彼の声130

2019年

1月31日「空疎な関係」

 個人と団体の関係は、団体という存在が単純に複数の個人が寄り集まって形成されると考えるなら、団体に所属する個人と団体との関係と、団体には所属していない個人と団体との関係の、二種類の関係に分けられそうだが、団体といっても世の中には様々な程度や種類の団体があるし、それに関して例えば、一般的な団体の特徴や傾向として、団体内での人に対する拘束力の強弱や、団体自体の規模の大小などの面で、多種多様な団体のあり方が考えられそうだが、そうであるならそれに伴って、その外部からも内部においても団体に関係してくる人には、その立場や待遇の面で、多種多様な特徴や傾向が伴ってくるだろうし、結局はそんな多種多様な個人と団体との関係のあり方が想定されるしかなく、そこから人と団体の関係について、何か一般的に興味深い共通の特徴や傾向が浮かび上がってくるにしても、それぞれの個人や団体についても、共通ではなく個別に、特有の特徴や傾向も導き出されるだろうし、それに関して、特定の個人と特定の団体の関係について考えれば、そこからも他の個人や団体にも当てはまるような共通の特徴や傾向が求まるかもしれないが、そういった全体的な面から出てくる共通の特徴や傾向と、個々の事例から出てくる特有の特徴や傾向が、それぞれに人や団体にどう絡んでくるとしても、それに関して何が言えるかとなると、そういう団体が形成された経緯とか、その成り立ちの途上で起こった出来事とか、そういうことに関して詳細に調べてみれば、その団体に関しての構造的な特徴や傾向とか、団体の活動内容から求まる他の団体との関係や、その団体に内外から関わってくる人の活動内容や、それに伴って生じるその人の社会的な立場や境遇とか、そうやってその団体の内部事情や外部事情や、そこに関係してくる他の団体や関係者などに関して、様々なことがわかってくるのかもしれないが、何かそういう面で、いちいち興味深いことがわかってくるかもしれないが、それについてその良し悪しも含めて語るような成り行きに巻き込まれてしまうと、結局何が言いたいのかよくわからなくなってくるだろうし、またそれらをどう捉えて人と団体の関係をどうするべきか、とかいう、包括的なことを述べるような成り行きになってしまうと、いくらそんなことを述べてみても、何が実現するわけでもどうなるわけでもないような気がしてくるし、たぶんそういう成り行きの中では、そういうことを述べるのに必要な知識が導き出されるだけで、その場の目的としては、そういうことを述べるために、あれこれと調べたり考えてみたりしただけで、そうなると単にそれらに関する知識を増やす成り行きに貢献することにしかならないだろうし、そういう意味で、何かについて述べるという行為が、それ自身の目的に応じて、何らかの内容を持つようになるわけで、そういう面でこの場合だと、ただ世の中に存在している人や団体の特徴や傾向が導き出されて、それに関する知識を示す働きが、そういった行為から生じることになるわけだが、そういう働きと同じようなことが、当の団体の規模に応じて生じてくる官僚機構についても生じてくるわけで、建前としては団体を効率的に動作させて、そこに関わってくる人々の役に立つために機能するような効果が、官僚機構には期待されるのだろうが、現実にそういう面があるように思われるとしても、どうもそれとは別に、他の面の方が優勢となってくるわけで、むしろそちらの方が優先されるような成り行きになってしまう場合の方が、団体の特徴や傾向から生じる成り行きとしては主流であり、それが団体自体の活動を維持継続させながらも、それとともに官僚機構自体の規模が膨張してくる傾向だろうし、そういう膨張傾向が、団体そのものの動作の効率性や、そこに関わってくる人たちの役に立つというのとは、真逆の特徴を伴ってくるのであり、それよりはただ単に、その構造が無駄に複雑怪奇となって、その中で個々の役割分担も不必要に細分化されつつ増えていったり、組織が膨張した分だけ無駄に経費がかかるような結果となったり、団体が人々の役に立つというよりは、人々の方が団体の役に立つように仕向けられて、そのために強権的な権力の行使が行われたりもして、それは元からそうなのかもしれないが、そうなると結果的には人と団体との間で主従関係が逆転するわけで、そうやって人が団体のために奉仕するような関係がもたらされるわけだが、そうなったからといって、一見それがギブアンドテイクのような対等の関係のように感じられるかもしれないが、それを個人と集団の力関係から考えてみれば、人の方が団体に対して一方的に奉仕するような関係となってしまっているのかもしれず、それは大企業のトップに立って、その官僚機構を思い通りに操縦しているように見える人にも言えるわけで、そういう人がいかに高額の報酬もらっていても、企業経営以外に何がやれるかとなると、実際に莫大な資産を蓄積して、贅沢な暮らしを実現しているとしても、そうした状態自体は、単に金持ちの紋切り型のような暮らしに縛り付けられているだけで、他には何もやりようがないわけで、また企業経営の方でも、ただ単に収益を上げて企業自体をでかくすること以外にやりようがないわけで、それがその人の主体性の反映だとは言えないだろうし、そんなことをやっている間に、それがうまくいけば結果的に企業規模の拡大とともに、その分だけ官僚機構が膨張するのだろうが、その一方で経営者が官僚機構の意向に逆らうようなことをやり始めれば、官僚機構の方ではその経営者が邪魔になるだろうし、それに関して最近話題となった日産とルノーの間で軋轢が表面化した問題では、両社のトップを兼ねる経営者が、ルノーの官僚機構が有利になるようなことをやろうとしたら、当然それでは日産の官僚機構が不利になってしまうから、巻き返し工作が仕掛けられたわけで、その工作の内容がどうであれ、実際にそれが一時的に功を奏して、経営者が解任されたわけだ。

 また団体について一般的に述べるなら、世の中で人を集めて何かを行う活動に関して求心力が生じると、そこに何らかの集団が形成されて、その集団で活動するようになると、周りからそれが何らかの団体とみなされるようになるだろうし、そして集団の内部が構造的にも役割分担を伴った組織的な形態となれば、何やらそこで団体としての目的も生じてくるだろうし、そうなると建前としてはその目的となる、何かをやるために団体で活動するような成り行きが固まってきて、それをやるために個人が団体に所属するような形態も出来上がるわけだが、実際にその目的が何かといえば、もしかしたら何でもないことでしかないのかもしれないし、ただ団体で活動するための方便でしかなく、要するにそこ集団で一緒になって何かしら活動していれば、団体として体裁を取り繕うことができる程度のことにしか過ぎなくなるのかもしれず、そうなるとその活動の内容が何であっても、団体としての活動が継続するように、そこに生じる全ての成り行きが団体として活動に合うように整えられていくのであり、そういうことが行われている限りで、その団体に力が生まれていて、その力が個人へと向かうと、ある面では権力の行使につながるだろうし、その内容として個人が団体の活動に従うように仕向けられるわけで、それ以外は、その団体の構成員などが抱く幻想や妄想が少なからずあるのかもしれないが、それが肯定的に受け取られると、社会に貢献するような内容となるだろうし、世の中を繁栄させるために団体が活動しているように思われるわけだが、それは世の中で様々な団体の活動が行われていること自体が、繁栄の証しであるような論理に従ってそう思われるわけだから、それ自体にも自家撞着的な傾向があるわけだが、団体が繁栄するためにそこに所属する個人が何をやらなければならないかとなると、単に団体に奉仕するようなことが尊ばれるだろうし、またその団体が国家と呼ばれると、国家に奉仕することが国民の義務であるようなことが肯定されてしまうわけだが、さらにそこから国家と国民が一体のものであり、分割不可分な統一体であるという認識も生じてくるだろうし、絶えず団体を生かすために、その構成員が働かなければならないような論理が正当化されてしまうわけだが、なぜそうなってしまうのかというと、簡単にいうなら人為的にそれが作られるからだろうし、人が作った物事の機能は、絶えずそれ自身へと向かう傾向にあるわけで、例えばバロック建築が装飾だらけの奇怪な様相を帯びる時、またバロック音楽も同じように複雑怪奇な旋律の構成となってくる時には、人にはそんなものは不要だとしても、建築物や曲にはそれが必要に思われてくるわけで、それが何らかの構築物である限りは、それを立派にあるいは完璧にそしてまた崇高に見せようとするだろうし、そういう大げさなものを嗜好する心理からも、建築物や曲のために足りなそうに思われるものをゴテゴテと付け足そうとしてしまうのだろうし、その結果としてごちゃごちゃと大げさで余分な要素の塊のようなものが出来上がってしまい、それだけ多大な労力と費用と技術の粋を尽くした作品となるわけだが、よく考えてみればそこまでやらなくても間に合ってしまうような建築や曲などいくらでもあるだろうし、例えばバロック建築ではないが、ガウディが設計したサクラダファミリアは単なる教会であり、神に祈りを捧げるだけの場所に、あれほど複雑怪奇で巨大な装飾過多の建造物が必要かというと、普通に考えれば特に必要だとは思われないだろうが、ガウディにとってはあのような建物を建てることが切実に思われたわけだろうし、しかもいったん建設が始まってしまうと、当のガウディが死んでからも、建物自体の姿形や存在感が人々を魅了してしまったから、とにかく完成するまでは建設工事をやめるわけにはいかない成り行きが生じてしまって、もうすぐそれが完成するにしても、そこからはそれを維持修繕しながら半永久的に保存するような成り行きも生じてしまうだろうし、そうした行為に多くの人たちがこれからも関わっていくだろうし、それと同じように、人にとって必要という以上に、例えば国家にとって必要だから、政府の官僚機構が膨張してくるとともに、また企業にとって必要だから、企業の官僚機構も膨張してきて、そうした官僚機構を維持継続させるために多くの人々が働かなければならなくなり、さらに人が官僚機構のために必要な人材となるべく、教育や調教を施されるような成り行きも生じてくるわけだが、少なくともあからさまには誰もそうは思わないだろうし、また人々の生活が豊かになるために国も企業も必要だと思っている人も、それほど多くはいないだろうが、そういうところで人工的に作られた物事が何のために必要だとか、あまり深く考えたことがない人が大半だろうし、実際何のためというよりは、いったんそれが何らかの必要から作られてしまうと、必要だからというよりは、その作られたものを維持して、継続的に存在させるような成り行きになってきてしまうわけで、それを単純に人々の役に立っているから存在意義や価値がある、と結果から合理的に考えてしまうと、そうではない無用の長物のような存在が、世の中にはあまりに多いことに気づくかもしれないが、ともかくそういったものに人や団体が関わり続けている現状があると、それが必要であろうとなかろうと、存在させ続けるような成り行きが生じてしまうのであり、特にそれを存在させ続けるための費用や労力が注ぎ込まれている限りで、実際に存在し続けるわけで、それが途切れて仕舞えば廃墟と化して朽ち果てるにまかせるような成り行きにもなるのだろうが、だからといってそういうところで、簡単かつ合理的に物事を考えて、不要なものには無駄な費用や労力をかけないような方向に持っていけるかとなると、現状で考えてみても、そうはなっていない世の中の情勢であることは明らかなのではないか。


1月30日「変動する力関係」

 何らかの団体がメディアなどを通じて、世間一般に向けて、何かをやっているように見せるイベントやパフォーマンスが行われることに関して、そこで何かをやっていることの実質が伴っていないように見えるのは、それが見せかけの演技に過ぎないと思われるからだが、そこで何かが行われているように見せかけるに際して、それを観る側に向かってアピールしたい意図が感じられるなら、やはりそこでやっていることに説得力があるように見せかけたいだろうし、説得力を生じさせるには、他でも同じようなことが普通に行われていて、それがうまくいっている事例であることが示されなければならず、そういううまくいくやり方として、こういうところではこうするものだ、という従来からその方面では普通に行われているやり方が、こちらでも普通に踏襲されていることが強調されるわけだが、その踏襲されたやり方を理解できる人に向かって、他と変わらずやっているように見せかけることに成功できれば、その見せかけの演技を真に受けた人から信用を得られるかもしれないし、そうやって見せかけの演技に騙された人から、何らかの利益を得られるなら、利益を得られた分が実質を伴うわけで、それが実質的には詐欺であっても、それを合法的に行えれば、何ら問題とはならないだろうし、そういうところで見せかけだけのプレゼン商法が成り立つわけだが、果たしてそれが見せかけに過ぎないか、あるいはちゃんとした実態を伴っているかは、やっている内容とかそこから得られる収益のあり方が、全然世間的にも許容されるものなら、そういうのは詐欺とは言えないのかもしれないが、また逆に見せかけではなく、実際にそこで物や情報や人や金が動いていても、詐欺的なことが行われている実態もあるかもしれないし、そういう事例もあるなら、特に見せかけだけの演技が悪いことにはならないだろうし、また演技自体に人を惹きつける魅力があれば、そういったやり方が世間的にも認められるかもしれないが、実際にもそこで行うのは演技だけでも構わないのかもしれないし、そこから何の進展がなくても、そこで何かが演じられていて、それがそこでの事業として、そこに関わっている人や団体の間で、それを維持継続させるような成り行きになっていれば、そのままそういった行為が続けられてしまうわけだ。たぶんそういうことも含めて、人や団体の活動は、世の中の様々な方面での、そんなことの積み重なりや離合集散や栄枯盛衰から構成されていて、そこでそれに関わってくる人の生存や団体の存在が維持される限りで、そんなことが継続的に行われるわけだろうし、特にそれに関して、こうしなければならないという決まりきった動作があるにしても、それに関係する人や団体から容認される限りで、それ以外にも可能な動作が生じてくるわけで、実際にその場の成り行きに従って、他の様々な動作の可能性から、その場に作用してくる何かの巡り合わせからきっかけが生じて、それに応じてある特定の動作が選ばれて、それがそこに定着できれば、そこでの主流の動作となる可能性が出てくるし、またそれと競合する他の動作が主流となれば、その動作は廃れるかもしれないし、それでもなくならずに細々と続けられるような動作もあるわけだが、そこで主流となった動作が他でも通用するかどうかは、他で主流となっている動作との兼ね合いや競合関係から、様々な成り行きが生じるだろうし、そこでは動作ごとの住み分けや共存が可能となる成り行きもあるだろうし、またある動作が他の動作を駆逐するような成り行きもあるだろうが、さらにそこから様々な動作が融合して、別の動作へと統合されるような成り行きもあるのかもしれない。またそうなると動作の目的も、それに伴って変わってくるかもしれないし、目的が変われば機能にも変化が起こるかもしれないし、そうなってくると、当初は見せかけの演技でしかなかった行為が、何らかの実質や実態を伴うような行為へと変貌する可能性も出てくるのかもしれず、そういう面まで考慮すれば、現状では稚拙でお粗末に見えるような行為であっても、そうした活動が維持継続されていくに従って、そこから将来、世の中の主流となるような活動が出てくるかもしれないし、そうであるなら、別に現状でそれが主流となる可能性がないように見える動作であっても、特にそういった活動の否定的な面を強調して、排斥するような成り行きが生じてこなければ、現状で成り立っている面に関しては、それはそういう動作として認めておけばいいのかもしれないし、それ以上に興味深く思われるなら、そうした活動に積極的に関わるような経緯が生じてくるかもしれないが、それでもそれが見せかけの演技に過ぎないように感じられるなら、それを詐欺の類いとしてみなしておいても構わないだろうし、たぶん世の中で行われているベンチャービジネスのほとんどは、そういった目で見られているのかもしれないし、そんな中からわずかな成功例が出るにしても、現状で成功して大企業化しているほとんどの事業であっても、元をただせば、出発点では他のほとんどの詐欺的な商売の中で、十把一絡げに扱われるようなものでしかなかったのかもしれないし、そうした出自の卑しさを、他からの信用や協力を積み重ねることによって、覆い隠すことに成功したから、大企業化したわけだろうが、そういう成り行きが全体のほんの一握りの企業にしか生じないから、結果的に数少ない大企業による業界の寡占状態が出現するわけだ。

 そしてそういう活動が現に成り立っていることが、その活動に対する世間的な信用を生じさせていることにもなり、またそうなるまでに至る過程の中で、どのような問題が生じてきたとしても、現状で生じている世間的な信用が、活動を成り立たせている面もあるのだから、そういった世間的な信用によって、その活動が社会に組み込まれている現実もあるわけで、そうした活動を人為的に変えようとすると、その活動が組み込まれている社会の中で、それに関係する他の人や団体との間でも、何らかの調整が必要となってくるだろうし、そういう方面での交渉や取引がうまくいかないと、なかなか活動を変えることはできないのだろうし、そもそもなぜ活動内容を変える必要が生じるのかといえば、普通に考えるならそれは、活動自体がうまくいっていないから、変える必要が生じるのだろうが、そういった理由がなければ変える必要はないわけで、その必要もないのに変える成り行きにはならないだろうが、何かそういう面で、特に変える必要もないのに変わってしまう成り行きもあるのかもしれず、その結果として活動がうまくいかなくなるのかもしれないし、そうであるなら、単純に活動がうまくいかなくなったから、それを人為的に変えようとする成り行き以前に、活動自体を変える成り行きが自然に生じていることになるわけだ。そういう面を考慮するなら、そうした活動に関しては、その外部から及んでくる要因や内部で生じる要因など、様々な変化をもたらす要因がもとからあるのだろうが、その中でも、活動していること自体から生じてくる要因というのがわかりにくいだろうし、例えば同じ活動を延々と繰り返すことが、その同じ活動を困難にすることにもなるわけで、特に周囲の情勢が変わったのに、それに応じることなく、以前と同じことをやり続けていると、やっていることが情勢に合わなくなってくるから、以前と同じ活動ができなくなってくるのだろうし、結局は情勢の変化に合わせて、活動の内容も変えていかなければならないわけだが、それをやろうとすると、活動の内部の様々な部分で調整が必要となってきて、実際に調整に伴って、内部の構造の再編成が行われる場合もあるだろうし、また再編成に伴って、活動の内容も変わってくるわけだが、その中には、周囲の情勢の変化に合わせること以上の変化が生じることもあるだろうし、そういう変化がうまく活動の中で機能すれば、今度はその活動によって、周囲の情勢を変化させることもなるのかもしれず、そうした変化が活動にとって有利に働くか不利に働くかでも、それがまた活動にフィードバックされてくるわけで、そうやってそれ以外の活動とともに、活動自体も周囲の情勢も両方ともに変化させるような成り行きが生じてくるわけで、そういった相互作用の中で活動を調整していかなければならないわけだから、そういう面も考慮に入れれば、周囲の情勢や活動を固定的に捉えるわけにはいかなくなってくるだろうし、絶えずそれらが変動し続ける面を見ていかないと、それらに対する妥当な判断には結びつかないわけだが、それも何をどう判断するかでも、活動やそれに伴って生じる情勢に対する見方が異なってくるかもしれないし、どうもそういうところで、判断する側が恣意的な判断基準を設けて、判断する側の都合に合わせて判断してしまうわけで、それがそうした活動に対する偏見や思い込みや勘違いなどを生じさせてしまうのかもしれないが、それに関して普通という捉え方が、その人の普通が他の人の普通とは違って、恣意的でご都合主義的な傾向となっているのは否めないとしても、それでも普通に考えて、企業活動というのは、それに関する公的な法律や制度などによって、それなりに制限や制約が課せられているとしても、私的な面が色濃くあるだろうし、それはそれよりもさらに公的な面が強く打ち出されている政府にも言えることかもしれないが、それに関わってくる特定の勢力が好き勝手に振る舞うために、企業を設立した経緯があるわけで、何かそういうところで、企業内の官僚機構がそういった勢力に従順に従っているうちは、好き勝手にやりたかった創業者一族や、後から株を買い占めて企業から利益を絞り出そうとする勢力などによる、企業内での主導権が維持されるのだろうが、そうした勢力が何かのきっかけから没落してくると、企業内に巣食う官僚機構の力が強まってくるわけで、そうなると官僚機構による自己保存本能の方が優勢となって、株主や従業員の利益より、企業そのものの利益を優先するようになるだろうし、それは一見公的な利益のようにも思われるだろうが、どうもそうではなく、それを企業自体の私的な利益というと、何かわけがわからないような意味合いになってしまうわけだが、他の誰の利益よりも企業自体の利益を優先させるわけだから、それ自体は私的な利益と呼ぶ他ないわけで、それは政府にも言えることだろうし、国民の利益よりも国家の利益を優先させるとなると、何か矛盾しているように思われるかもしれないが、それを国家と呼ぶから思い違いが生じるわけで、国家ではなく政府の利益を優先させるというと、やはり違和感が伴うだろうが、その辺で一般の人たちは、思考がこんがらがってくるかもしれないのだが、要するにそれが企業であっても政府であっても、組織的に規模が大きくなると、そこには官僚機構が生じてきて、その官僚機構の利益が優先されるようになると、そこに関わってくる人々の利益が相対的に官僚機構の側に吸い取られて、その分が少なくなってくると判断すればいいわけで、そういう意味では官僚機構の構成員の取り分が増える傾向もあるのかもしれないが、それよりも本質的な傾向といえば、官僚機構自体の力が増してきて、それに伴って官僚機構を維持するだけでなく、それ自体を膨張させるために利益が使われるようになるのではないか。それが例えば最近の日産とルノーと日本政府とフランス政府との軋轢にも色濃く表れていて、要するにそれらの官僚機構の利益を優先すべく、双方の間で綱引きをやっているだけで、そこに登場する様々な人物たちは、単なる官僚機構の手駒に過ぎず、官僚機構にとってそれらの人物たちは、単なる使い捨ての消耗品でしかないわけだ。


1月29日「思いがけない出来事」

 世の中でこれから起こることを先取りして、何かが起こると断言してみたい衝動に駆られる人たちには、予言者気取りの面があるのかもしれないが、それに関して、これから何かが起こらざるを得ないという気にさせるような、何らかの情報を持ち合わせていると思っている人も、中にはいるのかもしれないが、たぶんそういった情報はメディアから仕入れた情報だろうし、それを基にして予測したいわけだろうが、それが自分が直接見聞きして仕入れた情報ではなく、メディアから二次的かつ間接的に仕入れた情報である限りにおいて、そのメディアを信頼しているはずで、しかもそうであるのに、そのメディアよりも先んじて、情報を仕入れたメディアを超えるようなことを言いたいわけだから、そうなってしまう時点で、その見解にはその人の創作が入り込んでしまっている可能性があるわけで、仕入れた情報以上のことが、その人の見解には含まれてくるわけだが、そういう部分にはしばしばその人の偏見や思い込みや勘違いが含まれてくるだろうし、それが予言者の妄想につながるのだろうが、それを大した情報通でもない人に、否定的に偏見だの思い込みだの勘違いだのと批判されるのは心外だろうし、少なくとも仕入れた情報は一つのメディアだけからでなく、複数の様々なメディアから様々な情報を入手したはずで、それらをその人の論理に従ってまとめあげてみた結果として、導き出された答えが、その人の見解となるはずだから、その内容は、その人の思考から導き出された論理に照らし合わせてみれば、極めて信憑性が高く納得できる見解であるはずだろうし、だからこそ、そういう人は得意になって自らの予言や予測を開陳したがるわけだが、実際にそういう予言や予測が当たることもあるだろうし、それが当たったとみなされたら、さらにその人は得意になって、自らの予言や予測が当たったことを周囲にあるいはメディアを通じて言いふらすだろうし、それがその人の得意満面の絶頂期となるのかもしれないが、たぶんそうなったとしても、それはそれだけのことであり、どう考えてもそれを超える事態には至らないだろうし、それはただ予言や予測が当たった以上のことではないわけだ。そうなるとたとえ予言や予測が当たったにしても、それがその人にとっては期待外れな結果となるわけで、その人の偏見や思い込みや勘違いからしたら、予言や予測が当たれば、それ以上のことが起こると期待していたはずで、その期待が裏切られて、ただ予言や予測が当たったに過ぎないこと以上には、何も起こらない現実に苛立つだろうし、その苛立ちを他の誰にぶつけるわけにもいかない状況に愕然とするのではないか。要するに予言や予測通りのことが起こるとは、それ以外に何も起こらなければ、ただそれだけのこととなってしまうわけで、結局それ以上の衝撃を世の中にもたらすには、思いがけない想定外の予言や予測をはるかに超えるような、あるいはそれを全て裏切るようなことが起こらないとならないわけで、それに比べれば、高々人間ふぜいが予言できたり予測できたりするようなことがいくら起こったとしても、それは単なる想定内で期待外れのつまらなくて何の刺激ももたらさないような、些細な出来事としかみなされないのかもしれず、それで満足できない人は、もっと途方もない誇大妄想のようなことを予言してみたり、あるいは実際に思いがけない想定外の出来事が起こった後から、自分がそれを予言していたと言い張るわけで、それでも周囲から信じてもらえないなら、その証拠を捏造してまでも言い張るかもしれないし、またそうした出来事の裏では、途轍もないような全世界を巻き込んだ大陰謀が仕掛けられていたと主張するかもしれないし、そうやって何とか自らの意見や見解がものすごい内容であることを主張したいわけだが、そうなってしまう人の何が勘違いかといえば、ものすごいのは実際に起こった出来事そのものであり、その人の妄想の内容がものすごいわけではないのかもしれないし、実際にその種のものすごい妄想の内容は、どれもこれも似通っていて、取り立てて真新しい内容は含まれていないのかもしれないし、そういう宇宙人だの地底人だの超古代文明だの秘密結社だのの存在をほのめかすやり口は、結構昔から行われてきたことであり、その人もそういった昔から受け継がれてきたものすごい妄想に影響されて、そういうことを主張し始めた可能性が高いわけで、結局はそういうものすごい妄想の内容でさえも、そういった伝統的なカルト思想などを調べてみれば、ある程度は予測可能な内容となるだろうし、これからその種のものすごい妄想の内容がいくらメディア上で開陳されようと、それが思いがけない想定外の内容を含むことはないのかもしれず、それが思いがけない想定外の衝撃を世の中にもたらすこともないのかもしれないが、その種の内容をいくら予言や予測してみたところで、実際にそうした予言や予測をはるかに超えるような思いがけない想定外の出来事が起きなければ、それを予言したり予測した人がものすごいとはならないだろうし、しかもそんな予言や予測をはるかに超えるようなことが起こらなければならないとしたら、ただ単にそうした出来事がものすごいと思われるだけで、それをはるかに下回るようなことを予言したり予測してみても、やはりそれがものすごいとは思われないのではないか。

 現代の予言者気取りの中で、そうならない術を心得ている人はあまりいないのかもしれず、別にそんな配慮は無用で余計なお世話かもしれないが、それでも予言や予測をするだけではなく、それがメインとならないように心がけておいた方がいいのかもしれないし、ただ何かのついでに気まぐれな成り行きを装いながら、ちょっとだけ些細な予言や予測を開陳するぐらいが、スマートなやり方かもしれないし、それでは気が済まないにしても、気が済まない程度がちょうどいいのだろうし、下手に気が済むようになりたくて、それにのめり込んで、そうすることがやっていることの全てになってしまうと、やはり気が済まない程度では済まなくなるだろうし、逆に気が済むように何かをやることが、やっていること以外を考慮に入れないような成り行きになってしまうのかもしれないし、そうなるとやっていることへの心理的な依存体質が、やっていることからも裏切られる原因ともなりやすいだろうし、実際にやっているのがそれだけではないことを忘れてしまって、それによってやっていること自体のバランスが崩れて、特定の物事への常軌を逸したのめり込みから生じる独りよがりな妄想を自分で信じてしまうと、現状からかけ離れたことを述べてしまっていることに気づかなくなって、そのことが原因で世間的な信用を落としてしまうのかもしれないが、たぶん世の中には取り立てて事前に予言や予測をしなくても構わないようなことがいくらでも起こるだろうし、またそれが起こっていることに気づかないようなことも起こっているだろうし、そうであるなら特にそれが起こることを予言したり予測する必要がないわけだが、その必要がなくても、予言や予測をする人にとっては必要となってしまう可能性もあるだろうし、なぜ必要が生じるかといえば、単にその人が予言や予測をすることを生業としたいがために、その必要が生じてしまうこともあるわけで、そうであるなら他の人たちにとっては、そんな事情などどうでもいいことだろうし、別に無関心であっても構わないのだが、それとは別の事情として、何でもないようなことを大げさに騒ぎ立てたいがために、その騒ぎ立てたい出来事が起こるのを、予言したり予測する必要が生じてくるとすれば、それを世間の注目を集めるような出来事にしたいということになるだろうし、例えばそれに関して、それが当たり前の現象だとしても、一般的には何でもないことではないだろうが、皆既日食が起こることを太陽と月と地球の軌道から割り出して、その場所へ行けば皆既日食が見られると予測して、その場所への日食の観察ツアーを企画するとか、そういう成り行きが生じることもあるだろうが、他にも桜の花が満開になる日だとか、川の大逆流が起こる時期だとか、紅葉の季節だとか、他にも確実に予測が可能なことも結構あるだろうし、そういうことに関しては、確実に予測ができる限りで、思いがけないことではないのだろうが、予測されているのを知らずに、何かの偶然で皆既日食に出くわしたら、それは驚くだろうし、その人が予測を知らない限りで、それが思いがけない出来事となるわけだが、果たしてそこでその人が予測を知る必要があったかというと、別に必要があったとは思えないだろうし、逆に知ってしまっていたら、その人には思いがけない驚きがもたらされないわけだから、後からそんなことを考えれば、かえって予測を知らなかった幸運に感謝したくなるかもしれないが、それとは別に何か天体観測を専門にやっている人で、皆既日食に関して研究している人なら、そうした予測が必要であるのは当然のことだろうし、また日食の観察ツアーを企画した人にとっても当然必要であり、それに加えて当日の現地の天気予測も必要となるかもしれないが、そういうところで、予言や予測を必要とする人や、特に必要がない人との間で、それなりに事情が異なってくるとともに、世の中で他にも様々なことが起こっている中で、特にその出来事とは無関係な人も結構大勢いるだろうし、そういうことを考慮すれば、その人の切実な事情から何をどう予言しようと予測しようと、それとは関わりのない人には、そんなのは無関係で意味のないことだろうし、また関わりがあっても、予言されたり予測されたりしていることを知らずに関わっている人も結構大勢いるだろうし、そんなふうにして誰にとってもそれが切実に思われるわけでもないとしたら、中にはそうした予言や予測を真に受けて、その予言の力をすごいと思って、その手の予言者を崇め奉る人も出てくるかもしれないが、その人にとってはそうであるだけで、他の人にとってはそうでもないのかもしれないし、他の要因としては、それとは無関係な方面で世間的に著名人となった人が、何かを予言してそれが的中すれば、誰もが安心してその人のすごさを賞賛するかもしれないし、そういうことから判断するなら、特に予言そのものがどうということではなく、著名人の言うことなら誰もが信用するかもしれないし、しかもその内容が世間的にももっともらしいと思われるなら、なおのことその人の権威が高まるだろうし、そうなると思いがけないことを予言するのではなく、誰もが安心するようなことを著名人が予言すれば、誰もがそれをありがたがるかもしれないし、また他の誰かが言っている予言を著名人が支持したり賛同すれば、一般の民衆も安心してそれを支持したり賛同するような成り行きにもなるだろうし、そういう意味では何かを予言したり予測したりすることに関しては、それをする立場や役割が世間的に確立されていれば、それが社会の中で有効に機能するような動作が起こるのだろうし、その一方でその内容がいくら詳細を極めて高確率で当たる可能性が高くても、そして実際に当たったところで、予言や予測を行なったのがその立場や役割にはない人なら、またその人が著名人の支持や賛同を得られそうにない人なら、世間からは相手にされないだろうし、誰にも信じてはもらえないのかもしれない。


1月28日「我慢の許容限度」

 そこで様々な利害が錯綜していて、それに伴って様々な意図や思惑も交錯しているような、どうあっても思い通りにはなりにくい状況の中では、思い通りにはならないことから生じるストレスによって、なかなか平常心を保つのが難しいだろうし、また思い通りにならない限りで安心できないから、いつでも不安とともに不満を抱えている心境にもなるだろうし、そうやってストレスや不満が高じて、そうした思いが他への攻撃に転嫁されるのが、よくありがちな心理的な成り行きになるのだろうが、そうやって生じる攻撃衝動を、自制心を発揮して抑え込むのにも苦労するだろうし、またそんな心理状態を法律や制度によって制御することも難しいだろうが、他への攻撃といっても、死に物狂いで命がけの自爆テロなどから、何やら皮肉な言葉を投げかける程度で済んでしまうことまで、様々な程度と傾向があるわけだから、別に軽い程度や無害な傾向のものなら、特に抑え込んだり制御したりする必要もないだろうし、そこから生じるストレスや不満も、我慢できる程度のことであれば、それよりはそれ以外のことがその場では優先される成り行きになるだろうが、それが我慢できる限度をはるかに超えた、他への直接的な暴力や嫌がらせとなって現れると、やはりそういう行為を法律や制度によって禁じたり処罰することによって、ある程度は抑制されて制御されることにもなるのだろうが、そんなことが行われている結果として、現状の世の中が存在していることも確かであり、それは理想からはかけ離れたその程度の世の中でしかなく、もちろんそれも世の中のほんの一部を構成する傾向に過ぎないだろうし、他にも世の中には様々な傾向や性質があるのだろうが、やはりその中でも他に対する攻撃的な傾向が、そうした攻撃性を調整して活かすようなやり方としての競争の原動力となって、それがルールに基づいた攻撃性の発露となるわけで、またそうした調整の心理的な妥協点として、何やら悟りの境地のような状態があり、一部ではそうした心理状態が崇め奉られているのだろうが、それが自己に打ち勝つという境地だろうし、それがある意味では他者に打ち勝つための秘訣であり、またそれは言い訳でもあるような効果を発揮するわけだが、何かそういうところで、自分の心の中から他者性を追い出して、自己の完全な状態の実現を目指すような神秘思想的な傾向まで生じるのだろうが、何かそういった不安や不満の中にとどまるのをよしとしない傾向に関しては、求道的な凝り固まりをもたらすだけに、それが現実の不完全で不確実な世の中の状況から目を背けてしまうことにもつながるだろうし、そうしないと心の安寧を確保できない状況に応じたやり方ではあるわけだが、それもそういう境地に至れる立場や境遇に、誰もがなれるわけでもないだろうし、それは誰もが禅宗の僧侶になれるわけでもないのと似たようなことかもしれないが、そういう意味では誰もが同じ立場や境遇になれるわけでもないのだから、世の中で人それぞれに異なった立場や境遇になっていること自体を反映しているとも言えるだろうし、またその人の立場や境遇が、他の人には理解し難いことを意味していて、だから他人の立場や境遇を理解しようとすることも肝心だが、完全には理解し得ないことも念頭に置かないと、わかったような気になって、独りよがりな態度や対応になってしまうだろうし、またわかったような気になることが、安心することにつながるわけだから、それが不安や不満な状態を脱したいという願望の表れでもあるわけで、結局はそうやって不安や不満の中にとどまれない気持ちが、焦りを招いて、そこから生じるストレスの持って行き場として、不安や不満を抱かせる対象となる、何を考えているのかよくわからないような、素性のよくわからない他者に対する攻撃へと転嫁されるわけで、またそうした他者としてわかりやすい例が、見た目の異なる外国人であったり、性的な嗜好の異なる同性愛者などであったりするわけだろうが、そういった傾向まで差別をなくすような法律や制度によって制御する成り行きもあるのだろうが、そうやって人々の行動や活動に制限や制約を課すことによって、世の中を安定に保つようなやり方がある一方で、社会的な慣習としても、そこに暮らす人々の生活習慣や行動様式を同質に保つような、自動的な調整作用が働いているだろうし、またそうした慣習を守らせるような調整作用が、異質な生活習慣や行動様式を持つようなよそ者の排除や、性的な嗜好の違う異形の者を差別するような成り行きももたらすだろうし、またさらにそれに加えて、法律や制度に従わない者を処罰するような成り行きももたらされるから、そこから処罰された者を社会的に差別するような成り行きももたらされて、そうした排除や処罰や差別なども、他者への攻撃の一形態として機能してくるわけで、時にはそれらの攻撃が慣習や法律や制度に守られた正当な行為と受け取られたりはするものの、そういったことをやる対象として、他者が現実に存在していることは確かであり、しかもその他者とはわかり合えない面があり、わかり合えないことが他者への不安や不満をもたらして、それを攻撃へと転嫁する口実にもなるわけだから、それを自制したり抑え込むのにも限度があるとしても、ある程度はストレスを抱えたまま不安や不満の中にとどまる術を身につけておく必要もあるのだろうが、それもある一定の程度や傾向の範囲内で許容できることでしかなく、そういうところでごまかしが利いたり利かなかったりするのが、現状の世の中で起こっていることなのではないか。

 また意識に関して言えることは、そうした他者を意識することから生じる他者性とともに、自己を意識することから生じる自己の他者性にも不安や不満を覚えるだろうし、そうした状況下では、自己の犯した過ちや誤りが許せなくて、自己嫌悪に陥ることもあるわけで、そういう面で自意識が自己に打ち勝とうとする態度も現れる一方で、逆に自己を甘やかす態度も現れるだろうし、意識が自己を甘やかすようになると、自己への許容限度を意識して下げて、例えば資金的に余裕のある立場や境遇の人は、金に物を言わせて、あるいは他人を従わせる権限や権力を伴った立場や境遇の人は、権力に物を言わせて、普通はその両方を兼ね備えた立場や境遇が多いわけだが、そうなってしまうとそれなりに、自己の願望や欲望の赴くままに、好き勝手に傲慢な態度でいられるだろうし、そういう人は資金力や権力を維持していられる限りで、そんな態度を保っていられるわけだが、しかもそんな人に限って、世間的な体裁を取り繕うために、禅寺で座禅を組んだりして、自己に打ち勝つための修行に取り組んだり、あるいはフィットネスクラブで体を鍛えたりすることもあるだろうし、そうやって自己の能力を絶えず増大させようとするのであり、そういう人の傾向としては、自分になついてくる身内の者には甘く、その一方で部下や目下の者には厳しく、時には苛烈な態度で臨むこともあるかもしれないが、そんな態度でいるうちは、まだまだ修行が足りないのだろうし、しかもその修行が足りない状態を維持しようとするわけで、金や権力に物を言わせた願望や欲望の充足が完了して、満ち足りた境地に至ってしまうと、そこで安心して終わりとなってしまうわけだから、自意識の身勝手な冒険を終わらせないためにも、絶えず自己を駆り立てていないと気が済まないだろうし、そうやって自己に対しても他者に対しても競争心を煽り立てることで、発展途上的な状態にしがみつこうとするのだろうが、世の中にはそういうことやっている人が他にも大勢いるわけだから、そういう心理状態は手強い競争相手がいる限りで成り立つものだろうし、何とかして競争心を煽り立てるような対象に挑もうとするわけだが、競争相手もそう思っていれば、お互いに信頼関係が成り立つのだろうし、そうやって多くの人たちが競争に参加して張り合っているうちは、そういう競争社会が形成されていることになるはずだが、そういう成り行きにも一定の限度があるだろうし、その場合だと表向きの敵対関係は、競争相手との間で成り立っているわけだが、そういった人々にとっての真の敵となると、それは競争に参加してこない人々であり、競争に参加しなくても多くの人たちが生きていけてしまう社会が実現してしまうと、競争する必要がなくなって、競争すること自体が無意味となってしまうわけで、そうなってしまうと自分たちの存在価値が無に帰してしまうから、何としてでもそういった成り行きは阻止されなければならないわけだが、そういうところから生じる不安や不満から、例えば共産主義や共産主義者への恐怖や嫌悪感が生まれるだろうし、そういう競争を否定するような主義は、何としてでも否定して根絶やしにしたいところだろうし、そういった傾向は社会主義国が少なくなった現代でも、世の中の世論や民意に色濃く反映しているのかもしれないが、実際に社会の主導権を握っているのが、そういった競争心が旺盛な人たちである限りで、世の中のそういう競争的な面が維持されていることになるのだろうが、それも見せかけの傾向なのかもしれないし、人はいつ何時でも競争しているわけでもなく、普通に考えれば、競争していない時の方が圧倒的に多いだろうし、それよりは安心した心理状態で人生を楽しんでいるつもりにもなりたいわけで、またそういう時には自己も他者も意識しないで、ただ漫然と日々と過ごしているだろうし、そういう日々に慣れてしまうと、自己とも他者とも関わりたくはないだろうし、かえってそれらを避けて隠棲するような成り行きになるのかもしれず、そうなると別に世の中の主導権など握る必要も感じなくなってしまうだろうし、実際にそういう人たちが競争に参加してこないのであり、現実にも年金生活者のような老年期を送っている人たちは、そういう生活を送っているだろうし、そうでなくても何らかの事情や境遇から、そういう生活を強いられている人もいるだろうし、その中でも働けるのに働かない人は、ニートと呼ばれて世間的に蔑まれる傾向にもあるわけだが、そういう人たちは何も現代に特有な存在なのではなく、古代から存在しているらしく、例えばソクラテスの弟子筋から派生したキュニコス派のディオゲネスなどは、プラトンから狂ったソクラテスと評されて、道端で公然と自慰行為をやったことで有名らしいが、肉体や精神を鍛錬する以外に、他に何をやっていたわけでもなく、ただ乞食のように生きていたらしいが、当時ギリシア全域を支配下に収めつつあったアレキサンダー大王が、その評判を聞きつけて、自分から会いに行って、ディオゲネスの前に立って、何か望むものはないか、と訊ねたら、あんたがそこに立っていると日差しを遮るからどいてくれ、と言った逸話があるらしく、当の大王は、その帰途、自分が自分の立場でなかったらディオゲネスのようになりたい、と言ったらしいが、競争というのは競争している限りで、何かそうした競争についての幻想を抱いていられるわけで、それによって栄誉や名声や資産を得られれば、そこからも幻想が生じるだろうが、それ以外に何があるわけでもないとしても、やはり他と競争しているような気になっている間は、充実した時を過ごしているように思われるわけだ。


1月27日「紋切り型へのこだわり」

 単に対象を認識するのではなく、意識が対象に惑わされることによって、その惑わしている対象への執拗なこだわりが生じると、それにこだわっていることを外へ向かって正当化する行為が、自己主張としては何か常軌を逸しているようにも感じられるかもしれないが、そういう常軌を逸したこだわり具合に対して、何か病的な面が見受けられると、やはりそうなってしまった人は怖そうに感じられるのだろうが、特にそういう素振りが見られない場合には、普通に気づかれにくいだろうし、当人にもその自覚がなければ、何にこだわっているようにも見えないはずだが、そうした一見こだわりがないように思われる人であっても、その人も含めて周囲の誰もが、同じように何かにこだわっているような状況がもたらされていれば、誰も自分たちがこだわっていることに対しては自覚できないだろうし、何かそういうこだわりを自覚できないような人々のこだわりが、世の中の傾向や方向を決めているのかもしれず、そこで人々が何に惑わされているとも自覚できずに、しかも確実に何かに惑わされているような場合には、その惑わされている何かを、その場で明らかにすることは難しいだろうし、実際に誰もがそれに気づいていなければ、そういった現象がメディアを通じて話題になることもないだろうし、それに関しては、たぶん通常の世間一般で認知されているようなやり方では、それを見つけ出すことすら不可能なのかもしれないが、何かの拍子にそれについて語ることができるような成り行きが生じれば、そんな成り行きによって人々の呪縛が解かれて、それによって世の中が変わるような気がするかもしれないが、普通に考えるなら、まず語ったところで理解されないだろうし、しかもそれが複雑な数式を伴った高度な計算を要する内容なら、なおさら一部の専門家以外には理解しがたい内容となるしかないが、逆にそれが誰にでも理解できるような簡単な内容なら、そんなのはすでに誰もがわかっていることかもしれず、しかも誰もがわかっていながら、それにこだわっている自覚がないどころか、気にもしていないとなると、それだけ事を厄介にしているのかもしれず、場合によっては何かこじれた状況となっているとしか言いようがないだろうが、実際に現状で何がわかっているかといえば、誰にもどうすることもできない何かに、誰もがこだわっているということかもしれず、それがわかりにくいのにわかっているようにも思われて、実際にもすでに誰もがわかっているはずなのに、なぜかわかっているとは思えないような成り行きになっているのかもしれないが、それをあからさまに語ることによって、何がどうなるわけでもなく、もはやそんなことはわかっているのだから、改めてそんなことは指摘するまでもないことであり、指摘したところで別に誰も驚かないだろうし、それ以前にそんなことはどうでもいいこととして無視されるようなことであり、しかも無視されてもなお、より一層、誰もが執拗にそれにこだわるわけで、もはやそれにこだわることが、こだわっている人にとっては使命のようにも思われてしまうのではないか。それが紋切り型への執拗なこだわりとなるわけだが、他からそれを指摘されて、場合によってはそのことで馬鹿にされてもなお、それにこだわってしまうのだから、もはやその症状は病的なまでのこだわりの域にまで達しているのかもしれないが、それでもどうしてもこだわらずにはいられないわけで、逆にそうやってこだわっている紋切り型こそが、その人の存在を支えているとも言えるのかもしれないし、それにこだわらないと、それ以外の物事に関して、判断のしようがなくなってしまうわけで、そうであるなら、こだわっている紋切り型こそが、物事の判断基準となるわけだが、それがこだわっていることの良し悪しというよりは、何としてもこだわらざるを得ない状況に追い込まれているわけで、しかも追い込まれている状況を自覚できないわけだから、そういう成り行きに囚われているとしか言いようがないだろうし、そういう意味で始末に負えない状況なのかもしれないが、やはり始末に負えないとは自覚できないわけだから、どうにも逃れようがない状況となっているわけだ。それに関して具体例を挙げるなら、例えばSNSのツイッターなどで、いいねやリツイートの数が多いツイートほど、紋切り型まみれの内容になるだろうし、それだけ誰もが最大公約的に共感できる内容であると解釈するなら、それこそが紋切り型となるわけで、しかも意識して集団で組織的にそうしたツイートを広めている実態もあるわけだから、そういう面ではもはや誰もが心理的にそうした紋切り型に依存しきっているわけで、それを悪く言えば、大衆の白痴化現象と言えるのかもしれないが、そんなふうに批判されたところで、誰も動じないで、ただ黙殺するだけだろうし、そうなっている時点で、もはやそれは誰にも止めようのない段階にまで達していて、そうしたことを外から指摘されるほど、逆に頑なに執拗にそうした行為をやり続けるだろうし、ある意味ではそれが体制翼賛的な大衆の体質である一方で、そうした翼賛体質を維持しながらも、別の体制批判を行なっているつもりにもなれるわけだから、そういう自家撞着のような現象は、もはやどうにもならないだろうし、放っておいても構わないようなことでしかなく、実際に放って置かれている現状があるわけだが、それ自体によって何が悪化するわけでも良くなるわけでもなく、むしろそうした方面での凝り固まり具合が安定化しているとも言えるわけで、そうなるともはやそこから何が生じるわけでもないとしても、そういう方面では全てが平均化されるしかなく、実際に平均化されているだろうし、全てが月並みな紋切り型で占められているように見えながらも、やはりそれでも構わないような状況がそこに出現しているわけだ。

 そういう状況は別に取り立てて批判すべきものでもないだろうし、それはそういうものでしかなく、これからもこれまでもそうなるしかなく、そこから何がどう進展するとも思えないのだが、それに加えて現状はもはやそんな紋切り型の流行さえも大したことではなく、さらにそれに輪をかけて、チャットなどでは他に書き込む内容が何もないので、ひたすらあいさつをしまくるような現象も生じていて、ただお互いにあいさつを交わすことで、そこで交流しているような気分になれる成り行きになっているらしく、そうなるとわざわざ紋切り型を考える手間もかからず、ひたすら他人に向かってあいさつを強要して、あいさつを返してきた人とだけ自他の同質性を確認するような、あいさつファシズムのような状況になっていくわけだろうし、それがそれ以上の何を意味するわけでもないのだろうが、そんな意味のないことをやるのも、紋切り型的なやり取りには違いないし、それは考えるよりは、その場で集団的な同質性を確かめるための条件反射を競い合うゲームなのかもしれないが、それもこれからもこれまでも延々と行われることだろうから、別に否定的に批判することもないのだろうし、そういうことが世の中の一部では流行っているとみなすしかないだろうし、そこから何がもたらされるとも思えないのだが、もしかしたらそういう現象が囮のような動作として何らかの役割を果たしているのかもしれず、人の意識がそういった紋切り型的な動作によって均一化されている一方で、何かそれと表裏一体となって作用するような力が働いているのかもしれないし、それが呪術的な得体の知れない魔力なのか、それとも単なる紋切り型の内容にいいねやリツイートをさせる同調圧力だけなのか、またそれと並行してチャットなどであいさつを強要させる同調圧力もあるわけだが、それらの短いやり取りが、それとは反対の長く詳しい説明から、人々の意識を遠ざけることに成功しているとも言えるのかも知れないが、そういう意味で長く詳しい説明の内容を把握するには、それなりに頭と根気と時間を使わなければならないわけだから、それが必要とされないのが現状だとすれば、やはり大衆の白痴化を促進させているのが、それらの短いやり取りの流行現象だと言えるのかもしれないが、そこまで穿った見方をする必要もないのかも知れず、単にそういった場を提供する企業の戦略として、そのような場にいかに多くの広告を挟んで、内容のない短いやり取りよりは、自然と広告の方に視線が向くように仕組まれている可能性もあるだろうし、そんなサブリミナル効果を発揮することが期待されているのかもしれないし、ともかく広告などの宣伝や煽動に関しては、人に考えさせる余裕を与えては駄目な面があるだろうし、よく考えてみればどうでもいいようなことに興味が向くように持っていくためには、意識の中で思考する機能が眠っていてほしいわけで、そうなるには内容のない紋切り型の内容や短いあいさつの強要などの大洪水状態を作り出しておいて、それによって人の考える動作を奪っておいてから、宣伝や煽動を開始すれば、より効果的に多くの人がそれらに飛びついて、容易にそういった広告を真に受けるのではないか。もちろんそれが企業の目論見通りに成功しているとは言い難いだろうし、特にツイッターの広告に関心を持つ人などほとんどいない実態があるのかもしれないが、それはそこに参加して依存状態に陥っている人々にも言えることで、彼らにしても何かはっきりとした目的があるわけでもないだろうし、多くの人がそこで思い通りのことができているとも言い難いだろうし、ただ何の自覚もなく、他人がツイートする紋切り型の内容に共感して、いいねやリツイートをする習慣から抜け出られなくなったり、チャットであいさつを書き込んで、あいさつを返してくる人に好感を抱いているうちに、延々とそんなことを繰り返すのが習慣と化してしまっていたり、もちろんその中のごく一部の人たちが、ツイッターでは大量のフォロワーを獲得できてご満悦になれたり、チャットに書き込まれる大量のあいさつにいちいち返事をすることによって、多くの人から慕われているように思われたりするのだろうが、そうだとしても、それがそこで実際に起こっている現象なのだから、そういうレベルではそういうことでしかなく、そこに陰謀やら戦略的な意図やら思惑やらが介在して、それらが有効に作用しているとも思えないし、それ以上に何がどうなっているとも思えないところが、そこに関わっている人や団体などの意図や思惑から外れるような思いがけない力を、世の中に及ぼしているのかもしれないし、そういう効果が誰にもわからないが、その場を支配しているらしい作用なのかもしれず、またそれが誰にもわからないだけに、これから何がどうなるとも予測も予想もつかないのかもしれないが、だからこそ、そういった現象はそのまま放置しておくに限るのかもしれず、そういった何かそこに関係してくる人や団体などの意図や思惑から外れる現象によって、世の中が思いがけない変化を被る可能性があるだろうし、もちろんその変化が、そこに暮らしている人々にとっては悪い変化かもしれないのだが、それでも誰もそんな制御できない成り行きを制御しようとは思わないだろうし、何よりもそこで人や団体ができる範囲内で制御している面を外れている可能性があるわけだから、そういう誰の力も及ばない地帯から、何かが起こるかもしれないし、もしかしたらすでにそれが起こっていて、それが今ここにある現状を構成しているのかもしれないが、そうであってもそこに集って関わってくる人や団体が存在する限りで、そうした人や団体がそこで何かをやっていることには変わりなく、それも世の中のほんの一部で行われていることでしかないわけだ。


1月26日「国民感情の発露」

 歴史を語る上でよくありがちな成り行きとして、過去のある時期において国家的な主導権を握った人物が、いかに大人物であったかを物語ろうとする傾向があるのかもしれず、その人物以外にも群雄割拠していた状況から、最終的にその人物が主導権を握った結果を見れば、確かにそう思われてしまうわけだが、そこからその人物が大人物で優れたリーダーであったから、国家的な主導権を握れたと思ってしまうことが、原因と結果の入れ替えであり、取り違えであることは、そこに至る経緯を公平に判断すれば明らかだが、感覚的にはそう思うのが自然な成り行きに思われるわけで、そんな成り行きに従って歴史を物語ること自体に、結果から歴史を見てしまうことから生じる、逃れられない錯覚に囚われてしまっている傾向があるわけだが、そもそも人物に対する評価とは、いつも結果からしか判断できないわけで、結果的にその人物が行なったとされる業績を好意的に受け止めれば、高評価となるのは当然のことであり、そうした評価に基づいてその人物について物語ろうとすれば、高評価を得られるようなことを行なった理由を語らなければならなくなり、そうなると自然な成り行きとして、その人物が好意的な業績を残すことに関して優れた手腕を発揮したから、高評価を得られるようなことを成し遂げられたと語らざるを得なくなり、そうやって高評価の原因や理由を、その人物の才能に求めるような成り行きになってしまうわけで、それが人を物語ることから生じる特性だと言えるのかもしれないが、それが高じて、高評価を得られる業績以前の、その人物の過去の何でもないような行為まで、伝記的に詳しく物語るようになると、実際にそこでその人物が行なったとされる業績に関連する行為から逸れていってしまい、そこで起こっていた現象を見逃してしまうわけで、そうやって物語る行為自体が現実から虚構へと移行してしまうわけだが、逆にそういうフィクショナルな部分が興味深く思われて、例えばその人物の幼少期のエピソードとかが、多くの人々の関心を惹きつけるわけで、またそうした人々の反応に勇気づけられて、作者もそういう部分を積極的に物語ることで、作者も含めて物語に惹きつけられた人々を、才能という神秘思想へと誘い込んでしまうのかもしれず、そうやって確かな手応えを伴った安心できる原因や理由を伴って、何やら偉大な人物が大掛かりな業績を成し遂げた結果として、歴史が動いたようなフィクションが構成されてしまうわけだが、確かに結果的にそう思われてしまう面が歴史にはあるのかもしれないが、その反面でそういった大人物がいなくなった後に、残された小人物たちによって歴史が動かされたように見える例もあるだろうし、その典型例が日本で言えば明治以後の歴史なのかもしれないし、それはフランスで言えばナポレオン戦争以降の歴史となるのかもしれないが、何かそういうところでも小人物を大人物に見立てるための、何らかの物語的な趣向が凝らされる例もあるのかもしれないが、別に特定の人物によって歴史が動かなくても構わないような成り行きも一方にはあるだろうし、また特にその人物を大人物に見立てなくても、大衆市民社会の成立以降は、ありふれた小市民であっても構わないような世の中の情勢となってきたのかもしれず、そもそもそんな大人物が歴史を動かすような物語自体が、神話などの伝承からの模倣であり、そういった人物の神格化というのが、現代では高々プロスポーツ選手の次元にまで落ちてきている現状もあるだろうし、そういった面を考慮するなら、歴史を神話的に捉える必要がなくなってきた面があると同時に、現代との兼ね合いからもっと普通に、単なる過去の事例というレベルで歴史を捉えるのが一般的な認識となってきているのかもしれず、またそれとは別に、大衆娯楽の次元で史実をおもしろおかしく語れば、それなりに気軽に歴史を楽しめるだろうし、それに関してどちらがどうというわけでもないが、少なくとも両者を混同しなければ、共存が可能だろうが、混同しても構わないような成り行きもあるだろうし、それほど厳密に史実とフィクションを分けて考える必要もない分野もあるだろうが、そうでなくても様々な分野が融合したり分岐しながら、離合集散が繰り返されているわけだから、特にそれがフィクションである面を含んでいるとしても、それが興味深ければ、何かそこから得られるものもあるかもしれないし、そういう意味では、それがフィクションとして物語られる経緯にも、その時代の歴史的な特徴や傾向が作用していたり、他から何らかの影響が及んでいるのかもしれないが、それについては、例えば江戸時代に、人形浄瑠璃や歌舞伎などで演じられた、仮名手本忠臣蔵という物語が、実際の討ち入り事件とは全く異なる時代の物語として構成されているのは、当時の体制側である幕府からの弾圧をかわすために、そうした措置がとられたわけだろうし、またそうまでして事件を物語の題材として扱いたかった動機には、幕府が関係する醜聞を公にはしたくない幕政に対する反発や批判が、少なからず込められていただろうし、そういう面が現代の伝統芸能化した人形浄瑠璃や歌舞伎の中に息づいているかというと、甚だ疑問に感じられるかもしれないが、現代ではそういったものとは別の方面で、体制批判的なことをやっている人たちが大勢いることも確かだろうが、それが体制批判として有効に機能しているかといえば、それも甚だ疑問に感じられる面もなきにしもあらずだろうが、その一方で現状の体制がまともに批判するような体制なのかというと、そうは思われない面もあるだろうし、そういうところで時代の特徴や傾向に、今と昔では無視できない差異が生じているのかもしれない。

 もちろんどの時代とどの時代を比較するのにも、何かそうした比較をする人の主張や意見を正当化するために比較するような恣意性が生じてしまうわけだが、そんな人の恣意的な意図や思惑を超えて伝わってくる何かが、過去の事例には含まれているのかもしれず、そうした主張や意見の恣意性を読み取ることが、それを超えて伝わってくる何かを見出すには必要となるだろうし、それに関しては、例えば明治維新以降の日本の傾向が、富国強兵路線で国家として力強く発展して行くように感じられる面があるだろうが、そういう面を誇りたい主張に関して、何か批判的な姿勢で、それと表裏一体となって生じた、国家主義的あるいは資本主義的な負の側面を強調することもできるだろうが、当時の日本が手本とした欧米諸国にも、ある面では日本を先取りした、あるいは同時代的な、国家主義的あるいは資本主義的な負の側面を指摘できるだろうし、そういう面を考慮するなら、特に日本と欧米諸国を対立した概念として捉えなくても構わないのかもしれないし、両者の間には相対的な程度や傾向の違いがあるだけで、別に全面的に異質というわけでもないだろうし、それは日本と他のアジア諸国との関係でも言えることかもしれないが、もちろん地域的な歴史の背景も経緯もそれなりに違うから、そういう面ではそれなりに差異があるわけだが、それは欧米や他のアジア諸国にしても一括りにできない差異が、各国ともにあるだろうし、そういうところで差異をことさらに強調するのではなく、しかも日本だけが否定的な差異があるかのように述べ立てるのもおかしいわけで、たぶんそれは他に比べて遅れているとか進んでいるとかの判断よりは、ただ単に違いがあって、その違いによって不具合や不都合が生じているなら、そこを改めなければならないのかもしれないが、単純に日本には日本のやり方があるというよりは、それを日本独自のやり方とは捉えない方がいいのかもしれず、よく調べてみれば、それが中国や朝鮮半島に由来するものであったり、また欧米諸国に由来するものであったり、さらに遠くはインドやペルシアやアフリカに由来するものであったり、またそういう傾向は他のどの国にもあるのかもしれないし、どの地域や国にも独自な文化があり、それは日本にもあるわけだが、そういう独自性は他の地域との相互作用によって育まれたものであり、そこに交易や人の往来があれば、似たような独自性が他の地域にも生じるのかもしれないし、結局はそれほど独自性を誇る必要はなく、むしろこれまで通りに交易や人の往来を続けていく方が、他の地域との間で普通の関係を維持しやすいだろうし、独自性を強調するよりは、他の地域との間で平行性や並列性を保っていく方が、実際に地域間の相互依存や共存共栄を図る上では利便性が高いのだろうが、国家としてのまとまりを保つ上では、当然のことのように、排外的な意識が生まれるとともに、自分たちの集団として誇るべき点を強調したがるだろうし、そういう衝動を抑えるのは無理かもしれないが、それに応じて出てくるのが、自国に関する栄光の歴史であり、半ば神話と化した過去の偉人たちによる数々の素晴らしい偉業となるわけで、それに関して、例えば最近話題となっている、ギリシャと北マケドニアとの間で対立した、マケドニアという名称を含む国名の承認問題では、ギリシャにとってマケドニアのアレキサンダー大王はギリシャの英雄であり、実際に現在のギリシャ国内に、古代のマケドニアがあったのだから、アレキサンダー大王の偉業を北マケドニアに利用されたくないだろうし、そういうところでギリシャの国粋主義勢力としては、断じて北マケドニアがマケドニアという名称を使うことは許されないのだろうが、そもそも現代のギリシャ人が古代のギリシア人の末裔かとなると、その後の民族の大移動や王国や帝国などの建国や衰亡などによって、よくわからない面があるだろうし、そもそも古代のマケドニア自体が、古代ギリシアにとっては北方の蛮族の国だった可能性もあるわけだから、ただ単に場所が一致しているだけのことでしかないだろうし、そういう面は他のどの地域のどの国にも言えることだろうが、当のアレキサンダー大王にしても、遠征途中の地中海で海賊を捕らえた時に、海賊から、あんたのような大盗賊と比べれば、自分はちんけなこそ泥に過ぎない、と言われたエピソードがあるように、一般的にはそれを偉大な業績とみなすのが当然だとしても、もっと普通に公平な視点から見れば、果たしてそれを後世の人々が讃えるようなことかと問うなら、もちろん讃えても構わないが、当時はペルシア帝国やアッシリア帝国などのように、そうやって他国を征服して大帝国を築くような成り行きがあったとしか言えないだろうし、それは後のローマ帝国にも引き継がれた成り行きだろうし、またそれらと同時代的にも、中国の秦帝国や漢帝国や、インドなどでもそんな帝国を築く成り行きがあったし、さらに時代を下れば、イスラム帝国や唐帝国やモンゴル帝国などへと、そういう成り行きが引き継がれたのだろうが、帝国という形態自体が、その地域や国でまとまるのではなく、様々な地域や国を征服して統一する形態であり、後世の小さな国の国粋主義者が誇るようなこととは全く無関係な成り行きであり、それは今のモンゴルで、昔のモンゴル帝国のチンギスハーンを誇るのにも言えることかもしれないが、またそうした帝国の興亡とは違った経緯から、イギリスが海外に広大な植民地を所有した経緯として、産業革命の頃から発展してきた資本主義経済が、国内の貧富の格差の極端な増大や労働者の疲弊や資本家の没落などによって、行き詰ってきたから、もはや国内だけで経済を維持できなくなって、海外の植民地の獲得に活路を見出そうとしたわけで、その試みは遠からず破滅と衰退をもたらすわけだが、それに倣った他の国との植民地争奪戦に日本も巻き込まれて、第一次や第二次の世界大戦を経て、やはり破滅をもたらしたわけだが、そういう成り行きを日本国内の視点から見ると、何か西洋に対する劣等感や被害者意識が入り混じったおかしな感情をもたらすわけだが、それも自国を誇ることの裏返しのような反応に思われてしまうわけだ。


1月25日「判断と対処の循環」

 たぶん現状の世界では、日々何か新しいことが起こっているはずだが、ただそれが何でもないことのように思われてしまうのは、単に起こっている出来事にそれほど驚かないからかもしれないが、その傾向は今後も続いていくのかもしれないし、またそれに関しては、何よりも現状について語っている人たちに、これまで通りのことを繰り返し語り続けるような傾向があるからかもしれず、それらの人たちが繰り返し同じような論理で同じようなことを延々と語り続けるほど、新しいことが何も起こっていないかのように思われてしまうのかもしれないが、それは現状について語っている人たちの感性が、新しい出来事には対応できていないからなのかもしれず、実際には新しいことが次々と起こっているのに、それを感じ取れる感性が欠けているから、もはや何が起こっても驚かないような事態に陥っているのかもしれないし、だからこそ、メディア上ではこれまでの繰り返しのようなことが延々と語られ続けているのかもしれないが、そんなメディアの現状に慣らされてしまっているから、意識がメディアに依存している一般の人たちにも、それが当然のことのように思われてしまうのではないか。そうだとしても実際に何が新しいことなのかを、具体的に示すことができなければ、やはりそんな考え自体が間違っていることにもなりかねないが、その一方で、何でもかんでもこれまで通りの論理で説明できるとすれば、新しいこととは、果たしてこれまでの論理では説明できないことなのかというと、それもよくわからないところかもしれず、もしかしたらこれまでの論理でも説明できるが、それに加えてさらに、これまでの論理とは違う論理でも説明可能だとしたら、そうした違う論理自体が新しいことなのかもしれず、それがこれまでにはない新しい論理だと言えるのかもしれないし、実際にこれまでにはない新しい論理によって、世の中の物事を説明すること自体が、新しいことが起こっていることになるのかもしれないし、そうであるなら、新しいことが起こっているのを探すだけではなく、自らが新しい論理を編み出して、それを用いて世の中の物事を説明できれば、そうすることによって、何か新しいことを起こしていることになるのではないか。だからといって、そうすることが正しいことだとは限らないし、場合によっては、それが他の人たちから間違ったことだとみなされてしまうのかもしれないし、それ以前に無視されるだけかもしれないが、そういうやり方が他からの支持や賛同を得られて、他の人たちもそういうやり方を用いるようになれば、あるいは他の人たちも、思い思いの新しいやり方を編み出して、これまでにはないやり方で、世の中の物事を説明するようになれば、それによっても新しいことを起こしていることになるのだろうが、やり方としては、世の中の物事を説明する以外にも、それを賞賛したり批判するやり方もあるだろうし、またそれ以前に新しいものを作ったり、新しいことを起こしたりすることもあるだろうし、結局は何かが起こっているのを探すというよりは、自らがそれを作ったり起こしたりすることで、それが新しいものであったりことであったりするわけだろうが、果たしてこれまで通りの物や事がまかり通っている中で、どうやれば新しい物や事がそこへと参入できるかとなると、そういった新しい物事を世の中で流行らせるしかないのかもしれないが、たぶんそうした流行り廃りはすでに起こっていることだろうし、それがこれまで通りの代わり映えのしない古い論理で説明され、またこれまで通りの古い取り扱いを受けているのかもしれないし、そうした説明や取り扱われ方が、それらを何でもないことのように思わせているのかもしれないが、そうだとすると、やはりこれまでにない新しい論理や説明や取り扱いの方法を編み出さなければ、何か新しいことが起こっているとは実感できないことになるだろうし、結局は世の中の様々な面が連動して、それらが互いに作用や影響を及ぼし合いながら、何やら新しいムーブメントが巻き起こると、何か新しいことが起こっているのを実感するのだろうし、そしてそういうムーブメントの巻き起こりが、人々の感性を更新させるのかもしれないし、そういうことが周期的に起こっている可能性もあるのだろうが、もしかしたらそれ自体も、もはや何でもないことのように思われてしまえば、特に何が巻き起こっても驚かないのかもしれないが、そういった驚きのなさが何を示しているのかといえば、心の余裕を示しているのかもしれないし、あるいは感性の鈍感さを示しているのかもしれないが、別にそれの良し悪しを考慮する必要がなければ、どちらであっても構わないだろうし、どちらでもあり得ることなのかもしれないが、あまりそういったことには興味が湧いてこなければ、そのままやり過ごしてしまうようなことなのかもしれないし、またそれでも構わないような世の中になっているのかもしれず、そういう面でことさらに新しさを求めなくても、それで済んでしまうような世の中の情勢にもなっているとしたら、それを行き詰まりと捉えるか、あるいは成熟と捉えるかは、それもどちらでも構わないなら、そんなことはあえて考えてみるまでもないことなのではないか。

 要は新しいことや古いことの良し悪しだけではなく、そうした物事が世の中でいかに機能しているかをみる必要があるのかもしれず、物事がそこで機能することによって、どんな事態が生じているかも注意してみていかなければならないだろうし、またそこで生じている事態によって、それに作用や影響を受けた人や団体がどうなっているのかも把握しなければならないだろうし、何かそこで利益を得ている人や団体がいる一方で、不利益を被っている人や団体がいれば、それを是正しなければならないだろうが、それを是正する方法も考えなければならないわけだが、またそこで得られる利益や被る不利益が、どの程度のものなのかも考慮しなければならないだろうし、もしそれが大したことがないようなら、そのまま放置されるような成り行きにもなるだろうし、逆にそれがひどい事態を招くようなら、訴訟が起こされたり、行政が介入して是正するような成り行きにもなるだろうが、行政自体もそういうことを起こして事態を悪化させているのかもしれないし、世の中のそういう面ではそういうことが実際に行われるわけで、確かにそういう面では、新しいことが起こっていようといまいと、そんなこととは無関係な判断や対処が行われるわけで、それに関してはそういう判断や対処で構わないわけだが、他にもそれらとは異なる判断や対処が必要な分野があるかもしれないし、そういう判断や対処に特に普遍性があるわけではなく、その場その時に直面する事態に応じて判断したり対処しなければならないのが、何かわかりにくいところなのかもしれないが、その判断や対処がおかしいように思われる時には、それが間違っているというよりは、その他にも別の判断や対処ができる可能性があって、そこに重層的に様々な判断や対処の可能性がある時に、何か一つの判断や対処だけが正しいことのように主張されてしまうこと自体に、違和感が伴ってくるわけで、そういうところで正しいとされる判断や対処が、果たして本当に正しいことなのかが問われてしまうわけだが、それが正しいとしても、それだけが正しいとは言えない場合も出てくるだろうし、またある面では正しくても、別の面では正しいとは言いがたい判断や対処もあるのかもしれず、結局はそこで何らかの事態に直面した人や団体が判断して対処するしかないわけだが、そういった判断や対処に関して、それが正しいだの間違っているだのを指摘したい人もいくらでもいるだろうし、実際にそういうことを指摘するのが生業の人もいるのだろうが、まずはそこで実際に判断や対処を行なった人や団体をみる必要があるのかもしれず、またそうした判断や対処によって事態がどうなったかも、みていかなければならないだろうし、それが現実にもたらされている事態なのだから、そうした事態に関して判断や対処が求められている人や団体が、やはりそこで何らかの判断や対処を行うことになるわけだが、その事態に人や団体が巻き込まれている度合いについても、軽度から重度まで、様々な程度や傾向があるだろうし、そうした程度や傾向に応じて、また判断や対処も異なってくるのかもしれないし、そうなると一概にはそうした判断や対処の良し悪しや正しいか間違っているかが言えなくなってくるだろうし、確かにそういうところで何か見解を示さなければならない立場の人は、こうするべきだと断言せざるを得ないような成り行きに追い込まれてしまうわけで、そういった物事の良し悪しや正誤に関する断言を、どう受け止めるかは、それも人によっても立場によっても異なってくる可能性があるわけだが、少なくとも人それぞれにそういった事態に関係する程度や傾向に違いがあるとしても、実際に何らかの判断を下して、何らかの対処を行うだろうし、それの良し悪しや正誤を、どう判断や解釈をして、それについてどう対処するかも、それらの判断や対処に伴ってくる場合もあるかもしれないし、どこまでそんなことをやってもきりがないのかもしれないが、それに関しても、どこまでやるかは、そうした事態への関わりの程度や傾向にもよるわけだから、結局はできる範囲内でやるような成り行きにもなるだろうし、どうやるのが正しいか間違っているかについて、何やら世間的に説得力のあるやり方が流行っていれば、そういうやり方に倣う人も多いのだろうし、またそういう方面で何か画期的な新しいやり方でも模索している人もいるかもしれないし、そういうところで何か決定的な態度を導き出すというよりは、人それぞれに自らがやれる範囲内で、できるような判断や対処を行なっていけば、それで済んでしまうようなことだろうし、それで済まないような事態になれば、何かそこで新たな判断を下したり、新たな対処法を試さなければならなくなるのだろうし、そこでこれまでの判断や対処では行き詰まりを感じたら、自然とそういう傾向になっていくのだろうが、そういうことができて、それで直面している事態を乗り切ることができれば、そうした判断や対処が間違ってはいなかったことを実感するだろうし、また実感できても、それだけが正しい判断や対処だとは限らず、他にも様々なその場で可能な判断や対処法があった中から、偶然の巡り合わせや必然的な成り行きなどによって、そうした判断や対処をすることになったのかもしれず、たとえそれが間違った判断や対処であって、それによって何らかの程度や傾向の窮地や破滅を招いてしまったとしても、そうなることもその場の偶然の巡り合わせや必然的な成り行きなどから、そうなるのかもしれないし、どちらにしてもそこで事態が推移するわけで、またそうした事態の推移に応じて、また何らかの判断を下さなければならないし、そういう判断に基づいて対処を行わなければならなくなるわけだ。


1月24日「事態への対処」

 何か枝葉末節のようなことを強調するのにも限界があるかもしれないが、例えば世の中の話題の中で埋もれてしまって顧みられないような些細な出来事から、何が見えてくるわけでもないだろうが、たぶんどうあがいてもそうなってしまうような成り行きがそこにはあって、何をどうやっても逃れられないような運命が、その出来事に関係する人の身に降りかかっているように見えてしまうと、そういう成り行きの中で、その人の動作がフィクションの題材として機能してくるのかもしれず、それがどのように機能するのかといえば、その人の思惑や意志を超えて機能するのであり、そうなった結果として、そこに関係してくる他の誰の思惑も意志も超えるようなことが起こるわけだが、それを受け入れられるかというと、時にはそれが誰にとっても受け入れ難いような事態となってしまうだろうし、そんな事態がその人を変えてしまうのかもしれず、それを契機として今までにその人がやってきたことから外れて、何かこれまでとは全く異なることをやり始めてしまう事態となれば、何か興味深く思われるのだが、その人がそういう成り行きになるのを怖がって、そこで執拗に変化の芽を摘み取りながら自己防衛に終始してしまうと、何やらその人のこれまでの動作から限界づけられてしまい、その活動様式がこじんまりとまとまってしまうような事態が起こって、その結果として周囲の誰もが安心できるような小さな人物が、そこにできあがるのかもしれないが、それを物語としてそういう成り行きを語れるかもしれないが、現実にそこで起こった事態を語れるわけではなく、またその人物の現実の運命や成り行きに関しても、改めて語る必要を感じられないだろうし、それ自体が語るに値しないような世の中の話題の中で埋もれてしまって、二度と顧みられないような些細な出来事にしかならないのかもしれないが、それとは別に何かを語ろうとしている意識の中で、現実に起こっているのは、ありふれた物語の定型を実現させるような動作となるだろうし、何とかそこから誰もが納得するような作り話へと、他の人々の関心を誘導したいわけだが、そうした誘導を行うにあたって、語らずに済ますことができる内容と、語らなければならない内容との間で、現実に起こった事態の居場所が確保できないわけで、だからフィクションとして現実に起こった出来事を語るしかないわけだが、そうしたフィクションの中で設定されるのが、出来事の真相であり、またそれはそこで活動した人や団体の目的であり、さらに他の人が理解可能な登場人物の意図や思惑となるのかもしれないが、それらのどこにも当てはまらないのが、現実に起こった事態であり、そこでは出来事の真相とは無関係な事態となっていて、またそこで活動した人や団体の目的をはぐらかすような事態ともなっていて、さらに登場人物の意図や思惑を外れた事態ともなっているわけだが、フィクションの中でそれを表現しようとすると、それが物語の邪魔をしてしまうのだろうし、できればそういう枝葉末節に思われる些事は語らずに済ましたいのかもしれないが、それを取り逃がしてしまうと、話がつまらなくなってしまうのかもしれないし、そうかと言って、それらが出来事の真相や、そこで活動した人や団体の目的や、登場人物の意図や思惑よりも重要かというと、そうは思えないのだろうから、何かそういうところでフィクションが妥協を強いられるような事態ともなってくるのかもしれないが、それもそこで現実に起こっている事態だろうし、そうした成り行きの中で起こることは、そのことごとくが、それについて語ろうとする思惑や意志に逆らうような事態を招くのかもしれず、それがフィクションの真実として話の中に現れてくると、現実に起こった事態と重なってくるのかもしれないが、そういう意味で真実とは、出来事の真相でもなく、そこで活動した人や団体の目的でもなく、登場人物の意図や思惑でもなく、それら全てが作り話の虚構でしかないことを明らかにする事態なのかもしれないし、そんなふうにして出来事をフィクションとして物語ろうとする人の思惑をはぐらかすような事態が、現実に起こってしまう事態なのかもしれないのだが、それが何でもないようなことだとは思えないにしても、それを無視してしまうと、ただのありふれた物語となってしまうわけだから、それで構わないのなら、誰もが安心できるのだろうが、果たして物語で安心しても構わないのかとなると、そうであるなら現実に起こった事態を無視しても構わないのか、という疑問が湧いてくるわけで、結局はそうやって現実に起こった事態へと意識が舞い戻ってくるわけで、そこでどんな事態が起こったのかを、改めて考えてみる必要が出てくるのかもしれないが、そんなことを考えていること自体も、そこで現実に起こっている事態であり、すでにそれに加えてどんどん新たな事態が積み重なってしまっていることを実感するしかなく、そうなると過去の時点に引き返すことができなくなってしまい、それ自体が他の様々な世の中の話題の中で埋もれてしまって、もはや他の些事と見分けがつかなくなってしまっているのかもしれず、そんな事態に直面してみると、改めてそんなことを考える必要も感じられなくなって、たとえそれがその時点では、誰もが受け入れ難いような事態であったとしても、それがいったん過ぎ去ってだいぶ間が開いてみれば、どうとでも都合のいいように受け取られてしまうような出来事でしかなくなっていて、そんなことは改めて顧みるまでもないことでしかなく、それよりは現状の中で直面している事態に対処するので手一杯となっていれば、別にそれで構わないような成り行きとなってしまうわけだ。

