彼の声161

2024年

3月31日「囮と案山子と通行人の言い分」

 この世の中に存在する誰に囮ではない案山子の役割が期待されているわけでもないだろうが、どちらにしても張りぼての人形のような姿が思い浮かんだところで、生身の人間の役割としてはどちらも見せかけでしかなく、本来の役割ではないような気がするわけだが、そこを通りかかったただの通行人にそう思われるなら、そんなただの通行人もその役割に徹して、その場を通り過ぎるだけに役割を限定しておいた方がいいような気もしてくるが、何がそうとも言い切れないような情勢の中で、囮にしても案山子にしても通行人にしても、何を考える必要もない役割のような気もしてきて、それでは不満なら、ではどんな役回りが期待されているのかとしばらく考え込んでいるうちに、目が覚めて朝になってしまったわけでもないだろうが、それが夢の中での出来事でなかったなら、夢の中で現実の世界で起こっていることについて何を考えていたわけでもないだろうし、夢を見ていたわけでもないとすれば、ただの作り話に過ぎないと思うわけでもなく、何かそこに考えるためのヒントのようなものが埋もれていないかと改めて昨夜の出来事を振り返ってみると、何かの途中から、どうしても記憶が飛んでしまって思い出せない時間帯があるらしく、いったいその時間帯において自分が何をやっていたのか思い出すことができれば、そこでやっていたことが起因して奇妙な夢を見てしまったのかも知れないが、そんなはずがないなら、それも作り話の延長上で語られていることかも知れず、話の途中でそこを通りかかった見ず知らずの通行人に向かって何か口汚く暴言を浴びせかけたわけでもないが、花見の季節にはそんな輩が都合良く通りに出現すれば、確かに話のネタには苦労はしないが、そうではないとしたら何なのかというと、囮とか案山子とか通行人とかそんな何をやっているわけでもない人たちが何を言ってみても、何の説得力もないことは確かなのだが、では特定の職に就いている人がその職とは関係のない方面で何を言ってみても何の説得力もないわけではなく、その人の専門外のことは何も言えないわけではないし、少なくとも何の役にも立たないなりのことが言えるわけだから、その言っている内容から何かしら影響を受けているのかも知れず、どんな影響を受けているのかというと、それが影響というからには、深刻でも致命的でも危機的でもない影響なのかも知れず、要するに特に気にする必要もない何でもないような影響なのだろうが、そんな影響から世の中が構成されているとすれば、ではどんな世の中が構成されているのかといえば、現状の世の中が構成されているわけで、取り立てて深刻でも致命的でも危機的でもない世の中が構成されているはずなのだが、果たしてそこからどうやって深刻で致命的で危機的な要素を抽出してくるかが、その種の話を得意とする煽動者の腕の見せどころなのかも知れないが、たぶんそれが腕の見せどころであるどころか、元から腕などないから話が世の中の実態を反映していない深刻で致命的で危機的な内容となってしまって、今にも大変なことが起こりそうであるどころか、すでに大変なことが起こっていると煽り立てる毎度おなじみの話の内容となってしまうのかも知れず、果たしてそれが実態を反映した真の世の中の姿なのかというと、少なくとも囮や案山子や通行人には全く実感の湧いてこない話になってしまうのだが、人によっては真に受けられる程度の許容度があるかも知れないから、そんな人には深刻に致命的に危機的に感じられて、それなりのリアリティを伴って受け止められるのかも知れないが、それ以外の人にはそのまま聞き流されてしまうような内容なのかも知れないから、そんな人たちからは支持も賛同も得られないだろうが、それらの人たちから支持されて賛同を得られたとしても何がどうなるわけでもなく、現状の世の中が深刻で致命的で危機的な状況となっているとは感じられないのだから、深刻で致命的で危機的な話の内容を真に受けないわけで、そんな人たちにとっては現状のままでも構わないような心境となっているわけだから、現状の世の中で主導権を握っている勢力を支持したりそんな勢力のやっていることに賛同しているわけだから、そんな人たちが多数派を占めているような世の中が深刻で致命的で危機的な状況となっているなんて、少なくともそんな人たちには信じられないわけだが、果たして現状がどうなっているかなんて、囮や案山子や通行人にわかるとは思えないし、そもそも誰が囮で案山子で通行人なのかも定かではないのだが、少なくとも囮と案山子から連想される存在が、煽動者という存在と似通った傾向があり、要するに人を欺くための存在というか、案山子は人を欺くのではなく、田畑を荒らしにくる獣を欺くために使われるはずだが、囮は確かに欺くための存在であるにしても、果たして煽動者もそうだと言えるかというと、場合によってはそうであり、人を間違った方面へと誘導するために煽動者が使われることもあるだろうが、煽動者自身が自らの意志で積極的に何かを煽り立てたいのであれば、それが多くの人に向かって世の中の真の姿を伝えたいという意志の表れであるとすれば、嘘偽りを用いて煽り立てているわけではなく、真実を伝えようとしているはずだが、果たしてその真実が深刻で致命的で危機的な真実なのかというと、煽動者にとっては確かにそうかも知れないが、その煽り立てている前を黙って通り過ぎてしまう通行人にとってはそうではないのかも知れず、そうであるなら人によってはそれが深刻で致命的で危機的であるとしても、別の人にとってはそうではない可能性もあり得るわけで、それが世の中に存在する誰にとっても深刻で致命的で危機的なことであるなら、実際に誰もがそれを真に受けざるを得ないだろうが、少なくとも現状がそうでないなら、煽動者の目論見が空ぶっているのかも知れないが、それで構わないような現状であれば、それが誰にとっても深刻でも致命的でも危機的でもない可能性も高いかも知れず、そうであるなら煽動者の煽り立ても空振りに終わる可能性も高まるはずだが、それが空振りに終わるかどうかが煽動そのものに賭けられているとすれば、煽動を真に受ける人が世の中にどれほどいるかが、世の中の状態がどれほど深刻で致命的で機器的であるかを知るためのバロメーターになるかも知れないが、実態としてはそうではないのかも知れず、煽動者はあくまでも世間の目を欺くための囮であると共に、田畑が害獣に荒らされないために使う気休め程度に立てかける案山子でもあり、その前を通りすがりの人が見向きもせずにただ通り過ぎるだけであれば、囮としても案山子としても全く役に立っていないわけだが、しかも全く役に立っていないこと自体が、世の中の状況が深刻でも致命的でも危機的でもないことを証明するわけだから、逆にその種の煽動者が世の中の役に立つような状況というのが、深刻で致命的で危機的な状況になっている証拠となるのではないか。


3月30日「言説の体制」

 述べていることが正しいのか間違っているのかの判断が求められているわけでもなく、人を騙す意図がなければ、少なくとも正しいと思うことを述べているつもりなのだろうが、だからといって自らが正しいことを述べているように装いたいと直接そう思って述べているわけではないだろうが、あからさまにそう思っているわけではなくても、そうなるような体制を作ろうとしているわけでもなくても、それに関して様々なことを述べているうちに、自然にそうなってしまうと状況を捉えるなら、それが正しい状況の捉え方であるかのように思われてしまい、そんなふうに思ってしまうこと自体が感覚が誤っているのかも知れないが、何を誤っているのかがよくわかっていないのと共に、感覚を誤らせるようなことが述べられているわけでもなく、では状況を正しく把握しているのかというと、今ひとつ自信が持てないのだが、感覚としてはおかしなことが述べられているように感じられるわけで、彼らは彼らで人を騙そうとする意図は感じられないのだが、結果的にも理屈として正しいことを述べようとしているはずなのだが、ただ疑念を抱かせるような実態がもたらされているわけで、しかもそれがそうならざるを得ないような事の成り行きだから、なおさら理屈と現実とが背離してきて、結果的に理屈としては正しいことを述べているつもりなのに、現実にもたらされている実態が理屈の正しさを裏切ってしまう状況となっているから、果たしてその理屈が正しいといえるのかどうかが問題となってくるはずだが、そこを問題視してしまうと、述べていることの正しさも疑わしく思われてしまうから、それを認めるわけには行かないことでもあるから、そういうところでうまく言説の体制を築けなくなっていると状況を捉えるなら、必ずしも述べていることが正しいとも言えなくなってくるのかも知れないが、具体的に何がどうなっているのかと問うなら、果たしてそれが経済理論と言えるような代物なのかどうかが問題となっているわけではなく、正しいと思われる理屈に基づいて述べられている内容を実現するための体制を構築しようとしているわけで、そのためには述べられていることと実際に行われていることが一致している必要があるらしいのだが、それが理屈からいえばその通りだと主張したいだろうし、実際に主張しているのだろうが、それに対して実態に基づいて反論もできるものだから、それを主張している側とそれに対して反論している側のどちらが正しくてどちらが間違っているのかを客観的に判断しても構わないはずだが、たぶんそれがどう判断してみても議論が平行線に終始してしまい、どちらも自身の主張や反論が間違っていることを認めようとはしないだろうから、そんな判断自体が意味をなさないし、実際に主張している通りのことが行われるように物事の成り行きを誘導する必要があるわけで、そういうことが実践されて初めて主張の中で述べられている理屈の正しさが証明されるわけだから、主張している通りのことが行われるように、関係する各方面に向かって働きかけている最中でもあるわけで、そんな活動が世の中の様々な方面で行われている実態があるわけだが、いったんそういうことが行われる体制が構築されてしまうと、たとえそれによって何らかの不具合や弊害などが世の中の様々な方面にもたらされても、それを行なっている勢力がそれを行うための主導権を確保している限りは、その勢力にとってはそれを行うことが都合が良い限りで、それが押し進められるような成り行きになってしまうわけで、その代表例が原発政策だと言ってしまうと、今やさらにそれに対抗して再エネ政策も推進されているだろうが、しかも両者が共存可能になるように調整もされているわけだから、また実際に共存が実現した制度の代表例を挙げるとすれば、裁判制度と刑務所制度の共存も挙げられるが、そんなことの延長上で考えられるのが、現状では不可能に思われるようなことも将来においては共存が可能となると考えるなら、現状で対立が煽り立てられていることがそうなる可能性が考えられるだろうから、なぜ対立が煽り立てられているのか疑念を抱くようなことであれば、それが怪しいと思うしかなく、その代表例として積極財政と緊縮財政の対立が、何かそれを煽っている人たちの意図や思惑を外れたところで、将来において現状では思いもよらない連携や協力の関係が構築されて、それが世の中が良くなる方向に働くのか、あるいは悪くなる方向に働くのかは、現状では何とも言えないところだが、これまでの経緯から考えられるのは、例えば裁判制度や刑務所制度が世の中に定着すれば、それらの存在を前提とした世の中になって行くし、人々の活動がそれらに対応したやり方になって、それらがあることを踏まえてどう振る舞いどう行動するかが問題や課題となってきて、犯罪を起こすにしてもそういう制度を前提とした犯罪になってくるわけだろうが、それが必ずしも裁判制度や刑務所制度の趣旨に合うとも限らず、裁判が行われて有罪と認定された者が刑務所に収監されるからといって、犯罪の抑止効果などあってないような世の中の状況になってしまったわけで、それは原発によっても言えるし、原発があるおかげで利益を得た人や団体もいくらでも存在する一方で、ひどい目に遭った人もいくらでもいるだろうし、再エネの推進によっても、山林を大規模に伐採してソーラーパネルを設置されて迷惑を被っている人もいくらでもいるだろうし、また巨大な風車から出る騒音に悩まされている人もいくらでもいそうだが、それとこれとは全く別のことだと言えるようなこととして積極財政と緊縮財政の対立が装われていて、今すぐにそんな偽りの対立によって恩恵を受けたり被害を被っているとは誰も思っていないとしても、何か意図的に仕掛けられているように感じられるから怪しいわけで、それが一過性の流行として冗談か何かに終わればどうということはないのだとしても、ことさら熱心に煽り立てる人々の尋常でない意気込みのようなものを感じられるだけに、今後それらの人々の尽力によって、その理屈や主張が真理として機能するような制度や仕組みのようなものが構築されるようなことにでもなれば、それに対応して世の中の人々の活動もそれなりに変更を被ってしまうのかも知れず、それが良いことなのか悪いことなのかは現状では何とも言えないだろうが、それもこれまでの世の中の経緯や成り行きから言えることがあるとすれば、それによって恩恵を受ける人や団体にとっても被害を被る人や団体にとっても、そういう制度や仕組みがあることを前提として振る舞いや行動がそれなりに制約を受けたり、またそれがあることによって何か新たな可能性や自由がもたらされるなら、それを利用したり活用して新たなことをやろうとする人や団体も現れるかも知れないが、仮にそうなったからといって、そんなことを煽り立てている人々の意図や思惑が反映された世の中になるかどうかも、少なくとも現状ではよくわからないのではないか。


3月29日「怪しい判断」

 確かにそこには二重基準のような良し悪しの判断があるのだが、二重基準というのが必ずしも対立し合う真逆の概念というわけでもないから、それに対して矛盾という言葉を使うのはちょっと違うような気もするのだが、ではどういう具合で判断が行われているのかというと、まずは行われていることが合法か違法かで判断された上で、それが合法的な活動だとしても、活動した結果として効果や成果を上げたか否かで良し悪しが判断されると考えておけばいいのかも知れず、そうなればそれが二重基準というわけでもないどころか、極めて妥当な判断となるだろうが、果たして実際の活動がそういう順番で判断されるかというと、合法か違法かで判断される対象と、活動が効果や成果を上げたか否かで判断される対象が別々にあるというわけでもなく、それらが渾然一体となっている中で、その両面から事の良し悪しが判断されるはずなのだが、活動が合法か違法かの判断は、実際に活動が行われた結果から判断されることだから、過去の活動に対する判断なのだが、活動が効果や成果を上げたか否かの判断も実際に活動した結果から判断されるところではあるが、これから行おうとする活動が果たして効果や成果を上げられるか否かの判断も、予想として含まれてきて、そうなるとまだ行われてはいない段階で判断するようなあやふやさも伴ってくると共に、想像力を要するフィクション的な要素も加わってくるから、果たしてそういう怪しげな判断を信用できるかどうかが、微妙な感じとなってくるわけだが、普通はそれとこれとは分て考えるし、これまでに行われてきたこととこれから行われようとしていることは別々に良し悪しを判断すればいいことなのだろうが、そこでも両者がごっちゃになって、それらを同列に扱うようなごまかしやまやかしが横行しているわけではないはずだが、投資するとなると、実際に誰がそれに投資するのかも考慮に入れる必要があるとしても、これまでに行われてきたことの実績を考慮して、その延長上でこれから行われることもうまくいく可能性が高そうだから投資するような成り行きがある一方で、大した実績もない活動に投資するとなると、これから効果や成果を上げる可能性が高いと宣伝されるから、そんな宣伝を信用して投資するような成り行きになるだろうから、途端に判断が怪しくなってくると感じられるわけだが、それ以前に投資そのものが本当に信用に値するような行為なのかどうかということにも疑念を覚えてしまうが、それに関しては投資と政治は違う行為だろうから、もちろん全く違うわけではないし、互いに関係し合ったり、一方がもう一方に含まれてきたりして、それも渾然一体となって判断を迫られるような微妙な成り行きにも感じられるが、政治に投資するようなことが経済活動に投資するのとは質も傾向も異なってくるにしても、特定の政党の候補者に選挙の際に一票を投じる行為が投資とは違うことは誰もがわかっているはずだが、そもそも政治に見返りを期待できるかということが、これまでに何をやってもらってきたのかと過去を振り返っても、特に実感や実質的な利益や報酬を受けたわけでもなければ、よくわからないことかも知れず、またこれから何か利益や報酬を受ける可能性があるかどうかもよくわからないとしたら、政治には何も期待していないわけではないにしても、それほど実質的な利益や報酬を得られるとも思ってはいないはずだが、それに関しては公共の利益というとあまり実感が伴ってこないにしても、少なくとも政治が違法行為を行なっていることに関しては支持できないし、違法行為を行なっている政治勢力を支持している人が公共の利益には反していることも確かだろうが、公共の利益に反して私的な利益を追求しているかというと、公的な政治とは関係のない方面で活動していると思っている人にはあまり実感も湧いてこないし、そんなことはどうでもいいと思っていても構わないことになってしまうのかも知れないが、何かそういうところで勘違いが生じていると思いたいところだが、実際には勘違いでも何でもなく、ただ単に公共の利益を共有していないだけで、自分にとっては公共の利益よりも優先していることがあるのかも知れないが、それが何だか自分ではわかっていないのかも知れず、しかも今はわからないままの方が有利に事を運べるかどうかもわからないが、感触としてはそんな気がしているのであり、それも勘違いの類いかも知れないが、勘違いしていた方が良いのかも知れないから、それも何が良いのかもわかっていないのだろうが、そうなると全ては藪の中ということにもなりかねないが、元から事の全てを理解できるわけでもないのだから、何をどう理解すれば、それが自分にとって有利になるか不利になるかなんて、もしかしたら知らなくてもいい範疇に入ることなのかも知れず、そういうところであまり自らの判断を信用していないし、ことごとく判断を誤っているとしてもいちいち気にするようなことでもないのかも知れず、判断を誤っているからこそ今の自分の生活や活動が成り立っているとしたら、では判断を誤らなければどうなっていたのかと想像できるわけでもなく、自らの行動や活動の効果や成果として自らの現状があることも確かなのかも知れず、そうしたことの延長上で現状で起こっていることを考えるなら、たとえ違法行為に手を染めて公共の利益に反したことをやっている政治勢力を支持して選挙の際にそうした勢力の候補者に投票しようと、あるいはそんなことには無関心で選挙に行かなくても何とも思わないとしても、そうなってしまう人を責める理由など何もないのかも知れず、そういう人が大勢いるからこそ現状が現状の程度や状況として実現しているわけだから、それが今後どのように変わって行くとしても、それが自らの生活や活動の実態にどのような影響を及ぼしてどのように変えて行くとしても、そうなってもそれに気づくわけでもなく、世の中の状況が良くなってきたとか悪くなってきたとその時々で思うことがあっても、それがその時々の政治状況のせいでそう思われることもあるのかも知れないが、そこで何かはっきりとした効果や成果を特定の政治勢力が上げた結果としてそう思われるわけでもないかも知れず、しかも自らの選挙の際の投票行動のせいでそうなったとも思えないなら、特定の政治勢力に肩入れした結果としてそうなったわけでもなく、大してその種の公共領域には関わっていないことになってしまうだろうが、それでも幻想を抱くような感じになってくるなら、実際にもたらされたりもたらされなかったりする効果や成果とは違う方面でそう思われるのかも知れず、それが幻想ではなく実感となって感じられるなら、それも自ら勝手に感じている勘違いの一種かも知れないが、何か良かれと思って行なったことが良い方向に作用してそうなったと思い込むしかないのかも知れず、実際に今も怪しい判断を伴いながらも良かれと思うから、何かそれなりに述べている実態があるわけだ。


3月28日「多義的で多面的な世界」

 それの何が両義的な事態を生じさせているのかといっても、複数の意味がそこから導き出されるなら、必ずしもその意味が相反する内容を持たないなら両義的ではなく両面的というか、さらに二つより多くの意味を含んでいれば多面的な傾向があっても良さそうだが、そうなっているからといって何がそうなのかがわからなければ、そもそもそんなことすら言えないが、人間社会が多義的で多面的な傾向を持っているのは、そこで大勢の人々が生活して活動しているからだろうが、そこで多数の物事が同時並行して動いていれば、社会の実態をそう捉えてみても構わないが、それらの何と何が関係し合っていて、果たしてそれに自らがどの程度の割合で関わっているのかといっても、やはり具体的に何がそんなに興味深いことなのか、自分ではよくわからないわけで、それが取り立てて興味深いわけでもなければ、そんなことに言及する必要すらなければ、関係ないが、関わってもいないことになってしまうわけでもなく、それに関わっているという自覚もなければ、意識できないようなことに関わっていることになり、自分が関わっていることすら気づいていないのに、他人が関わっていることには関心があるなら、それが野次馬的な関心になるだろうが、それがメディア上で取り沙汰される著名人や有名人の醜聞であれば、さらにありふれた関心になってしまうだろうし、そんな関心には興味がなければ、なぜわざわざそんなことに言及するのか矛盾を感じるが、メディアによって関心を持つように仕向けられていることを鬱陶しいと思うなら無視すればいいことになってしまうが、その著名人や有名人の類いが公的な役職に就いている政治家や大臣などになってくれば、その国の国民としてそれらの人々に関わっていることになるのかならないのか、そんなこととは無関係なプロスポーツ選手の類いであっても関心を向ける必要があるのかないのかは、わかりきったことになってしまうが、それらがごっちゃになっているわけでもないはずだが、メディアを介して何かに関心を持つように煽り立てられたら、その何かに警戒する必要があるわけでもないのだろうが、例えばそれが隣国の中国や韓国や北朝鮮に関することなら、煽り立てる人や団体の種類や傾向について、なるほどと思わせるような特徴が浮かび上がってくるのかも知れず、そうなると何かのフラグが立って、そのフラグの色や右を向いているか左を向いているかに注意すれば良いかも知れないが、果たしてそれがいきなり死亡フラグの類いに変わるわけでもないだろうが、その辺は十分に警戒しておかないと、後々命取りになりかねないわけでもないにしても、致命傷を負わないうちに退散しなければならないような事態となるわけでもなければ、そういう方面に気休めや気晴らしでは済まない程度でそれなりに関心を持っておいても構わないが、意味不明な脱線はこれくらいにとどめておいてから、何か他に本題といえるような話の中身を提示できればいいのかも知れないが、それに関しては年老いて引退間近の政治家などが違法なことをやった責任を取る形で引退を発表したところで、それがその政治家の命取りとなったり死亡フラグが立ったわけでもないところが意味不明というわけでもなく、そこに強引に関わってきて執拗にまとわりついてくる人や集団の間での競合関係や競争関係の中で権力を維持し続けるには、違法行為に手を出す必要が出てくるというのはちょっと違うのかも知れず、それが必要だと意識しているわけではないのに、力の限界を越えようとするからそれが違法行為に結実するわけで、そうなる前に手を引けばいいのだとしても、手を引くタイミングを逸してしまうから年老いても自らの権力を維持しなければならず、それと共にいつの間にかいつ亡くなっても不思議でないのに、未だに健在なふりをせざるを得ないから、それが陰謀論者には格好のネタとなってしまうのだろうが、それと実際に行なってしまう違法行為とは全くの無関係というわけでもないところが、何かそこから恣意的な解釈の余地も選択肢の幅も生じてきて、それに関する話をおもしろおかしく膨らませて提示できるわけでもないのだろうが、そこで権力を行使するタイミングを間違えたわけでもないと思うなら、誰がそう思ってしまうわけでもなく、ただの老害として多くの人々に記憶されると共にさっさと忘れ去られて、すぐに何でもなかったことになってしまうにしても、そこでも簡単に忘れ去られてしまうと癪だからというわけでもないのだろうが、何とかしてそれを注目のイベントとして成り立つような出来事にしたいわけで、そのための仕掛けがメディアを利用した煽り立てだと解釈できないことはないが、そうであるにしてもそんなことには無関心でいられる人が世の中には掃いて捨てるほど多くいるから、イベントとして不発に終わっても構わないわけで、そんな一過性のつまらないイベントに関心を持つよりは他にやらなければならないことが山ほどあるわけではないにしても、どうしても違法行為に及んでしまう理由が今ひとつわからないものだから、それを追及する側もどこまで追求すればいいのか加減がわからず、下手に追及しすぎると観衆に飽きられて、かえって逆効果となってしまうと藪蛇だから、そこでもちょうど良い頃合いというのがわからないまま、退くに退けないタイミングの悪さも相まって、後は次第にフェードアウトするばかりだが、それによって音量のヴォリュームが下げられるわけでもなく、相変わらず頃合いを見計らって、つまらぬいちゃもんをつけてはメディアを介して煽り立てようとするのだろうが、いったい誰がそんなことをやっているのかというと、果たしてそれが陰謀論者の言うディープステートとかグローバリストとかチャイナマフィアとか言われる集団が画策していることかどうかは、今のところは定かではないと共に、それを盛んに煽り立てている人たちにしても半信半疑の疑心暗鬼でやっていることかも知れないから、俄には信じ難いことであるにしても、少なくとも政治家が利益を求める行為が違法行為に結びつくことは確からしく、それが果たして権力を維持するには欠かせない行為なのかどうかも含めて、何かはっきりした結論が真相究明によって明らかにされるなら誰もが納得するだろうが、そうなってしまってはまずいから、そうはさせないように関係する人や団体があれこれと画策して、各々が責任逃れになるような結果をもたらしたいのだろうから、そういう方面でははっきりとわかるような結論には至り難いのかも知れないし、それで構わないとは関係者以外は誰もそうは思っていないだろうが、思っているかいないかではなく、誰もそうは思わないところで思いがけず事の真相が暴露されると、誰もがそれに関心を持つだろうから、そうなることを狙って誰かが裏で糸を引いているとは思えないが、それこそが誰からも見向きもされないようなつまらない真実であれば、何となくそれで一件落着した気分にはなり難いものの、引き際が肝心だと思うなら、その辺で妥協するしかないのではないか。


3月27日「できることしかできない現状」

 焦って何を語ろうとしても何も出てこないのに、誰が何をやっているとも言えないような状況の中で、誰かのやり切れない思いが他の誰に何をやらせているとも思えないが、今さら誰が何をやっても間に合わないのかも知れず、しかも何が間に合わないのか誰にもわかっていないのに、実際に間に合わなくなってからそれがわかるかも知れないところが、その間に合わなくなったことがそれではなく、それ以前に何をやればいいのかわかっていないのだから、何をやっても的外れとなってしまい、それでも何もやらないよりはマシに思われるから、結局は何かをやっていることになるのだが、何をやったところでしっくりこないだろうから、自らが的外れなことをやっているのを自覚せざるを得ないし、そこで何をやれば良かったのかが、何をやったところでわからずじまいになってしまうから、そんな何をやればいいのかわからない現状の中でも何かをやっていること自体が、そのやっていることが正しいのか間違っているのか、あるいはそれが良いか悪いかなんてわかるわけがないと思いたくなってしまうのだが、それでも結果的にうまく行けばそれで構わないと思われるし、うまく行かなければ失敗したと思われるから、現状でやれることしかやれないと思っておけば、現状でやっていることがうまく行っているように思われるなら、それを肯定するしかなく、それが気に食わないことであっても、そんなことをやる羽目に陥ってしまったのだから、全力でやっているわけでもなくても、それをやり続けるしかないような境遇へと追い込まれてしまったと思わざるを得ず、それを追い込まれてしまったと感じているわけではなくても、何かそうではないような感触を伴いながらもそれをやり続けるしかないのかも知れず、だからどうしたわけでもないのだろうが、そのどうしたわけでもないところが、何をやっているわけでもないことを肯定する理由になってしまうかどうかも定かでなく、それでも他人の言動や行動に対して嫌な感触を得ているとすれば、その他人との間で何かが衝突しているのかも知れず、直接ぶつかっていないとしても、玉突き衝突のような感触を意識してしまうから、その他人が無理なことを言ってみたりやっているように思われて、自主的にやっているというよりはその場の状況がそんなことをやらせているような感じになっていれば、全面的に悪いわけでもなくても、そういう人にはそういうことしかできないし言えないような成り行きに囚われているからそうなっていて、それが嫌な感触をもたらしているから、それに対して抵抗感を覚えるとしても、自分にはそれをどうすることもできないのなら、黙ってそれを眺めているだけで、できればそういうところには言及したくないのだが、それが言わずもがなであるから、なおさら気になってしまうわけでもないのだろうが、それでもそこから何かを感じ取っているわけだから、こうしてそれについて言及せざるを得ないような状況に陥っているわけで、それが必ずしも否定したり非難したくなるような人たちではなくても感じ取れるところが謎と言えば謎なのだが、同じ穴の狢だからこそ感じ取れるような感触なのかも知れないし、要するに他人の欠点や欠陥を感じ取っているわけなのだろうが、果たしてそれらがその人の長所だと言えるなら、それがいつもの逆説的な事態を招いていると言えるかどうかもはっきりとは断言できないが、人が社会の中で生きている限りで、その人を取り巻く状況や環境から様々な作用や影響を及ぼされている中でも、どうしても避けては通れない試練のような事態へと巻き込まれた際に、その人の運や宿命が明らかになってくるのかも知れず、しかもそれがその人自身に起因してもたらされるとは限らず、その人がどうすることもできないようなところから、その人のその後の人生を決定してしまうような出来事がもたらされて、そんな理不尽な決定に従うしかないような成り行きにその人が巻き込まれてしまえば、その人がどうあがいてもその決定を覆せないまま、後は決められた成り行きに沿って歩んで行くしかなく、そうやってその人がどうでもいいような存在へと変貌してしまうとしても、そんな成り行きを眺めている自らも、すでにそうなっている可能性を否定できないわけだから、果たして自らがそうなっていることに気づけないのが、他の誰かから見れば間抜けなことなのかどうかも、その人の恣意的な思い込みに過ぎないとしても、何かそれがやり切れない思いをもたらしているような気もしてくるわけで、誰がそんなやり切れない思いを抱いているのかも、その人にはあずかり知らないことだろうが、それを客観的な立場から見るような視点が誰に備わっているわけでもないが、すでにそこに居合わせたことが、そこで生じている事態に巻き込まれている証拠だと誰が断言したいわけでもないし、誰もそんなことを断言する立場にはないはずだが、絶えずそれを外部から言い放ってマウントを取ったつもりになりたい人が出てきて、そんな人がメディアで注目されるような事態ともなれば、その人の思う壺な成り行きだと思われるかも知れないが、どうも実態としてはそうではなく、必ずしもそうはならないところが、何かしら救いを感じられるようなところかも知れず、その種の断言に出くわして気分を害するような出来事を何度も経験し続けると、何かそれがその種の成り行きとは違う方面へと意識が向かうきっかけだと思われるような気持ちになってきて、そんな気持ちになってきたところで急に思考の視界がひらけてくるような事態に直面してみると、そこで初めてそこで生じていた成り行きの全貌が窺い知れるという虫のいい話になれば、それこそ何かに騙されていることになってしまうのかも知れないが、そこでわかったことがそうでなければ、では何がわかったのかというと、そこでは何もわからないことがそこで起こっている事態に動じていないことの証拠となり、そんな事態を起こしている側がそのターゲットとなっている人たちにそれをわからせようとしているのに、肝心の言動や行動の標的となっている人たちが何も動じないと困ってしまうのだろうが、そんな他人の言っていることを意に介さない態度がどこから生じてくるのかといえば、その場で起こっている事態に巻き込まれていること自体がそういう態度を生じさせるわけだから、それが作用反作用のような物理法則に従って起こっていることだと解釈せざるを得ないのかも知れず、人を制御したり操縦するようなことをやると、それに対する自然法則としてそういう態度がもたらされて、そういう態度の人がそれを意識してそうしようとしてそうなっているわけではなく、どちらかと言えば自然の成り行きとして否応なくそうなってしまうとしたら、そうなってしまった方がその人にとっては楽だからそうなってしまうと解釈するしかないにしても、その時はそれが楽だとしても、そういう態度に直面した側にとっては、それもそれに対する否定的かつ批判的な言動や行動に及んでしまう口実となるわけだ。


3月26日「陰謀論への対処」

 特定の人や集団を悪く言うような陰謀論に凝り固まった界隈から離れて何をどう考えれば良いのかが、その種の陰謀論がわかりやすい相関図や構図と共に示されているだけに、なかなかそれに対抗して説得力のあることが言えないし、何よりも彼らの述べている内容がもっともらしいことが、ある程度は信用できるし、信じられるならそうした陰謀論の類いを信じてみても構わないだろうが、それではおもしろくないと思うなら、わざとではあっても構わないだろうが、できるだけもっともらしくなく、しかも全く説得力に欠ける内容で対抗してみればおもしろいかも知れず、もちろんそれでは何の対抗にもなっていないし、そんなふうに語れば向こうからは無視されるだけだろうが、そう語ることによってある程度はその種のもっともらしくて説得力のある陰謀論の類いを頭の中で中和できるかも知れず、それによって気休め程度の高揚感を得ることができるかも知れないが、そう語るための材料がどこにあるかというと、それに関しては現状の世の中で誰もが否定的に語りたい主義主張の類いを活用するのが人畜無害で都合が良く、具体的な主義主張としてはまずは誰もが紋切り型の語り口で否定しがちな新自由主義とか、次いで共産主義や社会主義などが、それを肯定的に語る材料としては格好の主義主張となってくるだろうが、それでも新自由主義と共産主義や社会主義とでは真逆の主義主張に感じられるし、それらをどう結びつければ肯定的な内容になるのか皆目見当がつかないが、それで構わないとなると、何か支離滅裂で意味不明なことを述べているような気にもなってくるが、例えばそれらの主義主張の何が問題なのかというと、それはそれらを批判する人々の意見からわかってくることがあり、その意見がもっともらしければそれを信用してみればいいのだろうが、逆に信用できないとなると、何が信用できないのかが問題となってくるが、実際にそれらによってどんな弊害が生じているのかが指摘できるなら、そんな弊害を生じさせるからそれらの主義主張では駄目なことが明らかとなり、そういう理由と共にそれらの主義主張を否定したり批判しておけば済むはずだが、逆にそれらを肯定するとなると、それがごまかしやまやかしでないなら、やはりそれに関しては信用できて説得力のあること述べないとまずいはずだが、それができないとなると、やはりそれらの主義主張ではまずいのであり、どう言いくるめても肯定するのが難しい主義主張だと言えるだろうが、ではなぜそんな主義主張をわざと肯定しなければならないのかというと、理由などないのかも知れず、特に肯定しなくても構わないのに、否定されて批判されているのだから、そんな否定や批判の意見の方を肯定しておく方が無難なのだろうが、なぜかひねくれているからというわけでもないのに、新自由主義や共産主義や社会主義を肯定しなければならないという使命感に燃えているわけでもなく、ただ何となく肯定したくなってしまうのであり、それらの主義主張を否定したり批判する意見などには魅力を感じないからというわけではないにしても、現に世界経済が新自由主義的な様相を呈していて、だからそれに対してもっともらしくも説得力のある批判が行われている一方で、共産主義や社会主義に関してはその名を冠した政党が根強く存在していて、実際に左翼政党なら、共産党や社民党の類いが世界中で活動中でもあるから、結局経済は新自由主義である一方で政治は左翼だというコンセンサスが世界に蔓延しているから、それを否定したり批判する論調も世界中に蔓延していると言えるのかも知れず、そういう意味ではそんな現状を肯定するなら、それらを体現している新自由主義と共産主義や社会主義を肯定しておけば事足りるはずもないだろうから、それへの反発としてそういう現状に納得できない人たちが盛んに安直な陰謀論を煽り立てるような論調があって、それがそれなりにもっともらしくて説得力があるから多くの人々がそれに引っかかって、新自由主義経済と政治的な左翼思想から目を背けてしまい、結局はそれらの傾向が行き着く先にあるのが保守政治となるわけで、そうなるとさらに新自由主義経済の弊害が顕著になってくるわけだが、ではそうなってしまうのを防ぐにはどうすれば良いかというと、うまく行くやり方がないわけで、うまく行かなくても構わないなら、成り行きとしては新自由主義経済から生じてくる弊害を左翼政治によって改善するようなやり方が民主主義国では主流なのだろうが、当然それではうまく行かないわけだから、批判や反発もあって、それに呼応して右翼的なポピュリズム政治をやろうとする機運も生じてきて、そうなると戦争の危険も高まってくるだろうから、戦争によって人を大量に殺傷したりインフラを破壊して経済をリセットするようなことにもなってくるが、そうなるのが嫌なら新自由主義経済と左翼政権という相矛盾する体制を保つしかなく、うまくは行かないなりにも、矛盾する経済体制と政治体制の間で均衡を保って行くしかないわけだが、そこで肝要なのは政治がうまく行かないからといって、経済を壊してしまってはまずいわけで、様々な弊害がもたらされるとしても新自由主義経済を維持して行く必要がある一方で、経済からもたらされる弊害を左翼政治によって何とか改善し続けるしかないだろうし、それがうまくは行かないからこそ定期的な政権交代が欠かせなくなるとしても、保守政権が長引いてしまうと経済からもたらされる弊害も次第に拡大して行って、そうやって経済も政治も行き詰まってしまえば、戦争をやって全てをリセットするしかなくなってしまうだろうが、現状で戦争ができるかというと、そう簡単には戦争も行えない成り行きになってきているのかも知れず、ロシアのような独裁体制であれば無理やり戦争をやって国内の批判を封じ込めることにある程度は成功していることになるのだろうが、それもウクライナ以外に軍事侵攻するとなると、かなりハードルが高くなりそうで、そういうところでは戦争をやるにもそれなりに口実などの面で限界がありそうで、ロシアでさえそうなのだから、ましてや日本には戦争の選択肢などないだろうから、手遅れにならないうちに何とかして定期的な政権交代を実現する必要がありそうだが、それには国民の意識が変わらないことには無理そうで、果たして現状で国民の意識を変えるような政治勢力が出現しているのかというと、たぶん出現しているのだろうし、それらの政治勢力が政治活動によって国民の意識を変えるべく努力している最中なのだとしても、それに関してはうまくは行かないことがわかっていても左翼政権を選べるかどうかが決め手になってきそうだが、もちろん政権を担当したい勢力としては、やる前からうまく行かないことがわかっているなんて思わないし、うまくやろうとするだろうから、自分たちが左翼だなんて口が裂けても言わないだろうが、そのための囮として日本では政権担当能力のない弱小勢力である共産党や社民党が陰謀論的な配慮として用意されているのかも知れない。


3月25日「嫌な予感」

 そうなってはまずいようなことに現状がなっているから危機感を覚えるのは、極めて自然な成り行きのように思われるだろうが、本当に現状が危機感を覚えるような状況なのかどうかは、誰にもわからないわけではなく、自分がそう思っているなら、現状が危機的な状況であることを自分でわかっているはずなのだが、実際に危機的な状況となるまではわからないし、そうなる予感がする程度では、予感が外れる可能性もあるわけだから、そんな予感がしているとしても、まだ半信半疑な心境でいるのかも知れないし、そのうち疑いが確信に変わる頃には、すでに手遅れとなっているのかも知れず、そうであればそんな予感がしているうちに対処や対策を施しておけば手遅れにならずに済んだと後悔することになるかも知れないが、予感がしているからといって、何をどうすればいいのかよくわからない場合もあるだろうから、予感の正しさを確かめるには実際に予感通りのことが起こってみないことには、その予感が正しかったか見当違いだったかがわからないなら、手遅れになるまで放置しておけば良いわけではなく、何かの冗談でそんなことを思っているわけでもないとすれば、危機が間近に迫っていて、危機的なことが起こるような予感がしているのに、現状では何もできないとしたら、そんな予感が勘違いに終わることを願って神に祈るしかないが、祈っているわけでもなければ、では実際には何をやっているのかというと、たぶん迫り来る危機に備えて何かをやるというよりは、それとは全く関係のない方面で日常的にやっていることがあり、それが人それぞれに別々にやっていることであるとするなら、危機が危機として動作しないようにしているのかも知れず、危機など到来しなかったかのように振る舞いたいわけで、今はそのための準備段階なのかも知れないから、まずは迫り来る危機など無視しているように装う必要があって、そう装うにはすでに過ぎ去った危機のことも忘れようとしなければならず、実際に過去の危機などなかったかのように振る舞っているわけだが、すでに過去にどんな危機が到来したのか思い出せなくなっているのかも知れず、その際には何度もワクチン接種をしたような気がするのだろうが、しかもそのワクチン接種に起因して突然死してしまった人も少なからずいて、それを問題視して何やら被害者救済のような活動をしている人や団体までいるにも関わらず、なぜかそれが何だったのか今や思い出せないわけで、そんなはずがないと思いたいなら、それに関して何かもっともらしいことを述べなければならないのかというと、それに言及しようとするとなぜか嫌がらせのような妨害が入ってしまうから、何となくそれに言及してはまずいのかと察して、今やそれが何だったのか思い出せないと嘘をついているわけだが、そんなふうにその場の事情や経緯に合わせて嘘をついてみたり本当のことを述べてみたり、時には嘘と本当を混ぜ合わせて人を自身の都合の良い方面へと誘導しようとする行為が戦略的に有効に思われるのだから、そんな怪しげな実態を考慮に入れるなら、危機が間近に迫っているからといって、それに素直に反応して騒ぎ立てるのは戦略的にはまずいのかも知れず、だからといってそんな時にはどうすればいいのかとどこの誰が答えを用意しているわけではなく、それでも答えが用意されているとすれば、そんな答えを用意している人や団体にとって有利となるように人々を誘導したいから、そうなるような答えが用意されているわけで、だからそんな答えには騙されるなと警鐘を鳴らしたいわけではなく、それも警鐘を鳴らしたい人に有利な状況となるように持って行きたくて警鐘を鳴らしたいわけだから、そんな偽りの警鐘には騙されるなと新たな警鐘を鳴らしたいわけでもないだろうが、その種の警鐘を鳴らしているのが政治家や経済学者の類いであれば、まずは疑ってみた方が無難なのかも知れず、ある時は放漫財政を緊縮財政だと言いくるめてみたり、ありもしない陰謀論を交えながらザイム真理教に騙されるなと危機感を煽ってみたりしながら、そうやって自分たちの都合の良い方面へと人々の意識を誘導しようとしているのかも知れないが、それがキリスト教会による「魂のオイコノミア」から派生した誘導法であるかどうかも定かでないとしても、オイコノミア=エコノミー=経済と解釈するなら、政治家と経済学者による戦略的な操作によって世界経済が動かされているわけではないと思いたいところだが、それらの存在が詐欺師と紙一重なやり方と共に存在していると見なすなら、騙されてはいけないのは政治家と経済学者が述べている内容そのものだが、騙されてしまっても手遅れとなるわけではなく、詐欺師の類いに騙されて行った先で危機的な事態に直面した時が何かのチャンスだと思えるかどうかで、その後の自分の運命が決まると思っておいても構わないのかも知れず、もちろん誰もがそう思えるような心境にも境遇にも立場にもなれるとは限らないし、自らが他人から利用されるようなものを持ち合わせていなければ無視されるしかないだろうが、要するにその種の詐欺師は他人の持ち物を奪うために言葉巧みに擦り寄ってくるわけだが、しかもそんな魂胆を自覚していないなら、なおのこと始末に負えないと思うしかないだろうが、それも嘘と本当を混ぜ合わせたフィクションの中で語られる内容となってしまうにしても、その種の危機を脱するには何が必要となるわけではなく、それどころか何も必要としないとも思えないところが勘違いのなせる業かも知れないが、それが必要なのではなく過剰だと思っておくのが無難な心がけであり、過剰な何かを無駄だと思わずに、それを利用して何かをやろうとするところが詐欺的な手法に結びつくのだろうが、果たして何が過剰なのかと言えばそれらの詐欺師たちが繰り出す言葉そのものが過剰だと思うなら、それが当たらずとも遠からずなヒントかも知れず、それが答えそのものではなくヒントだと思っておけば比較的軽傷で済むかも知れないが、ではなせ答えを言わないのかというと、答えを持ち合わせていないからヒントしか出せないのかというと、それもヒントでもない可能性もあって、ヒントでも何でもないものをヒントだと思わせたいだけで、そうなると完全に騙そうとしていることになりそうだが、彼らからすれば騙すつもりもないのに結果的に騙してしまうような成り行きが待ち構えていて、政治家や経済学者の類いに誘導されて行った先で危機的な事態に陥ったことを確信できれば、そうなって初めて騙されたと思えるわけだから、今はまだその種の詐欺師たちに騙されて誘導されて行っている途中の段階だと思っておくのが無難なところかも知れず、だからといってすでにその途中なのだから、今さら引き返すわけには行かないだろうし、もはや多くの人たちが引き返せない段階に至っているのではないか。


3月24日「循環論の罠」

 循環論というと意味をなさない論のように思われるかも知れないが、そこで何が循環論となっているかがわかりにくいから、それが循環論だとは気づきにくいのかも知れず、もっともらしいことを述べているのに、よく考えてみると循環論のようなことを述べていることに、それを述べている当人も気づかないのかも知れないから、それを聞いたり読んだりしている人も気づかないのかも知れないが、誰も気づかなくても構わないのかも知れないから、循環論だとは気づかれないまま、そこでもっともらしいことが述べられると多くの人々に思われているかも知れず、それを面倒くさいそもそも論などを経由して考え直そうとは誰も思わないかも知れないし、経済を財政や金融から考えるのがそもそもの間違いだと指摘できるかどうかも怪しいが、経済がそもそも循環しているのだから、循環論になるのは必然的な成り行きなのかも知れず、循環論になったからといって、循環しているのが気づかれないように述べることもできるなら、そういうことを述べていられる間はもっともらしく感じられるわけで、だから自然と全体が循環している中でも部分的な方面を強調せざる得なくなるのだろうが、それが循環していることを悟られないようにするための配慮かどうかも、述べている当人でさえ気づかないのかも知れず、だから本当は循環論になってしまっているのに、あたかも原因があって結果があるようなことを述べていることになってしまっていて、その原因となる物事をどうにかすれば結果がうまく行くようなことを主張できるわけだが、それをそもそも結果がうまく行っていないからそんな原因が生じてくると言ってしまうと、結果的にはそれが循環論になるのだろうが、もちろんもっともらしいことを主張するにはそこまで述べてしまってはまずいわけだから、そういう逆説的なところには意図して言及しないのか、あるいはそもそも気づいていないかのどちらかだと想像してしまいたくなってしまうのだが、それに関して簡単な例を挙げるなら、大企業の経営はうまく行っているが中小企業の経営は苦しいという常套句からもっともらしいことを主張するとなると、そもそも中小企業の経営がうまく行ったから、その企業が大企業へと成長できたわけで、結果的には大企業の経営がうまく行って中小企業の経営が苦しいのは当然の成り行きとなってしまうのだが、もちろん中小企業でも経営がうまく行っているところはいくらでもあるだろうが、経営が苦しくても倒産していなければ、結果的には経営が成り立っているわけだから、大ざっぱに言うなら、大企業の経営はうまく行っているが中小企業の経営は苦しいから、政府が積極的かつ優先的に中小企業を支援しなければならないと主張すれば、そんな主張がもっともらしく感じられるわけだが、それなのに消費税やインボイス制度によって中小企業を痛めつけているから政府はけしからんと述べるなら、さらにもっともらしい主張になってくるだろうし、そういうことの延長上でどんどんもっともらしいことを主張できるかも知れないが、何かそういう方向へと議論を進めて行ってはまずいような気がするわけで、実際にそういう方面へはまり込んで自らの主張や意見を構成しようと思えばできないことはないが、実感として魅力を感じないわけだから、やはりそうなってはまずいような気がするという勘を尊重せざるを得なくなって、今のところはそれが何だかわからないが、そういうのはそういうことを主張したい人にやらせておけばいいことだとしても、なぜそうなってはまずいのかという問いを考えなければならないわけでもなく、ともかくそういう方面からさっさと撤退した上で、それとは別の方面から政治や経済について考えざるを得ない成り行きになってしまうわけだが、それに関しても簡単なことを言うなら、それが簡単であるだけにいい加減で粗雑な内容になってしまい、説得力に欠ける意見や主張になってしまうだろうが、要するに政府が世の中を管理したり制御したり人や集団の間で利害を調整したりするにも限界があり、政府自体が公的な存在ではあるにしても、政府の内部でも利害調整が困難を極めるだろうし、外部から政府を管理したり制御したりするのにもそれなりの限界があるのは承知の上で、そうなっていることをどう捉えたらいいのかということが、何かそこに関わってくる人や物や情報などに関して辻褄が合うようには説明できないわけだが、そんな政府を大きくすればするほど、漠然と人や物や情報の自由な往来が妨げられるように思われるのは、隣の中国から想像されることだが、果たしてそれが今後AI技術などの進展によってそうした不具合が解決されるかどうかも現時点では定かでないが、たぶんそうした産業技術の発展を政府が直接管理したり制御したり、それらに関わってくる人や集団の間の利害の調整などに乗り出してくるなら、途端にうまく行かなくなるような気がするわけだが、なぜうまく行かなくなるのかということが、政府による技術の管理や制御や調整に原因があるというと、それこそが循環論そのものになってしまうが、政府の活動に欠けているのが、人や物や情報を自由に流通させておくことができないことから生じてくると想像できるわけで、そういう意味で政府に何かをやらせることしか眼中にない人に欠けている思考の傾向というのも、自由主義や新自由主義とは真逆の傾向なのだが、それがキリスト教由来の信者を管理誘導する傾向に似ているかどうかは、欧米の傾向から言えることかも知れないが、欧米でなくても韓国の統一教会の傾向からも日本の創価学会の傾向からも明らかかも知れないが、その種の宗教教団の内部で人を管理する技術が蔓延っているとしても、それをそのまま政府の世の中を管理する技術と同一視するわけには行かないだろうし、両者の間にはそれなりの違いがあることは想像に難くないだろうが、そこで中国政府のように人や物や情報の自由な移動や流通を制限するのではなく、逆にそれらの自由な移動や流通を新たに生じさせることによって、それらの自由そのものを制御したり誘導する成り行きへと持って行こうとしているのが自由主義や新自由主義の戦略だというと、そんな認識ではちょっと違うのかも知れないが、果たしてそれが真の自由なのかどうかもよくわからないし、自由な移動や流通を新たに生じさせることが自由を阻害するかも知れないから、矛盾そのものかも知れないが、そうなると述べていることの正しさからはだいぶかけ離れたことを述べているような気もしてくるわけだが、政府高官などが意図してそういう成り行きへと持って行こうとしているわけではないから、どうしても従来からそうなっている中国政府のやり方が傾向としては正しいように思われてしまい、そういう傾向に反対したり逆らうことが批判派としても正しいやり方のように感じられてしまうのだろうが、どうしてもそれでは世界の新自由主義的な経済情勢とは全く噛み合っていないように思われてしまうわけだ。


