彼の声162

2024年

5月5日「戦後民主主義の成果」

 戦後民主主義というと学校で行われる教育というよりは、国民全てを軍国主義的な圧迫感から解放して自由な雰囲気を振り撒いたから、それが人々の意識に創意工夫を促して、日本の戦後復興となる高度経済成長をもたらしたというのが戦後民主主義の成果だというと、何かいいことづくめな印象となってしまうが、そういう効果があったことは確からしいと思われる程度のことだと軽く見るのは、少し違うような気もするわけで、それに類することとは一見そうは思わないだろうが、カリフォルニア州のシリコンバレーから世界を席巻する巨大IT企業がいくつも誕生したのも、その地域で顕著に見られるスタンフォード大学から派生した自由な起業風土があったからと解釈すると、なるほどと頷けるかも知れず、そういうことだとすると、今の日本で経産省辺りがやっていることに自由な雰囲気を感じられるかというと、また大阪辺りで行われている維新的な行政統治に自由な雰囲気を感じられるかというと、何か微妙に違うような気がすると共に、アベノミクスの何がまずかったのかというとすぐに異次元金融緩和の副作用に目が行ってしまうが、何かその軍国主義的な圧迫感が人々の意識を萎縮させてしまって逆効果をもたらしていたと言えるかどうかもよくわからないが、そもそも自由な雰囲気程度のことがそれほどの経済効果をもたらすかというと、それだけではなく実質的な制度や法整備によって自由な雰囲気を作り出さなければならないという主張も、例えば選択的夫婦別姓の導入程度のことだけで経済効果が期待できるかどうかも、疑わしいような気もするだろうが、かつてルーズベルトが自身を賛美する宣伝映画をハリウッドに作らせたのを、ヒトラーもスターリンも毛沢東も北朝鮮も日本の軍国主義体制も真似したのに、彼らがどうしても真似できなかったのが自由な雰囲気であったことが何を象徴しているのかも何となくはわかるような気はするものの、それがどうしたと言われると返答に窮してしまいそうなのが、どう説明したらわかりやすくなるかと思案を巡らす必要があるかどうかも、何とも言えないところかも知れないが、人が何に投資するのかということが真似した人物や独裁体制にはわかっていなかったことになるわけで、それと同じことが今の日本で積極財政派を自認する西田昌司という自民党の保守系政治家にも言えることかどうかも、微妙にずれてくるようなことかも知れないものの、それも何となくそんな気がしないでもないような感じがする程度のことなのだが、それが現状のテスラ社でも最高経営責任者のイーロン・マスクのやり方が独裁体制のような雰囲気を醸し出してくると、先行きがうまく行かなくなる可能性も出てくるかも知れず、たぶんそういうところで微妙なバランスを保つというか、相矛盾する要素を両立させる必要があるというか、それを単純化したり合理化してしまうとわかりやすくなると共に、それと同時に自由な雰囲気が失われて創意工夫の意欲も削がれて人や企業の活動が停滞してしまうのかも知れないが、心理的な面から言えることが経済的に計算できるようなことかというと、一見そんなのは無理なような気もするが、他人の自由への許容度という面で、自由にやらせて良い結果がもたらされると認められて報酬が得られるような制度がうまく回っているところでは、誰から指図されなくても誰もが積極的に創意工夫するようになると見ておけばいいのかどうかも、その場の状況にも雰囲気にもよるだろうが、それが一歩間違えると硬直した独裁体制になる手前で踏みとどまれるかということが、世界中のどこでも試されているわけでもないのだろうが、自然にそうなってしまうのを何とか回避する方法があるかというと、それもそういう成り行きになってみないことには何とも言えないことであると共に、実際にそうなってしまう事例がいくらでもある中でも、稀にそうならずに自由な雰囲気を維持できた環境の中から革新と言えるような何かが生じてきて、それが経済情勢を新たな段階へと導き、そんな中でも主導権を握ったわずかな企業や個人に莫大な利益をもたらすのだろうが、それがこれまでにも何度も繰り返されてきたことだと解釈しておけばいいのかというと、そう何度も繰り返されてきたわけではなく、繰り返されてきたのではなくその度ごとに今までとは違う新たな段階が出現してきたと言った方がしっくりくるかも知れず、それが最近の数十年ではIT革命とAI革命の二度起こったというか、AI革命の方は今まさに起こりつつある最中と言った方が良さそうだが、確かに経済の面ではそうだとしても政治の面では相変わらずの停滞が世界的にもたらされているかというと、たぶんそんなことはなく、もしかしたら今の日本で進行しつつある政治的な変化が、世界でも稀に見る革新的な何かをもたらすきっかけとなれば、少しは救いになるかも知れないから、そのSNSなどの方面で行われている煽動的であざといやり方をあまり小馬鹿にしないで、彼らに自由にやらせて良い結果が出るのを期待するしかないのかも知れない。


5月4日「それとは何か」

 それが起こった結果について何か言いたくなる以前に、それが起こりそうな予感がしていたわけでもないのだが、まだそれが起こらないうちからそれとは何かと問いたくなるはずがないなら何なのかというと、それが何なのかわからないうちからすでに何かが起こっているような気がしてしまうから、まずはそこで起こっていることが何なのかを知りたくなるのだが、どうもそれがいつもわからないうちからそれについて何か述べたくなってしまい、何を述べているのかもよくわからないまま、それでもそれについて何か述べているつもりなのだが、述べている対象が自らがそれについて述べている内容から外れる何かだとしたら、そもそも述べている内容自体が的外れかも知れないが、わざと的を外して矢を放ちたいわけでもないのだから、たとえそれが勘違いであっても結果的に述べている内容が的外れであっても、少なくともそこで何かを感じているからそれについて語りたくなり、語りたくなってからまずはそこで何が起こっているのかを知ろうとするのだろうが、それが何だかわからないうちから述べてしまうから、どうもそれが的外れで勘違いなことを述べているらしいのだが、しかも結果的にはそれで構わないのかも知れないから、わざとではないにしても、自らが述べている内容が的外れで勘違いであることを意識しながらも、それでも構わないようなことを述べなければならないのかも知れず、なぜそうしなければならないのかも理由がわからないまま、そんなことを述べていること自体がおかしいのだろうが、やはりそれでも自分のあずかり知らないところで物事が進行中なのであり、それが自分とは無関係だからこそ、自分には知らなくてもいいことでもあり、だからそんなことは述べるまでもないことなのだろうが、それでもそんなことがそこで起こっているような気がしてしまうわけだから、自分とは無関係だとしてもそれが何なのかを知りたくなってしまい、結果的にわけがわからないままそれについて何かを述べていることになるわけで、それが的外れで勘違いなことでもあるのだろうが、何となくわからないままで済ませておくわけには行かない理由もわからないままそれについて何か述べているわけだから、このままわからないままでも構わないような気がしてしまうわけだが、逆にわからないからこそわからないことについて述べているうちにそれをわかろうとしているのかも知れず、果たしてそんなことが可能かどうかもよくわからないが、こうしてわけのわからないことを述べているうちに、だんだんと述べていることの核心と言えるような何かに近づくはずもないような気もするにしても、すでにそこで何が起こったのかについては誰もが知っているどころか、自分もすでに知っているのかも知れず、後はそれについて具体的に語ればいいだけのような気もするのだが、それについてはどうしてもためらいがあるから、直接には語れないような気がしてしまうわけで、だからこうして長々と迂回路を辿りながらもそれについて語るきっかけを探っている最中なのかも知れないが、未だにその周りをぐるぐる回っているだけで、なかなかきっかけがつかめないから、今後何かが外部から作用して唐突にそれについて語り出すとも限らないが、そんな機会が巡ってくるまでは気長に待つしかないのかも知れず、待っているうちに寿命が尽きて死んでしまうかも知れないし、どちらかといえばその可能性の方が高そうな気もするわけだが、そうなる手前で無理して他人の気を惹こうとするには及ばないし、自分がやらなくても他にいくらでもやっている人が大勢いるだろうから、そういう人たちにはそういうことをやってもらえばいいし、それなりに興味深い話を語ってもらえばそれで構わないような気がするわけで、その一方で自分には自分が何を語りたいのかよくわからないまま語っていることがあるわけだから、それを今後とも語って行けばそれで構わないような気がするものの、馬鹿な人には馬鹿な人なりの語り方や語っている内容があるようなないようなことがあるらしく、それが今ここで語っているつもりの内容かも知れないし、結果的に無内容であれば何も語っているつもりもなく、ただ内容のないことを淡々と述べているに過ぎないはずだが、それが狙い目というわけでもないだろうから、何を狙っているわけでもないと述べるしかないが、それが嘘なのかというと、ちょっと違うような気もして、嘘でないなら真実かというと、それもちょっと違うとしたら何なのかというと、誰かが語りたい内容からうまく外れているような気がするわけで、それとは何かといえば、そんな気がするようなことというとしっくりくるのだろうから、それで済むようなことなのかも知れないし、それで済まなければ他の誰かが語っている内容の方が興味深く感じているとしたら、それで構わないようなことかも知れず、そうでなくても世の中には根性がねじ曲がったままつまらない一生を終えてしまう人などいくらでもいる一方で、死ぬまで自分が何を知りたいのかもわからないまま死んでしまう人もいるかも知れず、その中の一人が自分でも構わないような気がするが、何もわからないというのはたぶん嘘で、お前の知りたいことなどとうにお見通しだと言わんばかりに知ったかぶりなことを言いふらしたいわけでもないにしても、すでに周知の事実をそれとは何かと絶えず問いただしたいとも思わないにしても、そのすでに知っていることというのが、果たしてそれを知っているに過ぎないことなのかというと、少なくとも知りたくもないことを知っているに過ぎないとしても、それがそれとは何かと問われているとも思えないわけだから、少なくともそうではないことをそれとは何かと問いただしたいのかも知れない。


5月3日「指摘したいこと」

 なかなか自分の思い通りには行かない成り行きの中では、意識してそうなってしまわないように振る舞おうとすると、逆に意に反してそうなってしまって、驚き焦ってさらに事態を悪化させてしまうような事態に陥りやすいだろうが、そうなるのが嫌なのになぜそうなってしまうのかというと、そこに至る成り行きの中で事前にそうなってしまうような嫌な予感がするから、そこでそうなってしまうのが嫌だからなるべくそうならないように振る舞おうとするのだが、結局恐れていた事態が起こってしまって、なるほどそういう成り行きになるとそうなってしまって嫌な思いをするような結果に直面して諦めの境地に至ってしまうのかと悟るしかないが、確率的に全部が全部そうなるわけでもないだろうし、中にはそうなりそうな嫌な予感が脳裏をよぎっても、その途中で思いがけず予期せぬ何かが作用して、思わぬきっかけからそうなる成り行きから外れてしまってラッキーだったと思わず喜んでしまうようなことにも稀に遭遇するかも知れず、だから嫌な成り行きにも何とか耐えられて、暫定的に生き残っているから、自らが通り抜けてきた数々の嫌な体験を振り返って、反省したい気持ちを無理に抑え込もうするわけでもなければ、素直に過去の失態や失敗を反省するわけでもなく、そうかといってそんな自らの経験に裏打ちされた勘や技量や見識などを誇ってみせたいわけでもなく、それよりはかろうじて運良く危機を回避できたから未だに生き残っていて、それがこれからもそうなるとは限らないことは十分に承知しているはずだが、なかなか謙虚な態度や姿勢を維持するのも難しく、これからもそれなりに調子に乗って失態や失敗を重ねて行くだろうから、運が悪ければそれに起因してひどい事態に遭って、その程度が著しく悪化するようなら死んでしまったりもするだろうが、そうでなくてもいずれは死んでしまう可能性が百パーセントに近い確率で高いわけだから、生きているうちはそれなりに失態や失敗を重ねて行くと共に、そんな中でも運が良ければ成功と言えるようなことも体験するだろうから、それがどれほど気休めとして心身に良い作用や効果を及ぼそうとも、現状から予想されるのは大したことでもなさそうに思われるから、どう転んでも自分に関することならその程度のことだと軽く見ている一方で、自分以外のこととなると、それほど荒唐無稽な誇大妄想を抱いているわけでもないが、現状よりは少しは良い世の中になってほしいとは漠然と思っているはずだが、果たして自分の行動や言動が少しでも世の中が良くなるような成り行きに貢献しているのかどうかは何とも言えないし、そもそも現状ではそんな成り行きにはなっていないのかも知れないどころか、逆に世の中の状況が悪化するような成り行きに貢献している可能性もなきにしもあらずだが、客観的にそれほどの影響力などないだろうから、何を述べても何がどうなるわけでもなさそうには感じているのだが、それでも成り行き的には何か指摘せざるを得ないことがあるらしく、自分が指摘したところでどうということはないのはわかっているのだが、指摘したいタイミングで指摘できるとも思えないし、そのタイミングを逸しているのに無理にも指摘すると的外れになりやすいだろうから、できれば適切な時宜を捉えて適切なことを指摘したいのだが、何を指摘したいのかはその時になってみないことにはわからないし、実際にそれが時宜を捉えた指摘になれば、そのつもりがなくてもそんなことを指摘できる機会を捉えていることになるのかも知れず、そうなってからその時のことを後から振り返ってみると、そんなことを指摘する流れやタイミングや成り行きにとらわれながらそんなことを指摘しているように思われてしまい、自分が自発的にここでそれを指摘しなければならないと思って指摘しているのではなく、なぜそうなるのかは知らないが、それを指摘せざるを得ない機会が巡ってくるわけで、だからそうなるような自然の流れやタイミングや成り行きに従って指摘してしまうような事態となってしまうから、その際に自らの力を超えた何かが作動しているとしか思えないようなことになると、自分がどうこうというわけではなく、そういう状況の中でそんな機会を自らが掴み取って指摘しなければならないというわけでもなく、自分でなくても他の誰かがそれを指摘すればいいようなことなのに、それもなぜか知らないが自分がそれを指摘してしまうから、そんなことを指摘してみたところで自分に関しては何がどうなるわけでもない結果がもたらされていると思うしかないのだろうが、自分以外のところでどうなっているかなんて自分にはあずかり知らないことだから、実際にどうにかなっているとしても、そんなのは自分の知ったことではないのだろうが、何かそれが損した気分になるわけでもなければ、自己主張の一環としてそんなことを指摘しているわけでもないと嘘をついていれば構わないようなことだと認識しているわけでもないのだが、その程度では済まないような気がすると共に、それがこれまでに何度も経験してきた自らの無数の失態や失敗とは無関係な次元で起こっていることなのではないかと思うしかなく、自分が何を指摘したところで何がどうなるわけでもない範囲とはかけ離れたところで何かがどうにかなっていると期待しているわけでもないと嘘をつきたくなってくると共に、そんな嘘でもつかないよりはいくらかマシな程度でそうなってしまう事態を真摯に受け止めたいわけで、何かそういうところでも勘違いや思い違いが生じているのかも知れないが、それがどう考えても自らの力量を超えるようなところで何かしら作用しているわけでもないとは思いたいのだが、それも勘違いや思い違いなのかも知れない。


5月2日「正しい判断と妥当な判断」

 具体的にああしろこうしろと現状のメディア上で良心的に感じられて理性的なことを述べている識者の類いが指摘していることを挙げて行けば、それなりにもっともらしい主張にはなるのだろうが、それが現状では正しい主張に近いかも知れないが、果たしてそれに対して何か付け加えるべきことがあるかというと、何もないと思うならそんな主張が妥当に感じられるのだが、そういう方面ではそうであっても、それとは別の方面から何かしら言えることがあるのかも知れないなら、それがどんなことなのかというと、現状ではそれほど良いとは思えないことであっても、さらには現状でそれなりの批判にさらされていることであっても、将来のどこかの時点で過去を振り返ってみれば、その時には良いとは思えなくても、それどころか批判にさらされていたことであったとしても、その時期にそういうことをやっておいて正解だったと思えるようなことであれば、過去の時点での良し悪しの判断もそれを批判していた人たちの正誤の判断も間違っていたことになるかというと、現状では将来のある時点でそうなることなど思いもつかないし予想もつかないなら、将来のどこかの時点でそうなったところで仕方のないことになってしまうだろうが、そういう意味では現時点での良し悪しや正誤の判断が妥当に感じられても、それにも賞味期限があるかも知れないと思っておけばいいのかも知れないし、現時点では正しいと感じられる判断が、未来永劫永遠に正しいわけではないと思っておいても構わないだろうが、そういう判断とは少しずれたところで、現時点でも正しいことが妥当ではなかったり、妥当に思われることが必ずしも正しいとは思われないこともありそうで、それが何なのかといっても俄かにはこれといってすぐに思いつくようなことではないし、そう言われてみないことにはよくわからないだろうが、例えばそれが幕末の尊皇攘夷派が起こした桜田門外の変などのテロ事件であれば当時でも今でも正しいことでも妥当なことでもないと思う人が大半を占めるかも知れないし、尊皇攘夷思想自体も尊皇ならまだしも攘夷となると、当時も今もどう考えても欧米との戦力差が歴然としている中ではまともにやったら百パーセント勝ち目がないことが明らかであったのに、実際にそれをやってしまって手痛い敗北を喫した薩摩や長州の下級武士たちが中心となって、明治維新の革命を成し遂げてしまったわけだから、明治維新自体も当時でも今でも客観的には正しいことでも妥当なことでもないのかも知れないし、フランス革命やロシア革命などと共に、そうなってしまったらまずいのに実際にそうなってしまったことの典型例なのかも知れないが、果たしてそんな尊皇攘夷派の末裔が黒川敦彦氏の率いるつばさの党の人たちだと言えるかどうかは、人によって見解が分かれるところかも知れないが、彼らがやっている選挙妨害程度のことであっても、かつての桜田門外の変を起こした尊皇攘夷派と比べればだいぶソフトなやり方には違いないものの、趣旨が似ていなくもなく、直接には今回攻撃したのが自民党とも日本政府とも違うが、それらを幕府勢力と見立てると何となくそんな感じがしないでもない程度のこととして、成り行きとしてそんな感じになってしまっているのかも知れないし、それが取り立ててどうとも思えないのだが、例えば今回の騒ぎが今後の世の中の状況や情勢に悪影響を及ぼすと言うなら、それがワイドショーのコメンテーター程度の立場の人の意見なら妥当に思われるだろうし、もちろんそんな人の意見を真に受けるほど馬鹿じゃないと誰が述べても良識に反していると思われるだろうが、では何なのかと問われるわけでもないのだろうが、何かユーモラスに見えてしまい、それは同じ選挙戦で自転車に乗って地道に活動して落選したにしても得票数で2位になった須藤元気にも言えることではないにしても、やっていることは真逆だとしても須藤元気ならやっていることが正しくて妥当だと思われるにしても、何か両者の間で共通の雰囲気や傾向があるように感じられるところが、何の根拠もないのにそう思われるところが、幕末の尊皇攘夷派の末裔などではないと当人たちは思っているかも知れないが、何となくそんな感じの人たちだと理解しておいた方が無難な気がするのだが、今後彼らが中心となってそうなってしまったらまずいと思われるような革命の類いを起こすかというと、そうなってみないことにはわからないし、現時点ではそうは思われないからこそ、逆にそうなってしまったらまずいのにそうなってしまうのが革命なのだから、可能性がゼロとは言えないと思っておくしかないし、そうではなく現時点で妥当に思われることとして、立憲民主を中心とする野党勢力が政権交代の担い手となってほしいと思っている人も結構な割合でいるらしいし、たぶん良心的で理性的な人だと自身で思っているわけではなくても、他人が見てそう感じられる人なら、立憲民主こそが政権交代の担い手になるのが妥当だと思うだろうし、世論調査の類いでもそんな結果になるような気もするわけだが、果たしてそうなるかは立憲民主の政治姿勢を批判する山本太郎やれいわ新選組の動向も気になるところではあるにしても、現状を幕末や明治維新の直前の雰囲気の状態に近いかどうかも含めて、自分でも何か勘違いしていることがあるのかも知れない。


5月1日「政治的な目的」

 政治家が抱く政治的な目的が政権を担うことだとしたら、何がそれを阻んでいるのかといえば、その政治家が属している勢力とは別の勢力が政権を担っているから、その政治家やその政治家が属している勢力が政権を担えない状況となっているならわかりやすいが、たとえその政治家が政権を担っている政治勢力に属していても、その中でも政権を担っている勢力から外れた非主流派の勢力に入っているから政権とは距離を置いた立場であれば、それもわかりやすい状況であるにしても、その一方で現に政権を担っている勢力にはどんな思惑があり、これから政権を担おうとする勢力が実際に政権を担ったら何をどうするのかについて、これといって何かわかりやすい思惑を想像できるかというと、果たして目的が政権を担うこと以外に、実際に政権を担ってから何をやるのかについて、何かわかりやすい思惑を想像できるかというと、それについては日頃から述べている彼らの主張内容から察するしかないし、政権を担っている勢力については、実際に実行している政策から思惑を推察することになるだろうが、たとえ思惑を想像できたところで、果たして当事者が意識してそんな思惑を抱いているかどうかもはっきりしなければ、その行動や言動から推しはかれる思惑というのが、彼らが現状でとらわれている制度や慣習や法律や歴史的な経緯や事情から否応なくやらざるを得ないことや言わざるを得ないことである他に、何かこれといって彼ら独自にやりたいことや言いたいことがあるのかといっても、その場の状況や情勢にとらわれているからその場の状況や情勢に応じてそんなことをやりたがったり言いたがったりしているだけと見なしてしまえば、それで済んでしまうようなことなら、取り立てて彼らの思惑が問題視されるようなことでもなく、彼らがその場の状況や情勢にとらわれているから、そんな行動や言動になってしまうと思っておけば済むようなことになってしまうのだが、現状でそうではないようなことが起こっていたり思いがけない事態となっているようなら、それが何なのかというと、誰にも想像できないようなことが起こっているから、誰もそれに気づかないことになってしまうとすれば、そんなのは誰にもわからないし自分にもわかりようがないことだが、たぶんそれが現状で誰もがとらわれている制度や慣習や法律や歴史的な経緯や事情などから構成されるその場の状況や情勢を動かす力が作用して、そんな成り行きが起こっていると想像してみれば、要するにそんな現状を変える力が現状の中で作用しているわけだろうが、ではなぜ現状を変える力が現状の中で作用しているのかといえば、現状でも制度と慣習と法律と歴史的な経緯や事情が完全に噛み合っているわけではなく、それらがお互いに作用や影響を及ぼし合っていて、それなりに齟齬や摩擦を生じさせているから、それぞれに制度にとらわれている割合の大きい者や慣習にとらわれている割合の大きい者や法律にとらわれている割合の大きい者や歴史的な経緯や事情にとらわれている割合の大きい者などがそれなりの規模や強度を伴った勢力を形成していて、それらの勢力の間でも競合や対立が起こっていて、そうした勢力の中でもそれらの要素の中のただ一つの割合だけが優勢となっているわけではなく、例えば制度だけではなく制度と慣習が混合していたり、それよりは制度と法律の組み合わせの方が親和性が高かったり、さらには歴史的な経緯や事情を伴って制度や慣習や法律が生じてくるから、それらが主張や政策の中にバランスよく配合されている勢力もあるだろうから、そういう勢力の主張や政策が世間的にもっともらしく思われるなら、そういう勢力には政権担当能力がありそうに思われるだろうが、その反面で一つのはっきりした主張や政策を強調し過ぎていると、しかもその主張や政策が世の中の現状とあまり親和性が高くなく整合性もとれていないように思われるなら、それが世間的な感覚からすればそんな勢力には政権担当能力があるとは思われない理由や原因となってしまうのかも知れず、だからといって今さら世の中の現状と親和性が高くて整合性がとれている主張や政策に切り替えられるかというと、すでにその勢力が形成された歴史的な経緯や事情にとらわれているから、それに伴っていったん表に出した主張や政策を簡単に取り下げるわけには行かないし、その勢力に属している政治家や支援者にとっても、そういう主張や政策を掲げているからその勢力に属している政治家や支援者として現状の中で機能している限りで、そのままそういう役割分担を継続して行く成り行きにとらわれてしまっているわけで、そんな経緯や事情が生じてしまっているから、そんな成り行きから抜け出そうとしたり、他の経緯や事情が生じてきて、否応なく抜け出さざるを得ない事態に陥ると、そこから無理やり身を引き剥がすのにも多大な労力や心身の苦労や苦痛が伴うし、結果的にかなりの痛手や損害を被ることにもなるだろうから、できればそんなことはやりたくないはずだが、自らがそうなる原因を作ったわけでもないのに、理不尽な力が外部から作用してそうなってしまうと、他の誰かの陰謀とか罠にはめられたとかの被害妄想も高じてくるようなら、それなりに事態もこじれてくるのかも知れないが、できればそうならないに越したことはないにしても、思いがけないところから自身が掲げている政治的な主張や政策が災いしてくるとも限らず、その辺はそうなった結果からもっともらしい理由や原因が導き出されるにしても、そうなってからのその人の行動や言動がそれ以降の成り行きや行き先を決定するとしか言えないようなことなのかも知れない。


