彼の声159

2023年

11月30日「矛盾したバランス感覚」

 バランス感覚というと、一般的には身体の姿勢や体勢が崩れないように一定に保とうとする感覚だが、そこから転じて、例えば言っていることとやっていることの兼ね合いで、うまく均衡がとれているなら、バランスが良いように感じられるだろうが、その均衡がとれているということがどういうことなのかというと、言っていることとやっていることが食い違っていれば矛盾していることになるだろうし、言うだけなら言っていることが理に適っていて、言っている内容の論理的整合性がとれていれば納得できるし、できるだけ矛盾しないようなことを述べようとする習慣が身についているなら、大抵は理に適ったことを述べたいだろうし、そういうことを述べている限りは、バランス感覚を失うようなことを述べているとは思わないだろうが、それと引き換えにしてありふれたことを述べていることに気づかなくなってしまい、論理的に破綻するようなことを述べるわけにはいかないから、誰もが納得するようなことを述べてしまうのだろうが、果たしてそれでいいのかというと、普通に考えていいに決まっているはずだが、逆に普通に考えておかしいと思うような矛盾したことを述べなければならない事態など想像できないが、述べるだけではなく何らかの実践を伴うようなことだと、述べている内容が論理的に破綻しないで矛盾をきたさなくても、それでは実践がうまく行かなくなる可能性があるとしたら、そんなのは俄には信じられないだろうが、こちらは真っ当なことを述べているのに、相手がいちゃもんをつけてくるとか、屁理屈を並べて抵抗されると、どう考えてもそんなことを言ってくる方がおかしいと思われるはずだが、それが言うのとやるのとの違いとなって現れてくるから、言うだけの人にはそういうところがわかっていないと断言できるわけでもないが、実践面で何かがずれてくるかも知れないから、誰からみても真っ当なことを主張する人の言っていることには納得できる反面で、それをやるとなるとうまく行かないような気がするわけで、そういうところが言っている当人もわかっていないわけではないのだろうが、わかっていても言う時には論理的な整合性がとれて矛盾しないようなことを言いたくなってしまうわけで、その辺が言うは易し行なうは難しなところなのだろうが、公開討論の場で相手を打ち負かすようなことをやれる人が世間的な信用を得られる範囲内でなら、そういう面でのずれも目立たないのだろうが、すでに言っているのとは違うことをやっている人たちに向かって、その矛盾を突いて論破しようとするのは、公開討論の場では比較的容易なことになるにしても、実践の成り行きとしてそうなってしまうのを改めさせるのは至難の業であり、実際にそうなってしまうのだから、そうなってしまう人たちに向かっていくら言っていることとやっていることが矛盾していると指摘してみても、実際にそうなってしまうのだからどうしようもないわけで、そのどうしようもなさをわかってほしいと訴えかけているわけでもないのだが、いくら屁理屈を並べて言い訳や反論を試みてこようと、やっていることのどうしようもなさを改められないのだから、何を言っても説得力など微塵もなくてもそうなってしまうのだから、どうあがいても言っていることがその通りにはならないことなのであり、それを言っている方も認め難いとしても、認め難いことが実際に起こってしまうわけで、そんなことをやっている人たちにしてみれば、自分たちがおかしなことをやっているのを承知で自分たちのやっていることを正当化するしかなく、もちろん正当化するのだから、それがおかしなことだとは口が裂けても言えないわけだが、それをおかしいと指摘する方にしてみれば、彼らが正気の沙汰でないことをやっていると言いたいわけで、それが狂気の沙汰であるか否かとなると、言うは易しで狂気の沙汰だと言いたい人がいくらでも出てくるとしても、そんな狂気の沙汰が実際に行われているわけだから、それをやっている方にしてみれば自分たちのやっていることを正当化せずにはいられないし、実際に正当化していて、それをやり遂げようとしているわけで、やり遂げたところで狂気の沙汰には違いなく、実際にこれまでもいくらでも狂気の沙汰と言われるようなことをやってきた経緯があって、それどころか性懲りもなくこれからもそんなことを繰り返すしかやりようがなく、実際にそれをやってしまえるわけだから、やってしまえる限りで、やった者勝ちな状況となっているわけで、後からいくら文句をつけられても、やってしまったのだから仕方のないことであり、その種の狂気のイベントを定期的に開催するような制度となっていて、それが何千年も昔から、下手をすれば何万年も昔からそんなことが行われてきたのかも知れないが、それが記念碑的な遺跡として世界各地に残っているとしても、莫大な費用をかけながらそんな狂気のイベントを行う一方で、その費用をもっと有意義な方面へと使った方が世のため人のためになるとしても、それをやるとなるとできない相談になってしまうのだから、そういう意味では人も社会もその種の狂気のイベントを行う制度によって支配され制御されていると言えるだろうが、それをやってしまう人や団体が自分たちが行なっていることを正当化するのは当然の成り行きだとしても、それを許してしまう人々が、それを許してしまったことを正当化できると思っているわけでもないだろうが、正当化できなくてもなし崩し的に許してしまっているわけだから、それについては負い目や疚しさの感情に囚われていれば、まだ正気を失っているわけではないと思いたいところだが、果たしてそれを狂気の沙汰だと決めつけている人たちが、自分たちが認め難いことが現に行われていることをどう思っているのかが気になるわけでもなく、そういうことが行われることに反対していればいいわけでもないにしても、反対している自分たちが世の中のバランスを保っているようにも思われるとしたら、狂気の沙汰とそれに反対している自分たちの存在によって世の中のバランスが保たれていることを認められるかというと、何とも言えない苦々しい思いに囚われてしまうのかも知れない。


11月29日「聞く耳を持たない態度」

 自らの立場とその場その時の状況や情勢に合わせて最適だと思われる言動に及んでいるなら、それらの言動をつなぎ合わせてひとまとめにしてみればかなり矛盾に満ちた内容となるだろうが、その場その時の見解としては何やらもっともらしいことを述べているつもりになれるかも知れず、それを後から言っていることとやっていることが違うじゃないかと追及されても、その場その時の状況や情勢に合わせて、その際に自らの立場上最適だと思われる主張や意見や見解を述べたまでで、たとえそれらの内容と今述べている内容が違ってきても、それはその場その時とは今の状況や情勢が違っているのだから、そうなるのは当然だと開き直るわけにもいかないだろうが、その場その時に周囲からもたらされる助言や進言の類いを聞き入れた結果としてそうなってしまったのであれば、それなりに聞く耳を持っている証拠としてそうなっているわけで、そういう謙虚な姿勢や態度が悪いはずがないのだが、果たしてそれが謙虚さの表れだと受け取られるかというと、そうは受け取られてもらえないから批判や非難にさらされているのだが、その際に味方からもたらされる助言や進言には聞く耳を持っているのは当然だとしても、敵と見なした勢力から浴びせられる批判や非難にも耳を傾けるべきかといっても、それも時と場合によりけりだろうし、その時々でごまかしやはぐらかしを駆使して切り抜けてきたのだから、今さらそういう態度や姿勢を変えろと言われても、そう簡単に変えられるわけもないのも誰もが承知していることだから、そういう水準ではそれなりに適切な対応をしながら現状に至っているわけで、それを肯定的に捉えるわけにはいかない立場があることも確かだが、肯定するとか否定するとか正当化するとかいう以前に、そうなるしかない現状の中でどう振る舞うかが問われていて、それが誰に問われているわけでもないとは言えないが、問う立場が誰にあるかもわかりきったことだとしても、敵から問われてそれをそのまま受け止めるはずがなく、受け流して取り合わない態度や姿勢を維持してきたのだから、これからもそんな態度や姿勢に終始したいわけで、それで片がつくと思っていても構わないのだろうが、そこで何の片がつくのかがわかっていない可能性もあるわけだが、時と場合によってはそんな態度や姿勢に終始している自らが片づけられてしまう可能性もなきにしもあらずだと思うなら、今からでも遅くないから、これまでの態度や姿勢を改めて、もっと謙虚で低姿勢な態度をとるべきだといったところで、具体的にどんなことをやればいいかもわからないなら、雰囲気だけそんなことを想像してみても、何のことやらさっぱりわからず、途方に暮れてしまうだろうが、それがそういう態度や姿勢をとっている人の限界だと言ってみたところで、世の中にはそれ以外には取りようのない立場というのもあるらしく、立場上言えないことも言わないこともある一方で、相手が言いたくても言えないことを問わなければならない場合もあるだろうし、そういうところでは問答が成り立たないことを承知で問答に挑んでいるわけで、実際にそうなったからといって、それによって何が明らかにされたからといって、鬼の首をとったかのように騒ぎ立てるのも、それが煽動者特有の態度であるのもわかりきったことだが、そんな低レベルの水準で問答が成り立っているのとは違うレベルで何を明らかにしなければならないのかといっても、そういう方面へと関心を持っていかれているわけだから、それ以外には問いようがないところでそんな問答が行われている限りで、そんな問答の中では言われないことが問われるわけもなく、そうなっている限りでその種の煽動者のペースに巻き込まれていて、煽動者があえて言わないのか触れるわけにはいかないのか、あるいは本当に気づいていないのかが謎であるわけでもなく、そんなことはわかりきったことだと言い放つような程度でもないのかも知れないし、微妙なところで話題を逸らされているのかも知れず、そういう物事の核心に触れずに事を済まそうとする意図や思惑がどこまで通用しているのかもよくわからないが、単純な理屈を言わせないようにするためにそんな問答が遮蔽版として機能しているなら、それなりに問答に巻き込まれている人たちも気づいているのかも知れず、それが一部ではカルト的な盛り上がりを見せているように装われているにしても、一方では全く無視されている現状もあって、その無視されている現状の方がメディア的には都合が良いのだとしたら、その種の話題を取り逃していることにもなるだろうから、果たしてそれでメディアがちゃんと機能しているといえるかどうかも怪しいところだが、たぶん事なかれ主義に徹しているならそれでも構わないわけだが、それらの問答に関して守らせようとする暗黙のルールを無視してそれを問いただそうとしているわけだから、そんなのは取り合わない方がメディアが勝手に守っているつもりの見識には適合していそうだが、慣習的に守られてきた範囲内で暗黙のルールとやらを守らせようとする方も勝手な論理であるわけだから、それに対して掟破りになるのも煽動者のやり方には適っているわけで、どちらの論理も相容れない立場というのもあり得なければ、当然どちらか一方の立場を取らざるを得ないし、実際に掟破りの煽動者の役柄を受け入れながら、言っていることとやっていることの食い違いを指摘してみたところで、それに対する返答としては、はぐらかしの返答しか期待できないわけだが、実際にもはぐらかしに終始しながら、それが果たして醜態をさらけ出していることになるのか、あるいは適切に対処しているように受け取られているのかも、誰に訊いてみたところで満足できるような返答など何も返ってこないだろうから、いつまで経っても真相は藪の中といったところで、それ以上に何を述べていることにもならず、別にそんな結果が百害あって一利なしとも言えないが、大山鳴動して何やらかんやらとも言えない結果なのではないか。


11月28日「歯止めをかける」

 たとえ情勢が三つ巴の様相を呈してきたかのような幻想を抱くまでもないことであっても、そう思い込んでいる人たちにしてみれば、ここがチャンスとばかりに攻勢に打って出ているつもりなのだろうが、実態としては少数派内の内輪揉め程度のことなのかも知れず、そう仕向けることによって少数派が多数派へと成長するのを食い止めているようにも見えるわけだが、誰が食い止めているわけでもなく、自業自得気味に少数派に留まろうとして、もちろんそれを意識しているわけでもないのだが、結果的にはそれらの勢力が少数派のままに留まるかどうかも今後の情勢次第だと言いたくなってしまいそうだが、逆に現状で多数派のように振る舞っている勢力の方が、それらの争いを高みの見物のような余裕綽々な態度で眺めているだけで、取り立てて何かこれまで通り以外のことをやろうとしているわけでもないとしたら、果たしてこれが千載一遇のように巡ってきたチャンスなのかというと、それも結果的には絶好のチャンスを逃したかのように受け止められて、チャンスを逃したと思われる少数派の方が批判にさらされるような成り行きに持って行きたいのだろうが、それが今までにも飽きもせず延々と繰り返されてきた少数派による自己批判的な過ちには違いないのだが、今回もそれが繰り返されるのかと心配しているわけでもなく、全てが杞憂に終わるわけでもないが、今さら何を心配してみても何も始まらないのもいつものことであっても、これからどんな予言や予想も裏切るような驚くべき結果が待ち受けているわけでもなく、何が起こってもなるようにしかならないとあきらめの境地に達するような結果でもなく、何も始まらないように思われても、確実に何かが始まっている一方で何かが終わりかけていて、その始まっているのが、現状で争っているように見せかけている勢力が世の中の主導権を握るような時代が始まっているわけではないとしたら、何が始まっているのかというと、それも安直に現状で政治的な主導権を握っているように見せかけている多数派の勢力による支配の終わりが始まっているとか、何か将来に向けて希望を持たせるような兆しが見え始めているような気がするとしても、実際に始まっているのがそんなことではないとしたら、どんなことでもないのかも知れず、何も始まっていないわけではないと思いたいのに、取り立てて何が始まっているとも言えないような情勢の中で、次第に誰かがジリ貧に追い込まれているとも思えないのだが、もはや打つ手なしのように見える情勢が、ただ元からそうであったことが明らかとなっただけで、ジリ貧であるのも今に始まったことではなく、だいぶ前からそうであったのに、それを隠していたこともだいぶ前からバレていたのに、今さらながらジリ貧に追い込まれているように演じているに過ぎなければ、それを余裕で演じていて、今に始まったことではないのだから、ジリ貧なのも今に始まったことではなく、追い込まれているのも今に始まったことではなく、何もかもが今に始まったことではないとすれば、今に始まったかのように演じるしかなく、まやかしの演技となっているわけだが、要するにまやかしの演技がまた性懲りもなく始まっているだけで、それが昔から断続的に事ある度ごとに演じられてきたまやかしの演技には違いないわけだが、それをわざとらしく性懲りもなく演じているわけだから、もはや見飽きた感もある一方で、それをことごとくその度ごとに許してきたのが多数派に信頼を寄せる人々なわけで、果たしてそれが今回も性懲りもなく繰り返されるかというと、それも今後の情勢次第だと言いたいわけではなく、絶え間ないジリ貧状態をそうだとは思えないから、別にそれを許してきたとも思っていないだろうし、実態としては現状がジリ貧でも何でもなく、いつものように感じられるだけのことを、いちいち否定的に情勢を捉えてみても何も始まらないわけで、すでにジリ貧状態が何十年も続いているのだから、果たして何十年間もジリ貧状態に耐えてきたのかといっても、それが常態化しているわけだから、ジリ貧でも何でもなく、一部の少数派が何十年間も不況が続いているという印象を人々の意識に刷り込もうとしているだけで、そんな印象操作に違和感を覚えるなら、そんな少数派への支持もある一定以上は広がらないのも納得できるはずだが、果たしてそれが印象操作なのかと言えば、そんなデータを都合よく表やグラフにして突きつけられてもなお違和感を拭えないとしたら、違和感の方が正しいとは言わないにしても、それが共同幻想だと指摘してくる輩がいるとしても、何かそれらの勢力に属する人たちが意図して言わないのか、あるいは都合よく気づいていないのかは謎だが、そんな印象を打ち消すようなデータが隠されているとも言えないが、それが今後これ見よがしに示されなくても、事態が進展するに従ってわかってくるかも知れないが、どう考えても否定的な印象とは言えないような成り行きの中で事態が進展しているように感じられるから、今のところはそれに関してはうまく説明できないにしても、現状の政治状況が今後も変わらないならそういうことだと情勢を見ておくしかないだろうが、そういうこととはどんなことなのかというと、ジリ貧状態が数十年も続いているわけではなく、多くの人々が何に耐えているわけでもなく、それどころかそれなりに世の中が繁栄している状態が長続きしていて、大して生活にも困らない人々が世の中の多数派を構成している状態が数十年も続いていることになるのだろうが、そうであるなら不況が何十年も続いてきたという嘘がとうにバレているはずで、しかもバレているのにそれをあえて指摘しないのではなく、指摘する必要もないから指摘しないだけで、その一方で不況が何十年も続いていると嘘をつきたい人たちには言わせておけばいいということなのかも知れないが、本当にそうなのかというと、それが微妙なニュアンスを含んでいて、そう思いたい人には思い当たるふしがある程度のことなのかも知れず、それが諸外国に比べてどうだとか主張するような程度でもないなら、大した程度でもないと思っていれば済んでしまうようなことなのかも知れない。


11月27日「気休めの衝動」

 見かけ上はそれを狂信的な衝動とでも呼べばしっくりくるかも知れないが、実際にはそれだけではなく、何かの気休めにそんなことを言い放っているような気もするのだが、それ以前に明確な目的があるのだから、その目的を遂行している限りで衝動的な行為に及んでいるわけではなく、それどころか極めて計算ずくで多くの人々を罠にかけるような偽りの目的があるわけでもないのだから、何も狂信的にそれを信じ込んでいるふりをしているわけでもなく、それなりに合理的かつ理性的な行為や行動に及んでいるはずだが、それでも目的を遂行できるかというと、結果的にはその遥か手前で目的とは別の方面へとテーマをずらされてしまう可能性もあるわけだから、そう簡単には目的を遂行するような成り行きにはならず、現にその手前ですったもんだの最中なわけで、それを争点にしたい側は、何とかしてそれに関する侃侃諤諤の論争へとその場の情勢を持って行きたいわけだが、そうは問屋が卸さず、それとは別の方面の思惑としては、どうにかしてはぐらかしておきたいテーマとなってしまうのかも知れず、少なくともそれだけではないということがわかりきっていて、それも含めて総合的に判断しなければならないと言われると、それだけが争点なのではなく、それに絡めて他の要因も考慮に入れなければならず、強引にそれを認めるか否かという対立軸を設定されるのをかわしたいわけだが、ではそれが何なのかといっても、誰にとってもそんなのはわかりきったことだが、わかりきっているだけに、わざとわからないふりを装いながら、それとは違う方面へと目的の内容をすり替えておきたい思惑が働いているわけでもないが、それを論争のテーマにする意図など始めから持ち合わせていないわけで、勝手に向こうがそれを持ち出してきているのだから、そんな論争には乗らないようにして、相手のペースに巻き込まれないようにしておくためにも、こちらの目的を遂行するには必要な対応なのかも知れず、こちらの目的があちらの目的とは微妙にずれていて、それを考慮に入れるなら、あちらが持ち出してくる争点だけでは不十分に思われて、それプラスあちらが考慮に入れていないことまで含めて論じないと話にならないわけで、あちらはあちらであちらが持ち出してくる争点だけで賛否や是非を問いたいのだから、そうしないとあちらの論理や理屈が通らなくなってしまいそうになるから、あちらもこちらが持ち出してくる争点など頑として受けつけないわけだが、結果的にはお互いの争点が微妙にずれたまま、議論が平行線に終始するような成り行きを避けられず、そうなると結果的にどちらに有利に働くとも言えなくなってしまいそうだが、それで構わないといったら、漁夫の利を狙っている勢力の思うつぼとなってしまうかも知れないが、そんな第三勢力の存在など始めから想定されていないし、お互いに設定したい対立軸のどちらに正当性があるか否かが争点となってくることを期待しているのだろうが、なぜか結果的にはそうはならないような気がするわけで、どちらの主張も頑なに主張して行けば遠からず腰砕けとなるわけでもないとしても、元からそんなことなど眼中にないような状況かも知れず、それが誰の眼中にないということではなく、誰の眼中にもないようなことが起こって、そちらが論争のテーマとなることもなく、無理に論争の雌雄など決しなくても、自然の成り行きが論争自体を押し流してしまい、いつの間にかそんな論争があったことさえ遠い昔の出来事として忘れ去られて、かつて枝葉末節なくだらない勢力同士でどうでもいいようなことについて意味もなく論争していたような気がしたのだが、今となってはそれがどうにもこうにも思い出せないような未来が今後到来するとも限らず、その時が来るまでに今の時代に生きている人々が生き残っているとも限らないが、少なくとも狂信的な衝動からそれを論争のテーマにしたいわけでもなく、どちらかと言えば救世的な思惑からそんなテーマを持ち出しているのだろうが、本当に救世的な目的に結びつくかというと、それを論争のテーマに持ち出している人にしてみれば、それによって日々の生活に困っている多くの人々を救いたいと思っているわけだから、そんな人々の都合に合わせた目的に沿って考えれば、確かに救世的な目的に適ったやり方になるのだろうが、この時代に限界づけられた人にとってはそうであっても、それが特定の時代によって限界づけられていること自体が致命的な欠陥なのかも知れず、それが何とかして総論賛成各論反対の中で、各論反対だけに論争のテーマを絞り込みたいという思惑の限界なのだとすれば、その各論反対とは何かということが、この時代のこの地域に暮らしている誰にとっても関心を持って取り組めるテーマなのかというと、そんなことはないというと、論争のテーマを特定の問題に絞り込んでいる人にとっては受け入れ難いことだろうが、それでも特定の分野や領域に関心を持っている人々にとっては、それが論争のテーマに浮上しかけているわけだから、何かというとそれにかこつけて自分たちが主張する論理や理屈に異を唱えて従わない人や勢力を批判しているわけで、それが論争になっていると思っているのだから、そうなるのも当然の成り行きだとしても、成り行き的にはそれで構わないのだから、やりたいならどうぞ勝手に論争していれば気が済むわけでもなく、論争に勝利したいというよりは、その先に目的があるわけだから、それも対立する双方の共通の目的だといえる面もあるのだから、対立しながらお互いに競い合って切磋琢磨している状況でもないのだろうが、そこで対立する双方が気づいていないことがあるとすれば、それが何かと答えを言うわけにはいかないわけで、たぶん答えなどわかりきっているのだろうが、それをこれ見よがしに言い放ってしまうとまずいような気がするのだから、とりあえず今は肝心なことは言わないでおいて、双方がこれまで通りの対立を装っていた方が無難なのかも知れない。


11月26日「壊れた信頼」

 たぶん述べていることが全く理解できないわけでもないのだが、相変わらずその言い回しや内容の回りくどさがいつもの調子ではぐらかしで述べていることだとしても、それで何かもっともらしいことを述べていることになるのかというと、説明している当人はそうだとしても、それを聞いている方はといえば、実質的な内容が何もないような気がすると共に、何かに気づいているからそんなふうに感じられて、それが何だかわからないというわけではなく、誠実さとは真逆の態度でわざと不快なことを言いたいわけでもないのだろうが、それが他の多くの人々から嫌われるような態度だとはわかっているはずで、そんな態度で人心を惑わそうとしているようにも見えるのだから、大勢の人々から不評を買っているわけだろうが、それに当人たちが気づいていることは確かだとしても、そんな装いに見せかけながらも、人々の関心を物事の本質からかけ離れた枝葉末節などうでもいいような方面へと誘導しているように感じられるとしても、それが彼らの狙いというわけではなく、意識してそんな役柄を演じているとは思えないところが、彼らの意図や思惑が介在しているとも思えないわけで、それでも多くの人々が彼らの言動に騙されているとしたら、騙そうと意図して騙しているからではなく、意図しないで騙そうとしているわけではないとしても、騙そうとしているわけでもないのに、勝手に騙されるようなことでもないはずだが、すでに彼らのデタラメな論理など全く通用していないのに、なぜか彼らのデタラメな言動に騙されるなと警鐘を鳴らしたいわけでもないとしたら、何なのかというと、そんな彼らのデタラメさに信頼を寄せている人が世の中には大勢いると確信できて、要するにそんな人たちが信用できないわけだが、ではそんな人たちの心が壊れているのかというと、たぶん昔は壊れていなかったわけではなく、昔から多くの人たちの心が壊されていたのだろうが、たとえ多くの人々の心が壊れていても、それが大して気にならなかったと思いたいのだが、心が壊れていてもその心を慣習に支配されていれば、それで何の問題もないわけでもないとしても、一応の平静が保たれているような状況となっているのだろうが、心が壊れているとか壊れていないとか、そんな抽象的な表現では納得し難いし、もっと具体的に何がどうなっているのかがうまく説明できないような状況となっているのかも知れず、そうかといって説明し難いことが起こっているわけではなく、戦争とか貧困とかそれ自体に思考の標準を当てればもっともらしい説明になるわけで、少なくとも今まではそれで済んでいたような気がするのだが、現状でもそんな説明で済ませている人などいくらでもいる状況の中で、果たしてそれだけでは済まないようなことがあるのかといっても、それが専門的な領域となれば、専門用語を駆使した解説によって門外漢が渋々でも納得させられてしまうのだろうが、ではそうした専門的な説明が何をごまかしているのかというと、薄っぺらい範囲内ではそれらしいカタカナ用語を多用して何か述べているように装ってはいるが、そのカタカナ用語を直訳してしてみれば、大して中身のあることは述べていないことがわかる程度の内容になるにしても、専門外の人にはそれで構わないと思われるのだから、それはその程度のこととして、他にどんな説明が必要なのかといっても、そんな説明自体が不要だと思えば、その程度のこととして聞き流しておけば済むようなことでしかなく、すぐに忘れてしまうようなことでしかないのは誰もが承知しているはずだが、専門的な知識を駆使して仕事に役立てている人ならそれでは済まないはずだとしても、それが他の人たちには大して関係のない狭い範囲内で通用していることであれば、知らなくても済むようなことになってしまうだろうが、では他に知らないでは済まないようなことがあるかというと、知らない方が都合が良いと思われるわけでもないが、実際に知らないのだから、知らないのをいいことに勝手なことをやりたい放題にしておきたいわけで、しかもそれを知られてしまったところで話をはぐらかしてしらばっくれているわけだから、悪質極まりないと思いたいところだが、そんな人たちとの間で世の中の多くの人々が信頼関係を築き上げているとは思っていないだろうが、結果的にはそういうことになっていると見なされてしまうといっても、どこの誰がそう見なしているわけでもなければ、それ自体が説明として成り立たないわけだが、それもそういうことにしておきたくて、嘘やごまかしを駆使してそんな状態を保とうとしていると受け取られているわけでもなく、誰もそうは受け取っていないように装われて、それで何とか平静が保たれていることになっているような気がするわけだが、それもそんな気がする程度のことであるから、確かな実態が何もわかっていないとも言えないが、何かそういうことの積み重ねが知らず知らずのうちに不快な世の中にしているような気がするわけでもなく、うまくはぐらかされていることになるのだろうが、それを批判している人たちにとっては、うまく行っているどころではなく、うまく行っていないからそれが批判のネタとして利用されているわけだが、そういうやり方でうまく行ってしまってはまずいわけで、ごまかしやはぐらかしばかりでうまく行っていると思っている人が大勢いるとすれば、そういう方面ではうまく行っているとしても、それとは別の方面では化けの皮が剥がれていて、だからそれを批判されているのだろうが、うまく行っていると思っている人たちは批判などには耳を貸さずに無視を決め込むしかないわけだが、それがだんだん無視できないほどの状況の悪化を招いていると現状を捉えるなら、批判されていることを認めざるを得なくなるとしても、だからといってごまかしやはぐらかしを駆使して現状を維持しようとする勢力との信頼関係を壊したくはないから、何か姑息なやり方で批判している勢力を押さえ込もうとしているのかも知れないが、それもうまく行っているとは言えないなら、現状ではどう見てもやっていることが破綻に直面しているのではないか。


11月25日「確率的なまやかし」

 それに関して何か確信があるわけでもないが、どう考えても腑に落ちないなら、たぶん疑念を抱いているのだろうが、それが原理原則のような気がするわけではなく、その気になればどこまでも信じられるわけでもないが、途中で何か気になることがあっても、そんな気がしているだけのことに済ませて、取り立ててそれにこだわっているとも思えないし、とりあえずそれの何が原理原則なのかと言えば、例えば確率的に確からしいことが百パーセントそうだとは言い切れなければ、そうではない確率もわずかながら残っているわけで、それが確率的なあやふやさなのだとしても、果たして99%そうだと言えるようなことに対して、1%でもそうではないと言える側に賭けるかといっても、普通は99%そうだと言える側に賭けるだろうし、いきなりそんな喩えを持ち出して何が言いたいのか自分でもよくわからないのだが、たぶんその際には99%間違っているようなことに関して、1%でも正しいと思われるようなことに賭けてみたいと思うのは山々だが、それがたぶん思いたいのではなく、実際にいつも1%の側に賭けてきたと信じているわけだが、それが迷信であり、計算して確率を正確に導き出したわけでもなく、比喩としてそんないい加減な話を信じようとしているわけでもなく、もちろんそんなことをやってうまく行くはずもなく、絶えずうまくいかずに失敗を繰り返しているようにも思えるのだが、なぜか結果的にはそれで構わないような気がしてしまうわけで、かえってうまく行かずに良かったと思ってしまうわけだから、それが負け惜しみではなく、実際に失敗と共に生きているような気がすると共に、生きて行くこと自体が失敗の連続なのだから、失敗を恐れずにいつも無謀なことにチャレンジしているとも思っていないが、無謀だとは微塵も思っていないのだから余裕があるわけで、気休めにそう思っているに過ぎず、そうやっていつもわずかな勝算を夢想しながら結果的にうまく行かないことにチャレンジしているつもりなのだが、本気でそう思っているとしても身体がついて行かず、やろうとしてもいつものように身体がブレーキをかけて、頭で考えていることを実行に移せない歯痒さを感じているわけで、そうなるとただできもしないことを妄想しているに過ぎないのだが、それが思考的な安全運転の範囲内で済んでいる限りは、確率も何も嘘には違いなく、それを計算する前提がそもそもないわけだから、確率を持ち出すこと自体もまやかしには違いないわけだが、計算しないで確率を持ち出すのだから、雰囲気や印象として確率的な確からしさに見せかけて、何かあやふやなことを言いたいのかも知れないが、どうも信じているのは確率的な確からしさではなく、うまく行くかどうかも不確かなことを勘に頼ってやろうとして、結果的にうまく行かない以前に、途中で断念するよりも遥か以前の段階で計画倒れとなっているのかも知れず、しかも計画倒れとなった残骸をいつまで経っても捨てられず、今も再構築を試みているつもりで、何やら細部をいじくり回して、うまく行く当てもないのにうまく行った先の未来を妄想しているわけで、それでは何をやっていることにもならないのだろうが、何かをやっている途中で道に迷っている気にはなれるから、それをやっていると思っている限りで未来に希望を託している気にもなれて、何の結果も出ていないことの言い訳としてそれを利用してしまうわけだが、もしかしたらそうやって何かを人工的に構成したり構築しているつもりなのではなく、樹木が生い茂るようなイメージを夢想しながら、自然成長的な成り行きにまかせているのかも知れず、自らの意志に従ってそれを成長させるのではなく、ただ自然に成長するにまかせているだけで済んでしまうような成り行きへと持って行ければ都合が良いわけでもないが、結果的にそうなってしまうなら、そこに自らの意志を介在させることなどできないわけだが、それが自分にとって好都合なのではなく、それらの残骸にとって好都合な成り行きなのかも知れず、残骸が残骸として残るには、それが再構築されては残骸ではなくなってしまうから、なるべくなら再構築されるような契機が生じてはまずいわけで、ただでさえ歳月による風化にさらされて消滅の危機に直面しているように装いながらも、しぶとく残ろうとしているわけでもなくても、否応なく残骸の姿をさらけ出しながらも、それが残骸ではないような見せかけをまとわせたいと願っている自らの淡い期待を打ち砕くわけでもなく、その自然成長的な樹木のイメージというのが、残骸からの再構築を試みようとしていつも計画倒れとなってしまう自らの淡い期待の表れなのだろうが、目下のところは残骸のままとなっているわけだから、それを再構築するなど現状のままでは確率的にはゼロに近いと思われるのだが、それをちゃんと計算したわけでもないのにイメージとしてそう思われるのだから、それ以前に計算しようのないことを確率的にゼロに近いと思ってしまうこと自体がいい加減な妄想に違いないわけだが、逆に確率的にゼロにしておかないとロマンを感じないというなら、一発逆転の大どんでん返しを狙ってそんなことをやろうとするのだが、やる以前にいつも計画倒れとしまってしまう限りで、その程度で済んでいるのだから結果的にはうまく行っているような気にもなって、それが失敗することに成功しているわけでもないとしても、それに近いようなことを妄想している段階にとどまっているのだから、いつも未来に向かって当てのない希望を抱く姿勢を保ち続けているというずるくて怠惰なやり方なのかも知れないし、実際にはやっていないのだからやり方とも言えないにしても、それが何かの囮として機能しているおかげで、それ以外のところではセコく小狡く立ち回っているような気もするわけだから、その辺のところで精神のバランスをとりながら馬鹿げた世の中に暮らしながらも正気を保つ戦略なのかも知れない。


11月24日「微妙な差異」

 一見すると何か疑念を持たれるようなことを語っているわけではなく、何となく真っ当なことを語っているように感じられるのだが、そこが付け入る隙だとすれば、それらの人たちは信用できないかというとそうでもなく、そもそもそれらの人たちという一括りにできるような勢力ではないと捉えるなら、各々の間で微妙に温度差があるようにも感じられるのだが、明らかに分断を生じさせようと意図して動いているとも思えないし、それらの人たちの意図や思惑を都合のいいように想像してしまうと、ありふれた陰謀論のような構図をもっともらしく示す羽目に陥ってしまいそうだが、そういう成り行きを避けるには、それをどう語ればいいかということでもなく、それらの人たちをわかりやすい一つの意図や思惑に基づいて結びつけるのではなく、そうかといって全くのばらばらな分散状態の中で個々に単独で生息しているわけでもないとしたら、表面的には対立してお互いにお互いを批判し合いながらも、ゆるい連携も見せているような関係を想像してしまうのだが、そんな甘い想像など打ち砕くような出来事が今後起こるとも限らないにしても、その一方でくだらない方面へと誘導する意図や思惑も絶えず生じているような気もするから、何がくだらないといってもピンとこないだろうが、それが気のせいに過ぎないことだとしても、それも何となくそう思われる程度のこととして気に留めておくと共に、意識してそういう誘導に逆らったり抗ったりするのではなく、自然にそうなってしまうような成り行きに従ってしまうから、かろうじてくだらない方面から外れているような気もするわけで、それが何かと引き換えにしてそうなっているわけでもなく、ただこのままでは何の利益を得られない成り行きというわけでもないから、そういった方面から外れて行っても構わないような気もするわけだが、なぜそれがくだらないと思われるかも自分ではよくわからないのだが、ただ何となくくだらなく思われる程度のことに過ぎないが、そうした思いがどこまで的を射ているかといっても、それが何の的なのかもよくわらないから、今のところは何がくだらないのかも、それが何の的なのかもわからないのに、なぜそんなことが言えるのかもよくわからないのに、どういうわけかそんなことを言えてしまうのだから、結果的には謎だらけなことを述べているに過ぎないが、今はそんなことしか言えないにしても、さらにここから月日が経って、過去を振り返るのに絶好の機会が巡ってくれば、今よりはだいぶ具体的なことが言えるかも知れず、そんな機会がいつ巡ってくるかは現時点では何とも言えないが、そうなった時にはあらかた片がついているだろうから、もはやそんなことは言うまでもないことになっていて、改めて誰も何も言う気も起こらないような惨状になっているかも知れないし、意識してそうなるのを阻止できるわけでもないところが、まだるっこしいところかも知れないが、今さら藁をもつかむ思いで陰謀論に救いを求めても意味不明な気がする限りで、特定の団体や勢力に責任転嫁を試みるようなことをしている人たちを横目に何をやろうとしているわけでもないが、そうかといって彼らに向かって特に言いたいことがあるわけでもないのだから、黙ってそれらの活動を見ているだけでは退屈であるなら、何か適当でいい加減なことを述べることしかできないわけだが、誰もがそれについて語りたいそれらの顛末にしても、もうすでに結果が出ていて答え合わせも済んでいるのに、まだ誰もそれを認めたがらず、口が裂けてもそれを認めようとしない人たちが、往生際の悪いことを粘り強く執拗に繰り返そうとして、ますますドツボにハマって身動きが取れなくなっているのが、現状が示している惨状かも知れないが、それももうすでに何十年も前からそうなっているわけだから、現状がひどいといっても見慣れた光景には違いなく、それは程度の差こそあれ世界中でそうなっていることかも知れず、だからといってすぐに戦争を始めるような成り行きにはなっていないことも誰もが承知していることであるから、それらの中でも比較的程度が最悪な状況となっている国や地域に限って、戦争になったり人が移民となってその国から出て行くような事態となっているわけだが、それと比べられるような状況でもない日本の現状がいくら最悪だと言っても、まだそこまで行っていないからそれほどでもないと思っても気休めにすぎず、それとこれを比べること自体も意味をなさないとは思わないが、世界でも比較的恵まれた地域というのがあるかも知れないから、それが気候や風土からそう思われるのか、あるいは地政学的な見地からそう思われるのかも、比較する条件や尺度などによっても異なってくるだろうし、一概には言えないようなことであるにしても、それをどう捉えても納得し難いような状況となっているなら、何かないものねだりのようなことを多くの人々が求めるとも言えないが、そういうところでうまく立ち回っている人や勢力が世の中の主導権を握っているように思われるのだが、それも気づきにくいところでそうなっているから、他の大勢の人々には何が起因してそうなっているのかがよくわからないわけで、そういう人たちが好き勝手に振る舞っているように見えるとしても、実態としては必ずしもそうなっているわけではなく、それらの人たちが所属しているつもりの勢力の意向があるようにも思われるわけで、その意向に従っている限りでそう見えてしまうのだから、そう見えてしまうとしても何も好き勝手に振る舞っているのではなく、組織の意向がそれを許さないというか、それも組織的な体をなさないような組織といっても、では組織でなければ何なのかといってみたところで組織には違いないわけだが、しかもその組織自体がその人を操っている黒幕というわけでもないところが陰謀論の破綻を窺わせるとしても、操っているわけでもないのに、組織の意向に忠実な動作を行なってしまうわけだから、ロボット的な動作だと言えなくもないが、ロボットでもないなら何なのかといってみたところで、人間以外の何者でもないわけだから、そこに何らかの力が介在していることは確かなのだが、それをどう譬えようとしっくりこないような事態となっているわけだ。


11月23日「陰謀論的な解釈」

 歴史というと大げさに歴史そのものを語ろうとしているわけでもなければ、特定の出来事についての歴史的な経緯に関して何か考えていることがありそうで、それに関して人が抱く意図や思惑もあるにはあるが、誰かの方針や計画通りには事態が推移しないのは、大抵の歴史的な経緯を知れば誰にでも理解可能なはずだが、しかもそこに至る成り行きがなし崩し的にそうなってしまうのだから、どこの誰が最初からそうなるように企みを仕組んだわけでもないのに、そうなった結果から理由や原因を探っていけば、誰かがそうなるように仕掛けた意図や思惑が推測されてしまうから、そんな成り行きを陰から操っていた黒幕のような存在を想定しなければならなくなり、そこから陰謀論的な歴史の解釈が生じてきてしまうわけだが、最近流行りの「ザイム真理教」とかいう陰謀論を信じてしまう人たちが妄想している内容も、そういうことの一種なのではないかと推測できてしまうが、それでも構わない程度の人たちなのだとしても、今後そんな人たちが活躍したおかげで政治的な方面で何らかの刷新が起こるようなら、しかもそれが好印象を伴うような成り行きであれば、やはりそれでも構わない程度のことになってしまい、わざわざそれをとやかく否定的に語ってしまうともったいないような気がするなら、それはそれとして放置しておけばいいようなことかも知れないし、たわいないというと馬鹿にしているようで気がひけるが、政治的な成果というのはそういう何もしないのにお高くとまった人たちが馬鹿にするようなことの積み重ねから生じてくるようなことなのかも知れず、それは実態としては緊縮財政どころか放漫財政に近い日本政府の財政状態をひたすら緊縮財政だと非難し続ける積極財政派の人たちにも言えることかも知れないが、それと似た状況というわけでもないにしても、例えば明治維新の原動力となった勢力は、尊王攘夷派として外国船に砲撃したり開国派の幕閣を襲って暗殺したりするテロリストだったわけで、そんな明治維新の成り行きとは真逆の方向に突っ走っていた人たちが結果的には開国して明治維新を成し遂げたわけだから、現状で「ザイム真理教」の陰謀論を真に受けていたり積極財政派を気取って政府の財政政策を緊縮財政だと批判していたり、消費減税に消極的な野党政治家を腰抜け呼ばわりする勇ましい人たちも、幕末の尊王攘夷派のような役割分担なのかも知れないし、また政府与党に擦り寄って体制派気取りになりたい人たちは、幕末の新撰組のような立ち位置なのかも知れないが、だからといってこれから明治維新のような革命が起こるとも限らず、それよりはナポレオン・ボナパルトに対するルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)のように、もっと茶番で間抜けな事態が起こりつつあるのかも知れないし、もうすでにここ十年余りの間に嫌というほどそんな茶番で間抜けな成り行きを経験しているわけだから、ここからさらに輪をかけて呆れるような事態が続いていくとも限らないが、だからといってこれが危機的な状況なのかというと、世界中が危機的な状況であることには変わりなく、それは昔からそうだったのであり、今後もそうであり続けるのだろうが、そんな現状に関わって絶えずお騒がせな事態を引き起こしている人たちを無能で愚かだと決めつけるようなことが妥当なのかというと、決めつけている人たちも含めてそうなのかも知れないし、そこで彼らが対立や敵対しているように見えることが、見えるだけではなく本当に対立や敵対していると見なすなら、そう見なすことでさえも無能で愚かな証拠なのかも知れないが、ではそれをどう見なせばいいのかといったところで、何か納得できるようなことではなく、同じ社会の中で暮らしている人たちなのだから、能力や資質に大した違いがあるわけがなく、ただそれを役割分担でしかないと見なすなら、似たような人たちがそこで生じている事態の推移に従って対立したり敵対するような役割を演じているに過ぎないと捉えておけば妥当なのかも知れないが、実際にそんな役割を本気で演じているつもりの人たちが納得するわけもなく、もちろん演じているのではなく、直接の行為や行動や言動に訴えているわけだろうが、それが演じているに過ぎない以上に、何か実質的な効果や成果をもたらすようなことをやりたがっているわけで、例えば消費税を減税したり廃止すれば、本当に景気が良くなると本気で思い込んでいるわけだから、それが本当にそうなるかどうかはともかく、やりたいなら是非やらせてみればいいと思っている人が世の中にどれほどいるかが問題となってくるとしても、それがアルゼンチンのようにそう訴えかける人を本当に大統領にしてしまうほどの勇気がどれほどの人にあるかといっても、日本とアルゼンチンではだいぶ状況が違うし、事態の深刻度もアルゼンチンの方がより深刻な状況なのだろうから、アルゼンチンでは実現してしまうことも日本では実現する可能性がかなり低いのかも知れないし、またマルクスがかつて一度目は悲劇に終わり二度目は茶番に終わると述べたように、ナポレオン三世や安倍晋三の結末が何かおかしな事態となってしまったことは確かだとしても、フランスでも日本でもその後がさらにこじれてこんがらがった成り行きへと実際に続いているわけだから、これからもさらに輪をかけてうんざりするようなことが延々と続いて行くかも知れないから、覚悟しておいた方がいいと警告してみても、誰に向かって上から目線で述べているわけでもなく、悲劇よりは茶番に近いから大したことはないとたかを括っても構わないような気もするわけだが、それを批判したい人たちにしてみれば、日本各地で悲劇が繰り返し起こっていると見なさないと気が済まないわけだから、それらのどれもが笑い事ではないはずで、大変なことが起こっていると騒ぎ立てる必要があるわけだ。