 そういうどんどん新たに出来事が積み重なっていく現状の中で、それが虚構とは違った現実として理解される面は、実際にそこで起こっている出来事の部分であり、それに関して想像したり空想したりしている部分ではないはずだが、そんなことまで自分が自覚しているとは思えないし、実際に誰も自覚できないのかもしれないが、現状について語るには、現状で進行中の出来事に関して語るはずだから、絶えず認識を現状に合わせて更新していかないと、過去の出来事にいつまでもこだわることになってしまい、そこから想像や空想を膨らませて現状に対応しようとすると、必ず認識と現状との間でずれが生じてくるはずで、そういうずれを感知できるかというと、感知していても自覚がないのかもしれず、そういう想像や空想を膨らませて出された見解に関して、何か的外れな感じがしたら、やはりそういう見解は、過去の出来事に関しては詳しく語ってはいるが、現状認識に関しては、どこかずれているのかもしれないし、過去の経緯があって、それが現状につながっている、という因果関係に関する連続的な説明は、もっともらしく感じられるものの、現在進行形で動いている出来事に関することになると、明らかに説得力を欠いてくるわけで、そういう説明には何かが欠けていて、それが何でもないような些細な出来事の積み重なりの実態なのかもしれず、しかもそれらが過去と現在をつなぐ因果関係とは無関係に積み重なってくる現状があり、そこには過去との連続性を設定できないような無関係の関係があるのかもしれず、そういう部分で将来においては、それらが過去の経緯とは認識されないような事態を招いているわけで、そうした事態に直面していることに無自覚な人が、因果関係に基づいた過去と現在との連続性に依拠したことを、もっともらしく語ってみせるのだろうし、それが物語と言えるのかもしれないが、そうした物語には、現実に起こっている事態が抜けている面があるのかもしれないし、そこで現実に起こっている何でもないような出来事については、物語の中では語る必要のないことになってしまうのだろうし、そうした何でもないような出来事とともに起こっている事態についても、やはり物語の中では語る必要のないこととなってしまうのではないか。しかもそれを語ってみせる人にとっては必要がなくても、それと自覚することなく語らされてしまう事態も起こってしまうわけで、語っている人にはそれが認識できなくても、その人の語ろうとする意志に逆らう形で、物語の中にそれが刻み付けられている場合があり、それが現実に起こってしまう事態を誘発するのであり、語る人の意志とは無関係にそういう出来事が起こってしまうわけで、だからそれを語ろうとする人とともに、語ろうとする人の都合に合わせて、語ろうとしている人が主張しているつもりの内容に注目するのではなく、そういう成り行きに逆らうようなことを、物語の中に見つけられれば、それを見つけた時が、その時点での現在進行形で起こった事態であり、絶えずそうした事態を起こすようなことを、物語の中に見つける必要があるのかもしれないが、それは物語の物語的な部分にはなく、そういう部分に逆らうような部分にあるのだろうし、それが現状の中で積み重なってくる出来事であり、実際にそれが今まさに体験しつつある現状であるはずだが、それとは対照的に、もっともらしく説明できてしまう連続的な過去の経緯に関しては、それを基にして連続的な因果関係を構築できてしまうから、そうした因果関係を説明するに際して、それとは無関係な部分が省かれてしまうわけで、というか、そういう部分は現在には残っていない場合が多いだろうし、説明するのに都合が良い部分しか残されないわけで、そういう経緯を額面通りに受け取るから、連続的にもっともらしく語ることができるわけだが、ではなぜそこから現在には残っていないはずの無関係な部分がわかるのかといえば、それとともに他の因果関係も語られている実態があるだろうし、その人がそれについて語っている因果関係とともに、他の人もそれとは別の事例について、それとは別の因果関係に基づいて、連続的にもっともらしいことを語っているわけで、そうなると様々な過去の経緯について、それ単独ではもっともらしく思われるにしても、他の事例との比較においては、何やら怪しい面が出てくるわけで、複数の人がそれぞれの視点から、それぞれの語る対象について、それぞれの過去の経緯からの連続性に基づいて、もっともらしいことを語っている事態が起こり、それも同時に起こっているわけではなく、それなりに時間的に前後しているわけだが、それを共時的にまとめてみれば、その事例においては無関係だとして省かれている出来事が、他の事例では関係のある出来事として説明に含まれている場合があり、またその逆の場合もあるわけだが、そうした複数の事例について比較していけば、その事例では説明するのに都合が悪かったり、説明とは無関係だと思われて省かれていることが、他の事例では説明するのに都合が良かったり、実際に説明に関係することだから、説明に含まれてくるわけで、そういう部分を見ていくと、説明している人の恣意的なご都合主義のような面もわかってくるだろうし、それに関して特に同じような事例なのに、片方は批判しておいて、もう片方は賞賛して持ち上げるような態度があると、そういうことをやっている人の欺瞞が明らかとなってしまうわけだが、そういうことをやっている人は決まって何かを批判するに際して、過去のひどいことをやった例を持ち出してくるわけで、それとの地続きにおいて批判対象の現状も批判しようとするのだが、その時点で否定的なバイアスがかかっているのが明らかとなってしまい、そういうわかりやすい例はあまりないだろうが、それとは違って肯定も否定もできないような事態が、現状に含まれていることを認識しなければならないだろうし、そういう面が過去からも延々と積み重ねられてきたことを踏まえておかないと、現状を否定的に語るのに都合の良い面ばかりが、過去から導き出されるようなフィクションが構成されてしまうのではないか。しかもそのフィクションが現状分析として流通してしまう事態にもなっているのかもしれない。


1月23日「普通の暮らしと啓蒙」

 人の生活状態に関して、普通という状態がどのような状態なのかは、普通に考えてもわかりづらいかもしれないが、人が普通に生きていける状態が、どの程度の状態だとしても、たぶんそこで人が普通に生きていて、生活が成り立っているところでは、そこで暮らしている人にとっては、それが普通の状態なのだろうし、別にそれが何不自由のない生活ではなくても、どんなに不満だらけの生活であっても、その不満だらけの生活が、その人にとっては普通の状態なのであり、それが不満なら、満足できるように生活改善に向けて、何らかの努力はするかもしれないが、別に不満なままでも生きていける可能性はあるだろうし、実際に惰性で不満だらけの生活を延々と続けていくような成り行きに囚われている人も、世の中にはいるかもしれないし、また現状の生活を維持するのが精一杯であれば、それがそこでの限界ということにもなり、いずれにしても人がそこで普通に生活していることが、その生活の良し悪しや満足度とは別に、単にそこに人が存在していることの証しとなる以外には、何の意味もないことかもしれないが、一応はそこでその生活に関連して必要な物事が動いていて、また他の人や団体が関わってくるような何らかの活動が行われているかもしれないし、そしてその活動に応じた社会がそこに形成されているわけだが、そうであってもそこに社会があるだけのことにしかならず、それ以外に何がどうなっているわけでもないのかもしれないが、そこで生活している人々の間で不満が渦巻いていれば、どんな形にせよ、その不満を解消するような試みが行われる可能性があり、その中には政治に関連した活動もあるのかもしれず、それがどんなに些細で枝葉末節なことであっても、あるいはどんなに間違ったことであっても、政治というのは人々の不満に応えるための活動となるわけで、そうした活動の内容がどんなに稚拙で理不尽なものであろうと、またそれを他から小馬鹿にされていようと、一応はそれを政治活動と捉えなければならない場合があるわけで、また活動の担い手がどんなに愚かで烏合の衆のような体たらくであっても、それでも不満を改善する要求を政府や役所や企業などの団体に対して行なっていれば、やはりそれは政治活動とみなされるだろうし、そういう意味で政治活動をあまり美化する必要はなく、また活動の効果を疑問視しようと、実際に醜悪で効果のないやり方であっても、それを政治活動だと捉えておけばいいわけで、またそうであれば、大したことはない活動内容であっても、気軽に賛意を示したり、支持を表明しても構わないだろうし、それに関して何か独りよがりな理想論のようなことを主張して、活動内容のハードルを上げる必要はないのかもしれないし、また活動が特にうまくいっていなくても、民衆の不満に応えるために活動しているように見えるなら、とりあえず支持しておけばいいようなものでしかないだろうし、その程度で構わないのが、政治活動への対応となるのではないか。そしてそんな政治活動によって、世の中がどうなろうと、相変わらずそこでは人が普通に生活しているだろうし、それなりに不満を抱えながらも大勢の人がそこで暮らしていれば、そこに社会が形成されていて、またそこから生じる不満に対応するために政治活動が行われることにもなるだろうし、そうした活動をそこで暮らしている人々が支持したり、活動に直接加わったりするわけで、そういう意味では、その活動内容にはピンからキリまであるだろうし、それは必ずしも論理的に構築されるようなものではなく、不満や怒りなどのその場限りの感情に基づいているわけだから、それだけちゃんとした成果を上げられない可能性も高いだろうが、政治とはそうであっても構わないような活動なのかもしれず、そういう意味では企業活動や行政活動などとは違って、いい加減で適当な面があってもいいのかもしれないし、あまり制度に則った高尚な活動とは捉えない方がいいだろうし、確かに議会制度や選挙制度があるにしても、ちゃんとした人物がそれらの担い手である必要はなく、別に元犯罪者や詐欺師くずれのような人が選挙に立候補して当選して議員になっても構わないわけで、それは民間の企業経営者などにも言えることかもしれないが、そういうところで何か社会の秩序を守るような、ご立派で見識があるように見える人が、政治家にふさわしいという良識的な先入観や固定観念があるから、人々の人を見る目が視野狭窄に陥ってしまうのかもしれず、実際に社会の秩序を守る側の行政の官僚などの方が、平気でひどいごまかしを慣行のように続けたり、平然と嘘をついて民衆を騙している実態があるわけだから、政治活動のひどさよりもそちらの方が深刻な状況となっているのかもしれないが、それも深刻だとは思わない方がいいのかもしれないし、そういうことが常態化しているのが、公的な制度の通常の状態だとみなしておけばいいのかもしれず、そういうことを踏まえて、社会で行われている様々な活動について判断するなら、取り立てて政治活動のまずさだけをあげつらうのは不公平だろうし、特に世の中で行われている様々な活動の詐欺的なひどい面ばかりを挙げていけばきりがないのかもしれないが、それでもそんなことが行われている社会の中で人々が普通に暮らしているのだから、何か特定の活動だけを否定的に捉えるのも認識のバランスを欠いているのではないか。

 そしてそういう認識が何を意味するかといえば、民衆を啓蒙できる可能性がないかのようにも思われてくるわけだが、啓蒙とは世の中のひどい面を暴き立てることとの関連で行うべきことかもしれないし、またそうだとしても、何かこうあるべきという模範的なあり方が示されるべきではないのかもしれず、ジャーナリズムなどによって、ひどいことや不正行為が明らかになったからといって、絶えずそういったことや行為が明らかにされるべきではあるのだろうが、それ以上に何が求められているわけでもなく、もちろん政治や行政の側でも制度的な改善が試みられるべきなのだろうが、それもそれ以上に何が求められているわけでもなく、そういうことが行われるべきということ以上に何が示されるわけでもなく、これからもこれまでもそういったことが延々と示されていけばいいのであって、ジャーナリズムは民衆にそういったことを知らせる役割として機能すればいいわけで、それ以上に何が求められているわけでもないのではないか。要するにそういった機能を超えて、民衆にこうすればうまくいくかのような幻想を抱かせるべきではないのかもしれず、それとともに、世の中にはうまくいかないことがある、ということを踏まえておくべきなのであって、うまくいかない事例を次々に明らかにしていくことが、下手にうまくいくかのような幻想を抱かせるよりは、だいぶ良心的な行為となるのかもしれないし、実際に様々なうまくいかない行為の中で、その場の偶然が作用して、たまたまうまくいくケースが出てくるのであり、しかもそれもうまくいく状態が永続するわけではなく、どんなにうまくやろうとしても、必ず想定外の事態が起こって、うまくいかなくなる結果が出てくるのであり、それをうまくいっているように取り繕うとするから、それがひどい行為となったり、それ自体が不正行為であったりするわけで、そういううまくいっているような幻想を打ち砕くために、ジャーナリズムなどの不正を暴く役割が生じてくるわけだから、そういう意味で啓蒙とは、幻想を打ち砕くためにあるのかもしれないし、だから啓蒙にあまり肯定的な意味を付与するわけにはいかないのかもしれず、それは何かしら抵抗を伴うような行為であり、そうした啓蒙を嫌う傾向が、あまり根拠の定かでない、生ぬるい幻想を蔓延させるような風潮となって、世の中に現れているのかもしれないし、だからジャーナリズムなどは、ただ無党派的に、世の中の様々な方面で、うまくいっていない事例や、うまくいっているように見せかけている実態などを伝えるべきで、それとは違って特に何かを賞賛する行為となると、それは宣伝や煽動の類いであり、ジャーナリズムとは異なる行為なのかもしれないし、そういう意味ではジャーナリズムとは根本的に批判勢力なのかもしれないが、ではそれに対して宣伝や煽動にはどのような役割があるかというと、普通に考えればそれは詐欺的な行為だろうし、悪く言えばそうなるが、良く言えばそれは広告と呼ばれる行為であり、ジャーナリズムの中にも広告的な面があることは確かだから、そういう部分を強調すれば、ジャーナリズムも広告宣伝業者と同類なのかもしれないが、それだけではない批判的な部分を含んでいるのがジャーナリズムだろうし、広告宣伝とともに批判を行うのだから、矛盾している面があることも確かであり、そういう部分を突かれてジャーナリズムが批判されるわけだが、少なくとも広告と啓蒙は違うだろうし、また啓蒙の正しい意味とも、啓蒙すること自体がずれてくるのかもしれず、それをただの啓蒙と呼べるかどうかも怪しいところかもしれないが、本来の意味とは若干ずれて、啓蒙によって世の中に広めようとするのは、何も正しい知識というわけではなく、正しく見せかけようとする知識の欺瞞性を暴き立てなければならないわけで、それを正しい知識といってしまうと、そこから幻想が生まれて、正しいことをやればうまくいくような気にさせるだろうし、実際には正しいと言われることをやってもうまくいかないことがあるわけで、では正しいと言われていることが間違っているのかというと、そうではない場合があって、確かにそうすることが正しいと言われていて、実際に正しいことをやればうまくいくケースもあるわけだが、やはりそうはならないケースも中にはあるわけで、結局はそうはならないケースを伝えないと、ジャーナリズムとしての役目を果たせていないことになってしまうわけで、だから正しいことを伝えるだけでは啓蒙とは言えないわけだが、そういう部分で単純な割り切り方をしてしまうと、そういう面に関しての微妙なニュアンスが伝わらなくなってしまうのではないか。だからジャーナリズムと啓蒙とを安易に結びつけるのは憚られるのかもしれないが、その一方でジャーナリズムにも広告といういかがわしい面もあるわけだから、それを考慮するとますます啓蒙からは遠ざかってしまうわけで、そういう面を考慮すれば、ジャーナリズムに民衆を啓蒙する役割をまかせられなくなってしまうのかもしれないが、そういう部分で民衆の側が踏まえておかなければならないことは、ジャーナリズムが世の中のひどい部分や不正行為を暴き立てる面については、それほど全面的に批判する必要はないのかもしれないし、それよりはいかがわしい広告的な面での宣伝や煽動については批判的な姿勢を保つべきだろうし、そうやって民衆の側でその手の啓蒙的な行為に対して、無批判にそれを受け入れるような態度は取らずに、まずは何を伝えようとしているのかを吟味してみないとならないだろうし、特に撒き餌や疑似餌としての便利で役に立つように思われる情報に関しては、それは広告の可能性が高く、そういう情報自体は批判的に吟味してみなければならないだろうし、それに関して注意すべきことは、便利で役に立つ半面で何かが犠牲になっていないかを考えてみることが肝心だろうし、また他にも特定の何かを賞賛している場合であっても、その特定の何かと自分自身との関係を考えてみる必要があるだろうし、実際に大して関係もないのに賞賛を真に受ければ、そうした対象に意識が引き込まれて、結果的にかえってそのために、余分な時間や労力や金銭を出費しなければならなくなったら、まさにそれはそうした広告宣伝の食い物にされたことになるわけだ。


1月22日「危機意識の感染」

 たぶんその人が現状に巻き込まれていれば、現状から離れて、大局的な見地から何らかの判断を下すことはできないのかもしれないが、その一方で現状の中で見えてくる部分的な視点を積み重ねて、それを集計するようなやり方では、どうしても恣意的に語るのに都合の良い部分しか選べないだろうし、そういう面では全体として何を把握しているとも言えないだろうし、ただ捉えどころのない現状の中で迷っているだけかもしれないのだが、人によっては迷っている自覚など微塵も感じられないだろうし、そういう人は何か現状について的確なことを述べているつもりかも知れないが、その的確さが世間的な賛同を得られる限りで、紋切り型の思考から生じている可能性があり、大抵はそれが現状への危機感につながってくるのかも知れないが、だが現状が危機的な状況であるのは、もう何十年も前から言われてきたことであり、またこれから先も何十年も言われ続けることだろうし、要するに現状はいつでも危機的な状況なわけだが、ただそれが紋切り型的な感覚であることに関しては、真に受ける人があまりいないのかもしれないし、そういう意味では危機感を煽る狼少年は、いつの時代でも健在なのかもしれないが、危機感を煽る要素として、現状の中で何から何まで駄目なことばかりを並べてゆけばきりがないし、それをいちいち検証してみるまでもなく、いついかなる時でも駄目なことがいくらでもある状況なのであり、それが現状が危機的な状況であることの証拠だとみなされて、しかもいつの時代でも現状が危機的な状況であることの証拠かもしれないのだが、だからといって、危機を回避する手段があろうとなかろうと、もっともらしい危機の回避手段を開陳する人がいようといまいと、そんな手段など無視しながら普通に時が経ってきたのだろうし、だからこれまでもこれからもいつまでも、危機的な状況が続いていくのかもしれないのだが、要するにいつの時代でも危機的な状況が慢性化しているといえるのかもしれず、だから危機感を煽る狼少年たちが鳴らす警鐘を、いつの時代でも無視してきたのだろうが、今後もそれは続いていくだろうし、そうすることこそが、危機的な状況をやり過ごして生き抜くための知恵と化しているのかもしれず、そういう意味では狼少年たちの言っていることに耳を貸さないことが、現状での当たり前の態度となるだろうし、世の中が危機的な状況のままに推移するのを、黙ってやり過ごす度量や度胸が求められているのかもしれず、そんな度量や度胸のない人たちが、何やら的外れで勘違いな現状批判を繰り返しながらメディア上で騒ぎ立てるわけだが、それも危機感を煽る狼少年たちと同様な態度とみなしておいて構わないだろうし、実際そんな人はごく一部の誰からも見向きもされない境遇の中にいるのかも知れないが、ではそれとは違って、誰からも見向きもされている人たちが何を述べているかというと、特に何を述べているわけでもないのかもしれず、あるいは何を述べているとしても、それはただの局所的な情勢分析の類いに過ぎないのかもしれないが、実際にそれで済んでいるうちは、特に事を荒立てるようなことは言わないだろうし、その必要がないから荒立てることもないのだろうが、ではなぜそれが一部の煽動家には危機的な状況だと見えてしまうのかといえば、実際に危機的に感じられるような事態が、世界の方々で起こっているから、それらを世界の方々から寄せ集めてきて、彼らの論理に照らし合わせてみれば、危機的な状況であることが証明されるわけで、危機的な状況とはそれ以外のことではないのだろうが、その中の一つ一つの危機的な状況がそれぞれに位置や程度や傾向がそれなりに異なっていて、それらを寄せ集めてみても、相殺される面が出てくるかも知れないし、またそれらを全て足し合わせたり掛け合わせたりすることができるわけでもないだろうし、さらにそれぞれの危機的な状況の種類も異なっているかも知れないし、そういうことを考慮すれば、それらを安易に足したり掛けたりして、危機を大きく見せかけるのはまやかしである可能性が出てくるのかもしれず、そうなると安易に自説に都合の良い要素ばかり選んできて、それらの公約的な共通点を挙げて、だから状況が危機的だと主張しても、他の危機的でない様々な要素が無視されている限りで、そんなのはご都合主義的な見解にしかならないだろうし、そういうことからも危機的な状況というのは、それを主張している人たちがこしらえあげたフィクションにしかならないのかもしれないが、たとえそれがフィクションだとしても、語り方を工夫すれば、それなりに説得力が生じるだろうし、そういう面ではそれを信じるふりをしてみても構わないのかも知れないが、たとえ誰かがそれを信じて真に受けたとしても、それはその人が真に受けたことであり、他の誰が真に受けたわけでもないだろうし、その人が誰かの危機感を真に受けて、何か危機に対して備えを用意できるかといえば、その人がどのような立場や境遇であるとしても、フィクションはそんなことまでは求めてはいないだろうし、ただその人がやれることは、その人の社会的な立場や境遇に応じたことを、これまで通りにやっていくだけだろうし、それが危機に対する備えであるはずがなく、危機への対処ですらないのだから、それでは危機に対しては何もやっていないのと同じことなのだろうが、たぶんそれで構わないような成り行きの中で、危機感を真に受けるしかないだろうし、ただそれを真に受けている限りで、その人はそうしたフィクションの信奉者となるだけで、さらに信奉者が世の中で増えれば、危機を煽っている人の世間的な知名度が上がるわけだ。

 実際にそれが何をもたらすとしても、何かそうした危機意識の権威となっている人も、世の中に掃いて捨てるほどいるわけではないだろうが、そんな権威の信奉者がそれなりにいれば、その人の危機を煽り立てる生業が成り立つのかも知れないが、その一方で世の中で普通に進行している事態があるわけで、それが日々滞りなく行われている通常の業務や生活だろうし、それは爆弾テロが頻発しているアフガニスタンでも、麻薬戦争の真っ只中のメキシコでも、経済危機のベネズエラでも、民族紛争が激化しているミャンマーでも、普通に行われていることであり、実際にそれらの国々では数千万から数億人の人たちが暮らしているわけで、それらと比較して現状で煽られている危機がどうだというわけでもないが、普通に暮らしている人が圧倒的な多数に上る中で、煽られている危機があまりにもしょぼすぎるように思われるだろうし、ではなぜそこに注目しなければならないのかといえば、別に注目しなくても構わないのだろうし、それがメディア上で特に目立つわけでもなく、ただの宣伝としても気にかかる程度のことでしかないのかもしれないし、そうであるなら無視すればいいことでしかないわけだが、ただそれに関しては語りやすいのだろうし、特に紋切り型の題材として否定的に語ってしまえるから、そんなどうでもいいようなことに多くの人がわざわざ注目してしまうのだろうが、それだけちょっとしたことでしかないのに、意識が自然と引き寄せられて、それに関して適当なことを語ってしまえるような安易な題材なのかもしれないが、誰もがそうやって危機意識に感染するわけでもないだろうし、暇にまかせて物事について思考できる人が感染しやすいのかもしれないが、そこで何かを煽り立てないと気が済まないということは、それだけ退屈を持て余しているのかもしれず、なぜ退屈なのかといえば、危機ではないからであり、危機感を煽り立てるのも、それを紋切り型の題材として否定的に語ろうとするのも、危機的な状況ではないからできるのかもしれないし、さらにいえば、危機であることと、危機的な状況であることと、危機感を煽り立てることと、それを紋切り型の題材として否定的に語ることは、それぞれに異なり、それらを混同したり関連づけて語るのは、そこに恣意的な思惑が働いているからかもしれないのだが、それを語る当人が自覚しているかというと、たぶんそうではなく、大抵は混同しているわけで、混同しないと語れない面もあるだろうし、特に語ることによって自己主張がしたい場合には、自己主張にとって都合が良いことしか語れないわけで、そうであるなら、そんな自己主張を受け取る側が、自己主張の部分を割り引いて判断しなければならないのかもしれず、それはその自己主張している人の都合や事情が反映される面だろうし、そういう部分を考慮するならば、なぜそうやってその人が自己主張したいのかを考えてみる必要があるだろうし、そこにその人が自覚できないその人なりの事情や、自己主張に至る経緯が浮かび上がってくるのかもしれないのだが、そういう面でまず思いつくのが、その人の予言者的な事情だろうし、大した危機でもないのに危機感を煽ることによって、メディア上でも世間的にも目立ちたいという願望が想像されてしまうわけだが、そこで何らかの団体やそれに関係している人の間で、交渉や取引が行われている最中において、そうした交渉や取引に加われずに、蚊帳の外にいる人が、何か騒ぎ立てているとしたら、それは暇を持て余しているから騒いでいるのであり、またそれらの交渉や取引に加われないことが、腹立たしいのだろうし、自らが相手にされていない現状が許し難いことなのかもしれず、だからそうした腹立たしい状況を紛らすために、騒ぎ立てているのかもしれないし、しかも自らが加わりたくても加われないから、そんな自分を無視するような交渉や取引を肯定できるはずもなく、そうでなくても腹立たしいのだから、否定するのが当然の成り行きだろうし、勢いそんな交渉や取引をやっていては駄目だと言うしかないだろうし、それがその人の蚊帳の外という立場から導き出された見解となるわけだが、そうだとすると危機感というのは、その蚊帳の外という立場自体から出てくるものだろうし、その人のそういう当事者から無視されるような立場こそが、その人にとっては危機的な状態なのだろうし、だから本能的に危機感を煽り立てているのだろうが、それがその人の立場から生じた都合である限りで、別に交渉や取引を行なっている関係者の都合ではなく、交渉や取引を行なっている関係者は、交渉や取引自体に関してなら、その中で不利を強いられている側が危機感を抱くのは当然だろうが、それは蚊帳の外にいる人の危機意識とは無関係だろうし、そこで両方の危機意識がつながるとは思えないのだが、蚊帳の外にいる人はそれらを混同してしまうのであり、もちろん混同しないと蚊帳の外から騒ぎ立てられないのだが、それに関しては何かしら自分がそれらの交渉や取引に関係があるかのような因縁をこじつけようとするだろうし、何とかそうやって関係者づらがしたいだろうし、そうやって蚊帳の外から騒ぎ立てながら、それらの交渉や取引へと介入を試みようとするのだろうが、実際に介入しているように装うために必要なのが、その人がこしらえあげたフィクションなのだろうし、何かその人が否定したい交渉や取引の経緯について、憂うような態度をとりながら、そういった危機的な内容のフィクションをもっともらしく語ろうとするわけだが、それを真に受けられるかとなると、同じ蚊帳の外にいる人なら、それを野次馬的におもしろがって、そういう主張に賛同して、一緒になって騒ぎ立てるような成り行きになるのかもしれないが、そんなことをやっていること自体が、危機とは無縁の退屈しのぎでしかないわけだから、そういうところで化けの皮が剥がれてしまうのではないか。


1月21日「呪術社会の実現」

 一見無駄で意味がないような行為というのは、直接物事を動かすのではなく、それができないから、その代わりに何かをやろうとするわけで、それが祈るとか念じるとか、意識や心理や精神などに働きかける行為となるわけだが、そこに至るまでには様々な経緯があるとしても、いったんそのような境地に至ってしまうと、もはやあとは祈ったり念じたりすることしかできなくなってしまうわけで、客観的に見ればそれは、そんなことをやっている人の思い込みでしかなく、そんな行為によって結果的に何がどうなるわけでもなくても、それについては祈ったり念じたりすることで済ましてしまうわけだが、他に直接物事に働きかけている面があれば、そちらの方が主要な活動になるだろうが、実際に祈ったり念じたりするだけで事が成就すれば、他の直接物事を動かす活動が要らなくなってしまうから、そんなことはあり得ないように思われるが、主要な活動である物事を直接動かすことができなかったり、あるいはやれたとしても思うような成果が得られない場合は、それができるように、あるいはうまくいくように祈ったり念じたりすることになるわけで、そういうところから祈ったり念じたりする行為だけを、専門的に行う分野が派生してきたのだろうし、そういう面では物事を直接動かすやり方と、祈ったり念じたりするやり方が連動しているわけだが、物事を直接動かすやり方が単体で成り立つのに対して、祈ったり念じたりするやり方が単体で成り立つかとなると、それが派生的な行為であるだけに、普通に考えればそれが単体で成り立つことはないのだろうが、宗教的な動作として祈祷料などを取って、それを単体で商売として行うやり方もあるわけで、そういう面で産業の分業化が、それを単体として成り立たせているわけだが、だからといって、そうした行為によって、物事を直接動かす動作と同等の結果を得られるわけでもなく、それよりは気休め的な面の方が強いだろうし、大抵の人はその辺をわきまえているはずだが、中には占い師や霊媒師などの類いに言葉たくみに騙されて、霊感商法などの詐欺を信じてしまう人もいるだろうし、そうした行き過ぎた詐欺商法と、世間的に認められている寺社などが行う宗教行事などとの間に、明確な境界があるわけでもないのだが、一方でそれが商売として成り立っているわけでもない場合は、特に詐欺だとは思われない面もあるわけで、そういうところで大勢の人が集まって、強く祈ったり念じたりする儀式ばかりを大々的にやれば、願いが叶うような幻想に囚われてしまうのが、市民運動などの否定的な側面なのかもしれないが、そういう派生的で気休め的なやり方よりは、実際に物事を直接動かすやり方を重視しなければならないのが、当然の認識にはなるわけだが、そうなると保守的な方面ではよくありがちな、賄賂とか利益供与とか票の買収とかの不正行為に手を染めることにもなるだろうし、何かそういった方面で合法的に物事を直接動かすやり方を編み出さないと、その手の市民派的な政治運動が世の中の主流となることはないのかもしれないが、それも何か無い物ねだり的な誤った幻想なのかもしれないし、結局は現状のようなメディア勢力を味方につけて、宣伝や煽動によって民衆に向かって幻想をふりまいて騙すようなやり方が主流となっていくわけで、そういう面でどちらかといえば、政治的な行為は、物事を直接動かすというよりは、そうした行為に寄生して交通整理のようなことをやる役目に近いのかもしれず、そういう意味では政治的な行為も、行為の内容そのものは派生的で枝葉末節な行為なのかもしれないが、民衆に幻想を抱かせて民意を操作するという面では、宗教などと並んで政治が世の中の主導権を握っているように感じられるわけで、もちろん宗教の方は古代から現代に至るまでの間には、社会的な権限や権力などの面では、徐々に衰退傾向にあるのかもしれないが、それと比べて政治の方は、まだまだ民衆の間で根強い信用を保っているのだろうし、果たして今後、宗教的な迷信が廃れるように、政治的な信用も徐々に低下していく傾向にあるのかどうかは、まだ現時点ではよくわからないところかもしれないが、衰退傾向というよりは、その権限や権力の内容や質が変わっていく傾向があるのかもしれないし、それに関しては強権的な傾向というよりは、形式的な手続きの面で、制約や限界などがはっきりした傾向になっていくのかもしれず、それに伴って政治力によって何でもできるかのような幻想を、民衆の方が徐々に抱かなくなるとすれば、メディアを通じて宣伝され煽動される見え透いた嘘に、民衆があまり過剰な反応を示さなくなるのかもしれないし、そうなれば政治に対してあまり過剰な期待や願いを託さないようになるだろうし、それが宗教と同じ程度に、気休めの効果しか期待されなくなれば、政治そのものの権限や権力も低下したことになるのかもしれないが、それとともに行政の権限や権力が強化されてしまうと、社会の管理統治的な傾向が強まってくるのかもしれないが、行政自体も寄生的な分野であり、産業分野からの税収によって活動しているわけだから、権限や権力を強めるにもそれなりに制約が限界があるだけに、そういう方面で危機感を煽っている人たちの認識ほどには、支配的に強まる可能性は低いのかもしれない。

 また人の活動の中で欠かせない物事を直接動かす行為も、それを労働に規定して、階層的な上下関係を作って、上から労働者に指図するような行為にしてしまえば、それ自体が主導権のない肉体労働でしかなくなってしまうわけで、さらに機械を使って労働を自動化してしまえば、物事を直接動かす行為を飛躍的に効率化できるし、そういったやり方が行き着く先には、人が念じれば物事が動くような魔法のような世の中が実現するのかもしれないが、そういう意味では人が目指してきたのは、太古の昔から変わらず、呪術社会の実現だろうし、何かを祈ったり念じたりすれば、願望が実現するような仕組みを作り上げようとしているのかもしれないが、それがどこまで実現するかは、やはり現状では何とも言えないところだろうし、どう考えても全面的にそうなるわけでもないだろうが、そんなことをやるための技術革新も産業の様々な分野で試みられているのかもしれないし、実際にもある程度は実現しているはずだが、それが何を意味するのかと言えば、人の労働からの解放を意味するのかもしれないが、労働以外に何があるかとなると、幻想しかないわけで、そしてその幻想の中身が、願望の実現であり、願望とは何かをやりたいとか、何かをやる立場になりたいとか、そのやるということが労働なのかというと、労働とは違ったやり方で物事を動かしたいわけで、それは他人の労働を必要とすることであったり、自動的な産業技術の助けを借りて行うことであったりするのだろうが、産業技術が何から成り立っているのかと言えば、現状では人の労働から成り立っているわけで、やはりそういう意味では、労働からの解放が他人の労働を必要とするわけで、結局は社会の中に階層構造を作って、上から労働者を指図するような立場になりたいという願望があるわけで、そうやって他人の犠牲によって自分の願望を実現する試みが、現状で進行中の資本主義的な社会の傾向となるわけだろうが、誰もがそのような立場にはなれないのは当然だとしても、果たしてそれが誰もが抱く願望なのかというと、はっきりとそんな願望を抱いている人は少ないだろうし、それよりは世の中の大半の人たちは、自分が抱いている願望には無自覚なのかもしれないし、改めてそういうことを考える余裕もないのかもしれず、そういう意味ではただ世の中で何となく日々を送っているに過ぎないのかもしれないが、その中でもそういった願望が所々で垣間見えるのが、産業の自動化技術であったり、呪術的な祈りの実態であったりするのかもしれないが、一方で労働とは別の方面で、物事を直接動かすことが流行っている面もあるわけで、それが趣味や娯楽の中で行われていることだろうし、そういった方面では、特に物事を直接動かすことが肯定されて、労働によって稼いだ資金を趣味や娯楽につぎ込むような生活が、憧れの対象ともなっているだろうし、またそれが高じると、趣味や娯楽によって稼ぐようなあり方へと移行するわけだが、果たしてそういった傾向が労働からの解放となるかは、現状でもそういったあり方を実現できている人もいるのかもしれないが、それは一部で行われていることに過ぎないだろうし、そこでも誰もがそれを実現できるわけでもないことはわかりきっているのかもしれず、そういう経緯から、自分が実現できなくても他の誰かが実現していれば、それを応援するような成り行きにもなるのだろうし、そうやって他の大勢の人たちによる援助によって、その中の誰かが趣味や娯楽と実益を融合させるようなことが実現できるのだろうが、それも労働からの解放が他人の労働によって成し遂げられる実例となるだろうし、どうなるにしても誰もが実現できるわけではない願望の共有が、社会全体を覆っているわけで、もちろんそういうことを自覚できる人も限られているだろうから、大半の人たちはそれを自覚することなく、そういった願望の犠牲となる人が後をたたないわけだが、結局は社会が回っていくには、誰かが労働の犠牲とならないと回っていかない現状があり、しかもほとんどの人はそれを犠牲だとは自覚できないし、自覚できないのだから、犠牲とは言えないのかもしれないし、犠牲ではなく楽しみを与えてくれるのだから、その対価として労働によって稼いだ資金を、楽しみを与えてくれた人に謝礼として払うのが、当然のことのようにも思われるだろうし、またそれが直接払うのではなく、商品やサービスを買うことによって支払われるわけだから、そういうところで因果関係がぼかされて、それが犠牲とは違う何か魅力的なものに思われてくるわけだろうが、その一方で政治的な幻想を追い求めている人も大勢いるだろうし、その幻想の中身というのが、誰もが平等に労働を共有できる社会であったり、そこからさらに進んで、産業技術による自動システムの普及によって、全ての人が労働から解放される社会であったりするのかもしれないが、そういった状況の中でも、何らかの主体性を発揮したい人がいるわけで、そうした人が何らかの団体やあるいは社会の中で、主導的な立場を得て、他の人たちに指図したい願望があるわけで、そうした願望を叶えるための格好の立場というのが、政治的な立場であったり、団体の代表者の立場であったりするわけで、またそういう立場を占めることができれば、他の人たちの献身的な犠牲によって、そうした人たちに指図することができるわけで、そういう面での願望を実現するには、どうしても他人の犠牲が必要なわけだが、それも犠牲ではなく協力と呼べばいいのかもしれないし、それが対等な協力関係なら確かに犠牲ではないのかもしれないが、自らが主導権を握るとなると、やはり他人に犠牲を強いるような上下関係となってしまうわけだ。


1月20日「部分的な主張」

 何でもないようなことを大掛かりに宣伝しまくる行為については、そういう宣伝を真に受けない人は、そうした行為に対して奇異な印象を受けるのかもしれないが、何かを騒ぎ立てるのには、それ相応の理由があると勘ぐってしまうと、それはとんだ勘違いであったりするのかもしれず、また大した理由もなく騒ぎ立てていると、何となくそれが大したことであるかのようにも思われてくるだろうし、そういう効果を狙って騒ぎ立てていると勘ぐってみても、それもとんだ勘違いであったりするのかもしれず、だからその手の騒ぎ立てに理由などないとみなしてしまうと、それもとんだ勘違いである可能性も無きにしも非ずかもしれないから、何かを大掛かりに宣伝しまくるのには、ただそういうものだと受け止めるしかないのかもしれないが、それにも理由があると思いたければ、それでも構わないし、あまりそういうことにこだわらなければ、騒ぎなど無視していられる範囲内で、無関心でいられるだろうし、実際に鬱陶しく感じられてしまうと、意識して無視するしかないのかもしれないが、取り立てて何を無視する気も起こらなければ、それについて少しは考えてみても構わないのではないか。実際にそうやって物事を回りくどく考えてみると、遠回りした分だけ、余分に言葉が連なってくるわけで、単刀直入に実感した当初の印象からも遠ざかれるわけだが、別に遠ざかってみたところで、何か新たな認識に至れるわけでもないだろうし、そうかといって、特に新たな認識を求めているわけでもなければ、当初に抱いた実感を変える必要もないわけだが、たぶん大げさな騒ぎ立てになびいてこない人々の中には、騒ぎ立てること自体に疑念を抱いている人も少なからずいるのかもしれず、また単に無関心な人も中にはいるのかもしれないが、それに対して疑問を感じるということが、それについて考える契機をもたらして、そこからそうした考えを表明する機会に恵まれると、何かそれについて語ることにもなるだろうし、語ればまたそれについて考えるかもしれないし、そうやってわけがわからない思考の循環に意識が巻き込まれていってしまうわけだが、最初の段階でそれを何でもないようなことだと思ってしまうこと自体が、勘違いなのかもしれないが、たぶんそれが勘違いでも構わないのかもしれないし、実際にそう思ってしまうわけだから、そうした直感を信じても構わないだろうし、そういう意味で何かを信じることの類いとして、自分の直感を信じるのは、それを肯定しておいた方が、それが肯定できるような直感ならば、何かと楽な気分になれるからだが、そういう水準ではそういうことでしかなく、それと社会を成り立たせている制度や、制度の裏づけとなる法律の次元とは、全く別次元のことかもしれないのだが、そうであっても、時には制度や法律よりも、直感やそれを信じてしまう自分を優先させても構わないだろうし、そうやって自分を優先させた先には、制度や法律を軽んじて、それらを気軽に破ってしまったり、また意識してそれらに逆らって、違法な行為を平然と行うような成り行きになってしまったり、たとえそれが発覚して処罰されても、それもそういう成り行きでしかないわけだから、それでも構わないと思っていられる範囲内では、特にそんな自らを卑下する必要もないのかもしれないが、何でもないようなことを大掛かりに宣伝しまくる行為に違法性がないにしても、特にそれがどうしたわけでもないと感じるなら、やはりそれに対して疑念を抱いてみても構わないのだろうし、疑念を抱いてしまう自らを信じても構わないのだろうが、それとは別に信じられない行為として、例えば正しいことを主張する行為が信じられないとなると、やはりそれにも疑念を抱かざるを得ないわけで、なぜ正しいことを述べているのに、それを信じられないのかに関して、そうした疑念を抱いている自らを正当化できないだろうし、何かそこに引っかかるものを感じているとしても、それが何だかわからないままでは、そうした疑念を抱く理由が導き出せないわけで、それが特に困った事態だとも思えなくても、何とか疑念を抱いている理由を突き止めたくなってしまうわけで、それに関しては、すぐに思いつくような安易な理由では納得できないのなら、何か他に大げさな理由を思いつけるかとなると、やはりそれが思いつけないのかもしれないし、特に思いつかなくても構わないのかもしれないが、それでも安易な理由では気が済まないのだろうから、それについてはさらに思考を継続する羽目に陥ってしまうわけだが、結局その正しいと思われる主張の中身よりは、それを主張する姿勢に問題があるのかもしれず、しかも姿勢を問題視することも正当化する気にはなれない、という微妙な隙を突いて正しいことを主張してくるわけだから、そういうことをやる人には、ある種のいかがわしさがついて回るわけで、そういういかがわしさが具体的に何に起因するのかといえば、それを主張する立場にはない人が、分不相応な正しい内容を主張してしまうから、いかがわしく見えてしまうわけで、たぶんそれに対して、社会の中で機能しているように感じられる制度や法律に照らし合わせて、分相応な人が正しいことを主張していれば、それが自然な行為だと感じられてしまうわけだが、たぶん分相応な立場の人にはそうしたことは主張できないのだろうし、そういう意味でいつも正しいことを主張するのは、分不相応な立場の人がそれを主張するのであり、それに対して疑念を抱くのも自然な成り行きなのではないか。

 そういう意味で自然な成り行きに逆らって正しいことを主張するのは、何かそういうことを主張する人には特有な事情があると勘ぐってしまうと、やはりそれは勘違いとなってしまうのかもしれないが、それが勘違いであろうとなかろうと、それに対して疑念を抱いてしまうのだから、その正しいと思われる主張の中身を考えてみなければならないのだろうが、何が正しいことかを判断する上で考えなければならないことは、それが正しいと思われるのに、実行されない場合があるわけで、また実行されないということは、実行する立場の人がそれを実行していないことを意味していて、そういう意味で、実行されないことが正しい主張だと思われてしまうことが、何か引っかかるわけだが、そして正しいことが実行されていれば、特にそのことは主張には反映されず、ただ実行されていないという事実が、そうした正しい主張を行う理由となってくるわけで、要するにそこには、正しいことを行わない立場の人への抗議が含まれているわけだが、そこに何らかの事情があるとすれば、それはそうしたことを主張する人の事情というよりは、正しいことを行わない立場の人の事情となるわけで、なぜそうした事情が生じるのかとなると、それが正しいことを行えない立場だからとなるわけだが、そういうことを主張できる立場の人と、そういうことを行えない立場の人とが、別々の立場を占めているから、一方は実行できる見通しのない正しいことを主張していられて、もう一方はそうした主張とは別のことを行なっているわけだが、それが正しいことだとは思えないから、そうしたことを主張できる人が存在できるわけで、それを実行する立場の人が正しいと思われることを行なっていれば、そんな主張も生じないわけで、そんな正しい主張を行なっている現実があるということは、その一方で実際には正しいことが行われていない現実があるということであり、そこで正しいことを主張している人と、正しいことを行わない人との住み分けが、社会の中でできているとも言えるわけで、もちろん実際に正しいことを行わない人にとっては、それが正しい主張だとは思えないのかもしれないし、あるいは正しい主張だと思っていても、それができない事情が生じているのかもしれないが、少なくともその人にとってはできることを行なっているわけで、それを行なっている実態があるのだから、その人にとってはそういうことを行うことが、その人の役割ともなっているわけで、そうであればその人にとってはそれが分相応な行為であり、しかもそこで分不相応な行為ができない限りで、その人の役割を全うできているわけで、結局は正しいことを主張する人は、その人に分不相応な行為をやってほしいのだろうが、実際にそれができないから、その人は分相応な役割にとどまっていられて、それでその場が丸く収まっていて、そうした行為が当たり前のように行われている状況があるわけだが、そうした状況に逆らおうとしているのが、正しいことを主張している人であり、そうであるからこそ、そうした主張を行なっている人は、分不相応な立場から分不相応なことを主張していると思われるかもしれないが、実際に主張していられる限りは、それもその人にとっては分相応な行為であり、何かそこから冒険的に逸脱したことを主張しているわけでもなく、他の人には分不相応なことを述べているように感じられるとしても、そういう分不相応なことを主張するのが、その人の分相応な役割だと捉えれば、そういう役割に対して疑念を抱くとしても、そんな人に疑念を抱かせるような役割も、社会にとっては必要かもしれないし、実際にそうした異議申し立てを行う社会的な制度も法律も整備されているわけで、何かそういうところで、本気になって疑念を抱くことも、社会の手の内で転がされているようなことかもしれず、そこで疑念を抱くことにも疑念を抱いてしまうと、やはりそれは循環論的な思考の遊戯にしかならないだろうし、そういうところであまり深入りはしないで、単に正しいことを主張できる人は、そういうことを主張できる分相応な立場から分不相応なことを主張していて、それに対して何かを実行したり実践したりする立場では、分相応なことしかできない事情が生じていて、それらの立場の間でそれなりに無視できない差異が生じているから、主張する役割の人が正しいことを主張できる余地が生じているのだろうし、その差異が生じていなければ、そもそも実行や実践を行う立場の人が、正しいことをやっているのであり、改めてそんな正しいことを主張するまでもないことであり、だからそういった分不相応な主張自体が成り立たなくなってしまうわけで、そこでそうした言行の不一致がある限りで、正しい主張が成り立つ余地が生まれるのだから、正しい主張を行う人はそうした言行の不一致に依存しながら、そうした正しい主張を行えるに過ぎず、そうした主張自体や主張している立場自体を正当化すると、何かそれが奇異な印象を伴ってしまい、そうした主張を大掛かりに宣伝しまくること自体が、それだけを真に受けるわけにはいかない気にさせるわけで、そういう経緯からそうした行為には疑念を抱かざるを得ないわけだが、要するにそうした行為自体は、それ単独では成り立たないような何でもない行為であり、ただ主張に反することが行われている現実があるから、それが正しいように思われるだけで、主張に反することが行われていなければ、そもそも主張自体が成り立たないわけだから、そういう意味での正しさというのは、それが批判している行為に依存していて、それ以外の行為には批判そのものが通用しないのだから、そういう主張は実際に行われていることに関する反応の一部として受け取っておけばいいことでしかなく、それ以上に真に受ける必要もないことなのではないか。


1月19日「言行の不一致」

 社会の中で何かをやる機会が偶然にもたらされるのは、たまたま何かのタイミングが合うからだろうし、それ以上に納得できる理由など求める必要はないのかもしれないが、結果的にそれがうまくいけば、何か絶好のタイミングを捉えて的確なことをやったように思われるかもしれないが、それはたまたまその時はうまくいっただけで、他ではタイミングが合わずにうまくいかなかった時の方が圧倒的に多いのかもしれないが、それでもたまたまうまくいった時のことばかりが印象に残っていれば、何かそこにうまくいく成り行きに関して、必然的な因果関係があるかのように思って、そこから必然的にうまくいくやり方を探ろうとするのかもしれず、またそうやってたまたまうまく条件を見つけることができれば、そればかりを繰り返し行おうとするのかもしれないが、やはりそこでも偶然が作用して、たまたまうまくいかない場合も出てくるわけで、それが世間一般では事故や事件とみなされる現象だろうし、そうなると今度は、普段はうまくいくのに、たまたまうまくいかなかった時のことばかりが印象に残るから、何かそこにうまくいかない成り行きに関しての、必然的な因果関係があるかのように思って、調べてみてたまたまそれが見つかれば、それが必然的に事故を起こす原因や事件を誘発する原因のように思われてしまい、今度はそういった原因をなくすことを追求するだろうし、そうやってさらにやっていることの確実性を高めようとするのだろうが、それがうまくいって確実に何かを行えるようになると、今度は確実なことばかりやろうとするから、かえってやっていることがつまらなくなってくるのであり、大した苦労もせずにそれがやれてしまうと、何かそれが価値のないことのようにも思われてきて、次第に興味が薄れてくるとともに、他にもっとおもしろそうで興味を持てるようなことをやろうとして、またそこから偶然の成り行きに身をまかせて、何かができる機会や条件を求めて試行錯誤を繰り返すのかもしれないが、またそこで何かのきっかけからたまたまタイミングが合って、おもしろくて興味深い行為ができれば、何かそこにそういうことをやれるような必然的な因果関係があるかのように思われて、そういうことが繰り返しやれるような前提条件を求めてしまうわけで、それがわかれば、やはりそういう条件を人工的にこしらえて、その条件の下でそれを繰り返し行なって、そこから何らかの利益を得ようとするのだろうが、それもそういうやり方が世の中に普及して、それが誰にでも手軽に当たり前のようにできるようになると、魅力も失われて価値も低下してきて、つまらなくなってきてしまうわけで、そうやって飽きられてしまう行為もあるのだろうが、中にはそれが慣習となって社会に定着する場合もあるだろうし、世の中の多くの人が何気なくやっている行為がそうしたものなのかもしれないが、それも程度の問題であり、必要な行為は行われ続けて、必要でなくなった行為は次第に行われなくなるわけで、特に物を作ってそれを使うような行為は、その作られた物自体が、使われなくなってからも、遺物のようにいつまでも世の中に残されることもあるだろうし、現代でも使い方がもはやわからなくなったような遺物が、世界各地に取り残されている例もあるだろうし、そういうものが考古学的な価値を持つような成り行きもあるのだろうが、そうなるとそれが過去に使われていた頃とは違う価値を担って、例えば観光や学術研究などのために使われることにもなるのかもしれないが、またそうやって何かを行うことが、それを行う人や団体の存在価値を規定することにもなって、それを行うことに関われる人や団体などが、行うことに関しての社会的な権限や権力を独占することで、そういった方面の取り扱いや行い方を決めて、それをルールとして定めるような権威となって振る舞うようになると、そこで行うことに関しての価値が世間的にも社会的にも定着するわけだろうが、もちろんそうした権威主義的な人や団体に対して、他の人や団体が興味を抱いて、そこへ関心を向けている状況が保たれる限りで、そういった方面での権威が維持されるわけだろうが、それには絶えず世間の関心を引きつけておくために、メディア上で宣伝や煽動などを行う必要も出てくるかもしれないし、また他の団体である政府や企業などが、それらの活動に協賛して、そうした体制を維持するのに必要な資金を援助したり、様々な優遇措置などを施す必要も出てくるかもしれないし、それも同じ行為を確実に継続的に繰り返すために必要な措置となるわけだろうが、中にはたとえ世の中のほとんどの人から興味を持たれないような行為となってしまっていても、他の様々な事情が噛み合えば、そういう事情に関して何らかの機能を果たすことで、延々と続けられてしまうような行為もあるわけで、そういう成り行きも含むと、世の中では、何か一つの基準や尺度では測れないような様々な行為が、複雑に入り組んで錯綜しているような状況がもたらされていて、それも偶然にもたらされているとも言えるのかもしれないが、それについて具体的に語るとなると、やはり途端に決定論的に語ろうとして、そうした行為が行われる必然的な理由や原因を求めようとして、そういう曖昧であやふやで偶然的な面を取り逃がしてしまうだろうし、そういう意味で何かについて語るという行為に関しても、確実なことばかりを追求し始めると、述べている内容がつまらなくなってきてしまうわけだ。

 意識が物事の必然的な成り行きに囚われるのは、その存在や動作の確実性に依拠しないと、物事自体を捉えられず、それに関して把握も認識もできないからかもしれないが、そんなのは当然のことだとしても、それ以上に何が言えるかとなると、社会そのものが偶然性よりは必然性や確実性を目指して作られているのだろうし、その中で活動している人も団体も、確実で必然的なことをやろうとするわけで、そんなことをやっている中で、どのような動作も必然的な結果が出るような成り行きを作りたいのだろうし、そうなるとは単に満足するという意味でも、あるいは利益が出るという意味でも、確実にそうした結果をもたらしたいわけで、そうやって人も団体も一義的には利益や満足感を目指して何かを行なっているわけだろうが、実際にもそうなっている面があるから、そのような行為が成り立っていて、繰り返しそのような行為を行うことによって、そんな行為の再現性を維持することによっても、確実で必然的な満足感や利益を得ている実態があるのかもしれないが、それでも偶然性や曖昧さを完全には排除しきれていないのも当然のことであり、そんなことは不可能かもしれないが、それなりに折り合いがつく水準では、それを許容しているわけで、個々の動作や行為では確実性や必然性を目指すとしても、他の動作や行為との兼ね合いや連携となると、意向や目的が一致しないと、はっきりとした協力や連携の関係を結べないだろうし、実際に利害が衝突したり、そのことで争いが起こる際には、協力や連携の関係を構築できないわけだから、争いを収めるには調整や妥協が不可欠となるだろうし、そうなるとそこから関係する人や団体の間の思惑や認識の違いから、物事を正確には把握しきれない面が出てくるだろうし、そういうところから曖昧な部分が大きくなって、それだけ思いがけない事態が起こりやすくなってくるだろうし、そんな状況の中では、確実性や必然性だけに依存したやり方ではうまくいかなくなって、それなりに曖昧な情勢や偶然の事態に対応できるような思考や動作の柔軟性が求められるわけだが、そうした柔軟性は確実性や必然性とは折り合いがつきにくい面があるだろうし、そういったところでも方針や対応などの違いから、対立や争いを招く事態が出てくるのかもしれないが、少なくとも全面的に偶然性や曖昧さの水準にとどまっているわけにはいかず、目指す方向としては、必ず確実性や必然性を求めるような成り行きになっていくわけで、そうやって満足できる結果や利益を出そうとするから、最終的には確実性や必然性を目指す人や団体がその場の主導権を握るだろうし、そうならないと人や団体の活動そのものを維持できないわけだが、そうであっても否定的な要因として、常に偶然性や曖昧さの水準が出てきてしまうわけで、そういう面を考慮した上で、活動を維持するために確実性や必然性を維持しようとするわけだから、そういう部分で必ず矛盾や不具合が出てくるわけだが、それを無視して体裁を取り繕うとするとうまくいかなくなるわけで、そういうところで妥協的で調整的な態度を見せないと、事が収まらないだろうし、そうなると完全無欠ではいられないわけだが、そこで露呈してくる矛盾や不具合もそのままにしているわけにもいかないだろうし、そうした部分で絶えず改善を図っていくしかないわけだが、完全に問題がなくなることはないだろうし、常にやっていること自体のメンテナンスが不可欠となってくるわけだが、そういう面を考慮するなら、目指す方向とやっていることとの間に、ずれが生じてくることは明らかであり、それが述べている内容と行為との不一致を招くだろうし、普通はそうした言行の不一致が問題視されるが、その一致を目指すにしても、それに関しての妥当なやり方としては、やっていることに述べている内容を合わせるのが、普通にできそうなことかもしれないのだが、実際にはその逆の、述べている内容にやっていることを合わそうとしてしまうわけで、それが無理を招く主な原因となるだろうし、行為の現実を、目指すべき理想に近づけることは、言うは易しで行うは難しなことであるとしても、何かを語るという動作自体が、やっていることの主導権を握ろうとしてしまうわけで、そうやって物事を主導する地位や役割の人が、労働させる人々に向かって何やら言葉で指図する構造が、普通に実現しているわけだから、そういう面ではそれをやる前の段階で無理が生じているのは言うまでもないことであり、しかもそういう無理を押し通すことで、現状の産業や文明が構成されているわけだから、そういう状況の中で人や団体が行う行為には、初めから矛盾や不具合をはらんでいるとみておいた方がいいのかもしれず、単独の行為としてみれば、何やら矛盾や不具合のない確実で必然的な動作に見えるかもしれないが、それが他との連携や協力などを伴ってくると、ずれや思惑の違いなどが表面化してきて、さらにそこから対立や争いなども生じてくると、どう見てもうまくいっていないように見えるだろうし、それに関わっている人や団体などの主張や意見は、確かに筋が通っていて正しいことを述べているように感じられるとしても、実際にそうした主張や意見に基づいて何かを行えば、必ずそれ以外の事前に想定していなかった問題が生じてくるわけで、そういうところからも言行の不一致が起こるとしても、まずは行なってみた結果を述べていることに反映させて、述べている内容を調整していくしかないだろうし、そうなると最初に述べていた理想論のような内容から、だんだん遠ざかっていってしまうわけだが、むしろそうなった方が実践を反映したことが言えるようになるわけで、そういう主張や意見を受け取る側も、実践に裏打ちされた内容の方が説得力を感じられるかもしれないのだが、その実践というのが、特定の人や団体にしかできないことであると、初めに理想論のような内容を聞かされてしまうと、何か妥協的な物言いに感じられて、かえって不信感を募らせる結果をもたらすわけだ。


1月18日「信じられる余地」

 例えば人と他の動植物を比較して、それらの類似点や相違点について述べてみたところで、そういった比較が人で構成されている社会に関して、どのような理解をもたらすわけでもないだろうが、特に人でなくても、何か周囲の環境に特化して適応しすぎると、他の環境に適応できなくなることがあるだろうし、そうした適応のやり方は普遍性を持ち得ず、汎用性のない特殊なやり方となって、狭い範囲内で凝り固まるような傾向を生み出しているのかもしれないが、そういうやり方はそこでは通用するにしても、他では通用しないのはわかりきったことであり、結果的に見れば、何かそういうところで適応の仕方を間違えていることになるのかもしれないが、それがその場での自然な成り行きとなっていれば、そういう成り行きにとらわれてしまうのは、もはやそれはそうなる運命とみなすしかないのかもしれず、そうやって特定の環境に適応しすぎた結果、その後の環境の激変に耐えられずに滅んでしまった生物の種などはいくらでもありそうだが、環境の激変が偶然に起こるとみなせば、環境に適応するのは自然な成り行きだろうし、生物の類いは黙っていても自然にその場の環境に適応しようとしてしまうのだろうし、逆に適応できない種は滅んでしまうわけだから、そうなるのは極めて自然な成り行きなのだろうが、特に人に関してそうなってしまった人にも、その環境下で特定の傾向に凝り固まるような性質があるように思われるだろうし、その人だけでなく、他の誰にもそれなりにそんな傾向があるのだとしたら、そうした傾向や特性には普遍性があるのかもしれないが、実際には誰もが一様にそうなってしまうわけではなく、そうなってしまう人もそれなりにいる一方で、そうはならない人もそれなりにいれば、そこから言えることは、自然な傾向として、放っておけば人それぞれにばらばらな傾向や特徴を伴ってきて、結果的に様々な傾向や特性を持った人たちが、離散的な広がりを見せるように分布することになるのかもしれないが、それが何を意味するとしても、その中で目立つのは、特定の傾向に凝り固まるような人の立ち振る舞いになるのかもしれず、そういう人が他の様々な傾向や特性を持った人たちの中に混じっていると、自然とその人に注目が集まることになるのかもしれないが、普通に考えて、そういう人を基準にして、世の中が成り立っているわけでも回っているでもないだろうし、またそれが目立つなら、そうなるのがよくありがちな傾向とみなされるのかもしれないが、そういう傾向にしても、そうはならない人にとっては、それが基準とはなり難いし、そうでなくても確かによくありがちな傾向というのは、より多くの人がそれに注目して共感を覚えるのかもしれないし、それを他の多くの人々が模倣するような現象も起きるかもしれないが、依然としてそれだけが全てではないことに変わりはなく、世の中にはそうやって他人から共感を抱かれたり模倣されるような立ち振る舞いや動作や行為などがあるにしても、他の立ち振る舞いや動作や行為も、そんなことをやっている実態がある限りで、そんなことがやれる環境の中で行われていることは確かであり、少なくともそこでは、他から共感を抱かれたり模倣されるような立ち振る舞いや動作や行為ばかりが行われているわけではなく、他の立ち振る舞いや動作や行為などとの兼ね合いの中で、様々なことが行われるような環境がそこで出現していると言えるのではないか。そしてそういう傾向にある社会の中で、安易に思われる対応として、他から共感を抱かれたり模倣されるような行為を好意的に受け止めて、そういった行為が世間でもてはやされることにはなるのだろうが、すでに流行っている行為をさらに煽り立てることによって、何がどうなるかといえば、そういった傾向が社会の中で顕著に表れて、そんなことばかりが行われると、他の行為との間でバランスが崩れて、社会全体がおかしくなるかもしれないし、あるいはその程度のことではなんともならないかもしれないし、それは実際に世の中で流行っている行為の内容や程度が、社会に与えるインパクトの大きさにもよるだろうが、そんなことが行われたとしても、それによって実際に世の中がおかしくなればなったで、そういうおかしくなった情勢を利用して、何か自分たちの有利になるようなことを仕掛けてくる勢力が現れて、そんな勢力による宣伝や煽動などによっても、バランスが崩れて、社会全体が大きく揺さぶられるような事態も起こるかもしれないし、そういう意味では、他からの共感や模倣などを伴うような行為が、社会が変化するきっかけとして重要な要因となることもあるだろうが、その一方で、一見ばらばらに見えるような離散的な行為の広がりも、それぞれの行為が他の様々な行為との結びつきから成り立っている限りで、そうした行為を通して社会に広範囲な作用や影響を及ぼしているだろうし、様々な行為が社会の中に離散的に広がっていること自体が、ある特定の傾向を持った行為だけなく、他の様々な傾向を伴った行為も社会の中で許容されていることを示して、それだけ社会が多様かつ多方面に渡って形成されていることになるわけだから、そういった社会が人の多様性やその行動や生活様式の多様性も実現していることになり、そういう意味では行為の離散的な多様性を実現することが、その行為に伴う人や団体の関係の多様性をもたらして、そこから人の生活様式の多様性も実現することになるのではないか。

 それらの多様性がもたらされたからといって、それ自体が何を意味するわけでもないだろうし、それも社会の中で行われる自由な行為を正当化するための方便に過ぎないのかもしれないが、それとは別に、なぜ特定の行為が社会の中で主流となるかについては、単なる流行り廃りで片づけられる面もあるだろうし、大雑把に言えばそれで構わないのかもしれないが、多くの人々が何らかの行為に共感を示して、それを盛んに模倣するとしても、それだけで済むはずもなく、そこからさらに工夫を凝らした行為も出現するだろうし、またそうした行為に反発して、それとは全く別の行為を模索する動きも出てくるだろうし、そういうことも含めて、行為の流行り廃りが起こるのだろうが、それらの中で何を優先すべきかは、その場の状況や人の立場や境遇によっても異なってくるかもしれないが、実際に何を優先させようとしても、その場に絡んでくる様々な諸事情から優先できないことも出てくるだろうし、優先させようとする人の意思や団体の意向だけから、優先して何が行えるわけでもなく、何かを行なうに際してそこに関係してくる人や団体の思惑や、その場の状況などから、やれることが自ずから定まってくるだろうし、実際に人や団体が行なっているのは、そうした制約や条件の下に行われていることでしかなく、それを超えて行なうことができないから、何事も思い通りにはいかないわけだが、そうであっても何らかの行為を行おうとする意思が、その場の状況から生じるだろうし、その意思に基づいて何かを行おうとするわけだが、その意思と実際にできることがかけ離れていれば、そうした意思は妄想に基づいているとも言えてしまうだろうし、そもそも人が妄想を抱くのは、現状に対する認識が現状からかけ離れているから、妄想を抱いている自身はその内容にリアリティを感じているとしても、その内容を他の人が知れば、それが現状ではあり得ないことだと思われれば、他の人の認識としては、その人が妄想を抱いていると判断されるだろうし、そういった妄想を本気で信じているように思われる人は、場合によっては気が狂っているとも思われてしまうわけだが、中には逆に妄想を抱いていると思われている人の方が、現状のある面を的確に捉えている場合もあるだろうし、そういう意味で他の人からは、その人が妄想を抱いていると受け取られていても、他の人の気づかないところで、現状の世界から相応の作用や影響を受けて、その人が妄想を抱くような成り行きが生じているのかもしれないし、なぜそんな妄想を抱くのかを探ってみれば、案外他の多くの人々が囚われているこの世界についての先入観や固定観念が、その人にあらぬ妄想をもたらしている場合もあるのかもしれず、その最たる事例が陰謀論的な妄想となるかもしれないし、それに関しては、その人が興味を抱いた何らかの人や集団に対する世間的な先入観や固定観念が、否定的な偏見をもたらして、そこから被害妄想的に大げさな思い込みが生じて、何やらその否定的な偏見によって覆われた集団によって、恐ろしい企みが密かに世界中で進行中であるような気になってしまうわけだろうが、そこでそうした妄想を信じられるのは、普通に話の辻褄が合うからだろうし、辻褄が合うような要素をつなぎ合わせて話を作るから、辻褄が合うのは当然のことなのだが、それだけ世の中には様々な方面で様々なことが行われていて、その中のどれかとどれかをつなぎ合わせれば、信じられるような要素が集まった信じられるような話ができあがってしまうわけだが、人の認識には自然にそういった要素を探してきてしまう傾向があるのかもしれず、結局そこから言えることは、なぜ人が他人のやっていることに共感を示したり、それを模倣したりするのかといえば、世の中で行われている様々なことの中から、絶えず自分が気に入るような行為を探してしまうわけで、それが他人も気に入っている行為でもあり、他人が行なっている行為でもあるわけで、そうした他人が良さそうに行なっている行為には、自然と興味が向いて、それを自分もやってみようと思うわけだが、なぜそれが良さそうに思われるかといえば、その場の状況に適合しているからだろうし、やっていることの辻褄が合っているように思われるから、その場の状況に適合してうまくいっているようにも思われるわけで、そうなると自分がやってもうまくいくのではないかと思われるわけで、そういう思いが他の大勢の人たちにも伝わると、それらの人たちもそれを行なうことになるだろうし、またそうやってそこで競争が起これば、その競争に勝ち残った人が、その競争に敗れ去った人の分まで利益を得られるような成り行きにもなって、結果的により大きな富を得ることになるわけで、そうやって社会の中で特定の行為が流行るわけだろうが、妄想も話の辻間が合うような話には、多くの人たちが共感を示すわけで、多くの人の間でそうした妄想が共有される一方で、社会状況の方でも、そうした妄想を裏付けるような出来事が起こるわけで、それも妄想を裏付けるような要素を出来事の中から探してくるわけで、何か大きな出来事が起これば、その中で妄想を裏付けるような部分だけを選んで、そこだけを膨らまして強調しながら、妄想の証拠としてつなげるから、結果的に話の辻間が合うわけだが、そうやって都合のいい話をいくら作ったとしても、他にも世界では様々なことが行われていて、妄想とは無関係な部分がそれらの圧倒的な大部分を占めているわけで、そういう面を考慮するなら、特に陰謀論的な妄想が、辻褄の合う話として、多くの人々の間で信じられているとしても、それだけが全てではないという現実が、それ以外の様々な行為の存在をそれなりのリアリティを伴って人に認識させるわけで、そういう面があるにしても、別に陰謀論的な辻褄が合う話を信じていられるような余地も生じているわけだ。


1月17日「自己への統治」

 技術や技術に対する信用や信頼とは別に、人が生きていく上で重視しているように思われるのは、例えば人と人とのつながりや社会的な関係かもしれないが、そこでも単に社会的な関係が生じているわけではなく、何らかの技術を介して、人と人とのつながりや社会的な信用や信頼や不信や疑念の関係ができあがるわけだが、それ以前にそうした介在物を伴わずに生じるのが、自己との関係かもしれないし、自己と何が関係しているかといえば、自己の意識と身体とが関係していて、それは他人との関係の中で、自分さえ良ければそれでいいと思うのとは少し違っていて、ただ自己が自己の身体を使って何かをやっている実態があるということであり、また自己が何よりもそれを重視して優先しているというよりは、ただそうなるしかないような関係が、自己と身体との間で結ばれていて、その中では意識も身体の一部を構成していて、自己とは意識と身体を含んだ自己であり、それらは分割不可能で切り離せないものだから、重視するとかしないとかいう相対的な次元で結ばれているわけではなく、直接の関係でしかないのかもしれず、それに比べれば、他の人や団体との社会的な関係は、重視するとか優先するとかいっても、時と場合によっては切り離し可能な相対的な関係でしかなく、そういった関係について、時として肯定的な幻想を抱くことはできるが、それも何かのきっかけから幻滅すれば、否定的な印象を伴ってきて、場合によっては嫌気がさして関係を解消してしまうこともあるだろうし、それは自己との関係においても、一応は自己否定や自己卑下はするだろうが、別れることができないから、いくら自己を否定したり卑下しても、自殺して身体とともに自己を消滅させない限りは、それ以上はどうすることもできないわけだが、また自己と他者を比較して、自らの優れている点を強調して、自画自賛しても、他人がそれを真に受けて評価するかというと、それが冗談ではなく本気の自画自賛と受け取られたら、普通は評価するよりは思い上がりだと思われて、場合によっては軽蔑されたり馬鹿にされるかもしれないし、他人にとっては他人の自慢話ほど不愉快なものはないだろうし、自分の自慢話をしている時は気分が良いが、他人の自慢話を聞かされている時には不愉快になるわけで、だから普通は自分で自分を褒めているのを他人に見せびらかすのではなく、ただ他人から褒めてもらいたいわけで、他人から褒められたいから、褒められるようなことをやりたいと思うのだろうし、それを逆に他人からけなされたり馬鹿にされたら不愉快になるわけだが、自己というのはそうした自己を自慢話のように主張したいのであり、そんな自己主張をしている限りで自己が成り立っているとも言えるのかもしれず、そうやってその人が自己を意識することは、自意識の中に自我が生じていることを示しているわけだろうが、自我とは意識が意識の中に構成する虚構だとも言えるわけで、何か自らの身体を統率しているような存在をフィクションとして構成するから、何かそれは実体や実態があるようでいてないような感覚をもたらすわけだが、中にはそうした自己統治の類いの精神作用を、何やら国家統治にまで広げたい人や団体が、自らの身体と国家とを比例関係に見立てて、独りよがりなフィクションを国家統治として語ってしまうような成り行きも生じるわけだが、果たしてそこで自己統治と国家統治の間に比例関係が成り立っているかというと、フィクションとしてならもっともらしく思われる内容となるのかもしれないが、その実態となると、そうでもないのはわかりきったことであり、自己にしても国家にしても統治し切れない面があることは当然だとしても、自意識の中の他者は想像上の他者だが、国の内外にいる他者は実体や実態を伴った他者だろうし、また自己に対する他者は自己の身体そのものであるともいえるだろうが、結局はそれも統治し切れないから、そもそも統治自体が自己に関しても部分的にしか成り立たないわけで、自己に関しても国家に関しても、完全には統治することができないわけだから、両者の間の比例関係を超える面が常にあって、そうした方面から作用や影響を及ぼされて、身体のバランスも国家のバランスも狂ってきてしまい、両者ともに統治がうまくいかない面が出てくるわけだろうが、君主論的に自らの身体を統治するように国家を統治しなければならない、というたとえが両者ともに成り立たない面があるにしても、それと同型の別バージョンとして、自らの身体を統治するように家庭を統治しなければならないとか、会社を統治しなければならないとか、何らかの集団的な組織形態を身体に見立てて統治するような、安易な比例関係が次々にフィクションとして構想されてしまうわけだが、その大元の身体を他者とは認識できないから、それを統治の対象と見立ててしまうわけで、何かそこで他者を統治することを正当化できるかという疑問が湧いてくるわけだが、そういった統治主体としての自己をフィクションと見立てて、統治自体も実態のないフィクションと捉えれば、それがそこに関わってくる人や団体の暗黙の了解事項として、そういったフィクションを信じている振りを装うことによって、統治が成り立っているように見せかけていることになるのではないか。

