彼の声134

2019年

8月21日「言葉のやりとりが招く事態」

 何かを語ることが、それを語っている人や語っている対象やその語りを聞いたり読んだりする人に、何らかの作用や影響を及ぼすことになるかというと、作用や影響を及ぼそうとして語っているのなら、当然のことながら何らかの作用や影響が及ぶはずだろうが、それが記された文章となっていれば、その場での言葉のやりとりには発展しないだろうし、ただ一方的に記された文章を読むだけでは、作用や影響を受けるのはそれを読んでいる読者に限られるはずだが、そうやって何らかの作用や影響を受けるとしても、それを記した作者が意図したとおりには読んでくれないかも知れないし、文章読解力のない読者なら、それが難しい内容だと読んでも理解できないのかも知れず、たとえ理解した気になっても、それが間違った理解になってしまうかも知れないし、また文章読解力がある人が読むと、作者の意図したこととは異なる解釈を得る可能性もあるだろうし、作者が気づかなかったことを読者が発見してしまう場合もあり得るのかも知れず、そんなふうにして直接語る場合と文章を記す場合とで、それを受け取る人の反応や動作が異なるのは当然だとしても、そういった差異を考慮に入れないと、何か単純化した解釈になってしまう可能性があるわけだが、それも語っている内容にもよるだろうし、単純な内容なら、語っている内容と文章として記された内容が大して変わらない場合もあるだろうし、それはそれでかまわないのだろうが、それが直接語っていることであり、また特定の相手と対話するような状況であれば、相互作用としてお互いに作用や影響を及ぼし合うようなことにもなるだろうし、それもその場の状況にもよるだろうが、そうやって日頃から頻繁に言葉を交わし合っていると、お互いの立場や社会的な地位などから生じる制約や背景や脈絡などよりも、言葉そのものから生じる文法的な制約や文そのものに生じている意味や意図などの方が優先される傾向になってくるのかも知れず、それも一応はその場の状況にもよるだろうが、実際に言葉を使えば使うほど、意識が言葉に依存するようになるだろうし、何かそういうところで言葉の使用に関する自在さや便利さと、実際の行為や行動に伴って生じる物理的な制約や制限などとの間で、うまく折り合いがつかなくなってきて、そうなると意識が自然と行為や行動を言葉の使用に合わせようとするわけで、結局そんなふうに思ったことを現実の世界で実現できるようにするために、科学技術や産業技術などを使って、実際に述べていることを物質的に実現させようとするわけで、そういうところで従来からある常識的かつ慣習的な限界や制約を突破しようとして、そんなことをやっている過程の中で、次第に合理的な思考に基づいた合理的なやり方が編み出されてきて、それと入れ替わりに、人の意識を拘束している伝統的かつ宗教的な慣習が廃れる傾向にもなるのかも知れないが、もちろん一方的にそうなるわけではなく、伝統や宗教を重んじる勢力からの巻き返しや揺り戻しなどのせめぎ合いが起こるだろうし、そういった過程もジグザグに推移するのかも知れないが、そこでも物事を単純化して捉えて、功利的に都合のいい面をあおり立てるような成り行きにもなるだろうし、そんな中で最悪なのが、非合理な伝統的かつ宗教的な面を保持しつつも、科学技術や産業技術を活用して功利的な面を追求しようとすることであり、果たしてそれで世界的に通用するのかとなると、それは日本の現状が物語っているところでもあるのだろうが、その現状をどう捉えるかも、捉え方によっては評価や見解が分かれるところでもあるだろうし、たぶんそんな現状を肯定的に捉えたり否定的に捉えるのではなく、現状の中で無理な面があるとすれば、それは必ずしも功利的な技術の使い方が合理的とはいえないところだろうし、また功利的な伝統や宗教の活用も合理的とはいえないところでもあるのかも知れないが、それに関しては地域に特有な伝統や宗教にこだわっている限りで、そういう面での世界的な普遍性をもたらせず、それがその地域の中では功利的な利益をもたらすかも知れないが、地域を離れたところでは通用しないのかも知れず、それが中途半端な国際的な地位や立場をもたらしているのかも知れないが、たぶんそういった面も長い時間をかけて徐々に変わっていくのかも知れず、そこでもいかに言葉を使って対話や交渉などを続けていくかで、その程度や傾向によっては他の地域との差異や格差となって顕在化してくるのかも知れないし、現状では伝統や宗教などの方面からの抵抗も根強く残っているのかも知れないが、それも他の地域と交流して行くにつれて、そこで嫌でも言葉を使った対話や交渉をおこなわざるを得ないわけだから、次第に世界の標準的な傾向によって馴らされていくのかも知れず、それは一方的に世界から侵略を受けるというよりは、世界に向かってこちらから積極的に出て行く成り行きも生じてくるだろうし、実際にスポーツや文化などの方面ではそういう成り行きになっているわけで、そういったところが突破口となって、現状では立ち後れている政治や行政などの面でも、徐々に世界標準へと近づいていくのかも知れないが、現状では世界の側でも様々なところで地域的な抵抗に直面している状態だろうし、それも武力行使などによる軍事的な抵抗が徐々に行き詰まってきて、それに代わって言葉を使った交渉や調整が主流となってくるような傾向となっていれば、結局そこでも地域的な伝統や宗教などよりも、言葉を交わすことから生じてくる合理的な思考の方が優勢となってくるのかも知れないし、そういう面では人や物やサービスを組み合わせた交流が盛んになってくるほど、その際に言葉を使わざるを得なくなってくるから、それだけ意識が合理的な思考にとらわれる可能性が高まるのかも知れず、そこでは確かに交渉が決裂に終わることもあるだろうが、たとえそうなったとしても、少なくとも言葉を交わしているわけだから、相手の話を理解しようとはしているわけで、理解できれば了解し合うだろうし、そこで相手の提案を受け入れるか拒否するかのどちらにしても、一応は相手の話の内容を理解しようとはしているわけで、そんなふうに相手の話を理解しようとすること自体が、合理的な思考からもたらされる成り行きになるわけで、結果的に相手の話を理解するほど、話し合いを継続させようとするのではないか。


8月20日「主張の程度」

 述べていることが正しかったり間違っていたりどちらとも言えなかったりすることが、何らかの主張に対しての評価として下される可能性があるだろうが、それとは違って何かを告白するということは、嘘をついていなければ、普通は真実を述べていることになるだろうし、またその場の状況や情勢を語ることは、それが勘違いや見間違えや思い違いなどでなければ、やはり普通は真実を述べていることになるはずだが、それに対して何かを主張することは、場合によっては何かをやらせることにも結びつくだろうし、実際にその主張を真に受けて何かをやる羽目になった人に対して責任を負うことにもなり、結果的にそれがうまくいかなければ、主張が間違っていたことにもなりかねず、そうなるとそんな主張をした人の社会的な信用が失われることにもなるだろうし、そういう意味では何かを主張することに関しては、その主張が信用できるか否かとか、その主張を他の人や団体が受け入れ可能か否かとか、主張している当人が主張通りのことをやっているか否かとか、そういった様々な面で他の人や団体などの判断や評価が伴ってくることでもあり、またそうはいってもメディア的な現状では、世の中に出回っている大半の主張は無視される程度のことであるだろうし、実際にSNSなどで主張するだけのための主張なら、世間から相手にされないような主張がほとんどを占めるのかも知れず、あるいはそういう主張をするのが専門の著名人などの主張に、一般の人たちが支持や賛同を表明したり、あるいは批判や非難を浴びせたりするだけにとどまり、それは他の人や団体などから評価されて、主張通りのことが実行に移される以前に、さっさとメディア上で消費されて使い捨てられるだけの主張となっているのかも知れないが、そんなふうに何かを主張することが見世物的なパフォーマンスとなっているようなら、実質的な内容は伴っていないわけだろうが、実際に他の人や団体に見世物的なパフォーマンス以外の実質的な活動を誘発させるような主張がどんな主張になるのかといえば、それはにわかには想像がつかないことにもなりそうだが、もしかしたらそれがあからさまな主張であるよりは、何らかの告白であったり、あるいは単に状況や情勢を分析しながら語る行為であったりして、何かそういう語りの中で、それを受け取る人や団体に何らかの行動を促すように仕向ける内容が含まれることもあるのかも知れず、それもあからさまなあおり立てというよりは、一見どうとでも受け取れる内容であるのに、それを聞いた後からじわじわと利いてくるような内容であったり、そういうのは意図的な仕掛けではない場合の方が多いのかも知れないし、そういう面を考慮するなら、何が何でも反対デモや抗議集会などに結びつかなくてもかまわないだろうし、そういうところであまりに形式にこだわって、無理矢理見世物的なパフォーマンスをおこなうのはかえって逆効果にもなりかねないし、そこで成り行きの自然さを装うのは難しいとしても、装うのではなく自然の成り行きに任せることが肝要な場合もあるだろうし、あまり余計なお節介を焼かないで、時には突き放してみることも肝心かも知れないが、そういった態度や行為もその場の情勢に合わせないと、不自然でぎこちなく見えてしまうわけで、いずれにしてもそれに関してどうすれば良くて、何をやってはいけないのかということが、はっきりとはわかっていないのが普通だろうし、そんなわけで何をやるにも手探り状態になってしまうのは致し方ないとしても、はじめから大して成果を期待できなければ、たとえ他から無視されて相手にされないような主張であってもかまわない場合もあるのかも知れないし、あるいはその手の著名人の主張を真に受けて、それに賛同してもかまわない場合もあるだろうし、そういう場合はそんなことをやっている自らが大したことはやっていないことを自覚しておけばいいことでしかなく、別に自らがメディア上で主導権を握っているわけではないのだから、その程度のことしかできないことはわきまえておくべきなのかも知れず、それでは不満だろうが、不満があることを自覚できるだけでも正気を保っている証拠かも知れないし、そもそも言葉だけで何かを主張している限りで、それは実際に何かをおこなうのとは次元の違うことであり、また何かをおこなうことに関しても、大げさなことから些細なことまで様々な程度と内容があるだろうが、実際にそれとこれとが無関係であれば、言葉だけで主張することに関しては行動が伴っていないことにもなるだろうし、また何かをおこなっていることが主張とは別におこなっていることにもなるわけで、それはそれでそういうことにしかならないのかも知れないが、両者を無理に結びつけなくても済んでいるならそれでもかまわないだろうし、また主張が気休め程度でおこなっていることであり、それとは別に本業としておこなっていることから実質的な利益を得ていることになるなら、それはそういう成り行きになっていることでしかなく、そういった活動のあり方も一応は認めないと、是が非でも言っていることとやっていることを一致させなければならないのなら、何も自由に主張できなくなってしまうだろうし、そういう面では欺瞞や偽善もつきものなのかも知れないが、たぶんそうでないと世の中がうまく回っていかないのかも知れず、そんなことをやっている人たちの中から、主張だけを専門におこなうような人も出てくるのかも知れないし、また特に主張がなくても間に合ってしまう人も出てくるだろうし、結局はそうやって何らかの主張に対して、それを受け止める人によって距離感がまちまちであるのが自然な成り行きになってくるのかも知れず、そうやって誰もが特定の主張に対する態度をそろえて、一致団結しなくてもかまわないような状況が望ましいのかも知れないし、逆に何かそういうところで一定の統一的な反応が起こることの方が、かえって不自然に思われるようなら、そこで意図的な仕掛けが巡らされていることになるのかも知れない。


8月19日「宗教的な傾向」

 近代の産業革命以後の歴史的な経緯の中で、産業技術や科学技術などの発展とともに、非科学的な神秘主義思想に基づく旧来の宗教的な権威が衰退傾向になってきたかというと、どうもそうとも言い切れないような成り行きがあるのかも知れないし、宗教そのもののあり方や形態が現代的な状況に合わせてそれなりに変質や変容を被ってきたにしても、それが現代社会に暮らす人々の活動や生活に合致する面があれば、衰退するどころかむしろ興隆するような傾向になってきているのかも知れないし、それに関してまず考えられるのは、人が生きていく中で様々な脈絡から生じてくる不安や恐れや悲しみなどの否定的な感情を鎮めたり、それに打ち勝つために勇気や気概などの積極的かつ肯定的な気持ちをもたらそうとするために、あるいはせわしない日常の日々から離れて精神の安らぎを求めるために、宗教の助けを求めるような成り行きがあるのかも知れず、そういった経緯が生じることが、宗教にとっては付け入る隙になるわけだろうが、それは同時に宗教以前に政治や行政などが付け入る隙でもあるわけで、実際に暮らしの安心や安全や経済的な富がもたらされるような政治や行政がおこなわれるなら、民衆からの支持が得られるはずだろうが、それも実態として本当に政治や行政などの活動から、安心や安全や経済的な富がもたらされているのかとなると、宗教と同じで信仰心などから生じる気の持ちようになってしまうと、実態としては必ずしもそうではなくても、そんなものだとあきらめてしまえば、なし崩し的な惰性で、現状の維持を受け入れるような成り行きになってしまうのかもしれないし、そういうところが実態としてはっきりしなければ謎な部分にもなるのかも知れないが、そういった気分に関することは気休め的なことでもあり、それが特に優先して考えるべき事柄とは思われなければ、何が何でもそれを重視するような成り行きにはならないわけで、それよりは実際に自身でどうにかできる面の方が優先されることになるだろうし、そうなると自助努力でできる範囲内にとどまるわけだが、それでも何とかなっていればそれでかまわないことになるのかもしれず、そうでなくても社会の仕組みとして、人を使ったり人を利用することで社会が成り立っていれば、それが同時に人を活かすことにもつながるわけだから、原理的にも制度的にもそこで人を活かす仕組みになっているのであり、実際にそうなっていれば、大抵の人は社会の一員として生かされている現状があり、その中でそれなりに不満があるとしても、それが我慢ができる程度の不満であれば、実際に我慢しているだろうし、そうした程度が深刻には感じられない範囲内で、それなりにうまくいっていることになるのかも知れず、また実際にもうまくいっていると判断されれば、人々の不満が大げさに受け止められるようなことにはならないだろうし、そうやって許容限度の範囲内で人々の集団意識が循環していれば、その程度の可もなく不可もなくの集団意識で安定することになり、それが革命などの社会的な破綻をもたらすような事態にはならないわけだが、それに伴って宗教的な意識の方も、日常の生活実感の中に溶け込んでいるようだと、表には出てこないで、意識の水面下でうごめいているような潜在的な水準にとどまる限りで、それが宗教的な意識だとは認識されないのかも知れず、そうなると結局は何でもないことになってしまい、何ら問題意識を持ち得ず、特にそれが弊害となるようなことにはなっていないはずだが、本当にそれの何が問題ともなっていないとすれば、ならばそもそもの宗教の何が問題なのかというと、一般的には宗教の聖なる部分がそれ以上の思考を受け付けず、結果的に禁忌には触れずにそこで多くの人が思考停止すれば、それに伴って現状の秩序の固定化を招く可能性があるからで、そういった現状の固定化の何が問題なのかといえば、社会的な身分や地位の固定化を招く可能性があり、その身分や地位に応じた経済力や権力の格差が容認されると、法の下での平等などの民主主義の価値観が揺らいでしまうわけだが、そうでなくても宗教的な権威というのは、その威光が否定されることを受け付けないし、信者は基本的に権威への服従を強いられて、権威による支配を受け入れる必要があり、逆らうことは禁止されているのに対して、民主主義の価値観では国家的な権威である政府に逆らうことが認められている点が異なり、民衆には政府のやっていることに反対して、自分たちの言うことを聞く政府を作る権利があるわけだが、そういったことに無自覚な人たちが、政府のやっていることに反対する人や勢力を弾圧する傾向もあって、そんなふうに世の中には民主主義の価値観を受け入れない人や勢力が結構存在していて、そうした人々が国家や政府の権威化や宗教化を推進している現状もあるだろうし、それが現代に特有な宗教的な傾向と言えるのかも知れないし、本気でそういった傾向に加担しているのはまだまだ一部の人や勢力に限られるかも知れないが、功利的な見地からそんな勢力のやっていることを支持する人や勢力も少なからず存在するだろうし、それが産業分野に巣くう企業や投資関連の人や勢力であったり、また政府の官僚機構に属する人や勢力でもあるわけで、それらの人たちからすれば民主主義の価値観は、功利的ではないから邪魔に思われるだろうし、なぜ功利的でないかというと、民主主義の価値観にとらわれた人や勢力が、現状で成り立っている富や権力の階層構造を壊そうとするからであり、現状の秩序から利益を得ている人や勢力にとっては、当然その秩序を壊されてはたまらないから、富や権力を利用して、そういった人や勢力を抑え込もうとするわけだが、要するにそういった人や勢力からすれば、現状の階層構造から生じている既得権益を守ろうとするのは当たり前のことであって、そういう意味でそういった権益に異を唱える人や勢力との争いは避けられないわけだが、中には既得権益に異を唱えることが民主主義の価値観から生じていることが理解できない人や勢力も存在するだろうし、実際に民主主義を推進しているつもりのメディア勢力にしても、それが理解できない場合があるわけで、そういった勢力にしてみれば民主主義の価値観を推進することこそが、自分たちが確保している既得権益を維持することになっていたりして、他の勢力が勝手に民主主義の価値観を推進してもらっては困るから、そういった人や勢力を押さえ込んだり排除する傾向にもなっているわけで、それは自身の企業経営などに伴って生じる功利的な見地からもそうせざるを得ないところが、そういう面で矛盾を抱え込んでいることにもなるわけだ。