3月23日「調整局面」

 公的な機関が運営している制度の中では、制度が世の中で機能するようにその機関が操作できる物事の成り行きを調整しようとするはずで、それが中央銀行であれば、中央銀行が運営する金融制度が有効に機能するようなことをやろうとするわけで、それに関して日本の中央銀行である日銀が異次元の金融緩和によって機能しなくなっていた本来の機能を取り戻そうとするのは、当然の成り行きだと解釈するしかないが、ではこれまではあからさまに間違ったことが行われてきたのかというと、そうでもありそうでもないようなことが行われてきたと解釈するなら、それまでの経緯やそこで生じている事情を反映したことが行われてきて、それがこれからも行われることになると解釈しておくのが無難だとしても、それに対する反応や指摘もこれまで通りの反応や指摘に終始したい人もいくらでもいるだろうが、世の中の状況がこれまでとは変わってきたわけだから、その機会を捉えて日銀も金融政策の正常化を図ろうとしているわけで、そうであるならそれに対してこれまでと同じような反応や指摘に終始している人も、これまでとは違った反応や指摘を行わないと、世の中の変化について行けなくなるかというと、それもその人次第な面がありそうで、その人の述べていることが世の中の状況を的確に捉えているかどうかということが、それほど問題とはならない場合もあるかも知れず、その人の扱っている世の中の方面や範囲も各々で違ってくるだろうから、述べている内容がどうであっても、それを真に受けないなら、どうということはないわけだが、なぜか真に受けない態度でその人が述べていることに普段から接している習慣が身についてしまっているとしたら、それをどうにかして変えたいとも思わないことが、世の中の変化について行っていないことの証拠となるわけでもなければ何なのかというと、そこではそうだとしても、それとは別の方面では世の中の変化に対応して、自らの態度や姿勢や意見や考えなどを変えようとしているのかも知れず、それをはっきりとは意識できないとしたら、それほど明確に自覚できるようなことでもないのかも知れないが、少なくとも制度を無効化するような制度の活用法が間違った制度の活用法だと見なすなら、制度の趣旨から導き出される論理としては正しい認識には違いないが、そうすることによって何らかの効果が引き出されたことも確かかも知れず、そんな効果を制度を直接運営しているわけでもない部外者の立場から求めてみたところで、そんなのはお門違いだろうが、そういう効果が得られることを期待する意見や主張に対しても、それを真に受けないのもある意味で当然の態度や姿勢かも知れないが、そういうことが理解できない情弱な人も世の中には大勢いるのかも知れず、そういう人をターゲットにして自身の意見や主張を広めようとする人もいるだろうし、そんな意見や主張には引っかからないようにしなければならないと思っても、それもその人の立場や境遇によっては、引っかかって幻想を抱いていても構わない程度の余裕がある人も、世の中には一定程度は存在できる余地があるのかも知れず、それが特に自らの生活や活動に直接役立たなくても構わないなら、特に害を及ぼすわけでもないと判断しても構わないかどうかは、それに対するのめり込み度合いにもよるかも知れないが、自身にとっては特にどうということはない意見や主張にちょっとだけ支持や賛同の意思を示しておくぐらいが、たしなみとしては無難なのかも知れないし、それをたしなみと言ってしまうと差し障りがあるなら、本気で支持していたり賛同している態度や姿勢を装っておけば済むことかも知れないが、何かそういうところで逃げ腰なそぶりを見せておく必要があり、なぜかそんなそぶりを見せながらも、怖いもの見たさというわけでもないだろうが、そんな意見や主張に凝り固まってしまう人たちが実際に活動している姿を目に焼きつけておきたいわけだが、何かそこから得られるものがあるかというと、たぶん何も得られなくても構わないのかも知れず、かえって分不相応な利益などを得てしまうと後戻りができなくなってしまうから、何も得られない方が都合が良いのかも知れないが、そういう活動が無駄に終わることによって世の中が変わるというと、それも胡散臭くも根拠のない疑わしい意見になってしまうだろうが、なぜか世の中の変化や変動に呼応して的外れな意見や主張が流行って、そんな意見や主張に多くの人々の意識が気を取られているうちに世の中が変わってしまうという成り行きになるのかも知れず、そうなることを狙ってその種の意見や主張を流行らせようとしているわけでもないのだろうが、そんな意見や主張に凝り固まってしまう人たちに特有の勘や嗅覚が働いて、そういう意見や主張の下に集まってくるわけで、もちろんその際にはそれが的外れな意見や主張だとは全く思っていないからこそそうなってしまうのだろうが、それに関して今より少し前の出来事や状況を思い出してほしいのだが、ネトウヨと呼ばれる人たちの勢いが退潮傾向になった主な要因がコロナパンデミックだとは誰も思わないかも知れないが、少なくともそれが起因してそれを体現していた人が首相の座から転げ落ちて、今はもうこの世の人ではなくなってしまい、それによって一時代が終わった感も覚えるだろうが、しかもそうなったからこそ、日銀が金融政策の正常化へと舵を切れて、それによって万事がうまく行くとは限らないにしても、そうなっただけでも少しは世の中が変わったわけで、それをどう捉えるかといっても、ネトウヨの流行を煽っていた韓国の統一教会にも今や多くの人々が騙されることはなくなったはずで、まだその名残りが結構世の中の様々な面に残っているとしても、そんな退潮傾向となった勢力から離脱しつつある人々の引き受け先に、なぜかそうした勢力の目の敵となっていた政治勢力が浮上しつつあるのかも知れず、だからこそ今やその勢力への支持が世の中で増える傾向となってきて、何やらそれに伴ってかつてネトウヨたちが弄んでいた屁理屈の類いも、その勢力へと伝染しつつあるのかも知れないが、それで構わないわけがないはずなのだが、だからこそ逆説的にそれで構わないような成り行きになってきて、そうなってしまうことが新たな世の中の変化を促進しているようにも感じられるわけで、そういう意味で世の中の変化の担い手というのは、絶えずその変化の犠牲者ともなりかねず、そうやって今後世の中が変化していく過程の中で、かつてネトウヨ勢力が使い捨てられたように、それらの勢力も使い捨てられてしまうとも限らないが、ネトウヨ勢力としてはまだ自分たちの勢力を維持していると思っているだろうから、自分たちの変質には気づいていないのかも知れず、それと同じようにはならないだろうが、彼らの目の敵となっていた勢力も、自分たちが世の中の変化に合わせて変質してきていることにも気づかないのかも知れず、もちろん気づかない方が世の中の変化には都合が良いわけだ。


3月22日「指摘したいこと」

 たぶんそれについて何か指摘したい人は、何でもないことについてあれこれとつまらないことを指摘したいわけではなく、少なくとも気になっているからそれを指摘するのだろうが、もちろん指摘したからといってどうなるわけでもなければ、指摘しただけに終わって、その後は何の進展もないかも知れないが、結果的には進展がなくてもとりあえず指摘したかったのだからそれを指摘したわけで、指摘しただけにとどまりたくはないはずだが、指摘される側としては、それを指摘されると都合が悪ければ、スルーしたくなるし、指摘が空振りに終わってほしいわけだが、ではいったいそこで何を指摘したのかというと、興味も関心もない人には何でもないことかも知れないが、それを指摘した人にとっては興味も関心もあるから指摘したのだろうが、改めてそれとは何かと問われると、それがうまく説明できないようなことではなく、指摘したのだから少なくとも指摘したことについては、指摘自体がそれについての説明なのだから、実際にそれを説明しているはずだが、なぜそんなことを指摘するのかが自身でもよくわからないのかも知れず、なぜか知らないがそれを指摘せずにはいられないのだが、指摘してみたところで何がどうなるわけでもなければ、ただ単に指摘したかっただけで、指摘しないと気が済まないことだったのかも知れないが、それを指摘したい人がそれを指摘して、それで気が済んだとしても、何がどうなるわけでもなければ、結局は何でもないことを指摘したまでのことかも知れないし、だから指摘したこと自体が無駄だったのかというと、その人がそれを指摘して気が済んだのだから、それだけでも無駄ではなかったことになるのだろうが、気が済むだけでいいのかというと、その程度のことなら何でもないことだが、果たしてそれでは済まなくなるのかというと、それは指摘した人の力量を超える領域でどうにかしてほしいことなのかも知れず、そこまでは指摘した人の力が及ばないから、その人にはどうにもできないわけで、どうにかしたければ、その人とは別人か別の組織や集団が関与してこないことにはどうにもならないなら、そうなることを願うことしかその人にはできないことになってしまい、願うだけではなく働きかけることにまで行動が及ぶなら、その人の何とかしたいという意思の表れとなるにしても、それがその人以外でも同じように何とかしたい人が大勢現れるなら、数多くの人たちがそれを何とかしたいから各方面に働きかけていることになるだろうが、果たして現状がそうなっているのかというと、ある程度はそうなっているのであり、だから多くの人たちがそれを指摘して、指摘していることをどうにかしたくて、それ相応に働きかけを強めているはずなのだが、その一方でそんな働きかけをかわそうとしている人や勢力も結構いるどころではなく、実質的にはかわそうとしているのではなく、そんな働きかけをそれとは別の方面へと誘導しようとしているのかも知れず、しかも善意から誘導しようとしているから始末に負えないと言ってしまうと、実際に誘導している人たちには心外に感じられるかも知れないが、そんなつもりで誘導しているわけではないし、そもそも誘導しているとも思っておらず、自分たちが自分たちを支持してくれる人たちと共に歩んで行く方角が正しい方角だと思って歩んでいるつもりなのかも知れず、そんな人たちが間違っているはずがないと思いたいだろうが、それが間違っているはずがないから始末に負えないと言ってしまうと、ではどうすればいいのかと問いたくなるだろうが、どうにもならないわけがなく、どうにかなってしまうのであり、どうにかなってしまうことが良いか悪いかは、どうにかなった結果からわかったりわからなかったりするかも知れないが、果たして結果が良ければ正しいことをやったことになり、悪ければ間違ったことをやったと思うかどうかも、そうなってからわかったりわからなかったりすることかも知れず、どうなったところで、それを良いだの悪いだのと指摘したい人が出てきて、自分の指摘が正しいと主張したくなるわけで、しかもそんな指摘には興味も関心もない人も大勢いるとなると、そんな指摘そのものが無視されてしまい、その人の指摘が正しいか間違っているかなんてどうでもいいことになってしまうわけだが、果たしてそんな現実を指摘した人が受け入れられるかというと、自分が無視されている現実を受け入れたくはないだろうが、その人がどう思っていようとそんなことにはお構いなく、現実が現実として存在しているから、そんな現実の中ではその人がどうでもいいような存在として無視されているわけだから、その人が存在していることすら他の大勢の人たちには知らないことであるから、その人が存在していようといまいと、他の大勢の人々にはどうでもいいことになってしまうわけだろうが、そうやって無視されている人には、そんな現実ではおもしろくはないだろうから、必死になって自らの存在をアピールしたくて、他の多くの人々に向かって自らの指摘を知ってもらいたくて、その種のメディアを通じて働きかけを行うわけだが、そんな働きかけが空回りしているというか、空振りに終わっているわけではなく、それなりに働きかけが功を奏して、その人の存在が少しはメディアを通じて世間に認知されてくれば、それに伴ってその人の主張の中で指摘されている内容もそれなりに世間に知れわたることになるのだろうが、興味や関心があるのが、その内容の良し悪しや正しいか間違っているかではないとしたら何なのかというと、どういう事情や経緯があってそんな指摘がされてしまうのかに興味や関心があるとすれば、何かそこに政治的な意図や思惑を読み取りたいのかも知れず、それがこれから起こる可能性が高いことをかわす目的でそんな指摘を世の中に広めようという魂胆なら、そんな努力が無駄に終わる可能性も高いと思っておいても構わないだろうが、なぜその人がそれをかわしたくてそんな指摘をしているのかが、そうすることがその人にとっては正しい行為であるとしても、必ずしもその正しさがその人を正しい方向へ導くとは限らず、それがその人にとっての正しさであることが、正しいからこそ無視される可能性を高めてしまうのかも知れず、なぜそうなってしまうのかがその人にはわからないだろうし、それは他の誰にもわからないことかも知れないが、誰にもわからなくても構わないことかも知れないから、他の大勢の人々にとってはそんなことはどうでもいいことになってしまい、たとえわからずじまいになってしまっても構わないようなことでもあるから、その人のそこでのこだわりは空振りや空回りに終わるしかないのかも知れず、そうやってその人がこだわっていることが世間から無視されてしまう限りで、それがその人にとっても他の大勢のその人の存在を知らない人々にとっても、何でもないこととして済んでしまうことになるのではないか。


3月21日「二項対立と共犯関係」

 何かしら意見を述べている人が世の中で実際に生きていて、それなりに暮らしているわけだから、その人の生活や活動が成り立っている範囲内で、その人の生活や活動にとって都合の良い意見や主張が生じてくると捉えておけばいいのだとしても、意見や主張がその人の生活や活動とは全くの無関係であったら、そんな意見や主張には全くリアリティを感じられないかというと、そこが微妙なところで、生活や活動とは直接関係がなくても何かわかりやすい喩え話を持ち出して、それに絡めて他人のやっていることを批判したり非難するような手法となってくると、浅はかな人だとそれに納得してしまうようなことにもなるから、そんなまやかしの意見や主張には全くリアリティが感じられないわけではなく、それが言語的なまやかしだからこそ、そんなまやかしにも納得できる範囲内でリアリティが感じられるのかも知れず、それに関して例えば他人のやっていることを自動車の運転に喩えて、まるでアクセルを踏みながらサイドブレーキを引いているようなものだと揶揄するなら、それでは自動車が動かないと言いたいのだろうが、単純に考えるならそうだとしても、実際の動作としては、見せ物のパフォーマンスとしてエンジンを派手に空吹かしした後にブレーキをかけながらクラッチを繋いで、タイヤを空転させて地面との摩擦から白煙が濛々と舞い上がるようなことをやって見せる場合もあるわけだから、他人のやっていることを自動車の運転に喩えるだけでは不十分であることが想像できてしまうわけだが、こう述べてしまうのもわけのわからない意味不明なことを述べて他人を煙に巻くような言語表現なのだから、これも一種のまやかしには違いないのだが、肝心の批判や非難の対象となる他人のやっていることというのが、他人自身にはどうにもならない経緯や事情から否応なく巻き込まれている成り行きの中でそんなことをやらざるを得ないことをやっているとなると、それを批判したり非難せざるを得ないような立場や境遇となっている人たちも否応なくそれを批判したり非難せざるを得なくなって、それらの人たちの全てがそうならざるを得ない成り行きに巻き込まれていることになってしまうとしたら、そんなどうしようもない立場や境遇やそうならざるを得ない経緯や事情が、果たして逃れようと思えば逃れられるようなことなのかということが、それらの人たちにはどうやっても逃れられない運命に囚われていたのかと問うなら、結果的にそうなってしまったのだから、そうなった後からああだこうだ言ってみてもあまり説得力が生じるとは思えないが、そんなことをやっている当人からすればまるでアクセルを踏みながらサイドブレーキを引くような動作となってしまっているとしても、そうやって自身の生活や活動を維持している現状の中で否応なく動作している限りで、その是非を言う立場にはなく、それを他人から批判されても非難されても、そういう動作が維持されている限りはそれを続けざるを得ないような状況の中で生きているのだから、それをとやかく言いたい人には言わせておけばいいようなことでもあるから、いくらそれを他人から批判されようと非難されようと馬耳東風を装うしかなく、そんな動作が維持できなくなって、自然とそれとは別の動作が生じてくるまでは、それを続けて行くしかないのかも知れないが、その一方でそれに対する批判や非難自体も、そんな動作が行われている限りでそれに対する批判や非難として成り立っていて、それが行われなくなってしまえばそれに対する批判や非難も意味をなさなくなって、そんな批判や非難をすることによって活動が成り立っている人たちも、それとは別の批判や非難の対象を探さなければならなくなるから、いつまでもどこまでも批判や非難を続けたいなら、その批判や非難の対象となる動作が行われていた方が都合が良いわけだが、そういうことまで考慮しながら批判や非難が行われているとは思えないし、どちらかと言えばそれをやめさせるためにそれに対する批判や非難が行われているはずなのだが、いつまでも継続的に批判や非難が行われているなら、批判や非難によってはそれをやめさせられないことが証明されてしまうから、そんな批判や非難自体には何の効力もないどころか、逆にそれを批判したり非難することによってそれを継続させる効果があるのではないかと疑われてしまうなら、それを批判したり非難する人たちもその批判や非難の対象となることをやっている人や団体と共犯関係にあることも疑われてしまうかも知れないが、普通はそんなところまで思考が及ぶ人などまずいないだろうから、それとこれとが予定調和の二項対立を形成している程度の認識や見解によってお茶を濁すような結果に落ち着くのかも知れないが、具体的に何がそうなのかといったところで、単純に右と左の二項対立や共犯関係が想像されてしまうのだろうが、実態としてはそんな単純な関係ではなく、もっと込み入って錯綜しているような複雑怪奇でその全体を把握し難い状況となっているから、そんなことにまで言及するのは面倒臭くなってくるからわかりやすい単純な構造や構図を提示するだけにとどめてしまうのかも知れないが、さらにそれを単純にわかりやすく表現するなら、何か目立つことが行われていて、それに対してこれ見よがしに批判したり非難している人や団体も存在するなら、それを行なっている人や団体がアクセルを踏んで自動車の後輪を回転させる役割を担っている一方で、それを批判したり非難している人や団体がブレーキを踏んで前輪をロックする役割を担っていて、それがメディアを通じた見せ物のパフォーマンスとして、アクセルとブレーキを同時に踏んで轟音を轟かせながら後輪を空回りさせて地面とタイヤが激しく擦れて白煙が濛々と舞い上がっている光景を思い浮かべればいいのかも知れず、ではそんな見せ物のパフォーマンスによってどんな利益がもたらされているのかというと、何か目立つことをやっている人や団体とそれを批判したり非難する人や団体の双方にメディアを通じて何らかの利益がもたらされているのはわかるが、それが単に企業が提供する商品の広告宣伝費だけとは限らず、派手なパフォーマンスを見ている観衆にも何かしら利益がもたらされていて、それが暇つぶしや憂さ晴らしからもたらされる利益だと見なすなら、そういう見せ物を見ることによって英気を養って、自らの仕事に取り組むことによって利益を得ようとしているとしたら、人々のやる気を鼓舞するようなパフォーマンスであったことが証明されるかも知れないが、誰がそれを証明してみせるわけでもないだろうし、結果的にそうなっているのをいい加減な言説によって説得力のない説明をしているに過ぎないだろうが、その種の催し物を主宰している人や団体としては、できるだけ多くの人々がそれを見に来てほしいだろうから、メディアを通じて派手にそんなパフォーマンスを宣伝して、そんなことを大げさに騒ぎ立ててこれ見よがしに批判したり非難することも、そんな宣伝に際して行われるパフォーマンスに含まれていることをメディア関係者の誰もが承知しているのかも知れない。


3月20日「わかっていることとわかっていないこと」

 現状で何かわかっていないことがそれなりにあるとしても、その一方でわかっていることもそれなりにあるから、それを語るにはわかっていないことよりはわかっていることを語る方が、語っている対象に関してはわかっているように思われるのだろうが、それに関して何がわかっているのかが、それに関して語る人によっても語る内容によっても変わってくるかというと、そうは思いたいのだがわかっている人にはわかっているように思われるとしても、わかっているふりを装う人はわかっていないようなことがあるのかも知れず、果たしてその人がわかっているのか、あるいはわかっているふりを装っているのかが、見分けがつくかつかないかが、その人がわかっているかわかっているふりを装っているかの分岐点になるわけでもないだろうが、そんなはずはないとは思いたいのだが、何かの冗談のような成り行きからそう思われることがあるらしく、そうは思っていないのに、なぜかそう思っているような感じになってしまうから、そう思っているように見える人を買いかぶっているわけでもないのだが、そんな冗談のような成り行きの続きにおいて、その人の化けの皮が剥がれるような事態に直面すると、なるほどと合点がいくわけでもないが、そんな人にもわかっていないことがあるのは当然であり、そのわかっていないことを発見してその人を馬鹿にしたいわけでもないのだろうが、うまくわかっていないことをそのままスルーして、わかっていることだけからその人の語っている内容を肯定できればそれに越したことはないわけだが、特に肯定しなくても構わないような内容であれば、無理に肯定する必要もないのだろうが、その人がわかっていないことを自分がわかっているわけでもなければ、自分もわかっていないことを活用して、その人のわかっていないことを肯定してみても構わないわけでもなく、普通はその逆にその人がわかっていることを素直に肯定しておけば済むことなのに、あえて理由など定かではないものの、その人のわかっていないこと関して、その人がわかっていないことを肯定してみたくなるわけで、そういうところがひねくれているのは、それなりにわかっていることになるだろうが、うまくそういうところも噛み合わせて語るなら、世界の現状が制度的にも実態としても矛盾しているわけだから、しかもそうなっているからこそ世界が成り立っているのだから、矛盾をもたらしている制度と実態の両方を肯定することはできないとしても、そうなっていることは認めざるを得ないわけで、具体的に何と何を認めざるを得ないのかといえば、それが否定されていることを認めざるを得ないのだから、抵抗感が伴うはずだが、まずは政治の制度的な肯定が絡んでくるところでは民主主義を認めざるを得ないだろうし、それに関連して民主主義の制度が形骸化していていたり抑圧されている国は否定されるだろうが、民主主義の政治制度がそれなりに機能している国でも、左翼やリベラルなどの政治姿勢が馬鹿にされたり否定される傾向があるし、それを馬鹿にしたり否定する人々を浅はかと見なしてしまうと、少し違うのかも知れないし、その少し違う傾向がどこから生じてくるのかといえば、世界経済の実態から生じてくるわけで、その実態が何を顕著に示しているのかといえば、もちろん新自由主義的な傾向であり、それも強く否定される傾向にあるわけで、実際にそうなっているのに強く否定したいわけだから、そんな情勢に囚われた人々が世界経済の新自由主義的な傾向に逆らっている証拠だと見なすと、やはりそれも少し違うのかも知れないし、その少し違う傾向がどこから生じてくるのかといえば、政治制度の民主主義的な傾向から生じてくると考えるなら合点が行きそうなのだが、もちろんそれらの傾向を否定的に捉えてしまう人が多いから、一方で民主主義的な政治制度を体現する左翼やリベラルを馬鹿にしたり否定する一方で、それと矛盾するような世界経済の実態を体現している新自由主義的な傾向には強烈な拒否反応を示すというご都合主義的な矛盾を抱え込んでいるわけだが、そういうアンビバレントな感情の持ち主を愚かだと嘲ってみても仕方がないわけで、どちらも傾向にも染まっていないと現状の世の中ではうまく立ち回れないのだろうから、あえて間違ったことを述べるなら、そういう人たちこそが現状の世の中で猛威を振るっている世界的な流行現象から生じてきた人たちだと見なしておいても構わないのかも知れないが、そんな偽りの流行現象に対してどんな態度で応じればいいのかと問われているわけでもないのだろうが、たぶん安直に間違った態度を示すなら、政治的な方面では左翼やリベラルを応援して、経済的な実態としては新自由主義経済を肯定しておけば済むことだが、果たして間違っていても構わないのかというと、それは自身の立場の許容度や自由度やどれほどの経済的な余裕があるかにもよるだろうが、富裕層にありがちな態度としては、やはり政治的にはきれいごととして左翼やリベラルを応援しつつも、経済的は実態としては新自由主義経済の恩恵に与っているはずだが、結果的にそうなってしまうのを批判することは簡単にできそうだが、世界情勢がそういう人々を生み出しているのだから、そうなってしまう結果をいくら批判しても、実際にそうなってしまうのだからどうしようもないわけで、そうなってしまう成り行きを変えられないとは思わないだろうが、現状では否応なくそうなってしまうと見なしておくのが妥当な認識となるだろうし、現状のそういう面を批判しやすいからといって、実際にそんな批判を繰り返して思想信条としてそれとは真逆な態度や主義主張を装う人々も少なからずいるとしても、そういう人々の存在とセットで現状が生じていると見るなら、そういう人々も現状の世の中で猛威を振るっている流行現象から生じてきている人々だと見なしても構わないような気がするのだが、そういう解釈や認識も現状の世界情勢を反映したもっともらしいフィクションだと見なすなら、それもその通りだと思っておいても構わないような気もするわけで、そういうところで自分だけがわかっているような態度にはなり難く、自分にもわかっていないことがいくらでもあるから、それなりに目立った欠陥を抱えた解釈や認識を示さざるを得ないわけだが、その実態がどうなっているとしても否応なく暫定的な態度や姿勢を示すなら、政治制度の方面からは左翼やリベラルな態度や姿勢になると共に、経済的な実態に対応するには新自由主義的な傾向になってしまうのかも知れず、両者の傾向がそもそも矛盾していて、噛み合っていないからこそ、うまく両者の間で均衡を保とうとするような成り行きになってしまい、それが批判勢力には格好の批判材料となってくるわけで、まさに彼らの目の前には好物のニンジンがぶら下がっているわけだが、それに素直に食らいついてしまうところが彼らの救いようのない愚かさを物語っているのかも知れない。


3月19日「よくできたフィクション」

 物事が動作した結果から、その動作をもっともらしく説明するようなことができるとしても、それに対して疑念を抱いているとすれば、なぜ疑念を抱いているのか疑念を抱いている当人にもよくわからないかも知れないが、当人が気づかないところで感知していることがあるのかも知れず、それをはっきりと察知できれば、それに関する説明にもそれなりの説得力が生じてくるのだろうが、よくわからないのだから説得力など望むべくもなく、それが何だかわからないのに疑念を覚えてしまうのだから、何かもどかしくも焦ったい感覚に囚われているのだろうが、そうなった結果から説明にとって都合の良い要素や要因をつなぎ合わせて説明すると、確かにもっともらしくもある程度は説得力のありそうな説明になるとしても、実際にそんなふうに説明される内容の辻褄が合いすぎていると、それがよくできたフィクションのような感じになってしまうから逆に疑念が増してしまうわけだが、そういう感覚が人によっては信じられる基準として緩く成り立っていると、世の中にはその種のよくできたフィクションを信じてしまう人がいくらでもいるような気がするから、そんな説明をこれ見よがしにやってみせて、それなりの数の支持者を獲得する人も結構出てくるだろうが、それをさらにそんな人には騙されるなとあからさまに言い放ってしまう人も、そんな人の存在を前提として成り立つ言い放ち方になってしまうから、結果的にはそんな人との共犯関係の中で存在している人になって、そういうやりとりを通して胡散臭くまがいもの臭の漂ってくる人たちが増殖する成り行きになってしまうわけだが、それを胡散臭いだとかまがいものだとか感じない人も大勢いるから、そう感じてしまう人の方が少数派として肩身の狭い思いをしているのかも知れず、それを勘違いと言ってしまうと身もふたもない話になってしまうが、勘違いでないなら何なのかというと、何だかよくわからないが、それに気づいて疑念を抱いてしまう人も少数ながら一定の数は存在しているということだろうが、そんなごくわずかな疑念を抱いてしまう人の存在など無視して、まずはよくできたフィクションによって多くの人々の関心をもっともらしく感じられる方面へと誘導しておいてから、さらに手のひら返しのようにしてそんな嘘には騙されるなとまるで自分こそが真実を騙っているように装うから、それだけでも多くの人々を騙すための大した仕掛けが施されているのだろうが、果たしてそんなメディア的な大仕掛けに多くの人々が本当に騙されているのかというと、それも騙されているようにメディアによって装われてはいるのだろうが、意外と関心がない人の方が多数派を占めているように思われるから、それなりに健全な世の中の状態が実現しているような気がするわけだが、たぶんどんなに煽動が施されても、現実の世界と地続きとなっている面では騙されようがないのかも知れず、言語や視聴覚映像だけでは越えようのない敷居があって、その敷居を越えるには実際の感触を伴った実感が伴わないと騙すには至らないのだろうが、もちろんそれを感じさせたい人が騙そうとしているわけではなく、その人のなりに感じた現実を他の多くの人々にも感じてほしいから、自らが伝えたいことを必死になって宣伝しているわけだが、それが感じた現実の解釈であり説明である限りでフィクションにならざるを得ないような成り行きに囚われていると言ってしまうと、その通りだと思っておけばいいのだろうが、ではそれ以外に何か信じられる現実があるのかというと、たぶん信じられない現実に直面してしまうから驚くのであり、そこで驚くと共に今まで信じていたことが嘘だったと思うわけでもなく、実際に直面している現実を信じられないのだろうが、果たして信じられない現実を真実だと認めるには、今まで信じてきた信仰を捨てる必要があるかというと、そこで必要となってくるのがよくできたフィクションであり、そうなった成り行きの辻褄が合うような説明となるのだろうが、そのよくできたフィクションを信じられる人は今まで信じてきた信仰を捨てなくても済むから、その人にとってはよくできたフィクションを信じる方が都合が良いわけで、果たして都合が良いからといってフィクションを現実だと認めてしまっても構わないのかというと、あからさまにそんなことまで考えが及ぶ人は少ないのかも知れず、大抵の人ならそうなる手前でフィクションを真実だと信じてしまうのだろうが、中にはわずかではあっても疑念を覚えてしまう人も出てきてしまうから、フィクションを伝えることが生業となっているメディアでは、そんな疑念を覚えてしまう人の存在は無視するしかないのかも知れないが、果たしてそれを無視しきれるかというと、それも需要と供給の関係で、疑念を覚えてしまう人が増えてくれば、そういう人の需要を満たすような情報提供を目的としたメディアも生じてくるわけで、それが必ずしも商売とはならなくても、趣味でやっているような程度でも生息可能な範囲内で生じてくるのかも知れないが、そうなることを意図したわけでもないのに、成り行きとして否応なくそこからはみ出てしまうような人たちの中から何が生じてくるかは、実際にそれが生じてきてみないことにはよくわからないだろうが、その一方でよくできたフィクションを信じてしまう人たちやそんなフィクションには騙されるなと警鐘を鳴らす人を信じてしまう人たちには、それらの人たちを対象とした専用のメディアがそれらの人たちに対して都合の良い情報を提供していて、そうしたメディアによってそれらの人たちが信じられる程度や傾向の共同幻想が維持されているわけだろうが、そうした共同幻想が一時的に揺らいでしまうような真実が今も絶えず現実の世界にもたらされているかも知れないし、そんな真実から目を背けるように仕向けているのがそれらのメディアが担っている使命なのかも知れないが、共同幻想に囚われた人々がなぜそれを感知できないのかというと、そんな出来事や事件が起こった後からそれをもっともらしく説明する人のよくできたフィクションを信じてしまうか、あるいはそんなフィクションには騙されるなと警鐘を鳴らす人の言っていることを信じてしまうかの二者択一がそこで成立していると思っているわけでもないだろうが、少なくともそんなことには無関心な人も世の中には大勢いると信じているわけでもないのだが、なぜかそれに関してはよくわからない疑念を覚えるわけで、それがちょっと考えればわかるようなことなら、確かに多くの人々が疑念を抱いていることになるはずなのだが、わかってしまうとまずいような世の中の成り行きがあるのかも知れないし、それがあからさまに人の意図や思惑が作用してそうなっているわけではなく、逆にそういった人を信じさせようとする意図や思惑こそが、そういう成り行きに騙されているような状況となっているのかも知れない。


3月18日「自らが依存している論理」

 自分が何に従っているのかと考えるなら、自分が自分に従っていると言えるような面も想像できるが、それでは何を述べているのかよくわからないなら、自分が自分の意見や主張に従っていることが、自分が自分に従っていることだと言えるかというと、自分の意見や主張が他人の意見や主張と大して変わらなければ、自分も他人も同じような意見や主張に囚われていて、そんな意見や主張を持つように仕向けられている可能性がありそうなら、自分以外の他の何かに自分も他人も従わされている可能性を疑いたくなってくるのだが、それが何なのかというと、信じられる論理や理屈や理論の類いに従っているような気になるなら、それが正しい論理や理屈や理論だと思われるから、それに従っていると言えそうな気にもなってきそうだが、なぜそれが正しいと思うのかというと、そう思っている自分を取り巻いている状況が、自分が信じているつもりの論理や理屈や理論の類いに従いながら動いているように思われるから、それが正しいと思われるのだろうが、何かのきっかけからそんな論理や理屈や理論の類いを裏切るような世の中の成り行きが生じてくれば、途端に信じられなくなってくるだろうから、そうなればもはやそれらの論理や理屈や理論の類いには従うわけにも行かなくなってきて、それに代わる新たな論理や理屈や理論の類いを模索するような成り行きにもなってくるかも知れないが、少なくとも現状の世界情勢から言えることになってくると、その中で一方的に有利な立場などあり得ないし、相対的には覇権国のアメリカ政府が有利かも知れないが、アメリカ政府の意向に従っていない国の政府もそれなりにあるから、それが絶対的な有利さにはならないし、力の有利不利から言えることではなく、そんなアメリカ政府でさえも従わざるを得ない論理や理屈や理論の類いがあるかというと、それが商品の売買や貸借の実態から言えるような論理や理屈や理論の類いとなってくるなら、実際にアメリカ政府が売っている商品が何かといえば、それが金融商品となるならアメリカ国債となるだろうし、それを売るとなると一方的に押しつけるわけにも行かないし、国債を売るに際して政府の意向が完全に反映されるような制度に守られながら売られるなら、確かにいくらでも思うがままに国債を売ることができそうだが、そうであっても買い手がいないと売れないだろうから、少なくとも思うがままにいくらでも都合の良い時に都合の良い額を都合の良い価格で売れるなんてあり得ないことであり、売買に際しては売る側と買う側の都合を合わせる必要が出てきて、また共通の論理や理屈や理論の類いに従う必要も出てくるだろうから、そんな成り行きの中で従うべきルールの類いがその場の状況や情勢に応じて生じてくるだろうから、アメリカ政府と言えども一方的に有利であるわけでもなく、相対的には有利なのかも知れないが、その有利さがどのような場面でも有効に機能するとも限らないわけだろうが、現実の国際情勢の中では日本政府がアメリカ政府の意向に逆らえないような成り行きが生じているから、そこに主従関係のような力の優劣を当てはめれば、何となくそれが正しいように感じられてしまうのだが、だからといってそれが未来永劫恒常的に成り立つような力関係だとは思えないなら、そういった不平等に感じられる関係を改めようとする政治勢力が出てくれば、そんな勢力を支持したくなってしまい、それに関しては期待している政治勢力もあるわけで、今後その政治勢力が主導権を握るような成り行きが出てくれば、そういった方面での改善が期待できそうだが、それに関してはそうだとしても、それとは別の方面ではまた別の論理や理屈や理論の類いが有効に機能している範囲内でそれに従った関係が生じている可能性もあるだろうから、結局自らが直接的にも間接的にも関わってくる世の中の方面では、そこで生じているそれ相応な関係の中で信じられている論理や理屈や理論の類いに従いながら行動するような成り行きに囚われてしまうわけだが、行動した結果としてうまく行ったり行かなかったりするわけだから、うまく行かなければ行かないなりにそこで信じられている論理や理屈や理論の類いに対する信頼度もそれなりに揺らいでしまうし、それを信用できなければ自分なりにそれに対する解釈をアレンジして、それを自らの行動や活動に役立てようとするかも知れないし、意識してそう思わなくても、実際の行動や活動の中で改善や改良が施されている可能性もあるなら、絶えず変化する状況や情勢に合わせて思考していることを意識しなくても考えているのかも知れないから、絶えず考えている内容を反映して、それに合わせて行動や活動の実態や形態も変わってくるのかも知れず、それを後から振り返れば、昔よりはだいぶ考え方もやり方も変わってしまったことに気づくことも気づかないこともあるだろうから、自分でも知らないうちにそうなっていれば、何かに従っているとしても恒常的に従っているとも言えないし、従う対象を絶えず取捨選択しながら、その場の事情や経緯や状況や情勢に合わせて変えている可能性もあるから、それに伴って何かに従っていた過去の自分を信用できなくなっている可能性まであるから、自分でさえそうなっていることを考慮するなら、他人の述べている内容も一時的には信用している場合も時期もあるだろうが、それも全面的に信頼を寄せるような成り行きにはなりようがなく、絶えず疑いながらも暫定的には信用しているわけで、しかも部分的にそうである限りで、別の面ではそうではなく、その場の事情や経緯に合わせて時と場合によっては信用したり、また信用しなかったりしているとすれば、果たしてそんな自分を信用できるかというと、それも全面的にではなく部分的な信用にとどまるだろうから、そういうところで何かしら従っている論理や理屈や理論の類いを意識できたとしても、今は成り行き上従わざるを得ない状況の中にいるとしても、今後何かのきっかけからいつそれを裏切ってしまうことにもなりかねないと思うなら、やはりそんな自分をその場の程度や傾向にもよるにしても信用できたり信用できなかったりする場合があると思うしかないが、やはり自分でさえもそうなのだから、他人に対してもその程度の暫定的な信用や信頼しか寄せていないと思うしかないのかも知れず、そんなふうに自らを取り巻く世の中や世界の状況や情勢を理解しながら、何か思考を巡らす度ごとに暫定的に解釈を施しているなら、特定のもっともらしく思われる論理や理屈や理論の類いに囚われている他人という存在にしても、その延長上で捉えているわけだから、何かを宗教か信仰のように深く信じているふりを装っている人というのが、もちろんその人にとってはふりではなく、本当に信じているはずなのだろうが、そう見える人ほど信じられないような逆説が意識されてしまい、やはりそんな思いに応じてそんな人に対する疑念も深まってしまうわけだ。


3月17日「無理なごり押しではない」

 無理なことはやらない方がいいと単純に考えるなら、何が無理なのかに関して、無理なことをやりたい人や勢力とは認識や見解などが異なってきてしまうのだろうが、現に今も継続的に無理なことが行われていて、その無理が祟って世の中がひどい状態になっているとすれば、その無理なことをやめさせなければならないのだろうが、そこでも何が無理なのかに関しては、実際に行われていることがそれをやっている当事者にしてみれば無理だとは思えないわけだが、たぶんメディアで批判されていることの中に、無理だからやめろと批判されている物事があれば、それをやめろと批判している人たちにしてみれば、それが無理なことなのだろうが、実際に行われていることだから、それをやっている人や団体にとっては無理ではないことになり、そこでも認識や見解が異なってくるのだろうが、無理なのではなく無駄なのかも知れないし、やれることはやれるが、やっても無駄なことが行われているから、そんなことはやるなと批判されている場合もあり、それが無駄なのか無理なのか、あるいは無駄で無理でもあるのか、またはそのどれでもないと思われるのか、さらにはそんなことには無関心ならどうでもいいことなのか、それも人によっても立場によっても認識や見解が異なってくるかも知れないが、果たして誰もが自身で主体的に判断できるような余裕のある立場なのかというと、それを無理だから無駄だからやめろと批判している人や勢力にしてみれば、自分たちの批判に他の大勢の人たちも賛同してほしいわけだから、そんなことをやっていては大変なことになると危機感を煽っているだろうから、無関心な人たちの態度にはムカつくかも知れないし、無理なのに無駄なのに、その行われていることに賛同している人たちの態度にもムカつくかも知れないが、意外とその無理で無駄に行われていることが何のために行われているかについては、批判している対象の人たちと認識や見解が一致している場合もあるのかも知れず、それが国家や国民のために行われていることになってくると、何かそれに関して政治的な主義主張を伴ってきて、対立する主義主張を設定して、そのどちらが良くてどちらが悪いかを巡って、お互いの主義主張を戦わせているようなことになってくれば、何となくそのどちらからも逃れたくなってくるのかも知れず、そうなるとそうした対立を煽っている人たちの意図や思惑もわかりやすくなってしまうだろうが、それと共にそれとは違う方面からもそうなっていること自体を説明したくなってくるなら、それに関してもっと大きな枠組みから、例えば世界経済からそれを説明するとなると、何やら世界情勢の中で物事が動いていることの意味や意義も見えてくるとすれば、その中でも部分的に日本の事情や経緯に照らし合わせて、事の是非を云々するような成り行きも見えてくるのだとしたら、そんなことには興味がないどころか、自身が直面している事態からどれほど隔たっているかによっても、それに対する関心の度合いも異なってきそうだが、それが冗談では済まないことのように思われるなら、少しはそれについて真面目に考えてみる必要がありそうなのだが、何が冗談なのかといっても、果たして彼らが真面目に国家や国民のためにやろうとしていたり、またそれをやめさせようとしていたりすることが、果たして冗談では済まないことなのかというと、彼らにとっては確かに冗談では済まないことなのだろうが、それが実際に行われていることであるなら、利害関係や損得の思惑から行われていることになってきて、それがただの経済的な情勢の中で行われているに過ぎなければ、それが行われていることによって経済的な利益を得ている人や団体が、それをやめさせようとしている人や団体とは利害や損得が対立しているからと見なしておけば済むことなら、話が簡単になってしまうわけだが、それだけでは済まないことになってくると、ではどうしてそれだけでは済まないのかということが、国家や国民という概念を抜きにするとよくわからなくなってくるのかも知れず、それを国家と単純に括って、国家のためであればその国家の中に暮らしている誰にとっても良かったり悪かったりすることなのかということが、よくわからないわけで、さらに国民のためといっても、国民の間でも利害や損得が違ってくれば、それらの人々の間でも賛否や是非が異なってくるだろうから、一概に国家や国民のためになることをやるとかやらないとかいうこと自体にリアリティが伴ってこないわけで、そういうところで日本全体の経済状況や治安状況やインフラ状況や精神状況などを云々するような主義主張には関心を持てないのかも知れないが、それでも行政的な見地からは日本全体としてやらなければならないことが出てきてしまうから、何やらそれに伴って例えば国土防衛的な見地から軍事的な方面で勇ましいことを言いたい人などが出てきてしまうとしても、また経済的な見地からも日本全体の経済情勢に関して外国との比較で何か劣っている指標に関して批判的なことを言いたい人なども出てくるのだが、それが実際に行政的な方面で行なっていることに関係してくるなら、それに関連して直接の被害を受けている住民も出てくるから、そうした住民の味方をしているように装うと、何やら正義の味方のような立場になれるのかも知れないが、そういう方面では被害者の救済を訴えていれば済むことであるだけではなく、実際に救済が行われるよう成り行きに持って行こうとするのだろうが、その過程でその種の人や団体の活動が成り立っていることになるわけだから、一般の人たちもそういう活動に賛同したり応援したり、余裕のある人は手伝ってほしいのだろうが、そういうところから政治的な活動が生じてくるなら、それに直接関わっている人たちには確かにリアリティが生じているはずなのだが、誰もがそれに関われるわけでもないだろうし、そういった救済を必要としている人たちも、少なくとも国民の全体が救済を求めているわけではないし、日本ではどちらかといえば少数派になるだろうから、それに関わっている人たちも国民全体から見れば少数派には違いなく、そうした少数派に対して多数派といえるような立場があるかというと、そこでも多数派というのが何かはっきりと一致した認識や見解を伴った多数派ではなく、もちろん人それぞれにバラバラな認識や見解があるわけでもなく、逆に認識や見解などありはしないような状況の中で生きている可能性さえあるわけだから、そんなことには無関心でいても構わないような人が多ければ多いほど状況も情勢も何でもないわけで、そんな良くなっているわけでも悪くなっているわけでもない状況や情勢の中で、何とかそれを批判に結びつけたい人たちが、状況や情勢が悪化している面を強調したいわけだから、そこに無理があるわけでもないのだろうが、要するに他の多くの人たちがそれを当然視しているのを、メディアを通してそうではないと言い張りたいわけだから、そこに無理があると言ってしまうと、その種の批判者から間違っていると批判されるのがオチだが、だからそれを当然視している自覚もない多くの人たちが批判者の主張や意見を支持したり賛同していることは確かなのだが、もしかしたら全く深刻に感じていない可能性があるような気がするわけだ。