4月30日「信じられる理屈」

 現状で何か取り立てて信じられる理屈があるかというと、もちろん無条件で全面的に信用しているわけでもないが、とりあえず暫定的に信じられる理屈となると、それを説明するのに使われる理屈が現状に当てはまると思っていることについてはそれなりに自信があって、ある程度は説得力も感じているのかも知れないが、それが現状の中で何を説明しているのかというと、一応は現状の経済状態を説明しているはずなのだが、果たしてそれによって経済そのものを説明していることになるかというと、場合によってはそうでもないような気もするから、そういう疑念を抱いている面については自信が持てないのだが、その理屈というのも、果たしてそれを理屈と呼んでいいのかどうかも自信が持てないなら、では理屈でなければ何なのかというと、それに関して説明して行けば、そこに理屈らしき何かがあるように思われる程度のことなら、そんなのは理屈でも何でもないと言えないこともないが、何がそうなのかというと、それもうまく説明できないとなるとただの嘘になってしまうだろうが、それをこれから無理に説明するつもりもないのだが、成り行き上はなし崩し的に説明していることになってしまうのかも知れず、その辺は自らの意思や思惑とは関係なく、否応なくそうなってしまうのだから、自分ではどうすることもできないわけだが、どういうわけかその信じられる理屈というのが説明困難なまま話を進めて行くと、それなりに見えてくる光景があって、それがアメリカとメキシコの国境に押し寄せる大勢の移民の群れだとしても、それが何を象徴しているのかは多くの人々もわかっているつもりだろうし、アメリカ経済の強さを象徴する光景になるはずだが、果たしてそれが経済だけなのかというと、それと共にアメリカという国家ブランドが世界に向けて振り撒いて誘惑する自由なイメージを伴った風土といえばしっくりくるかも知れないが、そんな風土が成立するには様々な条件や経緯や事情などが積み重なったり絡み合って錯綜した結果としてそうなっている限りで、そうなってしまった状況をどうすることもできないし、誰にもそれをどうすることもできなくても、自ずからどうにかなって行ってしまうだろうが、そのどうにかなって行ってしまうことに関して、その過程を説明するのにそれなりに説得力を感じられるような理屈があるのかも知れないし、それがこんな理屈だと説明したいのだが、うまく説明できる自信がないし、説明しているうちに理屈とは別の何かについて語ってしまう可能性もあるから、説明してみないことには何とも言えないが、すでにそれを説明している最中かも知れないから、どうしても自意識が説明に追いついて行っていないようなのだが、確かにそんなアメリカといえどもそれなりに問題が山積していて、それどころか社会そのものが問題だらけで矛盾だらけだからこそ、そんな問題や矛盾などを埋め合わせて余りあるように見せかけるのが経済的な豊かさになるにしても、実態としては取り返しのつかない貧困と共に経済的な豊かさが全世界の人々の前に見せつけられていて、そんな経済的な豊かさを求めて世界中から人や物や金や情報や企業などが寄り集まってくるのだろうが、果たしてそれだけのことなのかというと、当然そうではないと感じるから、それだけのことなのかと疑念を覚えるのだが、それだけではないとすると何なのかというと、それに関するわかりやすい比較としてはアメリカと中国が普通に比較されて、中国にはないものがアメリカにはあって、それが漠然と自由と呼ばれる何かになるはずだが、経済活動の自由ならある程度は中国にもあるだろうし、それなりに国家的な後押しもあって民間の企業も育ってきているはずだが、それ以外では言論の自由とか思想信条の自由とか、誰もがそれと指摘できる自由が中国では制限されているから、相対的に中国よりもアメリカの方に自由があると思われているはずで、そもそも中国がアメリカの比較対象として浮上してきたのが、中国が急激に経済発展してきて、GDPもアメリカに次いで世界第2位へと躍進したからだが、今後もう一つの急激な経済成長を遂げつつあるインドがどうなって行くかも含めて、単純に経済状況だけから述べられることにも限界があると考えるなら、人にとって何が必要なのかと誰が考えているとも思えないにしても、それに関して自由が必要だと漠然と感じていると思っている人もそんなに多くはいないのかも知れないが、それもただ単に自由とセットで自由とは反対の意味を持つ不自由がないと、現状が不自由だからこそ、人は自由を求めて行動するとは言えないわけだが、それが経済の面では現状で貧しさを実感しているからこそ、人は経済的な豊かさを求めて行動すると言えるだろうし、また現状で思想信条や言論などの面で制限を受けているからこそ、それらの自由を求めてアメリカへ向かって多くの人々が押し寄せているとも言えそうな面も意識できるが、その際に踏まえておかなければならないこととして、経済的な豊かさが何から生じてくるかということになれば、それを自由に売買や貸借などの取引が実行できる環境が整っていることであると捉えるなら、やはりそういった自由な取引が可能な環境が世界で最も整っているのがアメリカだと見なしておけばいいかどうかが、果たして人によっても立場や地位や境遇によっても違ってくるのかというと、どうもそうではないらしく、誰もがそんな実感を抱いているような気もしてくるところだが、そういう面で総合的に自由度が高い国や地域が繁栄すると考えてもいいかどうかも含めて、それが理屈なのかどうかもはっきりとは理解できないのだが、多くの人々が自由にとらわれているとは意識していないにしても、人の行動や言動などから推察されることとして、誰もが自由を求めてしまう傾向にあるのではないか。


4月29日「何かを主張したいという思い込み」

 それがメディアを介してであるにしても、世の中で不特定多数の人々に向かって何か述べている人がいれば、何か主張したいことがありそうに見えるのだが、何かを主張するというのだから、少なくともこれといって確からしいことを述べようとしているだろうし、できればはっきりとこれはこういうことだと断言したくなるだろうが、逆にはっきりこうだとは断言できないようなことを述べざるを得ないとしたら、果たしてそんなことを主張していると言えるかというと、主張しているとは思えないし、それでも何らかの見解や認識を述べている場合もありそうだが、何を主張したいわけでもないというと嘘になってしまうし、主張でなければ何なのかと問われるわけでもないが、では何なのかというと、大したことでもないというと謙遜しているとも思えないし、自らを卑下するような態度では嫌な感じとなってしまうから、できれば知ったかぶりだとは受け取られたくない程度の無難なことを述べたいのだが、結果的にそうなるかどうかは自分次第な面も多少はあるだろうが、他人が判断する割合の方がはるかに大きいだろうし、自分がどう思っていようと他人にはそう感じられなければ、自分の勝手な思い込みに過ぎないことになってしまうが、それでも構わないとなると、ではいったい何を述べたいのかというと、それが主張ではないようなことかも知れないが、何かを主張しているようでいて、実質的にはそうでもないようなことを述べたいのかも知れず、具体的にはどんなことなのかといえば、何か拍子抜けするようなことでもあるからがっかりしてしまう可能性もなきにしもあらずだが、そんな前置きだけを延々と述べていても埒が明かないので、そろそろ本題に入らなければいけないのだろうが、すでに始めから本題に入っていて、不特定多数の人々に向かって何かを主張するということが、その不特定多数の人々からの支持や同意や賛同をとりつけようしているのだから、その人の主張というよりは、不特定多数の人々から支持や同意や賛同をとりつけるにはどのような主張をすればいいかを熟知しているわけではないとしても、支持や同意や賛同をとりつけやすい主張というのが、あらかじめその人の頭の中でおぼろげながらも思い浮かんでいる可能性が高いだろうから、循環論的には多くの人々からの支持や同意や賛同を得られるなら、多くの人々から共感を得られやすい主張になることが多く、それが表向きにはその良し悪しや正誤で判断されるにしても、そこにはこの時代の中で生きている多くの人々が抱いている偏見や固定観念の類いも含まれている可能性も高く、そんな内容が主張の大部分を占めているなら保守的な主張だと言えるだろうが、果たしてそうではない主張によって多くの人々から共感を得て支持や同意や賛同をとりつけられるかというと、そうなると例えば逆に多くの人々が抱いているのが偏見や固定観念の類いであると暴き立てるような主張になるなら、支持や同意や賛同を得られるどころか多くの人々から反発されて反感を買って叩かれることになるだろうが、そうであることを示す説得力のある証拠として多くの人々から正しいと思われる理屈や論理や理論などが主張に含まれていると、心ある人や理性を身につけた人たちからたとえそれが少数であっても共感を呼んで、それらの人たちからも協力が得られて一緒になって世の中にその主張を広めるための努力が粘り強く続けられるなら、時間がかかるにしても徐々にそんな主張が世の中に広まって行って、結果的に多くの人々が抱いている偏見や固定観念を打ち破るような成り行きになれば、何かそれが世の中を変えるような主張だと言えなくもないだろうが、果たしてそんな主張がこの世の中で実際に主張されているのかというと、そんな成り行きへと持ち込もうと意図して主張しているような人がそれなりにいるにはいるだろうが、その大半が偽預言者のようなポピュリスト的な主張の中身である可能性も捨てきれないし、そう思うこと自体がこの時代に特有の偏見や固定観念にとらわれている証拠かも知れず、それらの人たちが意図してわざと偽預言者のように振る舞っているとも思えないのだが、何かそこでも勘違いというか、それも偏見や固定観念にとらわれてしまっているからそんな振る舞いに及んで、正しいことを主張していると思い込んでしまっているのではないかとも邪推したくなるが、それが何の意図があってそんなあからさまにでたらめなことを主張しているのかと訝しく思うならわかりやすいのだが、それらの人たちが揃いも揃っていかにももっともらしいことを主張しているものだから、なるほどと思わざるを得ない一方で、各々がそれなりに傾向も程度も違うものの、何か引っかかるものを感じさせると共にちょっとだけ怪しいわけで、そのちょっと怪しいという感じが、あらぬことを邪推したくなる要因なのかも知れないが、そうではないとすれば何なのかというと、昔の自分なら信じてしまえるようなことを今の自分なら疑ってかかってしまうと言えばしっくりくるのかも知れないし、それだけ知識も経験も積み重なったからそう思われるのかも知れないが、もちろん立場も境遇も心理状態も経済状態も昔とは様変わりした面もありそうだが、そういうことではない面も考えてみないことには、この引っかかりの原因など突き止められないとしたら、別に原因など突き止められなくても構わないとも思えないにしても、理屈じゃない面を強調して行動に駆り立てられていればそれでも構わないというか、山本太郎などはそれが見せかけのパフォーマンスではないことを自ら証明してみせようとしているのかも知れず、そんな人を偽預言者やポピュリストだと決めつけるのも気が引けてしまうわけだ。


4月28日「味方を装う」

 その場の成り行きに従って動いていたら窮地に陥ってしまったからといって、そうなった結果だけから何をどう判断したり解釈したいわけでもなく、確かに一時的には窮地に陥ってしまったのだろうが、それ以前にそれが窮地に陥ってしまったと判断しても構わないようなことなのかというと、その時にはそう思っても、それからしばらく経ってからその時のことを振り返ってみると、窮地と言えるような状況ではないと判断しておくのが妥当であるどころか、うまく窮地を利用して面倒なことをやらなくても済むようになってしまったと感じるなら、災い転じて福となすようなことなのかと訝しんでいるわけだが、そういうことまで含めてその場の成り行きだったと解釈するなら、結果的にそうなってしまったことをことさら悲観するまでもなく、そうなってしまったことを踏まえて行動するしかないし、実際に今も行動しているわけだが、どうもそれが事の良し悪しとは違う判断に頼らないとならないような気がしている一方で、それがどんな判断なのかもよくわからずに、いつも結果的にそうなってしまったのを踏まえて行動するばかりではダメなわけでもないのだが、そうなってしまうのだから致し方ないと思わされてしまうことにもそれなりに抵抗感を覚えながらも、それでもそうなってしまった事実は動かしようがなく、自分でも気づかないうちに何かをやり過ごしているような気がしてくるわけだが、それが何なのかもよくわからないし、しかもそれをやり過ごせない人たちも世の中にはいくらでもいるように感じられて、実際に世の中の様々な方面から文句や不平不満を言う人がそれなりに出てくるのを真に受けて、その際にそれをやり過ごせずにそれなりの被害や損害を被ってしまった人たちの味方を装うことも可能だと思ってしまうのだろうが、それもどういうわけか味方を装う程度にも人それぞれで差が出てくるわけで、その差がどこから生じてくるのかもはっきりとはわからないものの、それも装っているのではなく、実際に直接味方してくれると被害や損害を被った人にとっても心強いだろうが、誰もがそれをできるわけでもないし、他人よりも自分のことで精一杯であれば、他人の味方をしている余裕も暇もないことになって、そういう意味では他人など当てにならない状況の中で生きていれば、味方を装って近づいてくる人など信用できないと思ってしまうし、どうせ詐欺か何かの勧誘だと疑ってかかってしまうわけでもないが、その場の状況やそこで感じている相手の態度に応じてそう思ってみたり、思ったとしても軽くやり過ごせるように感じられる限りで、あまり本気にはならないで相手にしない態度でいられるのだが、もちろん相手にしたとしてもその程度にもピンからキリまであって、本気になるかならないかではなく、本気の程度にも差があるわけだが、それが否応なくそうなってしまうのだから、そうなってしまう成り行きには逆らえないと思うものの、実際にはある程度は従いつつもある程度は逆らっているような駆け引きがその場で生じている限りで、それなりに関わっていることになるのだろうが、関わり方にも程度や傾向があるから、実際に個々のケースでそれぞれの度合いに違いや差が生じてくるとしても、その場の成り行きの中でそうなってしまうことを後から言葉を用いてどう表現してみてもしっくりこないから、それを言い表している時点ではフィクションの度合いも自ずから高まってしまうだろうが、少なくともそれもその場の情勢や状況に合うようなことを述べたくなってしまう成り行きの中でそう思っているわけだから、果たしてその場の情勢や状況に合うようなことを述べるのが正しいと感じたり良いと思わされてしまうのを思いとどまることができるかというと、それを無理に思いとどまる必要も感じないだろうが、何かそこで抵抗を感じるなら思いとどまっている証拠であり、あまりそういうところでもっともらしいことを述べてはまずいと感じるから躊躇するのだろうが、なぜそう感じるのかもよくわからないわけで、そういうところで空気を読まずに他人が嫌がるようなことを躊躇いなく言い放ってみたり、他人の制止を振り切って行動してしまう人を信用できるかというと、それもある程度は信用できる面もあるのだが、あくまでも部分的な信用にとどまってしまうから、本気で信じているわけでもないような態度や姿勢になってしまい、そうなってしまうから他人から信用されないとしても、それでも構わないようなどっちつかずな状態を保っているつもりなのだが、そうなっている状態を踏まえて行動できるかというと、実際に行動している実態がそうなっているかどうかもよくわからないわけで、よくわからないなりにもその辺の経緯や事情を考慮しながら行動しているとしか言いようがないが、意識して考慮しているというよりは自然にそうなってしまうわけで、その自然にそうなってしまうことに対しても文句や不平不満を言うこともできそうなのだが、いつも自分が言っているわけではなく、他人が言っている文句や不平不満に反応して何か述べているつもりなのだが、その述べている内容が文句や不平不満を支持したりそれに賛同する内容になっているかというと、それも全面的に支持したり賛同するようなことにはなっていないような気もするわけで、そこでも自然にそういう態度や姿勢になってしまうのだから、そうなっているにもかかわらず、自分ではそれをうまく制御できていないような気もして、そうならざるを得ないと言うと自らの責任を放棄しているような感じにもなってしまっているかも知れないが、それが何の責任なのかもよくわからないし、自らの述べていることに責任を持つということなら、そういうことだと自覚しておけばいいことでしかないが、安易に気軽に見ず知らずの赤の他人の味方を装うのも気がひけるようなら、これまで通りの態度や姿勢でも構わないような気がするから、そこでも装うのではなく直接味方となったつもりにもなりたいとも思えないところで、それなりにどっちつかずな態度や姿勢を保っているのかも知れない。


4月27日「批判の押し売りに抗う」

 今さら何を危惧しているふりを装っているのかと誰から問いただされているわけでもないが、ふりをしているだけなら問いただすには及ばないし、そんなふりをしているだけで、そのふりをしている対象となる立場や態度や姿勢や主義主張などが何なのかを十分に理解しているから、そのものではなく、そのふりをするにとどめていると解釈しておくのが妥当なところだが、それが何かしらそれなりに目立つ欠陥や欠点や弊害などを抱えているから、その深みにはまり込まないように、浅瀬にとどまりながらも、ちょっとだけそのふりをしている人の意図や思惑などを想像してみると、できればそれを利用したいのだが、都合の良いところだけは利用したいわけで、しかも都合の良いところだけ利用するわけには行かないから、利用すればしたで何かしらその欠陥や欠点や弊害などを多少は被らなければならず、そうなるリスクを引き受けないと利用できないのだが、果たしてそうやって本当に都合の良いところだけそれを利用していることになるのかというと、たぶんそのふりをしているだけなら、利用しているふりを装っているのかも知れないが、本気で利用しているとは思っていないかも知れないし、もちろんそのふりをしているとも思ってもいないだろうが、そう見えてしまうから、そのふりを装っているようにも見えてしまい、こちらが勝手にそう思っているに過ぎず、当人の頭の中ではそれなりにちゃんと理屈や論理や理論の辻褄が合っていて整合性が取れているのかも知れないが、こちらも頭がそれほど良くはないので、しかも多少の誤解や偏見に囚われている面もあるから、あまりちゃんとしたことは言えないような気もするわけだが、それらの立場や態度や姿勢や主義主張の中で、現状の傾向に照らし合わせて批判するのに都合が良いところだけ批判すれば、それで批判しているように見えるだろうが、そんないいとこ取りの批判を真に受けるほど馬鹿でもなければ、逆に馬鹿だからこそ他人の粗探しをしてしまい、そんな粗探しをしているのが当の批判者であることも考慮に入れておけば、どっちもどっちとは考えずに、批判のネタを求めて他人の粗探しをしている批判者にも親近感が湧いてくるかも知れないが、そんな批判者が大勢うろついている環境の中でうまく立ち回るにはどうすればいいかと直接考えているわけでもないのだろうが、自然と振る舞いや立ち回りが演技のような傾向となってきて、そんな人を批判者のふりを装っていると見なしてみても、当人としては直接の批判者以外の何者でもないだろうから、それを指摘したところで無視されるまでだが、それを無視されたところで気に食わないからやっつけようとは思わない方が身のためかも知れず、犯人を泳がせておけばやがてその犯人を操っている黒幕に行き着くと思うまでもなく、黒幕などどこにもいないし、いたとしても大した権力を握っているわけでもないから、黒幕と見なされる人物こそが無視されるべき人物に過ぎないのだろうが、それを経済的な面から言うなら、商品を売る側になるとなかなか思うように売れなくて大変な思いをするだろうが、売らないと買う側に回れないし、それでも何かのきっかけから運にも恵まれて売って莫大な資金を蓄えることに成功すれば、果たして何でも買うことができる有利な立場になれるかというと、それ以前に本当にそれが有利な立場なのかというと、実際に買う側に回った人にはそう思えるかも知れないが、そういつまでも一方的に買う側のままでいられるかというと、何かのきっかけからそうなってしまった人も中にはいるとしても、実際にそうなってしまった人には買うことしかできなくなってしまうわけでもなく、だからといって買うだけではなく売る側にもならなければいけないと思ってみても、では買ったり売ったりしているだけで済むかというと、それでは済まなくなると、今度は貸したり借りたりすることも必要になってきて、さらには売買や貸借をやっているだけで済むのかというと、売買や貸借の対象となるものを生産したり製造しなければならなくなるわけではなく、生産や製造を専門に手掛けている業者もいるだろうから、もちろんそんな業者にしても、製品や商品の材料になるものを買ってきたり直接採ってきたり、またそれを行うための資金を借りてきたり人員を雇ったりするわけだろうが、そうやって生産したり製造しても製品や商品を買ってくれる者を探さなければならなくなるから、自身だけでは行為や行動や活動を完結できなくなって、他人の助けが必要になってくるのだろうが、もちろん初めからそういう構造の中で活動しているなら、たとえそれが陰から操り人形のような役割の人を操る作業を行なっている人であっても、自分一人ではそれができないから、他人の助けを借りたとしても思うようには人を操れないし、大抵はうまく行かない状況の中でそれなりに行き詰まっていて、それに伴って焦ったり苛立ったりしながら先行きに不安を感じているから、その反動で他人の言うがままに行動する方が楽に感じてしまう限りで、他人の言うことに従ってしまうわけで、そんな自分で考えずに他人の言うことに従っている方が楽に感じている人が世の中で多ければ多いほど、そんな人たちが多数派となって有利な立場を占めてしまうから、逆に自分で考えて行動している割合の高い人ほど大変な思いをすることになるわけだろうが、もちろん他人に従っている人が多数派を占めているわけだから、そんな多数派からの同調圧力も強烈に利いてきて、彼らの意向に逆らうようなことを言おうものなら、それが無名の一般人なら無視されるにとどまるだけだが、著名人ともなれば周り中から袋叩きに遭うだろうから、うっかり失言しないように用心しなければならないとしたら、自然と多数派に同調しているように装い振る舞うようにもなってきて、それが自然な演技だとも思えなければ、本心から多数派に同調しているように見えてしまうだろうから、その種の演技など気にするまでもないことになるだろうし、実際にそうなってしまえば同調者のふりを装っているというよりは、単なる多数派の同調者だと思い込めるわけだ。