8月18日「理性的な振る舞い」

 現状の中で何かをやる上で、何をやるのにも納得できるような動機が必要かというと、特にはっきりした動機を意識しないで何かをやっていることもあるのかも知れないし、何かそんなことをやるに至る脈絡があって、それが必ずしも直接的な動機に結びつかない場合もあれば、それでもそれをやるに当たって何らかの経緯があるのかも知れないし、それに伴って何かもっともらしい事情があれば、それがそれをやるに当たって納得できる理由になるのだろうが、そのやっている内容がやっている当人にとっては取るに足らないことであれば、それをやる動機や理由など何でもかまわないのかも知れないが、また大した理由もなく軽い気持ちでやり始めたことが、やっていくうちに大変なことになってしまう場合だってあるだろうし、そうなると後からやるに当たっての大げさな理由や動機などをねつ造したくなってくるのかも知れないが、大抵はそんな思いとは無関係に、それを継続させる成り行きというのが、それをやっている当人にはどうにもできない事情を生じさせて、それが心を捕らえて放さなければ、そこから当人の意志も生じてくるだろうが、それが当人の自発的な意志とはいえない場合もあるのかも知れず、それをやりたいからやっていると素直に思えなければ、特にやりたくもないのにやらされていると思っておいた方が、それをやっている実態には合っているのかも知れないし、そうとは言えなくても、それをやる上で積極性が希薄であれば、ただ何となくそういう成り行きになっているから、惰性でそれをやり続けているような経緯になっているのかも知れず、そういう成り行きの中でははっきりした動機や理由を求めなくても、それを自然な感覚でやっていられるなら、それに越したことはないのかも知れないが、それとは違って何か深刻に思われるような使命感や強迫観念に駆られて、それをやらざるを得ない心境に追い込まれてやっているような状態になってしまうと、それだけ無理が祟っていることになるのかも知れないし、実際にそうなれば積極的になれるのは確かだとしても、そうやって自らの意志に自らの心身が拘束されている状態であると、当然のことながら自発的にやりたいことをやっていることにはなるだろうが、それが決して悪いことだとは思えないにしても、むしろそれをやる上での真剣さに関しては切実に肯定せざるを得ないとしても、少なくとも平常心ではいられなくなるだろうし、それが結果的にやっていることを成功に導くか失敗に終わらせるかは、もちろんどちらであってもかまわないわけではなく、使命感に燃えているのなら必ず成功させなければと思うところだろうし、それに加えてやる気に関しても、その人の決意の強さをもたらしているだろうし、普通はそんな事情を肯定的に捉えるわけだが、そこで問題なのは当人のやる気とかいったことではなく、当たり前のことだが、そのやっている内容が問われなければならないだろうし、もちろんそんなことはわかりきっているのに、例えば大してやる気もないのに適当でいい加減にやっているように見えてしまうのと比較すれば、真剣にやる気満々でやっている方が百倍はマシに思われるし、そんなやる気と熱意だけは人一倍強いように見える人が、ただがむしゃらにやっていることの方が好印象に見えてしまうのは当然だろうが、そういう意味でもやっていることに対する誠実で真剣な態度というのが、他人から見た印象として良く映るのは当然だろうが、それがその人の信用にも響いてくるとすれば、やっている内容よりも、それに取り組む姿勢が重要となってくるのかも知れないし、他のことはともかく格好だけでもそんなふうに整っていれば、何かを積極的にやっているように見えてしまうのだろうが、たとえそれが演技でしかなくても迫真の演技で熱演しているように見えてしまえば、それでかまわないような行為というのもあるのかも知れず、それが政治の実態というわけでもないだろうが、それは見世物としての活動の全般的な傾向と言えるのかも知れず、そんな内容が伴っていないハードワークというのが、何を意味するのかに関しては、結果よりも途中経過を重視するなら、何かそこに積極的な意味や意義を見いだせるのかも知れないし、たとえそれがまやかしの演技でしかないとしても、そんな演技に魅入られて好感を抱いてしまえば、それで済んでしまうような成り行きもあるのかも知れず、それに関して内容を把握できなくても、ともかく人と人とがコミュニケーションを図りながら交渉しているように見えることが、途中経過としては格好の安心材料を提供していることにもなるだろうし、そんなふうに何かやっている感を醸し出すには、是が非でもそういった交渉を継続させなければならず、それが最終的には決裂に終わる公算が高いにしても、そこに至る成り行きの中で期待感を持たせるような演出に成功すれば、それでそれなりに格好がつくだろうし、それが一般的な意味でも政治パフォーマンスになるのかもしれないが、たぶんそれが見え透いていると高をくくられてしまうと飽きられてしまうのかも知れないが、そんなふうには思わせないようにメディア的な印象操作が日々おこなわれている状況もあるだろうし、そうしたメディア状況も含めて、全体として大がかりな舞台装置ができあがっていて、そこに功利的な思惑も働いて、そんな状況が世間的に醸し出されていれば、それを受け止める一般の民衆にはどうにもできないのかも知れないし、というかそんな見え透いたパフォーマンスには興味がない人が世の中の大半を占めるなら、それが健全な状態なのかも知れず、そういう意味で選挙の投票率が上がらないのは大した問題ではないどころか、極めて当たり前の状況と言えるのかも知れないが、そこに何か勘違いがあるとしたら、民衆を甘く見ているとはどういうことなのかが、熱演のパフォーマンスを演じている人たちにはわかっていないことになるのかも知れず、それと自覚がないまま、使命感や強迫観念に駆られながら迫真の演技を強いられている人たちが、それしかできないと思い込んでいることにも無自覚なのかも知れないし、実際には他にもやりようがあるということに気づかない限りは、そんな状況がこの先も続いていくしかないのかも知れないが、それでもかまわないような現状だとすれば、案外そういうことには無関心な人たちの方が冷静な判断ができるわけで、実際にそんな判断が世の中を動かしていることになっているのかも知れない。


8月17日「表現の不自由」

 例えば何かを成し遂げようとすることと、その人の考えを示すことは違うが、どちらが大変かとなると、普通は何かを成し遂げようとすることの方が、その内容にもよるだろうが、社会の中で他の人や団体との関わりも絡んでくれば、単に考えを示すことよりはかなり大変なことになるはずだが、その人の考えを示すことも、そういう成り行きになる脈絡によっては、例えば他の人や団体と何らかの交渉をおこなう中で、その人の考えを示すような場合もあるだろうし、そういう経緯も考慮するなら、単に比べるわけにはいないだろうし、また何かを成し遂げようとする過程で、その人の考えを示すような成り行きになることも結構あるわけで、そういう意味では比べるというよりは、二つの行為が一連の動作として結びつくような事態もあり得るわけだから、その差異や違いを認識する程度でかまわないのかも知れないが、そうなる過程において、いかにしてそういった行為を効果的に組み合わせて、それを自らの活動にうまく活かすことが求められるのかも知れないし、そんなふうにして様々な行為が組み合わされて、それらが全体として一つの行為にまとめられておこなわれることの中から、特定の行為だけを選び出してそれを他の行為と比較したり、その効用を強調するのは、理に適っていないことになるのかも知れず、確かにそれらの中で何が本質的で重要なことなのかを見極めるのは大事かも知れないが、実際におこなっていることがそれらすべてを含むことであれば、それらの中で一つたりともないがしろにはできないのかも知れないし、それらの中で何が良くて何が悪いと評価するようなことではなく、そうなってしまう成り行きをそのまま受け止めるしかないのかも知れず、そうなる過程においてそれなりに恣意的な意図や思惑を抱いてしまうだろうが、それはすでに何かをやっている最中に思うことであり、思うだけではなく、同時に何かをやっている現実があり、それらをそれぞれに単体として分離できないわけだが、そういう複雑に絡み合った動作を自覚できないまま同時並行的に処理しているわけだから、それに関して後から思考を巡らすと、大抵はそれらを正確には捉えられないだろうし、単純化した捉え方しかできない場合がほとんどかも知れないが、その一方で自意識にとって都合のいい面だけを強調してしまう場合も結構あるわけで、そういう部分的で偏向した物事の捉え方によって、何かフィクションのような固定観念や偏見が生じてしまうわけだろうが、いったんそういう感覚に慣れてしまうと、特に違和感を覚えるわけでもなく、そうすることが当然のように思われてしまうわけで、そう表現することがその人の意図や思惑を反映した効果的な演出にも思われてしまうのかも知れないが、それはその人だけでなく、他の人たちもそういう傾向になっている面があるとすれば、そんな人たちの意識がコミュニケーションなどを通して干渉し合って、それがメディアを通じて拡散すれば、客観的な現実からかけ離れた認識が世の中に蔓延することにもなるだろうし、しかもそれがある一定の傾向を持つようになってくると、誰もが安易にそう思ってしまうような紋切り型的な認識として世の中に定着することになるわけで、しかもそれが物事に対する先入観や固定観念を補強するような効果をもたらせば、そんな認識を持つことが当たり前のように思われてしまい、逆に客観的で正確な現状認識の方が違和感を伴ってしまうだろうし、それに関して何か心地よかったり、逆に不快感を伴うような認識だと、心地よくさせたり不快感を催させるような意図や思惑を反映した認識になっている可能性があるだろうし、それだけ誇張された表現を伴っているのかも知れず、そういった認識は当然のことながら客観的で正確な認識でない可能性が高いのかも知れないし、そうではなく何の変哲も面白みもないような認識だと、誰も興味を持たないのかも知れないが、それが紛れもない客観的で正確な認識だと、やはり誰もそんな認識など重視ないし無視してしまうかも知れないから、メディア的にはそれでは困るだろうし、それよりはわざとセンセーショナルな内容にしたがる傾向が出てくるのかも知れず、そういうあざとい趣向や演出を施したものになってしまうと、何か不自然な感じになってしまうのかも知れないが、それが当たり前のように感じられる傾向になっていれば、やはりそういう傾向に流されてしまう人が大勢出てくるわけで、そうなるとやはり意図的に心地よい雰囲気を醸し出したり、逆にわざと不快感をあおって世間の注目を浴びようとしたりしてしまうわけで、そうなるとこれ見よがしなことを仕掛けてくることにもなるだろうし、そういう部分が客観的な現実からかけ離れたフィクションの部分になるわけで、そういうやり方に慣れてしまうと、そんなことをやらないと気が済まないような事態にもなってしまい、そういうのがエスカレートしてやらせ的な演出が横行してしまうわけだろうが、そういうやり方とは違って、心にも時間にも金銭的な面でも余裕があれば、そういうあざとさとは正反対のさりげない表現にとどめようとする傾向になるだろうし、安易に感情に訴えかけずに平静さや冷静さを目指すような認識になると、そこへと及ぼされる様々な作用や影響を考慮した複合的な認識を表現しようとするわけで、それが良いとか悪いとかの特定の傾向の評価を押しつけるのではなく、良い面も悪い面もどちらともいえないような面も、できるだけすべての面を織り込んだ多面的かつ多元的な認識にしないと、物事の客観性を表現できないだろうし、そういう傾向を目指すには一時の感情に流されていてはうまく表現できないから、自然と平静さや冷静さを心がけないと、物事の様々な面を捉えることはできないだろうし、しかも時には激しい怒りや歓喜などを同時的に織り込もうとする場合もあるわけだから、そんな感情をあおり立てる勢力と一緒になって非難したり共感するのではなく、いったんそれを突き放して捉えるようなことをやらないと、対象との距離感が生じないだろうし、そういう面でも物事の状態を客観的に認識しようとするなら、捉えようとする対象とは異なる心理状態や態度が必要となってきて、それが認識を客観的に表現する上で特有の心理状態や態度となってくれば、それ自体が表現者自身の考えを示していることにもなるだろうし、認識を表現するという行為を成し遂げることにも結びつくのかも知れない。


