彼の声158

2023年

9月30日「制度改正に伴う思惑」

 制度が改められるのに伴って、新たな制度に適合しない人や団体が切り捨てられるとしても、そんなのは知ったことではないと無責任な態度になっていられるのも今のうちで、今さらそれの何が問題なのかと騒ぎ立てるのも面倒だと思う一方で、直接影響を被る当事者が対応できずに手遅れになってしまったところで、それとは無関係だと思っている部外者気取りの人たちにとっては、何がどうなるわけでもないとたかを括っていれば済むようなことではなくても、次第にそれでは済まなくなって、制度改正の煽りを食ってそれへの対応が後手に回って手遅れになってしまった人や団体がどうにかなってしまうのを横目で見ながら、それで世の中が回っているのだから、手遅れになっている方面とは別の方面でも、何かしら人や団体の活動が生じてくる可能性もあるわけだから、運良く生き残っていればそっち方面で活動してほしいという願うわけでもないだろうが、そう簡単に活動の拠点をそっち方面へとは移せないだろうから、制度改正に伴って切り捨てられてしまった人や団体が他から何の助けもなく自力で簡単に立ち直れるわけではなく、最悪の場合は世の中から退場するしかないとしても、それらの人や団体の犠牲によって世の中が変化する面もあるわけだから、大して影響を受けない人や団体にしてみれば、そんなのは知ったことではないにしても、無視できずに何かしら影響を被ってしまう人や団体にしてみれば、場合によっては被害者の会を結成したくなるような成り行きになってしまうから、そういう方面にかかりきりとなってしまうと、それがそういう人たちの活動そのものになってしまい、そういう人たちはそういう方面で活動して行くしかなく、結局はそれ専用の人たちとして生きていくしかないわけだが、人や団体をそれ専用にしてしまうのも制度の趣旨なのだから、制度としてはそれで構わないわけで、制度に関する専門職を作るのが制度の役目だと見なしておけばいいわけだが、そうやっていったん制度的な存在となってしまうと、その制度がどの程度の拘束力でそれに依存する人や団体を制度に縛り付けているかにもよるだろうが、制度なしでは活動することも生きて行くこともできないようにされてしまうと、それだけ制度への依存度が高まっていることにはなるが、果たして一つの制度だけでそれらの人や団体の活動が成り立っているかというと、そうでもなく、大抵は複数の制度や慣習が複雑に絡み合いながら、それに関係する人や団体の活動をもたらしていて、もちろんそれ以外にも作用や影響を及ぼしてくる制度や慣習以外の要因もあるから、特定の制度に深く関わってそれ専用の存在となってしまった人や団体などはほんの一部に過ぎず、それよりは様々な程度や割合で複数の制度に関与しながら活動している人や団体の方が多数派なのだろうし、確かにそれなしには活動が成り立たない面もあるにしても、それをどうにかして別の方面へと活動の重心を移動させることによってごまかせるわけでもないところが、制度的な欠陥というわけでもないが、それに関してはあえてそもそも論となってしまうにしても、制度を利用する立場を維持しておかないとまずいわけで、しかも利用しなくても活動が成り立っていればなおのこと好都合だろうが、それとは逆に特定の制度や慣習に依存しないと活動が成り立たなくなってしまった時点で、すでにその活動も末期的な症状を呈していると言われてしまったところで、もはや手遅れとなっているわけで、その典型例が日本でいえば酪農業であることは誰もが承知しているはずだが、そうなると自然の流れとして、制度改正によってそうなってしまった産業を切り捨てて行くことが、制度を管理運営している側には求められてしまうのだが、結局は制度が特定の産業を囲い込んで駄目にしてしまう典型例としてそんな成り行きが出てくるとしても、そういう意味で制度は麻薬なのかも知れず、それに依存してしまう人や団体を破滅に導くのが制度の罠と言えるわけだが、少なくともそんな制度を管理運営している人や団体自体が、自らが管理運営している制度に依存しないと活動が成り立たなくなっているわけだから、ひとたび制度を管理運営する側に回ってしまうと、未来永劫そんな立場を死守しなければならない宿命を背負わされて、そうなってしまった時点で破滅していると言えるが、もちろん自らの破滅を自覚できないところが、そんな立場の居心地の良さだと錯覚してしまうわけだが、たとえ破滅を繁栄だと錯覚してみたところで、実際にはそれが何によって成り立っているのかといえば、不正や汚職や腐敗がそれらの制度を支えているとは思わないだろうが、忘れた頃に取り締まりを受けて、トカゲの尻尾切りのようにして退場されられる下っぱも後を絶たず、当事者としてそうならないようにするには、やはり制度の利用や活用の仕方や依存の程度をわきまえておく必要があるわけで、そんな制度にどっぷり浸かって依存体質が骨の髄まで染み込んでいるなら、制度と心中してしまうことを覚悟しておいた方がよさそうだが、それでも心身的にも財政的にも余裕がなければ、利用できるものは何でも利用して、余裕のある立場へと成り上がりたいわけだが、それがそんなことをやっている当事者にしてみれば、それに成功したことが成り上がったことだと錯覚できるのだろうが、実態としては単なる立場の移動や役割分担の変更に過ぎない可能性もあるから、うまくいったと思ったところで油断していると、自らがその種の依存症に冒されていることにも気づけないし、制度自体も依存症となった人や団体を多く抱え込むことによって繁栄するわけだから、そういう意味でも特定の制度や慣習が社会の中で幅を利かせているなら、それへの依存の度合いが甚だしい人や団体もそれだけ多いと情勢を捉えておくべきなのではないか。


9月29日「思いとは違う現状」

 何をやるにもその人が囚われている成り行き次第な面があるとしても、そう簡単には思い通りにはいかないのが、努力次第とは違い、努力次第でどうにかなるようなこともあるにはあるが、努力するだけではどうにもならないとしたら、他に何が必要なのかと言えば、運次第であるなら、では運が良くなるにはどうすればいいかと問うなら、どうにかできるようなことだとは思えないが、胡散臭そうなやり方も中にはありそうで、その大半は迷信でしかなく、信じる者は救われると説くのは宗教であり、宗教だからといって、それの何を疑っているわけでもなく、そんなのは迷信だと思いながらも、いったん信じられないような奇蹟が起こってしまえば、それを信じようとする誘惑には逆らえず、無理に逆らえばばちが当たるような結果を恐れて、その場の成り行き次第で迷信を信じているふりを装う場合もありそうだが、その一方で夢のお告げが示す内容は、それとは少し事情が異なるようで、夢見る人の願望がそのまま夢に現れるわけではなく、時には戒めの言葉と共に、その行き過ぎに歯止めをかけるような話の展開も待ち受けているから、夢のお告げを信じたくなってしまうのだが、信じるか信じないかはその人次第な面もあるだろうから、その場の事情に合わせて都合の良い夢の解釈に落ち着きそうだが、それも実際に何かが起こってから、あの時に見た夢はこういうことだったのかと知るに至るのだが、実際には後からそれを知ったのではなく、それも夢を現実に起こった出来事に結びつけるのに都合の良い解釈を施しているに過ぎないが、それが予知夢のように思われてしまうのだから、改めて都合の良い予知夢を見るにはどうすればいいかと原因と結果を逆転させようとすれば、それに合わせて都合の良い迷信も導き出されてくるだろうから、そうやって何もかもを迷信で片付けようとすれば、意識がご都合主義に染まってしまい、そこで解釈の不都合が生じているわけだが、後から話の辻褄を合わせるのに都合の良い解釈を施すことが、絶えず後出しじゃんけんの誘惑に屈していることになるのかといえば、それに関しては政治的な事情も絡んでくるから、もっともらしい見解を述べるには、何かが起こってからそれを批判したり、それに反対する意見を主張する成り行きになってしまい、それに関するご都合主義的な見解として最近目立ってきた誰もが使いたくなる紋切り型の常套句が、「今だけ金だけ自分だけ」と批判しておけば済むような風潮なのかも知れないが、批判したければ何でもかんでもそれに結びつけて言い放ってしまうから、これ見よがしにそう言い放っている自身が罠にかかっていることに気づいていないばかりか、それが何の罠かも理解せずに紋切り型の常套句を平気で言い放っているわけだから、要するに馬鹿丸出しなのだろうが、逆にそんな批判の対象となっている人や団体の方が、全く「今だけ金だけ自分だけ」ではなく、将来を見据えて用意周到に事を運んでいるからそうした批判の対象となっているわけで、そうなると「今だけ金だけ自分だけ」と批判している方が、苦し紛れのその場しのぎの場当たり的にそんな紋切り型の常套句を使っているに過ぎず、もちろん積極的に使っているように見えることが、その場の空気に呑まれて使うように仕向けられているだけで、そうなっているだけでも正常な判断能力を失っていることになるから、ますます焦ってジリ貧に陥っているように見えてしまうわけで、それが政治的な劣勢に立たされていることを物語っているようにも、状況の深刻さを醸し出しているようにも感じられてしまうが、それも単なる世界的な景気循環の中で起こっていることだと突き放して見ておけば、戦争も物価高もパンデミックも一過性の現象に過ぎないとも思ってしまえるわけだが、もちろんそれも自分にとって都合の良い現状の解釈になるから、そう思いたい自意識に心身が騙されているような自業自得な気分にもなってきて、そんな思いを現状が裏切っていることに気づけなくなっているのかも知れないが、果たして自意識が現状に裏切られているとはどういうことなのかというと、世界中で大変なことが起こっているはずなのだが、そこだけに視線が集中するように仕向けられているわけではなく、むしろ視線をそこから逸らされようとしていると被害妄想に陥っていることに気づかないわけでもなく、どちらとも言えないような成り行きの中で、どちらか一方へと視線を集中させようとすると、それとは逆の方面の現状がそれを裏切って、そんなことはないと微笑みかけてくるから、何か現状に馬鹿にされているような気がしてきて、ますます焦燥感に囚われてしまい、そんな焦りを打ち消すように単純でわかりやすい対立へと持って行こうして、苦し紛れに紋切り型の常套句を言い放ってはみるものの、世の中はそんなに甘くはなく、そんな空回りの努力次第でどうにかなるようなことではないから、結果的には現状の壁にはじき返されて、ますます裏切られた思いに凝り固まっているのかも知れないが、それでも自身の信念を曲げるわけにはいかないだろうから、そんな紋切り型の常套句に裏打ちされた存在として、批判の対象を矮小化しながら、何とかして相手として見られていない相手を否定的な存在として固定化できるような理屈を導き出そうとするわけで、果たしてそれが信じられるような理屈になるかというと、そう言われてみれば一見もっともらしいのだが、たぶん理屈通りの存在であれば誰もがそれを理解して、そんな否定的な存在など誰も支持しないだろうし、多くの人々の支持を失って衰退するはずなのだが、少なくとも現状ではそうはなっておらず、それどころか世の中の多数派の支持や無関心を背景として、政治の主導権を握っているわけだから、どうもそういうところが理屈に合わない現状となっていて、そういう意味でも単純でわかりやすい対立をもたらすような理屈では通用しない現状となっていると思うしかなく、それもそれらの人々の思いや考えを裏切った現状になっていることの証拠なのではないか。


9月28日「些細な行き違い」

 事前に予想が外れることを知っていたわけではないが、それについては何か予感があって、それが嫌な予感なら、そんな予想は信じない方が身のためだが、それが何の予兆だと、その時点で示すことはできなかったが、まだ明確な結果が出ないうちから、あやふやな憶測に基づいて、いい加減なデマを言いふらすわけにもいかず、たとえ予想が外れたとしても、保険に入っていれば心強いかも知れないが、予想ではなく、それを何かの予兆だと感じているのなら、それが何の予兆なのかもはっきりしない段階では、予想を予兆だと感じる根拠も示せないし、その予想と保険とが結びつくとも思われないなら、安心できるとも限らないし、それはそれ、これはこれでしかないことであり、それで何がどうなるとも思えないはずだが、自らが予想したわけでもなく、他人の予想を信用して安心していただけであるなら、予想が外れたところで自分のせいではないとは思うし、そんな予想を信用した自分が馬鹿だったと思えばいいだけだろうが、その一方でそれが何かの保険だと思い込んでいたことも、当てが外れてしまったのかも知れず、保険としても全く機能しないどころか、投資した分のリターンも期待できないどころか、ただ単に損失が増えただけとなってしまえば、結果的には予想にも保険にも裏切られて、後には絶望しか残っていないと思われるなら、それが唯一の希望だと逆に強弁したくなるはずもなく、騙されていたことを悟るしかないだろうが、そんな予想が出てしまうこと自体が何かの予兆なのかも知れず、簡単に言うなら景気後退の予兆として、そんな予想がまことしやかに信じられて、それを信じることが何かの保険に入っているかのように思われるから、結果的に保険としても予想としても当てが外れるようなことになってしまうのだろうが、まだその結果が出ていない段階で、そんなデマを信じている輩が地獄に落ちると予言するような言説も目立ってくるのだから、何かそれが冗談のような成り行きだと思うなら、そんなことを思っている自らがその種の成り行きから逃れているわけでもなく、むしろ自分もそんな成り行きに巻き込まれているからこそ、そんなことを思ってしまうわけで、そんなことを思ってしまうこと自体が何かの予兆なのであり、それを敏感に感じ取っているのだから、多くの人々が信用している誰かの予想が外れてしまうことですらも、何かの予兆であることには変わりなく、もちろん予想が外れたと認めるわけもないところが、それを予想している誰かの世間的な信用が維持されていることの証しとなるのかも知れないが、それを安易な予想だと思うなら嫌な予感が的中する可能性も高まり、これから未曾有の事態が起こって、それが未曾有の事態だからといって、いつもそんなふうに騒ぎ立てているから、その種の脅しには誰もが慣れていて、逆にそれが未曾有でも何でもないとたかを括ってしまうのかも知れず、だからいつものように何事もなかったかのようにこれまで通りの日常の延長上で暮らしているつもりになれるのだろうが、実際には様々なところでいつもとは違う成り行きが起こっているはずなのだが、別にいちいちそれを感じ取る必要はなく、その種の感性を持ち合わせていない人たちが世の中の人の大半を占めていると思っても、中にはそれを敏感に感じ取って、いつもとは違うことが起こっていると騒ぎ立てるが、大半の人たちからは無視されて意気消沈してしまうかも知れないが、そんな事態を誰が予想していたわけでもないだろうから、世の中の大半の人たちが安心できる予想というのも、これまで通りの日常が続いて行くことを前提とした予想へと落ち着いてしまうのかも知れず、実際にはそうはならないから、予想が裏切られることになるのだろうが、裏切られたことにも無関心であるから、たとえ予想が外れたところでそんな予想をしている人の信用がなくなるわけでもなく、それ以前にそれが予想だとも感じられないようなことを予想しているのだから、その人が何を予想していたかなんて誰も覚えていないわけで、それが何かの主張や意見としてメディアで機能していること自体が、もはや予想でも何でもなく、それが予想として機能しているのは天気予報か株価や為替の予想でしかなく、それ以外の予想としては世論調査結果に基づいた選挙結果の予想もあるにしても、果たしてそれらの予想から自らの将来に関わってくる予兆を感じ取れるかといっても、それを感じ取っているつもりになって、それに基づいて主張や意見が構成されている現状があるなら、むしろそんな主張や意見を信用するわけにはいかず、もっと別の方面から主張や意見が構成されているように思われるとすれば、それが何かといえば、その大半が根拠の定かでない憶測やそこから派生した陰謀に基づいて構成されてしまうのだろうが、それらを信用していなくても何かしら影響を受けているわけで、たとえそれがAIを使って求められた予想であっても、それを多くの人々が信用するからこそ、そこから根拠の定かでないデマや憶測も派生してきて、それらが人心を惑わすことになるのだろうが、そんな共同幻想の類いによって社会が支配されていると思えば、それも根拠の定かでないデマや憶測のバリエーションの一つとなり、そうやって絶えず確からしい予想を裏切るような結果が導き出されてくること自体も、後出しじゃんけんのようにして、予想を覆すべく人や物や情報の配置が再構成されるような傾向となってくるわけで、そういう意味ではいったん予想が出されたら予想しっぱなしになることはなく、その種の後出しじゃんけんを受けて新たに予想し直す必要も生じてくるから、相手の出方を予想し始めたらきりがなくなり、そんな予想に応じて自らの主張や意見も更新する羽目に陥って、それが際限のない検証作業をもたらすのだとしても、どこまでしつこくそれにつき合うかも、それに関わってくる人の根気次第になってくるわけだ。


9月27日「呪いと祟りの相似形」

 自らの行為や行動がもたらしている結果がどれほどの程度で自らを苦しめているとも思えないが、苦しめているのではなく、時と場合によっては逆に勇気づけているとしても、それが自らの意思や意志に基づかない行為や行動であるなら、メディアからもたらされる大衆用の欲望や願望によって心身の自由を奪われて、しかもそれに操られている感覚ではなく、むしろ好感を覚えるような感触を伴いながらも、そんな欲望や願望を抱くように仕向けられているなら、逆にそれが良い兆候だと思いたくなるが、それが感覚だとか感触だとかのあやふやなで感じではなく、何らかの理屈や論理に基づいた行為や行動になるなら、何か正しいことをやっているような気になれるかも知れないし、そうなればどちらかといえば感性よりは理性や悟性を重視した活動になるはずだが、実態としてはそうではないとすれば何なのかというと、自らの知力や体力の限りを尽くして挑んだつもりが、肝心なところで、その場の偶然によってもたらされた得体の知れない力が作用して、思いがけないことが起こり、それが自分にとって不利に働くようなら、できることならそんな事態は避けたいと思うだろうが、それを不利だと断定してしまうことが、その場では確かにそう思われるとしても、そこから時が経ってみればそうでもないと思われてしまうなら、時と場合によっては有利にも不利にも思われるようなことであるから、その場の実感だけで判断するのは早計なのかも知れず、確かにメディアと連動した広告媒体などがもたらす型にハマった欲望や願望はその場限りで抱くものでしかないが、その場ではそれしか感じ取れないとしても、他にも何かしら感染しているから、後になってそれ相応の病として発症する場合もあり、そうなるとその場では潜在的な領域で進行している事態を感じ取れず、そこで何が進行しているかは、そこから時が経ってみないとわからないとしたら、ある時点で過去を振り返ることによってそれを感じ取れるのであり、それを感じ取った時点ではそれがすでに過ぎ去っていることだから、もう手遅れとなってしまったことでもあり、それを感じ取ると後悔することになるだろうが、後悔したところでもう遅いわけで、もうどうにもならなくなってから手遅れを痛感させられて、その時点ではあきらめるしかないだろうが、具体的に何をあきらめるのかといえば、すでに若くはないのだから若さをあきらめるのは当然だとしても、それでも執拗に追い求める目的や目標があるとすれば、現状を維持することであり、これ以上は老いないように涙ぐましい努力をすることになるかも知れず、そこから真のあきらめの境地へと移行するには、まだ足りないものがあるのかも知れないし、それが何かといっても、各々で捨て去らなければならないものが違っても、果たして何もかもを捨て去っても構わないのかというと、何かこれといって残しておきたいものもある一方で、これといってその人にとって重要と思われるものが残っているわけでもないのかも知れず、それが老人の悪あがきに使えるようなら、最後の最後まで後生大事に取っておきたいのかも知れないが、それが思いもよらぬ結果をもたらすとしたら、今後のどこかの時点でそれが明らかになるかも知れないから、今はそれが明らかになることを期待して待つしかないだろうが、明らかになった時にはすでに手遅れとなってしまうことだから、手遅れにならないうちにどうにかできるようなものでもないのかも知れず、待つことしかできなければ焦ったくなってしまうが、ただ待つだけではなく、待っている間にやるべきことがあれば、それを積極的にやらなければならないと思うなら、まだあきらめていない証拠となるだろうから、今はそれが見つかることを期待すればよく、それは過去にやったことを後悔しているうちは見つからないのかも知れず、あるいは後悔しながらも見つかるようなことなのかも知れないが、それが見つかったところで求めようとすれば未来へと遠ざかって行くようなら、そんな期待に導かれながらさらに遠くへと歩んで行くことになるのかも知れないが、間違ってもそれが自らの死だと悟ってはならず、最後の最後に求めていたものが自らの死であれば、自らが知らない間に死ぬことを期待していたことになるわけで、それでは意味不明かも知れないが、考えようによっては当然のことでもあり、死ぬまでに何もかもを捨て去ることができれば、後に唯一残されたものは自らが死ぬことにしかならず、確かにそれでは予定調和にしかならないだろうが、実際には死んだ後にも残そうとしているものがあり、それが自らの財産であるなら、それを残された家族が相続してほしいのだろうし、相続してくれることを期待しながら死ぬわけだが、相続したところで残された家族が好き勝手に使って消尽してしまう場合もあるから、その人の死後に期待が打ち砕かれたところで、そんなのはその人の知る由もないことだから、そうなれば予定調和とはならないが、それこそが苦しみからの解放となるかも知れず、それを自らの死後に知ってしまえば、せっかく貯め込んだ財産を好き勝手に使われた人にとってはたまったものではないが、せこい期待は期待した人がどうすることもできないところで打ち砕かれてしかるべきかも知れないし、それをせこい期待だなんて誰も思わないし、死者を冒涜するようなことはやってはいけないはずだが、結果的にそうなるように得体の知れない力が偶然の助けを借りて作用するわけでもないのだろうが、その一方で死者の呪いや祟りを鎮めるには何が必要かというと、故人の遺産を散財すると呪われたり祟られるとも限らないが、その遺灰を海や空に散布したりする行為が死者の呪いや祟りを無化する効果があるとも思えないにしても、それよりは先祖代々受け継がれてきた土地や財産を後生大事に守って行くことが、残された遺族に託された義務だと思うなら、その呪いや祟りも代々受け継がれて行くことになるだろうから、それを鎮めるための儀式も代々受け継がれて行くことになり、期待されているのはそういうことだと受け取っておけばいいのだが、そんな期待が裏切られた時が世の中が変わる時なのかも知れない。


9月26日「大がかりな仕掛け」

 今この世の中で行われていることの全てが何でもないことだとは思わないが、それを何でもないことのように見せかけるために、メディアを通じて大がかりな捏造が行われていると妄想してしまうわけでもなく、それを仕掛けている主体など存在しないと思っていて、その種の陰謀論を信じている人たちに向かって、そんなことはないと軽くいなして、すぐさまそれとは関係のない話題へと人々の関心を誘導しようとしているのは誰なのかと問いたくなってくるわけでもないが、人々の関心を自らの都合の良い方面へと誘導したい人ならいくらでもいるだろうが、そんな人に関心があるわけではなく、他人が関心を持っている物事に関心があるのは誰もがそうだろうから、逆にそんなものには関心がないと断言したくなることも一度や二度ではなく、それがくだらないと馬鹿にしたくなる時もあるから、そう思ってしまう自らが馬鹿なのも承知していて、また馬鹿でない時には、他人とは違う何かに関心があるのではないかと自らの関心を疑っているつもりにもなれるのだが、それも自らが馬鹿なことの延長上でそう思っているのかも知れないから、自身が馬鹿であろうとなかろうと、他人の関心を馬鹿にする一方で、他人の関心に自らも惹かれていることも認めざるを得ず、他人が関心を持っているから、それにつられて自らも関心を持ってしまうから、すでにそうなっている時点で関心を誘導されているわけで、そうなるように誰が仕掛けているわけでもなくても、そんな仕掛けを疑いながら、時にはそれに反発して、仕掛けに逆らっているつもりになりながらも、結局は他人の関心に誘導されてしまうわけで、そうなるように誰かが仕掛けているわけではなく、罠にかかっているとも言えず、自業自得なわけでもないとすれば、それで構わないと思うしかないが、普段はそんなことには関心がないわけで、無意識のうちにそうなっていて、それを自覚しているわけではなく、ただ関心が赴くままにメディアからもたらされる話題に関心を向けていて、そうなっていることに取り立てて不都合を感じているわけではなく、むしろ世間の関心に自分も関心を向けていないと、時代から取り残されてしまうと思っているわけでもないが、少しはそういうところに疎くない程度の状態を保っておきたいからとも思っていないが、何となく他人の関心に誘導されるがままに、自分もそれに関心を向けている状態を受け入れているわけで、そうなっているから時代の流れについて行っているつもりになれるのだろうが、だからといって積極的に世間の流行を自らの生活に取り入れているわけではなく、逆に流行に敏感な他人を馬鹿にしつつも、自らはある程度は流行遅れでも構わないと思っているのかも知れず、そのある程度というのが微妙なところで、恣意的に許せる範囲内でそう思っているのかも知れないが、実態としては世の中の流行に惑わされながらも、何とか外見がみっともなく見えないように心がけていたりして、それが外見だけでなく内面も他人から馬鹿にされないように、絶えず修正しようとして、できるだけ欲望を抑えて節度を保っているように装うのだが、そうなっていること自体が誰かに操られている証拠だと思うわけでもないのだが、たぶんそうするように仕向けられていることは確かで、社会や世間に向かって自分が礼節をわきまえた良い人であるように見せかけたいわけで、それが他人から絶賛されるようなことではなく、ほどほどに目立たない程度に保っておきたいわけだから、そういうところがせこいと思われても仕方のないところかも知れないが、そんなどうでもいいところで騒ぎを起こしたくはないわけで、もっと何か別のところで自らの有能さを見せびらかしたいわけでもないのだろうが、たぶん世間的な基準では有能であるどころか、どちらかと言えば愚鈍な部類に入っていた方が、何かと面倒なことに巻き込まれない可能性が高いと思っているのかも知れないが、面倒なことというのがどういうことなのかといっても、はっきりとこれだと示すことはできないが、何か社会的に責任のある立場に立たされるのはごめん被りたいとは誰もが思うだろうし、もちろんそうは思わない人も中にはいて、そういう人がなりたがる立場や地位というのもあるにはあるだろうが、実際にそんな立場や地位に就いてみれば、自らの思い通りには行かないことを嫌というほど思い知らされるだろうから、そんな人を批判したり非難することは簡単にできるとしても、じゃあお前がやってみろと言われたところで、誰もがなれるわけでもないのだから、そこで批判されたり非難される立場や地位に就いている人と、それを批判したり非難する人たちとの関係が、少なくとも対等な関係ではなく、非対称で不均衡な関係となっているから、それを批判したり非難する人たちを、対等な立場から悪く言うのは筋違いとなるだろうし、逆に何とかしてそれを批判したり非難する人たちをそういう立場や地位へと引き上げなければならないのかも知れず、そのために講じられているのが、制度として大がかりな仕掛けとなっているわけで、その仕掛けを活用しなければならないはずだが、なぜかその仕掛けが機能しなくなっているとしたら、果たしてそれを上回るような仕掛けが講じられていると思えばいいのか、それともそう思うか否かで、その人の妄想の程度が世間の基準からどれほどずれているかが決まってくるような気がするのだが、別にそこが運命の分かれ道というわけでもなく、そう思いたいなら勝手に思い込んでいればいいのだろうが、そこでも何かが人為的に仕掛けられているわけではなく、他人がそう思うから自分もそう思う程度のことが、人々の間で共同幻想のように共有されていて、それがそう思っている人たちを世の中で有利に導いたり不利に導いているように思われるのだが、果たしてそれが気のせいに過ぎないかどうかも、そう思っている人たちの思い込みの程度や傾向に応じて異なるのではないか。


9月25日「税制の不透明」

 不公正という言葉の意味を履き違えて使用するなら、税に公正も不公正もなく、民から不当に財産を奪うことが税の基本的な成り立ちなのだから、税に関してあまり公正さを云々することはできないと思っておいた方が無難な解釈に落ち着きそうだが、それでも納得できなければその不当性を訴えた方がいいだろうから、相対的な程度として不当であるか否かといった水準であるなら、特定の税制の不当性を訴えるように成り行きになってくるだろうが、そもそも論としては、税がないと公的なサービスの費用を賄えないのだから、そこから税制を正当化すれば、それなりにもっともらしく思われるのだが、税にも種類があって、様々な税のうちで特定の税に狙いを定めて、その不当性を訴えるというやり方が、果たして説得力を持つかどうかも、そういうことを訴えている勢力にそれなりの支持や賛同が集まれば、そういう主張もそれなりに正当化できるような感じにもなってくるだろうから、そういう面で何か引っかかるものを感じるとしても、程々のところで騙し騙しの論調に留めておくのがやはり無難な主張になってくるとしても、その不当性を訴えている側にしてみれば、手加減している余裕などないから全力でいかにその税が不当なのかを訴えるわけだから、それを真に受けるならそう思っておけばよく、そこで何か腑に落ちないものを感じるとしても、そういう主張を押し通して行けば、自ずからそれが突破口となって事態が進展して行くなら、そういう成り行きに乗っかって世の中を変えようとしていると受け止めておけばいいわけだが、そういう意味ではその種の主張に対してあまり論理的な整合性を期待しない方が身のためであり、それに関して何か引っかかりを感じる程度の疑念を抱きながらも、それをことさらに強調してしまうとかえって墓穴を掘ってしまうような成り行きにもなりかねないから、その辺は微妙なさじ加減だとしても、誰もこれといって決定的な勝利を得るような結果など得られないと思っておいても、それほど間違ってはいないだろうから、それ以前にこれまでも平然と矛盾したことをやってきただろうから、その矛盾を突くことによってそれに対する批判が成り立つように思われるのだが、だからと言ってこれからは矛盾のない税制を目指せるわけでもなく、ある程度の矛盾や不当性は免れないと思っておいた方がいいだろうから、それについて楽観できるようなことではなく、絶えず税に関して不利な立場になるような人や団体から文句や批判を浴びながらも、不利になっている人や団体には減税する一方で、有利になっている人や団体には増税となるようなごまかしや幻想を抱かせながら、税制を運営していくしかないだろうし、たとえそれが小手先の譲歩や妥協に過ぎなくても、何か抜本的な改革を行なったような装いをまとわせたいわけだから、いくら公正な制度を目指しても無理な面もあるのだろうが、あからさまな疑念を抱かせないようにするにはどうすればいいかといったところで、目先の損得勘定に誘導するしかないだろうから、やはりそういう意味では矛盾したことを大胆に実行するしかなく、それが減税へと落ち着くのは目に見えているが、そこで下手に公正さを実現しようとすれば、かえって墓穴を掘ることにもなりかねず、現状で不利になっている側にも有利になっている側にも減税すればどうなるかというと、税収が減ることも目に見えているが、それが矛盾しているようにも感じられるだろうが、結局そういうことをやらないとまずいわけで、もちろんそういうことをやってしまうとさらにまずい状況に陥ってしまうかも知れないが、それで構わないと思っておけばいいわけだが、そういうことをやってからそれに対処すればいい程度のことであり、はじめからうまく行きそうにない状況へと事態を導いてからそれに対処したところで、うまく行くはずがないと思われるかも知れないが、そう思わせることが狙いとなるわけでもないが、そう思わせるような状況を実際にもたらしてから、それに対処していれば、自ずから制度も世の中も変わって行くだろうし、これまでにも無理なことをごり押ししながら現状を維持しようとしてきた経緯があるのだから、どちらにしてもうまく行かない結果をもたらすのであれば、はじめからうまく行きそうにないことをやっておいた方が、事態の収拾には持っていけるかも知れないし、それがうまく行かなくなって失敗してしまったとしても、それなりにできる範囲内で対処しておけばいいだろうから、たぶんそういうことをやっているうちになるようになるだろうから、そうなった時点でそれをやらないよりはやった方がマシに思われてくるかも知れず、結果的にもそうは思われないかも知れないが、相変わらずそれに対処している間はなるようになっているわけで、そういう意味では小さな失敗にとどめようとすれば、かえって取り返しのつかない事態となる一方で、派手な失敗を予感させられるようなことをやれば、かえって無難な結果を得られるかも知れず、その辺が事前に予想できることと、その予想に反して思いがけない結果を得られるような成り行きの違いとなるのだろうが、果たしてその違いを実現できるかといえば、現状を変えようとして強引なことを主張している勢力にその可能性を感じられないとしても、思いがけない結果をもたらすのがそうした勢力になるとは到底思えないところが、逆にその可能性を予感させるかも知れず、そんな勢力がいくらそんなことを主張したところで、そんなことが実現できるはずがないと思うなら、それで構わないわけで、そう思っている人が多ければ多いほど、それとは別の思いがけない結果がもたらされて、それが誰もが思ってもみなかった結果であるなら、それがそんなことを主張していた勢力にとっても思ってもみなかった結果となるから、結果的には痛み分けとなるどころか、そこから新たな時代が始まって、しかもそうなりそうな兆しに誰も気づいていないからそうなるのかも知れない。


9月24日「知っていたこと」

 自分にとってはよく考えてみないと理解できないことが、世間では知っている程度で済んでしまうなら、何か拍子抜けしてしまうが、では実際に世間を構成している人たちが何を知っているのかというと、それを知っているようでいてなかなか思いつけず、それに関して自分が過去に何を知っていたのか思い出せないようなら、元から知らなかったことになってしまうわけでもないが、いくら思い出そうとしてもどうしても思い出せないのだから、しばらく考え込んでいると、ふとした拍子に何か勘違いしているような気がしてきて、思い出すのを邪魔されているような気にもなってくるわけだが、それを知ることを頑なに拒否している人も相当な数に達しているような気もするなら、やはり世間を構成している多くの人々が知ることを意識して拒否していて、しかも逆にそれをわからせようとしているのが誰なのかというと、多くの人々がその存在を知っていても無視している誰かになるとすれば、そんな誰かが現状の世の中に実在しているとも思えないのだが、そうではないとすると、実在ではなく不在なのではないかと疑いたくなってくるが、では誰が不在なのかというと、救世主が不在だと言い放つような輩が今の世の中にいるはずもないが、中には救世主がここにいると断言したくなる人もいるわけで、そういう方面でいかがわしい宗教が流行っているかというと、しばらく前までは確かに人知れず流行っていたことにしたかったのだろうが、何かをきっかけとしてそれを流行らそうとしていた人々の化けの皮が剥がれた後は、突然目が覚めたような成り行きとなってしまい、それが宗教を流行らせようとしていた人たちを困惑させることになったのだろうが、その後の経過と共にそれがどのように変質して行ったのかといえば、見ての通りの事態を招いているわけで、混乱のただ中で世界の均衡が保たれているようないないようなどちらとも受け取れるような状況が出現しているとしても、そんなことには至って関心がなく、相変わらず狭い視野が及ぶ範囲内で気に食わない誰かの揚げ足取りに専念している人たちが目立っている一方で、もっと視野を広げて辺りを見渡して、すでに知ってしまっていることからそれらの意味を考えてみるなら、まずはそれらとは何かということがわからないとすれば、果たしてそれらの中に実在の人物が入ってくるかというと、入らないわけがなく、実在する特定の人物に関して何かもっともらしく語らないとフィクションになってしまうから、焦りを覚えながらも話をわかりやすくするために手早くカテゴリー分けを施された集合の中から、目立つ人材を選び出して、その人物について知っていることをいちいち取り上げながら文章を構成しようとするのだが、途中から取り上げるべき人材を誤っているのではないかという疑念が芽生えてきて、どう考えてもその人物が救世主であるはずがなく、少なくとも救世主の物語の主人公にはふさわしくないから、語っている途中から路線変更を意識し始めて、それがどんな路線なのかと言えば、普通に考えて詐欺師の路線であるなら、救世主=詐欺師となるから、話がさらにわかりやすくなるはずだが、詐欺師はペテン師でもあるから、否定的に取り上げられて、場合によっては批判や非難の対象にもなってくるから、そういう方面に関心がある人には格好のターゲットになるだろうが、果たしてそんなわかりやすい話なのかというと、その人物が詐欺師やペテン師なのは誰もが知っていることであり、少なくとも世間でも知られた事件の当事者で、しかも裁判で有罪判決を受けて実際に短期間であっても刑務所で服役していたわけだから、今さらそんな詐欺師やペテン師の類いが救世主であるはずがないのも、誰もがよくわかっているから、間違ってもその人物を主人公とした救世主の物語などあり得ないわけで、だからその人物は初めから除外されてしまうとしても、なぜ思わせぶりに救世主という社会的な役割にこだわってしまうのかといっても、そういう設定にしておけば気休めの余興として格好の題材となりそうだから、なぜかそこにこだわってしまうのかも知れないが、それも見せかけの囮でしかないのかも知れず、その人物が何かの囮となって、その人物をめがけてメディア経由で言説や言動が集中するように世間の関心を意図的に誘導したいわけで、果たしてそんな誘導が功を奏しているから、現状がある程度の耐久性を獲得しているのかというと、それが何に対する耐久性なのかが、それについて語っている当人にも見当がつかないのかも知れないが、それを簡単に言ってしまうとまずいような気もするなら、できるだけ回りくどくわかりにくくそれとわからないように仄めかす必要があるのかというと、誰がそうなることを期待しているわけでもないだろうから、できるだけ簡単な指摘にとどめておくが、現状では何事も極端な方面へと一方的に振り切れないようになっていて、絶えず状況が中途半端にとどまるようにブレーキがかかっているから、そういう方面へと振り切れるように誘導したい思惑に対しては、ある程度の耐久性があると状況を捉えておけばいいのだろうが、それに対していつものように振り切れた言説や言動がメディア上では流行っているように装われているが、それらを流行らせてそうなるように誘導しているつもりになっているのが、先に挙げた詐欺師やペテン師の類いになるわけだが、そんな状況がどうやって救世主の物語へと収斂するはずもないから、それとこれとは別次元の水準で進行中なのかも知れないが、その一方で救世主が詐欺師やペテン師に堕する成り行きも、フィクションの中ではありふれているだろうから、そんな物語を信じる必要もなく、誰も信じていなくても結果的にそうなってしまうことが、救世主が持ち合わせている特性なのだから、かえって誰も信じていない方がそれが実現する確率が高まるのかも知れないし、デマや嘘を絶えず撒き散らす詐欺師やペテン師と競合しながらも、誰からも救世主だとも思われない人物が、何かをきっかけにして救世主に祭り上げられてしまうなら、それがその種の物語の作者が意図するところとなるわけだ。


9月23日「価値の変動」

 一言に価値観の違いと言っても、価値というのは他から認められないと価値がなく、他と言ってもただの一般人から認められるのと、何らかの権威を伴った人から認められるのとでは雲泥の差がありそうで、もちろん権威となっている人が他の多くの一般人から認められているから権威となるのだろうから、それが一般人であれば、より多くの一般人から認められるならそれなりの価値がありそうだが、それがいかにも愚かで軽薄そうに見える一般人から認められても価値があるとは思えず、真っ当な一般人から認められないと価値がないように思われるだろうし、真っ当なという表現ではあやふやに感じるなら、その分野の専門家から認められるなら価値がありそうに思われるが、その専門家と呼ばれる人たちが専門分野によっては胡散臭い雰囲気をまとっていたり、その分野で詐欺的で怪しいヒエラルキーなどが確立されていれば、かえって専門家の方が信用できない場合もあるかも知れず、専門家にも真っ当な専門家と詐欺的な専門家がいて、真っ当な専門家がその分野の権威となっていれば信用できるが、詐欺的で胡散臭そうな専門家が権威となっているようなら、その種の権威が認める価値そのものが信用できなくなってしまうから、かえってそういう怪しげな専門家には認められない方が信用できる場合もありそうで、そうなると一概にその分野の権威の言うことを鵜呑みにするわけにもいかなくなり、しかも言っていることが真っ当か否かといったことよりも、たとえ真っ当ではなくても、価値そのものは信用できる場合もありそうで、とりあえず価格が高いか低いかで、その価値を判断せざるを得ない場合も出てきそうで、もちろん価格が絶えず変動していれば、価格が暴落すれば価値がなくなったり、逆に価格が暴騰すれば価値も一時的に急騰するような場合も想定できるから、そういう場合は価値そのものが恒常的に信用できるような尺度ではなく、絶えず揺れ動いている相対的なものでしかないだろうが、専門家や権威が何を言おうが、価格が高いか安いかで価値を判断したところで、そんな価値に裏切られてしまう場合もあるから、では何を信用して何を信用しないかと言えば、その場の状況や情勢から信用できたりできなかったりする物事が出てくることも確かで、その場の状況や情勢に照らし合わせて真っ当なことを述べている人を信用してみたり、怪しげなことを述べている人を信用しなかったりすることもあるだろうが、信用できる人や団体がその場で主導権を握っているわけではない場合も結構な割合で出てきて、逆に信用できない怪しげな人や団体がその場の主導権を握って怪しげなことをやっているから、それに対して真っ当な人や団体がそれを批判したり非難するというパターンがよくありがちだから、では真っ当な人や団体と一緒になって、怪しげなことをやっている怪しげな人や団体を批判したり非難していればいいのかというと、真っ当なことを言っている真っ当な人や団体を信用できるのは、それを批判したり非難したりしている間だけで、その場の状況や情勢がその場に関わってくる人や団体の役割を、批判したり非難する側とされる側とに割り振っていると捉えるなら、そこから状況や情勢が変わってくれば、状況や情勢の変化に合わせて役割分担も変わってくるかも知れないから、確かにその場では真っ当なことを言っていたのに、そこから時が経って状況や情勢も変わってしまったら、過去の一時期には真っ当なことを言っていた人やその人が属している団体が怪しげなことをやり始めている可能性もあるわけで、そうなるとその場の状況や情勢に合わせて人や団体も動いていて、かつては批判したり非難する側に回っていたのに、なぜか知らない間にその場の主導権を握って怪しげなことをやり始めて、それを批判されたり非難されている側に回っている可能性もあり得ないわけではなく、逆にそうならないと世の中が変わって行かないのかも知れず、そういう意味ではある特定の人や団体が何十年間もその場で主導権を握って怪しげなことをやっている人や団体を批判したり非難しているような状況や情勢ではまずいわけで、そうなってしまっていることが世の中の停滞を招いていることを多くの人々が理解しなければいけないかというと、多くの人々がそれを理解していれば立場や役割が固定しないで絶えず循環するように持って行こうとするだろうが、そういう配慮を多くの人々が怠っているから世の中の停滞を招いていると言えなくもないが、逆に停滞を招こうとしている人や集団もいるだろうから、それを意識しているかどうかもはっきりしないかも知れないが、実際に統一教会や創価学会などの布教活動は、明らかに世の中の停滞を招いていて、人々の意識に教団にとって都合の良い固定観念や偏見を植え付けようとしているだろうし、それを多くの人々が信じているかというと、逆に多くの人々が怪しげな宗教の教義を信じていないことを自覚しているかも知れないが、信じていなくても世の中が停滞していることを自覚しているかも知れず、もちろんコロナ禍や戦争をきっかけとして経済がインフレ状況になってきたから、否が応でも世の中の状況や情勢が停滞から脱しようとしているから、それに合わせて人々の意識も変わってくる兆しを見せ始めているのかも知れないし、そんな状況や情勢の変化に煽られて統一教会や創価学会などの布教活動も今後沈静化に向かうかも知れないが、そういう意味ではそれらの布教活動も世の中の状況や情勢に応じて隆盛したり衰退するのかも知れず、それが単なる一時的な流行り廃りとは言えない傾向を見せるから、そこで何かが循環しているような様相を呈しているのだろうが、その何かとは何なのかと言えば、景気循環に他ならないと言うなら、経済的な分野で物事を一面的に捉えていることにしかならないが、他にも例えば物事やそれに関わってくる人や団体の価値が絶えず変動していると捉えても、一面的な解釈にしかならないが、ではそこにどんな価値を導入すればしっくりくるのかというと、何を導入してみてもしっくりこないかも知れないが、それが必ずしも世の中の多数派に属するような人々が納得するような価値ではないのかも知れない。


