彼の声131

2019年

3月31日「必然と偶然の違い」

 物事は機械の歯車が回るように決まり切った成り行きを伴いながら推移することもあるかもしれないが、その一方で全く予測のつかない展開を伴うこともあるだろうし、実際にそうなってみないことにはわからないことが多いのかもしれないが、そうなった結果からその成り行きに合う理屈を当てはめてみると、それなりに説得力のある理屈を伴ったもっともらしい説明によって、事の成り行きの必然的な因果関係がわかってくるのかもしれず、そうなってしまうと何の神秘も不思議もないような、そうなって当たり前の成り行きに思われてしまうのかもしれないが、そういった必然的な成り行きでは説明しきれない面があると、やはりそこには不可思議な偶然の巡り合わせのような成り行きが伴ってきて、何か運命のいたずらのような、うまく説明することが困難な出来事が起こっているのを発見してしまうわけだが、それが起こっていることの意味や意義を考えてみると、理屈に合わないことがなぜ起こるかについて、理屈を用いて説明することが困難であるのは言うまでもないことであるとしても、ただの偶然で済ますことができなければ、説明のもっともらしさを追求して、結果的に複雑で込み入った内容になっても、出来るだけ詳細に説明しようとするだろうし、そして詳しく事細かに説明しようとするほど、その説明にはより多くの言葉を費やすことになるわけだろうが、そうした説明によって何がもたらされるかというと、物事を必然的な成り行きとして詳細に説明することが、複雑で込み入った内容をもたらすことになるわけで、そして事の成り行きが複雑で込み入ったものであるほど、その説明には多言を要するわけだから、単純な理屈では割り切れない出来事というのは、それだけ様々な方面から様々な作用や影響が及ぼされているということであり、そういった作用や影響があまりにも多すぎると、もはや理屈で説明することが困難になってきて、偶然の巡り合わせでそれが起こっているとしか言えないようなことになってしまうわけだが、そういう意味で偶然の巡り合わせというのは、そこに作用や影響を及ぼしてくる要素が多すぎて、それらの要素を一つ一つ説明することが困難だから、それらを全部ひっくるめて偶然の巡り合わせと説明せざるを得なくなってしまうようなことなのかもしれず、そこから必然と偶然の違いに関して説明すると、必然的な成り行きというのが、理屈を用いて説明できる成り行きであるのに対して、偶然的な成り行きというのは、様々な理屈が複雑に絡み合って起こっている現象だから、それらを一つ一つの理屈に分解して、そこに関与してくる複数の理屈同士の絡み合いなどを、うまく説明するのが困難だから、そういった現象はもはや偶然の巡り合わせとしか表現できないような状態となっているのかもしれず、そうであるなら必然と偶然の違いは、そこに及ぼされる作用や影響が単純であるか複雑であるかの違いとなってしまうわけだが、果たしてそんな理屈で構わないのかというと、確かにカオス的な物体の運動などに関しては、複雑で込み入った運動の実態を反映して、特定の法則とは無縁であるかのような、あたかもランダムに動き回っているように見えてしまうわけだが、実際にはある一定の法則に従って動いていることが明らかになっているだろうし、それと同じように偶然の巡り合わせのようにしか感じられない物事の推移にしても、それらの成り行きを詳細に分析してみれば、ある一定の法則のような理屈が導き出される可能性もあるのかもしれないが、それも量子力学などのような確率的な動きにしかならなければ、それが何らかの必然性を伴った理屈によって説明されるとしても、相変わらずそれは確率論的な結果しか得られないことにもなるだろうし、そうした確率論的な説明が何をもたらすかといえば、確実に何らかの結果に至るのではなく、確率的にそうなりやすさが導き出されるだけで、確実にそうなるとは断言できないようなことになってしまうだろうし、しかもそうなる確率が低ければ、どうなるともいえなくなり、実際にそうなった結果が、必然的にそうならざるを得なかったというわけではなく、他にも様々な可能性があった中で、たまたまそうなっただけであり、そうはならなかった可能性もあったということであるとすれば、実際にそうなった結果から、それをもたらした原因や因果関係が求まるとしても、同じ原因や因果関係があったにしても、必ずしもそうなるわけでもないということが言えるだろうし、そうなるとそんな原因があったからこういう結果となったとは言えない場合も出てくるわけで、それを言葉で説明するときには、断言口調で原因と結果を結びつけるわけにはいかなくなるだろうし、何かを決めつけるという行為が正しいとも言えなくなってくるのかもしれず、そんなことをやっているからこうなってしまったんだという批判も、たとえそんなことをやっていても、こうなるとは限りらないことにもなってしまうわけで、確かにこうなる確率が高いかもしれないが、必ずしもこうなるわけではないとなると、うまく因果関係を説明できない事態も起こってくるだろうし、しかもそこへ及ぼされる作用や影響の数が多いほど、こうなる確率が低くなる可能性が高くなるのかもしれず、それだけ他にもどうなる可能性もあったのに、たまたまこうなってしまっただけで、そうなると単なる偶然の巡り合わせから、たまたまこうなってしまったとしか言えなくなってしまうわけで、そうした偶然性を考慮に入れるなら、結果から原因を突き止めるのは不毛な作業となってしまうだろうし、たとえ原因があるにしても、それが複数の原因であれば、その中の一つの原因をもたらした作用や影響だけを批判するのは正しいとは言えなくなってしまうだろうし、また複数の原因が重なってある結果に至ったとしても、その複数の原因の重なり具合が異なれば、別の結果に至ることも考えられるわけで、そうであるなら複数の原因から複数の結果に至る可能性があり、その中の一つの結果がたまたまそこに出現しただけで、他の結果に至る可能性もあったのに、何かの偶然でそんな結果に至っただけであれば、そうした結果をもたらした原因に関してどう説明しても、納得がいかなくなってしまうのではないか。


3月30日「次善の策」

 何を経験するにしても、同じことを何度でも経験すると、熟練してうまく対応できるようになるのかもしれないが、それも経験の内容にもよるだろうし、また中にはそう何度も経験できないようなこともあるだろうが、何を経験するにも、得手不得手を考慮しなければ、経験がものを言う行為があることは確かだが、経験にばかり頼っていると、同じことを繰り返すのには有利かもしれないが、新しいことができなくなる可能性もあって、何をやるにもやるに際してのアドバンテージを求めると、そうしたやり方に一長一短があることを考慮しないと、思わぬところでうまくいかない結果が待ち受けているのかもしれないが、そうでなくてもやっていることがうまくいくかいかないかは、やっている内容とその場の状況に左右される面が大きいだろうし、普通は何度も経験を積めば、それだけうまく行く確率が高くなるようにも思われるわけだが、何度やっても満足できる結果が得られなければ、普通はあきらめて別のことをやろうとするのかもしれないし、それでもうまくいかないなりにも、性懲りもなくそれをやり続けているような状態となってしまうと、何かそれをやり続けることが宿命のように思われてきて、やり続けることに身も心も依存してしまい、飽きもせずそんなことを繰り返す成り行きに囚われたままとなってしまうのかもしれず、それはそれで困った事態に陥っているのかもしれないが、そんなことを繰り返している当人にしてみれば、それが生きがいに感じられるようなら、やめようとはしないだろうし、やめる理由を見いだせなければ、普通に好きでやっていることになってしまい、また何よりもそこから利益が得られていれば、それがやる理由になってしまい、利益を得るためにそんなことを繰り返し行なっていることになるだろうし、実際に経済的な利益を得るために行われる行為だと割り切れば、それで構わないことになってしまうだろうし、他人に迷惑をかけない限りは、他人から文句を言われる筋合いもないだろうから、そんなことを延々と行うような成り行きとなって、それを行うことにかかりきりとなってしまえば、それがその人の仕事となるわけだが、仕事でなければ続けられないというわけでもなく、大抵は趣味で続けていることも多いのかもしれないが、それが仕事でも趣味でもない場合で、何か信念に基づいて行うようなこととなると、それなりにその人の主義主張が絡んでくるだろうし、それをやることが使命のように思われてくれば、他の全てに優先して行うようなこととなってしまうわけで、それが場合によっては命がけで行うようなこととなれば、それだけその人にとっては重大で重要なことだと思われるわけだが、なぜそんなことを行う羽目になるのかといえば、それはその場の状況とも関係してくることかもしれないが、何よりもその人の思い込みに起因してくるかもしれず、その場が危機的な状況とか深刻な事態に思われると、それだけそんな状況や事態に巻き込まれている自らの行為が、その場の状況や事態の推移や結果を左右しかねない重大で重要なことに思われるだろうし、そんなふうにして自らの一挙手一投足によって世の中の行く末が決まるようなことだと思われれば、それだけそんな行為を行う自らの存在が貴重で価値が高いとも思われるから、そんな全世界の運命を一身に背負って何かをやらなければならないことになったとしたら、何かそれはその人の誇大妄想でしかないようにも思われてくるわけだが、使命感というのはそんな妄想からもたらされることが多いのかもしれず、どこかの国の大統領や首相などがそんな妄想に取り憑かれているとしたら、そうした国の民衆にとっては迷惑この上ないことかもしれないが、独裁的な権力者というのは、実際にそういう立場になってみると、誰もがそんな妄想を抱いてしまうのかもしれず、そういった独裁的な権力者によって無茶で無謀なことが行われて、結果的に多くの人命や財産が失われた例などいくらでもあるのかもしれないし、実際にそういう危機的な状況とか深刻な事態を招かないように、民主的な政治制度が発達してきた歴史的な経緯があるのかもしれないが、いつの時代でもそういうことは表裏一体の関係になっていて、実際に危機的な状況とか深刻な事態となると、無茶で無謀なことを行う独裁的な権力者が登場して、実際に無茶で無謀なことを行なって、危機的な状況や深刻な事態に陥れてしまうわけで、そういう場合は無茶で無謀なことを行う独裁者が先か、危機的な状況や深刻な事態が先かは、どちらもあると言えるだろうし、どちらが先でもどちらが後でも、それらが表裏一体となって起こると捉えた方がいいのかもしれず、危機的な状況や深刻な事態だからこそ、独裁的な権力者が無茶で無謀なことができると言える一方で、独裁的な権力者が無茶で無謀なことを行うから、危機的な状況や深刻な事態をもたらすとも言えるわけで、双方が相乗効果をもたらしながら状況や事態が推移するとも言えるわけで、そうならないためには誰かが煽る危機感を真に受けてはいけないのかもしれず、危機感を煽るような煽動者が独裁的な地位につくと、当然のことながら危機感を煽りつつ無茶で無謀なことをやろうとするだろうし、危機感を煽っているのを民衆が真に受けると、当然のことながら危機的な状況や深刻な事態になるとも言えるのかもしれないから、その辺をどう捉えたらいいのかわからないかもしれないが、それに関して例えば、多くの民衆が危機感を真に受けないと、やがて茹でガエルようになると脅しをかけてくるような煽動者もよくいるかもしれないが、茹でガエルという表現が本当に適切なのかといえば、ほとんど誰も実際に茹でガエルようになることを確かめたわけでもないだろうし、何かそういうところで経験から切り離された表現が常套句のように使われる傾向もあるわけだが、実際に独裁的な権力者が無茶で無謀なことをやれば、世の中がおかしくなってしまうのは、歴史的な事実として明らかであり、そうした歴史的な経験から学ぶなら、たとえ危機的な状況や深刻な事態であることを実感しても、誰かを独裁的な権力者にしてしまうと、そうした人物が無茶で無謀なことを行なって、さらに状況や事態を悪化させてしまうことは覚悟しておいた方がいいだろうし、そうであるなら次善の策として、全権を委任されて無茶で無謀なことをやってしまう独裁者を作らないことが肝要となってくるのではないか。


3月29日「個人の領域」

 人と人とが関わるのは、何らかの必要があるから関わる場合と、偶然に関わってしまう場合とがあるのかもしれないが、何かの偶然がきっかけで関わる必要が生じてしまう場合もあるだろうし、そんな偶然に関わってしまう機会を生かして、それが何らかの活動に結びつけば、その活動の中でさらにまた新たな人と人の関わりが生じることもあるだろうが、実際にはそう簡単に人と人の関わりが生じるわけでもないだろうし、偶然の機会が巡ってこなければ、何も生じないこともありそうで、そう都合よくフィクションみたいに運命の出会いというのが起こるはずもなく、大した巡り合いもなく、どうということはない人生を送ってしまう人も少なからずいるかもしれないが、そんな中でも都合の良い出会いがなくても、その人の都合とは無関係な出会いというのもあるのかもしれず、そんな出会いならいくらでもあるのかもしれないが、そんな出会いの中では出会った人と関わる必要を感じないのかもしれず、実際に関わらずに済んでしまうようなら、そこから活動は生じてこないだろうし、そんなふうにして偶然に関わる機会を逸してしまう場合も少なからずあるのかもしれないが、そんな場合も含めて、人と人との関わりは、関わる人をどのような境遇に導くにしても、関わること自体が活動そのものなのかもしれず、また人は他の人と関わるために活動している場合もあるかもしれないが、逆に他人と関わりたくない場合もあるだろうし、特にそれ以前に不快な関わりを経験すると、下手に関わって面倒な事態を引き起こすのが嫌だから、なるべく関わりを避けて暮らすようになると、自然と引きこもり状態となってしまうだろうし、引きこもっても生きていけるようなら、特に他人と関わることもなく孤独に暮らしてしまうのかもしれないし、そういう面でその人の事情や境遇を考慮するなら、どのような境遇であろうと何を問題視する必要もないだろうが、その一方で問題となってくるのは経済的な事情となるだろうし、経済的に困窮して暮らしていけなくなって、働いて収入を得ようとする成り行きになれば、嫌でも他人と関わりを持つような成り行きとなり、引きこもり状態から脱することになるのだろうが、働いて収入を得るあてがないと、最悪の場合は食っていけなくなって餓死するしかないだろうし、実際にそういう人が多く出て、そのことが社会問題化して、そうならないように行政の方で対策を講じる必要が生じるなら、何やらそういった方面で政治的な議論がされることにもなるのかもしれないが、個人の私的な事情の範囲内でなら、その人に特有の問題にしかならないだろうし、個人が引きこもりであろうとなかろうと、その人がそうやって生きていることでしかないわけだが、世の中の傾向として、そういう人を放っておけないような風潮があって、余計なお世話のようにして、引きこもっている人を引っ張り出してきて、無理やり仕事をあてがうようなことが行われるとすれば、そういった社会は共同体としての結束が強いことになるのかもしれないが、たぶん現代的な産業社会では、そういう共同体としての結束は比較的弱いだろうし、そんな余計なお世話をやる人もほとんどいないだろうから、孤独に生きている人が誰からも発見されることもなく孤独死するケースが結構あるとしても、それを不幸であるかのようにみなすのも、何か偏見に基づいているのかもしれないし、生きている間はその人の自由が許す限りで勝手に生きているわけだから、そういう人が死ぬ時はそういうふうにしかならないのかもしれないし、死んでしまえば家族がいようがいまいが、死ぬことには関係ないわけだが、死に至るまでの過程において、家族がいればそれなりに介護を受けるかもしれないし、その介護が厄介なら、経済的な事情が許す限りで介護施設に入れられてしまう可能性もあるだろうが、そういうところでも人と人の関わりがあると、何かそこから必要に応じて活動が行われることになるのかもしれないし、そうした活動の内容が肯定できるなら、それを肯定する人たちがそうした活動を推進していくような成り行きも生じるだろうが、そうした活動が経済活動であれば、そこから利益を得ようとするわけで、その利益を得ようとする行為が、活動の内容にそれなりの影響を及ぼしてくるわけで、例えばそれが介護事業などであると、そこで働いている人も介護を受けている人も、まともに人として扱われているかが問題となってくるだろうし、そこから利益を得ようとして、人件費を削ったりサービスの質を落としたりして、結果的に働く人も介護を受ける人もひどい扱いを受けることになれば、やはり不幸な結果を招くことになるわけだが、そういうところで行政の側が、制度的に基準や条件を定めて、それらを満たさないと介護事業を認可しないような成り行きになってくると、現状で行われているような許認可事業の形態となるわけだろうが、果たして実際にそういった制度的なやり方によってまともなことが行われているかとなると、何を基準にまともかまともでないかの判断が行われるかといえば、やはりそれは制度的な基準や条件に関して判断するしかないわけで、そういった行政が関わってくるような活動自体の良し悪しを云々することが、それなりにもっともらしい議論の内容になるとしても、あくまでもそれは、その分野の専門的な範囲内でのことになってしまうだろうし、それと個人が勝手に生きている内容とはほとんど関係のないことになってしまうのかもしれず、そうでなくても個人の私的な事情を公的な問題に絡めるのは、何か筋違いのように思われてしまい、普通はそんなところまで行政が介入してくることもないだろうし、行政が介入できるのは制度的な範疇にしかならないのかもしれないが、しかもその制度的な範疇で住民の生活に関する問題も扱わなければならないわけだから、その辺から微妙な面が生じてくるわけだが、結局どこからどこまでが公的な問題で、どこからが私的な問題なのかについては、境界がはっきりしていないとしても、実際にそこで生きて暮らしているのは個人であり、また家族として共同生活をしていても、制度的には個人に対して介入してくることもあるだろうが、そこは相変わらず個人が私的なことを行なっている領域でもあるわけだ。


3月28日「普遍的な価値」

 世の中に存在する物事に普遍的な価値があるかというと、自らが肯定したい物事にはそれがあると思い込みたいのかもしれず、では何を肯定したいかとなると、人それぞれで異なるかもしれないが、一般的には普遍的な物事よりも、その場の事情や脈絡からもたらされる物事に身も心も囚われていて、そこからその人に特有のこだわりや思い込みが生じるわけだろうが、実際には共鳴作用や共感作用によって、同じようなこだわりや思い込みを共有する人々が徒党を組んで集団化するのだろうし、それとは別のこだわりや思い込みを共有する他の徒党や集団と競合関係や対立関係を形成することもあるだろうし、それはそれで自然な成り行きかもしれないが、そういった徒党や集団に普遍的な価値があるかというと、それらに所属している人は価値があると思いたいだろうし、そう思うことが集団内で共有されているこだわりや思い込みになるのかもしれず、そうした集団を構成する存在として、人種や民族や宗教や国家や企業や家族などがあるのだろうが、そうした集団としての存在そのものを肯定するとしても、実際には集団として行なっている活動内容が、肯定できるか否かの判断の対象となるだろうし、しかもそうした集団の中で、現代では人種や民族として活動実体があるかとなると、端的に言って人種としてはまとまって活動していないだろうし、民族としても集団で一体となって活動している事例は少ないはずだが、そこに宗教や国家が入り込んでくると、それらを介して集団としての結束が強くなってきて、そこに自己同一性を求める傾向も伴ってくるのかもしれないし、自分が何者であるかの答えとして、特定の国の国民であったり、特定の宗教の教徒であったり、特定の民族や人種に属していると自覚していても、それが答えになっているかというと、そうした答えを切実に求めるような事情や脈絡があれば、それを信じるような成り行きにもなるかもしれないが、例えば韓国や中国などで愛国主義教育が盛んに行われていることに関しては、そうなった事情や脈絡があって、政府がそれを信じるように教育の場で圧力をかけているから、多くの人々が自己と国家との強い結びつきを信じているのだろうし、またそれとは別にイスラム教徒に関しては、宗教的な戒律や慣習が生活を律しているから、多くの人々が自己と宗教との強い結びつきを信じているだろうが、そういった教育の場や生活の場での活動が、国家や宗教に依存した自己を作り上げているわけで、そこでそういう自己の存在を信じるように教えられているから、それを真に受けた人が信じている実態があるわけだが、そういう意味でより根本的な面で普遍的な価値があるのは、人に何かを教えることであり、教育によって民族や宗教や国家に依存した自己を作り上げることができるのかもしれないが、教育の内容が時代状況や世の中の情勢に合わなければ、それらの状況や情勢からずれた自己が形成されてしまうだろうし、また逆に教育によって都合の良い時代状況や世の中の情勢をもたらそうとしている場合もあるだろうが、それがどこまで有効であるかに関しては、やはり教育の内容にもよるだろうし、また人々にそれほど拘束力や強制力の強い教育を施せるかとなると、それは政府の民衆に対する支配力の強度にもよるだろうが、一般的に言って、民主的な体制であれば、それほど強固に政府が民衆を支配しようとしないだろうし、そういう国内情勢であれば、むしろ民衆は国家に依存するよりは、経済に依存している度合いの方が強いのかもしれず、経済に依存しているということは、特定の国を越えて世界を覆う資本主義的な市場経済に依存していると言えるのかもしれないが、それを実感したり自覚できるかとなると、集団のようなアイデンティティを共有しているわけでもないから、あまりはっきりとは実感も自覚もできないのかもしれず、それよりは集団としてまとまりを保つ上で必要な民族や宗教や国家などの概念に共感したいのかもしれないが、それも他の民族や宗派や国家と対立したり、実際に抗争が行われていないと、それほど強くは実感や自覚はできないのかもしれないし、だから逆に民衆がそれを自覚するように、わざと対立を煽るような政治的なパフォーマンスや軍事的な小競り合いが行われる場合もあるだろうし、政府側の一員としての自覚がある人なら、それが政治家であろうと官僚であろうと、民衆を自分たちの味方につけたいのだろうが、その場合はやはり自分たちと民衆とを同等の立場だとはみなしたくないだろうし、自分たちが民衆を指導する立場だと自覚しているなら、できれば民衆を国家に依存させたいだろうが、それ以前に民衆も政府も経済に依存している実態があるから、そういうところで民衆と政府と経済との関係が、うまく整合性が取れない場合があるだろうし、またそれとともに民衆が労働者として企業に依存している場合もあって、そうなると経済を介して民衆を企業と政府に依存させようとして、企業と政府が手を組む場合もあるかもしれないし、それ以前に企業の方でも事業を行う上での許認可権などに関しては、政府に依存している面もあるから、それらの間でどこが主導権を握るかに関しては、もつれた関係となっているかもしれないし、それほどはっきりとした優劣はなく、階層的な上下関係とはなっていないのかもしれず、そんな情勢を反映して、現状の世界では対立が鮮明化しない限りは、それほど人種的・民族的・宗教的・国家的なアイデンティティが顕在化することはないのかもしれないが、逆にそれらを顕在化させるために対立を煽ったり攻撃を仕掛けたりする人や団体が現れるわけで、ではなぜそういうことを顕在化させる必要があるのかといえば、そうしないと自己同一性を保てない人たちがいるからとしか言えない面があるのかもしれず、自分が何者であるかを知る上で、確固とした基準を求めている人にとっては、何でもないような一般市民であっては、自らの存在を正当化しようがないのかもしれず、そんなわけで自らの存在を肯定してくれる何らかの価値が必要とされる事情や脈絡が生じると、そうした価値を担っている概念として、人種や民族や宗教や国家などが、自らを肯定してくれる価値ある概念として浮かび上がってくるのかもしれない。


3月27日「公正な行為」

 例えば公正というと、それが公平で正しいという意味だとすれば、その中で正しいという意味をどう解釈するかで、公正の意味合いが異なってくるかもしれないが、何が正しくて何が間違っているかに関して、納得できるような定義となっていないと、正しいという意味を含んだ言葉を使う対象に関して、何やら疑わしい実態があるように思われてしまうわけだが、そもそも何が正しいかを決められない場合には、では何をどうやればいいのかわからなくなるから、前もって正しいことと間違っていることがはっきりと定義されている場合にのみ、やる前に正しいことが何なのかがわかるのだろうが、それ以外の場合だと、何かをやってみて、それでうまくいった場合には、それが正しいことだと思われるかもしれないが、同じことをやったのに、うまくいったりいかなかったりすれば、それが正しいとは言えなくなるだろうし、結局それが正しいことであるのを確かめるには、繰り返し何度か行なってみないとわからない場合があるわけで、一度やっただけでそれが正しいことだとは言えない場合があるわけだが、その一方で数値的な計算などは、1+1=2などの演算の定義が前もってされているから、間違っている場合はただの計算ミスでしかないだろうし、そういう意味では正しいことと間違っていることがはっきりとわかるわけだが、それをそのまま他の物事に当てはめるわけにはいかないだろうし、また何が正しいかを定義するにも、果たしてその定義が正しいか否かを検証しなければならなくなる場合も出てくるし、そういうところで正しいか否かの判断が難しくなってくるわけだろうが、何かをやる過程がシステム化されている場合には、そういったシステムを構築する時に、正しいことと間違っていることがあらかじめ決められていて、正しいことを行えばシステムが正常に機能して、間違ったことを行えば、それが間違いであることを知らせて、間違いを訂正させるようにシステムが働くだろうし、そういうシステムを構築することが正しいことか否かは、そういうシステムよって利益を得られる人や団体にとっては、そういうシステムを構築してそれを稼働させることが正しい行為となるだろうが、それと競合するようなことを行なっていて、そういうシステムのおかげで、やっていることがうまくいかなくなるような事態に陥った人や団体からすれば、それが間違った行為であるどころか、許し難い行為だとみなされるかもしれないし、そうなると人や団体によって正しいことと間違っていることが異なってくるわけだが、効率的なシステムを構築して作業を効率よく進めることによって、競争相手よりも多くの利益を上げることが、功利的には正しいやり方になるものの、それによって競争から脱落してしまう他の人や団体にとっては、それまでやっていたことが正しいやり方に基づいて行われていたかもしれないが、その正しさが新たなシステムの出現によって通用しなくなってきたと言えるだろうし、そうなるとそういう方面での正しさというのは、それでうまくいっているうちは正しいかもしれないが、うまくいかなくなると正しくなくなると判断しなければならないのかもしれないが、だからといってそれが間違った行為だとは言えないだろうし、そういう場合はたとえその時点では正しいことをやっても、別の時点ではうまくいかなくなる場合があるとみなさなければならないのかもしれないし、そういう意味で行為の正しさが、うまくいくことを保証するわけでもない場合もあるわけで、また確かに利益を効率的に出すには、そういうシステムを構築して稼働させるのが正しい行為となるが、そこから何らかの弊害が生じてくれば、弊害が生じてくる面では、そういう行為が正しいとは言えなくなるかもしれないし、例えばそういうシステムによって成功した業者が、巨大な独占企業となって他の業者が市場に参入できなくなって、経済を停滞させるようなことにでもなれば、行政の力でそういう企業を解体させるような成り行きも生じてくるだろうし、そうなるとある面では正しくても、別の面では正しいとは言えなくなるだろうし、そういうところからも正しいということが、どういう面で誰にとって正しいことなのかが問題となってくるわけだが、公正ということが公平で正しいという意味だとすれば、特定の人や団体にとってだけ正しいことが、公正であるとは言えないだろうし、そういう意味で公正であることとは、誰にとってもどんな団体にとっても正しいことが公正であることになるわけだろうが、果たしてそういった公正さを実現できるかとなると、例えばある国にとって正しいことが、別の国にとっては正しいとは言えなければ、それは公正ではないことになるだろうし、そもそも何らかの事情で国と国とが争っている場合には、どちらかが正しければどちらかが正しくないことになるのかもしれないが、どちらの国も正しければ争う必要が生じないかとなると、そうではなく国と国とが争うことが正しい行為と定義されれば、正しい行為から利益が生じる反面、同時に被害や損害も生じるかもしれないし、他国に被害や損害をもたらす行為が正しいとされれば、その国にとっては正しい行為であっても、他の国にとってはそうではなくなるだろうから、それが公平で正しいとは言えないだろうし、そういう行為が公正とは言い難いわけで、そういうところで世界的に公正さが求められるような成り行きになってくれば、自然と国と国が争うことは公正でないことになっていくのかもしれないし、その争いが戦争なら、現状でも国と国とが全面的な戦争を行わないような成り行きにはなってきているかもしれないが、経済面での争いならまだまだ普通に行われているだろうし、果たしてそれが国と国との争いと言えるかとなると、ただ単に企業と企業とが競争しているだけなのかもしれないが、政府が輸入製品に関税をかけて自国の企業を保護するようなことを行なっている面では、国と国との争いになっているわけだが、そういう面で世界的に公正さを実現させるには、国ごとの関税の税率や非関税障壁となる制度なども同じにしようとする成り行きにはなってくるだろうが、現状では国ごとに事情も状況も異なるから、そういう面での公正さを実現させるめどはまだ立っていないわけだ。


3月26日「判断力の欠如」

 考えられる限りで、たぶん人は必然的な結果を求めているものの、時には偶然にもたらされる思いがけない成り行きに翻弄されて、人の力ではどうにもならないような事態にも直面するわけだが、そういう成り行きの中でも納得したいわけで、自身が納得できるようなことをやろうとするのだろうが、そこに他人や団体が絡んでくると、納得できることというのが人それぞれに異なってきて、また団体として納得できることと個人として納得できることが異なってくる場合もありそうで、そういったところで各人や団体の思惑をうまく調整しようとしても、必ず割りを食ったり貧乏くじを引いたり誰かの犠牲になったりするような立場や境遇が生じてしまうのかもしれず、その場に関係する誰もが納得できるようなことにはならないのかもしれないが、そういうところで権力や権限を握っている人や団体の利害が優先される成り行きになると、そういった権力や権限を裏付けるのが、法律や制度であれば、それが法律や制度に則った成り行きになるのだろうが、そういう成り行きが妥当なのかというと、やはり誰にとって妥当なのかを巡って、議論が行われるような成り行きになった時に、多数決でやるべきことが決められる可能性も出てくるだろうし、そうなるとそういう決め方が妥当なのかに関しては、納得がいかない人や団体が出てくるかもしれないが、制度として多数決で決められたことが優先されるなら、それが妥当であろうとなかろうと、そうやって決められたことが行われる成り行きになるのだろうが、何もかもが法律や制度に則って行われるわけでもなく、法律で決められていないことについては、まずは個人で勝手に行えることがあるだろうが、そこで他の人や団体とやっていることが競合したり衝突するようなら、話し合いが行われて妥協が図られることもあるだろうが、話し合いが決裂すれば争いになるだろうし、場合によってはそれが暴力の応酬によって決着がつくこともあるかもしれないが、そうなると法律で暴力が禁止されているようなら、その法律に従っている限りは、暴力によらない解決が目指されるだろうし、そういうところで制度的に裁判なり調停なりが行われて、一応の決着が図られることが多いのだろうが、法律や制度が世の中で有効に機能していれば、妥当なやり方や決め方が、法律や制度によって定められている場合が多いだろうし、それでうまくいかなければ、うまくいくように法律や制度を改正するしかないのかもしれないし、実際に政治や行政の場ではそうやって物事を定めるわけだろうが、定める時には議会で多数決によって決めるわけだから、そういう面ではそれなりに法律も制度もうまくできていて、実際にそれでうまくいっていれば、民衆もそれほど文句は言わないのかもしれないが、うまくいっていなければ文句を言う人も多くなってきて、文句を言われている面を改善しなければならなくなってくるはずだろうが、そこでも文句を言ってくる人や団体と、そうした文句を言ってくる人や団体と対立している人や団体が存在していて、そういう人や団体が文句を言われるような面での改善を阻んでいると、文句を言ってくる人や団体は困ってしまうだろうし、そうなると自分たちの言うことを聞いてくれない政治や行政を変えなければならないと思って、そのために活動するような成り行きになってくるのは当然のことだろうが、結局そうやって世の中が、利害が対立する勢力で二分されていたり、またさらに多数の利害が異なる勢力によって分割されていたりすると、それらの勢力が自分たちが有利になるように法律や制度を変えようとしたり、その運用に手心を加えたりするようになってしまって、結果的に法律や制度がうまく機能しなくなってしまったり、法律や制度の公平性や妥当性が揺らいでしまうわけだが、ではそうならないようにするにはどうすればいいかとなると、たぶん世の中には法律や制度よりも優先すべきことがあって、それを多くの民衆が優先させれば、それによって法律や制度もうまく機能するようになればいいわけだが、それが何だかわからなければ優先させようがないだろうし、実際にほとんどの民衆もそれがわかっていないから、法律も制度もうまく機能しなくなっているのかもしれないが、もしかしたらわからなくても構わないのかもしれないし、わかりようがないのかもしれないが、それはその時々の世の中の情勢に応じて変わってくるのかもしれないし、人によっても団体によっても、優先させるべきことがそれぞれに異なるのかもしれないが、何を優先させるべきかが、万人に共通の物事ではないとしたら、では万人に共通の取り決めを定める法律や制度は何のためにあるのかというと、やっていいこととやってはいけないことに関して必要最低限の取り決めだと言えるのかもしれず、そうであるなら各人や各種の団体などの利害に絡んでくる面は、もしかしたら法律や制度で決めるようなことではないのかもしれないし、結局法律や制度で決められるのは、すべての人や団体にとって守り従うことが可能な物事に限定すべきであり、それ以外のことは法律や制度では決めるべきことではないのかもしれないし、逆に多くの人や団体が守れないことや従えないことは、積極的に法律や制度から除外したり緩めた方がいいのかもしれないが、そうであっても直接的であれ間接的であれ、何かをやることによって、他の人や団体に被害や損害が出たり迷惑がかかるような行為は禁止しなければならないだろうし、そういう面は除外したり緩めるわけにはいかないわけだが、それ以外のことで、逆に法律や制度があるせいで人や団体が被害や損害や迷惑を被っているようなら、積極的にそういう法律や制度はやめた方がいいだろうし、そういう面では法律や制度を改善すべきなのだが、そこでも人や団体が被害や損害や迷惑を被るような法律や制度によって利益を得ている人や団体が存在するようなら、そこで利害をめぐって対立が生じているわけだから、やはりそういう面では必要最低限の取り決めから逸脱していると言えるだろうし、人や団体によって利害が分かれるような法律や制度は改善されなければならないだろうし、どのような立場や境遇の人や団体でも公平に扱われるような法律や制度にしなければいけないわけだろうが、やはりいったん特定の人や団体に利益をもたらしたり、有利な立場や境遇をもたらすようになってしまった法律や制度は、それが他の人や団体にとっては不公平だから変えようとすると、それらの人や団体が利権勢力となって改正に抵抗したり妨害してくるわけで、結局そういう面で民衆がまともな認識を持って公平な判断ができないと、そうした利権勢力を支持するような過ちを犯してしまうわけだ。


3月25日「判断の連鎖」

 自らの判断が間違っていたと思う時は、何かをやった結果が思わしくなかった時に、やった方が良いと判断した結果がうまくいかなかったから、その判断が間違っていたと思われるかもしれないが、ではやらなかったら思わしい結果が得られたかとなると、そもそも何かをやらなければ結果が得られない場合は、結果を得るためにはやらざるを得ないだろうし、そうなるとやったかやらないかではなく、やり方が間違っていた可能性も出てくるわけだが、やり方がそれしかない場合だと、それをやる上で熟練を要する場合も出てくるわけで、練習して鍛錬を重ねないと、それをやるための技術を習得でずに、しかも誰もが習得できるわけでもなく、それをやる上で才能がないと習得できなければ、いくらそれをやろうとしても、誰もがうまくいくわけがないことになるわけで、そうなると一口に判断といっても、様々な判断が伴ってくるだろうし、そういう場合の判断が正しかったり間違ったりするのは、たとえ結果が思わしくなくても、やろうとしたことの判断の良し悪しを云々するわけにはいかなくなるのかもしれないし、結果がうまくいこうがいくまいが、それをやった人の運命と思うしかない場合も出てくるだろうし、そういうレベルでの判断であれば、正しかろうと間違っていようと、どちらになっても、そういうものだと結果を受け入れるしかないのかもしれないが、それよりは判断が正しければ良い結果がもたらされたり、判断が間違っていれば悪い結果となるような場合の方が、わかりやすいし対応も割り切りも容易だと思われるわけだが、世の中で何らかの判断を要する行為の全てがそうなっているわけでもないことは、誰もが承知しておかなければならないことだろうし、中にはどう判断したらいいのかわからない事態に直面することも結構ありそうで、そういう意味で物事に対する判断だけが事の成否を決める全てではないにしても、判断を要しながらも、どう判断したところでうまくいかない場合もあるかもしれないし、たとえ何らかの判断に直面させるような事態に巻き込まれても、何をどう判断してもうまくいかなければ、ではなぜそこで判断しなければならないのかといえば、どのみちうまくいかなくても、それでも何かをやらざるを得ないような成り行きというのがあるのかもしれないし、そうなるとその人に何かを行わせて、結果的にうまくいかなくなることが、別の人にとってはうまくいくことになれば、そういう成り行きは、うまくいかなくなる人が犠牲となって、他の人を生かす成り行きとなるのだろうし、また他の人もうまくいかなくなるようなら、そういう行為に誘われる全ての人が犠牲となることによって、それをやらない人が生かされるような成り行きとなる場合もあるのかもしれず、そういう場合に限っては、それをやるかやらないかが判断の基準となるだろうし、例えば喫煙をやるかやらないかが、癌にかかりやすくなるか否かの判断の基準となれば、喫煙をしなかった人の判断が正しいことになるだろうが、それだけに限ればそうかもしれないが、喫煙の他に飲酒なども絡んでくると、喫煙をしない反動が過剰な飲酒に結びつけば、過剰な飲酒癖によって癌にかかりやすくなる場合もあるだろうし、さらに喫煙や飲酒はやらないが、他にストレス解消の持って行き場がなければ、それがもとで精神を病んでしまう可能性も出てくるだろうし、そうなるとこちらを叩けばあちらが出てくるようなモグラ叩きのような具合になってきて、結局何をやってもやらなくてもうまくいかないような境遇になってしまう可能性も出てくるわけで、そうならないためには、何かをやれば確実にうまくいくやり方をできるだけ実行するしかないのかもしれないが、確実にうまくいくやり方をいくら知っていても、それを実行する機会が巡ってこないと、できない場合があるだろうし、そういう機会が巡ってくるのも運次第なら、あきらめるしかないのかもしれないが、全てが運次第というわけでもないだろうし、できるだけうまくいくことを実行できる機会を増やすようなやり方というのも、そういう方面で試みられているわけで、そうなると機会が巡ってくる確率を上げるためのやり方を編み出すような込み入った成り行きにもなってしまうわけだが、そうであってもなくても、ともかく現状でやれることを試すのは重要なことだと思うしかないだろうし、何もやらなければやらないままとなるだけであり、もちろん何もやらないなんてことはあり得ないわけで、すでにそこで人や団体が何かをやっている現状があるわけだから、その上に何かをやる成り行きになるしかなく、しかも大抵は良かれと思ってやる成り行きになるだろうし、良かれと思ってやるわけだから、やっている人にとってはそれが正しいと思ってやっていることがほとんどだろうし、その結果がうまくいかなかったりしたところで、それを反省できるかとなると、それなりに痛い目に遭わないと反省しないだろうし、また反省の程度も痛い目の程度にもよるし、うまくいかないことを重く受け止めるか軽く受け止めるかも、その場の状況によりけりだろうが、それを継続して行なっていられるような成り行きになっていれば、少なくともやっていることが間違っているとは思えないだろうし、間違っているとは思えなければ反省するまでもないことであり、他の誰かがそれは間違った行為だと指摘してみても、やり続けられている状況の中では信用できないだろうし、実際にやり続けられているという実感が最も信用できる感触となれば、聞く耳を持たないような行為がいつまでも続けられることになるわけだが、他の人たちがそういう行為を放置できなければ、それに対する批判や非難の声がいつまでも鳴り止まず、結局そういった行為はそれに対する批判や非難とともにいつまでも行われ続けることになるわけだが、そういう意味では世の中で何かが行われ続けるという成り行きは、それが正しかろうが間違っていようが、周囲の賞賛や礼賛や批判や非難とともに行われるわけで、そんな他の誰の判断や評価も無視しながら平然と行われる行為になってしまうと、ただ単にそれを行なっている人や団体の都合が最優先されるような成り行きとなるのではないか。


3月24日「虚構と現実の混同」

 端的に言って、どんな物事に感動しようがその人の勝手だが、そう簡単に感動されては冗談のように思えてしまう話というのもあるのかもしれず、そういうところで世の中の妥当な基準というのが掴みにくいのかもしれないが、何に感動するかの基準などあってないようなものだろうし、誰が何に感動しようが知ったことではない、と突き放した見方をするのが普通かもしれないが、感動する以前に、他人の評価にいちゃもんをつけたい気分が満々となってしまうと、その時点で難癖をつけたがる気持ちが、そういうことに言及させようとして仕掛けられた罠にはまっていると言えるのかもしれず、それでも誰かが意図的に罠を仕掛けてくるケースは少ないだろうし、そういった方面でフィクションを構成しようとすると、いちゃもんや難癖をつけたがられるような話に自然となってしまうのかもしれないが、フィクションではこの世界を捉えきれていないように思われるのは、話の中では世の中のありふれた面にリアリティを感じられないからかもしれず、そういうところでごく一般的で普通に思われるような面というのが、他の全ての面にわたって通奏低音のように鳴り響いていると、何かそこに現実の世界に通じる雰囲気が醸し出されてくるわけだが、それがないと何か極端から極端へと、人の感情とそれに伴った言動や行動が上下するばかりで、そうなると人の存在としての厚みが感じられなくなり、それに代わってただ驚かすことだけに主眼が置かれているような感じになってしまうわけで、そうなってしまうとアクロバティックなサーカスのような話の内容となってしまうのだろうし、そういう内容を求めている人には歓迎されるだろうが、そんな驚かすような面のインフレ状態に慣れてしまうと、何か機械仕掛けの人形劇のように思われてしまうわけだが、フィクションの中ではそんな感じでも致し方ないとしても、それとは違って現実の世の中で味わうのが、何でもないような普通でありふれたことばかりだと、そのギャップを感じないわけにはいかないだろうし、もちろんフィクションと現実の区別ぐらいは、誰もがついているつもりなのだろうが、その普通でありふれたようなことの中に、フィクションにはない現実感があるのかもしれないし、そうした現実感から逃れるために、意識がフィクションの中で展開される非現実的で魅力的な話の中に逃げ込もうとしている面もあるのかもしれず、そんな感じでフィクションを愛好する人は、現実の世界を軽んじている傾向があるのかもしれないが、そういった現実逃避のためのフィクションでは、まだレベルの低いフィクションと言えるのかもしれず、そうではないレベルの高いフィクションとなると、もはや現実逃避の手段とはなり得ないわけで、そんな逃げ込める隙のないフィクションになると、娯楽とはなり難いだろうし、その中では普通のフィクションとは違った現実の現実性が示されているわけだろうが、その現実の現実性というのが何かといえば、それは現実のどうしようもない面と言えるのかもしれないが、何がどうしようもないのかとなると、それは不幸とも幸福とも判断し難いような面であり、判断停止となってしまうような面なのだが、その良い方にも悪い方にも行かない成り行きというのが、フィクションにしづらい面なのかもしれず、そういう成り行きはどうにも語りようがないわけだが、たぶん語りようがなくてもフィクションの中で語られてしまう場合があるだろうし、例えばそれは人物の意思や思惑とは無関係な活動に表れてくるわけで、そうしようと思っているわけでもないのにそうしてしまったり、そこへ行こうと思っているわけでもないのに行ってしまったりして、別にそれは他の誰の思惑に操られているわけでもなく、誰から作用や影響を受けているわけでもないのにそうなってしまう成り行きが、話の中に現れてくると、作者や話者さえ恣意的には制御の利かない展開となってきて、それが目的もないのに導かれてしまう現実の世界の成り行きを捉えているようにも思われてくるわけで、そうなると恣意的なご都合主義ではどうにもならなくなってくるわけで、フィクションの中でも現実の世界でも、わざとらしさとは無縁の話となってきてしまうわけだが、いったん話がそういうレベルにまで進行してしまうと、娯楽としての目的を果たせなくなってしまい、面白がったり感動したいという恣意的なご都合主義をはねのけてしまうから、そういうレベルでの期待には添えなくなってしまう一方で、逆にそういうレベルに至るようなフィクションに遭遇してしまうと、娯楽レベルにとどまるフィクションが子供だましに感じられてしまうのかもしれないが、だからといって、すべてのフィクションがそこを目指しているわけでもないだろうし、また目指して至れるようなレベルでもないだろうし、さらにそんなフィクションがどこにあるのかといっても、探して見つかるようなものでもないのかもしれず、ではどうすればいいのかとなると、どうしようもないだろうし、そんなフィクションに出会う必要はないのかもしれないし、それよりは恣意的に娯楽に特化したフィクションを楽しんでいれば、それで間に合ってしまうのだろうし、何よりもそういうレベルのフィクションの内容が取り立ててすごいというわけでもなく、ただ単に現実の世界のどうしようもなさをフィクションによって実感させられるということでしかないのかもしれず、それならわざわざフィクションを求めなくても、現実の世界で現実のどうしようもなさを実感できればいいわけだが、たぶん現実の世界で何らかの目標や目的を設定してしまうと、現実のどうしようもなさから目を背けてしまって、それに目を向けようとしなくなってしまうのかもしれず、そういった傾向が何かもっと前向きに願望の実現へと向かってしまい、そこへと向かうことが救いとなって、そんな救いを求めることが、娯楽的なフィクションの中で活動する架空の登場人物と、現実の世界で願望を実現するために努力する自身を重ね合わせてしまうことにつながって、それがフィクションと現実の混同をもたらすのかもしれないが、願望を実現するために努力している最中には、そんなことに気づく余裕などありはしないだろうし、かえって気づかない方がその人のためでもあるのかもしれない。


3月23日「虚構と現実の比較」

 実際にこの世界で宝探しをやっている人はごくわずかしかいないかもしれないが、宝探しを題材としたフィクションはありふれているほど多いだろうし、そういう物語が多くの人に好まれていると考えれば、人々の願望としては宝探しをやってみたいだろうし、ただそんな願望があっても、ほとんどの人はそんなことをやる暇と労力と資金がないから、実際に宝探しをやれる人は限られてくるわけだが、そういう意味でフィクションの内容は人々の願望が反映されたものとなる場合が多そうだが、それだけがフィクションの題材となるわけではなく、現実の世界を反映したフィクションも結構あるだろうし、人々の願望を反映しながらも、ありのままの世界を反映している面もあるだろうし、またそこには作者の願望や意図や思惑なども含まれているだろうし、さらに中には作者の意図しない想定外の作用や影響や効果が、フィクションからもたらされている場合もあるかもしれないが、フィクションではなく現実の世界に直接作用や影響を及ぼそうとする時、人に何ができるかとなると、実際にその人ができることに関しては、それなりに制約や限界が生じてくるのは当然だろうし、フィクションの中に出てくる架空の人物よりは、現実の世界で実際に生きている人物の方が、やれることの制約や限界が大きいし、実際にフィクションの中で行われていることほどには、思い通りのことができていないはずだが、それ以前にフィクションの中で行われていることと、現実の世界で行われていることを比較すること自体が、あまり意味のあることとは思えない場合の方が多いかもしれないし、それがフィクションでなくても、何かを語っている場合と何かを行なっている場合とでは、その内容にもよるかもしれないが、語っている自在さほどには、行なっていることに関しては自由度が小さいだろうし、一般的にも言うは易しで行うは難しであることは確かだとしても、語ることは他の語ることと比較されるのが公平な比較となるだろうし、また記述などの文章表現やその内容も、他の文章表現や内容と比較されることが公平な比較となるだろうし、他にも映像表現や演劇表現や音楽表現や絵画表現など、そうした表現にはその分野に特有の難しさがあるのだろうし、それも行なっていることの範疇に含まれるのだから、他の分野と比較して、その難易度を易しいだの難しいだのと安易に決め付けるわけにはいかない面もあるのだろうが、少なくともフィクションに特有の安易さや自在さを、現実の世界で実際に行われていることと直接比較するわけにはいかないが、それでも想像の中で比較してしまうだろうし、それは合理性や妥当性の乏しい比較となるしかないが、何かそこに地続きな面があるのかもしれず、現実の世界で実際に行われていることに関して、フィクションの中で行われている安易さや自在さと同じ感覚で、判断や評価が伴ってきてしまうと、そういうところで根拠の乏しい比較から、現実の世界で行われていることを否定的に見てしまう傾向が生じてきてしまうのかもしれず、それが思っていることと語っていることと行なっていることの差異を認識できない原因となって、フィクションと現実の無自覚な比較に現れるのかもしれないが、それが具体的にどういう結果となって現れているかとなると、大抵はそれに気づいていないことの方が多いだろうから、よくわからない面があるのかもしれないが、現実の世界で実際に行われていることに関して、何かそこに願望を投影している場合があるわけで、例えば実際にそこで何かが行われていることに対して、こうすればいいとかこうすべきだと主張すること自体が、実際にそうした主張通りのことが行われていない場合には、やはりそれはフィクションとなるわけで、その人がこうすればいいとかこうすべきだと主張しているのに、主張通りのことが行われないと、主張した人はそれを批判する場合があるだろうし、しかも行われていることを批判する場合は、それがうまくいっていないから批判するわけだろうし、そうなると批判している人は、自らが主張している通りのことをやらないからうまくいかないのだと批判するわけで、そこで現実に行われていることと、自らが主張しているフィクションとの比較が行われて、当然のこととしてフィクションの方が安易さ自在さに基づいている割合が大きいから、その人の主張通りのことが実際に行われない限りは、実際に行われていることよりも自分の主張していることの方が正しいと思い込めるわけで、だからその人の論理の中では批判が成り立っているはずなのだが、客観的に考えるなら、実際に行われていないその人の主張と、実際に行われていることを比較すること自体に無理があるわけで、そこでそういうことを主張する人が、自らのフィクションと現実を比較していることに気づいていないわけだが、意外と現状に批判的なことを延々と述べている人の中には、そういうことに気づかない人が多いだろうし、特にこうすればいいとかこうすべきだと主張して、しかもその人の主張通りのことが行われない場合は、そうした主張の内容自体がフィクションであり、その人がそういうことをいくら主張しても、主張通りのことが実現しない限りは、その主張と批判している現状との比較は成り立たないと認識すべきだろうし、比較自体が成り立たないのだから、その人の主張内容が現状で行われていることよりも正しいとは言えないはずで、それでもその人の主張の正しさを証明するには、実際にこうすればいいとかこうすべきだと主張している通りのことが行われないとならないわけで、行われない限りは、こうすればいいとかこうすべきだと主張している内容はフィクションにとどまるしかなく、それを現実に行われていることと比較すること自体もフィクションとなるしかないだろうし、それが実行されない限りは、その人がいくら説得力のあることを主張しても、現実に行われていることをいくら批判してみても、フィクションの世界から現実の世界へと抜け出すことができないわけだが、だからといって現状を批判しないわけにはいかないだろうし、そういうところで何かを語ったり記述するだけの人には、実際に何かを行う人や団体には太刀打ちできない面があるわけだ。