8月16日「宗教的な儀礼」

 社会規範の中に例えば何らかの宗教的な行事に参加することが含まれるとすれば、そうした宗教の存在やその行事に参加することが、社会の中で重要な意味を持つことになるのかも知れず、実際に行事に参加した人たちが、その宗教に起因する思想や価値観を共有することにもなるわけだが、たとえそんな思想や価値観などが取るに足らないものだとしても、行事に参加した人たちの中に、社会的な地位や役職などに関して有力者が含まれていれば、それなりに社会に影響を与えることになり、その宗教の内容というよりは、信者たちの権力や発言や団結力などが、社会の様々な方面で無視できない作用や効果を及ぼすことになるわけで、そういうところに宗教の実質的な力が宿っていて、宗教的な行事に社会的な有力者を参加させることによって、その力を誇示している面があり、それは宗教に限らず、何かメディアが話題として取り上げる社会的なイベントがあるとすると、イベントの主催者や主催団体は、必ずその手の社会的な有力者を参加させて、自分たちの力を誇示することになるだろうし、それも宣伝や煽動の一環であることは確かなのだろうが、他の人々がそうしたデモンストレーションを真に受けることによって、イメージとしての影響力が生じるわけで、簡単に言うならそれもある種の印象操作でしかないわけだが、それが心理的な効果でしかないとしても、そういう操作が繰り返されることで、いつの間にかそれが実質的な内容を伴った力になるわけで、それを中身が伴っていない空疎な力と見なすこともできるが、それを真に受けてしまう人が大勢いる限りで、真に受けていること自体が影響を及ぼされていることになるわけだから、そういう力があるとしかいえないのかも知れないが、宗教的な呪術の力というのは元来そういうものだろうし、それは魔法ともいえるのかも知れないし、物理的な効力ではなく心理的な効力というのは、そういった類いの力であることがほとんどなわけだが、それとは分野が異なるが、芸術の類いが人に及ぼす力というのも、それに類似したものがあるのかも知れず、それは見世物全般にいえることかも知れないが、それらは直接の物理的な作用を及ぼすわけではないから、逆に神秘的に感じられて、それが魅力となって人の心を動かす力となり得るわけだろうが、たぶんそれを意図して利用しようとすると、かえってわざとらしさやぎこちなさが目立ってしまうだろうし、そうではなく、その人が意図しないところでそういう魅力が生じると、何かそれが本物のように思われるわけで、そういう魔力の類いは、その人だけの力ではなく、周りから様々な作用や影響が及ぼされた結果として生じるものだから、必ずその人の意図や思惑を超えて発揮される傾向があり、それ自体に人の制御を逸脱するような力があるのかも知れないし、その作用や影響に関しても、思いがけない想定外のものが含まれていて、そういう意味で下手な策略や戦略には収まりきらないわけだが、それを意図的に制御できるかとなると、実際に意図的に制御された力だけで構成されるものは、魅力に乏しくつまらないものとなってしまうのかも知れず、普通はそれを超える何かがもたらされないことには神秘的なオーラが生じないわけだが、そうした人知を超える要素というのは、大抵は天然の素材から生じている場合が多いわけで、人工的にはなかなか再現できないから、それだけ価値の高いものとなるのだろうが、果たして宗教にそういう要素があるかとなると、秘蹟の類いがそういう要素に当たるのかも知れないが、やはりその実態は何だかわからないものであり、かえってそれがわかってしまうとありがたみがなくなってしまうだろうし、何だかわからない面があることが、神秘的なイメージを保つ上で重要となってくるわけだろうし、何だかわからないがそこに何か人知を超えるようなものが存在していて、それが人の意識に作用や影響を及ぼして、人の心を良い方向へと誘っているように感じられると、それ自体が秘蹟としてその宗教の全体的な価値を担っていることになるわけだが、それが論理的に説明できるようなものなら、神秘的な面がなくなってしまうから、やはり宗教的な効果は得られないだろうし、また守るべき規範としての価値もなくなってしまい、こけおどしの儀礼としては通用しなくなってしまうわけだが、そういう意味で宗教的な行事は、論理的な説明を要するようなものではないわけで、何だか理解できないようなものを形式的に守ることによって、それを守っている人たちが連帯して団結できるわけだが、その際にはなぜそれを守らなければならないのかという問いを発してはいけないわけで、ただ理由もなくありがたいものだから守らなければならないわけで、守るに際して理屈はいらず、ただ型としての動作を代々受け継いでゆくことが重要であり、そんな理屈抜きの行為に参加しているわけだから、それを信じるしかないだろうし、疑念を抱いてしまったら信仰が揺らいでしまうから、ひたすら信じる姿勢を保たなければならず、そんな姿勢を保っている限りで、信者として信用できるわけで、それ以上の動作を求めないことも肝心であり、皆が同じレベルでの心理状態と姿勢を保っていなければならないわけだが、そうやって他の信者と動作を同じにすることが、他の信者からも信用される条件ともなるだろうし、信仰が保たれている上で、そうなった原因が結果に結びついて循環しているわけだが、それを循環とは感じないようにするには、聖と俗とを区別して、触れてはならぬ領域として、聖なる領域での論理的な説明を断念すれば、原因が結果と結びついて循環せずに体面が保たれることになるだろうし、それ以上の説明が必要ないから、その先へと踏み込まずにいられるわけで、その手前で踏みとどまって、後はひたすら秘蹟を信じればいいわけで、実際にも信じる者は救われるわけだが、そこでなぜ救われるのかとか、どうやって救われるのかとか考える必要はないだろうし、ただそれを信じていれば救われると思うしかないわけだ。


8月15日「道徳的な配慮」

 たぶん社会の中で道徳的な配慮に欠けるようなことをやったところで、それが道義的に許されない行為であれば、そのことで何かしら批判されることはあるにしても、肝心の道徳的な配慮が具体的にどういうことなのかがはっきりしなければ、そんなことはそれほど重視されないだろうし、その配慮に欠ける行為というのが社会規範に照らし合わせて何となくわかるとしても、ではその反対の道徳的に配慮された行為というのがわかるかというと、それが元々配慮を要するような行為でなければ、配慮すること自体が不要だろうから、それがわからないどころか、そんな配慮とは無縁な行為ばかりがそこで行われている成り行きの中では、単に道徳的な配慮などは不要なことでしかないだろうし、普通はそれよりは功利的な配慮の方が優先的に行われるようになりがちだろうし、社会の傾向がそういった方向に傾いていれば、道徳的な配慮など二の次になってしまうだろうが、それでも道徳的な配慮に関して尊重するような可能性があるとすれば、功利的な配慮によって損失を被った人たちの間で道徳的な配慮がされる可能性があるかも知れないし、それも気休め程度の配慮なら焼け石に水的な結果に終わってしまうだろうし、それで何がどうなるわけでもないのかも知れないが、功利的な配慮とともに道徳的な配慮も同時にできるかとなると、功利的な配慮が自身に利益をもたらすことであるとして、道徳的な配慮が他人を思いやることだとしたら、少なくともそれは正反対の配慮となるだろうし、やりようによっては同時的に行えるかも知れないが、それを第三者から見れば欺瞞や偽善に感じられるようなことになってしまうかも知れず、特に他人を思いやりつつもその他人から利益を奪っていて、しかもその他人が損失を被っていれば、何よりもその他人がだまされていることになるだろうし、それでは道義的に許されない行為になってしまうだろうし、では自身にも他人にも利益をもたらす行為であればいいのかとなるのかも知れないが、そうなると他のどこから利益を奪っているのかとなるわけで、それとは別の他人から利益を奪っているとすれば、その利益を奪っている他人を思いやっているわけでもないから、それもただの功利的な配慮がされているだけになるだろうし、そうではなく、例えば他人と協力して自然から利益を奪っているのであれば、それが自然の成り行きだと思われるかも知れないが、そうなるとその利益を奪っている自然に対して供物を捧げて、そこから自然崇拝的な宗教が生じる成り行きになるのかも知れず、実際にすべてのアニミズムなど原始的な宗教はそうやって生じてきた経緯があるのかも知れないが、そこで供物を捧げるからそれと引き換えに利益をもたらしてくれ、という自然との取引が成り立っているように装われるわけで、そうした信仰が他人に向けられると、原理的には他人が欲している物や情報やサービスを提供するから、それと引き換えに貨幣をくれというのが商業的な取引であり、その反対に他人が欲している貨幣を提供するから、それ引き換えにその人が欲している物や情報やサービスを提供してくれという取引も成り立つわけだが、そういった等価交換的な取引を信用しているなら、別に功利的な配慮に関して問題があるわけでもないはずだが、普通はそこから余分に利益をかすめ取ろうとする思惑が生じるわけで、もちろんその自覚がなくても自然とそうなる傾向があるだろうし、そうした取引をおこなった後に余分に貨幣が残れば、それが利潤になるわけだが、果たしてそれが道徳的に許される行為かといえば、その余分に残った貨幣を使って欲している物や情報やサービスと交換すれば、何やら経済的な論理としてはつじつまが合うように思われるだろうし、それも全体としては自然から奪った利益の分がプラスに働いているはずだから、そういう意味では功利的な配慮だけで十分だと思われるわけだが、それでもそうした配慮が行き過ぎて、商業的な取引の中で利益を奪われた人がひどい境遇に陥っている状況があるなら、そうなった人を思いやるような道徳的な配慮が必要とされるだろうし、そういう面で優先的にそうなった人に配慮すべきなのが、税として強制的に貨幣を奪っている立場の政府になるわけだろうが、成り行き的にはそうなっているとしても、それに関してうまくいっていない状況が世界的に見受けられるから、そういった制度的な仕組みをうまくいくように改革したり調整しなければならない気運が高まるわけだが、果たしてそれが現行の制度でうまくいくのかといえば、それに関しては多くの人が疑念を抱いているにもかかわらず、改革や調整の試みもうまくいっているとは言いがたい状況があるだろうし、それでもそういう面だけを強調して取り上げればそう思われるだけで、実際に世界全体で数十億の人が生存していること自体が、史上かつてないほどに人類が繁栄している証拠となるだろうし、そういう面を肯定的に評価するなら、現状の制度でも全体としてはうまくいっていることになるわけだが、現状に不満がある人にとってはそうではないだろうし、何かもっとうまくいくやり方を模索したいわけで、実際に政治などに関する方面では、そういった模索をやっているわけだろうが、そういうことも含めて現状の世界では功利的な配慮と道徳的な配慮がぶつかる状況になっていることは確かで、功利的にうまくいっていないところでは道徳的な配慮が求められているわけだろうが、それが対立関係を形成しているかというと、そうでもないわけで、どちらかといえば補完関係になるわけで、成り行きとしてはまずは功利的な配慮が優先されて、それが行き過ぎてうまくいかない面が出てくると、それを是正する意味で道徳的な配慮が求められることになるわけだが、はじめから道徳的な配慮が求められているわけでもなく、そこには常に功利的な配慮が優先される成り行きがあって、しかもそれをやり過ぎる傾向もあって、実際にやり過ぎてうまくいかない人たちから不満が出始めると、バランスをとる意図で道徳的な配慮を求めるような成り行きに持って行こうとするわけで、そういう意味では道徳的は配慮だけを単独で求めるような成り行きにはなっていないし、しかも制度として恒常的に道徳的な配慮を求める仕組みがうまく機能しているとはいえない状況なのかも知れない。


8月14日「制度に対する抵抗」

 人が生きていく中で、特に利害に関係する面だけが重要というわけではないだろうし、むしろ大して利益を得られなくても、面白そうだからやっていることの方が、その人にとっては重要に思われる場合もあるわけで、また特に重要だとも思われなくても、その場の成り行きでどうでもいいようなことをやっている場合もあるだろうし、そこで何をやっていようと、取り立ててその人にとって意味のあることだとは思えなくても、ただ何となくそんなことをやっている場合もあり、その人にとって価値のあることを優先して行うような成り行きになっていなくても、それでかまわない場合もあるわけで、たまたまそこでどうでもいいようなことをやっている場合には、たとえそれが暇つぶしでやっているようなことであっても、そんなことをやりながらも、他のことを考えている場合もあるだろうし、それがそれを考えるには有意義な時間であったり、考えている内容がとりとめのないことであっても、そこでそんなことを考えるのが貴重な体験だと思われれば、そんなことをやっている成り行きも肯定できるだろうし、はっきりとそんなことを意識していなくても、何となく悪くないと思える程度でもかまわないわけだが、それが自分一人でやっていることではなく、そこに他の人や団体が関わってくると、何かと関わっている人たちに配慮しなければならなくなるから、それだけ身勝手なことができなくなるのかも知れないが、また他人との関わりの中で、社会的な慣習や規範などに従わなければならなくなる場合も出てくるかも知れないし、中には制度的な拘束を受けて、それに従わなければ懲罰や制裁の対象となることもあるだろうし、そうなったときに考えなければならないのは、その人が制度的な拘束を受けることに同意したとして、その同意の仕方が当人の自由意志ではなく、半ば強制的でなし崩し的な成り行きであれば、そこに同調圧力が働いている可能性が高いだろうし、不本意ながらも渋々従わなければならないような制度があるとしたら、当然そこには何らかの権力の行使も伴っているのかも知れないし、そうやって社会の中で人を拘束して制御したり操作するような成り行きがあるとすれば、そういった制度的な仕組みが作動している経緯の中では、政治的かつ経済的な思惑が作用していることはいうまでもなく、何らかの成果を期待してそんな制度に人々を従わせようとするわけだが、それが善意の押し売り的な制度だと、何かお仕着せがましい内容となってしまうわけで、そういう制度はうまくいかない可能性が高そうだが、それが具体的にどんな制度かというと、民主主義に関する制度になるのかも知れないが、政治的な面ではそうであっても、経済的な面ではどうなのかというと、たぶんはっきりした制度の体をなしていないのかも知れないし、潜在的には制度であるのだろうが、そうは見えないわけで、それは商慣習といった類いの認識にとどまっているはずだが、こちらの方は善意の押し売りでもお仕着せがましいわけでもなく、誰もが素直に従うしかなく、従うことに関しては特に抵抗感もないし、抵抗しようにもできないわけだが、それでも抵抗しようとすれば、窃盗や強盗などの犯罪行為となってしまうから、それが発覚すれば、すぐに処罰や制裁の対象となってしまい、それに関しては有無を言わさぬ制御の対象となって、どのような事情があろうと、やったことに対しては善悪がはっきりしてしまうわけだが、それでも条件さえ整えば合法的な強奪が可能な面もあるだろうし、それが徴税行為となるわけだろうが、普通はそれが経済行為だとは認識されていないし、徴税は徴税として経済行為とは別の行為に分類されているのだろうが、実質的には金銭を強制的に強奪していることには変わりなく、それが窃盗や強盗とは見なされないのは、政府が行う行為であるからだが、それも誰もが素直に従うしかなく、もちろん商慣習の類いと違って、従うことに関してはそれなりに抵抗感を伴うわけだが、抵抗すれば脱税という犯罪行為になってしまうし、それも処罰や制裁の対象となってしまうわけだが、少しでも抵抗感を減じる方便として、徴税によって徴収した資金を使って、民衆のためになる事業を行うことが、政治的な公約になったり、民衆のための行政サービスなどの趣旨として徴税が正当化されるのだろうが、民衆のために徴収した税を使うとともに、国家のために使うという大義名分もあるだろうし、その国家のために税を使うことが民衆のためになっているかというと、建前上は民衆のために税が使われることと国家のために使われることが同じ意味をなすわけだが、実感としてはそうではないし、だから徴税には抵抗感が伴うのかも知れないが、またそれは民主主義の制度とも絡んでくるところであり、それらの制度が民衆の意向を反映していないように思われると、全般的に政治や行政を信用できなくなってくるわけだが、信用できないとしても、行政による管理と主導によって活動が滞りなく行われていることになっているから、民衆にとってはどうにもできない面があり、それに対する精一杯の抵抗としては無関心を装うぐらいしかやりようがないわけだが、無関心でいても利するところは何もないし、それに乗じて行政と政治とが結託して、ますます民衆の意向を無視して勝手なことをやりたがるようになるだろうし、そういう成り行きを阻止するためには、民衆の側が一致団結して、民主主義の制度に則って、選挙を有効活用して、民衆の意向を汲んだ政治勢力に主導権を握らせるしかないわけだが、そもそも必ずしも利害が一致しているとは言いがたい民衆の側が一致団結できるかというと、団結しているように装うことはできるかも知れないが、それが民衆の側の意向を汲んだ団結ではない可能性もあるわけで、それに関しては行政と結託した政治勢力が、民衆を手なずけている場合もあるだろうし、実際に行政に批判的な勢力が抑え込まれていれば、そういった可能性が高いわけだが、そういった傾向に民衆が抵抗できるかというと、実際に抵抗している人たちが批判勢力を形成しているわけだが、それが多数派にならなければ、抵抗が有効に機能しているとは言いがたい状況となってしまうのかも知れないし、現状でもそういう傾向が強いのではないか。