 要するにそこで統治が成り立っているように見せかけることが、そこに統治している主体があるように見せかけることにもなるわけだが、そうした見せかけをそこに関係する人や団体の間で共有できれば、実際にもそれらの人や団体の間では統治が成り立っていることになるわけだろうが、そうしたフィクションをどこまで信じきれるかとなると、そこから何らかの利益がもたらされている限りで、そうした統治が成り立っていることを信じてもいいのだろうが、そうなると利益がもたらされない人や団体にとっては、そうした統治は認めがたいことにもなるだろうし、それが統治しきれない面であり、そうした人や団体が敵対すれば、そんな統治などごまかしに過ぎないと告発するような成り行きにもなるだろうし、だから統治が成り立っているように見せかけるには、なるべくそうした人や団体を作らないような配慮が必要となるわけだが、何らかの利益をもたらす関係の中で統治するとなると、統治する側とされる側の上下関係が生じているところでは、関係するすべての人や団体に平等に利益をもたらすのは難しいだろうし、そういう面でなかなか統治というフィクションが成立するのは困難かもしれないが、そうであるなら利益をもたらすのとは違う面での統治を考えるか、あるいは統治自体を断念するかの選択を迫られるかもしれないが、そういう二者択一も判断としてはフィクションであり、結局は統治が成り立っているように装える範囲内で、統治しているように見せかけるわけで、そういう意味で統治というのはどこまでも不完全なままにとどまるしかないのかもしれないが、それが統治の実態なのかもしれないし、単にできないことをやろうとしているだけなのかもしれないが、それでもそうしたフィクションを関係する人や団体が共有しないと、その中で決まり事が守られなくなってしまうだろうし、関係する人や団体が決まり事を守っている限りで、統治が成り立っていることになるわけだが、それが成り立っているように見せかけるには、少なくとも二重規範が不可欠だろうし、表向きは決まり事を守っているように見せかけるにしても、守れない面はある程度は不問にしておかないと、守っているように見せかけられないわけで、その辺のさじ加減も、暗黙の了解事項として、関係する人や団体の間で共有しなければならず、そういうところが本音と建前の二重規範を構成することになるわけだが、そういう二重規範でさえも、統治の中で特定の人や団体の力が強くなってくると、守れない事情が生じてくるわけで、力が強くなってくると、その力を背景とした驕りから、あからさまに本音を押し通そうとしてくるわけで、そうやってあからさまに決まり事が守られないような状況となってくれば、実質的に統治が成り立っていないことが明らかとなるから、それ以外の勢力が共謀して、驕り高ぶった特定の人や団体を排除するような成り行きにもなるわけで、そういう意味で統治とは、そこに関係してくる人や団体が示し合わせて、統治が成り立っているように演じていられる限りで成り立つようなフィクションでしかないとしても、それなりの歯止めや限界があることは確かで、そうしたフィクションを壊さない程度の不正や逸脱なら許容範囲内だろうし、そうした許容範囲内で物事が回っているうちは、何とか統治が成り立っているように装われるのだろうが、そうした不正や逸脱などが目に余るようになってしまうと、他の人や団体に統治が成り立っていることを信じてもらえなくなってしまうわけで、そうなると機会を捉えて、綱紀粛正のようなことを、誰かがやらざるを得なくなってしまうわけで、結局は関係する人や団体の中から、そういったことをやる役割の人が選ばれて、それらの人や団体の総意を背景として、そんなことが行われる成り行きとなるわけだが、それがどのような経緯でどのようなやり方を伴って行われるかは、その時の情勢や事情にもよるだろうし、またそんなことを行なうにしても、それを関係する人や団体の総意に基づいて行なうわけだから、必ずそこには談合関係があるわけで、そういうことを行なうにしても、そのとばっちりを受けて、そうした談合関係までが壊れてしまっては元も子もないわけだから、徹底的に膿を出し切るようなことはやれないわけで、そうなるとそういう行為もほどほどのところでとどめておいて、適当な時期を見計らって、どちらともなく手打ちを持ちかけてくるだろうし、そういうところでも微妙なさじ加減が求められてくるのだろうが、そういう成り行きも含めて、統治というのは、一方的に主導権を握った側が徹底的に行なうようなものではなく、そこでは必ず妥協や調整が必要となってくるだろうし、たとえ建前として厳しいことを主張するような人も出てくるとしても、本音の部分では談合的ないかがわしさを伴ってきて、そういった関係が強いほど、玉虫色の解決を目指すような成り行きにもなってくるだろうし、それが本当の解決ではなく、常に問題の先送りとなるだけに、そうしたことを繰り返している限りで、見せかけの統治が行われることになるだろうが、そういう成り行きを見せかけている限りで成り立つような統治でもあるわけだから、何かそこに統治している実態のある主体を想定するわけにもいかないわけで、主体が存在しなければそもそも統治が成り立たないわけだが、それを成り立っているように見せかけるわけだから、そういう統治はフィクションとみなすしかないのかもしれないが、それでも関係する人や団体が、そうしたフィクションを共有できる限りで、そんな統治が成り立っていることになるわけで、時にはそういった回りくどさに耐えられない人たちが、統治のごまかしを糾弾することにもなるだろうが、それも統治に加われない人たちのひがみとしか受け取られないような成り行きにもなってしまうのではないか。


1月16日「術の効用」

 技術的なことと呪術的なことの類似点は、呪術も技術に含まれるから、類似点があって当然だろうが、それを大雑把に言えば、術を用いて何らかの状況をもたらすということだが、両者の相違点は、技術的なやり方は、目に見えるような、そして論理的に解明可能な、誰もがはっきりとわかるような作用を及ぼすのに対して、呪術的なやり方は、儀式そのものは目に見えるとしても、実際の作用が目に見えないのはもちろんのこと、論理的には解明困難な、結果からしかわからないような作用や影響が及ぶことだろうし、そう述べると両者の間にはっきりとした違いがあるかのように思えるかもしれないが、実際には技術的なやり方でも、解明されている面でも解明困難な面でも、副作用として目に見えないような何らかの無視できない作用や影響が及ぶことがあるし、また呪術によってもその儀式を見させたり想像させたりすることで、人の心にはっきりとした作用が及ぶこともあるだろうし、そういう意味でどちらの術にも、技術的な面と呪術的な面があるだろうし、そこで何らかの決めつけを行なって、その場ではわかったようなもっともらしいことを言って、呪術を否定して技術を肯定することは可能だろうが、それが術であるだけに、両者ともに時には世間の良識から逸脱するようなことにも使われるだろうし、また中には呪術を人助けのために使いたいと本気で思っている人もいるかもしれないし、どのような術を使うにしても、使う人の都合が、使う対象に反映するような効果や効能が期待されるだろうし、そのために術が使われるわけだが、それに関しての現代的な傾向としては、技術に科学的な傾向があれば信用されるし、その一方で技術に呪術的な傾向があれば疑われるかもしれないが、結果が伴ってくれば、呪術的な傾向のある技術も信用されるだろうし、それが占いの類いとなるわけだが、そうなると結果というのは、満足感を得られるか否かという心理的な面が伴ってくるわけで、いくら一般的に信用されている科学技術を用いても、不満な結果しか伴わなければ信用されないだろうし、そういう意味で結果に対する満足や不満によって、その術の良し悪しが評価されることになってしまうわけだが、そうなると術の対象が自然と人を満足させることに向けられて、そういう面に特化した術として、宣伝術や煽動術などが世の中でもてはやされるような風潮となるわけで、そういうところで実質的な中身は大したことはないが、とりあえず宣伝や煽動に乗せられて、それなりに気分が高揚感に包まれていれば、それで構わないような状況となってしまうから、意外と安上がりなやり方によって、多くの人たちが満足感を得られて、そういった大して痛みを伴わないような生ぬるい世の中の状況がもたらされていて、そういう状況が長続きするほど、そういうごまかしの満足感にも多くの人が慣れてしまって、次第に満足感も薄れてくるとともに不満が募ってきて、もっと何か刺激を得られるような感覚を求めて、攻撃的な感覚に身をまかせるような人も出てくるわけだが、それが直接的な暴力の行使へと向かうと犯罪者になってしまうが、それを避けたい人たちのために、刺激的な映像や音声などを駆使した娯楽などが用意されているとともに、またプロスポーツなど見て刺激を得るようなやり方もあるだろうし、またさらに自分たちとは異質に感じられる外国や外国人や、あるいは国内外の主流から外れた活動形態や生活習慣を持つ人たちに向かって、敵意をむき出しにすることによって、刺激を得るような成り行きにもなるだろうし、そういう敵対的な感情から得られる高揚感と、宣伝や煽動からもたらされる高揚感がミックスされて、そういう現象に巻き込まれながら身をまかせていれば、満足できるような成り行きももたらされているわけだから、人を満足させる術には、それが人の心理状態に働きかける傾向が強いほど、短絡的かつ直接的な刺激をもたらすだけに、従来から発展してきた回りくどい産業的な技術の複雑怪奇で紆余曲折的な面とは、相容れない面を伴ってくるわけだが、一方でそれらの間にも表裏一体をなしている面があり、そういった短絡的かつ直接的な刺激をもたらす術を裏から支えているのが、それらの複雑怪奇で紆余曲折的な産業技術であったり、そういった技術による裏付けがなければ、現代人の心に刺激を与え続けるような術も成り立たないわけだから、それが現代文明の両極端な二面性を体現しているのかもしれず、一方では半導体技術の結晶のようなミクロな構造を精密に構築する高度な技術や、また大規模なダムや発電所や交通網などの建造物を構築するための高度な技術を使って、大掛かりに社会を大小様々な人工物によって作り上げて、もう一方では人の意識を宣伝や煽動などの術によって絶えず刺激し続けるような成り行きも生じているわけだから、そのどちらの方面からの術によっても、人がその標的になっているわけで、そうした術によって身の回りを包囲されている中で、人に何か主体的に振る舞う機会が残されているかとなると、人の方でも他人や他の団体などに対して、あるいは自分自身に対して、そうした術をかけるような振る舞いが主流となっているだろうし、そうやって人や団体が互いに術をかけ合うような社会が成り立っているわけだ。

 そうした中で、果たして自分や他人や他の団体などに対して積極的に術をかける必要があるかというと、その必要のあるなしに関わらず、その自覚があってもなくても、社会の中で生きていくこと自体が、自分の身につけた術を駆使してサバイバルしていることになるわけだが、特にそれを正当化する必要がなければ、そんな自覚すらなくても構わないわけだが、それを自覚していれば、他人がかけてくる術も感知できるかもしれないし、また術をかける意図や思惑も想像できるかもしれず、そういう意味では、必要に応じて自分に対してどのような術がかけられているかを知る機会が得られるかもしれないが、一方でそんな方面への模索に労力を使いすぎると、自分や他人や他の団体に対する疑いばかりがかさんで行って、疑心暗鬼となりかねない危険も出てくるかもしれないが、そうした技術的な方面の他には、どのようなアプローチで社会に対する理解を深められるかといえば、まずは自分や他人や他の団体がやっていることを、いかにして信じられるかということになってくるのかもしれないし、その信じられるか否かを判断する上で、自分も含めてその人や団体が、どれほどの犠牲を払って、それをやっているかが指標となってくるのかもしれず、こんなにも苦労しながらやっているのだから、やっていることを信用して欲しいとは誰もが思うところかもしれないが、それに関してはこんなにも苦労しながらやっているのだから、やっていることが成功しない道理がないとも思いたいだろうし、特にそれが自分自身のこととなると、そうした思いが人一倍強いほど、自分に対する過信につながるのだろうが、技術に対する信用や信頼が、技術を使った結果から生じるのに対して、自らの努力や苦労に対する信用や信頼は、結果が伴わない以前から生じてしまうのであり、もちろん結果が伴ってくればなおのこと自信を深めるわけだが、実際にそうした信用や信頼がないと、努力や苦労のし甲斐がないだろうし、そんなことをやっている自身を信じているからこそ、それに伴って生じるそれ相応の苦難や困難を乗り切ろうとしてしまうのだろうし、またそんな自身の経験や体験を、他の人や団体の苦労や苦難にも当てはめて、共感や支持を表明してしまうわけだが、逆にそうした努力も苦労もしていないような人が、親の七光りや縁故や依怙贔屓によって社会の中で重要な役職や地位を得て、メディア上でも脚光を浴びてしまうのが許せないような感情も生じてしまうわけで、またそうした庶民感情の類いを逆用して、何かと努力や苦労を見せびらかすような成り行きも生じてしまうわけだが、そういう意味で、意外と信用や信頼というのも当てにならない面があるわけだが、それもそうした面を強調するような宣伝や煽動によって、他の人や団体の信用や信頼を勝ち取りたいような意図や思惑も生じてきて、そうやって、そうしたやり方が人心を掌握する術として成り立っている面もあるわけだから、その内容はともかく、何か世の中で成功するには何らかの犠牲が必要であるかのような先入観や固定観念に囚われて、何らかのひたむきな努力に対する信用や信頼が生まれる状況というのが、人や団体の活動の呪術的な面であることは明らかなのかもしれず、そうした苦難や困難という犠牲が努力という呪術の供物として提供されているわけだから、そうした面に騙されないことが肝要というわけではなく、たぶん騙されているという感覚にはなれない面があると捉えておくのが無難なところなのかもしれないし、どう考えてもひたむきな努力の末に何らかの成功を得た人を信用せざるを得ないだろうし、人を信用するとはそういうことでしかなく、それは他の団体にも言えることかもしれないが、そうした信用を信用できるかというと、やはりその内容によってはそうとも言えなくなってしまうわけで、特にそうした努力によって何らかの損害がもたらされるならば、少なくとも損害を被った人は、加害者を許せないと思うだろうし、そういう意味で人や団体に対する信用や信頼も絶対な価値ではなく、逆に誰からも信用も信頼もされないような人や団体が、世の中の役に立っている可能性もあるわけで、そういうところで何か判断に関して、固定的な指標を信用するわけにはいかない事情が生じてきてしまうわけで、そこから考えるなら、別に他から信用も信頼もされないようなことをやっていても、さらにそんなことをやっている自らを信用も信頼もできなくても、なぜかそんなことをやっている現実があれば、それ自体が実際に起こっていることは認めざるを得ないわけで、それもそこで何らかの術を駆使して何かをやっていると捉えれば、何か自らが自覚できないような術が他からかけられているのか、あるいは自身が自身にかけているのかは定かではないが、何らかの術によってそういう行為が行われている実態がある限りで、それはそういうものだと捉えるしかないような事態に直面してしまうわけだが、それに関してはそれを正当化するだのそれが正しい行為だと主張するだのの、主体的な判断は下せないだろうし、特に主体的に何かをやっている感覚がなくてもできている現状があるなら、そんなことを気にかける必要も生じてこないわけだが、そういう意味で何か自分や他人や他の団体のやっていることに関して、特に理由や原因を求めなくても構わないような成り行きもあるのかもしれず、またそうであっても、他で何やら苦労しながら大変なことをやっている人や団体を信用したり信頼してみても構わないだろうし、その一方でそういう信用や信頼とは無関係なことを自らがやっていても構わないし、また他の人や団体がやっていても構わないわけだが、それが自らの活動に関わってくる限りで、それを信用してみたり疑ってみたりすることもあるだろうし、そうした信用や疑いに応じた判断を下してみても構わないわけだ。


1月15日「鈍感力の活用」

 社会の中では、それが良いか悪いかという判断よりも優先して、人の行動や言動を律している作用があり、その中でも法律以外で人の活動にブレーキをかけているのは主に慣習であり、ある行為に関して、それができるのにやってはいけないように思われるのは、他人の目を気にするからであり、それはよく言われるような、人の振り見て我が振り直せと言われるのとは、微妙にずれた作用かもしれないのだが、社会の中で他の人たちと一緒に暮らしていると、事の善悪という道徳的かつ倫理的な判断とは別に、自然にやっていいこととやってはいけないことを、他人の行為を見て学習してしまうわけで、そういう傾向が強いほど、その社会の構成員が同質化するのかもしれないが、そういう場合は、やっていいこととやってはいけないことというよりは、まずは他人と同じようなことをやろうとするわけで、そこではなぜそういうことをやるのかという理由を求めるよりは、動作としてある一定の型から入って、それが悪い意味では紋切り型と言われるのだろうが、こういう状況ではこういうことをやるもんだと学んで、それの良し悪しよりも、他人と同じようなことをやっていれば、とりあえず文句を言われない程度の感触を得ながらやるから、そこではやっていることの良し悪しの判断を保留しながら、とにかく他人と同じようなことをやるように心がけるわけで、それについてはなぜとかどうしてとかいう疑問とは別の経路から、動作が行われるから、その分考える手間が省かれるわけだが、そういう動作ではなく、そもそもなぜ人は考えるのかというと、直感でどうやればいいのかがわからないから、そこで立ち止まって、あるいは別の行動をしながら考えるわけで、それとは違って、どうやればいいかの見本が他人の動作として示されていれば、ただそれを真似ればいいような成り行きになるだろうし、それがその際に誰もができることであり、実際にそうやってできることをやればいいわけだが、その一方で、できると思われても慣習がやらせてくれない動作があるだろうし、それはやろうと思えばできるのに、他の人がやっていないから躊躇してしまう動作であり、慣習に合わせて動作の型から入ってしまうと、そこにはやるかやらないかの判断が入らないから、そこで考える手間が省かれて、他の人がやらなければ、それをやるのがはばかられるようなその場の雰囲気や空気を感じ取って、できることをやらないような成り行きになってしまうわけで、そうやってできることをやらない動作が人から人へと伝播していって、それも慣習として社会に定着するのかもしれず、そうしたやらない動作を他から模倣している際には、すでになぜそれができるのにやらないのかについては、考えない習慣がついていて、そこでは考えることよりは他人を真似る動作の方が優先されてしまい、なぜ優先されるかといえば、すでにその時点で、他人を真似ることによってうまくやってきた実績を実感しているから、そうした実績に対する信頼から、そこで立ち止まって考える手間を思いつけないわけだが、ではそういった慣習的な動作を破って、やれる動作を行なってしまう人がなぜいるのかといえば、そういった慣習的な動作の習熟度にも、人によって優劣があって、要するに得手不得手があるわけで、他人の動作を見ても、それを真似ることが不得意な人もいて、そういう人は不器用だと思われることが多いのかもしれないが、先天的に感覚が鈍いとも言えるのかもしれないし、または生い立ちに伴って感覚の鈍さが形成されてきたのかもしれないが、実際にそういう方面で鈍感な人は、やってはいけないような周囲の雰囲気や空気を感じ取れないから、実際にやってしまって、その結果として周囲から反感を買ったり、除け者にされることもあるかもしれないが、そういう否定的な反応ではなく、単なる変わり者だと思われるだけの場合もあるだろうし、さらに何か他より優れている面が顕著だと、そういう面に引きずられて、逆に肯定的に見られて、周囲とは違った独創的な感性の持ち主として、カリスマ性をまとってしまう場合もあるのかもしれず、そうなるとその人だけは何をやっても許されるような雰囲気や空気が、その人の周囲に形成されてしまうわけで、そういう人は古代であれば、シャーマンのような地位を得られたのかもしれないが、現代においては、そうやって人を惹きつける求心力が生じると、何らかのカルト的な教祖のような立場になれるかもしれないし、そういう成り行きをうまく商売に結びつければ、何らかの企業の創業者のような立場にもなれるだろうし、それがうまい具合に作用して、一代で莫大な富を築き上げることにでもなれば、そういった人の特徴としては、とにかく他人とは違ったことをやってきた経緯が目立つだろうし、そこから他人がやらないようなことをやれる能力があるから、その分のアドバンテージを活かして、成功をつかみ取る成り行きになったようにも思われるだろうが、結局世の中の慣習に慣れてしまった凡人たちは、そうした成功体験までも真似しようとしてしまい、そんな中からそれなりに成功する人も出てくるかもしれないが、そういう秀才型の成功者の大半は大したことはなく、そのせいぜいが地域レベルでの成功者にとどまるのかもしれないが、中にはマイクロソフトの創業者のビル・ゲイツのように、他人のアイデアを盗むことに悪魔的な才能を発揮して、大成功を収める人も出てくるわけで、そういう人は盗むことに関して良心の呵責を感じない、という別の意味での鈍感力を発揮するわけだが、それもある意味では世の中の慣習に慣れてしまった人には真似のできないことであり、そういう事例も含めて、人の慣習的な動作が社会を律している面があるわけだ。

 そしてそんな慣習的な動作に適った保守的なやり方として、出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない、というルールならぬルールが適用される場合があるだろうし、それはある意味で二重基準を示すわけで、世の中で慣習を守ることが不文律としてあるにしても、とりあえず慣習を破った人を、出る杭を打つように罰することはできるが、それにも限度があって、慣習を破って他人とは違うことやって、いったん世の中で成功してしまえば、その人には成功の度合いに応じて、それなりの権限や権力がもたらされて、そうなるとその人の信奉者とともに社会的な権威になってしまい、他の人たちがそうした権威の体現者には逆らえず、もはや罰すことできなくなってしまうわけで、そうやって出過ぎた杭は打たれない状態となるわけだが、いったんそうなってしまった人にとっては、自らの優位な状態を保ちたいから、自分以外の人たちが権威となった自身を脅かす存在となっては困るから、他の人たちには慣習を守らせようとするわけで、だから出る杭が打たれる状況は好都合なのだが、そうした自身の立場や状態に応じて態度を使い分けるのが、典型的なダブルスタンダードとしての保守的なやり方となるわけだが、それを誰もがわかるようなやり方で行えば、それなりの見識がある人たちから非難されるだろうが、囮として、誰もが簡単にわかってしまうような二重規範を批判しておいて、その陰で、よく考えてみないとわからないような二重規範を巧妙に温存させておくようなやり方があるわけで、特に誰もがわかるような二重規範を声高に批判するような人ほど、そういう傾向があるわけで、中にはそうした批判を通して、その方面の権威になることを目論んでいる人もいるわけで、そういう面で二重規範に関して、もっともらしいことをメディア上で主張している人の言動には注意しなければならないだろうし、そこから言えることは、世の中にはそうした囮としての役割があるのかもしれず、それはどう見てもひどいことしか言っていないような人が、保守的な勢力によって野放しにされている現状からも言えるわけで、そういう一部のひどい人たちに世間の注目を集めさせておいて、それよりはいくぶんマシに思われるような人たちが、世間の多数派から支持されるような状況をもたらそうとしているのかもしれず、それもある意味では保守的なやり方であり、それが暗黙の了解事項としてルールならぬルールとなっている可能性があり、何かそういうところで、囮に見立てられたひどい人たちが、社会で野放しにされてにいるような言論状況を作っておいて、それをめがけて民衆の支持を獲得しようとする良識を装った人たちが、批判や非難を繰り返している現状もあるだけに、少なくともそういう状況が延々と続いているなら、それこそが予定調和のビオトープ的な社会となっていると捉えておいた方がいいのかもしれず、そこでそういった見せかけの三文芝居を真に受けないようにするには、とにかくメディア上で何かを声高に繰り返し主張するような人とは、距離を置いた方がいいだろうし、実際にそういった試みが延々と行われているにも関わらず、一向に事態が改善しないようならば、客観的に見ても、そこで状況が安定してしまっているわけで、そこでそいう人たちの批判は無効であるどころか、かえってそんな人たちが批判するような状況の安定に寄与しているとも言えるわけで、そういう意味で実際に社会状況を変えるには、批判勢力を支持したり共感を寄せる程度では変わらないわけで、それよりは宣伝している物や情報を使わずに、別の物や情報を使ったり、また主流のサービスを拒否して、別のサービスを利用したりするように、選挙でも世の中の主流を構成する勢力とは別の勢力に投票するしかないわけで、現状ではまだそこまで至っていないだろうし、その途中で、保守的な社会のルールならぬルールの範囲内で、民衆がメディア上で声高に批判を繰り返すような人たちの言動に惑わされている段階かもしれないし、あるいはそうした保守的なルールならぬルール自体も形骸化してしまって、もはやメディア上で声高に批判を繰り返すような人にも多くの民衆が無関心となっていて、そうしたごく一部で行われていることが、メディア上で誇大宣伝されているに過ぎないことかもしれず、そうした形骸化を断じて認められない一部の人たちが、メディア上で執拗に批判を繰り返しているに過ぎないことかもしれないが、ともかく世の中がいつまで経っても代わり映えしないように感じられる限りで、そうした代わり映えのしない世の中を変えようと主張する人たちは、そうした主張をメディア上で飽きもせずに延々と繰り返している限りで、実際に主張によっては世の中が変わっていないことが示されている実態に関しては、無自覚だと言わざるを得ないだろうし、そうだとすれば別に世の中の多くの民衆が、そうした主張に敏感に反応しているわけではないことになるだろうし、そうした主張までがメディア上でただ放置されている状況なのかもしれないし、そこでそうした主張が野放しになっているからこそ、いつまで経っても代わり映えのしない批判的な主張が繰り返されているわけで、結局はそれらの人たちも保守的な勢力が野放しにしているひどい人たちと同様に、囮としての役割しかないのかもしれず、そこで何かが行われているように装うためには、そういう代わり映えのしない批判勢力も必要不可欠となっていて、民衆がそういう人たちに支持や共感を寄せるだけで済ましている限りで、現状が延々と続く成り行きになっていくだけなのではないか。


1月14日「現代的な思考」

 歴史の時代区分というのは、王朝の交代時期や世紀の変わり目を境界として、何か便宜的にある一定の期間を何らかの時代として区分しておいた方が、その期間をひとまとまりの時代として語れるから、そうやってそれ相応の時代区分が使われる経緯があるにしても、それ以上の妥当性があるわけでもないだろうし、そうであるならあまり厳密に時代区分を設定すると、逆にその区分にとらわれてしまい、時代と時代の境界を超えて作用するような成り行きを見逃してしまうだろうし、だから時代区分というのは、あくまでもとりあえずのものとみなしておいた方が、下手に先入観や固定観念にとらわれることなく、柔軟な姿勢で歴史について思考することができるのかもしれないが、それはそういうことだとみなしておいて、では過去の歴史ではなく、現代については何が考えられるかというと、現状で世界的に成り立っているように感じられる大衆市民社会と呼べるような世の中の状態を、どう捉えれば納得できるかといえば、それに関してはどう考えてみても納得しかねる面があるのかもしれず、それは現代を含む時代というのが、いつから始まって、どこまで続いていくのかに関して、何かはっきりした過去の時代とを分ける境界や、将来への展望や指針があるわけでもないことが理由なのかもしれないが、逆に納得しようとするのではなく、納得できないという感覚を現代的な特徴と捉えるなら、何か現代を不可思議で不可解な時代とでもみなしておいた方が、それなりの妥当性が感じられるかもしれないが、一方でそういったまとまりのない漠然とした捉え方では、何も言えないような不安感に襲われてしまうかもしれず、そういった不安感を振り払うためにも、それに関して何か考えるにあたっての方向性や基準となるような、安定した土台のようなものを設定したくなってしまうわけだが、むしろそういったものが、思考がそれに依存してしまうような先入観や固定観念の素となるのだろうし、そういったものにとらわれてしまうのは簡単なことかもしれないが、それよりは何か納得しがたいような現代の捉えどころのなさを信じるなら、不安感にとらわれたままで、よりどころのない不安定な心理状態の中にとどまりながら思考していた方が、より現代的な感覚に忠実でいられるのかもしれず、そういった現代に対する捉え方がどこまで正しいかは、不安とともに疑問に感じられるかもしれないが、安定した正しさを求めるのではなく、不安定な状態をいかに維持できるかに賭けるというか、そういう面が現代の現代性を物語っているのかもしれないし、それとは対照的な安定性というのは、現代性というよりは、過去から連綿と受け継がれてきた伝統性に属するのだろうし、そういう安定した面も現代を構成する部分ではあるわけだが、そうした安定性の中に意識をとどめていれば、過去しか見えてこないわけで、それが現代を支える土台だと思うしかなく、そうした土台への執着から保守的な思考や態度が生じるわけだが、そうした立場や態度でいれば安心できるし、他の保守層からも安心されるだろうが、果たしてそれで安心しきっていられるかといえば、安心しきれないからこそ、それとは対照的な不安定で変わりやすい現代的な部分に対して、執拗に目くじらを立てようとするのだろうし、逆にそういった不安定で変わりやすい現代的な部分に、絶えず感性の照準を合わせていれば、現代的な意識を活性化していられるのかもしれず、それとは対照的な伝統を体現する部分にも目配りが必要な時もあるのかもしれないが、どちらか一辺倒というわけにもいかないだろうし、また二者択一を迫られているわけでもなく、その場の情勢を見極めるには、それ以外にも様々な方面へと思考を巡らせていないと、結局は思考する自らの都合に合わせた一つまたは複数の物事を選んで、それに関してそれぞれに一つの尺度や基準を求めるような単細胞的な状況の捉え方となってしまうわけで、その辺で両義的で複眼的な思考の状態を維持するのは大変なことかもしれないが、それ以外にも現代に関してはわからない部分がいくらでもあるにしても、思考にそのわからない部分を切り捨てないで保留しておくだけの余裕を持たせることも肝心だろうし、そういうところで堪え性のない人なら、蛮勇をふるって断言口調で何らかの決めつけを行なってしまうところが、そういう単細胞な頭脳の持ち主に特徴的な傾向となるわけだが、そういった人たちの方がある意味でわかりやすいし安心できるから、メディア上でそれなりに注目を浴びることにもなるのかもしれないが、別にそんな人たちの主張や見解を受け入れて支持しても構わないわけで、メディアから伝えられる世の中の情勢や状況に関する分析などは、その程度のものだと理解しておいた方が、安心できるわけで、人は安心するためにメディアから情報を求めるわけだから、別にそれがそれなりの的外れや勘違いを含んでいるとしても、その時々の安心材料としては、その程度で構わないとみなしておいた方が、年がら年中情緒不安定で不安感に襲われているよりは、精神衛生上は好ましいだろうし、そういう意味ではひたすら現代的な感覚を追求する必要はないわけだ。

 またそれとは別の方面で、時代的な捉え方と同じように、どうしても社会を全体としてひとまとまりのものとして捉えてしまうと、必ず行政的な観点から、世の中を合理的に統治して管理するにはどうしたらいいか、というような全体的な思考にとっては避けがたい問題にとらわれてしまうわけで、実際に全体を統治して管理しきれるかというと、現状ではしきれていないわけだし、全てを統治して管理するのは不可能と思っておいた方が妥当なところだろうし、ならばそういう行政的な世の中の管理統治とは別のやり方があるのかといえば、管理統治できる面は管理統治しておいて、その徹底化を目指す方向性というのが、実際の行政的な官僚機構としての目指すべき方向性であるにしても、国家単位で管理統治される民衆の側がそれに素直に従う理由も必要もないし、ないどころか、逆に民衆の側で行政をコントロールしたいわけで、そのために民主的な政治制度があるわけだから、民衆の側の意向を行政に反映させるために、議会に民衆の代表者を送り込んで、行政が民衆の意向に沿った形の活動になるように制度や法律を定めて、それを行政の活動に反映させようとするわけだろうし、またそれを実行させるためにも、議院内閣制や大統領制などによって、行政の長が民衆の代表者となるようにしているわけだろうし、そういった公的な制度面では形式的に民主主義の体裁が整えられているわけだが、それがそのままの形では維持できないところが、現代の不安定な面でもあるだろうし、それに関してはまずは民衆側で意見や主張が一致しないし、様々な意見や主張が民衆の間で渦巻いていて、それを一定の方向や傾向を持ったあり方にまとめることができないわけで、もちろんそれは、人それぞれに社会の中で様々な立場や境遇がもたらされているわけだから、立場や境遇に応じて意見や主張が違ってくるのは当然のことなのだが、それを公的な政治の場に汲みあげるとなると無理が生じるだろうし、実際にそういうところで全体的な思考が破綻することになるわけだが、そういう面を勘案すれば、公的な制度面でできることは、いつも部分的な行為に限られるだろうし、世の中の様々な方面で、全体ではなく部分的に作用を及ぼすような行為を目指すしかなく、そういった部分的な水準にとどまっていられる限りで、政治的な有効性が発揮されるのかもしれず、それを社会全体へと及ぼそうとすれば、たちまち無理が生じてきて、そうした無理を押し通そうとする行為が、かつてのヒトラーやスターリンなどの全体主義的な政治体制を招いたわけだが、そういった傾向は現代でも大なり小なり国家を管理統治する行政機構に現れるわけで、どうしても行政機構の集団意志として、国全体の管理統治をやろうとしてしまうわけで、そうしないと部分ごとに生じてしまう矛盾や不均衡を放置してしまうことなって、やっていることの整合性が取れなくなってしまうのかもしれないが、それが全体的な思考の限界であり、全体を静的な安定へと導こうとすることの誤りでもあるわけだが、その最たる典型例が、日本で言えば江戸幕府のような体制となるのかもしれないが、実際に政治的な実践を保とうとするなら、静的ではなく動的な方向性を求めなければならず、また全体的ではなく部分的な傾向を求めることになるだろうし、全体を静的に安定させるのではなく、絶えず部分を動的に活性化させることが、現代的な方向や傾向に応じたやり方となるだろうし、そういう意味では全体の静的な安定性にも目配りをしつつも、部分を動的に活性化させるようなことを求めてゆけば、それなりにバランスのとれた政治のあり方にも結びつくかもしれないし、具体的に何をどうするかというと、世の中の方々で生じている不具合に対処することになるだろうが、そこで考慮しなければならないのは、部分的な不具合が全体の犠牲となっている面であり、そうなると部分と全体との間でどちらを優先させるべきかとなるわけだが、それに関して現代的なあり方を優先させるなら、全体ではなく部分を優先させるべきだろうし、現代が静的に止まっているわけではなく、動的に動いているなら、部分を優先させて、その部分を動的に活性化させるべきだろうし、しかもそこでやめてしまうと、部分を優先させた分、他の面と間で不均衡が生じてしまうわけで、そうなるのを是正するには、今度はそうした不均衡によって不具合が生じる別の部分を、動的に動かして活性化させればいいわけで、そうやって何かを動的に動かせば、全体とのバランスから別の面で不具合が生じるから、今度はその不具合が生じる面を動的に動かして活性化させればいいわけだが、そうやって絶えず部分的に不具合が生じる面を活性化し続けることが、政治的な行為となるのかもしれず、そういう部分で静的な安定と動的な活性化の両面を見ていかないと、そういった方面でのバランスが崩れて、停滞や動乱の両面で危機的な事態に直面するかもしれないが、それも何もしないで放っておけば、意識が自然と安定を求めてしまうわけだから、そういう安定を求める意識が不安に駆られる傾向として、何かちょっとした世の中の変動を過敏に察知して、警鐘を鳴らすような動作を招くわけで、それが危機感の煽り立てにつながるわけだが、それに呼応するのではなく、それを利用して動的に活性化させるような行為が、政治的には求められているのかもしれないし、そういうところでも現代的な姿勢としては、全体を静的な安定へと導くのではなく、部分を動的に活性化させる方へと導くやり方が求められているのではないか。


1月13日「主張の妥当性」

 世の中では様々な人や団体の活動に連動して様々な物事が生じていて、またそうした活動とともに生成された物事が、他の人や団体も絡んで消費され消滅していることも確かだろうが、そこで物事の生成と消費が単純につながっているわけではなく、中には過剰に生成されて、消費されずに余った在庫が溜め込まれたり、また溜め込まれた状態が、それ自身とは別の価値を生じさせて、さらにそれが別の物事の生成や消費に利用されたりして、その生成の具合も消費の具合も蓄積の具合も、そこに異なった思惑の人や団体が絡んでくると、一筋縄ではいかないようなこじれた具合になってくることもあるだろうし、さらにそこに関係してそれらを取り扱う人や団体に特有のこだわりに基づいて、妙なことが行われて、それが時として関係する人や団体の間でちくはぐな対応を招いたりして、そうやって様々な人や団体やそれに関係する物事が、複雑に絡み合ってもつれ合い、解きほぐし難い様相を呈してきたりするわけで、そういった成り行きが人や団体や物事に関する理解を妨げているのだろうが、人や団体が関わって様々な物事が生成されたり、それが消費されて消滅したり、余って蓄積されたりしている状況の中で、それらの物事の生成や消費や蓄積などに関わっている人や団体において、関係したり取り扱っている物事自体が正確に把握され理解されているかというと、何を持って理解とみなすのかもよくわからないところであり、自分たちが関わって取り扱っている物事の全てを、完全に理解ているわけでもないのは当然だとしても、それに関しては理解しているように装うことはできるかもしれないが、わかっているように装うほど、他から見ればそれが見え透いたごまかしのようにも感じられてしまい、それを何とかごまかしではないように装うには、わかっていることよりも、むしろわからないことを示した方が、妥当に思われてしまうのかもしれないが、それでも物事について語るには、それに関してわかっていることを示さないと話にならないし、できるだけわかっているふりを装っているようには思われないように、それなりに工夫を凝らさないとならないのかもしれないが、それもそんなことが明確にできるかというと、よくわからないところだろうし、ともかくわかっていることとわからないことの両方を示せれば、何かそれについての一定の水準での理解になることは確かだが、一方でそれが物事の理解に関しては、妥協の産物であることも明らかとなるわけだが、だからと言って、他に全てがわかっている人や団体がいるわけでもないし、そこに関係してくる誰もが、程度の差こそあれ、わかっていると思っている面と、わかっていない面の両面を、意識の中に抱え込んでいるはずなのだろうが、それをどう言い表すかによって、それがうまく他に伝わったり、伝わらなかったりするのかもしれず、また場合によっては、それを他から悪く受け取られると、疑念を抱かれたり信用されなかったりするのだろうし、どうしてそうなるかといえば、人それぞれに異なる事情を抱えていて、事情が違えば共感できない面も当然出てくるだろうし、何かそう言わざるを得ないことがあると、なぜそう言わざるを得ないのかが伝わらず、そこでその人の事情が邪魔をして、他から疑念を持たれるようなことしか言えなくなってしまい、それに関してはその人の事情を考慮すれば、そうなるのが当然の成り行きだとしても、他の人の事情とその人の事情が合うこともないだろうし、またその人が他人の事情を考慮できるかというと、できることとできないことが出てくるだろうし、それはその場の情勢にもよるだろうが、そうやって人それぞれに事情が異なってきて、そんな状況が互いの事情の共感や共有を妨げて、それに従って、お互いにわかり合えない人や団体が対立したり争ったりして、そこに他の人や団体に特有な事情も絡んできて、その結果として、さらにその場の状況が複雑で込み入った様相を帯びることになるのかもしれないし、そういう面で時として関係者の間でうまく調整ができて、何らかの妥協が成立することもある一方で、また交渉が決裂して対立が長引く場合もあるのだろうが、それらの顛末を結果から見てどう判断してどう評価しようと、そんな判断や評価を下している時には、別の新たな問題への対応が迫られたりして、またそれに関して過去の歴史からうまくいった事例を持ち出してきて、それを参考にしなければならないと主張することもできるが、それに関しても、当時と今とで事情が異なれば、そんなのは気休めの意見にしかならないだろうし、そんなふうに的外れなことを言いたい人はいくらでもいるのかもしれないが、そういった問題に関しては、しかるべき立場の人や団体がしかるべき制度に基づいて、外部から介入するような成り行きが生じることも生じないこともあるにしても、制度自体や制度の運用に問題があれば、またそうした事態に特有の事情が生じてくるし、またそれに輪をかけて、そういう事情を問題視して絡んでくる人や団体もいるわけだから、そうやって人や団体やそれに関連した物事が複雑に絡み合う成り行きをどう捉えてみても、人の意識や思考にはその全てを捉え切れるわけでもなく、それらの顛末を正確に把握できるとは思えないが、それに関しても必ずわかったようなことを言う人が、わかりやすく解き明かしてみせるかもしれないが、そういう人がわかりやすく説明するほど、わかりにくい部分を省いて説明してしまうわけだから、それを真に受けた人がわかったような気になるのは、やはり勘違いでしかないのかもしれない。

 それらの成り行きに関して、誰もがそれなりに当事者の面があるとしても、その程度には当然のことながら差があって、その中で主導的な役割を果たしている人や団体もある一方で、従属的な役割を強いられている人や団体もあるだろうし、その中で公平な立場をとれば、都合よく特定の人や団体やその役割だけを正当化するわけにもいかないのだが、またそれも当然のことのようにそうはならないわけで、そこに関わってくる人や団体のどれか一つに焦点を当てて、そうした対象を主人公のように見立てて、それに絡んだ出来事を中心に物語ることによって、それが物語る人の都合が反映したフィクションとなって、そういったフィクションを求める人たちを楽しませることになるわけだが、結局それも出来事に絡んでくる人たちに含まれるわけで、それらは物事の消費の過程に絡んでくる人たちでしかないだろうし、それがまた新たな物事の生成につながるとしても、そこでの生成と、その基となった物語化されたフィクションの生成と、肝心の大元の出来事とは、それぞれがだいぶ離れているわけで、そこからまた単純な結論めいた言説を導き出すとなると、それが何になるかといっても、たとえその中で何か教訓のようなことが言えたとしても、だからと言って、それもそこから生成された物事でしかなく、そうした物事を他の誰が共有する必要があるかとなると、興味や関心がなければ無視すればいいことでしかないだろうし、そういうところで物事の捉え方に限界が生じるのかもしれないが、そういう面でそういった教訓もどきから、そこに関わってくる人や団体が守るべきことや、やってはいけないことなどが導き出されるとしても、あらかじめそれらが出来事が起こる前から決定されていたわけではなく、あくまでもそれは出来事が起こった後から導き出されたものでしかないだろうし、実際にはその場の状況に応じて可能なことが関係する人や団体によって行われるわけで、それを外部からしかるべき権限を伴った機構によって決められるわけでもないだろうし、それを今後のために事後的に決めたとしても、それが法律などの決まりである限りは、破ることができるわけで、実際に当事者がそんなことをやった後から、決まりがどうのやるべきことがどうのと、いくらでもそんなことは言えるのかもしれないが、それも後から言えることでしかなく、別に前もって決められたことを後から指摘しているわけでもないだろうし、その場の結果に応じて、指摘できることも変わってくるわけで、結局どこまでそんなことを言ってみてもきりがないわけだが、たとえきりがなくても言いたい人は執拗にいつまでも言い続けるだろうし、そういう行為が鬱陶しければ、周囲から無視されるしかないわけだが、実際にも何かメディアが注目するような出来事が起これば、そこへと介入したい人が、それに関してそんな語ろうとするのであり、そしてそこで述べていることに賛同してくれる人が多く出ることを期待して、盛んに自らの存在とその言説をメディア上で宣伝しまくるわけだが、そういう行為がその人の述べている言説の内容とどう結びつくかは、相変わらず定かではないだろうし、その人の目論見通りに、その言説内容の賛同者が多く出て、それが世の中の世論に反映されれば、それが公の場での政治に何らかの影響を及ぼすかもしれないが、だからと言って、その人とは異なる言説の内容も、同じように政治に何らかの影響を及ぼすかもしれないし、そんなことをやっている人が他にもいくらでもいるのが、現状の大衆市民社会の実態なのだから、そんな行為自体が世の中の風潮を反映した成り行きの一部として絡め取られているわけで、他の多くの人たちがやっているのと似たような行為として、その人も世間から生じている何らかの立場や態度の一翼を担って、その中で共感できる人や反感を抱いているような人との相対的な位置関係や距離に応じたことを述べているわけで、それが自らの主張だと錯覚しているのかもしれないが、そうであるならそれが他の誰もが主張する紋切り型の主張内容とどう違うかを確かめてみなければならないのかもしれないが、確かめるということが、他の多くの人からの共感を期待することでもあり、実際に多くの人からの共感を得られれば、それは他の多くの人たちも同様に思っていることであり、特にその人に固有の主張でもなかったことが証明されてしまうわけだが、結局そうなってしまうにしても、そんな他の誰もがわかっているような相対的な立ち位置から生じる主張内容を、自らの主張だと思い込んでしまうこと自体が、そう思い込ませるような世の中の成り行きの中で生じていることなのかもしれないし、もしかしたらそれは誰に特有の主張なのでもなく、世間的な集団意識がその人に言わせていることなのかもしれないし、たまたまその場では、その人にそんな誰もがわかっていることを言わせるような順番が回ってきただけなのかもしれず、他の誰でも構わなかったのに、その人が言う順番が回ってきたことが、ただの偶然の巡り合わせと捉えたらいいのか、あるいはその人が人一倍その種の紋切り型に対する感応力が高かったからなのかは、そうなった結果から見れば何とでも言えることであるだけに、やはりそんな主張をすること自体が、その人にとっては大したことのように思われるとしても、世の中にとってはどうでもいいような些細な出来事でしかないのかもしれないし、それがさらに単純化されたものが、手を挙げて横断歩道を渡りましょう、とか言う実践されない交通標語のような感じになるのではないか。それを当人の意識の中では、持てる知恵を振り絞って、様々なところから得られた貴重な情報を基にして、まとめ上げたような気になっているのかもしれない。


1月12日「煽動家が生じる余地」

 メディアに関して何かそのメディアが事情通のように思われるとすれば、他と比べて何らかの有利さをもたらすような情報を伝えているような気がするのだろうが、ではその事情通のメディアから受け取った情報を知って、何か有利になったかというと、特に有利さを実感できなくても、こちらが知りたいことを伝えているように思われたら、そのメディアが事情通のような気がするのかもしれないが、それが世間話のネタ程度の情報なら、それを知り得たとしても大して得になったとは思えないだろうが、知りたいことがそういうことなら、別にそれで構わないわけで、その程度の情報でも役に立ったことになるし、そう思われる限りで、そのメディアの存在意義があるようにも思われるのだろうが、別にメディアにそれ以上の意義を求めなければそれで構わないだろうし、特にメディアに対して要望がないなら、ただメディアから伝わってくる情報を受け取っていれば、それで済んでしまうようなことでしかないわけだが、それとは別に何か偏向した情報ばかりをメディアが伝えているように思われると、途端に違和感が感じられてきて、そんなメディア自体を疑わざるを得なくなってしまうわけだが、そういう意味では特定の政治色に染まらないようなメディアのあり方が、妥当に思われるかもしれないが、そういうところでもあまりにも偏向した極右的な事例が、日本のユーチューブなどでは盛んに宣伝されているわけだから、それが極端な意味でわかりやすい例だとしても、それと比較して他のメディアの妥当性を正当化するわけにもいかないだろうが、あまりそういうメディアによって感覚が狂わされないように注意している限りで、特にメディアからもたらされる情報に関しては、理想的な内容などを求める気にはならないだろうし、またどのような内容が理想的なのかも、特に考えるような機会もないわけだが、そういう意味で特定のメディアを賞賛して、それと比較して特定のメディアを否定したり批判するようなことが妥当かといえば、そういうことをやりたい人はいくらでもいるだろうし、実際にやっているメディアもあるわけだが、それもそういうものだと受け止めるしかないのかもしれず、そういう成り行きも含めて、それを真に受けるなら、自意識がそれだけそういった方面からの作用や影響を及ぼされていることを、認識しておく必要があるのかもしれないが、だからといってそういう作用や影響を振り払う必要もないのかもしれず、とりあえずメディアから伝えられる情報に意識が依存している面があることは確かであり、場合によっては偏向した情報によって世論が操られて、民衆が洗脳されているような感覚にもなるのかもしれないが、それも他の多くの人たちもそう思っていれば、そういう成り行きに多くの人たちが巻き込まれているということだろうし、それによって世の中の情勢が悪い方へと向かっているとしても、それでさえもそんな世の中では、そんなメディアの情報に踊らされてしまう人が多いということでしかなく、逆にそれほど世間に対して影響力のあるメディアがあれば、そういうメディアは多くの人から信用され信頼されているということだから、それによって世の中に何がもたらされていようとも、単に世の中がそういう成り行きになっているということだろうし、実際に現状ではそうなっているとは思えないにしても、もしかしたら気づかないところではそうなっているのかもしれないし、実際にそうなっているとしたら、誰もそんなことに気づいていない限りで、誰にとってもそんなことはどうでもいいことになってしまうのかもしれないが、メディアの側でもそんな意図や思惑があろうとなかろうと、実際に意図的に情報操作や洗脳などを行なっているとしても、そんなことをやった結果が現状なのだから、そんな現状を深刻な事態だとは思えないなら、それもその程度のことでしかなく、それでも相変わらずユーチューブなどから偏向した情報がもたらされて、それを偏向していると感じられる人は、それほど感覚が狂わされているわけでもないのかもしれないし、またそれを真に受けてしまう人も、それを情報操作や洗脳だとは思えないのだろうから、その人の意識が及ぶ範囲内では実際にそうなっているのかもしれないし、それはそういうこととして、その人たちにとっては普通の状況なのだから、そんなことも含めて現状の世の中が成り立っているのだろうし、特にそれに関して何を問題視する必要もないのかもしれず、そうした成り行きも踏まえて、自らが世の中の情勢をどう捉えるかとなってしまうわけだが、別にその必要がなければ、どう捉える必要もないわけだが、それに関して最低でも言えることは、メディアが伝える情報を真に受けるとしても、それに依存して世界をどう捉えるにしても、そうした世界観の中で自身の生きている現状が、取るに足らない些細な境遇であれば、まずはそんな自らの境遇と、メディアから影響を受けて形成された世界観との差異を感じ取った方がいいのかもしれず、そこで違和感を覚えるなら、世界観の方がおかしいのだろうし、違和感を覚えないなら、それがおおむね妥当な認識だと思えばいいだろうし、たとえその認識が誤っていようと、その人に認識を誤らせるだけの何らかの作用が及ぼされているということだろうし、それがどこから及ぼされているかといえば、真に受けているメディアから及ぼされているのかもしれないし、あるいは周囲の環境から及ぼされているのかもしれないし、そのどちらでもあってもどちらでもなくても、たぶんそのまま誤った認識を抱いていれば、遠からずそういった認識を打ち砕くような事態に直面するかもしれないし、あるいはそのまま何にも直面せずに一生を終わってしまうのかもしれない。

 かつてはヒトラーやスターリンをはじめとして多くの煽動家たちが、世界がユダヤ国際金融資本に支配されようとしていて、このままでは大変なことになると危機感を煽っていた時期もあったのかもしれないが、当時も今も、メディアから伝わってくる情報はそれだけではなく、しかもそれ以外の情報量の方が圧倒的に多いわけだから、その中からそれだけを取り出して、それだけを強調することが、何か説得力を伴うかといえば、どうもそうは思わない人が世の中の圧倒的な多数を占めている限りで、そういった陰謀論の類いは、冗談でそんなことを述べている場合も含めても、そんなに世の中に作用や影響を及ぼしているとは思えないのだろうし、逆にそういう陰謀論が根も葉もないデマだと主張しつつも、別の陰謀論を宣伝してくる人たちもいるわけで、それが日本では財務省陰謀論や外務省陰謀論や経産省陰謀論や官邸陰謀論や日本会議陰謀論や在日米軍陰謀論などになるわけだろうし、そうやって影の支配者を仕立て上げて、その支配を裏付ける状況証拠を次々と示しながら、何とか自説に説得力を持たせようとするわけだが、そこからこのままでは大変なことになる、という危機感の煽り立てへと向かうと、その危機がいつやってくるのか、あるいはすでにやってきているのか、やってきているとしても、その危機がどの程度の深刻度を伴うかについては、危機を煽っている側にとっては、それを強調しているのだから、誰もが真に受けて欲しい程度の深刻な事態に陥るはずなのかもしれないが、例えば最近の例ではリーマンショックという金融危機があったはずだが、あれが本当に深刻な危機であったかというと、すでにそこからだいぶ時間が経っていて、当時も今も相変わらずの状態が保たれていることは確かだろうし、それは伝説の世界大恐慌にも言えるはずのことでもあり、またそれがフランス革命だろうと第一次世界大戦だろうと第二次世界大戦だろうと、それらが深刻な危機であったことは確かかもしれないが、そういった危機が全て過ぎ去った今でも、相変わらずの現状があるわけで、それが相変わらずではなく、それなりの紆余曲折や大変な困難を乗り切ってきた末の現状でもあるわけだが、そうなるとこれから何らかの危機がやってくるとしても、それをいくらその手の煽動家や予言者たちに事前に指摘されようと、そんな指摘自体がどうでもいいような取るに足らない余計なお世話でしかなく、結局はこれまでもそうなってきたように、なるようになるしかないだろうし、しかも現にそんな指摘を受け取っている人たちが、一般の取るに足らない境遇の小市民たちでしかないわけだから、それらの立場も境遇もそれぞれに異なって、容易には連帯することすらできない小市民たちに何ができるかといえば、そうした煽動家や預言者たちの書籍の類いを買って、それらの人たちを富ませることしかできないわけで、あるいは世論を喚起して煽動政治家を議会の議員や政府の代表者に押し上げれば、何がどうなるかと言えば、それに関してはヒトラーやスターリンの事例が参考になるかもしれないが、そんな大惨事を招いたような大物でなくても、現状でもどこかの国の大統領や首相にそうした煽動政治家の類いがいるかもしれないが、それも現状そのものでしかなく、現状が危機的な状況だというなら、他ならぬ危機を煽っている煽動政治家が危機を招いていることにもなって、そうなってしまうと現状というのは、滑稽な自家撞着そのものになってしまうわけだが、まずはそういった事態の中で考えなければならないのは、多くの小市民たちが何でもないような立場や境遇の中で暮らしている現状があるなら、果たしてそれが危機なのかと自問してみなければならないだろうが、別に自問する必要さえ感じなければ、どう考えても現状は危機でも何でもないということになってしまうわけだが、今はそうだとしても、これから本当の危機がやってくるとしても、そういう危機感の煽り立てがもうだいぶ前から行われている事態となっていれば、もうすでに危機かやってきていると考えるしかないだろうし、その危機が現状そのものだとすれば、その危機とは、多くの小市民たちが何でもないような立場や境遇の中で暮らしていける程度の危機だと思うしかないだろうし、そうだとすると現状でも多くの人たちが危機を乗り越えている最中だとも言えるだろうし、実際に取り立ててどうということはない危機を乗り越えている最中であれば、やはりそれは何でもないような危機でしかあり得ないわけだが、それを危機とみなすかみなさないかは、煽動家や預言者は危機とみなしているはずだが、一般の小市民にはその自覚がないのかもしれないし、そういうところでそれを真に受ける人と、そうでもない人との間で、差異が生じていることは確かだろうし、そうでもない人が多ければ多いほど、その手の煽動家や預言者たちの書籍が売れない事態となるかもしれないが、実際にそれらの人たちが存在しているのだから、それらの人たちの商売が成り立つ程度には、その手の主張を真に受ける人が世の中にいるということだろうし、だからこそ、その手の煽動家や預言者たちが実際に存在しているし、また煽動政治家を支持する民衆も少なからずいるから、そうした政治家が議会の議員になったり、政府の代表者になる余地が生じていて、しかもそうした人たちが実際に存在していて商売が成り立っている現状に、危機感を抱いている人がどれほどいるかとなると、そうした人たちの存在や商売が成り立たないほどにはいないということであり、それだけ現状が危機的な状況なのかといえば、そうでもないと思っている人たちの方が多いから、それらの煽動家や予言者や煽動政治家たちが存在できる余地が、世の中に生じていると言えるのではないか。


1月11日「紋切り型の評価」

 何か現状に関して状況的な面で、判断が誤っているとみなせることには、狭い範囲では考えていることや述べていることに妥当性があるとしても、その狭い範囲というのが、その範囲を定める側の恣意性に依存していて、都合の悪い面を思考や言述の範囲に含めていない可能性があるから、そうみなすしかないわけだが、そうやって都合のいいところだけに範囲を区切った偽りの妥当性を伴った判断は、他からの指摘によって、そうした判断にとって都合の悪い面が出てくると、その妥当性が揺らいでしまうわけだが、そういう判断を下す理由というのが、やはり何とか自らの判断の正しさを主張するために、自説に都合の良い範囲だけを取り出して、その中で成り立つようなもっともらしいことを述べたがってしまうからかもしれないが、そうやって自分にとって都合のいいことを述べてしまうこと自体が、その人の思考の限界を物語っているわけだが、たぶんそういった自らの正当化に関連する自己主張となる面を意識して抑え込めれば、自分の主張にとって都合の悪いことにまで思考したり言及することができそうだが、そこで功利的な損得勘定が過剰に働いてしまうと、やはり自分を利するように思われること以外は、あえて述べようとはしないだろうし、そういう計算が働いてしまう人は、自身の述べている論理が破綻をきたすようなことにまでは言及できないわけだが、それを自覚して述べないのと自覚もできずに述べないのとは違うだろうし、少なくとも自らの論理が破綻する面があることを自覚できれば、それに関しては戦略的な判断から述べないにしても、それをわかっているだけに、そういう面では慎重に言葉を選んで対応するだけの余裕があるのだろうが、一方でそれを自覚もできずに述べられないようなら、単に思慮が足りないとしか言いようがなく、そういう人は世間的な紋切り型の思考や言動の範囲内で活動することしかできないだろうし、それを超えるような、例えば集団を束ねるような指導者的な役割を全うするには不向きな人として見られるのかもしれないが、中にはそんなことなど自覚もせずに、自らの限界を超えたこと述べてしまったり、自らの狭い思考から逸脱するような行為ができる人もいるわけで、そういう人にはカリスマ的な魅力が生じて、自らの限界を自覚できる人を補佐役に抱えることで、カリスマ的な指導者として、民衆の人気を得るかもしれないが、少なくとも何らかの形でそこに忍び寄ってくる、世間並みの紋切り型的な態度や思考や言動への誘惑に逆らえなければ、あるいは誘惑に身をまかせながらも他の夢を見るようなことも含まれるわけだが、自身の功利的な限界を越えて語ることも行動することもできないのかもしれず、そうした先入観や固定観念から逸脱する成り行きというのが、語る対象を肯定せざるを得ない成り行きだろうし、肯定というと何か褒めるような意味に取られるかもしれないが、褒めるというよりは、その存在と、それが人や団体なら、やっていることを認めることにつながるだろうし、そういう意味で単に否定するのではなく、いったんは肯定してみることが重要に思えるわけで、その辺の感覚が微妙なところなのだが、たぶんその対象がありふれた物事であっても構わないのだろうし、一見何でもない物事であっても、その存在やそれに伴って生じる現象を否定しようがない物事があるのかもしれず、そういう物事はとにかく肯定するしかないだろうし、いくらそうした対象について、他からもっともらしい否定的な面や要素が指摘され、さもそう語るのが当然のことのように語られていようと、やはり現に存在していて行われている行為や現象そのものは肯定するしかないわけで、そうした面は理屈でも論理でもなく、またはそれを巡って怪しい勘が働いているわけでもなく、ただ肯定するしかないような物事というのがあって、そうした物事を否定すること自体が、それを否定する理屈や理由に、典型的に紋切り型的な先入観や固定観念に囚われた面があって、そういう面から作用や影響が及ぼされて、否定的に見られている物事を、世間でもありふれた物言いで否定してしまうことが、そうした紋切り型的な文句に惑わされている証拠となるのかもしれず、それが物事の肯定できる面を見逃してしまう原因にもなっていて、そういう意味で、思考や言述の対象となる物事を紋切り型的な言葉を使って否定するような行為が、そうした紋切り型の表現の枠内に、対象となる物事を押し込めるような無理が伴ってくるわけで、それが紋切り型的な表現を無自覚に使う人の都合であり、そういった表現を使って対象となる物事を貶めないと、その人の理屈や論理に関して妥当性が揺らいでしまい、その物事を否定的に評価した判断が誤っていることになってしまうから、それを避けるためにも、紋切り型の否定的な言葉を使って、魅力のない印象をその物事にまとわせたいわけだが、その反面、それが紋切り型の表現であるだけに、表現自体がありふれていて、そうした物事に紋切り型的な表現を伴わずに直に接した人にとっては、現実に体験する物事と、言葉で表現された間接的に見聞する物事との間で違和感を伴うわけで、たぶんそういった違和感から、紋切り型の否定的な表現を使って、語っている対象を貶める行為の欺瞞性が明らかとなってくるのかもしれないが、そういった欺瞞性を無自覚に世間的な紋切り型に浸された意識が気づくかというと、大抵は気づかないだろうが、中にはたとえ無自覚ではあっても、そんな欺瞞などは無視して、世間の手垢にまみれた表現とは違うことが言えてしまう人もいるわけで、やはりそういう人の存在やその人の言っていることややっていることは肯定して認めるしかないわけだ。

 20世紀を代表する知識人であるミシェル・フーコーは、フランス革命にも第一次世界大戦にも第二次世界大戦にも一切触れることなく、他の誰とも異なる歴史を語ることができたし、一方で20世紀を代表する独裁者であるヨシフ・スターリンにとっての、第一次世界大戦の勃発は、革命をきっかけを作った一大事件であり、その最中に起こったロシア革命のどさくさに紛れて立身出世のチャンスを掴んだわけだが、第二次世界大戦の方は、自らの全体主義的な政治活動が、束の間の小休止を迎えた時期だったし、彼はその前後で人民の大粛清を実行して、自らの権力基盤を磐石なものとしたわけだが、またスターリンと双璧をなす、同じく20世紀を代表する独裁者であるアドルフ・ヒトラーにとっての第一次世界大戦も、それにかこつけて成功のチャンスを掴む一大事件であり、大戦が勃発したことを神に感謝したそうだが、第二次世界大戦の方は、その戦争自体よりも、やはりそれにかこつけて自らの政治理念を実行するための絶好の機会と捉えたわけだし、それらの人たちにとっては、革命だの戦争だのは、それを利用したかその機会を捉えたか否かに関わらず、ただ偶然の事件でしかなかったわけだが、それらとは対照的に世間的な紋切り型に囚われた人たちは、その革命だの戦争だのの大げさな舞台仕掛けに引き込まれて、中身のない妄想を抱いてしまうわけで、そうなっている時点ですでに的外れなわけだが、世間的にはそれが的外れではあり得ないだろうし、革命や戦争といった大掛かりな舞台装置の上で演じられる悲劇や喜劇の類いに、多くの人たちが目を向けて、そこから教訓の類いを感じ取ってほしいのだろうし、またそういった悲惨な事態が起こらないようにするにはどうすればいいかを、公の場で真剣に議論しなければならないという方向へ、世の中の世論を誘い込もうとするわけで、そうした紋切り型的な成り行きが何を招いてきたかは、実際にそうなってしまった結果から考えてみれば、そうした傾向についての何やらもっともらしい正当化が成り立つわけだが、そういった物事を結果から見てしまう紋切り型的な思考だと、要するにたまたま起こってしまった革命や戦争などが、必然的に起こるかのように錯覚してしまうわけで、それがそもそもの勘違いなわけだが、そうした偶然を必然と置き換えるような思考こそが、偶然を偶然として肯定できないことの紋切り型的な症例を示しているわけで、そういう思考に囚われた人たちにとっては、そこで人や集団が争っているだけの革命や戦争こそが、自らの思考や精神の拠り所となってしまうわけで、特にそういった大事件に受動的な立場で巻き込まれた人たちにとっては、それが自らの人生を台無しにした許し難い事件であるように思われるだろうし、そういった革命や戦争を自ら主導した立場ではない人たちが、それらを積極的に主導した人たちに比べて、革命や戦争の本質をわかっているかというと、それは受動的な範囲内でしかわかっていないわけで、そういった範囲内に限られた経験しかないから、それらを積極的に主導した人たちのことにまでは思考が及ばないわけで、そこでそれらの人たちに特有な判断の誤りが伴ってくるだろうし、結局そういった人たちは、革命や戦争を否定的な紋切り型の対象と決めつけて、その悲惨さや場合によっては滑稽さを強調することしかできないだろうし、その抗いがたい肯定的な魅力については否定的にしか語ることができず、しかもそれについて語っている時点からは、もはやそんな大事件など過ぎ去った遠い昔の出来事でしかないわけだから、現状では安全な時空から、ひたすら被害者づらでそれらの紋切り型的な対象について語っていられるわけで、そういった内容に他の人たちがリアリティを感じられるかというと、紋切り型的な思考に囚われていなければ、首をかしげるしかないわけだが、語っている当人もそれを自覚しているから、また迫り来る革命や戦争の予感や兆候を感じ取ろうとして、期待に胸を膨らませている人もいるのかもしれないが、それにしても初めからそうした偶然の出来事を、因果応報を含んだ必然の出来事として否定することしかできないわけだから、それを絶好の機会と捉えたヒトラーなどと比較すれば、どちらがそうなった時点で強いかは一目瞭然なわけだが、結局そうなれば強い側が主導権を握るしかないわけで、そういう悲惨な出来事を二度と繰り返さないという教訓が生かされることはないわけで、少なくともそれが間近に迫っているだとか、このままでは戦争になるだとかの、危機感を煽るやり方は、何とかそういった脅しを利用して現状を否定したいがための後ろ向きな態度に見られてしまうだけに、現状の中で主導権を握っている人たちにとっては、馬耳東風の無視する対象にしかならず、それでも世間体を気にしなければならない機会には、それについての通り一遍の世間的な紋切り型に沿った無難な対応は心がけるだろうが、それに比べて現状で主導権を握れずに受動的な境遇を強いられている人たちにとっては、このままでは大変なことになる、という危機感を煽るような脅しの類いは、自分たちの団結の拠り所ともなるだろうし、このままでは大変なことになるから、自分たちが一刻も早く主導権を握って現状を変えなければならない、という切実かつ深刻な危機感を共有せずにはいられないわけだが、そのこのままでは必然的に大変なことになるはずだという思い込みが、果たして他の一般の市民の人たちに受け入れられるかとなると、現状で満ち足りている人たちにとっては、到底受け入れがたいことだろうし、また現状の延長上で豊かになるために積極的に努力しているにとっても、現状そのものが危機的な状況なら、現状を認めた上で努力する大前提が成り立たなくなってしまうわけだから、それも受け入れがたいことになるわけだろうし、そうなると必然的に危機感を煽ることに共鳴するような人たちは、現状の中では少数派となるしかないのではないか。だからそれを多数派にしようとしてさらに頑なに危機感を煽るのだから、そうなってしまう時点で無理が生じてしまうことは理解しなければならないし、それこそが判断の誤りを招いているわけだ。


1月10日「騒ぎの煽動者」

 それを一般的にそう呼ぶかどうかは、何となくそう呼んでも構わないような気もするだけだが、現代の大衆市民社会と呼ばれる状況の中で、一般の市民が生きている現状は、よく考えてみれば、ただ普通に生活しているに過ぎないのだが、その普通という状態も人それぞれに感覚が異なるかもしれないが、そこに人が生きていく上で目的や目標を設定できるかというと、一時的ではなく恒久的に信じられるような目的や目標というのが、なかなか見当たらないのかもしれないし、実際にそんな目的や目標をはっきりと掲げている人がいたら、それはその人独自の目的や目標であって、他の人には関係のないことになりやすく、何かそういったものを大勢で共有するような成り行きにはならないのかもしれないが、人によっては特にそんなことをやる必要も感じられないかもしれないし、それ自体がたわいない幻想に過ぎないのかもしれないが、たとえそれがたわいないものであろうと、何か幻想を抱いていないと、他に何もなければ、何のために生きているのかわからなくなってしまうかもしれないが、人によってはそれがたわいない幻想であろうと、馬鹿にできない事情となるのかもしれず、他人の幻想をたわいないと馬鹿にしてみても、では馬鹿にしているその人には他に何があるかと問われたら、そこには相変わらずただの生活しかないわけで、その他に何があるかといえば、やはりその人のなりの幻想があるとしかいえないのではないか。そしてその幻想の主なものとしては、ただ漠然と豊かになりたいという願望であったりするかもしれないし、別にそれを漠然とそう思っているだけではなく、人それぞれにそれなりに豊かになるように努力しているつもりであり、努力しているつもりの当人にとっては、それはつもりではなく、実際に努力している実態があるのかも知れないが、普段は改まってあまりそういうことは考えないだろうし、ただそこで活動しているのであり、その活動に心を奪われているから、そんなところまでは深く考えるまでもないことであり、活動としてそこで何かをやっていれば、それで気が済んでしまうようにも思われるだろうし、それ以外に何を考える必要もなくなってしまうのかもしれないし、実際にやっているそれが、仕事であれ趣味であれ娯楽であれ、日常の生活の延長上に何かをやる成り行きがあるわけで、そのやっていることに手一杯となっている限りで、満ち足りた気持ちになれるのかもしれず、満ち足りていれば、それ以上考える必要はないだろうし、やっていることにかかりきりになっている限りで、それについて考える余裕もないわけだが、実際にもそれ以外には何もないことに気づけないにしても、そういうことに気づかないように意識して心がけているわけでもないにしても、自然と何かをやっていることに没頭しようとするだろうし、それをやっていれば気が紛れてしまうのかもしれないが、他の何かに真剣に向き合えるかというと、そういったことに利用できる格好の行為が、争うことであり、何らかの形で他の人や団体と争っていれば、争いの渦中で、争っている以外のことを考える必要もないだろうし、そんなわけで、誰もが争うためのきっかけを探しているのかもしれないが、もちろんをそれを直接に意識しているわけではなく、ただ世の中で何らかの活動をしていれば、必ず思い通りにいかないことが出てくるだろうし、それが他人や他の団体が邪魔をしているから思い通りにいかないと思えば、そうやって自分以外に思い通りにいかないことの責任を転嫁できるだろうし、そんなふうに思い込めれば、自分の活動の邪魔をしているらしい人や団体と争う理由ができるわけで、それが自然な成り行きとして他と争いたくなってくる原因なのかもしれないし、そういった争いの成り行きへとその身を投じるのが、自然な振る舞いのように感じられるのではないか。また誰もがそんな成り行きへと引き寄せられてしまうとすれば、当然の帰結として世の中で争いが激化するのかもしれないが、争いの程度や度合いにも千差万別があり、大抵の場合は社会の治安が保たれている限りで、争っている双方ともに致命傷を負わない程度に、力の入れようを加減した争いが主流となるのかもしれないし、面倒な事態にならない程度で争いを収めるように心がければ、それに越したことはないわけだが、それでも他人や他の団体がやっていることが気にくわないことには変わりないだろうし、そんな人や団体が存在する限りで、争いの火種が絶えることはないわけで、実際に世の中で争いが起こっている限りで、それに関連してそうした争いを利用して人や団体などの活動が行われているわけで、そうした争い自体が活動なのだろうが、そんな活動の中には政治や経済などの揉め事から、日常の些細な揉め事まで、様々な活動が行われるわけだが、そんな争いに気を取られていると、何でもない日常の実態を忘れられるから、日常に退屈しているほど、そうした騒ぎに敏感に反応しやすくなって、騒ぎに便乗して感情を高ぶらせて、気を紛らそうとするのだろうし、それが何でもない日常を乗り切るための生活術と化している面もあって、そういう人々に騒ぎのネタを提供するニュースメディアやワイドショーやゴシップ雑誌などが繁盛しているわけで、それをどこまで真に受けるかが、その人の良識や見識として問われているのかもしれないが、果たしてそうした騒ぎは真剣に検討すべき事柄なのか、あるいはそれらの中のどれかに社会に関する深刻な問題が潜んでいるのだろうか。

 それを深刻に受け止められるかどうかは、その人のそれらの騒ぎに対する姿勢や立ち位置に絡んでくることかもしれないが、その一方で何もないところで、あえて自身が騒いでそれがメディアの話題となるように画策する人や団体も現れるだろうし、また騒ぎに便乗して、世間や世論が味方する側について、味方をしている自身の自己宣伝に利用しようとする人や団体も現れるし、そういう成り行きの何が深刻に受け止めるべきなのか、理解に苦しむところかもしれないが、そういった騒ぎ自体には考えるべきことは何も含まれていないだろうし、騒ぎに至る過程で、そこに関わってきた物事が消化されて、騒ぎ自体のエネルギーへと変換されてしまい、それが騒ぎによって燃やされているわけだろうし、騒いでいること自体が炎上そのものであるわけだが、中にはそれをより大きな炎上へと焚きつける役割を担った人や団体もいるわけで、それが他の人や団体へと言いがかりをつけて、自爆テロのように騒ぎを起こしたり、騒いでいる人や団体の味方を装って、それを自己宣伝に利用したりする人や団体でもあるわけだが、そういうことをやっていること自体が、あまり中身のないことなのかもしれず、その場の状況の中で、自らを利するような決めつけを行なって、それを世間的な集団意識や世論や民意などとして定着させたいのかもしれないが、そういった印象操作が、果たして実質的な人や団体の活動に作用や影響を及ぼすのかというと、実際にそれが何らかの効果を発揮していると思いたいのかもしれないが、そうだとしてもそうした効果によって何がどうなるのかといえば、そうした画策がたわいないものでしかないことが、世の中の情勢としてはっきりしてくるだけで、要するにそうしたたわいない画策に応じた、たわいない世の中の情勢が出現するわけで、そんなたわいない情勢の中で、それに適応した人や団体がたわいないことをやっている世の中となるわけで、それが現状の大衆市民社会の実情なのかもしれないが、別にそれがたわいない以外の何を表しているわけでもないだろうし、間違ってもそれが深刻な事態であるはずがないだろうが、やはりそんなたわいない子供騙しのような事態に危機感を抱いてしまう人や団体がいるから、そういう人や団体が危機感を煽って、このままでは大変なことになると騒ぎ立てるわけだが、それも騒ぎ立ての別バージョンに過ぎないことであり、それ自体もたわいない騒ぎ立ての一種であり、まったく真に受けるようなことではないのかもしれず、そうやって騒ぎ立てる方へと民衆を導こうとすること自体が、無駄で無意味な試みとなる他ないわけだが、ではそれとは逆に、何が起こっても騒ぎ立てない方へと民衆を導けるかというと、すでに騒ぎ立てている人たちが、世の中ではほんの一部の人たちに過ぎないことが明らかとなりつつあるのかも知れないし、すでにほとんどの人たちは傍観者であるか無関心であるかのどちらかであるのかも知れず、そう意味では民衆に向かって騒ぐようにけしかけて、騒ぎを利用して民衆を恣意的な方へと煽動しようとする手法そのものが限界を迎えつつあるのかも知れないし、何か特定の物事について、民衆を一致団結させようとする手法でさえも、無効になりつつあるのかも知れないし、そういうところを考慮するなら、そうした手法に依存して成り立ってきた民主主義という制度そのものが、意味をなさないものになりつつあるのだろうが、そうなるとそうした制度に依存して自己主張や自己宣伝をやろうとしている人や団体が、危機感を募らせるのもうなずけるところだろうし、自分たちの存立基盤が失われつつあるのだから、それが深刻な事態であることを自覚せざるを得ないのだろうが、だからと言ってそれ以外の人たちにとっては、別に深刻な事態だとは言えないだろうし、そうした制度に依存しなくても生きて行ける限りで、何とも思わないだろうし、実際に制度の形骸化に直面していることに無自覚なのかもしれないが、制度というのはその必要がなくなれば形骸化するのであり、実際に形骸化すれば、次第にそれで構わないような成り行きになっていくのだろうが、そうなってしまっては困るような人や団体が、最後の断末魔の叫びのようにして、形骸化をもたらした犯人探しをして、犯人に見立てた人や団体を名指しして、非難したり批判しながら騒ぎ立てるわけで、現状がそんな段階に達しているかどうかは、人によって見解が分かれるところかもしれないが、実際に現状の世の中を否定的に捉えて、そうした否定性を象徴している対象として特定の人や団体を名指しして、それらに向かって盛んに批判を行なっているような人たちは、その批判が断末魔の叫びであるかどうかは、もうしばらく時間が経ってみないことには断じ難いことかもしれないが、ともかく現状の形骸化しつつある制度にしても、一朝一夕にできあがったものではなく、様々な歴史的な経緯や複雑に込み入った紆余曲折を経ながら、現状へと至ったわけだから、これからそれらの制度がどのような制度へと至るかは、またそれなりの歴史的な経緯や紆余曲折を経ながら変貌していくことは、おおかた予想がつくことかもしれないし、それがどんな状態へと至るかは現状ではわからないが、たとえどんな状態へと至っても、そこで人々が普通に生活している状態が保たれていれば、やはりそれは何でもないことになってしまうだろうし、要するにそれについてあえて騒ぎ立てるような深刻な状況とは言えなくなってしまうわけだろうが、そこでも気に入らないことをやっている人や団体がいる限りで、それなりに争いが起こって、それに呼応して騒ぎを煽り立てる役目の人や団体が現れるだろうし、そんな騒ぎに関心を持つ民衆もそれなりにいることになるのかもしれない。