3月16日「ゲームに囚われた感覚」

 なぜそうなってしまうのかはある程度は察しがつくことだが、察しがつくからこそ、なるべくそういう成り行きには関わらない方が良さそうなのだが、すでに意識がそれに巻き込まれているならあきらめるしかないが、大抵はメディアを通してそれを知ることになるわけで、そういう成り行きを避けられないわけではなく、実際にうまく避けることができればそれに越したことはないが、それがありふれた他人の幸福や不幸であるなら、それが世間の話題として多くの人々の関心を惹くように機能しているわけで、それがメディア的な話題として消費されるだけなら、そういうことへ関心を向けるのと引き換えにして何を無視しているのかが問題となるわけでもなく、逆にそれを強調し過ぎて煽り立てたい意向があるから、そこから関心を逸らすためにもそんな著名人のありふれた話題へと人々の意識を誘導しているわけでもないだろうが、そういう意図や思惑を想像してみても空振りに終わるようなことかも知れず、誰もそんなことをあからさまに問題にしたいわけではなく、話題を提供している側もわざと誘導しているつもりもないのに、そんな話題へと自然と世間の関心が向かってしまうような成り行きに人々の意識が囚われているわけで、それを外部から制御することなどできないから、そんな話題を提供するメディア側もそれへと関心を向ける不特定多数の一般大衆も、そうなってしまうことに関しては責任など感じないだろうし、それの何が悪いわけでもなく、彼らが意識して無視して忘れようとしているわけでもないのに、忘れる以前に意識できないような大いなる神の意志によって世の中が支配されているわけでもないのに、自然と多くの人々がそんな意志に従っているような状態がもたらされているとしたら、それが何なのかを知りたくなってくるわけでもなく、それこそが誰もが知り得ない謎の意志であって、知り得ないからこそ、そんな意志に従っていることにも気づけないのだろうが、ではいったいどんな意志に従っているのかと言えば、人それぞれに様々な意志に従っていると答えておくのが無難なのかも知れないが、それでは知りたい答えには程遠く、もっと何か驚くような答えが求められているのだろうが、しかも多くの人々がただ一つの明確な意志に従っていれば、そんな驚くべき意志による独裁が成り立っている状態が世の中で実現していることになるわけだが、そんなことはあり得ないと思うなら、まだそれに気づいていない証拠となるわけでもなく、それが一つの誰もが従うべき命令を含んだ意志となるなら、その命令とは何かと誰が問うわけでもないが、例えば唐突に何の理由も明かされず死ねと命じられているわけではないと思いたいのだが、誰もが死ぬ運命から逃れられないのだから、死ねと命じられなくてもいずれは死んでしまうわけで、そんなあり得ない意志を敏感に察知した人がそれに応えて何を言い出すのかといえば、意表をついて人を驚かすような問いを発して回答を迫ってくるのかも知れず、そんな煽動者の誘導尋問には引っかからないようにしないと、それに気づく暇も与えられずに驚くべき意志を含んだ他人の命令に従う羽目に陥ってしまうわけでもないが、だからといってそんな命令に気づきにくいわけでもなく、逆に誰もが暗黙の了解事項として気にも留めていないような内容かも知れないし、ある意味でそんなことはわかり切ったことかも知れず、それを簡単に言うなら邪魔者を抹殺したいということになるのだろうが、なぜ他人が邪魔なのかが気づいていない可能性が高く、自分勝手に振る舞いたいのに、邪魔な他人がそれを認めてほしいわけで、邪魔なのに必要となってしまうから、そこに存在している他人を抹殺したくなるのかも知れないが、少なくとも抹殺するまでは存在して、自身の勝手な振る舞いの邪魔をしてくれないと、抹殺する理由が見当たらなくなってしまうから、他人を抹殺するという行為を完遂するには、まずは邪魔な他人が存在していなければならないという面倒な事態に囚われていなければならず、果たしてそんな面倒な事態が必要なのかというと、自身の活動が他人を攻撃する活動であれば、攻撃対象として邪魔な他人が必要となるわけで、そんな都合良く他人が攻撃してきてくれるわけでもないから、まずは他人から攻撃されやすいような隙を作って、他人から攻撃されるのを待っているというと、当人にはそのつもりがなく、そんなことはこれっぽっちも意識していないのだろうが、どういうわけか結果的にそうなってしまうような事態に直面してしまえば、そんな結果からわかることは、他人から攻撃されたかったから、わざと攻撃されやすいような言動や行動に及んでいたと解釈するしかないのかも知れないが、果たして本当にそうなのか疑念を覚えるなら、とりあえずは当人が意識しなくても何かの偶然の巡り合わせからそんな成り行きになってしまって、それが結果的にわざとらしくも用意周到な罠を仕掛けて待ち構えているように見えてしまうわけだろうが、それが見え見えなら誰も好き好んでそんな罠に引っかかりには行かないはずなのだが、人によっては強引にそういう成り行きへと状況を持ち込んでしまい、犠牲者となる者たちを巻き込んでしまう術に長けていて、そんな人の標的になってしまえばあきらめるしかないのかも知れないが、なぜどうやってそんな罠から逃れられたかは、いったんそうなってしまった結果からもっともらしく説明できる場合もありそうなのだが、結局は罠を仕掛けた側の不手際とか、勝手な自滅からそうなってしまうのかも知れないし、そんな勝手に転けてしまうような事態というのも、無理が祟ってそうなるのかも知れず、それの何が無理なのかといっても、そんな成り行きに巻き込まれてしまった者には、それを知る余裕などないのだろうが、後からそれを知ったところで、そんなのはすでに済んでしまったことだから、今さらそれを蒸し返そうとも思わないし、なるべく藪蛇にならないように穏便に事を済ませないところだが、相手が勝手に転けるように何かを仕組んだわけでもないのに勝手に転けてしまうなら、相手の側に何か深刻な欠陥や問題があったからそうなったと思うしかなく、そうなった原因を究明する義務などこちらにはないわけだから、もはや真相は藪の中となるしかないだろうが、それでも納得が行かないなら、納得するまで真相究明の試行錯誤を繰り返すしかないだろうが、そこでもそんな意味の定かでない試行錯誤を繰り返すのが自らの使命だと勘違いしてしまうわけでもないにしても、中には延々と試行錯誤をやっている最中にもぽっくり死んでしまう人まで出てくるわけだから、それを眺めながら呆れてものも言えなくなるわけでもないが、誰がそれを眺めているわけでもなく、誰からも無視されているわけでもないのに、かまってほしくもないのにかまってほしいかのように見られてしまうとすれば、それもメディアからもたらされる自意識過剰を促しながら自滅に導く効果や機能だと思っておくしかないのではないか。


3月15日「面倒な人たち」

 見え透いた嘘と共に無難なことを述べるなら、通貨はその国や地域の経済規模に合わせて流通していれば良いし、また政府が徴収した税収に見合った国家予算が組まれていれば済むことだが、実際にはそれだけでは済まなくなるから、その済まなくなるような事情や経緯に合わせて面倒なことを主張する人や団体が出てくるわけだが、その主張に関連して、少なくとも国家予算の主要な構成要素としては、税収よりは国債の発行の割合の方が大きくなった方が都合が良いらしく、国債を発行してそれを利用して何かをやりたいらしいのだが、そのやりたいことというのが、国民の支持を得られるようなことをやりたいのだろうから、そういうことを主張する人や団体が国民の支持を取りつけてやりたいことをやろうとすれば、議会選挙に立候補して当選して、議会で多数派を占めて政権を取ってから、やりたいことをやってもらえば済むことだが、そうなる途中の段階でややこしくも面倒なことを主張しながら政治活動をやらなければならないらしく、実際にそういうことをやっている最中なのだろうが、それに関連して、おかしな議論も一部のメディアでは盛り上がっているわけだが、何がおかしいのかというと、政府のやりたいことが、必ずしも国民の支持を得られるようなことではなく、また国民から支持を得られるようなことが、国民のためになるようなことではないのかも知れないから、何らかの政治勢力が国民から支持されて選挙に勝利して議会で多数派となって、国民から支持を得られるようなことをやっても、それが国民のためになるようなことになるとは限らないのかも知れず、そうなる典型的な例として挙げられるのが、昔は戦争だったのだろうが、現代ではそれがよくわからなくなってきているのかも知れないし、そんなことをやらなくてもいいのにと思われるわけでもないが、結果的にそうなってしまう代表例となるのが、最近の日本では少子化対策となるのかも知れないが、政府側の事情としては人口を増やして経済活動を活発化させれば税収も増えて国家も繁栄することになるわけだが、果たしてそれがそこに暮らしている人々のためになることかというと、ただ漠然とそれが良いことのように思われるだろうが、何かちゃんとした理由がわかっているからそう思われるわけではなく、どちらかといえばそう思い込まされているようなことかも知れず、本当は国の人口が増えようが減ろうがそんなことはどうでもいいとは思わないにしても、実態としてはそういうこととは無関係かつ無関心に暮らしているとも言えないが、なるようにしかならない状況の中で暮らして行くしかなく、政府に対して取り立てて何かやってほしいと思う以前に、どうにもならないことの方が多すぎるのかも知れないし、そういうことも含めて政治から出てくる主張や意見が心に響かないのは昔からそうだが、政治に限らず他人のやっていることに魅力を感じないというわけでもないが、魅力を感じたところで自分がそれに関われるわけでもなく、関わろうとするとそれを主導している他人の言うことを聞いて従わなければならないわけだから、そうまでしてそんなことに関わるのは面倒そうだから、できれば関わらないようにしたいだろうが、関わらなければ自民党の世襲政治家のようなことをやられて、公的な政治を私物化されてしまうわけだから、嫌でも関わらざるを得ないと思える範囲内で関わるしかないのかも知れないが、結局はどの程度で他人の意見や主張を許容できるかにかかってくるのかも知れず、そんな許容限度内でどの程度の在り方が政府として適切なのかと考えるなら、分不相応に上から目線で偉そうなことは言えそうもないが、簡単に言うなら必要最低限の機構として政府を維持してほしいわけで、それが至れり尽くせりの行政サービスでなくても構わないのかも知れないし、政府が世の中の全ての方面で中立的な立場を保っていれば無難なのかも知れないが、結局は資本主義市場経済の中で食いっぱぐれて生活が成り立たなくなった人を助けるのが政府になってしまうから、そういう方面では中立な立場を保つことはできないわけだが、しかも富国強兵や産業振興のようなことをやり始めてしまうと、国家のために国民に犠牲を強いるような成り行きまで生じてしまい、そうなると反政府的な闘争まで民衆の間で開始されてしまうだろうから、それに呼応して反体制的な政治活動も活発化するだろうが、政府の存在自体がそういう活動を誘発するような傾向を伴っているのかも知れず、そういう活動に対して治安維持のための強制的な措置を講じることによって、政府としての体制を強化したいような成り行きが生じてきてしまうから、それが政府による自作自演の挑発だとは思われないだろうが、そんな挑発に応じて反政府活動などをやろうものなら、それを取り締まるのが政府の仕事となってしまうから、それが政府の思うつぼというわけでもないだろうが、そうやって政府の存在を強めようとしてきた歴史的な経緯もありそうで、それが今も世界各地の紛争地帯で起こっていることであり、少なくともそういう成り行きは避けなければならないとしても、そういう成り行きとは対極の位置にただの役所的な存在があると考えるなら、それもどちらかといえばただの役所である方が望ましいだろうから、そういう役所が生活保護を申請しにくる人や不法在留外国人などを痛めつけている実態もあるにしても、ただの役所として人畜無害で中立的な立場を維持してほしいのだが、その一方で犯罪を取り締まったり税を徴収する時には権力を振りかざして高圧的な態度に出てしまうかも知れないが、現状では無政府状態ではいられないから存在する意義も意味もあるはずで、それが必要悪とまでは言えないし、住民の方でもその存在を必要としなければならない事情も出てくるだろうから、必要である限りはこれからも政府が存在し続けるだろうが、だからといって新たに政府を有効活用して何かをやらなければならない成り行きがそういつも生じてくるわけでもないのかも知れず、何かをやらなければならない以前にすでに政府として活動している実態があるわけだから、今後もそれを続けていく以外にはあり得ないし、そのための経費として税が徴収されていると情勢を捉えるしかないが、現状で行われていることに加えて、新たな事業を興すために国債を発行するとなると、果たしてその事業から収益を期待できるようなことにはならなければ、事業を維持運営するためにさらに国債を発行することになるから、そういうところで資本主義市場経済との兼ね合いから、矛盾やパラドックスが生じてくるかも知れず、税の徴収と国債の発行との間で論理的な整合性が取れないとまずいとは思うのだが、全てが社会主義や共産主義では回って行かないのだから、資本主義的な収益事業の存在を前提とするなら、政府だけが収益性を無視しても構わないようなことにはならないのではないか。


3月14日「切実な思いに突き動かされる」

 それが正しいとか間違っているとかいう以前の問題として、何か切実に感じられることがあって、そうならざるを得ないような成り行きの中で行動しているなら、行動した結果としてうまく行けば、行動したことが正しかったと思うしかないし、うまく行かなかければ間違っていたと思うしかないが、正しく行動したのにうまく行かなかったという結果に至ってしまうと、では正しく行動したこと自体が間違っていたという事実をどう受け止めればいいのか理解するのが困難な事態に直面してしまうから、普通は物事をそんなややこしくは考えずに、結果の良し悪しを正しかったか間違っていたかの判断に一致させようとするだろうし、それでも行動する前から行動した結果を予想したいなら、どうしても正しく行動した結果がうまく行くような成り行きに持って行きたいはずだが、行動した結果がうまく行かないと、行動したこと自体が間違っていたと認めるしかないにしても、正しく行動したのにうまく行かないことを認められないのは、心情的には理解できるが、正しく行動したのにという思いが強ければ、正しく行動したこと自体は絶対に間違ってはいないはずだが、それに対して結果が伴ってこないこと自体がおかしいのではないかと思いたくなってしまい、誰かが邪魔をしているからうまく行かないのではないかと被害妄想に陥ってしまうかも知れないが、そうではなく、たとえ正しく行動してもうまく行くとは限らないという事態を受け入れるなら、では正しいとは思えないような行動でも結果的にうまく行くこともあり得るのかと思うかも知れないが、切実な思いに突き動かされていると、どうやっても正しいとは思えないような行動には至らないわけで、心理的に余裕がない切迫した状況の中では、正しいと信じるような行動しか取れないわけだから、自ずから行動のパターンが限られてきて、そうした行動を相手に読まれてしまうと、相手の術中にハマってしまうというか、果たしてそんな相手を想定した行動となっているかどうかも怪しいところだが、たとえ自分勝手に単独で行動していると思っていても、社会の中で行動しているなら、何かしらその行動に関わってくる他者が出現してくるかも知れず、それがあからさまに出現してこなくても、気づかないところで他人がそれを見ている可能性があり、その他人もその人に影響を及ぼうそうとしているわけでもなくても、その人の気づかないところで何かしら影響を及ぼしている可能性がある限りで、誰かしら複数の人同士で競合関係が生じてくると共に、相互に何らかの影響を及ぼし合っているとしたら、そうなっている時点でその人単独ではどうやっても思い通りには行かないのかも知れず、それが社会の中で人間同士が作用や影響を及ぼし合って生じさせている力の場だと言えば、物理学で言う重力場や磁場や電場のようなものだと見なすしかないが、そんな力の場の中で誰かしら切実な思いに突き動かされながら行動すれば、その思いが他の人にも伝わってしまうとすれば、それが何を介して伝わるのかといえば、言葉を介したり身振り手振りで伝わることもあるだろうが、そういった直接の知覚では捉えられないような伝わり方があるのかも知れないとなると、何やらオカルトめいた超能力の存在を想定しなければならなくなるかも知れないが、何かしら気づかないところで伝わってくるわけで、そんな伝わり方で伝わってくる他人の思いをどう受け止めればいいかと考えるまでもなく、どうしても必死の思いで伝えようとしてくると、必死さが自身の意識にも感染してしまい、何かそれを深刻に受け止めなければならないような気になってしまうから、果たして他人の必死さが自分にとっても同じ程度の必死さで受け止めなければならないことなのかどうかが、どう判断すればいいかも含めて考える対象となってくるだろうが、もちろんこんなことを述べている時点で、それを真に受けないつもりなのかも知れないから、何か意地悪なことを述べてしまう可能性も高まってくるわけだが、そんな他人の必死な動作が滑稽に感じられるとすれば、それを馬鹿にしたり皮肉るような言葉や動作で返したいのだとしても、それをやってしまってはまずいと思うなら、まだそうした感染が浅い段階であるから、そこから逃れようと思えば逃れられる可能性も残されているのかも知れないが、ではなぜここでこういうことを述べているのかというと、すでにそういう返し方をやらずに済ませようとしているわけで、しかも何とかして他人の必死な動作から逃れようとしているわけではなく、必死になって逃れようとしている時点で必死さに感染してしまうわけだから、必死にならずに余裕で逃れたいのかも知れず、もちろんそんなに余裕を感じているわけでもないから、少しは強がって見せるような過ちを犯さないと済まないのかも知れないから、それなりに用心しながら冷静に振る舞っているように見せかけてはいるのだろうが、ではそうならなければどうなるのかと問われるわけでもなければ、実際にその種の必死さに感染してしまうとどうなるのかといっても、そうなってしまった他人の必死な振る舞いを見ている限りで、自分はまだその種の必死さには感染していないと思うしかないが、別に必死になってしまっても構わないとは思うものの、なぜ現状では必死にはなれないのか、その理由を考える余裕などなければ、すでに必死になってそこから逃れようとしているわけでもなければ、では何なのかがよくわからないわけで、世の中に自らの必死な思いを広めようと意識しているわけでもないことが、そうした必死さの限界を感じ取っているとは思わないにしても、そうはなれない事情や経緯を抱え込んでいることを自覚しているのかも知れず、そんな自覚が何から生じてくるのかといえば、自らの活動の不自由さから生じてくるのはわかりきったことだろうが、それを逆利用しない手はないわけで、逆に必死になれないことを利用しながら活動しているから、その種の必死さからは逆説的に逃れているような気がするのかも知れず、そういうことまで考慮に入れるなら何かを必死になって訴えかけなければならないような事態や境遇に囚われてしまう人には、その人の周囲からそれ相応の力が及ぼされているからそうなっていると考えるしかないだろうし、それとは逆にすでに不自由な活動の状態を受け入れてしまった人にはそれ相応の必死さが足りないとしても、そんな不自由さと引き換えにしてある種の安全や安心を手に入れている可能性も高いわけで、そうであるなら当たり前の感覚として、身の危険を察知すれば必死になる一方で、その種の危険に鈍感である人には必死さが足りないにしても、自身の身の安全や安心を保障されていると思い込んでいるなら、それなりに必死さが減じられてしまうわけだが、そういう意味では切実な思いに突き動かされながら必死の思いで何かを訴えかけるような成り行きを避けられるのは幸運なことかも知れないが、それと引き換えにして失ってしまった物事があることも考慮に入れなければならないのかも知れない。


3月13日「日本の途上国化」

 今さらそんな当たり前のことに気づくのもかなりの鈍感で間抜けなことだが、山本太郎が言うようにこの三十年で日本国民が貧しくなったという主張を信じるなら、他でも失われた三十年と言われているのだから、確かに貧しくなったのだろうし、統計的にも子供や老人や母子家庭などの社会的な弱者の貧困世帯の割合が増えたのだろうが、その一方で政府の借金となる国債の債務残高も右肩上がりで増えているわけだから、国民が貧しくなって政府の負債も増えて行くという典型的な債務超過や財政破綻の発展途上国のような様相を呈しているわけだろうが、ただ日本の場合は他の途上国のように政府の借金が対外債務ではなく自国の政府が発行している国債の債務残高が増えているだけだから、大丈夫だというのが積極財政派の主張なのだろうが、しかし国民が貧困化しているのが事実なら、大丈夫であるどころかまさに危機的な状況なのかも知れないが、それも資本主義経済の進展に伴って、国民の間でも貧富の格差が拡大したというのなら、国民全体が貧困化しているわけではなく、富裕層と貧困層とに二極化していると言えるだろうから、果たしてそれが国家的な危機かというと、そう思う人にはそう思われるのかも知れないが、関係ないと思っている人もいくらでもいるのだろうから、人によっても立場によってもその人の境遇によっても感じ方が違うと言ってしまうと身も蓋もないが、世界的に見て日本の現状よりひどい国や地域などいくらでもありそうだから、何かそういうところで程度や傾向が感覚的に相対化されてしまうのかも知れないが、国民の間で貧富の格差が比較的少なくなって、中間層が出現する時期というのが、経済の高度経済成長期に限られるなら、日本の場合はすでにその時期を数十年前に通過してしまったのだから、現状が通常の状態だと言えなくもないが、しかもそれが通常の状態であるなら経済的な苦境を政治的にどうにかしようとするのも通常の成り行きであり、どうにかしようとして失敗するのも通常の成り行きだとすれば、たぶん政治的にどうにかしようとして失敗する過程でどうにかなるのであるから、そういうことも含めてそれが通常の成り行きだと言えるのかも知れず、そういう成り行きの中で政治と経済とが結びついて連動しているように感じられるのだろうが、本当にそうなのかというと、少し違うような気がするわけで、経済的な成り行きに沿って政治的な成り行きが生じていることは確かなのだが、それ以上でも以下でもないところが政治的な錯覚や勘違いを生じさせるのかも知れず、政治的に何かをやった結果として経済的に好ましい効果や成果をもたらしたように思われるのが、政治的な錯覚や勘違いだとしても、それでうまく行ったことにしておけば、それが政治的な成果だと思い込めるわけだから、政治的な立場からはそういうことにしておきたいのだろうが、そういうことをやるのが政治の本質であり、それがそのまま政治のまやかしやごまかしになるのだろうが、何か政治が主導して目覚ましい成果や効果を上げたと思い込めるような結果がもたらされるようなことがあれば、そう思い込んでいる人たちが政治的な幻想に囚われていることになるのかも知れず、多くの人々にそうした幻想を抱かせることが政治的な成果や効果になるのだとすれば、そういう成果や効果をもたらしたのが最近ではアベノミクスであり、また歴史的に有名なのがニューディール政策なのだろうが、もちろん〇〇ニューディールとかいうもどきな政策を掲げている勢力にしてみれば、アベノミクス自体が政治的なまやかしやごまかしの最たる典型例だと受け止めているだろうが、彼らが崇拝している元祖ニューディール政策もまやかしやごまかしだとは絶対に認めたくはないだろうから、彼らにしてみれば両者の間には決定的な違いがあるのだろうが、そういう意味では積極財政派を自称する勢力が敵対しているつもりの政治勢力を緊縮財政派だとか経済音痴だとか揶揄していること自体が政治的な行為そのものであり、そうやってその種の政治的な幻想を世の中に広めて、幻想に囚われた人たちを自分たちの陣営に引き込もうとしているのだろうが、そういうやり方が成功するか失敗するかは彼らが判断することではないにしても、それが経済的な成り行きに沿って生じてくる政治的な成り行きである限りで、そういう成り行きの中で政治と経済とが結びついて両者の成り行きが連動しながら推移しているような錯覚や勘違いを生じさせるのだろうが、それをわざと錯覚や勘違いだと見なすのもちょっと違うのかも知れないし、そういう結びつきや連動を通常の結びつきや連動だと捉えておいても構わないとしても、そういう見せかけの政治的な行為とは別に行政的な統治として政府が行なっていることがあって、そっちの方が実質的な活動となってくるのだろうし、それが徴税や治安や社会インフラや司法や立法などに関わる機関の維持運営なのだろうが、その種の活動に伴ってどれほどの額の予算を組まなければならないかも、政府が統治している範囲とそこに住んでいる人の人口規模に応じて変わってくるにしても、通常の感覚としてはそこに住んで活動している人やそうした人で構成される集団からの徴税額に見合った予算を組めばいいのだろうが、それでは足りなくなると国債を発行して借金で賄うことになるわけだが、たぶん国債の発行がその一方で通貨を発行して維持している貨幣制度との兼ね合いから、なるべく矛盾やパラドックスなどのよくわからないこじれた事態や状態が生じないようにしなければならないから、要するに通貨制度が破綻しないようにしなければならないわけで、それが国家の枠内の経済規模に見合った予算規模になってきて、それが国際的に活動する多国籍かつ無国籍な企業集団なども含んでくるとややこしいことになってくるにしても、その国の経済規模に見合わないような多額の対外債務をその国の政府が抱え込んでいると国家的な信用がなくなってきて、そんな兆候が顕著に表れるのが通貨安であり、通貨安に歯止めがかからなくなると、政府が債務超過や財政破綻に直面するわけだろうが、日本の場合は対外債務があるどころか、逆に世界最大の債権国なのだろうから、国家的な信用がなくなるどころではないのだろうが、だからといって日本国民が富裕層ばかりとなっているわけでもないところが、それ相応の矛盾やパラドックスをもたらしているのかも知れないが、国家的にはうまく行っている面とうまくは行っていない面もあるにしても、それと日本国民の実態がどうなっているかは別の話で、そこに政治的に付け入る隙が生じていて、そこを突いて政府に対する批判にも活用できるから、その種の政治勢力が活動できる余地も生じてくるのだろうが、そんなことをやっている政治勢力が現に存在していてそれなりに活動しているからといって、その煽りを食って実質的な行政活動が停滞しているわけでもないわけだから、そういうレベルでも何らかの均衡が保たれている状況が出現しているのではないか。


3月12日「当事者感覚」

 当事者ではない人がどんなにもっともらしい理屈を持ち出して意見を述べても、その人が当事者ではないことが、その人の述べている意見がある程度以上の説得力は持ち得ないことになるだろうが、その人の意見がそれ以上の説得力を得るには、その人自身が直接の当事者となって、その人が取り組んでいることがそれなりの成果を上げる必要が出てくるのだが、もちろん当事者にならないとそれを批判できないわけではなく、批判するのはいつも決まって当事者ではない人たちが当事者を批判するわけで、当事者のやっていることがおかしいと思うなら、当事者ではない人がそれを批判するしかないわけだが、その批判がおかしいならさらにそれを批判せざるを得なくなるだろうが、そうなるともうそんな批判を批判するような行為に説得力があろうとなかろうと、そんなのはどうでもいいとは言えないにしても、大したことではないと思うしかなく、そういう意味で批判が有効となるのは、直接の当事者を批判すること以外にはあり得ないが、それに関しては、例えば日本政府が長年にわたって国債を発行し過ぎて、他の国の政府と比較して国債の額が突出して多いという印象があるわけだから、それを批判するのは当然といえば当然の成り行きだが、中にはそうではないと主張する人もいても構わないし、そういう人がもっと国債を発行しても大丈夫なのだと主張するにしても、その人が国債を発行する当事者でなければ、どんなにその人が持ち出してくる理屈や理論の類いがもっともらしく思われても、主張していること以上の説得力が得られるわけでもなく、それはその程度のことだと受け止めるしかないわけだが、それとは別の水準で、政府が国債を発行し過ぎるという傾向が、政府という存在にまとわりついてくる危うい傾向なのは、実際に債務超過や財政破綻という事態に直面してしまう政府があるわけだから、そうなれば政府としてはまずいわけで、そうなってしまう事態を避けるためにも、政府に直接関わっている当事者としては、できれば国債の発行は抑制した方が良さそうに思われるだろうが、もっと国債を発行しろと騒いでいるのが、今のところは弱小政党のれいわ新選組の政策担当者や財務省陰謀論に凝り固まった積極財政派を自称する人たちだから、それらの人たちの主張など無視できる程度の影響力しかないのかも知れないし、そういう人畜無害な人たちの存在ではなく、もっと何か人の意図や思惑や意思や意志や意向などを超えたところで発動する力が、政府が国債を発行し過ぎてしまう傾向をもたらしていると状況を捉えるなら、そういう傾向を人為的に押しとどめるのには多大な困難が伴うと理解した方が良いのかも知れず、もちろんただ一方的にそういう傾向が強まっているわけではなく、そういう傾向を抑える力との絶え間ないせめぎ合いの中でそういう傾向になっているわけだから、それらの力をうまく調整して行き過ぎない状態にとどめておく以外にはやりようがないのかも知れないが、少なくとも現状の日本政府の状態では、まだ債務超過も財政破綻も明らかにはなっていないわけだから、そうなっている限りでかろうじて均衡が保たれていると見ておくしかないのだろうが、それよりはもっと根本的なところで、政府の予算が何に使われているのかが政治的な議論の対象となっていて、おかしなことに莫大な予算が浪費されていると批判されることになるのだろうが、それも結果的にそうなってしまう経緯が否応なくどうすることもできない成り行きに囚われてそうなってしまうのだから、そんな結果をいくら批判されても、そんな経緯や成り行きに囚われて予算を計上して使う立場の当事者としては、それも結果的に自分たちの立場を正当化することになるわけだろうが、そういう制度的な成り行きも外部からの批判を受けつけない傾向が強いから、それがどうにもならない事態をもたらしているわけだが、そんな現状から窺い知れることが何なのかというと、政府の予算が何かのために使われていることは確かだとしても、その何かが必ずしも国民のために使われているわけではないのはもちろんのこと、果たしてそれが政府関係者のために使われているのかといえば、ある意味ではその通りには違いないのだが、それによって政府関係者が利益を得ていることも、それなりに確からしいとしても、それも特定の立場の人や団体を利するために予算が使われていると言えるような面もなきにしもあらずだとしても、たぶんそういうことだけで予算の使われ方の全てが説明できるとは思えないわけで、政府という機構が維持されて政府が運営している制度を保つために予算が使われていることは確かなのだが、それによって世の中がどうなるわけでもないものの、それに関わって活動する当事者の存在が保たれていることも確かであり、それらの存在を保って維持するために予算が使われていて、そうなっているからといって、それとは無関係でいられるわけでもないから、それに関係している当事者がそんな予算の使われ方であると不都合が生じるなら、それではまずいと思って、もっとその当事者にとって都合の良い予算の使い方を求めるだろうから、そういうところから予算の使い方に関する要求が生じてくるのだろうが、そういった要求の内容が関係者や当事者以外にはあまり切実に感じられなければ、そんな予算の使われ方などどうでもいいと思われるかも知れないし、場合によって無駄な予算の浪費だと見なされて批判の対象となってしまうのかも知れず、そういうところでも予算の使い方やその額に関してもっともらしい説明が求められるだろうが、それがどんなにもっともらしく感じられても、実際にその予算を使った活動が行われてみると、大した効果も成果も上がらなければ、そこでも無駄に予算が使われたと批判される可能性が出てくるだろうから、どうなるにしても結果次第で否定的に受け止められると批判されて、肯定的に受け止められると称賛されるかも知れないが、それを受け止める立場の違いによっても、それを肯定できたり否定できたりしてしまうなら、どちらかの立場からその是非が云々されてしまうだろうが、そういう意味でも政府の予算が何に使われるかで、それに関わってくる立場の違いに応じてその賛否が分かれるような成り行きも生じてくるにしても、そういうことの総体として政府が形作られているわけだから、それだけでも面倒でわかりにくい事態となっていて、それ相応にややこしい成り行きを伴っているから、それに関しては一概に単純なことは言いたくないのだが、それでも世論を構成する多数意見として批判的に言われるようなことが多ければ、それが改善しなければならないこととして、要求されるようなことにもなってくるから、批判の内容にもそんな要求が反映されてくるのだろうから、実際にそうした要求に対して政府が応えなければならなくなるわけだが、実際に応えているかというと、応えていないと批判されている現状があるのではないか。


3月11日「情勢の陰謀論的な解釈」

 誰もがわかっていることをあえて言うなら、例えばコカコーラやマクドナルドはアメリカ政府の支援を受けた国策企業ではないが、世界中に広まっているし、またアメリカの政権政党の民主党の有力な支持団体である全米自動車労組には属さないテスラは、アメリカと政治的な対立関係にある中国で自動車を生産しているし、アメリカ政府の経済政策がうまく行っているから、アメリカが国家として世界の覇権国となっているわけではなく、政府の政策とは関係なく勝手に経済成長したから、世界の覇権国になっている面の方が大きく、逆にかつてのソ連や今の中国のように政府が経済をコントロールしようとすると失敗して、経済に対してはマイナスに働くわけで、結果的に経済発展した国というのは、政府の自由主義的な政策によって資本主義市場経済が維持されている国になるわけだが、その自由主義的な政策というのが政治的には無策に近いのかも知れないが、経済的な無策を結果的にもたらすのが政治的な民主主義であり、民主主義が実現していないと独裁政治によって経済をコントロールしようとして失敗してしまうだろうから、政治的な独裁体制の中国で自動車企業として成功しているBYDがなぜ世界的にも成功しているのかと言えば、中国以外の他の民主主義国でも積極的に自動車を生産して販売しようとしているからかも知れないが、こうすれば経済が良くなるとかいう理屈などないのかも知れないし、放っておいても好景気と不景気の景気循環が生じるから、民主的な政治体制の国では不景気になれば政府が経済的に困窮した国民を助けるための政策を行わざるを得なくなるわけで、だから経済的に困窮した国民が政府に対して文句を言うのは当然の成り行きとなり、政府が国民を助けるための政策を行わざるを得なくなるわけだが、そうだとすれば現状の日本でも経済的に困窮した国民が多くいて、国民が政府に対して不満を持っているとすれば、政府への支持率が下がるのも当然の成り行きだが、果たして現状が本当にそうなっているのかというと、今後また政権交代でも起これば、そうなった理由づけとしては、それが妥当に思われる程度のことかも知れないが、実際に十数年前にはリーマンショックによって世界的に景気低迷した煽りを食って、日本でも政権交代が起こったのだが、数年後の東日本大震災の煽りを食って、また政権交代したタイミングで、アベノミクスの異次元金融緩和とリーマンショック後の景気低迷からの脱却のタイミングが重なって、見かけ上は好景気になったのだろうが、それと同時並行してキリスト教の一宗派の韓国の統一教会による日本乗っ取り計画も進行中だったのだろうから、それが民主主義的な政治体制の破壊をもたらすような成り行きだったから、一時的にはヤバそうな事態に陥ったものの、それもコロナ禍の煽りを食って頓挫して今に至っているわけだから、それらの成り行きが全て偶然の巡り合わせと言えばその通りかも知れないが、それが陰謀論的な妄想を煽り立てるようなことでもあるから、その種の陰謀論の興隆を招いていることも確かかも知れず、それを信じてしまう人も結構多いのかも知れないが、世界的に見れば極東の島国の日本で起こっていることなんて枝葉末節などうでも良い部類に入ることかも知れず、人や物や情報や富の流れとしてはアメリカへと全てが流れ込むような成り行きにはなっているはずだが、なぜそうなっているのかといっても、うまく理屈立てて説明することはできないのかも知れないし、アメリカが根本的なところでは無政府的な国家といってしまうと、では現に存在するアメリカ政府は何なのかというと、その全てを統治しているわけではない政府であって、別に経済政策に成功しているからそうなっているわけでもないだろうし、どちらかといえば失敗しているから経済の全てをコントロールしきれていないし、コントロールする必要もないはずだが、そのアメリカでもキリスト教右派などの宗教教団が暗躍していて、イランやアフガニスタンなどの教権国家を目指しているわけでもないだろうが、絶えず傘下の集団に対してコントロール術を行使して、政治的な主導権を握ろうとしているのかも知れないが、たぶん全てをコントロールできないことが経済の興隆をもたらしていて、制御できないからそこに自由や偶然の余地が生じて、その自由をなくして偶然を全て必然にしたいとは思わなくても、人が集団を構成して運営する制度の目指す目標が絶えずそうなってしまうから、そんな硬直化した傾向が社会の中で強まると、政治や経済の停滞がもたらされて、人も物も情報も富も移動しなくなると共に、それらを相対的に多く享受できる人とできない人との間で格差も拡大するわけだが、アメリカでは絶えずそれらが世界中から流入するから、それに伴って自由や偶然の余地も絶えず生じて、運が良ければ大成功してしまう人や集団も絶え間なく出てくるわけだろうが、相対的な程度として日本ではそうも行かないわけで、だからどうしても社会主義や共産主義などの平等を重視したくなるのだろうが、それを政府が制御しようとすると、どうしても民主主義を破壊するような傾向となって、自由や偶然の余地を許さないようなことをやりたくなってしまうのだろうが、少なくとも現状では人々の間で富や権力の格差も目立ってきているから、平等を目指す社会主義や共産主義的な傾向となるにしても、そういうことをやるのと引き換えにして、それなりの経済的な停滞も覚悟しなければならないから、それをあからさまに社会主義や共産主義とは言わないためのごまかしが必要となってくるのかも知れないが、民主主義を守るには人々の間で平等を目指すような政策も必要となってくるから、それに伴って経済的な自由を減じるような傾向にもなってきて、結局はうまくは行かないにしても、うまく行かない間に格差を減じるようなことをやらないと、ただ単にうまく行かないだけとなってしまい、ごまかしも何もありはしないような状況となってしまうだろうが、そういったうまく行かない政策をやるにはリベラル勢力がうってつけなのかも知れず、そういう意味では左翼に存在価値や存在意義が生じてくるわけで、順番から行けば次の政権交代の際には左翼政権になると都合が良いわけだが、果たして日本国民にそういうことをやれる配慮ができるかというと、今のところはうまく行っていないわけで、やる前から失敗を運命づけられているわけでもないだろうが、たぶん民主主義を実現するには失敗してもらわないと困るような成り行きがあるのかも知れず、そういう失敗を担うためのポジションとして左翼があり、リベラルの役目が順番として巡ってくるようなローテーションが確立されると都合が良さそうなのだが、実際にはそんな予定調和な成り行きにはなりそうもなく、絶えず経済的な利益を求めて格差を拡大させる傾向が顕著になってきてしまうかも知れないが、それでも大多数の人々に富の分け前が回ってこないと不満が募ってきて、民主主義が機能していれば政権交代も定期的に行われて、その間に少しは平等を目指す傾向も出てくるのではないか。


3月10日「急がば回れ」

 どう考えてもそうなるのが偶然の巡り合わせには違いないのだろうが、なぜか自分が実際に体験した自分だけに固有の成り行きというのが、それが起こった後からは必然的にそうなったように思われるのが、たぶん迷信だとは思うのだが、すでにそんな成り行きを体験しているわけだから、どうしてもそれが偶然に起こったとは思えないわけで、なぜそうなったのかは偶然にそうなったと思うしかないのだが、そうなったこと自体が偶然に起こったとは信じられないわけで、その出来事を体験させることによって何かを知らせているように思われて、それが教訓めいたことだとわかりやすいのだが、その単純な解釈として、急がば回れと昨日の出来事については完全にそう思われて、実際に急がば回れのことわざ通りに行動して事なきを得たのだから、それで良いはずなのだが、その程度のことがなぜか今の自分にとっては重要に思われてしまい、そうなってから勝手に都合良くそう解釈したくなってしまうというのも不思議でならないのだが、自分が現に今も体験しつつある成り行きというのがそう解釈するとしっくりくるわけだから、これからも選択を伴うような岐路に立たされた際には、急がば回れのことわざ通りに行動して行けばいいように思われる程度のことには違いないわけだが、そういつも行動したからといって、それで何か良いことがあるような気がするなら、やはり迷信を信じているに過ぎないことなのだろうが、昨日の成り行きに関して説明するなら、土曜日の午後に書留の郵便が送られてきて、送られてきた書類に必要事項を記入して、署名捺印して、また書留で送り返さなければならなかったのだが、近所の小さな郵便局はすでに窓口が閉まっているから、送るのは月曜日でもいいかと思ったら、なぜか急にさっさと送れという天の声が聞こえてきたような気がして、そういえば中央郵便局のような比較的規模の大きなところは土曜日でもやっているかも知れないと思って調べたら、自宅から数キロ先にある郵便局が土曜日でも午後六時まで窓口が開いていることを知って、歩いて行くのは遠いから自動車で行くかと思って郵便局の周辺をグーグルマップで見たら、郵便局の駐車場もあるしすぐ近くにもコインパーキングの類いもあるから、今から出かけて行くかと思って支度をしていたら、なぜかまた自動車で行くと事故を起こすぞという天の声が聞こえてきたような気がして、急に不安になってきて、今ここから自動車で出かけて行くと大変なことが起きるんじゃないかと怖くなってきて、どうしようかと迷っているうちに、歩いて行けばいいんだ、急がば回れだとひらめいて、実際に数十分かけて現地の郵便局まで歩いて行ってみたら、「お客さま駐車場一台」という看板が目に飛び込んできて、郵便局の周囲も狭いアーケード街に取り囲まれていて、郵便局内の一つしかない窓口も土曜の夕方で人が並んで混雑していて、確かに自動車できていたらヤバかったと自分で自分を納得させたくなるような気になったわけだが、だからといってそれはそれこれはこれで、そこではたまたまそうなったからといって、いつでもどこでも急がば回れでいいわけでもないだろうし、単純に何でもかんでもそこで自身が囚われていたり巻き込まれている状況を無視して、安直に急がば回れと思い込むことこそが、急がば回れということわざの意味を考えていないことになり、少なくとも焦ってそう思い込む前に思考を巡らすことが肝要なのだろうが、その暇や余地がない時にどう行動するかも重要かも知れないし、考える余裕があったところで思考を巡らした結果が思い通りに行くわけでもないから、昨日の場合は歩いて行ったから結果的に良かったと納得しようとはしたものの、案外自動車で行っても事故を起こさずに無事に帰ってこれたかも知れないし、どちらでも良かったのかも知れないが、成り行き上はどちらか一方を選ばなければならなくなり、またどちらも選ばなくても、月曜日まで待って近所の郵便局で用事を済ませても良かったのかも知れないが、何かそういうところでこれといって決め手となるようなものやことも何もなく、実際に行動してみてから、なぜか行動した結果を自らに都合の良いように受け取って、自らの行動を正当化したくなってしまうわけで、それをどう受け止めてもどうということはないわけだが、果たして思い込みの激しい人なら、本当に天の声としてそれが聞こえてしまうのかどうかはよくわからないが、振り返ってみるなら、今までにそんな天の声といえるような何かを察知したことも一度や二度ではなく、人生の岐路と言えるような場面で天の声を聞いたような記憶もありそうなのだが、だからといって本当にその際に聞こえてきた天の声の類いに従ったことで、苦境を辛うじて切り抜けてきたと自負できるかというと、意外とそれが貧乏くじを引いてしまったような、ふとしたきっかけで迷い込んでしまったひどい回り道を辿っているうちに、それがいつの間にか迷路となって、未だにその中で迷ってもがき苦しんでいるような気もするから、どう考えてもそんな事態に陥っている自らのやってきたことを正当化するわけには行かないような感じで生きていると思うしかないのかも知れず、そういうところで精神をこじらせるような事態に陥ってしまう人もいくらでもいるのかも知れないが、その中の一人が自分ではないことを願うばかりだが、それなりに程度の違いがあるにしても、修羅場を言えるような危機的な事態をくぐり抜けてくれば、それに鍛えられて自分の心身が強くなったような思い込みも生じてくるのだろうが、それがケースバイケースで、たまたまその時にはうまく行ったのかまずかったのかは後から振り返って思うことに過ぎないが、それでも現状で生きているのだから、それを肯定的に捉えるなら自分にとってプラスに働いたつもりにはなれるが、結果的にはプラスでもマイナスでもどちらにしても現状をもたらしているわけだから、何でもないわけではないにしても、何とかなっていることを自覚するしかないから、それはそれとしてその延長上に今後の成り行きが続いて行くとしか思えないが、それが郵便局に行くか行かないかの選択肢で、どちらを選ぶかによって重大で深刻な事態となるようなことではないはずだとは思いたいが、そういうところでもしかしたら安易に焦って自動車で出かけて行って人身事故でも起こしてしまえば、その後の人生が大変なことになってしまうのかも知れないから、何か気のせいではあってもそこで天の声が聞こえてきたような気がするなら、別にそれほど信心深くはなくてもまずはその聞こえてきた声に従ってみるのも一興なのかも知れないし、結果的に無事に大したこともなく事態が推移すれば、それで良かったと自らのそこでの選択を正当化しておいた方が精神衛生上は無難なのかも知れないし、わざわざ何でもないようなことを悪いように受け止める必要もないなら、都合の良いように受け止めておくのが最良の選択肢だと思い込んでおけば良いことなのではないか。


3月9日「疑わしい信念」

 何を思い出そうとする以前に根拠の定かでない怪しい説を強引に提示したいわけではないが、疑わしい説を信じていること自体が、その説に救いを求めているような気もしてくるのだが、何を救いたいのかと言えば、怪しい説を信じている人たちを救いたいわけではなく、その説が正しいこと自体が救いなのであり、それだけでも正しい説を信じている人たちが救われるかというと、救われるだけではなく、それらの人たちに何らかの利益がもたらされることによって救われると思いたいのだが、そうなるとたぶん信じているだけではダメで、その説を利用することによって利益を求めなければならないところで、それらの人たちには利益を得るための行為や行動が必要となってくるのだろうが、それを利益を追求する活動といってしまうと、単なる商業活動となってしまうだろうが、それが労働活動であるだけでなく商業活動であることが、商品となる物や情報などの売買や貸借が絡んできて、少なくとも労働が単独で行われるわけではなく、商業活動に伴って労働が発生するわけだから、工業製品や農産物などを生産するだけでは労働が完結しないわけで、生産物を売買して利益を出すには商業活動が必要なわけだが、しかも必ずしも生活に必要だから商業活動が盛んになっているわけではなく、必要であるかないかと特定の商品をほしいと思うか思わないかが、必ずしも一致するわけではなく、特に必要でなくてもほしいと思わせるものを売って利益を得ようとする場合もあるわけだから、商業活動が何に関して何について正しい行為かどうかとは少しずれてきて、場合によってはそれが正しくなくても間違っていても、売って利益を得られるなら、商業活動としてはそれで構わない行為となるから、倫理的にまずいものを売ったり、違法なものを売ったりもするわけで、だからそれを売るに至る経緯や事情を考慮するなら、活動そのものが必ずしも条件次第では正しい行為とは言えなくなってしまうだろうが、場合によっては人を惑わすのが商業活動の目的といえるかも知れず、もちろん真の目的は商品を売って利益を得ることになるだろうが、その過程で利益を得るにはどうすればいいかという問いが出てくれば、人を惑わして利益を得られるなら、少なくとも合法的な範囲内で人を惑わそうとするだろうし、そこでも場合によっては違法行為もやるだろうが、果たして商業活動自体が目的ではないなら、何が目的なのかというと、それを目的だと自覚できるわけでもなければ、では目的ではないなら何なのかというと、ただ何となくその場の成り行きで商業活動に携わっている人も中にはいるかも知れないし、そんな人にとっては必ずしも目的が重要だとも思えないだろうが、それが目的でなくても必要に駆られて商業活動をやらざるを得なくなったり、そこに真の目的と言えるようなものがなくても、なし崩し的に否応なく商業活動が行われている場合もあるかも知れないが、そうなると別に利益など得られなくても売買が成り立っている限りで、それが商業活動だと言えるようなことにもなるだろうから、商業活動などなければないで、自給自足で間に合っている地域も世界の中にはありそうだが、そういう意味でも人の活動が必ずしも正しい行為や行動によって構成されているわけではなく、そうかといって必ずしも利益を求めることが真の目的となっているわけでもないところが、よくわからないかも知れないが、何かそこで場違いにおかしなことが行われていると、何となくそれが間違っているように思われるかも知れないし、それを批判したり非難したくなってくるとしても、その場の成り行きに沿ってそこでできることが行われる限りで、不可能なことやできないことは行われていないわけだから、何か場違いにおかしいと感じられるようなことが行われているとしても、その場ではそういうことが行われる成り行きになっているからそんなことが行われていると思っておけばいいのかも知れないが、それでは納得が行かなければ納得が行くような説明が求められるだろうし、説明がおかしければ、それも批判や非難の対象となってしまうだろうが、たとえ批判されても非難されても、その場に居合わせた関係者などがそこではそういうことをやるのが自然な成り行きだと感じられる限りで、無関係な部外者にはおかしいと感じられるようなことが平然と行われている場合もあるだろうから、一概にそれを批判したり非難するのも何かとってつけたような不自然な言動になってしまうかも知れないが、たぶんそういうところで、それをやるに当たって納得が行くような理屈や理論などが持ち出されてくると、そんな理屈や理論によって言い負かされた人が渋々引き下がるようなことにもなってくれば、そんな理屈や理論を持ち出してまで行為や行動を正当化した者の一時的な勝利となるだろうが、なぜかそこでも利益を得られるなら負けを認めても構わないようなことになってくれば、結局そこで何が行われているのか、その実態がよくわからなくなってくるかも知れず、そんなわけのわからない成り行きの中でも、何かこれといって信念のようなこだわりを持って自身が関わっている物事に取り組んでいる人がいれば、そんな人の執念のような強い思いに引きずられて、他の多くの人たちも何となくその人に従ってしまうような成り行きに巻き込まれてしまい、そこで多くの人々がなし崩し的に認めてしまうような確からしくも怪しい基準や指標の類いが、その人の信念に基づいていつの間にかまかり通ってきて、それが慣習として社会に定着してしまうような事態となってくれば、何かそこで礼儀作法のような動作が体系化されている可能性もあるだろうから、そういう形式的に決まりきった動作から生じる信念の類いに騙されているわけではなくても、そんな動作に多くの人々が囚われていると、そういう動作から逸脱するようなことをやってしまう人が他の多くの人々から規則違反だと批判されたり非難されたりして、そういった動作がその中ではやっては行けないこととして定着してしまうのだろうが、それができるのにやっては行けないと決められてしまうと、何か不都合を感じるわけで、そうなっていることに疑問を抱くなら、それをやらせないようにしている人や団体の類いが、多くの人々がそれをやらないことによって利益を得ているのではないかとも疑われてしまうわけだが、それが金銭的な利益でないなら、権力や権限を独占していることによって生じてくる利益なのではないかとも思うわけだが、本当のところがよくわからないわけで、それがわかってしまうと都合が悪い事情を抱えている人や団体であるようなら、そんな人や団体が握っている権力や権限の類いが、多くの人がそれができないことから生じてくる独占的な力なのではないかと想像されるわけだが、そうなっていると困るなら、そういう権力や権限はなくさなければならないと思われるから、実際にそれをなくすような力が社会の中で働くわけだろうが、大して困っているようにも感じられなければ、その種の人や団体などが社会の中で独占的な権力を保持している状態が長期間にわたって維持されるのではないか。