11月22日「出来事の不在」

 たぶんわざとわけのわからないことを述べているわけでもないのだが、単純に意味不明なのでもなく、何らかの出来事に関して述べているに過ぎないことでも、そんなことを述べるまでもなく、その出来事が起こっていることだけを伝えれば済むようなことなのに、なぜかそこからわけのわからない持論を展開したいわけでもないのだろうが、その持論が人によって是非や賛否が分かれるようなことなら、人の立場や境遇に応じて利害の不一致や主義主張の違いが生じるようなことが述べられているのだろうが、果たしてその出来事に関して利害の不一致や主義主張の違いが生じるかというと、出来事そのものではなく出来事をどう捉えるかで意見や主張が対立してくるとなると、その人と出来事との関わりの違いからそれが生じてくるのだろうが、それ以前にその出来事が何なのかということが謎のままだと、話にならないどころか、少なくともそれについて語っているのだから、そんなのはあり得ないはずだが、それが本当にその出来事について語っていることになるかどうかも疑問なら、その出来事とは何かという根本的な疑問も生じてくるが、まだ何も起こっていないうちから、それが起こったらどうしようかと不安を煽っているようなら、そんなのは杞憂に過ぎないが、起こる確率が高いといわれると、杞憂などではなく、起こった時の備えとして、今から何か用意しておく必要がありそうだが、それが天変地異などの災害の類いであれば、用意しておくべき物事が特定されるだろうが、何が起こるかもはっきりしないなら、何も用意しようがなく、とりあえずは金銭的な蓄えをある程度は持っていないと、いざという時に何も対処しようがないことにもなりかねず、だから老後に備えて最低でも2千万円用意しろと言われても、蓄える当てがなければ用意しようがないが、将来に備えると共に、今ここで起こっていることにも対処しなければならず、それが何だかわからないでは済まないはずだが、実際に様々なことが起こっているから、それらをいちいち気に留めている余裕がなければ、起こっている出来事の全てに対処することなどできはしないはずだが、たぶんそれなりに対処しているのであり、それをいちいち意識していないだけで、今何が起こっているのかもはっきりとはわかっていないのに、それに対処しているとすれば、何が起こっているかなんて知る必要もないのかも知れないが、その必要がなくても知りたいことならいくらでもありそうで、それがその人とは直接関係のない方面のことであれば、知ったところで何の役にも立たないどころか、無駄に知的好奇心を高めるばかりで、何が起こっても、そんなことはすでにお見通しだと言わんばかりに、知ったかぶって起こっていることの解説をやりたがるとも限らないが、これから何が起こるかが誰にとっても関心のあることではないばかりか、逆に何が起こっても無関心でいられるわけでもないし、関心があろうとなかろうと起こった出来事に巻き込まれてしまえば、それに対処せざるを得なくなるのだとしても、対処しているのにそれに気づかないなんてあり得ないはずだが、たぶんすでに今起こっている出来事にほとんど全ての人が巻き込まれているのに、なぜかそれに対して無関心を装いながらも、その無関心を装っていること自体がそれへの対処だとしたら、その無関心を装っている対象とは何かといえば、例えばそれが商品の宣伝によって覆い隠されていることであれば、果たして商品の宣伝が何を隠しているのか、それを探りたくなってくるわけでもなく、ただ単に商品の宣伝によってその商品に関心を持つように仕向けられているのに、なぜかそれに対して無関心を装っているわけで、要するにその商品がほしいと思うのだが、宣伝によってほしいと思うように誘導されていること自体には無関心なわけで、別に自発的にほしいと思っているわけではないにしても、その商品を見せられるとほしいと思ってしまうわけだから、何がそう思わせるのかといえば、どう考えてもその商品の宣伝がそう思わせるのだろうが、なぜかそういうことには無関心でいられて、日々メディアを見る度に商品の宣伝に出くわしているのに、それに対しては無関心を装っていられるわけで、要するに商品の宣伝を無視しているのに、宣伝している商品をほしいと思いながらもそれを無視しているのだから、関心がないわけではなく、関心がないわけではないのに無関心を装うというややこしい事態に陥っているのだが、だからといってそれが深刻な事態をもたらしているとも思われず、そんなのは無視していれば済んでしまうことだと思っているわけでもなく、ただその商品がほしいと思っているだけで、金銭的に余裕があればそれを買いたいとも思っているし、実際に買ってしまうことだってあるわけだから、そうなったとしてもそれが良かったとか悪かったとか、どちらになるにしても、良かったら満足感を得られるし、悪かったら買ったことを後悔する程度のことなのだろうが、果たしてそれが自らにとって重要であったり、自らの人生に重大な影響を及ぼすようなことかといえば、それは買った商品にもよるだろうが、そういうレベルのことで自らの生き方や考え方を左右されたくはないと思うわけでもないが、たぶん商品を買うか買わないかの水準と、自らの生き方や考え方を左右されるような水準とは、全くの無関係というわけでもないにしても、少なくともそれとこれとが直接結びついているとも思われないし、そんなことを改めて考えるようなことでもないから、それも無視するまでもなく、普段はそんなことに関心を持つような成り行きにはならないわけだが、例えばグーグルなどが運営しているシステムによって特定の宣伝を毎日のようにひっきりなしに見させられると、かなりの頻度で拒否反応や嫌悪感や不快感などの否定的な感情をもたらして、腹が立ってくるわけで、もちろん腹が立っているのにそれを見続けるわけだから、精神的に追い詰められるような圧迫感も意識してしまうから、そこからどうにかして不快な商品の宣伝から逃れる方法を模索し始めるのだが、その程度のことで神経をすり減らすのも馬鹿らしいから、やがて無理にでも無関心を装うようになってしまうわけだが、そうなればなったで何か物足りないような気もしてきて、次第に何か商品とは別の物事を求めるようになるのかも知れないが、今のところはそれが何だかよくわからないわけだ。


11月21日「感性の劣化とは違う働き」

 何かが間違っているというか、間違っていることが明白なのだろうが、そんなことを主張する人の感性が劣化しているように感じられながらも、実際には劣化とは違う何かが起因してそうなっているように思われる言動が、何から生じてくるのかといえば、それが例えばニュースなどで報じられている内容とは真逆のことを唐突に主張する人の存在なのかも知れず、その人が何らかの陰謀に巻き込まれて、加害者でもないのに加害者であるかのように話がでっち上げられると、冤罪を主張するような成り行きになってくるのだろうが、それが今に始まったことではなく、昔からそんなことを主張する人などいくらでもいるのだろうが、それの何が劣化しているとも思われないし、陰謀でも罠でもなく、ただそういう成り行きに巻き込まれていて、その種のよくある主張を真に受けているに過ぎないのだとしても、それに関して確からしい根拠や証明が示されているわけでもないのに、そんな主張を真に受けてしまう人の述べていることを信用できるかというと、その人の熱心な支持者でもない限り、大半の人は信用しないだろうが、その場の状況証拠と呼ばれるあやふやな推測や憶測を真に受けてそんなことを主張してしまう成り行きがあるなら、それを信じるか信じないかはあなた次第だと誰から決断を迫られるわけでもない限りは、そんなのは無視していても構わないだろうが、その一方で信じてしまう人もそれなりに出てくることも、実際にデマを信じてしまう人もいくらでもいるわけだから、信じたくなる人の気持ちもわからないではないが、そういうところから自身の主張を構成するのも、実際にそうなってしまう人もいくらでもいるとしても、何かもっと違う方面からというか、普通にニュース報道などに沿った主張を構成した方が、その種の人々とは一線を画す意味でも、そうした方が良さそうに思われるが、何か真っ当な意見を述べるならそう思われる程度のことであり、真っ当な意見では面白味に欠けるなら、フェイクニュースの類いを信じているようなふりを装いながらも、微妙にそこからずれるような主張も構成してみたいが、それがどんな主張になるかも実際にやってみないことにはよくわからないが、例えば東日本大震災が人工地震だとか、ここ数年来のパンデミックが世界の人口削減計画の一環だとか、昨年から続いている戦争が中東にも飛び火して戦火が拡大したかのように思われる戦争が、すでに始まっている第三次世界大戦だと主張されても、なるほどそういうことなのかと感心するわけでもなく、それらのどれもが俄かに信じられるような話ではないにしても、では感心しない代わりにどんな主張を構成できるかといえば、たぶんそれらの代わりというわけではなく、そうかといってそこに至る経緯も事情も無視して人道主義的な見地から偉そうなことを主張しようものなら、その場が国会でなくても腹立たしいヤジが飛んでくるかも知れないが、狭い範囲内での利害関係しか眼中にないなら、または意識して眼中にないように見せかけるなら、自らに関わってくる方面で自分を利するようなことしか言えないにしても、その自分を利するということが、例えば金銭的な利益ならはっきりとわかるにしても、そうとも言えないような主張となると、そう主張することによって世間的な基準に照らし合わせて良い印象をもたらすようなことを主張したいとあからさまに思っているわけではなくても、自然にそういう成り行きへと自身の主張を誘導されてしまうような感じになってくると、それもそういうことが起こっているなんて気づきようがないだろうが、自らの意志でそんなことを主張しているわけではなく、世間的な意向に合わせてそんなことを主張していることに気づかない場合もあるだろうし、果たしてそれをそんなことを主張している人の意志の表れだと受け取っても構わないのかというと、普通はそう受け取ってしまうにしても、後からそんな成り行きを振り返ってみれば、自分でもなぜその場でそんなことを主張していたのかよくわからないかも知れないが、たぶん自身が関わっている集団の中で生じている共同幻想的な意向に従ってしまうからそんなことを主張してしまうのかも知れず、そういった共同幻想的な意向というのが、例えば国会で不快なヤジを飛ばすような人にも乗り移っていて、そういうヤジに不快感を覚える人はまだその種の共同幻想に取り憑かれていないにしても、そんなヤジに共感したり同調して同じようなヤジを飛ばす人にとっては、それが快感や快楽の源泉となっていて、そんな人たちの感性の劣化を招いているとは言い難いにしても、不快感を覚える人にしてみれば、それらの共同幻想に取り憑かれた人たちの感性が劣化していると思うかも知れず、しかもそんなふうに思ってしまう人でも、それとは別にその人なりに共感を覚えたり同調したくなるような主張も他にあるだろうから、その人が共感を覚えたり同調したくなる主張というのが、実際にそんなことを主張している人たちが他にも大勢いるなら、それが共同幻想として大勢の人たちが抱いている内容になるだろうし、必ずしもそれがそんな幻想とは無縁の人たちに不快感を与えるとは限らない場合もあるだろうから、世の中で流行っている共同幻想の全てが否定すべきものでもないだろうし、そんな幻想を深く強く頑なに信じ込んでいるわけでもないなら、それほど重症化することもなく、不必要に他人から嫌われるような内容を平然と言い放つようなことはやらないはずだが、どういうわけかそんなヤジを平然と飛ばすような人に限って、条件反射のようにして不快なヤジを飛ばさざるを得ない主張というのがあるらしく、実際に国会などでそういう反応が起こる対象としてどんな主張がされているかが興味深いところなのではないか。


11月20日「政治に関する期待と印象」

 率直に言って政治に何も期待していないわけではないが、過剰に期待しているわけでもなく、それらの何を過大に評価したいわけではないし、評価できるようなことが現に行われているとも思えず、逆にそうは思えないようなことばかりが行われているような気もするが、そんな気がしているだけで、期待できるようなことや評価できるようなことが行われているのに気づいていないだけかも知れないし、そんな嘘をついて何を狙っているわけでもないが、本当にそれが嘘であるなら、自分の本心を自分自身がわかっていないのかも知れず、わかっていなくても言葉を記していくにつれて自然にそれが出てくることを期待して、さらにそれに関して語って行くと、政治など気休めに過ぎないとは思わないが、気休めに期待しているのかも知れないから、政治に少しは関心を持って、SNSなどに出てくる政治に関する書き込みを読んだり動画を見ようとするのだが、なぜかそこで勘が働いて、書き込みを読んだふりをしたり、動画を見たように装ってしまうのかも知れず、それが勘違いなら、そんなふりをしたり装ってしまう自らが愚かなのだから、それでも構わないが、そうでないとするなら何がそうさせているのかと言えば、特定の傾向の書き込みなら読むが、それに付随して出てくるそれと似ているようでいて、その傾向から微妙に外れる書き込みについては、読んだふりをするにとどめていて、また特定の傾向の動画についても、興味があってもなくても一応は見ておくが、それに付随して出てくるそれと似ているようでいて、その傾向から微妙に外れる動画については、それを見たように装ってしまうのかも知れないから、何かそこで勘が働いて、実際に読んだり見たりする傾向のものとそうではない傾向のものとを区別しているのだが、読んだり見たりする書き込みや動画とそうではないものとの違いが何かというと、それが自分ではよくわからないから、そこで勘が働いてしまうとしか言えないのだが、そのよくわかっていないということが、もしかしたらわかりすぎるくらいにわかっているのかも知れないから、わざとよくわからないと述べてしまうのかも知れないが、そこでも勘が働いてよくわからないと述べてしまうのかも知れず、そのわかりすぎるくらいにわかっていることを何とかして語りたいのに、そこでもなぜか語ろうとするとブレーキがかかってしまい、結局語らずじまいに終わってしまうから、そこでも勘が働いてしまうとしか述べようがないのだが、少なくとも現状が危機的な状況なのかというと、そうではないことは確かで、そうでなければ何なのかといっても、危機的な状況だとは述べたくはないというと、何か嘘をついているような気もしてきて、それが何かの冗談なのではないかとも思われてしまうから、危機的な状況の中でうまく立ち回っているつもりにはなれないし、うまく立ち回らなくても構わないような状況なのかも知れず、だから馬鹿げた思惑を抱きながら馬鹿げたことをやっている人々を見下しているわけではなく、それが組織的な行為である限りで、組織の意向に従っているつもりがなくても従わされているように感じられてしまう人々を哀れだと思うわけでもなく、それが仕事なのだから職務に忠実なのだろうし、そんなことは気にしないようにしているのかも知れないが、そんな人々がそうなっている限りでまだ危機的な状況ではないのかも知れないし、ではどうなれば危機的な状況なのかといっても、実際にそう感じられるような状況になってみないことにはよくわからないが、すでに今が危機的な状況なのだとすれば、それに気づかない自らが鈍感なのかも知れず、しかも鈍感であっても構わないような状況なのかも知れないから、そんな自分の感覚の中ではいつまで経っても危機的な状況などやってこないのかも知れないが、なぜかそんなふうに嘘をついてしまう現状が危機的な状況なのかも知れず、そうであるなら危機的な状況を楽しんでいるのかというと、なぜ楽しむ必要があるのか謎だが、楽しんでいるどころか、退屈で死にそうになっていると心にもない嘘をつきたくなってしまうわけでもないが、たぶん嘘をついているのであり、本当は危機どころか極めて深刻な事態に陥っているのに、だからこそかつてテレビでやっていたお笑い番組を見ているような気分で政治を見ているのかも知れず、もう何十年もテレビを見ない生活に慣れてしまったから、そんな気分を思い出そうとしてもなかなか思い出せないし、それも嘘には違いないのだが、かつてのテレビの延長上に今のメディア状況があるとも思えず、現状のメディア状況がどうなっていようと、それが現状の政治状況と直接関係があるとも思えないから、メディアがどうであろうとそんなことはどうでもいいとも思わないが、どうなっていようとそれとこれとがどう結びついて、自らの意識に影響を及ぼしていようと、そんな影響も無視しているわけでもなく、それどころか絶えずそれに歯向かっているつもりにもなれないにしても、自然とそこから外れてしまうような意識に囚われてしまい、実際にメディア上で誰もが新自由主義を悪く言っているのに、そういう人々が間違っていることを確信してしまうのだから、例えばそれが反骨精神の表れなのかというと、そんなカッコいい表現では言い表せないようなところで確信に結びついているようにも思われるから、たぶんそんな思いが間違っているのかも知れないが、間違っていても構わないような状況の中で生きている感覚なのかも知れず、その種の紋切り型の言い回しに対して意識が過敏に反応するからといって、それを信じているわけでもなく、一方では彼らが間違っていること確信しているのに、それをそれほど信じているわけでもないと言ったら矛盾してしまうが、たぶん矛盾しているのであり、それが現状の政治に対する印象とも結びついていて、そこから現状で新自由主義に関する紋切り型に心を支配されている人たちに対する期待も生じてくるわけだが、それが新自由主義だけでなく、左翼に対する否定的な言葉を吐いてしまう人々にも同じように期待しているわけで、こいつら救いようのない馬鹿なんだと見下す一方で期待もしてしまうわけだから、そこでも矛盾しているだろうが、そんなおおざっぱな次元とは違う個々の政治的な争点を持ち出してくる人々にも期待しているし、どちらかというとそちらの方がかなりマシに感じられるとしても、それもたぶん勘違いから感じられるようなことなのかも知れない。


11月19日「消費税の減税」

 現状でわかっていないことは、例えば消費税を減税した後の状況がどうなるかに関しては、まだ減税していないのだからわからなくて当然だが、もちろん現政権は消費税の減税を頑なに拒否しているのだから、現政権や政権与党の体制が続いて行く限りは消費税の減税は実現しない公算が高そうだが、その一方で消費税の減税や廃止を主張する政党や勢力も根強く存在していて、いつの間にかそれが政治の争点となりかけているかどうかも今のところはよくわからないが、それらの政党や勢力の主張としては、消費税を減税もしくは廃止すれば景気が良くなると主張していて、効果はそれだけではなく、貧富の格差の解消とまでは行かないものの、確実に所得の少ない人や中小企業や零細の個人事業者などの税負担が軽くなるとも主張しているわけだが、もちろん主張する方は効果や効用に関して良いことばかり主張するわけで、悪い副作用や弊害などは主張しないし、良いこと尽くめなのかというと、消費減税や廃止に反対する側が悪い面についても言及しているだろうが、それほど明らかに説得力のあるようなことを主張しているとも思えず、目下のところは消費減税や廃止を主張する側に分がありそうな感じはするが、それを主張している段階ではそうだとしても、政治的な主導権を握っているのは現時点ではあくまでも消費税を推進する側であって、今のところは消費減税も廃止もその目処が立っていない状況だろうし、消費税そのものが諸悪の根源の如き主張をする人が結構いるにしても、果たして本当にそうかというと、本当にそうだとしても、その諸悪の根源である消費税が現に制度として機能している限りで世の中に受け入れられているわけで、それをどう捉えたらいいかというと、単純に消費減税や廃止を訴えている政治勢力が選挙で勝利して政権を取るなら、それらの勢力が主張していることをそのまま実行してもらえばいいわけだが、少なくとも現状ではそうはなっていないわけだから、消費税を徴収する制度がそれなりに機能している現状をどう捉えるかということになるが、単に世の中の景気が良いか悪いかに関してなら景気循環の観点から考えれば済むようなことかも知れず、それが消費税のあるなしに関わらず、景気が良かったり悪かったりしていて、消費税があるおかげで景気が三十年間も悪いとは感じられないし、そういうところから消費税の有無と景気の良し悪しを関連づけて政治的な主張をしている人もいるにしても、正直あまり実感が湧いてこないのだが、そういう点では実際に経営が苦しい中小企業の経営者や零細の個人事業者などで、消費税を取られて大変な思いをしている人であれば、少ない利益を削って税を取られる痛みを直接の実感を伴って感じられるかも知れないが、そうではなく一般の人々でたとえ生活が苦しいと感じる人がいるとしても、直接消費税を納めている感覚が乏しければ、消費税のおかげで生活が苦しくなっているとは感じないのかも知れず、そういうところが消費税の巧妙な仕組みなのだと主張している人も結構いるだろうし、そんな人による消費税の巧妙で悪辣な仕組みを詳しく解説している動画や書き込みなどもSNS上で散見されるだろうが、世の多くの人々がそれを見たり読んだりしてそれらの主張を真に受けているかというと、それは世論調査や選挙結果が示しているはずで、そういう主張や意見が社会の隅々にまで浸透すれば、消費減税や廃止を訴えている政治勢力が選挙で勝利して政権を取って、実際に消費減税や廃止が実現して、その後の状況を誰もが実感するに至るだろうが、現状ではそこまで事態が進展していないから、何を述べるにしても推測の域を出ない内容となってしまうが、現状でたとえ多くの人々がそれを実感するしないに関わらず消費税によって苦しめられているとしても、制度としては社会の中でうまく機能していることは確かで、たとえそれが法人税の減税に役立っていると主張されていても、貧富の格差を助長していると言われていても、税収が景気などの変化にも左右されず、社会保障の安定財源としても国債の償還費用にも当てられていても、特定の世代に負担が集中せずに、広く浅く社会の隅々から徴収されるから公平な税制を実現していると言われても、また輸出企業には多額の還付金が戻ってくるからずるいと言われても、そういった数多くの方面に関わってくる税制だから、それだけうまく機能していると言えるわけで、だからこそ消費税を推進している政府や政権政党にとってはやめるわけには行かないし、なるべく減税もしたくないのも理解できるが、そういった消費税の利点を逆手に取って、他の酒税やたばこ税や石油や自動車などに関連する税の軽減や廃止の口実に使えるような気もするわけで、要するに二重課税を改めたり軽減するには、消費税が社会の幅広い分野に課税されているわけだから、それなら課税は消費税だけにして、他の間接税などは思い切って廃止すれば、もちろん現状でそれらの間接税の税収を前提として予算が組まれている分野もあるわけだから、そういった分野からの抵抗が少なからず予想されるものの、それも消費税の廃止を訴えている主張と大同小異とも言えないかも知れないが、ある特定の制度を推進するか廃止するかの二択を迫るようなやり方が多くの人々から支持や賛同を得られるかというと、どうもそうは行かないような気がするわけで、それよりは大して支持や賛同など得られないかも知れないが、からめ手から意表をつくようなやり方で、他の関連する制度との連携や絡み合いを利用してなし崩し的に回りくどくわけのわからない紆余曲折を伴いながらも、結果的に誰も納得し難いような成り行きを経ながら変えて行くようなことになるのではないか。


11月18日「わかりきったこと」

 わかりきったことをその通りだと思っていても、それが勘違いだとは思わないし、わかっていて当然だと思うしかないが、何がわかりきったことなのかと問うなら、よく考えてみるとどうもそれがそれほどわかっているわけでもないような気もしてきて、次第に不安になってくるのかも知れず、大してわかってもいないのに、それがわかりきったことだなんて上から目線で偉そうに思ってしまうのも、勘違い以外の何ものでもないような気もしてくるのだが、では何がわかりきったことなのかというと、何事も軽はずみにわかりきったことをそのまま言い放つべきではないし、それがわかりきったことなら言い放つ必要などないと考えるのがごく真っ当な感覚かも知れないが、自分にとってはわかりきったことであっても、他の人々には必ずしもわかりきったことでないと思うなら、他の人々に向かってそんなのはわかりきったことだと言い放って、そんなこともわからないのは馬鹿だと知らしめる意味でも、そんな成り行きになってしまうかも知れないが、それ自体が上から目線で他の大勢の人々を見下した物言いとなってしまうから、何を偉そうにわかりきったことを言ってんじゃねえと反発されるかも知れないし、そういう意味でも自分ではわかりきったことだと思うことを軽はずみに言い放つべきではなく、そんなのはわかりきったことだと逆ギレされるような成り行きにもなりがちになってしまうから、言い放つなら他の大勢の人々が喜んで同調できるようなことを言い放つべきで、それがポピュリズム的な大衆を煽動する言動に結びつくのだろうが、時としてたとえ間違っていてもそんなわかりきったことを言い放つべきなら、世の中の一般大衆を騙すような煽動的な物言いになってしまっても構わないから、今こそそれを言うべき時だと思って、思いっきりわかりきったことを言い放つべきかも知れず、それが人を殺すな!とか減税しろ!とかのわかりきった物言いになるのだろうが、時宜を捉えてわかりきったことを言い放つのは、それ相応の立場の人物に限られてきて、そういうことを言い放つのにふさわしい人物が言い放つと、なぜかそれが一般大衆にも受け入れられて、結果的に多くの賛同者を得ることになれば、言い放つことに成功したわけだろうが、それに成功したからといって、言い放っていることがわかりきったことなのだから、何か画期的なことを言っているわけでもないし、特にそれによって何がどうなるわけでもないと思いたいが、それが大衆の間で鬱積した不満のガス抜きとか、気休めの戯れ言程度の効果なら、それでも構わないと思われるわけでもないが、当局の許容の範囲内でそんなことを言っていることになるのだろうが、それが当局の許容の範囲内でそんなことを言っている程度に見せかけられた演技でしかなければ、そんなわかりきったことを言い放つことの意図や思惑も別のところにあって、それに関して穿った見方や考え方をするにも及ばないものの、何かもっと根本的なことに気づいてしまうのを阻止する目的で、わかりきったことを言い放つパフォーマンスに人目を引きつけておく必要があるかというと、そのもっと根本的なことがよくわかっていないなら、そんな意図や思惑など元から除外しておいても構わないだろうが、そういうことは人前で軽々しく言い放つようなことではなく、どこかの書物の中にそれが記されているとしても、誰もがそれに興味を抱くようなことでもないとしたら、世の中の多くの人々にとってもそんなのはどうでもいいことになってしまうのだろうが、その一方でわかりきったことがどうでもいいのかというと、そんなことはなく、わかりきっているからこそ、わかりきっていることでさえも無視されている現状に危機感を募らせているわけで、だからこそ多くの人々に向かってわかりきったことを訴えかけているのだろうが、それが無視されるような現状になっている限りは、そんなことを訴えかけても聞く耳を持たない人も大勢いるわけでもないだろうが、逆に訴えを聞いている大勢の人々にとってもわかりきったことであるのに、それが無視されている現状があるわけで、要するにそれがわかりきったことだと思っている大勢の人々の存在も無視されているわけだが、なぜ無視されているのかといえば、それらの人々が行動に出ないからであり、それが自業自得だと思われるのが嫌なら、訴えかけに応じて行動に出なければならないわけで、そうなると訴えかけを聞き流して何もしないわけには行かなくなるはずだが、今がそういう成り行きであるなら、まさに行動に出るか出ないかの岐路に立たされているわけだが、果たしてその自覚があるかというと、それも多くの人々がそう思っているわけでもなく、その自覚があるわけでもないのかも知れず、しかも誰もが意識してそうは思っていなくても、その自覚がなくても結果的に行動に出てしまうことだってあるかも知れないから、実際に行動に出るか出ないかは、その時になってみないことにはわからないのだが、それを先回りして予想したり期待してはならないのかも知れず、時が来たらきっと多くの人々が行動を起こしてくれることを願って、そうなれば世の中がひっくり返るはずだと信じていても、今までにもそんな期待が裏切られてきた経緯が世界中にあるわけで、それが今に始まったことではないのも、ある意味ではわかりきったことなのだろうが、そうなると論理的な思考とは全くかけ離れた思いになってくるから、信じるか信じないかの信仰の問題にもなってしまうわけだが、それを論理的な思考に近づけられるかというと、そんな必要もないかも知れないが、無理に近づけて考えるなら、現状が簡単なことを言い放てるような状況になっているとすれば、それを言わずに済ますこともできる状況になっているとも言えて、その代わりに何が言えるわけでもないが、自ら出しゃばってそんなわかりきったこと言い放つ必要もないなら、他の誰かがすでに言い放ってくれているわけで、それをありがたがって拝聴する気も起こらなければ、何も言わずじまいの自分に何が言えるかというと、それがわかりきったことだとは思えないから、言うのをためらっているわけで、ちょっと待てよと思いながらも、他の誰かがそんなことを言い放っているからそれに気づいてしまったわけだが、気づいているとしても、それを言い放っている人たちを否定するわけには行かず、そんなわかりきったことを言い放っている人たちを支持しているように装いたいのだが、それが支持しているふりに見えてしまうとまずいから、それに対してちょっとだけ疑念を投げかけるようなことをしたいわけだ。


11月17日「因果応報ではない」

 大した意図も思惑もなく、何かが起こった時間的な順番を説明すると、普通は原因が先にきて結果が後にくるはずだが、それに関して何かというと因果応報という言葉を使いたくなってしまうが、それでは原因と結果の間で起こったことを省略してしまうから、何かそれがまやかしのように思われるわけでもないが、因果応報と言えるようなことではないとしたら何なのかというと、原因から結果が生じるわけではなく、結果から原因を推測しているに過ぎないから、原因を捏造しているわけではなくても、もっともらしく説明が可能な原因を当てはめていると考えれば、説明に合うような原因が選ばれていることにもなって、他にもいくらでも原因があるわけでもないが、何か一つの原因を断定してしまうと、他にも原因があったかも知れないのに、それに関しては何も言及されなくなってしまうわけでもないが、別に一つの原因だけから結果が生じてくるわけでもないことを忘れてしまうわけでもないにしても、一つの原因と一つの結果という単純化が信じられてしまうと、それに関する説明も胡散臭く思われてしまうのだが、もちろん方便でも何でもなく単純化された説明を信じきっている人たちにはそうは思われないし、それを説明している人もそんな人たちを騙しているつもりもないのだろうが、そういう説明を方便だと思っている人にとっては、そんなのはまやかしだと思いつつもそれを信じているふりを装っているのかも知れず、説明している人が持論を信じるように仕向けていることも承知しながらも、表面上はそれに同調しているが、信じきってはいないわけで、その辺が態度や受け止め方に表れてくると、何か煮え切らないようなことを述べるに至るのかも知れないが、疑念を抱きながらもそれを信じているように装っていると、はっきりこうだと断言できなくなってきて、言説の内容も次第に歯切れが悪くなってきて、そういう言説に終始していると、それ自体に疑念を抱かれるから、言っていることを信じてもらえなくなってしまうのだろうが、信じてもらえなくても構わないなら、なるべくそんな言動に終始していた方が、人を騙してしまう危険を避けられるかも知れないが、言っていることを信じてもらいたければ、はっきりとこうだと断言しなければならないとも限らないが、少なくとも単細胞な人に信じてもらうにはそうするのが手っ取り早く、それほどそれを信じてもいないのに、こうだと断言してしまうと人を騙しているようで後ろめたさにつきまとわれるかも知れず、嘘をついているようで自己嫌悪に陥ってしまうのかも知れないが、民意や世論を単純な是非を決めるような方向へと誘導しようとしている人や勢力がいることは確かだとしても、そういう傾向の人たちが悪者扱いしている政治家やその取り巻きたちを本当に悪いとは思っていないというと嘘になってしまうが、それらの悪者たちが何かの犠牲者のようにも思われてしまうなら、そういう面では同情の余地もありそうなのだが、そういう人たちを支えているシステムの犠牲者と言ってしまうと、責任逃れのような感じになってしまうから、そうは断言したくはないと共に、そんな悪者扱いされるようなシステムを作り上げているのが何なのかといっても、そうなっている理由や原因を一概に特定することはできないし、単純に悪者扱いされるような人々に共通する特徴というのが、それはそんな人々を批判したり非難するような人々にも言える特徴となるのだが、大して根拠もないことをこうだと断言してしまうから、わりと簡単に悪者扱いされてしまうわけで、要するにその人が単細胞な馬鹿だと断言してしまえばその通りには違いないのだが、それがその人を政治家にしている支持者たちの要請や要望に応えなければならないから、こうだと断言しなければならなくなってしまうわけで、それこそが特定の圧力団体や宗教教団などの組織票を基盤として政治家になってしまった人たちの宿命なのだろうが、その人がそれを自覚しているかどうかも定かでないが、意外とその種のあからさまな差別を平気で口にする単細胞な馬鹿を演じていることに、それを批判したり非難している人たちも気づいているのか否かも定かでないのだが、それに関して日本では過去に不幸な出来事が起こっていたにしても、現状ではまだアイヌ人や在日韓国朝鮮人への差別的な言動にとどまっているに過ぎないことが、イスラエルでは実際に自分たちの繁栄を守り維持するためにはパレスチナ人など平気で殺しても構わないような意識や意向の人や集団がネタニヤフ氏のバックにはついているから、現状で起こっているような大量虐殺も平然と行われているのだが、そうなっている理由や原因をここに至る歴史的な経緯を交えながら、一義的にもっともらしく納得が行くようにいくらでも詳しく説明できるとしても、たぶん説明できる程度のことでは済まないような出来事が現に起こっているわけで、どんなにもっともらしく現状を説明できたとしても、そんな説明を吹き飛ばすような現状なのだとしたら、もはや理由や原因がどうこう言っていられるような時ではないと思われるから、殺戮を直ちにやめろとしか言えないようなことになってしまうのだろうが、そうなるとそれが過去の経緯から生じてくる因果応報などにはかまっていられない状況になっていると解釈するしかないし、それよりは現にそこで機能している経済的で政治的な利害関係の方が無視できない影響を及ぼしていて、しかもそれにかこつけて過去の経緯などの因果応報に関係した出来事が、現に行っていることを正当化する理由づけとして利用されていると見ておく方が説得力を持つかも知れず、それが因果応報からもっともらしく説明する人にはわかっていないことなのではないか。


11月16日「うまく行かない事例」

 何の条件もなく単純に虎穴に入らずんば虎子を得ずという格言が有効になるわけでもないだろうが、リスクを冒したくなければ何もやらなければいいのだが、何もやらないわけにはいかない事情があるなら、何かしら危険を顧みずにやらなければならないことが出てくるわけで、それが何の危険なのかといっても複合的に絡み合った複数の危険が想定されるから、事前にいくらシミュレートしてみても見逃してしまう危険があって、実践してみるとそれが思いのほか深刻な事態を引き起こして、うまくいかない原因だと思われてくるのだろうが、政府や地方自治体が莫大な予算を組んで大規模な計画を実行してしまうと、大抵はひどい結果をもたらすと相場が決まっているわけではないものの、何事も計画通りに事が運ぶわけではないから、いったんやり始めたら後戻りが利かなくなってしまうのも、当事者のメンツがかかっているからそうなるしかないにしても、やっていることがうまく行かないからこそ、それに対して批判や非難を浴びせようとして、多くの人々が介入してきて、それをメディアが拡散して世間の話題となるわけだが、それでも構わないといったら無責任極まりない言い草になってしまうとしても、そうなることを事前に予想していたわけではないにしても、元からこじれた政治勢力が民間の企業や団体とグルになって人気取りのための馬鹿げた計画をぶち上げた時点で、ある程度は予想できたはずだと言いたい人も、これからいくらでも出てくるのは目に見えているにしても、政府や地方自治体の予算を使って馬鹿げたイベントをやろうとするわけだから、もちろんそれを馬鹿げたイベントとは口が裂けても言わないが、それこそ予算の無駄遣いだと思いたくなってしまうのだが、果たして無駄遣いにならないような予算の使い方があるかといえば、たぶん何もかもが予算の無駄遣いに結びついてしまうのかも知れず、それを挙げて行ったらきりがないほど予算の無駄遣いを指摘できて、行政を批判するには予算の無駄遣いを指摘するだけでも構わないようなことにもなりかねないが、そんなに予算を無駄に使って試行錯誤を繰り返す必要があるのかといったら、ある程度の歯止めも必要なのだとしても、古くはイギリスのストーンヘンジもエジプトのピラミッドも東大寺の大仏も創建当時は予算や資材や労力を無駄に使った象徴的な記念碑には違いないだろうが、それが今でも残っているから、馬鹿な観光客がありがたがって見物に出かけるのだろうし、それは岡本太郎の太陽の塔にも言えることだが、何が予算の無駄遣いを招くかといったら、古代においては宗教的な行事であり、政治とは所詮は宗教に絡んだ祭りごとに過ぎなかったわけだが、現代でも宗教が政治に絡んでくる度に壮大な資財や人材の無駄を強いるのだろうが、その種の無駄を食い止めるにはどうすればいいのかといえば、単純に政治の脱宗教化を促進するしかないだろうが、何が宗教なのかがわかっていない人も世の中にはいくらでもいるだろうし、これといって宗教臭を感じられないような物事にまで執拗に宗教的な思考や感情が入り込んできていることに大半の人々が気づかないのかも知れないが、無駄に莫大な費用をかけて大げさなお祭り騒ぎをやっている一方では、貧困や戦禍に苦しんでいる多くの不幸な人々を見るにつけ、何か恥ずかしさでいたたまれない思いを抱くようなら、その種の救世的な宗教に取り憑かれているとは思えないだろうし、それが宗教に取り憑かれた感情なのかといっても、普通にそんなことはあり得ないはずだが、昔から世の中がそうなっていることは確かで、だから救世的な宗教に目覚めて、現代でもれいわ新選組の人たちのように政治的な解決を目指すべく多くの人々が奮闘中なわけだろうが、それを宗教だとは言わないし言わせないような成り行きもある一方で、宗教と政治が絡んでくる悪例として、統一教会や創価学会などがメディアでよく取り上げられるにしても、そういうことに関して何がうまくいかない事例をもたらしているのかといえば、公金を使って特定の勢力や団体を利するようなことが行われるとまずいと思われて、しかもそれらの勢力や団体などがすでに世の中の富を独占していると言われるから、それに対して反発や反感が生じてくるわけだが、皮肉なことに世の中の富を独占しているとされる勢力や団体などは、うまく行っている事例であり、継続的に利益を上げることに成功したから、それらの勢力や団体などが富裕層や大企業になったわけで、しかも今も継続的に利益を上げている最中なのであり、政治的に有利な立場を占めていることでさえも、継続的に利益を上げているシステムに組み込まれているわけで、普通はそれをシステムとは呼ばないものの、それが自動制御のような機械システムではないにしても、自然にそうなる傾向があるから、それを食い止めなければならないと思われていて、それを食い止めるには現状ではうまく行かない事例となりつつある民主主義的な政治システムを再構築しなければならないはずだが、それが現状でうまく行っていないのだから、そういう政治システムには欠陥があって、欠陥を直して事態を改善させない限りはうまく行かないままとなってしまうわけだが、たぶんどうやればうまく行くようになるかについてもよくわかっていないのかも知れず、その方法が見つからないわけではないし、方法を模索している最中であり、またそれを試している最中でもあるのだろうが、当たり前の認識としてわかっていることは、どのような方法であろうと、結果的にうまく行けばいいわけで、その途中で何をやろうが、どのような批判や非難を浴びせられようが、結果的にうまく行った事例として世間に認められれば、何かそれが免罪符を得られたようなことにもなってしまうから、過去にもそうなった事例がいくらでもあって、その際にもたらされた禍根が今も残っている事例もあるから、一時的ではあっても〇〇ミクスとか〇〇主義とかその種の世間的に認められたうまく行った事例というのが、現状でうまく行かない原因にもなっているのかも知れず、そういう意味では結果的にうまく行けばいいというわけでもなく、特定の勢力や団体などが継続的に利益を得られてうまく行っているからこそ、その煽りを食って他でうまく行かない事例が出てきていると言えるのではないか。