4月26日「誰が地雷を踏んだわけでもない」

 そんなことを仕掛けている人の中で誰に何の思惑があるのかわからないが、意味不明なことを仕掛けてこられても戸惑うばかりで、実質的には何を仕掛けているわけでもないのかも知れず、何も仕掛けられていないのにうろたえているなら、単なる小心者に過ぎないが、自らを小心者だと蔑むなら蔑まれても一向に構わないとも思わないが、何となくそれがわかったようなわからないような心境になりたいのかも知れないし、それこそが意味不明でしかなく、現状の何をどう捉えているのかもはっきりしないまま、どうなろうと自分には何の影響もないとたかを括っているわけでもなく、むしろうろたえている状態を保っておきたいわけで、それが大して危機的な事態でもないのになぜうろたえてしまうのかと自問自答しているわけでも煩悶しているわけでもなければ何なのかというと、何か冗談のような事態なのかも知れず、しかも冗談のついでに何でもないことを悟らせるようなことを仕掛けられて、それによって何を悟ったのかよくわからないようなことを悟ったとしても、何を悟ったとも言えないような気もするのだが、自分でも気づかないところで何かを悟っているのかも知れず、それを知ろうとしているわけでもないのだが、知ったところで何がどうなるわけでもないと思いたいわけでもないが、そんな知り得ないことについていくら想像を巡らせても埒が明かないから、そんなこととは関係のない方面へと想像を巡らせてみるのだが、それを想像してみたところで埒が明かないと思うならやめておいた方がよさそうなことを想像していて、それが何かといえば、ここ数年で急速に様変わりしていて、意識がついて行っていないような方面で起こっていることなのかも知れないが、一昔前には考えられなかったことが起きているのだろうが、今ではそれが当たり前のようなことになっていることとは何なのかといえば、それがにわかには何も思いつかないなら、確かに意識が世の中の変化について行っていないのだろうが、世の中がどう変化しているのかについては、それをもっともらしく説明するには何ひとつ材料が揃っていないような気もするが、それがアメリカや中国やインドやヨーロッパで起こっていることに絡めて語ると、何かそれらしい内容に近づきそうなのだが、その中に日本で起こっていることを入れても構わないかというと、部分的には構わないにしても、日本で起こっていることをそれらの地域で起こっていることと同程度のこととして語ってしまうと、どう考えても世界の潮流からは外れてしまうような気がしてしまうから、日本で起こっていることの大部分は日本固有の問題として語った方が、世界的に起こっていることに比べて枝葉末節でローカルな問題であることを理解できるかというと、自尊心を傷つけられたように思われるならそうでもないと反論したくなってくるのだが、それが島国的な孤立感を勘定に入れても妥当に思われないだけに、それほど日本の現状を贔屓目に見なくても構わないような気がしてしまうから、普通に何でもないようなこととして取り扱っても構わないようなことが現状の日本の中で起こっていると捉えておくのが妥当なところなのかも知れないが、そう考えればすでに日本が世界的な現状の中ではローカルな地域として位置づけられていると共に、それでも構わないような状態の中で人々の暮らしが営まれていると捉えておいても構わないはずだが、それがどういうことなのかというと、統治の面ではそれほど文化的かつ言語的な特殊性など考慮する必要はなく、政治的にも経済的にも世界標準となるようなやり方を採用すればいいだろうし、すでにそうなっているところも世の中のほとんどの領域に及んでいるから、そうなっていることの延長上でこれまで通りのことをやって行けば良いと思っておいても構わないのかというと、そうだとすればなぜここ数年で世の中が急速に変化しているのかを説明できなくなってしまわないかと心配するまでもなく、日本の特殊事情と世界標準となるようなやり方のどちらを優先した方が良いのかを考慮する必要がなくなってきたと思っておけばいいのかも知れず、それでも世界標準と言えるようなやり方とは具体的に何なのかと問われると、そんなことは問われるまでもなく、うまく答えられないわけだが、それがこれから日本で行われようとしていることと関連してくるというなら、果たして何がそうなのかと疑念が募ってくるかも知れないが、それが行われやすいようにここ数年で急速に世の中が変化している途上にあると現状を捉えるなら、それもにわかには信じ難いことだが、今がそうなっている最中でもあるからその渦中にいるとなかなかそれが実感できないのかも知れず、ここからだいぶ歳月が経過した後から振り返ってみると、この時期がまるで大規模な社会変革が起こっていた激動期のように感じられるだろうが、いったんそんな時期を通過してしまうと改めて過去を振り返る気など起きなくなってしまうから、どちらにしても世の中の変化などあまりその気になって実感する機会などないのかも知れないが、現状でも日本の特殊事情など世界の中では何も考慮されておらず、それよりは経済状態に囚われた政治が世界中で行われているから、次第に地域的な特殊事情を無視したやり方が世界標準のやり方として定着するような成り行きになって行くとしたら、そんな流れから取り残されないようにするにはどうしたらいいのかと問う暇もなく、実際にそうなってしまうから、他の国々と同じような傾向となっていればそれで構わないような状態に落ち着いてしまい、そうなると地域的な特殊事情が克服されたことになるのだろうが、果たして本当に克服されたのかというと、世界的に構築された階層構造の一部分に日本も組み込まれていると捉えてしまうと、やはり自尊心が傷つけられと反発してしまう人たちも大勢出現してきて、そんな人たちの存在自体が現に日本が世界構造の一部に組み込まれていることを証拠づけていると考えるなら、世界のどこにでもそんな人たちがいて、それを反グローバリズムという主義主張にまとめてしまえば、世界中でそれらの人たちが同じような傾向を示していて、そこでは誰もが同じように地域的な特殊性や独自性を主張せざるを得なくなっているわけだ。


4月25日「鈍感さの程度」

 自分にも何かできることがあると思うことが、今まさに自分にもできることをやろうとしていることの証拠となるかどうかは、そのできると思っていることをやってみないことには、確かめられないだろうが、それをやってみたところで、それをやってしまったからには、それ以外にもできることがあることを確かめられないとは思わないだろうが、たぶんそれをそう思うか思わないかではなく、やろうとしているそれが逆にできないことをやろうとしていることに気づかなくさせているのかも知れず、何かそういうところでいくら自らが巻き込まれている事態をややこしく考えようとしているわけではなくても、できることをやればいいと安易に考えそうになっているのを思いとどまっていると自らの心理状態を捉えるなら、そういうことにしておきたいような気がするものの、そんなふうに物事を単純化してはならないような気もしてくるから、逆にあまり深く考えないようにしたいのかも知れず、それでは間違っているかも知れないが、とりあえずできることをやろうとするしかなく、やってみてそれができるようならそれで構わないと思うしかないだろうから、やはりそれを試してみるしかないのであり、試してみてからその結果から良し悪しなどを判断した後で、その先へと歩みを進めて行くしかなく、まだそれをやるのをためらっている段階では迷いがあり、迷いながらも自らを取り巻く状況に後押しされて、それをやるかやらないかの判断を迫られてしまって、否応なくやらざるを得ないような成り行きになってしまえば、もはややるかやらないかの判断など自らにはできないことを思い知らされて、すでにやってしまっているそれを続けるしか道が残されてはいないことを悟るしかなく、そんなふうにして誰もがやらざるを得ないことをやらされているとは思わないかも知れないが、今その機会が到来していると思うなら、今まではやらなかったそれをやるチャンスだと思って新たなことへ挑戦しようとして、それがとんだ勘違いだったと思い知るまでは挑戦し続けなければならず、すでにやってしまっているそれとこれとが、どう考えても整合性が取れないようなことであるならば、なおのことをそれをやらざるを得ないと思っておけばよく、やっていることとやろうとしていることが矛盾しているようなことであるからこそ、新たに今までとは趣旨の違うことをやるしかないのであり、なぜそうなってしまうのかといえば、計画的に物事が進まず、何かを計画してそれを実行してみても、それをやっている途中からおかしくなってしまうのであり、それがおかしくなってしまったからといって、やり直しなど利かないし、それをなかったことにはできないから、おかしくなってしまったところから、その延長上で物事を進めなければならず、そうなるとそれまでにやってきたこととは整合性が取れないようなことをやらざるを得なくなって、それに伴って他人や今までの自分を裏切るようなことも場合によってはやらざるを得ないから、そんなことをやれば信用を失うし、それが他人との諍いの原因ともなるだろうから、自らを取り巻く状況の様々なところで関係がこじれてきて、そんな事態に耐えられなくなって心身共におかしくなってくれば、窮地に陥るようなことにもなってくるのだろうが、果たしてそれが世の中でありふれたことなのかというと、当事者にとってはとんでもないことだが、世間の話題としてはありふれていて、その種の話題ばかりを取り扱うメディアにとっては商売のネタなのだろうから、そんな出来事ばかりをおもしろおかしく興味本位で伝えようとして、そうなった結果から振り返ればそうなってしまうのが必然的な成り行きのように解説されて、解説する分にはそれがもっともらしく思われるだろうから、メディアの機能としてはそれで構わないようなことになってしまうとしても、当事者となってそんな成り行きに巻き込まれてしまうと、場合によってはもう二度と立ち直れないような事態を招いて、そこで人生が終わってしまうかも知れないが、果たして自らがそうなってしまったことを悟れるかというと、それも人それぞれで、その人が体験する出来事の程度や傾向にもよるだろうが、少なくとも死んでなければまだその先の人生があるわけだから、そうなってしまってもできる範囲内でやれることをやるしかないだろうから、実際にそんな現状の中で生きている人も世の中にはいくらでもいるはずだが、果たして自身がそうなってしまったことに気づかないなんてことがあるのかどうかが自分ではよくわからないことなのかも知れず、これまでに大した窮地に陥ったわけでもないと感じているなら、それに気づかないまま生きている可能性もあるわけで、それに気づかないことが余程の鈍感なのかどうかも、親切な他人がそれを教えてくれるわけでもないから、死ぬまで気づかないなんてこともあり得るかも知れないが、実際に窮地に陥っているのにそれをやり過ごせることなどできるのかと思っているわけでもなければ、普通は窮地などには陥っていないと思っておいても差し支えないだろうが、逆に今まさに窮地に陥っている最中で、しかもそれに気づかずにやり過ごしている最中でもあれば、それがただの妄想に過ぎないかも知れないが、少なくともそれに気づいていないのだから、そんなことは思わなくても構わないだろうし、それをお節介な他人が、自分がそれと気づかないまま大変な事態に陥っていて、この機会を逃してしまえばあなたはもう二度と立ち直れなくなると脅しをかけている最中であるなら、そんなのはただの脅迫でしかないだろうが、たぶんそれが日本の現状であり、今まさに日本が崖っぷちな状況なのだと力説している政治家や識者の言うことを信用できるかというと、そうでもないと思っているなら、それも単なる立場の違いなのかも知れず、日本が崖っぷちな状況なのだとしても、あなたには関係の薄いことなのかも知れないが、そんな中でもできることというのが自分とは関係のない方面でやらなければならないことであり、それをあなたがやらなければならないと誰に促されているわけでもなければ何なのかというと、これからあなたが自主的にやってしまうことが、それと気づかずにやってしまうことでもあって、あなたがそれをやることによって、別に日本が救われるわけでもないにしても、それでもあなたがやらなければならないことをやらないと、やった後からそれに気づくかも知れないから、やらないままそれに気づかずに余生を送ったところで何でもないことだが、やってそれに気づいた方が、それなりに達成感のような実感を得られるかも知れないから、まずは行動してみることを勧められるような機会を捉えて行動してみれば、それに気づく可能性もそれだけ高まるのではないか。


4月24日「わかっていないこと」

 そんなことはわかりきったことかも知れないが、この世界には何かわかっているようでいてわかっていないことがいくらでもあるのかも知れないが、なぜかわかっていなくても構わないような気がする方面もあり、とりあえずはわかっていると思われる方面で話を進めたいと思いつつも、それが勘違いかも知れないから、本当のところは何もわかっていないのかも知れないと半信半疑になりつつも、それについて語っているつもりになれるかというと、成り行き的には大して理解しているわけではなくてもそれについて語らざるを得なくなってしまうのかも知れないが、それを陰謀論と言ってしまうと否定的に見ていることになってしまうから、それに関して考えていることをできるだけ陰謀論だとは思わせないように配慮しながらも、語って行くと結局それらしい話になってしまうから、そう受け取られても致し方ないところだが、国家意志に操られている人が国家に忠誠を誓っているように感じられるなら、その人が国家的な陰謀に巻き込まれていようと自業自得のようなことになるだろうが、そもそも国家意志だとか国家的な陰謀だとかの存在を信じていない人がそれらをどう思っているのかとなると、自分もそれに近いのかも知れないが、単なるありもしない妄想に囚われた人でしかないとは思わないにしても、何となくそれが半分誤解に基づいているような気がしてしまうわけで、それが国家から生じてきているわけではないとすれば何なのかといっても、それがわかるようなことではないのかも知れないが、信じている人にはあたかも国家には忠誠を誓ってもおかしいとは思わないような中身があると思っているのかも知れないから、そういうところが理解できないのだが、それに関して最近の岸田首相のアメリカ訪問での議会における儀礼的な歓迎のされ方とか、靖国神社の春の例大祭への国会議員や大臣の参拝などを見れば、そこに中身が何もないことを理解できるわけでもないが、なぜかそう思いたくなるわけで、わざとそう思いたいわけでもそれを否定したり批判したいから無理にそう述べたいわけでもないのだが、その種の行事に参加したり参列している人が、自分たちが何の中身もない儀礼的なイベントに加わっているとは思わないだろうが、少なくとも儀式を執り行っている当事者や運営している団体や組織としては、それをやることによって自分たちの存在を誇示したいのだろうが、もちろん関係者は誇示しているとはあからさまには思っていないだろうが、そうは思っていないのにそう見えてしまうことが、そう見えるようなイベントにしているわけで、しかも当事者はそれが戦略だとも思わないわけだから、わざわざそう思っていないことを戦略だと決めつけるのも勘違いなのかも知れないが、その中身のない代表格が国家という概念だとは誰もそうは思っていないだろうが、概念であるよりは実際に国家が存在しているはずだと指摘できないこともないのだが、政府という団体がそこに国家があるかのように見せかけていると言ってみたところで、それは言い方の問題に過ぎないと矮小化して国家の存在や価値を貶めていると言われると、確かにその通りには違いないのだが、その一方で触れてはならない禁断の何かに言及しているように装いたいわけでもないのに、それもどういうわけか知らないが結果的に政府が触れたくない問題に触れてしまっているのだとすれば、ワクチンがどうたらこうたら騒いでいる人たちの術中にハマっていると見なされても構わないが、そこで動いている物事の流れに沿った見解を示せば、それがもっともらしく感じられるとしても、本当に的を射ているのかと言われると自信がなく、何かが微妙な按配で駆け引きや綱引きが行われているように装われているとは思えないが、実態としてはそうなのかも知れず、そういうところで物事のスムーズな移行の邪魔をしているように思わせるのが、それらの十把一絡げに陰謀論の類いを信じている人たちだと括られている中に真実や真理の告発者が隠れていると思ってしまうと、彼らの術中にハマってしまったことになるのだが、彼らが陰謀論者ではないとすれば何なのかというと、単なる邪魔者と見なしておけば済んでしまう人たちではあるにしても、彼らなりの真実を保持しているように匂わせるから、彼らの中から真の予言者や預言者を抽出してみたくなるのであり、そんな存在の信者だと見なされている人たちにしてみれば、自分たちが信じているのは宗教などではないと反論したくなるところだろうが、彼らが頑なにこだわっていることが現状の世の中では常識的な物事の推移からちょっと外れているだけに、世間の常識など信じるなと言われたところで、慣習的な作用や影響からは逃れようと意識しても気づかないところで逃れられないから、どう見ても奇異に見えてしまい、その奇異に見えてしまう物事に真実や真理が含まれていると思いたいわけではなくても、そう見えてしまう人にとってはそれが紛れもない実感なのだから、それを悪く言うなら長い物には巻かれろ式にそんな流れに沿って動いていれば済んでしまうことなのだろうが、それでは済まない人たちがそんな流れに逆らって行動すると、それが奇異に見えてしまうわけだが、たぶんあからさまに逆らってしまうと目立ってしまうから、出る杭は打たれる式に処分されてしまう人も結構いるのだろうが、そんな処分を回避するにはどうすればいいのかと問われているわけではなく、問う前にやることがあるような気がするわけで、それが無駄な悪あがきではないはずだが、少なくとも奇異に見られてしまう行動に出てしまうと、なるほどその種の人たちだと見なされて、そんな人に対する取り扱いにふさわしく処分されたり陰謀論者の烙印を押されて、あちら側の人たちのカテゴリーに入れられてしまうのだろうが、そうなるかならないかの境界線上で騒ぎ立てたり煽り立てたりするのが腕の見せどころだと勘違いしたいわけでもないのだが、そうならないように心がけても、自身ではどうすることもできない成り行きが待ち受けているのだから、そうなってしまった人たちを否定的な眼差しで見るのも少し気が引けてしまうわけだ。


4月23日「気休めの単純化」

 それを単純化と言っては身も蓋もないわけだが、それでも原因を特定してそれを取り除いたり修正したり改善させればいいようなことだと思っておけば、何かとやりようがあることになるだろうが、逆に何も解決策を示せないようなことだとやりようがなくなってしまうわけだから、とりあえず政治家の主張となると、解決策を示すようなことを主張しなければならず、それが山本太郎ならば消費税を廃止すればいいようなことになるだろうし、そう主張しているのをどう受け止めればいいかは各人の判断にまかされているわけだが、立場によっては何の解決策も示さなくても構わないというわけでもないが、ミシェル・フーコーなどは解決策を全く何も示さなくてもその言説を信用できるわけで、それとこれとを立場の違いと言ってしまうと、それも物事を単純化し過ぎだが、そんなことを思っている自分がその立場でないようなことまでこれ見よがしに指摘したところで全く説得力がないし、無名の一般人なら小難しいことは主張せずに、世の中で流行しているありふれた紋切り型の主張に賛同しておくのが分相応だと思われているわけでもないが、実際に他の大勢の人々と一緒に気休めの単純化された意見を主張していれば安心されるだろうから、それで構わないとは思えなければ、それらの人々から無視されながらも勝手に小難しいことを述べていても構わないだろうが、無視される自由に価値があるとも思えないものの、少しは責任逃れのような立場を意識できて気楽になれるわけで、その気になったつもりで小難しいことに関して古い記憶を引っ張り出してくると、もう何十年も前のことになるだろうが、中学生か高校生の時分に毎日のように日本経済新聞を読んでいた時期があって、確かその頃に話題になっていたのが、ノーベル経済学賞を受賞した新自由主義の著名な経済学者のミルトン・フリードマンのマネタリズム理論が破綻しただのうまく行かなくなっただのと日本の経済学者か経済評論家のような肩書きの人が盛んに吹聴していたのを最近あるきっかけから思い出したのだが、マネタリズムという概念が何なのかをもはや全く覚えていないが、その頃は理解していたような気がするのだが、もう一度ネットで検索してみれば思い出すかも知れないが、今となってはそんなことなどどうでもいい部類となってしまったので調べる気にもなれないが、確かその頃はシカゴ学派=フリードマン=マネタリズム=新自由主義という組み合わせが普通に経済学界隈では流通していたような気もするわけで、それ自体がどうというわけでもなく新自由主義を支持していたわけでもその信者となっていたわけでもないのだが、それからしばらくして小泉郵政民営化を批判するのに新自由主義や竹中平蔵だのがメディア上で取り上げられ始めて、今や大阪維新の会=竹中平蔵=パソナ=新自由主義という組み合わせも盛んに批判の的として流行するようになったわけで、そういうことも含めて新自由主義という主義主張が何か悪い主義主張であるかのような固定観念や偏見を伴って多くの人の頭の中で凝り固まってしまったのだろうが、そんな悪の新自由主義に対抗する経済理論ではないだろうが、名称だけは流行したというかまだ流行しているのかも知れないが、MMTという経済理論もあって、理解しているかというとあまり自信がないのだが、たぶん世間で流通している程度には単純化された理解にとどまるのだろうが、それもマネタリズムのように何十年後には理解していようがいまいがどうでも良くなってしまうかどうかは何とも言えないものの、現状で問題となっている政治的あるいは経済的な弊害をMMT理論に基づいた政策を実行することによって解決できるかというと、そう主張している経済学者の類いがいるかも知れないが、解決できるのならやってもらえばいいことでしかなく、政策を実行できる立場になったらどうぞ思う存分やってくださいとしか言えないものの、山本太郎やれいわ新選組の政策はMMTとは違うらしく、その辺がいまひとつわかりにくいところだが、MMT系の人たちも消費税の廃止または税率の引き下げを主張しているらしく、両者の間で似た面もあるらしいのだが、どちらにしてもそれほど消費税にこだわっているわけでもない自分にとっては、全く無視しているわけでもなく、むしろ山本太郎やれいわの支持者側にちょっとだけ入っている状態なのかも知れず、その辺もあいまいだが、その一方でここ数年の間にミシェル・フーコーの講義集成の第8巻を読んで、新自由主義に関してかなり誤解していたことに気づいてしまって、にわかに新自由主義に興味が湧いてきてしまって、それが良いだの悪いだのの評価には結びつかない国家統治という面で世界的に影響を及ぼしていて、中でもアメリカを中心とした世界体制自体が新自由主義的な政治経済体制なのではないかと考えるとしっくりきてしまうのだから、現状ではかつてのマルクス主義やケインズ主義よりも新自由主義的な面の方が優勢となっているように感じられるわけだが、それぞれの主義が政治や経済へとそれなりの効果や影響を及ぼしている部分が違っているというと、それらが直接対峙してせめぎ合っていると捉えると誤解を生じさせてしまうのかも知れず、マルクス主義は労働者の味方を装う面で効果があり、ケインズ主義は政府の公共投資を行う面で効果がある一方で、新自由主義はというと、中央銀行の政策や企業経営などの面でそれなりに影響を及ぼしているのだろうが、個人の生き方の面でもそれと自覚することなく無視できない影響を及ぼしているのかも知れず、何をやるにも経済的な面から利害を判断して功利的な損得勘定が優先されると、それが新自由主義に囚われているとは直接には思わないだろうが、物事を合理的に考える癖がついてしまうと、それと意識することがなくても利害を優先して行動してしまうわけで、しかもそれが本当に合理的な判断に結びついているかというと、一面ではそうかも知れないが、打算や妥協という面では不合理や非合理的な判断をしてしまいがちになってしまうのだが、なぜそうなってしまうのかというと、先のことを見通せないからというと、それも物事を単純化していることになってしまうが、たぶんそこで自由に振る舞う余地を残しておきたいと意識しているわけではなくても、自然とそうなってしまうことに気づいていないわけで、そういうところで新自由主義的な価値観に囚われているというと、誰もそんなのは信じてくれないかも知れないが、その一方で自由を金で買っている富裕層を揶揄して新自由主義に囚われていると言い放つ人など誰もいないだろうが、実態としては貧乏人の方が金銭的に余裕がない分、遥かに新自由主義的な価値判断にそれを否定しつつも頼ってしまっているのではないか。