3月8日「通用しない論理」

 自らの精神状態が正気でないような気がする時に、何かよからぬ先入観に囚われているわけでもなければ、物事を公平な立場で見られるようなことにもなっていないだろうから、自分が世の中で何を体験していようと、体験しているそれ自体に誘導されていて、そうなっている時点ですでに正気ではいられないのかも知れないが、何か納得がいくような方向へと誘導されているように装いたいから、そんな誘導されている自らを肯定したいのかも知れず、そこで正気ではいられない自らを肯定できるかと他の誰に問われているわけでもないだろうが、そうなっている限りで進行している成り行きに沿った振る舞いをせざるを得ないのだから、そうなるしかないような自らの行為や行動を肯定するしかないのだろうが、それに対して当たり前のことを指摘するなら、すでに公平な立場で物事を判断できるような状態にはなっていないのだから、自らが囚われているそれを肯定している限りで、そんな成り行きと心中するしかない自身の立場や境遇から抜け出られないことが確定してしまっているのかも知れず、そうなってしまった人をそこから救い出す必要もないのかも知れないが、無理に救い出そうとすれば、救い出そうとする人も一緒に遭難する可能性が高いから、見捨てるのが賢明な選択になるだろうが、もちろん選択の余地などない場合の方がよくありがちだから、そこでもその場の成り行きに従う道しか残されてはいないなら、すでにそうなっている人にしても、自身が体験しつつある成り行きに沿って行動しているわけで、それ自体に誘導されてしまっているから、そうなっている時点で正気ではいられないのかも知れないし、そこでその場の状況とは関係のない勝手な論理を持ち出して、そうなってしまっている人たちを馬鹿にしたり嘲笑ってみても、そんな人はその場の状況の中では無視されて相手にされないだろうが、そんな部外者の立場で信じられる論理というのが、意外とその場で作用している物事を公平な立場から見る上で必要な論理となってきて、もちろんその場の成り行きに囚われてしまっている人たちが活用できる論理ではないから、そんな論理はそこでは無視されるしかないのだろうが、その場に囚われているわけではない他の人たちは、そんな論理を活用してその場に囚われてしまった人たちと同じ過ちや誤りを犯さないように心がけることができそうだが、ではその論理が何かというと、それに関して別にややこしいことを述べたいわけではないのだが、述べようによってはややこしく思われてしまうかも知れず、例えば政治と経済とが直接結びついているように感じられる状況の中に囚われている人が信じがちなことが何かというと、単純に日本政府の政策がダメだったから失敗したから経済の失われた三十年がもたらされたという説であり、安易にそういう説を信じられる人なら、そんな説に基づいて日本政府がこれまで行なってきた数々の政策の失敗を指摘して回る人が主張している内容も信じてしまうだろうが、ではそうではなく必ずしも政治と経済とが直接結びついているとは限らないと考えるならどうかというと、例えば前世紀末のIT革命も今進行中のAI革命も、アメリカ政府がそれを直接画策して全世界がそうなるように誘導しているわけではなく、ただ単にそうなった成り行きを活用しようとしているに過ぎないことは理解できるだろうし、IT革命の際には日本企業がGAFAMなどの巨大IT企業に太刀打ちできなかった時点で、優劣が決したわけだから、また不動産バブルがはじけて経済が低迷したことも、何かの政治的な陰謀によってそうなったわけではなく、ただの経済的な成り行きに過ぎないと見るなら、そういうところで政治と経済とが直接結びついているわけではないことが明らかになるはずだが、そうなった結果から日本政府に対してその政策的な失敗を批判する主張になってしまうと、政策が失敗したから経済が長期間にわたって低迷したと述べるともっともらしく感じられてしまうわけで、だからといって批判するなというわけではなく、それをもっともらしく批判したいなら批判していればいいわけで、そういった類いの批判のもっともらしさに感心したければ感心していても構わないわけだが、そこで何に感心しているのかといえば、〇〇したから〇〇になったという言説的な論理に感心しているわけで、言説の中で政策が失敗したことと経済が低迷したことを結びつけているわけだが、経済が長期間にわたって低迷したことを政府の政策の失敗に結びつけているのだから、言説の中では政治と経済が直接結びついていることになるのだが、現実の世界ではどうかというと、必ずしもそうではないというのなら、ではどうなっているのかというと、全く結びついているわけではないということではなく、経済情勢に囚われている限りは、その経済情勢の中で政治が行われていることになるだろうから、では長期的に経済が低迷していた時期に行われていた政治を肯定できるかといえば、もちろん経済が低迷していたことを否定的に捉えるなら、その時期に行われていた政治も否定的に捉えたくなるだろうから、どちらかといえばそう捉える方がもっともらしく感じられるだろうが、その一方で例えばアベノミクスによって長期低落傾向にあった株価が上がったと肯定的に事態を捉えるなら、それ以前にリーマンショックによって株価が下がっていた時期を無視しているし、さらにそれ以前にITバブルの崩壊や不動産バブルの崩壊によって株価が暴落したことも都合良く無視することになってしまうだろうが、また現状でも株価が上がっているのに相変わらず経済が低迷していると情勢を否定的に捉えるなら、果たしてそういうことまでひっくるめて日本政府の政策の失敗によって経済が長期的に低迷していると結論づけても構わないのかというと、そこまで言及してしまうと他にも様々な要因が作用して経済状態がもたらされていることを認めざるを得なくなるだろうが、たかだか株価の上がり下がりを世界全体の政治情勢や経済情勢に絡めて説明しようとすること自体も誇大妄想の域を出ない話になってしまうが、余りにも関係の薄そうなところから原因を引っ張ってくるのも説得力に欠けるだろうし、それに関してもっともらしく感じられる言説を構成するには、たぶん現状では政治と経済の絡み合いから説明するのが妥当ではあるにしても、そういう言説に感心するのは感心する側の勝手だが、感心したからといって、そういう言説によって政治的な主張を構成している人や政治勢力を支持するかというと、それもたぶん言説の内容だけが支持するか否かの判断材料となるわけではなく、他にも様々なしがらみの類いが絡み合ってきて、その人の判断を最終的にもたらすのだろうが、そうなるに際して、どうもあまり現状を深刻には受け止められないような気分ではあるわけで、だから政治に対して舐めてかかっているわけでもないのだが、結果的にもたらされる状況や状態がある程度は予想可能な範囲内では、まだそれほど希望の持てる状況とはならないような気がするわけだ。


3月7日「邪魔者の言い分」

 ある傾向の思考に凝り固まった人たちが思っている分には、世の中にはそれらの人たちの活動の邪魔をする様々な不都合や不具合があると意識されるかも知れないが、それらの人たちにしてみれば、できればそれらの不都合や不具合をなくしたいのだろうが、逆にそれがあることによってなぜか物事がスムーズに動いているとすれば、それらの不都合や不具合が他の物事と組み合わさって、何かしら世の中で機能している可能性がありそうで、そうであるなら一概に不都合や不具合を取り除くべきではないのかも知れないが、では具体的に何が不都合や不具合をもたらしているのかといえば、例えばそれがあってもなくても構わないような物事なのに、なければ困るように思われているとすれば、それがあることによって生じる不都合や不具合が何なのかというと、何かと活動の邪魔をしてくるような人々なのかも知れず、何かをやろうとすると必ず文句を言ってきて、それをやらせないように邪魔をするなら、それらの人々の存在が鬱陶しいだろうし、そうなっているから邪魔な人たちを何とかして出し抜こうとして、あれやこれや工夫を凝らして邪魔者たちを退けようとするのだろうが、そういう対処の仕方が戦略的な振る舞いを加速させると共に、その場の成り行きがさらにこじれてきて、そこから新たな不都合や不具合も生じさせるから、それがさらなる面倒な事態をもたらすのかも知れないが、果たしてそうなっていた方が都合が良いかというと、誰もそうは思わないかも知れないが、揉め事の仲裁などを生業としている人や団体などにとっては、願ってもない商売のチャンスとなって、争いや諍いの間に入って双方から利益を引き出そうとするのかも知れないが、それが争いや諍いの邪魔をしていることになれば、そんなことをやろうとする人や団体こそが邪魔者には違いないわけだが、争いや諍いを鎮めたりやめさせようとするのではなく、逆に煽り立てて騒ぎを大きくしようとするなら、邪魔者であるどころか、争っている双方にとって味方なのか、あるいは共倒れを狙っている共通の敵となるかどうかも、結果的にどうなるかによっても役回りが違って見えるかも知れないが、当初は邪魔者だと思っていたのが、意外と事態をうまく収めるのに効果的に機能する役割を果たせば、争っている双方にとって役に立つ存在だと好感を持たれるかも知れないが、そうではなくどちらにとっても憎まれ役を買って出るような損な役回りであれば、場合によっては争いの場から排除されるだろうし、そうやって憎まれ役をそこから排除することによって、その場の物事がスムーズに運べば、憎まれ役として効果的に機能したことになるだろうが、果たして当人たちが意識してそういう損な役を買って出ているかというと、たぶんそうは思っていないだろうし、自身の役回りを理解していないから、その代わりにありふれた被害妄想に囚われている可能性も考えられるが、それでも構わないとなると、そんなことはお構いなしに、これからもそこに居合わせた誰もが自分たちの役回りを理解しないまま、しかもそれでも構わないような成り行きの中で、なぜか物事がスムーズに進行して行くのかも知れず、もちろんそれがスムーズに進行しているとは誰も思っていないだろうし、いつものように文句ばかり言ってくる鬱陶しい邪魔者たちにやっていることをいちいち邪魔されて、腹立ちまぎれに邪魔者さえいなくなればと願いながらも、やっていることをごまかすための見え透いた嘘をつきまくりのひどい毎日を送っているのかも知れないが、それで構わないような状況の中で物事が進行中だとすれば、何かそれが予定調和のような気がしてしまうわけでもなく、誰もそんな気がしないから、いつ壊れるとも知れない微妙な力の均衡を意識しながら、また慎重に細心の注意を払いながらも、その場で生じている自らの役回りに合うような言動や行動を心がけているのかも知れないが、それが勘違いの思い違いなわけでもないだろうし、そうなるのが当然の成り行きの中でそんな状況となっているはずだが、たぶんそれを見ている観衆はそんなふうには思っていないわけで、そこに観衆などいるはずもないとは思わないが、実際に誰がそんな光景を見ているわけでもなく、見ているのではなく逆に無視している割合の方が多いはずだが、中には無視しながら無視している出来事に対して文句を言う不届き者たちも結構いて、しかもそんな自分たちを不届き者だなんてこれっぽっちも思っていないどころか、無視しているからこそ、勝手な文句を言える自分たちの立場を最大限に利用しながら、そこで行われていることを貶すわけで、その文句の内容が紋切り型のデマや嘘や偏見に満ちているのも毎度のことであり、そうやって同じように無視している者たちの共感を得ようとしてそんな言動に興じているわけだが、それでも構わないのかというと、やはりそれでも構わないわけで、その程度で済ませてしまえば、そこで行われていることに向き合う必要もなくなって、面倒でややこしいことを考える手間も省けて、他の物事がスムーズに運んでいるように思い込めるはずなのだが、本当にそうなのかというと、そうでなければまずいわけでもなく、実際にはそうではないのかも知れないが、そういうことにしておけば済むような成り行きの中で活動している人たちにしてみれば、それで済んでしまうに越したことはないのかも知れず、だからその種のデマや嘘や偏見を振り撒いて平然としていられる恥知らずなメディアに信頼を寄せているわけでもなく、大して信頼しているわけでもないのに誰もがそれを放置しているわけで、もちろん放置しないでそれを改められるような権力や権限など誰も持ち合わせていないから、放置するしかやりようがないのだろうが、果たしてそれでも構わないのかというと、それも結果的にはそれでも構わないような成り行きになってしまうから、誰もがそんな成り行きの中で活動するしかないのだろうが、大半の人たちは活動しているわけではなく、そこで飽きもせず毎日のように繰り広げられている光景や出来事を見守ることしかできないと思っているわけでもないのだろうが、それを放置していると思っているなら、活動していないのと同じことかも知れず、それが嫌なら文句を言って邪魔をしなければならないのかというと、それも実際に文句を言って邪魔をしている役回りを担っている人や団体を支持したり、あるいはそういう行為に反発したり反感を抱いたりしている限りで、果たしてそこに参加していることになるかというと、どうもそうとも言い切れないのかも知れず、しかも参加しているだけではダメで、それをぶち壊しにしなければならないような成り行きにならないと、そこで活動しているとは言えないとしたら、ではそんな活動の内容がどうなっているのかといえば、それが直接の破壊活動でなければ、そこで行われていることをスムーズに運ぶための手助けをしていることになるのかも知れない。


3月6日「理不尽なこと」

 それがここ数年というわけではないが、不可思議な事の成り行きが続いているようでいて、自分が直面している個々の出来事をつなぎ合わせてみるとそう思われるが、自分とは無関係な他の人にとってはどうでもいいことには違いないのだが、何か釈然としないわけで、そんなことはどうでもいいと思いたいのだが、そうはさせてくれないような、そんなことにこだわるのもやめておいた方がいいとしても、妙にこだわってしまって、こだわってしまうと自ら墓穴を掘ってしまうからやめた方がいいと意識の中で警戒シグナルが点滅しているような感じなのだが、それでもなるようにしかならないから、なるべく事を荒立てないように振る舞うしかないのかも知れず、だからおかしなことはそのままにしておくしかないのかも知れないが、自分に関してはそうだとしても、公的な領域ではそういうわけには行かないようで、おかしいことをそのままにしておけないから、事を荒立てている人たちがいるわけだが、その事の荒立て方のまずさを云々言っても、それ以前におかしいことがまかり通っている状態を何とかしないとまずいと思うし、もちろんおかしいことをまかり通らせている側にいる人たちとしては、そのまままかり通っている状態にしておいた方が都合が良いわけだから、しらばっくれるしかなく、当初は事を荒立てて騒ぎ立てている人たちの存在を無視して、無視できなくなったら、今度は事の荒立て方がまずいようなことを言い始めるわけだが、そうなっているのを見て見ぬふりをしている人たちが世の中の大半を占めている状態が長引いているから、結果的にはひどい世の中になっているのだろうが、それが日本だけではなく、世界中でひどい状態となっているのが今に始まったことではなく、だいぶ昔からそうなのであり、下手をすれば数千年や数万年前からそうなのかも知れないが、今さらそんな昔のことをあれこれ言ってみても始まらず、何が始まらないのかもよくわからないが、ともかく最近のひどい世の中を何とかしようとしている人たちが、何やら面倒な事態に陥りながらも悪戦苦闘しているわけだろうが、その一方で、ひどい状態を利用してうまく立ち回っている人たちの方が優勢なのは今も昔も変わらないわけで、果たして自分がどちらの側に属しているかといっても、部分的にはどちらの側にも属しているし、どちらの側にも属していない面もあるかも知れないが、どちらか一方の肩を持つとするなら、ひどい世の中の状態を何とかしようとして悪戦苦闘している人たちを応援したいのだが、それが実際の行動に結びついているかというと、そうとも言い切れない面もあるのだが、それもその場の成り行き次第でどうとでも受け取れるようなことでもあって、基本的なスタンスとしては正義の味方のような人たちの肩を持っているとしても、そこからわけのわからない迷路を通って様々な紆余曲折を経た先の結果となると、いくらひどい世の中でもうまく立ち回ろうとしないとやって行けないから、清廉潔白ではいられないわけだが、そういうところが日本共産党的な存在の欺瞞性を暴きたくなる気持ちも抑えきれなくなってしまうだろうが、他人のことはどうでもいいわけではなくても、優先順位的には自分を優先させなければならない状況の中では、とりあえずそんなのはどうでもいいこととして無視しながらも、何とか自らの残りの人生の中でやらなければならないことと定めた何かと格闘している気にはなれるわけだが、まだそれさえも定まっていないというと嘘になってしまうが、定まっていなくても何かと格闘していることは確かで、それがひどい世の中と格闘している人たちとも重なる部分があるから、それなりに彼らの活動に共感している面もあるのだろうが、やはりその一方で彼らの活動を妨害したり、彼らの直接の攻撃対象となっている勢力にも悪い意味で共感している面もあるから、一方的に彼らの味方となるわけではなく、何かそこからずれてしまうところに、自らが格闘する対象や目標を定めているわけでもないのだが、否応なくそういう方面へと意識が引き寄せられて行ってしまうのかも知れず、そういう面に興味や関心があるからそうなると言えばその通りであるにしても、それだけではないところがよくわからないし、どう考えてもそれだけではないからこそ、現状でも得体の知れない何かと格闘しているつもりになれるのだろうが、たぶんそこから生じてくる思考も活動も、その大半が空回りしているようにも感じられるから、今のところは何の成果も確認できないが、わざとそうしているわけではなくても、それでも世の中を動かしている何らかの力を感じているから、それを解明しなければならないと勘違い半分で思っているし、誰かがそれを解き明かして説明する日がもうすぐ到来するかも知れないし、それが自分以外の誰であっても構わないのだが、たとえ説明しても無視されるかも知れないし、その代わりに世間が注目するのが、その場しのぎの臆見の類いである方が、現状のひどい世の中では通常の結果となるから、そんな臆見に満ちた現状の誤った解釈には騙されるなと警鐘を鳴らしてしまう者が後を絶たないとしても、警鐘を鳴らしている者でさえ無視している意見や見解の中にこそ真実が埋もれている可能性が高いのも、事実としてこれまでの歴史的な経緯が証明してきたことでもあるから、誰が世の中の真実を掴んでいるわけでもなく、その中でも相対的に声が大きく発言力がある者こそが、詐欺的な臆見を信じている可能性も高いところが、現状の世の中のひどい状態を反映しているとでも解釈しておけばいいのかも知れないが、だから戦略的な態度や姿勢でそうした声が大きく発言力のある者の味方を装って、利益にありつこうとする者も後を絶たないわけで、彼らが正しいということではなく、逆に彼らの誤りや過ちを利用して利益にありつこうとするわけだから、そうしたいかがわしい活動にはいつの時代でも理不尽で吐き気を催すようなひどい行為や行動がつきまとってくるわけだが、実際にそうした見え透いたあからさまな行為や行動の非が誰の目にも明らかとなっているわけだから、それを批判したり非難するのは容易い状態となっているのを、権力によってねじ曲げようとしているわけだから、そうなっていること自体も世の中のひどさを反映している中でも、それでもうまく立ち回って利益にありつこうとするわけで、それが並大抵の努力では叶わないような画期的な結果を求めることになってしまうかも知れないが、そうした結果を実現する過程の中で誰もが生きているわけではないものの、そこでうまく立ち回ろうとすることが結果的にその中で他の多くの者たちと競争していることになるか否かも、暗中模索の中ではよくわからないことであるから、誰にとってもそうしたややこしい事態に囚われている状態が当てはまるわけでもなく、人によってもその人の立場や境遇によっても、それさえもどうでいいことだと無視していられる状態もありそうで、自然とそうした面倒な方面へと向かうのを避けるような生き方も可能となっている実態も現状の世の中ではあるのではないか。


3月5日「強弁がもたらす未来」

 現状ではできないことを語ることが、そのできないことを今後機会をとらえてやるかも知れないと思わせるかも知れないが、誰がそのできないことをやろうとしているのかについては、果たして現状の中ではできないことをできるはずだと強弁している人がそれをやることになるかというと、そうなるかどうかも含めて今後の成り行き次第だが、強弁せざるを得ない状況に追い込まれているのか、そういう状況に追い込まれているから強弁せざるを得ないのかは、どちらに受け取ってみてもそう思われてしまうが、何か強弁している人がいたら、その人がこじれた事態に巻き込まれていると見るしかないにしても、その強弁している内容が詭弁とも受け取れる内容になってくると、その人を信用できなくなるのだが、そういうことを言わさるを得ない立場だとも感じられるのだから、その人が戦略的にもそういう態度で自身の活動を展開せざるを得ないところが、その人の立場をだいぶ危うくしているようにも感じられるが、状況的にそうなってしまうのだから、そんなのはその人自身の活動から生じてくることだから、他人がそれをどうこう言ってみても始まらないが、そんな状況が現にもたらされているわけだから、そうなるのにも何か必然的な経緯や事情があるのかも知れないが、何事も総合的に判断しなければならないとしても、部分的には自分にとって都合の良いところだけ強調したり誇張しながら主張や意見を構成してしまうのだろうから、そんな主張や意見には同意できないし支持も賛同もできなければ、そんなことを主張している人たちとは立場や境遇が違っていると思うしかないが、そういう次元や水準ではなく、具体的に何がどうなっているのかについて語らなければならなくなれば、例えば通貨に関して語るなら、通貨が実際に世の中で流通している実態について語らなければならないだろうが、それを語らない代わりに、自身の主張や意見の内容が通用するように、都合が良い範囲内だけ語ろうとする傾向が感じられるなら、なるほどそういう方面に限定しないとその人の主張や意見は通用しないと判断するしかないが、それが主張している当人にその自覚があるかどうかはわからないにしても、そういう方面へと意識や関心を誘導されるような成り行きに囚われているわけだから、そういう方面に限定された意見を主張するしかないのだろうし、それがそういう方面に限定された専門家としての思考の限界を構成するわけだろうが、だからといってその限界の範囲内ではその種の専門家として通用している面もあるわけだから、そういう方面ではその人の主張や意見がもっともらしく感じられて、ある程度は信用できるわけだから、そういう面ではその通りだと思っておけばいいとしても、それが部分的に納得できる範囲内でそう思われることでしかない限りで、それ以外でも納得できるわけでもなく、どこでも通用する万能な主張でも意見でもないのだから、部分的にはそういうことだと思っておけばよく、そう思っておく限りで、たとえその人がその人とは違う分野で違う主張や意見を持ち合わせている人を批判していても、その批判が的外れだと思うなら、その人の専門外のところで的外れな批判をしていると事態を捉えておけばよく、そんな的外れな批判をしているからといって、その人の主張や意見を全否定することもないわけだが、それが実際にはちょっとおかしなことを言っているからといって、そのちょっとおかしなことを言っている人の主張や意見を全否定したくなるのが、感情的にも感覚的にも面倒なところかも知れないが、そういうところから事態がこじれてくるのかも知れないから、積極財政だのザイム真理教だのと盛んに事ある度に囃し立てている人たちの主張や意見を全否定するわけには行かないが、それでも総合的に判断するなら、何か部分的な正しさに寄りかかって、それを全方面へ向かって全体化しようとしているような無理が生じているように感じられてしまい、そういうところが信用できないのだろうが、向こうでも無理に信用してもらわなくても構わないだろうし、部分的な信用にしか至らない程度のことなのだろうが、果たしてその程度のことだとたかを括っていても構わないのかというと、今のところはそうなのかも知れず、これから事態がどうなろうとその程度の信用でも構わないわけでもないだろうが、もしかしたら今後どうにかなるような事態とはならない可能性もあるから、そうなればそれっきりとなってしまうだろうが、それもそれっきりとなってしまった方が後々面倒なことにならずに済んでしまうのかも知れないが、それらの人たちにしてみたら、そうはならずに面倒な事態にならないと浮上のチャンスが巡ってこないのかも知れないし、だから強引にでもこれから面倒な事態を引き起こそうと画策している可能性もなきにしもあらずだが、意外と当人たちにはその気もその自覚もないのかも知れないが、ではなぜそんな画策が実行されてしまうのかといえば、誰が画策したわけでもないのに、結果的には誰かが画策したようなことになってしまうのかも知れず、なぜそうなってしまうのかも現時点ではよくわかっていないのかも知れないが、強いてそうなる理由を挙げるとすれば、実際に何かを強弁しているように見えてしまうわけで、それが何かではなく、ちゃんとした内容も伴っているわけだろうが、そうであってもなおそれがそちら側だけで成り立っていることではないところが微妙なのであり、実際には彼らと対立しているつもりの側との間の相互作用の中で事態が動いているから、現状でうまく行っていないこと自体が現状の成り行きを支えているという面倒でわかりにくい事態となって、それでも彼らにしてみればうまく行っていないことを肯定するわけにも認めるわけにも行かないからこそ、現状の変革を促そうとして、何やら面倒なことをやらかそうとしてしまうのかも知れないし、もちろんかつての世間知らずな過激派の類いとは違って、世間を知っているふうを装っているわけだから、かつてのようなことにはならないはずなのだろうが、結果的にもそうはならない代わりに、おかしなことがこれから起こる可能性がなきにしもあらずな雰囲気も感じさせているわけでもないのだろうが、それでもひたすら態度を硬直化しているわけでもないのに、何かを強弁しているように見えてしまうところが、その強弁しているように感じられる内容が現実の行為や行動へと結びついてしまうとすれば、彼らもそんなことをやりたかったわけでもないのに、結果的にはそうなってしまう事態が待ち受けているかも知れないし、実際にそうなってしまわないと、逆説的な真実としては彼らの主張や意見が活かされないわけで、そんなわけで、どんなわけでそうなるかは、実際にそうなってみないことにはよくわからないかも知れないが、少なくとも彼らの主張や意見が現実の世の中で活かされるには、彼らが特にやりたかったわけでもないことが実現する以外にはあり得ないとも思っていないだろうが、逆説的な真実が明らかとなるようなことにでもなれば、そうならざるを得ない事態を受け入れたくもないのに受け入れざるを得ない成り行きが待ち受けているのかも知れない。


3月4日「資本主義経済の罠」

 罠といえば、罠の直接的な使い方としては、罠を仕掛けて獲物を取るために使うのだが、罠という言葉を比喩的に使うとなると、そこに罠が仕掛けられているから危ないと警鐘を鳴らすような使い方になり、そうなると罠の獲物が人になって、人を罠に陥れるような策略が意識されるが、直接獲物を取るための使用目的として罠を使うのではなく、間接的な使い方として罠を想定するなら、罠という言葉の使い方が何を意味するのかが問題となってきそうだが、一見それが罠だとは認識できないような概念に罠を当てはめると、何やら人の気を惹く効果が期待できそうで、だからといって本当にそれが罠なのかどうか疑念を抱くように仕向けるのが狙いになってくると、それ自体が人を罠にかけるための策略なのではないかと疑われてしまいそうだが、果たして資本主義経済がその種の罠として機能しているのか、そんなことはないととりあえず否定しておいてから何かそうではないような、資本主義経済が人を陥れるために機能している実例を挙げれば、もっともらしいことを述べているように装えるかも知れないが、では実際に資本主義経済に囚われた人がどうなるのかといえば、誰もがその中で生活しているのだから、どうなるもこうなるもなく、ただ普通に生活している限りで罠でも何でもないはずだが、罠から連想される否定的な成り行きとしては、何やら転落の人生とか、金儲けに失敗して多額の借金を背負って苦労している人の境遇が思い浮かぶだろうが、それもそうなった経緯によっては自業自得な場合もありそうだから、不幸な境遇になってしまったからといって、何かの策略に引っかかってひどい目に遭ったというよりは、自らの慢心が祟って勝手に自滅してしまったような結果も想定できそうだが、それが資本主義経済の罠に引っかかった結果なのかというと、それでは説得力を得るには根拠が乏しいと思われるなら、偶然にそうなるのではなく必ずそうなるような結果が示されないと説得力を得られないのかも知れず、もっと確実な成り行きとして、資本主義経済が進展して行くと、一定数の割合で金持ちと貧乏人とに分かれてきて、それもごく一握りの金持ちが世の中の富を独占するような結果がもたらされると、何やら不平等で不公平であるような気になってくるから、多くの人々にそんな幻想を抱かせるのが資本主義経済の罠だといえば、何かそれらしい感じになってくるだろうし、しかもそれが幻想などではなく、現実の世界で実際に起こっていることだと言うなら、俄然説得力も出てくるかも知れないが、果たして本当にそうなっているのかというと、それに関しては何か腑に落ちないことがあって、そもそも富とは何なのかということについて客観的な事実を述べるなら、富とはごく一握りの人や集団が富を独占しないと、富としては機能せず意味がなく、誰もが平等に豊かになってしまったら、豊かなのではなく、程度として普通なのであり、豊かさの程度として格差が生じてきて、貧困と富裕とがセットになっていないと、豊かな人や集団が自分たちの豊かさを誇るようなことにはならないわけだから、例えばそれに関連して誰もが経済的に豊かになれるような幻想を振りまく政治勢力の宣伝には騙されるなと警鐘を鳴らすのが妥当な主張や意見にはなってくるわけだが、そうなった結果から見れば確かにそう思うのが妥当なところなのだが、そうなる途中の段階ではやはりその種の幻想を抱けるわけで、資本主義経済が発展し続けている段階で高度経済成長している最中であれば、その地域や国の中で暮らしている人なら自分たちがどんどん経済的に豊かになって行くことを実感できるにしても、そういう時期に運良く生きている期間が重なればそう思っていられるかも知れないが、そういう時期が過ぎ去って貧富の格差が拡大してしまった時期に生きている人なら、そんなのは全くの嘘のような気がするかも知れないし、嘘でないと思うなら、もっと何か新しいやり方によって誰もが豊かになれる状態を実現したいと願うかも知れないが、実際に人々のそんな願いや思いにつけ込んで何やらもっともらしい理屈や理論を宣伝している政治勢力も出現してくるだろうし、別にそれらの政治勢力の宣伝には騙されるなと警鐘を鳴らすまでもなく、まだそれらの政治勢力が少数派にとどまっている限りは、大半の人々がその種の政治宣伝に騙されてはいないことになるだろうが、それが騙すとか騙されないとかではなく、彼らの主張や意見が正しいなら、実際に誰もが豊かになれる未来が到来するはずだろうが、その豊かさの源泉が資本主義経済から生じている限りで、持続的な経済成長によって豊かになろうとしているわけだから、何かそこにごまかしと言ってしまうと語弊がありそうなのだが、その理屈や理論には根本的な欠陥があって、しかもその根本的な欠陥がないと豊かになれないという逆説的で皮肉な結論もありそうなのだが、そういうところが彼らも自説を宣伝している都合上、自分たちの説にとって都合の良いことしか言わないし、それを机上の空論だと言い放つほど彼らのごまかしに精通していないなら、黙ってそんな理屈や理論が今後どうなって行くのかを見守って行けばいいのかも知れず、大抵は一時的な流行現象で終わるのが関の山には違いないわけだが、その一方でそんな机上の空論とは違った成り行きも実際の経済活動の中で進行中であって、それが二百年前に起こった産業革命であり、また前世紀末に起こったIT革命であり、さらに今も現在進行形で起こっているAI革命でもあるわけで、そうした成り行きの中でうまく立ち回った人や集団が世の中の富を独占するような結果も起こってきたし、今も起こりつつあるのだろうし、それは今後も新たな産業革命の類いに伴って起こることかも知れないが、それが資本主義経済の中で起こって行く限りでそうなると予想しておくのが妥当に思われるとしても、それ自体が資本主義経済そのものを終わらせる可能性もあるかどうかも現状ではよくわからないところだが、そういう根本的な変革を云々するのではなく、一部で話題となっている机上の空論的な理屈や理論の類いが、現状の部分的な変更や改善をもたらすに過ぎないことであれば、少しはありそうなことになってくるだろうから、それが全くの嘘やまやかしではなく、一定の成果にとどまるような結果をもたらせば、宣伝する側もそれを大成功のように誇張したり強調するにしても、何かしら効果があったような気になることがあるかも知れないし、そうであるならこれまでの共産主義や社会主義やケインズ主義や新自由主義などに基づいた経済政策においても、それが一時的ではあっても何か効果があったから、それが実践されてきたのであり、たとえ悲惨で壊滅的な結果がもたらされても、それを試してみないと済まないような成り行きがそこで生じてしまったから、それなりの結果がもたらされたわけで、そうであるなら現状で宣伝されている理屈や理論であっても、今後何かのきっかけから机上の空論のままでは済まないような成り行きになれば、実際に試されて、それなりの結果がもたらされて、場合によってはそんな理屈や理論を試したこと自体が、まさに資本主義経済の罠に引っかかっていたことの証拠となるのかも知れない。


3月3日「バランス感覚とは違う何か」

 自分がわかっていないことを他人がわかっているなら、それによって何かのバランスがとれているわけでもないのだろうが、他人がわかっていないことを自分がわかっているからといって、それがどうしたと言われると何を言い返す気も起こらなくなるだろうが、それが政治的な主張になってくると、別に全面的に支持しているわけではなくても、現状の政治体制を変えた方が良いと思うなら、選挙で別の代替勢力へと投票すればいいだろうし、実際に無駄だとわかっても今まではそんな投票行動をとってきたわけで、現状の政治がひどすぎるから、たぶんこれからもそうなるだろうが、それも取り立ててどうしたわけでもなく、淡々と選挙の度に投票すればいいだけのことだが、自分のやっていることを他人に勧めるわけでもなく、勝手に投票しているだけのことでしかなく、そんな軽い気持ちで投票している自分とは全く関係のないところで、現状の政治体制の存続を画策している人や勢力もいるわけで、そんな人たちについてどう思うかと誰に訊ねられるわけでもないから、それも取り立ててどうしたわけでもないとは思わないし、何か嫌な気持ちになることは確かで、嫌な気持ちになったところでどうなるわけでもないが、自分一人ではそれらの人や勢力の画策を止めることはできないし、そうした画策が功を奏して現状の政治体制が今後も続いて行くなら、嫌な気持ちが持続するしかないだろうが、それもそんなに強烈に四六時中嫌な気持ちを抱き続けるわけでもないから、それとは別の気持ちも同時並行して続いて行くのかも知れないし、続かなければ忘れてしまうかも知れないが、忘れてしまっても選挙の度に嫌な気持ちを思い出すことになるかも知れないから、そうなったからといって取り立ててどうしたわけでもないところが、大したことでもないと言ってしまうと、何か脱力感を覚えるのだが、政治情勢がどうなったところで、そんなのは知ったことではないと思う人が大半を占めるような世の中になっているわけだから、そういうことだと現状を捉えるしかないわけだが、だからといって世の中の大半を占めている人たちもひどいと言えるかというと、確かにひどい面もあるのだろうが、そういうひどい面も含めて現状があるわけだから、ひどい状況の中で生きているとしても、ひどい人たちが世の中の大半を占めているとしても、自分がそのひどい人たちに含まれている面も少しはあるわけだから、それはそれでどうしたわけでもなく、自分が生きている範囲内では特にひどいことに関して不利益や不具合を被っていると思いたくはないが、気づいているところでも気づかないところでも、それなりに不利益や不具合を被っているのだろうが、その一方でそれなりの利益を得ていたり優遇されている面もあるのかも知れないし、もちろんうまく立ち回っているつもりにはなれないし、何か不器用でうまく立ち回れないからおかしな経緯や事情も抱え込んでいるし、そういうところはどうしようもないのだが、そんなどうしようもない人間でしかない自分でも時としてわかることがあるらしく、なぜかそのわかったことについて述べる成り行きに囚われてしまう時もあるのだが、本当にわかっているかどうかも怪しいのかも知れないし、わかっていないからこそわかったと思ってしまう可能性もなきにしもあらずだが、それでもわかったと思ったことについては時として語る成り行きに囚われてしまうわけで、今がそんな成り行きに囚われているかどうかも定かではないが、それがわかってしまったからといって、今の自分の力ではどうしようもないことも一つや二つではなく、世の中の様々なところでどうしようもないことが起こっていて、そのどうしようもないことが集中して連続的に起こっているのが政治に関する方面だとは思うにしても、そこでどうしようもない人たちがどうしようもないことを延々とやっているのは誰もがそう思うところだろうし、それが世界中でそうなのだから、もはや収拾がつかない状態が慢性化していると言えるだろうが、たぶんそれで構わないと言ってしまうと無責任な態度だと思われるにしても、やはりそんな無責任な態度でも構わないと思われるわけで、どうしようもないようなひどい人たちがどうしようもないようなひどいことを日々延々とやり続けているように見えてしまうわけだから、それはそういうものだと思うしかなく、そんなひどい状態を肯定するならそれで構わないと思うしかないわけだが、果たしてこんなひどい状態が今後少しでも改善するのかというと、その兆しは今ところは一向に感じられず、それどころか今の状態を放置しておくとさらに状態が悪化するような気配さえ漂ってくるだろうが、それでも構わないのかというと、やはり現状ではそれでも構わないと思うしかないのかも知れず、思っているから実際の行動に結びつくのであり、行動に結びつかない人たちはさらにひどい状態に至るのかも知れないし、少なくとも自分は行動に結びついているから、まだマシな方だと思うしかないだろうが、行動に結びついている人の中でも、状況を悪化させるような傾向へと誘われている人たちもそれなりにいるだろうから、そうなってしまうのも仕方のないことだとしても、そうなってしまう人に向かって何を言っても仕方のないことだとは思わないから、わかっている範囲内でそれを指摘するしかないにしても、その指摘が当たっているか外れているかも何とも言えないところであり、どう考えてもひどい状態を放置するどころか、それをさらに悪化させようと画策しているように見えてしまうのだから、そう見えてしまうのをどう考えても的外れや誤りだとは思えないわけで、それに関してはそれなりに確信があるからそうだと指摘するしかないわけだが、何がそうなのかと言えば、なぜかそれで構わないようなことであるなら、それも何か腑に落ちないところだが、自分でもそれではおかしいと思われるのだが、そのおかしいと思われることを指摘しなければならず、現状のひどい状態をそれで構わないと指摘したくなってしまうわけで、しかもひどいことをやっている人や勢力を取り立てて支持しているわけでも肯定しているわけでもないどころか、選挙ではそれとは別の勢力に投票しているわけで、その辺のところがかなり矛盾しているのだろうが、現状でひどいことをやりたい放題やっているように見えながらも、そんなことをやらざるを得ない成り行きへと追い込まれているようにも見えてしまう政治勢力に関しては、それで構わないから今後ともそんなことをやり続けていればいいと突き放して見ているとしても、彼らはそうならざるを得ない成り行きに囚われてしまってそれ以外にはやりようがない状態のままとなっているわけだから、それで構わないと見ておくしかなく、しかもだからといってそんな彼らと共に他の全てもおかしくなってしまうわけではないところが、微妙なのかも知れず、彼らがそんなひどい状態になっていることによって、そこから利益を得ているというと、それもちょっと違うのかも知れないし、場合によっては利益どころか損害も被っているとしても、なぜかそれで構わないような成り行きになっているわけだから、彼らの存在自体が形骸化していることは確かなのだが、形骸化して中身が空っぽとなっているのに、やはり執拗にひどいことをやり続けている現状があると共にそれでも構わないわけだから、結局何だかよくわからない事態となっているのではないか。


3月2日「逆説的な真実」

 例えば漫画の『ワンピース』の中で語られるような狭い人間関係の中で世界情勢が動くかというと、革命家のレーニンがイタリアの共産主義の未来を背負って立つ男だと見込んでスイスで熱心に指導した人物が、元祖ファシストのムッソリーニであることは名高い史実だが、そこから右翼を生み出したのが左翼であることを認められるかというと、多くの人たちが都合良く思考停止して、そんなことまでは思い至らないわけだが、意識して思考停止するわけではなく、右翼と左翼は対立するものだという先入観や固定観念に囚われているから、そんなことにまでは思い至らないのだろうが、逆説的な意味で格好の皮肉な事例が歴史的に生み出されているのに、あえてそれを利用しないというわけではなく、なぜか従来から信じられている思考的な枠組みに忠実であろうとするから、それを裏切るような事実を見逃してしまうのは、愚かであるよりは賢くあろうとする意志の表れだと理解しておけばいいのかも知れないが、そんなことにこだわるほど関心があるわけではなく、そんな史実を知っていたからといって、取り立ててそれを利用して何か利いたふうな意見を述べたいわけでもないから、大抵の人にとってそんなのはどうでもいいことにしかならないのだろうが、それよりは従来から信じているつもりの思考的な枠組みの範囲内で、そうなって当然のような結果を確認して安心したいのかも知れず、例えば国会で与野党が対立している中で、何やら識者や解説者や評論家ふうの人物がメディアを通して従来通りの政治的な立場から一歩も外へ踏み出さないありふれた意見を述べれば、それを安心して興味なく聞き流すことができるのだろうが、果たしてそんな立場の人物が自らに割り振られた役柄を裏切るような驚くべき意見が言えるかというと、言えないからそんな役柄を割り振られていると逆説的に物事を理解したいなら、そんなふうに物事を理解している自らも、そんな役柄を割り振られているように感じられるメディア関係者と共に、メディアによる支配体制を自身が支配されながら支えていることになるから、そう思っている当人には、それが社会を支配する体制だとは認識できないわけだが、その代わりに何かのちょっとしたきっかけを利用して、他の誰かがその人に割り振られた役柄からちょっとでもはみ出すようなことを述べると、その種の人物が烈火の如く怒り出してしまう事態に遭遇してしまうと、それなりに驚き動揺しながらも、そうなって初めて世の中では予定調和の如くに全ての物事が進行しているわけではないことを思い知るに至るわけで、誰の思い通りにも事態が進展するわけでもないが、たまには思い通りに進展して、それに伴って事前に言い放った予言や予想の類いが当たったことを自慢したくなってしまうのだが、では現時点で何を自慢したいのかと言えば、それが特に自慢したいようなことではなく、逆に思いがけず不意を突かれて驚くべきことが起こっていることに関しては、素直に感動したいのかも知れないが、たぶんその感動したいことについては何も語れないわけで、なぜそれを語れないのかは自分でもよくわからないが、それ以外のつまらないことに関してならいくらでも語っているつもりになれて、こうしてつまらないことに関して延々と語っているように装われているわけだが、何かそれが嘘をついていることになるとすれば、自らも語っているうちに思いがけないことに気づいて、それによって不意を突かれたような感じになって驚いているはずだが、世の中が変わるということは、その変化の程度が、自身に割り振られた役割分担からどれほどはみ出られるかで決まってくるというか、しかもその気になってもいないのに、思いがけないきっかけから否応なくそうなってしまう人が社会の中でどれほど出てくるかによっても、世の中の変化の程度が決まってくるといっても過言ではないのかも知れず、そうなると現状の世の中で安定した立場や地位を築いている人にとっては、世の中が劇的に変化してしまうのはまずいわけで、そうなりそうな気配を察知したらどういう行動に出るかはわかりきったことだが、実際に多くの人や団体による社会を防衛するための活動によって世の中が変化するのが阻止されてきた経緯がありそうなのだが、それにもかかわらず今も絶え間なく世の中が変化し続けているとすれば、それらの人や団体の力が及ばない範囲で世の中が変化し続けていることにはなるにしても、たぶんそれらの人や団体とは無関係なところで変化し続けていると共に、無関係ではないにしても気づきにくいところでも変化し続けているはずだが、それに気づいているのに変化する傾向を押しとどめられないとなると、なぜそうなってしまうのかといえば、変化した方が利益になるからと安易に考えても構わないのかも知れず、それが功利主義に塗れるきっかけとなるのだろうが、それを主義と見なすのも安易すぎるかも知れないし、ただ単に利益を求めてしまうから、そうした欲望に忠実に従う限りで、利益を得ることに成功しても失敗しても、それ以前とは何かしら変わってしまうわけで、それが資産額であれば数値的にもわかりやすいし、安易な気持ちで持ち合わせている資産額を増やそうとして、それに成功したり失敗したりしてしまう成り行きになれば、まさにカジノ的な成り行きに囚われていることにもなりかねないが、たとえ現状がそんな成り行きになっているとしても、その中でも変化がそれだけとは限らないなら、世の中の変化に合わせて自分も他の人や団体も変化し続けていて、その変化に身をまかせていればうまく行くような気がするわけで、そんな気がする人が多ければ多いほど世の中の変化も加速するのかも知れず、実際にそうなっていることを実感しているようなら、その変化を押しとどめようとする人や団体に対しては何か嫌悪感のようなものを感じるのかも知れないが、多くの人々がそうした嫌悪感に忠実に行動すれば、やはり世の中の変化が加速するわけで、その際には変化している中でもうまく立ち回ってより多くの利益を得ようとしてしまうだろうが、そんな思惑が空振りして思わぬ事態に巻き込まれてしまうから、思い通りには行かないことを痛感させられるかも知れないが、それが取りも直さず世の中の変化そのものなのかも知れず、世の中が変化してしまったから今まで通りの考え方ややり方ではうまく行かなくなってしまうわけで、そこで反省して考え方ややり方を改めるような成り行きに直面すれば、実際に自身が関わっている範囲内では今までの考え方ややり方が通用しなくなって、こんなことをやっていてはダメだと思い知ったから、ムッソリーニも共産主義を捨ててファシストへと左翼から右翼へと衣替えや鞍替えをしたのかも知れないし、それがうまく世の中の時流に乗ってファシスト政権を打ち立てることができたのだろうが、その結果がどうなったかは、今となっては誰もが否定的な評価を下したくなるのかも知れないし、当時の世界情勢の中では一時的にはうまく行ったわけだが、現代の日本でも一度目の悲劇に続く二度目の茶番劇として、大阪辺りで何やら雲行きが怪しくなっているわけだ。