11月15日「ウケ狙いとは違う狙い」

 事態がこんがらがってわけがわからなくなっているように見えても、そのこんがらがっている事態の渦中にいる人たちにしてみれば、自らの意見を正々堂々と主張できればそれで構わないわけでもないが、少なくとも筋の通ったことを言っている気にはなれるだろうが、各々が信じていることを正々堂々と主張しているだけでは埒が明かないから、それだけ事態がこんがらがっていると言えるわけだが、そんな事態をどうやって収拾させるかということが、関わっている誰の眼中にもなければ、勝手なことを主張し合うだけで、議論が平行線のまま終始するように思われるかも知れないが、そこだけがそうなっているわけではなく、世の中のどこもかしこもそうなっているから、そんな中で筋の通ったことをやろうとしても、その大半はうまく行かないどころか、途中でわけのわからない紆余曲折が待ち受けていて、どうしても当初に抱いていたのとはかけ離れた結果に至ってしまい、その程度が著しいようなら茫然自失となって、どうにもこうにもやりようがなくなってしまうかも知れないが、もちろん狙ってそんな事態を引き起こしているわけでもなく、否応なくそうなってしまう成り行きに従うしかないなら、そんな中でも突破口を見つけるしかなく、どうしてもやっていることがおかしな具合にねじ曲がってしまうなら、そのねじ曲がり具合に沿ってやって行くしかなく、そんな成り行きをそのまま受け入れつつも、やはり機会を捉えてねじ曲がりを直すようなことを仕掛けるかも知れず、その気がなくても、思い通りにならないことが気に入らないから、自然とそれに逆らうようなことをやってしまって、それがその場の成り行きに合わないようなら、自らに跳ね返ってきて、手痛いしっぺ返しを食らったような結果を招くわけだが、そうなった時にどう体勢を立て直すかが問われているわけでもなく、体勢を立て直せないままそこから脱落してしまった方が、競争相手が減って他の人たちにとってはかえって都合がいいのかも知れず、だからいったんそうなってしまえば冷たくあしらわれて見捨てられてしまうのかも知れないが、他人がそうなることを狙って何かよからぬ仕掛けを講じているわけでもなく、自然にそうなってしまうような成り行きがそこに生じているから、そんな成り行きに沿って行動すれば、結果的にその場の環境に対応できた人や集団が生き残るに過ぎないのだろうが、そこに関わっている各々の意識の中では、何か狙いがあって、それを求めてその人なりに行動しているつもりなのだろうが、結果的にはそんな狙いなどどうでもよかったかのようなことになってしまうと、結果を受け入れる過程で、その結果が自身にとって都合が良かったかのように振る舞いたくなるわけで、だから結果に合わせた振る舞いを意識して心がけているわけではなくても、自然とそうなってしまうから、それが自らの思惑通りだったかのように感じられるわけだが、その一方で事前にそんな結果になるのを予想していたかというと、なぜかそんな結果を受け入れる過程で、それを予想していたかのような気になってしまい、それが結果の合理化や正当化に結びつくのだろうが、そうなってもなお、それほど自身にとって都合の良い結果がもたらされたかというと、必ずしもそうではなくても、そんな結果を受け入れようとすれば、そう思われてしまうわけだから、そう思ってしまう時点で自らの都合も結果に合わせて微調整していることに気づかず、そうなると事前と事後で言っていることの辻褄が合わなくなっても、なぜかそれにも気づかないようなことにもなりかねず、しかもそうなっても平然としていられて、何も悪びれた様子もないようなそぶりを見せるようなら、それもその人の気づかないところで、他の人々の間でその人に対する不信感が広がっているような様相を呈するのだろうが、そこで起こっている事態のこんがらがりように気を取られていると、自分もその中でこんがらがっていることを忘れてしまうから、灯台下暗しのようなことにもなりやすく、だからといって周囲の人々がそれを親切に指摘してくれるわけでも許してくれるわけでもなく、逆にもっぱら攻撃的な口調で批判したり非難するから、それに反発したり反感を抱いて聞く耳を持たない態度にもなりやすいし、そうなっている時点で取れる選択肢が狭まってしまうわけだが、それを別の視点から見るなら、そうなるように仕向けられているとも言えそうだが、誰がそう仕向けているわけでも、その人を陰から操っている黒幕的な存在が想像されるわけでもなく、勝手に自業自得でそうなっているように見えるなら話が早いが、意外とそうとも言えないようなら何なのかというと、その人の狙いとしてそんな存在になりたいからそう振る舞っているように見えてしまうとしたら、なぜ人から嫌われるようなことを嬉々としてやってしまうのか理解に苦しむかも知れないが、その人も理解に苦しんでいる可能性もあるから、自らの意志で積極的にそうなろうとしているわけではないのだろうが、自然な振る舞いを心がけているわけでもないのに自然とそうなってしまうようなら、そんな成り行きに囚われているとしか言えないような自然の成り行きなのかも知れず、別に自然がその人を陥れようとしているわけでもないのに、自然にそうなってしまうとしたら、謎が深まるばかりかも知れないが、自然が犠牲者を求めていて、そのターゲットになっているのがその人であるなら、その人を犠牲にすることによって事態を収めようとしている可能性があるから、もちろん特定の誰が事態を収めようとしているわけではなく、その場を覆っている集団的な共同幻想のようなものとしてそうなっていると受け止めてもしっくりこないだろうが、なぜか事態がこんがらがって収拾がつかないようなことになっていると、自然と特定の犠牲者が選ばれて、その人が犠牲となることによって、そこに関わっている他の人々が渋々でも一応の区切りをつけて、その場を収めるような成り行きになるのではないか。


11月14日「過ちと誤りの違い」

 過ちも誤りも間違いには違いないのだろうが、過ぎたるは及ばざるが如しと言われるように、やり過ぎてしまうことが過ちである一方で、誤りとなると、やっていること自体が間違いだと解釈すれば、何となく過ちと誤りの違いをわかったような気になるのだが、その一方で何もやらないのも間違いなのかというと、間違いを犯したくないから、あえて何もやらなければ、そのまま呼吸もしないで死んでしまうが、生きている以上は呼吸をしないということにはならないわけだから、何もやらないわけには行かなくなり、生物として何かをやるようにできていて、何かをやっているから時間の経過を感知できるのだとしても、もしかしたら何もやらないことが正解なのかも知れないが、人である限りは何もやらないわけには行かなくなってしまうから、死なない限りはその種の正解に辿り着くのは不可能だと理解しておけばいいが、だからといって急いで死に辿り着こうとして自殺してしまうと、自殺したことが何かをやったことになってしまうから、何もやらずに正解に至ったのではなく、少なくとも自殺が間違いになってしまい、自殺が過ちなのか誤りなのかというと、自殺すること自体が間違ったやり方だと解釈するなら誤りになるだろうが、死にたいと思い過ぎて自ら死に至ろうとすると解釈するなら、過ちの範疇にも入りそうだから、そういう意味でも自殺は誤りでも過ちでもあるとも解釈できるが、何もやらない状態としての死に至るには誤りや過ちを犯さなければならないと解釈するなら、正解に至るには間違う必要があるということにもなるから、間違うことから正しさが生じてくると思っておけばいいのかも知れないが、もちろん何もやらないことが正しいと解釈するならそういうことになりそうだが、生きている限りは何かをやらなければならないのだから、その種の正しさに至ろうとすること自体が生きていることと矛盾してしまい、そう解釈するなら何もやらずに生きて行くことが折衷案として浮上してきそうだが、そうなると生きている限りは何もやらないわけにはいかないことと矛盾してしまうとしても、何もやらないことの程度を生きて行く上で必要最小限のことはやりながら生きて行くという程度で妥協すれば、本当は何もやっていないわけではないものの、その状態を何もやっていないと嘘をつきながら生きて行けばいいのかというと、別にそうしたければどうぞ勝手にそうすればいいのだとしても、それも間違ったやり方には違いないし、間違う程度を必要最小限にとどめていると正当化しても構わないだろうから、結局間違いながら生きていることには違いないわけだが、間違うなら必要最小限にとどめておくのはもったいないと思うかも知れず、逆に過剰に無駄で無意味な間違いを繰り返しながら生きて行く方が楽しいと思うかも知れないし、他人がそんな生き方を実践しているのを見て羨ましいと思うなら、自らもそういう生き方を実践すればいいだろうが、その際には同じ間違いを犯すのにも、自らに利益をもたらすような間違いを犯したくなってしまうのかも知れず、しかもそれが間違いではなく正しい行いだと勘違いするようなら、もちろん勘違いなどではなく、正真正銘の正しい行いだと思い込んでしまうだろうし、それが功利的なやり方になるだろうが、功利的なやり方をやり過ぎてしまうと、例えば税金の滞納を繰り返して何度も差し押さえを喰らいながらも国会議員としてうまく立ち回って財務副大臣にまでなった人もいるにはいるが、そんな経緯を週刊誌に暴露されるまでは確かに功利的なやり方の追求に成功していたのだろうが、それが正しいやり方だと当人が思っているわけもないだろうから、何もやらないよりはやってみた方がそれなりに満足感を得られるにしても、最終的には自ら墓穴を掘ってしまったことになり、そんなやり方が誤りであるのとやり過ぎてしまったことも過ちだとも言えるだろうから、そんなふうに自ら墓穴を掘ったことが自殺行為だと解釈するならその通りには違いないのだが、自分だけの行為によってそんなやり方が完結しているわけでもないのも確かで、結果的には週刊誌がそれを暴露してくれないと自殺行為が完結できなかったわけだから、自殺しようとして自殺したわけではなく、もちろん当人は自殺するつもりなどさらさらないばかりか逆に生きようとしていたわけだから、当人にとっては自殺行為では全くなく、ただ結果的に自殺行為に見えてしまっただけで、しかも副大臣になどならなければやり過ぎの誤った行為をバラされなかったわけだから、何か納得が行かないのかも知れないし、下手すれば誰かの陰謀なのではないかと被害妄想にも陥ってしまうかも知れないが、それ以前にそういうことを平然とやれる度胸や素養や知識や経験がなければ国会議員にも副大臣にもなれなかったと解釈するなら、一般的に見ても有能な部類に入る人だろうし、その種の悪事を働くにはそれなりの賢さというか、狡賢さがないとできないわけだが、そういう意味でも財務副大臣を務めるには適材適所だと言えるわけではないが、昔ルーズベルトがウォール街の相場師として数々の悪行三昧によって巨万の富を築いたジョセフ・ケネディ(ジョン・F・ケネディの父)を悪徳業者を取り締まる立場の証券取引委員会の初代委員長に任命した時も非難轟々だったらしいが、ルーズベルトは意識してそういう悪い噂の絶えない経歴の人物をそのポストに就ける才を発揮したにしても、その人を副大臣に任命した首相やその取り巻きたちがどういう思惑を抱いていたかは定かでないが、結果的には週刊誌に過去の悪行三昧を暴露されて辞任に至ったのだから、それを素直に受け取るなら、税金の滞納を繰り返して複数回も差し押さえを食らった人物を、よりにもよって財務副大臣に任命するなんて間抜け極まりないと思われるのだが、それこそ自殺行為には違いないが、どうしてそういう経緯に至ったのかは今後明らかになることもないだろうが、今のところはどう考えてもルーズベルトのエピソードのように、後世にまで語り継がれるような話とはならないのではないか。


11月13日「大げさな予感」

 世界が動き時代が移り変わって、人の思いや考えも変わってきたことを実感しながらも、それが気に入らないからといって否定してみても始まらないが、自分の中では昔から何も変わっていないと感じていても、例えば時間が動いているわけでも止まっているわけでもなく、時間など存在しないと息巻いているわけでもなく、否定したいならもっと人に関係した方面で否定できる対象を探してみればいいかも知れないが、改めて探すまでもなく、否定しがたい社会の肯定的な成り行きや傾向を否定したくなる人も世の中には結構いるようで、自分が何に逆らっているのか自覚できないまま、逆らっているつもりもなくても実態としては逆らっているわけだが、それが何だかわからないが、そこへ向かおうとすると風圧が強いような気がするわけでもないが、やることなすことがことごとく面倒な紆余曲折からねじ曲がってくるのでおかしいと感じつつも、結局はなるようになってしまうから、そういうものだと思うしかなく、取り立てて何かに逆らっているようには感じないのだが、逆らっているのではなく抗っているのかも知れないが、逆らうのと抗うのとはどう違うのかがよくわかっておらず、少なくとも抵抗というのは抗っていることになるはずだが、それが逆らっているように感じられるとすれば、抗うよりはいくぶん強く自身に加えられた力を逆方向に押し返しているような感触を得られるはずなのだが、別にそんなことをやっているつもりもないのに、結果的に逆らっているように見えてしまうとすれば、それは心外だと思うしかないが、果たしてそれが本当に残念なことなのかというと、そう感じられるならそう思うしかないとしても、実際にはこれっぽっちもそうは思っていないのだから、そうなっていることを知らないといった方が事実に即しているのかも知れないし、自分が何かに逆らうように仕向けられているとすれば、いったい何によってそう仕向けられているのかといえば、たぶんメディアから圧力を加えられているとしか考えられないが、感触としてはそうは感じられないわけで、自らの意志に関係なく偶然に逆らっているとも考えられないし、それが偶然か必然かというのではなく、どちらであってもどちらでも構わないような気もするが、時期的にも時代的にもそういう成り行きになっているのかも知れないから、誰もがそんな世の中の風潮に従っているように感じられるから、へそ曲がりの自分がそれとは逆方向に力を加えていれば、それに逆らっていることになるのかも知れないが、それが逆らっている実態だとすれば、何か矛盾しているような気がするのだが、感覚としても感触としても逆らっているような気がしないわけで、そういう成り行きに順応して従っているような気がするとすれば、そういう成り行きとはどんな成り行きなのかというと、世界が動いて激動の時代が到来しているわけではなくても、たぶんそれを後から振り返れば、振り返る余裕がある時代まで生き残っていればの話だが、何やら激動の時代のただ中で世の中の風潮に従いながら、そんな風潮をもたらしている人や勢力に逆らっているような実態が浮かび上がってくるかも知れないが、それは結果を都合のいいように解釈すればそう思われるだけかも知れず、少なくとも現状ではそう解釈するつもりも余裕もないわけで、例えば不快なことをこれ見よがしにやっている勢力が、自分たちに逆らうようにけしかけているはずがなく、逆に自分たちを支持してほしいと訴えていることは確かで、しかもそれが誰から見ても確かだからこそ、多くの人々から不快に思われて、反発や反感を買っていると見ておけば辻褄が合うはずだが、実態がそうではないとしたら何なのかというと、少なくともそこでわけのわからない陰謀が巡らされているわけでもないとすれば、そこに関わっているつもりの誰の思惑も当てが外れていると共に、誰の思い通りにもなっていないから、当人たちは支持を得られるようなことをやっているつもりなのに、なぜか支持どころか反発や反感を招いているとすれば、事態を把握していないからそうなっているのではなく、逆に誰もが事態を把握しているつもりなのに、多くの人々から支持を得られるようなことをやってしまうとまずいことも理解しているから、やりたくないしやってはならないことをやるわけにはいかない代わりに見え透いた妥協案を出して妥協策を行おうとするのだが、それに対する当然の反応として多くの人々から反発や反感を買っていると状況を捉えるなら確かにしっくりくるのだが、ではどうすればそんなどうにもならない事態を乗り切れるのかといっても、例えば意表をついたことをやれるような状況なのかというと、それをやってみないことには意表をついているかどうかもわからないから、それ以前の時点では何とも言えないが、たぶん意表をついた者勝ちなのだとしても、それが意表をついていると感じられるかというと、それも実際にそんなことをやってみないとわからないし、やはり何とも言えないが、そんなこととはどんなことなのかといっても、事前に内容をバラされてしまうと意表をつけないだろうから、それも何とも言えないことだが、意表をついて何かをやろうとして、それに成功するか失敗に終わるかも何とも言えないことだが、一か八かでそんなことを仕掛けてみれば、それに成功すれば窮地を脱したことになるかも知れないが、ここからどうやっても誰が見てもごまかしのような目眩しのようなことしかできないと思われている中で、どうやって意表をつくのかが見ものといえばそういうことになるのだろうが、大げさな予感としてはハッタリをかましてそれが空振りに終わってずっこけるようなことになるのも目に見えているものの、それでも意表をつこうとしていて、虎視眈々とその機会を窺っていると見ておけば、それも現状の中で抱けばしっくりくるような実感になってしまうが、それでは意表をついていることにはならないわけだから、やはり反発や反感を抱いている人々の意表をつくにはそんな予感を遥かに凌駕するような大げさなことを実行する必要があるのではないか。


11月12日「ややこしくて単純な関係」

 自分がたとえ頭が悪くても、感覚が鋭敏ではなくても、自分でもそう感じられることが、実態としてそのままそうではない場合もあるから、馬鹿の一つ覚えのように慇懃無礼な言動を繰り返して他人を不快にさせても、不快にさせたい意図も不快にさせている自覚もないかも知れないから、そうなってしまう人が周囲から嫌がられるのも無理はないが、事態がそれとは裏腹な結果をもたらしているのかも知れず、愚鈍であることがまずいのではなく、むしろ頭が良いように見せかけたくて、これ見よがしに多くの人たちが渋々認めざるを得ない愚かさを指摘したいわけでもないだろうが、結果的にそれを指摘できてしまったとしたら、それを指摘できた自らの頭の良さや感性の鋭さを誇示したいわけではなくても、それを誇示したくてそんなことを指摘しているように見えてしまい、指摘している相手の非をあげつらいたいのだから、そこで強調したいのは自らの頭の良さではなく、あくまでも相手の非であって、端的に言って相手を非難したいわけだが、それ以前に相手にされていない可能性もあるから、実際には相手でも何でもないかも知れず、自らの言動の対象となっている相手が一方通行の無関係でもあるなら、当然のことながら相手はそれを無視していて、下手をすればそれを知らないというか、下手をしなくても知らないわけで、相手にしてみれば知らない相手から知らないところで非難されていることを知らないわけだから、その時点で相手ではないわけだが、たとえそれを知ったところで多勢に無勢であるから、いちいち相手にしていられない事情もありそうだが、メディアが介在してそんな関係が構築されてしまうと個人では手に負えなくなってしまうわけで、だから組織的に対応する必要に迫られて、実際に何やら裏工作のようなことが行われているわけだが、それを裏工作とは言わせないとしたら、では何なのかというと、何か得体の知れない力が働いているように見せかけられて、それによって同じ傾向の批判に傾いている不特定多数の人々の批判的な言動が抑え込まれているようにも見せかけられてしまうから、さらにより一層不快感が募ってくるのだろうが、それ以前に多くの人々がそんな傾向の批判をするように誘導されている実態もあるらしく、そんな傾向に誘導しておいてからそれを組織的に抑圧するという二段階のやり方によって制圧されてしまうわけで、それに逆らうには最初の誘導に乗ってはまずいのだろうし、もちろん逆らっているつもりもなくてもマイペースでそれとは別の言動に至ってしまう人も少数ながら出てくるから、そういった周囲から及ぼされる同調圧力に屈せずにブレない少数の人々が真っ当な言動を維持できているとしても、そんな人の言動が他の多くの人々から共感されるかというと、少しは共感を呼ぶかも知れないが、それよりは同じ傾向の批判へと誘導されている大勢の人々の言動の方が割合としてはより多くの人々から共感を呼んでしまうから、それによっても真っ当な言動を維持している人々が抑圧されているようにも感じられて、それではまずいような気がしてしまうかも知れないが、たぶんそれは昔からそうなっている傾向であって、今に始まったことではない限りで、そんな状態が放置されているとしても一向に構わず、一過性の流行によって煽り立てられた多数意見としての批判も一過性の流行り廃りの過程でさっさと忘れ去られてしまう傾向にあるから、どちらがどうだと良し悪しを判断するのも無意味かも知れず、どちらにしても世の中の意向が矛盾している現実を受け入れるなら、たわいないこだわりを後生大事に守っていることが肝要で、大した違いもないのに激しく対立したりする愚を避けるには、自身の言動も矛盾してしまうことを承知で、他人の言動の矛盾を指摘してマウントをとったかのように振る舞っても構わないし、それを後から自身の言動も矛盾していること指摘されたとしても、それはそれこれはこれとして別々に対処するしかないし、たとえ整合性がつかなくても厚かましく居直っていれば、相手が根負けするはずもないにしても、議論が平行線に終始したままでも厚顔無恥を曝け出しながらも、絶えず相手の言動の矛盾を指摘し続けて、相手にもされていない相手と対峙しているつもりになっていれば、後は時の経過が解決してくれるわけでもないが、それが解決しないまま一生を費やすような作業となるかならないかも、その時期の情勢次第かも知れないが、そういうことを続けて行けばそうなるしかなく、続けられなければ途中でリタイアするしかないが、それもその場その時の運次第だと思うか努力次第だと思うかも、その場の状況や情勢や自らの体調や精神状態にも左右されるだろうが、自らの力ではどうにも越えられない壁というのも、個人の力量や集団への依存によってもその高さが変わってくるだろうから、それをどう解釈してどう受け止めるかも、その場その時の状況や情勢に照らし合わせて判断できるかできないかは、実際にそうなってみないことにはわからないし、現状でそんな困難に直面している人がどれほどいるのかも知ったことではないかも知れず、そんなことを考慮に入れてもうまく立ち回ろうとするなら、どう見てもどう考えてもおかしなことをやっている人や勢力を見習う必要があるかどうかも、必要さえ意識できずにそれらの勢力に与してしまう人も後を絶たない現状を踏まえた上で判断しなければならないだろうが、そういう人たちは自分の力では越えられない壁をおかしなことを平然とやっている人や勢力の助けを借りて越えようとしていると見なせばしっくりくるかも知れないが、そんな光景を眺めている自身も、恥も外聞もなくそれらの勢力からの誘惑に屈してしまうような事態に直面しているかというと、それ以前に相手にされていないと思っておくのが妥当な感触なのかも知れず、そういう意味でも大してうまく立ち回ろうとも思っていないわけで、うまく立ち回ろうとしても、自分を多少なりとも制御している自然の力には逆らえず、なぜかそんな欲望も誘惑も簡単に阻止されてしまうような事態に絶えず直面し続けているわけだ。


11月11日「思考とは別の作用」

 たわいない論争の火種をどう取扱い解釈したらいいものか、それを考えあぐねているとは言えないような態度でいられるのは、思考とは別の作用に従っているからだが、それを認識できないまでも、理解していなくても、例えば怒りの感情にまかせて言葉を発しているならわかりやすいが、中には計算づくで怒りの感情を発動させているように見える人までいるから、それが演技だと周囲の人々にバレていて、演技でないなら何なのかと疑念を抱くようなら、なおさら演技に磨きがかかっているわけでも、言葉を弄んで何を狙っているわけでもなく、その場の成り行きに従って怒る人を演じるように仕向けられているとしか見えなくなって、なるほどそんな何かの典型例のような演じ方を目の当たりにして、これは演技なのだと自らに言い聞かせているわけでもないだろうが、それを伝えるメディアとの連携プレーのような感触を覚えるのだから、見え透いていると言えばその通りには違いないが、そう見えてしまう時点ですでにそのようなものとしてメディアによって取り扱われているわけで、それに関して別にメディアが危険物の取り扱いを熟知しているとも思えないが、その場の成り行きに応じて怒る人が危険物であるわけでもなく、むしろそれが何かの典型例のように見えてしまうのだから、その場の風景に過不足なく馴染んでいて、そんな雰囲気がその場を覆っているのを敏感に察知して、思わず怒る人を演じてしまうことが、それほど危険な行為というわけでもなく、逆にそんな空気を読めない方が出遅れ感を覚えるなら、我先に怒る人を演じないとまずいのかといっても、それを肌で感じるのだから、余計な思考を介在させないで直に怒りの表情をそれとわかるような顔や仕草にして伝えられるのだから、それが役者冥利に尽きると思って自己満足に浸れるわけでもないが、その程度のことで関心してしまう人もあまりいないだろうから、まだまだ人生修行が足りないと反省するわけでもなく、何かの間に合わせとしてそうなっていることを自覚できるなら、巧妙な見せかけとして計算し尽くされているわけでもないから、そういう面倒でもややこしくもない状況は思考の対象外としてスルーしても何の問題もないとは言えないものの、単に馬鹿げているとも思えないから、怒りの対象となっている典型例の成り行きが問題なのではなく、果たしてその場の成り行きに応じて怒りの表情を浮かべたり、強い言葉で怒りを表しても、なぜそこで怒るように仕向けられているのかが問題なのであり、それに関してそう仕向けている側に何か意図や思惑や狙いがあるとも思えないなら、怒ってもらわないとその場が収まらないような成り行きが生じているとしても、何も考えないで怒りをあらわにすることが、その場の成り行きの中でうまく状況に適合していることにもなるわけだから、そうなっている人はそこで考えることを放棄していると思われるわけでもないが、実際に考えることを放棄しているのであり、その場の雰囲気に呑まれているわけだが、だからといってそれが悪いわけではなく、むしろうまく立ち回れているのだから何の問題もないのだろうが、それが怒っている人には何の問題もないのだとしても、怒るように誘導されているのだから、そこでは怒ることが正常で妥当な対応だと思われるわけで、そうなるのが妥当なのだから何が悪いわけでも問題となるわけでもないのも当然だろうが、それをその場で怒ってはならないと諭すのもおかしいが、もちろんそこでそんなことを諭す人など誰もいないだろうが、なぜかそこでちょっと待てよと怒るのを思い止まらずにはいられないとしたら、そこで何か怒るのとは別の動作をひらめいた証拠かも知れないが、それをひらめかせないようにするために怒るように仕向けられているとしたら、その場の状況を深読みし過ぎているといえるかも知れないものの、誰もそうするように仕向けているわけでも仕掛けているわけでもないとしても、その場の状況がそうさせているような成り行きがもたらされて、結果的に誰もが何も考えずに怒りをあらわにしながら自ら墓穴を掘ってしまうとしても、墓穴を掘ったなら自ら掘った墓穴へと身投げすればいいのかも知れないし、身投げした人の上に土をかぶせる役目の人も用意周到に待機しているかも知れないから、それが一連の動作として完結してしまうなら、はじめからそういう手はずだったことをそこで思い知ったところで後の祭りで、すでに何も考えずに怒りをあらわにした人たちは詰んでいるわけだが、それがそうなってしまった人には思いがけない成り行きだとしても、途中で嫌な予感がして怒るのを思いとどまった人にはある程度予想がついていたとは思わないものの、別にそれが引っかけ問題というわけでもなく、たわいない論争を見せられている時点で何か嫌な予感がしてしまうわけで、そんな論争が延々と続いていくうちに、何かをきっかけにして火に油を注ぐようなことをしでかす人も出てくるというか、その人が隠しておきたい不正行為や違法行為などが暴露されると、そら見たことかと誰もが何も考えずに怒るように誘導された挙句に、いつの間にかそこで繰り広げられていた論争がうやむやになるわけでもなく、それまで何を言い争っていたのか誰もがわかっているのに、なぜかそれに対する関心や情熱が冷めてしまい、それよりは怒りの矛先への関心が優先されるような事態となって、それがそれだけでは済まないように、その後からも次から次へと怒りの対象が用意されているわけでもないのだが、結果的には用意されていたかのように怒りの対象が次々に出てくるから、いったんそんな成り行きに巻き込まれてしまうと、おじさんは怒っているんだぞと意思表明すれば済むような安易な成り行きにもなってきて、そうやってそこで怒り狂った人から論争の場からの退場を余儀なくされてしまうわけだ。


11月10日「思っていることと実行できること」

 SNS上の発言や書き込みが人に影響力を行使してあわよくば洗脳するための道具として機能しているなら、そうであっても構わないと思うか、そうであるならそんなメディアは利用しなければいいと思うか、思うだけでなく思ったことを実行しなければならないと思うなら、さっさと実行してみればいいと思いたいわけではなく、それ以前に思っていることを発言したいし書き込みたいわけで、その後はどうなろうと知ったことではないとは思わないが、そこで実行できることが発言したり書き込むことなのだから、それ以上のことを期待しても意味がないとも思えないが、思っていることよりは実行していることの方が少ないと思っておけばよく、しかも思い通りには発言できないし書き込めない実態があり、その程度のことで自分以外の他人に影響力を行使したり洗脳できるとも思えなければ、実行していることがそんなに大したことではないと共に、むしろ逆に他から影響力を行使されて、自身も他人と似たようなことを発言したり書き込んでいる実態がある限りで、それは単なる他人との共鳴装置に過ぎないのではないかと思っておいた方が、より現状を反映した認識に近づくと共に、それだけではないと思うなら、他人の発言や書き込みの内容に反発して自分の発言や書き込みが構成されているとすれば、他人と対立して論争したがるように仕向けられているとも言えるから、そういうことも含めてそこから無視できない影響を受けていて、そうやって他人の発言や書き込みと共鳴して、それに共感したり同調したり反感を抱いて対立して論争に至ったりするのを眺めているだけにとどまっているとしても、それらとは少し違う意見や主張を構成するのに参考にしなければならない材料が揃っていて、なぜそれらと同じような意見や主張を構成しようとは思わないのかと言えば、何かおかしいと思われるから、そのままでは受け入れられないなら、他人の意見や主張の内容よりは、それに共感したり反感を抱くように仕向けられるメディアのシステムに操られている可能性もあるから、そういう成り行きから微妙にずれた位置に立とうと思われるのかも知れず、それらに共感したり反感を抱いたりする気持ちを抑えながら、そこから少し距離を置いて、自らがどんなシステムの中で踊らされようとしているのか、それを見極めなければならないわけでもないにしても、仕向けられていることをそのまま実行するよりは、そういうシステムの裏をかいてみたいと思うのも、それもシステムの術中にハマっている証拠かも知れないし、そんなシステムを利用しているのだから、ある程度はシステム従わないとそれを利用できないことは確かである限りで、どうしてもシステムに従うふりを装いながらも、隙あらばその裏をかいてシステムそのものを混乱に陥れるようなことが、ただの一般人に過ぎない自らがやれるはずがないとは思うものの、そんなできもしないことを妄想させるのも、システムに従うように仕向けられて他の多くの人々がその通りに振る舞っているように見えてしまうからだが、だから著名人と呼べるような人々のメディア上で繰り広げられる対立や論争を冷ややかに眺めながらも、思い上がってこいつら馬鹿なんじゃないかとは思わないものの、なるほどこういう奴らに共感や反感を抱くように仕向けられているのかとは思うものの、対立しているどちらの意見や主張にも共感や反感を抱いているように装いたくなるわけで、もちろん中には意識して無視したくなる奴らもいるにはいるのだが、それがどんな奴らなのかと言えば、対立するどちらか一方の尻馬に乗っている奴らであり、そんな奴らなら無視しても構わないはずだが、果たして本当に無視しているのかというとその自信がないわけで、下手をすると自分もその中の一人だと他人から思われているのではないかと不安に駆られてしまうから、意識して矛盾しているようなことを実行しようとして、対立して論争しているように装われているどちらの意見や主張にも共感や反感を抱いているように装いたいわけだが、それがどちらか一方への共感だけになったり反感だけになったりしてはシステムの思う壺だから、何とかそれは避けたいわけだが、果たして本当にそうなっているかどうかについては、やはり自信がないわけで、しかも自信がなくても構わないのかも知れないから、結局はそんなことなどどうでもいいようにも振る舞いたくなって、わざとどちらか一方へと肩入れしているようにも装いたくなって、大して支持しているわけでもない著名人の意見や主張にも賛同しているようにも装っていて、その辺はその時の気分次第なのかも知れないが、何か画面のこちら側で薄ら笑いを浮かべながらそんなことを実行しているわけだから、基本的には小馬鹿にしているのだろうが、だからといって上から目線でいられるわけでもなく、そんなことをやっているこちらも大した存在ではないどころか、単なる無視されている存在でしかなく、別にそれで構わない程度のことに過ぎない限りで、気休めや自己満足を求めてそんなことをやっていることにしかならないのだが、果たしてそれで構わないのかというと、枝葉末節な面ではそうだとしても、根本的なところでは、それとは別の方面へ思考や思惑が向いていて、それがどんな方面なのかというと、たぶん自分にはできもしない大それたことを思っていて、それが小さなことで対立しているように装ってはいるが、意外とそんな奴らを一つにまとめられるのではないかとも思っているのだから、たぶん矛盾しているのだろうが、それが小さなことに過ぎないと思われてしまうところも、対立している当人たちには心外なところかも知れないし、そんな奴らがこれ見よがしにこだわっているところなど大して重要ではなく、物事の本質から外れた些細な差異に過ぎないと思ってしまうのも、自らの感覚がずれている証拠かも知れず、そういうところで対立するどちらか一方に共感や反感を抱くように仕向けてくるシステムに対して、無意識の反抗が生じていることは確かなのだが、それが自らの意志に従った結果なのかというと、そうでもないような気がするわけで、なぜか意識に逆らってまで自然にそうなってしまう成り行きを重視したいわけだ。


11月9日「状況の違い」

 今さら何を焦っているのか皆目見当がつかないわけではないが、焦らなくても辛抱強く待っていればいずれまた浮上するチャンスが巡ってくると思っているなら、とんだお門違いだと言いたいわけでもなく、今までとは何が違うのかといっても、それがすぐにわかるようなら苦労はしないし、確かに何かが違うのだろうが、その証拠に何を示せばわかってもらえるとも思えず、証拠を示せないから焦っていて、状況が今までとは違う証拠を示せなければ、誰もそれを信じてもらえないだろうが、ただ何かが循環していて、まだそのサイクルが一巡していないから、狭い範囲内で今までとは状況が違うと思われるだけで、それでもひたすら逆境に耐えながら災禍が通り過ぎるのを待っていれば、また今までと同じような成り行きが巡ってきて一安心できるようなことになるかも知れず、そうなればちょっとした情勢の変化にも動揺することもなく、心配が杞憂に過ぎなかったことを確信できるかも知れないが、今はただ何かの幕引きが行われている最中だから、その幕引きに巻き込まれている人たちは動揺を隠せないのであり、それらの人たちが信じていた価値観が崩壊に瀕しているから、今までとは状況が違うと感じられるのであれば、ではその証拠を示してみろと言われても、誰もそれを示せないわけでもないだろうが、また示したところで、今まで信じていた価値観を捨てられない人たちには理解できないかも知れないし、それが証拠だとも到底思われないわけで、そうであるならそんなのは証拠でも何でもなく、ただのまやかしに過ぎず、そんなまやかしには騙されないと思っていれば結構だが、その一方で今まで信じていた価値観もまやかしの一種かも知れないから、それがまやかしだなんて信じられないから、その価値観をいつまで経っても捨てられず、捨てられない限りで時代の変化について行けないことになるわけだが、まやかしの価値観が次から次へと現れるのが流行り廃りの流行現象であり、そんな価値観の流行現象の中で次から次へと信じている価値観をその時期の流行に合わせて変えて行けば、時代の変化について行っていることになるのかといえば、それも人それぞれで立場も境遇も違うだろうから一概に言えるようなことではなく、精神が価値観の流行に惑わされることもない境地に達していれば、たとえ周囲の人々から時代遅れだと言われようと平然としていられるなら、そういう身勝手な思い込みこそがその時代の流行にとらわれている証拠だと思いたいところだが、そうやって価値観も循環していて、様々な価値観のうちの何かが時代状況に合って、その場の状況に順応して主導権を握った人や集団によって持ち出されてくるわけで、そんな人や集団が煽り立てる価値観を真に受ける人が多ければ多いほど、そんな価値観を信じている人々が社会の中で主流派を形成して、その価値観に合った生き方を他の人々にも強制したくなるのだろうが、それをいくら他の人々に押しつけても中には同調できない人も出てくるから、そこから対立や争いも生じてきて、まかり間違えば大規模な戦争にも発展するのだろうが、それも中にはそうはならない成り行きもあるから、一概に何でもかんでも闘争や戦争には持ち込めない事情や経緯も生じてくるのだろうが、そうなると何がそこで循環しているのかというと、必ずしも価値観だとはいえないような意図や思惑も循環していて、それが様々な価値観を分散させようとする意図や思惑になるわけで、誰がそんなことをやろうとしているわけではなく、誰もあからさまには意識していないものの、結果的に価値観の棲み分けが成り立つような環境になれば、それほど目立った対立や争いなど生じないだろうが、その価値観の棲み分けというのが宗教的な価値観なら、旧オスマン帝国内でのイスラム教徒とキリスト教徒とユダヤ教徒の棲み分けとなるのだろうが、そこに欧米の国民国家的な価値観が入り込んでくると、オスマン帝国の崩壊と共に棲み分けが成り立たなくなって、結果的には紛争の原因となってしまったのだろうが、それも価値観の循環の中で一時的に起こっていることだと状況を捉えるなら、そこからさらに時代の変遷と共に、現状で起こっている対立とはまた違った様相を呈する可能性もあるかも知れず、その可能性というのが国民国家的な価値観の衰退と共に露わになってくるとも限らないが、そうなるとも限らない過程の中で起こっていることだから、今までとは何かが違うと思うのも、それほど勘違いではないかも知れないし、それが欧米の中心勢力を担っているアメリカの内部で起こりつつあることを、当のアメリカで暮らしている人々が気づいていない可能性もなきしもあらずだが、昔ながらの人種的民族的宗教的な価値観の対立が成り立たない事態になってもそれに気づかないのかも知れないし、それに代わってどんな価値観の対立が新たに浮上してくるのかといっても、よく巷で言われるようなLGBTQなどではないかも知れないし、単なる貧富の対立というわけでもなく、何かもっと枝葉末節で取るに足らないどうでもいいことを巡って、それを対立だとも認識できないようなことに関して、誰かが他の多くの人々から無視されながらも問題提起しているようなことかも知れず、しかもその人だけが人知れず問題提起しているわけではなく、他の多くの人々も勝手に自分だけが信じているつもりの価値観を他人に押し付けようとしているわけでもないどころか、自分の価値観を他人に押し付けることすら断念しているようなら、そんなのは価値観でも何でもないわけだが、そうなっている限りで価値観の分散が実現していることになるかも知れないが、それでも他人が信じている価値観に他の誰かが共感しないと人と人とのつながりが生じてこないなら、そうなると社会が成り立たなくなってしまうから、それが価値観を巡って戦争が起こらない程度の中途半端な弱い対立で済んでしまえば大して問題とはならないわけだ。


11月8日「主張と行動の一致」

 日頃から小馬鹿にして何も期待していない野党政治家に向かって、都合の良い時だけ嘘でもポーズでも構わないから政権交代への意欲や意気込みを見せてほしいとないものねだりをしているわけでもないだろうが、そう受け取っても構わないと思っているわけでもなく、その程度のことでガタガタ騒ぐなと言いたいわけでもないのだが、見方によってはその程度ではない状況かも知れないし、もっと事態を深刻に受け止めて、すぐにも行動を起こさないと手遅れになるどころか、すでに手遅れだからこそ、そんな心境に誰もが陥っているわけでもないが、行動を起こすのはあくまでも国民であるから、実質がどうであれ建前上は国民に主権があるのだから、今さら政治に無関心であるのは怠惰を通り越して卑劣だと見なされても、自身の姿勢や態度の何が卑劣なのか皆目見当がつかず、その代わりに何事に対しても鈍い反応しかできない鈍感な感性が身についていて、それでも構わない世の中になっているから、何の問題もないのかも知れないが、そういうことをあからさまに述べてしまうとゴミクズのように視線を逸らされて、それがどうしたと開き直られることもなく、まるで何事もなかったかのように、その場を素通りされるだけかも知れないし、果たしてそれでうまく立ち回ったことになるかどうかもわからないまま、その程度ではまだ何も主張していないことになってしまうとしたら、他に何か主張できるような成り行きになっているとも思えないが、現状では納得がいくようなことは何も述べられず、それが主張のなさに結びついているのかも知れないし、たぶん何も主張できないわけでもないのだろうが、単純に戦争反対とか増税反対とか主張するのも憚られるような状況になっているわけでもなく、では他に何が言えるのかと問われるわけでもないところがややこしいわけでも面倒なわけでもないのだから、何も主張したくないなら無理に主張する必要もないところが、現状の何でもなさを示しているわけでもないはずで、本当は何でもないどころか、今こそ自らの主張と行動を一致させて、それを言行一致の活動として実現したいところだが、実際に実現している実態となると、行動らしい行動が皆無というわけでもないのだが、メディアを通して大して興味を惹かない退屈な光景を見せつけられているわけでもないのだが、何でもかんでもメディアのせいにしてしまうのも主体性のなさの表れのように感じるなら、他の誰かの行動や言動に追従して何かもっともらしいことを主張しているつもりになりたいのだが、現状で何を追求しなければならないのかといっても、取り立てて何を追求しているわけでもないなら、そんなことはあり得ないと思うしかないが、そう思っていても、そんな思いとは裏腹なことが起こっていて、それを起こしているのが自分自身であることにも気づいているはずだが、それが世の中の情勢に沿った行動となっているかというと、そうでもないような気がすると共に、それが勘違いなのかも知れず、たぶん世の中の情勢に煽られてそうなっているのに、それを認めることができないのだから往生際が悪いというか、そこでも鈍感力が発揮されているのかも知れないが、それが大したことでもないと思いたいのだから、なおのことより一層の事なかれ主義に精神を汚染されているのかも知れず、現にメディアを通して世界情勢がどうたらこうたらとか、日本の政局が何らかんやらとかに興味を持つように仕向けられて、実際に興味を持っているように装っているのに、それよりは優先したいことがあるなら、そんなのは二の次になってしまっても構わないのだろうが、結局は選挙になれば今まで通りの傾向の候補者に投票してしまうのが目に見えていて、そうすることによって主権者としての責任を果たしたことになるかどうかも怪しいところだが、そうなる以前に何かを主張しなければならないような気がするから、こうしてわけのわからないことを主張しているつもりにはなっているようだが、誰もが自らの意志とは真逆の行動に出てしまうわけではないだろうが、果たして自らに明確な意志があるかどうかも怪しいところだが、その意志が投票行動に反映されるなら一安心すると共に、それが他の多くの人々の意志とも一致するならなおのこと安心できるが、今までが必ずしもそうではなかったのだから、それどころか不快で不愉快な結果が延々ともたらされてきたわけだから、何かそういうところで他の多くの人々とはわかり合えない経緯や事情が生じていると認識できるわけでもないが、少しずれたことを考えているのかも知れず、そのずれた感覚が自らの個性だと正当化できるわけでもなく、それよりはもっと根本的なところで理解していることがあり、それが他の多くの人々に向かって、お前ら馬鹿なんじゃないか!と偉そうに言い放てるような傲慢な内容でもないのだが、何かもっと謙って自らを卑下するような成り行きに持ち込めるわけでもないが、どうも自信が持てないようなことでもあるから、直接それについて言及するような成り行きにもなり難く、結局は今回も言及しないままとなってしまいそうなのだが、それを直接あからさまに言及している人など他にいくらでもいるから、その他大勢の一人に過ぎない自分が大げさにもったいぶって言い放つのも恥ずかしいから、いつものようにわざとらしくごまかすしかなさそうだが、自分にとってはその程度のことに過ぎないと過小に見積もっておいても構わないのかも知れず、それがそれをあからさまに言い放つような人にとってはもっと重大かつ真摯に向き合うべきことなのかも知れないから、人それぞれにその人の立場や境遇に応じて重大さも深刻さも変わってくるわけだろうが、それが現状で誰にとっても重大かつ深刻な事態になりつつあるかというと、それはそうなってから多くの人々が気づくかも知れないし、あるいは気づかずに手遅れとなってしまうのかも知れないが、それが手遅れな事態だとも気づかないのかも知れないから、そんな人にとってはどうでもいいことに過ぎないのかも知れないし、それは現状でも言えることなのではないか。


