彼の声123

2017年

11月30日「システムと体制批判」

 過去の経緯がどうであれ現状で動作しているシステムの構造を比較してみた場合、産業システムの中では企業が集団的な組織形態を維持しながら従業員などの個人を拘束していて、政治システムの中でもやはり政党が集団的な組織形態を維持しながら政治家を拘束していて、行政システムの中でも当然のことながら官僚機構が集団的な組織形態を維持しながら公務員を拘束しているわけで、当たり前のことだがどのシステムも集団的な組織形態として人を組み込んだ体制となっているわけだ。体制は常に官僚機構を必要としていて、そのような官僚体制を支える官僚たちを単に事務員と捉えるなら、その事務員たちに権力があるとは思えないだろうし、事務員が機械的に事務をこなしている限りは機械と変わらないわけだが、組織はその事務員たちに指示を出さないと動作しないわけで、では誰が指示を出すのかとなると、普通に考えるならそれは管理職が指示を出すのだろうが、では管理職には誰が指示を出すのかというと、最終的には組織のトップに立つ人が指示を出すわけだが、しかし全ての指示をトップに立つ人が出すわけではないし、途中の段階で常に地位が上の者が下の者にトップからの指示とは別の指示を出しているわけで、そのような指示の集合体が官僚機構の権力の源泉となっているのであり、その様々な段階で地位の上下関係を利用して権力の行使が行われているわけだ。要するにその集団的な組織形態そのものが権力の集合体を形成していて、そのような体制に組み込まれていると必ず権力関係に巻き込まれることになり、組織のトップに立つ人以外には何らかの指示が出され、その指示に従わなければならなくなるわけで、その指示に従っている限りでその人の主体性が抑圧されることになるわけだ。だが別に指示内容に納得して従っているなら従うことが苦痛にはならないだろうし、当然理不尽に思われるような指示には逆らうことも可能だろうし、そういうところでその人の主体性が発揮されるわけだろうが、中には逆らえないような指示があるわけで、その逆らえない指示というのが制度や慣習や機械の動作を伴ってもたらされ、人が組織内でその逆らえない指示に従いながら活動することが、そこで動作しているシステムの機能であり、システムの機能は逆らえない指示に従って人が指示通りに活動することによって果たされるわけだ。そしてそれが集団的な組織形態の活動内容であり、その中で人が指示通りに活動した結果が集団に利益をもたらすのだろうが、その集団の活動が集団以外の人たちにとって利益とならなければ、社会にとってその集団の存在や活動が害を及ぼしているわけではないにしても、目障りにはなってくるだろうし、それが宗教集団や民族集団なら、場合によっては何らかの口実や因縁をつけられて迫害の対象となってしまう可能性も出てくるのではないか。

 そうだとすると集団的な組織形態はその集団が存在している社会に何らかの貢献をしている限りで、その存在や活動が社会的に許されることになるだろうか。その集団が社会の中で政治的あるいは経済的な主導権を握っていれば、場合によってはその社会全体を支配することもできるかもしれないが、それが政府などの行政システムに関わっている官僚機構や政党だと言われることもあるわけで、比喩的には政官財+マスメディアの利権複合体が国家を支配しているようなイメージが世の中に流布されているかもしれないが、支配という概念にも様々な意味合いや程度があるだろうし、中には一般の民衆を抑圧する強権的な独裁体制がすぐに思い浮かんでしまう人もいるかもしれないが、強制的にしろ自発的にしろ当初は民衆の支持を背景としてそのような独裁体制が形成されることが多いだろうし、大概はそこから事態が進展して、ほとんどの民衆がそのような独裁体制に組み込まれてしまうと、民衆も集団的な組織形態の構成員となってしまい、そこで逆らえない指示に従うだけの存在となってしまうわけだが、やはりそれがシステムの機能だと言えるのかもしれず、社会全体が官僚機構に覆われてしまえば、その中で民衆はただ機械的に動作する事務員の立場になってしまうわけで、しかも生活の全てが事務的な作業となっているわけではないから、労働している間だけ上からの指示に従って事務的な作業をこなすだけでよければ、仕事はそういうものだと割り切ればそれほど苦にならないのではないか。そういう意味では何も独裁国家でなくても官僚体制に組み込まれている人が不幸な人生を送っているとは限らないし、日本のように公務員の給料や待遇が民間の平均的な企業より良いならば、多くの人が公務員になりたがるのも頷けるし、そういう人たちが現状の政府や議会与党を支持しているのも当然のことなのではないか。だがそうだとしても果たしてすべての国民が公務員と同じ給与や待遇でやっていけるかとなると、実際にはそうなっていないことからもわかるように、おそらく無理だから現状のようなことになっているわけで、しかも現状でも政府や議会与党に対する支持の割合が高ければそれで構わないわけだが、そのような状況でも政府や議会与党に対して批判している人たちもいるわけだから、比喩的には官僚体制の独裁国家だと批判されるかもしれないが、周辺諸国にさらにそのような傾向の強い国が実際にあって、それとの比較で言うとそのようなイメージは抱けない人が多いのではないか。そういう意味で政治体制への批判はとかく独裁的あるいは強権的な行為に対する批判に集中してしまいがちだが、他との比較でさらに独裁的かつ強権的なことをやっている体制があると、相対的にマイルドな独裁的かつ強権的な行為が見逃されてしまうことにもなるわけで、そのような単純かつ一方的な批判はその場限りのインパクトしか持ち得ないのではないか。そうなら他にどう批判すればいいのかということになるかもしれないが、有効な批判があるかないかではなく、まずは批判してみないことにはその有効性もわからないわけで、体制に批判的な勢力はとにかく批判するしかやることがないのではないか。


11月29日「民主主義の正当性」

 人の活動は世界の中で常に環境を取り返しのつかない状態に変形していて、それは現状が過去の状態へは後戻りできないことを示しているのかもしれないが、すでにそうやって人類自体が地球上で繁栄しているわけだから後戻りする必要もないのだろうし、現状の上に新たな出来事を積み重ねて現状を変革する成り行きとなるのだろうが、意識して現状を変革したい勢力は絶えず新たな既成事実を積み重ねつつ現状を思い通りの環境へと作り変えようとしているのかもしれないし、またそのようなやり方に反対して抵抗を試みている勢力もあるわけだが、どちらにしてもその中で組織的な活動を行なっている勢力は利益を生み出すシステムを構築して、そのようなシステムを世の中に定着させることで、状況を自分たちの有利になるように制御したいわけで、世の中で様々なシステムが競合しているなら、そのようなシステムを構築して運用している様々な勢力が競合状態にあると言えるだろうし、その中でも企業と行政機関が代表的な勢力なのだろうが、中にはそれらの勢力に食い込んで利益を上げようとしている勢力もあるわけで、その代表例が政党とマスメディアなのかもしれず、政党は一般市民と行政機関の間に入り込んでその橋渡し役を担いながらも、そこに根を張って勢力の拡大を図ろうとするわけで、またそれと同じように企業と行政機関の間にも入り込んで中間マージンをかすめ取ろうともしているわけだが、マスメディアの方は組織形態としては企業そのものであり、活動は他の一般の企業と同じなのかもしれないが、商売としては行政機関と一般市民と政党と企業の間に入り込んでそれら全てから情報を入手して、入手した情報をそれら全てに伝えることによって利益を得ようとするわけで、要するに情報の売買によって利益を得る情報の商人という形態であるわけだ。そしてそのように現状を捉えるなら何もそこで政治と経済を区別する必要はなくなり、その全ては経済活動によって成り立っていて、政党などの政治活動もマスメディアの活動も商売と捉えるなら、それらと他の商売が何か異なることをやっているわけではないと認識しても、それほど間違ってはいないように思えるのだが、実際にはそれら全てを商売として同一視できない面があることは確かで、例えば行政機関から税金と引き換えにして何を買っているのかというと、保険会社や警備会社から身の安全を買っているのと同じだとは言えない面があるだろうし、選挙で政党の候補者に投票するのは自分の意見をその候補者を通して国政に反映させるためだと思い込んでいる人がいるとしても、それが経済活動と関係があるとは思えないだろうし、どちらにしても商売とは別の何か重要な活動が担われているように思われるのではないか。またマスメディアにしても商売とは別に、国民の知る権利や報道の自由や批判の自由を守る活動を担っているように思われるだろうし、だから政府や議会の与党などに与するマスメディアはそれらの活動を怠っているように思われるから何かと批判されているのだろうし、そういうところで全てが商売だとは片付けられないから、行政や政党やマスメディアには何か他の企業活動とは違う特別な感情や幻想を抱いている人が多いわけだ。

 そういう面で政治活動と経済活動を分けて認識することに違和感を覚えないとすれば、政治活動には経済活動とは違う何か特別な価値を見出せれば、それが政治活動を正当化する理由となるのかもしれないが、そうなると結局経済活動にはない政治活動に特有の理念を擁護することが、その理由として相応しく思われてくるだろうし、それは何かと言えば経済活動からは得られない民主主義の理念となるわけで、民主主義の理念とは法の下で国民の平等を保障することにあるだろうか。その法の下での平等という条件については、それ以外の条件の下では平等が保障されなくても構わないと解釈できないことはないだろうが、実際に経済活動から生じる貧富の格差などの経済的な不均衡が、法の下での平等を損なっていると言えるなら、それを是正するのが政治活動の役目となって、経済活動から生じる貧富の格差の是正を目指す政治活動を正当化できるのかもしれないが、果たしてそれだけが政治活動の役目なのだろうか。もちろんそれだけではないと思っている人がほとんどだろうし、行政にまつわる様々なことが政治活動の対象として想定されているわけだろうが、その中でも現状で力を入れているのが民間の経済活動を活性化させることだろうし、そうだとすると別に経済活動と政治活動を区別する必要がなくなってきているとも思われるわけで、実際に政治活動に経済活動が結びついていることは確かであり、ただその中で経済的な貧富の格差などの不均衡に対する国民の不満を和らげるために、民主主義の理念に基づいた政治活動も部分的には行われていることを宣伝しなければならなくなるわけで、結局そういう部分に関しては選挙向けの政治宣伝に含まれるだろうし、そこだけを拡大解釈するなら政治活動は民主主義の理念に基づいて行われるべきことになり、それは経済活動とは分けて考えるべきことになるわけだが、現実にそれだけではないことは誰もは承知していることだろうし、経済に関する政策ばかりがメディア上で取り上げられて、民主主義の理念が軽視されている現状にそれほど違和感を感じないのもそれを裏付けていて、どうも政治と経済を分けて考えるのは無理に思われてくるわけで、実際に政治と経済は一体化したものであり、法の下での国民の平等を保障する政治理念自体が経済活動の自由を保障する制度から出てきたものなのではないか。歴史的にはアンシャンレジームと呼ばれる身分制に基づく社会では経済活動の自由が認められないから、資本主義経済の発展に支障をきたすわけで、旧体制下で特権的な地位にあった王侯貴族や僧侶などの財産を奪って資本主義経済に利用するには、身分制を取り払ってすべての国民が法の下での平等な地位である方が有利だから、絶対王政下での産業発展に伴って台頭してきた資本家たちが、これまた絶対王政下で発達してきた行政機構の官僚たちと結託して、市民革命を起こして国民国家を作ったわけだが、その際に民衆の大多数を占める平民を味方につけるための方便として、民主主義的な理念が出てきた歴史的な経緯があるわけで、そういう意味で必ずしも民主主義的な政治理念に正当性があるとは言えない事情があることは踏まえておくべきかもしれない。


11月28日「システムを管理する側の意向」

 現状で民主主義的な政治システムが機能している面があるとすれば、それは選挙や議会や議院内閣制などの制度的な面であることは確かで、そうした制度面での機能が誰のために役に立っているのかといえば、実際にそのような制度を利用して働いている政治家の役に立っているわけで、政治家にとってはそこが自己実現の場なのだろうし、公的な制度によって活動の場が用意され、実際にそこで彼らは活動しているわけだ。そしてそのようなシステムを管理する行政機構と関係を持ち、行政機構に働きかけて自分たちの意向を行政に反映させようとするのだろうが、そこには行政に働きかけようとする政治家側の意向とともに行政機構自体の意向もあるわけで、それらが渾然一体となっているところでは、政治家の主張がどちら側の意向を反映しているのかわかりにくくなっているのかもしれず、そもそも政治的な意向と行政的な意向が対立していなければ、別にそれらを区別する必要さえないのかもしれないが、そうなってしまうと世論調査や選挙などで結果的に明らかとなる世論と呼ばれる民衆の意向が政治や行政の場で反映される余地があるのかというと、どうもよくわからなくなってしまうのではないか。そしてわからないといえば本当に世論と呼ばれるものが民衆の意向を反映しているのかというと、世論調査などに介在してくるマスメディアの意向が世論に反映しているのではないかと疑いたくなってくるわけで、そういう意味でそれがどういう経緯から出力されるにしても、そのような出力結果には常にそのような出力結果をもたらすシステムを管理している側の意向が反映されているのではないか。要するに選挙や議会や内閣などの公的なシステムには、それらを管理している行政機関の意向が反映していて、民間の世論調査などに関してはそれらを管理しているマスメディアの意向が反映しているわけで、それらも含めて世の中で動作している様々なシステムにはまずはそのシステムを管理している何らかの団体や組織の意向が反映しているわけで、結局そのようなシステムを利用する人たちはシステムを管理している機構からの影響を受けていて、場合によってはそれらの機構の管理下にもあるわけで、さらにいえば活動をコントロールされていることにもなるのではないか。そうだとするとシステムの利用者は初めから不利な状況にあって、自分たちの意向をシステムに反映させることは容易でない立場にあるのではないか。そしてそこに権力関係があるとすると権力を行使するのは常にシステムを管理する側で、利用者が権力を行使できない制度になっているわけではないが、建前上は選挙によって国民の審判が下ると言われているにしても、事前の世論調査によってマスメディアの管理を受けながら世論誘導されていることは確かだし、世論調査以外でも偏向報道などによって常時世論誘導が試みられているし、世論自体がマスメディアによる管理の対象となっているわけだから、そのような世論に同調することは管理を受け入れることになってしまうのかもしれず、そうなると民衆側に管理を受け入れるとか管理に逆らうということが可能なのではなく、常に世論はメディアの管理にさらされていて、それは民衆の世論というよりは管理するメディア側が民衆の同調を期待して出す世論なのではないか。

 少なくとも社会の中で何らかのシステムが作動しているとすると、そこで主導権を握って権力を行使しているのはシステムを管理する組織であることは確かであり、システムの利用者はシステムの管理者にはそのシステムを利用している限りで逆らえず、選挙というシステムに関しても形式的には選挙管理委員会という公的な組織が管理していることにはなっているわけだが、選挙に至るまでの過程において世論調査による世論の管理から始まって選挙時期の決定やそれに合わせた有形無形の世論誘導を目的とした政治的な駆け引きやメディア上での宣伝や煽動が繰り返されるわけで、そうしたところで政官財+マスメディアからなる利権複合体を構成する人々が跳梁跋扈するのだろうし、別にそうした活動が何らかのはっきりしたシステムによって管理されているわけでもないのだろうが、少なくともそのような過程の中で一般の人々の主体的な意志が世論に反映されるような余地などないだろうし、そのほとんどは多数意見として最大公約数的に漠然とまとめられてしまうわけで、それは結局特定の誰の意見でもないし集団意志のようなものとなるしかないわけだが、そのようなシステムではそういう意見しか汲み上げられない仕組みだと言えばその通りなのかもしれないが、それがシステムの欠陥だとは言えないわけで、民衆の中の一人一人の意見などいちいち聞いていられないことは確かだし、別に政治や行政に対して特に独創的で独自の意見を持っている人などもそうはいないだろうし、いたとしてもそんな意見など常識はずれで聞き入れられないような代物でしかなく、結局は世論調査が示すような最大公約数的な意見がメディアの場でも一般市民の間でも妥当だと思われてしまうのではないか。そしてそのような意見を政治や行政の場に反映させることがどんな意味を持つのかというと、そのような意見は漠然としたものだから何とでも解釈可能になるだろうし、そうであるから政治の側でも行政の側でもそのような意見を最大限に尊重しながら政治活動や行政活動を行なっていると主張できるのではないか。そして最大限に尊重しているということは政治や行政に起因する諸般の事情から尊重できない面もあるということであり、それに関してまずは予算的な制約があり、そして他の政策との兼ね合いもあり、さらに内外の情勢が許さない面もあり、などといくらでも言い逃れができるだろうし、それでも民衆の世論を最大限に尊重しながら政策を遂行していると主張できるわけで、それは個々の政治家や行政担当者の人格や技量から判断されるようなことではなく、システムの構造がそのような活動を許しているとしか言えない面なのではないか。だからと言って政治の場でも行政の場でも全ての活動が制度的に同じようにしかならないということではないだろうし、システムの構造であるサイコロを振る腕の動作は一定であっても、サイコロを振って出た目の数は振るたびに違う目が出るわけで、そういうところで偶然的な要素があるのは確かなのだろうが、そのようなシステムがいくらひどいからといって、システムの構造である制度の改革を訴えるだけではうまくいかないのはわかりきったことで、システムを利用する人々の意識を変えることも必要であることもわかりきったことなのかもしれないが、もしかしたら現状ではどちらの変革もうまくいかない宿命にあるのかもしれない。


11月27日「民主主義を形骸化させる要素」

 人が機械の動作に拘束されながら活動することと、人自身が何らかのシステムに組み込まれて動作することが、同じ次元で起こっているとは思えないのは、機械が道具の延長上で人の主体的な活動を助けると思われるからだろうか。その一方で人を組み込んだシステムである社会的な体制内で拘束感を伴った不快な気持ちになるのは、その内部で自由を奪われて囚われの身となっているように思われるからかもしれないが、例えば何らかの機械設備を伴った施設の中で機械を使って作業している時は、人が体制的なシステムに組み込まれてさらに機械とともに動作していることになるわけだから、より一層の拘束感を伴って囚われの身になっていることになるのかもしれないが、実際にはそれほど不快には思われないのかもしれず、それは機械の操作に心を奪われていて拘束感を感じる余裕すらないからだろうか。そこで作業に集中している間はやはり機械が人の主体的な活動を助けているように思われるだろうし、機械を操作している間は体制内で心身を拘束されるような不自由さを忘れることができるのかもしれない。そして機械ではなく人から直接指図されるような時に嫌な抵抗感を抱くのは、人の意識の中では機械と人とを区別していて、同じ指示を機械からの動作として受け取れば大した抵抗感もなくその通りに従う場合があっても、それが人からの指図になると抵抗感や場合によっては反発してしまうのは、機械があらかじめ組み込まれた動作しかしないから、それに抵抗や反発しても無駄だとわかっているからで、一方で人が発する指示は権力関係を含んでいて、指示を出す側が指示を受け取る側よりは立場が上であることを暗黙に意識するわけだ。そうなると対等の立場ではなくなり、指示されている自分が指示する相手より下に見られているようで不快になってくるわけで、そのような不快な感情やそれに反発する心が人が組み込まれたシステムが上手く動作しない要因となるのではないか。そういうことを考慮すればなるべく人が人に向かって命令を下さないシステムにした方がより効率的に動作するように思われるわけで、そういう傾向を突き詰めて考えると、例えば人をシステムから完全に排除すれば何が出来上がるのかといえば、それが機械そのものであることは言うまでもなく、人を排除してシステムの全ての工程で機械を導入できれば、人が人に命令して反発を招くような非効率な面を取り除けるのかもしれないが、あとはコストの問題であり、機械を導入するよりは人を使った方が低コストなら人を使う選択肢も出てくるだろうし、そういう場合はシステムに組み込まれた人をなるべく不快にさせないような工夫が求められるのかもしれないが、それもコストや効率性と天秤にかけながら行うことになるだろうから、いちいち作業員のご機嫌伺いをしながら作業を進めるような余裕のないところでは、当然そんなところまでは考慮されないだろうし、結局は機械化するにしても人を雇うにしても、そこでシステムが上手く回っていける範囲内で様々なことが考慮されるわけで、システムに組み込まれた人の心理的あるいは身体的な環境をどの程度まで考慮に入れるかは、その場の経済的な状況次第になるのではないか。

 人が抵抗感や不快感を抱く組織内での権力関係は、その不平等で不均衡な身分や地位の上下関係とともにそこで動作しているシステムを歪ませる作用もあるのかもしれず、どのように歪ませるかに関しては人の抵抗感や不快感を取り除く方向で歪ませようとすれば、それは不均衡な権力関係を軽減させるように工夫することになるのだろうが、それが競合している他のシステムよりも非効率であればシステムそのものが衰退してしまうだろうし、またシステムの効率性と機械化が一致すれば人手をなるべくかけないような自動化されたシステムになるのではないか。そしてそれが経済的な産業システムならそれによって利益が出るか出ないかでそのようなシステムが存続するか衰退するかが決まってしまうのかもしれないが、一方でそれが人手を過剰にかけた議会制民主主義などの政治システムとなると、たとえ非効率で無駄な経費ばかりかかるとしても、民主主義的な政治理念を守るためにはやめられないと誰もが思うところかもしれないが、基本的に民主主義的な政治システムは金銭的な利益を得るためのシステムではなく、不均衡な権力関係をできるだけ軽減させようとするためのシステムなのだろうし、そのために法の下での国民の平等な立場を保証しているはずなのだろうが、たぶんそれが金を多く稼いだ人が大きな顔をできる経済的な自由主義の論理とは合わないわけで、逆にそういう人たちに権力が集中するのを防ぐための方便が、法の下での国民の平等な立場を保証するという民主主義の理念であるわけだから、そのような政治システムが経済的には非効率であることは当然なのかもしれないが、放っておけば経済的な自由主義の論理の方が優勢となることは、資本主義経済の中では自然な成り行きであり、民主主義的な政治理念を守り抜くにはそういう自然な成り行きに逆らうしかないのかもしれず、そのような抵抗姿勢には一見無理があるように思われるわけだ。そしてさらにもう一方に官僚機構などの行政システムもあるわけで、そこでは民主主義的な政治システムとは不均衡な権力関係を維持する上で対立していて、また資本主義的な経済システムとは非効率な行政システムを維持する上で対立しているはずなのだろうが、その辺の対立具合が政治システムと経済システムとでは微妙に力を作用させる点が異なるのかもしれず、まずは官僚機構の利益を図る上では民主主義の理念などさほど重要視していないわけだから、他の西欧諸国と付き合う上で対外的にはそうでもないかもしれないが、国内的には法の下での国民の平等など保証されていなくても構わないのだろうし、そういうところでは民主主義的な政治理念の形骸化に拍車をかけるような作用を及ぼすだろうし、一方で経済システムの効率化の面では、民間の企業が利益を出すような政策ならそれだけ税収が増えるから推進したいのだろうが、行政システムの効率化となると、効率化して予算を削減するような試みには自分たちの力が削がれることになるから抵抗するだろうし、そういうところで推進と抵抗が相半ばするような状況となるのかもしれず、その辺のどっちつかずの対応が競合する政治システムと経済システムと行政システムとの間でうまく噛み合わない原因となっているのかもしれない。


11月26日「自由主義の弁証法的な矛盾」

 人の主体的な意志が何を目指しているのかといえば、自らを限界づけている制約や束縛などから自由になることを目指していて、ある意味ではそれが経済活動の動機ともなり、資本主義経済の中で経済的に豊かになれば金銭的な制約から解放されて相対的に自由度が増すことは確かだろうし、経済的な豊かさを目指すことが資本主義経済の中で発動している共通の規範や価値観であるとしても、それに束縛されていることを承知でなおそれを目指すことが主体的に活動することだと思われるわけで、何かその辺で矛盾しているようにも感じられるわけだが、そこでの規範や価値観が主体的に活動することなのであり、さらに言えば個人の自由を目指して主体的に活動することが資本主義経済の中で個人を束縛する規範であり価値観だと考えれば、要するにそれが自由主義だと言えるのではないか。つまり自由主義の自由とは経済的な自由が暗黙の前提としてあり、経済的な自由がある限りで政治的な自由も実現するという成り行きがあるわけで、政治的な自由はそれだけでは実現し得ないから、人は経済的な自由を獲得するために活動するのであり、それがある意味では資本主義経済を発展させる要因にもなってきたのではないか。そして経済的な自由は誰にも平等にもたらされるわけではなく、競争を勝ち抜いた者のみが獲得できるとしたら、そのような自由主義が社会共通の規範や価値観となっているところでは人々の間での経済的な平等はないわけで、経済的に豊かである人ほど相対的な自由度が増して、好き勝手なことができる社会となっていて、経済的に貧しい人ほど何もできないようなシステムとなっていると言えるだろうか。経済的な尺度を基準に考えればその通りなのかもしれないが、それが世の中の価値基準の全てではないことは確かだろうし、そもそも社会規範や価値観として自由を目指すことが求められているのだから、自由を目指すことが自らを限界づけているという矛盾に関しては、そこに解決不可能な問題が提示されているわけで、答えが出ないわけだからそれを突き詰めて考えてはいけないだろうし、実際にそこで思考停止しないと経済的な自由を目指すことを正当化できなくなってしまうのではないか。中国などは社会主義的な平等を捨てて経済的な自由を求めて改革開放路線に舵を切ったから経済的に成功したのだろうし、そういう意味では自由と平等の間に横たわっている矛盾を止揚することはできず、それは未だに未解決の問題であり続けているのだろうが、矛盾を止揚しようとする弁証法的な行為が世の中で積極的に行われるのかというと、どうもそうではない実態があるのだろうし、その場の情勢や成り行きにまかせて絶えずそこから立場をずらし続けるような態度が人には可能であり、全体的な視点から物事を考えるのではなく、絶えず自らを限界づけている社会的な制約や拘束を踏まえつつ、そこから生じる限定的な立場から限定的な物言いに終始するわけで、そしてさらにそこから場所を変えてまた別の限定的な立場から語ることも可能なのであり、ある一定の条件下では言えることが別の条件下では言えないことがあるわけだ。

 だから経済的な豊かさを求めることが経済的な自由を目指すことに直結するとしても、それが政治的な自由を実現するわけではないし、そこで政治的な自由主義に何らかのずれが生じていることにもなるのだろうが、普通はそれらを一緒くたにして自由主義というわけで、そういうところで新自由主義と呼ばれる政策を推し進める政治勢力が、言論や報道の自由には抑圧的に臨んでしまう事情にも結びついてくるわけだが、規制や障壁を取り払って自由な貿易を推し進めるという点では自由を目指すわけだが、全ての面において自由を目指すわけではなく、それを単純化すればそのような自由主義を標榜する自分たちを批判する自由は認めないという態度には矛盾を感じないわけで、それを全体的な視点で考えてしまうと、自由を制限する自由主義という矛盾が生じてしまうわけだが、そこに都合のいい条件付けを施すと矛盾ではなくなってしまうわけで、そうやって自らの立場や態度にとって都合のいい条件付けを駆使することによって、そのようなことを行なっている自らを正当化する手法がとられるわけだが、それは社会の中で共通の規範や価値観に則ってその構成員を限定し限界づけるやり方にも合致するわけで、そうすることによって無限の彼方を目指す神の領域への侵犯行為から解放されたことは事実としてあり、それと引き換えにして人は労働や言語や寿命などの有限的な限界内でしか活動できないことを逆説的に証明していると言えるのではないか。だがそう述べてしまうと主体的に振る舞いたい意志を貫き通したい向きには納得しがたいわけで、そのような限界を取り払って自由を求めたいとは思うだろうが、何かそこに限界を打ち破る突破口があるのだろうか。限界を設けることによって矛盾に直面しなくて済むようになったことが文明の進歩だと言えば、それが屁理屈だとしても暫定的な答えにはなっているのかもしれないし、限界内での人の活動の自在さを保証するものでもあるのかもしれないが、いつまでもそれが世の中で通用するわけでもないのだろうし、そこで都合よく設けてしまう限界や限定を巡って対立や軋轢が生じてしまうのも、社会の中で各人の立場の違いが浮き彫りになるところでもあり、対立を止揚するのではなくずらしてごまかす手法にも欺瞞がつきものであることも、それが欺瞞や偽善であることが周知の事実になるほど多くの人が納得できなくなってくるわけで、それでも絶えず問題化するたびにその都度争点や論点をずらしながらごまかす以外には方法がないとしたら、それ以上の文明の進歩は期待できなくなってしまうわけだが、そのような成り行きを文明の進歩だと肯定的に捉える必要もないわけで、例えば世の中で何か問題が発生するたびにその都度思いがけない紆余曲折が起こると考えれば、状況的には納得できるのではないか。そしてそこで起こる紆余曲折が人の思考や行動にずれをもたらすわけで、そのずれが場合によっては社会的な規範や価値観による支配や拘束を逃れる思考や行動ももたらすわけだろうし、首尾一貫した思考や行動を阻害すると同時にその場の偶然の巡り合わせから生じる様々な作用をもたらすわけだ。そしてそのような作用に直面する人々を驚かせ、場合によっては感動させもするのではないか。


11月25日「保守とリベラルの循環」

 人の主体的な意志とは無関係に動作している社会的なシステムの中では、人が従わざるを得ないような作用が働いていて、それが多くの人の行動や言動に同じような傾向を示す結果をもたらすわけで、それが社会規範と呼ばれようと共同体の中で共有される価値観と呼ばれようと、人の行動や言動を無意識の次元で縛っているものには違いなく、アプリオリに正しいと思われてしまうからそうぜざるを得なくなるわけで、そうすることが自然に感じられて改めて考える余裕を与えられないままそうしてしまうから、後から他の人に社会的な合理性に照らし合わせてそのような行動や言動が間違っていると批判されてしまうと、それに対しては反発や反感の感情しか湧いてこないわけで、それを単純化すれば社会的な合理性に照らして他人の行動や言動を批判するのがリベラルな態度であり、またそのような態度に反発や反感を抱くのが保守的な態度であるわけだが、すでに保守的な人は日常的に保守的な社会規範や価値観に従って活動している現実があるわけで、しかも多くの場合はそれを自覚していないわけだから、極めて自然な感覚から普通にそうしていることを批判されてしまうと、それに対する反発や反感もよりいっそう強まるわけで、そのようなところから保守とリベラルの間で対立や軋轢が激化してしまうわけだが、リベラル的な思考が準拠する社会的な合理性というのは、単純に社会規範や共同体の価値観から外れた行動や言動をする人を認めるというよりは、そのような人も含めて新たな社会規範や共同体の価値観を作ろうとすることにあるわけで、従来からある社会規範や価値観では現状に対応できなくなってきたからそのような態度が生じるのであり、そういう意味で社会的な合理性というのは現状の追認に基づいているわけだ。だからリベラル勢力が新たに社会規範や共同体の価値観を作ることに成功すれば、今度はそれを守ることが新たな保守思想へとつながってゆき、結局保守というのは現状の中で社会的な合理性に照らして正しいと思われる社会規範や共同体の価値観を守ろうとする態度であることには変わりなく、社会が同質な規範や価値観で安定している状況であるならば、保守もリベラルも同じとなってしまうのかもしれないが、進歩的な知識人や前衛的な芸術家などが絶えず新しい行動や言動の様式を模索している場合があるだろうし、また産業技術の発達がこれまでにない人の生活様式をもたらすかもしれないし、そのような活動が従来からある社会規範や価値観を打ち破った時に、それを認めるか否かでやはり保守とリベラルの対立が再燃する可能性もなきにしもあらずだろうから、そのような対立は絶えず更新される宿命にあると言えるのかもしれず、人がそれと自覚することなく従っている社会規範や共同体の価値観から生じる対立というのは、社会が変動している限りは避け難いものであり、そのような変動と共に社会的な合理性というのも変わっていくのだから、保守的な態度やリベラル的な思考もそれに合わせて変化していくものなのかもしれない。

 一般的に言うなら保守にしろリベラルにしろ人は絶えず自らの活動を正当化したがるのであり、また他人の活動が自分の活動と合わなければ他人の活動を批判したがる傾向にもあるわけで、そのような傾向から社会的な合理性を求めるなら、他人の活動と自分の活動との間で整合性を得るにはどうしたらいいかという課題が浮かび上がってくるわけで、そうなると無用な対立や軋轢はなるべく回避するような模索が必要となってくるのであり、そのためにはお互いの活動について認め合える部分については認めた方が得策だという判断が生じてくるだろうし、またお互いの活動がぶつかり合う部分については互いに譲歩できる部分については譲歩した方が得策だという判断も生じてくるだろうし、そうであるならそのような部分を探り合う上でも交渉するような成り行きになるのではないか。そして交渉して妥協できる点が見つかれば妥協して、お互いの活動に一定の制限を設けてそれで手打ちとなれば無用な戦いを避けることができるわけだが、そのような成り行きに至るケースがあるとしてもその途中で様々な紆余曲折を経た上でのことだろうし、現に社会が変化している途上にあるとすれば、今はその途上で発生している様々な紆余曲折を現に体験している最中だとも言えるわけで、その中には国家的宗教的民族的な対立や軋轢もあるだろうし、場合によっては凄惨なテロや内戦が繰り返されている最中の地域もあるだろうし、それほど極端な事態ではないにしても地域的にも社会的にも何らかの争いが起こっているのが普通の状況なのではないか。そしてそこで対立を煽り立てて争いを拡大させるよりは、無用な対立や軋轢を回避してできるだけ争わないようにした方が、争った場合に生じる被害をなくすことができるわけで、そうした方が社会的な合理性に照らして正しいと思われるなら、そういう方向での模索が世の中の主流となってくるだろうし、現に極端に暴力的な争いに明け暮れている地域よりは、比較的平和な状態で推移している地域が多い現状があるとすれば、実際に人が大量に殺傷されて建造物や施設が破壊されるような物質的な被害が出ないような方向で事態の収拾を図ることが世の中の主流となってきているのかもしれないが、メディアから伝わってくる情報ではまだ世界各地でテロや内戦によって多数の死傷者が出ている状況が毎日のように伝えられている現状があるわけだから、客観的にどのような傾向となっているのかはよくわからないわけだが、少なくとも身の回りで何も争いが起こっていないわけではないだろうし、実際に争いの渦中にいれば争いを避けることがいかに難しいかを身にしみて痛感させられるのではないか。だから争いは可能な限り避けた方がいいとは思うにしても、場合によっては避けられない争いにも直面してしまうわけだから、その場で社会的な合理性に照らして身の振り方を考えるような余裕など与えられないかもしれないし、その場の成り行きに従うしかない時もあるのかもしれず、現にそうした方が結果的にうまくいく場合もあるわけだ。


11月24日「個人と集団の関係」

 普通に考えれば役に立つとか利益になるとかいうのは、何かをやるときの動機や理由になるわけで、それ自体は否定すべきことではないのだろうが、果たしてそれ以上に何かをやる必要が生じるだろうか。たぶんそれをやることが必要か否かという判断を経ないでやっていることがあるわけで、確かにそれを行なう上での動機づけや理由づけは、集団で何かをやるときには集団内の他の人たちを説得する上では欠かせないことであり、それを行なう上で他の人たちを納得させられる合理的な理由があれば、集団で行なう共同作業も比較的スムーズに事が運ぶ可能性が高くなるかもしれないが、役に立つとか利益になるというのは何かをやった後からもたらされるものであり、実際に役に立たなかったり利益も出ない結果がもたらされた場合は、集団内の他の人たちを説得して回った人は非難されるだろうし、場合によっては詐欺と見なされても反論できないような立場に追い込まれてしまうのではないか。そういう意味では集団内で他の人たちを巻き込んで何かをやらせようとする場合は、思うような結果が得られなかった場合には常に集団内での信用を失うというリスクを負わなければならず、たとえ勝算が高いように思われる場合でも一種の賭けとなる公算も高いのではないか。そういう危険を回避するには明確な動機や理由を明かさないまま何かをやるように仕向けるような体制や空気を作るやり方があり、そのような場合は集団内の特定の個人をターゲットにして周りからじわじわと同調圧力をかけてくるわけで、その人が集団が求めている動作をやらざるを得ないような雰囲気を作り上げてから、やるかやらないかの選択を突きつけるわけだ。やるなら集団内で特定の役割を割り振られるが、やらなければ何の権限もない閑職に追いやられるか、場合によっては適当な理由をつけて集団内から追放されてしまうかの選択を迫られるわけで、そうやって個人を集団の意向に従わせるやり方があるのだろうが、そういう場合はそれをやることがその人にとって役に立つとかその人の利益になるというよりは、その人が集団の意向に従って何かをやることが集団の役に立ち集団の利益をもたらす限りで、その人が集団の一員として認められることになるわけで、それをやることがその人にとって必要であるというよりは、集団にとって必要であるからその人が何かをやらなければならなくなるわけだ。そうなるとそれをやることが必要か否かの判断はその人が行なうのではなく、集団がその人に何をやらせるかを判断することになるわけで、主導権はその人ではなく集団が握っていて、その集団の指揮命令系統がどうなっているにしろ、何らかの合議を経て命令が下されるにしても指導的な地位にある人が命令を下すにしても、あくまでも集団としてその人に命令が下るわけで、集団内にその人がとどまる限りはその命令には逆らえないような圧力が絶えずかかってくるわけだ。そしていったんそのような集団で構成される組織的なシステムに組み込まれてしまうと、何かを行なうための動機づけや理由づけを経ないでそれを行なっている状況が生じるわけで、それをやることがその人の役に立つとか利益になるというよりは、それをやる上での個人的な動機や理由はあまり重要視されない場合が出てくるわけだ。

 もちろん集団内で個人の権利を守るようなことが行われないわけではないだろうし、集団の役に立ったり集団に利益をもたらすような個人が集団内で重用されることもあるわけで、その辺を単純化して個人と集団とを対立する視点で捉えるわけにはいかないのだが、世の中で動作している様々なシステムには集団的な組織形態が組み込まれている場合が多いわけで、それが何の役に立ち何に利益をもたらすのかといえば、どちらかといえば集団の役に立ち集団に利益をもたらすことが重視される傾向にはあるだろうし、それが企業であれ政党であれ行政機関であれ、何らかのシステムを通じてそのような組織形態の役に立ち利益をもたらすようなことが優先的に行われている実態があるのだろうし、例えば消費者の役に立ち消費者に利益をもたらすような商品やサービスが企業から提供されているとすれば、それは同時にそれを提供している企業の役に立ち企業に利益をもたらすような商品でありサービスであることは言うまでもなく、また行政機関が行なっている何らかの行政サービスがあるとしても、それが住民の役に立ち住民に利益をもたらすと宣伝されるとしても、一方ではそれが行政機関の役に立ち行政機関の利益となることを行政機関が行わないはずがないだろうし、それは政党の政治宣伝にも言えることかもしれず、国民の役に立ち国民に利益をもたらすということがメディアを通して宣伝されているとしても、そういう宣伝によってその政党が国民に支持されているとすれば、まずはそのような政治宣伝がその政党の役に立ち政党に利益をもたらしていることにもなるし、またそれが実態を伴わない宣伝でしかなければ、国民の役に立っているわけでもないし国民に利益をもたらしているわけでもない実態が政治宣伝によってごまかされていることにもなるわけだが、そういう意味でそれがどこから発せられているにしても、宣伝の類いには必ず一方的に宣伝する側に都合のいい内容が含まれているわけで、その一方で宣伝する側に都合の悪い実態にはあえて触れようとしないだろうし、そしてそれが宣伝であるならまだしも報道の場でそのようなことが行われている実態があるとすると、では報道とは何なのかと問わざるを得なくなるかもしれないが、たぶん報道と宣伝の境界は曖昧なのだろうし、メディアも集団的な組織形態である限りは、その集団自体の役に立ったり集団に利益をもたらすような報道を行ないたいのではないか。またそうしたところで区別をはっきりとつけるようなことをしたら、資本主義経済の中では企業形態としてメディア自体が成り立たなくなってくるのかもしれず、結局はそのメディアの商売対象である消費者に疑いを持たれないような報道を心がけるぐらいしかやりようがなく、そういうところで資本主義的な利益の追求という目的が揺らいでくるわけで、たとえ資本主義経済の中で企業形態を維持しているとしても、単純な利益追求原理だけではやっていけない事情が生じてくるのだろうし、そこで様々な勢力の間で価値観や論理を戦わせて葛藤が起こっていることに気づかないと、何か単純明快なフィクションを信じればそれで済むような幻想を抱いてしまうのではないか。