9月22日「敵の弱点を突く」

 搦め手というとそこに敵の弱点があって、意表を突いて敵の背後から奇襲を仕掛けるようなことが、そういう意味で使われる戦法となるだろうが、現状で何がそうなのかといっても、そんな攻撃をすぐに思いつけるわけでもなく、思いがけない方面から襲ってくるから効果があるのだとしても、そんなことをやらなくても、あえて攻撃するまでもないことであれば、戦う必要もないのに、意表をつくようなことをやれるわけでもなく、それがたわいないことに大げさに驚いてみせるような仕草でしかないのに、それを攻撃だと受け取られるとも思えないが、何かそこで気がついてしまうことがあって、それが戦いの相手とも言えない相手にとっては都合の悪いことであれば、それに絡めて何を仕掛けているつもりもないのだが、例えば高級な腕時計をそれとわかるように手首に巻いていることが、さりげない自己アピール以外の意味に解釈されることもなく、他人に向かって見栄を張ることが、他の何にも増して重要なことだとは思わないが、実際にそういうことやってしまっても、わざとそれをスルーして、それとは別の方面から何か意趣返しとなるようなことを仕掛ける理由が見つかるわけでもなければ、それほど他人を攻撃することにこだわっているわけでもないと解釈しておけば済むようなことかも知れないし、そういう水準からかけ離れて物事が進展していくとしたら、やはりそれもたわいのない成り行きであり、他人の神経をすり減らすために何を仕掛けているとも思えないし、結果的にそれが見栄の張り合いに進展するなら、そういうことを意識している証拠だと理解しておけばいいとしても、それが物事の本質から外れた枝葉末節な水準で行われていることもわかっているなら、そんなのは無視していれば済むようなことでしかないのだろうが、そこで何が蓄積するとしても、それが空気や雰囲気などをもたらしているに過ぎないなら、それもそう受け取っておけば済むようなことでもあり、それ以上に否定したり肯定する必要も感じないなら、そういうことだと受け取っておくしかなく、ではそこに物事の本質がなければ、どこに本質があるのかというと、どこにもないわけではなく、本質を突いたところで何がどうなるわけでもなければ、誰も本質を理解していないから、その代わりに枝葉末節なところで戦いや争いが繰り広げられているわけではなく、彼らにとってはそこに物事の本質があるわけで、そういう理解の水準で相手と戦ったり争ったりしているつもりなのだから、しかもその自覚すらないのかも知れず、ではそこで行われていることが何なのかというと、ある方面では紛れもない戦争であるはずだが、別の方面では経済的な水準で行われている競争だと思われていて、それらが微妙に絡み合いながら世界の現状を構成しているわけだが、本質的にはそれが物質的にも金銭的にも富の奪い合いだと解釈してもいいはずだが、そうは受け取られたくないから、精神的あるいは心理的な満足感や優越感を求めているつもりになりたいわけで、一方でそれが物質的な身の回りの贅沢にこだわることにつながるわけだから、満足感や優越感や安心感が精神や心理の水準で求められると共に、価値を伴った物質を所有する実感や喜びにも結びついていることも一目瞭然なのだろうが、その価値を伴った物質が、場合によってはペットや人間にまで拡張されて、絶えず所有することとそれを消費することの狭間で揺れ動いていて、例えばそれがジャニー喜多川氏のレベルに至れば、発掘してきた少年たちに付加価値をつけることと、それを自らの所有物として消費することの狭間で心が揺れ動いていたことになるのだろうが、さらにはそれがプーチンや金正恩などのレベルにまで至れば、政府や国家そのものが彼らの所有物であり、自らが所有しているつもりの国家に付加価値をまとわせたいのは明らかなのだが、その一方で独裁者としての彼らの存在そのものが国家としての価値を貶めていることに気づいておらず、経済成長させて豊かな国家にするには彼らが邪魔な存在となっているわけで、そこで二律背反が実現しているわけだが、日本の場合はどうなのかと言えば、ロシアや北朝鮮のようなはっきりした関係性があるわけでもなく、もしかしたらそこで暮らしている民衆にとっては国家としての付加価値などどうでもよく、誰もそうは思っていないだろうが、結果的にそうなってしまうというと、経済成長や経済の豊かさを示す指標などが本質的な価値とは言えず、国家そのものの価値などなくても構わないし、欧米諸国と比べて何が劣って何が優れているわけでもなく、何だかわからないが、おかしな価値にこだわっている人たちも少数派としていくらでもいることは確かだが、それが幻想に過ぎないことも多くの人たちがわかっているから、せっかく民主主義を定着させて法治国家として価値を高めるチャンスが何十年間も巡ってきていたのに、それをことごとく台無しにしてきたにもかかわらず、相変わらずそれで構わないような世の中となっているのだから、そういう方面の価値を高めることを放棄していると見なされても、他のアジアやアフリカや中南米の国々と大して変わらないわけでもないにしても、何かそれとは違う価値を求めている人たちもいくらでもいるのは相変わらずなのだが、だからといって中国のように官僚制の独裁国家を目指しているわけでもないし、これといってあからさまに目指しているわけでもなく、たぶん国家や政府などはほどほどの水準で部分的に機能していればそれで構わないのだろうが、そうかといって現状のように明らかに機能不全で方々がぶっ壊れている感じになってしまうと、まずいような気がしてしまうわけだが、果たしてそれに気づいている人がどれほどいるとしても、それらの人たちも現状の世の中では大して機能しているわけでもないわけだから、やはり日本的なレベルではいつも中途半端な状態に留まっているのではないか。


9月21日「権力と戦う」

 その場の成り行きに従うと不利になると思うなら、従わなければいいとは思うが、そう思ってもどういうわけか知らないが、そこへと至る過程で生じてくる様々な紆余曲折に巻き込まれているうちに、結果的に成り行きに従ってしまい、実際に不利な状況となってしまったら、その場の成り行きに逆らうことができなかったことになるだろうが、しかもその場の成り行きに従わないと生きて行くことができないとしたら、不利になっても従わなければならなくなり、結果的に意思に反した行動を取らざる得なくなってしまうだろうが、そんな行動を強いられて、しかもそんな成り行きに従うことしかできないとしたら、たとえその場の成り行きに従うと不利になってしまうとしても、生きて行くには従わざるを得ないのだから、生きたいならその場の成り行きに従いながら生きて行くしかないだろうが、そうはならないような成り行きに持って行きたければ、死ぬしかないと思ってしまうかも知れないが、その場の成り行きがそう思わされるような成り行きだと思うなら、それが思い違いなのかも知れず、要するにその場の成り行きに従うように何らかの権力を行使されているのであり、そんな権力に逆らえば不利になってしまうとしても、そもそも権力に従わざるを得ない立場になっていること自体が不利な立場なのだから、そんな立場から抜け出したいなら、単純に権力に逆らえばいいのかというと、それは逆らい方にもよるし、また権力に従うのにも、従い方によっては、そんな状況を変えることができるかも知れず、そこでも単純に不利な状況を変えるにはどうすればいいのかという問いに答えようとしても、不利な状況を変えるには至らないかも知れないし、そうかといってその場の成り行きに応じて行動のやり方を変えればいいというわけでもないとしたら、ではその場の成り行きに応じないという選択肢があるのかというと、応じないのではなく応じられないのかも知れず、応じようとしても応じられず、応じたくないから応じられないのではなく、理由もなく応じられないということにでもなければ、応じられない理由を新たに見つける必要があるかも知れないが、安易な理由としては病気だから応じられないという場合もありそうで、その病気が身体の病なのではなく心の病だとしたら、意思の力どうすることもできないことなのかも知れないし、果たしてそれが心の病だと言えるのかというと、もしかしたら仮病の類いなのかも知れず、それがわざとではないにしても、どうしても心の中で葛藤が生じてしまい、一応はその場の成り行きに応じて行動しようとするが、結果的にはどう見ても応じているようには見えないとしたら、その場の成り行きに逆らう以前に、その場の成り行きに応じようとする意思に身体が逆らってしまうから、応じていないように見えてしまい、それが結果的には権力に逆らっているように見なされて、生きていけないような成り行きになってしまえば、そこで死んでしまう場合もあるだろうが、そうなってもそれが最悪の場合だとは思えないのかも知れず、そんな場合は権力に従うことこそが最悪の選択なのであり、もちろんその場では選択の余地などないわけだが、生き残ろうとして権力に従おうとするのだが、権力に従ったからといって、生き残れる保証があるわけでもなく、場合によっては権力に殉じてしまうことも想定されるなら、権力に逆らっても従っても、そのことが原因で死んでしまう場合もありそうで、死んでしまったからといって、他人にとってはそれがどうということでもなければ、もしかしたら死んでしまった人にとってもそうなのかも知れず、その人がいつでも補充が利くただ一兵卒に過ぎなければ、そういう場合の権力に従うとは、従っている自身の価値を限りなくゼロに近づける行為となってしまうかも知れず、それが自分を不利な立場へと導いている原因だとすれば、是が非でもそこから離脱したくなるだろうが、それ以前に離脱できないようにされているなら、すでに権力に先回りされて、脱出口を塞がれていることになるのだろうが、そうなってからそれに気づいたところでもう遅いわけで、しかもそんな手遅れな人が多ければ多いほど、そんな人たちを支配する権力の力もより強力に作用するわけだから、仮病を理由に職場放棄するぐらいでは焼け石に水であり、ではそれに対抗するために組織的なストライキに訴えればいいかといっても、それも権力に対抗する別の権力に支配されていることになってしまうから、それでも構わない人も世の中にはいくらでもいることも確かだが、権力に従うただの一兵卒になってしまう人もいくらでもいるわけだから、そういう水準ではどうあがいても不利な状況からは抜け出られないとあきらめてしまっても構わないだろうし、実際にあきらめてしまった人も世の中にはいくらでもいるだろうが、それでも不利な状況が気に食わないなら、気に食わない程度のこととして、その種の権力に戦いを挑んでいるふりを装うことはできるかも知れず、その戦うふりを装っている実態がどの程度のことなのかが、戦っているふりを装っている当人にはわかりかねるところかも知れないが、それに関しては例えば世間的な感覚として否定的に見られている物事に関して、そういう価値観に逆らう意味でもそれを肯定できれば、何やら世の中の風潮に逆らっている反逆児やアウトサイダーのような気分を味わえるかも知れないし、では試しにそんな気分を味わうのに恰好な物事というか、もっとわかりやすい主義主張のような立場があるかというと、それがカッコいいとは思えないだろうし、どちらかといえばそういう主義主張を標榜することで、その人を不利な立場へと導いてしまうかも知れないが、それに関して自分でも最近そういう主義主張に傾きつつあるのかも知れないし、それが左翼であることと新自由主義であることの両方を肯定することにつながってくるのかも知れないが、それが具体的にどのような結果をもたらすのかは、自分でもよくわかっていないのかも知れないが、それら二つの立場を両立させることによって何がどうなるのかも、そこに政治的な実践が伴ってこないことには、空想の領域から抜け出られないことも確かなのではないか。


9月20日「過ちの正当化」

 やるべきことをやっている途中で自らが判断を誤っていることに気づくのは難しいかも知れないが、それが間違っているような気がするのだから、間違っていることには気づいているはずで、たとえ今は確かに間違っているとしても、間違うような成り行きに従いながら間違ってしまうのだから、自らが間違っていることに納得して、それが避けようのない過ちであることも理解した上で、過ちを犯すことが必然的な成り行きとなるような状況の中で、自らが判断を誤ってしまうことを正当化しても構わないかというと、正当化しようとどうしようと、誤った状態をそのままにしておくわけには行かないなら、誤りを改めるような行為へと自らを導かなければならないだろうし、それが自力であっても他力であっても、結果的に誤った状態から離脱することができれば、それに関しては事態が改善したことになるだろうが、そう都合良く誤った状態から離脱できるわけもなく、逆にますます誤った状態へとのめり込んでしまっているのが現状だとすれば、やはり心のどこかで自らの過ちを正当化したい気持ちが残っていて、そんな気持ちに引きずられて、そこから抜け出せなくなってしまっているとその場の状況を捉えるなら、その通りのような気もしてくるわけだが、その通りだと思っているなら、それに関しては判断を誤っているわけでもないはずだが、その判断ではなくこの判断が何かといえば、やるべきことをやっていると判断していることが間違っているわけで、それがやるべきことではないことに気づいているかというと、どうもそうではないらしく、すでにそれをやっている途中でそれをやめるわけには行かないわけで、いったんそれをやり始めたら後戻りが利かないから、今さら判断を改めたところで、もはや手遅れとなってしまうことには変わりなく、手遅れとなってから判断を改めたとしても遅すぎなのであり、では手遅れとなる前に判断を改められるかといっても、結果的にそんなことなどできはしなかったから手遅れとなってしまったのだから、もはやそうなっていることの是非など問題とはならず、手の施しようのない状況の中で、これまで通りのことをやって行くしかなく、実際にやるべきことをやっているつもりの人や団体が世の中の主導権を握ってやるべきことをやっているつもりになっているわけで、そんな現状の中で何がどうなっているとしても、これまで通りのことが行われて行くしかなく、実際にこれまで通りのことが行われている限りで現状が維持されるのだから、これまで通りのことをやることがやるべきことであり、これまで通りの状態を維持することもやるべきことであるなら、結果的に現状が維持されていれば、それがやるべきことをやっている証拠となるわけだが、ではそのやるべきことが具体的にどんなことなのかというと、何もやらなくても現状が維持されていれば、やるべきことをやっていることになるかというと、何もやっていないわけではなく、実際に批判されるようなことをやっているわけで、またこれから批判されるようなことが行われようとしているわけだから、やるべきことをやることによって現状が維持されるのかというと、やっていることが批判されるような現状が維持されることになり、そんな現状を維持したければ批判されるようなことをやらなければならず、それがやるべきことであるなら、現状でやるべきことは批判されるようなことをやらなければならないわけだが、もちろん批判されたいからそんなことをやっているわけではなく、やるべきことをやると批判されてしまうわけで、できれば批判されたくないのだから、では批判されるようなことはやらなければ、批判されなくて済むかというと、それをやらないわけには行かず、やらないわけには行かないことをやらざるを得ないから、それがやるべきことになるわけだが、そのやるべきことであると同時にやらなければならないことに関して、それが日本政府が関係することになると、マイナンバカードの普及であり、インボイス制度の導入であり、原発事故に伴って溜まりに溜まった汚染水を海洋放出することになってくると、なるほど批判されながらもやらなければならず、他にも消費税の増税であったり防衛費の増額であったりするのだろうが、それらの批判されながらもやらなけばならないことをやらないわけには行かないのかというと、他にも辺野古の米軍基地の建設や大阪万博の開催や色々とありそうなのだが、そうしたやるべきことをやることによって現状が維持されるのかというと、現状の政治体制が維持されることは確かだが、果たしてそれで現状維持につながるのかというと、どうもそうでもないような気もしていて、少なくともそれをやるべきことだと思ってやっている側としては、現状を変えるためにやっているはずだが、しかも現状を変えるためにやるべきことをやっているのに、一方では現状の政治体制は維持しようとしているわけで、現にそれを批判している側としては、現状を変えるには現状の政治体制を変えなければならないことを嫌というほど思い知らされているから、現状の政治体制がやっている現状を変えようとする試みにことごとく反対しているはずだが、そのどちらがどうだということを述べなければならないとしても、どちらの側も現状を変えようとしていることは確かであり、現状を変えようとしてやるべきことをやっている最中であるはずなのだが、実際にそれによって現状が変わっているかというと、何かしら変わってきているとしても、どちらの思惑からもずれるような変わり方をしているのかも知れず、それがどちらの思惑通りにも行かないことなのだろうが、たとえ思惑通りには行かないからといって、現状を変えようとしていることについて、判断を誤っているかというと、どちらも敵対する側が判断を誤っていると主張したいだろうが、結果的に現状が変わりつつあると判断されるなら、その判断がそれほど誤っているとは言えないのではないか。


9月19日「見えすいた手口」

 果たしてこの世が謎だらけかどうかは、謎をどれほど設定するかにもよるが、ありふれた推理やそれに関連して何かの余興のようにして繰り返される謎解きを見せられる過程で、執拗に粘着してある方向へ誘導してくる面倒な成り行きに巻き込まれるところだったことは確かかも知れず、それが何なのかがわかっていないわけではないが、それに巻き込まれると面倒な事態になるのを予感させるような成り行きだと、やはりそんな成り行きは避けた方がいいような気がしてしまうから、巻き込まれる寸前に急いでそこから身を引き剥がしたつもりだが、避けきれたかどうかはよくわからないが、相変わらずそれが何なのかを明かさないまま、それについて語るのもおかしいが、そこで行われている見えすいた手口を通して明らかとなる抽象的な意味を伴ったイデオロギーに注目しなければならないとしても、そのイデオロギーそのものを否定的に論じたり批判するような愚は避けなければならず、それに関して見せかけとして対立している主義主張のどちらでもないことを強調しながらも、実質的にはどちらか一方であることを隠しきれずに、自分の立場と対立するどちらか一方を否定したり馬鹿にしたりするやり方も目立っていることは確かだが、果たしてそういう成り行きは避けなければならないと思っていても、結果的にそうなってしまう成り行きを避けきれるはずもなく、避ける以前にイデオロギー批判を展開しているのだから、すでにそれ自体がイデオロギーとなっていることを理解していないわけで、しかもその避けなければならないイデオロギーというのが、自分は右巻きでも左巻きでもないと主張する卑屈なイデオロギーなのだから、すでに右翼や左翼を右巻きや左巻きだと馬鹿にしながら、結局はデマや陰謀論を交えながら左翼を批判しているわけで、それが完全にエセ右翼の立場となっていて、そうなっている時点でそんな世の中の風潮にどっぷり浸かっていることになるわけで、それが安倍政権以来の世の中の支配的な風潮であり、そんな風潮にどっぷり浸かって育った日本の若者が、ネトウヨと呼ばれる愚かで空虚なエセ右翼となっていることは、今や誰もが承知しているところだろうが、それを嘆かわしいと思えば、そんなことを思っている自らが左翼だと認めていることになるかというと、その程度の左翼性を頑なに拒否するようなら、やはりエセ右翼のイデオロギーにどっぷり浸かっていることの証拠となるだろうが、そんな人に限って、自分は右巻きでも左巻きでもないと中立的な立場を装いながらも、実際には左翼に対する紋切り型の罵倒を口にして、その人がエセ右翼であることがバレてしまうわけで、それが世界的に見ても情けないことだとも思っていないだろうが、そういう人たちはトランプの前例に救われているつもりになれるわけだが、来年の大統領選挙でトランプが勝利して大統領に返り咲ければそれなりに勇気づけられるとしても、果たしてアメリカの民衆がそんなふうにして自らの首を絞めることになるかどうかは、来年になってみないことには何ともいえないだろうが、アメリカの民衆でもないのに、自らが運営する教団の建物の壁面にトランプの肖像を描かせて、再登場を予言していた日本の新興宗教の教祖もすでにこの世の存在ではなくなってしまい、トランプの再登場を予言する以前に自らの死を予言できなかったことが、その人の神通力の限界を物語っているわけでもないだろうが、そういう間抜けな成り行きが今の日本の現状も物語っているような気がするとしたら勘違いにも程がありそうだが、それに関して何がイデオロギーで何がイデオロギーではないかを区別することなどできないと思っておいた方がいいのかも知れず、そうでなくても不用意に適当な対象を敵と定めてそれを批判しようものなら、それが軽薄なイデオロギーになってしまうことを覚悟しておいた方がいいだろうから、国民民主党の党首のように、その種の輩が日本国憲法の三大原則である国民主権や基本的人権の尊重や平和主義を踏みにじるために憲法改正を目指しているわけではないにしても、それも憲法のイデオロギーなのだから、たとえ馬鹿な若者がそれに逆らう空虚な天皇主義に毒されていても、それが日本の伝統だと思うようなら、それもある種のイデオロギーには違いなく、そんなイデオロギーに心身を囚われた若者が古代の天皇制がどうたらこうたらと講釈を垂れるのも、エセ右翼の延長上で述べていることには違いなく、ではそうではないようなあからさまな極右や極左を想定できるかというと、宗教に囚われているならそれも可能かも知れないが、それでは無理に少数派を気取っているだけで、しかも多数派に向けて少数派であることを宣伝して、選民思想に酔いしれているわけだから、そんな体たらくではまずいような気もするわけで、そうでなくてもどうせ馬鹿にされるのだから、もっと大馬鹿になった方がいいのかも知れず、その際には左翼でも右翼でも構わないかというと、どちらか一方である方が都合が良いなら、できれば馬鹿にされる側の左翼の肩を持ちたいわけで、だからといって憲法の三大原則を守るだけでは、何か物足りないような気がするなら、経済的な面での豊かさを目指せばいいのだろうが、逆にわざと清貧を装う右翼になると、痩せこけた貧乏人のようで、死にそうになってしまうから、自らの死を避けようするなら、痩せ我慢しないで富を求める姿勢は維持したいだろうから、それが豊かなリベラルが理想とする状態となり、もちろん経済格差を前提とした欺瞞を避けられないにしても、資本主義経済は豊かなリベラルと清貧な保守という逆説的な欺瞞の上に成り立っているという大前提を覆せるかというと、トランプもイーロン・マスクもそれを覆そうとして悪あがきの最中であるわけでもないだろうが、もちろんそんな大前提を信じている人も少数派だとしたら、それもある種のイデオロギーに含まれる幻想には違いないのではないか。


9月18日「言うだけの人」

 不意に思いついたことをすぐに実行に移せるかというと、それは思いついた内容の傾向や程度にもよるだろうし、内容によってはそれ相応の暇や財力や地縁血縁的なコネがないとできないこともあるだろうから、一概には言えないことかも知れないが、では一概に言えることがあるとすればそれは何かというと、その実行が言うだけのことなら、さっさと思いついたことを言えばいいわけで、言うだけならすぐにでも言えそうだが、すぐには言えないことがあるかというと、言うと都合が悪くなることなら、すぐには言えないどころか、単純に言うのが憚られることになりそうだが、それが言う前に熟慮を要することであるなら、例えばそれを何か論理的にも慣習的にももっともらしく思われるような意見や主張にしたければ、確かにすぐに言えるわけではなく、言う前に考えて工夫を凝らしてみないことには、それがもっともらしくはならないかも知れないし、たとえ自分にはその意見や主張がもっともらしいと思われても、他人にとってはそうではないかも知れないから、言ったらどうなるかを前もってシミュレーションしてみる必要もありそうだが、もっともらしいだけでは肯定しかねる意見や主張もあって、もっともらしいことを言っている人であっても、しかもそれを多くの視聴者や聴衆の前で言って、多くの人々がそれをもっともらしいと感じて、その人の支持者や賛同者になっても、これは違うなと感じてしまう人も世の中にはいるようで、もちろんそれが良い意味で違うのではなく、言っていることがもっともらしいにしても、何か引っかかるものを感じてしまうわけで、意外とこの人はわかっていないのではないかと感じられてしまう人というのが、メディアでもてはやされている知識人と言えるかどうかはわからないが、そこにオタク的な領域も絡んでくると、俄然まがいもの臭が漂ってきて、なるほどそういう人は言うことだけに専門的に特化した人だと見なすなら、そんな人は言うだけの人だと言えそうだが、社会の中で役割分担が細分化されている現状がある限りで、言うことだけに特化していても構わないし、しかも言っていることがもっともらしく感じられるのだから、それで構わないのだが、その一方でこれは違うと感じるなら、いったい何が違うのかといえば、それが微妙な違いとなってきて、あからさまな違和感であればもっともらしくは感じられないはずだが、言っていることはいちいちもっともらしいとしても、そのもっともらしさというのが底の浅いもっともらしさだと感じるなら、何がそう感じさせるのかといえば、言うだけなら確かにそう言えるが、なぜか言う通りにはいかない場合があり、そうは言っても実際にはそうはならないとしたら、言うだけのレベルではその通りなのだが、言う通りにはならないことがあると、では言うだけではなく、それ以外にそれ以上に何かやる必要が出てきて、それをやらないと言う通りのことが実現できないなら、それをやるしかないだろうが、言うだけの人にはそれができないわけで、では言う通りのことができないのだから、言っていることには説得力がないとは言えず、言うだけなら説得力もあるから、言っている範囲内では誰もが言っていることに納得できるのだが、それがそういうレベルでの納得であって、納得できるから言っている人の言っている内容には説得力もあり、その時点ではそれで構わないのだろうが、その一方で言っている通りにはならないことも想像できてしまうと、なるほどこの人はわかっていないのではないかと疑念を覚えるわけで、では何がわかっていないのかというと、言っていることの範囲外にまで言っていることが及んでいることに気づいていないのであり、言っていることが言っていることの範囲内に収まっていないわけだが、そうなると言っていることの範囲内では確かに納得できるが、その範囲を外れたところでは納得できないというわけではなく、言っていることの範囲を延長させて納得しようとすればいいのだろうが、果たしてそれをどこまで延長できるかというと、自身の想像や妄想を膨らませると延長できるような気がするかも知れないが、それはその人の都合で延長しているに過ぎず、その人とは利害の異なる人にとっては、それはその人の勝手な空想であり妄想に過ぎず、そうはいかないような気がするなら、やはりわかっていないのではないかと疑念を抱かざるを得ず、そういう意味でそういう人の意見や主張に欠けているものがあるとすれば、それはその人が生きている時空とは別の時空で生きている人の事情や経緯であり、そんなことがその人にはわかるはずがないといえばその通りだが、その人にしてみれば、その人の見聞が及ぶ限りで関連する情報をかき集めて、それらの情報に基づいてそれらを分析して自らの主張や意見を構成しているのだから、それ以外に何ができるのかなんて、その人の力の及ばないことになってしまうから、そんなことまで考慮するには及ばないだろうが、その人の能力を超えることをやってほしいというのではなく、自らの能力を超えてしまう領域があることを自覚してほしいといったところで、そんなのはその人の知ったことではないだろうし、自身の能力が及ぶ範囲内で最善を尽くすのが、その人にとってのやれる限りのことであるから、その人が悪いというわけではなく、たとえその人が言うだけの人であるとしても、それでも構わないわけだが、ただその人が言っていることをどう受け止めればいいのかというところで、その人が言っていることに納得してしまっても構わないわけで、実際に多くの人々が納得して、言っていることを真に受けているように見えてしまうところが、別にそれでも構わないと思ってしまうと同時に、半笑いのような気分になってしまい、それを真に受けている人々もわかっていないのではないかと思うと共に、別にわかっていなくても構わないとも思ってしまうわけで、そんなふうに思っている自分にもわかっていないことがいくらでもあるのだから、それはお互い様なのかも知れない。


9月17日「それ相応の報い」

 何かをやり過ごすという態度に凝り固まることが、現状の自らに求められているなら、急にそんなことを勧められてもただ困惑するばかりで、何やらつかみとしての消費税やインボイスという言葉に引っかかって、何を主張したいわけでもなかったのかも知れないが、それに関する誰の主張が正しくて誰の意見が間違っているとしても、そんなことには興味も関心もないとは言えないだろうし、何かを述べればそれに対して何らかの反応が返ってくると、それを無視するわけにもいかなくなり、その気もないのにそれに関する知識を得ようとして、何を調べるでもなく、そんな成り行きを妨害するかのように何かがふとひらめいて、わざとそれとは関係のない方面へと誘われて、そこで考えていることがあるらしく、全く関係がないとは言えないにしても、それが身から出た錆だと言えなくもないなら、体が鉄か何かの金属からできているわけでもないのだから、身から錆が出るわけがないと思っているわけでもないとすれば、比喩の意味を理解していないことになるかも知れず、しかもそれが何の比喩なのかも理解できていないにも関わらず、不用意に身から出た錆という言葉が思いついてしまうのだから、理解したくないことを理解するのが難しいことを、その身をもって思い知るがいい!と誰かから言い放たれるわけでもないのに、何をどう理解すれば納得がいくのか、見当もつかない自分の頭の悪さを悔やむこともなく、かえってそれが長所だと勘違いしているきらいもあるから、そのまま大して理解しないで、思考するのをやめようとしない自らのいい加減さにも嫌気が差しているわけでもないので、当分はそんな姿勢を維持し続けるらしく、それもやむを得ないことだとあきらめるようなことではなく、それ以前に何をあきらめているのかもよく理解していないわけだから、他人の意見や主張を聞こうとしないで軽くいなすような態度で、自らの言説をさらに遠くへ導こうとすれば、自ずから面倒なやり取りを逃れられるわけでもないにしても、そうかといって何事にも絡まないことが肝要であるとも思っていないが、そこでうまく立ち回るには、平然と無視することも必要な選択肢として浮上してくることはわかりきっているが、そういう態度でどこまで突っ走ることができるかが、今の自分が試されていることであり、誰がそんなことを試しているのかも皆目見当がつかないが、それによって良い方向へと導かれていると思うなら、そのままその先へと進んで行けば、自ずから道が開けてきて、それが良い方向だったのか、あるいは悪い方向だったのかも、自ずから理解できるわけでもないらしく、逆にわざとそれがわからないようにしていて、しかも何が理解できていないのかもわからないから、そこからどんな意見や主張が出てくるのかもわからなくなってしまうわけで、そうなることを狙っているわけでもないとしても、結果的に出てくる言説の内容がそうなってしまうなら、そこにその人なりのごまかしがあると思っておけばいいようなことであるにしても、実際に言葉を弄んでいる当人がそれに気づいていないなら、灯台下暗しという喩えがよく当てはまるかも知れないが、気づくはずもないことを気づけと諭されても、そんなのは無理に決まっているだろうから、その代わりにわざとそれを都合のいいようにずらしてから、これ見よがしにそれとは違う方面から反論を試みるようなことはしない方が身のためだと悟れるなら、それに越したことはなく、そんなのも無理だと思うなら、ではどうすれば無理なくそこから離脱できるのかと自問自答を繰り返しているうちに、意味不明の罠にハマって、それもわざとわけがわからないふうを装っていることになるから、さらなるごまかしへと突き進んでいることを悟るしかないだろうが、いくらごまかしても言葉の上でごまかしていることに過ぎないから、自らの卑しい反応をごまかし切れるわけもなく、それをごまかしていることにも気づけないなら、灯台下暗しの比喩に拍車がかかる程度のことであるから、その程度のことに気づけなくても何がどうなるわけでもないのだから、気づく必要もないことに無理にこだわる必要もなく、これからも自らのごまかしに気づかないままとなってしまうだろうが、それが言葉を弄んで意味不明なことを主張している輩が受ける報いでもあるから、そんな境遇を引き受けているだけでも自らの社会的な役割を立派に果たしているのであり、そんな人たちに対してこれといって意見を述べる筋合いもないのかも知れず、黙ってそれを放置しておけば済むようなことであるなら、その内容に何の具体性も感じられないとしても、そのまま放置しておいても構わないのであり、放置しておけば自然と錆びてくるから、化けの皮も剥がれやすくなるわけでもないが、朽ち果てるがままに自然が処理してくれることを願うしかないが、それが放射性物質の類いであると面倒なことになるだろうし、いつまで経っても執拗に有害なままとなってしまい、有害か否かの判断もつかなければ、面倒なら判断を先送りにしておけば、それも自然となるようになるしかないが、それを単なる言葉の連なりと見なすことができれば、実害は何もないと判断しても構わないし、下手に言葉の意味を求めなければ、あるいはそこから相手の意図や思惑を想像してしまうような愚を避けることができれば、そのまま放置の戦略が有効に思われるから、後は文句を聞き流すだけに状況が推移して、そのまま自然とそこから興味も関心も遠ざかるような成り行きへと持っていけそうにはなるが、それでは気が済まないという気持ちも、そのままの状態で受け取っておいても構わないのかも知れず、それに加えて、焦りは禁物なのに、わざわざ向こうから焦って要らぬちょっかいを出してくるという失態を演じてくれたことを、こちらが都合の良いように解釈するなら、それに越したこともないと受け取っておくしかないし、そういうことまで考慮して上で何かこちらで対処できることがあるとすれば、それが対処と言えるかどうかも、それを受け取る人次第なところもあるだろうが、こちらとしては相変わらず見ての通りで読んでの通りのことしかできないわけだ。


9月16日「消費税は間接税?」

 理屈と屁理屈の違いは何かといったところで、理屈に対してそれは屁理屈だと決めつければ、その言い分がもっともらしく思われる限りで、それが屁理屈であることに同意してしまうかも知れないが、では何が理屈で何が屁理屈なのかに関して、何か説得力のある違いがあるかといっても、これといって違いはないのかも知れず、理屈を否定したければ、それを屁理屈と見なして、屁理屈である証拠を示すことができれば、理屈が屁理屈になってしまうかも知れないが、証拠を示すことができなければ、理屈であることを認められるかといえば、証拠など何も示せなくても、屁理屈だと決めつけて否定しまくって、否定しまくっている人が何らかの権威として世間から認められているなら、それが屁理屈であるという偏見や固定観念が社会の中で定着するかも知れないし、もちろんそう思っている人たちにしてみれば、それは偏見でも固定観念でもなく、正しい認識だと信じているだろうし、具体的に何がそうなのかというと、例えば消費税は消費者が払う間接税だと思うなら、消費者にとっては商品を買う際に間接的に税を払っていることになるのだから、間接税だと思うのは当然だが、税を納めている事業者にとっては、直接税を納めているのだから、直接税だと思っても構わないだろうし、しかも商品の価格に消費税分を加えることができなければ、税を余分に払わされていると思っても実感としては正しい認識だと感じるだろうが、それでも制度の趣旨から言えば消費税は間接税であり、建前上は商品を売る事業者が、消費税分を上乗せした価格で売って、それを買うことになる消費者が、間接的に消費税を払っていることになるわけで、制度的にはそういう理屈で運営されていることになるわけだから、そういう理屈が屁理屈である道理がないと思っても構わないわけだが、実質的に事業者が消費税を上乗せした価格で商品を売れるかというと、それは事業者間の力関係によって決まってくるといっても過言ではないが、実際に消費税を上乗せした価格で商品を売ることができない事業者が世の中からいなくなれば、それが屁理屈ではない正しい理屈として通用することになるわけで、制度を管理運営している政府としては、そうなるように世の中の状況をもっていきたいところだろうが、現状で消費税を上乗せした価格で商品を売ることができない零細事業者にしてみれば、そうなれば死活問題となってくるから、当然のことながらそれに対して抵抗を試みることになるだろうし、それがインボイス制度の導入に反対する運動となっているわけだが、果たしてそんな現状をそういう理屈で説明しても構わないのかというと、構うも構わないも、それだけにこだわっているわけにはいかない事情があれば、消費税やインボイス制度を突破口にして世の中を変えて行こうとする勢力に対して、何かそれとは別の方面から作用や影響を及ぼうとしているのかというと、意識してそういうことをやろうとしているわけではないのだが、それとは別の方面といえば、例えば政府の力がその軍事力や警察力だけで決まってくるわけではなく、根本的にはどれほどの予算を確保できるかで決まってくると考えるなら、政府の力を弱めるには、減税を実施して予算を減らせば、その分だけ政府の力を弱めることに成功することになるだろうが、減税しても予算が減らないなら、その分だけ国債を発行すればいいとしても、少なくとも国債を発行し過ぎている日本政府には、さらに国債の発行額を増やす余裕はないだろうから、都合の良いことを言うなら、減税しても経済を活性化させることができれば、その分だけ税収が増えると見込めるが、果たしてそう都合良く事が運ぶかといえば、税収が増える要因としては、物価が上がって経済がインフレ状態になれば、インフレした分だけ税収も増えるが、それだけ通貨の価値が下がったわけだから、インフレが起こるだけでは実質的な効果はないと言えそうだが、根本的な疑問としてなぜ政府の力を弱める必要があるのかというと、民主主義を実現するには政府の力を弱めて強権政治になるのを阻止しなければならないと主張したところで、あまり説得力はなさそうだが、そうならないように中国や北朝鮮などが軍事力を強化して、日本の軍国主義的な勢力の後押しをしているわけではないとしても、思惑は別のところにあって、それが誰の思惑かは知らないが、アメリカのリベラル勢力を中心とする世界的な常識の範囲内では、それとは逆の方向として、政府の予算を増やして経済を活性化させて民主主義を実現する成り行きになっているわけで、しかも政府の予算を増やすことと増税が結びつくなら、金銭的に余裕のある大企業や富裕層に対して増税するのが公正なやり方だと思われるから、そういう方面での主張となれば理屈の正しさを実感できるだろうが、果たしてそれで構わないのかというと、どうもそうではないのかも知れず、理屈の正しさなど幻想に過ぎず、逆に政策としては理不尽で矛盾したことをやる必要があるかというと、そうは思わないだろうが、誰もそうは思わず、むしろ疑念を抱くようなことが行われないと困るわけでもないが、たぶん結果的には理屈に合わないことが行われているから、現状の世界経済が成り立っていて、世界のそんな現状を批判している勢力が、ことさらに理屈の正しさを追求しているわけではないにしても、真っ当に思われるようなことを主張するとなると、少なくとも理屈の正しさは必要最低条件として守らなければならないだろうから、そんな主張が世界の現状とは相容れないことは火を見るより明らかで、現状で起こっていることには通用しない主張となってしまうのだろうが、だからそうした正しい主張を裏切るような事態が世界各地で起こっているわけで、それが実際に起こっている様々な紛争や戦争の原因だと思われるわけだが、正しい主張にこだわっている勢力には解決困難な事態に陥っているわけだ。


