このままでは大変なことが起こるぞ!と騒ぎ立てるのに対して、ファシストの方は、実際に自作自演で大変なことを起こして、その騒ぎに乗じて政治の主導権を握って独裁体制を築き上げるのが常套手段で、そうなるとオオカミ少年がオオカミだったことが明らかになるだろうが、それに対して警鐘を鳴らしたい識者の類いが煽り立てる紋切り型の内容として、ポピュリストを野放しにして増長させると大変なことになるぞ!ファシストになって大変な事態を引き起こすぞ!と警告を発したいわけだが、それがポピュリストの騒ぎ立てと同じように、大変だ!大変だ!このままでは大変なことになるぞ!という騒ぎ立てのバリエーションの一つに過ぎないのはわかりきったことだが、そんなふうに安易に事態を捉えるなら、似たような煽り立ては他にもいくらでもありそうで、例えば株式投資系のユーチューバーが毎週のように、株価が暴落するぞ!景気後退が近づいているぞ!と危機を煽っているし、また気象系ユーチューバーなら、今週日本に近づいてくる台風は勢力が大きくて暴風雨を伴っていて大惨事を招く危険性が高いとか、後は火山噴火や地震や津波の到来とか、その手の警告を挙げ出したらきりがないわけでもないが、そんな警告を真に受ける程度や深刻度がどれほどなのかも、その場の危機的な状況だと騒がれている中に実際に身をおいてみれば、その程度や深刻度を正確に理解したり認識することが可能かどうかも、実際にそうなってみないことには何とも言えないし、すでに現状がそんな危機的な状況だと言われているのだから、今ここでそれを感じ取らないと、場合によっては手遅れになりかねないだろうが、どうもそれがそんな程度ではないような気がするのだから、少なくとも自分はその手の警告をあまり真に受けてはいないような気がするのだが、そうであってもなくても人それぞれに社会の中で置かれた立場や境遇が違うから、大変だ!大変だ!というオオカミ少年的な騒ぎ立てに対する受け止め方も各々で違ってきて当然なのだろうが、少なくともその種の騒ぎ立てや煽り立ての裏に功利的な思惑が潜んでいることに気づけるなら、そんな騒ぎ立てや煽り立てを真に受けた人に向かって何かを売り込もうとしていることにも気づくかも知れないし、そうやって売りつけるのが、株式投資系ユーチューバーなら、無料の投資セミナーの案内であったり、そんなセミナーの参加申し込みにうっかり応募してしまうと、セミナーの中で何やら儲かりそうな投資先を斡旋されるかも知れないし、それが結果的に詐欺であったら、それこそが大変だ!大変だ!と騒がれている大変な事態であって、メディアで騒がれている投資詐欺そのものになってしまいそうだが、全ての騒ぎ立てや煽り立てがそんな自作自演の罠に誘い込むために仕組まれているわけでもないだろうが、そういう誘いに引っかからないように用心しておくに越したことはないが、逆にそれを利用してその手の誘惑に対する免疫や抗体を獲得するには、軽い程度の詐欺に引っかかって、致命傷にならない程度に痛い目に遭っておくことも、必要最小限の損失にとどめておくには必要なことかも知れないから、それが軽いか深刻な程度かを見極められるかも、その人のそれまでの経験や体験からその種の勘が身につくようなことだから、そんなことを言い出したら循環論に陥ってしまうだろうが、そういう勘が身についていない人が引っかかりやすいのが、左翼やリベラル勢力からの誘惑かも知れないし、弱者救済のような正義の主張を真に受けることが、自身の利己的な利害関心とどう折り合いをつけられるかも、たぶん他人を助けることが回り回って自分を助けることになるというとんち話を信じるほど世間知らずでもないと思うなら、自身の利己的な利害関心に忠実に行動すれば良いと思うが、その場の状況や情勢次第でどちらにも動作できたり、二律背反のような成り行きにも二兎を追う者は一兎も得られないような成り行きになっても動じないような、動じても構わないような程度の状況では動じる一方で、動じなくても構わない程度なのに、わざと動じたふりを装うとか、成り行き次第でわけがわからなくなってしまいそうだが、成り行き次第で弱者救済のようなきれいごとがまかり通ることもあったり、自分も弱者救済の対象となることもありそうだが、そういうことも含めて、あまり真に受ける必要もないわけではないのだが、それも少なくともこんなことを述べているこの時点では確かに真に受けるような成り行きの中に身を置いているわけではなさそうに感じるのだが、それらを真に受けてしまう場面に遭遇してしまうこともあるかも知れないし、ないかも知れないし、それもそうなってから、そういうことなんだと理解できるかも知れないし、理解も認識もできずに気づかないまま一生を終えてしまうかも知れないから、この時点では何とも言えないことになってしまうのかも知れない。
9月8日「IT革命とAI革命の違い」
何をさておいても無理にでも正しいことを述べなければならないとは思わないが、他が間違っていると主張したいなら、そんなことを述べている自分が正しいことを暗にアピールしていることになってしまうから、そうなってしまうとまずいわけでもないのだが、自分が正しいことを述べているのではなく、正しいことを述べているとアピールしていると受け取られると、それの何が不都合でもない限りは、そういうことだと納得するしかなく、それほど不都合というわけでもないのだが、たぶんそう受け取られてしまうのが気に入らないのであって、では不都合なことと気に入らないことの何が違うのかと問われると返答に窮してしまうかも知れないが、他人がそれをどう受け取ろうと他人の勝手には違いないのだが、自分が述べていることが正しいとアピールしているつもりはなくても、他人にそう受け取られると癪に障るから、そう受け取られないようにしたくて、何か言い訳じみたことを述べているような気もするが、自分でも何をどう説明しているのか理解できなくても、それがおかしいことは感じ取っていて、だから自分が述べていることに違和感を覚えるのだろうが、違和感を覚えたままにしておかないで納得したいのなら、それについて考えてみるしかなく、考えてみたところで納得できるとも思えないが、それでも世の中には正しいことを述べているのを嫌う者たちが大勢いるようで、そんな者たちがどうなっているのかといえば、絶えず正しいことを述べようとする者たちを抑圧しようとしていると理解しても構わないかどうかも、実際に正しいことを述べようとしている者たちの主張内容が、資本主義市場経済から導き出される論理とは相容れないと考えるなら、そういうことだと理解しても構わないような気がするわけだが、実際に市場経済の歪みを察知したつもりになって、それについて何やら批判的な論調を利用して正しいことを述べようとするのだろうが、それがリベラル的な価値観に基づいていると受け取られると、そういう価値観を嫌う者たちにとっては格好の攻撃対象となるわけだが、果たして資本主義市場経済の推進者や信奉者にとっての格好の攻撃対象となるのがリベラル的な価値観の推進者や信奉者となるかどうかも、それも表面的なレベルではそう受け取っても構わないかも知れないものの、その実態が何なのかというと、物事の捉え方としてそこからかなり外れた方面から考え直してみる必要があって、二十世紀末から世界的に始まったIT革命の進展の中で日本経済が失われた三十年とか就職氷河期とか言われる停滞期に入った原因が何なのかとあからさまに考えるのではなく、ただ単に機械などの工業製品を輸出することで成り立っていた日本経済が、インターネットを利用した情報のやり取りによって利益を得ようとするIT革命の傾向にはうまく対応できなかったのは確かなのであって、それ以前の時代では優勢だったやり方が次の時代においては通用しなくなったわけではないが、それとは別の新たなやり方が優勢となったわけで、そんな新たなやり方によって優勢となった勢力を代表するのがGAFAMと呼ばれるアメリカの巨大IT企業だったわけだが、そこからさらにAI革命の時代に突入しつつあると現状を捉えても構わないかどうかも、さらにここから年月が経過してみないと正確には事態を捉えられないかも知れないが、それに対してリベラルな価値観に依存した思考からもたらされる否定的かつ批判的な指摘というのが、相変わらずそうした経済活動の結果からもたらされる貧富の格差という昔ながらのマルクス主義的な経済の問題に引っ張られてしまうから、何かそこから違和感も生じてくるわけで、歴史的な成り行きとしては自然から産出する資源や農業や林業や水産業に加えて、産業革命を経ると、より人工的な手間暇をかける度合いの高い工業製品が経済活動に伴ってやり取りされる割合が大きくなると共に、IT革命を経ると、さらに人工的な手間暇をかける度合いの高い情報が経済活動に伴ってやり取りされる割合が大きくなると共に、産業革命の進展に伴って相対的には農産物の価値が低くなったのと程度が同じではないものの、IT革命の進展に伴って相対的に物質としての工業製品の価値が低くなったと解釈しておくのが無難なところだが、そこで勘違いしてはならないこととして、最近貴金属の金の価格が高騰していることが、物質として金の価値が高くなったと捉えても、それが正しい捉え方であることは確かなのだが、果たして金を買っている人が直接物質としての金をどれほど所有しているかというと、どうも実態はそうではなく、情報としての金のETFや金鉱株ETFを買っている人が大半を占めていて、現物の金を直接買っている割合ははるかに少ないわけで、もちろんその延長上で通貨も現物の貨幣や紙幣よりも情報としてやり取りしている割合の方がはるかに大きいわけだが、それがIT革命の進展の成果だと言えると共に、情報に関するインフラが整備されている限りで、情報のやり取りの方が現物のやり取りよりもはるかに手軽に手間暇をかけずに低コストでやれるから、結果的に情報産業に関わる経済活動が活発化すればするほど、相対的に現物のやり取りに関わる経済活動から得られる利益が少なくなると考えても構わないかどうかも、それがゼロサムゲームとは言い切れない面でも、現物に情報が含まれている面を考慮に入れても、単純に情報と現物を分けて捉えるわけにも行かないわけだが、それに関してわかりやすい例を挙げるなら、エヌビディアのGPUが一個で数百万円もすること自体が、原材料と製造コストをはるかに超える価値が付加されていて、それだけエヌビディアのGPUを使って情報をやり取りすることに対して高い価値がつけられていることになるわけだが、実際にその価値に見合う働きがもたらされるかどうかが、今後のAI革命の成否を左右することになるだろうが、そうなるとIT革命とAI革命の違いというのが、IT革命が単に情報のやり取りから利益を得る傾向があるのに対して、AI革命になると情報のやり取り自体をいかに効率的かつ効果的に制御するかがその成否にかかってくると共に、ではIT革命の成果が何だったのかというと、物質のやり取りを情報を用いていかに効率的かつ効果的かつ功利的に制御するかが、その肝だったと考えたくなってくるのだが、そこでも物質が経済活動を介した商品であるからには、当然価値を伴った情報が物質としての商品にも付加されてくるから、たとえそれが情報だけであっても、物質としての情報インフラを通した情報である限りで、情報インフラの維持管理コスト分がその情報に付け加わってくるわけで、そういう意味では情報と物質を切り離して考えることはできないわけだが、そういうところで日本経済が高度経済成長していた頃が物質としての工業製品の輸出によって多額の利益を上げていたからこそ、その次のIT革命の時代においては情報を制御するシステムの活用に長けた、アメリカの巨大IT企業による制御に屈してしまったと言えるかどうかも、そう言える面もそれなりにはあるような気がするわけだ。
9月7日「失われた機会」
失われた機会を取り戻すことはできないとしても、またそんな機会が巡ってくるとも限らないから、それが巡ってくるのを気長に待つという選択肢が今ここで残されているかどうかも、現時点ではよくわからないのも確かだが、それがわかる機会が巡ってくるとも思えないから、わからないままとなってしまうかも知れないし、わからないままでも構わないのかも知れないが、しかし失われた機会というのが、果たして日本でもアメリカの巨大ハイテク企業ような企業が誕生する機会だったかどうかは、たぶん違うような気がするわけで、それもそうなった結果からそんな気がするようなことかも知れないが、わずかにソニーがそうなる可能性もあったかも知れないが、別にそうなる必要もなかったのかも知れないし、現状でも分相応なそれなりに世界で名の知れた大企業になっているわけだから、成功している部類だと言えるだろうが、それに関してわかりやすい例が、パソコンは日本の名だたる家電メーカーも造ったが、パソコンのOSはマイクロソフトが独占的に押さえていたし、スマホも同様に日本の名だたるメーカーも造ったが、グーグルのOSを使わざるを得なかったし、マイクロソフトやグーグルの前からアップルがマックやアイフォンで独自のOSで造っていたわけだが、そうなるとパソコンもスマホも日本よりも低コストで造れる韓国や台湾や中国のメーカーとの競争になって、それらの国のメーカーに販売シェアを奪われて、相対的にそれらの分野で日本企業が造った製品の世界シェアが低下したわけだろうが、もちろん低コストで造れるどころか、だんだん高品質でも造れるようになってしまったのだろうから、それは他の家電製品でも大抵はそうなってしまったというか、日本企業も海外の低コストで造れる国で造ったわけだろうから、そうなった結果からそういう成り行きを無視して、やれ失われた三十年だとかやれ就職氷河期だとか騒いでいる政治勢力も、何か見え透いた嘘をついているように思われるのだが、そういう方面ではそういう成り行きがあったにしても、それ以外の別の面ではどうなのかというと、世界各国のGDPを比較しても、今年はドルベースで日本が世界で5位になるそうだが、日本より上なのが、ドイツとインドと中国とアメリカなのだから、昔はアメリカに次いで2位だったから衰退したように感じられるが、その時代の中国やインドのGDPがどうだったかを考慮すれば、日本が衰退したのとは比較にならないほど中国やインドが大きく発展したといっても、しかも一人当たりのGDPはドルベースで日本が36位で先進国でも最下位だと嘆いても、中国が72位でインドが142位なのだから、それをどう捉えても、それに関して何か言える人には言えるだろうし、そういう比較から何かもっともらしいことが言えるとしたら、日本が一人当たりのGDPが低い理由として、労働生産性の低さや生産年齢人口の減少などが挙げられ、非正規雇用の増加やIT化やDX化の遅れや中小企業の比重の高さなどが労働生産性を低下させ、高齢化による労働力不足も一人当たりのGDPを押し下げる要因となっているそうだが、そういうのを問題視して非正規雇用をやめるような法改正を目指したり、IT化やDX化を促進させたり、中小企業の合併や事業統合や淘汰を促したりするのも、さらには高齢者の労働参加や外国人労働者を積極的に受け入れたりするのも、リベラル勢力なら非正規雇用をやめるようなことだけは積極的に賛成する一方で、中小企業の味方を装いたいから中小企業の淘汰を促すようなことには反対するだろうし、また右派のポピュリズム勢力なら外国人労働者の積極的な受け入れには強硬に反対するだろうが、そもそも一人当たりのGDPが低いのを政治の方面から改善を目指すようなことなのかということが、普通に疑念を覚えるのであって、それよりは制度的には正規雇用と非正規雇用という二種類の雇用形態があることがまずいのだから、正規雇用だけに一本化すれば良いだろうが、それではまずかったから非正規雇用のようなグレーな雇用形態を容認したわけで、そういうところが制度的な限界であることもわかりきっているわけだが、一方でIT化やDX化の延長上で、果たして今後AI化という成り行きが普通に進行するのかどうかも今のところは何とも言えないところだが、そういうのとは別方面で、日本をドルベースのGDPで抜いたドイツでも様々な問題が指摘されていて、その隣国のフランスでもイギリスでもイタリアでも何やら国内問題が山積しているような指摘も結構ある中で、日本だけの問題をいくら強調しても埒が明かないような気もしないではなく、産業のIT化やDX化やAI化などが技術革新から生じていることなのだから、そういう技術革新の邪魔をせずに逆に技術革新の進行を促すような制度改革が政治の側でできるかどうかということなんかを問題提起したがる傾向となるかも知れないが、政治家が何やらカタカナ用語を使ってもっともらしいことを言い始めること自体も胡散臭く感じられて、お前ら本当にその言葉を意味をわかって使っているんかとツッコミを入れたくなるだろうが、たぶんそういう人畜無害と百害あって一利なしの間で言われるような政治的な主張が実質的には何ももたらさないことが肝要らしく、お前らはそんなどうでもいいようなことを言っているだけで構わないのであって、あとは寝たふりをしている間に世の中が勝手に変わって行ってしまうんだと言い放っておく程度でも何とかなるようなら、政治など不要だと思ってしまうだろうが、それがメディアの表面上に出力されていることであるなら、それに対して潜在的な領域では物事がそれなりに進行中であり進展していると受け取っておくしかなく、そうなっている中でも政治の領域で様々なことが問題視されている現状というのも、それらの問題視されている物事が実際に何らかの成り行きを伴っているから問題視されているのであって、それを政治の場でも察知できている限りで、それなりの対処や対策が講じられているのかも知れないし、そうなっているからそれらの問題がメディアを通じて明らかにされていて、そんな成り行きを伴いながら現状があるわけだから、そういうことまで考慮に入れるなら、政治など不要だと思っても、実際には必要に応じて政治が行われていて、それなりの成果が伴っているのだろうが、そうした成果を否定的に受け止めるなら、政治など不要だと思ってしまうだろうが、それが政治が行われていることに対する否定的な評価だと認識しておいても構わないだろうが、今後日本の現状がどうなろうとも、周辺の他の国々と大して変わらない状況へと落ち着くなら、そんな状況が気に入らない人はうまく行っているとは思わないだろうが、現状でもどう考えても政治が世の中を動かしているというよりも、世の中の成り行きが政治を動かしている割合の方が大きそうに感じられるのだから、政治状況というのが世の中の成り行きから多大な影響を被りながらそうなっていると受け止めておくしかないような気がするわけだ。
9月6日「政治の思惑と経済の論理」
経済に関して有利な成り行きや有効なやり方が、政治的な実践から導き出せるかというと、政治家は導き出そうとして、経済に関して何か言っている政治家がそういうことをやりたがるし、何か言っている内容がそういう政治的な実践に関することになるのだろうが、もちろん政治家なのだからその政治家の国が栄えるようなことをやりたいわけで、そうなると当然のことのように自国第一主義のようなことを主張したくなるのだろうが、たぶんそんな主張に抵抗感を覚えるなら、抵抗感を覚える人が左翼やリベラルな主義主張に染まっていて、それに対して自国第一主義のような政治的な主張に賛同する人がいわゆる保守派のカテゴリーに入りそうなのだが、その一方で当然のことのように政治の論理と経済の論理は違うわけで、経済は国境を超えてグローバルな経済圏を形成するようになるだろうから、そんな経済圏の中で活動する企業となれば、その企業が本社を置いている国内だけに配慮しているわけには行かなくなり、業種や規模にもよるだろうが、海外で活動している企業であれば、活動している地域の事情も考慮に入れないと活動が成り立たなくなってしまうだろうから、そうなると政治家や政党の利害と企業の利害が一致しなくなる場合も出てきそうだが、また経済の論理が利益第一主義となるかどうかも、政治の論理が自国第一主義とも言えないのとは違う意味でそうとも言い切れないのかも知れず、企業が取り扱う物や情報やサービスの売買や貸借に際して、一概に価値や価格の高い物や情報やサービスが求められているわけでもないが、価値も用途に応じた価値になるだろうから、ニーズがあるかないかと言ったところからその価値が計られる面もありそうだが、価値のないものを扱っても、もちろん価値がないのではなく、価格が安いなら薄利多売で大量に取り扱うとか、それなりのやり方もありそうだが、売買や貸借から利益を得られる限りで経済活動が成り立ってくるから、一概に価値や価格で判断できるようなものでもないだろうが、相対的な比較として、農産物と工業製品では、一部の高級食材を例外として、工業製品の方が価値が高そうな傾向にあるだろうし、工業製品でも製造段階での技術の精密さの度合いに応じても、価値や価格に違いが出てきそうで、もちろんどんなに高度な技術を使って製造しても、ニーズがなければ無価値となってしまうだろうし、また大した価値など感じられなくても売れる要素として人が好むデザインの形状などもあるだろうし、用途に応じた使い勝手の良さなども価値や価格に影響してくるだろうが、さらには商品を売るための広告や宣伝の戦略が功を奏して売れたりすれば、世の中で流行っているから買う気になるような人の心理状態につけ込んで売る成り行きにもなってきそうだが、そんな挙げればきりがないような要素や要因などのパラメーターの中に、政治的な思惑も絡んでくる場合もありそうで、それだけがもっとも優先すべき重要な要素や要因だとは言えないだろうが、もっと軽い感覚で何かのついでに政治的な思惑も考慮に入れないとまずいような経済活動の実態もありそうだが、経済活動をやっている側ではそうだとしても、政治の側では自己中心的な心理作用から、政治の論理や思惑を優先させて経済をコントロールしようとして、結果的にはうまく行かなくなるとしても、それが無理なごり押しだとは自覚できないようなことを積極的にやりたがるかも知れないが、そういうやり方を経済活動をやっている側からも逆利用して利益を得ようとするから、結果的に贈収賄などの不適切な不正行為も頻発するわけだろうが、そんなちんけで利己的なレベルではなく、もっと大規模に強大な権力を行使して世界の経済活動を歪めているのがトランプのやっていることになるわけだが、それも覇権国のアメリカの大統領だからできることであると共に、リベラルな政治家にはできないことを自国第一主義の保守派の支援を受けているから狂気に囚われているようなことができると捉えても構わないかというと、そう捉えるならそれが保守派の一時的な勝利であることも認めざるを得ないが、捉えようによってはそう捉えても構わない程度でそうなっているに過ぎず、実際にああいう無理なことをごり押しせざるを得ない事情を抱え込んでいるわけで、それによって一時的には混乱が生じて、実際に高関税の発動によって株価が急落して、そんな一時的な株価の急落に乗じて値下がりした株を買って、その後の急騰時に売って利益を得た投資家もいるだろうが、それも安くなったら買って高くなったら売るという単純な経済の論理に含まれるし、そういうことができる商品というのも限られてはくるだろうが、そういった政治の論理ではどうすることもできない経済の論理というのも、例えば一人当たりのGDPの比較が韓国>台湾>日本であるのも、IT革命時に半導体産業の主導権を日本から韓国や台湾が奪ったからだと解釈すればもっともらしく感じられるが、産業の経済競争の結果からそうなったことでしかないと捉えるなら、政治的な思惑がどうであれ、経済の論理が政治的な思惑に勝った結果だと理解するしかないが、もちろん国家規模の面で日本よりも韓国や台湾の方が小回りが利きそうだから、特定の産業を政治的に優先して支援した結果としてそうなったと捉えるなら、それを地理的に人口や規模の面で条件づけられた上での政治の勝利だとも言えそうだが、その一方で一人当たりのGDPを高めることがもっとも重視すべき政治課題だとは必ずしも言えないし、小国で経済的に栄えている国の方が一人当たりのGDPが高くなる傾向にあるから、戦略的にそんなところを強調して何か言いたがる政治家もいるにはいるだろうが、言っていることを真に受ける必要があるかというと、それもそんなことを言っている政治家に対して自身がどう思っているかにもよるだろうが、また政治的な思惑と経済の論理を強引に結びつけて何が語れるかというと、それが規制緩和や政府の規模を縮小する新自由主義的な経済優先の言説に近づくかも知れないが、それでもトランプのような強権発動の実態を目にすれば、規制緩和や政府の規模を縮小するのとは反比例して政府の権限を強化したいような矛盾した実態が浮かび上がってくるから、それが一筋縄では行かないような、政治的な思惑をそのままの内容として真に受けるわけには行かないような感じになってくるのかも知れず、逆に左翼リベラル的な傾向の大きな政府が、政府の権限を強化するために必要なことだと考えるなら、経済的な金儲けの論理を抑え込むために経済至上主義から国民を守るために規制を強化して政府の権限を強大化するような、これまた社会主義の理想像が浮かび上がってくるわけだが、それが現状の資本主義市場経済から生じてくる論理とは相容れないような形態を想像してしまう限りで、そういう方向へと振り切れてしまってもまずいように感じられる一方で、そうかといってトランプ的な強権政治も何か迷惑な感じがするから、どちらにも振れないような状態の方が無難なような気もするわけだ。
9月5日「財政のプライマリーバランス」
日本の財政のプライマリーバランスは、現在赤字の状態が続いていて、社会保障や公共事業などの政策的経費を税収などで賄えていない現状があり、2025年度の国と地方を合わせた基礎的財政収支のプライマリーバランスは4兆5千億円の赤字と試算されていて、これは国債に頼って政策的経費を賄っていることを意味するから、財政健全化の達成が困難な状況であるらしいが、1992年から赤字が続いているらしく、もうかれこれ三十年以上はプライマリーバランスの赤字が続いているわけだから、赤字でも三十年はどうにかなってきた状況なのだろうが、その期間は比較的低金利でゼロ金利政策もほとんどの期間にわたって継続されてきたようで、国債を発行しても利払い負担が比較的少なくて済んできたから何とかなっていたと言えそうだが、果たしてこれから金利が上がって行くと利払い負担も増えてヤバくなるかというと、インフレもそれなりに進行すれば税収も増えて行って何とかなると考えれば、その辺のバランスが微妙なところかも知れないが、フランスでは財政健全化を目指して政府が緊縮予算案を提示したら、議会の左派系政党などが激しく反発して抗議運動もかなり盛り上がっているらしいが、結局はその国の経済状態で税収の額も決まってきて、政府の予算も税収+国債の発行額で決まってくるだろうから、結果的に作成される予算案などに対して、積極財政とか緊縮財政とかの単純な決めつけによって良し悪しを云々しても意味がないわけではないにしても、限られた予算の中でどのような予算配分にするかが政治的な問題となってきそうで、また課税対象や税率や国債の発行額なんかも、その度ごとに政治問題化するのだろうが、その際には財務省などの予算案を作成する担当者や担当部局などがプライマリーバランスを改善しようと努力するのも、職務上普通に考えられることで、財政健全化を目指すこと自体が悪いとは言えないし、財政健全化を目指している勢力を緊縮財政派だと見なして批判するのも、そのことだけで批判するのも何か筋違いのような気もしないではないが、そうではなくより多くの利益を出している大企業やより多くの富を蓄えている富裕層などにより多く課税すべきだと主張すれば、もっともらしく思われるかも知れないが、またそれとは別の方面からもっともらしく感じられる考え方として、例えば政府が余計に予算を組んで民間により多くの仕事を発注して、結果的に民間の仕事を増やすことができれば、それによって世の中の景気が良くなると単純に考えても構わないかというと、それが公共投資・公共事業型経済だと言えそうだが、アジアやアフリカなどの途上国が実際にそういうことをやって債務不履行に陥ってしまった原因が何かというと、利益を生み出さない投資や事業ではまずいということであって、投資や事業から利益を生み出してその利益の中から金利を払ったり債務を返済できれば何とかなり、利払いや債務返済が続いているうちは経済が回って行くわけで、またそんな過程の中で競争に勝ち抜いた企業が利益を上げて、その利益を投資に回すことで事業規模が大きくなるに従って、大企業へと成長して行くと共に、それに伴って事業に成功して富を蓄えて富裕層が増加して行く過程も生じてくるわけで、そうなった結果からより多くの利益を出している大企業やより多くの富を蓄えている富裕層により多く課税すべきだと主張したところで、そうなった結果からそんなことを主張してみても、そうなる過程を生じさせないと大企業も富裕層も増えないわけだから、そこまで述べてみれば、それだけを主張するのは何か本末転倒な主張のようにも感じられるはずだが、要するにただ単に政府が通貨発行量を増やしても駄目であって、利益を上げる企業や富を蓄える富裕層が生じてきて、その富裕層が株や債券などの金融商品を買って投資する過程を生じさせないと、現状の資本主義市場経済は回って行かないという言い方ではまずいのかも知れないし、それも結果的にそうなっているということでしかなく、この先もそんな経済が続いて行くとも限らないが、どうしてもそうなった結果からもっともらしいことを主張すれば、それで構わないような、そんな風潮が昔から延々と続いているような気がしないではないにしても、何か主張していることが絶えず結果から原因を突き止めればそれで構わないようなことになってしまうから、どうしても疑念や疑問につきまとわれてしまうようなことになってしまうと述べても、それらのもっともらしい主張を真に受けて納得している人々にとってはそれで構わないことであるどころか、そういう主張が彼らには正しい主張だと感じられるのかも知れないが、その辺がどう説明していいのかもよくわからずに悩んでしまうのだが、どうしても物事の結果から正解を導き出すような主張として、大企業や富裕層に増税しろだとか、政府が積極財政に舵を切って公共投資や公共事業を促進しろだとか主張できるのだが、一方で資本主義市場経済がうまく回っている結果として大企業や富裕層が生じてきて、国家の経済規模に見合った国債の発行額になるとかいうことと、それらの主張がそうなった結果から生じてくることは確かなのだが、どうしてもそうなる途中の過程が省かれていて、そんな主張を実行することによってそういう過程を人工的に作り出せるのかというと、それも結果と原因が逆なわけで、そういうのが遠近法的な倒錯だと言えるかどうかも、表現の誤用かも知れないが、そういうことの延長上で何が言えるかというと、政府の予算案を作成する側としては、財政のプライマリーバランスを改善しようとする取り組みを継続させないとまずいし、そういう取り組みの過程で予算案を作成しないと、実際に財政のプライマリーバランスを改善できないだろうし、結果的に改善できなくても、その取り組みを継続させないとならないだろうから、絶えずそういう取り組みに対する反発や抗議運動も起こってきて、それ自体も微妙なバランスを取ることに貢献するのかも知れず、結局はそんな過程の中でその国の政府が成り立っていることになるだろうから、そういう取り組みを否定したり批判することにも何かもっともらしい主張を構成できるかも知れないし、そんな主張をしたいなら主張すれば良さそうだが、だからといって主張している側が勝ってしまっても、何かとややこしい問題が生じてくるのかも知れず、その問題がどんな問題なのかも、そういうことを主張している勢力が政権を取って、実際に予算編成に携わってみた結果からわかってくることかも知れないが、それが緊縮財政派と積極財政派の対立やせめぎ合いだと見なされても、そうなった結果からもっともらしく言えることであって、それもそういう過程の中での対立やせめぎ合いを通して政府の予算が作成されると捉えておくしかないわけで、そこでもそうなった結果からもっともらしい意見や主張が生じてくるとしても、それもそうなった結果から見ればもっともらしく感じられることでしかないわけだ。
9月4日「破綻したシステム」