11月23日「公共のシステム」

 例えば大きな一つのシステムを作るのではなく、複数の小さなシステムを作れば非効率だが権力を分散させることができるだろうか。たぶん実際はそうではなく、身の丈に合ったシステムが必要なのだろうが、実際にも構築可能なシステムが作られている実態があり、予算的にも労力的にも構築可能なシステムが人工的に作られている一方で、様々な紆余曲折を経て自然に成り立っているようなシステムもあるということであり、そのようなシステムの中で人が役職や役割を担う上で組織的な権力関係が生じているわけで、役職や役割を担っている人になんらかの権限が割り振られて、実際にその人の裁量で何かを行なっていることになるのだろうが、全体として一定の動作を伴っていればそれがシステムとして成り立っているわけだ。そしてそのシステムの動作によって利益を得るのが必ずしもシステムの対象となる人々でなくても構わない場合もあるわけで、要するにシステムを構築したり建設する人や団体に利益をもたらす一方で、システムの利用者には利益がもたらされなくても構わない場合があり、その結果としてシステムが上手く動作しないで廃れてしまっても、その構築や建設に携わる人や団体に利益がもたらされるなら、かえって上手く動作しないで廃れてしまった方が、また一からシステムを構築する機会を得られるわけで、上手くいかないシステムを作っては壊し、壊しては作るという動作を繰り返していれば、その構築や建設に携わる人や団体に定期的に利益がもたらされるわけで、ではその構築や建設のための資金がどこから出ているのかといえば、それが公共のシステムなら国家財政から賄われるわけで、そうやってシステムの利用者にとっては無駄で無意味な公共投資がとめどなく行われている事例もあるのではないか。そしてある意味ではそれもシステムと言えるのかもしれず、実際に公的な資金を使って何らかの施設や建築物をひたすら作るシステムが発動していると言えるわけで、それによって土木や建設業者などが潤うシステムなのではないか。ただそれも公的な資金で賄われる限りで行われることであり、財政的な制約があることは確かで、予算の範囲内で実行することが可能であるから行われているわけで、別に不可能なことが行われているわけではなく、無駄に予算が使われているというよりは土木や建設業者を潤すために使われていると捉えるしかなく、そうやって作った施設や建造物などが大して一般の人々の役に立っていないとしても、その建設に携わった人や団体にとっては利益が得られたわけで、それらの人や団体にとってはそれなりに役に立ったわけだ。そうしたシステムも含めて世の中では様々なシステムが動作しているわけなのだろうが、そういうところで暗躍している政治勢力が権力を行使するための口実というのが民意であり、彼らは民意という世論の後ろ盾を得ながら公共のシステムに関わって、それらを制御するために権力を行使するのだろうし、そのような権力の行使が必ずしもあからさまな金銭的な利益に直結しているわけではないにしても、それらの勢力と連携関係にある業界に利益をもたらしているとすれば、政治勢力と連携している産業界とはウィンウィンの関係にあると言えるだろうし、それを支持している一般の人々も何らかの利益を得ているつもりならそれで構わないわけだが、利益に直結していないだけに一般人のレベルではあまりはっきりしたことはわからないのではないか。

 それでも建前として公共のシステムは公共の領域で役立つために構築されようとするわけだが、実質的には公共機関の予算確保のための口実に使われてしまう場合があるわけで、またそこに介入してくる政治勢力は連携している産業界のために予算を使おうとするのだろうし、結局そこに関わってくる政官財を代表する勢力の事情が優先されることになるのだろうが、それでも公共の福祉が優先されるべきという建前だろうし、それが選挙に勝利して政治の場で主導権を握った勢力が権力を行使する口実となるわけだが、実際にそれを口実にして国民のための政策を推進しているはずなのだろうし、それなりに世論を支持を得られているはずなのだろうが、その国民や国家のための政策というのが漠然としていて、具体的に誰のために行なっているかが曖昧となってしまうのかもしれず、その政策による具体的な成果が強調されるとしても、成果自体が誰にとっての成果なのかもよくわからないわけで、それを批判しようと思えばいくらでも批判できるような政策の内容であることは確かかもしれないが、行政や政党の側で政策を立案して議会での審議を経てそのような政策が実行される段になると、実質的にそれが行政機構や政党やそれと連携している産業界のために行われる政策となるにしても、国民や国家のための政策という建前が漠然としていて捉えどころがないことには変わりなく、実際には国民の中でも各人がそれぞれで利害が異なっていて、国家と言ってもその中の各地域でもそれぞれに利害が異なるだろうし、そういう建前自体に虚構の部分が少なからずあるのかもしれず、政治勢力が権力の行使に使う口実が虚構であるとしたら、ではそれを支持する世論は何らかの実態を反映しているのかといえば、それも世論調査や選挙結果から導き出される統計的な出力結果なのであって、各人が思っていることや願っていることがそれらの統計的な集計結果と必ずしも同じでなくても何ら不思議ではないわけで、それでもそれらの結果に同調しようと思えばできるだろうし、実際にそれらの結果から導き出される世論と同意見だと思い込んでいるつもりの人も結構いるのではないか。それは統計的な出力から得られる世論が人々の意見の最大公約数のような役割を演じるからであり、その最大公約数的な世論が世の中の集団意識を反映しているとしても、実際にそのような世論に後押しされて政治的な主導権を握った勢力が行うことが、世論と同意見だと思い込んでいる人の役に立つとは限らないわけで、この場合は役に立つということと支持することは違うわけで、役に立っているとは思えなくても他の様々な事情から支持している人もいるだろうし、また実際に役に立つことと役に立っていると思えることとはやはり違い、政策が国民や国家の役に立っていると宣伝されればそう思ってしまう人も出てくるわけで、その辺を正確に捉えている人は少数派だろうし、その少数派に入る人たちがそれらの政治勢力の政策を批判している場合が多いわけで、その一方で多数派といえば世論に反映される最大公約数的な意見に同調するような人ばかりだろうし、そんなわけで実際に政治の場で主導権を握っている勢力が行なっている政策が国民や国家のために役立っていると宣伝されてはいるのだろうが、それが多数派に入る人たちによって具体的に詳しく検証されているかというと、検証している人や団体はそうではないとして政策を批判するわけだが、批判している人たちは少数派であり、その批判が多数意見としての世論に反映されるかというとそうでもないことの方が多いのではないか。


11月22日「システムへの依存」

 世の中で動作している様々なシステムはそれぞれで機能も方向性も強度も性質も異なるから、今のところは一つのシステムに統合される兆候はないわけだが、今後も複数のシステムが同時並行的に動作する状態が続いてくとしたら、システム同士で互いに影響を及ぼし合って関係し合い、相互に複雑に絡み合って錯綜するような状況となるだろうし、他でもなくそれが現状そのものであるのかもしれず、そうであるからこそ現状が現状である所以なのかもしれないし、それを肯定すれば現状維持に加担していることになるのかもしれないが、では世の中ではシステム以外に何があるのかといえば、システムの動作に抵抗する活動があるのだろうし、絶えずシステムから抜け出ようとする意志が人の意識の中で生じているのではないか。それはシステムの動作に依存しつつもそこから抜け出したいという相反する感情が同時に発生しているわけだろうが、そこから抜け出したいと思うのはシステムの束縛から脱して自由にやりたいという主体性の発露だろうし、その一方でシステムの動作に依存しているのはそこから利益を得ている現実がそうさせているわけで、結局システムの動作に抵抗しつつも依存しているという状態は妥協の産物なのであり、絶えずシステムとの間で葛藤が生じていて、システムに隙があればその隙を突いてシステム内で自らが自由に振る舞える領分を増やそうと画策するわけで、そのために場合よってはシステムを管理する事業主体などと交渉を持ちたいのだろうし、そういったところからシステムに関わっている集団内で権力争いや勢力争いや派閥争いなどが生じるのではないか。だがそうなるとシステムから抜け出そうとするのではなく、システム内で自らの力を強める方向での画策が生じるわけで、そのような画策が成功するとシステム内で特定の人物や勢力や派閥などに優先的に利益がもたらされることになり、結果的にシステム自体に歪みが生じてしまうわけだが、それは人が組み込まれたシステムである体制の変動要因となり、システム内で主導権争いが続いている時期と争いが収まって力関係の秩序ができあがって安定する時期と両方の場合があるわけだろうが、どちらの場合でもシステムが変動したり崩壊する危険性はあるわけで、一般的には争いが続いている時期の方が争っている各勢力に活力がみなぎっている場合が多いのだろうし、逆に安定してしまった後は活力がなくなってシステム自体が長期的に衰退傾向となってしまうのかもしれず、安定している方がシステム自体も長続きはするのだろうが、そのシステムに拘束されてシステム内で不利な立場にある人にとっては、希望のない苦悩の日々が長く続いていくわけで、やはりそうなればシステムから抜け出て自由になりたいという思いが強まるのかもしれず、そういうところもシステムによって生じる弊害と言えるのかもしれないが、システムに人が組み込まれているということ自体が、その中で組織的な権力関係が否応なく生じてくることを意味しているのだろうし、権力関係は当然のことながら関係する各人に力の不均衡を生じさせるわけで、そこでは必ず犠牲を強いられる人が出てくると言えるだろうか。

 資本主義経済の中ではその担い手である企業自体が商品とともに利益を生み出すシステムであるのだから、どのような立場で企業に関わるとしても当然のことながらそのシステムに組み込まれてしまうだろうし、消費者まで含めれば企業に関わらずに暮らしている人などほとんどいないわけで、システムから抜け出ようとする思い自体が不可能を目指しているとも言えるわけだが、それでも各人は全面的に一つのシステムに依存しているわけではなく、複数の様々なシステムを利用している限りで、その依存度も相対的に軽減するだろうし、その中でどのようなシステムにも軽く関わっている程度であれば、そこから相対的には自由を実感できるのかもしれないし、複数のシステムに軽く関わっているにしても全面的には依存しないという関係を維持できれば、システムへの依存から生じる弊害もそれほど深刻にはならない程度で済ますことができるかもしれない。そうであるならシステムからの全面的な脱却を目指すのではなく、必要とするシステムを複数持つことによって相対的な自由を確保するような戦略も有効となってくるのではないか。またそうすることによって一つのシステム内での権力争いにもそれほどこだわらなくてもよくなるし、そのような複数のシステムを掛け持ちする人が多くなるほど権力争い自体もそれほど激しく行われることもなくなり、一つのシステム内で強大な権力を手に入れようとする野望も影をひそめるようになるかもしれないし、その手の独裁体制にもそれほど魅力があるとは思えなくなるのではないか。そういうことから考えられるのは、権力を分散させるにはなるべく各人が複数のシステムを掛け持ちするように努めるべきなのかもしれず、そうやって一つのシステムへのこだわりを減じることができればシステムに関わっている人の自由もそれだけ大きくなり、システム内で犠牲を強いられる人も相対的に少なくなるかもしれないのだが、そうであるとしても資本主義経済の中では金銭的な利益が優先されるわけで、収入を得られる先が一つであれば、当然そこが何よりも優先されて重要度も増すわけで、そんなふうに一つの企業から収入を得ている人がほとんどな状況下では、実質的にその働き先の企業のシステムに全面的に依存していることになってしまい、場合によってはその企業がその人の生殺与奪権を握っていることにもなってしまうわけだが、例えばベーシックインカムが実現すれば、行政機構が支給する最低限の生活を保障する金銭が企業への全面的な依存を軽減することにもなるのかもしれないが、やはりそれも相対的な効果なのかもしれず、普通に考えれば収入を依存している企業をやめても、新たな働き口を見つけられればそこから収入を得られるわけで、企業の方でも労働力を必要としている限りはある程度の人員を雇わなければやっていけないし、またその企業が手がける商品を買ってくれる顧客や消費者がいなければ事業が続かずに倒産してしまうわけだから、一つのシステムだけで自立できるような仕組みにはなっていないわけで、そうやって企業自体も他のシステムに依存している面があり、結局は複数のシステムが互いに依存し合っている状況がある限りにおいて、一つのシステムに対する全面的な依存状態は起こらないわけだ。


11月21日「理想的なシステムへの追求」

 社会の中で何らかのシステムが動作していると、そこで人の活動や物や情報などに一定の流れが生じて、それに関わっている人や集団に一定の利益がもたらされる成り行きとなるわけだが、それが人工的に計画設計されたあからさまなシステムでなければその存在は気づきにくいだろうし、それが形成される途中で様々な紆余曲折を経ながら結果的に成り立っているようなシステムだと、それは自然に形成されたシステムだと言えるだろうし、また安定した利益を出さずにシステムの構造自体も常に流動的に変化し続けるようだと、もはやそれはシステムとは言えないのかもしれないが、長い目で見れば人工的に計画設計されたようなシステムであっても安定して利益を出している期間はそんなに長くはないのかもしれないし、程度の差こそあれシステムがシステムとして機能している期間内であっても、何らかの変動が常に生じていて、またシステムの動作を阻害するような作用も周りから常に及ぼされている状況もあるだろうし、そのようなことからシステムにもそれなりに栄枯盛衰があるわけだろうが、それでも何らかのシステムを構築してそこから一定の利益を出そうとしている人や集団にしてみれば、常にそのようなシステムの構築を目論んでいることは確かだろうし、すでに構築されて運用されている実態があれば、可能な限りそのようなシステムの動作を維持継続させようとするのだろうし、そのためにはシステムに関係する人や集団を可能な限り管理しようとするだろうし、またその運用を阻害するような変動要因は可能な限り取り除こうとするだろうし、場合によってはシステムに逆らう人や集団には何らかの攻撃を加えることも辞さないような成り行きともなるのではないか。そして人は利益をもたらすシステムを継続させようとして害をもたらすシステムをやめさせようとするのだろうが、結局誰に利益をもたらして誰に害をもたらすのかがその判断基準となるだろうし、また社会の中ではより多くの人に利益をもたらすシステムが広範な支持を得るだろうが、確かに多くの人に利益をもたらすかもしれないが、ひとたびシステムに障害が発生すると広範囲に深刻な被害をもたらすようなシステムは敬遠されるだろうし、それの代表例が原発なのかもしれないが、実際に広範囲に被害をもたらす危険性はあるものの、いったん動き出したらなかなか止められない代表例も原発なのだろうし、その形成過程や運用過程において政治的かつ経済的な思惑が絡んでくると、止めたくても止まらない成り行きになってしまうし、単純な理由をいくら主張しても複雑で錯綜した思惑が絡んできて、結果的に多くの人に危惧や不安を抱かせながらも続いてしまうシステムでもあるわけだ。そんなわけで文明自体が様々なシステムの構築と運用から成り立っているわけだから、それを拒否することはできないのはもちろんのこと、多くの人に利益をもたらしてしかも害の少ない理想的なシステムの構築と運用への追求をやめさせることもできないのではないか。

 また産業が生み出す機械についても絶えず便利さや効率化を目指す方向へと人を誘導していくだろうし、それが利益をもたらす限りはそうした流れを押しとどめることはできないのかもしれないが、この先どこでそうした流れが限界を迎えるかはまだよくわかっていないところであり、また何を持って限界とみなすかもわからないところで、とりあえず経済的な利益をもたらす限りで機械は生産され続け、それが人にとって必要不可欠ならば利益が出なくても生産される可能性さえありそうだが、そこでも人にとっての利益とは何かということがよくわかっていないところでもあるのかもしれず、とりあえず金銭的な利益を得られればそれを利益とみなすしかないだろうが、本当のところはたとえ金銭的な利益を得られたところで、他の面で深刻な損害を被ればそれが利益とはみなせなくなってしまうだろうし、さらに言うと人にとって利益となることが人以外にとってはどうなのかもよくわからないし、中には動物愛護団体のように特定の動物にとって損害を被るようなことを禁止させようとしている例もあるわけで、具体的には象牙やサイの角の取引や捕鯨などを禁止させようとしているし、そのようなことも含めて誰の利益を優先させて他のどのような被害を食い止めるかについても、世界全体としてなかなか統一基準を作成できていない状況があるのかもしれず、そして特定の国が国益を追求することが別の国には被害をもたらすとしたら、そのような国益の追及もどの程度許されるかについての統一基準などありはしないし、そのほとんどは各国とも手探り状態でやっていることだとも言えるのかもしれないし、そうした面でも利益を得ている当事国と損害を被っている当事国とが交渉して妥協点を模索できればいいのだろうが、なかなかそうはいかない面があり、当事国間の軍事的経済的政治的な力に差があるのが普通で、力がある方が有利なのが当然だろうし、一応は国連などの存在を背景とした何らかの法秩序が世界に張り巡らされていて、力に物を言わせて相手をねじ伏せたらそれで終わりとはならないような世界にはなってきていることは確かだが、それも加盟している各国が協調関係にある限りで有効性を保っていられるだけで、個別の案件については国同士の敵対関係や連携関係が複雑に錯綜している中で交渉しなければならないわけだから、思うような成果を上げられないのはもちろんのこと、かろうじて協調関係を維持できればそれで満足しなければならない状況にもなっているのだろうし、そうした中でこれも理想的な世界秩序を模索しようとする動きがあるのかどうかはわからないが、やはりそれも多くの人に利益をもたらしてしかも害の少ない理想的なシステムの構築と運用への追求となってしまうのかもしれず、またそれは機械が目指す方向性にも一致するような追求かもしれないのだが、どうもそうした全体的なシステムの構築と運用の追求といった方向性は、結局人を行政が管理する社会へと導く可能性があるわけで、それは昔流行った全体主義の再版となってしまう危険性があるだろうし、そうした流れには懐疑の念を抱かざるを得ないのだが、ではそれ以外にどんな目指すべき理想があるのかと問われれば、今のところは何もないとしか言えないのが正直な見解かもしれない。


11月20日「政治的な課題」

 交渉の中で駆使される駆け引きでは時には対立することが必要な事態も出てくるかもしれないが、たぶん対立しているだけでは交渉がうまくまとまるはずがないだろうし、まずは対立ありきの対決姿勢で交渉に臨めば双方の言い分を言い合って議論が平行線に終わることになるのだろうが、議会などの政治の場でそういうことをやって、その模様をメディアが伝えることに何か意義があるとしたら、対立するどちらの言い分が正しいのかを一般の市民に判断してもらいたいということなのだろうが、果たしてそれでいいのかというと、事の良し悪しというよりはそんなことが延々と繰り返されている現状があるのだろうし、そのような論戦が世論に何か影響を与えているのかというと、それなりに論戦の内容に反応している部分はあるのだろうが、それが選挙結果に何らかの作用を及ぼしているのかというと、たぶん何かしら作用を及ぼしているのだろうし、そこで批判され不正や不祥事を追及された議員や大臣が場合によっては落選する事態にも陥っているのではないか。だがそのようなことがそれ以上に何をもたらしているわけでもなく、議会での論戦を通して対立を見せられて、議論しているどちらが正しいかの判断はそれなりに選挙結果に反映しているはずなのだろうが、それと同時に選挙においてどの政党の候補者に投票するかに関しての選択基準は、必ずしも議会での議論の内容だけではなく、他の要素もあるのだろうし、そういったところで様々な要素が総合的に判断された結果が選挙結果として出てくるのだろうし、そのような結果の良し悪しについても人によっていくらでも見解の分かれるところだろうが、何らかの結果が出ていることは事実としてあるわけだから、それはそれとしてそういうものだと受け止めるしかないわけで、そこから何らかの結論を引き出そうとして、引き出した結論を今後にどう生かすべきかとなると、それは議会で議論した各政党が判断することになるわけで、一般市民がそれを取り立てて判断すべきことでもないのかもしれず、たぶん判断が生かされた結果が今後の議会での論戦に反映してもらえばそれでいいとしか言えないのではないか。ただ少なくとも言えるのは今後も同じように議会での論戦がお互いの主張の言い合いに終始して平行線に終わるようなら、それも一定の動作を伴ったシステムになっているわけで、そのような議論が平行線に終わるシステムが作動していることに関しては、そのようなシステムに巻き込まれている議員や大臣や官僚たちにどうこうできるような力はないと言えるのかもしれず、むしろそのようなシステムの中で得をしている勢力と損をしている勢力があるとしたら、損をしている勢力がそれを改めようとしない限りは、一方的に損したままとなってしまい、その損した結果が選挙結果にも表れているとしたら、損したままでは困るのならそのような議会の論戦内容を改めようとしなければいけないのではないか。

 経済活動の中で損したままではやがて活動そのものが成り立たなくなってしまうのだろうが、政治活動の中でもそれは言えるのかもしれないし、現状で勢力がジリ貧状態となっている政党に関しては、やはり近い将来政治活動が成り立たなくなる危険性が高いのだろうし、それでも今までと同じようなことを繰り返しているようなら自業自得とも言えるわけで、それをその政党の活動以外のせいにするわけにはいかなくなってくるだろうし、政党の活動そのものに何らかの欠陥があるのではないかと疑われても仕方のないことなのかもしれないが、別にその政党に落ち度があるとは思えなければ社会情勢に変化が生じていて、それに伴って生じている政治情勢の中では、もはやその政党自体が必要とされなくなってきたとも言えるのかもしれず、そうであるならその政党がなくても困らないような世の中になってきたと言えるのではないか。そうだとすると議会での議論が平行線に終わるシステムは相変わらず発動している一方で、議会内の勢力図には変化が生じてきたことになるだろうし、その変化の中で不要な政党が出てきたということになるのだろうか。それもそのような変化の良し悪しではなく、変化を招いたことの責任を誰になすりつけようというのでもなく、変化に対応した活動を行うことが肝心なのだろうし、今まで同じことを繰り返してきた結果を変えたければ、その結果の中で劣勢を強いられている側が何かしなければならないのであり、勝勢の側に今までとは違う対応を求めるのは筋違いだろうし、勝っている側がわざと負けるようなことをやるはずがないわけだから、そういう意味で勝っている側への無い物ねだりのような支離滅裂な批判などはもはや敗者の断末魔の叫びでしかないわけだ。そんなことはわかりきった上で何をやればいいのかといえば、議会で議論が噛み合うように努力するだけかもしれないし、また会話が成り立つように工夫することしかできないのかもしれないし、それ以上に政党の体を維持したいのなら現状で実現可能な政策を提示することであり、批判とともに政策を訴えかけるべきなのかもしれず、それが実現可能であることを説得力のある説明とともに主張すべきなのかもしれないが、たぶんそんなこともわかりきったことであり、すでにそれを実行しているのに一般市民のレベルにまで伝わってこないとすれば、やはり伝え方を工夫するしかなく、それに関してはメディア戦略などでも有効な手段を模索すべきだろうし、そのようなことをあれこれと試してみるべきで、実際にそれも行なっているとすれば、そんなことをやってみた結果が現状を示していると捉えればいいのではないか。政治に関して言うと今世界で実際に行われていることが実現可能なことであり、それによって実際にこんな世の中が実現していることは確かであり、それ以外のことは実現不可能ではないにしろ、実際にそれをやることに関して世論の支持を得ていないからできない事情があるのではないか。少なくとも民主的な議会制度が機能している地域ではそんなことが言えるだろうし、機能していない地域でも機能するような試みが行われる成り行きにはなりつつあるのかもしれない。


11月19日「個人の主体性と社会的な事情」

 いつの時代でも人が求めているのは主体性であるのかもしれず、主体的に活動したいわけだが、それは依存している物事から目を背けることによって成り立つ活動形態なのかもしれないし、できれば自らが何に依存しながら活動しているのかをはっきりと自覚した方がいいのだろうが、それが難しいから依存している物事によって活動を規制され制限されていることに気づけないわけだ。社会の中ではそれが慣習であり制度であり機械なのかもしれないが、それらが組み合わさって何らかのシステムを構成しているとすると、いったん身も心もそのようなシステムに組み込まれてしまうと、システム内で働いている論理やそこで成り立っている価値観が全てとなってしまい、それ以外の論理や価値観はなかなか受け入れ難くなってくるのかもしれないし、そんなところからシステムの内と外で生じている差異を巡って、何らかの軋轢や対立や衝突などの争い事が起こるのだろうか。だからといってそれを未然に防ごうとする必要もないのかもしれないし、争いが起こったらそこで交渉して妥協を図ればいいことでしかなく、交渉を通して対立し合う論理や価値観の差を縮めていくしかないのであり、絶えずそんなことを繰り返しながら物事を前進させていくしかなく、それを拒否すればただ対立が深まるばかりで、交渉のハードルもだんだんと上がっていってしまい、しまいには武力衝突などの暴力の行使へと発展していくしかないのではないか。だから社会で作動している様々なシステムの間で対立や軋轢などが起こったら、そこで生じている差異を埋めるには可能な限り互いが交渉して妥協点を探り合わなければならないわけで、そんなことを絶えず繰り返しながら事態の進展を図っていくしかなく、そうすることによって状況の停滞を打破する成り行きへと導かれるのではないか。またもしそうならなくてもしまいには武力衝突へと導かれてしまうのだから、それによっても何らかの事態の進展が起こるわけで、どちらにしてもそこで対立や軋轢をもたらすようなシステムを両立させるのは困難なのかもしれず、何らかの平衡状態や小康状態を経由するにしても、いずれは何らかの事態の進展が起こるのであり、そのような状況の中での人の活動は対立し合う双方の間で交渉を行うか、それともそれを拒否してより一層の対立を煽り立てるのかのどちらかとなる可能性があり、対立し合う両陣営のどちらかについていると否応なくそんな事態に巻き込まれるのかもしれないし、たとえそこで自らが主体的に活動しているように思えるとしても、実態としてはその場の対立という状態に依存していることは間違いなく、そこで交渉して妥協を図ろうとするにしてもそれを拒否して対立を煽り立てようとするにしても、自らの力でそんなことをやっているというよりは、対立から生じる論理や価値観の違いを利用することで力を得ているわけだから、いったん何かのきっかけで対立が解消して差異がなくなってしまえば、その人が主体的に行っていると思い込んでいる活動も急速に衰えて無意味なものとなってしまうのではないか。

 そういう意味で人の活動から得られる主体性というものには、その人が巻き込まれている状況から生じる場の強度に依存している面があるわけで、何かそこで対立や軋轢が生じていて、それに対処しなければならない事態に直面していると、そこに積極的に加担しようとするほど主体的に何かをやっている実感を得られるのかもしれず、逆にそれを避けて関わらないようにするほど消極的な自己保身への度合いが強まり、現状で働いているシステムへの依存度も強まって、システムの構成要素である慣習や制度や機械の動作に追従しようとするのだろうし、それでうまくいっているように思われるほど自らが組み込まれているそのようなシステムから抜け出ようとはしなくなるのかもしれないし、そのようなシステムへの依存体質の人が多いほどシステムの安定性がより強まるのかもしれないが、そのようなシステムを内蔵した機械製品やサービスを売りにしている企業からすれば、それへの依存体質の人が増えるほど利益も増えるのだろうが、企業には別の競争相手がいるわけで、それが企業なら企業同士の競争となるわけだが、それが企業ではなく個人なら競争は成り立たず、個人が絶えず主体的な活動を求めて依存体質から脱却しようとすると、そういう人が多いほどそれへの依存を伴うような製品やサービスが廃れることにもなるのかもしれないが、それもその時の経済情勢にもよるだろうし、製品やサービスを買う余裕があってそれに魅力を感じられれば買うだろうし、金銭的に買う余裕がなければ買いたくても買えないわけだから、企業がいくら商品の宣伝に力を入れても売れないわけだ。またそれが企業ではなく行政機関が介在する何らかのシステムであれば、住民に選択権はなく強制的にシステムに組み込まれるような事態ともなるのかもしれないが、それが嫌なら政治を利用してシステムそのものを廃止させるか改変させるかできる可能性があるわけだが、それをやるには住民の代表を議会に送り込まなければならず、議会で廃止や改正の法案が通れば住民の意向も通ったことにはなるだろうが、そのような手続きを実際に行うには多大な労力を要するのだろうし、革新勢力がよく言うように草の根レベルの市民運動を下から盛り上げてゆかなければならないわけで、そのような運動を阻むものが世の中に張り巡らされている様々な制度や慣習がもたらす心身への拘束や、それへの住民の依存体質なのかもしれないが、結局そこでも依存体質の住民への説得や運動を妨害してくる様々な政治勢力と交渉して妥協点を模索していくことしかできないのだろうし、交渉なしには何事も前進しないわけだろうが、果たしてそのような説得や交渉などの運動の主体として政党がその役割を担えるかというと、そのような活動を目指す住民にとっては担ってもらわないと議会を利用した民主的な手続きの段階で行き詰ってしまうのかもしれないが、政党には住民よりも優先順位の高い各種の圧力団体が関わっていて、そのような団体の組織票に選挙の時には頼っているとすれば、住民の声が政党に届くことはないのかもしれないし、何の後ろ盾も名声もない個人の要望に答えるほどの余裕も余地もありはしないのかもしれない。


11月18日「国家と政府の違い」

 それらの意味も動作も仕組みも異なっていることは確かだが、慣習も制度も機械も一定の動作を伴ったシステムであり、その中で人を含めたシステムのことを体制と呼ぶのかもしれないが、そうだとすると国家体制とはやはりすべての国民が組み込まれたシステムだとみなせば、定義としてはそれほど間違ってはいないだろうか。そうだとしてもその人の立場や地位や役職などによって、その組み込まれ方にも程度や強度の違いがあるだろうし、何か拘束感を嫌う向きにはあまり積極的には自らが国家体制に組み込まれているとは自覚したくないし、公務員でもない限りは実感が伴わないような感覚なのかもしれない。また国家と政府とを同一視することにも何かえも言われれぬ抵抗感が伴うのかもしれず、特に政府のやっていることを支持しない人たちはそれを区別してしかるべきだと思っているのかもしれないが、普段の感覚としては大抵は同一視しながら政治について語っている人が多いだろうし、政府を支持している人たちは是が非でも国家=政府という構図を周知徹底させたいと思っているのかもしれず、その方が現行の政権を担っている政治勢力には何かと有利に事が運ぶように思われるだろうか。たぶんその辺から話がややこしくなってくるわけだが、世の中で作動している様々なシステムにそれと自覚することなく従っている時がある反面、意識して逆らう時があるのも確かだし、国家体制に逆らうとなるとそれ自体が大げさな表現になってしまい、そんな大それたことをやる気はないと普通は思われるだろうし、実際に国家体制に逆らっているなどという自覚が生まれることはまずないはずだが、その一方で政府のやっていることを支持できないと思うのはよくあることかもしれず、また大げさな表現としては具体的に国家反逆罪という罪名があることは確かだが、少なくとも日本では内乱罪や騒乱罪や外患誘致罪のようには具体的な処罰の対象としてはありえないし、もちろん国家体制に逆らうことが国家反逆罪に該当するわけではないだろうし、その辺は曖昧なままなのかもしれず、そういうところでシステムという言葉を使うこと自体が間違っているのかもしれないが、システムと呼べる一定の動作に積極的に加担している人にとってそれはシステムとして機能するかもしれないが、その自覚がないままにシステムに組み込まれているように見える人は、少なくともシステムに加担しているとは思っていないだろうし、それが自らに一定の動作を課している自覚がないままに当人が一定の動作を行なっている現状があるわけで、何らかの慣習に従っている人はほぼ全てそうなっていて、制度にしても制度に従いながら自らが制度に従っているとはあまり思わないだろうし、機械を操作している時などは逆に自らが主体的に機械を使っていると思う方が多いだろうが、そうやって従う時よりは逆らう時の方が意識して逆らっている実感が湧いてくるのではないか。

 また従っていることを意識している時も不快感を覚えながらも嫌々従っているような時もあるだろうし、普通は何かに従っていることを意識する時には従っている状況を肯定的に捉えることはなく、抵抗感や不快感を覚えるから従っていることを自覚するのであり、自ら進んで積極的に従うような状況はあまりないのではないか。要するにそれだけ人を意識して従わせるのには困難が伴い、できればそのような困難を伴わずに人を従わせたいと思うのが普通の感覚なのだろうし、慣習にしても制度にしても機械にしても、それと意識せずに人を従わせるような動作を伴っていて、人を意識させないまま一定の動作へと導いているからこそ、あまり抵抗感を伴わずに世の中に普及しているわけで、それぞれで程度も強度も方向性も異なるのだろうが、そんな従っている自覚を伴わずに従わせる術が、体制と呼ばれる人を含めたシステムにも応用されていることは想像できるし、実際に何らかの政治的あるいは経済的な体制に取り込まれている人は、抵抗感や不快感を覚えながらも無理やり従わされている自覚がそれほど強いわけではないだろうし、それよりは積極的に体制のために役立ちたいという思いの方が強いだろうし、そういう思いが強まれば自らの身を挺して体制を守ろうとするだろうし、体制の犠牲になることも厭わずに主体的に体制に尽くすような成り行きとなっていくのではないか。そしてそういう思いが強い人が多いほど体制内での人の結束が強まるわけだろうが、果たして現状の国家体制や政治体制の中でそこまで強い思いにとらわれる要素があるのだろうか。どうもその辺が疑問であって、現代的な国家体制や政治体制は必ずしもそういう思いの強い人から構成されているわけではないのではないか。それに関してそれをフィクションといってしまうと語弊があるのだろうが、果たして人々は国家というフィクションをどこまで信じているのだろうか。少なくとも政府の存在はフィクションではないし、行政機構として組織的に編成された集団であり、曲がりなりにも国家を統治している主体なのかもしれないが、それに関して人々は現代的な国家体制や政治体制にそれほど不快感や抵抗感を覚えているわけではないにしても、逆にそのような体制に献身的に尽くそうとする人もまずいないのではないか。そういう意味で国家というフィクションを誰もあまり信用しなくなってきたのかもしれないし、それよりは政府のやっていることを支持したりしなかったりするレベルで政治に関わっているつもりの人が大半を占めていて、政治体制といえば政府や政党の体制であり、それが直接国家体制に結びついているわけではなく、政府=国家という虚構を信じている人だけが国家体制を実感できるのかもしれないが、現代的な感覚としては政府という実在と国家というフィクションを分けて捉えておいた方がよりリアリティを得られるのかもしれず、実際に政治の場で行われていることに対してどのような行動や活動が引き起こされるにしても、少なくとも愛国心だの国家反逆罪などという大げさな表現を想起させない程度で推移していた方が誰にとっても好都合なのではないか。


11月17日「茶番劇という醜態」

 それが生産過程や流通過程や販売過程で使われるにしろ、消費者に売られて利用されるにしろ、何らかの機械が世の中に普及していくにつれて、それを使うことが慣習として定着していくと、便利だから使うというよりはそれを使うことを前提として他の関連する動作もその機械を使ったシステムの中に統合されていってしまい、それに関連する動作も含めてその機械なしでは活動が成り立たなくなってくる事態となり、そのような活動を伴うのがいわゆる制度の特徴かもしれない。だからといって別に制度には機械が必要不可欠というわけでもなく、機械を使わない制度も世の中にはいくらでもあるのかもしれないが、制度が人々に一定の動作を要求していることは確かで、その中で人々を一定の動作に巻き込む機械の存在は重要であり、人々を何らかの制度に拘束する上で機械が果たしている役割を無視できないことは確かだが、一方で政治的な権力が制度の中で果たす役割となると、例えば制度の中で使われる機械の選定に関して特定の納入業者に便宜を図ったり、また制度そのものを自分たちが権力を行使する上で有利になるように作り変えようとしたり、何かと公平かつ公正な判断基準を歪めるようなことをやりたがるわけで、その際に政治勢力が目指すのは制度を利用して人々を自分たちの思惑通りに従わせたいということであり、何のためにそうしたいのかといえば、それが権力を行使することだからとしか言えないのだが、そのようにしてそこで主導権を握っている政治勢力が権力を行使する成り行きを一つのシステムとして捉えられるわけで、いったんそのようなシステムが作動してしまうと、どんな勢力が主導権を握っていようと権力を行使したがるのであり、ただ自分たちの都合のいいように制度を作り変えて人々を従わせようとする以外にはやることがないのであり、そのように人々を従わせようとすることが目的化してしまうと、なりふり構わず強権的な行為も辞さないやり方が横行してくるわけで、そのようなやり方のエスカレートに歯止めがかからなくなってくるのかもしれないが、実際にそうなるともはや機械的な動作の比喩で語ることができる状況になってくるのだろうし、場合によっては歯止めが利かない機械の暴走のようなことが起こるわけで、実際にそうなって軍隊が住民を大量虐殺するような事態が起こると、何か人間の集団としての凶暴性が忌まわしい惨事として語られることにもなるのだろうが、たぶんその頻度が高くなってきたのは産業革命以後の近代的な国家体制の中でのことだろうし、実際に人を効率的に大量虐殺できる武器や兵器などの機械が発明されて以後のことなのかもしれない。そしてそのような大量破壊兵器と政治的な権力システムの合体が住民の大量虐殺などの忌まわしい惨事を招いたとしたら、それは近代的な国家体制と資本主義経済の発達が招いた否定的な副作用と言えるだろうか。

 資本主義経済と国家体制は戦争による大量虐殺とともに平和時には人口爆発も招いたわけだから、どちらにしても機械の動作とともに人の活動にも一定の動作をエスカレートさせるような効果があったことは確かだし、それは情報革命以後の情報処理技術の発達とともに金融資産が飛躍的に膨張したことにも言えることかもしれず、何らかの機械技術の飛躍的な進歩が人の活動に極端な作用をもたらして、その結果として社会情勢を大きく変動させることになったのではないか。そしてそのような機械技術を伴った制度を管理制御するのが行政機構の役割となるわけだが、そこには制度を歪めて恣意的な権力の行使を狙う政治システムが介入してきて、その場で主導権を握った政治勢力の意向が通るような制度改正が目論まれるわけで、実際にそうやって制度が歪められたとしても、政治的な権力闘争の過程ではさらにそれを歪めるような権力の行使が行われる可能性もあるわけだから、そのような行為の前提となる制度の存在が必要であることは変わりないわけで、政治システムに巻き込まれている政治家や官僚にしてみれば、絶えず制度を利用して自らや自らが属する勢力の意向を通そうとする思惑があるわけで、結局そのような政治家や官僚や政党などにしても制度なしには存在し得ないわけで、そんな制度に依存して活動しているメディア関係者も含めて、制度の外で何が行われているかについては興味がないのかもしれず、制度外からもたらされる作用についても考慮していないだろうし、それが彼らの思考や意識の中で盲点になりやすいのだろうが、具体的に制度外から制度の中に組み込まれている人々に向かってはどんな作用が働いているのだろうか。たぶんそれはオカルト的な終末論が危惧する大げさな滅びの前兆ような深刻なものではなく、たわいない作用なのかもしれず、別に無視しても構わないような何の影響ももたらさないような作用かもしれないが、逆にそれにとらわれないでいられることが彼らに油断をもたらすのかもしれないし、それが意外なところで躓きの石となって、制度自体におかしな動作を引き起こすのかもしれず、それが人々の権力の行使に対する無関心を呼ぶわけで、それが熱狂とは無縁の冷めた反応とともに煽動も宣伝も無効化するような成り行きになっていくとすれば、制度の形骸化が促進していることの証しとなるだろうし、政治システムが空回りしつつあるとも言えるのではないか。それがまだテロや内戦などに明け暮れているような紛争地域では政治システムの暴走によって大量虐殺などが起こりうるのかもしれないが、そのような熱狂状態を通過してだいぶ時間が経過してしまった冷めた地域では、政治システムの空転が目立ってきたとも言えるのかもしれず、確かにそこで主導権を握った政治勢力が権力の行使とともに盛んに制度を歪めようとしているわけだが、普通に考えてそれがくだらないとしか思えないことに権力が行使されているわけで、そのことがそれに関わっている政治家や官僚やメディア関係者が馬鹿に見えてくるという否定的な副作用を生んでいるのではないか。