9月15日「意志に逆らう何か」

 何かやりたいことがあって、どんなにそれをやる気になっていても、そこで生じている事情がそれをやることを許さないなら、そうなるに至る成り行きの中で、自らの意志に逆らうように誘導されてしまい、それで納得できるかと言えば納得はできないだろうが、結果的にうまくいくなら、渋々でもそうなってしまった経緯や成り行きを認めざるを得ないだろうから、自らの意志に反するようなことをやらざるを得ない事態に陥った場合には、黙ってそうなるにまかせるしかないのかも知れないが、果たして自身がそういう成り行きに囚われてしまっていることを自覚できるかというと、自覚するも何も、逆にやりたいことをやっている気になっている人に限ってそうなっている可能性があり、それがやりたいことだと思い込まされていて、あるいは結果的にそれがやりたかったことだったと悟ってしまうわけだが、そうではない場合があるかというと、やりたいことをやっているうちに体調を崩したり、不慮の事故に遭って亡くなってしまった人などは、意外と自らの意志に反するようなことをやってしまっていることに気づかないかというと、自らがそんな境遇に陥っているのを誰かから知らされたら、そんなのは嘘だと思いたくなるかも知れないが、逆にやりたくないことをやらされているのに、意外と心身にストレスを感じないで健康を保っていたり、至ってやっていることがうまくいっているなら、仕方のないことだと思いつつも、それを嫌々でも続けながら、次第に何とも思わなくなると共に、それを自らの思い通りになるようにやっていることを軌道修正しようとするかも知れないし、そんなふうに欲を出してしまうと、かえってやっていることがうまくいかなくなってしまうかも知れず、そうなるとその場の成り行きに意志が逆らっていることになるのだろうが、しかもそうなっていることすらも自覚できないとなると、意志以前に知性がないからそれを自覚できないと見なしたくなるかも知れないし、自らの感情をコントロールできない状態に陥っているのかも知れないが、では果たして知性を持ち合わせていればそれを自覚できるかというと、経験や体験としてではなく知識としてそうなってしまう事態を知っていたとしても、実体験に勝るものはないだろうが、他人の経験や体験から類推したり想像力を働かせてみたりする訓練を受けていれば、ある程度は対処できるかも知れないし、その対処というのも、自らの思い通りには物事が運ばない状況の中で、どう振る舞えば事態を切り抜けられないまでも、より妥当な結果にたどり着けるかに関して、妥協や譲歩などの交渉術が問われてくるのかも知れないが、それは特定の人や団体などが直接やっていることに絡んでくる場合であり、そうではない場合があるかというと、直接には絡んでこなくても影響力を行使されているように思われてしまう場合があるわけで、そうなるとさらにややこしい事態に陥って、〇〇から影響を受けていると勝手な思い込みに囚われながらも、同時に被害妄想も募ってくるかも知れず、そうなった際にどう振る舞えばいいかなんて俄には判断できなくなって、そう思い込んでいる時点ですでに事態がどうにもならなくなっていて、後はなるようにしかならず、その場の成り行きに身をまかせて、そうなった結果を受け入れることしかできないかも知れないが、それが自らの意志に反した成り行きなのかというと、そう思い込みたいからそうなってしまっているとすれば、それも意外とその種の被害妄想を糧にして活動している場合があるわけで、それが〇〇に抵抗したり反抗する原理となるなら、自らに直接指図してきたり間接的に影響を及ぼしてくる〇〇に逆らうことが、自らの意志に基づいた行為や行動になってしまうわけだが、しかもその〇〇が自らのやりたいことの邪魔をしてきたり妨害してくるようなら、〇〇のおかげで大変な目に遭っていると被害妄想をさらに強化できるから、ますます〇〇に依存した活動に拍車がかかってしまうのだろうが、それが〇〇の罠にハマっていると気づくには至らなければ、〇〇の意志によって逆らうように誘導されていることにもなってしまうが、果たして〇〇にそんな意図や思惑があるのかというと、それも〇〇次第でそう思い込んだ方が納得できれば、納得してしまう人が陰謀論者かも知れないが、そんな人たちを逆らったり反抗したりする行動に駆り立てておいて、結果が〇〇の思い通りになっているように思われたら、勝者が〇〇であると共に、〇〇に逆らったり反抗した人たちが敗者だと言えるわけだが、〇〇に逆らう人たちは自分たちが敗者だとは認めたがらないし、〇〇に逆らう活動が成り立っている限りは、まだ負けているとは思えないし、勝敗が決する途中の段階で事態が進行中であると認識できるわけだが、いつまで経ってもそのままである可能性も想像されてしまうから、未来永劫逆らっている途中の段階に留まるように仕向けられてしまっている可能性もあるわけで、そうなると〇〇の手のひらの上で踊らされているだけの可能性も否定できないから、そう思い込んでしまえば、ますます自分たちの劣勢を意識せざるを得なくなり、何か窮地に陥っているような被害妄想にもますます拍車がかかって、それだけ〇〇に逆らう意志への依存度も高まって、やっていることに対する迷いもなくなって、そういった反抗活動にもより一層のめり込むようになるだろうし、それ以外のことなど眼中になくなってしまうだろうが、〇〇によってそうなるように仕向けられているとしても、〇〇の方でも意識してそうなるように仕向けているわけではなく、それ以前に自らのやっていることにかかりきりとなってそれで手一杯となっていれば、いちいちそれに逆らったり反抗している人たちの存在など眼中にないかも知れないし、意外と気にしていないなら、自身に逆らったり反対している人や団体をそうするように誘導している自覚などないのかも知れない。


9月14日「考える葦」

 人が何から生じてくるとしても、それが生物としての人でなければ、人の思考から人が生じてきてもおかしくはないが、それに関して「人間は考える葦である」ということが、どんな意味を伴っていようと、それを実感させられるような事態に遭遇したり直面しない限りは、知識としてそう言われたことは知っていても、その意味までは知っていても知らなくても、どちらでもいいような気もしてしまうが、それでもパスカルという人物がそう述べていたことを知っている人は多いだろうし、パスカルという人物がどんな人物なのかは知らなくても、それが何かの比喩ような格言のような意味であることを知っている人もいくらでもいて、パスカルといえば「人間は考える葦である」という気の利いたことを著作の中に記した人だと知っているが、その内容のどこが気が利いているかはよくわからないかも知れないし、それが気の利いた内容であってもなくても、そんなことはどうでもいいのかも知れず、ただの知識としてクイズに出てくる設問として、「人間は考える葦である」と著作の中で述べていたフランスの哲学者で数学者は誰か、という問いに対する回答として、パスカルという人名を知っていれば正解を得られるようなことでしかないとすれば、それで済んでしまうようなことであるから、それを知っているだけでは「考える葦」とは言えないのかも知れないが、それでも構わないような気がするなら、自分が「考える葦」である必要もなく、もっと何か気の利いた喩えを思いつければ、そちらの方がもっともらしく感じられるかも知れないが、いちいち「考える葦」と比較可能な比喩を考えるのが面倒なら、「考える葦」でも構わないのかも知れず、そうやって考える手間を省けば、自らが「考える葦」には値しないことを自覚してしまうかも知れないが、そんな成り行きに逆らって「考える葦」とは何か、という問いに答えようとすれば、自らが「考える葦」であることを自覚できるかといえば、それも何やら誘導尋問に引っかかってしまったように思われて癪に触るようなら、無理に考える必要もないだろうし、ではそんな成り行きに逆らうには、それとは違う何か気の利いた比喩か格言のような言葉を思いつくしかないのかも知れないが、それについては例えば「考えるな、感じろ」といった映画の台詞が思い浮かぶかも知れないし、意味としては、戦いの最中に考えていては隙ができて、そこを突かれて相手に負けてしまうから、考えるより先に感じなければならない、といった程度の解釈でも構わないのかも知れないが、そこで何を感じるかは、現状では特に何と戦っている最中でもないので、何も感じられないわけでもなく、直接ではないにしても、何かしら戦っているような気もしないではなく、それに伴って何かしら感じている気もしないではないから、考えるより先に何か感じているらしいのだが、これといって感じていることを言語化できるわけでもなく、「考えるな、感じろ」と誰かから言われたところで、何を感じているのかを特定する必要もないかも知れないが、それを感じていればいいわけでもないらしく、感じていることを戦いに活用しなければならないはずで、実際にその台詞が言い放たれた映画の中では、それを感じることができたおかげで、戦いに勝利することができたかも知れないが、それも作り話の中での勝利なのだから、実際にそれを感じることができたからといって、それが現実の世界で通用するかどうかは、何とも言えないところかも知れず、通用したところで何に勝てるとも限らないだろうが、ともかく「考えるな、感じろ」という言葉をどのような状況の中で活かすことができるかは、やはりそれを実感させられるような事態に遭遇したり直面してみないことにはわからないし、実際にそれを感じたおかげて成功した体験があれば、それを強調したくなるだろうが、それに引き換え「人間は考える葦」だと思ったところで、何かの成功体験に結びつくとは思えないし、それ自体が何かの役に立つようなことではなく、ただ過去にそんなことを述べた人がいた程度のこととして、その人物の名前を当てるクイズの役に立つ程度の知識にしかならないだろうが、こだわりたいのはそんなことではないと思うなら、では何にこだわればいいのかというと、考えることと感じることがどう違うのかということだとは思えないし、何を考え何を感じるかが重要だとも思えず、まずは考えさせられるような事態に遭遇したり直面した際に、「考えるな、感じろ」という戒めの言葉がひらめくかも知れず、そんなふうに逆説的に事態が進展すれば、待てよ、今自分は何かの罠にはまっているのではないかとその場の状況を疑ってみるかも知れないし、また何かの啓蒙思想のように「人間は考える葦である」の模範的な解釈に反発したり、そういう道徳教育的な成り行きに反感を覚えるなら、それを左翼思想や共産主義と見なして馬鹿にしてみせるかも知れないし、そういった浅はかさの感情領域で何をどう思ってみても、感性も思考も空回りするしかないとしても、その程度の認識でも構わないのかも知れず、その程度のことだとそれらの言葉を馬鹿にした上で、自分なりにそれらの言葉にもっともらしい解釈を施してみるなら、その種の解釈から自分の程度もわかってくるというか、勘違いに囚われた自らの度量の狭さを実感できるかも知れないが、その程度でも構わないわけで、現状の世の中に順応している証拠としてその程度に留まっているべきで、平然と人の人権を無視して、左翼思想や共産主義を馬鹿にして見せたり、その逆に何でもかんでも今だけ金だけ自分だけだと金儲け主義や新自由主義を批判してみたりと、そんな単純化が許される世の中になっているわけでもなく、実際にはSNSなどの一部のメディアで通用しているように装われているに過ぎないのだろうが、それを現状の世の中に当てはめる蛮勇がどこから生じてくるのかといえば、現状の政治体制を支えている人や団体から生じてくると考えれば納得できるかも知れないが、それに関しては多くの人々が納得してしまってはまずいと感じているのかも知れず、何か違うのではないかと疑ってみないといけないような気がするわけだ。


9月13日「暴露の対象となる物事」

 よく何かの宣伝文句として出てくる「〇〇の闇」という表現にどう反応すれば良いかは、実際にそんな表現の暴露ネタに出くわせば、それに対する自然な反応として何が期待されているのかは誰もが承知しているところかも知れないし、それが自体がどうというわけでもなく、その内容に注目してみれば、そこに含まれている主張もよくわかるかも知れないが、そんなことに興味や関心があるわけではなく、ではそれの何に関心があるのかというと、光と闇という対照的な比較自体が意図的な強調には違いなく、光と闇が表裏一体の関係にあることも誰もがわかっていて、その中でこれ見よがしに否定的に思わせたい闇の部分をいくら強調したところで、その反対側で輝いている肯定的な光の部分にも注目したいわけだから、光と闇のどちらを強調したいかで、それに対する評価がどう変わってくるかも、誰もが承知しているはずだが、そんなところに興味や関心があるわけではないとすると、たぶんそこに光でも闇でもない部分があるとは思えないかも知れないが、それが光でも闇でもない実体であり、言葉による強調を受けつけない部分というか、それ自体なのだから部分ではなくそのものであり、それを言葉では表現できないわけでもないが、要するに光や闇がないと、それに対して興味や関心が湧いてこないのだろうが、逆に興味や関心が湧いてくる部分というのが、例えば観光で見せかけられている部分であったりして、観光客が見ている部分が興味や関心の対象であるなら、それは実態ではないとは言えないが、少なくとも部分的な実態であり、客に見せたい部分なのだろうが、その逆に「〇〇の闇」と表現される部分であれば、見せたくない部分であり、見せると都合の悪い部分なのだろうが、それが都合の良い部分を見せたい側にとっては、確かに都合の悪い部分なのだが、その都合の悪い部分を見せて、そこを強調したい側にとっては、是が非でもその部分を見せて都合の良い部分を見せたい側の評判を落としたいわけで、それが「〇〇の闇」と表現される部分であるわけだが、闇の部分を暴露されて評判を落としたり、光の部分を称賛されて評判を上げたりすることが、何を意味するのかと問われるわけでもないが、では闇でも光でもない実体があるかというと、実体があるからそこに光が当たれば輝き、光が当たれば影もできるし、影の部分に隠しておきたい都合の悪い部分があれば、それを暴露したいということだろうが、それがそのまま暴露されるわけではなく、暴露する側はそこに脚光を浴びせて強調したいわけだから、悪く見せたいわけで、評判を落としたいわけだから、そうするのは当然のことであり、そういう悪く見せたい部分を割り引いて見なければならないかというと、それはそう思いたい人の恣意的な判断だが、そんな物事や人や団体などに闇があろうと脚光を浴びせたい部分があろうと、評判など気にしない人は気にしないだろうから、そうであればそんなことはどうでもいいとは思わないが、すでにそういうものとして存在していれば、その存在の傾向や活動の実態に応じて良い評判も悪い評判も生じてきて、何の評判もなければ興味や関心の対象ともならないかも知れないが、何かしら評判があるからメディア的な興味や関心の的となっているのだろうし、その興味や関心の対象となる物事を悪く見せかけようと良く見せかけようと、それを言葉で表現している限りで、どうとでも表現できる部分があるのかも知れず、そうした印象操作の類いから何がわかるとしても、その実態や実体が見えてこないとしたら、では実態や実体とは何なのかというと、それが活動の実態であったり存在の実体であれば、それがありのままの実態や実体ならわかりやすいが、それも果たしてありのままではない実態や実体があるのかというと、メディア的あるいは観光的に装飾されて虚飾に彩られた実態や実体になるかも知れず、ではそんな実態や実体を信用できるかというと、別に厚化粧の人を信用しても構わないし、人を身なりや服装でその良し悪しを判断してみても、表面的にはそれで構わないだろうが、見た目の虚飾に騙されてはならない場合もあるにはあることも誰もが承知しているところだが、信用して騙されてみないことにはわからないところもあるから、騙されても大して痛手を被らない自信があるなら、いったん騙されてみてからその良し悪しを判断してみた方が、かえってその実態や実体がありのままの姿で見えてくるかも知れず、それも程度や傾向の問題でしかなければ、どうということはないだろうが、少なくとも一般的な判断基準から言えることは、例えば「ジャニーズの闇」と言われる部分については、その種の業界関係者の間では昔から承知していたことになるだろうが、そっち系ではなく、商売として音楽に関しては、エンタメ系の音楽としては可もなく不可もなくというレベルの音楽なのだろうから、それと比較対象となる、マイケル・ジャクソンの音楽や踊りなどのパフォーマンスの凄さを強調したい人ならいくらでもいるとしても、少なくともそういう人たちから見れば、それのパクリだと見なしたいジャニーズ系の音楽や踊りなどのパフォーマンスの凄さを強調したい人がいるとすれば、その人はまがい物のレッテルを貼られそうになってしまうだろうが、マイケル・ジャクソンの方は兄貴分のマーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーが社会問題や政治的なメッセージを含んだ曲をヒットさせて世間の脚光を浴びたから、それに感銘を受けて自分も彼らに続きたいと思ったわけで、またそんな経緯を知っている山下達郎も、ジャニーズ系の仕事が舞い込んできた際には、エンタメ音楽の範囲内という条件付きでも、それふうの楽曲を提供したいと思ったのかも知れないが、結果がどうなったかは誰もが知っていることなのではないか。


9月12日「認識不足」

 それとは何かと問うなら、それが何だかわからないまま、それに関してわかっていないことや気づいていないことはいくらでもありそうに思われるが、その一方でわかっていることや気づいていることもあるから、そのわかっていることや気づいていることを手がかりにして、わかっていないことをわかろうとしたり、気づかないことに気づこうとするのだが、実際にはその全てをわかろうとしてもわかるわけでもなく、全てに気づこうとしても気づけるわけでもなければ、わかろうとしても気づこうとしても、わからないことも気づけないこともあるから、そういった努力にも限界があることをわかっているつもりになったり、自らの限界に気づいてしまうこともあるとしても、わからないままでも気づかないままでも構わない場合もあるから、実際にわかっていない人や気づいていない人など世の中にいくらでもいるどころか、自身がわかっていないのにわかったふりをしていることに気づいていなかったり、それに気づいていないことがわかっていなかったりするわけで、そんな人も世の中にはいくらでもいるような気もして、それでも構わないような気になるわけではなく、構うも構わないも、わかっていなくても気づいていなくても否応なくそうなってしまうから、そんな事態を受け入れたくないのに受け入れざるを得ず、自分がそれを受け入れていることにも気づいていなかったりするから、そういうことについてはどこまでわかっていないのかもわかっていないし、何に気づいていないのかにも気づいていないから、いちいちそんなことを気にしていてもきりがなく、わかっている範囲内でわかっているふりするしかなく、それで困るようならわかろうとするわけで、また気づかないと困ってしまうなら、気づいていないことに気づこうともしているわけで、絶えずそんな無知で鈍感な状態を打開しようとして、それをわかろうとしたりそれに気づこうとしているとしても、なかなかそれがわからなかったり、それに気づけないから困ってしまうわけだが、では具体的に何がわからないから困っているのかというと、どうしてこうなってしまったのかがわからないから困っているわけでもなく、何か現状で気づいていないことがあると思って、それに気づこうとしているとも思っていないし、気づこうとしても一向にそれに気づけないし、わからないままとなっているような気がしているのだが、そんな気がしているだけで、本当はわかっていてそれに気づいているのに、わからないふりや気づいてないふりをしているだけではないのか、と日頃の自らの言動や立ち振る舞いに疑念を抱かざるを得ない時もあるから、その辺で勘違いがあるのかも知れず、自らについても周囲の状況についても認識不足となっていて、自らがわかっていることや気づいていることに関しては、意識がついて行けずに、それに関しては無知でも鈍感でもないのに、自らのそういうところが受け入れ難いところなのかも知れないし、それが何に関してそうなのかというと、たぶん知り得る全てに関してそうなのかも知れないし、それを意識せずに気づいてしまうことについても、かえってわからないふりをしていた方が無難なのに、下手に知識をひけらかして周囲から不信感を買ってしまい、その辺で敏感に察知しているように振る舞ってしまうから、逆に買い被られてしまって、そうやって自ら墓穴を掘ってしまう事態を招いていると思っても、そんなことはないと謙遜できるだけの余裕があるわけでもなく、そういうところから勘違いが生じてくることはわかっていても、そうでないと困るような事態にも陥っているから、急いでそこから離脱する必要に迫られているかというとそうでもなく、たぶんそこに留まっている必要があるわけで、では現状に関して自らの認識不足をどこから補うのかといえば、ネットから不足を補おうとすれば、ネットが玉石混交どころか、ゴミやガラクタばかりで、役に立たない知識ばかりが出回っているわけではないとしても、そこでの判断基準が役に立つか立たないかではなく、それらを自身の活動に利用したいのは当然だろうが、肝心の自身の活動そのものが、ゴミやガラクタの山に埋もれることであるなら、今まで通りに活動して行けばそうなるに越したことはなく、そんなことに興味や関心があるわけでもないのは百も承知で、そこから無駄で役に立たない知識を得ているわけだから、たとえそこで古代史や現代史や科学テクノロジーなどの知識を組み合わせて魅力的な妄想を得られたとしても、それが妄想には違いないのだから、それ以上に何がどうなるわけでもないことも事前にわかっているつもりなのだが、やはりそこでもそれが何かの役に立つという判断基準から逸脱するような方面で得られた知識を活用しようとするわけで、それが何なのかと問われるわけでもないのだが、強いて挙げるなら言説の辻褄合わせに至って、できるだけ矛盾しないような筋の通った言説を構成したいわけで、誰が構成しても話に説得力を持たせようとして、そんな言説を用いて他人を納得させようとする成り行きになってしまうわけだが、それの何が間違っているわけではなく、そんな話の中で何がわからなくて何に気づいていないというわけでもないとすれば、誰もがわかっていて気づいていることの中に、そうした成り行きによって分節化されてしまう人々の特徴が示されていて、そこにそれが誰にでもそれとわかるように示されているのに、それがわかっていないふりをしていないと馬鹿になれないかというと、何かそれが悪いことのように認識されてしまうかも知れないが、そうではなく、馬鹿になるとは何らかの分野に限定された専門馬鹿になることではなく、それをわかっているつもりになっていたりそれに気づいているつもりになっている人が馬鹿なのであり、逆にもっと素直な態度でそれがわからないことを認めたり、それに気づいていないことを認めることが肝要なのかも知れないが、わかっていても気づいていても、それがなかなかできないことなのではないか。


9月11日「始めることの困難」

 まだ手遅れにならないうちにそれを始めることができれば、将来において手遅れにならなかったことを実感できるかも知れないが、しかしその時点では何が手遅れになるのかを知らなければ、何もやりようがないはずだが、それを知らなくてもなぜかそれをやる機会に恵まれて、実際にそれをやることによって手遅れになるのを阻止できれば、そうなるに越したことはないにしても、果たしてそんなことができるかというと、実際にそれをやってみた結果からそう思われるなら、手遅れになるのを阻止できたと思っても構わないかも知れず、それをやり始めた時点では、手遅れになるのを阻止するためにやり始めたことに気づかなくても、またそこでそれをやり始めないと手遅れになるような気がするから、それをやり始めたとは思えないにしても、後から振り返ってみて、そう思われるようなことを過去のある時点からやり始めたことを確認できれば、それに気づいた時点で手遅れになるのを阻止できたような気がするかも知れないが、それが勘違いな思い込みに過ぎなければ何なのかというと、やらなくてもいいことをやり始めてしまったのかも知れず、そこでそれをやり始めなくても、何が手遅れになるわけでもなく、それをやり始めなければ別のことをやり始めていた可能性もあるなら、そこでそれをやり始めたからこそ、後になってそう思われるようになってしまったとしたら、それをやり始めたばかりにやり始めなければ手遅れになっていたという思いに囚われてしまったことになるわけで、実際にそうなれば、その時点でそれをやり始めたことが、後になってそれをやり始めた人の意識をそんな思いに囚われるように誘導してしまったことになるとしたら、その時点でそんなことをやり始めたことこそが、後になってそんな思いに囚われてしまったことについては、そんな勘違いな思いを改める機会を永遠に失って、そんな思いを抱きながら余生を生きていくことになれば、もはやその時点で手遅れになってしまったわけだが、そんな思い込みに囚われてしまったことについては確かに手遅れだとしても、それをそこでやり始めたおかげで手遅れになるのを回避できたと思い込んでしまったことについては、そう思い込んでいる意識の中では真逆の結果を招いていることになり、手遅れになるような結果を招いたことによって手遅れを回避できたと思い込んでしまったことのどちらが良くてどちらが悪いのかと言えば、それだけでは良し悪しなど判断できないし、どちらにしても手遅れになってもならなくても、そこでそれなりのレベルでその人の生活が成り立っていて、普通に活動をしているなら、そんな水準ではそれで構わないのかも知れないし、しかもそれとは別の水準で手遅れを回避できたという思い込みに囚われてしまったことについては、手遅れを回避できなくなり、そうなった時点でもはやそんな思い込みを改める機会を失って、そういうレベルでは手遅れを回避できる可能性が永遠に失われてしまったのかも知れないし、少なくともそれをやり始めたことによってそれやらずに済む可能性もなくなってしまったことになり、それが取り返しのつかないことだとしても、それをやり始めなければそうはならなかったわけだから、そうなった時点で手遅れな状態を肯定したり正当化したいなら、それで構わないことになるだろうし、それで構わないならそういうレベルでは何の問題もないことになるわけだが、それとは別の水準で例えばその人がそれをやり始めたおかげで不利益を被る人や団体が出てくるようなことになれば、そんな人や団体にとってはその人がそれをやり始めたことについては、否定的な評価を下さざるを得なくなり、場合によってはそれを批判したり非難することにもなるかも知れないが、そんなことはお構いなく、それをやっている最中には他の人や団体からのクレームや意見など気にする必要もなければ、それで済んでしまい、そんな外部から発せられる騒音をシャットアウトできれば、それに越したことはないわけだが、果たしてそんなことができるかというと、聞く耳を持たない人など世の中にいくらでもいて、そんな人にどんなことをやらせようとしているのかが、たぶん騒音を発している人にはわかっていないのかも知れず、もちろんそれは騒音などではなく、批判や非難の文句であるわけだが、聞く耳を持たない人にとってはただの騒音には違いなく、そんなのは一切無視してやっている物事が手遅れになるように持って行きたいとは思っていないだろうが、実際にやっていることは後戻りができないようにやりたいわけで、実際にそれをやり始めたらそうなってしまうわけだから、やり始める以前に阻止しなければ手遅れになってしまうのかも知れないし、そうだとすればすでに現状でそれをやっている最中なのだから手遅れになっていて、そんな手遅れになっていることがいくらでもあるから、外部からの騒音と受け取られる批判や非難が有効に機能する機会が失われて、そんなのは無視してやりたい放題なことが行われているような気がしてしまうわけだが、実際はそうではないにしても、もはや取り返しがつかなくなるほど事態が進展しているところでは、修復が不可能な惨状がもたらされて、多くの人々が無力感を覚えているようだが、そんな中でも必死の抗議活動が行われていて、それが見せかけの演技ではないことがアピールされているのだろうが、果たしてそんな光景を眺めるだけでは飽き足らず、そこに直接首を突っ込んで参加しているつもりの人たちには、手遅れであることが意識されているのかというと、そんなことはないと思うから抗議活動をやっているのだろうし、そういうことをやっている人たちにはそう思われて当然かも知れないが、その時点では後になってそれが勘違いな思い込みに過ぎないことが明らかとなるとも思えないし、いったんそれをやり始めてしまえば、もはやそんなことを思う機会など永遠に失われてしまうのではないか。


9月10日「阿吽の呼吸」

 そんなことはもうわかったと思うようなことを、まだ執拗に回答として求めているとも思えないのだが、未だにそんなわかりきった回答を求めて、わざとらしく質問を繰り返すようなことが行われているとその場の情勢を捉えておけば、何となくそこで行われていることの実態が理解できるが、そんなわかりきった回答を求めるようなやり方は見苦しいからいい加減にやめてほしいと言いたくなる気持ちを抑えて、さらにもうしばらくそのわざとらしい演技が執り行われている舞台に寄り添いながら、そんなことが執拗に行われていることの理由を考えてみれば、もっとわかりやすい別の回答が思い浮かぶわけでもないのだが、これでもかとわかりきった回答を引き出すような質問を求めている側が、何を意図してそんな見え透いた猿芝居を繰り返しているのか、その理由を探る必要すら感じない理由としてすぐに思い浮かぶのが、その回答を自分たちの主張として提示したいのであり、そんなことを主張する機会をひたすら設けたいから、回答としてそれを引き出すような質問が求められていると考えれば、話の辻褄が合うのだが、そうだとすれば質問者が気を利かせて、回答者の意図を前もって押しはかることが必要となるのだが、果たしてそれをわかった上で質問をしているのかというと、たとえそれが回答者を怒らせるような質問であっても、あるいは質問者が馬鹿にされるような回答であっても、そんな光景を見ている人が求めている質問でも回答でもないことがすぐにわかってしまうとなると、ではそれを見ている人がどんな質問や回答を求めているのかと言えば、想定外の思いがけない質問や回答を求めているとそれもすぐに思い浮かぶのだが、それに対して質問者も回答者もそうなっては困るから、そうなるのを阻止するようなルールを設けているとそれもすぐに思い浮かぶと、すぐさまそんなすぐに思い浮かぶようなことを求めているわけではないと他の誰かが反論したくなるわけでもなく、そうなっては困るのは質問者でも回答者でもそれを見ている観衆でもなく、それを批判したい人たちなのではないかと穿った見方をしたくなるわけでもないのだろうが、誰もそうやって先回りした回答を求めているわけでもないはずだが、少なくともそこには誰も求めていないような質問も回答もないのだから、できればそんな空気や雰囲気に応じた質問や回答が求められていると事前にわかった上で、それらの光景を眺めていれば、何とかそんなことはわかりきっていると言いたくなるのを堪えながらその場を乗り切れるはずだが、そんなことはわかりきっていると言いたくなるとしても、わかりきっているからそう思うのではなく、わかりきっていることを質問するわけにもいかないし、わかりきっていることを答えるわけにもいかないから、わからないことを質問したいのであり、しかもわからないことを質問されると答えられないから困ってしまうわけだが、要するにわからないことを質問されると答えられずに困ってしまうから、できればわかりきったことを質問してくれた方が、回答者としては都合がいいわけで、だからそんなことはわかりきっているから、わかりきったことを質問する質問者が愚かなように見えてしまい、しかもそんなわかりきったことに答えている回答者も愚かなように見えてしまうのだが、では愚か者に見えてしまうのを避けるには、質問者は回答者が答えられないようなことを質問しなければならず、また回答者も誰も答えられないような質問に答えられるなら賢く見られるかというと、そんな質問も回答もあり得ないこともわかりきっていて、その場がそういうことを質問する場でも回答する場でもないことは、その場に居合わせた誰もが承知していて、そうはならないこともわかりきっているから、安心してその場に集うことができるわけで、そんな集いを退屈だと感じるなら、何か勘違いしているような気になるかも知れず、その場に居合わせてはまずいのではないかと思うなら、急いでその場から立ち去る必要があるかというと、立ち去っても構わないのだが、立ち去ることが逃げているのではないかと受け取られてしまうと癪に触るから、我慢してその場に留まろうとすればストレスを感じるだろうから、そこで疎外感や孤独感を覚えて、その場に馴染めない自らの方がおかしいのではないかと思い始めてしまうと、そんな心理状態を客観的に見るなら、周囲からの同調圧力に屈していることになるのだろうが、果たしてそこまで精神的に追い込まれるような事態に陥るかというと、たぶんそんなことにはならないこともわかりきっていて、大抵の人にとっては興味も関心もないことであるから、無視していれば済んでしまうようなことなのであり、果たして本当に無視していられるようなことなのかというと、無視できない人が誘い込まれるようにしてそこに集って、そんな光景を眺めているのだろうが、そうなっていることがすでに何かの術中にハマっていることになるのだとしたら、そんな術中にハマっている人々の中から質問者が現れて、誰もがわかりきっていると思うようなことを質問して、それに回答する者が主張する機会を与えていることになるのだろうし、それがたとえ回答者を怒らせるような質問だとしても、十分に質問者としての役割を果たしていると言えるなら、実際に回答者が持論を開陳するきっかけを与えているからそう思われるわけで、そうした挑戦的な態度の質問者が唯一回答者に勝つ方法があるとすれば、回答に窮するようなことを質問することだが、そんな質問があり得るかというと、目下のところはあり得ないと見ておくのが妥当なのかも知れず、回答者が回答に窮するような質問をしたい人なら、わざわざそんな場には出て行かないだろうし、その場が自身にとって不利な場であることを百も承知で出ていくような事態を前もって想定しておくこと自体が、その場から立ち去る理由としては十分に納得できるのではないか。


9月9日「隠されない意図」

 少し物事を難しく考え過ぎかも知れないが、たとえ話などではなく直接示されていることが、何かの寓意だと受け取られるはずもなく、それが実際に起こっていることであるなら、そのままのこととして理解すればいいはずだが、それでも理解できないなら、理解できないこととして受け止めるしかないが、実際に起こっていることが、何かの寓話のように機能しているとすれば、それが何の寓話なのかを説明したいわけでもないが、それ以前に何が寓話と言えるのかを正確に把握しているわけでもなく、寓話ではなくただのわけがわからない話になってしまえば、寓意など込められてはいなかったことになるかも知れないが、例えば物価が上がれば、庶民の生活が苦しくなったと思うかも知れないが、では物価が上がらずデフレが続いていればいいのかというと、それも賃金が上がらないから困ったことになっていると思われるかも知れないし、そうではなく現状では物価が上がってインフレになっているのに、その物価上昇に見合うだけの賃金が上がっていないから問題なのだと説明されると、なるほどと合点がいくだろうが、そんな説明で構わないのかというと、他に説明不足なところがあるわけでもなければ、それで構わないわけで、別にそこに何かの寓意が込められているわけでもないし、そこで起こっていることがそのまま述べられている限りで、何の謎もなく、その通りのことだと受け取っておけば何の問題もないはずだが、あえて述べられていないことがあるなら、それを意図的に隠そうとしているのかというと、そこまで言及する必要も感じられなければ、実際にそれについては何も述べないとなると、わざとそうしているのではないかと疑われてしまうかも知れないが、そんなふうに疑っている人の思いをはぐらかそうとして、そういう方面への言及を避けているわけではなく、そんなことは他でもいくらでも言及されていることであるから、あえてここで述べるには及ばないと考えているわけでもなく、ただ単にそういうことだと受け取ってもらいたいのだが、要するにその場の状況に応じて言葉を選んで語るなら、デフレが続いている時には人々がデフレに苦しんでいると語ればよく、またデフレが終わってインフレになればなったで、人々がインフレに苦しんでいると語ればよく、人々が苦しんでいるのをデフレやインフレのせいにすればいいのだろうが、それでは困るというなら、何が困るのかと言えば、批判の対象として何かが抜けていると思われるだろうし、それが何かといえば、他ではいくらでも言及されていることであり、それについてはあえて述べないとなると、意図的に隠しているのではないかと疑われてしまうだろうが、隠しているわけではなく、それについては誰もが大っぴらに語っていることだから、少なくとも隠されてはいないはずだが、ただここではそれについては言及しないのだから、何か意図や思惑があって言及していないように思われるかも知れないが、さらに述べるなら、デフレやインフレにも許容限度があって、その度が過ぎるから困った事態に陥っていると述べるなら、そういうことだと受け取るしかないだろうし、それで構わないとは思えないとしたら、他に何か言及すべきことがあるようにも思われるかも知れないが、やはりそれについては言及しないわけで、ではなぜそれについては言及しないのかというと、その理由がわからずそれを理解していないから言及しないわけではなく、何かそうではないような気がするからといってしまうと、その根拠を示せないばかりか、論理的にも筋の通っていない話になってしまいそうだが、その一方で企業の倒産件数が増加しているなら世の中が不況に陥っている証拠となるだろうし、失業者も増えてくれば確かに不況なのだろうが、デフレ不況もあればインフレ不況もあるし、良いデフレもあれば良いインフレもあるといってしまうと、現状は良いインフレなのかというと、少なくとも物価が上がって困っている人が多ければ、良いインフレだとは言えないはずだが、困っている人にとっては確かにそうかも知れないが、困っていない人にとってはそうではないかも知れないし、現状ではそうだとしても、これから状況も変わってくれば、その状況の変化に応じて良いか悪いかの判断も変わってくるかも知れないが、判断がどうであれ、状況の変化に応じて自らも周囲の人々も変わって行くと共に、そこでうまく立ち回ることができれば、状況も良くなったと思うだろうから、それが自らの努力次第で済むようなことなら、自らの努力を大げさに自画自賛したいわけでもなければ、大したことにはならないわけだが、その程度で済むようなことではないとすれば、では何が問題なのかというと、努力次第なのではなく、感性の問題だとすれば、場合によってはそこで実際に起こっていることから、その場で機能している寓意を知る必要が出てくるかも知れず、それが知ろうと努力して知り得ることではなく、逆に目標に向かって一途に努力するような人には知り得ないことであるなら、目標というのが自身が囚われている制度によって目標を立てるように仕向けられる目標になっていると、ますます知り得ないことになってしまうかも知れないし、いったんそこから心身を引き剥がしてみないことには知り得ないことになるかも知れないが、そこでも引き剥がそうと努力するようなことではないとすれば、ではどうすればいいのかというと、これといってうまい方法などないのかも知れず、それでは何もやりようがなく、そんなのは考えるまでもないことだが、知りたいことがそうなのではなく、また知りたくもないことを知らされて困惑するのでもなく、そうかといって煙に巻かれるようなことでもなく、それが実際に起こっていることであるなら、そのままのこととして理解すればいいようなことなのだろうが、たぶん特定の制度に囚われることによって、その制度に特有の偏見や固定観念を頭の中に植えつけられてしまうと、感じ取れないことになるのではないか。


9月8日「筋が通らない事情」

 この後に及んで誰も何もできないわけでもないだろうが、何かができる人や団体と何もできない人や団体とに分かれているとも限らないし、そうなっていることを誰か特定の人物や団体のせいにすることもできるだろうが、それで済むなら話が簡単になってしまい、話が簡単になった方がわかりやすいなら、そういう話で納得できる人がそういう話で済まそうとするのだろうが、果たしてそれでは済まないことになるかというと、済まないなら他にどんな話にすればいいのかと考えるまでもなく、話をその場の成り行きに合わせようとすれば、自ずから話の中身が変わってくるかも知れないし、そうなることによって、これまではわからなかったことがわかるようになるかも知れないから、それに伴って誰かの化けの皮が剥がれるようなことが起これば、何やらその場の情勢の変化を期待できるかも知れず、それを期待したところで気休め程度の効果しかもたらせなければ大したことにもならないわけだが、それでもこの後に及んで誰の化けの皮を剥がそうとしているのかが、そんな難儀な皮剥ぎ作業に挑戦している人の資質が窺えて、それがご苦労なことだとその労をねぎらう気になれるわけでもないにしても、それによって誰かの化けの皮を剥がそうとするふりをしている人たちの化けの皮が剥がれてしまうような結果になってしまうとすれば、それを自業自得だと見なしても構わないが、たぶんそうやって様々な分野で様々な人々の化けの皮が剥がれて、そんな人々が使い捨てにされながら、現代という時代が過ぎ去ろうとしていることは確かなのだが、そんなふうに現代という時代の状況や情勢を語ろうとして、それを執拗に語ろうとする人の化けの皮が剥がれて行ってしまうとすれば、それこそが自業自得だと言えるわけで、自分の化けの皮を剥ぐ作業を行なっていることに気づかないわけだが、そうならないようにするにはどうすればいいかと問うのではなく、また化けの皮が剥がれないように振る舞うにはどうすればいいかと考えるわけでもなく、さらには化けの皮など元から被っていないことを自らの皮剥ぎ作業によって証明したいわけでもなく、イエスの使徒のバルトロマイの最後が皮を剥がされて殉死したらしいことが、山本太郎の使徒の中の誰かの最後を暗示しているわけでもないだろうが、人の名前やあだ名がその体を表すようなことが起こるとも限らず、その際には自らに降りかかる火の粉を簡単に振り払うようなことにはならず、自らに襲いかかる誰かの刃をぎりぎりの間合いでかわすような技術を誰もが身につけているわけでもないことが、それらの映像を見ることによって知ってしまう教訓となるわけでもなく、自らの行為や行動を通じて訴えかけようとしていることが、結果的に何をもたらすのかをあらかじめ想定していたわけでもないことが明らかになると共に、それを想定内の結果になるように持って行こうとして、さらに苦し紛れの戯言を弄した挙句に、それに成功したのか失敗したのかを自らが知り得ないというよりは、それに成功したと誰もが思い込みたいわけで、結果がどうなったにしてもうまくやったことにしておきたいわけだが、そこで争点をずらされたりはぐらかされたりすれば、思惑通りに事が運んでいないことを知るに至るわけでもなく、かえってそんなことも想定内だったと結果から強弁したいわけで、何かを強弁したまま、言いっ放しのままで済むに越したことはないと思っているわけでもなく、議論が噛み合わないままとなってしまえば、双方とも痛み分けに持って行けるような甘い期待を抱いているわけではないとしても、何もかもが思い通りに事が進むはずがなく、たとえ事前の打ち合わせをしていたとしても、途中から思わぬ方向へと話が脱線してしまうこともあるだろうから、そんなパプニングが台本に書かれているわけでもないから、その場でどんなリアクションをすればいいのかわからず、動作が固まってしまうかも知れないが、そうなることを狙って意図的にずらしやはぐらかしを仕掛けているわけでもなく、そういった技術的なやりとりとは別に、話の内容に興味を惹かれるか否かといった水準で、はじめから話にならないことだと突き放して見ているわけでもないのだが、その人に特有の事情から生じてくる功利的な視野の狭さと損得勘定の卑しさが、何を物語っているのかということが、その人の意図や思惑を超えてもたらす効果を物語っていると思ってみても、それが具体的にどんな効果をもたらしているのかが、その人にはわかっていないということが、それがその人の眼中にはないことであり、その人の活動の範囲内ではどうでもいいことが、他の誰かの活動の範囲内では問題となってくることだとしても、その人にとってはどうでもいいことであり、もちろんそう思っているのはその人の勝手な思い込みであると共に、そう思い込んでいないとその人の活動が成り立たないわけではないとしても、その人が勝手に範囲を定めているわけではない活動の範囲内でなら、そんなことはどうでもいいと思っていられるわけでもないが、実際にどうでもいいと思っているわけではなくても、その人の言動がそれを認めていると指摘しても、そんなことはないと反論してくるだろうが、その人の言動が物語っているのはそういうことだと見られてしまうから、それに対してその人がどう反論しようと、いくら戯言を弄して言い訳を試みてみても、そう見られてしまう限りでそう見ている人の勝手なのであり、それはその人が勝手に自らの活動や言動が及ぶ範囲を自らの都合に合わせて狭めていることと大して変わらないわけだが、誰もがその人の都合を認めてくれるはずがなく、しかもその人が有利になるように取り計らってもらいたいという甘い期待が打ち砕かれたところで、その人と利害を共有していないその他大勢の人々にしてみれば、そんなのは道場破りの誘惑に屈して議論をふっかけた人の自業自得でしかないと思われても致し方のないことになってしまうのではないか。


