彼の声120

2017年

5月31日「避けられない事態」

 現状維持ではなく変化を求めることは、現状で不都合を感じている誰もが思うことかもしれないが、そうだとしてもたいていの人は都合のいいような変化を求めているのであり、都合が悪くなってほしいわけではなく、不具合が増大してほしいわけでもないのは、当たり前のことだろうし、変化とは自らにとって都合のいいような変化であってほしいわけで、できればそうなるように願うし、場合によってはそうなるように積極的に画策したいわけだが、実際にはそれが何をもたらすのだろうか。周りから様々な作用が及ぼされて、思いもよらないことが起こるのはいうまでもないことかもしれず、その思いもよらない事態に対応しようとするのだろうが、対応しようとすることがさらに思いもよらない事態を引き起こすことにもなって、そうやって当初に願っていた状況からどんどん逸脱していってしまうのかもしれず、それが実際に体験する状況の変化であり、変化は誰もが思ってもみなかった様相を呈するのであり、そんな状況に適応しようとすることで、人も人が関与する環境も変わっていくのだろうし、そこで実現される事態が新たな人と物と情報の関係をもたらして、望んでいたのとは違う事態に直面していることを実感させ、今まで経験したことのない未知の領域へと踏み込んでいるとも思わせて、もうそこから後戻りができないことを悟らざるを得なくなるのかもしれないが、果たしてそれが不都合な事態なのかといえば、そうでもないのであり、望んでいたのは違う事態だとしても、それに適応しようとする限りで、すでにそうなっていることを受け入れているわけで、そんなふうにして人は環境の変化に適応しようとして、自らも変わっていくのであり、現状維持ではなく変化を求めていると思われるのは、実際に変化を受け入れているからそう思われるのであり、変化を受け入れられなければ現状維持を求めているように思われるだけで、初めからそう思っているわけでもなく、そう思ってしまう時点で、すでに何らかの変化に直面していて、そんな変化に対応しながら、ある面では現状を維持しようとしていて、また別の面では変化を受け入れようとしているのであり、そこで思うのはどちらか一方ではなく、その自覚はなくても相反する思いに同時的にとらわれているのではないか。

 人がそこでどう思ってみても、状況の変化から逃れることはできないだろうし、変化のただ中にいる限りは変化に対応せざるを得ないわけだが、対応していく過程で防御する砦を築いていくわけで、自分や自分が属している集団を守るための何らかの手段を講じるのであり、人々は協力して自分たちが安定して安全に暮らせる環境を整えようとして、自分たちの都合に合わせた社会を構成しようとするのだろう。具体的には生活空間となる土地を造成して、建物を建てて機械類などの設備を設置して、道路や上下水道や電気やガスなどのインフラを整備するわけだが、そのような人工的に造られた環境に依存して、それに適応できるように人の思考も対応しようとするのだろうし、現状で成り立っている環境から、そこで生活している人の思考が形成されるわけだから、そうである時点でその環境に適応するような思考形態になっているとも言えるわけで、現状の社会の中で合理的に思われることは、そこで生活する上で理に適った思考から導き出されているのだろうし、そこで自然に思われるような理屈は、その社会の中で暮らしている人にとっては、そう考えるのが当然のことのように思われるのだろうが、別の時代の別の社会ではそうは思われていなかったのかもしれず、ある時期に起こった何らかの環境の変化に対応する過程で、そんな理屈が導き出されて、その後それが広く様々な社会に普及して、今ではそれが誰もが当然のことのように思っていることなのかもしれず、そんな歴史的な経緯が今の時代では忘れ去られていて、それが自明視されているからこそ、かえって見えているものが見えていないような事態が生じている可能性もあるわけで、もはやすでにそれほど必要でないことを、慣習や伝統として頑なに守っている現状もあるのかもしれないし、それが普通に生活していく上で障害となっているとしたら、自然と廃れていく傾向にあるのかもしれないが、そこでも絶えず現状を維持しようとする思いと、変化を受け入れようとする思いとが、絶えずせめぎ合っている状況があるのかもしれず、そうしたせめぎ合いも現状を構成する出来事の一つだろうから、せめぎ合いが生じている時点ですでに身の回りの環境が変化していく途上にあるのではないか。


5月30日「政治に求められていること」

 そもそも人々が政治に救いを求めるのが大きな勘違いだとすれば、だからと言って絶望するしかないわけでもないだろうが、別にそれがたわいないことではないのだとしたら、一応はそこに真剣に検討せざるを得ない課題があると思っても構わないだろうし、たとえそれがすぐにどうなるわけでもないとしても、実際にメディアを通して得られる印象としては、現状でどうにかしなければならない課題がいくらでもありそうに思われるのだから、そのような課題に取り組むのが政治の使命だと単純に考えるしかないだろうし、どのような課題に取り組むかで、様々な立場に応じて見解の相違があるにしても、一応は政治家がそんな政治的な課題に取り組んでいるらしいことは確かなのではないか。一方にどうにかしなければならない課題があり、もう一方にそれをどうにかしようとする政治家がいるわけだ。そんな単純極まりない構図を示してみても、何を述べていることにもならないかもしれないが、そのどうにかしなければならない課題というのが、政治の力ではどうにもならないことだとしたらあきらめるしかないが、実際に政治家は誰もあきらめてはいないのだろうから、少なくとも政治の力でどうにかできると信じているのだろうし、そう信じるしかない現状があるのではないか。しかしその政治的な課題というのが、結果的に現状を維持することだとすれば、しかも実際に現状を維持しようとする政治勢力が世論の支持を得ているのだとすれば、政治的な課題とは現状を維持することであり、現状を維持するにはどうしたらいいのかということであり、それが政治が最優先に取り組むべき課題だとしたら、いったい現状とは何なのだろうか。

 例えば現状に作用を及ぼしている様々な力のせめぎあいの均衡を保てば、現状を維持できるだろうか。そこに力の不均衡が生じているとすれば、現状は絶え間なく流動的に変化しているともいえるだろうが、変化を食い止めようとすることはできるのかもしれず、不均衡をもたらすような兆候を察知して、変化を及ぼす危険性のある芽を事前に摘み取っておけば、そのような処置を施した部分では現状を維持できるかもしれないが、それを察知するには絶え間ない状況への監視が必要となってくるだろうか。だがそうやって監視を強めること自体が、社会への締め付けを強化することにもなり、それも力を及ぼしていることになるわけだから、一方的な強制措置は力の均衡が崩れる要因ともなるわけで、結果的に現状の変化を促してしまうことにもなるだろうし、では現状を維持するには何もしなければいいのかといえば、放っておいてもそこに及ぼされる様々な力が自然に強まったり弱まったりする傾向にあるのだろうから、それに対応して力の均衡を保つような努力が絶え間なく求められているわけで、何もしなければ勝手に変動していってしまうだろうし、そうかと言って何かやればやっただけ変動する可能性もあるわけで、そういう意味では現状を維持するのは不可能なのかもしれず、不可能なのになぜ現状を維持することが求められているのかといえば、現状の変化をできるだけ最少限度に抑えてほしいということなのではないか。そのためには何をやればいいのかといえば、やはり社会の秩序や治安を保つことなのだろうし、それが文字どおり保守政治を推進することにもなるわけだが、具体的に何をやっているのかとなると、現状でやっていることがそれなのだろうし、果たしてそれがどのような効力を発揮しているのかといえば、それは現状が示している通りのことでしかなさそうだ。


5月29日「虚構以下の現実」

 何にしても単純に考えるべきではないかもしれないが、単純に考えないと理解できないのかもしれず、物事を単純化した上でしか理解できなければ、そういう理解は何かしら正確さを欠いていると言えるだろうか。一般的に言って理解とはそういうものなのかもしれず、何かを理解したと感じるのは、物事を単純化できたということであり、そうである限りにおいて理解そのものは本当の理解ではなく、理解という意味を裏切っているのかもしれないのだが、そう理解することしかできないとすれば、それはそれで仕方のないことなのかもしれない。それで理解したことにしておかないときりがないのであり、それ以上の理解は理解とは言えず、空想にしかならないのではないか。そうやって人は常に理解という過ちとともに生きているのであり、意味の正しさを求めながらも、正しさには至らずにそこから逸脱してしまうのであり、そんな逸脱に気づかないから、何事も確実に捉えきれないことを理解しないのであり、事物とそれを言い表す表現との間に齟齬が生じているのだが、だからと言って事物を表現することをあきらめるわけにはいかないし、実際にあきらめていないから、絶えず事物を的確に捉えようとして、捉えるための確実な方法を模索しているわけだ。

 そんなふうに理解し難い面があるにしても、理解できる範囲内で事物を理解しようとしているわけだが、そうやって何かを知ろうと試みている間は、まだ知り得ていない限りで謙虚になれるわけで、いったん知ってしまったからには途端に傲慢になるわけでもないのだろうが、理解できたと思えばそこに隙や油断が生じてしまうことはありうるだろうし、わかったと思うことで安心してしまい、しかも周囲の誰もが同じ理解に至って、共通の了解事項として世間で共有されてしまうと、意識はさらなる安心感に包まれるだろうし、中にはそんな共通了解から利益を得ようとして、それを目指して積極的に物事を単純化しようとする傾向もあるわけで、そんな試みがメディアを介して盛んに行われている現状があるのかもしれず、さらにそれを悪用するやり方として、悪く言えば攻撃的かつ否定的なレッテル貼りが横行している状況にもなっていて、普通はそういう煽動的な悪用表現は誰にもはっきりとわかるものなのだろうし、誰もがそんな浅はかな単純化に騙されているわけではないだろうが、ただそういう不快感をもたらすような表現が嘲笑的に利用されている実態というのが、漫画などに登場する雑魚なやられキャラ特有の台詞と重なっているだけに、そういう煽動的なレッテル貼りもお笑い芸人の軽薄なしゃべくりと同じ水準で、世の中で許容されている現状があるのかもしれず、なぜかそういうところでは現実と虚構の区別がはっきりとついているにもかかわらず、あえてわざと混同することで下衆な楽しみが提供されているわけだ。

 要するに何事もその場の都合に合わせて理解しようとしているわけで、都合のいいように理解することが、都合の悪い面を隠そうとすることと同時進行しているのだろうし、そういう一面的で軽薄な理解をメディアを通じて拡散させることで、世の中の主流派がやっていることの無理で不都合な面に興味が向かないようにしているのかもしれないのだが、それが政治的な主導権を握っている勢力にとって好都合なのだとすれば、政治とはその程度のことであり、すでにその時点で誰もが真摯に受け止めるようなことではなくなっているわけだが、それと地続きで世界各地でテロによって大勢の人が死傷しようと、北朝鮮の最高指導者の兄が毒殺されようと、それが直接日常生活に影響を及ぼさない限りにおいて、それらは虚構以下の現実でしかないわけで、たぶんその中に政治的な情勢や動向も含まれているだろうし、実際に今のところはそれ以上ではあり得ないわけだから、当事者としてそれらの出来事に直接関わらない限りは、それに対する真摯な理解とも認識とも無縁でいられるのであり、そうやって理解の軽薄な単純化や煽動的なレッテル貼りを楽しんでいる間は、それを超えるリアリティは望めないだろうし、望めるような環境で暮らしているわけではなく、それなしで済んでしまうような状況の中で生きているわけで、それが平和のありがたさでもあり、平和だと思っていられるような現状認識なのではないか。


5月28日「不透明な事情」

 物事には透明な面と不透明な面とがありそうで、そうなるのが確実に思われる面と不確実で偶然に左右される面とがある、といえばわかりやすいだろうが、必然的な成り行きを求めているにしても、それ以前に偶然に何かが発見されるわけで、その偶然に発見された事物や理屈を応用して、新たに何かが発明されるわけだ。偶然に見つけ出された何かを必然的に再現するわけだから、そういう意味で発明というのは偶然の必然化だと言えるかもしれないが、その逆に必然的に偶然を再現する試みもあるだろうし、乱数を発生させるシステムとか、カオスな現象を計算から求める試みとかがあるわけだが、さらに偶然と必然が結合した現象として確率的な現象があるだろうし、確率が低ければ偶然の割合が大きく、確率が高ければ必然の割合が大きくなるわけで、それが起こる確率が百パーセントでなければ、必然的に起こるとはいえないわけだが、計算から確率が求まらない場合もあるだろうし、全てが計算できるわけではないのだから、しかも確率的に求まるような現象だと、そうなる確率がゼロか百パーセントでない限りは、確実なことは言えなくなってしまうだろうし、物事には確実に言えるような透明な面と、不確実な偶然に左右される不透明な面とがありそうなのだが、努力する目的としてはどうしても全てを確実にしたいわけで、不確かで不透明な面を取り除こうとする傾向にあるのだろうし、たぶんそれが完璧にできないからそこで無理が生じるわけで、それでも無理を押し通そうとすると、やっていることがうまくいかなくなるのだろうが、そうだとしても確実性への追求をあきらめて、偶然に身をまかせるわけにはいかないのだろうし、そんな事情からもやっていることのすべてがうまくいくなんてありえないことがわかりそうなものなのだが、そんな不可能に直面しながらも、確実な可能性を追求せざるをえない事情がそこに生じているのだろうか。

 確実性への追求は何をもたらすのか。たまたま偶然にそうなったことを忘れさせる効用でもあるのだろうか。それが努力への信仰を生むことは確かで、努力すれば報われるように思いたいのだろうし、たまたま何らかの事情で努力できなかった場合の偶然性を無視したいのだろうか。例えば利益を出す確実なやり方が確立されているところでは、すでに何らかのやり方で利益を出している前提があるだろうし、利益が出なかった別の事例は無視されていて、ある一定の水準で利益を出していることが、さらにそこから利益を出すやり方を試すための前提条件となっているだろうか。その辺で何か循環論のようなごまかしがありそうだが、一応はそんなふうに利益を出すやり方がシステム化されているとすれば、そのシステムを利用できる人は限られている場合があるだろうし、誰もがそれを利用できるわけでもなく、それを利用するには何らかの資格が必要とされるのではないか。そうなっているとすでにそこでは、利益を確実に出すための連携やネットワークが確立されていて、そこにアクセスできるごく限られた一部の人たちだけに、利益がもたらされるような仕組みが作動していることにもなるわけだが、そのような必然性を享受できるのは、利益が出たり出なかったりする環境であがいているその他大勢の人々から、利益を効果的に吸い上げるシステムが出来上がっているからとも言えるわけで、それに関して簡単な例を挙げるなら、公務員が他の民間の人々と比較して優遇されているような確実な事情があるとすれば、それは徴税や国債の発行によって安定的に財源が確保されているからだろうか。そんな制度の恩恵に浴することで優遇されている例は他にもいくらでもありそうだが、そういう確実なやり方が様々に確立されている社会では、そのような制度から外れて利益を得るのは困難を極めるだろうし、そのような制度が確立された社会というのも、世界の中ではほんの一部に過ぎず、制度によって優遇されているごく一部の人たちと、制度の恩恵に与れないその他大勢の人々との間の格差は、開く一方なのかもしれないし、そんな制度を守る側とそれに歯向かい制度の崩壊を目論む側との抗争も、今後も激化する一方だろうか。そしてそれを象徴しているのが世界で多発するテロなのだろうか。


5月27日「切っても切れない関係」

 そんなのはありえない空想でしかないかもしれないが、そこに何が優先されるべきでもない状況があるとすれば、そこでは何が正しいことでもなくなってしまい、ではそんな状況の中で何をやればいいのかと問われるならば、現にやっていることが優先的に行われていることであり、別に正しいことが優先的に行われているわけではないかもしれないし、正しいという価値よりも優先される何かがありそうにも思われるが、それが欲望であろうと利益であろうと、それを優先している人や集団にとってはそうすることが正しい行いであり、そうすることが間違っていると思われるなら、他に正しいと思われるような何かがありそうにも思われるだろうが、それが何だかわからなければ、何が正しいことでもなくなってしまい、何が優先されるべきことでもなくなってしまうだろうか。要するに優先事項の不在がその場での混乱をもたらしているのかもしれないが、現に何かしらやっている現状がある限りはそれほど混乱しているわけではなく、ただ誰もが従えるような納得できる規範がないのではないか。そこでの最優先事項というのが規範に従うことだとすればそうなるだろうが、どうもそんなことがはっきりと意識されているわけではなく、自覚がないまま何となく規範に従っているのであり、何が規範なのかがわからないまま規範に従っているのだとすれば、社会規範とはそれと意識できないような何かなのかもしれず、例えば世の中でそうすることが合理的だとは思われないような、何らかの差別が明らかとなれば、そんなふうに差別することが規範に適った行為となるだろうか。否定的な行為としての規範ならそうかもしれないが、何も規範のすべてが否定的に作用するとは限らないわけで、そうすることが肯定的に思われるような行為もいくらでもあるのかもしれず、自らがやっている行いが周囲で大して軋轢を生じなければ、少なくともそれが規範に則った行為である可能性が高いのではないか。

 その周囲では確かにそうかもしれないが、別のところではそうではないかもしれないし、場所や状況や時期によって規範が異なるのはありそうなことで、その場では受け入れられても、そこから時宜や時機を逸してやればひんしゅくを買う場合もあるだろうし、このような場合はこういうことをやるべきということが規範としていったん確立されていると、それが継続的に行われる限りで儀式的な行為となって、そのような行為をやればやるほどマンネリ化や形骸化を被ることにもなりそうだが、そんな何かをやることが他の誰にとっても否定しようのない行為というのは、悪く言えば人畜無害な行為なのかもしれず、それとは逆に周囲に軋轢を生じさせるような行為というのは、それをやり遂げるには相応の力が必要とされる行為となるだろうし、それが権力の行使を必要とする行為となると、当然そうすることに抵抗したり反感を覚えるような人たちの存在が想定されるわけで、たとえそのような抵抗や反発が表面化していなくても、例えば金銭を払って黙らせていたり、暴力による脅しを前提としていたり、様々な無理が暗黙のうちに必要とされる場合がありそうだが、社会の中で何をやるにしても、人や集団との直接の接触があるところでは、それに伴って大なり小なり無理や軋轢が生じてしまうわけで、それを可能な限り和らげるための手法というのも、様々に考案されているのだろうし、それらが実践で試されている限りで成り立っているのが、人や集団の間で成り立っている様々な関係なのだろうから、それが肯定的な連携関係であるにしても否定的な対立関係であるにしても、そんな関係に依存しながら人も集団も活動しているわけだから、そこに働いている力に支配されているとも言えるだろうし、そんな力が働いている限りは、その力に従っているにしろ逆らっているにしろ、それなしでは成り立たないことをやっている現状があり、それなしではやっていることを正当化できないわけだ。だから何よりもそこで優先されるべきなのは力の継続であり、そんな行為を可能としているような権力関係の維持なのだろうし、たとえそれに反発して抵抗しているような人や集団であっても、暗黙のうちにそのような関係を前提として活動しているのではないか。