3月1日「積極財政派と重農主義者」

 何か嫌な予感がするというのもよくわからないが、たぶん今後そのよくわからない何かが起こって、思わぬところからそれが自分に関係してくるのかも知れず、よくわからない段階でそんなことを考えても意味のないことかも知れないが、そのきっかけを掴んだような気になって、気になったことについて語らなければならないのかも知れず、それに関して現状で気になっていることというのが、積極財政派を自認する人たちの盛んな煽り立てであり、それらの人たちが以前から財務省陰謀論を煽る人たちとも合流しながら、盛んに緊縮財政だと今の政府の財政政策を批判しながら、彼らにとっては必ずしも的外れとはならないことを日々メディア経由で主張しているように見えるのだが、気になっているのが彼らが強弁している内容ではなく、それとは全くの無関係に感じられるような18世紀のフランスの重農主義者たちが主張する自由主義的な経済政策や経済運営なのだから、それとこれとがどう結びつくのかよくわからないのだが、マルクスがスミスやリカードなどの古典派経済学に分類される経済学者たちを執拗に誤っていると批判する一方で、フランスの重農主義者たちの方が進んでいたと述べているのが、何かの症候的な傾向として、では実際に重農主義者たちが何を述べていたのかが気になるところだが、それ以前にマルクスの労働者が資本家に搾取されている的な紋切り型の主張を踏襲しているのが、現代の積極財政派であるだけに、積極財政派の方は大企業から搾取される零細個人事業者や中小企業経営者の味方を装うのだから、王国の官僚機構の側から、レッセフェール(自由放任)という意味で政府が企業や個人の経済活動に干渉せず市場のはたらきに任せることを主張する自由主義的な重農主義者たちとは立場が異なるどころか、それを規制緩和の新自由主義だと批判したいわけだから、立場が真逆なのかも知れないが、怪しいのが経済弱者の味方を装いながら民衆からの支持を集めようとするところなのは、社会主義や共産主義と似たような態度なのかも知れないし、そこに積極財政を絡めるところが社会主義や共産主義とは少し違うところだとしても、重農主義者たちが国の経済的な困窮を救おうとしていたのと重なる部分もあるだろうから、積極財政派だけがどうだというわけではなく、そういった傾向に何か根本的におかしい兆候を感じられるのだから、それが彼らがおかしいということではなく、彼らも含めておかしな成り行きに囚われているように感じられるところが、どう表現すればいいのか今のところはよくわかっていないのだが、それに関してミシェル・フーコーが『君主論』のマキャベリと重農派との間の決定的な違いとして指摘しているのが、マキャベリが君主個人が自分の治める王国をどう統治するのが良いかを論じているのに対して、重農派は王国の中にいる民衆を個々人ではなく人口として捉えて、その人口を増やすことが王国の繁栄につながり、多くなった人口を養うためにも経済を発展させなければならないと考えているわけで、そういうところが現代の積極財政派の主張の中にも受け継がれていて、彼らも日本の人口の減少が経済の衰退につながってしまうから、積極財政政策によって経済を立て直して人口を増やして国を繁栄させなければならないと主張しているようにも感じられるところが、民衆を一人一人の個人ではなく、人口として論じてしまうから、そんなのは現代ではそう論じる以外にはあり得ないことではあるにしても、マキャベリが生きていた時代ではあり得ないことだったのかも知れないし、一人一人の個人や、また家族や一族ではなく、人口という概念が登場してきたことによって、それ以前と以降とでは国家統治に関して何か重要な違いが生じているのだろうが、そう論じるのが当たり前となってしまった現代では、それをどう表現すればいいのかわからないわけで、少なくとも民主主義や国民主権のレベルでは、個人の立場として国家権力と個人との関係から権利や義務などの取り決めが問題となってくるはずだが、その一方で人口が増えたり減ったりすると困ったことや有難いことなどの有利不利となってくることが出てくるにしても、それも漠然とした感触としては国家が繁栄すれば民衆も幸せになるような感じがするかも知れないし、果たして人口減少を食い止めることも政治的な課題とはなってくるが、それを個人の立場からどう捉えたらいいのかというと、確かに過疎化によって行政サービスや公共交通や公共インフラなどの維持の面でも困った事態になると言われると、それなりに納得できるところはあるにしても、それでも何か違和感を覚えるわけで、その違和感の対象となる症候的な傾向として、積極財政派による左翼やリベラルな人たちに対して経済音痴だとか呼ぶ小馬鹿にするような態度になるのだとしても、個人の人権を尊重することが左翼やリベラルな人たちとしては当然の態度なのだが、それとは全く違うレベルで人口として経済情勢を捉えてしまうわけだから、個人の人権の尊重より国家の人口状態を優先しているわけでもないだろうし、かつてマルクスがマルサスの人口論を激しく批判して、人を人口として捉えるのではなく一人一人の労働者として扱わなければならないと言ったかどうか定かでないが、それに関してはシカゴ学派の新自由主義経済学者の中にも、個人を経済的な存在として捉えて、個人が生まれてから死ぬまでの経済活動の収支とその過程で生じてくる就職や結婚や子育てなどイベントの満足度の関係から良し悪しを判断するような研究もあるらしいのだが、法律や制度が個々の個人に対して権力を行使する装置だと感じられるとしても、それとは別レベルのところで世論調査に関連した世論誘導の対象となるのが個々の個人だと思うのも、もしかしたら勘違いなのかも知れず、そういった作用や影響を及ぼす装置がマスメディアであることは誰もが承知しているところだが、そんなふうに個々の個人が思っていること自体が、個々の個人の存在などどうでもいいわけではないにしても、それをひとまとまりの人口として捉えて統計的に一定の傾向が出てくればそれで構わないようなことだとすれば、それと自覚することなく個人の人権など大した価値も感じられないだろうから、それに気づいているわけでもないにしても、症候的な傾向として左翼やリベラルな人たちを小馬鹿にする態度となって表れているような気もしてくるわけだが、そうでなくても積極財政派に対しては不快な感じがしてしまうわけだから、たとえ彼ら自身が人権を軽視しているとも思わなくても、それが18世紀の重農主義者から影響を受けているとは夢にも思わないだろうし、そんなことがあるわけがないとも思われるにしても、たぶん微妙なところでそれらに関わってくる人々の気づかないような何かを生じさせているのかも知れないし、そんなことに気づく必要もないのだろうが、今後それが明らかになってくることもないかも知れないが、相変わらず経済的なレベルでは人を人口として捉えないと成り立たない論理や理屈があるのかも知れない。


2月29日「その場の成り行きに従うこと」

 社会が国家的な形態を伴っている中で人が既存の法律を守りながら既存の制度を利用するように仕向けられているからといって、世の中がそれだけで成り立っているわけではないのは誰もが理解しているところだが、それでもそこで有力者や有力団体が権力を行使して自分たちにとって都合の良い法律や制度に変更しようと画策する一方で、都合が悪ければ平然と法律を破ったり制度の裏をかいて自分たちに利益がもたらされるようにしたいのだろうから、そういうことも含めた上で人々の生活や活動が成り立っていたり、場合によっては成り立たずに部分的にも全面的にも破綻しているような事態の中でも、誰もがとりあえずは死ぬまでは生きているのだとしても、果たしてそれだけでは済まないような成り行きに誰もが囚われているのかといえば、生きているだけでは済まないならうまく立ち回らなければならないとは思えないにしても、自分だけが貧乏くじを引かないようにうまく立ち回ろうとはするだろうし、それなりに無い知恵を絞って工夫を凝らして、うまく立ち回るだけではなく、自暴自棄にならないようによく生きようとはするはずだが、そうしようとして結果的にそうなるわけではなく、必ずしもそうはならないから苦労が絶えないし、しかもそうはならない成り行きを逆手にとってそんな事態を積極的に利用したり活用するような成り行きにならないと、結果的にはうまく行かないわけだが、もちろんそんな成り行きに従ってみたところで、うまくは行かない場合もあるわけだから、結果的にどうなればうまく行くか行かないかは、全てがその場の運次第というわけでもないにしても、利益を得ようとしてうまく立ち回ろうとするか、それとは逆にどう考えても損するようなこだわりを抱きながら、強情な態度や姿勢を貫き通そうとするかも、それも必ずしも自らの意図や思惑に沿った行為や行動が伴うわけでもないから、自らの意志や意向を自分で裏切ってしまえば自業自得だが、結果的にはそれで構わないような感じになってしまうと、それをどう受け止めてもしっくりこないような困惑を覚えるしかないが、少なくとも自分だけの力に頼るような成り行きにはならず、自分を取り巻く周囲の状況に逆らわないような感触を重視したいのだが、だからといって全ての成り行きに従うわけでもなく、なぜか逆らってしまう成り行きにも囚われてしまうわけだから、どうなればその場の成り行きに従って、どうなれば逆らうかの判断を前もって決められるわけでもなく、それもその場の状況や情勢に応じて従ったり逆らったりするわけだから、それを結果から振り返ってみれば、何やら法則のような一定の理屈や論理が見えてくる場合もあるにしても、いつもそうなるとは限らないから、出たとこ勝負のような場当たり的な対応や対処になれば、そこではそういうことだと思うしかないのだが、そういつも何時でも何かの岐路に立たされているとは思えないのだから、それが乗るか反るかの大博打というわけではなく、逆に石橋を叩いて渡るような場面でもないとすれば、では何なのかといえば、何でもないような日々の日常のただ中で取り留めのない幻想や妄想に囚われているに過ぎない場合もあるとしても、それでも一応は誰もが生きているわけだから、メディアを介してもたらされる世間の話題に反応して、それも絶えず批判的な態度で物事を見ているばかりでは埒があかないから、それを実際の自らの活動に連動させて何らかの肯定的な結果となって実を結ぶような成り行きへと持って行きたいわけだから、それに対して部外者のような冷笑的かつ皮肉な態度で斜に構えてしまうのは改めなければならないだろうが、感触としては改める必要などこれっぽっちも感じていないから、それが否定的な結果に終わることを確信していて、それに連動して世の中の成り行きもこれから否定的な方面へと向かって行くのかというと、確かにこれまでの成り行きの延長上ではそうなるとしても、そこから外れる方面ではそうとも言い切れないかも知れず、それによってこれまでの成り行きの延長上でうまく立ち回ろうとしている人や団体などの思惑を外れる結果をもたらせば、そこでうまく立ち回って利益を得ようとしていた目算が狂ってしまうから、その煽りを食っておかしな事態が起こってしまうどさくさに紛れて、それらの人や団体とは別の人や団体にも利益を得る機会が巡ってくるのだろうから、そういうところで機会をとらえて利益を得なければならないのだろうが、果たして現状でそんなまたとない絶好の機会が自らに巡ってきているのかというと、それがこれから活動した結果からわかればいいのだが、たぶん得られるものが利益とは限らず、利益でなければ何なのかといっても、それも実際に得てみないことにはわからないのかも知れず、また得たところでそれに気づかない場合もあるから、その機会を逃してしまったように思われるとしても、それが勘違いである可能性もあるから、ここから先にどんな結果が待ち受けていようと、たとえ何があっても何が起こっても、最後の最後まであきらめないことが肝心だとも思えないが、別にあきらめてしまっても構わないのだろうが、そんな自らに関わってくる事情や経緯など無視して世の中の物事が進行して行って、自らの意志や意向とは関係のない他の然るべきところで重要な意思決定などが下されて、それに基づいて何やら今後の世界情勢を左右するようなことが行われるとしたら、現状の自分が世界にとっては何でもない存在だと思い知るわけでもなく、自らにはあずかり知らないところで絶えず何らかの出来事や事件が起こっているに過ぎないのだろうが、そんな出来事や事件をメディア経由でいくら知ったところで、確かに自らにとっては何でもないことには変わりないし、果たしてそんな自らがただの傍観者に過ぎないのかといえば、そうではないと主張したい人や勢力も世の中には存在しているから、そこでそんな人や勢力に関わろうとして何らかの行動が伴ってくれば、何やら当事者としてこの世界とつながっている気にもなりそうだが、それが何の当事者なのかもどうでもいいところかも知れず、関わろうとするこの世界自体がそれほど大げさな世界ともならないわけで、そんな感触に従いながらただの部分的で枝葉末節な程度のところへと誘われて、そこで自給自足するように仕向けられてしまえば、相変わらず何でもないことには変わりないはずで、メディアでも見すぼらしい身なりの人たちが、他の誰からも相手にされないような状況の中でどうでもいいような文句を垂れているように見えてしまう限りで、人畜無害な存在として扱われているのかも知れず、そんな世間の無関心に抗う必要も感じられなければ、特にそれに対しては何も語らなくても構わないわけだが、それでもそれとは違う方面で何も語る必要も感じなくても、自然に言葉が繰り出されてくるなら、自らが積極的にそれを語ろうとしているわけではなくても、他の何かによって語るように仕向けられてしまっているわけだから、そんな成り行きには黙って従うしかないわけだ。


2月28日「思惑の違い」

 国民主権や民主主義を何のねじ曲げもこじつけもなしに通常の意味を伴って理解している人なら、政府が積極的に少子化対策などやるべきではなく、人が結婚しようが子供を産もうがその人の勝手であることも理解できるかも知れないが、やっても構わないのは経済対策までで、経済が好調なら税収も増えて財政状況も好転する程度の感覚で構わないはずだが、そうはいっても人気取り政策としてやりたくなってしまうが少子化対策の類いにはなってくるだろうから、結婚したり子供を産んだら税制の面で優遇したり、補助金を支給するようなことまでやりたくなってしまうのだろうが、それ以上に何かやる必要があるかというと、その程度で構わないというか、そういうのは本質から外れた枝葉末節な方面になってくるだろうから、それ以上のことをやるとなると、他の政策との間でバランスが崩れてしまうだろうから、それ自体がこれといって力を入れるようなことにはならないかも知れないが、それが国民に向かって媚びを売るようなこととして煽り立てられる成り行きになってくると、それ相応に政治宣伝の傾向を伴ってきて、それこそが最も重要な政治課題だとか言いたくなってしまう人も出てくるかも知れないし、そういう成り行きの延長上で他の政治課題も、例えば国防だとか憲法改正だとか、そっち系の人々から支持を得るために煽り立ての政治宣伝が行われてきたのだろうが、それが国防に関してなら、中国の台湾への軍事侵攻の次は沖縄が危ないとか煽り立てられると、与那国島や石垣島や馬毛島など離島での自衛隊の基地整備に多額の防衛予算が使われたり、憲法改正こそが戦後政治の総決算だとか煽り立てられると、緊急事態に対応しなければならないとかの強引なこじつけ論が国会の憲法審査会などで横行したり、もちろんそれと少子化対策とは何の関係もないことだろうが、そういう人気取り政策ではなく、実質的な効果を生む政策としては、結婚しやすいように選択的夫婦別姓を容認したり、子育てと仕事を両立しやすいように、公的な託児施設の拡充を図ったり、そういった行政面でのサービスを充実させる必要がありそうで、その延長上で教育の無償化というこれまたあざとい人気取り政策も出てくるわけだろうし、しかもその中身が詐欺的な内容だと批判されている面もありそうだが、政治や行政から力を及ぼして社会を制御したりコントロールしようとする思惑を個々の政治家や行政官僚などがあからさまに抱いているわけでもないにしても、成り行き的にはそうなってしまう傾向があるだろうから、それをどう捉えても、その良し悪しなどよくわからないし、そういう人たちはそういう成り行きに囚われているのだからそういうことをやってもらうしかないのだが、一般の人たちがそんな人たちの思い通りに動くわけでもないし、国家繁栄のために結婚して子供を産まなければならないとは思わないだろうから、そういうところで思惑の違いが表面化してくるのだろうが、そういう意味では昔よりは馬鹿で愚かな民衆が少なくなってきたから、誰も多大な犠牲を払って子育てなどやろうとはしないだろうし、子供のために自分の人生を棒に振りたくはないだろうから、結婚したり子育てすることが自分たちにとってプラスとなるように思われないと、誰も好き好んで嫌な思いを伴う苦労などしたくはないはずで、いくら統一教会のように見えすいた道徳教育などによって洗脳活動を活発化させたところで、金銭などの搾取を伴ってひどい目に遭うことが明らかとなった後では、もうその手には引っかからないと見ておいた方が良さそうで、少なくとも民衆を騙すようなことはやらない方が事態をこれ以上こじらせないためには妥当な対応となるだろうから、無理な人気取りはやめた方がいいといっても、政治家の習性としては無理なことをやらざるを得ない成り行きになってしまうだろうから、一般の民衆の方でも政治や行政に過大な期待をかけない方が身のためなのかも知れず、おかしな方面へと誘導する政治宣伝の類いには引っかからないようにしたいところだが、その一方で人はもっと否定的かつ受動的な成り行きに囚われながら、世間的な体面や体裁を取り繕うために結婚せざるを得ないような境遇へと追い込まれたり、周囲の同調圧力に屈して子供を産んで子育てするような成り行きに従わざるを得なくなるわけだが、そのためには経済的な裏づけがないとできないし、高度経済成長時の貧乏子沢山のような家族形態が不可能となるような社会へと世の中の状態が進化してきたわけで、それを進化と呼ぶか衰亡や衰退と呼ぶかは見解の分かれるところかも知れないが、そういうところでも昔のような成り行きにはなりづらいというか、世界を見渡せばインドやアフリカや中南米のようなこれから経済開発が行われようとする地域では、高度経済成長の夢が実現しつつあるのかも知れないが、それと共に経済成長がもたらす負の側面も色々と出てきているのだろうから、過去のそういう成り行きをすでに通り過ぎてきた日本から見て、それらの地域を羨むには及ばないだろうし、それよりは欧米的なリベラルの理想を追い求めたくなるようなないものねだりにも反発や反感を抱く人も少なからずいる一方で、それらのどちらでもないような道を歩んでいることを認めたがらない人たちも少なからずいるだろうから、少なくとも日本には国家的な目標がないことを自覚する必要がありそうで、それを自覚した上で個々の人がどう生きるかが誰にとって問題となっているわけでもなく、大抵はそんな自覚もなくただ生きているに過ぎないだろうから、そんなことには興味も関心も抱く必要のない何でもないような大衆市民社会の中で生きて死んで行くだけだろうが、そういう成り行きを自覚することもなく受け入れながらも、それとは違うおかしな幻想や妄想を抱いてしまうわけでもなく、そういう成り行きに沿って取り立てておかしいとも思えない幻想や妄想を誰もが抱くわけで、そうした幻想や妄想が高じて政治家を目指す人も中には出てくるから、すでに政治家になった時点で心がこじれていて、それなりに面倒な幻想や妄想に囚われているから、その種の使命感から世の中を制御したりコントロールしようとするのだろうが、しかも悪意ではなく善意からそうしようとしていて、普通に多くの国民を幸福へと導きたいのだろうから、その目指すべき国家の幸福な理想状態というのがヤバそうな代物だと、それに反発したい人や反感を抱く人にとっては大きなお世話だと思われるわけだろうが、それが全体的な傾向というわけではなく、狭い専門領域で専門用語を駆使して自身や自身が所属する勢力に利益をもたらそうとする成り行きになれば、その種の専門家としての立ち回り方が機械仕掛けのロボットのような挙動も伴ってくるのかも知れないが、そのどちらにしても、それが大衆市民社会からもたらされて他の多くの人々から共感を得られるような幻想や妄想として機能する限りで、政治家や官僚などの目的意識にも影響を及ぼしてくるのではないか。


2月27日「確信と疑念」

 必死になって何かを訴えているのだから、訴えている内容に関しては正しいという確信があるはずだが、その一方でそれをそれほど信じているどころか、絶えず疑念を抱いている自らを信じられないわけでもないが、必死になって何かを訴えている人が囚われている理屈や論理が、その人にとっては信じられる理屈や論理だとしても、その人とはそれなりに立場や境遇の異なる自らにとっては、そうでもないことを確信せざるを得ないとしたら、なるほど心を打つような必死な訴えかけにも揺るがない確信を抱いてしまうのだから、その人が確信しているように思われる論理や理屈の正しさが、その人とは立場や境遇が違えばそれほど正しいとも思われない程度だと思われるだけに、とりあえず暫定的に信じられるのは、誰かが正しいと確信している論理や理屈の相対的な信用度となるわけだが、なぜそうなるのかというと、人によって立場や境遇が異なるから、その人の立場や境遇にとって都合の良い論理や理屈も異なり、もちろん都合の悪い論理や理屈も異なってくるのだろうが、都合が良かったり悪かったりする論理や理屈だけではなく、どちらでもあったりどちらでもないような論理や理屈もありそうだが、果たして人の都合とは無関係な恒常的に正しかったり間違っているような論理や理屈があるかというと、もしかしたらあるかも知れないが、少なくとも現時点ではそれに気づいていないし、気づいたところでそれが何の役に立つとも思えず、自分にとって都合の良い論理や理屈は役に立つが、都合の悪い論理や理屈は役に立たないどころか、自分に害悪をもたらす可能性さえあるかも知れないし、そんな論理や理屈は信じない方が身のためかも知れないが、そうではなく、果たして誰にとっても信じられるような論理や理屈があるかというと、信じられたところで役に立つとは限らないかも知れないし、それを信じたり信じなかったりするのと役に立ったり立たなかったりするのも、その人の立場や境遇によって異なってくるとしたら、誰にとっても信じられたり役に立つような論理や理屈などないことにもなってくるだろうが、それがあるだのないだのではなく、それが何かが問題になってくるわけで、具体的にどんな理屈や論理が問題となってくるのかと言えば、そこからもっともらしく感じられそうな主張や意見を構成できそうな論理や理屈になるようなら、それと共に疑念も感じられてくるかも知れず、そんなわけでもっともらしく感じられる論理や理屈を用いるのはもろ刃の剣を使うようなものなのだろうが、しかもそれが日常的に使われる論理や理屈になってくると、そこから利害関係も生じてくるだろうから、利益が出れば都合が良く損害が出れば都合が悪いことにもなると、ますます人の立場や境遇によって是非を伴う論理や理屈になってしまうだろうが、例えば自分にとって都合の良い論理や理屈を用いて他人を批判しているとしたら、それが自分の立場や境遇では都合が良くて批判している他人の立場や境遇では都合の悪い論理や理屈になるかというと、それに関して最近巷で話題となっている積極財政派にとって都合の良い論理や理屈であるなら、その積極財政派が批判している緊縮財政派にとっては都合の悪い論理や理屈になるかといえば、もちろんその逆に緊縮財政派にとって都合の良い論理や理屈なら、その反対の積極財政派にとっては都合の悪い論理や理屈になるはずだが、そうなると何が都合が良くて何が都合が悪いのかといえば、当然国債の発行に関して都合が良かったり悪かったりする論理や理屈になるはずで、こうなれば都合が良くてその逆になれば都合が悪いと言えるだろうし、その際に自分たちの主張や意見の良し悪しを際立たせるために極端な事例を持ち出して、ハイパーインフレだのスタグフレーションだのになったらどうするのだとその危険性を煽るのだろうが、そうなると積極財政派としては自分たちにとって都合の良い条件を設定して、国債を発行してもそうはならないと主張する一方で、彼らが批判している緊縮財政派の方が、あり得ない条件を設定して起こり得ない危険性を煽っているのだと批判することになるわけだが、その際の条件設定のさじ加減によってどちらが有利となってどちらが不利となるかが主張や意見の相対的な程度になってくるのだろうから、そこでどちらにとっても都合の悪い条件設定が可能なら、そこで煽り立てられている積極財政派と緊縮財政派との対立軸が幻想やまやかしに過ぎなくなってくるのだろうが、果たしてそんなどちらの派も無効化するのに都合の良い条件設定が可能かというと、それが仮想の条件設定ではなく、現状の世界情勢の中で成り立っている条件なのかも知れず、実際に各国の政府が行なっているのは、どちらの側にも目配せをしながら、なるべく均衡を保つような財政を目指しているのかも知れないし、少なくともハイパーインフレだのスタグフレーションだのの極端な事態に陥らないような程度の財政状態にしたいわけで、そういう意味では積極財政一辺倒でも緊縮財政一辺倒でもなく、財政破綻をきたさない程度の国債の発行額や財政支出にしたいのだろうし、実際に財政破綻していなければ、それに成功していると言えるだろうから、そうなっている限りで財政収支の均衡が保たれていて、積極財政でも緊縮財政でも、どちらでもあってどちらでもないような状態に保たれていることになるはずだが、結局はそれもまやかしの対立軸といってしまうと身も蓋もないことになってしまうが、根本的なところで通常の予算配分としてどの政策にどれほどの予算を配分するかを決めて、それを具体的な政策として発表すれば済むことにはなるだろうし、もちろんその際には不況だから減税しろだの、すでに大量に国債を発行し過ぎているから、あまり新規には国債を発行できないだのの事情も生じてくるのだろうから、そうやってその場の経済情勢や財政状態も絡んでくる限りで、だから緊縮財政ではダメなんだと積極財政派に批判の口実を与えてしまうことになるとしても、そういうところはのらりくらりでやっているのだろうから、あまり深刻に事態をとらえるようなところではないのかも知れないし、そんなやり方を国民が許容している限りで、現状の政権が継続されるだろうから、そういう意味では国民が貧困になろうが飢餓に苦しもうが、現状の政権にとっては大したことではなく、統治が成り立っている範囲内で北朝鮮やロシアなどでも国民が抑圧されながらも我慢を強いられているのだから、それに比べれば日本の現状などはかなりマシな方なのかも知れず、現にそう思っている人の割合がどれほどいるかで、許容限度にも相対的な程度の差が生じてくるだろうから、そういうところもこれからどうなって行くかで、財政状況や政治情勢や経済情勢などが絡み合いながら、結果的にその財政状態が積極財政だの緊縮財政だのの基準からどれほどの程度で収まっているかで、その状態の相対的な良し悪しが云々されてくるのではないか。


2月26日「正しい主張と間違ったやり方」

 主張していることの大前提として、ある種のイデオロギー的な禁句として思い浮かぶのが、資本主義的な経済活動が間違っている一方で社会主義的な経済活動が正しいという主張であるなら、彼らが主張していることが間違っているのではなく、正しいことを主張しているからこそ、結果的に彼らがやろうとしていることがうまく行かなくなるはずがないと思いたいだろうが、逆にうまく行かなくなるからこそ、うまく行かないことの埋め合わせとして正しいことを主張しなければならないとは言えないはずだが、では本当のところはどうなのかといえば、絶えず正しいことを主張しなければならない一方で、間違ったことが行われていないと、正しい主張との間でバランスが取れないとは思っていないにしても、その正しい主張というのが、間違ったことが行われているからそれを批判する内容となる限りで、そういった行われていることを批判するための正しい主張が成り立つには、絶えず世の中で間違ったことが行われていなければならないわけではないはずだが、実際に間違ったことが行われているからこそ、それに対する批判として正しいことが主張されているわけで、ならば世の中で正しいことが行われていれば、それに対して批判できなくなってしまうから、正しいことを主張できなくなってしまうかといっても、実際にはそうはなっていないわけで、そこで批判が起これば、何か間違ったことが行われているから、それが批判されるだけのことであり、その批判の内容が正しければ、その批判の対象となる行為や行動が間違っているから批判されているわけで、少なくともまずは批判されている対象となる間違った行為や行動があるから、それに対して批判が行われていると認識する以外にはあり得ないわけだが、それにしても批判しようとしているのが社会主義的な経済活動ではなく、資本主義的な経済活動であるとするなら、ではその資本主義的な経済活動の何が間違っているのかというと、それが新自由主義だから間違っていると主張することが、果たして正しい主張となるのだとしたら、では現状で新自由主義的な資本主義以外に何があるのかということが、何やらそれを社会主義だとか共産主義だとは口が裂けても言えないだけに、その辺からイデオロギー的には苦しい言い訳に終始するようになるわけでもないのだろうが、妥協的な物言いとなるとケインズ主義だとかの助け船が通用しているように装いたいのだろうが、新自由主義的な小さな政府を批判して大きな政府を実現することが社会主義や共産主義ではないと主張したいわけだから、そこでも助け舟となる通貨や国債などに関する理論や理屈が必要となってくるのだろうが、そういうところでもそれほど主張の正しさを演出することに苦労しているわけではなく、ともかく20世紀に起こった社会主義国の失敗を左翼の失敗と見なして批判するわけだから、そうなると新自由主義的な経済活動を左翼に絡めては批判しようがなく、そこからイデオロギー的に苦しくなるのは当然だとしても、果たして現状で成功している資本主義経済を新自由主義ではないと言いたいなら、他の何だと見なしたいのかということが、物凄い矛盾を感じさせるのだが、それでも何とかして資本主義にしがみつこうとするわけで、実際に世界中で行われている経済活動が何かといえば、紛れもなく新自由主義的な経済活動なのだから、それに対して正しい批判を主張したいなら、素直に左翼的な批判をすればいいのだとしても、その一方で資本主義経済を肯定するためには、新自由主義ではないやり方を編み出さなければならず、その辺からケインズ主義などを引っ張り出してもっともらしい主張として取り繕いたいのだろうが、その一方でそのケインズ主義への批判として世界的に出てきたのが新自由主義であるわけだから、そういった歴史的な順序を都合良く忘れたいわけでもないのだろうが、全ての元凶というのが自分たちが左翼であることを認められないという滑稽極まりない了見の狭さにあるわけではなく、それが新自由主義ではあっても、小さな政府を実現する新自由主義ではなく、逆に大きな政府を実現する新自由主義であるからこそ、新自由主義を批判する新自由主義のような自家撞着を起こしているわけで、新自由主義を批判している自分たちが新自由主義陣営に入っていることに気づいておらず、しかもそれが大きな政府を実現する新自由主義であること自体もかなりの無理を伴っているとも思っていないし、果たしてそれが正しい主張となっているのかと問われると、政府を批判しているから正しいと思われるのだろうから、そういう面では正しいと思っても構わないし、その正しい主張が実践の場で活かされる機会が巡ってくることを願ってやまないのだが、実際に現状の世界で行われている新自由主義的な経済活動が、アメリカへの富の一極集中となって貧困と移民と戦争と難民をもたらしているわけだから、それを批判していれば主張の正しさを装えるわけだが、果たしてその新自由主義的な経済活動が間違ったやり方なのかというと、それによって経済的に繁栄しているわけだから、間違っているどころか正しいと言ってしまうと、ではそれに対する批判が間違っているわけでもないだろうし、経済活動による負の面がもたらされているところでは批判の正しさが意識されると共に、経済活動によって繁栄している面では新自由主義的な経済活動の正しさが証明されるだろうから、間違ったやり方とは言えないだろうが、各国の政府の財政規模も年々大きくなっているわけだから、それをどうにかして積極財政と緊縮財政の対立軸に嵌め込んで批判に活用している範囲内では正しいことを主張していることになっているはずだが、その種の主張の正しさをどの程度信用できるかというと、少なくともどの政府もどの政治家もどの官僚も間違ったやり方を実践しているとは思っていないわけだから、自身の都合に合わせて正しいことをやっていると思っている範囲内では正しいことが行われているはずだが、それを批判する側からすればそれが間違っているはずだから、それを批判する側の主張の内容がもっともらしく感じられる範囲内でその正しさを信用しておけばいいとしても、逆に信用できないところがどこかというと、それらのイデオロギー的な面であり、彼らが左翼とかリベラルとか社会主義とか共産主義とかに関連して、感情的な拒否反応を起こしてしまうところが、何か逆イデオロギーに洗脳されているような傾向を伴ってくるから、そういう滑稽な面は信用しない方が良いだろうし、場合によっては彼らを強い表現を伴って差別主義者と見なして敵対しても構わないが、大ざっぱなところでは彼らも含めて左翼と呼ばれる陣営に属しているわけだから、それが右翼であろうと立場的には左翼であるところがわかりにくいかも知れないが、その種の内部対立は内ゲバだと受け止めておくのも妥当な認識かもしれないし、少なくともその種の連合赤軍的な内部対立の内ゲバの類いには関わらない方が身のためなのではないか。


2月25日「雲泥の差」

 過去にどういう経緯でそんなことが起こったとも思えないが、すでに起こってしまったのだから、それを忘れようとしても忘れた頃に不意に思い出されて、思い出す度に嫌な気分になるわけで、実際にそうなっているのだからそこで何も起こらなかったわけではなく、何かが起こったからそれについて執拗に言及しているはずだが、それについて言及しているのだから、それが何だかわからないはずがないわけだが、わざと記憶にないと述べることが、そう述べる人にとっては都合の良いことであるはずもなく、それが病気としての記憶喪失でなければ、すぐに忘れてしまうほど印象に残らないようなことなのかというと、そうであっても構わないはずだが、本当に忘れてしまったのかというとそうでもないから、逆に今こそそれを思い出してほしいのだろうし、実際にそれを思い出す機会がやってきたはずだが、都合の良い時に限って、都合の良いことがなかなか思い出せないのに、都合の悪いことなら思い出そうとしなくても、都合悪くすぐに思い出されてしまい、それがトラウマとなっているから、それを思い出す度に心が痛むわけだが、そんな心的外傷をもたらした出来事とは何かと問われても、それについてはしらばっくれて一切何も語らないつもりなのだろうが、その代わりに語りたい内容があるわけでもないのに、その機会をとらえて何やら都合の良いことを語っているつもりになれるかというと、そのつもりもないのに事ある度にこれでもかと語りたい内容となるなら、何かの嫌がらせのようにして語られる内容となるかも知れず、それも実際に語り始めると必要以上に長くなってうんざりしてくるわけで、語る必要などないのになぜうんざりするほどしつこく語ってしまうのかといえば、思い知らせたいからまるで嫌がらせのようにこれ見よがしに語ろうとするのかも知れないが、嫌がらせでも何でもなく、例えば大量の政治家が賄賂を受け取ったことが発覚して訴追されたにもかかわらず、そのほとんどが無罪となった歴史的に有名な事件としては、パナマ運河疑獄事件があるが、その際には6人の大臣を含む510人の政治家が告訴されたそうだが、今回の自民党の裏金に絡んだ事件も、それに次ぐ規模かも知れないが、時代も違うし、事件の内容も違うのだから、それとこれとを単純に比較するわけにも行かないし、比較しない代わりに何を言いたいわけでもないなら、なぜそんな過去の事件を持ち出すのかといえば、その種の政治不信が何をもたらすのかが興味深いわけで、それが民主主義の危機でも何でもなければ、そうしたことが放置されたからといって、その後何の引き金となったわけでもなければ、時が経てば忘れられてしまうのだが、忘れられてしまうことが重要なのかも知れず、思い出されなくても構わないわけで、それが起こってしまっただけでも、それで何らかの役割を果たしてくれたのだから、後はさっさと忘れられてしまえばいいわけだが、もちろんまだ忘れられていないどころか、騒ぎ立てられている最中なのだろうが、たぶんこれから忘れられて、何でもなかったことになるわけでもないのだが、今回の件でうまく逃げ果せた政治家たちが、何事もなかったかのように次の選挙に立候補して当選すればそれで構わないわけだから、そうなるに越したことはなく、別にそうなるように事態を持って行きたいと誰も思っていなくても、実際にそうなればうまく事態を収拾したことになり、それで一件落着とはならないにしても、被害を最小限度で食い止めたことにはなるわけで、メディアの方針としても、そうなるように持って行きたいわけではないとしても、メディアにも色々な種類があるのだから、全てのメディアが一致して一つの方針にまとまる必要もないわけだが、それでも疑惑を追及している政治家やメディア関係者の足を引っ張りたいわけだから、ある程度はそんな魂胆がわかっていて、成り行きとしてはそうなると見ておいても構わないだろうが、たとえそうなったとしても、そこで何かが起こっていて、他の深刻で重大な事態が起こっていることから人々の関心を逸らすためにそうなっているわけではなく、それ自体としてどうということはないように見せかけたいわけでもなく、すでにどうにかなっている事態がそれ以上には進展しないように何らかの歯止めをかけているわけでもない時点で、方針が決まっているはずだが、方針通りに事態が進展するわけでもないところが、事の成り行きに沿って個々の政治家がうまく立ち回ることが求められているわけでもないのだろうし、求められなくてもそうなるように仕向けられるわけでもないのだろうが、すでに方針が決まっている範疇で行動や言動が伴ってくるから、それらの活動を見れば、なるほどと納得できるわけでもないにしても、ある程度の結果が予想がつくというか、そんな予想通りの結果がもたらされてしまうとがっかりするかも知れないが、別にがっかりしても構わないわけで、それが個々の人々の自由な判断にまかせられているわけではなく、そうなった結果からそう思わされるとは思わないとしても、実際にそう思わされてしまうのだから、そういうことだと理解してしまうわけだが、要するに自分たちがやりたいことを理解していない人たちが、自分たちがやりたいことを批判していることに気づかないというか、それに関してパナマ運河疑獄事件が結果的にどうなったかというと、それなりの紆余曲折を経た末に実際にパナマ運河が開通したわけで、パナマ運河を造ろうとした当初の目標が達成されたことに関してはうまく行ったことになるのだろうが、その一方で詐欺に引っかかって莫大な資産が失われたことも確かだが、それとは違う経緯で日本でも日韓トンネル詐欺に引っかかって莫大な資産が失われているとしても、まだ日韓トンネルなど影も形もないわけだから、そういうところで詐欺がうまく行っている面もありそうで、そうした詐欺に加担している政治家が今なお平然としていられるとしたら、そんな政治家も詐欺師であることには変わりないわけだが、そんなことなどどこ吹く風のごとくに無関心を装いながらも、政府の予算を使って景気刺激策のようなことをやりたがっている人たちも世の中にはいくらでもいて、そういう人たちが未来の詐欺師になるかならないかは、それらの人たちの今後の振る舞い方次第だとしても、彼らがやりたがっていることが、現に今も彼らが批判していることだとは夢にも思わないだろうし、それとこれとは全く違うことだと認識しているからこそ、そう思うしかないにしても、果たしてそんなに違うことなのかというと、現時点ではそうだとしても、今後の成り行き次第では大して変わらなくなるようなら、彼らも日韓トンネル詐欺に絡んで暗躍している政治家と大して変わらないのかというと、パナマ運河を造ろうとした政治家が結果的に詐欺事件に加担してしまうような成り行きを思い浮かべるなら、大して変わらないと言えないこともないが、実際に詐欺だろうと何だろうとパナマ運河が実際に造られたことと、まだ日韓トンネルなど影も形もないこととの差が、大して違わないとは思えなければ、やはりその差は天と地ほどもあると考えておくしかないのではないか。


2月24日「理屈の限界」

 意識の限界が何から生じてくるかとなると、その人が何かもっともらしい理屈を語っている際に、なるほどその理屈に基づいて自身の態度や姿勢を正当化していることを理解できるわけだが、果たしてそれがその人の限界なのかというと、理屈を信じているように感じられるなら、その理屈がその人の意識の限界を構成していることになるにしても、だからといってその人から全く限界を越えた行動や言動が生じてこないかというと、その人が囚われている状況の急変がその人の意識の限界を越えさせてしまうかも知れず、その人がそれを自覚していなくても認識していなくても、それに気づいていなくても、自身の限界を越えた行動や言動が突発的に出てくるなら、その人を取り巻く状況が急変したから、それがその人の限界をぶち破ったことになるだろうが、そうなっても精神が特定の理屈に支配され続けている人も世の中にはいて、それが意識ではなく精神になると、しかもその精神を根拠づけているのが特定の差別や区別に起因した理屈になるなら、その理屈によってその人の頭の中の神経回路が単純化されていることを知るに至るわけだが、そういう意味ではその種の差別的な発言を不用意にしてしまう政治家や識者などは、もちろんわざとこれ見よがしに言い放っている場合も十分に考えられるものの、脳の神経回路の中で条件反射的な特定のパータンで信号が伝達される仕組みが構築されていると言えそうだが、そうした言語的な単純作業に特化した脳を持っていない限りは、普通はその場の状況に応じて無意識の精神領域がある程度の弾力的なさじ加減が可能な範囲内で働いて、事態の急変などのその場の雰囲気を敏感に感じ取って即興的な行動や言動もできるから、その場の偶然が作用するにしても、唐突に自身が信じているつもりの理屈から逸脱してしまうこともあるだろうし、そうした突然の逸脱をどう捉えるかも、その人の限界を越えさせる契機としてうまく活用できれば、それなりに行動や言動の幅が広がるかも知れないが、そうした緊急事態に際して特定のスイッチが入る人が貴重な存在かどうかも含めて、普段の日常生活の中で単純な理屈を信じているつもりになっている意識が、それと引き換えにして何を眠らせているかがわかりにくいところかも知れないが、思考の柔軟性を意識するなら、単純な理屈から生じてくる偏見や固定観念の類いに支配されるのはまずいと思うだろうし、そうなってしまうのが避けなければならない状態だと言えそうだが、逆にわかりやすい偏見や固定観念に囚われている人は操縦されやすいとも言えそうで、その偏見や固定観念から生じてくる態度や姿勢を強調する傾向へと誘導しやすく、簡単に言えばそれが指し示す対象となる人や集団などと対立させたり敵対させることが容易に可能となるだろうが、そういう意味では安易な理屈に囚われている人ほど利用されやすいとも言えそうだが、そもそもそんな利用しやすい人たちを利用して何らかの権力を得ている人や団体が優れているかというと、逆にそんな人や団体についているとヤバいんじゃないかと思っておいた方がよさそうで、もちろん実際についている人がそう思うわけでもないだろうし、自分がそれらの人や団体に利用されていることを意識しているとしても、今は確かに弱い立場だから利用されているだけだとしても、そこから集団内で力をつけて強い立場へとのしあがろうとしているのかも知れないし、それをファシズム的な権力関係と見なして否定するのは簡単なことだが、そう見なしてしまうこと自体がそうした関係を単純化していることになり、すでに意識が単純な理屈に支配されている傾向を示しているわけだが、それもその人を取り巻く状況の余裕のなさがそうした傾向になることを促すのだろうから、そうなってしまう人にいくら注意を喚起しても、そうなってしまうのを押しとどめるには至らないかも知れないが、そうではない人や集団の関係や在り方が一定の傾向を伴って意識されるとしても、その中では単純な理屈が通用していないのかというとそうでもなく、それをそれほど信じているわけでもなくても、何かのついでやきっかけからそうした理屈に頼った行動や言動が伴ってくるから、それが絶えず過ちや誤りとなるような結果をもたらすのだろうが、それを過ちや誤りだと認識している限りでそれに起因してもたらされた結果から反省や教訓を得られて、そこからそうした理屈の限界を感じ取ることができるわけだが、逆に言えばそれを過ちや誤りだとは認識できなければ、その限界を感じ取ることができないわけだから、そうなっている限りでそれを信じていることになり、そうした理屈に心や精神を支配されていることになるわけだが、そこに限界が生じていると共に、その限界をぶち破るような出来事に遭遇しないと、それを過ちや誤りだとは認識できないわけだから、そうした理屈に心や精神を支配されている人は、なるべく自身の限界をぶち破る出来事には遭遇しない配慮が求められているわけでもないのだろうが、それなりに用心深く立ち振る舞っていて、その用心深さが何をもたらしているのかというと、意識して思考や視界の視野を狭めて、なるべく雑念を排除するために目を閉じて耳を塞いで、ひたすら瞑想に耽っているわけでもないのだろうが、自然とできるだけ込み入った難しいことは考えないようにしているとも思っていないにしても、自然とそうなるように仕向けられているといったところで、自身では意識できないだろうし、意識できないからそうなってしまうといっても循環論になってしまうが、言語的な訓練を伴って断言口調が身についているようなら、集団の訓練として大きな声で単純な掛け声を発する行為を繰り返している場合もあるから、そうした体育会系の部活などの経験から自然と意識することなく身についている可能性もあるわけだが、それを思考を通さずに大声を発する訓練と言ってしまうと、やはりそれ相応の反発を招くかも知れないが、そんな人を集団にまとめて制御したり操縦する術を当然のことのように学校教育などの場で活用してしまうと、結果的に何が生じてくるかというと、それなりに統率の取れた集団が生じてくるはずなのだが、それが確かに工場などの現場では必要な調教なのだろうが、そういった単純化された人材がどれほど必要とされているかは、たぶん20世紀的な産業の現場ではそれなりに必要とされていたのだろうが、21世紀の現代においては何とも言えないのかも知れず、少なくとも国家主義的な見地からも若者がそうなってしまうと、別に戦争に駆り立てられるような消耗品の兵士がそれほど必要かというと、できればもっと頭脳明晰で頭の良い人材が必要とされているようにも思われるだろうし、頭が良ければそれなりに扱いにくいし、扱う側でもそれなりの優秀さが求められるにしても、結局は人の頭脳の傾向が次第に頭が良くなるように進化しているとすれば、たとえ扱いづらくてもなるべく複雑なことが理解できる頭の良い人材が求められているのではないか。


2月23日「すでに起こってしまったこと」

 疑惑を追及されている政治家が責任逃れの言動に終始するのはいつものことだが、そんな言動が災いしてさらに疑惑が深まるのもいつものことだとしても、それ以外には何も起こっていないわけではなく、今も絶えず何かが起こっていて、それなりに興味深いことも起こっているはずだが、その起こっていることが自分とは無関係というわけでもないが、なぜか起こっていることには興味が向かないというと嘘になってしまうが、関心がそこから逸れて、興味も関心も似たような意味だと思っている範囲内では、それらを使い分けられるほどの違いを表現する気にはなれないが、それで構わない程度で興味も関心もないというとやはり嘘になってしまうのだが、今起こっていることではなく、すでに起こってしまったことに関心があるのは今も昔も変わらないし、それに興味を抱くほどのおもしろいことだと思えないが、それでも何が興味深いのかというと、もうすでに起こってしまったことを肯定できないのだから、何かしらそれについて否定的な評価を下してみたり、それに対して批判めいたことを述べてしまう人たちの言動の内容や傾向が興味深いわけでもないのだが、ありのままの現状を評価できない体質が骨身に染みついてしまった人が世の中にどれほどいるかということに興味があるわけでもないが、その種の言動がメディアを通じて世の中に蔓延している状況というのが、ありのままの現状なのかというと、そうでもないなら何でもなく、ありのままの現状でなければ何なのかということに、それほど興味も関心もないのだが、どんな状況下でも否応なくそうなってしまう人たちにとってはそれがありのままの現状には違いないのだろうが、それがなぜかそうではないとしたら、それ以外にどんなありのままの現状があるのかといえば、ことさらに現状を美化したり正当化したいわけでもないのだが、現状を評価するということが、肯定的に評価する気になるなら、少なくとも批判的な態度で現状を否定してみせることにはならないはずなのだが、ではどういう理屈や理由を伴って現状を評価できるのかというと、疑惑を追及している政治家やメディア関係者がいるということが評価できるのはもちろんのこと、その一方でそんなことには興味も関心もない人々が大勢いることについても評価できるかというと、評価せざるを得ないのであり、現状を批判的に見ているわけではなく、どういうわけか評価したくなってしまうわけだから、そのわけがよくわからなければ、評価などしないはずだが、果たしてどんな理由で彼らを評価したくなってしまうのかというと、それがよくわかっていないことを素直に受け止めているように思われるから評価できるというと、それがごまかしや責任逃れのような気がするのだが、たぶんそんな態度で構わないのであり、逆に世の中がわかったような態度になってしまうとまずいことを肌で感じているというと、そんなこともないだろうが、そういうところで微妙によくわからない成り行きになっているのかも知れないが、その一方でわかったようなことを軽はずみに述べてしまう人たちが間違っていることは確かであるし、その間違いの程度や度合いが紋切り型のレベルで中途半端なところがわかってしまうから、そんなわけ知り顔のわかったふうなことを述べている人たちには興味も関心もない態度になっていれば、そんな人たちは評価せざるを得ず、逆にわかったふうなことを述べている人たちを評価するわけには行かなくなってしまうわけだが、しかもそんな人たちに限って情勢を批判的な言動に利用するわけだから、なるほどそれがわかったふうな意見や主張に結びついて、実際にもそれなりの月並みな理解や見識を踏まえて世の中の情勢をわかっていることは確かだろうが、それを評価できるかというと、世間的なレベルでは構わないだろうが、それをわざわざ評価するかしないかの基準で評価したりしなかったりすること自体が、やはりちょっと違うような気がするわけで、そうであるならそんなことには興味も関心もない方がいくらかマシなのかも知れないし、もちろん勘違いや思い違いのレベルでそうなっている分にはそれで構わないのだろうが、そうでなければ何なのかというと、すでに起こってしまったことを否定的な傾向を伴って解釈しながら、それを批判しているに過ぎないのが、それが悪いことかというとそうでもなく、そういうことを述べるのが普通なのだから、別にそれを評価する必要はなく、そんなことを述べている人には興味も関心もないのが普通だと思うわけでもないが、それで構わないようなことを改めてその良し悪しを言うわけにもいかないのだが、では他にどんなことに関して良し悪しを言わなければならないのかということが、たぶんよくわからないのであり、そこでよくわかったふうなことを述べてしまうのを思いとどまれるかどうかが評価するかしないかの判断の分かれ目となるわけでもないが、わかったふうなことを述べてしまう人をことさらに評価しなくても構わないのではないかと思ってしまうわけで、だからといってそんなことには興味も関心もないように感じられる人々を評価しても構わないわけでもないのだが、そこでそれらの人々を評価せざるを得ない成り行きに囚われてしまうとしたら、なぜそうなってしまうのかもよくわからないが、これから起こることに備えて態度を決めかねているとしたら、それが賢明な態度かも知れないし、その一方ですでに起こってしまったことに伴って態度が固まってしまった人はもう手遅れなのかというと、そこから戦略的な態度で責任逃れの言動を伴ってくれば往生際が悪いとしか見られないとしても、そんな態度もこれまでにもいくらでも見受けられてきたわけだから、それが通常の成り行きだと感じられるなら、そんなことには興味も関心もない人もいくらでもいるだろうから、そんな人たちを評価する理由も見当たらないが、そこでもたぶん評価するポイントがすでに起こってしまったことに対する良し悪しではなく、これから起こることに対してどういう態度で臨むかにかかってくるのかも知れず、まだ態度を決めかねているなら、少しはこれまでとは違う判断を下す自由度も残っていて、それが必ずしも良し悪しの判断とはならないかも知れないが、それが物事の良し悪しではないとしたら何なのかということが、これから決まってくるかも知れないし、一向に決まらないのかも知れないが、すでにわかったふうなことを述べている人たちの判断が変わる兆しが感じられるかというと、たぶん感じられないから、そういう人たちはどんなことが起こっても決まり切ったことを述べてしまう可能性が高く、それが現状で述べている内容と大して変わらないわけだが、果たしてそうなってしまった人たちを評価できるかというと、変わりようがないのだから評価しなくても構わないような気がするわけだが、逆にこれまでと変わりようがないことを評価するとしたら、そんな保守的な傾向を肯定的に評価するかしないかが、それが保守を批判する人たちの保守的な傾向として評価するとなると、何かそれでは本末転倒な事態となってしまうのではないか。