11月7日「コスト削減とデジタル化」

 経済活動の中で絶えず働いている作用の中の一つは、利益を出すためにコストを削減する努力だが、それは生産コストや流通コストや販売コストや資金調達コストなど、その種の削減したいコストを挙げていけばきりがないように思われるかも知れないが、もちろん技術革新やシステムの見直しや経費の削減など、コストを削減する方法も色々と複合的かつ同時並行的に試されるのだろうが、そういう努力にもそれなりの制約や限界があるだろうから、それだけが利益を出すやり方というわけでもないはずだが、逆に研究開発とかマーケティングリサーチとかコンサルティングとか人材育成とか、コストをかけるべきところにはかけないとうまく行かない面もあるだろうし、あらゆる面でコストを削減すれば良いわけではなく、その辺のバランスの取り方も重要となってくるだろうが、一方ではコストを削減しつつもう一方ではコストをかければ、コストを減らすのとコストを増やすのとでその差し引きがどうなっているのかが問題となってくるだろうし、それが経済活動であれば、そういうことをやった結果として利益が増えるか減るかでその成否が明らかとなるにしても、それが行政活動となれば、最近流行りの行政のデジタル化によって結果的にどうなればいいのかというと、それによって予算が膨張したり縮小したり、国債の発行額が増えたり減ったりすることが良いことなのか悪いことなのかについて、これまた最近流行りの積極財政と緊縮財政という対立概念が実質的に意味を持つかどうかも怪しいところだが、そういうところでも単純な結果だけから良し悪しを言えない面があるなら、予算を国会の予算委員会などで多方面から精査してみないことにはわからないだろうし、予算委員会の審議そのものが予算を精査することに関してちゃんと機能しているかどうかもその是非が問われてくるだろうから、何か単純な対立概念を持ち出して対立するどちらに近いかを判断するようなことではないように思われるわけで、単にコストカットということではなく、必要なところに予算が使われているかどうかが問われてくると共に、必要だとは考えられないところに無駄で多額の予算が計上されているなら、やはりそれはコストカットとは異質の単なる予算の無駄遣いと言えるだろうから、そういう意味合いの予算の無駄遣いとデジタル化を利用したコスト削減とは全く性質が異なるだろうから、それとこれとを混同することなどできるはずがなく、しかもデジタル化に伴って導入しようとするシステムが全く使い物にならないなら、それこそが予算の無駄遣いになってしまい、逆に行政のデジタル化によってコスト増を招いたことになってしまうから、デジタル化がコスト削減にとっては逆効果だったことになり、本末転倒な結果をもたらしたことになるわけだが、それが例えば民間の銀行などで支店やATMを減らして業務をネット上で済ますようにして、それに伴って人件費や土地建物や機械設備のコストを減らすことに成功した事例などとは似ても似つかない結果をもたらしていることになるのだろうが、もちろん政府や地方自治体も窓口業務などでそれと似たようなことをやろうとしているのだろうが、行政サービスは銀行とは違って営利事業ではないし、手数料から利益を上げることが目的ではないから、サービス内容の質も程度も違うし、一概に比較できるわけもなく、しかも使い物にならないシステムを納入した企業から政府与党が多額の献金を受けていて、その見返りに大した競争もなく独占契約に近い待遇を得ているようなら、それが贈収賄とはならないまでも、多額の献金をしても結果的に利益の出る濡れ手で粟の商売を行政との間で行なっていることにもなるから、そういう意味でもコスト削減にはなっていないと見なさなければならないだろうし、そんなことをやっていること自体が予算の無駄遣い以外の何ものでもないと共に、果たしてそんなことをやりながら予算を無駄に使うことと積極財政を推進することが両立できるのかといっても、それとこれとは次元の違うことだが、その一方でそういう種類の予算の無駄遣いを指摘することが緊縮財政だとレッテルを貼られると、それもそれとこれとは次元の違うことになってしまうが、果たして両者の区別をつけられるのかと問うなら、結局は予算の無駄遣いを指摘しながら積極財政を目指すことになるから、二律背反のような作業を強いられるだろうし、一方では予算の無駄遣いを指摘しながら緊縮財政だと受け取られるような作業を伴いながらも、もう一方で必要なところに積極的に予算を振り向けて積極財政を推進しなければならないわけだから、両者が対立するのではなく混ぜ合わさって渾然一体となるような予算編成を行わなければならないし、そういう意味ではメリハリのついたことをやらなければならないわけだが、果たして現状でそんなことができるかというと、国会の予算委員会で毎度のことのように予算の無駄遣いや必要のない方面に多額の予算が割り当てられている現状が度々指摘されているわけだから、そういったことの実現には程遠い現状が露呈していることになるだろうが、ではそういうことを指摘する側が政権を担えば少しはそういった方面の改善が進むかといっても、実際にそうなってみないことにはわからないだろうが、そういうところも私的な利益を追求する民間の企業と公共の利益を優先させる行政とでは作動しているシステムが異なっていて、一概に比較が可能なわけでもないだろうが、両者が経済活動を通じてつながっていることは明らかであるから、互いに互いを利用し合う関係になっていることも明らかで、だからといって両者が談合して互いの私的な利益を追求し合う関係になってしまうと、行政機構が内部からも外部からも腐敗して、私的な利益を追求するシロアリたちに食い尽くされてしまうことになるのではないか。


11月6日「事情の説明」

 身の回りでは取り立ててどうということはない状況でしかないのに、メディア経由で伝わってくる話題に対して大げさに騒ぎ立てなければならないとしたら、実際に大げさに騒ぎ立てなければならないと思われる出来事がこの世界のどこかで起こっていて、それが実際に起こっているからそれに反応して、誰かがどこかで大げさに騒ぎ立てているはずだが、なぜそれに対してリアリティを感じないのかといえば、それが起こったところで、自分にとっては取り立ててどうということはないから他人事であり、その出来事に直接対峙していないからそう思われて、その一方で直接対峙している当事者が大げさに騒ぎ立てるのは理解できるが、当事者でもない自分が大げさに騒ぎ立てなければならない理由が理解できないわけではないが、自分が騒ぎ立てたところでどうということはないからその気が起こらないのだろうが、そういうのを事なかれ主義と呼んでも構わないが、世の中に蔓延しているのがそういう風潮だと指摘してみたところで、何を言っていることにもならないし、その大げさに騒ぎ立てなければならない出来事が何なのかが示されないと、事の是非を判断しようがないから、それを示さないこと自体も事なかれ主義だと受け止められてしまいそうだが、そんなことも自分にとっては取り立ててどうということもなければ、わざわざ語る必要もないことを語っていると受け取られてしまいそうで、そんなことを述べるだけ自ら墓穴を掘っていることにもなりかねず、このままではより一層のジリ貧に追い込まれてしまうから、何とかして自ら掘ってしまった墓穴から這い出して、語る必然性のあることを語っているように装いたいのだが、たぶんその大げさに騒ぎ立てられていることが戦争やら何やらになれば、騒ぎ立てるのにもそれなりの必然性が感じられて、人が大勢死傷しているのだから騒ぎ立てないわけには行かないとしても、それだけでは語る必然性を感じられないなら、例えばそれについて語るのと騒ぎ立てるのとはどう違うのかと言えば、騒ぎ立てるというよりは戦争の非道さを非難すると言えば、何やら真っ当なことを述べているように思われて、しかもそれを言うのではなく、文字を記しているはずだが、記された文章の中で非難しているわけで、文章の中でそう言っているはずだが、なぜかそういうところがしっくりこないなら、言いたいのはそういうところではなく、それとは別のところで何か引っかかるものを感じているのかも知れないし、それが何だかわからないと言ってしまうと、いつものように意味不明となってしまうが、そこから先が苦難の道のりであって、それを騒ぎ立てるというと、非難とは別のニュアンスを含んでいるように思われて、何か騒ぎ立てている人たちを馬鹿にしているような印象を受けるわけだが、そうなると戦争を非難している人たちを馬鹿にしているような不謹慎な様相を呈してきて、それではまずいと思われるなら、そういう否定的なニュアンスを伴った表現は避ける必要がありそうで、では騒ぎ立てるのではないとしたら、どう表現すればしっくりくるのかというと、うまい表現が見つからずに思い悩んでしまうから、何かしっくりこないまま、その話題は避けようとしてしまうわけで、たぶんそれについて語るとはそういう理由で語り得ないわけではなく、もっと別の理由がありそうなのだが、どういうわけかその理由を考える手前でそこから逸れてしまい、それを騒ぎ立てることの馬鹿馬鹿しさがどうのこうのという的外れな方面へと話がずれてしまうわけで、ずれて行ったついでに後出しじゃんけんのようなことを述べるなら、戦争に至る手前で何とかやりようがあったと言いたくなる気持ちもわかるが、それは戦争が起こってからわかることであって、事後的にもっともらしいことが言えるわけで、できればその種のもっともらしさを避けたいから、わざとひねくれておかしなことを指摘しようとして、結果的に的外れなことを述べてしまって、そんな成り行きをどう捉えたらいいのかよくわからず、少なくとも正当化できないから、もっとマシなことを述べたいところだが、マシなことを述べられたところで何がどうなるとも思えないし、何をどう述べてみたところで戦争の悲惨さをこれ見よがしに見せつける行為には敵わないわけだから、そんな方面での努力は無駄なのかも知れないが、たぶんそれに対して抵抗しないよりはした方がマシに思われるわけでもないが、何か引っかかるものを感じるのだから、やってみないことには気が済まないから、それを大げさに騒ぎ立てることに抵抗してみせようとして、あえなく失敗に終わろうとしているのかも知れないが、そんな無駄で無意味に思えるような抵抗の姿勢に何か肯定的な意味や意義を見出しているわけでもないのだが、それがこれ見よがしに見せつける行為とは相容れないようにも思われる限りで、何だか抵抗のし甲斐があるかのように感じられるなら、それを勘違いだと思っても構わないが、そこでも全力を振り絞って抵抗するわけでもなく、軽く何かのついでに抵抗しているように装いたいわけでもないのだが、結果的にそう見せかけられるようにも装いたくなってしまうから、本来の意味での抵抗からは微妙にずれてしまうような感覚に囚われて、そんな中途半端な抵抗では何の効果も効力もないのではないかと疑念を覚えて、それも独りよがりな感覚に陥っていることの証しなのかも知れないから、何でもないことになってしまいそうだが、ただ単純に賛否や善悪や是非を表明できないもどかしさが心のどこかに引っかかっているのだとしても、そういう中途半端な心情にとどまれないから、雌雄を決するような行為に打って出てしまうのだろうし、そうやって一方的に振り切れてしまう決断をもたらすのが、戦いの原因であることは誰もが承知しているだろうから、そうなるに至る過程での優柔不断さなどは無視しても構わないような成り行きなのかも知れない。


11月5日「間違った現状認識」

 明らかに間違っている認識が諸事情を考慮すると間違っているとは言えなければ、その諸事情というのが邪魔をして正しいことを言えなくしていて、たとえそれが間違っていることがわかっていても、では正しい認識がわかっているのかというと、何が間違っているのかがわかっていても何が正しいのかがわかっていなければ、それが間違っていることは確かだとしても、正しいことが何なのかがわからないでは済まなくなるから、必死になって正しいことを言おうとしても言えないジレンマに直面してしまいそうで、それを避けるにはどうすればいいのかといっても、間違っていることがわかっているのに諸事情からそれを言えないジレンマに直面しているのなら、何がそれを言わせないようにしているのかといえば、諸事情から言えないのだろうから、その諸事情が何なのかを明らかにしなければならず、果たして諸事情とは何なのかというと、それが古来から守られていることになっている伝統や慣習になると言うなら、見当違いも甚だしいと思うしかないが、単純にそれが間違っているのなら、その反対のことを言えばいいような気もしてくるが、反対がわからないようなことだと言いようがないと思われるかも知れないが、そうとも言い切れないのかも知れず、例えば基本的人権とは何かというと、憲法に定められているからそれを参照すれば誰でもわかるような気もするが、その一方で人には人権がないと主張する人たちには、そもそも憲法が通用しないわけだから、憲法を改正して基本的人権をなくしてしまおうとするわけで、人には人権がないという主張が明らかに間違っているのは、基本的人権を守るように定めた憲法が通用する範囲内でのことであり、憲法違反の主張を広めようとしている勢力には通用しないわけだが、しかもそれを広めようとしているのが政府や政権与党であるなら、憲法がないがしろにされていることは明白だろうから、そうなっている時点で何が正しいのかがよくわからなくなっていて、もちろんそういう憲法違反の主張が間違っていることは確かなのだから、間違った主張はやめろと主張することはできるはずで、多くの人たちが憲法を守れと主張しているはずだが、その一方で少なくとも憲法違反の主張を広めている人たちにはそれが言えないはずで、人には人権がないと主張しているのだから、そんな主張に反する間違った憲法は改正しなければならないのだろうが、なぜそうしたいのかといえば、人には人権がないからだが、それが直接の理由なのかといえば、もっと納得できる理由を想像するなら、国民を政府や政権政党の意向に従わせたいから、基本的人権である自由権や参政権や社会権を制限して、政府や政権政党の都合のいいように民意や世論を操りたいということかも知れないが、そうなると日本も中国やロシアのような独裁国家に近づくことになるだろうが、それが正しい現状認識かというと、どうもそうではないような気がするわけで、たぶん都合のいいように現状を捉えると間違った認識になってしまい、逆に都合を考慮しないように心がけないと正しい現状認識には至れないのだろうが、それも正しい認識とはいえないとすれば、正しい現状認識が正しいとはいえなければ何なのかというと、正しくはないかも知れないが妥当な認識になるかも知れず、それを妥当だと思うなら、思い違いになってしまうかも知れないし、たとえ思い違いだとしても妥当だと思っておいても構わない程度のいい加減な認識なのかも知れないが、政府や政権与党が日本を中国やロシアのような独裁国家に近づけようとしているのかというと、そうは思えないわけで、そうは思えないにしても、結果的にそうなってしまうなら、なるほどと納得してしまうが、たぶん誰も納得できないような成り行きへと導かれていて、政府や政権政党の意向というのも、その中で主導権を握って憲法改正を推し進めている人たちが思っていることとは少しずれていて、結果的にはそれらの人たちの思惑を外れるようなことが起こって、逆説的で皮肉な結果となるような気がするわけだが、それがどういう結果なのかというと、簡単にいうなら民主主義体制がより強固になるとはいえないにしても、政府そのものの権力や権限が弱まって、政治そのものが形骸化すると共に行政機構もその存在意味や存在意義が薄れて行って、より一層なんでもない空気のような存在へと希薄化が進行するのかも知れず、現状でも次第にそうなりかかっているから、それに対して危機感を募らせて、憲法改正して政府の権力や権限を強化しようとしているわけで、それが作用反作用の法則のような様相を呈しているとしても、そういう希薄化作用や形骸化作用が進行しつつあることは、多くの国民が気づいていないようでいて無意識に気づいているから、それに伴って選挙に際しての投票率が低下傾向にあるわけで、要するに政府や政権政党の独裁化傾向や反動化傾向を甘く見ているわけだが、そういう認識が間違っていることが今後証明されるかというと、当然危機感を募らせる人たちは国民に向かって戦前戦中のようなことになると警鐘を鳴らしているはずだが、そんな人たちの危機感もすっぽ抜けるような事態も今後起こるかというと、それを逆手に取るようなことが仕掛けられるわけでもなく、すでにそれが仕掛けられて、しかもあっけなく失敗に終わっていることに誰も気づかないのかも知れないが、それを失敗だとも認めたがらないし、もしかしたら失敗ではなかったのかも知れないが、では何が失敗ではなかったのかというと、たぶんアベノミクスが失敗ではなかったと言いたいのだろうが、それが間違った現状認識に由来しているとしても、間違っていても構わないわけで、少なくとも現状を肯定できない人は口が裂けても成功だとは言わないだろうが、果たして現状を肯定できる人がどれほどいるかといっても、間違った現状認識に囚われている人以外ではほとんどいないのかも知れないし、それで構わない程度の仕掛けだったような気もするわけだ。


11月4日「正論と言える主張」

 たぶん五体満足の状態でこの世界で何十年も生きていれば、通常の社会の中で暮らしている人が何を主張しているのか理解できないはずがなく、具体的にその主張の何がおかしいわけでもなければ、それに対してそんなことはわかりきっていると返しても、わかりきっているからこそ、その主張を受け入れないのはどういうわけなのかと問い質されれば、返答に窮するのが普通の成り行きだが、なぜか現状ではそれが普通の状況だと思ってはならず、そんな成り行きを装った偽装工作を暴こうとしているわけでもないが、どう考えてもそれが正論のように思われる主張というのが、その場の事情やそこに至る経緯を無視した主張となっていて、結果的に正論がまかり通るような成り行きにはなっていないわけだから、正論を難なく主張できるとしても、それを受け入れるわけにはいかない事情や経緯の方が勝って、そうかといって正論を主張することが阻まれるわけではないし、正論を主張してはならないわけではないが、正論を主張しても無視されることに誰もが気づいていて、正論が通用しない社会で暮らしていることを認めるわけにはいかないとしても、日本共産党の議員のように正論を主張できる立場というのが、世の中で主導権を握っているように見える人たちにはなく、逆にその存在を無視しても構わないような立場の人たちが正論を主張できるにとどまるわけだから、単純に正論が通用しないというわけではないにしても、あるいは正論を主張しても無駄というわけではないが、その辺で何か違うわけで、しかも何が違うのかを正論を主張している人たちには説明できないところに、世の中の実態を表している何かがあると見ておけばいいのだとしても、それが何だかわからないでは済まないし、それを指摘しなければならないだろうが、誰もうまく指摘できていないから、正論を主張してしまう人たちはただ延々と主張しまくるだけで、全く埒が明かない状況がもたらされているわけで、その辺にその種の主張の限界も垣間見えていると思いたいのだが、思いたいだけで、それに代わる主張を導き出せるわけでもなく、そういうところも焦ったくなるが、だからといって苦し紛れに暴論のような内容を主張してくる人たちにも与するわけにも行かず、そうなると部分的な正しさを装うしかなくなるが、そういう正しさがどこまでも正しいわけでもないから、中途半端なところで妥協を図ると共に、ごまかしやまやかしを信じる成り行きになるちょっと手前にとどまって、それを信じなければいいと思っている人たちが何を信じているかは、各々に訊いてみるしかないが、納得できる返答など期待できないし、その代わりに他人のちょっとした過ちや誤りを指摘して、まるで鬼の首を取ったかのように騒ぎまくる輩が跋扈する世の中になっているとも言えないが、それに近いことをやっている人たちがメディア上で著名人ぶって踏ん反り返っているわけでもなくても、何かそんなユーモラスな光景を想像しながらも、重箱の隅をつつくように小さな過ちや誤りを指摘する作業に心血を注いでいる人たちには頭が下がる思いになるわけでもないにしても、そんな光景に目を奪われている一方で、肝心の何かを忘れているとも思えないし、それが何なのかを理解できないわけでもないだろうが、忘れていなくても理解できないわけでもなくても、それを表現できないから焦ったくなるようなら、すでに重箱の隅をつつく作業に伴って生じる幻惑の虜になっていて、そういう作業の部分的な正しさに心身を奪われているわけで、それがもっと大きなとんでもない過ちや誤りを犯さないために必要なせこい身の処し方なのだとしても、そんな小人物たちがお互いに身を寄せ合っていがみ合いながら暮らしているのが大衆市民社会の実態なのだとしても、それではあまりにも情けないと思うなら、勝手に暴走してどこかのコンビニに自動車ごと突っ込んでしまうブレーキとアクセルを踏み間違えた老人のような行動に出る必要もないが、したり顔で他人のちょっとした過ちや誤りをSNS上でこれ見よがしに指摘する小物たちの姿を苦々しく思い浮かべながら、そこにいいね!ボタンを押している自分の姿も重ね合わせながらも、意識をそこから引き剥がす作業に余念がないわけでもないのだろうが、たぶんそんなことには気づかないふりを装うのが精一杯の演技なのかも知れず、それが意味不明な動作に思えるとしても、少しはその場の成り行きに沿っていることは確かで、暇つぶしの作業としてそれを肯定できるはずもないが、どちらかと言えば否定されるべき動作なのかも知れないし、それを否定しつつも続けざるを得ないのは、そういう方面ではそうだとしても、それとは別の方面では暇つぶしではない真の使命を遂行している最中だと思いたいわけでもないが、それが強いられてやらされている作業なのではなく、自らが自らに課している使命だと思えるなら、それなりに前向きに取り組んでいることになるはずだが、それを前向きに取り組んでいるつもりになれるかというと、それもたぶん重箱の隅をつつくようなせこくて根気の要る作業と化しているなら、何か違うような気がしてしまうわけで、もっと何か晴れ晴れとした気分になりたいから、気休めに意味不明な暴走に身をまかせるような妄想を抱いてしまうのだろうが、そういう方面へと心身が振り切れてしまうとこちらの世界に戻ってこれなくなってしまうから、そんな思いを鎮めるために少年漫画の類いを読んで気を紛らすしかないのだとしても、いつまでもそんな低レベルの段階にとどまっていても情けなくなってしまうだろうから、共産党の議員のように正論を真正面から主張するような自らの姿を思い浮かべながら、それができない原因として、勇気以外に何があるのかを探究しなければならなくなるわけでもないのだが、それよりはそういう立場になってしまうのをできるだけ避けるような工夫が求められていることを自覚する必要があるのかも知れず、そうしないと世の中の主導権を握っているつもりになって平気で過ちや誤りを犯しながら活動する多数派の人々や集団の生態や心情を把握できなくなって、それらを全否定することになってしまい、それでは世界の実態を理解していないことになってしまうのではないか。


11月3日「間接的な喩え話」

 いつものように喩えがおかしいのかも知れないが、それを何に喩えて語ろうとしてもしっくりこないようなら、喩えを間違えていると思うしかなく、それでも強引に喩え話を続けるなら、喩える必要のないことを喩えているのかも知れないし、喩えるのではなく、直接それについて語らなければならないのかも知れないが、それについて回りくどいことを述べるとすれば、それを何に喩えようと、そんなことはわかりきっていると思いたいのだが、では何をわかりきっているのかといえば、直接にはそれを示すことができずに、その代わりになぜかわざとらしい喩え話に終始して、しかもその喩えがわかりにくく、何を語っているのか意味不明になってしまいそうだが、意味をわかってほしいのではなく、語っている立場をわかってほしいような気がするわけで、そんな立場など知ったことではないというなら、立場をわきまえずに語っているような気もしてくるが、そんなのは嘘で、立場など元からありはせず、立場がなくても強引にそんなことを語っているのであり、またそれを何に喩えているわけでもなく、直接それについて単刀直入に語っているはずなのだが、なぜかそれが何かの喩え話のように感じられるからおかしいのかも知れないが、おかしいと思うなら喩え話だとは思わずに直接それについて語っていると思えばいいのだろうが、では何を直接語っているのかというと、間接税について直接語っているはずだが、なぜかそれが間接税などではなく直接税だと言いたいわけで、直接税について直接語っていることにしておきたいわけだが、そういう意味では喩え話を用いて間接的に間接税の話をしていること自体がまやかしであり、いつまでもそれが間接税だと嘘をついていないで、紛れもない直接税だと認めるべきだと主張しているわけだが、そんな主張が受け入れ難いのもわかりきったことで、当初はそれが間接税だというコンセンサスが形成されていることが前提で話を進めないと、税の直間比率を是正するという目的が嘘になってしまうから、話の始めから議論が噛み合わなくなってしまうわけだが、もっともそれが間接税に見せかけた直接税だという主張自体も、かなり後から出てきた後出しじゃんけん的な論理に基づいた主張なのだから、当初の議論とはだいぶ時間差があって、議論が噛み合わないのも当然だろうが、だから今さら使い古されてカビが生えた喩え話で説明するのもわざとらしくも見え透いているなら、もっと現状に見合った本当らしく感じられる話に更新しなければならない必要も生じてきて、そうしないと間接税を直接税だと主張する人たちを論破できないのかも知れず、もちろん無理に論破する必要もなければ、この際そんな人たちは放っておいても構わないのかも知れないが、たぶん論破するとかそういうことではなく、せっかく定着した税制を今さら変える必要もなく、いくらもっともらしく弊害が指摘されようと、なし崩し的に維持して行かなければならない事情があり、もちろんそれを廃止するなど論外だろうが、廃止を唱える勢力も少数ながらいるわけで、それをどう取り扱うべきかは、目下のところは無視していればいいのだとしても、税制とか政治とかの狭い範囲内ではそれで構わないのかも知れないが、もっと広い視野で歴史的な経緯から考えるなら、あからさまな欠陥を指摘されるような制度には、それ相応に制度が定着している理由があり、その理由というのが意外と気づきにくく、それを利用することで制度が定着しているわけだから、いくらもっともらしい理由を挙げてそんな制度に反対しても、それが理不尽な理由である限りは受け入れられないわけで、理由が理不尽であるからこそあからさまに欠陥のある制度が定着していると言えるわけだが、ではその理由とは何なのかと言えば、間に合わせの理由であり、それとは直接関係のないところから理由が生じているから理不尽に感じられるわけだが、それがもっともらしい口実ではなく、適当でいい加減な口実であるから理不尽に思われるのだろうが、そこに偶然の巡り合わせというか、それほど納得できる必然性も感じられない理由が絡んでくるから、それに反対する理由がもっともらしく感じられて、廃止せよと訴えるのにも都合がいいわけで、要するに論理的な道筋に沿って成り行きが生じているのではなく、行き当たりばったりで、その場の状況や情勢が偶然にもたらす間に合わせの都合に沿ってそんな成り行きになってきたわけだから、それを後からもっともらしい理屈に基づいて非をあげつらってみても、そんなのは後出しじゃんけんに過ぎないから、今さらそこから後戻りなどできない相談になるわけだが、それに反対してきた側にしてみれば、そこに至る経緯が理不尽極まりないと感じられるのも当然で、だから今さら制度の廃止を訴えているわけだが、もちろん現時点では少数派の主張となっていて、制度が制定された当初はもっと多くの人々が反対していたのだろうが、なし崩し的に受け入れざるを得ない成り行きに巻き込まれて、もはやそうなっていることが当然視される状況にまで至ってしまったのだから、今さら制度の廃止を訴える勢力に同調する気にもなれないだろうが、だからこそ廃止を主張するには願ってもないチャンスが巡ってきたと思っているわけでもないだろうが、それも偶然の巡り合わせでそうなっている可能性があるわけで、しかも巡ってきた偶然はそれだけではなく、他にも様々な偶然が複雑に作用し合ってそんな成り行きになっていて、その勢力も偶然に巡ってきた機会を活かそうとして、もっともらしい理屈を新たに持ち出してきたわけだから、それなりに説得力のあることを訴えかけているようにも見えるだろうし、そんな主張に賛同する人たちも今は少数派にとどまるにしても、これからどんな成り行きが待ち受けているとも限らないし、まかり間違えばそんなことを主張している勢力が主導権を握って世の中をひっくり返す可能性もゼロではないと思っていれば、少しは気休めになるかも知れないし、先物買いというわけでもないのだが、しかも理不尽な可能性だとしても、大して期待しているわけでもないのに、それらの勢力を支持するふりを装っている人が世の中には意外と多いのかも知れない。


11月2日「戦争と政治」

 何か的外れなことをやっていると思うのは、執拗にそんなことが繰り返されているからだが、それが不快に感じられて、そんなことをやればやるほど逆効果なような気もするのだが、それをやっている人たちはやらざるを得ないようなことをやっている気でいるわけだから、そんなことを感じるゆとりも余裕もないだろうし、だからやるならどうぞ思う存分やっていればいいとしても、彼らの勘違いや見込み違いを指摘できるほどそちらの方面に詳しいわけでもないから、ただ漠然とそう思われる程度のことで、部外者のような立場としてはそれで構わないような気がするのだから、粘着質のような態度で執拗に絡んでしまうわけでもなく、ある程度は距離をとって放っておくしかないのかも知れないが、それでも違和感を覚えるなら、人それぞれに他にも様々な態度や対応も可能な範囲内で、中には放っておかずに、それに関して詳細な指摘をしたがる人も出てくるだろうし、そんな指摘にもいちいち付き合っていられないなら、それも放っておいても構わないはずだが、なぜか理由はわからないが、それについて言及したい人も中にはいるらしく、述べるならちゃんとしたことを述べないと意味も意義もないように感じられてしまうから、こうしてわけがわからないでは済まないことを述べているつもりなのだが、わけがわからないでは済まないところがややこしくも面倒で、なるべくちゃんとしたことを述べたいのに、どうもその気にはなれないようで、能力がないから述べられないのかも知れないが、そうなると理不尽な内容になってしまうわけでもないが、それも戦争と政治の範囲内で起こっていることに過ぎないと思うしかなく、それらが表裏一体化した姿が人間社会の特徴を示していると思いたいが、実態としては戦争の延長上に政治的な取り組みがあると思うのも勘違いではなく、その戦争という言葉が実際の戦争なのか比喩としての戦争なのかも、使い方としてはどちらでもありだから、どちらでも構わないのだろうが、政治の場で戦争を仕掛けている人たちが実際の戦争には反対しているとしても別に矛盾しているわけでもないが、たとえ矛盾していても構わないから、政治の場では戦争しなければならず、そうしないと物事が前に進まずに停滞するばかりで、官僚機構の弊害が蔓延してしまうから、絶えず戦争状態を利用しながら現状の制度的な停滞を打破しようとするのだろうが、そういうやり方が不快に感じられるのだが、制度自体が戦争を取り込んだ制度となっている面もあるわけだから、そこでも戦争を装った予定調和の対立構造が出現して、そんな制度が戦争状態を形骸化しようとして、それに代わる意味不明な談合を戦争に置き換えようとするわけだが、そうなろうとしている瞬間が付け入る隙となって、ここぞとばかりに戦争を仕掛ける演技が炸裂して、見せかけの戦争が本物の戦争であるかのように見せかけられて、そんな戦争もどきを仕掛けた側が、それを観ている野次馬たちから待ってましたとばかりに拍手喝采を浴びている光景も見苦しいが、政治的な駆け引きとしては、その一瞬が戦争の制度化を免れているように見えてしまうから、空疎な内容など問わずにそんな仕掛けがこれでもかとばかりに繰り返されることになりながらも、それによって仕掛けられた側が精神的なダメージを負って追い詰められるわけでもないが、そんな様子から何が窺い知れるわけもなく、相変わらず一過性のイベントとして消化されて織り込み済みになってしまうのだが、それを伝えるメディアの方でも淡々と右から左へとベルトコンベアーに乗せて移動させて、一時的に脚光を浴びた部分以外は取り除かれて、見すぼらしい外観だけを残して後は何事もなかったかのように装いながら、それを恒例行事とすべく既成事実の積み重ねに余念がないわけで、そうやって戦争状態を装った演技が不発に終わったのか、それでも一定の効果があったのかは、うやむやのままにフェードアウトするしかないのだろうが、そこが場面転換の契機でもあるから、そこからちょっと過去に遡ったところで起こっていた戦争の記憶などきれいさっぱり忘れられているのがよくある光景なのだろうが、そこで拍手喝采を浴びせていた野次馬たちとしては、いつまでも戦争の余韻に浸っていたいから、執拗に繰り返しそこで覚えた高揚の瞬間を再現しようとして、延々とそれを文字や映像や音声を用いて語り継ごうとするのだろうが、性懲りもなく何度も何度も再生しているうちに次第に飽きてしまうわけで、そういった飽きがこないうちに、煽動者としては次なる戦争を仕掛けなければならなくなり、ネタ切れにもかかわらず同じネタを使い回して劣化した録音テープを再生しながら今こそ戦えと煽り立てるわけだが、そうなるとすでに飽きがきている民衆がついてこれずに、笛吹けども民踊らずなしらけた雰囲気が社会に蔓延して、それが制度の勝利を意味することになるのだとしても、まだ事態がそこまで進んでいないと思いたいなら、煽動者の煽り立てに応じてそれなりの肯定的な反応が期待されて、そんな期待に応じてまた性懲りもなく戦争が仕掛けられるのだが、そもそも誰が戦争が起こることを期待しているのかもわからないところもおかしいのかも知れないが、メディア上でそんな雰囲気が醸し出されていると主張するのもわざとらしいから、そういうところは謎のままに残しておいても、誰にも気づかれないのかも知れないが、果たしてそれも演技のうちに入るかどうかも、何とも言えないところで、実際に遠く離れた地で本物の戦争が行われているわけだから、それと比べて偽の戦争の内容が見劣りするのは致し方のないところであるから、あまりそれを戦争のイメージでは捉えない方が無難だと思うなら、単なる政治の場で行われている論戦の類いだと見なしておけばいいのだろうが、それにしても肯定できる見せかけの部分と肯定しかねる制度的な無内容との背離が著しいのではないか。


11月1日「信じていること」

 今この世の中で何か信じられることがあるかと誰に問いたいわけでもなく、他人の信じていることにいちゃもんをつけたいわけでもないが、では自分が今何を信じているのかというと、自分が信じていることの全てを把握しているわけではないが、たぶん何かを信じているからこそ平然としていられて、平然としていられる理由が何かを信じているからというのも何か信じられないことかも知れないが、では何も信じられなければ平然としていられないのかというと、それがそれほど確証があるわけでも根拠があるわけでもないが、ただ何となくそう思われて、またたとえ信じていてもそれほど平然としていられるわけでもなく、絶えず焦って動揺しているのかも知れないし、何かを信じていれば焦らず動揺せずに、何が起こっても冷静でいられて、平然としていられるような気がする程度のことかも知れないが、その程度のことは信じられる範疇に入ってきて、それがかなり回りくどく感じられるが、信じられることとはその程度のことでも構わないような気すると共に、それを確信しているわけではなく、半信半疑程度のこととして、どちらかと言えばとりあえずは信じていることにしておきたい程度のことなのであり、もちろんそれさえも時と場合によっては疑わしく思われるだろうし、そんなことでさえ疑い出したらきりがなく、そういう自分が何事も疑いながら存在していることぐらいは信じても構わないような気もして、それでも自分でも気づかないところで、半信半疑ではなく何かを確信している可能性もあり、その信じていることの一つが、何かを信じているからこそ平然としていられる心理状態なのかも知れないが、果たして自分が今そんな心理状態になっているかというと、それが疑わしいのかも知れないし、自分が何かを信じていることが疑わしく思われることについては信じても構わないような気がすると共に、時と場合によっては信じていても信じていなくてもどちらでも構わないような気もしてくるが、それと共に自分が何を信じていようと疑っていようとそんなこともどうでもいいような気もしてくるが、ただの無名の一般人に過ぎない自分が何を信じていようと何を疑っていようと、そんなことは世間にとっては知ったことではないとは思うが、では世間が無視できないこととは何なのかというと、メディアで報じられている話題の大半がそうとも限らないが、ただ何となくそう思われるとしたら、メディアに洗脳されている証拠となるわけでもないが、やはりそこでも信じていることがその程度のことだと思うなら、それもそう思っていればいい程度のこととして軽く受け流しておけば済んでしまうとしたら、そういうレベルでは自分が何を信じていようと何を疑っていようと、そんなことは重要ではないと受け止めるしかないし、では何が今の自分にとって重要なのかと言えば、それが今の自分にとってではないとしたら、そんな問いなど軽くすっぽ抜けるしかないのだが、それを的外れと言ったらその通りだろうが、今の自分にとっても将来の自分にとっても過去の自分にとっても何が重要なのかと言えば、自分を信じることが重要であると共に、時と場合によっては自分を信じ過ぎないことも重要となってくるのかも知れず、ほどほどに自分を信じている分には何の問題もないが、自分を信じ過ぎて、それが過信に至ってしまうとまずいと思うなら、では何が過信に結びついてしまうのかと言えば、自分に関わっている物事がうまく行き過ぎて、調子に乗って暴走気味となってしまえば、それが自分に対する過信につながるわけで、すでにそうなっている時点で自己中となっているわけだから周りが見えておらず、周りが見えていないから痛い目に遭ってからそれに気づくのだろうが、周りを見渡して自分を中心に世界が回っているわけでもないことを再確認する必要があると思うなら、何やら謙虚な姿勢を装っているような気になってしまうのだろうが、それが自分に関して思うことである限りでそれほど重要なことでもないのかも知れず、そうなると重要なのは自分以外のことになってきて、しかもそこに自分も含まれてくるようなことになってくると、何やら重要に思われてくるかも知れないが、なぜか信じられないのはそういうことでもあり、自分を超えて作用してくる成り行きに従うか抗うかが重要というわけではなく、思いがけないところで思いがけない事態に直面して狼狽えてみることが重要というわけでもないが、さらに実際に目の前で信じられないことが起こっているのに、それに気づかないことも重要であるわけでもなく、そこで今まで信じていたことが裏切られて、何もかもが信じられなくなってしまうことも重要であるわけでもないとしたら、それらがそれほど重要でもないことにも気づいてしまったことが重要というわけでもないのだから、そうなっている時点で重要な何かを見落としていて、それに気づかないまま通り過ぎてしまったことに後から気づいて後悔するわけでもないなら、すでにそんな自分が他の誰から見ても自分にとっても重要な存在ではなくなってしまったことを悟るしかないが、もちろんそれを悟れないからそんな自分も自分にとっては重要ではなく、自分が重要な存在ではないからこそ、自分を中心にして世界が回っているわけでもないことを悟る必要もなく、自己中でいられる限りで身勝手に生きていればいいとしても、そんなふうに生きようとしても周りが黙っていられないとしたら、自分に何かしら存在価値があると勘違いしてみても構わないだろうし、世の中が自分を放っておけない程度で自分に存在価値や利用価値が生まれてくると思っておいても構わないが、信じられる程度もそれに伴って生じてくるはずで、その信じられる程度というのが信じている程度と比較してどれほどの落差があるかで、自分に対する勘違いの程度も確かめられるならわかりやすいし、果たしてそれに気づくか否かで自分の世間に対する重要度も変わってくると思っているなら、それこそ冗談も休み休み程度のこととして認識しておくだけでも、少しは気休めになるのかも知れない。