4月22日「可能性の追求」

 現状で何が求められているとしても、求めても手に入りそうもない物事もありそうだが、手に入れようとして求めているわけではないとすれば何なのかというと、実現してほしい状態というのもありそうで、例えば現状がひどい世の中だから、現状よりは幾らかでもマシな世の中になってほしいと願っている人もいくらでもいそうなのだが、そんな漠然とした単純な願望ではないとすれば何なのかといっても、これといってうまく説明できるようなことではないのかも知れないが、誰が意識して求めているわけではなくても、結果的にそうなってしまう状態というのもあるかも知れず、それが現状なのではないかとも思われるのだが、その結果的にこうなってしまった状態というのが、実際にこうなってみると、何かこれが求めていた状態だったような気がしてしまうという錯覚が、現状を肯定したくなってしまう感覚なのか、現状がこうなってしまったことを正当化したい感覚なのかは、どちらでも構わないが、要するに現状が自身にとって都合が良ければそれで構わないようなことなのかも知れないが、何となくそう思っている人が世の中で多数派を占めていれば、現状の中で何らかの方面の主導権を握っている人や勢力が世間から支持を得られていることになりそうなのだが、いったんそんな状態になってしまうと、もうこれ以上は世の中が良くなる可能性がなくなってしまうわけでもないだろうが、少なくともこれといって人々の願望が実現しているとも思えなくても、ただ何となくこれでいいのだと言えるような世の中になっているわけではなければ、誰もそんなふうには思わないはずだが、少しでも諦念を抱いたり、現状で妥協しても構わないような気がしてしまうなら、何となくそれで構わないような気がしてしまうのかも知れないが、老齢となって先が短いことを悟れば、果たして自分だけでなく他の若い人たちのためを思って、今よりマシな世の中になってほしいと願う意欲が薄れてしまうかどうかも、人によって様々かも知れないが、では今よりマシな世の中にするにはどうやればいいのかと問われたところで、それも人によっても立場の違いによっても様々な意見がありそうだが、それに関して言うだけなら簡単に政治体制を変えればいいとか経済状況を改善すればいいとか言えるが、果たしてどう変えればいいのかとなるとそれも人によっても立場によっても様々な意見があるかも知れないが、たぶん現状の中で変化の方向や流れがあって、その方向や流れに沿って動かないと、うまく世の中が変わって行かないような成り行きになっているというと、そんな意見も何か根拠があやふやで信じるか信じないかは自分次第でもあるようないい加減なイメージが伴ってきそうだが、そういうことではなく、具体的に何をどうしたいのかに関して計画的に事を進めるための工程表などが示されると、その内容にもよるだろうが、現状で多くの人々が信用できるような計画が示されると、世間的にも世論調査的にもそんな計画が多数派に支持されるようなことにもなってきそうだが、たぶんそういう計画が実際に推し進められると、途中で頓挫したり思いがけない変更が加わったりして、思うように計画が進まずに多大な費用や労苦が伴ってしまった計画が過去には無数にあったのかも知れないし、今でもそんな計画が推し進められている最中だろうが、現状の世の中で多数派に支持されるような計画だとうまく行かない可能性が高いのかも知れないが、それも計画の内容にもよるだろうし、実際に計画通りに事が進んでうまく行った計画も無数にありそうなのだが、その中でも目立つのはうまく行かなくなって途中で頓挫した大規模プロジェクトの類いになってきて、そういうのは大抵は夢の一大プロジェクトとか銘打って宣伝される類いで、それに関してすぐに思い浮かぶのは日韓トンネル詐欺とかいうのがその代表例となりそうだが、政府ではなく企業が手がけている計画となると、例えばイーロン・マスク関連で何やら夢を抱かせるような計画が次々に推し進められているようにメディアなどを通じて宣伝されているかも知れないが、その種の科学技術やロボット技術や医療技術などの方面で宣伝されるよくありがちな計画ではなく、社会構造を変えるような計画だと、これまたよくありがちな陰謀論系のインフルエンサーが煽るようなヤバい計画となりそうだが、それが計画だとはっきりと提示されているわけではないが、ただ漠然とそれと自覚することなく多くの人々が何かに操られながら推し進めていることがありそうで、普通はそれを推し進めているとは言わないかも知れないが、実際にコンセンサスを気にするわけでもなく協力していることも連携していることも自覚せずにほとんどの人が推し進めているとすれば、それとは何なのかと問うまでもないことなのかも知れないが、何かのきっかけからそれが稀に明らかになって、ちょっとだけ驚いたりするが、またすぐに気にしなくなって忘れ去られてしまうようなことなのかも知れず、それが暗黙の了解事項として世界のほとんどの人たちの尽力によって推し進められているから現状の世の中が成り立っていると言えるかも知れないし、それが推し進められないと困った事態に陥るといっても、推し進めざるを得ないから推し進めている限りで現状の成り行きが維持されているのだろうが、実際に何を推し進めているのかというと、推し進めているような感覚ではないと感じるならその通りなのかも知れないから、それほどしっくりくるようなことでもないだろうし、しっくりこなくても構わないようなことなのかも知れないが、とりあえずはちょっとしたことに起因してそうなっているのであり、そのちょっとしたことというのが、他の多くの人々にとってもちょっとしたことに過ぎないことなのであるから、そんなことを推し進めたところで何がどうなるわけでもないとたかを括りたくなるかも知れないが、そう思ってしまうことが肝要であり、それについてはあまり気にしないように心がけておいた方がいいのだろうが、少なくともそれを推し進めている限りは未来について楽観的な気分になれるわけだ。


4月21日「偏見から導き出される結論」

 誰かがモニターの画面に映し出されて、そこで何かを語っているのを見ながら、その人物が何か語っているわけだから、その語っている内容にはその人物の意図や思惑が含まれていると考えたくなるわけだが、それだけではないなら、他に何が考えられるのかと問いたくなるわけでもないが、そんな意図や思惑を想像したくなるわけだから、その人物がそこで語っている内容についても、その人物がそんなことを語るに至る経緯や事情やその人物を取り巻く状況や情勢などから勝手にそれを推測しているわけで、それがその人物について思い込んでいる勝手な偏見でないとすれば何なのかということが、その人物が他の誰かの主義主張をこうだと決めつけているのを、それは違うのではないかと思っているわけではなく、主義主張にはその人物が言う通りのそういう面や傾向があるにしても、それとは別の面から語らないとまずいような気がしてしまうわけで、その別の面というのが、その人物の主義主張とは全く関係のない内容を含んでいるわけではなく、それどころかその人物の願望を表しているのが、その人物が批判的に語っている他の誰かの主義主張となるような気がしてしまうから、他の誰かの主義主張の正反対の内容を含んでいるのが、その人物の主義主張だと推測したくなってしまうのだが、それもそう考えてはまずいように感じられるなら、では何なのかというと、その人物とその人物が批判的に語っている他の誰かが共通の主義主張に囚われた競合状態にあると考えた方がしっくりくるのかも知れず、しかもそれを主義主張だと考えるのではなく、両者が同じ立場を占めようとするから、一つしかない椅子に複数の人が座ろうとすれば、そこで争いが起こって、争いに勝った誰か一人がその椅子に座れば、他の人たちが座れなくなるということでしかなく、そんな椅子取りゲームの類いがそこで行われていると推測するとしっくりくるわけだから、そこで争われているのは主義主張ではないと想像してしたくなってしまうわけだが、しかし主義主張と立場とがどう違うのかがうまく説明できないし、果たしてそれが同じ立場なのかというと、そうは思っていないから、その人物が他の誰かを批判的に語ろうとしてしまうのだろうが、それがその人物が見ているのとは別の視点から見るなら、その人物とその人物が語っている他の誰かの立場が同じに見えてしまうとすれば、ではその人物の主義主張が他の誰かの主義主張とは正反対であるように語ろうとしている意図や思惑をどう考えればいいのかというと、そうしないと他の誰かを批判的に語れないからと考えるなら話の辻褄が合いそうなのだが、確かにある点においては主義主張が正反対であるかのように語られていて、そう思われるのだからそれで構わないと思ってしまうと、そう思わせようとしている人物の術中にハマってしまうから、それではまずいと思ってしまうわけでもなく、それの何がまずいのかといえば、それが偽りの対立だからまずいと考えたくなってしまうのだが、果たして本当に偽りの対立なのかどうかということが、どうも疑わしく思われると共に、疑わしいからこそ、それを正反対の主義主張だと見なすことについても疑わしいと思ってしまうと、述べていることがご都合主義のような気もしてきてしまうわけだが、ではそれをどう考えればいいのかというと、そう思いたい自分もその人物と同じような偏見に囚われていると思っておいても差し支えなく、それも同じ偏見ではなく、同じような偏見ということから少しの違いを意識できれば、その少しの違いに関して何かもっともらしいことを述べる必要性を感じてしまうわけで、結果的にそれをもっともらしいとは感じられなくても、一応は義務感からそれについて述べてみれば、微妙な違いを大げさに思わせるような煽り立てにはならないにしても、それが微妙だからこそかえってそこにこだわらなければならないことのように思われてきて、要するにそれらが正反対の主義主張などではないことを証明する必要に迫られてしまうわけだが、ではどういう理由で正反対ではないのかといえば、両者の間で同じ政治的な目的が競われていると見なせば、何となくそれらしい活動の輪郭が浮かび上がってくるのかも知れず、両者共にそれをやるために活動していて、それをどうにかしたいわけで、そのための手段として政治を利用したいわけだが、その際に同じ目的を巡って競い合っている相手を批判するには、互いの主義主張が正反対であると批判できれば都合が良く、逆に同じ傾向の主義主張なのになぜ協力したり連携せずに競い合い争っているのかと問われると、うまくその理由が説明できなくなってしまうから、だから互いの主義主張が正反対であるかのように見せかける必要が生じてきて、そんな必要に迫られてそう見せかけているように勘繰られてしまうと、そこで争っている理由がいかがわしく思われてきて、果たしてそんな偽りの対立が他の誰に見抜かれているわけでもないのだろうが、とりあえず一つしかない椅子に座るためには相手を押し退けて座るしかないだろうから、果たして椅子に座るのが目的なのかというと、まずは椅子に座らないことには目的を果たそうとするためのスタートラインにも立つことにもならないわけでもないにしても、それでもとりあえず椅子取りゲームに参加しないことには目的を果たせないと考えるなら、目的が同じでも競わなければならないわけで、何かそういうところでややこしい事態となっていると情勢を捉えてみても、それが普通の成り行きなのだから、誰もややこしいとは思わないだろうし、そういうところでわざと偏見に囚われているかのように装わなくても構わないと思うなら、あまりややこしいことは考えないで、黙って椅子取りゲームに参加するしかないのだろうし、実際に参加している人たちが椅子に座ることを巡って競い合っている複数の相手を批判することも、時と場合によっては必要に思われるわけだろうが、それだけではないことも競い合っている者同士で十分理解しているはずで、その中には互いの主義主張が正反対であるかのように見せかけようとする意図や思惑も戦略として生じていると受け取っておくしかないわけだ。


4月20日「市場の実態を反映した統治」

 実質的に市場がどこにあるのかというと、売り手と買い手が存在する限りで世界の様々な場所にあると共にネット内にもあって、そこで不特定多数の人や団体の間で売買の取引が行われていれば市場と言えるだろうが、そんな市場で取引される商品の価格が、最低限でもその商品の生産と流通と販売に伴って生じるコストを反映した価格になっていないと、商品としては存在し得ないだろうが、それ以外の要因として需要と供給の関係から価格が決まってくることは誰もが理解しているところだが、需要がないのに商品を供給すれば売れ残ってしまうから、価格が値崩れを起こして暴落して、逆に需要があるのに供給が少ないと、価格が高くても買われるから高騰するだろうが、それと行政がどう関係してくるかというと、例えば需要もないのに公共の施設などを建て過ぎてしまうと、その建設費や維持管理費などが負担となって、本当に必要なところに予算が回って行かなくなってしまって、ただでさえ行政は利益の出ない方面で活動しなければならないわけだから、民間よりはコストがかかってしまうのも仕方のないところだが、経費がかかる分を税収や公債の発行によって賄わなければならないわけだから、それなりに納得の行く予算の使われ方がされていないと税を徴収されている民衆の反発を招くのも当然の成り行きだが、そういった経緯を無視するための方便ではないだろうが、何かおかしな方面へと民衆の関心を誘導したい思惑があるかのようなことを主張している輩も結構いるような状況があり、それを枝葉末節な小手先の技術論と言ってしまうと語弊がありそうなのだが、それが間接的な財政ファイナンスとかのグレーゾーン的な方面へと関心を誘導したいわけではないにしても、税は財源ではないと主張することが何を意図しているのかも興味深いところだろうし、何か実際に行われている経済活動を無視した短絡的な思考に導くための罠だとも思えないのだが、また国債は満期が来たら借り換えれば良いと主張することも、それに関して専門的な知識を有していて、制度をうまく利用すれば都合の良い状態を保てるかのようなことを言いたい人もいくらでもいると解釈しておけばいいかどうかは、その種の専門家ではないので詳しくは知らないが、どうにかして市場の原理をかわして財政的なまやかしへと人々の関心を誘導したいような意図や思惑を感じてしまうわけだが、では彼らが避けて通りたい市場の原理とは何かといえば、それを簡単に言うならその国の市場規模に応じた国家予算になるのではないかと言うことであり、日本とアメリカを比較すれば日本よりアメリカの方が市場規模が大きいし、しかも日本よりはアメリカの企業の方が世界中からより多くの富を収奪しているだろうから、その分で余計に市場規模が大きくなるだろうが、それに応じてアメリカ政府の国家予算の方が日本政府の国家予算より遥かに規模も額も大きいことは誰もが理解している事実だろうし、その国のGDPなどの経済力に応じた国家予算にしかならなければ、小手先の財政的な技術論を駆使していくら予算を増やしたところで、自ずから限度がありそうだと考えておいた方が無難だろうが、実際に日本政府も日銀もアメリカの中央銀行であるFRBがインフレを抑制するために高金利政策を維持していることに苦慮しているし、その煽りを食って円の通貨安を招いているのに国債を発行し過ぎているから金利を上げられないし、国家の財政状況が窮地に陥って八方塞がりな感を否めないわけだが、それを積極財政派はそうじゃないと反論を繰り返している最中なのだろうが、それをどう捉えればいいのかというと、国家の財政状況が窮地に陥って八方塞がりなのは何も日本だけではなく、アメリカも含めて世界の多くの国々でそうなっていると言えるだろうから、それが各国のGDPを超える国債の発行額から言えることかも知れないが、その先頭を突っ走っているのが日本だと言えるだろうが、それでも現状で何とかなっていると情勢を捉えるなら、そんな情勢が積極財政派に味方していると言えそうなのだが、だからといってすぐに現状の与党でも野党の有力勢力でもない政治勢力が主導権を握るにはクーデターでも起こさない限りは無理だろうから、まずは野党の有力勢力へと政権交代してから、しかもその野党の有力勢力というのが現状の日本では立憲民主を中心とした勢力だと見なすなら、もちろんそれを絶対に阻止したい勢力が多数派を占めているのかも知れないが、それでもまずは緊縮財政派だと揶揄されている件の勢力に政権を担わせて、実際に統治に失敗すれば、そら見たことかとなるわけで、そうなってから積極財政派を自称する勢力がどれほど国民の支持を獲得できるかということになれば、それなりに都合の良い情勢の中で政権を担える可能性が出てきそうだが、それもそんな都合の良い経過を辿るような成り行きにはならないだろうから、将来どうなるかは何とも言えないところだが、少なくとも現時点で信じられている政治や経済に関する理屈や論理や理論などは、数学や物理などの理屈や論理や理論と比べれば信用度も信頼度も格段に低いだろうから、あまりそれらに従ってもっともらしいことを主張してしまうと、情勢の変化に合わせて梯子を外されて時代遅れとなりかねないし、過去にもそうなってしまった人や勢力などいくらでも存在しただろうから、現時点でもっともらしいことを主張している人や勢力のほとんどもそうなる宿命だと思っておいても差し支えないかどうかも含めて、それもこれといって確かなことは言えないのだが、その一方で自分が信じていることに関しては、それが今後時代遅れになろうがなるまいが、また正しかろうと間違っていようと、自分にとっては普通に思われる感覚の中で言えることとなると、どう考えても貨幣そのものの本質は実体のない数値的な情報に過ぎず、それを媒介や媒体として売買や貸借の取引に利用されるアイテムに過ぎないから、そういうことも考慮に入れて考えてみると、宗教でいうところの偶像崇拝に近いことを信じているのが積極財政派だと捉えるとしっくりきてしまい、そんな捉え方が正しいか間違っているかは、今のところは何とも言えないが、今後その正誤が明らかになるかどうかもよくわからないと思っているわけだ。


4月19日「否定と批判の連携」

 現状の世の中を肯定的に捉えるなら、様々な方面で現状を否定的に捉えている人たちの主張の裏返しとなるようなことを述べるしかないが、要するにこのままでは世の中が大変なことになるから、あるいはもうすでに大変なことになっているから、大変なことになろうとしているのを食い止めながらも、またすでに大変なことになっているのを何とかしようとして、実際に取り組んでいるのかというと、否応なく取り組まざるを得ないところでは確かに取り組んでいるはずなのだが、それが言動の面での取り組みとなると、それを否定するよりはどちらかと言えば批判的な主張に終始してしまうから、否定と批判とはどう違うのかが意味としてはわかっているつもりだが、しかも現状の世の中が否定的に語られる理由も批判されている理由もわかっているつもりなのに、どうしてそれを肯定的に捉える必要があるのかもわかっているつもりなら、問題はないわけだが、たぶん問題がないどころか、現状の世の中が問題だらけだからこそ、そんな問題をもたらしている当事者や問題を放置している当事者を批判しなければならないと思うのが当然の成り行きのような気がするわけだが、果たしてその問題とこの問題とがどう違うのかをわかっているつもりなら、何の問題もないとは言えないが、それに関しては世の中の構造を理解して、理解したからといって構造そのものを変えようとして失敗する未来を予想したいわけでもないのだが、そういった試みはかつての毛沢東にしてもポルポトにしても嫌というほど失敗が繰り返されてきたと解釈しておけば良いのか悪いのか、ということではなく、良いか悪いかとは別の方面で、今も世界各地で大規模プロジェクトとして飽きもせず繰り返されていることでもあるから、それが世の中の金余りを象徴していると部分的な状況論へと話を展開しておけばもっともらしく感じられるものの、そうではないなら何なのかと問われるわけでもなく、そうであると共に他にも語らなければならないことがありそうで、それが他でも部分的に修正されるべき程度の問題となってくるのだろうから、全体的な視点から指摘するようなことではないのかも知れないが、それに関して例えば世の中で誰もがそれとわかるような形態をとりながら、あからさまな貧困が提示されていれば、今はまだ貧困に陥っていない人であれば、自身がそうならないように死に物狂いで必死になって働くだろうかと問われているわけでもなく、そうだとすれば貧困が問題なのではなく、貧困を利用して何をやるかが問われていると勘違いしたくなるわけでもないのだが、貧困の利用価値とはただ単に低賃金労働者の供給源となるだけではなく、貧困ビジネスやポピュリストの煽動源として有効というわけでもないとすれば、世の中から貧困をなくすことが政治課題となってくるとは思わない方がよく、確かに一定の割合で福祉財源を構成する要素として貧困対策が必要となってくるのだろうが、全体的な視点から見るなら、少数の割合として金持ちも必要だが貧乏人も必要だと状況を捉えるのではなく、結果的にそうなっている状況を保つには富裕層から貧困層へと絶えず富を還流させる必要があると思うわけではないが、それがただで還流するのではなく、労働を媒介して還流するだけではなく商品の売買や資金の貸借を媒介させて還流できるかというと、それよりは寄付や贈与として還流させたいから、それを媒介させる窓口や手段として慈善団体や慈善事業がありそうなのだが、もちろんそういった活動によって世界から貧困がなくなるとは思えないし、実際になくならないから慈善団体や慈善事業もなくならないわけで、要するにそうした活動の目的と活動を支えている対象が矛盾していると思われるわけでもなく、活動を支えている対象をなくすために活動するということが、自然な結びつきを構成しているわけで、それと同じとは思えないが、世の中の現状を否定的に捉えている原因となる対象を批判すればその対象がなくなるかというと、その対象がなくなってしまえば批判することができなくなって、世の中の現状を否定的に捉えることもできなくなってしまうかというと、そうなれば確かに否定も批判もできなくなってしまうだろうが、否定や批判の言動に終始する当事者がそう思っているかというと、目的としては世の中の現状を悪化させている元凶をなくそうとしたり改善しようとして、そんな言動に終始していることは確かなのだが、それがなくなるとは思えないわけで、それが現状の中ではそう思われるから、そんな否定や批判の言動にも共感できるし、そんな世の中の実態にもリアリティを感じられるわけで、彼らのうちの何人かがそんな共感や実感を利用して、救世主のような役柄を演じているつもりになっているわけではないはずだが、現状をフィクションだと捉えたいわけでもないのだが、現状の中で金持ちも貧乏人もそれほど金持ちでも貧乏でもなさそうなその他大勢の人々も含めて、それらの中で対立軸や境界線を引いて、どちらか一方の陣営に入って互いに敵対するように仕向けていること自体がフィクションなのではないかとも思ってしまうわけで、そういうところで山本太郎の煽りが失敗しているようにも思われるわけだが、失敗している中でもある程度は成功しているから、それなりの支持者や賛同者を得て彼らの活動が成り立っているのであるから、それでも構わないような成り行きなのだろうが、それをそんなふうに捉えてしまうのも勘違いのなせる業かも知れないが、そんな成り行きが興味深いしおもしろそうだからこそ、ある程度の留保を伴いながらも彼らを支持したり支援したくなってしまうわけで、それで構わないように思われる現状を果たして否定的に捉えているかというと、もちろん逆に肯定的に捉えていて、何か彼らが今後もやらかしてくれるような気がして、それが国会でやらかしていることを遥かに超えるようなやらかしに発展してほしいわけだ。


4月18日「行政のコスト」

 経済活動の中でコストや効率が重視されるのは、それが商品の価格に反映するからだが、ただ単に価格が安ければ良いというわけではなく、その商品の生産や流通や販売に携わっている人々の生活や活動が成り立つ範囲内で妥当な価格がある一方で、それを消費者が買わないことにはそれらの人々の生活や活動も成り立たないわけだから、そういうところから自ずと価格が決まってくると考えるのが妥当なところだが、同じ商品であれば価格の安い商品の方が売れる可能性が高まると考えるなら、どうやって価格を下げればいいのかとなると、効率良く生産して流通して販売してコストを下げるしかないだろうし、それ以外には真っ当なやり方がないように思われるかも知れないが、真っ当でないやり方とは言えないが、消費者に幻想を抱かせてブランド価値を高めて、高くても買ってもらえる商品にするとか、政府が買わせたい商品に補助金を出して買わせるとか、また自国の商品を買わせるために外国の商品には関税を上乗せするとか、それ以外にも工夫次第で何か消費者に買わせるやり方があるかも知れないが、かつての社会主義や共産主義の国々が国家統治に失敗した主な原因として挙げられるのが、コストを無視した公共投資が行われて行政機構が肥大化して行って、行政機構に富が奪われるに伴って国民の生活レベルが低下して行き、産業も発展せずに国家的な貧困化が加速したということになりそうだが、それを今でも懲りずにやっているのが北朝鮮かも知れないが、そういう成り行きとは一見逆のように感じられるかも知れないが、大阪で行われている維新の行政が、コストを削減しているのに府民の生活レベルの低下を招いていると批判されている理由としては、単純に行政サービスの質を劣化させているからと言えるだろうが、なぜそれではダメなのかというと、それを市場原理に当てはめるわけには行かないとしても、コストや効率を重視するなら、それによって行政サービスの質を向上させる必要があるわけで、しかも行政の無駄を省いたなら、その分で税負担が軽くなって、府民の生活レベルが向上しなければならず、そういう方向で結果的に行政改革によって府民の生活を豊かにすることができたなら、普通は批判されないはずだが、そういう地方自治体レベルではやれることに限界がありそうだが、国家レベルでは普通に行政改革に成功したなら、その分で国民の税負担が軽くならないと、行政の無駄を省いたことにはならず、実際にそうなっていないなら小さな政府が実現していないわけだから、それに関して新自由主義に絡めた批判が行われていること自体が嘘でしかないのだが、今後AIなどを活用して行政の効率化やコスト削減が行われるにしても、結果的に行政サービスが劣化してしかも国民の税負担も重くなるようなら、かつての社会主義や共産主義の国々と同じとは言えないにしても、傾向としては非効率でコストのかかる行政機構の強大化や強権化に反比例して国家や国民の貧困化を招いてしまうようなことになりかねず、果たしてそんな絵に描いたような逆効果となる成り行きなどあり得ないとは思いたいところだが、そこにどんな視点や観点が抜けているのかといえば、そこでの成り行きを市場原理に当てはめるわけには行かないにしても、普通に魅力のある国には人や物や情報や金が集まってくるから豊かな国になるのだろうし、そういうところで国家間の競争原理が働いていて、少なくとも日本では人口減少に歯止めがかからないなら、たとえ観光目的で人が集まってくるとしてもそこに住みたいとは思わないから、あるいは住みたいと思っても簡単には住まわせてはくれないから、人口が減少し続けていると単純には言えないものの、何かしら障壁があるとしか言えないようなことかも知れないし、移民ではなく自国民が増えるような成り行きに持って行けばいいはずだが、そんな都合の良い願望には見落としている点がありそうで、人口の多い少ないではなく、そこに住んで生活している人の満足度を高めるような行政が求められているというと、さらにご都合主義的で無い物ねだりとなってしまうかも知れないが、そういったコストや効率を重視するのではなく、国債を発行して積極的に公共投資を行なって国を豊かにするような主張に伴って、税は財源ではなく国債が国の財源なのだと世界各国の政府の財政事情の実態を反映した主張をしたくなる人もそれなりに多くいるのだろうが、実際に日本でも世界各国でも国民や企業などの税負担がそれなりにあるわけだから、原理的には税負担だけでは政府の予算を賄えないから、国債を発行するのだろうし、そういう成り行きになっている限りで、税は財源ではないと強弁するのもちょっと現状を反映していないような主張だと思ってしまうのだが、そういう意味では無税国家が実現しない限りは、そういう主張はフィクションだと思っておいても構わないだろうが、その一方で富裕層や大企業に増税する一方で貧困層や中小企業の税負担を軽くするような傾向にはそれなりになっているだろうから、そういう傾向を徹底して行けばいいような気がするものの、それも国家間競争を念頭に置くなら、必ずしもそうはならないと現状を見るしかないのかも知れず、実際に消費税が富裕層や大企業に有利に働いているのは誰もが承知していることだが、そういうところでこれといって納得できるような理屈にはなっておらず、それが起因して政府に対して不信感を抱くようなことになってしまうのも理解できるだろうが、逆に政府に対して批判する口実が何もないようなことになると、それも実際にはそんなことはあり得ないのだろうから、何かしら批判の口実が誰もがわかるように設定されていないとまずいわけではないのだろうが、実際にそうなっているものだから、そんなわかりやすい批判の口実に食いついて批判してしまう人が大勢出現して、その種の言論空間が活況を呈しているわけで、結果的にそうなっているのを後出しじゃんけんのようにして政府の陰謀だと言うのもおかしいから、そうではないと思いたいところだが、それでも結果から見ればそうなっていないとまずいからそうなっていると解釈するとしっくりきてしまうわけだが、そこでも多くの人々が気づかないところで何か市場原理のようなものが作用してそうなっているのかも知れない。