5月26日「合理的な虚構」

 世の中は必ずしも合理的にできているわけではないが、人は絶えず合理的に物事を考えようとする。何事も合理的に語らないと話に説得力が生じないし、説得力のないことを語っても信じてもらえないだろうが、語っている対象は終始合理的な成り行きで推移しているわけではなく、途中で思いがけない紆余曲折が起こるわけで、そんな合理的でない成り行きを合理的な理屈を用いて語ろうとすれば、当然のことながらそれは虚構となるしかなく、そんなわけで説得力のある話はフィクションとなるしかないだろうか。全てがそうだとは言えないだろうし、現実を合理的に説明しようとしてそれで納得できれば、別に虚構であっても信じてもらえなくても構わないだろうし、説明している当人がありのままの現実を語れる範囲内で語っているように思われるなら、それほど間違っているとは思われないだろうし、話術の類いでそこに多少の嘘が含まれていようと、それで納得できるのなら気にならないだろうし、そもそもその程度の嘘には気づかなくても構わないわけだ。そうであってもそこに含まれている嘘には説得力があり、逆に話に含まれていない真実の方が説得力がないのではないか。だから真実に気づけないというわけではないだろうが、それは隠されているわけではなく、そこにあって実際に誰もが気づいていることなのかもしれないし、それが真実だからこそ誰からも興味を持たれないのかもしれず、その反対に誰もが興味を持つような内容こそが虚構なのであり、それが興味深いフィクションを構成するからこそ、誰もがそこに惹きつけられてしまうのではないか。例えば熱心なイスラム教徒はイスラム教というフィクションに惹きつけられてしまうし、熱心なキリスト教徒はキリスト教というフィクションに惹きつけられるし、熱心なナショナリストは国家というフィクションに惹きつけられ、熱心な人道主義者は人間というフィクションに惹きつけられるだろうか。

 ならば実際にそこで生じている真実とは何なのか。例えば実態として食料の生産と流通がうまくいかないような地域では、実際に飢餓に襲われて多数の餓死者が出るし、争いが激化している地域では戦闘行為によって多数の死傷者が出るし、そこではフィクションよりも現実の方が顕在化している実態があるわけで、とりあえずは衣食住が足りている現実がないと、社会という虚構が成り立たなくなり、実際にそこで何らかの不条理があれば合理的な説明など信じてもらえないだろうし、飢餓や貧困や戦争という現実が平和という虚構に勝ることになるわけだが、実際にそれらの悲惨な現実に蹂躙されて混乱に陥った社会の中でも、最後の神頼みのごとくに信じられている宗教があるかもしれず、そこで信じられている宗教にはどんな合理的な根拠があるだろうか。例えば敵と味方を見分けるには異なる宗派が必要であり、同じ宗派に属しているのが味方で、別の宗派に属しているのが敵だとすると、そのような宗派間対立には、そのような対立が合理的なフィクションだと思われる限りで、人々はそんな構図を信じているのだろうか。もちろんそれが嘘ではなく真実だと思うから信じているのだろうが、そんな中で唯一信じられるのは、同じ規範を共有していることであり、宗派の戒律から導かれる規範の違いによって敵と味方に区別されることになるわけで、同じ宗派内での規範の共有から意思疎通が図られて、そこから信頼関係や連携のネットワークが築かれ、そうすることが合理的なやり方だと思われるだろうか。要するに同じ価値観を共有していないと話が通じないし、共通の掟の下でないと協力し合えないということであり、同じ価値観や掟を守ることによって同質の集団が形成され、そんな集団が一つの地域の方々で複数生じていれば、異なる複数の集団の間で戦争や交易が行われる成り行きとなるのだろうか。

 しかしそんな説明が合理的なフィクションだとすれば、ではそれとは異なる合理的でない真実とは何なのか。必ずしも宗派間対立が事の全てではないということか。他に企業間対立もあるだろうし、国家間対立もあるだろうし、地域間対立まであるかもしれないし、対立が戦争に発展しない場合もありそうで、対立そのものが表面化しない場合まであるだろうか。宗派間対立が経済的な利害に直結している場合は、政治的な利害にも直結しているだろうし、特定の宗派に属する人々が国家の主導権を握っていれば、別の宗派に属する人々は反体制派を形成しているのかもしれず、それが武装闘争を伴った反政府活動に発展すれば内戦となるだろうが、宗派とは別の価値観が優勢な社会では、必ずしも特定の宗派だけで集団が形成されるとは限らず、例えばあやふやな主義主張を共有することで集団が形成されることもありうるわけで、はっきりした価値観の共有がなくても、何となく集団が形成されている場合もありそうで、異なる集団の間での主義主張の違いが部外者にはよくわからない場合もあるだろうし、明確な区別がつかないような集団が複数混在しているような場合は、集団同士の対立や争いもそれほど激化せずに、血なまぐさい対立抗争などには発展しなくても済んでしまう場合まであるだろうし、人々が集団間の差異を際立たせるのにあまり熱心になれないような状況があるなら、激しく対立する理由など生まれないのだろうし、そうなるにはまずは社会全体で衣食住が足りている状態が保たれていることが、その最低条件になるかもしれず、次いで極端な貧富の格差や、特定の階層や集団への政治的な優遇措置がないことも、無用な対立を避けるには必要な前提条件かもしれないが、もしかしたらそれさえも合理的なフィクションなのかもしれず、優遇されている特定の階層や集団にとってそれは、無用どころか有用な対立であり、場合によっては飢餓や貧困や戦争という現実でさえも、そこから利益が得られる限りにおいて、有用なのかもしれない。それが不条理な真実となるだろうか。


5月25日「期待と願望」

 予言には期待が込められていて、そうなりたいという願望が人を予言に導くのだろうか。自分がそうなりたいのではなく、世の中がそうなってほしいということだろうが、そうである限りにおいて、そんな願望をもたらしている原因が他にありそうだが、一方で予言を信じてしまう人も、予言通りの未来が訪れることを期待しているだろうし、そんな願望が予言を信じさせているわけだ。そんなわけで人々の期待や願望が予言となって現れていることは確かで、たとえ荒唐無稽な内容だと思われても、そこに人々の期待や願望が込められていれば、予言を信じてしまう人が少なからず出てくるだろうか。例えば人々を苦しめている社会問題がやがて解決してほしいと誰もが願っているのなら、そんな願望を反映した予言がもたらされることになるかもしれないし、これもよくあることだが、いつも手を替え品を替えて予言される破滅的な未来も、それも一つの解決には違いないから、そんな未来を予言する人が後を絶たないのだろうし、現状では解決が難しい問題が山積しているから、それらを人知を超えた力でリセットするような予言へと逃避しているのかもしれず、予言の内容が荒唐無稽であるほど、そこには現状からの逃避願望が反映されていることになるだろうか。社会の中で生きていることにストレスを感じている人が多いから、破滅的な未来がやってくるように思われるのかもしれないし、そんな予言も流行しているのだとすれば、世の中の現状が予言に反映しているとも言えるわけだが、それでも前世紀末の一時期ほどには流行っていないだろうし、そんな終末予言を信じて核シェルターを買ったり、世の中に絶望して集団自殺を試みるような人も、いることはいるのだろうが、誰もがそうしたいとは思っていないだろうし、そんなことをやっている暇がない人が世の中の大半を占めている現状はあるのだろう。

 普通に考えるなら、それを期待しているのではなく、そうなる不安感に苛まれているとも言えるのだろうが、期待と不安は近い感情なのだろうし、両者が入り混じっていて、どちらともとれるような心理状態にあるのかもしれず、否定的な期待が不安とでも言えるのかもしれないが、そこから期待と不安の入り混じった予言へと逃避するのではなく、願望を実現すべく努力すべきと言ってしまうと、大方の人はすでにそうしているのだろうし、努力しているからこそ期待や不安が生じて、努力しきれない面で予言に頼ろうとする、というよりは気まぐれに気晴らしで信じてみる、というか信じたふりをしてみると言った程度のことかもしれないし、本気で信じている人はごく一部で、それ以外でやっていることが本気でやっていることであり、そっちがメインなのだろうから、予言を信じると言っても、普段はそれとは無関係なことをやっている人が大半であり、予言を信じることで生じる効用があろうとなかろうと、そんなことよりはるかに大きな効用を信じて別のことをやっているわけで、そんな効用をもたらすと信じられていることなど世の中にはいくらでもありそうだが、そうである限りにおいて、人々はその種の予言からは一定の距離を置き、そこから適当に遠ざかっているわけだろうが、では他にメインで何をやっているのかといえば、少なくとも現状を分析しているのだろうし、分析しながら行動しているわけで、現状で存在するこの世界を知ろうとしているのではないか。それが現状で努力していることのすべてだろうか。それを努力とは言わないのかもしれず、ただ対処しているのであり、常に対応を迫られていて、それだけで手一杯だとすれば、他にやることなどなく、やっている余裕などないだろうし、安易で荒唐無稽な予言などに引っかかっている場合ではないだろうか。

 逆に考えれば、荒唐無稽な予言を信じる余裕のある人が多いと、その種の予言が流行るのだろうか。だがそれとともに、現状では何の希望も持てないから、終末予言を信じるしかないということもありうるのではないか。そのどちらもありうるとすれば、これもよく言われることだが、人々の間には経済格差や資産格差があって、暇を持て余している裕福な人は、予言を信じてホテルのような設備の整った豪華な核シェルターを購入する一方で、やることなすことうまくいかずに絶望した人たちは、世界が終末を迎える前に集団自殺を試みたりするわけか。自殺する余裕もない人たちは、ただ死後の来世を夢見るしかないのかもしれないし、若い頃はまだ現世での努力に望みを託すが、年老いて後先が短くなってきたことを実感すれば、来世に救いを求めるようにもなるのかもしれず、予言を信じる時期や状況にも、人によって様々な偏差があって、結局は現に今おかれている立場や状況の中で、本気で予言を信じるような気分となったり、気休め程度に信じたふりをしてみたり、そんなことを気にする余裕もなかったりするのだろうし、それも現状への対応の一環に含まれる動作なのかもしれず、予言を信じたり信じなかったりすることだけで、一概に何が言えるわけでもなく、とりあえず現状を分析してみると、なぜ人が予言を信じたり信じなかったりするのかについて、もっともらしい理由を導き出せたり出せなかったするわけで、予言を信じるか信じないかということ以前に、現状がどうなっているのかについて考えてみる必要がありそうで、そんな思考から現状で何ができるかがわかってくるかもしれないし、今やっていることをこのまま続けていくことの是非についても、何らかの判断が導き出されてくるかもしないが、それにしても未来への期待や願望なしで、何をやる気にもなれないのではないか。


5月24日「雑音の効用」

 世の出来事の全てに理屈を当てはめられるわけでもないが、それを語るとなるとそれなりに理屈が必要となるだろうか。というか理屈なしに語ることができるだろうか。たぶんできるだろうし、ただそれが起こったと語ればいいわけだが、別に起こっていないことも想像で語れるだろうし、それを想像するという出来事がそこで起こっているわけだから、何も起こっていないわけではないのだろうが、想像した理由を考えて、そんな理由が生じる理屈を語る必要がなければ、想像していることだけを語ればいいのではないか。そうであるにしてもなぜ理屈を求めたがるのか。物事をより深くよりはっきりとした輪郭を伴って捉えたいから、それには誰もが納得するような理屈が必要となるだろうか。結局はそれについて考えている自分が納得したいだけかもしれないが、それで物事をより深く詳しく知るに至るのかといえば、どうもそうはならないらしく、ただそれに関する言葉を余計に付け加えたに過ぎず、過剰に語っても根本的なところで認識が間違っていれば、いくら註を付け加えて装飾過多に詳しく語ったところで、それだけ説明が難解となって、理解しがたい内容となるだけだろうか。たぶんそこで理屈が破綻していて、その破綻がはっきりと示されるためにも、さらなる説明が付け加えられる必要があるわけでもないのだろうが、語っている当人がそうと自覚しているわけでもないにしても、結果的に破綻を覆い隠すために、言葉がさらに付け加えられているような印象まで持たれてしまうとすれば、後から註釈が過剰に付け加えられた文章の中身が、註釈の内容と比べて著しく均衡を欠いているような場合は、何か言い訳がましく思われてしまうわけだが、それでも理屈の破綻を覆い隠すには至っていないと感じられるなら、過剰な注釈をもってしてもどうにもならないような何らかの欠陥が、それを語っている当人の信念としてそこに定着していると思うしかないだろうか。

 しかしその信念が正しい場合は、それが欠陥と感じられてしまう感性の方が間違っていることになるだろうか。何をもって正しいと解釈できるかが、そもそもそういう解釈に同調できないのだろうから、根本的なところで見解の相違があるわけで、そういう解釈から信念が生じてしまう理由を知りたくなってしまうのであり、人がそんな信念を抱かざるを得ないような歴史的な経緯が生じているのかもしれないし、そんな成り行きによって信念を抱いてしまう人たちを狂わせているのかもしれないが、そういう人達が社会の主導権を握っている限りで、それを支持している人達には別に狂っているようには思われないのだろうし、そこから思考的に隔たっている人たちにはそう思われるだけで、しかもそういう人たちが社会の中で少数派であるとすると、多数派にとってはそんな人達の方が狂っているように思われるだろうか。もちろん狂っているという表現は誇張であって、双方の間に大した差異など感じられなければ、別に何とも思われないのだろうし、それに多数派が主導権を握っているといっても、実態としては世論の支持を背景としてごく少数の人達が主導権を握っているのであり、そのような世論の支持がある限りで、理屈の破綻も過剰な注釈によって覆い隠されていることにもなるだろうし、大多数の人達にとってはその過剰な注釈こそが真実をかき消す雑音となっていて、雑音によって人々を煙に巻いていることになるだろうが、必ずしもそう自覚しているわけではないにしても、ひたすら人々が真実に至らないように雑音を発生させている実態もあるのかもしれないし、そんな日々メディアを通じて拡散されている雑音が何をもたらすかは、今のところは誰にもわからないし、案外主導権を握っていると思っている人達の思惑通りに事が進んでいるわけでもないのかもしれないし、もしかしたらそれらの雑音には遮蔽幕とは違う効用が秘められていて、ある日ある時、思いがけない形でそれが明らかとなって、驚くような結果がもたらされれば、何か愉快にも思われるのだろうが、今の時点でそんなことを期待するのは時期尚早だろうか。


5月23日「許容限度」

 たとえそれが煩わしくも回りくどいことであっても、その回りくどく曲がりくねった成り行きや過程を意識しておいた方が、途中を省略して物事を単純化してしまうよりは、そう思われるような現象に対する認識がそれだけ深まるだろうか。しかしなぜそれが回りくどいことのように思われるのか。それが人為的な操作を伴う場合だと、必ずしもうまくいっていないということだろうし、途中の様々な紆余曲折を経た末にしか、そこへは至れないということかもしれず、そして至ろうとしてそこへ至ったのではなく、思いがけないような偶然が作用して至ってしまったのであり、そうなってしまったことについては、全面的に肯定できるようなことでもないのかもしれず、そうなるのが必然だと思われる面もあるだろうが、そうなってしまった後からそう思われるのだろうから、ただそうなってしまった結果を事後的に認めているだけのようにも思われるわけで、そうなる前からそう思っていたわけではないのかもしれず、要するに結果良ければ全て良しと思いたいだけなのかもしれないし、それ以上にいくらそうなる必然性を求めても、そんな心理的な思い込みに影響されていることは否めず、客観的な確からしさに近づいているわけでもないのかもしれない。そこで何が行われているにしても、そこへ介入する人々の様々な思惑が交錯しているだろうし、介入されることが不快に感じられ、邪魔されているようにも思われるだろうし、そう思われる限りで敵対しているとも感じられるのだろうし、邪魔されているのだからうまくいっているわけがなく、それがうまくいっていない理由だとも思われるだろうし、そんな介入をはねのけないと、うまく事が運ばないことは確かで、実際にその種の妨害工作と戦いながら、世の中では様々なことが行われているのだろうし、周りからの全面的な支持を受けながら行われていることはあまりないのではないか。

 そうなってしまう必然性があるとしたら、やっていることに対する反発や抵抗からそれが生じるのかもしれず、そこから必然的に不快感が生じているともいえるだろうか。そういう成り行きが我慢ならないということだろうし、場合によっては不快な思いを生じさせている対象に攻撃を加えなければならなくなってしまうのだろうが、全面対決するとなると双方に多大な損害をもたらすことにもなるだろうし、そうならないための方策も一方では追求されているわけで、その一つが監視することであり、反発や抵抗の兆しを事前に察知して、事が大きくならないうちに適切な対処を施せば、こちらの被害も最小限に抑え込むことができるわけだ。また抵抗や反発を生じさせないようにするには、事前の根回しが欠かせない場合もあるだろうし、何らかの懐柔工作が必要となってくる場合もあるのかもしれず、そんな戦術や戦略が様々に試されている現状もあるのだろうが、そんなことがやられているうちに回りくどくなっていくのだろうし、煩わしい事前の下準備がどんどん増えていく傾向にもあるのかもしれず、中にはそういうことをやる専門職のような部門まで形成されたりして、そんなことも含めて人や集団の行為は多岐に別れて複雑化していく傾向にあるのだろうし、そうである限りにおいて、やっていることの効果がはっきりしなくなるのだろうし、いくらやってもそれはやっていることの総体の中の一部門に過ぎず、それが全体に効果を及ぼすには至らずに、やっていることの周囲のごく一部に有効範囲が限定されしまい、そこから離れて位置する人や集団にとっては、まったくの無関係なことでしかなく、何の影響も被らなければ無関心でいるのも当然なのかもしれない。そうなってくると全ての人が守るべき規範というのが、よくわからなくなってくるわけで、共通の価値観がなくなっているかもしれないのだが、果たしてそれが未だに必要とされているのだろうか。建前上はそうかもしれないし、実際にそんな規範や価値観が前提となっている限りで、社会が成り立っている現状があるのかもしれないが、人々が実際に許容できる限度を逸脱するような行為が増えてくると、規範や価値観もおのずから変容してくるのかもしれず、実際にやっていることに応じて、その範囲や程度が決まってくるのではないか。


5月22日「事物の真の姿」

 見えているものが見えていないのは、それ以外の何かが見えているからだろうか。それが何かの幻影であり、そんな幻影が視界を覆い、見えているものを見えないようにしているのだろうか。それでも見えているはずなのだが、それが見えていることを意識できないのかもしれず、ではその代わりにどんな幻影を見ているのかといえば、そこで見えているありのままの光景を恣意的に解釈しているだけなのかもしれず、それは幻影でも何でもなく、単なる勘違いな思い込みに過ぎないのかもしれない。そう思い込まないと、安心して見ていられないのであり、勝手な解釈を通してしか見ることができないのだから、それはある種の心の病かもしれないのだが、ある種の集団にとってはそうやって見るのが当たり前のことなのかもしれず、それがその集団にとっての規範であり、それが当たり前だと思うような環境がそこに形成されていて、そんな環境の中に身を置いて見ると、そう見えてしまうのであり、それは心の病というよりは、身の回りの環境がそんなふうに見させていると捉えるべきかもしれないが、では見えているものを見えているように見えるようにするにはどうすればいいのだろうか。そこで規範として共有されている人々の思い込みを取り除けば、見えるようになるのだろうか。あるいはそんな思い込みをもたらしている環境を変えれば、思い込みを取り除けるのだろうか。しかし環境を変えるにはどうしたらいいのか。たぶん変えるための有効な方法がないから、環境を変えられないのであり、しかも時には変えられない環境が変わることもあるわけで、なぜ変わるのかは、実際に変わってみなければわからないのかもしれず、人はその身を取り巻く環境が変わった後からでしか、それが変わったことを実感できず、実感して初めてその原因を究明しようとするのであり、それは変わる前にわかるようなことではなく、わからないからこそ、いつも決まって的外れな予言に惑わされ、そんな予言を信じることで、その予言がもたらす幻影に囚われてしまうのではないか。