3月22日「左翼的な進歩主義」

 何かやっていることに関して、どこかで歯車が狂っているような感覚になるのは、やっていることが状況に合っていないのかもしれないが、それでも取り立てて窮地に陥っているわけでもなければ、それで構わないのかもしれないし、たとえ状況に合わないようなことをやっていようと、それで何とかなっている場合もあるだろうし、実際にそれほどうまくいかなくても、現状でやっていることを続けていれば、それを続けていられる限りで、それなりに何とかなっているのだろうし、その何とかなっている状況というのが、それほどうまくいっているわけではないというのが、不満を抱かせる原因なのかもしれないし、それに関しては現状でうまくいっている感じがあまりしないのかもしれないが、世の中の大部分の人たちがうまくいっている実感が乏しくても、大部分の人たちがそれなりに生きていけるような世の中の情勢となっているなら、それなりに平和で安定した世の中が実現しているわけだろうが、そうしたあまりうまくいっていない人が大勢いる一方で、その中でもうまくいっている人がごくわずかでもいれば、そんな状況の中で、うまくいった成功例に関して希少価値が生じて、その希少な成功例が世間的に賞賛を浴びるような成り行きとなるのかもしれないし、そういう意味では世間的に賞賛を浴びる人がほんの少ししかいなければ、それだけ成功例が少ないことを意味していて、だからなおのこと希少な成功例が世間的に賞賛を浴びるような成り行きになるのだろうし、その一方でその他大勢の大部分の人たちは世間的な賞賛などとは無縁の境遇の中で生きていることになるのだろうが、そういう社会が良いか悪いかは、世間的な賞賛を浴びるような人たちなら、それなりに自己満足に浸れて良い世の中だと思われるかもしれないが、その他大勢の人たちにとっては、客観的にはよくわからない社会となっているのかもしれないが、世間的な賞賛を浴びるような人たちのサポーターや応援団の役割を担っている人たちにとっても、主観的には良い社会と思われるのかもしれないが、何かそういうところで、取り立てて良いとも悪いとも言えないような社会の中で暮らしていると、不平不満を言えばきりがなく言えるかもしれないが、その不平不満に実感がこもっているかとなると、大部分の人たちにとっては、我慢しようと思えばいくらでも我慢ができるような状況なのかもしれないし、要するに現状の社会に関してその良し悪しを決められるようなはっきりとした基準がなく、判断がつかないような世の中なのかもしれないし、それが単なる自己欺瞞に過ぎないとしても、本当に自分を欺いているのか確証が持てないだろうし、そうかと言って他に世の中の何に欺かれているのかもよくわからないのかもしれないが、それに関しては政治的な方面で批判の対象となる人や勢力の存在が、すぐに思い浮かぶ人も少なからずいるだろうが、それらの批判対象と自らの境遇をリンクできるかとなると、今ひとつ実感が湧いてこないだろうし、何かこうすれば世の中が良くなるという幻想を安易には抱けないのかもしれないが、逆に幻想を抱く勇気のない人が多すぎるのかもしれないし、そうであっても別に幻想を抱くと馬鹿にされたり批判されたりするわけでもないだろうし、特に現状の日本で言えば、あからさまに進歩的な左翼思想に対する拒絶反応がおかしいぐらいに強いのかもしれないが、その辺で勘違いしている人が意外と多いのかもしれず、そういう面で広い視野で世界を見回してみれば、リベラル的な価値観に関して幻想を抱いた方が幸せになれることに気付けるのかもしれないが、そういうところで保守的な抵抗感が社会の中で幅を利かせていて、無理に意識が狭い範囲内で縮こまってしまっているのかもしれないし、もう少し能天気な楽観主義に気持ちが傾いていた方がいい加減になれるだろうし、具体的に何をどうすればいいのかとなると、例えば夫婦別姓や同性婚などを認めたり、大麻の使用を合法化したり死刑を廃止したり、その程度のところから制度や法律を緩めていけばいいのかもしれず、選挙でそういうことの実現を公約に掲げている勢力に投票すればいいだろうし、それで何がどうなるわけでもないかもしれないが、気分的には開放感が生じるだろうし、少なくとも取り立てて何をやっているとも思えないような政府の現状を考えれば、まずは最低限の改革として、その程度のことができるような政権を選ばないと、このまま何もできないような現状が延々と続いていくだけだろうし、それで特に困らないなら構わないともいえるだろうが、現状で何でもなければ、それよりは少しは世界から賞賛されるようなことをやった方がいいだろうし、しかもその賞賛される傾向というのが、世界できれいごとを主張するような左翼的な人々から賞賛された方が、今までのイメージを払拭できて格好がつくだろうし、政治的にできるのはその程度のことだと思っておいた方が、あきらめもつくのではないか。そこで具体的に何をあきらめるのかとなると、国家的な繁栄をあきらめた方がいいのかもしれないし、国家が衰退して民衆がお気楽な気分になれれば、それで構わないだろうし、少なくとも中国的な富国強兵策にはついて行けないものを誰もが感じている一方で、アメリカ的な弱肉強食社会にも誰もがついて行けないものを感じているのかもしれず、だからと言って日本には日本のやり方があるというわけでもないだろうし、たぶん国としてどうということはなく、個人や企業がそれなりに活動していればそれで構わないだろうし、その活動の中で求められているのが、建前としての左翼的な進歩主義なのかもしれないし、他に嫌でも直面してしまう経済的な競争原理以外では、普通にきれいごとを言っていられる社会を実現しようとすればいいだろうし、そういう意味では政治的な領域で能天気なリベラリズムを目指せばいいのかもしれず、実際にそういう成り行きにはなり難いとしても、目指すことはできるだろうし、そういう面では放っておいてもそうなってしまう経済的な功利主義を、政治の場でも推進する必要はなく、放っておけば抑圧されそうになることを、あえて政治の場で推進しなければならないだろうし、それがともすれば感情的な攻撃対象ともなってしまう左翼的な進歩主義であり、リベラリズムだと言えるのではないか。


3月21日「空疎な駆け引き」

 現状で何か課題があるとすれば、政治的にはそれが具体的な懸案を処理することになるのだろうが、外交などの懸案では国同士の過去の歴史的な経緯をなかったことにはできないだろうし、それでもこじれた事情をうやむやにしたいのは、当事者たちが願っていることかもしれず、うやむやにしつつも何か肯定的な成果が上がっているように見せかけたいのかもしれす、民主的な政治体制下だったら、それをどうやって政治宣伝に利用するかだろうが、民主的でなくても政治宣伝に利用したいところだろうし、そういう見せかけのやり方としては、政府の首脳同士の外交交渉などがうってつけのパフォーマンスとなるだろうが、それが実質的な成果を伴っていなくても、そういったパフォーマンスを伝えるメディア的な演出を民衆が真に受ければ、それで一応は政治活動としての体裁が保たれるわけだろうが、それ以上を望むわけにはいかないだろうし、そういうところで過剰な期待を寄せるような世界情勢ではないのは、どこの国の民衆も心得ているところだろうし、そういう面で政治に何かを期待するのは意味のないことかもしれないが、そうでなくても世界的に情報が飽和状態となっているわけで、大抵の出来事は何が起こっても驚かないように、前もって予防線を張ってあるだろうし、意図してそうやっているわけではなく、結果的にそうなってしまうところが、そうしたことをやっているメディアの役目だと言えるのかもしれないが、メディアの方でも民衆の気を惹くように、あの手この手で趣向をこらしながら情報を伝えようとしているわけだから、すでにそんなことをやっている時点で情報内容が装飾されているわけだろうし、それを粉飾と言ってしまうと否定的な印象となってしまうにしても、公的な政治レベルで何かをやろうとすれば、その情報が逐一メディアを通じて伝えられてしまうので、最初からその思惑が想像できてしまうわけで、そういう意味ではサプライズが期待できないだろうし、それがあるとしても宣伝としてのサプライズであるわけだから、すでにそれが伝えられた時点で、それなりに前もって予想がついてしまうような内容となるしかないわけだから、言葉の正確な意味でのサプライズではないわけで、そんなわけで政治的なパフォーマンスによっては驚くべきことができないわけだ。と言っても別に驚くべきことをやる必要もないのかもしれないし、その代わりに誰もが前もって予想がつくようなことを、これ見よがしに大げさに騒ぎ立てながらやって見せれば、それで誰もが納得する運びとなって、下手に余計なことをやって想定外の事態を招くよりは安心できるわけだろうが、そういう政治的なパフォーマンスに伴って生じる成り行きはそんな結果しか招かないとしても、それが政治的な行き詰まりを示しているわけでもないだろうし、儀式としての体裁を整えたまつりごととしては、そういうことが行われている間は、平和で安定的な状態が保たれているわけで、それが中身のない空疎な駆け引きでしかなくても、政治的な駆け引きとはそういうものだとみなしておくのが無難なところかもしれず、そういうところで何か実質的な成果を期待しない方がいいのかもしれないが、その成果というのが、懸案事項を解決するというよりは、そうした懸案事項がある状態を維持することが求められていて、そこで何かをやっているように見せかけるには、何かしら懸案事項がないと見せかけられないだろうし、そのためにはあえて未解決の政治問題が山積している方が、そうした問題に取り組んでいるふりをできるわけで、実際に取り組んでいる姿をメディアを通じてアピールするわけだろうし、そうやって何かしら問題に取り組んでいる姿をメディアを通じて伝える行為が、政治的なイベントとして年がら年中繰り返し起こっていればいいわけだから、それは少年漫画で飽きもせず強者同士の対決が繰り返されることや、テレビなどの時代劇においても、飽きもせず定期的に戦国時代や明治維新などの特定の時期が取り上げられるのと似たような事態かもしれないが、一方でそうした政治的に問題山積状態を批判する識者なども、飽きもせず同じ問題を蒸し返しながら批判を繰り返すだろうし、そうした事態に対応するにはそうならざるを得ないのかもしれないが、そうしたイベントがメディアを通じて年がら年中伝えられている状態が、世界的な情報の飽和状態を体現していると言えるのかもしれず、誰もがそういった情報の洪水の中で溺れないように、徹底して無関心無感動の姿勢を貫いているわけでもないだろうが、少なくともそんな状態に慣れていることは確かだろうし、状況に慣れるにはそれらのイベントに対して、いちいち目くじらを立てないことが肝要かもしれないし、それを理解しようとして考えてしまうと疑念や疑問が生じて、そこから現状に批判的な態度が出てきてしまうから、そうなってしまうと、何かが起こってそれが伝えられる度に、いちいち批判的な言動に出ないと気が済まなくなるわけで、それではいつも文句ばかり並べている識者と同じになってしまうから、それを避けるにはできるだけその手の情報には、浅く短く触れる程度で済ますことが肝心かもしれないし、また形式的な言及にとどめておくことも効果があるかもしれないが、要するに一つ一つのイベントにこだわらないことが、いちいち真に受けないことにつながるのかもしれず、真に受けないということは、やり過ごすことになるのだろうが、やり過ごしていても構わないのかとなると、文句を言いたい人にとっては、やり過ごしていては文句を言えないからまずいだろうし、そういうところでいちいち文句を言って、そうしたイベント的な対応の駄目なところを指摘していけば、メディアからもたらされる膨大な情報と戯れることができるかもしれないが、そこで情報と戯れているという実感を覚えると勘違いを生むのかもしれず、そうした実感と引き換えにして、情報の洪水の中で溺れかけていることを忘れてしまうわけで、そうなると自らを包み込んでいる状況を、演繹的にも帰納的にも把握できなくなってくるわけで、その代わりにどんなふうに把握しているのかと言えば、自己中心的に把握することになるだろうし、年がら年中繰り返し起こる政治的なイベントに対して、自らも観客としてその儀式に参加していると勘違いしてしまうわけで、そうなっている時点で、儀式の一部となって文句を言う役割分担を施されて飲み込まれているわけだ。


3月20日「理解できない主張」

 時として他人の意見や主張を理解するのは容易なことではないが、なぜ理解できないのかとなると、理解するための理屈や論理を導き出せない場合があるだろうが、理解できなくても批判することはできるわけで、批判するには他人の意見や主張に自分の理屈や論理を当てはめて、そうした理屈や論理に反することとして、否定的に批判することができるのかもしれないが、他人の主張や意見を理解せずに批判するというのは、誤解に基づいた批判と受け取られてしまうだろうし、そう受け取られなくても、普通は何らかの権威者でないと相手にされない可能性が高いわけだが、相手にされなくても批判することはできるし、実際にSNSなどで延々と特定の対象を批判している人も少なからずいるだろうし、それはそれでそこで安定してそんな活動をやれている限りで、特に何が問題となるわけでもないだろうが、そもそも理解する必要のある意見や主張があるのかといえば、もしかしたらそうした批判でさえも、特に理解する必要もないのかもしれないし、何かそこに理解する上で助けとなるもっともらしい理屈や論理があるとしても、それさえも無視して勝手なことを主張していられるような成り行きがあるとすると、そうした成り行きに身を投じている人なら、相手の意見や主張など無視して、言いたいことを一方的に主張していれば、それで済んでしまうような状況もあるのかもしれず、それで済んでしまうということは、誰からも相手にされていないか、別にその人に勝手なことを言わせておいても、周囲の人や団体としては特に困らないということだろうし、そういう誰も困らないような意見や主張なら、思う存分言わせておけばいいような成り行きとなってしまうのかもしれず、要するにそういう意見や主張では、世の中は変わらないということだろうが、では世の中を変えるような意見や主張があるのかというと、世の中を変えるような活動と連動した意見や主張ならいいのかもしれないが、過去の事例として探せば、中にはそんな意見や主張もあったかもしれないが、それは実際に世の中が変わってからわかることだろうし、例えばアメリカの公民権運動の象徴だったキング牧師の意見や主張が、その活動とともにその後の世の中を変えたかといえば、当時一緒になって活動した人々や、その活動を引き継いで今も活動している人々にとっては、世の中を変えたと思いたいだろうし、実際に世の中が変わった証拠を挙げれば、きりがないほどあるのかもしれないが、その反面で変わっていない事例も、探せばいくらでもあるのかもしれないし、総体的に見てまだ道半ばと捉えておくのが無難なところかもしれないが、そういう意味で世の中を全く変えないような無意味で無駄な意見や主張というのは、世間で話題とはならないだろうし、少なくとも世間で話題となって後世にも伝わるような意見や主張なら、それと連動した活動とともに何かしら世の中を変える力があったのかもしれず、そうした意見や主張が世の中の人々に理解されなかったわけではないから、実際にそれによって世の中が変わったと言える面があるだろうが、中にはそうした意見や主張を理解できない人もいたわけで、実際に理解できなかったのか、あるいは理解した上でそうしたのかは定かでないが、批判者によってキング牧師は暗殺されているわけで、他にもマルコムXやケネディ兄弟なども暗殺されているから、そうした時代状況の中で、世の中の対立が深刻化して争いが激化している中での意見や主張は、世間的な話題となりやすく、そうでなくても世の中を変える要因が他にも様々にある中で、そうした変化要因とともに世間が注目するような人物によって意見や主張が行われるわけだから、そうした人物の意見や主張が世の中を変えたと見られても、多くの人がそれに納得するだろうし、そういう成り行きにことさら異議を唱えるのはおかしいのかもしれないが、そうした意見や主張自体が、世の中の状況やあり方を批判するような内容であり、だからこそ世間的な主流派からは良くは思われなかったのだろうし、実際にそのことがもとで暗殺されてしまったわけだろうが、現代の日本はそれとは比較にならないような現状かもしれないが、それでも世間的に注目される人物の意見や主張が、世間的な主流派に属する人々から批判されているのは、世界の他のどの地域でもよくあることだろうし、それ自体は特にどうということはないわけだが、そうした主流派から批判されるような意見や主張が、今後世の中を変えるようなことになるかというと、やはり何かしら変えることになるだろうし、少なくとも全くの無駄で無意味な意見や主張ではないだろうが、それでも世の中を変えようとする人々の思惑通りには変わらないだろうし、変わらなくても構わないのかもしれないが、全ては結果からしかわからないことかもしれず、それに関しては意見や主張と共に、活動内容やそれに携わる人や団体も変わっていくことが、世の中の変化を体現していると言えるのかもしれず、そうした活動の興隆や衰退が、とりもなおさず世の中の変化を物語っているわけだが、またそうした活動に関係してくる経済活動も、活動自体を変化させる要因になるだろうし、経済活動と関係するような活動が、政治的な意見や主張を行えるかも、世の中が変化する上では重要なことになっていくのかもしれないし、しかもそうした政治活動が経済活動の片手間に行うようなことではなく、政治活動が経済活動と一体化するようなことが起こると、今までとは異なる活動となる可能性が出てくるのかもしれないし、そういう面で人が他の人や団体と対立したり協調したりしながら活動していくとしても、全体的な枠組みとして、これまでのように制度や法整備の範囲内に政治活動を位置づけるというよりは、それが専門的な領域ではなくなっていくことが、現状では起こりつつあるのかもしれず、政治が政治家の専門分野から逸脱してくるとともに、労働運動なども労働組合員の専門分野から逸脱してくるとともに、企業経営の類いもそれを専門的な職業とはしない人たちによって担われていくようになれば、現代の傾向である社会的な役割分担の細分化や専門化から逸脱するような情勢が生まれてくるのではないか。またそういうことと連動して起こるのが科学技術の変革となるのかもしれず、それに対応して理屈や論理の変革も伴ってくるのかもしれない。


3月19日「理性の効用」

 難しくて理解できないことを除いて理解しがたいことは、理解できないことではなく、理解できないことにしておきたいのかもしれず、理解を拒絶したいのだろうが、そういう否定的な感情を抜きにすれば、簡単に理解できることかもしれないのだが、たぶん理解してしまったら負けを認めることになってしまうのかもしれず、負けたくないから理解を拒絶するのだろうが、そもそも理解するしないは勝ち負けの問題ではないはずで、そこに強引に勝ち負けをこじつけてくること自体に、無理があることは承知しているのかもしれないが、やはりそうまでして理解したくないことがあるわけで、それを理解することによって、自らの価値観を覆されるのが困るのだろうし、その価値観が文化的あるいは思想信条的さらには似非科学的な偏見などに根ざしている場合は、偏見にこだわらないと価値観を維持できないから、強い調子で自分たちの立場を正当化しながら、対立する相手を攻撃するようになってしまうだろうし、特定の勢力を強い調子で攻撃してくるような人たちは、何か無理な面があるのかもしれず、しかも相手を攻撃しないと守れないような価値観だと、そうした価値自体に対立を誘発するような傾向もあるだろうし、そうした対立自体に経済的な利害対立ではない面があると、そうした面が思想信条的な幻想に基づいている可能性があるわけで、それを経済的な利害対立だと言えないところが、何らかのまやかしが含まれているのかもしれず、経済的な利害対立を隠すために思想信条的な幻想が利用されている場合があるわけだが、そこに文化的あるいは似非科学的な偏見も絡んでくると、多くの人がそうした偏見を信じてしまうような傾向も出てきて、一筋縄ではいかないような成り行きをともなってくるわけだが、要するにそれが単なる経済的な利害対立だけだと、対立する相手を攻撃する正当な理由がなかなか見出せないから、他の偏見を総動員して、何とか攻撃を正当化したいわけだが、それが歴史的な経緯を伴ってくると、それを正当化できるような論理も生まれてくるだろうし、そうした論理にも単なる経済的な利害関係ではないように思わせる幻想が含まれてくるわけだが、そうやってそこに様々な幻想に基づいた論理や価値観が結びついてくると、そこに関わってくる誰もが経済的な利害関係ではない理由を信じるようになってしまうわけで、それがよく言われるような人種や民族や宗教や国家などの価値観となってくるわけだろうが、普通でもそれらの価値観が混合していて、そういう偏見にこだわっている人たちは、自身が個人であることよりもそれらのカテゴリーに属していることを優先させる傾向があるわけだが、そうしたカテゴリーに属している他の人たちに関して、アイデンティティを共有する身内や同胞だとみなす傾向が強く、実質的にはそうした同胞や身内から経済的に優遇されることを期待しているわけだろうが、あからさまにそう思っているわけでもないだろうし、そこに人種や民族や宗教や国家を介在させて、それらのカテゴリーを共有する人たちならわかり合えるし、文化的にも言語的にも地縁血縁的にも心を通わせることができるような幻想を抱くわけで、そういう人たちの間では理解し合えることも期待しているわけだろうが、普通に考えても、たとえそれらのカテゴリーを共有していても心を通わせることも理解し合えることもできない場合があるだろうし、逆にそれらが障害となることはあっても、人種や民族や宗教や国家の垣根を超えて心を通わせることも理解し合えることもできるだろうし、そういう面で実際に文化的あるいは言語的な違いが障害となることがあるだろうから、それらのカテゴリーを共有する人たちよりは、心を通わせることも理解し合うことに関しても、難易度が高くなることは想像に難くないわけで、そうした面を考慮せずに能天気に、世界は一家、人類は皆兄弟だと思ってしまうわけにはいかないだろうが、そこで理性を働かせることができる人と感情に身を任せてしまう人とで、違いが出てくるのかもしれないし、また偏見に基づいてカテゴリーの異なる人たちに対して否定的な決めつけを行なってしまう人たちも、理性を働かせることに抵抗感を覚えるのだろうが、そうした人たちはそれらのカテゴリーに基づいた勢力に入ることで、利益を得られると判断しているはずなのだが、そうは自覚していないだろうし、普通はそれらのカテゴリーから得られる同胞意識や身内意識などの幻想を得られるから、そこから生じる偏見の類いを信じてしまうわけだが、またそうした同胞意識や身内意識は他のカテゴリーに属する人たちへの攻撃に転化されやすいだろうし、またそうしたカテゴリーを否定する共産主義などへの敵愾心も育ちやすく、それはまた理性を働かせて偏見を抑え込もうとする人たちへの憎悪を滾らせることにも結びつくわけだが、要するにそういう人たちが建前を取り繕って本音を隠していると見えてしまうわけで、そういう人たちに対しては、お前たちだって心の底では人種や民族や宗教や国家に基づいた偏見を温存しているくせに、それをおくびにも出さずにお高くとまって自分たちを見下しやがって、と想像して、自分たちの方がそうした欺瞞や偽善に感染していない正直な人間だと思い込めるだろうし、そうであるなら人権や理性などの理想を口にするような欺瞞や偽善の徒よりは正直者の方が信用できるだろうし、そうした本音を共有する正直者同士で徒党を組めるわけだが、そういう偏見に基づいた本音から構成される徒党内では、何よりも偏見を維持することが優先されるわけで、もちろんそれらの人たちからすれば、それは偏見などではなく真実であり事実でもあるわけで、またそれなりの実感を伴っているわけだが、それを維持するためには他のことを犠牲にしても構わないようになってしまうだろうし、また戦術的にも敵とみなした人たちには、平気で嘘をついても構わないことにもなるし、そういう面で敵と味方では扱いが異なってしまい、味方となる同じカテゴリーに属する同胞や身内の間では心を通わせて理解し合うこともあるが、敵とみなした人たちには敵愾心を燃やしたり憎悪を滾らせたりするわけで、要するにそういう人たちを同じ人間扱いしないわけで、そういう感情がエスカレートしてしまえば、民族浄化やテロの対象となってしまうわけだが、普通はそこまで至らないことが多いわけで、それが経済的な豊かさからもたらされるとしても、もちろん豊かであれば必要以上に敵対する必然性が生まれないわけだが、それもそれらのカテゴリーから生じる幻想を信じてしまえば、それなりに敵対心が生まれるだろうし、それが高じて今度は自分たちの豊かさを守るために、カテゴリーを異にする競合者や侵略者とみなした人たちを攻撃する理由が生まれるわけだ。


3月18日「物事の本質」

 枝葉末節なことをいくら寄せ集めてみても、それが本質的な問題となることはないだろうが、何が枝葉末節なことかとなると、何もかもが枝葉末節なことかもしれないし、枝葉末節ではない本質的な問題など、世の中のどこをどう探してみても見つからないかもしれないが、何かその人にとって重要に思われることが本質的な問題となるとしても、それはその人の勘違いであるかもしれず、結構どうでもいいようなことにこだわっていたりすることも多いのかもしれないし、その人にとっては重要なことであっても、他の人にとってはどうでもいいようなことでしかなければ、物事の本質というのも、人の立場や境遇によって異なるのかもしれないし、異なるようでは本質とは言えないのかもしれないが、何が物事の本質であっても、世の中にはそれ以外の枝葉末節なことにこだわっている人もたくさんいるだろうし、そういう人にとっては、別に本質と枝葉末節なことを区別する必要もないのかもしれないし、場合によっては区別することすらが間違っているのかもしれないが、誰にとっても本質的な問題というのは、案外どうでもいいようなことなのかもしれず、それに気づかなければ、それを自覚できないままとなってしまうようなことかもしれないし、また物事の本質というのは、誰かにそれを指摘されて初めて気づくようなことであり、指摘されるまでは気づかないわけだから、普通に考えて、物事の本質など見極められなくても、それほど支障をきたさないようなことかもしれないし、それよりは各人が興味を持っている枝葉末節なことにこだわる方が、普通の態度であり感覚なのかもしれないし、重要に思われるのも枝葉末節な物事であるのが普通なのかもしれない。だから他人がどうでもいいようなことにこだわっていても、それを馬鹿にするかもしれないが、そういう自身も他人から馬鹿にされるようなどうでもいいことにこだわっているのに気づいていないのかもしれないし、そういう意味では人がこだわってしまうのは、いつも枝葉末節などうでもいいことでしかないのかもしれず、その一方で物事の本質にこだわることなどできるわけもなく、それを知ることさえできないのかもしれないし、何が物事の本質なのかがわからないのが、普通の感覚なのかもしれないのだが、別に普通の感覚であっても構わないだろうし、逆にそれと気づかないで物事の本質に触れてしまい、それがもとで気が狂ってしまうよりはましなのかもしれない。もちろん物事の本質に触れたからといって、気が狂うとは限らないだろうし、むしろ物事の本質がわかっているからこそ、それがアドバンテージとなって、世の中で成功する可能性が高くなる場合もあるのかもしれないし、そうであるなら物事の本質を見極めることこそが、世の中で成功するための条件といえるのかもしれないが、それもそう思われるような成功例があるから、そんな気がするだけなのかもしれないし、本当に世の中で成功している人が物事の本質を見極められているかに関しては、それを確かめるすべがなければ、何とも言えないことになってしまうだろうし、何とも言えなければそんなのは気のせいでしかなく、それ自体が物事の本質とは何の関係もない枝葉末節なことになってしまいそうだが、たぶん物事の本質というのは、こだわらなくてもいいことなのかもしれず、あえてこだわる必要がないから、それが本質だといえるとすれば、本質にこだわらなくても自然に認識できることかもしれず、そうであるなら意外と誰もがわかっていることが、物事の本質なのかもしれないし、それはあえて言うまでもないことだからこそ、そんなことにこだわる必要がないのかもしれない。ではそのあえて言うまでもない物事の本質とは何かといえば、やはりそれはあえて言うまでもないことであり、取り立ててこれと指し示すようなことではないのかもしれないが、それが何かといえば、それをあえて言ってしまうと、物事の本質ではなくなってしまうのかもしれないし、そうなると言葉では言い表せないことが物事の本質となってしまうわけだが、本質というからには重要なことであり、それが言葉で言い表せないようなことなら、何が重要なのかわからなくなってしまって、そんなことはあり得ないかもしれないが、それを言葉で言い表そうとすると、枝葉末節なことになってしまって、結果的に物事の本質を取り逃がしてしまうとすれば、それは十分にあり得ることかもしれず、そうであるなら何かを言葉で言い表すという行為が、意識を物事の本質から逸らしてしまう効果があるのかもしれないが、あえてそれを言葉で言い表わさなければ、物事の本質を意識が捉えられることになると、他人に向かって物事の本質を説明できないことになってしまうし、それでは困ってしまうから、とりあえず言葉で言い表わせることにしておかないとまずいだろうし、普通はそういった説明の中では物事の本質が強調されるわけで、それが重要なことだと指摘されるわけだが、だからと言って物事が本質だけから成り立っているわけではないだろうし、どうでもいいような枝葉末節な面も含めて物事が成り立っているわけだが、ではなぜそこで本質が重視される一方で、枝葉末節な面が軽視されるのかとなると、何かそこに階層構造を設けないと、物事をうまく説明できないような事情が生じているのかもしれず、例えばそこに中心部と周縁部があるとすると、本質の部分が中心部であり、枝葉末節の部分が周縁部であると容易に認識できるかもしれないが、本当にそうかと言えば、必ずしもそうとは言い切れない面もあるのかもしれないし、実際に樹木の類いは、枝葉末節な部分で光合成を行なっていて、それが樹木の主要な活動となっているわけであり、光合成なしではほとんどの植物の活動が成り立たないわけだが、ではなぜそれを枝葉末節と表現して軽視するのかと言えば、軽視すること自体が錯覚に基づいた誤りであり、本当は枝葉末節な部分にこそ、物事の本質的な活動が行われていることをわかってもらいたいのかもしれず、そういう意味でそこには逆説的な意図が込められていると解釈すべきなのかもしれない。


3月17日「合理性と妥当性」

 世の中で妥当に思われることばかりやっていると、自然と保守的な傾向になるしかないだろうが、妥当なことばかりやれるわけでもないだろうし、妥当とは思われないような成り行きに巻き込まれてしまうと、危険に身をさらすことになるだろうが、ただ受動的にそんな成り行きに巻き込まれるのではなく、自らが主導して一か八かの賭けに出ることもあるだろうし、そういう冒険的な魅力に惹かれるのは、誰にでも起こり得る成り行きかもしれないが、ではなぜそんな気を起こすのかといえば、周囲で日々滞りなく進行している、妥当なことばかりが行われる成り行きに退屈してしまうからかもしれないし、そういった周囲の状況に魅力を感じられないことも、誰にでも起こり得る成り行きかもしれないが、その一方で妥当なことをやって、それがうまくいっている人たちは、そこからわざわざ無謀な冒険に駆り立てられるような成り行きにはなりづらいだろうし、そんなふうにして無謀な冒険に駆り立てられる人と、世間的に認められるような妥当なことをやって、それがそれなりにうまくいっている人に関して、世の中でそれなりに住み分けが成り立っていれば、それで大した問題は起こらないのかもしれないが、それによって世の中が安定するわけでもないだろうし、そうでなくても状況はいつも流動的に推移していて、その程度も傾向もそれなりに地域的にも時期的にも違いが出てくるのかもしれないが、そういうレベルで世の中の状況をどう捉えてみても、そこで起こっている出来事や現象の良し悪しを、それに合わせて用意した適当な基準に照らし合わせて、あれこれと述べるにとどまってしまうだけかもしれないし、そういうところでもそういった物事の妥当性や合理性に関して、何やら説得力を伴った主張や意見を述べることができれば、そうした主張や意見の中で、それなりに妥当な見解や認識を維持できるのかもしれないが、そういうことを述べることが、世間的にそれなりに価値のあることだと認識されるにしても、それはあくまでもそういった主張や意見の妥当性を擁護する世間的な価値だろうが、そういうところで循環論的な成り行きが生じていて、そういう成り行きが退屈に思われるからこそ、絶えずそこから逸脱する行為や事件が生じてしまうのだろうし、もちろんそれが妥当だと思われるからには、それを退屈だと斬って捨てるような人は、世間からの批判や糾弾にさらされるのだろうし、そうした世間的な価値観からの逸脱者を批判したり糾弾することによっても、世間的な価値観が世の中で維持されるわけだが、そういった価値観も時代や地域によって多少の違いやずれがあるだろうが、それを守ろうとする人たちが世間を構成しているにしても、そこから逸脱しようとしてしまう人たちも、それを批判されたり糾弾されることによって、逆説的に価値観を維持する上で、やっていいこととやってはいけないことの基準を確かめる判断材料となることで、世間的な価値観の維持に貢献しているだろうし、そしてそこから逸脱する人が多いほど、世間の基準が逸脱する方向へと緩んでいくことにもなるのかもしれず、それによって逸脱する人の行為が世間的に認められるようだと、それだけ世間の価値観も変わってきたことを意味するだろうし、そうやって逸脱する行為が成り立つことで、それが逸脱する行為ではなくなり、世間的にも認められた行為となるのだろうが、そういう意味では何かをやってみせることが重要であり、それをやってみせる人や団体が、世間からの批判や糾弾をはね退けて、その行為を成り立たせることができれば、それが世間の価値観や価値基準を変えることに結びつくのであり、何かこれまでにないことをやろうとしている人や団体は、そういう面で世間と対峙していることになるわけだが、そういった人たちは世間的に見て、合理的なことや妥当なことをやっているとは見えないだろうし、だから批判されたり糾弾されるのだろうが、人や団体によっては必ずしもそういうわかりやすいことばかりやっているとは限らないわけで、ある面では世間を味方につけるような保守的な方面で根回しを抜かりなく行なっていて、そういった方面で自分たちの陣営に優位な状況を構築しておいてから、そこから自分たちに有利になるような成り行きをじわじわと押し広げていくようなことをやられると、そういったやり方の延長として、あらかじめ批判や糾弾を押さえ込んでおくこともできるわけで、結果的にそこから行き過ぎが生じて嘘やごまかしを含んだ妥当性のないことが行われても、それが発覚して批判や糾弾の対象となろうとも、事前に培ってきた周囲への根回しが功を奏して、そういうことをやっている体制が温存されるわけで、そういった体制が世の中で主導的な役割を担ってくると、必ずしも合理的なことや妥当なことがそこで行われているとは限らなくなるわけで、何かなし崩し的に主導権を握っている体制にとって都合がいいことが優先的に行われる成り行きになってしまい、そこでの合理性や妥当性は、絶えずそういう体制にとって都合のいいことが、合理的であり妥当でもあることにもなってしまって、そういう意味での合理性や妥当性が、一般の人たちにとっては合理的でも妥当でもなくなってしまえば、そこから誰にとって合理的であり妥当なのかについて、社会的な立場や境遇によって違いが生じてくることになってしまうわけだが、そうではないような、誰にとっても納得できる共通の合理性や妥当性を設定できるかとなると、そこに功利性が絡んでくると、利害関係が生じてしまって、利害が異なれば合理性も妥当性も異なるような成り行きが生じてきてしまうのだろうし、そういうところでは利益を得られる行為が、合理的な行為であり妥当な行為でもあることになってしまうわけだが、そこでの目的が利益を得ることならそうかもしれないが、目的が利害の異なる全ての人や団体を納得させることになれば、それは功利性では手に負えない課題となってくるだろうし、果たしてそんなことが可能なのか疑問に思われてくるかもしれないが、そういうところから交渉や取引の余地が生じてくるわけで、納得させることはできないかもしれないが、交渉や取引によって妥協をもたらせる可能性が出てくるのだろうし、それが合理的ではなくても妥当なやり方にはなるわけで、そこから合理性よりも妥当性に重点を置いたことが行われるようになるのではないか。


3月16日「幻想の共有」

 単純に何かを語ろうとすれば、自身にとって都合のいいことだけを語る成り行きになるかもしれないが、都合の悪いことを語れるかとなると、それを語る自らを正当化できる範囲内で語ろうとするだろうし、都合の悪いことを語る理由が、語ろうとする自らを正当化することになるわけだが、何かを語ること自体が、語っている自らを正当化するために語っていることになると、そういうところで語るという行為が自家中毒の兆候を示しているのかもしれないが、それを語らずに済ますことができるかとなると、自らが直接語らなければいいのかもしれないし、自らの代わりに他の誰かに語らせれば、うまく自らの正当化を避けることができるのかもしれないが、語るのではなく、言葉を記す行為の中で語らせれば、誰が語っているのでもない文章とはならないにしても、言葉を記している自らと、文章上で語っている話者が分離して、自らではない誰がか語っていることになるのかもしれないが、そんな手の込んだことをやる必要があるかとなると、それがフィクションを構成する理由となるのかもしれないが、フィクションではない現実の世界について語るとなると、安易なやり方としては他人を批判するために語ることが多くなるかもしれないし、批判するだけだと心苦しいなら、他人を賞賛するために語ることになるだろうし、そんなふうにして自分以外の誰かを評価するために語ることになれば、語っている自分に関する評価を自分で下すのを避けることに成功するのかもしれないが、直接的にはそうだとしても、今度は自分が他人を評価することの妥当性が、他人によって判断されることにつながるかもしれないし、つながらなければ無視されるだけだろうし、それも一つの評価だとすれば、他人から無視される程度の評価でしかないということになるだろうが、とりあえずそうやって無視されるとしても、他人に関して語ることで、自己言及を避けることには成功するから、他人を批判したり賞賛することが、自分にとっても都合のいいことになるのかもしれないが、だからといってそんなことを語っている自らを正当化している自覚はないだろうし、それで自己正当化が済んでしまうなら、それで構わないことにしかならないわけだが、少なくともそれは自分に関することではなく、批判や賞賛の対象となっている他人に関することになるわけで、それが肯定的な評価であろうと否定的な評価であろうと、評価に関して語っている中では、適切に評価している自らの優秀さや有能さを、他人に評価してもらいたいとアピールしているわけではないだろうし、それよりはそうした評価に妥当性があることを認めてほしいわけで、その評価に他人も共感したり賛同してほしいわけだが、果たして他人がそうする必要があるかとなると、それは他人の勝手でしかないわけで、そういうところでなかなか他人は共感も賛同もしてくれないのが普通かもしれないのだが、それも自分にとってはどうでもいいことかもしれないし、ただ単に自分とは関係のないことについて語れるなら、それで気が済んでしまうことでしかないのかもしれないが、なぜそうやって自分とは関係のないことを語れるかといえば、そんなことを語っている自身が、世の中ではどうでもいい存在でしかないことを自覚していないまでも、評価の対象が自分ではなく、しかも自身が自分ではない他人について語っていること自体が、それを証明してしまっていることにも気づいていないだろうし、そういうところで自分のことよりも他人の評価を優先して語りたがる人は、自分の存在の希薄さを実感していることに気づいていないわけだが、それにも増して、他人に対する評価さえも語りたがらない人も中にはいるわけで、そういう人は、他人を評価するのではなく、評価を伴わずに他人について語れるわけで、また自分についても、評価抜きで語れるなら、それは自己正当化とは無縁の内容となるのかもしれないし、特に語っている自らの正当化を伴わずに、自分についても他人についても語れるなら、それが妥当で公平な語りとなるかもしれないが、なぜそうしなければならないかとなると、別に理由も根拠もないだろうし、理由も根拠もなければ、それを正当化できないわけだから、要するに正当化とは無縁の語りが実現するのかもしれず、それが妥当で公平な内容だとはにわかには信じ難いかもしれないが、たぶん評価というのはその語りを受け取った人が評価すればいいのかもしれないし、特に語りの中で肯定や否定などの断定的な決めつけを行わない方が、より妥当で公平だと判断できればいいわけだが、肯定や否定を伴わなければ、そもそも判断が伴っていないことにもなるわけで、それでは妥当で公平だと判断できないのかもしれないが、語りの中ではそうだとしても、判断というのは語りの中で断定的に決めつけるものでもないのかもしれず、むしろ語りの中では、その語りを受け取った人が判断するための材料を提供できればいいわけで、そうであるなら語りの中ではただ判断材料を挙げておくにとどめておけばいいわけだが、それも判断するにあたって妥当で公平な判断を下せるように、偏りのない判断材料を提供できればいいわけだが、では偏りのない妥当で公平な判断材料を提供できるかとなると、そこで材料の取捨選択において、そうしたことを行う上で語る側に固有の意図や思惑が介在してくるだろうし、わざと語る側の思惑通りの判断に誘導するような材料と内容を提供できれば、その語りを受け取った人がそうした戦略に引っかかって、語る側の洗脳に屈してしまう可能性も出てくるだろうし、そういうところで語りを受け取る側が理解しておかなければならないのは、ある一定の方向や傾向に誘導していくような語りの内容に気づけないと、語る側に洗脳されてしまうということであり、そういう意味では語る側に付き従うようなファンやエピゴーネンになってしまってはまずいだろうし、少なくとも語る側への抵抗感や違和感を差異として絶えず保持しておくことが肝要だろうが、それを覚えないとなると、語る側への無防備な共感や賛同の方が勝ってしまっていると言えるわけで、何かそういうところで語る側とその語りを受け取る側との間で、共通の幻想が生じているとも言えるのかもしれないが、それが何かといえば、話せばわかるという幻想かもしれないが、そこで何に関してわかり合えるかとなると、判断や評価に関しての共通の価値基準を共有できるということであり、それに関して合意を得ることができるという幻想を生むのではないか。


3月15日「つじつまが合わない事態」

 現状でわかっていることは、当たり前のように思われる現象から、批判の対象が生じてくることであり、それを生じさせている当たり前のように思われる現象は、批判の対象とはなり得ないが、そこから生じている人の動作や行為が批判の対象となってしまうわけだから、いくらそれを批判してみても、それを生じさせている当たり前のように思われる現象を止めることができない限りは、そこからいくらでも批判の対象が生じてきてしまうわけで、それを批判すること自体があまり意味のないことになってしまうのかもしれないが、そんな批判自体も当たり前のように思われる現象から生じてくるとみなすなら、それを普通に解釈するなら、その当たり前のように思われる現象から、批判の対象もそれに対する批判も生じてくると言えるのかもしれず、どちらも共に生じてきてしまうわけだから、そんな現象自体を批判する成り行きにはならないだろうし、またそれが止めようとする対象となることもなく、ただそういう現象が批判の対象や批判自体を生じさせているのだから、批判の対象となる人の動作や行為にしても、それへの批判にしても、深刻に受け止めるようなことでもないのかもしれないのだが、たぶんそれを批判している人たちにとっては、そうした人の動作や行為は深刻に受け止めなければならないことなのだろうし、批判の対象となっている動作や行為をやめさせたいのかもしれないが、実際にやめさせることができるかとなると、それを生じさせている現象を止められないのだから、どう考えても無理だろうし、無理であるどころか、それが批判を生じさせる原動力ともなっているわけだから、そんな現象によって批判すること自体も成り立っていると言えるわけで、そこで見せかけの対立や軋轢や争いをもたらしていると思われる、批判の対象とそれを批判する側のどちらがどうというわけでもないのかもしれず、それらを対立する概念と捉える必要もなく、両者ともに同じ現象から生じてきているのだから、まずはそれらを生じさせている現象について考える必要があるのかもしれないし、実際にそれを思考の対象とすべきだろうが、それが具体的に何かというと、うまく名付けようのない現象なのかもしれず、そういう意味ではっきりしない面があるのかもしれないが、そんな現象のある面を示しているのが、企業が主体となって行なっている資本主義的な経済活動であり、またもう一方の面が政府が主体となって行なっている政治活動や行政活動なのかもしれないが、それもそれぞれにそれ単体で全体を覆うような活動ではなく、それらは現象の一部分を構成しているだけであり、そういう部分的な一面を捉えて、そういった活動の否定的な動作や行為を批判の対象とすることができるのだろうが、それもそういった批判を成り立たせている現象自体が、一方では批判の対象となるような動作や行為をもたらしているわけだから、そういう動作や行為は、やめさせるというよりは調整の対象となるべきことかもしれないし、動作や行為そのものは継続するにまかせるとしても、そこから生じる被害や損害を最小限に食い止めるような調整が必要となってくるのかもしれず、そうした調整を行う上で必要なことが、交渉であり取引でもあるわけだが、それも個々の交渉や取引などが世の中の各方面で実際に行われているわけで、それに対して批判を加えることも交渉術の範疇に入るのかもしれず、批判を加えて妥協を引き出すようなことが、実際に行われているわけで、そういった動作や行為を今後とも行なっていかなければならないだろうし、そうする以外に平和な状態を維持できないわけだが、その中には軍事的な脅しも交渉術の範疇に含まれてくるだろうし、現実には小競り合い程度の小規模な軍事衝突も起こっているだろうし、そこでも全面的な軍事衝突に発展しないような交渉や取引の一環として、小規模な軍事衝突が起こっているわけだろうが、小規模であるにしても、軍事衝突が起こって何らかの被害や損害が出ていることに関しては、批判の対象となるだろうし、それが必要最小限に抑えられたとしても、できれば軍事衝突は起こさない方がいいわけで、やはりそういうところで、軍事衝突を起こさないための交渉や取引が必要となってくるわけだが、軍事面ではそうであっても、経済面でも似たようなことが言えるのかもしれず、なるべく損失が出ないような交渉や取引に持っていかなければならないのだろうが、一方的に利益が出る側と損失が出る側とに分かれてしまうと、一方的に損失が出た側の活動が成り立たなくなってしまうから、確かにある面では損失が出るにしても、別の面では利益が確保されないとならないわけで、それも全体でプラスマイナスゼロになってしまうと、利益が出ないことになってしまうから、どこかでプラスが出るような工夫が求められるわけで、それが交渉や取引の場所的な差異を利用するか、時間的な差異を利用するかのどちらであるにしても、そこで差異を生じさせて利益を求めるわけだろうが、それを批判する側からすれば、そこに差異が生じること自体がまやかしやごまかしに思われてしまうわけで、どう考えてもプラスマイナスゼロになっていないと、つじつまが合わないように思われてしまうわけだが、それに関しては物や情報やサービスなどの場所的な移動が、こちらからあちらへ一方向へと進む場合もあるだろうし、あるいは時間的な成り行きの中でも過去から未来へと一方向に進むわけで、それらの移動の中で消費や消耗が起こるから、その分だけ差異が生じるわけで、その中で全てが循環しているわけではなく、消費される分だけ戻ってこないから、その差異をある方向から見れば利益に見えるし、反対側から見れば損失に見えるわけで、それを全体的な視点で見ることができないから、部分的な要素を取り上げてそこだけに注目してしまうと、何かつじつまが合わないように思われてしまうわけだが、それは政治的あるいは行政的な成り行きにも言えることであり、そこで何かごまかしや不正が行われると、それが発覚すれば当然のことのように、それ自体が批判の対象となるわけだが、だからと言ってそういう成り行きをもたらす制度的な仕組みをいくら改めてみても、実際にごまかしや不正を通してしか結果が出せない成り行きが生じてしまうわけで、その過程で絶えずやっていることが、やってしまった後には織り込み済みになっていくから、その織り込み済みとして捉えられてしまう部分が消費された部分であり、もう消費されてそこにはない実態を、あるように見せかけようとするから、結果的にごまかしや不正となってしまうわけだが、やはりあるように見せかけないとつじつまが合わなくなってしまうのだろうし、そういうところで人の感覚としてはつじつまが合っていないと不可解に感じられてしまうわけだが、そこで実際につじつまが合っていない事実を、ごまかしや不正を行う側もそれを批判する側も認めることができないから、事態がこじれてくるわけだ。そうやって結果的に実現不可能な机上の空論と呼ばれてしまう計画の類いには、後から絶えずつじつまを合わせるようなごまかしや不正が付きまとってしまうわけだが、それを批判する側もつじつまが合っていないことを批判するわけだから、どうしてもつじつまが合わせようとして失敗してしまうのではないか。


3月14日「コミュニケーション理論」

 言語は相手と意思疎通を図るために必要だが、お互いに理解可能な言語を共有していても、それだけで意思疎通が図れるわけでもないし、実際に会話したり文通して、お互いに言葉を交わさないと意思疎通は図れないだろうが、その必要を感じられなければ、無理に他人と対話したり議論することもないわけで、普通に暮らしていても、その機会があったりなかったりするのかもしれないが、その機会を奪っているのが、社会的な役割分担なのかもしれず、社会の中で自らが担っている役割に応じてやることが決まっていて、その決められたことをやっていればそれで済んでしまうようなら、それ以外のことで他人と意思疎通を図る必要はないわけで、また社会的な役割分担の中で、他人と意思疎通を図る役割というのがあるとしても、その中でこう聞かれたらこう答えるとか、あらかじめ決められた問答に誘導するようなマニュアルがあって、それ以外の問答へと脱線することが許されないような職種だと、そういう意味での意思疎通というのは、相手との会話をコントロールして、いかにしてあらかじめ決められた問いや回答へと導くかに主眼が置かれているわけで、少なくともそういうのは対等な立場での自由な対話ではないだろうし、それだけ世の中がシステム化されている面があるわけだが、そういうところでは目的の定かでない会話が成り立たないような状況となっていて、またそうではないような例えば休憩時間の無駄話や世間話などでも、無駄話や世間話に特化した内容となりがちで、少なくともそこで場違いな話はしないだろうし、暗黙のうちにその場の状況に合わせて、会話の内容を差し障りのないものへと誘導していく傾向があるわけで、それが同調圧力となってその場の空気や雰囲気を支配することになるわけだろうが、そうなるとそこで話していい内容というのがセクト化してきて、特定の内容の話しかそこではできないような状況となってきて、その内容でさえ、その分野に精通した者同士でないと通じなくなってくるだろうし、例えば何らかの政治的な集まりの中でしか、政治的な内容は話せなくなってくるわけで、また職業的な仲間内では、その職業に関係する話しかしなくなるだろうし、そうやって話の全てが内輪の内容となってくると、部外者がそこへと加われなくなってくるわけだが、それの最たる兆候がフリーメイスンとかの秘密結社などに特有な傾向だろうし、そこへ加わるには何らかの入団の儀式を受けて、その団体への忠誠を誓わないと、仲間としては認められず、その団体に特有の秘密を共有できないようなこととなってくるわけだが、普通はそこまでいかないとしても、何にしても専門分野化してしまうと、その分野の親睦団体に入らないと、そうした分野に関して他人と意思疎通すらできないような閉鎖的な状況となってきてしまうわけで、たぶんそういう状況へと一辺倒には進まない成り行きが、公共の場で生じればいいわけだが、そうした場がアプリオリに存在するわけでもなく、一般の人たちが閉鎖的な親睦団体の内輪話とは違う自由なコミュニケーションを他人と交わすように心がける必要があるのかもしれないが、そんなことをやる機会があるかとなると、やはりそんなコミュニケーションは場違いに思われるだろうし、それよりは自分たちの主催する親睦団体へと他人を勧誘して、そうした勢力の拡大を図るために、盛んに誘惑する目的で会話を仕掛けてくるだろうし、そういう目的を持った会話というのがシステム化すると、何やら個人が何らかの会員となって、ユーザーIDとパスワードを発行されて、そこで物や情報やサービスを買う羽目になって、そうした商業行為に対して問い合わせをしようとすると、あらかじめ決められた問答へと誘導するようなマニュアルに従わなければならなくなるわけで、そういった他人との意思疎通までがシステム化されてしまうと、あらかじめ決められたことを決められたようにしかできない状況となってしまい、そうやってユーザーサイドでは創意工夫の余地がなくなってしまうわけだが、その方がかえって便利に思われるだろうし、理に適っているようにも思われるわけで、それがサービスを提供する側にとっては功利的なやり方となるわけだろうが、たぶん便利になるということは、それ相応の代償を払うことになるのだろうし、普通はそれが金銭的な支払いになるわけだが、逆に金銭的な支払いではどうにもならないようなことは敬遠されるだろうし、そのどうにもならないようなことというのが、例えば民主的な政治体制の実現とかになってくるのかもしれないし、逆にそういう体制を破壊するのが、金権腐敗や閉鎖的な内輪の論理を優先する官僚体制などになってくるのかもしれないが、それらを対立的に捉えると、確かにわかりやすいわけだが、実際にはそれらが相互依存的に成り立っている状況なのだろうし、要するに表向きは自由な議論や討論などを容認する民主的な政治体制のように見せかけておいて、その裏ではシステマチックで決まり切った問答しか受け付けないような官僚体質となっていて、特にそういう官僚体質を批判するような人たちの意見や主張というのも、システマチックで決まり切った内容の批判しか受け付けないような状況にもなっていて、そこでもSNS的なセクト化が幅を利かせていて、あいも変わらぬ決まり切った内容の批判を宣伝するような集団が内輪の団結や論理を優先しながら、自分たちの勢力を拡大させようとする目的で、そういった紋切り型的な批判を四六時中書き込んでいるような状況となってしまうわけで、そういったシステム化の傾向というのが、そういうシステムに乗っかって活動する人たちをロボット化しているわけだが、それは確かにそういったシステム内で活動している人たちにとっては便利でありがたい傾向かもしれないが、そういうシステムに違和感を覚える人たちにとっては、何か異様に感じられる傾向なのかもしれないし、そういうマニュアル通りの意思疎通しかできないような人たちが、本当に人間なのか疑わしく思われるほどではないにしても、たぶん現状でもそれに違和感を覚えるような人は少数派なのかもしれない。