1月9日「価値判断」

 物事の価値に関して踏まえておかなければならないことは、確かに人が所有したり使用したりする物事には、それを必要なものとして所有したり使用するだけの価値があるように思われるが、その価値が価格などで測れる価値だとして、それが金銭的な価値であれば、資産がある程度あって、自由に使える金銭の額が大きい人ほど、同じ価格でもその価値は低下するだろうし、一方で資産が少なくて、自由に使える金額が少ない人ほど、自身の使える金額との比較で、高価に思われるものには、それだけ高い価値があるように思われるかもしれないが、その人にとってそれが必要でなければ、いくら高価な価格がつけられていても、価値を感じられなくても構わないのだろうが、それでも世間的な価値観に意識が囚われていれば、世間的に見て高価だと判断される価格がつけられているものには、たとえ不要であってもそれ相応の価値があると思うだろうし、そうした価値の世間的な共有が、価値をめぐる世の中の秩序やヒエラルキーを生じさせていて、その価値の所有者や体現者を、同じ価値観を共有する人々が尊ぶ心理が形成されて、そうした思い込みの社会的な共有によって、人や集団の間にも、価値のあるなしや高いか低いかの格差が生じるのだろうが、意識がそうした価値観に囚われていれば、それが偏見だとは思えないし、実際にその人の収入や社会的な地位に応じて、価値のある人や価値のない人や、価値が高かったり低かったりする人が世の中にいるように思われるし、またその人に利用価値があるかないかでも、人の良し悪しを判断してしまうだろうし、そうした価値判断によって、人を重視したり軽視したりするわけで、実際にそうした判断が人や団体の活動の中で行われていれば、自身とって価値が低いと思われる人がどうなろうと、それほど関心を持てないが、自身を利するように思われる人に関しては、価値が高いと思われるし、それだけその人に関心を持つことになるわけだが、また自身と敵対するような立場の人にも、関心を示すだろうが、そういう人には価値があるかとなると、あるとしてもそれはマイナスの価値になるのかもしれず、敵対関係にあれば、普通は自身に利益どころか害をもたらすと考えられるから、その人の存在や活動が、自身から利益を奪うようなマイナスの価値があると認識されるかもしれないのだが、対立することによって逆に利益がもたらされるような場合には、双方にとってマイナスとマイナスが掛け合わされて、プラスの価値になる場合もあるだろうし、そういうところで対立をどう捉えるかによって、価値判断が異なってくるのかもしれないし、例えばそれを競争と捉えれば、競争によってお互いに切磋琢磨し合って、価値を高められるように思われるかもしれないし、具体的にそれがプロスポーツなどの競技であれば、それが勝利や栄誉や名声や報酬となってもたらされるだろうし、それが企業間での競争となれば、市場が拡大しているうちは、共存共栄ができる面では確かに利益がもたらされるが、市場が飽和状態となれば、淘汰が起こって、競争について行けなくなった企業から、損失が拡大して倒産するか、他の企業に吸収合併されるかして消えていくわけだろうし、またそれが経済などの国家間競争として捉えられると、互いの国が経済成長している間は、やはり共存共栄の関係が成り立つが、どちらか一方かまたは両国の経済成長が鈍化してくると、自国の経済を守るために、貿易相手国を敵視するようにもなるだろうが、果たしてそうした敵視が妥当であるかどうかは、一概には言えないところかもしれないし、他国を敵視することで利益がもたらされる面と、もたらされないどころか損失さえ被る面もあるだろうし、例えば他国を敵視することによって軍備増強が図られれば、軍需産業に利益がもたらされるだろうし、また輸入関税を上げて国内の産業を保護すれば、そうした産業に利益がもたらされるかもしれないが、それによって輸入品が値上がりして売れなくなれば、それに関連した産業では損失が出るかもしれないし、また軍備増強によって戦争への危機が高まれば、安全保障などの面でそれが損失と見られるかもしれないし、それによって何らかの保険料の類いが上がるかもしれないし、さらにそうした情勢が株や為替の相場にも影響を及ぼしてくれば、そういう分野でも利益が出たり損失を被るような面も出てくるのかもしれず、それによって利益が得られる面に関しては、利益としての価値をもたらすような認識も成り立つわけだが、それに対する見方や捉え方によっては、利益どころか損失をもたらしているように思われる面もあるだけに、そこでも人によっても立場によっても認識の違いが生じてくるのではないか。また単に利害関係だけではなく、友情とか愛情とかの経済的な利害とは異なる価値を見出そうとする場合もあるだろうし、たとえ経済的な損失を被ってでも人を助けたいと思うなら、人を助けることの価値の方が経済的な価値よりも優先される状況が、そこで生じていることにもなるだろうし、他にも経済的な利害とは異なる価値があるかもしれないが、実際にそういった価値を実感できなければわかりようがないわけだ。

 そうした価値に関する判断において何かおかしいように感じられるのは、比較する対象の中で、特定の対象を強調したり軽んじたりする恣意的な操作においてだろうし、例えば意図的に否定したい対象に関しては、肯定できる面をわざと言わなかったり、そうやって否定したい対象の否定的な面ばかりを強調するのだが、たぶんそういうことをやっている人は、そういうことを戦略的な観点からやっているのかも知れないが、それをやりすぎると、その人の意識の土台となる基礎的な価値観のバランスが狂ってくるのかも知れず、そういう人は次第に価値判断に関しての感覚がおかしくなって、それに伴って精神的にもこじれてくるのかも知れないが、その人のそういう兆候が周囲の他の人からも感じられるようになると、その人の恣意的に偏向した強調や、わざとらしい言い落としが目立つ限りで、そういった面での偽善や欺瞞がはっきりしてきて、そうなると次第にそういう信用のおけない人は、世の中の主流から遠ざけられていってしまうのかも知れないが、そんな人を主流の中で重用し続けると、主流自体の世間的な価値観も狂ってきて、そうした価値観の狂いに乗じて、以前の世の中では考えられないような浅はかで愚かな人や、見え透いたずる賢さをまとった人などが、そうした方面からの恣意的な宣伝や煽動によって、世間の脚光を浴びるような事態が出現するのかも知れないが、たぶんそういったことも含めて、現状の世間的な価値観が形成されているわけだから、世間的な価値観自体に当てにならない面があるのは確かかも知れないが、それを判断するのは一般の民衆なのだろうから、判断が誤っていればそれに応じた世の中になるだろうし、それを誤っていると判断するのが、ごく一部の良識ある知識人であっても、最終的にはそういった知識人の述べていることも含めて、一般の民衆がそれらを信用できるか否かの判断をするしかないのだろうから、どこまでいってもそういった世間的な価値観に基づいた判断の正しさなど求めようがないのかも知れないが、別に正しくなくても誤っていても、それに応じた世の中が形成されて、またそこから世間的な価値観が生じてしまうわけだから、それに関してはそういうものだと捉えておくしかないわけで、それ以上の判断をそこから求めるわけにはいかないわけだが、それ以上に何をどう判断すればいいかとなると、歴史的にどういうことが起こってきたのかを考えてみれば、自ずから妥当な判断というものが出てくるかも知れないし、たとえそれが正しさや正確さを欠いているとしても、結果から見ればどうということはないのかも知れないし、そこに世間という功罪半ばするような価値の判断基準があるように思われてしまうこと自体が、別にそれを信用しようとしまいと、都合のいい時だけ信用しておいて、都合が悪くなれば世間の主流を悪く言うような態度をもたらすのだろうし、そんなことを言っている人が多ければ多いほど、そうした人たちに偽善や欺瞞があることを承知しておけば、そういうものだと受け止めておくだけで済ませられるだろうし、何もそうした世間の価値判断に何もかもを依存させる必要もないわけで、そうした世間によって構成される世の中には、少なからず偽善や欺瞞の徒がいることを理解しておけば、時にはそうした世間の評価から外れた人たちに目を向ける余裕も生まれてくるだろうし、その中には妥当に思われることを述べている人も、おかしいことや狂ったことを述べている人もそれなりにいるだろうし、それらもある意味では世間の主流から見れば、世間の周縁部に生息する人として見られているかもしれないが、そんなことも含めて、価値とはそれに価値があることを多くの人たちが同意できるほど高まるものであり、その多くの人たちの判断が誤っていれば、それは誤った価値となるわけだが、それが誤っているか正しいかを決めるのも、多くの人たちがその判断に同意できるほど、それが正しい判断のように思われてしまうわけだから、しかもその時代の多くの人たちが同意したとしても、後の時代では同意できない人が多数派を占めれば、後の時代ではそれが誤った判断だと思われてしまうわけで、歴史的に見てそういった判断の誤りが度々繰り返されてきたわけだから、現状で妥当だと思われているような判断ほど、後の時代になってその判断が覆される可能性も高いことは、踏まえておくべきことなのかもしれないし、何かそれに関して恣意的な価値判断を宣伝しているような人に限って、その恣意性が判断する上で比較する対象のバランスを著しく欠いているように思われるのだから、あまりそういった価値判断の宣伝は信用しない方がいいのかもしれないし、特に現状で主流となっている人たちを肯定するために、非主流となっている人たちを否定的な価値を伴った存在として利用するのは、単にそれは現状で主流となっている世間的な価値観を援用しているだけだろうし、また現状で主流となっている人たちを否定して批判しながらも、さらにそれを否定して批判している非主流派の他の人たちも否定して批判するような場合には、そんな批判を行なっている自らの孤立感を絶望的に宣伝しているだけであり、そんな人は現状の世の中で主流派と非主流派とが不均衡なパワーバランスの中で均衡を保っているという不条理な感覚を認めがたいわけで、双方が双方の立場を補完し合っていることが我慢がならないわけだが、そうした相互補完関係を突き崩す戦略が欠けていて、だから絶望的に孤立するしかないのかもしれないが、たぶんそこにとどまっている限りで、そんな状態の中で安住できるのだろうし、そうした人にもその人が世間的に著名人である限りで、それなりに支持者がついてくるのだろうし、そんな人はいつまでも気が済むまで絶望的な宣伝をやっていれば、それなりにそういった活動として成り立ってしまうのが、世間的な懐の深さとなるのではないか。


1月8日「自己宣伝の材料」

 意図してずれたことを述べているのは、そこで何かを感じ取っていて、それをずらさないと物事の本質が見えてこないからかもしれないのだが、意図している限りで、それがごまかしに感じられてしまうことも承知しているし、それでも言わんとしていることは、大筋で物事の本質を突いていると自負しているのかもしれないし、そんなふうにしか物事を語れないこと自体が、語る上での不具合となってしまっているとしても、そうした不具合を受け入れた上でないと、それに関しては何もまともには語れないのかもしれないが、実際にそれがまともに感じられるかというと、到底まともだとは感じられないから、そういう意図的なずらしに関して、ごまかしを指摘せざるを得ないのかもしれないが、誰がそれを指摘しているのかといえば、たぶん表立っては誰も指摘していないのかもしれず、特にごまかしだとも思っていないのかもしれないし、そうであるならうまくごまかしていることになるのかもしれないが、具体的に何をごまかしているのかといえば、意図してずれたことを述べることによって、述べている対象を救おうとしているわけで、しかもその対象が救うに値するような対象ではなく、それどころかまずは批判されなければならない対象であるのに、それをわざと批判しないどころか、批判の対象から外して、救おうとまでしているのであり、それが倒錯的な行為であることは百も承知で、そんなことをやってしまうわけだから、それはごまかし以外の何ものでもないのだが、あえてそんなことをやらざるを得ないのは、別に批判の対象を肯定したいからではなく、ただ肯定しているわけで、肯定しようとして肯定しているわけではなく、肯定するだけのことができるかというと、たぶんその気がなくても肯定しても構わないのであり、実際に理由もないのに肯定することができるわけだ。要するにそれは屁理屈を伴わない肯定であり、ただその存在とやっていることを認めればいいわけで、また認められないから批判するのではなく、認めつつも批判するのでもなく、単にそれを肯定すればいいわけだ。それがどういうことなのかわかりにくいかもしれないが、理屈とか批判を付け加えないと何も言えないわけではないということであり、少なくともそれで何かが言えてしまうのであり、その対象を肯定することが、何かを言っていることになるわけだ。それを簡単に言うなら、ただの説明でしかないわけだが、それは人のやっていること肯定するだけで済んでしまい、逆に否定して、それをやってはいけないことだとは言わないだけであり、そしてそれがどのような行為であっても、やってしまったことを批判するのではなく、やってしまったことを認めつつ肯定するわけだが、そうやって逆説的に何か言いたいわけでもなく、ただやってしまったことについて、様々な方面から説明を試みればいいのかもしれないし、説明して何らかの結論を得るというよりは、ただそれについての説明を示せばいいのではないか。実際にはそこで何かが行われて、その行われていることを知って、それが興味深いからそれについて説明しようとするわけだが、たぶん説明するだけで構わないのだろうし、他には何も付け加える必要はないわけだろうが、なぜそこでずれたことを述べてしまうのかといえば、そこで生じている成り行きに逆らおうとするわけで、それがどんな成り行きかといえば、語る対象やそれを語っている人を取り巻く世の中の風潮によって、語らされてしまう成り行きであり、その語らされてしまう成り行きというのが、世間の同調圧力から生じているのかもしれず、それに逆らうには、そこからずれたことを述べなければならず、それをやるには語らされてしまっていることを自覚しないとできないわけで、それを自覚しないで語ってしまうと、その対象に関する反応として、誰もが安心するようなことしか語れなくなってしまうわけだ。そしてその誰もが安心するようなこととは、それを肯定して賞賛したり、否定して批判するようなことになるわけで、それに対する肯定や否定の二項対立的な物言いから抜け出られなくなってしまうわけで、なぜそれではだめなのかというと、だめなのではなく、別にそれで構わないのだが、そんなふうに語ってしまうと、それ以外のことが述べられなくなってしまい、それではその対象について、狭い範囲内のことしか語っていないことになってしまい、それ以外のことが語られていないことに気づいてしまうわけだが、別に気づかなくても構わないわけだが、実際に気づかない人はそれで済んでしまうわけで、そうであるならそれに越したことはないのかもしれないが、なぜか気づいてしまったら、やはりそれだけでは不十分に思われてしまうわけで、だからそれ以外のことを語ろうとして、実際にそれを語るには、まずはそれに対する肯定否定の二項対立からずれないと語れないだろうし、語ろうとすれば自然にずれてしまうわけで、そういうことについては自覚がなくても、自然に語ってしまえる場合もあるわけだが、語らされてしまう成り行きに巻き込まれていると、それを自覚していないと、それについての肯定否定の判断に引き込まれてしまうわけで、実際にそう語ることが当然のように思われてしまう人は、すぐにそれについての良し悪しの判断を下してしまうだろうし、またその判断の理由を求めようとしてしまうわけで、そうなるとその対象ではなく、その対象を自分がどう思っているかを語っていることになってしまい、そういう傾向がさらに高じてしまうと、その対象よりも、それについて何らかの判断や評価を下している自分について語ってしまっているわけだ。

 語る対象よりも、それについて語っている自分が優先されてしまうと、対象を尊重しなくなってしまい、それについて自分がどう判断してどう評価しているかを優先的に語ろうとしてしまい、そこでは対象ではなく自分の判断や評価を尊重したいわけで、たとえ対象を賞賛していようと、実質的には対象ではなくそれを賞賛している自分を賞賛したいことにもなって、そうなるとそれについて語っている自らを自画自賛していることにもなりかねず、対象について語っているように見えて、実は対象について語っている自分について語っていて、そんなふうに語っている自分を正当化したいわけで、結果的に対象自体が脇に追いやられてしまい、まず語りたいのは、それについて語っている自らの判断や評価の正しさを主張することになってしまうわけで、だからといって対象のことなどどうでもよくなってしまうわけではないが、まずは対象を正しく賞賛したり正しく批判したりする自分を語りたいわけで、そうなってしまうと対象のことなど二の次だと思われても仕方がないわけだが、世の中の風潮が自己宣伝や自己主張をもてはやすような成り行きになっていると、そうした風潮に巻き込まれている人は自然とそんな傾向になっていくのだろうし、そういう人は無自覚に自己宣伝や自己主張に利用できる対象を探してしまって、それを見つけてきては、自分の宣伝や主張に利用してしまうわけだが、果たしてそれが対象について語っていることになるかというと、多少は語っているはずだろうが、それよりは語っている自らを正当化したり、それを通して自らの主張を宣伝したいわけで、その主張とは、対象について自らが正しい判断や評価を下しているということであって、対象そのものを語っているというよりは、それについての自らの判断や評価の正しさを語っている割合の方が圧倒的に大きいだろうし、それが対象についての正しい語り方だと言えるかとなると、どうも疑問を抱かざるを得ないのだが、では語る対象についての自らの判断や評価の正しさを主張することが、対象についての正しい語り方ではないとすると、正しい語り方とは何かとなるわけだが、どう語っても構わないのなら、何が正しいというよりは、ただ対象について語ればいいだけのことでしかないわけだが、そこに自己宣伝や自己主張を紛れ込ませようとすると、途端に対象が脇へ追いやられて、代わりにそれについて語っている自らが前面に押し出されてくるわけで、そういうところに語っている人の偽善や欺瞞を感じ取れるなら、普通はそれが正しい行為だとは思われないわけだが、語っているうちにそうした自己主張や自己宣伝へと逸れていってしまう人には、それがわからないだろうし、そういう人に語っている対象を尊重する気がないように感じられるのも、それほど見当違いなことではないのかもしれないが、その一方で、語る対象というのは、語りによって変化するようなものでもないのかもしれず、対象はそのままでも、その語り方によって印象が変わってくるわけで、それに対する賞賛を真に受ければ、何か良い印象を受けるし、それに対する批判を真に受ければ、何か悪い印象を受けるし、それを良く言えば良い印象を伴い、悪く言えば悪い印象を伴うわけだから、その対象自体を知りたいのなら、そういった語る人が決めつけた印象を取り払った上で、それ自体を知ろうとしないと、それについて知ることができないだろうし、しかも他にも余分な情報として、それについて語る人の自己宣伝や自己主張も付け加えられているわけだから、それも取り払わないと、それ自体を知るには至らないわけだが、そうだとするとそんなふうにそれを知ることを邪魔するような語りの内容が正しいとは思えないだろうし、そういう語りはこちらが知りたいことを知らせない代わりに、あちらが知らせたいことを押し付けてくるような内容となるのかもしれず、そういう語りに押し切られてしまうと、あちらの思う壺にはまって、時として誤った知識を受け取ってしまう事態にもなりかねず、特にそういう宣伝や煽動に長けている人だと、話術や文章術によって騙す術を心得ているだろうし、そういう面ではその手の語りには十分に注意を払って接しないと、あちら側のいいように丸め込まれてしまう可能性があるわけで、それに関して注意しなければならないことは、まずは語り手が語る対象を尊重しているか否かであり、始めから一方的な決めつけによって対象を語っているような場合には、すでに対象を尊重していないどころか、攻撃している場合もあるわけで、実際に攻撃していれば、悪く言うしかないだろうし、否定的な評価を下すしかないわけだが、その一方で対象を賞賛している場合であっても、一方的な決めつけによって賞賛している場合には、その人が宣伝したい価値観に適合しているから賞賛している場合があるわけで、それに関しては一方的な決めつけによって攻撃している対象が一方にはあって、その攻撃して否定したい対象と比較して、それとは真逆の一方的に賞賛したい対象を持ってくるわけで、そうした二つの対象を並べて論じて、一方は自分が宣伝したい価値観に適合するから賞賛して、もう一方は適合しないから否定して攻撃するような成り行きになるわけだが、それらの対象自体について知りたいなら、まずは語り手が宣伝したい価値観や、それらの対象への賞賛や批判をずらして取り払った後に何が残るかを見ないと、それらの対象自体へと至れないだろうし、それが何も残らないようなら、その手の語りは語り手自身の創作であり、フィクションとみなすしかないのではないか。


1月7日「変化の可能性」

 日本では何か問題のある宗教教団として、否定的なたとえによく使われる代表格は、近年ではオウム真理教だろうが、時代状況や事情や条件が異なれば、それは創価学会になるかもしれないし、さらに時代をさかのぼれば、大本教やそこから分岐した生長の家などの宗教団体もあるだろうし、また最近の例では日本会議という組織も陰謀論的な暗躍をささやかれているし、その一方で宗教とは本来は無関係であるにも関わらず、その組織的な性格から日本共産党も、それらの宗教団体と同列に扱われることもあるだろうし、心ない人たちから長年にわたって悪質なデマや誹謗中傷の標的にされて、執拗に忌み嫌われてきたわけだが、人を集団として同じ思想や主義主張にまとめ上げるのは容易ではないとしても、果たしてその必要があるかというと、必要がなければそんなことはやらないわけだから、そうやって集団でまとまろうとする人たちにとっては、そういうことが必要だと思われているはずなのだが、それが政党の類いなら、実際に議会勢力として活動するために、集団的な組織形態が必要とされるのだろうが、そうだとしても同じ思想や主義主張でまとまる必要があるかとなると、議会の主導権を握るような大政党だと、必ずしも思想や主義主張でまとまっているわけでもないだろうし、どちらかというと打算的な損得勘定によって、多数派についていた方が、何かと好都合だから、大政党に入党するような成り行きが生まれてくるだろうし、それでも建前上は何らかの主義主張を掲げて政党としての体をなしているのだろうが、そういう主義主張は漠然としていてあいまいな傾向になりがちで、ともすればどうとでも受け取れるような内容になりやすく、集団でまとまるための方便のような役割を果たしているのではないか。それとは対照的に宗教教団の類いだと、特定の思想や主義主張を信者全員が信じていることにはなっているだろうが、それも教団に専念している人とは違う一般の信徒となると、宗教教団とは無関係な職業に就いていたりすれば、そちらではまた別の宗教とは異なる事情が生じてきてしまうから、すべてにわたって教団の支配を受けているわけではなくなるだろうし、そういうところで、宗教とは異なる活動となってくるわけだが、そうした他の活動と宗教活動が両立している限りで、教団のカルト的な傾向に歯止めがかかって、周囲から危険視される度合いも弱まるだろうし、そういう意味で宗教も、一般の社会との間でそれなりに折り合いがついていれば、世間の側でもその教団の存在を認めざるを得なくなるだろうが、その逆に教団の内部で社会から隔絶された領域が目立ってくると、それが反社会的だと問題視されて、そこから社会に向けて攻撃が行われるのではないかと疑われたりして、世間的にも危険視されてくるわけだろうが、そういう意味では共産主義思想も、現状で成り立っている資本主義経済を敵視する傾向があるから、機が熟したら暴力革命を起こすのではないかと疑われていたりして、そういう面で危険視されているわけだろうが、それとは別の方面で、職業的な必要から企業などの従業員となっているのとは違って、経済的な目的以外で何らかの集団が活動するには、他から活動の費用を徴収してこないとならないから、そういうところで社会との折り合いがつかなくなるわけだろうし、例えばそれが信者から金銭を上納させるような体制となっていると、組織自体の規模が大きくなるほど莫大な財産が生じてきて、信仰を広めるためというよりは、金儲けのために宗教を利用しているような感じになってきてしまい、それが世間的には偽善や欺瞞と映ってしまうだろうし、それは資本主義経済を敵視するような共産党にも言えることであり、そういうところで折り合いがつかなくなってきたから、中国のように資本主義経済を導入して、共産主義の内容を変更せざるを得なくなったのだろうし、そうやって現状の資本主義に対して真正面から攻撃できないような成り行きが生じているわけだが、現行の物や情報やサービスの売買という商慣習を変えられるはずがないとしても、どうもそれとは異なる経済制度を模索するのではなく、そういった商慣習が権力を伴わないような方向を模索するしかないのかもしれず、具体的には人々が特定の団体が提供する物や情報やサービスだけを利用しないような成り行きに持っていければいいのかもしれないが、その特定の団体というのが特定の企業ならわかりやすいだろうし、様々な企業がそれに絡んでいるような物や情報やサービスを利用すれば、特定の企業だけが市場を支配するようなことにはならないわけだが、それとともに特定の団体というのが特定の国の政府となると、少しわかりにくくなってくるわけで、その国の政府が世の中の様々な人や勢力の支持を得ていれば、特定の傾向に凝り固まっているわけではないことになるだろうし、さらにそれに加えて他の国の政府や他の国の住民からも支持されるような政府なら、より一層そうした傾向になってくるだろうし、そういう意味でその国の住民が政府のあり方として求めるべきなのは、自国の住民からだけではなく、他の国の住民からも支持を得られるような政府にしていく必要があるのかもしれない。

 そういうのが目下のところの理想論となってしまうわけだが、方向性としては、世界的にそういう方向へと歩み寄っていくような成り行きが、実際にもたらされているのかもしれず、そういう成り行きをもたらしているのが、世界各国のメディア報道などの傾向かもしれないのだが、その中で各国の政府がやっていることと、それに対する住民や他の国内外の各種団体などの反応が公平に報道されているようなら、そこに政府が取るべき態度としての世界標準のようなあり方が示されているのかもしれず、そういった傾向として、例えば政府が自国の住民を何らかのやり方で弾圧していれば、当然のことながら住民や住民を支援する勢力による、政府を非難するためのデモや抗議などの光景が報道されるだろうし、また政府がそういった報道をさせないように国内外のメディアをそういった現場から締め出していれば、今度は周辺国などの外国からそういった政府の行為が、批判的な傾向を伴って報道されるだろうし、さらにそうした弾圧によって外国へ逃れた亡命者などが、その国の政府の対応を非難するためのデモや抗議などをする光景も報道されるだろうし、そうやってその国の政府の強権的な姿勢が、報道によって世界的に非難されるような成り行きがもたらされるわけだが、またその国の政府が軍事的に他国を攻撃したり威嚇して、あるいは経済的な圧力などを加えて、それによって他国の住民が被害を被っているなら、そこでも住民たちの窮状や被害状況などが報道されることになるだろうし、そういった報道姿勢や論調が、世界各国の住民や政府を含んだ各種団体にそれなりの作用や影響を及ぼして、そういった傾向に感化された住民たちが支持する政治勢力が、その国の政治の主導権を握れば、政府の住民に対する強権的な傾向が弱まってくる可能性があるのかもしれないが、そういうことは自国の政府の宣伝機関のようになっているメディアにはできないことであり、それも他のメディアがそういった傾向のメディアに対して批判的な論調や姿勢をとれば、それに感化された住民が、政府の宣伝機関のようなメディアの報道は信じないようになるかもしれないし、それは政府以外の各種団体にも言えることかもしれず、そういったところから特定の傾向に凝り固まった各種団体の権威的で強権的な姿勢を弱められる可能性が出てくるのだろうが、それも政府や他のメディアも含んだ各種団体の間の力関係を考慮するなら、一方的にそういう成り行きになるとは考えづらいだろうし、実際に世界の至るところに、各国の政府をはじめとして権威的で強権的な姿勢の各種団体が存在しているわけだから、なかなか理想的な状態とはならないわけだが、しかしメディアのあり方としては、どうも各種団体の宣伝機関である面よりは、そういう傾向も含めて、他の様々な方面の動向を公平に報道するような成り行きになってきているのかもしれないし、それを促進させているのが、他ならぬネット環境であり、そこで様々な傾向のメディアが並立している中で、特定のメディアだけが特定の団体の宣伝機関のような報道をしていれば、他との兼ね合いから浮いてしまうだろうし、そうした報道が不自然な印象を持たれてしまうと、やはりそこからそうした報道に対して疑念が湧いてくるだろうし、何よりもそこで特定の問題について対立するような姿勢を保てないのかもしれず、対立するよりは分散してしまうわけで、一つの物事に焦点を絞ろうとすると、絶えず他にも様々な傾向があるということがわかってしまって、他でもそれなりに説得力を持った姿勢が可能であるから、特定の団体だけの肩を持つわけにはいかなくなってきて、ならば他の様々な傾向も含めて、並立的に報じる成り行きになってくるわけで、そういう報道からわかるのは、特定の問題についての良し悪しというよりは、世界には様々な傾向の立場や姿勢があって、その中で特定の傾向の立場や姿勢だけを肯定したり賞賛する必然性が感じられなくなってくるということだろうし、そうなると特定の団体に権威や権力が生じているとしても、それをメディアが賞賛したり宣伝したりするのは、何か世界の現状からずれているように思われるのではないか。実際にそういった賞賛や宣伝がメディアを通して大々的に行われていることは確かであり、それを真に受ける人も多いのかもしれないが、それと同時に他のこともメディアを通して伝えられていることは確かであり、むしろそうした物事の方が圧倒的に多いのが、ネット経由で伝えられる情報であり、それらのほとんどは何でもないような情報でしかないわけだが、その何でもないような情報というのが、世界の主流を構成しているらしいのであり、それと比べて権威的かつ強権的に他を圧倒するような力が、一般の人々に及ぼされているかというと、他ではそういう力が行使されている現実があるのだろうが、少なくともネット上ではそうではないだろうし、そこから伝わってくるのがどうでもいいような情報の大洪水だから、かえって現実の権威的かつ強権的な力の行使が不自然に思われてしまうわけで、日頃からそれらのどうでもいいような相対的な感覚に慣らされていると、そういったごり押し的な権力の行使に従う気になれるかというと、その気になれなくても権力は行使されるわけだが、それを真に受けられないわけで、そういった権力の行使を信じることができないと、何かそれがどうでもいいように思われてしまうのであり、そういったどうでもいいような感触が、当のごり押し的な権威主義者にも感染してしまう可能性があるのではないか。そうなると権威主義を信奉する当事者が、正当化したい権威や権力を信じられなくなってくるのかもしれないし、何よりも周囲の人々がそれを真に受けないことが、そういった人々を不安に陥れるのかもしれず、それが外部に向かって閉鎖的なカルト教団の類いなら、社会の敵として弾圧すればいいのだろうが、それ自体が外部に向かって開かれているネット空間だと対応しようがないのかもしれない。


1月6日「紋切り型の知識」

 物事について語る語り方には、何か定まった言い回しを駆使して、語りを受け取る側をわかったような気にさせる語り方があるのかも知れないが、気にさせるのではなく、それを本当に理解しているかというと、どうもそれが怪しいわけだが、その語っている内容が、世の中の実態や実情からかけ離れたことを述べているわけではないにしても、それが妙に語り手の自己正当化と連動して語られると、何か騙されているような印象を伴うわけで、確かに具体的なことを述べている割には、説得力に欠ける内容だと思われる時には、さらにそれを注意して聴くと、例えば比較の対象のところで、微妙な違和感を伴ってくるのだが、何かと何かを比較して、一方を悪くいう場合には、しばしばその悪い例として、世間的に見て極端に悪く言われるような対象を持ち出してきて、それと悪く言っている対象とを同一視するような比較をやるわけで、しかもその世間的に見て極端に悪く言われるような対象に関しての知識が、やはり世間並みの紋切り型レベルであると、それと同一視して悪く言っている対象に関する知識も、やはり世間並みの紋切り型レベルに感じられてしまい、そうであるならそんな世間並みの紋切り型レベルの内容を、わざわざありがたがって拝聴する必要を感じられないわけで、そういうところでもっともらしい内容であるのに、違和感を覚えるような中身になってしまうわけだが、たぶんそれでも世間並みの紋切り型レベルでは通用する内容なのかもしれないし、そういう内容が誰でも理解可能な内容だと思えるなら、誰もがそういう語り方を当然だと思うのかもしれないが、果たしてその類いで使われる、世間で極端に悪く言われる対象というのが、比較の対象として妥当なのかというと、紋切り型的な物言いでは確かにそんなことが言われてしまうのだが、そういう紋切り型的な物言いを真に受けるかというと、それを真に受けること自体が、浅はかなことのように思われてしまうわけで、何かそういうところで、その手の紋切り型的な物言いに関して、愚かな印象を抱いてしまうわけで、その印象には疑念を催す部分もあって、それが世間で極端に悪く言われる対象の捉え方に関するところでもあるのだが、具体的にそういった利用のされ方の対象として挙げられる格好の例が、ナチス・ドイツであり、その指導者のアドルフ・ヒトラーであるわけだが、悪く言う対象をナチスやヒトラーにたとえて批判すること自体が、その対象の中身や、当のナチスやヒトラーの中身に関して、そういったたとえを使う人が詳しく知っているかというと、大抵は世間並みの知識は持ち合わせてはいるものの、それ以上は知らないだろうし、単なるたとえとして使うだけなら、それ以上の知識を知る必要もないわけだが、その一方でナチスやヒトラーにたとえて悪くいう対象に関しても、世間並みの知識しか持ち合わせていなければ、どちらも世間並みにわかっていることであり、そんなことは誰にとっても了解事項にしかならないわけだが、ではなぜそんな誰もがわかっていることを、あえて取り上げて強調しなければならないのかとなると、それが宣伝の宣伝たる所以であり、煽動の煽動たる所以でもあるのだろうが、そうした誰もが知っていることを確認して安心したいのだろうし、そんなわかりきったことを多くの人たちの間で確認し合って、その手の紋切り型を共有して団結したいのであり、そうした団結が力になると思いたいのだろうが、それは表面的な団結でもあり、建前としての協調でもあるわけで、そういう見せかけだけの団結が力になるとは限らない場合もあるわけだ。そして世間的に極端に悪く言われるような対象には、それなりの魅力があるわけで、だから建前として極端に悪く言って、それに対してあらかじめ歯止めをかけておかないと、その魅力に引き込まれる危険性があって、実際にナチスやヒトラーが醸し出す魅力に引き込まれてしまった人が大勢いたから、そこから人為的な大惨事が起こってしまったのだろうし、それと同様にそういう対象にたとえられて悪く言われる対象というのにも、それだけ魅力があるということだろうし、ではなぜそれが悪く言われるのかといえば、その対象がそれなりに多くの人たちに支持されて、実際にそうした勢力が世の中の主導権を握っているように思われるから、そういう状況に危機感を抱いた人たちが、そういった対象をナチスやヒトラーにたとえて悪く言う現象が起こっているわけだ。しかもすでにそうなっている状態も、世間的な了解事項となってしまっているわけだから、それ以上に何がどうなるわけでもなく、そういう方面ではすでにそれに関しては既成事実として決着がついてしまっているのではないか。そしていったんそうなってしまえば、それを悪く言う人たちは、後はその対象をナチスやヒトラーにたとえながら悪く言い続けることしかできなくなって、それ以外のことが何も言えなくなってしまうと言うよりは、それを超えるインパクトを持ったことが言えなくなってしまうわけで、すでに最強で最悪のたとえとしてナチスやヒトラーを使ってしまったのだから、それよりもひどいたとえがなくなってしまって、その時点でたとえとしての資源が尽きてしまったことになるわけだ。

 要するにそういった比較の対象を利用して何を悪く言ってみても、世間並みの紋切り型レベルの知識しか持ち合わせていなければ、ただそれを繰り返して強調する以外には、何も言えなくなってしまうだろうし、言う必要もなくなってしまうのかもしれないし、またそういうやり方を繰り返せば繰り返すほど、世間的には飽きられてしまうだろうし、少なくともそういうたとえ話にインパクトが感じられるのは、最初の方だけだと思っておくのが無難なところなのではないか。そしてそれ以上にもたらされるのは、悪く言われる対象に関する肯定的な面の欠如であり、なぜ悪く言われる対象が、否定的な面しか持っていないはずなのにも関わらず、実際に多くの人々の支持を得て世の中の主導権を握っているのかが、わからなくなってしまって、わからないにも関わらず、いつまでも否定的な面ばかりを強調して悪く言い続けていると、結果的に世間を敵に回してしまうわけで、もちろんそんなことを言っている当人たちは、それがわかっているつもりでいるのかもしれないが、わかっているにしても、それは否定的な中身でしかないわけで、そんな否定的な面しかない対象が、世間の多くの人の支持を得ていることを説明するには、もはや支持している人たちが騙されているとしか言いようがないわけだが、果たして世間に向かってあなた方は騙されていると訴えかけて、それで世間から支持を得られるかというと、普通に考えれば無理なところだが、悪く言っている対象についての否定的な面しか知らないわけだから、それ以外には何も言えないだろうし、それも普通に考えれば、悪く言っている対象の良い面などあり得ないわけだが、そこに対象を悪く言うことの限界があるのだろうし、その対象を悪く言ってしまった時点で、それを改めることは難しくなっているわけで、そう言ってしまった自らの非を認めた上でないと、良く言うことはできないだろうし、もっとも悪く言うにはそれなりの確かな理由や手応えがあるわけだから、悪く言っている自らに非があるなんてあり得ないだろうし、それを改めて良く言うことなどもあり得ないわけだが、そうなってしまうのが嫌なら、はじめから悪く言わなければいいわけだが、実際に悪く言うことに納得できるし、説得力があるのに、なぜそれをしないのかとなると、その対象だけが悪いわけではなく、それを悪く言っている人たちにも悪い面があるように感じられるなら、少なくともその対象だけを悪く言うわけにはいかなくなってしまうのだが、それに関しては、同じ社会的な状況から同じような傾向の人たちが生じてきて、同じような傾向を持っているからこそ、近親憎悪のような感情が生じてくると考えれば、うまく説明できるかもしれないが、そういう説明も世間的な紋切り型レベルの説明となってしまうだろうし、たとえそうやって説明できたからといって、何がどうなるわけでもないのかもしれないが、自分たちにも悪く言う対象と同じ傾向があると捉えておけば、そんなに一方だけを悪くは言えなくなってしまうだろうし、そういうところで悪く言う程度に関して歯止めがかかれば、それほど対象の悪い点ばかりを強調するわけにもいかなくなってくるだろうし、それよりも自分たちの良い点を積極的に強調しようとすれば、それが悪く言っている対象にもあることがわかってくるかもしれないし、そうやって悪い点だけでなく、良い点も見つけようとすれば、それなりにバランスの取れた物言いに近づくのではないか。そんなふうにして言及する対象に関して、良い面や悪い面を同時に指摘できるようになれば、一方的に悪く言うことも良く言うこともなくなって、それだけ知識に偏りもなくなるだろうし、それを拝聴する側からも語っている内容に関して、違和感を持たれないようにもなるだろうし、何かそれでは、可もなく不可もないような、どっちつかずの印象となってしまうかもしれないが、内容自体は物事の良し悪しを判断する部分よりは、物事について語っている部分の割合の方が圧倒的に大きいわけで、そこでは安易に良し悪しを決めつけないことが肝心であり、むしろ一義的には良し悪しの判断がつかないことを示した方が説得力を伴うのかもしれず、物事にはそういう良し悪しの判断がつかない面があるから、しかもそういう面の方に魅力があるから、多くの人たちがそこへと引き寄せられて巻き込まれてしまうわけで、それに関して大抵の人は、良く思われる面があるから、そこへと引き寄せられると考えてしまうが、そう思われるとしても、結果的にはそうではないことの方が多いだろうし、だからナチスやヒトラーがやったような大惨事が起こってしまうのだろうし、そうした大惨事が起こったから、それが極端な最悪の事態だという認識が世の中に広まったわけで、要するにそれを悪いとは思わない大勢の人たちが、悪く言う対象を支持しているという状況があるわけだが、それを悪いとは思わない人たちに向かって、それは過去の極端に悪く言われている対象と同じだと主張して、果たして納得してもらえるかといえば、実際に現状では悪いとは思っていないわけだから、無理なのかもしれないし、その過去の極端に悪いと言われている対象にしても、結果的に悪いと判断されるような状況になってしまっただけで、もしかしたらその場の前提条件や途中経過が異なれば、今度はうまくいくのではないかとも思われるだろうし、そういう面まで考慮に入れると、最悪の結果を招いた過去の事例と現状とを、単純に比較するわけにはいかなくなってしまうだろうし、結局はそういったところから、言及する対象を一方的に悪く言うやり方が限界を迎えてしまうわけだ。


1月5日「理想の調整」

 自分自身に関して何か将来の明るい展望を思い描ければ、それはその人が将来に関して期待できる可能性を信じていることになるだろうが、それとは対照的に自身の将来に関して先行きが不透明だと、普通は不安になってくるところだろうが、何もないよりは確かな予定や計画があれば、そうしたことの実現に向けて動くだろうし、それがそこでの活動となるわけだが、個人に関することなら、そうしたことの範疇で個人的な目標や目的に向けて努力すればいいだけだろうが、世の中に関する将来への展望となると、途端にあやふやになってくるのかもしれず、それについて政治的な決まり文句として、活力のある豊かな社会を築いていく、とか言う目標を掲げて、それを実現させるにはどうしたらいいかということに関して、何か耳当たりの良いことを述べるような成り行きになるのかもしれないが、そういうこととは別に、社会のあるべき姿というのが、特に理想的な状態を思い描けない場合には、とりあえず現状を批判的に捉えるなら、至らない点を改善していくような成り行きにもなっていくだろうし、現状の中で何が至らないかといえば、それについては現状を批判している人なら、批判の対象が至らない点なのだから、すぐにでも改善点を指摘できるかもしれないが、それを改善できる可能性があるかとなると、何をもって改善したと言えるかについては、改善の程度や達成度に関して、実際に改善を手がける勢力と、それを批判する勢力とでは、そこで対立するような違いが伴ってくるだろうし、そういうところで、改善を手がける側はいつも、自分たちの活動の成果を強調するだろうし、またそれを批判する側は、そういった成果に関しては常に懐疑的であり、大抵は否定的なことを述べるだろうし、両者の間で意見や見解の相違があるのは言うまでもないことだろうが、それが何を意味するわけでもないのかもしれないし、ただ両者の間でそういった役割分担ができているわけで、それぞれにもっともらしいと思うことをやっているわけだから、それぞれにそれをやらせておけばいいような成り行きとなっていて、特にそれらのどちらを肯定してどちらを否定するまでもないことだとしても、それぞれに組する関係者たちは、自分たちが関係している面を肯定して、それと対立している面を批判することになるだろうが、そういうことをやるのがあるべき姿かといえば、そうかもしれないし、あるいはそうではないかもしれないし、その人の立場によって、意見や見解が分かれるところかもしれないが、誰もがそれに関して意見や見解を持つべきというわけでもなく、ただ意見や見解を持つ人が、それを述べるような成り行きになってしまうわけで、そういう人たちの立場を受け入れるなら、それで構わないことになってしまうのではないか。そしてそうした意見や見解が、実際に行われていることに作用や影響を及ぼすとすれば、そうした意見や見解が真摯に受け止められたことを示すのかもしれず、そういうことの積み重ねが社会を変えていくのだろうし、そういう成り行きに関係する人や団体が、社会のそういう面を変えていくのかもしれないが、それだけが社会の変化ではないし、他の面でも他の人や団体がそれなりに活動していくに従って、そうした活動に伴って、それがこれまでとは違う活動内容を少しでも含んでいれば、その分だけ社会が変わっていくのかもしれず、結局はそこで活動している人や団体の活動実態の変化が、そのまま社会の変化となるのではないか。だから世の中を変えようとするか否かとは別のところで、その人や団体の活動が以前とは変わって行けば、それが社会の変化を物語っているだろうし、その一方で、いくら社会を変えようと掛け声を張り上げていても、それが毎度おなじみの内容で、同じような掛け声を延々と張り上げている限りで、そんなことをやっている人の動作が変わっていなければ、実際にその人を含んだ身の回りでは、社会の変化が起こっていないことになるわけで、ではどうすれば社会が変わるのかとなると、例えばその人がそんなことをやらなくなれば、やらなくなった分だけ、社会が変わったことになるだろうし、そういう変化はその人にとっては認めがたい変化かもしれないが、たとえその人の思い通りにはならないにしても、その人がそれをやめることによって、その場の状況の中で何らかの変化が実感できるかもしれないし、実際にその人が何らかの社会的な圧力を受けて、活動をやめざるを得なくなれば、その人にとっては状況が悪化したと思われるかもしれないが、圧力を加えた人や勢力にとっては、自分たちの思い通りになったのだから、状況が改善したと思うだろうし、そうやってその場での立場に応じて、一方の側にとっては状況が悪い方に変化したと思われるとしても、それと対立するもう一方の側にとっては、良い方に変化したと思われるわけだから、そこに対立関係がある限りで、変化の良し悪しが真逆の判断や評価となってしまう可能性があるわけで、そういう意味でも社会のあるべき姿というのは、一義的には決められないだろうし、それに関して何かしら批判が行われているなら、批判している側とされている側とでは、そのあり方が異なっていると捉えておくしかないのではないか。

 またそれが固定した理想のあり方ではないにしても、とりあえず状況の捉え方が、その場での状況から何らかの作用や影響を受けてしまうから、その場の状況に囚われたあり方が、自然に求まってしまうわけで、またそれが自然に思われるから、その場の状況に対応しているようにも感じられるわけだが、それが狭い範囲での対応だと、その範囲から外れるところでは通用しない対応となるだろうし、またそうした狭い範囲から作用や影響を受けて導き出されたあり方というのも、その場の制約や限界に囚われたあり方となってしまうわけだが、その場に依存していて、その場から離れられない人にとっては、それが理想のあり方に思われてしまうわけで、そういう人の理想は、その場に依存しないで、その場から離れてしまった人の理想とは相容れないだろうし、そういった立場の異なる二人が何かのきっかけで遭遇すれば、当然対立しやすいだろうし、お互いの意見や価値観が合わないだろうから、両者の間で調整や妥協が難しくなるだろうが、そういうところが実際の立場の違いになるわけで、そういうことの延長上に、社会の改善に取り組む人と、それを批判する人との立場の違いがあるわけだろうし、両者の間で活動内容や範囲が異なれば、その人に及ぼされる作用や影響も異なってきて、両者がともに目指すべき社会の理想状態を思い描けば、一方には自然に思われることが、もう一方には不自然に思われるほどではないにしても、それなりに自然に感じられる程度や傾向が異なってくるだろうし、それぞれに依存している環境が異なれば、異なる環境に応じて導き出されるあり方というのも、それなりに異なってくるのかもしれず、そういった差異を両者の間で調整する必要があるかとなると、対立していれば、その対立を維持するためにも違いを際立たせるわけだから、調整などする必要がないとともに、逆に差異を強調する必要が生じてくるだろうし、場合によってはどちらのあり方がもっともらしいかをめぐって、論争するような成り行きにもなるのではないか。果たしてそういう成り行きが何をもたらすかは、その時点では何とも言えないだろうし、それ以降の成り行きに応じて、様々なケースが考えられるかもしれないが、対立するならしていても構わないのかもしれないし、論争に至っても構わないのだろうが、そうやって争っているうちに、両者ともにあるいはどちらか一方の活動内容や範囲が変わってくれば、両者あるいはどちらか一方を取り巻く社会状況が変わってくるだろうし、そうした変化が社会の変化と言えるわけだが、それとともに思い描く理想のあり方も変わってくるだろうし、そうであるなら理想状態そのものが、社会の変化とともに変化していくわけで、それは世の中の変化にかかわらず固定したものではないことになり、そこから推測するなら、現状で思い描いている社会の理想状態というのが、未来永劫変わらないとは思えないだろうし、世の中の時代状況の変化に合わせて、思い描く理想状態も変化していくなら、現状で思い描いている理想状態にこだわる必要も感じられなくなるのかもしれないが、そこでもそれに関する先入観や固定観念に思考が依存していれば、こだわってしまうだろうし、こだわるのが自然に思われる限りで、固定化した理想状態を思い描いてしまうわけで、またそうした状態を基準として、現状との差異を導き出して、それが悪い違いなら批判するだろうし、また理想状態と比べて差異が感じられなければ、そうした状態を肯定して賞賛するのかもしれず、そうした判断や評価を下す上で、固定した基準が必要となってくるわけだから、そこからも基準を固定するような成り行きが伴ってくるわけだが、それがいつまでも固定していられるかというと、そうでもないだろうし、世の中の変化に合わせて、絶えず基準を調整しなければならないだろうし、そういうところで、基準を固定しながらも調整しなければならないような、両義的な対応を迫られるわけで、そこで調整という概念を受け入れられないと、世の中の変化にうまく対応できなくなってしまうのかもしれず、固定しているように感じられる基準が動いているわけだから、それだけ微妙な感覚が必要とされるのかもしれないが、それに関しては例えば重力場で物体が運動していれば、そこには位置エネルギーと運動エネルギーの関係があるわけで、位置エネルギーが増えれば運動エネルギーは減るだろうし、運動エネルギーが減れば位置エネルギーが増えるだろうし、それを社会の状態に当てはめれば、社会が激しく変動していれば、それだけ価値基準も激しく変動するだろうし、社会が恒常的に安定していれば、それだけ価値基準の変動も少なくなるわけだろうが、そうした変動の程度を誰が調整できるわけでもなく、ただ変動の程度に合わせて、自分たちの状態を調整しようとするわけで、そうした調整に含まれるのが、思い描いた理想状態の調整なのかもしれず、それを調整せずに固定したままだと、現状に合わなくなって、実際に理想と現状の落差が著しく大きくなってくると、思い描いた理想状態に対してリアリティを感じられなくなってしまい、最悪の場合は理想を放棄するような事態にもなるだろうし、そうなると虚無的な気分となって、何をやるにも投げやりでいい加減な態度にもなるかもしれないし、また現状の中で自分を利することだけにこだわるような功利主義の虜となってしまうのかもしれないが、だからと言って現状に合わない理想に頑なにこだわっていると、教条主義的な融通の利かない人となってしまうのではないか。


1月4日「豊かさの幻想」

 それは単なる気休めでしかないのかもしれないが、精神的な豊かさは、物質的な豊かさに比例したり反比例したり、あるいはそれとは無関係かもしれないのだが、とりあえず衣食住が足りていて、なおかつ心にゆとりがあれば、それなりに豊かさを実感できるかもしれないが、そういうあやふやなことではなく、ただ単に資産としての蓄えがあれば、客観的に豊かなのかもしれず、また豊かであろうとなかろうと、そこで多くの人が普通に暮らしていけるだけの余地があれば、社会として成り立っているわけで、どういう暮らしが普通なのかといえば、世の中の大多数の人が暮らしている暮らし方が普通だとしか言いようがないが、そこに何かもっともらしい基準や価値を導入して、他と比較すること自体が、そこで暮らしている人にとっては、気休め以上のことではないのかもしれないが、とにかく普通に社会の中で暮らしていれば、誰でもそうなる可能性があるなら、物心両面で豊かになりたいと思うだろうし、そうした気持ちへの抵抗があるなら、ほどほどのところで我慢して、必要以上には求めない質素な暮らしを心がけたり、それを実践したりする人も中には出てくるだろうが、そうでなくても、豊かになるとともに傲慢な態度になっていく人が身近にいたら、それへの反省や反動から、周りに迷惑をかけない程度に暮らしていければ、それで構わないような気持ちにもなるかもしれないが、賢い人なら自らの傲慢さなどおくびにも出さないだろうから、周囲をそんな気にさせないような気配りを怠らずに、うまく立ち回って物心両面で豊かになっていくのだろうし、そうした才覚がある人は、巷で言われるような金持ちに対する否定的な紋切り型には当てはまらないように、絶えず心がけるのではないか。もちろんどんな態度がその人の傲慢さを表すのかも、普通は慇懃無礼には感じられない程度で、表面的な謙虚さと表裏一体となっているだろうし、もはや態度ではなく実践として、周囲の誰にも文句を言わせずに、富の収奪を穏便に行えれば、その態度が傲慢であろうと謙虚であろうと、そんなことは見映えさえ良ければそれで構わないわけで、またそういう態度が他から魅力的に映れば、憧れの的となるとともに、それに対する批判を封殺する効果が出るだろうし、そのためにあるのが地域貢献や慈善事業なのだろうし、そういう宣伝活動としての人助けや地域振興などに尽力しているように装えば、そういう活動に他の人々が目を奪われている隙に、自身の富の増大を図ろうとする限りで、それ以外の多くの人々が、そうした偽善者たちの罠にはまっている可能性があるわけだが、そういうことをやっている人や団体を否定的に偽善の徒だとみなすのも、ちょっと世間的には憚られることだろうし、そもそもそれは罠でさえもなく、社会的にも認められている通常の行為でもあり、それも慣習としても制度としても社会に定着していて、やって当然の行いになっているわけだから、世の中のシステムとしても制度的にも、他の産業の至らないところを補完するような役割があてがわれているわけだ。もちろん補完すると言っても、それによって現状の体制やヒエラルキーを維持するのに貢献する役割なのだが、そもそも貧乏人は他の貧乏人に対して、経済的な援助をすることができないわけだから、また世の中を貧乏人の天下にするために革命が起こってしまうわけにもいかないし、現実に貧乏人には単体ではその力がないだろうし、どうあがいてもそういった面では、貧乏人は不利な状況を強いられてしまうわけだが、別に金持ちと貧乏人が競争しているわけでもなく、どちらかといえば金持ちは他の金持ちとの間で豊かさを競い合っているわけで、貧乏人の方はそういった競争には加われないわけだから、特にそれに関して負けを意識する必要もないわけで、結局は貧乏であってもそれなりに暮らしていければいいのだろうし、実際に多くの人がそうやって普通に暮らしているわけだから、その限りで一応は社会が成り立っていて、その中で金持ちと貧乏人との間ではっきりとした格差があるように感じられるかもしれないが、それは金持ちを基準とした格差であって、実際に誰もが金持ちになれるわけではないのだから、そういった価値を基準とした格差とは無縁であっても、特に構わないだろうし、そういったところで、競わない姿勢を維持できれば、特に無駄に欲をかいて心身ともに消耗することもないだろうし、生活が成り立っている限りで余裕が感じられるなら、心の豊かさを実感できるのかもしれないが、実際に生活が成り立たなくなればそれどころではないだろうし、そうなってしまう人をできるだけ少なくするのが、地域を統治している政府の役目なのかもしれないが、今の経済制度ではある程度はそういう人が出てしまうのは致し方ないところだろうし、今の制度でなくても、かつてのどの時代であっても、生活が成り立たずに破綻してしまう人がそれなりにいたわけだろうし、そういうことを考慮に入れると、現状を維持しようとする政治勢力が社会の主導権を握っているとしても、それは当たり前のことなのだろうし、普通はそれ以外ではないのかもしれない。

 そんなふうに人を大雑把に金持ちと貧乏人とに分けて考えるのはフィクションでしかないかもしれないが、たぶんその上に豊かさと貧しさを対比するのも大雑把過ぎて、何かそういう二項対立とは異なる方向で考えないとならないのかもしれず、特に普通に暮らしていて豊かさを感じられないのなら、それは特に困ったことではなく、豊かさを感じられずに不満がある方が、その不満を満足に変えるためにやるべきことを模索するようになるだろうし、そういう模索が結果的にうまくいってもいかなくても、そうした模索をやっている間は、それなりに活動をしているわけで、そうした活動の中で充実感を味わえれば、それで構わないようなことにもなってしまうのかもしれないし、そうやって生きていること自体が、金持ちと貧乏人とか豊かさと貧しさとかいう、フィクションとしての二項対立とは異なる方面に向かっていて、そんな現状に満足していようと不満を抱いていようと、そこで何かしら活動している中で、何かをやっている状態を保っていられると、それをやっている間は、それが充実しているか否かは問わない限りで、何らかの内容のある時を過ごしていることになるわけだから、それが通常の意味での活動と言えるのではないか。またそこで特にやりたいことをやっていなくても、それがやりたいことだとは思えないなりに、やっている実態がある限りで、やっている間はそれなりに過ごせているわけで、そういうことがやれていることが、その人の生活を成り立たせているのだろうし、もちろん生活が成り立たなくなれば死んでしまうわけだから、そこに人が生きて活動しているなら、曲がりなりにも生活が成り立っているわけだが、そういうところでひどい活動実態や生活実態を伴ってしまうのを、回避するようなことをやらなければならないのだろうし、それを誰がやるかといえば、まずは当人がやらなければならないだろうし、また当人が何らかの団体の中で活動していれば、その団体が活動実態を変えていかなければならないだろうし、そしてどうしても変えられない事情が生じているなら、制度的には政府や地方自治体などの行政が、そこへ介入するような成り行きにならなければならないわけだが、結局それらの行政や、行政に介入する政治が行わなければならないのは、住民の生活や活動が成り立たないような成り行きに介入して、それが成り立つように改善させることでしかないのかもしれず、それも必要以上に介入しないようにした方がいいのかもしれないし、それに関して不満を持たれるようなことを言うなら、政治や行政の力では住民を豊かにすることはできないのかもしれないし、またそうする必要はないのかもしれず、ただその代わりに、最低限のやらなければならないこととして、住民の生活や活動が成り立つように法律や制度面で助けなければならないのではないか。そうだとしても人気取りのための政治宣伝として、経済振興策などによって、その地域の豊かさを実現できるようなことを宣伝してしまうわけで、住民の側でもそう言う甘い宣伝文句を真に受けて、経済的な利益が得られることを期待して、そんなことを宣伝する政治勢力を支持してしまうわけだが、そんなことをやった結果として貧富の格差が著しく増大してしまったり、特定の業者だけに優先して利益がもたらされたりするわけで、そんな結果として肝心の生活や活動が成り立たない人が増えてしまったら、それこそが政治や行政の怠慢だと言えるのかもしれず、それに関しての一番の勘違いは、制度的な原則に基づいた役割分担から考えるなら、経済的な利益を得るために活動するのは、まず第一に住民や企業の側であり、政治や行政の側が積極的に経済的な利益を得るような制度にはなっていないにも関わらず、それがわかっていないのか、あるいはわかっていても実態として違ってしまっているのかは、どちらでもあるのかもしれないが、政治家や行政の官僚などが自分たちの権限や権力を利用して、優先的に経済的な利益を得ようとする本末転倒なことが行われてしまうわけで、まずはそういう面を正さないと、常に民間の業者などと結託して不正行為を行われる成り行きになってしまうわけだが、それに関しては根本的なところで、政治や行政などの活動内容を改めるしかないだろうし、民間の金儲けに手を貸したり促進させるのではなく、民間では活動が成り立たない面で税収を利用して活動を行ったり、住民の生活が成り立つように手助けするだけにとどめておけばいいわけだが、実態としては地域経済やそこに暮らす住民たちが豊かになることにまで手助けしようとしてしまうから、自分たちのやっていることにまで収益を重視したり、そういう金儲け主義によって、収益が出ない部分を切り捨てたりして、かえってそのことによって、切り捨てられた地域の住民の生活や活動が不便になったりして、結果的に貧困化しまうわけで、そういうところで税収や公債で成り立っている行政の活動と、経済活動による収益で成り立っている住民や企業の活動の違いの区別がついていないのかもしれないし、公的な事業を民間の事業と同じような感覚で拡大させたり、民間を儲けさせるために予算を増やしたりするから、借金財政になってしまうのだろうし、もうすでにそんなことを長年にわたってやってきたから、後戻りができない事態に陥ってしまっているのかもしれないが、そういう状態も何らかの機会にリセットするような成り行きになってしまったら、そこで今までのやり方を見直すような機運も高まるのかもしれないが、そんな機会が今後やってきた際には、もう一度政府などの公的な部門と、民間との制度的な役割分担に関しては、ちゃんと区別をつける必要が出てくるのかもしれない。


1月3日「信じることの不確かさ」

 何かを信じるということは、不確かなことも含めて信じることになるだろうし、未来に向かってその対象を信じ続ける可能性を示しているのかもしれないが、それが過去形となって信じていたことになると、今はもう信じていないことを暗示させて、信じていたのに裏切られたとか、当初は信じていたのに、次第に疑念が募ってきて信じられなくなってきたとか、そうやって信じることができなくなってくると、信じていたという過去形を使うことになるのかもしれないが、何かを信じようと意識すること自体が、そう思ってしまう時点で、多少は信じている対象に対して疑念が湧いてきたことを意味するのかもしれず、そうした疑念を振り払って強く信じないと、信じられないようになると、信じることに無理が生じてきたことを示すのかもしれないし、それでも無理に信じ続けると、次第に他とのバランスが崩れてきて、それが極端になると、狂信的な傾向や過信を伴ってくるだろうし、時として無理に強く信じたばかりに、身の破滅を招くような事態にもなるのかもしれないが、普通はそこまでには至らないにしても、何かを信じることを意識してしまうと、信じる以外の面でも、信じることによって、何らかのメリットがもたらされるような幻想に囚われてしまうのかもしれないし、それを信じていれば全てがうまくいくわけでもないにしても、信じているだけでも、気休め以上の何らかの効用がもたらされることを期待してしまうのかもしれないが、その一方で、時として信じられないことが起こるのを期待してしまう時もあるだろうし、信じていた通りのことが起こることよりは、信じられないことが起こることの方が、起きた出来事の程度がより際立っているようにも感じられるだろうし、一般的には想定外のことが起これば、それは信じられないことになるだろうが、それでは安心できないわけで、それよりは信じていたことが起こって安心したいだろうし、それとともに信じていた対象に感謝の念を抱くことにもなるかもしれないし、そういうことが起こる前には、そうなってほしいと祈るような気持ちにもなる時もあるのではないか。実際に何が起こるにしても、起こったことを目の当たりにすれば、仮に信じられないようなことが起きても、それを信じざるを得ないし、いったんそうなってしまえば信じるしかないわけだが、それが起きる以前の段階ではそうでもないだろうし、起こるかどうかわからないことが起こることを、頑なに信じるような成り行きになると、それは宗教的な奇跡が起こることを信じるようなことにもなるだろうし、それに関しては、神の存在を信じるかと問われれば、実際に神を見た人は信じるだろうが、見ていなくても信じるとなると、それが神でなくても宗教的な信仰へと近づくのではないか。またそれは、これから起こる出来事が、本当に起こると信じるようなことにも当てはまるだろうし、何が起こるかは、現状から想像してありがちなことが起こることに関しては、誰もが信じられるところだが、誰が考えてもあり得ないことが起こるのを信じられるかとなると、それは世間一般の常識からはかけ離れてくるのかもしれないし、そうした常識外れな事態が起こることを信じている人は、宗教的な神秘主義を信じている人に限られてくるかもしれないが、またそれとは違う方面で、例えば巨大地震や火山の巨大噴火などの大規模な天変地異が起こることは、これまでの地質的な歴史から考えるなら、あり得ないことではないだろうが、それが起こる日付までも事前に特定されるようなら、ちょっとそれは普通の一般常識に囚われている人にとっては信じられないことになるだろうし、そうしたところから、これから起こることに関しては、信じられることと信じられないこととの間で、微妙な違いがあることは確かだろうが、その一方で宇宙人とかUFOとかになると、その存在を信じるか信じないかではなく、単に興味があるかないかの方に重心が移ってきてしまい、実際にそういった類いの映像などを見せられたら、それをおもしろがって観る楽しみの方がまさってしまい、またそれはフリーメイソンなどのオカルト的な秘密結社の類いにも言えることかもしれないが、娯楽的な話題として興味深いから、それを信じるか信じないかは、とりあえずカッコに入れておいて、そういう話題を興味本位で取り上げるメディアに惹きつけられてしまい、それの延長上に宗教的な神秘主義や超能力の類いも入ってくるのだろうが、そういった真面目に考えるようなことから微妙にずれたところから、それを真に受けて妄想を膨らませてしまう人も出てくるわけで、それが現実の世界情勢やそれに関連した軍事や政治などの領域で、陰謀論的なことを主張するような成り行きにもなってくるだろうし、そういうところで、どこまで現実に近づけた認識を持っていられるかは、その人が抱いている想像や妄想の程度にもよるだろうし、そういった認識のどこまでが現実の範囲内で、どこからが虚構の領域となってくるかは、その境界をはっきりさせることは難しいだろうから、その人に判断にまかせるしかないようなところでもあるのではないか。

 そして物事を考える上で、その対象となるそれを本当に信じられるかとなると、それについて考えるなら信じるしかないのかもしれないが、それのどこまでが現実でどこからが虚構であるかとなると、その境界が定かでなければ、普通に考えても虚構の領域までも信じるしかないのかもしれず、特にそれがつじつまが合っていて確からしく思われるなら、たとえ虚構であっても信じてしまうわけで、また虚構の話の中でも、そこで語られる現実の物理や数学などの理論の類いは信じるしかないだろうし、あまりそういうところで話が虚構であるから信じられないという理屈は通用しないだろうし、そういうところでは現実であるか虚構であるかの判断と、信じるか信じられないかの判断は、別のところにあるわけだろうし、虚構の領域で現実の問題についても語れるわけだから、そこではそれを信じるか信じられないかという判断は、現実の領域でも信じられないことがあるとともに、虚構の領域でも信じられることがあるわけで、真実の中にも信じられないことはあるし、嘘の中にも信じられることがあるのだから、そのどちらに重点を置いたとしても、それなりに確からしいことが言えるのではないか。また現実の世の中で誰か特定の人の言っていることを信じられるかとなると、その人を信頼しているなら、その人が真実を語っていることに関して、それを信じることができると同時に、たとえ嘘をついていても、その人に対する信頼が揺るがない可能性もあるわけで、騙されてもその人を信頼できるかとなると、その人が騙していることに関しては、信頼していれば許すことにもなるだろうし、また逆にその人が真実を語ってしまったばかりに、裏切られたと思うこともあるだろうし、そうなるとそこで信頼関係が壊れてしまうことにもなるわけで、できれば嘘をついていてほしかったと思うこともあるわけだから、その場の状況によって、信じられる内容にも微妙にずれが生じてくるのかもしれず、そういうところで一義的な解釈は成り立たない場合があるだろうし、たとえ矛盾したことを述べていても構わないような状況もあるのかもしれず、それに関しては、その場で嘘も方便的なことを語らざるを得ないところで、単純明快で実直なことを述べてしまうと、何かその場の空気を読めていないような気まずい雰囲気となってしまうだろうし、そういうところで気を利かせて、事を穏便に収めるために、あえてわざとらしい嘘をつかざるを得ないような成り行きになってしまうと、自分が相手から信頼されることを期待して、相手にもそれとわかるような嘘をつく羽目に陥るような、ややこしい事態になってしまうだろうし、そういう状況の中で何を信じるかとなると、自分がつく嘘を相手もわかってくれていることを信じるしかないだろうし、そこで相手が、何を見え透いた嘘をついているのかと怪訝な顔をするのではなく、そんな嘘をつくのが当然であるかのような平然とした態度でいてほしいのだろうし、そういうところで双方の信頼関係が試される状況ともなるのだろうが、そこで信頼関係が壊れていると、見え透いた嘘をついた側が裏切られて、その場で恥をかかされることにもなるのだろうし、そんな状況となってくると、お互いにどこまで相手を信じられるかをめぐって、それとなく腹の探り合いとなるだろうし、またそういうところから疑心暗鬼が募ってくるのだろうし、表面的には平静を装いながらも、場合によっては、心の中で疑いの萌芽を温存しておいて、相手を裏切って陥れる機会を窺うような成り行きにもなるだろうし、そこでは相手をいかに信じられるかと同時に、自分の器量や技量を信じていないと、駆け引きに負けてしまうだろうし、またそんな駆け引きに熱中している間は、そんなことをやっている自身と相手との信頼関係は維持されていて、たとえそこで自分が相手を裏切ろうと、また相手が自分を裏切ろうと、そういった程度の水準では、お互いに双方をその程度の奴として信頼しているわけだが、何かのきっかけで、どちらかまたは双方が、そこから身を引き剥がして、そうした心理的な駆け引きを、何かせこくてくだらないことをやっているように思われてしまうと、そんな渦中に巻き込まれている自身を何か突き放して見るようになってしまうだろうし、そうなるとそんなことは眼中にはなくなってしまうわけで、そういう人間関係自体を信じられなくなってしまい、それが高じると、もはや関係が壊れようが修復しようがどうでもよくなってきて、嫌気がさして意識がそこから外れてしまうと、そうなってしまったこと自体が、それまでの自分も相手も信じられなくなってしまったことを意味するだろうし、そういった関係を止揚したり揚棄することにもつながってくるわけだが、それは何かもっと高次元で成り立つような関係を求めることになるのかもしれず、そういう関係が成り立つ境地があるように思われること自体が、もしかしたら幻想に過ぎないのかもしれないのだが、それに関しては、実際にそうした世の中の状況を達観しているように装う人も中にはいるだろうし、それが装っているのではなく、実際に自らがそうなっていると信じている人がいるとすれば、多くの人がそうした幻想を信じることの効用として、それが何か争いのない平和な社会の到来を予感させるかもしれないのだが、現状の世の中でそうした態度でいられる人を具体的に指し示すことができるかというと、今のところ該当するような人物は見当たらないのかもしれない。


1月2日「逃れられない運命」

 逃れられない運命というのは、そうなった結果から振り返ってみれば、どうやってもその運命から逃れようがなかったと思われるかもしれないが、そこに偶然が作用している限りで、もしかしたら逃れられない運命から逃れられる可能性もあったのかもしれないし、その可能性に気づかなかったから、その時の状況としては逃れられない運命であったように思われるのかもしれないが、一般的には逃れられない運命という言葉自体が、ただそうなった結果から振り返った際の印象を述べているに過ぎず、そうやって何らかの物事の顛末を結果から見ている限りで、そんな印象を述べられるだけで、場合によっては、そんな印象を述べられないような成り行きが起こる可能性がある限りで、特にそうした逃れられない運命を強調する必要もなくなってしまうだろうし、その場の成り行きから逃れられない運命を感じ取ったとしても、そういう印象を過去のそうなった事例に当てはめることに関しては、すでにそれが決定事項である限りにおいて、確からしいと納得できるにしても、これから起こるかもしれない成り行きに当てはめて、それを予想や予言の中で使うとなると、それがまだその時点では未決定である限りにおいて、どんなにそうなりそうな状況証拠ばかりを積み上げられるとしても、それをそうならざるを得ないという断言に結びつけるのは危険であり、それでもそうなるはずだと断言したいのなら、それがこれから起こることに際しては、そこに及んでくる想定外の偶然の作用については、考慮に入れていないことになるだろうし、それを考慮するなら、その時点での明確な断言が、後になって覆される可能性が常にあるわけで、だから未来に起こることに関して、断言してはいけないとは言えないが、何らかの予想や予測の中で、そうならざるを得ないと主張したいのなら、結果的にそうはならなかったことに関しては、後から訂正するしかないだろうし、それをやらないで、ただ言いっ放しのままでしらばっくれているなら、少なくともそれに気づいた人の信用を失うことは覚悟しておいた方がいいのではないか。もちろん予想や予測ばかりやっている人なら、それが当たろうと外れようと、当たったことに関しては、自らの予想や予測の確かさを強調するだろうし、当たらなかったことに関しては、うやむやにして、敢えてそのことに関しては言及を避けようとするだろうし、また特に予想も予測もしていなかったことに関して、後からやっていたと言い張って、しかもそれが当たっていたと強調したい場合もあるだろうし、またさらに事前にどうとでも受け取れるような断言を行なっておいて、それ自体がまやかしの断言でしかないのだろうが、後からどのような結果が出ようと、自らの予想や予測が当たっていたと主張するような場合もあるだろうし、そうなるとどんな結果がもたらされようと、自らの予想や予測が正しいことを主張できて、そうであるなら自己正当化以外には、何のために断言口調で予想や予測を行なっているのか、よくわからなくなってきそうだが、そういう場合の逃れられない運命とは、何かを主張するに伴って、主張している自らを正当化せずにはいられなくなることが、主張している人にとっての逃れられない運命なのかもしれないが、ではそういう運命から逃れるにはどうしたらいいかとなると、単に主張しなければいいのだろうが、主張せずにはいられない成り行きから逃れられないというのもあるだろうし、そういう成り行きの中で何かを主張していると、主張自体が何かを強調することだから、語気を強めるために勢い断言口調にならざるを得ないのかもしれないし、そこに批判が加わると、すでに起こったことを断言口調でそれが悪いことだと批判する一方で、そういう悪いことをやっているとひどい目に遭うぞ、と悪いことをやった報いとして、ひどい結果に至ることを断言口調で予言してしまうわけだが、結果的にそういう因果応報の成り行きにはならないと、予言した人にとっては不条理な事態となってしまうわけで、実際にそんな不条理な事態になっていることが受け入れがたい人にとっては、やはりそんな事態の中で、悪いことをやりながらも主導権を握っている人や勢力を批判せざるを得ないだろうし、そういう状況に陥ってしまうことが、その人にとっての逃れられない運命となるわけだが、そうなってしまう人たちに共通することは、これから起こることを断言してしまうことであり、そうやって不確かな未来を予言してしまうことが、その人を逃れられない運命に導いてしまうわけで、それがどういう運命なのかといえば、自らが言い放ってしまったことを訂正できないという運命であり、要するにそう言い放ってしまった手前、引っ込みがつかなくなって、どんな結果になろうが、ひたすら言い放ってしまったことを、繰り返し強弁し続けることしかできなくなるという運命に囚われてしまって、そこで立ち往生するしかなく、それも逃れられない運命だから、そこから先へは一歩も前進できなくなって、いったんそうなってしまうと、今までに述べてきたことをひたすら繰り返すことしかできなくなって、その一方で新しいことは何も言えなくなってしまうだろうし、もちろん今までの主義主張に反するようなことは絶対に肯定できなくなってしまうわけで、そうなってしまうのも、その人にもたらされた逃れられない運命なのかもしれない。

 そうなってしまうこと自体が自業自得なのかもしれず、自らが言い放ってしまった断言に従うしかないとしても、不確かなことは断言しないように心がければいいわけだが、なぜかいったんすでに起こってしまったことの良し悪しを決めつけてしまうと、そういう決めつけを未来へと延長しようとしてしまうわけで、その良し悪しの評価が未来永劫変わるはずがないという根拠の定かでない確信が、その人にとっての躓きの石となるのかもしれないが、なぜそんな評価の不動性を信じようとするのかは、ただ単に自らが何らかの決めつけを言い放ってしまったという状態を、変えるわけにはいかない事情が生じているわけで、それを変えてしまうとその人の立場がなくなってしまうから、変えようがないわけだが、結局それがその人にとっての逃れられない運命ならば、そうした運命を引き寄せているのはその人自身であり、ただ単に断言口調で物事の良し悪しを決めつけてしまうから、そうした決めつけを訂正できない限りで、そうなってしまうことが逃れられない運命となってしまうわけで、そうであるなら断言することをやめれば、そうした運命から逃れられて、それ自体が逃れられない運命ではなくなってしまうわけだが、果たして断言することをやめられるかというと、どう見てもやめられるような人は、初めから断言口調にはならないわけで、要するに世の中には何かを言い放っていられる立場というのがあって、いったんそういう立場になってしまうと、断言口調で何かを言い放つことが、その立場の人には求められていて、そういう人はそうしないと、その立場を全うできないような仕組みとなっていて、そういうことをやらないと、そういう立場ではいられなくなってしまうような成り行きにもなっているのかもしれず、そういう立場をその人が占めている限りは、断言口調で何かを言い放つことしかできなくなってしまうのかもしれないし、それがその人に求められていることだから、それをやめてしまうとその立場ではいられなくなって、他の誰かにその地位を奪われてしまうから、そうなるのを阻止するには、やはり断言口調で何かを言い放つことを、やめるわけにはいかないのかもしれず、そうであるなら逃れられない運命とは、その人の立場から生じていることになるのだろうが、もしかしたらそういう立場になろうとすること自体からは、逃れられるのかもしれず、その人もそういう立場になろうとしていたわけでもなかったのかもしれないし、当初はそれとは違うことをやろうとしていたのに、そこから様々な紆余曲折を経た末に、その人の意に反して、そういう立場へと追いやられてしまったのかもしれないが、そうであるならそうなってしまったこと自体に何ら必然性はなく、単なる偶然の巡り合わせからそうなってしまったと言えるのかもしれないが、なぜそうなってしまうのかといえば、何かを言い放つという行為が、言い放つ対象への配慮を欠いていて、そういうことをやれること自体が、その対象との関係の薄さを物語っているわけで、要するにその対象にとってその人は部外者であり、関係者ではないということでもあり、しかもそういう対象への事情に詳しければ、元は関係者であったかもしれないが、何らかの理由でそこから外された人だから、無責任な断言を繰り返していられるのかもしれず、そうであるならもはや言い放っている対象からは、相手にされていないということでもあり、だから平気で批判していられると捉えるなら、そうした断言の内容も信用のおけない内容でしかなくなってしまうわけだが、逆にそうだとすると、そんな立場だからこそ、不必要に語気を強めながら激しい口調で断言を繰り返さないと、もはや誰もその人の方を振り向かなくなっているという可能性もあるわけで、そうであるなら、その人にとっての逃れられない運命とは、断言口調で何かを言い放たなければならないような境遇に追いやられてしまった成り行きそのものだと言えるのかもしれないが、そこから判断するなら、何かを強い調子で批判している人ほど、他の誰からも見向きもされないことの証しである可能性があり、そうなっているからこそ、他の人たちを振り向かせるために、次第に激しい口調で批判を繰り返すようになっていくのかもしれず、それこそがその人にもたらされた逃れられない運命だと言えるのかもしれないが、逆に言えば、別に他の人たちを振り向かせる必要を感じていない人は、特に主張することもないのかもしれないし、何かを主張する以前に、何かをやっていれば、そのやっていることにかかりきりになっている限りで、他に主張することなど出てこないだろうし、他にやることがない人が、主張する以外にやることがないから主張しているのかもしれないし、そういう意味では何かを強い調子で主張するということが、それ以外にやることがないことの証しでもあり、そんな主張をしている人ほど、主張すること以外は何もやっていないのかもしれず、そんな人を信用できるかというと、その主張に共感できれば、とりあえず主張の内容については信用するかもしれないが、主張することしかやっていないその人自身を信用できるかというと、信用することによって何のメリットも感じられなければ、特に信用する気にはなれないだろうし、結局人を信用できるか否かという判断は、その人が行なっていることに他の人が関係する限りで、その関係の中で信用が成り立つわけだから、主張するだけの人とは無関係であれば、特にその人を信用する必要もないわけだ。