8月13日「共同体的な幻想」

 自意識が社会的に構成された自我から成り立っているとして、その一方で公的な社会空間が何から成り立っているかとなると、その空間内に存在している人々の自我から抽出された共通感覚にとらわれた集団意識から成り立っているとすれば、何やらそれで妥当な認識のように思われるかも知れないが、それだと厳密には共同体的な空間にしかならないわけで、実際にはそこには存在しない人まで含めた空間を想定しないと、公的な社会空間とはいえなくなるのかも知れず、それが共同体的な空間ではなぜ駄目なのかといえば、それが絶えず集団意識を共有しない異質な他者を排除する傾向にあるからだが、ではそこでなぜ異質な他者が共同体的な空間に出現してしまうのかといえば、共同体的な空間自体がその中に潜在的に存在する異質な他者を抑圧しながら成り立っていて、共通感覚や価値観を共有しない他者を排除することによって共同体的な空間が構成され、そこで集団意識が成り立っていることになるのかも知れず、そういった排除の動作を経ないと共同体的な空間を構成できないとすれば、共同体的な空間とは公的な社会空間の内部で生じる部分的な空間に過ぎないのかも知れず、それは世界の中で様々な国家が成り立っているのと同じように、公的な社会空間の中でも様々な共同体的な空間が成り立っていると想定でき、そういった何らかの共通感覚や価値観の共有に伴って成り立つ様々な共同体的な空間を包摂して公的な社会空間が成り立っているとすると、公的な社会空間とは様々な国家を包摂して存在している世界と重なるわけで、世界=公的な社会空間という等式が成り立ちそうに思われるかも知れないが、世界と公的な社会空間との違いは何かといえば、人が存在しない地域にも世界は広がっているのに対して、公的な社会空間には人しか存在していないというか、人の意識の中に公的な社会空間が広がっていると考えた方が妥当なのかも知れず、それ自体が架空の空間と解釈すれば、何か実在しないように感じられるかも知れないが、それに伴って共同体的な空間も想像上の空間だろうし、それらは架空の空間というよりは仮想空間とでも捉えておけばいいのかも知れないが、そういった空間を想定しておくことで、社会という概念を意識できるだろうし、それとともに人が認識できるのは、客観的な現実の世界の他に、自己の内面の世界と社会的な世界という三種類の世界を認識することができ、普通は意識の中でそれらの世界を厳密に区別しているわけではないだろうが、むしろそれらを混同してしまうことが、その混同にまつわる特有の心理現象を生じさせているのかも知れず、それが例えば共同体的な利害意識を国家的な利害と混同してしまうことであり、またそこから国家的な利害と政府的な利害の混同も派生していて、実際にそんなふうに様々な次元で生じている利害を混同してしまう方が、共同体的な共通感覚や価値観を共有する人々にとっては都合がいいわけで、そうすることで共同体的な利害意識が実質を伴っているように幻想できるわけで、それが幻想に過ぎないことを理解しなくても済むようになるのかも知れないが、本当にそれが幻想なのかというと、幻想ではない実質的な利害とは何かということが、うまく定義できない可能性もあるわけで、利害の実質的な実態がはっきりしなければ、共同体的な利害も国家的な利害も政府的な利害も、何か実態の定かでない心理的なイメージに過ぎなくなってしまうのかも知れないが、それが経済的な範疇で商品の売買に伴って利益が出たり損失を被ったりする次元であれば、その実態もつかめるかも知れないが、例えば国家的な利害や政府的な利害が何かといえば、単に経常収支が黒字であったり赤字であったりすることが、黒字であれば利益が出て赤字であれば損失を被るのかとなると、そうだとしても社会の中で暮らしている個々の人にとっては、そうともいえない面があるだろうし、また隣国などとの間で起こる政府間の対立が、非難の応酬や制裁措置や対抗措置などに発展したところで、その中で自国の政府が隣国の政府をやり込めたように思われたところで、それが自国の政府の支持者にとっては心理的に溜飲を下げたような感覚になるとしても、それが実質的な利益に結びつくのかとなると、幻想としての利益ならその気になれるとしても、実態として何か得したことにはならないのかも知れないし、またそれが自国の政府の支持者ではない人にとってはなおのことそう思われるだろうし、むしろ隣国との関係が悪化したことによって、国家的な損失を被っていると受け取られる可能性もあるわけだから、実際にそんなふうに意見する人がいたら、自国の政府を支持する共同体的な集団意識や価値観を共有している人たちからしてみたら、そういう人は非難の対象とも排除の対象ともなりかねず、そんな人が存在していること自体が国家的な損失だとも思われるのかも知れないが、逆に政府に批判的な人たちからみたら、そんな共同体的な集団意識や価値観を共有する人たちが存在していること自体が、隣国との良好な関係を損なっているわけで、それこそが国家的な損失を招いていると見なそうとするのかも知れず、もちろんそうした国家的な利益や損失自体が、実際に産業面での経済状況の悪化や好転を招くなら、実質的な面も伴っているように感じられるわけだが、そうやって心理的な面と実質的な面とがそれなりに連動している面もあるわけだろうが、実際に連動しているからといって、やはりそれは程度の問題であり、大した実害も実益も出ていないのに、心理的な面では大げさに誇張されて捉えられてしまう場合があるわけで、ちょっとしたことで実益が見込まれる側が完全勝利したかのように捉えてしまうと、それこそがもっともらしくも気休め程度の幻想だろうし、ただ一時的にそういった途中経過としての局面が生じているに過ぎず、長い目で見れば大したことではなく、時が経てば忘れ去られてしまうようなことでしかなければ、その程度のことで一喜一憂している人々の存在もそれに伴って忘れ去られてしまうわけで、結局はその程度の利害など何でもないことになってしまうわけだが、その時点では確かに多くの人が心理的に利益や損失を幻想しているわけだ。


8月12日「必要な迂回」

 何か必要に迫られてやっていることが、どのような結果をもたらしているかとなると、それが特に必要とは思われない物事をもたらしていれば、必要に迫られていると思っていたことが思い違いだったのか、あるいはそのときには確かに必要であった行為が、それをやっていくうちに、なぜか必要ではない余計な物事がもたらされて、結果的に必要に迫られておこなった行為を台無しにしてしまうようなら、何かそこでこじれた事態が生じているとしかいいようがないだろうが、そんなふうに何かをやっている人の思惑から外れた事態がもたらされるのは、その人に関係する他の人や団体などの思惑も、その人の行為に絡んでくる場合もあるだろうし、それらの思惑がその人の思惑から外れさせるように作用すれば、やっていくうちにその人が必要だと思っていることからも外れていってしまい、その人にとっては思いがけない想定外の事態をもたらしてしまうのかも知れず、それをその人がどう捉えるかにもよるだろうが、そうなってしまったのは仕方がないとして、とりあえずそんな事態を受け入れて、なおかつそんな事態に対応して、そこでやらなければならないことを模索して、それをやるような成り行きに持って行ければいいわけだが、その人にとってその人がやっていることが必要であるかないかという判断に、果たして妥当性があるかとなると、誰がそれを判断するのかといえば、自身で判断するしかないわけだが、実際にやっていることが必要だからやっている以外で、必要でもないのにやっているとすれば、それをどう捉えたらいいのかとなるわけだが、必要でなければやめなければならないのかというと、そのやめるという判断を下すのも自身になるわけだろうが、その人に果たしてそんな判断ができるかとなると、もちろん判断することもあるだろうし、その判断が正しいか間違っているかも、その人が自身で判断しなければならないとしても、実際にそんなことを判断している場合もあるわけだが、それが正しい判断だと判断できればそれでかまわないわけで、どのような判断を下すにしても、自身の判断が正しいと信じられる限りで、それが自信につながるわけだろうが、自信がなければ判断を迷ったり躊躇したりするわけだろうが、どちらにしろそれが必要だと思われるなら、そこでそう判断するしかないわけだが、それが必要に迫られた判断であり、その判断に自信があろうとなかろうと、判断とともに何がもたらされるわけで、そこで何かしら判断したことが、その後の状況をもたらしていることは確かであり、そこでの判断がその先の未来の有り様を決定していて、そこで取り返しのつかない決断を下しているとしても、そんなことは知るよしもない場合もあるだろうし、そうであればその場での判断がその人の未来を左右していることも確かかも知れないが、判断を躊躇するのも先送りにするのも判断であり、どうやってもそこで何かしら判断していることになってしまうのだから、判断しないということはあり得ないだろうし、そこで何かしら判断してしまったから、その後の状況としての現状があるわけで、それを今更なかったことにはできないし、後からそのときの判断が誤りであったことに気づいたとしても、そのときの判断は変えようがないわけだから、それはそれとして、そこで判断を誤ってしまったことを踏まえて、それを今後の反省材料にするしかないだろうが、それでもそのときの判断のおかげで現状がもたらされていると捉えるなら、現状を肯定的に捉えるには、たとえ間違った判断から現状がもたらされているにせよ、それが必要な迂回であったことを認めざるを得ないのかも知れず、実際に現状に至るまでの間に様々な紆余曲折があるのは、誰にとってもそれが自然の成り行きに思われるだろうし、少なくとも最短ルートをたどって現状に至ったわけではないことは、大抵の人にとってはそれが必要な経緯だったと思われるわけで、そうでないと現状のかけがえのなさを実感できないだろうし、そんなふうにして様々な紆余曲折を経験して現状に至ったことが、その人の人格や特徴を構成しているわけで、それが他人にとってはややこしくも面倒くさい傾向を示しているとしても、そこに至るかけがえのない経験がその人を作り上げてしまったのだから、現状を肯定するなら、その人がそうなる必要があったとしかいえないわけで、もちろんそうなる必要などなかったともいえるだろうし、その人が必要に迫られてそうなってしまったとはいえない面もあるのかも知れないが、そうであるなら必要もないのに偶然にそうなってしまったことになるわけで、偶然にそうなってしまったことを正当化できるかといえば、特に正当化する必要もないだろうが、それを正当化する際には、そうなってしまった必然性を強調することになるだろうし、そうなる必要があって、そうなる必要があったからこそ、実際に肯定するしかない現状がもたらされていることを力説するような成り行きになるのかも知れないが、それとは違って現状の偶然性を強調すると、肯定とか否定とかとは無関係に、ただありのままの現状があって、必ずしもこうなる必要があったわけでもなく、どのような現状がもたらされる可能性もあったにもかかわらず、たまたまこんな現状がもたらされていて、果たしてこんな現状になっていることがかけがえのないことであるかというと、現状を肯定するならそう思うしかないだろうし、否定するなら特にそう思う必要もないわけだが、それがどちらでもかまわないように思われるなら、偶然にこうなっているとしかいえないだろうし、そういう意味では偶然性に関しては判断のしようがない面もあるだろうし、判断とは無縁の成り行きであることが、偶然にもたらされた結果を示しているのかも知れないのだが、その人が様々な判断を下した結果として必然的にこうなったと捉えたいのなら、偶然にこうなったわけではないし、そうではなくどのような判断を下そうとも、そんな判断とは関係なくこうなってしまったのなら、偶然にこうなったとしかいえないようなことでしかないわけだ。