興味がないということが、それに対する正常な反応だと感じられて、興味がないことを問題視するのが的外れなリベラル系メディアの特徴だと馬鹿にしたくなるのだが、興味がないからこそこだわって問題視するのだろうから、それを的外れだと馬鹿にしたくなるのも、否定的な感情の表れなのではないかと考えたいし、例えば戦後八十年なんて全く興味がないわけで、ではそんなことよりも何に興味があるのかと誰から問われるわけでもなく、誰からも何も問われないから、そんなのは知ったことではないと述べてしまうと、そこでおしまいとなってしまうのだろうが、その一方で戦勝記念日の9月3日の行事に習近平とプーチンと金正恩が中国に集まったことに興味があるかというと、ないわけではないが、なぜかそれもスルーしておいても構わないような気がして、彼らが中国のどこかに集まることに何の意義も意味もないわけでもないだろうが、それを世界の悪者たちが集まる醜悪なイベントだと見なしてみても、そんな捉え方も偏向した思考から正当化したくなってしまうし、なぜそうなってしまうのかとそこで理由を考えてみても構わないような気もするのだが、それが無理にこじつけたような理由になってしまうと、屁理屈を述べているような感じになってしまい、それに対して現状で興味があるのが欧米の移民の問題だろうから、それらを全て結びつけてもっともらしい見解を示してみたいと思っても、恣意的に結びつけるだけかも知れないから、あまりもっともらしい内容にはならないような気もしてくるが、世の中で政治と経済が適当に動作すれば結果的に政府の国家運営がうまく行かなくなると問題を捉えておくのも妥当かも知れないが、それに関しても問題視するなら、問題視するのに都合の良いところだけ問題視するだろうから、政治や経済の仕組みをシステムとして捉えると、どちらもが辻褄が合わない破綻したシステムだと言える面がありそうで、それらの辻褄の合わない面や破綻している面を問題視するのが真っ当なやり方のように思えるのだが、逆に辻褄が合わなかったり破綻しているからこそ、結果的に資本主義市場経済が成り立っているなんて利いたふうな意見を述べたくなってしまい、そうなった結果から何とでも言えるようなことを言ってみたところで、物は言いようのバリエーションの一つになってしまう限りで、いい加減なことを適当にごまかしながら、辻褄が合うように述べているに過ぎなくなってしまうだろうが、できればそうやって批判しやすいところだけ批判するようなことになってしまわないようにしたいのだが、結局は調子に乗って批判している限りで、そんな成り行きに巻き込まれてしまうのだから、そういう成り行きは避けようとしても避けきれないのであって、だから政治や経済の方面で政府や企業が辻褄の合わないことをやっていると批判しても、やっていることが破綻している面を問題視して、それを批判する側に回って何か述べようとする限りで、素人がそんなことを述べている人々の仲間入りができるわけでもないだろうから、そういうのは何となく避けたいわけで、避けたいのにそれを参考にもしたいわけだから、そうなると面倒で回りくどい物言いとなってしまいそうで、そういうところが考えあぐねているところでもあるわけだが、例えば結果的に生じてくる移民の受け入れに寛容なリベラル的な傾向のどこかの政府の対応を批判したい側からすれば、地元の住民が困っているからそんな住民たちを味方につけながら、その種の政府を批判していたいだろうから、それはそれで批判していることの辻褄が部分的には合いそうなのだが、その一方で移民たちにも移民せざるを得ない経済的な動機があるわけだから、そういう動機がなくならない限りは移民もなくならないし、それが回り回って経済的な動機を作っているのが実際に移民を受け入れざるを得ない経済的に繁栄している国々なのだから、そんな自業自得でも構わないような成り行きなのかも知れないし、それを経済的には繁栄したい一方で移民も受け入れたくないという本音を明らかにしても構わないかというと、移民に反対している政党の政権になれば、実際にそういうことをやるだろうから、そういうことをやった結果がどうなるかが今後の成り行き次第にはなりそうで、やりたいならやってみればいいとしか言えないようなことなのかも知れず、実際にドイツやイギリスなどで移民反対の政党が勢力を伸ばしてきたわけだから、今後はそれらの政党が実際に政権を担当するようになってからどうなるかが興味深いところだが、それと比較して日本の現状がどうかというと、すでに移民の受け入れには消極的な政府なのだから、このままで構わないような気もするのだが、それでも人口減少と共に外国人労働者もそれなりに増えている現状もあるわけだから、なし崩し的にそれらの外国人たちが日本に定着すれば、それで結果的には構わないようなことなのかも知れず、そんなわけで現状でも制度的にもその実施においても、辻褄が合わない面や破綻している面をどうにかしようとする機運など高まらないような状況なのかも知れず、そういう面が放置されているから、それを批判に利用して何か述べられるわけで、何か述べられる限りで、それが何か述べている人たちの仕事になっている面もありそうなのだが、だから何だというわけでもないところが、今ひとつ興味のないところかも知れず、自分の立場からしたら興味のないところなのだが、実際に働いている外国人の居住支援をしている人々もいるらしく、働いているのに居住先がなかなか見つからなくて困っている人がいるなら、そんなことをやっている人々に相談すれば良さそうで、そういうことをやるのが地方自治体や政府の役目になるかならないかも、そういう方面で尽力している人々の努力次第だと述べてしまうと、自分にとっては他人事にしかならないが、そうやって世の中のどこかの方面で一定を役割を担うような成り行きを受け入れる人々がどれほどいるのかも、そんな人々がどれほど必要とされているのかも、そういうニーズがあればそういうニーズを満たす役目や役割が生じてきて、場合によってはそれが制度化される成り行きにもなりそうだが、そういう方面で活動している人々のことをどう考えれば納得できるかなんて、そんなのも自分の興味が向かう方面とは違う方面だろうから、何かそういうのとは他人事でいたいというか、関わるのが面倒そうだからそう思われるのだろうが、そうやって避けられる限りで避けようとはするだろうが、なぜか避けたくても避けられなくなってしまったら、否応なく関わらざるを得なくなって、面倒な活動を担う羽目に陥ってしまうかどうかも今後の成り行き次第かも知れないが、役に立てるような人材でもないだろうから、自分を引きずり込むのはやめておいた方が良さそうだが、そういうのも積極的に関わろうとしない限りで、無視していられるのかも知れず、それも結局は無用な杞憂に終わってしまいそうだが、そうやって面倒なことに巻き込まれないようにするには、わざとでなくても自らの内から無能そうな仕草や振る舞いが自然と出てくるにまかせておけば、それで構わないのかも知れない。
9月3日「ゾロ目の7」
何かを目撃するというのも、それが驚くような事件でもない限りは目撃するとは表現しないだろうが、そう都合よく事件を目撃できるわけでもなく、そんな事件の目撃者がすぐに見つかるとも思えないが、自分がそこで何かを目撃したというなら、それの何が事件なのかも、今のところはうまく説明できないのだから、一見どうということもないような出来事を事件だと見なすのも、大げさ過ぎるような気もするが、たぶんそれは事件などではなく、事件でなければ何なのかというと、ただの現象だと思っておいても差し支えなさそうだが、ではいったい何がそうなのかと考えて、何となく昨日の出来事を振り返ってみると、振り返ってみるまでもなく、大したことは何も思い出せないのだから、そこで作り話の捏造が行き詰まって、話を盛るのをあきらめてしまいそうになるが、そういえば最近は数字の7をよく見かけるわけで、しかもそれが777だとかゾロ目に7が並んでいて、PCやスマホの画面上の至るところで7がゾロ目に並んでいるのに気づくのだが、果たしてそれが幸運の兆しなのか、何かのフラグが立っているのかと考えてしまうから、意識してゾロ目の7を画面上に探そうとして、それが見つかった時だけ、やった!と心の中で叫んでしまい、そうやって強い印象となって記憶に残るから、最近はゾロ目の7をよく見かけると思い込んでいるのだろうが、果たしてそれが本当に幸運の兆しなのかどうかも、ただのたわいない迷信を信じているに過ぎないと合理的に考えてしまいがちになりそうだが、それに関しては、以前は日本株の取得平均価格が1株当たり777円か888円になるように計算しながら買っていた時期もあったが、中には777円に調整できた銘柄の株価がどんどん下がってしまって、損切りせざるを得ない事態に追い込まれてからは、それ以降は無理には調整しないようにしているわけだが、それでもいったん777円や888円に取得平均価格を調整できた株は、そこから株価がかなり下がって、評価損益の赤字が膨らんでも、すぐに売ってしまうと幸運が逃げて行ってしまうような気がするから、割と持ち堪えられて、そこから株価が上がって評価損益が黒字に転換した時には、あの時すぐに売らなくて良かったとひと安心できる限りで、長期投資の戦略としてはそれなりに有効なのではないかと、今でも我ながら良いアイデアだと思っていて、自画自賛したくなるのだが、それもたわいない迷信を利用した合理的な根拠も理屈も何もない馬鹿みたいな戦略だと言ってしまえば身も蓋もないが、その程度の稚拙なやり方で株式投資をやっているのだから、少なくとも他人に自慢できるようなことではないわけだが、逆にやっていることにのめり込まないようにするには、その程度の馬鹿げたルールを設けておくと割と冷静さや平常心を保てるような気がして、そんなことをやっている限りは、大成功することはないだろうが、逆にそこから身の破滅を呼び込むような悲惨な事態にもなりにくいような気もするから、何かの歯止めとして自分でも馬鹿なんじゃないかと思われるような動作を挟んでおくと、それ以上の深みにはまり込むのを防げるような気がしてしまうのだが、もちろん世の中にはそれ以上の深みにのめり込んだりはまり込んだりして、実際にその道を極めて大成功した人もわずかにいることも確かな感触から言えるようなことだが、その深みが深ければ深いほど、道を極めるのも並大抵な努力では到達不可能になってきて、途中で脱落する者も後を絶たなくなってくると想像できるのだが、果たして本当にそういうことなのかと考えてみると、社会の制度やシステムとして努力をした分だけ成功する確率が高まるような仕組みになっていれば確かにそうなのであって、そういう制度やシステムとして人工的に作ったものが、例えば中国の歴代王朝の科挙制度のようなものだろうし、現代でも各種の試験を伴うような制度やシステムなどいくらでもありそうだが、そんな制度やシステムなどからことごとく外れた人生を歩んできた自分にしてみれば、それが疑念を覚える思考対象になってくるわけだが、要するにその種の努力ができない体質が身に染みついているから、何となくそういう成り行きからは心身が遠ざかろうとするわけで、真正面からそういう事態を受け止められずに、そこから逃げようとするから、何か他にふざけたことをやって、わざとそれに失敗しているように装ってしまうというと、何だかそれも嘘っぽく感じられて、意識してそこから逃げようとしながらも実際には対処していることになるのかも知れないし、その対処の仕方がふざけているように感じられるから、そんなふざけた対処で間に合ってしまうのかというと、自分が現状で生きているなら、結果的にはそういうことだと思っておいても構わないような気がするわけだが、その結果的にはの結果がその時点での暫定的な結果であって、その時点では確かにそうだが、そこからどうなるかわからないと思えば、そんな思いもすぐに裏切られて、何やらおかしな成り行きに巻き込まれて面倒な事態に直面してから困ってしまうことも結構ありそうだが、行き当たりばったりでそうなってしまって、そこから生じる面倒な困難をかろうじて切り抜けて今に至っているのだから、それなりに経験に裏づけられた自信もありそうだが、そんな根拠の定かでない自信が慢心の原因となることもわかりきっているはずだが、慢心するほど成功しているわけでもないだろうし、むしろ大成功する可能性を捨てることによって、セコく立ち回って何とか現状を保っている程度のことだと自らの力量や器の小ささを卑下したくなるようなことでもないにしても、本当にそうなのかというと、もちろんただの作り話のフィクションの中で架空の登場人物がそう思っているに過ぎないと想像してみても、それも違うと思ってしまうが、それよりは偶然に巡ってくる絶好の機会を捉えて、効果的な行動や言動などの動作を繰り出そうとして、それに成功したり失敗したりしているうちに生きている時間が尽きてしまえば、そこで人生がおしまいとなってしまいそうだが、逆にそこで努力しないようにするにはどうしたらいいのかと思案しているわけでもなく、人の動作の傾向として努力しようとしてしまうわけだから、そんな努力を無効化できるわけでもなく、絶えず努力の延長上で向上心に囚われているから、何やらそこからやっていることを進歩させたり進化させようとしてしまうわけで、それがやっていることの失敗の原因であり、時にはそれが成功の原因にもなりそうだが、なるべくなら成功しようとして努力してしまうのだから、そんな努力を無効化できるわけでもないことは誰もがわかりきっているはずだが、なぜかそれが意味のない努力になってしまうと、何だかそれが笑ってしまうような、わざとたわいないことをやっているような気がして、そのやっていることというのが、画面上でゾロ目の7を見つけようと努力してしまうことになるのだろうが、そしてそれを見つけようものなら、やった!と思って喜んでしまい、何やらそこで幸運の兆しを感じ取ったような気になってしまうわけだ。
9月2日「多国間競争の起源」
なぜかしばらく前から意味のよくわからないことを考えていたらしく、それの何がわからないのかといっても、相変わらず意味も意義もよくわからないのだが、その歴史について知りたいのだろうが、知ってどうするのかということがわかっていないのであって、知ったところで何が言えるのかもわかっていないのだから、ただ単に世界の歴史を知るだけに終始してしまいそうだが、それを知る手がかりとなる書物を読むだけであって、実際にまた読み返そうとしているわけだが、それが何について著されているのかといえば、大ざっぱにいうなら、その書物の中でウェストファリア条約の意義が著されているのだが、試しにAIにウェストファリア条約の意義を訊ねてみると、ウェストファリア条約の意義は、1648年の三十年戦争終結を機に、主権国家体制の確立と近代的国際秩序の形成を決定づけたことであり、具体的には、各領邦が皇帝から独立した完全な主権を持つ領邦国家として承認されて、オランダやスイスの独立も正式に認められて、ヨーロッパにおけるローマ教皇や神聖ローマ皇帝などの普遍的権威の支配は終わりを告げて、対等な主権を持つ国家が自国の国益を追求する勢力均衡に基づく国際社会が誕生したということになるが、そこから自国民ファーストの利己主義的な傾向が強まったと考えてしまっても構わないかどうかも、また日本人ファーストを掲げる参政党なんかも、明治以来の典型的な欧米のサル真似日本人の集団じゃんかと馬鹿にしても構わないかどうかも、何とも言えないところだが、少なくともウェストファリア条約がきっかけとなって、ヨーロッパがローマ帝国以来の一つの帝国として再統一される夢を捨てて、現代まで続く多国間競争の時代に突入したと解釈するのが典型的な歴史認識となりそうだが、だからといって現状の多国間競争という国際的な枠組み以外にどんな選択肢があるのかと考えてみても、資本主義市場経済を優先させる新自由主義的なグローバリズムの思考が何なのかと考えてみても、今ひとつよくわからないことには変わりないのだが、その一方で多民族を包摂する帝国という概念はヨーロッパが起源ではなく、メソポタミア文明の昔から世界各地で形成されてきた古い国家的な形態である限りで、現代でもアメリカや中国やインドやロシアなどがヨーロッパ由来の近代的な国民国家とそれよりも歴史の古い帝国の二つの相貌を兼ね備えていると考えてもいいのかどうかも、それも何とも言えないところだが、そんな中でもファシストなどの国家主義者となると、やはり近代的な国民国家から生じてきた典型的なイデオローグだと言えそうだが、その一方で共産主義者がグローバリストだと言えるかどうかも、実際にグローバルな規模での共産主義革命を目指したトロツキーなどはどちらかというとファシスト系のスターリンとの権力闘争に敗れて亡命先のメキシコで暗殺されたらしいが、そんなファシスト系の国家主義者が嫌うというか、彼らにとっては仮想敵というか幻影なのかも知れないが、新自由主義を信奉するグローバリストという存在が何なのかということも、日本の国家主義者は例えば竹中平蔵なんかをグローバリストのカテゴリーに含めているのかどうかも、その辺が詳しくないので、やはりそれに関しても何とも言えないのだが、少なくともその種のグローバリズムと対決しているつもりの国家主義者というかナショナリストの類いは、近代の国民国家から生じてきたにも関わらず、それ以前の古い歴史に自分たちの起源を求める傾向にあり、ドイツのナショナリストはゲルマン民族やそこからさらに遡ってインド=ヨーロッパ語族の関連からアーリア人というカテゴリーを持ち出して歴史の古さ自慢をするのだろうし、またスカンジナビア半島のナショナリストは古代バイキングの末裔だということを自慢したがるのかも知れないし、フランスのナショナリストは古代ゴート族を持ち出して、イギリスのナショナリストはアーサー王の伝説などの古代ケルト民族を持ち出して、アメリカのナショナリストはピューリタンなどの初期のイギリスからの移民の伝承話などを持ち出すのかも知れないが、そんなことの延長上から日本のナショナリストなどは縄文文化などを持ち出して世界最古の文明だと自慢するついでに、日ユ同祖論や、最近は世界最古のシュメール文明に縄文人が関与したとか言い出す者まで現れて、歴史の古さを競い合っていることも近代の国民国家由来の多国間競争の表れのような気もしてくるが、それに対して新自由主義系のグローバリストたちはその種の古い歴史を持ち出さないのかといえば、もしかしたら彼らは産業革命由来の産業の技術革新などのテクノロジー崇拝に陥っているのかというと、それを陥っていると否定的に表現するのも違うような気もするが、ナショナリストが過去へと歴史を遡ろうとするのに対して、彼らはテクノロジーが実現する未来へと絶えず妄想を膨らませていると考えるのも、それもそうではないような気もしないではないが、ではナショナリストとグローバリストが共に何を錯覚しているのかというと、それを簡単に言うなら、彼らは歴史が連続していると思い込んでいて、そんな彼らに向かって、例えばナショナリストが自慢するために持ち出す古い歴史については、それはお前らの歴史じゃないと言い放つべきなのか、またグローバリストが妄想する未来のテクノロジーについても、それはお前らのテクノロジーじゃないと言い放つべきなのかなんて、自分にそれを言い放つ役割など巡ってこないのかも知れないし、それに関しても何とも言えないだろうが、歴史が不連続であることにどれほど注意を払っているかなんて、だからどうしたと返されると、連続していても不連続であっても、それが何を意味するのかもよくわからないのだが、要するに彼らは自分たちの存在を正当化したいと考えるなら、正当化するために過去の歴史を持ち出したり、未来のテクノロジーを持ち出したりしていると単純化できるかというと、それも彼らはこうだと決めつけているに過ぎないから、逆にそうではない面を探し出してきて、それを彼らの独自性として提示するようなことも想像できそうだが、ではそうすることに何か意味や意義があるのかと絶えず問いただしたくなってきてしまうと、どうもそういうことをやりたくて何か述べるのが、それも絶えず彼らに対する批判の言説になってしまって、何となくそれではしっくりこないような気がして、そう言えばウェストファリア条約がきっかけとなって生じてきた多国間競争の歴史が現代に至るまで連続してきたのかと考えてみると、もしかしたら途中のどこかの時点で歴史的な転換点でもあったのかと疑念を抱きながら、何となくそれに関する書物でも読み返してみたくなってしまったのだが、そんなきっかけをもたらしたのが、昨今の参政党ブームなのかも知れず、誰もがこぞって参政党を批判しているわけだから、やはり批判しやすい対象であると共に、そんなことに誰もが気を取られていると、他の何かに気づけなくなってしまうだろうから、やはり誰もが気づきにくそうな何かに気づこうとしてしまうわけで、だから気づくきっかけを求めて、何となくその書物をまた読み返してみたくなってしまったのかも知れない。
9月1日「政治の全面化」
普通に考えれば共産党と参政党の共通点など何もないどころか、主張が真逆の政党だと言えそうで、それを無理にも見た目は全く違うが同じ体質なんだと強弁したくなるわけでもなく、何やら共産党も参政党も見逃している政治の問題点があると言うつもりもないし、言えるわけでもないが、むしろどちらにも興味も関心もないわけではなく、物事を真面目に考えている人たちが共産党や参政党に興味を示して関心を向けていると事態を捉えておくのが無難に感じられて、その一方で政治を真面目に考えるような人は少数派で、では真面目の反対は不真面目なのかというと、それも違うとしたら何なのかというと、他のどんな物事にも言えることかも知れないが、社会の中で全面的に機能しているわけでも、直接働いているわけでもなく、部分的な機能であると共に、それが間接的な働きでもあるから、政治だけで何がどうなるわけでもなく、他の物事を介して少しだけ世の中に作用したり、ちょっとだけ社会に影響を及ぼす程度であるなら、そうなっている限りで世の中の平静が保たれて、逆にそれが全面的に機能したり直接に働き始めたりすると、世の中がファシズム的な傾向に包まれてしまい、なぜそうなってしまうのかといえば、他の物事がうまく機能しなくなってしまうから、そんな傾向に伴って政治が必要以上に余計に出しゃばってきて、結果的に世の中の平静が崩れてひどい状況になってしまうと考えたところで、それも勘違いな錯覚かも知れないし、物事の成り行きの結果と原因を逆転させることによってそんなことが言えるのかも知れず、実際には世の中の平静が崩れてひどい状況になってくると、その程度に応じて政治が必要以上に出しゃばってくるのであり、うまく行っていないところを政治の力を利用して何とかしようとするから、そこから無理なごり押しを繰り返すような成り行きが慢性化してしまうと、それがファシズム的な状況そのものだと言えるわけで、現状でもトランプやプーチンやエルドアンやネタニヤフなどが政治の力を使って無理なごり押しを繰り返している最中なのだろうが、もちろんその強権的な政治力の行使によって軍事力や警察力が機能するわけだが、そういうわかりやすい成り行きに日本の現状が囚われているわけでもないだろうから、日本ではそれらとは違う力が働いていると言えるだろうし、それによって政治が他の何よりも目立つ状態にはなっていないわけで、そうなっている限りで、世の中がそれなりに回っていると言えそうで、逆にうまく回らないと、政治の力を使って強引に回そうとするからファシズムになってしまうわけだが、だから政治家などが政治力を強めて世の中の現状を何とかしようとする限りで、それが実現してしまうとファシズム的な状況になるだろうが、そういう意味では参政党の党首などが語気を強めて主張している内容が危ういと感じるなら、主張している者がそれを意図しなくても、聞いている人々がファシズムを連想してしまうから、危ういと感じるのだろうが、そこで錯覚しがちなのは、それを主張しているのが参政党の党首だからファシズムを連想させられるのではなく、主張している内容からそう感じられるということであり、それに対して共産党の党首の主張内容からはそんなふうには感じられないとしても、共産党を攻撃する主張の中で共産主義の恐怖を煽る政治宣伝の内容からそう感じられるなら、そんな政治宣伝の内容を真に受けているからそう感じられるということであり、その種の政治宣伝によってそう感じさせられていることになるわけだが、その一方で共産党の党首の主張内容からはファシズムの兆しが感じられないかというと、その辺が微妙なところでもあって、共産党の主張内容の中で例えば消費税の減税の財源を大企業に増税することによって賄うとかいう趣旨が危ういと感じてしまうわけで、現状では共産党の国会での議席数が減少傾向だから実現不可能だと感じられるが、実際にそんなことがやれてしまえるような状況になってしまったら、それだけ世の中の状況がおかしくなっていると想像されてしまい、現状でもベネズエラの左翼政権なんかがそんな状況に当てはまるのではないかと考えてしまうが、どう見てもあれは独裁体制に見えるだろうから、ああいうのがファシズム的な状況だとは普通は言わないが、政治が全面に出てしまった事例であることには変わりなく、政治の全面化とはああいう状況のことだと認識したくなってしまうわけで、現状の資本主義市場経済の中では、他国の大企業には敵対的な立場から課税しがちになるとしても、自国の大企業には国益を優先する立場から優遇的な姿勢になってしまうのが、よくありがちな傾向だろうから、そういう意味では政治的な合理性よりも経済的な合理性の方が優先されてそうなってしまうのだから、安易に大企業に増税して減税の財源を確保するという政治的な主張は、政治を優先させればもっともらしく感じられるのだろうが、その政治を優先させるということが政治の全面化を招いてしまうと、それがファシズム的な状況だと考えるのも、そんなのは違うと言われそうだが、感覚としてはそういうことなんじゃないかと感じられるわけで、その辺が微妙なところなのだが、もちろん法的な合理性から考えるなら、独占禁止法があるから、実際にその法律に抵触するような状況になれば、法律に基づいて行政的な措置を講じる成り行きにはなるだろうが、そういう意味では政治の力で法律をねじ曲げるようなことをやれば、まさにファシズム的な状況となりそうだが、そこでもファシズム勢力が実際に行うのは、まずは合法的にやれる行為を模索するだろうし、そんな中でも自分たちの勢力に有利となる法律を制定しようとするだろうが、またいざとなったら超法規的な措置も講じるかも知れないし、そうなっている時点で政治が社会の全面に出てきているわけだが、果たして政治を他の何よりも優先させることがそういうことなのかというと、逆に政治を有効に機能させるにはそうなってはまずいとも言えそうで、世の中がうまく回らなくなってくると、政治だけが出しゃばってそうなってしまうわけだから、それ自体が政治の機能不全と言えるような状態なのかも知れず、社会の中で政治以外の他の様々な機能がうまく回るようにしなければならないのが、政治の役割だと言えるなら、政治だけが出しゃばって他の何よりも主導権を握って無理やり事を強行するような成り行きになってしまうと、社会が破綻や崩壊の一歩手前まで来てしまったからそうなっていると言えそうだが、そんな緊急事態を想定して、何やらそうなった時のために憲法改正を画策している勢力がいるとしたら、どう見てもファシズム勢力が自分たちを有利にするために法律を改正しようとしているように見えてしまうだろうが、そんなことを国会の憲法審査会などであからさまに持ち出してくること自体が、ファシズム勢力としてはあまりにも間抜けに見えてしまって、何か違うのであり、真のファシズム勢力であればそんなことはやりそうもないというか、もっと用意周到に誰も気づかないようなところから世の中をファシズムに染め上げようとするのかも知れないと感じられる限りで、では真のファシズムでなければフェイクファシズムなのかというと、そんなことを言っている識者の類いもいるわけだ。
8月31日「言いたくても言えないこと」
言いたいことはいくらでもありそうだが、言いたいことを言いたいのに、周囲の人々の事情や経緯に配慮すると言えない状況というのも結構ストレスが溜まってしまうが、しかもその場で言いたいことが思いつかずに、その場を離れて少し時間をおいてから、その場の状況を振り返ってみると、自分がその場で言いたかったことがわかってくるような感じになってしまって、たぶんその場でそれを言ってしまうと色々と周囲の人々との間で軋轢が生じてきそうだから、結果的にはその場で言いたかったことが思いつかずに、言いたいことを言わなくて正解だったような気がしてしまい、そんな経験から何が言えるわけでもないのだが、そういうことをここで述べるべきかどうかも、後出しじゃんけんのようで気が引けるし、ポピュリズムの徒が主張するのに都合の良いことだけを主張するのも、大衆の人気を得ることを目的とした政治思想や活動を支持する人々に向けて何か都合の良さそうなことを訴えるわけだから、社会の既成権力を担う既成政党やエリート層に不満を持つ大衆を喜ばせるために、煽動的な主張を用いて単純化された対立の構図を持ち出して、あいつらを叩けば良いんだと攻撃目標を定めて、結果的に馬鹿な大衆の間で内ゲバを誘発させておけば、社会の既成権力を担う既成政党やエリート層の思ううぼだと言いたいわけでもないのだが、そういう意味ではポピュリズムの徒も社会の既成権力側の味方だと言えそうだが、本当にそうなのかというと、もちろんそうではなくわざと嘘をついているようにも感じられるが、さらに見え透いた嘘をつくなら、社会の既成権力を担う勢力にとっては大衆が馬鹿な大衆のままだと都合が良いわけで、だからポピュリズムの徒を大衆に差し向けて、大衆が一致団結して既成権力に刃向かわないように、絶えず大衆の中で内部対立の火種を絶やさないようにしておくわけで、その場でそんなことをこれ見よがしに言い放っても構わないわけではなく、そんなことは言わなくて正解なのだろうが、その場でそんな見え透いた嘘をつきたくなってしまったわけでもないのだが、それがそのままの内容で思い浮かばなかったにしても、何となくそういうことなんじゃないかと薄々勘づいてしまったわけで、それも自分の勘違いには違いなさそうだが、ではそんなありふれたことを妄想してしまう自分には何がわかっていないのかというと、普通に考えてジャーナリストたちの無知につけ込んで的外れな知見を世間に広めようとする識者や学者の類いの魂胆など誰にもわかりようがなく、たぶんそれらの人たちも自分たちの魂胆など自覚していないだろうし、そんな魂胆を妄想してみるのも勘違いの原因なのかも知れず、彼らの知見や意見をいかにやり過ごすかが問題となってくるわけでもなく、もうすでに世の大半の人々がそれらをやり過ごしている現状があるから、誰も聞く耳など持たなくても構わないような現状もあるわけで、その代わりに何かを知りたければAIに訊いてみれば、それが正しいわけでもないにしても何かしらもっともらしく感じられる知見を得られるし、それで間に合ってしまうのだから、もはやジャーナリズムも要らない社会になりつつあるのかも知れず、それでもAI自体はメディアから情報を収集してくるのだから、メディアそのものは要るのだろうが、ではジャーナリズムが不在なメディアとはいかなるものかと考えてみても、報道とジャーナリズムは違うと解釈するなら、報道は必要だがジャーナリズムは要らないと言えそうで、ジャーナリズムを通さずに一般大衆が報道から直接情報を受け取って自身でそれを判断すれば良さそうで、そうなると報道もAIも一般大衆が判断する情報を伝える役目を果たす存在だと言えそうだが、そんな見解も違うとしたら何なのかというと、どうも啓蒙の役割を軽視していて、一般大衆への啓蒙活動をジャーナリズムが担わなければならないと言えるかどうかも、そこでもポピュリズムの邪魔が入ってしまうから、かなりの困難を極めてしまうのかも知れず、しかもジャーナリズムもポピュリズムに加担しているから、何が啓蒙なのかもよくわからない事態に陥っているかも知れないが、普通はジャーナリストと共に識者や学者も啓蒙活動を担っているはずだが、彼らが述べている内容がことごとく的外れな知見や意見を含んで啓蒙しようとしてくるから厄介だと言えるわけでもないが、では具体的に何が的外れな知見や意見なのかということが、改めて考えさせられるような体験をしてしまって、そこでは言いたいことを言う気にはならなかったのだが、ここでも言いたいことを言わない代わりに、わざと的を外して、例えばAIにドイツ帝国の積極財政政策を訊いてみると、ドイツ帝国時代に積極財政が実施された具体例は、社会保障制度の整備や国内産業の保護のための保護関税政策が挙げられて、ビスマルク宰相は1873年の恐慌後の不況対策と、労働者の社会主義運動への接近を抑える目的で、災害保険や疾病保険といった社会保険制度を整える一方で、資本家層の要求に応える形で外国からの輸入品に高関税を課すことで、国内産業を保護育成する保護関税法を制定したという回答が出てきたが、これらの政策は、国内の経済発展を促し、社会の安定を図るという、当時のドイツ帝国の状況に適した財政経済政策であったと言えるらしいが、これの何が積極財政政策なのかと疑念を抱くかも知れないが、AIに言えるのはこの程度のことであると共に、それに対して現代の政治家が主張している内容も、概ねこんなことを主張しているような気もしないではないが、要するに政治にできる経済政策なんて今も昔も大して変わらないし、変わりようがない限りで、どう考えてもポピュリズムやジャーナリズムの煽り立てを真に受ける必要も感じないかも知れないし、社会の中で老若男女や貧富の違いに応じて、分断や対立を生じさせる必要もなさそうに思われるのだが、では行政ができることは国内産業の保護や育成などに関する法整備程度のことだけかと拍子抜けしてしまうかも知れないが、現代でも政治家が主張しているのはその程度のことであると共に、一般の民衆を助けるようなことを主張していれば、何かそれが実践できるようなことなのかも含めて、その実現可能性を吟味してみる必要もありそうだが、今ではドイツ帝国の時代から事態がだいぶ進展していて、産業の中身に関しても昔とは様変わりしていることも考慮に入れないと、どう考えてみてもそれがおかしいことに気づかないと言ってしまっても、それが何のことやらさっぱりわからなくなってしまうのだろうが、二十世紀末から始まったIT革命やその後に続いて現在進行形で起こっているAI革命なんて無視しても構わないとは言えないし、そんなものは何の実態も中身もないまやかしに過ぎないとも思えないのだが、政治的な実践とは次元の違うことだと突き放して考えてしまっても、それらを軽んじて否定的に捉えることになってしまうし、別にそんなものにこだわる必要も感じないなら、十九世紀のドイツ帝国の時代から歴史が連続していることになってしまうわけだ。
8月30日「愚かさと戯れる」