1月1日「出来事と人との関係」

 それを出来事と呼んでしまうと何か妙な印象を受けるかもしれないが、政府や企業などの大がかりな団体が主催して、鳴り物入りで始まるような出来事には、メディアを通じて世間の注目が集まって、それに対して多くの人々の期待や驚きや戸惑いや疑念などがつきまとってくるかもしれないが、それらとは無関係に自然発生的に起こるような出来事は、案外それが始まった当初は、ほとんど誰にも気づかれないまま、少数の人たちの間で関心を呼んでいるうちに、時として思いがけない成長を遂げる場合があるのかもしれず、そのほとんどは気づかれないままに終わってしまうのかもしれないが、稀にそうはならずに後になってそこに多くの人や団体が続々と集ってきて、大々的な催し物へと発展してしまうような出来事もあるのかもしれないが、それが現状の世の中で何を意味するわけでもないとしても、今のところは誰もそれに気づいている気配さえ感じられなければ、本当に何も起こっていないのかもしれないし、そんな起こっていることすら定かでないような出来事に、何を期待できるはずもないだろうが、果たしてそんな出来事が今も世界のどこかで起こっているとすれば、そこで何かが起こっていることは確かかもしれないが、それに関して何も知らなければ、語ることなどできはしないし、そんなあるのかないのかわからないような、他で起こっている出来事に、何を期待するはずもなく、もっと積極的な人なら、そんなことよりは自らが何かを起こすことに期待したいだろうが、それをまだ自分でも知らないというのも無責任な話だろうし、自らが知らないようなことを自身で起こせるかというと、その内容によってはできないこともないだろうし、今もこうして何も自覚せずに、どこかで誰かが何かをやっているはずだろうから、誰がそれに期待を寄せているかというと、少なくともそれは自分ではなく、では誰も期待していないかというと、そんなことはないかもしれないが、それとは無関係に自らが思いがけないことをやってしまうような成り行きに期待して、その期待が空振りに終わっても構わないような心境になれるなら、案外気軽にできるような、何でもないようなことをやってしまうのかもしれず、それが何でもないことでしかなければ、特に他から自己責任がどうこう言われることもないだろうが、それでも自分が普段からやっている、他の何でもないこととの間で均衡が保たれる程度のことであれば、そうなっている限りで、それなりに平常心を保っていられるだろうし、そうやっている限りで心に余裕が生まれて、身の回りやメディアを通じて伝わってくる他の出来事にも注意を向けられるかもしれないが、実際に自らがやっているそれが、自分にとっても周囲にとっても、何の変哲もないどうでもいいようなことであれば、それに関しては何の話題性も感じないだろうし、それは他の誰にとっても興味を惹かないようなことかもしれないが、そんな興味を惹かないような出来事によって、自分の日々の活動が支えられているとしたら、それは何かと言えば、それは誰にとっても毎日欠かさずやっていることから生じる、日常茶飯事のような出来事でしかないだろうが、それも何らかの出来事には変わりないだろうし、そんな出来事によって、何がどうなるとも思えないだろうが、実際にそれが起こっていることによって、自分に関しての日常の日々が成り立っているなら、そんな出来事が日々絶え間なく身の回りで自分に関係しながら起こっているのだろうし、またそれが何でもないように思われるから、特に興味を持たれないし期待もされず、起こっていること自体が、それだけでは退屈に思われるだろうが、そういった出来事が日々の暮らしにめりはりを与えていて、自身がそんなどうでもいいように思われる出来事に取り囲まれているから、それとは違う非日常的な出来事に驚いたり感動できるとは言えないかもしれないが、何か他の興味を惹くような出来事に遭遇して、それが退屈逃れや気休めなどの効果を発揮するには、やはりそれに遭遇する以前の退屈な日常の日々が必要不可欠なのかもしれないし、そんな日々を過ごしていること自体が、それなりに生活に余裕があることを物語っていて、そうした余裕に関しては特に肯定できるような価値を実感することもないのかもしれないが、実際にそんな退屈極まりない生活を送っていれば、そうやって可もなく不可もないような日々を過ごしていると、それらの退屈でどうでもいいような出来事によって、身動きが取れなくなってしまっている可能性があるかもしれないが、多くの人はまだそこまでたどり着けないうちに、自身の仕事や生活に忙殺されて、他に何をやる余裕もないようなぎりぎりの生き方を強いられている場合もあるだろうが、実際に仕事や生活に忙殺されていること自体が、逆に生きがいを感じさせる場合の方が普通だろうし、度を越した忙しさは過労をもたらすとしても、それ以外の時間があるとすれば、それは余暇や気晴らしの時間でしかなく、何かそういうところで暇の価値を取り違えているのかもしれないが、果たして人は自身が価値を感じられないことをやっていて楽しいのかと言えば、とりあえず身の回りの出来事が自らに関係してくる限りで、そうした出来事が起こっているのを感じ取れるだけで、何か生きている実感が湧いてくるのかもしれないし、そういう水準では、自分がやっていることに関係して起こっていることが、自らの力で起こしているように思われるなら、一応はそれで満足感を得られるのではないか。

 またそうであっても、自分に関連する出来事が自分の行く手を塞いで、障害物のようになってしまう場合もあるだろうし、そうなるとそれが自分の力で起こした出来事だとしても、自業自得気味にそれが自分のその後の活動を縛ってしまうだろうし、そうやって自分が積極的に起こしたにも関わらず、その出来事によって自分が苦しめられてしまうような成り行きによって、そうした因果応報の轍にはまり込んで、何かしら活動が制限されてしまうと、そこからなかなか外れられなくなってくるだろうし、そうやっていったん生じてしまった出来事は取り返しがつかない事態を伴ってくるかもしれないが、そうした出来事の呪縛から逃れるには、さらにそれと同等以上の出来事を起こすか、そんな出来事に巡り合うかしないと、そうした出来事から生じる拘束力を振り払えないのかもしれず、そういう面では絶えずそれ以上の新たな出来事を引き起こすために、何かを積極的にやらなければならないという強迫観念に取り憑かれてしまう場合もあるだろうし、それがその人が活動するに際しての原動力となってくるかもしれないが、一方でそこから逃れようとするのとは反対に、その出来事によって満ち足りた気分がもたらされるようなら、もうそれ以上は前進するのが億劫になってしまって、そうやっていつまでもそこから離れられなくなってしまえば、それも自らが招いた出来事に囚われていることの証しとなってしまうのだろうが、そんなふうに自分が引き起こしてしまった出来事に進んで囚われるような成り行きは、その人をその場に引き止めるような効果をもたらして、その人が他へ移動するのを阻止して、その出来事に関わり続けるように仕向けて、そこから特有のこだわりをその人が身につける成り行きをもたらすのかもしれないし、そうなると結局その人が起こしてしまった出来事は、その人自身の特性や特徴を形成するような働きがあるのかもしれず、場合によってはその人の人格すらも、その人が引き起こした出来事に影響されて形成されるようなら、その人自身とその人が引き起こした出来事とが、分離不可能な関係を伴っているのかもしれない。そういう意味で人が招いた出来事としての事件は、たとえその人の性格や素行や活動形態などが原因で、何らかの事件を引き起こしてしまったとしても、引き起こされた事件からも特有な作用や影響がその人に及んで、そのことが原因で以前とは別人のようになってしまう場合もあるだろうし、そんなふうにして人は自らが引き起こしたり、また他によって引き起こされた事件や事故に巻き込まれたりしながらも、その人自身が変わってしまう可能性があるだろうし、そういう意味で出来事としての事件や事故は、それを引き起こしたり巻き込まれたりした人の運命を変える力があるとともに、その人自身の人格形成や素行や思考形態や活動形態にまで、無視できない重大な作用や影響を及ぼして、そういう出来事に囚われた人自身を作り上げるような作用があるのかもしれず、そんなふうに人が出来事を引き起こすことは、引き起こされた出来事によっても人が変えられてしまう可能性があるわけだから、人と出来事のどちらからも相互作用が及ぼされているだろうし、もちろんそうした作用が同じ質や強度を伴っているわけではなく、人から出来事へと及ぼされる作用と、出来事から人へと及ぼされる作用との間で、釣り合いが取れていなければ、そこで一方的な関係が生じるだろうし、特に大規模な出来事が多くの人たちに強烈な作用を及ぼすような場合には、それに囚われた人たちにはその出来事によって、甚だしい傾向や特徴を得ることにもなるだろうし、例えばそれが戦争や自然災害だと、それに巻き込まれた人たちの心身に特有の傷や障害を引き起こすかもしれないし、またそれが学校などの施設で行われる教育という出来事だと、それを体験した人たちに一定の知識や集団的な規律などをもたらすかもしれないし、そうした一方的な関係は、そういった関係を強いられる人からは、及ぼしてくる作用を押しとどめることができない場合が多いわけで、大抵の場合はなすすべもなく作用や影響を及ぼされてしまうから、受動的な立場を強いられて、その結果多大なストレスにさらされることにもなるだろうし、実際にそういう作用にさらされた人にとっては、それらが深刻な出来事のように感じられるので、それがその人にとって重大な契機や転機をもたらしたようにも感じられて、その後のその人の活動の中で、そうした重大な出来事に依存する部分が、それだけ大きな割合を占めるようになる場合もあるだろうし、それに関して例えば戦争体験などをひたすら語らずにはいられないような人にとっては、戦争に巻き込まれたほんの数年の期間が、その人の人生のすべてであるかのように感じられるだろうし、また何らかの過去の栄光に引きずられてしまう人なら、それ以降の人生の中では、何かというとその時の自慢話ばかりして、周囲の人たちから煙たがられてしまうかもしれないし、そしてそうした出来事が一つや二つではなく、程度も傾向もそれぞれに異なった無数の出来事から成っているから、そうした体験がその人自身の個性となって、外部に向かって顕在化してくるのだろうし、それまでに体験してきた出来事が人それぞれで違うから、それらの出来事から様々な作用や影響を受けて、それぞれに異なった人が形成されるような成り行きになっているのかもしれない。


2018年

12月31日「予言者の時代」

 この世界ではそこで行われていることの何もかもが終わるわけではなくても、何かの終わりを予言せずにはいられない成り行きというのもあるだろうが、実際に何らかの出来事や現象などが終わりを迎えることはあるだろうし、その終わりを予言したがっている人も、世の中にはいくらでもいるのかもしれないが、もしかしたら終わりを予言することよりも、終わってからその終わりを懐かしむ人も、それなりにいるのかもしれず、予言するよりは懐かしむことの方が、それがすでに確実に終わっているだけに、安心して懐かしむことができて、それだけ容易なことかもしれないし、そうやって終わった何かへの追憶に浸るのも、まんざら悪くないような気分になれるなら、終わりを予言するよりは、すでに終わったことを懐かしむことの方が、気楽かつ安全な立場で、その終わった出来事について肯定的に語れそうだが、その一方で、いつまで経っても終わらないようなことも、世の中にはいくらでもありそうで、そのいつまで経っても終わりそうにないことの終わりを予言するのは、何か不可能に挑戦するような困難さを伴うかもしれないが、意外とそういう困難に挑戦する受難者のような予言者気取りの人も、世の中には大勢いるのかもしれず、そういう人たちはいつまで経っても終わらない状況の中で、自らの予言が間違っているかもしれないという不安に襲われて、次第に焦燥感を深めながらも、どんな物事もいつかは終わるはずで、いつかは終わるのだから自らの予言が間違っているはずがないと確信しつつも、毎日のようにくだんの何かが終わることを祈りながら、実際に今も必死になって何かの終わりを予言し続けている人もいるのかもしれず、それに関していつその予言が当たるかを予言するのは困難かもしれないが、その一方で何かがあった後から、それは自らがすでに予言していたことだと主張するのは簡単であり、例えば大方の予想に反して、どこかの国の大統領選挙で、当選はあり得ないような候補者が当選した後から、自分はその候補者が当選すると思っていた、事前にそれを予想していた、と予想が的中したことを自慢したがる愚かな人たちが大勢現れたことからも、何かが起こった後から、それが起こることを予言したと主張するのは安易かつ簡単なことなのだろうが、さらに調子に乗ってそうなったことが起こった原因や理由を、すぐに特定の何かに結びつけて語ろうとしてしまう人も、また世の中には大勢いるだろうし、さらにそんなふうに語ってしまう人の述べていることを信用して、それで何かをわかった気になってしまう人も世の中には大勢いるだろうし、そうやって何でもかんでもわかった気になって、誰もが考えることをやめてしまうから、その手の浅はかな宣伝や煽動を信じてしまう人が、大勢いるような世の中となってしまうわけだが、またいったんそうなってしまった状況を利用して、さらなる宣伝や煽動によって愚かな大衆を大量動員して、そうなった群衆を思い通りに誘導しようとする人も大勢現れるわけで、またさらにそうやって何もかもが劣悪な状況へと誘われるような成り行きに便乗して、このままでは大変なことになる、と危機感を煽り立てる人も大勢出てくるわけで、そしてこのままでは大変なことになってしまうということが、この世の終わりを予言することに結びついてくるのだろうが、どこまでもそんな負のスパイラルが続いていくとは思えないものの、それも現代的な大衆市民社会にありがちな傾向であり、実際には世の中の全てがそうなっているわけではなく、そんなふうにしてメディア上で騒いでいる人が大勢いるだけで、その状態も騒いでいる程度も人それぞれで千差万別だろうし、誰もがそんな傾向を深刻に受け止めているわけでもなく、またそれを利用して何かを行なっている人たちも、その大半はゲーム感覚の遊びの延長上でやっていることであったり、そういう行為が娯楽の類いとして、世の中に定着している面もあるだろうし、それは他のプロスポーツや大衆娯楽などの興行の観衆と一緒くたになって、フーリガン的に暴徒化するような危険もないわけではないが、さらに政治的なデモなどもそういう行為と混同されてしまう危険もあるだろうし、そういう安易で娯楽的な群集心理に囚われた人たちの存在も、そこに理性や道徳や倫理などの肯定的な心理作用を見出せないから、安易に世の中の終わりを予言するには格好の材料となるのかもしれず、そうやって否定したい出来事や現象と肯定したい世の中の終わりとを結びつけるのは、これから起こるはずの終わりの原因や理由を、人々のひどい行為や悪い行いに対して天罰が下るような、終末論的な紋切り型に求めているわけで、そういったわかりやすく馴染み深い物語的な典型に安易に飛びついてしまうのも、何でもかんでもわかったような気になってしまう人たちには受け入れやすい成り行きだろうが、そんな一見内容的には深刻そうな終末論の類いも、娯楽の一環として捉えてしまうのも、よくありがちな大衆的な態度だろうし、要するにそんな終わりの予言自体が、誰にとっても本気で受け止めるようなことではないわけだ。

 そういう意味で何かの終わりを予言することは、真面目に考える行為を終わらせることにも結びつくかもしれないのだが、それを冗談で語るなら何でも語れるわけでもないだろうし、それとは反対に現状のひどさを真に受けたりするのは怖いことかもしれないが、現状がいかにひどいかを真面目に語るのは容易だろうが、そうした語りを茶化すのも容易なことだろうし、そういう実態から判断すると、現状がひどいというよりは、現状がひどいと語る人の語り方がひどいのかもしれず、しかもそれを語っている人にその自覚がないところも、ひどい現状を物語っているかもしれないのだが、要するに現状がひどいところは、現状がひどいと語る人とともに、ひどくなっているということだろうし、要するに現状がひどいと語る人もひどいのであり、その一方で、現状が素晴らしいと語る人も、ひどい現状から目を背けているのかもしれないが、それが世の中のほんの一部で起こっているに過ぎないことだと思いたいが、そうでもない面もあるのかもしれず、そういうところで、現状の全てがひどいとは思えないにしても、別にひどいところがあってもいいじゃないかとも思えないにしても、結局はひどくてもひどくなくてもどちらでも構わないような現状の中で人は生きているのであり、それを普通のこととして捉えておけば、そういう状況の中で何が終わるわけでもないことを実感できるだろうし、確かにそこで何かが終わるにしても、それは何らかの出来事であり現象でしかなく、それは意識では捉えきれない全ての中のほんの一部を構成している物事でしかなく、そうした全体にとっては小さな終わりが、世の中に何をもたらすとしても、それによって世の中の全体が終わりへと導かれることはなさそうだし、そう感じられてしまうから、巷で流行っているらしい、このままでは大変なことになる、という終わりの予言を信用できなくなるのだろうし、だいぶ前から、このままでは大変なことになると脅しているわけだから、もうすでに大変なことになっているはずなのに、実感としてはそうでもなく、大変なこととはこの程度なのか、と実感している限りで、やはりこのままでは大変なことになるという予言は信じられないだろうが、そうなるとこのままでは大変なことになるという予言自体には慣れてしまって、別にそれを不快とは思わないだろうし、不快でないのだから、別にいくらでもその手の予言をやっていても構わないような気になるわけで、そうであるなら預言者気取りの人がいつまでもどこまでも、このままでは大変なことになると脅していてほしいとは思わないにしても、それが気にならない限りで放っておかれるような状況となるのかもしれず、実際にその手の人たちが放って置かれるような実態もあるのかもしれず、そうであるなら特にそんなことの良し悪しを語る必要もないだろうし、無視していれば済むようなことでしかないのかもしれないが、ではそれ以外にどんな予言が可能であり、それを真に受ける必要があるのかとなると、そもそも予言しなくても構わないだろうし、実際に予言する必要のない人は予言しないだろうし、その手の予言についても無関心だろうが、ではそうした予言の他に何を真に受ける必要があるのかというと、もしかしたらそれは、世の中の現状そのものを真に受ける必要があるのかもしれず、それがひどいとか素晴らしいとかいうことであるよりも、こうなっているのが当たり前となっている世の中の現状を真に受ける必要があって、そこからその当たり前となっている現状を疑う必要もあり、またそれを真に受けることを茶化すような成り行きも疑わなければならないだろうし、さらに世の中がいかにひどいかを物語ろうとする人も、また世の中がいかに素晴らしいかを物語ろうとする人も、両方ともに疑う必要もあるのかもしれず、そうやってそうすることが当たり前であるように物語ろうとする人が存在する現状を真に受けることが、何かそういう当たり前のように思われる行為を疑うことにつながっていくのかもしれないし、またそれは原因と結果を簡単に直結してわかったような気になるのが、当たり前のように思われてしまうことも、疑わなければならないのかもしれず、それが何にしても、当たり前の行為が疑わしい行為に思われてしまうことが、現状に対する思考を促すのだろうし、そういう意味で思考することは疑うことに結びついてしまうわけだが、なぜそれが当たり前に思われてしまうのかといえば、それを当たり前のように思わせる成り行きがそこで生じているのだろうが、そういう成り行きに人を巻き込むような現象が世の中で起こっているということだろうし、その現象が何かといえば、それを簡単にいうなら、同調圧力とか、周りの空気を読むように仕向ける権威的な物言いとかになるかもしれないが、そうだとしても、それに対する態度として、同調圧力に屈しないとかの、単純な反抗では持続力がなく、そういった反抗を呼びかける人がひとたび権威となれば、すぐにそれに感染して、他へ向かって自覚のない同調圧力を強いるようになるわけで、そういった主義主張の対立こそが、どちらかの陣営へと同調するような呼びかけを伴ってしまうわけだから、それに関しても、現状を真に受けるということは、そういった当たり前のように行われる対立も疑わなければならないだろうし、そういう意味で物事を疑いだすときりがないわけだが、疑うからといって疑う対象を否定するわけではなく、安易にその良し悪しを決めつけてしまうことも、それを当たり前のようにやってしまうことを疑うわけだから、疑う状態を保つのはそれだけ面倒な事態を伴うのかもしれない。


12月30日「自己への信頼」

 無意識というのは何か内容があるわけでもなく、ただ単に意識が働いていないように思われるだけかもしれないが、自分がやったことを意識していなければ、無意識のうちにやってしまったことにもなるだろうが、それが何らかの失敗を伴うと、しまったと思って悔やむだろうが、無意識のうちにうまくやれてしまったら、そんな自らの能力を過信してしまうかもしれないが、それもその場での偶然の巡り合わせが作用して、たまたまその時はうまくいってしまっただけかもしれないから、二度目はないと思っておいた方がいいのかもしれないし、また心身の鍛錬によって、意識しないでも一定の動作ができるようになる場合もあるだろうが、いくら鍛えても全てを制御できるわけでもないのだから、そういう方向での鍛錬にもそれなりの限界があることは肝に命じておいた方がいいだろうし、特に自分だけでなく他の競争相手も心身を鍛錬しているような場合には、鍛錬を怠れば競争相手に遅れを取ってしまうだろうし、そういう場合の競争が成り立っている範囲内ではそうかもしれないが、競争とは関係のないところでも、何かの時に役立つように、日頃から心身を鍛錬している人も結構いるだろうし、そんなふうに程度の差こそあれ、誰もが特に意識しなくても一定のことができるようにしたいとは思うだろうが、そういう目的を伴わないレベルでは、特に普段からそんなことを気にかけるわけでもなく、それを意識していようといまいと、自分が普通に何かをやっていることから考えるなら、意識的に身体を制御している面と、意識しなくても勝手に体が動いてしまう面の、両面があることは確かだが、意識的な面では完全には制御しきれていないことも確かであり、特に意識しないのにやっていることが、意識の制御を離れているというよりは、逆に身体の方が意識を意識させないように制御している面もあるのかもしれず、そうやって意識と身体とは相互に作用や影響を及ぼし合っていて、その時々では制御に関して一時的な上下関係が成り立つにしても、全般的にはどちらが上位でどちらが下位というわけではないのかもしれないが、歴史的に見れば意識の方が後天的に身体に付け加わった機能である可能性はあるだろうし、それに関しては人が社会の中で他人との間や集団の内や外で効果的に動作するには、無意識の動作だけではうまくいかないことから、そこで自己や他者への動作に対応するために、脳神経のネットワークの中で何かを意識するという機能が強化されてきたのかもしれないし、そういう面で、意識が意識的に身体を制御しようとしていることは確かだが、完全には制御しきれないから、そういう制御しきれていない部分を、意識の中では便宜的に無意識の動作とみなすしかないのかもしれないし、そういった動作として自動的に身体が反応している面があることも確からしいが、ひょっとすると無意識は意識しないところで思考しているのかもしれないし、それに関しては急に何かアイデアが閃いた時などは、それ以前に無意識による思考が働いている可能性もあるのかもしれない。そしてそういう面では意識が無意識を制御しているわけでもなく、逆に無意識が意識を制御しているというよりは、無意識が意識に何らかの作用や影響を及ぼしているのかもしれないが、意識の方からは無意識に意識して働きかけられないから、どう考えても意識して無意識を鍛えることはできなそうで、無意識の働きを意識して何かに利用することはできないとしても、少なくとも意識して無意識の邪魔をしないように心がければ、自然に無意識の活動が活性化されて、特に意識しなくても社会の中で自身の振る舞いが、周囲と協調するように円滑に動作するのかもしれないし、そうでなくても自然に体が動いたり、自然に何かが閃いたりするときに、それが意識にとっても肯定できるようなことならば、無意識が自らのために働いていると捉えておけばいいのかもしれず、それも確実にそうなるわけではなく、大したことでなければ気休め程度に過ぎないことだろうが、そういう意味では意識も無意識も特に協力して身体を守ろうとしているわけでもないが、ばらばらに働いているわけでもなく、互いに意識には捉えどころのない作用や影響を及ぼし合っているのかもしれず、そういうのは一概には何とも言えないところかもしれないが、そこでも何かそれなりに筋の通った動作が意識できれば、意識と無意識とが連携して動作していることにもなるのではないか。だからと言って無意識の動作の全てを肯定するわけにはいかないだろうが、いいように捉えておけば苦にはならないだろうし、意識が許容できる範囲内で無意識の動作を肯定しておけば、それなりに無意識の動作から学ぶこともできるだろうし、過去の嫌な体験を脳裏に呼び起こすような無意識の動作などにしても、それを教訓として意識に伝えたいのかもしれないし、意識としてはそんな過去の失敗から学ぶしかなく、そうやって意識と無意識とで何とか折り合いをつけながら、自己という存在を保っているのかもしれない。

 自己を保てなくなれば自殺したり狂気に囚われたり、人には様々な症状が現れるわけだが、それも社会の中でその人の周囲からその人に向かって、様々な作用や影響が及ぼされることとの相互作用によって引き起こされる現象かもしれないが、そうした作用や影響が相互作用を起こしている上で、自己が自己や他者との関係の中で成り立っているに過ぎないことだから、そういった水準では自己を確固とした存在として信じるわけにはいかないだろうが、何かをやる水準ではとにかく自分を信じないと、思い切ったことができないだろうし、その辺のめりはりや抑揚に関しても、その場の状況に応じてうまく振る舞うことができれば、結果が伴えばうまくいったように思われるだろうし、伴わなければうまく対応できなかったようにも思われるし、それもうまくいくかいかないかは、その時の運次第と述べてしまうと、身も蓋もないことになってしまうわけだが、結果から判断してしまうと、そういった結果を受け止める側の都合に合わせた判断や解釈ができてしまうだろうし、どうやってもどうなっても何とでも言えてしまう可能性があるわけで、結局信用できるのはそうなった結果だけかもしれないが、どういう結果になるのもその時の運次第と述べてしまうと、それもそう述べてしまう結果から判断することになってしまい、中には運次第ではない要因があるように思われるなら、それだけではないことにもなるだろうし、そうした判断や解釈を信用できるか否かも、その場に及ぼされる様々な作用や影響を考慮しないと、確かなことは何も言えなくなってしまうわけだが、別に確かでなくても、かもしれないと推量しておけば、暫定的にそう思って済ますこともできるわけで、それをいい加減なあて推量とみなしても、それ以上確かめる必要がなければそれで構わないような成り行きになってしまうだろうし、そういう方面でいくら思考を巡らせても、得られるのは大したことではないのかもしれないが、ではそういう内省的な自己についての思考から離れて、世の中で実際に起こっている具体的な出来事について考えるとなると、それに関係する人や団体の行為を賞賛したり批判するような成り行きにもなってしまうだろうし、何かそこでそういう行為に対する良し悪しの判断が伴ってくるわけで、そうやってそういう行為を賞賛したり批判したりすることだけにかまけていると、それに関係する人や団体がどのようにしてそういう行為に及んでしまうかについての経緯が抜けてしまうだろうし、またその経緯を説明するにも、それを批判する際には、いかにもひどいことをやっているように語ろうとしてしまうだろうし、賞賛する際には、いかにも素晴らしいことをやっているように語ろうとしてしまうだろうし、そういった語りを受け取る側が、それをひどいことだと判断する以前に、説明する側はひどいことだと思わせたいだろうし、またそれを素晴らしいことだと判断する以前に、説明する側は素晴らしいことだと思わせたいわけで、そういう方面で何が信用できるかといえば、物事の良し悪しを説明の中では判断しない説明の方が、説明という水準では信用できるだろうし、それと比較して物事の良し悪しを判断するような主張の中では、そういった主張に共感できれば、主張する側とその主張を受け取る側とで、価値観が一致していることが明らかとなるかもしれないが、そうやって共感する人が多い主張には、そうした主張が世の中で流行っている可能性があるわけで、特に何かを批判する主張が世の中で流行っていると、批判されるようなことがそういった批判に逆らって行われている状況があるわけで、そうなるとそこでは批判に逆らってまで行われないと困るような事情が生じていて、果たしてそういった事情に納得できるかといえば、批判している側には納得できないから、現に批判しているわけだろうが、批判されるようなことを行なっている側にしてみれば、批判に逆らってまでやらなければならない切実な事情があるのだろうし、しかも実際にそれが行われているのだから、それを行なう側にはそれを行なうだけの力があるし、行なう側を支持している人や団体も存在しているだろうし、行なうに際しての社会的な権限や権力も持ち合わせていることにもなるわけで、そういった面で信用できるのは、悪いことを行なっていると主張しながら批判している人たちには、現状ではそうした行ないを止められるような権限や権力を持ち合わせていないということであり、またそういった権限や権力がどこから生じるかというと、批判に逆らいながらもそれを行なっている人や団体などに生じている事情とは異なる事情を、自分たちの側に生じさせなければならないのかもしれず、それは生じさせようとして生じるようなものでもないのかもしれないし、しかもそれはそれらの人や団体を批判している事情とは異なる事情となるのかもしれないが、現状の社会的な関係とは異なる方面からそういう事情が生じてくるのかもしれないし、それが今までに行われてきたような政変や革命などに伴って、時の支配勢力に対抗して行われた際のやり方とは、異なるやり方になることに関しては、どうも信用してもいいのかもしれないが、具体的に何をどうするかについては、実際にそういう機運が高まって来ないと、やるべきことがはっきりしてこないのも確かな感触なのかもしれない。


12月29日「物事の魅力」

 人が惹きつけられてしまう物事には、人を惹きつけるような魅力が感じられるかもしれないが、その中にはそれを利用することで、思い通りのことができると思われるものもあるだろうし、そんな自らの思いを遂げられる可能性に期待して、人は何らかの特定の物事に惹きつけられてしまうのかもしれないが、確かに中にはそれを利用して期待通りに思いを遂げられる人も出てくるかもしれないが、その大半は、それなりに期待通りな面も体験できる一方で、またそれなりに不満が残る場合もあるのかもしれないし、その不満が大きければ期待外れだと思って、魅力を感じられなくなってしまうだろうし、期待も期待外れも、その感覚を現状に合わせて調整したり妥協したりしているうちに、どこまでもそう思う可能性のままにとどまってしまう場合もあるのかもしれず、確かに惹きつけられてしまう物事に魅力を感じながらも、一方でそう感じることに疑念を抱いてしまう可能性もあるだろうし、また疑念の他にも不満とか不安とか不快とか、他にも様々な否定的な感情が湧いてきて、それらが混じり合って特定の感情では言い表せないような複雑で込み入った感情に襲われることもあるのかもしれず、またそれらが逆説的に興味をそそられて、それも惹きつけられる魅力となっているとすれば、そこには驚きも伴ってくるかもしれないが、そんな物事に遭遇できれば、それに刺激されて湧いてくる様々な感情とともに、肯定的にも否定的にもそれなりの満足感を得られるだろうし、そうやって満足できればそれに越したことはないのだろうが、それだけでも充実してしまって、それがそれ以外の何に結びつかなくても、そのそれ以外の何にも結びつかないことが、そういう物事に特有な魅力と感じられるのかもしれず、それとともに湧き上がってくる感情や感覚がその物事に特有の幻想を抱かせて、それがそれに惹かれる自らの勝手な思い込みであることも忘れさせ、それに関して言葉を用いて何をどう述べてみても、しっくりこないような謎を伴ってくるのかもしれないし、そんな謎が、また魅力を感じさせるのかもしれず、何かそこに物事が存在していて、その存在に惹かれる心が、捉えどころのない感情の沸き立ちに直面するとしても、そんな胸騒ぎの理由をそれ自身に求めるわけでもなく、理由とは関係のないところで、それがただの物自体であったり、またそれに関する知識として何らかの情報を伴っているように感じられること自体が、そうした物事に心が囚われていることの証しとなるだけでなく、それが何でもないこととしか感じられないようなら、魅力がないことになってしまうだろうから、何でもないわけではなく、そこに自身にとって重大な何かがあるように思われるだろうし、実際にそこで何か得体の知れない謎を見出せれば、それが謎解きの魅力となって人の心をとらえるのだろうし、またいくら答えを探ってみても、それ以上の何も見出せなくても、その程度で満足しておくのが無難とは思わないだろうし、またそれだけではなく、それに関連して他にも心惹かれるような別の物事を見出せれば、今度はそこに複数の物事が存在していることになり、それらがそれぞれに相対的な魅力にとどまる限りで、一つの物事にのめり込むことにはならないような心の均衡をもたらすのかもしれず、そうやって他にも次々に心惹かれる物事が目の前に現れてきたら、世の中に様々な魅力を伴った様々な物事があることが実感できるだろうし、実際にそうなれば、そうした物事の配置や位置関係から、複数の物事の複合的な立体感や奥行きを感じとれるのかもしれず、またそんなふうに魅力的な物事を介して、そんな世の中を感じとっている自らも、世の中では相対的な存在でしかないことも実感できるかもしれないし、またそういう面では、様々な物事に魅力を感じとれることが、心にゆとりをもたらすだろうし、一つの物事にのめり込めないことが、独善的な思考を退けて、自分以外の存在を認めるきっかけになるのかもしれないし、もしかしたらそうやって人は様々な物事に周りを取り囲まれながら、自身もそれらの物事に含まれてしまい、そういった物事によって構成される風景の一部となってしまうのかもしれないが、そうなってしまっては主体的な意思表示ができなくなってしまうから、何か自らを周囲の風景から浮き立たせようとしているのかもしれないが、そうやって自らにまとわりついてくるしがらみを断ち切る力を持っている人は、それなりに限られてくるだろうが、しがらみを断ち切ったところで孤独になるだけで、他に何を獲得できるわけでもなく、ただ自主独立という物事への依存体質とは別の幻想に囚われるだけかもしれないが、そういう人はそれで構わないのだろうし、そうやって勝手気ままに幻想を抱いているうちに、寿命が尽きればこの世から消えてしまうだろうし、そうなってしまう前に、何か納得できる物事を自らがもたらしたいのかもしれないが、それが他の誰にとっても納得できるものとはならないかもしれないが、とりあえず幻想を抱いている当人だけでも納得できれば、それはそれでその人にとっては掛け替えのない物事となるのかもしれず、そうした自己満足が得られるような物事を、自らが存在している世界の中に残して、その痕跡を他の人々の記憶に残るように刻みつけて、自らの存在感を世の中に向かってアピールしたいのかもしれないが、それこそが浅ましくも傲慢な自己顕示欲の表れとなるのかもしれず、それは今も残っている遺跡などの壁面に刻まれている、古代の王の名前と同じようなものでしかないだろうし、そうやって歴史に名前が残ったところで、その名前とともに過去の業績が他人によって語られるだけであり、それ以外の何が残るわけでもなく、それはその人が惹きつけられている物事の魅力とは無関係な言葉から構成されるだけかもしれない。

 たぶん現代というのは、そこで起こっている様々な些事を大雑把に捉えるなら、小物政治家や群小文化人や、各種産業や行政に携わる専門家と称するロボット官僚や、それらの人物たちを大げさに取り扱うメディア関係者などに加えて、そうした取り扱いを真に受ける無数の無名な小市民たちが、お互いにお互いの足を引っ張り合いながらも、和気藹々と小春日和を満喫している世の中なのかもしれず、中にはひどい境遇に陥っている人たちも大勢いることは確かだが、そういう人たちばかりに焦点を当てて語ろうとすると、その他大勢の人たちに関係する下らない物事の成り行きを見逃してしまうわけで、実際にそれがどうでもいいような些事でしかないから、メディア的には無視されるようなことでしかないわけだろうが、しかしそれが世の中のほとんどを占めているとすると、誰もが身の回りのどうでもいいような物事の顛末を見逃していることになるのかもしれないが、実態としてはそういうわけではなく、それらに関してはあえて語らなくても構わないように思われてしまうわけで、要するに特に語る必要のない様々な物事に取り囲まれながら、ほとんどの人たちは普通に暮らしていて、そうしたあえて語るまでもない些事に魅力があるかというと、特に語る必要がないのだから、魅力が感じられないのかもしれないが、そうであるなら特に身の回りの物事に魅力を感じなくても構わないわけで、それで普通に暮らしていけるわけだから、特にそれによって困ることはないのだろうし、またそれでは不満だからといって、不必要に身の回りを飾り立てることもないのだろうし、またそうやって不必要に身の回りを飾り立てることですらも、あえてそれについて語る必要のない、どうでもいいことにすぎないのかもしれないが、もちろんそれについて言及したり、それらを写した映像や画像をふんだんに盛り込んで、情報として飾り立てるような行為もネット上で盛んに行われていることではあるわけだが、そんな飾り立てを行なっている限りで、しかもそういう行為を情報化している限りで、それに魅力を感じていることは確かなのだろうし、それもその場限りの魅力なのかもしれないが、確かにそれらを情報として残そうとしているのだから、またそういった情報を後から繰り返し反芻するような行為にも及んでいるだろうし、そうやって情報を繰り返し観て消費することが、その場限りの魅力とは言えないのかもしれないが、要するにそういう行為は、そこに魅力があることを確認したいのであり、そこに魅力があることを確認する行為に魅力を感じているという込み入った状況にもなっていて、同じ情報を繰り返し閲覧することが、それを観るという魅力を醸し出していて、しかもそれがどうでもいいような身の回りの些細な飾り立てであったり、それの延長上にある飾り立てられた観光地の風景であったりもするわけだが、そうした飾り立てられた過剰なデコレーションへの反動として、特に飾る必要のない、何の変哲もない日常の素朴な風景にも魅力を感じるだろうし、そうやって日常と非日常の両面から、どうでもいいような些事にも魅力を求めてしまうのかもしれないが、そんなことをやりだすときりがないかもしれないが、そうやってどうでもいいようなことに魅力を感じているように振る舞うことからも、魅力が生まれるのかもしれず、そこに魅力があるように思われるということが、そう思うように演じることから生まれるとすれば、それ自体がフィクションなのかもしれないし、それはあたかも無から有を作り出すような効果を伴っていて、人は何かを演じることによって魅力を作り出していて、逆にいうと、何でもないような物事に魅力を感じることは、自らを騙していることにもなるわけで、そうやって自らが自らを騙しながら、身の回りの何でもないことに魅力があるように思わせることによって、何とか何でもないような日々を乗り切っていることにもなるのかもしれず、それが生活の知恵となって日常に定着しているのが、現代的で小市民的な世の中なのかもしれないが、たぶん誰もがそれだけではないと思いたいだろうし、実際にそれ以外の何かを日々の日常の中で探し回っている人も結構いるかもしれないのだが、それだけではないことの証しとして、例えば職業的な価値観を強調したい人もいるだろうし、また倫理的あるいは道徳的な価値観を顕揚したい人もいるかもしれないが、その中でも物心両面での価値を高めるために必要なのが、経済的な価値観だろうし、簡単に言えば経済的な豊かさに魅力を感じる人が、世の中にいる人のほぼ全てを占めているのかもしれないし、何かそこに何でもない日常から逃れるための糸口があるかのように思われているのかもしれないが、そこに魅力の源泉があるとしても、誰もがそれを利用できるわけでもなく、また限られた人にしか利用できないように思われると、それだけ魅力が増すようにも思われるだろうし、そうなるとそうした魅力は希少価値としての魅力になるわけだが、そういう希少価値を獲得するために他の人や集団と競争することも魅力になるだろうし、そんな競争に魅力が増すには、それが激化して、それに勝ち抜いたごく少数の人にしか価値がもたらされないようになることも、魅力が増すには欠かせない条件だろうし、そうなると勝ち抜いて栄光を手にすることができるか、あるいは負けて屈辱を味わって、その他大勢の立場に甘んじるかの極端な格差も、魅力の増大には欠かせなくなるわけで、そうやって何でもないような日常の日々から離脱する試みも一方にはあるのだろうが、やはりそれは誰にでも叶えられることではなく、実際にその他大勢の小市民には高嶺の花でしかないわけだから、小市民的な世の中では羨望の的となることもあるかもしれないが、ほとんどの人たちはそういう魅力に惹かれつつも、実際にそうやって小市民ではなくなった少数の人たちを羨望の眼差しで観ることしかできないわけだ。


12月28日「公私混同の意味」

 虚構について語るには、その虚構を現実に存在しているかのようにみなさないと語れないわけではないだろうが、その一方で現実に起こった出来事や現象について語る際には、それを虚構であるかのようにみなすのはあり得ないことだろうが、当人がそれを自覚しているかどうかは怪しいところだが、語っている内容から判断するなら、逆説的に何かを肯定しようとしているのに、なぜかそれに反するような事例を持ってきて、そんな逆説は成り立たないことを示して、逆説的に肯定しようとしている何かを、別のところでは否定してしまっていて、結局何が言いたいのかわからなくなってしまっていることに無自覚なのかもしれないのだが、そうやって単純には何も肯定できないような態度が、すでにおかしいのかもしれないし、それが当人の頭の中がこんがらがっている証拠かもしれないが、そうなっている時点でかなり無理なことを述べているようだが、たぶんそうやって何かを肯定したり否定したりすること自体が、すでに論理的に破綻しているのかもしれず、それは論理ではなく、単に自らを利するように思われる対象を肯定して、自らが嫌っている対象を否定したいだけかもしれず、そこで自らを利するように思われる対象に好意を抱いているわけでもなく、また自らが嫌っている対象によって実害を被っているわけでもなく、ただそう思っている理由に関して、もっともらしく言い繕うために、論理的に語っているように装っているだけかもしれないのだが、そもそも世の中で起こっている出来事について語るのに、それを肯定したり否定したりする必要はないのかもしれないし、単に自国の政府の対応や判断が狂っているとみなしたいのなら、民主的な政治制度が整っている国であれば、次の選挙で政権勢力とは別の勢力に投票するだけで構わないだろうし、民衆の側でそういう判断がつかずに対応がとれないのなら、民衆の側も狂っていることになるだろうし、またメディア上でわけがわからないねじくれた論理にもなっていない論理を用いて、奇妙な批判を繰り返す識者も狂っていることになるのかもしれないが、それを狂っているとは感じられないのであれば、それなりにそうなっていることに関しては、納得できるような事情があって、世の中の多くの人たちが、そうした事情に囚われているから、そういう成り行きになっているのかもしれないし、またそうであったとしても、そもそも誰もが同じ判断や対応に至るわけではないし、誰に対してもそういう判断や対応が促されているのでもなく、一般的に言うなら、公的な制度や仕組みを信じられる人が、自身の信念や見識に基づいて判断して対応すればいいことでしかなく、メディア上でわけがわからない批判を繰り返す識者の類いもそのつもりかもしれないが、そこから外れて物事を考える必要があるかというと、それを自覚できなければ外れることもできないわけだが、それに関して肯定も否定もできないようなことを考えてみる必要を感じられるなら、それは常識的な範囲内で、世の中で起こっているほとんどの出来事に関してなのかもしれず、しかも多くの人がそれらに対して興味を示さない可能性もあるだろうし、さらに人は好意的な興味を持ったことだけに関われるわけではなく、興味のないどうでもいいようなことや不快極まりない出来事や現象に巻き込まれている人も、世の中には大勢いるだろうし、自らの意思に反してそうなってしまうから、そこからその人に特有なねじくれた感情やこじれた事情がもたらされてしまって、そんな成り行きから、いつしか他から見ればわけがわからないトンチンカンな物言いで、見当はずれな批判を繰り返す人物が多数出現してしまうのかもしれないが、それもそういった人物の出現を許すような特殊な事情が、その地域にあると考えておけばいいのだろうが、他の地域でもそういった特殊な事情が生じるかというと、普通はそうでもないと言えるかもしれないが、それと似たような現象が起こるなら、事情も似通っているのかもしれないし、ただし似通ってはいるものの、全く同じというわけでもないだろうし、そうした地域的な特殊性から普遍的な価値や論理が生じるわけではないにしても、その地域に密着して物事を考えるなら、その地域に限られた範囲内で、そういった事情に囚われた人物の述べていることが、地域社会に一定の効果や機能をもたらしている可能性はあるだろうし、そういう水準で述べている内容にも、それなりの説得力が生じているかもしれないのだが、意識がそうした人物から遠ざかってしまえば、そんなのは何でもないような些細なことでしかなくなってしまうのかもしれず、それが他の地域では通用しない価値や論理を含んでいるなら、他の地域を含めた出来事や現象には当てはまらないことかもしれないし、そうでなくても、その地域が他の地域から孤立しているわけでもなく、何かにつけて他の地域との関連性を考慮に入れないと、まともな判断や対応に結びつかないようだと、やはりそんなわけがわからない論理は通用しないと考えておいた方が無難だろうし、意識がそこから遠ざかって、それに関する情報に疎くなれば、特に気にかけるまでもないことになってしまうのではないか。

 そうした論理の内容が具体的に何を示すのかと言えば、公私混同と言ってしまうとだいぶ単純化されてしまうのだが、大枠ではそれなりに妥当な見解へと導かれるのかもしれず、何をもって公私混同とみなすかでも、普通の意味でのありふれた公私混同なら、誰にでも理解可能な範疇になるだろうが、どうもそれだけが公私混同なのではなく、そもそも公の物事を語るのに、私情を交えてしか語ることができないということが、公私混同の最たる兆候なのかもしれないし、何でもかんでも自分に引き寄せることでしか語れないということは、客観的な判断力の欠如をうかがわせるだろうし、しかもそこから自分を利するような判断を、自分とは無関係の対象にも強要したがるのは、その人の意識の中には、公の場が存在しないことを示しているのではないか。もっとも公の場というのが、アプリオリに存在するわけでもないだろうし、それに関しては要するに、自らが気にくわないことをやっている他人や他の団体の存在を認めることによって、そんな自分と気にくわないことをやっている人や団体との間に、公の場が生じるわけで、そんなのは虚構の場とみなせばその通りかもしれないが、実際にそういった人や団体が存在していることは紛れもない事実だろうし、それらの人や団体と自らとの間に差異があるからこそ、それが気にくわないのだろうし、そういう人や団体に対して気にくわない感情を抱いていることも事実だろうし、それが私情であることも事実なのだが、そういう様々な事実によって、虚構の場としての公の場が意識されてしまうわけだから、そこで公私混同に陥らないためには、気にくわないことをやっている人や団体の存在を認めざるを得ないだろうし、その認めるという行為や立場が、自らを利するとは思えないとしても、それらの存在は実際に存在しているのだから認めざるを得ないわけで、そうした存在を認めつつも、それらの人や団体のやっている行為を批判せざるを得ないとすれば、それらの行為とともにそれらの人や団体が存在しているわけだから、やっている行為も認めざるを得ないはずで、それをどう捉えたらいいのかとなるわけだが、簡単に言えば、それらの人や団体のやっている行為をやめさせたいわけだろうし、それとともにやめさせるにはどうしたらいいか、と問うことにもなるわけだが、そこで批判していることとやめさせることが結びついていないというジレンマに直面するわけで、なぜ懸命に批判しているにも関わらず、気にくわない人や団体のやっていることをやめさせられないのかと思い悩むのかもしれないが、それも簡単に言うなら、批判とやめさせることとの間で、行為の水準が違っているからだろうし、そこに両者が結びつかないような成り行きが生じていて、要するに両者が関係していないわけだが、なぜ関係しないのかといえば、関係させないような作用が働いているからだろうし、それがその場での特殊な事情とも言えるわけだろうが、それに関しては批判している側が戦略を欠いていて、批判を批判している行為をやめさせることと結びつけるような関係の構築ができていないことを示しているだろうし、要するにそれを実現させるには、批判とは別の行為が必要となっているにも関わらず、それがおろそかとなっていて、そうした行為をやっていないか、やっているとしてもそれがうまくいっていないことになるだろうし、それがうまくいかない限りは、批判と批判している行為をやめさせることが結びつかないわけで、それでも批判を続けるなら、批判は批判という行為として、それだけのこととなってしまい、そういった批判しているだけの人が他にも大勢いるとすれば、そういった批判にはいかなる意味や意義があるかと問われるかもしれないが、そういった批判を支持する人が多ければ、批判対象となる行為を行なっている人や団体との対立が深まるかもしれないし、それが公的な場で行われていることならば、批判を支持する人たちが世の中の大勢を占めるような成り行きとなれば、そういった世論を背景にして、批判勢力が政治的な実権を握って、批判の対象となる行為をやめさせることに成功するかもしれないが、現状ではそうなっていなければ、批判を支持する世論が世の中の大勢とはなっていないことを示しているだろうし、また批判勢力が政治的な実権を握れていないことも示されているわけだろうが、そこでも批判勢力が政治的な実権を握るための行為が、うまくいっていないことが明らかとなっているのかもしれないし、批判とは別に政治的な実権を握るための行為が必要に思われてしまうわけだが、果たしてそのための行為が批判と結びついているかというと、批判している人たちは、それが結びついていると思いたいのだろうが、いくら批判しても政治的な実権を握れない状況が長引いているとしたら、客観的な事実として両者が結びついていないことが示されているだろうし、では批判の他に何が必要なのかとなるかもしれないが、それが公の場で行われる政治的な行為であれば、世の中の世論を味方につけることだろうし、それが批判によっては成し遂げられなければ、では他に何をやればいいのかとなるのかもしれないが、たぶんそこから先が微妙なところであり、わかりにくいところかもしれないのだが、そもそも公の場を作るには、自分と主義主張や立場や境遇などの異なる他人や他の団体の存在を認めないとならないわけで、そうなると果たしてそれらの存在を認めつつもそれらの行為を批判してしまうことが、他の人や他の団体から支持を得られることに結びつくのかとなるわけだが、それに関しては、このままでは大変なことが起こるから自分たちの主張を受け入れてくれと脅迫まがいの頼み方をしても、果たしてそんな要求が受け入れ可能なのかもよくわからないところだが、何かその辺でこれまで通りの批判を繰り返していっても構わないとは思えないのではないか。


12月27日「神の見えざる手」

 ある特定の地域で起こっていることが、その地域に特有の問題であるかのように思われると、その地域に住んでいる人やその地域に関係している人たちが、その問題をどうにかしなければならないと思うかもしれないが、果たしてそれがその地域に特有の問題なのかというと、他の地域でも似たようなことが起こっていれば、それがどの程度似ているかで、各人の見解が分かれるところだろうが、似たところが少しでもあれば、地域的な特殊性とは無関係な面もあるわけだが、そんな他の地域で起こっている似たような出来事が、その地域に何らかの作用や影響を及ぼして、その地域に特有の問題に思われるようなことを起こしているとすれば、それは別にその地域だけの問題ではないことになるわけだが、どの地域で起こっている出来事にも似たような問題があるなら、特にそれに関しては地域的な偏差がないことにもなるだろうし、普通に考えるなら全世界が同じような問題を抱えていることにもなるだろうが、それが何かといえば、一般的に考えるなら、政治や経済に関する問題なのだろうし、ただ漠然とそう思っているだけでは、そんなのは何でもないことでしかないわけだが、その一方で少しでもその地域に特有な事情があるように思われると、途端にその事情を地域に特殊な事情として問題視して、それについて何かを語ろうとする人が大勢現れるのかもしれず、そしてそういった事情を改善すれば、その地域に特有な問題が解消されて、世の中が良くなるかのように思われてしまうとすれば、それこそが錯覚なのかもしれないし、そんな錯覚に惑わされてしまう人たちが、そんな地域的な特殊性を巡って、それを改めるか守るかの側に分かれて、不毛な対立を繰り返してしまっているのかもしれないし、逆にそうしないとそこに特殊な問題があるとは思われないのかもしれず、何とかそこに地域的な特殊性があるかのように思い込ませないと、それを巡って不毛な対立さえ起こせないわけだから、むしろ対立を引き起こして騒ぎ立てるために、そこに地域的な特殊性という問題があると指摘したいのかもしれないのだが、そういった問題意識の捏造が、そういったことをやりたい人たちの、強引な決めつけやこじつけに依存している可能性があれば、それを決めつけやこじつけだと思ってしまう人には、そこには問題さえ生じていないようにも思われてしまい、そこに問題があるとは思えなければ、それを地域的な特殊性だとも思わないだろうし、多くの人たちがそんなのは世界のどこにでもあるような些事でしかないと思ってしまう限りで、それについて大げさに騒ぐようなことにはならなくなるのではないか。もちろん騒がないと困る人たちがいるから騒ぎ立てられるのだろうし、騒ぎを引き起こして、その騒ぎを利用して語らなければならない人たちにとっては、是が非でも多くの人たちが騒いでほしいし、また騒ぎに関心を持って騒ぎに加わってほしいだろうし、そうした騒ぎについて語っている自分たちを支持してほしいとも思っているのかもしれないが、そうした騒ぎに便乗した騒ぎ屋の類いは、野次馬のように見られる限りで、誰からも敬意を払われないだろうし、もちろん騒ぎ屋にも仲間がいるだろうから、自分たちにも大勢の支持者がいるように装うだろうし、そうしたことをメディアを通じて盛んに宣伝すれば、愚かで浅はかな人たちがそれなりについてくるだろうが、そんな人たちでは世の中には大した作用も影響も及ぼせないだろうから、騒いでいること自体が世の中に悪影響を及ぼすとしても、それも一過性の現象となって、騒ぎ自体が別の何かで大騒ぎするまでのつなぎ物件でしかなくなるだろうが、それとは別の観点から見れば、そうやって騒いでいる間に現状が維持されれば、それで構わないということであり、もちろん現状が維持されるといっても、現状の中で主導権を握っている人や勢力にとって、都合の良い面が維持されればいいということであり、そうした人や勢力の与り知らないところでは、現状が刻々と変化を被っていて、そんな変化がそれらの人や勢力に何らかの作用や影響を及ぼして、それらの人や勢力にとっては思いがけない事態を引き起こすとしても、それはそうなった時に対応するしかないことでもあり、そんな騒ぎ自体もその思いがけない事態に含まれるのかもしれないのだが、そうだとしてもそんな騒ぎを利用してやれることもそれなりにあるだろうし、そういう意味ではそこで起こっている何もかもが想定外の事態というわけでもなく、ある程度はコントロールが利く面もあれば、そういう面ではそれなりに対処できるだろうし、実際に利用できれば対処法もそれなりに確立されていることになるのではないか。そしてそうした対処からも、それに伴って様々な想定外の紆余曲折が生まれて、それがまた新たな騒ぎの火種になる可能性もあるのだろうが、むしろそうなってくれた方が、騒ぎのネタに困らないし、そうやって騒ぎがそれなりに持続している状況が、それがその地域の特殊事情のようにも感じられるだろうし、そんなふうにして騒ぎの火を絶やさず持続させるような成り行きが生じていると、個々の騒ぎの内容が、地域ごとにそれなりに異なるだろうから、その内容が地域ごとに異なるその地域の特殊な事情であるかのように思われるのではないか。

 確かにそこで起こっている出来事の経緯や事情は他とは異なるかもしれないが、その経緯や事情が異なるにも関わらず、それと似たような別の出来事が別の地域の別の時期に起こっている事実もあるわけで、それは世界的に同じような政治制度や経済制度や社会制度や法律制度があって、それに関連して同じような事件や事故が起こっているからだが、要するにそれが起こること自体は世界中で起こっていて、それらが起こっていることを問題視したい人は、起こっていること自体を問題視すればいいのに、そうではなくそれが起こっている各地域での、それが起こるに際しての経緯や事情を問題視してしまうわけで、そうした経緯や事情を改めれば、それが起こらないかのように錯覚してしまうのだろうし、そう錯覚してしまう人たちは、似たような事件や事故が、経緯や事情を異にして別の地域の別の時期に起こっていることには無頓着なのであり、そういう出来事が起こるに際して生じる経緯や事情が無限にあるかもしれないことにも気づかないのだろうが、そんな人たちにはそんなことが起こる成り行きは止められないだろうし、止められない代わりに、それが起こるのを利用して、それに合わせて活動することができるわけで、そうしたことが起こらないように、それが起こるに際して生じる経緯や事情を改めようとするのも、それが起こった際に合わせて行う活動の一環であり、そうであるなら何か特定の出来事が起こらないと、そうした活動が行えないわけだから、それと同じようにして、そうした出来事に関係した人や団体を批判することも、出来事に合わせた活動の一環であるのもわかりきったことかもしれないが、出来事に関連して行われる批判が、出来事が起こるのを止められないのもわかりきったことであり、当たり前のことだが、それを批判することはできるが、それを止めることはできないわけだ。またそれを起こした責任を取らせて、出来事に関係した人が占めている何らかの地位や役職をやめさせることはできるかもしれないが、実際にそうなったとしても、それがそれに対する批判によって実現したように思われても、また別の地域で別の時期に別の人や団体が関係して、それと似たような出来事が起こるかもしれないし、中には別の地域ではなく、同じ地域の別の時期に似たようなことが起こるかもしれないし、さらに別の地域の同じ時期に似たようなことが起こるかもしれず、それが地域ごとや時期ごとに、その程度や内容にそれなりの偏差を伴うとしても、そんなことが起これば、またそれを利用した同じような活動が行われるわけだろうし、そんな活動の一環として、それに関係した人や団体を批判する活動も行われるわけだ。そしてそれが起こってしまう原因を地域的な特殊性にしたい人たちは、その地域的な特殊性を守りたい人や団体を批判したいわけで、その批判に利用するために欠かせない絶好の材料が、その地域で起こってしまう否定的な傾向の出来事なのだろうが、他の地域でも似たような出来事が起こっているのだとすれば、そういった出来事が起こる経緯や事情に、地域的な特殊性が介在しているとしても、出来事が起こることに関しては、世界的に似たような傾向を伴って起こるわけだから、そうした出来事を利用して、地域的な特殊性を守る人や団体を批判するのは、微妙に筋違いな面があるのかもしれないが、その辺が批判する人たちにはよくわからないところなのだろうし、そうした経緯や事情と、そこに介在してくる地域的な特殊性との結びつきを強調してしまうと、何か地域的な特殊性があるから、そういう出来事が起こってしまうような論理の単純化が正当化されてしまうわけで、またそれと絡めてそれがその地域全体の問題であるかのように見せかけられてしまい、そういう出来事に類する出来事が世界的に起こっている事実が見逃されてしまうわけだが、どうしても批判したい人たちは、自分たちが利用可能な出来事が起こる度に、それが自分たちの保持している論理を強調して世に広めるチャンスだと思ってしまうわけで、その論理が自分たちのやっていることを正当化するための論理でもあり、自分たちが利用する出来事を、自分たちの都合で捻じ曲げて解釈するための論理でもあるわけだが、それもそうした出来事を利用して行われる活動の一環の中で、そうした論理が生じてくるわけだから、出来事自体に、そうした論理を当てはめようとする傾向を、それを利用して関係する人や団体を批判する人たちにもたらす効果があるのかもしれず、そうやって出来事自体から目を背けさせるような作用が、それらの人たちに及ぼされるとでも捉えておけばいいのかもしれないが、どうやってそうした作用が生じるかといえば、それらの人たちが出来事が起こる必然的な原因を求めようとすると、そうした作用が働くのかもしれず、しかも出来事自体から目を背けることによって、出来事が起こる必然的な原因として、地域的な特殊性へと目を向けさせるわけだから、あたかもそうした出来事が世界的に起こること自体に、それにかこつけて批判する人たちを利用して地域的な特殊性を解消させて、世界を均質化するような作用があるかのように思われてしまうわけで、そういう意味では真のグローバリゼーションは、世界中で似たような出来事が起こっていること自体を利用しながら推進されているのかもしれないし、またそれが起こる原因を地域的な特殊性へと転化するような論理からも推進されていて、そういうところで自然の成り行きから生じる狡知の原理が成り立っているように感じられて、それが神の見えざる手によるのか、あるいは自然の狡知や理性の狡知によってなのかは、そういう現象をどう解釈するかで変わってくるのかもしれないが、少なくともそれが似たような出来事を利用して、もっともらしい批判を行う人たちの思惑とは、別次元の水準で働いていることは確かなのではないか。


12月26日「机上の空論」

 計画というのはまずは机上の空論から始まるものであり、そこに人と人とのつながりが生じれば、社会の様々な方面の他の様々な分野から人や団体が必要に応じて加わって、お互いにアイデアやプランを出し合って協議を重ねて、机上の空論ではない具体的に実現可能な計画が出来上がってくるのだろうが、どんな計画を語ってみても、それが語られる段階にとどまっていれば、とりあえずそれは机上の空論とみなしておいても構わないだろうし、そういう計画がいくら詳細に語られて、実現可能な案であることがいくら強調されても、実際に実現されなければ、それはいつまで経っても机上の空論であり、そういった語られるだけの机上の空論なら、世の中にいくらでもあるし、資料庫の類いにはそんな机上の空論がいくらでも埋もれているかもしれないが、その一方で、いくら荒唐無稽で実現不可能に思われるようなプロジェクトでも、実際に計画通りに実行に移されれば、それは机上の空論などではなく、日本でいうならはそれは、高速増殖炉のもんじゅがその悪しき失敗例として有名かもしれないが、他にも莫大な費用をかけて失敗に終わったプロジェクトなども、世の中には結構あるのかもしれないし、それらのうちで、失敗したことが強調されて、他の計画や事業を批判するにあたって、それが失敗例の代名詞のように語られるのもよくあるケースだろうし、そうやって語るだけなら、いくらでも他の失敗例と結びつけて、これから実行に移される計画を批判することもできるのだろうが、それも語っている範囲内でそんなことが言えるだけで、語っていることと実際に行われていることの間には、行為の水準に大きな違いがあるだろうし、どちらにリアリティがあるかといえば、実際に行われていることには違いないが、他にも実際に行われていることには、語ることの安易さや自在さとは比較にならない困難さや特有の問題が伴っていて、行われていることが大規模であるほど、多くの人員や資材が実際に投入されているわけだから、それに対して一人の人間が安易な机上の空論を用いて批判を繰り返してみても、到底太刀打ちできないのは火を見るよりも明らかであり、そういった比較にならないものを比較して、机上の空論が実現できるかのように語るのは、何か詐欺以外の何ものでもないかのような印象を受けるかもしれないが、それも批判という行為に伴って利用される一つの論法には違いなく、そういった批判を真に受けることに、大して違和感を覚えなければ、むしろ批判の内容に説得力があるようにも思われるだろうし、そこで語られる机上の空論が、現実に行われていることと、同等以上の実現性があるように感じられるのかもしれないが、そう思ってしまう人の意識の中で、その机上の空論がこれから実現に至るまでの確固とした道筋が思い描けていなければ、どうもそれは机上の空論を用いて批判を繰り返している人と、同程度の安易な判断力しか持ち合わせていないことになってしまうのかもしれず、そういうところで批判の安易さに同調する人が多いほど、そういう人たちが多数派を占める世の中が、いかに生ぬるい空気に覆われているかを物語っているのかもしれないが、しかも別にそれで構わないような事態になっているわけで、それが深刻な状況とは言えないだろうし、そういう人たちが主流となっている状況に応じて、そんな批判にもそれほど違和感を抱かれないような成り行きが生じていて、そうしたことが相乗効果となって、世の中をそれなりにそうした虚構への信用を伴って安定させているわけで、それが社会の中で役割分担が多岐にわたって施され、様々な分野での専門化の促進に伴って生じていることの結果だとすれば、その中で行われていることに関して、いちいち専門外のことにまで詳細に把握する必要はないし、そうであれば語ることが専門の人は語っているだけで済んでしまい、それが集団的な組織形態を伴って大規模に行われていることと、同等の水準で語られているように思われるなら、それを信じるしかないだろうし、そこでことさら疑念を抱く必要もないわけで、そんな経緯からその程度で済んでいる人たちが世の中の主流を構成しているのならば、そうした世の中では語ることが専門の人たちの間で、机上の空論が競われている状況も生じるだろうし、また大規模なプロジェクトの計画を巡っても、そういったことを専門に扱う業者の間で、そのような計画のコンペティションが盛んに行われるような状況ともなるわけで、またそういった大規模な計画に関しても、語ることが専門の人たちが、自前や他から借用してきた机上の空論を用いて、何やらその方面の専門家を匂わせるような専門用語を駆使して、さももっともらしいことを語っているように装うだろうし、それを真に受ける一般の人たちも、自身がその方面の専門家でない限りは、そういった言説に説得力があるように思われるなら、それを信用するしかないわけで、そうやって信用が得られる限りで、それについて語っている人の生業も成り立つわけだが、それについて専門家の側で、その信憑性や妥当性を検証するような成り行きにならなければ、それがそのまままかり通ることにもなるわけだ。

 そうした世の中で生きていれば、それ相応の生ぬるさや鈍感さを身につけていても、それで生きて行ける限りは、特に心配することもないし、それを敏感に感じ取る必要がない限りで、それで済んでしまう傾向になるだろうし、逆に生ぬるさや鈍感さを身につけていないとできないこともあるのかもしれないし、そういうところで世の中の傾向の中で何を強調して、それを批判に利用しようとしても、批判者の語っている内容の水準が、批判対象の水準と釣り合っていなければ、何か不自然で滑稽に感じられてしまうのかもしれず、それに関して、それほど知られている例とは言えないかもしれないが、19世紀のフランスで第二帝政時代に、皇后が当時の知識人に、死刑囚の痛みをできるだけやわらげるにはどうすればいいかと問うたのに対して、その知識人は、死刑囚が拘置されている場所から刑場へと向かう道順が、あまりにも複雑で長く、迷路のように入り組んでいるから、それをできる限り簡略化して距離を短くすればいいと答えたらしいが、それと同じようなことを机上の空論のような対案として示しながら、何らかの対象を批判しているような場合も結構あるのかもしれず、そうなると批判の対象となるものを取り去ろうとするのではなく、対象によって迷惑を被っている人たちの痛みをやわらげたり、別の方面から経済的な利益をもたらして、対象があることによって生じる迷惑や痛みと相殺させることによって、何とか妥協を図ろうするようなやり方となるわけで、そうやって迷惑を被っている人たちが、状況が今までからは少しは改善したように思わせたいのだろうが、果たしてそういった妥協策を積極的に推進していくことが、正当化できるのかというと、木を見て森を見ない功利主義者なら納得させられてしまうかもしれないが、少しは視野の広い人には、そういったごまかしは通用しないだろうし、また専門家と称する人ほど、自分が得意とする狭い専門分野内で解決を図ろうとして、それと自覚せずにそういった傾向になりがちになるのかもしれず、結局はそういった傾向を批判している人が別にいるとしても、その人でさえも自分がやっていることに関しては、そういった傾向になっていることに気づかない場合もあるだろうし、そういった人たちの思考の限界を超えたところに、真の批判対象がある場合には、それらの人たちではもはや対処できないような困難がもたらされてしまうのだろうが、それも世の中の情勢が、そういった人たちの生業をもたらしている限りで、そんな批判対象がそれらの人たちにとっての批判対象とはなり得ないだろうし、そういった人たちが活動する社会自体が、そういった人たちを守るように、世の中の至るところに保護膜を巡らせていて、そうした保護膜が何かといえば、細かく区切られた専門分野と専門分野の間にある境界だろうし、それが細胞膜のように機能して、その中で安住している専門家たちを保護しているわけで、そうした保護膜の中で生ぬるいことをやっていれば、そこで何とか生息することが可能なのだろうが、別にそれがそれらの人たちにとっては悪いことではないだろうし、それらの人たちも現状の中で安住の住処を得られるまでには、それなりの苦労をしてきたわけだから、そこに至るまでの苦労が並大抵のものではないと感じられるほど、苦労して得られた住処をそう簡単に手放したくはないだろうし、実際に主体的には手放せないような仕組みが身の回りにがんじがらめに張り巡らされているのかもしれず、それを手放すような事態を迎えるには、自らが主体的に手放すのではなく、用済みとなって捨てられてしまうのだろうし、実際にそうなってしまえば、自らが社会の廃棄物と化すしかないわけで、別にそれが良いことでも悪いことでもないとすれば、要するに細胞膜に保護されている期間にもよるが、細胞の中で消費された挙句に、廃棄物となって捨てられてしまうようなサイクルがそこで駆動しているということだろうし、それがそうした社会の中で生じている新陳代謝なのかもしれないし、やはりそういった営みが社会全体として成り立っているようだと、その中で暮らしている人にはどうにもならないことだろうし、それ自体が批判の対象とはなり難く、その中で何らかの対象に関して批判的な立場をとるにしても、それだけで済んでいる限りで、意識が自ら立場や境遇に絡め取られて、結局は木を見て森を見ないような態度を取らざるを得なくなり、狭い範囲内で妥協や調整を強いられるような事態となってしまうわけだろうが、それで構わないというところが、社会の中で暮らしている人たちの利点であり限界でもあるのだろうし、実際には構わないなら構わないなりに、そうした立場や境遇から特有の事情や条件が生じて、それらに囚われている限りで自身の活動が成り立っている面があるだろうし、そうした事情や条件が取り払われてしまうと丸裸となって、何もできないような境遇となってしまうわけだから、なるべくなら自らを守ってくれている社会の秩序に従わざるを得なくなってしまうわけだが、それも社会によって廃棄されるまでの間のことだろうし、その間に自らに課せられた立場や境遇をどこまで許容できるかだが、それが何らかのきっかけで我慢のリミットを越えてしまえば、たぶんそうなった人は暴発したり暴走するような顛末に至るのではないか。


12月25日「正しさと確からしさ」

 それが誰であろうと社会の中で暮らしていれば、それに伴って様々な事態や事情が生じるだろうし、そこで生きて行けば他の人や団体との交流が生まれて、そうした関係からそれなりに制約や制限を受けながら、その人の行動や活動が関係する他の人や団体とともに、何らかの方向や傾向に定まってくるわけだが、もちろん一度方向や傾向が決まってしまったからといって、全く修正が利かないわけではなく、その方向や傾向の程度に応じて、それなりに修正や後戻りができにくい面も出てくるだろうが、おかしな成り行きに巻き込まれてしまって、取り返しがつかない事態となってしまう人もいるかもしれないが、それも誰もがそうなるわけでもないだろうし、人それぞれに程度が異なる事情を抱えている限りで、異なる事情に応じてその人の意見も立場も異なってくるだろうし、そうやってそれなりに人それぞれで意見や立場のばらつきが生じてくるのだろうが、そこで他の誰の意見や主張にも無関心でいるわけにはいかなくなるだろうし、他人の意見や主張に共感できれば、それを支持することにもなるし、共感できなければ、無視したり反発することにもなるだろうが、どうなるにしても、そこから連携や協力や対立などの関係が生じれば、そんな関係に伴って、関係する人や団体の間で交渉や調整も行われるだろうし、それをどう捉えるにしても、そこで行われるそれらの活動に介入しない限りは、他の人や団体とは無関係になってしまうわけだが、とりあえず人や団体が公共の場に存在していれば、当初は無関係であっても、他の人や団体のやっていることから、何らかの無視できない作用や影響を被れば、そこに介入して口出しするような成り行きになってしまうわけで、そうやって関係者以外から介入されて口出しされることになってしまうと、それが活動を妨害するようなことであれば、関係者が不快感をあらわにする場合が多いだろうし、関係者にしてみれば普通は部外者が口出しする権利などないようにも思われるわけだが、果たしてそういった部外者からの介入に正当化できる面があるかいえば、社会の中で活動していれば、その活動が活動とは直接関係のない部外者へも何らかの作用や影響が及ぶ限りで、その作用や影響の程度に応じて、介入して口出しせざるを得なくなる場合があって、そういった介入や口出しが関係者の間で無視できなくなれば、それに関しては直接あるいは間接的であっても、介入者に対して何らかの措置を講じることになると、そうした措置から関係が生じて、結果的に介入してきた人や団体が部外者ではなくなってしまうわけで、そうやって無関係であった人や団体との間で何らかの関係が生じてしまうのが、社会の公共性なのだろうが、別にそれは肯定されるべきことでも否定されるべきことでもなく、否応なくそうなってしまうことでしかないだろうし、そうならざるを得ないような成り行きになってしまうから、そういった介入には不快感を伴うことも確かであり、不快感を伴いながらも介入せざるを得ない成り行きになってしまうわけだから、そういう不快に感じる面はどうにもならないところでもあり、介入される側も介入する側もそれなりに不快感を伴いながらも、そこから何らかの関係が生じて交渉や折衝が行われるような成り行きになってしまう限りで、そこに社会の公共性が実現されることになるわけだが、そこで介入を拒絶して敵対関係になるにしても、介入を受け入れてそれ相応の交渉が行われるにしても、そこから事態が好転したり暗転したり何も起こらなかったりするような成り行きを伴いながらも、そうした事態の進展に伴いながら状況がそれなりに変化するのだろうし、それが現状の維持とは違った成り行きを示して、そうした事態に関係する人や団体の思惑とはそれなりにずれた結果をもたらすのかもしれず、それはそれぞれの関係者の思惑が連携や協力や敵対などの関係に応じて、微妙にずれてくるからそうなるわけだろうが、そうだとすると人や団体の間で生じる立場や意見の微妙なずれや食い違いが、それらの人や団体の間の隔たりを表していて、そこに無視できない距離が感じられるから、その間に空間が生じるわけで、逆に立場や意見が完全に一致していれば距離が生じないから、空間が生まれないわけで、空間が生じない状態など社会の現状に照らし合わせれば想像できないだろうが、結局社会の中で生じる公共の場というは、そこに存在している人や団体の間に、それなりの立場や意見の違いから生じるお互いの隔たりが感じられて、そうした各人や各団体の間で生じている距離を意識することから、その距離感に応じた空間が構成されることになり、そうした空間を公共の空間と捉えればいいのかもしれず、そうであるなら、社会の中に存在する各人や各団体の立場や意見が完全に一致してしまうと、そこには空間が構成されないことになってしまい、そうなると公共の空間も存在しないことにもなるだろうし、普通に考えるなら、そんなことはあり得ないだろうが、何か独裁的な権力の行使によって、強制的に世の中の全ての人や団体の立場や意見を完全に一致させるようなことが行われれば、公共の空間そのものが消失してしまうことになるのではないか。