3月13日「労働の活用」

 人の活動の中で経済的な活動が人が生きていくためには欠かせないとしても、人が興味を持つのは娯楽的な活動の方かもしれず、それでも普通は両方の活動がそれなりに結びついているはずだが、娯楽的な活動は経済的な活動が成り立つ限りで可能な活動であり、まずは娯楽を除いて純粋に衣食住に関連した活動が、人が生きていくのに最低限必要な活動とみなされるだろうが、ただ生きているだけではつまらないだろうし、また衣食住の中にも楽しみとしての娯楽的な要素が含まれている場合もあるだろうが、そんな場合も含めて誰もが求めているのが、余暇としての楽しみの時間となるのだろうが、余暇ではない時間の中でやっていることが、その人の活動のメインであることも確かだろうし、そのメインの活動の方でも楽しければいいのだろうが、楽しいだけではなく生きがいを感じられたらなおのこといいのかもしれないし、それを単調でつまらない労働とみなしてしまったら、心が荒んでしまうだろうが、それでも労働の見返りとして得るものがあればいいわけで、それが一般的には金銭的な収入となるわけだが、他にも社会的な地位や名誉や名声とか、得るものがあればあるほど満足感が大きくなるかもしれないが、そうなると得られるものを期待して活動することになるだろうし、活動の内容よりもそこから得られるものを優先するようになってしまうと、活動自体が魅力のないものとなってきてしまうのだろうが、逆に得られるものが何もなくても活動しているような場合があるかとなると、最低でも満足感を得るために活動することになるだろうから、他から活動を強制されているわけでもない限りは、それが主体的な活動である限りは、そこから満足感を得られるような活動となるだろうし、それさえもなければ活動をやめようとするかもしれないし、それ以外でも他から脅迫されたり強制されて活動しているような場合でも、その見返りとして金銭的な報酬が約束されている場合が多いだろうが、労働の内容と報酬が釣り合わないように思われるとやる気を失うだろうし、また生活のためには報酬が釣り合わないような低収入の労働でもやらざるを得ないような境遇の人もいるかもしれないが、そういう成り行きも含めて、世の中にはやりがいがないような魅力の乏しい労働があることは確かであり、そういう労働をやらざるを得ないような人たちには不満が渦巻いていて、そういう人たちが多いほど、世の中が荒廃しているようにも思われるかもしれないし、さらにそういう労働にさえもありつけない人が大勢出てくると、社会全体が衰亡の危機を迎えていると言えるかもしれないが、確かにそこだけに焦点を当てるとそんなふうにも思われてくるかもしれないが、実態としてはそうではないのかもしれず、結局社会の主な部分というのは労働にありついている人や、そこから得られる収入によって養われている人たちだけから構成されていて、そこからあぶれた余分な人たちは見捨てられるだけで、それで構わないようなことになっているのかもしれないし、世界各地で難民や移民となっている人たちはそういう境遇だろうし、それらの人たちは助けられなければ死ぬ運命にあり、実際に多くの人たちが死んでいるわけだが、その一方で普通に生活保護制度が完備している国でも、そういう人たちを助けるための予算が組まれている限りで、助ける余裕があるのだろうが、それでも中には生活保護を受けられずに餓死してしまう人もいるわけで、そういう意味では社会にとって必要とされない人が現実にいて、社会が支えきれない人はそこから脱落していってしまうような成り行きがあるだろうし、そうなると満足感を得られるかどうかとかいうのは贅沢な悩みでしかなく、それよりはとにかく仕事にありついて生活が成り立っているだけでもありがたいこととなってしまうわけで、それだけ人それぞれで立場も事情も境遇も異なり、それ相応の落差も格差も厳然とあるわけだが、だからと言ってそういう状況をそのまま放置しても構わないというわけでもなく、行政面での制度的な改善を行って、出来るだけ多くの人たちを助けられるような成り行きに持っていくことが、政治的にも行政的にもやるべきことではあるのだろうが、それに対して一般の人たちがやろうとするのは、自身の活動から満足感を得られるようにしたいだろうし、普通はそれが幸福を追求することになるのだろうが、中には社会のために尽くすことに満足感を得ようとする人もいるだろうし、そういう人も含めて、どのような活動から満足感を得られるかは、その人の立場や境遇から異なってくるのが、普通に考えられることだろうが、多くの人たちが社会のために尽くすことに満足感を得られるようになれば、それが社会を良くしていくことにつながるかもしれないが、人為的にそうなるような成り行きを作れるかというと、それよりは経済的な利益を求めることが優先されがちな現状があるのかもしれないが、どちらか一方しか優先できないかというと、そうでもないだろうし、人々の生活にゆとりがあるほど、そのゆとりを利用して様々なことができる可能性が出てくるのかもしれず、その中に社会貢献のようなことができる可能性があるわけだが、ただ漠然と社会貢献といっても、何をどうやればいいのかわからないだろうし、それに関して普通は他人の仕事を増やすようなことをやれば、それだけ他人が仕事をする機会が増えて、そこから収入を得られていいように思われるかもしれないが、その仕事の内容というのが雑用のような枝葉末節な内容だと魅力がなくて、仕事にありついた人も満足感を得られないだろうし、また接客などの人の顔色を伺うような気を使う仕事であっても、何か召使いのような卑屈な思いをして嫌な気分になってしまうだろうし、それによって人が嫌がる仕事を増やしても社会が良くならないわけで、結局は立場や待遇の面で格差や落差を設けないような対等の立場で行えるような仕事を作っていくしかないわけだが、そういうところで日頃から立場や待遇の面で、指揮命令系統を伴った上下関係の中で仕事をしている人には、それが当たり前のように思われてしまうから、なかなかうまいアイデアを思いつけないのかもしれないし、現状の産業構造の中でもそんな虫のいい仕事などほとんどあり得ないのかもしれないが、そうであっても実際に国民主権などの民主的な政治制度には、そういうことを実現しようとする意図が込められているわけで、何よりも一般の人たちがそういう意図を自覚することが肝要なのかもしれない。


3月12日「合理的な判断」

 人がやっていることに関して、その合理性を問うとなると、そこで何らかの法則が成り立っているなら、法則通りのことをやっていれば、合理的なことをやっていることになるのだろうが、法則ではなく慣習などがあって、慣習通りのことをやっていることが合理的なのかといえば、そうともいえないのかもしれないし、それでも慣習に則ったやり方が何らかの法則に合致していて、それが合理的なやり方とみなされるなら、それも合理的なことをやっていることになるのだろうが、例えばその慣習が何らかの迷信に基づいているとすれば、慣習に則った行為が合理的とはいえないだろうし、そういう意味でそれが合理的に思われる行為でも、それが何に基づいて行われているかを探ってみないことには、意外と合理的に思われる行為が、そうでもなかったことに気づく場合もあるのかもしれないが、たとえそういった意味では合理的でなくても、慣習に基づいた行為を行なっていた方が、周囲の人々との間で軋轢が起こらないと判断されるなら、行為自体には合理性はないものの、そうすることによって社会的な人間関係や信頼関係が維持されるなら、今度はそういう水準で合理性が生じてくるわけで、そういったことから合理性にも、そこに関係してくる様々な要因や物事との間で、行為自体の合理性とは異なる合理性が生じてくる場合もあるだろうし、そこでやっていること自体の合理性とは異なるレベルや次元での合理性にも配慮するなら、どういう水準や次元での合理性にこだわればいいかに関しては、一概には妥当な判断ができない場合も生じてくるのかもしれず、また合理的な行為をめぐって人の社会的な立場や境遇に応じて違いが表面化すると、異なる合理的な行為をした人や集団の間で、その行為の合理性や妥当性をめぐって軋轢や争いが起こるだろうし、そうなると軋轢や争いが起こらないような行為を行わせることが、合理的な解決策だと判断されるなら、そうした行為を行わせるような法律を作って、その法律に全ての人や集団を従わせることが、合理的なやり方だと判断されたりもするわけで、そうやって個々の人や集団にとっての合理性とは違った合理性が生じてくるわけで、そういう意味でも合理性を求める水準や次元に、その程度や傾向に応じた違いがあることが明らかになるだろうし、そうなれば何が合理的な行為なのかは、一概には言えないことにもなってきて、そういうところで他人や他の集団の行為に直面した時や自らの行為に関して、その妥当性を判断する時には、そこでどうやれば合理的なやり方になるのか、またそれがその場の状況の中で妥当なやり方なのかについて、どう判断すればいいのかよくわからない事態になるかもしれないし、中には自分にとって良かれと思ってやった行為が、他人や他の集団にとっては迷惑極まりない行為になってしまうこともあるのかもしれず、そういうところで他人や他の集団との間で軋轢や対立がもたらされるとしても、それは仕方のないことというよりも、むしろ自分にとってはそれでいいことになってしまう場合もあるのかもしれないし、そんなことをやった結果として、自らが窮地に陥ってしまったとしても、それが自分にとって良かったと言えるようなら、そういう意味では不条理な事態となるのかもしれないし、たとえそれが合理的でも功利的でもない判断だったとしても、実際にそれによって肩の荷が降りるような開放感を覚えるなら、やって良かったと実感してしまうだろうし、そうなってくると、行為や物事の合理性や功利性などにこだわる必要もない事態に直面することもある、としか言えないのかもしれないが、それもその場の状況に照らし合わせて、妥当に感じられるようなことをやってみた結果として、そう思われるのだろうし、そうなるとその場の妥当性というのが、合理性とも功利性とも異なる場合もあるのかもしれないが、異なるといっても全面的に異なるのではなく、それぞれに重なる面もずれる面もある程度の違いでしかないのかもしれないし、ある程度は合理的であったり功利的ではあるものの、全面的にはそうならない事情が生じれば、多少は合理性や功利性を犠牲にしてでも、妥当なやり方を求めるような成り行きになるのだろうし、そういう面でいかに当初のこだわりを捨てて妥協できるかが、窮地を脱したり難局を乗り切るには必要となってくるのかもしれないし、そういうところでうまく対処や対応ができれば、結果的に生き残れるわけだろうが、それもそんな過程を通過して、その時の状況を後から振り返れば、そんなことが言えるということでしかなく、案外その場でその時とは異なった判断をしても、特に問題はなかったのかもしれないし、それどころか異なった判断をした方が、合理的であったり功利的であったりしたのかもしれないし、もっとうまくいったのかもしれないが、そんなことは結果的にはどうでもいいことになってしまっているわけで、実際にやったことが最善の対処でも対応でもなくても、むしろ最悪の対処や対応であった可能性も否定できないだろうが、やってしまったことが取り返しがつかないなら、もはや後戻りはできないだろうし、どう考えてみても後はそこから前進するしかないわけだが、そこで誰もが正しい判断をしようと心がけるのだろうが、後から振り返れば、判断を間違えたり誤ったりしてきたことを実感することもあるだろうし、実際に間違えたり誤った判断や行為をしてきたことを後悔もしているわけで、だから反省して今後は正しい判断や行為を行おうとするわけだが、その場ではそう思っても、やはりそれを後から振り返れば、思いとは違うことをやってきたことを思い出して後悔するわけで、要するにそうやって自らが自らを裏切り続けているとも言えるわけだが、そこにどのような合理性があるかとなると、すぐに間違いや誤りを犯してしまうような過去の愚かな自分から抜け出て、新しい自分になるには、絶えずそんな過去の自分を裏切り続けなければならないのかもしれず、しかもそれでも新たな間違いや誤りを犯してしまう現状があるのだとすると、もはや間違いや誤りを絶えず犯しながら生き続けるしかないということであり、そうやって現状の世の中を体験しながら乗り切っていくことが、自らにとっての合理的な判断に基づいたやり方であり、とりあえずそれが自らができることであり、実際にやっていることなのではないか。


3月11日「科学的な正しさ」

 科学的な正しさと論理的な正しさの関係は、科学的に正しければ論理的にも正しいように思われるわけだが、科学といっても自然科学や人文科学や社会科学などがあって、それぞれの科学の中で通用する正しさが他の科学の中で通用する正しさと関連性があるかとなると、関連する分野では正しさを共有できるだろうし、ある分野で正しいことが他の分野でも正しいことが証明される場合もあるだろうが、普通はその分野で正しいことは、その分野内で通用することだと考えていいだろうし、それについて極端なことを言えば、科学の一分野である物理学で通用する量子力学の正しさが、半導体工学や電子工学などの技術的な裏付けとなっていることは確かだが、それが人文科学や社会科学などの分野で通用する正しさかというと、関連性がないのだから通用させようがないだろうし、また生物学などから派生した遺伝子工学が、遺伝子組み換え技術などの面で医学や農学などに応用が可能だろうし、他にも人の遺伝子情報などを読み取る面では、考古学や民族学や文化人類学などにも応用が可能かもしれないが、優生学などに悪用されると、人種差別や民族差別などの弊害を引き起こすだろうし、そういう場合は情報を読み取る技術の正しさが、情報を基にした選別に使われると、悪いとみなされた遺伝情報を持った個体を淘汰するようなことになってしまうわけで、それが家畜やペットならまかり通るとしても、人でやってしまうと、倫理的にも法律的にも認めがたい行為となってしまうだろうし、そういうわけでその分野では正しい技術が、別の分野では間違った使われ方をされてしまう例もあるわけで、しかも悪用したとみなされる側は、正しい使い方だと思って使うわけで、そういう意味で科学的な正しさというのは、使い方によっては使う側が正しいとみなして使うとしても、使ったことによって他の人たちや自然環境や社会環境が多大な被害や損害を被る場合もあるだろうし、その典型的な事例として挙げられるのが、原子の核分裂反応を応用した技術になるわけだが、それが一方では経済的な利益をもたらすとなると、金儲けの手段としては正しい使い方とみなされてしまうだろうし、そういうところでどの方面の正しさを優先させるかを巡っても、社会の中で立場の違いが鮮明化してくる場合もあるだろうし、そういう面では正しさというよりは、経済的な損害や環境的な被害を出さないやり方が優先されてしかるべきかもしれないが、そういうやり方を編み出して実行できるかも、そこに様々な事情が絡んでくると、うまくいかない場合も出てくるだろうし、必ずしもそこで正しいことや妥当なことができるかとなると、その場の事情や状況に左右されてしまうのかもしれないし、結果的には正しいことや間違ったことが行われるというよりは、その場の事情や状況などに作用や影響を受けたことが行われる成り行きになるだろうし、それが良いことか悪いことかの判断や評価がやった後から下されるとしても、その時にはすでに取り返しがつかなくなっている場合も多いだろうし、そういう意味で科学的な正しさというのは、理屈として有用とみなされれば利用されるだろうが、その利用の仕方によって、何らかの被害や損害が発生すると、その程度や深刻度によっては、世の中にそれなりの禍根を残すことになるだろうし、それでもやめられない事情が生じると、被害や損害を与えながらも続けられるような成り行きとなるわけで、その大半が経済的な利益をもたらすから続けられるのだろうし、現状が経済至上主義の時代であるから、そういうところは仕方のない面もあるのだろうが、中にはそれが被害や損害とはみなされない場合もあるのかもしれず、それに関して例えば経済至上主義によって、何もかもが金儲け一辺倒になって人の心が荒廃しているように思われるなら、それは気のせいかもしれないし、また事業に成功して巨万の富を得た少数の人がいる一方で、世間から見放されて貧困にあえいでいる人たちが大勢いるとしても、そういった両極端の立場や境遇を比較すること自体が意味のないことかもしれないし、そういう面で常に世の中の全体的な傾向から、間違っていると思われる傾向を批判したり糾弾して、それに対して正しいあり方を示そうとすると、そこで障害となってくるのが経済的な功利主義に対する捉え方となるわけで、その中で一方では金儲けが正しいことであるのが自明の理になるしかないのに、そういう前提を崩さずに、公正さという世の中の正しいあり方を定義しようとするから、途端に富の再配分とかの実現不可能に思われる論理を持ち出してくるしかなく、そういうところで無理に行為やあり方の正しさにしがみつこうとするから、思考が世の中の実情からかけ離れてしまうのだろうが、そこで正しさにこだわらずに、現状と折り合いをつけようとするなら、経済的な利益の追求が成り立っている分野では、特に手を出さずに放っておいても構わないだろうし、放っておいても人や物や情報がそこへと集まって、そこで競争原理が働いて、金儲けの競争が行われるわけだから、そういう競争にブレーキをかけようとしても、要らぬ反発を招くだけだろうし、しかもそういう分野で成功した人や企業などは、その成功の規模に応じて社会的な権力も強まるだろうから、政府が放っておくはずがないわけで、そういった分野に対しては、それに対する税収目当てで政府が規制に乗り出すのは目に見えているわけで、そういう成り行きに任せるしかないのかもしれないが、それに対して一般の人たちができることはといえば、できるだけそうした金儲けに利用されないようにすることだろうし、だからと言って金儲けの邪魔をするというよりは、なるべく宣伝や煽動に乗せられないようにすることかもしれないし、それに関しては直接的には、誰もが金儲けに失敗することに成功できればいいのだが、それが微妙な言い回しであり、誰もが金儲けに成功したい中で、あえてわざと失敗するというのではなく、放っておいても大半の人たちは失敗するのだろうから、そこにどっぷり浸かって金の亡者とならないようにするのは簡単なことかもしれないのだが、それでも失敗する人たちは金の亡者となって苦労して辛酸を舐めながら痛い目に遭いつつ失敗するわけで、そういう過程をそれと自覚することなく省略できれば、金儲けに失敗することに成功できるわけで、そういうわけがわからないことを冗談としてではなく提案してしまうところが、富の再配分とかを本気で考えている人たちを批判できないところでもあるのかもしれないが、とにかく物事の正しさや正しいあり方にこだわらなければ、自ずから失敗することに成功できるわけで、要するに各人がそれぞれに異なるやり方を模索するしかないのかもしれないが、実際に失敗することに成功した事例というのが、その場の成り行きの偶然とともに、その人が現に普通に暮らしている現状を物語っているのではないか。実際にそんな人は世の中に大勢いるのかもしれない。


3月10日「人種と民族と国民性」

 論理的に解明できない現象は、偶然に起こる現象となるだろうが、それが起こった後から論理的に説明できれば、それで解明したことになるのかもしれないが、これから起こる現象を論理的に予測するとなると、少なくともそれは偶然に起こるわけではないだろうし、そういう意味でこれから偶然に起こる現象を、論理的に予測することはできないわけだが、偶然に起こったと思われる現象を論理的に説明できれば、それは偶然に起こったのではなく、何やら原因と結果の因果関係から必然的に起こったように説明されるだろうが、説明できなければ偶然に起こったとしか言えない現象となってしまうだろうし、そうであるなら論理的に説明できない現象は、説明しなくても構わないことになってしまうかもしれないが、普通に考えてもそれは説明しようがないことかもしれないし、ただ偶然に起こったとしか言えない現象について、それ以上は説明しようがないわけだが、それでは納得がいかなければ、工夫を凝らしてこじつけのような論理を当てはめてでも無理やり説明しようとするのかもしれないが、そうなるとそこに嘘やごまかしが混じってしまうかもしれないし、あるいは意図していなくてもそうなってしまっているとすれば、それは単に誤った説明になってしまうのかもしれないが、その誤りに誰も気づかなければ、それがまかり通ってしまう場合もあるだろうし、さらにそれに気づいた人がいくら誤りを指摘しても、無視されてしまえば、そのままとなってしまう場合もあるのかもしれないが、そうした誤りがまかり通っている例を挙げるとすれば、それは人種や民族などに関する偏見かもしれないのだが、様々な偶然の巡り合わせや紆余曲折を経た末に、現状で人種や民族と呼ばれるまとまりが存在しているのだが、それも現在進行形で徐々に変わりつつあることも確かで、絶えず他の人種や民族との間で混ざり合いが起こっている一方で、中にはそうした混ざり合いを嫌って、単一の人種や民族としての同一性を強調したい人たちがいることも確かだが、そういう人たちにとってあってはならないことというのが、単なる偶然の巡り合わせでそうなったということだろうし、それらの人たちにとっては、それは偶然の巡り合わせなどではなく、必然的な成り行きによって人種なり民族なりが形成されたと思いたいわけで、そして自分たちが属している人種や民族の他の人種や民族に対する優秀さや優位さを誇りたいわけだろうし、そしてそういう優秀さや優位さも、単なる偶然の巡り合わせによってもたらされたはずがないとも思いたいだろうし、それは誰もが納得できる確かな根拠に基づいた優秀さや優位でないと困るだろうし、そうなると自然な成り行きとして論理的な必然性が求められるわけだが、では人種や民族に関する論理的な必然性とは何かとなると、それは歴史的な経緯が証明することとなるだろうし、特定の人種や民族に関する栄光の歴史がしかるべき権威者によって物語られればいいわけだろうが、やはりそこでも偶然の巡り合わせでそうなったことになってはまずいわけだろうし、自分たちが属する人種や民族の優秀さや優位さを証明するような歴史的な経緯が物語られなければならないだろうが、逆に自分たちが属する人種や民族の愚劣さが歴史的な経緯によって証明されてはまずいだろうし、そういうところで巧妙に歴史的な経緯の取捨選択がなされて、自分たちの属する人種や民族にとって都合の良い歴史的な経緯が寄せ集められて、特定の人種や民族の栄光の歴史が構成されればいいわけだが、やはりそういう成り行きになってくると、かなり無理な論理や説明になってくるだろうし、場合によっては他の人種や民族には受け入れがたい内容になってくるのかもしれないが、そういった無理な論理や説明を押し通すには制度的な助けが必要となってくるだろうし、そういった経緯からそこに加わってくるのが国家であり、その国家を管理統治していることになっている政府の存在なのだが、そういった要望に沿うには単一人種で単一民族の国家となればいいわけで、それを正当化するのが国民国家の論理となるわけだが、それ以前にすでに他に多人種多民族の国家があるわけで、しかもそれがアメリカのように世界的な覇権を握るような強大な国家であるからには、単一人種で単一民族の国家では、その人種や民族の優秀さや優位さを誇るには限界があることを承知しておかないとならないわけで、そういった限界のある優秀さや優位さとなると、やはりそれには嘘やごまかしがつきものとなるしかないのかもしれないし、そういうことに関して、現状の日本を例にとるなら、ただ漠然と日本人と言えば、何やら曖昧さのオブラートに包んだ感じとなって、何か単一の人種で民族であるような幻想を抱けるかもしれないが、日本国籍の人となると、少数派も含めれば単一の人種でも民族でもないし、たちまち嘘やごまかしがばれてしまって、栄光の歴史とやらも論理的整合性のないまやかしの歴史となってしまうだろうし、現状でも国力の面ではアメリカや中国などに遅れをとっていて、人種的あるいは民族的な優秀さや優位さも、ほどほどの程度でしかないことが明らかとなってしまうわけだが、それでもその手の優秀さや優位さを誇りたい人たちにとってみれば、自分たちより劣っているとみなしたい人種や民族や国家と比較することで、自分たちの優秀さや優位さを誇りたいわけで、その格好の比較相手が隣国の韓国となるのかもしれないが、その手の日本人にとってはそうかもしれないが、そうした競い合いや見栄の張り合いとは無関係な人たちから見れば、日本人も韓国人も人種的にも民族的にも似通っていて、大して変わらないように見えてしまうだろうし、どちらが優秀だろうが優位だろうが知ったことではないのが、偽らざる感覚となってしまうのかもしれないし、世界的に見ても、中国やインドなどと比べれば、両国民は少数派でしかなく、何らかの分野で優秀さや優位さが知られているとしても、それも部分的な面でしかないだろうが、逆にそうであるからこそ、限られた範囲内での競い合いや見栄の張りやいがみ合いなどをエスカレートさせても、世界的には無関心であるから、そうした内輪の論理を維持していられるのではないか。


3月9日「生きるための知恵」

 人は何のために生きているのかと問うなら、特に定まった答えはないのかもしれず、日常の生活の中ではそんなことは問われないから、別に積極的に答えを見つけようとも思わないだろうし、とりあえずその場の成り行きで生きているとしかいえなくもないが、そうであるなら、そういうことに関して改めて考えてみる機会もないだろうし、それで構わなければそのままとなってしまいそうで、そういうところから考えてみれば、特に現状で何不自由なく生活が送れていれば、政治的に何を要求する気も起こらないのかもしれないが、自らが特に困っていないのなら、他に世の中で何か困っている人がいたら、政治的に助けられないかと考えてみるのも、それが自然な成り行きになればいいのだろうが、それでは話があまりにも漠然としすぎているだろうし、もっと何か具体的な事例にならないと、政治的に助けられるか否かの判断がつかないだろうが、メディア上で話題となっている社会問題や政治問題や経済問題などに関して、何か個人が特定の意見や主張などを持つとしても、それを公の問題として多くの人たちが共有して、ある一定の意見や主張としてまとまらない限りは、政治の場では取り上げられないのかもしれないが、例えば政府が推し進めていることに対して反対の立場を取る人が多くいれば、そうした人たちの意見や主張が政治の場で取り上げられて、実際に議会で反対する意見や主張が多数を占めれば、政府に政策の変更や撤回を迫るような成り行きに持っていけるのかもしれないが、現状ではそううまく事が運ばない場合の方が多いだろうし、反対の立場の他にも賛成の立場の人たちも多くいるから、政府が政策を推し進められるような成り行きが生じてくるわけで、特にそれが経済的な利権と結びついていると、経済振興の方が優先される成り行きになりやすく、それによって困っている人たちの意見や主張がかき消されてしまい、そういう面で何を優先させるかについての判断が、功利的な判断から公平でなくなってしまうのかもしれないが、そういう場合の判断の公平さというのも、議会や政府内での制度的な手順を踏んでいれば、それで問題ないことになってしまうのだろうし、そういう意味で全ては制度的な決定に従って政策が遂行されるわけで、制度的にはそれ以上のことはできないし、政治的な活動はそういうものだとみなすしかないわけだが、制度面でそういうことが行われることと、個人の意見や主張が噛み合わないのは、ある意味で当然のことかもしれないが、中には積極的に政治の場に参加すべく、既存の政党に入ったり、そこから選挙に立候補して議員になろうとする人も出てくるだろうし、そういう人たちの中から実際に議員になる人が出てくるわけだろうが、そこまで至らない人が大半だろうし、また誰もがそこまで至らなくても構わないような制度でしかないわけだが、そういうところでも個人の意見や主張が政治の場に反映されるか否かが、はっきりしない面があるわけだが、少なくとも政治家になろうとしてなれなかった人の意見や主張が、政治の場に反映されることはないような気もするわけだが、そうであってもその人の意見や主張と、世論調査などから導き出される世論や民意との間にそれほど違いがなければ、別にその人が政治家になってもならなくても、大して世の中には影響がないのかもしれないし、逆にその人の意見や主張が世論や民意からあまりにもかけ離れているようなら、その人を民衆の代表である議員にするのはおかしいだろうし、そういう意味で現状と折り合いがつくような成り行きとしては、世論や民意を尊重するような人が政治家になればいいわけだが、実際にそうなっているかというと、現状に批判的な人はそうは思わないだろうし、また世の中の多数派を構成するような人でも、それなりに現状の政治には批判的な意見や主張を持っているものの、それが実際の選挙結果に現れるかとなると、そうとも言えない面があるなら、それも制度的な成り行きとみなすしかなく、そういう面でも個人の意見や主張と、世論調査や選挙などの結果には、それなりに重ならない部分があるだろうし、それが不満を覚える理由となるだろうが、あまりそういう部分でもっともらしい理由や原因を考えない方がいいのかもしれず、それなりに世論や民意などとは違う意見や主張を持っているのが、個人の普通の感覚なのかもしれないし、だからと言ってその人の意見や主張がおかしいわけでもないだろうし、その人なりの事情が、世の中の多数派的な世論や民意とは隔たった意見や主張をもたらすのだろうが、別にそうだからといって多数派的な世論や主張に合わせる必要もないだろうし、まずは自らが主体的に考えた上で、納得できる意見や主張を持っておいた方が、世の中の空気や風潮などからもたらされる同調圧力などにもそれなりに屈しないでいられるのかもしれないし、特に定まった意見や主張を持っていなくても、そういった同調圧力的な世論や民意などに違和感を覚えるようなら、それをうまく自らの意見や主張などにまとめられなくても、何かを感じ取っていることは確かだろうし、そういうところから世の中の空気や風潮などのおかしなところに気づく可能性もあるだろうから、そういう何か心に引っかかってくる部分を保持しておくことが肝要なのかもしれず、またそういうところからその人に特有のこだわりが生じてくるとしても、結果的に長い物には巻かれろ的な成り行きに逆らって信念を貫き通すようなことになるのは、それはそれでご立派な態度なのだろうが、そうやって自らの態度を正当化する機会がその人に訪れるかとなると、その大半は正当化する機会もなく放って置かれるだけなのかもしれず、実際には放って置かれると寂しくなるから、かまってほしくてちょっかいを出しているうちに、それと自覚しないで長い物に巻かれてしまうのかもしれず、そこでも実際に長い物に巻かれた人たちの中から、メディア上で何やら政府の側に与して、もっともらしいことを述べる論客の類いが頭角を現してくるのだろうから、そういう面でもあまり自己のこだわりを強調したり正当化しない方が無難なのかもしれない。


3月8日「イデオロギー」

 その場の状況に関わらずに決まりきった考えを貫くというのがイデオロギーに近い傾向を示しているだろうが、そうであってもどうとでも受け取れるようなはっきりしない内容を含んでいるのもイデオロギーの特徴でもあるわけだが、いったん何らかのイデオロギーに帰依してしまうと、思考と活動がイデオロギーに束縛されることになるが、そうなると宗教とイデオロギーの区別もつきにくくなってくるだろうし、その辺をうまく定義すれば、厳密に宗教とイデオロギーを区別できるはずだが、宗教の中にも特有のイデオロギーが含まれているだろうし、そもそも何がイデオロギーになってしまうのかといえば、たぶん思考と慣習が合体するとイデオロギーに近くなるのかもしれないが、ある意味では法律もイデオロギーが反映されたものの一種かもしれないし、基本的には様々なイデオロギーが寄木細工のように組み合わされて、全体がある一つのイデオロギーに一致しないようになっているのが、法律と言えるのかもしれず、そうでないと様々な方面で様々な判断や基準が含まれる法律として体をなさなくなってしまうのかもしれないが、そういう意味で法律には矛盾が含まれていて、イデオロギーには矛盾がないように思われるかもしれないが、何か決まり切った思考をイデオロギーと呼ぶのは、少し単純すぎるかもしれないし、またイデオロギーが悪いというよりは、イデオロギーに頼りきってしまうと思考の柔軟性がなくなって、うまく状況の変化に対応できなくなってしまうのかもしれず、またその内容が単純であるほど、許容範囲が狭まって、他の思考やイデオロギーを受け入れ難くなってしまうだろうし、さらに実践を伴わないイデオロギーであるほど、机上の空論になる可能性も高くなるだろうが、実践を伴えばいいというわけでもなく、イデオロギーに囚われた活動が他の活動との間で軋轢を起こすこともよくあるだろうし、やはりイデオロギーが争いをもたらす原因となっている面があるだろうが、特定のイデオロギーに凝り固まるというよりは、活動の都合に合わせて様々なイデオロギーを使い分けることができるかとなると、良い意味でイデオロギーという言葉を使うよりは、悪い意味で批判の対象として使いたがるだろうし、他人の思想や思考をイデオロギーだと決めつけて批判するパターンがよくあるわけだが、批判している人が批判対象となるイデオロギーについて詳しいかというと、悪い思考と決めつけるぐらいだから、その大半は単純化されたお粗末な知識しか持ち合わせていないだろうし、悪い印象を伴った主義として糾弾するわけだから、肯定できるような主義ではないわけだが、そういう単純な決めつけ自体にもイデオロギー的な傾向があり、特定のイデオロギーを悪い主義として否定することによって、その否定している姿勢を正当化するという否定神学的なイデオロギーともなっているわけで、そうであるからイデオロギー自体を簡単に否定してしまうと、そうした否定自体もイデオロギー的な傾向となってしまうから、イデオロギーに感染しないようにするには、イデオロギーを批判するのもあまり好ましいことではないのかもしれないが、では関わらないことが一番いいのかとなると、全くイデオロギーに無縁であると、免疫ができないから、結構それと気づかないで、イデオロギー的な単純化に思考を毒されてしまうこともあるのかもしれず、特に何かを批判する時に、そういった単純化の罠にはまってしまうわけで、批判そのものが悪いわけではないが、批判している自らがあまりにも善とか正義の側に与してしまうと、そこで独善的な傾向となって、批判する対象に少しでも悪い面があれば、何はともあれそれを全否定して、全否定している自らが善であったり正義であったりするような批判の仕方になってしまって、そうなると善と悪との二項対立のような、よくあるイデオロギー的な単純化が生じてしまうわけだが、そうなってしまうのを回避するには、単純で全否定的な批判は避けなければならないのかもしれないが、その全否定的な物事や人物の捉え方というのが、イデオロギー的な単純化を象徴する思考であり、すでにそこに存在する物事や人物の状態が、それを否定しても拒否しても存在していること自体を認めざるを得ないなら、それを否定したり拒否すること自体に限界があることになり、そうなるとイデオロギー的な正しさを実現するには、そうした存在を抹消したり抹殺する以外に方法がなくなってしまい、そうやってイデオロギー的な攻撃衝動がもたらされるわけだが、批判するだけならまだしも、消したり殺したりするとなると、思考から実践へと超えてはならない一線を越えることになるだろうし、それを実践するとなるとテロリズムとなってしまうわけで、そういう意味でイデオロギーの独善的な論理が行き着く先には、邪魔な物事を消し去ったり人物を殺したりするような行為が待ち受けているわけだが、そこまでやらないとイデオロギーの正しさを証明できないのかとなると、証明する必要がなければ、不徹底な態度や優柔不断な対応を余儀なくされてしまうわけで、そういう中途半端なイデオロギーが、より徹底化された冷酷無比なイデオロギーによって糾弾されることになるわけだが、事態や物事が必ずそういう方向にしか進まないかというと、そうでもないだろうし、そういった傾向へと集団的な意識の集中がある一方で、その反対に多方面へと意識が拡散する傾向もあるだろうし、なぜそうなってしまうのかといえば、やはりそれは人や物事の物質的な存在であり、それに関しては確かに唯物論というイデオロギーがあるものの、物理的に全てを消し去れない事情が必ず生じてしまうわけで、それが人や団体の活動の限界も示しているだろうし、いくら観念論的に精神力だけで特定のイデオロギーへの信仰を深めても、物質的な糧がないと活動を存続できないのは当たり前のことなのだが、独善的なイデオロギーの論理にはそれが含まれていない場合が多いだろうし、そういうところで必ずその手のイデオロギーは行き詰ってしまうのだろうが、意識だけはいくらでも妄想を抱けるから、物質的に満ち足りていれば、意識がそういったイデオロギーへと容易に染まってしまう傾向もあるわけだ。


3月7日「許容範囲外」

 いつも物事を悪い方へと考える癖がついてしまっている人は、それと自覚することなく、最悪の事態がやってくることを密かに期待しているのかもしれないが、どういう状態が最悪の状態なのかに関して、いくら想像を膨らませてみても、想像を超える事態に遭遇すれば、そこで自らの考えを改めざるを得ないのかもしれないが、それが想像を超えているというのではなく、想像をはぐらかすような事態に遭遇してみれば、それでどうなるかはその時になってみないことにはわからないだろうし、そもそも想像をはぐらかすような事態というのが、現状では想像がつかないことかもしれないが、要するに物事の良いとか悪いとかの判断がつかないようなことが起こる場合もあるのかもしれないし、現状で想像している最悪の事態というのも、それを想像している人の思った通りの最悪の事態を体験することは、まずあり得ないのかもしれず、しかも別に想像していたわけでもないのに、思いがけず最悪の事態に遭遇してみれば、やはりそれが最悪の事態だと思うだろうが、その時にそう思うだけで、それを前もって想像していたわけではないだろうし、そういう意味で最悪の事態を想像することと最悪の事態を体験することが、別の事態であることは、容易に想像がつくだろうが、それでも現状で危機意識を煽っているような状態は、少なくともそんなことをやっている人にとっては、まだ最悪の事態とはなっていないだろうし、これから世の中が大変なことになると想像している時には、まだ大変なことが起こっていない段階でそう思っているわけだが、その想像している大変なことがいつやってくるかとなると、その時点では近い将来そうなるとしか言えないわけで、だから危機感を煽っているわけだろうが、実際にまだそうなっていない段階で危機感を煽っているわけだから、成り行きとしては是が非でもその煽っている危機を回避したいのだろうし、危機に陥るのを未然に食い止めたいから、危機感を煽って世間に向かって警鐘を鳴らしているつもりになりたいのだろうが、そんなことをやっている時点では、それが危機を未然に防ぐための活動になっているのだろうし、実際にそんなことをやっているのだから、それによって最悪の事態になってしまうのが回避されてしまう可能性があるはずで、実際にそうした活動によって最悪の事態が回避されてしまうと、結局どういう状態が最悪の事態なのかが、わからずじまいとなってしまって、要するにそんなことをやっている人たちは、自らの活動によって自らの想像をはぐらかそうとしていることになるわけで、しかも自分で自分の想像をはぐらかしていることに気づかないというおまけまでついてくるわけだから、まさにそれがその人にとっての因果応報となるわけだろうが、それがその人にとっても世の中にとっても悪いことではないだろうし、実際にその人の活動によって危機が未然に回避されたことになれば、むしろ良いことになってしまうわけだろうが、それが良いことであるにも関わらず、実際に危機がやってこないわけだから、危機感を煽っていた人たちは当てが外れてしまい、世の中に向かって警鐘を鳴らす活動が報われなくなってしまうのかもしれないし、場合によっては狼少年扱いされて、世間からも信用されなくなってしまうのかもしれないが、それもそんな想像ができるというだけで、本当のところはよくわからないのかもしれず、ただ単に事前に危機感を煽る煽らないに関わらず、結果的に危機が訪れなければ、そんなことはどうでもいいことになって、誰が危機感を煽っていたことすらも忘れ去られてしまうのかもしれないし、そうなれば狼少年扱いされる以前に、無視されてしまって、世間の信用も何も関係のないことになってしまう場合さえあるだろうし、そんなふうにして、世の中には何の影響も及ぼさないようなことが行われていれば、取り立ててその良し悪しを判断する必要もないわけだが、やはりそれも人の想像をはぐらかすような成り行きだろうし、何かそういうところで思いがけないことが起こるのは、常に想像をはぐらかすような事態になる時であり、少なくともそれが最悪の事態だとは言えないような成り行きになってしまうわけで、そうなった時に初めて、人はそこで何か新しいことが起こったのを知るわけだろうが、新しいことだと気づかない場合もあるわけで、それが従来から継続されてきた成り行きの延長上で起こっていることだとみなしてしまえば、その事態や出来事の新しさを見逃してしまうわけだが、それに関してよくやる行為としては、従来の価値観を新たな事態や出来事にも当てはめて、その価値観の許容範囲内でそれを認識しようとする行為であり、場合によってはそういう事態や出来事を、世間でよく使われる常套句のような表現を使って語ろうとするわけだが、そう語ることによって、何か新しいことが起こっているのをやり過ごそうとするわけで、意識してそうしているのなら、戦略的に新しい物事を抑圧して、従来からある価値観を守ろうとしていることになるわけだが、それを意識しないでやっていると、そこで無意識の防衛本能が機能しているとも言えるだろうし、わざとそれに気づかないわけではないが、世の中を覆っている支配的な風潮に順応しきっていると、目の前で新しいことが起こっているのに、意識がそれを感知できないような動作が起こって、それによって世の中の過去から連綿と続いてきた成り行きや経緯の時間的な連続性を自覚できて、従来通りの価値観やそれに基づいた認識を保っていられるような成り行きになるのかもしれず、それも精神が常軌を逸しないためには必要な働きなのかもしれないが、そういう人に特有な言語表現として現れるのが、紋切り型的な表現になるのだろうし、そうでなくても言葉でうまく言い表せないような物事を無理に言い表そうとすれば、自然と使い古された月並みな表現を使って、自らの許容限度内に物事を引き寄せて安心しようとするわけで、逆にそんな表現を多用して物事を言い表そうとしている人がいたら、何かそこでその人の手に負えない物事に直面していることになるのかもしれない。


3月6日「憲法の理念」

 公的な法律や制度は社会を一定の状態に保つために必要とされるが、人の活動の全てを法律で決めるわけにはいかないし、必要最低限のやっていいこととやってはいけないことを、法律で決めることになるのだろうが、どこまで法律で決めればいいかについては、判断の基準も歯止めもはっきりとは決められないし、その場の状況に合わせて必要に応じて決めるしかないわけだろうが、特に政府の活動に関して、憲法に基づいて制限を設けるとなると、憲法自体が統治の根本規範だから、そこから公的な法律や制度の何もかもが生じてくるように思われるかもしれないが、そこに法の原理原則が記されているとしても、ただ単に文章で記されていることでしかないわけだから、無視することも破ることもできるわけで、法律を守らせるための機関が政府である以上は、いくら三権分立を成り立たせようとしても、司法の政府からの独立を維持するのは難しいだろうし、最終的には軍部や警察機関を掌握すれば、強権的な支配体制を確立できるわけだが、そこまでやる必要が生じない地域では、国民主権などの民主的な状態が保たれていることになっているわけだが、政府としても三権分立が成り立っているように見せかけておいた方が、国民の信用や信頼が得られると判断すれば、あからさまに憲法を無視したり破るようなことは控えるだろうが、それでも時と場合によっては、政府に批判的な勢力から憲法違反を指摘されるようなことは平気でやるだろうし、また隙あらば政府にとって都合が良いような内容に憲法を改正したいわけだろうが、それも諸外国と比べて著しく民主的な面を後退させるようだと、国際的な評判を落とすかもしれないし、そういう意味では、世界の中で先進的な国の憲法に合わせた内容にしておけば、それなりに体面が保たれるのかもしれないが、あくまでも国としての体裁を取り繕うためのお飾りとして憲法があると捉えておくぐらいが無難なところかもしれないし、建前としては憲法論議などが学者やメディア関係者などの間で行われる成り行きがあるとしても、憲法に実質的な効力があるとは思わなくてもいいだろうし、それでも裁判などで憲法違反の判決が出れば、表向きは従わなければならないだろうが、最終的に最高裁まで行けば政府に有利な判断が下されるようなケースが日本では多いだろうし、そういうところから三権分立が疑われるのは仕方のないことだが、憲法を尊重するふりをしつつも、有名無実化させることは可能だろうし、実際に有名無実化しているからこそ、憲法の理念を実現させようとする人たちが、公の場で憲法を守るように訴えかけるわけだが、もちろんそれは無理な要求であり、良心的な民衆からある程度の支持や支援は得られるが、要求が政府に受け入れられることはなく、だから繰り返し訴えかけが行われるしかないのだろうし、そんなことをやっている人たちにとっては、憲法の内容が切実に思われるわけで、その未だ実現されていない憲法の理念を実現するために使命感に燃えているわけだろうし、それがいわゆる護憲派と呼ばれる人たちの市民運動なのだろうが、一般の人たちがそういう人たちを攻撃してはまずいだろうし、実際にはそういう人たちから批判されている勢力がそういう人たちを攻撃しているわけだろうが、そこだけを強調して、世の中で護憲と改憲を巡って深刻な対立があるように仕立て上げられてしまうと、それはフィクションとしての宣伝や煽動にしかならないだろうし、いくら憲法を恣意的に拡大解釈してみても、それが深刻な対立となっているわけではなく、むしろ誰もが普通に憲法の理念を踏みにじりながら生きている現状もあるわけで、人の人権など無視して当然の行為が日々平然と世の中で行われているはずだが、なぜそうなってしまうのかといえば、それが理念であるからであり、人々が受け入れがたいことを理念として掲げているのが憲法となっていて、それを改憲派が言うように現状に合わせてしまったら理念ではなくなってしまうわけだが、そういう意味で民衆が実現すべき理想として憲法があるわけだから、護憲派の主張が正しいことも確実かもしれないが、そこには受け入れがたい内容も含まれているから、リアリズムにまみれた人たちから攻撃の対象となってしまうわけだろうが、それが理念であるからには、そうした攻撃に同調する必要はないだろうし、普通に護憲派の主張をありがたがって拝聴しておけばいいことではあるものの、その一方で日々憲法の理念を踏みにじるようなひどいことをやらざるを得ない現実の中で誰もが暮らしていることも事実かもしれないし、そこから反省して憲法の理念に沿うようなことをやろうと心がけてもいいだろうし、実際に政府が憲法の理念を踏みにじっているように思われたら、批判しても構わないのだろうが、それが理念であるからには、実際に実現不可能な面もあるだけに、その場の状況に応じて政府が理念を実現できない事情を考慮する必要も出てくるだろうし、どこまで理念に忠実であるべきかは、判断の基準がはっきりしない面もあるだろうから、それについては護憲派の政府批判をそのまま受け取るのではなく、できるだけ憲法の理念と折り合いをつけるようなやり方を模索するしかなく、そういう意味でも活動の全てを憲法の理念に合わせるのは不可能だとしても、合わせるように努力しているようには装わないと、憲法をあからさまに無視しているように見えてしまうだろうし、場合によっては憲法の形骸化や有名無実化に積極的に加担しているようにも思われてしまうだろうから、そういう部分で憲法を尊重しているように装える政治勢力を支持することも選択肢としてはあるわけだが、別に改憲が悪いわけではないだろうし、改憲するにしても憲法の理念を損なわないような改正が望ましいわけだが、改憲勢力がそういう面を理解していないように見えるなら、それが支持できない理由となってしまうのも仕方のないことかもしれない。


3月5日「政治への幻想」

 政治への幻想は、政治によって世の中の様々な問題が解決できるという思い込みから生まれるのかもしれないが、実際に解決できれば、それは幻想ではなくなるわけだが、解決ということがどういうことなのかについて、何か幻想があるとすれば、それは交渉などにおいて思惑通りの結果がもたらされるということかもしれないし、それも実際に思惑通りの結果がもたらされれば、それも幻想ではなくなるのだが、たぶんそういう意味での解決ということに関しては、実際に各国の政府などが関与する政治面の交渉結果などを見れば、幻想に終わることが多いだろうし、実質的にも解決ではなく、継続的に問題に関与していくぐらいが政治にできることかもしれず、関与していくうちに幻想が幻滅に変わるとしても、世の中の様々な社会問題に対する政治的な関与は今後も続いていくだろうし、それが終わりなき関与にしかならないことが政治的な手法の限界かもしれないが、それでも民衆は政治的な解決に期待するだろうし、また政治の側でも解決できるようなことを宣伝するから、それを信じて民衆の方でも幻想を抱くしかないだろうが、政治の場で実際に行われていることとなると、政治によって政府の官僚機構を制御できないばかりか、逆に政治家の側が官僚機構によって制御されるロボットとなりやすいだろうし、そうなると民衆よりも官僚機構の側に配慮せざるを得なくなってしまうわけだが、それは政府という構造上そうなるしかないのかもしれないが、政府にとってはそれでも構わないのかもしれないし、それで国家の統治がうまくいくなら、その方がいいのかもしれないが、そもそもうまくいく国家統治というのが、どういうことかとなると、民衆の側からしてみたら、ただ単に民衆が政府に逆らわなければ、統治がうまくいっているとは思えないだろうし、その大半は逆らわないのではなく、逆らえない事情があるのかもしれないし、それに関して普通は、民衆の側というよりは政府の側に問題があるから、民衆が政府を支持できないことになるわけだが、民衆の意向を無視するような強権的な政府だと、治安機関を用いて民衆を弾圧するから、簡単には逆らえなくなるだろうし、そうであるなら、簡単に民衆が逆らえるような政府である方が、民衆にとっては好都合な政府であるのかもしれず、そういうことを考慮するなら、民衆にとってうまく統治がされている状況というのは、民衆の意向が政府の行政に反映されることが望ましいだろうし、そうなると制度的にも民衆が国家統治に参加しなければならないし、実際にも選挙で選ばれた民衆の代表者が統治を行っていることになっているはずだが、たぶんそれを阻むような成り行きが、政府の官僚機構の側で生じているのかもしれないが、それ以前に民衆の意向というのがはっきりしているとは言えない面もあるわけで、例えば世論調査結果がそうだと断じるわけにはいかない理由としては、世論調査の設問項目が民衆の側で設定したものではなく、世論調査を行う側が恣意的に設定したものでしかなければ、そこには常に誘導尋問的な世論の捏造が伴うわけだが、では他にどうやって民衆の意向を知ることができるのかとなると、選挙結果を民衆の意向とみなすしかなく、民主的な体制の下で選挙が行われていれば、民衆の意向によって選ばれた代表者が、議会の議員や政府の首相や大臣や大統領などになるわけだから、それによって民衆の意向が政治に反映されて、それが議会や政府の行政にも反映されて、民衆の意向を反映した国家統治も成り立っていることになるわけで、それなら制度的には誰も文句はないはずなのだろうが、結局は民衆の意向というのも、政府が管理する制度によって決まってしまうわけで、制度を通してしか民衆の意向が反映されることはなく、政府にとってはそれで構わないだろうし、民衆の側でもそういった状況を受け入れているはずだが、それの何が問題かとなると、何を問題視しても、難癖をつけているとしかみなされないだろうが、政治に関して無関心になる理由も、選挙という制度に参加したり、制度を利用して、自らの意思を政治や行政に反映させることにリアリティを感じられないということかもしれず、何よりもそれが自らの意志や意思というよりは、すでに提示されているどのような意見や主張に同調するかとか、どの候補者を支持するかという受け身の姿勢を強いられてしまうことであり、そういう意味では自らが選挙に当選する可能性のある有力な候補者にならない限りは、自らの意向を議会や行政に反映させることはできないだろうし、またそうやってたとえ議員になったとしても、議会で主導権を握れる有力な政党に所属していない限りは、自らの意向を反映させることはできないだろうし、さらに有力な政党の有力な幹部や党首にでもならないと、やはり自らの意向を反映させることはできないだろうし、仮にそうなってさらに首相や大統領などの政府の代表者となったとしても、政府の官僚機構を自らの意のままに制御することができるかとなると、結局そういう段階にまで至ってしまうと、自らの意向を政党の意向や政府の意向に合致させないと、そういった組織の代表者にはなれないわけで、何かそういう面でそうなった人が、当初に抱いていた意向が本当にその立場になってからの意向と一致しているかというと、そうは思われないだろうし、まずはそういった機関や組織の意向を受け入れないと、その代表者にはなれないだろうし、また民衆の方でも、世論調査などの結果から導き出された世論や民意に同調するような候補者に投票しがちになるだろうし、それが本当にその人の意向なのかは、そんな候補者に投票する人にもあまり自覚がないだろうし、そんなふうにして民衆の意向というのがよくわからない面があり、しかも民衆の意向通りに政治が行われて、それが行政に反映されていることになっているとしても、特定の個人にとってはそれが何でもないことでしかない場合もあるだろうし、そういう意味で制度とはそういうものだと捉えるしかないわけだが、それでも政治や行政に何かしら肯定的な幻想を抱けるなら、一般的には善意や良識が反映されるような政治や行政が行われてほしいだろうし、そうしたことを体現しているような候補者に投票したいわけだろうが、もちろん現状ではそんな甘っちょろいことにはならないだろうし、大抵は経済的な面での功利主義的な宣伝や煽動に惑わされて、そうした方面からもたらされる入れ知恵を真に受けてしまうような人たちが世の中の主流を構成していて、また中には行政の意向を反映した国家主義的な思想に洗脳されてしまっている人も少なからずいるだろうし、結局そういう人たちにお似合いな候補者が当選してしまうわけだが、それでも構わないから現状の政治も行政もそれなりに成り立っているわけで、政治への幻想はその程度のことだと認識するしかないのではないか。