8月11日「つかみどころのなさ」

 例えば商品の価格に関する妥当性というのは、実際に売買がおこなわれた実績から判断するしかないが、市場を介して売買が頻繁におこなわれるような商品なら、需要と供給の関係から自然と適正な価格帯に落ち着くことがあるとしても、売る側と買う側の立場が固定していると、両者の間の力関係から、力の強い側に価格の決定権があるような事態にもなりやすいし、そうなると力の強い側の都合で、不当に高い価格で買わされたり、不当に安い価格で売らされたりして、そうやって価格の妥当性が損なわれるような事態が起こるかも知れないが、そんなふうにして強い立場の側が得をして弱い立場の側が損をするような成り行きがあるにしても、そこにはそれなりに限界があるだろうし、実際に弱い立場を強いられている人たちの生活が成り立たなくなれば、売買そのものが成立しなくなってしまうから、それが生産者であろうと消費者であろうと流通業者であろうと小売業者であろうと、それに携わっている人の生活が成り立つ範囲内でしか、経済行為である商品の売買は成り立たないわけだが、たぶん普通はそういった次元が問題となることはないだろうし、ただ商品の売買が成り立っていていて生活も成り立っている範囲内で、しかも相対的な印象や実感として、力が強い側と弱い側との間で、貧富の格差が目立っているような状況があるのかも知れないが、本当のところはよくわからないから、別にそれが世間的に問題視されるわけでもないのかも知れないし、むしろそういうことではなく、例えば恒常的に労働力を売って生計を立てる立場というのが、経済的な力関係の中で弱い立場を強いられている印象があるだろうし、その結果として賃金が不当に安く抑えられているとすれば、それを政治的にどうにかしてほしいという要望が出てくるのかも知れないが、それも雇用がそれなりにあって、ほとんどの人の生活が成り立っている範囲内でのことでしかないから、あまり強く主張するほどのことでもないだろうし、それを深刻な事態として問題視する成り行きにはなっていないのかも知れないし、そんなことも含めて事態が中途半端に推移する情勢の中で、特に明確に政治的な主張が形成されないような状況に陥っているとすれば、それでもかまわないと思うしかないのかも知れないが、そこで何が何でも問題視しなければ気が済まないような人なら、ちょっとした懸念材料でも大げさにあおり立てて、そこから無理にでも政治的な争点をねつ造したくなってくるのかも知れないし、実際にそんなことをやっている人たちにしてみたら、自分たちがいくら問題をあおり立ててみても、一向に世間が関心を示さないし、メディア的な盛り上がりにも欠けることが不思議でならないのかも知れず、そうなってしまう理由や原因をあれこれと並べ立てて、それらのどれもが決め手を欠いているわけではないにしても、根本的に何かが間違っている可能性を否定しきれないのかも知れず、それが戦略的な誤りなのか、それともそういった小手先の問題などではなく、間違っているとか正しいとかいうことでさえもなく、何をどうやってもそうなるしかないような成り行きに巻き込まれてしまっていて、それ自体が予定調和のマンネリ化を招いているとすれば、そんなことをやっている人たちには、もはや何の可能性もなく、そこで行き詰まってしまうしかないのであり、だから世間がそれらの人たちに関心を向ける必要さえないのかも知れないが、それも相対的な範囲内でそうなっているに過ぎないことだから、そうなってしまうことを深刻に捉える必要もないのかも知れず、逆に深刻でないようなことに関して、それをことさらに問題視するようなこともせずに、あくまでも相対的な範囲内で考えてみる必要があるのかも知れず、それは本質的に良くも悪くもないことであり、特にひどい状況でもないのに、そこから改善や改革といった大げさなことではなく、ちょっとしたところをちょっとだけ変更するような態度が求められているのだとしたら、確かにそれをことさらにあおり立てる必要もないだろうし、それが世間の支持や賛同の対象ともならないようなことだとしたら、そんなことをやった成果を賞賛したり批判するような成り行きにもならないだろうが、それでもそういうことの積み重ねが、それなりに状況を変えていく上で必要なことであるのかも知れないし、そういった特に賞賛や批判の対象ともならないようなことをやるような成り行きになっているとしたら、何でもかんでも政治問題化してあおり立てるような人たちは不要になってしまうわけで、そんな大げさな批判がいらないとしても、やるべきことが全くないということではなく、ただそのやるべきことが特に大した成果をもたらすようなことでもないだけに、それをやるに際して他からの支持や賛同などは当てにできないようなことであり、そんな誰からも賞賛も批判もされないようなことを淡々と遂行できるかといえば、実際に必要に応じてそんなことをやっている人など世の中にはいくらでもいるのかも知れないし、その逆にやっていることがメディアなどで大げさに取り上げられて世間の脚光を浴びるようなこととなると、それは全体から見ればほんの一部に過ぎないことなのだろうし、誰もが嫌でもそんなことに関心を持つような成り行きがあるとしても、それはそれとして、実際に多くの人たちがやっているのは、そんなこととは無縁な行為であるだろうし、そんなことを多くの人たちがそれと自覚することなく気づいているから、政治問題の類いやメディア関連の話題をあおり立てるような行為に関心を持てない人が増えてきたのは、ある意味当然の成り行きなのかも知れず、ならばそれをことさらに問題視する必要もないだろうし、またそれの延長上の問題として、選挙での投票率の低さを嘆くようなことに関しても、それを誰のせいにする必要もないだろうし、それはそうなるのが当然の成り行きだと捉えておくしかないことであり、それを当たり前の前提として、それに伴って人々が関心を持つようなことをメディア上で大々的に取り上げるような行為も空振りに終わることも踏まえた上で、別に多くの人が関心を抱くようなことではなくても、必要ならやらなければならないだろうし、またそれをことさらにあおり立てる必要もなく、やるべきと思われることを淡々とやるような成り行きになるしかないわけで、別にそれが世間的な評価の対象とはならなくても、必要と思うならやっていくしかないわけだ。


8月10日「大道芸」

 言葉を用いて何かを表現することと、その対象となる事物とは、それなりに関連性があるはずだが、ただそれが毎度おなじみのありふれた表現になってしまうと、事物の本質を捉えていないように感じられるわけで、実際にその事物の存在感や動作として、その事物特有の傾向や強度が備わっていると、ありふれた表現では釣り合いがとれなくなるだろうし、下手をするとその事物について語っていないことになり、その事物にはふさわしくない表現になってしまうのかも知れないが、そんな表現を真に受けてしまうと、そういった表現からは事物の真の姿を感じ取れないことになり、事物に対して的外れな印象を抱いてしまうことにもなって、そんなふうにして事物の虚構化が進行するのかも知れないが、それは事物を直接表現するのでなくても、それにかこつけてありふれたことを語る際にも、そんな事態が進行するのかも知れず、なぜそうやって事物をありふれた存在におとしめようとするのかといえば、そこに事物が存在していて動作していることから来る素直な驚きを可能な限り減じて、何かそこで新しいことが起こっているのをやり過ごすには、そういった言語的な処理が必要となってくるのかも知れないが、なぜそうしなければならないのかというと、意識がこれまでと同じような感覚を保ちたいわけで、これまでの感覚の延長上で物事が推移していれば、これまでの論理や表現によって難なく物事を捉えられるだろうし、その物事に合わせた新たな論理や表現を模索しなくても済むからだが、そうであれば自分たちが後生大事に抱えている価値観を変更する必要もなくなるわけで、そうした試みが最終的には現状維持へと落ち着くのかも知れないが、実際にはこれまでにはない事物が出現しているとすれば、単に新たな事態に意識が対応できていないだけで、現状維持自体がフィクションにしかならないわけだが、それで済むかというと、そういうやり方に批判的な人なら、それでは済まないと思いたいのかも知れないが、そうやって状況が変化する可能性の芽を摘んで押さえ込むことに成功すれば、何とかなるような気がするのかもしれないが、実際には意識してあからさまにそんなことをやっているわけでもないだろうし、結果的にそんな成り行きになっているのかも知れないということでしかなく、それに関してほとんどの人たちも何を把握しているわけでもないのだろうが、中には前衛芸術のようなものが社会を改革に導くことに期待するような、そんなわけがわからない勘違いを抱いているような人たちもいるのかも知れず、そういった人たちは自由な表現を目指して、現状維持を目指す保守派の同調圧力に屈せず、芸術作品に政治的な主張を込めて、それをやめさせるために圧力をかけてくる勢力に対して抗議の意志を示しながら、戦闘的な姿勢を鮮明化するようなことをやっているつもりになれるのかも知れず、そんな活動を大真面目に受け取ると、何やらそこから社会変革が実現できるかのような幻想を抱けるのかも知れないが、それはそれで現状維持を実現しているかのように幻想するフィクションとは反対の、現状の改革を実現しているかのように幻想するフィクションになってしまい、その実態が単なる安手の政治的なパフォーマンスにしかなっていないことに気づかないような愚かな事態になっているわけで、それもある意味ではそこでおこなわれていることの本質を捉えていないことから来る勘違いでしかないわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、メディア的な見世物の水準と人々が実際に生活している水準にはそれなりに違いがあるわけで、いくら人々にパフォーマンスを見せても、それはあくまでも非日常的な出来事に過ぎないことだから、それとこれとは別々の次元でおこなわれていることだと認識できるだろうし、下手をするとそんなパフォーマンスの類いは娯楽の一環と解釈されてしまうわけで、そうなるとそれを観て楽しめれば十分なものでしかなく、そこから社会の変革に結びつく要素を導き出せなければ、どんなに趣向を凝らしてみても、見世物であるという敷居を超えられず、結果的に人畜無害で珍奇な演芸にしかならず、それこそありふれた表現形態と受け取られてしまい、それ以上の進展は期待できないわけだが、ではどうすればそれ以上の進展を望めるのかといえば、こけおどし的な効果を持たせるとか喜怒哀楽の感情に訴えかけるとかいうのではなく、考えさせるように仕向けることが重要だろうし、それにはありふれた表現では考えてくれないし、興味を抱かせることが肝心であるとしても、毎度おなじみの安心感を伴ってしまえばやはり考えないし、何よりも疑問を抱かせなければ考えないわけで、実際にも表現の自由だとか不自由だとかの水準では疑うことは何もなく、それは憲法で公式的に認められていることでしかないだろうし、ではなぜそんなことがわざわざ憲法に記されていないとならないのかといえば、自由に表現させないように圧力をかけてくる勢力がいるからだろうし、気に入らないことを主張されたり表現されると腹が立つ人たちがいるということであり、そんなこともありふれていてわかりきっているわけだが、それも取り立てて疑問を抱くようなことでないのもわかりきったことであり、人々に考えさせるのはそんなことではなく、そんなことをなぜ遠回しに芸術にかこつけて表現しなければならないかということがまずは疑問に思われるだろうし、しかもこけおどし気味に憎悪の感情に訴えかけるようなことをやらなければならないのかも疑問に思われるし、そういう意味ではそれ自体が疑問だらけの見世物であるわけだが、しかもその中でも一番の疑問点は、芸術とは何かという本質的な問いに答えずに、その代わりに表現の自由とか不自由とかいうありふれたお題目でお茶を濁していることが、芸術とは無縁な教条主義的な主張になってしまって、結果的に見世物を台無しにしているし、芸術とは何かという問いには、実際に展示されている作品によって答えなければならないのに、それがありふれた薄っぺらい政治的なパフォーマンスに堕してしまったわけだから、結局は目も当てられないようなひどい惨状になってしまったのではないか。


8月9日「自己犠牲」

 社会規範というと何か道徳的な内容を思い浮かべる人が多いかも知れないが、果たして世の中で何にもまして無条件で守らなければならない規範というのがあるかというと、普通はそんなのはあり得ないように思われるかも知れないが、日頃の自らの行いに関して何かやましさを覚えるような時があるとすれば、そこでやってはいけないことをやってしまっているように思われるだろうし、たぶんそんなときに守らなければならない規範を破っているように思われるのかも知れず、誰でもそんな経験はあるのかも知れないが、なぜそこで規範を破るような成り行きになってしまうのかといえば、大抵は自身の事情を優先させると、その手の社会規範とぶつかってしまうわけで、そういう意味で社会規範というのは、自己を犠牲にして社会に尽くすような成り行きを伴うのだろうし、実際にそういうことをおこなっている人は立派に見えるのかも知れないが、具体的にどのような行為が自己犠牲を強いられる行為になるのかといえば、自らの不利益を顧みずに他人を助けるような行為を行えば、それが自己犠牲的な行為となるのだろうが、それも意図的に意識して行うのではなく、意図せずそれと自覚することなくやってしまうようなことがあるだろうし、それをやった後もそのことに気づかなければ、それが社会規範に操られておこなったことになるのかも知れないが、無意識の動作としてそれが身についているのかも知れないし、なぜそんなことが自然に身につくのかといえば、他人に共感する能力が自己保存本能に打ち勝つように動作するから、そんな現象が起こるわけで、そこに社会が存在していて、その中で人と人とが助け合いながら生きていること自体が、自分よりも他人を助けることを優先させる傾向となっているのかも知れず、そうすることが社会規範としても望ましい行為と見なされるわけだろうが、誰もがそんな規範に従うわけでもないだろうし、少なくとも経済的な功利性を優先させようとすれば、自分や自分が所属している集団の利益を最優先させるような傾向となるわけで、なぜそうなるのかといえば、実際に経済活動を成り立たせている論理が、そうなっているとしかいえないような成り行きをもたらしているのかも知れないが、そうであるなら、社会を成り立たせている論理と経済活動を成り立たせている論理が、相反する傾向を伴っていて、そこで二つの論理がぶつかり合っていることになるわけだが、その二つの論理のどちらも人が生きていくに際して必要であるなら、論理的整合性がとれなくなってしまうように思われるかも知れないが、その場の状況に応じて相反する二つの論理を使い分ける必要があるのかも知れず、どちらか一方の論理を優先させるだけでは世の中がうまくいかなくなってしまうわけで、その中でも利己的な功利性に歯止めをかけるためにも、それを優先させて結果的に他人を困らせるような行為については、やましさを覚えるような成り行きになるわけだろうが、やはりそこでもなぜそうなるかについては、うまく論理的には説明できないのかも知れず、ただ他人を困らせるようなことをやってしまうと、気分が悪くなってしまうわけで、それよりは他人を喜ばせるようなことをやりたくなってくるのだろうし、しかもその際に他人に迷惑をかけずに他人を喜ばせて、それによって自分も気分が良くなるような成り行きをもたらそうとすれば、自然と自分を犠牲にしてでも他人を助けるような行為となってしまうのかもしれず、そういうところで自己保存本能に反するようなことを時としておこなってしまうわけだだろうが、それで世の中がうまく回っていくなら、回り回って自分が犠牲を払った分がいつか返ってくる可能性もあるのかも知れず、そういうことを事前に期待するわけにはいかないとしても、あえて自分が犠牲になる方が、結果的に物事がうまくいくような予感がするのかも知れず、そういうところであまりにせこく目先の利益を追い求めない方が、身のためなのかも知れないし、しかも利益を得られると思っていたのが幻想に過ぎない場合もあるわけで、さらにその幻想というのが、現実の利益である場合もあるだろうし、要するに銀行口座の残高がいくら増えても、そのままでは何ももたらされず、実際にその金額を消費しないと何かがもたらされたことにはならないし、例えば何かを過剰に買って過剰に消費すれば、すぐに口座残高がゼロに近づいてしまうし、そうなるとまた口座残高を増やすために経済活動をおこなわなければならなくなり、そんな金儲けがやましさを伴ってくれば、金儲けから来る自己満足とやましさから来る不快な気分が同時にもたらされることにもなるだろうし、特にそこで不正行為やごまかしや詐欺的な行為などをやらざるを得なくなってくると、それだけ心労やストレスもかさむ一方で、その反動から過剰に自らがおこなっていることを正当化するような成り行きも生じてくるだろうし、やましさに打ち勝つためにはは自己正当化が欠かせなくなって、そんなことをやればやるほど独善的な傾向になってくるわけだが、それに比例して虚栄心も増長してくるし、何にしても程々のところで済ますわけにはいかなくなってきて、大げさに自らの存在を誇示して、やっていることを飾り立てるような成り行きにもなってくるし、そうやって盛大に繁栄を祝うようなことをやり始めると、それだけそういう行為の限界が近づいている証しともなってくるのだろうが、そうやって栄華を極めた後にやってくるのが何かといえば、普通は衰退となるわけだろうが、衰退を遅らせて栄華を長引かせようとすれば、それと表裏一体となって生じている心身の荒廃も深刻な様相を帯びてくるし、繁栄している面と荒廃している面が極端な対比を見せるようになるのだろうが、それが利己的な功利性を追求した結果としてもたらされた状況であるなら、実際にそうした行為の渦中にある人たちには、そうなっていることが当たり前の状況であるわけだから、それでかまわないのだろうし、もちろんそこからせめてもの罪滅ぼしというわけでもないだろうが、世間体を気にして慈善事業なども手がけることにもなるのだろうが、そんな状況になってからでないと、そういうことはおこなわれないだろうし、そうなっている時点でもはや手遅れで、取り返しのつかない事態になっているわけだが、それが成功や繁栄の証しであるだけに、それ自体が不条理な成り行きでしかないわけだが、それが不条理であることに気づけるわけでもないだろうし、うまくいっている面だけに目を向ければ、うまくいっているようにしか感じられないわけだ。