9月7日「正しい主張の盲点」

 世の中には何か主張したい人がいることは確かなのだが、その主張が正しいとか間違っているとかではなく、そう受け取らざるを得ないこととして、正しいことを主張をしたい人がいるということであり、主張するなら正しいことを主張したいのは当然だろうが、逆に誰も好き好んで間違ったことを主張したいとも思えないが、その場の状況として正しいことを主張することが疑わしく思われる場合もあり、何か世の中がこうあるべきだと主張することが、そう主張したいのは山々だが、それはちょっと違うような気もするわけで、こうあるべきだが実際にはそうではなく、その実際にはそうではないことを強調したくなると、こうあるべきという状態が違うような気がしてくるわけだが、ではどう違うのかというと、こうあるべきという状態が実現不可能なように感じられるから、ではこうあるべきではないとすればどうあるべきなのかと問われるかも知れないが、それがどうあるべきでもなく、そうなってみないことにはわからないことなのかも知れないから、あらかじめこうあるべきだと決めてかかってはまずいのではないかと思いたいわけだが、その一方で現状で実際に不条理や不具合が生じているのだから、それを改めるべきなのはわかりきっているのだから、その現状で生じている不条理や不具合を改めるべきということが、そのままこうあるべきという主張になるはずで、それが正しいことを主張しているという実感をもたらしているのかも知れないが、実際には不条理や不具合を改めようとすると、さらなる不条理や不具合が生じてくるとも限らないが、それを不条理や不具合だとは受け止めずに、もっと肯定的に受け止めるべきことだと主張する人たちも出てくるから、事態がこんがらがってくるわけで、例えば日本政府が国債を発行し過ぎて、それを国債の価格維持のために日銀が買い取り過ぎて、物価が上がってインフレになったら政策金利を上げて、経済が不況になったら金利を下げる、という他の国の中央銀行が当たり前のようにやっている金融政策を、日銀ができなくなってしまったから、政府が発行する国債を中央銀行が買い取るなどというマッチポンプのような不条理は改めなければならないと主張することが、これまでは正しい主張だと思われてきたのだが、実際にそうなってみれば、政府の赤字は民間の黒字だという主張も出てきて、積極財政と緊縮財政という対立軸から政府の国債発行を正当化する主張も出てくるし、政府には通貨発行権があるから自国通貨建ての国債をいくら発行してもデフォルトにはならず、ハイパーインフレにはならないという主張も出てくるわけで、確かに現状では国債を発行し過ぎている日本もアメリカもデフォルトにもハイパーインフレにもなっていないわけだから、暫定的にはそれらの主張にも一理あるわけだが、それらの主張の正しさを強調したい人たちが言いたいこともよくわかるのだが、その一方でその種の主張の正しさが部分的な正しさだと踏まえておくことも肝要なのかも知れず、実際に現状の日本では円安が止まらずに物価高で庶民が苦しんでいるから減税しろ!と主張する人たちの主張の正しさも誰もが認めるところだろうし、アメリカ政府も絶えず債務上限問題で苦しんでいるし、何かしら副作用が生じていて、それがどうにもならない切羽詰まった事態をもたらしていると捉えるべきなのか、それとも政府や議会の対応次第で容易に切り抜けられることなのか、ということに関しても、現状をどう捉えるかでそれなりに見解が異なってくるだろうが、現状を大変な事態を切り抜けている最中と捉えておくのが無難な捉え方であるのだとしても、政府や政権与党の対応を批判したり非難している人たちはいつも決まって、このままでは大変なことになるもうすでに取り返しのつかない事態になっていると危機感を煽って、民衆に向かって警鐘を鳴らすことしかできないのかも知れないが、危機感を煽り過ぎて慢性的にそんな状態になっているから、民衆の感覚も麻痺しているだろうから、それに対する民衆の反応も期待外れとなっている現状もありそうなのだが、それだけ日本の民衆にはまだ余裕があるということだろうし、世論調査や選挙結果がそれを物語っていて、そんな状態がいつまで続くのか、ということに関しては政治的な面で対処したり対応できることが限られていて、例えば中国政府や中国共産党などと比べて、日本の政府や政権与党が日本をどれだけの強度で支配しているかということに関しては、たぶん中国のように支配する必要がない状態が維持されていて、それが今後とも変わらないのかというとよくわからないが、そんな中国と比較して中途半端な状態や状況を変えようとしている政治勢力がいくらでもいることも確かだが、それが世界の不幸を反映して出てくる移民という糧を吸収し続けることで、繁栄を享受し続けているアメリカと比べてどうなのかといっても、比べようがないと思いたいが、それ以前に日本のひどい現状をどうにかしたいと思って行動している政治勢力もいくらでもいるだろうから、そんな政治勢力の主張も正しいと思われてしまうわけで、そういう意味では正しい主張をしている人たちに敵対するようなことはやらない方が身のためだと思っておくことも肝要なのかも知れず、そう思っていても結果的に出てくる行為や行動が、それらの勢力とは同期できない事態に陥ってしまうことも想定の範囲内に入りそうで、そういうところでいつもちぐはぐな結果がもたらされて、それもいつまでもそうなり続けるかというと、そうでもない結果がもたらされることを期待してしまうのだが、少なくとも理路整然と正しいことしか主張しない日本共産党の人たちよりは、政府の赤字は民間の黒字だとか、緊縮財政より積極財政だとか、自国建ての国債ならいくら発行してもデフォルトにもハイパーインフレにもならないとか、思いっきり危ういことを主張している人たちの方が魅力に満ちていることは確かなのではないか。


9月6日「社会は防衛されなければならない」

 制度に慣れてしまえば、制度の何がおかしいとも思えないのに、誰もがそれをおかしいと思っているわけでもないのだろうが、中にはそれがおかしいと強弁する人もいるから、それが声の大きい人だと、あるいは言動が巧みな人だと、そんな人の言っていることを真に受けて、多くの人たちがおかしいと思い込んでしまうのだろうが、それがおかしいからこそ、制度が制度として社会の中で機能すると言ってみても、おかしな制度が社会の中で機能してはまずいと思うかも知れないが、実際に制度のおかしさを指摘する人が後を絶たないとすれば、そういうことを指摘する人にはその制度のおかしさがわかっているから、それをおかしいと指摘するわけで、そんなことを指摘する人の言っていることを真に受けて、多くの人たちがおかしいと思い込んでしまうとすれば、いつの間にかその制度がおかしいという認識が世の中で定着するかというと、その一方で制度に従っている人も多くいるから、制度が社会の中で機能するわけだから、その制度が形骸化していなければ制度がおかしいと思う人よりも、おかしいと思いながらも制度に従っている人も含めて、制度に従っている人の方が多いから、その制度が社会の中で機能していると捉えておいた方が、現状認識としては世の中の実態を反映していると思いたくなるのだが、おかしいと思う以前に、それが制度だとも気づいていないのに、制度に従っている人もいるなら、制度ではなく慣習として人々の生活に溶け込んでいるわけで、そうなるとおかしいかおかしくないかの判断など意味をなさず、ただ生きているだけで自動的に制度に従いながら生きていることになってしまい、制度のおかしさに気づいていないことになってしまうのだが、まだそこまで行っていない段階で、盛んに制度のおかしさを指摘している人が多いことが、果たしてその制度を改めることにつながるかというと、まだ改める段階にも達していなければ、その制度に対して多くの人たちが文句を言っている段階なのだろうが、そしてそれを改めてしまうとさらに困った事態になると、それが制度の改悪だと言いたいわけだが、本当に改悪なのかというと、文句を言っている人たちの言う通りの改悪だとしても、その一方でますます制度が社会の中でうまく機能することになれば、それで構わないことになってしまうのかも知れず、そうなるとおかしな制度だと思いながらもその制度に多くの人たちが従っている状況になってしまうわけだから、世の中の状況もますます悪化することになるかというと、果たしてそれが悪化だと言えるかどうかも、制度に反対する人たちはそう主張するだろうが、制度の恩恵にあずかっている人や団体としては、制度があるおかげで良くなったと思いたいだろうから、そこで立場の違いに応じて認識の違いが顕著になってくるわけだが、そうした差異をもたらすのが制度の機能だとしたら、制度によって差異をもたらすことに成功しているわけで、そんな差異を利用して利益を得られるなら、それを利用しない手はないが、誰もが制度を利用して利益を得られるわけではなく、ある特定の立場にならないと利益を得られないとしたら、しかも誰もがそんな立場になろうとしてもなれるわけでもないとしたら、そんな制度はおかしいと思うかも知れないが、そこでもそう思える立場とそうは思えない立場があれば、特定の立場にならない限りはそうは思えないことになってしまうから、そこでも制度によって差異が生じていることになるわけで、そうした差異を作り出すのが制度の機能であれば、制度が社会の中でうまく機能していることになるのだろうが、制度がおかしいと思っている人にとっては、新たな制度改正によってそうなることが制度の改悪だと思うかも知れないが、いったんそうなってしまえば、その制度の恩恵を受けられる立場の人や団体にとっては都合が良いわけで、制度改正によって何らかの損害を被ってしまう立場の人たちにとってはたまったものではないにしても、そこに差異が生じることによって、新たな展望が開けてくるなら、それを利用しない手はなく、それ以前に社会そのものが様々な制度の集合体なのだから、その中のある特定の制度が改正されることによって、その恩恵を受けられる立場と損害を被る立場とに分かれるなら、どちらの立場になれば得をするのかといえば、もちろん恩恵を受けられる立場になればいいのだろうが、それがなろうとしてもなれる立場でなければ、なれない人はあきらめるしかないだろうが、実際に制度改正によって損害を被るなら、そんな立場にはなりたくないから、そういう立場のなり手が減ってしまうだろうから、そうなることによって社会の中の立場の違いにもそれなりの変化が起こって、損害を被るような損な立場に代わる新たな立場を求めて試行錯誤が繰り返されて、それによって社会が活性化すれば現状の社会も変わって行くのだろうから、そういうことでしかないと言ってしまえば身もふたもないが、今回のインボイス制度の導入に関してもそういうことが起こって、それによって損害を被るような職種の人たちが減って行って、それに代わる新たな職種や立場が生じてくれば、その分だけ社会が活性化したことになるのだろうが、それを活性化とは言わずに衰退だと言いたい人もいくらでもいるだろうし、実際に理不尽な目に遭ったりひどい仕打ちを受ければ、自業自得だと思う代わりに、そんな目に遭わされたことから生じる不満や憤りがどこへ向かうかといえば、やはり社会の変革へ向かわなければおかしいと思いたいところだが、そこでも変革を阻止しようとして既得権益にあずかっている人や団体が様々な妨害工作を仕掛けてくるのかも知れないし、それが妨害工作だとは感じられなければ何なのかというと、社会を防衛するためにやっていることになるのではないか。


9月5日「逡巡と迷路」

 現状をどう解釈すれば合点がいくか、という問いの立て方でも構わないが、問いがそれだけではないこともわかっているつもりでも、一つの問いに執着していれば済むようなことでもないことは百も承知であるのに、やはり一つの問いに対する答えに納得したいわけで、しかもそれが他にも様々にある複数の問いの中で重要であるか否かという判断も絡んでくるから、そこに判断を迷わすような迷路が潜んでいるとも思えないが、そんなことまで考慮できるわけもなく、結局は自分が納得できる現状の解釈にこだわって、そんな解釈を現状から導き出そうとするのだろうが、いつもそんなことばかり考えているわけでもないから、他にも様々なことを考えている中で、ふとした拍子にそんなことを考えていることに気づくわけで、それが考えていることの全てではないにしても、全ての考えがそこへと行き着くわけでもないにしても、答えを導き出せれば現状に納得できるとも思えないのだが、逆に現状に納得できないから、納得できる答えを求めているのだろうが、その一方で納得できる答えを導き出せるとも思っていないのかも知れず、要するに現状に納得できるとも思っていないわけだが、それで構わないとは思えないとしても、やはり納得できる答えを導き出そうとしているわけで、それが矛盾といえば納得できる矛盾なのだが、納得しようとも思っていないわけだから、そこから考えるための糧を得ているわけで、現状をどう解釈できるかということが、現状を考えるためには必要な問いなのかも知れないが、それだけで十分だとは思えないから、まだ他にも考えるのに必要な問いが潜んでいるような気がするわけで、それを意識して探しているわけでもないのだが、それもふとした拍子に思い浮かぶことを期待しているとも思えないが、何か納得がいくような問いを思いつけるような気がしているともいえないが、そんな期待を抱かせるような機会が巡ってくることを期待しているわけでもないのだが、そういう方面へといくら向かっても、納得できる答えに辿り着くとも思えないから、そろそろ現状に対する納得できる解釈を導き出して、さっさとそんな当てのない問いとはおさらばしたいのかも知れないが、導き出せるのはいつも決まって部分的で不完全な解釈であり、現状の全てを解釈できるわけもなく、特定の出来事や現象について、しかも他で主張されているおかしな解釈を批判しつつも、それとは違った解釈を提示しようとするわけだから、まずは自らが解釈する以前に、世の中で現状に対するおかしな解釈がまことしやかに信じられている状況が必要となってくるわけで、その格好な事例となるのが、例えばホリエモンのようなこれ見よがしな煽動者が吹聴するデマに対する反論として用意されるごく穏当な解釈に落ち着くのだろうが、ホリエモンはホリエモンで自らについてくる浅はかな追従者相手に商売しているつもりなのだから、ホリエモンとホリエモンに反論してくる人たちの意図せぬ連携によって、現状に対する不完全で部分的な解釈が導き出されるわけだが、それが恒常的に成り立つわけでもない一時的な解釈には違いないのだが、それで納得できるかというと、部分的には納得できるが、それ以上の納得を期待できるわけでもないのも当然のことで、そこからそれ以上の納得を導き出せるわけでもなく、誰も納得できる解釈を導き出そうとしているわけではなく、その代わりに安易に対立したり敵対したりするきっかけをホリエモンがもたらしてくれたことを感謝したいわけでもないにしても、結果的にはそうなってしまうわけで、それによってどうなるわけでもないとは誰も思わないが、それも結果的に何事も起こらなければ、どうなるわけでもなかったことが証明されてしまうのだろうが、もちろんそれが証明だとも思えないし、そんなことに関心が向くわけでもなく、それはそれでそれっきりとなって単発的な出来事としてすぐに世間からも忘れ去られてしまうのだが、忘れた頃にまた性懲りもなくその種の煽動が単発的に仕掛けられて、それによって世の中が一時的な盛り上がりを見せるのだろうが、そんな騒ぎの断続的な繰り返しの中で現状が維持されて、時折湧き起こるその種の騒ぎも、それが現状を変えるきっかけをもたらすというよりは、現状を維持するためには定期的にお祭り騒ぎをやることが必要なのであり、それによって人々の間に溜まった現状に対する不満のガス抜き作業として、忘れた頃にその種の煽り立てが繰り返し必要となってくるのだろうが、それを仕掛ける側が頃合いを見計らって計画的に仕掛けているかというと、そう思ってしまうと何やら陰謀論めいてしまって、かえって信じられなくなってしまうだろうが、そう思うよりはその場しのぎの苦し紛れに仕掛けていることだと解釈しておく方が妥当なのかも知れず、その程度のことだと見なしておけば、それが大したことでもないことにも気づくだろうが、そんな大したことでもないことに心ならずも関わってしまう人たちも、そういう面では大したことでもないのだろうが、それが取るに足らない枝葉末節な出来事だと思っておけばいいのかというと、否応なくそんな出来事に惹かれてしまうわけで、それが人の心を惑わす煽動なのだろうし、そんな浅はかな煽動に乗っかって踊ってしまう人も大勢出てくるわけだから、それだけ魅力を感じる出来事なのだろうから、そんな煽動に乗じて何か利いた風なことを述べてしまうのも、条件反射としては正常な部類に入る反応なのだろうし、素直な反応を心がけておけばそれほどおかしな事態にはならないだろうから、それ以前にもうすでにこれ見よがしな人物として否定的なレッテルが貼られているのだから、それに対して常識的な範囲内での対応で十分なことも誰もが知っているのではないか。


9月4日「傍観者からの離脱」

 何を述べても相手に真意が伝わらないと感じるなら、誤解しているのはそう感じている当人の方かも知れず、自分が自分の真意をわかっていないというと、何が真意なのかと自問自答を繰り返すわけでもないが、例えば世の中で理不尽なことが行われている原因を突き止めようとしても、必ず原因究明の邪魔をしようとする人や団体が登場して、そんな人や団体としては原因が究明されてしまうと困った事態に陥ってしまうから邪魔をしてくると解釈すれば、話の辻褄が合ってしまうのだが、一概にそうだとも言えなければ、では何なのかというと、すでに誰の思い通りにもならない事態に陥っていて、そこで利害関係が錯綜しているから、各々が自身の利益を追求すれば、必然的に他の誰かの邪魔をすることになってしまい、邪魔された人にしてみれば、前もってこちらの意図を察知していたかのような妨害に遭ってしまうから、何かの陰謀が巡らされているような疑心暗鬼に陥ってしまうかも知れないが、意図して邪魔をしようとしてくるわけではなく、その意図も思惑もないのに、結果的にそうなってしまうとすれば、邪魔をしてくる誰かと敵対関係にあるとその場の状況を捉えても構わないのだが、敵対するつもりもないのにそうなってしまうのだから、結果的に敵対するような関係となってしまうとしても、だからといって誰かから邪魔される前に、こちらから攻撃を仕掛けるようなことをやってしまうと、ますますその場の事態がこじれてしまい、他にも思わぬところで新たな敵を作ってしまうとも限らないから、下手に周囲に向かって敵意を露わにするようなことは控えて、逆に表向きは誰とでも友好関係を築こうとする方が身のためなのかも知れず、そんなことを簡単にできるわけもないが、誰とでも対立しようとしているわけでもないのに、そんな成り行きになってしまうような気がするとすれば、すでにそこで争いが起こっていて、争いに巻き込まれている誰かの味方をするつもりもないのに、その誰かの主張や意見を支持したり賛同したりすると、自動的にその誰かと争っている他の誰かと敵対する成り行きとなってしまうのだろうが、だから安易に誰かの主張や意見を真に受けて、その人の味方を装うような愚は避けなければならないとも言えないが、わざとこれ見よがしに誰かの味方を装っているように見せかけているわけでもないと思っていても、思うのはこちらの勝手な思い込みに過ぎないが、なぜかそう見えてしまうシステムになっているとしたら、そんなシステムには抗わなければならないのかといっても、それが抗いようのないシステムであれば、それを受け入れざるを得ないだろうし、そういう意味では敵でも味方でもない立ち位置になるのは難しいことかも知れないが、そうなったとしても無視されて放っておかれるだけで、そうなるのが嫌なら嫌でも特定の主義主張や立場の味方を装って、その主義主張や立場と敵対している勢力と対立しているようにも装いながら、そんな日和見的な立場に応じた言動を心がけるようにすれば、自ずから孤独を避けられるかも知れないが、その際にはその場の情勢の中で必ずしも有利な側の味方をするというのではなく、むしろ不利な側の見方をしておいた方が、かえって正義を貫けるような気もしてくるから、その辺から勘違いも生じてくるのだろうが、そんな少数派の正義というのが弱者の味方を装うことにつながれば、自らの主張や意見を正当化できるような気もするだろうし、一概に弱者=善良な人というわけでもないところがわかりにくいだろうが、そういうことではないとしても、社会の中で不利な立場が生じているように見せかけられているのではなく、現実に不利な立場というのがあることを知れば、なるほどその不利な立場に陥っている人たちの味方を装いたくなるのが人情だろうが、そう装うことによって自らが有利な立場になりたいわけでもないとしたら、では何なのかというと、それも装うのではなく直接味方になりたいのだろうし、それが嘘偽りの態度ではなく詐欺でもないことを証明したいのだろうが、それが真意なのだとしても、それが信じてもらえない状況になっているとしたら、ではそんな人に対して疑いの眼差しを向けている人たちがどう思っているのかといえば、どうせ人気取りのためのパフォーマンスなのだろうと高を括っているわけでもないのだが、それ以前に利害や立場の錯綜があるから、これといって特定の立場や主義主張を支持するような状況にはなっておらず、世の中を弱者と強者に分けてみたり、金持ちと貧乏人に分けて見るような考えには同調できず、それが勝手な偏見や誤解に基づいているとしても、それを広めているのが他ならぬ敵対を煽っている当事者なのだから、そんな当事者だと思っているつもりの人たちが、自業自得気味に単純化の罠にハマっていると見ておけばしっくりくるかも知れないが、それも勝手な偏見や誤解に基づいてそう思っていることの証拠となってしまえば、では他に現状をどう見ておけばいいのかといっても、どう見てもしっくりこないように思われて、メディアを通じて広まっているもっともらしい見方や感じ方に疑念を抱いていれば、そんな疑念を抱いている限りで構わないわけで、それをもっともらしいと思って納得してしまうと、それが誤解や偏見に基づいた単純化となってしまい、そうなるのを避けるには、絶えずもっともらしい見方や感じ方や解釈に疑念を抱き続けるしかなく、それが安易な発想だと思うなら、もっと複雑で込み入った利害関係や感情のもつれや行き違いなどを想定しておかなければならないだろうし、それでも納得できないなら、疑念を抱いたり納得できないような心理状態を保っておくことが肝要なのだろうが、どんな心理状態を保っていようと、それだけではどうにもならないわけで、結局は矛盾してしまうかも知れないが、そこで生じている利害関係や権力関係の中に自分で入って行って、面倒な成り行きを直に体験してみないことには、その場のどうにもならない現状をどうにかしようとする気にはなれないわけだ。


9月3日「近道の勧め」

 わざとそうなるような成り行きに持ち込もうとしているわけでもなく、そうなるような成り行きが疑わしいから、それについて何か語る成り行きになれば、それがそれへの批判に結びつくような気がするのだろうが、実際にそうなってから何を批判したいわけでもなく、何かそれでは嘘をついているような気もするのだが、それも実際にはそんなことを言うわけではなく、文章を構成しているわけで、言っていることは大して中身があるわけでもないのに、中身のある批判になるように工夫を凝らそうとしているから、わざと勿体ぶった言い方になるのだとしても、それも相変わらず言っているのではなく、文章を記述している中で何かを言っているように装っているらしいのだが、それが批判に結びつくかどうかはいつものようによくわからず、とりあえずそれを批判するような内容になれば、そんな内容がもっともらしく感じられて、批判している対象と戦っているつもりになれるのかも知れないが、その辺が腕の見せどころというわけでもなく、腕など見せなくても済んでしまうような成り行きへと持って行きたいわけで、それが制度的な成り行きだと言ってしまうと身も蓋もなく、制度に守られながらそんなことを述べているのだから、自らを守ってくれている制度を批判しているわけでも、そんな制度を守っている勢力を批判しているわけでもなく、制度に守られながら制度を利用しているに過ぎないが、それでも社会の中で機能している何らかの制度を批判しているつもりになれるし、そんな制度を守っている勢力を批判しているつもりにもなれるのだから、その制度とこの制度がどう違うのかもわかっているはずだとしても、何でもかんでも制度のせいにしているつもりになっているのではなく、特定の固有名を伴った人のせいにしたいのだろうし、さらには同じように特定の固有名を伴った団体のせいにしたいわけだが、そんな回りくどいことは言わずに〇〇が悪いと名指しすれば済むようなことかも知れないが、実際にもそれで済んでしまうわけで、確かに悪いのは〇〇なのだが、制度が〇〇を悪いことをやるような役回りに設定しているわけだから、〇〇のような悪い奴がそんな役回りになってしまう制度を何とかしなければならないと思う一方で、そんなことを批判している奴がその制度を利用して〇〇に取って代わろうとしているわけで、そんなところから何やら怪しい成り行きが生じてきて、〇〇を批判するよりは〇〇を擁護するような奴が〇〇の後継者として取って代わる方が制度としては都合が良く、実際に制度的にはそういう成り行きになりやすいわけで、制度を利用している他の奴らもそんなことは承知していて、〇〇と戦うよりは〇〇の仲間になろうとして、実際に〇〇の仲間になった奴らの中から〇〇の後継者が選ばれて、〇〇と同じようなことをやって批判されながらも、役回りとしては制度の許容範囲に収まるから、制度そのものが維持されると共に、制度を守る側の立場も維持されて、何事もなかったかのように社会の中で制度が機能し続けるわけだが、そうなる過程の中で何かごまかされているような気もするから、疑念を覚えるのだが、それがどうやってごまかされているのかがよくわからないというか、ごまかされていることにも気づけないなら、馬鹿なだけかも知れないが、自身が馬鹿なことにも気づけないとなると、馬鹿なのだからそんなのは当然のことであり、馬鹿なままでも構わないわけで、馬鹿なままでは済まない事態となった時にはもう手遅れとなるかどうかも、その時になってみないことにはわからないし、その時になってもわからなければ、それも馬鹿なのだから当然のことであり、馬鹿なままでも構わないから気づかないことになるのだろうが、それが馬鹿だから気づけないのではなく、騙されているから気づけないと自己弁護できるかというと、それも自己弁護するような機会がいつ巡ってくるとも限らないし、制度的にはそんなことにはならないような仕組みになっていると信じたいところだが、誰もがそれを信じていることにも気づいていないのかも知れないし、そんなふうに制度を信じているからこそ、制度を信じていることにも気づけないというパラドックスも生じていて、では制度を疑うことを知らないから、そうなってしまうといったところで、それが何のことやらさっぱりわからないなら、制度を信じて疑わないからそうなってしまうのだろうが、そんな決めつけも制度を信じていることに気づけない人たちにはわけがわからず、ちんぷんかんぷんなことかも知れず、そういう意味でも何でもかんでも制度のせいにしてみても埒が明かないわけだが、では誰のせいにすればいいのかといえば、すでにそんな事態を批判している人たちが、〇〇のせいにしているから、その尻馬に乗って一緒になって〇〇が悪いと批判すれば、それが他人の言動に便乗して行動していることになって、そういうのが制度的な行動の典型例となってしまうわけで、そういう意味では特定の人を名指しして〇〇が悪いと言い放つことも、制度的な行為や行動に含まれるわけだが、果たしてそこで機能している制度が、悪いことをしている〇〇を守っている制度とどう違うのかといっても、それが同じメディアを利用した地続きな制度の一部だと言ってみても、やはり埒が明かないわけで、制度が運営する同じゲームの中で、〇〇を守るように制度が機能している面もある一方で、その〇〇に向かってお前が悪いと言い放つ機能もあるといっても、ではそんなゲームの中でどう振る舞えばいいのかと誰が教えてくれるわけでもなく、ゲームのルールに従って行動して行けば、自ずから〇〇を擁護する側と〇〇を批判する側に振り分けられて、どちらか一方の立場から誰かが利いた風なことを言い放ってしまうとすれば、そんな奴がゲームに心身を支配されていることが明らかとなるが、案外当人はそれに気づいていないわけだ。


9月2日「わけがわからないでは済まないこと」

 見ず知らずの誰かに自分でもわけがわからないことを伝えたところで意味不明だが、話を単純化してわかりやすくしてしまうと嘘になってしまうし、真意が伝わらないような気がするからというわけではなく、真意など元からないからわけがわからないわけで、ただその場の成り行きに従うとそうなってしまい、ではその場の成り行きに逆らうとどうなってしまうのかといえば、逆らえないから従うしかなく、逆らいたいなら逆らえばいいわけだが、逆らう者は無視されて放っておかれるだけで、それで何がどうなるわけでもないから、逆らっても無駄だということを思い知らされて、結局その場の成り行きに従う者だけが、その場で行われている催事に参加してそれなりの高揚感を得られるわけで、その催し物そのものが壊れているというと、何か大げさなことのように思われるが、それを主宰している人や団体にとしては、大げさな表現でその場の出来事を伝えてもらいたいのかも知れないが、それを見ている者の感覚としては、そんな大げさなことではなく、何かちょっとしたイベントの類いで、どこかの団体がある程度の人数を確保して動員をかけて成り立つようなことでしかなく、一般の大して興味も関心もない人にとってはどうでもいい部類に入るような出来事でしかなく、それについて何か話したくなるようなレベルには達しないのだろうが、それでもかろうじてわけがわからないと感じるなら、そこで何か引っかかるものを感じ取ったからそう思われるのかも知れず、その辺もどう表現すればいいのかわかりかねるし、インチキな哲学者や社会学者の類いなら、自らが得意とする専門分野に持ち込んで、そう感じる理由としてもっともらしく思われる毎度おなじみのフィクションとすり替えて、それとの比較を通して相似形となるようなたとえ話をでっち上げて、そんなイカサマによってお茶を濁すのが常套手段となりそうだが、それこそが門外漢には勝手な決めつけに基づいたわけがわからない話だと思われてしまうが、それが聖書であろうと古代史であろうと、勝手な決めつけや解釈を許すような謎や矛盾が含まれているから、それを利用することによってわけがわからないでは済まないような嘘がまかり通ってしまうのだろうし、それとこれとは時代も場所もかけ離れた別の出来事なのだから、過去の話の中で生じてくる解釈するのに都合の良い嘘を現状の中で体験している出来事に当てはめて納得してみても、やはりそれではインチキなイカサマなのではないかと率直に思っておいた方が良さそうだが、それ以上に何をどう解釈しても、嘘を都合良く解釈していることにしかならないような気がしてしまうわけで、だからそれ以上はもっともらしいフィクションと比較して都合の良い解釈などせずに、ただのわけがわからない話だと思っておいた方が良さそうに思われてしまうから、それで構わないとは思えないが、そこでもいつものように構うでも構わないでもなく、おかしな人たちがデマを用いて世論誘導のようなことを盛んに仕掛けてくるわけで、そしてそんな人たちにとって都合の良い勝手な決めつけの方がその場の情勢の中で優勢になっているなら、なるほどわけがわからないでは済まないような世の中になっていることを実感するしかなく、そうなっていることに関してしっくりくるような理由を求めてしまい、そんな理由に基づいた現状の単純化された解釈に納得できるわけでもないが、それに納得しているどころか、そんな解釈に基づいた現状認識がまかり通ってしまうわけでもないのだが、さらにそれがまかり通っているように見せかけようとしているわけでもないのだろうが、そういう話に付き合ってしまうとさらに面倒な回り道を強いられて、ひたすら目的地から遠ざかるような回り道の最中に、いつの間にかもっともらしい嘘を信じてしまっている自らに気づくわけでもないのだが、それに気づかないから回り道を強いられていることにも気づかないのかも知れないが、回り道でも構わないような気もしてくるわけで、それ以前にすでに目的地がどこなのかもわからなくなってしまっているから、それが回り道でも何でもなく、ただの成り行きまかせで歩んでいる道に過ぎず、道に迷っているわけではなく、目的地を見失わせるような紆余曲折を経験しているから、わけがわからなくなっているのかも知れないし、どうやっても現行の制度の中で右往左往しているに過ぎず、周りを見渡せば制度からもたらされる不都合を糾弾している人ばかりで、そんな人たちが世の中の主流を占めているわけでもないことも百も承知して、ではそんな人たちを馬鹿にするでもない自らがどんな主張を持ち合わせているのかといえば、それが現状では実現する見込みのない制度改革の類いでしかなければ、それらの人たちとは同じ穴の狢に過ぎないが、一方でそれが実現する見込みがないと決めつけるようなことはせずに、地道に制度の欠陥を指摘する活動を続けている人もいるわけだから、そんな人たちを支持していればいいようなことになってくれば、わけがわからないことにはならないから、関心も興味もない方面ではそれで済ますような選択肢もあるわけで、またそんな方面には何の魅力も感じないなら、無関心を装っていれば済んでしまうようなことかも知れないが、果たしてそれを制度の解釈の問題に還元できるかといえば、それもインチキなイカサマだとも思えないが、その一方で理不尽で欠陥だらけだから制度として世の中に定着していると解釈してみても、何か逆説的でもっともらしく感じてしまうのだが、要するに誰にとっても都合の良い制度というのはあり得ず、そこには必ず制度に守られて得をする人や団体がいる一方で、制度があるおかげで損を強いられる人や団体もいるからこそ、制度が社会の中で機能しているとも言える限りで、そこから制度の理不尽さやその欠陥が露わとなってくるわけで、そんな制度は要らないと訴える人や団体も登場して、制度改革の機運が高まるわけで、制度を守る側としてもそんなことはわかっているから、その都度目眩しようなことを仕掛けて、自分たちを利する制度の延命を図ろうとするだろうし、そうしたせめぎ合いの中で世界の情勢が揺れ動いているのではないか。


9月1日「通常の状態」

 とりあえず現状の世の中で行われていることの何が良くて何が悪いのかがわかっている人もいるらしく、それをわかっているつもりになって、そんな世の中の状態を良くしようとしている人たちもいる一方で、そうではない活動があるかというと、それが世の中の現状を維持しようとする活動になればわかりやすいが、実質的にはそうであっても、表向きには現状の改革を訴えている人たちもいくらでもいるから紛らわしいと思ってしまうだろうが、そんなことは意識しなくても構わないような活動も一方にあるから、それが何かといっても普段の生活の営みであり、ただの経済活動でもあるから、すでにそんな活動で手一杯であれば、改めてそれがどんな活動かも意識せずに、その場の成り行きに応じて活動しているだけで、それを意識しているわけでもないから、そうやってその人が生きているだけでも、生き続けるには現状を変化させなければならないことに気づかないわけだが、実際には絶えず現状を変えながら生きているわけで、ただ自身が存在し続けていることが現状を変えていることに気づかず、その自覚がない人が世の中の大半を占めていて、しかもそれでも構わないからそんな自覚など必要としないのだが、それがよく考えてみればわかるようなこととして、例えば人が生きているから、その人が生きていく分だけ資源が必要になってきて、実際に資源が採掘されているわけで、資源が採掘されてそれが加工されて流通して消費されている分だけ世界が変わりつつあると言えば、そんなことはわかりきっていることであるから、あえてそんなことを意識する必要もないと言えるわけだが、その一方で世の中を変えようと意識している人たちも、そんなわかりきったことを意識しているわけではなく、彼らはもっと別の方面で、例えば既存の体制や制度などを変えようとしているわけで、そうなるとそれを阻むようにして既存の体制や制度を守ろうとする勢力の存在が意識されてくるわけで、そうした勢力に向かって盛んにメディアを通じて批判や非難を浴びせている現状もありそうだが、また中にはメディアだけではなく、社会の中で直接自分たちの主張を訴えている人たちもいるだろうし、それもメディアを通じてそんな活動をやっていることを世の中の人々に向かってアピールしているわけで、そこでも批判や非難を浴びせる側と制度や体制を守る側の双方によるアピール合戦になっているようなら、何やらそんな対立の構図が理解しやすくなっているのだが、表面的にはそうであっても、その実態となるとそんな人たちが認識している状態とはかなりずれているのかも知れず、そのずれが何によってもたらされているのかというと、安易に意識してしまう対立の構図とやらが、対立していると思っている人たちの思惑を大幅に外れている可能性があり、対立しているのではなく本当は自覚せずに支え合っているのだとしたら、彼らにとっては心外だろうが、それが表面的な対立を装いながらも実質的には支え合っているとしたら、彼らはなぜことさらに対立を装うのかといえば、それも自覚できない自己保存本能に基づいていると見なすなら、では真の意味で彼らと対立している物事があるかというと、それが彼らの存在をおびやかしていることに気づかないような物事であり、彼らの存在を必要とせずに活動している人や団体でもあるわけだが、そんな人や団体が彼らをスルーしているというと、スルーしていることには違いないのだろうが、それも意識してスルーしているわけではなく、スルーしていることにすら気づいていないかも知れず、ただ普通に生活しているだけでそうなってしまうとしたら、そうなる理由や原因があるわけでもないとすれば、では何なのかというと、だいぶ以前からそうなっていることに気づいていないわけではなく、それを自覚していないのに気づいているから、自分たちの存在や活動をアピールしなければならないような成り行きになっているわけで、そんな偽りの対立を演じている彼らこそが不要な時代が近づいていると言ったら、それこそふざけた予言にもならない妄言に過ぎないことだが、その必死のアピールのバリエーションが戦争やクーデターから、一般市民が自主的にやっているつもりの反対運動やデモ活動まで、内容や傾向も違っていることを誰もが理解しているはずだが、そこでも見せかけの対立を見せられているのに、一向にその違いにも気づかずにスルーされてしまうとすれば、いったい彼らは何をスルーしているのだといっても、スルーしている自覚もないわけだから、表向きには何をスルーしていることにもならないわけだが、それとは何かといえば、それではないわけで、自分たちが是が非でもスルーするわけにはいかない批判や非難の対象をスルーしているわけではないことはわかりきっているはずだが、それはそんな批判や非難の対象となっている人や勢力の方でもスルーするわけにはいかないはずだが、それをスルーしている人たちには不要な物事なのかも知れず、それが公私混同してはいけない物事だと理解していれば、スルーしてはいけないことも理解するはずだが、なぜかスルーされているわけで、しかもそれが悪いことだとも思われないから、スルーしても問題ないとも思っていないだろうが、その一方で何をスルーしているのかにも気づいていないから、それの何が良くて何が悪いかの判断基準にもならなくなっているのかも知れず、そんなことがわからなくても生きていける世の中になっていることにすら気づいていないわけだから、そんな世の中の状態に関して、その良し悪しを云々するような状況にもなっていないのではないか。


8月31日「それほどのことでもない」

 あえて嘘をつく必要もないが、世の中の成り行きや情勢がそれほど不可解というわけでもなく、その大半はわかりきったことであり、誰もそれに伴ってそれほど不都合を感じているわけでもなければ、別にそれに関して疑念を抱いているとも思えないが、それでも不都合を感じることがあるとすれば、何か都合の悪い時にそれが起こるとそう思われるのだろうが、その際に何が起こるのかというと、大抵はその人にとって都合の悪いことが起こるのだろうが、それが誰にとっても都合の悪いことだとは限らず、ある人にとっては確かに都合が悪いのだろうが、その人とは利害や立場の異なる他の誰かにとっては都合の良いことであるなら、その人と他の誰かの間で利害が対立していて、敵対する立場であればわかりやすいが、意外とそうでもなければ何なのかというと、ただの無関係で立場も特に利害がぶつかるようなこともなければ、お互いに何の面識もない他人同士なのかも知れないが、それだけ起こったことが広範囲にわたって作用や影響を及ぼしていると考えれば合点がいくのかも知れず、では具体的にそこで何が起こっているのかと言えば、ただの景気循環であり、たまたまその時期には景気が良かったり悪かったりしているだけなのだろうが、景気が良ければ大半の人たちにとっては都合が良く、景気が悪ければ大半の人たちにとっては都合が悪いかというと、一般的にはそう言えるだろうが、中には景気循環に左右されない立場や境遇の人もいるだろうし、またかえって世の中の景気が悪い方が都合が良い人もいるかも知れないから、そんな人は世の中の大半の人たちとは立場も利害関係も正反対になるはずだが、それが特定の誰かと対立関係にあったり、敵対する誰かと直接争っていたり戦っているわけでもなければ、お互いに何の面識もない他人同士となり、何の接点もないまま直接関わることもなく人生を送っている場合がほとんどなのだろうが、果たしてそんな無関係な人々が連帯することができるのかというと、なぜ連帯しなければならないのかもよくわからないかも知れないが、それも意外と連帯していることに気づかない場合もあるだろうし、普通はお互いに見ず知らずの他人同士が連帯しているなんてあり得ないことだが、逆にかえって関係が近すぎると些細なことで感情の行き違いから対立してしまい、それが起因してうまく連帯できない場合もありそうで、そうであるならかえって赤の他人同士で地縁血縁的にも職業的にも何の関係もなければ、薄く広く浅く連帯が可能かも知れないが、そんないかにも何の力も発揮できなそうな連帯によって何ができるのかといっても、何もできなくても構わないのかも知れず、それどころかお互いに連帯しているのにも気づかないことが肝心で、そうでないと組織的な力を伴った強力で利害関係のはっきりした連帯には勝てないのであり、もちろん勝つつもりにもなれないし、勝てなくても構わないし、勝てるはずがないのだが、それでも組織的な連帯に抵抗しているような気がするとしたら、心のどこかで見知らぬ誰かとの無意識の連帯を想像できるかといっても、そんなのは妄想でしかないだろうが、果たして妄想であっても心の支えになるかならないかといったところで、それも大したことではなく、無力でしかないと思うなら、連帯など実質的にはあり得ないと思っても構わないが、そんな架空の連帯は無意味なのかというと、たぶんそうではなく、要するに無関心で無責任な連帯と見なすと、何やら屁理屈をこねているみたいで、無理矢理それを連帯と見なして虚勢を張っているような気もしてくるかも知れないが、そうでなくても家族や身内との連帯を意識するとはそういうことなのかも知れず、俺たちは連帯しているから強いんだぞと外にいる不特定多数の群衆に向かって強がって見せているから、そんなのは無意味なように感じられて、そんな連帯など大したことはないと軽く見られてしまうことが、かえってそこに付け入る隙が生じていると錯覚してしまうのかも知れず、だからむやみやたらと連帯の意思を示すのはやめた方がよさそうに思えてしまい、そうであるなら無益な連帯である方が幻想を抱かない範囲で都合が良く、自らの私生活や交友関係とは全く違う方面で見ず知らずの赤の他人と連帯しているような気になれることが肝要なのであり、誰からも支持も共感も得られないようなことに関して連帯しているように装えるなら、それに越したことはなく、そんな架空の連帯など何の利益にもならないし、正当化もできないが、何かその場の成り行きからそんな気がしてしまうのだから、少しは心に余裕がある証拠にもならない程度で、見ず知らずの赤の他人と連帯しているはずなのだが、そんな気がする程度のことなのに、それが取り立てて重要だとも思えないところが、何かのバランスを保つことに貢献しているような気もするのだが、それが何のバランスなのかもよくわからないが、そういったちょっとしたバランスが崩れてしまうと、それだけ妄想の度も尋常ではなくなってきて、それに伴って思考の単純化にも拍車がかかり、メディア上で繰り広げられているおバカな煽動にも引っかかりやすくなってしまうような気もするのだが、それも気がする程度のことだから、取り立てて重要視する必要もないことであるから、他人に勧めるようなことでもなく、自分だけの心構えとして、見ず知らずの赤の他人との連帯を気にかけながら生きて行く程度のことで、それ以上の実質的な利害関係を伴った連帯を他人に強要するような成り行きを避けられたら幸いなことかも知れず、それもそうなるに越したことはない程度のことなのだが、そうなることによって何らかの利益が得られるとも思えないが、実質的には何も得られなくても、その代わりに何物にもとらわれない自由を得られるわけでもないが、そこから得られるわけでもない代わりに、相対的な自由というありふれた状態を実現できるわけでもないのだが、そんな状態を目指すには見ず知らずの赤の他人との連帯を想像しておけば済むようなことかも知れず、それが絶対にそうなるわけでもないところに、相対的な自由が実現すると思っておけばいいのではないか。