2月22日「バブルの罠」

 日常の空間の中で何を考えていようと、実際に生活していたり活動している延長上で考えている内容となるなら、それほど非現実的であり得ない妄想には至らないはずだが、それがメディア経由でもたらされる情報に影響を受けながら妄想するような内容となると、その情報に含まれているのが非現実的で非日常的な内容になってくれば、それ相応にあり得ないことを妄想してしまうだろうが、それが日々の日常の延長上で起こる予言の類いになってくると、そう遠くない未来においてとんでもない出来事が起こって壊滅的な被害がもたらされるとか、実際にも大規模な地震によって壊滅的な被害を受けた地域が現にあるわけだから、その種の妄想にも俄然リアリティが感じられてくるわけだが、果たして実際に恐れているのがその種の自然災害の類いになるかというと、それ以外にも恐れていることがあるかも知れないし、それが戦争や経済恐慌の類いならそれなりにあり得ることになってくるわけだが、そうではなく大して身の危険を感じて恐れるようなことではなく、もっと何かゲーム感覚で対応したくなることになってくると、この機に乗じてうまく立ち回って、あわよくば通常では得られないような多額の利益にありつきたいという願望が募ってくるなら、何やら危うい賭け事に巻き込まれてしまうような事態を心配しなければならなくなってくるかも知れないが、それが現時点でも識者の類いがメディアを通じて盛んにバブルだ何だと煽っている内容になるわけだろうが、それも何か冗談のように感じられるなら、大して識者の類いが煽っている内容を真に受けていないことになるだろうが、しかもそれが実際に体験しつつある現在進行形の現象の中でそう感じているのなら、その種の識者の感覚とはちょっとずれているのかも知れないし、識者と自分とでどちらの感覚が現状の雰囲気を正確に捉えているのかといっても、立場や境遇にそれなりの違いがあるわけだから、識者にとってはまさに現状が煽りたい雰囲気であり、実際にその機会を捉えて煽っているつもりなのだろうが、それをことさらに煽らずに冷静な態度で事態を受け止めている別の識者やアナリストの類いもメディアを通じて真っ当な意見や解釈を伝えてくるから、どちらかと言えばバブルだ何だのと煽っている識者の類いよりは、通常の延長上で淡々と分析結果を伝えてくるアナリストの意見や解釈を信用したくなってしまうのだが、もちろんワイドショー的なテレビ文化に幼い頃から慣れ親しんできた身にとっては、現状がバブルだ何だと煽られると心地良くなってきて、一緒になって騒ぎたくなってしまうのだが、無責任に騒ぎ立てる野次馬的な立場であればそれもありだろうが、曲がりなりにもその種のゲームにちょっとだけ参加している立場であれば、少しは当事者意識も芽生えてくるから、そんなに浮かれた気分にはなれないし、バブルの罠にハマって大損こいてざまあみろと他人の失敗を嘲笑う立場にもなれないのだが、見ている世界と実際に体験している世界が地続きであることを実感できる機会というのが、テレビや新聞や雑誌などを通じては味わえなかった感覚をもたらしているわけだろうが、何がそれをもたらしているのかといえば、部分的にはSNSなどのソーシャルメディアがもたらしているとしても、あくまでもそれが部分的にもたらされていることであって、全面的にそうしたメディアにどっぷり浸かっているわけではなく、絶えず半身の姿勢でいつでも逃げられるような体勢で接しているから、あまり信用していないのはもちろんのこと、全面的な信頼などあり得ないようなものとして事態を受け止めていて、もうメディアの類いは何も信用できないというわけではなく、信じられるとか信じられないとかいう判断自体がどうでもいいことである一方で、ではどんな判断を重視しているのかといえば、現実に起こっている物事からそれなりの距離感を感じられるような意見や解釈を重視していると述べてしまうと嘘になるかも知れないが、自分の味方ではない立場から味方ではないことをはっきりと示してくれる内容であれば、それなりに信用できるだろうし、実際に味方だとは感じられないわけだから、当然のこととして忖度してくれないわけで、自分がどうなろうと彼らは何とも思ってくれないのだとはっきりとわかるような立場から情報を伝えてくるのだから、そういうものだと受け止めるしかなく、実際に自分の立場も彼らの味方でも何でもないことを実感できる限りで、それなりのリアリティが伴ってくるわけだが、そういう意味では詐欺でも何でもないようなところから誘惑されているわけでも勧誘されているわけでもなく、利益をもたらしてくれるわけでもないところが、別にそれで構わないような接し方をするように仕向けられていることも実感させるのだから、そんなそっけない雰囲気の中で伝わってくる情報を淡々と受け取ればいいようなことでしかないのだろうが、それ以上の何を求めているわけでもないし、他人は他人であり自分は自分でしかなく、たとえそれが自分の態度であっても正当化できないような信用できないような状況の中で生きていることにはなるだろうが、それで構わないとは全く思っていないにしても、否応なくそうなってしまうような成り行きに自身が囚われていることは自覚せざるを得ず、敵でも味方でもないが、全くの無関係というわけでもなく、何かしらちょっとだけ関わっているような程度や気分で触れているわけで、それ以上の付き合いなど望むべくもなく、それよりは絶えず一定の距離をとりながらも、相手の出方を絶えず窺っているような姿勢を崩さないことが肝要だと思っているわけでもないが、思っているのとは全く違う比較にならないような水準で何が起こっているのかというと、日常の中で現実の出来事が起こっているから、それとこれとは全く違う程度や傾向を伴ってそれが起こっていることを直接実感できるわけだが、そういうところがメディアからもたらされる幻想や幻覚とは全く違うのだろうが、違うとしても両方を日々の日常の中で体験しているわけだから、どちらも実際に体験しつつある出来事や現象には違いないわけだが、たぶんそれらの結びつきが微妙に違和感や齟齬感を伴いながら感覚や知覚を刺激するから、しばしば両者を一体化した地続きのものとして混同しながら妄想や幻想を抱いて、結果的にはメディア的な出来事に感情移入してしまうわけだろうから、騙されてはいけないと自らに言い聞かせながらも騙されている感覚に依存しながらメディアを通じてもたらされる出来事に意識がのめり込んでしまうのだろうが、それが半分他人事としてのゲーム感覚でのめり込むか、あるいはまるで自分のことのように深い憂慮や心配や不安や共感や感動などを伴いながらのめり込んでしまうかで、感じているリアリティの程度や傾向も違ってくるように思われるのだが、実際にはそう感じているふりを装う演技も少なからず混じってくるから、それほど真に受けているわけでもないのかも知れない。


2月21日「納得できない現状」

 それがまかり通るならもはや何でもありになってしまうわけでもないだろうが、そうかといって無視できるようなことでもなければ、それの何が腑に落ちないわけではなく、逆にいくらでも納得できるわけでもないが、何を納得したいわけでもないとなると、納得しないままでも構わないかも知れないが、何に納得していないのかというと、世界の現状に納得できないのはもちろんのこと、納得できるような世界にはなり難いことも承知しているが、納得できないままでも構わないわけではないから、どうにかして世界の現状を納得できるような状態へと近づけたいのかも知れないが、どうやって近づけられるわけでもないところが、どうやれば納得できる状態へと近づけられるかも、現状では皆目見当がつかないし、かつては納得できるような状況になっていたかというと、そんなはずもないだろうから、これからも納得できるような状態へと至れるわけでもないことは予想がつきそうで、どうなれば納得できるような状態になるかもわからないから、とりあえずは現状の延長上で状況を改善して行くしかないだろうから、各々ができる範囲内でやれることをやる以外にはやりようがないなら、現状でやっていることを続けて行くしかないとは思えないにしても、実際にやっていることをやり続けているわけで、中にはやめてしまった人もいるかも知れないが、少なくとも現状で何をやっているかが、その当事者としての人や団体が世界の現状をもたらしているといえる範囲内では、そんな人や団体が納得できない現状をもたらしていることになり、批判の矛先がそれらの人や団体へと向かうのも無理はないが、批判していることも含めて現状でまかり通っていることをやめさせることができるかというと、実際にやめさせた事例もある一方で、やめさせても次から次へとまた新たにやめさせる対象となる行為が生じてきて、それをやめさせるよりは逆にやらせる成り行きになってくるわけでもなくても、やらせる必要もないくらい良いことも悪いことも含めて世界各地でそれらが行われている現状があるから、何が良くて何が悪いかの判断がつかないわけではなくても、何をやればいいのかを巡って人も団体もその度ごとに対立するから、それに伴って意見も主張も分断されてくるのだろうが、それで構わないとは到底思えないが、実際にも構わないわけでもないのに、そんな現状の延長上で様々な物事が今も進行中であり、それをやめさせられない範囲内で行われていることが現状をもたらしているといえるだろうから、現状で行われていることが今後も現状をもたらし続けるとしたら、現状を変えるには、現状で行われていることをやめさせられなければ、それを制御したり操縦したり誘導したり調整するようなことをやらなければならなくなり、現状のままでは納得できないから、誰かしら何かしらそんなことをやりたがるのだろうが、それも現状に行われていることに含まれてくるとしても、どう考えてもやめた方が良いと思われることも行われているわけだから、現状に納得できなくて当然だとしても、やはりそれを行なっている当事者の立場としてはやらざるを得ない状況の中でやっているわけだから、やめろと言われても後には退けない事情や経緯に囚われているわけだが、それだけ世の中で行われている様々な物事が複雑怪奇に錯綜して利害も相反しながら絡み合いこんがらがってもつれ合っているから、それらの間でうまく調整ができないし、うまく解きほぐせない状態となっている渦中で、各々が好き勝手に何をやれるわけでもないし、利害がぶつかり合っていれば妥協や譲歩が必要になってくるだろうから、それなりに中途半端なことしかできなくなってしまうだろうが、しかもそんなことをやってしまうから外部から容赦のない批判や非難にさらされて、やっていることの印象を悪くしてしまうのだろうが、たとえ印象が悪くなってもダブルスタンダードなどの矛盾が生じてきても、やっている途中でやめるわけには行かない事情や経緯に囚われてしまうと、批判や非難を浴びせられながらも継続してやらざるを得ないような成り行きになってしまい、そうなるとやっていることがうまく行っていないように見えてしまうだろうが、それでもやり続けていられる限りで必ずしも納得が行かないにしても現状を保っていられるわけで、そんなぐだぐだな状態をどう見てもひどい惨状を呈しているように見えるのだが、それで構わないわけでもないのに、それでも構わないと現状を正当化するような成り行きにはならないとしても、そんな状態がこれまでもこれからも延々と続いて行くとしたら、結果的にはそれで構わないことになってしまうわけでもないのに、実際にそんな惨状が延々と続いて行くことになるわけで、そんな惨状にどこまで耐えられるかの我慢比べの状況になっているとは思えないし、もうそろそろやめた方がいいような気がしてくると思いたいところだが、現状でやっていることをやめるかどうかの判断や決断がそれをやっている当事者には決められない場合があるとしたら、では当事者の代わりに誰がそれを決められるのかと言えば、たぶんそれを決める機会が巡ってくるのを待つしかないだろうが、誰がそれを待っているかもわからないような現状なのかも知れないし、誰もそれを決める当事者にはなりたくはないのかも知れず、だから他の誰かに決めてほしいのだろうし、適当な誰かに責任転嫁しようと画策しているのかも知れないが、それがこれまでにも延々と無責任な責任転嫁として繰り返されてきた経緯があるから、今回もそれをやろうとしているのかも知れないし、実際にそれをやってしまえれば今回も責任逃れに成功するわけだろうが、実際に責任逃れに成功するかどうかも含めて現状の見どころだとも誰もそうは思っていないはずだが、いったいどこの誰が責任逃れや責任転嫁を延々と繰り返してきたのかといえば、現状の中でそれに気づかない人たちであることも紛れもない事実だろうし、その中には絶えず当事者になるのを避けながらも、都合良く当事者に向かって批判や非難を浴びせてきた人たちも含まれるかも知れないが、中にはそれに気づいて今回は当事者の立場や役割を引き受けようとしている人や勢力も存在しているのかも知れないが、そうした人や勢力が本当に当事者になれるかどうかも含めて、その他の人々に判断や決断が促されていると見ても構わないのかも知れず、果たしてこれが納得できない現状の全てなのかというと、全てではないが、これが現状を変える機会をもたらしていて、これとは何かといえば、現状そのものであることは明らかなのだから、これが全てではないにしても判断や決断の材料や機会を提供している全体と見ても構わないのかも知れないし、実際に判断や決断を促されていると感じるなら、その機会が巡っていることになるわけだが、果たして多くの人々がそれを実感しているかどうかは何とも言い難いが、当事者の立場や役割を引き受ける覚悟ができている人や勢力にしてみれば、これまでにも絶えずそうなることを願ってきたから、たとえそれが勘違いであったとしても、自身にその覚悟ができていることに気づいているつもりなのではないか。


2月20日「重要なこと」

 他の多くの人々には知られていないが、自分だけが知っていることがあるかというと、あるとしてもそれが他の多くの人々にとって重要なことであるかどうかもよくわからないが、それよりは誰もが知っていることが重要なことであれば、それが自分にとっても重要であるような気がするだろうが、それが何かというと、それを知っていることが重要なのか、あるいはそれを知ることが重要なのかによっても、受け止め方が違ってくるかというと、それも各人の立場や境遇や活動の内容によっても変わってくるかも知れないが、同じ人でもある時には重要であったり、また別の時にはそれほど重要でなかったり、またある場所では重要であったり、別の場所ではそれほど重要ではなかったり、時と場合によって重要となるかどうかも違ってくるようなら、そんなことを知っていてもそれが重要でない時もあるし、知らないことがその人にとっては致命的な事態をもたらす可能性もあるかも知れないが、ではいつ何時でも取り立てて重要とは思えなくても知っておいた方が良い物事とは何かという問いに対して適当な答えが思い浮かぶかというと、そんな面倒なのはわからないことにしておきたいが、それを重要だと思っても、実際には重要でも何でもなかったりすれば、思い違いになるのがオチだが、では重要であるかないかではなく、例えば利益になるかならないかということなら、具体的にそれが金銭的な利益であれば、何やら事態がはっきりしてきそうだが、それに関して例えば日本政府が国債を発行することによって誰の金銭的な利益をもたらしているかというと、積極財政派にとっては大ざっぱに政府の赤字はみんなの黒字だと言えるだろうが、実際に政府の国債を買っている主な機関として挙げられるのは日本銀行や公的年金を運用しているGPIFや生保や民間の銀行などになるだろうが、その中でまずは日本銀行が政府の国債を大量に買うことによって利益を得ていると言えるような存在があるかというと、それによって政府の金融緩和政策を維持しているわけだから、では金融緩和政策によって何がもたらされているかといえば、円安がもたらされていて、円安によって工業製品を安く輸出している大企業が儲かっていることになるだろうが、またGPIFが資産運用している中で4分の1が国内の債券になるようだが、その中でも国債がかなりの割合を占めていそうだからGPIFの資産運用がうまく行っているなら、それによって公的年金が支えられているから年金生活者の利益になりそうだが、さらには生命保険会社も国債の引き受け手としては大手になるだろうから、生保の資産運用がうまく行っているなら、後から保険料が戻ってくる積立保険に加入している人の利益になりそうで、後は民間の銀行も国債を多く買っているようだから、銀行の国債を利用した資産運用がうまく行っているようなら、その銀行を利用して資産運用をやっている人にとっても利益になりそうだが、そして何よりも政府の活動が国債に依存している割合が大きいなら、国債を信用して買ってくれる各機関があるおかげで政府の活動も成り立っていて、政府の行政サービスを享受している一般の国民にとっても利益になりそうで、そうなると積極財政派が主張するような政府の赤字はみんなの黒字だと言えないこともないだろうが、その享受される利益の割合というのが公平に分配されているわけでもないだろうし、どちらかといえば輸出関連の大企業や資産運用をやっている富裕層などにより多くの利益がもたらされているような気もしてくるが、そうなると消費税が大企業や富裕層に有利なら、政府による国債の発行によってより多くの恩恵を受けるのも大企業や富裕層になってくるかも知れず、それが本当なら消費税の廃止を主張する積極財政派の言い分にもだいぶご都合主義的な傾向がありそうなのだが、果たしてその真相がどうなのかは、何を強調するかにもよるだろうが、重要なのはそれらが全て金融関連の事業活動に絡んでくることであるから、より多額の資金や資産を運用している人や団体により多くの利益がもたらされる一方で、少ない資金や資産しか持っていない人や団体には不利に働くと考えておくのが妥当なような気がするわけで、では積極財政派の主張が間違っているのかというと、彼らが政権を奪って政策を実行できれば、貧困層を優遇するようなことをやれるかも知れないが、少なくとも現状では政府の国債発行によってより多くの恩恵を受けているのは、より多くの資金や資産を持っている大企業や富裕層になるような気がするわけだが、もちろんそれが日本だけでなく、外国のヘッジファンドなんかも銀行などの金融機関から国債を借りてきて空売りすることによって多額の利益を得ていそうだが、そうした金融的な利益の奪い合いとは無縁な一般人へと利益をもたらすには、どのように国債を活用できるかが、積極財政派の主張の中では説得力を持ってくることになりそうだが、果たしてそれが国債を発行しないとできないことなのかというと、それも具体的な政策として提言される内容にもなってくるが、それがグリーンニューディールだとか原発の廃止だとか教育の無償化だとか奨学金をチャラにするとか、ただ単にそういうことをやるための財源を捻出するために国債を発行するとなると、国債とは直接関係のないことのようにも思われてきて、国債を余分に発行しなくてもそれらの財源を捻出できればなお良いような気もしてくるから、どうしてもその辺のところでかなり違和感が伴ってくるのだが、彼らが批判している緊縮財政派と見なされる政党などでも同じような政策を推進したいなら、果たして積極財政派と緊縮財政派とがそれらの政策を推進するために連携できるかというと、かなりの矛盾が伴ってくるような気もしてくるが、そうではなくただ単に国内の経済を活性化させるための産業振興として国債を発行しているなら、現状の政府でもやっていることになるから、そういうところでも現行の政府を批判したり対立するような筋合いでもなくなってくるだろうし、例えば原発を推進するためだとか防衛費を増やすために国債を発行するなら、それでも積極財政派となってしまうだろうから、それらに反対することと積極財政を推進することとの間で整合性が取れなくなってしまい、そういう面では積極財政派と緊縮財政派との間で対立軸がなくなってしまうが、要するに原発の廃止や教育の無償化やリベラル的な政策を掲げている政治勢力であっても、その勢力を緊縮財政派と見なせるなら批判するだろうし、同じ積極財政派であっても原発の推進や防衛費の増強などを政策として掲げていれば、それを批判することになるのだろうが、そうなるとかなり連携や共闘の幅が狭まってきてしまうわけだが、そういうやり方が勢力の拡大に結びつくかというと、それもそういう政策を掲げて活動した結果からわかることだから現時点では何とも言えないが、それよりも何よりも消費税やインボイス制度の廃止を掲げているわけだから、そういう面を重視して判断してもらいたいのかも知れない。


2月19日「意志の力」

 熱力学の法則からわかることは、熱が熱い方から冷たい方へと伝わって冷えてしまうとエントロピーが増大してしまうが、そんなエントロピー増大の法則に逆らうには何が必要かというと、根本的なところで逆らおうとしても逆らえないのがエントロピー増大の法則だろうが、逆らおうとする意志の力が人間にはあるわけで、エントロピーが増大する方向に逆らっているつもりになって、物事が乱雑に散らかっている状態から、整然と有機的に組み合わさって機能する秩序を構築しようとするのだろうが、そんな努力や尽力が実って何らかの秩序ある状態を構築しても、絶えずそれを壊すような力が秩序の内部からも外部からも加わってくるから、それを維持しようとする意志の力と壊そうとする様々な力がせめぎ合っている間で、一定期間にわたって秩序ある状態が維持されていれば、エントロピーが増大せずに済んでいることになるわけでもなく、それでも根本的に乱雑さが増大する傾向が続いているのだろうが、それを食い止めて維持しようとする意志の力が作用している限りで、熱力学のレベルとは違う人間社会のレベルでは何らかの秩序が維持されていることになるだろうが、それとは逆にその秩序が好ましくないと考える人や勢力にとっては壊すべき秩序となって、実際に壊そうとする意志の力を作用させて好ましくない秩序を壊そうとするのだろうが、壊したままでは満足せずに、壊そうとする人や勢力にとって都合の良い別の秩序を構築しようとするのだろうし、壊そうとする人や勢力にも別の好ましい秩序を構築しようとする意志の力が働いていて、そういう意味では人間の意志にはエントロピーが増大する傾向や方向に逆らおうとする力が宿っているわけだが、もちろん人以外の他の生物にも自身を形作っている細胞構造も含めて自身が活動している生態系の秩序に従ってそれを維持しようとする力が働いているだろうが、それが結果的には全宇宙のレベルで熱力学的にエントロピーが増大する過程の中で一時的に維持されている秩序としての生態系なのだから、実質的にエントロピーが増大する傾向や方向に逆らっているわけでもないわけだが、それでも乱雑になるのを食い止めるような何らかの秩序を伴ったシステムを構築してそれを維持しようとしていることは確かで、そうしたシステムを構築して維持しようとする意志が働いていることには違いなく、ただエントロピーが増大するように破壊したり消費するにまかせているだけでは生物としても人間としても活動が成り立たないし、破壊したり消費する対象を生産しなければならず、それらを生産するシステムを人間が集団で人為的に構築しているわけだから、そういった作用が産業的な傾向を伴って発動しているわけで、そうした意志の力が作用して構築される物事の範囲が産業の発展に伴って次第により大規模かつ微細な領域へと拡大する傾向になってきて、そうした作用が地球の表面を覆い尽くす勢いで、さらには地中や海中や地球を離れて宇宙へと拡大し続けているような幻想を伴っているはずだが、それが幻想ではなく実態を伴っているような気がするとしても、果たしてそうした傾向に今後どこかの時点で歯止めがかかるかというと、現状でも逆に戦争や自然災害などによって秩序を伴ったシステムが破壊され続けていることも確かで、どちらが優勢となっているかというと、文明の全てが破壊される恐怖に直面しているような気もするが、その一方で意志の力が目指す傾向や方向としては、絶えず秩序を伴ったシステムを構築する方へと物事を進めようとしているわけだから、どちらかといえば破壊するよりは構築する方へと向かわされているように感じられるのだが、そうした作用がある一定の時点で限界に達すると共に、資源などが枯渇してそれ以上は文明が進展しなくなるかというと、資源を調達するコストを無視するなら地球上でなくなっても宇宙にいくらでもありそうに思われるが、現時点では今後どうなるかはよくわからないし、実際にそうなってみればわかったりわからなかったりするにしても、それを今この時点で予想しようとするというのも、不確定要素が多すぎて大して意味のないことかも知れないし、それよりは現状で成り立っている秩序やシステムを絶えず改善するように仕向けられていて、そうした意志が目指す方向もそれと一致するような気がするわけで、今後どうなるにしても、人の意志が目指す方向へと誘われてそんな成り行きが進展して行くことは確かだろうから、その結果として熱力学なレベルで乱雑さが増大しようとどうなろうと、そんなのは知ったことではないのは当然だろうが、その際には効率の良さとコストの安さが必ずしも一致するわけではなく、効率が悪くてもコストが安かったりその逆もあり得るから、それに絡んで制度的かつ政治的な思惑なども作用してきて、わざわざ権力を維持するために効率の悪いやり方でしかも低コストなことをやろうとするわけだが、その煽りを食うのがそうした政治権力や産業権力によって抑圧される市民や労働者になるわけで、しかも抑圧されているのに煽られているという逆説的な幻惑や錯覚に囚われてしまうから、なかなかそうした権力に逆らうには苦労するだろうし、知性や理性を働かせないとそうなっている状態を把握することも理解することもできないわけだが、現状の日本で低賃金の貧困状態の中でもがき苦しみながらも現状の政治体制を支持して守ろうとしている人たちに欠けているのが、知性や理性を働かせることになるのかも知れないが、果たしてそんな立場や境遇の人たちがどれほどいるのかといっても、それに関して都合の良いデータや統計結果を引っ張り出してきたところで、あまり実感が湧いてこない人が世間を構成している人々の大半を占めるかも知れないし、それとは真逆の幻惑や錯覚に囚われている人も中にはいるかも知れないが、何がそこで問題となっているかというと、もちろんそれに気づかない大半の人たちにとっては問題でも何でもないのかも知れないが、一応は日本も法治国家の体をなしていて、法律に基づいて世の中の秩序を構築しているような外観を呈しているはずだが、そうした法律を破って秩序を壊している勢力を放置していても構わないのかというと、何を差し置いてもアプリオリな前提として法律を守った上で活動しなければならないことになっているのだから、法律を破った上でそれを利用して自分たちに有利な状況や状態の秩序を築いている人や勢力を許すどころか、それらを積極的に支援するとなると、何か本末転倒な秩序破壊に及んでいることになってしまうのだろうが、そういうことは知性や理性を働かせないと把握できないし理解できないわけだが、それが大げさで難しいことであるわけでもなく、割と簡単で優しい部類に入る思考になるだろうが、そうした思考を働かせるのに邪魔になっているのが、それを阻むような偏見や迷信かも知れないし、それらを信じさせるような働きを担っているのがメディアとそれに関わっている人々になるにしても、そんなメディアやそれに関わっている人々であっても、自分たちがそれと気づかずに、そんな役割を担っていることに気づいていない可能性もあるわけで、そこに意志の力が介在してくるとわかるようになるとも思えないが、知性や理性を働かせないと感情に突き動かされて幻惑や錯覚に囚われた意志になってしまう可能性があるのではないか。


2月18日「勘に頼る」

 独りよがりな勘に頼って過ちや誤りを犯すなら、自業自得だと思ってあきらめるわけでもないが、他人の勧誘や誘導にはなるべく乗らないようにしている一方で、果たしてそうするように知らせてくる勘を独りよがりだと思うかというと、そうだとしても信じて従ってしまうのだから、自身の勘に逆らうにはかなり強いためらいを覚えるのだが、そんなためらいを上回るような余程の信じられる理屈や論理やデータなどが示されない限りは、どうしても根拠の定かでない自らの勘に頼って独りよがりなことをやってしまうかというと、そうでなくても日々の暮らしが営まれている世の中では辻褄の合わないことが当たり前のことのように行われているのに、なぜかもっともらしくも辻褄の合うような理屈や論理を示してそれに従うように仕向けてくる輩の意見や主張を素直に受け入れるわけもなく、その手の輩の意見や主張にはまずは疑ってみるしかなく、そんな態度や姿勢が〇〇には騙されないぞという紋切り型の論法にかぶれている証拠だとしても、これまでにも世の中で信じられてきた数々の迷信を思い起こしてみるなら、人々に向かって信じるように仕向けてくるそれが新たな迷信だと思うのも無理はないわけで、それよりは辻褄の合わないことが平然と行われていることの方に注目せざるを得ず、そこでもっともらしい理屈や論理などが破綻しているわけでもないのに、それらに反したことが平然と行われている事実の方が重大に思われるから、言っていることや述べている内容としてはもっともらしい理屈や論理になるとしても、実際にやっていることが辻褄が合わないわけだから、それらの言っていることとやっていることの落差やずれを考慮に入れて判断するしかなく、だからどんなに辻褄が合って納得できる理屈や論理などが示されても、それが実践の段階では通用しなくなってくると予想してしまうわけで、それが勘が知らせている事実だと認識するしかないが、本当に事実なのかというと、実際に実践してみて物事の辻褄が合わなくなってくるとそれがわかるわけで、そうなった結果からわかることだから、理屈や論理が言説として示される段階では事実かどうかはわからないわけだが、それも根拠の定かでない勘に頼った予想としてはうまく行かなくなるような気がするわけだから、たぶん言説段階としてはもっともらしい理屈や論理を述べている輩の方が正しいわけで、それに対して勘に頼って疑念を抱いている自分の方が間違っている可能性の方が高いわけだが、だからそんな理屈や論理を他人が信じている分には、それが自分に関わってこない限りで構わないわけで、それを信じてそんな理屈や論理に基づいて実践するならどうぞやってください程度のことでしかなく、自分はやらないだろうが他人がやるならそれを止める理由などないから、それを実際にやってしまう他人がどうなるかを見守るしかなく、仮にうまく行ったところで、それを信じなかったことを後悔するのだろうが、他人がやってうまく行くことが自分に当てはまるかというと、もしかしたら自分がやると結構うまく行かないのではないかと思うなら、そのやり方は他人には合っているとしても自分には合わないかも知れないし、そんなのは自分がやってみないことにはわからないが、果たしてそれをやる機会が自分に巡ってくるかというと、実際に他人がそれを試してうまく行った事例があるなら、その機会が自分ではなく他人に巡ってきていたという事実があるわけで、そんな事実を考慮に入れるなら、仮にもっともらしい理屈や論理に基づいたやり方でうまく行くとしても、自分にはそれをやる機会が巡ってこなかったことになるから、そんな結果を振り返るなら、自身の勘違いからそれをやる機会を逃してしまったことになるのだろうが、だからといってそれを信じて実際に試してみる機会に恵まれてうまく行った他人を羨む以外に何かやりようがあるかというと、さらにそんな結果を好感して自分も真似してそれを試すような成り行きにはならないのかも知れないし、そこではそうだとしても、別の何かを試す機会には自分も恵まれている可能性もあるだろうし、しかも実際にそれを試してうまく行っている事実も一つや二つではなく、今までに生きてきた中ではそんな機会が無数にあり、実際にそれを試してうまく行ったり行かなかったりした経験も無数にあるから、そんな経験から自らの勘が養われているわけだから、そのやり方が自分に合うか合わないかも、自らの勘に照らし合わせて判断するような成り行きになっていて、そういう意味では勘に頼ることが、意識を通さずにそういう成り行きを自動的に判断するような神経回路が脳の中で構築されていると考えるなら、どんなにもっともらしく納得が行くやり方を示されても勘が拒否するなら、自分がそれを試してもうまく行かないような気がするから、それをやらないに越したことはないと思っておくしかないし、そうした勘が間違っているなら勘違いだったと思うしかないが、普通は逆に勘が冴えている方を信じたいわけで、何かそこに引っかかるものを感じているから勘が拒否していると思いたいわけだが、それが本当にそうかどうかが明らかにならないことの方が多いのかも知れず、しかも明らかにならない方が都合が良い場合もあるから、それを明らかにしなければ気が済まないと思うか思わないかも勘に頼って判断している可能性もあるから、その辺で微妙な対応になってしまうのだろうが、そんな微妙な対応の対象となっているのが、現状の自らの立場や境遇からは遠く離れたところで展開されている論争なのかも知れないし、自分たちを積極財政派と称してそれと対立する陣営を緊縮財政派と見なして論争を挑んでいる一群の人々がいるわけだが、そんな人々の在り方や主張や意見の良し悪しを判断したいわけではないところが微妙なのかも知れず、それとは違う何かを勘が知らせているような気はするのだが、今のところはそれが何だかよくわからないわけで、まだここからしばらくはそんな成り行きが続いて行くから、黙って事の推移を見守って行く必要があるのかも知れないし、現時点が何かの岐路に差し掛かっているような気もするが、しばらくすれば何かが明らかになるというわけでもなく、今のところは積極財政派を自称する勢力が国政の主導権を握って自分たちの政策を実行に移す機会が巡ってくるとも限らず、そうはならない可能性の方が高そうな雰囲気だが、そうだとしてもそれなりに注目に値する成り行きだと勘が知らせているような気がするから、今後もそれらの動向について何か述べる機会が巡ってくるかも知れないが、それを言説として構成する頃には何かしら決着がついているような気もして、その決着がそれらの勢力にとってどのようなものとなるかならないかも含めて、現時点ではっきりしたことを述べるような態度や姿勢に振り切っている人にしてみれば、何らかの敗北が待ち受けていると都合が悪いだろうし、そうならないようにどっちつかずな微妙な態度や姿勢を保っている方が賢明なのかも知れないが、それもたぶんどちらかというと賢明であるよりは愚かさに塗れていた方が、それに対する熱烈な少数派の支持を獲得できるだろうから、自然とそんな傾向になってしまうわけで、それを良いとも悪いとも思わないところも、勘がそう思うように仕向けているのかも知れない。


2月17日「試練を課されている感覚」

 自らに試練を課しているのが神でなければ、それが試練だと思われないわけでもないが、自分が立ち向かっているのが、特定の他人や何らかの団体であれば、行動や言動の標的としてそれらの存在が設定されてきて、それらに対して自らの意向を作用させて影響を及ぼそうとしているのだろうが、そうではなく自分が自分自身に試練を課しているとすれば、何が試されているのかといえば、神への信仰が試されているのであれば、神が自分に対して試練を課していると考えたくなってしまうだろうが、自分が自分自身に試練を課しているわけだから、他の何から命令を受けているわけではなく、自分が自分に対して命令を下していて、何かしら向上心のようなものを感じて、日々の努力によって目標とする高みへと自らの状態を押し上げようとしているのだろうが、それが神から下された使命というわけでもなければ、誰がそんな命令を下しているのかといえば、自分が自分自身に向かってそうなるように命令を下している以外にはあり得ないはずだが、果たしてそれが内発的な動機なのかというと、それ自体ではそうかも知れないが、他の何かから影響を及ぼされてそう思い込むように仕向けられているとすれば、それが何なのかというと、それが神だと思うなら、それも内発的にそう思い込んでしまっているのかも知れず、そう思いたくなければ何なのかというと、外部からもたらされた何らかの思想や哲学の類いから影響を受けていると考えたくなるわけでもなく、もっと下世話でたわいない世間で流行っているハウツー的な目標設定かも知れないし、例えばそれがダイエット目標体重であったり、英会話などの習い事から課される習熟度の指標であったり、目標を達成可能なレベルへと限定するような仕向けられ方であれば、暇な時間を活用してその時間帯ではそれだけに専念していれば済むようなことかも知れないし、その程度のことが課された試練なのかというと、試練であるにしても人為的に調整された試練であり、達成可能な目標へと多くの人々が辿り着けるように調整されているわけで、その程度の試練であれば多くの人々が試すはずだと見積もられているから、そんな試練へと多くの人々を誘導したくて、是非それを試してほしいとメディアを通じて宣伝しているわけだろうが、そんな試練を馬鹿にしたいなら他に馬鹿にするわけにも行かない真剣に取り組むべき試練を思いつくはずもないが、そんな試練であっても馬鹿にせずに真面目な態度で取り組めば、きっと効果が出て、将来において何かの役に立つはずだと思いたいだけなく、目標に向かって努力している最中に感じる高揚感自体が自らを何か良い方向へと導いているような感じもしてくるだろうから、そう感じるだけでも試してみる価値がありそうだが、大抵は自身の怠惰が邪魔をして、ちょっとしたきっかけからそこから関心を逸らされると、途中で飽きてしまって、それを大して重視していなければそれっきりとなってしまいそうで、そうなってしまうことを正当化する理由として思いつくのは、目標に束縛されたくないという身勝手な思いかも知れないが、課された目標によって自由を奪われてしまうから、その程度の軽い目標にも抵抗感を覚えて、大した目標でもないのにそんな目標を課してからそれに抵抗してみせるという動作から、何やら太々しくも悪びれない感覚に酔いしれたいと思うわけでもないが、自分で自分を裏切ることによって、何やらちゃぶ台返しのような快楽を引き出して、そこからひたすら堕落への誘惑に屈するがままになってしまうわけでもないにしても、それだけで心身に深刻な異常をきたすわけでもないが、長年にわたってそんな無精が祟って生活習慣病の類いにかかって寿命を縮めるような成り行きがよくありがちな顛末かも知れないし、そういう面ではその程度のことで済んでしまうなら、実際にそうなってしまった人にとっては自分自身の器量に程よく収まっている感覚を抱くかどうかは定かでないが、他人がそうなっているのを客観的な視点から眺めるなら、そんな他人の人生を小馬鹿にしたいわけでもないが、気づかないうちに自らもそうなっている可能性も捨てきれない程度で気になるかも知れないし、しかもそれだけが自分の全てではないところが、最初から部分的な目標設定に過ぎないという言い訳が成り立つ範囲内で気が済んでしまうかも知れず、そうであるならそれとは別にもっと自らが真剣に取り組むべき何かがあるかというと、それが神から課された試練だと思いたいわけでもなければ自分がそれほど信心深いとは思えなくても、そう思わなくてもただ漠然と自然に取り組んでいることを自覚できるなら、それが真剣に取り組んでいる感覚をもたらしているはずだが、それが何だかわからないと、自分を偽っている感覚に囚われたりするわけでもないだろうが、だからといって人には真剣に取り組むべき何かが必ず課されていて、それが神がその人に課した使命だと言いたいわけでもなく、それを神のせいにすると抵抗感が伴ってくるならもっと妥当に思われてしっくりくるような対象があるかと問われたところで、すぐに思い浮かぶわけでもなく、妥協するならその対象を神という言葉で表現しても構わないとしても、その一方で自由という言葉を持ち出したくなってくるわけで、課された試練や使命や命令から自由でありたいと思うわけだが、果たして自由がそこから逃れる言い訳として機能するかというと、何かから逃れるために使う自由ではなく、積極的に何かを行う自由を手にしたいと思うなら、それもそうしたことを行う自由がなく、それを抑圧されていると感じるから、自由を求めてしまうと解釈したくなってしまい、本当にそうなのかということもそう思うように誘導されているような疑念も覚えるかも知れず、それが自分に絡んでくる事情や経緯に関してだけではなく、他人の言動や行動からも窺い知れるなら、自らも他人もそこに囚われている世の中の傾向がそうなっているから、そう感じられるという解釈や認識になってしまうだろうが、そうなっている限りで他人と共有できるアイデンティティや共感できる価値観や思いや意見や主張が生じてきて、さらには自分や他人の過ちや誤りに関してもそう思われるから、それらが複雑に混ぜ合わさって、過ちや誤りを犯さないようにするための行動規範や規律などが心理的な防御壁となって意識されるのだろうし、果たしてそれらから自由になれるかというと、積極的に過ちや誤りを犯すには蛮勇が必要となり、しかもそうすることを正当化したくなるだろうから、それを正当化するための理屈を考え出さなければならなくなるから、そこから思考作用も伴って何やらそれが哲学的な問いなどを生じさせるかも知れないが、そんな問いが何かというと、様々な問いが出てくる中でもそれなりにしっくりくる問いとして、自由に生きるにはどうすれば良いかという問いになるかならないかは、各人の社会的な立場や境遇によるかも知れないが、それが自らが囚われている社会的な呪縛から自由になるにはどうすれば良いかという問いになるなら、その呪縛が社会の中で何か悪影響を及ぼしていることにもなってくるわけで、そうした呪縛から解き放たれることが自らに課された試練だと思われるのではないか。


2月16日「トラブルの原因」

 たまにトラブルが発生すると動揺するのは当然だとしても、あれこれと試行錯誤を繰り返しながらも結果的に自力で解決できればホッとするし、何かそれで自信がついたような気はするが、どうもトラブルを解決する過程であれこれと行なっている試行錯誤の内容がうまく説明できないわけで、なぜ解決できたかは理解できるし、どうやって解決したかも把握しているのだが、それでもしっくりこないとなると、いったい何がそんなに腑に落ちないのかが謎であり、色々と試しているうちにたまたまうまく行ったということになるだろうが、結果的にうまく行ったのだからそれで構わないはずだが、それでも突発的にトラブルが起こった原因がわからずじまいだから、完全には納得していないのだが、納得しないままにしておくことができずに、そこから教訓のような反省のようなことを考えてしまうからややこしくなってきて、たぶん勘違いには違いないが、それでも納得できる心理状態になりたいから、そうなるに至る過程の中で生じてくる成り行きに都合の良い理屈や物語を当てはめて納得しようとして、それが屁理屈というか迷信のようなものとして信じられてしまうから、事態がこじれてくるのかも知れず、それが根拠の定かでない屁理屈だとは思わないわけで、そんな屁理屈を信じてさらなる妄想まで思い浮かべながら、結局は被害妄想のような陰謀論まで想像してしまうから始末に負えなくなってくるわけだが、それで納得できるかというと、納得するどころか自分をトラブルに巻き込んで罠に陥れた架空の誰かを憎悪する感情まで募ってきて、そんな成り行きを後から冷静に振り返ってみれば、自業自得な愚かさに感染していることに気づけば、そこで考えを改めて、無理に納得しようとはせずに、いくら考えてもわからないトラブルの原因など執拗に詮索せずに謎のままにしておいても構わないことにしておきたくなってくるのだが、今回のトラブルは解決したといってもそれは一時的かつ暫定的な解決であって、今後またわけのわからぬ思いがけないところでトラブルが起こって思い悩むことになるかも知れないし、また原因不明のままにはなるだろうが、対症療法的な試行錯誤によって何とかその場しのぎのようなことになればなったで、そこで納得できないまでも一応の区切りはつけなければならなくなると共に、それ以上の状態は望むべくもなく、その程度で引き下がらなければならず、しっくりきたりすっきりするような結果は求めない方が身のためで、無理に求めても埒が明かないだろうから、その程度にとどまっているのが身の程をわきまえた状態であるなら仕方がないところだが、そういうところで身の程知らずな正義や正しさを求めるのは分不相応だと思うなら、その辺は曖昧ではっきりしない態度や姿勢のままでいた方が良さそうで、藪蛇にならない程度の状態を保ちながらも、そうでなくても世の中の情勢が混沌としていて、そこで様々な物事が複雑に錯綜しながら絡み合ってもつれ合っているから、それを単純に一つの傾向で割り切ってこういうことだと断言するわけには行かないとなると、やはり物事の良し悪しや白黒をつけずに価値や意味や意義の定かでないグレーゾーンの中で、自らに及ぼされてくる作用や影響を推しはかるしかないのかも知れず、そうすることによって何がわかるわけでもないのだろうが、逆に何かがわかったとは思わない方が良さそうで、良さそうだが悪そうでもあるような状態にとどまっているのかも知れないが、そんな中でも絶えず自らが巻き込まれている状況や情勢の程度や傾向を把握しようとしているし、そこで自分に関わってくる物事を知ろうとして、それらの仕組みや傾向や効果や機能などを理解しようとはしているわけで、その理解の仕方がスムーズには行かず、行き当たりばったりでその場しのぎのようなかろうじての理解にとどまるしかないし、いつも偶然に巡ってくるような機会をとらえて理解するしかやりようがなく、それもその機会をかなりの頻度で取り逃しているような気もするから、何も理解できていないわけではないとしても、少しの理解で物事の成り行きを推しはかろうとするから、その大半には勘違いな妄想も伴ってしまい、結果的にはおかしな偏見や迷信に取り憑かれているのかも知れないが、そうならざるを得ないと思っておけば、少しは気休め程度の諦念にも結びつくわけだが、だからといって全てをあきらめているわけでもないから、何もそのままにしておくようなことにはならず、何かしらの活動に結びつくわけで、そんな結果を踏まえながら世の中の情勢を理解しようとしているのだから、それをどう解釈しようとしてもしっくりこないしすっきりしないままとなってしまい、それで構わないわけではないのだが、この世界の混沌とした状況を自分一人の力でどうにかしようとしているわけではなく、どうにもできないまでも少しは納得したいとは思っているから、自分なりにそれらを把握して理解しようとはしているわけだが、そんな把握や理解の程度や傾向が結果的には不十分なまま中途半端な把握や理解となってしまうから、それが納得し難いのは当然だとしても、自らの力量ではその程度になるしかないだろうから、そこであきらめるわけには行かないとしても、それが継続的な努力に結びつく限りで、絶えず状況や情勢を把握しようとして、絶えず物事の理解を深めようとはするのだろうが、それにも限界があるから、区切りのついたところでその場の状況や情勢に応じた把握の程度や傾向と、そこに存在しているものやそこで起こっていることの理解を一定の解釈を伴いながらも暫定的に言語化しようとするのだろうし、それが果たしてまともな解釈になっているかどうかもよくわからないが、言語化してみないとわからないから、言語化することによって理解を深めようとしているわけで、それがそこでの試行錯誤そのものだと言えるだろうが、試行錯誤はそれだけではないし、実際に活動している中で思考と共に身体の動作も伴ってくるから、それが行為や行動として生じてくるわけだが、果たしてそんなことをやっている間に実際にトラブルが解決してしまう事実もあるから、それが真の解決ではないとしても、暫定的にはその場しのぎとなっているような気になって、さらなる活動へと思考や動作が続いて行くわけだが、しかもトラブルに対処することによってトラブルとなっている物事に対する理解を深めようとしているわけで、それが偶然にもたらされるトラブルを利用した物事の理解だと言えるにしても、それに伴って抱く被害妄想が作用すると、たまたま偶然に起こったわけではなく、謎の誰かの陰謀によって仕掛けられた罠の類いだと妄想されてしまうわけだから、そういうところが被害妄想的な感情のややこしくも面倒な成り行きなのだろうが、何とかしてそんな根拠の定かでない疑念を振り払おうとするのだが、振り払おうとしても感情が邪魔をしてなかなか振り払えないままにとどまっていると、さらに次から次へと思いもしない方面からおかしな出来事がもたらされるから、ますますその種の被害妄想的な疑念が深まると共に、自らをトラブルに陥れた架空の犯人に対する憎しみの感情も募ってくるのではないか。