3月4日「決めつけへの違和感」

 人は社会の中で周囲の人や団体や物事との間で様々な関係を生じさせながら活動しているはずだが、そのような関係もその場の成り行きで解消したり新たに生じさせたりしながら、そうした関係がその人を生かすように機能すれば、その人にとってはその関係がなくてはならないものとなるだろうし、その反対にその人を危険に陥れるような関係なら、実際にそんな関係によって、その人が窮地に陥るようなこともあるだろうが、その人の意志でそうした関係が結ばれることもあるが、意志とは関係なく自然に関係が生じてしまったり、他人の意志や他の団体からの勧誘などから関係が生じたりすることもあるだろうが、その人を取り巻いている周囲の環境や状況がそうした関係から構成されていて、それがその人の意識にも少なからず作用や影響を及ぼしているのだろうが、社会の中で同じような関係が様々な場所で生じていれば、そうした関係から同じような環境や状況が構成されて、それらから作用や影響を受けた同じような意識を伴った人が大勢形成されているかもしれないし、それに関して確かに職場環境や教育環境や家庭環境などが似通っていれば、同じような成り立ちや生い立ちによって、同じような人格やメンタリティを持った同じような人たちが形成されてくるかもしれないが、それはあくまでも同じような人たちであって、同じ人たちではなく、少なくとも遺伝子レベルでは別人だろうし、また趣味や嗜好や容姿が違えば、同じ人には見えないはずだが、全てが同じでなくても、関係する方面で重なる部分があれば、そういうところから共感や意気投合できる可能性があり、実際に友人関係はそういう面から生じてくるわけで、そういう意味で人と人との関係は、必ずしも全面的に意見や主張が一致していなくても維持できる場合があるだろうし、またある面では同じように見える人たちの集団であっても、別の面では違っていても構わないわけで、だから民衆を収入や資産額などの何らかの基準によって階層別に分類して、特定の階層の人たちの特徴や特性を決めつけるようなことを行なって、同じ階層の人たちを同類とみなすのは、ある面では正しいように思われるとしても、他にも人には様々な面があるから、それだけが全てではないことは踏まえておかないと、人それぞれに違う特有の傾向があることを見落としてしまうだろうし、確かに特定の階層の人々の特徴をこうだと決めつけると、何かそれでもっともらしいことを述べているように装えるかもしれないが、そういったことを真に受けてしまうと、人のある一面しか見ていないことになってしまうわけで、そういう民衆を階層別に分類するようなやり方では、特定の個人については何も言えなくなってしまうだろうし、個人としては何の価値もないように思われてしまうかもしれないが、たぶんそれに対して個人という存在を強調することは、そういった分類分けには抗う意味があるだろうし、何かそこには他人と同じには見られたくないという自尊心が表れているのだろうが、それでも他人と何もかも違うわけにはいかないし、自分では違うと思っていても、分類分けする人にとっては、意図して同じような特徴や特性を探しているわけだから、それが見つからないはずがないだろうし、要するに人に同じような特徴や特性を当てはめて分類分けがしたい人と、自分が他人とは違う存在でありたい人とでは、人という存在について見ている部分が違うわけだろうし、どちらが正しいということではなく、単に人に対する見方や考え方が異なるわけだろうが、そこで人に関して何かを強調したいということが、強調したがっている人の意図や思惑がそこに作用していることになるだろうし、何かその人の意見や主張を正当化するには、強調しなければならないことがあり、そこを強調すれば、その人の意見や主張がもっともらしく感じられるのだろうし、逆に言えば、強調しないともっともらしく感じられない可能性があり、そうであるなら、そういう人の意見や主張は、何か特定の面を強調しないと成り立たないようなところがあるのかもしれず、それがその人の都合であり、そういった部分に着目するなら、その人の意見や主張の限界もそういうところにあるのかもしれないが、何かを語るにはそういった御都合主義的な強調を伴わないと、何も語りようがなくなってしまうのかもしれないが、少なくともそういった語りを受け取る側としては、そういう面があることを踏まえておく必要があるだろうし、他人の意見や主張がもっともらしく思われたら、そのもっともらしく思われる部分で何らかの強調が行われているのを察知することが肝要であり、そこでその人が強調している部分を強調しないとどうなるかを想像してみることができれば、そういったところを強調してくる人の都合がわかってくるだろうし、それを強調したい理由などもわかってくるかもしれないし、そこからその人にとってのそこを強調しなければならない切実な事情というのも見えてくるかもしれないが、それが自分にとっても共感できるようなことならば、そうした意見や主張に賛同したり、それを支持したくなるだろうが、そうは思わなければ、それがその人と自分との違いとなってくるだろうし、それが個人としての違いなのか、あるいは階層的な分類分けの中での違いなのかは、意見や主張の中身にもよるだろうし、個人としてそうした意見や主張には違和感を覚えるならば、少なくとも民衆の階層的な分類分けではうまく説明できない面が、個人にあることをうかがわせるだろうし、また階層的に分類分けされた中で違和感を覚えるならば、自らが属しているように思われる階層の特徴や特性が、その人が決めつけてくる特徴や特性とは一致しないように思われるのかもしれないが、そうした違和感でさえも、今度は自らが違和感として強調したいことになるわけで、それが自らの都合を反映していて、そうした違和感を覚える部分が、自らの主張や意見の限界を示しているのかもしれない。


3月3日「まがい物感」

 新しい物事は古い物事と比較すれば新しく感じられる面があるかもしれないが、それ以外にも新しい物事というのは、これまでにはなかった物事であるから、出現した当初はなかなか世間に受け入れてもらえずに、大抵は疑いの目で見られる場合が多いだろうが、疑わしい物事というのは、何かまがい物感が感じられるわけで、安心感を伴って世間的に受け入れられている古い物事と比べても、信用されていないだろうし、そういった物事が世間に受け入れられるには、何らかのきっかけがないと受け入れられないだろうし、そういったきっかけの中ですぐに思いつくのが流行現象だが、それが何かの商品なら、浅はかで愚かな一般大衆が広告宣伝などに騙されて、実際に使ってみたら案外好印象を抱かれて、たちまちのうちに世の中で流行り出すような現象があるのだろうが、そうなると当初はまがい物のように見られていた物事が、気がつけば世間的にもすっかり受け入れられていて、むしろそれなしでは暮らしが成り立たないようになってしまえば、そうなった時点では当初のまがい物感が払拭されているのだろうが、例えばその代表格としてはコンビニなどの店舗があるだろうし、確かにそういう経過を同時代的に身をもって体験すれば、そういった経緯もそれなりに納得できるだろうが、そういう成り行きではなく、例えば同じような物事の中で本物とまがい物が混在している場合があれば、ではそこで本物とまがい物の区別がつくかとなると、見分けるコツがわかっていれば、区別がつくかもしれないが、それが本物らしく見せかけたまがい物となると、材質や製造技術に違いがなければ、区別がつきにくいだろうし、それ以外にも見分ける基準となる本物がない場合には、何を根拠にしてまがい物と決めつけているのかわからない場合もありそうで、それに関してはよくある成り行きとして、ただ漠然と特定の人物や作品をけなす時に言う常套句として、まがい物呼ばわりすることもあるわけで、特に一般大衆に人気がある物事や人物に関して、何か軽薄な面があったり、また嘘やごまかしにまみれた対象には、それなりにまがい物感が付きまとってくるわけだが、そういう意味ではいかにも浅はかで愚かそうに見える人たちが愛好している物事や、そういう人たちに人気のある人物などが、それに該当してくるわけだろうし、そこには愚かで浅はかな人たちが詐欺やペテンに引っかかっているという状況が想像されてしまうわけだが、ならば本当に一般大衆が愚かで浅はかな人たちなのかというと、中にはそうではない人たちもいるだろうし、一概には決めつけられない面もあるだろうが、例えばそういったまがい物感がひしひしと伝わってくるような人物が、大統領や首相などの政府の代表者となっている場合には、やはり選挙でそういう人物が選ばれたという事実によって、その国の国民には愚かで浅はかな人が多いと思われてしまうだろうし、そういう人物をまがい物と決めつけている人たちにとっては、嘆かわしいことのように思われるわけだが、本当にそうなのかというと、そう思っている人たちにとってはそうなのだろうが、実際にそういう人物や政治勢力を支持している人たちはそうは思わないだろうし、またそういうことに関して無関心な人たちにとっては、どうでもいいことかもしれないが、たぶんまがい物が大衆から支持されるという状況が、まがい物とみなされる人物と、それを支持している一般大衆と呼ばれる人たちとの間で親近性を示しているのかもしれず、そうだとすれば、一般大衆と呼ばれる人たちがまがい物である可能性まで出てくるわけで、まがい物がまがい物を支持するのは当然のこととなるのかもしれないが、果たして世の中でまがい物でない人がいるのかというと、ではそういう人たちをまがい物呼ばわりしている人たちが本物なのかというと、どうもそうとも言えないのかもしれず、他人をまがい物呼ばわりしている人たちまでもがまがい物である可能性があるのかもしれないし、そこで何を根拠にまがい物であると断じるかと言えば、区別がつかないということだろうし、他人をまがい物呼ばわりしている人と、まがい物呼ばわりされている人との間で、違いを見出せなければ、両者ともにまがい物である可能性があるわけで、それをどうやれば区別がつくのかとなると、まがい物を支持するか否かということではなく、何が本物であるかを示せるか否かということになるのかもしれず、そうなると果たして世の中にまがい物と区別がつく本物の人物がいるかとなるわけだが、では本物とまがい物を見分けるコツは何かとなると、それがその人物に軽薄な面があるかないかとか、嘘やごまかしにまみれているか否かであったりすればいいのかもしれないが、人には誰でも軽薄な面があるかもしれないし、また嘘やごまかしをやらざるを得ないような状況になることもあるだろうし、そういった面があっても隠していれば、それがばれない限りは見分けがつかないだろうし、ではばれないように振る舞うことができれば本物となってしまうと、詐欺師やペテン師の類いが信頼できる本物の人物となってしまうだろうし、逆に馬鹿正直に自らの軽薄な面も嘘もごまかしもさっさとばらしてしまうことが、その人がまがい物である証拠となるかというと、状況によってはそうとも言えない場合も出てくるだろうし、そうであるならその場の状況次第で、その人物がまがい物に見えたり見えなかったりするのかもしれないし、そういう意味で他人を安易な決めつけによってまがい物呼ばわりする人こそが、愚かで浅はかなまがい物である可能性があるだろうし、そうであるなら他人からまがい物呼ばわりされないようにするには、何よりも他人を安易な決めつけによってまがい物呼ばわりしないことが肝要かもしれないが、それでも浅はかで愚かな一般大衆は、そういった決めつけをして他人を攻撃するような行為に惹かれるわけだ。


3月2日「協調関係」

 現状の中で無駄で無意味に思われるような活動の要素を省くと、やっていることに関して何かもっともらしい無矛盾な理屈が成り立つように思われるかもしれないが、その理屈にとっては無駄で無意味に思われる要素であっても、実際にそうした要素が存在している限りは、それが現状に何らかの作用や影響を及ぼしていて、そこにも別の理屈が働いている可能性もあって、そういった要素に関わっている人にとっては、関わる必要があるから関わっているのだろうし、そういうことも含めて、とりあえず人が関わって成り立っている物事には、そうした物事を社会の中で成り立たせる上で、人を納得させる上でも何らかの理屈が必要となってくるのかもしれず、特に活動から生じる物事の存在意義をはっきりさせる上では、誰もが理解できるようなもっともらしい理屈が必要となってくるのかもしれないが、理屈の他にも、そこに至るまでに紆余曲折の経緯などがあれば、そんな経緯に関わってきた人にとっては、そうした経過をたどってきたこと自体に、何らかの必然性が感じられるだろうし、それが後から振り返ればどうということはない経緯でしかないとしても、実際に直接関わってきた人にとっては、そうなったことに関して納得できる理由を見出したいわけで、その理由が切実に感じられるほど、その物事に関わって行われた活動自体を無駄で無意味な行為だとは思えないだろうし、それに伴って何かしら努力してきた実感があれば、その努力によって何らかの成果を上げたと思いたいだろうし、少なくともそこまでの経過の中で何かをやってきた当事者として、自身の努力を肯定せざるを得ないし、それなりに大変な思いをしてそんなことをやってきたという自負があれば、いくら他人がそれに関して否定的な評価を下そうとも、少なくとも無駄で無意味なことをやってきたとは思われないだろうし、何かしら得るものがあったと思いたいのが人情なのかもしれないが、そこにやってきたことを正当化できる理屈が伴ってくれば、そんなことをやってきた自分を信じられるし、それが確信に変われば、自分のやってきたことを誇りたい気分にもなるのかもしれず、そんな心境になれるなら、自信を深められるだろうが、その一方で他人から指摘されるまでもなく、自らがやっていることややってきたことについて、疑問や疑念が絶えずついて回るようなら、それは自信がないことの証拠となって、自信がないながらもやらざるを得ないような成り行きの中でやっているとしたら、やっていることの評価についてはそれだけ慎重になるだろうし、また単純な理屈では正当化できないようなことをやっているとしたら、他との兼ね合いの中で、なるべく自分だけでなく他人にも認められるようなことをやろうとするのかもしれないが、そうなるとやっていることに関して、社会的な妥当性が求められるだろうし、独りよがりなことをやっても、他から認められなければ、やっていることに価値がないと思われてくるのかもしれないし、そんなふうにして自分さえ良ければそれでいいとは思えなければ、他と協調できることをやるような成り行きになってくるのかもしれず、そのためには協調しようとする相手と話し合いや交渉の場が持たれて、そこで共同でやることについての取り決めが交わされたり、計画の打ち合わせなどが行われる成り行きとなってくるのかもしれないが、そうなると自分だけでなく、まずは相手に信用してもらわないとならなくなるだろうし、信用を得るにはどうすればいいかとなるわけだが、そういう場合の理屈となると、世間的に通用する理屈になるわけだが、例えばこうすれば利益が確実に出るとか、またそれをやるにあたっての必要なノウハウの共有であったり、さらに失敗した場合のリスクの確認であったりして、他にもその手の確認事項ならいくらでもあるのかもしれないが、そういった理屈以外の面で他人と共有できることがあるかとなると、特に共有することもなければ、そういった面での協調になるだけだが、普通に仕事関連での協調ならビジネスライクな協調で構わないわけで、協調関係をそういう水準にとどめておけば、仕事上の付き合い程度の関係に収まるし、社会的な面ではそういった関係が推奨されるだろうが、他にどんな協調関係を他人との間で結べるかとなると、やはりそれは無関係の関係となってくるのかもしれず、一見関係がなさそうに感じられるのだろうが、例えば公の政治的な面で共感できる勢力を無関係な人たちが一緒になって支援したり、またたとえやっていることに共感できなくても、特にそれについては批判しなかったり、そうなると簡単に理屈では割り切れないような判断を伴ってくるわけだが、そういうところで単純な理屈で割り切って、それを判断基準にして、基準を満たす一方を支持したり賞賛したりする一方で、判断基準を満たさないもう一方を支持しなかったり批判するのではなく、何かそうしたことに関して、支持も賞賛も不支持も批判もせずに、それらとは異なる方面から考えてみたくなるわけで、具体的に何を考えるのかとなると、それがそうした単純な理屈を伴った判断をもたらす前提条件であったり、また社会の中で特定の勢力への支持や賞賛や不支持や批判をもたらす理屈であったりするわけで、それは単純な理屈で割り切ろうとする人々の都合に関する考察となるのかもしれないが、そんな人たちを浅はかで愚かだと斬って捨ててはもったいないだろうし、それよりはどうすればそんな人たちと協調できるかを考えてみることが肝心なのかもしれず、そこで実際に協調しようとするのではなく、協調できる条件を考えてみることが、それらの人たちが実際に協調して、世の中の主流を形成していることの意味や意義を探ることにつながるのではないか。そしてそんなことを探る活動が、単純な理屈や論理で物事を割り切ろうとする人たちには、無駄で無意味なことになるのかもしれないが、やはりそういうことをやらないと、現状の世界に対して、何の作用も影響も及ぼせないのかもしれない。


3月1日「貧富の格差」

 現代は過去のどの時代よりも経済的に豊かになったように思われるが、過去と比べればそんな感じがするとしても、同時代的には貧しい人など世の中にいくらでもいるだろうし、それよりは過去のどの時代よりも世界的に過剰な人口を抱えているように思われるわけで、それを過剰といっていいのかどうかは疑問かもしれないが、少なくとも統計上は過去のどの時代よりも突出して多くの人が、地球上に生存していることになるのではないか。だから過去と比較すること自体が意味のないことかもしれないのだが、その一方で同時代的な成り行きとして、世界のすべての人たちが同程度に豊かになれるかというと、少なくとも現状で全体の1パーセントしかいない富裕層とすべての人たちが同程度になれるとは思えないだろうし、そういうことではなく、産業が発達する地域では、それに合わせて事業に成功した人たちの中から新たな富裕層が生まれる一方で、その産業に関係する仕事にありついた人は、その仕事をやっている限りで、それなりに生活が成り立つことになるだろうし、仕事にありついた人の生活が成り立つ限りで、その仕事に関係する産業も維持されることになり、生活が成り立つだけの収入をもたらす産業の存在が、その産業に携わる人を生存させることにもなるわけで、それ以外ではないとすれば、全世界の人口は過剰でも何でもなく、人の生活が成り立つだけの収入をもたらしてくれる産業の規模に応じた人口となっていて、生活が成り立たなくなれば、飢餓となって餓死するような成り行きも起こるわけだが、そこまで至らなくても、慢性的な貧困状態の地域があれば、そこでは産業が人口を支えきれなくなっているわけで、そうした現状を単に貧富の格差から説明しようとすると無理が出てくるのかもしれず、要するに貧富の格差は産業の構造とその動作から結果的に生じていることであって、それをそのままにしておいて、そこから新たに富の再配分のやり方などを考案するとなると、やはりそれなりの無理が生じてくるのかもしれず、そうでなくても人為的にできることは限られていて、その中でも政治的にできることもほんのわずかなことでしかないのかもしれないし、そこから言えることは、誰もが富裕層のような豊かな暮らしができるようにならなくてもいいだろうし、それに関して政治や行政などの面でできることといえば、貧困であっても最低限の暮らしができるような配慮が求められていて、それ以上のことは政治や行政の面ではどうにもならないのかもしれないし、そこでまず踏まえておかなければならないことは、現状で成り立っている産業が現状の人口を支えているということであり、また産業の構造や動作がその産業に関わっている人の間で格差を生んでいて、またそうした産業に寄生する形で政府が成り立っていて、産業はそれに携わっている人とともに政府も支えていることになるわけだが、政府の機構が大きくなりすぎると、産業が政府を支えきれなくなってくるわけで、政府の規模も産業からもたらされる税収によって制限を受けるはずだが、税収とともに国債などの公債もあるとしても、税収との兼ね合いから極端に公債の発行を増やすことはできないし、借金の返済を借金で賄うのにも限度があるだろうし、どう考えても政府の活動がそれ単体で成り立つわけがなく、実質的には産業に寄生していて、産業とともに政府も存在しているに過ぎないわけだが、それでも政府が産業に対して主導権を握っているように見えるのは、公的な制度や法律を政府が管理運営しているからだろうし、それに基づいて産業の活動を規制したり促進させたりしていることになっているわけだが、政府が一つの機構であるとしても、産業内の各企業自体がそれぞれに機構であるわけで、またその中には複数の企業を束ねる統括会社もあるし、そうした機構も産業の活動を規制したり促進させたりしているわけで、そうやって公的な面でも民間の面でも、様々な機構が産業に寄生しながら、その存在を成り立たせている現状があるわけで、もちろん物や情報やサービスの生産や流通や販売などに直接関わっている機構が、そこに寄生しているとは言えないし、それでもそれらの現場を管理運営する役割の機構が、現場で直接働いている従業員に指図しながら管理運営しているわけだから、寄生的な面もあるにしても、それを普通は寄生とは言わないわけだが、ほとんどの現場で直接働いている従業員よりは、指図している管理役員の方がより多くの収入を得ているのは事実だろうし、それは産業の構造と動作の中では当然ことであり、そこに権力を行使する上下関係がある限りで、命令したり指示する側により多くの富が配分されるのは当たり前のことなのだが、それもそこに携わる人数の多い少ないの問題となっているのかもしれず、より人数の少ない役割を担う人が高収入を得て、より人数の多い役割を担う人が低収入になるとすれば、その人しかできないような役割があれば、その必要に応じて希少価値を伴ってきて、自然とそうした役割を担う希少な人には高収入がもたらされるようになり、そこではそうした希少価値を伴う役割を獲得するための競争も熾烈になるだろうし、現状ではそれが大勢の従業員に指図する役割の少数の管理役員に高収入をもたらしているわけだが、逆にそういう役割の人から指図されて大勢でやる低収入の仕事がないと、そういう高収入の仕事は成り立たないわけだから、産業が機械化されて低収入の仕事がなくなってくると、大勢の低収入の人に指図する役割の高収入の人の仕事もなくなってくる可能性もあるわけだが、そうした循環的な理屈が現状で成り立つかどうかは、まだよくわかっていない面もあるのかもしれない。


2月28日「政治問題の深刻さ」

 現代の世界では地域的な格差や偏差があるにしても、世の中で政治に関わる部分というのが、人が思っているほど全体的な問題とはなっていないのかもしれず、確かにあらゆる面で人や団体が関係するところでは、常に政治的な思惑が介在してくるだろうが、政治が何らかの社会問題を解決するとかいうことではなく、それは昔からそうなのかもしれないが、政治的な行為自体が形骸化した儀式となっているのも昔からかもしれないが、例えば政府の首脳同士が会談したり、二国間で政府の閣僚や官僚たちが交渉したりして、それをメディアが伝えることで、何らかの外交的な成果が上がったかのように装われるかもしれないが、それによって各国の政府間で何らかの取り決めが交わされるかもしれないが、それが貿易に関する取り決めなら、該当する部門で輸出入の額が変動したりして、国内経済に何らかの影響が出るかもしれないが、そうした影響が民衆の暮らしにどう響いてくるかは、よくわからないところかもしれないし、例えばそれがアメリカによる経済制裁によって深刻な影響が出ているらしいベネズエラやイランなら、確かに該当国では政治的な大問題となっているかもしれないが、日本の場合だと、今のところはアメリカと敵対しているわけでもないから、そこまでの深刻さはないだろうし、もちろんこれから大変なことになると騒ぎ立てる人は、昔から相変わらず騒ぎ立てているはずだが、それも本当に大変なことにならない限りは、よくわからないわけで、現状ではほとんどの人が大変なことになるとは思っていないだろうし、そういうレベルでの話ならあまりリアリティを伴わないわけだが、それも全体から見ればほんの一部のことでしかなく、特にそこだけに焦点を絞ってみても、何がどうなるとも思えないわけで、そんなことには興味がない人が大半だろうし、それが政治的な争点となっているわけでもなく、またそれと同様ではないにしても、沖縄の米軍基地問題とか原発問題とかも、全体から見ればほんの一部のことでしかないだろうし、それを言うなら、全ての問題が全体から見ればほんの一部ことでしかないわけだから、政治問題というのが全体的な問題となることはないのかもしれないが、確かに現状の日本ではそうかもしれないが、例えばベネズエラでは政治問題が全体的な問題となっているだろうし、また内戦状態のシリアならそれが軍事問題となっているわけで、そうやって一部の地域では全体的な問題となっているのだろうが、要するに各国ごとに深刻さがまちまちで、また国内でも温度差があるだろうし、例えば沖縄と東京では在日米軍に関しての問題の深刻さが異なるだろうし、また福島と東京でも原発に関しての深刻さが異なるだろうし、さらに中国国内では新疆ウイグル自治区やチベット自治区と北京や上海では、中国政府に対する見方や考え方が全く異なるだろうし、また世界中で旅行を楽しんでいる中国人とウイグル自治区で収容施設に入れられているウイグル人とでは、やはり中国政府に対する信頼度や信用度が全く異なるだろうし、そういう意味では常に政治的な問題は部分的であり地域的な偏りもあるわけで、現状で政治的に無関心な人が、そんなことに関心を持つ必要はないのかもしれないが、少なからず関心を持っている人であっても、それを全体的な問題だとは捉えない方がいいのかもしれず、しかも無関心でいる人たちの常識や良識が、政治問題が全体的かつ深刻な問題だと捉えている人たちの認識とは異なっていることも考慮する必要もあるだろうし、果たしてそういう問題意識をすべての人たちと共有できるかというと、共有できないと考えるのが普通の感覚なのではないか。要するにベネズエラのように普通でないことが全国規模で起こらないと、すべての人たちが事の重大さを認識できないわけで、しかもそう思った時にはすでに手遅れとなっていて、取り返しがつかない事態となった時に、すべての人が事の深刻さを理解することになり、そうなった時にはシリアのように内戦状態となっているかもしれないし、ソマリアのように無政府状態となっているかもしれないが、少なくとも現状の日本では誰もそうなるとは思わないだろうし、実際にそうなる可能性はほとんどないのだろうが、だからといって安心できるかというと、別に危機感を持っていても無駄なことかもしれないし、安心も不安もどちらも杞憂に終わるしかないだろうが、それだけ余裕があるのだろうし、平和ボケと言われようと構わないような情勢なのかもしれないが、そういう状況の中で、ことさらに危機感を煽り立てたり、事の深刻さや重大さを騒ぎ立てたりすることにリアリティを感じるかとなると、少なくとも煽ったり騒いだりしている人たちほどには真に受けていないだろうし、またここに至って慢性化している政府内や各省庁の不正行為に関しても、それほど目くじらを立てるような状況にはなっていないのかもしれないが、そういう徴候や傾向に関しても何とも思わなければ、何とも思わない人にとっては、関係のないことに思われるのかもしれないし、逆にそうしたことが発覚するような状況に、かえって安心感さえ抱いているのかもしれないが、それでも政府や政権を信頼しているなら、そういう人にとっての信頼とはそういうものだと捉えるしかないだろうが、中にはそういう徴候や傾向を嘆く人も少なからずいるかもしれないが、そこでもそれが全体的な問題とはなっていないことは確かなのかもしれない。


2月27日「公平と公正」

 現状の社会で成り立っている人の営みを継続させるために制度と法律があることは確かだが、その中で不利な立場や境遇を強いられている人たちが、自分たちが有利となるような制度と法律を作ろうとして、勢力争いや権力争いに発展することはあるだろうが、その一方で誰もが公平な立場や境遇になるように制度と法律を調整することが、建前としては求められているのかもしれないが、その公平な立場や境遇というのが、どういう意味で公平なのかがわかりづらいところだろうし、とりあえず不利な立場や境遇にある人を助けるための制度や法律が、それなりに整備されていることは確かであり、さらにより一層そうした制度や法律を充実させてほしいという要望もあるだろうし、建前としてはそういう要望に応えてゆくことが、誰もが公平な立場や境遇に近づくには必要だと思いたいが、それが公正なやり方なのかと言うと、そうとは言えない面もあるのかもしれず、それ以前に公平ではなく公正という概念もわかりづらいところだろうし、そこでそれが誰にとって正しいことなのかが問題となってくるのかもしれず、一見誰にとっても正しいことが世の中にはあると思われるかもしれないが、例えば極端なことを言えば、泥棒にとって正しい行為は盗むことであり、普通はそれが公正なやり方であるとは言えないだろうが、他人に被害や損害を与える行為が公正なやり方だとは言えないものの、では泥棒を罰するのは公正なやり方かとなると、それは罰の程度にもよるだろうが、泥棒にとってそれは災難であり、懲罰は被害や損害に含まれるかもしれないが、世間的には概ね公正なやり方と呼べるだろうし、また害虫を駆除するのも公正なやり方と呼べるかもしれないが、ナチスドイツにとっては、人類の害虫であるユダヤ人を駆除するのは公正なやり方だと主張したいところだろうし、そういう意味で他人を攻撃する口実として、公正という概念が使われる可能性があるわけで、それに関しては庶民感情としても、人殺しを死刑にするのは公正なやり方だと思う人は多いだろうし、またそれは公平という観点からも、人を殺したのだから殺されないのは不公平だと思われるかもしれないが、殺した時の事情を顧慮するなら、そうとも言えなくなってくるわけだし、また人を殺した人を、なぜわざわざ殺さなければならないかと疑問に感じる人も少なくないだろうし、そういう疑問が死刑制度の廃止に結びついたのかもしれないが、そうであるなら禁固刑や懲役刑が犯した罪と釣り合いが取れているかについても、疑問を抱く人まで出てくるだろうし、そういうところまで考えが及んでしまうと、現状の制度が成り立たなくなってしまうから、その辺はうやむやにせざるを得ないところだろうし、そういったところではあまり公正と言葉を全面的に持ち出したくないのかもしれず、必要に応じてもっと範囲を限定して、例えば商取引などの際に、大手の業者が優位な立場を利用して中小の業者に対して不公正な取引を強いるような時には、やはりそれは不公平よりは不公正という言葉を使うだろうし、その一方で税負担などの面では、収入の多い人がより多くの税を納めるのは不公平な感じがするわけだろうが、それが正しいと感じたり正しくないと感じたりする時には、その正しさに関して、それが正しい行為であるという確信があれば、その正しい行為を基準として、公正であるか不公正であるかの判断ができるはずだが、正しい行為であることを口実に攻撃を仕掛けるようなことが起こると、やはりそこから被害や損害が生じてくるだろうし、また不公正なことを行なった対象を罰する行為に関しても、やはり罰せられる対象にとって、それは被害や損害となる可能性があるわけで、罰することも攻撃の一種とみなすなら、公正さを巡っては絶えず争いが起こるのは必至かもしれないし、まずそこで何が正しいかを決める側が主導権を握って、その場を仕切ることになると、要するに権力を行使できる側が物事の公正さを決めることになり、そうしたことを決める側に逆らうのは容易ではないことも確かだろうし、そういった有無を言わさぬ権力の行使に対して、不平不満を言う側が主張するのが、いつも決まってそれは不公平だとなるわけで、そうう意味で公平とか不公平というのは、特に権力を行使できない弱い立場や境遇の人の言い分に含まれてくるのかもしれず、そうであれば社会の中で強者の側に立って一方的に正しいことを決めつけるには、物事の公正さを主張してくるのであり、その一方で弱者の側に立って弱者の言い分が通るようにするには、公平さを主張してくるのかもしれないが、そういうやり方は強者の側でも戦略的に利用してくることもあるだろうし、どちらの言い分も屁理屈をこねるようなことをやれば、何とでも言える面があるのだが、それが屁理屈ではないように思わせるには、実際に不公平感を抱いている人を納得させる必要があるだろうし、物事の公平さを装うには確かにそうだが、公正さを決めつける側にとってはそんな心配はいらないだろうし、特に制度や法律に則っていれば、一方的に不公正なことを行なっている対象を罰することができるわけだし、また権力を握っている側にとっても不公正なことを行なっているとみなした側を攻撃する可能性もあるわけだ。


2月26日「部分的な傾向」

 世の中の全体的な傾向から個人が何らかの影響を被っているとしても、その全体的な傾向というのが、例えば個人が特定の狭い専門分野の中に凝り固まるような傾向であるとすると、それが職業や趣味の専門的な細分化であったり、産業内での分業体制とかもそういった傾向だろうし、ただそういうことは現状に関して当たり前のことを指摘しているだけとなってしまいそうだが、それが当たり前のことだと感じられてしまうことが、もちろん改めてそんなことを考えてみるとそう思われるだけで、そんな状況の中で活動している人にとっては、何とも感じないことであるだろうし、そういう人たちにとっては、世の中の全体的な傾向など、特に考えてみるまでもないことであり、それよりは自らが直接関わっている分野の中でうまくやっていれば、それで事足りてしまうことでしかなく、そこでもそれで事足りていることですらも、特に意識するまでもないことだろうし、要するにその人にとっては、自身が直接関わっている専門分野内で凝り固まっていることですらも、特に意識できなくても事足りてしまうのであり、さらにそれが世の中の全体的な傾向であることも意識しなくても済んでしまうだろうし、そんなよくわからないことですらもわからないような状況の中で活動していることになるのではないか。そしてそういう認識自体が、別に正しい認識であるわけでもなく、ただ世の中の全体的な傾向というのが、個人が特定の狭い専門分野内で凝り固まる傾向だと仮定すれば、そんなことが言える可能性があるということであり、もしかしたらそれとは違う傾向もあるかもしれないし、その違う傾向の中ではまたそれとは違ったことが言えるかもしれないということであり、それについてはそういう傾向を認識できれば、そこから何か他のことが言えるかもしれないが、それはまだここでは可能性の領域にとどまることでしかないだろうし、別にそれについては言及する気もその必要も感じられなければ、特に言及するまでもないことになってしまうのだが、果たして世の中の全体的な傾向というのが、特定の個人にとって重要なことかとなると、そうした傾向に興味がある人にとっては重要なことかもしれないが、それを意識していない人にとっては、特に重要だとは思われないだろうし、そういう意味では誰にとっても重要なことであるわけでもないだろうが、それを意識できないことが、世の中についての把握を不完全なものにしてしまっているのかもしれないし、それを完全に把握できるわけはないとしても、世の中についての認識が不完全で部分的な把握からもたらされているとすれば、やはりその人が特定の専門分野内に凝り固まっていることが原因だと言えるかもしれないが、そんな人ばかりの世の中で、果たして世の中の全体を把握して正しい認識に至れるかとなると、誰もが不完全で部分的な把握にとどまっているとすれば、それは不可能になってしまうのかもしれないが、そういう意味では正しい認識というのはないのかもしれず、誰も世の中の全体を把握できないとすれば、部分的な把握にとどまっていても構わないだろうし、実際にそれで済んでいる状況があれば、何の問題もないわけだが、結局それぞれの人がそれぞれの活動している範囲内で、その活動状況に応じた把握にとどまっていて、その活動がうまくいっていれば、そうした範囲内での状況の把握も、少なくとも活動している範囲内ではしっかりと把握できていることになるのかもしれないし、それで構わないことになるのだろうが、果たしてそれ以上の把握が必要かとなると、必要になれば把握しようとするだろうし、必要でなければその程度の把握にとどまるわけで、要するにそういう部分ではそれ以上を求める必要がないのかもしれず、実際にもそれ以上の把握ができるわけでもないだろうし、そういう面ではその人の活動内容や活動範囲に応じた状況の把握となり、そこから導き出される現状認識も、そうした把握に応じた認識となるのではないか。それが他の分野で活動している人の認識と異なるとしても、そういう異分野の人たちが何らかのきっかけから出会って交流する機会があれば、交流することによって双方の認識をすり合わせて調整するような作用が働けば、そこから認識を新たにできる可能性が出てくるだろうし、そうやって人と人との関係に応じて、状況の把握も認識の内容や範囲も変わってくるから、それは全体的な傾向というよりは、常にその場の状況に応じた部分的な傾向となるのかもしれず、またどちらかと言えば、人がリアリティを感じるのは直接の人間関係から生じる把握や認識になるだろうし、そういう意味では意識している現実というのは、いつも部分的な範囲にとどまり、それが世の中の全体に及ぶことはないのかもしれず、また必ずしも部分の延長上に全体があるとは限らないだろうし、何か部分を延長していって全体に至ったと思うのは、もしかしたら思い違いである可能性があるわけで、それが想像力から導かれた幻想であるとしたら、世の中の全体的な傾向を把握したと思ってしまうこと自体に、あまりリアリティを感じられなくなってしまうわけだが、そうであるなら部分的な範囲内での限られた把握や認識の方が、その場の状況に照らし合わせれば、正しい把握であり、認識であるとも言えるのではないか。


2月25日「統治の意味」

 統治に関して、まずは何を統治するかが問題となるかもしれないが、例えば自己の統治なら、扶養されているのでなければ自分で自分を統治するだけだろうが、その一方で世の中の誰もが統治されている状況となると、では何か世の中を統治している主体として専制君主のような人物がいるとすれば、いたとしても一人で国の全てを統治しきれるものではなく、普通は君主の統治を補佐する官僚機構があって、君主の家来である官僚たちが、君主に成り代わって国を統治するような形態となるはずだが、では君主のような存在がいない場合は、誰が世の中を統治しているのかとなると、誰もが統治されていると同時に、誰もが統治していることになるのかもしれず、そこで普通は制度や法律が作られて、それらに人々が従うことによって、世の中が統治されていることになるのだろうし、当然そうなると、何から何まで全ての物事が制度や法律によって規制されたり規定されているわけでもなく、世の中の必要に応じて制度や法律が定められるわけだろうし、そういう意味では統治といっても、世の中の全てが統治の対象となるわけでもなく、治安の維持などの面で統治されていないと困る物事について、統治が行われるわけだろうし、そうした統治に関しても、統治しようとしてもできない部分もあるだろうし、治安の維持に関しても、四六時中世の中の全てを監視しているわけにはいかないし、法律に違反するような行為に関しても、その全てが取り締まられているわけではなく、違反が発覚した時だけ取り締まられているわけで、だから民衆がなるべく違反しないように、懲戒の意味も兼ねて、違反者には懲罰を課さなければならないし、懲罰のやり方としては罰金を徴収する他に、禁固刑や懲役刑などを課すとなると、そのための刑務所などが必要となってきて、そうした面でコストがかかってくるだろうし、そうした統治するための予算を確保するために、民衆から税を徴収する必要も生じてくると、そうやって税収や公債などで賄える限りで統治が可能となってくるわけだが、またそういうところで果たして統治のためだけに予算が使われているかというと、中には無関係な面にまで予算が使われている実態もあるかもしれないが、そういった統治を行う行政機構を維持運営するために予算が使われるのは当然だとしても、そうしたことも制度や法律で定められている限りで行われることであり、それらが民衆の代表者で構成される議会の承認を得て行われることになるわけで、そうやって民衆自身による民衆の統治が、形の上では成り立っていることになるのだろうが、そこで問題となってくるのが、果たして民衆がそうした統治に積極的に関与して参加するような成り行きになっているかというと、全ての民衆が参加意識を持っていなくても成り立つような制度になっていることも確かであり、そこでもそうした統治の制度が世の中の全ての面で機能しているわけではないことが明らかになってくるわけだが、そういう意味で統治というのは、世の中の完全な統治を目指しているわけでもなく、部分的な統治で済んでいる面もあるわけで、そういう面においては、常に民衆が統治に参加する義務があるわけではなく、権利があることになり、それが権利でしかなければ、権利を行使する気がなくても構わないだろうし、統治には無関心であっても、何ら問題はなく、特にそれに関して処罰されるような法律がなければ、やはりそれで済んでしまうことになるわけだが、そういったどちらでも構わないような面があるから、逆に余裕だとか自由だとかの開放感があると捉えておいた方がいいのかもしれず、少なくとも民衆に強制的に義務を負わせて拘束するようなことになってしまうと、それだけ行政機構の力が民衆よりも強まることを意味するだろうし、現状でも税負担などの面でそういう意味合いがあるのだろうが、そういう面で世の中の統治に関しては、それに関心がある人だけ、政治的な関与に参加したり関わるだけで済んでいるうちは、それでも構わないのかもしれないが、それだけでは済まなくなる事態が果たして今後やってくるかとなると、特にそうした事態を予想したり予言する必要もないのかもしれないし、今後も民衆のほとんどが積極的に政治に関与するような成り行きにはならないのかもしれないが、そんな現状が多くの民衆の間で何でもないことのように思われているとしたら、別にそれは思い違いではないのかもしれないし、実際に政治の場では何でもないようなことしか行われてはいないのかもしれず、たとえそれらに関してメディア上で大げさに騒ぎ立てるような出来事が起こったとしても、そういうのは不正行為の類いでしかないだろうし、それを制度や法律に照らし合わせると不正の疑いが出てくるから、そういう行為は正さなければならなくなるのだが、成り行き上はそうした不正行為を行わざるを得なくなるようなことになってしまうのだろうし、そうしたことが発覚したらメディア上で騒ぎ立てないとならないような成り行きになってしまうわけで、それもそうした制度だと受け止めるしかないだろうし、そういう成り行きですらも何でもないことでしかないように思われるなら、そうしたことには無関心になるしかないわけだが、そういう行政や政治に関する不正行為を正すことが、世の中の統治への政治的な関与となっているわけだろうし、それが大して世間の関心を惹くようなことではないとしても、現状ではそういう関与しかできないわけではないだろうが、実際に行われている政治的な関与としてそうしたことが行われているわけだ。


2月24日「実践の証明」

 その場の状況を踏まえた意見や見解というのは、その時点での状況判断からとりあえず暫定的に表明したのであれば、その後の状況の変化に合わせて柔軟に意見を変えていけるかもしれないが、それが何らかの理論的な考察を伴った主義主張となると、その場の状況のちょっとした変化程度では、そう簡単には変えられないだろうし、人によっては頑なにその主義主張を守ろうとするわけで、そういう態度の人は、思考が信じている主義主張に依拠しすぎていて、その主義主張に含まれる理屈の正しさに囚われてしまって、理屈から離れて物事を思考できなくなっているのかもしれず、そうした理屈に合わせて実際に行われていることを把握しようとするから、状況の変化よりも理屈の方が優先されてしまい、常に自らが信じている理屈から導き出された理論に照らし合わせて、状況を判断することになってしまうわけだが、それに関して、例えばマルクスが『資本論』の中で強調した剰余価値についての考察が、科学的に正しい理論であるかのように信じてしまうと、それがマルクス主義の普遍的な正しさを証明しているように思われて、それによって主義主張を時代状況に応じて柔軟に解釈し直したりする余地がなくなってしまい、何か数学の定理や物理の理論などと同等の正しさがあるかのように思ってしまうかもしれないが、実際の世の中ではその場の条件や情勢や事情が介在してきて、数学や物理のような学問の領域で成り立つ定理や理論が、ある限られた特定の分野では活用できるとしても、たとえ定理や理論としては正しくても、それ以外の現実の世の中でそのまま有効に活用できるとは限らないし、また現代では剰余価値を導き出す上で必要な資本家と労働者の区別も、労働所得と不労所得の境界も曖昧であるだけに、果たして剰余価値とされる利潤や地代や利子などが厳密に不労所得とみなされるかどうかもわからなくなってくるだろうし、またそういった利潤や地代や利子などは社会的な制度や慣習によって、あらかじめ取り分が決められてしまうような場合もあって、そういった面まで考慮に入れると、そこから労働者が資本家から搾取されている、というよくできた話には持って行きづらくなってきて、さらに資本家といっても確かに投資家の類いなら現実に存在しているとしても、企業自体が法人として存在していると、個人で株式投資などをしていても、投資額が少なければ投資先の企業からは相手にされないだろうし、また投資額が多くても企業の官僚機構には太刀打ちできない場合も出てくるし、官僚機構の力が増してくると、人の力では企業を制御できなくなってしまうわけで、そうなると企業や政府のトップが誰であっても構わないような構造が出現して、単にそこで動作して機能している官僚機構に逆らわない限りで、それらの組織のトップでいられるようなことにもなり、いったんそうなってしまうと、いくら剰余価値とかマルクス主義とかが理論的に正しかろうと、なし崩し的に政府も企業も、そうした団体が抱えている官僚機構を維持継続させるための惰性が働いて、人はただそれらの官僚機構に奉仕するために機能するだけとなって、構造的に身動きが取れずにがんじがらめの立場や境遇に甘んじてしまい、自分たちが組み込まれている官僚機構に奉仕する以外には何もできなくなってしまうわけで、そうした状況の中では主義主張や社会理論の類いは、念仏やお経のような形骸化したお題目に過ぎない教義となって、何の実効性もなく実践には結びつかない教条主義に堕してしまうわけだが、そういう方面では何もできなくなるとしても、では他に何をどうすればいいのかわからなくなるのかもしれず、そういう面がそういった主義主張の限界なのかもしれないが、それに関して普通の感覚では、どうすればいいかという問いに対する答えを求めようとするだろうし、それが安易に思いつけるようなことではないのもわかりきっているだろうが、それとは別に実際に行なっていることが、その答えであるかどうかはわからないかもしれないが、ともかく現状でできることをやっているのは確かだろうし、それをやる以外には特にうまくいく方法を思いついているわけでもなければ、少なくとも実際にやっていることが現状でできることであり、それができなくなれば、他にできることを探すだろうし、それが現状でできることの全てではないにしても、その中の一つとして現にやっていることがあるわけで、中にはやっていることが一つではなく、複数のことを同時並行的にやっている人もいるだろうが、それも現状に合わせてやっていることであり、現状でできるのはそういうことだと認識するしかないわけだが、そのやっていることが何かを主張することであったり、現状についての何らかの意見であったりもするわけで、そうであれば現状で主張していることが、その人にとってのやっていることであり、それが現状についての意見であれば、意見を述べることができるということになるわけで、そうした意見の中には、何やら理論的な主義主張を伴った意見もあるわけだが、そうしたことを述べている人にとっての実践が、そうした主義主張を述べることでもあるのだから、たとえそれが教条主義的で空疎な内容であっても、またそれが他からの批判にさらされて、誰かに述べていることの欠陥などを指摘されて、場合によっては論戦を挑まれて論破されようとも、それでも平然とそんな主義主張を述べていられたら、実践としてそれが成り立っていることになり、そういう意味では、そういうことをやっていられる余地が社会にあるということになるだろうし、それをその人が実際にやっていられたら、それができることを証明していることにもなるのではないか。