8月8日「制度と社会の不完全性」

 社会の仕組みとして何かしら制度的な形態があるのは、その中で活動している人に制度に基づいた役割分担が生じていることからも明らかだが、そこで人が制度が定める規則に従った動作を強いられるのも、制度が社会の中で機能していることから来る当然の成り行きであり、またその人が規則に従っているか規則を破っているかを判断するのは、その人自身ではなく、制度を管理している側であるのも、規則として定められていることであり、人がそうやって制度に拘束されている面があることは、そういった制度を含んだ社会が成り立っていることを示しているわけだろうが、もちろんそういう面があるとしても、人が全面的に制度に拘束されているわけではないし、官民を含めて複数の様々な制度が同時並行的に乱立していること自体が、制度と制度の狭間で制度にとらわれない活動できる余地が残されている可能性を示していて、また制度同士の連携や整合性などに関しても、うまくかみ合っていない面もあるだろうし、実際にそうなっていることが、ある意味では制度の不完全性とともに社会の不完全性を示しているのだろうが、それを不完全だと見なすか、あるいは社会が変化する余地として柔軟性があると見なすかは、どちらでもあるのだろうが、制度を利用してできることと、特に制度を利用しなくてもできることがあるのは、制度が必要とされる面と、特に必要ではない面の両面があることを示しているだろうし、それに関して人の活動のすべてを制度によって囲い込む必要があるかというと、そうとも言い切れない面もあることは確かで、制度化されていない行為や活動に関しては、制度化するメリットがなければ制度化されないだろうし、また制度化しようとする目的が生じなければ制度化されることはないわけだろうが、ではなぜ何らかの行為や活動が制度化されるのかといえば、制度化することによって利益が見込まれれば制度化されるだろうし、また人や物や情報を何らかの制度に囲い込むことによって、効率的に管理できると判断されれば、やはり制度化が試みられるわけだろうが、そういう面では人を制度に従わせることによって支配するとか、支配という言葉に語弊があるなら、やはり管理という言葉が使われるだろうが、そうすることによって制度を管理する側が、人の活動や行為を把握しやすくなるとともに、制御しやすくなるなるわけだが、その一方で人が複数の様々な制度を同時に利用していると、その中の一つの制度だけに管理されているわけでも支配されているわけでもなく、それらのことごとくは部分的な管理に過ぎなくなるだろうし、部分的な支配に終わるしかないわけで、そうなるとそれらは不完全な管理であり不完全な支配になるわけだが、そうであるなら実質的にも全面的な管理も支配も行われていないことになるだろうし、そうやって人の活動や行為の中である一面だけを管理したり支配するような複数の制度が社会の中で成り立っていることになるわけだが、それでは管理も支配も不十分だから、制度を一つに統合できないかというと、それぞれの制度にはその用途や特性に関して一長一短があり、また制度同士が相容れない面もあれば、それらを強引に一つに統合すると、うまく機能しなくなる可能性が出てくるのかも知れないし、だからそれぞれの得意分野ごとに、その分野に特化した制度が必要となってくるわけだろうが、それが制度の限界であり、そういう意味では多方面で複合的に機能する制度はあり得ないのかも知れないし、制度にはある特定の分野に機能を特化することで成り立つ性質があるのだとすれば、その分野に関わった部分では、確かにそれに関わってくる人を制御したり支配することもできるのかも知れないが、その分野から外れる部分では、当然のことながら制御も支配もできなくなり、そうであるなら特定の制度では、人を完全に制御することも支配することもできないわけだが、それに関して例えば政治や行政などの面で、国家的な制度によって人を完全に制御したり支配することを目指す試みというのが、実際に行われているとしても、そういった試みがうまくいくはずがないことにもなるのだろうが、ではそうだとすると、そういう面での制御や支配に危機感を募らせるような人たちの認識や主張というのは、勘違いであり間違っているかというと、危機感を募らせていることに関しては、そういった懸念を抱かせるようなことが実際に行われているのかもしれないし、そういった試みが成功することはないのかも知れないが、完全には成功しないまでも、そういう試みが行われる可能性は絶えずあるといえるのだろうし、そしてそれが無駄で無意味な挑戦というわけでもなく、制度というのは常にその制度によって拘束する人たちを管理して制御するような性質があって、そうすることにメリットが生じるから、実際にそういうことをやろうとするわけで、しかもそれがしばしば行き過ぎた管理となって、束縛され支配されているように感じられるから、そこで危機感を募らせることにつながるのだろうが、そうだとしてもそれがいつも部分的な管理や支配にとどまっている現状もあるとすれば、そうなっている限りで危機感を募らせる人たちの杞憂に終わっている現状もあるのだろうが、それでも現状の社会が成り立つ上で、人や物や情報の制度的な管理は必要不可欠であり、実際にそういうことが行われているわけだが、たとえそれが部分的な管理にとどまっているとしても、制度を管理する側の論理としては、常に完全で完璧な管理を目指すわけで、そうすることが制度的な特性でもあるわけだから、そういった傾向に危機感や懸念を抱くのも当然なわけだが、そういった制度的な管理を推進する側と、そういう傾向に危機感を抱く側とで行われるせめぎ合いの類いが、社会に何らかの均衡状態をもたらしているともいえるのかも知れないが、少なくともどちらの思惑通りともなってない現状があるのだろうし、それは将来的にわたっても変わりないのかも知れないし、結果的にどちらの思惑通りにもならないことが、制度や社会の不完全性を示しているとしても、それが現状をもたらしていることも確かなのかも知れない。


8月7日「場の力」

 何かその人に明確な目的があって、その目的を成し遂げようと努力していれば、その目的の内容がどうであれ、それがその人の活動の中では最優先されるはずだが、実際にはそれを成し遂げる自信がなければ、必ずしもそれを最優先させているわけでもないのかといえば、表向きはそんなことはないだろうが、少なくとも自信があるかないかで、それを成し遂げようとする意気込みにも違いは出るだろうし、成就する見込みが全くないようなら、そもそもそれが目的とはならないはずだが、その反対に十分な見込みがあって、ある程度は目算も立つようなら、目的を成し遂げるというよりは、目標を達成するような成り行きになるのかも知れず、そうなると目的と目標の違いがわかりにくいところかも知れないが、目的の場合はその結果がどうであれ、例えば何かをやることが目的であれば、それをやってみれば目的を成就したことにはなるだろうし、それがやるだけではなく、結果的に成功することが目的となると、それは目的というよりは、目標というニュアンスを伴ってくるだろうし、そうなると目的が何かをやることであり、目標はそれを成功させることになるわけだが、そうやって目的と目標を使い分けることができるだろうが、必ずしもそれらが明確に区分けできるかというと、そういうわけでもなく、何かをやることだけではなく、それを成功に導くことも目的にはなるだろうし、その辺の言葉の使い方は、何がターゲットになるかによってニュアンスが異なってくるのかも知れないが、そんなふうに目的や目標にとらわれた行為や活動がある一方で、それほど明確には目的や目標が定まっていない行為や活動というのも中にはあるのかも知れず、それに関して何かを切実には求めていなければ、特に目的や目標をはっきりとは意識していない場合もあるだろうし、それが表向きは目的や目標を明確に示しておきながら、なかなかそれを成し遂げようとしなかったり、いつまでたってもそれが達成されなかったりして、それが単なる怠慢でそうしているわけではないとすれば、そうした目的や目標自体が疑わしく思われるようにもなってくるのかも知れず、そういう場合は目的や目標に向けて努力しているふりを装いつつも、実際には努力しているポーズを保っていることが、真の目的となっていたりして、そういった結果に至らずに常に途中経過の中で、現状を維持し続けるような戦略というのもあるのかも知れず、そうすることのメリットとしては、いつまでも同じ目標を掲げていられるわけで、いったんそれが達成されてしまえば、それとは別の目的や目標を掲げなければならなくなるようなら、たぶんそこで他にやることが見つからずに活動を継続できなくなってしまう恐れが出てくるわけで、そうなってしまうのを避けるには、いつまで経っても同じ目標を掲げ続けることが、そこでの最善のやり方ではないにしても、そんな現状を維持するには妥当なやり方となってくるのかも知れず、もちろんそんなことをやっている人や団体にとっては、それでもかまわないような状況となっている限りで、そんなやり方が通用するのだろうが、果たして現状の政治情勢の中でそれが通用しているかというと、情勢が安定していて、しかもいつまで経っても同じような政治的な主張が繰り返されていれば、それでもかまわないような成り行きになっているのだろうが、それで通用しているかとなると、そんな主張を繰り返している人や団体が、現状の中で政治的な主導権を握っていれば、結果的には通用していることにはなるわけだが、それも果たして主導権を握っているのかとなると、やっているふりをしているだけで、実質的には何もやっていないようなことになっていれば、主導権を握っているどころか、単に行き詰まっているだけかも知れないし、実際にやることが何もなければ、やっているふりを装うことぐらいしかできないわけだが、それをレームダックと見るか、それとも何かをやっているふりを装うことが、通常の意味で政治活動の実態であり、それがまかり通っていること自体が、政治本来のあり方だと強弁できるようなら、何の問題もないのかも知れないが、もちろんあからさまにそんなことを言うはずもなく、それとは正反対のことを言うことが、それも政治の場では普通に言われていることであり、それが取り立てて何の違和感も感じないようなら、それで何かをやっているふりを装うことに成功しているわけだろうが、下手に何かをやろうとして、現状の安定した状況が壊れてしまっては元も子もないわけで、そういうところでも何かをやっているように装うことが、実質的な政治活動となっているとすれば、そこで求められているのは何かをやっているように装う演技力の類いかもしれないし、しかもそれが政治家自身の演技力というよりは、それを伝える側のメディア的な演出力である可能性もあるのかも知れず、さらにそれを受け止める側の見て見ぬふりをする傍観力でもあるのかも知れないし、要するにそこでは誰もが共犯関係にあることが、そんな三文芝居を成り立たせる上では必要不可欠となってくるのかも知れないが、それが必要だと思わないことも、自覚なき演技に含まれるのかも知れないわけだが、そうやってどこまでも現状維持的な情勢となっていれば、本当に演技すること以外には何もやるべきことがなくなってしまうわけだが、たぶんやるべきことが何もないということには誰もが薄々気づいていながらも、それをあからさまに指摘しないようにすることが、三文芝居を長引かせる上では、舞台上の演技者にとっても、それを客席から観ている観衆にも求められていることでもあり、それを誰が求めているのでもないのだろうが、その場に居合わせた人たちの共通認識としては、支配的な同調圧力として認識すべきことかも知れず、誰もがそんな圧力に屈している限りで、その場の均衡が保たれているわけだろうが、果たしてそんな均衡を破って事態を流動化させる力が誰にあるのかといえば、誰にもなければ、そんな状況が延々と続いていくのだろうが、それが続かなくなるようなら、それは特定の誰かや何らかの勢力に、予定調和の均衡状態を打ち破る役目が割り振られるということでもないのかも知れず、ただそこで場の力が弱まってくるような成り行きが、自然に生じてきているということでしかないのかも知れない。


8月6日「相互作用」

 物事を宣伝すること自体は悪いことではないが、何を宣伝しているかで、その良し悪しを判断するような成り行きが生じるのかもしれないし、また何を表現しようとその人の自由ではあるが、それも表現できる場がある限りで表現できるに過ぎないが、表現している中身に関しては、やはりその良し悪しを判断する成り行きが生じるのかもしれないし、それに対して他から何をどう判断され評価されようと知ったことではない、というような態度もとれるかもしれないが、大勢の人や団体がそうした判断や評価の対象となるイベントに関わっていると、そうしたイベントを成功させることが目的となるだろうし、嫌でもそれに対する評価を気にせざるを得なくなるし、そんなことを意識し出すと、物事の様々な面で好き勝手に振る舞うわけにはいかなくなってしまうのかもしれないが、そういうことを気にせざるを得ない立場というのにも誰もがなれるわけではないし、大抵の一般人はそんなイベントとは無関係に生きているわけだから、たとえそれが世間の話題となろうと、興味がなければ無視していればいいわけだが、無視できないことがあるとすれば、それがその人が直接的にしろ間接的にしろ、程度の差があるにしても、それなりにそうしたイベントに関わっていることになるわけだろうが、それに関して何か言及する程度のことであっても、言及の中でそれに対する評価も含まれてくれば、その評価の中で対象となる物事を、否定的に評価したり肯定的に評価したりすることになれば、そんな評価が世間に影響を及ぼすなら、その人には世間に対して何らかの影響力があることにもなるのだろうが、その人が無名の一般人であれば、そんな影響力もたかが知れているだろうし、そのすべてが何でもないことというわけでもないが、すべてではなく部分的なことにしかならないのかもしれないし、それも相対的な程度に過ぎないとしても、そうした相対的な程度というのが、誰にとってもあてはまることであり、別にそれを無駄で無意味なことだと受け止める必要はないのかも知れないが、無駄で無意味なことであってもかまわないのかも知れず、結果としてそうなってもかまわないような成り行きがあり、無駄に終わるようなことを積極的に行おうとすれば、そこから効果や効用とは異なる成果が得られるのかも知れず、だからあえてそうなることを目指すというよりは、結果的にそうなってしまうのをそのまま受け止めるしかないのかも知れず、それを否定的に評価する必要はなく、もちろん無理に肯定的に評価する必要もないのかも知れないが、評価とは無縁の行為だと思っておいてもかまわないし、根本的にそういうことは評価できないのかも知れないが、個人が一人で思っている限りはそんなことでしかなく、それが他人や他の団体との相互作用を伴うような行為であるなら、そこで関係してくる他人や他の団体が、それに関して何らかの評価を下すかも知れないが、そうならない限りは独りよがりでやっていることでしかなく、自己の主観的な判断に依存しているだけで、それこそが無駄で無意味な行為になっているのかも知れないが、それとは違って社会的な行為となると、必ず他の人や団体が絡んできて、それに関してその他人やその団体なりの判断を下すことになるわけで、それがその人にとっての肯定的な評価に結びつけばいいだろうが、必ずそうなるとも限らず、自らの判断や評価とは異なる他人の判断や評価を受け入れなければ、場合によっては世間から相手にされないことにもなるだろうし、そういうところでその人の力が及ばない領域で判断が行われて評価が下されてしまうわけだが、そんな判断や評価が気に入らなければ、拒否して受け入れないような態度をとることができるかも知れないが、それでも大丈夫な立場というもあるのかも知れず、要するにそれが誰からも相手にされない立場となるのかも知れないが、他人からの評価を受け入れようが受け入れまいが、どちらにしても相手にされない場合もあるだろうし、それも無駄で無意味なことの類いかもしれないが、それでも他人や他の団体との相互作用からそうなっている限りで、それも一応は社会的な現象であり、何かそういうところで自己の存在の耐えられない軽さを実感させられるかも知れないが、そういうところで他人からかまってもらえないと気が済まないような性分であっても、何らかの依存症と見なされてしまうだけで、そうした状況の中でその人がどのような心理状態であろうと、それ以上にそんな心理状態を無視するような成り行きの中で、絶えずその人とは無関係な物事が生成され続けるような成り行きもあるわけで、それがその人に関係する保証などどこにもないだろうし、そのほとんどがその人とは無関係であれば、疎外感を覚えるしかないのかも知れないが、実際には疎外されているわけでもなく、誰もがそんな疎外感とともに生きていようと、気づかないところで何かしら他の人や団体と関係していて、それなりに不満を抱きながらも交流しているわけだが、そうした交流がその人を中心として行われているわけではないから、その人が取るに足らないちっぽけな存在であるかのように思われるとしても、誰もがそうであるなら、それだけ世の中に存在している人が大勢いて、誰もがその中心を占めることができないのは当然なのだが、だから中心などどこにもないといえば、それっきりになってしまうわけでもないが、少なくとも自らが何らかの中心にいるという幻想を抱きたいのかも知れず、それが幻想に過ぎないこともわかっていても、やはり自らを中心として物事が回っているような幻想を抱きたいのだろうが、そんな思いとは裏腹に、各人の活動はいつも中心から外れて分散する傾向があるのかも知れず、もちろん中心がないのだからそれも幻想に過ぎないのかも知れないが、幻想でない認識というのもあり得ないのかも知れず、現状認識には必ずその人なりの幻想が含まれているのかも知れないし、そうでないと自らの主体性を維持できないのかも知れないし、心の中に主体性を保つには、それなりに自己中心的に振る舞っているつもりになれないと、世間から無視されているように思われて、そのことから生じる疎外感に自意識が負けてしまうのかも知れない。