相変わらず捕らぬ狸の皮算用のごとくに、当たるはずのない宝くじが当たったことを前提にして、買いたい高級時計やら高級車やらを買う未来を空想して、現状では買えるはずもないのに、妄想の中で何を買おうか迷っているのだから、自らの愚かさもここに極まれりな心境なのだが、たぶん本気ではないのだろうが、そんなことを思っている裏ではセコい計算も頭の中で働いていて、スーパーでいかに安い食材を買おうかと思案の最中なのだから、思っていることとやっていることが矛盾しているのもいつものことだが、つい先日も十数年前に建てた自宅を施工した住宅会社から無料点検と称して担当者がやってきて、外壁と屋根の修繕費として百八十万円と三百万円のどちらかを選べと見積りを提示してきて、なぜかその返答期限を過ぎても催促の電話にも出ずに、今のところは返答せずにいて、出そうと思えば出せない金額ではないのだが、どういうわけか承諾も断りも伝えずに、そのままだんまりを決め込んでしまって、そんな自分の対応が不誠実なのはわかりきっているが、今はそうせざるを得ないような気がして、なぜそうなのかが、自分でそうしているのに自分にはよくわからないわけで、返答しない理由が思い浮かばないのだから、頭がおかしいのではないかと思いたい一方で、自分の勘がそうさせるのか、あるいは守護霊か何かが、今は返答するなと止めているような気もするわけで、そんなふうにして理由がわからないのにそうせざるを得ないことが、それが焦ったいような不可思議な心境をもたらすのだが、どうしてもこの先のどこかで嫌なことが起こる予兆を感じていて、ここで多額の出費をしてしまうと、その際に困った事態となってしまうことを恐れているのかと、勝手に想像してみても、そうでもないような気もするし、逆にこのまま何もしないでおくと、遠からず屋根から雨漏りなどが頻発するようになってしまって、そうなるともう手遅れだから、ここで外壁や屋根の修繕を頼んでおくべきなのもわかりきったことなのだが、そんなふうに合理的に物事を考えてしまうこと自体も、これまでの自分の経験に照らし合わせると、勝手にそう考えて、自分でもそれが合理的な判断だと思い込んでしまうと、大抵は大間違いな結果に直面して、愕然としたような痛い目に遭ったような気がする一方で、自分のこれまでに歩んできた経緯をもっと詳しく思い返してみると、本当の実態はそうではなく、逆に勘にまかせて不合理で非合理な判断ばかりしてきたから、そのおかげでだいぶ痛い目に遭ったりとんでもない愚かな失敗を無数に繰り返してかなり恥ずかしい思いもしてきたのに、そんなことの延長上で今回も件も、勘にまかせて不誠実な対応をしている最中なのであって、そのおかげで遠からずひどい結果をもたらして、性懲りもなく痛い目に遭いそうなのに、なぜかそれでも構わないような気がするわけで、そんな愚かな自分と同じように他人もそうだと思いたくなってしまうのも愚かなことだが、日々メディアで批判や非難の標的となっている人物にもそれ相応の親近感が湧いてきて、その人物を批判したり非難している人たちよりも、その標的となっている人物の方に親近感が湧いてくるのだから、それも勝手に勘違いな親近感を抱いているだけなのだろうが、そうなっているのだから自らの勘が狂っているというか、自らの守護霊に騙されて日々ひどい目に遭っている最中なのかも知れないが、それでも構わないような気がするわけだから、結果的にはうまく立ち回っていることになるのかならないのかも、それも結果的にはそんなことをやっているおかげで大外れな人生を歩んでいることになるらしいのだが、それが大外れであっても構わないような気がしてしまい、やはりそれも自らの勘がそう告げているような気がすると共に、自らの守護霊もそんな自分だからこそ守ってくれているような気もしてくるのだが、こんな現状をどう捉えても正当化するわけにも行かないだろうし、否定的な気分になって自らの行いを反省したくなるのだが、今さら反省してみてもすでに手遅れのような気もしないではなく、すでに自分の態度や姿勢や行為や行動や言動が原因で大失敗したりひどい目や痛い目に遭う度ごとに反省してきたような気もするから、いくら反省しても反省し足りないどころか、これまでにもいくらでも反省する機会が巡ってくる度ごとに反省していて、これからもそんな機会が巡ってくる度ごとに反省するだろうが、それでもたぶん一向に懲りないというか、ひどい目や痛い目に遭って懲りているはずなのだが、しかもこれからも今後もひどい目や痛い目に遭ってその度ごとに懲りるのだろうが、なぜかその度ごとにそうなってしまうのだから、これからも今後もそうなるのかも知れないし、そのうち死んでしまえばそこでおしまいとなって、そうなればもうそれ以上はひどい目や痛い目にも遭わずに、懲りて反省することもなくなってしまうのだろうが、そうなるまではまだどれほどの機会が巡ってくるかもわからないし、とりあえずはこれまで通りというわけでもないだろうが、自らの勘に頼って、守護霊に守られているつもりになって、残りの人生を歩んで行くしかない限りで、自分から積極的に何かを仕掛けるような成り行きにはなり難く、ただ消極的な態度や姿勢で何事も受け身の対応になってしまうような気もしないではないが、それを自らの意思や意志が反映した態度や姿勢だとは思わない方が良さそうで、絶えずその場の情勢や状況の中で得体の知れない何かに誘導されているような気もするわけだから、誘導しているのが自分の勘なのか守護霊なのかと考えるまでもなく、そう思ってみてもそうではないような自らの内部からも外部からもその境界を曖昧にしながら相互作用の力が働いて、そんな力の源泉を自らの勘だと思ってみたり、また守護霊が自らを操るために力を及ぼしていると思ってみたりしているだけで、本当のところはよくわからないわけだが、少なくとも迷いや戸惑いから逃げるようにして悟ってしまってはまずいような気がするわけで、そうなってしまうと常時笑顔が顔に貼り付いてしまって、年がら年中四六時中笑顔を絶やさない老人となってしまうような気がするから、そんな状態が極まると怒る際にも笑顔を絶やさないような振り切れ方になってしまって、そんな老人を見る度に自分もそうなりかけている兆候があるからヤバいヤバいと反省したくなるわけだが、別にそうなったとしてもヤバいわけでもなく、そういう人はどこにでもありふれているから周囲から安心されて、その方がそうなった当人も生きやすそうで好都合なような気がするわけだが、その一方でその種の笑顔を絶やさないありふれた老人のキャラクターが漫画などに登場すると、ああ嫌だなこうなっちゃ駄目なんだと反省したくなって、そこでも自らの勘が、そうはならないように抵抗しろと告げているような気もして、愛想笑いのような笑顔が顔にへばり付きそうになる度に、頭の中で警告ランプが点灯しかかるような感じがするというと嘘っぽいが、そこでも絶えず抵抗感を覚えるように守護霊によって誘導されているような気もするわけだ。
8月29日「自己言及パラドックスの虚実」
空爆の生々しい爪痕が残るガザ地区の瓦礫の前で何かを伝えている報道機関の記者の画像が画面に映し出されて、しかもその記者が最近の空爆で亡くなったと伝えられたら、何やらそれが人の胸を打つ光景だと感じられるが、別にそれが自己言及パラドックスがもたらした錯覚というわけではないし、現実に起こったことには違いないわけだが、その記者が生前に私は嘘をついていると発言したわけではないだろうから、そういう意味でもそれの何が自己言及パラドックスなのかもよくわからないが、自らが戦争の被害者となることで戦争の悲惨さを訴えるのは報道のやり方として邪道だと感じられるわけでもなく、亡くなった記者も自身が戦禍に巻き込まれないように細心の注意を払いながら取材していたのだろうから、そんな記者を非難する筋合いもなさそうだが、それに対してネタニヤフなどは自らが戦争の加害者となることで、戦争の悲惨さを逆説的に訴えているつもりもないだろうから、そんなのも結果論でしかない限りで、どうもそれも自己言及パラドックスとは無関係なようにも感じられる一方で、実際に起こった出来事を後からどう恣意的にねじ曲げて伝えようとしても、それが起こった事実に基づいている限りで、それについてどんなにひねくれた感想を被せても、その事実がそれを物語っている以上の何を付け加えても、そんなのは事実の歪曲や改竄であり、事実を意図的にねじ曲げて伝える側の都合の良いように伝えているだけなのではないかと疑念を抱かれるわけでもないが、それを意図してやってしまってはすぐに嘘がばれてしまうから、できれば意図しないで、しかも自らの意図や思惑を裏切るようなことをやらないと、結果的にはリアリティを得られないのではないかとも考えてみるのだが、では具体的にそれがどういうことなのかと考えてみても、その具体例が今のところは全く思いつかないから、どうもそれもあり得ないことなのかも知れず、要するにそれが自己言及パラドックスなどとは無関係なミイラ取りがミイラになったようなことなのかも知れず、例えば元共産党員がファシストになるのは昔からよくありがちな成り行きなのかも知れないし、それを言うならジェダイの騎士が暗黒卿になるのも有名なSF映画の中では象徴的な成り行きだが、そうなれば暗黒卿となった元ジェダイの騎士が、元同僚のジェダイの騎士に向かって、不意に私は嘘をついていると謎めいたセリフを投げかけて、一瞬意味がわからなくてそのセリフに気を取られた隙を突いてライトセイバーで刺し殺す場面などを思い浮かべてみるが、そんな場面が今後その映画の続編の中で出てくるはずもないだろうが、闇堕ちする正義の味方という物語の設定もありふれたフィクションの中では多用される話の成り行きには違いなく、その種のフィクションから派生した一般大衆の思い込みを逆利用して、デマや悪い噂を広めて現実の社会で人助けのようなことをやりたがる人々を貶めようとしている邪悪な勢力も思い浮かぶわけでもないが、たぶん実際に体験する物事の成り行きはそうではなく、何かもっと直接的で同時並行的な様相を呈してくるから、そういう物語的なわかりやすさとは無縁であって、まさに私は嘘をついているというどちらにも受け取れるようなことになってしまうから、それを後からどう考えてみても納得し難く、その場で複数の選択肢が思い浮かんでも、そのどれを選んでも正解と言えるような結果には辿り着けないような成り行きが待ち受けていて、逆にどれを選んでもそれなりの結果に至る場合もありそうだが、自分では選べないし、それを選ぶように誘導されてしまうから、どれも選びたくないのに選ばされてしまうような嫌な成り行きに直面してしまうと、そこで判断停止したままどうにも身動きが取れなくなってしまって、しかも自分からは何も仕掛けられずに身動きが取れないのに、否応なくそこから押し出されてしまうような成り行きを体験すると、どうしたらいいのかわからないのにそうなってしまうから、結果として生じる自らの動作に責任が持てないような感じがしてしまうのだが、そういう自らのよくわからないあやふやな実体験を踏まえて、メディアから伝わる物事の善悪がわかりきったような批判的な物事を捉え方に接してしまうと、本当にそうなのかと疑念を覚えずにはいられなくなってしまうのだが、もちろんそれを批判する側にしても、否応なく簡単に批判できそうな物事を選んで批判しているわけでもないだろうし、絶えず良かれと思ってやっていることが微妙な結果に至ってしまうから、善意でやっている活動の結果が思わしくないと、もちろんそんな結果を槍玉に挙げて、そこに非難の集中砲火を浴びせようとするポピュリズム勢力が登場するわけで、それがドイツでは脱原発や自然再生エネルギーの活用や中東やアフリカなどからの難民の受け入れによって社会や経済の状態が思わしくなくなったから、それを批判に逆利用することによってAfDなどの右派勢力が勢力を伸ばしてきたのだろうし、それを言うならトランプなんかも民主党政権がブッシュ親子の戦争の後始末に追われて、それ以外は何もできないことを批判に逆利用して大統領になれたわけだが、そんなトランプもコロナ禍では何も対策ができずに大統領の職を追われたが、その後を継いだ民主党政権も結局はコロナ禍の後始末に追われて、それ以外は何もできないことを批判に逆利用してまたもやトランプが大統領に返り咲いたのだから、結果的にうまく立ち回ったことになりそうだが、日本の民主党政権なんかもリーマンショックの後で、カッコいいリベラル的なきれいごとを主張はできても大したことは何もできないまま迷走した末に、東日本大震災でとどめを刺されたわけで、それを批判に逆利用して第二次安倍政権が誕生したわけだが、そういう事例から何が言えるかと考えてみると、トランプが今もやっているように、めちゃくちゃなことをやった者勝ちで言った者勝ちな状況だと言えそうなのだが、その後始末をやらされるのが、善意で良かれと思うようなきれいごとを主張するしかない左翼リベラル勢力なのかも知れず、もちろんそれをやろうとして、やったところでうまく行くとは限らないというか、たぶんそういうことをやろうとするとことごとくうまく行かないというか、逆に利己的で欲得づくのやり方が最終的にはきれいごとのやり方を押しのけてしまう結果に至って、それが現状でもトランプがやりたい放題やっているやり方になりそうなのだが、そうやってトランプがやりたい放題めちゃくちゃなことをやった挙句に、その後始末に追われて、他には何もできないままとなってしまうのが、次の民主党政権になるかどうかも、現状では何とも言えないところだろうが、その一方で日本でも、まずはめちゃくちゃなことをやった者勝ちなポピュリズム勢力が政権を取らないと、その後始末を担うリベラル勢力は政権を取れないのかも知れないし、今のところはめちゃくちゃなことをやった者勝ちの前段階で、めちゃくちゃなことを言った者勝ちな勢力が世論調査などで人気を博している状況なのかも知れない。
8月28日「恣意的な歴史主義」
別にそれが笑ってしまうような事態でもなく、あらかじめそうなることも予想がついていたのだが、誰もがそれに気づいていながら、あえてそれを無視していたわけでもないのだろうが、意識して無視しなくても、わざと見ないふりを装わなくても、そんなことは誰もがわかっていて、すでにわかっているから、そんなことにわざわざ注目する必要もないのだろうが、しかし他に注目することがあるわけでもなければ、やはりそれに注目せざるを得ないのであって、不快な気分を抱きながらもそれに注目してしまうのだが、それと同じようなことだとは思えないし、それとこれとが全く別の成り行きであることもわかりきったことだが、例えば千数百年前に生きていた藤原不比等を悪者に仕立て上げて、古事記や日本書紀を利用した歴史の改竄について語るのが、何かおかしいと感じているわけでもないが、なるほどそんなところにこだわっている人がユーチューブでは結構大勢いるのかと関心してしまう一方で、その数十年前の乙巳の変において殺害された蘇我入鹿と自害した蘇我蝦夷を悪者に仕立て上げたことが、逆に後の世において人々が藤原不比等を悪者に仕立て上げる動機となっていること自体も、それが因果応報の成り行きのような気がしてくるから、そこから何を類推する必要もないと断言したくなるわけでもないが、それとは全く関係のない方面で、例えば明治維新の七十七年後に日本がアメリカに敗戦して、その七十七年後に安倍晋三が殺害されたことの何がおかしいとも思っていない人々が、他に気づいていないことがあるとすれば、なぜか初代の神武天皇が即位した地が奈良県橿原市の橿原宮だとされている一方で、安倍晋三の死亡が確認された地も奈良県橿原市の奈良県立医科大学附属病院であることも、偶然の一致だと思えば何でもないことだろうが、まさかそんなところからオカルト話や陰謀論を捏造できるわけでもないだろうから、確かにそれとこれとは全くの無関係な話には違いないわけだが、特に藤原不比等と安倍晋三に共通点など何もないし、歴史改竄者として二人が同レベルで語られるはずもなく、そこから無理なこじつけなどできるはずもないことだが、そんなことよりは戦後八十年という節目に何かもっともらしいことを語りたい識者の類いが今月の終戦記念日前後には大勢湧いてきて、今も執拗に語ろうとしている者もいるらしいのだが、なぜそんなことには全く興味がないのかと疑念を覚えているわけでもなく、たぶんそれが歴史の捉え方としては間違っているのではないかと批判するようなことでもないのだが、それにしても果たしてそんなところで歴史を区切るのも何かおかしいような気もするとすれば、戦後八十年という節目に何か語りたい人たちに対して、何となく意識が反発してきたり、違和感を覚えているのかも知れないが、それに関しては数字的な節目と時代の節目を同次元で捉えてしまっているところが間違っていて、戦後八十年なんて時代の節目でも歴史的な転換点でも何でもないはずだが、しかもそんなことは誰が指摘するまでもなく、誰もがわかっていることであって、その一方で八十年という数字的な区切りにかこつけて何か語りたい者が大勢出てくるのも、あらかじめそうなることも予想がついていて、実際にそうなってみれば、それがそうなって当然のことのように語られてしまうのだが、そこに何か錯覚があるとすれば、七十七という何やら縁起が良さそうな数字の年月を隔てて、明治維新の七十七年後に日本が敗戦して、日本が敗戦して七十七年後に安倍晋三が暗殺されたわけだから、それがどうしたと言われても、ただ単にそうなっただけなのだが、しかも神武天皇が即位したとされる地の近くで安倍晋三の死亡が確認されたわけで、それもそれがどうしたと言われても、ただ単にそうなっただけなのだが、安倍晋三の死の意味など、後からいくらでも肯定的にも否定的にも付け加えることができそうだが、もちろん戦後八十年の意味も後からいくらでも付け加えられそうだが、実際に戦後八十年の意味や意義を何やら語っている者もいくらでもいて、それがどうしたと言われても、ただ単にそうなっただけのことなのだが、たぶんそこで何と何を同列に扱っても違和感が伴うのだが、安倍晋三の死と戦後八十年の意味や意義を同列に扱うわけでもなく、戦後七十七年と戦後八十年を比較して数字的な節目としてはどちらがすっきりしているかといえば、戦後八十年に決まっているだろうが、明治維新の七十七年後に日本が敗戦を迎えたといっても、戦後七十七年が経って安倍晋三が暗殺されたからといって、それとこれとを関連づける理由も定かでないのだが、それでも数字的には七十七という一致があるわけだから、無理にもこじつけたくなってしまうのだが、何かそういうところで頭がおかしいような、他人の死を利用しておもしろおかしいことを語るのもばち当たりな気もしないではないが、それを偶然の一致だと言ってしまえばそこで終わってしまうのに、ここまで延々と話を引き延ばしてきた末に、ここから何を語るのかというと、たぶん乙巳の変が起こったちょうど千三百年後に日本がアメリカに敗戦したことが何の意味も関連もないことと、戦後八十年に何か意味や意義があることが、その二つを比較して何が語れるわけでもないのだが、それが何かのおふざけで語っていること以外にも、少なくともその二つの出来事を比較してみれば、歴史が連続しているわけではないことに誰もが気づくはずだが、たぶんそう言われてみないと誰も気づかないのかも知れず、また神武天皇の即位と安倍晋三の死には何の関連性もないから、そこでも歴史が連続しているわけでもないが、なぜか明治維新とそこから七十七年後の日本の敗戦には何か重要な関連性があると多くの人々が自覚していて、少なくとも明治維新から日本の敗戦までが一つの歴史の区切りだと理解している人も大勢いるわけで、そこに歴史の連続性を意識させる物事の成り行きがあると思っている人も大勢いるのだが、そうだとすれば日本の敗戦から七十七年後に起こった戦後政治の総決算を掲げた安倍晋三の死が、一つの歴史の区切りだと意識できるかどうかも、今のところは気づいていない可能性も高そうだが、そんなことに気づかなくても構わないような状況の中で、誰もがそれに気づかないまま通り過ぎてしまった先に戦後八十年という節目が到来したと解釈したいわけでもないのだが、凡庸なメンタリティの持ち主なら、せいぜいが十年ごとの時間的な区分の中で何か語れば、それがもっともらしく感じられると馬鹿にしたいわけではなくても、歴史を語るには十年とか百年とか千年単位で語る方が、たぶん人が生存している時間というか、人の寿命に限界づけられた時間経過に照らし合わせればしっくりくるのかも知れず、そういう意味ではカッコつけて七十七年という意味ありげな数字をもったいぶって持ち出すよりは、もっとオーソドックスに十年百年千年単位で歴史を語った方が、何となくそう語ること自体に、何かしらの意味や意義があるかのように錯覚できるのかも知れない。
8月27日「現状認識の更新」
社会に関する情報がメディアを経由して日々更新されているなら、それによって社会の変化を実感できるかも知れないが、また社会の変化に対応して、自身の認識を日々更新していると言えなくもないが、認識を更新したからといって、それに合わせて自らの態度や姿勢まで変えているわけでもなく、それまでに維持してきた態度や姿勢を変えるには、実際に自らの態度や姿勢が現実の社会で通用しなくならないと変えようとはしないし、否応なく変えないと自らの活動に不都合が生じたり支障をきたさない限りは、わざわざ意識して変えようとはしないだろうが、意識している範囲内では確かにそうかも知れないが、それも否応なく嫌々変えるのではなく、変えた方が何かと都合が良ければ喜んで変えるかも知れないし、態度や姿勢を変えることによって自らを利すると判断したら、努力してでも変えようとするかも知れないが、その一方で意識しなくても自然と変わってしまう可能性もあるだろうし、絶えず変化し続ける世の中の流れに同調しようとしている限りで、世の中の変化に合わせて態度や姿勢も自然と変わって行ってしまうような成り行きも想定できるかも知れないが、それが具体的に何なのかといえば、周囲の人々との直接の交流から影響を受けたり、メディアを通して間接的に及ぼされる影響によって変わるなら、意識して自ら進んで変えようとしなくても、自然に変わってしまう可能性も高そうだが、そうではなく例えば教師的な存在から指導を受けて変わろうとするなら、教師と生徒との間にギブアンドテイクのような持ちつ持たれつの関係が構築されていないと、うまくは変えられないかも知れないが、その際にも都合の良い方向や傾向に変えようとしたり変わろうとする意図や思惑がある限りで、それに対する反発や反作用も生じてきて、それが世の中の風潮や傾向から影響を受けてそうなってくるようなら、及ぼされる作用や影響も一つの方向や一定の傾向からだけではなく、様々な方面から様々な作用や影響が及んでくるから、それらが複雑に入り組んで錯綜しながらそうなるなら、それらの全てを把握しきれないし、制御することもままならないだろうから、結果的にはよくわからない変化や変貌を被ってしまって、だから何だというわけでもないのだが、社会を良い方向や傾向に変えるために尽力しようとして、世のため人のための思想や哲学などを広めようとする先生気取りになってしまうと、それがその種の思想家や哲学者などの勘違いの原因だと世間からは思われてしまうかも知れないし、もっと下世話なところで大衆市民社会のブルジョワな市民たちが求めているのは、世の中の時代状況や風潮に応じて一時的に流行ったり廃れたりもする物事の成り行きに合わせて、そんな中でも上手く立ち回るための処世術の類いを教えてくれるハウツー的なアドバイスのようにも感じられるのだが、そういう軽薄な精神の持ち主に異を唱えるのが、その種の思想家や哲学者の使命なのだろうから、常に多数派からは弾圧される宿命なのかも知れないが、果たして今の世の中でそんな社会的な役割が通用するとも思えないのだが、現代の社会の構造がそんな役割を許容する形態にはなっていないのかも知れないし、何かそういうところでその種の役割を自認する人々の意識の中で認識のずれが生じている可能性もありそうだが、そんな中でも対立を煽りたい者たちが暗黙のうちに善と悪との二項対立を念頭に置いて、社会の中で悪事を働いている者たちを取り締まるんだ的な立場を占めようとするわけだが、それが自粛警察などの自警団的な正義感を誘発して、コロナ禍では街中でマスクをしていない者を攻撃したり、川口でクルド人集団がやりたい放題やっていると思い込んで、やっつけに行くとか、そういうのも時代状況や風潮に応じたハウツー的な処世術に含まれるかどうかも、何とも言えないところだが、そんなことの延長上でれいわ新選組なども、移民や外国人の参政権の獲得を目指しているとデマを流されて、何やら退潮傾向に追い込まれたのかも知れないが、詳しいことはよくわからないが、少なくとも東京都の大田区のれいわ新選組の区議会議員の人は外国籍の人々の居住支援に取り組んでいて、それ以外にもヤングケアラーやらフリースクールやらボランティア団体やら区民活動団体やらの支援にも取り組んでいて、さらには学校の校則による人権侵害などの改善にも取り組んでいるらしいのだが、それも何やら孤軍奮闘でやっています的な、リベラル的な価値観の推進者のような印象が右派勢力による格好の攻撃目標に認定されてしまう危険性もなきしもあらずだが、今週の週末にはその人の活動報告会があるらしく、出欠の案内が来てしまったので、出席の返答を送っておいたから、一応は参加してみる予定なのだが、そういうところに左派の活動家の皆さんが集うのかも知れないが、それもそういう先入観を抱いてしまうこと自体も、この時代の状況や風潮に意識が囚われていることの証しと言えなくもなく、どうも実態としてはそうではないような、そうではないといっても、全てがそうではないわけではなく、そういう傾向もなきにしもあらずなところもありそうなのだが、様々な傾向の人々がいるうちで、ごく一部の人々の存在やそんな人々の活動だけを問題視するような認識に至ってしまうと、何かそれが勘違いというか、世の中の支配的な現状からはちょっとずれた認識になってしまうのだろうが、そういう役割や役回りを担ってしまえば、そういうずれた認識に至ってしまうのも、そういう役割分担に応じた許容範囲内でずれていることになりそうだが、それとは違った世の中の支配的な現状に沿った現状認識というのも、そういう現状認識に囚われた人々に対して異を唱えたり異議を申し立てたい立場の思想家や哲学者気取りの先生たちにとっては、格好の批判材料となって、何やらそういうもっともらしい批判が散りばめられた言説の中で、その種の人々になってはならないようなことが言われてしまうのだろうが、それもそういう言説を利用して対立を煽ってしまうような成り行きになれば、それを単純化して善と悪との二項対立にまで持ち込んで、そこから先にはよくありふれたフィクションが展開されるしかなさそうだが、それも果たしてそこまで行かない途中の段階を維持できるかというと、現状の世の中でも部分的にはそうなっている面もあるだろうし、その一方ではそんな段階を行き過ぎて、悪と見なされる人物や勢力を糾弾するような言説が用いられる場合もありそうだが、そういう傾向の言説が用いられるところでは、確かに善と悪との二項対立がそこで極まっていて、一方的に攻撃対象に認定された人物や勢力などが言説の中で批判されたり非難されている現状もありそうだが、そんな現状を実際の現状からちょっとずれた現状認識に基づいたフィクションだと見なしても構わないかというと、そう見なしたいならそうでも構わないが、そういう言説を用いて批判や非難に活用している現状も一方にはあることも認識しておく必要があるのかも知れない。
8月26日「偶然の発見」
今後も自分の周囲では大したことは何も起こらないような予感がするが、実際にはそんなことはないだろうが、自分にとってはそうであっても他人にとってはそうではないかも知れないし、また大したことはないという恣意的な印象の程度が、何かの拍子に不意に思い浮かんだいい加減な世の中の印象からはそう思われるとしても、今後の気分次第では気が変わる可能性もいくらでもある一方で、自分の気分や印象などとは別に、それも何かの拍子に深刻な事態に巻き込まれて焦ってしまうような事態にも遭遇するかも知れないから、まだ毎日が昨日と同じような何でもない日々の繰り返しだと思っているなら、それはただ自分が退屈な日々を送っているだけで、本当はそうではなくても、明日も今日と同じような体験を繰り返していると予想したくなってしまうのだが、それが嫌なら、毎日が新しい発見の日々を送っているような幻想でも抱いていれば良さそうだが、あえて気まぐれに勘違いなことを述べるなら、何かのタイミングが合わないと知ることができないような世の中の真実が自分の身の回りにも結構あるかも知れないし、それが自分には知らなくても構わないようなことでもあっても、それを知っていてもそんなことはわざわざ述べる必要もないことであっても、何やら日々メディアから伝わってくるニュースな情報の中から、興味を抱いた出来事について語れば暇つぶしにはなりそうだが、別に暇つぶしを求めているような気もしないが、それ以上の価値があるかのように思わせるにはどうすればいいかと思案しているわけでもなく、求めているのは価値でも暇つぶしでもなく、では何なのかというと偶然に巡ってくる機会であり、何が偶然に巡ってくるのかも自分にはよくわかっていないのだが、暇にまかせて求めているのが何なのかを知りたくて、日々メディアから伝わってくるニュースな情報を見聞しているだけでは、偶然に巡ってくる機会を逃しているのかも知れず、だから積極的に自分自身が動き回ってそれを探し回らなければならないと思っているわけでもないのだが、なぜかそれが自分ではなく他人がアメリカの荒野で何かを探し回っているとしても、それを探し回っているユーチューブの動画を眺めている自分が、果たしてそこで見つけられる物事があるのかと思案しているわけでもないのだが、大抵はそれが興味深い何かではなく、それも逆説的な観点からしたらたぶん興味深い何かになるだろうが、なぜそうやって物事をひねくれた視点から見ようとしているのかも自分にはよくわからないにしても、その逆説的な観点というのが未だにうまく説明できないわけで、こう述べている時点でも、すでに何を述べているのか自分でもよくわかっていないし理解不能だが、フィクションの中で展開するありふれた物語の中では、宝探しの大冒険のような話になってしまうのだが、どう見ても実際の冒険はそうではなく、冒険という程度でもないのだが、過去に打ち捨てられたガラクタ以外には宝など何も見つからない動画を観ながら暇をつぶしているわけだから、動画の中で何かを探し回っている他人にしても暇つぶしでそんなことをやっているように見えるわけで、あるいは日本国内や海外のどこかの都市を歩き回って実況しているユーチューバーもただの暇つぶしでそんなことをやっているようにも見えてしまうし、さらに廃車同然の壊れた自動車を探してきて直しているユーチューバーも暇つぶしでそんなことをやっているようにも見えてきて、数万人から多いところでは数十万人のチャンネル登録者がいるわけだから、そんなことをやっていればある程度の収入が得られるのだろうが、それでも昔、テレビのバラエティ番組でお笑い芸人の巧妙なしゃべくりを暇つぶしに眺めていた時代もあったことを考えれば、そんなことの延長上に今があるわけで、それを昔と大して変わらないと感じるならその通りだが、そうやって絶えず時間の無駄遣いを実践しつつも、日々何かを発見しているのかも知れないし、それがほとんど記憶に残らない物事だとしても、日々メディアから伝わってくるニュースな話題とどう違うのかも、あまり気にしていないし、実際に気にするようなことでもないのだが、そこで何かしら競争状態にあることを窺わせるから、荒野探索系ユーチューバーの間でも旅行系ユーチューバーの間でも自動車修理系ユーチューバーの間でも、何やらそれを視聴者獲得競争を繰り広げていると解釈するのも野暮なのだが、またスマホは今でもテレビ芸能人の話題へと人々の関心を引き寄せようとしているのかも知れないし、もうかれこれ何十年もテレビのない生活を送っているのだから、確かにそんなのは自分の知ったことではないのだが、そうやってメディアが人々の関心を収益目的の方面へと誘導している実態をどう思っているわけでもなく、それを肯定も否定もしないとしたらでは何なのかというと、たぶん偶然の発見を求めているのであり、誰がそれを求めているわけでもなくても、何かしらの発見があるから、結果的には自分がそれを求めていることになってしまうのだが、しかも最近の発見で最も驚いたのが何かといえば、神谷宗幣と参政党の躍進であって、他の右派的な世間の風潮も含めて識者の類いが盛んにフェイクファシズムだ何だと連日のように批判しているのに、このままでは大変なことになると警鐘を鳴らしているのに、それが全く歯が立たないどころかかえって事態の進展をより一層、彼らの心理状態では悪化させて、促進しているような成り行きなのだから、なるほどこうやって世の中がある一定の傾向を伴いながら動いているのかと思って感心してしまったのだが、その一方で二十一世紀は確実にアジア・アフリカ・中南米の時代であることも意識してしまうのだが、実際にもインドやナイジェリアやブラジルなどの大都市で起こっているごっちゃ混ぜの混沌状況がまさに人類文明の真実を物語っているようにも感じられて、そんな今や世界の中心地帯となった国々の大都市から溢れ出た人々の一部が、今や辺境地帯でしかない欧米や日本などにも移民となって押し寄せるから、移民排斥運動などの摩擦や軋轢を生じさせているのだろうが、そういう事態の捉え方がひねくれた逆説的な世界の捉え方のようにも感じられるとしても、もしかしたらそれも今から数百年も経ってこの時代を振り返ってみれば、その方がしっくりくるような捉え方なのかも知れないし、実際に現状でもかつてのメソポタミア文明やインダス文明などが荒野と化しているように、欧米なんかも数百年後には荒野となっているかも知れないが、そんなことは欧米や日本に暮らしている裕福な人々の知ったことではなく、今も自分たちが世界の中心地帯で暮らしている気でいるかも知れないが、それが様々な機械に依存した生活インフラの中で暮らしている限りで、その人自身もそれらの機械の部品としての機能や役割しか担っていないとすれば、それを人として扱う必要もないただのシステムでしかなく、何かの機械に付属したいつでも取り替え可能な消耗品としてしか見られていないわけでもないのだろうが、その一方でどこかの発展途上国の生活インフラも満足に整っていない大都市のスラム街で暮らしている貧しい人々はどうなのかというと、果たしてそれこそが現代の人間らしい暮らしだと言えるとは到底思えないが、それもわざとひねくれた視点から眺めてみれば、真の人間と定義されるのはそういう人々のことだと嘘をついてみても構わないのかも知れない。
8月25日「政府の収益性?」