 だが果たしてそれは予言なのだろうか。予言だと思えなければ何なのか。臆見の類いだろうか。悪く言えばそうかもしれないが、良く言えばそれは預言であり啓示なのではないか。そして実際にそれを信じる人にとっては、そうしなければならないことであり、それはこれからやらなければならないことを示すような何かかもしれず、その何かが目的となって、そんな目的にとらわれている間は、やはり見えているものが見えていないのかもしれず、目的がそれを見えないようにしているのではないか。しかしなぜ目的に従うように仕向けられてしまうのだろうか。自らの内に生じている欲望がそう思わせるからであり、そんな欲望にとらわれているからか。未来に欲望の対象があるように思われ、そこで真理が啓示されることを期待しているのであり、そんな真理を求めることこそが、今ここで知るべきことだろうか。それを宗教だと言ってしまえばわかりやすくなるのだろうが、それでは単純化し過ぎていることになるのかもしれず、たぶんそれは宗教のような何かであり、既存の宗教とは少し程度の違う信仰なのではないか。それがあまり大げさなことではないにしても、それに接することで何か予感がするのかもしれず、そこに事物が真の姿を見せていて、その真の姿が何かを予感させるのだが、その予感を今ここにいる自分に重ね合わせてしまうと、何かが啓示されているように思われるのであり、そんな啓示に従うことで、これからやらなければならないことが決まってしまうわけだが、しかし事物の真の姿とは何なのか。それを見ている意識とは隔たった何かかもしれないのだが、意識はそうは思わず、意識にはそう意識している自らと関わりのある何かとしか見えず、関わりがあるからこそ見えているのであり、見えているからこそ、見えているという事実によって関わりがあるように思われてしまうわけだが、人はなぜ自らに関わりのないものまで見えている事実を認められないのだろうか。別に認められないわけではなく、ただそこに意識が向いているということは、それに興味を持っているということであり、興味があるということは自らに関わりがあるように思われるわけで、意識には興味があるものしか見ていないように思われるが、実際には興味のないものまで見えていることは確かで、それを意識していないだけなのも事実だろうし、それに興味を持ってしまうことが、そこで形成されている集団の共通の了解事項としての規範に従っていることにもなるわけで、それとは違う真理があるとすれば、それが事物の真の姿であり、人が興味を持たないようなものまで含まれているのが、真理としての事物の真の姿なのではないか。


5月21日「冷笑と嘲笑」

 たぶん何の進展もなかったのだろう。そんな実感が間違っているとしたら、ここ数十年で何が変わったのか。実感しているのとは別の方面で何らかの進展があったはずだ。一見同じようなことが繰り返されているように見えても、実はそうではないはずで、何か過去への悪い方向への回帰と感じられる現象が、実は回帰でも何でもなく、実際にそれを批判している人たち自身が被っている変容についてゆけず、批判している対象となっている人や集団も同じようにそうなのであり、現実には過去とは全く違う様相を呈していて、過去の一時期に流行った思考形態を保持しているように思われる人たちの中には、実際に過去への回帰を仕掛けていることを自覚している人もいるかもしれないが、それはとんでもない勘違いなのかもしれず、やはりそこで状況が過去とは全く違っていることに気づいているはずなのに、なぜかそう思う限りではそうでもないのであり、それに気づいているのに気づかないふりをしているというよりは、そう振る舞うしかないのであり、過去への回帰を演じるしかなく、なぜかそれを強いられているのではないのか。こんな認識も相当ずれているように思われるのだが、過去への回帰というメディアからもたらされる先入観にこだわって考えるから、こんなずれた認識に至ってしまうのであり、現状が過去との一時期とはかなり違っていて、そんなことはわかりきっているのに、過去への回帰という言説にこだわる限りで、それを考慮に入れてはまずいわけで、その違いを考慮に入れないと相当ずれてしまうのであり、なぜわざとそうするのかといえば、ずれた認識にいつまでもこだわっていると安心できるわけで、そうすることによって、今までにない新たな事態に直面して感じる不安から逃避できるのではないか。だから過去への回帰にこだわらなければならず、それを求めている側もそんな願望を批判している側も、それが嘘であることがわかりきっているのに、そうなっているという思い込みに執拗にこだわるわけで、それにこだわっている限りで、過去への回帰現象がそれらの人々の頭の中では進行中なのだ。

 しかもそれが国家へのこだわりに認められ、こだわっている限りで国家にこだわっていられるわけで、またそれが政治へのこだわりだと認められる範囲内で、そこでそれらの人々によって何かが演じられているわけで、その演じられている劇がメディアを通して伝えられるわけだが、それが過去のある時期とは似ても似つかないような外れ具合なのだ。たぶんそこから言いようのない違和感が生じているのであり、何か冗談のような光景がそこで醸し出されているのではないか。例えば容姿が美しなくなりたいというたわいなくも深刻な願望や欲望につけ込んで荒稼ぎをしている美容整形外科医が、その病院名を言うだけの無内容にも思われる広告宣伝を批判専門の野党政治家に国会で取り上げられて、自らの商売を侵害されたと息巻いていたり、またそれとは別のところでは、軽はずみな言動で世間の注目を浴びている精神科医が、いつものようにテレビタレント相手の軽はずみな言動を否定的に取り上げられて、それらの政治家や精神科医の政治的な立場とともに、ある種のネガティブキャンペーンに利用されているわけで、別にそれがネガティブキャンペーンなどとは思わなくても構わないのだが、メディアからもたらされる先入観に従えば、そんな勘ぐりにとらわれてしまうわけで、よく考えればそれ自体がどうでもいいことなのかもしれないが、それらの煽動がどうでもいいことではないように思われてしまうのだから、そこで何かとんでもない勘違いをしているような気がしてしまうのであり、またそれはアメリカの大統領に対する的外れな期待にも言えることかもしれないし、選挙期間中の度重なる暴言や放言にもかかわらず当選したことが、何かこれまでとは違うことをやってくれるのではないかと期待させたのだが、それがいざ蓋を開けてみると、確かにこれまでとは違うことをやろうとはしているのだろうが、それが今のところはことごとく空振りに終わっているのであり、よく考えてみればそうなって当然なのかもしれないのだが、やはりそこでとんでもない勘違いをしているようにも思われてしまうのであり、そんなことを期待する方が何もわかっていなかったことを実感している現状がありそうだ。

 それらすべてがたわいない話題なのかもしれず、別にそれをメディアが深刻な調子で取り上げているわけでもないし、野党政治家も政治批判ばかりしている精神科医もアメリカの大統領も、たぶん冷笑や嘲笑の対象になっているのだろうし、そう思わせるような意図がメディアの報道姿勢からも伺われてしまうところが、それも何かとんでもない勘違いをもたらしているように思われてしまうわけで、そんな傾向自体が回帰願望の標的となっている過去の一時期とは全く異なっているようにも思えるし、その当時は少なくとも今から思えば全くの勘違いでしかなったことを大真面目にやっていたはずであり、今から思えば全くの愚かな行為によって多数の人命と莫大な資産が失われたはずなのだが、もちろんそうなる歴史的な必然性もあるにはあったわけだが、そこから70年を優に越える時を経て回帰しようなどとは、よく考えれば誰もそんなことを願うはずもないことなのだろうが、なぜか批判している側は批判の対象がそう願っていると思い込みたいのだろうし、批判されてそれに逆襲してネガティブキャンペーンを行なっているように見える側も、それらしいことを言動や行動で示しているように感じられてしまうわけで、そんなどちらもがそう見えてしまうこと自体が、やはりとんでもない勘違いを伴っているように思われてしまうわけだが、なぜそう思われるのかといえば、たぶんそれらのメディアを通した話題の冷笑的で嘲笑的な印象から来ているのではないか。そしてそれを冷笑したり嘲笑したりしているように見える人たちも、何やら自虐的なお笑い芸をやっているようにも見えてしまうわけで、かつてのように全くの勘違いでしかないことを大真面目にやれるほどの自信がないのかもしれないし、実際にやれば冷笑されたり嘲笑されてしまうことがわかりきっているだけに、それを避けるには、自分たちを大真面目に批判する人たちを冷笑したり嘲笑したりすることしかできないのではないか。そしてそれ以外に何ができるのかといえば、官僚機構の動作に身をまかせることしかできないだろうし、実際にそうしている限りで自分たちの立場や地位を維持することができるわけだが、官僚機構は官僚機構で、その機構による統治の対象となっている人や集団を、監視しながら管理することしかできないわけだ。


5月20日「信仰と信用」

 別に何も信じられないわけではなく、かと言ってとりたてて何を信じているわけでもないが、普段から信じることを心がけているわけでもないだろうし、意外と自らが信じていることを意識していないにもかかわらず、何かを信じているのかもしれず、それを当たり前のことのように思っていれば自覚していないわけで、信じていることに気づいていないわけだ。それと気づかずに信じていることの中に迷信も含まれるだろうか。しかし信じていることにいちいち合理的な根拠を求めているわけではなく、軽い気持ちで信じていることなら、別に迷信であっても構わないのではないか。たぶん何かを信じていることが深刻な事態をもたらしているとは思えないなら、それが迷信であろうとなかろうと、信じることが心地よかったら信じているだろうし、信じていたのに裏切られたとしても、それほどの衝撃は受けないだろうし、多少は落胆しても、その程度のことだと自らに言い聞かせるのではないか。実際にその程度のことで済んでしまえば何も問題は起こらないわけだが、それで済まなければ例えば怨恨の原因ともなるだろうし、許容の限度を超えるほどに憎悪をもたらすとすれば、たぶんそれは狂信の類いだったのであり、信じた方が愚かだったと言えるだろうか。それを信じたばかりに深刻な事態をもたらすようなことは、信じた側にも落ち度があるのかもしれないが、だからと言って何事も信じるべからずを心がけるよりも、過度に信じないことを心がけるに越したことはなく、信じている間は心地よかったら、それをそれでありがたく思っていればよく、たとえ裏切られたとしても恨まないように心がけていれば、それへの信仰は浅い段階にとどまれるだろうし、何かを過信したり狂信すること自体が迷信の類いなのだろうし、信じるに足る合理的な根拠を求めること自体が、過度な信仰を求めていることにもなるわけで、そういう意味でそれが迷信であるかないかというよりは、合理的な根拠があろうとなかろうと、そういう水準で何かを過度に信じることは、それなりの危険を伴うのかもしれない。

 ではそこで懸念される危険とは具体的には何なのか。一般的に言って信仰の蔓延は不寛容の蔓延をもたらし、ちょっとしたことでも深刻に考える癖がついて、それだけ何事においても融通が利かなくなるだろうか。思い込みの激しさは時として社会の中で有利に作用することもあるだろうが、それがうまく働いている面では突出できるが、その反動で別の面では極端な陥没も現れるだろうか。別にそうなることに合理的な根拠があるわけではないが、そんな激しい浮き沈みを経験しないと生きがいを感じられないのなら、何事にも過度な思い込みや信仰が不可欠となるのかもしれないが、そういう経験を何度もしていると、だんだんそれにも慣れてくるだろうし、何を強く信じても期待したほどのご利益があるわけではないことがわかってくるだろうし、信じたばかりに極端な事態がもたらされたとしても、そこには偶然の巡り合わせが関与していて、どこかに恒常的に高配当がもたらされるような仕組みがあるとすれば、それにありつくにはそれなりのコネが必要とされていたり、誰もがそれにありつけるわけではないのはもちろんのこと、それなりの実績や資格を有する者でないと相手にされない場合がほとんどなのではないか。結局はそんな特別な仕組みがなくてもそれなりに生きていける世の中であれば、何を狂信する必要もないのであり、そこでどのような狂信が流行っていようと、それにはついてゆけない人が大勢出てくるだろうし、何かを過度に信じなければならない事情がそこに生じているとすれば、それだけ世の中が悲惨な状況にあると言えるのかもしれず、信じることが大切で信じる者だけが勝つということになれば、信じなければ勝てないとなるわけで、そこに信じることを強制するような権力が働いていることにもなるだろうし、そんな強制にはそれに対する抵抗や反感がつきものだろうし、信仰を強制しなければ信じてもらえないようなものなら、その時点で信用されていないことにもなり、何にせよ法律を制定して何かを強制しなければならない事情があるとすると、強制する側とされる側との間で不信感が生じていることにもなるのではないか。


5月19日「不快な制度」

 それを無意識の連携というのはおかしいだろうし、実際には連携しているのではなく対立しているはずで、敵対して攻撃していることになるのだろうが、なぜか結果的には連携しているように見えてしまい、ある面ではそのように事態が進んでいるのはなぜなのか。どうやってもそんなことしかできないのであり、しかもそんなことしかできないからこんな事態となっているのではなく、こんな事態となっているからそんなことしかできないのであり、事態を変えようとしているのではなく、こんな事態の中で各自がやるべきことをやっている結果がそう見えてしまうわけだ。そこで誰と誰が何と何が連携しようと敵対しようと、もはや決まり切ったことしかできないということかもしれないし、その場を支配する制度に従っている限りはそうなってしまうのかもしれないが、制度に従わない限りは誰も何もできないのであり、すでにそのような場が形成されていること自体が、そのような出来事をもたらすわけで、人も集団もそんなことしか起こせないということだろうか。人や集団がやっていることが反復的に繰り返されるような成り行きだと、たぶんそこでそんな繰り返しを誘発するような場が形成されていて、そんな環境の中ではそんなことしかできないのであり、それ以外のことをやろうとする気も起こらないのかもしれず、実際にはそれ以外のことをやっている人もいくらでもいるのかもしれないのだが、それはメディアが伝えるようなことではないのだろうし、メディアを介して伝えられることは、いつも決まってそこで繰り返し行われていることであり、メディアが何かを伝えるという行為にしても、そんな制度に従う限りで動作していることなのだろうし、メディアも繰り返し同じようなことを伝えなければならず、そこではいつもの同じ敵対関係があって、敵対する者同士で同じようなことをめぐって対立していて、そんな対立している状況が伝えられていて、その種の報道はそれ以外の何を伝えているわけでもなく、逆にそれ以外のことが起こってはまずいわけで、同じことの繰り返しが途切れないように、メディアとしては対立を煽り立てるようなことまでしなければならないのだから、そこには何としても敵対関係が形成されていなければならないわけだ。

 彼らは何にとらわれているのだろうか。果たしてそこにはどんな共通の利害関係が生じているのか。そこで形成されている敵対関係が自ずから利害関係を示しているはずなのだが、そもそもそこで生じているはずの敵対関係や利害関係とは何なのか。ただその場で生じている成り行きに従えばそうなってしまうだけで、それ以外に何があるわけでもないとすれば、もしかしたらそれは敵対や利害というよりは、そこで生じている成り行きの中で決められた役割を演じているに過ぎないのではないか。そんな成り行きが生じなければ敵対する必要はなく、そこに利害が生じているようにも感じられず、メディアが報じるような毎度お馴染みの光景が繰り返されることもないのではないか。だからと言って誰もが自発的にそれをやめられるわけでもなく、そのような場が生じている限りは、魅入られ引き込まれるようにしてそんな成り行きになってしまうわけで、人や集団がその場を支配する制度に従うことで敵対し合う配役が決まり、そうやって割り振られた役柄に従って同じような劇が演じられ、それをメディアが伝えていることは確かなのかもしれないが、なぜそこではそれ以外の劇がありえないのかといえば、それが演じられる必然性がないからだろうか。そう言ってしまえばそうなのだろうが、こんなことをいくら説明してみたところで、退屈で不快な劇の反復を止められるわけでもなく、そもそも説明に止める力などないわけだが、成り行きの説明と成り行きを阻止しようとする行為が違うのはいうまでもなく、阻止できないから説明するしかないのかもしれないが、やはり説明する以上はそれを理解してほしいから説明しているのだろうか。だからと言って具体的には何も説明していないのであり、これが具体的な説明でない限り、具体的な水準では何も理解することはできないわけで、具体的に何を理解してほしいわけでもないのではないか。ならば彼らは具体的には何をやっているのだろうか。そもそも彼らとは誰なのか。メディアで繰り返し報じられている人や集団がそれなのだとすれば、もはやそんな人たちが誰で何をやっているかなんて、わざわざ説明するまでもないことなのだろうか。しかしそれを演劇の類いに見立てることに何の必然性があるのだろうか。ただそう感じられてしまうからそう述べているまでのことか。そしてそこで演じられている敵対関係や利害関係の中に割って入る必要も必然性もないから、具体的なことは何も述べられないのかもしれず、逆に具体的に説明してしまうと、すぐにどちらかの陣営に関与して彼らの応援団となってしまうのであり、そうでなくてもどちらも応援するよりは嫌悪の対象でさえあるのだから、こんなふうに説明するしかないのだが、なぜあえてこんな説明をしなければならないのかといえば、その場を支配する不快な制度に逆らうには、それを説明するより外はありえないということだろうか。しかしあえて不快感を表明するのも制度にとらわれていることの証しなのではないのか。それが告白という制度だとすればそうかもしれない。


5月18日「認識のずれ」

 どんなことでもやろうと思えばできるわけでもなく、実際にやってみると思っていたこととはまるで違い、やっているうちにやる前に思っていたことなどは吹き飛んでしまい、何か全く違うことをやっている感覚にとらわれてしまうのは、よくあることかもしれないが、そういう意味でも何事もやってみなければわからず、たとえ思い通りに行かなくても、やってみた分だけそれが新たな経験となるのだろうのだろうし、またそんな実践の経験から世の中の物事に対する認識も新たになって、そんなことを繰り返しながらも、次第にもといた地点から遠ざかろうとしているのかもしれない。それと気づかずに同じようなことを延々と繰り返している状況もなくはないが、そうであってもそれに気づく気づかないに関係なく、たぶんどこかへと向かっているのだろうし、そのどこかというのが死を迎える地点であろうと、そこへと向かわないわけには行かない宿命にあるのだろうか。そんなふうに思うのも、勝手な幻想のうちで思っていることなのだろうし、別にどこへも向かっていなくても構わないわけだが、どこかへと向かっているような気になっているうちは、まだこの世界について新たな認識を得られる可能性があると思いたいが、それも思いたいだけで、結局何も認識を得られなくても、とりあえずはそれについて思考して、そんな思考とともに何かをやっている現実があるわけで、その中でとりたてて何を目指しているのではないにしても、何かに導かれて今ある地点から遠ざかりながら、どこかへと向かっていると思ってみても、それほど思い違いをしているわけでもないのではないか。