2月23日「語りたいこと」

 何かを語るということは、そこで何かを強調しなければ、それについて語る意味がないようにも思われるが、その強調したいことについて語らざるを得ないという限界が、何かを語る上で障害となっているとは思えないし、むしろ何かを強調したいから、その強調したいことについて語るという目的意識も生まれてくるし、そもそも何かを強調しなければ、何も語れなくなってしまいそうで、普通はそんなことは意識せずに語っているはずだが、世の中にある様々な物事のうちで、特定の物事について語るということが、他の物事よりはそれを強調していることになるのは確かであり、それについて語るということが、他の物事を含めた全体の物事の中で、それだけを特別扱いすることにもなるのだが、実際にそれについて語っているのだから、そうなるのは当然であり、そうなりたくなければ、それについては語らなければいいわけだが、語るという行為を遂行するには、どのみち何かを語らなければならないわけで、その語っている内容が、普通は語りたかった内容と一致するはずだろうが、それが一致しなければどうなるかというと、語りたくない内容を語ることになったり、特に語ろうとも思わなかったことを語ることになってしまったり、そうなれば、別に強調したいとも思わなかったことを語ることにもなるだろうし、そうなってしまう理由としては、その場の成り行きでそうなってしまうとしか言えないだろうが、その人の語りたい気持ちをはぐらかすようなことが外部から加えられると、そんな成り行きにもなることがあるのかもしれないし、またそれが記述された文章の中で語っている場合には、記述している人が語っているとは言えない場合があるわけで、特にフィクションなどの場合は、何らかの架空の登場人物が語っている場合もあるだろうし、そうなると話が込み入ってくるが、果たして架空の登場人物が作者が語りたいことを語っているのかと言えば、少なくともフィクションの中では架空の登場人物が語りたいことを語っていることになるだろうし、それが必ずしも作者が語りたいことを架空の登場人物に語らせているとは言えないのかもしれず、そういうところで、何かを語るとは、それが記された文章の中で語られている場合には、それを記している人が強調したいことが語られているわけではない場合があるのかもしれないし、中には作者にとってはどうでもいいような会話が、フィクションの中で語られている可能性もあるだろうし、特に作者にとって重要なことばかりが記されているわけではなく、話にメリハリをつけさせようとして、話の筋とは直接関係のない情景描写なども延々と記される場合もあるだろうし、それは語られているのではなく記されているのだから、記しているのは作者だとしても、語っているのは文章上の話者が語っていることになるのかもしれないが、一応は文章の文法としても語っていることにはなるだろうし、それは作者が語りたいというよりは、フィクションの構成として、そういう部分が必要と思われるのかもしれず、それが映像ならその場の光景を見せれば済むことかもしれないが、それを文章にすればその場の光景を物語るしかないだろうし、そういうのはその場の光景を強調したいということもあるが、必要に迫られて語るような成り行きになるのかもしれず、そういうところでは強調したいことだけを語ろうとするわけではなく、必要な説明として語るような成り行きになるわけで、文章を読む人に内容を知って理解してもらいたいから、そういう部分であえて譲歩せざるを得ないようなことが起こるのだろうし、それは直接語る場合にも言えることであり、何かを伝えようとすれば、その内容を相手が理解できるように伝えなければ、伝える意味がなく、そうであるなら、自分が語りたいことを一方的に語っても、相手には伝わらない場合があるだろうし、それよりは相手が興味を持ちそうなことを語れば、相手に伝わりやすいだろうし、それが自分には興味がなく、特に語りたいことではなくても、それが相手が知りたいことや聞きたいことなら、それについて語らざるを得ない場合が出てくるだろうし、そうやって特に語りたいわけでもないのに、必要に促されて語らざる得ない成り行きが起こるわけだろうが、その中には自分としては特に強調する必要もないことであっても、相手にわかってもらうには強調しておいた方がいいと思えば、その部分を相手のためを思って特に強調するかもしれないし、そうやって自分よりも相手にわかってもらう必要から、強調しなければならないことが出てきて、そうなると自分が語りたいことというのが、相手にわからせるためには必要だから語らなければならないとなると、それが本当に自分が語りたかったことかというと、相手にわからせるという目的では語りたかったことになるかもしれないが、それが自分が語りたいことかとなると、よくわからなくなるのかもしれないし、目的が自分が語りたいことを語るということなら、相手のことなどどうでもいい場合も出てくるだろうし、特に文章を記すとなると、それを読んでくれる相手を想定できない場合も出てくるのかもしれず、普通に考えても、誰だかわからないような人に向かって文章を記しているなら、ただ自分が記したいから文章を記しているだけの場合もあるのかもしれないし、さらにそれが日記のように自分に向かって文章を記すとなると、果たして何を語りたいのかという動機さえも不明確な場合もあるだろうし、また特に強調することが何もなければ、では記されている内容は何なのか、と問うなら、ただ何となく思いついたことをそのまま記しているだけで、思いついたことが語りたいわけでも強調したいわけでもない可能性もあるわけだ。


2月22日「予期せぬ事態」

 人の動作として常軌を逸したあり得ないことをやってのけることが、サーカス的な興味をそそられるとしても、果たしてそんなことができるかとなると、具体的に曲芸的な動作を専門に行う人や団体も存在するだろうし、それはそのまま曲芸師や奇術師などの動作となり、他の動作にそんな喩えを使うにしても、例えばはったり的なことを行なって人目を惹く行為となれば、そういうことをやるについては、やる側に何らかの意図や思惑があるような気がしてくるだろうが、その動機が謎のままだと、怪しげな印象を伴うだけだろうし、意図も動機も定かでないような奇怪な行為が目の前で行われたら、場合によっては怖くなってくるかもしれないが、その一方で日々の日常の中で、普通の一般人が当たり前のことを当たり前のようにやっていることについては、特に何も感じないだろうし、またその当たり前のことが、無意識の動作に組み込まれていると、それをやっている人は何かをやっていることすら意識しないから、それが当たり前のことだとも思わないだろうし、仮に何かの拍子にそれを意識したとしても、何でもないことだとしか思わないのかもしれないが、社会の中で生きていれば逆に意識したくない嫌なこともそれなりに体験するだろうし、そういったことも含めて、実際に意識する必要のないことや意識したくないことまで、ことさらに意識してしまうと、それだけ煩わしさが増すだけだろうし、そうなるのが嫌なら、なるべく意識すると煩わしく思われることは意識しないように心がけるかもしれないが、特定の物事を意識しないように心がけると、逆に気になって嫌でもそれを意識してしまう場合もあるだろうし、そういうことに関しては、自意識を自意識が制御するのは難しいと思うしかなく、それでも何か特定の物事に気を取られていると、他のことを意識しないで済むかもしれないから、嫌なことを忘れるには、できるだけ何か他のことに熱中したり、夢中になろうする傾向もあるだろうが、実際にそうやって気が紛れて気分転換になればいいが、意識してそんなことをやらなくても、ただ単にその時の気分次第や状況次第で、何かを意識したりしなかったりしているだけで済んでしまえば、それに越したことはなく、そういった状態を保っていれば、特に気を病むこともないのかもしれないし、それ以上に何にこだわるつもりもなければ、そのまま生きているだけとなってしまいそうだが、たぶんそういった心理的な対処ではどうにもならないことがあるとしても、どうにもならないだけでは済まなくなることもあるだろうし、中にはそこから何らかの結果がもたらされてしまうこともあるわけで、それが偶然の巡り合わせのようにしてもたらされるから、意表を突いていると思われるのかもしれないし、実際にそれを体験する多くの人に驚きをもたらすのかもしれないが、そういうところでは意図的に曲芸のような趣向を凝らさなくても、驚きがもたらされるから、そうした驚きは人為的なものではなく、自然にもたらされた驚きであり、たとえそこに人為的な意図や思惑が絡んでいても、そうした意図や思惑を超えるようなことが起これば、驚きがもたらされるわけで、それを人為的に再現できるかというと、再現できたとしても最初の自然にもたらされた驚きから比べれば、新鮮味に欠けたものとならざるを得ないだろうし、それだけインパクトの低下した驚きになるのかもしれないが、そいういう意味で人為的に再現性のある出来事には、それが繰り返し再現される度に驚きが減じられてくる傾向があるのかもしれず、その代わりにそうした再現では儀式的な傾向が強まってくるだろうし、そんな傾向とともに内容の形式化や形骸化も起こり、そうした儀式的な催し物を体験する人は、必然的に同じことが繰り返されるから、そこで思いがけないハプニングが起こらない限りは、安心して儀式を観ていられるわけで、たとえその中で曲芸的な出し物が演じられるとしても、そこで感じる驚きにはそれなりの安心感が伴うのかもしれず、少なくとも何事も滞りなく行われるなら不安な気持ちにはならないし、そこで曲芸の技を誤って人が怪我をしたり死なない限りは、スリル満点の危険を伴う演技に多少の不安感を覚えるにしても、あらかじめ予期できる範囲内で終わってしまえば一安心するわけだが、果たして人為的な動作において、そうした安心感から外れた予期せぬ動作がもたらされるかとなると、もちろん事故や災害になればその大半が予期せぬ出来事になるだろうし、実際にそれが驚くべき惨事を招くこともあるだろうが、それは人の思惑を超えた偶然が介在してくるからだろうし、それ以外でも、意図して起こそうとして起こしたテロや戦争であっても、当事者の目論見通りに事が運んだケースはあまりないだろうし、大抵のケースで思いがけないハプニングが起こって、うまくいかなくなってくるわけで、そんな成り行きの中で事態がこじれて収拾がつかなくなると、その場の情勢が混沌としてくるだろうが、とりあえず誰かが意図して、陰謀などを巡らせた結果としてそうなるわけではないとしても、実際にそうなったからといって、そこで様々な人や勢力の思惑が渦巻いていることは確かで、結果的に誰の思い通りにもならないからといって、誰もが自分の思い通りになるように事を運ぼうとしていて、実際にうまく事が運んでそこから利益を得られる人や勢力も出てくるだろうし、そういった人や勢力にとっては思い通りになったと思いたいのだろうが、現実にそうした活動が成り立っているから、混沌とした情勢の中でも人や団体の活動が絶え間なく続いていて、そこで何でもないような日常の営みも行われているわけだ。


2月21日「余暇の時間」

 何らかの宣伝や煽動などを多くの人が真に受けることによって生じる、世の中の一方的な傾向が、その極限にまでは至らないように思われるのは、そこで行き過ぎた傾向を抑えるような力が働いて、何らかのバランスが保たれるからだろうが、なぜそういった力が働くかは、うまく説明するのは難しいかもしれないが、簡単に言うならそういった傾向が世間の一般常識から外れているように思われるから、その程度がある一定の水準を超えると、多くの人にとっっては状況が奇異に感じられるのかもしれず、そうなるとそれがやり過ぎであったり、行き過ぎているように思われて、それに対して疑問が投げかけられたり批判がされたりして、そうやって行き過ぎた傾向を是正するような力が働くわけだろうが、だからと言って別に従来の世間の一般常識に囚われた心理状態に魅力があるわけではなく、むしろ一方的な傾向に凝り固まって、その極限を目指すような方に誰もが魅力を感じるはずだが、誰もがそれを目指せるはずもないだろうし、目指すにはその人が抱え込んでいる事情や条件が邪魔をして、容易には目指せないようになっているのかもしれず、そういった状況から形成されているのが世間の一般常識であり、またそれは、その人が囚われている家族や職場や交友関係などの社会的な事情や条件でもあるだろうが、そんな常識を打ち破るような一方的な傾向というのも、その場の状況やその人の立場や境遇によってはそれなりに異なって感じられるだろうし、中にはそういった傾向に感化されやすい立場や境遇というのがある一方で、逆に容易には感化されにくく抵抗感を伴うような立場や境遇というのもあるだろうし、そういうこともそうした傾向が極限にまでは至らない要因となっているのかもしれないが、その極限にまで至るとどうなるかについても、何をもって極限にまで至ったことが示されるわけでもなく、その辺があやふやな印象でしかないのかもしれないが、それでも何か行き過ぎた傾向というのが、必ず浅はかな人たちによって演じられるわけで、それが世の中の否定的な話題として、メディアによって伝えられることになるわけだろうが、それが本当に極限にまで至った状態かというと、それに起因して何やら凄惨な殺人事件などが起こればそう思われるかもしれないが、愉快犯程度なら単なる悪ふざけとして片付けられてしまうだろうし、そういう意味で何らかの傾向が極限にまで至ったとしても、その時の状況によっては、大して深刻には受け止められないのかもしれず、またその程度で済んでいれば、世間的な水準では許容の範囲内に収まってしまうのかもしれないが、果たしてそうではない真の意味で深刻かつ重大な局面を迎えることがあるのかといえば、かつては戦時中などの何らかの時期に、そういうことが起こっていたのかもしれないし、それは現代でも地域や場所によっては起こっていることだろうし、これからもそうなる可能性がないとは言えないだろうが、それは現状からは想像もつかないことになるのかもしれないし、そうなったとしてもそれに気づかない事態もあり得るだろうが、そうなる危険性を予想したり予言したり、警鐘を鳴らしてみたり、危機感を煽ってみたりするのも、世間的な水準としては十分にあり得ることだろうし、それは今も世の中の現状に批判的な人たちがやっていることだろうが、たぶん何かの極限というのは不安定な状態であり、そこで安定するには他の多くの要素を鎮めたり黙らせないことには実現するのが難しいのかもしれず、そういった極限的な状態を安定化させるのは困難かもしれないが、現状に照らし合わせて考えてみれば、それよりは中途半端で煮えきらない状態の方が長続きしそうで、もしかしたら現状もそんな状態かもしれないし、現状が何でもないようでいて、またそこからどうとでもなるような感じを受けるにしても、すでにそうなっていること自体が、どうにもならない状況となっているのかもしれず、これ以上は良くも悪くもならないが、それが意外と長続きするような安定を実現しているとすれば、そういった状態を保つためには、取り立てて積極的に何かをやるということを避けなければならないのかもしれず、かえって何かをやっているふりを演じることの方が重要となってきて、何かをやっているのに何もやっていないように見えてしまうと不審に思われてしまうから、絶えず何かをやっているように装いながらも、現状が維持される限りで、そんな現状を壊さないように、現状の中で調和と均衡を保つように、現状に絡め取られている誰もが何かをやっているように演じなければならないのかもしれず、それが現状維持を図るには重要な演技となってくるのではないか。

 そしてそういう状況の中で演じられるのが、見せかけのイベントなのかもしれないし、たとえそれが空回りの印象を伴っても構わないのかもしれず、すでに生活に必要な物や情報やサービスなどを作り出すことが飽和状態になってしまった以降に、他に何を作り出せばいいかとなると、無駄で無意味な物事を作り出せばいいのかもしれないし、しかもそういうことをやるのが楽しければいいのだろうし、楽しみとして無駄で無意味なことをやるのが贅沢な時間の過ごし方ともなるわけで、それが労働とは違った活動となって、そういった活動が世の中で大々的に行われるようになると、何か活動の実質を伴わないような演劇空間がそこに出現して、それが見せかけの演技が行われるイベントとして機能するようになって、そういった催し物によって、人々の意識が幻惑されてしまうわけだろうが、そういった空間に作られるのが、古くは神殿とか呼ばれる壮大な規模の建造物になるのだろうが、それが現代的な感覚からすればスタジアムとか高速道路網とか超高層ビルとかになるのかもしれないが、それらは実用としても使われている建造物であるし、普通は無駄で無意味とは思われないはずだが、少なくとも楽しみのためのイベントに使われることがあるだろうし、中でもスタジアムで催されるスポーツや音楽などのイベントはその代表的なものだろうし、また仕事ではなく楽しみのために、高速道路で自動車をひたすら運転する人も少なからずいるかもしれないし、そしてそんな人はそれほどいないだろうが、超高層ビルの展望台から大都市の夜景を眺めるのも楽しみの一つであったりして、他にも楽しみのためのイベントが世の中にはたくさんあるだろうし、もちろんそれらが無駄で無意味なことだとは言えないはずだが、何かを生産して消費する過程の中で、奢侈品などの贅沢に思われるような物事も少なからず生産して消費されるのと同じように、それが人にとってはお菓子などの無駄な贅肉とか脂肪とかをもたらすものであり、それが肥満の原因にもなり、肥満が原因で生活習慣病などをもたらして、死期を早める結果ももたらすのだろうが、そうなってからさらに無駄な贅肉や脂肪を落とすために運動するような成り行きも生じるだろうし、そういった過程を考えるなら、楽しみのために贅肉や脂肪を付けて、さらにそこから健康を維持するために運動するようなことになるわけで、少なくともその運動は労働とは違って、収入はもたらさないだろうし、その代わりに長生きするための時間をもたらすかもしれないが、長生きしたところで、それが何になるかと問われることはないだろうが、たぶん長生きすればそれだけ余暇の時間が増えるのかもしれないし、それが余った時間であるとすると、やはりそれは楽しみの時間でもあるだろうし、本当にそうなるかどうかはともかく、普通は楽しむ時間を増やすために長生きしたいのだろうが、中には労働することが楽しみである人もいるだろうが、その大半は遊ぶことが楽しみであり、また食べることが楽しみでもあるだろうし、遊ぶことが運動になればいいが、それよりも食べる割合の方が増えれば、やはり脂肪や贅肉がついて肥満体となってしまうわけだろうが、そんな飽食の代償が何になるかまでは考えないだろうから、そこから無駄に医療費が増えようが、また健康を維持するための費用がかかろうが、そんなことは知ったことではないだろうが、それがそうした状態になるように煽り立てる宣伝や煽動の結果となることもあるだろうし、またそういう風潮が世の中の一方的な傾向だとは、普通は誰も思わないはずで、まさか現代の極限状態とは、食って飲んで騒ぐような宴会状態のことを指しているわけでもないだろうが、少なくともそれは世間的な一般常識の範囲内でのことだろうし、そういう状態を世間が否定的に見ているはずもないだろうが、たぶんそういった宴会状態の中で演じられる憂さ晴らしの演技が、日頃の労働から生じるストレスと表裏一体となった極限状態を示しているのかもしれず、そこで無駄で無意味な馬鹿騒ぎをやらざるを得ない状況というのが、どんな反社会的な凶行よりも深刻な現代の闇を映し出しているわけでもないだろうが、少なくともそこで愚かな行為をやらされてしまうという実態が、日頃の活動においていかにストレスが溜まっているかを物語っているのではないか。


2月20日「どうにもならない状況」

 現状の世界において人や団体の活動に関してどうにもならない状況があるとするなら、例えばそれは地域や場所によってはテロや内戦が止まない状況があるだろうし、また世界の全面的な傾向としては、経済活動に伴って富の不均衡が拡大している状況があることかもしれないが、そういう状況がどうにもならないように思われるとしても、中にはそういった状況を利用して成り立っている活動もあるわけで、そうした活動が一応は世界のどうにもならない状況への対処や対応となっていて、例えばそれがテロや内戦をやめさせようとする行為であったり、また逆にテロや内戦をやっている勢力へと武器や資金を供給して、経済的な利益を上げようとする行為であったり、あるいは政治的にそういったことをやっている勢力を利用する行為であったり、さらに直接そういった行為に参加しようとしたり、さらにまたそういったことが行われる現場を報道する行為であったり、そんなふうにそこへ介入したり関わることによって、それを活動として成り立たせようとするわけだから、結果的にはそれがどうにもならない状況をどうにかしようとする行為となるわけだし、実際にそういうところでは、それが活動として成り立っている状況ではどうにかなっていることになるわけだが、ではなぜそれがどうにもならないように思われるのかと言えば、普通に考えてテロや内戦は人的にも物的も被害や損害をもたらすから、普通の感覚ではそういった行為はやめてほしいわけで、やめてほしいのにやる人や勢力が後を絶たないから、それがどうにもならないと思われるわけだが、それもそうした被害や損害を直接受けていなければ、ニュースなどの報道で知る程度のことであり、そして現実にも世界の大半の人たちは実害を被っていないように思われるから、そういった行為とは無縁の地域で暮らしている人にとっては、それほど差し迫った危機は感じられないのかもしれないが、それとは違って、経済的な富の不均衡については、とりあえずそれが全世界的な傾向であることが確かであれば、世界の大半の人に関係する現象であるはずだが、それによって何か被害や損害が生じているかとなると、貧困層に属する人たちが貧しい暮らしを強いられていることに関して、それを被害や損害とみなせるかと言えば、特に直接攻撃を受けているわけでも加えられているわけでもなく、それは構造的な問題と言えるかもしれないが、そうした構造を改善できるかとなると、今のところは政治的に大して効果が上がっているとは言い難いだろうし、そういう面を考慮するなら、それがどうにもならない状況といえるだろうが、それをどうにかする必要があるかとなると、普通の良心的な感覚からすれば、世の中から貧困をなくしたいと思うところだろうが、実質的に一般人には他人の貧困をほとんどどうすることもできないだろうし、自らが貧困の境遇にあるとしても、自助努力によって貧困から脱しようとする以外にはどうすることもできないだろうが、中には政治の力で何とかしてほしいと思う人もいるだろうが、行政の制度として生活保護制度があるにしても、それも必要最低限の暮らしを確保するのが精一杯の制度であり、それによって貧困から抜け出られるわけでもないだろうが、ではそういった制度とは違う方面から貧困から抜け出す方法を考えられるとかとなると、一般的には働いて金を稼ぐしかやりようがないわけだが、そういった当たり前のやり方しかないところも、普通に考えるなら、他にはどうしようもないのかもしれないし、そういうところでは論理的にも理屈の上でも必然的な結果がもたらされるように思われるわけだが、それに関して何か政治や行政の場で、新たな社会の制度や仕組みを作れるかとなると、現状に合わせた制度や仕組みになるしかないだろうし、現状とは現状の制度や仕組みが動作している限りの現状なのだが、政治や行政のやれることはそういう循環的なこと以外にはなく、それ以上のことはできないと思っておいた方が無難であり、それ以上を政治や行政に求めるのは無理なのではないか。

 また経済的な富の不均衡とテロや内戦を結びつけて語ることも可能かもしれないが、確かにテロや内戦に明け暮れている地域が、世界的に見ても貧しい地域と重なる面もあるが、そうだとしてもそこに宗派対立や民族対立も絡んでくるだろうし、そういった対立や紛争の全てが経済的な富の不均衡が原因だとも言えなくはないが、貧困の視点から見るのではなく、富裕の視点から見るなら、まずは富裕層を作る原因として企業的な事業があり、事業を行うのに関しては、多額の資金を調達する必要が生じて、実際に資金を調達できて、その資金を元手に企業を設立して事業に成功すれば、事業者が多額の資産を築ける可能性が出てくるし、そうした資金調達に関係する方面でも、金融的な分野で株式投資などの面で成功すれば、やはり多額の資産を蓄積する成り行きになり、そうやって現代的な富裕層が形成されるのだろうが、一般的に考えて多額の資金を取り扱う部門から多額の報酬が発生するのは当然のことであり、さらにそういった部門の取扱者が少なければ少ないだけ、そこに資金が集中するわけで、そういう理屈なら、原理的にはそういった部門が増えれば、それだけ取扱者が増えて資金が分散するようにも思われるが、実際に収益の出る投資先が限られていれば、そういった部門も限られてくるだろうし、収益の出そうな限られた投資先に、限られた金融業者と限られた投資関係者しか参入できなければ、それらの金融業者と投資関係者の間で利益を独占するような事態となるだろうし、もちろんそこでも多数の金融業者と投資関係者の間で競合や競争が起こって、それらの業者や関係者の中でも興隆や没落が起こるのだろうが、結局そこで起こっていることはといえば、確かに投資などの部門で巨額の資金が動くから、そうした資金を取り扱う業者の中で成功すれば、そこから富裕層が生まれるだろうし、また他の企業の中でも、規模が大きい企業ほどその幹部になれば巨額の報酬を得られるから、そこからも富裕層が生まれるし、さらに社会の中で少数の人員で多額の資金が動く部門で活動する人たちは、相対的に高収入を得られるわけだから、そこからも富裕層が生まれるわけで、しかもそういった部門では実際に限られた少数の人しか要らない場合が多く、またそうした限られた少数の立場を占めるための競争が起こると、勝ち残った少数の者に多額の報酬が発生するような成り行きになってしまうし、そうならないとそういった部門には魅力がなくなってしまい、やる人が集まらなくなるだろうし、実際にそこで競争が起こっているから、それだけ利益目当てに資金も集まって報酬も跳ね上がるわけで、競争が起こるということ自体が魅力がある証拠であり、魅力がなければ競争も起こらないし、需要も生まれないし、資金も集まらないから、報酬も少なくなってしまうわけだが、またそうした利益を地縁血縁によって独占するような成り行きも生じてくるわけで、そういった地縁血縁には広い意味で宗派や民族なども含まれてくるわけで、そうなると特定の宗派や民族の特定の一族によって、地域や国家の中で支配的な勢力を占めるような成り行きも起こってくるわけで、さらに軍事政権などになると、軍部という派閥が国家の官僚機構の中で支配的な勢力となるから、それも一種の地縁だとも言えるだろうし、結局そういった支配勢力が利益を独占するようになれば、それが国内で経済的な富の不均衡を生じさせるわけで、またそこに軍隊が絡んでくると当然軍事力の行使によって国内を支配しようとするから、そういった体制に刃向かうにはやはり軍事力に頼るしかなく、それがゲリラ的な武装勢力となって、またそういった勢力に国内の主導権を握らせるために武器や資金を供給する勢力も出てくるし、それが政府の軍隊と衝突するようになれば内戦となるだろうし、政府軍の方が軍事力で圧倒的に優位になっていれば、テロ活動を行うしか抵抗の手段がなくなってしまうだろうし、そうやって武装組織がテロ組織になってしまうわけだろうが、さらにそういった組織が国を追われて海外を拠点にして活動するようになれば、国際的なテロ組織になるのだろうが、そういった成り行きも競争と同じで、戦う対象となる相手がいなくなれば、活動が沈静化して下火になるのだろうから、下手に対立を煽って戦線を拡大してしまうような成り行きから脱却できれば、そうした活動も廃れていくのかもしれないが、活動を行なっている当事者としては活動したいわけだから、何かしら戦う相手を見つけようとする傾向にあり、そこからどんな無理な理由でもこじつけて、一方的に因縁をつけてくるような成り行きも生じてくるのかもしれない。


2月19日「論理と理屈の限界」

 物事に単純な論理を当てはめてわかったような気になるのは、それが成り立つ条件やその場の事情やそうなった経緯を考慮していないからかもしれないが、それでもそうした論理から物事に関する理解がもたらされるのは確かであり、何らかの出来事や現象を、それなりにもっともらしく思われる論理や理屈を用いて説明できれば、それ自体が物事に関する理解となり、それが特におかしなことではないのだが、そこから勘違いや思い違いが生じるとすれば、そうやって物事を理解したつもりになったとしても、それでその論理や理屈の対象となる物事の全てを理解したわけではなく、まだ理解していない部分や理解できない部分が残っている可能性があり、それでわかったような気になっても、わかっていない面があることになるだろうし、そういう面を意図的に無視したり、あるいは無視している自覚もなしに、わざとそういった論理や理屈を用いた一方的な理解や解釈を基にして、宣伝や煽動が行われると、特に浅はかな人でなくても、それを真に受けてしまうのかもしれず、実際にそういった煽り立てに引っかかってしまう人が大勢出てくるのかもしれないが、ではそうなってしまう成り行きに疑問を抱いて、そこで思いとどまって、それらの対象となる物事について、改めて考えてみるような手間暇をかけられるかというと、そうした余裕や余地を与えないような成り行きも、一方では生じているのかもしれないが、それでもそういうことに関しては、よく考えてみる必要があるのかもしれないし、必要があっても考える成り行きにならなければ、そのままとなってしまうことが多いわけだろうが、実際にそんな機会を捉えてよく考えてみれば、安易な理解に基づいた宣伝や煽動などの拙速なやり方によって、かえって他から無用な反発や反感を招いて事態をこじれさせて、それがうまくいかない原因となっていることに気づいたり、またどうやってもうまくいかないことを、勝手な論理や理屈に基づいて強引にやってきたことに気づかされたり、そんなふうにして過去の様々な局面では気づかなかった過ちや誤りに、後からそれを振り返る機会があれば気づくこともあるだろうが、気づいた時にはすでに事態がそれなりに進展してしまっているから、もはや後戻りなど出来ずに、後の祭りとなっている可能性もあるだろうし、またそれについてこんなふうに語ってみせることと、実際に行われるべき実践的な対処や対応とは、まったく違ったことになるかもしれないし、そこにもどうすれば良いかに関しては、それなりの困難や限界や制約などが付きまとってくるのだろうが、そういう面では当人の努力だけでうまくいくわけでもない場合がほとんどなのかもしれないし、それでもそうした理解への切実な思いがあれば、何度過ちや誤りを繰り返しても、あきらめずに、執拗に自らが信じる論理や理屈にこだわり続ける場合もあるかもしれないが、たぶんそうであっても、現実の成り行きが、その人の思い込みに基づいた机上の空論的な論理や理屈を裏切ってしまうのかもしれず、それがその人にとっては思いがけない成り行きとなるわけだろうが、そういうところでなぜ論理や理屈が現実の成り行きに合わなくなってくるのかといえば、やはり論理や理屈では物事の全てを説明できないから、その説明できない部分が現実の状況に作用したり影響を及ぼしてくると、それがそうした論理や理屈を裏切るような成り行きを生じさせてきて、結果的にその論理や理屈にこだわっている人を、状況が置いてきぼりにしてしまうような事態となってしまうのかもしれないが、それでも執拗に自らが信じている論理や理屈にこだわり続けてしまう人も中にはいるわけで、そういう人の述べている内容が的外れであったり、時代遅れな印象を感じるとすれば、やはりその人が時代状況から見捨てられてしまっていることを示しているのかもしれないし、確かにそういう人は過去の一時期においては、何やら説得力のある正しいことを述べていたのかもしれないが、そういう正しさというのが、確かにその時期の時代状況の中では正しく思われたのかもしれないが、それがあまりにもつじつまが合いすぎるようなことを述べていたとしたら、つじつまが合わないような面については、意図してあるいはそれと自覚することなく言及を避けていたのかもしれないし、実際に状況に関して正しいことを述べようとすると、結局は論理的につじつまが合うようなことしか述べようとしなくなってしまうのかもしれず、そういう姿勢だと、世の中の何の前触れもなく変わって行ってしまう成り行きを捉えられなくなってしまい、そういったある一定の時期に関しては状況をうまく説明できてしまう論理や理屈が、状況の変化に伴って通用しなくなってしまい、そうした論理や理屈を用いて状況を説明する人を時代遅れにしながら、変わっていくのかもしれないし、そうした状況の変化というのは、そこでまかり通っている論理や理屈を裏切るような成り行きでしか変化しないのかもしれず、そうではなく論理や理屈通りの状況しかもたらされなけば、そこで状況が安定してしまって、それ以上の変化などあり得ないのかもしれないが、それに関しては世の中が変化する論理や理屈を用いて、そうした変化が起こった後からつじつまが合うような説明を試みる成り行きもあるわけで、そういう説明だと結果からしか説明が成り立たないだろうし、変化が起こった結果から、変化を起こした原因を探り当てて、その原因によって必然的な変化が起こるような結果が導かれて、そうなるとそこには偶然の巡り合わせに伴う要素が入り込む余地がなくなってしまうのだが、それは原因から結果が必然的に起こるという良くできたフィクションとなってしまうわけで、そこでももっともらしい論理や理屈によって矛盾もずれもなく現象を説明できるなら、やはり多くの人がそういったつじつまの合ったもっともらしい説明を信じてしまうだろうし、そういった説明に何のメリットがあるかというと、変化の原因が特定できるから安心できるわけで、何やらどうにもならないような物事が、周囲から様々な否定的な作用や影響を受けながら、こじれにこじれて行き詰った状態から、ある時不意に思いがけない変化が起こったりして、そんな原因不明のわけがわからないような変化よりも、そういった不安だらけの印象を打ち消すようなもっともらしくわかりやすい論理や理屈を用いて、必然的な事の成り行きとして説明されれば、どう考えてもそちらの方が説得力があるように思われるだろうし、実際にもそういった状況の説明が世の中の主流になるのだろうが、たとえ現状の世界がそういった誰もが納得できるようなわかりやすい説明によって理解できるにしても、その一方で誰の思い通りにもなっていない面があることは事実だろうし、いくら結果からわかりやすく状況を説明されても、それ以外でわからないことがいくらでもある状況は変わらないわけで、そういうところがわかりやすい論理や理屈では説明し難いところなのではないか。


2月18日「政府と企業の違い」

 人の強制収容施設として世界的に成功している事例を挙げるとすれば、それは義務教育という日本で言えば小中学校という教育施設に子供を収容して、社会に役立つように洗脳と教育を施す仕組みだろうが、もちろんそれを洗脳とは言わないし、日本ではそれ以前の保育園や幼稚園から始まって、小中学校を経由して、高等学校や大学にまで至る教育施設への収容体験を経て、成人すれば企業や政府などの各種団体の施設への収容をもって、人の施設への収容が完了するわけだろうが、その先にも寿命をむえる時期になると老人ホームへと収容される人も出てくるし、それ以外にも病気や怪我が重篤化すれば病院へと収容されるし、裁判で懲役刑や禁錮刑などの判決を受ければ、刑務所へと収容されるし、他にも世の中には様々な収容施設があるわけだが、人を施設に収容するにあたってのメリットといえるかどうかは、その人の立場や境遇や状況によっては微妙な意味合いが生じるかもしれないが、まずは人を外界から遮断する目的が挙げられるだろうし、また施設の中では人を制御したりコントロールするのが比較的容易な点も挙げられるが、施設自体が社会の中でも極めて人工的な環境であり、自然環境からそこだけ隔てられていて、そういう面で外界から及ぼされる偶発的な作用や影響を心配することなく、そこで人の取り扱いが容易になるわけだが、その反面で収容される人の自由が奪われて、そのほとんどの場合で、施設を管理運営してその内部で主導権を握っている団体には逆らえないだろうし、そういう意味では施設内に人を拘束して自由を奪って従わせるのが、施設本来の存在目的であることは明らかだが、その程度や扱いが許容できれば、人は喜んで施設内で囚われの身となるだろうし、また施設の外よりは施設の中の方が安全で快適だと判断されるなら、やはり施設の中にとどまることを望むだろうし、そういう意味では人を収容する施設にはメリットもデメリットもあるように思われるわけだが、そういった目に見える建物などの施設内での管理コントロールよりも、さらに巧妙なやり方として、例えば企業などがユーザー登録をさせて、自社商品へと消費者を囲い込むやり方などに関しても、そういった人を管理コントロールするためのノウハウが生かされていて、ユーザーを特定の商品に依存させて縛り付けるやり方が画策されているわけだろうが、それは行政などにもいえることで、住民を行政に依存させて縛り付けようとしているのかもしれず、そういう面では目に見える施設などに収容しなくても、情報操作や権力の行使などによって、人の自由を奪って思い通りに制御コントロールするやり方がいろいろと模索されているのかもしれないが、少なくとも企業の消費者への対応についていえることは、全面的ではなく、絶えず功利的に利益を得られる面だけ、部分的に制御コントロールしようとする傾向があるのかもしれず、そこでも世の中に存在する様々な企業が、自分たちの得意分野で民衆から利益を得ようとしているわけで、もはやそういった手口には騙されないとか言うレベルではなく、それが日常の一部として常態化しているから、そんなことにいちいち目くじらを立てる意味も必要もないことであり、絶えず広告宣伝など誘惑的な手法を用いて人の意識を功利的に制御コントロールしながら、商品を買わせたりサービスを利用させて、競争相手の他の企業よりも少しでも利益を上げて優位に立とうとしているわけだから、そういう行為を特に否定的に捉えることもないだろうし、それどころか積極的にそんなことが推奨されているわけだから、世界的にそんなことをやるのが当然のことだと捉えるしかないだろうし、実際にそうした方面で競い合いが起こっていて、現状の競い合いの中で目立った勝者となっているのが、ネットを通じて世界中に進出している巨大IT企業なのだろうし、現実に世界中の民衆がそうした企業であるアップルやマイクロソフトの製品やソフトを買わされたり、またグーグルやフェイスブックを利用して広告収入を稼ぐ手助けをしてやったり、またアマゾンで通販商品を買ったりしているわけで、そうしたことはすべて全面的な依存ではないだけに、特に深刻な状況とは思われないだろうし、もちろん世界のすべての人がそれらの企業を利用しているわけでもなく、他も数多くの競合する企業があって、大なり小なりそれらの企業同士が競争しつつも、ある面では提携したり協力関係にもあるだろうし、そうやって複雑に関係が入り組みつつも、ひとつの傾向や方向へと偏向しているともいえないだろうから、そこで何かしら均衡が保たれている面もあるのかもしれないが、それでも絶えず部分的な富の収奪を行うために、それと気づかせないような巧妙なやり方を模索しているわけだが、そうした民衆の部分的な制御を目指す企業の官僚機構と、民衆の全面的な制御を目指す政府の官僚機構を同列に扱うわけにはいかないが、その一方で企業の官僚機構は、労働時間内での従業員の全面的な制御を目指しているだろうし、そこで制御の対象となる企業の従業員と国家の国民を同列に扱うのもそれなりに無理があるわけで、何かそういうところで論理や認識の混同が起こっている可能性があるわけだが、そもそもそうした企業の従業員と比較の対象となるのは、国家公務員や地方公務員であり、そうであるなら政府の官僚機構が全面的な制御を目指しているのは、労働時間内での公務員の活動となるはずだが、では国民の全面的な制御を目指していると捉えるのは誤った認識であるかとなると、そうでもない面もあるわけで、そのへんの混同が国家主義的あるいは社会主義的な思想にかぶれてしまった人には多いのかもしれず、実際に言論や思想信条の自由を認めない独裁的な国家の政府は、国民の全面的な制御を目指す傾向があるわけで、またそうだとしても政府が企業を見習って、全面的な管理統治の対象を公務員だけに限るのも、やはりおかしいわけだろうし、そういうところで制度や仕組みの面で認識や実態に差異やずれがあることを民衆の側が認識しておかないと、政治のレベルでおかしな論理や理屈を真に受けてしまうことになり、そこから政府と企業を同列に扱うような誤った認識がもたらされるわけだが、少なくともそこに差異やずれがあることを踏まえておけば、それなりに両者の間の区別を伴った判断に結びつくはずだが、それでも政府が自国の企業を優遇しようとするのは紛れもない事実だろうし、そして産業振興などの面で政府の経済政策に民衆も期待してしまうし、政府と企業が渾然一体となって国家を盛り立てていくような幻想を抱いてしまうわけだが、そこでも認識しておかなければならないのは、国家の公務員と企業の従業員と民衆との間では、利害も人員も重なる面があるとしても、重ならない面もあるし、また時には利害が対立する面もあるだろうし、さらに場合によっては争わなければならない面もあるわけで、それらの都合の良いところだけを強調してしまうと、対立したり争わなければならない面を故意に見落としてしまうことになるわけだ。


2月17日「集団による管理統治」

 管理統治という手法が何を目指しているのかというと、状況を制御するとかコントロールすることだといえるだろうが、それが人為的な制御と思われるのが当然だとしても、何がその制御主体となっているかに関して、例えば官僚機構などの集団的な組織形態によって、その場が制御コントロールされていると、その集団的な組織形態の中で活動している人も制御されているわけで、もちろんその中には、そうした組織のトップに立っている指導的な立場にある人でも、官僚機構によって制御されていることになり、そうなると特定の誰が制御しているというよりは、誰もが官僚機構によって制御されていることになるだろうし、少なくとも特定の指導的な地位にある人の意志によって制御されているとはいえなくなってしまうわけだ。そうでなくても状況をコントロールするということに関しては、そこに関係してくる人や団体の様々な思惑が絡んでくるわけだから、その中で誰かが主導権を握って、その人がその場を支配して状況を制御するというのは、ある程度はそういう面があるにしても、全面的にそうなっているかというと、それが何か人物本位の物語的なフィクションに特有の嘘になってしまうかもしれないのだが、そこで立場や地位が上位の人から下位の人へと、こうしろという命令や司令が下ることがあるものの、そのこうしろという意思表示を伴った司令が、その人の自発的な意志であるかというと、こうした方が集団としてはうまく行くのではないかと思うから、そんな司令を発する可能性があるだろうし、またそうすることで組織の中での自らの立場が有利になるという目算もあるとしたら、それがそこで主導権を握りたいという願望の現れだとしても、それもそうした方がその集団のためになって、そうすれば集団が栄えるという、その人なりの集団に対する忠誠心の現れでもあるのかもしれないが、そこで問題となってくるのが、そういった集団の中で独裁的な主導権を握って権力をほしいままにして、私腹を肥やすという成り行きもあるわけで、指導的な立場ある人がそういうことをやってしまうと、集団のためにならないということがあるわけだが、それもそういう立場や地位になると、自らの裁量権が増えて、必ずそういう誘惑に逆らえなくなるという成り行きがあって、その人の意志でそういう事態が起こるというよりも、組織内での地位や立場がそうさせる傾向の方が強いわけで、そしてそういうことが起こって、それが集団にとっては弊害となって、その集団の勢いが衰えてくると、集団を立て直すための自浄作用が働いて、そうした集団を駄目にする人を集団から排除するようなことが起こるわけで、それも実際に集団内の特定の人物が、権勢をほしいままにしている人に対して反旗を翻すという成り行きが生じるかもしれないが、それもその人物の意志でそうしていることにはなるだろうが、それは集団のためにやっていることだという大義名分が成り立つわけで、そうした大義名分が成り立つから、集団内の他の人たちもそういう成り行きに同調するのだろうし、それは個人の意志というよりは集団としての意志であり意向でもあるわけで、そういうところで個人が集団のために活動する成り行きが生じるわけだが、それも集団から見れば、個人が集団内で権勢を誇って私腹を肥やしたことで、集団の勢いが衰えると、そこから自浄作用が働いて、その原因を作った個人を集団から排除するという、集団自体の新陳代謝を物語っているわけで、結局それは、個人が集団的な組織形態に絡め取られると、その弊害として集団内で権勢を誇ったり私腹を肥やしたりするような成り行きも時として生じて、それに対しても時として別の人が反旗を翻して、そうなってしまった人材を集団から排除するような自浄作用が働く成り行きが生じることになり、それがそういった成り行きの中で、集団の構成員となった個人が、集団が割り振るそれらの決まりきった役回りを演じているに過ぎないことにしかならないのかもしれず、そういう成り行きがありふれたことのように思われるなら、集団にとって邪魔な個人を、そうした紋切り型の役回りの中に押し込めて処理する作用が働いていることにもなると考えれば、辻褄が合うわけで、それ自体がフィクショナルな演劇に過ぎない面があるのかもしれないし、そういう成り行きに限らず、集団的な管理統治の実態として、個人をいかにわかりやすい紋切り型のキャラクターとして取り扱うかが重要となっているのかもしれず、個人の方でもそれと自覚することなく、そういう集団的な意向を敏感に感じ取ると、進んでそうしたキャラクターを演じてしまう成り行きにもなってしまい、そうやって集団の意向や思惑に操られた様々な役回りや登場人物のキャラクターに応じた演劇空間が出現すると、そこで集団による管理統治が成り立っていることになって、その中で集団によって用意された脚本通りに個人が役割を演じている限りで、そうした役割を演じる個人が、管理統治された演劇空間の中で安定して機能することになるわけだろうが、それと自覚することなく集団内で決まりきった役柄を演じてしまう個人が、そのことに気づくかというと、気づかないからそれがストレスとなって、場合によってはそのことが原因で気を病んでしまうような成り行きもあるのだろうが、気づいたとしても、その人の集団内の地位や立場がそういった役柄を課しているわけだから、そうした地位や立場を放棄しない限りは、その役柄を演じ続けなければならず、それも別の意味でストレスになるだろうし、ストレスに耐え切れずに地位や立場を放棄すれば、それは集団から離脱することを意味するわけだが、本当にストレスを感じているかというと、それを自覚できないのだから、感じていないといえば感じていないのかもしれないし、また組織内で高い地位や立場になれば、それなりに高い報酬が約束されているわけだから、それ自体が合法的に私腹を肥やすことに結びつくわけで、さらにそこから、それに加えて違法に私腹を肥やす必要もないといえば、その通りだろうし、実際に大企業や官庁などのほとんどの幹部クラスになれば、違法に私腹を肥やす心配もないほどの高い報酬を得ているはずだろうし、そういう点を考慮すれば、そういったありふれた公私混同の違法に私腹を肥やす話も、単なる架空の作り話になってしまうのかもしれず、実際に企業や政府などの集団がその構成員に割り振る役回りは、もっと地味で普通の仕事に応じた役職になるだろうし、それも割り振られた仕事をこなしている間だけ機能するような地位や立場でしかないのかもしれないが、それに対してそんな地位や立場になった個人の方が、そうした役回りについて幻想を抱いてしまい、仕事から離れた時間帯でも、そうした地位や立場に実質的な効力があるかのように思い込んでしまい、何か偉くなったような気になってしまうのではないか。


2月16日「社会の実態」

 機械には故障の修理や消耗部品の交換などの整備が必要で、整備できない機械は使い捨てられるしかないだろうし、また整備を必要としない機械は半永久的に稼働する可能性があるが、今のところはそんな機械が実現しているわけでもないだろうし、そういう意味では整備の手間や整備費用のかかる機械であるほど、そうした機械整備の分野で需要が大きくなるのだろうが、例えば電気モーターで走る車と内燃機関で走る車との比較で、どちらが多くの手間や整備費用がかかるかといえば、当然内燃機関で走る車の方が部品も多く、消耗する部分も多そうで、それだけ手間も整備費用もかかるから、電気モーターで走る車が普及しだすと、自動車の整備に関する分野が衰退するのかもしれないが、機械に限らず建築物の類いでも、消耗したり破損したり汚れたりする部分のメンテナンスが欠かせないし、そういう面で建物を建てたり機械を作るのと、それらのアフターケアやメンテナンスが連動していることは確かで、そうやって作られて維持される機械や設備や建物などを含む人工的な環境を実現させるのが、人類の文明的な営みであるわけで、そんな営みを続けるために技術者のような人が必要とされてきたわけだが、それは今後も変わらないとしても、それと同時にそんな人工的な環境を使う消費者のような人も欠かせないだろうし、そこで果たしてそうした環境を作って維持する人員と使う人員とが、人数的に釣り合いが取れているかというと、作る側の人員も一方では維持したり使う側の人員に含まれるし、また維持する側の人員も一方では作ったり使う側の人員に含まれるし、何を作り何を維持して何を使うかに関しては、それらの職種や役割が複雑に絡み合いながら、相互に重なり合っている面もあって、そういう面でうまく実態を捉えきれないわけだが、それでも作る側や維持する側では、単純な職業別の分類ができるかもしれないが、使う側では非職業的な消費者という分類が含まれてきて、職業に就いている人は作る側や維持する側と同時に使う側の人員にも含まれてくるとしても、職業に就いていない人は単に使うだけと捉えるわけにもいかないだろうし、それについて簡単に言えば、家事や子育てなども作る面や維持する面もあるわけだから、金銭的な収入だけでは捉えられない面もあるわけで、そういう面も含めると、大雑把に言えば、誰もがそうした作る面や維持する面や使う面も含めた役割を担っている場合が多いだろうし、それらすべてが社会という制度を維持するための人員なのかもしれないが、普通はそれを制度とは言わないし、そこに関わっている度合いや貢献度なども各人で異なるだろうし、そこでもどういう判断に基づいて度合いや貢献度を測るのかは難しいところだが、そういった面では各人が関わっている分野や種類の傾向や方向性もそれぞれに異なるだろうが、それらの人員の役割分担が完全に把握されて管理されているとは言いがたいだろうし、それでも一応は行政の場では統計的な把握や管理がされているだろうが、特定の役割分担を強制的に課している面がそれほど大きいわけでもないし、ある程度は各人の自主性に委ねられている面があるわけで、実際にそういう面は把握しきれないだろうし、完全に把握する必要もないのかもしれず、またそういった方面に関与してくる人や団体の思惑によって、状況がコントロールされているわけでもないだろうし、結局は様々な人や団体の思惑が渦巻いている中で、世の中が社会として成り立っている面があるが、各人や各団体が意図してその社会に参加しているわけでもなく、ただ何となく成り行き上は誰もが社会に参加していることにはなっているのかもしれないが、特に誰がそこへと入ってきても、また誰がそこから脱落しても、それがどうしたわけでもないだろうし、何かそこで活動している団体への出入りは、それなりに団体側でチェックされていて、それが政府が管理しているつもりの国家という団体であれば、普通は国家を団体とはみなさないだろが、当然そこでは出入国のチェックが政府側の出先機関で行われるわけで、そんなふうにして国家には国境という出入りの制限を伴う境界があるが、社会には特にそんな境界はなく、それに関して世界全体がひとつの社会を構成していると言えなくもないが、それと同時に地域や国ごとに、それぞれに社会が構成されていると捉えることもできるだろうし、そのへんが曖昧なのかもしれないが、それを社会と呼ぼうが世の中と呼ぼうが世間と呼ぼうが、大して違いがあるわけでもないが、そこには常に人工的な環境が出現していて、機械や建物などの物質的な人工物がある他にも、関連する機械や設備を介して文字や音声や画像や映像などの情報も行き交っていて、そうした情報のやり取りによって人と人とが意思疎通を図ったり、またメディアを通じて宣伝や煽動が行われていて、さらに売買を介して物や情報やサービスなどが金銭と交換されて流通していて、そういう面で経済活動が行われているわけで、そこで政府という団体が経済に関する法律や制度を管理していることは確かだが、経済活動のすべてを制御しているわけでもできるわけでもないし、それに関連して企業などの様々な団体も、それらの団体が取り扱っている商品の生産や流通や販売などを管理していることも確かだが、そうした各種団体ごとの管理が重なりあって、互いに作用や影響を及ぼし合って、そういった面でも複雑なからみ合いがあるから、その全容もうまく捉えきれないわけだが、そういうところを人為的に簡略したり透明化できないから、そういう部分に変化する余地や人が自由に振る舞える場が生じてくるわけで、それらすべてを網羅するような管理統治がなされてしまうと、法律や制度や階層秩序などによってがんじがらめになって、身動きが取れなくなってしまうのかもしれず、またそこに関わってくる各種団体としては、絶えず自分たちの勢力圏を完全に管理統治しようとしているだろうし、そういう方面で法治的な秩序をもたらそうとしているわけだが、そこに他にも競合する団体が存在する限りで、それらの複数の団体によるせめぎあいや勢力争いなどによって、完全な管理統治には至らない余地や事情が生じてくるわけで、そういう統治の不完全性が社会に反映していて、しかもそういう面があるからこそ、逆説的に社会とか世の中という実態の定かでない領域が存在する余地も生じているのではないか。