 それに関しては、民主主義という政治のあり方に関連した世の中の制度にも、各人や各団体の多様な立場や意見を尊重しつつも、多数決によって特定の立場や意見に集約させるような傾向があり、それが行き過ぎてしまうと独裁的な傾向が強まって、それに伴って公共的な社会空間の許容度も狭められてしまうのだろうが、そこで特定の理想を追い求めるような方向で、正しい民主主義のあり方を求めてしまうと、何か思想的に特定の傾向に凝り固まろうとしてしまうわけで、そうした特定の傾向に凝り固まろうとする姿勢が、そうした傾向に凝り固まろうとする人や団体にとっては、それが民主主義の正しいあり方となってしまうわけだが、それがとりもなおさず独善的で一方的な姿勢にもなってしまうわけで、それに関しては何かというと、すぐに他人や敵対する勢力などを否定的に決めつけて批判するような人は、そういう姿勢や傾向に陥りやすく、そういう人は固定した正しい民主主義という定義やあり方を厳密に求める傾向があるのではないか。そして実際の世の中でもそういう傾向の人が大勢いるのかもしれないが、そうした傾向で思考が硬直化した人が多いほど、そういう人たちの主張が他の傾向やあり方を許容しない限りで、現実の世の中の実情とは合わないことが明らかとなるにつれて、逆に多くの人がそういう教条主義的で独善的な傾向に対して嫌悪感を抱くようにもなり、またそうした嫌悪感の蔓延につけ込んで、そういう人たちが批判したり罵倒したりするのに好都合ないかがわしい政治勢力が、嫌悪感を抱く人々の間で人気を博して台頭してきて、結果的に政治的な主導権を握る成り行きになるわけで、何かその辺でそういう人たちが求めている正しいあり方というのが災いして、結果的にそういう人たちにとっては自業自得な状況となってしまうわけだが、そう語ってしまうと、何か過去にそういう人が求めている教条主義的な理想が実現した時期があったかのように思われてしまうかもしれないが、実際には理想が実現したためしはかつて一度もなく、いつの時代でもそういう理想主義的な傾向に反発したり嫌悪感を抱く人々が支持するいかがわしい勢力が、世の中の主導権を握ってきたわけで、またどう考えても世の中が理想主義的な傾向によって統一することなどあり得ないし、そうなるのが当然の成り行きなのだろうが、ではなぜ多くの人々がそんな実現不可能に思われる理想主義へと導かれてしまうのかといえば、人は意識的に絶えず世の中の情勢を単純化して把握しようとする傾向があるのだろうし、そこで正しいあり方というのが特定の傾向に固定されているように思い込んでしまい、そこからこうすればうまくいくという答えを求めてしまうわけで、そのこうすればうまくいくと思われるのが、世の中を特定の理想状態に近づけるような傾向に導いてしまうわけだが、それが実際にはそうなっていないことになかなか気づけない事態をもたらすし、そもそも人の心の中を覗き込むことはできないわけだから、その人が思い描く理想状態も人それぞれに微妙に違っていることにも気づきにくいわけだが、一度そういう思い込みに囚われてしまうと、過去に一度も実現したことがないのに、そして今後も一度も実現する見通しも立っていないのに、現状を人々が思い描いている共通の理想状態に近づけなければならないと思うわけで、そういうことを行うような活動のあり方が正しい行為だと思い込むわけだが、そもそも一度もそうなっていない状態の正しさを証明することは不可能だろうし、ただの推測や憶測でそう思っているに過ぎないことが、しかもその正しさが未だかつて一度も証明されていないことが、果たして正しいと言えるかというと、普通に考えればよくわからないだろうし、そんなよくわからないことを正しいと確信してしまうこと自体が、かなり怪しいとみなすしかないわけだが、そういう方面の思考が都合良く抜け落ちしている人も世の中には大勢いるのかもしれないし、またこんなふうに考えてしまうこと自体も、決して正しいとは言えないわけだから、どちらにしてもよくわからないわけで、少なくともよくわからないことを正しいと思い込んでしまうのは、間違っているとしか言いようがないだろうし、何が正しいのかがわからないのだから、民主主義の理想から求まるような特定の傾向を持った理想的な世の中のあり方が、正しいとは言えないことは確からしいのではないか。そして何が正しいとは言えないものの、なぜか間違った行為ならいくらでも指摘できるわけで、それは法律の面でも倫理的あるいは道義的な面でも、間違ったことをやってしまう人や団体が、世の中にはいくらでもいるからで、そしてそういう間違った行為をやっている人や団体を批判する人もいくらでもいるわけだが、そこからが気づきにくい勘違いが生じてしまうのであり、そういった人たちは間違った行為を批判している自分たちが正しいことをやっていると思い込んでしまうのであり、要するにそれらの人たちは、他人や他の団体の間違った行為を批判していること自体は、確かに正しいことをやっているのかもしれないが、その人たちがやっているそれ以外の行為が正しいとは言えないわけで、それが多くの人たちが気づけない盲点であり、それが勘違いの原因ともなっていて、他人の間違った行為を批判することは正しいとしても、その人がやっている他の行為が正しいとは限らず、その自身も間違った行為をやっていて、それを他人から批判される可能性があるということであり、しかも他人からそれを批判されれば、多くの場合は反発するだろうし、自分が批判している他人も、それと同じように間違いを批判されて反発しているのに、それを批判している人が、自身への批判については、それに気づけないという事態が生じていることは、やはり確からしいのではないか。


12月24日「はったりのかまし方」

 誰かが主張していることがどこまではったりであるかは、はったりをかましている当人にもわからないところかもしれないが、特にはったりをはったりだとは認識していない人は、その自覚がないだけに始末に負えない面があるだろうし、そんなはったりを信用してしまう人にも困り者感が漂うだろうが、それがはったりであるか真実であるかは、誰かがはったりをかました時点ではよくわからないだけに、他の多くの人たちも同じようなはったりをかましている現状があると、それを真実であるかのように思い込んでしまうのも無理もないことであり、実際に多くの人たちがそれを真実であると思い込んでいる時点では、他の多くの人たちもはったりではないと信じるしかないだろうし、そうやってはったりがはったりではなくなるように思われるかもしれないが、結果がその通りにはならなければ、それが大げさなはったりだったことになってしまうだろうし、そうなった時点でもはったりだとは気づかない人もいるかもしれないが、そもそも何かを主張していること自体が、その主張を強調したいわけだから、それを必要以上に強調すれば、どの程度強調すればいいのかわからなければ、必要以上に強調せざるを得ないとしても、そういった強調の仕方が誇張されたはったりとみなされても仕方のないところかもしれないが、そんな主張を受け取る側にも誇張された主張であると実感されると、はったりだと思われてしまうし、それでもはったりがばれない時点で、その主張に説得力が感じられれば、はったりではなく真実であるかのように思い込むだろうが、そういう意味では、その主張がはったりであるか否かは、主張する側ではなく、その主張を受け取る側の感覚に左右されるのかもしれず、それを大げさに感じればはったりだと思いたいし、真に受ければ真実であるかのように感じるだろうし、その程度ことであれば、人それぞれの感覚の問題でしかなく、大した違いもないのかもしれないし、それがはったりであろうとなかろうと、別にどちらでも構わないような気になってしまうかもしれないが、それを主張する側にとっては、主張すること自体にのめり込んで、何でもかんでもひっきりなしに主張するような成り行きになってしまうと、何かどうでもいいようなことまで強調せざるを得なくなってしまうわけで、それが高じて毎日のようにそんなことをやっていると、単なる騒ぎ屋に過ぎなくなってしまい、そうした強調が日常茶飯事のようなあんばいに見られて、それがはったりであろうとなかろうと、あの人またやっているよ、という感じに受け取られてしまうと、結局その主張の中身を真に受けるわけにはいかなくなってしまうだろうし、要するにそう感じられてしまっている時点で飽きられてしまっているわけだが、それをやっている当人は、それに気づかずに本気で懸命に一糸不乱にそんなことをやっているわけだから、主張している側とその主張を受け取る側とで、その主張の感じ方に関して落差が著しくなるわけだが、嘘をついているという自覚がない限りは、自らがはったりをかましているとは自覚していないだろうし、逆にはったりと自覚していない人の主張をはったりとみなすこと自体が、不当な言いがかりと受け取られてしまうかもしれないが、考えてみれば、世の中ではったりを伴わないような主張などないのかもしれないし、それをはったりとみなして否定したり批判したりするのも、あまり建設的なやり方とは言えないのかもしれないが、それであれば主張を受け取る側が、主張自体に多少のはったりが含まれていることは承知しておくしかないだろうし、そこで何がはったりであって、何がはったりでないかを見分けるというよりは、ただ主張のはったりではない部分を汲み取るしかないわけで、そういう部分を真に受けるように心がければいいのかもしれないが、そういう部分というのは、主張の中で強調されている部分よりは、主張者の意図や思惑を外れている部分があれば、たぶんそれが主張者の意識的なコントロールを外れている部分であり、それははったりとしても利用できない部分だろうし、そういう部分に真実が宿っているはずだろうが、それは主張者から出ているものではなく、主張者の主張を通して明らかになるものであり、そうであるなら主張者の主張を真に受けるというよりは、主張者の意図や思惑を外れて、主張の中に紛れ込んでいる真実を真に受ければいいわけだが、普通はそんな回りくどいことにまでは配慮できないし、主張者の意図や思惑やはったりなどがごっちゃになっている混合物を、そのままの形で受け取るしかないわけで、それをどう捉えるかは、それを受け取る側の理解力に応じて、それなりに違いが生じてくるだろうし、そういうところで主張者が何を強調しているのかを読み取るとともに、なぜ強調するのかというよりは、どうやって強調しているのかを読み取る必要があるのかもしれず、強調の仕方がわかれば、その反対に強調していない部分が明らかとなってくるのではないか。

 世の中にある様々な物事の中から強調したい物事を選ぶという動作は、絶えず自らの主義主張に合っている部分を強調して賞賛したり、合っていない部分を強調して批判するような動作も伴うだろうが、主張がなければ賞賛も批判もしないだろうし、賞賛も批判も伴っていなければ、何を主張しているのでもないことになるかもしれないが、少なくともそこに物事が存在していることは認めないと、そもそも話にならないだろうし、そこから何かを選んでそれについて語るという動作は、それを賞賛したり批判する動作を経ないと語れないかというと、そうでもないだろうし、ただそうした物事がそこに存在していることを語ればいいわけだろうが、ではそんなことを語ることに何か意味があるのかというと、それがそこに何らかの経緯を伴って存在していることを確認することに意味があるのかもしれず、また他でもなくそれがそこに存在していることの偶然の巡り合わせに驚いてみせることもできるだろうし、さらになぜそうなっているというよりは、どうやってそれが存在しているのかを説明することもできるかもしれないし、そんなふうに語れば、語っていることの意味としては、物事の存在に驚いてみたり、その存在の仕方を説明することになるから、その驚きの表現には驚きという意味が伴うだろうし、また説明の内容にもその内容自体に意味が伴うだろうし、そういう意味を伴って語っていることになるわけだが、そうした語りは語っていることの達成感以外に何か自己満足を得られるわけでもないのかもしれないが、むしろそれを受け取る側に満足感をもたらすのかもしれず、それに関しては例えばそれが存在することへの驚きに共感できるかもしれないし、さらにその説明の中に知りたいことが含まれていれば、知的探究心の面で興味をそそられるだろうし、そういう面で語っている内容に意味や意義がもたらされれば、それを語っている側にもそれに応じた満足感がもたらされるのではないか。そうやって主張とは異なる面で語る意味や意義をもたらせれば、そうした語りでもそれなりに肯定的な評価を得られるかもしれないが、その一方で主張が評価される場合だと、主張の内容に共感を得られれば評価されることは確かだが、どんなに主張の内容に説得力があっても、自らの主義主張に反していれば受け入れ難いし、評価できない反面、どんなにお粗末な主張内容でも、自らの主義主張に合う限りで受け入れやすいし、肯定されて評価されるようなことにもなるだろうし、そうなると政治的にお粗末なことを主張をする人たちが、単にその主義主張が合うという理由だけで共感を得られて登用されて、時の政権や体制内で跳梁跋扈することにもなり、またそれに反対する人たちの中でも、単純明快な反対意思を示すだけの著名人が反対派のリーダー格に祭り上げられて、そんな反体制派の中でも跳梁跋扈することになるわけだが、そうやってどちらでもお粗末なことを述べているから、それなりに均衡がとれているわけで、そんなお粗末な人たちが通用する世の中になってしまうと、そこで体制側と反体制側との間で予定調和の二項対立が成り立つわけだが、どちらの側でも大げさに自分たちの主張を誇張して宣伝したり煽動するので、実質的にはそれらの主張がはったりとして機能するだろうし、それがはったりであるだけに、実情と比較してだいぶ大げさに語られているわけで、その分がバブルとなって情報が膨らんでいるだろうし、膨らんでいる分は実情を反映していないわけだから、虚構になるだろうし、それを受け取る側がそうした虚構の部分を真に受けると、そこで思い違いや勘違いが生じてくるのだろうが、だからといってそんなに状況が深刻な程度を示しているのかというと、そうでもないわけで、もとから主張が誇張されているわけだから、語られている程度も誇張されていて、それが深刻だと感じられるなら、事の深刻さも誇張されているわけで、そうやって何もかもが誇張されると、それが実態を反映していないわけだから、そんな誇張表現自体が信用できなくなるわけで、そこで表現のインフレーションが起こっていて、もはやそうした誇張表現には実感が伴わないから、いくら大げさに騒ぎ立てられても驚かないし、そういう毎度おなじみの危機感の煽り立てには感覚が慣れてしまって、不感症に陥ってしまうだろうし、結局は飽きられてしまうわけだが、それでも煽り立てている側は、意外にも自分たちが飽きられていることに気づけないのかもしれず、そこでも煽り立てる行為自体に慣れが生じていて、もはや何でもかんでも煽り立てるのが当然のように思われてしまうわけで、煽り立てている当人はそれほど大げさに煽り立てている気がしないのに、それを受け取る側には何か不自然でわざとらしい煽り立てを繰り返しているように感じられてしまい、何かそこで感覚に狂いが生じているように思われてきて、それが繰り返されるほど、次第に疑念が募っていって、そういう煽り立てには同調できなくなってくるのかもしれず、それでも煽り立てている側には、麻薬のような煽り立ての常習作用が生じているとしても、それを受け取る側にはそうした麻薬の作用が伝わらなくなってくるのかもしれないし、なぜそうなるかは単に演じている側とそれを観ている側とで、力の入れようが極端に違うからかもしれないが、そうやって煽り立てている側とそれを受け取る側との間で著しい齟齬感がもたらされると、そこでバブルが弾けてしまうのかもしれないが、そうしたバブルの崩壊がいつやってくるかは、そこに関わっている誰にも予測がつかないことかもしれない。


12月23日「危機感を煽る狼少年たち」

 世の中にはうまく説明できない現象があることは、誰もが何となく理解しているところかもしれないが、それに関して回りくどい言い回しを用いて説明すると、かなりわかりにくくなってしまうのは承知していても、できるだけ詳細に説明しようとすれば、結果的にも回りくどい言い回しになってしまうことがあるかもしれないが、そうすることによって他の誰かに配慮しているのかもしれず、しかもそれを配慮している誰かに、配慮していることを悟られないように語っている場合もあって、そんなことをやっているうちにも、そうした言い回しが誰に向かってなされているのか、はっきりしなくなってしまうのかもしれないが、本当は誰に向かってそんな配慮をしているわけでもなく、それを強いて挙げるなら、誰でもない誰かに向かって配慮しているように装っているのかもしれず、要するにそれを強いて挙げること自体が無意味な行為となってしまうようなことを語っている場合もあるわけで、そうやって意識の中では誰かに配慮しつつも、結果的にはそんな配慮自体が何でもないようなことになってしまうのを承知で、そんなことを語っていて、それでは何を主張しているわけでもないような内容となってしまうのかもしれないが、実際に何も主張していないようなことでも語れてしまい、それが主張になっていないからといって、特に気にするわけでもない場合もあるのかもしれないが、何かを主張しないと気が済まない人にとっては、それではまずいわけで、とにかくはっきりとわかりやすく説明しないと、誰もわかってくれないような気になってしまうのかもしれないが、そんな気になってしまうと、何だかわからない曖昧な部分を切り捨てるような成り行きになってしまうかもしれないし、そうやって贅肉を削ぎ落としてシェイプアップしてしまう場合もあるわけだが、確かにそうした方がわかりやすいだろうし、そうした主張の方が他からの支持が多く集まるかもしれないが、別に他から支持を集めなくても構わないような場合もあるだろうし、また愚かな人たちからいくら多くの支持を集めても、愚かなことには変わりない場合もあるのかもしれないし、そんなことまで考慮すれば、そういうところで何をどう主張すればいいのかわからなくなってしまうかもしれないが、たぶんそうなってしまう事情やそうなってしまった条件を無視するなら、何をどう主張しても構わないのだろうが、普通はそんな説明や主張にも、その人が囚われている事情や条件が無視できない作用や影響を及ぼしていて、そんな事情や条件を考慮した説明や主張を行うように仕向けられるだろうし、それを無視したりそれに逆らうような説明や主張を行なってしまうと、周囲の人がそういった説明や主張には違和感を覚えたり、不自然に思われてしまうわけで、そうなると何か場違いな説明や主張をしているように思われて、結果的に支持を得られない可能性も出てくるわけだが、逆にそんな周囲から支持を得られないような主張の方が、かえって物事の本質を的確に捉えている場合もあるだろうし、しかもそれが周囲の人たちには当然だと思われている先入観や固定観念には囚われない主張になっている場合だと、支持されるどころか、場合によっては周囲の人たちから猛反発を招くこともあるだろうし、できればそういう事態にはならないようなことを主張しようとすれば、それがその場の事情となり、猛反発を招かないような条件となるわけだが、なぜそんなことを考慮しなければならないかといえば、周囲の人たちから支持を取り付けたいから、そういった周囲の人たちも納得できるような無難な主張になるように心がけるのだろうが、そうなると果たしてそんな周りの誰もが納得できるような主張を改めて行う意味があるのかとなるわけだが、功利的に周囲の人たちから支持を取り付ける必要があれば、そういう主張をせざるを得ないし、例えば選挙でそういう無難な主張を繰り返している人が、多くの人たちから支持を集めて当選すれば、誰もが安心するだろうし、そういう意味での功利性には多くの人が妥当性を感じるのだろうが、結局のところそれで何がどうなるのかといえば、現状を維持するような成り行きになるわけで、実際にそうなってしまうと、何かを主張しないと気が済まない人にとってはまずいわけで、そういう人は何よりも、そういう現状を変えようとして、何か現状を変えるようなことを主張しようとするわけで、だから誰もがわかるはっきりとした物言いで、現状を変えるにはどうしたらいいのかを説明するわけだが、そうなると現状を維持するのが当然だと思っている、既存の先入観や固定観念に囚われた人たちから猛反発を食らうのはわかりきったことであり、普通はそこで困難に直面してしまうわけだが、そうした困難を打開するには、猛反発している人たちを説得して、それらの人たちから支持を取り付けるような成り行きに持っていかなければならなくなるのだろうが、果たして現状維持にこだわっている人たちを納得させるにはどうしたらいいかとなると、やはりこのままでは大変なことになる、という危機感を煽る成り行きになってしまうわけだ。

 そうやって多くの愚かな人たちが危機感を煽る狼少年と化すわけだが、誰もが危機感を煽っているのに、いつまで経っても何も起こらないままだと、次第に狼少年たちの主張が信用されなくなって、ますます現状維持に拍車がかかっていくわけだろうが、現状維持に固執している人たちにとっては、それ自体が好都合な状況なのだろうから、結局危機感を煽る狼少年たちも現状維持に貢献することになってしまうわけで、彼らの何が間違っているのかと言えば、普通に考えるなら危機感を煽ること自体が間違っているわけだが、彼らにとってはそれが正しい行為であり、そうしないと彼らは狼少年にすらなれないわけだから、どう考えても正しいことをやろうとするなら、危機感を煽らざるを得ないわけで、危機感を煽るという行為すらが、それが正しい行為であるという意味で、その場での事情や条件に適合する行為なのであり、彼らは彼らで、これこれこういう事態になれば危機感を煽らざるを得ない、という先入観や固定観念に囚われているわけで、彼らにとっても、それと自覚することなく、そういった危機感を煽らざるを得ない現状を維持したいのだから、彼らと対立する現状維持に固執している人たちとは別の意味で、現状の維持に固執しているわけだ。だが意味が違うとしても、結果的に対立する双方の行為によって現状が維持されるなら、やはりそうした現状の中で構成される対立は、予定調和の二項対立となってしまうわけで、そこに現状を変えようとする人たちのジレンマも構成されてしまうわけだが、そうした状況や成り行きから抜け出るにはどうしたらいいかとなると、少なくとも現状で正しいと思われる行為をやってしまうと、それが現状からもたらされる先入観や固定観念に囚われた行為だから、現状維持に貢献してしまうわけで、では間違った行為をやればいいかとなると、そんな行為をやってしまうと、現状の中で先入観や固定観念に囚われた人たちから信用されなくなって、それらの人たちから支持を得られなくなってしまうだろうし、ならばどうすればいいのかというと、正しいと思われる行為でも間違っていると思われる行為でも、どちらもやっても構わないのかもしれず、それは自らの判断でそんなことをやるのもいいだろうし、他の何らかの勢力から影響を受けてそんなことをやるのもいいだろうし、その場の成り行き応じてそんなことをやっていればいいのかもしれないし、特にそれに関しては、その場で生じている事情や条件を考慮しながら行えばいいのではないか。だがそうなってしまうと、結局誰もがこれまで通りに振る舞っていればいいことになってしまうわけだが、たぶんそうした自らの振る舞いを自覚することが肝心であり、自覚している限りで、自らがどんな先入観や固定観念に囚われているかを探るような成り行きになるだろうし、それらに囚われてしまう事情や条件もわかってくるかもしれないし、そうなれば果たしてこれでいいのかと自問するようにもなるだろうし、そうなると今までは気づかなかったことに気づける可能性も出てくるのかもしれず、実際にそうなれば、今まではそれに気づかなかった状態から気づくようになった状態へと変化していることになるわけで、それが現状維持とは違う成り行きであり、そうなることによって現状維持から脱却したことになるのではないか。もちろん誰もがそうなるとは限らないし、それらに気づいたところで、今ままで以上に、そうなっている状態の良さを改めて実感することになって、そこからさらに頑なにそうなっている状態に固執するような成り行きに囚われてしまう人も出てくるかもしれないが、それも現状とは違う状態へと移行したことになるだろうし、現状より一層強固な現状へと変化したことになるわけだが、また中にはそうした現状の把握自体が間違っている場合もあるわけで、それが思い違いか勘違いか見当違いかは、様々な間違いがあるだろうが、たとえそれが間違っているとしても、そうした間違った現状認識によって、現状から間違った方向へと逸れていってしまうわけで、それも現状からの変化を招くわけだが、そんなふうにして、現状を自覚することによって、それが正しい現状認識をもたらすにしても、間違った認識をもたらすにしても、誰もが同じような傾向の認識に至るとは限らないわけで、人それぞれに現状の把握にずれが生じると、そこからもたらされる認識にもずれが生じて、そういった把握や認識のずれから、現状とは方向も傾向も違う様々な状態へと人の現状が移動してしまう可能性があるわけで、そういう意味では、自らの現状を把握したり認識したりすることによって、要するに己自身を知ることが、現状からの脱却を促す可能性があるわけだが、もちろんそれだけが全てではなく、他のやり方もあるのかもしれないが、多くの人たちがそれと自覚することなく、それを自然に行なっている可能性もあり、改めてこんなことを述べるまでもないことかもしれないが、他人を動かそうとするあまり、自分自身の現状把握がおろそかになっているのはよくあることで、しかもそんな自分の状態が、他人や他の集団や勢力などを含んだ社会全体から作用や影響を及ぼされた結果、他人を動かすように促されている場合もあるわけだから、それは自分だけのことではなく、広く社会全体から成り立っているようなことでもあり、己を知ることが、己だけを知ることにはならず、絶えず他の誰かへの配慮につながってしまうことは、自覚しておいた方がいいのかもしれない。


12月22日「語れる可能性」

 何か興味深く思われるような物事には、たとえ用意周到な戦略を立てて、細心の注意を払いながら、集団で組織的な役割分担を決めた上で関わってみても、何か特有の捉えどころのなさがついて回るのかもしれず、そんなところに気をとられていると、気づかないうちに物事自体から思いがけない作用や影響を及ぼされて、一瞬たじろぐこともあるだろうが、次の瞬間にはそうした作用や影響に逆らう形で、他の物事からもたらされた印象と比較することによって、自身の納得できる印象に物事を染め上げようとして、その染まり具合によって、その物事との距離が生まれ、距離が近いほど関わっている物事にのめり込んで、心身ともに依存してしまうわけだろうが、そうなるのが当たり前の成り行きだとしても、のめり込み過ぎて適度な距離を保てなくなると、適度な距離というのがどの程度なのかも微妙なところだが、特定の物事との距離が他の物事との距離に比べて著しくバランスを欠いてしまい、それが影響して他の物事との間でもちぐはぐな対応を余儀なくされて、そうなると総じて物事とそれに関わる人との間で均衡が崩れて、物事の把握や捉え方に狂いが生じてくるのかもしれないが、それ以前に元から狂いが生じている可能性もあるだろうし、何が狂っていて何が正常であるかも、その境界は微妙なところで、狂って見えるからといって、それを否定的に捉えるわけにもいかないのかもしれず、また正常に見えるからといって、安心できるわけでもなく、そういうところであまり早計に白黒をはっきりつけるべきではないのかもしれないが、たぶん物事に対して正しい認識や判断を持ち合わせていると思っている人ほど、あまりにも性急に結論を下してわかったつもりになってしまい、その中でも曖昧で物事の白黒をはっきりとはつけられない地帯から、急いでその身を引き剥がそうとしてしまい、そういう地帯に辛抱強くとどまっていないと見えてこないものを見ようとしなくなってしまうのであり、要するにそれだけ見切りが早いのだろうが、それが早すぎるようには見えないところが、その人の分相応な技量を物語ってしまうわけだが、それとは逆に、意識して、あるいはそれと自覚することなく、興味を抱いた物事に軽く触れる程度で済ますような戦略もあるのだろうが、そうではなく、それでわかったような気になっているように見えてしまうところが、分相応な人に特徴的な浅はかさとなってしまうわけで、そういう人は、オレは何でもわかっている、と虚勢を張っているようにも見えてしまうわけだが、そういうところでその人が何にのめり込んでいるかというと、物事に関して物語ることができるという確信にのめり込んでいるのかもしれず、そこに物語ることができない部分があることを、わかっていないわけではないだろうが、そういう部分への目配せを欠いているから、急いで表面的で単純な理解を示して、それで済ませてしまっているように見えてしまうわけだが、それに対して、興味を抱いた物事に軽く触れる程度で済ますことを戦略的に実践している人は、オレは何でもわかっている、とは見えないような配慮を伴っているわけで、そういう人は自らが理解できないことまで含めて示すだろうし、しかも理解しようとして失敗していることすらも物語るわけで、そうやって逆説的に、物事には物語ることができない部分も、理解できない部分もあることが示されるわけだろうが、それは別にその人の物語る能力や理解力が劣っているからではなく、細心の注意を払いながら詳細に物事を分析してみた結果として、そういう部分が浮き出てくるように見せかけるわけだから、実質的にはそれが興味を抱いた物事に軽く触れる程度で済ましているはずがないわけだが、どうもそういったところでその人の戦略に上手く騙されているようにも感じられるかもしれないが、それがその人が関わっている物事から及ぼされる思いがけない作用や影響に対処した結果なのかもしれず、物事に深くのめり込まずに、軽く触れる程度の対応に見せかけていること自体が、戦略的な倒錯だと言えなくもないし、そうやって深くのめり込んで物事の深淵を覗いたつもりになっている人たちを、あざ笑っているわけでもないのだろうが、視線の届く範囲は物事の表層に限られるだろうし、その表層を切開してみても、その下には別の表層が見えてくるだけで、そういう意味では物事に深淵などなく、それがあると思ってしまうこと自体が、その人の空想であり、そんな空想に深くのめり込むと、空想が妄想に変わるかもしれないが、変わったところで見えているのは相変わらず物事の表層に過ぎないのかもしれず、それを表層と喩えるのも、一種のごまかしに思われてしまうかもしれないが、それでもそんな表層にはまだ語っていない部分も、語り得ない部分も残されている可能性があるだろうし、それを言葉で表現すること自体に無理な部分があるのかもしれないし、そうした物事の表層に関して語れる可能性がある限りで、語れる範囲内で語ろうとするとともに、語りようがないが部分も示すことによって、語っていることが全てではないことを理解して、そうした不確実で不完全な語りから、物事の全てはわからないにしても、少なくとも語っている対象がそこにあること自体は理解できるのではないか。

 もちろんそれで物事を完全に理解したことにはならないかもしれないが、完全には理解する必要もないのかもしれないし、理解できない面がある限りで、わかったつもりにはなれず、物事には理解できない面があることを認識しておく必要が出てくるわけで、たぶんそれは今後に向けて考える対象となる可能性を示していて、その場ではわからなくても、後になってわかってくる可能性もあるわけだが、相変わらずわからないままでも構わないわけで、また無理にわかろうとしなくても構わないのかもしれず、さらにそれが考える対象ともならなくても構わないわけだ。たぶん物事にはそういったどうにもならない面があって、その人の技量を超えることについては、その人には太刀打ちできないのかもしれず、それがその人の思い通りにはいかない成り行きを示していて、関わろうとしても関われない部分ともなるわけだが、それもその時点では無理であっても、後になって関われるようになるかもしれないし、また関われないままとなってしまうこともあるだろうし、どうなるかはその時点ではわからないことでもあるわけだ。そんなふうにしてその時点でのその人の関われる限界が認識されるのかもしれないが、それでもその人がそこで何かをやっている実態がある限りで、関われる部分で何らかの物事に関わっていることも確かであり、それがその人が関わっていることの全てではないかもしれないが、その人が把握している限りでは、その人が関わっている物事から、その人の活動が生じていることを意識できるだろうし、そうした活動の中でその人の現状認識の確かさがそれなりに実感されているだろうし、それを認識している限りでは、その人の活動が成り立っていることにもなるわけだろうが、そこでもそれが全てではないだろうし、その人の認識できないこともその人の活動には含まれていて、それがその人が理解している範囲から外れているとしても、結果的にはその人の活動を支えている可能性もあるわけだから、そういう意味でその人が抱いている実感が、その人の現状認識とともに、その人の活動の全てを物語っているとは限らず、絶えずそこから外れる部分で、その人の実感や認識を裏切るような事態が起こっている可能性があり、それをその人が実感できなくても認識できなくても理解できなくても、その人の活動に含まれる部分として、その人の活動の一部を構成していて、それがその人の抱いている感覚を狂わしている可能性もあるだろうし、狂っていると実感できなくても、何が正常なのかわからないような捉えどころのない状況の中で、その人を悩ませ苦しませているのかもしれず、そういった作用や影響が、当のその人が関わっている物事から及んでいる可能性まであるわけで、そういった物事の実情について、それなりに思考をめぐらせれば、めぐらせた分だけわかったつもりにはなれるが、それをどこまで理解しているかは、当人には判断しようがないかもしれないし、判断を要することでもないのかもしれないが、そんな物事に関する理解に応じて、それなりの物事についての認識がもたらされることも確かで、それがその人が持ち合わせている物事に関する知識となるわけだろうが、そうした物事について語る上で、持ち合わせている知識以上のことが語れるかといえば、新たに調べれば調べた限りで、それなりに知識量が増えるにしても、それとは気づかずに知識とは違うことを語っている可能性もあるわけで、知っていないことまで語らされている可能性まであって、それがその場の思いつきを超えているとすれば、それはそこで組み合わされた言葉の連なりがその場で再構成されて生じるものだろうし、一般的には語りというよりは記述によってそういう事態が生じるのだろうが、語れないことが記述によって可能となるかというと、記述は記述としてそういう可能性を孕んだ行為だろうし、何かについて記述していくうちに、記された文章が記述している人に語りかけてくる場合があり、それによって新たな理解に至る場合もあるだろうし、そういう意味では記された文章を読み返すことによって、そこに記された知識を再発見してしまうわけで、それが記している人から生じているものではない可能性があるわけで、そこに意識では把握できない何かが含まれていて、それに関して記述している人ではなく文章が語っている場合があるわけで、そうした内容を意識が文章を読み返すことによって発見できるとしたら、自身が文章を記述することでさえも、自意識には完全には把握できないこととなるだろうし、そうした記述された文章からも、意識が作用や影響を及ぼされているわけだが、そこで何に気づいて何に気づかないとしても、気づいていないところで文章を記している本人を裏切っている可能性もあるわけで、そのもっともわかりやすい例が、書き間違いに気づかないことだろうし、それを後から読み直してみると、間違いだらけの文章となっていることがよくあるわけで、そんなふうに記したはずがないのに、思わぬところで間違えていると愕然とするわけで、後からそれを読み返してみて、単なる間違いからおかしな表現までできる限りで直してみても、さらに読み返すとまた間違っている箇所を発見してしまうわけで、そんなことの繰り返しの末に何とかそれなりに納得できる文章が完成しても、そこから間を置いて読み返してみると、さらにおかしな箇所を見つけてしまう恐れもあるから、そうした行為は際限のないとりとめのなさをもたらすわけだ。


12月21日「素人による統治」

 統治というのは、国家統治にしても企業統治にしても、権力の行使などを通して、統治すること自体に無理な負荷がかかってくる場合があるわけだが、統治しないと集団としての組織形態を保てないわけだし、そうしたやり方自体に少々無理な面が出てくるかもしれないが、成り行きとしては、組織が大規模になってくるに従って、そういうことを専門に行う機関が必要となってくるわけだ。またその一方で、国家統治に関しては素人の国民が統治に関与するような仕組みが、民主主義の制度として一応は確立されているわけだが、企業統治に関しても素人で専門外の人たちが経営に関わるために、株式会社の制度が一応は確立されているわけで、どちらにも素人で専門外の人たちが、専門家集団である集団的な組織形態を統治することができる仕組みとなっていて、それが専門馬鹿の人たちに好き勝手なことをやらせないための歯止めとして機能しているはずなのだが、そこから何が言えるかといえば、統治とは場合によっては素人でもできる程度のことであり、統治自体が専門職となってしまうことを防ぐ意味合いが込められているわけだろうが、そういう点を専門家気取りの人たちは理解できないだろうし、実際にも功利的な観点からは、統治には統治の専門家が適任だと思われてしまうわけだが、そういう傾向に行き過ぎてしまうと、一般の素人が統治の場から締め出されて、特定の勢力による支配に従属するような成り行きになってしまうので、そうなるのを防ぐためにも、選挙で選ばれた素人が国家統治や地方自治に関与したり、株主総会で選ばれた素人が企業経営に関わったりする制度になっているわけだろうが、どちらにしても制度的には素人が代表者に選ばれる可能性がある限りで、そういう門外漢が専門家集団の上に立って統治を行う可能性が出てくるわけだ。それが意味するところは、統治の専門家という立場や役割が生じてはまずいのかもしれず、統治自体がそれを専門とする分野になってしまっては困る事情があるから、そういう制度や仕組みが発展してきた経緯があり、実際に素人でも構わないとなると、当の門外漢の素人の方でも心配になってしまうかもしれないが、選挙によって選ばれるぐらいだから、それなりに大勢の人をまとめ上げるだけの人望や求心力があるということだろうし、そういう人が統治者になれば、実際にそれを支持する人も結構いることにもなり、だから選挙で選ばれたわけだから、そういうことを考慮に入れるなら、そんな人材が統治者としては適任に思われるのかもしれないが、株式会社の方は、もっと事情が複雑で、株を多く持っている人や団体の意見が優先される傾向になるわけで、それも特定の人や団体の持株比率が著しく偏っている場合にはそうなるだろうが、特に目立った偏りがなければ、株主の総意が経営陣を支持している限りで、統治している側の独立性が保たれるのだろうし、そうなると創業者の一族からだけではなく、会社の従業員の中から出世して経営陣に加わるような成り行きも出てくるだろうし、会社の方でも初めから幹部候補生のようなエリートを育成するシステムにしている場合もあるだろうし、そういう人たちの中から企業統治の専門家のような役割を担う人材が出てくるのだろうが、実態としてはそうだとしても、他にも外部から株を買い占めて経営に参画してくる勢力もあるわけだから、そういう面ではこれといってはっきりとした企業統治のあり方が定まっているわけでもなく、それなりに正当な手続きを踏めば、特に経験のないような素人でも経営者になれる可能性があるわけで、そうなっても実際にやってみてうまくいかなければ、業績が悪化すれば企業自体の存続が立ち行かなくなってしまうわけだから、その責任をとって辞めるような成り行きにもなるだろうし、それに関して外部からどうこう言われる筋合いはないのかもしれないが、その企業の規模が大きくて、その動向がそれなりに世の中へ影響を及ぼすように思われるなら、中には経営の実情に関してメディア上で言及するような人も出てくるだろうし、それも誰が何に関してどう言及しようと、言及してくる人の勝手でしかないだろうが、その企業がどうなろうと、関係者にならない限りはどうすることもできないだろうし、世の中には同業他社がそれなりにあるわけだから、その企業で何が問題となっているとしても、他の企業ではそうした問題はないかもしれないし、それに関してはその企業に関わってくる人や団体の間で、それなりの対処が行われて、その結果として何らかの事態の推移が起こるだろうし、それが世の中にどのような作用や影響を及ぼすとしても、一義的にはその企業の問題でしかないわけだが、そもそも政府や企業などの集団的な組織形態の統治の仕方が、大してうまくいかなくても、どうということはない世の中の状況なのかもしれないし、うまくいかないなりにも、それを専門とする関係者ではなく、それ以外の一般の素人が関わってくるような隙が適度に生じている方が、外に向かって閉鎖的な参謀本部のような専門家たちの暴走を防ぐ効果があるのかもしれない。

 要するに組織自体はいくらでも駄目になってしまっても構わないのかもしれず、実際にも駄目になって立ち行かなくなってから、また性懲りもなく組織を再編成するような成り行きが生じるわけで、そんなことを繰り返して行く過程で、外部から様々な人や団体がそこへ介入してくれば、そんな過程自体が組織の新陳代謝となるわけで、そういった過程を絶えず繰り返しているのが、集団的な組織形態の特性であり機能だと捉えておけばいいわけで、その中で何が良くて何が悪いとか、いちいち立ち止まって指摘している場合でもないのかもしれず、そんなことを指摘している間にも、どんどん新陳代謝を繰り返してしまうのかもしれないし、そうやって過去の経緯などなかったことになってしまうのかもしれないが、そんな無責任な成り行きの中で一時的に誰が主導権を握るとしても、そんな誰かも一定の期間にわたって役割をこなせば、別の誰かにその役割を引き継ぐことになるのかもしれないし、それが何か意味のあることだとは思えない場合も結構あるだろうし、そうした組織的な活動形態自体が、その中で働く人が誰でも構わないようなシステムになっていることが、それ自体の存在意義とも受け取られてしまうのかもしれず、そこで一定期間にわたって主導権を握った人がどんなことをやっても、そんなことをやった結果がその人の身に降りかかってきて、そうした行為が組織にとって不要となれば、そこまでに至った経緯がどんなものであれ、その人が過去の業績にどのような貢献をもたらしたにしろ、そこから退場する成り行きに持って行かれてしまうだろうし、その際に退場の仕方がどのような成り行きを伴うにしても、その人が組織にとってもはや要らない存在となってしまったからには、退場の流れを押しとどめることは難しいのかもしれないし、また性懲りもなく戻ってくる場合があるにしても、それも新陳代謝の一環でしかないだろうし、どんなにそうなった経緯が正当化し難いような成り行きを伴うにしても、いったんそうなってしまえば、それはそれで済んだことになってしまうわけで、そこで当事者ができることは、そんな事態を踏まえて、そこからどうするかということになってしまうだろうし、そういう意味でそこで生じているのは後戻りが利かない成り行きなのかもしれないが、それが取り返しのつかないことだからこそ、済んでしまったことは用済みのことでしかなくなってしまうわけだ。そうやってそれに関わった人もその人が関わった物事も用済みとなってしまうわけだろうが、いつまでもそんな用済みの事案にこだわっているわけにはいかないだろうし、さっさと適当にけりをつけて、その先へと進むような成り行きへと持って行きたいのだろうし、実際に誰が急かしているわけでもないのに、時間の経過が全てを過去の出来事へと押しやってしまうわけで、それと同時に人を過去へ振り向かせないような圧力もどこからともなく生じてくるだろうし、それが同調圧力とは違う忘却圧力なのだろうが、中にはそんな圧力に屈しないで、いつまでも根に持っている人もいるだろうが、時にはそれが怨恨となって、それらの物事の未来の行方をそれなりに左右するにしても、作用を及ぼしてくるのはそれだけではないだろうし、中にはそれよりさらに強い作用も及ぼされてくるわけで、それが物事を前進させる圧力でもあるわけで、放っておいてもそこで立ち止まったままではいられず、何よりもそこから時間が経過してしまうわけだから、それだけ未来へと前進してしまっているわけで、しかも前進するに従って過去の経緯がそれだけ増えていってしまうわけだから、そうした過去の経緯がどれほど些細なものであろうと、過去の経緯には変わりなく、そんな過去の経緯の中でどれが印象深く、どれが重要に思われても、それらも過去の経緯の中の一挿話を成すに過ぎないだろうし、そんな挿話が今に続いているにしても、そこからさらに続く保証はないだろうし、現に人も物も絶えず組織的な新陳代謝に伴って交代していってしまうわけだから、いつまでも過去の経緯を引きずっているわけにはいかなくなるだろうし、引きずる人がいなくなってしまえば、それ以上は尾を引かないわけで、それでも政府や企業として存続していれば、時には過去の経緯について何らかの処置を施さなければならなくなる場合もあるだろうが、それも現状でできる範囲内でやれることしかないだろうし、それ以上は望めないのは、過去の経緯を持ち出してくる人や団体にもわかっていることであり、そうした事後処理を済ませてしまえば、それでその件は用済みとなってしまうだろうし、用済みとならなければ、今も継続中の事案となるしかないだろうが、結局それも、それだけが全てはないわけだから、それとともに別の事案にも対処していく中で、どの事案も相対的なことでしかなくなり、それ以上に重要に思われる事案が出てくれば、今度はそれが優先的に扱われることにもなるだろうし、そうやって集団的な組織形態の中では、それ自体を統治する上で、次々に生じてくる問題に逐次取り組むような成り行きになってくるわけで、そうした取り組みの中で、取り組んでいる個々の事案について、特定の事案だけにこだわっているわけにはいかなくなるだろうし、他の事案と並行して対処するような成り行きの中で、どの事案を最優先させるにしても、そうした優先順位そのものが、いつまでも固定しているわけでもなく、たとえ取り組んでいる期間に違いがあっても、その他にも様々な事案が出てくるわけだから、その度に優先順位は絶えず変動を被るわけで、またそうやって優先する課題が変動している限りで、そうした取り組むべき事案や課題が相対的な優先度を伴って変動していくわけで、そうなっている限りで、それらの中で何が本質で何が枝葉末節なことだとも言えなくなってしまうのではないか。


12月20日「資本の論理」

 普通に人が好感を抱く対象として、きれいに見えるものがあるだろうが、それに関して例えば、一見きれいに見える光景には、きれいに見える位置より、もっと近づいたり遠ざかったりして見ると、汚いところやありふれたところなどが結構それなりに見えてくるのかもしれず、その対象がきれいに見えるには、対象との間できれいに見えるために、ちょうど良い距離や角度や光が当たる方向などが必要であったりして、そのもの自体の全てがきれいに見えているわけではない場合があるわけだ。そんなふうにしてものがきれいに見えるために必要な条件が定まってくるのかもしれないが、何がきれいに見えるかについても、人によってある程度の違いがあって、そこにはそれなりにその人の思い込みが影響してくるだろうし、またそんな思い込みが形成される過程で、他から様々な要因が作用や影響を及ぼしてくるし、例えば周囲の人々との協調関係によって、何がきれいに見えるかをめぐって感覚のすり合わせが行われていると、それらの人々の間では特定の対象がきれいだと思い込めるような社会的な先入観や固定観念が、集団意識の中で形成されている場合もあるし、またきれいだと思える感性についても、時代的あるいは地域的にそれなりの偏差が伴ってくるかもしれないし、きれいだと表現される対象にも、それなりの差異が生じてくるわけだ。さらに何によって差異や偏差が生まれるのかも、人の感覚やその時の社会情勢やその場の環境などによっても、それなりに違いが現れるかもしれないが、きれいに見える対象の選び方や、その取り扱いにも差異や偏差が生じるだろうし、そういった差異や偏差の程度によっても、きれいという表現の意味合いが異なってくるかもしれないが、普段はそれらの違いを強調するような成り行きにはなっていないだろうし、ただ漠然と眼に映るものをきれいに感じて、それだけで済んでいるうちは何の問題もないわけだが、例えばきれいの反対の概念である汚いとの関連で、特定のものについて、きれいと汚いの判断をはっきりさせてしまうと、汚いとみなされたものに関わっている人や団体からの反感や反発を招くだろうし、そういう意味ではきれいという表現を使いたいなら、きれいという肯定的な表現の使用だけに終始していればいいわけだが、きれいという状態や状況に必要以上にこだわってくると、その反対の汚いという状態や状況と比較して、きれいな状態や状況を強調しようとしてくるわけで、そうなると程度や度合いの感覚が、通常の水準から外れてきて、通常の感覚では大して違いを感じ取れないようなものでも、きれいだと強調してみたり、大して汚いわけでもないものを汚いと強調してみたりして、そうやって大した違いもないのに、大げさな強調が伴ってきてしまうわけだが、果たしてそうまでして強調する意味や意義があるかというと、強調している意識の中では、それなりに意味や意義を自覚しているかもしれないが、他人にとってはそれほどでもない可能性があるわけで、そうした対象の比較自体に興味を抱けなければ、どうでもいいことになってしまい、他の多くの人たちもそう感じれば、そういう大げさな強調が不発に終わってしまうわけだが、それでは困るような事情があるなら、他の人たちにも大げさに思わせるような工夫を凝らして、メディア上で派手な宣伝や煽動を仕掛けてくるわけで、そうやって何か特定の対象をきれいだと思う先入観や固定観念を、多くの人の意識に植え付けることができれば、そういう成功に目をつけて、そこから何らかの利益を得られるようなシステムを構築しようとする人や団体も出てきて、そういった活動が何らかの産業分野として確立することになるわけで、そういったものの典型例が化粧品や美容やファッション関連の分野なのだろうし、実際の成り行きはもっと複雑な過程を伴っているのだろうが、人の嗜好に関して肯定的な先入観や固定観念がはっきりしているところでは、その対象となるものを提供するような産業が成り立つ可能性があるわけで、その手の嗜好品やサービスがより多くの人に共有されるほど、それを提供する産業の規模もそれだけ大きくなる傾向があるだろうが、そうであるにしても、人が生物として生きていくのに必要な物資ではなく、そういった楽しみや喜びの対象となるものを提供するような産業の確立や発展には、多くの人が抱く共通の先入観や固定観念が必要となるところが、何か微妙で怪しいところであり、そういった本当に人にとって必要かどうかもわからないものを提供するために、それ相応の資源や人員や労力や手間暇を必要としていて、そういう面を考慮に入れると、人が生活していく上で、真っ先に思いつくような便利さや効率性などと並んで、無駄であったり非効率であったり不便であったりするものも、時として必要になってくるわけで、普段はそういったものが否定的に見られているとしても、楽しみや喜びをもたらすには、無駄で非効率で不便な思いをするような過程を通る必要が出てくるのかもしれない。

 もしかしたらそういった人々に楽しみや喜びを与える物事として、メディア上で盛んに喧伝されるものほど、その実態は無駄や非効率や不便を強いるものである可能性があるのかもしれず、それが良いものであるような先入観や固定観念を人々の意識に植え付けないと、世の中に広く肯定的な対象として受け入れられないようなものだとすれば、何か不条理で倒錯した印象を抱くかもしれないが、全ての喧伝対象がそうであるわけでもなく、中には安さや便利さや効率性を売りにした商品やサービスもあるはずだろうが、価格の高い高級品や高級なサービスであるほど、それを手に入れたり利用するには、余計な手間暇を要する場合があるだろうし、普通の労働では、価格が高ければそれだけ余計に働いて資金を貯めないと買えないし、そういう意味では余計な手間暇がかかるかもしれないが、資金を貯めるのにも様々な方法があるから、一概には言えないところかもしれないが、価格の高い商品ほど、その製造には余分に手間暇がかかっているだろうし、また高級なサービスであるほど、手間暇をかけて入念な仕込みや準備をして、時間をかけて丁寧なサービスを心がける場合が多いだろうし、そういった他とは一味違った商品を手に入れたりサービスを提供されると、それだけ優越感に浸れるし虚栄心も満足させられて喜ばれるだろうし、それによって無駄な時間を過ごしたり、非効率なやり取りを経たり、不便な思いを強いられるとしても、それに見合った対価を得られたように感じられるわけで、そういった無駄で非効率で不便な体験をありがたがってしまうこと自体が、メディア上で行われる喧伝から影響を受けて形成された先入観や固定観念に基づいているとすれば、それがそうやって不必要に強調された価値となって、その人の感覚を狂わせているのかもしれないし、多くの人がそうした商品やサービスに価値があるように思い込まされていることが、そうした商品やサービスによって余分に利益を上げている企業の思う壺な成り行きをもたらしているわけだろうが、そうした価値観を世界中で喧伝しまくっているのは、主に欧米の企業であり、そうした傾向につられて日本や中国やインドや韓国などでも追従する動きがあるにしても、どうも資本主義のまやかしというのが、そういった傾向の中にあるのかもしれないし、確かに産業の発展によって、安くて便利で効率的で迅速な傾向の商品やサービスに心を奪われている面があるにしても、そういった商品やサービスは世の中に広く普及するほど、薄利多売の傾向を示してきて、そうなると味も素っ気もない粗末な商品やサービスになってくるわけで、それでもファストフードなどのように、それほど不味くて食えないような代物でもないが、そういうものに飽きてくると、もっと高い金を払って、払った分で満足を実感できるような商品やサービスを求めるようになってくるのかもしれず、そうなると価格の高い商品を手に入れたりサービスを受けるには、より多くの収入を得る必要に迫られるわけで、そうやって商品やサービスの購買意欲を煽るためには、価格が高いほど良い商品やサービスであると思わせるような先入観や固定観念を抱かせる必要が出てくるわけで、しかも価格が高い商品やサービスであるほど利益率が上がるカラクリとなっていることも周知の事実だろうし、そうやって商品やサービスの価格に格差を設けて、消費者の購買意欲や労働者の勤労意欲を煽るような仕組みになっているわけだろうが、もちろん誰もが価格の高い商品やサービスの恩恵に与れるわけでもなく、競争に勝ち抜いたごく少数の人たちが恩恵に与れるようになっていれば、そうした希少価値を求める競争が激化するのは火を見るよりも明らかとなるわけで、また人々の間でそうした競争が激化させるほど資本主義経済も拡大するのだろうし、それが欧米を起源として発祥した資本の論理でもあるのだろうが、そうした論理から導き出されてくるのが、安くて便利で効率的なものほど魅力がなくなる一方で、高くて不便で非効率なものほど魅力を持つと同時に、またスポーツカーや高級車や高級腕時計などのように、無駄に高性能であるほど魅力を持つだろうし、そうした自然な感覚を狂わせるような作用があると同時に、またそれを当然のことと思わせるような先入観や固定観念をもたらすわけで、そうした論理によって生じる極端な格差をなくすには、安くて便利で高性能で高品質な商品やサービスを提供すればいいわけだが、それをやってしまうと利益率が下がるだろうし、実際に資本主義の論理からすると、より多くの利益を出すことの方が優先されてしまうわけだが、どちらが合理的かと言えば、できるだけ安くて便利で高性能で高品質な商品やサービスを提供する方であり、かつての日本企業などは気づかないうちにそういう傾向になっていたわけだが、それは欧米の資本の論理とは相容れない傾向であったので、次第にうまくいかなくなってきてしまったわけだが、今ではそういった傾向は日本から他のアジア諸国へと引き継がれている面もあるだろうし、欧米などでも、もとからそういった傾向の商品やサービスを提供している面も一部ではあるだろうし、そういった資本の論理に逆らうような傾向がまるっきり消滅したわけでもなく、そういうところで行き過ぎた資本の論理を緩和するような作用も及ぼされているわけだ。


12月19日「やるべきことの多様性」

 政治活動の中で行われることは、そこに関わってくる多くの人や団体などの思惑が絡んでくるから、そこで何を議論するにしても、事前に期待したような結論が出にくい面があるだろうが、議会などで何かしら議論が行われていること自体が、政治活動そのものであるのはわかりきったことであり、それが政治活動の一部でしかなく、他にも様々なことが行われているにしても、そこで行われている議論の中身を知れば、その実態をある程度は知ることができるわけだ。そしてその実態がどのようなものであれ、そこから知り得たことは、そういうこととして受け止めるしかないだろうし、それを特に自らの思惑に重ね合わせて、恣意的に解釈し直してみる必要もないのかも知れないし、そこで行われている状況や状態を支持するにしろ、あるいはそれに反発して反対するにしろ、それをありのまま姿で額面通りに受け止めるしかなく、それを他の何と比較する必要もなければ、それについて何を述べる必要もなく、それをどう解釈する必要もなければ、そこから問いが生じなくなってしまい、それについて疑問を抱く必要もなくなってしまうかも知れないが、そうなると、ではどうすればいいかと問うならば、どうしようもないと思うなら、それで構わないだろうし、世の中でどうしようもないと思う人が多くなってくると、そんな人々の間で無力感が漂ってくるかも知れないが、実態としてはそんなことさえ思わない人の方が多いだろうし、実際にそう思う必要もないのかも知れず、ただ自らが感じたままの姿をありのままに受け止めておけばいいだけで、それ以上でも以下でもないというのが、偽らざる実感となってしまうのではないか。もちろんそれは誰の実感でもなく、文章を記してみた成り行きに従って、そんな実感が示されてしまうわけだが、議会で行われていることに関しては、そう感じているなら、それをどうすることもできないわけだが、政府や他の自治体などが行なっている行政活動の全般についても、特にそこに直接関わっていない人が、世の中の圧倒的な多数に上るだろうし、そんな間接的な関わり方であれば、そこでも知り得る限りで、ありのままの現状を、そういうものだと受け止めるしかないわけだが、それ以上のことを知る必要があるのかといえば、その必要がなければ、現状で知り得た範囲内にとどめておいても構わないだろうし、実際にそれで済むならその程度のことになってしまうわけだが、それでは気が済まない人が、それ以上のことを知ろうとするのだろうし、中には知ろうとするだけでなく、憶測や推測に基づいて想像を膨らませて、そんな恣意的な思考によって真の状況や状態を把握しようとするのだろうが、それで何がわかるのかというと、自らが求めている状況や状態と、思考することによって確からしいと把握できた状況や状態との差異だろうし、そういった差異が大きいほど、現状を何とかしなければならないと思うわけで、そういう思いが政治や行政へ介入しようとする意志をもたらすわけだ。そうであるなら、実際に介入するために政治家になったり行政機構の官僚になってしまった人が、現状を正確に把握しているかというと、特にそういうでもないのかもしれず、誰でもある程度は、自らが知り得たことに加えて、憶測や推測などによって想像を膨らませていて、それが実践経験の中でどの程度修正されるかは、人それぞれでそれなりに偏差があるだろうが、周囲の人たちにもそういう傾向があれば、それぞれにそうした思い込みを抱いているわけだから、それが現実の活動の中で多少は修正される面があるにしても、そうした人たちが互いの思い込みに共感して意気投合してしまうと、さらに妄想が膨らんでしまう成り行きにもなるのかもしれず、そうなるとそうした妄想に囚われた人たちの活動に引きずられて、現状が変わっていく可能性があるわけで、もちろん現状を変える要因はそれだけではないだろうし、他の様々な要因とともにそれが現状に作用して、その結果として現状がそれなりの変化を被るのだろうが、そんな妄想さえも現状からもたらされていることも確かであり、現状を変えようとする人たちにそういう妄想を抱かせる現状とは何なのかとなると、やはりそれも人々がありのままに受け止めている現状そのものだろうし、そんなありのままの現状が、現状を変えようとする人たちに不満をもたらしているわけで、なぜ不満をもたらすのかといえば、それらの人たちが求めていることが、現状では実現できていないからであり、それを実現するために現状を変えようとするわけだろうが、ではなぜそれらの人たちが、現状では実現できていないことを求めているのかといえば、それを実現させないと気が済まないからだろうし、そうならないと満足できないようなことが、現状の中では必要に思われてしまうわけで、それが現状の中で生じている不具合の解消であったり、現状をより快適な状況にするための方策であったりするわけだ。

 では人々に不満をもたらすような成り行きがどうやって生じるのかといえば、それは他との比較だろうし、他ではああなっているのにこちらではこうなっているから、こちらでもああなってもらいたいわけで、何か満足できるような状況が他では実現しているように思われていて、それは比較として隣の芝生が青く見える現象であり、自らにとって理想に思われる状況や状態が、世界のどこかで実現しているように見えると、そこと比較して自分が住んでいる地域が遅れているように見えたり、ひどい状況や状態になっているように感じられるわけだが、果たして本当にそうなのかとなると、比較対象との距離は遠いほど、よく見えてしまうこともあるだろうし、しかも比較対象となる地域が世界の中で主導権を握っているように見えるほど、それが羨ましく感じられてしまうわけで、何かそういうところで、現状の世界情勢の中で、何が良くて何が悪いかの支配的な価値観が、その人の意識に作用や影響を及ぼしている可能性があるわけで、それがその人の思い込みの中で支配的な比重を占めていて、まずはそういう思い込みから脱却しないと、すぐによその国ではこうだから、わが国でもこうしなければならない、という根拠の希薄な論理を無条件に受け入れてしまうわけだが、だからと言って、わが国にはわが国のやり方がある、と単純にひっくり返してしまうと、それも意趣返しの類いにしかならないだろうし、そういった作用反作用の法則とは違った水準で物事を考えなければならないのかもしれないが、果たして現状でそれとは違った水準があるのかというと、誰もがそういうことの延長上で物事を考えることに慣れてしまっていて、そんなことは誰にも思いつけないことかもしれないが、ともかく少なくとも理想を他の国や地域に求めるにしても、その対象となる国や地域でも特有の事情を抱えていることは確かだろうし、それがこちらの事情とどう違うかを考えてみなければならず、またこちらにはこちらのやり方がある、とこちらのやり方を自慢したり正当化するのではなく、そのこちらのやり方によって迷惑を被っているような事情が国内外にないかどうかを、考えてみる必要があるだろうし、そうやって様々な方面から、こちらやあちらの状況や情勢を分析してみる必要があるのだろうが、そう考えれば、特に比較の対象が、いいとこ取りのつまみ食いのようなことにはならないだろうし、他の特定の国や地域とだけ比較するのではなく、比較するに当たらないように思われる国や地域とも比較してみて、しかもそれは、こちらの現状を批判するために比較したり、自慢するために比較したりするのではなく、もっと何か公平に観る必要があって、比較することによって、こちらを利するようなことを発見するのではなく、単に世界の様々な国や地域で特有の事情を抱えていることを知ればいいわけで、そうなれば、それが不幸や災難をもたらす原因となっていれば、そういった事情を抱えている国や地域と連携して、改善できる点を探ればいいだろうし、またそんなことをきっかけとして、対等の立場で相互に協力し合う関係へと発展させてゆけばいいのかも知れないし、実際にそういうことをやっている面もあるのだろうが、そこで功利主義的な面ばかりが強調されてしまうと、そういう面が目立たなくなってしまうわけだが、それも理想主義的な物言いのバリエーションに含まれてしまうだろうが、そういった比較から脱却しようとするのではなく、それらを相対化していけば、どちらがどうというわけでもなく、そういうことも含めて、様々な方面へと思考が及んでいくだろうし、またそれに伴って活動も多様性を増すのではないか。だからといって、そうやれば全てが良い方へと向かっていくわけではなく、絶えず現状への検証が不可欠であり、これといって見習うべきことや教訓とすべきことが国の内外にないというわけでもないが、それが見つかったとしても、そういう物事には特有の事情が含まれていて、手放しで参考にするようなわけにはいかず、参考にしようとしても、独自の味付けにならざるを得ないような成り行きを伴ってしまうだろうし、そこでそうなってしまったことを正当化するのではなく、そこでも絶えずやっていることの検証が必要だろうし、しかもそうであっても、物事には必ず恩恵とともに弊害ももたらされるから、それ一辺倒になるのは避けなければならないし、やはりそこでも両義的な傾向が求められるわけで、そこで一つの傾向を強調して推進するのではなく、多面的で多方向的な目配せが必要となってくるのかもしれないが、そうやってもうまくいかない面が出てくるのだろうから、うまくいかない面については絶えず改革や改善が必要となるだけでなく、うまくいっている面についても、絶えず見直し作業を要する成り行きにもなってくるかもしれないし、結局は様々な方面で様々なことをやり続けていくことになってしまうだろうし、それは現状の中でも行われていることであり、そういう意味ではメディア的に注目されていることが全てではないのはわかりきったことなのだろうが、やはりそういうところでメディア的な注目度に比例して、やるべきことの優先順位が決まってしまうような成り行きもあるわけだ。


12月18日「鈍感力」

 何か既成概念を打ち破るには、常識を疑えとはよく言われることかもしれないが、少なくともそれは世の中のありとあらゆる常識的な理屈を疑うわけではないだろうし、その中の何らかの理屈は疑いつつも、それなりに信じている理屈もあるわけだろうが、具体的にどんな理屈が疑わしいのかと言えば、例えばそれに関して当たり前の経済行為として、安く買って高く売れば利益が出るという理屈があるだろうが、理屈としてはそれが正しいとしても、実際に安く買おうとすれば買えない場合があるかもしれないし、また高く売ろうとすれば売れない場合もあるかもしれないし、さらに安く買って高く売ることに成功しても、経費がかかって利益が出ない場合もありそうで、そういうところでそうした行為に起因する様々な条件や事情が伴ってくると、なかなか理屈通りにはいかなくなってしまうわけだが、現実に安く買って高く売って利益を得られる場合があることも確かであり、そういうことをやれる機会や立場というのも世の中にはあるわけで、実際に証券会社に口座を開設して、それ相応の株を買うための資金を用意できれば、株を安く買って高く売る権利を得ることができるわけだが、そういった条件を満たせば、とりあえず株は買えるが、それ以外の何を買えるわけではないし、また買ったからといって高く売れる保証もないわけだ。そういう事情を考慮すれば、理屈は理屈としては確からしいが、実際にその理屈が正しいことを確かめるには、そこにまとわりついてくる様々な事情や条件などを考慮して調整する必要があって、結局世の中で何をやるにも、そうした事情や条件などの制約がついて回ることも常識であり、そういった事情を考慮するなら、常識的に確からしい理屈には、その確からしさが確からしいことを示すのに必要な、様々な事情や条件などの制約がついて回ってくることも常識であり、要するに常識的な理屈を成り立たせるためには常識的な制約が必要となってくるわけで、そうした常識的な制約の範囲内でしか常識的な理屈は成り立たないわけだから、例えば非常識なことが行われている中では、常識的な理屈は成り立たないし、また常識的な制約から逸脱するような成り行きの中でも、常識的な理屈が成り立たないことにもなるわけだが、何が常識となるかは地域的にも立場的にも状況的にもそれなりの偏差があって、そういった偏差に違いが現れているところでは、自分が信じている常識が他には通用しない場合もあるだろうし、そういう意味で常識を過信していると、その常識に裏切られてしまうこともあるわけだが、その一方で自分の活動している範囲内での常識を把握しておけば、その常識に則った立ち振る舞いを心がけて実践している限りで、周囲の人々からは安心して受け入れられるわけで、その逆に周囲の人々を出し抜くには常識破りの行動に出ればいいわけだが、実際にそんなことをやれば、周囲の人々との間で築かれている信頼関係が壊れて、修復不可能になってしまう場合もあるわけだが、時にはそうした決裂をもたらすような危険を冒してまで、何かをやらなければならない成り行きになってしまうこともあるわけで、そういうところでも常識が通用しなくなるわけだが、そういう意味でも常識を疑うということは、何かそうすることによって自らが有利になるような機会を捉えて疑わないと、常識を疑ったばかりに不幸や災難に遭うような結果が待ち受けているかもしれず、だからといって何が自らにとって有利となる機会かは、そんな機会に巡り会うまではわからないのかもしれないし、たとえそんな機会が巡ってきても、それを感じ取れなければ、みすみす機会を逃してしまうことにもなりかねないし、そうだとしたらそれはどこまでも不確実なことでしかないのかもしれないが、中にはそういう機会を捉えて常識破りなことをやって成功してしまう人もいるわけで、そういう成り行きはその人の運に左右されると思っておけばいいのかもしれないが、そうした運を活かすも殺すもその人次第な面もあるにしても、そうなった時に常識にとらわれて保守的な態度や姿勢に終始していれば、せっかく巡ってきた幸運もその人から逃げていってしまい、結果的に千載一遇のチャンスを逃したことにもなってしまうわけで、そんなことも実際にそうなってみないことにはわかりようがないし、それを感じ取れなければ、そんなチャンスに巡り会えたことにさえ気づかないのかもしれず、そうであるならそんなこととは無縁な状況であっても別に構わないわけで、中にはそんなチャンスに巡り合うために、根拠の定かでない占いや迷信を信じてみたり、逆にそういったものに凝りすぎて、身の破滅を招くような事態に陥る可能性もあるだろうし、それも常識的な判断からすればそんなことはやらない方が無難なのだろうが、やるとしても気休め程度にとどめておくことも常識的な線だろうし、結局そうやって常識的な態度や姿勢に落ち着いている限りで安心していられるわけだ。

 世の中の常識にとらわれることは、その社会に適応することでもあるわけで、社会に適応しているということは、そこでうまく立ち回れていることにもなるだろうし、それはそれで社会に適応しているという意味では、一応は人並みに成功していることにもなるだろうが、特にそこで主導権を握っているわけでもないだろうし、どちらかといえば社会の中で従属的な立場を強いられいることにもなるかもしれないが、社会の中でうまく立ち回るということは、他の人よりもうまく立ち回っている限りで、それに成功していることになるだろうし、そうなっているならその人は常識以上の何かを身につけている可能性もあるだろうし、確かにその人が常識に囚われているにしても、それだけでは成功するまでにはなれないわけだ。そうなると何か他とは違ったことをやらなければ成功できないように思われてきて、そうなった時に、常識的な枠を打ち破るようなことをやる必要に迫られるのかもしれないし、実際に人並み以上の成功を実感するような成り行きになれば、何かその人の常識に囚われない感性や行動が成功に結びついたように思われるのではないか。しかしそう思ってしまうことも常識の範囲内の反応であり判断でもあるわけで、そうではなくただ単にその人が常識を理解していない場合があるわけで、しかも常識を理解していないことにも気づいていないから、その人が自然に振る舞っているつもりであっても、他から見れば常識からかけ離れた態度や行動になってしまったり、自分がそんなことをやっているのを自覚していないから、結果的にそれが常識に囚われない感性の持ち主であるかのように見えてしまって、そうした振る舞いがその場の状況の中で有利に働けば、成功するような結果がもたらされるのだろうが、逆に不利に働けば、周囲からそんな非常識な振る舞いを咎められて、結果的に不遇な成り行きに甘んじてしまうわけだろうが、結果的に成功しようと失敗しようと、そんな振る舞いになってしまうような人には、世間の常識に疎いという特徴が見受けられるだろうし、そういう常識に鈍感な意識のありようが、うまく働けばそれが鈍感力として機能して、その人を世の中で有利な立場や状況へともたらすかもしれないし、逆にそれが災いすれば、不遇な立場や境遇になってしまう場合もあるだろうし、そういう意味で世間の常識に鈍感であることは、そこから恩恵も弊害ももたらされる可能性があるわけだが、それを意識せずに活用できている人も中にはいるわけで、そういう人は意識しない分、自然な発露としてそういう振る舞いになってしまうから、妙にそういうことを意識し過ぎて演技になってしまう人よりは、逆に優れているように見えてしまうわけで、それが人より優れているように見えれば、そういう人にはそれだけ魅力が感じられるだろうし、少々挙動不審でおかしなところがあっても、魅力的に感じられる分、周囲の人々からも好感を得られるだろうし、そうやってその人自身に求心力が働いてくれば、何らかの勢力の中でリーダー的な存在にもなれる可能性も出てくるわけだが、中にはそうなる人もいるかもしれないが、中には挙動不審の変質者のように見られて、周囲の人々から遠ざけられるような存在となってしまう人もいるだろうし、それもその場の成り行きや状況に左右されることであり、結果的に世の中で成功しているように見られる人は、うまく機会を捉えて立ち回ったように思われるだろうし、不遇な人はそうなるチャンスを活かせなかったようにも思われるだろうし、そういうところその人の運不運が好対照をなしているように見えてくるわけだ。そしてそれとは違って世間の常識に敏感に反応できる人は、普通にうまく対応できるから、秀才型の人となって、社会的にも立身出世してエリート的な存在になれるわけだが、結局その人が対応できている範囲が狭いと、そうした狭い範囲からもたらされる既成概念の虜となってしまい、その場にもたらされている常識の範疇で、いかにうまく振る舞えるかを他の秀才たちと競うようになってしまうと、そうした常識が通用しないところではやはり通用しなくなってしまうだろうし、その場の環境に適応しすぎたために、かえって環境の激変には耐えられないような体質となってしまうわけだが、そういうところで感性の鈍感な人は、常識に疎いから、常識に適応するための努力をしなくて済むわけで、その分まだ余力があって、日頃の狭い範囲での他の競い合いによって消耗してしまった秀才たちよりは、有利な立場になれるわけだが、それもそんな立場になれる限りでのことだろうし、そういった鈍感力を持ち合わせてる人は、秀才たちが行うような競い合いとは無縁なところで生きていける可能性もあるだろうし、逆に秀才たちは常識に囚われたところでしか、その才を活かせないわけだから、その分、自分たちを活かしてくれる社会への依存度が強いわけで、それだけ強い意識で社会的な集団で形成される組織形態を守ろうとするだろうし、そういう意識が行政機構の官僚や大企業の幹部などになろうとする方向にそれらの人たちを導くのではないか。


12月17日「謙虚さの欠落」

 どうも何事においても素人の立場であった方が、少しは物事との関わりにおいて謙虚になれるのかもしれないが、もちろん素人であれば立場などないのと同じで、立場がない方が特定の立場に縛られない分、自由に物が言える反面、何を述べても誰からも相手にされないかもしれないし、そうなると自意識過剰で自己顕示欲が旺盛な人は、欲求不満に陥るかもしれないが、そもそも相手になるかどうかは、相手にしようとする側の都合であり、少なくともそれはこちら側の都合ではないわけだから、その辺はどうにもならないところなのかもしれず、ともかくその人が何かしら社会的な立場を占めていると、その立場に基づいた専門分野の中で活動することになるだろうし、そうなるとその専門分野に関しては専門家となってしまうわけで、専門家はその専門分野に詳しくないと、専門家としての役割を全うできないだろうし、そういう意味ではその専門分野に関して詳しくなってしまうのは当然のことだろうが、あまりにもその専門分野に没頭してしまうと、その専門分野だけにかかりきりとなってしまって、それ以外の分野には疎くなってしまうかもしれないが、その逆に門外漢の素人が様々な分野において、広く浅く入門程度の知識を身につけているつもりでも、特にそれが何の役に立つわけでもないかもしれないし、それでは単なる無駄な雑学程度のことにしかならないのかもしれないが、どのような傾向の知識を身につけていても、それなりに一長一短があるのかもしれず、できればその場の成り行きに応じて活動していくうちに、それに伴って必要な知識を身につけていければいいわけだが、そうは言っても気がつかないところで、必要のない知識ばかりが身についてしまっている一方で、活動していく上で肝心な知識が全く身についていない場合もありそうで、しかもそんなちぐはぐな状態となっていても、周りの人たちに助けられて、それなりに立ち回れる可能性もあるかもしれないし、そんな中でもどうすればいいかに関して、何が良くて何が悪いかを、あまりにも拙速に見極めようとすると、途中の経緯を見誤って、思いがけないところでつまずいてしまう場合もあるだろうし、そういうところでは何が良くて何が悪いかではなく、自身に関係してくるどのような物事についても、良い面と悪い面の両義的な面があることを踏まえておく必要があるのかもしれず、さらに場合によっては良くも悪くもない面までがありそうだが、だからと言ってそれで何がどうなるわけでもないと感じられるなら、その通りかもしれないが、たとえその程度の自身がその場で主導権を握れずに、主体的に物事に関われない立場になっていても、その場で生じている成り行きに沿って、与えられた役割の範囲内で物事の取り扱いを進めていくうちに、それなりの方向へと導かれていってしまうわけで、またそんな成り行きの中でも、あまりにも一方的に事態を進行させないために、関係する方面との間で調整が必要となってくる場合もあるだろうし、そういうところで要所要所でその場の情勢を見極めることが肝心となるのかもしれないし、それの何が要所なのか気づかないこともあるかもしれないが、それは初めからわかるようなことでもないだろうし、また当初の予想が全く外れてしまう場合さえあるのかもしれず、結局はそんなことにも気づかないとしても、気づかないなりに、気づかないような成り行きに沿って活動していけば、それとは違った別の思いがけないことに気づいてしまうこともあるのかもしれず、またそれに気づけば、気づいてしまったばかりに、今まで通ってきた道とは別の方面へと、進んでいく方向が分岐していってしまうかもしれないし、またさらにそうなったらなったで、そんな新たな成り行きの中で、その場の成り行きに沿って、それなりに活動していくしかないだろうし、そうやって様々な方面へと導かれて、そこで想定外の紆余曲折を繰り返しているうちに、寿命が尽きて生涯を終えてしまう場合もあるのかもしれず、そうなったからといって、それで何がどうなったとも思えなくても、そういう人生だったということであり、そこで何らかの意味や意義を見出せればそれに越したことはないのかもしれないが、特に肯定できるような意味や意義を見出せなくても、それで何の不満もないに心境にもなれるかもしれないが、そんなのは実際にそうなってみないことにはわからないだろうが、別にそんなことを目指して誰もが人生を歩んでいるわけでもないだろうし、結局はその場の成り行きに絡め取られているだけでしかなく、しかもそんなことは気づくまでもないことなのかもしれないし、少なくとも現状で関わっている物事が世の中の全てではないことは確かであり、あくまでもそれは世界のほんの一部で起こっているに過ぎないことだろうし、いくら自らが関わっているつもりの物事に関して、専門家気取りの上から目線で知ったかぶりなことを述べてみても、それだけではないことは確かなのだから、それだけではないことに関しては、常に自らの知り得ないことがあるわけで、そういった知り得ないことがあるという前提に関しては、謙虚な態度を保っておく必要があるのかもしれない。