 そうであるにしても、現状に対する認識は絶えず修正を迫られているのかもしれず、いつまでも同じ認識を頑なに保持しようとするから、現状から意識がずれてしまうわけで、ずれた感覚のまま現状について思考しようとするから、現状に対して有効な行動が取れなくなってしまうのかもしれず、そうなるとやっていることがうまく行かなくなってしまうのだろうか。要するに現状への対応に失敗していることになるわけだろうが、現状に対して認識がずれていなくても、必ず成功するとは限らないのだろうし、成功するか失敗するという結果自体も、その程度にもよるから、それだけでどうこう言えるようなことでもないのかもしれず、それも認識であり判断でしかないわけだから、それを重視するような成り行きの中では、失敗することが致命的な事態を引き起こすこともあるのだろうが、逆になまじ成功したばかりに、さらなる致命的な事態を引き起こすこともありうるわけで、例えば宝くじに当たって分不相応な大金をせしめたばかりに、その大金をだまし取られたり、短期間で使い果たして浪費癖が治らずに逆に借金まみれとなったり、中には犯罪に巻き込まれて殺されたりするケースまであるらしいから、そんな極端な事態がそうそう起こるわけでもないのだろうが、何かを行なってそれに成功するにしても失敗するにしても、その程度に応じて何らかの変化が起こるわけで、そんな変化を見逃さないことが肝心で、変化に合わせて認識も絶えず新たにしておく必要がありそうで、それが勘違いであろうと思い違いであろうと、その場の状況に合わせて認識も変えていった方が、状況の変化を敏感に感じ取ることができるかもしれないし、変化への対応もそれなりにやっている気にはなれるのではないか。

 たぶん認識は絶えず間違っているのかもしれず、思い込みや勘違いが蓄積されてもっともらしい認識が形成されていて、それがずれた固定観念に結びついている場合があり、そんなわけで現状に対して的外れなことを指摘したり、大外れな予想をしても何とも思わなかったり、たまたま巡り合わせが悪かっただけで、どんなにやっていることが的外れであっても、そう考える信念は揺ぎなかったりするわけで、そんなことを平気でやっている人があまりにも多いから、何か世の中がおかしくなっているとも思えてくるのかもしれないが、そんな実感も勘違いかもしれないし、要するに人が思っていたり考えていることからは大幅にずれながら、世の中が動いているのかもしれないわけで、だからいつも思いもしない事態に遭遇してしまうのだろうし、思いがけない事態に直面してたじろぎ、事の推移に為すすべもなく、あっけにとられてただ傍観するしかなくなってしまうのかもしれず、そういう意味でも自らの認識をあまり信用しない方がいいのだろうし、たぶんその十中八九は間違っていて、間違っているからこそ絶えず新たな認識を必要としていて、それが必要だとは思わなければ、もうその時点で時代遅れなのかもしれず、別に時代から取り残されても生きていける現状があるのなら、引退生活を送れるだけの資産的な余裕があるということなのかもしれないし、生きていけなければ必死になって何かをやろうとするだろうし、何かをやっているつもりでいる限りは、その自覚がなくても絶えす認識を新たにしているのではないか。そして現状が変化する限りは認識も変えていかないとならないだろうし、いつまでも後生大事に保持している固定観念に囚われて、何やらずれたことを思考しながら、勘違いなことをやっていると、それでも何とかなっていれば、それは何でもないことなのだろうが、案外周りの人間はそれに気づいていて、しかもそれに気づいていても、それをあからさまに指摘してしまうと気まずいことになってしまうから、できる限りそんな事態を避けようとして、何かの弾みでそれとなくほのめかすこともあるにはあるが、普段は気づかないふりをしながら、うまく調子を合わせているのではないか。


5月17日「メディアの住み分け」

 思っていることのすべてが欲望に起因しているとも思えないが、切実に何かを求めているとすれば、そこで欲している何かを獲得したいのだろうし、そんなふうに思いつつ何かをやろうとすると、欲望に駆られた行為となってしまうだろうが、それが合法的な範囲内の行為であれば、とりあえずは何の咎めも受けないだろうか。そうすることによって周りの人たちが迷惑を被れば、たとえ合法的な行為であっても非難されるだろうし、そこでの社会的な関係の中で許容されない行為というのが、そこでの関係の形態に応じてあるのかもしれず、何かの弾みで許されざることをやってしまうと、人間関係や物や情報を介した関係や契約関係が壊れて、関係の継続を拒絶されたり、関係のネットワークから排除されてしまうのかもしれず、そうなるとそこでやってはいけない決まり事が明らかとなるのかもしれない。そういう意味で世の中で普通に成立している人や集団を介した様々な関係も、何らかの共通のルールを守り共有することによって成り立っていると言えるだろうか。そんなのはあえて言うまでもなく当たり前のことかもしれないが、それがあえて成文化されていない暗黙のルールである場合もあって、中にはルールでさえもない場合もあるだろうし、何となく気に入らないことをやっている人が除け者にされたり、別に取り立てて目立ったことは何もやっていなくても、何となく立ち振る舞いや物腰が受け入れがたく思われるような人までいるのかもしれず、何かが何となく違うのであり、そのよくわからない印象や雰囲気から、敬遠されてしまう人もいるのかもしれないし、人や集団を介した関係というのは、そこで結ばれる絆の種類や強度や傾向にもよるのだろうが、どうやってもうまくいかない場合もある一方で、互いにいがみ合い憎しみ合いながらも、関係そのものは保たれる場合もあるだろうし、それがどのような関係であろうと、たとえ違法行為を介した関係であろうと、そんな関係が続いている場合があるのなら、それが欲得ずくであろうとなかろうと、少なくともそこにそんな関係を必要としている人や集団がいるわけだ。

 それもあえていうまでもない当たり前のことでしかないのだろうが、様々な関係が複雑に錯綜して絡み合っているのが、社会の実態なのだろうから、その中に何か不都合な関係あって、そのような関係だけを断ち切ろうとしても、それらと結び合っている他の関係が邪魔をして、それだけを断ち切るわけにはいかなくなってしまうのかもしれず、そのような関係の結び目に位置している人をいくら批判しても、その人と連携している他の人や集団にとって、その人の存在が欠かせない事情があるとすると、その批判にさらされている人を助けなければならず、それが欲得ずくの関係であれば、なおさらあらゆる手段を使ってでも、その人を助けようとするだろうし、もしその人が社会的に重要な役職や地位に就いている場合などは、その人が批判に耐えきれずに辞任しようものなら、その役職や地位を利用して行われていたプロジェクトが、すべてご破算になってしまう可能性もあるわけで、そうなっては困る人や集団などが、全力でその人を守りにくるケースがあるのだろうし、そのような勢力がマスメディアにも及んでいるとすると、批判している人たちに対するネガティブキャンペーンも執拗に繰り返されることになるだろうし、そうやって批判を封じ込める手法も微に入り細を穿つ入念なものとなるのかもしれず、必死になって批判キャンペーンを張っている弱小メディアや弱小政党などに勝ち目はないのかもしれないが、たぶんそういうことも必要なのであり、それを必要とする人や集団がいるから、現にそんなことをやっている勢力があるわけで、そこにもある種の強固な関係が築かれているわけだ。そのような関係も社会の中で複雑なネットワークを形成しているのであり、そんなネットワークに繋がっている人たちは、それなりにそこで安住していられるわけで、大手のマスメディアとの間でちゃんと住み分けができている場合まであるだろうし、そこで確保されている領分の内側では、いくらでも批判していられる環境が出来上がっていて、そんなふうにして批判に耳を傾けてくれる人向けのメディアが成り立っているのだろうし、そんな余地が社会のあちらこちらに残っている現状があるのではないか。


5月16日「欲望の原因」

 そうなるのが至極当然のことのように思われる成り行きも、そうなる理屈を考えると、何やら興味深いことが見つかるのかもしれず、中にはそうなる原因とそうなった結果の因果関係からでは、うまく説明できないような成り行きもあるだろうが、それ以前に結果良ければ全て良しと思ってしまうだろうし、とりあえずうまくいってしまうと、気分がいいからそれ以上は詮索する気がなくなってしまって、それっきりとなってしまいがちだが、うまくいかなかった場合は、あれこれとうまくいかなかった原因を探ろうとしてしまい、後からいくら考えても、過ぎてしまったことは取り返しがつかないのだろうが、それでも今後に向けて教訓を導き出したいのだろうし、同じようなことを反復して行う場合は、次はうまくやりたいと思うのだろうし、うまくやるにはどうしたらいいのかと考えてしまうわけだが、そういった反省的な思考は、やっていることを進歩させたいという欲望がそんな考えを抱かせ、そういった欲望が何から生じているのかといえば、そこに同じような行為を繰り返しやれるような何らかの環境があるからなのかもしれず、例えば何度でも同じことを行える装置があり、そんな装置を利用することで、何度も同じような行為を繰り返している場合は、たぶん装置の使い方を上達させようと思うだろうし、また装置自体を改良して、うまくいった結果を恒常的にもたらすように工夫を凝らそうとするだろうし、要するに何が欲望を抱かせるのかといえば、過去にやったことをまた繰り返せるような何らかの制度がそこにあるということだろうか。そういう制度の中にいれば、次はうまくやりたいと思うだろうし、うまくいくようなことを繰り返したいとも思うのではないか。そして結果的にやっていることがうまくいったら、それが自分にとって利益となったと思いたいのだろうか。

 具体的に金銭的な利益を得られれば、そう思うしかないだろうし、そうでなくとも欲望に駆られた行為が、有形無形の利益を幻想させるのだろうが、それが一度しか行えなければ、そんなことを思っている余裕などないだろうし、前もって何が起こるかわからなければ、欲望など抱きようがないわけだが、やる前から何かを連想させるような行為は、すでに経験的にそれに関する何らかの情報がもたらされているのかもしれず、今まで一度もやったことがないような行為であっても、周囲からそれに関する情報が伝わっていて、そんな情報から妄想を膨らませていたり、期待に胸をときめかせていたりするのだろうが、すでにそう思った時点で欲望を抱いていることになるわけで、早くそれをやってみたいと思うのではないか。要するに自分がまだやっていなくても、すでに他の人がやっているわけで、他の人がやった結果が、自分が欲望を抱く原因となっているのだろうが、そこで誰が何をやろうと、他の誰かにそれが伝わるような社会が形成されているとも言えるわけで、そんな社会が人に欲望を抱かせるということになるだろうか。誰もが同じことがやれるということ自体が、人が抱く欲望そのものなのかもしれないが、同じことができるようにしたいというのも欲望であり、それが誰もが同じことができるような社会にしたいという欲望へと発展するだろうし、もちろんそこで自分が優先的に成功を繰り返して、そこからもたらされる利益を蓄積したいという欲望が、資本主義社会を発展させる原動力になっているのだろうが、自分や自分が所属する集団に利益を優先的にもたらすような装置を作り出したいのだろうし、そうなるには誰もが同じことをやれるのではまずいわけで、自分や自分が所属する集団だけが、それを行えるような制度にしたいわけで、そのような制度を構築する途上で、何らかの権力を行使するような成り行きになるのかもしれず、それを今も絶えず構築し続けている成り行きの中で、繰り返し権力を行使しているとすれば、そこに権力への欲望が生じていることになるのだろうか。


5月15日「共通の了解事項」

 自分の意思ではどうにもならないことは、自分では制御できない現象なのだろうが、自己の内外で起こっているそれらの現象に、自己が巻き込まれていると感じるのは、そこに何らかの認識が生じているからだろうし、そんな出来事の中に自分がとらわれていると感じるのだろう。欲望は自己の内からも外からもやってくるように感じるが、なぜそれをやりたいと思うのかは、そこにもっともらしい理由をつけることが可能かもしれないが、本当のところはよくわからないのかもしれず、それを言葉で説明しようとすると、うまく説明できないように思われてしまうが、別に取り立てて理由を求めているわけでもないだろうし、いちいちやりたいことを説明する気にはなれないだろうが、その必要が生じた時には、何とか説明しようと努力するだろうし、実際に何かを告白する機会が巡って来れば、何やらそんな要請に導かれるがままに、それらしいことを語り始めるのではないか。しかしそれが本当にやりたいことの説明なのかといえば、何となくその場の成り行きで、何かもっともらしいことを語っているに過ぎないのかもしれず、その全てが口から出まかせであるとも思えないが、その場の事情や都合に合わせて、信じてもらえるようなことを語ろうとしていることは確かで、そんな他から信じてもらえるような理由というのが、世の中で共有されている共通の了解事項とも言えるような類いなのかもしれず、こういうことをやりたい時には、こういうふうに思うものだということを、その理屈や因果関係を世の中から学んでいる可能性があり、それが場合によっては紋切り型的な返答ともなってしまうのだろうし、他の誰もが安心して納得できるような答えが用意されていて、それを選んで答えてさえいれば、他から怪しまれることもないだろうし、別に気が狂っているとも思われないだろうし、そういう受け答えが自然と身についていれば、社会の成員として認められるような成り行きとなるのかもしれず、そこで何をやろうとするにしても、実際に何をやっているにしても、そのやろうとしていることややっていることともに、そうする理由までも、世の中からもたらされているとすれば、ではそこで個人の自発的な行為というのがありえないのかといえば、要するにそんなことまで考える必要はないということだろうか。

 その何だかわからないが何かをやっていることについて、とりたてて説明する必要を感じない時には、それで済んでしまうような成り行きの中で何かをやっているのだろうし、その必要が生じている時には、たぶん他人と連携しながらやっていることが多いのかもしれず、一人で何かをやっている時であっても、他の人と何らかの意思疎通を図る必要が生じている時には、やっていることの説明が必要だと感じられるだろうし、そこで何らかの共通の了解事項がなければ説明することができないから、それを用いて説明せざるをえなくなるわけで、そんな意思疎通をもたらしそうな理由というのが、そこでの社会的な関係から導き出されるのではないか。それが他者との相互依存関係なのかもしれず、他者が納得できそうな説明が求められていて、説明できるようなことをやっていないと、他者を納得させるには至らないだろうし、そんなふうにして世の中でやれることが、おのずから限られてくるのだろうが、そこで一概に利益を求めてそんなことをやっているとは言えないのかもしれず、個人や集団の利害を超えて、あるいはそれらの利害とは無関係にやっていることもあるのかもしれず、ではそれ以外で何のためにやっているのかというと、例えばそうすることが正しいからやっていると言えば、果たして他が納得するだろうか。たぶん他者と共通の正義を共有しているとすれば、その他者は納得するだろうが、共有していなければ納得はしないだろうし、その正義というのが広く社会的に認められているのかとなると、そうすることがなぜ正義なのかを説明しなければならないだろうし、その説明が納得できるようなものなら、とりあえず納得はするだろうが、果たして他の何よりもその正義が優先されるのかと言えば、時には正義よりも利害が優先されることもありうるし、世の中では正義と利害が一致しない場合が結構あるのだろうし、だからこそ社会には不正義や悪徳が蔓延しているとも思われるのだろうが、さらに正義や利害とは別の何かが優先されることもあるだろうし、あるいはその場の気まぐれで何かをやっている場合は、何が優先されているわけでもないことにもなるだろうし、それで構わないならそれで済んでしまう場合もあるわけだ。それが社会に広く深刻な影響を及ぼしそうなことなら、少なくとも気まぐれでやるようなことではないだろうし、やっていることの種類に応じて、何を優先させるかが決まってくるのかもしれないが、正義や理性が優先されなければならないのに、特定の利害や欲望が優先されているように思われれば、やっていることに対して批判や非難がされるような状況ともなるのだろうが、そこで何が優先されるべきなのかも、やはり世の中で共有されている共通の了解事項であればいいわけだが、そこに対立や敵対関係が生じていると、何を共通の了解事項とするかで争われている状況もあるのではないか。


5月14日「対立と抗争の果てに」

 そうすることに何らかの妥当性が感じられ、実際にそうすることが妥当であると信じられている行為があるとすると、そこに何らかの真理が生じているのだろうし、そんな誰もが認めざるを得ない行為というのが、権力の行使に結びついていて、現実に誰もがそれに従っている限りで、そうやって権力を行使することに、誰も異論を差し挟めないようにもなるだろうが、たぶん権力を行使する側はそうなるようにしたいのであり、できればそのような行為に法的な裏付けが伴っていれば、よりやりやすくなると思われるのだろうが、だからこそ権力を行使するための法整備を進めているわけだ。具体的にはそれが安保法制であり共謀罪であり憲法改正であるわけだが、それらの法整備が一通りうまく行くとしても、法整備自体も権力の行使そのものなのだろうし、法整備の段階では誰もが異論を差し挟んでいる状況があるのだから、まだそうすることについては誰もが妥当だとは感じていないのだろうし、そこに何らかの真理が生じているとも思われていないわけだが、今後そうすることが誰もが妥当だと感じられるようになるのだろうか。そうは思われないとすれば、法整備をして法律に基づいて権力を行使するとしても、それが妥当だとは思われない事態が生じるわけで、そうなる限りにおいて、それらの行為が真理を獲得することに失敗していると言えるだろうか。具体的には治安維持法がその失敗例なのだろうが、真理を担えないまま権力が行使され続けるとどうなるかは、その歴史的な経緯が示す通りで、いずれそれらの法整備が覆されることにもなるわけで、そうやって法律の類いは、そこに真理を生じさせるための変更が絶えず加えられることになるのだろうし、今回の一連の法整備もそれの一環なのだろうが、結果として真理が生じなければ、将来また変更の試みが行われることになるのではないか。

 もちろんそのような行為に誰もが納得するはずがなく、それに対する反発や抵抗が伴うのは当然のことかもしれないが、そもそも権力を行使すること自体が、そうすることへの反発や抵抗を押し切る形で行使されるわけで、行使する側はそうすることが正しいと思うから、そうしようとする限りにおいて、そこにある種の真理が生じているはずなのだろうが、反発したり抵抗する側にとっては、それは間違った行為であり、そこに真理が生じているとは思えないわけだから、そこに齟齬が生じていて、そうするたびに軋轢も生じるわけで、そんな争いの中で争っている双方が、互いに互いが正しいと思われる真理を掲げて、その真理の妥当性をめぐって戦いが行われることになるわけだが、戦いの舞台が国会の場であるか裁判の場であるか、あるいは警察権力と反対する市民や活動家との小競り合いの場であるかは、その場での経緯や事情によって異なるのだろうが、そのような争いが表面化する以前に、すでに様々な段階や経過があるわけで、そこですでに有形無形の対立や争いが起こっているはずで、そういう対立や争いの集大成が、法整備であり法律に基づいた権力の行使となるわけだろうが、すでにその途中で起こってしまった対立や争いはどうにもできないことであり、すでに起こっている対立や争いが、新たな対立や争いを引き起こす要因となっているのだろうし、そのような権力の行使に従えないなら、そこからさらなる対立や抗争を起こすしかないわけで、実際にその担い手がいなくなるまで、それが果てしなく続いていくしかないのだろうが、それと同時にそのような争いを終わらせようとする試みも、絶えず思考され行われているわけで、それでも対立や抗争が続いている現状があるなら、それを終わらせようとする試みが不調に終わり、うまくいっていないことを証しているわけだが、たぶん現状で明らかになっているのは、それを終わらせようとするのではなく、権力の行使とそれに対する反発や抵抗を、果てしなく続けさせようとすることであり、それがそこから何らかの利益を引き出そうとする試みにも結びついていて、実際に利益が出ているからこそ、そうすることに妥当性があるように思われるのだろうし、それをやめることができない原因となっているのかもしれないのだが、その利益というのが、もしかしたら幻想に過ぎないのかもしれないし、そんな幻想を抱かせるような欲望が、権力の行使とともに発生しているのかもしれない。