10月31日「俯瞰的な態度」

 社会の中でどんな物事に関わっていても、関わっている物事にもよるが、成り行き上は関わっている物事に依存しながら活動が成り立っていれば、それなしでは生きて行けないようなことになって、活動やそれに伴って生じてくる思考も次第にその物事に組み込まれて構成されてきて、それがその方面の専門家的な傾向としてそうなってくるわけだが、意識がそれ一辺倒になっているように感じられると、人間社会の中で生じる人や集団の役割分担化の一環としてそうなっていると認識しておけばいいのかも知れないが、そうしたことの渦中にいるとそればかりとなって、活動や思考の振れ幅が常にその範囲内にとどまってしまうのは当然といえば当然だが、それで構わないか否かといっても、そんなのは判断の対象外となってしまうのも致し方ないとしても、そうなってしまった人の意見や主張をそれと大して関わりのない門外漢の部外者が真に受けても構わないかというと、それをもっともらしいと思うなら真に受けていることになるのだが、その種の専門家的な傾向を持った人の意見や主張を利用したり活用する機会に恵まれているなら、その程度や傾向も参考意見程度から全面的な依存に至るまでその場の状況や情勢に応じてそれなりに振れ幅がありそうだが、世の中がそれだけで成り立っているわけではないことも承知していながらも、その種の部分的な正しさというのが、他の物事とのバランスという面でどれほどの重要性があるかないかということに関して、それを熱狂的に受け入れるようなことはせずに、どう贔屓目に見ても誇張や強調の印象を意識せずにはいられなくなって、そういう方面からちょっと外れた立場を取らざるを得なくなってしまうのなら、世の中の成り行きが人をそういう部分的な分野へと押し込めようとする傾向があるから、そういった傾向には自然に逆らうように意識や思考が構成されてきて、なるべく専門馬鹿にならないように神か守護霊のような存在に導かれているような気がするわけだが、傾向としてそうなってしまうことに関してなら、何となくそれを肯定せざるを得ない成り行きに従っているようでいて、実態としてどうなっているわけでもなく、世の中に散らばってネットワークを形成している様々な役割分担を避けなければならないといっても、知らないうちに何らかの役割を背負わされている可能性もあるわけだから、むしろ積極的にその種の役割を受け入れようとしている人たちとは相容れないにしても、それらの人たちを否定するつもりもそれらと敵対するつもりもないわけだが、少なくともそうした構造が結果的に成り立っているように感じられるから、人為的にそれを構築しようとしている面があるにしても、自然に形成されている面を軽視するわけにもいかないし、人為的に構成しようとする役割分担が自然に変容しながら別の構成へと変転して行ってしまうことについては、そうなってしまう結果を受け入れざるを得ないし、受け入れつつも意識してそこから逃れようとして、そんな意識を無視して構成されてしまう役割分担にも逆らって、それを強く意識しなくても、結果的には自然に逆らってしまうわけだから、人の特性として自然にそうなってしまうと考えるならしっくりくるわけだが、そういう意味では理不尽な社会制度の構築には絶えず逆らっているわけで、そうなってしまうことが制度を無理やり構築しようとして強引に事を推し進める人や集団にはわかっていないというと、それらの人たちも役割分担としてそういう傾向にハマっているから、そんなことをやらざるを得ないのであり、たとえ意識してそれを推し進めようとしているとしても、意識しない領域では制度に操られてそんなことをやらされているわけで、その自覚がない人が専門馬鹿と呼ばれようと、そんな揶揄は眼中にないのかも知れず、馬鹿は馬鹿なりに自身の主義主張だと思っている制度的な思考に殉じようとしているわけだから、そうなっている時点ですでにそれなしでは生きて行けないような成り行きに囚われているから、それをそこから逸脱させようとしても頑なに拒否されるだけで、もうそうなってしまった人たちを助ける手段はないように思われるかも知れないが、そうなってしまった人たちにしてみれば、そうなってしまったことがそれらの人たちにとっての救いなのであって、逆にそうなろうとしてなれなかった人たちの方が救われないと思っているかも知れないから、どちらにしても救われない人たちであるほど自身が救われていると思っているところが恐ろしいのであり、それが宗教に特有の思考なのかも知れないが、それは制度に組み込まれてがんじがらめの戦闘員と化している人たちには知ったことではなく、知らぬが仏と言われても我関せずの態度をとり続けるしかないだろうが、そういうことを他の人たちに強いることが制度的な人々にとっては利益になること以外の何を意味するわけでもないが、それが他人の痛みを理解できないと言われようと、理解してしまったらその種の制度を構築できなくなってしまうし、そうなるとそれらの人たちの活動が自己矛盾を引き起こしていることになってしまうが、そこまで配慮できるような制度ではないだろうから、そういった制度は絶えず犠牲者を求めているのであり、制度のために殉死する人が必要となるようなら、その程度が強まるに従って宗教色の度合いも高まるわけだが、それが何のためにそうなっていると教義か何かの中で定義されている場合もあるだろうが、たぶんそれが真理ではないわけで、もちろん教義の中では真理だとされているのだが、少なくともその種の制度から自然に押し出されて結果的に離脱してしまう人にとってはそうではないわけで、そういう人にはそちらの方に真理が宿っていて、神か守護霊のような存在に従っていたら結果的にそうなってしまったと感じられるわけで、そこに自然の真理が見出されてしまうだろうが、制度を人為的に構築しようとする人たちには、どう考えてもそうは思えないし、単なる落伍者に神の真理が宿るはずがないと思いたいところだが、そうなる成り行きの逆説的な自然さには誰も逆らえないから、そういうところがお互いに相容れない主義主張の違いとなって表れるのではないか。


10月30日「これは批判ではない」

 それに関しては批判だとはわからないようにして批判がされているはずがなく、何とかそれについては言及しないようにしながらも、他の何かについて述べているわけでもなく、確かに直接名指しされて批判されているわけではないのだが、そうではなく特定の誰かを名指してして批判しているなら、その辺がはっきりしていてわかりやすいし、そもそも誰のことを述べているわけでもない批判などあり得ないし、批判の対象が特定されていれば、特定の人や団体に対して批判がされているはずだが、たぶんそういうことではなく、直接には心当たりなど誰にもないような批判となっていて、そんなのは批判とは言えないような批判になっているわけでもないが、そういう遠回しに何かについて述べている場合には、直接には誰と名指しされているわけではないとしても、特定の誰かの名前が思い浮かぶような配慮がされている場合がほとんどかも知れないし、これといって批判の対象が思い浮かぶわけでもなければ、それを読んだり聞いたりして、心当たりがある人が自分が批判されていると受け取っておけばいいのだとしても、通常ではそんなのは無視されてしかるべき内容に過ぎないが、何か引っかかるものを感じるなら、それについて語らなければならないような成り行きに巻き込まれて、強いられて否応なく言及せざるを得ないわけでもないが、何かのついでに述べておく程度のこととして受け取っておけばいいことでしかないが、それでもそれについて語らされてしまうなら、それなりに興味深いこととして語っているはずで、それの何が無視するわけにはいかないのかといえば、それのおかげで被害妄想や疑心暗鬼に陥っているからではなく、何かの攻撃の被害者に同情せざるを得ないようなことが実際に行われているから、それについて言及せざるを得ないようなことになれば、それが何なのかを具体的に示した上で、攻撃している者や団体に対して攻撃をやめろと非難しておけば事足りるはずだが、その批判らしくないのに批判のような言説がそれに当たるはずもなく、これは批判ではないと思っておいても差し支えないだろうが、批判でないなら何なのかというと、批判でなければ何でもないのであり、批判ですらないものを批判だと見なす必要もなく、必要がなければ言及しなければいいと思いたいが、そう思っているのにすでにそれについて述べている現状があるわけで、しかもそれが何だかわからないわけでもないのに、未だにそれが特定されないようにしているわけだから、回りくどいのも思わせぶりなのもいい加減にやめてほしいのだが、焦らされて見当違いな方面を批判してはまずいだろうから、こちらでも何を述べているのかわからないようにしながら、その必要もないのにそれについて言及しているわけだが、言及しつつも言及していないように装っているわけだから、何のことやらさっぱりわからないし、そのままそれについて語り終えても、それがわからないままとなってしまうかも知れないが、そうすることによってそれに対して揺さぶりをかけているわけではなく、揺さぶる必要などないし、揺さぶっても何も出てこないだろうから、事の真相は藪の中というわけではなく、藪の中にも何もないのかも知れず、それが事でも物でもないとすると、何も起こっておらず、何も存在していないことになってしまうが、では本当に何でもないのかというと、少なくともそれについて言及しているのだから、そこで何かが生じていて、その何かについて言及しているはずだが、それが生じていると共に失われているのであり、あからさまに人命が失われているなら、軍事攻撃の類いによって多数の人命が失われていて、そんな攻撃を行なっている当事者が世界中から非難されているはずだが、そこでは確かにそうだとしても、それとは別の場所では何も起こっておらず、特に何も生じていないから、それを批判のしようがなく、もちろん批判とも非難とも無縁の地帯や領域が世界のどこかにあるなら、そんなことをいえば、それが何でもないことになってしまうのだが、ではその何でもないことに言及しているのかといえば、それに言及できずにいるらしく、世の中にはそれに言及したくてもできない地帯や領域があり、それが触れてはならない禁忌の地帯や領域になると、そこから世界の矛盾が生じているというと、何かわかったようなわからないようなことになってしまうだろうが、理不尽な軍事攻撃にさらされている地帯や領域がそうなのではなく、そこからそれほど離れていない場所にそれがあって、それがそこにあるから、それが起因してそこで紛争が絶えないと思っておけばいいのだとしても、そういうことを無視してあからさまな軍事攻撃だけを非難してみても、それで構わないのなら、その人はそこでは部外者であり、部外者だからこそ軍事攻撃だけを非難できるわけだが、では非難している人たちを部外者扱いしている人や集団が当事者なのかというと、当人たちは紛争の当事者だと思っているだろうが、果たしてそう思っている当事者に非難を無視して退ける権利があるかというと、たぶん誰にもそんな権利はなく、当事者が部外者から非難されるのも当然であり、それが非人道的な殺傷行為なのだから非難されるのだが、非難されたからといって攻撃をやめるわけにはいかず、いったん攻撃を始めればそれなりの成果が出るまではやめようとしないだろうし、やめる理由も見当たらないし、実際に人が大量に殺傷されて生活に必要な建物やインフラも大量に破壊されているわけだが、それをやめさせる方法がないのかというと、目下のところはあらゆる手段を使ってやめさせようとしているのだろうから、いずれはやめることになるのだろうが、やめるまでには目的を達成したいのだろうから、今のところは攻撃をやめようとしないわけだ。


10月29日「自らの主張のなさ」

 他人の主張や意見に対して、何か気になったことをそのまま述べようとすると、必ずそこから話の内容が逸れて行ってしまうのは、それを述べているうちに、述べている内容に疑念を持ち始めてしまうからかも知れないが、実際には言葉を組み合わせて文章を構成している最中や構成した後からそう思われるのだが、述べている内容に関しては、絶えず頭の中で試行錯誤を繰り返しているから、新たに思い浮かんだことを付け足そうとすると、それ以前に述べていた内容と整合性がとれなくなるのは毎度のことで、整合性をとろうとしているうちに、話の内容が当初に述べようとしていた内容から逸れて行ってしまい、出来上がった文章の内容に自らの主張や意見が含まれているのは当然だが、果たしてその主張や意見に納得できるかというと、必ずしもそうでもないとすれば、自らの主張や意見に自らが疑念を抱いていて、納得していないことになるのだろうが、全面的に納得していなければ、そもそもそんなことを述べていないはずで、多少は自分でも納得できそうな内容を述べているつもりだが、述べているそれが100%自分の主張や意見かというと、どうもそうではないように思われるとすれば、ではそれが自分以外の誰の主張や意見なのかというと、その場その時に思い浮かんだことを文章に組み入れているはずだから、そういう面に関しては自分の主張や意見には違いないのだが、外部からもたらされる情報に反応している分には、そこには自分以外の主張や意見も含まれていて、それを取り上げるか否かは自らの判断に基づいていることは確かだとしても、自分が納得できなかったり支持も賛同もしない主張や意見もそこに含まれてくるかというと、全面的に納得できなくて支持も賛同もしない主張や意見も含まれてくるなら、述べている内容が自己矛盾を引き起こすだろうが、意図してわざとそんな主張や意見を取り上げて、しかもそれを多少は納得して微妙で曖昧な支持や賛同にとどめながらも肯定しているように装うこともあるかも知れないし、そうなってくると必ずしもそういう部分に関しては自分の主張や意見ではない可能性も出てきて、なぜそんなことをやるのかといえば、自分の判断を信用していない場合もあるからだが、要するに間違っていても構わないからそんなことを述べているわけで、必ずしも自分の判断に基づいて正しいと思うことを述べようとしているわけではなく、わざと間違っていると思うことも述べているというと語弊があるが、それに近いようなことも述べていて、そんなことを述べる成り行きに逆らわないように配慮しながらも、そんな配慮も吹き飛んでしまうようなことも一方では述べているつもりなのだが、そうなると自らの勘違いを意識せざるを得なくなって、それと共に迷いが生じてきて、そこからわけのわからない試行錯誤も始まってしまい、結果的に構成される文章の内容が意味不明になってしまって納得し難いのだが、そんな嘘を平気でつきながらも、それが自己嫌悪を感じさせるわけでもないが、自らの良心に従うなら、それが悪意を伴ったアンビバレントな良心なのかも知れないが、自らの言説に利用しながらもわざと批判しようとしない他人を主張や意見をそのままにしておかないで、ちゃんと真正面から批判すべきなのだろうが、それが意外とそのつもりもないのに暗に批判しているのかも知れないから、そういうところが回りくどくも油断できないところなのだが、それが批判一辺倒に振り切れないための配慮なのか、あるいはそれを真正面から批判できない臆病さの表れなのかは自分では判断できないところだが、うまくそれらの主張や意見の脇を通り抜けて言説を無難に着地させようとして、結果的にそれがうまく行っているのか行っていないのかも判断し難いが、批判一辺倒に振り切れている人たちが悪いとは思えないし、それを躊躇しているのだから臆病には違いないし、それで構わないとも思えないのだが、成り行きとしてそうなってしまうのを否定するわけにも行かず、どちらかと言えば肯定したいところだが、そうなると批判一辺倒に振り切れている人たちとは違うことを述べているらしいのだが、それが何なのかというと、わけがわからなくて意味不明では通用しないはずだが、通用しなくても構わないなら、そういう成り行きを尊重しなければならないし、実際に成り行きに逆らわない配慮を心がけているなら、確かにそれで構わないはずだが、それもそれ一辺倒になろうとしているわけでもないのだから、配慮しつつも場合によってはそこから逸脱するようなことも述べているわけで、たぶんそういうことを述べている最中に何かを感じ取っていて、その感じ取っている内容が、批判一辺倒になっている人たちとは違うことを述べようとしていることの表れなのだろうが、それが文章の内容に反映しているかというと疑問を感じざるを得ず、どちらかというと批判一辺倒の人たちと同じようなことを主張しているのかも知れないが、何とかそこから逸脱しようともがいていて、そこから意味不明な試行錯誤が始まってしまうのだろうが、果たしてその試行錯誤の成果が出ているのかというと、そうは思えないような内容になっているとしたら、では何なのかといっても、相変わらずの意味不明でわけのわからない内容になってしまうのだが、何かというと一方的な方面へと向かいがちになっているのを、途中でやめようとは思わないのに、結果的には中途半端な程度にとどまっているわけだから、そうなるのを自身で制止して、自制しているわけではないとすれば、その場の状況や情勢がそうさせているのかも知れず、そういう意味ではその場の状況や情勢に操られているわけで、しかもそうなることがわかっていながらそれに逆らうつもりもないのに時にはなぜか逆らうようなことも述べてしまうわけで、それをどう説明してもしっくりこないのだから、積極的にも消極的にもそのつもりもないのにそうなってしまうことに関しては、自身の力でそうなっているわけではなく、外部の力が作用してそうなってしまうことを認めざるを得ないわけだ。


10月28日「わかりやすくて単純な主張」

 割と多くの人々に受け入れやすい主張というのは、わかりやすくて単純な内容になり、しかも現状の複雑さを理解せず無視して、悪く言えば現実逃避の傾向があって、主張が関わっている物事を単純化して捉えているといえるが、もちろんそれだけではないから魅力が感じられて、世間の最大公約数的な願望を反映しているというか、それが最大公約数とは言えない面もあるとすれば、批判の対象となる敵対する勢力が設定されて、それが味方の勢力との間で世論を二分するような対立関係を形成していればわかりやすいが、まだ現状では多数派に対抗する少数勢力であって、それを世の中に広めて多数派にも受け入れられれば、世の中が良くなると確信していて、だから社会を良くするために自分たちの主張を世の中に広めている最中であり、そんな経緯で自分たちの主張に多くの人々が賛同してほしいと訴えかけているわけだが、現状では賛同者を募っている段階だからまだ多数派には受け入れられていないわけで、そんな運動自体が少数派が多数派を目指す運動となっていて、その過程で主張されている意見だから、多くの人々に受け入れてもらえるように工夫が凝らされていて、一見わかりやすそうに感じられるが、人を騙すような面もあるわけで、それが自分たちの主張に賛同しない人たちに向かって、あなた方は騙されているという論法になるわけだが、何に騙されているのかというと、多数派が支持している勢力に騙されていることになり、このまま騙されていると大変なことになりますよという警告でもあるわけだが、それが最近は、もう大変なことになっているじゃないですか、もういい加減に目を覚まして現実を直視してくださいと諭しているわけで、果たしてそういう論法で訴えかけてくる勧誘をどう受け止めればいいのかといっても、それを信じるか信じないかはあなた次第ということではなく、その内容を精査してみないと、早計には判断しかねるかも知れないが、それ以前の問題として、何に騙されているのかというと、まだどちらにも騙されてはおらず、これから騙されようとしていると状況を捉えるなら、騙されないように用心しなければならないし、まずはあなた方は騙されていると警告してくる人に騙されてはならないといえるだろうが、本当に騙されようとしているのかというと、実際にその手の詐欺的な勧誘に直面しているならその通りかも知れないが、日頃からそういった勧誘には乗らないように心がけているなら、ちょっと待てよとそこで立ち止まって、勧誘してくる相手を疑うだろうから、簡単には騙されないのかも知れないし、すでに騙されているならそんな勧誘は無視できるかも知れないし、勧誘してくる以前から他の勧誘に乗ってしまって、完全に洗脳されている人に向かって、あなたは騙されていると諭したところで、そんな勧誘には乗ってこない可能性があるわけで、ではそういう人たちがどんな勧誘に乗って洗脳されているのかといえば、普通はそれを洗脳とは言わないかも知れないが、わかりやすくて単純な主張や意見を信じているわけで、というか、とりあえず信じているふりをしているというと、そんなことはあり得ないと思われるかも知れないが、複雑に入り組んでいる物事を単純化して捉える癖がついていれば、それをわかりやすく説明されると、なるほどと思うかも知れないし、それで構わないようなことでもあり、そういった物事に深く関わっているわけでもなければ、それに関する単純な理解でも間に合ってしまい、それはそういうこととして片づけておきたいというか、面倒だからあまり深くは関わりたくはないのであり、下手に深く関わって当事者になってしまうと、さらに面倒な事態にも直面しかねないから、できれば無関心を装えるならそれに越したことはないが、それが世間の話題としてメディア上でも騒がれていることになれば、せめて野次馬や傍観者程度でも構わないから、深みにハマらない程度の浅い関わり方でその話題に接していたいのかも知れず、そうなるとそんな状態を洗脳状態とは言えないし、普通は言わないが、勧誘する側としてはそれでも騙されていることにしておかないと、自分たちの立場がないというか、それに関して世間でまかり通っている誤解や偏見を取り除かないと、自分たちの主張が世の中に浸透しないと思っているから、まずはあなた方はマスメディアに騙されていると訴えかけることとなり、主要なマスコミが無視して取り上げようとしない我々の主張こそが、彼らにとっては隠しておきたい不都合な真実なのであり、この真実を知れば、今まで信じていた常識が嘘だとわかるはずだ、と確信しているかどうかは、当事者ではないから何とも言えないが、実態はどうなっているのかというと、そんな主張をしている人たちの方が世間に騙されている可能性もあるわけで、それを世間と捉えると実体がないのかも知れないし、世の中の情勢がそんなことを主張をする人たちの出現を望んでいるというと、それも騙されているような気もしてくるが、その場の情勢を真に受けるとそんなことを主張しなければならない立場へと追い込まれるといっても、主張している当人にはしっくりこないかも知れないが、主張している当人がそういった主張に洗脳されていて、そんな主張に感染していると捉えるなら、それが何かの伝染病の比喩になってしまうが、だからといってその種の病が治療されなければならないわけではなく、逆に感染者が増えることによって、社会にその種の病に対する免疫が獲得されるから、運悪く病に感染してしまった人には申し訳ないが、これからもあなた方は騙されていると世間に向かって訴えかけてほしいと誰が望んでいるわけでもないだろうが、少なくとも感染者はそう望んでいると受け止めておけばいいのかも知れず、自分もそうなることを望んでいるならすでに感染している証拠になるのだろうが、少なくとも感染者が世の中の多数派にならないと、主張している内容が社会の隅々まで浸透していることにはならないわけだから、それを主張している段階ではまだ少数意見にとどまっているだろうから、これからもそんな主張が続いて行く限りは、感染させる行為も続いて行くと受け止めるしかなく、感染者が多数派になるまでは続けられるとしても、いつ多数派になるかは現状では何とも言えないだろうし、そうなる前に新たにそれとは別の主張も唱えられるかも知れないし、多数派まで行かないうちに衰えてしまう事態も想定できるのではないか。


10月27日「価値観の違い」

 相対的な価値観というと、その反対の絶対的な価値観と対立する概念だと思われるが、その場の都合や事情に合わせてどちらの価値観を持ち出すかは、そんな価値観を使って主張しようとする内容にもよるだろうが、現状で何が相対的な価値観として提示できて、またそれと対立する何が絶対的な価値観なのかというと、それを経済至上主義というと、経済的な繁栄を達成することが至上命題のごとくに思われるかも知れないが、他の何を犠牲にしてでもそれを達成しなければならないのかというと、それも何を犠牲にするかにもよるだろうが、そのために持ち出されてくるのが何なのかということにも注目しなければならないだろうが、そんなことには興味がないなら、何かちゃぶ台返しのようなことになってしまうのだが、何かを犠牲にしないと達成できないようなことをやろうとすれば、それを犠牲にしてしまうことの副作用や歪みも生じてきて、それが禍根の類いになれば、否定的な傾向としてやっていることに作用して、面倒な事態にもなってくるわけだが、そうなってからやらなければよかったと後悔するのだとしても、後悔した時にはもう手遅れで、後戻りもできず、やり直しも利かないような惨状となってしまうのかも知れないが、それをやらなければならないと思った時には、それをやることが絶対的な価値として心を支配してしまうのだろうし、そうではなくやってもやらなくてもどちらでも構わないが、やりたければやればいい的な軽い気持ちで取りかかれるようなことであれば、それをやること自体が相対的な価値にしかならず、必ずしも誰にでも勧められるようなことでもなければ、それをやるかやらないかはやろうとする当人の自由にまかされていることになり、その程度の認識でも構わないのなら、それほど大したことはやっていないはずだが、軽い気持ちでやり始めたら、なぜか途中から是が非でもやり遂げなければならないと思うようになってしまうようなら、それをやることについての価値が、相対的な価値から絶対的な価値へと変化したことになり、その価値を確信できるような何かをつかんだから、そう思われるのだろうが、それが何かといえば、そう思い込める確かな感触というか、何かのきっかけからそう思い込めるようになるのかも知れないが、それがそんなことには興味も関心もない赤の他人からしたら、どうでもいいような馬鹿げたことかも知れないし、そんなのは迷信だと思うかも知れないが、逆にいくらやっても確信を持てず、やればやるほど疑念が深まって行くようなら、そんなことはやめた方がいいかというと、たぶん疑念を抱きながらやっている方が冷静でいられるわけで、それとは逆にやめた方がいいようなことをやっている人の方が、確信を抱きながらやっているのかも知れないし、その確信が他人には迷信に思われるなら、妄想や幻想に取り憑かれていることにもなるのかも知れず、そういう意味では是が非でもやり遂げなければならないそれが絶対的な価値を持っているように思われるなら、それこそが勘違いの妄想や幻想なのかも知れないが、そんな思いをもたらす感触というのが、物質的な所有感なら、それが高価な商品かも知れないし、高級ブランド品の類いであれば、そのブランドに関する共同幻想のような思いを社会の中で多くの人々が共有している場合もあるから、その物質に精神が宿っているかのような幻想も生じてきて、それが工芸品のようなものとしての価値となって多くの人々の間で共有されていることになるのだろうが、そうなると確かにそれに価値があると信じている人たちにとっては、絶対的な価値だと認識されるかも知れないが、それを実際に所有していなければ、その価値をそれほど信じていないかも知れないし、所有しようとしても価格が高すぎて買えなければ、どんな犠牲を払ってでも買うようなものだとは思われないだろうし、そうなれば少なくとも絶対的な価値だとは信じられないし、それでも何かの間違いで大金が転がり込んできたら買うかも知れないが、実際にそれを手に入れるまでは確信を持てないし、手に入らなくてもそれに対して妄想や幻想を抱くことはできるだろうが、それも手に入れるということが実現しない限りは相対的な価値にとどまるだろうし、意外とそんな妄想や幻想を抱いている自らの愚かさも実感していて、自分のことを馬鹿な奴だと卑下しながら生きている可能性もあれば、妄想や幻想を抱いていても大したことにはならないだろうし、自らが興味や関心を抱いていることが何事も相対的な価値の領域にとどまっていれば、それが中途半端ではあるにしても、他人から見れば煮え切らない態度のように感じられるにしても、振り切れていないし吹っ切れていないことが、かえってその対象への疑念や疑問を抱き続けていることの証拠となって、逆に何の疑念や疑問も抱かずにそれに価値があることを確信しているようなら、他人から見ればその方がわかりやすくて安心できるだろうから、表向きには確信を抱いているように装いながら、相手を安心させて油断させておいてから、その隙を突いて相手を出し抜くようなことをやってしまえば、騙されたとも裏切られたとも思われてしまうだろうが、果たしてそんな機会がそう度々やってくるかどうかは、その人の置かれた状況にも境遇にもよるだろうが、そんなことを実際にやってしまう人がいるとしたら、少なくともその人は自身の行為や行動に関して、それほど確信を抱きながら行なっているわけではなく、それと共に絶えず自らを取り巻く周囲の状況に関しても疑念や疑念を感じているから、必要とあらば割と簡単に方向転換や意見変更や態度変更ができるのではないか。


10月26日「思考と嗜好」

 唐突に身勝手な物言いから何が飛び出すわけでもないが、何らかの集団に所属していれば、その集団の意向が働くから、個人による身勝手な物言いとはなりにくいだろうが、それが集団と言えるかどうかも疑わしいが、その人が国家的な集団に所属している気でいるなら、国家意志のようなものに操られて、それふうの言動になるかも知れず、それが近代の国民国家的な意識から生じてくるとしても、国家的な枠組みに囚われているから、精神が国家に依存する傾向を見せるのだろうが、国家よりはもっと狭い範囲内で地方的な郷土愛に精神が依存していれば、国家よりは地方的な枠組みにリアリティを感じられて、それが例えば村落共同体の伝統や慣習とはまた違った言動へと結びつくかも知れないが、国家的なアイデンティティというのが村落共同体的な伝統と慣習に結びついているなら、国家を村落共同体という狭い範囲内で意識が捉えていることになるが、そのままそれが宗教的かつ民族的な共同幻想に結びつくとは限らないし、イスラム的な共同幻想が宗教的なものであることは明らかだが、それもそのまま他の宗教的な共同幻想と同等のものだとは思えないし、あまりそういうことが他の何かの比較対象とはならないような気がすると共に、そういう意味では国家的な共同幻想も民族的な共同幻想も宗教的な共同幻想も、経済的な共同幻想と結びつくと、何か実質的な効力を発揮することになり、それが否定的な効力になることも多く、統一教会や創価学会などは宗教的な共同幻想と経済的な共同幻想が結びついた典型例だろうが、現状では中国政府が国家的な共同幻想と経済的な共同幻想を結びつけようとしているのかも知れないが、それは大なり小なり他の国の政府でも言えることであり、またそれは日本共産党を除いたほとんど全ての日本の政党にも言えることだが、日本共産党についてはマルクス経済学の古傷が疼くからトラウマとなって、経済的な共同幻想を持ち出すのをあえて避けようとする傾向があるのかも知れず、その代わりに軍拡反対の平和主義的な共同幻想を持ち出すのかも知れないが、国家的な共同幻想と経済的な共同幻想が結びつくのは危険な兆候なのかと言えば、古くは欧米諸国の覇権主義や植民地争奪戦から二度の世界大戦や米ソ冷戦を招いた歴史的な経緯があり、それが潰えたから現状の米中対立などの経済覇権主義へと変奏していて、日本政府もアメリカに追従する形で争いに巻き込まれているだろうし、地政学的には意外と深入りする必要はないのかも知れないが、国家主義的な共同幻想がそれを許さず、中国憎しの感情を煽り立てている範囲内でつき合う傾向となってしまうのだろうが、その一方でそれと対となって発動する経済的な共同幻想の方はどうかというと、政府としては税収面で経済的な繁栄を利用したいわけだから、表向きは富裕層ではない庶民の味方を装いつつも、庶民が憧れて目指すべき対象となる富裕層の存在を必要とするから、ややこしい対応を迫られて、あからさまに富裕層や大企業を優遇してはまずいのだろうが、必要悪として富裕層や大企業が必要となり、貧富の格差を縮小させるための努力を怠っていないことを示すためにも、社会保障制度や福祉政策の充実が必要となってくるから、矛盾した対応を迫られるのだろうが、単純に金持ちや大企業から多くの税を徴収して庶民や中小企業から少なく税を徴収して貧乏人からはなるべく税を徴収しないというのは当たり前の大前提だが、それに加えて庶民や貧乏人が運や才覚や機会に恵まれて金持ちになれたり、中小企業が経営努力に成功して大企業になれるような道が残されていないと、経済が発展しないわけだから、果たしてそういう面で政府にやりようがあるのかというと、あるにしても全面的にそれを追求するようなことでもないから、政府関係者が勘違いしてしまうとまずいわけだが、政府がやるべきメインの事業となると、社会保障や福祉以外では社会の治安維持やインフラなどの社会資本の充実や国土の保全や防衛などになりそうだが、それもそこに住んでいる人たちの生活を助けるために必要となるのだとしても、当然その中には経済活動も含まれてきて、その一部が利殖目的の活動にもなってくるから、そういう方面ばかり強調してしまうと、金持ちや大企業の味方だと庶民から思われてしまうわけで、どう考えても政府が直接金儲け目的の事業に手を出すのは間違っているだろうから、金儲け目的の経済活動はなるべく民間の企業に任せるしかなく、それを全面的に手助けするようなことがあってはならないわけでもないが、限度をわきまえておかないと、かえって民間の経済活動を抑圧するようなことにもなりかねないから、そういうところも意外と矛盾した対応を迫られそうだが、少なくとも各省庁の業務は金儲けには向いていないだろうし、それにもかかわらず経産省あたりが企業経営に口を出して指導するような立場になってしまうと、本末転倒というか、取り締まるべき立場の組織が取り締まられるべき組織と談合しているようではまずいことはわかりきっているはずだが、その辺も公私混同となって公共の利益を損ねている面もありそうだが、そうかといってその辺をはっきりと区別できるわけもなく、馴れ合いの関係からズブズブの関係に至ってしまうのもよくありがちな成り行きなのだろうから、共産党のように清廉潔白であることを追求しろとは言わないにしても、金儲け事業を助けるために全振りしてもまずいだろうし、所得倍増だの資産倍増だのと掛け声だけは勇ましいのもわざとらしく感じられるし、少なくとも新自由主義的な経済活動は国家統制などの官製の経済からは生じないわけで、それを政府主導で行おうとすること自体も本末転倒なのであり、しかもそういうところがわかっていない人たちが政府の経済政策を新自由主義だと批判しているわけだから、二重に間違っているのかも知れないが、都合の良いところだけを新自由主義的な経済活動から政府や地方自治体がつまみ食いする一方で、それを批判する側もそれを誇張して批判するし、そうやって各々に都合のいいように特定の主義主張が曲解されてメディアを通して伝わってしまうのだろうが、そんなことをやっている政府も地方自治体もそれと自覚せずに官製の統制経済を目指してしまい、社会主義的な経済の停滞に直面してしまうわけだ。


10月25日「情勢判断」

 これが行き詰まっている状態であれば、年がら年中行き詰まりの最中であり、果たしてその行き詰まりを克服して今に至っているのかというと、たぶん克服できたこととできなかったことがあり、たとえ克服できずに今に至っていても、それだけではないから、何とか現状の中で生きていられるのであり、少なくとも克服できないことについては、それを無視したりごまかしたりなだめたり騙したり先送りにしたりしながら、それに対して絶えず曖昧な態度を取り続けて、それを解決できずに決着をつけられないままになっているから、そこに触れられると都合が悪いわけで、なるべく都合の悪いことには触れずにそれとは逆の都合の良いことだけ話すような成り行きへ持って行こうとはしているわけだが、いつもそうは行かないわけで、何かのきっかけからそこに触れないわけには行かない成り行きへと向かってしまうと、やはり行き詰まりを意識せざるを得ないから、何とかしてそういう成り行きを避けようとするのだが、気がつけば話題がそればかりとなっている可能性も否定できないし、だから行き詰まり感が募ってくるのだろうが、果たして今がそういう状態なのかというと、たぶんそうだと思っていて、しかもいくらがんばってもそれを克服できないのではないかとも思っているわけだから、絶体絶命のピンチだと認識したくなるのだが、それにしては全く騒ぐ気にはなれないとしたら、ピンチでも何でもないということではないにしても、その一方で着々と他の物事が進行中なのかも知れず、現状で克服できないことはそのままにして、それとは別の方面で物事が進行中なのであり、そんな状況を招いている人や団体を批判したい人たちは、当然のことながらそれを問題視して、それについて批判の対象となっている人や団体に向かって、それを問いただそうとしているわけだが、もちろんそれに触れられると都合が悪いからかわそうとして、論点をはぐらかそうとしたり、別の問題へと話題をすり替えようとするだろうが、そんなことをやる必要がないとは思えないが、何かそれとは違う方面で、それらを相殺するようなことも起こりそうで、全てをなかったことにはできないにしても、それに近いようなことがもうすぐ起こるとはまだ断言できないが、忘れた頃に何かが起こることを期待しているわけでもないのだが、意外とそうなってしまえば、それを批判しようとしている人たちが梯子を外されて、事の成り行きから置き去りにされてしまうようなことが起きるとも限らず、さらなる批判によって破滅に追い込もうとして手ぐすねを引いて待っているどころか、すでに批判し過ぎて出涸らしの茶のような状態となっているとしても、批判がすっぽ抜けてしまうとは夢にも思わないだろうが、それが起きるとなぜかすっぽかされたような気分になってしまうのかも知れず、それが起こることを予言するつもりはないのだが、今後何が起こるかそれを言い当てようとも思っていないのに、それを予言することなど今の段階では不可能かも知れないし、だから何の説得力もないのだが、今の行き詰まり状況が危機感を抱くようなことだとは思えず、だからといって何を楽観視しているのかと問われることもないだろうが、とりあえず現状で問題視されていることについては、多くの人がそれを問題視してほしいわけで、多くの人たちがそれを問題視しているうちに梯子を外されてお払い箱となってから、事態が前に進むような気がするわけだから、ではそれを問題視してはまずいのかというと、そうではなく、それを多くの人たちが問題視しないと事態が前に進まないからそれを問題視してほしいわけで、その辺がややこしくもこんがらがっていることなのかも知れないが、現状で行き詰まっている方面では、そんな行き詰まりを招いたとされる人や団体が批判や非難の的として機能して、それを問題視してそんな人や団体を批判したり非難している人たちが大勢いることが、事態を前進させるには必要不可欠のように思われるとしても、そういう人たちが梯子を外されて置き去りにされてしまうと、事態が前進したようにも思われてしまい、本当に前進したか否かに関係なく、そう思われるのだから不思議な印象を伴うのだが、いつの時代もそうやって事態を前進させてきたとも思えないし、現状の行き詰まりが放置されて風化するにまかされているわけではなくても、果たして行き詰まりがちゃんと解決されてきたのかというと、それも必ずしもそうではなく、その時代の行き詰まりがまるで地層のように堆積した上に、新たな時代がそれを踏み固めながら、その上に覆い被さるようにして出現する成り行きが繰り返されて、今はその行き詰まりを地層化して踏み固める作業をしている最中なのかも知れず、そうした作業を自主的にやっているのか、あるいはやらされているのかは定かでないが、積極的に批判や非難の急先鋒となっている人たちはそれを自覚しているのかも知れないが、しかも梯子をいつ外されるとも限らないから戦々恐々としているわけでもなく、自分たちも巻き添えを食って滅び去る運命だと悟っているわけでもないだろうが、そういった人たちを時代の犠牲者と見なしても意味不明なような気がするから、そんなふうには思わないが、それらの人たちもわかっていないことがいくらでもあるから、これから思いがけないことが起こって、それらの人の思いを打ち砕くような結果が待ち受けているのかも知れず、しかもそれでも構わないように事態が推移して、まるで何事もなかったかのように新たな時代がやってくるわけでもないのだが、新しい時代になってもそういう人たちの生き残りが執拗に問題提起し続けるだろうから、それに興味や関心のある人たちがそんな問題提起の巻き添えを食ってどうにかなってしまうとしても、この時代の行き詰まりを招いた人や団体も無傷ではいられないから、少しは懲りて何らかの教訓を得て賢くなったつもりにはなれるかも知れない。


10月24日「型にはまった言動」

 できれば人を馬鹿にできる典型例のような型にはめて馬鹿にしたくはないが、どうしてもその人の言動がその種の型にはめたくなるような傾向を示していると、実際に型にはめて馬鹿にしたくなってしまい、それがその人の本意ではない言動だとしても、その人が否応なくそういう言動になってしまう成り行きに囚われていることも百も承知だとしても、実際にメディアを通じてそういう言動に出くわしてしまうと、どうしてもその種の型にはめて馬鹿にしたくなってしまうのであり、その人が何かのロボットのような操り人形と化していると決めつけたくなって、中身のない空疎な人間に見えてしまうのだが、それが日本の総理大臣であるのだから、その人の演技者としての優秀さは認めざるを得ないし、少なくともその前任者やさらにまたその前任者よりは優秀だと想像できるが、さぞや学校の成績も優秀だったのかも知れないが、できればもっと普通の人がその種の役職に就いてもらわないと困るような気がするのは、やはりないものねだりなのかも知れないが、そこで機能している制度に適応する優秀さが求められているなら、その種の人が適材適所な人材として出現してしまうわけでもないのだろうが、果たしてその人をその種の人として馬鹿にしても構わないのかというと、馬鹿にしたくなる自分がその人と同じような言動ができるとは思えないから、自分よりはその人の方が優秀であることは認めざるを得ないが、ああいう役職に就けばああいう言動に終始しなければならないのかと思うと、とてもじゃないが、自分なら精神的に耐えられずに気が狂ってしまうような気がしてしまうからごめん被りたいが、その人だけがそうなのかとも思えるから、できれば制度に適応できない愚鈍さが求められているような気もするのだが、そういう意味ではそこで機能している制度に従ってはまずいのかも知れず、従おうとしても能力的に無理な人がその種の役職に就いた方が、制度よりは人が主導権を握っているように見えるのかも知れないし、昔コンクリートよりは人に投資した方が良いという趣旨のキャッチフレーズがあったかも知れないが、それに倣うなら制度よりは人が主人公の政治にしてほしいと安易に主張したくなってしまうが、肝心の中身がどうなのかというと、人に幻想を抱いても結局は裏切られてしまうのかも知れず、人は制度に従うように仕向けられている一方で、制度に適応し過ぎれば中身がない人に見えてしまうし、もちろん制度よりも慣習に従えばさらに儀礼的な空疎さが身についてしまい、制度や慣習に従う余裕がある人が常識や良識をわきまえた人に見える一方で、終始それだけを心がけているように見える人は中身がないように感じられて、世の中にはそうした外見だけではない人が存在しているはずだが、その人の言動に中身があるように感じられるなら、その中身とは何なのかというと、それが理に適っていれば、なるほどと思われて、それが言動のレベルでは信用できるが、それも言葉と行動が一致していることが信用に値する一方で、言っている内容がうわべだけで見え透いていると不信感を抱かれて、言っていることとは違う魂胆が想像できてしまうわけで、そういうことを平然と言ってのけるのだから、演技でそういうことを言っているように見えるのだが、それが迫真の演技というわけではなく、人を舐めているように感じられてしまうことも含めて、そう思わせるような演技なのだと理解せざる得ないわけで、わざと怒らせるようなことを平然と言っているわけだから、そう仕向けられているのだからそれを素直に受け止めれば、普通は怒るしかないだろうが、果たしてそこで怒っても構わないのかというと、その人の演技によって怒るように誘導されていることを思えば、そうなってしまうこと自体が型にはまった反応になってしまい、居心地の悪さを覚えると共に、その人の演技に騙されているのではないかとも疑われて、ではどう受け取ればいいのかというと、それは人それぞれで構わないのだろうが、何か嫌な印象を受けるのだから、人をわざと怒らせるようなことを仕掛けてくる人は信用できないと思うしかないのだが、意図してそうしているとも思えないのだから、それを逆説的な意味では迫真の演技だと受け取っても構わないかというと、案外その人は演じているとは思っておらず、むしろ真摯な態度で誠実な受け答えを心がけているのだとすれば、それが無意識の演技になっていると見てしまうのだが、そう見えてしまうことも偏見や固定観念に囚われている証拠となってしまうかも知れないが、言動に対して実績や成果が伴っていないというか、それもそう見てしまうというと、そう見ようとしているだけではないかと疑念を持たれてしまうかも知れないが、その人の言っていることもそれ伴って演じているように見える振る舞いやパフォーマンスにしても、何かとってつけたような印象を抱かせるのだから、何かの操り人形のような存在を演じている一方で、そうすることによってうまく立ち回っているように見せたいわけでもないのだろうが、確かにその人を操っているように見える組織や団体に対しては、真摯な態度で誠実に振る舞っているように見えるのだが、その組織や団体が何なのかといえば、それが政府そのものであるなら政府という機構の意向に沿った振る舞いになっているはずで、それの何が問題なのかといっても、政府側からすれば何の問題もないとはいえないはずだが、大なり小なり政府側につけばそういう傾向になってしまうのだとしても、それが自らが政府を動かして何かやるという立場だとすれば、ただ政府の意向に従っているだけではまずいわけだが、そう見えてしまうからといって、やはり当人にはそのつもりはなく、自らが先頭に立って政府を動かして自らがやろうとしていることを実現している最中なのかも知れないし、それならそれでそういうことをやっているつもりの人を支持するかしないかどちらでもないかの三択を選ばされているわけでもないが、それを選ぶ機会が巡ってきたら、選ぶ気があるなら選んでおけばいいわけだ。