合理的に考えるなら、人や集団の活動の全てを収益化できるわけでもないから、収益化できない活動や収益化しても採算が合わない活動の中で、しかも社会を維持継続して行くのに必要不可欠な活動については、政府が人々から税を強制的に徴収して、それを活動の資金に当てて行なって行くしかないと解釈できそうだが、果たして収益化できるかできないかの基準でそんなことをやっているのかというと、どうもそうではないような気がするわけで、そもそもが収益目的でやるようなことではない場合もありそうで、それが社会の統治そのものであるような気がするわけだが、しかも政府が実質的に統治しているとしても、理念としては人民による人民の統治が民主主義の根本と言えるようなことであるはずだが、果たしてそういうもっともらしく感じられる理念の類いを真に受けて信じても構わないのかというと、そうでもないから疑念を覚えるわけだが、そういう理念とは別に、統治機関である政府が財政的に破綻しそうになっている現実もあるわけだから、そういう方面ではやはり政府の収益性が問題となってきて、果たして政府に民間の企業のような稼ぐ力などあるのかと問うなら、そこでいかにして税収を確保するかが問題となってきて、具体的には国内の産業を育成すると共に、そこから税を徴収するしかやりようがなく、たとえ輸入品に高関税をかけても、それが国内で消費されるのだから、国内の経済から税を徴収していることになるのだろうが、しかし政府が税を徴収することによって稼いでいるなんて、民主主義の理念からは出てこない実態であるから、果たしてそういう現実の捉え方でも構わないのかというと、普通に疑念を覚えるところだが、資本主義市場経済の中で政府も活動しているわけだから、財政収支が黒字化する必要などないにしても、なるべくなら財政赤字の拡大に歯止めがかからなくなってしまうとまずいわけで、少なくとも民間で行われている収益目的の経済活動と政府の活動が地続きである限りは、借りた金は返さなくても良いとかいう貸借の理屈を破綻させるようなことはやれないわけで、何かそういうところで無茶なことをやるのにも限度がありそうで、実際には相当ヤバい財政状況となっているのかも知れないが、資本主義市場経済が破綻しない限りで各国の政府の活動も成り立っていると実態を捉えても構わないかどうかも、本当はそうではないのかも知れないが、財政を破綻させないようにすることも政府による統治には含まれているのだろうから、現状でも各国の政府が財政破綻を回避すべく、財政赤字の削減に取り組んでいる最中なのかも知れないし、そういうところで民主主義の理念とは別の論理が働いているような気がするわけだが、それを単純に考えるなら、民主主義の理念を最優先させて国を統治しようとすれば、過剰な福祉政策によって政府が財政破綻すると考えたくなってしまうのだが、それを過剰な福祉政策とは言わずに何と呼べば良いかといえば、手厚い福祉政策とでも呼べば良さそうで、実際に揺り籠から墓場までとか英国病に関しては言われてきたことなのだろうが、それもそもそもが民主主義の理念を実現させる上でその土台となるのが、他の国々との経済競争を継続させることを前提としているなら、経済競争から脱落した国では民主主義の理念を実現できないことになってしまい、それが現状の資本主義市場経済の実態が示している中身だとすれば、何やら民主主義と資本主義市場経済の関係において理屈の辻褄が合ってきてしまうのだが、要するにゲティスバーグで人民による人民の統治を訴えたリンカーンが、北部の経済発展の邪魔となる南部に戦争で勝利して、アメリカを再度統一することによって民主主義の理念を実現したかったのだとしたら、イギリスにおいては覇権国ではなくなって経済が衰退したから、政府の国民を揺り籠から墓場まで面倒を見るという比喩で表現される手厚い福祉政策がうまく行かなくなって、サッチャー政権による新自由主義的なやり方に政策の舵を切って、結果的にはそれでも経済が好転しなかったから、現状でもそれほどうまくは行っていないのかも知れないが、日本でも人件費の高騰によって製品輸出型の製造業に翳りが出てきて、内需型経済への移行も不動産バブルが崩壊してうまく行かなくなって、IT革命期においては半導体産業の主導権を韓国や台湾や中国に奪われて、またアメリカのGAFAMなどの巨大IT企業にネット経由で消費されるデジタルコンテンツの利益のほとんどを奪われてしまったから、失われた三十年や就職氷河期と呼ばれる期間の中で若者の間で貧困が蔓延した結果として、多くの人々が民主主義の理念を信じられなくなってしまったのかも知れないが、果たしてそんな捉え方で正しいかどうかに関してはあまり自信がないのだが、それもここ数年の間で繰り返された山本太郎とれいわ新選組による消費税のせいで失われた三十年や就職氷河期が起こったとかいう単純化された主張をどうしても信じられなかったので、もちろん彼らもそんな単純な主張ではないだろうが、ここにきてそんな山本太郎とれいわ新選組に代わって、神谷宗幣と参政党が一躍メディアや世間で脚光を浴びるようになってしまったので、なるほどこういう仕掛けでカラクリだったのかと勝手に合点が行ってしまったわけで、合点が行ってもそれらの何をどう理解しているわけでもないのだが、何かお前らこんなんで良かったのかと問いかけたくなってくる感情をグッと抑えながらも、それでも平然と民主主義の理念を掲げて奮闘中の左翼リベラル勢力の人々に向かって何をどう言えばどう問いかければ良いのかも、右派勢力と一緒になって彼らを批判するつもりにもなれないし、どう考えてもそれが大したことでもなく、危機感を抱くようなことでもないのかも知れないし、とりあえずはイギリスでも日本でもアメリカでも中国でも、経済危機という状態ではないというと嘘になってしまうが、政府という機構が資本主義市場経済をコントロールできていないのは昔からそうなのだとしても、実態としては現状で成り立っている資本主義市場経済に合わせた統治機構になるように政府を絶えず改革して行かなければならないだろうが、そんな中でも民主主義の理念を維持できるかどうかが問われているわけでもないということが、民主主義の理念を掲げて奮闘中の左翼リベラル勢力にとっては何やら当てが外れているところかも知れないが、それに対して右派勢力が昔から民主主義の理念を軽視してきた結果として国家主義的な独裁体制の構築を急いでしまって、それがトランプにしてもエルドアンにしてもネタニヤフにしても、それでうまく行っているとは見えないが、そうならざるを得ないところが政府の本質を明らかにしているようにも感じられて、そういう傾向を推し進めて行くと、遠からず中国のような共産党の一党独裁体制に移行するのかというと、そうなる途中の過程の中で事態が進行中だから危機感を抱く人が多いかも知れないが、結局はそこまで行かずに、その途中の過程の中にとどまり続けることが、民主主義と資本主義市場経済の共存を維持継続することにつながるような気がするわけだ。
8月24日「人を導くテクニック」
言語的な動作として人を勧誘したり誘導したりするのによく用いられる言い回しと実際に起こった出来事を結びつけて、何が言われているのかと考えるなら、もちろん実際に起こった出来事を利用して勧誘や誘導が行われているわけだが、例えば何か良くないことが起これば、そらみたことか、俺の言った通りじゃないか、と自慢したいわけでもないのだが、そんなことを言いたければ、前もってそれが起こることを予想したり予測したり予言しておく必要があるわけだが、実際にそれが起こることを予想したり予測したり予言できたんだから、俺の言っていることが正しいわけで、だから俺の言う通りにしろと他人に向かって指図しようとする意図を想像したくなってくるが、しかしそれが無視できない矛盾や二律背反やパラドックスを含んでいるとすれば、では何がそうなのかというと、これから大変なことが起こると警鐘を鳴らすような成り行きになれば、その警鐘を多くの人々が無視するから大変なことが起こって、警鐘を鳴らす人の言うことを聞かないからそうなってしまったことになるが、例えばこれから株価の大暴落が起こるからみんな株を買うなと警鐘を鳴らす人がいれば、みんながその人の言うこと聞いて株を買わなくなってしまえば、本当に株価の大暴落が起こって、そうなれば確かにその人の言った通りのことが起こったことになるだろうが、ではそんな警鐘などみんなで無視すれば、株価の暴落など起こらないかというと、実際にはそんな単純なことではなく、現状でもすでに割高な水準にまで株価が上がっているのに、さらに買い向かっている人がいるから、株価が上がっていて、しかも景気後退の兆しまで出ているのだから、これ以上株価が上がってしまうと遠からず暴落しかねないと警鐘を鳴らす人が出てくるのは、ごく真っ当な成り行きなのだろうし、それでもどこが株価の天井なのかなんて誰にもわからないから、現状で上がっているならまだ上がるんじゃないかと欲深く考えるのも、自然な成り行きであるから、買う余力がある人はまだ買うかも知れないし、その一方でもうこれ以上買うと危ないと考える人は買わないだろうから、人それぞれだと言ってしまうと身も蓋もないが、実際には株の売買に毎日参加せざるを得ない銀行や証券会社や資産運用会社などの機関投資家の思惑や、しかもアルゴリズムで自動売買をやっている割合も大きいだろうから、何とも言えないところかも知れないが、その程度の大小にもよるが、実際に大暴落と言えるような事態が起これば、そらみたことかと思う人も、割高なのに買った奴はざまあみろだと嘲る者も出てくるだろうから、そうなれば警鐘を鳴らした者勝ちな事態となるだろうが、そうすんなりとは単純には行かないことも多くの人たちが承知していて、確かに最終的にはそうなるかも知れないが、そこに至る過程で起こりそうな予測不能な紆余曲折も起こるだろうから、そんな中でもどう立ち回って儲けるかが腕の見せどころだと勘違い気味に思案している者も結構いるかも知れないし、また投機筋などが絶えず空売りのタイミングを狙って仕掛けてきたりもするのだから、実際そうなっているから現状でも市場が活況を呈しているわけだろうが、そういう方面ではそうだとしても、そんな中でも俺の言うことを聞けと暗黙の号令を発してどれほどの人々がそれに従うかも、号令を発した者の権力の強さが結果的に決まってくるかも知れず、例えば著名投資家のバフェットが、絶賛暴落中のユナイテッドヘルスの株を大量に買ったことが明らかになった後から、後追い的に買い向かった個人投資家が大量発生したらしく、最近ユナイテッドヘルスの株が一時的に急騰したが、俺が買った株は上がるからみんな買えと号令を発したわけではなくても、それが暗黙の買いサインだと信じたバフェットの崇拝者がいかに多かったかも明らかになって、それがバフェットの権力というか、人を引き寄せる集客力みたいなものなのかも知れないが、もちろん実態としてはバリュー投資家として知られるバフェットが、ユナイテッドヘルスの株価が割安な水準だと判断したから大量に買ったまでのことなのだが、言語表現としてそんな怪しげなことがもっともらしく言えるわけで、果たしてそんな怪しげな言語表現に騙されるなと警鐘を鳴らす必要があるかどうかも、一見合理的に考えられる物事の成り行きを、そんな成り行きに合わせて怪しげな言語表現を用いて、そこに人を誘惑したり誘導したり勧誘したりする意図があるわけでもないのだが、何やらそこに力があるかのようなことが言えてしまうわけで、その力が言語表現力であって、目的に応じて言語を効果的に用いる力になるのだろうが、それも実質的には言語で表現する対象となる物があったり、何か事が起こらないと言語表現自体が行えないわけだから、もちろんそれも言語表現すること自体が事を起こすことであり、それが書物となれば物として存在することになるわけだが、すでに行為や動作として人が行うことに組み入れられていて、それらを別々に言語表現の対象とする物事と言語表現そのもの自体に分けるわけにも行かないわけだが、結果的に多くの人々がそれに従ってしまうとすれば、それがそれを言語で表現した者に従った結果としてそうなったと言えるかどうかも、何か怪しいような気がするわけで、それも実際には多くの人々が従ってしまう物事の成り行きが起こっていて、それに気づいた者が言語を使って表現して提示すると、結果的にはその者の言う通りの成り行きが起こっているように思われてしまうわけで、だからといってその者の言っている内容が正しから、その者の言うことを聞かなければならないとは言えないし、そこでその者の言っていることを聞かなければならないと思ってしまうことが、その者の言語表現に騙されているわけでも惑わされているわけではないにしても、結果的にはその者の言語表現を用いた誘惑や誘導に従っていることになって、またその者の言語表現力に屈していると言えるようなことかも知れないが、それも実際にはその者の言語表現によって構成された情報など知らない者まで同じような従う動作になっていれば、その者の言語表現の対象となっている物事の成り行きに直接従っているだけなのであって、そんな言語表現などあろうとなかろうと、そんな成り行きに巻き込まれているだけなのかも知れないし、そんな言語表現が情報として伝わってきて、それに接している者だけがおかしな錯覚を覚えているだけなのかも知れないが、そこから他人の言語表現に惑わされないようにするには、何事も直接体験してみないことには判断できないわけでもなく、実際に言語表現の対象となる物事に対して、それと同じ物事を対象とした他の言語表現にも接してみる必要もありそうで、そうやって判断の対象となるのが複数の言語表現となるように持って行ければ、それだけ物事を多面的多角的に捉えることができそうだが、物事に対して一つの言語表現にしか出会えなければ、そんな言語表現を使う者の他の物事に対する言語表現にも接してみてから判断できれば、それも言語表現者を多面的多角的に捉えられるかも知れないが、結局はそれらに対する自らの判断力がどれほどの程度なのかも問われてしまうかも知れず、自身の判断力が浅はかで稚拙な程度なら、何をどう判断してみても、その程度が知れてしまうわけだ。
8月23日「荒野で道に迷うこと」
何となく他とはずれた感覚でいた方が勘違い気味に優越感に浸れるような気がして、わざとずれたことを述べたくなってしまうのだが、それでは単なるひねくれ者の屁理屈話になってしまいそうだが、それに関して何か画期的な見解を持ち合わせているわけでもないのだろうが、ちょっと他人とはひと味違う見解を示してみたいのかも知れず、それも勘違いのなせる業かも知れないが、結果的には他人と大して違わないことを述べているに過ぎないのに、それに気づかないのだから天邪鬼な見解しか示せていないわけで、それが誰かの術中にハマっている証拠となるのかならないのかも、その誰かが神ではないとは思うが、他に何を知っているつもりになれるわけでもなく、知っていることだけを語っているとも思えないが、知らないことまで語れるのかというと、たぶん語っているうちに知らないことまで語ってしまえば、語る行為から知識を得ていることになってしまうが、そんなことがあり得るのかと疑念を抱いているわけでもなく、それを信じているのであり、語ることが信仰に結びついていることになるらしく、そんなのもにわかには信じ難いことだが、それを信じている自覚がなくても、結果的には信じていることになってしまうわけで、それが信仰の恐ろしさであるはずもないとは思うが、たぶんそれも警戒しなければならないことらしく、今さら何を警戒しているのかもよくわかっていないのだが、どういうわけか知らないが今も信じている何かがあって、それが邪魔をして真理にたどり着けないと思っているわけでもないのだが、それが真理かどうかもわからないし、そもそも真理を求めているつもりもないのだが、真理とは何かといっても、世の中には様々な真理があるのかも知れないし、それが必ずどこかに隠されているから探しに行かなければならない理由もないとは思うが、どうもそれが真理を探究するのとは違う行為であるらしく、隠されている真理を探す行為自体が始めから当てが外れているようにも思えるから、それもたぶんそんなことはやらない方が良く、真理が隠されているなら、それを無理に探すようなことはせずに、そのままにしておいた方が無難そうに感じられるから、それを隠しておきたい無意識の意図を察知して、そんな意向には逆らわずに、そのままそこを通り過ぎて、そうなったからといってそこから当てもなく荒野をさすらうようなことにもならなそうで、ただ道に迷っていれば、道に迷うことがそこでの暇つぶしとなって、迷っていても構わないような気もするのだが、道の他に何に迷っているわけでもないなら、すでに迷路から抜け出ていることにもならないかも知れないが、それが何かの比喩として述べていることだとしたら、比喩ではなく具体的に何について語っているのかを知りたいのかも知れないが、そんな意向に反して現状で知り得ることが把握できないことでもあるから、何かそれに関しては意味不明な焦燥感を覚えるのだが、知りたいことが知り得ないのに、語って行くうちに知らないことにまで言及しそうになって、慌てて方向転換を試みるのだが、それでも執拗にそこへと向かうように仕向けられてしまうから、否応なく言及せずにはいられなくなって、世間的に関心のある方面で何か語ろうとするのだが、それを避ける理由もなく、無理に阻もうとしているわけでもないのに、否応なくそれとは違うことを語ってしまい、それが誰の関心ともぶつからないように配慮しているわけでもなくても、気がつけばちゃんとそこをすり抜けていて、うまく立ち回ったような気がするわけだから、意図しなくてもそうせざるを得ないような成り行きに囚われてしまって、それが何なのかと考えてもよくわからないし、わざとそうしているつもりもないのだが、道もない荒野を突き進んでいるわけでもないのに、そこで道に迷っているわけだから、ちゃんとした道があるのに荒野であるはずもなく、ただのアスファルト舗装された道路を車を運転しながら進んでいるに過ぎないのだから、すでにインフラが整えられていることを考慮に入れると、どこかの見知らぬ地方都市で迷子になっているような気がして、そんなユーチューブ動画を観ながら何を考えているわけでもないのだが、それが廃墟探訪のようなありふれた動画ではなく、大してさびれてもいない地方都市でそれなりに大勢の人々が暮らしている実態を知るに至り、それを観たからといって大げさに日本が衰退しただの何だのと騒いでいる識者やジャーナリストの類いに反論したいわけでもなく、ただ実感が湧いてこないのも当然の反応でしかないが、いったい何を基準にして繁栄と衰退の差異を説明できるかもよくわからず、下手をすれば語っている内容がフィクション化してしまいそうで、それを語るのに都合の良さそうな統計的な数値を持ち出してくれば、それがただのフィクションだとしても、正しい認識のように感じられる一方で、果たして現状について語っているのかどうかも、今ひとつ確信が持てないのだが、例えば中国の富裕層の人口が一億人弱いるとしても、それだけでも日本人の九割が富裕層であるようなものなのだから、大したことなのかも知れないし、それでも資産額が二千数百万円程度で富裕層だと言えるかどうかも微妙なところだが、とりあえずは一億人弱の人々が資産額が二千数百万円を超える富裕層に入るらしく、億万長者という基準でもないが、全人口が十四億人もいるのだから当然のことではあるわけで、テスラが七百万円を超える六人乗りの新車を発売しても、四万台の予約注文が数日で入るのも当然といえば当然で、たぶんそんな基準で無理に中国経済の衰退に結びつけようとしても何かおかしいのだが、そういう意味不明なところから中国経済の問題点を指摘するのではなく、政府が主導の経済か民間が主導の経済かで判断すべき場合もあるらしく、そんなことの延長上で、日本でも政治が悪いから経済も悪いんだと早合点してしまう識者やジャーナリストなどの批判的な意見や主張にも結びついてきて、そんな論調を鵜呑みにしてしまうと、時代的な制約から抜け出られなくなってしまうのだろうが、そこでもたぶんそういう制約に気づかないと、それらの意見や主張がもっともらしく思われてしまうのだから、それでも普通は構わないのだが、そういう時代的な制約がある中で、何かその時代の風潮に乗って万人受けするようなもっともらしいことを述べる道を選んでも構わないのかというと、現にそうなっている人たちがその時代のメディアの中で実際に踊っているのであり、踊っているのではなく実際には情報を発信しているのだろうが、それが気に入らないというのだから、ひねくれ者の証しがそういうところから連想されるわけでもないとしても、そこでもそうではないような違和感を伴うようなことを述べてみたいから、そうなってしまうわけでもないのだが、誰でも時代の風潮に違和感を覚える権利があるなどと言いたいわけでもないが、なぜかわざと自身の意図をずらして、権利の有無などというひねくれた表現を使って人を煙に巻きたくなってしまうのかも知れない。
8月22日「穿った見方と勘違い」
この世界できりがないのは、次から次へと出てくる似たようなキャラ被りな者たちの言動かも知れないが、それらの人物たちを一括りにまとめてキャラ被りだと見なしてみても、彼らが人を馬鹿にしたような言い回しで何を言いたいのかと考えても、そんなこれ見よがしにわざと批判の矢面に立ちたくてうずうずしている者たちを何やら良心的な左翼リベラル勢力に批判させて、そちらへと人々の関心を引きつけておいて、その裏で実質的な事態の進展を図りたいという意図が見え見えというわけでもないのだが、そういう成り行きを考えるなら、参政党を左翼勢力による批判の矢面に立たせている間に、国民民主党などが漁夫の利を得られるような算段なのかと穿った見方をしたくなってしまうのだが、それが全くの勘違いで単なる誤解に過ぎないとしたら、では他にどんな成り行きを想像できるのかと、誰に向かって問いたくなってくるわけでもないのだが、ありふれたことを想像するなら、もっと複雑怪奇に錯綜した紆余曲折が待ち受けていれば、そこに介入してくる誰の意図や思惑からもどんな勢力の意向からも外れるような成り行きになってしまった方が、より良い結果へと近づきそうに思われるのだが、それが誰にとって都合が良いとも言えないような意味不明な結果になれば、なぜそれがより良い結果なのかも謎だが、そんなふうにして事態が落ち着くと、そうなった時点で見えてくる何かがあるかも知れないと漠然と思っているわけではなく、それも嘘をついていることになってしまうだろうが、そんな中でも何かを画策している勢力がいるらしいのだが、それが何なのかといっても、SNSなどで適当にいい加減に言われている程度ことなのだから、それが全く信用できないわけでもないのだが、たぶんそういう政治的な方面で繰り広げられる陰謀論的な政争劇の類いに関心を奪われていれば、それで済んでしまうようなことになって、そんなふうに事態を誤解している自らもお気楽な傍観者の立場でいられるのかも知れず、そうなれば相変わらずわかっていないのはお互い様のようだが、少なくとももっともらしく誰もが信用できそうなことを周囲のコンセンサスを得ながら推し進めるのではなく、そうはならないことを前提として無理そうなことを周囲の反対を押し切ってでも強引にやらなければならない成り行きになってしまうわけで、そんなヤバそうなことをやろうとするから強権的な独裁体制にならざるを得ないわけだが、そんなふうに危機的な政治経済情勢が強権的な独裁体制をもたらすと結果的に言えるとしても、逆に強権的な独裁体制が危機的な政治経済情勢をもたらすとも言えるから、経済が行き詰まれば政治も行き詰まると共に、それによって強権的なこともやれるようになれるから、ピンチはチャンスだと言えばその通りで、鶏が先か卵が先かと問いたくなってしまうのだが、鶏から卵が生まれる一方で、卵からも鶏が生まれるのであり、そういうことが問題なのではなく、果たして強権的な独裁体制が必要なのかと問われるわけでもなく、無理なことを強引にやろうとするから自然とそうなってしまうということであって、そんなことをやる必要があるのかと問うなら、現状でもアメリカのトランプ政権やロシアのプーチン政権を見れば、どう見ても無理なことを強引にやっているように見えるわけで、ああいうことをやる成り行きがいつの時代でも定期的に巡ってくると考えてしまうと、それも全くの誤解であり勘違いなのかも知れないし、定期的に巡ってくるという錯覚が、周期的に何年かごとに巡ってくるわけでもないにしても、結果的にそんな事態に直面してみると、何かそこに周期性があるように感じられてしまい、それが何年周期なのかと考えてしまう人も出てくるだろうが、そこでもそういうことが問題なのではなく、日本でも第二次安倍政権において強引にアベノミクスと呼ばれる異次元金融緩和をやってしまったから、今の日本の現状がありそうに感じられるのだが、そこだけを切り取って強調してみればその通りだと感じられることは確かなのだが、今の日本の現状が危機的な状態なのかというと、ちょっと違うだろうし、むしろ強引に危機感を煽り立てている政治勢力のポピュリズム的な政治宣伝が空回りしているようにも感じられて、その一方で現状の石破政権が強権的な独裁政権とは真逆な状態だから、そんな情けない体たらくをどこまで許容できるかが試されていると言えそうな感じもしてくるから、何やら結果的にうまく問題を先送りにしつつも軽くいなしているわけで、問題に真正面から立ち向かう姿勢ではないと受け止めておいても構わないが、それの何が問題なのかといっても、それがメディアから伝わってくる識者の見解や意見でも参考にしておけば済んでしまう程度のことであって、本気になって深刻に受け止めるべきことでもないとたかを括っていれば、気づかないうちに政治経済的な難所を通り過ぎているのかも知れず、それが難所だとも気づかなければ、そんなお気楽な立場や境遇であって、そんな立場や境遇から政治批判が生じてくるわけでもないのだろうが、それが空気のような空っぽな感覚なら、この時代の雰囲気を感じ取っているのかも知れないが、そういう感覚とは違ってイスラエルのネタニヤフ政権が何とかしてガザ地区からパレスチナ人を追い出そうと躍起になっているようにも見えるわけだが、それもそう見えるだけで、実質を伴っていないと考えるなら、何が問題なのかというと、それとは何の関係もない部外者が考えるようなことではなく、ガザ地区を観光地化するという奇想天外な構想をぶち上げたトランプが問題なのでもなく、それも結果的に多くの犠牲者を出しながらも問題が先送りにされるのを阻止して、何とかしてここで決着をつけようとしているから、それが強引で強権的な蛮行となっているわけで、なぜか決着とは違う成り行きに逆らえば逆らうほど泥沼にハマってしまい、果たして本当に決着がつけられるのかどうか疑念を抱くなら、それもたぶん決着からは程遠い何らかの状態がもたらされることによって、決着をつけようとして強引な行為に及んだ勢力が挫折してしまい、そうなればしめたものだと誰も思わないだろうが、結果的にはうまく破局的な事態を回避できたことになるのかも知れず、もちろん多大な犠牲を伴ってそうなるわけだから、状況がさらに悪化したと誰もが思うだろうが、それもそうならないと事態が進展しないわけで、事態を進展させるには強権的な行為が行われた上で、それがうまくいかないことがはっきりしないと、事態がその先へと進展しないと言えそうだが、そうなってもそれをやっている側では決着がついたと断言できるかも知れないし、実態はそうではなくても強引に決着がついたと言い放って事態の収拾を図ろうとするかも知れないが、状況証拠的にはそうであっても、必ずそこには禍根が残っているから、後から忘れた頃に思わぬところからそれが利いてきて、何かがそこから再開されると予言しておくのが無難なところかも知れない。
8月21日「循環論法と損得勘定」
立憲主義や法治主義がどこで破綻するのかと言えば、枝野幸男が言っているように法を骨抜きにされたり形骸化されてしまうと、有名無実なものとなってしまうだろうが、では法を守らせるには権力が必要であり、その権力は法によって付与されて裏付けられていると循環論法のようなことを述べてしまうと、人を煙に巻いていることになってしまうし、最終的には警察や軍隊を用いた武力や暴力による威嚇や実力行使があるから、人は法に従わざるを得ないし、その背後にいる政府の官僚機構に従わざるを得ないと結論づけても、では武力や暴力が最強なのかというと、武力や暴力を行使するか否かを誰が決めるのかが、権力の配分が三権分立のような形態になっていても、最終的に決めるのは損得勘定だと考えてみても、何かその先があるような気がしてしまうのだが、法に従うか逆らうかも損得勘定による場合もありそうだが、中には義理人情が介在してくることもあるだろうし、法そのものがその場の状況や情勢次第で従うよりも破った方が良さそうに感じられる場合もありそうだが、法もいろいろな方面で複雑に絡み合ってくるから、ある法には従っておいた方が良くても別の法には従わない方が良さそうに思われる場合もあるかも知れず、また法に従うか逆らうかの判断などできない場合もありそうで、人の意志や意思がどうであっても否応なく法に従わざるを得なかったり、気づかないうちになし崩し的に違法行為に及んでいたりする場合もありそうだが、それが個人の損得勘定であるだけでなく、社会や国家や世界や人類の損得まで考えてしまうと、それこそが個人の妄想になってしまうが、一概に公共の利益のために行動できるかと考えてみることと、それが例えば日本人の利益のために行動することとどう違うのかと考えてみたりすれば、何やらそこに決定的な違いがあるかのように勘違いしてしまうが、何よりも日本人の利益を最優先するように法整備しなければならないと考えてみても、そうすることがかえって日本人の利益を損なう結果まで想像しそうになってしまうのだが、法というのは万人の利益を考えて法整備しないと、法そのものに矛盾してしまうことになりかねず、特定の人種民族国家宗派性別などを有利にしたり優先したものにしてしまうこと自体が法に反する法になってしまうのかも知れないが、大抵は法治主義よりも立憲主義を上において、憲法こそが最も上に位置していて、憲法によって権力者を縛り、国民の権利を保障するものにしなければならないと理想論を掲げておけば、何やらそれで辻褄が合うかのように考えたくなってしまうのだが、それに対して古くは王権神授説などのように、王の権力は神から授かったものであるから、神以外の何ものにも侵害されてはならないとか、そんな屁理屈は今のご時世では通用しないだろうが、憲法だろうが何だろうが言語的な規定に過ぎないのだろうから、その内容を信じるか信じないかはあなた次第だと言われてみればその通りのような気がしてしまうのだが、そこからすぐに最終的には武力や暴力の強さによって決まるとか、何をどうやれば有利になるか不利になるかの損得勘定によって最終的には決まるとか、そんなことを言い出したらきりがなく、それもその時点での情勢や状況を踏まえた上で言えるようなことになってしまいそうだが、いくらちゃぶ台返しのような論法で問題を蒸し返してみても、実際にその場その時にどう動くかであって、そこで何を優先させて行動や言動に打って出るようなことになれば、何かそこでそうやって動いた成否から結果の良し悪しが言えるようなことにもなりそうなのだが、何やらそこで判断停止して動かない選択肢もあるなら、さらに事態がこんがらがってきそうだが、結局は暫定的にルールを法として定めて、それがその場に関与してくる人や団体が納得できるような妥協できるような内容でないと、実際に守ってくれないし、従ってくれないことになってしまうから、その場の状況や情勢の変化に合わせて許容できる範囲内でルールや法を変更するような成り行きにもなるだろうが、そういう意味ではどのように法を変更するかでも、その場の利害関係から権力争いのような事態が生じているわけで、その際には法の変更を言い出す者や勢力に有利になるような法にしたいという意図や思惑が働いているから、そんな成り行きには警戒しなければならないと共に、もちろんあからさまに損得勘定を持ち出すようなことはしないし、それでは法を変更するための大義が成り立たないし、他の者たちや勢力から支持や賛同を得られるような法を変更する理由や根拠の正当性や正義を主張することになりそうだが、それが目眩しにもなっていないひどい理由や根拠であるなら、ごまかしが利かないのを公然と自ら認めているような感じなのかも知れないし、会議などで賛同者を募って数の暴力に頼って強引に変更しようとする意図が見え見えだと、何だか知性に欠けるやり方のように思われてしまうのだが、そういう光景が日本の国会の憲法審議会などで見受けられていたり、アメリカでもトランプが強引に政府債務を増加させる減税法案を上下両院で通してしまって、イーロン・マスクが反発していたが、国会の選択的夫婦別姓法案の審議でも屁理屈のような反対意見を正々堂々と述べている議員が所属する政党の支持率が高いことを民度の低さの表れだと嘆くリベラルな人たちの思いをどう受け止めれば良いかといっても、そういう方面ではそうだとしてもそれが政党の支持率には直結しないと認識しておくぐらいが無難なところだろうが、そうなってしまうのがその場の状況や情勢なのであって、そこだけに判断や評価の対象や基準があるわけではなく、他にも様々な方面でも物事が動いている中で、それらをまとめて総合的に判断しているわけでもなく、世の中で様々な立場や境遇の人々が各々にその場の状況や情勢に意識や心理を左右されながら、その時々で優先させていたり無視していたり考慮に入れていたり入れなかったりしている物事の判断がある中で、そんな中でも世論調査が行われて、人々の多数意見や願望の最大公約数的な傾向が出力されてくるのだろうが、それがそういう結果として明らかにされているからといって、それを自身の判断や評価とは違うからといって批判的に受け止めたくなるのはいつのもことだとしても、逆に世の中の多数意見や最大公約数的な傾向とは自身の意見や価値観が違うからといって、それによって多数派とは違う自身の正しさを確信するようなことになってしまうと、知的なスノビズムや選民思想のような優越感に浸れるかも知れないが、それこそが典型的な勘違いのような気がして、誰もがみんなお前ら一般大衆とは違って俺は特別な存在なんだと思いたいし、何かしらちょっとした差異を強調して自分だけで優越感に浸りたくなってしまうのが、大衆市民社会の中にいる典型的な一般大衆に特有の大衆的な願望なのだと思ってしまうのも、それも逆にそんな奴の存在を想像しながら見下して優越感に浸っている証拠となって、そういうのはどこまで行っても循環論法の罠にハマっている証拠となってしまうのだが、要するにどうやってもそこから心身が抜け出せないのが大衆市民社会の恐ろしいところだと思っておくぐらいが無難なのではないか。
8月20日「主義主張と過程の隔たり」