11月16日「政治についてまわる嘘とごまかし」

 仮にそれを政治システムと呼ぶとすれば、メディアから得られる印象としては政治システムにはいつも不正行為が付いて回り、不正行為が行われないと回っていかないような仕組みとなっているのかもしれないが、不正行為が発覚した時に政治家や官僚などが無理に嘘やごまかしによって自らの主張を正当化するにしても、何かそうせざるを得ない事情があることは確かだろうし、そのような成り行きになってしまう事情というのが自らの権限の外からもたらされているとすれば、それは世の中の制度や慣習がそうさせている面があるのかもしれないが、経済的な利益への誘惑が嘘やごまかしを行わせる場合もあるだろうし、そうでなくてもそこで作動している何らかのシステムに従って行動すると必然的にそうなってしまうとすれば、そこでは嘘やごまかしに頼らないとシステムが正常に動作しないことになり、システムがうまく回っていくには不正行為に手を染める役回りが必ず必要とされてしまうとすれば、そんな役回りの人材を用意しなければならなくなるわけだが、そんな犠牲者がつきもののシステムというのは、古代社会ではよくある犠牲の供物を用いた儀式を連想させるわけだが、そこで用いられる占卜の術というのが現代の合理的な基準から考えれば嘘やごまかしの一種だと言えるのかもしれず、そういう意味で現代の政治システムもそうした古代社会の犠牲の供物や占卜を用いた祭り事と地続きな面があるのかもしれない。そしてそのような政治システムには機械の動作が入り込む余地がないとすればそれはなぜだろうか。政治システムそのものが機械を排除した人間関係から構成されているからといえばその通りなのかもしれないが、政治の何もかもが機械的には決められず、そこでは必ず交渉が介在してきて、交渉においては必ず人の判断が優先される事情があって、法律に照らし合わせて機械的に決められてしまうような案件を捻じ曲げて、それとは逆の決定をするために政治的な権力が必要とされるのかもしれず、制度や慣例を打ち破る決定を下すために交渉を介在させて、無理を通すために政治的な決定が下されるのであり、当然それを通常の法律に照らし合わせれば不正行為となる可能性が高く、そういう意味での政治的な権力の行使というのは必然的に制度や法律を破ることになり、しかもそれを行わなければならないのは制度や法律の庇護者たる政治家や官僚となるわけだ。だからひとたび不正行為が発覚すれば政治家や官僚は嘘やごまかしで言い逃れをしなければならなくなって、普段からそのような言い逃れがまかり通るような状況を整備しておかなければならないのだろうし、そのための議会での多数派工作なのだろうし、また現代的な大衆メディア社会においてはマスメディアと連携した世論操作も重要度を増すわけだ。

 そうであっても法律に照らし合わせて機械的に合法と違法を決定できるシステムは必要なのであって、それは政治的な権力を持たない人々を制御するために必要とされ、一方で政治的な権力を持っている特権的な立場にある人々だけが、法律を捻じ曲げて自分たちの意向を通せるようにしなければならないわけだ。それがいわゆる政治システムと言えるのかもしれず、法律で守られた制度的なシステムの上にそれを恣意的に捻じ曲げられる政治システムが必要であるのは、政治的な主導権を握っていることを活かすには法律を超えた決定をしなければならないからであり、法律を守って合法的なことしかできなければそもそも主導権を握っている意味がないわけで、法律を捻じ曲げて違法行為を行っても処罰されない権力を握ってこそ、政治的な主導権を握っていると言えるのだろうし、そういう意味で政治とは常に不正行為や違法行為の温床となることが宿命づけられたシステムなのかもしれず、それを恐れていたら政治家や官僚をやっている意味がないのかもしれないし、ある意味では見え透いた嘘やごまかしを平然と主張してでも事を成し遂げようとしない限りは、ただ法律に従うように強制された一般市民と同じになってしまうのかもしれないが、それの良し悪しは一応は選挙で有権者が決めることにはなっているわけだが、有権者の意向というのが一人一人の市民の意向と同じとは限らないし、一人の市民がどう思っていようと結局は選挙で多数の票を獲得した候補者が当選するわけで、集団意志を体現している世論がマスメディアの世論操作によってどうとでもなるわけではないだろうが、現状で示されている選挙結果が誰の意向を反映しているのかといえば、一応は世の中の世論を反映しているのだろうし、それがマスメディアが行う世論調査と同じ結果ならそういう民意でしかないわけで、それがある一人の市民の意向と違っていようとそんなのは何の問題にもならないのではないか。もちろん一般市民の方でも違法行為を行わざるを得ない事情などいくらでも生じてしまう可能性があるわけだが、制度の方は合法と違法を区別するシステムなのだから、別に違法行為を行ったからといってそのシステムから外れてしまうわけではなく、違法行為が発覚して裁判で懲役刑などの有罪が確定すれば、今度は刑務所などの監視と処罰のシステムに組み込まれてしまうわけで、刑務所は犯罪者を受刑者として取り扱うシステムであり、そこでは機械的に他の受刑者と同じ動作を一日中強要されるわけだが、刑期の間は機械的にその動作を繰り返していれば、その期間が無事に終了すれば刑務所システムから出てこられるわけで、そうなると前科者の烙印が押されて他の市民の見る目も変わってくるだろうし、そのようなシステムを経由してきた人は慣習的に差別の対象になる度合いが高まるのではないか。


11月15日「慣習と制度と機械の関係」

 世の中で人の意志以外で人をコントロールする社会的な要因としては、慣習と制度と機械があるように思われるが、その三者も密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っていることは確かで、例えば機械である自動車が社会に普及するにつれて道が車道と歩道とに分かれるような変化が生じて、人と車との間で交通に関するルールが定められて、それが制度として広く世の中に定着して道路上で人と車の通行をコントロールしているわけだが、自動車を運転している時には制度としては明確に定められてはいないものの、他の車の流れに反して律儀に制限速度を守っているような他人の運転が腹立たしく思われるとしたら、それは少しぐらい制限速度を超えてもその場の車の流れに同調するという慣習に反しているから腹が立ってくるわけで、そういう時には車の運転者の意識が慣習にコントロールされていることになるわけだが、車の運転そのものは運転ハンドルやアクセルペダルやブレーキペダルなどの操作に関して機械が規定している動作範囲から外れて制御することはできないわけだから、そこでは人が機械の動作に従わざるを得ないわけで、機械を制御しているつもりでも決められた手順に則って決められた動きしか許されないわけだから、そういう水準では人が機械にコントロールされていると言えるのではないか。そんなわけでもともとは人が作り上げた機械であり人が整備した道路であり人が制定した制度であり慣習という人と人との間での暗黙の了解事項であっても、それらがひとたび社会の中で定着すると今度はそれが人の行動を規制し制御するようになるわけで、その慣習と制度と機械が絡み合ったシステムとして人をその中に組み込んで動作していると言えるのかもしれないが、そんな中でも技術革新によって機械の動作が変われば、それに対応して制度も慣習も変わる可能性もあるわけで、それに関して車でいうなら自動運転技術が世の中に普及してしまえば、いちいち他人の運転が腹立たしく思われることはなくなるだろうし、自動運転していれば人が交通ルールを守っているのではなく機械がルール通りに動いているだけで、制度によって人がコントロールされているわけではなくなってしまい、制度自体も自動運転に対応して何らかの変更が加えられるだろうし、そうなると機械によって制度も慣習も変わったことになるのではないか。またそれはある意味では社会変革と言えるのかもしれず、もちろんそれを社会変革と呼ぶことに対しては多くの人が抵抗を感じるだろうし、何か市民の政治的な運動によって世の中の仕組みを変えていこうとする理想からはかけ離れたことだろうし、別にそれが社会変革だなどと強弁する必要はないわけだが、機械の技術革新が世の中の制度や慣習を変えるかもしれない例としては、そんなことも想像はできるのではないか。

 また例えば携帯電話が普及しだしてからは、機械が発する電磁波が人体や医療機器に悪影響を及ぼすから病院内での使用が禁止されたり、話し相手の見えない一方的な会話が耳障りだから電車やバスなどの公共の乗り物内で携帯電話を使うのがマナー違反とされたり、車の運転中に使用するのも注意力が散漫になって事故の原因となるから禁止されたりと、新たな制度的な規制やマナーという慣習的な制限を加えたりすることによって、機械の技術革新から制度や慣習の方を守る措置が施される例もあるわけだが、そういう具体的な日常レベルでの慣習や制度や機械の絡み合いについてはそれほど抵抗感なく認識できるし、それに従うにしろ逆らうにしろ従う理由も逆らう理由も明確にわかるのだが、人が意識できないコントロールがあるのかとなると、そういう作用があるとしてもにわかには信じがたいだろうし、それを突き止めて指摘しようとしても何か漠然としていて、はっきりとは示せない事態に直面してしまうのではないか。たぶんそれが政治的な領域であり、そういう領域では機械も単に会話する目的で使用する携帯電話や運転する目的で使用する自動車ではなく、会話を通して相手をコントロールする思惑があったり、運転する目的というよりは商品として買わせようとする思惑があったり、そうなると機械の用途や動作だけで説明できるような単純な目的ではなくなるわけで、それに関わってくる制度や慣習も多面的な絡み合いが生じてくるのだろうが、逆にそこから単純な要素だけを抽出して強調されると、何か理解できるような気になってそのような強調とともに主張される宣伝や煽動を信じてしまうわけで、そこで生じている制度や慣習の多面的な絡み合いに気づけなくなってしまうわけだ。少なくともそういうところでわかるのは物事を単純化して宣伝や煽動に活用しようとする側の思惑であり、そこで生じている制度や慣習の多面的な絡み合いを意識させないようにするために、物事を単純化してわかりやすく語ろうとしているわけで、意識しようとしてもその絡み合いが複雑すぎて意識できないから単純化しているとも言えるわけだが、その単純化の傾向にそれを主張する側の恣意的な思惑が潜んでいることは言うまでもなく、例えば社会的に名声のある著名人が何か不祥事を起こすようなことがあれば、その人が就いている役職を辞任しろとか引退しろとか声高に叫ぶ煽動者がいるとすれば、その煽動者の思惑は役職を辞任させたり引退させることによってその人の影響力を社会から取り除くことにあるのはわかりきったことだろうし、それと同時にその役職に就いている人が不祥事を起こす背景となる世の中の制度や慣習の複雑な絡み合いから目を背けることにもなるわけで、そうなるとそういう役職に就いている人の不祥事が繰り返される度に、その人の首と引き換えにして不祥事が繰り返されるようないかがわしい制度や慣習が温存されることになるわけだ。


11月14日「成否を問わないシステム」

 結局世の中で恒常不変なシステムはなく、それを定まったものだとみなしてしまうと、その時間的あるいは場所的な変化に気づけなくなってしまい、そのような認識には虚構の割合が多くなる。だがシステムはそれが何であれ一定の動作を繰り返し行えるような仕組みを目指していて、そこから恒常的に利益を得られるようにしたいわけだ。そのために必要なのが一定の動作を繰り返し行える機械であり、機械を駆動させて同じ製品やサービスを市場に供給して恒常的な売り上げと利益を引き出したいのだろうが、実際には製品もサービスも世の中の変化するニーズに応えて絶えず変化しているわけで、それに合わせてシステムも絶えず調整を迫られるわけだ。そして何がそのような変化をもたらしているのかといえば、それは移ろいやすい天候と同じで偶然の巡り合わせとしかいえない面があるのだろうし、その変化の中に一定の規則性を発見できれば、それに対応した戦略も立てられるのかもしれず、そうやって何らかの成功を収めたシステムもあるのかもしれないが、その一方でうまくいかずに衰退したシステムもあるのではないか。また多方面から信頼されるシステムを築くには多方面から意見を聞いてその意見を取り入れたシステムにしなければいけないし、相反する意見が続出して利害の対立を解消できなければ交渉して妥協を図る以外にはあり得ないだろうし、そうやって何とか一定の合意を取り付けたところで、事情が変わればまた意見の違いや対立が再燃してくるかもしれないし、システムを構築して維持するには終わりのない構築作業とメンテナンス作業と各方面の利害調整を同時並行的に繰り返すしかなく、それが続かなくなってきたら瓦解の危機に直面するしかないのかもしれない。だからそこで何らかのシステムが稼働しているとすれば、そこでは制度的な安定よりは過渡的な流動状態の中にあると言えるのかもしれず、機械を駆動させて製品やサービスを供給している一方で、そのようなシステムを維持するために多大な労力や経費がかかっているのだろうし、物や情報やサービスなどの生産や提供よりはそちらの方により多くの人的資源を必要としているから、産業人口の構成も生産に携わるよりも非生産的な労働者人口の方が圧倒的に多いのかもしれないし、ロボットやAIなどの産業技術がメディア上で脚光を浴びていることは事実だが、今のところはコスト的にも作業的にもまだまだ人手に頼っている実態があるのだろうし、そもそも人が労働して生活の糧を得るという資本主義的な産業システムが変わらない限りは、人が労働から解放されることはありえないのはもちろんのこと、ロボットやAIなどの産業技術によって仕事を奪われた人がどうやって生きてゆけばいいのかという問題も未解決のままなのかもしれない。

 人が存在する限りは人の活動を前提としたシステムが組まれるだろうし、人がそのシステムの中に組み込まれて何らかの役割を果たすことにはなるのだろうが、たぶんそのシステムが上手く稼働しなくても、絶えずそんなシステムを構築しようとする過渡的な状態の中で人も集団も活動することになるだろうし、そのような過程の中で人材も資源も消費されるような成り行きを維持できる限りで、人も集団も何かやっているような体裁を保っていられるのであり、それが政治システムの流動的な捉えどころのなさを示しているのかもしれないが、そのような状態が絶えず内外からの批判にさらされているとしても、そんなうまくいっていない状態を延々と維持できる状況があるわけで、それはある意味ではシステムとは言えない面もあるのかもしれないが、例えばそこから利益を得ている政党や官僚機構があるとすれば、やはりそれはある種のシステムと言えるのかもしれないし、うまくいっていない状態を延々と保つような政治システムの中で人の理性や良識に訴えかける人や集団を疲労困憊させることで、政治的な実権を握っていることから生じる相対的な優位性を維持するやり方というのが、利権を共有する談合体制の中で自然と編み出されてきたと言えるだろうか。そんな中で体制に与するメディアが用いるやり方としては、常に批判をそらすために物事の本質から外れたところにキャッチフレーズのような論理の単純化を提示して煙に巻き、批判そのものがうやむやにされてしまうわけだが、そんなうまくいかないことを逆用する政治システムというのが政治的な主導権を維持する上で有効に機能するのだとすると、案外システムというのはうまくいってもいかなくてもどちらでも構わないような性質があるのかもしれず、普通はそんなものはシステムとは言わないのかもしれないが、ともかく何らかの状態を長引かせるには必ずしも物事がうまくいく必要はなく、うまくやろうとするとかえって無理が生じて体制の崩壊が早まってしまい、要するにうまくいくためには実力を超える力を出さなければならないのなら、そんな大それたことには挑戦しないで、分相応にうまくいかない状態を維持するような戦略に方針転換していけばいいわけで、うまくいかないなりにもそれなりに現状を維持している部分に関してはうまくいっているように見せかけながら誇大宣伝に徹していればいいわけで、しかもそれが見え透いた嘘やごまかしであっても、批判を受け流せるだけの談合勢力を保っていればいいのだろうし、ではなぜそんなうまくいかないシステムでも長続きするのかといえば、それが世の中で稼働しているシステムの全てではないからで、社会が部分的なシステムの総体から構成されているのなら、その中でも他のうまくいっているシステムに支えられながら維持されているシステムというのも存在できるのかもしれず、それが過渡的な状態の中で束の間の安定を保っているように見えるのではないか。


11月13日「機械とシステム」

 資本主義経済の中で機械が果たす役割は、機械を使わせて使う人を機械の動作に巻き込むことによってコントロールすることにあるのだろうが、そうなるには人が機械を使うことによって何らかの利益を得られたと思い込ませることが重要だろうし、実際に金銭的な利益が得られたらなおのこといいわけだが、全ての機械使用者が得られるわけではなく、そこに何らかの競争が生じてその勝者に金銭的な利益が得られるようなら、少なくともその競争に参加した人たちはそのような結果に納得するしかないのではないか。そして機械を使用させる側はその使用に関して何らかの手数料を得るような成り行きになるだろうし、手数料に関しては直接の販売代金に含まれていても構わないし、またローンの支払いとかレンタル料などの類いでも構わないだろうし、それが通信端末なら回線使用料とかデータ通信料とかでも構わないのだろうし、ともかく塵も積もれば山となるように、膨大な数の利用者から少しずつ手数料を取ればそれが莫大な額となって、そこから機械を使わせる側の利益が出るわけだ。そうでなくても生産や流通やサービスなどの場ではそこで働く人たちが直接機械を使って賃金や給与などの金銭を得ているわけで、人にとって機械を使うことが何か特別なことでなく、ただ仕事に必要だから使っているだけの場合の方が多いだろうし、取り立ててそれを問題視する方がおかしいわけだが、もはやそれが自然のことのように思われることこそが人を意識させずに制御する上では必要なのであって、しかも制御する側も意識してそれを行うわけではなく、それらがシステムとして一連の工程の中で働いていて、その中で誰の思惑や意図が反映されているとも言い難いような自然の成り行きとしてそうなっていれば、たとえそのようなシステムに組み込まれることによってそれ以外の活動の自由を奪われているとしても、誰からも文句は出ないし表立って抵抗してくるような動作も生じないのではないか。それだけでなく積極的に機械を使って活動していると思い込めれば、意識の中では自らの意志で主体的に活動していることになるのだろうし、実際に社会の中での主体的な活動とはそういうものなのかもしれず、世の中の制度や慣習や機械の動作にあからさまに逆らうのではなく、それらを自らの行為に積極的に活用しながらやりたいことをやっている感覚になれればいいわけで、社会の中で成功している人たちは実際にそうしているわけで、何らかの機械を使った競争というのもそのような成り行きの中で生じていることなのだろうし、その中で機械によって何らかのコントロールを受けながらもそれにうまく適応することが、逆に機械をコントロールしている感覚をもたらすわけで、その人の感覚の中では機械をうまくコントロールできたから競争に勝ち抜くことができたと思われるのではないか。

 人が機械にコントロールされながらも逆に機械をコントロールしながら何かをやっている感覚になれるのは、そこで動作している何らかのシステムに人が組み込まれていて、それを受け入れていることを示しているのだろうが、一方でそのシステムが何のために動作しているのかとなると、そのようなシステムを利用している人からすれば、それを利用することによって何らかの利益にありつけるから利用しているわけで、その人にとってはその何らかの利益をもたらすためにシステムが動作していることになるわけだが、実際にシステムの稼働によって生じているのはそれだけではないだろうし、誰かに何らかの恩恵をもたらしている一方で別の面では何らかの弊害を生じさせている可能性もあるわけで、それを感じ取っている人たちがシステムの稼働に反対したり差し止めを求めている例もあるわけで、その代表例が原発なのかもしれないが、システムに組み込まれて動作している人たちにはその感覚がわからないわけで、そのような人たちは罪悪感などとは無縁でいられるのかもしれず、実際にそうだとするとそのような人たちは身も心もシステムによってコントロールされていることになるのかもしれないが、そのことに無自覚でいるならそれらの人たちにとっては何か積極的かつ主体的に活動していることになるわけで、そういう意味で機械を活用したシステムに人が組み込まれている場合には、その人には積極的かつ主体的にそのようなシステムを活用しているように思われ、そのシステムの動作を無条件に肯定している場合が多いだろうし、コントロールされていることに無自覚でいられるから抵抗もなく、そういう面ではシステムの動作もそれだけ円滑に働くことになるのだろうし、またそんなシステムに身をまかせている人が多いほどその中では何もかもが滞りなく動作しているように思われるのだろうが、いったんシステムから離れてしまうとそうは思われないし、無批判にシステムに従う人が多いほど、逆にシステム自体に無理が生じている可能性を指摘したくなるわけで、誰もがそこから恩恵を受けようとすると必要以上にシステム自体に負荷がかかってしまい、ある日突然ポッキリと何かの部品が折れてしまい、そこでシステムが緊急停止してしまうと、今までシステムに全面的な信頼を寄せていた大勢の人たちがパニックを起こしてしまう危険性があるように思われてくるわけだが、比喩的にはそんなことを言えるものの、実際に世の中で稼働している様々なシステムに対して、人々がどの程度信頼を寄せているかはよくわからないところでもあり、現実に信頼するようにメディアを通して何らかの煽動や宣伝が盛んに行われていることは確かなのだろうが、信頼する以前にそれがどのようなシステムなのかもよくわからないのが偽らざる実感なのかもしれず、そんなふうにすでにシステムに対する疑念や懐疑が先行しているとすれば、政治システムも経済システムも人々から信頼される以前に流動的に変化していくだけのものなのかもしれない。


11月12日「思想的な探求の虚構」

 国内で首都などの政治の中心地域と経済の中心地域が距離的に離れている場合は、経済の中心地域で不満が生じる場合があり、経済の中心地域で政治的な主導権を確立しようとする動きが出てきて、場合によってはその地域が国家から独立するような模索も生まれるわけだが、それは近代国家が必要とする国家的宗教的民族的な枠組みの虚構性を物語っているのかもしれず、そのような公式的な政治イデオロギーよりは経済が優先される実態も物語っていて、実際にそうなっている具体的な地域としてはスペインのカタルーニャ州とかドイツのバイエルン州とかアメリカのカリフォルニア州とかイタリアの北部諸州とかがあるわけだが、そうした地域でいざ独立を目指すような機運が生まれると、やはりそこでも近代国家特有のその地域特有の国家的宗教的民族的な枠組みが公式的な政治イデオロギーとして語られ始めるわけで、まずその地域が過去において現在の中央政府の政治的な中心地域とは異質な文化的伝統に根ざしており、場合によっては軍事的な侵略を受けて併合されてしまったような歴史的な経緯があるようなら、独立に向けた大義名分が整ってしまうのかもしれないが、実際にはそのような事情など国内の他の地域でもいくらでもあって、それらの地域だけが特に中央政府から搾取されている実態があるわけではなく、実態としては経済力に物を言わせて政治的な発言力や制度的な権限を強めようとしているわけで、そういった地域に経済力がなければ、例えばスペインとフランスの両国にまたがった地域で暮らしているバスク人やトルコとイランとイラクの三国にまたがった地域で暮らしているクルド人などと同じような境遇になりかねないだろうし、その中間のような境遇としてはイギリスのスコットランドがあるわけだが、そのイギリスはアイルランドの独立は許してしまったが北アイルランドは手放していないし、北アイルランドではアイルランド系でカトリック系の住民とイングランド系やスコットランド系のプロテスタント系の住民との宗派間対立が解消されていないのだろうし、中央政府から独立するにしても中央政府の政治的な影響力を許したままにするにしても、どちらにしても実質的な経済力を背景として政治的な権力を強めようとする勢力が掲げる政治的なイデオロギーの中では、なぜか国家的宗教的民族的な虚構が語られるわけで、単に経済力だけで政治的な権力の奪取に関して正当性を主張できない事情があるわけだ。それが近代的な国家体制とそのような政治体制が財政的に依存している経済システムとの間に矛盾や不条理をもたらしているのかもしれないし、経済的な覇権だけではその地域に住む人々を納得させられない事情が生じているのかもしれない。

 人々は制度や機械などのシステムがもたらす一定の動作によって利益を得ているにも関わらず、そのようなシステムにはない人間的な独自性を求めているのかもしれないし、それが富裕層だと一般庶民には手が届かない特別な物や情報やサービスの入手であり、地域住民だと中央政府から独立した自治権となるのかもしれず、そういうことを意識しだすとともかく他と同じでは納得しないし、他と同じようなことをやっていては自己や地域独自の主体性を発揮できないと思われるのかもしれず、しかも世の中の慣習や制度や仕事や日常の生活で使用している機械が、現実に他と同じ動作を自らに求めてきているわけだから、それらのシステムに拘束されて他人と同じこと考え同じことをやるのが苦痛だとは自覚していないものの、意識していないところで何らかの抵抗の動作が自然に出てしまっているのかもしれないし、それが富裕層の場合だと経済力に物を言わせて好き勝手なことをやって自由を謳歌したいとなり、そういうことができない一般庶民でも何らかのシステムに従わせられて同じ動作を強要されている成り行きには、少なくとも不快感を抱くのではないか。そしてそのような動作を強要してくる主なものとしては、まずは世の中の慣習に自然と従わせられて社会の他の構成員と同じようなことをやっている実態だろうし、さらに中央集権的な国家権力による行政的な法治体制に従わせられることだろうし、そしてこれはあまり気づかないことかもしれないが、仕事や日常生活の中で誰もが同じような機械を使って同じような動作を繰り返している日々なのではないか。しかしそれが本当だとしても、そのような状態から逃れるにはある種の経済力が必要なのであり、しかもその経済力というのが何らかのシステムの中で一定の動作に従うことから生み出されるのだとすれば、そこで矛盾や不条理に直面するのはある意味で当然の帰結なのだろうが、人も人が寄り集まって構成される集団内でもそのことは不問にしておかないと、主体的な自由を謳歌できる経済力を手に入れることはできないと同時に、そのような経済力から生み出される動作としては人々に同じような動作を強いるような成り行きになってしまうわけで、そのような成り行きの中では解決手段も出口もないのかもしれないし、だからそれらの矛盾や不条理からは目を背けながら振る舞わなければならないのかもしれないが、そうなると問題の根底には経済的な不均衡から生じる貧富の格差があるのに、それを国家的宗教的民族的な政治イデオロギーの問題として語ろうとしたり、実際にそのような政治的なイデオロギーによって自らの立場を正当化したり、他の民衆をそのようなイデオロギーの下に従わせるために盛んに煽動や宣伝を仕掛けている実態があるのではないか。そして実際に全ての問題が経済格差から生じているなどとは到底思えないし、もっと何か根源的な問題があるのではないかと疑うのが普通の感覚だろうし、何やらそこから国家や宗教や民族の起源へと向かうのが思想的な探求としてはありふれた傾向なのではないか。


11月11日「国家的宗教的民族的な枠組み」

 そもそも国家的宗教的民族的な枠組みがどうやって形成されてきたのかといえば、近代国家がそれらの枠組みを必要としていた事情があるだろうし、国民の統合の象徴としてそれらの枠組みが利用されてきたのだろうし、なぜ国民を国家の下に統合しなければならないのかというと、資本主義経済の発展にはそれを支える労働者と産業から生み出された製品を最終的に買ってくれる消費者が必要なのであり、そのどちらもがまとまった人口の集合体を形成して資本主義経済を支える労働市場と消費市場の担い手として必要だったからではないか。それは現在でも必要とされている実態があるわけで、資本主義経済以外でも宗派間紛争や民族紛争などの原因ともなっているわけだが、昔の広域支配を実現していた帝国がそうではなかったのに、近代的な国民国家が単一の宗教と単一の民族でまとまろうとする傾向があるのは、一見資本主義経済とは何の関係もないように感じられるだろうが、それは国家として統一する過程で必要とされるわけで、内戦状態などになった時に国家統一の政治的なイデオロギーとして同じ宗派や民族などの下に団結しようと呼びかけられるわけだ。そしていったん国民国家として統一された後から一つの価値観の下にまとめられた人口の集合体が労働者や消費者として経済活動に利用されるわけだ。だからまだ宗派間紛争や民族紛争などによって内戦状態にある地域では労働市場も消費市場も形成されていないわけで、そのような状態を見ると資本主義経済と国家的宗教的民族的な枠組みは何の関係もないように感じられてしまうわけだが、実際に国民国家として統一に成功した地域ではそれが経済活動を推進する原動力となってきたわけで、それは必ずしも完全な宗教的民族的な単一性を保っているわけでない国でも、例えばアメリカなどは多民族多宗教の国ではあるにしても、その中で特定の宗派や民族に属する人々が主導的な役割を果たしてきたことは確かで、それはWASPと呼ばれるホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの略語としても有名だし、同じく多民族多宗教の国家である中国でも漢民族が主導権を握っている実態があるわけだ。そしてそのような枠組みがなぜ崩れてきたのかといえば、単に生活習慣に違いがなくなってきたと言えるのかもしれず、資本主義経済の中では他の宗派や民族の人たちにも同じ労働と同じ消費を要求してくるわけで、そうした方が経済的な利益が得られるからそうした傾向を促進させるような成り行きになってきているのだろうし、経済効率を考えればできるだけ多くの労働者と消費者を獲得した方が利益を得られる確率が高くなるのであり、実際にアメリカなどはそうやって世界の中で政治的経済的軍事的な覇権を確立してきたわけだ。

 またそれらの枠組みが崩れてきた原因としては同じ国家的宗教的民族的な価値観を共有する国民であっても、経済的な不均衡をもたらす貧富の格差が顕在化してきたことが挙げられるわけで、さらに経済的な有利な立場である富裕層だけが共有する価値観として、高級住宅街に住んだり高級車を所有したり高級ブランド品を身につけたり高級なサービスを優先的に受けられたりと、経済的な優位性を強調する価値観の共有があるわけで、そのような富裕層にだけ許された特別な価値観の共有というのが、理性的に考えるなら富裕層と他の層との対立や軋轢を生むように思われるのだろうが、メディア上ではそれらが庶民が憧れる価値観として肯定的に紹介されて、実際に生じている庶民と富裕層との経済格差である面が覆い隠されてしまうのではないか。また富裕層に特有なタックスヘイブンなどを利用した徴税逃れの実態にしても、環境保護活動や人道援助などに積極的に取り組んできた世界的に有名なロックミュージシャンが実はそれを利用していたり、またリベラルな政治活動に理解を示してきた良心的な政治家もそれを利用していたことが暴露されたり、偽善者の仮面を剥ぐ的なスキャンダラスな面が興味本位でメディア上で取り上げられるにしても、それよりも根本的な問題である貧富の格差を必然的にもたらす経済システムをどうするべきかという議論には発展しないわけで、目下のところそれを解決する手段が見当たらないのだろうから、そうなるのが当然の成り行きなのだろうが、ともかく社会の中で現状の状態を維持しようとする方向への誘導は常に働いているわけで、そういう意味でその場の都合に合わせて国家的宗教的民族的な価値観の共有が政治的な宣伝や煽動の場では絶えず強調されるだろうし、また庶民の憧れとしてそうなることを目指すべき価値観として富裕層に特有の価値観も肯定的に取り上げられるだろうし、タックスヘイブンなどを利用した徴税逃れに関しても、政治的な都合を優先した取り上げられ方がされる傾向にもあるわけで、理性ではなく経済的な利益を優先させるような方向で事態が進展することは自然の流れとしてあるのだろうし、そういう方面での政治的な改善や解決への努力というのはうまく行かない可能性が高いのではないか。もちろんそのような努力を行なっても無駄だから放棄すべきというわけでもないだろうし、逆に絶えず政治的には改善や解決に向けて努力するような成り行きにならざるを得ないわけで、政治的にはそのようなことしかできないのかもしれず、それを怠ると政治制度は腐敗や不正行為にまみれて機能しなくなってしまうのだから、いやでも綱紀粛正としてそんなことをやらざるを得なくなってしまうのではないか。そしてそんな中でも経済的には利益を優先させるような成り行きにもならざるを得ないわけだから、たとえそれが政治的な腐敗や不正行為の温床になっているとしても自然にそうなってしまうわけだ。


11月10日「機械と社会」

 商業は安く買って高く売らないと利益が出ずに商売が成り立たなくなってしまうが、流通業は利益の出る運送料で仕事を請け負っている限りで商売が成り立ち、製造業は安く作って高く売れる限りで利益が出て商売が成り立ち、サービス業は必要経費より高い料金で仕事を請け負うことができれば利益が出て商売が成り立つわけで、いずれの場合も商売が成り立つ範囲内で人の人権とか人道的な配慮とかに気を配る余裕が生まれるわけで、利益が出なかったり負債がかさんだりする状況ではそのような余裕は生まれづらいのではないか。その中で機械に関しては当然のことながら製造業の中で生産されることになるわけだが、製造過程で必要なものは材料となる各種の資源とそれを加工して組み立てる製造システムとそれに携わる労働となるわけだが、資源が近くになければ製造現場まで材料を運んでくるのに際して送料などの経費がかかり、また製造した製品を販売する市場が近くになければやはり市場まで運んでいくための送料などの経費がかかり、それらの製造に要した経費よりは高い価格で売れないと利益が出ないのは言うまでもないことで、製造する機械が世界的なシェアの中で独占的な割合を占めていない限りは、国内外の同業者との間で性能競争や価格競争が生じるわけで、そうなると必然的に製造過程のどこかでコストの削減を強いられるような状況も出てくるだろうし、それに関して例えば資源を外国から輸入してそれを加工して製品を外国へ輸出するとなると、どちらにしても輸送経費がかかることは避けられず、また人件費が競争相手の諸外国よりも高ければ、ではどこでコスト削減を図らなければならないかというと、製造システムの面で他の競争相手よりも生産効率を高めないと、価格競争力の面で競争相手に太刀打ちできなくなるわけで、多少は価格が高くても性能や品質の面で他の諸外国の製品を凌駕していれば、それで買い手がいれば商売が成り立つわけだが、普通は競争していればお互いに切磋琢磨する成り行きになるわけで、競争しているうちにコスト面でも品質面でも性能面でも差が縮小していく傾向になってくるだろうし、そうなると単純に輸送経費や人件費が安いところがそれだけ価格の安い製品を売り出してくるだろうし、品質も性能も変わらなければ価格の安い製品が売れるのは当然で、物作りが盛んで機械製品などの輸出によって経済成長してきた国が、その成長が鈍化して物を作っても利益が出なくなってきたとすれば、競争相手の他の諸外国との間で産業技術に差がなくなってきたからだと捉えるのが妥当なところだろうし、それ以外に説得力のある理由はあまりなさそうに思われるのだが、それとは別に労働者や技術開発研究者の質が劣化してきたとか、それに関連して産業に直結する理工系の大学教育に力を入れるべきだとか、その手の精神論が果たして説得力があるのかどうかはよくわからないところだ。

 それに関してドラスティックに考えるなら製造販売のコストがかからない場所で製造できればいいわけで、人件費や輸送費が安くて質の良い労働者を確保できるようところで作って、また作った場所やその近くで売れれば輸送費がかからなくてなおいいわけだから、機械の種類によっては海外の現地生産という選択肢も出てくるわけで、実態としても人工的な国境の壁や関税障壁などが絡んでくると、地球上のどこで生産してどこで売ろうとするのかによって様々な選択肢があっても当然の状況となるのではないか。そうなると自国の企業であっても自国だけに利益をもたらすわけでもなくなってくるだろうし、世界各地で人材交流や技術交流などを盛んにしてなるべく世界のどこで製品を作っても差がないような具合になれば、どの国の企業もどの国でも製品の製造販売ができるようになり、特定の国だけ経済が好調でまた特定の国に限って経済が悪化するような事態にはならなくなってくるのかもしれないが、それでも国ごとに制度や慣習が異なっている実態がある限りで、やはり国ごとに経済の好不調の波が出てくるのだろうし、何よりも企業同士で競争していて国家同士でもいがみ合っている実態もあるわけだから、政治的な課題で言えば各国ともに連携を密にして、なるべく経済に関する制度の面では国ごとに差がないように努めることが、世界的な共存共栄への道が開けるのだろうし、もちろんそれはきれいごとに過ぎないことではあるのだろうが、政治以外でも民間の交流があることも確かだろうし、結局世界標準で使われる機械が普及してくると、その機械の作り方から使われ方に至るまで、その生産や販売や利用などの過程で同じような動作が促されることになるわけで、多くの人がそうすることによって、行為遂行的に機械の動作に従うことになり、機械に行動や思考を制限されて規制されることで、機械を通して人の動作に統一感が生じてくるのかもしれないし、それによって思考形態や生活形態が同じようになっていくと、それまでに差異を強調することでアイデンティティを確保してきた国家的宗教的民族的な枠組みが崩される可能性が出てくるのかもしれず、今は機械の動作に従うこととそのようなアイデンティティの問題は全く別次元のことだと考えられているかもしれないが、実際に生活の様々なところに機械が入り込んできている実態があることは確かなのだから、日常の生活でも仕事の場でも世界中の人が同じような機械を使いながら暮らしているとすれば、何か自然と行動も思考も似通ってくる可能性がないとは言えないだろうし、それがあからさまな政治的なイデオロギーの類いとは全く異なる方面でそうなっている実態があるわけで、そういう意味で行為遂行的な動作とは頭の中だけで考えているよりも人に強く働きかける力あるかもしれないし、しかもそれを受け入れるのを拒否しづらい面もあるのだろうし、意外とそういうところから今後何らかの社会変革が起こるかも知れない。


11月9日「情報革命の副産物」

 近代的な国家は資本主義とともに成立したわけで、また資本主義は産業革命とともに発展してきたわけだから、産業革命が資本主義とともに近代的な国家体制をもたらしたとも言えるわけで、近代的な国家体制の枠組みは産業革命に対応することによって成り立つようになったと言えるのではないか。そういう意味で近代的な国家は資本主義経済に依存しながら成り立っているとともに、産業革命がもたらした産業システムにも依存していて、近代的な様々な産業を守り維持する限りで国家としての体裁を保っていると言えるだろうか。具体的には産業が税収をもたらして行政府の財源を確保しているわけだが、産業を支えている企業はできる限り租税回避を目指しているわけで、それは国家の中で主導権を握っている富裕層などについても言えることであり、国家には国家財源が必要なのに国家の中で主導権を握っている企業や富裕層はできる限り税の徴収を逃れたいわけで、何かそこに近代国家が抱えている矛盾や不条理が浮かび上がってくるのだが、企業や富裕層が国家の中で主導権を握っている限りで、それらは国家の中で優遇されているわけだろうし、そうなると制度的にも出来るだけ税負担を軽減するような傾向になるのではないか。そんな矛盾や不条理を回避すべく編み出された苦肉の策が普通選挙なのだろうし、国家の中で多数派を占める富裕層以外の人々が団結すれば選挙によって自分たちの意向が反映できるような政治勢力が実権を握ることができるわけで、そうなれば企業や富裕層にそれなりの額の税を課して、それを財源として富裕層以外の人々の生活の向上に役立てることができるわけだ。実際にそういう建前がそれなりに実質的に機能していた時期もあったのだろうし、それが持続的な経済成長をもたらしていた時期に重なるのではないか。そして何らかの事情によって経済成長が鈍化するとともに情報革命が起こり、産業システムも以前とは様変わりして、まずは労働者が団結する場がなくなってきたのだろうし、それは何よりも工場で働く労働者の割合が減ってきたことが原因の一つとしてあるのではないか。工場などで大勢で一箇所に集まって働いていれば、毎日多くの労働者が同じ屋根の下で直接顔を突き合わせているわけだから、何かとコミュニケーションをとる機会も団結する機会も増えるだろうし、そういうところでは労働組合なども積極的に活動できるような環境となっていたのかもしれないが、情報革命以後はネットを通じて連絡を取り合えるわけだから、労働者が大勢で一箇所に集まらなくても仕事ができるようになり、仕事場が分散する傾向になってきたのかもしれず、またサービス業などの第三次産業の労働者人口の割合が一層高くなるとともに、工場労働者などの割合がより一層低下してきた事情もありそうで、それとともに労働組合の活動も下火となって労働者が団結する機会がどんどん減ってきてしまったのではないか。

 そして産業の発展とともに企業そのものが大企業化して、大企業の正社員はどちらかといえば高額所得者であり、富裕層の味方であり自らも富裕層に属しているのかもしれないし、またメディアでも大手の新聞社やテレビ局は大企業であり、当然そこの正社員は高額所得者であるだろうし、やはりそうなるとどちらかといえば富裕層の味方なのだろうし、メディア自体が富裕層や大企業の味方となるしかなく、そうなるとその他大勢を占める富裕層以外の人たちは富裕層の味方であるメディアからの情報に日々接してその影響を受けるわけで、さらに公務員の中でも官僚と呼ばれる政府内で主導権を握っている上級の管理職ともなれば、やはりどちらかといえば高額所得者なのだろうし、そうした人たちが政治家とタッグを組んでお互いの利害を一致させれば、いくらそれ以外の一般市民が多数派を占めているとも言っても、団結できなければそれらの人たちには太刀打ちできなくなってしまうのではないか。そうした状況の中で人々の間で貧富の格差が広がってきたことが誰の目にもはっきりしてきたのかもしれないし、産業革命とともに出現した近代国家体制も至る所でほころびが見え始めてきたわけだろうし、それに伴ってもはや以前のような労働者の団結などは二度と起こらない事態となってきたのではないか。またこれは産業革命以来の伝統なのかもしれないが、下層労働者は普通の労働者とは団結せずにむしろそれらの人々を憎んでいて、その反動で富裕層や行政機関や体制側に属する保守政党などの手下として動こうとする傾向にあるわけで、それがルンペンプロレタリアートとかモッブとか言われる群衆であり、それが近年ではネトウヨという言葉で呼ばれることが多くなってきたわけだが、それらが若者層を中心として活発化して組織的に政府に批判的な人たちをデマや中傷などによって陥れようとしているわけで、それらの人たちが活動する場として格好のアイテムがネットメディアであり、それが一部では極右的な主義主張を世の中に流行らせようとする思惑とともに、盛んにヘイト的なパフォーマンスや政治的に偏向した煽動と宣伝を繰り広げる事態ともなっているわけだが、そういう動きが目立ってきたことも情報革命がもたらした副産物なのかもしれず、その中で主張されている内容は商品宣伝にも特有の単純な売り文句に飛びつくような大衆心理を逆手にとっているわけで、商品の宣伝で活用される売り文句がその商品の単純な利点を強調することであるのとは対照的に、偏向した政治宣伝で活用されるのは攻撃対象への単純化された否定の強調であり、しかもそれが世の中の保守的な慣習に根ざしていて、必ずそこではそれへの違反行為が喧伝されることになるわけで、具体的には政府を批判することが国を侮辱したことに単純化されるのだろうし、また政府を批判した政治家に不倫疑惑が取りざたされたら公の場で配偶者や世間に謝罪しろということになるのだろうし、そこで不倫を認めて謝罪しなければ禊が済んでいないという論理まで出てくるし、何か些細な攻撃材料が出てくる度にそこを集中的に強調してメディアで取り上げ、そうやって批判勢力を黙らせようとする行為が横行しているわけだが、それがことごく体制側への批判をうやむやにしてかわす手段に使われている実態があり、そうやって批判が無効化したら従来からある民主主義の建前も無効化されるかどうかはよくわからないところだが、もともと近代的な国家体制には矛盾や不条理があるわけだから、それは今に始まったわけでもないのだろうが、やはり今後何らかの変革が必要とされているところなのだろうか。