8月30日「説明とは違う実践」

 何かを説明するには論理的で辻褄の合うような内容にしないと、説明を聞く人や説明を読む読者にはわかってもらえないことは確かだが、要するに聴衆や読者が理解できるようなことを説明したいわけだが、説明するにはそうしなければならないとしても、だからといって説明したことを実践するとなると、場合によっては説明とは違うことをやらなければならなくなり、説明にはないことをやる必要に迫られてしまえば、説明が不完全なのではないかと思われるかも知れず、確かに何かを説明する際にはそれを説明することが実践であり、説明するだけで済むならそこで話が終わってしまうが、説明に基づいて何かを実践する際には、説明を裏切るようなことをやらなければならなくなると、その際には話が違うのではないかと批判されてしまうだろうし、実践する時には説明している時とは状況が変わってくるからそうするしかないなら、そういう意味で説明はいつも説明不足であり、説明で話が完結してしまうわけではなく、そこに実践が伴ってくれば、説明するだけの実践とは違って、説明にはないことをやらざるを得なくなり、そうなると説明とは話が違ってきて、そんな不完全な説明では聴衆や読者は納得してくれるが、説明に基づいて実践する人には納得できないだろうし、実践が伴ってくると説明で話が完結してしまうわけではなく、しかも聴衆や読者に向けて説明しているだけでは済まなくなってくるわけだが、逆に説明の通りに実行してうまくいくようなら、説明が裏づける制度やルールによって活動が制限されていて、制度やルールから外れるような行動や行為が許されないことになっているなら、誰がやっても説明通りにやりさえすればうまくいくような結果を得られて、そうなると人によって差異が生まれなくなってしまうから、そういうやり方からは満足がいくような利益も得られず、そんな実践には魅力がなくなってしまうわけだが、そうではなく大半の実践がうまくいかない中で、誰か一人だけうまくいくような実践であれば、そこから得られる利益も莫大なものとなるなら、そんな実践ならハイリスクハイリターンな実践として魅力を感じられるだろうが、では説明通りのことやってもうまくいくわけではないと説明されるなら納得ができるかというと、納得はできるが、そんな説明に何の価値があるのかということにもなってくるだろうし、説明してくれるなら、こうすればうまくいくというやり方を説明してほしいだろうが、必ずうまくいくやり方があるなら、誰もがその通りのことをやってうまく行ってしまい、そうではなく確かにこうすればうまく行くだろうが、誰もができるわけではなく、それができるための条件があって、その条件に適合する人しかできないようなことであり、しかもその条件が理不尽な条件で、ほとんどの人がその条件から外れてしまうなら、条件から外れてしまうほとんどの人が納得できないかも知れず、納得できない説明など必要ないかも知れないが、そうなると多くの人にとって都合の良い説明が求められて、都合が良いということは納得できて理解できる説明となるだろうし、しかも多くの人にとって必要でしかも有益な説明であれば都合が良いわけだが、そんな多くの人に喜ばれるような説明というのが、世の中で多くの人々が関心を持っていて、しかも容易に実践できることを、わかりやすく説明してくれれば、そんなことを説明してくれる人に人気が出るかも知れないし、それがちょっとした健康を保つ秘訣のようなことであれば、誰もが簡単に実践することが可能であって、しかも政治的に自粛したり避けて通りたい話題でもなく、そうなると翼賛的なマスメディアからも歓迎されるかも知れず、そうやって都合の悪い政治的な問題から目を背けて、そういう話題に夢中になるように人々を誘導してほしいわけで、そんなことを説明できる人がその種のメディアから重宝されているようなら、表向きには人畜無害で平和な世の中であるように装うことができるかも知れないが、実際にはそれだけが世の中の話題ではないから、そんな都合の良い話題ばかりに人々の関心を誘導できるわけでもなく、何かもっと深刻で重大な問題についてわかりやすく説明してほしいと多くの人々が思っているはずだが、たぶんそのわかりやすいという表現が、ある意味でご都合主義的な要望なのかも知れず、わかりやすく他人から説明してもらうのではなく、わかりにくいことを自らが考えないとならないなら、そんな手間暇をかけていられない人が大勢いれば、誰もが安易にわかりやすく説明する煽動者の話術にハマってしまう一方で、そんな馬鹿な人が大勢いる世の中だから、そんな中でもごく少数の物事を論理的に考えられる人たちが有利になるかも知れないが、ではどうすれば物事を論理的に考えられるかというと、どうすればと一概に言えるようなことではなく、そうやってすぐに安直に答えを求めてしまうこと自体が、物事を筋道立てて論理的に考える習慣が身についていない証拠であり、他人に質問して答えを求める前に、自分で考える習慣を身につけないとまずいわけで、まずは自分で考えて自分なりに納得できる答えを導き出してから、それと他人に質問して返ってきた答えを比較して、どちらの答えが納得できるか検討してみればいいのだろうが、そんなことができる機会になかなか巡り会えないかも知れないし、そういう意味でもそんな実践の機会がないと、思考力も育たず、大して考えもせずに権威となるような他人の意見を鵜呑みにしても間に合ってしまうような環境の中で生きていれば、その程度の人間として一生を送ってしまい、しかもそれでも構わないような世の中になっていれば何の問題もないわけだ。


8月29日「これは比喩ではない」

 大雑把な視点で何を眺めているわけでもないが、感触としては世界情勢の中で何かが自滅への道を歩んでいるように見えるが、肝心の誰かがそれをわかっていないような気もするし、その誰かというのが誰なのか、それもわかっていないような気もするから、現状では肝心なことは何も理解していないのかも知れず、その先で何が自滅しても、そんなことは誰の知ったことでもないはずだが、ふとした拍子に何かの引き金を引いてしまったとしたら、それが比喩でなければ銃の引き金を引いたことになるのだろうが、それが自滅に結びつくとしたら、あとは自分に向けて銃を発砲することになって、自死することになるわけだが、たぶんそれが誰かがやろうとしていることなのかも知れず、しかももうすでにそれをやってしまっていたとすれば、そんなことをやってしまった誰かがすぐに自死することになるのかというと、自死するのは誰かではなく、その誰かが関わっている何らかの組織や団体が自死することになるのだとしたら、結果的に自滅するのも、直接にはその組織や団体になるのだろうが、その組織や団体が具体的に何なのかというと、それが特定の企業や政党や政府であれば、後の話がわかりやすくなるのだろうが、少なくとも善意でそんなことをやっているわけではなく、どちらかといえば悪意がこもっているから、結局はそんなことをやられたらやり返すような応酬へと発展して、双方が共倒れとなるような結果となるわけで、そんなやりとりを高みの見物を決め込んで眺めていられるわけでもなく、眺めているだけでは飽き足らないから、そんなことをやっている当事者にならないと気が済まないような成り行きに巻き込まれて、それが誰かの自滅へと結びつくならわかりやすいが、自滅しようが何をしようが、そんな実感を得られるわけでもないところが、果たしてそれを自滅だと決めつけてもいいのか、ただそんな状態を否定的に見ているだけなのかも知れず、そこでも見ているだけではなく、そんな状況へと自身が巻き込まれたいと思っているわけでもないのに、何かに魅入られたように自然とそうなってしまうなら、そんな自覚もないのに自滅していることになるのかも知れず、それと気づかずに勝手に自滅しているのだから、自滅自体も大したことはなく、まるで他人事のような気分で自らの自滅を味わっていられたら、それがどういうことなのかといっても、自滅ごっこのような状態なのかも知れないが、要するに自滅の痛みを感じられない状態なのかも知れず、そんな無自覚で無感覚で無感動なことでは駄目かというと、それが駄目というならではどうなれば納得がいくのかといっても、別に自らが納得するために自滅するわけでもないだろうから、納得できない現状をどう感じても、納得できない現状がどう変わるわけでもなく、今や誰もがそれが自滅だとは気づかないような自滅を体験している最中なのかも知れないが、果たして自らもその誰もがの中に含まれるのかどうかもよくわからないところだが、まさか現状で誰かが盛んに煽り立てていることが、その誰かの自滅に結びつくことに気づかないなんて、そんなのはあり得ないと誰かが思うはずもなく、事ここに至ってもなお、そんな煽り立てをやめようとしないばかりか、やめたくてもやめられない状態に追い込まれているから、そんな状態がその誰かの自滅だと言えるのかも知れず、そうであるならそんなことを煽り立てている時点で自滅しているわけだから、自らが自滅していることに気づくわけもなく、それを他から自滅だと言われても、そうではないといくらでも反論が可能な限りで、断じて自滅でも何でもないはずだから、しかも現状ではどこの誰から、お前はすでに死んでいる、と言い放たれるわけでもないだろうし、実際に死んでいないから、嬉々として調子に乗って何かを煽り立てているわけで、そうだとすれば自滅しているどころか、その正反対の状態だと言えるのかも知れず、要するに自滅でも何でもないどころか、繁栄の絶頂へと至っているような錯覚を抱いているのかも知れないが、どう考えてもそれが愚かに見えるわけで、その誰かの周囲に集まってきたその他大勢の愚か者たちと共に騒ぎまくっているのだから、そんな光景自体が自滅を表していると見ても構わないのかも知れないし、そういうのが自滅だと定義できるわけでもないが、そんな光景を見せられて、他にどんな実感を得られるわけでもなく、どう見てもそれが馬鹿どもの馬鹿騒ぎにしか見えないとしたら、馬鹿が自滅していると思っておいても差し支えなく、そんな現状認識で構わないのだろうが、もちろん世の中の全てがそうなっているわけでもないから、中には抜け目なく冷静に立ち回ろうとしている人や団体もいくらでも存在しているから、そんな光景に見とれている場合ではなく、馬鹿は放っておいて、さっさとそんな馬鹿騒ぎの光景から遠ざからなければならず、遠ざかったところでそれ以外の何が見えてくるわけでもなく、それに関して何かわかりやすい実例を示せるわけでもないが、日本にはかつて滅ぼされた誰かの怨霊を鎮めるために建てられた神社の類いが各地に点在していて、その代表格が出雲大社なのかも知れないが、それが今から千年も経つ間に、出雲大社に匹敵するほどの規模で、新たな大社が建造されているとも思えないが、そんなことをしなくても、すでに福島では原発事故の後始末が延々と続けられていて、そこでは怨霊を鎮める必要もないほど、人体に有害な放射線が発生し続けているわけだから、それを誰かの怨霊の仕業だと見立てたところで、特定の誰がそれに当てはまるわけでもないが、事故を起こした原発施設の配置としては、何やらそれを神社に見立てると、何となくそんな建造物のように見えてくるわけでもないだろうが、少なくとも有害な放射線が発生し続けているうちは新たな観光名所などにはなりようがないが、神社としての存在感は、実際に人体に有害な放射線を発生し続けていて、それが御利益とは正反対のものだから、神社ならぬ逆神社だと見なせば、もうすでに怨霊による祟りが賞味期限切れの出雲大社や太宰府天満宮などを遥かに凌駕しているのではないか。


8月28日「わかりやすい比喩」

 現状で行われていることをどう表現すればいいのか、何か納得がいくような表現に至らないのは、事前にある程度は予想がつくことかも知れないが、たとえやっていることが論理的におかしいのはわかりきっていても、論理的におかしいことをやっては駄目だとわかっていても、実際に論理的におかしいことをやってしまい、やってしまうのがおかしいことだとしても、現状でやれることをやってしまうのも、成り行きとしては当然のことだから、それをやってしまったことに関して、批判されるのも当然なのだが、その一方で立場上そんなことをやっている勢力を擁護したい人もいくらでもいるから、実際に擁護している人たちの言い分がおかしいことも、成り行きとしてはそうなるのが当然のことだから、それはそういうことだと見ておくしかなく、またそれに対して、ここぞとばかりにそんなことをやってしまう勢力を批判したり非難する人が大勢出てくるのも、成り行きとしてはそれも当然のことだが、それがおかしいことだとしても、そんなおかしなことをやらざるを得ないのも当然の成り行きであり、それを批判したり非難する人たちにはそうさせておくしかなく、それに対して部外者が反論する必要もないのだが、反論すればおかしくなってしまうわけだから、そんなお節介な部外者もおかしな反論を繰り返すしかないわけで、できればそんなおかしなことをやらざるを得ない立場にはなりたくないと思うのも当然だが、その一方で利害関係からそんなことをやらざるを得ない立場になりたい人もいくらでもいるわけで、そういう立場になれば利益を得られると思うなら、おかしなことをやって、批判や非難の的となるを厭わずに利益を得ようとするわけで、それを利益と言ってしまうとわかりやすくなるのだが、果たして本当にそれが利益なのかも怪しいところだが、確かに何かしら利益を得られる実態があるから、そこで利益を得られるからおかしなことをやるという論理も通用するのだが、もちろんそれをやっている当事者も、おかしなことをやっているとは思っていないように装っていると見なすと、それも回りくどくておかしな表現かも知れないが、では他にどう表現するのが妥当なのかといっても、現状では納得がいくような表現を思いつけないから、妥当ではないかも知れないがそんな表現を使うしかないが、おかしなことをやっている当事者がどう思っているかなんて、当事者に直接問い質しても、その場の利害関係からまずいと思えば、本音や本心など明かすわけもなく、そうなれば立場上無難なことしか答えないわけで、その無難なことというのも、その場の成り行きの中で、そう答えるのが不自然に思われなければそれで構わないわけだが、こんなふうに述べてしまうと、やはりしっくりこないのは当然だが、どう述べてもしっくりこないのかも知れず、それに関して何かわかりやすい比喩でも思いつけば、それを使ってもっともらしいことを述べてしまえるが、それが比喩である限りでそのものではなく、あくまでも喩えとして述べている内容であり、それがごまかしのように感じられるとすれば、比喩としては不適切なのかも知れないし、不適切も何も、比喩を使わずにそれ自体に直接言及するのを避ける理由が何なのかというと、特に納得できるような理由などなければ、ただ直接言及するのが嫌だから、というあからさまな理由にもならない理由でも構わないが、それでもしっくりこないのは当然だとしても、実際におかしなことが行われて、それに対する反応としては当然の批判や非難も浴びせられて、それでもそれをやらざるを得ない勢力が、そんなことをやっている状況なのだから、どうしようもない状況になっているのであり、それを比喩を用いて回りくどく説明するよりは、直接それについて言及すればいいだけで、直接言及するのが嫌なら述べるのを断念すればいいのだろうが、それでは比喩にも何にもならないが、なぜか執拗にそれについて語っているわけで、しかもそれを直接語らずに、延々と回りくどく遠回しに語ろうとして、何を語っているのかわからないようにして、それについて語っている現状があるから、それがおかしいのはわかりきっているのだが、直接それについて述べてしまうと、それを批判するのか擁護するのか、どちらなのかの二者択一を迫られてしまうわけでもないが、何かそれが批判一辺倒でも擁護一辺倒でもないようなことを述べないとまずいような気がしてしまうから、何とかしてどちらか一方へと振り切れてしまう誘惑に逆らいながら述べているつもりだが、それに関してわかりやすい比喩を思いつければ苦労はしないような気もするから、述べているうちに自然とそれが出てくるのを待ちながらも、一向に比喩が思い浮かばないから、現状でもかなり焦っているのかも知れないが、焦っても構わないような状況でもあるから、頑なに直接の言及を避けながらも比喩的に語ることにも失敗しながら、すでに語っている内容から真意を察してほしいわけでもないが、うまくそれについての是非や賛否をかわしているつもりで、それでもかわしきれていないような気もするから、素直に批判的な立場から語れば、多くの人々のそれに対する批判と同じような内容になってしまうのだろうが、そうなることを避ける理由などなく、それでも構わないのだろうが、ただそこに至るまでの過程で、やれることをやってこなかった経緯もあるだろうから、それがそうなるのを避けられなかった原因でもあるのだろうが、実際にそれをやらなかったから、そんなことをやらざるを得ない状況に追い込まれてしまったわけで、今さらそれを批判するのも、逆に今こそそれを批判すべきなのだろうが、批判したところでどうにもならないようにさせられてしまっている現状でもあるわけだ。


8月27日「意見を変える」

 世界のどこかで誰かが何か画期的なことを成し遂げようとしているのとは無関係なところで、他人の意見に引きずられて、その意見がもっともらしいと感じられる程度では、それが世の中を変えようとか、そんなことに結びつくとは到底思えないし、どんな意見に数多くの人々が同調しようと、それによって世の中が変わるとは思えないことが、では多数派に同調することが世の中を変えるとか、そんな大それたこととは全く別のことのように思われるとしたら、それによって何がどうなるのかと問われてもよくわからないが、それによって何が実現するのかといっても、その時点ではそんなことまで考えていないし、では全く別のことというのが何なのかという問いにまで思考が辿り着けないから、結局は答えに窮して、苦し紛れにそんな問いを打ち消すべく、これまでに思ってもみなかったような画期的なことをその場で思いつこうとしても、急にそんなことを思いつけるわけもなく、せいぜいが多数意見に引きずられて同調してしまう程度の奴が思いつくことなど、その場で誰もが思いつく程度の多数意見と同じになってしまうのが関の山だが、すでにそうなっているのだから、そこに誰もがそう思うような多数意見が形成されていて、それがこれまでの多数意見とは違う新たな多数意見となっていれば、すでに世の中が変わったことになるのかというと、そういうことだと認めても構わないが、そこで何かが起こったからそうなったと考えるなら、では何が起こったのかというと、多くの人々の意見を変えるようなことが起こったわけで、それが何なのかというと、意外とわからずじまいとなってしまうのかも知れず、起こったことに誰も気づかないようなことが起こって、それによって多くの人々の意見を変えてしまったことになるなら、それが何なのか、見つけ出そうとする輩も出現するかも知れないが、それがはっきりとわかるような一つの出来事ではなく、複合的に複数の出来事が絡み合っているのかも知れないし、それらもこれといって目立つような出来事ではなく、何かが起こったから世の中が変わったとは言えなければ、何も起こらなくても世の中が変わったと見なしても構わないのかも知れないし、そうではなく多くの人々が意見を変えたから世の中が変わったことになるなら、やはり世の中を変えるには多くの人々の意見を変えなければならないと思うだろうから、多くの人々に向かって意見を変えてくれるように説得を試みることになるだろうし、実際に人々の意見を変えるための説得工作がメディアを通じて繰り広げられていることになるわけだろうが、果たして現状をそう捉えても構わないのかというと、何かそれが冗談のように思われるなら、そうではない実態も感じ取っていて、逆に人々の意見を変えさせないようにするための説得工作も行われていて、それが現状を維持するために盛んに試みられていると見ておけばいいのだろうが、実感としてはそれも何かの冗談のように感じられるなら、真に受けるわけにはいかず、どちらも違うのではないかと思ってしまうわけだが、だからといってそれがどう違うのかと問われると、やはり答えに窮してしまうわけで、何か違うような気がするのだが、それがどう違うのかがよくわからず、うまく納得がいくような見解が導き出せずに焦ってしまうわけだが、少なくとも利益を求めてそんな試みを多くの人や団体が繰り広げているわけではなく、もっと複雑で込み入った利害を超えた何かに導かれながらそれに関わってしまうから、利益になるからとか損害を被るからとかいう単純な論理が通用しなくなっているのかも知れず、何かそういうことに絡んで、たとえ自らが損害や損失を被ってでもやらなければならないことがあるかのような妄想に囚われながらも、そんなことをやっているつもりになっているから、逆にそうすることによって私利私欲を求めているような人や団体を許せないと思ってしまい、そんな悪質な輩と戦っているつもりになれると、俄然やる気が出てくるわけだが、たぶんそれが勘違いなのかも知れず、それも逆に狭い範囲での利害にこだわらないと続けられないし、しかもそれがあからさまな私利私欲に結びついてしまうと、他の大勢の人々からの共感や連帯を期待できなくなってしまうから、そういうところでどちらに振れても矛盾が伴うようなジレンマに直面して、それを単純な論理で説明できなくなってしまうと、何か説得力に欠けて、自らの行為や行動や言動を正当化できなくなるような事態に陥ってしまうわけで、それでは駄目だと思うなら、もっと単純に自らが囚われている状況を捉えて、何かが起こってからそれに対応したり対処しているだけで、もちろんそれ以前に何かが起こるのを見越して、事前にそれが起こるのに備えている面もあるにしても、また積極的に自らが何かを起こそうとしている面もあるとしたら、自らが有利になるようなことを起こそうとしているのかも知れないし、しかもそれを実際に起こそうとしても、起こすのに成功したり失敗したりするわけだから、そういうことを考慮に入れながら活動していると考えるなら、それが単純な利害関心に基づいた行動や活動に結びついているかというと、そうではなく、結果的に結びつくこともある反面で、結びつかずに、何のためにやっているのかも定かでないようなことをやっている場合もあるから、意味不明な心境にも至ってしまうから、できれば単純な論理から自らの活動の理由や意義を説明できれば、それが他の多くの人々から共感や連帯も得られるかも知れないが、結果的にそうはならなければ、そういうことではなくなってしまうから、それに関して何か納得できるような意見など言うまでもないことにもなって、ただそんな現状の中で右往左往しているだけのように見られても仕方がないだろうし、実際に意味も目的もなく生きていることになってしまえば、そんな自らの生き方を正当化できなくなるだろうし、そうなるのが嫌なら、何か他の大勢の人々から共感や連帯を得られるようなことをやろうとして、それが世の中の多数意見を反映したような活動に結びつくなら、そういった活動が世の中を変えることに結びつくかどうかも、活動がうまくいったりいかなかったりした結果からそれがわかるようなことになればいいのだろうが、そんな試みを歴史的な見地から見るなら、大抵はうまくいかなくなってから、そのうまくいかなくなった度合いに応じて世の中が変わったことになるわけだ。


8月26日「架空の存在」

 誰かが主張している中身が正しいか間違っているかを判断する気もなく、主張そのものを放っておいても困らないなら、事を荒立ててそんなことを主張している人たちと対立したり争ったりするのも面倒なら放っておくのも手だが、放っておくことが間違っていても構わないなら、その構わないこと自体が何を意味するのかもよくわからないが、それ以前に間違っていても構わないのだから、間違っているわけでもないことになってしまうかも知れないし、その一方で、では何が正しいかについて、納得できる定義があるなら、それが正しいか間違っているかを判断するための基準となるから、その納得できる正しさについての定義を求められれば、正しいか間違っているかの判断もしやすくなってくるはずなのだろうが、それがわかりやすいとしても、あえて正しいか間違っているかの判断を避けるなら、何かそうせざる得ない事情もありそうで、その事情というのが、それについて対立したり争っているつもりの人たちの視野や了見の狭さに気づいてしまったからという理由で納得できるわけでもないが、納得し難いという状態が受け入れ可能なら、納得し難いままでも構わないのかも知れず、そんな状態でも構わないとも思えないが、とにかく原発事故に関連して溜まりに溜まった汚染水を海洋放出したら、中国が日本産の海産物の輸入を禁止したからといって、それ以前に中国は対立している台湾からの農産物も、害虫が混入していたと難癖をつけて輸入を禁止したりしているし、中国当局の対応としてはよくあるパターンなのだろうし、当の中国もアメリカから半導体や電子機器などで、制裁的な輸出入の禁止措置を受けているから、そんなのも何か日常茶飯事のような政治的な駆け引きの一環なのだろうから、いちいち目くじらを立てていてもきりがないのかも知れないし、実際にそれによって損害を被ってしまう関係者にとってはたまったものではないはずなのも承知の上で、大して利害関心を感じられなければ、無理に首を突っ込まずにスルーしておくのが無難なのかも知れず、そういう事情が納得し難いのは当然だろうが、それに関連して騒ぎ立てている人や団体がいるとしたら、そういう人や団体にはそれなりの切実さが感じられているわけで、だから何かしらそういう人や団体にとっての正当化できる理由を持ち出して、それに基づいてもっともらしいことを主張できるわけだが、たぶんそのもっともらしい主張が疑わしければ、そういう人や団体の主張を信用しないわけだが、それがそういうことに関していつも決まって顔を出してくる毎度お馴染みの人や団体の主張であるからという理由になってしまうと、意識がそういう人や団体について抱くある種の偏見や固定観念に凝り固まっているからかも知れないが、それがホリエモンや上念司とかいう著名人であれば、なぜかその主張も、ああなるほど、とあえて聞くまでもないことになってしまい、そういう人たちが攻撃する対象となる人や国も、ああなるほど、とあえて聞くまでもなく、そこで話が終わってしまうとしても、それ以外に何か付け加えることがあるかといっても、特に何も思い浮かばないし、確かにそういう方面では話が終わってしまうのだろうが、なぜそこで話が終わってしまうのかというと、実際の国際情勢や国内情勢には結びついてこないからだが、何かそれとは別にそういう人や団体が活動しているテリトリーがあり、その領域内では確かにそういう人や団体が獲物としている人や団体も存在しているのだが、なぜかそれとこれとは違うような気がしてしまうわけで、何が違うのかといっても、主張や意見の中で語られて攻撃の対象となっているのが、現実のそれではないような気がしてしまい、現実の世界とは別にそういう人や団体の主張や意見の中で言われている人や団体が存在しているように思われるから、それらの人や団体が確かに現実の世界でも存在しているとしても、それが攻撃の対象となっている現実の人や団体とは感じられず、そういう意味でいくらホリエモンや上念司が中国政府や汚染水の海洋放出に反対している人や団体を攻撃していても、それが現実の世界で存在している中国政府や汚染水の海洋放出に反対している人や団体ではなく、あくまでも彼らの主張や意見の中で言われている架空の話の中に登場してくる架空の中国政府や活動家や活動団体のように思われてしまうから、そこで、ああなるほど、と思うと同時に話が終わってしまい、それ以上は架空の話に付き合う必要もないように思われて、興味をなくしてしまうわけだが、それだけ意識が彼らに対して抱く偏見や固定観念に凝り固まっているのだろうが、そういう意味ではメディアから作用や影響をそれなりに及ぼされていて、彼らの顔が画面に映った途端に、そこから先に架空の世界が広がっていることを強く意識してしまい、そこに現実の世界との境界線が引かれていると思い込んでしまうから、その先でいくらもっともらしいことが主張されても、聞く耳を持たないような態度になっていても構わないような気もして、彼らの話を信じなくても、他にもいくらでももっともらしいことを主張している人がいるわけだから、それらが彼らの主張や意見とどれほど似ていようと、どちらを信じるかといえば、自動的に彼ら以外の主張や意見を信じるようにメディア操作によって仕向けられていると言ってしまうと、本当にそうなのかと疑わしく思われるかも知れないが、実際にそうなってしまうのだから、どういう仕組みでそうなっているのかもよくわからないが、その詳しい事情を知らなくても構わないような気もするし、実際に知ろうとしているわけでもなく、ただそれで構わないような気がするからそうなっているとしても、それで何か不都合を感じるわけでもなく、そんなわけで意識の中ではもはやホリエモンも上念司も架空の世界に住まう架空の存在となってしまっているのかも知れない。


8月25日「枝葉末節な人々」

 少なくとも毎日のように文章を構成しているのだから、その内容にこだわっていることは確かなのだが、それが枝葉末節などうでもいいことのように感じられるとしたら、ではそう感じさせる物事の本質とは何なのかと問いたくなるわけでもないのだが、ただそんな問いもどうでもいいような枝葉末節なことのように感じられるだけで、問いの中に物事の本質など何もないわけではなく、たぶん探せば本質が見つかるかも知れないが、探す手間を省いているわけでもないのだが、ただ一向に気づかないのかも知れないし、実際にも枝葉末節などうでもいいようなことにこだわっているのに、それを枝葉末節なことだと思っているのに、意外とそれが物事の本質を捉えているとしたら、それが錯覚だと思うわけでもなく、少なくともそれにこだわっていることは意識していて、意識がそれにこだわることによって、それが物事の本質となるように持って行きたいのだろうが、どうやって持って行くのかというと、文章を工夫することによって、それが物事の本質であるように思わせたいのかも知れず、たとえ今は枝葉末節なことのように思われても、否応なくそれにこだわってしまうのだから、そのこだわっている思いを基にして文章を構成すれば、文章の内容がその対象となっている物事の本質を捉えているように思わせたくて、それが重要なことを述べているように装いたいのだが、そんな文章が本質を捉えたところで、その本質が重要なのかというと、本質を捉えることが重要ではないとしたら、そうでなければ何なのかといえば、何でもないことが本質ではないのはわかりきっている一方で、枝葉末節なことにこだわることが重要であるかのように思わせたいのかも知れず、確かにそれが何になるわけでもなければ、何でもないことなのかも知れないが、それが何でもないことだとは思わせないようにするには、ただそれについて具体的な内容を記すしかないのかも知れないが、それの何が具体的だからといって、実際に何でもないことのような気がするのだから、そんな気になっていることを率直に表明するしかなく、そういう成り行きから生じてくる率直な感想というのが、自らの本音を隠しているような気もするなら、かなり疑わしく思われるのだが、その疑わしく思われる率直な感想というのが、何かややこしくもこんがらがっていて、例えばそこで誰かが重要なことを述べているとしても、その重要さにも賞味期限があって、期限を過ぎると重要ではなくなってしまうとしたら、賞味期限内に述べる必要に迫られて、確かにその時期にそういうことを述べている人が、重要な存在として扱われる場合もあるが、その期限を過ぎたらそんな人などもう要らなくなってしまい、実際に捨てられてしまえば、まさに使い捨て専用の人材として、その時期には重宝されていたといえるだろうが、それがプリゴジンなる人物であって、実際に死んでしまったことが明らかとなれば、もう用済みとなってしまったわけだろうし、その人物について語るとしても、語るタイミングを間違えてしまうと、もう用済みとなって死んでしまった人物など重要でも何でもなくなってしまうから、ただの枝葉末節な挿話に過ぎなくなってしまうわけだが、そうであればその時期には確かにその人物について語っている内容が、それに関して言われていた物事の本質を表していたのだとしても、何かのきっかけからいつの間にかそうではなくなってしまい、実際にその人物が使い捨てにされて死んだ後では、その人物についていくら熱っぽく語ったところで、そんなのはもはや枝葉末節な話題であって、もはや内容としても賞味期限切れであるから、遠からずその存在も忘れられてしまうのだろうが、だからといってその人物が実際に活躍していた頃には、まるでその人物を中心にして世界が回っていたように思われた時期もあったわけで、今となってはその頃が懐かしく思われるようなら、そんな気になっている人こそが、もはや時代遅れな人だといえるかも知れないし、そんな時代遅れな雰囲気を纏ってしまった人が、何やら現在進行形で起こっている戦争の実況をやっているようなら、そんな戦争自体ももはや時代遅れとなってしまっているのかも知れないし、現在進行形で行われている戦争が時代遅れだとすれば、主導的な立場でその戦争に関わっている人たちも現状では時代遅れとなっているのかも知れず、そうなるとすでに戦後を見据えて事態が進行中なのであり、今まさに時代遅れの戦争の実況中継をやっているつもりの人たちも、現在進行中の事態に取り残されつつあるかも知れず、すでに潮目が変わってしまったことに気づいていないわけだが、それでもいったんそれに関わってしまったからには、いやでもそこから心身を引き剥がせないから、もはや最後の最後までそんな時代遅れの戦争に付き合うしかなく、もういい加減に飽きているのに、執拗にその話題に触れないわけにはいかないし、飽きているから他の話題に心が移っているのに、時折思い出したように戦争の話題へと関心が引き戻されて、何やら敗戦処理のようなことを述べなければならなくなって、まだ何も終わっていないのに、いったんフェードアウトした先のどこかからこだまが返ってくるような話の内容になってしまうのだろうが、実際にそうなっていることが何を意味するとも思えなければ、すでにそんな話の内容自体が物事の本質からはだいぶかけ離れているのだろうし、それでもそれについて言及しなければならない事情があるとすれば、そんな事情を抱えながらそれについて語っている限りは、それが語っている対象の本質だと思って語るしかなく、たとえそれが空疎で何の中身もなくても、そんな空疎な話が物事の本質を構成していて、実際に中身のない空疎な人物が使い捨てにされたことによって、その人物のそれまでの行動も使い捨てにされるような価値しかないことが証明されたといえるのかも知れず、それによってその人物について熱っぽく語っていた実況者の空疎な中身も明らかになってしまったかどうかはまだよくわからないものの、少なくともその人物が纏っている雰囲気に時代遅れな兆しを感じ取っているなら、もはやその実況者も賞味期限切れだと思っておいても差し支えないのではないか。


8月24日「凡庸な政治家の肖像」

 蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』を読むと、まさに現代の日本で猪瀬直樹が行政のデジタル化を推し進めていると考えているマイナンバー・カードの活用が、19世紀のフランスで『凡庸な芸術家の肖像』の主人公のマクシム・デュ・カンが「郵便行政とパリ中央郵便局」や「電報とフランスにおける電報行政」などで論じている趣旨に合致してしまうことに驚いてしまうかも知れないが、時代が変わっても文明が進歩しても、後の時代にはその存在が忘れ去られてしまう凡庸な感性の持ち主の目のつけどころが同じなのが、たぶん同時代的には悲惨でも滑稽でもないのに、そこからだいぶ時が経ってしまうと、猪瀬直樹もマクシム・デュ・カンもどうでもいいような小物として世間から忘れ去られてしまう運命にあることが、そんな小物にもなれないその他大勢の中の一人に過ぎない自らにとってもどうでもいいことなのだが、それでもせっかく蓮實重彦がその分厚い著作の中で示してくれているのに、なぜ猪瀬直樹がそれに気づかないのか、自らの感性がマクシム・デュ・カンのそれと被りまくっていることに気づかないのか、当人が『凡庸な芸術家の肖像』を読んでいないから、そんなことは知る由もないことなのだろうが、果たして読んだら恥ずかしくなって赤面してしまうのか、そんなこともなく平然としていられるのか、案外逆に過去の時代に自らと同じ感性の持ち主がいたことに勇気づけられてしまうのか、それもよくわからないことだが、よくあるパターンとしてはそんな小物と俺とは違うと余裕の表情で強がって見せるかも知れないが、時代や地域を超えて、同じような立場で政治や行政のシステムに囚われた人物が考えることや言動や行動の傾向が似てきてしまうのも、そんなこともわかりきっていると余裕綽々で構えていられたら、その人が大物である証拠となるわけでもないが、そんな事態を目の当たりにしてしまうと、何か悲惨というか滑稽というか情けないというか、やれやれと文化や文明の進歩とやらにただ随伴することしかできない人間の創意工夫のなさや視野の狭さに呆れてため息をつく余裕もなく、かつてレジオンドヌール勲章を二度も得たデュ・カンが、議会制民主主義の危険性を説きながらフランス行政の集権主義の素晴らしさを喧伝することによって、保守派の助けを借りながらアカデミーフランセーズの会員になって、その議長に就任したように、猪瀬直樹も近い将来「日本のデジタル行政の進歩とその歴史」とかいう論文の類いを発表して、それが保守派から絶賛されて文化勲章を受賞して、日本学術会議の会員にもなって、さらにその議長に就任するなんてことが起こるとは思えないが、そんな事態になったらお笑い種になるどころか、そうなることこそが権威ある文化人の証しだと言えるかも知れず、またかつて『ミカドの肖像』という書物を著して、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した猪瀬直樹のことだから、その二年後に出版された『凡庸な芸術家の肖像』と題名が被ってしまうことを、まさか当時から気づいて意識していたわけでもないだろうが、実際にそこから三十数年も経って、自らが『凡庸な芸術家の肖像』の主人公と似たような事態に関わってしまうとは、今も昔もそんなことには気づきもせずに一生を終えてしまうかも知れないし、当人にとってもそんなことなどどうでもいいことなのだろうが、それはマイナンバー・カードの普及に反対している人たちにとってもどうでもいいことには違いなく、ただそれに気づいた自分がおもしろがっているだけなのだが、そうなってしまうことが思いがけずそんなどうでもいいような間抜けな事態に関わってしまう人々が、行政の食い物になっていることも確かだとしても、そういう意味で行政という機構自体が、そこに関わる人々に何をもたらすわけでもないとは言い切れないどころか、それを批判する人々には害悪しかもたらさないように感じられる傾向というのが、それに関わってそんな傾向を推し進めている人やその推進に好感を抱いている人たちには、何か良い傾向のように感じられてしまうことも確かなのだろうから、それも国家や政府という行政形態に幻想を抱いていることの証しなのだとしても、デジタル行政の推進ということ自体には賛同してしまう人もいくらでもいる一方で、ただ何となく漠然と良いことのように思われる行政の効率化という傾向が、統治に関する情報の一元化や集約化に伴って、情報統制から危険視される思想統制や言論統制など以外でも、もっと経済的な面での個人の資産や財産の把握なども容易になってくるから、そういう面で自由が損なわれる危険性があるのだろうが、そういうことに配慮した行政のあり方というのも、何かそんなことはあり得ないようにも思われて、そうではなくただ世の中で起こっている文明の進歩とやらに対応した行政を目指すという軽い気持ちになって、安易な便利さにすぐに手を出してしまう感覚で、何か役所に行かずにコンビニで気軽に手軽に手続きができれば、それで便利になったように思われるから、そんな傾向を求めればいいような気がするのだろうが、その裏で何か人々を洗脳するための危険な操作が行われているとかいう陰謀論を持ち出したいわけでもないのだが、ただ新しく導入したいシステムのダメさ加減を批判していれば済むようなことであるのに、それを新しいシステムの導入こそが行政の効率化に貢献して、無駄が省かれて予算の削減も実現するから良いことだと思う反面で、そういったシステムを行政と癒着している民間の企業の金儲けに利用されてしまうことが、かえって予算の無駄遣いや膨張を招いて、しかもそんな企業との間で贈収賄の関係にも至ってしまえば、それを推進する政治家や官僚の私腹を肥やすことにも貢献してしまうからなおのこと問題となってくると批判できれば、それが特定の誰にとって好都合だとも思えないが、それがお笑いネタというよりはメディアネタになって、そんな話題で騒いでいるSNSの繁栄に貢献するのかも知れない。