それとこれとが頭の中でうまく結びつかないことが、かえってそうなっている方が考えていることの辻褄が合うような気がするとしたら、何か勘違いしているのかも知れないが、そもそもそれとこれとが何なのかもよくわかっていないような気もするから、最近は自分でも何を考えているのか把握できなくなってきて、頭の中がこんがらがっているようで、うまく自らの思考内容を文章として出力できていないような気もしているのだが、少なくとも現状で起こっていることやこれまでに起こってきたことを辻褄が合うように説明しようとしていること自体が、何か自分が信じているつもりのイデオロギーに落とし込んで説明しようとしていることになってしまうと、その信じているつもりのイデオロギーが他の多くの人々と共有できるようなありふれた何かである限りで、それを特定の集団が抱く共同幻想だと批判しても、何か違うのかも知れないが、そういう〇〇主義の類いの中で新自由主義が自分の中では割と肯定的に受け止めている主義かも知れないが、それも他で批判されている内容に逆らって肯定しているような代物だから、自分なりに勝手にその意味を曲解している可能性も高いわけで、誰もが信用できるようなものでもないのかも知れないが、その自分なりに考えている新自由主義の肝と言えるような傾向が何なのかというと、絶えず人の思考の成り行きから錯覚されることが、時間的な順序から言えそうなことで、その出来事が因果律のような理屈に支配されていると思い込んでいる自覚がなくても、思考作用そのものの特性としてそうなってしまうようなことかも知れず、それを簡単に言うなら、何かが起これば、それが起こった原因や理由があるはずだと思い込むことになるわけだが、それが全くないとは言えないし、実際に信じられそうなもっともらしい原因や理由が特定できるなら、それが起こった原因があったり、それが起こった理由をもっともらしく説明できるわけだが、それも〇〇のせいでこうなったとか、〇〇が原因でこうなったとか、こうなった理由は〇〇だとか、そうなる成り行きを考慮に入れるなら、単純にそうだとは言えないようなことが世の中ではいくらでも起こっているような気がするとしても、メディア上で言われている内容を真に受けてしまうと、それも言っている人物を信用してしまうと、その人物がその起こったことに直接関与しているわけでもなくても信用してしまうようなことにもなってしまうのだが、その人が熱心に熱っぽく真摯な態度で何か主張しているように見えてしまうと、言っている内容も信用できるような気がしてしまう場合もありそうだが、その人物があからさまな詐欺師には見えないだろうし、その人物の演技に騙されているなんて、普通はそうは思わないとしても、そこで理性を働かせることができるか、その場の雰囲気に呑まれて感情に押し流されてしまうかの二者択一を迫られているとも思えないし、何か悲惨で深刻な事態が起こった結果として人権思想や人道主義がもっともらしく唱えられるようになったとしても、そうなる成り行きの中ではまだそれが悲惨で深刻な事態になるとは思われない場合もありそうだし、それを途中の段階でそうなることを予想して、そんなことはやめた方が良いとかやめるべきだと警告するようなことにもなりそうだが、それがいったんやり始めたら後戻りが利かない成り行きであれば、そんな警告は無視されてしまうのだろうが、そういう成り行きの過程や途中経過の中で出てくる紆余曲折と、結果として出てくるもっともらしい主義主張との間に説明困難な食い違いというか、齟齬が出てくるなら、果たして結果として出てくるもっともらしい主義主張を信じられるかというと、その途中経過を知らない人には信じられるかも知れないし、都合の悪いことは結果から説明される言説の中では意図しなくても省かれたり無視される傾向があるから、説明だけを聞いてそれをもっともらしく好意的に受け止めている人には知りようのないことなのだとしても、そういうところで神谷宗幣や山本太郎などの街頭演説を真に受けてしまっても、それはそういうことだと受け止めておくぐらいが無難なところなのかも知れないが、では結果ではなく途中経過や過程を重視すべきだなんて単純には言えないし、それに関して何かを言えば、それがその時点での暫定的な結果から言えることである限りで、やはり結果からそのことの良し悪しを言っているのが大抵の言説になってしまうわけで、それをそうではないなんて言えないだろうから、やはりそれはそういうことだと受け止めておくしかないのだが、それを新自由主義的な論理や理屈から説明するなら、結果的に利益を独占する大企業が生じてしまうから資本主義市場経済は駄目なんだとか、結果的に独裁者が現れて権力を独占してしまうから民主主義に基づいた政治制度は駄目なんだと結果論からそんなことを主張すれば何かそれがもっともらしく感じられるのだが、そういう語り方のバリエーションとして神谷宗幣や山本太郎などのポピュリズム的な主張が煽り立てられていると考えれば、それで納得できるかどうかも微妙なところかも知れないし、神谷宗幣と山本太郎を同レベルで扱ってしまうことが許されないところかも知れないが、それに対して資本主義市場経済を維持しながらも、大企業による利益の独占にもある程度の歯止めをかけるとか、民主主義に基づいた政治制度を維持しながらも、民衆が機転を利かせて独裁者や独裁政党が現れないように選挙で投票するとか、そういう成り行きの中で現状の政治や経済のシステムが保たれていると考えるしかなく、そんな中でも一方的に振り切れた主張や意見を述べてしまう者が必ず出てきて、そんな主張や意見に世間的な人気が出てしまうとまずいと思うなら、それに歯止めをかけるようなことを述べなければならないと誰が思うわけでもなくても、自然とそうなるような成り行きに持って行かないと世の中がうまく回って行かないような気もするのだが、実際に山本太郎やれいわ新選組にちょっと人気が出てきた後から神谷宗幣や参政党にそれ以上の人気が出てきてみれば、なるほど一般大衆が求めていたのはこんな傾向なのかと合点が行ったような気がしたのだが、そこからどちらが本物でどちらがまがい物なのかと二者択一を迫るような成り行きになってしまうのは残酷なことだが、二者択一を迫ってしまう者たちもまがい物に含まれるだろうから、あえて嘘をつくなら神谷宗幣や参政党の政治家たちに本物のポピュリストの雰囲気を感じ取ってしまう一方で、山本太郎やれいわ新選組の政治家にはアマチュアのポピュリズムの雰囲気を感じ取ったと述べたくなってくるのだが、そうなると世間から馬鹿にされている立憲民主党の政治家などはどうなのかというと、アマチュアのリベラリズムの香りがするわけで、そしてそれらの政治家たちを馬鹿にする人々が何を望んでいるのかと言えば、国家間の力関係や国益を重視して軍事力や安全保障を優先するリアルポリティクスやパワーポリティクスの実現を望んでいるのかも知れないが、そういうのはアメリカや中国などの大国が実現可能な国家であって、日本の現状から考えればないものねだりなのかも知れない。
8月19日「固定観念の応用問題」
単純な紋切り型の固定観念を信じてしまうことの何が問題なのかと考えてみても、信じているのではなく信じているふりを装いながら宣伝や攻撃に利用している実態がありそうだが、そんなのはわかりきったことだとしても、それに関して例えばファシズムと共産主義のつながりから何が言えるかというと、知っている範囲内から考えるなら、元祖ファシストのムッソリーニはスイスで亡命中の革命家のレーニンの秘書から共産主義を学んだそうだが、それに対してヒトラーはでっちあげた国会議事堂の放火事件が共産党の仕業だと濡れ衣を着せて、それを国家非常事態宣言に利用して国の全権を掌握したらしいのだが、だいたいファシストというのは元共産主義者だと相場が決まっているわけでもないのだが、ナチスという政党も正式名称が国民社会主義労働者党であるから、左翼政党を装って支持の拡大を図ろうとしていた思惑があり、そういうところはれいわ新選組なんかが似ているところだが、その一方で参政党の神谷宗幣が共産主義の怖さを訴えて支持の拡大を図ろうとしているところでも、何やらマルクスとエンゲルスが労働者と資本家をぶつけて対立を煽ろうとしていたと訴えかけている動画を、その部分だけちょっと見たが、だいたいマルクスはその生涯の大半が労働者ではなく無職であったのだろうし、エンゲルスに至っては工場の経営者で無職のマルクスを経済的な面で支えていたのだろうから、資本家だったわけで、二人とも建前上は労働者の味方だったとしても、労働者として働いていたわけでもないし、その辺に落差を感じてしまうのだが、ハンナ・アーレントがヒトラーとスターリンを全体主義者として同じカテゴリーに入れて、ハイエクがニューディール政策をヒトラーやスターリンがやっていたことと同一視しているような発言を読んだ時、ああなるほど、要するにヒトラーとスターリンはルーズベルトの真似をして国家事業を推し進めて、そんなスターリンの国家事業の真似をして毛沢東が大躍進政策をやって大失敗して、数千万人の犠牲者を出して、一時的に権力を失ったのだが、そこで中国が一時的に新自由主義的な自由化政策をやってある程度は経済が立ち直ったものだから、それに危機感を覚えた毛沢東が猛烈な巻き返しを画策して実行したのが文化大革命であって、それがさらにひどい事態となったのだろうが、そういうことと同時並行してスターリン的な国家事業を真似たのが北朝鮮やカンボジアのポルポト派などだとしても、全ての大本はルーズベルトのニューディール政策だったのかと思ったものだが、それも元を辿れば、自由貿易を推進する覇権国のイギリスから国益を守るために輸入品に高額な関税をかけて自国の産業を守ることによって台頭してきたアメリカやドイツなどの当時の新興国の中でも、プロイセン=ドイツ帝国のやり方が、明治維新後の日本も見習ってきたことでもあるし、そういうところから政府が公共事業などによって直接産業振興に乗り出すやり方が編み出されてきて、それが民主主義を抑圧する国家社会主義的なやり方へと進化して、現代の中国などにも継承されているのだろうが、そういう歴史の流れを知れば、現代のファシストである神谷宗幣などがこれ見よがしに共産主義の恐怖を煽るようなことを街頭で訴えかけている動画をちょっと見ても、ああまたいつもの調子でやっているな(笑)としか感じないのだが、訴えかけている内容がもう何十年も前から同じようにやっていることだから、嘘も千回つけば本当になるとか、そういうことでもないような気はするのだが、それも百パーセント嘘だとは言えないようなことだから、冗談半分嘘半分なことを訴えかけているんだろうなとしか感じないし、あまり興味がないからその全ては見ないし、ちょっとだけそれを批判する動画で拝見しているに過ぎないのだが、たぶんそういうところに物事の本質があるとは思えないし、最近の世論調査でも参政党の支持率が割と高いわけだから、支持者が嘘に騙されているわけではなく、騙されているふりをしながら、弱い者いじめのようにして外国人や共産党などの少数派を攻撃したい人たちが日本にはまだ大勢いると理解しておくのが無難な気がしてしまうのだが、だからといってそんなことをやっている人たちが悪いとか批判する気も起こらないし、何かの気晴らしでそうなっていることなのだから、それも割と軽い感覚でそんなふうになっていることでもあるだろうから、そんな人たちが左翼やリベラルを攻撃して鬱憤を晴らしているうちに、彼らが目を向けない方面でうまく何かの事態が進行中でもあるわけで、それはれいわの山本太郎がいきなり消費税の廃止を訴えた際にも衝撃を受けたのだが、こいつは原発反対派だったのに、なんで今さら消費税を問題視するのかと疑念を抱いたのだが、それに関して最近のAI革命が世界的に進展していることから類推してみれば、そういえばこいつはAI革命の前のIT革命には全く触れずに、日本の失われた三十年を自民党政権の失政のせいにしていて、IT革命の中で日本の産業が韓国や台湾や中国やアメリカとの競争に負けて衰退したことから目を背けることによって、自民党政権が悪いんだ消費税が悪いんだと主張できるのかという結論に至っても構わないかどうかも、あまり自信がないのだが、そんなことの延長上で、最近は山本太郎の真似をしているわけでもないのだろうし、その自覚もなさそうなのだが、今度は神谷宗幣が人々をIT革命に続いてAI革命においても日本の産業が主導権を握っていないことから目を背けさせるために、やれ外国人が悪いんだ共産党が悪いんだGHQだの日教組だのが日本衰退の原因だとか言っているのかどうかも、その種の動画をほとんど見ていないので何とも言えないのだが、だいたいがプロイセン=ドイツ帝国を真似てうまく行った程度のことなのだから、またアメリカとの戦争に負けた後は、占領軍のGHQの中で左翼リベラル的な勢力が機転を利かせて、民主的な憲法制定を後押ししてそれなりに西欧の民主的な国々の仲間入りができたわけだから、国家としてはそれなりにうまく立ち回っていると見られても、そんなことの範疇に入りそうな現状だろうし、だからそんな現状の中でも参政党が世論調査でそれなりに高い支持率であるのも、世界的に右派的な政治勢力が優勢な事態を反映しているに過ぎないことであって、そうなっているのをそれほど深刻な事態だと憂うようなことだとも感じていないが、例えばドイツのAfDやイギリスにも似たような新興の右派政党が台頭してきていることが、参政党の躍進とパラレルな成り行きなのだろうから、そういうことの延長上で今後も政治情勢が世界的に推移して行くだろうから、そういう一時的な右への振り切れ具合から、もう二度と左翼リベラル勢力が国民の支持を得られることはないとは思わないが、左翼リベラル勢力の方でも危機感を募らせて事に当たらないとまずいだろうし、何かしら仕掛けてくるのかも知れないが、たぶんそれもIT革命やAI革命において負け組の日本の現状の中では、そんなにうまく行かなくても構わないようなことなのかも知れない。
8月18日「無関心の無関係」
この世界で誰が何に関心を持っていようと、そんな誰かとは全くの無関係であれば知ったことではなさそうだが、稀にその関心から関係が生じる場合もあるかも知れないし、関心を持っているのが同じ対象なら、ひょっとしたらそこから縁が生じる場合もありそうだが、実際に縁があるのかないのか定かではなく、縁があろうがなかろうが今のところは知ったことではなければ、知り合いでも何でもない限りで無視していれば済みそうだが、それでも何かの拍子にそれについて何か語るような成り行きになってしまうと、語っている内容が被ってしまって面倒な事態になっているとも思えないが、できればそういう成り行きは避けた方が良さそうな気がして、実際にそれを避けているのに、それでも関心を持っていることについて何か語りたくなってくるなら、そんな成り行きに身をまかせて、それについて語るしかなさそうだが、しかし何について語っているのか自分でもわかっていないと、意識してそれについて語っているわけでもないのに、勝手にそう思い込んで、それが勘違いのように思われてきて、それなら語っている内容が被っているなんて言えないような気もしてくるから、これまで通りに無視して気にしなければ済むはずだが、それがおかしいような気がしてくるわけでもなく、そうなっていること自体が、それがどうにも避けようのないことになりそうなのだが、粘着質というわけでもないのに、成り行き上はそうなってしまって、それが何でもないというわけでもなさそうにも感じられる限りで、何か今後は無視できないような成り行きになりそうで、だからといって無視しているわけでもないのに無視していることにしておかないとまずいわけでもないのだが、何だかそれが微妙におかしいのかも知れず、何がおかしいのかもそれ自体を語れないのがおかしいのだが、それを語ってしまってはまずいような気もするから、とりあえずはなるべく語らないように心がけるしかないが、たぶん実際にそれを語らずに済ませてきたのだから、これからもそういうことで構わないと思っていて、それを避けながらもそれについて語らなければならないのだから、いったい何について語っているのか自分でもわけがわからないのだが、あえて無関心を装う理由が何なのかも皆目見当がつかないわけでもないから、それが何だかわかっていながら、わかっていないように語る必要もないのだが、それも成り行き上はそうならざるを得ないのが心苦しいところかも知れないが、自らが何かのまがい物であることも肝に銘じて、そのまがい物の対象が何なのかを見極める必要もありそうに思われるから、まがい物なりの思考を働かせて、まがい物ではない本物が思考の対象とはなっていないことも確かめなければならないとしたら、果たしてそれをどうやって確かめれば良いのかと思案しているのかも知れないが、確かめようのないことだとあきらめてしまっても構わないのかも知れず、そうやって本物が何なのかも確かめられないことを確認してから、まがい物のジャーナリズムの内容が昔から一貫してそうだったことも確かめられるなら、そういうことだと思っておいても構わないのだろうが、それが今や存続の危機に陥っているとか、そういうことではないような気もするわけで、昔からそうだったのだから今後もそうであり続けるしかないとあきらめてしまっても構わないにしても、当人たちはまだあきらめてはいないわけだから、そのまま放置されるしかないだろうし、それとは無関係な自分の知ったことでもないのだから、それで済んでしまうようなことでしかなく、イーロン・マスクが述べているように、一般市民がジャーナリズムに取って代わって情報発信して行けば、それが今後の主流となりそうだが、それは今も昔も主流を形成しているらしく、SNSレベルではそれで構わないようなことなのだろうが、そうなると何がまがい物でもなく、本物とまがい物の区別もつかなくなってしまうのだろうし、そういう成り行きに持って行こうとしているわけだが、誰が持って行こうとしているわけでもないとしたら、世の中に蔓延している集団意識がそういう傾向に振れていそうなのだが、それとは別の傾向へと持って行きたい思惑を誰が抱いているとも知らないし、そんなのは知りようのないことだろうから、確かに誰の知ったことでもないのだが、そうなれば差し障りのない方面へと批判の矛先を向けながらも、それがまがい物のジャーナリズムが意図する方面だとしても、そんな成り行きにもあえて逆らう必要さえないような事態が待ち受けていて、みんなで一緒になって、そのみんなというのが批判の標的となっている人々であることも考慮に入れておかなければならないとしても、それが自業自得でそうなっているのだから、誰がそれを教えてくれるわけでもなく、誰ともなくわかってしまうようなことでもないとしたら、それもそのままになってしまうのだろうから、そのままの状態で放置されていればそれで済んでしまうようなことにもなりかねないが、そうなっている状態が現状だとすれば、憂うべき状態だと言えるのかも知れないが、誰がそれを憂うわけでもなく、無理に憂国の士を気取る必要もないことであって、それが間違っているとは言えないが、間違っていても構わないようなことでもあるから、誰がそうなってしまっても放っておかれるしかないだろうし、実際に放っておかれている現状があるらしいのだが、果たして放っておかれている現状の中でうまく立ち回っているつもりになれるかというと、何かしら文句を言われてみないとわからないことがあるらしく、実際に文句を言われている人たちにとってはありがた迷惑なことかも知れないが、彼らにしてはかまってほしいのだろうから、誰かが気を利かせてかまってやればそれで気が済んでしまうわけで、その程度で気が済むならその程度で済んでしまい、実際にもその程度で済んでいる現状があるわけだから、ちょっとだけあちらの方面にも関心があるようなふりをしておきながらも、実質的には無視の対象にもなってしまうわけだから、それはそれで気の毒なことなのかも知れないが、それも当人たちの自業自得だと思っておいても構わないだろうが、その気になってそう思うわけでもなく、その気にならなくても遠からずそうなってしまうわけだから、そうなってしまう者たちにもご苦労さんとねぎらいの言葉でも投げかけておいても構わないかというと、それもありがた迷惑なことかも知れず、だから無視して無関心を装っておくのが無難な態度のような気がするのだが、彼らがどうなろうと知ったことではないとは思えないわけで、だからせめてその場の状況に丸め込まれてしまっても見捨てずにいようとは思うのだが、実質的にも誰に見捨てられているわけでもないのだから、心配しても余計なお世話なのかも知れないし、放っておくのがせめてもの配慮だと思っておくぐらいが無難なところなのだが、それほど落ちぶれているとも見えないし、落ちぶれてほしいと周囲からは思われているのに、なぜかそうはならないような気がするわけで、そう思っている者たちの方が結構数年後には忘却の彼方の存在となっているような気もするわけだ。
8月17日「語る見る考える」
語るのに都合が良い方面から都合が悪い方面へと目を向けてみると何が見えてくるのかと考えてみれば、見るのではなくそれを考えていることに気づくわけでもなく、語ることと見ることと考えることがごっちゃになっているわけではないのだが、実際には何かを書き記しているつもりが、直接にはPCのキーボードを叩いていることになるらしいのだが、PCというよりはMacだと表現した方が格好がつくかも知れないし、お前はPC派ではなくMac派なのかと古き良き時代の差別主義者のような言われ方をすることもない時代なのかも知れないが、それが古き良き時代ではなく、古き悪しき時代だなんて貶されるわけでもなく、今やPCとMacの区別なんてどうでもいいことだろうが、それが都合の良し悪しとは違う価値基準から何を判断しているわけではなくても、パソコンなら何でも構わないかも知れないが、スマホだと三万数千円の安い国産スマホなんか買わずに二十数万円もするもっとも高いiPhoneなんかを買うとなると、金持ちなら躊躇なく買うのだろうが、六万数千円の中国製のスマホを使っている身からすればあり得ないことになりそうで、そんな自分がなぜか数年前に二万数千円の中古のPCと三十数万円のiMacを買って、主にiMacを使っているのだから何か矛盾しているわけで、二万数千円の中古のPCの方は動作が遅いし、デスクトップの外観が慣れないというのもありそうだが、その辺の価値観が自分にはうまく説明できないのだから、何だかおかしいような気がするのだが、言葉ではうまく説明できない感覚もありそうで、同じMacでも十数年前に買ったMacBookはハードディスクをSSDに換えてOSをリナックスに換えてまだ使っているわけだから、何だかそれもおかしな成り行きで、やっていることにこれといって統一感がないような首尾一貫性に欠けていそうなのだが、パソコンなんかiMac一台で間に合っているのに、故障などのいざという時に備えて、中古の安いPCと使い古しのMacBookを捨てられないのだから、理由としてはそういうことなのだが、パソコンで何をやっているのかといっても、年がら年中ネットから情報を得て何かしらこうして文章を構成しているだけなのだから、他に取り立てて何をやっているわけでもないとしたら、何でもないことのように感じてしまうのだが、コロナ禍の株価暴落から半年ぐらい経ってから、なぜかその場の気まぐれで株の売買をやり始めてしまったのだから、今も何かの片手間で継続中なのかも知れないが、それもどうしたわけでもないとは言えないが、経済に関して金融方面の仕組みなどがよくわかっていなかったから、実際に自分で株取引なんかをやってみればわかってくることがあるのではないかと考えて、素人なりに株の売買を体験したみたわけが、それもあまり深みにのめり込まない程度にやっていることだから、実質的にはやっていることが中途半端なわけで、その程度で構わないのだから、金融に関する知識や理解も中途半端にとどまる程度なのかも知れず、そういうところで何となく何かのバランスをとっているつもりなのかも知れないが、それをうまく説明できないし、自分でも何をやりたいのかよくわかっていない面もありそうで、できればマルクスの『資本論』のようなものを書いてみたいのだが、どうも今のところはそういう成り行きにはならないようで、このまま何も成し遂げられずに中途半端なままとなってしまうような気がしてしているのだが、この先でも何か起こるかも知れないし、その何かというのが現状の資本主義市場経済に大幅な変更を加えるような大げさな出来事だとしたら、今ここで焦って現状をまとめるようなことを述べてしまうとまずいような気がしてしまうわけで、だからといって何も述べられないままとなってしまってもまずいような気がするから、こうして何か述べているのだろうが、どうも述べている内容が気に入らないし、しっくりこないのも毎度のことで、何かわかっていないような気もするのだが、そのわかっていないのが何なのかということが、自分でも考えていることになるのだろうが、欧米ではすでに十八世紀と十九世紀の境目で何か起こったらしいのだが、それもフーコーによればそんなことが言える程度のことであって、十九世紀になって初めて西洋において人間という概念というか観念が登場したと解釈すれば良いのか悪いのかもはっきりとはわからないが、そういう内容がフーコーの『言葉と物』には著されているのだろうが、それを馬鹿な現代人が太古の昔から人間が存在していたかのように錯覚していると言えるか言えないかも、自分の読解力ではいい加減な単純化した理解でしかないかも知れないが、どうも十八世以前は神という無限の存在が人の意識の大半を占めていたとも言えないが、神と自己との関係だけで捉えていたというか、それらを人間として把握してなかったというか、労働する有限の存在としての人間一般を思考の対象として把握できなかったというか、何か現代人とは人間の捉え方が違った感覚だったのかも知れないが、どうもその西洋の十九世紀に発明された人間という概念というか観念が、日本にも明治維新以降に輸入されてしまって、それが国家神道などとしても変なふうにまとめられてしまったから、廃仏毀釈などのそれ以前にはあり得なかったような成り行きに結びついて、日本の神道が西洋のキリスト教のモノマネのような滑稽な形態になってしまったのだろうが、それに関して安易な理解として、人間が神を殺したとか、フランス革命のように王を殺して民衆の時代に移り変わったとか、たぶんそういうことではないわけで、実際に絶えず民主主義が独裁者を神や王の代わりに生み出し続けているのだから、しかも政府の官僚機構が西欧の絶対王政を支える機構として誕生した時から延々と民衆を搾取するための装置として機能してきたわけだから、実質的には民主主義じゃないと言えないこともないのだが、それは古代ギリシアの民主制が絶えず僭主を生み出したように、また古代ローマが最終的には帝政になってしまったように、デモクラシーと呼ばれる政治形態が独裁者を生み出す過程で一時的に機能する過渡的な制度でしかないことを物語っているわけだが、そこで新自由主義的なイデオロギーでは、そういう過渡的な状態をいかにして継続させるかを目指すわけで、要するに民主独裁的な事態を避けるにはどうすればいいかと考えるしかないわけだが、それに関して妥協的なやり方で自然にそういう成り行きに落ち着いているのが、保守勢力とリベラル勢力による定期的な政権交代を続けるやり方になるだろうが、そういうやり方も現状では行き詰まっているように感じられるだろうが、それは西洋の十九世紀以来延々とそうなってきたわけで、それが最善なやり方だとかもっとうまくいくやり方があるとか考えてしまうとまずいような気がするわけで、そういう方面に思考がのめり込んでしまっても、その一方で絶え間なく機能し続けている資本主義市場経済に目を向けていないことになってしまうから、西洋の十九世紀に誕生した人間という有限の存在が、無限の存在である神とは違って、絶えず物事を部分的にしか把握できないパーツ的な存在であることを物語っていることになるわけだ。
8月16日「歴史の転換点」
日本が飛鳥時代や奈良時代の時期なら、遣隋使や遣唐使などによって中国の隋唐帝国から学んで国造り励んでいた時期だと学校の教科書的な解釈で構わないような気はするが、明治大正昭和にかけては学ぶ対象を中国から欧米に切り替えて、それと似たようなことを述べられるかというと、それも学校の教科書的な範囲ではそんなことが述べられそうだが、それに対して例によって日本人はGHQの洗脳から目覚めなければならないとか言いたがる人も一部にはいるだろうが、いずれにしてもこの世からいなくなってしまった人々がその対象となるような気もしないではなく、そんな歴史に間接的な程度で接しているに過ぎないのだから、死人に口なしだとは簡単には言えないことであって、死者の亡霊に取り憑かれて、死者の代弁者のような立場から何やら訴えかけている人もいるらしいのだが、それを真に受けるとか受けないとかの二者択一ではないと考えるなら、相手にしないとか無視するのではなく、ちょっとだけ触れる程度で済ませておきたいというのが、偽らざる本音というわけでもないのだが、では何なのかというと、何となく過ぎ去ってしまったわけで、8月15日に過去の誰の記憶でもない後から都合よく捏造されて編集された物語に接して何を思うわけでもないというのも、嘘なのかも知れないが、都合の良いことを発言して誰を味方につけようとしても、ただのイベント効果しか得られないのかも知れないから、そういう面ではそれらの物語をあまり信じない方が良さそうで、それを信じるなと語気を強めて警鐘を鳴らすようなことでもないにしても、かえって語気を強めて〇〇に騙されるな!と叫ぶような煽り立てには、ああまた例によっていつもの調子でやっているのかと思っておいても構わないのかも知れないが、そのいつもの調子というのが何なのかというと、多くの人々の自尊心をくすぐるような好意的な幻想を抱かせようと画策する試みであり、それと同時並行して現状の否定的な面から目を背けさせようとする試みであることと表裏一体をなしているのかも知れないが、どちらにしてもそういうことをやるならやるで、それに反発するのでも、それを批判するのでもないとしたら、そういう試みを応援するのかというと、何となく応援することに魅力を感じるのならそれでも構わないような気もするのだが、応援といっても、そこでご苦労さんと声をかける程度のねぎらいの言葉しか思い浮かばないなら、熱烈に応援しているわけでもなく、そうかといって全く無視しているわけでもないのだが、それと共に軽視していることもあるような気がして、むしろそれを軽視してしまうことの方がヤバそうな気もするわけだが、では何を軽視しているのかというと、それをどう述べればしっくりくるとか説得力を得られるとかではなく、敵の敵は味方だとかいう早合点でもないとしたら、何かの真似をしている自覚があるかないかの違いというわけでもなく、そうかといって思考の独自性を重視したいわけでもないのだが、ただ世界の潮流を感じ取っている自覚もなく、否応なく押し流されている感覚がどこから生じてくるのかというと、例えば一概にGHQとかいう組織の性質や傾向をこうだと都合よく決めつけてしまうことの危険性をどれほど感じ取っているのかと問いたいところだが、それを考慮に入れておかないと、アメリカでトランプが年がら年中狂犬のように吠えているからといって、またイスラエルでネタニヤフが推し進めていることに反対の意思を示したいからといって、それが子供の危険な火遊びとは次元の違うことをやっているのもわかりきったことなのだが、そんなことには興味がないことが、それを軽視していることとパラレルな関係にあるのかというと、たぶんそうだと認めたいわけで、しかもそんな人々が何に退屈しているのかといっても、誰にそれがわかっているとも限らず、多くの人々が参政党などの右派勢力が振り撒く幻想にすがりたいなら、世界中でその種の幻想が蔓延しているような気がするし、そんな幻想を利用して世界各地で右派勢力の勢いが増していると現状を捉えても、何となくそんな認識で構わないような気がするわけだが、それがいわゆる国家主義幻想であることもナチスやファシストの昔からわかっていることには違いないのだが、そんな国家主義幻想を批判している人々もそれとは表裏一体をなす別の国家主義幻想に染まっているわけだから、そんな成り行きを軽視して、それらの国家主義幻想が一方が良ければもう一方が悪いかのような判断や評価の対象として並立してあるかのような誤った観念に取り憑かれるのも、何となくよくありがちな錯覚としてそうなってしまうような気もしないではないにしても、たぶん現状の世界的な潮流に逆らわずに押し流されるがままになっていれば、日本では参政党などの右派勢力を支持したくなるような心理状態となりそうだが、もう一方でそんな傾向と表裏一体をなしている傾向もありそうで、それが日本ではあまり目立っていないのかも知れないが、アメリカでは何やらバーニー・サンダースなんかがメディアでは目立っていそうなのだが、果たしてそれらの政治的な現象が人々の目をそこから背けさせて意識や関心をそれとは別の方面へと誘導するように機能しているのかというと、たぶん仕掛けとしてはそうなっているような気がするわけで、その証拠にたぶん日本で神谷宗幣の言動に対してもっとも強烈に反応しているのが、それを批判したり非難する人々なわけで、そういう意味では神谷宗幣がうまいことそれらの人々の意識や関心を惹きつけて、それとは別の方面へと誘導していると言えそうなのだが、それが神谷宗幣にそれらの人々を惹きつける魅力があるというよりは、世界の潮流によって意識や関心がそんな方面へと向けさせられてしまっていると考えておいた方が良さそうな気もするわけだが、では神谷宗幣と共に目を背けさせられている方面には何があるかと考えてみても、誘導されているのとは反対の方面に何があるとも思えないわけで、そこには何もないわけではないだろうが、誰もそんな方面には目を向けていないのだからそんなことがわかるわけがないとも言えないだろうが、それを見させないようにされているような気がするとすれば、たぶん西洋の十九世紀と十八世紀の境目において、例えば十八世紀以前の時代に属する人々が見ていなかったものを十九世紀以降に属する人々が見ることができるようになったわけではないにしても、そこに何らかの歴史的な断絶があったことが後からわかるようなことかも知れないし、しかもそれに気づくことができる者も数が限られてきて、大半の人々は気づくこともできないとしたら、今もそんな歴史的な断絶などなかったかのような状況の中で連続的な歴史認識に囚われている人もいくらでもいるのかも知れないが、では果たして今まさに進行中だと一部では考えられているAI革命が歴史的な断絶をもたらすような大げさな出来事なのかどうかも、今後のどこかの時点でそんなことを言いたい人が出てくるのかも知れないが、そんな人の存在も言動も世界的に無視されてしまうようなら、結局この時代では大したことは何も起こらなかったことになるのかどうかも、たぶん現時点では誰にもわからないのかも知れない。
8月15日「商いの神様?」