5月13日「メディアの現状」

 何らかの歴史的な経緯があるから、今あるような世界や社会が形成されていることは確かなのだろうし、その歴史的な経緯というのを正当化することで、何らかの政治的な支配体制が成り立っていることも確かで、実際に様々な国家があってその間に国境線が確定しているのだろうが、それは現状で確定していることであり、これから未来に向かって新たな経緯や事情も生まれてくるわけで、今まで正当化してきた経緯や事情が変わる可能性があるだろうし、そこに不都合や不具合が生じているのなら、変えていかなければならないだろうし、もちろん変えようとしても変わらず、頑なに変化に抵抗しても変わってしまうこともあるわけで、どちらにしても人の思い通りにはいかない面もあるだろうし、誰かが何らかの集団が、世の中の変化を促したり、変化することに逆らい抵抗したりしながら、ある面では情勢は常に流動的であると同時に、別の面ではなかなか変化せず、中には変化の兆しがまったく感じられない場合もあるだろうが、そこで生きている人々は、自身がとらわれている成り行きや事情の中で、変えようとしたり変わることを拒んだりしているのだろうし、そんな態度や行動を正当化したりしなかったりしている面もあるだろうし、その場その時でそれをどう判断するにせよ、絶えずその場の情勢を分析して、適切な判断を下そうとしている面もあるわけで、その判断が功を奏してうまく立ち回れたり、判断が裏目に出て窮地に陥ったり、それとも判断しようがしまいが、結果的にはそんなことはどうでもよかったり、様々な場合が想定されて、様々な結果をもたらすのだろうが、そこからどんな結論が導き出されるにしても、その場その時の判断や行動が、その場に存在している人や集団の間で複雑に絡みって、結果的に世の中の変化をもたらしたりもたらさなかったりするわけで、そこで何か信用できる一定の判断基準が行動指針が見つかるとは限らず、どうすればいいのかわからないことなどいくらでもあるのかもしれないが、そうだとしても何らかの判断がなされて、それに基づいて行動してしまうから、世界は動いていて、世の中が回っているのは確かなのだろう。

 これからどうすればいいのかとは一概には言えないが、誰もが信用するに足る判断基準や行動指針を求めていることは確かだろうし、それに従いたい人も大勢いるのかもしれないが、大方はメディアの宣伝や煽動や洗脳に乗せられて、判断し行動するしかないのかもしれないし、そこで何らかの欲望が生じているとすると、それを求めていればそれに導かれて、自然に振る舞うことができるだろうし、その欲望がメディアの宣伝や煽動や洗脳から生じているとも言えるわけだが、メディアがなぜそんなことをやっているのかと言えば、人々の求めて応じてやっているのかもしれないし、何らかの集団や勢力が意図的にそれを作り出しているのかもしれないのだが、そこにも何らかの欲望が介在しているのだろうし、具体的にそれは経済的な利益を得ようとすることから生じていたり、政治的な権力を行使しようとすることから生じていたり、生理的な食欲や性欲から直接生じていたり、自らや家族や一族や企業や地域や国家や民族が繁栄することを欲していたりもするのだろうし、欲望を抱く理由は様々にあり、それらが複雑に絡み合っているのだろうが、他人や他の集団の迷惑を顧みずに、欲望に忠実であるほどファシズムに近づいていくだろうし、迷惑を顧みないと迷惑を被っている人や集団と対立せざるを得ないし、そこで争いが起こるわけだが、それを防ぐにはどうしたらいいのかと言えば、妥協や譲歩を迫られるわけで、双方の力が均衡していればそうなる可能性が高いが、均衡が崩れていれば強い側が弱い側に対して、一方的に力を行使して、強い側の思い通りとなる可能性が高まるわけで、あからさまにそうなってしまうと、直接には対立していない他の人や集団からも恐れられて、連携して強引なことをやっている人や集団の力を押さえ込もうとする思惑が生じてしまうから、うまく立ち回って欲望を成就させるにはどうしたらいいのかということになるわけで、そうなるのに必要な戦略や戦術が練り上げられる運びとなるわけだが、それが実際に試されている現状が、メディアを通じての宣伝や煽動や洗脳となって現れているのではないか。


5月12日「平和の意義」

 強制的に何かに従わせられているわけではないが、たぶん実感としてはそうでなくても従っていることは確かで、何に従っているのかといえば、社会に行き渡っている共通の規範に従っているといえば、それなりに確からしいことのように思われるのだろうが、それでは漠然としすぎているだろうか。もっと具体的にいうなら、法律に従っていることになるわけだが、それ以外の何らかの慣習にも従っているのだろうし、それが共有しているように思われる生活習慣や風俗に表れているらしいのだが、普段はそんなことはあまり気にしていないし、それと自覚せずに身についているようなものだろうし、気づかないが指摘されれば、それなりに納得できるようなことなのではないか。それについてはあまり気にしないということは、普段はあまり重視していないということであり、結果的には従っているとしても大したことではなく、それほど深刻なことでもなく、それによって致命的な結果をもたらしているのではもちろんないだろうし、逆にそうすることによって何らかの利益がもたらされていて、そこで共有されている共通感覚を背景として、人と人との間に円滑な意思疎通や相互理解が可能となっているのかもしれず、そういう意味で社会規範というのは、人が社会を築く上で欠かせないものとなっているのかもしれない。

 別に規範の効用を説いたところで、積極的に従うべきというわけではなく、ただ何となく従っているようなものでしかなく、従っていることを強調して、それを正当化するのはおかしいし、逆に従うことによって何か障害や不具合が生じているとすれば、それは改めた方がいいだろうし、それを改めるに際しては、誰もが納得できるような理屈が必要とされるわけだが、いくらそれを説いたところで、納得できない人はいくらでもいるだろうし、日常の中で自然に身についている習慣や風習をそう簡単に改められるものではなく、そういう時には何らかの法律で規制するような運びとなるわけで、そこでそのような規制に対する民衆の反発や抵抗に遭遇するわけだ。別にそれが守るべき規範であるはずもないが、慣習となった違法行為で代表的なものといえば、例えば車のスピード違反やNHKの受信料を払わないことなどがあるが、それがバレたら時には強制措置を伴って罰せられることもあるわけで、取り締まられたり罰金を払わされたりする時に、不快感とともに権力の行使を実感させられるだろうし、なぜそれが不愉快なのかといえば、罪悪感を伴わない違法行為であるからだろうが、他にも罪悪感を伴わない違法行為としては脱税などが挙げられるが、なぜ罪悪感を伴わないのかといえば、それらに関しては法律を守ること自体に納得がいかないのだろうし、そうすることが守るべき規範だとは思われないからなのではないか。

 そんな罪悪感を伴わない違法行為というのが、人々の感覚とそれを規制する法律との間に、齟齬をもたらしているのはもちろんのこと、そうである限りにおいて、何らかの改善を行う余地があることは確かなのだろうが、一方で法律を用いて規制しなければならない必然性もあるわけだから、規制し取り締まる側と違反し侵犯する側との間で、利害が衝突している現実があるわけだ。そういう納得がいかない民衆とそんな法律を必要とする行政機構との間に立って、何らかの利害調整を行うのが政治の役割なのかもしれないが、具体的にはできるだけ人々の納得がいくような改善が図られればいいわけだが、徴税などのように根本的に対立する部分に関しては、強制せざるを得ない面もあるわけで、そこで権力が行使されることになるのだろうし、その際にあからさまな強制だとは感じられないような配慮が施される場合もあるだろうし、中にはふるさと納税とかいう、地域の社会貢献と絡めて、名誉欲や自尊心をくすぐるような企画まであるわけだが、そういう戦術や戦略を駆使しながら政治が何をやっているのかといえば、それは人々が抱く反発や反感を逸らしてやわらげ、そこに根本的な対立や齟齬が生じていることを隠蔽して、利害を巡って争いや戦いが行われていることを、実感させないようにしているのかもしれないのだが、そういう試みが功を奏して、社会規範を守るようにして、民衆の大半が行政機関に何となく従わせられている状況というのが、平和と呼ばれる状態なのではないか。


5月11日「例外的な思考」

 この世界に救いがあるとは思えないとしたら、それは争いが絶えないからだろうか。それでも争うのが人や集団の本能だと思えば、いくらかは救われるだろうか。だから諦めるしかないということではないだろうが、そこから何を救おうとも思わなければ、ただ争うような成り行きに巻き込まれる可能性があり、実際に巻き込まれていると思えばいいことか。救われるということが責任逃れになるだろうか。すべてがそうだとは思えないだろうが、それが可能なら誰にも責任がなく、罪は赦され、いかなる行為も罰せられることはない、という事態を想像できるだろうか。現実にはそんなことはありえないから、いったん社会の中でそんな行為が明らかとなれば、やったことに対して何らかの責任を問われ、場合によっては罪を認定されて、その重みに応じて罰せられるのではないか。そうしないと被害に遭った人たちが救われないだろうか。それで救われた思うなら、その人はそんな行為を処罰する制度を信じていることになるわけか。現にそういうことが行われているのだから、それを信じないわけにはいかないだろう。疑うべきはそんなことではないらしい。そんな制度が通用している社会の中で生きていることは間違いなさそうで、それにとりたてて不都合を感じなければ、そんな制度に異議を唱えることもないだろう。そんな事情の中で誰もがそういうことを行う制度に納得しているのではないか。それがないことの方が不都合に思われるだろうし、今すぐにそれがなくなるとも思えないが、そんな制度があるおかげで、安心して世の中で暮らしていると思うのではないか。だがそこに救いがあるのだろうか。たぶんそう思いたければ思っておいて差し支えないのではないか。自分に犯罪の前科がなければそう思うだろうが、前科があって刑務所で服役した経験がある人でもそう思うのかもしれない。では犯行が発覚せずに、今のところは隠しおおせている人でもそう思うだろうか。たぶんそう思うかもしれない。自身が犯罪の被害者になることを想像してみれば、加害者が罰せられるのが当然だと思うだろうし、それはそれで当たり前のことであり、そんな制度の中で暮らしている現実を考えれば、制度自体に異議を唱えるのはおかしいと思うのではないか。

 そんな制度の有無に関わらず、世の中から犯罪がなくなるなんて考えられないし、犯罪者が何らかの形で処罰されるのは当然だと思うだろうし、そう思考している限りは犯罪者を救おうなんて思わないだろう。別にそれで構わないのであり、そう思っている人たちを非難するなんて考えられないし、非難する必要もありはしないだろうか。それもそうであっても構わないわけだ。ではなぜことさらにこだわるのか。そうではないことを述べたいのではなく、そう思うのが当然だと述べているわけだが、争いが犯罪にならない場合もいくらでもあるだろうし、合法的な範囲内での争いなどいくらでもあり、また戦争などのように超法規的な争いも起こっているわけだから、罰しようのない争いがあるのも当然のことだと思うしかないだろうか。そういうことを考え合わせてみれば、刑罰の制度が完全にこの世界を覆っているわけではなく、行為が罰せられるのはその中のほんの一部でしかなく、ほとんどの行為は罰せられることもなく、何らかの法律に触れているのだから、野放し状態というわけではないが、法律の許容範囲内であれば合法的な行為と認定されるだろうし、法律の規定がなければそんな認識の外で行われている行為だろうし、戦争犯罪などは関係国の都合で裁かれることも裁かれないこともあるわけで、その時の国家同士の力関係から、敗戦国の責任者が罰せられたり、戦勝国の責任者は罰せられなかったりして、敗戦国ではそんな措置に異議を唱える人たちも少なからずいるわけだが、それは敗戦国の法律が適用されない超法規的措置なわけだから、そういう場合の処罰に関しては、異議を唱えるような人が出ても、それほど違和感を持たれないのかもしれないが、それと国内で普通に裁かれて罰せられる犯罪を比較してしまうと、何やらそこに不均衡があると感じられるわけで、例えば戦争で夥しい数の死傷者が出たことの責任が問われることと、たかだか数人の死傷者を出したことの責任を問われて罰せられるのとでは、何が違うのかといえば、その時の状況が違うわけで、戦争となると国内法で取り扱うことの限界を超えているから、数十万人の犠牲者を出した戦争を遂行したどこかの国の大統領が、戦争に勝利した限りにおいて罰せられなくても、犠牲者の家族や関係者は納得がいかないかもしれないが、どうすることもできないわけで、そこに権力関係の不均衡があるわけだが、果たしてそれが法制度の欠陥だとは思わないだろうか。


5月10日「世間一般の認識」

 それが何であるにしても、そう語る上での常識の基準がよくわからないが、普通に考えて何が普通なのかがわからなければ、常識が何なのかわからなくても納得できるだろうか。わかる方法がないとも思えないが、そこにそれらしいほのめかしがあれば、常識も良識も何となくならわかるだろうが、いずれにしてもはっきりとした基準があるわけではないらしい。何かの拍子にそんな台詞が飛び出してしまうのだろうし、それがいつものやり方なのであって、それも正常運転の範囲内なのであり、したたかな思惑から生じている計算の内というわけではないのだろうし、たまたま何気なしにそんな表現を使ってしまい、そんなことにいちいち目くじら立てるのも大人気ないと言えばそれまでなのだろう。そういうニュアンスがわかる人にはわかるが、わからない人にはわからないのであって、別にわからないからといって何の不都合もないわけだが、その辺が狙い目なのだろうか。たぶんそこに何らかの深い比喩表現が含まれているわけではなく、直接的な意味でそういうことを言っているとしか思えないが、別にそれで構わないわけだ。そう受け取っておけば、それ以上の詮索は無用だろうか。しかしその程度のことに何を詮索する必要があるのだろうか。それがそのままの意味でしかなければ、そこで言われた文言を正しく解釈したことになるのではないか。それ以外に付け入る隙などどこにもありはせず、生真面目に受け取ってみる必要があるらしい。要するにそこで言われていることが常識だと思えばいいわけで、世間一般で言われているところの常識が含まれていると解釈しておけば、それほど間違っているわけでもないらしい。例えば国内で最大の発行部数を誇る新聞に記されていることを読むのは、それほどの困難を伴うわけではなく、その内容に興味があれば取り寄せて読めばいいことでしかないだろうか。

 その程度のことだと思っておいて構わないのだろうし、言葉尻を捉えて激しい非難に結びつけても、何か奇異な印象を与えるだけかもしれないが、別にそれもどうしたわけでもなく、その程度のことの何が問題なのでもないらしい。いつものように論点や争点をずらして、そんな枝葉末節な部分へと世間一般の関心を誘導していることは明白なのだろうが、そこで言う世間一般というのも、そんなふうに感じられるからそういうあやふやな表現を使ったまでで、どこの誰の主張が世間一般を代表しているわけでもなく、国内で最大の発行部数を誇る新聞の論調が、世間一般の感覚に近いというわけでもない。ただそこで何かがずれているように感じられるのもいつものことで、たとえうがった見方をして、激しく非難している側に否定的な印象を植え付けるための、世間の一般大衆に向けた世論操作の一環だと思ってみても、そんなのは的外れもいいところで、それを激しく非難するような反応と同じく、神経過敏症の類いとしか思われないだろうが、別にそこで国論を二分するような大げさなことが語られているわけではなく、逆に大げさで深刻で切実なことだと思い込むほど、何やらメディア的な術中にはまっているようにも思われるわけで、たとえ特定の政党や行政府の長にとっては切実な問題であっても、世間一般の感覚ではそうでもないと言うのもあり得るわけで、いくら戦術的に世論誘導を促しても、それほど関心を集めるような問題ではないのかもしれず、たぶんその辺が国会やその周辺で議論されていることと世間一般の認識との間で、隔たりや背離があるのかもしれないが、世間一般の認識というのがあやふやではっきりしないものなのだろうから、統計的にいくら正確を期しても、メディア的には世論調査の結果が世間一般の認識となってしまうのだろうが、仮に将来憲法改正の国民投票を実施して、それが世論調査の結果と一致したとしても、マスメディアではそれを大々的に報じるだろうが、メディアが捉える世間一般としてはそういうことになるのだろうが、それはそれだけのことでしかないのだろう。


5月9日「途中の過程で」

 人ができることは限られているが、思っていることはそれとは違うようだ。ただそうは思わないだけだろうか。実際にやっていることを意識していないのではないか。できないのではなくそうは思わないわけだ。みんなそこで同じようなことをやっているのだろうか。やっていることから退いてみればそう思えるが、やっているときにはそうは思わないはずだ。やっている最中ではそんなことは意識していない。世の中で何かが流行っているのはそういうことだろうか。たぶんそうなのだろうが、そんなことはどうでもいいことだ。同じようなことをやっている人たちは、その過程で不満などいくらでも生じるが、やっていることについては、概ね各人がそれぞれに自己満足に浸っている。それだけのことなのだが、それ以上に何が行われているわけではない。そんなことを考えてみてもどうなるわけでもないらしい。そこで何不自由なく暮らしているわけではないが、そこで生じている制約や不都合には目もくれず、それにこだわっているわけだ。制約や制限や不都合にとらわれている。それが否定的な要素とはならず、逆にそれにこだわることによって生きがいを感じている。いったんそうなってしまうと、そこで何かに従っている状況から抜け出せなくなるわけだが、そうである限りにおいて、やりがいを感じているわけだ。何らかの制約がないと、逆に何もやれなくなってしまうのではないか。何をやればいいのかわからなくなってしまうのであり、ある程度は視野を狭めないと焦点が定まらない。そうやって人を捉えているのが、社会的な規範であり制度や慣習だろうか。それがあるおかげで誰もが同じようなことをやっていられるのであり、そんな人を捕らえておく何かがないと、社会を維持できなくなってしまうのではないか。まとまりがなくなってしまうのであり、価値も利害も一致しなくなってしまう。それらを基にして限られた領域が出現して、そこに人や集団がひしめいていられるのは、同じ価値観や利害にとらわれているからで、そうである限りでゲームが生じていて、そのルールにも効力があり、同じルールを前提としてゲームに興じていられるわけだ。そしてそうであるからこそ対立も生まれ、争いの中で攻撃と防御の応酬があるわけだ。