2月15日「機会を逸している可能性」

 機会を得て何かをやりたいと思うのは、誰もがそう思っているわけでもないだろうが、それが何の機会なのかが、そんな機会を得てみないことにはわからないはずもなく、しかもそこで何をやるのかも、実際にそれをやってみるまではわからないわけでもなく、普通に何かやりたいことがあって、それをやろうとするだけだろうが、そう思ってやろうとすると、やりたいことがそれではなかったことに気づくわけでもないだろうが、結果的にやっていることが当初にやりたかったこととは違ってくれば、やっている途中でやりたかったことからやっていることが思いがけない方面へとずれて行ってしまったのかも知れないが、そのずらされて行く過程が何によってずらされて行くかで、ずらされて行くことへの対応にも違いが生じてくるかも知れないが、例えばずれたくないのに否応なくずらされてしまうのか、あるいは自ら進んでやっていることをずらそうとするかで、ずらすことの主導権が自身にあるかないかで対応が違ってくるようなことでもなければ、では何なのかというと、やっていることがずれて行ってしまっていることに気づかないという事態もあり得るが、そうなっていることに少しは気づいているのに、そうなる過程で何か嫌な感じがするなら、このままではまずいと思うかも知れないが、まずいと思いつつも何かに引き込まれるようにしてそうなってしまえば、抵抗できなかったか抵抗したにしてもそれを上回る力で引きずり込まれるような感じかも知れないが、そうなると自らが積極的にそうなりたかったわけでもないのに、結果的にそうなってしまったということになるだろうから、そうなったことに関してはあまり責任を感じないで済むかも知れないが、果たして現状がそんな成り行きに引き込まれているような事態なのかというと、誰もそれに気づいていないわけではないにしても、逆らう余裕も機会もないような成り行きのただ中で、なす術もなくそんな方向へとずれて行っている最中なのかも知れず、それがどんな方向なのかと言えば、それが逆らうことができない方向であり、誰も何も抵抗できずにそんな方向へと否応なくずれて行ってしまったから、もうすでに手遅れな状態となっているのかも知れず、実際に手遅れだからこそ、次々にやばい事態になっていることが明らかにされているわけだろうが、そんなやばい事態だからこそ、今こそそれをやる機会が巡ってきているような錯覚が生じているのかも知れないが、もちろんそれが錯覚などではなく、それをやる気になっている人や勢力としては、是が非でもこの機会を逃さないことが他の何よりも最優先されるべきことになっているはずだが、果たして本当にそうなのかというと、実際にやってみればわかるかも知れないし、やってみてもわからないかも知れないが、すでにそれをやっている最中なのだろうから、それをやってみた結果がどうなるかが今後わかったりわからなかったりするかも知れず、しかもそれをわかるとかわからないとかがそれほど重要なことではなく、わかってもわからなくても構わないようなことであり、それよりはそれをやってみることが他の何にもまして最優先されるべきで、それをやらないことがまずいとなれば、まずはやってみるしかないだろうし、実際にそれをやっている最中なのだから、そうなっている限りは何もまずいことはないと思うしかないのかも知れないし、そんなことを思う必要もなく、とにかくそれをやってみることが肝心なのかも知れないが、しかしいったい何をやっているのかが、それをやっている者にもよくわかっていないとしたら、では実際に何をやっているのかというと、それをやる機会を得てやっていることではないかも知れず、それどころかそれをやる機会など永遠に巡ってこないようなことをやっているとしたら、いったい現状がどんな事態に陥っているのかと言えば、やはり機会を逸してすでに手遅れとなっているから、今はそれをやる機会ではなく、しかもやる機会でもないのにやっているのだから失敗するしかなく、やることなすことうまく行っていないことにもなるだろうから、そんなことごとくうまく行っていない状況の中で、今こそそれをやる機会が到来したと勘違いしているわけだから、しかもそれが勘違いなどではなく、周囲の反対を押し切ってでもそれをやる機会だと思っているわけだから、ますますやばい事態へと引きずり込まれていると情勢判断しておけば、何かしっくりくるような気がするのかも知れず、確かに今こそ万国博覧会を開催する機会だとか原発を推進する機会だとか投資を始める機会だとか消費税を廃止する機会だとか減税を実施する機会だとか政権を奪取する機会だとか、そう思うかそれはちょっと違うのではないかと思うか思わないかは、そんなことをやる機会だと思っている人や勢力にとってはそうかも知れないが、そうは思わない人や勢力にとってはそうではないかも知れないにしても、たぶん何かをやる機会であると同時に、それをやってしまうと別の何かをやる機会を逸してしまったり逃してしまう可能性があるのかも知れず、これをやってしまうとあれがやれなくなるとか、複数の機会が同時に到来していて、しかもやれることが限られてくれば、それをやる機会というのが、様々なことをやる機会であると同時に、その中からやれることを選ぶ機会でもあるから、そこでやれないことを選んでやろうとすれば失敗するというか、やれることを選んでやったつもりでもなぜかうまく行かずに失敗に終わってしまうとすれば、結果的にはやれなかったことをやろうとして失敗したことになるだろうが、その途中まではやれる可能性があったのに、それが途中の段階でやれなくなるような事態に陥って、それが突発的な事件が起こって事態が急変する可能性となるわけだが、それもたぶんそうなった時が、そんな事態の急変に乗じて何かをやる機会が巡ってきたと勘違いしてしまう輩が出てくるわけだろうから、果たしてそれが勘違いとなるかならないかも、それをやってみなければわからないというか、やってみたところでわかったりわからなかったりするだけかも知れず、結果的にうまく行けばその機会をものにしたことになるだろうが、うまく行かなくてもたとえ失敗してもそれをやる機会であった可能性もあるわけで、その機会が到来したと思って失敗するようなことをやってみないと、それがうまく行かないことがわからない場合があるかも知れないから、とりあえずはやってみてもうまく行かないことを確かめるには、それをやってみる必要があると思っておけばいいわけだが、そうなるとそれをやった人が犠牲となることによって、他の誰かがその犠牲を利用して、それよりもうまく行くやり方を編み出す可能性が出てくるわけだろうが、そういった試行錯誤の機会を提供するのが、資本主義経済の中ではつきものとなる功利的な利益を追求する欲望となるにしても、できれば誰もがそうした欲望の犠牲者にはなりたくないわけで、そのためにはそれなりに戦略的な立ち振る舞いへと自然に誘導されて行ってしまい、それが当初のやりたかったことからずれてしまう結果をもたらしているのではないか。


2月14日「逆らえない成り行き」

 人は誰でも自身が囚われている現状の成り行きに沿って活動していて、たとえ成り行きに逆らっていると自覚していようと、それも現状の成り行きに逆らうように仕向けられていると見なすなら、現状の成り行きから生じる役割分担として逆らうような役割を担わされていると解釈しても構わないだろうが、もちろん実際に逆らっている人たちは自主的に逆らっているつもりになれるから、そんな役割を担っているわけではないと否定するかも知れないし、そう思うなら思っていても構わないにしても、それもそう思わされているからそんな役割を大した抵抗も感じないで引き受けていると解釈してみても構わないのかも知れず、それで構わないと思えるなら自らが囚われている現状の成り行きに逆らっているわけではないことになってしまうが、成り行きにも色々あって、複数の成り行きが同時並行して相互に錯綜したり絡み合いながら進行していて、その中にはある程度は自らの活動自体が自らが囚われている成り行きを生じさせている面もあると状況を捉えるなら、自分でその成り行きを完全に制御しきれているわけでもないだろうが、少なくともある程度は自業自得気味にそうなっていると思っておけばいいのかも知れないが、思うだけでなく実際にそうなっている可能性もあるから、そうなっているからといって、それを自分ではどうすることもできないなら、そういう成り行きに囚われていても構わないのだろうが、囚われているとしても自分がそんな成り行きに逆らっていると思っていれば、それが思い違いである可能性もあるから、そう思っている人はそれに気づいていないことになるだろうが、気づいていなくてもそれ相応の実感が伴っていれば、活動している当人を自身の活動に縛りつけて、それに専念させるような成り行きが生じているから、果たしてそんな成り行きに逆らえるかといっても、それが逆らうような活動だと思い込ませる効果が生じている限りで、そんな効果から自身が自身の活動からもたらされている成り行きに逆らっていると思い込まされてしまうのだろうから、そう思っていることに関してはそれほどの抵抗感も覚えないのかも知れず、そういう意味ではそれこそが現状の成り行きに逆らう活動を構成しているはずだが、しかも同時にそれこそが成り行きに従う活動でもあるわけだから、それが矛盾を含む成り行きになっているはずで、その矛盾を感知できるか否かで、そんな活動や成り行きに囚われている人の感性や知性の程度も押しはかることができるかも知れないが、それを感知していれば、おかしな傾向に凝り固まってしまうのを避けることができるかというと、矛盾のただ中に踏みとどまっている人なら、自身の立場や主張を過信して正当化するのを思いとどまるから、それに伴って他人の立場や主張にも一定の理解を示すような成り行きも受け入れるかも知れないが、そうではなく自分の立場や主張を絶対化すると共に、それと対立する他人の立場や主張を絶対悪だと決めつけるような態度や姿勢に出ると、それが激しい行為や行動を伴った活動の過激さに結びつくのだろうが、その種の過激さが暴力的な行為や行動になればわかりやすいし、それを批判したり非難することも容易いだろうが、果たして世の中で起こっているそんな類いの暴力ばかりを批判したり非難しているだけで済むようなことなのかというと、そういった行為や行動を批判したり非難することを専門にしている人や団体なら、それで構わないと思うしかないだろうが、そればかりが起こっているわけではなく、そうなるに至る過程の中で、結果的にはそうはならない可能性もあるようなことが行われていることにも気づく必要があるかというと、結果的にそうならなければ批判も非難もされないわけではなく、下手をすればそうなるに至る危険性を指摘するようなことも行われていると状況を捉えるなら、結局は危機的な状況だと絶えず警鐘を鳴らすような言動に収斂してしまうとしても、結果的にはそうならないことの方が現状で起こっている成り行きの大半を占めている可能性もあるわけだから、そういう面ではあまりにも一方的に大変だ大変だとオオカミ少年的な言動は慎んでおいた方が良い可能性もあるわけで、それもそうならざるを得ない成り行きに囚われている人や団体の活動に文句をつける筋合いもないだろうから、冷めた目でその種の煽動的な言動を受け流している人がいるとしても、その人が取り立てて感性の鋭さや知性の豊かさを体現しているとも言えないし、客観的に担っている立場や役割の違いからそうなっているに過ぎないことでしかないかも知れないが、何によってそれを担わせられているわけでもなく、自ら進んでそんな立場や役割を引き受けているわけでもなければ、否応なくそんな成り行きに囚われていると見なすしかないだろうし、煽動的な言動に訴える行為や行動とそれを冷めた目で受け流すことが対立するようなことかということも、どうでもいいようなどちらでも構わないような成り行きとしてそうなっていると状況を捉えるなら、そんなことにも無関心でいられるわけだろうが、そんな無関心な態度や姿勢に囚われていることが現状で起こっている世の中の成り行きに逆らっていることになるかといっても、それも世の中で様々な成り行きが同時並行して進行中であることの中での一つの傾向を示しているに過ぎず、それが捉えようによっては、摩擦のような抵抗力となって、煽動的な行為や行動によって世の中を変えようとする人や団体に逆らっていることになるわけだろうが、それが許されるだけの余裕や余地がまだ世の中には残されていると見ておけば良いはずだが、それも現状で進行中の過渡的な成り行きの中で許されている態度や姿勢だと捉えるなら、この先のどこかで事態が急変すれば、あるいは徐々に許容される領域が狭められるような成り行きになれば、そんな態度や姿勢など通用しない状況となってしまうかも知れないし、そうなってからどんな態度や姿勢にすればいいかなんて選択の余地などなく、そこでも思い通りには行かない成り行きの中で、それと気づかずに、後から振り返れば恥ずかしくも愚かな態度や姿勢だったと思い知らされるような出来事に直面してしまうかも知れないが、そういうことに現状では気づかないから、現状の中では無関心な多数派を構成していることに関しても何とも思わずにいられるわけで、そういったその時点では何とも思わずにいられる態度や姿勢となっている人々が、大衆市民社会の中で実際に多数派を構成しているわけだから、そんな人たちに感性の鋭さや知性の豊かさを持ち合わせていることを期待するのも勘違いに過ぎないことはわかりきっているはずだが、それに対して世の中を変えようとして盛んに無関心から目覚めよと煽り立てる言動や行動に訴えている人や団体の活動などは無意味で無駄なことなのかというと、実際に世の中の現状がそうなっているから、そんな活動をやらざるを得ない立場や役割へと追い込まれていると見ておいても、それほど勘違いだとは思えないのではないか。


2月13日「出来事とその解釈の連携」

 現実に起こっていることがそれについての解釈を生じさせるから、現実に起こっていることとそれについての解釈が結びついているのはわかっているが、そんな解釈が現実に起こっていることから影響を受けて生じてくるのも確かで、だからそんな解釈も含めて起こっていることが現実に起こっていることには違いないわけだが、それを解釈することによって何をもたらそうとしているのかといえば、解釈する者が現実に起こっていることからもたらされる影響を制御しようとしていると理解するなら、そんな解釈を見たり読んだりする人の意識を解釈する者にとって都合の良い傾向になるように誘導したがっていると解釈したくなってくるが、だからといってそんな解釈に騙されるなとか洗脳されるなと警鐘を鳴らさなければならないとは思えないなら、そんな解釈でも構わないと思っていて、構わないどころかそう解釈してもらった方が都合が良いと思うなら、解釈している者と意見や利害が一致していることになりそうだが、解釈者にとって都合が良い以前に、その解釈に納得してもらわないと信じてくれないだろうから、できるだけ世の中の多くの人々が納得して信じてもらえるような解釈の内容にしたいと思うのが、普通のごく一般的な解釈者の態度や姿勢となるだろうが、その解釈が及ぶ範囲が限られてくると、例えば特定の集団内で信じられている教義の類いに合致する内容にしておけば、その集団内での解釈者の立場や地位が保たれるような程度の内容になるだろうから、その集団の傾向が狂信的な差別主義に凝り固まっていれば、そんな傾向に応じた差別主義的な解釈の内容になるわけだろうが、それが一般の世の中では通用しない内容であれば、そんな差別的な解釈を吹聴する輩が一般の人々やメディアから非難されることになりそうだが、あからさまにそうであればわかりやすいのだが、多くの人々が知らない知識や理論や理屈を持ち出して、支持や賛同や同調するように説得するような内容になってくると、たとえ持ち出されてくるのが普通に納得し難い無理筋な屁理屈であっても、言葉巧みに勧誘する技術が凝らされていると、浅はかな人なら騙されてしまうから、そうなるとそれが屁理屈であることを見破ったつもりの識者などが、〇〇には騙されるなという論法を用いて注意喚起するような成り行きになるだろうが、それが本当に筋の通らない屁理屈なのか、あるいはちゃんと筋の通った理屈なのか、さらには専門家によっても意見が分かれるようなグレーゾーンに入る怪しい理屈なのかが、専門外の一般の人々にはわからなければ、判断しようがないが、専門家の間でも認められた理屈であっても、それを覆すような新たな事態が発生するとも限らないから、理屈が現状で起こっている出来事や事態に適合するかどうかも含めて、それに対してもっともらしい解釈を施そうとする者の意図や思惑を押しはかることが肝要だとしても、自身も含めて世の中の多くの人々がそうした解釈に影響を受けてしまうとどうなるかも想像したくなるわけで、それに関して簡単に予想がつくことは差別的な解釈に多くの人々が影響を受ければ、実際に差別意識が世の中に蔓延するだろうが、過去にそういう事態を経験してきているなら、今も世の中にそういった傾向が執拗に残っているとしても、過去の出来事からその種の傾向に対してある程度の免疫ができていれば、一時的にその種の傾向が再び流行ったとしても過去の一時期ほどには盛り上がらないだろうが、それもあからさまに差別だと多くの人々が認識できる限りでそうなるだろうから、その種の差別とは違った傾向を伴うような流行であるならわかりにくいし、多くの人々が気づかないうちに流行していることにも気づいていないかも知れないから、何だかわからないうちに、多くの人々の意識がある種の傾向に凝り固まっている可能性もあるわけで、そういう傾向に影響を受けているのか、それとも逆にそういう傾向になるように影響を及ぼそうとしているのかは、両方とも同時並行して進んでいる事態かも知れないが、その一つとして最近顕在化しているのが、政治的な方面では、国民民主党の関係者や連合の代表者などがしきりに共産党を敵視する態度や姿勢となって現れている傾向で、それを例えば左翼嫌悪症という病名で表現すればしっくりくるだろうが、自分たちの立ち位置がそもそも左翼的な立ち位置なのに、それを否定して保守本流的なところへと接近したくて仕方がないから、否応なくそうなってしまうと解釈するのが妥当に感じられるのだが、それでも構わないと思われるとしたら、彼らが体現している態度や姿勢がそもそも保守的な態度や姿勢なのではないかと思ってしまうのだが、自らがすでに保守の仲間入りを果たしていると自覚している人々にしてみれば、あんな軽薄極まりない奴らと自分たちを一緒にされたくないと毛嫌いしているのかも知れないが、その一方で人々が保守的な傾向になる出来事が何なのかというと、自分たちが世の中で主流の層に入っているという自覚だろうから、そんな自覚をもたらす出来事といえば、自らの生活や活動が安定して順調に推移していることを自覚している時だろうし、要するにやっていることがうまく行っているならそのうまく行っている状態をできるだけ長く保ちたいという思いが保守的な傾向から生じる思いであり、現状でうまく行っていると思っている人が多ければ多いほど世の中が保守的な傾向の度合いを強めるわけだろうが、果たして本当にうまく行っているのかということが、最近の日本ではその自信が揺らいでいるから、こんな世の中は変えなければ行けないという思いが強く自覚されるようになってくれば、普通は自然と左翼的な革新傾向に人々の意識が傾いて行くのだろうが、そうなるのを阻んでいるのが現状の世の中で流行している左翼嫌悪症という病気だと解釈したくなるが、実際に左翼嫌悪症に罹患している人たちは、そんなことはないと否定したくなるだろうから、そんな解釈は世間的には認められないだろうし、実際にも誰もそうは思っていないはずだが、それで構わないというか、そういう傾向に批判的な態度や姿勢になっている人たちは構わないどころか、そういった傾向を変えなければならないと思って、しきりにそんな世の中の傾向を覆すための活動に精力を注ぎ込んでいるはずだが、そんな人たちでも左翼嫌悪症にかかっている兆しがあるなら、自らが左翼的な立場であるにも関わらず、自身の立場こそが保守だと自認していて、それこそが左翼嫌悪症の典型的な症状であるわけだが、そんな自身を保守だと自認する左翼嫌悪症の人たちが現状の世の中を変えられるかというと、たぶん彼らが変えるのではなく、彼らが変わるのであり、彼らが何に変わるのかと言えば、新たな保守勢力へと変わるはずだが、変わったところで左翼嫌悪症が治るわけでもないだろうから、相変わらずこれまで通りの保守的な傾向を伴いながらも、活動した結果として自家撞着をもたらすような左翼的な立場からは抜け出せずにいるのではないか。


2月12日「カネの使い道」

 貨幣の機能というと、単に商品の売買に使われるだけではなく、使わずに貯めておくだけでもエネルギーが蓄積しているような心理的な効果も期待できるが、もちろん貨幣として貯めておく以外にも、株や債券などの金融商品を買って貯めておくやり方も普通にあり得るが、そんな貨幣の使い道に関してちょっと意地悪なことを述べるなら、いくら世の中に貨幣が大量に供給されても、その大半が株や債券や貨幣自身などの金融商品を買うためや貯めるために優先的に使われるなら、金融商品を買って利子や配当や値上がり益を得られない貧乏人の生活が楽になるわけでもなく、貨幣の使い道が生活のためではなく、投資のために使われる割合がその大部分を占めるわけでもないだろうが、どう考えても貧乏人が使う額や量がそれほど多いとは思えないから、貨幣論の類いで人々の気を引こうとしている人の述べていることを真に受けるわけには行かないし、世の中に貨幣がどんどん供給されても、供給された貨幣を使って株が買われるだけなら株価が上がるだけで、それほどインフレになるわけでもないが、貧乏人の生活が楽になるはずもないし、金融システムがそんな単純な仕組みで動いているわけではないから、色々と面倒でわかりにくいことが起こっているわけだろうが、インフレになれば商品の価格が上がって逆に貧乏人の生活が苦しくなるはずだが、貧乏人の生活を楽にするためには政府が貧乏人に対して直接給付金を出す以外にはあり得ないというわけでもないだろうし、そうなるに至る経緯の中でそういう行為を正当化できるもっともらしい理由もそれなりに出てくるのだろうから、そういうことを主張する人たちの言っていることを否定する気にはなれないものの、全体として収支の辻褄が合うような成り行きで経済が回っているわけではないと考えるなら、それに伴って発生する一時的な富の不均衡を利用して金儲けが試みられるようなことが想定されて、そういうところで数々の間違ったやり方が実際に行われるから、その中から偶然に金儲けに成功する人や企業も出てくると考えると、結果から言えることはそれとは違って、何か画期的な錬金術の類いが考案されて、それを実際に試してうまく行った人や企業が金儲けに成功すると言えるだろうが、そんな投機的な試みではまずいなら、人の生活に必要な物資の生産と流通と消費の過程で経済活動が成り立っていることになるから、その中から金儲けのチャンスを見つけるしかないが、それを金儲けとは言いたくないなら、ただ単に生活費を得るだけで満足すればいいのだろうし、余分なカネなどいらないと言える人がどれだけいるかは何とも言えないが、果たして金儲けをやって得られるカネが余分なカネなのかというと、それが投資に必要なカネなら余分ではなく、是が非でも得たいカネになるだろうが、もちろん投資目的が金儲けなら、何のためにカネを得たいのか堂々巡りになってしまうが、そういうところからも、貨幣だけに注目すると何か歪んでいるような思考が生じてきて、ただ単に商品の売買に必要なものでしかないとは思われなくなり、手持ちの貨幣を増やすにはどうすればいいかというある意味では本末転倒な思惑が生じてきてしまうわけだが、経済の中でそういう思惑に必要な貨幣の割合が増えてくると、相対的には通常のやり方で働いて生活に必要な貨幣を得ている人たちの取り分が少なくなってしまうから、そういうところから貧富の格差や富の不均衡も生じてくるのだろうが、そうなると世の中で投資が盛んになるほど投資をやらない人が相対的に貧乏になるかというと、それも人々が蓄えている投資から得られた資産の額が時間の経過と共に右肩上がりに増えて行けばそうなるだろうが、貧乏だろうが何だろうが、投資しなくても生活が成り立っているならそれで構わないはずだが、それも誰もが投資をやれるほど金余りな世の中になろうとしているのかが、現状ではよくわからないというか、その種のカネ余りバブルが弾けてみれば幻想に過ぎないことを痛感させられるかも知れないが、普通に考えてカネ余りバブルをもたらすために政府や中央銀行などが世の中に貨幣を余分に供給しているわけでもないだろうし、デフレから脱却して賃金上昇を伴うような適度な経済成長やインフレ率にしたいわけだろうが、すでにインフレとなっているわけだからデフレからは脱却しかかっているはずだが、ある種の経済アナリストなどはこのままではまたデフレ経済に逆戻りだと主張している人もいるらしいから、その辺の成り行きに関しても詳しいところはよくわからないが、かつての日本のように中国でも不動産バブルが弾けてデフレ経済になろうとしていると言われていて、そんなデフレ経済の中で何十年も過ごして普通に生活してきた身にとっては、それが当たり前の状況だったのだから、あまり否定的な実感など湧いてこないし、就職氷河期世代だとかロスジェネだとか言われる人たちがそんなに大変な思いだったなんて全く気づきもしなかったわけだが、つい先日地方のコンビニでおにぎり3個とカフェオレを買って、六百円を超える値段だったのが驚きだったが、そこでようやく世の中がインフレになっていることに気づいたのだから、かなりの鈍感なのかも知れず、ここ十年余りは普段の食費が米を除いて4日で千円程度に抑えてきた習慣も、一般の感覚からはだいぶずれているのかも知れないが、ほんの些細なところで微妙にやりくりしながら生き延びている感覚が、貧乏とか金持ちとかの世間一般の基準からはずれてくる何かをもたらしていて、そこからデフレだから悪くて適度なインフレに経済の状態を保つように政府が金利を上下したり財政出動などによって調整しなければならないとかいうコンセンサスがどうやって生じてくるかが理解できるわけでもないのだが、個人的な実感とは関係のないところで政治が行われていて、なぜかそこで経済の状態が問題視されて、盛んに賃上げが必要だとか世論をそういう方面へと誘導しようとしているのかも知れないが、どうもそんなことよりはまずはやらなければならないことがあるような気がするわけで、それが積極財政だとか緊縮財政だとかの対立軸とも無関係な方面になるから、やはりそんな方面からも疑念が晴れず、なるほど関心が向かない理由がわかってしまうというか、仮にここ数年で政権交代が実現したら、選択的夫婦別姓の実現や死刑制度の廃止とかのリベラル的な改革をやってもらえばいいだけで、後は政治資金の透明化とかの政治そのものをクリーンなイメージに近づけてほしいが、政府の経済政策がどうのこうのとか、あまり効果が疑問視されるような余計なことはやらない方がいいような気もするわけだが、それも消費税率を引き下げるとか石油関連の税率なども引き下げるだけでも効果がありそうだし、原発関連のエネルギー政策でも発送電の経営分離とかの電力供給体制を見直して、納得が行くようなことも求められているとしても、やりたいことはいくらでもあるだろうが、やれることが限られてくることも予想できるし、うまくは行かないことも当然のことながら、現状でもうまく行っていないわけだから、そうなっても仕方がないと予想するしかないわけだ。


2月11日「歴史的な経緯」

 世界の現状に照らし合わせてもっともらしく思われる理屈や理論に基づいた意見や主張を示す際に、その理屈や理論にとって都合の悪いことはあえて言わないのか、あるいはそれに気づいていないのかは、どちらでもあるかも知れないが、その理屈や理論にとって都合の悪そうなことというのが、そんな理屈や理論を出現させる歴史的な経緯だというと、現状の世界で起こっていることを説明するのに都合の良い理屈や理論自体が、それが出現してきた歴史的な経緯に含まれていて、そうであるならそんな理屈や理論がもっともらしく思われる時点からさらに時が経てば、それなりに世の中の情勢や状況も変わって行くにつれて、ある時点からはそれがもっともらしく感じられなくなり、その代わりにその時点でもっともらしく感じられるような理屈や理論が新たに出現してくることが予想されるだろうが、少なくとも現時点では今の世の中で流行っている理屈や理論がもっともらしく感じられているはずで、果たしてその理屈や理論にとって都合の悪いことに気づいている人がどれほどいるかはよくわからないが、それが経済に関することなら、現状の経済をもたらしてきた歴史的な経緯を考えてみる必要がありそうで、現状の世界経済の中で多極的な中心となっている地域を挙げるなら、アメリカとヨーロッパと中国とインドになるだろうが、それらの間に日本や東アジアや東南アジアやオセアニアや中東やアフリカやロシアや中央アジアやアメリカを除いた北米地域や中南米などが存在しているだろうが、それらの中でとりあえずアメリカが世界中から人や富が集まってくるシステムを作り上げているから、現状の覇権国となっている一方で、ヨーロッパと中国とインドは数千年来の文明の中心地としてそれなりに人や富の蓄積があり、他にもメソポタミアやエジプトなどは数千年前の段階では世界経済の中心地で、イスラム文明が栄えていた頃も世界経済の中心地だった時期もあったが、その後はいったん文明が衰退したり滅んでしまったから現代では荒廃した乾燥地域でしかないだろうが、日本は朝鮮半島が緩衝地帯となって中国の完全な属国にならずに済んで、またヨーロッパ文明による世界支配の時期でも中国が侵略を受けている間に文明開花を実現させることができて、さらにはアメリカと戦争して負けた時でも、米ソ冷戦を利用してうまい具合に危機的な事態を切り抜けて現状に至っているわけだろうが、そういう意味では日本もアメリカもヨーロッパも中国もインドも、程度の違いはあるにしてもそれなりに国内や地域内に過去から連綿と受け継がれてきた継続的な富の蓄積があるわけで、その富が現代でも世界的に一定の価値を保っていて、メソポタミアやエジプトなどのようにいったん富がゼロになるような経済的なリセットが起こっていないからそれ相応の耐久力があるというか、そういうところが政府が財政破綻を免れている遠因だとは思うが、それもそれ自体が現状を形成している決定的な要因とも言えないし、微妙で相対的な信用でしかなく、何かのきっかけからいつ崩れても不思議ではない程度なのかも知れないし、そこから言説的な主張や意見などを伴っていくらでも強く正当化できるようなことが言えるにしても、そうやって述べるだけなら肯定的になれるのだが、実態としては少し違うのかも知れず、その述べていることと実態との少しの違いがどの程度なのかが、そんなことを主張している人によっても違ってきて、現状を危機的な状態だと見る人とそんなことはないと楽観視している人の違いが、大同小異的な違いなのか決定的な違いなのかもよくわからないところかも知れず、そもそも現状を語るとは現状という結果から語ることになるから、すでに述べている内容が過去の結果に過ぎず、現時点でそれなりにもっともらしく感じられて、信用できるようなことを述べているとしても、この先の将来においてはどうなるかわからないし、それを予想することも述べている内容に含まれるわけだが、予想は予想であって未定な面が含まれているから、それもそれなりに何とも言えないところがあるわけだが、少なくとも現状を踏まえて述べていることだから、そんなことを述べている人の判断や認識が、それを受け止める自らの判断や認識とは微妙にずれている可能性もあることは考慮しておかなければならず、どんなに説得力のあることを述べている人でも、その人が自分とは違う事情や経緯を抱え込んでいる他人である限りで、どうしても他人の意見や主張よりは自分の意見や主張を優先させてしまいがちになってしまうから、他人より自分を信用する方がその信用の程度も強くなるはずだが、だからといって他人が全く信用できないということではなく、自分もある程度は信用できないし、それも相対的な範囲内で現状を踏まえて判断するしかないが、そんな自分も含めて様々に立場や境遇の異なる人々の意見や主張を参考にしながら何を判断したいのかといっても、それが大したことだとも思われなければ、別にどうということはないわけだが、それも少なくとも述べている内容が現状について述べているわけだから、現状があってそれについて述べている内容があるわけで、そういう意味では現状=述べている内容ではないし、その述べている内容に対する判断や認識も、述べている内容=それに対する判断や認識ではないのだから、それぞれに微妙に違うことを考慮に入れておかなければならないが、自らの頭の中でそんなことまで考慮しているかどうかも怪しいところだが、それらを混同しているかどうかも含めて何か気づいていないことや勘違いしていることがあるのかも知れず、それが誰であってもその人の述べている内容の妥当性に関わってくることであるなら、自分が述べていることも他人が述べていることも信用できるなら、それが妥当だと思うから信用できると思うしかないが、しかも他人の意見や主張には完全には同意できないとしても、そんな他人の立場や境遇を考慮に入れるなら、そういう立場や境遇の人ならそう述べるのが妥当に思われる程度でそう思っているわけで、その種の妥当性をどう捉えてみても、そこから生じる信用もその程度の範囲内から生じてくる信用である限りのものでしかなく、それ以外には解釈しようがないわけだから、それを相対的には信用していないことの証しだと捉えるならその通りには違いないのだが、そこでその人の事情や経緯が推測されてそんな解釈に落ち着くのとは全く違う全面的な信用やもっともらしさがあるかといっても、あるとは言えないのかも知れず、だから何だと言われると返す言葉も見当たらないが、少なくとも世界の国や地域が抱えている事情や歴史的な経緯からその国や地域に対する経済的な信用も生じてくるわけだから、特定の国に対してもっともらしい理屈や理論を当てはめてそれなりに説得力のある説明が示されているとしても、そんな説明が妥当だとは思うが、だからといってそれを全面的に信じているわけでもないし、その説明に対して支持や賛同を示しているわけでもないところが、それに対して疑念を覚えていることの証しとなるのかも知れない。


2月10日「宗教とは違う経緯」

 単純に考えて信じられないことと信じていることとが一致するはずもないが、そもそも何が信じられなくて何を信じているかについてはよくわかっていないのかも知れず、信じられないことも信じていることもどちらも自覚していない場合がありそうで、自分が信じられないことを他人が信じている可能性なら大いにありそうなのだが、また信じられないことを信じている人たちがカルト的な宗教の信者には多いと想像できそうだが、それがあからさまなカルト宗教ではなくても、逆説的に〇〇には騙されるなと煽り立てる輩が信じさせようとする偏見の類いには警戒してしまうが、騙されなくても広く世の中で信じられていることが、特定の宗教の教義に含まれていることであっても、その宗教自体が以前から広く慣習として信じられてきたことを認めることによって、それを信じている人々がその宗教を信じやすくなる効果があるから、そういった世の中の多くの人々に信じられている慣習を取り込むことによって、その宗教の教えが世の中に広まって行くのだろうが、それが宗教でなくても保守的な慣習を信じて受け入れている人々が世の中に多くいれば、保守政党などもそんな慣習を利用して支持者を増やそうとするだろうから、たとえ信じていなくても慣習に従うことによって、その慣習を信じて従っている人たちを支持者に取り込みたいだろうから、例えば正月などに有名な神社に参拝する光景をこれ見よがしに見せつけるようなことが行われているだろうし、また差別主義者を味方につけるためには実際に政治家が差別発言をするわけだが、その差別が例えば男女の役割分担などの慣習に基づいている場合にはもっともらしく感じられるわけだが、しかもそれが単に男は外で働き女は家庭を守る程度の内容であるなら、あまり差別とは感じられないわけで、実際にはそうとも言い切れないのに、産業革命以来の核家族化によって、そんな神話が信じられてきた経緯もありそうで、もっとも奴隷制が発達していた古代のギリシアやローマでは、世の中の大多数を占める貧しい人々から嫉妬や羨望の眼差しで見られる裕福な市民階級の家庭では、確かに男は外に出て政治や戦争に参加する一方で、女は奴隷を使って家庭を取り仕切るような制度が確立されていたのだろうから、それと産業革命期の男が工場で働いて女が家庭で内職と子育てをする役割分担とは雲泥の差があり、そこでも大多数を占める貧しい工場労働者から嫉妬や羨望の眼差しで見られる裕福な工場経営者や資本家の家庭では、奴隷の代わりに召使いや小間使いを使って女が家庭を取り仕切っていたのだろうから、そうなると男女差別ではなく単なる男女間の役割分担でしかなく、それよりは貧富の格差の方が目立ってしまうが、産業革命以前の農民が人口の大多数を占める社会では農作業は男女共働きで、子供の世話などは体力が衰えて働けなくなった老人が主に担当していた頃の家族構成では、男女差別など生じてこないわけだから、産業革命を伴った歴史的な経緯から男は外で働いて女は家庭を守るという役割分担が当然の慣習として信じられてきたのだろうが、さらなる産業の発展期においては一概に家庭を守るといっても、子供は保育園や幼稚園や小中学校に通わせればよくなったし、電化製品の普及によって洗濯や掃除や料理なども楽になって、スーパーに行けば調理済みの惣菜も売っているし、男女共働きでも家庭を維持できるようになったわけだから、そんな歴史的な経緯から男女差別というか役割分担も、それほど固定化する必要もなくなってしまったのと同時に、その代わりに男女間の賃金格差や職場内での差別的な待遇などが問題視されるようになってきたのだろうが、そういうことを考慮に入れるなら、いつまでも昔ながらの慣習を固定化しておくわけにも行かなくなって、無理に固定化しようとすれば、それが現状を無視した偏見に基づいた差別だと感じられてしまうから、改める必要が生じてきたのだろうが、だからといって実際に慣習に守られながら優位な立場や地位を占めている者たちにとっては、急に慣習が改まってしまうと都合が悪いわけだから、理性を働かせて政治主導で法整備や制度を設けて差別をなくすような試みには、建前としては賛同するにしても裏では抵抗していて、法律の類いはことごとく骨抜きにしようとするから、しかも他にも慣習を守ることによってその地位や役職を占めている、社会の中で主導権を握っている各種団体の管理職などに就いている者たちも味方となるから、そうした抵抗勢力による有形無形の妨害活動や妨害工作を打ち砕くのは難しいわけだろうが、それ以上にそれが慣習でなくても現状でうまく回っている面を改める気にはなれないわけで、しかもそれがゲームのように敵と味方とに分かれて対戦形式で動作しているところでは、そのゲームに参加させてもらえない者たちには不満が溜まってくるだろうから、そんなゲーム自体を茶番だ何だのと外部から野次りたくなってしまうのも、その気持ちはよくわかるにしても、ゲームの参加者の方はそんな奴らを相手にするのは面倒だから無視してゲームに専念するだろうから、それが国会の論戦でもテレビやネットの討論番組でも、ディベートゲームにそれなりの人数が参加して何やら論議している内容に何の意味や意義があるのか、そこだけを切り抜いて強調してみても何でもないようなことだが、そんな制度に従いながら世の中のコンセンサスを作り上げようとしているわけだから、それが直接ではなく回りくどい同調圧力のようなものだと捉えるしかないだろうし、そこで形だけでも議論を深めたという既成事実を作りながら何かが決定事項として提示されるような成り行きへと持って行きたいのだろうから、そうした決定の押しつけに逆らうにはゲームそのものを成り立たせないようにするしかなく、ゲームをぶち壊すような行為が求められてしまうわけだが、そうした過激な性急さが世の中の幅広い支持や賛同を得られるかというと、世の中の大多数の人々がゲームをうまく回していくのに必要な慣習に囚われている限りで、大した支持や賛同も得られないばかりか、そんな過激な行為に訴えてしまう者たちはゲームが行われている場から退場させられてしまうだろうが、それがこれ見よがしなパフォーマンスという別のゲームでは有効に機能していることにもなるから、プロレス的な場外乱闘劇と捉えてしまうと、それも場外乱闘という決まりきった慣習に則った行為だとも言えてしまうから、お決まりのポーズで観客の気を引くプロレスラーがリングの外で折りたたみ椅子を振り回している光景を思い浮かべて安心感を覚えてしまえば、その種の演技としての過激さにもそれほど感動も伴わないわけだが、そういう見せかけだけのゲームに実質的な効力を伴わせるには、現実の世の中で何かしら人々の状態に変化がもたらされないと実感も伴ってこないから、しかもその実感が否定的なものではないことが求められているはずだが、相変わらずひどい実感しか伴っていなければ、それらの慣習に基づいたゲームも依然として空回りし続けていることになるわけだ。


2月9日「岸田首相の処世術」

 それを処世術と言ってしまうと、それがその場限りでやっていることではなく、これまでに連綿とやってきたことの正当化と、将来に向けた自らの地位や立場を盤石にするための立ち振る舞いだと見ると、何となく納得できるような気がしてしまうが、本当に処世術と見るべきなのか、それとも何か特定の意図や思惑があってやっている立ち振る舞いなのか、そんなふうに振る舞っている当人にもよくわからないのかも知れないが、自然と身についた動作や仕草や言葉遣いや対応の仕方だと受け取っておけば、それで構わないようなことでしかないだろうが、だからといってそんな振る舞いだけで事態を切り抜けられるかというと、当人を取り巻く周囲の情勢や状況や当人を助けている官僚機構の組織的なサポート体制に支えられて、その地位や立場が成り立っていることは確かだから、その人の個人的な力量など氷山の一角にも満たない、ほんの少しの割合しか占めていないような力関係の中で事態が推移していると成り行きを捉えるなら、その人の立ち振る舞いの内容や程度や傾向の良し悪しだけで事態を把握するのは勘違いもいいところだとしても、それにしても岸田首相の国会での受け答えや言葉遣いから感じ取れるのは、いやらしくも卑怯な人間のクズのような印象を受けるわけだから、それが彼の個人的な資質だと受け取るしかなく、立場上そうならざるを得ないのだろうから、それが嫌ならさっさと辞めれば済むことかも知れないが、辞められない個人的な事情があるというなら、そんなのは彼以外の誰にとっても知ったことではないだろうが、彼自身が有能か優秀かなんてそうしたひどい印象とは全く関係のない次元で評価されるところかも知れず、それなりに優秀な人材だから首相になれたと思っておいても構わない程度のことであり、実際にも優秀であることは確かだろうし、少なくともその立ち振る舞いから学業が優秀だった印象を受けるわけで、彼のような人材など世の中にはありふれているわけではなく、それなりに上位に入るような優秀な人材には違いないのだろうが、だからといってやっていることが評価できるわけではないところが微妙であるどころか、思いっきり非難したり罵倒したくなるような結果をもたらしているわけで、なぜそうなってしまうのかといっても、日本の政治や行政の制度的な限界を象徴するような成り行きだとも言えないにしても、もっと違った状況ならそれなりに高い支持率を得ていたのかも知れないから、やはり人としての立ち振る舞いからもたらされる力量などあまり関係のないところで、そういう世論調査的な支持率が決まってくるのだろうから、そんな支持率など当てにならなそうだが、もちろん状況が彼のような人材の支持率を下げているわけだから、そんな状況の中で苛烈な批判や非難を浴びるのも当然の成り行きに違いないのだが、なぜそうなってしまうのかと問う以前に、現状の政府にはできないことをやれと迫られているのだから、それができないと言い訳する立場に首相が立たされていると見ておけばよく、あからさまにできないとは言わないような言語的なごまかし術を駆使しながらも、実質的にはひたすらできないと言い訳しまくっているわけだから、当然それに対して批判されたり非難されたりするわけで、できないことをやるには政権交代するしかないわけだが、それを阻止するためにも首相の小手先の技術としての答弁があまりにもひどいから、しかもそうならざるを得ないのだから、後は国民の選挙での判断にまかされているわけだが、それもできるだけ先延ばしにしたいのだろうから、民衆の敵としての行政の長であることの範を示していると言えるだろうが、そういう面の優秀さは誰からも評価されることはないだろうが、こんな状況の中では岸田首相の優秀さが逆説的に際立っていると見ても構わないだろうし、優秀ではなく有能であるなら、政権交代がスムーズに行くような配慮が求められているのを察知してしまうところだが、それが絶対にできないところが日本の政治情勢の限界を際立たせているところだろうから、結果的にさらにひどい状態がこれでもかと続くことが期待されてしまうのだろうが、それも行くところまで行ってしまっていることの証しだとも言える事態だと現状を捉えるなら、この先のある時点で、誰も思いもしなかったようなあっと驚く出来事が待ち受けているかも知れないにしても、それが誰も期待しなかったようなことであるなら、うまくやったことになるのだろうが、誰がうまくやったわけではなく、誰の功績だとも言えない事態になってしまうかも知れないが、たぶん岸田氏の功績だとも誰もそうは思わないとしても、逆業績のようなことだと事態を捉えるわけにも行かないだろうが、実態としてそうかも知れないような成り行きになってしまえば、やはりうまくやったことになるわけだが、誰もうまくやっていないのにそうなってしまうと予言したくなってしまうような現状の中では、いったいそうなることにどんな意味や意義を見出せるわけでもなく、そういう意味ではただの冗談には違いないが、その冗談のような来るべき事態の内容がまだ現時点では謎なのだから、それについてこの時点で言及するわけにも行かないし、言及しようとしてもできるわけでもないから、それについては何とも言えないが、その一方で現状で起こっていることの驚くべき事実が何なのかと言えば、岸田首相の国会で駆使される執拗で不快な答弁術だと言えるだろうから、しかもそれを引き出しているのが野党による疑惑の追及だとも言えるだろうから、ある意味ではなるようになっているのだろうし、それを取り立ててダメだの何だのと否定的な評価を下すのも、不当で悪質極まりない印象操作だと思われてしまうから、そんなことはやらない方が身のためであるどころか、そういうことをやるのもその場の情勢に応じた紋切り型に適っていると見ておいても構わないにしても、それもメディア的な限界であるとも言い難く、逆にそうなってしまうメディアの情けなさが評価に値するようなことでもあって、これまでにもそんなことを延々とやり続けてきたからこんなひどい事態を招いてしまっただけに、それなりにうまくやってきたことに関してはメディアの優秀さが目立ってしまうわけだが、それも優秀ではなく有能であるなら、現状からの転換を図るような配慮が求められていることに気づいてしまうわけだが、気づいたところで制度的な圧力によってそうはさせないような妨害工作が必ず施されるだろうから、誰がそんな立場になっても思い通りには行かないだろうが、それでも現状であからさまに露呈しているひどい状態に対応して行けば、そうなるのが自然の成り行きのように感じられる範囲内の結果がもたらされると信じて行動するしかないだろうし、実際にそんな成り行きに導かれながら行動している人や勢力も結構な割合で存在しているわけだから、それらの人や勢力にとっての格好の攻撃対象や批判対象や非難の対象となっているのが、岸田首相的な処世術と言えるかどうかも、それを処世術とは言わないかも知れないが、とりあえず彼が体現している立ち振る舞いの不快さが現状のひどい事態をもたらしていると多くの人々が錯覚しているのかも知れない。