 そこで人や団体が何かをやっているということは、常にその途中経過の中で活動していることになるわけで、そうであるならその活動の中で取り扱う物事に関して、絶えず新たに知りつつあると言えるのかもしれず、またそれを取り扱うことに関しても絶えず学んでいるわけで、そうやって物事の取り扱いを学びながら知りつつあるのだから、そういう状態は常に結果ではなく途中経過であり、絶えず結果にたどり着いていない途中の段階に留まっているわけだが、そこで活動していることは確かであり、そうなっている限りで活動していることになるわけだから、それが何らかの結果に至ったところで、それもそこから先に続く途中経過となる場合が多いだろうし、要するになかなか活動が終わらないわけだが、その一方で何かが行われた結果を見てそれを評価する行為は、その途中経過の中にはいないで、結果の側に常に立とうとしているわけで、そうであるからそれを把握しようとする意識が、そこで行われている物事の終わりに至ってしまっていて、そこから先が考慮されていない場合が多いわけだ。またそこから予想する行為も、こうならざるを得ないという終わりとしての結果を予測するわけで、何とかしてこれから起こるだろう結果を予測しようとしてしまうわけだ。そうなるとそのような態度は常に途中経過を無視していて、結果ばかりを気にすることになり、その結果に至る途中経過を無視しがちになってしまうわけで、結局そういう態度は、こうなったから駄目だとか、こうなったから良いとか、そうなった結果の良し悪しばかりを言い立てる一方で、途中の紆余曲折に関してはほとんど何も考慮せず、そうなると肝心の活動そのものを見ていないことにもなってしまい、途中経過を見るにしても、結果が悪ければ悪いところしか見ようとしないし、結果が良ければ良いところしか見ようとしないわけで、そういうやり方が、悪いことをやったから悪い結果に至ったとか、良いことをやったから良い結果に至ったという論理を、後づけ的に導き出そうとしてしまうわけだが、そういった結果論が見落としているのが、悪いことをやったのに良い結果がもたらされたり、良いことをやったのに悪い結果がもたらされたりすることなのだが、そういう論理に囚われていると、良いことをやっている人や団体にとって良い結果が伴わないと、それらの人や団体の粗探しをして、それをあげつらって、そんなことをやっているから駄目なんだと罵倒するわけで、また悪いことをやっている人や団体にとって良い結果がもたらされているようだと、それらの人や団体の中にも良いことをやっている心ある人がいて、そういう人がいるから良い結果がもたらされていると擁護するわけで、またさらに擁護しきれないようなひどい状態を目の当たりにしてもなお、今はひどい人達ばかりだが、昔は心ある良い人がいたと言って、どこまでも悪い人や団体の中にいる良い人を擁護しようとする一方で、現状でそういう人や団体と対立するような人や団体の粗探しをさらにやって、こんなヘタレな人たちがいるから良くならないんだと八つ当たりしながら、倍返し的に良い結果がもたらされていない人たちを罵倒しまくるわけだが、それで何がどうなるわけでもないのは、そんなことをやっている当人が一番理解していそうだが、そういう人はこうすれば良くなるという信念に凝り固まっているので、それ以外のことをやっている人たちを許せないわけで、こうしないから良くならないんだという主張を繰り返すばかりで、そうやっても良くならない場合があることが考慮されていないわけで、そうやっても途中の紆余曲折を通過すると思いがけない結果がもたらされてしまうという不条理を理解できないわけだが、理解しなくても構わないような短絡装置が思考回路の中で作動してしまうから、その人にとっては何の問題もないのかもしれず、そういう人は結果が悪ければ悪くなる原因しか見ないし、結果が良ければ良くなる原因しか見ないから、それ以外の途中経過は無視されてしまうわけだが、そうであれば悪くなる原因を取り除くことができれば良くなるはずなのだが、実際に取り除けない現状があると、そのことばかり言いたてて、そんなことばかりやっているからいつまで経ってもヘタレなんだと罵倒するしかないわけで、その先も延々と罵倒するばかりの生涯を送ってしまいそうだが、罵倒している当人が罵倒している人や団体を変えられない現実については、何も言わないだろうし、そこからさらに踏み込んで言うなら、罵倒している当人に罵倒している人や団体を変える力がないと言えるだろうし、そういう無力な人は罵倒する以外になすすべがないわけで、他人や他の団体を罵倒することしかできないという悪い結果をもたらしている当人のひどさに関しては、至って無頓着なのだから、そういうところが謙虚さを欠いていて、信用できないのだろうが、しかもそういう人に限って、もっともらしいことをそれなりに主張できるものだから、妙に自信がついていて、それなりのプライドも持ち合わせているだろうし、そういう人の意見を真に受ける人も世の中には大勢いるのだろうが、結局は現状がその人の思い通りにはなっていない要因の中には、その人自身のそういう態度や論理が介在している可能性があるわけで、しかもそれはその人にはどうすることもできないのであり、その人はその人で、そういう成り行きに自身が巻き込まれていることに関しては、何も言えないような立場を強いられていて、それを自業自得だと批判するのは酷だろうが、少なくともその人よりは、その人が罵倒している人や団体の方が良くなる可能性があるのかもしれない。


12月16日「太陽の塔」

 すごいということは、普通は常識から外れているという意味ですごいことになるのだろうが、他にも感嘆という意味でもすごいと言えるかもしれないし、もちろんそこで常識という感覚が固定しているわけでもなく、世の中の変化に合わせて常識も変化していくだろうし、社会的な立場によっても地域的な偏在によっても常識にそれなりの違いがあるわけだが、そういった常識にとらわれて意識の中で形成された先入観や固定観念を瓦解させてしまうようなことが、すごいと言えるのかもしれないが、そんなことも含めて表現の様々な方向で度外れた状態が実現されると、それはもうすごいとしか形容しようがない事態となるわけで、そういう意味ですごいという言葉が、良い意味で使われるとは限らないかもしれないのだが、また何かすごいことが起こるのは、その状態が規格外ということでもあり、別に規格という表現も、そんな感じがするだけで、あらかじめそれに関する規格を厳密に定めておいたわけでもないのに、規格外に思われてしまうのだから、言葉の意味に矛盾するような感じ方となってしまうわけだが、さらにまた何がすごいとも感じられないのに、皮肉を込めてすごいと表現するような場合もあるだろうし、それも言葉の意味とは違う使い方となってしまうわけだが、それでも何でもかんでもすごいとは言わないわけだから、何かすごいという言葉に込めて、そこで感じた驚きを言い表したいような状態や事態があって、それをすごいという表現で示して伝えたいわけだが、それに関して自分では納得してそういう表現を使うとしても、別に他へはその正確なニュアンスが伝わらなくても構わないのかもしれず、たとえ間違って受け取られても構わないようなことに関して、すごいというどんな意味にもとれるような言葉で表現する場合があるだろうし、そのすごいという言葉だけに着目してもらっても、特に驚いたこと以外は何がわかるわけでもないだろうし、その言葉で表現した対象を、他の人にも同じように感じ取ってほしくて、共感を促す意味で、そんな言葉で対象を表現してみたいのかもしれないが、別に他人がすごいとは思わなくても、またすごいとは違った意味を伴うような言葉で言い表してもらっても一向に構わず、そんな曖昧さを許容するような余裕を込めて、とりあえずすごいと言ってみたりして、そうやっていくらでもそこから逸脱しながら、意味とは違った雰囲気を拡散させることが可能かもしれないが、具体的に何がすごいのかというと、そこに何もなければ嘘になるかもしれないが、実際には何もないのかもしれないし、世の中には何もないのにすごいとしか言えないようなことがあるのかもしれず、そうなると何がすごいのかわからなくなってしまうかもしれないが、やはりそれはすごいことなのであり、何もないのにすごいことが起こってしまうわけだが、ではなぜそんなことが起こるのかというと、何もない場所に、他から何かを持ってくるわけで、そこで方々からかき集めてきた何かと何かを組み合わせて、それらしい何かを構成するわけだが、それの何がすごいのかというと、それが寄せ集めのコラージュとしてありえない怪物を作り出すから、何かすごいとしか形容できないようなでたらめさが醸し出されるわけで、そんな代物は確かにすごいかもしれないが、間違っても素晴らしいとは言えないのかもしれないし、中にはそれを皮肉を込めて素晴らしいと形容する人も出てくるかもしれないが、率直に素晴らしいと感動するわけでもないだろうし、何かそこで言葉を発する前に、必ず一瞬のためらいがあるわけだ。例えばそれが苦労して作り上げた努力の賜物だと感じられると、悪く言うことがためらわれるわけで、そういう事情をおもんばかり、それを作った人に気兼ねして、ひどいとは言えないわけで、では他に何が言えるかとなると、とりあえずすごいと形容しておくのが、無難な線なのだろうし、そこからさらにこちら側が折れて気を使うなら、素晴らしいと表現しておいても、それが肯定的なニュアンスを含むから、そう言われた側もまんざらではないだろうし、やはりそういう意味ですごいとか素晴らしいとかいう表現は便利なのかもしれないが、とにかくひどい出来栄えに見えるとしても、すごかったり素晴らしかったりする対象というのがあるだろうし、現状でそれの代表格として、誰もが思い浮かべる作品としては、岡本太郎の太陽の塔があると指摘すれば、何か合点がいくような気がするのだが、実際にひどい作品をすごいと言ってみたり、素晴らしいと言ってみたりするのは、そう言ってしまうこちらが、作品に対して負けを認めるようなことになりはしまいかと心配する人など誰もいないだろうが、普通に常識的な線での美的感覚を信じるなら、ひどい作品だと正々堂々と言ってしまっても構わないのかもしれず、少なくともその方が本気ですごいと思ったり素晴らしいと思ってしまう人よりは、まともな感覚の持ち主だと言えるのかもしれない。だからと言ってそれがどうしたわけでもないのだろうが。

 たぶんそういったひどい物事を、すごいとか素晴らしいとか言わざるを得ないような状況に追い込むように仕掛けてくる人が、世の中には必ずいるのかもしれないし、そこでそういった同調圧力に逆らって、ひどいものはひどいと言えることが、すごいことであったり素晴らしいことであるかというと、別にそんなことはないだろうし、それがどちらであっても構わないような状況であれば、普通に感じられるようなことかもしれないし、普通に感じられる限りで、特にそれをどうこう言う気も起こらないわけだが、そういうことの延長上で、どこかの国のひどい首相やひどい大統領を、すごいとか素晴らしいとか言ってしまう人もあまり見かけないだろうが、あえてそう言う人々には何か煮えたぎるような情念を感じるかもしれないし、そこに何か風邪をこじらせて重篤化させてしまった状態を思い浮かべることもできるかもしれないが、そう感じてしまったところで、それに対してどんなに理路整然とした論理を持ってきて、そういった状態を正当化しようと試みても、何か普通の感覚が受けつけない雰囲気が醸し出されてくるわけだが、そうした普通の感覚を突き破って、強引にひどい物事をすごいとか素晴らしいと言って賞賛しようとする人も中には出てくるわけで、そういった強弁調の人には何を言っても無駄だろうが、そういうところでどう対応すればいいのかわからなくなるのかもしれず、わからなければ特に対応しなければいいのかもしれないが、対応できなければそういう状態が放置されるしかないわけで、そんなふうにして放置された状態が、どこかの国の政治的な独裁体制であったりするわけだが、もちろん放置期間にも限度や賞味期限があって、いずれはそういった独裁体制は崩壊する宿命なのかもしれないが、それを肯定してみせるような感覚をこじらせた強弁調の人が多いほど、そういう状態が長続きするわけだろうし、また妙にねじ曲がった屁理屈を用いて、部分的にはもっともらしく思われてしまうことを主張して、それと自覚することなく、結果的に独裁体制の延命に手を貸してしまう人も結構出てくるだろうし、さらにまた一概にそれを独裁体制とみなすには、実感からはかけ離れている状況というのもあるだろうし、だから別にそれを独裁体制と否定的にみなさなくても構わないのかもしれず、それでも特に現状で行われている物事がひどいことだと感じれば、それに抗議すればいいし、またそういった物事に抗議する政治勢力を支持すればいいわけだが、そこでも感覚のこじれた人たちが抗議する人々に妙にねじ曲がった難癖をつけてくるわけで、またそこで多くの人たちがそういった難癖をもっともらしく感じてしまえば、それだけ抗議が阻まれて、ひどい状態が長引くことにもなるわけだが、一方で抗議する側でも脛に傷を持っている人が結構多いわけで、そういった人たちが難癖をつけてくる人たちにそこを突かれて悲鳴を上げてしまえば、やはり社会的な信用を失って、抗議運動もそれだけ痛手を被るわけだが、そうなってしまったらなったで、そういった活動や運動が、そういう成り行きになってしまうのを受け入れるしかないのだろうが、またさらにそれに追い打ちをかけるようにして、そういう成り行きを利用して、自己正当化の情念をほとばしらせようとする人も出てくるわけで、そうした情念のほとばしりに利用されるのが、世の中にある様々な物事の中で、その人の論理やその論理を正当化する上で都合のいい部分であり、そういったものを寄せ集めてつなぎ合わせ、それをいいとこ取りのつまみ食いのようなコラージュとして提示してみせて、それに反することをやっていたり、抵触するようなことを過去に遡ってやっていた人や団体を、あたりかまわず罵倒するような成り行きに持ち込もうとするわけで、もちろんその攻撃対象には現状で行われているひどい物事に抗議する人や団体も含まれてくるわけだが、それをどう捉えたらいいかとなると、やはり皮肉を込めてすごいとか素晴らしいとか形容するしかないのかもしれないが、それはそれでそういうものだとして受け止めるしかないにしても、やはりそういった情念のほとばしりを具現化させた作品として思い浮かぶのが、岡本太郎の太陽の塔だろうし、今さら改めてあれをどう形容すればいいかと問われても、常識に囚われた普通の美的感覚では、単なるひどいオブジェにしか見えないし、あんなものはただのほとばしり出た情念の抜け殻であり、見るのが不快ならぶっ壊してしまっても一向に構わないものかもしれないが、それでもそれが設置されている地域の観光資源としては必要なものだとみなせば、そのまま残しておいても構わないようなものでしかなく、そうでなくてもアフガニスタンのタリバンがやったように、爆破するような機運など生じようがないものでしかないわけだが、作った当人は、芸術は爆発だ!と叫んでいたのだから、テロの攻撃目標として爆破するような成り行きなど生じ得ないとしても、何かの機会を捉えて爆破を企てるような人や団体が出てきたら、それはすごいことであり、素晴らしいことになってしまうのかもしれないが、そういったひどい物事がひどいとは言えない同調圧力というのが、どこから生じるかといえば、意外にそれは単に世の中の一般常識を尊ぶような人たちの間から生じるのではなく、それを逆用して自らに都合に合わせて変形し歪めようとする人たちの間から生じてくるのかもしれず、またそうしたことに利用できるのは世間の一般常識だけではなく、そうした常識を突き破って自己を見せびらかせようとする情念も利用できるわけで、そうした押しの強さが世の中で成功する秘訣になっている状況もあるのかもしれないし、要するに同調圧力に従ってしまうような気の弱い人にはできないことをやってしまえる人や団体が、逆に自分たちの都合に合わせた常識を押し付けてくるわけで、それに抗うにはそれなりの非常識が必要なのかもしれない。


12月15日「人物評価の大衆化」

 人が個人として何か優れた面があるように感じられるのは、その人がやっていることに関係する面だろうが、そうであるならそれと関係しないところでは、別に優れているとは言えないだろうし、その人が単体として単独で優れていたり劣っていたりするわけではなく、その人と関係する物事の取り扱いが、優れていたり劣っていたりするように感じられるわけだが、それは物事の取り扱いに関係する動作であって、そういうところではその人が身につけた技術が物を言うわけで、そうした技術的な取扱いに関しては、それを身につけるために特別な訓練や学習を必要とするものから、日常の経験から身についてしまうものまで、様々な成り行きを経てその人に身についてくるわけだが、いったん身につけても、その後の経験や学習などによってそれなりに変容を被るだろうし、また絶えず新たに身についてくる他の技術との相互作用によっても変容を被るのかもしれないが、いったん身につけてしまった特定の技術に活動が依存していると、そうした技術との関係の中にその人が固定されてしまって、心身がそうした技術的な動作に凝り固まってしまう成り行きもあるだろうから、いくらでも新たに技術を吸収できるわけでもなく、その人が関係する物事とその人とが一定の状態で結びついている限りで、その技術的な取り扱いも特定の物事に固定されてくる場合も多いだろうし、世間的にはそうした技術的な定着を一定の水準で評価するような成り行きにもなるだろうが、それが身体の動作に結びついているような場合には、加齢による衰えに伴って、技術的な水準も下がってくる傾向にもなるだろうし、さらにまたそれが思考的な動作となれば、その人を取り巻く状況の変化によっても、それに応じてそれなりの変容を伴う可能性も出てくるだろうし、ある期間においては一定の技術的な水準が維持されていても、何かのきっかけでそれが維持できなくなるような成り行きに巻き込まれてしまう場合もあるわけで、当人の気づいていないところで、そうした技術的な変容が生じてくると、以前は難なく一定のことがやれていたのに、ある時期を境にしてなかなかうまくいかなくなってきたことが、何か訝しく思われたりするわけで、それは当人の心身の変化であったり、取り扱っている物事の変化であったり、またそれらを取り巻く周囲の環境の変化であったりして、それらが重層的に互いに作用や影響を及ぼしながら変化してくると、何が原因でそうなってしまったのか、一概には言えなくなってしまうかもしれないが、そんなことまで考慮すれば、その人に対する評価も、ある時期には優れているとみなされても、別の時期ではそれほど評価されなくなってしまうこともあり得るだろうが、それがその人のせいでそうなってしまうわけでもなくても、その人に固有の問題があるかのように言われてしまうこともあるだろうし、例えばいつまでも周囲がその人に対する否定的な評価を保持していると、何かにつけそれが批判材料に使われて、何をやっても一方的なレッテル貼りのような決めつけによって、その人を叩くような成り行きにもなってしまうわけで、そうやってその人自身の世間的な評価を否定的な水準に固定しておけば、その人の影響力がそれ以上強まるのを阻止できるようにも思われるだろうし、またそれがその人に対する技術的な取り扱いの動作ともなるわけで、そうなるとそういうことをやっている人たちにとっては、それらの人たちの関係する物事の取り扱いの中に、人の取り扱いも含まれてくるわけで、そういった人に関する取り扱いが、それらの人たちが身につけている技術的な動作であり、そこにも人によって優れていたり劣っていたりするような違いが伴ってくるわけだが、そういった動作に関して、状況や時代の変遷も、対象となる人の社会的な地位や立場の変遷もあるのに、いつまで経っても取り扱う人に対する評価が固定しているような場合には、それが実際に固定しておいても構わないように感じられるなら、それはそれでそういう評価もそれなりに説得力を維持できるかもしれないが、そうした評価が疑問に感じられるような場合には、その人の感性がそうした様々な変遷に対応していないことをうかがわせるだろうし、またそれを自覚することなく、何度も何度も対象となる人の過去の失敗談を持ち出して、それをその人の現状に結びつけて罵倒し続けたり、逆にまた対象となる人の過去の成功談を持ち出して、その人を延々と擁護したり賞賛し続けたり、さらにそうした評価の対象が自身にまで及んでしまうと、自身の過去の成功談ばかりを取り上げて自画自賛を繰り返すことになってしまうわけだが、そうした傾向があまりにも顕著になってしまうと、それが配慮に欠ける動作として、その人がやっていることに対して、その取り扱いに関する社会的な信用に響いてくるだろうし、そしてそうした評価に疑問を感じる人が多くなるほど、何かお粗末で杜撰なことをやっている印象を抱かれてしまって、そういう人は次第に世間から相手にされなくなってしまうわけだろうが、逆にそこまで思考が及ばない人が多ければ、あるいはその批判対象や賞賛対象に興味がある人が多ければ、そんな人でもある程度の支持や信用を維持していられるわけだ。

 またそういう人物評価を繰り返す人たちが、お互いに貶し合ったり、褒め合ったりする場合には、そういうことがメディア上で話題になることも多いだろうから、そういうことをやるのが当たり前な状況が作られて、それが不自然にも疑問にも感じられないような成り行きになってしまうわけで、そうなるとそれを真に受けた世の中の一般大衆が、そういったことの支持者に仕立て上げられてしまい、さらにそれが高じると、何やら歴史上の著名人と現代に存命中の著名人などを比較するような、そういった根拠の疑わしい人物評価に明け暮れるような成り行きにもなってしまうわけで、またさらにそれが作り話の登場人物にまで及んでしまうと、フィクションの中で単純化された人物設定と、複雑に錯綜した情勢の中で揺れ動く、実在する人物の状態とが混同されて、さらに攻撃対象となる特定の人物が恣意的なレッテル貼りを施されてしまう経緯や成り行きを省略した、安易な決めつけの横行に拍車がかかってしまうわけだが、そうしたことを真に受けないと、そういった成り行きには興味を持てないだろうし、そうした安易なレッテル貼り自体を行為として面白がっている人たちも大勢いるだろうし、遊戯のやり方としてそういうことが流行っていれば、そういった人物に対する取り扱いも、その正当性や意味や意義などを考慮しないで、攻撃的な行為として、そうすることが面白ければ、それで構わないような風潮になってしまうだろうし、そうやって安易な行為としての人物評価が大衆化するわけだが、しかもそういう大衆化したやり方が基準となって、世の中が動いていくわけだから、そうなってしまっている時点で、そんな行為自体もそんな世の中の風潮もどうでもいいようなことでしかないわけだが、だからと言ってそこに真っ当な基準を恣意的に再設定することはできないわけで、それ自体に真っ当な基準などありはせず、そういった人物評価には常に恣意的な誇張や偏見が含まれてくるわけだから、真っ当であるはずがないのかもしれないが、そこで認識しておくべきなのは、そんな情勢の中では逆に恣意的な誇張や偏見が含まれないと批判や攻撃としては機能しないし、そうでないと世の中の一般大衆も興味を持てないし、面白がらないし、要するにそういった行為自体が、冗談半分にお笑い芸人などによって行われるようなことだと捉えられているだろうし、真面目な水準ではそれを真に受ける必要はないわけだろうが、実際にそういった行為と地続きでメディア的な話題が形成されてしまうわけだから、それも現実に起こっている現象には違いないわけだ。そしてそういった現象からそれなりに作用や影響を受けながら世論が形成されるわけで、またそうした世論が現実の政治の場に少なからず作用や影響を及ぼしてくるわけだから、そうなってしまう時点で、まさに冗談半分なことが政治的な行為としても通用してしまうのかもしれず、そういった風潮を真に受ける側からすると、真面目に社会問題などに取り組むのが馬鹿らしく思われてくるかもしれないが、実際にそういった成り行きの中で活動していれば、それが当たり前のことのように思われてしまい、特におかしいとは思われないだろうし、またそういうことをやるのが当然のことのように思われてくるわけで、むしろそれがないと不自然にも感じられてしまうのだから、それはそれとして受け止める必要があるだろうし、そんなふうに世の中の情勢を認識している自らも、そういうメディアを通じた世の中のフィクション化に、何らかの形で積極的に加担してしまっていることを自覚しておいた方が、かえってそれとは違う理想論的な幻想を抱かずに済むのかもしれない。もちろんそうだからといって、そんな自覚によって世の中の真の姿がわかるわけでもなく、ただ相対的な程度として、メディア上で流通している著しく誇張されたり歪められた現状認識には違和感を抱けるかもしれないが、そうした認識の最たるものが、何らかの兆候から危機感を煽るような認識だろうし、そうやって危機感を煽りたい人は、ちょっとしたきっかけから大変なことが起こってしまうことを予言したいわけで、そういう人は別に自らが予言者になりたいとは自覚していないのだろうが、なぜか予言的な物言いに囚われてしまっていて、それがこのままでは大変なことが起こるとか、社会の崩壊が間近に迫っているとか、そういった類いの文の定型に意識が縛られてしまっていて、それがその人が身につけた言葉の取り扱いに関する一定の動作であるのだろうが、なぜそんな動作が物事の取り扱いとして生じてしまうかは、歴史をどう捉えるかに関する訓練や学習によって身についた動作とも言えるかもしれず、例えば戦争や災害や革命などによって社会が混乱する経緯を、それが大変なことだと認識して、できればこれから起こるそういう未曽有の惨事を避けなければならないと同時に、そうなる予兆を事前に感じ取って、それを避けるために自らが警鐘を鳴らす役目を引き受けたいわけで、それがその人が歴史から学んだつもりの教訓になるわけだろうが、どうもそうした動作は、歴史の実情を反映しているわけではなく、別の訓練によって身につけた動作なのかもしれず、それに関しては、その人にとっては社会的な混乱を招いた戦争や災害や革命などが、過去の失敗談なのであって、そうした過去の失敗談を現状の世の中に結びつけて批判したいがために、何度も何度もそうした失敗談を取り上げては、それにかこつけて現状で生じている世の中の風潮を批判しようとするわけで、それがこのままでは大変なことが起こる、という危機感を煽り立てる定型文の活用とも結びついていて、そんな動作を正当化する自身は、そんな風潮とは違うことをやっているつもりになっているわけだが、実はそれ自体がそんな風潮そのものであり、その人が囚われている現状の世の中を虚構化する風潮そのものなのかもしれない。


12月14日「こじれた実態」

 何かメディア経由で語られる政治的な思惑に関連して、その思惑を反映した出来事が実際に起こっているように思われるとすれば、それがその政治的な思惑通りに事が進んでいることの証拠とみなされるかもしれないが、少なくともそれは憶測の域を出ない話だろうし、それだけでは確かなことは言えないわけだが、それとは違って、特定の立場の人がこうすると宣言して、実際にその通りに事が行われたら、それは憶測でも何でもなく、普通に計画通りに何らかの事業が進められていることになるわけだが、そういう場合は他から目立った反発などが起こらないことが多いだろうし、そうではなく激しい抵抗や反発が起こるようなことをやらざるを得ない場合には、そうした非難の矢面に立つような立場にはなりたくはないから、正々堂々としたことができなくなってしまうことが多く、それに関して様々な憶測が語られる中でも、はっきりしたことは何もわからないような成り行きになってしまうかもしれないが、それでも何かが着実に前進しているような事態になれば、そこに何らかの思惑が介在していると思われるだろうし、そうした事態について、その関係者や関係する団体がそれを進めているとみなしてしまいがちになるのだが、それがおおかた正しい認識だとしても、そこからそういったことの責任を押し付けたい対象というのが、おのずから決まってくるわけで、結果的にそういった責任者の役割を担う人に非難が集中することになるわけだが、それでも真相が藪の中であるような状態を保っていたければ、様々な方面からはぐらかしの工作が行われるだろうし、またそんなことまでやらざるを得ないような成り行きになってしまうと、だいぶ事態がこじれていることがはっきりしてくるわけだが、それだけ込み入った事情があって、そこに様々な事情を抱えた人や団体が関わってくると、それだけ利害調整が難しくなり、その場を丸く収めることができないままに、何らかの事業が見切り発車的に動き出してしまうと、それでは話が違うということになりやすく、結果的に裏切られたという思いを募らせた人や団体が激しく反発するような事態を招くわけだが、そんな成り行きになってしまうにしても、その場の力関係の中で優位に立っている人や団体が動いて、そんなことが行われているようだと、なし崩し的に押し切ってしまうような成り行きになるだろうし、そんな経緯から事業がある程度の目処が立つような段階にまで至れば、それが既成事実となって、もはや後戻りはできない状況となってしまうわけで、そこまで事態が進行してしまえば、やった者勝ちな空気がその場を支配することにもなって、当初は激しく反発していた人や団体も次第にあきらめムードに傾いてしまうわけだろうが、そうやって行われる事業の類いが、将来にそれなりに無視できない禍根を残すとしても、そんなことの積み重ねが歴史的な経緯となって、そんなことが繰り返し行われた地域に、何か特徴的な地域感情や民族感情などを形成することになるかもしれないし、それらがその地域の中で人や団体が行う活動にどのような作用や影響を及ぼすかは、その時点ではわからないだろうが、そうなってしまうこと自体が誰の思惑通りでもないわけで、個々の場では確かに誰かの思惑通りに事が運んだとしても、たぶんそれはそこで行われた特定の事業に関してだろうし、そうした事業の当事者とは関係のないところで、そうした思惑からは外れることが行われる可能性があるのかもしれず、それが何だかわからないところが、すでに誰の思惑も制御も受けないような成り行きになってしまうわけで、もちろんそれとはまた別のところで行われる事業の類いにおいても、その事業に主体的に関わってくる人や団体の思惑が介在してくるわけだが、そうしたところで行われる事業が思惑通りに進んだとしても、またそれとは別の事業に関する思惑とは違った思惑になる可能性もあるだろうし、そうやって様々な事業が様々な思惑から進められると、時には別々の思惑が対立する形でぶつかり合うこともあるだろうし、あるいは複数の事業の思惑が合致して、それがより大きな事業へと結びつく可能性もあるだろうし、そうやって様々な思惑が対立や連携を繰り返しながら離合集散していくと、そうした状況自体が誰の思惑とも違った状態となってしまう可能性があり、そうなってしまう限りで、特定の人や団体が黒幕的に世の中の全ての物事を制御するような成り行きにはならず、そうしたことを目指しているような人や団体がいるとしても、結果的に当てが外れるような事態となってしまうだろうし、そこではある一つの物事に関しては思惑通りに事が進んでいるとしても、他ではそうでもないことの方が多いわけで、そうなると世の中で何かメディア的に話題となるような出来事が起こる度に、それは誰それの思惑が反映して起こったことだと指摘されても、それがその出来事の直接の関係者なら、それなりに信憑性が生じるだろうが、何が起こっても、すぐに特定の世界的な覇権を狙っているような国の政府や、その代表者の思惑だと主張するようなことになってしまうと、やはりその信憑性が疑われて、何やら陰謀論的な感じになってしまうのかもしれない。

 実際にそうだとしても、現状では覇権的な国家の思惑とは違った情勢もいくらでもありそうだし、そうした国の制御の利かないところで、そうした国を裏切るようなことや敵対するようなことが行われているわけだろうし、確かにそうした国が経済的にも軍事的にも世界の覇権を握ろうとしているように見えるかもしれないが、部分的にはそれなりの影響力を行使している実態があるものの、それ以上の実態があるわけでもないだろうし、またそうであるからこそ、どの国が覇権を握っているわけでもない現状の世界情勢があるわけだろうが、そうした覇権主義的な成り行きが、果たして一般的な傾向として成り立つのかというと、歴史的にそういう時期があったと言えるような見方もあるだろうが、それは大雑把な捉え方をすれば、そういう見方も成り立つということであり、個々の地域的な事情を考慮すれば、それとは違った見方も可能かもしれないし、場合によっては国家的な覇権主義とは違うレベルで世界を捉えてみた方が、それなりにリアリティが伴ってくるのかもしれない。それを政府としての機能から考えるなら、国家間で行われていることには、それなりに決まり切った動作が伴うだろうし、その中で覇権を握るには、他の国との関係において、経済的にも軍事的も優位に立つことが必要であり、そうした優位を保っている限りで、その国に覇権が生じているように見えるわけで、結局それは経済協力や軍事協力などの関係において、覇権国の政府にその国の政府が従っている実態があるわけだが、比喩としてではなく実質的に属国のように従っている事例はあまりないだろうし、ある面では従っていても、別の面では従っていない場合もいくらでもありそうだし、また実質的にはそうであっても建前としては、国と国とは対等な関係を維持しているはずだろうし、そういう意味で覇権とか従属とかいう関係が、何か特別な意味を持つのかとなると、その実態が経済や軍事の関係であり、またそこから政治的な関係ともなるのだろうが、国と国とが独立して存在していれば、少なくともそれは支配の関係ではないだろうし、そうではなく強い国が弱い国を併合するような事態となれば、確かにそれは特別な意味を持つかもしれないが、現状でそうなっていない以上は、覇権とか従属とかの表現がそれほど強い意味を持つわけでもなく、そこに交渉の関係が成り立っている限りで、それらの関係にも一定の歯止めがかかっているだろうし、比喩的には支配という言葉がよく使われるにしても、曲がりなりにも独立国の政府であれば、相手国の政府の要求を拒否することが可能なはずで、最低限の認識として、そうしたことを意識しておく必要があるだろうし、いくら相手国との間で経済的あるいは軍事的な結びつきが強くても、政治的な選択としてそうしたことができる政府にしておくべきだろうし、どうすればそういう政府にできるかは、現状ではよくわからないことだろうが、必要もないのに拒否することはないと主張するならその通りだろうし、それでも現状で拒否する必要があると主張するような政治勢力に、多くの人が選挙で投票するような成り行きも今後はあるかもしれないし、そうなった時に、そうした政治勢力に支持が集まって、そうした勢力が主導的な立場の政権が生じた時には、何らかの分野ではっきりと相手国の要求を拒否するような成り行きが生じるかもしれないし、そうなってくると、要求を拒否された相手国の覇権が揺らいでしまうわけだが、現状でも世界的に見れば、そうやって関係が悪化している国が結構あるわけだから、しかもそういう国と国との間で軍事的な戦争状態となっているわけでもない場合の方がはるかに多いだろうし、比喩的には経済戦争だとか貿易戦争だとか言われることもあるが、そんな状態の国と国との間でも、それなりに交渉が行われていることは確かであり、そうであるなら交渉が行われる限りで対等な関係にあるわけで、それを考慮するなら、国と国との間で、一方が他方に覇権を行使したり従属を強いるようなことは、実態としてもあまり行われていないわけで、そうした実態を客観的な事実として捉えておくべきだろうし、そうなっている限りで、一方的に他の国に支配されているとか従属を強いられているとかいう意識は持たない方がいいだろうし、何よりもまずはその国に住んでいる人がそういう意識を持たないと、そういう人たちの中から政治的に独立意識の強い政治家が生まれてこないだろうし、また人々の意識が変わらないと世論も変わらないだろうし、そういうところで卑屈でゲスな商売人根性を改めないと、いつまで経っても経済的な功利主義の面でしか立ち回ることができないわけだが、もちろんそれ以外の面で立ち回る必要があるかとなると、そもそも立ち回る必要がないのかもしれないが、要するに現状は妙に気を利かすような立ち回りを必要以上に行わなくても構わないような世界情勢なのかもしれず、それだけどうということはないわけで、それに伴って、人と企業や政府との関係もあまりこじれた思い入れや感情を介さなくても、ただ事務的に付き合っていけばいいと考えるなら、そうした機構に陰謀論的な人格など付与しなくても構わなくなるだろうし、また政府の代表者に尊敬や憎悪の念などを抱くこともなくなるのではないか。


12月13日「離散状態」

 何か物事を単純にわかりやすく説明しようとすると、単純にわかりやすく説明するのに都合のいいことしか語らないような成り行きになってしまい、そうなるとその逆に、様々な物事が複雑に絡み合って錯綜しているような状態は説明しないだろうし、実際にそうなってしまっても、そもそも全ての物事を説明することなどできないわけだから、把握できる範囲内で説明するしかなく、さらに興味を持ったこと以外は説明する気にはならないだろうし、そうやって何かを説明しようとする度に、限定的な狭い範囲内で説明する対象が絞り込まれてしまうわけだが、そうやって説明する対象を恣意的に限定することが、かえって説明することの困難を生じさせるわけで、そこだけ説明しても他とのつながりわからないから、それだけでは説明不足となってしまい、だからと言って他とのつながりを説明し出すと、それに伴ってどんどん説明しなければならないことが増えていってしまい、それについてどこまで説明しても、説明不足を解消できなくなる可能性が出てくるわけで、結局説明できる範囲で説明可能なことしか説明できないから、そんな説明で妥協するしかなく、それならそれでその程度の説明で切り上げればいいわけで、それが説明不足であっても説明過剰であっても、そんな説明を受け取る側が、説明に納得したり納得できなかったりするだけで、それ以上でも以下でもないだろうが、たぶんそこで説明する側とされる側が共に、説明以上の何かを説明に期待してしまうと、それが説明する対象への興味を促すのかもしれず、その何かというのが、驚きであったり感動であったりするわけで、そこで心動かされるような出来事を感じ取ろうとする態度が、ただの説明とは違う肯定的な価値を説明に求めてしまうわけだが、そうした物事の説明が一般的には物語となるわけで、自身にとって興味深い物事を語り、それに共感できる人たちとともに、そんな物語によってもたらされた驚きや感動を分かち合える共同体を築こうとするわけだ。そしてさらに、中にはそんな物語には共感できない人たちも現れるわけで、そういう人たちは、他の多くの人たちが分かち合えるような驚きや感動とは違った何かを物語の中に発見してしまうわけで、それは他の多くの人たちが見過ごしているような物事であり、しかもそれを発見することによって、他の多くの人たちが共有している驚きや感動が陳腐なものに感じられてくるわけで、さらにそれらが多くの人が抱いている先入観や固定観念から生じていることも発見してしまうわけだ。そしてそんな先入観や固定観念が、他の多くの人たちが見過ごしてしまうような物事の発見を阻んでいることにも気づいてしまうわけだが、そうなってくるともはやそんな物語によってもたらされるありふれた驚きや感動を分かち合うような共同体とは、決別せざるを得なくなってしまうわけで、そうなってしまった人たちには、そういう人たちにしか感知できない真の驚きや感動の発見を目指す苦難の道が待ち受けていることになり、そうやって先入観や固定観念に囚われた世の中の一般大衆から遊離してしまうわけだが、そこまでには至らない段階に、他の大勢の人たちの意識があり、それらの先入観や固定観念に囚われている程度にも、人それぞれで違いがあるだろうし、またそうした先入観や固定観念からの離脱具合にも、やはり人それぞれで程度の違いがあるのだろうが、それが先入観や固定観念であるからには、一度は誰もが囚われてしまうわけで、それに囚われていることに気づくには、それに対して疑念を抱けるか否かが決め手になるにしても、中には囚われていることに気づかないまま、自然とそこから離脱してしまうケースもあるだろうし、また囚われ続けているのに、同時にそこから離脱するような発見をしてしまうケースもあるのかもしれず、そうであるなら、何か先入観や固定観念から脱することが必要なのかというと、別にそうした先入観や固定観念を悪者扱いする必要もないのかもしれないし、また仮にそこから脱したとしても、何も発見できないケースもあり得るだろうし、そういう意味では、先入観や固定観念に囚われた一般大衆を馬鹿にするわけにはいかないわけで、それも態度としてそういうあり方があるとしか言えないのかもしれず、別にそこから離脱する方向に進むべきということではなく、他にも様々な方向性があるうちで、中にはそういう方向に進んでしまう人もいる一方で、別に先入観や固定観念に囚われたままでも構わないような成り行きの中で生きていられる人も大勢いるわけで、そうやって世の中には人が進むべき道が多種多様に分かれていて、また今もそれを切り開いている最中の人もいる一方で、時にはそれらの道が曲がりくねって交差していたり、また当てのない方向へと発散してしまうようなこともあるだろうし、もちろんそんな道という表現では捉えられないような生き方やあり方もあるだろうし、それに関してどう捉えても納得しがたい面があるにしても、適当なところで妥協しておくことが肝要なのかもしれない。

 たぶん現状で多くの人が見過ごしているのは、世界中で意識されている政治的な行き詰まりでも経済的な行き詰まり環境的な行き詰まりでもなく、むしろそれらの可能性だろうし、そう言ってしまうと、ただ漠然としていてとりとめがないのだが、それが人の生き方や活動の多種多様性というよりは、離散性をもたらしているのかもしれず、全ての物事が行き詰っているのではなく、逆に散らばっているのであり、その散らばり具合がとりとめのなさを示しているわけだが、それらがまとまりを欠いているからこそ、誰もが囚われてしまう先入観や固定観念さえもが、大した拘束力も発揮できずに、物事の相対性の中に埋没してしまうような状況を呈してしまうのかもしれず、だからと言って誰もが先入観や固定観念に囚われるべきということでもなく、ただ離散的な現状の中に未来への可能性があるとしか言えないのかもしれず、そんなまとまりがなく方々へ散らばってしまった人々の意識を、また一箇所へと集めるようなことをやっても、無駄骨に終わる公算も高いのかもしれないし、そうでなくても国家意識や政府の機能は、そうせざるを得ない方向性の中でしか働かないわけだから、これからもそんな無駄骨に終わるようなことを繰り返してもらうしかないのかもしれないが、少なくとも可能性がそんな方向にはないのだとすれば、そうした試みは放置されるべきものだとしても、いきなり無視するようなことはせずに、それなりに関心を抱いて付き合っていける限りで目配せしておくべきことかもしれず、多くの人々がそんな態度でいられる限りは、国家も政府もある程度は形骸化を免れる可能性があるだろうが、それでも現状のままでは済まないだろうし、それなりの変容を被ってしまうことは受け入れなければならないのだろうが、そうであっても、現状で顕著になっている人々の離散的な意識の分散状態に可能性があるのだとすれば、そういう状態にいくら逆らってみても、それは川の流れに逆らって泳ぐようなことにしかならないのではないか。もちろんそれもただの比喩表現であって、実際に何をやるべきかは、現状では示せないし、示さなくてもこれから勝手に行われることでしかないのかもしれないが、別にこれまで通りのことをやっていればいいのだろうし、またそれはやれる限りで行われることでしかないだろうし、そのこれまで通りのことの中には、現状に対する改革の試みも含まれるわけだが、それに関してもおかしいと感じたら疑問を抱けばいいわけだし、そうであるなら現状でやるべきことは現状の中に出揃っているにしても、それ以外のことができないわけでもなく、時が経つにつれてそうしたことが次第に明らかになってくるのかもしれないが、それが現状で行われていることとどれほど違ったものになろうと、現状の中で生きている人たちには関心のないことだろうし、そもそも現状で明らかになっていないことについては関心など持ちようがないわけだが、そういう意味でも現状の離散的な状況の中で、そうした人々の意識や関心の離散状態に対応した活動となるのかもしれず、それは実際に活動してみて、その活動がうまくいっていれば、現状に対応した活動になっていると捉えればいいだろうし、そうであれば現状でうまくいっている活動が現状に対応した活動になるのかもしれないが、仮にそうであるとしても、同じような活動をしているのに、うまくいっている活動とうまくいっていない活動があれば、そうした活動にも選別の作用が働いていて、誰もがそれをやればうまくいくわけではなく、うまくいく人にも限りがあるとすれば、それもそういうことでしかないだろうし、要するにそれが現状の離散状態からもたらされた効果であり、うまくいくような活動を行なっている人にも、てんでばらばらな方向性があって、それと同時に世の中にもそれなりに流行り廃りがあって、そんな流行に乗って活動すれば、それなりに一定数の成功者が出るにしても、誰もが成功するわけでもないだろうし、そこで成功した人の原因や理由を挙げれば、成功のノウハウについて、それなりにもっともらしいことが言えるにしても、だからと言って、やはりその通りにやったからと言って、誰もが成功するわけではないのは変わらないだろうし、それが離散的に成功する人が点在していることを示しているのかもしれないし、そうであるならこれから明らかになる可能性も、それが誰にとっても当てはまることではなく、やるべきことは人それぞれで違ってくるだろうし、また中にはやるべきことなど何もない人も出てくるかもしれないし、それがやるべきことなのかわからない人もいるかもしれないが、さらにやるべきことをやったとしてもうまくいかない人も出てくるかもしれないし、ならばそれはそもそもやるべきことではなかったとなるのかもしれないが、そうとも言えない可能性もあり、やるべきことをやった結果として、うまくいく人といかない人が出てくるようなことなのかもしれず、しかもうまくいかない人がそれなりに出てこないと、うまくいく人が出てこない場合もあるだろうし、要するにうまくいかない人が犠牲となって、うまくいくような成り行きになる場合もあるだろうし、そんなところまで考えてみれば、やはりうまくいく事例といかない事例も離散的に点在するような状態を示すのではないか。


12月12日「不快な労働」

 人がそこで何かをやる成り行きに囚われているとしたら、第一にそれはその人にとっての問題であり、またその人が何らかの団体に属していれば、その団体がその人に仕事をやらせている関係があるわけだが、それはそれ以外のことではなく、他にそれに関して何か問題があるとすれば、その人の家族や交友関係において、その仕事が重要な要素となってくることもあるだろうが、少なくともそれとは次元の違うところで、政府とその人とは直接関係がないかもしれないし、その人を雇っている団体が政府であるなら、公務員としての関係があるかもしれないが、民間の企業で働いているのであれば、その企業と関係があるだけで、あとは税金に関してそれを徴収している政府と関係があるわけだが、そういうことと国家的な枠組みで労働がどうのこうのというのとは、あまり関係がないかもしれないし、何でもかんでも国家の枠組みでしか物事を考えられないような偏狭な人でない限りは、その人がどこでどう働いていようと、あるいは働かないで暮らしていようと、その人にとっては勝手な面があるだろうし、もちろん家族に食わせてもらっていようとも関係ないわけで、特に働く義務が生じているわけでもないだろうし、そうであるなら、たとえ引きこもりのニートであろうと構わないわけだが、世間体を気にするなら、成人となっていたら働いていた方が、それなりにまともそうに見えるが、それはその人の都合であって、あるいはその人の家族の都合でしかなく、中には社会に馴染めない人もいるだろうし、それを無理に馴染んでもらう必要もないのかもしれないが、そういうのはその人の生い立ちに関係することだから、それを外部からどうこういうこともないだろうし、たとえ世の中に働いていない成人がいくらいても、それはそれぞれの働いていない人に都合や事情があるだろうし、特に働いていなくても、その人が普通に生きているなら、他からその人を生かしているような何らかの作用が働いているわけで、それを他の人がどうこういうこともないかもしれないが、またその人のやっていることが、特に経済的な収入に結びつかないようなことであっても、それもそこにそういう成り行きや事情があるとすれば、その人がそういう成り行きに囚われている限りで、そうなってしまっていることであり、それに関して何が問題となることもないのかもしれないが、例えばその国の支配者気取りの人がいるとしたら、働かずに国の役に立っていないように見える人が、生きているだけで資源を浪費しているような実態があれば、それは腹が立って仕方がないことだろうか。だが事を経済的な観点から見るなら、その人がそこで現に生きている実態があれば、その人を生かすだけの物資が足りているということであり、その人が働いていようがいまいが、その人を生かすだけの物資が何らかの形で供給されている実態がある限りで、何が不足しているわけでもなく、むしろその人が消費する物資を生み出すための雇用を生み出していることにもなるわけだが、人が生きていくために必要な物資を生み出すためではなく、経済的な利益を上げるための物資を生み出す必要があれば、そのためにはいくらでも働き手が必要となる一方で、しかもその働き手が、雇用している側に利益が出る程度の賃金で働いてもらう必要があるだろうし、また作り出された物資を、利益の出る程度の価格で買ってくれる消費者も必要となるわけで、そうなるとそこで働き手が不足していて、なおかつ働いていない人が大勢いるとすれば、そこでは利益が出る程度の賃金で働いてくれる人が不足しているということであり、それだけで単に働いていない人を働かせようとするのとは次元の違う問題となってしまうわけで、さらに現状で働いていない人は、その仕事の内容が嫌だから、働き手が不足している分野では働きたくない場合もあるだろうし、そうなるとそんな人たちに、働きたくない仕事を無理やり押し付けて働かせるわけにはいかないわけで、結局は嫌な仕事内容でも働かざるを得ないような境遇に追い込まれた人をよそから連れてきて、働かせる側に利益をもたらすような賃金で働かせる成り行きになってしまい、そうやって低賃金で過酷な労働などの人としての尊厳を無視するような労働が実現してしまうわけだが、それも働き手が供給される限りで続けられることだろうし、そういう仕事の分野で働き手が不足するのは当然の成り行きであるわけだが、世の中にそんな仕事があれば、誰もがそんな仕事など拒否していれば、そういう分野での需要そのものがなくなってくるから、それで構わないだろうし、無理矢理の延命策として、働かざるを得ないような人たちを外国から連れてくるような成り行きになってしまっても、結局はそういう人たちがそれなりに嫌な思いをすれば、次第に働きに来なくなるだろうから、どうやってもそういう分野での仕事は廃れる傾向にあるだろうし、そういう意味では騙して連れてきた人が逃げ出すような状況になっていること自体が、それなりに健全な反応と言えるわけだ。

 いずれにしても人が積極的に働きたくなるような仕事というのは、かなり限られてくるだろうし、また誰もがそんな仕事にありつけるわけではないし、大抵の仕事は不快な面を含んでいて、嫌なことを我慢しながらやらざるを得ないような仕事などいくらでもあるわけだから、ほとんどの人がそれなりに不満を持ちながらも、やらざるを得ないような成り行きに絡め取られていると考えておいた方がいいのかもしれないし、そうであるなら大抵の仕事は条件さえ合致すれば、やり手がいなくなってしまうような可能性が出てくるわけで、それは相対的なことでもあり、賃金が低かったり心身に苦痛を伴うような仕事から順に、やり手がいなくなるような傾向が出てきて、それに対してできることは、賃金を高くしたり心身の苦痛を軽減するようなことになってくるだろうし、それができなければそういう仕事は衰退していくしかなく、あるいは機械を導入して、できるだけそういう面をなくしていくとしても、それは利益が出る範囲内でしかできないことであり、そういうことをやるにもそれなりに限界があるわけだ。そしてそんな嫌なことをやるためだけに人が必要とされるなら、そんなことをやっている産業には良い人材など集まらないだろうし、そういうところではどうにもならない面があるわけだが、それも結局は程度の問題となってしまい、そういうところで働かざるを得ない人がそれなりに出てくる成り行きがある限りで、そういう仕事が継続されるわけだから、そうやって世の中が曲がりなりにも回っている実態があるということだろうし、それを誰もが満足のいくようにはできないわけで、それを政治的に動いて不快度の高い仕事に関して人材を確保しようとしても、やってみて嫌になった人はさっさとやめるだろうし、結局それもやらざるを得ない人が、嫌なのを我慢しながらやるような成り行きにしかならないわけだから、どうやっても仕事自体の不快感は拭えないわけで、それをおかしな洗脳を施してでもやらせようとすれば、そんなことをやっている分だけ無理も生じるだろうし、それも相対的なものでしかなく、誰がどう見てもそこで人権侵害のようなおなしなことが行われているなら、そうした行為はやめさせなければならない成り行きも生じるだろうし、それに関してきれいごとを主張したい人はいくらでもいるかもしれないが、また実態を知らない人はいくらでも机上の空論を述べることができるだろうが、それに関して大雑把に言うなら、スーパーで安く売っている肉や卵などの食料品の類いの製造や流通や販売のほとんどには、そういった嫌な仕事が必ず含まれるだろうし、またパソコンやスマホや家電製品なども同様であり、また土木や建設などの工事にもそういった類いの仕事が関わってくるだろうし、他にも世の中のありとあらゆる場所で、やりたくないような嫌な仕事がいくらでもあるわけで、もちろんそんな仕事にも慣れてくれば、何とも思わなくなる人も中にはいるだろうが、人によって感じ方も異なり、それなりに温度差があるにしても、それを政治の力どうにかしようとするのは、あまりにも虫が良すぎる話であり、そんなことまでできるはずもないと思っておいた方が無難なのかもしれないし、そうでなくても、何でもかんでも政治問題化するには、当の政治の場で、あまりにもお粗末で杜撰なことが行われている現状もあるだろうし、しかもそんな現状をこれ見よがしに批判したがるメディアに巣食うコメンテーターのような人たちが、自らの主張を利するような事例をつまみ食い的にサンプリングしてきては、それにかこつけてもっともらしいことを述べてしまうのも、それで何がどうなるわけでもないことはわかりきっているだけに、何か責任逃れのアリバイ工作ようにしか見えない面もあるだろうし、そういうところで自らにとって都合の悪い事例にはあえて目を向けないようにする動作が、日頃の弛まぬ訓練によって骨身にしみて身についているわけだろうから、そういう人たちに何を言ってみても馬耳東風であり、いったんそんなことをやり始めてしまうと、自らが批判できる対象しか相手にしないわけで、主張しているそれがどんなに枝葉末節で部分的な些事であっても、それを思いのままに拡大解釈して煽り立てようとするわけだから、そういう面でもどうにもならなくなってしまい、そんなことも含めて、それを語り出すときりがなくなってしまうわけだが、そうであるとしても、とりあえず現状で成り立っている範囲内で、何かしら人や団体の活動が行われている実態があるわけだから、それはそれとして認めた上で、そういう活動がどのような経緯でどうやって行われているのかを示すことぐらいはできるだろうし、その程度にとどめておけば、そこからあえて都合の悪い事例には触れなくても、それなりに妥当そうに思われることが言えるわけで、そういった限界をあらかじめ設定しておけば、それが部分的な範囲内であることを明確に示せて、それを受け取る側にも納得してもらえるかもしれないが、そういった限界を飛び越えて、特定の事例に関して批判的な取り扱いをして主張を展開していくと、そこから自然と独善的で一方的な内容になってくるのだろうし、それでも構わないわけだが、やはりそうなると論理的にほころびが目立ってきて、果たして批判している対象と批判している自身の釣り合いが取れているのか、疑問に思われてくるわけだが、やはりそういう意味で何かを批判するということは、批判している自らも傷つくのを覚悟した上でないと、批判にはならないような不条理さが伴ってくるのかもしれない。


12月11日「成功例と失敗例の比較」

 世の中で行われていることの何をどう解釈しようと、そんな解釈を伴うようなとりとめのない話題の中に、何やら政治的な問題がまとわりついてきて、しかもそれが政治的な行為とは無関係なことでしかない場合もあるだろうし、またその無関係なことを関係があることのように言いくるめるようなやり方も、話術としてそんなことをやれば、もっともらしく聞こえるだろうし、それが何でもないことでしかないかもしれないのに、何か重要で重大なことであるかのように見せかけるのも、文章術を駆使して効果的に構成できれば、そんなことように思われてしまい、それをごまかしだとは言えないような成り行きになってしまうわけで、それに関しては、ある特殊な環境ではうまく行くことであっても、他の環境ではうまくいかない場合があるだろうし、その特殊な環境ではうまくいっている事例を賞賛して、他のうまくいっていない事例を批判してみても、それで何が解決できるわけでもなく、実際にはうまくいっていないなりにも継続していることの中から、それなりに改善点を見つけて改善していくことしかできないわけだが、中には改善点が見つからない場合もあるだろうし、見つかっても諸般の事情から改善できない場合もあるだろうし、そういった諸般の事情が考慮されている結果が、うまくいかないなりにも続いている現状をもたらしているわけだろうが、それを他の条件下でうまくいっている事例と比較しながら批判するのは、根本的に間違っているのかもしれないが、そういうことをやらないと、その手の批判は成り立たないのだろうし、そういうことを理解できない人が、そんな批判を行っている実態があるということでしかないのかもしれないが、そういうことをやっている実態をどう受け取るかが肝心だろうし、そんな批判を行っている人を信用できるかとなると、微妙に思われてくるかもしれないが、そういう批判も批判として成り立っていて、しかもそういう批判に賛同する人も少なからずいるわけだから、それだけ世の中には愚かな人が多いと理解すべきなのか、あるいは別にそれらの人たちが愚かなのではなく、その程度で構わないと解釈しておいた方が無難な場合もあるだろうが、どちらにしろ語ることと行うことの間にはそれなりに差異があるわけで、その差異を縮めるような成り行きに持っていこうとするのか、それでも言いっ放しで批判しっ放しのままでも許容するのかに関しては、その場の成り行きによって様々な結果がもたらされるのかもしれず、中には批判するだけに終始しているうちに年老いて、何もやらないまま寿命が尽きてしまう人もいるだろうし、またその人が何かを行わなければならない立場に立たされた時に、かつて自らが批判していたようなことしかできない境遇に陥ってしまう時もあるだろうし、さらにかつての批判が活かされるようなことをやれる機会に恵まれる人も中にはいるかもしれないし、それはその時の情勢次第で運次第な面があるかもしれないが、少なくともやっていることの全てがうまくいくはずがないから、うまくいかないことに対して批判されるのも当然のことであり、そういう場合の批判は謙虚に受け取っておけばいいだろうし、時にはそうした批判が活かされる場合もあるが、活かされずに放置されて忘れ去られてしまう場合の方が多いだろうし、それは実際に何かを行うことよりは、それを批判することの方が容易で安易にできるということであり、実際に行うことの方がはるかに難しく、またそれがうまくいかない可能性の方が高そうで、そんな中でもたまたま何かの加減で運良く成功した事例が稀なほど、それは希少な成功例として賞賛されるだろうが、結局他の失敗例が多いほど、要するに失敗する確率の方が圧倒的に高いのに、稀な成功例を賞賛する一方で、他のありふれた失敗例を批判するのは、批判すること自体が不公平であり、そんな不公平な批判を平然と行なっている人の感覚が、鈍感この上ないと思われても仕方のないことだろうし、少なくとも事の公平さを装うなら、成功した事例と失敗した事例が同程度であれば、それは普通に比較の対象となるだろうが、それなら成功することもありふれていて、そんなありふれた成功例は特に賞賛するまでもないことになってしまうだろうし、それと比較して成功した事例が稀であれば、それが希少であるほど賞賛に値することになるわけだが、そうだとしても、それと比較して多数の失敗例を批判するのはおかしいだろうし、また他に多数の失敗例があるのに、敢えてそれに挑戦しようとすること自体を批判するのも、よくありがちな傾向であるかもしれないが、またそうやって挑戦して失敗すれば、そらみたことか、と批判されるのもよくありがちなことであるが、しかし結局そうした批判にもめげず、敢えて失敗の危険を冒して挑戦して成功すれば、それは稀な成功例として世間の賞賛を浴びるだろうし、それに比べて批判する側といえば、ざまあみろが言いたくて批判しているような成り行きになってしまうわけで、そうなるとどちらが卑劣かは一目瞭然となってしまうわけだ。

 結局批判は何かをやった結果をああだこうだと論評するような行為と不可分で、それをどう言いくるめてみても、批判だけで正当化できるような代物ではなく、別に正当化しなくても構わないわけだが、またそうであるからこそ、そんないかがわしい批判者に同調する必要はないわけで、それよりはたまたまうまくいった事例を賞賛するだけにとどめておけば、他の誰からも文句を言われる筋合いはないだろうし、そんな態度で終始していれば、人畜無害な存在でいられるわけだが、そればかりでは物足りなくなってしまうだろうし、そうなるとまたいかがわしい欲望が芽生えてきて、同じ誉めるのでも、誉め殺しのような皮肉なことまでやろうとしてしまうわけで、そうやってどう言いくるめてみても批判者にしかなれないような人は、誉めるにしても誉め殺しように誉めて、自らのいかがわしい立場から生じるねじくれた感情を満足させようとするわけだが、それはそういうことだと受け止めるしかないわけで、そうやって話芸や文章術に磨きをかければ、何かしら満足のいく作品を構築できるかもしれないし、それもそれでそういうものだと受け止めるしかないわけだが、その一方でそんな事の安易さに気を取られてしまうと、根本的なところで当たり前の現実を感じ取れなくなってしまうのかもしれず、それはこれまでの結果から予想して、これからやろうとすることを批判することが、それほど世間の共感を得られるようなことなのかに関してであり、それがどうも疑問に思われるわけで、結局困難なことを成し遂げるには、常にそうした批判に打ち勝つような成り行きを伴うわけで、実際にそういうことをやって成功した人や団体が、世間から賞賛を浴びるような成り行きがあるのだから、それに対して批判者の方は、それが批判者の意に反して成功すれば、いつも軽蔑されるような成り行きになるわけで、どう考えてもそういうところで、だから言わんこっちゃないとか、そらみたことか、ざまあみろとか言ってしまいがちな人は、困難を乗り越えて成功した人や団体などが世間から賞賛を浴びるための、引き立て役に甘んじてしまい、果たしてそういう損な役回りを積極的に引き受けることに意味や意義があるかは、よくわからないところだろうが、どちらも世間一般の反応であることには変わりなく、それ自体はどちらの役回りを得ようと、実際に何かを行う側からすれば、気にするまでもないことであり、そんな周囲の雑音などは無視できる限りでやればいいことだろうし、実際に強引に事を進めて、それなりの成果を上げれば、やった者勝ちになってしまうし、失敗すれば、そらみたことかと言われて批判されるわけだろうが、どちらにしてもそういう成り行きを経ないことには事が収まらないわけで、それが世間的な関心事であれば、またそんな成り行きからもたらされた結果に関して、ああだこうだとメディア上で論評されるわけだろうし、現状でも様々な活動がそうした成り行きの真っ只中なのだろうが、それに絡みついてくるいつもながらの危機感を煽るような紋切り型の批判であっても、それがそこで行われていることのBGM程度には人々の耳に響いていることは確かだろうし、たぶんそういうところで人々の鈍感力が試されているのであり、その何事にも動じない姿勢をどこまで保っていられるかが、我慢比べのようにして、それらに対する批判を圧殺する効果を上げているわけで、そこで我慢しきれずにねをあげた人の悲鳴が、批判とどう違うのかも興味深いところだろうし、それに対して悲鳴をあげるような弱者とは違って、あくまでも愚鈍さに徹することができる人も中にはいるだろうし、そういった人が現状の大衆市民社会の中では稀有な存在となるのかもしれず、そうした稀有な感性の持ち主が、後の時代に何らかの遺産を残す可能性もあるのだろうが、そんな遺産でさえも活用されなければ宝の持ち腐れとなってしまうだろうし、しかも我慢しきれずにねを上げてしまうような人にとっては、どんな遺産さえも猫に小判でしかないだろうし、それを活用できる人も、現状に対して愚鈍な感性を持ち合わせている人に限られるのかもしれない。またそうした人はそれと気づかずに過去の遺産を活用しているわけで、逆にそれに気づいてしまう人たちは、それを活用するまでには至らないうちに、周囲の雑音によって圧殺されてしまうのかもしれず、そのちょっとしたことにも敏感に反応してしまう繊細な感性が、現状のひどさに耐えきれないわけだ。そんなわけで結局は現状のひどさに敏感であるほど、ちょっとのことで悲鳴をあげて、それが現状に対する紋切り型の批判となってBGMように世の中にこだまするわけで、そんなBGMを心地良く感じながらも、ひどいことを平然と行えるような人たちが、持ち前の愚鈍さを生かして、現状の中で主導権を握る成り行きになるのかもしれず、実際にそうであれば、そこには救いようのないアンタッチャブルな世界が構成されているはずなのかもしれないが、その一方で、そういった世界から抽出されるエキスを糧として、魅力的なフィクションも構成されるわけで、それを一般の人々が娯楽として享受するような倒錯的な成り行きも生じているだろうし、やはりそういうところで、何が良くて何が悪いかが判断できなくなってしまうわけだが、普通に良いことと悪いことを判断するなら、ちょっとのことで悲鳴をあげるような繊細な感性の持ち主であれば、世の中にBGMのように鳴り響いている紋切り型の批判に同調することが良いことになるのかもしれない。


12月10日「物事の制御」

 現代文明は機械的な制御で成り立っている面があり、日常生活のありとあらゆる面に、そうした機械的な制御が入り込んでいる現状もあるわけだが、一方で、世の中で起こっている出来事や現象に関して、その全てを制御することは難しいものの、部分的には制御可能だと思われて、実際に制御に成功している部分もあることが、そういった機械を活用した人為的な制御の模索へと、人や団体の活動を向かわせる傾向があるのだろうが、それがうまくいかない面では、そこから様々な問題が起こっているわけで、もちろんその全てがうまくいかないわけでもなく、うまくいっているように思われるところでは、それなりに成果を上げているように思われるだろうし、そういう方面での人や団体の活動が社会的にも評価されているのかもしれないが、それが現状ではどうやっても部分的な制御にしか至らないところが、それで制御していることになるのか、という疑問を生じさせるだろうし、全てを制御しないと制御する意味がないようにも思えるし、そういうところで思い通りにいかない部分というのが、それを思い通りに制御しようとする試みにもつながってくるわけだが、そこで制御できない部分を放置するわけにはいかないところが、制御しようとする意志の底しれぬ欲深さを露わにしているのかもしれず、物事を制御しようとすると、それに関連する全てを制御せずにはいられない際限のなさに直面してしまい、それが無理であることがわかっているのに、そういった成り行きがそれを目指してしまうわけだから、そんなことを追求し出すと、遠からず破綻する結果が待ち受けているのかもしれないが、実際に破綻するまではそういった追求をやめようとしないだろうし、また破綻してからも機会を捉えて活動を再開しようとするかもしれないし、執拗にそんな追求をやりたがるような成り行きとともに、それ自体が制御の利かない追求となってしまうと、そういうことをやめる理由が見当たらなくなるのかもしれず、もはやそんなことをやっている人や団体は放置するしかない状況ともなってくるのかもしれないが、実態としてはそれなりに世の中の出来事や現象を人為的に制御している面はあるものの、完全には制御しきれてないから、思わぬところで思いがけない出来事や現象が起こるわけだが、そうなると今度はそうした出来事や現象でさえも、何らかの黒幕的な勢力によって制御されていると思い込んでしまう人たちが湧いて出るわけで、そうした妄想が陰謀論的なデマとなって、それ専門の怪しげなメディアを通じて世の中に流布されると、多くの人が何でもかんでも人為的に制御されているような妄想に取り憑かれてしまうわけだが、さらにそうした妄想を煽って、妄想に取り憑かれた人たちを制御するような試みも行われるわけで、そうした試みが呪術的な作用や影響を人や集団に及ぼして、妄想を信じ込んだ人や集団を制御する試みがある程度の成功を収めるわけだが、もちろんそれだけで全てを制御できるわけではなく、制御できていない面では、陰謀論に騙されるなと唱える良心的な啓蒙活動に直面するわけだが、そういった啓蒙活動でさえも、それなりの人為的な制御を目指した活動である面も伴っていて、啓蒙活動を通して人を良い方向へと導いて、社会を良くしていこうとしているわけだから、それもある意味では制御の一環とみなすことができそうだが、それだけなら全面的な制御を目指しているわけではないだろうし、人を悪い方向へと行かせないようにしたいだけかもしれないのだが、そういう面ではそうであっても、そこから積極的に何らかの思想的な方向性を打ち出してくると、そういった方向へと人を先導するような傾向を伴ってきて、それとは違う方向性を持つ他の思想は認めないような偏狭な意識が芽生えてくるわけで、そういう意味で制御することは、それ以外の動作を阻むような作用が生じてくると、途端にそれに対する反発や反抗が生じてくるわけで、そんなところから制御という動作の限界が明らかとなるわけだが、そもそも全てを制御できないということが、制御に対する抵抗の存在を示しているわけで、物事を制御しようとすると、そうした制御に逆らうような動作が生じてしまうから、結果的にそれが制御を阻む要因となってしまい、そうなると制御自体がその対象にとっては余分で邪魔な動作となってしまうのかもしれないし、制御する必要のない物事を制御しようとするから、そうした制御に対して抵抗する動作が生じてしまうと考えるなら、そうした抵抗を無理やり力で押さえ込んで制御しようとする思惑も生じてくる一方で、そうではなく調整や妥協を通して、制御とは違った関係を結ぼうとする傾向も生じてくるのかもしれず、そういったところで、物事との関係の在りようが様々な方向性や傾向を伴ってくれば、何か特定の動作ばかりが強調されるような事態とはならずに、何が何でも対象となる出来事や現象を制御しなければならない使命感とも無縁でいられるようになるのではないか。

 もっともそれも具体的な事例に伴って、その場の状況に応じて関係が結ばれる限りで、場合によっては主導権を握った側による制御に至る成り行きもあるだろうし、また制御できない面では、調整や妥協の関係も成り立つ可能性も出てくるわけだが、必ずしもそうなることが関係の全てではないし、無関係であっても構わない場合もあるわけだから、何が何でも関係を結ばなければならないとは言えないだろうし、そこで何でもかんでも自らの都合を押し通そうとする必要もないわけだが、その一方で自らが主張する論理の正しさを証明したいがために、その主張の中で異なる物事を強引に結びつけて、そこに論理的な整合性を適用したがる人も出てくるわけで、しかもそれらの物事が自分とは無関係であることに我慢がならないような人も結構いて、そうやって物事を強引に結びつけて語ろうとすることが、果たしてその人に関係のあることなのかというと、実際には無関係なのに、それについて語ると、あたかも関係があるかのように思われてしまうわけで、特に語る対象を批判し出すと、自身と関係があるから批判しているような気になってくるわけで、それが物事を批判することに伴って生じる効果であるのかもしれず、そうなった時に自分には関係のない物事を批判しているとなると、そうした批判自体の意味や意義がよくわからなくなってくるのかもしれないが、逆に関係者であるほど、事を穏便に済ますために、あからさまな批判は避ける傾向になるわけで、そうであるならあからさまな批判を行っている人は、その批判対象とは無関係である可能性が出てくるわけで、では何のために批判しているのかとなるわけだが、やはりそれは対象となった物事へ介入したいのだろうし、またそれへの関係や無関係も含めて、広く世間の関心を惹こうとして、批判するような成り行きになってしまうのかもしれず、そうなると批判すること自体に宣伝的で煽動的な面も伴ってきて、そんな行い自体が売名行為のようないかがわしさも想起させられてしまうわけだが、一方でそんな批判に共感する人が大勢出てくれば、世間の関心を惹こうとしたことに関しては、うまくいったことになるだろうし、それも一種の啓蒙活動とみなすと、そうした活動を正当化したくなってくるのかもしれないが、それの何が良くて何が悪いというよりは、そういうことをやって現状を恣意的に制御したいという意志が、そういうことを行わせるとしても、果たしてそれに関係があるかないかの次元で、たぶんそれが公的な政治に結びつくような行為となると、誰もが関心を持ってもそれほど奇異には感じられないだろうし、そうやって何でもかんでも政治に結びつけるような作用も生じてくるのかもしれないが、政治にも限界があるだろうし、全てを政治的な次元で制御することはできないのはわかりきっているかもしれないが、それでも政治的な次元に様々な物事を引き込んで、人々の関心を引き寄せようとする人が出てくるわけで、それが世の中に話題を提供しようとするメディアの役目だとも思われてしまうわけだが、やはり全てを政治的な次元で語ろうとしてしまうと、そうした次元で世の中を制御することばかりに人々の関心が集まってしまうわけで、それができない面があることを示しておかないと、関心を持った人々の政治的な要求が無い物ねだりに堕してしまうだろうし、そういったところで政治の側ができないことを示せばいいのだろうが、政治自体が民衆の人気取りとなりがちで、勢い何でもかんでも政治的に解決できるような幻想をふりまいてしまって、実際にできないから民衆の不満が蓄積されてくる傾向にもなるわけで、また逆に何でもかんでも政治的に解決しようとするから、その必要のないことまで政治問題化してしまうわけで、どちらにしても政治的な次元で世の中の全ての物事に関する問題を引き受けてしまうと、必要以上に無理が生じる結果となって、かえって何も解決できない政治など不要だと思われるだろうし、不要に思われるような政治には関心が持てなくなってしまうわけだが、そういう意味で政治的な次元でやらなければならないことというのは、特にこれといって決まり切った物事ではなく、そうであるから何かそこに一定の枠組みをはめ込んで、その枠内でやらなければならないことを決めるわけにはいかない面があるのかもしれないし、逆に政治の側でも、何でもかんでも自分たちの課題として引き受けなくても済むようなやり方を模索しなければならないのかもしれず、そういう面で民衆の側でも政治にあまり過大な期待を抱かないようにすることも、政治家に妙な使命感を抱かせない上でも肝要であり、それとは異なる面で政治家が、行政の機能からもたらされる、執拗な民衆への管理統治の圧力に抗う歯止めとして機能すべき面もあるのかもしれないし、何かをやるというよりは行政から民衆を守るために政治が必要なのかもしれず、そうであるなら行政と一体化して、行政の民衆への管理統治に手を貸すような政治勢力には警戒しなければいけないわけだが、そういう面で民衆の理解が得られているかとなると、現状では疑問を感じざるを得ないのではないか。


12月9日「立場と正当化の不要」

 それが何を意味するわけではないとしても、人は様々な成り行きの中で生きていて、その人が関係する物事に特有な成り行きには、他の人や団体も関係してくることがあるだろうし、実際に世の中で起こっている様々な成り行きには様々な人や団体が関係してくるから、それらの成り行きの中で、そこに関係してくる人や団体の間でも、新たな何らかの関係が結ばれる可能性も出てくるわけだが、そうやって関係し合う人や団体から、また新たな物事とそれに伴う特有の成り行きが生まれるわけだろうが、さらにまたその成り行きにも別の人や団体が関係してくると、それらの人や団体の間でも新たな関係が結ばれて、その関係に応じた特有の物事と、それに伴った特有の成り行きが生まれる可能性が出てくるわけだ。そんなふうにしてそこで生じている様々な成り行きの中で、様々な人や団体が活動することになるわけだろうが、そんな活動の中でも、自らが囚われている成り行きに逆らうような活動も可能かもしれないし、そんな成り行きに逆らうような活動というのが、一般的には抵抗や反対の活動かもしれないのだが、そんな成り行きに絡め取られて、抵抗や反対の運動に身を投じるようなら、別にその成り行きに逆らっていることにはならないのかもしれないが、そうではなく、そんな抵抗や反対の運動にも疑念を抱くようだと、微妙にそこからずれてくるわけで、そうなるとそんな立場があるかというと、それが世間的に認められなければ、それを正当化できないような成り行きになってしまうのかもしれず、それでも逆らわざるを得なくなってしまうとすれば、それをどう表現すればいいのかわからなくなってしまうのだが、別にそれは大げさなことでも大したことでもないのだろうし、むしろどうでもいいような何でもないことのようにも思われてくるわけだが、そうではなく、それとは違って、そういう特定の物事に抵抗や反対をする成り行きに逆らわずにいることは、どういうことなのかというなら、たぶんそれは大げさなことであったり大したことでもあったりするのかもしれず、それが何かを批判して、それに対して抵抗したり反対することを称賛することになるのかもしれず、要するにそれは世の中で普通に行われていることであり、世間的にも認められていることでもあり、そういうことをやると、それなりの社会的な立場を得られて、そういうことをやっている自らを正当化できるようになるのだろうが、なぜそういう真っ当な成り行きに逆らう必要があるのかといえば、必要などないだろうし、それを正当化できる理由もなく、逆らうような立場もないことなってしまうのかも知れないが、たぶんそれで構わないだろうし、そういった行為に逆らうと実際にそうなってしまうわけだ。それでもやはり疑念を抱いてしまうのだから、そうなってもなお疑念を捨てるわけにはいかない事情が生じてしまうのかもしれないが、ではそうした世間的な賞賛や批判や、そういうことをやっている立場を正当化することに逆らうと、何が言えるのかとなると、人や団体のやっていることを賞賛も批判もせず、そんなことをやっている立場を正当化することもない、ということであり、そうなると具体的には賞賛も批判もしないようなことを述べて、そんなことを述べている自らを正当化することもない、という回りくどい成り行きになってしまうのだろうが、それが意味も意義もないことだと思われるなら、やはりそれはそういうことであり、実際に意味も意義もなければ、そんなことを述べている自らを正当化するわけにもいかないだろうし、そんな立場などどこにもありはしないだろうが、立場がなく正当化もできないということが、それに逆らっていることの証しとなるだろうし、実際に逆らっているからこそ、そんなことをやっている意味も意義もなく、そんな立場もないから正当化もできないことになるわけだ。もちろんそれで疑念が解消できるわけでもなく、ただ疑念を抱き続けることになるだろうし、それがどんな立場でもなく、正当化できるようなことでもないから、賞賛や批判の対象ともならないわけだが、そういう態度を延長してゆけば、それ以外のいかなる立場も、それを正当化することにも、さらにそうした立場やそれの正当化を賞賛したり批判したりする行為にも、疑念を抱き続けることにわけだが、それは普通に世間的な意味で疑念を抱くことと、どう違うのかといえば、たぶん大して違わないことなのかもしれず、普通に疑念を持つことが、そういう態度につながるわけで、具体的には世の中で何をやったら駄目で、何をやったら良いかをはっきりさせないことが、駄目なことをやったら批判されて、良いことをやったら賞賛されるということ自体に疑念を抱けるわけで、それは駄目とされる行為をやる事情を考えることにもつながり、良いとされる行為をやる事情を考えることにもつながり、駄目なことがなぜ駄目とされるのかと、良いことがなぜ良いとされるのかについて、その判断基準がいかにして設定されるのかを考えることにもつながるわけだ。