11月8日「情報革命の実態」

 産業革命以前に存在した機械としては川の流れを利用した粉挽き用の水車とか風を利用した風車とかがあったわけだろうが、現代においてそれを応用した機械として水力発電や風力発電があるわけで、昔とは用途は違うものの原理的にはそれらにはある種の連続性があるのだろうが、産業革命時には蒸気機関が突然のことのように発明されて、それが紡績機などから蒸気機関車や蒸気船などに応用が進み、そこからさらに石油などの燃料を燃やして駆動する内燃機関へと発展していった経緯があるのだろうし、またそれと並行して電磁気力などを応用した電気モーターなども出てきて、さらに20世紀に入ると核エネルギーの利用にまで行き着いたわけだが、そのような科学技術を応用した様々な機械と、それと同じく科学技術の一分野である半導体工学を応用したコンピューターなどの電子機器との間に違いがあるとしたらそれは何なのだろうか。20世紀末に起こった情報革命においてまず世の中の注目を浴びたのは個人が使えるコンピューターであるパーソナルコンピューターの出現だろうし、当初においてそれは科学技術者がプログラミングによって複雑な計算や情報処理などを行う目的があったわけだが、PCとして一般の消費者が使うようになった時、それは絵を描いたり文章を記したり写真をプリントしたりと、日常の文房具や事務用品と同じ用途で使われ出したわけで、さらにパソコン通信などを経てインターネットが世界的に普及しだすとコミュニケーションの道具となり、メディアとして機能し出して双方向的な情報のやり取りをするようになると、今度はそのような機能に特化して携帯電話から進化したスマートフォンが登場したわけだが、人が心を奪われているのはまずはその機械そのものではなくメディア機能だろうし、それを利用して個人が何かできるような幻想を抱かせるわけで、それまでの大衆向けに販売されてきた洗濯機や冷蔵庫やテレビなどの家電や自動車などのように特定の用途ではなく、一応は様々な用途に使い道があることは確かだろうが、その使い方が個人個人で異なっていても構わないような機械なのかもしれないが、それでもやはり何か利用者を一定の方向へと導くような作用があるのだろうし、その自由への幻想を抱かせつつも、実際のところはメディア経由で個人をコントロールするような作用があるのかもしれず、その辺で疑いを抱かざるを得ない部分があるわけで、それは新聞や雑誌や映画やラジオからテレビへとメディアの主流が移って行った時に、それが進化だと思われていたのが実はある部分では感性の退化でしかなかったのと同じように、今後テレビからネットへとメディアの主流が移っていくとしても、同じことが言われるのかもしれないが、それぞれのメディアが直線的な進化関係を表しているわけでもなく、メディアによってまたそのメディア媒体の中でも様々な方向性があることは確かだろうから、一概には進化とか退化では表現できないにしても、何か悪貨が良貨を駆逐するような事態が待ち受けている可能性が常にあることは確かなのではないか。

 PCには単なる通信端末以外の使い道がいくらでもあるだろうし、またスマートフォンにしても使い方次第では同じことが言えるのかもしれないが、機械そのものは定期的にハードウェアの性能が上がる度にソフトウェアも更新された新製品が発売されて、その度に買い替え需要が起こることが繰り返されていて、果たしてどこまでハードウェアの性能が上がるのかはよくわからないところで、また性能の向上も宣伝されているほどでもなく、実態としては微々たる向上でしかないのかもしれないが、他にスマートフォンだとブランドイメージが先行している面もあって、何かデザインの良さにつられて買っているような人も中にはいるのかもしれず、そういうところで価格も用途も異なるが自動車と同じような傾向があるのだろうし、それらの電子機器が売れることについては合理的な理由があるとは言えない面もあって、要するに世の中の流行に消費者が惑わされていると言ってしまえばその通りなのかもしれないが、どちらにしても買い替え需要が起こる度に特定のグローバル企業に多額の利益がもたらされている状況に変わりないようで、まだ当分はそんな状況が続いていくのかもしれないが、そのような事態が生じていることからしても、すでに情報革命が一段落してしまって、そこでは企業間競争のけりがついてしまっているわけで、少なくともPCやスマートフォンの販売に関してはそれ以上の発展はないのかもしれず、その使い道にしても新たな使い道が見つかるとは思えないし、さらにそれらの通信端末を介して利用するネットメディアについても、新しいコンテンツを携えて新規参入してくる業者が出なければすでに飽和状態に達しているのだろうし、そういう意味でも情報革命自体が沈静化してきていると言えるのではないか。結局そのような革命ともいわれる現象が何をもたらしたのかといえば、人々が何か自由に物が言えることを期待してインターネットに飛びついたのだろうが、普及しだした途端にグローバル企業による囲い込みが始まって、ネットコンテンツを巡って広告収入などの利益の争奪戦も始まり、気づいてみたら勝者によるメディアを介しての情報の管理とコントロールが蔓延しだして、特定の政治勢力による不快な宣伝や煽動が跋扈するような様相も呈してきて、そういう否定的な面ばかりに注目すればその通りなのかもしれないが、少なくともインターネットがなかった頃に比べると段違いの開放感があるだろうし、それによって他のメディアの権威も地に落ちているようにも見えるし、たぶん何かが変わったことには違いないわけだが、まだ時期的にもそこからの距離感が近すぎて客観的な視点を獲得するには至っていないのかもしれず、考えてみればテレビが全盛だった頃もたわいない話題で盛り上がって、くだらないことばかりがもてはやされていたわけだろうし、そういう物事がそのままネットメディアにも流れ込んでいる傾向もあるのだろうし、そういう面を考慮すれば昔と変わらないとも言えるのだろうが、それでも確かに昔と比べれば何かが確実に変わっているのだろうし、それがこれから時間が経つにつれてだんだんとわかってくるのかもしれない。


11月7日「ネットシステムと経済システム」

 産業革命以後に顕著になった世界の飛躍的な人口増加は、具体的には医療技術や医療システムの進歩によって乳児死亡率が低下したことが理由としてあげられるが、それは資本主義経済の発展と同時期に起こっている現象なのだろうから、とりあえずその段階では人口が増えるとそれだけ経済も拡大したわけで、他の様々な要因も経済の拡大には関与しているのだろうが、一般的に言えば人口の増加に比例して経済が拡大したとみなしてもそれほど間違ってはいないのではないか。一方で情報革命以後は人口がそれほど増えないのに経済成長を促そうと試みられてきたことは確かだろうし、またその段階では医療技術や医療システムが進歩しても人口の増加には結びつかなかったわけで、その代わりに人の寿命は延びたかもしれないし、そういう意味で医療技術や医療システムの進歩は人口の増加ではなく死亡率の低下に貢献していると言えるだろうか。そうだとしても情報革命以後に顕著な経済成長を達成している国や地域ではまだ人口の増加が続いているのかもしれないし、その一方で人口がそれほど増加しないか逆に人口の微減が続いている国や地域では経済成長も微増している程度で、かつてのような著しい経済成長はあり得ない状況なのではないか。そうだとすると情報革命以後の状況では飛躍的な経済成長など幻想に過ぎないのかもしれないが、実際に人口が増えない地域や国などが直面しているのは経済の成長や拡大ではなく経済の維持であり、実質的には現状維持的な経済政策を余儀なくされているのかもしれず、それを政治宣伝としては持続的な経済成長を主張しようとして無理が生じてしまっているのかもしれないが、たぶん情報革命以後に政治的な主義主張が目指すべき妥当な内容としては、住民一人ひとりの生活を豊かにしていくことであり、正当化できる軍事的な侵略先がない以上は、それ以外の国家主義的な主義主張は情勢的に合わなくなってきているのかもしれず、さらにそれ以外の宗教的あるいは民族的な幻想も、それに起因しているように思われるテロや内戦が頻発する世界各地の紛争地域でその限界や行き詰まりがはっきりしてきてしまい、そんな中で国家的宗教的民族的な幻滅が世界を覆っているように感じられるわけだが、そんな状況から今やそれらの政治的な主義主張の時代が終わりつつあると宣言してみたところで、まだそれらの主義主張を信じて戦っている人たちが大勢いる中では何の説得力もないのかもしないが、実際に行われている紛争の根底にはいつも経済的な利害関係があるわけだろうし、それを覆い隠すために政治的な主義主張がなされているわけで、逆に言うと経済的な利害関係を正当化できないから政治的な主義主張に逃げているとしか言いようがなく、その中には地域や国家や宗教や民族などに絡んだ経済的な不均衡や貧富の格差があるわけで、それを直接正当化できない現状があるのではないか。

 そしてそれを正当化できないからこそ、そのような国家的宗教的民族的な枠組みではなく、問題は単に各人の間で生じている経済格差や不均衡だと説明した方が妥当性を持つような世界に変わりつつあると言えるのかもしれないが、それを促しているのが情報革命であり、世界のどこにいてもネットに繋がってさえいれば地域や国家や宗教や民族の枠組みに関係なく、それなりの情報にアクセスすることができるようになりつつあるのだろうが、やはりそれを阻害しているのが国家的宗教的民族的な枠組みであり、さらにそれに絡んだ様々なしがらみがあるのかもしれないが、やはりそこでも根底に経済的な利害関係があるわけで、それをもたらしているのが資本主義経済であることは言うまでもなく、実際に経済的な不均衡や貧富の格差をもたらすような経済システムがネットを通じて世界中に拡散しているといえば、そう言う部分ではそうかもしれないが、一方でそれに対する抵抗もネットを通じて世界中に拡散しているといえば、そうとも言える部分もあるのかもしれず、それらの促進と抵抗の両面でのせめぎ合いが、それ以前からあった国家的宗教的民族的な枠組みの形骸化を促進しているといえば、少し言い過ぎな面があるのかもしれず、逆にネットを通じて国家的宗教的民族的な団結を呼びかけるような主義主張を拡散させる試みも一部では行われているわけで、それがイスラム過激派の隆盛を招いた背景でもあるのだろうが、だからと言ってイスラム過激派が世界を席巻しているとは言い難いだろうし、結局はそのようなテロに頼るしかない武装闘争も一定の支持を得るだけにとどまってしまうのは当然で、現状ではネットを介して情報を世界に拡散させることはできるものの、情報の後から物質的な実体がついてくることはないわけで、物質的な実体を世界中に拡散させるには、売買を伴った経済的な流通網を通してしか可能ではなく、また人員を世界に拡散させるにもそれなりの費用がかかるわけだから、そういう面で思想的な洗脳にも限界があるわけで、その根底では資本主義的な経済システムが機能し動作していることが前提となっているわけだ。そんなわけで情報革命以後に顕在化してきているのは国家的宗教的民族的な枠組みよりも経済システムを優先するような傾向だろうし、人と世界経済の間にそれらの国家的宗教的民族的な枠組みを挟む余地が次第になくなってきているのかもしれないし、それだけ国家的宗教的民族的なこだわりを死守したい人々にも余裕がなくなってきているのかもしれず、そうであるからこそネットを利用してあからさまな主張を恥ずかしげもなく訴えかけているのかもしれないが、結局それはイスラム過激派と同じように一定以上の支持を得るには至らずに、それ以上の支持の広がりは期待できそうにないのかもしれないが、やはりそこでもそれらの枠組みの形骸化を促進するような作用とそれに抵抗して形骸化を阻止しようとするような作用のせめぎ合いが起こっていて、それがネット上で繰り広げられるような成り行きとなっているのだろうし、実際にそれらのせめぎ合いを体現するような政治宣伝や煽動などの情報がネットを通じて世界中に拡散する事態となっているのではないか。


11月6日「機械の用途」

 機械を使って人がやろうとしていることがその機械の動作が目指す目的であり、その機械の使用目的が機械が作られ使われる理由でもあるわけだが、一方で目的から外れた機械の動作が新たな機械の用途の発見に結びつくわけで、またそのことがきっかけとなって新たな機械が発明されたり、さらにそれが世の中に普及することによって何らかの社会変革がもたらされる可能性もあるのではないか。それが世の中に様々な用途の機械が普及する成り行きをもたらして、機械の生産と流通と販売と消費を通じて資本主義経済の拡大を招いてきたわけだろうが、機械を使う以前に人が機械を使わないで行なってきた行為もあるわけで、その行為の全てが機械の動作に置き換わったわけではないにしても、機械を使った方が良いと判断されたところでは人の行為が機械の動作に置き換えられたことは確かで、しかも機械の動作が人の行為を完全に模倣しているわけではなく、人の行為にはない機械特有の動作が加わったわけだろうし、それはある面では人の行為を凌駕していて、それが人に代わって機械が使われる理由でもあるわけだが、またそれが経済的な利益に結びつく限りで資本主義経済の中で機械が使われる理由ともなっているわけで、そういう意味では機械の動作が目指しているのは経済的な利益を得ることになるのではないか。もちろんそれ以外の目的もいくらでもあるのかもしれないが、少なくとも経済的な利益をもたらさない機械は資本主義経済の中では廃れてしまうわけで、いくら性能が良くても利益を出さなければ、あるいは他の性能の劣った機械の方が利益をより多く出すようならそちらが優先的に生産されるだろうし、たとえ軍事目的で高性能な兵器が必要であるとしても、企業が製造する兵器である限りは製造経費が販売価格を上回ってしまうような兵器は生産されないし、国の主導で作られるとしても予算的に超過となる分は国側の財政負担となってしまうのではないか。そういう部分で商品としての機械にはそれなりの制約や制限がついてまわるわけだが、人の行為に取って代わるような機械の動作にも経済的な制約や制限が伴うだろうし、人の行為そのものも経済的な行為である限りで功利的にならざるを得ず、利益を得られるような行為が経済的な成り行きの中では優先されてしまうのではないか。そしてそのような行為により多くの利益を出そうとする目的で機械が使われるわけで、そうなると必ずしも機械本来の使用目的からは逸脱するような機能が付け加えられることになるわけで、わざと壊れやすい構造や材質にして修理代を稼いだり買い替え需要を促したり、読みたい情報の前に広告宣伝が目につくようにしたりして、そういうところで製品やサービスを提供する側の都合が優先される事態となるわけだ。

 そこで効率というのは経済効率となってしまうわけだが、動作効率よりも経済効率が優先されるような事態が起こると、場合によっては機械本来の使用目的が阻害されることにもなりかねず、そうなると機械本来の使用目的を求めている顧客や消費者の利益が損なわれることになるわけで、何か詐欺に遭っているように思われてしまうかもしれないが、そもそも売る側と買う側との間で思惑や目的が異なるのは当たり前のことなのかもしれず、双方の間で妥協点を見出せなければ売買交渉が決裂してしまうわけで、それも程度の問題であることは確かだろうが、そういう意味で機械の動作が目指す目的とその機械を販売して利益を出そうとする目的とは必ずしも一致せず、場合によっては利益を優先させる目的で機械の性能や動作が犠牲になることもあるわけで、機械の動作が人の要求の全てを満たしているわけではなく、機械に期待される様々な要求の中で経済効率や動作効率などの面で相反する部分に関してはそれなりに妥協が図られていることは確かだろうし、そういう部分で完全に使用目的に特化した機械はあり得ないのかもしれない。またその使用目的自体が純粋な目的とはなり難い面もあるのかもしれず、何らかの目的で機械が使われるとしても、使っているうちに目的以外の動作が現れてくる場合があるのだろうし、それが機械を使用することで生じる弊害になってくる場合もわけで、例えば使っている人の心身に重大な損傷をもたらすようなら、そうなるとその機械には人の心身に損傷をもたらす動作が内包されていることになり、それに気づかないと場合によってはそれが原因で使用者が命を落とすことにもなりかねないだろうし、そのような深刻な事態には至らないにしても、少なくとも機械を使わないで行う行為と機械を使用して行う行為との間で何らかの差異があることは確かであり、その差異が経済的な利益に結びつく限りで機械が経済活動に使用されるわけで、それは機械本来の動作目的や使用目的とは別次元の経済的な利益目的で使用されるのであり、機械が内包している機構からもたらされる動作システムを経済的な利益を求める生産システムや流通システムや販売システムなどが利用することによって利益が生じているわけだ。だから機械本来の使用目的に経済的な利益を求める思惑が内包されているというよりは、機械の使用目的を経済的な利益に結びつけられる限りでその機械が商品としても他の経済活動の中でも役割を果たせるのであり、その逆ではないのかもしれないし、どのような機械を使っても利益が期待できるわけでもなく、中には経済的な利益をもたらさないような機械もあるのではないか。


11月5日「機械と制度」

 業務的な機械の使用と消費的な機械の使用との違いは、業務的な機械の使用には人の労働が伴うことであり、それに対して消費的な機械の使用には労働が伴わないばかりか、娯楽的な要素も加わってそれを使用する人に楽しみをもたらす面があり、業務的な観点からすればそれはただ無駄に機械を動かしているに過ぎないように見えるだろうが、それを動かしている当人にとっては労働とは違う満足感を得られるわけで、ある意味でそれは労働から解放された行為なのであり、場合によってはそれは労働によって生じたストレスを解消するためにも必要な行為となるのではないか。そんなわけで人は生産的な行為と消費的な行為の両面で機械を使用することになるわけだろうが、機械自体が一定の動作を伴うシステムであり、人は機械を操作しつつも機械によって要求される決められた動作の範囲内で機械を操作することにもなるわけで、そうなっている時点で機械の動作が実現しているシステムに人が組み込まれていることになるだろうし、人は機械を操縦しながらも機械によって決められた一定の動作の範囲内で行動し、機械によってその行動を規制され制限されていることになるのではないか。ある意味でそれは人が世の中の制度や慣習に拘束されている場合と似ているのかもしれず、システムとしては機械も世の中の制度や慣習も人に一定の動作を要求しているわけだから、そういう面ではそれらの間にそれほどの違いはないのかもしれないし、どちらも人が文明の発展とともに人工的に作り上げてきたものには違いなく、文明がもたらすものはいつも人に一定の決められた動作を要求する傾向があるわけで、そのような動作に人を従わせることによって、世の中で生きている人々を同じような傾向を持つ同質化した集団としてまとめ上げようとする働きが生じているのかもしれず、その中でまずそれが漠然と人々の間で共有されているのが慣習であり、またはっきりとした法律などによって規定されているのが制度であり、さらに物体を伴って人の動作を矯正するような動作を伴うのが機械なのではないか。その中で機械の動作はより直接的に人の動作をコントロールしようとするのだろうし、人はまず労働の場で機械の操作を余儀なくされるわけで、それによって生活の糧を得ているわけだから拒否できないだろうし、そこで機械を操縦することによって資本主義的な生産システムなどに組み込まれることになり、またそうやって生産された商品の中にも機械があるわけで、今度は消費の場でその機械を買わされることになるわけで、そして買った機械を操縦して楽しみを得ることで資本主義的な消費システムにも組み込まれることになるのではないか。

 結局資本主義的な生産システムも流通システムも販売システムも消費システムも一つの制度には違いないわけで、多くの人がそれらの制度に拘束されていることは確かで、どのように拘束され組み込まれてしまうのかといえば、行為遂行的に組み込まれるのであり、具体的に機械を操作し操縦する行為を遂行することによって制度に組み込まれてしまい、制度が人にそのような行為を遂行するように仕向けているわけで、そのような制度の中で生きている限りは絶えず機械を操作する行為を遂行するように仕向けられるのであり、ある意味ではそうやって制度に従わせることによって人の主体性を奪っているように見えるかもしれないが、とりあえず消費の場では人は主体的に機械である商品を買っていると思うだろうし、それを自己の楽しみのために主体的に操作したり操縦するような成り行きになっているわけで、それは結局制度の掌の上で転がされていることになるのかもしれないが、それでも幻想を抱くなら積極的に機械を活用して何かをやっているように思い込めること確かであり、またそれは生産の場で企業経営者などには特に言えることだろうし、積極的に機械を導入してそれを活用して事業を行い利益を出すことが、資本主義的な制度の中では特に推奨される主体的な行為となるだろうし、そのような観点からも人に使われる側の労働者であるよりも人を使う側の事業者がもてはやされるわけで、何かをやろうとする積極性や主体的な行為は制度的にも肯定されるわけで、そのような資本主義的なシステムを守り維持するためにも、チャレンジ精神を持った起業家が次々に現れてくることが望ましく思われるだろうし、またその中から競争に勝ち抜いて成功して、莫大な資産を築き上げた人物が世間の名声を得るのも制度的には当然の成り行きとなるのではないか。そうやってそれが制度的に組み込まれた行為であるにも関わらず、それよりも主体性とか積極性とかいう人間の肯定すべき価値観を体現しているように思われるのは、制度がそのような行為に肯定的な価値を与えているからだろうし、そういうことをやるように仕向けているから、人はそれを遂行しようとするわけで、そのようなチャレンジ精神は世間的にも尊ばれ推奨され、結果的に資本主義経済の発展にも寄与すると思われているのではないか。確かにそれが資本主義経済を推進させる原動力だと言えばその通りなのかもしれないが、一方でそれは資本主義的な経済活動をもたらすシステムがその中で活動しようとする人々を規制し制限する制度の一つなのであり、事業家的な役割が制度からもたらされていることは確かで、そのような制度が規定している役割を担うように行動すれば、その中から誰かが成功するようなシステムとなっているのかもしれないが、誰が成功するかは実際に活動した結果が決めるわけで、必然的に誰が成功するとは限らないわけだ。


11月4日「機械の使用」

 機械の使用は決められた手順に則って決められた動作を伴い、それは生産や流通や販売などのシステムの中で一定の作業をこなすには欠かせないものであり、機械もそれを利用した様々なシステムも決まり切った動作を正確に行うように設計されている。それはある意味では道具が進化した形態だとも言えるが、道具とは違って機械は複雑な内部構造とそれを動作させるシステムを持っていて、機械自体は人が操作するわけだが、駆動している部分は人力ではなくエンジンなどの内燃機関やモーターなどの電力で駆動する場合が多いわけで、そのような駆動装置を使うと人力で行うよりは飛躍的に大量かつ迅速に作業がこなせるので、資本主義経済の中で生産力の増大と富の蓄積には欠かせないものとなってきたわけだが、機械の技術革新と資本主義経済の拡大が一体化して進行してきた歴史的な経緯の中で、それに伴って人口も飛躍的に増大して、増大した人口を養うために経済もそれだけ拡大したわけで、人口の増大とともに一人当たりの物質的な消費量の増大も相乗効果となって経済の拡大に貢献してきたわけだが、人口が増えずに人当たりの物質の消費も増えなければ経済が拡大する必要はなく、実際に経済の拡大が止まるはずなのだろうが、機械の技術革新の方もより少ないエネルギーで効率的に作業をこなせるように進化している面もあるだろうし、また人工知能などを利用した自動化技術の進化とともに、より人手がかからずに作業できるようになると、人そのものが必要なくなってくる可能性があるわけで、そうなるとますます人口が増える必要がなくなって、それと同時に一人当たりの物質的な消費量も増えなければ、経済の拡大が望めなくなってくるわけだが、そうなると経済が停滞して富の蓄積が難しくなってくるだろうか。たぶんそれに関する歴史的な経緯としては、産業技術の中でも情報技術の進化と拡大があったわけで、そこでは一人当たりの物質の消費量ではなく情報の消費量を増やそうとする傾向が顕著になってきて、情報に価値を持たせて物質的な消費による富の蓄積とともに情報の消費が富の蓄積に結びつくような錬金術が生じたのであり、もちろんハードウェアがあってこそソフトウェアが成り立つわけで、情報の蓄積にはそれを蓄える電子機器が必要であり、また情報をやり取りする通信機器や通信網の存在が欠かせないわけだが、必ずしも情報量の拡大が人口の拡大に結びつくわけではないらしく、人口が増えなければ消費者が増えるわけでもないだろうし、いくら通信端末の買い替え需要などを見込んでも、個人が持てる端末の台数にも、買える端末の価格にも払える通信料にも限界があるだろうし、それによって飛躍的な経済の拡大が望めるわけでもないことは確かなのではないか。

 人口が増えなくても寿命を延ばすことができれば、長くなった生きている期間にそれだけ多くの物や情報を消費してくれるし、それとの関連で健康産業や医療産業の発達も生じたわけだろうし、また経済的に裕福になればそれだけ高価な商品を買ってくれる人が増えるから、世界的に富裕層を増やすような成り行きになっているのかもしれず、それとの関連で新自由主義的な経済優先政策も一時的に流行した経緯もあったわけだが、実態としてはまだ世界的には人口増加が続いている状態だろうから、はっきりしたことはわからないのかもしれないが、富の蓄積には富の集約が欠かせないだろうし、実際に世界的に貧富の格差が増大しているとすれば、絶えず富裕層に向かって富が集約し続けていて、経済的な不均衡が拡大しているとも言えるわけだが、情報革命以後は金融資産の増大とともに負債も拡大しているとも言えるし、負債も資産の一部なのだろうから資産が増えて富の蓄積が続いていることにはなるのだろうが、蓄積した富は投資に回さなければ経済活動が停滞してしまうわけで、経済活動が停滞すれば富の蓄積も停滞するわけだから、結局は富の集約と蓄積が絶え間なく続いているとしても、一方で投資される富も失われる富もあるわけで、失われる中には事業の失敗なども含まれるのだろうが、その大部分は投資によって富を消費する行為が富を集約して蓄積する行為と同時に起こっていると考えられるのではないか。そうやって富を蓄積しながらも消費し続けているから、絶えず蓄積する行為を行わないと富が消尽してしまうわけで、蓄積と消費の収支がプラスマイナスゼロなら均衡が保たれていることになるだろうが、もちろんそこで蓄積と消費が時間的に前後しているのが普通で、一つの成り行きとしては蓄積した後にそれを消費していることになるわけだが、複数の成り行きが錯綜しながら同時進行していることを考慮すれば、蓄積しながら消費していると同時に消費しながら蓄積していることにもなるだろうし、結局は大量に富を蓄積して大量に富を消費する過程と少量の富を蓄積して少量の富を消費する過程の間で、様々なケースがあることが考えられるわけで、たぶんそこに機械が関わってくると大量の富の蓄積と消費が実現していて、その反対に機械が関わってこない部分では少量の富の蓄積と消費が行われていることになるのではないか。そして機械がそれほど関わってこない分野で生活している人は少量の富の蓄積と消費で間に合っているのだろうし、実際にそうやって生きている人も世の中にはいくらでもいるのかもしれない。それに関しては例えば自動車を持っていなくても生活できれば、それを買うに際して必要な購入代金と使う過程で生じる維持経費がかからないし、また通信端末のスマホを持っていなくても生活できれば、自動車ほどではないにしてもやはりそれを買うに際して必要な購入代金と通信料がかからないわけで、企業などが物や情報の生産や流通や販売など過程で機械を使うは時には、確かにそこでは富が生み出されるわけだが、消費者が機械を使う過程では反対に富の消尽が起こるわけで、そういう意味で機械の使用は富の蓄積と消費の両面での拡大に貢献しているのではないか。


11月3日「機械と労働」

 機械に組み込まれた労働は単純作業がメインとなる部分もあるわけだが、一方でそれなりの熟練を要する労働である面もあり、それを単純作業か複雑な作業かという対立軸で比較するよりは、部分的な作業の集合体として全体のシステムが構築されていて、部分的な部門で作業している労働者にはシステムの全ての工程での作業をマスターできないという特徴があり、そういうところが徒弟制で親方の元で修業する職人などとは違うわけで、親方が弟子に持っている全ての技能を教え込むのとは違って、労働者がいくら特定の部門の作業をマスターしても、全体としてのシステムを構築することはできないし、また全体としてのシステムの構築に関わった設計者が特定の部門の作業をマスターすることはないし、そんなことをやる必要もないわけだ。そんなわけで工場制手工業の頃と比べてシステムの規模がでかくなってしまったので、一人の人間の手に負えるようなシステムではなくなったということは言えるのかもしれないが、それだけにその部門で作業している労働者は他の部門で作業している労働者には無関心となるのかもしれず、全体を見通すことができない部分的な専門家ばかりが育成されるようになってきたのかもしれないが、システムの全体という捉え方がまるで虚構のように思われてしまうのかもしれず、何だかわからないがとりあえず作業が機能していたり、うまくいっていればいいようなことになって、何らかの生産なり流通なりのシステムの設計者であっても、他のシステムから作業が引き継がれてくるからそのシステムが成り立っている限りで、それが一つの完結したシステムでないことは理解しているだろうし、またそのシステムから作業を引き継ぐ別のシステムもあるのだろうし、さらにそれと競合している同じようなシステムもあるわけで、それらについて考えてしまうときりがないだろうから、とりあえずは自らが関わっている部門のことだけ考えていればそれで間に合ってしまうようなシステムなのであって、それがその部門に関しては専門家であるが他の部門に関しては素人でしかないような実態を生んでいるわけで、しかも別にそれが悪いことなのではなく、そうであるからシステムがうまく回っている面もあるのだろうし、実態として部分的なところしか把握できないから、そこがうまく回っていれば全体としてもうまく回っていると想像するしかないわけで、本当のところは誰もがよくわかっていないだろうし、そういう面で常に不確実な要素があり、憶測や推測で捉えることしかできない面があるわけだ。そして世の中でどのようなシステムが機能しているかについても、各人が携わっている部門から推測するしかないわけだから、それぞれで捉え方も見方も違ってくるのではないか。

 またそのシステム内の労働自体がその人の生活の中で部分的な意味合いしか持たない場合もあるだろうし、その人にとって確かに生活の糧を得るには労働が必要だろうが、生活の全てを労働に捧げているわけではない人の方が、どちらかといえば多いのかもしれず、それは職種にも労働の内容にもよるだろうが、その人から見て自分が働いている仕事内容が世の中であまり重要とは思われない場合は、その人にとっても労働があまり重要ではなくなってしまうのかもしれず、ただ賃金を得るための手段としか思われなければ、そのためだけの労働となってしまい、自然と興味は別の方面へと移っていってしまうのかもしれないが、そうであっても機械の動作が興味を繋ぎ止めてくれる場合があるわけで、機械を操作して何らかの作業を行うことで達成感が得られて、その作業を飽きさせないようにしている場合があるだろうし、人力ではできないことを機械が行なっているのを見ながら作業に没入していれば、それほど不快な思いもせずに時間が過ぎていく成り行きとなり、結果的に自然と作業をこなしてしまえるわけで、そういう面も考慮すれば機械とともにシステムに組み込まれていてもそれほど疎外感は感じられない場合もあるのではないか。また機械自体が部分的なシステムであり、自らがそのシステムを動作させているという操作感が人の興味を機械につなぎとめていることも確かだろうし、そのような達成感や操作感などが機械を介して仕事への執着を生み、結果的に人を作業へと駆り立てるような効果を生じさせて、労働を成り立たせているのかもしれないし、一概に人間疎外をもたらすような不快感とともにつまらない単純作業をやらされているとは言えない面があるだろうし、その辺でどこまでが肯定されてどこからが否定されるような状況となっているのかが、それぞれの職場で判断も認識も違ってくるだろうし、その人の境遇によって許容限度にも違いがあり、外部から勝手に否定したり批判したりできない面もあるのかもしれず、結局は各人が許容限度内でやっている実態がある限りでそのような作業は成り立っているのであり、不快さに耐えきれずにやめていく人が絶えないような職場でも、作業の管理者もその点は承知しているわけで、去る者は追わずで定期的に従業員を募集して補充するのだろうし、逆に長く勤められては賃金を上げていく必要が出てきて困ってしまうのかもしれず、はじめからそういう魂胆でやっているとすればそれだけ労働者の扱いもひどくなるだろうし、ひどい扱いを受けてやめていく人が絶えなくても募集すれば次から次へと応募者が現れるようなら、その職場はそうやって成り立つような職場だということであり、中にはそのような職場を転々とするような労働者も出てくるわけで、そういう人は嫌になってはやめて金がなくなればまた仕事を探すような生活に慣れているのではないか。


11月2日「機械の使用と人間疎外」

 株式や債券が資本の蓄積を表すのとは少し性質が異なるが、機械装置や機械設備は生産力や労働力の蓄積を表していて、資金が必要となった時に株式や債券を市場で売って資金を得られるのとは少し違った形で、機械を駆動させることによって物や情報を生産できるわけで、必要に応じて駆動させれば機械が働いて物や情報を産出するシステムになっているわけだ。そういう意味で機械装置や機械設備はある種の資本の蓄積を表していて、企業がそれを所有していればそれが企業にとっての資産となっているわけで、株式や債券や資金を生み出す資産であるように、機械は企業の生産物を生み出す資産を形成していて、機械装置や機械設備は生産力と労働力の蓄積を表している。機械が生産過程で使われれば当然それは生産力として機能するわけだが、流通過程で使われると物や情報を移動させる力を担い、また販売過程で機械が使われると商品としての物や情報やサービスと代金を交換する力となるわけで、機械を通して決済が行われることになる。いずれの場合も人力で行うのよりは効率的に仕事をこなすために機械が使われるわけで、実際に大量かつ迅速に仕事をこなすために機械が必要となってくる。資本主義的な経済活動における機械の存在意義は、より少ない労力で大量かつ迅速に仕事をやってのけることにあるのだろうし、それは競合する他の業者との相対的な比較においてそうであるわけで、他の業者も機械を使っていれば、一般的にはより性能の高い機械を使った方が競争に勝利する成り行きとなるようなら、一応はそこで公平な競争が行われていることになるのではないか。もちろん機械の性能にも様々な方向性があるわけで、大量に仕事をこなすことに特化したものもある一方で、迅速に仕事こなすことに特化したものもあるだろうし、さらに正確かつ精密な作業をこなすように作られているものもあるだろうし、その用途に合わせて機械の特性も異なるわけで、そうした中で少なくとも人力で行うよりは有利だから機械が使われるわけで、人にはできない作業を行うのにも機械が使われ、そうなるとこれまではできなかったことが機械を利用することでできるようになるわけで、それができるようになったことで世の中が変わることにもなるわけで、そういう意味で機械の発明とその普及は社会変革そのものになるのだろうし、実際に様々な機械の登場によって社会が変革されてきたのではないか。しかしその変革が必ずしも人が望んでいたものとは違っていたのかもしれず、結果的に人の想像を超えた形で世の中が変わってきた面もあるのかもしれないが、それも結果を肯定するなら何やら技術革新によって文明が進歩してきたように思われるのであり、その恩恵だけなく弊害に気づかなければ、そこからは科学技術を無批判に礼賛するようなイデオロギーしか出てこないわけだ。

 機械の使用による弊害といえば一般的には人が機械の部品のように扱われることが人間疎外の例として思想的に批判されてきた経緯があるわけだが、その機械の部品のように扱われることで人間らしさが損なわれると言われる中で、具体的に人間らしさという表現が何を意味するかがよくわからないところなのかもしれず、例えばそれについてよく引き合いに出される奴隷労働という表現は、まさに否定的な人間らしさに結びついているわけで、人類は数千年来文明の発達した地域では普通に奴隷を使用してきたわけで、人を奴隷として売買して使用するのが当たり前の時代が長く続いてきたことも確かで、それが産業革命以降賃金労働に取って代わられて、奴隷労働が急速に衰退した歴史的な経緯があり、実際アメリカの南北戦争では賃金労働が主体の産業で成り立つ北部が奴隷労働が主体の産業で成り立つ南部に勝利したわけで、それとともに実質的には産業の主流から外れた奴隷労働が過酷な賃金労働の比喩表現で使われるようになり、何か人間疎外の代表例として奴隷労働的な賃金労働が非難の槍玉に挙げられるようになったわけだが、そもそも機械の使用が人間を奴隷から解放した経緯があるわけで、それが人間を奴隷労働のような過酷な賃金労働の担い手として機械に縛り付けたと非難されるのだとすると、いったい人間らしさの肯定的な意味とは何なのだろうか。たぶん否定的な人間らしさとして奴隷の使用があることは確かであり、そうであるなら肯定的な人間らしさとは奴隷を使わない労働であり、すなわちそれは賃金労働となるわけだが、賃金労働でも過酷な労働は奴隷労働として否定されるわけで、では過酷でない人間らしい賃金労働とは何かといえば、社会の中で人として普通に暮らせるような賃金を得られて、しかも労働によって病や怪我や死の危険を伴わないような労働となるだろうか。しかしそれは経済状況にもよるだろうし、経済が比較的良好に推移していれば雇用環境も良くなって、過酷な労働をしなくても人間らしい生活を満喫できるようになり、逆に経済状態が悪化すれば雇用環境も悪くなって生活も苦しくなって、人間らしさが損なわれることになるのかもしれないが、それは肯定的な人間らしさが損なわれるという意味なのだろうし、その代わりに否定的な人間らしさが顕在化してきて、その結果世の中の風紀が乱れて荒廃してくるわけだろうか。そのように人間主義的な解釈を施せば人間らしさについてその肯定的な面と否定的な面がわかりやすく区別できるのだろうが、どうも実態はそれとは少し違うのかもしれず、簡単に言えば機械の使用と技術革新の進展によって、人間らしさの定義も少しずつ変わってきたのかもしれず、それによって恩恵を受けられる範囲内では、それに伴って生じる肯定的な人間らしさが奨励され、一方で弊害が生じてしまう状況になれば、それに伴って生じる否定的な人間らしさが非難されるといった具合になり、本当はその両面を伴うのにも関わらず、その場の都合に合わせてどちらか一方の面を取り上げて、その都度肯定的な人間らしさを奨励してみたり否定的な人間らしさを非難したりするわけで、人間主義者たちはただ人間らしさの両面を見ないように振る舞っているに過ぎないのではないか。


11月1日「産業の機械化」

 資本主義経済は機械設備や機械装置などを含む機械類によって成り立っていることは確かだが、物や情報を生産するだけなく機械を生産するのにも機械を用いなければならないのは当然だろうし、機械が生産されるとその機械を使う人が必要になるわけで、機械にとってはそれを使う人の存在が必要不可欠であり、それは自動制御システムやAI技術などにも言えることで、それを使って人が何かやらなければそれらの技術は不要となってしまうわけだ。そういう意味でいったん人工的に作られたものは、それを使う人がいなければ無用の長物となってしまい、それが何らかの用途で使われない限りは無駄となってしまうわけだが、その一方で使われるまでは在庫としてある程度の期間は蓄えておくことができるわけで、物によっては必要な時に出してきて使い、不要な時には仕舞っておくことが可能で、そういう意味で機械というのは労働力の貯蔵形態と捉えるとわかりやすいのではないか。要するに必要な時だけ稼動させて不要な時には停止させておけばいいわけで、それが人となると不要になったからといってすぐには解雇できないわけで、ならば必要な時だけ使うためにパートタイム労働者を雇えばいいということになるわけだが、今度は必要な時に労働者が足りない事態が出てくるわけで、だから機械化できるところではなるべく機械化して、必要な時に必要なだけ稼動させるようなシステムにすればより効率的に作業できるわけで、人が労働する部分はそのシステムの管理やメンテナンスにとどめれば、定期的な保守点検などの作業だけで事足りてしまうわけだ。それが自動制御システムやAI技術などが目指すところなのかもしれないが、それ以前にそのようなシステムや技術が何に使われるかが問題となるわけで、それを使って物や情報を生産するとなるとそれを使う人が必要となるわけで、それが乗り物なら乗ってくれる人が必要となり、何か物や情報を運ぶとなるとやはり運んだ先で受け取ってくれる人が必要となり、途中がどうであれ最終的にはそれを利用する人の存在が必要不可欠となってくるわけだ。だからそのようなシステムや技術は利用者の存在を前提としているわけで、利用者がいる限りで存在することが可能となるわけだが、利用者の方は生きてゆく糧がないと生きられないわけで、今度はどうやって利用者を存在させるかが問題となってくるだろうし、そのような産業に携わる人だけではその産業の利用者を賄えないとすると、何か別のところから人を利用者として徴集してこないとその産業が成り立たないようなことになれば、徴集されてこられた人はどうやって生計を立ててゆくことになるのだろうか。