4月17日「幸運に恵まれる予感」

 特に世の中の状況を悲観的に見ているわけでもないのだが、それでも批判する対象に囚われている人たちの中には、今後の成り行きを悲観的に見ている人もいくらでもいるだろうから、そういう人の言っていることを真に受けるなら、これから世の中がさらにひどくなって行くように感じられるかも知れないが、実感としてはそうではなく、単純に良い方向や悪い方向へと一方的に進んでいるわけではなく、世の中の様々な方面でジグザグな紆余曲折が伴ってくるから、一概にはこうなって行くとは言えないようなことなのかも知れず、その中で一部の人たちが状況の中の一部分だけを取り出して、自らの言説に合うような世の中の傾向について都合良く語っていると捉えるなら、状況の中で悲観的に感じられる部分と楽観的に感じられる部分とさらにどちらでもない部分が混在しているから、それらの割合が現状の中でどうなっているのかを、自らが囚われている状況に照らし合わせて判断しなければならないわけでもなければ、そんなことはどうでもいいのかも知れないが、それでもどちらかといえば悲観的に感じられるような成り行きとはかなり違った方面で生きていると実感しているのかも知れないから、それが勘違いでなければ、これから何か幸運に恵まれるような予感を信じていればいいような気もしていて、それが具体的にどんな幸運になるのかを、もうすぐ知ることになるのかも知れないし、しかもそれを知るのは自分だけではなく、他の大勢の人たちも知ることになるような気がするわけで、たとえそれを知ったところで信じなければ幸運だとは実感できないかも知れないが、それが幸運でなければ何なのかというと、不運だとか凶運だとか感じてしまうかも知れず、それが勘違いでなければ、ある人にとっては幸運なのに、別の人にとっては不運だとか凶運だと感じられるわけだから、それらの人たちが全体として体験する出来事や現象が何なのかを知る必要がありそうだが、それが別のある人にとっては何でもないことだとは言えないし、これから誰もが体験することだから、少なくともそれを体験したところで、それに気づかないわけがないとは思いたいが、現に今から十数年前にもそれが起こった際に生きていた人なら体験しているはずだが、そんなことには無関心ならそれでも構わないようなことだとしたら、そういう人にとっては幸運でも不運でも凶運でもないことにはなりそうだが、それを運だと思ってしまうこと自体が、人の努力や尽力を否定するのかと訝しがられるわけでもないが、たぶん運も実力のうちだと思えば、自らに強運が巡ってくるように努力してみても構わないだろうし、ただ座して死を待つよりは出て活路を見い出さんとも言われるような機会でもなければ、傍観者のふりを装うのも一興かも知れないが、何を傍観しているのかといえば、他人の活動や物や情報の流通を傍観しているとは感じられなくても、目の前を幸運が通り過ぎるのをただ傍観しているだけではもったいないと感じるなら、自らが積極的に動いて幸運を掴み取るような行動に出なければならないと誰に諭されているわけでもなく、他人にそれを諭している暇があるなら、まずは自ら動いて範を示さなければならないと思うまでもなく、多くの人たちが積極的に動いて何かを掴み取ろうとしているのだろうが、結果的に掴み取ったそれが果たして幸運なのか不運なのか凶運なのか悪運なのかは自分で判断すればいいことでしかないだろうが、他人の運勢をああだこうだと批評してみたところで、自らの運勢が上向くわけでもないだろうから、そんな暇があったら努力しろと他人から諭されるわけでもなく、それが運勢が上向くような努力なのかもよくわからないなら、無駄な悪あがきの最中かも知れないし、そういうところで自らの勘違いを悟るわけでもないだろうから、それが無駄な努力だろうが悪あがきだろうが、何の戦略も戦術もなしにただ闇雲に暴れられるわけでもなければ、何かしら限度や限界や制限がありそうで、これ以上は無理だと思うギリギリのところまでやっている感覚がないなら、まだそれなりに余裕が感じられるかも知れないが、自身のわかっていないところで活動や言動を抑え込まれている可能性があるかも知れないから、その辺の自身の感覚をあまり信用する気にはなれないが、そんな抑え込まれている感覚を利用しなければならず、実際にそれを利用しながらモチベーションを保っていて、抑え込みに反発して、作用反作用の法則に従っていると思っておけば何のことはなく、物理的な力の法則に支配されているだけかも知れないが、人の感情までが物理の法則に従っているとも思えないし、それでも何かにつけて当たり障りのないことを言わせるように仕向けてきているわけだから、そういう作用には自然と反発するようにできているから、何がそうできているかが謎であるわけでもないのだが、そういう作用を避けられないとしたら、たとえその気がなくてもそれを利用して反発しているように装うしかないだろうから、それが自然の装いだと感じるしかないわけで、そんなふうに装っている人たちが各々で思い思いに活動した結果がそうなってしまうのだから、それを認めることも認めずに反発することも、物理的な力の法則に従いながらそう振る舞っていると見なしておくのが無難であるなら、あまりその種の反応の相手などしない方が身のためで、そんな気がするなら無視していれば済んでしまうことになるだろうが、かまってくれないと困るような成り行きになっているのであれば、その気もないのに適当にあしらうようなことをやってしまうのだろうが、それが藪蛇だからこそこじれてしまって、下手に手を出したからその報いを受けるような結果をもたらして後悔する羽目に陥るわけだが、それもわざと問題を起こすような振る舞いに含まれるとなると、問題を起こして取り乱しているわりには余裕綽々な態度でもあるから余計に反発を買うのかも知れないものの、そういうところでその人の個性がどうのこうの言われているうちは、それを問題視している側でも本気で追及しているとは見えないから、そんな関係が修復困難だと思われるわけでもないところが、関係各方面の対応が救いようのない愚かさを醸し出しているのかも知れないが、愚かだからこそ関係する誰もが幸運に恵まれていると受け取っておくのも無難な反応なのではないか。


4月16日「破綻の埋め合わせ」

 世の中の全ての経済活動を市場経済に組み込めるかというと、それが売買や貸借に関係する行為なら確かに市場経済の中で行われている取引なのだろうが、他にはそれが経済活動だとは思われないかも知れないが、強制的な強奪行為としての徴税とか強盗とか、任意の施しとしての寄付とか贈与とかがあるだろうが、たぶん市場経済だけでは世の中が回って行かないから、その他の経済活動だとは思われない行為があると捉えるのではなく、元からそれらもあるわけで、そういう意味では市場経済だけしか眼中にないような態度では、世の中の部分的な面しか見ていないことになってしまうのだろうが、だからといって市場経済至上主義のような新自由主義的な思考を批判するのに、他の経済活動だとは思われないような行為を持ち出すのも、ちょっと違うような気もするのだが、政府や企業が財政的に破綻しても、社会の中で経済活動が成り立っているのは、もちろん他に破綻していない政府や企業があるからだが、もっと単純な理由として、例えば借金を返せなくなったら踏み倒せば良いし、売買や貸借に使う資金がなければタダでもらってくれば良いし、タダでもらえなければ窃盗や万引きをするとか違法行為をやれば良いことになってしまうと、違法行為が常態化してしまうと世の中が荒廃してしまうから、違法行為はやらないに越したことはないわけだが、利益が出る価格で売買や貸借などの商取引が成り立っている状態を保つには経済成長が欠かせないかというと、普通はそう考えられるだろうが、結果的に経済成長しているだけだから、政府が経済成長を促すような経済政策をやったところでうまく行かない場合もあるだろうから、現状で経済成長をもたらすような経済政策とは何かと問われてみても、実際に政府がやっている政策がそうだと答えるしかないが、それがうまく行くかどうかは結果的に明らかになることでしかなく、うまく行きそうな経済政策をもっともらしく主張することはできるにしても、今までも政治家や経済学者の類いがそういう政策を主張してきたのだろうし、これからも主張し続けるだろうが、実態としては複数の政策を組み合わせて実施するようなことが行われてきて、しかもその複数の政策が互いに相容れないような矛盾した組み合わせだったりすると、そこを突いて批判されてしまうのだろうが、たぶんそれも否応なく批判されるようなことをやって行かざるを得ないような成り行きに囚われてしまうわけで、世の中で互いに相容れない活動が実際に行われているから、対立や敵対的な関係が生じて、そこでも実際に敵を攻撃したり、また敵の攻撃から身を守るための防御システムを構築したりしながら活動しているわけだから、そうなるのが当然と言えば当然であるにしても、それもそうしようと意識して画策するようなこと以外にも、否応なくそうならざるを得ない成り行きに囚われてしまうのだから、思い通りで計画通りに事が進んでいるわけでもなく、行手を阻む様々な障害を避けたり乗り越えながら活動していれば、結構の頻度で思いがけない事態に直面するわけで、それを避け切れなかったり乗り越えられなければ、それなりの被害や損害を被ることになるだろうし、被害や損害が甚大な規模や額になれば、対応し切れないと活動が破綻することになるわけだが、そうならないようにするための確実なやり方があるわけでもないだろうが、結果的に社会の中で市場経済が機能していれば、その中で活動が成り立っている人や団体であれば、活動している限りは破綻していないことになるわけで、そういう意味ではできるだけ多くの人や団体が市場経済の中で活動が成り立つような状態を保つことができれば、そんな市場経済を内包した社会の安定も保たれるわけで、国家統治を担っている政府としても社会を安定して統治するには市場経済を有効に機能させておいた方が都合が良いわけだろうが、市場経済が有効に機能するということが持続的な経済成長がもたらされることになるかというと、普通はそういうことだと理解しても構わないのだろうが、果たして経済成長をもたらすような産業の技術革新が永遠に続くのかというと、結果的にはそうなっていると認識せざるを得ないにしても、経済成長の要因として人口の増加が永遠に続くかというと、統計的な予測としてはそうではないことも予測されているから、その辺が怪しいところだが、その一方で経済活動を主に担っている企業活動には破綻がつきものであるから、多くの企業が経営破綻している中でも生き残ったごく少数の企業が大企業へと成長する過程でも経済成長が実現するわけだから、それがゼロサム的な差し引きゼロではなく、利益となるプラスが積み上がることで経済成長が達成されるのだとしても、その利益と呼ばれるものがどのような形態となって残っているのかというと、銀行の口座残高の数値情報の増大だけであれば実質的には何でもないことかも知れないが、人工的に造られた建物や道路や機械設備などのインフラの増大であれば、何やら人類の文明の繁栄や発展を実感できるかも知れないが、本当にそれが利益なのかというと、それらが廃墟とはならずに社会の中で有効に機能している限りでそう思われるようなことなのかも知れないし、逆に世の中でその種の人工的な構築物の廃墟が目立って増えてくれば、その種の文明の衰退を実感できるかも知れないが、それが地方都市のシャッターが降りたままの商店街であったり、寂れた遊園地の跡地などを訪れた際に感じられる実感なのだとしても、それと反比例して増えているのがネットなどの仮想空間であるなら、そういった方面へと文明が縮小し続けている最中であることを誰もが実感しているわけでもないだろうが、何かそういうところで社会が破綻に直面していて、それを破綻だとは思わないようにさせている幻想が世界中で勘違いと共に蔓延しているのかも知れない。


4月15日「間接的な統治」

 たぶん資本主義市場経済をどうやって維持するかが直接の政治的な課題となっているわけではなく、放っておくと人々の間で経済格差が広がって大変なことになるから、そうなるのをどうにかして食い止めなければならず、ではそれが直接の政治的な課題となっているかというと、民主的な国家体制になっているとできるだけ多くの人々から支持を集めないと政治的な主導権を握れないから、資本主義市場経済の中で成功している一握りの富裕層よりは、大多数のそれほど富裕ではない市民からも支持を集めなければならないから、そんな一般市民の意向を尊重するような政治が求められていると政治的な課題を解釈するなら、それほど間違った認識ではないような気がするのだが、果たして大多数の一般市民の意向が何なのかというと、それが富裕層になりたいというのなら、現状の資本主義市場経済の中では実現する確率は低いだろうから、意向は尊重するにしても、誰もが富裕層になれるわけではないことは、現状の世の中で暮らしていれば誰もが理解していることかも知れないが、では何か他に直接の政治的な課題があるのかというと、政治自体が何か直接的な職業というよりは、世の中の各方面に間接的に働きかけるような立場なのかも知れず、そういう意味では特定の分野に限定された専門職ではないわけで、もちろん専門職から政治家へ転身した人もいくらでもいるだろうが、国家統治が政治家の専門分野なのかというと、そうだと認識しても構わないが、それは政治学者の専門分野だとも言えるだろうから、行政の長などのそういう方面を担っている政治家もいるだろうが、それだけが全てではないと認識しておいても構わないだろうし、何の専門分野でもない方面で活動している政治家もいるかも知れないから、何とも言えないところで、国家統治と資本主義市場経済を維持することが重なってくる方面で政治に何ができるかとなると、直接市場に介入するのではなく、外部的な条件として、例えば税制を改正することによって、結果的に市場の中で競争が維持されるような状態が保たれるなら、それによって国家統治もうまく行っていることになれば、税制の改正が功を奏したことになるだろうが、それがどういうことなのかというと、市場経済が維持されているということがその中で商売がうまく行っていることになるなら、多くの人々が商品を買っていることになり、少なくとも人々が貧困に陥っている割合が少なければ、商売繁盛な状態が保たれていて、多くの人々が商売に携わっていれば、多くの企業がそこに参入している状態も保たれていると解釈したくなってくるのだが、果たして実態がどうなのかというと、その辺が微妙なところであり、現状でもれいわ新選組が消費税廃止を訴えて、そうすれば日本経済が活性化して多くの人々が豊かになれると主張しているわけで、それが直接市場に介入するのではなく、市場の外部的な条件の変更として税制を改正するやり方であるから、そういうのは紛れもなく新自由主義的な政策なのだろうが、それ以前に自民党政府が法人税を下げて消費税を上げるというこれまた新自由主義的な政策をやってきたわけで、そんな政策によって日本の民衆の貧困化が促進されたと山本太郎的には批判したいのだろうが、そういうのとは違ってケインズが主張していたのが、政府が直接公共投資を行なって民衆の雇用機会を増やして経済を成長させることだったのかどうかが、今ひとつよくわからないところだが、それが市場経済を無視したやり方になると社会主義や共産主義になってしまうのだろうが、現状の世界で行われていることは、どちらかと言えば資本主義市場経済を維持する方向で、各国の中央銀行が金利を上げたり下げたり主に債券などの金融商品を売ったり買ったりしながら経済の状態を暖めたり冷やしたり調整しているわけだろうが、必ずしも政府の経済運営が成功したり失敗したからと言ってどうなるわけでもないと言ってしまうと嘘になってしまうが、それ以外の政治や経済の要因も絡んでくるから、何とも言えないところがあり、例えば実際に破綻国家となってしまったベネズエラの独裁的な左翼政権を批判することは容易にできるが、ではまだ破綻していないトルコの独裁的な右翼政権やすでに破綻状態となっているエジプトの軍事政権も同じように批判できるかというと、少なくとも同じようには批判できないわけで、まさかこれから日本でれいわ新選組が多くの民衆から支持されて議会で多数派となって、山本太郎が総理大臣になったところで、かつてのベネズエラのチャベス政権のようにアメリカと敵対して破綻国家へと追い込まれてしまうかというと、実際にそうなってみないことにはわからないし、現状の日本経済の規模から考えるならそうはならない可能性の方が高そうだが、そういうところであまり危機感を煽るような気にはなれないし、現状の日本の経済状態でも何とかなっていると見ておいた方が良さそうだが、だからといって政府を批判しないわけには行かないだろうから、さっさと政権交代して一時的には立憲民主などを中心とする連立政権にでもなければ、今よりさらに日本の政治経済の問題点が明らかになってくるかも知れないから、あまり現状維持は推奨できないところだが、少なくとも「今だけ金だけ自分だけ」などという煽動文句はフィクションなのだろうから、もっと現状で成り立っている面に目を向けなければならず、また急進的な改革というのも、それをやるほど政治的にも経済的にも追い込まれているような感じではないから、激しく大げさな脅し文句を真に受ける気にはなれないわけで、だから本当に手遅れになるまで政治的には何もできないのかも知れず、もうすでに手遅れなのかも知れないが、それでも構わないような情勢だと世の中を見ているわけで、やれることは選挙で投票するかしないかとか投票するならどの候補者にするかということでしかないから、個人的にやれることは大したことではないわけだ。


4月14日「歴史による洗脳」

 その時のことを何も覚えていないわけではないが、そこからだいぶ時が経ってしまうと、都合の良い記憶に変質してしまった可能性も捨てきれないが、何にとって都合が良いのかといえば、それが自分にとってではなく、その時から現在までの歴史的な経緯にとって都合が良いのかも知れず、ともすればそんな忘れてしまいがちなことが、歴史的な経緯が思い出させてくれるわけではないが、そんな歴史的な経緯に騙されてはならないどころではなく、騙されているのではないと理解しておいた方がいいわけで、たぶん歴史的な経緯から学んでしまって、そんな経緯を正当化せざる得ないような心境となってしまうから、その人の意志が歴史的な経緯を正当化するような傾向に凝り固まってしまったのかも知れず、そうなると歴史的な経緯に洗脳されていることになるのかも知れないが、そんなふうに考えるのが自然に思われるわけだから、歴史によって自分が洗脳されているなんて気づくはずもなく、自分で主体的に考えてそんな意志を持つようになったと思われても何の不思議も感じないだろうが、その人がそう考えてそう行動しているのが、何か自然な成り行きのように感じられるなら、それが自然に感じられるような歴史的な経緯に洗脳されていると思っておくのが無難なところだろうが、そこで勘違いしてはならないのが、もちろん勘違いさせるのも、そうなるに至る歴史的な経緯がそう思わせるのかも知れないが、その人の考えや行動が歴史的な経緯に逆らっているように感じられる時であり、歴史的な経緯がそういう成り行きに従う人と逆らう人の二種類の人を出現させるのであって、だからそんな成り行きに従っても逆らってもまずいと言いたいわけではなく、否応なくそうならざるを得ないのだからそれ以外の選択肢などないわけではないのだろうが、そうなってしまった人たちに何を言ってみても聞く耳を持たないと思っておくのが無難なのかも知れず、その人にとってはそうなるのが自然に感じられるのだから、そうならないようにした方がいいと言ってみたところで何の説得力も感じられないだろうから、すでにそうなってしまった人は後戻りが利かないのであり、そうなるしかないと思って見放すしかないというか、逆にそうなってしまった人たちから見れば、そうならない人の方が歴史から見放されているように感じられるだろうから、どちらにしてもお互いにわかり合えないのかも知れず、そうなるかならないかでその後に歩んで行く方向が違ってくるのだろうが、どちらに行ったところでそこまでに至る歴史的な経緯から逃れられないだろうし、その延長上で思考したり行動していることには変わりなく、逃れようとして逃れられるわけでもないから、意識してそれを無視してもそうなってしまうような成り行きに囚われているわけで、だからそんなことまで無理に考える必要もないのだろうが、考えてみたところで何がどうなるわけでもないとは思わないし、何かしらそんな成り行きから逃れる手段や方法を思いつくかも知れないが、そうなったところでそうなるのが自然の成り行きのように思われないと、そういう方向へは行けないような気がしてしまうから、わざと思いや考えに逆らう行動は取れない限りでそうなってしまうと思っておくのが無難なのかも知れず、それでも果たして自分の思いや考えに逆らって行動できるかというと、仮にそうなってしまってもそれが歴史的な経緯に沿った行動なのかも知れないから、そういう意味ではあまり本気になって自らの思いや考えや行動を信用してはならないのだろうが、それは自分以外の他人の思いや考えや行為や行動についても言えることかも知れず、もちろんその人自身がそう思ったり考えたりしながら、そんな思考に基づいた行為や行動に至っているわけではないと思ってみても、それも行為や行動の内容や傾向や程度にもよるだろうが、それが言葉を用いて話す行為になってくると、その人の思考に基づいて言葉が出力されてくると思ってしまうのだが、そこでも他人から発せられた言葉に対する応答であったりすれば、他人がそう言わせるように誘導していたり仕向けているような意図や思惑も、その時には感じられないかも知れないが、後からその時のことを振り返って思い出してみれば、そんなことを言わせられてしまったような気になることもあるだろうから、それが自分の言いたかったことではないように思われるなら、果たして自分の思いを反映した言葉だったのかどうかも、その時の事の経緯を思い出してみないことにはよくわからないし、思い出してみたところで、自分の都合の良いようにその場の状況を解釈していれば、それが自身が囚われている歴史的な経緯に沿った言動であった可能性もあるだろうから、そんなことにまで思いを巡らせてみなければならないような大げさな話の内容ではなければ、どうということはないのだろうが、それが政治的な問題も絡んでくるようなら、それについて偉そうに講釈を垂れたくなるような成り行きにもなってくるかも知れないから、そんなことを言い放ってしまう自らに正義や正当性があるように装いたいなら、他の大勢の人々からも支持を得られるようなもっともらしいことを言いたくなってしまうわけだが、逆にそれが煽動目的だと受け取られるようなら、わざと反発を招くようなことも言い放ちたくなるだろうし、しかもそれが政治的に間違った主張に囚われている方面から反発を招いたり反感を買うようなことを言いたがる人も出てくるから、もちろんその間違った主張に囚われていると世間的に思われている人や団体にしてみれば、それがそれらの人たちにとっては正義や正当化の対象となる思想の類いに基づいた主張ともなるから、そんな主張や思想を巡って対立や敵対が装われていて、そうであるからこそそれがそういう主張や思想をもたらす歴史的な経緯から説明されると、それを信じている人にもそれに反発している人にも、そんな歴史的な経緯に沿った言動や活動に囚われているのが自然に感じられるわけで、もちろん当人たちはそれを自覚していない場合がほとんどなのだろうが、そこで起こっている対立や敵対がそんな対立や敵対に至る歴史的な経緯を反映していないはずがないわけだ。