 そんなふうに説明すればそんなことでしかないのだが、その中にいればそうは思わないわけで、なぜ敵対しているのかとは考えず、どうやって敵対しているのかとも考えない。まず第一に勝つにはどうしたらいいのかと考え、どうやれば勝てるのかを考えるわけだ。その違いは何なのか。ただ考える視点が異なるだけだろうか。ゲームに参加している以上は悠長なことを考えているわけには行かず、前のめりになって勝利を目指さなければならず、そんなゲームが成り立っている背景などを考えている余裕はなく、そんなのは二の次であってどうでもいいことだ。そんなことをいくら考えても勝てるわけではなく、勝利以外のことを考えていると負けてしまうだろう。そうでなくても負ける可能性があるわけだから、まず最優先で考えるべきは勝つためにはどうすればいいかだ。そしてそこへとのめり込んでいる人たちに、それ以外の何を言っても聞いてもらえないだろうし、そこから一歩退いて、自分たちがやっている場の背景まで視界に収めることなどできはしない。逆にそうすることに何のメリットがあるのだろうか。勝利を目指して一点集中ではなく、多元的で複合的な視点から何か考えるべきことがあるだろうか。それとは別の可能性を考えることが結果的に何をもたらすのか。そこから一面的な価値や利害を超えてやるべきことが果たして見つかるだろうか。やはりそうは思わないし思えないのだろうが、それを意識できないにしても、何かそれとは違う方向や傾向で異なることをやっている現状があるのだろうか。人は自らが行なっていることを理解できないのかもしれないし、考えていることさえも理解していないのかもしれず、そうである限りにおいて行なっていて、理解できないことを考えているのではないか。絶えずそこからずれているのであり、知らないうちにどこかへたどり着こうとしている。たどり着いた先がどこかもわからないのに、実際にたどり着いている場合がありそうだ。そこを目指していたわけでもないのに、なぜかたどり着いてしまうわけだ。たどり着いた後からなぜそこへたどり着いたのか、どうやってそこへたどり着いたのか、それを思い返すことはできるだろうが、そこへと至る途中でそんなことを考えているわけではないし、考えることなどできはしない。


5月8日「知への意志」

 そこに納得できるような理屈があるのだろうか。何にも増して人は知への欲望に支配されているのか。それが知りたいわけだ。利益を顧みずに知りたいと欲していて、時には自らの命と引き換えにしてまでも知への欲求を優先させる。そこに理屈があるわけではない。時には達成感を味わいたいばかりに、人はエベレストの頂上を目指して命を落とす。頂上に立った時の気持ちを知りたいわけか。その体験を知りたい。たぶん屁理屈からそう思っているではないはずだ。欲望が知ることを求めているのだろうか。それは快楽の類いではないのか。性的欲望も知的欲望の一種だろうか。そうなった時の己を知りたい。では自己顕示欲はどうなのか。何よりも自己が優先されている状態を体験したい。その真っ只中での自分を知ること。それを求めているのだろうか。何らかの偉業を達成したい。例えば憲法を改正したい。これまで誰も成し遂げたことがないことをやってみたい。世紀の大発見が自らによって成し遂げられたら、それが科学の分野で成し遂げられたら、その人はノーベル賞でももらえるのではないか。その場合の欲望は発見することに結びつくだろうか。社会的に価値の高いものを見つけたら、たぶん利益にも結びつくのではないか。知ることが利益に結びついたら、自己顕示欲も自尊心も満足させられる。真理を知りたい。この世界の真の姿を知りたい。ことの真相を知りたい。それが知的好奇心だろうか。だが何でもかんでも欲望を知に結びつけるのはこじつけにしかならないのではないか。理屈ではないのだからそうであっても構わないか。

 たまたまそうなってしまったと思えるなら、それは偶然の巡り合わせだと思えば済んでしまうことかもしれないが、それが必然的な成り行きだと思うなら、そうなってしまう理由を考えなければならないだろうし、それについて語る必然性も生じてくるだろうか。理屈を語れば話に説得力が増すのではないか。そんな成り行きを生じさせる理屈を知りたいわけだ。偶然の巡り合わせだけでは納得しがたいのなら、当然そこに必然的な巡り合わせを想定して、それを知ることによって想定を確定に変えて、疑問を解消したいし、そうなる法則を導き出せたら、知的好奇心を満足させられるのではないか。知への意志はそんな好奇心によって支えられているはずだ。自己満足を得るために必要な利益よりも先に、それを知りたいという好奇心が生じていて、そんな意志が他の何よりも優先されているのではないか。だがすべての欲望を知に還元することができるだろうか。欲求の何でもかんでもが最終的にはそれが知りたいとなるわけか。そう語ることもできそうだが、それとは違う語り方もできるのではないか。そこには様々な欲望が絡み合っていて、それらの一つ一つが知に結びついていると言えるだろうか。還元するのではなく結びついていると考えれば、より説得力が増して納得できるだろうか。しかしそこに生じている理屈はどうなっているのか。なぜ人はそれが知りたいのか。例えば人としてではなく動物として考えれば、性欲とともに食欲も重要な欲望となるだろう。食欲と知との関係はどうなっているのだろうか。

 性欲も食欲も知的好奇心よりは根源的な欲求だろうか。生きたいという自己保存本能はどうなのか。だがその逆の死にたいという欲求もあるのではないか。それらの本能に結びついた欲求の他に、知りたいという欲求が生じているのだろうか。それが他の動物よりは人により強く現れている欲望だろうか。しかしどんな欲望が強すぎると死をも恐れずそれを求めるわけだから、すべての欲望は死に結びついているのではないか。だが生きたいと欲することが死に結びつくだろうか。だからすべてを根源的な一つの欲望に結びつけるのではなく、そこでは様々な欲望がその場その時の状況や事情に応じて、複雑に絡み合っているのだろう。そこに一定の優先順位が前もって設定されているのではなく、状況に応じて結びつきが様々に変化するわけだ。そして場合によっては相反する欲望が結びつくこともあるのかもしれず、生きたいという欲望が死にたいという欲望に結びつけば、自殺という行為をもたらすこともあるのではないか。時の経過とともに自らの存在や意識が変わらないうちに、自らを殺すことで自らの変化を食い止めようとしているわけだ。それは自己顕示欲の究極の表れだろうか。そうである場合もあるのかもしれないが、根本的には謎なのかもしれず、一概にそうとも言い切れないところもあるのかもしれない。そして何にも増して人が知的欲望に支配されているというのも、一概には言えないのかもしれないが、場合によっては知的欲望が最優先されるような成り行きもあるのだろうし、その場に生じている戦略的な利害より知的欲求が優先されるようなことがあるとすれば、そこに知への意志が現れていて、真理を求める心が他の欲望に打ち勝ったことを示しているのではないか。


5月7日「印象」

 とりとめのない疑問に意味があるとは思えない。世界の印象は世界から生じているのだろうか。部分的にはそうかもしれないが、印象という言葉を使って述べている内容はとりとめがない。そうやって曖昧な記述に終始することが可能なのは、そこにはっきりした目的を見出せないからかもしれず、何を語っているのでもないようなことを述べているからだろうか。まだ何に終始しているわけでもないのに、記述の始まりから終わりを予見できるわけでもなく、嘘を記していることは一目瞭然かもしれないが、そうしようという意図も意志もありはせず、ただそこから外れて具体的な内容へと至りたいだけのようにも思われる。だがそれが思いつかないから世界の印象を求めているのではないか。皮相上滑りに何を求めているのだろうか。日本の文明開化はいつまでたっても皮相上滑りだろうか。たぶんそうではなくそう思わせているのであり、そこに日本という固有名が当てはまるわけではなく、特定の国名を当てはめることが間違っているのだろう。だがなぜかそうなるより他なく、必然的に間違っているのかもしれない。文明が開花しているように思われるのはただの印象であり、ありもしない別の印象と比較しているのだ。そう語ることによって世界からずれているわけだ。しかし世界とは何なのか。それは世界に対する印象であり、世界そのものではなく、世界の中に意識が存在しているのに、世界を意識しているわけではない。勝手な願望と比較しているのであり、そこに倫理的な理想像が妄想されているのではないか。では妄想から逃れるにはどうすればいいのか。ありのままの現実を肯定できるだろうか。肯定できなければいつもそこには勝手な願望が現れていて、そんな願望を思い浮かべることによって、印象としての現実を否定的に捉えて、皮相上滑りなことを思うしかないのだろうか。そうだとしてもなお印象から語っているわけだ。印象を操作しながら言葉を連ねて、それらしい内容を記すことに終始している。だがそれが世界を記すことの全てだろうか。

 実際には思っていることを記しているのではなく、それ以外のこともいくらでも記していて、記述と思いが食い違っているのは当然のことかもしれないが、別にそれを一致させたいわけでもないらしい。そうは思わないことがそんな内容をもたらしているのであり、それは空疎でも無内容でもなく、何らかの言葉で満たされていて、言葉が現実に存在する事物に全て対応しているわけでもないとしても、そこに記される記号が過剰なのではない。この世界からもたらされる何かを語っているつもりなのであり、それが虚構だとしても虚構ももたらされている。記述者がそう思っているから思っている内容を記しているのではなく、文章として記されている内容が記述を決定しているのではないか。記述者はただ文章として読める内容になるように心がけているのであり、意味不明を避けようとして、何とかまともに読める文章を構成しようとしているのだが、思いがけずそんな思いに逆らうような言葉の連なりになってしまいがちとなり、それを修正したいし実際に修正しながら、まともな文章へと至るように絶えず軌道修正しているわけだ。果たしてそれがうまくいっているのだろうか。どうも後から読み返してみるとそうではないらしく、何かがずれているような印象を伴い、何を述べているのかわけがわからないとも言えないが、そうではないようなことを述べたいのだろう。相変わらず恣意的な印象から逃れられておらず、記述している意識とは別の意識がそれにとらわれていて、そこから抜け出すには至っていない。たぶんそれらしい印象を駆使して皮相上滑りなことを述べている人は他にもいくらでもいて、ただそれが目立っているからそう思われるだけで、別にそれだけを批判する必要はなく、語られている内容もそればかりではないのだから、実際に起こっている出来事について述べていれば、それだけで文章が構成されるようにも思われてしまうわけだが、実際はそうではない。たぶんいつも出来事を記すことに失敗しているのではないか。それを記さずに何を記しているのかと言えば、その全ては恣意的な印象に過ぎないだろうか。


5月6日「搾取の論理」

 人々が喜んで搾取を受け入れているとすれば、それと引き換えに何らかの見返りがもたらされているのだろうか。たぶん何に気づいているわけでもない。それが当然のことなのだろうし、搾取は否定的なことではないらしい。働くのは心地よい快感が伴い、働かずに娯楽を享受するのは苦痛だろうか。世の中の役に立っていないように見える人々は攻撃される。役に立つとは働いて子供を育てて、社会の継続に貢献していることを意味するだろう。それが社会の中で守られるべき規範となっているのではないか。搾取とは何を意味するのか。働かされて消費させられて企業を儲けさせて国家に税金を納めている実態がそれだろうか。果たしてそれをやらないなんてあり得るだろうか。企業収益や国家財政が悪化しているのは、人々が節約しているからで、それと自覚しないまま搾取から逃れようとしているのではないか。働き手が足りなくなっているのもそれだろうか。人々は搾取に気づいていないが、その態度や行動は搾取に逆らっているのではないか。それに対して企業の側でも広告宣伝によって消費を促し、富を吐き出させようとしていて、国家の側でも共謀罪の制定などにより体制の締めつけを強化する一方で、オリンピックや博覧会などのイベントを開催することで、消費を促しているわけか。しかしそれが搾取といえるだろうか。ならばそれとは別の面で、人々の活動によって作り出される物や情報を所有することが、実際に生産している人々とは異なる人や団体によって所有されている実態が、生産者から物や情報を奪っていることになるだろうか。それに見合った報酬を受け取っていて、そこで等価交換が成り立っていれば、それは搾取とは言えないのではないか。しかし等価交換とは何なのか。所有権のある人や団体に利潤があれば等価交換ではないわけか。

 資本主義経済の継続には未来に投資するための資本が必要で、利潤から資本が生まれるのではないか。それとも他から資金を借りてくれば、それが資本として利用可能となるのだろうか。そして借りた資金には利息がつきもので、利子を払わなければならないから、少なくともその分だけ利益を出さなければならなくなり、その利益の分だけ生産者も消費者も搾取されていることになるのだろうか。しかしそれが搾取といえるだろうか。ならばそれとはさらに違う面で、富裕層などの特定の階級に属している人たちが、一般の人たちより贅沢に暮らしているとすれば、贅沢に暮らしている分だけ、一般の人たちから搾取していることになるだろうか。全ての人たちが平等に暮らせるわけではなく、うまく立ち回れる人やたまたまそれに成功した人たちが、贅沢に暮らせる権利を獲得した結果が、貧富の格差となって顕在化しているのではないか。人より多くのあるいは高価な物や情報を所有できて消費する人たちに、他の人たちが搾取されているといえるだろうか。たぶん直接あからさまに富を奪っているとは見えないのだから、搾取されているとは思えないし、過酷な競争を勝ち抜いて成功するのはほんの一握りしかいないのだから、それだけでも人より多くの富を獲得する権利があると思われるだろうし、そのおかげでその人の家族や近親者も豊かさを享受しているなら、家族や一族が一丸となって協力したからということになり、それももっともなことだと思われるのではないか。そうだからと言って搾取を肯定するわけにはいかないだろうが、人や団体が競い合い連携し合う中で、自己や自分の所属する団体を有利に導くことが、戦略的に価値の高い行為であるわけだから、その結果としてより多くの富を獲得する人や団体がある一方で、反対に貧困にあえいでいる人や団体もあるわけだ。


5月5日「勝つための戦略」

 そんな予感がしているわけではないが、葬儀の夢を見るのは縁起がいいらしい。しかし不安を隠すために求めているつもりの心の支えとは何なのか。すべてが資本主義の産物なのではなく、それがすべてだと思いたくなるように仕組まれているわけでもなく、そうだからと言って何を悲観しているわけでもなさそうだが、それでも悲嘆にくれる要素を探しているのかもしれず、しかも悲劇の中でそうしているわけでもないらしい。どう考えても悲劇にはならないらしいが、喜劇や笑劇や茶番劇でもないと思い込みたいのだろうか。ではこけおどし的に何を見せられているのか。要するに劇的な効果は期待できないのだろうか。国家の問題と資本主義にとらわれている限りは、そうなるしかないのかもしれないが、それにしても大げさに考えすぎているようだ。何らかの経緯から物事を大げさに考える習慣が身についているらしく、国家と資本主義に関する未来が、悲劇的な結末をもたらすと語らないと、何か真摯に現代的な問題へと向き合っているとは思えず、そう考えている時点で罠にはまっているようにも思われてしまうわけだが、それ以上に何が考えられるわけではなく、探しているのはそれ以外の何ものでもないように思われるのだから、そう考えるのは何かの強迫観念にとらわれている証拠だろうか。そうならないような道筋を模索すべきかもしれないが、実際にそんなことを考えている現状の中ではリアリティを抱けないのかもしれず、大げさかつ重大かつ深刻な問題として、国家と資本主義について考えるしかないというわけだろうか。しかし何がそうさせているのか。誰がそんなふうに問題提起しているのだろうか。安易にそれ以外へとずれていくわけにはいかないのであり、それが避けては通れないような問題として、何かの障害物のように行く手を塞いでいるとは思えないだろうか。たぶんそこに一種の冗談が醸し出されているのであり、それ以外には何もないように思われるとすれば、心がとらわれているのはそんな問題ではないのかもしれず、とにかく探し求めているのはそれ以外の何かであろうと思われてしまい、実際にそれ以外の空疎な内容を記しているようだ。

 少なくとも現状では知り得ないことを知り得たつもりになっているわけではない。知っているのは国家と資本主義へと至る回り道であり、何か大げさなことを語って悦に入りたいのかもしれないが、それを避けようとしているのであり、しかも避けようとするほど何もなくなって、結局は何も語っていないようなことを語っている現状があり、それ以外には何もないことを逆に証明してしまうわけだが、たぶんそれが避けられない障害物なのだろうし、言葉の連なりがそこへと吸い寄せられてしまうような魅力があり、それに魅入られているからこそ、それ以外には何も語れなくなってしまうのであり、無理にそれ以外を語ろうとすれば空疎な内容になるしかないのかもしれないが、もしかしたら国家と資本主義について語ろうとしても、同じように空疎な内容になってしまうのかもしれず、深刻な調子で何かを語っているつもりが、実は何も語っていないことに気づかないのであり、気づいていないからこそ、どのように語っても同じことの繰り返しとなってしまうのではないか。そこで無垢で善良な一般市民が国家と資本主義に搾取されていることになる。本当に語っているのはそれだけだろうか。無垢で善良であるという想定がそもそも間違っていて、彼らは騙されているわけではなく、すっかり魅了されていて、欲望にとらわれているのだろうか。それが騙されていることのすべてだろうか。だがそれもだいぶ以前から繰り返し述べられていることだ。では人々はただ世の中の慣習に従い、そんな制度の中で有形無形のしきたりを守ろうとしているだけだろうか。それも繰り返し述べられている。ならば夢中になっているのはゲームであり、そこで力を行使しているつもりになっているのではないか。その力というのが社会的な立場や地位から生じているものであれば権力となり、権力を行使していかにしてゲームに勝つかに興じていて、絶えずゲームに勝つための戦略を模索しているのであり、うまく相手をやり込めるような戦術を使い、そこでのやり取りが魅惑的なゲームであるように思われる。そんなことですらもだいぶ前から繰り返し語られていることだろうか。ではそれ以外に何が語られる可能性が残されているのか。たぶん誰が語っているのでもなく、誰に語らせようとしているのでもない。そうだからと言って誰にも語り得ないようなことを語ろうとしているのでもないらしい。それでも誰かが語っているのだろうか。現状でそんな実感がしているとは到底思えないか。


5月4日「理想と現実」

 たぶん考えているだけではそれが無謀な試みであることを自覚できず、しかもそれを実現しようとしない限りは妄想にとどまるしかなく、実現できないからいつまでも理想を思い描いていられるのだろうし、現実離れした理想を思い描くことが、理念と呼ばれる抽象的な概念に行き着くのかもしれないが、それが目指されるべき理想の状態だと思われる限りで、果たして実際に実現していないし、そんな実現できないような理想状態を実現すべく努力すべきなのか、という疑念が湧いてくるのだろうが、たぶんそれを思い描いている段階に止まっていれば、いつまでもそんな状態を保っていられるのであり、それを実現しようとしない限りは、理念として頭の中でその状態を保持できるから、その限りで理念が有効に作用しているように思われるのだが、要するにそんな妄想を抱く上では理念が欠かせず、それが妄想状態にとどまっている限りは、妄想を抱く分には頭の中で有効に作用しているように思われるわけだ。そんなふうにして心の平静を保っていると、とりたてて何をやっているわけでもないとしても、妄想が心の支えとなって、不安から逃れていられるだろうか。それを現実逃避というのかもしれず、実際にそんな心境でいられる状況があって、そんな心境の人たちが、自分たちの思い描いている理想から外れる行いを、批判していられる現実があるのかもしれないが、もしかしたらそんな状態にとどまれるのは、思い描いている理念とは別の何かが作用しているからで、それがその場の現実をもたらしていて、理念からはかけ離れた過酷な現実に向き合うことを猶予させているのかもしれない。