 結局産業はその産業によって提供される商品やサービスの利用者がいる限りで成り立つのであり、それ以外ではないのだろうし、実際にそうなっているのではないか。確かに相対的に機械化率が高い産業の利用者が相対的に機械化率の低い産業の労働者である場合、機械化率の高い産業に利益を奪われている可能性があるわけだが、機械化率の高い産業の労働者も機械化率の低い産業の利用者である可能性も考えられるだろうし、現状で機械化率の低い産業が今後機械化率を高めてゆけば、確かに労働者の職場がなくなってゆく可能性があるわけだろうが、余ってしまった人の生活が苦しくなれば、産業の利用者とはなれなくなってしまい、利用者が減ればその産業の規模も縮小するしかないだろうし、結局はその産業を利用できる人がいる分だけでその産業が成り立つこととなるわけで、需要がある分だけ生産するしかなくなるのではないか。そういうわけでいくら機械化によって作業効率を高めて大量生産が可能となっても、肝心の生産物を利用してくれる人がいないと意味がないわけで、機械化は相対的な効果しか持ち得ないのだろうし、同業者間の競争で機械やシステムの改良によって他の業者よりも安く生産できれば、同じ価格で売れればそれだけ利益が出るわけで、絶えず同種の競合している他の商品との比較において、生産効率の良さが売上や利益の面で優位性を保てるわけで、しかもそれは安いだけではなく、魅力的な商品である必要があるわけで、生産効率が悪くて価格も高くても売れればいいわけで、それが商品宣伝における消費者のブランド心理なども絡んできて一概には言えないところなのだろうが、またそれが直接消費者とは関係のない他の商品の材料となる製品なら、品質や良くて価格が安ければ言うことがないだろうが、用途によっては価格が高くても強度などの面で品質や信頼性の優れた製品を使う必要があるのかもしれず、やはりそういうところでも生産効率の良さだけではうまくいかない面があるのだろうから、商品の種類に応じて様々な条件があって、その条件を満たしつつも生産効率を上げられればいいのかもしれないが、全ての生産現場で一律に労働者を減らせるわけでもないだろうし、また生産現場以外でも流通や販売などの現場で労働者を必要としているわけだろうし、さらに生産や流通や販売などの現場で機械化して効率を高めても、その機械化された産業の商品やサービスの利用者がいなければ産業自体が成り立たなくなってしまうわけで、やはり産業は最終的にその産業の利用者がいる限りで成り立つという原則は変わらないのではないか。


10月31日「問題の共有」

 世の中の情勢が流動的に推移している中で何らかの利益を出そうとするには、その推移に合わせて絶えず戦略を練り直さなければならないだろうし、そんな中で特定の価値観で凝り固まっている人や集団に揺さぶりをかけて彼らを出し抜くためにも、様々な攻撃を断続的に仕掛けていく必要も出てくるだろうか。そうすることが状況の中で主導権を握るきっかけを作るのだろうし、自分たちに都合のいいような世の中にしていくためにもそんなことをやっているわけだろうが、結局の情勢の流動化というのはそのような行為の積み重ねから生じるのかもしれず、そうやって何らかの勢力が世の中に何らかの揺さぶりを仕掛けているから情勢が流動化するのであり、その揺さぶりを仕掛けている勢力というのが、特定の国家であったりその国家から独立を画策している勢力であったり企業であったり、あるいは国際テロ組織であったりするわけで、そのような勢力でなくても何かメディア上で煽動や宣伝を仕掛けている集団があるとすれば、それは世の中が流動化することを狙っているわけだろうし、その混乱に乗じて何らかの利益を確保したり政治的な主導権を握りたい思惑があるのではないか。またいったん主導権を握ったら自分たちが有利な状態を保ちながら、今度は世の中を安定化させたいわけで、今の日本の現状ではむしろそちらの方向へ状況が推移しつつあるのかもしれず、政治的な主導権を握った勢力が自分たちの優位性を確保しながらも、そんな状態のまま情勢を安定化させようとしているのであり、現状ではすでに混乱の後始末をつけている最中なのかもしれないが、それが思惑通りになるかどうかは何とも言えないところかもしれないし、握ったつもりの政治的な主導権を使って何ができるわけでもないとすれば、そんなものはどうでもいいことにもなりかねないのだろうが、何らかの制度改正を行うとしても、その制度改正によってそれ以上の何を起こせるわけでもないだろうし、国際情勢の中ではすでに一定の決着がついていることを覆せるわけでもなく、では何のための制度改正なのかと言えば、それは国内での主導権を盤石に保つため以外のことにはならないだろうし、もはや政治的にはそこから先がないわけだから、それ以上は何がどうなるわけでもないのではないか。結局は全てが内向きにしか作用しないだろうし、外に向かう要素がないわけで、政治的な主体性を実現しようとしてもそれが向かう先がないわけだ。そんなわけで偏狭な国家主義は国内で行き場を失ったままひたすら内側へと向かうしかなく、やがてそれが何を意味するわけでもなくなるのではないか。衰退期の国家が向かう先にあるのは何ももたらさない冷温停止状態なのかもしれず、そこで政治そのものが無化するしかなく、しかもそれで構わないような成り行きになるわけだ。それでも一通り過去への郷愁とその反復によって騒ぎ立ててみたのだから、それで幕引きになっても騒ぎ立てた人々にとっては本望なのだろうし、それで少しは気持ちが晴れただろうし気が済んだのではないか。

 世界の中でまだ暑く熱している地域では延々と内戦状態が続くのかもしれないが、それも武器の供給が続いている間だけだろうし、世界全体としてどうなる要素がそこから生まれるわけでもないだろうし、昔の社会主義のような共通の目的が生じる余地がなく、すでに一足先に冷温停止へと向かっている中南米などの地域と同じように、イスラムのアジアもアフリカの国々もこれから次第にそうなっていくのだろうか。どうなっていくにしろ権力への野望自体が中身のない空疎な夢なのだろうから、そこで政治的な主導権争いを行なっている限りで野望が生じているだけで、主導権争いに勝った勢力に待ち受けているのは何もない虚脱状態しかありえず、それを避けるには勝利を延々と先送りにしながら戦い続けるしかないわけで、絶えず争いの火種を絶やさないように煽動と宣伝を続けるしかないだろうし、そうである限りにおいて勝利という目的に向かう姿勢を保っていられるわけだ。しかし一度騒いでしまったことを何度も蒸し返しているうちにマンネリ状態に陥ってしまうわけで、蒸し返すのにも限度があるだろうし、そうかとって騒ぐネタがいくらでもあるわけでもなく、そういうところでジレンマに陥るのは目に見えていて、そうであるからこそさっさと勝利を確実にして世の中を安定させたいのだろうが、安定した後に待ち受けているのが空疎な虚栄でしかないわけだから、結局はそれ以上は何ももたらせないわけだ。ならばどうすればいいのかと問われるかもしれないが、政治的には冷温停止状態である方が見込みがない分手間がかからないのだろうし、政治的な争いがそうなる一方で経済的な繁栄の方は繁栄している地域で経済活動が活発化するに過ぎないことでしかなく、その反対に寂れている地域では沈静化しているわけで、そんな中でも人が生きられるだけ生きているのだろうし、生きられなくなればそこから人がいなくなるだけだろうし、それで何が困るわけでもないのではないか。そこにどんな目的が生じているわけでもなく、どんな問題があるとも思えず、絶えず人の活動が活発化している地域で目的や問題が生じるだけで、目的へと向かう一定の活動が問題を生むのだろうし、目的に関わろうとする人や集団がそのような活動を問題化するわけだ。別にそれに関係のない人や集団にとってはそれがどうでもいいような無関心な問題かもしれないが、問題化しようとしている人や集団としては他の人や集団を目的に巻き込みたいわけで、そうすることで他の多くの人や集団と目的を共有しながら、それを共有している場で主導権を握って、そこに構成される目的に向かって全ての人や集団を導きたいわけで、それが煽動や宣伝行為が目指すところなのだろうが、そんなことをやっている過程で生じるのが人や集団の間で行われる主導権争いや権力闘争なのだろうし、そんなことをやっているうちに争いがエスカレートしていけば、何かそこで大げさなことが行われているように思われるし、それを真に受ける人々の間で何か深刻な問題が共有されていることにもなるのではないか。


10月30日「行動の緊急性」

 ありのままの現実では満足できないのは誰もが思っていることかもしれないし、それが身の回りの環境を変えようとする動機や原動力となっていることも確かだろうし、そんなふうにして人は絶えず現状を超えるそれ以上の状態を求めているとしたら、そんな思いを満たすには新たに何かをやらなければならなくなるわけだろうが、それが何に起因するのかといえば日頃から自らが抱いている妄想には違いなく、そうでなければ何か別の動機を探さなければならなくなるのかもしれないが、それを探そうとしていること自体が自らが抱いている妄想からの離脱を目指しているのかもしれず、それも日頃の妄想では満足できないことの裏返しの思いなのかも知れないが、しかし妄想以外に何があるのかというと身の回りの現実しかないわけで、それ以外に何も見つからなければそんな現実が全てだと実感できるだろうか。たぶんそれは実感していることではなく、現実について思考し想像していることかもしれず、現状の中で自らが体験しつつある現実について考えているのかもしれないし、結局それとは別に実感しているのは現実などではなく、それはやはり自らの心の中で生じている妄想の甘美な夢心地を実感しているのではないか。だがそれ以上の何を実感できるだろうか。例えば人はどうやって現実の厳しさを実感できるのだろうか。それは自らの想像を超えた外部からもたらされる衝撃的な体験などからもたらされるのだろうか。もしかしたらそれこそが夢心地の体験なのかもしれず、そんな夢心地の体験を求めて何らかのフィクションを求めている場合もあるのかもしれないが、そういう驚きをもたらすような衝撃の体験なら喜んで求めようとすることが妄想なのであり、それに対して現実の厳しさを実感させるのはそうした思いがけずにもたらされるような驚きの体験ではなく、日頃から慣れ親しんでいる何の驚きももたらさないありふれた日常の日々を生きている事実が現実の厳しさを実感させるのではないか。それ以外に何も起こり得ないことが明らかとなった時に、改めて現実の厳しさを実感せざるを得ないわけで、そんな何もない現実から逃げている自己の弱さにも気づくのではないか。またそこで現実について考えようとしていることは、そうではない現実を想像しようとしているわけで、何かそれ以外の現実に気づいていないのではないかと自らの感性を疑っているのかもしれず、もっと自己の感性を研ぎ澄ませば、何もないように思える現実の中に興味深い何かを見つけられるのではないかと期待したいのかもしれないし、それが結局は虚しい期待外れに終わることを恐れているのかもしれないが、それも妄想で片付くような何でもないことでしかないだろうか。実際にはそんなことよりも思考を働かせたいのは外部の世界で起こっていることなのだろうし、それを自らに関連づけて考えたいというよりは、もっと客観的な立場から考えたいのかもしれず、社会全体の中でそのような物事がどうあるべきかということが、それについての思考することの客観的な正しさを求めていて、思考することによって正しく判断して正しい行いを求めるような成り行きとなってしまうわけだ。

 しかし正しいことをやろうとすること以外に何かやるべきことがあるだろうか。正しいことでも間違ったことでもないようなことをやろうとすることはできないような気がするだろうし、やはり普通に考えるなら正しいことをやろうとすることが当たり前の対応だと思われるわけだが、どうも実際には思考と行動とが重ならない場合の方が多いのかもしれず、何も考えずに行動するのではなく、何か考えながら行動しているのだろうが、考えていることと実際に行っている行動とが一致しない場合があるわけで、そういう場合はたぶん思考が自らの行動を把握できなくなっているのかもしれず、しかもそういう時には思考よりも行動の方が正しかったりするわけで、それの何が正しいのかというと、結果的にうまくいく方が正しいと思われるわけで、それとは逆に強引に思考に行動を従わせようとするとうまくいかなくなるのであり、結局その場の状況に合わせて行動しようと考えても、思考に従って行動しようとすると状況に合わなくなってしまい、そういう場合は自らを信じてはまずいのだろうし、まずは行動すべきなのであり、行動した後から思考が行動を追認する形でついてくるような状況となるわけで、思案した挙句に正しいと思われる答えを導き出すようなやり方は通用しなくなるわけだ。なぜそうなるのかというと、思考が体験しつつある現状を捉えきれていないからだろうし、すぐには状況を把握できないままに行動を迫られているような時には、いくら考えても無駄なのかもしれないし、まずは行動してみてから周囲の反応を伺いながら必要に応じて軌道修正するような運びとなるのではないか。それとは違って熟慮を伴うような場合は状況が一段落して安定しているように思われる時に限られ、そうでなければ考えている間に対応が後手に回る危険が伴い、そういう意味で思考は絶えず状況から時間的に遅れて発動するものなのかもしれず、その時間的な遅れが流動的な状況下では感覚のずれを招いて、結果的に間違った判断を下す原因となってしまうのではないか。だから思考することによって正しい判断を下そうとしても、状況的に無理な場合があるのだろうし、その辺を考慮しておかないと、何をやるにしても的外れなことをやってしまう危険性が高まり、それは時として勘違いの原因ともなるだろうし、なぜ正しい思考から導き出された行動がうまくいかないのかと悩むことにもなるだろうし、悩んでいる時点で勘違いしているわけだが、時間的にも場所的にも絶えず流動的な状況となっている時には、そんな状況が流動している中でも行動しなければならないのであり、そんなふうに行動が先行している中ではそれが正しいか間違っているかを考えている暇がないのだから、正しい行いをすべきという前提が通用しないわけだ。そしてそんな前提なしに行動している時には行動する前に思考するのではなく、行動した後から振り返って考えることしかできないのであり、いわゆる後悔先に立たずの状況が生まれるわけだが、そうならないようによく考えてから行動していては手遅れになる場合があるわけで、結局そこでその人の本当の実力が試されるわけだ。そして人はそういうところでその人の器量や技量を見極めようとしているのではないか。


10月29日「指導者への幻想」

 意図的に何をやっているわけでもないにせよ、やっているうちに意図が生じてきて、やっていることの意味もわかってくるようなことはありそうで、意図してやっていることも思惑通りにはいかないことも多いだろうし、何らかの計画があることは確かなのだろうが、その計画が何のための計画なのかについては、はっきりとはわかっていないのかもしれず、たとえ何らかの目的に基づいて計画が立てられているとしても、何でそんな目的が生じてしまうのかよくわからず、その辺を突き詰めて考えないようにしないと、自らがやっていることも集団で組織的にやっていることも、そんなことをやっている動機を突き止めようとして、結局は答えの出ない問いを前にして立ち往生してしまうしかないだろうか。たぶん性急に答えを出そうとしてはいけないのであり、原因と結果の因果関係ではなく、すでにそこで行われていることについて、それに関係する物と人と情報から説明するにとどめて、それ以上の説明は断念しなければならないだろうか。説明しようとして結果的にフィクションを語っていることに気づくこともありそうで、それでも説明できているうちはそれで構わないと思い、それを現実だとはみなさない限りで、そのフィクションが現状を説明する上で有効に作用していると思われるなら、積極的にフィクションを用いて現状を説明すべきだろうか。要するに意図的にフィクションを語っているというよりは、物事を説明する上で欠かせないからフィクションを語っているのであり、そうすることが有効に機能していると思われるなら、たとえ説明がフィクションになっても構わないのだろうか。その辺もよくわからないところかもしれないが、現実に起こっていることと頭の中で考えていることとの間に何らかの関係があるのは当然であり、現実に起こっていることについて考えるから学習能力が身につくのだろうし、学習したことは現実の中で役立てる必要が出てくるわけで、そうでないと学習した意味がないだろうし、そこに学習する目的が生じてくるわけだ。そうであるなら結局目的とは途中から出てくるわけで、はじめから目的が設定されているわけでもなく、とりあえず現状に対処している過程で目的が定まってくると考えられるだろうか。そうであるなら目的は二の次であるのかもしれず、とりあえず現状に対処することが最重要課題となるだろうか。そこに優先順位を設けること自体がフィクションでしかないのかもしれないが、一度設定した目的であっても現状に対処しているうちに変わってくる可能性はあるだろうし、要するに何を目的に定めるかが重要なのではなく、何かをやっているうちに目的が変わってきても、頑なに当初の目的を守り抜こうとするのではなく、目的の変更を素直に受け入れることが大事であり、その辺で柔軟な対応ができないと、状況の変化についてゆけなくなってしまうのではないか。

 ただ目的にも色々あって、どうしても変更できない目的というのもあるだろうし、そんな成り行きに絡め取られているようなら、目的に殉じなければならない宿命の中で、最終的にどうなるのかは結果が示す通りだろうが、そういう事情が生じている境遇というのは、その人にとって不幸であるというよりは、そういう成り行きをもたらしている世の中が何か特有の問題を抱え込んでいて、その抱え込んでいる特有の問題というのが、その世の中が形成される過程で生じてきた歴史的な経緯であったり、そのような歴史的な経緯を生じさせたその地域特有の事情であったりするのだろうが、それも現状の中で対処すべき問題であることには変わりないだろうし、歴史的な経緯だからと言ってそれを尊重するか否かは現状の中で判断されることでしかなく、それを尊重することで何らかの弊害が生じるなら尊重すべきではないだろうし、また尊重しないことで問題が生じるならその問題に対処する過程で何らかの対策が必要となることもあるだろうし、そこでも一方的な方針で凝り固まらずに柔軟な対応が求められるところなのではないか。どのような状況下でも一方的な決めつけや物事の単純化は避けた方がいいのだろうが、そうであっても決断すべき時は決断しなければならないのであり、そういうところで行動のメリハリがつけられないと周囲からは信頼されないわけで、たとえそれがフィクションに絡んだ動作であっても、そのような動作が周囲の人々の信用を得る上で欠かせなかったりするのではないか。そのような演技が社会の中で有効に機能している限りで、集団の中で指導者的な立場が成り立つわけで、そこで指導者に対する幻想が生まれて、そんな幻想に魅入られた人々が指導者を崇め奉りながらついてゆくのだろうが、果たしてそういう成り行きが絶対に必要なのかというと、どうもそうは思えないわけで、現状でそんな指導者が世界のどこにいるのかというと、フィクションの世界以外ではどこにも見当たらないようにも思えるし、人格的にも行動や言動などにおいても欠陥だらけの人が、政治的にも経済的にも様々な分野で指導的な立場を占有しているように見えてしまうのだが、別にそれが指導的な立場であるとみなすことも少し違うような気がするし、とりあえず何らかの役職があり、その役職に就いている人が現に存在しているわけで、その人を特に指導者とみなさなくても済むような状況が成り立っていると思われるのであり、それで特に問題がなければ構わないのだろうが、誰もが気づいているように様々な問題が生じているからその人が批判され非難されているわけで、結局それで構わないとは誰も思っていないのだろうが、そんな問題だらけの現状の中でも曲がりなりにもそんな役職に就いている人がいて、その人を中心にして何らかの成り行きが進行中の事態が生じているわけだ。そしてそれが現在進行形で形成されつつある歴史的な経緯なのかもしれない。


10月28日「リベラルの使命」

 制度は社会にとっての資本であり、多くの人が制度に従うことによって社会に安定をもたらしていることは確かなのだろうが、また人によっては従うことができない事情が生まれることもあるのだろうし、そんなわけで制度は社会を安定させる使命を担っている限りでそれに従う人たちを守りながら、従えない人々を従わせようとするのだろうし、場合によってはそのために権力を行使しなければならなくなるわけだ。また従っている人たちにも権力を行使しながら従わせている面もあるだろうし、そんなふうにして多くの人が従っている限りで制度が維持されているわけだが、たぶん社会の中で制度に従っていると意識する機会がそれほど多くあるわけではないだろうし、また制度にも様々な種類があってその強度にも違いがあるだろうし、必ずしもいちいち権力を行使しないと人を従わせることができないのかというと、そういうわけでもないだろうし、他の人たちと同じように振る舞ってそれで滞りなく事が運べば、それで結果として制度に従っていることになるわけで、とりあえずそれでうまくいっていれば誰もわざわざそんな成り行きに逆らうようなことはしないだろうし、何らかの事情で逆らわざるを得ない成り行きに追い込まれない限りは、特に制度に従っていることを意識しないわけだ。またそれは目立ちたがり屋のお笑い芸人が選挙を棄権したと周囲に触れ回ってソーシャルメディアで炎上したと法螺を吹くのとは少し違うことのようにも思えるのだが、それでも制度に逆らう事情が生じていることには違いはなく、制度に逆らう事情にも様々な種類や強度や深刻さで違いが出てくるのではないか。そういう意味で制度に従ったり逆らったりしながらも、どちらにしても人は制度を有効活用しようとしていることは確かで、自らの立場や意見を正当化するために制度に従ったり逆らったりするわけで、従うことによっても逆らうことによっても利益が生じる可能性があるとしたら、その場の事情に合わせて利益を得るために時には従ってみたり、また別の時には逆らってみたりするのかもしれず、その時々で従うのも逆らうのもゲーム上の駆け引きだと思えば、そういう場合は深刻さや切実さとは無縁となるだろうし、そんなレベルで制度と付き合うことができれば、従うにしても逆らうにしても大した問題とはなり難いだろうし、そんなふうにして制度と浅く戯れるような立場でいられるなら、もはやそんなことができる人にとっての制度は形骸化しているとみなすこともできるのではないか。それとは逆に制度に従ったり逆らったりすることがその人の生殺与奪権に関わるようなことだと俄然深刻さを増してくるわけで、例えば制度に逆らうことが命がけの行為となるような場合は、その制度自体が社会を専制的に支配するような様相を呈してくるわけで、それとは違って制度自体が社会にとっての資本と同じような役割を担うに過ぎない場合は、ゲーム的に制度を利用するような成り行きが主流となるのではないか。

 それに関して人に死をもたらす死刑制度が世界的に廃止される傾向があるとすると、やはり全体的な流れとしては強制的に社会を支配するような制度ではなく、制度を介して人や団体が駆け引きを行うようなゲーム的な方向性が主流となりつつあるのだろうか。もちろんそのような流れに逆行して政治的な独裁体制を築こうとする勢力もないわけではないだろうし、情勢の変化に応じてどちらにも向かう可能性はあるわけで、そうなった時に人々がどう対応するかが問われる場面も出てくるかもしれないが、そうなった時にはすでに世の中の情勢が政治的な独裁体制の確立に傾いている可能性が高いだろうし、しかもその独裁体制というのが世論的な要請によって生み出される場合もあるわけで、そうなれば独裁体制は盤石となるわけだろうが、仮にそうなったとしても政治が経済的な繁栄に依存している状況は変わらないわけで、経済的な繁栄を維持する限りで独裁体制も維持されるのかもしれないが、それも程度の問題なのかもしれず、独裁体制が経済のかじ取りを誤って民衆を悲惨な境遇に陥れても独裁体制が維持される場合もあるだろうし、そうなると経済的な繁栄と独裁体制とは無関係になってしまうのかもしれないが、社会の支配を強化する傾向というのは行政機構の存在とともに常に働いていて、経済が繁栄したら税収などの増収に合わせて予算を増やそうとするだろうし、経済が衰退したら民衆の不満を抑え込む目的で警察権力の増大を図ろうとするだろうし、どちらにしても民衆は自由を求めるならそういった作用に立ち向かう必要が出てくるわけで、そうである限りにおいて社会を管理する制度の強化には逆らう必要が出てくるわけだが、そのためには他の制度を利用するのが効果的だろうし、具体的には選挙制度を利用して社会の管理を強化しようとする政治勢力とは別の勢力を勝たせればいいわけだが、結局はそういう役割を果たさなければならないのがいわゆるリベラル的な政治勢力となればいいのだろうが、どうも民衆の側でもそうした役割を担っているはずの政治勢力の側でも、自分たちがやるべきことや自分たちに課せられた使命がわかっていないのかもしれず、下手をすると逆に行政機構や各種の制度による管理の強化に手を貸している面もなきにしもあらずで、その辺の現状認識が甘いままなのではないか。もちろん単純に民衆と行政機構との間に敵対関係を想定するのもリアリティを持ち得ない話かもしれず、行政機構の中で働いている人たちも民衆の一部であり、制度的には民衆を管理する役割を担っているとしても、その役割を離れれば行政機構に管理される側の民衆の内に入ってしまうわけだから、社会への管理の強化は自分で自分の首を絞めることにもなりかねないわけで、その辺で行政機構という組織形態がもたらす恩恵と弊害の両義性を意識せざるを得ないはずなのかもしれないが、そこで働いている人たちにそんなことまで考えさせるような成り行きにならないと、社会の制度的な管理の強化には対抗できないだろうし、そうなっては困るからそんなことまで考えさせないようにしようとしている当局の意を汲んだメディア関係者が、必死に嘘やごまかしの宣伝や煽動をやっている最中なのかもしれない。


10月27日「制度の両義性」

 自国の産業を誇ってみせる人たちは誇っている産業とは無関係な職種の人たちかもしれないし、その産業の内実を詳しく知っているわけではなく、そこで何が行われているのかよくわかっていないとしたら、その産業によってもたらされた成果を誇っているだけだろうし、例えばその産業によってもたらされた負の側面である弊害については口をつぐんでしまうような人たちだとしたら、そういう人たちの存在そのものが世の中にとっては弊害しかもたらさないだろうか。もちろん弊害だけではなく何らかの恩恵ももたらしているのかもしれないし、一方で特定の産業を批判している人たちもある面では恩恵と弊害の両方を世の中にもたらしているのかもしれないが、そんなことよりもその産業によってもたらされた製品やサービスを利用することで人々に何がもたらされているのかというと、楽しみがもたらされているとすればそれを肯定するのは当たり前のことだろうが、楽しみとともに苦しみももたらされているとすると、それによって苦しんでいる人たちには理不尽にしか思えないだろうし、それを楽しんでいるだけの人にとってはそんなことは到底理解しがたいことかもしれないが、一方で特定の製品やサービスを利用しだすともう後戻りができなくなってしまう場合があるのかもしれず、それに依存してしまってそれなしではいられなくなってしまうと、それを利用することは楽しみでもあり苦しみでもあるような心境へと至るだろうし、そんな依存状態から抜け出られなくなっている状況があるとすると、たぶんそれは否定すべき状況だと言えるわけで、依存状態から抜け出して自らが主体的に活動できるような状態に状況を改善する必要性を感じることができればいいのだろうが、まずはそう思わないと何事も前進しないだろうし、前進できなければ依存状態の中で停滞するしかないわけだが、製品やサービスを提供する側としては、そんな状態をできる限り長引かせたいわけで、そんな状態を長引かせる手段として用いるのが宣伝や煽動などによる各種の引き止め工作なのだろうし、それに動員されるのが各種のメディア媒体となるわけだろうが、それ以前の大前提として、人々がそれらの商品を買える状態になっていないとどうにもならないのだろうし、ともかく人々が買える値段で商品を提供できるかが、製品やサービスを提供できる以前に求められていることであり、すでにそんな条件をクリアできている限りで成り立つような提供者と利用者の間で繰り広げられる駆け引きであれば、それが深刻さとは無縁のゲームでしかなくなってしまうかもしれないが、それに依存しきってしまって、それを買うために他の商品を買うための予算を削ってしまったり、身をすり減らして過酷な労働に励まなければならなくなったりしたら、それを利用することで生じる楽しみも苦しみもより一層両義的に増大することとなるのかもしれず、たぶん身の破滅とはそういうことをきっかけとして生じるのだろうし、それをもたらす病的な依存症というのは、そういう恩恵と弊害の両義的な増大現象そのものをいうのかもしれない。

 それは世の中に張り巡らされている様々な制度への依存にも言えることかもしれず、政治の制度にも経済の制度にも教育の制度にも労働の制度などにも、そこで依存症と停滞をもたらすような効果があって、制度に依存させて人々の主体的な判断や活動を制限して抑え込もうとする作用が生じていて、それに逆らって主体的に振る舞おうとする人を弾圧したり排除したりするようなことも起こり、そうすることによって制度そのものとそれに依存する人や団体を守ろうとするのだろうが、そこでも恩恵と弊害が生じていることは確かだろうし、制度を守るだけでなく絶えず改善していかないと、制度からもたらされる依存症的な弊害が増大していくこととなるのかもしれないが、制度を守っている側が制度を改善することは難しいのかもしれないし、結局は制度に逆らってしまう人の犠牲を通してしか制度が改善しないとすれば、制度の犠牲者は制度の敵であると同時に制度の改革者となるわけだろうが、制度の利用者が理性を働かさなければならないのはそのような制度の犠牲者であり改革者に対してだろうし、絶えずそのような両義的な役割を担う制度への反逆者に対して、ある種の憎悪とともに一方では理解を示さなければならないわけだ。そういうところで物事を単純に解釈したり理解してはまずいわけで、もしかしたら自分たちがかかっている重度の依存症からそれらの反逆者たちが開放してくれる可能性があるわけだから、一方的に憎悪や不快の念を増殖させては救われないままとなってしまうだろうし、また制度を守っている人たちに全幅の信頼を寄せている限り、自分たちは制度の従い場合によっては搾取される立場のままに甘んじてしまうわけで、絶えず制度によってもたらされる恩恵から生じる楽しみと弊害からもたらされる苦しみの相乗効果にさらされるしかないだろうし、そうなっている限りで主体的には何もできなくなってしまうのではないか。そういう意味で制度によって守られていることに対して恩義を感じているとしても、果たしてその恩義に制度が報いてくれるのかというと、制度の中で指導的な立場になれば制度を利用することで主体的に振る舞っているようにも思えるかもしれないが、誰もが指導的な立場になれるわけではなく、大抵は選ばれた少数者が制度の中で指導的な立場になってその他大勢の人たちを従わせるような成り行きとなるわけで、その他大勢の人たちは指導者に対して好意的な感情を抱けば崇拝の対象ともなるかもしれないが、またその一方で自分が指導的な立場になれないことから嫉妬や憎悪の念も抱いているのかもしれず、そこでも両義的な感情が渦巻くことにもなるだろうし、そのような両義性を絶えず意識していないと、一方的な感情に押し流されてますます依存症が重篤化してしまう危険が出てくるのかもしれず、結局そういうところでも理性や知性を働かせて、自らと自らが依存している制度との関係を考えてみないとならないわけで、制度が何をもたらしているのかを両義的な面から考えてみる必要があるのではないか。


10月26日「離脱」

 産業技術は物を作っている現場と企業を経営している場が背理してくると廃れる傾向にあるのかもしれず、それは製品を売ることからサービスを売ることへと経営の重心がシフトしていくにつれて、物作りがおろそかになっていくと考えればわかりやすいのかもしれないが、単純にそう断定することはできず、製品を作ること自体が物としての原料の調達と製造技術としての情報の活用とサービスとしての労働などの組み合わせからなるわけだから、システムとしてそれらが有効に機能していればそれなりにちゃんとした製品が出来上がるわけだが、わかりやく言えば何らかの不具合が原因でそれが機能しなくなると物作りがうまくいかなくなるわけで、その不具合というのがシステムの構造上の欠陥ならをそれを修正すればいいのだろうが、それ以外のわけがわからない何かが不具合をもたらしているとすると、それを発見して取り除かない限りは問題は解決しないだろうか。だがそれが問題という認識にさえ至らないとすると手の打ちようがなくなってしまうのかもしれず、そうなると何だかわからないまま次第に物作りがうまくいかなくなってきて、それに依存する産業が衰退していってしまう成り行きとなるだろうか。それに関してよく言われるのがサービスとしての労働の質の劣化が起こると製品の歩留まりが悪化してくるわけだろうが、労働者のメンタルな面での荒廃が進むと、いくら厳しく教育してもうまくいかなくなるだろうし、労働者が労働に対して生きがいを得られないような状況ともなれば士気が上がらず、結局はそれは現場で働く労働者とそれを管理する立場の従業員との格差に起因する場合もあるのかもしれないが、現代の産業状況ではやはりそんな単純なシステムの構造となっているわけでもないだろうし、それよりは社会の全体から醸し出されるイメージとして物作りに携わる人々が主役ではないことは明らかであり、そんなことは昔からそうなのかもしれないが、昔よりはその格差がはっきりとしてきたのかもしれず、それはメディアの発達による影響も大きいのかもしれないが、労働に対して幻想を抱けないわけで、労働よりも他のことに気を取られていた方が現状に対する幻滅を忘れていられるだろうし、例えば気晴らしにネット端末の画面でも眺めながら操作していた方が楽な気分になれるのではないか。そんなわけで格差社会の中で暮らしていくにはネット端末が必需品となってくるのかもしれないが、ネット端末上で繰り広げられる動画のクリエーターと呼ばれる人々がやっていることも、ある意味では物作りの一種なのだろうが、その再生回数の多い動画ほど知性や理性などを必要としないたわいないものが大半となることは言うまでもなく、それが世の中の荒廃を物語っているのか、あるいは気晴らしの暇つぶしなのだからそれで構わないのかは何とも言えないところかもしれないが、動画のクリエーターもそれを暇つぶしで見ている労働者もたわいないことを必死でやらざるを得ない状況は変わらないのかもしれない。

 格差といえばCEOと呼ばれる企業経営者がメディア上で脚光を浴びる一方で、一般の労働者が無視されるのは当然のことかもしれないが、そういうこととは違う次元で何かが起こっているのかもしれず、もしかしたら企業経営者も一般の労働者も共にたわいないことしかできなくなっているのかもしれず、社会を管理する制度がそれ以上のことをやらせてくれない仕組みとなっていて、そもそもそれ以上のことをやる必要がなくなっているのかもしれない。それはもちろん政治的な指導者全般にも言えることかもしれないが、それをどうしても認め難い反体制派の人々は必死の形相で深刻ぶって危機感ばかりを煽ってしまうのだろうが、それは世界の中で繁栄している地域ではすでに衰退が始まっている証拠かもしれず、それが製品を売ることよりもサービスを売ることが重視される状況にも表れていて、しかもそのサービスがネット端末を経由してたわいない動画を見させたり、たわいない会話を楽しむサービスだったりするわけで、そんな状況の中で人々が受け取る情報というのが、何かを真剣に考えさせるような情報ではなく、ひたすら暇つぶしに楽しむようなたわいない情報が大半であったりするわけで、それらが深刻な社会問題を忘れさせるような効果を及ぼしているのだろうし、それを深刻な社会問題だとは思わなくても済んでしまうような状況をもたらしているのではないか。だからと言ってそんな傾向を押しとどめることなどできはしないだろうし、人々はそれを楽しむことしかできないような成り行きに巻き込まれていて、実際にそんな状況を楽しんでいること自体がメンタル面での荒廃だとは思えないだろうし、精神の荒廃とは何かもっと深刻で絶望的な状況だと思いたいのだろうが、実際にそれを体験してみたらそうでもないことに気づけないばかりか、逆にそれに目覚めて危機感を煽っている人々が不快に思われてしまうわけで、それらの人々との間に理解しがたい溝が生じてしまっていることが、こちらに非があるからそうなってしまったとは到底認められないだろうし、別にどちらに非があるわけでもなく、それが世の中の繁栄とともにもたらされる弊害なのだろうから、それを肯定したり否定したりしても仕方のないことなのかも知れない。ただ必死の形相で危機感を煽っている人々がいることは確かで、実際にそういう人々が感じ取っている危機感を共有しがたいとしても、そんな危機感をもたらしている状況の中で自分たちが生きていることは確かなのだろうし、そんな時代に絡め取られていることを自覚しようと、それ以上のことができなければ現状の中で右往左往するしかないわけで、できることはそれ以上のことではないわけで、できないことをやる必要はないわけだ。ではそれ以外で何をやればいいのかというと、それは人それぞれで違うのではないか。要するに世の中の流行に惑わされて他人と同じようなことをやらなくても、普通に暮らしていけるように工夫しなければならないのかもしれず、結局人は現状の中で絶えず工夫を凝らさないと現状の中に現状のままとどまるしかないということだろうか。そして工夫を凝らせば産業技術の進歩という過去の幻想にも立ち返ることができるのだろうか。


10月25日「既得権益と社会貢献」

 企業の目的は利益の追求だけではなく、その活動が社会に貢献することを目的としている場合もあるのだろうし、企業が活動している地域で雇用機会をもたらして、その地域を管轄している行政機構に税収をもたらせば地域経済が潤い、また利益の中からその地域の祭りや各種の行事などの文化事業や市民活動へ協賛金などとして出資すれば、それが社会貢献になるわけだろうが、そのようなところから政治とのつながりや結びつきが生まれるのだろうし、政治を単純なイデオロギーとの関連で捉えてしまうと、そういう部分を見落としてしまうのだろうし、そのような理性では測れない慣習的な作用を及ぼすのが保守的な政治勢力が握っている領分であり、その関係が実利で成り立っているだけに、その中で不正行為やごまかしなどが行われていても、外からそれをいくら批判しても根本的に改まることはなく、そのような関係を維持し続けようとしてよそ者を排除するような意識も生まれるだろうし、程度の差こそあるものの、よそ者を排除するような差別の萌芽がそこにある限りは、何らかの煽動をきっかけとしてそこからヘイト的な活動が繁茂する危険は常にあるのではないか。だが何事も根本的に断ち切ることはできないわけで、断ち切ろうとするとかえって反発が強まってこじれてしまうだろうし、それは恩恵と弊害が表裏一体となって作用するような関係であり、そんな中から都合の良い部分だけを取り出して育てるわけには行かず、そこから恩恵を受けながらも同時に弊害にも対処するようなことが常に行われていなければならず、それを怠ると不正行為が横行して腐敗していくような成り行きとなるのだろうし、それが顕在化してきてから批判してももはや手遅れとなっている場合が多いのだろうか。たぶんそれも許される範囲内で行われていることなのだろうし、関係者は不正が明らかになる度に小手先の改善策を提示してそれで済まそうとするのかもしれず、そうやって根本的な解決を見ないまま問題は弊害とともに先送りにされて、そんな状況の中でも慣習的な行事が滞りなく行われている限りでそれらの関係は続いていくのだろうし、それとともに関係者や関係団体にはそれなりの恩恵がもたらされて、またそれが弊害となって現れるような部分も出てくるのだろうし、それが恩恵を受けられない人や集団との経済格差や政治的な権力の差となるわけだろうが、社会の中でそのような格差を維持することが、そのまま世の中の秩序を維持することもつながるのだろうし、そんな状況を保つことこそがそのような関係から恩恵を得る上では必要なことなのかもしれず、それが既得権益と呼ばれる利権であり、世の中がそのような既得権益によって隙間なく構成されていれば、それだけ結束の強固な社会となるのだろうが、社会には内部の他に外部もあるわけで、絶えず外部からの圧力にさらされているから、何かのきっかけで既得権益を維持できなくなる可能性も出てくるわけだ。