4月13日「対立の有効化」

 何か政治的にわかりやすい対立軸を設定されると、当然それを無効化するようなことを言いたがる人が出てくるだろうが、なぜそんな無効化したい対立軸が設定されるのかといえば、実際に不快な煽り文句を使って対立が煽られているからで、対立している一方を批判したり馬鹿にしたりしながら、そんな批判や馬鹿にする対象と対立している自分たちの陣営を肯定したり、対立を煽っている自分たちの行為や立場を正当化したい者たちが愚かに見えるなら、そんな対立自体を否定して無効化したくなるわけだが、そうではなく逆にその種の不快な対立を有効に活用するにはどうすればいいかと考えたくなるわけでもないが、否応なくそうなってしまうような成り行きに巻き込まれて、嫌でもそんなことを考えさせられてしまうわけでもないだろうが、たぶんそんなことを考えさせられてしまう人は、自分がそんなことを考えている自覚などないのに、その人の言動がそんなことを述べているように感じられてしまうから、なるほど当人が気づかないところでそんな成り行きに巻き込まれてしまっていることが窺えるわけだが、人を意図的にそんな対立に巻き込もうと誰が画策しているわけでもないとその場の状況を捉えるなら、巻き込まれていることを自覚することなくその場の空気を読んでしまうから、まるで絵に描いたようなわかりやすい対立を設定しておいてから、対立している奴らは馬鹿だと逆に対立自体を否定してマウントを取るような態度を取ろうとしてしまうのだが、果たしてそれでその種の不快な対立を有効活用していることになるかというと、述べている言説の中では有効活用しているのだろうが、それを否定してしまってはまずいような気がして、それどころか対立するどちらも肯定しなければならないように感じられるなら、それも勘違いなのかも知れないが、わざと勘違いを装っているわけではなく、勘違いせざるを得ない成り行きに巻き込まれていると思うわけでもないのだが、勘違いしていることに気づかないふりをしているわけでもないなら、そういう成り行きに対して疑念を感じるならそれで構わないような気になれるわけでもないが、そういう成り行きをあからさまに否定するのではなく、否定しないならどう語ればいいのかとそれに関する新たな語り方を模索しながらも、それも意識してうまく語ろうとしているわけでもないのだろうが、そうしたいわけでもないのに情勢を撹乱するような傾向に持ち込もうとしているように受け取られると、それも否定したいわけでもないのだが、撹乱というよりは安易な誘導に乗らないように心がけなければならず、わかりやすく対立を煽り立てると物事を単純化できて状況が理解しやすくなるのだが、本当にそうなのかというと、それが現実のフィクション化なのではないかと疑念を抱かざるを得ないのだから、そんなフィクションを信じてみても構わないのだろうが、信じてしまった人々がどうなったかというと、性懲りもなく飽きもせずひたすら対立を煽り立てる人になってしまったのだから、そうなってしまった人たちの二の舞にならないようにしなければならないとは思わないが、それらの人たちがそうなってしまったことを否定するわけには行かないわけだから、そういう成り行きの中で多くの人たちそうなってしまうのを相対化しておく必要が出てくると共に、そういう人たちと対立するのでもなく、かといってそこで装われているわざとらしくも白々しい偽の対立を馬鹿にしたいのでもないとしたら、ではそれについて何をどう語ればいいのかというと、とりあえずそんなことはわからないと思っておけばいいわけで、それが偽りの対立を回避する唯一の方法とも思えないが、それもたぶん自分たちが巻き込まれている状況や情勢が複雑に込み入っていてわかり難いから、どうしてもその中でわかりやすい部分を強調したくなって、そうなるとそこにわかりやすい単純な対立軸を当てはめて、そんな対立軸を介して敵と味方とに分かれて対決しているように装いたくなるわけで、それをフィクションだと見なせばその通りなのだが、そんなフィクションを否定してしまっては、それも対立を煽るような行為に加担してしまうから、そうなってはまずいような気がしてしまうわけで、否定するように誘導されているのにフィクションだと否定して馬鹿にしてしまったら、誘導している側の思う壺にハマってしまうと考えても構わないわけではないが、彼らとしては敵が自分たちを否定したり馬鹿にしてくるように仕向けていると自覚しているわけではなく、彼ら自身が批判や非難の標的となるように振る舞っている自覚もないのかも知れないし、そういった戦略的な振る舞いを無意識のうちに強いられてしまう状況というのが現状の世の中にもたらされていること自体が、現実の劇場化というフィクションには違いないのだが、それが実際にそんな振る舞いを演じさせられている人たちには自覚できないから、本気でそう振る舞ってしまうのだろうが、だから彼らにしてみればフィクションの中で対立を装っているのではなく、現実の世界で対立しているわけだから、そこで実際に対立していると思っていて、対立している最中の状態となっている限りで、そこで対立が有効化されているとその場の状態を捉えておいても構わないとは思うのだが、それが偽りの対立だと指摘したいわけではなく、それもたぶん実際に対立していると見なしておいても構わない程度のごく普通の対立なのであり、もちろん戦争の中で敵対する双方が実際に殺し合いの戦闘をしているのとは程度に雲泥の違いがありそうだが、それを見せかけの対立と理解しても構わないのかというと、それもたぶん構わないのであり、そんな見せかけの対立をごく普通の対立だと認識できる世の中が実現していると見ておけばいいのかも知れない。


4月12日「従うことの困難」

 特に行動や活動をあからさまに制限されたり、制約を受けて抑圧されているとか、それなりに不自由な思いをしているわけでもなくても、社会の中で普通に暮らしていれば、自由に好き勝手に振る舞っているつもりにはなれないし、生活に支障がないわけではなく、社会の中でも自然の中でも、何かしら活動を阻む障害や限界に直面することになるだろうが、集団の中で活動していれば、複数の個人と連携して共同作業を行うことになるだろうから、他人との間でさらに面倒な調整を迫られることになるかも知れないが、そこで機能している制度やシステムに従って動いていれば、従っていることを理由や言い訳にして従っている方面で責任逃れができるとは思わないし、それに従っているのだから、従って動いた結果として否定的な事態がもたらされても、悪いのは従っている制度やシステムだと責任転嫁できるとも思っていないだろうが、それでも何らかの制度やシステムに従っているのだから、従っているのが悪いのなら、それに従っている自分が悪いのではなく、従っている対象の制度やシステムが悪いと責任転嫁しているとは思っていないはずなのだが、結果的にはそう思われても仕方がないようなことになっているとも思っていないだろうが、他人にどう思われていようと、そんなのは知ったことではなければ、それで済んでしまうようなことなら特にどうということはないわけだが、何かそういうところで無責任な態度でいられるとしたら、やはり長い物には巻かれろという成り行きになってしまうだろうから、ではその従っている制度やシステムが悪いならそれを変更すればいいのかというと、実際にそれを変更しようとしている人や団体がいることは確かだろうが、単にそれが悪いからということであるよりは、何が悪いのかというと都合が悪いということになりそうで、都合が悪ければ変更すればいいのかと思われるかも知れないが、それ以前に都合の悪いのにそれに従っているのかと疑問を抱くかも知れないし、都合が悪ければ従うつもりもないのかも知れず、従うつもりもないのに従わざるを得ない事情や経緯があれば、否応なく従っているはずだが、社会の中でその制度やシステムが曲がりなりにも機能しているなら、それに従っている方が都合が良い人や団体も当然存在していて、従っているというよりは制度やシステムを管理運営している人や団体がいるわけで、それを管理運営することによって、それに従う人や団体に対してそれ相応の制約や制限を課している一方で、従わない人や団体には罰を課す場合もあるから、そうなるとそれに従わせるための権力や権限を有していることにもなってくるだろうから、それが従わざるを得ない理由や事情や経緯となってくるなら、従っていることが悪いなら悪いのは従わせている側だと言えるだろうし、それでも抗議の声を上げたり抵抗しないお前らが悪いと言われても腹が立つだけかも知れないが、そういうことも含めて我慢の限界がどの程度になってくるかも、従わせている制度やシステムへの許容度になってくるかも知れず、大して抵抗感も実害もない限りは従っても構わないし、従うことによって利益を得られるなら率先して従う成り行きにもなってくるが、強制的に従わされてしかも嫌な思いをするだけなら、できれば従うのは勘弁してほしいだろうから、強制ではなく任意で従うか従わないかの選択が自由に選べるなら誰にとっても都合が良いのだろうが、公的な制度やシステムとなるとそうであるわけにはいかない場合がほとんどだから、その辺を何とかしたいところだろうが、そうではなく従っているつもりもないのに、従っていることを意識しないで従っていることになっているとしたら、では何に従っているのかというと、自然の成り行きに従っていることになりそうだが、それが自然の成り行きでなくても意図的かつ人為的に誘導されていることに気づかなかったり、そういうことを仕掛けてくる制度やシステムの構築がAIなどの分野で期待されているのかも知れないが、それに対していつものように〇〇に騙されるなと煽りながらそれを真に受けた者たちを都合の良い方面へと誘導しようとする仕掛けもあるにはあるが、人を従わせて何を得ようとしているのかといえば、利益を得ようとしていると想像してしまうところだが、従わせること自体が権力を行使していることになれば、人を従わせることが目的となって、人を従わせて何をやるかということが不明確な場合もありそうだが、そういうところが抜け落ちているのが、意外と誰もが無意識のうちに従っていることに気づかない慣習などにも言えることかも知れないが、意味や意義も定かでないのに何となく慣習として従っていることに気づいていないとすれば、そうなっていることに気づいて、そんな意味も意義もないことに従っている人々を馬鹿にするような者が現れると、何となくその種の慣習に従っているその他大勢の人々がその者に反感を抱いて攻撃すると、そこからそんな意味も意義もない慣習に支配された社会の矛盾や不都合が顕在化してくるような成り行きになって、そういう矛盾や不都合に満ちた社会は変えなければならないと主張する輩も現れて、さらにそんな輩が迫害されるような成り行きも生じてくるなら、何やら現状の世の中に近づいてくるのかも知れないが、そうなるともちろん多くの人々が従っている慣習に意味や意義がないわけではなく、逆にそれらの慣習が守られないと社会が成り立たないような制度やシステムになっているから、誰もが否応なく従わざるを得ないような慣習に社会が支配されていることに多くの人々が気づいていながら、なぜかそれを慣習だとは意識していない実態もあるから、それなりに面倒でややこしい状況がもたらされていて、例えばそれが物や情報やサービスの売買や貸借の慣習だと言うと、そんなのは慣習ではないと主張したくなってしまうかも知れないし、さらにはそれらの合法的な贈与や違法な強奪も慣習だと言うと、いったい慣習とは何なのかとその定義そのものがよくわからなくなってきてしまうのかも知れない。


4月11日「国家と憲法」

 人がどこまで鈍感になれるかは、何に対して鈍感になっているのかも人それぞれに違いがあるだろうし、何に関心を持っているのかもその人がそれまでに歩んできた経緯から言えるようなことかも知れないが、国家と憲法に関して、どちらを優先させるべきかと考えるような立場になれる人もあまりいないかも知れないが、例えばヒトラーとスターリンと安倍晋三の三人が比較対象としては適当ではないと一般的には思われるかも知れないし、三人の間で何か際立った違いがあるとすれば、ヒトラーが民主的な憲法をそのままにしておいたのに対して、スターリンは民主的な憲法を制定して、安倍晋三は民主的な憲法を改正しようとしていたことが挙げられるかも知れないが、ヒトラーとスターリンは自分たちが憲法よりも上の存在であることを意識していただろうから、憲法に配慮した国家統治などやる気もなかっただろうし、やる必要もなかっただろうが、安倍晋三は憲法に基づいた国家統治を行うには現行の憲法では不都合が生じると考えたから、憲法を改正しようと画策していたと解釈するなら、少なくともヒトラーやスターリンと比較するなら、護憲主義者であると言えそうで、そういう意味では憲法を無視しても平然としていられるヒトラーとスターリンの方が独裁者としては格上の存在だと言えるだろうが、それでもなぜ彼らには民主的な憲法が必要だったのかと疑問を感じるかも知れないが、民主主義国としての体裁を整えておかないと国民が実質的には独裁者の自分たちを支持してくれないと思ったのかどうかは、今となっては何とも言えないが、ヒトラーの場合は政府の官僚機構とは別に党の官僚機構を次々と作って、新たに作った党の官僚機構に実質的な国家統治を行わせて、自らに忠誠を誓った部下たちにそれらの官僚機構の運営を任せる形態をとっていて、その部下たちの中で誰かが自らの意に反するようなこと行なっていると判断すれば、また新たに党の部署を新設して、そこにまた自らに忠誠を誓った部下を新たに配置するから、いつの間にか国家統治の権限が新たに作った部署へと移っていて、同じ役割の部署が複数存在するというややこしくも複雑な国家機構になって行ったらしいが、スターリンの場合も自らに忠誠を誓う部下たちを国家や党の官僚機構の長に就けていたのだろうが、それらの部下たちが有能で力をつけてくると裏切り者の汚名を着せて粛清するというパターンで、次々に有能な部下たちの粛清を繰り返していたらしいが、部下たちの方でも自分が目立つと粛清されるということがわかってしまったからには、なるべく無能なふりを装うのだろうが、無能なら無能を理由に役職を交代させられてしまうから、どちらにしても長くその役職にはとどまれないシステムとなっていて、そうなるとスターリンの周りには味方が誰もいなくなるという逆説的な状況となってしまって、最後は心臓発作を起こしたのに誰も助けに来ないで死ぬまで放置されていたらしいが、そんな成り行きの何が問題なのかと問うまでもなく、独裁者の存在が問題であるのはわかりきったことだろうが、なぜそれらの独裁者によって憲法が無視されてしまうのかと言えば、単純に三権分立になっていないからと模範解答を示せるが、イギリスのように憲法がないのに三権分立が機能している国もあるだろうから、憲法などまとまったものが特になくても構わないのかも知れないし、もちろん各種の法律があるだろうから、一応は法治国家としての体をなしていて、日本のようにちゃんとした憲法があっても三権分立がちゃんと機能していないように感じられる国もあるわけだから、国ごとに事情や経緯も違ってきて一概にこうだと言えるようなことでもないだろうが、何か決まりを作って権限や権力を制限するような制度にしておかないと、独裁者の暴走を許すような成り行きになってしまい、そういう意味で国家統治という行為や活動には、統治している当事者の思い通りには行かない制度になっていないとまずいわけだろうが、その歯止めのようなものとしての役割を担わされているのが憲法だと言えるが、憲法も絶対視してはならないだろうから、憲法を改正する手続きも必要であり、そういったことも含めて相対的な範囲内で権力や権限が循環しているようなシステムになっているわけだが、そうなっていることが何をもたらしているのかというと、国家を統治する者や機関の思い通りにはならない結果をもたらしていて、思い通りにはならないということが否定的な印象を伴ってくるわけで、要するに統治がうまく行っていないわけだが、しかもそのうまく行っていない状態が慢性化しているようにも感じられるところが、多くの人々に何か歯痒さや焦ったい思いをさせていて、そう思っている人たちが何とかして国家を立て直さなければならないとメディアを介して主張しているかも知れないが、それがそういう人たちが日頃から感じている政府に対する不満の表れとして結実しているとすれば、それこそがそういう人たちの意識を国家へと縛り付けておく何かであり、その何かを利用することによって国家が成り立っていると考えてしまうと、勘違いにも程があると思われるかも知れないが、だからといって何かとは何なのかと考えてみても、うまく表現できないようなものなのだが、それが絶対的な存在や価値ではないと仮定するなら、あまり強く意識せずに冗談も程々な程度にとどめておくことが肝心なのかも知れず、少なくとも歴史的な経緯か何かが作用して、国家に対して勘違いな思い入れを感じてしまうようにされてしまった人が現代でもそれなりに存在していることは確かなのではないか。


4月10日「気にするまでもないこと」

 これから世の中がどうなろうと、それがどうなる程度にもよるが、人によっては取り立てて何がどうなるわけでもないだろうが、身の安全が何によって確保されているかが、その安全の程度や傾向にもよるが、それも人によっては経済的な安全であったり物理的な安全であったりするだろうが、逆に危険に身を晒す行為というのが、どれほどそれを許容できるかも、その人を取り巻く状況から推測できる場合もありそうだが、その際に何かの感覚が麻痺しているのに気づかないことが、それがそのまま身を危険に晒していることになるかというと、それも何が麻痺しているかにもよるだろうが、自分には何が麻痺しているのかが気づかないから、死ぬまでそれに気づかないかも知れないし、気づかなくても構わないとなると、何が構わないのかもわかっていないのかも知れないが、これまでにも何度も危ない目に遭ってきたのだろうが、それを切り抜けてきたと言えるのかどうかも、今となってはそのほとんどを忘れてしまったのかも知れず、たまにそれを思い出すこともあるだろうが、それも今となってはどれほど危険だったのかも、その程度がわからず、今では何でもないことであっても、当時は死ぬか生きるかどちらに転んでもおかしくはない状況だったのかも知れないから、そんなことにも気づかないのが、ただの鈍感では済まされないことだったのかも知れないが、結果的には生き残って今に至っているわけだから、それをどうということはない経験として片づけてしまうこと自体が、勘違いも甚だしいのかも知れなくても、もはやそんなことは誰の知ったことでもなく、自分でも気づいていないわけだから、誰がそれを知っているわけでもないのだろうが、過ぎ去った過去にはそんな出来事が無数に埋もれているのかも知れないし、今さらそれを掘り起こして白日の下に晒すような成り行きにはならないから、そんなことは気づかないままに済んでしまい、そうなっても取り立てて何がどうなるわけでもないだろうが、確かにそれに気づかなくても気にするまでもないことなのだが、それよりは今この時点で到来している危険に気づくべきなのだろうが、それも取り立てて危険だとも思わないような何かに気づいたところで、杞憂なのかも知れないし、そうなると実際に危機的な状況に陥ってから、もう手遅れだと気づいて焦ってしまうことになるだろうが、果たして今までにそんな冷や汗を流した経験がどれほどあるかといえば、それも何度もあったような気がするのだが、たぶんこれからもそんな経験を何度もするかも知れないし、もしかしたらすでに感性が劣化していて、鈍感力が身についているから、少々のことでは動じないし、危険な目に何度も遭っているのに、それを危険だとも感じないかも知れないから、実際に危険な目に遭ってそれを回避できずに死んでしまうのかも知れず、そうなると確かに死んでしまえばいくらそれが危険であっても気にするまでもないことになってしまうだろうが、それで済んでしまっても構わないのかというと、自分が死んでしまえば自分ではどうすることもできないし、そうだとすればその種の鈍感力が身についてしまった人は、すでにいつ死んでも構わないような体質になってしまっているのかも知れず、その種の危険な冒険の最中に事故や遭難によって死んでしまった著名な冒険家などは、そういった鈍感力が身についていて、何度も危険な目に遭ってそれをくぐり抜けているうちに危険を察知する感性がすり減ってしまったから、最後は事故死や遭難死によってその冒険の幕を閉じてしまうのかも知れず、そうならなかった人はたまたま運が良かっただけかも知れないが、そうでなくても確率的には数々の危険を体験すれば、そのうちの何度かは実際に死んでしまっても不思議ではないような危険な体験なのだろうし、実際にそれと似たようなことを体験して死んでしまった人も数多くいるとしたら、その人が死んでいなければ、確率的にたまたま何人かは死んでいない程度のことであり、その人が危険を回避する技術や能力が高かったと結果的には言えるようなことかも知れないが、それもたまたまその人が生き残っているから言えるようなことであり、その人と同程度の技術や能力を有している人でも、運が悪ければ死んでしまうような危険度であるなら、あまり自らの技術や能力を過信しない方が身のためであり、過信すればするほど危機にも動じない鈍感力が身つくかも知れないが、それがいつ死んでも構わないような体質になったことを告げられるようなことなのだとしたら、その種の鈍感力を身につけた人たちは、すでに死刑宣告が下されていることに気づかない人たちなのかも知れず、そんな自らがすでにいつ死んでも構わないような体質になってしまったなら、自らの死など気にするまでもないことになっているから、実際に危険を顧みないようなスタントマンのような行為を平然とやってのけるわけで、できればそういう人を見習わない方が身のためなのだろうが、自分にも鈍感力が身についていることに気づけないと、その種の危険極まりない行為をやりたくなってしまうのかも知れず、そういう意味では危ない行為を好んでやるようになってしまったら、自らの死期が近いことを悟らなければならないのかも知れないが、もちろんそれにも気づかないかも知れないから、それを危険だとも思わないような心境にも至っていて、だからそれと知らずに実際に危険なことをやっているうちに死んでしまうのだろうが、それが危険なことかそうではないかがわかるのは、自分ではなく自分の危険な行為を見ている他人なのかも知れず、だから他人の忠告にはなるべく耳を傾けておく必要があるのかも知れないが、それも大抵は聞く耳を持たない人が他人の忠告を無視して無謀なことをやって命を落とす結果に終わるのかも知れないから、そんな人がいくら死んでしまっても自業自得であるから、他人には気にするまでもないことなのかも知れない。


4月9日「投資と政治」

 人や企業が投資するとなると儲かることを期待して投資するのだろうから、投資しても利益を得られる可能性が低ければ、投資の対象とはならないだろうが、投資するにもどのような分野に投資するかで投資対象も投資条件も変わってくるのは当然だが、大ざっぱに言うなら人や物や資金が集まってきて経済成長が期待できるところへ投資できれば、利益を得られる可能性もそれだけ高まるだろうが、そういう分野や地域では競争も激しいから儲かる可能性と共に損する可能性も高まるだろうから、ハイリスクハイリターンな投資先となるだろうが、投資しやすい環境が整備されている地域というのもあるだろうし、それが世界の中ではアメリカとなってきて、そうなるとどちらかといえば中国やインドやヨーロッパや日本よりはアメリカにより多くの人や物や資金が集まる傾向になるだろうし、それも何に投資するかで違いも生じてくるだろうが、世界中から人や物や資金が集まってくれば国家としては繁栄するしかないし、そういう条件が整っているわけだから、アメリカが覇権国になるのはある意味で当然のことだが、少なくともどんなにがんばっても日本がアメリカのようになれる可能性は低いだろうから、日本にいて世界の覇権を握るとか誇大妄想を膨らませるのは勘違いもいいところだろうが、中国やインドなら人口も多いし国土も広いだろうから、覇権国になるという誇大妄想を抱く政治家の類いもそれなりに出てきそうだが、政治家の類いがそういう国家主義的あるいは国粋主義的な妄想を抱くのはある意味で仕方のないことかも知れないが、政治には関心のない一般の人々が政治家と一緒になってその種の妄想を抱くのも、政治家と一緒に妄想を抱くこと自体が政治に関心を持っていることの証拠となってしまうから、言説的に矛盾してきてしまうが、それが政治だと思ってしまうこと自体が何か勘違いなのかも知れず、その種の妄想を抱いているように見える人々が、どう見ても政治に関心を持っているように見えない代わりに何に関心を持っているのかといえば、国家的な繁栄というか他の国々と比べて自国が上か下かということに関心を持っているように見えるわけだが、そう思うにしても自国が繁栄するためには自国に投資してほしいとは思うだろうが、外国人や外国の企業が自国の企業の株を買い占めたり土地や資産を買うようなことになれば、それを侵略行為か何かのように騒ぎ立てることになれば、それが国家主義や国粋主義的な精神の表れと見るしかないが、その一方でアメリカに株式投資する人や資本投資する企業に対しては国内の企業の株を買ってほしいし国内に資本投資をしてほしいと思うのかも知れないが、投資家や企業はそういう基準で投資するわけではなく、利益を得られる可能性の高いところに投資するわけだから、その辺で思惑にずれや違いが生じてくるはずだが、台湾の半導体企業のTSMCの九州への工場進出を中国による侵略行為のような捉え方をしている一方で、自動車企業のトヨタが自動車の分野で世界の覇権を握ることを願いながらも、電気自動車のテスラに対しては敵愾心を燃やして、ちょっとした業績の悪化が表面化すればすぐにテスラが潰れるかのような煽り立てをやるものだから、どう見てもそういう行為が愚かに感じられるのだが、それと政治がどう関係してくるのかと考えているわけでもないのだが、行政的なことを考えるなら、そこに住んで生活している住民の暮らしが良くなるようなことをやるのが、行政に求められることになるはずだが、それを直接そうとは思えないような方面に人々の関心を誘導しようと画策しているわけでもないはずだが、外国から侵略に備えて国防を強化しなければならないと煽り立てることが、直接そこに住んでいる人々の暮らしを良くすることにはつながらないと思えることが、そういうことを専門に主張する政治家というのも現に存在しているから、しかもそういう政治家の支援団体というのも、単純に国家主義や国粋主義にかぶれているわけではなく、軍需産業と利害を共有するような団体となってくると、そんな人や団体も金銭的な利益を求めて活動していることになってしまうわけで、それを悪く言えば愛国心を隠れ蓑にした金儲け主義という典型的な批判材料となってしまうだろうが、そんな絵に描いたような構図に当てはまる現実があるのかという疑念が、何かよくできたフィクションのようにも思われるのだが、それも程度の問題であるから、あまり強調したり誇張してそれだけを問題視するようなことではないのかも知れないし、それよりはもっと人々の生活に密着した居住環境や生活環境や都市環境や田園環境や教育環境や職場環境などの改善に取り組むような政治が必要だと主張するような方面へと人々の関心を誘導したい政党などもありそうだが、それが内政的な政治の在り方としてリベラルな政治の理想的な姿のようにも思われるかも知れないが、そういう方面への公共投資という取り組みにも何やらきれいごとを言う機会を提供するような感じにもなってきそうで、それもそういう方面で専門的に活躍したい政治家という存在も想像できるが、人々に夢を抱かせるようなカッコいいことを言うのが政治家の役目だと規定しても構わないのかというと、もちろんそんな規定などあってないようなものだろうが、結局は世の中に介入したいわけで、その介入の仕方が強権的で高圧的な印象を与えてしまうと嫌われてしまうから、なるべくソフトでフレンドリーな印象を得られるように装いたいのだろうが、それが悩みごとの解決のような弁護士的な方面になってくると、そういった方面から政治家になった人の出番となってくるのだろうが、果たしてそういった方面の需要がどれほどあるのかということも含めて、それが世の中の流行現象などによって左右されるようなことなのかも知れない。