2月15日「価値や必要性を外れて」

 人が必要としているのは、何か価値のある物事である場合もあるだろうが、それは価値のあるものを獲得したり、そのために必要なことを行なったりして、世間的に認められたいということもあるだろうし、そういうのは名誉だとか栄光だとか、あるいは直接的に経済的な富であったり、そういった物事に世間的に認められた価値があることは確かであり、世の中でもそういった物事を獲得するための競争が行われていることも事実だろうが、そういう成り行きに巻き込まれて、あるいは自らが進んでその渦中に身を投じて、何らかの成果を得られれば、それなりの満足感を実感できるだろうが、そういったこととは無縁の価値があるかとなると、その人の思い込みの中ではあるかもしれないが、それが思い込みでしかない場合は、そんな価値を得るために必要なことをやったとしても、自己満足にとどまるかもしれないが、それでも構わないなら、価値を得るために必要なことをやるとは、その程度のことでしかないだろうし、それ以上を求めても、虚しい結果に終わるわけではないだろうが、少なくとも思い込み以上のものが得られるとは思えないし、そういうことを超えた価値となると、他人や他の団体などと連携や協力して、他の人や団体でも満足感を実感できるようなことを行えば、そこから得られる価値も、それだけ多くの人が共有できるものとなるだろうし、そうしたやり方ができれば、自己満足を超えるような価値を獲得できるかもしれないが、そうであっても価値だけが世の中で肯定できる全てではないだろうし、ただ単に価値とは無関係に必要なことをやっていれば、それで活動が済んでしまうような成り行きもあるのかもしれず、そうした活動なら、ただ自らが必要と思うことをやればいいだけだろうが、それが必要か否かの判断も、事前に生じてくるところではあるが、それに関しては通常はわざと必要でないことをやる成り行きにはならないだろうし、何かをやるとなると必要だから行うように思われてしまうことも確かであり、またそういうところで必要であるかないかの判断でさえ、意識の中では省略されてしまう場合もあって、とりあえずそんなことさえも意識せずに、何かをやっている成り行きがあれば、それを後から振り返れば、必要だから行なったと思うしかないだろうが、もちろんそんな行為をいちいち後から振り返ることもほとんどないのかもしれないし、そうした行為は価値があるかないかとか必要があるかないかとも思わずに、とりあえずやっている行為でしかないのかもしれず、そうなるとそれはただ何となくやっているだけの行為かもしれないし、そういった行為に関しては、考える必要もないことは当然であり、そんな行為がやっていることの大半であれば、価値についても必要性についても何も考えずに、ただ何となく日々を過しているだけとなってしまいそうだが、そんな感じで生きていられたら、特に何がどうなるわけでもないのだろうが、そういったことが他に何をもたらしているかとなると、ただの惰性でしかないのかもしれないし、そういう行為をあえて後から振り返れば、そこに何らかの価値や必要性を当てはめることができるかもしれないし、それも単なる暇つぶしでやっていることだと捉えれば、それに肯定できる価値や必要性があるとは思えないだろうが、例えば気分をリラックスさせるには暇つぶしが必要であると思われるかもしれないし、そうであるならそこにリラックスさせるという効用について価値が生じているはずだろうが、もちろん他の価値と比べれば、そんなのはどうでもいいような価値かもしれないが、それでも価値の程度や強度に関しては、わずかでもプラスの面があれば、そこにわずかな価値が生じていると思われるわけで、その程度の価値を、わざわざ強調するわけにもいかないだろうが、塵も積もれば山となる類いの効用を信じれば、忙しさの合間に暇つぶしの時間を確保することが重要に思われてしまうのかもしれず、結局はその程度のことに価値を見出してしまうこと自体が、くだらないことだと思われるにしても、逆に価値や必要性を強調して、そんなことにこだわり過ぎてしまう意識をずらす意味では、その程度のことにかまけていた方が、意識が一方的に偏向した傾向になるのを防ぐ意味合いとしては、それなりに効果があるのかもしれないし、そうでなくてもその人にとってはそれが大したことであったり、それがないおかげで深刻な事態を招いているのに、他の人がその人の身になって考えてくれないことが結構あるだろうし、そんな安易に感情移入して同情してくれないようなことが、世の中には多いわけで、要するに人と人との間で関係が結ばれていないと、他人が死のうが気が狂おうが構わないような心境となってしまうから、無関係の関係というのは、そのまま無価値で不要な虚無性を発揮してしまうのだろうし、だからといって唐突に赤の他人同士で人と人との絆を強調するのも、鬱陶しいだけだろうし、そういう面で他者の他者性というのが理解しにくい概念であり、またそれは無理に理解しなくても構わないような概念でしかないのかもしれないが、そこで他人に対して善い行いをしようとするのではなく、良くも悪くもないような対応ができるかとなると、何かそういう問い自体が意味不明に思われてくるわけで、そして自身にとっては価値もなく必要でもないようなことの中に、他者に対する気遣いが生じてくると、やはりそれが何を意味するのかわからなくなってくるわけで、そういう行為が損得を度外した行為とも違うことであるように思われるとしても、おおやけの場ではそれが必要となってくるのかもしれず、なぜ必要なのかは自らに当てはめてみてもわからないかもしれないが、またそれが他人の立場に立つことを意味するわけでもなく、それを誰の立場でもない中庸な立場だと言ってしまうと、さらにわけがわからなくなってしまうだろうが、たぶんそういうことなのかもしれないし、あるいはそうではないのかもしれないが、そんな価値や必要性を外れた行いができれば、たぶんそれがおおやけの場で行うような行為となるのかもしれないし、そんな自分にとっても他人にとっても意味不明に思われるような行為には、何かよくわからない効用があるのかもしれないし、またそれは効用とは言えないのかもしれないが、そんな行為が実際に行われている際には、現実に価値も必要性も生じていないだろうし、他に何が生じているわけでもないが、ただそんな行為によってその場でものが取り扱われて、ことが滞りなく行われてしまう可能性もあるわけだ。


2月14日「価値と必要性」

 物事の価値は金銭的な価格として示される他には、人それぞれに特定の物事に関して価値を感じたり感じなかったりすることがあるだろうが、金銭的な価格に関しては、たとえ価格が安くても必要な物事がある一方で、価格が高くても必要でない物事もあるだろうし、そういう面では、価値判断と必要であるかないかの判断は異なるだろうが、その必要であるかないのかの判断であっても、その人の経済的な事情によっても異なってくるのかもしれず、その人が使える金額に応じて、必要な物事も増えたり減ったりもするわけで、そうした経済的な制限がなければ、人はあれやこれやと何でもやりたがるだろうし、やれることが多くなるほど、それだけ必要な物事も増えてきて、それをやれるのにやりきれなくなってくると、他の人を使ってまでやろうとするわけで、そうなると、様々なことがやれる体制として、集団的な組織形態が必要となってくるわけで、それが社会に存在する企業や政府などの各種団体となってくるわけだろうが、そうした団体内では役職などの役割分担があって、役職や役割に応じてやれることが限られてくるわけだが、何でもやりたがるのにやれることが制限されてしまうと、それに伴って不満も生じてくるだろうし、そういう意味で集団的な組織形態はその内部にいる個人の活動を抑制する傾向にあるが、その中でも何でもやれるような立場というのが、一応は組織のトップに立つ個人となるわけだが、それも創業者であれば、何でもやりながら企業などを切り回してきた経緯があるだろうが、すでにそれなりの規模になった団体に入るとなると、もちろんはじめから何でもできるわけでもなく、決められた役職や役割に応じたことしかできないわけで、またそうした役職や役割に応じて、必要なやるべきことも決まってきてしまい、またやるべきことに応じて、そうしたことをやる価値まで決まってくるだろうし、その人にとってやるべきこと以外の物事には、やるべきことに比べれば、あまりやる価値のないことになるだろうし、そういう面でやる必要とやる価値が一致してくるわけだが、それもその人の団体内の役職や役割に応じてそうなってくるとすれば、その人が自主的に必要や価値を決めているわけでもなく、団体内の組織的な環境が、そうした物事を決めてくるような成り行きになってきて、それだけその人は受動的な傾向になってきてしまうのかもしれず、そういう面でその人の主体性に関して、それなりに制限が加わってくるだろうし、そういうところまで考慮すれば、団体内でのその人の権限や責任の面で、たとえその人がトップの位置にあるとしても、その人の自由な裁量というのは、まずないと考えた方がいいのかもしれず、その代わりにその人の団体内での役職や役割に応じた裁量があるのだろうが、そうなってくると、個人よりも団体の意向の方が優先されてくるのは当然のことだろうが、果たしてもとから個人の意向があったかというと、何かしらあったのだろうし、団体から離れて個人の私的な生活の中では、当然それがあるだろうし、団体内でも団体としての意向を阻害しない限りで、個人の意向が尊重される成り行きもあるかもしれないし、また中には団体よりもその人の立場が上なら、その人の意向に団体を従わせることもできるかもしれないが、果たしてそういうところで、何をどう捉えればいいのかとなると、その場の状況に応じて、人や団体やそれらと関連する物事の動向から判断するしかないだろうが、そういう成り行きの中で、何が必要で何が価値のあることかとなると、判断の基準が個人と団体の間では異なるかもしれないし、また団体内の役職や役割によっても異なるかもしれないし、そういうところで個人の判断に基づいて価値や必要性を決めてかかってしまうと、それが的外れであったり、周囲の賛同が得られなかったり、それによってその人が周囲から孤立してしまったりして、それもその人の団体との関わりから生じる立場や境遇から、そんな事態や経緯がもたらされるのだろうが、逆にそういうことである限りで、その団体と間で関係が切れてしまえば、そんなことは何でもないことになってしまう場合もあるだろうし、そうした団体との間で行われた活動が、他の方面へと作用や影響が及ばない限りで、そこで生じていた何らかの必要性や、その必要に応じてもたらされる物事の価値も、そんな関係性に応じて生じてくるものであり、そのほとんどはそこだけに限定された価値や必要性でしかないのかもしれず、そういう意味で、物事の価値もその必要性も、その場に関わってくる人や団体の関係性からもたらされて、そうした関係性とは無縁の領域では、あまり意味も意義もないものとなってしまうのかもしれず、またそうした関係性の中で人や団体の活動が成り立っているとしても、その関係性自体がその場に固定されているとは言いがたい面もあって、その関係が何らかのきっかけから崩れてきたり、ずれたり外れてくれば、そこで価値や必要性を担っていた物事も、その程度や強度が変容してくるのかもしれないし、そういうところから、以前は価値も必要性も高く、その関係性の中で活動する人や団体にとっては重要な物事だったものが、何かのきっかけから、それなしでも活動が成り立つようになってしまうと、途端に重要ではなくなって、価値もなく不要な無用の長物となってしまう場合もあるだろうし、それが現状の日本では、例えば原子力発電所であったり在日アメリカ軍であったりすれば、多くの人々が喜ぶかもしれないが、実際の成り行きとして今のところはそうはなっていないわけで、それらを無用の長物として廃棄したい人たちは、そこに関係してくる人や団体の活動を、どうやればずらしたり外したりできるかを模索しなければならず、そういう面で人為的にやれることを考えなければならないだろうが、それが現状ではどうにもならないことだとすれば、あきらめなければならないのかもしれないが、人為的にはどうにもならないとしても、それらを取り巻く環境や状況が勝手に変わっていってしまうこともあるだろうし、そうした状況や環境の変化に連動して、人為的にやれることも生じてくるわけで、そういう意味では絶えず同じようなやり方に固執するのではなく、その場の状況に応じて、可能な限りで様々なやり方を試してみるしかないのではないか。


2月13日「他信と自信の関係」

 人が信じられる物事は人によって異なるかもしれないが、たぶん何かを信じているように見える人は、それを過信したり盲信しているようにも見えるから、そうした過剰な面が否定的に感じられてしまうわけだが、その一方で信じることと疑うことが表裏一体となっている可能性もあるのかもしれず、実際に特定の何かを信じれば信じるほど、かえってそれへの疑いの気持ちも深く執拗に感じられてくるのかもしれないし、そこで信じるか疑うかの葛藤が起こって、それなりに思い悩むわけだろうが、そういうところで善意が勝って信じなければならないと思い込むことが、過信や盲信をもたらして、判断のバランスを欠いてしまうのかもしれず、そうした事態を招いてしまう原因としては、信じている対象からよく見られたいという体裁を取り繕う態度にもあるのかもしれず、そういった心の隙をつけ込まれて、甘い言葉をかけられて、相手からよく思われているのだから信じなければならないという義務感も働いて、安易にたぶらかされてしまうのかもしれないが、そういった経緯から特定の人や団体を信じてしまうにしても、そこで思いとどまって判断しなければならないのは、それが詐欺や騙しの常套手段であり、人をたぶらかすための見せかけの演技でしかなく、心底から相手を信頼していないから、そういうテクニックを使って、他人から信頼を勝ち得たいわけだが、それも心理的な範疇のことでしかないだろうし、それに対しては素直にその人が何かを行なった結果から判断すればいいことでしかないのかもしれないが、それも見せかけだけではなく、現実の行為によって他人からの信頼を勝ち取るテクニックもあるわけだから、そうした行為が演技でしかない面があるとしても、判断がそれだけ難しくなってくるわけだが、そもそも他人から信頼や信用を得て、優位な立場や有利な状況をもたらすことに成功したとしても、それは一時的なことに過ぎない場合も多いだろうし、また何らかの行為が、その信頼や信用を裏切る場合もあるわけだから、そうした信じる気持ちが長続きしない場合も多いわけで、そうやって過信したり盲信したりして、その度合いが強いほど、それが裏切られた時には、反動もそれだけきつくなるわけだから、それ自体が相対的な程度の問題にしかならないのかもしれないし、一般的には信じることだけで何がどうなるわけでもないのだろうが、何かにすがりたい気持ちになれば、やはり信じることに一縷の望みを託すようなことにもなるわけで、その結果としてやっていることがうまくいけば、信じたことが間違いではなかったと実感するだろうし、それが時と場合によっては信じることで救われた気持ちになれるわけだから、何かを頑なに信じて、そういった信条を曲げないことが、その人の心の拠り所となっている場合もあるわけだ。そういう意味で信じることが、その人の心理面では重要に思われてくるわけだが、その一方で実際に何かを行うことが実質的なその人の活動の実態となってきて、信じているだけでは確かな感触を得られないから、実際に何かを行なってみて、自らの存在やその能力の有効性を確かめようとするわけで、そうやって良い感触を得られたら、そんなことを行なっている自らを信じられるわけだが、そんな自信が活動の継続にとっては糧となるだろうし、また自信を失うとやっていることを信じられなくなって、それが活動が途絶える原因ともなるのだろうが、自信を失う原因としては、やっていることが周囲から認めてもらえなかったり、それどころが反発を招いたりすると、ますます自信を失うことにもなるのだろうが、逆にそれが自信を深める場合もあるだろうし、特に他から強い反発や反感を招いているなら、逆の意味でそれが他から注目を集めていることになるわけだから、自らのやっていることが何か人の感情を逆撫でるような効果があると思い込めるわけで、それもれっきとした世の中に作用や影響を及ぼす行為とみなせば、何かそういう面で自らが主導権を握っているような気がして、だからそれが炎上商法の類いとして魅力を持つのだろうし、世間の注目を集めるために、そういう部分で勘違いなことをやる人が出てくるわけだが、それはやってはいけない行為をあえてやって見せて、そんなことができる自らが優れているのかのように、あるいは勇気があるかのように見せかけられたと思い込むことにもつながってくるわけだから、それも他人をたぶらかすテクニックの類いとして、見せかけの技術になるのかもしれないが、それは同時に蛮勇を振るうことによって、自分をたぶらかすテクニックでもあるわけだろうし、もちろんそんなことをやっている自身が、自身をたぶらかしているとは自覚できないだろうが、それなりに自己満足や快感を得られるから、特に悪びれる様子もなく平然とそんなことをやってのけるわけだろうが、それでも自分が自分を騙していることには気づけないわけだから、それによって騙していることが証明されてしまい、そういうところでごちゃごちゃと自らの思いに自らの行いがフィードバックしてくるような、わけがわからない快楽を伴うわけで、それを自家中毒と呼べばそれなりに納得できるかもしれないが、そんなことをやっている人を信用できるかとなると、自覚なくそんなことをやっていること自体が、その人を信用できるか否かの面で、どう判断すればいいのかわからなくなってくるところかもしれないが、普通は信用できないと思うわけだが、それを自らに当てはめてみれば、自分にもそんなところがないわけではないだろうし、そもそも自信を深めるという心理状態自体が、自らが自らをたぶらかしている状態なのかもしれないし、そういうところで、誰もがそうしたことを行う可能性があるのかもしれないし、そうであるなら、そんな炎上商法をやっている人を絶対に信用できないとは言えないのかもしれず、実際にその人やその人の行為をよく観察してみれば、そんなひどい人であっても、何かしら信用できる面もあるだろうし、その程度の認識で構わないようなことになると、そういうところからも、自他ともに信じることの相対性が導き出されてくるのかもしれないし、そんな信用もケースバイケースで様々な程度や強度を伴ってくるのかもしれない。

 それが過信や盲信にならない程度で、信じることの効用に結びついていることは確かなのかもしれないが、それでも信じることだけを他の心理作用と比べて重要視するわけにもいかないだろうし、信じることによって他の思いや行為との間でバランスが崩れてしまうと、やはり過信や盲信や狂信などを招いて、その人をおかしな行為や行動に至らせてしまうわけだろうが、実際にそうなってしまっても、その人に自覚がなければ、場合によっては気が狂ってしまったことにもなるだろうし、それもどこまでが正常でどこからが異常であるかの判断に、明確な基準や境界があるわけでもないから、その場の判断からその人が狂人だとみなされても、そうした判断がどこまで信用できるかは、人それぞれで違ってくるだろうし、仮にその人が医療的な判断から狂人とみなされたからといって、特に支障をきたさない限り、その人に対する接し方を変えることもないわけだが、何かそういうところではっきりさせるようなことがなければ、そのままの生活が送れるだろうし、それに関してあまり事を荒立てる必要はなく、たぶん人というのは気が狂うぐらいがちょうど良いのかもしれないし、そういう面がないと、ただの社会的な慣習や制度のロボットでしかないような状況となってしまうのかもしれず、そういった決まり事やしきたりなどに従おうとするにしても、全面的にはそれらに依存できない事情が出てくるから、ロボットではいられなくなるわけで、場合によってはそこから気が狂ってしまうこともあるだろうし、そういう面で社会的な慣習や制度を全面的に信じるわけにもいかなくなるわけで、ほどほどのところで、それらを裏切れるだけの心の余裕を確保しておかないと、やはり気が狂ってしまうわけだろうが、それに関しては例えば有言実行とかにこだわってしまうのも、必ずそれができない場合が出てきて、結果的にそんな自らの信念を自ら裏切ってしまうことからも、自らを信用できない面が出てくるわけだが、何か一度決めたことは守らないと、そうした決まりも決めたことを守る誓いも、信用できないような事態に陥ってしまうから、そこから信用が崩れてくるわけで、そういうところでも信じるということが、その時点では信じられるが、そこから状況や情勢が変われば信じられなくなったり、また信じていることを裏切るようなことを、自らがやらなければならない事態に直面してしまい、そこで信じるということが、何か決まりを守るようなことと連動していて、その決まりを守れたら、信じていることが証明されるような試練に直面してしまうわけで、そうした試練に自らを追い込んでいくと、どうあっても決まりを守れないような状況に陥った時に、錯乱状態となってしまうのかもしれないし、そういうところではあまり自分を精神的に追い込まないような余裕が必要なのかもしれないが、その場の事情がそれを許さないことになってしまうと、やはり追い詰められてしまうから、それが突飛な行動となって現れたり、その最たる行動が自殺になるのかもしれないし、そこでも自分をごまかしたり裏切ってしまえる人は強いのだろうし、そうした強みを活かしてたくましく生きていければ、そこからも社会的な信用が生まれてくるのかもしれず、そうやって自分や他人を裏切ってもなお他から信用されるような人には、それなりに信用されるに値する何かがあるとしか言いようがないだろうが、それをその人の魅力と言ってしまうと身も蓋もないだろうが、魅力であっても構わないのかもしれず、全く信用できないような人が、それでも他から期待されて、しかもその期待を裏切り続けているのに、なおも信用されてしまうような人には、今は状況的に期待を裏切るようなことを繰り返しているとしても、将来の情勢や状況によっては、何かその人がうまくその場の状況にフィットして、何らかの働きをするような期待を抱かせる兆候を感じ取れるから、現状では何か憎めないような数々の失敗を重ねながらも、その人を生かし続けるような成り行きが生じてしまうのかもしれないし、結構世の中には思いの外そう思わせるような人がたくさんいて、実際にその中の何人かが将来成功するのかもしれないし、そうした将来の成功を見越して、現状の失敗などは大目に見ておくような状況が、その場に生じているのかもしれず、そんな状況の中で、そうした将来に役に立ちそうな人の失敗をことさらに批判するような人は、すでに状況から見放されているのかもしれないし、少なくともその場の状況を見誤っている可能性が高く、たとえその批判が正しいように思われても、実際に正しいことをいくらでも述べているのに、何か信用されないような人もいるわけで、そういうところで何が正しくて何が間違っているかについては、はっきりしたことは言えなくなってしまうわけだが、要するにある方面では正しくても別の方面では間違っていたり、あるいは正しいと思われることが、その場では正しくても、そこから状況や場所が変われば、正しいとは言えないようなことになってしまったり、その逆にその場では間違っていても、そこから状況や場所が変われば、正しいとは言えないまでも、特に批判するような間違いでもなかったりして、その辺の微妙な判断に関しては、やはりよくわからない面があるわけで、そういうところであまりも性急に良し悪しを判断してしまうと、そうした判断を裏切るような事態が忘れた頃にやってきたりして、そうなるとその場で性急に良し悪しを判断してしまったことが仇となり、そのことのために他から信用されなくなってしまったり、別にそうなっても構わないのかもしれないし、そんな判断をしてしまった人は、その場だけの人だったのかもしれず、その場の状況が変わればそこでお役御免となって、そこから退場せざるを得ない人だったのかもしれないが、ではそういうところでどう判断すれば良かったのかと問われても、やはりそれもよくわからないところだろうし、その判断の良し悪しを後から振り返れば、どうとでも言えるようなことになってしまうのかもしれないので、そういう面ではあまり判断の良し悪しを云々する必要はないのかもしれない。


2月12日「理想と現実」

 揚げ足取りのように特定の個人にいくらでも悪口が言えるわけでもないだろうが、その人がそこまでに至った経緯や、また現状で活動している内容からも、特有の難点や欠点があげられるかもしれないし、それを難点だとか欠点だとか否定的に捉えるのではなく、肯定的な利点や長所として捉えて活用できればいいわけだが、そんな虫のいい捉え方が全ての面でできるわけでもないとしても、少なくともその逆に全ての面で否定的な見方や考え方の水準に留まっていては、何もできないし、何もやりようがなくなってしまうのかもしれず、そうした物事に関して否定性の水準で何か語っていれば、気楽になれるかもしれないし、ただ何もやらずに文句ばかり言っていられたら、文句を言う対象に関する知識が増えて、また文句を言う技術やノウハウに磨きがかかるかもしれないが、そうなると文句を言う専門家になってしまって、他では使い物にならない人になってしまうのかもしれないし、そういった使い物にならない人が世間的に信用されるかというと、文句を言うことにかけては信用されるかもしれないが、それ以外では信用されないのかもしれず、それがその人にとって良いことなのか悪いことなのかは、その人の判断にまかされている面もあるだろうが、そういう面ではそういうことでしかなく、取り立てて文句の内容に言及するまでもないことであり、それよりは文句を言われる人たちについても、それなりに文句を言われるだけの何らかの否定的なことをやってきたのかもしれないし、そうしたその人がやってきたことや言ってきたことについては、文句を言われても仕方のない面もあるのかもしれないが、だからと言ってそういう面も考慮してなお、そういった人の可能性を信じて、その人のやっていることに賛同したり支持する人もいるだろうし、そういった人の能力の可能性を信じることが間違っているとは言えないが、たぶんその場の成り行きとして、何が良くて何が悪いというよりは、その人を取り巻く状況がその人に何かをやらせる成り行きとなる場合もあるだろうし、いったんそうなってしまえば、それ以前のその人の評価とか信用とかを度外視して、なぜかその人を中心にして物事が動いていくような成り行きも生じてくるわけで、そういう面でその場の状況がその人を作り上げるような成り行きが生じてくれば、その人の過去の評判や経緯がどうであっても、その場の状況に応じた行動が取れれば、それで構わないようなことになってしまい、そうやって良い意味でも悪い意味でも期待を裏切るようなことが行われてしまえば、そこに加わってくる他の人や勢力がどうであろうと、そんな人たちを巻き込んで何らかの情勢が動いていってしまうのかもしれず、そうなるとその人が悪かろうとひどかろうと、そんな評判などおかまいなしに、事が運んでいってしまい、その人が人物としてどうのこうのと文句を言っていた人は、状況から置いてきぼりを食ってしまうわけだが、果たしてそんな成り行きが必然的に生じるかというと、普通は偶然の巡り合わせからそんなことが起こるのだろうが、そういった偶然に巡ってくる機会を捉えられるかどうかとなると、その点に関してはその人の能力がどうというよりは、その場の状況がそうさせる可能性の方が高いのかもしれず、そういう意味ではたとえ現状で評判の悪い人でも、そうした世間的な評判自体が、すでに世間的に注目されていることになるのかもしれず、そういう意味では、何か世間的に成功したり失敗したりした前科のあった人は、またこれからも安易に活躍できる機会が巡ってくるのかもしれないが、だからといってそうした活躍が何を意味するわけでもなければ、何がどうなるわけでもないのかもしれず、ただそういうことも含めて世の中には様々な成り行きから、世間的に注目を集める人が出現するにしても、その人がどうということよりは、そんな人とともに何らかの状況が生じることがあるのだろうし、その状況が政治的な状況なのか経済的な状況なのかはさておき、そうした状況に応じて他の人や団体の活動も変わっていけば、それが現状を変える可能性となってくるわけで、機会を捉えるにはそうした状況が変化する兆候を察知して動くしかないだろうし、もちろん動いたからといってうまく行く保証などなく、結果的に失敗に終わったり空振りに終わったりする可能性の方が高いのかもしれないが、そういうところでも他の人や団体との協力や連携の関係があれば、それだけうまく行く可能性も高まるのかもしれないが、だからといって、組む相手を間違えば、間違った方向へと導かれて、うまくいかないばかりか窮地に陥ってしまう場合もあるだろうし、そういった面で何らかの勢力同士の提携に関しては、それが裏目に出ないように細心の注意を払う必要があるのかもしれないが、その時点ですでに窮地に追い込まれているような切羽詰まった状況に陥っていれば、選り好みはできないだろうし、手を差し伸べてくる相手ととりあえず手を組むような成り行きになってしまい、そうなってしまった時点で失敗が目に見えているような感じになってしまえば、その先には破滅が待ち構えているだけかもしれないが、破滅したところで再起を図れる可能性があれば、それで構わないのだろうし、またその可能性が皆無でも構わないのかもしれないし、かえってそうやって駄目な勢力が潰れてしまった方が、先行きの視界がひらけて、そこから新しい活動が開始されやすくなるのかもしれないし、実際にそうなった時には、後腐れなく旧勢力が一掃されていてほしいのだろうが、現状で再浮上を狙っている勢力としては、まずは自分たちがお払い箱とならないように、必死になって世間の関心を煽って、民衆の支持や賛同を取り付けようとするのだろうし、またそれが政党などの政治勢力となると、何らかのメディアの支援を取り付けられれば、そのメディアを使って宣伝や煽動をやりまくることになるのかもしれないが、そういう成り行きにならなければ、それまでのことなのかもしれず、案外そうなる以前に終わってしまった方が、世の中のためになるのかもしれない。

 政治活動などはその程度のことだと捉えておけば、それが他の様々な活動であっても、その程度のことに過ぎないのかもしれないが、そこであまり深刻に考えるような状況ではなければ、気楽にそういった活動と付き合っていけるかもしれないし、一般の民衆ならそんな成り行きでも構わないだろうし、実際にも経済的な利害が絡んでこない限りで、そんな成り行きになってしまうだろうし、そうやって損得勘定とは無縁の政治活動が行われることになってしまうのかもしれないし、そうであれば何の問題もないところだろうが、一般の民衆にとってはその程度で済ませておいた方がいいとしても、職業的に政治に関与しているような人たちだと、それでは済まないのだろうし、また本業が政治活動になってしまうと、そうはならないわけだろうし、そういう面でお気楽な態度ではいられないわけだが、だからと言ってそれは制度的な態度でしかなく、それに関して国民主権の民主主義の原則論を蒸し返してみても仕方がないのかもしれないが、それに関して現状で何か政治的に行き詰まりを感じられるとしたら、それはいつの時代でも感じられたことかもしれないし、もちろん感じ方は時代によって異なってはいるだろうが、たぶんその行き詰まり感が政治状況を前進させるわけで、行き詰まりを実感して、このままで大変なことになるという思いが、政治を動かすのだろうし、いつでもそうやって危機意識を抱いていないと、現状維持に甘んじてしまうわけで、そして目下のところの政治課題というのがはっきりしているほど、それが現状を変革するための動機ともなるだろうし、そういった課題に民衆の関心を集めて、変革が期待される勢力に選挙で投票するように呼びかけることによって、何か世の中が動くような期待が高まるのかもしれないが、実際にそうなるかというと、やはりそうでもないような現状があるわけで、それが微妙な空気となって世の中に蔓延すると、変革への期待がしぼんでいって、それに替わって現状維持の空気がじわりと膨らむのかもしれないが、それに関しては、あまりそういった政治宣伝を真に受ける必要がなければ、変革の期待など抱かないだろうし、また民衆の間で期待が巻き起こるとしても、わざとそれに重ね合わせる形で、紛らわしい偽の変革を煽るようなことが行われるわけで、そういうことが現状の維持を図ろうとする保守勢力によって画策されているわけでもないだろうが、そういった保守勢力による変革というのが、現状の維持と表裏一体となっているだけに、何かわざと民衆の期待を捻じ曲げてごまかすように誘導しようとしていると思われるのだろうし、また実際の政治的な行為による変革というのも、その程度の変革にとどまることが多いのかもしれないし、そういう意味では変革自体が、民衆の期待とは相容れないというか、そもそも民衆の期待というのも、世論調査で構成される世論や民意といった、メディア上で作られたフィクションとなる可能性も高いだけに、何やらそういったところから、政治に対する幻滅がもたらされて、民衆の政治に対する無関心に拍車がかかるのかもしれないが、たぶんそういったうがった解釈を受け付けないような、何か真の政治的な行為というのが実現できるかとなると、それこそが作り事のフィクションとなりかねず、結局は妥協的で幻滅的な行為が現実的な行為として実際に行われるわけだろうが、そんな行為はこれまでも繰り返されてきたし、またこれからも延々と繰り返されていくのかもしれず、そうした行為に幻滅を覚えながらも、政治的な無関心への同調圧力にも屈せず、なおも理想を追い求めることができるかとなると、今度はそうした理想というのが、妙に現実離れしたおとぎ話のように思われてくるわけだが、ではそこから理想を捨てて現実に行われていることと折り合いをつけて、大人の判断として現状の維持に加担した方がいいのかとなると、たぶん加担する必要はなく、また政治的な理想を捨てなくても構わないだろうし、さらにまた政治的な無関心に同調しなくても構わないのかもしれないし、何かそういうところで子供じみていることが肝要なのかもしれないし、それに伴って、現状では実現困難に思われるような理想を掲げる少数勢力を応援しても構わないだろうし、それは一般の民衆の態度としては最も気楽で最も善良な部類に入るだろうし、そういうところで妙に大人ぶった訳知り顔で保守的な現状維持に賛同する必要はないわけで、どう見ても烏合の衆のように見える、世間知らずで批判や反対ばかりしている勢力を応援していても構わないだろうし、かえってその方が政治的な幻滅からは無縁でいられるのかもしれず、実際に世界中を見渡しても、政治的には大したことは行われていないわけだから、それなら実現不可能な理想を掲げているような勢力を応援している方が、それだけ余裕があることになるだろうし、実際にそういった勢力に主導権を握らせて無茶なことをやらせてみた方が、世の中が混乱して退屈な現状からおさらばできる可能性が高くなるかもしれないし、その方がひたすら安定を求めてじり貧になるよりは、ましなことなのかもしれないが、たぶん民衆の側にそんなことを許すほどの度量や度胸がないから、理想主義的な政治家たちを腐らせてしまうのだろうし、そうした政治家たちが腐ったなれの果てが、現状で主導権を握っている政治勢力に属する政治家たちなのかもしれないし、ただ単に詐欺やごまかしに長けているだけに見えるそうした政治家たちも、昔は理想に燃えていたのかもしれないし、何やら高邁な志を抱いて政治に取り組もうとしていたのかもしれないが、そう思ってしまうのも勘違いな思い込みに過ぎないのかもしれないし、別に政治家が詐欺やごまかしに長けているのは、難点や欠点ではなく、むしろ利点や長所と見ないとまずいのかもしれず、そういう意味では実際に現状で主導権を握っている政治勢力が悪いわけでもないのかもしれないし、そういうところで民衆が抱く現実離れした理想と、現実の政治との間でバランスを取るような作用が働いているから、詐欺やごまかしに長けているように見える政治勢力が政治の場で主導権を握っているのかもしれない。


2月11日「国家の工場化」

 現状の中で何が良くて何が悪いとも思えなければ、現状維持の姿勢に関しても、それが良いとも悪いとも思えないだろうし、だからと言って現状を変革しなくても構わないとは思えないものの、そもそも現状の変革とは何かとなると、ただ漠然と変革という言葉を使って、何らかの勢力が何かをやろうとしているのかもしれないし、そこで具体的な変革のプランがそれなりに示されているのかもしれないが、別にそれに興味があるわけでもなく、それが今のところは空約束に過ぎないと思われる限りで、机上の空論とみなすしかないとしても、別にそれでも構わないだろうが、そうした変革を信じているわけでもないのだが、それとは別に、変革しようとする様々な勢力の思惑を外れて、今のところは誰にもわかっていない何かが動き出すのを期待しているのかもしれないし、その期待が誰の期待とも一致しないことも期待しながらも、そこで期待という言葉に込められた思いというのが、本来の言葉の意味とは一致ないことも承知しながらも、では期待とは何かといえば、そう思っていることに関しては何でもなくはないが、その実態としては何でもないようなことかもしれないし、たぶんそれが結果として、何でもないことになってしまっても構わないのかもしれず、変革への期待にはそういう期待外れの意味も込められていて、変革しようとする誰の思惑からも外れたところで、世の中が変革とは無関係に変わってほしいという思いですらも裏切られるのが、通常の意味とは違う変革なのかもしれず、結局それが公平性という何でもない状態へと人の意識を導いていくことを期待しているのかもしれない。もちろん誰も何も導かなくても構わないだろうし、誰の導きも経ずに、そうなるしかないような結果がもたらされれば、誰もがそこで思い通りにはならない現実に直面するのかもしれないが、実際にそうなったとしても、誰もそうは思わないだろうし、絶えずそこから自らにとって都合の良い面を探し出そうとして、それを探し出せれば、そこを強調して宣伝したり煽動すれば、それがその人にとっての思い通りの結果となるのかもしれず、それはそんな思い込みの中での思い通りなのだから、客観的には思い通りであるはずがないのだろうが、当人が思い通りだと思っている限りで、当人にとっては思い通りなのだろうし、そうやって思い通りの結果を導き出すために、そこに介入してくる各人が、各人の思い通りの結果がもたらされたと思い込んでいれば、それで済んでしまうとは思えないが、そんな思いの中の現実と実際の現実とが違うとしても、その違いを認識できなければ、思いと実際の現実が一致しているとも思い込めるし、そうであるならそれで構わないのかもしれず、何かそういう面で、その人が思い描くご都合主義的なフィクションの果たしている役割が大きいのかもしれないが、現実の世の中にしても、そこに存在する様々な人が、自分にとって都合の良いフィクションを現実から抽出できれば、それで丸く収まるような世の中なのかもしれないが、中にはそれでは丸く収まらない面もあるのだろうし、そういうところでは対立や争いが絶えないのかもしれないが、実際に争って勝敗が決すれば、勝った側ではそれなりの満足感を得られるし、また勝った側がその場での主導権を握れば、負けた側の不満を抑え込むのにも成功して、そういう成り行きでも丸く収まったように見えるかもしれないが、そういった勝ち負けが伴うような争いは一種の儀式であり、ルールに基づいて形式化された争いでもあり、それがフィクションだとは言えないにしても、争った結果として、争いに決着がついたように見せかけるための演劇なのかもしれないし、それが勝者の栄光によって、争いの醜い実態から目を背けさせるための制度であることは確かだろうし、そういう意味で勝利とは、争いが終わりなき闘争であることを束の間忘れさせるためのおまじないの類いでしかないのかもしれないが、そうやって人目をごまかすことに成功すれば、そうしたスポーツと化した争いにも継続の可能性が出てくるのだろうし、そういうやり方の形式化された儀式によって、世の中の安定が図られて、それが民衆の不満や文句や批判を黙らせる効果があるのかもしれない。もちろんそういう面を否定的に捉える必要もなく、そこで争いが人為的に制御された社会が構成されていれば、それなりに安心できるだろうし、そうした安心が民衆に支持されているから、内戦を伴うような暴力革命よりは、選挙によって政治的な主導権を握った勢力が、民主的な変革を行うことが期待されているわけだが、その変革の中身というのが、やはりおまじない的な儀式や演劇でしかなければ、やはり期待外れだと思うだろうが、それを期待外れだとは思わせないようなフィクションを提示できれば、何やら民衆から支持が得られるかもしれないが、政治勢力による変革が現状でそれほど期待されているかとなると、ただそれは選挙などで争うための方便のような感じもしないではなく、そういうところで実現できない空約束をいくら提示されても、それは何でもないことでしかないだろうし、具体的に現状で問題になっていることに関して改善する見通しが立たない限りは、それを変革することができないわけだが、しかもその問題となっていることに関して、そこに構成されている利害関係を壊さないと問題を解決できないのに、そうした利害関係に現状で主導権を握っている政治勢力が深く関わっている場合には、それを壊すわけにはいかないので、ますますそういった方面での変革の可能性が遠のくのかもしれず、そういうところで宣伝文句としては変革を掲げることがあっても、それが実際の変革には結びつかないと判断するなら、それがそういう面での変革を期待できない事情となるわけだが、政治的な面ではそうであっても、そうした変革とは無関係に、世の中が変わり続けている面があることも確かだろうし、そういう意味で政治に変革を期待するというのとは違った何かを、期待せずにはいられないわけでもないだろうが、期待外れでも構わないような現状でもあるわけだ。

 要するにそういう思いは、思いがけない出来事が起こるのを期待しているのかもしれないが、誰もがそんなことを思っているわけでもなく、またその思いがけない出来事が起こっているのに気づかない場合もあるだろうし、それを期待していて、実際に期待していたことが起こっているのに気づかないとなると、それに気づかない自らが期待外れなのかもしれず、そういう意味で期待外れでも構わないということなのかもしれないし、人はそうやって世の中の変化に気づかないままでも、普通に生きていられるだろうし、かえって多くの人たちが気づかないからこそ、それらの人たちが知らない間に、世の中が変わっていくのかもしれず、そういう意味では誰もが気づくような大きな歴史的な転換点よりも、そういった変化の方が実際に世の中を変えている可能性が高いのかもしれないし、かえって思いがけず起こったように思われる革命などの歴史的な転換点を用意するのも、そのような誰もが気づかないままに起こる変化なのかもしれないが、例えばなぜフランス革命が起こったかというと、対外戦争の出費や宮廷の浪費などによる財政危機と、天候不順で農作物が育たずに飢饉状態なったりしたことが、主な原因と考えられてはいるが、それだけでは王制が打倒されるわけでもないだろうし、それ以外の要因として、世の中の様々な面で産業が発達してきて、その中で特に様変わりしたのが、工場の出現であり、それと同時に学校でも病院でも軍隊でも刑務所などでも、人を集団として管理する技術が目覚ましい発展を遂げて、それらが皆、工場のように集団で合理的かつ効率的に作業するような形態となっていったわけで、またそこから人を集団で管理するためのシステムとして官僚機構も発展していったわけだが、結局発端はどうであれ、国民を集団として管理統治するためには、国家形態がどうあるべきかとなると、非効率で無駄なものは要らないように思われてくるわけで、結局それで王制は要らないという結論になったわけだが、国家が工場だとすれば、民主主義も要らないようにも思われてくるわけで、それがナポレオンの帝政にも結びついたわけだろうが、それでもやりすぎな面があったから、また君主制に戻ったり、さらにまた共和制や再度帝政も復活した時期もあったが、最終的には共和制にまた戻った経緯もあるわけだが、そのような工場的な人の集団管理体制の問題点にいち早く気づいたのが、実際にイギリスの工場で劣悪かつ危険な環境で長時間低賃金労働を強いられていた労働者の惨状に衝撃を受けたマルクスだったとしても、マルクスの後継者を自認する人たちは、国家の工場化にそれと気づかずに突き進んでいってしまうわけで、それがスターリンや毛沢東だったわけだが、一方でヒトラーも国家の工場化を目指したわけであり、それには人種的にも民族的にも同質で、ただ何も考えずに指導者に盲従する従業員としての国民が必要とされたわけだが、そこにもフランスと同時期に、官僚機構の指導の下に国家の工場化を目指したプロイセンの伝統が息づいていたのかもしれないし、またプロイセンでは立憲君主制だったので、それに明治維新当時に海外視察を行っていた日本の官僚たちも目をつけて、プロイセンの制度や法律を日本にも採用したわけだろうが、マルクス自身は19世紀のイギリスにいたわけだから、国家の工場化自体には気づかなかったとしても、20世紀入ると、フランスでフーコーやドゥルーズ=ガタリなどがそれに気づいたわけだろうし、中でもフーコーはフランス革命前後の時代に、いかにして人の集団的な管理統治技術が発達していったかを、『監視と処罰』(邦題では『監獄の誕生』)で、フランス革命自体には一切触れずに詳細に物語っているし、ドゥルーズ=ガタリも『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』などで難解に語っているのかもしれないが、結局マルクスと共産主義を結びつけて恐怖を煽るような人たちは、工場的な国家の管理統治には気づかないばかりか、実際に国粋主義的な人たちは、国家の工場化をさらに推し進めようとしているのかもしれないし、またドゥルーズの難しい哲学書を読み耽っているような頭のいい人たちも同様に気づかないだろうし、たぶんフーコーの『監視と処罰』を読めば嫌でも気づくはずだろうが、それでも刑務所内の人権問題などへと矮小化して問題を取り扱うようなことになってしまっているのかもしれず、そういうところで、フーコーやドゥルーズ=ガタリ以外は誰も気づいていないのに、実際にそうなってしまっている現実があり、また彼らが彼らなりのやり方で、そうしたことに関しての書物を著して、世界中で多くの人たちがそれを読んだにも関わらず、依然として本当の工場とともに工場的な国家体制も世界中で推し進められているだろうし、別にそれ自体が問題だとは思われていないばかりか、それが当たり前のこととなっているわけだから、そういう面では人為的には変革しようがないわけだが、それでもそれと気づかずに、工場自体の作業形態もそれなりに進化しているわけだろうし、また工場自体が企業形態の中では部分的な要素になってしまっていて、企業内の人員の管理統治体制も昔と今では様変わりしている面もあるだろうし、それが政府の官僚機構の体制や官僚機構が国民を管理統治する体制にも、それなりに影響している面もあるのかもしれないが、そういうところで政治問題化する人々がそれに気づいているかとなると、たぶん気づいている面もあるのだろうが、それとこれとをリンクして考えられるかとなると、それよりも民主主義の方に気を取られてしまうだろうし、民主的なやり方と官僚主義的なやり方とを対立的に捉えて、制度や機構を民主的なやり方にしようとしているわけで、たぶんそこが工場的な国家統治に気づきにくくしているところかもしれないし、それ以前にすでに学校教育の段階で、工場的な管理統治を当然のこととして受け入れて、通過してきてしまっているわけだから、そこで免疫がついてしまっているから、それに気づかないような意識が形成されてしまっているのではないか。


2月10日「衝撃的な出来事」

 過去に起こった出来事の中で、それがその時点で誰も予想もしていなかったような思いがけない衝撃的な出来事であれば、その出来事が多くの人々の記憶に残って、またそういった出来事が歴史文献などにも記されることが多いのかもしれないが、その一方で、何でもないような些細な出来事でも、それがその時代の世相を反映する何らかの兆候を示しているようなら、そうした出来事が当時の世の中の状況や傾向を物語っているだろうし、またそんな出来事と似たようなことが現代の世の中でも起こっていたら、それが当時と今とで世の中に同じような作用や影響を及ぼしている場合もありそうで、そういう世の中の状況や傾向を物語るような出来事を、過去の時代の中で探してみれば、それが現代の時代を理解するのにも手助けとなるのかもしれないが、それが具体的に何かとなると、過去の時代について記された文献などを詳しく調べてみないことにはわからないだろうが、たぶんそんな昔のことでなくても、つい最近に起こった出来事であっても、世の中の状況や傾向を物語るようなことがうかがい知れるかもしれないが、それが何を物語っていようと、そこから何がわかるとしても、興味のない人には意味のないことかもしれないし、そういった物事はごく限られた人にしか理解されないことになってしまうのかもしれないが、そういう特定の出来事からうかがい知れる兆候に、何か現代の現状を象徴するような特徴が表れているのかもしれず、またそういうところから、現代に生きている人々の意識の深層心理に働きかけるような、何らかの作用や影響が及ぼされているのかもしれないが、そうした兆候を伴った出来事に関して、それが些細なことだとは思われないような、またある意味では深刻に受け取られるような話題として、例えば、不満だらけの生活環境にある人ほど、そうした不満のはけ口として、児童虐待などの弱い立場にある対象に向けての攻撃に転嫁されるような傾向があるとすれば、そういう出来事が頻発するような社会では、メディア上では盛んに様々な欲望を煽るような宣伝や煽動が行われているにも関わらず、現実には経済的な事情などで、その欲望を成就できる人の割合が少ないと、社会の中に不満が渦巻いているような状況となって、結果的に児童虐待などが頻発するような社会情勢となるのかもしれないが、もちろん児童虐待が頻発する理由として、そんな粗雑な推測が当てはまるとは思えないにしても、そうした傾向にも程度の問題があるだろうし、またいつの時代でもそんなことは起こっていたのかもしれず、それを取り立てて現代に特有な兆候や傾向として問題視するのも、的外れかもしれないし、またそうした問題に関して、現状が過去の時代と比べて、取り立ててひどいわけでもないのかもしれず、しかもそんな憶測を用いて、そうした社会問題などをもっともらしく語る行為自体も、いつの時代でも語られてきたことかもしれないし、またそれを安易に政治問題化させて、児童保護などに関して行政の制度を改めなければならないと主張することも、そんな事件が起こる度に言われてきたことかもしれないし、そういう方面で有効に機能するように、公的な制度を改善しなければならないのは当然のことだとしても、そうした制度的な改善だけではどうにもならない面もあるだろうし、たぶんそうしたどうにもならない面が、それについて語る余地を生じさせていて、社会の中で否定的に見えるそうした面を改善させることに関して、何やらもっともらしい意見がメディア上で主張されることもあるのだろうが、たぶんそういうこととは違って、もっと単純な傾向として、公的な制度が人の私生活に干渉しようとする兆候があって、人の状態や状況をできるだけ正確に詳しく把握しないと、きめ細やかな対応ができないから、人の行動や活動を徹底的に監視するような成り行きになってしまうと、それが単刀直入に街中が監視カメラだらけの監視社会になりかねない問題が出てくるわけだが、そして行政機関などから私生活を監視されたり、場合によっては介入してきたり干渉されると、当然不快になるから、なるべくそういった監視や介入や干渉などをされないように、一般の民衆の側で自己防衛することにもなるわけで、そういう面で監視社会にはしないで、しかもきめ細やかな行政機関による対応が求められてくると、現状のやり方ではうまくいかない面があるだろうし、そういう部分でどちらの側にもジレンマがあるのかもしれないが、それでも現状で改善できる面は改善するとしても、それが根本的な解決にはなり難いことは承知しておくべきかもしれないし、常にそこで人ができることに関してのせめぎ合いが生じていると捉えておくべきで、一方が何かをやれば、もう一方はそれに対応して、そのやったことへの対策を立ててくるわけで、そういう面で一定の決められた動作しかできない制度的な対応だけでは後手に回ってしまうのは否めないし、それが制度的な限界でもあるわけだが、またそういう意味ではそれが制度の特徴だと言えるだろうし、仮にそれが制度の限界だとしても、決められた手順や枠組みを定めるという面では、制度が社会の中で有効に機能している面もあるわけだから、結局制度はそういう面で有効に機能していればそれで構わないわけで、それ以上の機能を制度に求めない方が妥当なのかもしれないし、そういうことを踏まえて対応するとすれば、制度から逸脱した対応が求められてしまい、そうした部分が制度を運用する側に求められているかというと、そうでもないだろうし、結局そういう部分で制度の限界に直面すれば、自然と事なかれ主義にならざるを得ないだろうし、制度的には弾力的な運用とか柔軟な対応とかは求められていないのだから、そうなると行政の側では責任逃れとも受け取れる対応になるしかないだろうし、そしてそういう部分で何やら改善策が模索されるとしても、それが制度的な対応である限りで、制度やそれを裏づける法律から逸脱するようなことはできないし、実際にやらないだろうし、そういう面ではそれで構わないようなことになってしまうのではないか。

 そういうことになると、よその国ではどうとか、何やらそういう面でうまくいっている事例を探し出してきて、我が国でもそうすべきだと声高に主張する人も出てくるわけだが、そういうことなら、できる範囲内でそういう国の制度を見習えばいいだろうし、それで物事が解決するならお手軽な作業となってしまうわけだが、たぶんそういうこととは別の方面で、行政のあり方がどうのこうのとは違う次元で、特定の誰かが生きている実態があるのだろうし、その誰かが自分自身のことを考える時には、まずは自身の活動を優先しなければならないだろうし、それが公的な制度や法律に違反するようなことをやっていようと、公序良俗に反するようなことをやっていようと、成り行き上そうなってしまうと、大抵の場合はそれをやめるわけにはいかなくなるだろうし、やめられなければ、そういうことができるということであり、実際にできることをやっている実態があるわけで、それをやれる状況の中で行なっていることになるわけだが、そうしたことが他にばれると、それが法律や制度に反する行為であれば、それをやめさせるような成り行きにもなるだろうし、またやってしまったことの責任を取らされて処罰されるような成り行きにもなるわけだが、そういう成り行きがあるとしても、そうなってしまうのを未然に防ぐような対策も求められていて、それも公的な面では法律や制度によって講じられていて、一定の手続きや誘導や制御的な対策がとられて、それが制度として社会の中で機能しているはずなのだろうが、結局はそれもそういうことが事前に決められていて、そうした制度に従うような決まりになっているわけだが、要するにそうした決まりを破れば、破るような行為を行える限りで、それができるということになってしまうわけで、決まりを設ければ、当然それを破ることもできるわけで、決まりとはそういうものだろうし、それ以外ではないわけだが、それでは決まりを作った側が納得しないと、決まりを守らせようとするわけで、その決まりを守らせようとする行為が、権力の行使となるのだろうし、それが公的な権力の行使となれば、行政側では主にそれが警察権力の行使となるだろうし、そうした権力の行使に逆らえば処罰されるわけだが、そうした権力の行使であっても、実態としては何かが起こってからでないと対応できない面があるわけで、要するに何かが起こってから、その起こったことが制度や法律に反するような行為であれば、それを処罰するようなことが行われるわけで、また制度や法律に反するとは言えない行為であっても、それが社会的に問題となるような行為であれば、新たに制度や法律を作って、そうした行為を規制するような成り行きにもなるだろうし、そういう意味では常に制度や法律は、起こってしまったことに対して適用されるようなこととなってしまい、起こるのを未然に防ぐようなことには不向きなのかもしれないが、それを補うために講じられるのが監視だろうし、人々を監視することによって、人々が監視されているのを意識すれば、何か違法行為をやってもすぐにばれてしまうから、やらないようになるというのが、そこに適用される理屈なのだろうが、果たして公的な機関が社会の隅々にまで監視の目を光らせることができるかというと、現状では不可能だろうし、監視にしても不完全なままになっている現状があるだろうし、さらに違法行為を行えば処罰されるのを恐れるから、それも未然に犯罪を防ぐ抑止力が期待されているわけだが、それもある程度は効果を発揮しているとしても、実際に犯罪がなくならない現状があるのだから、そうした効果にも限界があるだろうし、結局は監視にしても処罰にしても、違法行為をなくすには至らないような対応でしかないわけだが、行政としてはそれをさらに強めるようなことをやりたいのかもしれないが、予算的な面でも技術的な面でも現状では実現できないだろうし、やる必要もないのかもしれないし、それが行政側にとってはできないことになるわけだが、それに対して一般の民衆の側でも、何でもかんでも行政に依存しているわけではないし、別に全てを行政に委ねるつもりもないだろうし、自己防衛できることは自分たちでやらなければならないと思うのが普通の感覚だろうが、それでも行政の至らない点を指摘して批判することもあるだろうし、また批判したからといって、行政に全面的に依存しようとしているわけでもないし、そういうところではそれはそれであってこれはこれでしかないわけで、それ以上の過剰な対応を求めているわけではなく、求められないことも承知しているはずだが、そこである一面を強調して拡大解釈してしまうと、認識のバランスが崩れて、そうした面を過剰に煽り立てるようなことも起こってしまうわけだが、いくら煽り立てても、そうした面だけではどうにもならない事情があるだろうし、他の面とのバランスを見ないと、おかしな認識となってしまうわけで、しかもそんな認識になっても、現状はそうはなっていないわけだから、そうした過剰な煽り立てを真に受けて生じる偏向した現状認識によって、現状に関して誤った判断や解釈をしてしまう人も出てくるわけだろうが、そうであっても構わないような立場や境遇もあるだろうし、別に誰もが正確な現状認識など持ち合わせていなくても生きていけるような社会情勢となっていれば、それでも構わないような成り行きになってしまうわけで、しかもそうした煽り立てをやっている勢力にとっては、それを真に受けて賛同してくれる人たちが必要なのだから、まさに願ったり叶ったりの状況になっているのかもしれないし、そういう面まで考慮に入れれば、現状のままで何ら制度的な改善がされなくても、誰も困らないような状況となっているのかもしれないし、むしろ今よりもさらに状況が悪化してくれた方が好都合な勢力もいるのかもしれず、そうした勢力によって、盛んに人々の現状認識を歪ませるような宣伝や煽動が行われて、さらに民衆の心理状態がおかしくなっていく傾向にあるのではないか。