自意識がありふれた共同幻想に浸りながら、わかっていないのはお互い様な気分でいると、いつの間にか自分だけがわかっていないかのような取り残された気になって、早くそこから抜け出さなければと焦りを覚えるかも知れないが、ちょっと待てよといつもながらの立ち止まり感に襲われて、果たして意識が浸かっている共同幻想の中身が何なのかと考えてみると、昨日見たユーチューブの松下幸之助に関連する格言動画の類いにおぞましさを覚えたのが思い出されて、ちょっとネットで調べてみると、商いの神様は恵比寿様と大黒天であって、松下幸之助は経営の神様と言われていたらしく、てっきり松下幸之助が商いの神様だと思っていたのが勘違いであったことがわかったのだが、要するに感じていたのは商売人特有の下世話な卑しさではなく、会社経営のプロと言われる人たちに特有のおぞましさが商売人のそれとは違うことがわかったような気がしたわけだが、果たしてその違いをどう説明すればわかってもらえるのかと考えあぐねてしまうのだが、勘違いと言えば、松下政経塾出身の主な政治家として名前が挙げられそうなのが、野田佳彦と高市早苗と前原誠司がそうなのかと思い浮かんで、その三人からああなるほどと合点が行くような共通点があるかというと、彼ら三人と松下幸之助は別人であるから、共通点があろうがなかろうが何とも言えないところだが、あえて人を貶すようなことを述べるなら、二流三流の政治家を生み出すのが松下政経塾なのかと馬鹿にしてみたところで、自分なんか二流にも三流にもなれないただの一般人なのだから、他人を馬鹿にする資格も資質もないような気もするのだが、そんな自分の程度を考えてみると、松下幸之助の格言動画の中で軽くダメ出しされる程度だと思っておくぐらいが無難なのかも知れないし、そんな程度の自分とは違って、例えば参政党の神谷宗幣なんかは、松下幸之助がまだ生きていたら誉められるような人材なのではないかと思ってみたりもするのだが、その真偽の程は定かでないにしても、松下幸之助が世の中の人の習性を知り尽くしているようでいて、実際には何もわかっていないと貶すつもりもないが、たぶん自分も松下幸之助以上に何もわかっていないわけで、それでも例えば落語に出てくるようなダメ人間を馬鹿にする気になれないどころか、自分もそれらのダメ人間と大して変わらないような気がするし、松下幸之助の格言動画の中でダメ出しされる人間と大して変わらないような気もするが、ダメ人間やダメ出しされる人間のままでも良いような気もするわけだが、その場の状況次第でダメ人間にもダメ出しされる人間にもなれるかも知れないが、果たしてダメ出しする側の人間がダメ人間やダメ出しされる人間より優れていたり賢い人間なのかというと、大同小異のような気もするし、格言動画の中で良し悪しの判断の基準として提示されるエピソードの中身がどうでもいいようなことのようにも感じられるのだから、何だか自分が考えていることのピントが合っていないようにも感じられるが、ではなぜ動画の内容がおぞましいと思われるのかというと、そんなところで小さな差異を改善しても報われないんじゃないかと素人考えに至ってしまうのだが、もちろんそれは間違いで、実際にそれが利益に結びついたから、松下幸之助が経営していた企業が大企業へと大きく発展して、松下幸之助が会社経営の神様として多くの人々から崇め奉られることになったわけで、それはウォーレン・バフェットが投資の神様として多くの人々から崇め奉られているのと似たようなことかも知れないが、自分には松下幸之助やウォーレン・バフェットなどを崇め奉る理由や動機が見当たらず、だから彼らのようには成功できないし、実際に成功していないわけだが、もちろん彼らのように成功できれば嬉しくなってしまうだろうし、できれば成功したいのだが、今のところは成功するために努力などしていないし、彼らを真似る機会なども巡ってこないようで、しかもその機会が永遠に巡ってこない方が都合が良さそうに思われるとすれば、要するに松下幸之助にダメ出しされるような場面には遭遇したくないわけで、上司にダメ出しされるような場面を想像するだけでも身震いするし、他人に向かって偉そうにダメ出しすること自体がおぞましいと感じられて、そんな場面を避けるにはどうすればいいかと考えるまでもなく、それがIT革命やAI革命によって回避されようとしていると認識しても構わないのかも知れず、そうなるのが嫌だからこそ、それを回避するためにそれらの技術が進展してきたと言えるのかも知れないし、会社経営のセミナーなどで松下幸之助の崇拝者のような講師が偉そうにプレゼンする場面を思い浮かべてみれば、そんなことをやっているだけ時間の無駄だと思うなら、それだけその種の会社経営哲学の類いに洗脳される価値もないことの証しとなりそうなのだが、そんな哲学もどきの類いを伝授したくなって始めたのが松下政経塾なのだから、それを伝授されたのが野田佳彦や高市早苗や前原誠司や原口一博などの人材となるにしても、またそれと似たような名称の松下村塾の門下生が幕末から明治維新にかけて活躍した人材でもあるわけだが、例えば素手で公衆便所を掃除するのが野田佳彦がやってしまうことを象徴しているとしたら、そこに独自の哲学が反映されていると思うと、それも何やらおぞましく感じられるし、それに対してゴム手袋をつけた方が良いんじゃないかと提案しているのがIT革命からの提案で、さらにはそういうのは掃除ロボットにやらせた方が良いんじゃないかと提案しているのがAI革命からの提案であると比喩的に考えてみても、大してしっくりくるわけでもないにしても、古代ギリシアのプラトンや古代ローマのエピクテトスなどが哲学学校の類いで弟子に伝授していたことの延長上で何が考えられるかというと、無駄に不必要に哲学していられるほどの時間的・経済的な余裕が必要なようにも感じられるが、他人からダメ出しされるようなダメ人間である方が、かえって他人から愛されるような逆説的な救いを求めるのも何か違うような気もするし、哲学自体が余分で余計な何かであって、会社経営に成功して偉くなってしまったから、経営哲学を教える余裕も生じてきたと結果論的に考えても無難なのかも知れず、逆に松下村塾の吉田松陰などは密航をやらかして失敗してしまったから、そのおかげで命を落とすことにもなったわけだが、またプラトンにしても師匠のソクラテスを殺されたり、弟子からの勧誘でシラクサの僭主の教師として赴いて、偉そうに説教したら逆に僭主の逆鱗に触れて奴隷として売り飛ばされそうになって、危うく逃げ帰ってきたりして、その後弟子も殺されたらしいが、他人に向かって偉そうに説教したりダメ出ししたりする社会的な役割そのものが、それだけ社会が複雑化して役割分担が細分化したからだとしても、それを人の上に立ちたいという権力欲の表れだと単純化するわけにも行かないが、建前としては社会を良くするために社会の中で成功するためのやり方を他人に伝授したいという余計なお世話だと貶すのもちょっと違うのだろうが、それが他人だと自分が下に見られて自尊心が傷つくなら、では他人の代わりにAIに助言を請うなら、素直に抵抗感なくAIの言うことに従っても構わない程度のことだと軽く思われる限りで、AI革命の意義も肯定できるのかも知れない。
8月14日「粗雑な理解」
政治が経済に依存して成り立っているのは誰もが承知しているところだが、政治が主導して経済をコントロールしようとして失敗を重ねてきた歴史的な経緯も結構ありそうな反面、経済によって政治が制約を受けていることも確かで、経済がうまく回って行かないと政治も成り立たず、経済が崩壊しても政府は機能するだろうが、政治がやれることも限られてきて、それは経済が崩壊している国の現状を見れば誰でもわかりそうなことだが、では政府の予算を確保するためにも経済状態が良好である必要があるのかというと、言説的なレベルではそういうことが言えそうだが、どうも実態としてはそういうことではなく、その国の経済状態に応じて政府の予算額や予算規模が決まってきて、その逆ではないような気がするのだが、それは不可逆的な関係であって、政府の予算額や予算規模に応じた経済があるわけではないということであり、政府の予算額や予算規模を維持するために経済状態を良好に保ちたいから、景気刺激策のようなことを政治の側でやるわけだが、そういうやり方がうまく行った例があるのかというと、それも政治の都合から辻褄を合わせるなら結果論のようなことになり、結果的に経済政策がうまく行っているから経済状態が良好に保たれているような解釈が可能であり、好景気の時期にたまたま政権を担っている政治勢力が自分たちの政策の正しさを自慢したり正当化するようなことにもなりそうで、また不況を脱して経済が好転した時期に、政策がうまく行ったから経済が好転したとも主張できるから、政治が経済を立て直したかのような幻想が可能となるのだろうが、果たして本当にそういうことなのかというと、別に騙されているわけではないにしても、そういうことを認めても良いのだが、何か実態はそうではないような気がするわけで、実際にトランプ政権がやっていることを肯定的に受け止めて支持を表明するような人がいるかというと、そういう人が現にいるとしても、それがどう考えても違うような違和感を覚えるのが、普通な感覚なのではないかと思ってしまうのだが、だからといってトランプのやり方とは違う何か正しいやり方があって、今はそれをやるべきだと主張する気にはならないし、トランプがああなってしまうのも、何となくなるほどと納得できるような現状かも知れず、トランプならあんなことしかできないのではないかとも思われて、トランプではなく民主党の大統領なら違うことをやったのだろうが、またトランプとは違う共和党の大統領でも違うことをやったのかも知れないが、それもそういう仮定の話ではなく、現状ではトランプが大統領になってあんなことがやられていて、それに対して世界中で不快な思いをしている人が大勢いそうな状況となっていそうだから、何かそれがひどい現状のような気がするのだとしても、だからといってトランプが経済を立て直しているとかアメリカを救っているだとか、そんな幻想を抱く人もあまりいないかも知れないが、もっとニュートラルに現状を捉えるなら、現状の中でトランプなりにやれることをやっているだけで、それを否定的に見ている人が多いとしても、実際にこうなってしまったのだから、世界各国の政府も政治家たちも、それに対処するしかないだろうし、何やらトランプのおかげで世界に対する新たな理解が形成されつつあるような感じもしないではないが、そのトランプが対外的には中国を攻撃している一方で、国内では左翼リベラル勢力を攻撃していることも、そこに特徴的なありふれた傾向があるかのように感じられるかも知れないが、果たしてそんなわかりやすい傾向を真に受けても構わないのかどうかも、別に穿った見方をしなければならない理由も事情もなさそうだが、本来ならやってはならないことを強引にやっているトランプに呼応して、世界中で煽り立てられている何かがあって、それが何を物語っているのかということが、あからさまにそれを批判したり非難できるような傾向にも結びつきそうなのだが、どうも素直にそういう批判や非難に結びつくような傾向に乗っかって何かもっともらしいことを主張する気にはなれないわけで、だからといってトランプの味方になれるかというと、そういうことでもないような感じもしてくるから、何かそれに関して微妙にわかっていないことがあるらしく、それが何なのかと考えてみるのだが、たぶんそれが深刻なことや大げさことではないような気がすると共に、実際に深刻な事態も大げさな成り行きも世界各地で起こっているし、これからもこれまでもそういうことが起こってきたし、起こり続けるだろうから、実際にそういう事態や成り行きに巻き込まれたら、それが深刻なことにも大げさなことにもなりそうだが、日本でもすでにそうなっている人もいくらでもいるのかも知れないが、果たしてそれがトランプに象徴されるような傾向かというと、そう思っても構わないし、それをフェイクファシズムだと言っている識者の類いもいるだろうが、見せかけのそれが本当にそうなのかというと、フェイクだと言いたいのだから、見せかけであり偽りなのかも知れないが、では本当のところはどうなっているのかというと、たぶんそれが誰にもわからないことではなく、デマや嘘を使って世論誘導したい勢力が跋扈していると情勢を捉えるならそういうことになるだろうが、それが経済的な成り行き逆らう限りでそうならざるを得ないと考えても良さそうに思われるわけで、そう考えればトランプもアメリカを衰退に導くような経済的な成り行きに何とかして歯止めをかけたいから盛んに強引なやり方を仕掛けているわけで、そんな経済情勢に危機感を抱いているから踊らされて実際に踊っているわけだが、そうなっていること自体も経済情勢の一部を構成していると捉えても構わないような気がして、何かがそこでせめぎ合いの最中なのだろうが、やはりそれ自体も経済情勢を反映してそうなっているわけだから、そんな事態も楽観視しておいても構わないかというと、たとえこの先リーマンショックをはるかに超える経済崩壊が起こってもどうということはないような気がすると共に、そのどうということはないのが自分とは限らないし、自分の方はひどい目に遭うかも知れないが、それも何となくそれで構わないようなことだと現状では感じているわけで、それを今から先回りして、これから未曾有の危機がやってくると盛んに警鐘を鳴らすような役目など担っていないのだから、今のところはどうということはないわけで、そうなってからどうにかなるのかならないのかも、そうなってみてからわかることだろうから、来るべき危機に備えて何か準備をしておくような成り行きにはなっていないのかも知れず、そういうことはやらせないように仕向けられているのかも知れないが、何がそう仕向けているのかと考えても、何も思い浮かんでこないからそのままになってしまうのだが、そうだとすればどうやら自分は助からない側のカテゴリーに入っているのかも知れないし、助からなければひどい目に遭う可能性も高そうだが、それも何となく今はそれでも構わないような気がしているわけで、しかもこの先のどこかで運が良ければそれを切り抜けられるきっかけを掴めるような気もするわけだ。
8月13日「おかしな物言いに絡んで」
怪しげなカルトメディアの中で述べられている内容を真に受けるほど世間知らずではないにしても、世の中の様々な方面で人知を超えたおかしな現象が発生しているように感じられるわけでもないが、それに関して何を思ったのか、それが他人事でもないのに自分事でもないということが、確かに誰かが抱いている妄想の中ではそうだとしても、いついかなる時でも平常心を保っていられるわけでもないし、眠っている間に誰かの夢の中ではそう感じられるだけなのかも知れないが、具体的に何がそう感じられるのかというと、それの何が平常心なのかと考えているうちに、不意に画期的なアイデアを思いついたわけでもなく、それでも出涸らしの老人がユーチューブの動画の中で何か言っているらしい内容が、耳が遠くて聞こえにくいわけでもないのに、それをわざとスルーしている聞き手の司会進行者がいるらしく、それの何がおかしいというわけでもないにしても、失礼な態度のようにも見えてしまい、別にその老人に同情しているわけでもなくても、画面のこちらへと気まずい雰囲気が伝わってきて、わざとそんなちょっとした会話の行き違いに注目して、そこから何を推し量りたいわけでもないのだが、老人の何が終わっている感を醸し出しているとも思えないにしても、そこからどこをどう辿って、今どきの若者という表現には絶対にたどり着けないような会話の結論に合流させるのかが、出涸らしの老人にそれを語らせるには荷が重すぎるわけではないにしても、今どきではない若者からも、それを語っている老人が感覚的にも年齢的にもかなり隔たっていることを、全く考慮に入れていない人選には違いないと思われそうで、どこの誰がそう思ったからといって、だからどうしたと反発を受ける立場でもないのだが、それ以外に何が言いたいわけでもなければ、そこで語られている中身が良いか悪いかの判断など下す立場でもないし、そもそも判断するような内容でもないのだから、意識して無視するまでもなく、自然体でスルーしておいても構わないはずだが、その自然体でいられる態度というのも意味がわからないにしても、それを観ずに済ませて代わりに何を語るかもよくわからないままに、その先のどこかで言説的な難所が待ち構えていると想像したくなるのだが、今からそこでうまく立ち回るにはどうしたらいいかと思案するようなタイミングではなくても、その立場でもないのにお節介気味にそれを考えてみても一向にお呼びでないのだが、その立場でもないのにそれについて利いたふうな意見を述べようとすれば、何か場違いな印象を伴って拒絶される危険性が感じられて、それでもその場の空気を読まずに強引に述べるとすれば、そうなった結果が大山鳴動して鼠一匹なんて形容されることはあり得ないし、元から大山など鳴動していないとも言えないにしても、意図して大山を鳴動させようなどと大それた思惑が働いているから、それに呼応して何やら仕掛けているふうを装う人々が出てくるわけで、しかもそのふうを装っている自覚などないのだから、それよりは直接の当事者意識を抱いているはずなのだが、それがどう見ても当事者とは思えないし、当事者のつもりで発言してみたり、その場で主導権を握ろうとして、あれやこれやと画策している気でいるのだろうが、何だかそれがお呼びでない感が半端なく感じられるようだから、心なしか及び越しの台詞も伴ってしまうのだろうが、何がそれを感じさせるのかといっても、すでにそうなっている時点でまともに見ていられないのだから、見ていない限りでわかりようがなく、わかりようがないのに想像で語ってしまうところが、普通に考えてフィクションを物語っていると見なされても文句など言えないが、そういうことの延長上で述べていることだから、それを真に受ける必要がないときっぱり断言できる自信もないが、当事者であってもそうは思わないだろうから、傍観者がそれを見ているだけでしかないのに、無責任に言い放てる範囲も限られてくるだろうが、そんな中でも何を言い放とうと画策しているようには見えないし、自然に台詞が出てくるような感じで、何が出力されてくるのかといっても、そんな言葉も無視の対象となってしまう限りで、逆にそれを無視できなくなってしまう理由など何も思いつかないだろうが、それでもわざとこれ見よがしに無視したいなら、それが逆説的に訴えたいことがありそうに感じられてしまうのだが、相変わらずその訴えたい内容が空っぽなのかも知れないから、苦し紛れな主張や意見として出てくるのが経済的な不都合になりそうで、そうでなければ空想や妄想から導き出された誰かの陰謀へと理由や原因が落ち着くのだろうが、そうだからといって、当人にあからさまな馬鹿を味方につけるためのノウハウを伝授したい意向があるわけでもないにしても、会話の端々から窺われてしまう戦略的な会話のテクニックから察してほしいような自慢したい何かがあるらしく、その何かが何なのかといえば、それを戦略的な誘導だと悟られないようにするための弁論術も持ち合わせているようにも装いたいのだろうが、なぜか馬鹿で間抜けで鈍感な自らの自意識がそれを真に受けるのを拒絶しているらしく、あらかじめ利害を度外視して即席で設けられた交渉の機会に臨んでいるようだから、何か始めから話にならないような気がして、それに伴って馬耳東風な態度が自らの心身から滲み出てくるようにも感じられてしまい、お前の嘘を見抜いていると宣言するようなことではなく、逆にお前の言っている内容が真実であることを承知したくても、こちらがそれを認めた上で、あえて真実の脅しには応じられないような結果へと至ってしまい、そんな自らの態度にも不条理感を覚えるのだが、何がそうさせるのかといっても、自らの勘違いな勘がそうさせるとしか言えないようなことなのかも知れないが、それがわからなくても、かえってわからないままであった方が都合が良いような気もしてしまうから、自らの勘に頼って誤った判断に導かれているのかも知れないが、どうあってもそんな誤った判断を下してしまう事情があるわけでもなくても、何となく今は判断を誤っておいた方が良さそうな気がするわけで、実際に判断を誤って手遅れとなってから、何とかしようとして無駄な悪あがきに及んでしまうような未来を予感させるのだが、なぜかそういう成り行きに囚われているらしく、その方が都合が良さそうに感じられるのだが、それが今は都合が良いが、後から都合が悪くなるようなことだと予想はできるとしても、では手遅れにならないうちに今ここで手を打っておいた方が良いかというと、たぶん今の都合を優先させて将来の手遅れを呼び込もうとしているのかも知れず、それが今を優先させることによって将来の自分を犠牲にしていることになろうとも、今はそれでも構わないような成り行きなのかも知れないし、そういう成り行きに巻き込まれているからこそ、判断を誤って今を優先させていると考えてみても、そんなことがこの時点でわかるわけでもないから、今の時点でも将来の時点でも、こうなっているのが良いか悪いかが今は判断がつかず、判断がつかないまま判断を誤っているのかも知れないが、とりあえず今はそう思いながらも、目下の直面している事態に対処しているわけだ。
8月12日「空騒ぎの現状」
何か信じられる対象がある人は、その対象に関連して何をやるにも、ほどほどにとどめることがなかなかできない性分になっているのかも知れず、それでは物足りないのだから、やり過ぎな程度にまで徹底的にやれるかどうかも、その場の状況にも情勢にもよるだろうが、それを全面的に信じているわけでも信頼しているわけでも信用しているわけでもなければ、大抵は半信半疑な心理状態となっているだろうから、そうなると何をやるにもこれでいいのかと疑念を抱きながらも、恐る恐る用心深く石橋を叩いて渡るような用意周到な程度にとどめざるを得ないかというと、それも時と場合によりけりで、やっていることの程度や傾向や内容にもよるだろうが、徹底的にやろうとしても、また逆にちょっと待てよと途中で立ち止まってやり過ぎないように歯止めをかけようとしても、自分自身の意志の力ではどうにも制御が利かない場合もあるから、それが外部から強要してくる強制力だとしたら、果たしてそんな力の作用に身をまかせていても構わないかどうかも判断がつかないのではなく、自分がどう判断しようとそんな判断など無視されてしまうなら、自らの意志や意向とは関係なく否応なくそうなってしまうことになりそうで、否応なくやらされているのがそういうことばかりではないにしても、まさか自分の意志や意向を従って積極的にやっていることが、世の中の動向に多大な影響を受けながらも、その場を支配する圧倒的な強制力に従わされているに過ぎないとしたら、そんなことまで考慮に入れる必要も気づく必要もなく、必要のあるなしに関係なくそうなってしまう成り行きに身をまかせているだけだとしたら、否応なくそれで構わないことになりそうだが、そうなっていることに全く気づかないとしたら、やはりそうなっていても何でもないことになってしまうかも知れないし、果たして現状でも誰もがそんな間抜けな境遇の中で生きているのかどうかも、そもそも誰も自分がそんな間抜けな境遇だとは感じていないだろうが、とりあえずは我先に騒ぎを起こした者勝ちな状況だとも言えないし、騒ぎを起こした者や団体がメディア上で話題となっているわけだから、浅はかな者たちがそう思うのも無理はないが、騒ぎを起こそうとしても起こす立場でも境遇でもなければ、騒ぎを起こす必要性を感じられないだろうから、そうなっている人は騒ぎなど起こさないはずだが、そうなっているはずなのに否応なく騒ぎを起こす成り行きに巻き込まれてしまえば、自身の意志や意向に関係なくそうなってしまうかも知れないが、現状のアメリカで毎週のように下手をすれば毎日のように騒ぎを起こしまくっているトランプが、果たして自らの意志や意向に従って騒ぎを起こしまくっているのかというと、トランプにしてみたらそう思うのが当然かも知れないが、何やら暴走機関車のような状態となっているかも知れないし、それに歯止めをかける者など誰もそんな面倒で損な役など引き受けたがらないだろうから、このまま破滅へ向かってまっしぐらに暴走し続けているように見える人には見えるのかも知れないが、自滅してくれるならそれでも構わないにしても、その自滅に巻き込まれたくないと思うなら、そんなトランプが支配するアメリカから逃げ出す必要を感じている者もある程度はいるかも知れないが、そうではないとしたら何なのかというと、トランプの暴走が見せかけであって、トランプ自身も自らの役割を心得ていて、暴走していると見せかけておいて、その裏では用意周到な計画が進行中であるとしたら、まるで漫画か映画のようなその種のフィクションの展開を妄想できれば、それで構わないようなことかも知れず、そんなのはあり得ないと信じていなくても、信じていないなりにも気休めとしてそう思っておけば、いざそうなってから機転が利くかも知れず、だから今はそんなトランプのノリに騙されたふりを装いながらも、ただ淡々と日々を過ごしていれば、それで構わないようなことなのかも知れないが、実際にその時が来て自ら行動に打って出ようとした時にはすでに時遅しで、もう手遅れだと思う間もなく災禍に巻き込まれていて、確実に大変な目に遭うかも知れないし、しかもそうなった時こそが最大のチャンスかも知れないから、それが何のチャンスなのかも、そうなってみてからでも皆目見当がつかないかも知れないが、やがてそんな機会が到来することを密かに無意識に期待して待ち望んでいるとしても、そんなのは空振りに終わるしかないのかも知れず、いくら待っても何もやってこなければ、すでにその機会を通り過ぎていて、後から振り返ればその機会が今年の4月7日であったことがわかったりして、そういえば去年の8月5日にもそんなことが起こったような気がするのだが、果たして去年と今年とその機会を逃さずにやるべきことがやれたかというと、全くやれなかったわけではないが、完璧に機会を捉えてやるべきことをやれたような気がするかと言えば、そうではなかったような気もするのだが、では今後さらに同じような機会が巡ってくるかというと、それはそうなってみないと何とも言えないし、そうならなくても構わないような気もするにしても、一方で前々から予言されていた7月5日にも行動していて、少し寝坊してしまったが、朝早くから自動車を運転して東京から遠くへと避難するふりを装いながらも高速道路を使って群馬辺りのサービスエリアまで来てみたら結構朝早くから混雑していて、その日が週末の土曜日だったからかも知れないが、キャンピングカーで来ている人もちらほら見かけて、前々から計画を練ってここまで来たのかと勝手に推測してみたが、予言された時刻になっても何も起こらなかったので、そこからさっさと引き返して、午前中には自宅へ戻ってきたのだが、そこまで体験してみてから、なるほど空振りに終わったのかと残念がってみたのだが、それとトランプが現在進行形で引き起こしている騒ぎを同等に扱うことはできないにしても、何かどちらもそんな程度のことなのではないかと軽く見ていて、トランプの言動に振り回されてそれなりの損害を被った人も団体も国も存在しているかも知れないし、中には直接空爆されて死んだ人々もイエメン辺りにはいるのだろうが、他の大統領の任期中でも結構いるだろうから、中でもブッシュ親子が大統領の任期中にはその数が数十万人では済まない人数に上っているだろうから、トランプが群を抜いてひどいとは言えないだろうが、たぶん今ここで感じている予感はトランプに関連した騒ぎとは関係のない方面からやってくる何かを感じているのかも知れず、もっと何かすごいことが起こるような予感がしているのだが、それがすごいと感じられなくても構わないかも知れないから、やはりそれもそうなってみないことには何とも言えないのだが、下手をすれば自分でも気づかないうちにその機会を取り逃して、そこからだいぶ時間が経過してから後悔の念と共にそれを知る可能性もありそうだから、日々感覚を研ぎ澄まして、その時が到来するのを今か今かと待ち構えている必要も感じないが、何か知らないうちに気づかないうちにそれに巻き込まれていればしめたものかも知れないから、後は自らが運に恵まれることを期待するしかないのかも知れない。
8月11日「新自由主義を構成する理屈」
現状で何か問題があれば、そうなった結果を考察して原因を突き止めようとするが、それの何がまずいわけでもないが、実際には絶えず途中経過の中で考えているわけだから、その結果が暫定的な結果であることを意識しなければならないし、それを何かの結果だと捉えても、まだそこで終わりではなく、現実の世界ではそこから先の段階や過程がある限りで、その時点では終わりではなく、途中経過の中で暫定的にそこまでの成り行きを一区切りつけているに過ぎないわけだが、そうやって絶えず何かの途中経過の中で理由や原因を考えているに過ぎないのに、なぜこうなってしまうのかと考えて、そうなってしまう理由や原因を求めてしまうから、現在から過去に遡って、過去から導き出されたもっともらしい理由や原因を用いて現状を説明しようとして、それが結果から理由や原因を推測しているのに過ぎないのに、あたかも理由や原因から結果が導き出されたかのような勘違いを犯してしまい、それがフィクションだと気づかない人々がいわゆるヘーゲルの罠にハマっていると考えてもいいのかというと、自らが絶えず歴史の終わりに位置しているというフランシス・フクヤマ的な終末意識がもう何十年も継続していること自体も、いったいいつになったら歴史の終わりが終わるのかもよくわからないにしても、家族で小規模な農業をやっていたり商店を営んでいた過去の郷愁を催す時代があったからといって、社会の最小単位は個人ではなく家族なんだと強調してみたところで、家族によって個人を束縛するようなことを法的に正当化できるかというと、それとこれとは違うような公私混同のような気がするのだが、果たしてそこから現状で進行中の成り行きを過去の郷愁の時代へと逆戻りできるわけでもなさそうだが、参政党が狙っているのが家族の絆を強調することによって大衆の人気取りに利用しているのだとしても、身近な幻想を抱きやすい対象が家族であることを熟知していると言えるのかどうかもよくわからないにしても、そんな家族の絆を断ち切って社会の集団化を強引にやったのがスターリンだとしたら、それを共産主義に対する恐怖を煽ることにも利用できるのだから、その煽りを食らって日本共産党が退潮傾向になっている理由や原因として説明できそうだが、果たしてそんなフィクションを真に受けている人々が世の中にどれほどいるのかといっても、何とも言えないような感じなのかも知れないし、それに関しては左翼リベラル勢力も含めて、世の中の多くの人々の理解から外れている新自由主義的な認識から説明するなら、スターリンもヒトラーもルーズベルトのニューディール政策を真似ているうちにそうなったわけで、人々を国家事業に専従させるには家族の絆でさえも邪魔なんだと考えて、国民総動員体制を築くために人を個人単位に分離して全てをナチスや共産党のために尽くすように持って行ったんだろうが、それの何が勘違いだったのかと考えても、個々人の欲得づくの利害関心を考慮に入れていなかったから、やる気がなくなってしまうのも想像に難くないが、それに対して左翼リベラル陣営でも理性や善意に基づいた公共意識を強調し過ぎるから、そこでも個々人の欲得づくの利害関心に負けてしまうのだろうが、しかもそんな欲得づくの利害関心から家族の絆が生じていることにも気づいていないから、父権的な家父長の座を巡って家族内で欲得づくの権力闘争が勃発している事実も都合良く無視しているわけで、そんな家族の存在意義を巡って対立を装ういかなる陣営でも自分たちに都合の良い物語を構築するのに躍起となっている現状を浅ましいと感じるかどうかも、個々人の置かれた立場や境遇によって感じ方も異なるだろうし、もちろんヒトラーやスターリンなどそれに類する政治的な独裁者たちが全国民を家族に見立てた上での家父長的な立場になることを目指しているとも言えないにしても、それに対して新自由主義的な見地から言えることがあるなら、たとえその種の権力闘争が起こっていても、そこから独裁体制の確立には至らないようにするにはどうすればいいかという問題に取り組むことになりそうで、参加者に権力ゲームをやらせながら、そんな成り行きを経済成長に結びつけられるなら、うまくやったことになるのだろうし、それが戦争などの破壊行為にエスカレートしてしまったら、表向きには失敗だと言えそうだが、その一方で戦争を利用した金儲けに結びつくなら、失敗したなりにもうまくやっていることになるのだろうから、要するにどのような状況下でも情勢下でも経済活動が持続していて、それが経済成長に結びつくならうまくやっていることになりそうだが、そういう意味ではヒトラーのナチスドイツもスターリンのソ連も、それぞれに国家事業的なやり方で一時的にはうまく経済が回っていたにしても、最終的には破綻して、経済成長には結びつかなかったと受け止めるなら、新自由主義的な観点からしたら失敗したと言えそうだが、では何が失敗した理由であり原因だったのかと結果から考えてしまうと、やはりヘーゲルの罠にハマってしまうかというと、そこでも新自由主義的な論理からすれば、失敗したもっともらしい理由や原因が重要なのではなく、それを持続的な経済活動に結びつけられるかが問題となってきて、そんな権力闘争に勝利して最終的に独裁体制を築いてしまったら、そこでヘーゲル的な意味での歴史が終わってしまうわけだから、そんな結末に持って行ってしまうとまずいわけで、それが終わりなき権力闘争へと続いて行く限りで、闘争を続けさせるにはその糧を得るための経済活動が欠かせなくなる限りで、それに伴って経済成長を生じさせ続けられるなら、それが新自由主義的な価値観したら成功の部類に入るわけだろうが、トランプなんかもアメリカの経済成長を持続させるにはアメリカにも製造業の拠点を確保しておかないとならないと考えているわけだろうから、アメリカが有利になるように関税交渉などを仕掛けているわけだろうが、それを批判する連中の言い分を信じるなら、そんなことやったからといって無駄であって、そんなやり方ではアメリカの凋落に歯止めをかけることはできないと踏んでいるわけだろうが、果たしてそれがAI革命を軽く見ていることになるのかならないのかも、現状では何とも言えないところだが、それも新自由主義的な論理からしたら、トランプの思い通りや思惑通りになるのかならないのかが重要なのではなく、トランプがやっていることも部分的に動作しているに過ぎず、トランプがやっていることや、これからやろうと画策していることが仮に失敗に終わったからといって、それを利用して経済活動が持続するように持って行ければそれで構わないようなことかも知れず、トランプが起こしている騒ぎに多くの人々が関心を向けている裏でAI革命が進展して行けば、それに伴って果たして経済成長も持続するかどうかも、そうなった結果からその成否が判断されるかも知れないが、そうなったからといって、絶えず過去を振り返って現状がもたらされた理由や原因を求め続ける限りで、そんな自らがヘーゲル的な歴史の終わりの地点に立っていることを再確認するに至ることしかできないのかも知れない。
8月10日「語彙力と表現力の制約」