4月8日「ケインズの誤り?」

 経済学者のケインズは死ぬまで自身が敵視して批判していたナチスドイツやスターリンのソ連が不況時に政府が大規模な公共投資を行なう典型例として有名なニューディール政策に倣った経済運営をやっていたことを理解していなかったようだが、ウィキペディアを読む限りはそう思われるのだが、ウィキペディアのケインズに関する記述自体が反共的な内容でマルクスやマルクス主義批判一辺倒に偏向しているような感じだから、今ひとつ信用できないが、政府による国家統治の面から言えることは、自由主義や新自由主義の方面から言われるケインズ批判として典型的なものとしては、社会主義こそがケインズ経済学に倣った国家統治であり、実際に欧米のリベラル的な左翼政権はケインズ式の手厚い福祉政策を行なってきたはずだが、それが政治的にも経済的にも行き詰まってきたから、20世紀後半にケインズ主義に批判的な立場の新自由主義が急に持ち出されてきて、一時的に流行ってもてはやされたのだろうが、それもまた行き詰まってきたから、今度は左翼リベラルー社会主義ーケインズ経済学の結びつきからケインズだけを分離してきて再利用しようと保守派が画策しているようなのだが、結局マルクス主義だろうがケインズ主義だろうが新自由主義だろうが、国家統治が問題となってくるわけで、自分たちの国家統治が行き詰まってきたことの目眩しとして何かその場の政治情勢や経済情勢に照らし合わせて、それに対応するのにもっともらしく思われる〇〇経済学の類いを持ち出してきても、それが目眩しの効果以上の効果を上げればそれなりにうまく行ったことになるのだろうが、国家統治そのものは〇〇経済学の類いとは無関係というわけでもないのだろうが、政府が経済的な行き詰まりを打開するために強引に強権的な措置を行なうための口実として、〇〇経済学の類いが持ち出されてくると見ておけばいいのかどうかは、歴史的な経緯からそう感じられることなのかも知れないが、それに関してフーコーによればマルクス主義には国家統治の理論が欠けていて、だからドイツの社民党政権の時には新自由主義的社会主義が実践されていたり、イギリスの労働党政権の時にはケインズ主義的社会主義が実践されていたようだが、そうだとすれば今後日本でれいわ新選組の政権が実現するかどうかは、その時になってみないことにはどうなるかわからないだろうが、れいわの支持者によるとれいわこそが真の保守だそうだから、またグリーン・ニューディール政策を掲げているわけだからケインズ主義的保守主義ということになるのかも知れないが、それの正反対の状態を想像するなら、例えばイギリスのサッチャー政権を新自由主義的保守主義と形容すればしっくりくるかも知れないが、そういうのは中身のない言葉遊びに過ぎないとしても、歴史的に見れば第一次世界大戦から世界大恐慌を経て第二次世界大戦へと続く動乱の時代の中で、優勢となっていた国家の統治形態として、経済の国家統制の時期が長く続いていて、その統制経済をケインズ経済学に結びつけて批判していたのがドイツやオーストリアの新自由主義系の経済学者たちなのだろうが、国家の状態が戦争や経済恐慌などによって非常事態となっているわけだから、経済の国家統制をやる成り行きになるのだろうし、それ以前にドイツならビスマルクによって国家社会主義が押し進められていて、またその数十年後にはヒトラーによっても国民社会主義が押し進められていたわけだから、果たしてそれらをケインズ経済学が肯定していたのかというと、ビスマルクの国家社会主義は時代的にはケインズ以前だったし、ヒトラーやナチスドイツは当のケインズ自身が批判していたのだろうから、学校の教科書的な常識からすれば何の関係もないと見なされても不思議ではないが、そこにルーズベルトのニューディール政策やスターリンのソ連が絡んでくると、何やら当時の流行現象として経済の国家統制と共に国家統治の危機が顕在化していて、資本主義経済の行き詰まりを打開するための方策として、社会主義や共産主義には行かせないために、資本主義経済を維持しながらそこから生じてくる弊害を改善するために考案されたのが、ケインズ式の統制経済だと考えても良さそうだが、果たしてそれを新自由主義者が言うようにケインズ式と呼んでもいいのかどうかがよくわからないのだが、要するに戦争や経済恐慌となったから否応なく政府が国家経済を完全に管理するようなことになっただけで、ケインズ以前にもビスマルクによる国家社会主義的な国家統制があったわけだから、それをケインズのせいにするというのもちょっと言いがかりの感を否めないにしても、新自由主義の学者たちにしてみればケインズ経済学を格好の仮想敵のように見立てると、その当時の時代状況にちょうどピッタリと合致していたのかも知れず、ケインズにしてみれば迷惑な話だろうが、彼らにしてみれば同時代的な成り行きとして、ビスマルクの再来のような存在としてヒトラーが現れたわけで、まさに自分たちの敵対勢力による天下になりつつあったのだから、反体制的な昂揚感も盛り上がってきたのだろうし、しかも現実に殺されたり亡命を余儀なくされた経済学者もいたわけだから、命懸けで経済学に取り組むような成り行きにもなってきて、そんな危機的なリアリティが当時の新自由主義には反映しているのかも知れないが、そんな経緯や事情があってナチスドイツが崩壊した後、ドイツが東西に分割統治されて、西ドイツでは反ナチスの経済学者が国家統治の面で政治の表舞台に立つ機会を得て、戦後復興の立役者のような役回りを担うことにもなったものだから、ケインズ経済学に対抗する宗派として新自由主義経済学も世間に認知されるようになったのだろうが、ケインズ経済学にしても世界大恐慌があったから、ルーズベルトがニューディール政策を行なうことによって一躍脚光を浴びることになったわけだろうから、もちろんマルクス経済学という経済学があるかどうかはよくわからないが、イギリスで産業革命が起こって世界の覇権を握る事態となって、そんな中でも当のイギリスの労働者が奴隷労働のような悲惨な境遇に苦しんでいたから、当時のイギリスに亡命してきたマルクスが『資本論』の中で人々の悲惨な境遇を告発する事態となったわけで、いずれも歴史的な時代状況に対応してそういう成り行きが生じてくると見ておくのが無難なところであり、もちろん歴史状況を無視して〇〇経済学の類いを現代の状況にそのまま当てはめるわけには行かないわけだ。


4月7日「新自由主義的な逆説」

 何かの事業が失敗したことが明らかになってから、それが失敗したことを他から批判されるのは当然の成り行きだが、それ以外に何が批判されるのかと問いたいわけでもないが、事業が成功したから賞賛されて失敗したから批判されるといっても、ちょっと失敗したぐらいで大げさに批判するのも公平性を欠いているし、うまく行かない結果は批判されやすいだろうが、それがうまく行っているか行っていないかの判断も、ある面ではうまく行っている一方で、別の面ではうまく行っていないようなややこしくも込み入った状況になっている場合もあるから、それを誰かに批判されたところで、批判が的外れだと思うなら、批判されていない面でうまく行っている可能性もあるだろうから、何かの事業が誰かに失敗だと批判されているからといって、批判されている面だけをいちいち真に受けていたら、批判されていない面を把握していない可能性もあるから、少なくともその事業がそれなりに継続している限りは、何かしらうまく行っている面があるから継続していると考えておいた方がいいだろうし、ある面ではうまく行っているが別の面ではうまく行っていないというのには、それに対する批判も含まれていて、ある面ではうまく批判されているように感じられるが、別の面ではその批判の矛盾が露呈している可能性もあるわけで、例えば正義の味方のように装いながら一律に中小企業を擁護して大企業を批判するという紋切り型の批判をやっている人がメディアでは多く見受けられるが、そういう人が考慮に入れていない盲点があるとすれば、同じ事業をやっているなら中小企業と大企業とでどちらがコストがかからないかという当たり前の比較であるなら、一般的には大規模に事業をやっている大企業の方がコストがかからず、中小企業より有利になると誰もが認識しているだろうが、例えば電力事業であれば、中小企業が多く参入すればコストがかかって電力価格が上がるだろうし、大企業が独占的に事業を行えばコストはかからないが、大企業の利益が最大化するような価格に据え置かれる危険性もあるから、新自由主義の観点から考えるなら、発電事業者の競争が維持されるような仕組みを作らなければならなくなるわけだが、そういう仕組みが実際に作られて試されたところで、うまく行くか行かないかはやってみないことにはわからないだろうから、うまく行かなければもっともらしい理由を伴ったそれなりに説得力のある批判にさらされるわけだが、成り行き的にはもっともらしく説得力のある理屈や論理や理論を伴った誰もが納得できるようなことが行われるよりは、わけのわからない紆余曲折を伴った納得し難い試行錯誤が繰り返されている最中にとどまっている方が競争が維持されるわけで、そういうことまで考慮に入れるなら、新自由主義的な試みにはうまく行かない成り行きがつきものだと考えておいた方が無難なのかも知れず、その一方でメディア上でわけ知り顔の識者や専門家もどきの解説者の類いがもっともらしく説得力のある提言のようなことが主張されると、多くの人々がそれを真に受けてしまうだろうが、あくまでもそれはメディア上で言われていることであり、実際に行われていることはそうは行かないと思っておくのが無難な認識なのかも知れないし、やっていることがうまく行かなくなって、そこへ多くの人や団体などが介入してきて文句を言ったり批判しながらも、あれこれと試行錯誤が繰り返される状態をもたらすのが新自由主義的な経済活動そのものだと言ってみても、誰も納得できるわけでもないだろうし、そうなっている状態を見て多くの人々が事業が失敗していると思うかも知れないが、だから絶えず多くの人々が文句を言うしもっともらしい批判にさらされるわけだが、そんな文句を言ったり批判している人々の活動をもたらしているのも新自由主義的な状況だと捉えるしかなく、そうやってわざと失敗をもたらしているわけでもないし、できればそこに介入してくる誰もが成功したいだろうが、要するに自由に文句を言ったり批判できるからそれが新自由主義的な状態だと言ってみたところで納得し難いわけで、納得し難いから文句を言ったり批判するわけで、そんな新自由主義的なやり方に文句を言ってみたり新自由主義を批判している人たちが逆説的に新自由主義的な政治活動や経済活動を支えていて、それらの人たちに文句や批判を言わせるための仕組みやシステムが新自由主義だと思っておけばいいと言ってみたところで、実際に文句や批判を言っている人たちは納得し難いだろうし、そんな仕組みやシステムなどありはしないし、あったとしても失敗しているのだからやめてしまえと文句を言ったり批判するだろうが、それが新自由主義を推進している側の思うつぼにハマっていると誰がそう思っているわけでもないが、逆に中国政府のように言論統制をやってしまって、文句や批判を言わせないようにしてしまうと経済が停滞してしまうと言えるかというと、それが現状の中国経済の停滞をもたらしていると誰が主張しているとも思えないが、何かそういうところで政府などが強引な権力行使をしてしまうと、微妙な力関係の均衡が崩れて、おかしなことになってしまうのかも知れないが、ただでさえやっていることがうまく行かないことから生じる文句や批判を糧や原動力として経済を回しているのが新自由主義的な状況なのだから、そういうところで物事を逆説的な視点から考えてみる必要があるのかも知れない。


4月6日「機会を逸する人々の思惑」

 現状で何かこれといって確からしいことが言えるわけではないが、確からしくないことならいくらでも言えるかといっても、言えることにも限度や限界があるかも知れないが、うまく誰もが言いそうで言いたそうなもっともらしい紋切り型的な意見を避けるにはどうすればいいかと思案しているわけでもないのだが、特にこれといって誰かの支持者や支援者や誰かの意見の賛同者が言うような意見を避けようとしなくても、自然とそうなってしまうとしたら、何かわざとひねくれたことを述べているつもりなのかというと、そうでもないとしたら、何かしら信じている理屈や論理や理論の類いがあって、それに従って意見や主張を構成していると思っても構わないが、それさえも違和感を伴うようなことを述べているつもりなら、では何なのかというと、たぶん何かに導かれている感が半端なく強く意識されるから、黙ってそんな成り行きに従うしかないのかも知れず、四六時中そんな感覚に囚われているわけでもないのだが、何かのタイミングを捉えてひらめくことがあるらしく、それが絶妙で絶好のタイミングというわけでもないだろうが、それを言葉にするとそうなってしまうわけで、それが結果的にはあからさまに彼らに反発しているような意見となるわけでもないのだが、それとは微妙にずれるようなことを述べているかも知れないから、自分にはそんな意図など毛頭ないのだが、結果的にそうなってしまうのだから、それはそのままの意見として表明するしかなく、それが結果的に彼らの気分を害するとしたら、ざまあみろと思うわけでもないが、それで構わないと思うしかないし、そうなったからといって何の問題もないわけではなく、それも何かしら自分の知らないところで何らかの作用を及ぼしていたり影響を与えているのかも知れないが、それが自分にとってはどうということはなく、他人にとってもどうということもなければ、何の問題もないとも言えないようなことかも知れないが、彼らも他から何かしら影響を被っているわけだから、それに関連しておかしいと思うことも表明しなければならず、そのおかしいと思うことが彼らにとっては気に入らないことなら、それに関しては彼らとは見解が異なるかも知れないが、人それぞれに感じ方の程度にも傾向にも違いが生じてくることだから、それをどう捉えても人にそれぞれでそれに対する意見も見解も微妙にずれてくるのかも知れないから、自分がおかしいと思うことを他人がおかしくないと思ったところで、それが直ちに問題視されるわけではなく、他人の意見と自分の意見とを一致させようとする動機も必要も今のところはないのかも知れないが、その違いが何なのかも今ひとつよくわかっていないかも知れないから、それについては自分の意見を述べるにとどめるにしても、それに対して他人が意見を戦わせるような成り行きにも今ところはなっていないし、これといって議論が深まるような成り行きにはなっていないのだが、具体的に何がそうなのかといっても、現状の世の中で起こっている現象をどう捉えるかといったところで、それが経済的な現象であるなら、人為的な現象であると共にある程度は自然現象でもあるから、自然現象に含まれるところでそうなっていて、それも気象現象などに比べれば、経済的な現象の方が人為的で人工的な介入の程度や割合が遥かに大きいだろうが、そうだとしても戦時下での物資の配給制のような統制経済となっているのとは、現状は全く違っているわけだから、直接の戦時下でなければ、そういう面ではそれほどの危機的な状況ではないわけだが、それでも地域的には戦争の危機に直面している可能性も高まっていたり、実際に戦争状態の地域もあるから、危機を真に受けるのにも、それ相応の説得力が生じてきているのかも知れないが、そういう面とは別に経済に対する人為的な介入がどんな結果を招いているのかというと、危機的な状況に陥るのを未然に防ぐ目的で、アメリカのFRBを始めとする世界各国やEUの中央銀行などが金融的な介入を継続して行なっている最中だが、そのおかげでどちらかといえば商品の価格を政府が決めるような統制経済的な面よりも市場の売買で価格が決まる自由経済的な面の方が遥かにその割合が大きくなっているわけで、そういう意味では政府が直接介入して経済をコントロールしているわけでもないことは誰もが理解しているところだろうが、そうなっているからといって、そうなっていることが当たり前の状況であることに関して、何かそれが人為的にそうなっていると見なして、物資の価格を制御しようと画策している勢力や機構が、どんな理屈や論理や理論に従って動いているのかを解説したがっている人もいるだろうが、もちろん石油輸出国機構のように生産量を調整して価格を高く維持しようとしている勢力の事情などは容易に推測できるものの、それもその種の勢力に入っていない生産国もあるわけだから、それらの勢力の思い通りには行かない面もある限りで、自由経済が世界的に維持されている割合の方が大きいわけだが、それでも最近はAI技術などの進歩に伴って、世の中で起こっている現象を人為的かつ人工的に制御しようと試みる行為にも、それなりの確実性が備わってきているはずだが、果たしてそういう傾向を肯定できるかというと、それをビジネスの方面で活用しようとするところでは肯定するだけでなく、積極的にも推進したいのだろうが、その一方で世の中には何かと対立関係や敵対関係があって、それを煽り立てるような傾向もあるわけだから、対立したり敵対している双方が自分たちが確実に勝つ方法を確立できるかというと、どちらか一方が確実に勝つ方法が確立されてしまったら、そもそも対立や敵対が成り立たなくなってしまうわけで、そういうところでその種の制御技術に関する理屈や論理や理論が破綻していると考えるなら、自然現象を人為的かつ人工的に制御する技術にも限界があると見なすしかないだろうし、逆に必要もないのにことさらに対立したり敵対するような技術が自然の狡知として人知れず世の中で作動していることに無頓着な人も多いのかも知れない。


4月5日「政治の限界」

 国家嫌悪というと新自由主義の主張の中ではよく見受けられる傾向になってくるかも知れないが、国家を統治しているつもりの政府にあれこれと介入されて行動や活動の自由を奪われるのを嫌うような主張となってくると、では具体的にどんな自由を奪われているのかとなると、今ひとつピンとこないというか、もっぱら経済活動の自由を政府に規制されるのに抵抗するような傾向なのだろうが、政府自体が独裁的で強権的な傾向ではなく、民主的な選挙で選ばれた代表者によってコントロールされているなら、そこに住んで暮らしている民衆の意向が反映された政府になっているだろうから、それほど理不尽なことはやらないと思いたいところだが、大抵の政府には官僚機構が備わっていて、官僚機構自体の繁栄のために国家を食い物にする傾向が強まってくると、かつての社会主義国のようになってしまい、それは今でも中国やロシアや北朝鮮のような国々に特有な傾向となっているだろうが、それに対して行政的な面から言えることは、国民の生活を守るための必要最低限度の介入にとどめておくことが、新自由主義的な主張の中で示させれる傾向となってくるが、では具体的に何をどうすればいいかと問われるところから、たぶん雲行きが怪しくなってくるのであり、少なくとも日本では新自由主義的な政策が批判や非難の的となってきたわけで、国営や公営事業の民営化一辺倒なのに、果たしてそれによって新自由主義が主張する小さな政府が実現したのかというと、実態としてはそうではないような状況があり、行政の無駄を削減するという方針が掛け声倒れに終わっているようにも思われて、ただ単に政府の予算を活用して国民の生活を守るという建前ではないのは誰もが薄々は気づいているはずだが、政府が徴税や国債の発行によって予算を確保するにしても、政府が統治している国の経済規模に見合った予算規模にするしかなく、そうである限りにおいて政府の統治にも限界があるわけだが、限界を超えて徴税を強化すれば景気が悪化して経済規模が縮小してしまうし、限界を超えて国債を発行すれば債務残高が増えて国債の価格が下落したり通貨安を招くことになるだろうから、それも自業自得な結果となってしまい、どちらにしても徴税額にも国債の発行額にも限界があるから政府の予算規模にも限界があると見ておく必要がありそうなのだが、では予算の中身をどうすればいいのかといっても、果たして予算の中で優先すべきこととして、国の経済規模を大きくするために産業振興を図るための予算を増やせばいいのかというと、政府の振興策がうまく行くかどうかというところが疑念を持たれるし、また産業振興のために規制緩和すればいいのかというと、それが環境破壊や健康被害などを助長するならまずいだろうし、また経済規模を大きくするためには人口を増やさなければならないといったところで、人口が増えても経済規模が大きくならないと貧しくなってしまうだろうし、そういう面で政府がいくら介入したところで自然の摂理の前ではどうしようもなく、そこでも限界にぶち当たるかも知れないが、少なくとも何の経緯も事情も前提条件もなしにやれることなどなく、何かしらやれることの限界がありそうなのだが、それが必ずしも主張できることの限界と一致するわけではないから、それについて何か政治家がカッコいいこと主張できるのだが、また独裁政権になってしまうと主張通りのことをやろうとしてしまうから、結果的には取り返しのつかない大失敗をもたらすのだろうが、そうなると前例や慣例や慣行に基づいた保守政治が無難に思われて、そうなっても経済的な停滞をもたらして自業自得な結果に終わりそうだが、ではそれでも性懲りもなく政府が何をどうすればいいのかというと、国民の声を聞くといっても、国民が誤った観念や思想などに取り憑かれていれば、必ずしも国民の意向を反映した行政を心がけてもうまく行くとは限らないだろうが、うまく行かないなりにも決定的な破綻を回避できれば、それに越したことはないかも知れないが、それについて語るのにもそれなりの限界がありそうだから、政治の限界についてうまくわかりやすく語れるわけでもないのだが、これといってうまく行く方法を言説によって表せるとも限らず、政治や行政を実践して行く中でやれることとやれないことがわかってきたり、実践してもわからなかったり、わかったと思ってそれを試しても、うまく行ったり行かなかったりするのかも知れないから、そんなことをここであれこれと想像すること自体が無駄で無意味なことかも知れないが、その国や地域の中で政治家や識者の類いが何かもっともらしいことを主張していてその主張を実践すべきだと思うなら、そういう主張が政治や行政に反映されるような成り行きに持って行こうとすることが、メディア的な作用として期待されるだろうから、社会のコンセンサスとしてそういった主張が優勢になってくると、世論もそんな成り行きに逆らわないようになってくるのかも知れず、それも現状の世の中に反映されていることになるだろうが、そうなるといくら自らの主張や意見が正しいと思っても、社会的なコンセンサスを得られないとそれが実現不可能な主張や意見になってしまうだろうから、果たして現状で政治家や識者の類いがそんな主張や意見に取り憑かれているのかというと、そうであるなら実際に政治家や識者の類いとして世間には認められていないわけで、そういう意味では政治家や識者として世間的に認められている人物の主張や意見がもっともらしいと思うなら、そう思っている自らも社会的なコンセンサスを得られるような主張や意見に取り憑かれていると思っておけばいいのではないか。