 そしてそこから、駄目なことをやっている人を批判して、良いことをやっている人を賞賛する、というごく真っ当な行為を疑うことにもつながるわけだが、それに対して、駄目なことをやっている人がなぜ駄目かについて、あるいは良いことをやっている人がなぜ良いかについて、もっともらしくも説得力のあることを述べられる人は、当然のことのようにそんなことを述べている自らの立場を正当化したがるだろうし、それを世間に向かってアピールするわけだが、要するにそういう人は、自らが行なっているそうした行為が良いことであり、世間的に賞賛されるべきことだと暗に主張しているわけで、中にはそうした行為が世間に認められれて賞賛されれば、世の中が良くなると確信している人もいるだろうし、一般的にもそれが真っ当な行為だと思われているだろうが、現実問題としてそれの何が疑わしかといえば、そうした行為が否定する面であり、駄目なことをやる人には駄目なことをやるに至るまでの経緯があるわけで、結果的に駄目なことをやってしまった人をいくら批判してみても、駄目なことをやるまでに至る経緯がなくならなければ、また性懲りもなく本人や他の人が駄目なことをやってしまうわけで、実際にもそうやって駄目なことをやってしまう人が次から次へと出てくる現状があるのに、そうした人が出てくる度に、それがメディアで話題となる度に、そういう駄目な人を年がら年中繰り返し批判するような人が、果たして真っ当なことをやっているかといえば、それを真っ当な行為だと世間が認めるなら真っ当な行為になるかもしれないが、実際にその人が判断して評価する駄目な人が次から次へと出現してくるわけだから、一向に世の中が良くなっていないわけで、その人のもっともらしくも説得力のある評価というのが、その人が目指しているつもりの世の中の改善には、何の役にも立っていないことが明らかになっているのに、そういった人物評価をメディア上で延々と繰り広げている人は、そのこと自体には無頓着であり、いつまで経ってもその人が判断した駄目な人を、その駄目な理由を挙げて、延々と批判することしかできないわけだ。それを客観的に見るなら、そんな人は無能でしかないわけだが、そういう人物評価がその人の商売に結びついているなら、そうでもないわけで、そういう紋切り型の人物評価を支持する世間が、その人の商売を支えていることにもなるわけで、そんなふうにして無能な人が生かされている世の中が、果たして良い世の中なのかというと、実際にその人が駄目だとみなす駄目な人がひっきりなしに大勢現れてくるわけだから、良いはずがないのに、良いはずがないからこそ、そんな効果も成果も上がらない人物評価を繰り返す人の商売が成り立っている現状があるわけで、そうしたことを主張する自らの行為と、そんなことをやれる立場を正当化して、そんな自らのやっていることを真っ当な行為であることを、世間に認めさせたい人には、そうした逆説的で不条理な現実に気づくことができないわけだから、そういう意味でもその人の無能さが証明されているように思われてしまうわけだが、だからと言ってそうした人を批判する必要はないのかもしれず、批判してしまうと、やはりそれに対して、では他にどうすればいいのかと問い返されてしまうわけで、そうではなく、そんな駄目な行為をやってしまう経緯がそこにあることを示しておけばいいのだろうし、しかもそうした人がその人だけではない現実があって、そういった人物評価が商売の人など他にもいくらでもいるわけだから、そこにもそうした人が次から次へと現れる成り行きがあるから、そうした人が実際に出現してくるのであり、要するにそうした人の人物評価を批判するのではなく、そういう行為に疑いの目を向け続けることが肝要だろうし、それは別にそういう立場があるというのではなく、疑うことを正当化するのでもなく、ただそれがおかしいと思い続けていればいいのだろうし、そういう態度でいれば、少なくとも成果も効果も上がらないそれらの行為を信用してしまう愚を避けることができるのではないか。またそれは大げさなことでも大したことでもなく、むしろ些細などうでもいいような気軽さを伴っているだろうし、ただ疑っているだけなのだから、それ以上でも以下でもなく、それだけでは何の利益も損害ももたらさないようなことかもしれないし、だからそれ自体は賞賛されることでも批判されることでもなく、逆に大げさな賞賛や批判に逆らうようなことかもしれず、そのことの意義や意味を誇張して煽り立てるようなことでもないわけだが、そうであってもそもそもそれを疑っているのだから、そういった世間的に見て駄目な行いや良い行いが、どうやってもたらされるのかを考えないわけにはいかないだろうし、それを考えている限りで、それを自らの行いに反映させることができるわけで、そうなればどういう成り行きでそういう行為に及んでしまうかを知ることができるかもしれないし、それを知ればそういう成り行きになった時には、どうすればいいかを判断できるかも知れず、そういう成り行きに応じた対処を模索する機会も得られるのかも知れない。


12月8日「社会の暗部」

 社会の中で行われる人為的な物事に関わっていくと、その過程で、そこに関わっている人々の様々な思惑や感情が、その場に渦巻いていることに気づくかもしれないが、それとは別の次元で、そうした思惑や感情を促すような作用も感じ取れるかもしれず、そんな作用から生じる、その場を支配する自然の成り行きというのが、それらの人為的な思惑や感情を操っているのだとすれば、それはその場での勢力争いや主導権争いに伴って、そうした思惑や感情が生じていることになるのかもしれないが、その場での自然の成り行きが、人の意識をそれらの争いへと誘導して、争いを自らに有利に導こうとする思惑が生じてきて、そう思うのが自然の成り行きだとしても、そんな思惑からもたらされる自然な振る舞いが、人為的な勢力争いや主導権争いそのものであるとすれば、またそれとは逆に、そんな争いを収めて、その場を平和な状態へと導こうとする思惑も生じるのかもしれず、そうなるとその場では人に対して相反する二つの作用が同時に及ぼされているように思われるかもしれないが、厳密には同時ではなく、その場で勢力争いや主導権争いが激化すると、それに伴って、争いが物事を進めていく上で障害となるから、それに対する反作用として、争いを収めるような思惑が生じてくるわけで、同時というよりは順番に、争うことと争いを収めることが交互に繰り返されるわけだが、単に平和なだけでは刺激がなくなって社会が停滞してしまって、それに伴って物事が縮小再生産のスパイラルに陥ってしまうから、そんな社会を活性化させるためにも、争いが起こらないとならなくなってしまって、かといって争いが激化してしまうと、それに伴って生じる被害や損害が利益よりも上回ってしまうから、それを収めようとする思惑が生じるわけで、どちらが勝ってしまってもうまくはいかないのだろうが、両者の間で均衡が実現するわけでもないだろうし、少なくとも互いに相容れない状態なのだから、どちらかがどちらかを打ち負かすまで、そういった成り行きが続くわけだろうが、状態の性質上そうはならないわけで、それぞれの状態が部分的には優勢になることはあっても、全体を覆うまでには至らず、結果的には対立し合いながらも共存するような成り行きになるわけだろうし、共存しつつもそれで安定するわけでもなく、絶えず互いの領域を拡大させたり縮小させながらも、完全に消滅するわけでもなく、現に今も世界の至るところで何らかの勢力争いや主導権争いが繰り広げられているわけだが、そうであるなら、結局平和は争いの消滅ではなく、争いをなくすために、争いと争っていることにもなり、世界各地で争いをなくすための争いが続いているという倒錯的で不条理な状態が実現しているわけだが、それがなぜ争いをなくすために争わないことにならないのかといえば、争わないことは究極的には人の活動の停止を意味するのかもしれず、活動が停止することは死を意味するわけで、そういう意味で人の活動自体が争いを伴っていて、活動と争いは不可分な動作であり、争い自体が活動であるとも言えるわけで、そうであるなら平和な状態とは、活動の停止ではなく、活動の沈静化と言えるのかもしれず、それに伴って争いの程度も比較的弱い状態に落ち着いて、そうなるから平和な世の中では活動が停滞しているように思われるかもしれないが、実感として社会が繁栄している状態はそうではないだろうし、何よりも経済的な繁栄は平和とともに実現しているように思われるかもしれないし、それは停滞ではないように思われるわけだが、そこでは競争という争いが盛んに行われていることも意味するだろうし、またその一方で平和で繁栄している地域から隔絶された場所では、戦争も常に行われている状況もあるわけで、そういう意味でも平和と戦争とは隣り合わせであり、戦争ではなく競争と言い換えることで、争いはいつの世でも常になくならないわけだが、そうであってもそこで軍事的な戦争行為が行われていなければ、一応は平和な状態だとみなせるわけだが、暴力の行使に使用される武器や兵器の生産を止めるわけにはいかない事情もあるだろうし、生産されればそれを使う成り行きが必ず生じてくるだろうし、そういうところで争いが激化すると、そこで武器や兵器を使う成り行きが生じてしまうわけで、そういう意味でもなかなか戦争のない平和な世の中を実現するのは難しいわけだが、戦争が行われている地域が疲弊して荒廃するから、その逆に経済的な繁栄を謳歌できる地域の平和が実現するわけではないとしても、そうした地域間で生じている格差を利用して、平和な地域に経済的な利益がもたらされている可能性もあるだろうし、平和な地域内でも経済格差があって、そうした格差を利用して、やりたくない労働をさせるシステムが整備されているだろうし、そこでも格差から不満が生じて、それが競争という争いをもたらす原因ともなっているわけだ。

 また格差は争いをなくすためにも利用されるわけで、組織的な役割分担の中で身分の上下関係を設けて、身分の下の者が身分の上の者に従うような権力関係を導入すれば、そうした上下関係の中では争いがなくなって、物事がスムーズに行われることにもなり、そうやって身分によって格差を生じさせるような制度を取り入れている集団の中では、そういう部分での争いがなくなるわけだが、そうなると今度は誰が上の身分になるかをめぐって争いが起こるわけだが、そうした争いは出世競争のように扱われるだろうし、役割分担に応じた作業の中で、他よりも相対的に成果を上げた者の身分が上昇するような制度にすれば、無用な争いを避けることができるわけで、そんなふうにして、集団にとって利益になる争いを促進させるとともに、利益にならない無用な争いを抑え込めれば、それだけ集団としての活動も活性化するはずだろうが、その集団を単体で切り取ってみれば確かにそうだが、その集団の競争相手となる他の集団との争いを考慮に入れるなら、集団としての成果を上げるほど、他の集団もそれに対抗して成果を上げないと、勢力争いの面で劣勢となってしまうから、そこで競争の激化をもたらすわけで、そんな競争の激化に伴って集団内にいる人たちも疲弊してくるわけで、そうなると双方が共倒れになる危険が生じるから、そうした競争がある程度の限界に達すると、双方の間で共存共栄への模索も始まるわけだが、それがその業界内での棲み分けを図るやり方とか、談合によって利益配分を決めるやり方とか、その場の状況に応じて様々なやり方が模索されるわけだろうが、そうやってそこで一定の妥協が成り立っても、それはあくまでもそこだけの話であり、別の地域や分野から新たな競争相手が参入してくれば、そんな妥協では対応しきれなくなってきて、事態がそれだけこじれてくるわけだが、しかも新たな競争相手が強大な勢力を誇っていれば、競争ではなく連携して対抗するようなことにもなるだろうし、中にはそこからさらに事態が進んで、合併するような成り行きになる場合もあるわけだが、そうした集団が企業であるなら、しかもその企業が消費者の利害にも直結するような分野だと、企業間の吸収合併が進行して、特定の企業の寡占化によって、価格を企業の言い値に決められてしまうと、それだけ消費者が高い商品を買わされることになるだろうし、また複数の企業の間で競争が促進されて、価格の値引き競争によって、消費者が安い商品を買えるようになるとしても、それは他との兼ね合いで相対的な範囲内でそうなるだけであって、しかもそういった競争のしわ寄せが思わぬところから跳ね返ってくるわけで、商品が粗悪品となったり、サービスの低下を招いたり、事故の多発を招いたり、競争に勝つためにその企業の内情がブラック企業化したり、また競争から脱落して倒産したり廃業する企業が多くなってくると、その地域の経済が悪化してくるだろうし、全てが消費者の都合のいいようにはいかないわけで、特に消費者が労働者でもある場合が多いわけだから、競争の激化が労働者の疲弊を招くだけなく、賃金の低下を招く場合もあるだろうし、さらに地域的な経済格差を利用して企業が利益を得ようとする場合には、外国で生産した安い商品を売り込まれたら、その国で生産されている商品が太刀打ちできなくなる場合が出てくるわけで、結局は政府が高い関税をかけて自国の企業を守ることにもなって、消費者は自国の企業を守るためにも自国で生産された高い商品を買わざるを得なくなるだろうし、またそうやって安い商品の売り込みを阻止されている外国の企業を擁する国との関係も微妙になってくるわけだが、逆に自国の商品を外国に売り込んでいるような企業によって支えられている国なら、なおさらそれによって打撃を受けていると主張する国との関係が微妙になってくるわけで、それだけ経済的な競争がもたらす効果の良し悪しを言うのは、微妙な面があるわけだろうが、現状でうまくいっている地域や国であれば、競争の成果を誇示するような人も大勢出てくるだろうし、そういう地域や国に住んでいて、しかも恵まれた経済状態の中で暮らしていれば、それで構わないわけだが、そんな中でも報われない人もそれなりにいるだろうし、その地域や国の中でも、やりたくない職種というのが必ずあるだろうし、そうしたやりたくない職種の中で働かざるを得ない人が多くいるほど、そこに格差が生じていることにもなり、そうした格差が社会に微妙な影を落としていて、そうした格差を実感する人々の間でねじくれた感情が生まれていたり、他の人たちとの間でこじれた関係を生じさせていたりするわけで、それがそうした地域や国の内部で、社会の不快度を高めていることにもなるのだろうし、そうであるほどギャングやヤクザなど非合法的な社会集団が隆盛を誇っていたり、また大規模な詐欺事件や凄惨な殺傷事件なども頻発していたり、その社会特有の暗い面が、その社会の理不尽で不条理な面と表裏一体となって、そこで暮らす人々に付きまとってくるわけだ。


12月7日「子供騙しの演技」

 自らが逃れられない成り行きがそこで生じているとすれば、それは現に今ここで生じている成り行きでもあるだろうが、そんな成り行きの中にいる大抵の人の現状は、大して深刻な状況ではないだろうし、中には深刻な状況に直面している人もいるのだろうが、それに気づいていない人もいるだろうし、それがどうなろうと知ったことではない人もいるかもしれないし、そこでどんな成り行きが生じていようと、その人にはどうすることもできない場合もあるのだろうが、その人にとってはそれが何を意味するわけでもないのかもしれず、そこでそれを運命だと認識できないような成り行きがあるとすれば、やはりそれは何でもないことかもしれないのだが、その人にとってはそうであるとしても、他の誰かにとってはそうではないかもしれないし、何かそこで恐ろしいことが起こっているように見えてしまう場合もあるかもしれず、それがどんな状況であるかは、誰も正確には把握できないことかもしれないが、それが何でもないことのように見えたり、恐ろしいことのように見えたりするのは、その人の立場上の違いがあると同時に、主義主張や気持ちの持ちようの違いもあるのかもしれないが、相変わらずそれを深刻には受け止められなければ、たぶん行われていることが子供騙しのように感じられるのかもしれず、しかもそう感じられてしまうこと自体が、深刻な事態である可能性もあるかもしれないのだが、そうだとしても、そう感じられてしまう成り行きの中で、実際に人が何かをやっているわけだから、それ自体は否定しようがないわけで、誰もが子供騙しのようなことに囚われているのが、しかもそんなことをやらざるを得ないことが、そんなに大げさなことでもなく、別にそれが深刻な事態だとは思えないのなら、それで構わないわけだが、そもそも子供騙しのようなことというのが、具体的にどのような行為なのかといえば、誰もが日常の中で普通にやっていることでしかないのかもしれず、それが特定の行為を指すのではなく、行為全般をいうのだとすれば、かなり漠然となってしまうわけだが、たぶんそれを子供騙しと表現すること自体がとりとめのないことであり、そこでどう捉えても見え透いたことをやっているのに、それを何か真剣に演じなければならないような成り行きになってしまうことが、子供騙しのように思われてしまうわけで、しかも別に騙しているわけでもないのに、騙しているように振る舞わなければならなくなってしまい、また騙されているつもりの側も、相手が騙しているわけでもないことは承知しているのに、騙されたふりを装って、騙されたことに腹を立てるような演技を強いられてしまうわけで、そんなのは全て演技であるにも関わらず、それが演技ではなく真剣に何かをやっているふりを強いられてしまうこと自体が、子供騙しの振る舞いと表現すればしっくりくるのかもしれないが、それに関して確証があるわけでもないだろうし、何だかわからないが、脱力感や無気力感を催すような情けない状態であるにも関わらず、そこからそれなりにつじつま合わせのようにして、その場であてがわれてしまう役割をそれなりの真実味を伴って演じなければならないわけだから、むしろそれを真剣に演じる必要が感じられないわけではないのだが、しかも演じているというよりは、実際に動作しているわけで、そこで何らかの作業を行なっていて、その作業が子供騙しの動作を伴っているように思われるとすれば、それを他にどう捉えたらいいのかわからないだろうし、果たしてそれを真に受ける必要があるのかと言われると、もちろんそんなことを言ってくる人は誰もいないわけで、そうであるなら自分で自ら判断すればいいようにも思われるのだが、そうなるとそれが場違いな判断となってしまう公算が高くなるわけで、それがその場で何かやっている人たちの動作を、子供騙しの演技とみなすことになってしまうわけだが、なぜそう思われてしまうのかというと、誰もが示し合わせたわけでもないのに、なぜかそこでその場に特有の共鳴現象が起こって、誰もがそうした動作に落ち着いてしまうわけで、そこでその場に居合わせた人たちを操るような場の力が働いているように見えてしまうのだろうが、別にそれで何がどうなっているわけでもないのだから、そんな事態を深刻に受け止めるような成り行きにはならないわけだが、少なくともその場に居合わせた誰もがそうは思わないとしても、そうした印象をもたらしているのが、それらが子供騙しの演技に見えてしまう現象であり、それをメディア特有の効果とみなせば、それで済んでしまうようなことでしかないのかもしれないが、別に誰もそれ以上の状態を求めているわけでもないだろうし、それ以上の状態が何なのかもわからないのだから、総じてそうなってしまうのは仕方のないことなのかもしれない。

 それを真正面から受け止めるなら、食い違いが明らかとなるのかもしれないが、それが明らかとなってしまっては、演技が成り立たなくなってしまうわけで、そこで何とか演技を成り立たせるための工夫が求められてしまうわけだが、それに関して好都合な立場を定められれば、誰もがそんな架空の立場に飛びつくのかもしれないが、それが架空であってはまずいだろうし、現実にそういった立場が成り立つように、立場の設定に関して工夫を凝らさないとならなくなるわけで、それに関してはうまく矛盾しないような限定条件を導入して、例えば移民の問題を労働条件の問題に限定すれば、無矛盾な立場を取り繕うことができるわけだが、そこで需要と供給の問題まで含めてしまうと、途端にうまくいかなくなってくるわけで、誰もがきれいごとを言えなくなってきてしまうわけだが、そうやってそうした立場を取り繕う限りでは、やりたくない労働をやらざるを得ない人に押しつけるための経済システムに反対していられるわけで、そういったいいとこ取りのつまみ食い体質が、子供騙しの演技に見えてしまうわけだが、しかしそれ以外の立場があり得るかとなると、そういった立場というのが、それ自体でそうした立場特有の限定条件から定まるのだから、そんな立場を認められないとなると、ではそれ以外にどんな立場が成り立つのかと言われると、返答に窮してしまうだろうし、そういう意味で社会的な立場自体には常に虚構の面が含まれてくるのかもしれないが、少なくともそうした限定条件を伴った立場からしか主張できないことがあるわけだから、そういう振る舞いを子供騙しの演技とみなすのも、そうせざるを得ないことを踏まえると酷な話なのであり、それはそれで限定的な立場として認めていかないと、そういった類いの主張は何もできなくなってしまうわけで、そうなると現状で行われている議論そのものが成り立たなくなってしまうのだろうが、ならばそういった自らの立場に合わせた限定条件をいくらでも認めても構わないかとなると、そうなると都合のいいことしか主張しなくなってしまうから、議論が噛み合わないままとなってしまうだろうし、そこにも議論を噛み合わせるための歯止めが必要となってきてしまうわけだが、そうした歯止め自体も限定条件の一種となるわけで、そんなことを細々と設定した上で議論を行えば、今度はそれ自体が虚構の議論となってしまい、それこそ議論の参加者が子供騙しの演技を強いられてしまうわけだが、そうなると限定された立場や条件からはみ出る部分も考慮しなければならなくなり、そうやって実験室の無菌状態からは程遠い行為を各自が強いられるだろうし、そもそも議論など成り立たない可能性も出てくるだろうが、それでも各人が互いの立場や限界を考慮しつつ、何とかその場で議論を成り立たせるように配慮すれば、ある程度の真実味とある程度の嘘っぽさが伴うとしても、何かまっとうな議論が交わされたような印象をもたらせるかもしれないし、そんなところで妥協するのが関の山だろうが、それ以上を求められないことは踏まえておくべきかもしれず、いくら議論しても、実際に行われることの中には、反対せざるを得ないことも含まれてくるし、機会を捉えてそうしたところを改善する余地が出てくるわけで、それを実際に改善できればいいのだろうが、それをまっとうなやり方でできるかというと、それとこれとは別問題となってしまう成り行きも結構あるのではないか。そんなところで自身の主義主張や立場とは相容れないようなやり方をとってしまうのも、目的のためには手段を選ばないような成り行きには逆らえないからだろうが、それに関しては、日頃から子供騙しの演技に終始して、それによって相手を油断させておいてから、いざという時に、そんな先入観を打ち砕くような思いがけない行動に出るようなやり方もあるだろうし、そういう成り行きに持ち込めるなら、子供騙しの演技にもそれなりの利用価値があったことになるだろうが、そうした子供騙しの演技自体を正しいことだと信じて、のめり込んでしまうようだと、それ以外のやり方には至れなくなってしまうだろうし、それを避けるには、自らが常日頃から子供騙しの演技に終始していることを自覚しておくべきだろうし、それを自覚する上で重要なことは、自らの主義主張を成り立たせている限定条件を知っておくべきだろうし、それはまた自らの立場をも成り立たせている条件ともなるわけだが、そうした限定条件を取り払って、従来の立場から逸脱すれば、どういうことが言えるのかも把握しておくべきだろうし、そうなると自らが対峙しているつもりの、別の主義主張や立場を保持している人や勢力が、それに関してどのような正当化を行なっているかも考えなければならなくなるし、それが一方的な主張や立場に思えるなら、彼らがこだわっている限定条件もはっきりしてくるだろうし、そうやって自らの主義主張や立場の限界とともに、思考の対象としている人や勢力の主義主張や立場の限界も、おのずから明らかとなってくるのではないか。そういったことを考慮すれば、機会を捉えて何をやればいいかがわかってくるかもしれないし、日頃からそういった現状が成り立つ上で必要な限定条件について把握していれば、いざという時にとるべき行動に迷いが生まれにくいのかもしれない。


12月6日「重症患者の症例」

 やっていることを正当化する必要がないということは、自分以外の他に向かって、そのことを特にアピールする必要がないことになるわけだろうが、それ以前にやっていることにこだわっていないかというと、他でもなくそんなことをやっていること自体が、それをやることにこだわっていることになるのだろうが、そうなるとこだわっていないわけがなく、こだわっているにしても、特にそれを正当化する必要がないということでもあるだろうし、そういう意味ではこだわることと正当化することは違うことになるわけだろうが、自らの意思とは関係なく、たまたまそんなことをやっているのだとしたら、特にそれをやりたくてやっているわけでもないことにもなってしまうわけで、それでもそんなことにこだわっていることになるかというと、やらなくても構わないのにやっているとすれば、それにこだわっていることになるだろうが、やりたくないのにやらされていたりすると、やることに関しては、特にこだわっているわけでもないことにもなるだろうし、そうやって様々な条件で様々なケースが考えられるかもしれないが、何かそれを正当化する必要も感じないでやっていることを意識してしまうと、かえって正当化したくないことにこだわっているようにも感じられて、そういったこだわり自体が否定的にねじれてきてしまうわけで、それに関してどう語っても、しっくりこなくなってしまうかもしれないが、確かにそれをやっている自らの意識の中ではそう思うかもしれないが、実際にやり続けている状況の中では、単にそれをやっている以外ではなく、そんな状態を自分がいくら解釈してもきりがないようにも感じられるだろうし、それを正当化しようがそれにこだわっていようが、表面上はただそれをやっているに過ぎないことでしかなく、やっているに過ぎないことをどう解釈しても、それ以上にはならないわけだ。またそれを他人からどう評価されようと変わらないし、他人からどう評価されたところで、どうなるわけでもないことかもしれないが、要するにそれだけでは何がどうなっているでもなく、ただそんなことをやっているに過ぎないのだが、それでも構わないような状況の中でやっていると、それだけのことになってしまうわけだが、それだけは済まないような状況になってくると、それ以上の何かを求めざるを得ないような成り行きになってくるのだろうし、その何かが恣意的な幻想の類いに結びつくとしても、それによって何らかの確かな感触を得られるなら、何かそれ以上のことをやっているつもりになれるわけだ。別にそれが他から見たら何でもないことに見られても、自分がそれを否定的に見なくても構わないだろうし、特にそれが世間的に肯定できるようなことでなくても構わないわけだ。それが自己満足の段階なのかもしれないが、自己満足だけでは不満なのだろうし、できればそのことについて他人からかまってもらいたいと思うようになると、他人からの評価を気にするような段階にまで、自らのやっていることを押し上げたくなってくるわけだ。それがやっていることの社会化に結びつくのかもしれないが、実際に社会化すれば、今度は他人との関わり合いの中で何かをやっていることになるわけで、できれば協業としてそのことの意義を正当化したくなるかもしれないが、それを何に向かってアピールしたくなるかというと、それが自身に向かってアピールしていることになってしまうと、やはりそれは自己満足に陥ってしまうわけだが、そうした自己満足が自分独自のこだわりを生むのかもしれないが、要するにそこで自分が満足できるようなことをやろうとするわけで、それが高じて他人の事情よりは自分の事情を優先させるように見られてしまえば、協業している他人からの信用や信頼を失うことにもなり、それが何かのきっかけで裏切りの原因ともなるだろうし、実際にそうなってしまうと、他人にしてみれば裏切らざるを得ない状況に追い込まれるわけだが、そういった裏切りを否定的に捉えてみても、裏切る側にしてみれば、裏切ることにそれなりの必然性を感じているわけだから、他からそれを批判されたところで、その裏切る必然性は揺るがないだろうし、実際に他人を裏切って主導権を奪うことに成功すれば、やはり裏切った意義を実感するだろうし、そうなった成り行きを正当化したがるわけだが、そうなったきっかけがなければ、裏切る必要もなかっただろうし、そうであれば初めからことさら裏切ることにこだわっていたわけでもなかったはずで、その人にしてみれば結果的に裏切らざるを得ない状況に追い込まれてしまったのだとすれば、そういう状況に追い込まれてしまったから裏切らざるを得なかったとアピールできるわけで、そうした正当化に伴って、こだわっている部分もそれなりにずれてくるわけだ。

 そうした成り行きから何が言えるかとなると、その場の状況に応じて、それまでの態度をがらりと変えるような事態が起これば、それは態度を変えた人の意思で変えたとしても、態度を変えざるを得ないような状況の変化が起こったということだろうし、そうなってしまってから何を言ってみても後の祭りでしかないわけだが、態度を変えるきっかけが実際に起こったわけだから、場合によってはそうなった状況の変化を尊重しなければならないだろうし、そうしないと現状に対応できなくなってしまうと判断するなら、まずはそうなってしまった現状を認めた上でどうするかとなるわけだが、少なくとも当事者にならない限りはどうすることもできないだろうし、そうであるなら当事者になるためには、そこに介入するしかないわけで、介入できなければ傍観者になるしかなく、傍観者には現状の中で主導権を握るような力がないわけだから、そんな現状の中で主導権を握りたければ、主導権を握る上で邪魔な人たちを傍観者の立場に追い込んでしまえばいいわけで、またすでに現状で傍観者の立場の人たちも、そこから介入してこないように予防線を張るなりして、立ち入ってこれないような措置を講じておく必要があるわけだ。結局人や団体を裏切るような人は、そこで主導権を握らないと、裏切り者の汚名を着せられて、罰せられる立場となってしまうわけだから、是が非でも現状の中で主導権を握る必要が生じてくるわけで、その際あわよくば他人に罪を着せられたら、自分が裏切り者ではなくなる可能性もあるわけだから、大抵の場合は裏切った対象者に罪を着せるような成り行きになるわけで、だからその際にだまし討ちのようなことをやる成り行きにもなるだろうし、そうやって裏切った対象者を葬り去ることに成功すれば、自らの主導権も確保されるわけだろうが、やはり実際にはそれだけで済むようなことにはならないだろうし、その場が丸く収まるまでにはさらにそれなりの紆余曲折が待ち受けているわけで、それがまた新たな騒動を引き起こすにしても、過去に遡ってそんなことはやらない方が良かったとは言えないだろうし、まずはそうなってしまった成り行きを踏まえた上で、そこに関係する人や団体が対応していくしかないわけだ。そしてそうした騒動の蚊帳の外で傍観者の立場に甘んじている人たちの方でも、そこからあまりにも野次馬根性に傾倒してしまうと、煽っているつもりが煽られて煽りの中に巻き込まれて、当事者意識に絡め取られて、そんな愚かしい立場を正当化する羽目になって、それがメディア上で行われるような成り行きになれば、世間に醜態を晒すことにもなるだろうし、そんなに介入したいのに無視されるような惨めな立場を強いられて、そんな惨状を他の人たちから見透かされて、世間的な信用を落としてしまうわけで、そうなるのが嫌なら、何でもかんでも闇雲に自らの立場を正当化するのも考えもので、ただその場に介入したいから、あちらが振り向いてくれるまで騒ぎ立てればいいようなことでもないだろうし、介入したくてもできないのなら、そのままでも構わないわけで、そういうことには縁がなかったと思えば、それで済んでしまうようなことだと思っていればいいのかもしれないが、それに関しては縁があったりなかったりすることを、自分では制御できないだろうし、それは制御しようとしてできるものでもなく、その場で自らに生じている成り行きの中で、自然に他との縁が生じてくれば、そうなった時に対処するしかないのかもしれないし、そんな悠長に待っている余裕がなければ、やはり強引に介入しようとして騒ぎ立てるしかないのかもしれないが、そうなるにしても、そういう成り行きの中で、日頃からやってきたことの延長でそうなるわけだろうし、実際にそんな騒ぎ屋みたいことをやる習慣が身についている人も世の中には結構いるだろうし、またそういうことをやらざるを得ない事情を抱えている人もいくらでもいるのかもしれないが、少なくとも自らにそんな習慣も事情も生じていなければ、幸運にもそうした成り行きとはなっていないわけだろうし、そうであるなら自ら進んでそんな渦中に身を投じる必要はなく、また人を野次馬の立場に至らしめるような成り行きから逃れられている幸運を率直に喜べばいいわけだが、そうであってもそういう成り行きに誘い込もうとする誘惑から逃れることはできないだろうし、メディア上の話題に興味を惹かれる限りは、そこで傍観者やそれが高じて野次馬の立場にならざるを得なくなるわけで、そこでそういう成り行きに過度にのめり込むようになってしまうと、そうなってしまった人たちの中から、実際にメディア上でそういう立場を占めて、それに関して何か自己主張したり、そんなことをやっている自らを正当化するような人が出てくるわけで、そうなってしまった人たちがメディア上で話題を提供しているわけだから、他の人たちがそういった行為に惹かれるのも無理はないわけだが、そうであるにしても、そんな病状にも軽症から重症まで程度に幅があって、そんな程度に応じてそれなりにそういう成り行きに関わっていくしかないわけだ。


12月5日「史実の消費」

 江戸時代を象徴する挿話として強く印象に残るのは、たぶん忠臣蔵と新撰組になるかもしれないが、どちらもその時代の風潮に逆行した枝葉末節な出来事だったにも関わらず、またそうであるからこそ、後の時代に演劇や小説などの大衆娯楽の題材として取り上げられて、民衆の興味本位な関心を集めて人気を博したわけだが、どちらの話にも言えることは、物事のある面だけを強調すれば、やっていることを正当化できて、それが美談の特徴でもあるわけだが、しかもそれを命がけでやっているので、それだけも大義があるように思われてしまい、そうやって事が大げさになると、フィクションの中ではそのことだけに目が奪われて、大したことをやったことになってしまうわけだが、別にそれを演劇や小説として楽しむならそれで構わないし、また興味本位で歴史を取り上げるテレビ番組の類いでも、それを語る側に特有の論理からおもしろおかしく語られるだろうし、そんなふうにして語る側の願望を投影した語るための題材となってしまっているのだろうが、それ以外に使い道がないかというと、他にも出来事の舞台となった場所が観光地となっていたり、またそこで、それにあやかった名物を売り出していたり、それにかこつけた祭りなどのイベントが行われたり、様々な利用法が模索されているわけだろうが、そうやってどこまでも話を膨らませていくと、そんな後から付け足された付加価値の重みに、史実としての出来事自体が耐えきれなくなってくるのかもしれず、結局そういうことをやりすぎると資源の枯渇を招いてしまうのかもしれないが、そんな成り行きの中で忘れ去られてしまうのは、実際に起こった出来事の中で活躍した人や集団と、それが史実となった後から、それを利用するために群がった人や集団とは無関係であり、そういった無関係の関係から利益がもたらされて、その利益がそれらとはさらに無関係なことに使われる可能性があるということだが、それを利用するために群がった人や集団は、そこから得られた利益とは裏腹に、歴史的には忘れ去られてしまう運命にあり、少なくともそうした史実の関係者ほどには知られていないだろうし、そこに語り継がれる人や集団と、それを語り継ぐ人や集団との間に、無関係の関係が生じているにも関わらず、別にそれを語り継ぐ人や集団が、あるいはそうした史実や、それを基にした語りやイベントを娯楽として消費する人たちが、語り継がれる人や集団のやったことを見習うわけでも、そこから教訓を得られているわけでもなく、実際にはそれとは全く無関係なことをやりながら生きているわけで、そうなると史実としてそういうことが行われた意義とは何なのか、と問われるかもしれないが、たぶんそこからもっともらしくも説得力のある理由を見出してしまうのは、避けるべきかもしれないし、ただ過去にそういう出来事があって、多くの人がそういう出来事に興味を惹かれる傾向がある、と捉えておく程度に留めておくのが無難なところかもしれないのだが、それは現状で起こっている現代的な出来事についても言えることであり、たとえ多くの人が興味を惹かれるような出来事が起こったとしても、そこからその出来事の関係者や関係している団体がやっていることについて、それを評価したり批判する人たちが、その出来事の関係者や関係している団体と、どのような関係があろうとなかろうと、それとこれとは別のこととして捉えておいた方がいいのかもしれず、それを評価したり批判する人たちは、そうした評価や批判を伴うような出来事とは別のところで、またそれとは異なる別のことをやっていて、それがまた多くの人が興味を惹かれるような出来事なら、またそれについて他の人たちが、それについて評価したり批判したりするのであり、結局それについての評価や批判が、その対象となる出来事やその関係者や団体と、それなりに関係を持っていることは確かだが、それがそうした評価や批判をする人たちが他でやっていることには、特にそれほど結びついているわけではなく、そうした評価や批判はそれとして受け止めておけばいいとしても、だからと言って、評価や批判をしている人たちが、その対象となっている出来事の関係者や団体よりすごいことができるわけでもないだろうし、下手をするとそれよりははるかに劣ることさえできない可能性もあるだろうし、特にそれを批判している人たちが、批判対象より劣っている場合などいくらでもありそうだし、だからたとえそれについてもっともらしくも説得力のある批判を行っている人がいても、その人が批判対象となっている人や団体より優れていると思ってしまうのは、勘違いもいいところで、実際に同じ状況でやらせてみれば、それ以下のことさえできない場合が多いのではないか。

 だからと言ってそうした批判を軽んじてもいいとはならないだろうし、批判は批判として批判の次元や水準で受け止めるしかなく、そういう批判の次元や水準があることは踏まえておくべきだとしても、それを批判はできるが、ではそこで批判されている以外のことができるかとなると、その批判にあまりにも一方的な傾向が感じられると、結局は批判するにあたって都合の悪いことには言及されていないように思われてしまうわけで、その都合の悪いことが、批判されるようなこと以外にはやりようがない場合となるのかもしれず、果たしてそれ以外にやりようがあるかについては、実際にそれをやってみないことにはわからない面があるだろうし、批判している段階ではそれがわからないわけだが、そんな事情も批判に含まれないと、批判自体にも説得力が生じないのかもしれないが、その一方で浅はかな人たちは、そういった独善的かつ一方的な批判に同調してしまう傾向があるわけで、そうなると批判者の方でも自らの批判が多くの人の支持を得られたと勘違いすることにもなって、そういった浅はかな支持者とともに批判者も共倒れとなりかねないわけだが、そういう意味でも、それが宣伝や煽動目的でない限り、調子に乗って大口を叩くような批判は避けた方がいいだろうが、それ以前に無理に批判する必要もないわけで、たとえ気に入らないことをやっている人や団体がメディアで大げさに取り上げられようとも、それを批判するとなると、批判者自身の立場をわきまえないとならなくなるだろうし、批判する前に批判する筋合いがあるかどうか考えてみた方がいいのかもしれないが、その辺も微妙なところかもしれないのだが、たぶんそういった面で、自分と他人の立場の違いを考慮すれば、絶えず他人がやっている批判からは逸脱する必要があるのかもしれないし、別に他人と同じように批判する必要もないし、他の大勢の人に支持されている批判者に同調する必要もないのかもしれず、そこで批判する対象と、それを批判しようとしている自らとの無関係さを考慮すれば、そんなに激烈な調子で非難する必要がないことも明らかとなるのではないか。実際に誰もが安易に同調できるような批判者は、時代の変遷とともにすぐに忘れ去られてしまうわけで、しかもそれで構わないことは、時代の変遷そのものが証明しているのかもしれないし、そもそも大衆の支持を当てにしていること自体が、そうした人が一時的に脚光を浴びるのと同じ理由で、さっさと忘れ去られる理由にもなっているのかもしれず、そういうところで大衆からの支持を当てにして、大衆から支持されている政治家などを批判しようとしているのだから、もともと矛盾している面もあるのかもしれないが、それに関しては、どうでもいいような人たちが次々にメディアに取り上げられて脚光を浴びると同時に、すぐに忘れ去られてしまうのも、時代の変遷そのものを表しているのかもしれず、そんなことはどうでもいいことだとしても、そこに何かおかしな力が作用していて、裏から世の中を操作している黒幕の存在を妄想するような陰謀的な勘ぐりはやめた方がいいのかもしれないし、それよりは、そういった批判自体が何でもないことだと捉えておいた方が無難であり、他の誰もが批判しているようなことは、誰もが批判できるようなことが行われていると捉えられるし、そういうことが行われやすい時代状況となっていて、そういった行われやすいことの中に、その行われていることに対する批判も含まれているわけで、それも考慮すると、誰もが批判するようなことが行われているとしても、それが行われやすいような状況となっていると同時に、そういうことに対しても、誰もが批判しやすいような状況にもなっているわけで、そうした批判が何でもないことだからこそ、そんな批判などものともせずに、そうしたことが行われているのであり、それに関してどう考えてみても、誰もが批判できるようなことは何でもないことだという結論に至ってしまい、またその何でもないことの中には、誰もが批判していること自体も含まれてしまい、どうやってもそれ以上の批判などあり得ないのかもしれず、そんな誰もができるような批判も、そんな批判を行っている批判者も、時代の変遷によって忘れ去られるような物事に含まれてしまうわけだ。そしてそんな時代の風潮に逆行するようなことをやった人や団体が、その時点では時代から取り残されているにも関わらず、なぜかそんな人や団体が起こした倒錯的な出来事が史実として末長く語り継がれて、現在に至っているような逆説も起こっているのだが、そうなっているにも関わらず、時代の変遷に伴って忘れ去られてしまうような人や団体は、それを娯楽として消費するだけで済ます傾向にもあるわけで、別にそれ以外には使い道がないとも言えるわけだが、やはりそうした史実を娯楽として消費するような人や団体は、時代の変遷とともに忘れ去られる運命にあるわけだ。


12月4日「依存症への取り組み」

 意識が何かに囚われていると、否応なくそうなってしまうのだから、それに関しては意識の制御が利かないのかもしれないが、そんな渦中に身を置いていると、積極的にそんな状態を求めている気になるし、主体的にそんなことをやっている気にもなるだろうし、そうなっている時点では、自らが囚われている物事に操られているとは思えないだろうし、逆に自らがその物事に働きかけて、そこから求めている利益や快楽などを引き出そうとしているように思われるのではないか。そうなるとそれが受動的に囚われているのか、あるいは積極的に働きかけているのかは、どちらかであるにしてもどちらでもあるにしても、対象となっている物事との結びつきが強まっていることは自覚しているだろうし、そんな物事と自らとの関係を、肯定的に捉えるにしろ、否定的に捉えるにしろ、それが何か他とは違う特別な関係であるかのように思われるのかもしれず、そうした思い込みがその人の意識に作用して、対象となっている物事への依存状態を強固に保つように働いているのかもしれないが、果たしてそうした依存症から脱することができるかというと、まずは自らが依存症になっていることを自覚できないと話にならないだろうが、自覚した上でそうなっていることを肯定的に捉えているのなら、別にそこから抜け出そうとは思わないし、逆にそのままの状態を保ちながら、さらに強固な結びつきを求めて、そこへとのめり込んで行こうとまでしてしまうのかもしれないが、そういう成り行きであれば、それで構わない面もあるだろうし、それに関しては、他の人や団体がそれによって迷惑を被るようなことにでもなれば、それを阻止しようとしてくるのではないか。またそれとは反対に、当人がそうなっていることの弊害を自覚していて、それへの依存関係を断ち切りたいのに、断ち切れないような場合には、他の人や団体に協力を仰いで、依存症から脱する方策を模索するような成り行きになるのかもしれないし、そういう面で自分一人の力ではどうにもならないような場合は、他の人や団体との関係を利用して、何かに囚われている依存状態から別の状態へと移行できる可能性を模索できるわけだが、それ以前に人は他にも様々な物事と関係を持っているのだから、それらの中で生きていくのに欠かせない物事であるほど、そうした物事との間で依存関係にあるわけで、空気や食物などのように、そうした物事との関係を断ち切れば死を招くような関係と、恣意的に関係を深めたり薄めたりすることができる物事との関係は、全く別次元のことのように思われるだろうが、それも厳密には相対的な程度の差でしかないのかもしれず、例えばはじめはどうでもいいように思われた交友関係のもつれから、自殺に発展するような成り行きもあるだろうし、またその場のちょっとした行き違いから、些細な偶然の巡り合わせによって関係が生じて、そのことがきっかけとなって九死に一生を得るような大げさな体験をすれば、運命の不条理さを身にしみて実感するかもしれないし、そういった極端な関係から、気づく必要もないどうでもいいような関係まで、人は様々な程度で様々な物事と関係を結んでいる一方で、そんな関係もひっきりなしに解消したり、また新たに別の物事と関係を結んだりしている中で、たまたま特定の物事と強固な依存関係に至ることもあるだろうし、さらにそうした関係も何かのきっかけからあっさりと切れてしまったり、またどんなことがあっても、執拗に腐れ縁のように付きまとわれてしまう場合もあるだろうが、そうした関係の全てを相対化して捉えることはできないだろうし、その中である関係を自分にとって特別な関係だと思い込めれば、それを自覚している限りで強固な依存関係とみなすこともできるかもしれないが、それを自覚することなしに、特定の物事と強固な依存関係を結んでいるような場合には、しかもそれに伴って自分や周囲に無視できない深刻な弊害をもたらすような関係だと、始末に負えない成り行きや結果をもたらすのかもしれず、例えばそれが特定の政治的な思想信条だとすると、それに関しては普通に誰もが自覚しているだろうが、そうした思想信条からもたらされる特定の傾向となると、それを自覚できない可能性があるわけで、それが時代の変遷に伴って、その思想信条の名称は変わるし、政治的な態度さえ時として正反対になる可能性さえあるのかもしれないが、そこからもたらされる特定の傾向は、ほとんど変わらない場合があって、多くの人がそうした傾向を保持している限りで、そうした傾向が社会に及ぼす作用や影響も相変わらず一定の効果を保っていて、そうした傾向への依存状態にある人たちによって、社会へ及ぼされる弊害も一向に改まらない場合もあるわけで、またそれを弊害だとも自覚できない可能性さえあるのではないか。

 そういった傾向を一言で表現するのは難しいかもしれないが、それがどのような政治的な主義主張と結びついていようと、またそれが複数の主義主張に分かれて見せかけの対立を形成していようと、対立しながらも同じ傾向を保持しているようなら、どちらの主義主張に傾倒している人たちも、同じような傾向に囚われていて、そこではそれ以外の傾向が排除されているわけで、そういった傾向に囚われている人々には、それに関する選択の余地がないわけで、どちらの主義主張を支持しても、同じ傾向になってしまうのだから、もはやそんな主義主張自体が有名無実化していると言えるわけだが、やはりそれにこだわらざるを得ない事情を抱えていて、対立しながらも同じことを主張せざるを得ない成り行きの中で、双方ともに同じような傾向の依存症に罹っているわけだ。それがまず政治意識の浅い表層では国家に対する依存症に罹っているだろうし、さらに経済意識の根深い深層においては金銭に対する依存症に罹っているわけだが、どちらもそれがないと致死的な結果を招くと信じているから、ほとんど空気や食物と同じような次元で捉えられている可能性さえあるのかもしれないが、たぶんそれが勘違いであると同時に、次元の違う問題であることも認識しているだろうし、その辺でそれらを区別する理屈も成り立つわけだろうが、そうであっても信仰をやめるわけにはいかない事情も抱え込んでいると自覚しているのかもしれず、そうやってそれらに関して込み入った事情が形成されるわけだが、もちろんそれ以前にそんなことは考えるまでもない大前提であって、そうした前提を暗黙の了解事項として確認し合った上でないと、特定の思想信条や主義主張に分かれて対立したり連携したりできないわけで、そんな前提が崩れ去る可能性があるなんて夢にも思わないかもしれないが、それでも心の片隅では、それらが空気や食物とは次元が違うことは踏まえているだろうし、そういうところで問題が宗教的な信仰の問題である可能性を帯びるわけだが、やはりそれらと普通の一般的な宗教とも別次元の問題だと認識しているだろうし、他の特定の宗教であっても、国家的な信仰や金銭的な信仰の上に成り立つと考えれば、それなりにつじつまの合う理屈を形成できると信じているわけで、それらのうちでどちらが欠かせないかといえば、特定の宗教に対する信仰よりは、国家に対する信仰や金銭に対する信仰を優先させる傾向にあるわけで、そういった信仰を優先させる傾向が、社会に様々な弊害を及ぼしているとしても、逆に社会自体がそういった信仰によって成り立つとも考えられるわけで、弊害よりはそちらの方が根本的な優先事項であり、それに比べれば、そこから生じる弊害など放置しておいても構わないとさえ思えるわけで、実際に国家信仰や金銭信仰から生じる弊害は、それを根本からはなくせないものの、行政的な方策や社会的な相互扶助などの活動によって、弱めたり減じることができると信じられているわけだ。もちろん一方ではそんなご託宣が焼け石に水程度の効果しかないことも承知しているわけで、それよりもそうした信仰を疑う人がいることを信じられないだろうし、それ以前にそれが信仰というカテゴリーに含まれてしまうこと自体が疑わしく思われるわけで、少なくとも他の宗教などの信仰と同列に扱われることにも違和感を抱くだろうし、何か国家や金銭を信仰することが、他の信仰とは異なる特別なことだと感じられるわけだが、それが特別であるからこそ、普通に国家を信仰するとか金銭を信仰するとか言わないわけで、それらは信仰の範疇には含まれないわけだ。要するにそれに関しては意識の制御が利かず、わざとそれらを信仰の領域へと引き下げるような表現には抵抗を覚えるわけで、それらは信仰の対象という表現からは引き離して、それとは違った明らかに価値の高い次元で表現されなければならないわけだが、そのような表現とは、もはや信仰ですらなく、特に表現するまでもない当たり前のこととして、それらを扱うことになるわけだ。それが物質化であり、それらがすでにそこに存在していて、そのあるなしを問うまでもない物として扱われるわけだが、果たしてその存在を疑うべくもない物として、それらを捉えていると言えるかとなると、実際にはそうでもないわけで、ただ一定の範囲内の土地を便宜的に境界で区切って国家と定めているだけだろうし、また取引上で発生する決められた交換レートの数値を表す指標を金銭と定めているだけであり、それ以前に土地は土地でしかなく、交換レートの数値は数値でしかないわけだが、そうした媒介物があることを信じられる限りで、国家や金銭が存在していることを信じられるわけだが、別にその存在を信じていなくても構わないし、信じられなくてもそうした媒介物を利用して活動できるわけだが、逆に信じてしまうと、その存在を前提とした上でしか物事を考えることができなくなってしまい、それだけ思考できる範囲が狭まって、国家や金銭が作用する限界の範囲内でしか活動も成り立たなくなってしまうわけだが、一般的にはそれで十分だと思われているし、実際にそうした範囲内で人も物も情報も行き交っていると思われているわけで、そう思われている限りでそうした依存症から抜け出ることはできないわけだが、それも抜け出る必要があるかと言うと、その必要を感じていない人が世の中の大半を占めているから、そうした事情を反映した世の中となっているわけだ。


12月3日「雑学とぜい肉」

 知り得ないことを知りたいと思うのは、それを知り得ないとは思わないからかもしれないが、つまりはじめから知り得ないと決めつけるわけにはいかないわけで、それを知りたいと思う限りで、知ることができる可能性を追い求めていて、またそれを知り得たところで、それに関する知識以外の何がもたらされるわけでもないのかもしれないが、少なくとも知りたいと思うのだから、それに興味を抱いているのだろうし、興味があれば知ろうとしてしまうわけだ。またそうやって記憶の中に溜め込んだ知識を、他のことに利用できれば得したと思われるだろうし、もっとも同じ溜め込むなら金銭などの資産の方がはるかに有用で便利な利用法があるかもしれないが、ともかく溜め込んだ知識も資産の一部だとみなすなら、ないよりはあった方がマシに思われるだろうし、別に知識を溜め込むために物事を知ろうとしているわけでもないだろうが、知ろうとした結果として知識が増えれば、それなりの満足感を得られるのではないか。もちろん満足したからといって、得られた知識を活用できなければ、それは単なる宝の持ち腐れでしかなく、さらに知識を過信してしまうと、逆にその知識が要らぬ先入観や固定観念を招いて、行動の邪魔をしかねないようになってしまうし、結局はそれなりにメリットもデメリットも抱え込むことになるわけで、それは他の何に関しても言えることかもしれないが、少なくとも暴飲暴食の挙句に体に脂肪を溜め込んで肥満体になったり、酒を飲み過ぎて脂肪肝になってしまうのとは、まったく傾向の違うことだろうから、食べたいことと知りたいことを同じような欲求の発露とみなすわけにはいかないだろうし、食べることからもたらされる結果と知ることからもたらされる結果には、それなりに違いがあるわけで、無駄な脂肪をぜい肉と呼ぶのと、無駄な知識を雑学と呼ぶのにも、似たような傾向があるにしても、それなりに違いがあるし、ぜい肉をダイエットで落とすようには、雑学を忘れるわけにはいかないだろうし、たとえ身につけた雑学によってケチな物知り博士のようになってしまっても、状況によってはそうなるのもやむを得ないが、それを粗大ゴミのように扱うのも気がひけるのではないか。そういう意味では脂肪よりは知識の方がそれなりに価値が高いように思われるだろうが、知ることをすぐに知り得たことの活用に結びつけようとすると、何かそこに思わぬ落とし穴が待ち構えているようにも思われるし、知ることと知り得たことの活用とは、直接にはつながらない面もあるのかもしれず、知ることはそれ単体で独立した営為であり、そこから知り得たことの活用へは、まただいぶ間が開いてしまう場合の方が多いのかもしれないし、その二つの営為を近づけすぎると、ハウツー的な深みのない単刀直入なことにしか結びつかず、結局知識が活かされるには、それなりの熟成期間を要する場合があり、その人の都合で期間を縮めるようなわけにはいかない性質があるのかもしれず、それも他の食べ物などの熟成と似た物言いになってしまうが、アナロジーとしての傾向は同じでも、食べ物が発酵するのと腐敗するのとは違うように、知識が熟成するのと宝の持ち腐れになるのも同じような違いを示すとしても、発酵食品のように技術的な処置を施して、活用の価値や必然性を高めるようなわけにはいかないのかもしれず、もちろん大学教育などの場では、そういった傾向を追い求めているのかもしれないが、必ずしもそれだけが知識の活用の仕方ではないだろうし、中には特に活用を前提としない知識もあるだろうし、それが雑学の類いになるわけだが、活用を意識しなくても活用されている場合もあり得るだろうし、それを活用だとは思わなくても、現にまったく役に立っていないのに、人は知識を保持しているわけで、もちろん役に立たないぜい肉を身につけている肥満体の人もいるわけだが、そうした状態をすぐに役に立たないからと言って、否定的にみなすのは、やはり物事を短絡的に捉えていることになるわけで、そこでそうした状態を放置できる余裕があれば、何かそれとは別の面でも余裕が出てくるわけで、そうした無関係な物事との無関係な関係を認めることができれば、そんな意味の定かでない心理状態が、それなりに精神的な豊かさを示していることになるのではないか。そうなるにはあまりにも事態を近視眼的に捉えないことが肝要だろうし、それを心がけていても、忙しない世の中で活動していると、自然にそうなっていってしまうわけだが、そういう成り行きも否定しないことが肝心なのかもしれず、結果として矛盾してしまうのだが、何事も両義的に捉えておけば、それでどうなるわけでもなくても余裕が生まれるわけだ。

 それは結果的に心身に余裕を持たせるために、無駄な脂肪を体につけたり、役に立たない雑学を身につけたりすることになるわけだが、それが適度な範囲で落ち着いていれば、精神的にも肉体的にも余裕が生じるのかもしれないが、どの程度が適度であるかに関しては個人差があるだろうし、その場の状況にもよるのだろうが、それがどの程度であっても構わないのかもしれないし、たとえ太り過ぎて生活習慣病などに罹って早死にしても構わないとなると、それこそが自己責任になってしまうのだろうが、そうなると余裕がなく忙しない成り行きになってしまっても、それも自己責任となってしまうわけだが、それを両義的に捉えるなら無責任に振る舞えるだろうし、そんな自分や他人の無責任な振る舞いをどこまで許容できるかも、心身に余裕があるほど許容度も高まってくるのかもしれないが、それも事情が許す限りで生じることでしかなく、何か性急に物事を処理しなければならない事情が生じてくると、回り道をしている余裕がなくなってしまい、その分せっかちな対応となって、それが災いして思わぬ失敗をしでかして、かえって想定外の対応を余儀なくされて、その分余計に時間を食って、結局全ての歯車が狂ってしまうような事態も起きるかもしれないし、そうやってやっていることが悪循環にはまってしまうわけだが、だからといってそこから教訓を得て、うまくいくように工夫をすればいいのかというと、中にはそうなるような成り行きもあるだろうが、相変わらずそうはならない場合もあるのかもしれないし、その辺もその場の事情が許す限りでそうなるしかなく、実際に活動していく中で判断するようなことでしかないわけだ。またそんな状況の中では、身につけた知識がどうこうというよりは、その場の直感に頼ってしまうわけで、しかも結果的にそれで成功しようが失敗しようが構わない事情も生じてきて、結果的にそうなってから判断して対応するようなことでしかなくなってしまい、そういう短期的な動作と、長期的な知識の熟成とは無関係に思われるわけだが、たぶん無関係だと思っていても構わないし、自然に体が動いて動作が行われている限りは、何を意識しなくても、それが自然に身についた動作なのだから、そんな動作を優先させていれば、それなりに事態が進行していってしまうわけで、そこで長期的に熟成された知識が勘となって活かされていようがいまいが、そんなことまでは考えなくても構わないだろうし、実際に考える暇もないわけだ。そしてそんなことをやっているうちに、蓄えていた無駄なぜい肉が消費されたり、何かの拍子に雑学が役立ったりして、だからと言ってその時のためにぜい肉を無駄に蓄えておいたわけでもないし、雑学を身につけていたわけでもないのだが、何かの時に役立てば、それに越したことはないし、何の役にも立たないのなら、そのまま放置しておけばいいことでしかなく、そこでもどちらでも構わないような両義的な姿勢でいればいいわけで、そうした姿勢を維持するには、それなりに心身に余裕がなければならないのであり、そういう意味では日頃の蓄えというのは、それが役に立っても無駄になっても構わないような性質があるわけで、そこに微妙な両義性があるわけだが、そのような両義的な物事は、自らの都合でどうなるものでもないだろうし、それとは違って意識を制御して倹約を心がけ、蓄えを計画的に維持するようなこともあるわけだが、やはりそれとこれとは微妙に異なるのであって、そうやって計画的に富を蓄えるようなことをやると、思わぬところからそうした計画が狂ってくるのであり、しかもそうやって意識的な制御を施すほど、そこから欲が生じてきて、かえってその欲が重荷となって、結果的にそうした制御や計画に意識の方が縛られてしまい、そうなるといざという時に融通が利かなくなってしまうから、そんなことをやったばかりに自滅するような成り行きにもなるわけで、そういうところで余裕を持たせるには、自らの目的や目標とは無関係なことをやった方がいいのかもしれないし、しかも軽い気持ちであまりのめり込まない程度でやっていれば、自然とそんなことをやれている分だけの余裕が生じていることになるわけで、もちろんそうした余裕を無理に作る必要もないだろうし、それに関しては鶏が先か卵が先かの問題となってしまうわけだが、その場の自らが巻き込まれている状況の中で、一方的に忙しなかったり、また一方的に暇を持て余しているような、そうなっていなければ、忙しい時と暇な時がそれなりに交互に巡ってくるわけで、そうした機会を捉えて、その場の状況に応じた対応を心がけるしかないだろうし、その対応がどんな対応かは、その時になってみないことにはわからないわけで、もちろんその時になってもわからない場合もあるのだろうが、それに関してはあまりはじめから、こうなった時にはこうするとか、決めつけておかない方がいいのだろうし、何かそういう状況に慣れていると、そんな時に自然と体が動くような自分独自のペースというのをつかんでいるかもしれないのだが、それも心身に余裕があれば、自然とそんな芸当も身につくのではないか。


12月2日「出来事の物語化」

 偶然の巡り合わせで起こった出来事が必然的に起こったように思われるのは、後からそうなってしまった原因や理由を突き止めようとして、それを特定できればそう思われるわけだが、実際にそれを突き止めたつもりになって、そんな原因や理由でそうなってしまったと思い込んで、それが必然的に起こったことだとみなして、安心できればいいのだろうが、突き止めたつもりになっている原因や理由が、それだけではないことに関しては、それで納得できれば無関心でいられるだろうし、他にも無数にあるかもしれない様々な要因が、偶然の巡り合わせによってたまたまそこで出会って、それらが作用し合って特定の出来事を引き起こしたとしても、その全ての要因を一つ一ついちいち調べ上げるのは難しいだろうし、もしそんなことをやれば、原因や理由を突き止めるための探求にも、無限の時間を費やさないとならなくなるだろうが、そんなことは物理的にも不可能であるから、もちろんそんなことまで考慮するわけもないし、実際にもそこまでは考えないわけだが、たまたまそこで思い当たった原因や理由が、結果的に出来事を起こす上で、原因や理由としてもっともらしく思われれば、とりあえずそれが原因や理由だとみなしてしまうわけで、そうした思い込みの中で、因果関係のつじつまが合えばそれで構わず、それで納得できれば原因や理由の究明を終了してしまえるわけだが、果たしてそれでは済まない場合があるかとなると、それは自分だけが納得しても他が納得しない場合であり、他の人や団体が納得しない場合は、そんな人や団体と交渉してみて、どうすれば納得してもらえるのかに関して、その傾向と対策を探らなければならなくなるだろうし、そうやってそれらの人や団体が納得するような原因や理由を導き出さなければならなくなるようだと、そうなっている時点で、話がだいぶ横道に逸れていることにもなるわけで、果たして出来事には誰もが納得できるような原因や理由が必ずあるのかと問うなら、普通に考えるならそうとは言い切れないだろうし、そもそも疑問を感じるから原因や理由を探ろうとするのだから、少なくともその時点では納得していないわけで、結局そう思った時点では疑問を抱いて、それを探っていく過程で疑問が解消すれば納得するのだろうし、そうした一連を過程を経ないと納得できないわけだから、すぐには納得できるような原因や理由は見つからないわけだろうが、その逆に、誰もがすぐに納得できるような原因や理由から起こるような出来事が、果たして実際に世の中で起こるかというと、起こったとしてもそんな出来事には誰も驚かないだろうし、誰も驚かないと同時に、誰もその原因や理由については疑問を抱かないから、話題にもならないだろうし、そうなると少なくともそんな出来事を話のネタにしてもおもしろくはないだろうし、結局それは誰も興味を持たないような出来事となるのではないか。そしてそんな話題性のない出来事をメディアが取り上げることはないだろうし、そういう出来事は起こったとしても世間からは無視される可能性が高いわけだ。またそうであるなら、人はそういった何でもないような出来事とは違った、驚きや感動や疑問を抱けるような想定外の出来事に遭遇したくなるにしても、直接遭遇してしまうと危険だから、そんな出来事を安全なところから見物したり見聞したいから、そういう出来事を選りすぐって伝えようとするメディアに群がるのだろうし、また現実に起こった出来事では飽き足らなければ、そんな作り話ばかりのフィクションを求めるようにもなるわけで、またそんな作り話の中でも、驚きや感動や疑問などをもたらす原因や理由を、懇切丁寧に解説してくれる謎解き探偵的なフィクションにも、興味を惹かれるようになるだろうし、またそれと同じように、現実に起こった興味深い出来事に関しても、懇切丁寧な謎解き探偵的な解説を求めたがるわけだが、そうやって何でもかんでもメディア任せになってしまうと、自分で考えようとしないから、自らの思考力が低下してしまうわけで、またそれに乗じてそうした思考力の低下した人向けに、浅はかな宣伝や煽動によって、ワイドショー的に人々の興味を煽り立てようと仕掛けてくるメディアも現れてきて、そうした需要を満たす試みも盛んに行われるようになるのだろうが、実際にそうしたことをやり出すときりがないと同時に、他方ではそんなことばかりにかまけているわけにもいかなくなるような事情も生じてくるのかもしれず、それが自らもそうした出来事を起こしてしまったり、また他で起こった出来事に自らが巻き込まれてしまうような事態に直面する時かもしれないし、そんな事態に直面すると、否応なく思考を働かせて事態を切り抜けようとしたり、打開を図ろうとするわけだ。

 またそんな事態に直面した時に、メディアから得られた知識が役に立つかといえば、役に立つ時もあるだろうが、役に立たない時もあるのかもしれず、役に立つか立たないかは、その場の状況に左右されるようなことかもしれないが、そうなった時にはすでに、自らの経験から得られた知識の中でメディアから得られた知識も混ぜ合わされていて、それを判別することは困難になっているかもしれないが、そこでもまずは安心したいから、そうなってしまった原因や理由を突き止めようとするだろうし、それを突き止めることがそれへの対処に繋がると信じているわけだが、そうした対処が何をもたらすかといえば、自らが体験しつつある謎に満ちた未知の出来事を、自らが理解可能な既知の出来事へと消化する過程だろうし、そうやって出来事を自らが納得できる自分の物語の中の一挿話として、自意識の中で再構成したいわけだが、それを記述することが日記というメディアに結晶化したわけで、また最近ではそうした需要を当て込んで、それをネットメディアの中で実現させるような成り行きも生じて、それがソーシャルメディアの役割となって、そんなマイ・ストーリーを画像や映像をふんだんに盛り込んで飾り立てるような現象も生んでいるわけだが、そうした出来事の物語化を通して、人々が何を求めているかというと、別に意識して特定の物事を求めているわけでもないのかもしれないが、やはりただ漠然と安心を求めているわけで、何とか自らが直面している謎な事態を理解可能な記述や音声や画像や映像に消化して、それをソーシャルメディアの中に定着させて安心したいわけだが、そんなことをやってみても相変わらず謎は残るだろうし、それの何が謎かといえば、いったん安心してしまえば興味がなくなるのに、それでも安心を追い求めることが謎なのかもしれないが、そうやって未知を既知に置き換える過程で、謎が解けたように思い込めるのだろうし、そう思い込めることが安心につながるわけで、そうした過程が「ハリー・ポッター」のように大げさな自分探しの大冒険とまではいかないにしても、ほんのささやかな分をわきまえた散歩程度の営みにはなるわけだろうし、何もしないよりは、散歩でもやらないよりはやった方が幾分マシだろうし、たとえそれが気晴らし程度の満足感しか得られなくても、得られるだけマシだろうから、そうした営みが人々に受け入られて、それなりに世の中で流行っているわけだが、そこでも絶えず体験した出来事を情報へと置き換える作業が行われていることには変わりなく、そうやって偶然から必然へ、未知から既知へ、不安から安心へと至りたいのだろうが、その過程をあまりにも素早く通り抜けてしまうと、不満が残るわけで、結局はそこで、いかに偶然に弄ばれながら未知の状態の中で不安感を抱きながらも留まっていられるかが、快楽の増大や持続へとつながるわけで、そんな状態の中に留まっているほど、それだけ身の危険にもさらされているわけだが、またそうであるほど冒険心も掻き立てられるだろうし、それをやり終えた時の達成感もひとしお大きくなるのかもしれず、そんなふうにして絶えず未知の何かに挑戦していられたら、それだけ幸せなのかもしれないが、現実にはそんなことをやる暇もない人が世の中の大半を占めているだろうし、だからそうしたことをやっている少数の人がメディアで取り上げられると、人々の関心を惹くのだろうし、またそうした人を主人公にしたフィクションも人気を博すわけだが、またそれもメディアを通して身の危険を感じない安全な場所から、そうした行為を見物したり見聞したり、時にはゲーム的な操作を伴うこともあるが、そんなやり方で満足することを強いられているわけで、結局そこには疑似体験的な不条理感がもたらされるわけだが、それが疑似体験的であれば、そうした経験からもたらされる知識も疑似体験的であり、そうした知識はメディアから離れた現実の世界では通用しない可能性があるわけで、そこにメディアの中の疑似空間と現実の世界との落差があるわけだろうが、だからと言ってメディアを通した仮想世界の中では通用する可能性もあるわけだから、そんな限定条件を踏まえた上でそうした知識を理解しておけばいいのかもしれないが、そこで限定条件だとか現実の世界と仮想世界との間に生じている差異とかを意識し出すと不安感を覚えるわけで、そうした不安を安心に変えるには、あまり物事を深く考えないで、与えられた情報をそのまま受けるだけに終始していればいいわけだろうが、そうなると情報をもたらす側の意図や思惑通りに操られる危険も生じるのだが、たぶん情報をもたらす側が絶対的な優位に立っているわけでもないだろうし、メディアを通して情報をもたらそうと画策している人たちでさえ、絶えず出来事の物語化を通してしか現実を情報に加工できないわけで、そうなってしまう限りで偶然の側にも未知の側にも不安の側にも留まれずに、絶えず必然の側へ既知の側へ安心の側へと至ってしまうから、そういった物語化と引き換えにして、出来事自体の偶然の巡り合わせも未知の状態も不安な感覚も見逃してしまうわけだ。


12月1日「個人と集団の関係」

 それが事件なのか出来事なのか現象なのか定かではないかもしれないが、とりあえず誰かが何かに巻き込まれているとして、それが誰にとっても何でもないことであれば、特に取り立ててそれに関して興味を抱くこともないのだろうが、それを意識しなければ、何に巻き込まれているとも思わないだろうし、そのままやり過ごしてしまうことにしかならないのかもしれないが、実際にやり過ごしているとしても、そこでしっかりと何かを経験している場合には、ただそれが記憶に残らないだけであって、意識もせずに何の印象もないとしても、確かにそこで何かを経験しているのであり、またそこから学んでいる場合さえあるのかもしれず、それを自覚することなしに経験することによって、自然と何かが身についているとしたら、そういう経験は興味深いことかもしれないが、相変わらずそれを意識していない現実があるわけだ。自然と身についてしまうことの大半はそんなところから生じるのだろうが、例えばそれがその人の仕草などの癖となって、他の人に識別されるかもしれないし、何かその人が気づかないところで変な癖が身についているとすれば、そうなるに至る過程で経験する何らかの出来事がそれに関与しているのかもしれない。また癖がもたらされるような出来事は一度に起こるわけではなく、繰り返し何度も起こるから、それを体験する度に心身に痕跡として刻まれて、それに対する反応がいつの間にか癖として定着するのかもしれず、繰り返し起こることに対する同じような動作として定着するわけで、それは条件反射の一種かもしれないが、やはり当人にとっては何でもないことでしかなく、それをいちいち意識するまでもなく、そうした自らの反応には自意識が興味を示さないし、また条件反射として反応する出来事にもあまり興味を抱かないわけだ。そんな興味を示さないのに自然と反応してしまう出来事というのが、やはり何でもない些細なことでしかなくても、なぜか何らかの身体の動作で反応を示していて、それが同じような仕草の癖となって現れてくるわけで、実際にそれが些細な何でもない動作であれば、どうということはないのかもしれないが、例えばそれが飲酒や喫煙などの過度の習癖になってくると、長年にわたって健康を害して病を発症して、自らの寿命を縮める結果を招いたり、そうした悪習となってしまうと、それなりに深刻な事態を招くわけだが、たぶんそれとは違って誰にとっても何でもないような習癖の類いは、そういう目立つような結果は何ももたらさず、取り立てて気づくような心身の異常も招かないのだろうが、そういった無意識の反応が、その人の個性のように見られるのかもしれないし、それをこれといって指摘できるようなことでもないとしても、その人が何か個性的な印象を伴っているようなら、その人のわずかな心身の動作が、その人に固有の印象をもたらすのかもしれず、そういうところで人それぞれに微妙な差異が生じてきて、そういった印象が強いほど、それだけ個性的に見えてくるわけで、そういう印象を言葉ではうまく表現できない場合には、印象と言語表現との相性があまり良くないのかもしれないし、それを表現するのに適当な言葉が見当たらない場合があるかもしれないが、それでも何かえもいわれぬ形容しがたい印象というのがあって、それが心の琴線に触れるような印象だと、鮮明に意識を刺激して記憶にも残るのだろうが、それが言葉と結びつかないと、相変わらず形容しようがないわけで、大抵は不思議とか不気味とかいう言葉で表現すればしっくりくるかもしれないが、それらとも印象が異なっていれば、では他になんと表現すればいいのかとなるわけだが、たぶんどんなに思案しても適当な言葉が見当たらない印象というのがあって、無理して不思議だの不気味だのの範疇に含めても、取り立てて不都合はないのだろうが、それでは大げさすぎるように思われると、やはりそれは何でもないような印象に近いのかもしれず、その何でもないのに、あえて何でもないと形容せざるを得ないような印象というのがあって、そうしたさりげない何でもなさを伴う、かすかに心に引っかかってくるような印象が、その人に固有の経験によって生じた痕跡なのかもしれず、それが誰もがはっきりと記憶に留め置くような鮮明な印象を伴った、一度の体験とは違う、長期間にわたる何でもないことの積み重ねから生じる印象なのであり、しかもそれがその人の心身に良くも悪くもない作用や影響を及ぼしているように感じられると、それによって何がどうなるわけではないにしても、その人が他でもないその人本人であることを認めざるを得ないことにもなり、認めたところで何でもないにも関わらず、やはりその人がその人であることから、周囲にその人の存在を意識させるような作用を及ぼしているわけだ。

 そしてそんな作用から人を単体で個人として認識できるとしても、それだけはそうした存在以外の何ももたらさないだけに、そんな個人の存在を何でもないこととしてやり過ごしてしまえるし、そこで立ち止まれないから、それとは正反対の集団的な共通感覚に囚われて、そこから得られる他の人たちとの一体感に居心地の良さを感じるわけで、実際に大勢で協力し合いながら行う活動によって、満足できる成果を得られると、人と人とが結びついて協業する上での連携や協力の関係の重要さを認識させられるし、また集団の中にいれば、その中にいる自分を集団が守ってくれるようにも思われるし、そういった安心感を得られることが、集団の中にいることのメリットなのだろうが、そうであるなら、なぜ人は集団から離れて孤独に生きる場合があるのかといえば、人が集団でいることにはメリットもあればデメリットもあるということだろうし、そんなデメリットな面として、人の個人的な存在自体が、集団によって抑圧される傾向があるわけで、個人が集団の中で勝手なことをされては困るから、ある程度は抑圧せざるを得なくなるわけだが、そんな人の個人的な存在感からもたらされる、個人ごとに異なるいびつな面を、集団の中で活かせるかというと、その人の個性的な面から生じる特質に応じた適材適所な役割分担を実現できれば、それによって集団の活動をうまく機能させられるかもしれないが、集団としてはそうであっても、そうやって集団の中で活かされて機能させられる個人が、それで満足するかというと、それは集団内での待遇や個人の自主性にもよるだろうが、それで満足しなければ集団から離れようとするだろうし、実際に集団から離れて個人で何かをやっている人もいくらでもいるわけだが、普通は集団内に留まっていても、四六時中留まって活動の全てを集団に依存しているわけでもなく、個人でいる時と集団内にいる時の両面で生活しているわけで、それに関して一般的には、その集団が企業であったり他の各種団体であることは多いだろうし、1日のうちで集団内にいる時間と個人でいる時間がちょうど良い割合になっていれば、それなりに妥当な感じがするのかもしれないが、個人と集団とで相容れない面がある限りは、何事も個人の都合のいいようにはいかないものだろうし、また集団の都合のいいようにもいかないもので、それに関しては個人と集団の間で、それなりに調整や妥協を行なうような成り行きにもなるだろうが、それとは別に、そういった損得勘定的なこととは異なる成り行きになってしまう場合もあるわけで、それが否応なく個人が集団内に絡め取られてしまったり、また否応なく個人が集団からはじき出されてしまったり、当人の意志とは無関係にそうなってしまう場合があるわけで、そういう成り行きになると理屈では成り行きを理解できないし、理屈に合わないような成り行きを理解するわけにはいかないのかもしれないが、そんなところにも個人の存在から意識される形容しがたい印象が作用していて、それが周囲の人を遠ざけるように作用すれば、その人が集団内で孤立して、そこに居づらくなってきてしまったり、それが一人の個人だけではなく、複数の人の間で作用して、それぞれのいびつな個性を伴った人たちの印象が複合的に絡み合って、何か独特の雰囲気を集団内に漂わせて、集団の役割や機能などとは違った面で、何とも言い難いえもいわれぬ緊張関係をもたらすこともあるわけで、そういった雰囲気が集団をおかしな方向へと導いて、それが高じると例えば陰湿な嫌がらせが集団内で横行したり、それに伴って人間関係がこじれてきたりして、集団内が嫌な空気に覆われて、誰もがそんな集団には居たくないと思うようになって、それによって集団自体の団結力や協業効果などが低下してくると、集団自体が崩壊の危機に直面することもあるだろうし、そういったことは経験してみないことには、その不快さを実感できないし、また不快さの程度もそうした状況に至る経緯も、それぞれのケースで異なってくるだろうから、それを改善するための一定の対応策などないのかもしれないが、そんな成り行きでさえも、そこに関係する人に作用や影響を及ぼして、その人の個性をそれなりにいびつに変形させる効果を伴ってくるだろうし、そういうことが重層的かつ循環的に作用して、何か不条理な事態を引き起こして、人も集団もおかしな方向へと導かれてしまい、そうした否定的な効果によって、活動がうまくいかなくなってきたり、また不快な思いをした人が集団からはじき出されたり、さらに集団内で多くの人が苦悶したりする成り行きとなるのだろうが、それに加えて、集団の本来の活動内容が絡んでくると、さらにそこから事態が複雑かつ錯綜した様相を呈してきて、そういったことがそのまま放置されたままでも活動が続けられるようなら、集団内で一定の妥協が成り立っていることにもなるのだろうが、その中で誰もがそれなりに我慢できる範囲内で嫌な思いをしながらも、自らに割り振られた役割をこなしていくことになるのだろうが、そしてそういったことがストレスとなって、心身に否定的な作用や影響を及ぼしながら、過労や加齢などとともに集団内にいる人たちを徐々に蝕んでいくわけだ。