10月23日「不吉な予感」

 自分がやっていることに関して確信が持てないのは、自信がないということだろうが、まだしっくりくるような結果に至っていないからそう思うのも当然で、これからもそのまま延々と確信が持てない状態が続いて行くのかも知れないから、それでも構わないわけではないものの、結果が出ることに関してはもうとっくに出ていて、その結果が受け入れ難いから、あきらめきれずにいつまでも粘っているつもりなら、自分にとって否定的な結果を受け入れようとしていないだけで、現状では勝負が決した後の状況で敗戦処理のようなことをやっている最中なのかも知れないが、しかし負けたとすれば何に負けたのかがわかっていないわけで、あるいはわかっていてもそこから目を背けているのかも知れないが、少なくとも何かに負けたことに関して自分勝手に勝ち負けの基準を決定できるかというと、独りよがりに何を決めたところで、自分だけで通用するルールを勝手に決めているだけだから、他人の知ったことではないし、そもそも勝ち負けなど関係ないようなことをやってきたのではないかとこれまでの経緯を振り返りながら思っていて、それが気休めでそう思っているわけではなく、たぶん現状をそんなふうに解釈してわかったつもりになれるわけでもなければ、少なくともまだ決着がついていないのかも知れず、しかもその決着というのが勝ち負けという決着ではなく、生きているうちは決着などつかないのかも知れないし、死んでしまったところでそれが決着ではないような成り行きに囚われているのかも知れないが、それが何かをわかろうとしているのだろうが、現状の全てをわかることなどできそうもないから、部分的にわかっているつもりの範囲内では、うまく行っている面よりはうまく行っていない面の方が目立っていると認識しているわけではなく、それよりはうまく行っていると思い込もうとしていて、それも必死にそう思い込もうとしているのかも知れないが、それに関しては冷静な判断ができないわけで、うまく行っていないからそこが気になって仕方がないのだろうが、全てがうまく行くはずがないわけだから、たとえうまく行かなくても、これでいいのだとは開き直れなくても、とりあえずうまく行かない状況の中で生きているから、思い通りにはなっていないはずだが、思い通りのことができればうまく行っていることになるのかというと、普通はそう思いたいのだろうが、思い通りに行っていると思わされているだけかも知れないから、そう思っても構わないが、現状ではそうは思っていないわけだから、思い通りには行かない成り行きの中で生きていると思っていればいいわけだが、それ以上に何をどう思いたいわけでもなく、そう現状を捉えてもしっくりこないわけだから、何かわかっていないことがありそうで、それに起因しているかどうかも定かでないが、いつも不吉な予感がして、間近に迫っている危機を敏感に察知しているような気がするのだが、それが何だか一向にわからないまま、すでに危機が去ってしまったことにも気づいていないようにも思われるから、どうやらそれに気がつかないまま、不意にやってきた危機にうまく対応して、そこで何やらごちゃごちゃと試行錯誤しながら悪戦苦闘している間に、危機が去ってしまったのではないかとも思い込もうとしているようだが、果たしてそれが自力で克服できるような危機だったのかどうかも、今となってはよくわからないし、うまく説明できないのだが、一時期は度々不吉な予感が襲ってきて、それが危険警戒警報のように頭の中で年がら年中鳴り響いているような気もしていていたのだが、なぜか最近はいつの間にかそれが通り過ぎてしまったような気もしているから不思議なのだが、それでもまだ危機が去っていない可能性もあるから警戒心を解きたくはないのかも知れないが、そのどう考えてもわけがわからないおかしな成り行きの中で、自分が何をやっていたのかを振り返ってみても、そこから逃げようとしていた以外には何もやってこなかったような気もするなら、やはりどう考えても襲ってきた危機に打ち勝ったとは思えないから、負け犬のようにただ逃げて逃げて逃げまくっていただけかも知れないし、そこから逃げ切ってしまえば、それで危機に勝ったことになるかどうかもよくわからないし、案外実態としてはそうではなく、逃げているだけではなく、気づかないうちに反撃も加えていたのかも知れず、その反撃というのが、自分が意識して反撃しているわけでもないのに、その危機に対応していること自体が、結果的に反撃していることになるなら、確かに気づかないうちに反撃していたのだろうが、果たしてそんなのが反撃として機能していたかどうかもわからないうちに、最近はその手の攻撃が鳴りを潜めているらしく、確かにそのうちの何度かは、あちらが攻撃を仕掛けてくるタイミングでこちらがそれをかわす用意ができていたというよりは、向こうが勝手に攻撃のタイミングを逸してしまうような間の悪いタイミングで攻撃を仕掛けてきたわけだから、その時点であちらの方が自滅していると考えた方がしっくりくるのだろうが、こちらが意識してそういうタイミングを狙っていたわけではなく、それまでにも頭の中で危険警報が鳴り響くようなことを度々仕掛けてきたわけだから、警戒心が勝手に生じるように仕向けているわけで、そうなると自分が意識しなくても相手の攻撃をかわすタイミングで行動するようになってしまうのかも知れず、そうであればそれがあちらの誤算だったのかも知れないが、そんなことは事前には知りようがないわけだから、あちらの方でもこちらを攻撃の標的と定めた時点でわけのわからない成り行きに囚われてしまったのかも知れず、結果的には攻撃を仕掛けてくる側もそれをかわそうとしているわけでもないのにかわしてしまっている側も、不可思議な事態に遭遇して困惑したかどうかも、今となってはもはや窺い知れないが、どちらも予期しない出来事もその間に起こっていて、それが大規模な通信障害とはならないまでも、結果的にお互いのすれ違いが何度も起こって根負けしたわけでもないのだろうが、なぜがその種の攻撃がいつの間にか自然消滅するような成り行きになってしまったわけで、今後それがいつまた忘れた頃にぶり返してくるかもわからないが、そうなるのを事前に察知していたかのようにこちらも先手を打って、経費をかけて防御体制を構築したことになるかどうかも今後の情勢次第になってくるのではないか。


10月22日「確信と迷信」

 他人が主張していることが何か違うような気がするのは、勘違いではないと思いたいのだが、そう思うことが勘違いかも知れないし、思い違いかも知れないが、記憶違いというのもあるかも知れないし、もしかしたら何でも構わないから自分が間違っていることに納得したいのかも知れないが、そんなわけで何か間違っているような気がするにしても、心の隅では自分の考えの方が他人の意見や主張より正しいのではないかと思いたくなって、それでも今ひとつ確信が持てないから、他人の意見や主張が他の多くの人々から支持や賛同を得られていれば、それに違和感を抱いている自分の方が間違っていることにしておきたいと思う反面、とりあえずそうだとしても、その違和感が間違っていることに関しては、なぜか何の根拠もないのに確信があれば、それが間違っているからこそ、しかも間違っていることをやった方がうまく行くような気がするのであり、普通はそんなことはあり得ないと思いたいが、その一方であり得ないからこそ実現すればうまく行くような気がするのであり、たぶんそれは迷信には違いないのだが、将来自らがそれを実現させて世間をアッと言わせることができるとも思わないが、実現できなくてもそんな思いを抱きながらこれからも生きて行くような気がするから、自分にとっては迷信が心の支えとなっているのかも知れず、その迷信というのがどんな迷信なのかについては、毎度のことながらうまく説明できないのだが、ただ漠然とそれが迷信であることを意識せざるを得ないから、たぶん迷信には違いないのだが、それがどんな迷信なのかを明かさないまま、さらに述べて行けば、何となくそれにだんだんと近づいて行くような気がしているのだが、少なくとも間違っていることが実現していると思っている人が世の中に多くいることは確かで、例えばそれが制度であれば日本では消費税という間違った制度が普及していると盛んに主張している人が大勢いるし、フランスのミシェル・フーコーは刑務所という間違った制度がいかにして世界中に広まったのかをその著書で解き明かしているし、過ちとしての間違った行為なら太古の昔から殺人や盗みや詐欺などが延々と繰り返されてきたし、それが間違っているからこそ実現しているとは思えないし、思いたくはないだろうが、実現していることは確かで、実現しているからこそ改めたいと思っているかどうかは人それぞれかも知れないが、その一方で経済活動である物や情報やサービスの売買や貸借が間違った行為だとは誰も思わないはずだが、もちろん中には間違った売買や貸借のやり方はいくらでもあるにしても、結果的にそれがうまく行けば正しい売買や貸借だったと思うだろうし、売買や貸借の当事者の中には、一方はうまく行ったと思うが、他方はまずいと思うかも知れないし、それが必ずしもウィンウィンの関係ではなく、一方を儲けさせれば他方が損するような対照的な結果をもたらすこともあるから、損した方は売り時や買い時や貸し時や借り時を誤ったと思うかも知れないし、売買や貸借の相手を誤らせれば自分が儲かるような取引もあるだろうから、そうなると間違っていることや誤ったことが実現すれば、儲かったと思って、結果的に儲かった方がうまくやったことになり、損した方がまずいことをやったことになりそうだが、そんなゼロサムゲームばかりが世の中でまかり通っているわけではなく、中には双方共にウィンウィンとなるような取引もありそうなのだが、要するに取引によって双方共にほしかったものを手に入れることができるという成り行きで、そうなればウィンウィンが成り立って、事が丸く収まるはずで、それが間違った行為だとも誤っているとも思えないだろうが、そうした取引の当事者にとってはそうかも知れないが、それでも客観的な立場から判断するなら、どちらか一方が利益を得てもう一方が損したことを指摘できるかも知れないし、そんなことは取引の当事者たちにとっては知ったことではないかも知れないが、もっとうまく立ち回ればもっと安く買えたのにとかもっと高く売れたのにとか、もっと安く借りられたのにとかもっと高く貸せたのにとか、そんなアドバイスなど当事者には大きなお世話には違いないが、コンサルタント気取りで後出しじゃんけんのようにして指摘されると頭にくるだろうが、他から見れば明らかに間違ったことや誤ったことをやっているのに、そんなことをやっている当事者にしてみれば、そこでそういうことやるのがタイミングとしてはどんぴしゃのような気がするなら、何か正しいことをやっているような気になれるわけで、たとえそこで金銭的には大損しているとしても、もったいない浪費だとしても、その人のそれまでの経緯やそこで生じている事情に照らし合わせると、そこではそうすることが正しいように思われて、なぜそうなのかは当人にもよくわからない場合もうまく説明できない場合もありそうだが、どういうわけかしっくりくるとすれば、そうすることが正しいと確信してしまい、それが迷信だとしても構わないような気がしてしまうのだろうが、そうなると金銭的な損得よりは優先したいことがあって、たとえそれが迷信や勘違いを優先させることになっても構わないような成り行きになって、しかもそうなっても当事者がそれでしっくりくるなら精神的な安寧をもたらしたことにもなり、後からそのタイミングでそんなわけのわからないことやってしまったから、結果的に損切りに成功したようなことにでもなれば、そんなことをやった当人としてもうまく立ち回った気にもなりそうだが、そんな当事者とは利害が異なる立場にいる人にとっては、愚かなことをやっていると馬鹿にしたくなるかも知れないし、俺ならもっとうまく立ち回って損どころか利益まで出してみせると豪語してしまう愚かな輩まで出てくるかも知れないが、それをどう思うにしても、やってしまった後からなら何とでも言えるようなことになるのではないか。


10月21日「不可解なシステム」

 不可解というのは理解し難いことだが、信じられないと言いたくなるようなことでもあるから、何かが狂っていておかしいことは確かなのだが、なぜそんなおかしな仕掛けになっているのか理由がわからないし、首を傾げるようなことが連続して起こるから、何か狂気の沙汰のようなシステムに囚われているのではないかと訝しむが、操作しているシステムとしては通常の手順で普通に操作しているわけで、決められた手順に則って操作していくと、何やら途中で引っかけ問題みたいな罠が待ち受けていて、そこから出口のない迷路のような逡巡を強いられて、そんな堂々巡りを繰り返しているうちに、いつの間にか決められた手順から逸脱していて、どうやっても使用説明書の類いには記されていないことをやらないと出口には辿り着けず、なんでこんなへんてこりんな欠陥システムがそのままの状態で放置されているのか理解に苦しむと共に、それが大企業が運営しているシステムなのだから、何かが壊れているような気がしてきて、そこにうごめいている人も物も情報もサービスもイカれていることを、ここ一年余りの間に結構な額の金銭の浪費を執拗に強いられる詐欺ような繰り返しの間に、嫌というほど思い知らされたのだが、そんな嫌な思いが世の中のどこに届くわけでもなく、ただ無視されるがままに全ての情勢が推移して行くようで、そういうものだと割り切らないとやっていられないが、果たして割り切っても構わないのかというと、割り切れないから問い合わせを強いられて、さらに納得できない回答に不信感を募らせながらも、そこは引き下がるしかなく、問い合わせても埒が明かないことも前もって想定済みなのだが、クレームを入れないと気が済まないように仕向けられてしまうのもシステムの意図するところではないだろうが、クレームと苦情にも違いがあるらしく、実際のところはどちらでもなく、必ず問い合わせて確認を取らなければならないような成り行きになってしまい、そこでも使用説明書の類いに記されている手順に則った操作によって解決できればそんなことにはならないはずだが、なぜかそこには収まり切らないような事態がいつも待ち受けているわけで、だから問い合わせるように仕向けられて、苦情だかクレームだかどちらでもあるようなないような曖昧な内容を伝える羽目に陥って、そこで使う必要もない神経をすり減らしているように思いながらも、この程度のことでへこたれている場合ではないと自らを奮い立たせながら、馬鹿げたことにかかりきりになっていること自体に怒りが込み上げてくるのだが、怒りの持って行き場がないところが、怒っても焦っても無駄なような気もしてきて、ただ疲れるばかりで気力や体力や知力の衰えを自覚しているわけでもないのだが、気づかないところで老いが進行してきているのかも知れず、結局のところ老いようがどうなろうが、そんなことにはかまっていられない成り行きの中で日々生きているわけで、それとこれとは別の次元で起こっていることであり、そう単純に様々な次元や水準で起こっていることを一つの原因に結びつけて被害妄想を抱くわけにもいかず、そうでなくても陰謀論を信じたくなってしまうから、何とかしてその種の迷信を退けておかないと、疑心暗鬼の泥沼から抜け出せなくなってしまうような気がするから、それはそれ、これはこれとして、別々に対応して行くしかないだろうが、そうでなくても詐欺師やペテン師が我が物顔で蔓延るのが大衆市民社会の実態なのだから、それが当然ことだと受け止めて行くしかなく、何かの嫌がらせのような被害妄想を誘発するシステムを利用しながらも、そうなっていることを踏まえた上で自らの活動が成り立っていることがおかしいわけでも狂っているわけでもなく、またそれを大げさに騒ぎ立てるようなことでもないから、どうやってもそういう方面では勝ち目がないというか、それが勝ち負けによって決着がつくようなことでもないだろうし、説明通りには動作しないシステムを使わされている時点で、操作が行き詰まってしまうのは当然のことだから、そんなシステムなど使わなければいいという結論が出ているのだが、諸般の事情からそれを使うように仕向けられて、結局はわけのわからない迷路の中で逡巡を繰り返して、しかもシステムを提供している側はユーザーがそうなってしまった方が余分にカネを稼げるわけだから、そのまま放置しておいた方が得なのであり、世の中のどこもかしこもそんな具合になっているような気もするし、ちょっとした些細なところで躓くような仕掛けになっているわけで、そもそも商業的な利益というのが、そういったちょっとした隙をついて金儲けするようなことの積み重ねから成り立っているようにも思えるから、そうなるのが当然といえば当然のことであり、それを下手にユーザーが使いやすいように改善してしまうと、金儲けのチャンスをみすみす逃してしまうことにもなりかねないから、その辺は業者と客との間で騙し合いや化かし合いのような様相を呈しているわけで、そういう関係が政府と民衆の間にも成り立っているともいえるかも知れないが、その辺はユーザーや客が賢くならないと業者から余分にカネを巻き上げられてしまうというのも、何かその種のサービスをサービスと言えるのか詐欺と言ってしまった方がしっくりきそうだが、それがあからさまに違法な詐欺ではないにしても、合法か違法かの境目のグレーゾーンを狙っていることは確かなような気もして、嫌な感じが絶えずつきまとってくるから気を抜けないし、そんなサービスをどこもかしこも堂々と提供するような分野があること自体も、そんなことは百も承知でサービスを利用しなければならないのも、情けなくなってくるような気がするが、それが自分だけでなく他の誰も彼もが利用しているサービスなのだから、そこでもそういうものだと受け取っておくしかないし、そんなサービスが蔓延している世の中なのだから、それをおかしいとか狂っているとか言うのも、何か感覚がずれているような気もしてくるわけだ。


10月20日「真意の有無」

 何がわからないのかわからないのではなく、そんなことはわかりきっているから、そんなことを主張している人の真意がわかりかねるようなら、ではその人が何を主張しているのかというと、単純に戦争に反対しているとか、単純に減税しろと訴えているとか、確かにそういう主張ならわかりやすいし、わかりきったことを主張しているわけだが、しかしそうであれば主張している人の真意がわからないはずがなく、戦争が起こって多くの人々が死傷して生活に必要な建物やインフラが破壊されているから、それに反対するのは当然だろうし、また物価高のインフレになって、多くの人々が生活に困っているから減税しろと訴えるのも当然のことであるから、そう主張している人の真意がわからないというのはあり得ないが、その一方で戦争している当事者には戦争せざるを得ない事情や経緯があって、減税できない政府当局者にも減税できない事情や経緯があり、それを知った上で、戦争反対と訴えたり減税しろと訴えているわけだから、戦争している当事者や減税できない政府当局者とは立場が異なる人たちがそんなことを訴えていることも承知しているなら、ではお前はどちらの味方なのかと問われているわけでもなく、単純に戦争はやらない方がいいと思うし、物価高でインフレの時には減税した方がいいと思うが、では戦争反対と叫んでいる人や減税しろと叫んでいる人に味方できるかというと、どうも単純にそうはならないようなら、それとこれとは微妙に違うような気がすると共に、何が違うのかと問われても、にわかには答えられない事情や経緯があるようで、その単純にそうは行かない事情や経緯が絡むと、うまく説明できないわけで、要するにそういう人が言いたいことというのが、都合の良いことだけ主張するなと言いたいわけだが、では逆に自らにとって都合の悪いことを主張できるかといえば、主張するなら都合の良いことしか主張したくないだろうし、その都合の良いことというのが、戦争反対や減税しろという主張になるわけだが、では主張とはそういうものだと割り切れるかというと、割り切るには、そういう主張に対して抵抗感を覚える事情や経緯を無視する必要があり、それを無視できないから抵抗感を覚えるのだろうから、それが誰もが反対できない主張に賛同できない理由になるのだろうし、気に入らない奴らがこれ見よがしに戦争反対や減税しろと叫んでいるを見ると腹が立って仕方がなくなるから、その気に入らない奴らの街宣車の窓ガラスを割って鬱憤を晴らすわけだが、そんな抵抗感を無視するわけにも切り捨てるわけにも行かないとしたら、ではどうすればいいのかとは問われないし、問う必要もなければ、ただ一方的にそんなことをやってしまう者の非を咎めていればいいのだろうし、それよりは戦争をやっている当事者や減税できない当局者の非を責め立てる必要があり、そちらの方を優先させるのが当然のことのような気がするわけだが、その一方で戦争をやっている当事者と立場が近いほど、戦争をやらざるを得ない理由を推し図ろうとするから、安易に戦争反対とは叫べなくなるし、また減税できない当局者に立場が近いほど、減税できない理由にも納得しようとするから、減税しろとは言えなくなってしまうわけで、そうやって各々の立場の違いに応じて振る舞いや主張が異なってくるわけだが、それを踏まえた上でどんな主張が正しいと見なさなければならないわけではなく、また自らの立場に近いのはどの主張なのかを見極めなければならないわけでもないとしたら、では何をどう判断すればしっくりくるわけでもなく、単純に物事の道理に従えば、戦争はやってはならないし、それを回避する方法を模索しなければならないし、いったん戦争になればそれを終結させる方法を模索しなければならないし、インフレになって物価高に苦しんでいる人がいれば、減税して少しでもその苦しみを和らげなければならないわけだが、やはりそう単純に物事の道理に従えないから、戦争が起こるし、減税もできない事情や経緯が生じてくるわけだが、では道理に従えない理由があるのかというと、それとは真逆の道理もあるとすれば、その道理とは何なのかというと、戦争をやる理由としては、単純に国土を防衛しなければならないし、国民や民族の同胞を守らなければならないから戦争をやらざるを得なくなり、他にも色々と道理を並べられるかも知れないが、とりあえず戦争をやっている当事者には戦争をやるに当たって、それを正当化できる理由を用意するわけで、また減税をできない理由もそれなりにもっともらしい理由が導き出されてくるのだろうが、それらにどこまで説得力があろうとなかろうと、言うだけのレベルと実際に行われているレベルでもそれなりに実感の違いがあって、そこでもどのレベルで覚える実感を優先すべきかというと、当事者にとって都合の良い実感が優先されるだろうから、そうした実感に違和感を覚えるなら、戦争反対や減税しろと叫んでいる人たちに同調できるのだろうが、そうした人たちにも抵抗感や違和感を覚えるなら、では何がやりたいのかと問われるわけでもないところが、そこから意識を遠ざける口実になりそうで、それがそうしたことに対して表向きには無関心を装える理由にもなりそうだが、そんなふうに逃げの姿勢を確保しても、たぶん何かのきっかけからそうしたことへの判断を迫られるかも知れないし、そうなった時には自身が優先している道理に基づいてそのことの是非を判断する羽目に陥ってしまうかも知れないし、また自身が囚われている事情や経緯から道理に逆らうような判断を強いられてしまうかも知れないが、その人がそれらについて日頃からどう思ってようと、そうした外部的な事情や経緯によって自身の意思や意向がねじ曲げられてしまうとすれば、それだけその人が縛られているしがらみが強いことも明らかになるのではないか。


10月19日「拭い去れない疑惑」

 現状に関して何か疑念を抱いているのなら、いったい現状の何を疑っているのかというと、人の信用を疑っているのだが、ただ漠然と信用といっても、信用できない人や団体など世の中にいくらでもいて、なぜ信用できないのかといえば、疑わしいことをやっているから信用できないのだろうが、では逆に信用できる人や団体が世の中にどれほどいるのかといっても、現時点でこれといってすぐには信用できる人や団体が思い浮かばないとしたら、そもそも特定の人や団体を全面的に信用できるかといえば、自分でさえ全面的には信用できないし、自分に対して疑いを抱く度に、自分を信じろと自らに言い聞かせるほど、大して信用していない証拠になるのだろうが、では信じる気になれないのはどういう理由からなのかといっても、それもただ漠然と信用できないのでは、それについてあまり深く考えてみたことがないのかも知れないが、それが誰であろうと信じられる面と信じられない面とがありそうで、また一概に人や団体を敵と味方とに分けて、敵なら信じられないが味方なら信じられるとも限らず、それ以前にそもそも敵でも味方でもない人や団体もいくらでもいそうで、そんな区分け自体が無効なのかも知れないが、特定の誰が信じられないといっても、自らに直接関わり合いのない人や団体なら、それほど疑いの眼差しで見ているわけでもなく、ただ何となくそう思われる程度のことなのかも知れないが、そうであれば特に信用できるか否かが重視されているわけでもないことになってしまうが、今はそうかも知れないが、何かのきっかけからそんな判断を重視するようになるとも限らないから、なるべく信用できる人や団体に注目する一方で、信用できない人や団体を無視できるわけでもなく、特に批判や非難の対象として疑わしいことをやっている人や団体にも注目して行きたいのかも知れないが、そんな対象となる人や団体を実際に批判したり非難している人にも注目しているのだろうから、それらを批判したり非難している人たちを信用しているのかというと、それも一概にはいえないし、その批判や非難の内容や仕方に疑念を覚える人も結構いて、そうなるとその種の批判や非難自体を信用していないことになるのだろうが、なぜ信用していないのかというと、批判や非難の対象となっている人や団体とは同じ穴の狢だと思っている人たちも結構いるからかも知れないが、それらの人たちがあからさまな悪党であるなら、かえって信用できる面も出てくるが、大抵は善良そうに装っているから、その化けの皮を剥がしたくなってしまうのだろうが、それが表面的な役割分担に過ぎず、偽りの役割を担っているように装っている人たちは確かに信用できないのだが、そうではなく誰もがそれとわかるような振り切れ方をしている人や団体がいて、その振り切れ方が良い意味でも悪い意味でも信用できて、例えばそれがアメリカであればトランプやイーロン・マスクになるのだろうが、そうではなく中途半端な偽装のレベルで善人を装うような人になると、信用できない以前に、単なる小物として扱われてしまうから、それもわかりやすいのだろうが、なぜかその種のわかりやすさからかけ離れたことをやっているわけでもないのだが、たぶんそこから生じてくる疑念というのが、信用できない人や団体から直接生じてくるわけではなく、その種の人や団体を取り巻いている一般の人々や、そんな人々が醸し出す環境から不信が生じていて、そんな人々に取り囲まれているような環境が、それらの人や団体を信用できない存在に仕立て上げているというと、ではそんな人々とはどんな人々なのかというと、それを善意を抱いて群がってくる大衆と言ってしまうと、一昔前のテレビタレント的な存在になってしまうが、現代のネット時代においては、それとはちょっと違う存在となっているように思われて、そこで対話や会話を成り立たせようとすれば、ただでさえ成り立たない言葉のやり取りであることを無視してしまうことになって、噛み合わない議論を噛み合っているように見せかけようとすればするほど、信用できない内容となってくるから、逆に他人から信用されるには絶えず議論が噛み合っていないことを証明するために、議論が平行線に終始しているように持って行かなければならないわけではなく、自然にそうなっている限りで、そこから信用が生じてくるような逆説的な印象を伴うのだろうが、だからといってそうなっている様子をSNSなどで見せびらかされると、もちろん意図して見せびらかしているわけではないとしても、何かそれが信用できない議論の中身のような印象を伴ってしまい、もっと偽装を活用する必要があるのではないかと的外れなことを思ってしまうのだが、それが偽装などではなく本当の姿なのだと認識しておけば済むようなことかも知れないのだが、仮に本当の姿であり、なおそこに演技が入ってしまうのも当然の成り行きだとしても、まだまだ日本では陰謀論の世界が続いているようにも思われて、今はそれでも構わないとしても、それでは済まないような事態になったところで、自然な演技を心がけているように見える物語の登場人物たちがどう振る舞うかが、今後の課題だと言っても、何を言っているのか理解不能だろうが、それが架空の世界を語る物語の登場人物なのではなく、現実の世界に生きている生身の人間だと誰もが承知しているつもりだろうが、なぜかその種の偽装が中途半端だからこそ、そうは思えないとしたら、果たしてもっと偽装の演技に磨きをかけるべきなのか、あるいは演技などやめて本音で勝負すべきなのかは、どちらでも構わないような様相を呈しているわけでもないだろうが、まだだいぶ余裕がありそうに見えるからそう感じられてしまうのであり、そういう意味ではそこに登場する誰もがその場の状況に見合った存在となっていて、それ以上は迫真の演技を伴った偽装など不要なのだろうから、たとえそれが見え透いた演技であることが周知の事実であっても、ばればれの偽装を押し通すしかやりようのない成り行きに誰もが囚われているのではないか。


10月18日「経済の躁鬱病」

 経済の好不況の波は、人々が抱く幻想の程度や傾向と共に、その期待のバブルが膨らんだり萎んだりするのに伴って生じるから、集団の心理状態における躁鬱の浮き沈みから成り立っているようなものだが、実際に物や情報やサービスが売れなくなって不況になれば、集団の心理状態も鬱の傾向となってくるのだろうが、鬱にも強い状態から弱い状態までそれなりに振れ幅があるから、鬱状態になるにしても弱い状態に留まっていれば、そこから立ち直るのも比較的容易に思われるだろうが、鬱とは正反対の躁状態になっているとしても、病気であることには変わりないから、躁状態になってもそれなりに問題が出てきて、物価高のインフレ状態となれば、それを沈静化させるための対処が求められるのだろうが、では躁鬱の振れ幅をできるだけ小さく保てば健全な経済に近づくのかというと、人の心身は絶えず躁状態を目指すわけで、しかも躁状態となって好景気の山が高くなればなるほど、その反動で巡ってくる不景気の谷も深くなるだろうから、意識して好景気の躁状態になるのを期待する気持ちを抑え込むことは容易ではないとしても、意識しなくても心理的な浮き沈みのバランスを保つために、絶えず制度的な仕掛けを講じて状態を制御しようとするのだろうから、心理的には好景気になるように躁状態を目指しながらも、その一方でバランスを保つための制度的な仕掛けを講じようとして、結果的に辻褄が合わず互いに食い違う心身の状態を肯定して正当化しようとしてしまい、実際にも好景気にも不景気にも対処しないわけには行かないからそうなって当然なのだろうが、それも事後的な対処になるから大抵はうまく行くわけには行かないのも当然の成り行きで、対処したらしたでうまく行かない面に関しては不満が鬱積して、それが批判や非難の口実になるのだろうが、だからといって批判や非難を慎めということではなく、批判や非難によって事態を動かそうとしているわけだから、やりたい人はどんどんやればいいわけで、それをやったからといってやった人や団体の思い通りに事が運ぶはずもなく、当然それに対するカウンター攻撃も繰り出されるから面倒な紆余曲折を伴うにしても、そんな批判や非難の内容が筋の通った真っ当な内容になればなるほど、現状がそんな当たり前の批判や非難によってどうにかなるようなことでもないことも明らかになってきて、そこから結果的にどうなるにしても、当たり前の批判や非難に依存している人たちの思惑通りには行かないから、それらの人たちもそんな効果の希薄な批判や非難しかできないという逆説的な真実がもたらされて、それによっても何がどうなるわけでもない状況が続いて行ってしまうのだろうが、単純に現状が駄目だから現状でまかり通っていることとは正反対の対処をすればうまく行くわけではなく、むしろ現状でまかり通っていることをより一層推し進めようとする傾向が顕著になっていれば、それに逆らわないどころかさらにエスカレートさせる必要もあるのだろうが、それに対して真っ当な批判や非難をしている人たちにそれを期待しても無理なのかも知れず、真っ当な批判や非難をしている限りでそれに専念するように仕向けられてしまって、それに専念してしまうから犠牲者の役割を担うことは避けられるとしても、その一方で主導権を握って駄目なことをやっている勢力から主導権を奪うには至らず、そうなるとさらに停滞期が長引きそうだが、それを停滞期と呼ぶか安定期と呼ぶかによって評価が違ってくることも確かで、もちろんすでに安定期から変動期へと状態が移行しているはずだが、相変わらず低空飛行で安定して緩慢なジリ貧状態に陥っていた頃の意識から抜けきれていないものだから、変動期に入ってもそれに対応した姿勢をとれていないわけで、だから駄目だと見なしたくなってしまうわけだが、それも見込み違いなのかも知れず、駄目なら駄目なりにうまく行っている面もあるから、現状が駄目なままに保たれていて、それが格好の批判や非難の的となっているにしても、批判や非難をさせておくことが肝要であるから、そういった非生産的な作業へと精力を注ぎ込ませて批判疲れや非難疲れへと誘い込めば、その手の真っ当な意見を主張する勢力を抑え込むことに成功するとしても、その一方で中には真っ当でないやり方で攻勢を仕掛けてくる勢力もあるだろうから、それが何なのかが現状では今ひとつ理解しかねるところだが、それに関してはなぜか妙に言っていることとやっていることが噛み合っていないような矛盾しているようなことをやっている勢力が目立っているとしたら、そんな勢力が今後要注意の対象となってくるのかも知れず、確かに現状では噛み合っていない活動が、何かのきっかけから噛み合い出すと、そこから思ってもみなかった力を発揮して、たちまちその場の主導権を握ってしまう事態も、現状では考えられないとしても、その考えられないことが、わけのわからない紆余曲折を経た末に実現してしまうかも知れないから、それを予想して今から対処しておけと言ったところで、対処する余裕などすでにないほど現状でもジリ貧に追い込まれているのかも知れず、そんなふうに現状を捉えるなら、現状で誰もが納得できる真っ当な批判や非難をすることにかかりきりな人や団体などよりは、明らかに間違った主張に囚われている人や団体の方が、かえってまだ伸び代があるのかも知れないが、それらの人や団体が世の中の主導権を握るには、誰もが思ってもみなかったわけのわからない紆余曲折を経ないとそうはならないのかも知れないから、そういった人や団体にしてみれば、安易に真っ当な批判や非難へと誘導されてしまうとその可能性も消えてしまうから、今がその正念場を迎えているといっても、まだ誰もそうは思っていないだろうから、そのチャンスが必ず到来することを信じて、せいぜい現状で主張している明らかに間違っていると見なされる意見にさらに磨きをかけて、その機会が到来するのをただ待つしかないだろうが、たぶん偶然の神が味方するのはそんな人たちなのであって、それはこれまでの歴史的な経緯が示していることでもあるわけだ。


10月17日「資質と言動と器」

 勘が鋭いことと頭脳明晰であることが同じとは言えないが、勘が鋭くて頭脳明晰な人はいるだろうから、自分がそうであれば言うことはないが、そんな人を味方につけていれば頼もしいだろうし、少なくともそんな人を敵に回さなければ肯定的な状況だと言えるはずだが、それが否定的な傾向を持つとしたら、何がそうなのかと言えば、悪知恵が働くとか、意地が悪いとか、エリート意識丸出しだとか、勘が鋭くて頭脳明晰なことを鼻にかけている人がいるとすれば、否定的な印象を受けるが、本当に勘が鋭くて頭脳明晰なら、そんな態度では他人から嫌われることがわかってしまうから、少なくとも見かけ上は謙虚に振る舞うだろうが、そのつもりがなくてもその人の言動からそんな雰囲気が滲み出てくれば、どんなに謙虚に振る舞っているつもりでも、それが他人に伝わってしまうから、それ自体は隠しようがなく、それでもその人の利用価値が高いと判断すれば、周りの人たちが放っておかずに、集団の中でリーダー的な立場へと祭り上げてしまう場合もあるだろうから、そんな成り行きをその人が受け入れるかどうかもその場の状況次第だとしても、大抵はそれが自らの利益になると判断すれば受け入れそうなものだが、周りから推されてそうなる人と、自ら率先してそういう立場や役割を獲得しようとする人とで、人としての資質や傾向も異なってくるだろうが、いくらそういう立場や地位に就こうとしても、その器でないと周囲から判断されれば支持も集まらないだろうから、普通はそういう人がそういう立場や地位に就けるわけもないはずだが、そういう立場や地位に就いてからその器でないことが発覚してしまう人もいるだろうから、そんな人をリーダー的な立場や地位に担ぎ上げた人たちには、人を見る目がなかったことにはなるが、そういう立場や地位に就いた後からそういうことが発覚するわけだから、事前にそれがわかっていれば、その人をそんな立場や地位には担ぎ上げないだろうから、見込み違いだったことには変わりないが、そうなってからでないとわからないことが多く、逆に当初はその器でないと思われていた人が、何やらわけのわからない紆余曲折を経て、何かの間違いでそんな立場や地位に就いてしまって、先行きが思いやられても、立場や地位がそれに見合った人に作り変える場合もあるから、結果的にはそれで良かったことになれば、そんな人には伸び代があったことになるだろうが、それが果たしてそういうレベルで語れることなのかというと、その人の資質や能力や実力などよりも、その人が置かれた立場や地位などから言動や行為や行動が制約を受けている割合の方が大きければ、その立場や地位をもたらしている組織や制度に囚われた存在として、その人のやっていることを受け止めなければならず、そうなってくると必ずしもその人であってもなくても誰でも構わないような言動を伴ってきて、例えば官僚的な答弁に終始していれば役職が務まるようなことにもなってくるわけだが、そういう面ばかり強調しても埒が明かないなら、何かの気休めや目眩しとなるようにその人のリーダーとして資質や手腕や能力や実力などからその人のやっていることを評価できれば、何か幻想を抱けるような気もしてくるわけだが、幻想など抱く必要もなく、そんな気にもなれない状況の中では、ただ単にその人が所属する組織や団体の意向を代弁する役割に沿った言動しかできないのをどう受け止めても、それがその人の能力の高さを証明できるものでもないだろうから、その場がそういった制度的な人材しか出てこないような成り行きになっているとすれば、そんな立場や地位も形骸化していると言えるし、そこに何か権力のようなものを想定できるとしても、権力を持っているのがそういう立場や地位に就いているその人自身というよりは、その人が所属している組織や組織が運営している制度から権力が生じてくると捉えておくべきで、そんな状態の人に向かって組織や制度の意向に背くような要求をぶつけてみても、それはその人の権限を超えたことをやれと言っているようなものだから、そんなことができるわけもなく、何かそれがないものねだりのように聞こえてしまい、要求自体が無理難題をふっかけていることにしかならないのだろうが、果たしてそれでも構わないのかというと、要求を突きつけているつもりの人や団体としても、そういう要求を突きつけるような立場や役回りとなっている場合もあるから、なるほどそういう立場や役回りの人なら、そういう要求というか、できもしない無理難題をふっかけてくると事前に予想がつくようなことにでもなれば、その人でさえその人が所属している組織の意向に沿った要求を突きつけてくることになってしまい、そうなるとそこで行われている何もかもが猿芝居のような予定調和のやりとりに思われてしまうわけだが、そういうことが当然のことようにまかり通っている状況の中で、それに気づいてしまう人は勘が鋭くて頭脳明晰な人なのかも知れないが、ではそうなっていることを当然視している人は凡庸な人なのかというと、たとえそれに気づいていても戦略的に事なかれ主義的な姿勢を保っているのかも知れないし、そうなっていることを前提として織り込みながらも、機会を捉えてそういう状況を逆手にとって何か仕掛けて自身に有利な状況へと持って行きたい意向でもあれば、その場が丸く収まるように組織の意向に沿った猿芝居につき合っているふりを装いながらも、虎視眈々とそんな猿芝居に同調している人たちを手玉に取るようなことをやってのけるつもりなら、何か腹に一物ある人になるのだろうが、そうなると単に勘が鋭くて頭脳明晰なだけではやりきれないことになってくるのではないか。


10月16日「実行できること」

 何かの基準に照らし合わせて何が良くて何が悪いと言えるが、悪いことをやっている人や集団にも味方や協力者がいるから悪いことをやれている実態もありそうで、その一方でそれを悪いことだと決めつける人や集団もいるから、そういうレベルでは事の良し悪しを決めつけることが実際に行われていることに対してそれほど影響を及ぼしていない実態が明らかになっているのだろうが、それを悪いと決めつけることとその悪いことを実際にやってしまえることのどちらがどうだと言いたいわけでもないが、順序としては何かが行われた後からそれが悪いことだと決めつけられることの方が多そうで、そうなるとそれを実際にやってしまったことが、その機会を捉えてそれをやったから、結果的にそれをやることができたとやった後から解釈できるが、今回のハマスのイスラエルへの奇襲攻撃もそれをやる絶好の機会が巡ってきたからそれをやって、一応の成果が得られたと解釈できるが、それに対してイスラエルのネタニヤフ政権の方でも、待ってましたとばかりにテロリスト集団と見なしているハマスが実効支配するガザ地区へ軍事攻撃する機会が巡ってきたわけで、そういう意味ではハマスの側でもネタニヤフ政権の側でも自分たちのやりたかったことがやれて、目論見通りに事が運んだことになるかどうかも今後の情勢次第だが、攻撃されて死傷してしまった民間人はたまったものではないから、民間人の味方を装うなら、テロや軍事攻撃はやめろと主張できるが、それもそういうことが行われた機会を捉えて、ここぞばかりに主張していることであって、結局ハマスの側もネタニヤフ政権の側も攻撃をやめろと主張する側もその機会を捉えて事態に適切に対処しているつもりになれるが、しかも三者とも何が良くて何が悪いかをはっきりと言える立場にもなっていて、もちろん三者の言い分が対立することになるはずだが、各々が実行できることを実行していることが、何か予定調和な印象を受けるのだが、それに加えてさらに陰謀論者の方でも言いたいことが言えるだろうから、それをどう捉えてみても、その種の予定調和から外れる要素を見つけられない限りで、今回の事態が誰かの思惑通りに事が運んでいると考えるなら、確かに陰謀論的にはしっくりくるのだろうが、果たしてそこから外れる要素が何もないのかというと、あったとしても今のところは誰もそれに気づいていないのかも知れないし、それを見つけてこれ見よがし言い立てたところで、予定調和の展開にはまっている人たちには馬耳東風なのかも知れず、たとえ予定調和を壊す要素があろうがなかろうが、三者+陰謀論者がそんな要素を無視していられる限りは、事態が今後そこから逸脱することもないはずだが、仮に逸脱することが起こるとすれば、イスラエルがガザ地区を完全に制圧して、ハマスをガザから排除する結果になれば、予定調和ではなくなるわけだが、両者の力関係からすればやってできないことはないはずだが、ネタニヤフ政権がそこまで踏み込めるかどうかが今後の情勢の鍵を握っていると分析してみても、実際にそういうことが起こるまでは誰もそこまでは想像できないだろうし、イスラエルの同盟国のアメリカもそれを容認しないかも知れないから、アメリカ政府の出方次第なところもありそうで、ハマスとイスラエル軍との間の圧倒的な武力差だけからそんな結果を予想してみたところで当てが外れそうで、意外とネタニヤフ政権のハマスに対する強行姿勢も、すでに限界を越えて発動しているから、今後勢い余って一線を越えたことをやってしまうと、思わぬところからしっぺ返しを喰らう可能性があるかも知れないが、それが何なのかは今のところは誰も気づいていないのかも知れず、実際にそうなってから、なるほどと思われるような解説や解釈が出てくるかも知れないから、部外者や野次馬はそうなるのを黙って待つしかないのかも知れないし、もちろん黙っていないでネタニヤフ政権の蛮行を非難し続けることが良識派の取るべき態度になるだろうが、現状でもガザ地区全体を武力制圧することは実行できることの範疇には入っていないのかも知れず、敵を完全には殲滅せずに、多大な損害を与え続けてもテロの脅威や禍根を残しておくことが、自分たちの政権への民衆の支持を維持する上で必要だと考えているとすれば、今回もガザ北部へ戦車部隊を侵攻させて一定期間にわたって破壊の限りを尽くしてから、期間が過ぎたら撤退するような成り行きになれば、今まで通りの予定調和が保たれることになるだろうが、それで済むかどうかも実際にやってみないことには何とも言えないところだろうし、やっている途中で事態がエスカレートして暴走するようなことにでもなれば、たちまち制御が利かなくなって、思わぬ方向へと事態の進展がもたらされて、ネタニヤフ政権が崩壊することにでもなれば、軍事侵攻によって自ら墓穴を掘ったことになるかも知れないが、そうなるかどうかも今後の情勢次第だと述べておく程度が無難なところだろうが、意外とそんな結果に至ったところでそれでもなお無視しがちになってしまうかも知れないし、何を無視しがちになってしまうのかといえば、人道的な配慮を軽視している側が無視しがちになってしまうことがあり、それがその種の人たちが日頃から小馬鹿にしている人権活動家の類いがやっていることであり、それが一見無力で無意味な反戦デモ活動程度のことでしかないのだろうが、たぶんそれがそこへと目を向けさせるための囮なのであって、人々の目をそこへと向けさせて、また人畜無害で何の成果ももたらさないことをやっていると安心させておくことが肝要なのであり、そうやってじわじわとそれとは別の方面から行われていることもあるわけで、実際にこれまた小馬鹿にしたくなるような人道支援の類いも行われていて、そうやって戦火の被害に遭った現地の人々へと世界中から支援物資を届けようとするわけで、それが焼け石に水程度の気休めようなことだと軽視してしまいたくなるようなことでしかないとしても、なぜかそれが軍事戦略家の類いから小馬鹿にされながらもボディーブローのようにじわじわと効いてくる可能性に期待している人が世界中に多ければ多いほど、地道にそういう活動を継続させていくことが破局を未然に防ぐ効果があるのかも知れない。