8月23日「加害者としての犠牲者」

 どうにもならないような事態を前に進めるには、それを簡単に言ってしまうなら、事態を推し進める当事者となるにふさわしい、いわゆる犠牲者が必要になってくるわけで、もちろんその種の犠牲者には、自らが犠牲者だという自覚など最後の最後まで全くないだろうし、それどころか、自身が何の犠牲になっているわけでもなく、むしろ他の誰かの犠牲を利用して、うまく立ち回っているような気になっているなら、犠牲者というよりは加害者であり、そうであるならそんな人物や組織の犠牲となっている被害者が別にいるわけだが、自身がその種の被害者となっている自覚があれば、何の犠牲になっているかはわかりすぎるくらいにわかっているだろうから、そんなことは誰もが承知の上で事態が進行中なのもわかりきったことだが、そういう面では確かに何の謎もないような気がするのだが、もちろん謎があればいいというわけではなく、むしろ話がわかりやすいならそれに越したことはないし、そういうことに関しても誰もが事態を把握していて、それはそれで構わないはずだが、構うも構わないも、そんな事態になっていること自体が、どうにもならないような事態なのだから、それでも構わないと思っている人など関係者の中には誰もいないし、そこに関係する誰もが困った事態になっていることを自覚して実感しているはずで、そんな事態を招いた人や団体が加害者であり、加害者であることも誰もが承知しているはずだが、そうなるとそんな加害者の中から加害の責任をとる犠牲者を選び出さなければならなくなり、もちろんそれが犠牲者になってしまうことをわかってしまうと、誰も犠牲者にはなりたくないだろうから、そんな犠牲者のなり手が一向に現れなくなってしまい、それも困った事態だろうから、そんな事態を回避するには、それが犠牲者になることはわからないようにして、しかも犠牲者を選び出さなければならなくなるわけだが、もちろん誰がそれを承知しているわけでもなく、そうなるのが自然の成り行きになるように装われているというと、それもそんなことを仕掛けている当事者が別にいるようなことにでもなってしまうと、自然な成り行きだとも思われないし、そうなるのも困った事態になってしまうから、表立って陣頭指揮をとるような役割などいっさい設定せずに、誰ともなくその場の空気を読みながらも、その裏では責任のなすり合いのようなみっともない攻防となっている場合もありそうなのだが、日本ではたまたま恥知らずな鈍感さを自然に身につけた岸田首相のような人材がうまい具合に登場してくれたから、そんな加害者としての犠牲者にはうってつけの役割を担っているようにも見えるのだが、本当のところはどうなのかといっても、少なくとも岸田首相自身は自らが何の加害者でも被害者でもないような気になっているだろうから、まさにそういう役回りにはうってつけの人材なのかも知れないし、それが何に関してそうなのかということが、自身でも気づいていないようにも感じられるから、現状では原発事故に伴って発生した汚染水を海に放出することに伴って、周辺で採れる海産物が風評被害を受けて、少なくとも漁業関係者が被害者となっていることは明白なのだが、そこではそうだとしても、それとは別のところではどうなのかと問われているとも思えないが、それでも何か疑念を抱かせるわけで、実際に岸田首相が人でなしのろくでなしな役割を嬉々として演じているように見えるから、それを批判したり非難を浴びせる人たちにとっては、まさに欠かせない存在となってしまい、岸田首相というキャラクターなしには成立しない現象を引き起こしていて、そのキャラクターというのがこれといって肯定的な魅力を伴うようなキャラクターではないどころか、むしろ何もやらないだけのこれといって特徴のない無能さといってしまうと、いったい何がそうなのかといっても、これといってつかみどころがなく、では実績が何かといっても、誰かに言われるがままのことをやっているわけでもないし、アメリカのバイデン大統領にとっては、言われるがままのイエスマンを演じてくれるから、自然に評判が良いような感じとなってしまう一方で、そんな強者には逆らわないイメージといっても、中国やロシアの意向は全く無視しているように見えるから、そういう方面では評判が悪そうに見えるし、それは日本国内でも弱者を助けるようなことは一切やらないから、生活弱者というカテゴリーに含まれる人たちには、悪者なイメージにすっぽりハマってしまい、そういう意味で批判や非難を浴びせるにはもってこいな存在となっているから、そういった需要を求めている人たちには願ったり叶ったりの人物として重宝されているようにも見えてしまい、それとなく気を利かせて、多くの方面からの要望に応えているわけで、しかもそれが憎らしいほどの否定性を伴った要望であり、それに対していくら罵詈雑言を浴びせてみても、ことごとくスポンジのように吸収されるばかりで、少しでも堪えているような反応などいっさい返ってこないから、さらによりいっそう憎らしくも感じられて、それでも誰かを痛めつけている加害者であるなら、他の独裁的な政治体制の国々にいる典型的な独裁者のようなことをやっているかというとそうでもなく、逆に直接には何もやっていないのに、何もやっていないからこそ、かえって痛みを感じるような逆説的な感情を人々の心のうちに呼び起こしてしまうような按配になっているから、何かややこしい事態となっていることは確かであり、それもどうにもならない事態であることを証し立てているのかも知れず、だからこそそういった状況にすっぽりハマるキャラクターとして岸田首相のような人物が登場したのかも知れないが、たぶんそれが岸田首相自身が招いている事態でもあるわけだ。


8月22日「迂回路」

 どこへ向かっているのかが自分ではわかっているつもりであっても、なぜかそこへと至る道順が、当初に思い描いていたのとは少し違ってしまったからといって、それが取り立てて不可思議なことでもなく、途中で道に迷ってしまったわけでもないが、その場の状況に応じてとっさに適切な順路を選んで、結果的にそこへと辿り着いたのだから、別にそれでも構わないはずだが、何か腑に落ちないことがあるとしたら、自らがそう思うより先に、勝手にそちらへと向かってしまい、結果的にはそれで何の不都合もないばかりか、その場でうまく立ち回ったようにも思われるから、結果オーライだと思えばそれで構わないはずなのだが、それでも狐につままれたような気がするという表現がしっくりくるなら、そういう表現があること自体が、自分だけがそんな気分を体験したわけでもなく、他の大勢の人々にとっても、それが人生の中で一度や二度ではない不可思議な体験なのかも知れないし、世の中では様々な人や集団が、それらの人たちが関わっている物事に応じて、様々な意図や思惑を抱きながら各々に行動していて、絶えずそこへ至る途中の成り行きの中で、思ってもみなかった紆余曲折を経験するのも、そこに関係してくる人や集団の意向がもつれ合いながらもこんがらがりながら、複雑に交錯しているからだろうが、それをどう捉えたら納得できるかといっても、容易には納得できないから腑に落ちないのだとしても、納得するには事態を単純化して捉えるしかなく、そんな事態の単純化がフィクションなのだとしても、それを虚構だとは思わせないように工夫が凝らされていれば信じてしまうわけで、フィクションを現実だと思ってしまうことが、詐欺に引っかかったことの証しでもあり、なぜそれを詐欺だとは感じられないのかといえば、信じられないような不可解な紆余曲折が省かれているからで、それも単純化すれば嘘になってしまうが、あえて単純なことを言うなら、わかりやすい説明に騙されてしまうのが詐欺であり、それとは逆にわかりにくい説明に納得できなければ、まだ詐欺に騙されてはいないことになるだろうが、騙す方は騙そうとしているわけではなく、信じてもらいたくてできるだけ話をわかりやすく語っているつもりになって、話を単純化している過程で自分で自分に騙されている可能性もあり、それもそこへと至る途中で経験する不可思議な紆余曲折の類いなのかも知れないが、なぜか自分で決めたことを自分が裏切ってしまうと、それに気づいた時のショックが大きいというか、なぜそうなってしまうのか理解できずに、呆気にとられて、自分でも何をやっているのか、すぐには事態を飲み込めないのだが、できないことをやろうとしたから、そうなってしまうわけではないとしたら、そこでできることが複数あって、実際に複数の道へと分かれる分岐点に至った際に、そこで思わぬ道を選んでしまい、自分でそれを選んでしまったことが信じられないわけで、そちらへと進もうとしたわけでもないのに、自分の意志を無視するようにして勝手に進んで行ってしまうから、それが理解できないのも無理もないことだが、理解しようとしなくても構わないのに、自分を納得させるために無理に理解しようとすると煩悶してしまうわけで、なぜそこでそんな道を選んで進んでしまうのか、進んでしまう理由など何もなければ、あえて理由などないから、そんな道を選んで進んでしまったのだろうが、それが理由だとは思えないし、そういうところで意思や意志と実際の行動が矛盾して、心身の辻褄が合わなくなってしまうのだとしても、何かに引き寄せられるようにしてそうなってしまうこともあるから、理由がわからなくてもとりあえずはそうなってしまった成り行きに従うしかなく、従って動いている最中でも急にひらめくこともあって、そこで結果が伴ってくると、何やらそうなってしまった事態についての合理的な解釈を思いついてしまうこともあるわけで、それが本当にその通りのことなのかどうかも、物事の単純化を含んだフィクション仕立てでもっともらしい解釈を施して自分を納得させるようなことにもなってくれば、それも結果オーライな詐欺なのかも知れないが、そうやって自分で自分を騙しながら自分にとって都合の良い結果へと自分を導くことができれば、大したことなのかも知れないが、自分だけではなく他の大勢の人々にとっても都合の良い結果へと導ければ、それが詐欺だとは思わないだろうし、実質的には詐欺なのに結果としては詐欺だと思われない結果になってしまい、それも結果オーライなことなのだろうが、果たしてそんなことができるかというと、そういうことを意識してやろうとしているわけではなく、騙そうとはしていないのに、それと自覚せずにそんなことをやってしまっていることに自分が気づかない場合もあるだろうから、それが何かの拍子に自分の嘘に自分で気づいてしまうなら、気づいたとしても後戻りができない場合には、それ以降の言動がぎこちなくなってしまうかも知れないが、否応なくそんな成り行きに巻き込まれてしまうなら、それこそが思いがけない事態なのかも知れないが、自分だけではなく他人を巻き込んでやっていることであるなら、その人だけに責任があるわけでもなければ、そんな成り行きに巻き込まれている人々も、それなりに騙された方が悪いようなことにもなってくるわけだが、また周囲の期待に応えるには嘘をつかざるを得ないような立場というのも想定できれば、そんな期待に応えているつもりが、その途中から後戻りができなくなってしまうのもよくあるケースかも知れず、そうなるとまるで自己催眠にかかったかのようにして、自らがついている嘘にも気づかないまま、周囲の期待に応えているつもりになってどんどん詐欺の泥沼にハマって行ってしまうなら、それこそが結果オーライとは正反対の悲惨な成り行きなのかも知れないが、そうならないためにも結果的には必要になってくるのが、誰も予期せぬタイミングで起こる突発的な事故なのかも知れず、しかもそんな事故に巻き込まれて詐欺の泥沼にハマっている当人が死んでしまえば、なぜかそれが結果オーライなことになってしまい、もちろんその場では誰も結果オーライだとは思わないとしても、そこから時が経つにつれて、誰にとってもそう思われるようなことが実際に起こってしまったことになり、今でもそれがわけがわからぬ大げさなその人の葬儀と共に、皮肉で不可解な事件として記憶されているのではないか。


8月21日「実感と錯覚」

 何か気になることがあると、昔の記憶を手繰り寄せて、その時期に自らがどんな経験をしたのかを思い出そうとするのだが、例えばそれが産業や経済に関する世界情勢であれば、その中で日本の産業や経済が明らかに20世紀末において起こった情報革命以降は、アメリカの巨大IT企業に主導権を奪われて、劣勢になった印象が強いわけで、また主導権を握られながらも、情報産業を支える電子機器や半導体という面でも、韓国や台湾や中国などの他のアジア諸国に追い抜かれて、やはり劣勢に陥った印象が強く、さらにはそこから数十年が経過した現在においても、例えばEVでもアメリカのテスラ社に主導権を奪われているし、中国や韓国のメーカーが日本よりも世界的なシェアは圧倒的に高いだろうし、そこでも完全に日本が遅れをとっていて、そういう面を考慮するなら、いくら山本太郎に日本が駄目になった原因が消費税だと主張されてもピンとこないわけだが、それとこれとは全く次元の違う話であることには違いないだろうが、なぜか地続きであるようにも思われるから、その辺の曖昧さを解消できるわけでもないのだが、それよりは政治的な面でより強い印象を受けたのが、十数年前の民主党による政権交代であり、その時期にはこれで日本でもアメリカやイギリスのように保守とリベラルによる二大政党制なると期待したのに、すぐに日本国民や日本のマスメディアが、日本でリベラル勢力を育てるつもりがないことに気づかされて、何か愕然としたというか、こいつら馬鹿なんじゃないか、人間のクズなんじゃないかとやり切れない気分になったが、その時期に読んだのが、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』で、その次の安倍政権下でまるで腐肉にたかるウジ虫のように大量に湧いてきた「ネトウヨ」と呼ばれる人たちが、19世紀のヨーロッパで大流行した「モッブ」と呼ばれる人たちとそっくりそのままではないかと気づいて、そこでもかなり愕然としたのだが、それ以前に読んでいた蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』に出てくる人物たちが、なるほど19世紀のフランスにも現代の日本でもよく見かける猪瀬直樹のような人物がいることにも軽く衝撃を受けたのと同じように、要するに産業革命と共に生じてきた近代的な市民社会から、それらの登場人物たちも必然的に生まれてくるようにも思われて、そういう人たちに対して否定的な感情を掻き立てられて、こいつら人間のクズなんじゃないかと思って絶望感を味わうことによって、しかもそういった成り行きの集大成がヒトラーやスターリンの全体主義として結実したわけだから、まだまだこれからもそういう傾向が強まってくる可能性もあるわけだが、そうだからといって、今では政治体制が保守とリベラルによる二大政党制になるべきだとも思っていないし、また欧米のリベラル勢力を手放しで礼賛したいとも思わないし、山本太郎が将来日本の総理大臣になるなら、別にそれでも構わないとは思っているが、そうはさせないようにするために、偽りの政治勢力も参政党やN国党などを始めとしていくらでも出てくるだろうし、当のれいわも立憲民主党の邪魔をしているようにも感じられるが、たぶんそういう枝葉末節に感じられるところで狭くセコく小さな違いにこだわっても、何か無意味なように感じられる限りで、そういった政治活動自体も、大して物事の本質には触れていないどころか、そこに本質がないことが、枝葉末節な表層の戯れとして受け取るしかないような気分にさせると共に、消費税を廃止したいなら、どうぞ政権をとってからそれを実行してみればいいと思うし、それ自体が賛成や反対の対象とはなっていないわけで、それよりは自民党や維新などのごまかしのやりたい放題な政治勢力を執拗に支持している人たちが、そうなってしまうのもそれらの人たちにとっては必然的な成り行きだと思われてしまうこと自体が、それで構わないような世の中になっていることを実感させるわけで、そんな実感から導き出される結論が、そうなるのは自らが「日本人」だと思っている人たちの自業自得な面もあるだろうが、それが19世紀のヨーロッパでユダヤやロスチャイルド家の陰謀論を本気で信じていた一般大衆とどう違うのかといっても、やはりそこでもそれで構わないような世の中が実現していたわけだから、それと大して違わないような世の中が現代の日本でも実現していると思っておいても差し支えないような気がするのだが、ではいかにしてそうではないような世の中を実現できるのかと問われているわけではなく、そういうことを問わないような成り行きの中で、自民党や維新などを支持している人々が世の中の主導権を握っているとも思えないものの、そこに様々な制約や制限がかかっている中で、たわいなくもセコく小狡く立ち回ることを余儀なくされている人たちがいくらでもいて、そういう人たちがお互いにお互いのみみっちい立場や境遇を小馬鹿にしながら、いがみ合いながらも連携し合って、出る杭は打たれるような事態に陥っている山本太郎などを共通の敵として見なしているわけでもなく、そういう面倒くさい存在を排除したところに成り立っている談合的な利害関係を守る意識もなく守っているから、現状のような世の中が実現していると捉えても構わないだろうが、それが錯覚だと言ってしまうと、では本当の現実がどこにあるのかと問われるわけでもないが、それがバーチャルリアリティだと言い放つようなおバカな気分にもなれないし、客観的なところでは、ハイテク産業などの分野において日本の産業がそれほど劣勢に追い込まれているわけではなく、もちろんその先頭に立っているわけでもないのだろうが、そういう面ではなく政治や行政などの面で、民主主義や人権などのきれいごとを推し進めることが、それを馬鹿にすることよりは優勢になった方が、少しは住みやすく生きやすい社会が実現するような気がするのだが、それを「日本人」に求めることには、何か無理があるような気もするわけだ。


8月20日「不可解な現実」

 いくら強権的な傾向の政府であっても独裁的な政治体制であっても、世の中の動向を完全にコントロールすることはできないのは、そこに政府や政治体制自体も全体の中の一部として組み込まれているからだが、そんな理由では納得し難いだろうが、政治的な主張として何かこうすればうまく行くはずという意見を言うことはできるが、そのこうすればうまく行くと言っている人には、こうすればうまく行くのこうすればを実行できる立場にはない場合がほとんどであり、もちろん実行できる立場であっても、実行した結果がその人の思惑通りになるとは限らないし、実行している人や団体はすでにそれを実行した結果としてうまく行かなければ、そうなった結果を受けて、それに対して何か意見を言いたい人の中から、こうすればうまく行くはずだと意見を言う人も出てくるだろうが、では具体的に何をどうするべきなのかという段階になってくると、そこで意見が対立して、複数の人や団体の間で意見や主張を戦わせているうちに情勢が変化して、そんな意見や主張などどうでもよくなってしまう場合も出てくるかも知れないが、たぶん経済情勢の変化に関しては、情勢が変化した結果から何をどうすれば良かったかがわかってくるわけで、もちろんそれがわかったところで、すでにそうなってしまった結果を変えようがなく、そんな結果を教訓として今後の活動の方針を定めて活かすしかなく、もちろん今後同じような成り行きが繰り返されるとも限らないし、教訓が活かされる保証などどこにもないと思っておいても構わないが、少なくともその際には、強権的な政府も独裁的な政治体制も万能ではなく、そんな政府や政治体制自体がうまく行かない原因である可能性も捨てきれないが、全てを政府や政治体制のせいにはできないし、それ以前に政府や政治体制がそうなってしまう成り行きがあるから、そんな政府や政治体制が生まれる成り行きを阻止するにはどうすればいいのかという問いも出てくるだろうが、それもそうなってしまった結果を受けて、そんな問いを発する人が現れるわけで、大抵はどうしようもなくなって手遅れになってから、もはや後戻りができなくなった段階で、そうなってしまったことへの後悔の念を込めてそんな問いが発せられるわけだから、今さらそんなことが問われたところで意味がないというわけでもないとしても、そういう手遅れの問いに対して律儀に正しい答えを模索する必要があるかといっても、何かそれとは違う方面から、問いに対して答える成り行きから外れるようなことをやる必要があるとも思えないだろうが、結果的にそこから外れてしまえば、それも否応なくそういう成り行きになってしまってから後悔しても手遅れだが、それを問わないことが肝要なわけでもなく、何かをやる前から事前にこうすればうまく行くはずだと予想するような成り行きに巻き込まれてしまうのは仕方のないことだが、たぶんそんな期待を込めた予想を裏切ってしまうような結果に直面して困惑してしまうのも仕方がないとしても、期待が裏切られてしまうことを予想したところで、そういう事前の先回りが通用するとも思えないわけで、少なくともこうすればうまく行くはずだと事前に方針を決めないと、それが途中でどうなろうと結果がどうなろうと、まずはそれを実行してみないことには、いつまで経っても結果にたどり着けないから、それをやらざるを得ないような成り行きに持って行ければ、後はどうなろうと知ったことではないどころか、それを実行する立場になっている限りで、それをやるに関しては主導権を握っていることになるわけで、主導権を握ったところで、思い通りのことができるとも限らず、できる限りのことしかできないのもわかりきっていて、その場の状況や情勢からやれることが限られてしまい、絶えず制限や制約を課されながらもやらざるを得ないから、それで主導権を握っているとも思えないようなしょぼいことしかやれていないようなら、それがそういうことをやっている人や団体の限界であり、しょぼい力量に過ぎないのだろうが、そんなしょぼいことばかりやっているから絶えず周りから批判や非難を浴びていると現状の政治情勢を分析するなら、では今後は何をどうすればいいのかと問うなら、現状で批判や非難を浴びせている人や団体が主導権を握って主張していることを実行してもらえばいいのだろうが、それが主導権を握らせないように妨害されているし、実行できるような立場にはさせないように画策しているとすれば、そんなことをやっている勢力が現状で主導権を握っていることになるだろうし、そんな勢力が主導権を握ってそんな嫌がらせのようなことをやっているから、絶えずそれを批判されたり、それに対して非難を浴びせられているわけで、そういうことも含めて現状の限界が形成されていて、そんな限界の範囲内で行われていることが、しょぼい現実を構成しているわけだが、それがひどい現状だと思うなら、現状を変えようとしなければならないが、その一方で現状で批判や非難の急先鋒となっている人や団体に主導権を握られるのはまずいと思うなら、ひどい現状を受け入れて、ひどい現状をひたすら耐え忍ぶしかないのかというと、案外誰もそうは思っていないのかも知れず、そんな現状の捉え方自体がおかしいと思うなら、では現状をどう捉えればしっくりくるのかといっても、現状をどう捉えてもしっくりこないと思うなら、すでに思い通りにはなっていないし、絶えず思いがけないことが起こっていて、そんな事態に直面して困惑しているのかも知れず、しかも困惑しながらも、そんな現実を容認できないから、現状の中で主導権を握って現状を維持しているように見える人や勢力に向かって絶えず批判や非難を浴びせているわけで、それをそうなっている結果から見れば、現状の中で主導権を握っていないから、絶えず批判や非難を浴びせる側に回っているように見えてしまうわけだ。


8月19日「時流に逆らうこと」

 人の行動や行為が、その人が生きている時代に主流となっている世の中の成り行きに逆らってしまうなら、どう考えてもそれがその人にとっては不利に働くことになりそうなのだが、そこから考えられる成り行きとしても、その時代の主流となっている傾向や価値観に逆らって、それに逆らうような何にこだわってみても、それがその人だけのこだわりにしかならなければ、時流に従っている周囲の人々からそんなこだわりは無視されて、下手をすればその人自身も存在していないことになってしまい、その時代の中では何の作用も影響も及ぼさない人となってしまいそうだが、それでも気づかないところで何かが作用して、それがその人を時流に逆らわせるように仕向けているとしたら、その人をそう仕向けている何らかの作用が、その時代の時流に対しても何らかの作用や影響を及ぼしていて、それがその人の感覚からすれば、何かに導かれるようにして時流に逆らっている気にさせるのかも知れないが、自身が時流に逆らっていることにすら気づかせないようにも作用しているなら、そんな気になることもないのだろうが、少なくとも時流に逆らっているなら、それなりの抵抗感を覚えるはずで、周囲の人々との間でも何かしら軋轢が生じてくるだろうから、そうなれば時流に逆らっていることをその人自身が実感しても良さそうだが、それがなぜか実感もしないで、周囲の人々との間に生じている軋轢にも全く気づかないままとなっていれば、よほど感性が鈍感なのかも知れないが、それもその人にそう感じさせるような何かが作用しているなら、たぶんその人を鈍感なままに保つような成り行きがそこで生じていることになるのだろうが、それでも構わないようなことになっているなら、実際にその人はそのままの状態で生きて行くことになるだろうから、そこでその人を有利な立場に導くような世の中の流れが生じていることにもなるのかも知れず、それが通常なら周囲の人々との間で生じている軋轢に悩んだり苦しんだり、また時流に逆らえば思い通りには事が運ばずに苦労することになるはずだが、現実にそうなっているのに、それが苦にならないなんてあり得ないはずだが、なぜかそんな成り行きもその人を窮地に陥れることもなく、普通ならその人を痛めつけるような逆風の中でも、相変わらずその人を時流に逆らうように導いていて、その人の努力が功を奏して、苦難を克服しているわけでもないのに、平気でその場で支配的な作用や影響を及ぼしてくる同調圧力にも逆らうようなことがやれているとしたら、それが何なのかといっても、その人には何のことやらさっぱりわからないようなことなのかも知れず、しかもそうなっているからといって、その人が他の多くの人々が時流に逆らえずに陥ってしまう罠から逃れていることにもならず、その人も人並みにその場の時流からもたらされる有形無形の作用や影響をそれなりに被りながら生きているはずなのだが、それが一向に苦にならないというわけでもなく、苦になっているのに、周囲との軋轢にそれなりに苦しんでいるはずなのに、それがその人の行動や行為を変えるには至らないなら、果たしてその人は時流に勝っていることになるのかというと、どう考えても勝っているとは言えず、どちらかといえば時流に乗っているわけではないのだから、負けていると判断した方が妥当なのかも知れないが、そうした勝ち負けの判断から外れるような行動や行為となっているのかも知れないし、意識して時流に乗ろうとしないわけではなく、乗ろうとしても乗れない不器用さを兼ね備えている可能性もあるから、実質的には逆らっているのではなく、不器用だから時流に乗れないだけなのかも知れないが、それが時流に乗って調子良く振る舞っているつもりの人からすれば、不可解に感じられる一方で、自分たちとは敵対しているような不快感も覚えるから、わざと時流に乗らずに嫌がらせを仕掛けているようにも感じられるのかも知れず、そんな人が本当にいるとしたら、その人の不器用さを誰もが理解しかねるだろうが、不器用だからといって、時流に乗ろうとする努力を怠っているとすれば、それが許せないことにもなってきて、曲がりなりにもその人に善意や良心が備わっているなら、不器用だろうと不慣れだろうと、時流に乗ろうとするふりでも構わないから周囲の人々に調子を合わせてほしいだろうし、それが調子を合わせられないとなると、何かその人には人として欠陥があるのではないかと疑ってしまうだろうが、それをその人の個性と言えば聞こえは良いが、不快に感じることは確かなのだから、そういう人は仲間外れにするしかなく、それが同調圧力に屈しない理由にもなってくれば、何となく時流にも逆らっているように思われるだろうから、ひねくれ者として排除の対象にもなってくるだろうし、そうなれば不気味でも怪しくもなく、何やらありふれた存在のようにも思われるかも知れないし、人を何かの典型例のようにレッテルと貼るとはそういうことなのかも知れず、その人を何らかの否定的なカテゴリーに押し込めてしまえば、それで安心できるのであり、もちろん安心してしまえば関心もなくなって、そんな人の存在などどうでもよくなってしまうだろうが、それが理由もよくわからないのに、なぜかその気もないのに時流に逆らっているように見えてしまう人だと安心できないから、そういう人に対しては何とかして安心できるような理由をつけて納得したいのだろうが、その理由というのが、実際に時流に逆らっているように見えてしまう当事者としては納得がいかないところなのかも知れず、そういう人にしてみれば、何か理由があってそうしているとも思っていない場合があり、特に意識しているわけでもないのに、何となくそうなってしまうから、それがその人にとっての自然な成り行きなのだから、特に納得できるような理由などなくても構わないのかも知れない。


8月18日「文化と観光」

 そう言われてみれば納得できるかも知れないが、博物館や美術館などの維持や運営そのものがあからさまな金儲けには結びつかないとしても、その一方でそこで展示されている貴重な美術品などのオークションでは巨額の資金が動くから、それらのコレクター目当ての高値がつく希少な商品を扱っている業者にとっては、博物館や美術館などに関わる際には、あからさまな金儲け目的で関わろうとするだろうが、もちろん博物館や美術館にくる一般の来場者が、金儲け目的でそこに展示されてある希少で貴重な品々を観にくるわけでもなく、来場者数がどれほど増えたところで、博物館や美術館を運営している団体がそれほど儲かるわけでもなく、では何のためにそれらの博物館や美術館などが運営されているのかといえば、学術研究がメインの目的だと、そんな目的が金儲けに結びつくわけでもないが、ではあからさまに観光客目当てなのかというと、そうなると遊園地のような娯楽施設やリゾート施設やショッピングモールなどの方が集客という面ではわかりやすいだろうが、あからさまな目的がわかりにくい文化施設といったカテゴリーに含まれる施設の運営を営利目的で捉えるわけにはいかないのは当然だとしても、そうかといって誰も観にこないような博物館や美術館を抱えている地方自治体などでは、維持経費の負担ばかりが年々嵩んでいくようなら、そんな何の役にも立たない金食い虫などなくしてしまえと言い放つ政治家なども出てくるかも知れず、それも需要と供給の関係というか、比較的大きな人口を抱えていて財政基盤がしっかりしている自治体などであれば、その種の文化施設などを充実させて、都市としての魅力を醸し出そうとするのかも知れないが、そんな余裕のない人口減少に苦しんでいる地方都市であれば、その種の文化施設を持つこと自体が贅沢だと見なされてしまうかも知れず、それでも著名人として世界的に名の知れた芸術家などの記念館であれば、どこに立地していようとある程度の集客が期待できるだろうし、また寄付金などを募ればそれなりの額が集まるかも知れないし、非営利の財団法人などを設立して運営が託されている例もあるだろうから、何も貧乏な地方自治体などがその運営を手掛けることもないのだろうが、それに関連してどのような事情や経緯が絡んでこようと、文化を直接観光に結びつけるのではいかにも下世話すぎるし、そうかといって学術研究という大義名分がどこまで通用するかは、財政的な余裕がないと、すぐにその必要性に疑問符がついてしまうだろうから、文化の価値は相対的な需要と供給の関係から判断されて、その地域の経済的な繁栄の上澄みの中で文化も花開くわけだろうから、いくらその価値を強調してみても、それを支える経済的な豊かさがないと、たちまち萎れてしまうのだろうが、それを観光だと割り切って収益化を図ろうとすれば当てが外れてしまうだろうし、そういうところで何でもかんでも単純に金儲けに結びつけようとする魂胆が見え透いていると、文化など廃れしまい、そうではなく、ただ単に遊戯施設やショッピングモールや歓楽街などが揃っていればいいというなら、ただの地方のこれといって見どころのない温泉街と変わらなくなってしまいそうだが、それとこれとがどう違うのかといっても、重なる部分もあるだろうが、何かが決定的に違うというわけでもなく、単純に貴族や上流階級といった金銭的にも時間的にも余裕のある人々が選民的に通ぶって愛でるのが文化で、貧乏な一般庶民がお祭り騒ぎをやっているのは文化ではないとは言えないし、それなりに範囲にも幅があって、その需要も様々な方面へと広がっているから、一概にこれが文化だとは言えないが、観光も文化には含まれるものの、文化の全てが観光化してしまうと文化ではなくなってしまうわけでもないが、観光だけが文化ではないのも当然であり、むしろ観光化されない文化が本物の文化だと思われる面もありそうで、観光は文化の一面に過ぎず、もっと身近で日常生活に溶け込んでいる面に文化の本質がありそうなのだが、それを学術的な水準でどう定義してみても、そこから逃れ去ってしまう面も文化にはあるだろうから、やはり一概にこれが文化だとは定義できないし、正確に定義するようなものでもなく、下世話で娯楽的な面も含めて文化だと思っておいても構わないだろうが、その一方でより高尚な水準で博物館や美術館などに展示されている資料や作品などにも文化的な価値があると言えるだろうから、そういうレベルでの文化的な価値と村祭り的なレベルでの価値が同じだとは言えないし、もちろんそのどちらが価値が高くてどちらが価値が低いということではなく、中には民俗学や文化人類学とかいう得体の定かでないジャンルもあるだろうから、比較が成り立たないわけでもないが、それらの基礎的な土台を構成する経済的な活動に支えられて文化が存在しているとしても、やはりその全てを商業に結びつけて良し悪しを決めつけてしまうと、そこからはみ出るような文化が育たなくなってしまうのかも知れないし、その種の商業文化を無視したり拒否したところに、清貧の思想のような宗教的な文化が芽生えてくる場合もあるだろうから、そういった既存の価値を否定してみせるのも、それが多くの人々に認められて世に広まると、文化として認知される場合もありそうで、そういう面で何でもありというわけではなく、ある一定の前提条件が成り立つ範囲内でそれに対応した文化も生じてくるのだろうが、果たしてそうした文化の全てを公的に学術対象として保護するような成り行きが生じてくるとも限らないから、別にその必要も感じられなければ廃れてしまっても構わないし、また観光化して見せ物として収益化を目指しても構わないが、その地域が経済的に発展するほど、それに応じてその地域の文化の自由度や多様性も深まるのかも知れない。


8月17日「隠された真意」

 たぶんそうなるに際してさまざまな経緯や事情が絡み合っているとも思えないが、これ見よがしなアピールが必要だと思うからやらざるを得ないのだとしても、例えばそれが8月15日に靖国神社へと参拝する国会議員や大臣になると、自身の支持者や支持団体へのアピールになると考えれば、真意が他にあるとしても一応は納得できるが、果たしてそれだけでは済まない場合を想定できるかというと、そういうパフォーマンス的な面とは別に、それが慣習だと納得させる成り行きに心身が囚われているから、そんなことをやらざるを得ないと考えるなら、そんなことではないと反論できる余地を残している限りで、そんなのは理由になっていないような気がするのだろうが、もっと普通に納得できる理由が、実際にそれをやっている人たちの発言から窺い知れるはずで、そこに隠しておきたい真意が潜んでいるはずもなく、そんなことをやる理由を普通に語っているのだから、それをそのままその通りだと受け取っておけばいいのだとしても、それとは異なる隠しておきたい真意が別にあるわけではないが、そこであからさまにそのままの行動理由として明らかになっていることを、その通りだとは思えないとしたら、では他にどういう理由でその通りだとは思えないのかというと、そんなことにこだわるべきではないと誰かに諭されるなら、ではどうしろというのかと当事者から問われるわけでもないが、実際にそうなるのを回避しようとして、それとは別の行動をとることによって、その通りではない成り行きを実現している人たちも普通に存在しているから、それらのどちらかがどうだというわけでもないが、ただそれとは違う別の選択肢がそこにあるから、そちらを選んでいる人もそれなりに大勢いて、しかもそれも新たな慣習として社会の中で定着しているから、そういった新たな慣習を社会の中で定着させることによって、そこで当然のことのように行われているこれ見よがしなアピールにも違和感を覚えることとなり、それだけが全てではないことを知ると共に、それとは違う他のやり方があることもわかってしまうから、それがそこで果たすべき唯一の方法ではないことも明らかになってきて、場合によってはそちらの方が納得できるから、納得できるやり方を選んでいる人も大勢いるわけで、そうなると違和感を覚えるやり方と納得できるやり方との間で、どちらを選ぶかを迫られているわけではなく、どちらも選んで両方を掛け持ちする人も中にはいるわけだから、少なくともそういうことができる限りで対立するやり方とはならないが、似たようなやり方でもあると、両方選んでもそれほど違和感を覚えないにしても、どちらも選ばなくても済んでしまうようなら、それに越したことはないはずで、それ自体を避ける意味で、どちらも無視してしまう人もいくらでもいるから、そういう人が多くなるにつれて、それらの慣習も廃れていくのだろうが、その一方でそれらを慣習として後世に残そうとする人も結構いるわけだから、そういう人たちが慣習を続けることにこだわっているから、慣習が廃れずに執拗に残るのだとしても、それらの人たちが執拗に慣習を残そうとしている限りで、慣習が廃れつつあるから、それを押しとどめようとして慣習にこだわって、場合によってはこれ見よがしに慣習にこだわっていることをアピールするわけで、そうやって慣習の衰退に歯止めをかけようとするのだろうが、そんなパフォーマンスが空回りに終始しているように見えるとしたら、ではなぜそう見えてしまうのかといえば、もはやその種の慣習から人心が離れているから、衰退に歯止めがかかっていないのだろうが、それをアピールする側は逆に人心を掌握していることをアピールしたいわけで、多くの支持者と共に慣習に則った行為をやっていることをメディアを通して世の人々に向かって見せつけたいわけだが、しかもそんな意図を意識しないでそういうことをやっているわけだから、そんなことをやっている人たちの真意が、自分たちのやっていることを他の多くの人々に見せつけたいということだとしても、当人たちはそれを意識せずにやっているわけだから、当事者が自分たちの真意を理解していないことになり、その際にはそれとは異なることを理由に挙げて、自分たちの行為を正当化しようとするわけだから、それを見ている多くの人たちのうちで、それらの行為に批判的なスタンスの人たちにしてみれば、その種のアピールが見え透いた嘘だと思われるだろうし、その際に表明されるもっともらしい理由というのも、そんな行為自体を裏切っているようにも思われるから、当事者の意識の潜在領域で働いている真意を知っているつもりにもなれるわけだが、果たしてそれが当事者に理解されるかというと、理解されるどころか反発や反感を買うから、それが慣習に従っているつもりの当事者たちと対立するにはもってこいの理由にもなるわけで、俺たちはお前たちの薄汚い意図や思惑をお見通しだと言わんばかりに対立できるわけだが、それで構わないかというと、もちろんそうではなく、何かもっと納得できて、自分たちの立場を合理的に正当化できる理由がほしいだろうし、それが意図せずに隠された真意程度では済まないような価値を伴ってくれば、その種の対立抗争にも勝てるような気もしてくるから、ますますその種の理論武装にも拍車がかかるかというと、それも結果的にはそうはならず、そういうレベルで対立や抗争などやっている場合ではないような成り行きが生じてくると共に、そんな人たちが従っているつもりの慣習とは別次元で、自身が関わっているつもりの物事が変容を被っていることに気づく必要も出てくるわけで、そんな変容をもたらしているのが何かというと、それとは別の慣習に基づいた経済活動なのかも知れず、その慣習というのが商慣習の類いであればわかりやすいが、それがわかりやすいだけに、そこには隠された真意が入り込む余地など生じてこないわけだ。


8月16日「第三次世界大戦とニューディール政策」

 確か一般的な歴史解釈として、ヒトラーのナチスドイツが隣国のポーランドに軍事侵攻したのが、第二次世界大戦の始まりだったはずだが、では現状の世界情勢においてそれと似たような出来事が起こっているかというと、プーチンのロシアが隣国のウクライナに軍事侵攻したのが第三次世界大戦の始まりだった、という後世の歴史解釈になるかどうかはわからないが、そう言われてみれば似たようなケースであることは誰もが認めるかも知れないが、では第二次世界大戦の遠因として挙げられるのが、1929年に始まった世界大恐慌であるのと同じような出来事が、現状の世界情勢の中でも起こっているかというと、2020年に起こったコロナによる世界的なパンデミックが挙げられるだろうが、そうなると世界大恐慌に際して、アメリカのルーズベルト政権が行なったニューディール政策と同じようなことを、現状のアメリカでもバイデン政権が行なっているかというと、その際にFRBが緊急かつ迅速に実施した大規模金融緩和や、国民に給付金を支給したり、半導体やEVなどの産業に巨額の公的資金を投入したことなどが挙げられるし、実際に第二次世界大戦が始まってからは、ルーズベルト政権が軍需産業に巨額の投資を行なって、軍事兵器を大量生産して戦争に投入したのと同じように、現状でもアメリカやEU諸国や同盟国などが、軍事侵攻されているウクライナへ軍事兵器を大量に供給しているだろうし、そういうことまで考慮すれば、今のところウクライナ以外では全面的な軍事衝突には至っていないものの、現状が第二次世界大戦時と似たような世界情勢になっているとは言えるわけだが、ここから中国が台湾へと軍事侵攻すれば、まさに第三次世界大戦と言えるような状況になりそうだが、そうなることを見越してやっているかどうかは知らないが、日本でも岸田政権が強引に防衛費を増額しているし、それに伴って国内の軍需産業も三菱重工などの業績が急上昇したりして、活況を呈しているようだが、それ以前に日本政府は第二次世界大戦後の戦後復興期から、高速道路網や高速鉄道網の整備や原発の推進など、さらにそれに加えて最近では洋上風力発電なども推進しているようで、軒並み大規模国家プロジェクトを延々とやってきたわけで、もちろんそれらを全てニューディール政策として一括りに扱うのは乱暴すぎるだろうし、日本に限らず、世界中でその種の大規模な公共投資が行われていて、それと共に各国の産業も発展してきたわけだろうが、そういった大規模国家プロジェクトに伴って、国債も大量に発行されて、確かに国家財政は税収と国債によって支えられていて、税収だけでは国家財政を賄い切れないという表現ではなく、逆に国債の発行が必要不可欠な面があるから、積極的に国債を大量に発行して産業振興を図るべきだと主張する勢力も出てくるわけだが、その一方で民間の資金を活用した大規模な都市開発や不動産開発のようなプロジェクトも進行中であり、どちらかというとそういったプロジェクトはその種のタワーマンションやホテル事業や観光開発などを見ても、富裕層向けのような外観を呈するから、公共の資金を使った国家プロジェクトの方は一般人向けの事業である方が望まれるし、それも軍需産業を富ませるために政府が投資するようだと人道的な方面から不快感を買うだろうから、平和事業のようなところへ投資するという面で何ができるかとなると、それも逆に国防を重視する方面から、きれいごとだと反発されるかも知れないが、直接的な金儲けということであるなら、民間の方面でやるべきことのように思われるから、直接的な金儲けには結びつかないような方面で、民間ではできないようなこととして政府が投資しなければならない事業があるかとなると、少なくとも水道事業を金儲けに結びつけるのは人の命に直結することだから、倫理的にはまずいだろうし、その延長上で果たして農業で金儲けをしようとなると、それも高級食材なら富裕層向けだから許されるにしても、誰もが必要になる基礎的な栄養源の穀物となると、できるだけ貧富を問わず安価に提供されるべきという建前を主張したくなるだろうから、必要でしかも貧しい人々の生活を助ける方面での投資なら反発が少ないだろうし、また貧困層が少数派であるなら少数派を優遇するのはおかしいと反発されるかも知れないが、では多数派でしかも庶民の生活を助けるような方面であれば、多くの人々から歓迎されるはずだが、そうなると必然的に生活必需品の高騰を抑えるためにとか、教育費や光熱費や医療費などの面で庶民の負担を軽減するためにとか、そういう方面で政府が何ができるかが問われてくるわけだろうが、現状では何ができるかと問う以前に、岸田政権が増額する防衛費を賄うために、増税を検討しているとか報道されると、それに対する当然の結果として内閣支持率が下がるだろうし、普通に政府は馬鹿なんじゃないかと思われても仕方のないところだが、そういうことまで考慮に入れるなら、それも考慮に入れない方がおかしいだろうが、まずは富裕層の金儲けには結びつかないような方面で、しかも庶民の生活を助ける方面で、また必要とあらば貧困層の生活を助ける方面で、政府が公共投資ができるかとなると、これといって具体的で明確な政治家の人気取りのようなことができるとも思われないにしても、目立たないが地道な方面で粘り強くやらなければならないことが出てくるのかも知れず、果たしてそういうところをちゃんと見ている人が世の中にどれほどいるかもよくわからないし、逆に維新のように派手な宣伝工作に騙されてしまう人が多ければ多いほど、衆愚政治になってしまう可能性も高まるだろうから、その種の煽動政治をメディアがどう伝えるかも、人々の良識を養うには重要となってくるだろうが、実際にそういう方面が必要以上にエスカレートしたから、政治家の派手な人気取りの一環として、愛国心やら民族感情に訴えかけるような行為から戦争への危険が高まって、実際に戦争が起こってみれば、人の殺傷や財産の破壊を目的とした軍需産業が栄えることになったわけだ。