日頃から説明に使っている語彙の貧困さが説明している者の精神の貧困さも物語っているとも思えないが、それが精神の貧困さではなく知性のなさと言い換えても、そんな勘違いな印象を抱いてしまうことが、言説の対象となる人物や集団を馬鹿にしている証拠となるわけでもないにしても、それに関して何かが思い浮かんでいるのだが、それが何だか思い出せないのもおかしいが、それを思い出そうとしても一向に思い出せないままになってしまって、苦し紛れに思い出せないことを否定したくなるのも意味不明で、思い出せないのではなく、うまく表現できないのではないかと自分の語彙力や表現力のなさを今さら嘆いてみても始まらないし、そういうことではないとしたら何なのかというと、言説の対象となっているのが特定の個人ではなく、個々の意識が寄り集まって集団となって構成される無意識なのではないかと疑念を抱いている一方で、それが何に起因して生じてくるのかということが目下のところは謎なのかも知れないが、それに関して心当たりがないわけではなく、ただ確証が持てないわけで、そうとは言えないような作用や影響を被りながらも、多くの人々がそんな集団意識に囚われているから、それに伴って世界の現状がもたらされていると解釈しても良いのか悪いのかも何とも言えないが、そんな中でもそれをうまく利用して多くの人々の関心を集めている人物や集団が存在していて、それが表面的には軽薄な流行現象を担っているようにも感じられるのだが、流行現象に乗っかって利益を得ようとしている人や集団もいる一方で、そんな風潮に批判的な立場から言説を弄して逆説的に流行現象を盛り上げている人々もいるわけだから、そんな人々が言っていることに騙されては行けないとついつい思ってしまうのだが、それが罠なんじゃないかとも思われて、特に何の罠でもないのに罠なんじゃないかと思ってしまうのだから、勘違いなのもわかりきったことだが、一過性の流行現象に踊らされる人が出てこないと儲からないと簡単に言えるようなことではないとは思うのだが、事を単純化するならそういうことのように思われるのだから、そんな話の単純化にも一定の真実が含まれていて、そういうことを語れば話にそれなりの説得力が伴ってくるような気がするとしても、果たしてそれでいいのかと問うなら、いいとしても何か腑に落ちないような違和感も伴ってきて、それに関して安易に産業革命まで時代を遡っては行けないような気もするのだが、ではもっと時代を下ってファシズムと新自由主義の対立から語るのがスマートなやり方だとしても、むしろファシズムと新自由主義が一体化して人々を騙しているのだと正義の言説を弄する人々も今では多いのだから、たぶんそういうところが理解不能かも知れないが、それをうまく説明できないのだからそういうことだと暫定的には納得するしかないのだが、それに対して機能的な面から解釈するなら、人々が実際に従事している職業的な傾向から、その人の能力が限定されてきて、取り組んでいるのはそれだけではないのだが、それがその人の職業に関連する活動内容だとしても生活全般からもたらされる精神形成だとしても、人として有限の範囲内に限定されている限りで、その人の能力とか技量とか器量とかで表現される内容になってくるのだが、さらには人と人とが有機的に関係し合い作用し合う総体としてもたらされる集団的な集合意識の傾向だとしても、何となくそれがそういうことなんだとわかってしまうと、こんな人たちならこうなってしまっても仕方ないような結果がもたらされていると納得しようものなら、それを悪く否定的に表現しても、批判的な言説を構成する限りでもっともらしく感じられるのだが、そんなことではないと安易に否定はできないわけだから、その種の批判には耳を傾けておいた方がいいような気はするものの、それだけではないと思うなら、その種のありふれた批判とは違う方面から傾向の違う言説を構成した方が無難に思われるとしても、それに関してはこけおどしの魔法などあり得ないのだから、そんな漫画や映画の類いとは全く違うレベルで何かしら語らなければならないとしても、そんな成り行きと地続きなところからそれと似たようなニュアンスを意識して述べないとリアリティを得られないし、そういう意味でも安易にファシズムや新自由主義から言説を構成してはまずいのだが、そこでも機会とタイミングが合わないとそうはならないことも加味するなら、何か実際に起こった具体的な出来事を例に挙げながら説明しようとしてしまい、それがその出来事を利用して構成した妄想のフィクションとなってしまうのも当然の成り行きのような気もするわけだが、そうなるのを回避したいならそれに関して何をどう述べるのが無難かといっても、そんなのは実際に述べてみないことにはどうなるかわからないとは思うが、それに関してもっともらしい理屈に従えば、民主主義が行き詰まるとそれがファシズムへと進化して、それに伴って産業の技術革新から新自由主義的な傾向も生じてくるのだから、それを肯定的かつ好意的に捉えてしまうと、正義の味方の言論人からの批判や非難の矢面に立たされてしまうわけでもないが、彼らから無視される限りでそれらの成り行きや傾向を肯定しておいても構わないだろうが、それらのファシズム的な傾向を批判しながらもいちゃついている人々からは相手にされない限りで、ただの一般人として暮らして行けるわけで、だから今も多くの人々が新自由主義的な傾向を保っていられるのだろうが、だからといってわざと強引にそうなるのを回避する理由があるのかと誰から問われるわけでもないが、何かを介してその欺瞞や偽善が暴露されてしまうとしたら、その対象になるのは彼らの批判の標的となっている人々や集団なのだから、そういうのはスルーしておいても構わないのだろうが、それをスルーできないとしたら、彼らの言説内容や批判内容を真に受けているからスルーできないのだろうが、ともかくそれらの人々が今や死ぬ間際の老人の集団であることを考慮するなら、簡単にはスルーできないとしても、スルーしているようには装えるし、実際に装っている人が世論調査の類いでは多数派を構成していると理解しているのだが、果たしてそんな理解で構わないかというと、何も老人でなくてもそうなっている人もいくらでもいるわけだから、自分がそうなっていることをいちいち気にしていても始まらないと思っておくぐらいでも気休めにはなりそうで、そんな態度や姿勢が今どきのファシズムとの付き合い方にもなるとしたら、勝手にそんなふうに考えていることに過ぎないとしても、何だか自らの意識が現代社会に馴染んでいるようにも思われて、それで構わないのではないかと自己正当化しそうになってしまうのだが、それでも彼らとは見ているところが違うと言えるのかどうかも定かではないのだが、彼らの大して魅力を感じない言説内容に接して、退屈な印象を覚えるとしても、別に自分が優越感に浸れるような立場でもないのだから、少しは謙虚になって、ありがたがって好意的に受け止めておけばいいようなことなのかも知れない。
8月9日「覇権国と周辺国の関係」
アメリカが現状で暫定的かつ過渡的な意味で覇権国なのは誰もが認めるところだが、ではアメリカ以外に今後覇権国になれる可能性がある国があるかというと、人によっては中国やインドが思い浮かぶかも知れないが、現状のままでは無理というか、何か致命的な欠陥を抱えていそうで、もちろんアメリカも欠陥だらけな国だろうし、現状でも衰退の一途を辿っていると見ている人もいくらでもいるはずだが、たぶんそういう粗探し的な評価の仕方とは違う次元で覇権国なのだろうし、歴史的な成り行きに沿ってそうなっているに過ぎないことだとしても、それを無理に肯定的にも否定的にも見る必要などないレベルでそうなっていると感じてしまうのだが、それがかつてイギリスが世界中に植民地を領有して覇権国だった時期には、アメリカはそのイギリスの植民地から最初に独立した周辺国の一つとして存在していたに過ぎなかった時期もあったにしても、今から一万年数千年ぐらい前にはトルコのギョべクリテぺ辺りに人類文明の中心があったのかも知れないが、そこから時代が数千年下って、イラクのチグリス・ユーフラテス川辺りでメソポタミア文明が栄えていたらしいが、絶えず周辺の部族が侵入してきて、定期的に王朝の交代が起こったのだろうし、中国文明でも伝説上の夏という国が周辺国の殷に取って代わられて、さらにその周辺国の周に覇権が移り変わって、さらにまた戦乱状態の中で西側の辺境にあった秦が辺り一帯を統一したらしいが、そういう成り行きとは違った現象として、エジプトで傭兵や労働者などとして雇われて働いていたギリシア人たちが、エジプトで学んだことを活かして故郷のギリシアで文明を発展させたり、その周辺国のマケドニアのアレキサンダー大王が周辺世界を征服して大帝国を築いたり、イタリアの地でも先に栄えていたエトルリア人の都市国家をその周辺にいたローマ人が征服して、それが数百年かけてローマ帝国へと発展したわけだが、さらにはそのローマ帝国の周辺に居住していたゲルマン民族がローマを滅ぼして、ヨーロッパの中世へと時代が移り変わって行ったのだろうが、ヨーロッパの中世において栄えていたのはイスラム帝国であって、イスラム帝国の周辺地域として中世のヨーロッパが位置づけられていて、そこへ急激にモンゴル帝国が台頭してきてイスラム帝国も衰退してきて、その後にオスマン帝国によって千年続いた東ローマ帝国が滅亡したのをきっかけにして、古代ギリシア・ローマ文明を受け継いで発展したイスラム文明がヨーロッパに流入してルネサンス期に突入して、さらに航海技術の発達に伴って新大陸やアフリカやアジアへヨーロッパの国々の覇権が及ぶようになったのだろうが、そんな中でも最初に現代の産業文明の萌芽と言えるような事態が生じてきたのが、イタリアの諸都市や北ドイツのハンザ同盟などの諸都市なのかも知れないが、その中でも一時的に覇権を握ったのがベネチアであり、さらには新たにスペインから独立したオランダが中継貿易によって経済成長して、現代的な覇権国の典型例のような存在となったのだろうが、そのオランダから覇権を奪ったのがイギリスであり、さらにイギリスから覇権を奪ったのがアメリカであるなら、結局は覇権国の移り変わりといっても、そのせいぜいがベネチア・オランダ・イギリス・アメリカの4カ国だけで、そんな中でも十九世紀から二十世紀にかけての数十年間はイギリスが大英帝国として世界の覇権を握っていた時期があったにしても、最初の方は中国の清帝国の方が経済規模が大きかったようだし、最後の方はドイツ帝国やアメリカの方が経済的にはイギリスを凌駕していたようだから、最盛時の植民地の広大な面積を示して大英帝国の凄さを物語ってみても、言うほどには覇権の実質が伴っていないような感じもするわけだが、そういう意味では現代的な尺度から計るなら、アメリカが唯一無二の覇権国家なのかも知れず、だからといってアメリカが世界全体を支配しているわけでも統治しているわけでもないだろうし、その覇権の実態は古代のローマ帝国のそれともイスラム帝国のそれともモンゴル帝国のそれとも大英帝国のそれとも異なるわけで、時代の進展に伴って覇権国が移り変わると述べても、その内情や実情にはかなりの違いがあるのだから、パックスロマーナの比喩としてパックスアメリカーナを同じ意味や程度で使っても、雰囲気や印象としてそう感じられる程度のことだと思っておくぐらいが無難なのかも知れないし、その延長上で今後中国の平和やインドの平和が世界的にもたらされるとも現状では全く思われないのだが、それよりは大英帝国として覇権を握っていた当時のイギリスのライバル国としてフランスやドイツがあったように、現代のアメリカのライバル国と言えるかどうかも怪しいが、中国やインドがあると一応は言えそうで、人口の規模としては数倍もあるのだから、経済発展すれば規模的にはアメリカを凌ぎそうだが、中国もインドもそれぞれにローカライズされていて、文化的にも文明的にも世界を席巻するような普遍性を持ち得ないような感じがするのだが、では何が違うのかといえば、それが国家としての枠組みを超えた何かであって、そういうところは中国の習近平にしてもインドのモディ首相にしてもアメリカのトランプにしても理解の範疇にはないのだから、もちろん日本の政治家も大半がそれらの国家的な首脳以下の存在に過ぎないし、個々の政治家がそれを理解する必要もない観念かも知れないが、そういう意味では政治家という存在もすでに時代遅れな存在なのかも知れないし、その存在が大して歴史的には重要性を担わないとしたら、例えばトランプという存在について考えるなら、その言動や行動が何に囚われているのかというと、経済的な事情に囚われているから、経済的な事情がトランプを突き動かしていると考えても、それが何かもっともらしい指摘になっているとも思えないにしても、その延長上で習近平やモディ首相も何か囚われている事態や成り行きがありそうで、それが表面的にはロシアのプーチンのように国家主義的なイデオロギーに囚われているとしても、どうも彼らが優先しなければならないことが経済的な損得に関連しているようにも感じられるわけで、確かに国家主義的なイデオロギーに囚われていれば軍事的な強化こそが国家そのものの増強につながるにしても、軍事力を強化するには経済力を強化しなければならないと共に、経済力を強化することがそのまま国力の強化につながるという幻想を普通の政治家なら抱いているはずだが、それは習近平にしてもモディ首相にしてもトランプにしてもそう思っているはずだが、それがどうあがいても経済力に見合う軍事力にしかならないことも普通に理解しているはずなのに、ロシアのプーチンや北朝鮮の金正恩の実態を見るまでもなく、軍事力の強化に経済力の強化が追いついてこないわけで、それはかつての軍国主義に染まっていた日本帝国にも言えることだが、逆に軍事的な負担が経済を圧迫しているのもわかりきったことなのだが、その延長上で政府機構や組織の膨張が経済を圧迫していることもわかりきったことであるのも、国家的な限界を物語っているわけだが、それがとりもなおさず国家主義の限界でもあるわけだが、まさかその限界をAIの活用によって突破しようとしているわけでもないにしても、どうもそれがこれまでとは違う思いがけない傾向をもたらしているのかも知れない。
8月8日「最優先事項の謎」
誰の何がそうだというわけでもなく、ただ漠然とそう思い込むことによって、現状で何か優先させなければならないことがあるらしいのだが、何の理由もなく自分が勝手にそう思っているに過ぎないとしたら、何か勘違いしているような気もしないではないが、それが何なのかと考えてみると、人それぞれに事情が違えば優先事項も違ってくる可能性もありそうだが、それが集団の意向となると、集団内の構成員には逆らえない場合もありそうだが、誰かが属する集団の意向を気にしながらも、密かに狙っている野望でもあるなら、そんな野望を抱いている誰かが優先させなければならなことがあるらしいと勝手に妄想してみるが、例によって当てが外れているように感じられるのもいつものことで、そんな誰が誰だかわからないのだから、それが嘘に決まっているわけでもないのだろうが、誰かの意向が、特に何の条件も基準もなくランダムに選ばれているわけでもない不特定多数の他の多くの人々の意向と一致することもあるのかないのかもよくわからないのだが、一致するのではなく合致するとしたら、そこで何かの条件や基準が合致するらしいのだが、それが意見や考えの一致ではなく条件や基準の合致というのが、よくわからないようなニュアンスとしては何となくわかるようなことかも知れないが、そこで優先されなければならないのが意見や考えの一致ではなく条件や基準の合致というのも、何か肝心なところがあやふやでごまかされているような感じもしないではないにしても、そもそも何が言いたいのかも不明確な感じもしないではなく、優先させるのが意見や考えの一致ではないというところが、必ずしもその人の意向を優先させているわけではなく、それよりはその人がどのような条件や基準に合致しているとしても、それがその人の外部で定義づけられた条件や基準だとしたら、確かにそんな条件や基準にその人の意向が反映しているとは言えないだろうが、未だその条件や基準の内容が明かされていないのだから、そんなのは自分にもわかりようがないだろうが、わかりようがなくても勝手に外部で条件や基準が定められて、それに合致しなければどんな意見や考えを表明しても、その条件や基準に合致しない限りは相手にされない場合もありそうで、その意味するところがそういう範囲内での定義づけに起因して導き出されているなら、自分などは全くの無関係となってしまいそうだが、それでも構わないというか、その方がかえってありがたいのだろうが、それに積極的に関わろうとしているわけではなく、むしろそこからちょっと外れたところからそれについて考えているわけだから、それとこれとが全く接点がないとも言えないが、とりあえず無視していれば済んでしまうわけで、実際に無視しているのに、執拗に付きまとってくるわけでもなく、付かず離れずそれについてはちょっとだけ注目しているわけだから、別に何でもないと言えばその通りなのだが、それに関して何も言わないわけでも述べないわけでもなく、気が向いたらちょっとだけ触れる程度にとどめておくのが無難なように思われるのだから、あまり積極的にそこへと関心を向けているわけでもなさそうで、それでも何かしら語る材料を探す上で、それもちょっとだけ役立てているようにも感じられる範囲内では、何かと重宝しているのかも知れず、その程度の付き合いであれば許容できそうな気もしてくる限りで、やはりちょっとだけの利用にとどまっているなら、それをそれほど意識しているわけでもなくても、あまり重視しているわけでもなくても、何となくそれなりに影響を受けているようにも感じられて、それが最優先事項であるはずもないのはわかりきったことだが、それ以前に自らが何にこだわっているのか、そのこだわりについてはあまり深く考えたことがないというのも嘘かも知れないが、それが生きていく上での最優先事項というわけでもなければ、物事を考える上でも何か行動を起こす上でも優先していないなら、やはりそれにこだわることを特に優先しているわけでもないのに、それでも優先しなければならないことがあるとすれば、それが何なのかと考えるまでもなく、何かしらメディアから伝わってくる様々な立場の人の言動の中に、これといって目立つような共通のこだわりがあるとしたら、それが何なのかというと、どうもそれが自分にはお呼びでないようなところから生じてくるこだわりのようで、それには直接触れてはならない危険物であるような感じもしないではないが、それに言及するを避けることで、ここまで大した内容もないようなことを述べてきたような気がするのだが、そんなことには今後も触れずに済ますのが無難なようでいて、なぜか唐突に気が変わってそれについてあからさまに言及してしまう時もくるかも知れないが、そうはならないことを祈っているわけではないのだが、何かの事故か事件に遭遇してしまえばそうなってしまうかも知れないし、それが事故でも事件でもなければ、その時には気づきもないかも知れないが、その時になってやっと自分が何を優先していたのかが、自分でもわかるかも知れず、そうなってからそれに気づくようでは手遅れかも知れないにしても、気づかないよりはだいぶマシかも知れないし、できればそうなる前に気づいてほしいのだが、たぶん鈍感だから手遅れになっても気づかないのかも知れず、何に気づくわけでもないままに死んでしまえば、その方が幸せだと死んだ後から気づくこともないだろうが、今でもそれが最優先事項だとは気づかないままに生きているわけで、それが必ずしも自分が生きて行く上での最優先事項だとは限らないから、それに気づかなくても生きていられるのかも知れないが、生きていられるだけでは済まないようなことであれば、生きている以上に重要な何かに気づかないのかも知れず、それに気づかないまま生きていられるのだから、生きていることに関してはそれほど重要ではない可能性も捨てきれないが、では何に関係する方面でそれが重要視されているのかというと、それに関するヒントがメディアから伝わってくる情報に含まれているとしたら、それらの情報を分析して答えを導き出すという謎解きのような行為がどこかのメディア上では重視されているのかも知れないが、それが自分の知らないメディアではないとしたら、日頃から頻繁に利用しているメディアの中に答えが隠されているような気がするのだが、そんなその場限りの口からでまかせのような嘘をついてまで謎があることを仄めかす必要があるかというと、今のところはその必要も切実さも感じていないのだから、たぶんそんな架空の謎を解くことも目下のところは最優先事項ではないような気もするわけだが、では謎を解く前にしなければならないことが何なのかというと、少なくとも何が謎なのかをはっきりと提示しなければならないとは言えないが、何かしら考えなければならないことを提示するのが最優先事項だと思うわけでもなく、そうではなく考える暇があってしかも何かしらこだわりを抱きながらも考えている人々こそが何も考えていないことを明かす事例としてメディア上で提示されているのが何なのかということが、今日もメディア上でそれについて執拗に強調されて煽り立てられながらも的外れなことが語られているのかも知れない。
8月7日「人が人気を博することの意味」
常識的な範囲内で起こっていることとして、メディアで良識ある人々から批判されている対象というのが、簡単に批判できる人物やその人物が率いている政治勢力であれば、なぜそんな人物やその勢力が大衆市民社会の中で人気を博しているのかといえば、安易に気軽に好感を持てるからと言ってしまうと、その裏返しとして安易に気軽に批判できるということになるだろうが、そういう批判の延長上で神谷宗幣や参政党などが愚かで浅はかな人々から支持を得られている一方で、それを批判しようと群がってくる良識派のメディア関係者がいるという構図が、大衆市民社会の中ではよくありふれた一過性の流行現象となるだろうが、その昔、田中角栄が日本列島改造論をぶち上げて大衆的な人気を博していた時にも、何を馬鹿な暴論を言っているんだと良識派から批判されていたはずだが、その田中角栄がロッキード事件の罠にハマって失脚した時も、これで金権腐敗政治が一掃されるんじゃないかと多くの良心的な市民が期待したはずだが、結局は田中角栄の金権腐敗政治との訣別を目指して対立していた自民党内の別の派閥の清廉潔白な清和会なんかも、それから何十年か後には裏金問題で良識派のメディア関係者から批判されるに至り、何かが繰り返されているような感じがするが、その種の流行現象に踊らされる人々は、例えば戦前戦中の日本の軍国主義時代には、軍部の大本営発表に浮かれていただろうし、皇国史観や八紘一宇や教育勅語などの軍国プロパガンダを熱心に信仰する愚かで浅はかな人々だと良識派からは軽蔑されていたかも知れないが、それらの人々を馬鹿にしたり軽く見ては行けないと思うなら、ではその種の流行現象に警戒しなければ行けないかというと、警戒しても周期的に巡ってくる現象なのかも知れず、しかもそれを批判する良識派の言動も表裏一体となって流行るわけだから、それらに対する物事の一面的な理解にとどまっていると、その種の流行現象を構成している表と裏の関係に気づかないことになってしまうのかも知れず、現状では表側で脚光を浴びている神谷宗幣や参政党に対する安易な批判目的で世間の関心が集まっているとしても、そういった流行現象をもたらしている背景に目を向ければ、世の中の状況や情勢が変化する際には、絶えずその変化する方面とは逆の方面に大衆の目を向けさせておいて、変化の邪魔をさせないように仕掛けたり仕向けてくると考えるとしっくりくるかどうかは何とも言えないが、後から振り返って総合的に考えると、そんな気がしないでもなく、その種の流行現象に浮かれている人々の意識が、時代錯誤や時代遅れな感覚に囚われていると思われるわけでもないが、時代が未来へ向かっているのに意識が過去に遡って、都合良く歪めた過去の歴史を賛美するような成り行きになってしまって、そう考えると田中角栄の日本列島改造論なんかもルーズベルトのニューディール政策の焼き直しみたいだし、さらにそこから最近ではれいわニューディールだとか掲げて妄想を抱いている人々も一部ではいるらしいが、それらとは明らかに次元の違うAI革命が世界的に進行中なのに、しかもその前のIT革命でさえ、日本ではそれを無視して消費税が悪いんだの一点張りな人々も一部ではいるようで、なぜか現状で進行中の変化には目を向けさせないようにする配慮が蔓延しているわけで、そうする意図が何なのかなんて、そんなふうに仕向けている当事者にもわからないのかも知れず、それが人々の集団的な無意識の中で働いている可能性もありそうだが、だから参政党などが時代錯誤な憲法草案などを示してきたら、それをメディアの良識派などに批判させることによって、大衆の目を現在進行形で変化している世の中の成り行きから遠ざけるための配慮なのかも知れないとも思ってしまうのだが、もちろん参政党の関係者が意識してそんな効果を狙って仕掛けてきているわけではないことは十分察しがつくのだが、集団的な無意識のレベルで否応なくそうなってしまうとしたら、何か薄気味悪さを覚えると共に、現状で進行中のAI革命に人々の意識が向かってしまうと、進行の妨げになって邪魔をされてしまうから、誰がそう思っているわけではなくても、自然にそうなってしまうのかも知れず、それは現状でウクライナやパレスチナなどで進行中の戦争でも、戦争を利用してパランティアなどの企業のAI技術が試されているのに、メディアの良識派はそこには目を向けない代わりに、悲惨な戦争を終わらせなければならないとか残虐な行為を非難するとかの人道的な方面からしか言説的なアプローチができないわけで、それも第一次と第二次世界大戦によって産業の技術革新が進展した成果など強調できないことと同じような傾向かも知れないし、そんな産業の技術革新などとは真逆の皇国史観や八紘一宇や教育勅語などに関心を寄せていた当時の大衆にも言えそうなことだが、例えばテスラがAI技術を利用して自動運転の実現を目指したFSDに関する事故でも、まだその技術が発展の初期段階の六年も前の人身事故に関連して数百億円の賠償判決が出たとセンセーショナルにメディアが伝えるわけだが、その詳しい内容を読むと、運転手がFSDを動作させた際には決まりではハンドルに手を置いて前方に注意しながら運転しなければならないのに、スマホを床に落として拾おうとしているうちに時速百キロ近いスピードで交差点に侵入してしまったのだから、普通に考えて死亡事故につながるのも当然のことのように考えられるが、裁判では三分の一はテスラに責任があることになって、日本では考えられないような数百億円を賠償するような判決が出て、その賠償金の額の異常な高さがセンセーショナルに報じられて、人々の意識にAI技術がいかに危険な技術であるかを刷り込むような効果を想像してしまうのだが、別に裁判官も陪審員もそんなことを意図して判決を下したわけでもないはずだが、結果的に何か陰謀論のような妄想を抱きたくなってしまうわけで、そんなふうにしてそれとこれとは全く関係ないような意図や思惑を想像できる限りで、現状のメディア的な範疇で多くの人々が関心を向けている方面とは違う方面に物事の本質が隠されているような気がするとしたら、果たしてそんな方面にまで意識を向ける必要があるのかないのかもよくわからないにしても、そこで煽り立てられて騒ぎ立てられているメディア的な話題には何となく疑念を抱かざるを得ないような不可思議な感覚に囚われてしまい、どうしてもそれをそのまま真に受ける気にはなれないわけで、だからといって単純にメディア経由の煽動には騙されるなと警鐘を鳴らしたいわけではなく、ちょっとそこから思考を巡らせて、話題となっている物事を重層的にかつ回りくどく考えたくなってしまうのだが、考えたところでこんなふうに意味不明な文章を構成するに至るだけで、他に何がどうなるわけでもないのだが、そこで批判の対象となっている人物や勢力にしても、批判している人物や勢力にしても、単純には世の中の変化に伴って踊らされているに過ぎないとは言えるが、それらの人々を馬鹿にしたいわけでも見下したいわけでもなく、ただ単に思考するきっかけを提供してくれるありがたい人々だと思っている以外にも、何か自分でも気づかないところで生きる糧を与えてくれているのかも知れない。
8月6日「勘が狂っていること」
判断に迷ったら、とりあえず勘に従うしかなさそうで、勘に従って感触が良ければ、たとえ結果が思わしくなくてもその場ではそうだが、それがどう考えても合理的な判断ではなくても、それが不合理なのか非合理なのかはよくわからないが、勘に頼った行動や言動を優先させるしかなく、そうでなくてもどうせ結果を都合の良いように解釈してしまうのだから、そういうところは感覚的に譲れない事情がありそうで、なぜそうなってしまうかといっても、逆に勘に逆らって物事を合理的に判断して自分でも納得できる行動や言動になってしまうと、どうもそれがその場その時の自分の都合で判断していることに気づかないわけではないのだが、合理的に判断しているつもりなのに、なぜかひどい結果がもたらされて痛い目に遭ってしまうわけで、要するに自分にとっての合理的な判断がその場の状況や情勢の中では通用しないということなのか、あるいは通用しているからひどい目に遭ったり痛い目に遭ってしまうのか、その辺のところもよくわからないのだが、それとは逆に勘に頼って結果が思わしくなくてもそれで構わないようなことになってしまうのだから、そういうところが自分には理解不能なのだが、自分を納得させようとして、納得するのに都合の良い判断材料だけを探し出してきてしまうのかも知れないし、それを合理的な判断だと勘違いしてしまうのかどうかもよくわからないが、そんな過去の経験や体験を踏まえているかどうかも怪しいのだが、最近ではできるだけ物事を合理的には考えないように心がけているようで、自分で勝手にもっともらしくこうだと思い込む手前で立ち止まって、そこで判断停止するようになってしまったようなのだが、果たして今回はこれで良いのか悪いのかと判断したくなるのだが、たぶん合理的に考えるなら悪いに決まっていて、判断停止なんかしていないでさっさと合理的に考えるなら最善の判断を下せば良いのに、なぜか躊躇してしまうわけで、このままでは手遅れになってしまうのが見え見えなのに、勘に従うなら手遅れになるまで放置しておいた方が良さそうに感じられるのだから、なるほどこうして多くの人が最善の判断を下せずに手遅れに追い込まれてしまうのかと、まるで他人事のように感じてしまうのだから、どうやら自分も勘に従って手遅れになるまで事態を放置してしまう成り行きに傾きつつある過程の中で、こうして判断を下すのをためらっているらしいから、たぶんこのままでは手遅れになってしまうのだろうが、それが自分だけの都合であるならそれで済んでしまうところなのかも知れないが、後はここから他人が強引に介入してきて自分の判断をねじ曲げたり無効化することによって、結果的に自分が救われたり助かるしかないのかも知れず、要するに他力本願が期待されているのかも知れないが、それを自分が期待しているのもおかしいのだが、それも今のところはそうはならないような気がするわけで、それでも結果的に自分が救われたり助かるなら、結局は自分の勘に従った結果として一時的にひどい目に遭ったり痛い目に遭ったりするかも知れないが、それでも構わないようなことなのかも知れず、しかも別に自分が救われるわけでも助かるわけでもなく、救われないし助からないからそれでも構わないということなら、では何なのかといってもよくわからず、よくわからないままうやむやになってしまえば、そういうことだと悟るしかないのかも知れないが、それも悟るようなことでもないのかも知れないし、何でもないと思うしかないことなのかも知れないが、自分にとっては今のところはそうであっても、なぜか今はそんな成り行きに従っておいた方が良いと自身の勘が知らせているように感じられて、それも勘違いな勘かも知れないが、かえって勘違いであった方が都合が良いのか悪いのかもよくわからないし、誰の都合であってもどちらであっても構わないようなことなのかも知れないが、何かメディアでもっともらしい見解を示すような成り行きには逆らいたいわけで、それが合理的に考えてもっともらしいのか、あるいは理性的に考えてみたり倫理的に考えてみたりもしながらも、どう考えてみてもよくわからないようなことかも知れないが、ただ漠然とそんなふうに当てもなく考えるのではなく、何か目的があってその目的に照らして合理的か否かと考えるなら、その目的の優先順位が他の何にも優先して切実にやり遂げなければならないことなのかどうかも定かでないなら、取り立てて合理性だけから判断するようなことではなく、もっとゆるい基準で判断するのが面倒くさいなら判断しなくても構わないような、たとえその判断を怠ったからといって、致命的な事態にならずに済むと判断するなら、別に無理に判断する必要もなさそうだが、それが今ここで判断しないと将来において手遅れとなって後悔するようなことだとしたら今ここで決断した方が良さそうなのだが、どうもそれが結果的には手遅れとなってから後悔するような成り行きに持って行った方が都合が良さそうに思われるなら、なぜそう思うのかが謎なのだが、今のところはそれがわからないわけで、何かこの先思いがけないことが起こりそうな予感がしているとしても、そんなのも勘違いの最たる予感なのだろうが、何か致命的な過ちや誤りを犯していそうなのに、勘に照らし合わせるとそれで構わないようなことらしいのだから、それ以上は何だかわからないし、わかる手立てもヒントもきっかけも今のところはなさそうに思われるのだから、このままの状態で事態を放置するしかないと判断していることになるのかならないのかも謎だが、要するに消極的には判断していることになるらしいのだが、それが積極的にこうしなければならないと行為や行動や動作を決定するには至らないような感じなのかも知れず、そういうところがみすみすチャンスを逃しているというか、それをスルーしておけるだけの余裕があるような気もして、それも勘違いの症例に過ぎないかも知れないし、案外自分にはもはや未来も将来もないから、焦って目の前にぶら下がっている餌付きの釣り針に食らいつくのはやめておいた方が良いと勘が知らせているような、守護霊か何かが行動を止めにかかっているような感じなのかも知れないが、それを餌付きの釣り針だとか酸っぱい葡萄だとか否定的に捉える必要もなさそうにも思える一方で、ただ単に多額の出費を伴いそうだからセコい損得勘定が働いているだけかも知れないし、ここから後何年かが経過してみて、自分がもう手遅れだと悟るような事態になってみないことにはわからないことがあるらしいから、今はそうなるまで待っていた方が無難に思われるのかも知れず、だから今のところは生きつつもあり死につつもある過程の中で毎日を過ごすしかやりようがないと思っていれば、やがてその時が到来してから、あの時点で決断しておけば良かったと後悔するような体験が待ち受けていそうな予感もするのだが、とりあえず今は自分の勘に従っておいた方が良さそうに感じられるのだから、そうなるしかないとあきらめる方向に傾きつつあるのではないか。