8月5日「言葉の意味」

 言葉の意味はイメージとしては言葉そのものに絡みついているように思われても、常に意味を意識しながら言葉を使っているわけでもなく、使うに際して違和感がないような言葉を選んで使っているつもりだろうが、使っている言葉の正確な意味をいちいち把握して気にとめているわけではなく、意味が通るような言葉の使い方を心がけているとしても、言葉の正確な意味までは把握せずに使っていることは確からしく、もちろん文章を記すような使い方だと、後から文章を読み返して、違和感を覚えるような使い方をしている箇所が見つかれば、その言葉の意味を調べて、実際におかしいことがわかったら、修正するようなことは行うだろうし、確かにそんな成り行きの時には言葉の正確な意味を把握する機会もあるだろうが、どちらかといえばそんな機会がいつも訪れるとは限らず、大抵は正確な意味を把握せずに使っているわけで、しかもそれで済んでしまう場合が大半だろうから、いちいち言葉の意味を確認するようなことはしないわけだが、それでも大丈夫な場合がほとんどであるからには、言葉の意味を正確に知る機会というのもほとんどないのかもしれず、わざわざ意味を把握しなくても知っているつもりになれるわけで、言葉を使った時点で、その意味を知っていることも織り込み済みになってしまい、そういう意味では言葉の意味を把握する行為を省略しながら、言葉を使っていることになり、それでもコミュニケーションが成り立ってしまうわけで、別にそれが当たり前のことだから驚くには値しないわけだが、それは言葉に限らず、例えば使い方を完全には把握していない機械を使っていることなどいくらでもあるだろうし、大抵は機械の機能や使い方に関して、使う用途に合わせた使い方しかできない場合がほとんどなのかもしれず、そうやって機械のすべての機能を把握せずに機械を使っているから、時には使い方を間違えて、故障や事故などの思わぬ結果をもたらしてしまったりもするのだろうが、そういった多用途を伴った汎用的な機械の代表格がコンピュータの類いなのだろうが、それでも言葉と機械には違いがあることは当たり前だが、言葉と機械の道具的な使用に関しては、それなりに共通点があるわけで、それも人が人を道具的に使用するのに伴って、言葉の使用と機械や道具の使用などが効果的に組み合わさって、それらが一体化して全体的かつ複合的な人や物や情報などの道具的な使用が成り立つのかもしれないが、人類の文明の中でも産業面においては、人の道具的な使用は避けられないわけで、別にそれが悪いわけではないのだろうが、ただ全面的に人が道具として使われているわけではなくて、それはあくまでも部分的な使用であり、仕事において組織的な作業を伴った協業的な行為の中で、人が人を道具的に使う事態が生じてくるわけで、それが大抵の場合は賃金労働という形態を伴うだろうし、そういう意味では人の道具化と賃金労働が一体化している場合がほとんどかもしれないが、そうした作業内容の分業化によって各パーツごとに分かれた作業が、全体として組み合わさって、ひとつのシステムとして動作することになるわけで、それは様々な言葉が有機的に組み合わさって文章として機能することに似ているわけだが、言葉の道具的な使用と人の道具的な使用との間に差異を考える必要があるかというと、そもそも比べる必要がないわけで、それとは違って人が意味の定かでない行為をしている時には、少なくともそれは道具的な使用とは無関係だろうし、それは目的が定かでない行為ともいえるだろうが、言葉には言葉を用いて何かを表現するという目的が常につきまとってくるわけで、そういう意味では目的のない言葉の使用はあり得ないようにも思われるわけだが、言葉で表現していることの意味を理解させることも、言葉の使用目的であるはずだが、果たして意味のない言語表現というのがあるかとなると、目的が意味のない言語表現を実現させることになると、一応はそこにもそういった目的が生じていることにはなるだろうが、目的には意味や意義があると思っていると、そんなひねくれた言語表現の中では意味を見いだせないだろうし、そんなふうにして言語使用の道具的な面からの逸脱を目指す試みには、意味不明な言葉の使用が伴ってくるのかもしれず、そうなってしまう時点で、言葉の実用から背を向けてしまっているのかもしれないが、それは人の道具的な使用においてもいえることかもしれず、例えば芸術作品に意図や思惑などの効果を求めてしまっては駄目なのかもしれず、そういう意味では安易な喜怒哀楽を表現しようとすると、それでは芸術とはならずに、それに代わって政治的なメッセージなどが込められてしまうわけだろうが、それとは違って何の意味も想像できないような作品が芸術作品としてもてはやされる場合もありそうで、それが美的な価値を高めもするなら、そうした作品は何の役にも立たずに、どんな目的も担い得ないのかもしれないが、そこにあからさまな意味やメッセージを想像してしまうと、そんなことを想像させるのが、その作品を作った目的になってしまうだろうし、そういう意味では従軍慰安婦像などは芸術作品とはいえないわけで、それ自体は性処理の目的で人の道具的な使用を思い起こさせるわけで、それを芸術として提示することに、特定の意図や思惑が想像されてしまうから、それがあざといやり方となってしまい、芸術の趣旨を誤って使っていることになるのかもしれないが、それに関して例えばピカソの「ゲルニカ」を観て、空襲による大虐殺を想像できるかというと、そこには飛行機も爆弾も描かれていないことは確かだろうし、ただピカソがそれを描いた動機を想像すれば、何やら虐殺の光景を描いたとみなせるわけだろうが、そういった描いた経緯を知らない人が観たら、何のことやらさっぱりわからない抽象画でしかないだろうし、その作品が世界的にあまりにも有名だから、誰もが無差別爆撃による大量虐殺を描いたという先入観や固定観念を伴って観てしまうから、そんなことはないわけだが、それは渋谷辺りに飾ってある岡本太郎の壁画にもいえることであり、確かにそういうところは微妙なニュアンスを伴っているわけだが、少なくともあからさまな想像力をかき立てるように意図した作品に芸術性を期待するのは酷なのではないか。


8月4日「意識の変容」

 自意識というのは自身と社会との関係の中で生じている意識でもあり、それは自己だけではなく、自己とは別の人格を有している他人や、自己が関係する団体などとの相互交流の中で、それらから何らかの作用や影響を受けながら形成されている面もあるから、孤立して存在しているわけではないし、他人の意識や関係する団体などの集団意識などとも共鳴したり、つながっている部分や重なる部分もあるだろうし、さらには他人から多大な影響を受けて侵食されている面もあるのかもしれず、そういう面が自意識の中に入り込んでいると、それは自己には制御できない面になるわけで、それに関連して団体の構成員として十把一絡げに扱われるような人たちは、総じて似たような意識になっている可能性もあるのかもしれず、それは同じ団体に属していなくても、群衆的な集団意識に支配されている人たちにも言えることだろうし、そういった人たちには一見個性がないように感じられるかもしれないが、特定の物事に対して同じような反応を示すから、同じような意識の持ち主であるように感じられるわけで、また生活形態や職業などが同じような場合にも、同じような意識になってしまう可能性があるのかもしれないし、そんなふうに意識の形成にはその人を取り巻く周囲の環境からの作用や影響が大きいのかもしれず、それは生い立ちや教育環境などにも言えることだろうし、そうやって長年かかって形成されてきた意識がそう簡単に変わるとは思えないかもしれないが、人や物や情報などとの関係が変われば意識もわりと簡単に変わることもあるだろうし、意識が変わったところで何がどうなるわけでもないのかもしれないが、意識の変化とともに、それと関係する他の様々な物事の有り様や形態も変わっていくのかもしれず、もちろんそれはそれらが変わったから、それに連動して意識も変わっていく面もあるのかもしれないし、どちらが先でどちらが後というわけでもなく、それらの間に主従関係があるとも言えないだろうが、そういったことに自身がいちいち気づかなくても構わないだろうし、必要に応じて自身と関わりのある他人や団体などと交流していく過程で、その関わりの形態にフィットするように意識も自然と変わっていけば、それに越したことはないのかもしれないが、その際に自らの主体性やエゴなどをどこまで押し通す必要があるかも、その場の成り行きに応じてわかってくるかもしれないが、そういう面では権力関係なども絡んでくる場合もあるだろうし、そこでの関係も対立や協調や連携などの様々な内容や傾向を伴ってきて、そうなると意識だけでなく、実際の利害なども関係に作用や影響を及ぼしてくるだろうし、それに伴って言葉で意思疎通を図るだけでは不十分な場合も出てくるわけで、またそこに公的な制度などが絡んでくると、意識が否応なく制度的な物事の考え方や捉え方にとらわれてしまい、そうした制約の下で硬直した融通の利かない傾向になってくると、思考の柔軟性を失って、意識も自然と教条主義的になってしまうだろうし、実際にそうなってしまって、そのことで自らの活動に支障をきたすようなら、自らの意志で意識を変えようとするのかもしれないが、そもそも自らの意識を思い通りに変えられるかというと、自らの意識の中に自らの意志があるわけだから、それ自体が循環論になってしまっているわけで、大抵の場合は他人の助けを借りて意識改革を行おうとするだろうが、それが自らの思い通りになるというよりは、他人との共同作業の過程で自ずから意識が変わっていくのかもしれず、そうでなくても社会の中に存在している限りは、自身が孤立しているわけではないから、意識が変わろうが変わるまいが、周囲の環境や関係する人や団体との間で何らかの調整作業が必ず伴ってくるだろうし、そういった自らが関係している物事の動向に引きずられながら、自らの意識も絶えず何らかの作用や影響を被っていると認識しておくしかないだろうし、また意識が変わることと活動の内容や傾向が変わることとが連動しているかというと、連動している面もしていない面もあるかもしれないが、どちらがどうというよりは、互いに絡み合いながら変動していると言えるのかもしれず、それが今後においてどうなるにしても、そこで何か決まり切った作用や影響が自意識に及ぼされるわけでもなく、絶えず偶然にもたらされる予期せぬ出来事に遭遇して、そこから思いがけない作用や影響を被りながらも、そこで自意識が変わらないように保とうとする傾向が、自己保存本能から生じているとしても、それが全てではないことは確かであり、すでにその時点で、自己保存本能とは異なる社会的な制度や慣習などからの作用や影響を被っていて、それが社会の保存を図ろうとする集団的な本能であるならば、そうした集団意識は個人を犠牲にすることで成り立っている場合があるわけで、またそこで生じている制度が個人を個別的に取り扱うように動作していれば、なるべく仲間との連携や連帯などの絆を断ち切って、孤立させて体制には逆らえない無力な個人として国民や労働者に仕立て上げるような場合もあるのかもしれず、それに加えて個々の人たちがお互いに反目し合うように仕向ける動作も伴ってくると、そんな作用や影響を及ぼされていることに人々が気づけるかというと、それは現状の世の中が情勢として示していることであり、そこで人々が様々な徒党に分断されて相互に対立して争っているようであれば、まんまと体制側の思惑通りとなっているわけだろうが、果たして体制側にそんな意図や思惑がはっきりとあるかといえば、たぶんそうではないだろうし、それよりは自然とそんな成り行きになっているだけで、その中で人々がお互いに疑心暗鬼になるような事態となっているのかもしれず、ではなぜ自然とそうなってしまうのかといえば、それは制度的な効果としかいえないのかもしれないが、意識が制度に縛られているということは、すでにそういった前提を意識できないことからも明らかであり、要するにそんな前提を織り込み済にしながら意識が生じていて、そうなっている時点でお互いに反目し合うような傾向の意識となっているのではないか。