8月15日「うまくいかなくて当たり前」

 たぶん政府の政策というのは一つの傾向を追求するだけでは駄目で、矛盾していようと多面的な傾向にならないとうまくいかないというわけでもなく、政策自体はうまくいかないものであって、うまくいかないからこそ絶え間ない修正が必要とされて、絶え間なく修正しても、絶えずうまくいかない面が出てきてしまうから、絶えずうまくいかない面に対処しなければならず、結局はうまくいかないから批判されるだろうから、政府の政策に対しては批判が止むことがないのだろうが、うまくいかなくて当たり前というわけでもなく、うまくいかない一方でうまくいっている面もあるから、うまくいっている面とうまくいっていない面とが混在しているのが、普通に考えられる状態であるとしても、うまくいっていない面に着目すれば、こうすればうまくいくと言える面もあるとしても、実際にそれを実行してみれば、うまくいったりいかなかったりして、政策を実行してみればそうなってしまうから、うまくいかない面については批判されるのが当たり前なのだろうが、批判されたからといってすぐにそれを改めるわけにもいかず、改めようとしても改められない事情もあるから、そういうところからやっていることが破綻してくるわけだが、たとえやっていることが破綻していようと、辻褄の合わないことをやっていようと、そんなことをやっている限りでその場の主導権を握っていることになるだろうし、主導権を握っているからといって、批判されないわけではなく、調子に乗って批判を封殺するような強権的な態度に出ると、ますますやっていることがうまくいかなくなる可能性が高くなるのだろうが、そうならないようにするには、民主主義や言論の自由を重視する必要があるわけだが、そうなると強権的なことができなくなるから、ますますやっていることと言っていることが矛盾してくるわけだが、矛盾を恐れていては何もできなくなるし、そういう意味で一つの傾向に凝り固まるのはまずいわけだが、やっていることと言っていることを一致させるには、一つの傾向に凝り固まる必要が出てくるから、そういう面でもますます言行不一致な矛盾に直面してくるにしても、そんな行き詰まりを打開するには、自然と絶えず言行を修正したり補正しながら活動する必要に迫られるわけだろうし、やろうとしてそういうことができるわけでもなく、直面している事態に対処しているうちに、結果的にそうなってしまうから、実際にそうなっている間は、うまくいかないなりにも直面する事態に対処していることになるのだろうし、そのうまくいかない程度というのが、民衆の許容の範囲内であれば、政権を維持できるのだろうが、もちろん民主主義や言論の自由を圧殺するような強権政治が可能であれば、民衆の意向など無視できるわけだが、それがどのような政策であっても、政府が主導して行う政策である限りは、自身の力を弱めるようなことはできないし、そういう意味では新自由主義のように減税して小さな政府を目指すことはできないわけで、それ以外にできることとなると、自然と政府の力を強めるようなことをやろうとするのだろうが、それが民衆の意向を無視した強権的なやり方になると、独裁的な傾向の体制になるわけだが、そうではないようなやり方を模索していくと、それも自然と妥協的な制度やシステムに落ち着くわけで、そうなると一つの傾向に凝り固まるわけにはいかなくなってきて、言っている内容はもっともらしいことを主張している割には、実際にやっている内容はそれとは違ってくるようだと、何かそこにごまかしがあるようにも思われて、何やら信用できない政治体制になるから、疑心暗鬼に囚われた人たちが陰謀論のような妄想を抱くようにもなってくるわけだが、それでも政府が主導権を握って主導的な役割を担って国家や国民を管理して統治するような成り行きに持って行こうとするなら、中国のような共産党による一党独裁体制になるのだろうが、そこまで政府の力を強めてしまうと民間の活力が失われて、何でもありな資本主義市場経済の中での競争では不利に働いてしまい、遠からず国家の衰退に直面するかも知れないが、そんな成り行きになる前に体制そのものが破綻してしまうかも知れないし、破綻する前に修正力が働いて、自ずから中途半端な体制に落ち着く可能性もなきにしもあらずだが、実際にどっちつかずの中途半端な体制でどっちつかずの中途半端な政策を惰性でやり続けているのが日本政府なのかも知れないし、それを統治能力の欠如だと批判したり、逆に民主主義の不徹底だと批判することもできるが、それがちゃんとしたわかりやすい主義主張に基づいているわけでもなく、その場の経緯や事情などが絡んだよくわからない成り行きの中でそうなっている限りで、意外としぶとく長続きしているわけで、どうでもいいような体制だからこそ、いくらでも批判できる反面で、いくらでもどうとでも批判できるから、批判している人たちが批判するのも馬鹿らしくなって、批判していること自体が自己嫌悪を招いて、批判するのが嫌になって、いくら批判しても何ともならないから、精神的にも肉体的にも疲れてしまうわけで、ではそんな批判など通用しないのかというと、通用しているから批判すること自体がまかり通っている一方で、いつまでも批判を続けられるから嫌になってしまうわけで、そうやって中途半端な政治体制への批判が止まらなくなった挙句に、精神を病んで肉体も老いて、そのまま死んでしまう人が後を絶たないだろうが、そういった泥沼的な結末を回避するにはどうしたらいいのかというと、自ら体制に取り込まれてしまう人も後を絶たないし、そうやってミイラ取りがミイラになることを受け入れたところで、体制自体がどうでもいいような体制だから、民衆から尊敬されないどころか、裏切り者として軽蔑される以前に、取るに足らない小物として取り扱われてしまうから、その人自身がどうでもいいような存在となって、民衆から忘れられてしまうわけだ。


8月14日「これはゲームではない」

 何の理由もなくいきなり現状がどんな情勢なのかと問われるわけもないだろうが、どこの誰がボードゲームの終盤でじわじわと相手から追い詰められているわけでもなく、それを政争と見なしても、対等の関係で争っているわけでもないし、だからといって何かの見世物のようなハンディキャップマッチをやっているわけでもないところが、どう形容してみてもしっくりこないだろうが、そもそもそれがゲームなのかと問うならば、ルールなど何も決まっていないから、ゲームになっているわけではなく、戦争の延長が政治であるなら、実際に今が戦争の最中となっている地域もあるだろうが、その地域と地続きとはなっていなくても、何かしら影響を受けているから、日本でも戦争ごっこのような情勢に近いのかも知れないが、それをどこまで真に受ける必要があるのかと問われているとも思えないが、では現状では何も問われていないのかといえば、そうではないような気がするわけで、何かが問われているのだろうが、仮に問われているからといって、馬鹿正直に答えを出そうとしなくても構わないような気もしていて、それよりはできるだけ問いから逃げ回っていた方が身のためなのではないかと思いたいわけで、誰もその種の問いに答える義務などないとは言えないだろうが、何よりも政治的な主導権を握っているつもりの勢力が、ひたすらその種の問いから逃げ回っているわけだから、それを見習う必要もないのだろうが、だからといって、それらの勢力の代わりとなって、答えの出ない問いに答えようとするのも、誰から頼まれてもいないのに勝手に損な役回りを引き受けているような感じになってしまうから、誰が好き好んで自爆営業のようなマネをやるつもりもないだろうから、とりあえず今は損得勘定の範囲内で動いていれば間に合ってしまう情勢なのではないかと勘違いしておくだけでも、ちょっとだけ時間稼ぎができるような気がするわけだが、だからといって別に誰と逃げ足の速さを競っているわけでもなく、これがゲームではないことを肝に銘じておく必要もないが、これとは何かといっても、もちろんゲームではないのだから誰もがサバイバルの最中というわけでもないはずだが、実質的にはゲームでないのに誰かがサバイバルの最中なのであり、その辺が微妙なところなのかも知れないし、要するにこれをサバイバルゲームに喩えるのは勘違いもいいところで、最近もハワイのマウイ島で大火事が起こって多数の犠牲者が出たが、それを数十年前に日本で起こった飛行機事故と同列に扱えるわけでもなく、別にゲームではないのだからルールが整っているわけでもないのだが、それとこれとが全く関係ないように感じられるところも、それらをゲーム感覚で捉えてしまうと、火事や事故で亡くなった犠牲者を冒涜しているような気がするから、これがゲームではないことを肝に銘じておかなければならないと思ったところで、これとは何かと問われているわけでもないのだから、何か勘違いしているのかも知れず、ではなぜゲームだと思ってしまうのかといえば、やはりサバイバルゲームに喩えられてしまうからなのかも知れず、何を喩えているのかといえば、これが何かもわからないのにゲームに喩えて動いてしまうわけで、しかもここで生き残るための戦略や戦術を編み出さなければならないような気もしてくるから、どうしてもゲーム感覚で動こうとしてしまい、しかもゲームであることがわかってしまうと、さっさとここから退散したくなってくるわけで、調子に乗ってゲーム感覚で動いてしまってはヤバいと思ってしまうのだろうが、何がヤバいのかといっても、具体的に何をどうすればヤバくなるとも思えないところが薄気味悪いわけで、とりあえずゲーム感覚で動いているように見えてしまう他の人たちが信用できないわけで、果たしてこいつらと一緒になって流行に踊らされていても大丈夫なのかと自問自答するなら、当然ヤバいと感じるわけだから、さっさとここから退散したくなってくるわけだが、その際には虎穴に入らずんば虎子を得ずということわざが脳裏をかすめるとしても、それでも今がリスクを冒してまで動くタイミングなのかと自問自答してみれば、やはり馬鹿げた情勢の中でも平気で踊っている人たちがヤバそうに見えるから、そんな人たちを反面教師に見立てるなら、それがヤバいことだと見なすしかないわけだが、実際には何かしら活躍しているように見えるのだから、もっと好意的に見ればいいのだろうが、それらの人々を逃げずに立ち向かっていると見なすなら、その一方で逃げることばかり考えている自分が情けなく思えてくるはずだが、たぶん逃げることを正当化する必要もなく、実際にそこから逃げ切れるとも思っていないのだから、結局は逃げることに失敗するしかなく、しかも失敗してもなお逃げようとしているわけだから、無様な醜態をさらしているような気がしてくるなら、逃げずに戦う姿勢を見せれば格好がつくはずなのだろうが、それも格好だけでファイティングポーズに見せかけながら、いつでもそこから逃げられるように用意万端整えておきたくなってしまうわけだから、戦うこと自体が割に合わないことが骨身に染みてわかっているとも思えないにしても、戦う前から逃げる準備を整えておかなければならないところが、何か頭の中で警報が鳴り響いているような気がすると共に、誰もがそれが負け戦さにしかならないこともわかっているのかも知れず、では何が具体的に負け戦さなのかといっても、誰もがそれを批判できるのだが、それがやらざるを得ないことでもあるから、やっている人にとっては割に合わないことでもあり、誰に頼まれたわけでもないのに、自ら進んで積極的にやらざるを得ないことをやっているつもりにはなっているわけだが、それが損な役回りだと思えば、ではやめたい時にやめられるのかといっても、やめられないから逃げずに戦っているつもりなのだろうし、戦っているつもりになっている限りで、これはゲームではないと肝に銘じるしかないわけだ。


8月13日「物事の積み重なりとしての歴史」

 一見何の関連性もないような物事の組み合わせが、それを組み合わせだとも思えなければ、それらの物事には何の関連性も感じられないだろうが、それとは違ってすぐに思い浮かぶのが、例えば地縁血縁的な関連性になるなら、それが古代史などに関して思考する際にはよくある関連性となるが、それ以外に何と何を組み合わせれば、そこに興味深い関連性を感じられるのかといえば、それが二つの物事の組み合わせになるとは限らず、三つ以上の複数の物事の組み合わせになると、複雑すぎて頭が混乱してしまうかも知れないが、そこに利害心に囚われた功利的な関係を想像できるなら、それが政治に関係してくる関連性になると、贈収賄などの不正行為が疑われる関連性になるかも知れず、そうなると組み合わせとしては、利権や権限のある政治家や官僚などに企業経営者や幹部などが賄賂を送ったのがバレるケースが思い浮かぶが、そういう組み合わせであれば、一見何の関連性もないどころか、関連性がすぐに思い浮かぶことになるだろうが、そういったすぐに思いつく関連性ではなく、しかもそれが特に興味深く思われるわけでもなければ、では何なのかというと、何でもないような複数の物事に興味深い関連性を当てはめようとするわけでもないのに、それらについて語って行くと、次第にその関連性が明らかになってくるなら、それが興味深く思われてくるかも知れないが、そういう場合にはすでにそれらについて語っている時点で、関連性があるから語っているのであり、何の関連性もないのに語るはずがないと考えるなら、そんな話の結論に向かって思考が先回りしていることになるだろうが、そうではなく、何の関連性もない複数の物事について、さもそこに深い関連性があるかのように仄めかしながら語るなら、そこで聴衆や読者を騙そうとしていることになるが、それについて語っている当人までが、それらの関連性に騙されている場合もありそうで、それらに関連性があると話の辻褄が合ってくるなら、そんな話を語りたい人からすれば、そう考えると興味深いからそれについて語りたくなってくるのだろうが、少なくとも何の興味もないことを語るはずがなく、興味があるからそれについて語ると考えるなら、なぜ何の興味もなく何の関連性も感じられないような複数の物事の組み合わせについて語ろうとするのか、と疑ってしまうこと自体が、興味があるから疑ってしまうのであり、それについてはどう考えても矛盾してくるが、矛盾しないように語るなら、一見何の関連性もないように語れるかというところが、語り手の腕の見せどころになってくるだろうが、その時点ですでに矛盾しているわけだから、矛盾しないように語れるはずもないところだが、そういった技術的な面ではなく、実際に何の関連性もない複数の物事の組み合わせを語って行っても、それが終始関連性がないままとなってしまえば、話の辻褄が合わなくなるかというと、その話の聴衆や読者の方が、当初においては何の関連性も感じられなかった複数の物事が、語るに従って次第に結びついてきて、その関連性が明らかになることを期待してしまうから、そういう理由で話が興味深く感じられるのだろうが、実際にそうはならなければ期待を裏切られてがっかりするかというと、良い意味で期待を裏切られる場合もあるから、話の内容次第で興味深く思われることもあるのだろうが、そういう意味では何の関連性もないのに、例えば相似効果によって興味深く思われる場合があり、似たような構成の話が世界中に散在しているのが、そういう場合として挙げられるだろうし、どう考えても無関係なのに構造が似ている場合があるわけだが、では具体的に何の構造が似ているのかといえば、社会の構造が似ている場合が考えられて、そうなると似たような社会構造の中では、そこで活動する人や団体の行動も似てくるだろうから、大して関連性のない遠く離れた複数の地域の中で活動する人や団体の行動や習俗が似ていると、それが興味深いから、逆にそれらの人や団体の関連性を想像してしまい、それを直接の関連性に結びつけようとしてしまうのだろうが、そうなったからといって、それ自体が興味深い以外に何がどうなるわけでもないのだろうが、確かにそれが似ている一方の地域では、どうということはない枝葉末節な話の内容だとしても、それが似ていることを発見してしまったもう一方の地域にしてみれば、それを強調することによってその地域の重要性を示すことができれば、当然のこととして、そうすることによってこれまでは見向きもされてこなかったのが、一躍脚光を浴びるチャンスが巡ってきたように思われて、ここぞとばかりにそれを強調して、その地域の重要性を喧伝するような成り行きになってしまうのだろうが、そうだとしてもその重要性というのが、歴史の中で過去の一時期においては重要であったというなら、確かにその時期においてはそこが重要な地域であったのだろうが、それもある時期から重要性が次第に薄れて行って、そこからだいぶ時代が下って行った時点では、すでにその地域の重要性など全くなくなって、ただのその他大勢の地域の中の一つに過ぎなくなっていれば、その地域の重要性というのも一過性で生じていたに過ぎないだろうし、そういう意味ではその地域に一時的に脚光が当たるのも、一過性のことでしかなく、確かにそこに隠された真実があるとしても、それが隠されていたことが重要なのかといえば、案外大して需要でもないことが隠されていて、しかも隠す意図もないのに隠されていたなら、誰の意図とも関係なく、ただの成り行きで歴史に埋もれてしまったのかも知れず、歳月の経過と共に新たな出来事が積み重なって行ったから、自然とそういう様々な出来事の下に埋もれてしまったと考えるなら、別に隠されていたわけでもなかったことになるのではないか。


8月12日「避けられない関わり」

 あまり意味のないことに関わっていても、そこから何か肯定できるような価値などを抽出できなくても、結果的にそれが何になるとも思えないとしても、意味や価値があろうとなかろうと、それに関わっている事実には変わりなく、理由はよくわからないが、それに関わらざるを得ないと思われたら、そうなるのが運命だと思ってしまうかも知れないが、そうなってしまうのが必然なのか偶然なのかもよくわからなくても、それに関わることによって何かしら活動していることになるなら、そんな活動が惰性で続いているとしても、主体的に関わり続けている感覚もなくても、多少は関わっていることに依存しながら生きていることになるだろうが、そんな関わりの実態について、あまり性急に結論を求めない方が身のためというわけでもなく、たぶん関わっているうちは結論など出てこないだろうし、関われなくなってくれば、そこでやっとそこから距離をとれて、ようやくその全体像が見えてくるかも知れず、そうなった時にはもはやどうでもよくなってしまうかも知れないが、関わっている間には見えていないことが見えてきて、それと同時にいかに自らが関わっていることに盲目であったかがわかってくれば、何やらそれに対する客観的な視点が得られているような気がしてくるだろうが、逆にそれが見え過ぎてしまうと魅力がなくなって、関わっていたこと自体が馬鹿らしく思われてしまい、だいぶ無駄で意味のない回り道を強いられて、そこで道草を食ってしまったことを後悔するかも知れないが、いかに馬鹿げたことに関わっていたとしても、関わっていた事実は消せないから、すでにその時点で取り返しのつかないことをやってしまっていて、後からそれを隠そうとしても、関わっていたことを知っている誰かが他にいる限りは、それを覚えている可能性があるから、隠しきれないだろうが、覚えていたところで大して影響もないかも知れないし、人によって立場によっても関わっている度合いにも違いが生じていて、それへのこだわりにも程度や傾向に差が出てくるから、たとえそこで取り返しのつかない過ちを犯してしまったと悔やんだところで、それが過去に犯した過ちである限りは、すでに過ぎ去ってしまったことでもあり、その出来事が今もその人の心身に少なからず作用や影響を及ぼしているとしても、その人が今も生存しているなら、その人の活動が今も継続していて、そこからかなり関わっている物事の様相が変わってしまったかも知れないし、たとえ変わりようがなくても活動が行き詰まってしまうわけでもなく、何もしなくても惰性で続くような活動であれば、実質的に大したことはないのかも知れないが、その人にとってはそうであっても、そんな活動から多少なりとも作用や影響を及ぼされている人や団体がいれば、それらの人や団体にとってはそれ相応の重要度があるかも知れないが、それも他の人や団体との関わりから感じられる程度の相対的な重要度となるなら、活動している当人にとっては特に気にするようなことでもなければ、大して関わりがあるとも思えないし、直接のやりとりがなければその程度で済んでしまうとしても、たとえ直接のやりとりがあったとしても、それがちょっとしたやり取りでしかなければ、他のやりとりとの比較において相対的な程度にとどまっている限りで、それがどうということはない程度になってしまうかも知れず、そんなふうにして大した作用や影響も受けていないように思われるなら、その程度のこととして取るに足りない重要度となるだろうが、果たしてその程度のことが避けようとしても避けらない関わりとなるかどうかは、それも関わりの一種である限りで、避けられない程度でそうなってしまい、意味も価値も見出せなくても、そんな関わりに囚われているから、その人自身もその程度の存在として社会の中に存在しているから、それが取るに足りない関わりであれば、そんな関わりを避けらない人も、社会の中では取るに足りない人として存在せざるを得ないのかも知れず、それが見栄を張りたい当人にとってはいかに屈辱的なことであっても、当人にはどうすることもできないことであり、その人が他の人や団体にとって重要人物であれば評価も違ってくるのだが、果たして自ら望んで何らかの分野で重要人物になれるかといっても、それもその人の努力次第な面もあるとしても、その場の運や成り行きに左右される面もあるだろうから、偶然の巡り合わせでその人の意向など無視して重要度が増してくる場合もあるが、そんな重要度も一過性であればいつまでも重要な存在でいられるわけもなく、流行現象のように成り行き次第でさっさと忘れ去られてしまうとしたら、儚い存在でしかないのだろうが、そういうことも含めて、その人が現状の社会の中で何に関わっているかが、その人の相対的な重要度を決める要因となるかも知れず、もちろん現状ではそうだとしても、過去においてはそうではなかった可能性もあるから、過去には過去において重要な存在であった人もいる一方で、今は重要でも何でもないとしても、未来のどこかで急に重要な存在となる人物も現れるかも知れないし、それが人ではなく団体となる場合もあるとしても、それが何に関して重要な存在となるかについても、その人の思わぬところから関わりが生じてくるとも限らないから、その人がなりたいと願っている物事からはかなりずれているところで、当人とは無関係な重要性が生じてくるかも知れないし、下手をするとその人が死んでからその存在の重要度が増してくるようなことになれば、例えばその人があらぬ濡れ衣を着せられて非業の死と遂げたことにされて、その後その人の呪いや祟りによって天変地異でも起こって多数の死傷者が出たり被害が及んだことになってしまうと、その人の怨霊を鎮めるために大がかりな神社などが建造されて、かえってその人の名声が生前より高まるかも知れないし、そうなると生きている時点でその人にはそんなことまで考慮できないのはもちろんのこと、そんな未来のことまで考えた上で行動できるわけもなく、大抵は目先の利害にしか興味が向かない場合がほとんどなのかも知れないが、それでも避けられない関わりが思わぬところから生じてくるなら、それに気づいた時点で、それに対して何かしら反応を示すことになるのではないか。


8月11日「現状の誤解」

 すでにわかっていることが簡単に理解できることであれば、大して価値のあることだとは思わないが、その逆にわかりにくいことを難儀しながらも理解できれば、理解するのに苦労した甲斐があったように思われるが、では具体的に何がわかっているのかといえば、なぜかわかっているのにあえてそれを指摘しないことでもあって、一般にはそれがわかっているとは思われないことであると、周知の事実などあえて指摘するまでもないことであるなら、そうなっていても不思議ではないが、そこがややこしくもこんがらがっていて、簡単に理解できることなのに、簡単に理解できることを理解させないようにしていると思われるなら、誰がそうさせているのかというと、それが誰ともいえないようなことになっていて、多くの人々が示し合わせているわけでもないのに、簡単に理解できることを多くの人々がわかろうとしないから、結果的にはそれによって現状が維持されているように思われて、本当に維持されているのかというと、現状も次第に変わりつつあるとしても、それでも維持されているように装われていて、そういうところが焦ったくも面倒な事態を想像させるのだが、その一方でそれについては安易に言及してはならないことだと思われるなら、それが触れてはならない禁忌なのではないかと推測したくなってくるが、あからさまにそうなっているわけではないことも周知の事実なのかも知れず、それを誰に確かめたわけでもないのに、誰もがそれに触れようとしないのだから、すでにそれがわかっていることとして織り込み済みになっているのかも知れないが、それを、王様は裸だとか、王様の耳はロバの耳だとか、寓話を用いて説明できれば、それでうまく難局を切り抜けたことになるわけでもないが、そういうことではなく、すでにわかりきっている事実を素直に指摘できればいいのだろうが、もちろん指摘したところで無視されてきたから、それによって現状が維持されてきたことになるわけで、どうせ指摘したところで誰もそれを真に受けないから、そんなことは指摘するまでもないことだと理解しておいても構わないのかというと、それが簡単に理解できることであるなら、もうすでに誰もが理解しているのかも知れず、ならばそんなことはあえて指摘するまでもないことになるのかというと、そうやって簡単に理解できることを誰もが無視してきたから、そんな現状が維持されているわけで、そういうことを指摘しても、そんなのはわかりきったこととして無視されてしまうから、やはりあえて指摘するまでもないことになってしまうのであり、その代わりにたわいない迷信が信じられているなら、その迷信がどんな内容なのかというと、それに関してはメディアが定期的に実施している世論調査の結果が明らかにしていることでもあって、そこでも焦ったくなるような結果が示されて、そこで多くの人々が何に騙されているのかが明らかになっているはずなのだが、それが騙されていることにはならないように解釈されてしまうわけだから、そんな誤解に基づいた理解であるかのような解釈に唖然とすることもなく、なるほど迷信を信じているから、そんな解釈が世の中で通用しているのかと納得できるわけでもないのだが、それを誤解ではなく正解だと思っておけば済むようなことなのだとしても、納得し難いことは他にもあって、そんなふうに思わせたいことを必死に誰かが主張しているわけでもなく、ただの世論調査結果として示されていることである以上に、それをどう解釈しても構わないが、誰かの都合のいいように解釈させようと仕向けられているわけでもないのに、解釈したい人が勝手に都合のいいように解釈してしまうのであり、気休めにそんなふうに解釈してしまうわけでもないのだろうが、ではそれが世論調査を実施ているメディアの狙いなのかというと、そこにどんな狙いがあるのかと問われるわけでもないが、それでも勝手に都合のいいように解釈するなら、そんなメディアの狙いを想像したくなるのであり、世論調査結果を各々が都合のいいように受け取ってほしいというのがメディアが世論調査に託した思いだと勝手に推測できるわけでもないのだが、そうやって人々の意識が誘導されていると陰謀論めいたことを妄想してしまっても、そこまで深読みする必要もないことだが、ただそんな結果を知って一喜一憂するまでもなく、それさえも無視してしまっても構わないようなことであっても、世論調査結果さえ真に受けるようなことではなく、逆に最も信用できないのは世論であり、さらには選挙で示された民意でもあるから、ならば他に何を信用すればいいのかといえば、自分の勘を信じて行動していけば、たとえそれによって勘違いを招いて失敗してしまったところで納得できるわけでもなく、あきらめがつくわけでもないが、やはり痛い目に遭って後悔してみないことには真実にたどり着けないわけで、そうなってからようやくそこで何が起こったのかを理解できても、すでに時遅しな状況なのであり、しかもそれがそんなに苦労しなくても簡単に理解できることであるなら、なぜわざわざそうやって面倒な遠回りをしてまで、遭わなくても済むような災難に遭ってまで理解しようとするのかというと、自分が迷信を信じていることに気づけないからであり、自らの都合に合わせて現状を把握しようとすれば、その都合に合うような迷信を信じざるを得なくなって、自らの思い通りに事が運ぶには、そこに関与してくる物事の様々な偶然の巡り合わせがないとそうはならないことであるなら、その偶然の巡り合わせを必然的にもたらす作用を想定しないとそうはならないわけだから、それが必然的にもたらされると信じることが迷信となるわけで、要するにそうなることを信じて疑わない人は迷信を信じていることになるわけだ。


8月10日「人権と職権と公権」

 あえてやろうと思えばできないことはないが、それをやるかやらないかはその人の良心や倫理が絡んでくるなら、その人の個人の責任でしかないが、それが組織的に集団でやっていることになると、その人が集団の意向に従うか否かということも絡んでくるから、それだけ難しくてややこしい判断を迫られるとしても、さらには私人とは対の概念となる公人としての立ち振る舞いが問われてくると、その是非をどう判断すればいいのかよくわからなくなってくるが、何かをやっている最中にはそんなことまでいちいち考慮しながらやっているわけでもなく、やった後から何かしら問題が生じてくれば、それに対応したり対処しなければならなくなって、やったことに対してどういう責任が生じてくるのか、それを改めて問われるような成り行きになるなら、そこでそんなことを考えさせられてしまう場合も出てくるかも知れず、それも社会の中で他人から言われて、それに対する反応や反論を迫られた際に、何か言いわけじみたことを言わざるを得なくなってしまうと、そこでうまく言い逃れができないと無様な醜態をさらしてしまうことにもなり、それが私的なことであるなら、それと関わりのある狭い範囲内で済むようなことになるだろうが、それは公的なことになってくると、何やらその人の公人として責任のある立場や地位なども絡んできて、それについて何やら大げさなことを言いたい人も現れてくるかも知れず、それをその人がどう受け止めるかも、その人次第になってくるかも知れないが、その人がどう受け止めたところで、その人の勝手で済むなら、大したことにはならないだろうが、そこにその人が関わっている組織や団体などが絡んでくると、その人の個人的な判断ではどうにもならない場合も出てくるから、場合によっては、世間をお騒がせして申し訳ありません、とかいう意味不明な謝罪を強いられたり、もちろんそんな言い回しに精通している人なら、それが意味不明でも何でもなく、ちゃんとした落とし前だと思っているのかも知れないが、それが何か腑に落ちないなら、なぜそんな謝罪をさせられるのかと内心では反発している可能性もなきにしもあらずだろうし、本当のところは誰もよくわかっていないのかも知れず、人には生まれながらに人権があるなんて全く信じていなくても、その人権が何なのかもよくわからなくても、組織の中で然るべき地位や役職に就いているなら、喜んで職権を濫用したくなるだろうし、自分にはその特権があると思い込んでいるかも知れず、そういうところはその人の都合で、どうとでも自らに都合のいいように受け取りたくなるだろうし、それが公人としてどう振る舞えばいいのかという次元になってくると、すでに公私混同の意味も理解できなければ、それが何のことやらさっぱりわからないことになり、そんな人たちが政治家や官僚として活躍できるような世の中になっていれば、そういう水準で世の中が回っていて、それが良いことなのか悪いことなのかも、そんな現状の中ではよくわからないし、それに対して批判的な姿勢で臨んでいる人なら、確かに悪い世の中になっていると思うのだろうが、それもその人の立場や境遇からそう思われることなら、その良し悪しも相対的なものとなるだろうし、人の行為や行動が何に依存して行われて、それが何に配慮した行為や行動になるかということが、その人の社会的な立場や境遇に依存して行われるとしても、その際には自身や他人の人権や職権や公権に配慮した行為や行動になるかどうかが問われていると言えるわけだが、それも行為や行動の当事者がそれらの行為や行動を正当化できるか否かということに関して問われていることでもあり、それに関して本来ならやってはいけないことを職権濫用気味にやってしまった後から、それが明らかになってくると、何かと問題となってきて、ジャニー喜多川氏や木原官房副長官やビッグモーターやフランス研修御一行様などのようにメディアを通して世間で騒がれるのだろうが、果たしてそんなことの延長上で世の中が回っているのかというと、どうもそうではないような気もしてしまうから、何やら事件の背後にそれらを隠れ蓑とした陰謀が渦巻いているような妄想に取り憑かれてしまうわけだが、そうではなく、ただ単に様々な出来事や現象が同時並行して起こっていると状況を捉えておけば済むようなことであるのに、それらを恣意的に関連づけたり結びつけたりしながら、〇〇が諸悪の根源だと言いたくなってしまうと、その〇〇というのが、その人が敵対していると思い込んでいる何らかの勢力であればわかりやすいにしても、その勢力にその人も含まれてしまうとは夢にも思わないだろうし、果たしてそう考えると何の辻褄が合うのかというと、それがその人のあずかり知らないことになるかどうかも、その人のあずかり知らないことになるわけでもないが、少なくともその人が関わっている範囲内では、その人の敵対者や敵対勢力などがその人の活動と競合関係にあったり、互いに競争状態の中で互いを敵視しているなら、それが同じ穴の狢というか、共通の獲物を狙っている関係でもあり、その共通の獲物というのが、その他大勢の一般大衆になるかどうかも、あまり意識できない場合には、そんな人たちの気を引くためにやっていることであっても、それらの話題を取り上げるメディア関係者にその人も含まれてしまうと、同業者同士でいがみ合っていることにもなってくるだろうが、それが同業者だとも言えないような立場というのが、微妙なはぐらかしをもたらしているのかも知れず、自身がどのような立場も担っていないように思われるなら、それが公的な立場とも私的な立場とも言えないような立場でもないのかも知れないし、何の立場から物申しているわけでもないのなら、その人には人権も職権も公権も生じてこないのかも知れないが、だからといって無責任極まりないことを言い放ってしまっていいわけでもなく、そこからその人の人としての程度に応じた良心や倫理などが生じてくるのではないか。


8月9日「通貨の増殖」

 それが錯覚だとしたら、ただの勘違いには違いないわけだが、少なくとも銀行などの金融機関であるなら、原理的には預金などで集めた資金よりも多くの資金を貸し出したり運用することができるだろうし、もちろん預金している人や団体が一斉に預金を引き出そうとしてしまうと、たちまち手持ちの資金では対応できなくなって破綻してしまうだろうが、要するに借りた資金と貸した資金の差し引きがゼロになるというのは、借りたり貸したりする時間や時期を考慮に入れるなら、必ずしもその時点で差し引きがゼロになるとは限らず、さらに時間が経過するに従って増えて行く金利まで絡んでくれば、借りた資金と貸した資金の差し引きがゼロになるという単純な理屈では通用しなくなって、実際に銀行の業務では、借りした資金の金利より貸した資金の金利を高くしないと商売が成り立たないわけだから、借りた資金+金利<貸した資金+金利であり、差し引きがゼロではなく、そういった金融的な面が世の中で優勢になれば、絶えず未来へ向かって通貨が増殖して行く傾向となるわけだろうが、そういうところで何か勘違いがあるとすれば、政府と民間とで通貨の貸し借りの差し引きがゼロになるかというと、そこに建前上は中立的な立場の中央銀行が絡んでくるだろうし、また少なくとも日本では政府が発行する国債をかなりの割合で日銀が買い取っているわけだから、実質的に中立的な立場ではないわけだが、どうもそんな実態からわかることは、MMT論者が主張する理屈がよくわからなくなってくるのだが、実際に日本政府が国債を大量に発行しているからといって、民間の景気が良くなっているかというと、そうではないと主張する人の方が多いし、今も景気が悪いから政府が何とかしろと積極財政論者が訴えているわけで、MMT論者の論法から言えば、日銀が国債を買い支えないで、全て民間に売却してしまえば、確かに政府の赤字は民間の黒字になるのかも知れないが、それをやってしまうと国債が値崩れを起こしてしまってまずいから、日銀が必死になって国債を買い支えている実態があるのだろうし、そうなるとやはり現状ではMMT論者の理屈が破綻しているような気がするのだが、その辺のところをどう解釈すればいいのかよくわからないし、政府の経済政策が間違っているからだと批判しておけば、MMT論者の理屈も救われるのかも知れないが、それに関してそうなった結果から理屈や論理を求めようとしても、またそんなふうにして求まった理屈や論理を現状の中に適用してみても、現状が変わらなければ正しいように思われるとしても、その現状が変わってしまえば、適用条件も変わってくると共に、それとは違う理屈や論理を導き出す必要に迫られて、結果的に現状で正しいように思われる理屈や論理も変更せざるを得なくなってしまうのかも知れず、その種の論者は現状に合った理屈や論理を導き出そうとするのだろうが、そこから状況や情勢が変わってくれば、その理屈や論理が合わなくなることまで考慮に入れているのかというと、それが数学や物理学などの論理や理屈であれば、それとは合わない結果が出てくるまでは暫定的に正しいことになるのだろうが、それが経済学の理屈や論理となると、数学や物理学ほどには厳密に現象や出来事に当てはまるわけではなく、それよりは統計的な結果から確からしい傾向が出てくるにとどめておいた方が無難なのかも知れず、そこから理論の類いを求めようとしてしまうと、果たしてそれが理論と言えるかどうかも怪しいわけで、その場の情勢や状況に合わせてやり方を変えるのが、市場経済の中では正しいやり方になるだろうし、どんな状況下でも同じやり方が通用するわけではないのだから、どんな状況下でも通用するやり方があるとは言えないし、そうなると恒常的に成り立つ理論の類いではなく、戦略や戦術としてその場の状況や情勢に合うやり方を選択しなければならなくなり、それを実際にやってみて、たまたまうまく行ったやり方になるなら、結果的にそうなっただけで、やってみなければわからないことになってしまうのだが、やる前からある程度は予想や予測がつく場合もあるから、そんな予想や予測の範囲内で、こういう時にはこういうことやるべきという経験則のようなことが通用する場合もあるのだろうが、そういうことの延長上で行われていることであり、それが日本政府が国債を発行し過ぎて、このままでは値崩れを起こしてしまいかねないから、日銀が国債を買い支える事態に陥っているのだろうが、そうなった結果を見て、外部からそれを政策の失敗だと見なして批判することはいくらでもできるものの、その一方で現状では破綻しないように正常化を模索している途上なのだろうし、誰も現状がうまく行っているとは思わないものの、完全に破綻しているとも言えないだろうし、アメリカのFRBも実質的には債務超過となっているらしいが、だからといって破綻しているわけではないのと同じとも言えないが、現状がヤバい事態だと言えばその通りだと言えるのだろうが、それもだからといって批判するなとは言えないどころか、批判するのは大歓迎というわけではないものの、批判せざるを得ない立場の人が世の中にはいくらでもいる現状なのだろうから、批判したい人は現状を批判しておいても構わないだろうが、それに関してあえて無責任なことを言うなら、意外と派手に破綻してリセットすればスッキリしてしまうのかも知れず、現状でもそんなグレートリセットへ向けて状況が動き出していると楽観しておいた方が無難なのかも知れないし、そういう意味で、どうも積極財政論者やMMT論者のように、現状の政府のやり方を批判しつつも、ある面では現状を正当化してより一層の進展を期待するような傾向というのが、よくわからないわけで、だからといってその種の論者を否定する気も起こらないから、できることなら彼らが政権をとって、彼らの主張を実践してみれば、それが現状のグレートリセットになることも期待しているわけだ。


8月8日「恒例行事の落とし穴」

 どうも頭がボケてしまって、他人の言っていることがさっぱりわからないわけではなく、ただ自分の都合に合わせて理解したくはないのかも知れず、物事を都合良く受け取ってしまうことが、本当にそれが自分の都合に合わせているのかどうかに関しても疑念を覚えるなら、ではどう受け取れば納得できるのか、それもよくわからないし、そんなことをやる理由がわからないはずがなく、そうなってしまう原因も不明なのでもなく、それについて何を述べればいいのかも皆目見当がつかなくなってしまうわけでもないのだが、もちろんそれについて批判したい人からすれば、それが許せないから批判するのだろうし、そうなってしまう原因も批判の対象にあるから、批判を躊躇する理由などないわけだが、その一方で毎年定期的にやってくるイベントに合わせてやっていることには違いなく、そのイベントに合わせて恒例行事のようにやっていることなのに、それを今年に限って許せないと批判されても、とんだとばっちりには違いないわけだが、何か意図があってそうなったとも思えず、タイミングが悪かったと言うしかないことかも知れないが、それに関して被害妄想に取り憑かれるなら、何かの陰謀に引っ掛かってしまったと悔しがるしかないだろうが、慣習に馴染んでしまうと思考力が低下して、何も考えずにその種のイベントの成り行きに従って行動していれば済んでしまうことでもあるから、通常ではそれで構わないはずなのだろうが、なぜか今年に限ってはそうはならなかったわけで、恒例行事として慰安旅行のノリで国会議員がフランスまで行ったわけだから、そういった慣習が毎年のように行われていること自体が許し難いというなら、そんな慣習の恒例行事化を促進している勢力など支持しなければいいと言い放つことはできるし、それももちろん言い放っている人は支持などしていないどころか、批判の急先鋒と化しているわけだが、それでもどうやっても振りほどけない慣習に心身を囚われている人が世の中には大勢いて、そういう人たちが慣習に従うことによって社会を支えているように感じられるわけだから、一概にそれらの人たちを否定するわけにもいかないどころか、逆にそうやって世の中の主導権を握っているようにも思われても、特定の権力がそれらの人たちの手中にあるわけではなく、むしろ何の権力も権限もない代わりに慣習に従うことが、それを批判する人たちに対抗していることになり、しかも対抗していることを特に意識しているわけでもなく、ただ何をするでもなく何となく嫌悪感を示しているだけだから、つかみどころがないわけだが、もちろん山本太郎あたりが街頭で何かを訴えかけると、その中の誰かが堪えきれなくなって、どこからともなく嫌悪感を露わにした野次が飛んでくるだろうが、それとこれとが一体化しているとも感じられず、野次を飛ばして言いがかりをつけてくる人は堪え性がないわけで、それこそ山本太郎の煽動に引っ掛かってしまった浅はか極まりない愚か者ということにしておけば済むようなことであるのと同じレベルで、今回の件がそうなっているわけでもなく、パリへ慰安旅行に行った議員様御一行にしても、これ見よがしに記念写真のポーズような行為をやってSNSに載せてしまったばかりに飛んで火に入る夏の虫ような騒ぎに発展してしまっただけで、慣習に従うにしても出過ぎたマネをしてしまうと事態が暗転してしまうと捉えておけばよく、もっと事を穏便に運ぶ配慮が必要とされて、これ見よがしな行為とは相入れない礼儀作法を習得しておかないとまずいのだろうが、もちろんそれがどういうことなのかと具体的に説明するのは難しく、それなりに場数を踏まないと身につかないような動作なのかも知れないし、またそれを身につけたところで目に見えるような効果などは一切期待できず、慣習に従っているその他大勢の人々からも、またこれ見よがしの出過ぎたマネを叩こうと待ち構えている人たちの目を欺くようなカモフラージュ的な効果と言えるような何気ない配慮が必要とされるのかも知れないが、そういうことも含めて、それが騒ぎになってから露わになるようなことだから、それが露わにならないと思考の対象にもならないだろうし、もちろん批判の対象にならなければそのままスルーされて忘れられてしまうようなことでもあるのだろうから、そういった慣習的な動作が何かの飽和点に至ってしまうと、礼儀をわきまえない行為や行動が横行することになって、特に目立つこともなく黙って慣習に従っているその他大勢の人々にとっても違和感を持たれて、また出過ぎたマネを叩こうとして手ぐすねを引いて待ち構えている自警団のような人たちにとっても、久々に現れた格好の獲物のような存在として目立ってしまったわけで、そういうことでしかないにしても、やはりそういうことまで含めて慣習が成り立っているわけだから、それを悪習と見なしてそんなことはやめた方がいいという気運が生じるとも思えず、節度を守れば少々はみ出すようなことをやっても大目に見てもらえるようなこととして今後も続いていくなら、今回の騒ぎもその程度のこととして世間に受け止められてしまうだろうが、それはそういうレベルではそうであっても、時宜をわきまえたことをやろうとするなら、それを慣習や恒例行事にさせないような成り行きが生じなければならず、それが実効性を伴った行動や活動に結びつかないと、無駄で意味のないことになってしまうわけで、国会議員の活動として何をやるかに関して、儀礼的な行事ばかりがその主要な活動になってしまうと、ではいったい何のために選挙をやって民衆の代表者として選ばれたのかということについて、うまくその正当性を説明できなくなってしまうから、それが儀礼的な行事となってしまうところでは、議員自身が自らが何のために議員になったのか、その使命や目的を改めて再確認してみることが肝要なのではないか。