4月4日「デモンストレーションの意図」

 世の中のちょっとした変動にも敏感に反応して、それを大げさに騒ぎ立てることが、メディアに携わっている者の使命となっているわけでもないだろうが、それが携わっている程度や傾向によっても、それに対する勘違いの度合いによっても、その種の騒ぎ立ての意図が変わってくるかも知れないが、そこに何か良からぬ思惑や企みが巡らされていることに気づいたからといって、それが良いか悪いかはメディアから伝わる情報を受け取る者の判断にまかされているとしても、それを大げさだとは思わないなら、それなりに真に受けていることの証しとなり、余裕があったら一緒になって騒ぎ立てに参加して、そうしたことへの反対の意思を世間に向かって訴えかけたいところだろうが、そんな騒ぎ立てのデモンストレーションがその人の主な活動となってしまうなら、デモを起こすきっかけとなった世の中のちょっとした変動というのが何なのかが少しは気にかかるところかも知れないが、誰かが変動を起こそうとして起こしている意図はあるにしても、変動を起こした結果として世の中がどう変わるかが、変動を起こそうとした者の意図や思惑を外れてしまうことも、よくある結果として歴史に示されていることかも知れないが、デモによって変動を起こそうとしている者の企みを打ち砕けるかというと、それも結果的には抗議運動や抵抗活動によって当初に思い描いていた思惑や魂胆がそれなりに変更を余儀なくされることもあるのだろうが、それと同時にデモを起こしている者の思惑や魂胆や意図や企みの中身まで含めて想像を巡らせてみると、何となく彼らの思いを外れる成り行きがつかめてくるのかも知れず、もちろんそれが想像の域を出ないことだから、それなりの勘違いや思い違いまで含まれてくるだろうが、現状ではデモのきっかけを作った側にもデモ活動をやっている側にも騙されたふりを装いながらも、何かの隙を突いて両者を出し抜くような言説を構成する必要に迫られているわけでもないのだが、いつものように何か引っかかるものを感じたように思われたので、そんなひらめきに合わせて勘を頼りにいい加減で粗雑な言説を構成している最中なのかも知れないが、実際にNTT株を政府が売却してそれを防衛財源に活用することに反対するデモの類いに引っかかりを感じたのが、それがきっかけなのだとしても、それ自体にどうこう言いたいわけでも、そこに良からぬ陰謀の臭いを嗅ぎ取ったわけでもなく、なるほどそういう方面へと人々の関心を向けたいのかと感心したと共に、何となくそれが水道事業の民営化に反対している人たちと似たような傾向も感じ取って、水道事業に関してなら、人口の減少によって事業を維持できない自治体が出てきているなら、例えば都道府県をやめて州に移行して、日本を北海州、東北州、北陸州、関東州、東海州、関西州、四国州、中国州、九州の九つの州政府による連邦制の国に再編してから、州ごとに水道事業を統合すれば、過疎地での水道インフラも維持できるような気がするのだが、そんなことが現状で実現するわけでもないだろうし、それもあり得ない妄想になってしまうだろうが、そこに住んでいる人々の生活に欠かせない電気や水道やガスなどのインフラに加えて、NTTによって維持管理されている通信インフラも、外国資本に支配されてはまずいと思うのだろうが、なぜまずいのかといえば、サイバーテロなどの危険性があるから国防上まずいという理由で、通信インフラを外国に売り渡して国防を整備すること自体が本末転倒だろうというもっともらしい主張なのだろうが、なぜそこに引っかかるものを感じるのかといっても、どうもうまく言い表せないのだが、そういうことに関心を持てと訴えかけてくる人の魂胆をどうやっても批判できないような気がして、それなら別に批判しなくても構わないような気もするわけで、それでその件については済んでしまうようなことなのに、ではNTT株を政府が売却すれば国が滅びるかというと、少なくとも売却したいらしい政府の首脳はそうは思っていないから、売却を検討しているわけだろうが、そういうところでそれを推進する側とそれに反対する側とで思惑に違いが出ていることはわかるが、その一方でいつもの調子で〇〇すれば国が滅びるという煽り立てをやっている人の魂胆というのも、なるほどと想像できて、何となく心中に笑みを抱えているような心地になってしまうわけで、そこで見せかけの対立が装われていて、両者の思惑が一致している面も想像できてしまうから、ニヤリと心中で笑みを浮かべているつもりになりながらも、両者が共謀して何を煽り立てているのかが見え透いているようにも思われて、そんな煽り立てには乗らない方が身のためだと思うわけでもないのだが、逆に煽り立てを真に受けて本気でNTT株の売却に反対していた方が身のためだと思っても構わないのだろうが、そういう演技に磨きをかけるのもわざとらしいようにも思われるから、今はその種の反対運動を偉そうに上から目線で静観する立場にもないし、それを真に受けてSNSなどで騒ぎ立てている人たちを馬鹿にしたいわけでもないのだが、すでにNTT株自体が株式分割によって異常な低価格になってしまっているわけだから、すでに準備万端整っているわけで、そうやって全てが後戻りできないようにしておいてから、まるでアリバイ工作のように反対運動をやってみせるところがいかにもわざとらしく、今ごろ騒いでいる奴らも含めてこいつらみんなグルなんだなという実感しか湧いてこないわけだが、しかもいかにもそれを深刻そうに危機感を抱きながらそう思っているわけではなく、湧き上がってくる笑いをこらえながらそう思っているわけだから、笑いながらなんだこいつらと馬鹿にしてしまっても構わないわけだが、自分はそんな偉そうな身分ではないので、なるべく身の程知らずなことは述べない方が身のためだとも思ってしまうわけだ。


4月3日「他人の発言に気を遣う」

 見ず知らずの赤の他人の発言が微妙だと思っても、その人が世間に知れ渡っている著名人や有名人の類いで、その発言の内容がそれなりにその人が囚われている経緯やその人が抱え込んでいるらしい事情などを考慮するなら妥当に思われると、そういう人はそういう発言をするのがちょうど良いような気がして、それをわざわざ批判するのは、批判する人なりの意図や思惑や目論見がありそうにも思われて、その人にはあまり興味も関心もなければ、その人が自らの発言を批判されてどうなろうと知ったことではないように思われてしまうが、そうではないような無名の一般人がSNS上で何を述べていようと、それも他人事には違いないのだとしても、人によっては思い入れがあるようなことを述べているだろうから、それを無視するわけには行かないとしたら、それに対して何か反応を示さなければならない成り行きになるわけでもないのだが、それがどうでもいいような内容だからこそ、その種の政治的な発言の類いに同調しているように装ってみたり、それを大して支持しているわけでもないのに賛同を意を示してみたりすると、それが誤解を招くような行為なのかも知れないが、果たしてそうならないようにするにはどうすればいいのかと思うわけでもなく、なぜかそうすることがその場の成り行きに沿っているように思われても、結果的にはそうしてしまうのがおかしいとは思わないのが、そうする理由などあってないようなものかも知れないが、違和感を覚えているのにそれをやめようとしないのだから、何かに操られていると思っておいても構わないのに、それで構わないと思っているわけではなくても、結果的にそうなってしまうことの何がおかしいわけでもなく、そんな反応を示したこと自体もどうでもいいようなことであって、要するに何でもないことなのだが、それを後から振り返ってみれば無視しておいた方が良かったと思われるのだから、次からは無視する気になってしまい、実際にも無視してしまうのだろうが、それが無視する理由の全てではないところが、何か引っかかるものを感じるわけで、どう表現すればいいのかよくわからないのだが、何かその種の政治的な意見ではダメなことがわかっているような気がするのだから、それの何がダメなのかもよくわからないのに、なぜかそれではダメだと確信を持っても構わないような気がするわけだから、それについて何か考えなければならないような気もしてくるわけだが、その一方でよくわかっていることも中にはあるのかも知れず、それが日本がどうだとかアメリカがこうだとか、国単位で何かその国ごとに独自の意志があるかのような語り方をする人に特有の勘違いなら、今やその種の傾向についてならわかりすぎるくらいにわかっているような気がするものの、だからといってそんな人を馬鹿にしたいわけでもないのだが、その種の思考に洗脳されてしまうような契機がある時代には、至るところにありすぎるくらいにあったのだろうから、そうなってしまった人たちはご愁傷様なわけでもなく、そんな人に語らせておいた方が世界情勢がわかりやすいわけだから、そんな人の語っている内容を真に受けておけば、それで何かわかったような気になれるわけで、それで済んでしまうならそれに越したことはないと思っているわけでもないのだが、それで間に合っている現状をどう捉えても、それ以上の理解を必要としない程度のレベルで多くの人々が生きているわけで、それをどう変える気にもなれないし、変えようとして変えられるわけでもなく、そういう理解のままで一生を終えても特に不都合は感じなければ、そういうことになってしまうわけで、そうなるとそれが勘違いだなんてあり得ないことになってしまうが、ではそれが気に入らないなら、他に何かこれといってもっともらしく感じられる世界についてのフィクションを提示できるかというと、なるべくありふれた幻想を伴わないように配慮するなら、経済的な面では物や情報やサービスに関する理屈から考えるとすれば、それらの売買や貸借の際に必要となる資金の量や額が、資金そのものも含めて売買や貸借に必要なだけ以外には必要ではないと循環論的に考えれば、資金を恣意的に勝手に増やすわけにも減らすわけにも行かないと思っておけばいいのかも知れず、必要なだけ世の中で回っているわけで、必要以上に回り始めればインフレになるし、必要以下になってしまうとデフレになるから、そういうところではある程度は調整が自動的に行われるわけだが、それだけで経済が回って行くかというと、そこに住んで活動している人々の生活に必要な物資が手に入らないと困るわけで、人々の活動そのものが自分たちが生きて行くのに必要な物資を手に入れるための活動となるなら、果たしてそれ以外にどんな活動があるかというと、そこから先には勝手に妄想してしまう恣意的な幻想やフィクションが待ち構えているのかも知れないが、くだらぬ幻想を抱いてみたりあり得ないフィクションを信じてしまう人に特有の経緯や事情がある限りで、それが生きて行くだけでは済まない余分な何かになってきて、もちろんそれを余分だなんて思ってもいないだろうし、場合によっては命をかけても得たいような切実に求めている何かになるかも知れないが、何かそういうところでやらなければならないような使命感や責任感などと共に目的のようなものが意識されてしまうと、そういう幻想を抱く対象として国家や民族や宗教などが格好のフィクションを伴ってその人の頭の中に形成されてしまうのだろうが、たぶんそうなってしまうのを避けられるような成り行きを誰もが経験しているだろうが、なぜその人がそうなるのを避けられなかったのかというと、やはりその人が政治に関わってしまったからかも知れないし、政治への関わり方の程度にも人それぞれにそうなるに至る経緯や事情が影響してくるから、一概にこうだとは言えないことかも知れないが、では政治がそれに特有な幻想を抱かせる特性を持っていると考えてしまいそうになってしまうが、それもたぶん政治がそうなのではなく、政治が利用できるような気がしてしまうわけで、政治自体がそれを利用すれば何でもできるように思われるわけでもないのだが、限界がつかめないというと、それも政治に関わってくる人たちの都合が活動に反映してしまうからそう思われるのかも知れないが、逆に政治には何もできないと思ってしまってもいいわけではなく、何もできないからこそ、その活動に必要な資金を集めようとするのではなく、政治活動自体が資金集めと化してしまい、資金集めのために政治活動が必要となってくるから、政治活動=資金集めという短絡が生じてしまうわけでもないはずだが、そういうところで政治と経済が結びついてつながってくるとすれば、政治自体には何の中身もないことが明らかとなると主張したくなってくるのだが、そんなごまかしのまやかしが世の中で通用するかというと、それを通用させたいのが保守政治家の本音なのかも知れない。


4月2日「自然の流れに逆らうこと」

 何かもっともらしいことを述べるなら、社会の中で実際に行われていることを正当化するために、それを正当化するような理屈や論理や理論が編み出されるのだろうが、ではなぜそういうことが行われるのかというと、そこで自然に生じている成り行きに沿って行われると解釈するのがもっともらしく感じられるものの、それだけではそこで行われていることの理由としては弱いと考えるなら、それに関与している人や団体の思惑からそういうことが行われると説明できるかも知れないが、果たしてそれだけで行われていることをもっともらしく説明できるかといえば、それが行われていることであると共に起こっていることだとすれば、何やら人や団体などの意図や思惑とは合わない思いがけないことが起こっている場合もあるのかも知れず、それが自然現象に起因して起こっていることであるなら、それが思いがけないことだと思ってしまう人の意図や思惑などが、そこで生じている自然の流れに反しているからそう思われると解釈しても構わないのかというと、ただ単にそこで生じている自然の流れに気づいていないから、それが起こってみると思いがけないことになるわけで、思いがけないことだと感じるのも自然の反応には違いないのだろうが、では自然の流れに逆らうとはどういうことなのかというと、何か失敗してしまったり痛い目に遭ったりすれば、そこで生じている自然の流れに逆らったから手痛いしっぺ返しを喰らったのだと思いたくなってしまうのかも知れず、失敗したり痛い目に遭ったりしたこと自体が、そこで生じている自然の流れに沿ってそうなったかも知れないのに、自然の流れに沿って事を進めれば、何かやっていることがうまくいくような迷信や錯覚に陥っている可能性もあるのかも知れず、そうであるなら自身が失敗したり痛い目に遭ったりすることも含めてそこで生じている自然の流れだと事態を捉えるなら、どうやっても自然の流れに逆らうことなどできはしないと解釈しておいた方が良さそうで、そうであるなら何かを行うに際して、そこで生じている自然の流れなど考慮に入れる必要もなさそうだが、そうではなく、そこで生じていたり起こっている自然の流れを自らに都合良く捉えるなら、自然の流れに沿ったことをやればうまく行き、自然の流れに逆らったことをやれば、うまく行かなくなると思っておけば良さそうなのだが、それがご都合主義ではないと思うなら、では何なのかというと、自然に関して誤解があると思っておいても構わないだろうが、逆に誤解がないと主体性や自主性や積極性などが生じてこないと解釈しても構わないが、もしかしたらそう思考すること自体が、そこで生じている自然の流れに逆らって考えることでもあって、もちろんそう考えることも自体も自然の流れに含まれているだろうが、どちらにしても同時に生じていることであると共に、そこで起こっていることでもあるから、たとえそうなってしまうことに納得が行かなくても、それに逆らうことはできないと共に、それに逆らっているつもりにもなれるだろうが、実質的には逆らっていることにはならず、逆らっていることも含めてそこで生じている自然の流れでもあるから、自然の流れに逆らうことも自然の流れに含まれるわけだが、そんな禅問答のような空疎な説明では納得できないのなら、やはりそこで生じている自然の流れなど考慮に入れなければよく、そこに関わってくる人や集団の意図や思惑や意向や行為や行動などからそれについての言説を構成すれば、それでもそれなりにもっともらしく感じられるのかも知れないが、それが何になるかで言説の内容に対する説得力も変わってくるだろうし、人為的な度合いが高まるほど、そこに関与してくる人の意識や動作に事の成り行きの成否や是非などが左右されてきそうだが、それと同時にそこでの自然の成り行きがそうした人為的な関与も生じさせるのだから、それらが同時並行しながらそうなっているはずなのだろうが、直接そこに関わって動作している人や集団にとってはそんな説明や言説など無視しても構わないようなことでもあるかというと、それについての説明や言説自体がそこで生じている一連の人為的な動作に含まれてくるなら、それを知っている限りで無視できないことにもなってきて、そんな説明や言説も考慮に入れた上で、それと同時並行して行為や行動や言動を生じさせるような成り行きになってしまうのかも知れず、実際にもそうなりながら世界情勢が動いているはずだが、だからといってその中の個々の事態や事件や出来事などに関して、その全てが自然の流れや成り行きから説明できるわけでもないだろうから、説明してみたところで意味をなさないだろうから、個々の事態や事件や出来事には、それらに特有の事の経緯や事情が含まれてきて、まずはそれに言及しないことには、それについての個々の説明や言説にはなり難いだろうが、もちろんそんな当たり前のことは改めて述べるまでもないことであるのは、誰もが承知していることでもあるから、通常は省かれるようなことをここで述べているわけで、そうした自然の流れに逆らって何かここでつまらないことを述べているように装いたいわけでもないのだが、どちらかといえばつまらないことではなくおもしろいことを述べたくなってしまうわけで、述べている自身がおもしろいと思うことを述べたいのかも知れないが、果たしてそう述べることが自然の流れに逆らうことになるのかというと、すでにそれについては答えが出ていて、どう述べても自然の流れに逆らうことはできず、逆らっているつもりが自然の流れに沿った内容になると共に、そんな自然の流れに逆らうこと自体も、自然の流れに含まれてしまうわけだが、そう考えてしまうことに関して何か思いがけない思い違いがあるとしたら、それが何かといえば、まだ何か述べていないことがあって、それが今ここでは思いつかないことでもあるなら、今後それについて述べる機会など二度とやってこないのかも知れず、しかもそれで構わないのであって、それもそうなるのが自然の流れであるなら、そういう成り行きには逆らえないのだろうが、それもそうした流れに関与してくる様々な経緯や事情が同時並行的に作用したり影響を及ぼした結果として、そうなってしまうわけだから、それに加えて何かこの場に特有の特殊な原因や理由をここで捏造してみても構わないのかも知れず、それが何かということが、この場で想像力や妄想力を働かせて思うことや考えることになるわけで、要するにおもしろそうなことを思いつこうとしたり思い浮かべようとするわけだが、それが嘘になってしまうなら、ここで生じていて同調させられている自然の流れに飽きているから嘘をついて、そんな流れから逸脱しようとしたり抜け出そうと悪あがきをしてみたり、何か自然の流れに対して無駄な抵抗を試みているようなつもりになっているのかも知れないが、果たしてそんなことをやっていることが、うまく行っていることの証拠となるかというと、それなりにうまく行っているとしても、そんな気がしないというのが偽らざる実感なのではないか。


4月1日「他人の考え」

 それがおかしいとか、それに気づいていないとか、そういうことではなく、おかしいわけでも気づいていないわけでもなく、直接それについて考えていて、その考えに基づいて何か適当なことを述べているのだろうが、その適当なことというのが、述べている人以外では適当でなければ、他人には適当でないように思われることを述べているわけだが、他人が述べていることに興味がないなら、果たしてそれが自分には関係のないことのように思われるのかどうかが、やはりそこでも気づいていないことがあれば、自分の気づいていないところで関係があるのかも知れないが、それに気づいていなければ考えが及ばないことでもあるから、考慮に入れていないことでもあって、それを考慮に入れていないから、それなしで済ませているのだろうが、他人にはそれなしで済ませられるのかと疑問に感じられるなら、他人にはそれなしではまずいように思われことを自分が述べているのだろうが、自分には何を考慮に入れずに述べているのかがわかっていないから、他人にはそれがおかしいと感じられてしまうのかも知れないが、自分がそれに気づいていないのだからおかしいとは思われないとすれば、それが自分に関係することであっても、しかも自分に関係していることに自分が気づいていないことにもなってくるから、自分にとってもかなりまずい状況となっているのかも知れないが、何に気づいていないのかがわからないわけだから、それ自体がまずいのかも知れないし、気づいていないから自分にはどうすることもできないわけだが、そんなことを考えていると焦燥感に襲われるというと、どうもそうではなく、焦燥感と言ってしまうと違うような気もするのだが、では何なのかというと、もしかしたらそれで構わないのかも知れず、焦ってそれを知ろうとしても無駄な努力に終わってしまうような予感がするから、本当はそれで構わないわけではないのに、なぜかそれで構わないようなことなのかも知れず、それで構わないなら、これまで通りに現時点でわかっていることや気づいていることに関して考えるしかなく、そんな考えに基づいて何か適当なことを述べている気になっていれば、それで構わないことになってしまうのかも知れないが、果たしてそれが自分の考えに基づいて述べていることになるのかというと、まさかそれが他人の考えや述べていることとも一致すれば、自分と他人とで同じようなことを考えていて、それについて述べている内容も一致してしまうとなると、それが偶然の一致とも思えないし、自分以外の他の誰かから影響を受けて、そんなことを考えてそれについて述べていることを否定できず、それではまずいというわけでもないだろうが、何か自分の気づかないところで他から作用や影響を及ぼされていることに気づいていないことになるかも知れないが、やはりそこでもそれで構わないと思えるかどうかが、たぶんそれで構わないわけではないのに、なぜかそれで構わないようなことなのかも知れず、自分では納得できないだろうが、納得できなくても構わないことになってしまい、そんな成り行きの中で自分が他の何かから操られてしまっているような疑心暗鬼に囚われてしまうのだが、何に操られていようと、現時点ではそんなことはどうでもよく、しかも本当はどうでも良くはないはずなのだが、それに気づかないのだからどうでもいいと思っておいて構わないような成り行きに囚われていて、たとえ自分の考えだと思っていることが他人の考えだとしても、やはりそれで構わないような成り行きの中でそう思っているから、それが誰の考えなのかもわからないままに、それについて何か適当なことを述べている現状があるわけだから、それではまずいと思いながらも、そんなまずい事態の中でもさらに考え続けているわけで、そこで何を考えているのかといえば、他人の考えについて考えているのかも知れず、他人がなぜそんなことを考えているのか疑問に感じるから、その疑わしい考えについて考えているわけだが、それに関しては現状で生じている社会状況からそんな考えもそれに伴って生じてくると考えるしかなく、世の中の成り行きに沿ってそういう考えが多くの人々の意識の中でそれなりの妥当性を感じられるような考えになってしまうのだろうが、もちろんそれでは納得できないから、そこから疑問も生じてくるわけだが、なぜ疑わしいのかといえば、理屈に合わないというと、理屈自体が間違っている可能性も捨てきれないが、理屈以外でも収支が合わないと言えるかも知れず、会計上の収支が合わなければ問題だが、そういうことではないとすると何なのかというと、社会の全体で収支が合っていないとなると、そのつけが未来へと回されるような成り行きになり、絶えず未来へと負債の類いが増大しながら積み上がって行くような成り行きを想像できるだろうが、果たして本当にそうなのかというと、そこにごまかしやまやかしのカラクリが備わっているというと、さらに怪しげな理屈になってきてしまうが、それが数値情報である限りで何とでもなるような結果をもたらすわけで、社会の中で物事を動かすために情報を操作するようなことが絶えず行われているから、それが理屈に合わず収支も合わなければ問題なのだろうが、その問題が絶えず未来へと先送りされながらも、数値情報である限りは何とでも変更が可能だと思われるから、それをごまかしやまやかしだと捉えるなら、それを正したくなってしまうのだろうが、それを正そうとするとまずいことになってしまい、かえって正されないままの方が都合が良いから、不問に付されるというと納得し難く、納得し難いままになってしまった方が都合が良いというと、やはりそれでも構わないわけではないが、実際にそうなっているのだから、構わないわけではないが、物事の成り行きを理屈に合うようにして収支も合わせようとすると、途端に世の中の全てがおかしくなってしまうというと、そんなはずがないとは思いたいところだが、たぶんそれもそんなはずがないと思いながらも疑念を抱いている状態を保っていなければならず、要するに納得し難く疑わしいと思ってしまうのは当然の成り行きなのだが、そうならないと世の中が回って行かないことも現状でもたらされている紛れもない真実であるから、絶えずそれをどうにかして理屈に合うような状態へと改善しようとしなければいけないのだが、それでも理屈に合わない現状がもたらされているわけだから、理屈自体が間違っていることを認めてしまっても構わないのだろうが、それもたぶん現状に合うような理屈にはならないし、理屈が現状に合わないから理屈が正しいように感じられるという矛盾が生じてくるわけで、しかもそんな正しい理屈に合わないような現状がもたらされているから、そんな現状に対しては疑念を抱くしかなく、そういうところでわけのわからない成り行きに思考が囚われているのではないか。