10月15日「理不尽な光景」

 それを大げさに語る必要もないが、たぶん日本の現状が世界の潮流から置き去りにされているわけではないどころか、世界で起こっている対立の構図が日本でも見受けられるから、メディアを通して窺い知れる理不尽な光景を前にして怒りを覚える人も少なからずいるようだが、では何が理不尽な光景なのかと言えば、いつものようにそれをどう表現すればいいのかわからず、それが実際に目の前で当たり前のように起こっているわけではないのに、それが当たり前ではまずいような気がすると共に、勘が知らせているのが、それを利用して困難な事態を切り抜けなければならないところが、理不尽と言えば理不尽なのかも知れないが、それを慣習と感覚のせめぎ合いと表現すれば、やはり何を述べているのかよくわからず、制度としてそうなっていることに逆らわなければならないところも、その一方で制度とそれに伴って機能している法律にも従っているのだから、感覚と動作が相反することになり、感覚に従えばいいのか、そのまま制度的な動作に追従すればいいのか迷うところだが、どちらであっても構わないと同時にどちらか一方を選択しなければならないとなると、どうやれば正解になるわけでもなく、正しいと思う行為や行動が間違っているとも言えないのだが、これといって確かな基準や判断が設定されているわけでもないから、とりあえず制度や法律に従っているふりを装いながらも、隙あらばそこから逸脱した行為や行動に訴えなければならず、ではそれが制度に逆らう違法行為なのかというと、そうであっても構わないものの、成り行きとして否応なくそうなってしまうなら、そうなる成り行きを止めることはできないわけで、自らの意志に従って積極的にそんなことをやってしまうわけではなく、そんなことをその場でやる必要があるのかないのかもわからないまま、結果的にそんなことをやってしまえるわけだから、果たしてやってしまったそれを正当化しなければならないのかどうかも、その場の成り行きに従えば正当化しなければならなくなることもあるだろうが、その一方でやってしまったことを後悔することになれば、間違ったことをやってしまったのを認めざるを得なくなるわけだが、立場上理不尽なことをやらざるを得ない人や集団がいる一方で、そんな行為や行動によって被害や損害を受ける人や集団も出てきて、それに対して理不尽な行為や行動をやめろと訴えかけなければならない立場の人や集団も出てくるから、そこで偽りではなく本物の対立が形成されて、それがその場の成り行きに沿った形で形成されている限りで、同じ一つの社会の中で異なる立場による棲み分けが成り立ち、そうなるべくしてそうなっているような気がするなら、それが予定調和の対立のような気もして、結局はそれによって社会の中で役割分担が形成されていることにもなるから、そんな役割分担に従う限りで、その役割分担に沿った言動も可能となるような結果をもたらして、それが攻撃する側と攻撃を受ける側の役割分担であったり、搾取する側とされる側の役割分担となれば、もちろん一方的にそうなるとも限らず、やられたらやり返すことも可能だからこそ、やり返す余地を残しながら、やり返されたら、それを口実に使って、さらにやり返すことも可能となるわけだが、それでもそこに一方的な力の差が生じているなら、力が弱い側の味方になって抗議の声を上げることも可能となってきて、抗議デモのような行動を起こす人や集団も現れるわけだが、その一方で力の強い側には味方が大勢いるから力が強いわけで、それも結局はどれほど大勢の味方を集められるかで力の強弱が決まるなら、人気取りのようなことをやる成り行きになってきて、対立する双方の宣伝合戦のような様相も呈して、世論調査や選挙結果で優劣を決めるなら平和なやり方だが、それでは済まないなら暴力の応酬によって決着をつけようとするだろうし、そういうことがエスカレートすれば戦争や内戦となるわけだが、それが世界のどこでも起こっていて、程度の違いこそあるものの、日本でも起こっていることでもあるから、そういう成り行きに従って力の弱い側の味方になって抗議の声を上げれば、何かそれが正しい行為や行動になるような気はするだろうが、その一方で攻撃する側や搾取する側だと見なされている人や集団には大勢の味方がついていて力も強いわけだから、その力の差をひっくり返すには、宣伝合戦に打ち勝って、世論調査や選挙で優勢となる必要が出てくるわけだが、もっと根本的なところで攻撃したり搾取しようとすることが理不尽な行為や行動なのかというと、それが徴税などの制度として確立している範囲内では合法的にも認められているから、建前上は理不尽とは言えないだろうが、それに対して抗議の声を上げている人や集団は、消費税やインボイス制度が理不尽で不当な制度だと訴えているわけだから、そういうことを言っている側に味方するなら、理不尽なことが行われているのを認めざるを得なくなるわけだが、それがなぜ理不尽で不当な制度なのかと言えば、力の弱い側から強制的に搾取するような結果をもたらすから理不尽で不当な制度だと言えるのだろうが、それに関しては、商慣習である物や情報やサービスの売買や金の貸借に伴って力や立場の強弱が決まってくるから、味方をどれほど集められるかの延長上で、どれほど大勢の客を集められるかで優劣が決まってくるのだろうから、そこでも人気取りのようなことが行われて、客を大勢集められる人や集団を味方につけることができれば、それだけ力が増してくるわけで、そうなると弱者の味方になって抗議の声を上げている側でも、味方をできるだけ増やして力をつけようとするだろうから、そこでも宣伝合戦が行われることになり、何かそれが循環論に従って堂々巡りをしているような理不尽な光景に見えてしまうわけだ。


10月14日「覇権国の入れ替わりの歴史」

 過去の歴史を現代や未来の世界情勢に当てはめる際に、それがもっともらしく思われる範囲内では信じるに足る法則性がありそうで、その中でも覇権国の定期的な入れ替わりという法則が、何の疑いもなく信じられているようだが、それがそうなっているように見えてしまう結果から言えることであるから、現在進行形で生きている人にはそんなふうには見えない場合があり、実際にそんなふうには感じられないのに、そんな図式を表示されてそれを見せられてしまうから、そんなふうに見えていると信じ込んでしまっているのかも知れず、それが都合良く提示できる図式のトリックだと言うつもりはないが、現在の覇権国とされるアメリカに衰退の兆しが見え始めているから、次の覇権国が中国をスルーしてインドになるとか言われると、それがもっともなことだと思ってしまうのだが、巨視的に見ればそんなふうに見えてしまう構図であっても、もっと微細なところを見るとそうでもないようなら、物事を巨視的な見方から大ざっぱに把握することの有効性にも限界がありそうで、ある面ではそうであってもそれとは別の面ではそうではない程度のこととして認識すべきことなのではないかと思ってしまうが、それがそういう見方に異を唱えるというよりは、それももっともなことだが、別の見方もある程度のこととして認識しておけばよく、同時に複数の見方や考え方や捉え方を共存させておければ、時と場合に応じて、その場の情勢に合った見解を提示できて、そこではそんな見解がもっともらしく思われるものの、別の機会においてはそうでもないなら、それとは別の見解も提示できて、その中のどれがその場の情勢に合っているかを選択できて、それがその場の情勢に照らしてもっともらしく思われるなら、妥当な見解になるかも知れないが、果たしてそんなやり方で構わないのかというと、それでは納得できないなら、例えばその場の情勢に合った正しい見解が一つだけあるという信念に凝り固まっても構わないのかというと、それでしっくりくるならそれでも構わないだろうが、思考の柔軟さに欠けるというか、そこに複数の認識や見解の共存を容認できない姿勢や態度が見受けられて、それだけ偏狭なものの見方に囚われているようにも思われるのだが、当人がそれで構わないなら、そう思っている人と立場が違うと思っておけばいいことでしかなく、それでも構わないような立場があることを認めても構わないかも知れないが、それが容認できない立場というのもあるのかも知れないし、そういう人にはそういう認識や見解に凝り固まってもらえば済むようなことかも知れず、それでは済まないなら意見や主張が対立していることを巡って論争したければしてもらっても構わないが、なぜかそれが他人事のように感じられるなら、そんなことは眼中になく、知りたいのは誰もが信じているらしい覇権国の交代史ではないとすれば何なのかというと、それが民主化が行き詰まってくる歴史であったり、あるいは民主化が進展する歴史であったりして、それに資本主義経済が絡まってくるとすれば、民主化の進展と共に資本主義経済も発展してくるが、資本主義経済の発展が民主化を行き詰まらせて、民主化が行き詰まってくると資本主義経済の発展も限界を迎えて、それ以後は衰退してしまうのだが、民主化を行き詰まらせている人や団体が資本主義経済を発展させようとしているから、そこで行動や行為に自己矛盾が発生していると捉えればいいのだろうが、資本主義経済を発展させようとすれば民主化が行き詰まること自体も疑わしいわけで、逆に民主化を進展させようとすることが資本主義経済を発展させようとすることとは相入れない面もあるから、結果的には民主化の進展と共に資本主義経済も発展してきたのに、資本主義経済を発展させようとすると民主化が行き詰まり、民主化を進展させようとすると、資本主義経済を発展させようとする人や団体から妨害を受けるような矛盾が生じてしまうから、それらの絡み合いが一筋縄では行かない様相を呈していることが窺われるわけだが、たぶんそこで鍵を握っているのは政府と呼ばれる機構であり、民主化勢力が政府の中で主導権を握ればいいと単純に思われるものの、実際に民主化勢力の側でも主導権を握ろうとするのだろうが、政府の官僚機構やそれと結びついた政権政党などはそれを阻止したいだろうし、形の上では民主化勢力が政権を握っている国々でも、それが形骸化した民主体制となっている国も多く、そういうところが微妙な現状となっていて、そういう意味でなぜ中国がアメリカと入れ替わって覇権国になれないのかを説明するのに、民主化を政府や政権政党があからさまに阻害しているからと結論づけるわけには行かないだろうし、どうしても経済的な視点から説明を試みると、共産党による一党独裁体制のままで覇権国を目指しているところが、特に不利には働いていないどころか、民主的な煩雑で遅々として進まない面倒な手続きを省けるところがかえって効率が良いはずなのだが、なぜかそれが覇権国になれない理由だとすると、独裁体制の中にいる人たちには理解できないことになってしまうわけで、そういった合理的で効率的な観点だけから物事を考えるだけではうまく説明できない事情や経緯が絡んできて、結果的にそうなっていることをそういった観点からだけからでは説明できないわけで、そこに合理的な面もあれば不合理な面も兼ね備えていないとならないし、そうなると合理的な説明だけでは不十分となり、また効率的に物事を進めるだけでは納得できない面も出てくるから、効率的に物事を進めてうまくいく面だけでは、全ての物事が効率的に作業を進められるわけではない面も考慮しなければならなくなるから、やはり不十分になってしまうわけだが、そういう意味でなぜ中国でデジタル化が進んでいるかというと、民主化を抑圧する独裁体制だからという理由になってしまうだろうが、それが独裁体制を支えている官僚機構の中にいる人は理解できないところだろうし、そんなふうにしてどうしても経済的な事情や経緯だけでは物事を処理できない面が出てくるわけで、そこに民主化が必要なわけがあると考えても腑に落ちないのではないか。


10月13日「人の思惑と集団の意向」

 時には複数の人や集団の間で目指す方向が同じとなって、そういう成り行きの中で多くの人の思惑が競合して、それに伴って同じような目的や目標が交錯して重なる部分が出てくるにしても、その細部においては微妙にずれているから、それなりに棲み分けが可能となっていて、また時には相反する思惑を抱きながらも、それが同じ傾向の思惑である限りにおいては、そこから派生する様々な要求や要請が錯綜して複雑に絡み合った末に、各々の意向や意志がそのままの形で伝わることも他の人や集団から受け入れられることもなく、結果的にはどう考えても当初の要求や要請からはかけ離れた理不尽なことがその場の主導権を握った人や集団によって妥協の産物として行われて、それに対する反応として多くの人々に困惑をもたらすのだが、主導権を握っている人や集団の中では、そんな困惑など意に介さず、そうなった結果を強引に正当化しようとするから、それに関して何が言いたいのかよくわからないことを言っている人でさえ、自身が言いたいことをそのまま言っているようには思えないとしても、その場の成り行きに沿う形で、そういう成り行きが促進するようなことを言わせられている割合の方が大きいのかも知れず、その人自身はそうなることを望んでいると思っているはずだが、その場の成り行きによってそう思わされているから、そんな言動からそう思っているように見えてしまうわけで、それがその人の利益や立場を損なうような結果をもたらしているとしても、その人が所属している集団の意向に従わされて、渋々同意させられるような結果となるから、一時的にその場が不穏な空気に包まれるとしても、その場では何事もなかったかのようにそんな成り行きが進行していくのだが、その後の成り行き次第でその人が公の場で不満を漏らす機会が巡ってくれば、それがその人の集団内の立場次第では派閥争いの火種となって、それなりの利用価値も生じてくるだろうが、そういう成り行きへと人為的に持って行くようなことが実際に行われるかというと、思惑としてはそういうのもあり得るのだろうが、その大半はそんな思惑を裏切るような成り行きが待ち受けていて、その場に関わってくる多くの人にとっては思いがけない結果がもたらされて、それが新たな争いの火種として機能するなら、そういう機会が絶好の機会のような立場にいる人が行動を起こすことになるのだろうが、たとえ行動を起こしたところで結果がどうなるかはその場の情勢次第となり、その行動によって引き起こされたイベントの類いが、果たしてその人を利するように事が運んで行くかどうかも、その人のその場での運次第な面もあるのだろうが、結果的にその人がうまく立ち回ってそれ以前より有利な立場に収まるようなことになれば、それがその人の実力として肯定的にも否定的にも評価されるのだろうが、それがその人の味方には肯定的に評価されて敵には否定的に評価されるかも知れないが、それが過大評価なのか過小評価なのか適正な評価なのかも、その場の成り行き次第でそう受け取れるとしても、そういうことではないような気がするのは、その場から遠い場所にいる人ほどそう思われて、その場にいればその人を中心として事態が動いているように感じられるのだろうが、それが一時的にはそうなのであって、集団の意向としてその人を犠牲者に選んだことになるから、その人にその場の主導権があるかのように見えてしまうが、実態としてはそうなるのが誰でもよかったとは言えないにしても、何かの巡り合わせによって、その人に行動を起こす順番が巡ってきたと解釈できるようなことになって、誰もその人が犠牲者だとは思えないだろうし、むしろその人を主人公として物語が動いていくような幻想を抱く人が大半を占めるだろうが、果たしてその人が混乱を収束に導くことができるか否かが、その人の運や実力にかかっていると思われても何の不思議もないが、そうなるのもその人であってもなくてもどちらでもいいとは思えないものの、実際にもそうなのであって、それが誰でも構わないわけではないが、たまたまその人に順番が回ってきて、その人なりの経緯や事情が作用してその人が集団内で行動を起こすことになったはずだが、行動を起こした結果が吉と出ようが凶と出ようが、それもどちらでも構わないわけでもないのだが、その人としてはここぞとばかりに勝負に出たわけだから、うまくいくに越したことはないわけだが、その人がどうなろうと知ったことではない思っているかどうかは知らないが、他の誰かにとっては、そんな情勢を高みの見物ができる立場であるかどうかに関わらず、何かそうではないような気がするとしたら、そんな気がしている人が抱く違和感がその場の成り行きの不自然さを察知していて、それが陰謀論的な不自然さだとしたら話がわかりやすくなってしまうが、そうではないとしたら何なのかというと、行動を起こしたのがその人であってもなくても構わないわけではないとしても、たまたまその人に行動を起こす順番が回ってきたことに関しては、その人が所属する集団の意向が働いているからそうなったと解釈しておけば済むようなことだとしても、それとは別に事前にこうなるべきだというコンセンサスが、誰がそれを提案したわけでもないのに他の大勢の人たちにも伝わっていて、そうなるべきだと思われる方向へ向かって事態が動き出しているような感触も多くの人たちが意識しているなら、それに呼応して自然とそちらへ向かって事態が動き出して、その後にその場で誰が主導権を握ったとしても、誰がどんな思惑を抱いていようと、そうした集団の意向に逆らうような思惑にはならず、むしろ誰が抱く思惑も集団の意向に沿った傾向を伴うから、そういう意向に沿った行動を起こすことになるわけで、それがたまたまその場で主導権を握った人の思惑とも一致するわけだ。


10月12日「無駄であることが肝要」

 もうこれ以上は無駄に言葉を追加する必要などないのに、そうしないと次の言葉が出てこないから、文字を記して文章を構成するにはとりあえず無駄に言葉を付け足して、そこから生じてくる意味と傾向を理解しようとすることが肝要だと思っているわけでもないが、もちろんそれが無駄であれば肝要でも何でもなく、ただの余分な付け足しにすぎないが、そういう面では確かに肝要ではないにしても、肝要というよりは重要と言い換えても同じことであり、寛容も重要も同じような意味だからどちらでも構わないが、何が重要で何が重要でないかは、同じ物事にも重要な面と重要でない面があると捉えるなら、無駄に言葉を追加することが肝要であり重要でもあるが、それ以前に無駄なのだから、無駄な面では肝要でも重要でもないと捉えても構わないが、そういうことの延長上で無駄な知識を蓄えておくことが、ある面では肝要であり重要でもあるというなら、ある面とはどんな面なのかといえば、文字を記して文章を構成する際には、無駄な知識も時には役に立つこともある程度の認識でも構わないが、たぶんそれとは違う面で、役には立たないし無意味でもある物事が、必要もないのに魅力を帯びて、そんな魅力に取り憑かれた人心を捕らえて離さない場合もあるから、錯覚としてそんな物事を集めることが重要だと思われて、そうやってコレクター的な存在が生じてくるのだろうが、果たして文章の中に言葉を余分に付け足すことの何が収集家的な存在に近づくことになるのかは、そうやって構成された文章を読んでみないと、その意味や傾向がよく理解できないのは当然であり、言葉を余分に付け足す以前にそれが無駄で意味のないことだと決めつけるなら、そうするのが肝要でも重要でもないと思われても不思議ではなく、そこから文章の内容の重層的な多重性が浮かび上がってくるとしても、同じような意味の言葉を余分に付け足したところで、印象としてはただくどいだけで、それが無駄で無意味ではないがくどい印象を伴うに過ぎないとしたら、肝要でも重要でもなく蛇足でしかないが、なぜかそうしなければ気が済まないと感じるなら、気づかないところで何かが作用してそうなってしまうのだろうが、自らが意識して行なっていることが結果的にそうなってしまうなら、それを意識していても否応なく勘が働いてそんなことをやってしまうことがあり得ると認識しておくしかないが、そのどうしようもない感触というのが、そこでは正しい行為とまでは行かないにしても、場合によっては間違っているかも知れないが、やはり妥当なことをやっている感覚が想像されて、そういう意味で状況を解釈するなら、部分的な面では確実に間違っていると感じられても、総合的に判断するなら妥当なことをやっているような感覚にとらわれているわけで、それがどういう意味で妥当なのかもその時点ではわからないものの、結果オーライとなるのがいつになるかはその後の運次第なのかも知れず、場合によっては結果オーライになるどころか最悪の事態に陥ってしまう可能性さえあると覚悟しておかなければならないかも知れないが、もうすでに賽が振られて歩み出している時点ではそれを止めようがなく、歩を進めながらその時々で妥当な判断を積み重ねていった先で結果オーライとなれば、とりあえず運が良かったと一安心するしかないだろうから、その時点では確かに無駄で無意味な逡巡に過ぎないとしても、まだそこではどこに至るかもわからない道の途中で体験する紆余曲折の最中に感じていることになる限りで、先行きが全く見通せないわけでもないにしても、何に急かされているわけでもないのだから焦ることはないだろうし、焦ることはないと思っていてもその場の情勢次第で無駄に焦ってしまうとしたら、そこに無駄な焦りが付け足されたと認識しておけばよく、それが良いか悪いかも判断する必要もないかも知れないが、それに加えて取り立てて何も問われていないのに、そこで何が問われているのかと疑問も感じてしまい、疑い出したらきりがないことも承知でそんなことを付け足しのように思ってしまうわけで、さらに加えて何かおかしいのではないかとも思われて、そこでも何も問われていないし何もおかしくはないのにそう思われてしまうこと自体が無駄で無意味な付け足しに過ぎないわけだが、それが行為や行動の動機と捉えるなら、納得できる原因でも理由でもないのが明白であるから、結果的に行われたことがどう解釈されても、行為や行動の当事者にとってはしっくりこないだろうし、その後に続くのがなぜそんなことをやってしまったのかという付け足しの問いであり、動機も原因も理由もなくそんなことをやってしまったわけではないとしても、それが衝動的に行われたと見なされる面があるにしても、無駄で無意味な行為や行動の動機としては不十分に思われるからしっくりこないのであり、何かそれとは別に謎の部分があって、その謎が解明された暁には、あっと驚くような秘密が明かされれば、何やらサスペンスドラマのようなありふれた結末になってしまいそうだが、そうならない理由がどこにあるとも限らず、どこにもないのにそこにあるというのが灯台下暗しな状況なのだろうが、そこにもなければどこにもないのが無駄で無意味な付け足しに他ならないと思うまでもなく、実際に文字として言葉を付け足しているのだから、文章を構成する途上にあるわけで、それが急かされてやっていることではないとすれば、まだ少しは余裕がありそうで、余裕があるならもうしばらくは無駄で無意味な付け足し作業に専念できるかも知れず、もちろんそれに専念している気はしないし、結果的にそんな作業に専念しているように見えるなら、他には何もやっていないことになってしまうが、果たしてそんな文章の構成から何を読み取れるかというと、やはりそれが無駄で意味のない内容になってしまうなら、有意義で有意味な内容とはなっていないわけだから、やり損ねたことになるのだろうが、そこで何をやり損ねたのかと問うなら、しっくりくるような行為や行動の理由や動機を導き出すことに失敗したことになるのではないか。


10月11日「ひらめいたこと」

 それの何が問題なのかもわからないまま、なぜかそれについて考えている最中に、ふとそれとは別の何かがひらめいて、相変わらずその何かが何なのかがうまく表現できないから、それでは何をひらめいたことにもならないのではないかと言われてみれば、その通りには違いなく、自らが嘘をついているのではないかと疑ってみるが、そんな経緯を統合して、何か自分にとって都合の良い嘘をひらめいたのではないかと結論づけてみても、何となくそれも嘘のような気もしてきて、本当は何もひらめいていないのではないかと疑ってみるが、たぶん話を進めていくうちに、その時ひらめいたことが明らかになった段階で、それが嘘ではないことも明らかになるかどうかはまだよくわからないにしても、そういう成り行きの延長上で何かが明らかになってくると、それがその時ひらめいたことだと結論づければしっくりくるかも知れず、その一方でどう考えてもしっくりこないのがリベラルな人たちの正しい主張だと言えるのかも知れず、たぶん主張として正しいことを言うのは比較的簡単なことだが、実感としても実態としても実践としてもそうはならず、何がそうはならないのかといえば、絶えず嘘やごまかしが介在してくるから、それが正しい主張を裏切ってしまい、結果的には正しい主張からどんどんずれて行ってしまうわけで、それが実感としても裏切られた思いが募ってくるわけで、それでもまだ正しい主張を維持したければ、嘘やごまかしの実態や実践を隠蔽しなければならなくなるわけだが、どこまでも隠蔽しきれるわけもなく、大抵は嘘やごまかしの実態や実践がジャーナリズムによって暴露されてしまうのだが、そういうことやらざるを得ないわけだから、結果的には正しい主張が社会の中で受け入れられない実態があるわけで、実践としても正しい主張通りのことをやろうとすれば、必ず邪魔が入って、やろうとしたことをねじ曲げるような作用が及ぼされて、それでもやり続けるには、嘘をついたりごまかしたりせざるを得ない状況に追い込まれてしまうから、実感として正しい主張が裏切られたような結果がもたらされて、それをどう表現すればいいのかわからないが、そんなことをやっている人や団体を批判することはできるのだが、じゃあお前がやってみろと言われることもないだろうし、嘘やごまかしを実践している人や団体にしてみれば、せっかく社会の主導権を握ってそれを実践する側になれたのだから、嘘やごまかしがこれ見よがしに暴露されてしまったからといって、いったん握った主導権をそう簡単に手放すわけにはいかず、しかも嘘やごまかしに手を染めているのはその人やその団体だけではなく、他にも多くの人や団体が嘘やごまかしを駆使して、それらの人たちがやっていることの主導権を握りながら活動しているわけだから、今さらそれをやめろと言われてもやめるわけにはいかないだろうし、そんな経緯や事情があるからこそ、そんなことをやっている人や団体に支持や賛同も集まる傾向にもなりやすく、社会全体がそういう傾向になっている中では、正しい主張通りのことを実践することはますます難しくなってきて、それよりは嘘やごまかしを駆使したことをやりたがる傾向が強まってくるわけだが、そういつも嘘やごまかしを駆使しなければならないかというと、そうでもなく、どちらかといえば無理なことをごり押しする際に、それと同時に嘘やごまかしを駆使する必要も強まるから、なるべく嘘やごまかしをやらないようにするには、無理なことはごり押しせずに、その代わりに正しいことをやる機会を捉えて、そのタイミングを見計らってやる必要があるのかも知れず、そういう意味で正しいことやるには、それをやれる機会を捉えないと、あるいはタイミングが合わないとうまく行かず、時や場所を選ばずにいつでも正しいことができるわけではなく、それをやるにはその機会が巡ってこないとできないと思っておけばいいだろうが、では恒常的にいつでも正しいことができるようにするにはどうすればいいのかというと、そういうことをいつでも恒常的にできるような制度を定めればいいわけだが、制度には間違ったことをやらせないようにするためのルールが必要となり、嘘やごまかしを禁止する法律を定める必要も出てくるわけだが、社会が嘘やごまかしを必要とする構造となっているわけだから、当然の成り行きとして、正しいことをやらせようとする制度や法律と嘘やごまかしで成り立っている社会との間で軋轢が起こり、両者の間でせめぎ合いが繰り返されて行くうちに、ある程度の妥協や譲歩も伴ってくれば、正しいことを行わせるための制度や法律は建前としてあるものの、その裏ではある程度の嘘やごまかしも見てみぬふりができる範囲内で許容されるような成り行きへと移行して、そうやって建前と本音が両立できる範囲内で社会が成り立っているように見えるのだが、そこでも絶えず両者の間でせめぎ合いが起こっているから、嘘やごまかしが許容される範囲も日々刻々と時代の変遷と共に広まったり狭まったりするから、昔は許されていたことが今では許されなくなったり、その逆も起こり得るだろうし、制度や法律自体も嘘やごまかしを駆使して作り替えようとしたり骨抜きにしようとするから、絶えずメンテナンスや更新が必要となってくるとしても、その際にも正しいことができる機会を捉えてやらないとうまく行かなかったり、かえって改悪となってしまって、場合によって嘘やごまかしのごり押しによって制度や法律が形骸化してしまう危険性も出てくるが、それよりは社会や世の中の実情に合わなくなれば廃れてしまうかも知れないし、実情に合わなくても嘘やごまかしを駆使する人や団体にとっては必要な場合もあり得るから、そんな人や団体にとって都合が良ければ、ひどい制度や法律であっても、いつまでも存続して行く可能性もあるのではないか。


10月10日「不安に起因する妄想」

 果たして現状がこれまでに経験したことがない未曾有の困難に直面していると思い込めるような状況なのかというと、実際にそんな大げさな困難に直面していることを自覚しているなら、それと共に何やら焦ってしまうが、焦ったついでに被害妄想に取り憑かれてしまうのもよくありがちな成り行きで、自分が他から攻撃されているのではないかと疑心暗鬼に陥って、攻撃してくる相手が誰なのか、相手を特定しようにもわからないままであれば、さらに不安が募ってきて、得体の知れない何かによって陰謀が巡らされて、自分を罠に陥れようとしているのではないかと妄想してみるが、自分が世間的に見てそんなことを仕掛けられるほどの重要人物なのかというと、どう考えてもただの一般人でしかなければ、そんなのはあり得ないことだとすぐさま思い至るから、その種の陰謀に巻き込まれているわけではないことを確信できるわけでもないが、何か他のことが原因で困難に直面しているのではないかと思い始めると共に、だんだんと冷静さも取り戻してきて、困難に直面しているのは自分だけではなく、今まさに世界がかつて経験しなかった未曾有の困難に直面していると、これまた大げさな誇大妄想に取り憑かれたふりを装ってみるが、何かの冗談でそんなことを思い込めるわけもなく、どう考えてもその種の方面とは無縁な存在でしかない自らが、何か他に思い当たることもないようなら、大した困難に直面しているわけでもないと不安が気のせいに過ぎないことを確信できるわけでもないとしても、それとは違う方面でおかしな事態に直面しているのかも知れず、それが何なのかといっても、特に思い当たることもなければ、ただ漠然とそう思っているに過ぎないことでしかなく、それでも何か理不尽な事態に巻き込まれているとしても、それが何なのかもわからなければ、どうにも対処しようがないのだから、そんな事態をただ受け入れておくしかなく、実際に受け入れているのにまだ大した不具合も不都合も感じることなく生きているつもりなのだから、たとえそれに気づかなくても仕方がないと思っておいても構わないとしても、本当はそれに気づいていて、しかもそれが一つや二つではなく様々な不具合や不都合を毎日のように経験しているから、それらが慢性化していることも承知していて、絶えずそれらに悩まされているはずなのだが、それらの一つ一つが大した不具合や不都合でもなく、根本的な解決には至っていないにしても、それらにも絶えず対処し続けていて、しかもそれらに対処し続けることが生きている証しとでも言っておけば済むようなことでもあるから、それらと自らの生が渾然一体となっているようにも思われて、それらがないとかえって張り合いがないどころか、それらなしでは生きていけないと思っているわけでもないとしても、実際にはそうなのかも知れず、だからその程度のことだとたかを括りながらも、それらが自らの生に無視できない影響を及ぼしていることを実感していて、あるいは勘違いか何かでそう感じているに過ぎないことなのかは判然としないが、そんなことの延長上で世の中の政治的な問題も起こっているようにも思われるから、それをそれとして他から切り離してそれだけのこととして考えるわけにはいかず、政治的な問題も自らの生に直結する身近な問題として考えなければならないにしても、一方でそれを他人事として退けている方面にも気を遣わざるを得ず、果たしてそちらの方面で生きている人にとっては政治など無視しておいても構わないことなのかというと、直接そちらの方面で生きている人に訊いてみても、納得のいく応答など返ってこないだろうし、そういう人はすでにそれなしでもそれなりに生きていけるような成り行きに囚われているから、そういう方面ではそうなっていることでしかなく、そういう方面で何かしら問題が生じてきても、政治とは関わりのない方面で解決を目指すしかないのだろうが、それで構わないのかといっても、そういうものだと受け止めれられるなら、そういうこととしてそれに関係する物事も否応なく絡みついてくるから、そういう方面ではそういうこととして事態も進行していくしかなく、それで構わないわけではなくても、最初から政治抜きで問題を解決せざるを得ないのだから、果たしてそれを解決だとは言えないような結果に至るとしても、それもそういうことだと受け止めるしかなく、そういうことの延長上で対処している物事が、そういう成り行きに囚われている人々にとってどのような結果をもたらしているのかも、そういう成り行きに囚われている人々とは無関係な人々にとってはそうは感じられないようなことが、それらの人々にとってはそうなって当然の結果だとは思えないにしても、それはそれらの人々が囚われている境遇の中で起こっていることなのだから、結果がどうなるにしても、それらの人々がそれをどう受け止めようと、それは政治とは無関係な問題となってしまうだろうが、政治に関係する方面でもそれを無視しても構わないかというと、無視するなら無視するだけの事情や無視するに至る経緯を考慮に入れても、なぜか政治的な問題として取り上げたくなってきて、公的な領域で不特定多数の人々が考えるべき問題として取り扱いたくなってくると共に、その一方で私的で個人的な事情や経緯にも関係してくるかというと、それらも入り混じって他にも様々な事情や経緯などが複雑に絡んでくるようだと、それら全てを考慮しきれなくなってしまうだろうが、少なくともそれらを単純化して全てを政治的な問題へと一元化するわけにもいかないところがややこしいだろうし、そうならなくても済むような方面で問題を片づけたいところだが、たぶん片づけられないし、実際にも片づかず、いつまで経ってもよくわらないままとなってしまう可能性もなきにしもあらずだからこそ、その経緯や事情がよくわからないなりにも、政治的な方面からの他人事のような問題提起が安易に繰り返されて、それに対する関係者の態度や姿勢が常に問われ続けるのではないか。


10月9日「戦争と平和の地政学」

 おかしくもないのに無理におかしいと思いたいわけではなく、普段の感覚でそれがおかしいのだろうが、それとは何かといえば最近中東で始まった戦争ではないことは確かだが、戦争するのも当然の成り行きなのかも知れないが、おかしいのはそれではなく、そんなこととは無関係に進行中の別の何かがおかしいわけで、その何かが何なのかを知りたいわけでもなく、そんなことは知るまでもなくわかりきったことであり、決死の覚悟で戦争を遂行中の当事者が遊び半分で行動しているとは思えないのと同じように、文字通り死に物狂いとなっていることは確からしいが、もうすでに戦争に巻き込まれて数多くの死傷者が出ているのに、それが本気でやっているわけではないように感じられて、そう感じてしまう自分の感覚がおかしいのは確かだが、それとは別にすぐさま戦争が起こった理由を推測して不用意に伝えてしまうメディア関係者が抱く妄想の内容もおかしいのかも知れないし、さらにそれに呼応して解説魔のようなわけ知り顔の老人も図に乗って自説を吹聴しまくるわけでもないが、そんなどさくさに紛れて実況老人もその間に割り込んできて、何やらいつのものように危機的な状況に陥っていると騒ぎ立てていて、なるほど予定調和な話の展開とはこのことかと納得してしまうのだが、その一方で平和な安全地帯で惰眠を貪る一般大衆の方はといえば、これも相変わらず庶民に減税して金持ちや大企業に増税せよと正論を主張する左翼な人々を鼻であしらい、小馬鹿にして取り合わず、何事も進展しないように陰陽師によって呪文をかけられていると思いきや、世論調査結果にちょっとした変化の兆しが出たとフライング気味に小躍りするせっかちな輩もいて、それを見て堪え性がないのもいつものことだと呆れ果てているわけでもないのも、これまで通りの解釈に追従する向きならそう思えるのだが、何がこれまで通りの解釈だったのかと近代の歴史を振り返るわけにもいかないところが、これまでとはちょっと違う世の中の雰囲気を感じさせるのだが、なぜそうなのかと誰から問われるわけでもないが、それとは全くの無関係な領域で、例えば空海の入定から千二百年後に何かが起こると予言されていたことに関連して、入定に際して空海が抱いた妄想を推測してしまうこととも無関係なところで、確実に何かが起こっているとしても、それを現代において誰かが知りたいと思っているわけでもないところも、何かの兆しを予感させるわけでもなく、何らかの使命を帯びて空海が結界を敷いたとされる四国八十八か所巡りの途上で、おかしな妄想に取り憑かれてしまった人の動画を見た限りで、それはとんだ横道に逸れているだけではないかとたかを括る必要もないほど、やはり全くの無関係な挿話としか思えないが、そこからどうにかして話を迂回させながら、軌道修正を施さなければならないと焦っているわけでもないところも、意外と他の兆しを予感している証拠かも知れず、ここまでわざとおかしな話を挿入して、それを何かのはぐらかしだと仄めかしそうになっているのも、そこであえてネタバレ的な挿話を話の至るところに無理やり散りばめようとして四苦八苦していることからも窺えるところだが、それを正視できないのだから思いを察してほしいとは言わないものの、果たしてもっと工夫を凝らすべきところがあるのかといっても、大半はその程度の低いレベルに収まってしかるべきの挿話でしかないとしか思えないのだが、それも追い込まれて窮鼠猫を噛む程度のことだとハマスの反攻を認識している程度の水準では、確かにこれまで通りの解釈の延長上で語っているに過ぎないのだが、それ以外にも何か目新しい兆候を感じ取れるとしたら、これから起こることに合わせてそう思うはずで、それが空海に関する予言とは全くの無関係なのもわかりきったことだが、その種の空想や妄想には限りがないところが暇つぶしのなせる業だと軽んじてしまいたい気持ちをかろうじて抑え込みながらも、さらに話をつなげて行けば、たぶん日蓮も空海と同じような妄想に取り憑かれて、本来の仏教とは無関係な呪詛によって国や民を守りたいと妄想を抱いたのかも知れず、そういう意味でも現代の平穏無事な見せかけの平和には、古来より様々な人々の宗教的な思いが重層的に降り積もって圧縮されて強固な地層状の岩盤を形成しているから、それを穿つことは容易ではないのはもちろんのこと、無理に穿鑿して掘り進んだところで落盤事故の危険と隣り合わせとなるから、そういう方面はそのままの状態で寝た子を起こさないようにそっとしておいて、それとは別の方面から地殻変動を起こそうとしている輩もいくらでもいるらしいのだが、それがうまく行っているかどうかは現状が示していて、見ての通りの惨状を示していると現状を捉えてしまうことも、今まで通りの解釈の延長上でそう思っていることであるから、果たしてそれとは違う新基軸を示すべきかどうかも迷ってしまうところでもあり、それも現状ではそんなことが可能だとは思ってもいないわけだが、それでも少なくともひとつ言えることは、そうなるきっかけはとうに発動していて、それに起因してあり得ない妄想を披露するとすれば、これまでの常識の延長上で考えていることがそのまま実現するわけではなく、むしろ無茶なことを主張している人たちの述べている内容から近いことが不完全な状態で実現するのかも知れず、それが新たな困難や禍根をもたらすから、一筋縄ではいかない状況が延々とこれからも続いて行くのだろうが、そういうことを主張している人たちの言っていることが真っ当な意見のように思われるなら、それがそのままの形で実現した例しもそれほどないのが歴史的な現実が示していることだとしても、それに多少は影響を受けて中途半端な小手先の骨抜きのような妥協案で手打ちが行われてしまうのも、ほとんどの事例が示していることだとしても、もちろんそれでほとんどの人たちは納得しないだろうし、納得し難いとしても事態がそんなふうに進展してしまうのだろうが、そうなっただけでもよしとして、絶えずそれに抗議して行くしかないというわけでもないとしたら、そこでもそれとは違う方面から目眩しの提案が示されることを期待するしかないのではないか。