 しかし現実逃避できる状態を保っていられるのは、何によってなのか。そこに何らかの保護作用が働いていて、それに守られることによって、そんな状態を保っていられるとしたら、例えばそれは富の蓄積がそうさせているのかもしれず、それらの人の経済状態が裕福であるからこそ、貧困から逃れられているのであり、それによって生活をエンジョイしていられるのなら、もはやそれは妄想などではなく実現していることになるだろうか。そんな環境の中で理想を思い描いていて、世の中のすべてがそうであってほしいと思う一方で、メディアなどからもたらされる現状認識はそうではなく、この世界には貧困状態の中で苦しんでいる人などいくらでもいて、そんな人たちを助けなければならない、と使命感に燃えるような心境になれるとすれば、何やら話の辻褄が合っているようにも思われるわけで、要するにそこで生じている貧富の格差が、富める者に理想を抱かせ、理想からかけ離れた貧しき者たちを助ける、という使命感をもたらしていることになるわけだが、たぶんそれこそが実現不可能なことであり、現にそんな妄想をもたらしている状況というのが、そんな妄想にとらわれている人の存在とともに、その不可能性を証明していることになり、実際には誰もが裕福になれるわけではなく、現実に生じている貧富の格差が、富裕層と貧困層をもたらしていて、その二つの層があるからこそ、富める者たちが理想を思い描くことを可能にしていて、そうでなければそもそもそんな理想など思い描くこと自体ができないのであり、その必要も生じないとすれば、ではそんな理想を思い描いている現実こそが、理想とともに否定されるべき現実であり、まさに現状から生じている妄想に過ぎないことになるだろうか。

 そうだとしても妄想を抱くべきなのかもしれず、理想を思い描き続け、思い描いているだけではなく、その実現を目指して何らかの行動を起こすべきなのだろうし、実際にそんな行動を起こしている人などいくらでもいるのかもしれないのだが、たぶんいつも現実は理想からずれるのであり、それらの人の思いもよらないような別の方向へと進んでしまうのだろうし、その方向がどんな方向なのかは誰にもわかっていないところなのかもしれず、その方向とはたぶん無方向であり全方向なのでもあり、例えば貧富の格差だの富裕層と貧困層だのの単純な図式では捉えられないような、複雑怪奇な様相を呈していて、そこに関係する人々の思惑も様々に入り組んでいて、そこで生じている敵対や連携の関係にしても、外部から一概に識別できるようなわけには行かず、その中の誰が富んでいようと誰が貧しかろうと、富裕層の中でも貧困層の中でも敵対関係はあるだろうし、富裕層と貧困層の間でも同盟関係や連携関係があるだろうし、そんな富と貧困が入り混じっているの中のほんの一部分が、何やら象徴的に貧富の格差を顕在化させていたり、はっきりとわかるような不平等や不公正を表しているわけで、そこだけに注目すればなるほどその通りで、そこから理想的な妄想を抱く余地も生じるのだが、やはりそれが事のすべてを言い表すには至らないわけで、それ以外のケースが無数にあって、それを単純化して一つの基準で測ろうとしても、そこから導き出された何らかの傾向というのが、そこに介入している人たちのすべての目的に適うような価値にならないのはもちろんのこと、それぞれの目的に応じてそれぞれの価値が想定されてしまうのだろうし、それを貧富の格差という一つの問題に還元するのは無理なのかもしれず、実際にそんな問題に取り組んでみれば、その場その時の状況に応じて、対処法も変わってくるだろうし、何らかの対処を行ったからといって必ずしもうまくいくとは限らないだろうが、結局は実際に行動を起こすことによって、現実離れした理想論から離れることができるのではないか。


5月3日「欲望の対象」

 それがどう考えてもどうでもいいことではなさそうだが、そんなことにこだわらなければどうでもいいことになってしまい、実際にどうでもよければそれで構わないのかもしれないのだが、やはり実際にはどうでもいいわけではないらしく、そこにこだわっている人たちによって、何かが行われているわけだ。それが政治のすべてだろうか。すべてと考えて構わないし、そこで行われている具体的な中身にこだわらなければならないわけで、そこで何かが行われていることに関して考えなければならないわけだが、それ以前にやってほしいことがあるとしても、諸般の事情からそれはできないことなのだろうし、その代わりに別にやらなくても構わないように思われることについては、逆に熱心に行われているのだろうし、世論などというものがどこで作成されているわけでもないのだろうが、いつのまにか何らかの世論があるような話が構成されていて、その世論自体がどうでもいいような内容であることは確かなのだが、人々の関心がそこにあるかのような話となってしまい、そんな成り行きについて誰も疑問を感じていないわけではないのだろうが、そういう疑問は世論には反映されず、結局やってほしいことが世論に反映されているようなこととなってしまうわけだが、どう考えても世論の内容も政治の場で実際に行われていることも、自分にとってはどうでもいいようなことでしかないとすれば、無関心でしかないわけだが、別に無関心でいることにもこだわる必要が感じられないわけだ。要するに現状でそれほど困っていない人にとっては、政治に無関心なのは当然であり、政治的に問題とされるのは、現状で困っている人たちに対してであり、平和な世の中であれば、そういう人たちは社会の中では少数派となってしまう人たちなのであって、本来なら大して不自由なく暮らしている多数派に属する人たちに、政治が配慮する必要はないわけだが、それが本来そうあるべきとは思われないわけで、多数派に属していると思われる人たちには、当然自分たちのことが優先されるべきと思われるだろうし、政治が少数派を助ける理由がわからないのかもしれない。

 多数派と少数派との間で利害が対立しているのなら、当然多数派の利害が優先されるわけで、そうなると少数派の人たちが困るのが目に見えているわけだが、大雑把に言って差別をなくすには、社会的に不利な立場にある少数派に配慮しなければならないわけで、それが政治的な課題だとするなら、多数意見より少数意見を尊重することになり、選挙で多数派に支持された候補者が当選して議員に選ばれる制度で、そんなことが可能なのかといえば、たぶん不可能なのだろうが、なぜか日頃から政治に批判的な少数派の人たちはそれを求めているわけで、そうであるからこそ抗議活動や反対運動を積極的に行なっているのだろうが、そこに生じている根本的な齟齬を、果たして政治が解決することができるのだろうか。それ以前に本当に多数派と少数派との間で利害が対立しているのかといえば、貧富の格差という視点に立てばそうなのかもしれず、しかも少数派に属する富裕層が有利になるような配慮がされていると批判されるわけで、さらに選挙で当選して議員になるような人たちは、所得の面から見るなら少数派の富裕層に属するだろうし、そうなると少数派の富裕層を支持している多数派の人たちは、社会的にも所得の面でも有利な立場にある少数派の富裕層を支持していることについて、何か利益を得ているのかといえば、その辺がよくわからないのかもしれないが、それに関しては高額所得者のテレビタレントやプロスポーツ選手なども、多数派による圧倒的な支持を得ているわけだから、要するに少数派の富裕層に属する人たちは、多数派を喜ばせることによって支持を得ていることになるのかもしれず、簡単にいえば欲望の対象になっているのだろうが、それに対して抗議活動や反対運動をしている少数派は、多数派に倫理を求めているのかもしれず、世の中で困っている人たちを見捨ててはいけないと諭しているのだろうが、それが多数派には鬱陶しく感じられるわけで、またこのままの状態を放置すれば、いずれあなた方も困った立場になると危機感を煽っているのだろうが、それも毎度おなじみで聞き飽きたと思われているのかもしれず、平和な状態が長続きしている間はそれで何とかなっているのかもしれないが、戦争になっても真っ先に弾圧されるのは抗議活動や反対運動をしている少数派なのだろうから、どういう状況になろうと、政治が利害を超えて欲望にとらわれている多数派を味方につけている状況は変えようがないだろうか。


5月2日「世界の変容」

 認めなければならないのはそこに何かがあるということか。しかし何かとは何なのか。何かがあるのが確からしく、それが人が作った構築物であるわけで、その構築物とともに人が存在しているということだろうか。存在しているだけではなく何らかの作用を及ぼしていて、その作用が人にも人が作った構築物にも他の自然にも及んでいて、その及んでいる作用が人為的な現象と言えるだろうか。その現象とは具体的に何なのだろうか。それが人の活動を表しているのだろうか。透明な現象ならそこには何もないが、不透明な現象ならそれは何らかの物質を介して行われ、何かが備給され何かが交換されているわけだろうが、そんな表現ではそれらの現象を正確に捉えていることにならないようで、そこで起こっていることを具体的に記述しなければならず、そうやって記述することも一つの出来事なのだろうが、そこで起こっている何らかの現象に付随して起こるその出来事が、言表と言われる行為だろうか。この世界に関する記述とは現象に関する記述であり、存在に関する記述でもあり、行為に関する記述でもありそうだが、そこで記述される物事が人に関する何らかの活動の実態を示しているはずなのだが、果たしてそれを記述することが、それらの物事に働きかけていることになるのだろうか。具体的にはそれらの人為的な行為を批判することになるわけだが、それを批判し認識し理解することが、その対象となる物事に何の作用も及ぼさないわけではないだろうが、では物事の方はどんな作用を及ぼしているのだろうか。それを人に批判させ認識させ理解させるような作用を及ぼしていること以外では、すでに人為的な作用によってそれらの物事が出来事として生じていることを示していて、そうなってしまったことの結果について、あれこれそれについての言表を発生させているわけだが、それが出来事として生じていること自体が、その場での世界が変容を被っていることになり、そもそもそれが人為的な作用によって及ぼされたことの結果なのではないか。そしてその出来事を意識が捉えると、それに連動して何らかの行為が追加されるわけだろうが、その中に言表行為があり、その内容がそれについての批判や認識や理解となっているわけだが、人はそうすることによってさらなる世界の変容をもたらそうとしているわけか。

 そうだとしても直接的な生産行為に付随的な批判行為が勝るとは思えないし、何にしてもやった者勝ちであり、直接何かを生産すること自体には、そこに多大な労力が加えられていて、それが目に見える構築物であれば動かしようがなく、言葉による批判だけでそれらの構築物をなかったことにはできないだろうし、そこで何かを建造している最中であるなら、なおさらそれを阻止するのは困難を極めるのではないか。というかそこには圧倒的な力量差があって、制度としてそこには何らかのシステムが作動していて、それに従ってさらに何らかの構築物が建造されようとしているわけだから、そこに至るまでの間に様々な権力が周到に行使されているわけで、その最後の総仕上げの段階で批判や反対運動が表面化してくるのであり、もはや勝敗がついてしまった後から争いが起こっているのだとすれば、そこでの戦いは一種の敗戦処理でしかないだろうか。そこから挽回を図ろうというのだから、すでに挽回などあり得ないのかもしれないが、それでもやらざるを得ないのだろうし、しかもそんなことをやっている人たちに対して、外から有形無形の攻撃が加えられていて、そこで悲惨な状況が醸し出されているとも言えるのかもしれないが、メディアを通してそんな事後処理的な争いを見せられて、それがあたかも現在進行中の悲劇だとでも思い違いをしてはならないのかもしれず、それは戦いの最中に巻き上げられた砂塵の類いでしかない、という表現がそれらの枝葉末節的な現象を適切に喩えているわけでもないだろうが、批判や反対運動はいつも手遅れとなってから始まるわけで、やった者勝ち的に何かをやってしまう勢力に、常に先を越されているからこそ、事後的に批判を開始しながらも、その批判が手遅れであることを自覚せざるを得ないような感覚にとらわれてしまうわけだが、たぶんその教訓が今後に活かされるとも思えないし、今後も手遅れとなってから批判や反対運動が始まるのは必然かもしれないが、そんな行為も微力ながら世界に何らかの変容をもたらしているのだろうし、そのような行為も含めて人が世界に働きかける作用の総体をなしているわけだろうし、それによって世界が変容を被って、人も時代も世の中も変わり続けるのだろうが、少なくともやった者勝ちに何かをやってしまう人たちの思惑通りになっているわけではなく、絶えずそれに対する反発や抵抗が起こっていて、それに対応することによっても、それらの人たちの行為もそれらの人たち自身も変容を被っているわけだ。


5月1日「社会のゴミ」

 人は決められた動作以外のところで躓き、転んでから学んだつもりになる。時にはそうではないと言えるかもしれないが、躓きの石がどこに落ちているわけでもなく、偶然の導きによってそこに出現するのではないか。しかしなぜ決められた動作に従わなければならないのか。誰がそれを決めているわけでもないのに、そこに決められた動作が出現するのはなぜだろうか。そこに社会があり社会的な慣習に従うと決められた動作に行き着くのだろうか。それに従っている限りは躓かないが、何かのきっかけで従えなくなると躓き、転んだ拍子に今までが慣習に守られてきたことに気づくわけか。しかしなぜ従えなくなってしまうのだろうか。そのきっかけが訪れるのはどうしてなのだろう。どうしてではなくどのようにして訪れるのか。それは社会が限定的な範囲内での広がりであり、社会には常に外部があり、一度社会の外に出てしまうと、社会内で通用していた決められた動作が通用しなくなってしまい、それ以外の動作が要求された時に人は躓くことになるのかもしれない。しかも社会の外は社会の内にもあり、どこが社会の外なのかわからない面もあり、結果的に躓けばそこが社会の外だということになるだろうか。要するに社会とは人や物や情報が結びついたネットワークであり、網状構造の結節点に人や物や情報が位置していて、その点と点をつなぐ線から外れるとたちまち外部へと出てしまい、社会の内と外は同じ平面や空間に位置しているわけか。社会をそう捉えたからと言いて、躓きの原因が特定されるわけではなく、点と点の結びつきは一定でも恒常的でもなく、絶えず結びついたり離れたりを繰り返していて、結びついている間だけその地点で社会が成り立っていて、いったん離れてしまえばそこは社会の外部となり、今まで通用していた決められた動作が通用しなくなって、そこで躓いてしまうわけで、いつ結びつきが切れてしまうかは、たぶん偶然でしかないだろうから、結びつきが切れる原因を特定するのは難しいわけか。

 しかし人は躓いて転んでから何を学んだつもりになるのか。人や物や情報の結びつきが、その場限りの偶然の導きに左右されていることを学んだつもりになれるだろうか。ではそれを偶然ではなく必然に変えるにはどうしたらいいのか。それらを一箇所に溜め込んでおけば、社会を恒常的に維持できるだろうか。そこに都市が出現するわけで、人や物や情報の蓄積が社会資本となり、それらを生産して流通して交換して蓄積して消費するネットワークこそが社会であり、蓄積を維持するための制度が資本主義だと言えるだろうか。それを維持するには絶えず人が働いている必要があり、また人の働きは機械によって置換可能な部分もあり、しかも機械の駆動こそがネットワークの維持と拡大には欠かせず、それによって全世界を網羅するネットワークが成り立っているわけだ。もちろん網羅しているからには隙間があり、網目をすり抜けてしまう部分は社会の外部であり、ネットをすり抜けてしまう外部では常に躓きの危険が待ち構えていて、そこでは病や飢えや貧困などが姿を現しているわけだが、人はネットの網目を細かくして、できるだけすり抜けてしまう部分を減らそうと努力しているのだろうか。実態としてはどうもそうではなく、ネットの強度を高めて蓄積する能力を向上させこそすれ、すり抜けてしまう部分については必要悪として放置しているのではないか。というか網目を細かくしてできるだけ多くの人を救おうとすれば、負担がかかりすぎてネットそのものを維持できなくなって、網がちぎれてしまうわけで、ちぎれないように網の質を強化することには熱心だが、蓄積に必要のないものまで網で掬い取るのは目的に反しているわけで、それよりも蓄積に必要な人や物や情報だけ選別して掬い取る網が必要とされるわけだ。そんなわけで決められた動作以外の誤動作ばかりしている人は、社会から除外される傾向にあるのだろうし、網で掬い取る対象とはならず、使い道がなく救われない人となってしまうわけだろうが、やがてそんな人たちにも何らかの利用法が見つかるのだろうか。


4月30日「推測と思考」

 果たして今ある世界の現状から何がわかるのだろうか。そんな焦点の定まらない漠然とした問いでは、何をどうわかろうとしているのかよくわからないが、ともかくわかっている範囲内では、何をどうわかろうとしても部分的な理解に終始するしかなく、世界の全てを理解するわけにはいかないのはもちろんのこと、わかったつもりになっている部分的で限定された理解でさえ、不完全なままにとどまるしかなく、しかもそれでわかったことにしないときりがなく、とりあえず何かをわかったつもりになって、それについて語っている現状がありそうだ。そうだとすればわかったつもりになって何を語っているのだろうか。現にそれについて語っているのだからそれで構わないわけだが、少なくともわかった範囲内で世界の情勢について語っているつもりなのかもしれない。そういう面ではそういうことにしかならないわけだが、別の面ではわからないことまで語っているのかもしれず、何だかわからないが憶測や推測で語っているわけで、かなりの部分で文の末尾にかもしれないという言葉を使って、曖昧なことを述べているはずだが、そうやって述べていることの内容に何を込めているのだろうか。内容の確かさを期待してはならないということだろうか。かもしれないというのだから、確かではないことは確かで、その通りに理解すればいいだけだろうが、何かそれとは別のことを述べたいのだが、それが何だかわからないので、暫定的にわかる範囲内でかもしれないと推測するしかなく、いずれ確かなことがわかるのを期待しているのかもしれないが、とりあえずその時点ではそう述べるしかないということだろうか。そういう面ではそれ以上に何を語っているわけではないのかもしれないが、そうやってかもしれないにとどめて不確実なことを語っている限りは、その水準では何がわかっているわけでもないのかもしれない。