2月9日「理屈と論理」

 なぜか成り行き上そうならざるを得ないような循環論的な論法は、理屈としては破綻しているのかもしれないが、それが避けられない成り行きとしては、例えば商品を作って流通させて販売するのに投入された労働量と商品の価格の関係を論じる際に発生する問題でもあるだろうし、人が活動する成り行きを説明しようとすれば、多かれ少なかれ何らかの循環論に陥ってしまうのかもしれないが、その一方で、一見破綻していないように感じられるもっともらしい理屈というのは、安易で浅はかな人ならそれを信用するかもしれないが、そのもっともらしく思われると同時に違和感を伴う感覚というのが、理屈に従って語っている範囲内で、理屈に合うようなことばかり選んで論じているように思われる限りで、否定的な印象を抱いてしまい、そういった理屈は、それと自覚しないで使っている場合があるにしても、それが意図的かつ恣意的な思惑とともに、何か偽装的なごまかしを伴っているようにも思われて、それを使って何を説明するにしても、全面的な支持や賛同を得るには不完全に思われて、では他にどうやって物事を説明できるのかという疑問とともに、どうにもうまく処理できないような面があり、そういうことまで考えてしまうと、結局は苛立ちや焦りしかもたらされないのかもしれないが、そういった不完全で疑わしい理屈を持ってしか物事を説明できないことが、他に説明できる理屈がなければそれで構わないような状況を許してしまうのかもしれず、そういう意味では物事を完全に説明できる理屈があるわけがなく、そこには少なからず不完全な面が付きまとっていて、そこを突かれて他から批判されて、理屈が合わないような面が明らかにされるとしても、そういった批判にしても、そんな批判によって相手を論破したように装うことはできるだろうが、批判に用いた理屈にも不完全な面があるから、そこで論破したことをことさらに強調すれば、すぐさまそれが宣伝や煽動へと堕してしまい、そういった論破を強調する浅はかで愚かな人々とともに、そんな宣伝や煽動を含んだ主張や意見の循環状態へと巻き込まれていってしまうわけだが、それを真に受ける人も少なからずいるだろうし、中には何とかしてそれらの主張や意見とともに、他の多くの人々の支持や賛同を集めて、そういった論争的な場で主導権を握ろうとする思惑もあるのかもしれないが、それが政治的な勢力争いなどにつきもののつかの間の主導権であるとしても、自分や自分たちの勢力がその場で優位に立ったことを強調して、そうした結果をまたこれ見よがしに宣伝したり煽動して、さらに多くの支持や賛同を集めて悦に入りたいわけでもないとしても、そういう人にとってはそういうことをやるのが生きがいになるにしても、他の人にとってはそうでもないわけだから、それに成功してその人が自己満足に至るとしても、やはり他の人にとってはそんなことはどうでもいいことになってしまうわけで、そういった成り行きはどう見ても、それ以外の何がもたらされるわけでもなく、そんな状況が、そこで主導権を握っているつもりになれる人や勢力以外には、そんなに心地良い状態だとは感じられないわけで、そう思ってしまう面では、そこでそんなどうでもいいことをどうでもいいことではないように見せかけるやり方が失敗しているのかもしれないが、たとえそれが失敗しているとしても、何か他で成功しているように感じられることがない限りで、そうしたやり方がとりあえずのやり方としてはそれなりに成り立っているのかもしれず、ただそれが成り立っているように感じられるだけかもしれないが、たぶんそんなふうにならないようにするには、それなりに理屈を用いるにしても、それで説明できる範囲を限定すべきかもしれないし、それ以上は求めないことが肝心であり、それ以外のところでは、そうした説明が不完全であることを認めながらも、ある程度はそれで説明できることは示しておけばよく、それ以上に説明しなければ、そこから外れた部分で理屈が成り立たなくても、そういう面があるということで済むのかもしれないし、そういう面がある意味では循環論的な面なのかもしれないが、それはその人の活動に特有の完結し難い面であり、確かに何かを行なった後から、理屈によってそれを説明できるかもしれないが、それとともに理屈では説明しきれない面もあって、その説明しきれない面というのが、偶然の巡り合わせとしか言えない面なのだろうが、それを理屈で説明しようとすると、偶然を必然に置き換えるようなごまかしを伴ってきて、それが違和感を伴って理屈の不完全さを露呈してしまうわけだが、そういうところで妥協的なやり方として、確率統計的なアプローチがあるにしても、それを用いて何かを説明しようとすると、確率的な現象であるのに、必然的な予測や予想を断言口調で語る羽目になって、そういった言説が確率統計的なやり方と矛盾してしまい、何かおかしなことを述べている実態が明らかとなってしまうのかもしれないが、そういうところで踏まえておかなければならないことは、行為が先にあって、それを後から理屈を用いて説明するにしても、そこからその行為に適合するように思われる理屈を用いて、これから起こる出来事や現象を予測したり予想するのは、何か本末転倒な印象を伴ってくるわけで、しかもその予測や予想が当たったからといって、予測や予想した人が、これから起こる出来事や現象を制御しているとは言えないわけで、それらの出来事や現象の中で主導権を握るのは、事前にそれが起こることを予測したり予想したりする人ではないだろうし、そういう部分で断言口調で予言者気取りになってしまう人たちに勘違いが生じているのかもしれないし、もちろんそんな人たちが世の中の主流を構成しているわけでも、主導権を握っているわけでもないのだが、そういう人たちは何らかの事情から、これから起こる出来事や現象を断言せざるを得ない状況に追い込まれているのかもしれないし、そうした予測や予言が当たって、世間から信用を得たいという願望を抱く成り行きに、意識が絡め取られているのかもしれないが、何らかの理屈を用いてすでに起こった出来事や現象を説明できるにしても、その理屈を用いてこれから起こる出来事や現象を言い当てようとすると、やはりそういう面が論理的におかしくなってくるわけだ。

 言葉の意味としては理屈も論理もそれほどの違いはないだろうが、これまで継続してきた物事の流れの延長上に未来があると考えるのは、その場の状況が安定していれば、ある程度は誰もが予測も予想もつくことではあるわけだが、それをそうなると断言することに何か意味があるかとなると、特にそうなったところで、状況としては当たり前のことになってしまうだけだろうが、そういう面では、そうなることを予測したり予想して、それが当たったとしても、状況には何もインパクトを与えていないことになるだろうし、それとは違って状況に真のインパクトをもたらすのは、誰も予測も予想もつかなかった想定外のことが起こる時であり、それは現状の延長上で起こるようなことではなく、現状の成り行きとは不連続なことが起こるわけだが、それは過去にも起こってきたことであり、現状の中には過去から連続していることも確かにあるが、過去とは違うこともあるから、現代には過去とは違う現状があるわけで、それは未来についても言えることかもしれず、現代から未来へと引き継がれる物事も確かにあるだろうが、未来には現状にはない物事が生じるだろうし、それを現状から予測したり予想したりするのは困難であり、それを現状の延長上で考えて、予測したり予想しようとするわけだから、当然そこには論理的に噛み合わない面があるわけで、そういう面では何かを予測したり予想したりするのとは違った、現代についての思考が求められているのかもしれないが、それは過去においても求められていたことでもあり、たぶん未来においても求められることなのではないか。それは現代とは何かという問いに答えることにもつながるのかもしれないが、ただ漠然とそんなことを考えてみても、取っ掛かりも手がかりも何もないのかもしれず、それについて少なくとも言えることは、こうなるべきとかこうするべきという自らの願望を未来に押しつけるようなことではなく、現状の中で変化の可能性を感じ取ることであったり、また現状の中で生じている成り行きから逸脱する可能性を感じ取ることでもあり、さらに現状で生じている傾向や方向が微妙な変化する兆しを感じ取ることでもあるだろうし、そういう意味では些細なことでしかないわけだが、それが良い傾向や方向への変化だと思うなら、積極的に肯定すべきことのように思われるかもしれないが、特にそれを肯定したり賞賛したりする必要もないだろうし、それよりはそういった変化に同調できる面があれば同調すればいいし、それも無理して同調しようとするのではなく、自らに同調できる余地がある限りで同調すればいいようなことでしかないだろうし、そこで主導権を握っているのは、あくまでも変化を起こしている当事者であるのだから、そういうところへと無理して強引に介入しようとしなくても構わないわけで、変化の邪魔をしない程度に見守っていれば、それで済んでしまうようなことかもしれないし、そうではなく積極的に参加すべきことなのかもしれないが、どちらであっても構わないようなことなのではないか。またそれが悪い傾向や方向での変化と思われたら、それを批判したければしても構わないだろうが、特に批判しなくても構わないだろうし、ただ違和感があれば、どうして違和感を感じるのか、それを考えてみても構わないし、考えてみても答えが見つからなければそれでも構わないが、何か答えが見つかれば、それを表明してみても構わないのではないか。そして変化を促している要因が、どのように現状の社会に作用しているかを考える上で、何らかの論理が導き出されるかもしれないし、そうした論理に従って関係する物事について考えてみるのもいいだろうし、そしてそういうことを考えながらも、自らができることを模索していくのも、現状の中でやれる可能性のあることの一つだろうし、とにかくそういうことについて言えるのは、全員で一つのことをやろうとするのではなく、できる人ができることをやるしかないだろうし、そのできることが人それぞれで違っているかもしれないし、また一緒になって同じことができるかもしれないし、そこで協力や連携の関係を築けるかもしれないし、築けないのかもしれないということであり、そこで誰が何をやるにしても、そうした事情が絡んできて、自ずからやれることが限られてくるだろうし、その中でやれることやっていくしかないのではないか。それが現状の変化につながることもあるだろうし、つながらないこともあるだろうし、変化とは全く関係のないことをやる羽目になってしまうこともあるのではないか。そして現状の社会で生じていることはそういうことなのかもしれないし、またそうではない面もあるだろうし、そうではない面ではそれとは異なることが行われているはずだが、そこでも現状では意識できない何らかの変化の兆しが起こっているかもしれないし、それを感じ取ろうとしている人がいるかもしれないが、それを知るに至れば、そういう変化に伴って生じている論理を考えてみればいいだろうし、実際に何らかの論理的な整合性を満たすような人や物や情報の動きがそこで起こっていれば、そうした論理がそこでの変化に伴って有効に働いていることになるだろうし、そうした論理を知ることによって、それを使ってそこでの変化をうまく説明できるかもしれず、そうした変化を知ることが、現代とは何かという問いに答えることにつながってくるのかもしれず、またそれは現代の世の中で作用している論理についての知識を深めることにもつながるだろうし、そこから未来への可能性を知ることにもつながるのかもしれないが、それは予測や予想とは違った方面から知ろうとすることになるだろうし、特にそれを知ろうとすることが、未来に起こる出来事や現象を当てるとかいうのとは違って、予測や予想が当たる当たらないの次元で物事を考えているわけではなく、当たろうと外れようとどちらでも構わない姿勢を保ちながら、その上で未来への可能性を知ろうとしているわけで、それはあくまでも可能性であり、必然的にそうなると断言できることではないわけだが、そういうことを考えることが、未来への備えとなっていくのだろうし、また未来への変化を促すことにもつながるのではないか。


2月8日「何も語れない事情」

 たぶん何かを語る際には、語るのに不都合なことは、普通は語らないだろうし、それよりは語るのに都合の良いことを語りたいわけで、その人にとって語りやすいことを優先して語りたがるだろうが、では語るのに不都合なこととは何かといえば、例えば語ろうとしてもうまく語れないようなことは、確かに語るのには不都合だから、語りたがらないだろうし、それでも語りたいかというと、実際に語れなければ、いくら語りたくても語れないだろうし、その反対に語るのに都合の良いことなら、実際に語れるだろうから、語れないことよりは語れることを語るしかなく、中には語りたくなくても、その人の意志とは関係なく、語らされてしまうような成り行きというのもあるのかもしれないが、普通に考えて、語るのに都合が悪いことを語りたいかというと、普通は語りたくはないはずだが、もっとわかりやすい例として、それを語ってしまうと、語っている自らが不利益を被るようなことなら、それが事前にわかっていれば、普通は語らないだろうし、無理にも語らざるを得ないような状況に追い込まれたら、観念して語るかもしれないが、果たして語る以前にそんなことがわかるかというと、事前にそれがわかれば、避けられる限りで、確かにそれについて語ることは避けるかもしれないが、わからなければ避けようがないだろうし、それと自覚することなく、自らの不利益になるようなことを語ってしまう場合もあるかもしれないし、しかも語ってしまってからも、その自覚がないままだと、たとえ語ってしまったことによって不利益を被ったとしても、それを覚えていないのだから、なぜ自らが不利益を被ったのか理解できないかもしれないし、さらに自らが不利益を被っていることすらもわからなければ、結局それは何でもないことになってしまうのかもしれないが、不利益を被っていることが何でもないことだとは思えないにしても、それがわからなければ、そうやって人は知らないうちに不利益を被っているかもしれないのだが、被っているのはそれだけではないだろうし、不利益だけを被り続けていれば、たぶん人は生きてはいけないだろうから、他にも知らないうちに利益も得ているのかもしれないし、それは語ること以外からでも、知らないうちに利益を得たり不利益を被ったりしていれば、全体として利益と不利益の釣り合いが取れていることになるのかもしれないが、それでは何が利益で何が不利益なのかわからないままだろうし、そのわからない何かを利益だとか不利益だとかみなすこと自体が、何か誤った認識かもしれないし、そうであるなら自覚できないことにまで、利益や不利益という概念を拡張しない方が無難かもしれず、少なくともそういった概念について考えられるのは、自覚できて承知している範囲内に限っておいた方がいいのかもしれないが、それでも語るに際して、語るという目的を意識できれば、語るのに不都合なことは、不利益を被るから語りたくないことだとみなせるかというと、そう簡単には決めつけられないだろうし、それよりは、それについて語りたいのに語れないこととか、語りようがないこととか、やはりそういうことも、語るのに不都合なことに含まれるわけで、世の中にはそうしたうまく語れないことがあって、実際にそれを語れないから、世界の全てを語れないという事実があるのかもしれず、そういうことも含めて、人が何かを語っている現実というのは、ただその人にとって語りやすいことを語っている実態がある一方で、語りにくいことはうまく語れないので、語りたがらないということもあるだろうし、それがその人の語る上での限界を形作っていることも確かであり、またその人が語れないからといって、別の人ならそれを語れるかというと、語れる場合もあるだろうが、やはり別の人であっても語れないこともあるだろうし、要するに誰にとっても語り得ないことがあって、誰にも語り得ないことが誰かに語れるわけでもないだろうし、だから人が語れることが世の中の全てではなく、世の中には誰にも語り得ないようなことがあるとみなしておけば、それが全てではないということに関しては、それは語る内容にも当てはまることになるだろうし、たとえその人にとって都合の悪いことが語られていないからといって、それはその人には語り得ないことであるとともに、他の人にも語り得ないことである可能性もあるだろうし、そういう面でその人にとっても他の人にとっても、語る内容に限界があることは認識しておくべきだろうし、そういう面を考慮するなら、その人に向かって全てを語るように無理強いする必要もないのではないか。だからと言って、その人が語る責任を免れるわけでもないだろうが、たぶん何かを語ることが、その人の使命であるかのような事情が生じてしまうと、語る目的に応じる面では、できるだけ包み隠さずに語らなければならないことになってしまうのかもしれないが、そんな状況がどのような事情からもたらされるかが、その場で語るに際しての条件となってくるだろうし、果たしてそんな条件に囚われたまま語る必要があるかとなると、それはその人次第でもあるだろうし、語るのを拒否できれば、都合の悪いことは一切語らないようなことになるわけで、それが裁判での黙秘権となるのだろうし、場合によってはそれが自らの不利になることを積極的に語るような成り行きもあるだろうが、そういう場合は自分よりも優先させることが生じてくる時であり、例えば自分が信じている大義のために、自らが進んで犠牲になるべきと考えれば、そうしたことが起こり得るかもしれないし、実際に歴史を紐解けば、過去の出来事の中でそうした事例が見つかるかもしれないが、それが語るのに不都合なことかといえば、そうでもないだろうし、その場合は、自らに不都合なことを語ることが、自らが信じている大義にとっては都合の良いことであり、それによって自らが窮地に陥るとしても、自らが信じている大義が、そうなることによって果たされるなら、それで構わないことになるわけで、それが場合によっては大義のために死ぬということにもつながるわけだ。

 もっともそんな芝居がかったこととは関係なく、語りたくても語りようがなく、うまく語れないようなこととして、何かを語るということ自体を遂行できない事情があるとすれば、それが語るのに不都合なことになるだろうし、その最たる事情としては、語ることが何もないということになるだろうが、語ることが何もないのに、語ろうとすれば、やはり語りたくでも語りようがなく、何も語れないことについては、それをうまく語れないだろうし、ただ語れないと語ればいいのだが、それで終わりでは気が済まないわけで、語ろうとしているのにそれで終わってしまっては、語ろうとする目的をそれ以上は遂行できないから、そうなっては困るなら、それでも何かを語ろうとするのだろうが、そういう面で語らなければならないこととして、安易に飛びつきたくなってくるのが、世間で話題になっていることだろうし、それについて何か語るための基準となるようなことがあるとすれば、それは世間によく思われたいということであり、少なくとも世間から嫌われたくはないわけで、そこから導き出される模範解答としては、世間の多数派の側につきたいということになるわけだろうが、しかもそこで考慮しなければならないこととなると、語っている内容が世間と同レベルでは気に入らないだろうし、できれば語っている自らが世間から尊敬されるようなことを語りたいわけで、そうなると自らが世間的に見て優れていることを、語っている中身によって証明したくなるわけだが、たぶんそうやって語れる内容が絞られてきて、語る上での都合や条件や事情も生じてくるのだろうが、結局はそういう方面で語りたい人なら他にもいくらでもいるだろうし、またそういった方面で競争や競合している人たちによって、世間の常識や良識などが形成されてくるのかもしれないし、それが世間的な意味で紋切り型の意見や主張にもなってくるのかもしれないが、それだけが語られているかというと、そうでもなく、むしろそういった意見や主張の標的になっていることが語られているだろうし、要するにそれが批判の的となっているわけだが、その批判の的というのが、お粗末かつ安易な紋切り型の意見や主張でもあって、まずはそういった劣悪な意見や主張が述べられた上で、それを常識や良識ぶった人たちが批判して、またそんな批判に対して、劣悪な意見や主張を述べる人たちから反論や攻撃が行われて、そんな論争もどきが世間の話題となる成り行きも生じていて、そういうところから話題作りのために、わざと愚劣なことが述べられたり、さらにそれ以前に愚劣なことを述べるきっかけを作るような出来事が、世間の話題となるわけだが、そういうところでピンからキリまでの意見や主張が、世間の話題として循環している状況があるのだろうし、そういう循環もそれだけが全てではないとしても、語りやすいことを優先して語りたがるような傾向として、それらの意見や主張が世の中に定着していて、それが語るのに都合の良いことであり、世間の話題としても優先的に取り上げられることでもあるわけだが、そこに語るのに不都合なことがあるかとなると、それは語る必要がないことだろうし、簡単に言えばそれは世間の話題とはならないことになるわけだが、なぜ話題にならないのかと言えば、それが世間の興味を惹かないからだろうし、誰も興味を惹かない物事については誰も語ろうとは思わないだろうが、興味を惹く物事が世間の全てではないし、世間の話題となっている物事が世間の全てではないことも、普段はそれに気づかないとしても、そんなことは一応は誰もが承知していることであるはずだろうが、そういうところで世間の話題に気を取られていると、そんな当たり前のことにも気づけないわけだが、気づく必要があるかというと、たぶん誰もそうは思わないだろうし、気づかなくても済んでいる状況もあるだろうし、よく考えてみないことには、そんなことに気づくはずもないわけだが、それに気づかないことの何が問題なのかといえば、誰もそれを問題だとは思わないこと自体が問題だとは思えないだろうし、実際そういうことは世間的な感覚としては、問題とはなり得ないわけだが、そういう世間的な感覚というのが、世間の多数派の意識として、世間を構成していて、それが世間の全てではないとしても、世間を代表する感覚として、世間の多数派を構成する人たちの間で共有されているだろうし、そういう意識の共有が世間と見られているわけで、そこには話題性のない出来事や現象は含まれないだろうし、それらは世間の興味を惹かない物事であるわけだが、それも世間の一部を構成していることには変わりないだろうし、ほとんどの人たちがそれに気づいていないとしても、それらが世間の一部ではあるわけだが、たぶん語るのに不都合なこととは、そうした物事の存在を認めることなのではないか。そしてそんなことを語ってみても、利益にも不利益にもならないだろうし、興味も惹かないようなことでしかないわけだから、やはりそれは何でもないことであるだろうが、たとえ何でもないことであっても、それについて語れば、その語っていること自体が、何でもないことではなくなってしまい、もしかしたらそれを語れる立場の人が語ってみれば、それがたちまち興味深く思われてしまうとすれば、それについて語ることが、興味を惹くための条件の一つとなっている可能性があるわけで、またその逆の状況として、たとえ興味を惹くような物事であっても、それについて語らなければ、他の人たちがそれを知り得ないわけで、そして何よりも世間の話題となるには、それについて語らなければならないわけで、それについては興味を惹かれたから、それについて語ると思われるのが普通だとしても、その逆もあるとすれば、結局は何でもないことでも過剰に騒ぎ立てれば、それが人々の興味を惹いて、世間の話題となってしまうのかもしれず、そこから言えることは、語るのに不都合なこととは、語り得ないことではなく、それについて語ることの中にあって、語ることによってそれが不都合なこととなってしまい、不都合なことを語るから、それが人々の興味を惹いて世間の話題となり、不都合な真実として批判の的ともなり得るわけだ。


2月7日「見せかけの社会」

 現状の世の中で明らかになりつつあるのは、社会の仕組みが、仕組みとして正常に機能している面があるものの、正常に機能しているように見せかけている面もあって、その見せかけが見せかけでしかない面が明らかになりつつあるのだろうが、それが見せかけでしかないのは、昔からそうであって、昔からそんなことはわかっていたのに、改めてそれを指摘されると、それが新たにわかったかのように認識されて、そうした見せかけの偽装を暴いて見せるようなことですらも、昔から行われてきたことなのに、未だにそんなことが行われていることに関しては、それを暴いているように見せかける仕組みも正常に機能しているからで、いくらそれを暴いて見せても、新たにそれを暴いているように見せかける仕組みが機能するからきりがなく、見せかけを暴く機能とさらにそれを見せかける機能とがいたちごっことなっているのも、それ自体が見せかけの仕組みとなっていて、それを暴いて見せる側でさえも、自らが暴いて見せている部分が見せかけであり、全てがそうなっているから、どこからどこまでが見せかけで、どこからが真実の部分なのかが曖昧となっていて、それらの全てが見せかけだとは言えないものの、見せかけを免れている部分もほとんどなく、それに関していくら見せかけではない真実の部分を示して見せても、それを見せるという行為に、見せかけている部分が含まれているから、そうやって真実を暴いて見せている部分と見せかけている部分とがバランスをとっていて、絶えず見せかけている部分が見せかけられている状態に保たれていることになるのだが、その見せかけられている部分の全てが偽装されているわけでもないとしても、偽装と偽装でない部分が区別される度に、そうした区別が偽装されている可能性もあるのかもしれず、またそういう部分でそうした区別が偽装であるかないかに関しては、特に区別する必要もないのかもしれないし、そうやって見せかけられている部分に関しても、見せかけられていることを承知で信用しておけば、それで済んでしまうような成り行きが社会に定着していて、それを信用しながらもやり過ごすような動作も、ごく普通の態度として社会に定着しているのだろうし、とりあえずそれが見せかけの行為としてばれるまでは信用しておくのが、無難な態度なのだろうし、ばれるまでの間に何か問題が起これば、そこから見せかけであることがばれてしまうわけだから、そうやってばれたところから、ばれてしまったことをネタにして、ばれた対象へ向かって批判が開始されて、そんな批判が過熱して冷却して一段落すれば、またいつものように何事もなかったかのように、平然と見せかける行為が開始されてしまい、またそれもばれるまでは見せかけられた状態を保つことになるだろうし、そうやって見せかけの社会が維持されることになるわけだ。もちろん見せかけではない実質的な部分の機能も備わっているから、そこで人が暮らしていけるわけだが、メンタルな部分では見せかけが重要な役割を果たしていて、それに関しては単に人は衣食住が足りているだけでは満足できず、そこに足りている以上の見せかけが期待されているわけで、それが意識を満足させるために用いられる過剰な部分となっていて、またそうした物事の過剰性が、人の競争心や虚栄心を煽って、満足を得るための競い合いや騙し合いへと発展していくわけで、そこで競い合ったり騙し合ったりしている限りで、見せかけの動作が有効に機能して、そうした動作に取り込まれた人々に幻想を抱かせるのだろうが、それ以上に何がもたらされるわけでもないとしても、幻想がそれ以上の欲望を抱かせるわけだから、またそうした欲望を満足させるためにも、競い合いや騙し合いがエスカレートしていくわけで、意識がそうした成り行きに囚われていれば、たとえそれが見せかけであっても構わないような心境になれるだろうし、そうなるとかえって現実の動作よりも見せかけの演技の方にリアリティを感じて、そういう見せかけのフィクションを追い求めるようになるわけだが、そこで現実の動作と見せかけの演技との間に区別がつくかというと、演技も現実の動作に含まれるわけだから、特に区別するような成り行きは生じないだろうし、そもそも人の現実の動作自体に、礼儀作法などの面でも演技の要素が含まれるわけだから、それ自体が見せかけの演技となるだろうし、そういう面では見せかけの演技自体が現実の動作となるわけで、それを現実の動作と区別する必要などなくなるわけだ。実際の世の中ではサービス業などの分野で、接客などの面で見せかけの演技が求められていて、相手から好印象を得るために媚びるような演技が不可欠となるだろうし、嫌な客でも笑顔を絶やさないような演技が行われているとしても、どう考えてもそれは見せかけの演技であり、偽装そのものなのだが、そうした偽装が批判されるようなことはあり得ないだろうし、かえって立場上はそうしなければならないのだから、積極的に笑顔を偽装しなければならないし、また客の方でも嫌な客にならないように、自らを良い人に見せかけるような演技を強いられて、横柄な態度はなるべく控えるような成り行きになれば、そこで社交辞令的な演技が行われることになるわけで、結局そういった本性を隠した演技によって平静を装った和やかな人間関係が保たれていれば、建前としては争いを避けるような平和な状態も保たれるわけだが、そうした関係を永続できるかとなると、そういうわけにもいかず、場合によっては頃合いを見計らって羽目を外して、本性をむき出しにして本音を吐き出さないとストレスが溜まってしまうだろうし、そういうところで権力関係などの面で上位の立場にある人が、下位の立場にある人に向かって、権威を笠に着て威張るような成り行きも生じるだろうし、そこで他人に向かって威張り散らしたり、横柄な態度に出れば嫌がられるのはわかっていても、立場上そういう行為を行わざるを得ないような事態や境遇も生じてしまうわけで、そういうところでいかに自分をコントロールして、威張ったり怒鳴り散らしたりせずに済ませられるかが、演技の見せどころなのかもしれないが、状況によっては演技などせずに、喜怒哀楽の感情をむき出しにせざるを得なくなってしまうわけだ。

 そしてそういう喜怒哀楽の感情でさえも、その場の状況に応じて効果的に機能させようとすれば、演技となってしまうだろうし、意識が感情をコントロールして、相手を困らせたり打ち負かしたり、あるいは脅したりすかしたり、そうやって様々な感情を表に出して、その対象となる相手までもコントロールしようとするほど、演技の度合いがそれだけ高まるわけだが、相手を信用させるために演技している場合もあるだろうし、そうした演技までが騙していると受け取られると、では騙さないような演技があるかとなると、例えばあえて騙しているように見せかけておいて、わざと騙していることを相手に見破らせるようなことまでやると、それが演技であることは確かだが、こちらの真意をわからせるためにわざと相手を騙すような演技を行なって、それが演技であることを見破らせるようなことをやれば、騙しているのに騙していないような、両義的な演技となるだろうし、そんなふうに演技が込み入ったニュアンスを含みながら複雑化していくような場合は、マイナスとマイナスが掛け合わされてプラスに転じるような効果が生じるわけで、そういうことまで含めると、単純に嘘偽りや見せかけの演技に惑わされないようにするばかりでなく、またそれを見抜いたり暴いたりして得意になるという動作とも違った、何か虚々実々の駆け引きがそこで行われていて、単にそこから真実を見つけ出せば物事が解決するような成り行きにはならないのが、当たり前の認識として出てくるはずだが、そういったところから物事の白黒をはっきりつければ済むようなことからはかけ離れた成り行きが生じてくるわけで、しかも実際に物事の白黒をはっきりつけた後でも、そうした結果自体が物事の部分的な面でしかなく、ただそこだけを拡大して強調して、公式には決着がついたように見せかけたいだけで、そうやって決着がついたように見せかける行為が、裁判などの演劇空間で行われる猿芝居を伴ってくるわけだから、それ自体が見せかけの社会を象徴する見せかけのやり方になるだろうし、それも演技によって人をコントロールするための方策となるわけで、他にもそうした類いには議会という見せかけの演劇空間もあるし、また政府や企業などの集団的な組織形態の内部でも、日々様々な演技が行われていて、それはまた家族の内部でも行われていることだろうし、人が集団となって活動するには、その中で人が人をコントロールするための演技が欠かせないわけだが、実際にそこで演技が行われていれば、それが人を騙す行為となり、もちろん騙していることを意識せずに演技している自覚もなしに、何とかして人を騙して騙した側の都合が反映されるような状況や環境をもたらしたいのであり、またそれを騙したとは言わせないような成り行きに持って行きたいわけだから、何かそういうところで都合の良い真実が必要とされて、その真実を語ることによって、人を騙す演技との間で相殺するようなバランスを取りたいわけだが、もちろん真実を語れば単純にそれが嘘でないとは言えないわけで、真実を語るにしても、それは語る側にとって都合の良い真実であり、その一方で都合の悪い真実を隠したり、故意にそれへの言及を避けたりしながら、それだけが真実であるように見せかけるわけで、そうなるとそうした真実を語る側の恣意的な調整や取捨選択を伴った真実のフィクションが出来上がるわけだが、今度はそういう作り話を真に受けることまでが、演技を伴ってくるわけで、それを間に受けた人は、その話を世の中に広めようとして、盛んに話の宣伝や話への支持を促すための煽動を行うわけで、それも都合の良い真実だけを強調する演技に含まれるだろうし、その中には自分が支持している人物が語る真実のフィクションをソーシャルメディアなどを通じて宣伝しまくる人なども結構出てくるだろうし、またそれを数多くの人たちが支持しているかのように見せかけるために、いいね!やリツイートなどを組織的にしまくるようなことも行われているだろうが、そうやって見せかけの現実を見せかけの場に生じさせようとするわけだが、果たしてそうした行為が思惑通りに成功しているかというと、他にもそんなことをやりたがる人たちがいくらでもいるわけだから、当然そこには競争関係や競合関係が生じてきて、そこでも競い合いや騙し合いなどが行われるわけだが、そうした見せかけ演技や動作を見せられている人たちが、果たしてそれらの見せかけの行為を真に受けているかというと、確かにそれなりに真に受けてはいるのだろうが、結局それはその場だけで真に受けているに過ぎず、また他の場では他の場で行われる競い合いや騙し合いの中で真に受けるようなことが生じるのだろうし、そういう面で様々なメディアで真に受けることが連続的にはつながらない場合があるのかもしれず、しかもその場その場が、その場だけが全てではないような場であり、常にそうした場が部分的な場となっていて、その場で真に受けることが、別の場で真に受けることとの間で関連性が感じられなければ、その場だけのことになってしまうだろうし、また真に受けるのがその場だけで構わないなら、それで済んでしまうわけで、そうなるとまた別の場ではそれとは無関係なことを真に受けてしまうのかもしれず、そういう意味でメディアの世界的な広がり具合が、昔と比べて格段に広がっている可能性があり、それだけ人の意識が狭い範囲内には留まっていられないような事情が生じているのかもしれず、何かそこに相対的に薄められた実感が伴ってきて、それらの場で様々な見せかけを見せられても、心が動じなくなってくるのかもしれないし、そうした薄められた相対性が、かえって特定の見せかけだけにこだわるわけにはいかない事情を生じさせているのかもしれないし、そういう意味でメディア上で演じられている様々な見せかけにしても、特定の見せかけだけに集中できない環境がもたらされていて、しかもそこに統一感が感じられなければ、様々な見せかけの間で興味も意識も分散してしまい、それらを一つの価値観によって論理的に再構成することができなくなるだろうし、やはりそうなると特定の論理などへのこだわりだけでは、全ての物事をうまく把握できなくなってくるわけで、それに関して何かもっともらしいことを思いついても、それは特定の物事に付随して思いつくことであり、他の物事には当てはまらないような思いつきになってしまうだろうし、真に受けることもそれだけ多方面に分散してしまって、取り留めがなくなってしまうのかもしれない。


2月6日「試行錯誤の目的」

 試行錯誤というと、何かそこで様々なことを試しているように思われるだろうが、総じてうまくいくための手がかりを求めていて、それに関してはうまくいく方法を見つけようとする目的に囚われているわけだから、いくら試行錯誤しても、その目的から離れることはできないわけだが、そうやって目的に囚われているとしても、目的以外のことをやっていないわけでもないだろうし、ただ意識がそれに気づいていない場合はあるにしても、試行錯誤を試みている時点では、まだ目的を果たしていないわけだから、そこで目的に囚われているとしても、試行錯誤を続けている限りは、いつまで経っても目的を果たすに至らないわけで、そういう意味では目的の達成を裏切り続けているのかもしれず、そうした目的に囚われながらもそれを果たすことができない状況が、試行錯誤そのものを表しているのだろうし、目的自体が目的を果たせない状態をもたらしていて、もちろん試行錯誤の末にうまくいくやり方を導き出して、それによって目的を果たすことに成功する成り行きもあるだろうが、そういう意味では試行錯誤自体が、それをやる人に試練を課していると言えるだろうが、その一方で試行錯誤の途中で挫折してしまえば、目的を果たせずに、いやでも目的から離れられるかもしれないし、そうなれば試行錯誤のおかげで目的から外れることができたことになるわけだろうが、果たしてそうやって目的から外れたことが何を意味するかとなると、当然ことながらそれは挫折を意味するだろうし、またやっていることがうまくいかなくなって、行き詰ってしまったことも意味するのかもしれないし、さらに思い通りにいかなくて、嫌気がさしてしまったような心理状態ももたらすのかもしれないが、そういった否定的な意味とは違う方面から考えるなら、それは目的の束縛から解放されたことを意味するだろうし、そこからまた懲りずに新たな目的を設けてしまうと、挫折してもなお目的に囚われていることを意味するだろうが、試行錯誤がひどい結果をもたらして、もう二度と目的を求める気が起こらないまでに打ちのめされてしまえば、そうなって初めて、目的から解放されたことになるのかもしれないが、別に目的を持つことが悪いとは思わなければ、それほど大げさな心境にはなれないだろうし、そこで目的を達成するためのハードルが高すぎたと反省すれば、今度はもっと楽に達成できそうな目的を持とうとするかもしれないし、そうなればちょっと背伸びすれば届くようなことばかりを目標に掲げながら、そういった達成できそうなことをやることを目的にすれば、それをやっている間は何やら充実した日々を過ごせるかもしれないし、また試行錯誤すること自体を目的にすれば、延々と試行錯誤している状態を保っている限りで、目的を果たしていることになるだろうが、果たしてそんな目的があるかとなると、普通はあり得ないだろうが、屁理屈のこじつけ程度のひねくれた気持ちで、試行錯誤することを目的にしておいて、そうやって軽く目的と戯れる程度の心境になれれば、それでも構わないのかもしれないし、それが何をもたらすとも思えないにしても、目的に囚われてしまうのをやり過ごすには、そんなやり方もあるのかもしれないが、なぜそうやって目的を外れようとするのかについては、特に正当化できる理由など見当たらないかもしれないが、何か目的に囚われてしまうことによって、失うものがあるのかもしれないし、そんな気がするだけで、本当は何もないのかもしれないが、世の中の様々な方面で様々な人や団体が活動している中で、目的を強く意識せざるを得ない立場や境遇がある一方で、特にそれを意識しなくても、普通に生きられるような立場や境遇もあるのかもしれないし、また目的の中身によっては、それが世の中に良い影響を与えたり悪い影響を与えたりすることもあるかもしれないが、目的のあるなしやその中身が、単純な生きるとか死ぬとかいう現象に絡んでくることもあり得るだろうし、そういうところで立ち止まって考えてみれば、その場の状況に応じて、何かもっとらしい目的を持ったり、またはそういった目的をかわしたり、やり過ごす必要を感じたりすることもあるのかもしれないし、また肯定的な目的を持ったとしても、それを果たせずに挫折してしまう方が、そこから当人の自覚し得ない何かを得られる場合さえあるのかもしれず、そういうことまで考慮すると、何らかの目的を持とうと、またその目的から外れても、さらに意識せずに失敗して、その代わりに思いがけないものを得られたり、そこから想定外の体験をしたりして、またそうなるのが真の目的だったと気づくのも、結果から振り返って、そこまでに至る経緯を正当化することにしかならないのかもしれないが、それを安易に正当化せずに、何か冒険のような体験だったと自覚できるかもしれないし、自覚するような余裕さえ与えられないようなことであれば、何かそれは驚くべき体験になるのかもしれないが、ともかくそれが予定調和のような結末に至らなければ、自らの意思に関係なく、目的から逸脱するような体験が、その人の財産になるかもしれないし、もちろん財産などという卑俗なものでは例えられないような体験をできれば、それは素晴らしいことになるのかもしれないが、そんなこととは全く無関係であるような何でもない体験であれば、それは日々それと自覚することなく、いくらでも体験していることだろうから、それでも別に構わないような心境になれれば、特に欲をかかずに日々を平常心で過ごせるのかもしれないし、そうなればことさら目的にこだわったり、あるいはことさら目的から外れようとしない限りで、普通の感覚を保ったまま、どのような事態になっても、その事態に応じたことができるかもしれないが、それは通常の状況であって、非常時には、たとえ普段から心身の鍛錬を欠かさないような人でも、その場の状況によっては対応できないだろうし、そうなった時点では、対処できなくても構わないのかもしれないし、実際に対処できずに何らかの失敗や挫折を経験すれば、そこから得られたものが、その人の能力に応じた結果とみなされるのではないか。

 そしてそうした結果に至る前に、何やらうまくいかないことをあれやこれやと行なっている状態が、試行錯誤を繰り返している状態なのだが、それを積極的に行なっている自覚があるのが普通の状態だろうが、何かのついでに嫌々行なっていたり、またやり始めるとすぐに行き詰ってやめてしまったり、気まぐれにちょっとやるだけにとどめていたり、さらに飽きてしまって、長い間ほったらかしにしてしまったり、そういった試行錯誤の程度にも差があるだろうし、ほんの軽い気持ちでちょっとやって飽きてやめてしまうようなことは、試行錯誤とは言えないだろうが、それで構わないようなことなら、別に大した目的もなくやっていることになるのだろうが、たぶん場合によってはそうであっても構わないのかもしれず、そんな状況であるなら、それだけ状況に余裕があるということだろうが、何かもっと切羽詰まったギリギリの状況なら、それなりに焦るだろうし、切実に成功を望むはずで、そうなると成功することが目的になるから、そのためには手段を選ばないようなやり方になるだろうし、実際にそういう立場や境遇にある人なら、試行錯誤をするにしても、是が非でもうまくいくやり方を見つけなければならないだろうし、そうなると成功という目的に囚われてしまうのも当然の成り行きになるわけだが、そんな成り行きの中では試行錯誤をさっさと切り上げて、すぐにでも成功を掴み取りたいだろうから、そのためにも無駄なことはできるだけ省いて、効率的なやり方で回り道などせずに一直線に求める成功へと突き進むだろうし、そうなればなるほどやっていることが試行錯誤ではなくなるわけで、そんな成り行きと、わけがわからない迂回や紆余曲折を経るような成り行きとでは、やっていることの質も内容も違うだろうし、求めている結果の内容も異なるだろうが、その場の条件や事情が何もなければ、どちらが良いとも悪いとも言えないだろうが、現実にはそんなことができる条件や事情が付きまとってくから、それに応じたやり方となるわけで、何かすぐにでも結果を出したいような事情があれば、のんびりといつ終わるともわからないような試行錯誤などやっていられないし、そういった事情を反映して、出てくる結果もそれに応じたものとなるだろうし、実際に納期や期日が迫ってくれば、どうあっても切羽詰まった状況になってきてしまうわけで、そういう面でできることも限られてきてしまうわけだろうが、その一方で納期も期日もなく、ただ何となくやっているようなことなら、いくらでも気が済むまで試行錯誤を続けていても、どこからも文句は来ないだろうし、またたとえ結果が出なくて失敗に終わっても、特にそれを気にするような事情がなければ、それが無駄に思われても構わないのかもしれないし、そういう面ではやっていることが、その場の事情や条件などの状況に左右されるわけで、そういったことを考慮に入れるなら、どのような結果が出ようと、その場の状況に応じたことが行われている限りで、特に想定外の驚くべき結果が出ることはないのだろうが、たぶんそれは試行錯誤の目的に従って行われる範囲内のことであり、そこから外れる面では、その場の思惑とは違うことが行われる可能性があって、実際にそれが行われると想定外の思いもよらぬ結果が出るわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、試行錯誤自体が目的から外れるような行為を誘発してしまうからで、だから強い目的意識を伴った行為には、そういう試行錯誤が入り込む余地が少ないだろうし、そういった事情がやっていることに反映すると、ただ目的だけのためにやれることを精一杯やろうとするから、下手をするとそれが計画通りの単純作業だけとなってしまうのかもしれず、そうなるとやっていることに魅力がなくなるだろうし、それとともに求める結果だけを求めるから、無駄な遊びを一切省いた行為遂行的な動作となってしまい、そうやって事前に予測された想定内の結果以外は全て排除されてしまうと、予定調和の結果しかもたらされないわけだが、果たして本当にそうなるかというと、中にはそういう事例もあるかもしれないが、そこに試行錯誤の余地がある限りで、そうはならないのかもしれず、その余地が大きいほど、偶然が入り込む余地も大きくなるわけで、偶然の巡り合わせによって思いがけない結果がもたらされると、それが原因と結果の予定調和を打ち砕いて、それによって目的をずらして、その場の思惑を外れるようなことが起こって、そんな思惑を抱いていた意識を困惑させるわけで、そうなることによって、その場の状況や情勢が変化するのかもしれないし、計画的に行われていたことが狂わされて、それなりの混乱をもたらすのかもしれないが、またそうなるのを防ぐためにも、試行錯誤をできるだけ早く切り上げて、さっさと安心できる結果をもたらしたいのだろうし、そのためにも目的から外れるような行為は禁止しなければならず、そうやってその場の統治や統制を強めたいだろうし、また思い通りのことをやれば思い通りの結果が出るようなシステムを構築して、確実なことをやれば確実に利益が出るような制度にしたいのだろうが、それも実際に世の中のシステムや制度がそうなっているかというと、そうなっている面があるとしても、完全にそうなっているわけでもないだろうし、そうであるからこそ何かしら事故や事件が起こるわけだが、そういったシステムや制度を管理運営している側からすれば、そういう不完全な面があるにしても、うまくいっているように見せかけたいだろうし、実際に見せかけられる範囲内で見せかけようとするだろうし、また見せかけるだけなく、本当にうまくいくようなシステムや制度にしたいわけだが、本当にそうなってしまったら、そんなことは現状ではあり得ないにしても、そこからは何も変化する余地がなくなってしまうわけで、それが何を意味するかといえば、ただ単に計画通りに事が行われて、計画通りの結果がもたらされるだけで、他には何も起こらないような世の中になってしまうわけで、それではつまらなくなってしまうのは明らかなのに、やはりシステムや制度が求めているのはそういうことになってしまうわけだから、たぶんその辺でおかしなことが起こっているわけだ。


2月5日「行為の継続」

 世の中には様々な方面で色々なもっともらしい理屈がある中で、人に関する簡単な理屈としては、人は生きているか死んでいるかのどちらかの状態で存在している、ということかもしれないが、それはそのままことであり、それが理屈と言えるかというと、何か微妙な感じがしてくるかもしれないが、例えばそれを意味深長な表現で、人が人であることを意識するのは、自らが死にゆく存在であることを自覚した時だ、などとかっこつけて述べてしまうと、普通に考えて、誰もがそんなことを思うはずもないだろうし、さらにそれを、そんな自覚は人の生物としての寿命の有限性から導き出されたフィクションでしかない、と返してしまうと、それも何かもっともらしい似非知性の戯れのようにも思われるかもしれないが、もし誰かがそんなことを自覚したとしても、別にそれが大げさことでも深刻なことでもなく、改めて確認するまでもない、すぐに忘れてしまうような当たり前の前提でしかないのかもしれず、実際にそういった作り話のような自覚とは無関係に、世の中では様々なことが行われているだろうし、その様々に行われていることの中に、人の活動の実質的な内容があり、別にそれらの活動が、人が死にゆく存在であることを忘れるための悪あがきだとは思えないだろうし、それはそんなことを思うのとは次元の違うところで、必要に応じて行われていることであり、その必要というのが、根本的なところでは生きるために行われていることであるとしても、それ以外の事情がそうした生きるという根本原因の上に覆いかぶさってくるから、そちらの方に気を取られて、意識が生きるという根本原因を自覚できないわけだが、別に自覚する必要があるわけでもなく、何かの拍子にそれを自覚したからといって、そこから何がどうなるわけでもなく、それよりは他の社会的な関係からもたらされる、活動を行うのに伴って生じる様々な事情の方が優先されるだろうし、実際にそこで何らかの活動が行われていることの他に、特に心の中で強く意識されることもないだろうが、そうした活動から遠ざかれば、他に何か瑣末なことを意識するかもしれないが、それが何を示しているわけでもないだろうし、ただ暇な時にとりとめのないことを考えたり思ったりしているだけで、何かそういう時に、人の生や死について考える余裕も生じるだろうし、また大病を患ったり大怪我でもした時にでも、自らが死に直面していることを実感できるかもしれないが、それ以外で健康な状態が保たれていれば、そうしたことよりも他の社会的な事情が優先されるだろうし、実際にそうした事情を優先的に考えたり思ったりしている時には、人に関する生死の理屈など自覚できるはずもないわけだが、自覚したところで何でもないことだろうが、それでもそうした理屈にさえもならないような当たり前の現実によって、人の活動が制限されていることも確かであり、ただ単に人が生きているか死んでいるかのどちらかの状態にあるに過ぎないということが、人の活動を生きている間に行うしかないこととして限定していて、またそれと同じように起きているか眠っているかの状態によっても、起きている間に行うこととして活動を限定しているわけだが、それも当たり前のことだが、生きている時間にも起きている時間にも限りがあり、その限りある時間の中で活動していて、なぜ活動しているのかと言えば、生きるため以外では、その活動内容が何やら価値があるように思われるからだろうし、またその活動によって生産された物事が、当人の活動時間を超えて、他の人や団体や社会に作用や影響を及ぼすことがあるから、そうした物事を作り出すことにも価値があるように思われるだろうし、さらにまた当人が活動していない時でも、協力や連携している他の人や団体が活動を継続している場合もあるから、そういう活動に関わると、活動によって何らかの成果が得られたら、たとえその人の関わり方が部分的なものであっても、それが自分の成果のように思われることもあるだろうし、そんなふうにして行なっていることに価値があるように思われるから、そこから満足感や生きがいなどを感じるのだろうが、世の中の活動の全てがそういった肯定的な活動とは限らないことも、当たり前の事実として誰もが知っていることであり、生きるために肯定できないような活動をやらざるを得ない境遇に追い込まれている人などいくらでもいるだろうし、また生きるためでなくても、しがらみや社会的な事情から、やりたくないことをやらざるを得ない人もいくらでもいそうだが、そういう事実まで考慮に入れれば、やっていることに価値があると思われるのは、それ自体で贅沢なことかもしれず、そう思っていられる限りで、やっていることを肯定できるのかもしれないが、自分一人の立場ではそうかもしれないが、他との関係まで含めると、そこにしがらみや社会的な事情などが絡んできて、そこからやっていることが思い通りにはいかなくなってきて、ある時には対立や抗争などに巻き込まれたり、またそれを自ら引き起こしたりしながら、そういった価値があるとか満足できるとかとは違う次元の問題が出てくるわけで、そうなると人が生きるとか死ぬとかいう単純な理屈では、物事を捉えきれなくなってくるのであり、しかもそうなっているにも関わらず、相変わらずそれが人の生死の問題であったり、価値があるとか満足できるとかの問題であったり、すぐにそういった理屈に単純化したがる人も出てきて、何かそういうところで意識や思考が捉えきれていない問題があって、捉えきれていないのにわかった気になって、勘違いなことを言い出す人まで現れて、またそんな人の介入によって、さらにその場の状況がこじれてきて、こんがらがってきて、錯綜してきて、もつれてきて、事態が混沌としてくるのかもしれないが、そうなると単純な理屈では物事を捉えられないのはもちろんのこと、長年の勘や経験から事態の収拾を図ろうとする人も出てくるにしても、そんな人の努力で収拾が図られればいいだろうが、場合によっては図られなくても構わないような成り行きも生じてきて、実際にそんなふうにして事態が行き詰ったままになることが結構多いから、そこで停滞という名の安定がもたらされるのではないか。