2月8日「目的を遂行している虚無感」

 そんなことはあり得ないが、個々人がバラバラな方面へと勝手に動き出せば、それだけではどんな傾向を示していることにもならないだろうが、行動に伴って生じてくる共通の目的として、例えば利益を出すことが、行動を起こすための納得できる理由となって、実際に行動すれば利益が出ることが証明されれば、確かな感触を伴って利益を出すために行動しようとするはずだが、それだけが行動する目的ではないのは明らかで、各自が自分だけの目的に従って勝手に行動することができないのは、社会の中では人と人との関係から生じてくる様々なしがらみが張り巡らされているからで、そこから自分の目的より集団の目的が優先されてくると、面倒でこんがらがった事態になってくるだろうし、結果的に集団の利益のために自分の利益が犠牲になってしまえば、自分だけが貧乏くじを引いているみたいで不満が溜まってくるだろうが、そんな不満を抱かせないようにするには、自己犠牲を進んで行うことが美徳だと思い込ませるようなやり方がありそうで、そんな奉仕の心を集団の構成員の意識に植えつければいいかも知れないが、それをそのまま額面通りに受け取っている構成員もまずいないのかも知れず、誰かが見せつけのパフォーマンスを伴いながら、自己犠牲的な行動に訴えて、集団の他のメンバーから支持を取りつけようと目論んでいるなら、集団の他のメンバーもそんな下心を見透かしていて、体よくその自己犠牲的な行動をこれ見よがしに見せつける者を集団のリーダーに祭り上げて、そいつを利用して集団を繁栄させようと画策するかも知れないし、またそんな経緯や事情から集団の中で各々が自己の目的を偽りながらも、面倒でややこしい迂回的な意図や思惑を巡らして、結果的に自らに利益が転がり込むような仕掛けを施そうとする輩も現れるかも知れないが、そもそも利益を得ることだけが自身の目的ではないなら、さらにははっきりとした目的など持ち合わせてはおらず、ただ何となく生きているだけなら、その場その時の状況に応じて複数の目的とも言えないような目的が同時並行的に思い浮かぶにしても、はっきりとは何も思い浮かばなくてもその場の情勢に合わせてそれ相応の行動が伴ってきて、そこで他人の思惑と自分の思惑が混じり合い組み合わさって、それが行動の指針とも言えないような目標とも言い難い、達成すべきとも言えないような傾向が伴ってくるなら、一応はそれに合わせて行動していることにはなるが、別に目的らしい目的が遂行されなくても、またそれに伴って目指される目標らしい目標が達成されなくても構わないような心境になれるかも知れず、ただ世の中で流行っている現象に身をまかせていれば気が済むような心境になれたらそれに越したことはなく、そんな根無草のような人々に向かって何を訴えかけても真に受けてはもらえないような絶望的な状況に誰が直面しているわけでもないだろうが、誰も直面していなくても直面しているように振る舞いながら、何か利いたふうな意見や主張を訴えかける誰かのパフォーマンスを受け流しているに過ぎないかも知れないし、それを他人事として受け取る限りで真に受けていない証拠となるわけでもないが、受け止めず受け取らずにうまく受け流すことばかりにかまけていると、どこかの国の総理大臣のような対応となってしまうとしても、そんな気のない受け答えをどう受け止めるかが問われているわけでもなく、それも受け流されることの一つに過ぎないから、そんな卑怯な受け流し術が事実として延々と積み重なっている最中だと現状を受け止めればいいかというと、それも積み重ならずに流れ去って行くだけだから、記憶にすら残らないかも知れず、ではその代わりに記憶に残るような出来事があるかといっても、代わりとなるような出来事など現状の中には何もないとしたら、それこそが他の何の代わりにもならないかけがえのない貴重な体験を構成するわけでもないから、そんなことには無関心を装うのが妥当な態度になるのだろうが、それでもそんなふうに装うことに何か目的を設定できるなら、そんな目的を認識できるわけでもなく、そんな態度を多くの人々が取り続けた結果として出てくる世の中の状況が物語っている内容が、世の中をそんな状況にするためにそうした態度を取り続けた理由になるわけで、そこで誰もそれを意識しなくても自然と目的が生じてくるような成り行きに多くの人々が囚われていることになるわけだが、そうなると目的を遂行しようとしてそうなるというよりは、無関心になることがそこでの目的ではないのに、結果的にそんな目的が浮き出てくるような状況を多くの人々の無関心がもたらしていることになるから、たとえ自身の態度や姿勢が他の多くの人々の態度や姿勢と似通っていることに気づかなくても、自然とそうなるように促されて仕向けられているような状況の中で、そうした態度や姿勢を保っていることを意識できないことになり、無関心をもたらそうとすることがその集団の目的でもないのに、結果的には人々の無関心がもたらされて、しかもその無関心を利用してそれらの勢力が主導権を握って、さらなる無関心をもたらすようなことをやっているように思われてしまうから、それが主導権を握っている勢力の目的であるかのようにも思われてしまうのだろうが、実際には多くの人々の無関心をもたらすことがそれらの勢力の目的ではなく、あくまでもそこで政治的な主導権を握ることがそれらの勢力の目的になるはずだが、結果的に主導権を握っているように見える状況の中では、人々の無関心に乗じて主導権を握っているように見えるわけで、だからそれらの勢力を批判する勢力としては、人々に向かって無関心になってはまずいと訴えかけるのだとしても、そこでも目的と手段を取り違えているような事態に陥っているのかも知れず、目的を遂行するには手段を選ばないではまずいわけで、人々の無関心を変えようとすることが目的なのではなく、結果的に無関心となっているわけだから、何かをやった結果として人々の関心を集めることも本来の目的というわけでもなく、だからこれ見よがしなアピールを伴ったパフォーマンスでさえも、本来の目的からは程遠い行為だとしたら、では本来の目的とは何なのかと言えば、それが把握できず意識できない目的となってきて、逆に本来ではない間に合わせのその場限りの目的ならいくらでもその場の情勢に合わせて設定できて、それを設定できなくてもその場で多くの人々が囚われている成り行きの結果からも、何かもっともらしい目的のようなものが事後的に導き出されてくるかも知れないが、それを本来の目的だと認識してしまうと大きな勘違いとなって、そんな目的を信じてしまう自身に災いとなって不幸の倍返しのようにして返ってくるのかも知れないし、では本来の目的などないと言い切れるかというとそうではなく、たとえ間に合わせだろうがとりあえずだろうが身勝手なこじつけだろうが、それが自分の目的だと思っておけばいいわけで、そんな目的を遂行するために活動していると思ってしまえば、それで構わないような成り行きが待ち受けていて、そういう意味では目的などその程度の価値しかなく、いつでも自分の都合に合わせて捨てたり変えたりできるのが目的と言えるわけだ。


2月7日「戦争経済の実態」

 戦争以外の世界中で様々な出来事が起こっているのを全て無視したいわけではないが、それによって何か事態の進展があったとしたら、その事態とは何なのかということが相変わらずよくわかっていないようで、それを戦争だと理解してしまうと、すでに第三次世界大戦が起こりつつあるとか大げさなことを言いたくなってしまうから、そんなことではないと否定するなら、その根拠は何なのかと問われるわけでもないが、それもよくわからないでは話にならないから、現状でも世界各地でそれなりに規模の大きな戦争が起こっているとしても、その程度で済んでいることが、それを越える事態が起こるのを阻んでいて、まだそれを越える事態を起こす余裕がなく、現状でも精一杯の戦力を戦場に注ぎ込んでいるから、もうこれ以上のレベルがないような状態なのかも知れないが、それを越えようとすれば、現状で維持している経済的な繁栄を犠牲にしなければならず、現状でも経済が犠牲となっている国や地域がそれなりにあることは、実際に戦場となっていたりその周辺の国や地域の惨状を見れば明らかだが、その一方で果たして逆に戦争によって経済が潤っている国があるかというと、それに関しては陰謀論者などに言わせれば戦争に加担している欧米の国々が、その中でも特にアメリカの経済が潤っていると指摘したいだろうが、ただ武器や兵器を供給している軍需産業が潤っているだけで、その分で国家財政に負担が重くのしかかっているわけだから、それがいくら国債の発行によって賄われているといっても、生産された武器や兵器が消費されることによって利益が得られるかというと、逆に戦争をやっている国や地域の経済が破壊されているわけだから、どちらかというと経済的な損失の方が遥かに大きいと考えるのが妥当なところだが、感覚的にも感情的にもそうであっても、その後にやってくる戦後の経済復興を折り込むなら、そうとも言い切れなくなるかどうかも、戦後の経済復興次第な面もあるだろうが、現状ではまだそこまで事態が進展していないから、今後どうなるかはこれから事態がどう進展するかにもかかってくるわけだろうが、状況的には第二次世界大戦前の日中戦争が泥沼化の兆しを見せ始めた頃に似ているかも知れないが、そうなるとここから第三次世界大戦へと突入する可能性が俄然高くなってくるわけだが、果たしてそんな成り行きになるかどうかも含めて、今後の展開を占うつもりもないが、その一方でそんなことでさえも眼中にはないようなところで、人の意思や意志や集団の意向が狭い範囲内で右往左往しながら凝り固まっているところでは、その狭い範囲内とはどんな範囲内なのかと言えば、例えば再生可能エネルギーと化石エネルギーと原子力エネルギーのうちのどれを優先させるべきかとか、そんなのはどれを優先させても肝心の経済情勢が上向く気配など一向に感じられないとか、それも勝手な思い込みで、実際には何を優先させるかでこれまでとは違う新たな経済活動の在り方が確立されるかも知れないとか、それが新しい資本主義の実体を形成するとか、そんなことを言っているうちに、それとは別の方面では昔ながらの談合や贈収賄などの金権腐敗政治がまかり通っているから、それによって政府の予算配分が歪められて必要なところに必要な投資が行われなくなり、その煽りを食って民間の経済活動が停滞しているとか、そんなふうにして実態の定かでない実情を想像力を駆使して語り出したら、どんどん非現実な妄想へと意識がのめり込んで行ってしまうから、それらが日本という狭い地域の情勢について語られる的外れな妄想の実態なのかというと、そんなはずがなく、もっと具体的に現状で起こっている出来事について語られているはずだが、どうもそれが微妙に不確かで怪しい雰囲気を醸し出しているから、それらの政治的な言説自体もおかしな方向へと恣意的に歪められているとか言われると、そんな感じがしないでもないが、たぶん戦争も政治も部分的には経済情勢の一面を物語っていて、それらに関わって起こる様々な出来事も物事の本質から外れた枝葉末節な些事ではないどころか、それ自体が経済情勢そのものであり、経済情勢の延長上で戦争も政治も行われていて、また戦争の延長上で行われているのが政治だと言いたい人もいるらしいが、他の国や地域で行われている戦争に煽られて何やら勇ましいことを言い放つのも愚かしい身振りに見えてしまうから、そういうところであからさまな戦争賛美など誰も口にしないだろうが、口にしなくてもそれを利用して政府の軍事予算を増やしたり、離島などでの基地の建設にも拍車がかかってしまったり、果たしてそれが的外れな対応となるかならないかとは関係のないところで、経済的な利害が優先されてそんなことが行われているわけでもないだろうが、それをもっともらしく説明するとなると、それに対する批判的な言説の中では絶えず経済的な利害関係からそんな成り行きが語られてしまうところが、そんな成り行きの本質を物語っていることになるのかも知れず、来るべき戦争に勝つだの負けるだの以前に、経済的な損得勘定や利害からそんなことが最優先事項として行われているわけではないにしても、そんな事態になることを想定して莫大な予算が計上されている事実が、戦争を口実にして金儲けをするような思惑が絡んでくるから、それが戦争をやる直接の口実ではないとしても、実際に戦争の準備にはカネがかかるわけだが、もちろん日本ではこれから戦争をやるための準備をしているわけではなく、あくまでも戦争をさせないための抑止力としての防衛力の質の向上や効率的な整備をしていることになっているが、実際に戦争になった事態を想定してインフラ整備をやっているわけだから、そんなところに予算を振り分けるよりは、現状の世の中で経済的に困っている人々を助ける方面へと優先して予算を振り分けるべきだと主張すれば、それも何やらもっともらしく感じられるのだが、そこでも経済的かつ功利的な損得勘定や利害から優先順位が決まってくるとしたら、助けたところで得になったり利益をもたらしてくれるような人でなければ助けないとあからさまに切り捨てようとしているわけではないものの、実際に功利的な経済活動が優先されるとそうなってしまい、その典型例が大阪で行われている行政だとしても、そういう成り行きの延長上で戦争経済を捉えるなら、少なくとも経済的な利益を追求する方向で戦争が行われていると事態を捉えるしかなく、そうだとすれば現状の中で行われている戦争が現状の世界の中では経済活動に見合った規模や程度や傾向を伴った戦争だと言えるだろうが、もちろん戦争という行為の性質上、絶えずやり過ぎるような事態を伴って、常に経済的な利害を無視した破壊的な傾向になる可能性も十分に考えられるから、すでに現状でもそうなっている可能性もなきにしもあらずだとしても、それでも戦争を口実にした金儲けが成り立っている限りで戦争が継続すると言えるわけではないものの、それなりに経済活動の延長上で戦争が行われている実態があるのではないか。


2月6日「事物の比較から考えられること」

 ありふれたやり方で事物を取り扱う手法として社会の中で定着しているのが、価値や価格を決めてそれを他の事物と比較できるように数値化する手法だが、そういうやり方が適切かどうかは比較する事物にもよるが、それを商品と見なして貨幣と交換するには必要な操作だが、そうなると商品にはならない事物には適さない手法となるだろうが、もちろん全ての事物が商品になるわけでもなく、貨幣と交換できない事物などいくらでもありそうで、ではそんなありふれたやり方では通用しない事物とは何かといったところで、それも通用させようとする事物以外の事物になるしかないだろうから、いちいちそんなことなど考慮する必要もなく、貨幣を介して売買できる事物がその都度生じてくる経緯や事情に応じて、それがその価値や価格と共に商品となるかならないかが決まってくるはずだが、そんな当たり前と言えば当たり前の成り行きに囚われながら社会の中で多くの人々が暮らしているわけだから、そうなっていることを取り立てておかしいと思うわけでもなく、そうなってしまうことが前提となってそれに関わって生じてくる成り行きにも、またそれ以外の成り行きにも配慮しながら活動しているわけだから、そういう成り行きが成り立つ範囲内で活動も成り立っていることになるなら、それなしでは活動が成り立たないことも誰もが十分に承知していて、承知しつつもそんな当たり前のことは考慮に入れていないというか、いちいちそんなことは思考の対象にもなっておらず、大抵はそれ以外のことの方に関心が向いているはずで、そうなるとなぜそんな当たり前のことにいちいちこだわるのか疑念を抱いてしまうかも知れないが、その一方で事物の数値化によってもたらされる効果や効能として、それが他の事物と比較する際に暫定的に信用できる客観的な指標として役立つように思われると、その数値が高いか低いかが常に妥当な値として問われるわけで、高過ぎると判断されればその都度数値を妥当な値に下げるように働くし、また低過ぎると判断されればその都度数値を妥当な値に上げるように働くから、数値が絶えずその場の情勢や状況に合わせて上下に変化することになるわけだが、果たして数値だけ見ていればその場の情勢や状況を理解できるかというと、それも理解の程度や傾向にもよるだろうし、数値の高い低いに応じて功利的な損得や利害に関わる活動を担っているなら、そういう活動に関わっている人ならそれが重要な指標となってくるし、数値が高かろうが低かろうが気にしなくても済むような活動を担っていれば、そういう活動に関わっている人ならそれが大して重要な指標でもないことになると共に、その人の活動の中ではそれよりも重要な指標が生じているかも知れないし、それが数値では表現できないような微妙な感覚から生じてくる指標であるなら何なのかということが問題になってくるだろうが、しかもそれがどうなれば良くてどうなれば悪いのかという判断などとも無関係なら、さらに謎が深まってくるかも知れないが、どう判断してみてもしっくりこないような他の事物との比較など受けつけない事物に関わっていると、日頃から数値的な指標から生じる判断に慣れている人なら、それをどう表現すればいいのかよくわからなくなってくるだろうが、大抵はそんな事物など無視して、他との数値的な比較によって自らが関わっている物事の良し悪しを判断することに慣れているから、それだけで済まそうとしてしまうわけで、そう判断することが相対的な妥当性となってそんな感覚に囚われながら社会の中で誰もが活動している限りで、様々な事物を数値化した比較を信じることによって各々の活動が成り立っているように思われるわけで、それ以上に何を追求すべきかなんて考慮に入れていない人が大多数を占めるとしても、その一方でうまく数値化できないあやふやな感覚や感情から生じてくる判断として、簡単には納得できないおかしなこだわりも生じてきて、それが他とは比較できないその人に特有のこだわりとなるだろうが、それも大抵はそんなのはその人の勝手な思い込みであり、その人が抱いている偏見に過ぎないはずだが、それと同じような偏見を他の大勢の人々も抱いていれば、共同幻想のようなものとして社会の中にいる多くの人々の心に巣食っている迷信となってくるだろうし、それが個人が勝手に思い込んでいるこだわり程度なら、その人が自身の存在や活動を正当化するためにそんなことを勝手に思い込んでいるに過ぎないとしても、それが多くの人々が抱いている共通のこだわりとして勝手な思い込みに結実してくると、それ相応の程度や傾向を伴って人種や民族や宗教などにも関わってきて、そんな様々なこだわりが複雑に入り組んで多くの人々に共通の幻想を抱かせるのが国家的な愛国心の類いになってくるにしても、それが他の国との比較で自分たちのこだわりの優位さや優秀さを誇ってみせるような正当化に至ると、それと共にまた数値化された数々の指標も都合良く持ち出されてくるだろうし、自分たちを正当化するためにそんな指標を持ち出してくる限りで、都合の悪い指標など無視されて、そんな指標も偏見を強化するために使われ出すと、それと共に愛国心と呼ばれる厄介な自尊心も増長してくるわけだろうが、そういった方向で心の中の偏見を成長させることが、果たしてそうなってしまう人たちを利することにつながるかと言えば、それらの人たちが自尊心をくすぐられて調子に乗って増長する分には有効に機能しそうだが、意図的にそんな傾向へと人心を導いている勢力にとって何が利害に関わってくるのかと言えば、端的に言って国力と言えるような力の増強を目指していて、力の増強が直接軍事力の増強となるように持って行く成り行きが現状で生じているとしても、それがその国の経済力に応じて増強されて行く限りで、果たして軍事力の増強に伴って経済力も増強されて行っているのかと言えば、たぶんそうなっているように装いたいだろうが、それについては経済関連の指標が伴ってこないというか、都合の良いところだけ強調される成り行きでも、何かハリボテ感を免れないような言説的なまやかしに囚われているのかも知れないが、それに関して都合の悪いことを言うなら、実質的には経済を犠牲にして国力を増強させようとして、それを極端な事例を挙げて形容すれば国家の北朝鮮化が進行中である一方で、それが政治的な指導者になっているつもりの政治家の心の中で進行中であるなら、独りよがりな思い込みに過ぎないことだろうが、果たして実態がどうなっているのかと言えば、独りよがりな思い込みが世の中で通用しているとは言い難いし、それほど通用していなくても構わないわけで、一部の愛国者気取りの人たちからの支持を取りつける目的で愛国者を装っているに過ぎない面もあるにしても、なぜそれが通用していないのかと言えば、実際にそうなってしまった国と比較してみる限りで日本の実態がそこからかけ離れていることが明らかとなっているからだが、それが見せかけだけの戯れ事に過ぎないなら、そんな愛国の虚像に対して真の愛国者たちが怒りの声を上げるかというと、そもそも真の愛国者という立場が他の立場との兼ね合いから成り立つのが難しいのかも知れず、愛国者であるよりは売国の民となっても経済的な利益を追求することに価値があるとあからさまに思っているわけではなくても、活動して行くにつれて自然とそうなってしまう成り行きに多くの人や団体が囚われているのではないか。


2月5日「自分にとってプラスなこと」

 現状の世の中で多くの人々が何かとんでもないような勘違いをしているのかも知れないことは、誰にとっても自分にとっても不幸なことかも知れないが、そんなふうにして誰もが不幸だからこそ、その不幸であることをバネにして、他の何かをやるような成り行きに持って行きたいと思う以前に、すでに誰もが行動していて、思うよりも先に行動してしまうから、その勘違いを誰にとっても自分にとっても行動することによってプラスにできればいいが、そもそもそのプラスとは何なのかというと、それが他の何かをやるきっかけになることだとすれば、果たしてそれが誰にとっても自分にとってもプラスなことなのかと問われるまでもなく、そこでも問われる以前にすでに行動に結びついてしまい、行動したことが結果的にプラスになればいいだろうが、それがプラスではなくマイナスになれば、それが誰にとっても自分にとっても不幸なことだと思われてしまうかも知れないが、それも行動した結果からそう思われるのだとすれば、実態としてはやはりそう思う以前に行動が先行していて、行動した結果が良ければプラスに思われて、悪ければマイナスに思われて、マイナスであればそれが不幸なことだと認識されるわけで、それを不幸だと思ってしまうことがとんでもない勘違いなのかどうかも、不幸だと思ったことが結果的に覆されるようなことがその後に起これば、しかも起こったことが誰にとっても自分にとっても思いがけずプラスになるようなことであれば、そうなった時には不幸だと思っていたのが勘違いだったことになるかも知れないが、それがとんでもないような勘違いなのかといえば、思いがけずもたらされるプラスの程度にもよるだろうが、それ以前に何かが起こった結果からそう思われるのだから、その後の成り行き次第で、そう思われることも後から何かとんでもないような勘違いだったことが明らかになる可能性もあるわけだが、要するに結果的にそう思われるようなことを行動する以前や何かが起こった以前にそう思っていたような感じがしてしまうことが、何かとんでもないような勘違いなのかも知れないし、果たしてそんな勘違いをしてしまうことが自分にとってはプラスなことなのかというと、それで良ければプラスで構わないのだろうが、プラスだと思ってしまうこと自体が何かとんでもないような勘違いなのだとすれば、それが不幸なことかも知れないし、自分にとってプラスなことなのに、なぜかそれが同時に不幸なことであるなら、プラスかマイナスかの判断や認識と幸福か不幸かの判断や認識が一致しないことになるわけだが、それとこれとは次元の違うことかというとそんなはずはなく、普通は自分にとってプラスであるなら幸福で、マイナスなら不幸だと思うだろうが、それが何かとんでもないような勘違いであるなら、ではそれをどう考えれば勘違いではなくなるのかといっても、たぶんそれがとんでもないような勘違いでないと思い切った行動には結びつかないのかも知れず、何かとんでもないような勘違いを抱きながら行動している人々がいつの時代でも出現してくるから、そういう人々が時代を動かす原動力となってきて、世の中を変えるには何かとんでもないような勘違いを犯す必要があるわけで、それの代表的な例として挙げられるものがあるとしたら、例えばコロンブスのインドを目指した大西洋の横断が結果的に新大陸の発見につながったわけだが、では果たして現状の日本でも何かとんでもないような勘違いを抱きながら行動している勢力があるかというと、それもそんな行動が結果的に何かとんでもないような出来事を起こしてしまうなら、しかもそれが誰にとっても自分にとってもプラスに思われるようなことなら、普通に良い結果をもたらしているように感じられるはずだが、それに関して確かな根拠があるわけでもないのだが、例えば山本太郎やれいわ新選組の人たちがやっていることがそうであり、また積極財政派と称して政府の赤字はみんなの黒字だと主張する人たちの活動もそれに含まれてくるのかも知れないが、彼らが何かとんでもないような勘違いを抱きながら活動していることが、結果的に誰にとっても自分にとってもプラスに働くとしたら、それをどう捉えてみても合理的に考えてしまう限りで否定的に受け止めてしまうかも知れないが、それで構わないというと、合理的に考えてしまうような人々がどう考えても納得が行かないような結果がもたらされて、唖然とするしかないとしても、もちろん強がってそんな素振りを見せようとしないのは想像できるところだが、彼らが今後起こるかも知れないとんでもないような出来事の犠牲者となるか、あるいは主導権を握ってとんでもないような出来事を起こす当事者となるかは、実際にそんな出来事が起こってみないことにははっきりとしたことはわからないだろうが、それが誰にとっても自分にとってもプラスとなるような結果になるなら、どちらであっても構わないが、現状でもそんな予感がしてしまうのだから、すでに何らかの主導権を握っている可能性もあるわけで、それがどんな主導権かといえば、実際に行動を起こしている限りで生じてくる主導権であり、そんな主導権を我先に握ったところで大した成果など得られないと思うのも、彼らの実際の活動から窺われるところだとしても、多くの人々にそんな実感を抱かせることも、結果的にもたらされる出来事が何かとんでもないようなことであればあるほど意表を突いていて、何か思いがけない驚くべきことが起こったと大げさに思われるわけで、そうなることを狙って活動しているわけではないとしても、すでに活動している事実が、そんな活動自体に導かれながらそういう成り行きを生じさせようとしていて、逆にそうならないと結果的には試みが失敗に終わってしまうことになるだろうが、それに対してアンチな人や集団もことさらに目の敵のような思い込みを抱かせながら活動に巻き込まれてくるようなら、それ自体は思いがけないことではないだろうが、無視できないわけだからそうならざるを得ない成り行きになってしまい、それも結果的からわかることは、無視していれば何でもなかったことなのに、無視できずに下手に攻撃を仕掛けてしまったばかりに、事態を変にこじらせて騒ぎを大きくしてしまったことになるわけで、下手に攻撃を仕掛けるからかえってそれらの活動を大きく成長させてしまうような成り行きになってしまうから、藪蛇なのはわかりきったことだとしても、すでに攻撃を仕掛けてしまったのだから後戻りができなくなってしまい、もはや次なる攻撃を仕掛けないと自分たちの勢力が危うくなってしまうから、一度攻撃を仕掛けたら二度三度と継続して攻撃を仕掛けないと、他の仲間たちからの信用を維持するためにも示しがつかなくなるわけだが、そうやって泥沼へと引きずり込まれて行く過程の中で、そこから抜け出す算段など巡らしている余裕などないだろうから、後は成り行きまかせでその場その時で生じてくる経緯や事情に従いながら事態に対処して行くぐらいしかやりようがないかも知れないが、そうすることが自身にとってプラスかどうかも、そんな焼け石に水のようなことをやってみた結果からわかったりわからなかったりするようなことかも知れない。


2月4日「偏見に導かれて迎える結末」

 それを偏見だと思ってしまうと身も蓋もないが、それの何が間違っているとも思えないのに、しかも心に響かないわけではないにしても、どうしても感情的に受けつけないようなら、他の誰かの意見に対してそう感じられてしまうのだろうが、そんな類いの意見が何から影響を受けているのかといえば、よくありがちな傾向を伴って発動する想像力を働かせて考えるなら、そういう傾向のメディアから影響を受けてそうなってしまうと思うしかないが、たぶんそれが的外れな意見だと感じられるのではなく、すでにそう思うこと自体がないものねだり的な方面から生じてくる偏見の類いに導かれていることの証拠かも知れないが、それが偏見だというのも、そんな偏見を伴った意見を主張している人には受け入れ難いだろうから、それでも実際にそうなっている事実を考慮に入れるなら、それ以上に何がどうなっているわけでもないところが、せめてもの救いと見るか、あるいはもうそうなっている時点で手遅れと見るか、さらにいえば取り立ててどう見ているわけでもなければ、そんなのはどう見ても構わないようなことでしかないかも知れないが、そんなところにこだわってしまうと、そんな偏見に囚われている人々から反感を買うのが目に見えているから、あえてそんなどうでもいいところには触れないようにしておくのが大人の対応だと言えるわけでもないにしても、それを偏見に囚われていると見てしまうこと自体が、それとは逆の偏見に囚われていることの証しだと言われてしまうと、別にそれを認めてしまっても構わないのかも知れないが、他人の主張や意見を偏見に囚われていると言ってしまうとそこで終わってしまうから、それを偏見とは言わないような工夫を凝らさなければならないとなると、だいぶ無理な屁理屈を並べながらそれについて語るしかないのかも知れず、それに成功したからといって、取り立てて言説に偏見以上の説得力が生じるとも限らず、それよりは単なる骨折り損のくたびれもうけ的な結果しか得られないかも知れないが、嘘でも構わないから偏見ではないとしたら何なのかといえば、それがこだわりであるから偏見とはいえないと言うなら、そんなこだわりから偏見が生じてくると返されるしかなく、そこにこだわってしまう経緯や事情も生じていて、どうしても譲れない一線があって、その一線を超えてしまうと、自身が否定している状態に自分自身がなってしまうから、そうならないためには、たとえ偏見と言われようと後生大事にこだわりを保持しておかなければならず、そうならざるを得なかった経緯やそれを保持しておかなければならない事情を無視するわけには行かなければ、そういう態度や姿勢を変えるわけにも行かなくなるはずだが、それが何なのかということがはっきりとはわからないのかも知れないし、何でもないことならこだわる必要はないのだろうが、それもたぶんそういうことにこだわることによってその人の存在価値や存在意義があるような気がしてしまうのだろうから、こだわらなければただの人に過ぎず、自身がただの人に見られてはまずいというか、他人にとってはまずいも何も、他人事に過ぎないのだからそんなのは知ったことではないが、その人にとってはそこに至る経緯に囚われているから、どうしても否応なくそうなってしまう事情を抱え込んでいるからそうなっているに過ぎないのだが、それを他人からああだこうだと指図されて、はいそうですかと素直に従う義理も理由もないだろうし、そういうところですでに後戻りが利かなくなっているから、手遅れには違いないはずだが、それもたとえ手遅れとなっていようと、現状の中で生きて活動が成り立っていればそれで構わないような事態となっているから、そういう面では手遅れでも何でもなく、他人から手遅れと言われようと、他人にはそう見えても自分がそう思っていない限りで、それで構わないと思うしかないだろうから、やはりそれにこだわっている限りでそんな状態を維持できるような自信があると見ておくしかないのだが、その自信がどうなれば揺らぐのかといっても、実際に自信が揺らぐような事態になってからそれがわかったりわからなかったりするのかも知れないが、そういう意味ではもう手遅れだと感じられる人々がどんなに説得力に乏しい意見や主張を壊れたレコードのように繰り返し述べていようと、それらの人々が後生大事に抱え込んでいる偏見が手遅れな事態を招いていると感じられても、そうなっているからといってすぐさま国が滅びるだとか崩壊するだとかいうことが起こると想像するのは、ちょっと早合点過ぎはしまいかとも思われるものの、たぶんそうなってからでないと再スタートが切れないというか、いったんリセットしてそれまでの膿を全て出さないと万事が始まらず、そうなることを誰も望んでいないようなことが起こってから、その後からでないとまともなことをやるターンが回ってこないのだとしたら、まだ現状では中途半端にやり切れていない状態となっているから、それを全てやり切ってしまうと、さらに状況が悪化するだろうし、今まで以上に世の中では多くの人々が悲惨な境遇に甘んじることになるだろうが、それがそれらの人々の自業自得だと思い知らされる以前に、まだ今よりだいぶ状況が悪化する余地が残されているのかも知れず、だからまだ多くの人々が自業自得だと反省する時ではないと情勢を捉えるなら、ではどうなった時がそうなる時なのかといっても、それも実際にそうなってみないことには何とも言えず、仮にそうなっても誰一人それに気づかず、反省などせずにその機会を取り逃してしまうのかも知れないから、それもいったん過ぎ去ってしまえばその程度のことでしかなく、何とも感じないのかも知れないし、何の痛みも感じないのかといえば、それもその時になってみてから感じる人は感じるのかも知れないし、何も感じなくても何の反省もする必要もなくても、それで済んでしまえばラッキーだと思うわけでもなく、ただ淡々とこじれた事態が解きほぐされるのを待つしかないのかも知れないが、待っているだけでは済まないと感じている人たちは今も滅亡や崩壊を食い止めるべく活動の最中だろうし、実際に活動している人たちは様々な困難に直面してご苦労なことでしかないだろうが、それもたぶん自身では大した活動もしているつもりもなくても、現状で進行中の情勢や成り行きに巻き込まれながらもそれなりに活動しているわけで、それがその自覚がないということがある意味では救いとなっているのかも知れないし、そういう活動に反発したり反感を抱いている人々のこだわりや偏見でさえも、それに抗して多くの人々が活動する糧となっているような兆候を感じているのかも知れない。


2月3日「行動する理由と思考する機会」

 人がすでに何かしら行動している最中であれば、今さら行動する理由など求めてはいないはずだが、行動するに際して納得できる理由があればそれだけで安心できるわけでもないにしても、例えば理由なき反抗が反抗する理由など求めているわけでもなく、なぜ反抗するのかといえば、気に食わないからと理由を簡単に答えられる以前に、反抗できるような状況の中で反抗しているわけで、何らかの拘束を施されていたり制約を受けて反抗できないようにされていれば反抗などできないだろうから、反抗するには反抗できる自由や余裕がないと反抗できないような気もするが、それとは逆に他から何らかの作用や影響を及ぼされて、当初は反抗する気もなかったのに、しきりに反抗するように促されていたり仕向けられて、反抗しないわけには行かないようにされてしまうと、嫌でも反抗せざるを得ないような成り行きに追い込まれてしまうかも知れず、そうなると反抗しない自由も余裕もないことになってしまうだろうが、行動する内容が反抗だけとは限らないが、作用反作用の法則に従って、外部から何らかの力を加えられて行動している場合には、自発的かつ積極的に行動しているわけではなく、もちろんそう思わされている場合もあるだろうが、その理由や原因が外発的な事情や経緯から生じているなら、あえて理由など考えなくても済んでしまい、外部から及ぼされる作用や影響が行動の原動力となっていて、それが内発的な自分の能力だと勘違いしているなら、自分の力を過大評価しているというか、単なる幻想に過ぎないかも知れないが、そう思わされているとしたら、何によってそう思わされているのかといえば、例えば日本国憲法があるから、その内容が気に食わないし、何よりも憲法が制定された経緯も腹立たしいから改憲を仕掛けているような成り行きになっていると、しかもそんな改憲勢力が建前としている改憲する理由が納得できるような理由ではなく、変に難癖をつけてみたり、こじつけみたいな理由がヤバそうに思われるから、かえってこんなひどい奴らに改憲をやらせたら大変なことになるから現行の憲法を守らなければならないという使命感を強く意識してしまうような成り行きになっているとしたら、逆効果のようなねじれた作用や影響によってそんな成り行きが生じていることになってしまうが、そういう面も含めてこれ見よがしにあからさまに見え透いたまやかしやごまかしを駆使して強引なことばかり仕掛けてくる奴らが世の中にはびこり過ぎているような印象を受けるから、ひどい世の中になっていると思うなら、その通りだと言えないこともないにしても、世の中のそういう面ばかり見ているからそう思われてしまうと共に、果たしてそうではないまともな面がどれほどの割合を占めているのかといっても、それはメディアから受け取る情報の内容によっても日頃の生活から得られる実体験の程度や傾向によっても印象が違ってくるだろうから、それをそう思うように仕向けられていると受け取ってしまうと、勘違いな結果をもたらしてしまうのかも知れず、人としての体面を保つには、そういう面に目を向けつつも、自分はそんな奴らとは違うと主張したくなってしまうのをこらえて、それは自分もそういう立場になってしまえばそんな奴らと大して違わないことをやってしまうのではないかと思っておかないとまずいのかも知れず、世の中にはそんなことをやらないとにっちもさっちも行かないような領域があって、そんな奴らはそういう領域に閉じ込められて、もちろん自発的かつ積極的にそんな領域へと足を踏み入れているつもりになっているかも知れないし、そこで切羽詰まって悪あがきのような行為を繰り返している印象を受けるとしても、そんなことをやっている最中であれば、自分たちが馬鹿なことをやるように仕向けられているとか思う暇も余裕もない代わりに、逆にうまく立ち回ってそれなりに通常より多くの利益を得て、まともなことをやっていたら受けられないような恩恵を受けているつもりになっているだけではなく、優遇されて特別扱いされて調子に乗っているような気にもなっているのかも知れないが、だからどうしたと居直られても、それ以上に返す言葉も見当たらないにしても、そうならないようにするにはどうしたらいいのかと思う以前に、実際には今のところはそんなふうにはなっていないように思われる自らの実体験が日頃の経験の中で感じられるなら、その程度で済んでいることが幸運なのか不幸なのかはどちらでもないのかも知れないし、その程度で済んでいる一般のありふれた領域で暮らしている自分と、何か正気の沙汰でないような狂った領域に活動の拠点がある人たちとは、当然のこととして世の中に対するものの見方や考え方も違ってくるはずで、自分が感じている常識がそれらの人たちには通用しないと想像できてしまうのも、それほど勘違いではないように思われてくるのだが、そんな狂った人たちの活動実態に自分の活動を近づけようとする気も近づけることすらもできないだろうから、何か感覚に絶望的な隔たりがありそうに思われるのだが、だからといって彼らに同情できるわけもないはずだが、それが彼らを批判したり非難する理由になるかというと、それよりは理由抜きに考えさせられるような成り行きに囚われて、それなりに現状がどうにもならない事態となっているのはその通りだが、それで構わないというか、現状が変わって行く過程で彼らのような存在が出現してくると考えるなら、絶えずどうにもならない事態を引き起こしているのが彼らであるように思われるとしても、そう思わされるような状況なのだから、そう思うように仕向けられるには、彼らのような存在がちょうど良い程度で必要不可欠なのかも知れず、現状で進行中の状況にハマり込むような人材として彼らがそういった役割を担って出現してきていることが、かえって現状のどうしようもなさを感じさせているのだから、やはりそう思うように仕向けられるには彼らの存在が必要不可欠なのかも知れず、何かそういうところがいかにも予定調和で破綻がないだけに、逆にそんな現状を破綻に追い込むために出現させられているのが、彼らに対抗する存在として現れている人や勢力なのかというと、それは彼らの活動にとっても競合相手や競争相手として必要不可欠な存在だとしても、そんな競合や競争を見せられている身としては、それだけでは物足りないわけでもなく、それだけで十分に思われるわけでもないが、実際にそこから目を背けて何を見ているのかといえば、それらの争いや諍いとは無関係な領域の中で生きている人々を見ているだろうし、また実際に交流している面もありそうだが、果たして現状の自ら日々体験しつつある領域が、そんな狂ったような非日常的な領域と地続きなのかといえば、たぶん地続きには違いないのだろうが、今のところはそんな狂った領域から程よく距離を置いて生きていることを実感しているのだろうが、いつそんな領域へと足を踏み入れる機会がやってこないとも限らないから、それなりに警戒を緩めてはいないつもりなのだろうが、そうはいってもそれに関してまだ気づいていないこともいくらでもありそうな気もしてくるわけだ。


2月2日「意志や意向を超える制度」

 社会の中で人の行為や行動がどのように作動するかというと、特定の個人がどのように動くかと考える以前に、何かしら気づかないところで、人の意志や団体の意向を超えて組織的で制度的な構造の仕組みから生じてくる作用によって人が制御されてしまうから、逆にそんな作用に従っている過程で、その作用を促進するように人の意志や団体の意向が生じてくるから、すでに人の意志や団体の意向自体がその人や団体が取り込まれている制度によって制御されていると言えるかというと、たぶんそういう面があるにしても、果たしてそれとは無関係な自由意志とでも呼べそうな意志が生じてくるかというと、それが制度に逆らって反作用を促進させる意志だとすれば、まずは制度ありきでそういう意志が生じてくると考えれば、それさえも制度に縛られて何らかの制約を受けた意志になってしまうから、そこに何らかの制度があって、多くの人々がその制度に囚われている状態の中では、何ものにも囚われない意志など生じてこないと考えるのが妥当なところだろうが、では社会のような人為的な制度がなかった頃の人がどんなシステムに囚われていたのかというと、他の動植物と共に自然のシステムに囚われていて、それは依然として今もそうなのだが、そんな自然の循環システムの上に人が集団で構成する社会システムが構築されたと考えるのも妥当なところだが、その社会システムがそれを支えている自然システムのように循環システムになっているかというと、それもたぶんそうなっている面もあるだろうが、産業革命以降の時代では社会システムが自然システムの循環を壊している面もあるだろうから、それも人類が滅べばすぐに回復してしまうだろうから、人類が滅ばない限りで社会システムも自然システムに依存しながら継続するだろうし、そんな自然の循環システムを完全に壊さない範囲内で人の社会システムが成り立つような条件もありそうで、そんな自然や社会のシステムが構築されている大規模構造からはかなり規模も動作の範囲も限られたところで、自民党の集金システムが作動していた範囲内では、そんな比較的小さなシステムに順応してそれに従う議員たちが集めてきたカネの多い少ないで、組織内での力の優劣や党幹部や大臣になれるかなれないかの優先順位も決められていたのだろうが、そんなシステムの他にも様々な社会システムが動作しているから、それらのシステムとの競合や兼ね合いの中で、何が優先されるかとなると、そのシステムの合法性を考慮に入れるなら、違法行為を摘発する検察の治安維持システムの網に引っかかるものとして自民党の集金システムが問題視されることになったわけで、そういう意味では今回の騒動の結果として自民党の集金システムが合法的なものへと変更されれば一件落着となって都合が良いのだろうが、果たしてその程度のこととして事態の収まりがつくかというと、そんなことでは済まないと主張したい批判勢力も多いだろうが、収まりがつかないならどうすればいいのかといえば、自民党以外の政治勢力へと政権交代を目指すしかないだろうが、それが有権者の国民に判断がまかされていることになっているはずだが、もちろん国民も様々な制度に囚われているから、自由意志に基づいて判断できるわけでもなく、結局各々が囚われている制度から生じてくるシステムに制御されながら判断することになってしまうと、現状維持となってしまう可能性が高いから、それではまずいと思う人々も大勢いるだろうが、そうなるように仕向けてくるメディアシステムも依然として強力に作動中だろうから、そうした各システム間のせめぎ合いの中で人々の判断が揺れ動いていると理解するなら、そんな中でも各人が何を優先すべきかが問われているわけでもないにしても、それ以前に何を優先させるかの判断もその人が囚われているシステムに制御されてしまっているのかも知れず、そういう意味でも結果的にそんなことには無関心を装って選挙で投票に行かなかったり、どの政治勢力を支持するかも決める必要がないと思われる人が多ければ多いほど現状維持の事態が継続するようなことになるだろうが、それでも構わないのかというと、それもそうなってしまう人々の自業自得で因果応報でしかないと思われるなら、そうなるように何らかのシステムが作動していると状況を捉えておくことが妥当かどうかはよくわからないところだが、社会の中で作動している様々なシステム間の相互作用の結果として人の意志や集団の意向が生じてきて、そんな意志や意向に基づいて様々な判断がされて、それらが反映された結果として現状の世の中が成り立っていると考えるわけにも行かないし、他にも意志や意向を超えて作用する力があるから、意志や意向から生じる意図や思惑通りにはならないわけで、そんなわけで人や集団が活動できる条件の中では絶えず謎な部分があることは確かだが、それを解明することが社会科学などの学問の分野が担う使命だとしても、そんなことには無関心であっても構わないし、世の中で生きている大半の人たちには全く関係がないとはいえないものの、実際にそんなこととは一見関係がないように思われるメディアシステムから伝わってくるのが、周知の事実となるような紋切り型の言い訳であり、そんな言い訳が現状維持を後押しするような作用を発揮しているとは言い難いが、現状を変えさせたくないという意図や意向が窺えるから、そこに人の意志や集団の意向が含まれていると思うのだが、それも現状で動作している社会システムの総体から生じてくる意志や意向だと考えるなら、そんな意志や意向を自覚できる限りで、それに逆らいたくなってくるはずだが、そんな反抗心を阻むのも周知の事実となるような紋切り型の迷信となるだろうから、それを周知の事実だと思うのも、迷信や幻想を信じているからには違いないわけだが、自身では信じていると自覚しているわけでもないのに結果的には信じていることになってしまうのだから、そうなっている時点ですでに社会システムに制御されながらそんなことには無関心でいられるわけだから、どうあがいてもすでにそうなってしまっている人々の共同幻想を打ち破るのは不可能に思われてくるのだが、現時点ではそうだとしても、それが現時点に依存しながらそう思われてしまうことでしかない限りで、ここから時間の経過と共に社会状況も日々刻々と変化して行くことを考慮に入れるなら、人の意志も集団の意向もいつの間にか様変わりしてしまう可能性もあるから、それが特定のどのようなシステムによって変わるかということではなく、複数のシステム間の相互作用によって変わってしまうと結果的に言えるかも知れないから、社会を変えようとして日々様々な方面で活動している人や勢力にも、今後何かしらその活動が実を結ぶ機会が巡ってくる可能性もなきしもあらずなのではないか。


2月1日「空振りに終わっている可能性」

 現時点で何かの機会が到来しているとしても、それが何の機会なのかがはっきりとはわかっていないのは、誰にとってもそうではないにしても、機が熟していることをそれなりに感じ取って、この機に乗じて一気呵成に攻め立てたつもりが、何か空振りのような手応えのなさを感じているなら、気がつかないところで肝心な何かを取り逃しているのかも知れないし、それが致命的なミスかどうかもわからないなら、まだそれがわかる時ではないと思うしかないが、だからといってもう後戻りができないなら、現状でやっていることをそのまま続けるしかなく、それを続けて行った先に待ち受けているのが、どんな事態になろうとも、実際にそれを体験してみないことには何だかわからないだろうが、体験してみてもわからないかも知れないし、もしかしたら今ここでその何だかわからない体験をしている最中かも知れず、それこそが今まさに空振りを体験していることになるかも知れないが、いったい何を空振っているのかわからないなら、空振っていると思っていることすらが見当違いの勘違いかも知れないし、それこそがまさに空振りの真相なのかも知れないが、何も空振らなくてもわかることがあるとしたら、それが別に行動を起こさなくてもわかることであり、実際にメディアを通してこの世界を見渡してみれば、何かしらわかってくるはずだが、中にはメディアを通さなくてもわかっていることもあるが、知るという動作がメディアに頼り切っていると、それ以外の感覚がおかしくなってしまうわけでもなく、メディアを通してしか知る動作が発動しないわけではないにしても、そこから絶えずメディア特有の幻想を抱かせるような作用が及ぼされているから、そのままの事実として起こっていることと、その事実に勝手な願望を重ね合わせて見ているから、それを織り込んで生じてくる思いとが、うまく意識の中で整合性がとれていないような事態となって、勝手な願望とはかけ離れた結果が事実としてもたらされると、願望から生じてくる期待が空振りに終わってしまうような感覚に陥るのだが、それを勝手な願望と思うならそうかも知れないが、メディアが影響を及ぼした結果としてそんな願望を抱かせていると捉えるなら、すでにメディアの術中にハマっているというか、正確にはメディアを通してそんな願望を抱かせようとする勢力の術中にハマっていることになるだろうが、ではそんな願望を抱かせようとしている勢力とは何なのかというと、世の中の現状を変えようとしている勢力には違いないが、変えるにしてもどう変えようとしているかで、それなりに勢力にもいろいろな種類があるだろうから、その中のどの勢力によって願望を抱かせられているかで、その願望の良し悪しも変わってくるはずだが、それが犯罪に絡んですでに悪の烙印を押されている特定の宗教勢力などから洗脳的な影響を及ぼされているなら話がわかりやすいが、そんな宗教勢力でも数々の訴訟沙汰の被告となりながらも、まだ執拗に世の中で活動しているなら、相変わらずその命脈を保っているはずだが、どうもそうではなく、これといって名指しされるような勢力ではなければ何なのかというと、何か良心に訴えかけるような作用を及ぼされていて、しかも金銭的な詐欺を伴うようなことでもなければ、理性的な感覚から言えることは、世の中に良い作用をもたらしている勢力になるだろうが、そんな漠然とした勢力とも言えないような勢力から何かしら願望や希望を抱かせるような影響が及ぼされているとすれば、具体的にそれがどんな願望や希望なのかといえば、少なくとも現状の世の中ではそうはなっていない状態だからこそ、そんな良くない状態を変えなければならないという思いを抱かせるのだろうが、果たしてそんな思いが目下のところ空振りに終わっている可能性があるとすれば、それが良いことなのか悪いことなのかといえば、悪いに決まっているだろうが、悪いなりにもこれから良くなる可能性の兆しを感じ取れるなら、何も絶望する必要などないし、今日よりは明日の方がきっと良くなるという希望を抱きながら、日々の暮らしの中で世の中が現状よりも良くなるようなことをやろうとしているはずだが、果たしてそんなふうにメディアを通して操縦されていても構わないのかというと、大半の人たちは自身が得体の知れない勢力から影響を及ぼされながら操縦されているなんて思っていないだろうし、自主的に活動しているつもりになっているはずだが、実際にはそうではないとしたらどうなのかと思うわけでもないだろうが、そんなことまで気にするほど心配症なわけでもなければ、何とも思っていないはずだが、誰も何とも思わせないようにしておくことが、そんな勢力が世の中に影響を及ぼすには必要なことだとしても、果たしてそんな思惑や意向を持った勢力が存在しているかなんて、そんなことでさえもどうでもいいことには違いなく、普通に考えて存在しているはずがないと思っておけば済んでしまうようなことでしかないだろうが、それもよくありがちな恐怖や懸念を煽るような陰謀論とは違う傾向として想像できる無色透明の人畜無害で中性的な陰謀論というわけでもなく、宗教とも関係ないような架空の勢力として空想する気にもなれない話には違いないが、そんな勢力が仮に存在しているとしても、具体的にこれといってどんな意図や思惑があるとも言えないだろうし、ただ漠然と現状よりも世の中が良くなるように人々を活動させるために、いったいどんなことをやっているのかといっても、メディアを通じて何かしら影響を及ぼしている以外には、人々の想像の範疇から外れるようなことが思い浮かぶわけでもないが、その逆に盛んに吹聴されいている内容としては、世の中の状態が昔より悪化していて、それを政治のせいにする傾向が強まっているわけで、それが現状の世の中で主導権を握っている政治勢力への批判となって、毎日のようにメディアを通じて批判の内容が伝えられているはずだが、それにもかかわらず一向にその政治勢力が批判勢力に対して主導権を明け渡さないものだから、今日より明日へ向かってより一層批判のボルテージを上げているはずだが、にもかかわらず現状が執拗に維持されようとしているなら、そんな作用に対する反作用として、それを相殺するような影響が及ぼされていると考えるしかなさそうだが、本当にそうなのかと思うなら、その疑念がどこから生じてくるのかといえば、もしかしたらそんな相殺するようなカウンター的な作用ではなく、そういった批判を無視するような無関心へと誘導するような作用が及ぼされていると思うのも不思議ではないわけだ。