 それに関して単純に考えるなら、既得権益を維持しようとする勢力と壊そうとする勢力との間で、何らかの闘争が行われているような説明が説得力を持つかもしれないが、それが改革派を自称する政治勢力が主張する詭弁に使われる場合があるわけで、実質的には争っているどちらの勢力にも既得権益があるのだろうし、また争いに勝利して新たな既得権益を作りたい思惑もあるのかもしれず、改革自体が従来からある既得権益に代えて別の既得権益を作るような改革なら、その既得権益の恩恵に与れない人や集団が必ず出てくるわけで、単純に既得権益の打破を目指すような政治的な主張には常に裏があることを認識しておくべきで、またそのよう政治勢力を支持する人や集団も新たな既得権益に与ろうとする思惑があるのかもしれないし、そんなふうに改革だの既得権益の打破だのの主張に単純に賛意を示すことが、実質的な改革や既得権益の打破には結びつかないことは理解しておくべきで、結局はそんなことを主張して選挙に勝利して政治的な主導権を握った勢力が実際に何をやったかが重要なのであり、その何をやってどうなったかを次の選挙での判断基準にすればいいわけだろうが、そうしたところで実質的な改革や既得権益の打破に結びつかない場合もあるだろうし、そんなところまで考慮しない人が大半を占めている状況もありそうで、選挙では何も変わらない状況があるとすれば、そんなものだと思うしかないわけで、だからと言って何をやっても無駄だとは言えず、選挙自体も特定の政治勢力の既得権益を維持継続させるための制度である面もあるわけだから、また既得権益による恩恵を受けていると思っている人が世の中で多数派を占めている場合もあるわけで、それが改革しなければならない制度であれば、制度の改革を主張する勢力を支持するような成り行きも出てくるのかもしれず、様々な方面から多角的に状況を捉えて見る必要がありそうで、いずれにしても単純な判断基準で状況を捉えようとすると状況を見誤ってしまうだろうし、わざと状況を見誤らせようとして単純な論理を振りかざして煽動を仕掛けてくる人たちがいくらでもいる状況なのだろうし、そういう人たちの煽動には乗らないように心がけておかないと、そういう人たちが所属する政治勢力が保持する既得権益をいつまでも突き崩せない状況となってしまうわけで、自分もそんな既得権益に与かれる立場ならそういう勢力を支持していればいいのかもしれないが、その恩恵を受けていると思っている既得権益というのが、実は自分の活動や思考の自由を奪っているのかもしれないし、それに気づかなければそもそも自由など不要なのかもしれないが、たぶん世間で肯定的な意味で理解されている幸福という概念が、自由を奪われることによって実感されるようなものなのかもしれず、既得権益によって社会につなぎとめられて不自由な状態の中で生きていくことこそが、人にとっての幸福そのものかもしれない。


10月24日「事態の進行」

 手法として行政機構の膨らんでゆく財政赤字を減らして黒字化するやり方があるのかというと、たぶんあるのだろうし、実際に行政予算の黒字化を実現した事例もあるのだろうが、それが政治的な支持を得られるのかというと、どうも支持よりは反発を招いてしまう場合の方が多いのかもしれず、特に予算の削減は権限の強化や勢力の拡大を目指す行政機構そのものからの反発を招くのだろうし、行政機構とそれと癒着している産業界や、それらの意を受けて世論操作を引き受けているメディアと、メディアが操作の結果として示す世論などが予算の削減に反対しているとすれば、無駄な出費を減らして効率化を目指すような行政改革が掛け声倒れに終わる可能性が高くなるのだろうし、それが財政赤字が減らない原因として説得力を持つのかもしれないが、そのような世論に逆らって行政改革を断行して財政の健全化を推し進めるにはどうしたらいいのかといえば、そういう問いに対する答えにはたどり着けないような成り行きがあるのかもしれず、実際に誰の目にもうまくいかないことがはっきりするまでは、現状の延長上で事態が進んで行き、それに逆らうようなことを行う人や勢力は排除される成り行きも生じてしまうのかもしれず、そのような成り行きとは無関係なところから思いがけぬ出来事がもたらされない限りは、現状を変えるようなきっかけとはならないのかもしれない。しかも仮に財政破綻しても行政機関は困らないだろうし、困るのはそこで暮らしている住民だけかもしれないのだが、メディアによって世論がコントロールされている限りは、それに逆らうような世論が形成されることはないだろうし、住民の声が政治の場へと届くことはないのかもしれないが、別に住民の側でもそんな声が強まっているわけでもないだろうし、世論は主体的に形成されるわけではなく、メディアの報道姿勢や政治に対する論調などから受動的に形成されるのであり、メディア上で現状の政治に反発する声が強まらない限りは世論もそうならないわけで、そういう意味で世論とは住民側が主体となって巻き起こすようなムーブメントではなく、メディアの主導によって作られる匿名の声の集合体であって、それが特定の個人の主張と重なるところがあるとしたら、それはその人がメディアの主導で作られた世論に影響を受けている証拠となるだけで、少なくともその人が主体となって主張される意見とは別種の声なのではないか。そしてそのような情報統制が有効に機能している限りで現状の成り行きが変わることはないのかもしれず、それに対する反発の声は絶えず抑え込まれる傾向にあるのではないか。

 そのような世論に対する住民の反応としては、影響を受けて同調するか不快感と共に反発するか興味がなければ無関心となるのかのどれかだろうが、メディアとしては住民が世論に同調してほしいだろうし、行政機構がそうであるようにメディアも権限の強化と勢力の拡大を目指しているわけだから、住民の味方を装いたいというよりは自分たちが作り出す世論に従わせたいわけで、そこに権力への意志が介在しているわけだ。メディアに関わっている人たちが意識してそう思っているわけではなく、社会の中でメディアが果たす機能や動作が権力の意志を構成するのだろうし、社会の中で動作が有効に機能するほど権力が強まることになって、その存在の権威化が促進するのではないか。それは議会の中で特定の政党の議席が増えるほど力を増してくるのと同じようなことであり、人々が目にする機会が多いメディアほど影響力が増してきて、それが広告収入に頼るメディアなら収益も上がってくるだろうし、その代表例がネット上で検索サービスを提供する企業やSNSを主催する企業なのだろうし、そうやって情報の占有率が高まると、それによって獲得した社会に対する影響力を積極的に人々に向かって行使しようとしてくるのではないか。もちろん誰もがそれとわかるようなあからさまなやり方では警戒されて場合によっては反発も招くだろうから、なるべく気づかれないように影響を及ぼそうとするのだろうし、それが利益に結びつくようなやり方となればいいわけで、具体的には何かと自社のサイトを人々が利用するように仕向けてくるのだろうし、そのための無料のメールやウェブページ作成やデータ保存サービスなどなのだろうし、またそのついでにオークションサイトや通信販売サイトなどを利用してもらえば手数料収入を稼げるわけで、そうやって経済的な利益の獲得を目指している限りでは、政治的な主義主張とは無関係のように思われるかもしれないが、多くの人が政治以外のことに気を取られて政治に対して無関心になることも、選挙での投票率の低下とか政治に少なからず影響を及ぼすだろうし、わざと投票率の低下を狙っているわけではないとしても、結果としてそんな成り行きに貢献しているとすれば、しかもそれが企業の利益に結びつくとすれば特に改める必要はないだろうし、積極的に妨害しているわけでもなければ無関心になることを奨励しているわけでもないのなら、そんなことが問題視されるわけでもなく、それよりもそれとは違う方面で例えば政治的な極右化とかの方が問題視されているわけだから、そんなことが世間の話題となって人々が気を取られているうちに政治に対する無関心化が静かに進行してゆけば、投票率の低下とともにますます組織的な活動によって極右化が社会の中で顕在化するような事態となるだろうか。


10月23日「企業活動と産業の成熟」

 人が集団で組織的に何かをやろうとすると、必ず単純な目的や目標が定まって、それによって集団内にいる人たちの行動や言動を拘束することになるわけだろうが、そんな目的や目標から逸脱する部分で人は自由を求めるのだろうし、それが集団の目的や目標を阻害するとみなされると、自由を求める人は集団によって弾圧されることとなるだろうか。それを避けるには集団と個人との間で何らかの折り合いをつけなければならなくなり、普通はそういうところで交渉の余地が生まれるのだろうし、また労働者を守るために行政的な指導や法整備も行われている実態もあるのだろうが、実際にうまい具合に折り合いをつけられたら、集団の中でもある程度の個人の自由が確保されることになるのではないか。企業の中でそんなことが実現するには、収益が安定するとともに他社との競争が鈍感して、それなりに企業経営や経済活動に余裕が生まれることが前提となるだろうか。それに関しては企業間の系列化や垂直統合が促進されると、複数の企業が系列で繋がったり統合される中で、上位に位置する企業では確かに余裕が生まれて従業員の待遇が改善されるが、下位に位置して下請けなどに甘んじている企業では上位に位置する企業から何かと搾取されて、利益が出にくい過酷な経営環境の中で従業員の職場環境も劣悪になって疲弊してしまう場合があるだろうし、それは国ごとの格差にも影響を及ぼすこととなり、先進諸国の優良企業は系列や垂直統合などの分業体制でも比較的上位に位置していて、快適な職場環境が保たれているのに対して、それらの企業からの下請け仕事が回ってくる国の企業では、低賃金で長時間労働などの劣悪な職場環境になることが多いのではないか。もっとも先進国の中でも経済格差が問題となっているわけだから、下請け仕事専門の中小企業などいくらでもありそうで、そうした企業の職場では同じような問題が起こっているのだろうし、企業間の序列ができあがって格差が生まれると、当然のことのように上位に位置する企業から下位に位置する企業へと権力の行使や搾取が行われることになって、結局そんな仕組みを伴って資本主義経済が世界を覆っている現状があるとすると、それを政治的に解決するのは困難だろうし、下請け企業が多い国の政府としては、自分たちの国の企業が世界的な分業体制の中で上位に位置できるように、何かと方策を打ち出してくるだろうし、先進諸国の企業よりは自分たちの国の企業を優遇するのは当然であり、場合によっては先進諸国の企業の技術を盗むために国家ぐるみで産業スパイなどの行為を画策する可能性もあるのかもしれない。

 そうだとしてもいったん世界的な知名度を獲得したブランド製品やサービスを扱う企業の牙城を突き崩すのは容易なことではないだろうが、場合によっては中国やインドの企業ようにブランドをその部門ごと買い取ってしまうようなことも行われるわけで、そうやって先進諸国からその他の国へ技術やブランドが移転することもあるわけだが、先進諸国では物作りよりも情報を取り扱うことによって利益を上げる方向へ傾斜して行こうとしていて、物の土台の上に情報の付加価値を積み上げようとするわけで、わかりやすい部分では特許料などがそうだろうが、他にも広告宣伝料だとかコンサルタント料とかデータ通信料とか様々な面で情報やサービスに対する課金が行われる傾向にあるのだろうし、それは先進諸国以外でも普通に行われていることではあるのだろうが、産業の成熟に伴って製品の製造だけでは利益が出にくくなってきて、そこにサービス料を付加する傾向になってくるのかもしれず、しかもそこでも無料のサービスなどが出てきて、消費者にはどこから利益が出るのかよくわからなくなってくるだろうが、それは製品の価格に上乗せされていたり、何かとわかりにくいところでサービス料や手数料として徴収されている場合があって、だんだんとそれは税金のような形態に近づいていくのかもしれず、そもそも行政機構の必要経費として徴収される税金そのものがサービス料や手数料の類いなのであって、それが行政活動に伴って生じる様々な情報を取り扱いながら住民に何らかのサービスを提供するのに必要な費用なのだろうが、企業としてはそこから利益を上げる必要に迫られているわけで、また行政機構は利益を上げる必要がない反面で財政赤字が膨らんでゆく傾向にもあるわけで、しかも公共事業などの経済政策によって企業に利益を上げさせるために行政機構の財政赤字が膨らんでゆく傾向にあるとすると、何かそこに避けては通れない因果関係が潜んでいるように思われてくるし、それが将来の財政破綻を招く危険があると考えればそれを是正する必要に迫られるわけだが、是正しようとして国家的な経済危機を招いてしまった事例もあるのだろうし、是正しようとした時点ですでに経済危機であったわけだから、一概に財政赤字の是正が経済危機を招く要因とは言えない面もあるのだろうが、少なくとも行政面で財政赤字の拡大を食い止められない現状があるとしたら、それは何らかの悪循環を招いていることは確かなのかもしれず、またそれが企業活動から生じる産業の成熟に伴って起こる必然的な成り行きだとすると、資本主義経済が招く宿命的な欠陥だとも言えるのではないか。


10月22日「未来への希望」

 製品やサービスは実際に使ってみて良いか悪いかを判断するのが当たり前のことなのだろうが、一方で良いか悪いかではなく、まあこんなものだと妥協してしまう場合もあるわけで、別にそれを仕方なく使っているわけではないとしても、他の事情でそれを使うことについてあまりこだわりを追求したくない時には、いつまでも良いか悪いかの判断を保留したまま使い続けている場合もあるだろうし、そういう曖昧な面を保持できるようならそれだけ心に余裕があり、多少の使い勝手の悪さなど気にしなくても済んでしまうわけだが、逆に物事に対するこだわりが切実に感じられるほど、そのような妥協的な態度が許せなくなるのかもしれず、また何かにこだわれるのはこだわれるだけの力があるということにもなるのかもしれず、何らかの妥協を強いるような同調圧力を跳ね返せる力があるということにもなるのだろうが、何を妥協して何を妥協しないかについては、その人が抱え込んでいる固有の事情にもよるのだろうが、そこに社会的な慣習が絡んでくると、妥協しても良いことと妥協してはだめなことに関して、共通の基準のようなものが構成されてくるのかもしれず、やはりそれが同調圧力となって社会の構成員の行動や言動を規制してくるのだろうが、果たしてその社会で主導権を握っているように思われる何らかの勢力が、自分たちにとって都合の良い規範の類いを他の構成員に強いることがどれほどの程度で可能なのだろうか。またそのような同調圧力がどの程度の強度で社会を覆っているのかも、あまりはっきりとはわからないところかもしれないが、そこで何か狂信的なことをやろうとする勢力が台頭してくると、やはりそういう人たちの行動や言動が異常に思われてくるのは当然であり、そんな勢力が社会の中で主導権を握ろうとしているように思われれば、何か深刻な事態の到来を予感させるだろうか。少なくとも気づかないうちにそうなってしまうわけではなく、誰もが薄々感づいているはずで、一方で関わりたくはないから見て見ぬふりを決め込む場合が多いのかもしれず、それはおかしいのではないかとはっきりと表明できない人が世の中の多数派を占めている場合は、そんな狂信的な勢力に社会の主導権を握られてしまう事態が到来するのだろうか。そういう可能性があるというだけで、実際にそうなるかどうかはそうなってみないことにはわからないことだろうが、普通に考えるならおかしいと思ったら違和感や疑念などを表明するのが当然の対応だろうし、それを怠らない人が確実に一定数いれば、多くの人がそれなりに妥協や同調などには屈しないでいられるのかもしれないが、現実にはそれとは少し違う方面で誰もが想定しないような事態が進行中なのだろうか。

 危惧の念の表明や危機感を煽る言動ならありふれているかもしれないが、それとは違うところで進行中の事態とは、簡単に言えばそれはリアリティの希薄化なのかもしれず、情報だけでなく物と人と情報との関わり合いの中で得られる実感が希薄になってくると、物事を単純化して解釈しても何とも思わなくなって、物質的な粘り気を感じられなくなってくると、良いか悪いかの単純な判断からずれてくる部分を感知できなくなってくるのではないか。そうなると意識は単純な論理への狂信へと至り、物事の幅や奥行きを省略して白黒をはっきりさせようとしてくるわけで、単純な決めつけで何もかもをごり押ししようとするのだろうが、たぶんそんなことをやっていくうちにそれでは済まなくなってくればいいのだろうが、実際にそうなってしまうから世界情勢が混沌としているわけで、その混沌とした世界情勢を視界から排除できる限りで成り立つ態度というのが、ごり押し的な決めつけで状況を乗り切ろうとする姿勢なのかもしれない。そして平和な社会ではそれで成り立っている部分が社会の中に確実にあって、何らかの制度や慣習がそんな態度を支えていて、そんな姿勢を保っていられるように制度を支える裏方がそれなりに段取りをつけてくれるわけだろうが、それが無理になってきた時にどうなるかが今のところはよくわからないのだろうし、とりあえず破綻しない程度には取り繕っている現状があって、それがいつまでもつかはわからないものの、もっている限りでそれを続けようとしているのだろうし、何とか威張れる範囲内でごり押し的な姿勢を維持しながら体面を保っているわけだ。体面を保てない部分に関しては嘘やごまかしで塗り固めるしかないのかもしれないが、それを許すか許さないかは世間が決めることになるだろうか。世間そのものが嘘やごまかしで成り立っている面もあるわけだから、許される範囲内で許されるしかないのだろうが、その一方で威張ったりあからさまなごり押しをやって被害を被っている部分についてはどの程度許されるのだろうか。それもその場の情勢に左右されるのかもしれないが、それらの許容限度が一方的に低くなったり高くなったりすることはないのかもしれず、ある面では許されて別の面では許されない事態も起こりうるだろうし、それに一貫性が感じられない場合はやはり世界情勢と同じように世の中が混沌とした状況となるだろうし、そうなればごり押しが維持できなくなるとともにいやでも物質的な粘り気や湿り気を感じざるを得なくなって、その結果としてこの世界のリアルな物質性が復権してくるのかもしれないが、人の精神がそれにどれほど耐えられるかどうかはよくわからないだろうし、ごり押しが通用しなくなった状況の中でどんな政治的な態度が可能となるのかも、その場での試行錯誤に委ねられることとなりそうだ。


10月21日「商品と政治」

 何でもないことにこだわるのは商品宣伝による影響が大きいのかもしれないし、何でもないこと以外に何があるとも思えなければ、何でもないことにこだわるしかないのかもしれないが、こだわっている限りでそれは何でもないことではないのだろうし、ともかく同じ用途で使う商品であっても、特定のブランドを選んでいるとすれば、その選択を正当化するためのこだわりが必要となってくるのだろうし、それが他の商品と比較する上で些細な差異でしかなければ、人によってはそんな差異などどうでもいいことのように思われるなら、やはりそう思われる限りでその人が何でもないことにこだわっていることの証しとなるわけで、自分としては何でもないことではないと思っていても、他人にとっては何でもないことだとすれば、人それぞれで認識や見解が異なるということになりそうだが、それは価値観の相違ともなるだろうし、それが同種の商品の間で生じていることだとすれば、その商品に関心のない人からすれば、そんな違いなどどうでもいいことのように思われて、やはりそれは何でもないことにこだわっているように思われてしまうだろうか。同種の商品の間で販売競争が繰り広げられているような場合は、その商品の宣伝の中で自社の商品と他社の商品の違いが強調されて当然だろうし、結局そのような些細な違いの不必要な強調が、その商品を購入する人の感覚を狂わせてしまうのかもしれないし、その商品には関心の薄い人には不必要に思われるような差異の強調が、たぶんその手の煽動の本質的な効果をもたらしているのかもしれず、そうやって何らかの違いを強調してそこに決定的な差異をもたらそうとする手法は、ある意味でそれはフィクションの創造だとも言えるわけで、別の言い方に直すならそれは煽動による差異の捏造とも言えるだろうが、そうやって煽動の対象となっている人に煽動する側が肯定する価値のある商品を選ばせるようなやり方が世の中に普及している状況があって、そんな商品の宣伝手法が政治宣伝にも導入されているとすれば、やはり政治の場でも煽動によって人々が何でもないことにこだわるように仕向けられている状況がありそうで、そんな無理やり差異や対立を捏造してどちらか一方を選ばせようとする行為が、人々の感覚を狂わせていることは否定しようがないだろうか。確かにそれが虚構でしかないことに気づかないと、そこから社会の中で無用な対立や軋轢が生じてしまう原因となるだろうし、それに関して理解しなければならないのは、煽動によって意識される差異や相違が虚構であるとしても、意識されている事実は虚構ではないということだろうし、価値とは人がそれを意識することによって世の中に生じるのであり、そんな価値に対するこだわりが実際に世の中を動かすこともあるということだろうか。

 宣伝を真に受けて同種の商品の間に生じている些細な違いにこだわることと、煽動を真に受けてそれほど違わない複数の政治勢力の間に決定的な差異を見出してしまうこととの間に何か違いがあるとすれば、それは個人的な好みの範囲内で収まることと個人を超えて社会的な影響力を生むこととの違いだろうか。商品と政治ではそれによって巻き込まれている範囲も次元も異なるだろうし、実際に政治的な次元で煽動による価値の捏造が行われているとすれば、それがより深刻な事態だと思われてしまうわけで、そうなると商品によるたとえ話程度では済まないような何か大げさな社会問題を含んでいるように思われてしまうだろうし、その大げさな社会問題に真剣に取り組んでいるような演技をジャーナリストも政治家も好んでやろうとするのかもしれないが、やはりその演技が空回りしているような印象を世間に与えてしまうのは商売上でも得策ではないだろうし、実際に社会問題に取り組んだ成果をメディア上で強調しなければならなくなるわけで、たとえそんな問題には関心のない人にとっては何でもないことのように思われようと、そういう問題に食いついてくる一般市民を味方につける上で、他との差異を強調する煽動が欠かせなくなるのだろうし、やはりそんな煽動を繰り返してしまうと、それを真に受ける一般市民の感覚も狂ってくるのかもしれず、別に大した問題でもない社会問題に取り組んでいる割には大した成果も上げていないように思われてしまってはまずいわけだから、問題への取り組みの宣伝内容が問題自体が社会に深刻な影響を及ぼしているように見せかける必要が出てくるわけで、そういう宣伝ばかりが情報としてメディアに充満しているような事態ともなれば、何か今にも世界が破滅へ向かって加速しているような印象を与えかねないわけだが、実態としてはそんな危機感を煽りまくりなメディアが全てではないことはわかりきったことで、中にはそれに輪をかけて虚構性を強調するようなメディアもあるわけで、それがオカルトや陰謀論などを専門に扱うメディアなのだろうが、そのようなメディアの玉石混淆状態をどう判断するかはそれを受け取る一般市民の良識に任されているわけでもないだろうし、そこで繰り返されるたわいない論理の単純化を信じてしまっても、他の誰が過ちを指摘してくれるわけでもないし、一般市民がどの程度それらの虚構を信じてくれるかで、社会全体から構成される世論の傾向も変わってくるのだろうし、また別にそれを虚構だと思っていても、そんな虚構を物語ってくれる人たちを支持している場合もあるわけで、それが娯楽と呼ばれる楽しみを提供するサービスにつながっていくわけで、たとえ気鋭のジャーナリストが政治家の嘘を暴いて見せても、嘘も方便だと思っている支持者たちにとっては痛くもかゆくもないわけだ。


10月20日「終末論」

 視覚に頼り過ぎると盲目などという比喩では説明できないような間抜けさ加減が、見えているものを見ないように振る舞う態度に伴って生じてしまうのかもしれないが、しかし人はなぜ見えているものを見ないように心がけながら語ろうとするのだろうか。確かに社会の中にはそれに関して語ることが憚られるような対象があるのかもしれないし、たぶんそれを語ってしまうと語っている自らを正当化できなくなってしまうのかもしれず、何とかそれについては語らずに物事を説明しようとして、結果的に見苦しい醜態を晒してしまうのかもしれないが、果たして現状では誰が見苦しい醜態を晒していることになるのだろうか。それに関しては案外目先の勝負にこだわった側がそうなってしまうのかもしれず、公衆の面前で醜態を晒してでも勝ちは勝ちであり、勝利は勝利として肯定すべきかもしれないし、勝利とともに満足感も利益も得られたと思っておいた方が気分がいいだろうし、その点で汚い手口を使ってでも勝利を得られたら、そんな自らの醜悪な相貌を見ないように心がけるのも、精神衛生上は好ましい態度となるのかもしれないし、何よりもそんなことにさえ気づかないでいられたらなおのこと快適に暮らしていけるだろうし、それに関してはあまり利口になってまずいわけで、たとえ高尚な理性や知性を身につけたところで、自らがやっていることで自己嫌悪に陥ってしまうようでは、かえってそれらが行動の邪魔になったり精神的な重荷になってしまうわけで、そういう面では世の中の情勢に適応するには理性や知性が不要となる場合もあるわけで、少々のことに過剰反応するようなあまりにも神経質な繊細さよりは、見えているものに気づかなくても一向に気にしないような鈍感さが時には必要となってくるだろうか。だからそういう鈍感さは盲目などという比喩では説明できない状態から生じてくるのだろうし、しかも鈍感であるからこそ自らがやっていることを意識しないまま結果的に大それたことをやってしまえる可能性が出てくるのかもしれないし、かえって周りの状況が見えすぎている人にはやっても無駄だと思われてしまうようなことでも、無駄だと思わずにやっているうちに、試行錯誤や紆余曲折を経た末に結果的に無駄でないことをやっている状態にたどり着けるのかもしれず、そういう意味で何だかわからないことをやっている感覚が、後々成功や勝利への重要と鍵となってくる場合もあるわけで、何かをやっているうちに次第にやっていることへの理解が深まってくれば、それについて学びながら何かをやっていることにもなるわけで、そういう意味でも焦って性急に結論へと至ろうとしない方がいいのだろうし、たとえ途中で思わぬ横道に逸れてしまうような場合でも、辛抱強くその道を辿ってみることが肝要なのかもしれない。

 人は目先の勝利にこだわっている限りで、その勝利と引き換えにして失ってしまうものについては鈍感にならざるを得ない。別にそんなものなど要らないとも思わずに失ってしまうものがあるのだろうし、場合によっては死ぬまでそれに気づかないことだってあるのかもしれないし、ならばそんなものなどどうでもいいものでしかないのだろうが、人によってはそういうものを切実に欲している場合もあるわけで、中には欲しているという自覚すらなしに欲している場合さえあるのかもしれず、それが世間でも無意味で無駄なこだわりであるとされたら、意味のない欲望でしかなくなってしまうわけだろうが、それを自覚していなければ別に世間体を気にする必要もないわけで、それと気づかないうちに何かをやっているとしたら、やっていることに気づかない方がそれを貫徹できる可能性が高くなるのではないか。それは初志貫徹といった単純なことではなく、行き先の定まらない成り行きの中で解決へと繋がる糸口をつかむようなことなのかもしれず、しかもそれを解決だとも思わずに結果的に何かを成し遂げているようなことにでもなれば、そんな結果自体がそれをやり通した人の意識とも無関係となる可能性もあるわけで、別にそれを意識して目指しているわけではなくても、結果的に何らかの成果が上がるようなら、それはそれで愉快な成り行きなのかもしれないが、その渦中にいる当人にはそんな実感など湧いてこないだろうし、何だかわからないが悪戦苦闘を繰り返した挙句に非業の最期を遂げてしまえば、それでは悲劇の主人公となってしまい、当人には愉快でも何でもないこととなってしまうだろうが、案外そんな人の犠牲によって世の中が栄えている面もあるのかもしれないし、そんな犠牲者の自覚もないまま心身をすり減らしながら死んでいく人が多いほど、それだけ社会の変革も進んでいくのかもしれないが、逆に誰もが自己保身に汲々としていて犠牲になることを拒んでいるような状況だと、世の中の停滞を招いて多くの人が惰眠や虚栄を貪りながらも気づかないうちに社会の腐敗や荒廃が進行していくのかもしれない。だからと言って自覚して何をやるような成り行きにもなっていないとすれば、進んで誰かが社会の犠牲になるようなことでもないわけで、その辺を勘違いして自爆攻撃のようなことをやっても、それはただの無駄死にであり、あからさまなテロでなければ何が自爆攻撃だとも思えないだろうが、悲壮感を漂わせて危機感を抱いて深刻な事態への懸念ばかり示しても何にもならないわけで、そんな態度で凝り固まっている時点で既に状況的に追い込まれているのだろうし、見えているものを見ないように振る舞おうとしているわけで、結局そこで演じられている茶番劇を悲劇と勘違いしてしまうようでは、やはり神経質な繊細さを売りにして大げさな終末論へと向かうしかないだろうか。


10月19日「ありのままの現状」

 たぶんネット上の検索サービスが世界中でいくつもあるわけではなく、最大手の検索サービスが独占状態なのは周知の事実であり、それを提供している企業が検索サービスに絡めて莫大な額の広告収入を稼いでいるのも周知の事実ではあるわけだが、その企業が手がけている無料のメールサービスなどから得られる個人情報を基にして何らかの情報のコントロールが行われているとしても、それは個人の好みに合わせて広告を効率的に配信する必要があるからだろうし、手がけているニュースサイトでその国の体制側の印象操作に手を貸して政治宣伝などに加担しているとしても、やはりそれだけでは直接の政治的な権力の行使に結び付くとは考えられず、経済的な利益を得る目的以外で何らかの目論見があろうとなかろうと、それは枝葉末節なレベルのことかもしれないし、それが高じて本業以外の様々な分野へと出資して他の企業と競合関係に至るとしても、それは企業間競争の類いとなるだけだろうし、企業がどれほどの野心を抱いて政治や行政などと癒着しようと、経済的な利益を得ることが企業にとっての目的であることは言うまでもなく、政治の場での権力の行使とは直接は関わり合いのないことなのかもしれない。その辺のところで邪推してグローバル企業に敵意を持ってみても、日頃からネット上でその企業の検索サービスやメールサービスを利用している事実は変わらず、ニュースサイトや動画配信サイトで記事や評論を装った不快な政治宣伝や煽動を閲覧しても、そんなものだと思うしかないだろうし、不快に思っている限りでそんな印象操作に騙されているわけでもないわけだから、それを取り立てて深刻な事態だと思う必要はないわけで、確かにそんなものを真に受ける人も大勢いることは確かだろうし、実際にそんな宣伝や煽動によって多少なりとも体制側の政治勢力が優位を保っていようと、もしかしたらそれも枝葉末節なことなのかもしれず、本質は別のところにあるのかもしれない。たぶん事の本質は様々な枝葉末節な出来事や行為の積み重なりから構成されていて、それらは意識外から作用する社会情勢や状況からもたらされていて、それが現状のありのままの姿を見失わせているのかもしれないし、意識がありのままの現状を受け入れるのを拒否するような事態をもたらしているのではないか。しかしありのままの現状とは何なのか。意識が体験しつつある見たままの現状がありのままの現状とはどう違うのだろうか。別にそれの何が違うわけでもなく、ありのままの現状を意識できないとすればそれはフィクションと考えても良さそうで、そんなのは空想上の産物であり、逆に意識できるような現状しか現状でないといえばその通りで、そんなありもしない現状など考える必要はないのかもしれないが、空想できる範囲で考えられるとすれば現状はどんな空想をもたらすのだろうか。

 例えば意識は不都合な事実を隠そうとしているのかもしれず、不都合な事実とは拒否すべき現実であり、場合によっては非難され糾弾すべき現状なのだろうし、それに代わって伝えるべきは都合の良いことばかりかもしれないし、それは積極的に宣伝して然るべきことでもあり、結局それは自分たちが行なってきたことからもたらされた成果でもあり、そんな成果を喧伝すれば世論の支持を得られると期待されるのだろうし、すでにそんなことを行なっている時点でありのままの現状からは遠ざかっているわけで、不都合な事実を隠して都合の良い成果を強調しているのがありのままの現状なのであり、そして隠したままにしておきたい不都合な事実を暴こうとするジャーナリストなどを徹底的に叩かなければ、ありのままの現状を保てないわけで、実際にそのような体制批判を封じ込めるために情報統制を行いたいわけだが、そのためにはさらなる体制の強化と法整備が必要とされるだろうか。果たしてそれが現状で問われていることだとすれば、民衆には選挙でどのような選択肢が残されているのだろうか。たぶん問われているのはそれ以外にもいくらでもあるのかもしれないが、強引に恣意的な問いを設定したところでフィクションにしかならないだろうし、何か政治的に問われていることがあるなどと考えること自体が、ありのままの現状から逸脱した空想の産物でしかないのかもしれないが、ありのままの現状では何が問われているわけでもなく、ただ何らかの政治的な成果を強調したい体制側の政治勢力に対して、そんな成果など虚構に過ぎないと批判したい政治勢力やジャーナリストなどがいるわけで、そこで演じられている対立や争いを真に受けるかどうかが問われているわけでもなく、それとは別に判断すべきことがあるわけでもない。ただ安易な政治宣伝や煽動には乗らない方が知性的かつ理性的な態度を保っていられるだろうし、選挙ではその辺を考慮して投票すればいいだけなのかもしれないし、それによって取り立てて平和な現状が崩れ去るわけでもなく、意識が実感している現状の虚構性が明らかになるわけでもない。たぶん政治的には誰がどんな政治勢力に投票しても構わないのであり、投票結果からそれなりの状況がもたらされようと、そんな状況下で人の暮らしが成り立たなくなるわけでもなく、それはこれまでもそうであったしこれからも変わらないことなのではないか。何も政治的な選択を深刻に考えることではなく、ことによると投票によって誰を選ぼうと、それは民衆の暮らし向きの中では枝葉末節なことにしかならないのかもしれないが、そんな枝葉末節なことの積み重なりが現状を構成しているのだとすれば、投票自体は不快なことかもしれないが、地道に枝葉末節な行為を積み重ねていけば、それなりにありのままの現状を実感できるようになるのかもしれない。


10月18日「力の分散への勧め」

 制度はそれを利用できる人には便利に思われて、何らかの利益をもたらすようにも思われるが、利用できない人には逆に弊害をもたらして、利用できないことから損害や被害まで生じる危険があるだろうか。要するに制度を利用できる人とできない人との間に格差をもたらすわけだが、また制度を利用できるからといって制度の利用者である限りは、制度の構築や管理などには加われないわけで、制度を構築したり管理する人と制度を利用するだけの人との間にも格差が生じるわけで、制度の構築者や管理者と制度の利用者との間には権限の違いが生じていて、それを利用して制度を構築したり管理する人は制度を利用するだけの人に権力を行使できるわけで、制度の利用者にとどまる限りは制度の構築者や管理者に従わなければならず、そこに階層構造が生まれて、最上位の身分に属するのが制度の構築者や管理者であり、次に制度を利用するだけの人が続き、最下位に制度を利用できない人が位置づけられて、社会が一つの制度で統一されているとすれば、そのような社会は身分社会になるしかないのかもしれないが、幸い現状では複数の制度が複雑に絡み合いながら社会が構成されているので、ある制度の構築者や管理者が別の制度では利用者や利用できない状態にとどまる場合もあるわけで、それでも行政機構から生じる制度や資本主義経済から生じる制度などが社会の主流をなしている限りで、そのような制度の構築者や管理者が社会の中で優位な立場を占めていることは否めないが、それが絶対的に固定化された立場ではないわけだから、ある程度の流動性はあるわけで、その範囲内で主導権争いが起こっていて、政治的にも経済的にも主導権を握る勢力の交代劇が起こる可能性はあるわけだ。実際に政権交代のようなはっきりした事態が起こることは稀であっても、様々な分野で新たに制度の構築者や管理者になる人はいくらでもいるのだろうし、仮になったとしてもはっきりとした権力の行使が行われるような事態にはならない場合も多いのかもしれず、そこで目立った不都合や被害が顕在化しない限りは、特定の制度の利用者だけに特別な利益がもたらされるわけでもなく、また制度の種類によっては株式投資などのように、同じ利用者の立場であっても利益を得る人もいれば損失を出す人も出てくるわけで、誰がどのような制度を利用して利益を出して、他のどのような制度を利用して損失を出しているのかが錯綜しているうちは、社会の中でそれほど目立った格差は生じないのかもしれないが、メディア上で経済格差を強調するような言説が目立っているとすれば、確かに特定の制度を利用して利益を上げている人がいる一方で、その制度を利用できない人が不利益を被っている実態はあるのかもしれない。

 国家的な視点に立つなら行政に関係する制度によって、すべての国民にある程度の利益がもたらされるようになれば理想に近づくのかも知れないが、それを目指すために考案されたベーシックインカムにしても、実際に試してみてその有効性が明らかにならない限りは世界中に普及はしないだろうし、実際に試すにしても制度の構築者や管理者が悪用したり強引な権力の行使に対して、歯止めをかけられるような法律的な工夫が必要となってくるのではないか。またそのような包括的で支配的な制度では制度の構築者や管理者に権限や権力が集中しがちになるから、そうではなく個々の権力を弱めるために部分的で分散した複数の制度の複雑な絡み合いをより一層促すには、中央集権的な国家体制ではなく地方分権的な政治体制にすべきかも知れないし、それも政治的かつ行政的な枠組みだけではなく、経済的な枠組みに力の分散的な効果をもたらすにはどうしたらいいのかとなるのかも知れないが、それに関しては世界中で活動するグローバル企業に経済的な力の集中などの脅威を感じる人が多いのかも知れず、それを敵視するのも無理はないだろうが、政治的かつ経済的な力以外の力を強める方向での模索も必要となってくるのかも知れないし、それに関しては今のところはありふれたことしか言えないが、そもそも人の行動形態は周囲の環境から情報を入手して、その情報を知識として活かしながら行動する傾向にあるわけだから、個人として活動するにしても集団として活動するにしても、知的かつ理性的に振る舞うように心がけることが肝要であることは言うまでもなく、それを怠っている度合いが高いほど物事を単純化して解釈したり安易な煽動に乗せられて、特定の政治勢力による政治宣伝や企業の商品宣伝などの誘惑に屈して、それらの勢力の権力の増大に協力してしまうことになるわけで、そうなれば政治的あるいは経済的な権力の一極集中を招く危険性が高まってしまうわけで、その結果がただ制度の利用者となって制度に従うだけの存在となったり、反抗すれば制度を利用できなくなって被害や損害を被るだけとなってしまうわけで、そうなってしまうのを避けるにはバランス感覚を働かせて、特定の政治勢力や企業だけに権力や利益を集中させないような配慮が求められるわけで、政治的に可能なことはとりあえず選挙で力が分散する結果をもたらすような投票を心がけることだろうし、経済的に可能なのは消費者として特定の企業の製品だけを買わないように心がけることになるのかもしれないが、特定の政治勢力の政治宣伝や特定の企業の商品宣伝などの誘惑に屈してしまうとそういう行動ができなくなるわけで、結局そういうところで知性や理性が働くように心がけるしかないのではないか。


10月17日「制度化には不向きな部分」

 社会の中で人や物や情報などを管理する制度は何も公的な議会や行政機関だけが作って管理しているわけではなく、企業が提供する製品やサービスを介しても作られていて、企業はそれを人や他の企業や様々な団体などと交わす契約に基づいて管理しているわけで、それは企業内で行われる人や物や情報などの管理だけではなく、製品やサービスを提供している顧客にも及んでいて、公的な制度が定める法的な枠内で合法的な契約を結ぶことによって、そのような管理が行われているわけだが、一般的にそれは管理サービスの類いになるだろうし、顧客が企業に金銭を払って管理してもらうことになるわけだから、立場上は顧客の方が企業よりは上位に位置されるわけで、顧客はたとえ契約期間内でも決められた額の違約金などを払えば自由に解約することができるし、企業の方でも契約条項に違反するようなことを顧客が行えば解約できるような規約を設けて、契約の際に顧客にその趣旨に関して同意を求めているわけだろうし、実質的には双方ともにそれなりに対等な関係で契約を交わすわけだ。そしてそのような自由な契約を交わすことができる前提条件として、それを法的に支える公的な制度があるわけで、議会で制定されて行政が管理している公的な制度の裏付けがないと、経済活動の中で企業とその顧客の間で交わされる売買契約や賃貸契約や管理契約などの様々な契約も法的には効力を失ってしまうわけだ。もっとも契約を交わす段階では双方ともそこまでは考えていないだろうし、何かトラブルが起こった時にだけ法的な問題が生じるわけで、それ以外の面では信用取引の意味合いが大きく、それも契約内容の程度によるだろうが、双方ともにそれなりに懐疑の念を抱きつつ相手側を調査しながら交渉してみて、信用に足る調査結果が出揃ったところで、相手が信用できると判断された時に契約が結ばれる運びとなるのではないか。そんなふうに制度は制度として契約に関する交渉が順調に推移して契約が成立してからはそれなりに一定の動作と機能を果たすわけだが、契約が成立するまでの間にある交渉の期間が重要なのだろうし、そこで双方の間でまたはそれと競合する第三者との間でも駆け引きが行われるのだろうし、短絡的に制度の良し悪しを批判してみても、やはりそれは結果論でしかなく、まずはそのような制度を構築するまでには様々な紆余曲折があって、また交渉や駆け引きの末に双方が納得した上で契約を結んで制度を機能させるまでの間で生じる紆余曲折もあるわけで、さらに制度がうまく機能しない場合は制度に手直しを施さなければならなくなって、またそれをやる過程でも紆余曲折が生じるわけで、結局そんなことをやっている期間に多大な労力と経費がかかってしまうのだろうし、そういうところに有益な人的資源が集中的に投入されるのが現代的な企業の特質なのではないか。