 また何かを行うことに関しては、うまくいくとは限らないから、そこで問題が発生するわけで、そのうまくいかないことに関して、うまくいくようにしたいのだろうが、それができない状況が、世の中の方々にもたらされていて、そんな状況に納得できない人が大勢いることも確かであり、そのうまくいっていない状況に関して、批判しようとすればいくらでも批判できるし、実際に批判している人もいくらでもいるだろうし、そういうことも含めて現状がもたらされているわけだが、そうした現状の中で、果たして安易に批判する立場に与することができるかとなると、そのような立場を占めている人たちですらも、うまくいっていない現状があるだろうし、しかもそういう立場を占めることについても、他との競争や競合に直面しているだろうし、そしてそうした競争関係や競合関係の中で、自分たちの主張に人々の興味を引きつけたくて、何やら宣伝や煽動を行なっているわけだから、何かそこで批判の妥当性に関して、疑問を抱かざるを得ないような内容の批判までが、宣伝されたり煽動されたりしている状況があるわけで、そうなってくると、特にそういったものに関しては真に受ける必要がなくなってくるだろうし、批判自体がうまくいっていない現状がある限りで、そういった批判のうまくいっていない面を批判してみても、批判自体がうまくいっていないということは、うまくいっていない行為を批判すること自体がうまくいかないわけだから、それをさらに批判してみても、それによってもとのうまくいっていない行為自体がうまくいくはずがないだろうし、もはやそういった批判を批判する行為自体が、もとの批判されている行為自体から焦点や重心が離れてしまっていて、たぶんそれはもとのうまくいっていない行為にとっては意味のないことになるのだろうし、そういう意味で批判勢力への批判は、あまり生産的な行為とは言い難いだろうし、下手をするとそれは単なる揚げ足取りになりかねず、かえって批判という行為自体を無効化する作用があるのかもしれないが、ではどうすればいいかとなると、ただ単にうまくいかない行為を批判するにとどめておいて、しかもそのうまくいかない行為を批判する行為を批判するのは、批判を封殺する行為とみなしておけばいいだろうし、それはそれとして興味深い内容なら、そういうものだと受け止めておけばいいのだろうが、そういう面でもそういった批判を封殺する行為がうまくいくかとなると、うまくいく場合もいかない場合もどちらもあるだろうし、どちらにしてもそれもそうした活動であり、それが何か特別な行為だとはみなさない方がいいだろうし、批判もその批判を批判して批判を封殺する行為も、おおもとの批判の対象となった行為に付随して行われるものだから、何かそういった行為が行われること自体が、うまくいっていない状況を体現していて、それに伴って世の中で批判されるような行為が多ければ、それだけうまくいっていない行為が多くあるということになるだろうし、またそうした批判にも関わらず行われている行為があれば、批判に打ち勝ちながら行われているわけだから、そういう面ではうまくいっていることになるだろうし、またそれは、批判している側からすれば、批判しているにも関わらず行われているわけだから、批判自体がうまくいっていないと受け止めるしかないだろうし、そういう場合は、批判を受けながらも行われている行為をやっている側からすれば、それはうまくいっている行為となるだろうし、またそれを批判している側にとっては、うまくいっていないから批判しているにも関わらず、実際にそのまま行為が行われて、やっていることを止められないわけだから、うまくいっていないという認識が間違っていることになるのかもしれないし、また批判しているのに、その批判が全く効いていなければ、批判自体もうまくいっていないことになるだろうし、そういう意味では現実に行われている行為がそのまま行われる成り行きというのは、実際にうまくいっていることになるのかもしれないし、普通は批判を受けて批判した箇所が改められて、そうやってうまくいかなかったところがうまくいくようになることで、批判が有効に機能したことになるわけだが、やっている行為をやめさせるために批判するとなると、それは批判ではなく妨害になるだろうし、批判とは種類の異なる行為だと受け取られてしまうのかもしれないが、そういう意味で批判という行為の内容に関して、どこまでが批判で、どこからが妨害となるかは、その境界は曖昧かもしれないし、また批判にも宣伝や煽動などの要素も含まれるから、何かそういうところで、強調する部分を批判よりは妨害に重心を移したり、また宣伝や煽動などの傾向を強めたりすると、そういうのはどう見ても批判とは言えなくなってしまうだろうし、そういうところで批判が批判と受け取られる範囲での批判となると、例えばうまくいっていない行為に関して、改善できるやり方を教えるとか、また行為をやめさせるにしても、その代わりにできる行為を提案するとか、しかも提案した代替えの行為がうまく行く保証があるかとなると、それも難しいところだろうが、実際にそういう配慮ができれば、批判にもそれだけ説得力が増してくるかもしれないが、果たして批判という行為にそこまで求める必要があるかとなると、実際にはそうではないだろうし、批判する側はただ問題点を指摘するだけにとどまり、批判される側は、ではどうすればいいのかと居直ることが多いだろうし、だからうまくいかないことが多いわけで、またうまくいかないなりにも続いてしまう行為も多いだろうし、結局は続けられる行為は周囲から様々な批判を受けながらも続けられるだろうし、そうやって続けられる限りで、それに対して延々と批判され続けるし、そういう状態が長続きしていれば、批判する行為に関して、専門の職種が成り立つような成り行きとなるわけで、要するに世の中にうまくいかない行為があって、それがうまくいかないなりにも続けられるような成り行きによって、それを批判し続ける行為も成り立つということになるわけだ。


2月4日「判断と評価」

 何か世の中で手放しで賞賛できるような対象があるかというと、それが宣伝や煽動ならメディア上で積極的に行われているだろうが、そういった無理にも持ち上げようとする対象には、それなりに毀誉褒貶があるのが普通だろうし、その手の功罪半ばするような物事や人や団体などが、世間的に見てもとりあえずの賞賛に値する対象になるのだろうが、もちろん賞賛される時には、罪の部分や貶されているような否定的な面は伏せられるわけだし、またそれを知っている人なら、そういった宣伝や煽動は真に受けないのだろうが、それ以外では世の中のほとんどの物事や人や団体は、それほど大袈裟には褒められも貶されもしないだろうし、何かそれに関して特別なことがない限りは、そういった対象にさえならないのではないか。要するに世の中のごくわずかな世間的に目立つ部分で存在する対象が、何らかの理由からサンプリングされて、それが何らかの判断や評価の対象となってくるのかもしれないが、そういったものが評価や判断の指標や基準として信用できるかというと、たぶん実際に何か他の物事について判断や評価をする時には、そういった物事を判断基準や評価基準にして判断したり評価するのが、普通の意味での判断や評価となるのかもしれないが、そういう面も含めて、別に合理的に思われるような判断や評価が行われているわけではなく、その時々の世の中の情勢に合わせて、適当な指標や基準を探し出してきて、それに基づいてとりあえずの判断や評価を行なっているだけなのかもしれないし、そういう面では判断や評価の合理性よりは、勘に頼っている面の方が大きいのかもしれず、しかもその勘が世間的な慣習や一般常識に依存していたりすると、その手の判断や評価自体が世間的な慣習や一般常識に照らし合わせてもっともらしく思われるから、何となくそれが信用されるような成り行きになっているのではないか。そうだとすると世間的な感覚で、何となく信用できるような物事や人や団体などを好意的に意識しているだけのことが、合理的な判断や評価よりも信用されているのかもしれないし、そんな世間的な慣習や一般常識に合っているから信用できる程度のことが、信用することの主流となっているのなら、それ以上の信用が必要とされているわけではないことになるだろうし、実際にそれ以上の厳密な信用となると、例えば融資やクレジットカードなどの審査のように、何か合理的な指標や基準に基づいて精査するような成り行きも生じるのだろうが、そういうのは世の中のほんの一部で行われるようなことであり、行われるとしても、それは必要に応じて行われることであり、要するに資金を融資したりクレジットカードを発行することによって、利益が見込まれる範囲内で審査が行われて、そうなると必要以上に審査基準を厳しくして、誰も審査に通らないようでは商売として成立しないわけで、それがそこでの合理性になるわけで、そういった判断や評価の基準が信用できるにしても、それが合理的な基準かというと、そこでの合理性も世間的な慣習や一般常識などに合うか合わないかで、合理的に思われたりそうは思われなかったりする程度のことなのかもしれず、そういう意味での合理性すらも、真の意味での合理性とは思えないなら、合理性に真の意味などないように思われるかもしれないが、言葉の意味というのはとりあえずのものとみなすなら、特に真の意味などなくても問題はないだろうし、たぶんそういうところで物事に関してはっきりした判断や評価ができないような面があるのだろうし、それについてはあからさまに点数をつけたり勝敗を決めたりしない限りは、どうとでも受け取れるような判断や評価でも構わないのかもしれず、そうなるとそれをはっきりと肯定したり否定しなくても構わないし、そこから特定の何かを賞賛したり批判したりする必要もなくなるだろうし、そういう何かはっきりしないような状況というのが、世の中の大半を占めていて、そういう面ではことさらに優劣を決めなくても済んでしまうような状況となって、それで済むなら、そういう面を必要以上に取り上げなくてもいいわけで、またそうであるなら、特に何かについて語ることが、すぐにその対象への賞賛や批判などに結びつくのは、何か不自然に思われるだろうし、そういった必要以上に語る対象を持ち上げたりこき下ろしたりすることが、宣伝や煽動そのものであり、それは判断や評価のインフレーション状態と言えるのかもしれないし、例えば出会えばすぐに戦いになってしまう少年漫画によくありがちな中身のなさに通じるものがあるのかもしれないが、そういった物事の良し悪しをすぐには決められない状況というのが、ひたすら良し悪しを云々したがるような人たちには我慢がならない状況かもしれないが、それも程度の問題かもしれないし、物事の良し悪しを云々したがる人たちは人たちで、そんなことをいくらでも気が済むまでやっていればいいことでしかなく、そういう判断や評価に疑問を感じるなら、それを真に受けなければいいことでしかなく、実際に世の中の一部ではそういうことが盛んに行われているにしても、それも必要に応じて行われる以外で、必要以上に行なっても、そこから何らかの利益が生じない限りは続かないはずだが、そうやって物事の良し悪しを煽り立てることによって人々の関心が集まると、そこに広告収入などが生じるようなシステムが構築されている現実もあって、そういった広告収入などによって、そんな行為が維持されるような成り行きも生じているだろうし、要するに宣伝や煽動によって人々の関心を集めるような行為の中で、手っ取り早いやり方として、世の中に存在する物事や人や団体の良し悪しを論じて、それへの賛否両論などの意見や主張が集まれば、それが多く集まるほど世間の関心を集めたように思われるのだろうし、それが近年では炎上商法という紋切り型的なやり方として、ネット上などで確立されている経緯もあるのだろうが、それもそうした商売が成り立つ程度の関心が集まればいいことでしかなく、それ以上の関心を呼んでいるわけでもないのではないか。

 そうしたことの全てが、興味がなければ無視しても構わないことでしかないとしても、出来事や現象としては、世の中に何らかの作用や影響を及ぼしているはずだが、それも程度の問題であるだろうし、何かそういうところで、必要以上に何かが強調されて煽られているとすれば、そうなっている時点で公平な判断や評価は期待できないだろうし、そうであるならそうした宣伝や煽動の中で行われる、物事の良し悪しに関する決めつけなどは、それが公平な判断や評価ではないのだから、真に受けるべきではなく、相手にしないで動じない姿勢を保つ必要があるのかもしれないが、それに関して言えることは、語られている内容が、単に判断や評価の対象となる物事の良し悪しと、そうした決めつけを行う理由だけであれば、それ以外には中身がないことになるだろうし、またそれ以外の中身が、語っている自身の自己正当化や自慢話だけであれば、やはりそれら以外には中身がないと言えるだろうが、では果たしてそれ以外に何が語れるかとなると、普通に考えるならそれは、語っている対象についての説明となるだろうし、またその対象を取り巻く周囲の状況や、そういった物事を成り立たせている原理とか仕組みとかの話になってくると、それも語っている対象についての説明に含まれてくるが、何かを語るということ自体において、信用できる内容となると、まずは語っている対象についての内容が信用できないと、それに対する判断や評価も、その良し悪しも信用できないだろうし、そういう意味では、語られている対象についての良し悪しという判断や評価を信用するか否かの前に、その対象について説明されている内容を把握して理解しないとならないだろうし、それがいい加減でお粗末な内容なら、それ自体が信用できないだろうし、その上でその対象の良し悪しという判断や評価を信用できるかというと、説明が信用できないのだから、その良し悪しも信用できるわけもなく、そういうところで重要となってくるのは、やはりその良し悪しの判断や評価ではなく、そうした判断や評価の対象となる物事についての説明になるのではないか。それに関してさらに言うなら、その対象を良く言うなら、良い面しか説明しなかったり、またその対象を悪く言うなら、悪い面しか説明しなかったり、そんなふうに単純でわかりやすい説明内容であれば、すぐにそれは一方的な宣伝や煽動の内容であると察しがつくだろうが、何かそういうところで、良く言う対象についての悪い面を説明しているとしても、そこに同情すべき点や状況的に仕方がなかった点とか、言い訳がましいことが述べられていると、やはりそういうところで騙されてしまう人が出てくるだろうし、また悪くいう対象についての良い面を説明しているとしても、そうした良い面を圧倒的に凌駕するような悪い面が述べられていれば、やはりそういうところで騙されてしまう人が出てくるだろうし、そうしたそこに示された良し悪しの判断や評価へ支持や賛同を求めて、そうした判断や評価へと誘導するような内容になっていると、やはりそういうところで注意深く思考を巡らす必要が出てくるのであり、まずそこで踏まえておかなければならないことは、その対象に関する知識量が、そうした判断や評価を下す人と比べて多いか少ないかを認識しなければならないだろうし、その点で自分の方が知識量が少ないと、やはりその人の豊富な知識量に幻惑されて、その人の述べていることを信用して誘導に乗ってしまいやすくなるだろうし、そういうところで疑問を感じたら、その対象に関する知識量を増やせばいいのかもしれないが、逆にその人より自分の方が知識量が多ければ、その人の述べていることを容易に把握しやすいだろうし、何かそれに関していい加減でお粗末なことを述べているのがすぐにわかって、その人のごまかしを見破ることができるかもしれないし、そういうところで知識量が物を言う場合があるわけだが、それとともにある程度は世間的な良し悪しの評価が定まっている物事や人や団体と比較して、その対象を良く言ったり悪く言ったりすることもあるだろうし、それについて簡単に言うなら、その対象となるのが人物だとすれば、その人物を悪く言うなら、その人のことをヒトラーのような独裁者だと決めつければ、ヒトラーに関する世間的な評価や評判を、その人に被せようとしているわけだろうし、実際にそんなわかりやすい例を使う人は、かえって愚かに見えてしまうから、少しは気が利く人なら、そんなわかりやすい例を持ち出してくることはないだろうが、何かそういうところで、良く言いたい人物に関して、ちょっとマイナーで誰もがその人物の名前ぐらいは知っているが、それほど詳しい知識は持ち合わせていないように思われる人を比較の対象に使って、その人物について比較するにあたって都合の良い面を詳しく説明しつつ、その人物と比較の対象となる人物とを重ね合わせて、良い印象を持たせようとすることなどが、巧妙なやり方になるのかもしれないが、そういうやり方に関しても、何か比較する上で都合の良い一方的な比較材料ばかり持ち出してくるようだと、普通の感性の持ち主なら、そうした比較自体がおかしいことに気づくだろうし、ではそれに関してどう語れば信用できるかとなると、一概には言えないだろうが、比較するにしても話者や語り手が良し悪しを決めつけるのではなく、あくまでもそうした判断や評価は、そうした説明を受け取る側に任されるような内容であれば、それなりに良心的な内容だと思われるだろうし、それを説明する側が、説明を受ける側の判断材料を提供するにとどめておくような説明に終始していれば、何か公平なことをやっている感じが出てくるだろうし、またそれに関して良い印象を受ける材料も悪い印象を受ける材料も、さらにどちらとも判断のつかない材料も提供すれば、さらに充実した説明になるかもしれないが、たぶんそんな判断や評価などは枝葉末節なことに過ぎないように思われる内容だと、より現状を反映したありのままの世界の現実に近づくのではないか。


2月3日「もっともらしい理屈」

 人が行なっていることには何かともっともらしい理屈がつきものなのだが、世の中を動かしている主要な理屈の中でも、資本主義の理屈が世界を覆う過程で大規模な革命や戦争を引き起こしてきたのが、ここ三百年余りの世界の動向だろうし、単純に考えて資本主義経済には商品を売り買いするための単一で同質な市場が必要であり、もちろん本当は違うのだが、それに関して鶏が先か卵が先かの点で不明確な面もあるが、それがヨーロッパでは国王の下に中央集権を推し進めた絶対主義王政の確立とともに、国内に単一で同質な市場が生まれ、また中央集権化した国の統治に関して行政を担う官僚機構も発達してきて、さらに統治を推し進めるために、広く社会の各層から意見を聞いて、それを行政に反映させるための議会も発達してきたわけだが、大雑把にそう捉えられないこともないが、各国が抱えている固有の事情に応じて、そうなるに至る成り行きもその後の経過も異なってくるだろうし、実際に国ごとに様々な差異が生じてきたし、現状でも生じているし、これからも生じていくのだろうが、それらの最も先駆的な事例がイギリスで起こった経緯になるだろうし、それ以前のオランダやイタリアやスペインやポルトガルで起こったことは、まだ前資本主義的な傾向が色濃く残っていて、完全には産業と行政と議会の三位一体が実現しなかったわけだろうが、それを三位一体とするのもとりあえずの定義であって、あまり正当化するほどの理由も根拠も定かでないかもしれないが、ともかくイギリスでは、農業生産技術の向上によって、農業生産が増大するとともに養える人口も増えて、農産物の大量生産に合わせて、より広い農地を確保するために、農地の囲い込みによって大土地所有が広まるとともに、土地を追われた貧しい農民たちが賃金労働者となって農業生産に携わるとともに、また増えすぎた人口が大都市に流入するとともに、そうした人々を安価な労働力としてこき使うことによって他の産業も発達してきて、そうした成り行きが産業革命と言われたわけだろうが、そうなる過程でピューリタン革命とか名誉革命とか、国内の動乱を象徴するような政変もあったわけだが、そうした政変を経て最終的には現在の立憲君主制のような形態に落ち着いたわけで、そうなった結果から見て、それを民主主義が確立する過程だと好意的に捉えることも可能だが、そんなふうにして国内の情勢が落ち着いた後でも、依然として極端な貧富の格差や、労働者の劣悪な環境下での長時間労働などの悲惨な境遇は一つも改善していなかったわけで、むしろ改善していないどころか、国内で食えなくなって余った人材を移民として廃棄するための土地として、海外に広大な植民地を持つことになったし、その植民地の一つで、本国の横暴に耐えかねて独立したのがアメリカだったわけだし、また多すぎる犯罪者の口減らしのために、囚人を送り込んだ先がオーストラリアだったわけだろうし、さらに綿花の輸入と綿織物の輸出先として確保して併合したのがインドだったわけだし、そのインドで生産したアヘンを密輸して、陶磁器や茶や絹などの輸入代金として支払った銀を回収しようとした先が中国だったわけだが、それらを後からどう言い繕ってみても、正当化できないようなことばかり行ってきたわけだから、そうした資本主義的な産業の興隆が招いたことの中で、民主的な政治体制が確立した経緯があるにしても、活動として主導権を握ってきたのは産業の側にあることは確かであり、産業の発展に合わせて国内外の法律や制度を整備してきた経緯があるわけだ。またそれはイギリスの周辺諸国でも並行して起こってきたことなのだろうが、後発の国ではまずは法律や制度を整備しながら、見本となるイギリスに合わせるとともに、競争に勝つためにはイギリスよりもさらに進んだ体制にしたいわけで、そういうところで行政の官僚機構が主導権を握る成り行きが出てくるわけで、そうした官僚機構側が主導権を握る形で生まれた体制が、フランスでは共和制という体制となったわけで、またそうした体制にする上で、イギリスから独立したアメリカの体制や、そこから抽出された国民主権などの政治思想を参考にしたわけだが、そうした体制がすぐに定着したわけでもなく、フランスでは帝政や立憲君主制などへの迂回や揺り戻しを経ながら、百年ぐらいの歳月を経て、ようやく共和制に落ち着いたわけだろうし、またアメリカでは南部の奴隷制と北部の賃金労働主体の資本主義経済との間で溝が深まってきて、南北戦争という内戦を経て、ようやく同じ資本主義体制の下に統一したわけだし、またドイツでは北部の富国強兵的な官僚国家であるプロイセンが強国となって主導権を握って、国内を統一するとともに、行政の側がより強い主導権を握って国を統治するような立憲君主体制が確立されて、それを法律や制度の面で見習ったのが、明治維新以後の日本だったわけだが、一方ロシアや中国などでは、元から広大な領土や大量の人民を統治するために皇帝直属の官僚機構が発達していたわけで、そうした官僚的な統治の伝統が、共産主義革命を経て誕生した社会主義体制にも受け継がれて、現在でも非民主的で独裁的な傾向の強い政治体制となって現れているわけだろうが、そんな中で統治という行為を正当化するために必要な理屈と、資本主義の理屈との間に折り合いをつけるために必要なのが、国民主権的な民主主義の理屈だとすれば、どうもそれは常に裏切られる傾向にあるだろうし、三者ともに別々の方角を向いていて、実際に折り合いがついているとは言い難いわけだが、それでも方便としてなら、いくらでもその手の理想が利用されてきただろうし、例えばアメリカの南北戦争において、大統領となったリンカーンが掲げた奴隷解放は、法の下での人民の平等を実現させるためには、その実態がどうであれ、建前としては必要不可欠に思われただろうし、それはフランス革命の時でもロシア革命の時でも、革命を起こす側が民衆を味方につけるための方便としては、民主主義の理念を掲げることが必要だったわけだが、その後の実態としてはフランスでもロシアでも官僚機構による国家管理的な体制へと収束していったわけで、そういうところでなかなか折り合いをつけるのが難しいことが明らかとなるわけだ。

 だからと言って、民主主義の理想が潰えたわけではなく、それ以後のいつの時代でも、政治理念としては民衆の間で一定の支持や共感を得てきたわけで、実際にも民主的な政治体制の確立が主張され続けてきたわけだが、一方でそれが官僚機構による国家統治の邪魔になってきた面もあるし、また資本主義的な利益の追求の邪魔にもなってきた面もあるのかもしれないが、ともかくそれらが合わさって相乗効果を発揮しているとは言えないだろうし、むしろ互いが互いを利用し合う関係を築いてきたわけで、それは騙し合いの関係とも言えるだろうし、例えば民衆に向かって、官僚機構の国家統治によって、豊かで平和な暮らしが実現するような夢を見させて、また資本主義的な利益の追求によって、金持ちになれる夢を見させて、さらに民主的な政治体制が確立されれば、誰もが自由に意見や主張が言えて、それが世の中や行政に反映するような夢を見させているとしても、何がそんな夢を見させているのかといえば、それは社会全体がその構成員に向かって夢を見させているのかもしれず、確かに世の中にはそうした夢が実現しているような気分になれる立場や境遇にある人も存在するのかもしれないし、またその一方で夢が破れて騙されたと実感する人も大勢存在するのかもしれないが、そんな人たちが世の中の状況を批判する立場や境遇を占めているわけでもなく、実際にはそうではない人たちが世の中の状況を批判している場合が多いわけだが、そういうことを言っている人たちの意見や主張も、それなりにもっともらしく思われるわけだが、それらの人たちの立場や境遇というのが、その人の立場や境遇から生じる都合を反映しているわけで、例えばそれが、自分ではなく他の誰かがひどく悲惨な境遇であるのが許せないとか、また逆に他の誰かがその人の夢を実現させて世間的に成功すれば、それを賞賛して讃えるとか、多くの場合はそれを伝えているメディア上でそんなことが言われていて、そうなるとそんなことを言っている人の都合がメディアの都合となるだろうが、ではその人の都合とは何かといえば、他人に共感したり同情したりできるような余裕ある立場や境遇を占めていたいとなるだろうし、結局はそれが批判であっても賞賛であっても、そんなことを言える立場や境遇の人がメディア上に存在しているということになり、そこで騙されているような気になってしまうわけだが、何に騙されているのかと言えば、それらの人たちの演技に騙されていることになるだろうし、そうであるなら世の中にはそうした演技とは違う現実があるのかもしれないが、たぶんそうした演技ではない現実の実態というのが、単なる社会的な役割分担であり、役割を分担された人がその役割をこなしている現実であり、その中には確かにメディア上で他人のやっていることに共感したり同情したりする役割もあるのだろうが、他にも様々な役割があるのは当たり前のことなのだろうが、その一方で何の役割もあてがわれていない人もいるのかもしれないし、また役割というのは他からあてがわれるのではなく、他人と競争して自分でその役割を勝ち取るものでもあるだろうし、そういう積極的に役割を求めるような態度もあるのだろうが、そうやって自らが主体的に活動して、社会の中で自分が演じたい役割を求めることこそが、夢を見るという行為になるのかもしれず、そう思ってしまった時点で、社会によって夢を見させられていることになり、普通に世の中で語られるような人は、そういった夢を見ている人しか語られないだろうし、それ以外の人について語られることは、ほとんどないのかもしれないし、あったとしても、否定的なニュアンスを伴って語られるから、その他の人たちはいないも同然な世の中が、夢を見ている人たちには意識されていて、そんな人たちにとっては、あたかも世の中の全ての人たちが、自分たちと同じように夢を見ていると思われるから、そういう人たちの間では、何やら積極的に夢を追い求めるようなことをやっているわけだろうし、またそうであるからこそ、自分たちの求める理想を実現させるために、積極的に活動しているような気になるわけだろうが、果たしてそれだけが世の中の全てかとなると、どうもそうではないような情勢があるのかもしれず、またそういう情勢はメディア上からはほとんど伝わってこないのかもしれないし、実際にほとんどの人たちがそれを実感することもないのかもしれないが、それが騙されていると言えるのかとなると、そうとも言えないような気にもなるだろうし、少なくとも騙す側が騙している自覚はないだろうし、それよりは世の中の真実を伝えていると自負している割合の方が圧倒的に高いだろうし、わざと騙す意図がなければ、普通は真実を伝えようとしているだろうし、それが真実とは言えないとしても、現実を伝えているだろうし、また意図して虚構を伝えているとしても、そこにはもっともらしい理由があるだろうし、少なくとも何かを伝えたいという意図を持って伝えている限りで、そこに伝えたい人の恣意性が含まれているはずだが、それ以外の面が伝わってこないはずもないだろうし、そのそれ以外の面というのが、その人の意図や思惑を外れる面であるわけだが、そこに夢とは異なる現実が映っていて、そういう面も含めると、世の中の夢ではない現実が見えてくるのかもしれないし、それはメディア以外の現実からも伝わってくるのだろうが、そういうところに理屈から離れた何かが存在していて、それが理屈では捉えきれない現実でもあるわけだが、それが普段から産業技術によって作り出された物事に取り囲まれながら暮らしていると、なかなか気づきにくい現実でもあるだろうし、しかも当の産業技術から作り出された人工物にさえ、その技術的な意図や目的から外れる面も含まれているのかもしれず、そういった面を感じ取ることができれば、目的に支配された夢から離脱して、世界の真の豊かさを実感できるかもしれないが、そこには真の豊かさとは言えない面もあるだろうし、すでにそんな言葉を使っている時点で、真ではない何かが想像されてしまうし、また豊かさと貧しさの二項対立から外れる何らかの状態も想像されてしまうわけで、そういうことまで考慮に入れると、それは言葉では言い表せない何かとなってしまうわけだが、そこまで求める必要はないだろうし、便宜的に世界の真の豊かさというもっともらしい状態を夢想していれば、それでも構わないのではないか。


2月2日「正しい行為」

 感触としては現状でうまくいっている行為については、正しいことをやっているように思われるだろうが、現状でうまくいっていない行為が間違っているかというと、間違っている可能性が大いにあるとしても、たとえ間違っているように思われても、それができないわけではないとなると、何かそこで間違っていることをやらせるような成り行きが生じていることになるのかもしれず、そういうところで何が正しくて何が間違っていて、また何ができて何ができないかについて、判断としてはよくわからなくなってくるわけで、何が間違っていると思われても、できることを行うような成り行きになってしまうだろうし、また特に現状で正しいことができて、間違ったことができないのではなく、正しいと思われることでも、できることとできないことがあり、また間違っていると思われることでも、同じようにできることとできないことがあるということであり、それが正しいか間違っているかの判断と、実際にそれができるかできないかは、別の話であり、現状でできることを優先してやるような成り行きになれば、それが正しかろうと間違っていようと、できることをやるような成り行きになってしまうだろうし、またそれを継続してやれている限りで、それをやっていくような成り行きも生じてくるわけだが、それができなくなれば、そこで何かやり方が間違っているから、そうした行為が行き詰ってきたようにも思われるだろうし、それとは違って行き詰まらないようにやり方を調整しながら、継続的に何かが行われている実態があれば、それが正しい行為のようにも思われてくるわけで、そういう意味では正しいとか間違っているとかは、そこで行われていることに応じて判断されるようなことだろうし、行う前から事前に正しいか間違っているかを判断できるようなものでもないのだが、それでも事前にわかっていることがあるとすれば、先例や前例としてすでに行われた結果から、正しいか間違っているかの判断がされていて、そうした判断に基づいて、正しいとされる行為を行えば、その通りのことができれば、それが正しい行為であるように思われるだろうし、そこでうまくいかないようなことにでもなれば、以前は正しいとされた行為ができた時とは、状況や条件が異なっているから、うまくいかない場合があるのだろうし、そういう意味ではその時は正しかったが、現状では正しいとは言えなくなってしまうだろうし、それだけ正しさの条件や内容が変わってきていることになるのではないか。またそうであってもその時々での相対的な正しさではなく、普遍的な正しさに関しては、その時々でうまく行ったり行かなかったりするにしても、論理的には正しかったり、またそれが倫理的な正しさや道徳的な正しさなどになるとしても、そうやってその場の状況や条件に左右されない正しさを肯定したり推奨するような成り行きもあるだろうし、そうなるとその場の状況や条件を調整して、それらの普遍的な正しさに基づいた行為が実行されやすいようにして、しかもそれがうまくいくようにするために、関連する法律や制度を整備するような成り行きも生じてくるわけだが、果たしてそういうやり方がうまくいくかというと、ある程度はうまく行っている状況があるから、そういうことが行われるのだろうし、そうやって何やらその種の正しさに基づいた行為が行われることもあるが、全ての行為が、そうした普遍的な正しさに基づいて行われているわけでもないだろうし、どちらかといえば、そうした面もそれなりに配慮されることもあるだろうが、その中でも論理的な正しさの面で、例えば収益性などの経済的な論理が優先される傾向にもなっているだろうし、その一方でそういった金儲け主義に押されて、倫理的な正しさや道徳的な正しさなどは、あまり考慮されない傾向も出てくるし、また現実的な問題として、それらの正しさを全て兼ね備えた行為ができるわけでもないだろうし、それよりもそこでうまくいかないようなことをやっている人たちの方が、自分たちの行為がうまくいかないことの原因や理由を、その場の状況や条件のせいにしたがるだろうし、またそういう人たちに限って、倫理や道徳などの普遍的な正しさを尊重しているように装って、その場でうまくやっている人や団体に向かって、そうした普遍的な正しさをないがしろにしていると批判したり糾弾したりするわけで、そういう批判や糾弾の中で強調されるのも、経済的にうまくやっている人に付きまとってくる、金儲け主義という否定的な先入観や固定観念に基づいたレッテル貼りのような文句だろうし、そうやってその場でうまくやっている人たちに対するひがみややっかみの感情をあらわにすることによって、うまくいっていないことの憂さを晴らすようなことが行われるわけだが、だからと言って、普通に考えて世の中の経済的な行為のほとんど全てが金儲けに含まれるわけだから、うまくいっていないほとんどの人たちも、それを行なって生計を立てているわけで、そういったうまくいくとひがみややっかみの対象となるような行為自体も、ある面では正しいことを行なった結果としてそうなったわけだから、正しいことをやって、しかもそうした行為がうまくいっているにも関わらず、場合によってはそれが否定的な批判や攻撃の対象となってしまうこと自体が、そうした正しさの不完全性を示しているだろうし、また行為の正しさについても、経済面や倫理面や道徳面などの様々な面で、その正しさの傾向や種類によって差異が生じてくるわけだから、しかもそれらの全てを兼ね備えた正しい行為を実行できるとは思えないだろうし、そういうことを考慮すれば、その場でできる範囲内で、正しい行為をやるしかないのかもしれないが、特にそれが間違っているとは思えなければ、現に行なっている行為を続けるしかないだろうし、またそういうことをやっている実態がその場に反映されて、それがその場の状況や条件を形作ってきて、結局はやっていることの実態がその場に反映されてくるわけだ。

 要するにその場で様々なことが行われていること自体が、その場の状況であり、実際に行われていることが、その場で何ができるかの条件になってしまうわけだから、その場でできることは現にそこで行われていることであり、しかも誰もがその場で行われていることができるわけではなく、さらにその場で行えることに関しての条件を満たした者のみが、そこで行われていることをできるわけで、その条件に法律や制度が絡んでくると、そうした法律や制度によって認められた資格という許認可権を伴った条件となるだろうし、さらにそうした資格を得た者同士でも競争を伴ってくることもあり、そうやってその場で行うことのできる者が選別されてくると、誰もがそれを行えるわけではなく、特定の条件を満たした者や団体のみが行えるような状況がその場に出現するわけだが、それに関しての良し悪しを云々することは、普通はないだろうし、ただ単にそういう成り行きによってそういうことが行われている状況があるに過ぎず、そうした前提がある上で、そこで何かを行なっている人や団体に関して、そのやり方ややっている状況や状態について、論理的や倫理的や道徳的な観点から、良し悪しを論じることもできるだろうが、そうだとしても、すでにそこで何かを行なうに際して、様々な条件をクリアした上でないと行えないわけだから、そういう面の方が、その場で何かが行われている要因の中で、圧倒的な割合を占めていて、それ比べて他の論理や倫理や道徳などから求まる良し悪しなどは、ほんのわずかな要因でしかなく、いくらそういう部分でやっていることの良し悪しを論じても、そこで行われていることには、ほとんど何の作用も影響も及ぼさない実態があるのかもしれないし、そうでなくても様々なことが行われている状況の中で、ある特定の行為の良し悪しを論じてみても、それが他の行為との関連や関係の中で行われていることであれば、その行為だけをどうにかしようとしてみても、他の行為との兼ね合いから、そうした行為のやり方ややっている状況や実態を変えようがなく、そういう方面からの改善や改革の試みができないような可能性さえあるだろうし、実際にいくら外部から批判されていても、長年にわたって変わりなく続けられているような行為には、そういう傾向があるだろうし、そういう行為には、それに対する批判などはすでに織り込み済みで行われるような成り行きが生じているのではないか。またそこで何かが行われていること自体から、その場の状況が生じているわけだから、そういう面ではそれを批判する人や団体よりは、そこで何かを行なっている人や団体の側に、行なっていることに関しては主導権があり、その行なっている中に、それに対する批判も含まれているわけだろうが、批判することについては確かに主導権を握っているかもしれないが、そういう部分が行われている全体の中での割合が少なければ、それだけ主導権を握っている部分も少なくなって、それに比例して世の中への影響力の度合いとしても小さくなってしまうだろうし、また批判というのはメディアを通して行われることだから、メディアの中で批判の占める割合が低下すれば、それだけ影響力も低下してしまうのは当然の成り行きであり、また民衆のメディアに対する信用度や信頼度が低下していれば、やはりそれだけメディア自体の世の中への影響力も低下するし、結局そうなっている中で、現状の批判勢力が、世の中の様々な方面で主導権を握っている側を批判するとしても、同時にメディアの中で主導権を握って批判勢力を抑圧している側も批判しなければならず、そうやってメディア自体を批判することによってメディアの信用度や信頼度を低下させておいて、その上に政治的あるいは経済的な主導権を握っている側を、信用度や信頼度の低下したメディアを通して批判しなければならないわけだから、二重の意味で世の中への影響力の低下を招きながら批判を繰り返すしかなく、そういう面ではどう見ても勝ち目のない戦いを強いられていると言わざるを得ず、それが結果的に世間に対する影響力の低下を招きながらも、その上にさらに主導権を握っている範囲も狭められている現状を招いているのかもしれず、そういうやり方が正しい行為かといえば、やっている側としては正しい行為だと強弁するしかないにしても、世間的に見て、もはや何が正しい行為であるかを決める立場にはないのかもしれないし、そういう状態が長引くほど、批判自体がジリ貧状態になりながらも、メディア内で相互批判の内ゲバのようなことが繰り返される様相を呈してしまうかもしれないし、そういった状態を改善させるのは批判勢力自身には無理なことだろうし、改善させる必要さえないのかもしれないが、それに関して民衆の側で踏まえておかなければならないことがあるかというと、民衆の間でも様々な立場や境遇の違いがあって、そういう立場や境遇を無視して、ひとまとめに民衆と呼んでしまうのも、かなり大雑把でいい加減な把握でしかなく、しかもその民衆が個人としても団体の構成員としても、そこで何かをやっている実態が、社会状況として生じているわけだから、何かその中で正しい判断基準とか評価基準とかが固定されているとは捉えない方がいいのかもしれず、それに伴って批判勢力が持ち出すような論理や倫理や道徳などに関する判断基準や評価基準も、特に固定しているわけではないとしても、それらの勢力が何か固定した判断基準や評価基準に基づいて判断や評価を行なっているように感じられるとしたら、そうした判断や評価に関しても、判断や評価を下す個々の事例において、差異やずれを伴っているかどうかに関して、注意深く観察する必要があり、そうした差異やずれを把握することが肝心なのかもしれず、特に同じようなことを行なっている複数の人や団体の間で、実際にその判断や評価に差異やずれが生じているとすれば、そういうところで判断や評価を下す側にぶれが生じていることになるだろうし、また同じ人や団体が行う別々の行為に対して、いつも決まって同じような判断や評価を下すような行われていれば、そうした人や団体に対して先入観や固定観念が生じていて、それらの人や団体が何をやっても、固定した好意的あるいは批判的な論調となってしまっていることになるだろうし、そうした面で違和感を持つことが、世間的な判断基準や評価基準が固定しているような思い込みから離脱して、自分独自の判断や評価を下すことに繋がるのではないか。


2月1日「世間的な見せかけ」

 何かをやるに当たって、何かうまいやり方があると思われることが、そのやり方を選ぶきっかけになるのかもしれないが、実際にそのやり方を試してみて、うまくいけばそれをやり続けることになるわけだが、うまくいかなければ別のやり方を探すだろうし、探して見つかれば、やはりそのやり方を試して、うまくいけばそれをやり続けることになるわけだろうが、同じやり方でも、その場の状況に適合してうまくいく場合と、その場の状況に合わなくてうまくいかない場合がありそうで、そうなるとうまくいくか否かは、その場の状況に左右されることにもなるわけだが、さらに場合によっては、別にその場ではうまくいかなくても構わない場合まであるだろうし、実際に他の事情が絡んでくると、その場ではあえて失敗しておいた方が、それを行なった人にとっては、かえって都合が良い場合まであるのかもしれないし、逆にその場でうまく行き過ぎてしまったことが、後になって、その人に禍をもたらすかもしれないし、さらにその場ではうまくいってもいかなくても、どちらでも構わないような場合さえあるのかもしれず、かえってその場で結果にこだわってしまったことが、結果よりも重大な何かを失ったり見落としている可能性があるわけで、例えばそこで目先の利益にとらわれて、もっと大きな利益をもたらすかもしれない信用を失ってしまったり、また木を見て森を見ないような過ちを犯していることにもなるかもしれないし、そういう意味では、そうなった結果だけから何かを判断しようとすると、いくらでも判断する人の都合に合わせて、恣意的にその場での良し悪しを判断できるわけでもないが、判断に関してうまく条件や都合を調整すれば、何かもっともらしい評価につながるような判断ができそうだし、そういう恣意的なご都合主義の面を考慮するなら、それに関しては自らの判断も他人の判断も、全面的に信頼するわけにはいかないし、それらは全て、とりあえずの判断だとみなしておけば、そこからその場の情勢の変化に合わせて、柔軟に判断を変えたり調整したり、あるいはそれまでとは全く異なる面から判断を下せるのかもしれず、しかもそんな判断でさえとりあえずの判断にしかならなければ、そうした判断の相対性を認識しておけば、そこから求まる評価も相対的なものと捉えておいて構わないだろうし、少なくともそれに対する絶対的な判断や評価はあり得ないと思っておいた方が、そういう面からもたらされる思い込みや先入観や固定観念から、自由でいられるような気はするだろうが、それにもそれなりに制約や限界があることは踏まえておかないと、今度は状況に合わせて自由に判断や評価を調整できるような思い込みや先入観や固定観念をもたらしてしまうわけだから、結局はそうやって、意識が捉えた行為や物事に対して、適切な言葉を当てはめる行為自体を、真に受けているに過ぎないことを、意識が過大評価する過ちを犯してしまうわけで、それに関してはどう考えてみても、それ以上の何がもたらされるわけではなく、実際にもたらされるのは、何かをやった結果がもたらされるだけであり、その何かをやった中に、結果を良いだの悪いだのと判断したり評価したりする行為も含まれるのだろうが、他の何かをやっている実態にとっては、それはやった結果に対する反応でしかないわけだから、それ自体は枝葉末節なこととみなされるかもしれないし、その評価が良かろうと悪かろうと、実際に何かをやっている実態があれば、そこで人や団体の活動が成り立っている状況があるわけで、そうした活動が世の中に何らかの作用や影響を及ぼしていて、それが悪い作用や悪影響を及ぼしているように思われると、それが社会問題としてメディア上で取り上げられることもあるだろうし、それに関して何か主張や意見が表明されるわけだろうが、やはりそれも何かをやった結果に対する反応でしかないわけだから、少なくともその時点では、何かをやった側が先行しているわけで、そして先行して行われた行為に対して、それを良いだの悪いだのと後から述べている時点で、すでに遅れをとっていることは自覚しておかないとならないだろうし、それに関しては何でもかんでも先手必勝というわけではないにしても、先行する行為や物事には、それだけアドバンテージがあるだろうし、しかもそれが実際に行われていることなのだから、まだその時点では行われていない予言や予測される行為や出来事よりは、確実な作用や影響を社会に及ぼしているはずだろうし、それが無視されるような些細な行為や出来事であっても、実際に起こってしまったことは、取り返しがつかないことだとみなしておいた方が妥当なのかもしれず、それをやってしまったり起こってしまった後から、何らかの修正や修復が可能だとしても、そうした修正や修復でさえも、やってしまったらすでに起こってしまった行為や出来事になるわけだから、そんなことが行われた分が、すでにその場の状況に付け足されたことになるわけで、そんなふうにして物事が前進してしまえば、そうやって前進した分だけ状況も変わってくるだろうし、それをいちいちそこで立ち止まって、やってしまったことについて良いだの悪いだのと評価するにしても、評価しきれない面があるとともに、評価する必要も感じられない行為など他にいくらでもあるだろうし、しかもそれを評価したところで、やってしまったことの印象が変わることはあっても、やってしまったこと自体は変わりようがなく、それは事実として認めるしかないのかもしれないが、中には認めがたいことも行われているだろうし、またやってしまったことをなかったことにしたい思惑が働けば、それに関してはやっていなかったと嘘をついたり、関係者の間で口裏合わせでもして、何も行われなかったことにできるかもしれないが、そんなことをやればやるほど、やってしまった事実が、口裏合わせをした関係者の意識に重くのしかかってくるだろうし、そうまでしてなかったことにしたいわけだから、それらの人々にとっては、その事実がよほど重大なことのように思われてくるわけで、そうなってしまうと多かれ少なかれ、そんな行為や出来事に執拗にこだわらざるを得ないような心境に至ってしまうのではないか。

 やってしまったことを、後から良く見せかけたり悪く見せかけたりすることも、世の中では一般的に行われていることだが、その中でも、それに対して何らかのを評価を下すことによって、良くも悪くも見せかける手法が、それについて語る内容には含まれるだろうし、それを肯定的に語れば、語る対象を良く見せかけることになるし、それを否定的に語れば、語る対象を悪く見せかけることになるだろうが、見せかけるといっても、語って見せたり、文章として表示して見せたりするわけで、そこに言葉が介在しているのだから、特に画像や映像を伴っていなくても、想像させることになるだろうし、それだけ直接的な印象から遠ざかることにもなるのかもしれないが、それを良く言ったり悪く言ったりすることが、そういう評価を下すことに説得力を持たせて、評価を受け取る側にも、その評価を受け入れさせようとするわけだから、そこには何らかの論理的な理屈が伴っていて、その理屈に説得力を感じられると、そんな評価を受け入れるかもしれないし、説得力を感じられなければ、受け入れないだろうが、そんな理屈とともに印象を操作しようとするわけだから、稚拙な理屈でも、世間的な印象から判断してしまう人も多いだろうし、そういうところでも世間的に定着している先入観や固定観念に合致する内容であれば、そうした評価を信じてしまうだろうし、そういう面でも何かもっともらしい理屈を伴っているとしても、その理屈は世間的に受け入れ可能な理屈となるだろうし、普段から誰もが思っている範囲内に収まるようなことが述べられていれば、大した違和感もなく受け入れられるような成り行きにもなるだろうし、そういうところで初めから評価が決まっているような物事との比較によって、説得力を持たせようとしている面もあるだろうが、そういう部分で何か世間の一般常識的な価値観も評価基準に含まれてくるだろうし、その辺が巧妙に調整されていれば、そうした評価が説得力を伴うのかもしれないが、それが妥当かというと、妥当に思われるような操作や調整が施されていると捉えるのが妥当なところなのだが、それに関して例えば、評価する対象を良く見せかけようとするには、世間的な価値観に照らし合わせて良く見えるような面を、評価する対象から導き出そうとするだろうし、逆に評価する対象を悪く見せかけようとするには、世間的な価値観に照らし合わせて悪く見えるような面を、評価する対象から導き出そうとするだろうし、さらに良く見せかけようとする対象に関しては、世間的な価値観に照らし合わせて悪く見えるような面に関しては、なるべく言及しないようにするだろうし、また悪く見せかけようとする対象に関しても、世間的な価値観に照らし合わせて良く見えるような面に関しては、なるべく言及しないようにするだろうし、そういうやり方そのものは、評価する対象を良く見せかけようとしたり悪く見せかけようとしたりする操作としては、妥当なやり方かもしれないが、評価としてそういうことを行うのが妥当かといえば、評価の公平さを期すという観点からは、甚だ疑問に感じるだろうし、そういう面で評価する側の恣意性が表れているとしか言えないが、一般的に考えるなら、宣伝や煽動とはそういうものだろうし、宣伝や煽動に判断や評価の公平性を期待するのはおかしいわけで、そういった意味で公平な判断や評価を期待できないから、宣伝や煽動の内容を真に受けるわけにはいかないのだが、宣伝や煽動を行なっている側としては、是非とも真に受けてほしいわけで、そういうところが矛盾しているはずなのだが、世間一般の感覚としては、決して公平な判断でも評価でもない宣伝や煽動を、一般の民衆が真に受けることが期待されているわけで、そこが世間一般の感覚のおかしいところであり、狂っているところでもあるわけだが、そうした世間一般のおかしくもあり狂ってもいる感覚の持ち主の価値観として、世間一般に受け入れられているのが、世間的な価値観であるわけだから、そういう面を論理的に勘案するなら、世間的な価値観に照らし合わせて良く見えるような面があるからといって、あるいは悪く見えるような面があるからといって、そういう面を持ち合わせた対象を、良いと評価したり悪いと評価したりすることが、果たして妥当かというと、世間的な価値観や評価基準などに照らし合わせてみれば、妥当に思われるかもしれないが、その妥当性を信用できるかといえば、信用したければ信用しても構わないのだろうし、そういった信用によって世間が成り立っていることも確かだろうが、別にそんな評価を真に受ける必要もないのかもしれないし、むしろそんなことをやっている人たちは疑いの目で見ておいた方が、何かしらそこから見えてくるものやわかってくることがあるのかもしれず、そういうところで世間的な信用というのが、それほど確実なものでもないと捉えておくのも妥当なところだろうし、そういうところから、そういった価値観や評価基準に照らし合わせてみて、世間から絶えず影響を受けつつ形成される、自らの先入観や固定観念がどのようなものであるかを把握できるかもしれないし、それが把握できれば、そうした把握から逸脱するような面が自分にあるか否かを知ることになるかもしれないが、そういう面があったとしても、そういう感覚を活用できるか否かはよくわからないだろうが、ただそこから自身と世間一般との間で差異を認識できるだろうし、そうした差異をいかに保持し続けられるかが、自分独自の判断や評価につながってくるだろうし、そういう感性のちょっとした違いを保っていないと、世間的な価値観に照らし合わせて妥当に思われるような主張や意見に対して、それを無批判に賛同したり、全面的に支持するような愚を犯してしまうわけで、そうなるとそれでは世間一般と差がないことになってしまうだろうし、そうであるなら自分が自分である必要がないということにもなるのかもしれず、そんな誰であっても構わないような自分が自分と言えるかとなると、それこそ自家撞着や自己矛盾のただ中に自分が存在していることになってしまうのではないか。