10月8日「怪しい説に取り憑かれた人々」

 根拠の定かでないいい加減な説を擁護するわけにもいかないにしても、それを擁護できないからといって、あわてて胡散臭い説を引っ込めるわけにもいかない事情があるなら、ある程度はその説に従って論を進めていくしかないが、果たしてその説を正確に理解しているのかというと、そうでもなければ、その説明自体もいい加減になってしまいそうで、実際におかしな説に凝り固まっている人が、自身が理解しているつもりになっている説を説明している内容も怪しくなってくるのは当然かも知れないが、それがどんな説なのかといえば、あえてそれを明らかにするつもりもなければ、何を説明できるわけでもなく、直接にはその説を説明するつもりもないのに、それについて述べてしまうのだから、それ自体が怪しいことを述べているわけだが、それの何が怪しいのかといっても、それを明らかにしないところが怪しいのだが、それを理解した上で何を語ろうとしているのかが問題となるわけでもなく、語っている内容が空疎だからといって、そんなことはわかりきっているわけだから、そういう水準では何を語っているわけでもないのだが、別の水準では何かしら語っていて、それを明らかにしなければ、そこでも何も語っていないことになってしまうが、語らなくても明らかになってしまうこともあり、それがわざとらしい演技を通して明らかになってしまうことなのだろうが、そこで演じられる動作や仕草が何かを物語っていて、それをどう受け取るかによって、それに対する解釈や評価も違ってくるのだが、それを演技だと受け取っているわけだから、そんなわざとらしい演技を目にした途端、何かが脳裏にひらめいてしまうわけで、なるほどそれを見せることによって、その見せている演技とは裏腹なことが行われようとしていて、それ以前に言っていることが、わざとらしい演技を通してそれが嘘だと明らかになるはずだが、果たして本当にそうなるのかというと、演技が言っていることを裏切っているわけだから、実際にはそうはならず、なぜかわざとらしい演技を通して、それ以前に言っていることが実現してしまい、結果的には誰もが思ってもみない成果をもたらすわけだが、その成果というのも、事前の想像が、演技が物語っていることも裏切っているから、何かわけがわからない結果がもたらされて関係者が困惑することになるのだろうが、その困惑こそがわざとらしい演技がもたらした成果であり、そんな演技を仕掛けた側も、それを見え透いたはぐらかしだと批判したい側も欺くような結果なのだろうが、それを理解しないわけで、誰が理解しないのかというと、演じている側も批判している側も理解しないから、自分たちが困惑している自覚もなく、そこを素通りして、以前と同じ立場や態度を保っていると思い込みながら、さらなる演技を強いられて、それがさらなる成果をもたらすわけだが、何がそこでの成果なのかというと、そこに関わってくる人々を幻想の虜にしてしまうという面では、一定の成果が得られたことになるのだろうが、果たしてそれが何のための成果なのかといえば、人々の幻想が実現しつつあるという確かな感触を得るには、まずはそこに関わってくる人々が幻想にとらわれる必要があり、わざとらしい演技を通して演技者が幻想に囚われるわけで、もちろんそれを見え透いた演技だと批判する人々も同時並行的にその種の幻想に囚われるわけだが、果たしてそれらの人々が幻想に囚われたところで、幻想が実現するのかというと、今すぐには実現しなくても、その実現に向かって努力しているという幻想に囚われているわけだから、それに伴ってわざとらしい演技もその実現を願うための儀式として機能していると解釈できて、要するにそういったこれ見よがしの演技は、寺院や神社などで行われる祈願祭のようなものとして捉えればいいのだろうが、それがアメリカでは労働組合のストライキの現場でメガフォンを片手に応援演説する大統領であったり、日本では酪農の現場で使い捨ての防護服を着て牛の餌やり作業をする総理大臣であったりするのだろうが、どちらがどうだというわけでもなく、自身の立場をわきまえているように見えるのはどちらかといえば、誰もがそれを理解しているはずで、もちろん理解していても口に出す必要などなく、そんな演技に自覚なく取り憑かれている彼らと同じ幻想を抱く必要もないはずだが、ではそれらをわざとらしい演技だと批判する人たちに同調できるかというと、それが微妙なところであり、それを批判してしまう人たちも演技に興じている人たちと共に同じ夢に取り憑かれているのだから、できればそこから少し距離を置いて、それらの儀式を眺めているにとどめておいた方が無難に感じられるとしたら、まだそれほどその種の幻想にのめり込んではいないことになるかも知れないから、そうした浅瀬にとどまって深入りしない習慣を養うことが肝要となってくると思っておけば、彼らが誘ってくる制度に対しても、かろうじて身も心も支配されない姿勢を保っていられるのかも知れず、そこから完全に離脱することはできないし、社会の中で生活していれば大なり小なりその種の制度のお世話になるしかないのだから、制度を受けつけない姿勢など保てないのは明らかで、そういう意味では深入りし過ぎて泥沼にはまらない程度で制度とはつき合って行くしかないのだが、そんな程度で制度の恩恵を多少なりとも受けるのはよしとしなければならず、労働組合とも政府の補助金などとも関係する機会に恵まれたら、それを活用しない手はないし、それも全面的な依存ではなく、部分的な程度にとどめておくことが肝要なのではないかとは思うのだが、そこでもいつものように怪しい説に取り憑かれた人々の方は、制度を全面的に受け入れ可能なものとして解釈してしまうわけで、だから完全無欠な制度にすべく、ちょっとした制度の矛盾や不具合を突いて、それを大げさに騒ぎ立てながら、制度に取り憑かれた人々と共鳴し合うことになるわけだ。


10月7日「言述と記述の違い」

 相変わらず述べていることが矛盾しているようだが、その出来事から何を感じ取れたわけでもないし、何も感じ取れなかったわけでもないが、たぶん何かを感じ取ったのだが、それをどう表現すればしっくりくるのかわからず、それをうまく言い表せないのだが、言い表すのではなく記述するのであり、苦難をもたらしているのは言述であると同時に記述でもあるが、どちらも同じ意味かも知れず、何か違うような気にさせる傾向が言述と記述の違いにあるらしいのだが、大ざっぱな感覚としてはどちらでも構わないような気がするのは気のせいではなく、気のせいでなければ何なのかというと、それもどう表現すればしっくりくるのかわからず、そんなのは考えるまでもないことだと違いを無視しても構わないのだろうが、誰がそれを許してくれるのかと問うのもおかしいし、自分が許さなければ、その違いを探求することになるのだろうが、そんなどうでもいいような違いにこだわるのも、何か勘違いしているような気もしてきて、それも勘違いではなく、別の違いなのかも知れないところが、やはりそれもどう表現すればしっくりくるのかわからず、相変わらずそんな気の迷いを伴いながらも、言述とも記述とも表現できるような作業を行なっている最中に、ふとそれ自体に疑念を抱いてしまうのだが、それを言表と述べてしまうとさらにわけがわからなくなってくるが、やはりそんな些細などうでもいい違いに気を取られているうちに、それとは別の方面へ進展してしまう傾向もあるだろうから、当然そちらの方面が言述や記述の対象となり、そこで起こっている出来事について述べることになるわけで、そういう水準で述べている中では、言述でも記述でもどちらでも構わないような表現となっているのだろうが、それをどちらか一方へと限定するつもりもないが、その出来事をやり過ごすにはそれについて述べればいいとは言えないばかりか、それにこだわっているからそれについて述べていると思いたいところで、果たして本当にこだわっているのかというと、実態としてはそれについてもっともらしいことを述べている自らをアピールしていると受け取られてしまうのも、よくありがちな成り行きになってしまいそうで、自分をアピールするためにその出来事を出しに使っていると思われてしまうわけで、それで構わないのかといっても、そういう意図を自覚しているならそれでも構わないだろうが、そうではないとすれば何なのかというと、その出来事自体を強調したいというか、それを批判したいなら、その出来事の不当性を強調したくなり、それを批判したりその不当性を強調している自身よりも、それ自体をそれについて述べることによって押し出したいのであり、注目してほしいのはそれについて述べている自身であるよりは、述べている対象となっているそれ自体の方であるから、そういうところでそれを受け止める人々が勘違いしてほしくないのだろうが、そうなるとそれが言述であろうが記述であろうがどちらでもよく、その内容に注目してほしいわけだが、それがその内容から充分に伝わってくるならそれで構わないはずだが、誰が述べてもそうなるかというと、それは述べている人の技量や知名度にもよるだろうが、そういう事情を気にし出すと、何やらそこから述べている趣旨がずれてきて、それについて述べている人の方に関心が移って行ってしまっても構わないような気もしてくるわけだが、意図的にそういったはぐらかしを仕掛けてくるなら、そういうことをやっている人や団体の悪意を感じてしまうが、その標的となっている人も、わざと自らの存在を周囲から際立たせようとする思惑から、そういう仕掛けを誘発させているように見えてしまうと、そんなはぐらかしを仕掛けてくる人や団体とぐるになっていると見なされてしまうわけでもなく、双方が批判している側とされている側とに分かれて敵対しているのなら、そんな穿った見方をされることもないはずだが、そんな人や団体がそれを見ている人々の関心を誘導している裏で何を画策しているわけでもないとしても、うまい具合に誘導されてしまう人々が騙されるようなことが起こって、そんな出来事について何かもっともらしく語りたい人の方でも、それにかこつけて自己アピールの機会を捉えて、ここぞとばかりに誘導に騙されるなと警鐘を鳴らしてしまうような成り行きになってしまうと、実際に騙されているのは、その種の警鐘を鳴らしている当人以外に誰がいるわけでもなければ、自己アピールが空振りの不発に終わったことを悟るしかないだろうが、その一方でそこで起こった出来事が言述や記述の対象となっていることには変わりなく、何のはぐらかしもごまかしもなしに、そこでそれが起こった事実が恣意的に歪められているわけでもなく、それが起こったことの反応として何かしら述べられたわけで、そのこと自体は何の不思議でもないはずだが、それらを一連の現象と捉えると、それとは別に何やら見えてくるものがあるわけで、それがそんなふうに関心を誘導されている人々がメディアの食い物となっているとかいう単純な構図ではなく、関心の対象として見させられているイベントの類いに対する反応として出力される言述や記述の傾向が、はぐらかしの仕掛けや関心の誘導に騙されるなと警鐘を鳴らしている人たちの自己アピールとは直接には関係のない方面へとずれてきて、それがどんな方面へとずれてくるのかといえば、それらのイベントを記憶に残る出来事へと構成したいわけで、それがモニュメント効果と呼ばれるかどうかは定かでないが、記念碑なイベントになるように言述や記述によって飾り立てたいという意図も思惑もないのだろうが、結果として出力されてくるのは、そのイベントに関わったことを何かの記念碑のようなものに刻みつけたいという欲望が意識されているわけでもないのだが、誰も意識しなくてもそういった記念碑的な傾向へとそれについての言述や記述がずれてきて、そうなるとそれが言述であるよりは記述としての傾向の方が強まってくるのではないか。


10月6日「不信感を抱かせる要因」

 それを知らないよりは知っている方が有利になるなら、それを知りたくなるし、知っているなら教えてほしいが、それを知らないふりをしながら話を進めて行くのも回りくどいが、話を進めて行くうちに、やがてそれがわかるようになれば、なるほどそれを教えるために話していたことを知るに至るはずだが、どうもそういうことではなく、いくら話を進めて行っても、一向にそれがわからないまま話も終わってしまうなら、では話の中身は何だったのかというと、人を惑わせて煙に巻く意図があれば、何やらごまかしたり騙したりすることだと察しがつくが、どうもそれもそういうことではないとすれば、何なのかというと、たとえそれを知ったところで有利になるわけでも得をするわけでもないことをわかってほしいという意図があって、あえて回りくどく遠回しにその辺の事情や経緯を込み入らせながら、話をわかりにくくしているのだとしたら、なぜもっと単刀直入にわかりやすく話してくれないのかと訝しむかも知れないが、わかりやすく話すと信じてくれないだろうから、わざと不審に思われるような内容にしているわけではなくても、話しているうちに自然とそうなってしまうのであり、単純にこれを知っていれば得をするとか、知らない人よりは有利になるということではなく、それも時と場合によりけりで、かえって知り過ぎていれば迷いが生じて、感覚が鈍って決断の機会を逃してしまったり、知識が邪魔をして臆病風に吹かれて蛮勇を発揮できなくなってしまい、結果的には慎重に事を進めて小さな成功で満足しなければならなくなり、大胆不敵に振る舞って大成功を収めるような成り行きにはなかなかならないから、それでも構わないと思うしかなく、誰もがそんなやり方を目指しているわけでもないが、それを知ろうとすれば自然にそういう傾向へと導かれて、それを知らなかったばかりに大失敗する危険を避けようとすれば、それと共に大成功する機会も取り逃がしてしまい、結果的に損をしたのか得をしたのか、有利になったのか不利になったのかということよりは、何事も無難な範囲内に収まってしまうような成り行きへと自然に導かれるように知識が作用して、多くの人々がそういうことを知っていると世の中が丸く収まるようなら、知らないよりは知っていた方がマシな程度のこととして、誰もが知っていることを自分も知っていた方が身のためなのかも知れないが、果たしてそれで大丈夫なのかというと、万事が大丈夫だとは言えないが、それを知っていればひとまず安心できると共に、それ以外にも知らなければならないことがいくらでもあるから、それ以外のことにも絶えず気を配りながら、それらをできるだけ知ろうとしなければならないわけでもなく、一概に知識を増やして行けばいいわけでもないし、さらには必要のないことは忘れても構わないわけでもなく、知っているだけでは駄目で、それを必ず実践の場で役立てなければならないとも言えないし、特に役立たなくても雑学程度の知識で構わない場合もあり得るから、一概に役に立つか立たないかより優先しなければならないことも出てきて、その場の情勢や状況に応じて優先事項も変わってくると思っておけば、それで気が済むわけでもないが、少なくともこれさえ知っておけば大丈夫だとは言えないところが、ただ漠然と知は力なりとは言えず、また時と場合によっては毒にも薬にもなるのが知識の両義的な面だと知ったかぶって言い放ってみても、そんなのは誰の知ったことでもなく、逆に毒にも薬にもならない方が何の役にも立たない知識としては価値が高いのかも知れず、何に活用できるわけでもない方が、優先順位からも見放されて、知識として保持しておくには有利に働いて、ただそれを知っているだけにとどめておいて、それ以上の進展性や発展性を拒むような態度でいる方が、知識人としての価値が高まるわけでもないが、知らなくても済むならそれに越したことはないのに、なぜかそれを知っていることによって何ができるわけでもないからといって、無駄に知っていることになってしまうとしても、知っていることを自慢したいがためにそれを吹聴したいわけではなく、ただ知っているに過ぎず、だからといってそれがどうしたわけでもなければ、わざわざ知っていることを明かす必要もなく、それでも知っていることには変わりなく、それをどこで知ったのかといっても、どこというわけでもなく、自然と自覚するようなことかも知れないが、別に自覚できなくても構わないのだから、他人に教えるようなことでもないだろうし、実際に教えようとはせず、知ってしまうならそれでも構わない程度のこととして、話を進めているつもりなのだが、それを知っている人と知っていない人とで何が違うのかといっても、何も違わないわけでもないはずだから、少なくとも差異が生じているはずなのだが、だからといって差異を強調するようなことでもなく、その差異を利用して知っている人が知らない人より有利になるわけでもなければ、知らない人がそれを知ろうとする理由など見当たらず、有利不利や損得の面からそれを知る必要などないわけだが、では知る必要が出てくるのはどういうケースになるのかといえば、ただ何となく価値の高い知識を知りたいという理由ではなく、価値が高いということが利用価値や活用価値が高いということではないとすれば、ただ何の役にも立ちそうもなくても価値が高そうに感じられる知識というものがあるとも思えないが、未だに利用法や活用法が定まらない知識というのもありそうで、それを誰が求めているわけでもないが、自らもそんな知識を求めているわけでもないのに、自然に身についてしまう知識があるとも言えないが、実際にそれと気づかずに身についているなら、それを利用したり活用したくなってしまうのだろうが、たぶんそれも自らが意識することなく利用したり活用している実態もありそうで、しかもあえてそんな実態など知る必要もないのかも知れない。


10月5日「外れくじの山」

 当てが外れるのは毎度のことだが、そう何度も当たりくじを引けるわけもなく、当たる人がごく少数しかいないから、その種のくじ引きが成り立っていて、そう簡単に当たるわけでもないところが残念なようにも当然のようにも思われるのだが、外れたからといって単純に運が悪かったとは思わないし、何か技術的に改善の余地があるのではないかと未練がましく考えてしまうところが愚かさの極みには違いないが、そう考えてしまうのも当然のことのように思われるのだから、その種の無駄な悪あがきのような試行錯誤には際限がないのかも知れず、何かに取り憑かれたように執拗に運試しを繰り返そうとして、無駄に時間や労力や資金を費やしてしまうのは、ある程度は仕方のないことだと思いつつも、何とか工夫を凝らして当たる確率を上げたいのだが、いくら外れても懲りるわけもないところが、執拗に射幸心を煽られているわけで、そんな心理状態を見透かされているから、その種のくじ引き業者が栄えて、社会の至るところに罠を張って待ち受けていると情勢を捉えておけば、その種の罠へと誘導されるがままとなっている人心の愚かさもよりいっそう際立ってくるわけでもないにしても、時には気休めの戯れ事が必要だとは思うが、そればかりになってしまうと虚ろで満たされない気分になるしかなく、何事もそればかりにならないように工夫を凝らそうとするのだが、工夫を凝らそうとしている時点でそればかりとなっていて、そればかりとならないようにするにはどうすればいいかと思案してしまうこと自体が、もうすでに戯れ事の罠のただ中でもがいている最中なのであり、惰性で続けてしまっているくじ引き作業にも飽きてしまい、ただでさえ退屈にやられて死にそうになっているわけでもなくても、他人のデモ活動を眺めて羨ましがっている演技にも身が入らず、目に映る全てをやり過ごそうとしているとも思えないのだが、そこへと実際に行ってみないことには何も始まらないのであり、そこにも現場主義的な偏狭さの罠が待ち構えているのだとしても、行こうにも行けない成り行きの中に安住してしまっていること自体も、そこから抜け出せない罠だと捉えるなら、何でもかんでも思い通りに行こうが行くまいが、全てが罠だと勘違いしているのであり、それこそが幻想の罠にはまっている証拠かも知れないが、実際にデモ活動や抗議活動の罠にはまっている人たちにしてみれば、そこへ行きもしないのにうわべだけそんな活動を応援しているふうを装っている人が許せないと思うかも知れず、しかもそんなやからがSNSなどで利いた風な意見や主張をこれ見よがしに述べていれば、ここはいっちょとっちめてやろうと実力行使に出てくる可能性もあるから、そういった実践を伴わない応援団のような装いによってある程度存在が知られてしまうと、まずい状況に追い込まれてしまうから、応援するなら実際にデモや抗議活動をやっている現場に出向いて、活動の主体となっている団体の活動に参加する必要も出てくるのだろうが、そうやって活動そのものに取り込まれてしまうのも罠にはまっている証拠かも知れないが、どうやっても罠を免れないとしたら、なるべく深入りせずに浅い領域にとどまるように心がけていれば、罠にかかっているふりをするという高等戦術を実行していることになり、罠への従属や依存から逃れて自らの主体性を保っていられるかも知れないが、果たしてそんなことが可能なのかといえば、それも罠の程度や傾向にもよるだろうが、人々を罠にかけている活動主体に利用されている感ばかりが募ってくるようなら、大した見返りもなく隷従を強いられるだけの宗教と変わらなくなってしまうから、そこに功利的な損得勘定を持ち込むなら、何かしらギブアンドテイクやウィンウィンような関係を求めてしまうのだろうが、果たして一方的に何の見返りもなしに尽くすだけのような関係を長期的に維持できるかといっても、それもその場の状況や情勢にもよるだろうが、少なくとも利口な人なら、活動から自らの利益を得られないと判断すれば、撤退するか、付き合いがあるなら、なるべく深入りしないように距離を置いて間接的に接するような態度になりがちになってしまう一方で、馬鹿で浅はかな人だけがついてくるような活動になってしまうと、そんな人たちが活動の食い物になっているだけで、それでは活動の趣旨が違うということになるが、活動主体となっている団体でも、馬鹿な人が活動を運営しているわけでもないから、そういった馬鹿な人を食い物にして利用するだけの活動では発展性がないから、そんなあからさまな装いにはならないように配慮するだろうし、そこに参加する人たちを搾取するための活動ではなく、逆に目に見える利益を与える活動というのも、それではあからさまな営利目的の企業活動になってしまうから、市民が参加するデモや抗議活動にはそぐわないし、そういった構造的な外面だけをあれこれ考えてみても、肝心の活動の中身に触れない限りは、大したことは何も述べていないことになってしまうが、そうやって活動の中身には踏み込まないことが、活動そのものへと深い入りしないための秘訣だと言いたいわけでもないが、その種の活動をやり過ごすための戦略があるとしたら、それも一つのやり方であり、ひとたび罠にはまって抜け出られなくなる事態を避けるには、その種のリスクを引き受けないことが肝心であると利いたふうな意見を述べているつもりもないが、何か引っかかるものを感じるなら、そこへとのめり込むのを避ける意味でも傍観者の軽薄さを身につけなければならず、そうなるとその代わりに世間から相手にされない境遇を引き受けることにもなりかねないが、そうなるのが嫌なら、それが罠だと承知しながらも、進んで罠にかかってもがき苦しむ境遇を引き受けるだけの勇気や度胸や根性や技量が試されることになって、場合によっては命を削って自らの寿命を縮めながらやる羽目になるわけだ。


10月4日「スルーできない話題」

 いつものようにメディアに登場する人の仕草や動作や言動に人心を惑わすような戦略的な意図や思惑があると決めつけて、その人が事前にコンサルか何かの策士に入れ知恵されていると妄想してみたりして、そうでなくても何やら権謀術数が渦巻いているような空気や雰囲気も感じられるから、すでに疑いの眼差しを向けているのだが、果たしてそんな大げさなことが行われるような場面なのかというと、そんな空気や雰囲気を醸し出しているように見える人たちにしてみれば、必死になって自分たちの生き残りをかけてやっていることなのだろうから、それなりに準備万端整えて記者会見か何かに臨んでいるのだろうし、そんな場面を見せられたところで、その種の会見の内容に関してどうのこうのと論評する何かのご意見番の如き立場でもなければ、それ自体が台本ありきの演劇でしかないのだから、その程度のこととして捉えておくことしかできず、だからその種の演劇の中で対立しているように装っている登場人物たちの中で、誰の味方を装って、それと対立している誰かを批判したり非難するようなことにはならず、何か適当なことを述べるような成り行きでもないとすれば、見たくないなら見なければいいし、実際にそれを見ずに論評できるわけでもないからスルーしておくだけで、メディアが見せようとしている茶番劇からうまく逃れられたわけでもなければ、すでに回りくどく間接的に語らされている現状があるらしく、実際に多くの人たちが解説者やご意見番のようなことを語っていたり、SNSにそれらしい内容を書き込んでいるのを目の当たりにして、何か思うところがあるのかというと、思うところがあるとしても、それを直に文章として構成する気にはなれず、いつものように直接の主張や意見にはならないようなはぐらかしを施して、そこからちょっとずれたようなことを述べているつもりになって、そんなやり方ではそこから逃げていることにはならないとしたら、それ相応のことを語る羽目に陥ってしまうを避けるには、まだわかっていないことがあって、それが明らかにならなければ、それについては直接語れないのかというと、そんなことではないと思いながらも、実際にはそんなことを語っているのであり、そうなってしまうのを回避できずに、そうならないように配慮しながらも否応なくそうなってしまうのだから、巻き込まれていることを自覚せずにはいられないのだが、それ自体が目眩しの効果を狙って行われている大がかりな見せものに過ぎず、そんな見せものに気を取られているうちに、もっと深刻な事態が進行中だと主張したいわけではなく、それもこれも地続きで同時並行的に起こっていることであり、それについてもこれについても批判しなければならないことが山ほどあるから、それら全てに対して全方位的かつ全面的に批判を展開しなければならないと思いたいのだが、それも実際には部分的でちょっとしたことにしか反応できないから、それに対して批判する側の力量不足が露呈しているとしても、それらがたわいない大衆娯楽の時代の終わりを告げる話題として長く人々の記憶に留まるわけでもないところが、その程度の茶番劇でもその幕切れには相応しいと思われるのであり、結局メディアが人々に見せたいのは、誰もが無視してスルーできる程度の話題だと馬鹿にしたいわけでもないのだが、意識して避けられるのはそういう話題であり、さっさとそんな話題は忘れて、何事もなかったかのようにいつもの日常生活に戻りたいのかもしれないが、そうは問屋が卸さないと誰が思っているわけではなくても、執拗にそんな話題に執着して、そういうことを許してはならないという世論が大勢を占める状況へと世の中の空気を持って行こうとしているメディア関係者も少なからず存在するから、そんな傾向へと嫌でも誘導されてしまうのだが、そんな空気がいつまで保たれるかと問うなら、もちろんさっさと記憶が薄れて忘れ去られてしまう方へと意識が傾いていて、それでも構わないと思っているから、粘り強く執拗な追及をやりたいメディア関係者には同調する気も起こらずに、逆に何とかしてそういう空気が充満している領域から遠ざかろうとしているのかも知れないが、すでにそこから遠ざかっているつもりになっている真っ当な評価ができる人のふりをして、それらが醸し出しているいかさまやごまかしの雰囲気に対して呆れたふうを装うことも可能だが、元から何とも思っていないわけはなく、それらに対する真っ当な評価など元からなかったし、誰も全く評価していなかったと後出しじゃんけんのような蔑みの言葉を言い放つのも恥ずかしいなら、メディアの中でちやほやされている影ではそういうことが日常茶飯事のように行われていたのも薄々気づいていたと今さら言うのも、アリバイ工作のようにも思われるだろうから、どうやっても言い逃れができないその種の人々には受け入れてもらうしかないような現実が突きつけられていると現状を捉えておくしかないだろうが、それに対する典型的な反応として、胡散臭い脳科学者が何か世間の反感を買うようなことを述べていたのを思い出そうとするのだが、いったい誰が脳科学者なのかも記憶があいまいになってきて、それが茂木健一郎と呼ばれる人なのか、あるいは養老孟司と呼ばれる人なのかが判然とせず、たぶんどちらでも構わない程度のことであるから、物事の本質から外れた妄言に過ぎないだろうし、それ自体が忘れても構わないことなのだろうが、そういう人たちが専門としてきた大衆娯楽とは何なのかと改めて問う意味もない範疇では、それが偽りの娯楽なのかというと、娯楽の本質からも遠ざかってしまうと同時に、娯楽こそが人間の本質だと主張したくなるわけでもないが、娯楽の範疇で行われてきたことが人権侵害や差別や暴力と切っても切れない関係を形成していたわけだから、それを世の中からなくしていかなければならないことだと否定しつつも、それと表裏一体の関係を築いてきたのが大衆娯楽であることは誰もが認めざるを得ないわけだ。


10月3日「あいまいな結果」

 その場の成り行きが自分に有利に働いているなら、成り行きに従う限りで何でもできるわけでもなくても、やれることなら何でもやろうとするだろうし、やれることの程度や傾向も、その場の状況に応じて変わってくるとしても、それとは別に納得できて理屈に合うことをやろうとするかも知れないし、また社会規範に照らし合わせてやっても構わないことをやろうとするかも知れないが、結果的には矛盾した理屈に合わないことをやってしまうかも知れないし、また社会規範に照らし合わせてもやってはいけないことをやってしまう場合もあり得るが、それがその場の成り行きに従ってやっていることになるのかというと、逆にその場の成り行きに逆らったことをやってしまっていたり、あるいはどうとでも受け取れるようなことをやっている場合もあり得るが、それをどう受け止めるかは、それを受け止める人の立場や境遇によって変わってくるかも知れないから、そういう意味でも結果的にどう受け止めればいいのかよくわからなくなってしまえば、その結果が自らに有利なのか不利なのかもわからず、その場の成り行きに従って動いたつもりでも、結果的に有利にも不利にもならなければ、自身の行動によって中立的な立場へと導かれたと判断すればいいのか、あるいはどうとでも受け止められるような行動や行為しかできなかったのか、その辺も何とも判断がつかないかも知れないが、そんな結果に至ってしまった理由がわからなければ、はじめから特に自らを有利に導こうとして行動したわけでもなければ、では何のために行動したのかといえば、その場の成り行きに従って行動しただけであって、成り行きに従ったからといって、それによって自身が有利になるとも不利になるとも限らず、そうなった理由は定かでないが、何かに導かれるようにして行動したのだとすれば、今もそれが続いていて、得体の知れない何かに導かれるようにして行動している最中なのかも知れず、それが自らの利害とは無関係な作用に従っているに過ぎなければ、行動したところで、結果的にはどうなるわけでもなく、今のところは結果の良し悪しなど言う段階ではないとすれば、さらに行動しなければならないのかも知れないが、やはり行動したところでその良し悪しなどわからないような結果に至ってしまうかも知れないし、今はわからないかも知れないが、後からわかってくるならそのまま行動を続けるしかないし、そういう意味では良し悪しが判断基準となるわけではなく、さらには損得勘定もそれほどはっきりしなければ、行動するにあたって何か判断の指標となるような物事があるかというと、これといってあるわけでもなく、では迷ったら行動しなければいいのかというと、行動しないわけにはいかない成り行きに囚われているとしたら、わけがわからなくてもなぜか行動せざるを得なくなり、そんな成り行きに従って行動してみたところで、何がどうなるわけでもなければ、そんな状況をどう捉えたらいいのか判断がつかないだろうが、良し悪しも損得も判断しなければいいわけで、無理に判断する必要はなく、判断するのに都合が良くなるまで待つしかないのかも知れず、それまでは判断を保留したままさらに行動を促されて、実際にそんな成り行きに従いながら行動を続けていれば、いつか良し悪しや損得を判断する機会が巡ってくるかというと、その時が来たらわかるようなことでもないのかも知れず、意外と判断の機会を見失ったまま、判断すること自体がどうでも良くなるような状況の変化が起こってしまえば、それまでに囚われていた成り行きも雲散霧消してしまい、いったい何のために動いてきたのかのかも、その理由が問われることもなく、いつの間にか時代状況が様変わりしてしまったことに気づく必要もないほど、価値観が一変するような出来事を経験する機会など、人の一生のうちでそう何度も巡ってくるわけもないはずだが、自らが関わっているつもりの物事の連続性や継続性に執拗にこだわっていると、それを何度も経験したところで、そんなのは全く眼中にないのかも知れず、それ自体がどうでもいいことだと思えるほど特定の価値観に凝り固まっていれば、世の中や時代がどう変わろうと、これまで通りの価値観に囚われた思考によって物事を判断するから、確固たる善悪や良し悪しや損得の判断基準に基づいた判断ができるのだろうが、それが通用するような世の中になっているのかというと、通用しなければ世の中の方が間違っていることになるから、そんな世の中は変えなければならないと主張することになるわけだが、果たしてその人の力で世の中を変えることができるかといえば、人ひとりの力では変えられないから、他の多くの人々に向かって協力してくれるように懇願するわけで、ではこんなひどい世の中は変えなければならないと主張している人が、果たして時代や世の中の変化について行けない時代遅れな存在なのかというと、ある面ではそうかも知れないが、その人の言うことにも一理あるように思われるなら、そういう面では時代や世の中の変化とは別に恒常的に成り立つ普遍的な価値判断の基準というものがあるのかも知れず、それがリベラル的な判断基準となると、にわかにそれに対して反発したり反感を抱く人たちが湧いてくるかも知れないし、その一方でそれが古来より先祖代々受け継がれてきた慣習や伝統となると、今度は進歩的な思考の持ち主たちが顔をしかめる番かも知れないが、それらを多重的に同時並行的に判断しなければならないから、一つの判断基準に凝り固まってしまうと、他の判断基準がおろそかになってしまって、結果的に時代状況や世の中の情勢にはそぐわないような判断を下してしまうから、そういう判断には違和感を覚えるのだろうが、ではそんな判断では駄目なのかというとそうでもなく、世の中にはそんな価値判断を共有する勢力が執拗に存在しているから、そんな勢力に属していれば、あるいはそんな勢力が世の中で主導権を握っていれば、そんな判断をしても構わないような時代状況となっていて、実際にそんな価値判断に基づいて世の中が回っているように思われる面もあるのではないか。


10月2日「リベラルな価値観の浸透度」

 世界が末期的な症状を見せ始めているのは、世の中のどこを見てもそんな傾向が窺えるからかも知れないが、そういう方面ばかりに注目すればそんな感じがしてしまい、いつの時代でもやっていることが破綻してしまうようなことがそこかしこで起こっていて、そんなことばかり列挙すれば、なるほど末期的な惨状を呈しているように見えてしまうのだろうが、その一方で至って平常運転に終始しているところもいくらでもあるから、そういう方面ではどうなっているわけでもなく、どちらかといえば派手におかしくなっている方面の方が世間の注目を集める傾向があるから、そういう方面にばかり人々の関心が集まってしまう一方で、平常運転している方面へは誰も関心を向けないから無視されがちになってしまうのだろうが、どちらがどうだというわけでもなく、派手におかしくなっている方面へと人々の関心を誘導するのがメディアの役割だと決めてかかるのも勘違いかも知れないが、そういう方面では無理なことをやって見せかけの繁栄を装っていたいのであり、それが何かのきっかけからうまくいかなくなってしまったように見えるなら、今までやってきた無理が祟ってそういうやり方が破綻してしまったのであり、無理なことをやらないとそういう方面での競争には勝てないとしても、無理なことをやらないと勝てない競争に参加しなければならないというのも、そういう方面が末期的な状況となってきたことの表れでもあるから、そういう方面で行われていることが限界に達していて、そこで破綻が起こってしまうのも当然の結果なのかも知れないが、破綻が起こったからといって、対処しようがあるから破綻してしまうのだろうし、いったん破綻処理が行われた上で、またそこから何らかの事業が再構築される可能性も出てくるのだろうから、そういう方面では日常茶飯事な出来事として破綻が常態化しているわけでもなくても、制度としてそうなっている面ではそうだとしても、それ以外に何か文句をつける必要があるかというと、人権の尊重だとか不当な差別をなくそうだとか、リベラル的な価値観が損なわれるということに関して文句を言いたい人も出てくるだろうから、そっち方面から文句が出てくると、なぜか待ってましたとばかりに浮ついた思惑も伴ってきて、ここが追及のチャンスだと早とちりしてしまう人も出てくるのかも知れず、実際にそういう方面での無理なことというのが、人権の侵害や差別の助長や暴力の肯定などになってくるだろうから、そういった無理を押し通すことによって見せかけの繁栄を誇っていたい勢力としては、そういう不都合な面が表面化してしまうと繁栄を保てなくなって、最悪の場合には事業も破綻してしまうのかも知れないが、果たしてそういうことをやるのが悪いことなのかというと、確かにそういうことをやっていたのがばれてしまうと、まずい事態となってしまうのだろうが、それをばれないようにやるというか、ばればれなのに公然の秘密のような状態にできれば問題ないわけで、もちろん問題がないわけではなく、そういう方面の被害者に対して口封じのようなことをやるコストもかかってくるのだろうが、そういう方面で権力や権限を握っている側としては、見せかけの繁栄を誇示するためにも、そういうことを実行する場面が自らの力を見せつける絶好の機会にもなってくるわけだが、そういう意味でも理不尽なことを実行できることが、そういうことをやっている勢力の活動の中では俄然重要度が高まるだろうから、絶えず自らの力を被害者たちに見せつける意味でも、人権侵害や差別や暴力を実行することが、そういう勢力の活動そのものになってくるわけで、それがリベラル的な価値観からすれば悪いことには違いないわけだが、それをやらないと自身の力を見せつけられないわけだから、やらざるを得ないというか、やること自体が活動そのものなのだから、積極的にやろうとするわけで、それがそういう方面の魅力に取り憑かれてしまった人たちが陥る必然的な成り行きになってくるのだろうが、それを暴いて見せるのがジャーナリズムの使命だと勘違いしてもらっても、何かそれが正義を実行しているかのように見えてしまうと、保守的な方面からもそれに対する反発や反感も強まってくるにしても、そういうことを社会的に許容しても構わないのかというと、隠れてやる分には違法行為としてこれからも継続していくだろうし、違法行為は積極的に取り締まるべきかというと、法治国家を維持したいなら取り締まるのが当然だが、果たして現状が法治国家なのかというと、世界の中でも法治国家を維持できている国の方が少数派なのかも知れず、では大半の国が法治国家の体裁を維持できていないのかというと、その辺も微妙なところで、社会規範としての守るべき法律が何によって支えられているのかといえば、人々の良識や良心や倫理観や道徳観などによって支えられているわけではなく、暗黙の暴力によって支えられて裏付けられているとすれば、その暴力が何かといえば警察や軍隊などの暴力になるわけだが、しかもそうした暴力機関としての警察や軍隊の中で横行しているのが、人権侵害や差別や暴力でもあるわけだから、そういうことがひとたび明るみに出ると、そういう機関を管轄している官庁としてもまずい事態となってくるだろうし、できれば表沙汰にならないように穏便に事を済ませたいところだろうが、そういうことを許さないリベラルな価値観が世の中で優勢となってくると、そうも行かなくなってきて、そういう方面にもそれなりに配慮しなければならない事態にもなってくるのだろうが、それをどこまで配慮できるかも、そこに暮らしている人々の良識次第だといえるわけでもなく、そういう方面で利いてくる良識を都合のいいようにコントロールしたい勢力もいくらでも存在するから、結局はそういった世論をコントロールしたい勢力の出方次第な面もあるのではないか。


10月1日「そこで起こっていること」

 そこで何かが起こっていることは確かだが、それが起こった理由を求めようとすれば、何かしら納得できるような理由が導き出されることもあるが、そんな理由ではないような気がすると、他に何か納得できるようなもっともらしい理由があるのかというと、それがもっともらしい理由などではなく、信じられない理由であるなら、誰も信じてはくれないだろうが、納得できない理由が信じられない理由ではないとすると、例えばそれがトンデモ論に出てくるような荒唐無稽な理由であるなら、かえってその方がわかりやすくなり、そんな理由を信じていることが、その人を馬鹿にする理由となるのだから、なるほどその人が信じられない理由を口にする理由もわかってきて、その人が迷信や偏見に凝り固まっているから、平然と信じられない理由を信じてしまうのだと解釈するなら、話の辻褄が合うような気がするわけだが、もちろんそんな単純なことではなく、そこでそんなことが起こるのは、どうも事実としてタイミングが良すぎるわけで、それが何かのフィクションに出てくるようなタイミングでそんなことが立て続けに起こるはずがなく、実際にはお互いに無関係な複数の出来事が同時並行的に起こったから、それらの出来事の間で何か納得できるようなもっともらしい理由を設定しようとすると、トンデモ論のような話の内容になってしまい、世間の一般常識に照らし合わせるならそんなのは信じられないのだが、中には信じてしまう人もそれなりにいて、そういう人には常識が通用せず、果たしてそこで起こったことをそんなふうに解釈しても構わないのかというと、無理に話の辻褄を合わせる必要はなく、ただの偶然が重なって、複数の出来事が同時並行的に起こったと考えておけば、それらが起こるタイミングが奇跡的に合い過ぎるとしても、それが不思議なのだが、取り立てて不自然に感じられるわけでもないが、それでも話の辻褄を合わせるために、それらが起こった理由や原因を一つに集約させようとすると、何となく話に無理が生じてきて、それこそ陰謀論のような内容を信じるしか納得できないのかも知れず、そういう意味で論理的な飛躍をもたらしていると考えるなら、そんな話の内容を信じている人たちの思考的な欠陥が露わになってくるのだろうが、恣意的に区切られた一定の期間の中で起こった様々な事件の裏で糸を引いている共通の黒幕的な存在を設定するなら、そういう話になってしまい、それに関連してあれもそうだこれもそうだと指摘して回るときりがなくなってしまうのだが、ただでさえ世界の方々で無関係に感じられて辻褄の合わないようなことが立て続けに起こっているのに、それらが起こった理由や原因を一つに絞ってしまうと、今度はそれらの出来事の多様性を伴った広がりを説明できなくなってしまい、それだけ世界を狭く捉えていることになり、よく考えてみれば、一人の人間や一つの団体がいったい何の目的があって、世界を股にかけてそんなに多くの出来事に関わらなければならないのか、その理由が世界征服とやらになれば、昔のマンガの世界の話になってしまうが、そんな馬鹿げたことではないとすると、いったいどんな目的があってそんなことをやっているのかといえば、たぶん何の変哲もないただの経済活動の延長上でやっていることであり、そうなると目的を一つに絞るなら、ただの金儲けのためにそんなことをやっていることになるのだが、果たして金儲けで世界を征服できるかといっても、それは征服ではなく席巻といった言葉の方がよく当てはまりそうだが、たぶん何かが世界を席巻しているから、それに関連して世界中で様々な出来事が起こっていて、それが世界を征服しようとしているのではなく、経済活動の中で様々な人や団体が思い思いに自分たちの利益を得ようとしていると考えると、しっくりくるようなことであるにしても、実際にはもっと低次元の領域で何かが起こっていて、人が生きようとすれば自然にそうなってしまうような成り行きの中で、そんなことが行われていて、そうなると納得できる理由としては単に生きるためにやっていることであり、それがたまたまそれに関わってくる人や団体の間で利害が一致すれば、協力し合う場合も出てくるが、一致しなければ敵対し合うかというと、戦争や内戦の最中ならそれもあり得るが、無視しても構わないなら無関係となり、そうなると取り立てて敵対し合う理由はなく、これといって共通の目的や目標があるわけでもなければ、そこで起こっている様々な出来事に行きがかり上関わったり関わらなかったりしているだけで、それ以上に何か特別な理由があるわけでもなければ、他の誰かと共謀して陰謀を巡らす必要もないだろうが、その一方で制度や慣習の延長上で、何となく敵と味方とを区別していて、敵だと見なすなら、何をやっても無条件に批判の対象となるが、たとえ味方であっても絶えず仲間割れの心配をしなければならず、味方だからといって安心できないわけで、いつ背後から刺されるとも限らないから、とりあえず味方と見なした人や団体と表面上は協力し合ったり連携しているように装うが、それと同時に競争原理も働いているから、共通の利害を巡って競合しているわけで、果たしてそんな関係を長期間にわたって維持できるかといっても、それを維持しようとすれば守りに入って、守りに入ると仲間内で談合することになるから、そこから仲間のごまかしや嘘も共有しなければならなくなって、そんな関係の中で馴れ合いの派閥意識も生じてきて、そうなってしまうといったい何のための派閥なのかというと、建前やきれいごとを一通り並べ終われば、別の派閥との闘争や闘争するための連携が行われて、そこから集団の中での権力闘争も生じてくるから、そうやって争ったり戦ったりする理由も自ずから導き出されてくるとしても、そんな争いや戦いが何なのかというと、単なる新陳代謝でしかないと見なすなら、それも低次元の見解になるわけだが、そういう意味ではこれといって肯定的な意味や意義を感じられる理由などないとその場の情勢を捉えておいても構わないのではないか。