 そしてそのような契約が締結されて制度がシステム的に動作し始めれば、あとは機械的に事態が進行していく限りで単純労働や機械の駆動力が必要となり、そういうところではひたすらオートメーション化が進行していくのだろうし、そこから考えると人間的な労働というのは、駆け引きや交渉の場で特に必要とされるのかもしれず、経済活動の中で人は他の人と対峙してコミュニケーションを図る時に人間的な労働を行なっていることになるわけで、機械に組み込まれて決められた動作を繰り返すような労働は、人間的な労働からは疎外されていることになるのかもしれないが、そういう部分での労働がAI技術などの進展に伴って全面的に機械化されるようになれば、人の労働はもはや人と人とのコミュニケーションに関係する分野だけとなってしまうだろうか。現状では全面的にそうはなっていないし、人と人とのコミュニケーションに代えて人と人工知能とのコミュニケーションも行われるような状況となっている面もあるのだから、一概に肉体労働と頭脳労働を差別化できないわけだが、何らかの制度を維持するには両方が必要であることは確かで、労働そのものが両者が入り混じっている面もあるだろうから、何事も一方的には動作しないし、どのような状況下でも何らかの均衡を保とうとするバランス感覚が働いていることは確かだろうし、制度が制度として動作している限りで、制度を維持継続させていくために必要な労働が生じているわけで、それが制度を管理点検する労働となるのだろうし、そんな労働の中で人も制度に組み込まれている面がある限りで、そこでは必ず人と人との間でコミュニケーションが図られることになるわけで、それは必ずしも機械的な単純作業とはならず、少なくとも現状ではそのような場面で人の労働が必要となっているわけだ。そこが一方的で全面的な機械化とは異なる傾向を示しているわけだが、そういうところで機械にも人工知能にも限界が露呈しているのかもしれず、そんなふうに制度のシステム的な動作が破綻してしまう箇所で、人が何とか手動でやりくりしながら制度を保とうとしている部分があって、ある意味ではそういう部分が人と人とが面と向かい合ってやる交渉であり駆け引きなのかもしれず、それなしには制度の維持もままならないなら、制度はシステム的に完璧なものとはなり難い部分があるということであり、制度を制度として機能させようとする限りで、人手を要する部分がいつまでも残ってしまうわけで、またコスト的にもある一定レベルを超えてしまうと機械でやるよりは人力でやる方が安上がりな部分も出てくるのかもしれないし、そういうところでも全ての工程での自動化を阻んでいる理由が生じているのではないか。簡単にいうなら人の経験と勘に頼るような労働がある限りで、そういう部分は制度的なシステム化には不向きだと言えるだろうか。


10月16日「制度に対応した行為」

 制度的に決められていることと、組織の中で担当者の裁量で融通が利く範囲で行われることとの間で食い違いが生じることは、制度の硬直化を緩めるためにも必要となる場合もあり、そんなふうにして制度の柔軟で弾力的な運用を行えば、制度そのものが含んでいるある種の不条理を減じるような効果をもたらせるのかもしれない。だがその柔軟で弾力的な運用が制度を悪用していると見なされると、職権を乱用しているような疑いをかけられて、場合によっては処罰の対象となってしまうのかもしれないし、そのような行為が良く見られるか悪く見られるかは、そのような行為の結果がどうなるかにもよるだろうが、そういう意味で制度的に決められることは大雑把な枠組みにとどめられるべきなのかもしれず、細かい点まで詳細に決めてしまうと運用の面で融通が利かなくなってしまい、かえってその硬直化を伴うような弊害が顕在化してきてしまい、その矛盾や不都合な点を突いて制度から外れるような行為が世の中に蔓延して常態化してしまうと、制度そのものが形骸化してしまうし、制度を用いて社会を統治しようとする試み自体が破綻してしまうのではないか。そういう意味で法律などの決まりごとを改定して制度の変革を目指す際には、その運用を想定する上で細心の注意を払わなければならないし、制度を利用して権力を行使する側に何らかの制限を設けることも重要なのかもしれないが、制度自体に絶対的な権威を与えないことも重要で、何よりも制度を絶対視するような教条主義に陥らせないための工夫が求められているのかもしれず、原則的には民衆が制度に従わなければならない面が強調されるにしても、制度への服従の強要は避けられるべきで、そういう部分で権力を行使する側にも行使される側にも、知性や理性を働かせる余地が生じるような制度にする必要があるとすれば、少なくともただ制度に従ってさえいれば、他のことはおろそかにしても構わないような制度にはすべきではないだろうし、制度を利用することによって、世の中で行われている様々な行為や活動に伴って生じる齟齬や軋轢が完全に解消するとまではいかないものの、対立し敵対し合う双方の間で一定の妥協が図られる程度には活用できることが望ましいのではないか。そのような調停や調整を目指すのが制度の運用としては妥当な線だと言えるのかもしれず、一方からもう一方への有無を言わせぬ強制的な権力の行使は避けられるべきで、最低限でも双方の間での交渉の余地が残されていた方が、それだけ妥協できる可能性も生まれるのではないか。

 人が個人でも集団でも何らかの行為に及ぶ時には、そういうことが行われるそれなりの成り行きが世の中に生じているわけで、それを世の中の状況がもたらしているわけだろうし、そこにそのような行為を行なえる可能性が生じているわけだから、そうなっている限りで制度やその制度を規定している法律の類いには、そのような行為をやめさせることはできず、やってしまった後からそれが違法行為だと見なされると、制度の保全を旨とする警察権力などによって取り締まりの対象となってしまうわけだが、それ以前に法律が禁止している行為は、大抵は行うことができる行為なのだろうし、その良し悪しはともかく実際に世の中で行われていて、そのような行為が何らかの被害や損害をもたらしているから禁止されているわけだろうが、現実にそんなことが行われている実態があるとすると、そのような被害や損害を巡って訴訟沙汰が起きているのはもちろんのこと、人々を被害や損害から守るような行為も行われていて、また被害や損害に遭ってしまったらそれを償うような行為も行われていて、さらに場合によっては被害や損害を伴うような行為に及ぶのを未然に防ぐような試みも行われているわけで、それら全てが法律によって規定されているわけではなく、中には金銭的な契約であったり、また善意から生じるような無償の行為であったりすることもあるだろうし、制度による管理の網目では捉えきれないような行為まで含めて、世の中では様々なことが様々な対象や行為に対応する形で行われているわけだろうが、法律やそれが規定している制度が、社会の成熟が進むにつれて次第に形骸化してゆき、形骸化の進行とともに次第に禁止事項も減っていって、その分そこで暮らす市民に自由な裁量が与えられるようになるという幻想がもたらされるのが、理想主義的なリベラリズムの行き着く先にある結論なのかもしれないが、たぶんそんな能天気な幻想を抱いていた方が、それを拒絶して性悪説的な立場を取るよりは気楽になれるのかもしれず、実際に社会を管理する上で至れり尽くせりの対応を目指して、制度に伴って生じる様々な手続きが次第に複雑化していくような傾向は、複雑すぎて人が対応できなくなるような事態を生じさせるのかもしれないし、それ自体が制度の形骸化を物語っているのかもしれないが、いくらきめ細かに法律を定めてその法律を守るように権力を行使しようとしても、行使する側でも守らせようとしている法律自体を把握できなくなる可能性も出てくるわけで、要するに権力を行使しようとする側とそれを受け入れさせようとする側の両方から、形骸化は制度の複雑化とともに進んでゆき、そんな形骸化の度合いに応じて人々が自由に振る舞える領域も次第に増えていく成り行きとなるだろうか。それは単に人々の活動の複雑化をもたらすだけかもしれないし、意識の中で行為や行動の多様化を自由の増大と取り違えているだけなのかもしれない。


10月15日「情報統制と価値の変容」

 具体的に世の中で恣意的な情報を提供することによって人々の活動をコントロールしようとする思惑がどこまで成功しているかは、政治的な独裁国家以外では特定の勢力が一括して全ての情報を統制しているわけでもないから、結果的に成功している事例をいくつか挙げることができれば、それなりに成功している面もあるとしか言えない程度のことだろうが、中国などの事例を見ればわかるように、実際に情報統制をやりたがる側は自分たちに都合の良い情報だけを提供したがり、その反対の都合の悪い情報は遮断したがるのはわかりきったことで、そうする理由としては例えば世の中に蔓延している風紀の乱れや賄賂の横行などを取り締まる上で、取り締まりが功を奏しているように見せたがるのであり、早い話が失敗した事例は隠したいわけだが、物理的に考えてその全てを取り締まることは不可能だろうし、大掛かりな取り締まりの光景がメディアを通じて伝えられるとしても、それは見せしめ的な効果を狙っているわけで、取り締まりを逃れて違法行為が行われている光景がメディアを通じて暴露されでもしたら、それでは汚職撲滅キャンペーンをやっている当局の面目が丸潰れとなるわけで、そうなると当局は暴露したメディアを反政府的な報道を行なったとして取り締まろうとするだろうし、そういうところで情報をコントロールしようとする当局の思惑は破綻するのかもしれず、メディアが正義感に駆られて違法行為を暴露したのに、それを弾圧するとは何事だ、と民衆の反感を買う可能性が出てくるわけで、実際にそういうところで情報を統制する目的と社会が共有する価値観を一致させるのが困難となるわけだ。明確な基準を基にして何らかの統制をやっているつもりであっても、やっているうちに何を煽り立てて何を抑制するかの基準が崩れてくる可能性があり、諸刃の剣のように効果と悪影響の両方が出てきてしまうのかもしれず、なぜそうなってしまうのかと言えば、そこで競合関係にある複数の勢力の間で取り扱う情報に差異や区別をもたらそうとする思惑や事情から、汚職撲滅キャンペーンをやっていることを民衆に伝えたい当局と、それを伝えるメディアという役割分担が、汚職撲滅という目的では競合してしまい、さらに事の真相や世の中の真の姿を伝えようとするメディアの目的と、当局にとって都合のいい情報だけを伝えさせようとする思惑がぶつかってしまうわけだ。そんなわけである面では連携しているとしても別の面では競合してしまい、さらに場合によっては敵対する面まで出てきてしまうのだから、取り扱う情報そのものの質や内容や傾向には、その情報を巡って関係し合う人や集団の間で必ずしも目的や価値の一致を見るわけではなく、互いの利害が一致しなければ伝えたい内容を巡って衝突さえ起こってしまうのだろうから、それを単一の基準で統制すること自体に無理が生じてくるのではないか。

 では情報を統制するのは諦めるべきかというと、そんなことはないわけで、統制すること自体が権力の行使なのだから、権力を行使しようとする側が諦めるわけがなく、統制しようとする側は絶えず節度をわきまえない逸脱行為を取り締まることによって、統治している人々の言動や行動に一貫性が生じることを目指すわけで、そうすることで絶えず統制する基準を明確にしようとしているわけで、当局が示す基準に適合した情報だけを人々に与えようとして、それは世の中の価値判断の基準となる価値観を示そうとする表れとなり、示された基準に則った適切な情報だけを社会に流通させようとして、そうすることによって社会の統一性や一貫性を維持しようとするのではないか。そのような行為は逸脱を容認できないわけで、逸脱から生じる世の中の変化に抗う作用をもたらすのかもしれないし、厳格に統制しすぎると流通する情報に変化がなくなって社会の活力を削いで停滞を招き、それが経済活動の停滞にも直結する可能性まで出てくるのかもしれず、もちろん統制する側に経済を停滞させようとする意図はないはずだろうが、そもそも経済活動が活発化したり活性化する現象は、世の中で絶えず新たな価値が創造されて、その価値観を担った製品やサービスが世の中で流通するような状況のことを言うのだろうし、それはとりもなおさず従来からある価値基準の変更を求めていて、それに伴って価値を体現する情報も一新されなければならず、そうやって人々の目先を変えるような新商品が発売されることで、それとともに示される価値基準を世の中に広めようとする試みにも結びつくわけで、それもまた商品の購買意欲という欲望を煽り立てる情報のコントロールにも繋がるだろうが、それとは別次元で行われる当局が示す価値基準を逸脱する行為を取り締まるような政治的な情報統制とは相容れないわけで、それは政治的な情報統制とは別次元で新たな経済的な価値観を社会に広めるようなやり方となり、そうでなくても商品開発は同じ価値観にとどまっていては活動が停滞してしまい、経済活動を継続しながら利益を出すには延々と新商品を社会に送り込まなければならず、それは企業活動の宿命とも言える成り行きを示しているだろうが、そうなると統制するのとは逆の意味で無理が生じてくるように思われるのだが、一方は情報を統制して同じ価値観を頑なに守るように仕向けてきて、もう一方はそれとは別次元で延々と新しい価値観を生み出そうとしてくるような動作が、同じレベルで作動しているわけではないものの、要するに逆向きに噛み合わないことをやっていて、たとえ両者が別々に作動していても一向に構わず、何の不都合も感じさせないのかもしれないし、それに気づいていなくても構わないわけで、とりたてて問題視するようなことでもないとすれば、なぜそうなってしまうのかその理由を探りたくなってくるのかもしれないが、たぶん合理的な理由などないのかもしれず、たまたまそうなっているわけで、そういう経緯や事情が歴史的に生じていて、そこに筋の通った理屈があるわけではなく、何らかの政治や経済の理論に基づいてそうなっているわけでもなく、ただそんな成り行きが結果的に社会にもたらされているわけだ。実際にそんな世の中が形成されていて、そんな状況が成り立っている現状があるのだとすると、それをどう捉えようとしても、納得がいくような結論がもたらされることはないのではないか。


10月14日「印象操作」

 情報は言葉であっても映像や画像であっても視聴覚映像として意識され、映像として意識に取り込まれた情報に何らかの利用価値があるとみなせば、それを知識として記憶に定着させようとするのだろうが、そうやって得られた知識を活用する時にも、活用する価値があるかないかの判断が伴い、その価値があるかないかを判断するには他の情報との比較を伴うわけで、その比較できそうな他の情報は身の回りの環境から直接もたらされるか、メディアを通じて間接的にもたらされるかのどちらかだろうが、とりあえず意識は価値判断の材料を探そうとするわけで、そうやって人の活動には絶えず情報を得る行為がつきまとい、周囲から情報を得ながら活動している実態があるわけだろうが、逆に言えば人の活動は得られた情報に左右され、ある意味ではその人にもたらされる情報がその人の活動を規定し限定しているわけで、そうだとするとそれをさらに逆用して、都合のいい情報を与えることによって人の活動を制御しようとする思惑が生まれるわけだ。例えば欲望を煽り立てるような情報を提供して、その欲望を満たすような行為へと誘いこむのは、日々メディア上で行われている広告宣伝の常套手段だろうし、実際に様々な娯楽産業が宣伝活動によって欲望を煽り立てているわけで、煽り立てられている一般大衆の方でも、煽り立てられていることは重々承知の上で、むしろそのような煽り立てを楽しんでいて、多くの人たちが楽しめている限りで、娯楽産業などの経済活動が成り立っている実態があるわけで、そんな実態によって多くの人々に娯楽を楽しめるような余暇があって、余暇を持てるだけの経済的な余裕があることが明らかになるだろうが、都合のいい情報を提供して人の意識や活動を制御しようとしているのは娯楽産業だけではなく、何らかのメディアを通して情報を提供しようとしている人や団体は多かれ少なかれその手の制御を狙っているわけだろうし、それが企業であろうと政党であろうと行政機関であろうと、何か訴えかけているようならそれを見聞した人々がその訴えかけに同調してほしいわけだし、実際にそのほとんどは人々の共感を呼ぶようなメッセージ内容なのではないか。そしてなぜ共感を呼ぶのかといえばそれは社会の中で支配的な価値観を含んでいるからだろうし、広く多くの人に認められている価値に同調するような内容だから共感を期待できるわけで、その共感できる部分を足がかりにして、自分たちがやろうとしている活動への支持を期待するわけだ。

 それが企業活動ならその企業が提供する製品やサービスを買ってほしいということだろうし、政党であれば選挙でその政党が推す候補者に投票してほしいということだろうし、行政機関であれば行政機関の指示に従ってほしいとなるだろうし、そんなことはわかりきっているように思われるわけだが、そのような訴えかけを見聞する人たちにはあからさまにそうは思われないわけで、まずは良い印象を抱かせるようなメッセージの内容に共感したくなるのだろうし、実際にそうなるとすればそこで価値観の共有が起こっているわけだろうし、そうやって価値観を共有した上で商品を買うか候補者に投票するか指示に従うかの選択を迫る成り行きとなるわけだが、それはあくまでも強制的な命令ではなく人々の善意の発露として自発的に従うように仕向けてくるわけで、そうすることによって人々にも共有する価値観に基づいた利益がもたらされることになるわけだ。実際にそのような訴えかけに対して好印象を抱いているとすれば、自発的に行ったことで利益がもたらされたと実感できるのではないか。それがどのような実感なのかといえば満足感でしかないわけだろうが、自分たちが社会の中で共有している価値観に基づいて行為すれば満足感が得られるわけで、得られた利益とはそれ以上のものではないだろうし、それが必ずしも金銭的な利益でなくても構わないわけで、実際に金銭的な利益を得るのは企業の側だろうし、選挙で当選した政治家には金銭的な利益の他にも有権者の代表として権力を行使する権利を得られたことにもなるだろうし、また行政機関としては市民の賛同を得て活動を継続させることを意味するだろうし、そんなふうにして人々の善意による自発的な賛同を得ることに成功すれば、少なくとも形の上では強制的に権力を行使するようなことからは程遠い行為となるわけで、自分たちのやっている行為が社会の中で好印象を得ることに成功すれば、それだけ有利な立場になれるわけだ。そうなれば自分たちと競合していたり敵対している勢力との駆け引きなどにおいても、優位に事を運べる可能性も出てくるだろうし、周りの多くの支持を背景として主導権を握るようなことになれば、その時点で人々の活動を自分たちの都合に合わせて制御していることにもなるだろうし、人々の支持を得て人々を制御していることにでもなれば、場合によっては社会全体を思いのままに操っているような事態になるのかもしれないが、現実にはそれも程度の問題だろうし、ただ世論が構成する集団意識に同調しているだけの実態もあるのではないか。そしてその集団意識からもたらされる集団意志によって被害を被る人たちも社会の中には出てくるわけだ。


10月13日「実感と現実との落差」

 何か現状で世の中がうまくいっている面があるとしたら、それは政治的にも経済的にも様々な不祥事が明らかになることだろうし、しかも不祥事が明らかになっても世の中が変わる気配が見られないことであり、本当に変わらないのかどうかはよくわからないにしても、そういうところでメディア上で危機感を煽っている人たちの思惑通りには行っていないことは確かで、それが何を意味するのかは人によっても立場によっても見解が分かれるところかもしれないが、人の思惑と世の中の変化とは必ずしも重なるところはないのかもしれず、変わるとしたら思惑からずれたところで変わるのかもしれず、誰もが気づかないところでいつの間にか変化が進行していて、それによって現状で危機感を煽っている人たちの当てが外れるような事態となっているのかもしれないし、それは実際に世の中を変えようとして、様々な方面から作用を及ぼしている人や何らかの勢力についても言えることかもしれないが、誰の予言や不安が的中しようと、それは結果的にそう思われてしまうことでしかなく、誰もが結果を評価したり批判することしかできないわけで、それはいつもすでに起こってしまったことであり、これから起ころうとしていることではなく、実際にこれから何が起こるのかは常に未定でしかないだろうか。もちろん様々な方面で様々な予定が組まれていることは確かであり、予定通りに滞りなく物事が進行すれば、それに反対している人たち以外は誰も困らないのかもしれないが、予定を組んでいる人たちはそうなることを目指して、世の中の各方面に様々な働きかけを行なっているのだろうし、そんな努力が功を奏して予定通りに物事が進行して期待通りの結果が得られたら、様々な方面への働きかけも無駄でなかったことになって、予定を組んだ人たちの努力が実を結んだことが証明されてしまうわけだが、果たしてそれを阻止しようとする行為が報われることはないのだろうか。たぶんそれは報われなくても構わないような行為なのではないか。人が集団で行う作業というのはいつも予定を立てながら計画的に行われるのであり、作業の途中で内外からもたらされる計画を狂わせるような作用と格闘して、それを退けながら計画を推し進めようとするわけで、そういう意味で政治活動にも企業活動にも計画が付き物となってくるのだろうし、それらの活動を推し進めている勢力は日夜それらの計画を阻止しようとする勢力と戦っているわけだ。

 たぶん計画を阻止しようとする勢力に欠けているのは、計画を立案してそれを推し進めようとする行為であり、また計画をメディアを介してプレゼンテーションする能力でもあって、またそれを世間に信用させる力も欠けているのかもしれないが、それは世の中を変えようとする意志の顕れとなるべきだろうし、誰も現状のままでいいとは思えないなら、現状とは違う未来像を示すべきだろうが、たとえそれが示されているとしても、世間から信用されなければ内容も伝わらないのかもしれないし、そうなると世の中の人々から信用されて支持を得られるような未来像を提示すべきとなるのかもしれないが、たぶんそんな都合のいい未来像があるとは思えないだろうし、実際にやるべきはそんな大げさなことではなく、まずは現状でできそうなことを提示することだろうか。だがそうなると夢のない話となってしまうだろうし、できそうなことをやっても現状の延長でしかないだろうし、そんなことには誰も興味を持たないのかもしれず、それでは宣伝にはならないだろうし、世間の支持を得ることも不可能だろうか。ならばそうなると宣伝するのはすぐには実現できそうもない夢物語となってしまい、そんな内容ではメディアからも世間からも嘲笑され馬鹿にされてしまうことになるだろうか。そのどちらでもないとすると、たとえば現状でできそうなこととできそうもない夢物語の両方を織り交ぜながら語れば、メディアも世間も騙すことができるだろうか。政治宣伝とは大方そんなものだと相場が決まっていて、たぶん宣伝から信用が生まれるのではなく、実際に世の中の様々な勢力を味方につけていることから信用されるのだろうし、そんな信用から現状の世の中が構成されているわけだから、味方についている各勢力も政治勢力を介して様々な便宜を図ってもらっている限りで味方についているのだろうし、それらの勢力は実質的にはひとかたまりとなって利害共同体を形成しているともいえるだろうが、そうなっているからこそ政治的にも経済的にも様々な不祥事が明らかとなっても、それがきっかけとなってそれらの勢力が衰退する兆しは見えないし、世の中が変わる気配も感じられないし、それらの不祥事を行なった勢力を批判する人たちにも広範な支持が集まるわけでもなく、いくら批判しても無駄なようにも思われてしまうのかもしれないが、だからと言って批判しないわけにはいかないだろうし、実際に様々な方面から批判がされているわけだが、そんな思いからずれたところで誰も気づかない何かが作用して、今も世の中が変わり続けているのかもしれないし、そのような変化は人々の実感を置き去りにするような変化なのかもしれず、人々の意識はいつもその時代を覆っている集団意識のようなものに囚われていて、いつも実感はそこからしか感じ取れないから、変化に気づけないのも無理はないのかもしれない。


10月12日「企業間競争と不正行為」

 偽装や捏造などの不正行為は経済活動にはつきものかもしれないが、様々な要因が重なって結果的にそうなってしまう事例はいくらでもあるのだろうし、偽装や捏造などを行わざるを得ない成り行きに至った時に、倫理観や道徳観などが働いてそれをやらないような選択肢が生じるかというと、結果としてそのような行為が明らかになった事例ではそんなことは起こらなかったわけで、それよりは利益を出すという経済的な事情が優先されるわけで、それは企業が行う経済活動なのだから当然のことだが、不正行為が発覚すれば当然メディアなどで批判されるだろうし、信用も落ちて売り上げも減って経済的にも多大な損失を被ることにもなるのだろうが、結果的に偽装や捏造を行わなければならなかったのだから、すでにその時点で追い込まれていて、要するに偽装や捏造を行わなければ利益を出せない状況に陥っていたわけで、そんな苦境を脱するには偽装や捏造を行わなければならなかったわけだ。そうしなければ競争から脱落してしまう危険性があったわけだから、そういう意味で経営が傾きかけている企業は製品の強度の偽装やデータの捏造などに走りやすく、そんなことをやっている時点で追い込まれていて余裕がないわけだから、不正行為も発覚しやすくなっていると言えるだろうか。経営が順調な企業でも何かの事情でそれらの不正行為を行うこともあるだろうし、一概には言えないことかもしれないが、利益を求めて経済活動を行っている中では、たとえ倫理観や道徳観を持つように心がけているとしても、それを企業イメージやそこから提供される製品やサービスのイメージとして宣伝されることがあるわけで、そうなると製品やサービスを売るための宣伝文句の一部となってしまい、そんな宣伝が功を奏してその企業や提供する製品やサービスが広く世の中で好印象を持たれて信用されたとしても、それらが売れて利益が出ているうちは倫理観も道徳観も守られるかもしれないが、売れなくなって利益が出なくなってしまえば、いくら倫理観や道徳観を持って製品やサービスを売ろうとしても意味のないことになってしまうだろうし、世間から見向きもされなくなってしまうようなら、そんなのはどうでもいいことになってしまうのではないか。それよりも株主からもメディアからも業績が悪化してしまった責任を追及されるだろうし、そんな結果を恐れるあまり苦し紛れに偽装や捏造に手を染めてしまうのだろうし、結果的にそれが発覚してしまえば、さらに業績が悪化してしまうことになるわけだが、やはりそれは企業活動にはつきもののよくあるケースなのではないか。

 広い意味でモラルというものは、危機的な状況になった時にその存在意義が問われるものかもしれないが、別にそれが経済的な利益に結びつくわけでもないだろうし、では何に結びつくのかというと、それが道徳観なら人としての身の処し方になるのかもしれないし、それが倫理観なら社会の中での身の処し方になるのかもしれないが、あとでバレるような下手な悪あがきには加担しないで、清廉潔白な態度を保っていれば道徳的にも倫理的にも文句のないところだろうが、個人のレベルではそうかもしれないが、組織の中ではそれは通用しない態度だろうし、できれば不正行為に手を染める前に何とかしなければならなかったのだろうが、それは結果論であって、組織的に不正行為をやる段になれば個人の力ではどうにもならないのだろうし、まずはそういうことをやってからでないと、それに加担し続けるか嫌気がさして内部告発をするような成り行きになってしまうかの行動には移行しないわけで、そしてそういうところで倫理観や道徳観が勝ってしまうと、情報が外部に漏れて不正行為が明るみに出てしまうわけで、不正行為をやっている側でもそうなる危険性があることを承知でやっているわけだから、それが明るみに出たらそれを指導した責任者が懲戒処分を受けるなりして辞職して、再発防止に取り組んで対策を打ち出せば幕引きだろうし、またそれが起因して経営危機に陥っても、その企業が地域経済に欠かせない大企業なら簡単には潰せないから、取引先の銀行や業務提携している企業などが中心となって経営再建のための方策を打ち出したり、場合によっては他の同業の大手企業と合併したりして、他にも様々な生き残り策が検討されることになるのかもしれないが、やはりそれも企業活動にはつきもののよくあるケースだろうか。要するに組織的に不正行為を行なってそれが発覚するという過程が物事を前進させる原動力となるわけで、そういう過程がないとなかなか出口にたどり着けずに、憂慮すべき閉塞状態が延々と続いてしまうわけだから、そうやって何らかの結果が導き出されただけでも、不正行為にも一定の成果があったと言えるのではないか。もちろんそれをやったことが明らかになってしまったのだから、責任者が処分されて組織から追放されてしまうのだろうが、そのあおりを食って組織自体が解体されてしまう場合もあるのだろうが、仮にそうなったとしても、外国の企業も含めて同業他社にしてみれば競争相手が減って助かる面もあるのだろうし、そのような結果の良し悪しを論じる意義があるとも思えないし、結局企業が提供する製品やサービスに何らかの基準や規制があれば、その基準や規制を満たしながら利益を出すのが難しいから、そこに不正行為を犯す誘惑が生じてしまうのだろうし、ましてや同業種の企業間で熾烈な競争が行われていれば、競争において不利な状況にある企業は、不正を犯さないと競争から脱落して経営危機に陥る危険に絶えず直面しているのではないか。


10月11日「企業活動と法律」

 企業活動を何らかの法律を用いて外部から規制すると、それがゲームのルールのような役目を果たして、それなりに企業活動で成り立っている市場経済を政治的にコントロールできる部分も出てくるだろうが、確かにルールに違反する行為を取り締まることができるわけだが、その反面ルールの範囲内で行われることはコントロールできないわけで、例えばルールが想定していないような行為が出てきて、それが社会に悪影響を及ぼす行為だとみなされると、そのような行為を規制しようとして法律を改正して、そのような事態に対応しようとするのだろうが、そうなればなったでまたさらにその法律の裏をかくような行為が編み出されるかもしれないし、結局法律を用いて経済をコントロールしようとする行為はいつも後手に回らざるを得ないわけで、それでもルールがあった方がないよりはマシだろうから、法律が一定の機能を果たしていることは確かであり、法律が企業で働く労働者や企業に投資する投資家を守っている面はあるわけで、また消費者も経済活動から生じる悪質な詐欺行為や環境汚染などに関しては法律で守られているわけだ。もちろんそれはルールの範囲内で守っているのであり、ルールが規定していること以外の部分では守れないわけだから、企業としては利益を上げるためにルールが規定していない部分で新たなやり方を探求しようとするわけで、それがルール違反に結びつかなければなおのこと都合がいいのだろうし、他を出し抜いて利益を出すにはそういう部分での探求が欠かせないのではないか。そしてそういう企業努力が必ずしも労働者や消費者の利益には結びつかない面も出てくるだろうし、実際に製造部門での機械化は職人気質の熟練労働者の技術を不要とするような方向での技術革新をもたらしたわけで、また情報革命以後のネット通販は営業的な手腕を必要とした訪問販売業者にとっては大打撃だったのだろうし、また消費者にとっても家で端末の画面を見ながら商品を選択できて便利になった反面、実際に小売店に出向いて商品に直に触れて店員とコミュニケーションをとる機会が減って、交渉や駆け引きの面での勘が鈍ってしまい、また画面のボタンを押すだけで簡単に買えてしまうので、取り立てて欲しくもないものまで買ってしまうことが多くなってきたのかもしれず、それがどちらにとって利益となるのか不利益となるのかというよりは、ただ商品の製造方式や販売方式や購入方式が変わってきたということでしかないのかもしれないが、そういところで工夫を凝らして利益を得ようとするのが企業努力なのだろうし、実際にそうやっていち早く新たな方式を適用したおかげで利益を得られた企業もある反面、旧来の方式にこだわって衰退した企業もあるのではないか。

 そういうところは外部からの政治的な操作ではどうにもできない部分だろうし、例えばコンピュータのハードウェアやソフトウェアの進歩によって事務職員が大幅に削減されるような事態となった時に、政治的に事務職員を救済するわけにはいかなかったのだろうし、いつの間にか企業から事務職員の数が減って行ってしまったわけで、事務職をやっていた従業員が他の部門に配置換えになったのかあるいはリストラされたかは、その企業内で判断されるようなことだろうから、そこまで政治が介入することはできないわけだ。また単純に労働時間を規制できても労働の内容までは踏み込んで規制できない部分もあるだろうし、肉体的に苦痛を伴う労働ならわかりやすいが、精神的な苦痛を伴う労働はわかりにくいし、何の苦痛も伴わなくても精神的な荒廃をもたらす労働というのもあるだろうし、労働そのものが不快感を伴うのはどんな労働でも大なり小なりあって、それを我慢しながら働かなければならないわけだから、それにどこまで耐えられるかは個人差もあり、また同じ内容の労働でも周囲の環境によって不快感が増したり、それなりに耐えられたりすることもあるわけだから、一概に規制で片付くようなことでもなく、それで片付かないようなところまでは法律では規制できないわけで、企業の方でもなるべく従業員の心身に負担をかけないようなシステムを採用すればいいのだろうが、それ以前に優先させるのは収益を上げて利益を出すことだろうし、場合によっては心身ともに消耗した従業員を使い捨てにしながら利益を出すような成り行きになっているとしたら、そういう企業はブラック企業としてジャーナリズムや組合運動などから批判の槍玉に挙げられることにもなるだろうが、世の中がそういう企業を必要悪として必要とするような成り行きになっているとすれば、労働者を犠牲にしながらそんな企業の活動も労働基準法違反などで摘発を受けながらも、入れ替わり立ち替わり現れては消えるようなことが繰り返されるのではないか。そういう意味で法律というのは違反行為があることを前提として存在するわけで、実際に違反行為を摘発する役目の部署も設置されているわけだから、それは違反行為をなくすための法律なのではなく、それを取り締まるための法律だということは明らかであり、違反行為がなくなってしまえば法律そのものが存在する必要もないわけだ。またブラック企業は単独で存在しているわけではなく、合法的な活動をしているまともな企業が汚れ仕事をブラック企業に押し付けている場合もあるわけで、そうであるならまともな企業にとってはブラック企業がなくなってしまっては困る面も出てくるわけで、まさに必要悪としてのブラック企業が汚れ仕事を請け負ってくれるから、まともな企業の活動が成り立っている面もあるわけだ。


10月10日「贅沢品としてのリベラリズム」

 資本主義経済は経済活動がうまくいっている範囲内で成り立つ経済だから、たとえば経済活動が成り立たないようなところでは行政機関による補助や援助が必要となってくるという論理が成り立つわけだが、しかし行政機関自体が資本主義経済に依存している場合は、助けるのにもおのずから限界が生じてくるわけで、簡単にいえば予算が許す範囲内でしか助けられず、そうなると行政機関が管轄している中で経済活動が成り立たない部分が増えてくれば、助けることができなくなるどころか、行政機関の活動そのものが成り立たなくなってくる場合が生じるわけだ。そうである限りにおいて行政機関が何よりも優先すべきことは、管轄している区域内で経済活動が成り立つようにしなければならないとなるのだろうが、そうなるとやはり経済活動の主体となっている企業活動を振興するような政策が求められてくるわけだ。原則論を言えばそうなるわけだろうが、具体的に何をどうすればいいのかというと、企業に対する税率を下げればそれだけ行政機構の予算が減ってしまうし、単純には企業活動と行政活動のどちらも振興することはできないわけで、企業にとって行政とは何かと活動を規制してくるような邪魔な存在であると同時に、うまく取り入ることができれば何かと便宜をはかってくれるような利用価値のある組織なのだろうが、さらにそこへ行政を介して政治を行おうとする政党や政治家の存在があるわけで、企業から広告宣伝費を徴収しながら政治宣伝も引き受けるメディアも含めて、それらの間に錯綜した縺れ合いの関係があって、単純な連携関係や敵対関係では割り切れない複雑な様相を呈しているのだろうし、それらと様々な程度で関係している一般の市民が理解しなければならないことは、その中で単純な敵対関係を示して煽り立てるような行為を信用してはならないということだろうし、煽り立てている背景を探らなければならないだろうし、そのほとんどは特定の政治勢力を優位に導くために煽り立てているわけだろうし、それと同時に特定の政治勢力を叩くためにも煽り立てているわけだが、普通に考えるなら煽り立てなければならない事情が生じているから煽り立てているのであり、その事情がメディアを通じて煽動を見せつけられる一般の市民にどう関係してくるのかを考えてみる必要があるだろうし、たぶんほとんどの人は事情に精通しているわけでもなければ関心があるわけでもないのだろうから、安易な煽動には乗らないことが肝心なのかもしれないが、少なくとも興味が湧いたら煽動する事情について考えてみればいいのではないか。

 それに関して少なくとも言えることは、やっていることがうまくいかないから煽動しなければならなくなるわけで、うまくいっていれば別にことさら煽り立てなくても人々の支持を得られるわけだ。そしてなぜうまくいかないのかといえば、情勢もそこで生じている利害関係や権力関係も錯綜して縺れ合っていて、何をやっても力がうまく伝わらずに満足できるような成果を得られないからではないのか。確かにたまたま何らの成果が上がればメディアを通じてすかさず喧伝されることにはなるのだろうが、それが政治宣伝である場合は必ず誇張や歪曲が含まれているわけで、それを伝え聞いた一般市民にはあまり実感が湧かなければその程度のことなのだろうし、そうであるならいくらメディアを通じて成果を強調されても、それを真に受ける必要はないわけで、安易な政治宣伝や煽動に乗せられて特定の政治勢力を支持する必要もないわけだが、そのような宣伝や煽動は現状で政治的な主導権を握っていてメディアにも影響を及ぼせるような勢力によってなされる場合が多いわけで、そうだとすると世論調査や選挙結果などでもそれなりの支持を集めていて、別に宣伝や煽動をやらなくても充分な権力を持っているわけで、ではなぜことさらに宣伝や煽動をやらなければならないのかというと、宣伝や煽動をやったから世論の支持を得られたという話にしたいわけだ。要するに宣伝や煽動の成果を得たいわけで、それもメディアを通じて喧伝されるような成果の一つなのであり、それ自体が誇張された成果なのだろうが、そんな成果の誇示が人々の心理に影響を及ぼして、そのような政治勢力への世論の支持を強固なものにしている面があるわけで、実質的には大した成果もあげていないのに、メディアを通じた宣伝や煽動の繰り返しによって何となく支持を集めているような状況が続いてしまうわけだが、そんな成果の虚構性に気づくには、宣伝や煽動が物語っているフィクションと現実との落差を実感できればいいのだろうが、それがなかなか実感できないのだろうし、政治への幻想が邪魔をしているから実感できないのかもしれないが、幻想を抱くなと説いても仕方のないことだろうし、人々が宣伝や煽動に乗せられている自らの愚かさを実感できる機会など滅多にやってこないし、そうでなくても資本主義経済の恩恵を受けながらそれなりに生活できている実態があるわけだから、それ以上の高望みをしなければそれなりの人生を送れるだろうし、それなりに不満や満足感を抱きながらも寿命がきたらこの世から消え去っていくのではないか。そういう人たちにとって理性的に生きそして行動することは、贅沢以外の何ものでもないのかも知れない。


10月9日「肯定的な現状」

 グローバル企業が進出先の国で様々な便宜をはかってもらう上で、その国の政府や主要な政治勢力に取り入るのはよくあることかもしれず、そうなればその国の反体制勢力にとってグローバル企業は、敵対する体制側と手を結んだ御用商人とみなされてしまうのかもしれないが、その種の単純な敵対関係にどれほどの信憑性があるのかはよくわからないところかもしれず、その国でグローバル企業の製品やサービスが広範に普及しているような場合、果たしてそれらの製品やサービスを利用している消費者や企業はグローバル企業から搾取を受けていると思うだろうか。状況にもよるだろうが、その国でグローバル企業の市場シェアが他を圧倒するような割合を占めていて、貿易収支も輸入超過で慢性的な赤字状態にあるならば、状況は植民地的な搾取を受けていることになるのだろうが、それ以外の場合は取り立ててどうこう問題視するような機運は起こらないだろうし、ナショナリズムの高揚から自国製品の利用を推進するようなキャンペーンでも起こらない限りは、消費者や企業もグローバル企業の製品やサービスを利用し続けるのではないか。また製品が機械類だとその国で作られている部品が使われていたり、場合によっては現地に工場を建てているかもしれないし、サービスなどでも現地法人が現地の住民を雇用することでその国の経済にも十分に貢献している場合もあるわけだから、そうなると外国の企業も自国の企業もそれほど差がなくなってしまうだろうし、グローバル企業だからと言って特別に敵視するような成り行きにはならないのではないか。日本の場合だとIT企業のメディア部門が国粋主義勢力の巣窟のような様相を呈している場合があるのかもしれないし、そんな人材がIT系のグーバル企業の日本法人にも流れ込んでいるとしたら、反体制勢力からすれば国粋主義と新自由主義という一見相反する主義主張が融合しているように見えてしまうだろうし、それに対してリベラリズムを掲げて敵対するにしても、敵対している側からは肯定的な意味合いを含んだリベラリズムではなく、否定的な意味合いを含んだ極左暴力思想とみなされて攻撃を受けるかもしれないし、そもそもの国粋主義と新自由主義が融合するわけがないのだから、それを主義主張や思想の次元で説明しようとするとデタラメでしかなくなってしまい、別にそういう次元で敵対しているわけではなく、アメリカ政府に追従する日本政府と議会与党に追従していればうまくいくと考えているだけなのかもしれないし、意識してそうは考えていないにしても実際の行動や言動がそれを体現しているだけなのではないか。