8月7日「無思考型人間の思考」

 その言動から物事を深く考えていないように感じられる識者が言い放つ常套句としてすぐに思い浮かぶのが、このままでは日本が滅びるという類いの紋切り型的な煽動表現だが、意識してわざとそんなことを言い放っているのなら、何か戦略的に馬鹿を装っているのではないかと想像してしまうが、なぜ馬鹿を装う必要があるのかというと、馬鹿で浅はかな一般大衆から支持を獲得したいから、自らも馬鹿なふりをしていると想像できるわけでもなく、ただ単に当人の気づいていないところで思慮の浅さが露呈していると解釈してもしっくりくるわけでもなく、たぶん何かの拍子にそんな煽動文句が思わず口から出てしまうような成り行きに囚われているのではないかと解釈してみても、それ自体が解釈するまでもないどうでもいいことかも知れず、その人が述べている内容がそれだけではないことを考慮するなら、わざわざ揚げ足取りのようにしてそこを強調するのも公平さ欠いていることになり、ではそれ以外に取り上げるべき内容があるかというと、何かもっと魅力を感じる主張が示されているなら、それを取り上げて論じてみればいいだろうが、それが人を騙すような内容であれば、特に取り上げるまでもないことであり、たぶんそんな主張を真に受ける人がいるとすれば、その人が騙されているように感じられるから、そんな人を騙すような主張に魅力を感じるのかも知れず、しかもそれが騙されても構わない程度の取るに足らない内容であれば、誰もが喜んで騙されたふりをするかというと、そんなはずもなく、ふりをするのではなく、本当に騙されていることになるわけでもないとすれば、では何なのかというと、それを信じているのであり、特に信じていることを公言するわけでもないのに、信じるに足る内容だと思われるから、信じることを促されているわけでもないのに信じているのだろうし、騙されているから信じているわけではなく、騙されていることと信じていることが直接つながっているわけではなく、騙されているとは思わないし、それを信じていることも自覚していないのに、それでも信じられるような迷信が世の中に広まっていて、なぜか固定観念や先入観に囚われた多くの人々がそれを信じているから、そんな人たちが迷信の類いに騙されているように思われるのだが、当人たちは騙されているとも信じているとも思っていないわけだから、そう思うこと自体も思い違いになってしまうのだろうが、そんなわけで多くの人たちが迷信の類いに騙されていることを証明する手立てなどなく、そう思われてしまうこと自体も、おかしな固定観念や先入観に囚われていることの証拠なのかも知れず、そうやってどうでもいいような妄想に取り憑かれていれば、それについて考える手間も省けて、それが考えるまでもないことであって、考える必要さえないことであれば、誰も好き好んでそんなことなど考えないだろうし、考えないからこそ、その代わりに迷信の類いを信じていれば済んでしまうようなことになって、しかもそれを信じていることすらも自覚していないのだから、ただ漠然とそんな心境になっているなら、その心境というのがどういう心境なのかといえば、それがこのままでは日本が滅んでしまうような心境かというと、たぶんそんな大げさな心境になっているわけではなくても、何かの拍子につい口を滑らせてそんなことを口走ってしまうわけだから、しかも口走ってしまうのではなく、SNSなどにそんな内容を書き込んでしまうわけだから、それもその程度のことに過ぎず、それを取り立てて問題視してみても、事を大げさに捉えているに過ぎないことになってしまい、わざわざそんなことにこだわるのも重箱の隅をつつくような枝葉末節なことには違いないわけだが、たとえそれが誰もが漠然とそう思っていることであっても、そう思っていること自体が、特に深刻な事態をもたらしているわけでもないなら、その程度の迷信に惑わされていても構わないのだから、それを取り立てて〇〇に騙されるな!と煽り立てる必要もないわけで、それも常套句としてそんな表現を使って何かを主張するフォーマットが確立されているから、騙されても構わないのに、〇〇に騙されるな!と警鐘を鳴らすしかなく、警鐘を鳴らしたところで、騙されている人には馬耳東風であり、逆に自分は騙されていないと思いたい人が、警鐘を鳴らしている人の主張をもっともなことだと思うのかも知れず、そうやって警鐘を鳴らす人に騙されてしまうのだろうが、何かそういうところが茶番な印象を受けてしまい、そんなことを真に受ける馬鹿で浅はかな人が世の中には多いと思いたいなら、そんなことを思っている人こそが意外とたわいない迷信を自覚せずに信じていたりして、どちらにしてもその程度のことにこだわってしまっては、自分が批判している対象と自分の程度が同レベルであることを認めていることになってしまうのだろうが、しかもそれで構わないところが、何かそういう世の中でしかないというか、それ以上の何かを求めようとしても、それがない物ねだりになってしまうことも自覚できないところも、どうということでもないレベルで物事を考えていることの証拠と言えるかどうかもよくわからないが、もっと気楽になって、迷信を信じても構わないし、〇〇に騙されるな!と警鐘を鳴らしている人に騙されても構わない程度に思っておけば、それほど精神をこじらせることもなく、それを信じられると思うなら、そういうことを信じるように仕向けられている中で信じているわけだから、それ相応に世の中の情勢や状況に沿った心理状態となっていて、他の誰もが信じているように思われることを信じているような気がするなら、他の多くの人たちと同程度の心理状態だと思っておいても構わないだろうし、それで済むならそれに越したことはない程度に思っておけば済むようなことなのかも知れない。


8月6日「『資本論』を読まないマルクス主義者」

 マルクスが『資本論』の第一巻を書いて、マルクスの死後、その遺稿をエンゲルスが編集して第二巻と第三巻を出版した時点で、少なくともマルクスとエンゲルスが気づいていて、『資本論』を読まないマルクス主義者が気づいていないことが何かといえば、資本主義経済の被害者は何も労働者だけではなく、資本家も投資家も起業家も被害者であり、他の資本家や投資家や起業家との競争に敗れたり、投資詐欺に引っかかったり、銀行の食い物にされたりしながら、大半の資本家や投資家や起業家は破産したり没落してしまうのであり、『資本論』にはそういう面もちゃんと取り上げられているわけで、『資本論』を読まないマルクス主義者の主張のように単純に資本家と労働者の対立が強調されているわけではなく、弱肉強食の資本主義経済の中ではごく一握りの資本家と投資家と起業家が勝つだけで、大半の労働者と資本家と投資家と起業家は負けてしまうわけだが、当時も工場監督官のレナード・ホーナーなどの活躍によって、議会を通して労働者の権利が認められ始めて、労働時間の短縮や児童労働の禁止など、それに関連した法整備が着々と実現しつつあった最中だったのだから、現代に連なる資本主義経済下での労働者の権利や人権を尊重する傾向が確立し始める時期だったのだろうが、それと同時に19世紀後半は当時の覇権国であったイギリスの産業が空洞化し始めた時期でもあり、百年後に日本のバブルが弾けたように、イギリスでもアヘン戦争に勝ったりインドの植民地化に成功した後にバブルが弾けたのであり、中国やインドでの投資や事業がうまく行かなくなって、世界の工場と呼ばれた大英帝国も徐々に衰退して行った時期だったのだろうが、そんな経緯からわかることは、日本もイギリスに百年遅れて同じような成り行きを辿っている最中なのかも知れず、それを考慮すれば今の日本で国が滅ぶとか大げさに騒いでいる人たちも、だいぶ見当外れな心境に囚われているわけだが、安易な歴史観としては、イギリスがアヘン戦争を仕掛けて清王朝に大打撃を与えたり、インドを植民地化した上に大英帝国に併合したまでは伝えるのだが、その後にどうなったかまでは伝えないし、また『資本論』を読まない人ほど、またマルクス主義を否定的にも肯定的にも強調する人ほど、心理的に資本家と労働者の階級闘争的なおとぎ話の世界に迷い込んでしまうのだが、それで構わないのかというと、構うも構わないも、歴史的な経緯を直視するなら、産業の工業化というのは一過性の出来事であり、それも産業の種類や傾向にもよるだろうが、そういう成り行きを政府批判に転用したい人たちからすれば、政府の経済政策が失敗したから、また今も間違った政策を遂行しつつあるから、国民がひどい目に遭っていると主張したいのだろうが、そういう主張の全てが間違っているとは言わないし、逆にそんな主張の方が現状に照らし合わせれば、もっともらしく感じる面もあるわけだから、それを信用できるなら、そんなことを主張している政治勢力を支持すれば良いのだろうが、その一方で、そういうこととは別に、政府が国民を犠牲にしてまで自国の産業を保護したい思惑もあるだろうから、そういう思惑を感じ取れるなら、そんな政府や政権与党や政権与党をアシストする野党勢力まで含めて、それらを批判してみたり、実際に選挙の際にそれらを批判する政治勢力の候補者に投票すれば良いのだろうし、そういうことと産業の変遷とはかなり成り行きも事情も異なるにしても、政治が産業の変遷に囚われている面もあるから、そうした産業を利用する目的で、それに合わせた利権や縄張りを、それに対応する省庁など共に設定している現実もあるのだろうから、そこから贈収賄などの金権腐敗的な関係も生じてくるだろうし、そうなると特定の産業分野に依存する族議員や、その産業分野に対応する省庁の官僚などは寄生虫のような存在であり、それをさらに範囲を広げれば、根本的には政府や国家や国民の血や養分を吸う寄生虫が政治家や官僚や公務員なのだろうが、そしてそういう論理を都合良く敷衍するなら、労働者の血や養分を吸う寄生虫が資本家や投資家や起業家だと主張すると、もっともらしく感じられるだろうが、そういう面を強調すればそう思われるとしても、それとは別の面もあって、それにマルクスやエンゲルスも気づいてしまったから、二人とも資本家と労働者の階級闘争的なおとぎ話を捨てざるを得なくなってしまったのだろうが、山本太郎もそんなおとぎ話を信じているかどうかはともかく、主張の中で盛んに資本家という言葉を使って、それと敵対する立場を強調しているわけだから、それを戦略的に利用していることは確かなのかも知れないが、それ以前に大前提として、労働者も資本家も投資家も起業家も銀行家も、資本主義経済の中で経済活動に参加しているわけで、もちろん労働とは違う方面での活動を担っている消費者も参加しているわけだが、それらが一方的に搾取されたり搾取したりする関係に基づいた階級闘争なのかというと、それよりは一心同体的な関係でもあるわけだから、それらの役割分担の中でお互いにお互いの立場を尊重しておいた方が無難なのかも知れず、それが利害の面で敵対し合うとしても、そういう面での矛盾を認めた上で付き合って行くしかなく、それに関して安易に敵対してくる役割を想定しながら、敵対者の〇〇に騙されるなと煽り立てる者もいくらでも登場してくるだろうが、ある意味で騙されないと経済活動が成り立たない面もあるわけだから、ゼロサムゲーム的には儲かっている立場の者たちが損している立場の者たちを騙していることにはなるが、それが共存共栄が強調される面では、絶えず未来へと向かって利益を先取りするような一心同体的な関係でもあるのではないか。


8月5日「茶番とは言えない現状」

 何かこれまでの言動に関して反省しなければならないことがあるかというと、現状を茶番だと言い過ぎてしまっては、認識が実態からかけ離れて行って、ネトウヨみたいな屁理屈をこねくり回して何か言いたげな人たちが現状の中ではそれほど間違っているとも思えなくなり、そんな人たちの付け焼き的な知識に依存した言動が現状の時代状況をそれなりに正確になぞっているようにも思われてきて、この時代の傾向がそういった屁理屈のような主張や意見に集約されていると見なしておけばいいような気がしてしまうのだが、それが間違った認識だとしたら、そんな認識に取り憑かれている自身も軽薄な時代状況の虜になっている可能性もあり、それに反論を試みている一見筋の通った正しいと思われるような主張をSNSなどで拡散しているつもりの反体制的な政治家や識者の類いの方はどうなのかというと、それらの人たちもネトウヨ的な表現形態の人たちと同様にそれほど間違っているとも思えないのだが、それが間違っているとは思えないということ自体が、現代という時代状況から得られるもっともらしい印象に過ぎず、他に何を意味しているとも思えなければ、そんな印象や感触を得ているに過ぎないことが、それでは何か不満なのかというと、たぶん不満だから印象や感触以上の何かを求めているというのも、ない物ねだりに過ぎないことだが、それに関してもっと客観的に現状を捉えようとするなら、その客観性自体もあまり信用に足る概念ともならない可能性もありそうだが、政治自体が物事の本質に関わっているとは言えず、では何が本質なのかといっても、果たしてそれが何の本質なのかもよくわからないのだが、枝葉末節な問題提起を繰り返すのが政治の本質であるなら、政治について語ること自体が暇つぶしの娯楽でしかないとも言えるが、その暇つぶしの娯楽に興じているのがネトウヨのようなどうでもいい人たちだけではなく、まともな主張や意見を体現しているように感じられる政治家や識者の類いでさえも、どうでもいいような存在でしかなければ、では世の中を動かしている主体というのがいったいどんな存在なのかと問えるわけでもないのだが、意外とそれがそんな人たちの言動にいちいち律儀に反応するような人たちではなく、それらを無視できる人たちが世の中を動かしているわけでもないとしても、世の中を動かしている主体など存在せず、ただ単に世の中が自律的に動いているに過ぎず、それが絶えず動いている表層に映し出されているのが、それらの人々の言動であり、そんな表層的な言動にいちいち反応して、屁理屈をこねくり回して反論を試みてしまうのが、ネトウヨ的な思考の持ち主だと見なしておいても構わないだろうが、それらが物事の本質からかけ離れたところで何かどうでもいいようなことを言っているように感じられてしまうことが、果たしてこの時代を代表するような言説の内容だと言えるのかというと、もちろんそうではないと言いたい話の流れの中でそんなことを述べているはずなのだとしても、逆に開き直って、この時代を代表する言動がネトウヨ的な言動なのだと言い放つような態度でいる方が、この時代の茶番な雰囲気を的確に捉えていることになるのだろうが、その程度で構わないのかと問うなら、そうではないと一応の反論を用意しなければならないのだろうが、それに関して何か思い当たるような他との違いが際立つ言動があるわけではなく、それよりはこの時代にふさわしい人の言動そのものが具体的に何を対象としていて、その対象となっている物事について語る必要があるのだが、それがこれ見よがしに良からぬ行為や行動となれば、批判の対象となるより他はあり得ないのだが、果たして何か意図してこれ見よがしにメディアを通じて良からぬ行為や行動を見せようとしているのだとすれば、他の何かから注意を逸らすためにそんなことがバラされているのであり、そんなふうにしてバラされている悪事にいちいち批判と共に反応する必要があるのかというと、それもそんなことはないと述べたくなってしまう話の流れの中では、そんな必要などない理由を挙げなければならなくなってしまうのだが、理由を挙げられなければ話に説得力がなくなってしまうとしても、現状ではそれでも構わないような気がしてしまうわけで、時代状況に踊らされて、いちいちそう言われてみればごもっともな批判や反論を試みてしまうと、それこそが暇つぶしの娯楽のような感じになってしまうわけで、そうやって話に説得力を持たせるために枝葉末節な工夫を凝らさなければならない成り行きに囚われてしまうのが、現代的な傾向にふさわしい人の言動となるなら、そうするのが面倒くさいと思うならさっさとそこから外れて、それとは別の方面から考えてみる方が有意義だと思うなら、やれるものならやってみればいいが、やれない人たちが現状で煽り立てられているメディア経由の茶番劇に参加せざるを得ないのだとしても、その中で次から次へと目まぐるしく批判の対象が取り上げられた末に、結局は大山鳴動して鼠一匹な結果に愕然とするしかなく、何か黒幕のような存在が狙ってそんな茶番劇を仕掛けていると陰謀論を展開してみても、展開している途中からそんな思惑でさえも当てが外れて、事態の収拾がつかなくなってしまうのが関の山だとしても、それ自体が政治の枝葉末節な実態を物語っていて、政治がたわいないからこそ、誰もが政治に関心を惹かれて、不祥事のような出来事に反応して批判を試みてしまうのだが、もちろんたわいないわけがなく、真剣に取り組むべきことのように思われるから、真面目になって政治に対して率直な意見をぶつけたいと思ってしまうのだが、ぶつけたところでまともな返答が返ってくるわけでもないところが、政治の茶番性を物語っているように感じられてしまうのだが、それでも多くの人々が寄ってたかって、政治を台無しにしようとしているわけだから、誰かがそれを破壊しなければならない衝動に駆られていると見なすしかないような現状なのではないか。


8月4日「微妙な狂気」

 この世界の中で何かが狂っているのではなく、案外何も狂っていないのかも知れないと思うわけでもないが、少なくともそうなって当然のようなことが起こっているから、それを狂っていると解釈しても構わないのかと自問自答したいわけでもないが、側から見れば狂っているように感じられることでも、その当事者ともなれば、その人なりに必死に対応していることは確かで、それも常識に囚われている中での対応だと言えるから、特に非常識なことをやっているわけでもなければ、常識の範囲内でも狂っているように見えるとしても、その人の都合で常識から外れたことをやらざるを得ない状況に追い込まれていると解釈すれば、そんな事情を考慮できる範囲内では狂っているわけでもなく、狂っているように感じられることをやらざるを得ないから、実際に狂ったことをやっているとしても、至って正気でそんなことをやっていると解釈しても、そんなことをやっている人の言い分を考慮に入れるなら、それほどおかしいとも思えず、狂っているとしても正気で狂っていることになり、当人が狂気に囚われているわけでもなく、結果的に辻褄の合わないことをやっているとしても、そんなことをやっている当人の頭の中では辻褄が合っているのであり、当然そんなことをやっている自身は正気だと思っているだろうから、後はそれを狂気の所業だと思っている人たちと戦うしかなく、戦いたくなれば交渉しながら説得するしかないが、意見や見解の相違など他にいくらでもあるはずだから、無理にそれを一致させる必要もなければ、そのまま放置しておいても構わないわけだが、そうやって当事者のやれる範囲内でどう見ても狂ったことが行われている現状の中で、それに輪をかけてさらに狂ったことが主張されているとしたら、それも常識に囚われた人がそう感じられる範囲内で狂っているように思われる程度のことなのかも知れないが、次第に従来からある常識が通用しなくなってきて、時代が動乱期に入っているのかも知れず、それを招いているのが何かといえば、感染症の世界的な流行やそれに続いて起こった大規模な戦争なのだろうが、直接にはそう思われるとしても、心理的にはそれとは別の方面から原因や理由を求めようとする人もいくらでもいて、何かその人の都合と世界情勢が合致するようなことを主張したくなってくるわけで、それがその人が狂気に囚われていることを示す明確な兆候になればわかりやすいのだが、誰がそれをはっきりと示せるとも思えず、そういう面では全てが曖昧なまま、何とでも言えるようなことになってしまいそうで、それを延々と言わせておくシステムがSNSなのだから、実際にそれなりに多くの人たちがそんなことを延々と述べているわけだが、それを黙らせることはできず、黙らせる必要もなく、何やらそれが言葉と時間の浪費のようにも感じられるが、そんな所業にも一定の傾向があるようにも感じられて、似たような傾向の人たちが同じようなことを延々と主張する傾向があるから、そういう傾向にも流行り廃りが生じてくるのだろうが、流行り廃りが生じていること自体が、その中で同じような傾向の人や団体が競合して、そこで絶えず競争が起こっていることを示していて、多くの人や団体がそこで行われている主導権争いに参戦しているわけだが、他にどう捉えればしっくりくるわけでもないが、もっと大きな枠組みから見れば、資本主義経済の中で起こっていることには違いなく、参加している人や団体の大半は、利益を得る目的へと誘導されて、それが直接の目的ではないものの、大なり小なり経済活動に関わることによって成り立つように仕向けられているから、主張の内容がそれとは全く関係がなくても、全てがそれなしでは済まないような仕組みの中で行われていることであり、そんな傾向を受け入れた上でやっていることだから、どうあがいてもそういう傾向へと誘導されて、意識の中ではそれに逆らいつつも、活動そのものがそれとの結びつきから逃れられないから、言っていることとやっていることが矛盾してきてしまうのはやむを得ず、そんな矛盾を受け入れているつもりがなくても、受け入れていることを前提で活動が成り立つように仕組まれているわけで、だからそこで誰かが狂気に囚われているとすれば、矛盾を矛盾として受け入れないから、それが狂気に囚われているように見えてしまうということなのだが、その一方でそれに気づけないという戦略もあるわけで、それが馬鹿だから気づけないということではなく、戦略的に馬鹿を装っているから、もちろんその自覚がなくても気づけなくても仕方がないように見せかけようとしていると言うと、当人がそんなことを意識しているはずがなく、自覚なき戦略としてそういう姿勢を保っているからそう見えるだけで、そういうところを突いて当人に直接問いただしても、元からその自覚がないのだから、何のことやらさっぱり理解できないことになってしまい、知らぬが仏という諺の使い方がそれで合っているかどうかは怪しいところだが、それを知らぬが仏戦略と命名してみてもピンとこないだろうし、そういった自覚なき戦略に取り憑かれていることを、もちろん本人が自覚しているはずがなく、それが現状で多くの人たちの姿勢や態度から透けて見える程度には感じられる狂気の正体なのかも知れず、それをもっと正確に言うなら、狂気に囚われているのでも取り憑かれているのでもなく、狂気を演じているのであり、しかもそれを演じていることに気づけないわけだから、実質的には狂気でも何でもなく、皆がただの茶番劇の中で右往左往しているコメディアンに過ぎないのだろうが、演じている当人は至って愚直で真面目に自らにふさわしく振る舞っている気でいるところが、それを茶番劇に仕立て上げている要因なのかも知れない。


8月3日「死を食い止める意味不明」

 それが逆説的にその種のメディアでよく言われることであり、何か遠い未来において人類の文明の痕跡が何も残らないと言われていることであっても、現代に生きる人にとっては、それがどうしたわけでもないとは思いたいが、それで何か不都合なことがあるのかと問われるわけではなく、特に何が不都合なのでもなく、ただのありふれた感想としては、誰かの何か言いたげな眼差しに圧倒されているわけでもないにしても、それについて思わずコメントを記したい衝動に駆られるのは、そんなことではなく、無名の一般人のたわいない意見や言動などに、それほど大げさな意味があるとも思えないのだが、それよりは時が経てば人類の文明など大した意味や意義もなくなってしまうことが、いつ明らかになるとも限らないが、その程度のことと他の何を比べてみても、それも大した意味も意義も持ち得ないように感じられる一方で、それとこれとを強引に比較して何か述べるようなことでもないのだが、誰かが自撮りしている画像から、何やら執念のようなものを感じると共に、それが勘違いかも知れないが、その際のヤバさというのが、なぜかその人の間近に迫っている死を想像させられて、何やら思わずそこにコメントを記したい衝動に駆られてしまい、そのヤバさに引き込まれるようにして、罠でもない罠に引っかかってしまったようにも思われて、そのヤバさというのが何なのかといっても、罠でもないのに罠に引っかかったように思われるのも、ただの勘違いには違いないのだが、人助けというのは、結果的にそれが人助けになるようなことになればそれで構わないのだが、もちろん誰もそれで構わないとも思っていないのだろうし、それが不条理なところかも知れず、結果的にそれによって助かった当人も助かったとも思えないだろうし、結果的には助かっていることにも気づけないのだとしたら、それが人助けだとも思われず、しかもそれが恒常的に成り立つ論理に基づいた行為というわけではなく、ただの偶然の巡り合わせに過ぎないことでもあり、時宜を逸してしまえばうまくいかないことではあるものの、そうなったところでうまくいったとも思えないし、時宜に適ったことをやったとも思えず、それよりは何か無礼なことを言ったと思われても当然のコメント内容なのかも知れず、それでも果たしてその人の間近に迫っていた死を食い止めることに成功したと言えるのかといっても、誰もそうは思わないし、自身の死が間近に迫っていた当人もそうは思わないだろうから、それが人助けだとも思われないのも当然だろうから、実際にそうは思われないようなことをやってしまったことになるかどうかも明らかにはなっていないわけだが、ただそこでコメントを記しておかないとヤバいような気がしたから、そんなコメントを記したと結果的に思われるとしても、だからといってコメント内容もあからさまに何をどうしろといった内容ではなく、もちろん死とは全く関係のない内容だったはずで、なぜそう思われるのかも意味不明だが、結果的にはそれで助かったような雰囲気を感じられるとしたら、それが全くの思い違いだとしても、それで構わないとも思えないが、結果的にはそうなのであり、誰も構わないとは思わなくても結果的にはそれで構わないことになるなら、そんなのは嘘には違いないのだが、嘘でも構わないからそう思っておけばいいわけで、それがその場の状況に応じた態度になるかどうかもよくわからないが、特にうまくいったわけでもないのにそう思っているわけだから、確かに勝手な思い込みには違いないわけだが、それがうまく行ったことにもやったことにもならないが、結果的にうまく行くには、うまくやろうとするのではなく、その場の成り行きに沿ったことをやっているつもりにならなくても、逆にその場の成り行きに逆らってしまい、周囲との間で様々な軋轢を経験してみないと、わからないこともあるのだが、しかもそれがわかったところで何がどうなるわけでもないところが、何か無駄で無意味なことをやっているような気もしてしまうから、失敗を認めざるを得ないとしても、そんな失敗を繰り返さないとわからないこともあるから、いくらでも失敗を繰り返しても構わないわけでもないのだが、失敗を繰り返しながらも前進しているような気もしてくるなら、それも勘違いには違いないのだが、その時点ではまだ失敗を繰り返すことが許容されていると思うしかないから、さらにそこから前進できるような気もしてくるわけで、それが泥沼にはまり込むきっかけとは言えるだろうが、いったん泥沼にはまり込んでも、そこから抜け出すことができるなら、抜け出したつもりになっているからそんなことが言えるのだとしても、抜け出してみれば泥沼も大した泥沼でもなかったと思われても、実際に泥沼から抜け出せずにもがき苦しんでいる人を見れば、何かゾッとするものを感じてしまうが、泥沼自体が比喩表現でしかないから、それが実際の泥沼ではない限りで、泥沼ではない何かを泥沼に見立てて、勝手なことをああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返しながら述べているに過ぎないわけだから、そうなっている時点で大した意味も意義もないような気もしてきて、そう思われるような意味や意義自体も幻想には違いないとしても、それでも肯定的な感触を得られるなら、そこに幻想を抱けるような意味や意義を見出したいわけだが、どうすればそうなるのかと問われても、それもその場で生じる成り行き次第で、物事の偶然の巡り合わせだけではないにしても、人の努力や尽力によって真っ当な効果や成果がもたらされているように見せかけたいのだろうから、しかも見せかけたいというよりは、確かな効果や成果を実感したいわけで、それがない物ねだりにならないことを願うばかりだが、そんな第三者的な逃げの視点から物事を述べてみても無責任に感じられて、何か投げやりな態度で物事に接しているような気もしてくるわけだが、どうしても情熱とかそれらしい情念や執念が感じられるような行為や行動などが特定の人物に伴ってくると、その人にそう遠くない未来にもたらされる死という出来事を想像してしまい、何となくそこにそんな想像に沿ったコメントを付け加えて、それによってその人を助けたことにはならないとしても、少しは気休め程度の作用や影響を及ぼすことができたような自己満足感を得られるのかも知れない。


8月2日「安易な比喩と深刻な現実」

 気のせいかも知れないが、社会の仕組みが人をそこへと縛りつけているように感じられるとしても、そこで作動している何らかのシステムがその人を活用したいから縛りつけていると考えれば、何か納得できるような気はするが、それが気のせいだとすれば、何かそこに勘違いが潜んでいるかも知れないし、実際にシステムの拘束から逃れて自由に生きている人の存在を想像することもできるが、それもある面では確かに自由に生きているように見えるかも知れないが、その人が社会の中で生活している限りは、何らかのシステムに縛りつけられていると同時にその恩恵にも与っているから、その人が社会によって生かされていると考えれば、それなりに納得がいくだろうが、受動的に生かされているよりは、積極的に社会を活用しながら生きているといえる面もあるだろうから、どちらの面を強く意識するかはその人の立場や境遇にもよるだろうから、どちらでもあって、両面からその人の活動が成り立っていて、その人が一応は社会から必要とされていて、しかもその人の代わりなど他にいくらでもいるようにも思われるなら、その人の存在が特に希少なわけでもないが、人によってはかけがえのない存在であるようにも感じられて、誰もがそうなるわけでもなく、確かに自己中な人なら耐えず自らがかけがえのない貴重な存在だと思い込んでいるかも知れないが、大抵は稀にそう思われる時もあっても、それとは別の時には自身が大衆と呼ばれるカテゴリーに含まれるどこにでもいそうなありふれた存在だと思われる場合の方が多いのかも知れず、そんなふうに自身がありふれた存在だと実感させられるなら、社会情勢が多くの人々をそういう存在へと貶めているわけでもないとしても、人を投げやりな気分にさせる何らかの作用が社会の中で生じていると考えられるかも知れないが、それこそが気のせいだとしたら、では気のせいでは済まないことがあるかというと、実際に自身に関わりのある出来事が起これば、その程度や傾向によっては気のせいでは済まないわけだが、それを自分に関わりのあることだとは認識できなければ、気のせいで済んでいるように思われても、気がつかないところで気のせいでは済まない作用や影響を及ぼされていて、それに気づいていないのだからやばいのではないかと思うわけでもなく、かえって気づかない方が幸せだと思われるなら、気づいてしまうと深刻な実態を目の当たりにしてやばいと思ってしまうからかも知れないが、それに関して最近、日本政府や与党の支持者に向かって「肉屋を支持する豚」呼ばわりする人をSNSなどで結構見かけるようになってきたが、どうもそれが比喩としては不完全で、意識するしないに関わらず、深刻な面から目を背けている可能性を指摘したくなってしまうのだが、本当は養豚業者を支持する豚なのであって、さらに印象を良くしたければ羊飼いに導かれる羊であり、良い羊飼いは羊の群れを良く導いて、新鮮な草の生い茂る草原や豊富に水が湧き出でる水場へと連れて行くなら、羊も喜んで羊飼いによる搾取を受け入れるかというと、それがキリスト教の牧師とその信徒の関係に喩えられるとしても、それを意識するにしてもしないにしても、搾取されている側としては喜んで搾取されたくはないし、もちろん敵対する批判者から、お前らは搾取されている!と指摘されても、反発するだけだろうし、普通は耳を貸さないのだろうが、たとえ自らが社畜だろうと家畜だろうとそれを強く自覚していようと、果たしてそれに反発してすぐに社畜や家畜の身分から抜け出ることができるかというと、そうもいかないわけで、比喩程度ではどうにもならない事態の中で生活していることを自覚していなくても、実際に自らが直面している現実を受け止めるなら、たとえそれをはっきりとは意識していなくても、自らが直面する現実と格闘しながら生きているわけだから、それが単純でわかりやすい比喩などよりは、はるかに複雑で入り組んだ経緯や事情を抱えているから、それへの対応や対処で手一杯であれば、大して関わりのない部外者などから何を指摘されようと、そんなのは無視するのが当然だろうし、しかもそれがSNS程度で煽られている内容であれば、なおさらそう思われるかも知れず、それでも日本政府や政権与党や、最近では野党であっても第二自民党や第三自民党と揶揄される政党の支持者も含めて、それらを批判している人からすれば、彼らが悪い羊飼いであるのは明らかなのに、羊の群れを新鮮な草の生い茂る草原や豊富に水の湧き出でる水場へと連れて行こうともしないのに、お前らはなぜそんな悪い羊飼いの搾取を受け入れているのか?もういい加減に目を覚まして悪い羊飼いたちを日本から追い出すのを手伝ってくれよ!と煽られているかどうかも、何とも言えないところだが、たぶんそういうわかりやすい比喩では説明がつかないような成り行きの中で生きていることを誰もが実感しているわけではないとしても、そんな比喩など簡単に跳ね除けるようなリアリティのある現実に直面していることを意識しているわけではないにしても、どうもそういった家畜のような存在とは違っていて、だからといって野生動物の比喩ならしっくりくるというわけでもなく、少なくとも社会の中で暮らしている限りは、人は家畜や他の野生動物とは違う存在となっているから、そういった比喩では説明がつかない事情や経緯を抱え込みながら生きていて、それが人々の意識や活動に少なからず作用したり影響を及ぼしているから、そういう家畜の比喩にはそれほどリアリティを感じられなくなっているというか、逆にそういう比喩を安易に持ち出して現状を批判したい人たちも少なからず存在していて、そういう人たちにもそういうことを言わせようとする作用や影響が社会のどこからともなく及ぼされていると解釈しておけばいいのではないか。


8月1日「通貨の発行と税の徴収」

 よくありがちな傾向として、何かもっともらしいことを主張をする人に特有の傾向があって、それを目的論と言ってしまうとキリスト教の神学論の類いにも通じる傾向となってくるかも知れないが、どうもそれが怪しいから、とりあえず目的論を避けたいという思惑が絡んでくると、そこから目的論に囚われてしまった人とそうでない人との間で認識に違いがあることが明らかとなってくるらしいのだが、それに関して例えば通貨の発行と税の徴収をやっているのが政府であることは確かだとしても、それらの役割や機能を過大に評価し過ぎてしまってはまずいような気もしてくるのだが、それ以前に人が思考する際の癖として、結果を原因だと錯覚する傾向があり、そういう傾向に囚われてしまう人が、ただの成り行きでそうなってしまったことについて、後からもっともらしい目的を当てはめようとしてしまうわけで、そういう人がよく主張する論理として、通貨の発行にはこれこれこういう目的があり、税の徴収にはこれこれこういう目的があると決めつけて、そういう目的があることを前提にして、その人が信じられる論理を基にして主張を構成してしまうと、〇〇の意志に基づいた国家の構築が可能であるかのような錯覚も生じてくるかも知れないが、それを錯覚だと決めつけるのも、そんなことを主張している人の価値を貶めているようで心苦しいのだが、現状ではあたかも通貨の発行権を政府が独占しているかのように感じられるかも知れないが、そういう前提が錯覚であり、実際にビットコインだのイーサリアムだの〇〇ポイントだのと、任意の団体が、それが主に企業となる場合も多いかも知れないが、世界中で勝手に通貨の機能を果たしそうなアイテムを発行している実態があるわけで、それらの通貨もどきが普及してしまっては主導権を奪われてしまってまずいから、政府が規制しようとするわけだが、そもそも通貨を必要とする物や情報やサービスの売買や貸借は制度というよりは慣習であって、その慣習に法の網をかぶせて政府が主導する制度であるかのように見せかけようとしている実態があり、そういう面で政府の目論みは初めから破綻していると言うと言い過ぎだが、その一方で税の徴収という行為も、あたかも通貨の発行と一体化した制度であるかのように見せかけられてはいるが、それは近代の政府が農産物や資源や貴金属などの物納をやめて、税も通貨で徴収するようにしたから、何やら後づけ的に通貨の発行と税の徴収が一体化した制度であるかのように感じられるだけで、そこからさらに政府が通貨の発行量と税の徴収配分と政策金利の上げ下げなどを駆使して経済を主体的に制御できるかのような錯覚も生じてくるわけだが、それも錯覚だと決めつけるわけにはいかない理由が、目的論に囚われた人たちから後づけ的に主張されるわけで、そんなややこしい観念に取り憑かれた人たちの主張をどう捉えれば納得がいくのかといっても、納得がいかないから心苦しくもこんなことを述べてしまうのだが、後はそういう人たちの勢力が政権でも取ってから、自分たちの主張に基づいた政策を遂行してもらうしかないとしても、たぶんそういうことも含めた成り行きの中で後づけ的にもっともらしい論理も導き出されてくるだろうし、それが人によってもその人の立場によっても信じられる論理となれば、そうした論理を基にして、これまたもっともらしく感じられるような主張も生じてくるのだろうが、そもそもの目的は通貨の発行権を政府が独占して国の統治をやりやすくしたいと想像することはできるし、政府が活動していくには税収が必要だと思うのも当然だろうし、実際に昔は領地にいる農民から米や麦などの穀物を物納させて、それを領主が商人に売って富を蓄えたわけだろうし、そういった歴史的経緯から想像される目的とは違う目的が、もっともらしい論理を駆使する人たちによって新たに後づけ的に導き出されてきて、それを信用しろ理解しろと言われても、そういうやり方に納得する人はあまりいないかも知れないが、そういうのは頭でっかちな人の屁理屈だと切って捨てるのも、ちょっともったいないような気もするから、理解できる範囲内で信じているふりを装っておくのが無難なところかも知れないし、そういうところで思考の柔軟性を確保しているつもりにはなれるが、その一方で新たに導き出されたもっともらしい目的というのが、何か厄介な印象を伴うわけだが、やはりそれもそういうもっともらしい論理や目的に基づいてそれらの勢力が活動していく過程で、そういった論理や目的が世の中で受け入れられて行く成り行きになってくれば、観念として多くの人々の意識の中に定着するかも知れないから、それが迷信のままに終わるか、それとも理性や悟性の助けを借りて制度の中にも取り入れられるかは、今後の情勢次第だが、後の時代になってミシェル・フーコーのような人物が出てきて、司法制度と監獄制度の不可解な結合を論じたように、通貨の発行と税の徴収の不可解な結合を論じるような成り行きになるかどうかも今後の成り行き次第なのかも知れないが、それも結局は、司法制度と監獄制度の結合が、司法制度の理念の形骸化を招いた一方で、監獄制度がかえって犯罪の蔓延化と社会の収容所化を招いたように、なぜか当初の目的から逸脱するような事態を招いて、それを論じる識者が困惑するばかりとなってしまう可能性もなきにしもあらずだが、それもそうすることが悪いというよりは、それが悪かろうが良かろうが、誰の制御や思惑からも逃れて、否応なくそういう成り行きになってしまうから、積極財政論者やMMT論者が論じているもっともらしい理屈が、迷信に終わろうと実態を伴った制度として実現しようと、それを論じていること自体に切実な願望が伴って論じていることでもあり、彼らにはそれを信じるだけのちゃんとした根拠も、それについて熱弁を振るうだけの理由もあるわけだから、それ自体を否定するのも、ちょっと違うような気もするわけで、それよりはそういう理屈が他の大勢の人々に受け入れられた先のことに興味があるのだが、もちろんそれが世の中の全てではないし、あくまでも部分的な側面に過ぎず、政府が力を及ぼせる範囲も限られているから、法律や制度の隙をついて勝手に〇〇ポイントとかいう通貨もどきを発行して顧客の囲い込みを図ろうとする企業も存在しているし、税金逃れの手段として仮想通貨に手を出そうとする人も出てくるだろうし、それが制度以前に慣習として機能しているから、いくらもっともらしい理屈を当てはめてみても、そんな理屈など平気で無視して、そこからずれるような作用も伴ってくるわけだ。