8月3日「何かを行う機会」

 社会の中で行われる人や集団による活動に際して、それを行うタイミングというのが重要に思われてくる時もあるわけだが、実際に機会を捉えて何かを行うことは、その時でないとうまくいかないように思われるから、そのタイミングを見計らって、最もそれを行うのが効果的に思われる時にそれを行うことになるわけだが、それにはそれまでにそれを行なってきた経験からそういうタイミングがわかってくるわけで、どのようなタイミングでそれを行うかに関して、その裏付けとなる知識と勘が身についていることが、そういうことを行う上での前提条件となっているわけだろうが、実際にそれを行ってみて、それが思いの外うまくいかなかったり、空振りに終わったりすると、機会を捉えて何かを行なったつもりが、それがとんだ勘違いだったことがはっきりするのかもしれないが、そもそもそれを行うタイミングさえ良ければうまくいくという思い込み自体が間違っていたのかもしれないし、それ以外の面でもうまくいくための条件や要素があれば、そういう面まで考慮に入れるなら、うまくいくかいかないかは単にタイミングだけの問題ではないことになるわけだが、そうであるとしても、別にそれを行なった結果が思わしくなくても、そうなった結果が大して深刻な状況とは思えなければ、そのことの良し悪しだけを問題にすることもないわけで、それよりは、そこで何かを行なったこと自体に、そのことの是非とは別に、肯定的な意味や意義を見出したい場合もあるだろうし、実際にそこで何かを行なったことが、そんなに大げさな事態に結びつかなければ、それがうまく行こうがいくまいが、そのこと自体は特に問題とはならない、という認識を得ることができるのかもしれず、いずれにしても実際にそれを行なったこと自体に関しては、それなりに多方面からの分析や解釈や評価が必要となるだろうが、そうすることの意味や意義が不明確ならば、特にその必要もないのかもしれないし、実際にメディア上でそういう分析や解釈や評価が行われる機会を逸してしまうと、少なくとも世間的には注目されないだろうし、そんなふうにそれが他から無視されるようなことでしかなければ、そんなことを行なった事実ですらも確認できないようなことになってしまうのかもしれず、そういった記録にも記憶にも残らないようなことが、世の中で行われていることの大半だとすれば、その大半の出来事はすぐに忘れ去られてしまうようなことでしかないわけだが、それでも少なくともそれを行なった当事者はそれなりに覚えているだろうし、またその関係者もそのことを割と長期間にわたって覚えているかもしれないが、その当事者と関係者以外の人たちには興味のないことであれば、世間の話題となることもないだろうし、世間の話題ばかり気にするような人にとっては、そんなのはどうでもいいことでしかないのだろうが、少なくともそれを行った人やその関係者にしてみれば、それを行う必要があったから行ったと捉えられるようなことにはなるだろうし、そうではなく、それを行う必要もないのに行ったと捉えられるなら、それは行う必要さえない余計なことになってしまうだろうが、ではなぜ行う必要もないのに行うのかといえば、当人の勘違いで行なってしまったことにすれば、必要か必要でないかの判断の対象とはなるだろうし、必要もないのに行なったわけだから、それは間違った行為に分類されることになるわけだが、果たしてそれが必要か必要でないかの判断の対象となるのかといえば、そうした判断自体が間違っていれば、必要か必要でないかという前提条件が崩れてしまうわけで、そうであれば、そんな判断をする必要のない行為というのもあることになるわけで、特にそれを行うに際して、明確な前提条件を伴わないような行為というのもあるとすれば、ではそういった行為は何のために行われているのかとなると、それはただそんなことが行われているだけの場合さえあるのかもしれず、そういった目的の定かでない行為から生じるものの中で、後付け的にそれに対して何らかの定義を施すような必要が生じてくれば、例えばそれを芸術と定義すれば、そういった芸術の信奉者にとっては、それはかけがえのない行為であり、そこから生じるものがかけがえのない作品となることもあるだろうが、それが芸術の信奉者以外の人にとっては、どうでもいい不要な行為であり、そこから生じるものも不要なものとしか感じられない場合もあるのだろうが、それを不要な行為や不要なものとはみなさないようにするには、メディアを通じて宣伝して、それが何か価値のある行為であり価値のあるものだと世間に信じさせる必要が生じてくるわけだが、そういう宣伝を真に受ける人が多いほど、そういう行為やそこから生じるものをありがたがって受け入れるような世間の風潮が生じるわけだろうが、たぶんどのような行為やそこから生じるものが世間的に受け入れ可能なのかについても、それを宣伝するメディア側で経験と勘に培われたノウハウが蓄積している場合があるわけで、そういったノウハウに基づいて、世間に受け入れられやすい行為やそこから生じてくるものを宣伝するような成り行きも生じてくるだろうが、何かそういうところで、そんなメディアが宣伝するような行為やものをありがたがって受け入れるような風潮に、疑いの眼差しを向けることも、時と場合によっては必要となってくるのかもしれず、なぜそういうことが必要となるのかといえば、そういった宣伝を真に受けるような人々が、明らかに軽薄でしかも世間知らずな印象を伴っているのに、もちろん当人たちにはそういった自覚もなく、単なる大衆娯楽のレベルに過ぎないものを芸術作品のように崇め奉っているように見えてしまうと、そういったメディアを通じた宣伝が詐欺のように思われてくるわけで、そう思ってしまうような感性がどこから生じてくるのかといえば、それも何が芸術作品として定義されるのかについての経験と勘が培われていないと、見分けがつかなくて当然かもしれないが、果たしてそういう感性を身につけることが必要か否かとなると、中には必要な人もいるだろうが、必要ではない人の方が圧倒的多数に上るのも、現状の社会では妥当なところなのかもしれない。


8月2日「倫理性と功利性の関係」

 人と人との関係がどのようなものになろうと、お互いに意思疎通を図るには言葉を交わすことが主だった行為になるだろうが、中には意思疎通を図ることが目的ではないような言葉の使い方もあるだろうし、意思疎通を図って言葉を交わす相手との間で合意や了解を取り付けようとするのではなく、逆にわかり合おうとせずに、むしろ対立を深めて敵対関係を強めようとして、その際に相手を攻撃するために言葉を戦略的に活用しようとする場合もあるだろうし、それが批判や非難といった行為に結びつくわけだが、一方でそれは批判や非難することの正当性を強調して、そうした行為への支持や賛同を募る目的でも言葉が使われるわけで、そんな際には相手を批判したり非難するのが当然だと思われるような理由を提示したいだろうし、そうやって敵対している人や勢力とはわかり合おうとはしない一方で、そうした行為の支持者や賛同者とは意思疎通を図ってわかり合おうとするだろうし、そういう行為から集団的な党派性が生じるのだが、その中で一緒に徒党を組もうとする人たちとはわかり合おうとする一方で、対立して敵対関係にある人たちとはわかり合おうとはせずに、代わりに批判や非難の応酬となれば、それだけ偏狭で好戦的な態度となってしまうわけだが、功利的にはそんな態度でいる方が何かと有利になることもあるのかもしれず、そのためにもわざと対立を煽るような傾向にもなるのかもしれないが、対立しなければならない理由も批判したり非難しなければならない理由も、それなりにもっともなことだと思われるなら、そうするのが当然だと思われるだろうし、それが倫理的にそう思われるとすれば、相手が何か許されないようなことをやったから、批判や非難の対象となることもあるわけだろうが、そこで功利的にそうなるのと倫理的にそうなるのとの間でどんな違いがあるかとなると、功利的かつ戦略的にそういうことをやろうとする人たちは、倫理的にやっているように見せかけようとするわけで、それが見せかけの行為であることを見破れない人は、両者の区別がつかないだろうし、何か倫理的な正義感からそんなことをやっているように感じられてしまう限りで、両者の違いを見極めることは難しいわけだが、たぶん実際にも功利的な面と倫理的な面とが混じり合っているのかもしれず、そうなると一概には区別がつかないのかもしれないが、心情的に倫理的な面を感じられる行為であるほど、支持や賛同が集まる傾向になれば、そういう批判や非難などの行為により妥当性が増すように思われるわけだが、その一方で功利性を追求する人たちにもより多くの支持や賛同が集まるようなら、やはりそこには党派的な損得勘定などの利害関係が絡んでくるようにも思われるだろうし、特定の党派に属する人たちがそういった宣伝や煽動を集中的に行なっているようなら、やはりそこでは倫理性よりは功利性が優先されていると思われるだろうし、それとは違って特に利害関係とは無縁の人たちがそういった行為を支持したり賛同しているようなら、やはりそれは倫理的な行為であるように思われるわけで、そういう意味では特定の行為への支持や賛同に関しては、それへの反応として多くの人が支持や賛同へと至る経緯や脈絡から、それが倫理的な傾向の強い行為であるか功利的な傾向の強い行為であるかの違いがわかる場合もあるかもしれないし、たとえそれが党派性の傾向が強い行為であっても、その党派が倫理性を重視する党派か功利性を重視する党派であるかの違いによっても、それがわかる場合もあるわけだが、中には倫理的であることが功利的である場合もある一方で、功利的であることが倫理的であるかとなると、それよりは単に倫理面を無視してでも功利性を重視する傾向の行為の方がはるかに多いだろうし、それに関してはより多くの人たちが倫理的な面を重視すれば、それが世間の総意として功利的な面にも結びつくわけだが、逆に多くの人たちが倫理的な面を軽視して功利的な面ばかりを重視するなら、それは単に功利的な行為になってしまい、そういう意味では倫理的な面と功利的な面とは対照的な関係ではなく、倫理的な面が功利的な面に結びつく可能性はあるものの、単に功利的な面だけが重視されても、それが倫理的な面に結びつくとは限らず、逆に倫理的な面が軽視されたり蔑ろにされるような行為は、倫理的には否定される行為であり、それが批判や非難の対象となりやすく、特にそれが倫理的に見せかけるような行為となると、そうした見せかけを暴き立てるような批判や非難にさらされるわけで、その典型的な例が義援金詐欺のような行為になるわけだろうし、そういった偽善や欺瞞を見破ることができるか否かによっても、そういった行為への支持や賛同を表明する人々の程度が知れてしまうわけだが、それに関しても例えばメディア上で何らかの宣伝や煽動が行われているとして、それが倫理的な宣伝や煽動であるか、あるいは功利的な宣伝や煽動であるかに関して、果たして両者の違いがわかるかどうかとなると、やはり両者が入り混じっている場合もあって、そういうことに関しても一概には区別がつきにくい面があるわけだが、少なくともそれがあからさまに倫理的な面を強調するような宣伝や煽動であれば、それなりに疑ってみる必要があるだろうが、逆に一見倫理的でも何でもなく、ただ功利的かつ戦略的な行為に感じられるとしても、わざとそういう面を強調することで、そういった功利的な強調に隠されている倫理性を感じ取った方がいいような行為もあるだろうし、そういう面をいかに汲み取るかが、それへの支持や賛同を表明する上では重要なことなのかも知れないし、実際にそういうことを行なっている当人が、自らの倫理的な面に気づいていない場合もあるわけで、もちろん気づいていないからといって、気づかせようとするのではなく、その人がそれに気づかないまま倫理的な行為をやってしまうのを支援するようなことが行えたらいいのかもしれず、そんなわけで何らかの行為に支持や賛同を表明するにも、そういった面への感性や配慮が求められることもあるだろうし、そういうことを気にしないで、あからさまに倫理的な行為を賞賛して功利的な行為を否定するようなことをやってはいけないのかもしれないし、そういう面に多くの人が配慮しないと、あからさまに功利的な行為を礼賛する人たちの天下となってしまうのかもしれない。


8月1日「物象化」

 物事が商品として売買される過程において、そこで貨幣と商品が交換されるのを見て、貨幣には商品と交換できる能力があると思ってしまうと、そう思ってしまうこと自体が何かおかしいように感じられるわけだが、実際には貨幣と商品を交換しているのは人と人であって、貨幣自らが直接商品と交換しているわけではないのだから、そう思ってしまうこと自体が貨幣に対する物神崇拝が生じていると解釈するのも、何となく違和感や感覚的に無理があるように思われるとしても、そう述べてしまうと、何かもっともらしいことを述べているようにも感じられてしまい、そんなふうに貨幣には商品と交換できる能力があると思ってしまう意識が、商品と貨幣の交換を通して成り立っている売る側と買う側との人間関係が、商品と貨幣との関係に還元されているように思われて、そういった物と物との関係として捉えているわけで、それが関係の物象化と言えるのだろうが、実際にはそれとは少し違っていて、売り手がこの商品はこれくらいの金額の貨幣と交換することが妥当だと主張して、買い手の側でもその金額を支払うことに同意すれば、そこで売買が成立するわけだろうし、少なくとも買い手が同意しなければ売買は成立しないわけで、それがどのような形態になるにしても、普通はそこで売買交渉が行われているわけだが、それはその場の状況にもよるが、売る側も買う側も交渉など意識しないことがあるにしても、例えばスーパーやコンビニなどで客が買いたい商品を選んでいる最中が交渉だと捉えるなら、とりあえずそこでは売る側が買わせたい商品と、買う側が買いたい商品とが一致しないと、売買が成立しないことになるだろうし、そういった成り行きの中で貨幣の果たす役割は何かといえば、商品の価値を決める尺度といった類いの媒介物となるわけで、また買う側がどうやってそれを入手したのかといえば、普通は何かを売って貨幣を手に入れたわけで、その売り物が労働力となると、働いて賃金を得たことになるわけだが、そこでも労働者には自らが所有している労働力と、賃金である一定額の貨幣を交換できる能力があると思ってしまうと、やはりそう思ってしまうこと自体が、何かおかしいようにも感じられてしまうわけだが、そこでも普通は売買交渉が行われると捉えられるわけで、労働力を買う側は、自分たちが課した作業を行ってくれないと、賃金を払う気にはなれないだろうし、また労働力を提供する側でも、買う側が課した作業を行ったのだから、当然賃金をもらう権利が発生したと思いたいわけだが、それが買う側が満足できるような作業内容でないと困るわけで、そうなると労働力を売る側が、その作業をこなす能力があるかないかではなく、実際に買う側が満足できるような作業をこなした結果から、買う側が賃金を払う義務が生じるわけだろうが、もちろん労働する側がこれまで働いてきた実績が考慮されることによって、前もって支払われる賃金の額が決定される場合もあるわけで、また労働の実績がなくても、学歴などの経歴によってその額が決定される場合もあるわけだが、そうやって実際に賃金や報酬が支払われた結果から、その労働者には支払われた賃金の額に見合うだけの価値があると思ってしまうと、その労働者自身を物象化していることになるだろうが、実際にはそこに関係してくる人たちの間で、同意や了解が成り立っていることが、賃金が支払われる上では必要不可欠な条件となるだろうし、交渉や調整を行なった結果として、双方の同意や了解を得て、そういった金額が決まるわけだから、そんな途中経過を無視したり省いてしまうと、そこで生じている人間関係の物象化が生じてしまうわけで、そういった金額や成績などの数値だけで物事を語ろうとすると、そこで行われている行為や活動の一面しか把握していないことにもなるだろうし、それに関しては一時期世界的に流行ったビッグデータなどの数値を活用した情勢分析の類いなどは、そういった人が絡んだ社会関係を物象化するための最たる手法だったわけだろうし、それによって分析対象の効率化や功利性などに関して有効な指針が出てくるにしても、それとは無縁の非効率で功利性を無視するような行為や活動などとは相容れないものがあるだろうし、実際にも誰もが統計的な出力傾向に沿うように動くわけではなく、それとは無関係な動作もその場の成り行きに合わせたり逆らったりしながら行われるのかもしれず、それが想定外の偶然に起こる成り行きであり、動作だとみなしてしまうと、それ以上の分析は不要かもしれないが、分析ではなく交渉や調整などを行う場合には、分析結果から判断するだけではなく、その場で相手の顔色を伺いながら判断したり、偶然に生じてくる双方の特殊な事情を考慮しなければならない場合もあるだろうし、それらが統計結果から外れる要素となるのかもしれないが、そこで起こる想定外の出来事や現象まで事前に予想して考慮できるわけでもないだろうが、さらにそういうことだけではなく、結果的にうまくいかなくても構わない場合もあるわけで、それがうまくいかなかったから批判される成り行きがもたらされるわけだが、それでもうまくいけばそれで終わりとなってしまうから逆に困るのかもしれず、行為や活動を持続させるには、うまくいかないことを延々と繰り返す方が有効な場合もあるわけで、そうなるとうまくいかない方が都合がいいわけで、実際にうまくいかずに、それに関して各方面から批判を浴びながらも、そんな批判を浴びること自体が、その批判を浴びせてくる人や勢力と対立して争うことによって、そういった対立したり争っている状態を保つことによって、その場の主導権を握っていることにもなるのかもしれず、そうなるとむしろわざと批判されるようなことをやって、そういった批判に対して居直って、場合によっては逆に批判するような人や勢力に対して攻撃を仕掛けたりして、そうすることによって味方からの信用や信頼を得ることにつながるのなら、むしろ批判されないような成り行きとなってしまうことの方が、それらの人や勢力にとっては不都合になってしまうわけで、そういった事情まで考慮に入れるなら、結果ではなくそこに至る途中の過程で他の人や団体などと絶えず交流し続けて、そうした人や物や情報を介した交流を途絶えさせないことが、活動を継続させる上で重要となってくるのかもしれない。