 普通に考えればアメリカ政府に追従する日本政府と議会与党に追従するだけでは何の主体性もないし、ただ政治的な主義主張として恥ずかしいだけのようにも思われてしまうかもしれないが、そういう恥ずかしい状況を見ないようにするための格好の隠れ蓑が国粋主義なのだろうし、本気でそんなことまで考えているわけではないといえばその通りで、政治的には世の中の主流派に与しておけばそれで済んでしまうようなことでしかなく、後は何かと政府や議会与党の方針に反対する政治勢力や市民運動などを攻撃していれば、やはりそれで済んでしまうようなことでしかないだろうし、実際に政治的にはそれで済んでしまう状況があるのだろうから、それ以上は踏み込んで考える必要もないわけで、考えるだけ無駄なことなのかもしれない。簡単にいえばそれは弱い者いじめと同じようなことなのかもしれないが、その弱い者いじめの対象となっているリベラル勢力にしてみれば、それを深刻な事態と受け止めるしかないだろうし、何しろ自分たちがいじめに屈してしまえば後がないわけだから、必死になって活動するしかないだろうし、心ある良識派の支援や叱咤を受けながらも、それだけでは少数派にとどまるしかないわけで、まさに何をやっても八方塞がりな状況なのかもしれないが、状況としてはそれで構わないわけで、政治的な主体性など不要な世の中になっていて、それで何が困るわけでもないと実感している人たちが世の中の多数派を構成しているわけだ。そんな状態を大衆消費社会と呼ぼうが晩期資本主義社会と呼ぼうが、何を意味しているわけでもなく、多くの人が現状を破綻させないようにしているわけで、意識してそうしているわけではなく、結果的にそうなっているとしか言えないような状況なのだろうし、何か高邁な政治理念を実現させようとするのとは全く別次元のところで、何でもないような現状が出来上がっているわけで、それが資本主義的な経済活動の結果だと言えばその通りなのかもしれないが、そんな状況の中でいくら政治的に危機感を煽ってみても、誰もまともには受け取ってくれないのはもちろんのこと、それでも誰もが結果的には現状維持へと加担してしまうような成り行きを示しているのではないか。そんな状況の中で果たして世の中の変革が起こるとは思えないだろうが、たぶんそれは政治的な変革ではなく政治的な空洞化なのであり、今まで成り立っているように思われてきた世の中の制度や慣習が形骸化しつつあるから、政治的には空洞化を被っているように思われるのだが、それによって何らかの不具合や弊害が顕在化してきて、世の中の多数派がそれを深刻に受け止めるようになれば、その不具合や弊害に対処しようとする政治勢力を支持する状況も生まれるのではないか。


10月8日「状況の混迷」

 他を出し抜くことが商業的な行為においては利益を生む機会をもたらす場合があるだろうが、恒常的に他を出し抜けるわけではなく、出し抜かれた方でもそれを教訓として出し抜かれないような対策を立ててくるのが、企業が経済活動を行う中で他の企業との競争の実態を表しているのだろうが、そんな中でも見え透いた策略はすぐにバレるのが当然の成り行きかもしれないが、バレていても利益を共有する側で口裏合わせをして、バレていないように装うことは可能であるのかもしれず、それが行政やメディアを巻き込んで大掛かりに演じられると、いつの間にかバレていないような暗黙の申し合わせが社会全体に広がってしまうだろうか。脅迫的な同調圧力というのは詐欺的な行為がもはや隠しようがなくなってきたときに、それを詐欺だとは言わせないように脅迫してくるような状況の中で発生するのだろうし、例えば物や情報の押し売り的な行為が蔓延している場合、そんな状況の中で生活していると感覚が麻痺してしまって、それが当然のことのように感じられてしまい、そうなると押し売りした者勝ちな成り行きとなってしまうのだろうし、ネットでもスパムメール紛いの商品やサービスの宣伝やクレジットカードの勧誘メールなどが毎日のように大量に送られてくるのが当たり前となっているし、それが無料のメールサービスや通信端末の販売や接続料金を払っている業者から直接送られてくるわけだから、うんざりしつつも大抵の場合は放っておくしかないわけで、実際に自主的に通信販売を利用していることになるわけだから、押し売りでも何でもないわけだが、それと同じように一方的な政治傾向を含むニュース情報を大量に掲載するニュースサイトなどもあるだろうし、さらにどうでもいいようなテレビタレントのたわいない私生活やゴシップ情報が大半であったり、それとは別のサイトのコメント欄にはいつものように気に入らない人物や政治勢力を嘲笑と脅迫を交えながら攻撃するような書き込みが大量に載せられ、しかもそれは判で押したように空疎な紋切り型の言葉の連なりで埋め尽くされているわけだから、戦略や戦術としてそんなことを行なっているにしても、知性を感じられないのが致命的な愚かさを醸し出しているようにも思われてしまうのだが、いくらそんな情報が目についてしまうとしても、世の中の全てがそうであるわけがなく、どう考えてもほんの一部で行われていることが目立ってしまうような仕組みなのだろうし、仕掛ける側もそうなるように仕掛けているわけだろうが、もしかしたら結果的には何を仕掛けているとも言えなくなっているのかもしれず、仕掛ける側も自分たちがネット上に振りまいているつもりの情報に踊らされているだけなのではないか。

 そしてそんな状況の中でもそれを仕切って管理している業者が収益を上げて利益を出しているからそれが続いているわけだろうし、そこで物や情報が流通している状況があるのではないか。そしてそこで見せつけられる大部分が塵や芥のような情報だとしても、そこに費やされる費用のほとんどはそれと一緒に載せられる商品やサービスの広告宣伝費から出ているのだろうし、広告を載せる企業からすればそれは少しでも商品が売れるには避けては通れない出費となっているわけだろうし、またたとえ商品の宣伝広告のないサイトでさえ、百科事典サイトのウィキペディアのように執拗に寄付金を要求してくるような場合もあるわけで、一度寄付すると続けて寄付しないのを咎めるような内容の催促メールを度々送ってくるわけだから、別にそれが脅迫行為だとは言えないだろうが、不快感が募ることは確かだろうし、向こうからすればいかに資金を獲得するかを巡って、サイト上の情報を閲覧する人々と駆け引きや交渉を行っていることになるわけだから、別に情報を売っているわけではなくても、情報をサイトに載せて寄付を募っている以上は、ある意味ではそれが商売なのだろうが、それ以前にネットにアクセスしていることがすでに通信料金を発生させているわけで、そこにある情報はすべて有料だと捉えておくのが妥当な認識だろうし、それらに興味を持とうが無関心であろうが全ては経済活動によって支えられているのであり、その経済活動がネット上にある種の自由をもたらしていることは確かだろうし、そのスキルに応じて誰もが好き勝手に情報発信することができるわけだろう。もちろん世間の注目や話題を集めるような大手のSNSサイトでは反社会的な情報発信は規制の対象となっているのだろうが、その規制の基準も現状の社会情勢を反映したものとなっているだろうし、実際に特定の人物や政治勢力に対する攻撃をどう判断するかは、そのような攻撃が他のメディアでも大々的に行われているような状況なら、そこでも許されることとなってしまうだろうし、その内容がたとえ理性的だとは思えなくても、またどう考えても理不尽な内容であろうと、それが他で通用している事例があればそれが基準となってしまうかもしれないし、全てはそこでの管理者と利用者との駆け引きによって暫定的に決まるような、その場限りの相対的な基準となってしまうのかもしれず、そもそもそんな状況の中で恒常不変な基準を求めるのはおかしいだろうし、そういう意味でも政治の場で世の中の誰もが納得できるような制度や法律を定めるのは難しいだろうし、また定めた後からそれに反発したり反対する勢力を権力の行使によって抑え込まなければならなくなるような事態も出てくるわけで、またそうしないと何も決まらなくなってしまうのかもしれないが、少なくともそれが理不尽な法律の制定や権力の行使だと思われたらそれに逆らうのは当然のことだろうか。


10月7日「新自由主義の盲点」

 人が理性的に物事について考えることと、商業的に利益を求めることは異なる傾向を持っているだろうし、場合によっては商業的な利益の追求を阻むような成り行きをもたらすのが理性であるのかもしれず、そうなると両者は相反する行為となって、利益の追求には理性な思考は邪魔のように思われるかもしれないが、人にとってはそのどちらもが必要だとするなら、それをどうやって調整するかが問題となってくるだろうか。それともそれを行う上で競合したり連携したりする対象との駆け引きや交渉を行う中で、自ずからどちらを優先させるべきかが決まってくるのだろうか。それに関して妥協的な態度をとるなら、時と場合によって両者を使い分けて、その場が丸く収まるような結果を目指すべきかもしれないが、実際にそのような事態に直面してみないことにはわからないことかもしれないし、直面したところでわからない場合もあるのかもしれず、資本主義的な経済活動を行う上では、普通に考えるなら利益の追求を優先させることになるのだろうが、その過程で何らかの弊害をもたらす事態に陥った時に、そのような行為に歯止めをかける役割を担う人や勢力が必要となってくるのだろうし、一般的に考えるならその役割を担うのは行政機関であり、制度的にもそうなっているのだろうが、行政機関もそれと駆け引きや交渉を行う役割を担う議会の政治家たちも、経済活動に歯止めをかけるのではなく、経済活動を活発化させようとしている場合があるのであり、具体的に言うなら規制を緩和して企業活動をより自由に行えるようにしようとするのが、いわゆる新自由主義的な立場となるわけだろうが、その規制緩和が住民にとって弊害を伴うようなら住民は反対すべきなのだろうし、また規制緩和が特定の産業分野にとって不利益を伴うようなら、その産業分野に携わる人たちは緩和に反対すべきとなるわけだが、結局そのような問題は議会選挙で争点となるべきことなのだろうし、規制緩和に反対する人たちは反対を掲げている政治勢力の候補者に投票するだろうし、賛成する人たちは賛成を掲げている政治勢力の候補者に投票するだろうし、その結果が議会の勢力図に反映して、議会で多数を占めた勢力が行政に働きかけて、行政が規制緩和するのかしないのかを決定するような制度となっているわけだ。実際にそれで問題が解決するなら話が早いのかもしれないが、実際はどうなっているのだろうか。

 どうも実際にはそんな単純なことではないのかもしれず、果たして規制が住民や特定の産業分野を守っているかというと、そうとも言えない面もあるだろうし、むしろ規制が行政や行政と癒着する企業にとって既得権益化している面もあるわけで、規制に守られて利益を得ている産業があって、一概に規制緩和といってもそういう部分での規制緩和は行われずに、行政とそれと癒着する企業や政治家たちにとっての既得権益は守りながらも、そのような既得権益から外れる部分での規制緩和は行なって、それで規制緩和を行なっているかのように見せかけたい面もあって、理性的に物事を考えようとする人たちはそういうところを批判したいわけであり、それを単純に規制緩和に反対したり賛成したりすることだと捉えてしまうと、物事の本質を見逃してしまうわけで、そうなると結局は行政やそれと癒着する企業や政治家たちを利するばかりで、被害を被るのは住民や既得権益から外れた企業だけとなってしまう可能性もあるだろうし、もちろん住民の中でも被害を被る人たちと必ずしもそうではない人たちもいるわけで、そういう意味で政治的に白黒をはっきりつけさせるような主張ではうまく状況に対応できないのはいうまでもなく、政府が規制緩和の中で何を緩和して何を守ろうとしているのかを詳しく調べてみないことには、それに賛成も反対もできないのだろうが、選挙になってしまうとそういうことがうまく住民たちに伝わるとは思えないし、制度的にも単純明快な主張しかできないような成り行きになってしまうのではないか。そんなわけで単純明快なことを繰り返し主張する政治家は、物事の本質をわかっていないかあるいは隠そうとしているのかのどちらかでしかないのかもしれず、どちらにしても住民にとっては規制緩和が選挙の争点となるような場合は投票の選択肢からは両者ともに外れてしまうわけで、それが政治の限界であり選挙制度の欠陥となってしまうのかもしれないが、それ以前に住民の方でもそんなことまで考える必要も余裕もありはしないだろうし、それを伝えるメディアもそんなこととは無関係な単純明快なことを選挙の争点として設定してしまうだろうし、規制緩和イコール新自由主義という否定的なレッテルだけが世間に流通するだけで、その中身までは誰も考える必要性が生じない状況が作り出されてしまうのではないか。そうなれば行政やそれと癒着する企業や政治勢力やそれに肩入れするメディアの既得権益が守られるばかりで、状況は自ずから現状維持へと向かうことになるのかもしれない。


10月6日「反グローバル化」

 経済のグローバリゼーションを阻む要因は、言語や宗教や風習などの地域特有の独自性であり、物や情報を売ろうとするときに障壁としてぶつかるのがそれらの独自性であり、売り手と買い手が売買の場で交渉や駆け引きを行うのに、意思疎通を図る上でコミュニケーションがとれないと困るわけで、そんな場合は通訳を介して交渉すればいいのだろうが、その地域の企業と地域外の企業とがその地域で何らかの商品を売る上で競合した場合は、同価格で同品質の商品を売る場合は、商品のブランド力で地域外の企業の製品が優っていない限りは、地元の企業の製品が売れる可能性が高いだろうし、商品を買ってからのアフターサービスなどが必要な場合も、身近にある地元の企業なら何かと迅速な対応が期待できそうだが、そういう面で世界的に商品の販売を展開するグローバル企業なら、地元民との接触を伴う部門では地元民を従業員として雇用するだろうし、その点はぬかりないだろうが、それ以前にグローバル企業となった時点でブランド力で優っているわけだから、グローバル企業になれなかった地域限定の企業は、価格の安さやサービスの充実度などで競うしかないのかもしれず、サービス面で手間暇をかけるとそれだけコストがかかって収益を圧迫するようなことになれば、グローバル企業と地域限定の企業との間では収益面で超えようのない格差が生じるだろうし、その企業でしか作れない独自の製品やサービスがある場合以外では、やはり地域限定の企業はグローバル企業には太刀打ちできないのではないか。そして少しでもその地域の企業が生き残る可能性を求めるなら、地域の独自性を強調して経済のグローバリゼーションを阻むような運動も出てくるだろうし、何よりも長年にわたって地域外から経済的な搾取を受けていたり、政治的な支配を受けていたりすると、余計にその地域に特有な言語や宗教や民族などの独自性を強調しようとするのではないか。それが反グローバル化を目指す運動となって、世界各地で独自色の強い地域が国家から分離独立の動きを見せる要因となっているのだろうし、それは現実にグローバリゼーションが進行していることに対する裏返しの反応なのであり、そのことの反作用として顕在化している動きなのではないか。

 たぶんそのような抵抗を打ち破ってグローバリゼーションは進行するのであり、抵抗の激化がグローバル化そのものの強度を表していて、それは抵抗と表裏一体の現象なのであり、別に反グローバリズムを掲げて戦っているつもりの勢力に勝ち目があるというわけではなく、ただ経済のグローバル化が抵抗を巻き起こしているに過ぎないのではないか。またそれは国家の中央集権化よりは地方分権化をもたらしているのかもしれず、経済がグローバル化するのとは反対に政治的には分権化の傾向を示していて、何よりも人々が身近な地域内で結束しようとしていることは、国家単位での政治活動に限界を感じているからであり、それは何やらメディアを通して陰湿な政争劇が盛り上げられて、国政と呼ばれる政治が一般の人々とは無縁なことをやっているのをあからさまに見せられてしまうと、できればそんなものには関わりたくはなくなってしまうのも無理もないことであり、それよりは中央政府の横暴が地方の民を苦しめているようにも感じられて、また外交関係でも中央政府がグローバリゼーションを推し進めている企業のある国との友好関係や同盟関係を強調しているような場合は、反グローバリズムの立場からも中央政府に対して反発が巻き起こるだろうし、遠く離れた首都の周辺から上から目線で指令を出すよりは、身近な地方自治体単位できめ細やかな行政をやってほしいと思うのかもしれず、グローバリゼーションに対する防衛がもはや国単位では食い止めようがないことが明らかになるほど、狭い地域内で人と人とのつながりを強めて、身近な人同士でお互いに助け合うような行為が流行るようになるのではないか。もちろんグローバリゼーションがもたらすのは弊害ばかりではなく、何らかの恩恵をもたらすからグローバリゼーションが世界中に進行していくのだろうし、その恩恵が国家的な次元の政治とは無関係なことだとすると、やはりグローバリゼーションは国家の形骸化を招く恐れがあるのかもしれないし、実際にグローバル企業が世界中の国々で分け隔てなく同じように経済活動を行うようになれば、特定の国家に利益をもたらすことはなくなるだろうし、それは国家間の差異をなくすような作用となるだろうし、国家にとっては自国だけに奉仕するような企業ではなくなってしまうわけだから、特定の国の中で主導権を握っているような政治勢力とは無縁となってしまうのではないか。


10月5日「真の改革」

 企業が政府や自治体などの行政機関にとっては税収と雇用をもたらし、住民にとっても生活の糧である雇用と消費に必要な物資や情報をもたらして、社会にとっては必要不可欠な存在となっている一方で、その経済活動が住民の間に給与や報酬の格差に応じた貧富の格差をもたらして、それが社会の中での待遇の格差も生んでいるのだろうが、そこに何らかの競争がある限りで競争に勝った人が必然的に高待遇を得るのだろうし、そういう必然的な成り行きの中で住民はもたらされた状態を受け入れざるを得ないし、もちろん不満がないわけではないだろうし、中には政治が行政機関に働きかけて貧富や待遇の格差をなくすような制度の創設を求める人たちもいるだろうし、それが福祉の充実や累進課税制度などによってある程度は歯止めがかけられているにしても、また企業の方でも従業員の福利厚生に力を入れている場合もあるわけだが、社会が依存している企業の経済活動に格差をもたらす作用があることには変わりないわけで、根本的に経済活動によって成り立つ社会の構造を変える力がどのような勢力にあるわけでもない。ただそれでもそこに作用や影響を及ぼしている様々な要因のせめぎ合いや関係の組み合わせが、何かのきっかけで変わる可能性はいくらでもあるのであり、実際に絶えず社会は変化し続けているわけで、たとえその変化が人々の期待とは違うとしても、社会の変化に対応しながら人々の意識もそれなりに変化してきたわけだ。そして人々の意識が社会の中でせめぎ合いを演じている勢力に対する信用や不信に結びついて、それが政治的な争いを引き起こしているわけだろうが、別に争いを演じている政治勢力が何か根本的な解決案を持ち合わせているわけではなく、ただメディア上で行われる政治宣伝によって人々に何か幻想を抱かせるわけだが、それが幻想でしかないにしても、そのような政治勢力に対する期待が信用に結びつき、また不安や嫌悪が不信に結びついたりするのだろうが、メディアの方でも例えば株価の値上がりが何か政府の経済政策の効果であるかのように宣伝したりして、それを真に受けた人々の政府に対する期待や信用に結びついたりするのであり、政治的には根本的な治療法のない病に対する対症療法のようなことをやるしかないだけに、人々はその時々の政治情勢に合わせてメディアが喧伝する政治勢力に対して期待を寄せて幻想を抱くしかないわけだ。

 たぶんそういうジレンマがある種のあきらめとともに現状に対する素朴な肯定に結びつくのかもしれないが、別に意識してあきらめているわけではなく、その保守的な態度があきらめを表しているわけで、宣伝文句として改革を強調しなければならないわけだが、その改革が何か現状を肯定するような改革なのであり、根本的な改革を目指すなら、そんなふうに現状を肯定ながら改革を宣伝する欺瞞的な態度の勢力が、世の中から一掃されなければならないわけだが、そんなことはありえないわけで、政治的に何か主張するならともかく改革を叫ばないと政治的な主張の体をなさないわけだから、それはある意味では仕方のないことなのだろうが、世の中で主導権を握っている勢力が世の中から一掃されることはまずないわけで、たとえ正しい意味での革命が起きたところで、確かに人も勢力も革命によって入れ替わるかもしれないが、入れ替わって新たに主導権を握った側が同じように主導権を握ろうとする限りで、世の中の構造は変わらないわけで、真の変革とは誰もどんな勢力も主導権を握れないような世の中になることであり、そういう意味で改革を訴えて世の中の主導権を握ろうとする勢力が世の中から一掃されることが、正しい意味での世の中の変革となるのかもしれないが、果たしてそんなことが起こり得るだろうか。結局人々の間で格差がなくなるとはそういうことでしかないわけだが、それにはまず誰かが何らかの勢力が世の中の主導権を握らなければならないとなってしまえば、そこで矛盾が発生してしまうわけで、そんなわけで何らかの勢力が主導権を握って人々の間で生じる格差をなくすためにいくら改革を断行しているつもりでも、それが世の中の主導権を握ろうとして自分たちに権力を集中させて他の人々との間で格差をもたらす行為と表裏一体となってしまっていることに気づかないだけであって、どうもこれまでに行われてきたような政治的な主義主張やそれに基づいた活動や運動ではうまくいかないことは確かなのであり、しかもうまくいくやり方を模索するような成り行きにはなり難いのがメディア上で改革を訴えるような政治宣伝なのではないか。だからといって改革をあきらめるようなことにはならないだろうし、政治的な訴えかけを行うには改革がつきものであり、ではどうすればいいのかとなるのかもしれないが、なるべく人々に幻想を抱かせないように訴えかけることが肝要だろうか。しかしそれでは期待されないだろうし信用もされないだろうから、政治的な主導権を握ることができなくなってしまい、政治宣伝としては失敗となってしまうだろうか。


10月4日「持ちつ持たれつの関係」

 その起源がどうであれ、現状では企業が経済活動の主体となっている事実は否定しようがなく、また国家を統治する行政機構も企業が行う経済活動から、所得税や法人税などの税収を得ているわけだから、産業振興には企業の育成が欠かせないだろうし、行政としては安定して収益を上げてそれなりの雇用を確保してくれる大企業が存在するのはありがたいことなのだろうし、そういう意味で行政機構と企業とは持ちつ持たれつの関係を維持しているのではないか。もちろん企業の方では利益確保の観点からあらゆる手段を尽くして税の軽減を目指すだろうし、行政上の便宜をはかってもらう目的で政治家や官僚などと癒着しようとするだろうし、企業側を有利に導くための駆け引きや交渉を行うのは当然のことで、制度的に決められた建前上の関係とは別次元のところで暗躍するわけで、そういうことを含めて持ちつ持たれつの関係なのだから、そのような関係の中で法律違反が発覚したら、刑事事件や民事事件として立証できる範囲内で何らかの措置が施されるわけだろうが、たぶんそれを良いとか悪いとかいう判断で捉えない方がいいのかもしれず、要するにゲームには反則がつきものであり、いかに効果的に反則をやるかもゲームを有利に運ぶテクニックなのであって、それに関連してメディアが法律違反した人や集団を叩く場合も、叩ける対象を叩くのであり、彼らが肩入れしている人や集団に対しては建前上は叩くにしても、手を抜いて叩くのであり、決して二度と立ち直れないように徹底的に叩くことはしないだろうし、そういう意味でもメディアも企業や行政機関と持ちつ持たれつの関係を維持している面があって、実際にメディア関係者と政治家と官僚などがあからさまに会合を開いて談合しているところなどもメディアを通して伝えられているし、世の中に張り巡らされている様々な関係のネットワーク上では、やっていいこととやってはいけないことの基準として法律が機能していることは事実だが、それとは別の基準で法律違反してでもやらなければならないことと、たとえ合法だろうとやってはいけないことが暫定的な基準として成り立つ場合もあるのではないか。そしてそういう基準からは、互いに癒着し合って利害共同体の一員になったら、時には法律を違反してでも便宜供与を行わなければならないだろうし、法律に違反するからといってそれをためらったら、裏切り者として共同体から排除されてしまうのではないか。

 そのような共同体に入るには、それなりに権力を行使できる立場でないとならないだろうし、そうでなければ便宜供与が行えないわけだから、集団の中でも社会的にも地位の高い役職である必要があるわけだ。またそうやって便宜供与を行うことで集団内や社会の中で周囲から認めてもらえるようになるのだろうし、そのような立場や地位というのも便宜供与とセットになっているのかもしれず、またそういう行為によって世の中が成り立っているとすれば、法律のようにはあからさまに成文化されていないものの、社会的な慣習の一部としてそのような行為が黙認されている実態もあるのかもしれず、そうであるとすると、正義感に駆られてそのような行為を内部告発したり、ジャーナリストなどがその実態を暴いたりすると、かえってそういった人たちが有形無形の嫌がらせを受けたり、卑劣な罠にはめられて濡れ衣を着せられたりして、そうやって集団からも社会からも排除されてしまう場合もあるのではないか。たぶん法の支配を推し進める立場からすれば、なるべくそういう行為はなくしてゆかなければならないのだろうが、法律を補完するためにそのような慣習が欠かせないと考えるなら、それは黙認されるようなこととなるだろうが、建前と本音の併用のように法律の適用にもグレーゾーンを設けないと世の中が成り立たなくなる面があるのかもしれないし、それを黙認するか許せないと思うのかも、その人の置かれた社会的な立場によって変わってくるのかもしれず、そういうところできっちりと白黒をつけられない実態があるとすれば、そのような行為に対してどのような態度をとるかにしても、正義感に駆られて悲惨な目に遭った内部告発者や周囲からの有形無形の圧力に屈しないで違法行為を暴いたジャーナリストを支持したり支援したりするにも、自らが違法行為を行ったり黙認したりする立場になれば、そうせざるを得ない成り行きになってしまう可能性があることは踏まえておかないとならないわけで、そのようなことが行われる実態があれば、それは自らを含んだ社会の中で行われていることなのであり、実際にそういうことを行なっている政治勢力を支持して選挙で投票している場合もあるだろうし、ましてやそういう勢力が議会で多数を占めて政権を握っているとしたら、内部告発者やジャーナリストなどよりははるかに強大な権限や権力を持っているわけで、どちらが社会的な信用を得ているかは明らかなのではないか。


10月3日「企業活動に伴う恩恵と弊害」

 企業にはその経済活動に伴って資本の蓄積とともに企業経営に必要なノウハウも蓄積され、収益を上げて利益を出すための方法が知識として溜め込まれ、またその知識は実践を通して絶えず更新されて、また他の企業との競争や連携などの活動から駆け引きや交渉の経験も知識として溜め込まれ、それらが企業が競争に生き残り発展するための戦略や戦術などとして結実するのではないか。またそのような活動に適合するような組織形態も活動を通して導き出されてくるだろうし、そのような組織形態を生かすための人材も自前で育成するか他から調達してくるかして、絶えず組織内の役割に適合するような人材を揃えようとするだろうし、そうやって資本やノウハウとしての情報や人材や資材や設備を蓄積させて、それらを効率的に活用することで収益を上げて利益を出そうとするわけで、そのような活動が成り立っている限りで資本主義経済が維持されているわけだから、資本主義経済が社会にもたらす恩恵にも弊害にも、企業の組織形態や活動内容が影響を及ぼしてくることは確かで、例えば民主的な価値観は企業内では通用しないだろうし、通常の意味での個人の自由も平等も企業内ではないし、組織的な指揮命令系統を逸脱して意見を言うことには差し支えが出てくるだろうし、仕事と公的な政治参加とは別次元のことだと言えばその通りなのかもしれず、それが嫌なら仕事をやめて個人で事業でもやればいいと言うことにもなりかねないが、実際にそうやって成功した人もまれにはいるのかもしれないが、やはりそれとこれとは別次元のことだろうし、実際には企業内でも公的な政治の領域でも、民主的な価値観を実現するにはそれなりの駆け引きや交渉を通して実現を目指すしかないのであり、世の中の全ての次元で何らかの権力関係が張り巡らされている中で、絶えず個人の自由や平等を獲得するための闘争が必要で、そのような闘争を推し進めていく中で必要なノウハウも蓄積されて、実践的な経験を通して組織的な集団の中で個人の自由や平等をもたらすための方法が編み出されていくのだろうし、また他の企業で働く労働者と連携や連帯を実現させるための活動も試みられるだろうし、企業を経営する側との駆け引きや交渉の中から、労働者の権利を守るための方策も導き出されてくるだろうし、そのような労働組合的な闘争が企業の経済活動を阻害しているとも言えるのだろうが、どちらに正当性があるわけでもなく、そういうところでも駆け引きや交渉によって何らかの在り方が定まってくるのではないか。

 ともかく企業活動によって資本主義経済が成り立っていて、それに伴って人々に恩恵や弊害がもたらされていることは確かで、普通に考えるなら恩恵を増やして弊害を減らすための努力が必要になってくるのだろうが、必ずしも恩恵を増やすことと弊害を減らすことが結びつくわけではなく、恩恵を増やそうとすると弊害も増えたり、弊害を減らそうとすると恩恵も減ったりする場合があるのかもしれず、その中で妥協したり我慢しなければならない場合も出てくるだろうし、妥協も我慢もせずに激しく闘争した挙句に、かろうじて保たれていた均衡が崩れて取り返しのつかない深刻な事態を招いたり、駆け引きや交渉の中で優位に立つ側が権力関係を強めて、集団内で強権的な圧政を敷いたりする場合もあるわけだ。また企業に外部から作用を及ぼせる公的な政府機関の政策も、無視できない権力の行使の可能性を生じさせているわけで、具体的には独占禁止法によって特定の企業による利益の独占に歯止めをかけたり、公害をもたらす危険性の高い企業に、周辺の住民に健康被害を出させないための排ガスや排水などの環境基準を設けたり、また特定の企業に対して課税を強化したり、逆に国際競争力を高めるためや経営体質の脆弱な中小企業を助けるために税を軽減したり、さらに労働者の健康を守るために労働時間を規制したり医療保険や労災保険への加入を義務付けたり、労働者が失業した場合の補償措置として雇用保険への加入を義務付けたり、退職した後の生活を保障するために年金保険への加入を義務付けたり、そのように法律を制定することによって企業に対して様々な強制措置を課すことができるわけだ。それはそれまでに行われた企業と人々との間で行われた闘争や交渉などの駆け引きが、公的な政治の次元で法律として成果をもたらした例でもあるのだろうが、それが獲得した権利でもあると同時に課された義務でもあるところが両義的な意味合いを持つのであり、権利と義務とが表裏一体であることに気づかないと、それが特定の政治勢力によって政治宣伝に利用される危険性も孕んでいることにも気づけないわけで、例えば労働者の権利を獲得させてやったのだから国家に従う義務が生じるという論理が出てくるわけだ。また企業活動から生じる弊害を取り除くために政治的な次元で規制を強化しようとすると、国家単位では確かに何らかの統一的な基準を作れるのだろうが、国際的な次元では規制の厳しい国と規制のゆるい国との間で差異が生まれ、それをなくすために国際的な枠組みで世界規模の統一基準を作ろうとするところで、国家間の対立や軋轢が生じてしまうわけで、早い話が規制をゆるくして経済の発展を優先しようとする国が出てくるわけだが、そうした抜け駆けをする国に対して国際的な圧力をかけるには国家間の連携が必要となってくるわけだ。


10月2日「労働の変遷」

 現代的な機械文明の進展に伴った産業別の労働人口の変化を考えてみると、主に食物を生産する農業分野が機械化されたおかげで、先進工業国では急激に農業人口が減少したことは確かだろうし、また工業の分野でも効率的な生産体制が整備されたおかげで、一定のレベル以上で工業労働者の数も増えなくなってきているだろうし、現状ではどちらの分野でも雇用が増える余地はないのかもしれず、実際に日本の場合はそれらの物を生産する以外の、第三次産業の人口が全体の75パーセントを占めているらしいから、農業や工業などによって物が生産されないと人は生きていけないことは確かなのだろうが、労働人口の大部分はそれ以外の情報を取り扱ったりサービスを提供する分野に偏っているわけだ。また日本の就業者人口は全人口の約5割ほどだから、全就業者人口の25パーセントのさらにその約半分の13パーセント弱の人しか物づくりには必要ないわけで、もちろん輸入している生産物もかなりの量があるものの、輸出している生産物もそれと同等以上の金額にのぼっているわけであり、おおざっぱに言えば全人口の87パーセント強の人たちが直接の物づくりとは関係のないことをやっているわけで、その全体の75パーセントを占める第三次産業の分野でAI技術などによって機械化が進めば、ほとんどの人の働き口がなくなってしまうわけだろうが、実際にはそうはなっていない現状があり、そんな脅し文句は杞憂に終わる公算が高いものの、確かに物を作っているだけはだめで、それが売れないことには収益が出ないわけだから、物を売るための活動が重要であることは当たり前のことなのだが、その売買に伴う商業活動というのが、右から左へと物や情報を動かして利益を得ようとする類いの、簡単に言えば安く買って高く売る活動なのであり、全てがそれだとは言えない面もあるのだろうが、何らかの生産物が様々な経路で様々な人や集団の手を経由して消費者に届くまでの間に、世の中のほとんどの労働が集約されているわけだから、物や情報を生産してそれを売るという単純な概念では労働を捉えられないことは言うまでもなく、それを生産するまでの過程よりも生産してから売るまでの過程の方に多大な労力がつぎ込まれているわけで、また売ってからも買った消費者に情報を提供したり、売った後にアフターサービスを行うような労働もあるのだろうし、物や情報を生産するだけにとどまらずに、それ以外の部分で後付け的にどんどん人の関与を付け加えていって、そこに労働の余地を見出すような成り行きになっているのではないか。

 そうなると労働というのは何かを作るというよりは、何らかのサービスを提供するような傾向へとシフトしてきているのかもしれず、例えば直接消費者のところへ出向くにしても窓口業務ような形態をとるにしても、そこで買い手である顧客と交渉して物や情報やサービスを売るような労働があることは確かだが、それも交渉を必要とする類いの商品に限られるだろうし、それならネット上のサイトにアクセスして買いたい商品を選べばそれを配送してくれるようなシステムにした方が、売る方も買う方も気が楽なのかもしれないが、それができない商品だとメールなどのやり取りによって交渉することにもなるだろうし、そんな売り手も買い手も避けては通れない交渉というのが、やはり安く買って高く売るような商業的な駆け引きの場となるわけだ。もちろんそんな部分であっても、ただネット上で検索して一番安く売っている商品を買えばいいだけの場合もあるだろうし、実際に価格を比較するサイトもネット上に存在しているし、全ての商品が面倒な交渉なしに手に入るような成り行きに向かっているのかもしれないが、そうであってもやはり売り手と買い手との間にある非対称で不均衡な関係を解消することはできないだろうし、今後もその部分に人の労働が関わってくることは確かかもしれないし、そのような部分が企業が行う経済活動の中で重要な部分となっているわけだろうが、その一方で交渉や駆け引きなしに強制するようなやり方が行政を中心に行われている現状もあるわけで、統治している人々に何らかの義務を課すようなことが当然のこととして行われ、それを守らないと法律に違反したことになって、場合によっては処罰の対象となることがあるわけで、そんな法律を制定するには選挙で選ばれた民衆の代表者たちの了解を得ないとならない仕組みになっているわけだが、そこでも民衆とその代表者たちと行政機関の間で駆け引きや交渉が行われるわけで、さらにそのような駆け引きや交渉を伝えるメディアも絡んできて、そこでわけがわからない紆余曲折やこじれにこじれた駆け引きや交渉を経た末に、いつの間にか民衆が望んでもいない法律が制定されてしまうことが多々あるわけで、結局それは行政機関の意向を反映した法律になることが多く、要するに行政の統治権限の強化に結びつくような内容が民衆の代表者たちが集まっている議会で可決されてしまい、しかもそれを民衆が支持しているかのようにメディアによって伝えられてしまうわけで、結局そこで露わになるのは、売り手と買い手との非対称で不均衡な関係と似ているようでいて微妙に違う、民衆と行政との非対称で不均衡な権力関係となるのではないか。


10月1日「企業と産業」

 資本主義経済の中で物や情報などを生産して流通させる活動を担っているのは主に企業であり、企業活動が資本主義経済を実質的に動かす上での原動力となっているわけだが、企業という組織形態はそれ自体が資本の蓄積を表す単位でもあり、具体的には発行している株式の時価総額が資本の蓄積量を示しているわけで、それ以外にも保有する土地や建物や機械設備などの規模や、事業に携わる従業員の数や生産している製品の売上高や収益額や、保有している現預金の額や負債額などからも、その活動の実態をうかがい知れるわけだが、企業の中でも主流をなしている株式会社という組織形態が、資本主義的な経済活動そのものを反映したシステムを構成していて、株式を発行して多額の資金を集めて、その資金を活用してそれなりの規模の機械設備を設置してそれに携わる従業員を雇い、それらを使って物や情報などを生産して流通させて販売し、集めた資金に見合うだけの収益を上げようとするわけだ。また株式という資本形態はそれ自体で売買が可能だから、株式を売ったり買ったりすることで企業同士の離合集散が比較的容易で、企業が収益力のある他の企業を買収することで企業自体の経営体質を強化できるわけで、そうやって企業の中で収益力の高い企業が生き残って収益力の低い企業が消え去り、結果的に収益力の高い企業によって資本主義経済が維持されるわけだから、収益が上がらずに経営が立ち行かなくなって倒産したり廃業したりする企業がいくら出ても、またそれによって失業者がいくら出ても、実際に収益を上げている企業がそれなりに活動していれば資本主義経済は存続されるのであり、景気が悪くなろうと恐慌が起ころうと資本主義経済そのものが崩壊するわけではない。また利益が出なくても企業活動を賄えるだけの収益が上がっていればその活動は継続されるのであり、慢性的な赤字体質であっても新たな投資などの何らかの手段で資金供給が続いている限りは企業は倒産しないし、赤字が出ている中でも投資が断続的に行われている時期と、事業が軌道に乗って一定額の収益が出始める時期とで時間的なずれが生じるわけだから、原理的には赤字が出ていても将来性を見込んでその企業の株価が値上がりすることもあり、株価が値上がりすればそれが新たな資金調達の可能性を生じさせるわけで、結局そのような組織形態や資本形態や収益形態などが資本主義的な経済活動の強みとなっているのではないか。

 それに関連して例えば収益性の低い事業や産業分野が衰退してその方面での経済が停滞して、そこから金融機関や投資ファンドのなどの資金が撤退するようなことが起こると、その反動で新たな投資先として新製品を発表したり新サービスを打ち出す企業や産業分野などに期待がかかるだろうし、そこへと資金や人材などが流れ込むような成り行きがもたらされると、結果的にその産業分野での経済活動が活発化することになるのだろうが、そんなふうに特定の産業分野が衰退したり停滞することが別の産業分野への投資を促すことになれば、単に投資熱が冷え込んでしまった分野からこれから投資を過熱させようとする分野へと人や物や資金の移動が起こるだけではなく、それらが混ぜ合わされて化学反応のようなことが起こって、その結果としてそれまでになかったような新たな産業分野が生み出される可能性が生じるのかもしれない。厳密にいえばそのような成り行きとは重ならないのかもしれないが、また別の事例として、例えば農林漁業などの第一次産業の衰退が工業などの第二次産業の発展を促したのではなく、工業の発達によって農林漁業が機械化されて、機械化された農林漁業が旧来からあった人出のかかる農林漁業を駆逐するような成り行きがもたらされたわけで、また農林漁業が機械化されるとそれらの産業に携わっていた人が余ってしまうわけで、余った人がどこへ行くかというと、結果的には工業へと流れたわけだろうが、工業へと流れるだけではまだ人余りとなれば、行き先のなくなった人たちは移民となって国外へ出て行くしかなくなるわけだが、そんな成り行きの中で工業の発達は工業から生み出される製品を買ってくれる消費者を必要してくるわけで、また機械化されて生産力や収穫量が上がった農林漁業から生み出される産物を買ってくれる消費者も必要となってくるわけで、結局はそれらを消費してくれる人たちはどうやって暮らして行くのかとなるわけだが、どういう成り行きでそうなってしまったのかは合理的には説明できないのかもしれないが、農林漁業よりも工業よりも産業人口が多いサービス業などの第三次産業という分野が発展してきた歴史的経緯があるわけで、ただ単に生活必需物資の生産に携わるだけでは人が大幅に余ってしまうのは確実で、ではそれ以外の人は何のために必要なのかとなるわけだが、結果的には第一次産業や第二次産業が生産する産物や製品を最終的に消費してくれる人が必要なのであって、またそれらを世界中に流通させたり販売したりする過程で人も機械設備も必要となってくるのだろうが、結果的にそうなっていることを合理的には説明できないだけに、人の理性や人が存在する必然性を超えるような事態を資本主義経済が実現していることは確かなのではないか。