8月5日「焦燥感とは裏腹の感覚」
相変わらずいつものようにそれが何だかわからないのに、今のところはそれをうまくかわしているような感覚なのだが、かわしているように感じられるだけで、実際にはその逆なのではないかと心配になってきて、今はそれでうまく行っているような気がするとしても、それが短期的にはそう思われるだけで、中長期的にはそうではなくなるとしたら、事態を深刻に受け止めなければならないのではないかと不安になってくるが、得体の知れない何かによってそんな気がするように仕向けられているのかも知れないし、しかもそれが何かの罠にかかっているような状態ではなく、将来のどこかの時点で何かの岐路に立たされるように持って行かれているのではないかとも感じられるのだが、それが何の岐路なのかも今ところはよくわからないし、そんなふうに自分を誘っているのが何なのかもよくわからない状況の中で、自分が世間的には重要人物でも著名人でも何でもなく、他の誰からも無視されるような存在でしかないとしても、それでも構わないようなことだとは思うのだが、感覚としては何を述べても余計なお世話で、どうということはない内容でも何でもいいのだから、勝手に何を指摘しても構わないだろうが、だからといって特に何を指摘しているわけでもなく、そんな自分とは違って、目一杯後ろ向きに過去の何を重要視しても、それはすでに過ぎ去った出来事なのではないかと疑念を抱くほどに、過去の何かを利用して現状を都合良く理解したい人もいくらでもいそうな中でも、共産党の志位さんは相変わらず『資本論』から現代を読み解くスタンスらしく、傾向としてはだいぶベタなノリのようだが、そんなふうに感じてしまう自分も、相変わらず新自由主義的な視点から現代を読み解こうとしているのかも知れないから、視線が過去から現代を通して未来を見ているようなありふれた構図というか、フィクションの遠近法に囚われている可能性もありそうで、それの何がフィクションで遠近法の何が虚構なのかも、わかりやすくは説明できないが、結果から原因を推察してしまうのが錯覚と言えるかどうかも微妙なところだが、人の思考形態がそうなっているのだから、そんな思考形態自体に特有の限界や制約があるらしく、マルクスから派生したマルクス主義についても、それが独裁体制下でも民主体制下でもどちらでも機能するのだから、かつてのソ連やその衛星諸国でも、今の中国でもベトナムでも北朝鮮でもキューバでもマルクス主義の精神が息づいている一方で、民主的な左翼リベラル体制の欧米諸国や中南米諸国でも同じくマルクス主義の精神が息づいていると受け止めておくのが、無難な現状認識には違いないが、そんなマルクス主義に欠けているのが国家を統治するテクノロジーだと誰が言ったか知らないと嘘をついたところで、だから独裁体制下でも民主体制下でもマルクス主義が機能して、その際限のない財政拡張政策によって政府の財政破綻が起こると否定的に事態を捉えてみても、では他にやりようがあるのかと問うなら、そんな財政破綻を回避するために定期的な新自由主義への揺り戻しが起こるのだと利いたふうな意見を述べてみても、多くの人は納得し難いかも知れないが、それもそんな結果を語るのに都合が良いように現実を歪ませて解釈している可能性も捨て切れないが、そこで理解しなければならないのは、マルクス主義についてもその欠陥を補完する新自由主義についても、それ単体では成り立たないということであり、両立しそうもないマルクス主義と新自由主義とが時間差を利用して、交互に一方が優勢となったりもう一方が退潮傾向となったりしながら、変わる変わる現れるわけではなく、顕在的な領域と潜在的な領域でそんな傾向が絶えず機能し続けることになりそうだが、それをあからさまにマルクス主義と言ったり新自由主義と言ったりはしないだろうが、例えばイギリスの労働党政権下でホームレスの増加に歯止めがかからない状況となっていれば、住宅建設に政府が乗り出すような成り行きとなって、それをマルクス主義的な傾向だとは言わないし、アメリカのトランプ政権下での減税や規制緩和や福祉予算削減の傾向を新自由主義だと直接には言わないはずだが、政府が財政破綻しない範囲内で住民への行政サービスを充実させる程度のことを、マルクス主義だの新自由主義だの特定の主義主張を用いて説明するまでもないことである一方で、それを〇〇主義に絡めてもっともらしく説明すると都合の良い幻想を抱ける程度のことだと軽く考えるのも、何か〇〇主義を馬鹿にしているような気になってしまうのだが、それを批判に利用したい者がマルクス主義を全否定したり逆に新自由主義を全否定するようなことを言い放ってしまうのも、それがフィクションを物語っていることにはならないにしても、攻撃的な口調で左翼リベラル勢力などを罵っている者たちの主張内容をさらに批判に利用するような過程の中で、果たしてそんなありふれたフィクション批判を真に受けても構わないのかと疑念を抱くなら、真に受けていれば安心できるが、それをうまくかわし切れていないような気がするなら、現状の世の中の成り行きがそう思わせると思っておいても構わないような気がするわけで、だから何だと問い返すようなことでもないが、有名な書物の威を借りて何かもっともらしい現状認識を示すようなこけおどしに引っかかるほど、それらの書物を重視しているわけでも精通しているわけでも重点的に読んでいるわけでもないなら、そんな書物の中に現代が直面している問題や課題を解決するためのヒントや答えが隠されているかのような幻想を抱くのも、そんな幻想を抱いていれば安心できる一方で、その種の問題や課題が未だに解決されていないから、まだそれに取り組むための時間や余地が残されているかのような幻想を抱いてみるのも一興だと、またもや現状を都合の良いように解釈していれば、それが暇つぶしのための思考する対象となってしまうことは確かだが、一言おじさん的にもっともらしいことを言い放ちたい病に罹っているわけでもなければ、何かこれまでになかった有名な書物の中にも示されていない新たな現状認識を示したい誘惑に駆られることも衝動に突き動かされることもないはずだが、これといって何を述べられるわけでもなければ、何も述べなくても構わないのではなく、何も述べられないことを再認識するわけでもなければ、何かを適当にいい加減に述べていれば、述べている過程で自ずからわかってくることもわからないままになってしまうこともあるらしく、しかもわかったことを示すのではなく、わからないままになっていることをこれだと示したい衝動に駆られているわけでもないのだが、逆に誰もが納得してしまうようなありふれた見解や認識をもっともらしく感じられるから信じてしまうのも、そういうのはただ単に多くの人々と同じような幻想を共有しているに過ぎないから、そういう幻想を自分もそれと自覚せずに信じている前提を意識しておかないと、そういう共同幻想の心地良い安心感に浸っていることにも気づけないのかも知れない。
8月4日「考えるきっかけと語るタイミング」
ただ漠然と現状について考える上で、考える理由もよくわからないままに、何か見落としていることがあるかも知れないと疑うのも、そういうことではないとしたら何なのかと強引に何を問うわけにも行かないが、それがことではなくものなのではないかと疑ってみたところで、まだ言説の対象と範囲が定まらないようで、機会を捉えて何かやると考えてみても、何をやる機会なのか事前にはわからないのだから、その機会がいつ巡ってくるかも皆目見当もつかないとしたら、何もやりようがないと疑念を覚えるかも知れないが、それを否応なくやらざるを得ないように自分で自分を追い込んでみるのも、苦し紛れにそんなふうに考えている感が半端なく、そんなやり方では失敗するに決まっているとやる前から逃げの姿勢をとってしまうなら、ただ単にそれをやりたくないと言えそうだが、しかし何をやりたくないのかもわからないのに、わざとそう思うのも嘘に決まっているが、そうなっている時点で当てが外れている可能性がありそうで、感覚的には行き詰まっていると感じるなら、そこから起死回生の逆転満塁ホームランを狙っているわけでもないが、自分で自分が何を考えているのかもわからないのに、これから何を語ろうとしているのかもわかるはずもなく、事前には皆目見当がつかなくても、不意に語ってみるとわかることも出てくるから、それが語ってみないとわからないことであり、それが予期せず予想もつかず、思いがけずにわかってくるとしたら、それが何なのかと問うなら、それについて語ってみればわかることになりそうで、語ってみてもわからないなら、わからないままになってしまいそうだが、不意に何かを適当にいい加減に語りつつあるこの時点でわかったことがあるらしく、それが何だかわからないでは話にならないが、話にならないようなことを体験しているわけで、例えば中身のない空疎な政治について語っている内容が中身のない空疎な内容だとしたら、確かに話にならないような中身のない空疎な政治について語らざるを得ないのだが、要するに直接の当事者ではない者が外部から介入しようとして、それについて語っているわけで、それについて語ることによってそこへと介入しているつもりになれるわけだから、それが直接の介入ではなく間接的な介入に過ぎないことだが、本当は介入しているのでもなく、ただそれについて語っているに過ぎないことを明かし立てているようにも感じられて、そんなのは介入とは言えないのではないかという疑念も生じさせているわけで、それが語る必要も必然性もないことについて語っていると受け取られかねないと危惧したいわけでもないが、大抵は直接には関係のない外部から余計なお世話で語っていることになるから、当事者であればそんなのは無視していれば済んでしまうことだと思いたいのかも知れないが、それが無視できないことだとしたら、語っている内容が痛いところを突いているから当事者がうろたえると思いたいなら、語り手がそんな勝手な願望を抱いていることになるから、当事者がうろたえるようなことを語りたいと思っているのかも知れないが、相変わらず政治活動をやっているつもりの当事者には無視されたままになっているのかも知れず、だからいくら当事者をうろたえさせようと意図してこれ見よがしなことを語っているつもりが、全く相手にされていない現状もあるらしく、それも確かに面倒な輩は相手にしないに越したことはないわけで、そんな当事者からは相手にもされていない空疎な語りの内容が興味深いわけでもなく、実際にも興味がないから当事者からは無視されているのかも知れず、それで構わないのならそういうことだと受け止めておくしかないのだが、それでも何か見落としていることがありそうな気がするのだが、ことではなくものだとしても、事でも物でもどちらも見落としていても構わないのかも知れないが、何かのきっかけからそれが見出されたタイミングでそれについて語るつもりになっているとしたら、そんなことではないと思うのも当然かも知れないが、人や集団が直接には経済活動をやっているわけだから活動の中身が空疎であるはずがなく、自身に関係する物や情報やサービスのやり取りを直接的にも間接的にも行なっている限りで、それが経済活動の中身なのだろうから、それについて語るなら直接にはその経済活動の実態について語るしかなさそうだが、それがそうではないとしたら、例えば現実の世界ではあり得ないフィクションを語るしかないとも思えないが、たぶんそこから感覚がずれてしまうのかも知れず、しかもずれている自覚がないわけではなく、否応なくずれてしまうことがわかっていながら歯止めがかからないわけで、それについて語っているうちにそうなってしまうのだから、意識して積極的にずらしていると思っているわけでもないだろうが、実際に語っている内容が空疎なフィクションでしかないなら、それを認めざるを得ず、認めている自覚もないのだろうが、語っている内容がそう受け取られても仕方のないような無内容なのだから、そうなってしまう現状をどうすることもできないことを世間に向かって知らしめるような結果に陥っているのかも知れず、それもそれを受け止める側の受け止め方次第な面もありそうだが、何かそういうところで他にやりようがないのかと納得できそうなやり方を模索しているのかも知れないが、現状ではそれが見出されていないように感じられるから、何となくそういうことしかできないし、そんなふうにしかやりようがないとあきらめかけているのかも知れないが、何をあきらめようとしている自覚もなければ、無意識のうちにそうなってしまっていることでしかなく、自覚できないのだから意識してそんなふうになっているわけでも、逆に積極的にそうしようとしているわけでもないのだろうが、否応なくそうなってしまうとしたら、そうやってうまく嘘な語りの無内容を利用して危機的な状況を乗り切っていると肯定的に受け止めても構わないかというと、何か自画自賛というか自業自得なのに窮地に陥っているわけでもないというか、至って平然と平常心で事に対処しているつもりにもなれるのかも知れず、実際にそうなっているとしたら、それで済んでいることになるのだろうが、それが済んでいるのではなく済ませているのかというと、たぶん自力でそうなっているのではなく、自力とも他力とも言えないような外部からの働きかけを利用してそうなっていると言えるようなことかも知れず、そんな外部からの働きかけがそう都合良くもたらされるのかというと、それも結果的には偶然の巡り合わせのようにしてもたらされるわけで、実際に今もそれがもたらされているからこうして生きていられているわけで、ではいったい誰がここで生きているのかというと、それも結果的には誰もが生きていて、また誰もが死につつあるのだろうが、死につつあることを誰も自覚しようがないから、生きつつあることも何かの機会に実感することもあるだろうが、普段から実感するようなことではないだろうし、その必要もそう感じる必然性もないことなのではないか。
8月3日「幸福の指標と尺度」
そんなことには興味がないなら無視すれば良さそうだが、無視できないとなると、無視できない理由や事情が何なのかと考えてみるが、その理由次第では興味がなくてもそれについて語らざるを得なくなるとも思えないのだが、何に興味がないのかについてはなぜかそれも直には語れないらしく、また例によってこんがらがった事態に直面しているのかも知れないが、それが嘘だと思うなら、興味のないそれについて語ってみれば良さそうで、それが何だかわからないでは嘘に違いないが、嘘について語ってみれば、間接的にそれを語っていることになるのかも知れず、結果的には何だかわからないことについて語っていることになっても、何かしら語っていることになりそうで、その過程では何について語っているのか、語っている当人にもわからないとしたら、例えばそれが幸福について語っていることになるかも知れず、人がどんな状態になっていれば幸福だと言えるのか、客観的な指標など全く思いつかないわけではないにしても、例えば人やその家族の収入が多いか少ないかで、収入が多くて裕福な人やその家族が幸福で、収入が少なくて貧しい人やその家族が不幸なのかと、単純に収入が多い少ないというわかりやすくて客観的な指標からそんなことが言えるとしたら、場合によってはそんなのは嘘だと実感できるような境遇や機会もありそうで、幸福や不幸を実感できた人の個別的な事例や事情を持ち出せば、必ずしもそうではない場合などいくらでも出てきそうだが、原因と結果の因果関係を持ち出せば、何かをやった結果として幸福を実感できる場合もあるかも知れないし、これといって何をやっている自覚もないのに幸福を実感できる場合もあるかも知れないが、何かをやって幸福を実感できた人がいるなら、そういう事例を知った他の人が幸福になりたいなら、その人もそれをやればいいと安直に考えたくなってしまうが、それをやったからといって、必ずしも幸福を実感できるとも限らないとしたら、単にそれをやるかやらないかで幸福になれるかどうかが決まってくるわけではないということになりそうだが、やる以前にも誰もがそれをやれるわけでもできるわけでもない条件もありそうで、やろうとしてやっても、やっている途中でうまく行かなくなる可能性もありそうだが、そんなわけで誰かがそれをやった結果として幸福を実感できたとしても、それがその人に特有の状態や状況や情勢の中で幸福を実感できたに過ぎず、他の人が囚われている状態や状況や情勢の中では、必ずしも幸福を実感できるとも限らず、それ以前にその人がそれをやれるかどうかもはっきりしないなら、それをやる成り行きにも至らないかも知れないから、そんなことには興味がないなら無視すれば良さそうだが、そういう個別的な事情や経緯ではなく、一般論として貧乏人が不幸で金持ちが幸福に見えるなら、普通の感覚としては生まれながらに金持ちでなければ金持ちになろうとするだろうし、金持ちになるにはどうすればいいかと単純に考えてしまうわけで、それが実際には金持ちになろうとしても簡単になれるわけではないことを実社会の中で思い知るだろうし、また苦労して金持ちになったとしてもそんなに幸福感に満たされるわけではないことも思い知るかも知れないから、一般論では語り尽くせない個別の事情や事例が出てくることも想定の範囲内だろうが、だからといって一般的な幸福の指標として収入が多いか少ないかとか十分な資産があるかないかとかが挙げられることには変わりなく、単純に幸福になるには収入や資産の最大化を目指すような感じになってしまうだろうが、そんな目標を掲げてそれを達成できる人も限られてくるだろうから、ありふれた結論としては、誰もが金持ちになれるわけでもないし、誰もが幸福になれるわけでもなく、金持ちになれたとしても幸福になれるとも限らず、逆に貧乏人であっても必ずしも不幸だとも限らないかも知れないし、そんなことは誰もが想像がつく結果になりそうだが、想像できても想像通りの結果にもならないこともわかりきったことにはなるだろうが、実際には幸福であっても幸福のままではいられなかったり、今は不幸でも何かのきっかけから不幸な状態から抜け出せるかも知れないし、そういうことまで考慮に入れるなら、国別の幸福度なんかを持ち出して、現状の日本の幸福度が相対的に低いから、そんな状態を改善しなければならないと問題設定する政治勢力の主張をどう捉えればいいかなんて、政治的な主張としてはそうならざるを得ない事情があるにしても、何か嘘っぽくて実感が湧いてこない問題設定であり主張のような気がするわけだが、ではそういうことではないとすると、問題は何なのかというと、それも一般論としては公平公正な税負担となっているかとか、金持ちでも貧乏人でも誰でも一定の範囲内で学校教育を受けられるかとか、また誰でも行政サービスを受けられるような制度になっているかとか、さらにはそんな行政サービスの範囲内で誰でも必要最低限の生活を送ることができるかとか、そういうことの延長上で全ての国民が幸福な生活を送るにはどうすればいいかという問題設定になってしまう限りで、何かと財政的・制度的な限界や矛盾などが出てくるわけだろうが、それがまたしても一般的には必ずしも政府の運営に伴う財政的・制度的な限界とか矛盾とは言えないレベルでも、幸福という意味や概念から生じてくる特有の限界や矛盾もあるから、そういうところがごっちゃになっていることを考慮に入れないと、何かわけがわからなくなってしまうのかも知れず、それが何なのかというと、要するに他人が不幸な境遇にあると感じられると、それと比べて自分が幸福な状態だと感じられるようなことであれば、そんなことの延長上で他人が貧乏な暮らしをしていて不幸に見えるなら、それと比べてそれほど貧乏な境遇でもない自分が相対的には幸福な状態だと感じられたり、逆に金持ちの他人が羨ましく感じられるなら、それと比べてそれほど金持ちでもない自分が不幸な境遇にあるような気がするのかも知れないし、世界には飢餓や戦禍や貧困や自然災害に見舞われて悲惨な国や地域がある一方で、それと比べて日本の現状がそれほど悲惨だとも感じられないなら、まだマシなレベルで相対的には幸福感を覚えるかも知れないし、逆に一人当たりの賃金が大半の欧米諸国や隣の韓国や台湾よりも低いから、日本が相対的に貧困化していると感じられるなら、日本人は不幸なんじゃないかと思われるかも知れず、そうなると幸福感を感じるには不幸な境遇にある人や国や地域が必要とされる一方で、逆に羨ましいと思われる他の人や国や地域の存在が自身や自国の不幸を実感するには必要となってきて、結局は他との比較でゼロサム的な基準を設定すれば幸福か不幸かを判断できるようなことにもなりかねず、何となくいい加減な感覚に起因してそんなことを思ったり感じたりしているに過ぎず、そうではなく全ての人が同じように幸福であれば、そういう状態から幸福か不幸かの判断などできないし、世の中には常に金持ちか貧乏人が存在していて、どちらが幸福か不幸かの状態や程度の差異や格差の認識がないと、幸福とか不幸とかの意味や概念も生じてこないと言えるのかも知れない。
8月2日「戦略的な言動への疑念」
人を騙すというか欺くというか、疑わしいのは戦略的な立ち振る舞いに及んでいる時であり、何か良からぬ魂胆や思惑があってそう振る舞っていると想像してしまうと、そんな人の主張や意見や言っている内容を真に受けるわけには行かなくなるのは当然のことだが、そういう人にそういうことをやらせている状況というか成り行きというのもありそうで、その人の立ち振る舞いや言動が見せかけの何かを演じているように見えたり感じられるようなら、状況証拠的にそれがその人の立場や境遇から想像されてきたり、その意図や思惑などを推測したり類推したくなってくる何かがあるのかも知れず、それがそんなふうに見えたり感じられたりする側の勘違いや思い違いや誤解なら、そんな人物に対して穿った見方をし過ぎていることにもなりかねないが、そうなってしまう人の心の内を探りたくなってくるのだから、しかも当人が自覚せずにそうなっている可能性もありそうだから、無意識の言動から疑われてしまうことかも知れないが、そうなってしまうその場の成り行きがそう思わせるのであって、それが起因して表面上は当たり障りのないその場の成り行きに沿ったことを述べているように見えても、それが人を騙すような欺くような戦略的な立ち振る舞いのように感じられてしまうなら、大抵は政治に関する言動や言説になるほどそう思われて、そういう言動や言説を繰り出す当事者が疑わしく思われるわけで、現状でそんな疑いの対象となっているのがポピュリスト的な物言いを多用する政治家やその応援団を買って出るメディア関係者になるだろうが、それを批判するメディア関係者や識者などの言動や言説の類いにも疑いの目を向けたくなるとすれば、それも勝手にこちらが疑い過ぎな感じもしないではないが、金儲けというのが人を騙したり欺いたり出し抜いたりして利益にありつくという邪な感覚になれるかどうかも、また労働の対価として賃金を受け取るという正当なやり方にどれほどの信頼を置けるかということも、そんな中でも部分的に都合の良い面だけに着目すれば金儲けを正当化できる一方で、都合の悪い面をことさらに強調して問題視する限りで金儲けは詐欺だと言えるようなことだとすれば、たぶんそういうところから思い違いや勘違いが生じてきそうだが、それを自覚せずに正義の味方を気取って金儲けに関する都合の悪い面を取り上げてわかりやすい批判に利用していると、誰もが多少なりとも金儲けに関する都合の悪い面にも関わっているだろうから、そういう批判者は多くの人々から信用されなくなりそうだが、最近の日本共産党の退潮傾向がそういうことが原因だと決めつけるわけには行かないだろうが、それよりは明らかに戦略的な立ち振る舞いに及んでいるように見えるポピュリスト的な政治家や政党に人気が出ていることに対して、見え透いたポピュリズムに騙されるなと安易に警鐘を鳴らしたくなってしまうわけで、どうもそれが戦略的な立ち振る舞いであることをわかっていながら支持しているなら、大きなお世話で要らぬお節介となってしまい、別に俺たちは騙されているんじゃない!という当たり前の返答が警鐘を鳴らす批判者への嘲笑と共に返ってくるわけでもなさそうだが、実質的にはそういうことではないのかと見ているのだが、誰もがあからさまに欲得づくを意識して行動に及んでいるわけでも言動を繰り出しているわけでもないのは、自身や自身が所属している集団から生じてくる行動や言動に正当性を纏わせたいわけで、それによって多くの人々を納得させられないにしても、そうなる成り行きに沿ったそれに応じた行動や言動であれば、そんな行動や言動を正当化できると踏んでいるから、何から何までそんな見込みに基づいて行動や言動が生じてくるわけでもないにしても、何かを言えばその中で言っている者の言っている内容についての正当化が含まれてきて、それをどう受け止めてどう判断するかも、受け止める側や判断する側の勝手にできるわけでもなく、その場の状況や情勢に応じた妥当な受け止め方や判断の仕方や在り方が求められているように感じられるなら、そんな状況や情勢にその人の心身が囚われていることの証拠となりそうだが、そこに心身が囚われているのがその場の状況や情勢の一部となっている人や団体であるなら、その場の状況や情勢の様々な面をその場に介入してくる人や集団が担っていることにもなると共に、そんな人や集団から生じてくる行動や言動もその場の状況や情勢の一部を構成していることにもなるだろうが、そういう循環論的な言い回しでそれを説明してみても、何を言っているわけでも納得できるような説明ともなり難いが、言動や言説の対象となる人や団体の非を難じるやり方が、そういうことだけに関しては正当化できるようなことだとしても、果たしてそれが功利的な思惑からそんなことが行われているかというとそうではなく、思惑として功利的な傾向よりは述べている内容の正しさを重んじる傾向が強いだろうから、正しいことを述べれば述べている自身も正当化できるかのような勘違いも生じてくるかも知れないが、たぶんそこで功利的な思惑と正しいことを述べているつもりの自身の正当性が必ずしも一致しないわけで、そういうところがわかりにくいといっても、自分でも完全に理解しているわけでもないのだが、それ以前に功利的な思惑自体も幻想に過ぎないと言ってしまうと、何となくそれも身も蓋もない話となってしまいそうだが、何かそんな成り行きに囚われているように見えたり感じられたりする人や団体から生じてくる行動や言動をそれほど真に受けているわけでも信用しているわけでもないのだが、それでも何となく鼻で笑っているような小馬鹿にするようなことでもないとすれば、確かに自分もその場の状況や情勢に囚われながら何かしら行動や言動を繰り出そうとしてもがいているような様相を呈しているのかも知れないし、それでも意識してそんな行動や言動の功利性と正当性を天秤にかけているわけでもないし、それら二つが全ての判断基準となるわけでも、それに起因して否応なく行動や言動が繰り出されるわけでもなく、なぜかどう考えても利益など得られる予感も保証もなくても正当化できなくてもそうなってしまうような成り行きにも囚われているわけで、それもそうなった結果からその良し悪しなどを判断したり評価するようなことにもならなければ、大してそれを考えてみることもなく忘れ去ってしまうようなことだと、結果的にはどうでもいいことになってしまうわけだが、どうでもいいことでは済まなくなるなら、どういうわけか功利的な判断が重視されたり正当化できるような行動や言動に持って行きたくなるわけで、それが社会的な人間関係や関わってくる物事の出し入れや生産や消費の過程で判断や評価の対象となってくれば、それに関わってくる他の人や集団に認められたくもなってくるだろうし、そういう他から認められたい欲望や願望なども絡んでくれば、自ずから功利的な傾向や正当化の程度も重要となってくるから、それに応じて否応なく戦略的な態度や姿勢をとらざるを得なくなってくるわけだ。
8月1日「一体感の源泉」
それなりに確からしく感じられることが何の理由もなく間違っているわけではなく、ちゃんと確からしい根拠が示されれば納得するしかないわけだが、その示された根拠というのが、何か騙されているような感じがするとしたら、その確からしい根拠が示される説明の内容に納得できないということになりそうだが、自分だけが納得できないとは思えないし、様々な立場の人々が制度的・慣習的な束縛に囚われながら取り組んでいることがあって、制度や慣習に囚われているからそれを利用することによって活動が成り立っている限りで、そんな制度や慣習に囚われながら生活している他の大勢の人々との間で、共感や集団的な一体感やコンセンサスや共同幻想などが共有されると、そうした大勢の人々から支持や賛同などが得られやすいと考えても構わないのだが、心身がそういう制度的あるいは慣習的な縛りによって馴致されていると、何に対して鈍感になれるかというと、思考力を使うことによって理解できるような制度や慣習とは相容れない理屈や論理に対してであり、そんな理屈や論理が社会で通用するはずもなさそうだが、ではどんな理屈や論理が思考力を要するのかというと、例えば慣習を守らせるだけでは社会を統治できないとしたら法律が必要となる過程で、法律を作る側がなぜ慣習を守っているだけではうまく行かないのかと考えることになるわけで、制度とは法律を守らせることによって成り立つ仕組みであるから、慣習を守らせるために法律を作ったり改正したりする場合もありそうで、また普通は悪習だと考えられる慣習をなくそうとしたりやめさせるために、それを禁止するような法律を制定する場合もあるから、そういうところで錯覚に囚われてしまうかも知れないが、法律によって何か強制させられるようなことがあると、それが慣習を強制させられるようなら、多くの人が慣習を守らないとそんな法律を強制する側にとっては都合が悪い場合があると考えられるし、逆に多くの人が慣習を守っていると都合が悪いなら、そんな慣習を禁止する法律を作ろうとするだろうから、そうやって法律と慣習の連携や結びつきから、何が都合が良いか悪いかで、その対象や標的となる物事に固有の理屈や論理を導き出せそうで、それに対して慣習を守っても守らなくてもどちらでも構わないような選択的な法律を作ったり改正するとなると、強制的に慣習を守らせるような成り行きを和らげたいという趣旨になりそうだが、そうなると強制的に慣習を守らせたい側がそれに反対することになるだろうが、そうなるとそういう法律を作りたい側と作らせたくない側との間で、それ相応の駆け引きや交渉やせめぎ合いのような様相を呈するだろうが、その過程では見え透いた嘘やデマを吹聴しながら慣習を強制したい側が悪質な煽動を仕掛けてくるようなことも起こりそうで、そんなやり方を許容するなら世の中で不正義がまかり通っている状態となりそうだが、そこで問題となっている慣習が何に起因して成り立っているかというと、大抵は共同体内の役割分担の固定化を目指しているなら、それに伴って男女不平等とか民族不平等とか人種不平等とか職業不平等とか地位や立場の不平等とか、不平等な関係を社会の中で固定化しておけば、有利な側の立場や利益が慣習によって守られることになり、それでは不十分なら法律によって守られるようにしておきたいだろうが、それが前近代的で時代遅れな古い慣習であり法律であることが多いわけだが、それに対して近代の法律がどうあるべきかというと、社会の不平等をなくすために法律を作ったり変更するような成り行きになるはずだが、それに対して自分たちに有利となる既得権益を守りたい側としては、不平等な慣習や法律を温存させておきたいわけで、場合によっては無理な屁理屈の類いを強引に持ち出してでも近代的な平等精神を反映した法治主義には頑強に抵抗するわけだが、そもそもがそんな傾向になっていること自体も近代的な平等精神と同時に生じてきた産業的な功利主義の産物でもあるわけだから、それらが表裏一体の関係だと言えるかどうかも怪しいところだが、意外とそれが錯覚なのかも知れず、古来から連綿と続いている伝統を守る精神が近代の産物であることに気づかない人も多いわけで、それ自体が近代の捏造物に他ならない理由が何なのかというと、自分たちの立場や地位が有利になるような都合の良い慣習を作ってそれを他の人々にも守らせたいから、それが古来からあるように見せかけたいわけで、それが近代の功利主義的な精神から生じていることに気づかないのも皮肉な結果をもたらしていて、しかもそれが功利主義そのものにも反していることにも気づかないし、そういうところで個人や集団の意図や思惑や論理や理屈が錯綜してもつれ合いこんがらがっていて、何よりもそんな慣習を推進している当事者がそれに気づかないような成り行きにも囚われてしまうから、自業自得な面もあるだろうが、それに対して何をどうすればそれらの誤解や錯覚を解消できるわけでもなく、逆に誤解や錯覚をそのままに維持しておいた方が、そういう状況の中でも有利な立場や地位を占有している側にとっては都合が良さそうに感じられるだろうが、そう感じてしまうこと自体が錯覚であり誤解なのかも知れないし、それが必ずしも有利な立場や地位とも言えなくなるような成り行きが今後到来してしまうと、そうなってから気づくようなことでもあって、気づいた時にはもう手遅れとなっていそうだが、そんな成り行きまで考慮に入れるなら、現状で有利な立場や地位を手に入れていると思われている勢力が自身の誤解や錯覚が災いして、やがて近い将来その立場や地位を手放す成り行きとなってしまいそうで、そうなるためにも今は有利な立場や地位を占有しているつもりの錯覚や誤解に囚われていても構わないことになりそうだが、果たしてそんな予定調和な成り行きになるかどうかも、全く当てにならないような不確実な未来へと誰もが社会の変容と共に向かっているのかも知れないし、将来がどうなるかなんてわかりようがないから、とりあえず現状で有利か不利かの功利的な思惑に意識が囚われてしまい、それによってその人の情念に突き動かされながら、またその人に特有の、あるいは集団に共通の慣習に囚われながら行為や行動や言動などが生じてくるだろうから、それをその人の自由意志だなんて思わない方が良さそうだが、そう思うこと自体も誤解や錯覚に囚われていることを意味していると同時に、その人が属している集団が共有しているつもりの共同幻想にも囚われていることにもなりそうだから、それらが渾然一体となって何かごちゃごちゃになってもつれ合っているように感じられなくもないが、それもこうしてそれについて述べてみると、そんなことが言える程度の大したことではなく、普段からあまり真に受けるようなことでもないから、それ自体はどうということはないわけだ。
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