 過去の文献を参照すれば過去の歴史がわかり、メディアの報道からは今起こっていることがわかるだろうが、知ることと理解することは少し違うだろうし、わかることには知ることと理解することの両方が含まれるのかもしれないが、その少しの違いにこだわる必要があるかというと、それもよくわからないところかもしれず、その時々でわかることと知ることと理解することを使い分けているのだろうが、それほどはっきりとは意味の違いにこだわっているわけではなく、何やらいい加減にそれらの言葉を使っている面もあるのだろうし、そこにはっきりとした基準があるわけではなく、その場その時の勘に頼っている部分もありそうなのだが、そうだとしてもそこでそんな言葉を使っている限りは、わかるというのだからわかることであり、知るというのだから知ることであり、理解するというのだから理解することにはなるわけで、それ以外の何でもなく、そういう言葉を使っていること自体は確かな事実ではあるわけだ。そういう水準では確かにそうなのだろうが、そういった表面的な理解以外に何かわかっていることがあるのだろうか。そんな言葉を使った時の心理状態を推測すれば、何か他にわかることがあるかもしれないが、それはそんな推測の延長上の推測だろうし、その場その時の心理状態と何かをわかったり知ったり理解したりする対象とは無関係だろうが、推測はそんな無関係な何かと何かを結びつけたいという心理状態から生じているのかもしれず、なぜ結びつけたいのかというと、それを文章にして定着させたいからだろうか。わかろうとする対象についてどう思っているのかが、その時の心理状態を示していることは確かかもしれないが、なぜそんな心理状態となっているのかといえば、それについて興味を持っているからであり、それについて知りたいと思っているからだろうが、それ以上にどんな心理状態を推測できるだろうか。

 わかりたいのはその時の心理状態ではなく、この世界の現状なのだろうが、メディアを介してもたらされる情報だけで知ろうとしているわけではなく、それについて考えて何らかの理解を得たいのだろうし、そこに思考が介在しているわけだろうが、要するにそうやって現状を推測しているわけだから、それについてはかもしれないというしかない部分があるわけで、そうであると断定できないから、かもしれないとなるしかなく、だからと言って断定している部分が確からしいとは思えず、その場その時の勘で断定しても構わないと判断すれば、断定的な語調となるわけだが、結果的にそれが思い違いや勘違いである可能性があるわけだから、いくら断定したとしても曖昧な部分が残っていることは確かで、それについて語るとは、それについてわかるとか知るとか理解するとは異なり、わからない部分についても知らない部分についても理解していない部分についても、推測しながら語ることはできるわけで、世界の現状を知ることと語ることとは少しずれていて、知ることは知ることであり語ることは語ることでしかないわけだが、それをわかりたいから語るのだろうし、わかったつもりになって語っている部分もあるわけで、わからない部分についてもかもしれないと語り、わかったつもりになっている部分については断定的に語るわけで、実際にそう語っているにしても、それはその場でそう判断していることでしかないわけだから、別の場ではそれとは異なる判断もありうるわけで、かもしれないがいつの間にか断定的な語調になっている場合もあるし、その逆もありうるわけだが、そうなるとすればそこで身を取り巻く世界の情勢が変わってきているのかもしれず、それを敏感に察知して語調を変えているのかもしれないが、その場その時の気分次第で変えている場合もあるだろうし、それが勘違いの原因となっている場合も大いにありうるだろうか。気分が変わるというのも外界の変化から影響を受けていることだと判断すれば、その時の心理状態が世界情勢から影響を被っていることにもなりそうだが、気分の問題でしかないのなら、そんな大袈裟に考えることでもないのかもしれない。


4月29日「出来事」

 現状に対する否定的な感情は、現状に逆らって物事を考えているからそう思われるのかもしれないが、そう考えてしまう成り行きが容易には受け入れ難い認識をもたらしていて、何か皮肉を込めて現状を肯定するにしても、決して思い通りにはいかない成り行きだからこそ、それに対する否定的な感情をもたらしているのだろうか。要するに現状に不満を抱いているということだろうが、不満を抱きながらも何かを行なっていることは確かで、その行いが思い通りにはいかず、思い通りの結果をもたらせないのだろうし、そこに不快感をもたらす何かがあると思われるのかもしれないが、実際には何もないのかもしれず、不快な何かがあると思いたいだけで、どうあってもいちゃもんをつけたい感情にとらわれているとしたら、現に進行しつつある成り行きに対して別の成り行きを思い描いていて、思い描いている成り行きになっていないことが、現状に対する不満をもたらしていることは確かなのだろうが、それが偶然の巡り合わせによってもたらされていると思っても、あるいは必然的な成り行きに思われようと、そうなっていることに関して、外部から何か良からぬ恣意的な作用が及ぼされているように思われるから、それに対して反発を覚えたり、そんな作用を及ぼしていると思われる人や集団を批判したがるのだろうが、そうなってしまう成り行きの中でそれらの人や集団にしても、それとは別の人や集団が及ぼしている相互作用の中で、そんな作用を及ぼしていることになるのかもしれず、そこから特定の人や集団による特定の作用だけを抜き出して、それだけ批判するというのは何か公平でないようにも思われてしまうわけだが、それを批判している人の認識の中では、その人によって特定された人や集団による特定の作用だけが目立ってしまうわけで、それを特定してしまうこと自体がその人の感情がそうさせるのだろうし、批判している人や集団に対して否定的な感情を抱いているわけで、なぜそれらを特別扱いして否定したいのかといえば、それらの人や集団のやっていることが気に入らないからだろうし、自らの主義主張や心情とは相容れないことをやっているからなのだろうが、そこにそれらの人や団体との対立点や争点があると思われてしまうとことが、現状がもたらしている結果であり、その人にとっては否定的な感情をもたらすような結果を感じ取っているわけだ。

 実際にそうなっていると思われることがそこでの結果であり、それがそこでその人が感じ取った出来事なのだろうが、その人の意識の中ではそんな出来事が起こっていると思われようと、別の人が感じ取っている出来事は、そこからずれた地点や時点で起こっているのかもしれず、両者にとっては必ずしもそれが共通の出来事として起こっていることにはならないのかもしれないのだが、同じ時間経過の中で同じ成り行きの中に身を置いていると思っても、両者の間に意思疎通があって共通の了解事項を確かめ合わない限りは、同じ出来事を共有することは困難だろうし、同じ地点と同じ時点と同じ角度と同じ傾向の思惑からそれを体験できれば、同じ結果を共有することができるかもしれないが、実際にはそんなことはあり得ないわけだから、両者の間では感覚の相違があるのが当然だろうが、それでもたぶん幻想は共有することができるように思われるだろうし、それが共同幻想なのかもしれないが、それをもたらしているのがメディアであることは確かだろうし、メディアを通じて同じ地点と同じ時点と同じ角度と同じ思惑から、同じ出来事がもたらされるなら、その出来事を体験している感覚を各人が共有しているように思われるはずだが、その共通体験というのが各人が持っている差異を無視しているから、そこからの隔たりを感じさせるわけで、隔たりが大きいほど疎外感をもたらしていて、自らの感覚から離れていることが不快感を抱かせるのだろうし、別にメディアの方では同じ価値観を人々に向かって押し付けているわけではないにしても、同じ傾向の主義主張などを同じ角度から同じ感覚で伝えようとしているなら、それとは相容れない主義主張の持ち主がいるとすれば、そういう傾向の報道に対して否定的な感情を抱くかもしれないが、だからと言ってメディア自体の特性がそうであるなら、それをやめるわけにはいかないだろうし、別にそれはそれでそういうもんだと思えばいいことでしかなく、それに対して否定的な感情を抱くとしても、それを無理に修正しようとしたり矯正する必要はないわけで、不快感を抱くなら勝手に抱いていればいいことでしかないわけだが、不快には思わない人にとっては何でもないことでしかなく、しかも何とも思わない人にとっては、それを出来事として意識していないわけだから、そこでは何も起こっていないことになってしまうのではないか。要するにある人にとってはそれは出来事として感知されるが、別の人にとってはそこでは何も起こっていないことになってしまうわけだ。


4月28日「自己犠牲」

 法律の類いが誰のためにあるのかというと、一応は国民のためにあるということになるだろうが、国家のためにあるともいえるし社会のためにあるともいえるだろうか。それらすべてを含めて国民が法律を守り法律に従うことによって、何が実現するのかといえば、それによって社会の秩序が保たれているようにも思えるのだが、その一方で法律を守らず法律に従わない人たちも少なからずいるわけで、そういう人たちに言わせれば、守れないし従えないのだから仕方がないということにもなりそうだが、法律を守れず法律に従えない事情というのが、どこから生じるのかといえば、社会の中で生きているとそういう成り行きになってしまうこともありうるわけで、法律に違反することが必ずしも不可能ではない場合が生じていて、それが現状で法律違反が後を絶たない原因となっているだろうし、そんな状況に対応して実際に法律違反者を取り締まったり、組織的に違反する団体を摘発する警察機構が必要となってくるわけだろうが、それは法律を制定したことから生じる必然的な成り行きといえるだろうか。社会の秩序を保つには法律の制定が欠かせないし、いったん法律が制定されれば住民に法律を守らせるために必要な何らかの機構が必要となり、それが警察機構となるわけだが、そういう次元で考えればそんなことは当たり前に思われてしまうわけで、そこに異議を挟む必要はないように思われてしまうだろうが、その法律が果たして社会の秩序を守るために適切な内容となっているかについては、人々の間で見解の別れるところかもしれず、また違反を取り締まる側の警察機構の在り方や、法律違反の有無を判断する司法機関の公正中立さについても、それを批判しようとすればいくらでも批判できるような不十分さが指摘されるところだろうか。

 そんなわけで法律の内容や警察機構や司法機関の至らなさを指摘する人が後を絶たない現状があるのかもしれないが、それはそれらの制度の存在を前提とした批判であり、まさかそれらの制度の存在そのものを批判する人は滅多に現れないだろうし、現れたとしても社会の主流を構成する人たちには相手にされないのかもしれず、批判したところでどうなるようなものでもないだろうし、行政だろうと立法だろうとそんな批判が活かされるような制度的な支えがないわけだから、そんなのは無視されて当然なのだろうが、やはり批判することはできるのだろうから、法律違反が可能であるとともに、法律そのものやそれを取り巻く制度に対する批判も可能なのだから、それらの制度の存在を自明視すること自体に、それほど絶対的な根拠があるとは思えないし、その有効性を疑問視するのも当然のことかもしれないが、そこには制度の存在を前提とする人々に対する反感も混ざっているのだろうし、そういう感情も含めて荒唐無稽に考える分には、それらの制度をなくすにはどうしたらいいか、という設問設定を考慮に入れても、それほど狂気の沙汰ではないのかもしれず、実際にそんなことについて考えている人がいても、それはそれでそれなりにありうることなのではないか。そう考えることが目に見えるような具体的な成果となって現れることは稀かもしれないが、そんなふうに思考を巡らしていく過程で、思いがけないところから人が気づかない社会の仕組みや構造が解き明かされる可能性もありそうで、そういうことが明らかにされてしまうと、制度の存在を自明視している人たちも考えを改めざるを得ない場面も出てくるのかもしれず、そんなところから何らかの社会変革のきっかけが生まれたら、あからさまな抵抗や対立も回避できるのかもしれないのだが、それも一つの可能性でしかないだろうし、今のところは具体的に何をどうこうするような話には至っていないのかもしれない。

 社会は様々な制度や慣習から成り立っているように思えるのだが、それを社会と捉えることからそこに社会があるようにも思われるわけで、現実に確固たる存在がそこにあるわけでもなく、はっきりとした枠組みが構成されているわけでもないし、それは国家にも言えることなのかもしれないが、実際に国と国とを分かつ国境線を定めて、その枠内に法律の網をかぶせて統治していることになっているわけで、そんな状態をその枠内で暮らしている人たちが認めていることを前提として、国家が成り立っていることになるわけだが、それ自体を疑うことは制度や慣習を守り従う人たちには考慮されないことなのだろうし、彼らにとっては意味をなさない疑いでしかないのかもしれないが、疑う必要もないのに疑う成り行きになってしまうわけだから、そうする理由は定かではなく、今後何かのきっかけで理由が明らかになることもないのかもしれないが、疑問を持ち続けていた方がいいのかもしれず、逆に何の疑いも抱かずに信じきっている人たちの方が危ないだろうし、国家を信じて疑わない人は国家のために人を犠牲にしたがるし、法律を信じて疑わない人も法律のために人を犠牲にしたがるし、では人の存在を信じて疑わない人は、人のために人を犠牲にしたがるのかといえば、ある意味ではその通りなのかもしれず、それが国家であれ法律であれ人間であれ、何かそこに理想的な枠組みを設定したがると、その枠組みから外れた存在を排除したり矯正したがるのだろうし、そうする過程で権力を行使しようとするのだろうが、その権力がどこから生じているのかといえば、そのような信仰を共有する集団心理から生じているのかもしれず、そこに人と人とが連携するネットワークが構築されると組織的な力が生じて、その力を利用して組織内で共有されている掟を守らせようとするわけで、場合によっては掟に従わない人に制裁を加えたりもするし、他の人たちを組織内に取り込もうして勧誘活動を始めたりもするのだろうが、そこに確固たる基盤がありえないからこそ、それを定めようとするわけで、具体的には国家の起源や法律の公正中立さや人間の存在を自明視したがるのだろうが、なぜかそれを信じれば信じるほど、それらを完璧なものへと矯正しようとするほど、自分たちの方が犠牲を強いられてしまうのではないか。


4月27日「匿名の必然性」

 たぶん世の中で確実なことは何も言えないわけではなく、何が確からしいのか言えば、この世界では誰かが何かを語っているのだろうし、それが誰であっても構わないのであり、基本的には特定の誰である必要もないのだろうが、それでも特定の誰かが何かを語っているとしても、語っているのがその誰かである必然性はないのかもしれない。それでは確実でも何でもないだろうが、そんな内容の言説が世の中には氾濫しているのだろうか。そうであるとしても相変わらず誰かが何かを語っているのだろうが、何らかの権威を必要とする人たちにとっては、誰であっても構わないわけではなく、できることならそれが彼らが認めた特定の誰かであってほしいのだろうし、実際にある種の言説に関してはそんな経緯から語られているのではないか。そしてそれとは違う状況の中では、それは語られているだけではなく、文字として記されていたり刻まれていたりする場合があり、それを誰かが読んでいるのだろうし、実質的にはそこで誰が語っているのでもないのだろうが、実際にそこには何かが記されていて、それが誰にとっても興味のない内容なら、そんなものは誰も読まないだろうが、少なくともそれを誰かが読もうとしているのなら、読もうとしている誰かにとっては、何か興味を引く内容が記されているはずであり、中には読んでみて当てが外れる場合もあるのだろうが、ともかく読む行為が継続しているとすれば、何か興味深い文章がそこに記されているのかもしれないが、それが別の誰かにとってはそれほど興味がある内容ではないかもしれないし、読む必要のない文章を読んでいるはずもなく、興味があるのに読む必要がないというのはありえないだろうが、また必ずしも誰もが文章を読んでいるわけではないが、それでも相変わらず誰かによって文章が記されている現実があり、誰が記しても構わない文章がどこかに記されていて、誰が読んでも構わない文章がどこかに記されている現状があることは確かなのだろうが、それとは別に特定の誰かが記している文章もあるだろうし、それを語るにしても記すにしても、特定の誰かでなければならない場合があるのだろう。

 つまり誰かが語り誰かが記しているとすれば、その言説には語る必然があり記す必然性もありそうなのだが、それが誰であっても構わないのであり、誰が語っても記しても構わないのであり、また誰が語ろうと記そうと、そこには語る必然性や記す必然性が生じてしまい、社会の中で何か特定の立場や役割を担った人が語り記すのだろうが、その立場や役割を占めるのが誰であっても構わない実情があるのではないか。そしてそれが特定の誰かでなくてはならないと思い込んでいる人がいるとすれば、その人は何らかの権威主義にとらわれていて、権威ではない別の誰かが語っていたり記していたりすると、それは身の程知らずなことであり、そんな行為には腹が立って仕方がないのかもしれないが、そんな然るべき立場や役割を前提して、それが当然であるように思われるとすれば、そこには何らかのヒエラルキーが厳然と成立していることになるだろうし、そんな社会の階層構造を自覚しているわけだが、そうだとしても誰が階層構造の中で上位にいようと下位にいようと、そうなっていること自体は誰にもどうしようもできないことであり、ただそんな結果に不満があるだけで、身の程知らずな誰かがその場を占有していることに対して、抗議の声を上げることぐらいしかできないだろうか。抗議が実ってその人がその立場や役割を追われたとしても階層構造は相変わらず残っているわけだが、それでもそういう立場や役割は身分や地位の上下とは関わりなく、そこにはその立場や役割に応じた何らかの適性があって、それが適材適所な配置であれば構わないともいえるだろうが、そうだとしても立場や役割と身分や地位との間に何らかの差異を見出そうとすると、それが何らかの階層構造の中で生じている限りは、そこにはどうしてもピラミッド状の上下関係があるわけだから、それを解消したつもりの差異は欺瞞にしかならないだろうし、特定の立場や役割を担うのが誰でも構わないとは思えないのではないか。そして実際に何らかの立場や役割を占有している人に何らかの権限や権力があるように思われてしまうし、その立場や役割に応じた力を持っていて、その部門でその場を制御し操作していることになるわけだが、その制御したり操作したりすることの一環の中で、何かを語り何かを記しているわけで、その内容には何らかの命令や指令が含まれている場合があるわけだ。


4月26日「運命と宿命」

 運命と宿命の違いは何だろうか。逃れられないように思われる運命というのが宿命だと思っておけばいいのかも知れないが、運命からも宿命からも逃れられないことは確かなようで、意味としては生まれる前から定まっているのが宿命で、生まれた後から自らの行いやが内外からの作用によって定まるのが運命だと言えるのかも知れない。だがそれらは全て何かをやったりやらなかったりした結果から自覚することであり、こうなるのが運命だったと悟ったり、さらに結果や成り行きの必然性を強調したければ、こうなる以外にはあり得ず、もはやこうなるのは宿命であるとしか思えないとなるだろうし、例えば今のところは一般的にいって生物が死ぬのは宿命だし、それは避けられないことであり、また何かの導きによって誰かと誰かが運命的な出会いをしたとしたら、そこには少なくとも偶然的な要素が介在していることになるだろうか。両者の差異を強調したところで、それは似たような言語的な表現でしかないのだから、それらの言葉を用いるときには厳密な区別などないのかも知れず、その時の感覚で恣意的に運命と感じたり宿命と感じたりするだけで、そうなった結果を大げさに誇張するか、あるいは決まり切った慣用句の中でそんな言葉を使うかして、そうなってしまった結果を表現していることは確かなのだろうが、それが運命だと思っても宿命だと思っても、そのこと自体は大して重要ではなく、それよりもそうなってしまったこと自体がが重要なのであり、それを重要だと思う限りではそうなのかも知れないが、そうは思わなければわざわざ運命だの宿命だのと思う感覚は得られないわけで、そうなってしまった結果がそんな感覚を抱いた自身にとっては強調すべきことであり、強調したいからそんな言葉を使っているわけで、たぶんそこにはそんな結果を強調すべき理由が見出されているのではないか。

 それが切実に思われることであり、こだわっていることなのかも知れないが、その人にとってはそうであるとしても、無関係な他人にとってはそうではないのかも知れないが、そんな言葉を使って自らの意思を伝達する場合は、他人にもその感覚を共有してほしいのだろうし、伝える相手もそう思ってほしいから、わざわざそんな言葉を使ってそうなった結果を強調したいのだろうが、なぜそうまでしてそんな結果にこだわるのかといえば、その結果が自らの力では変えようがなかったことを強調したいのかも知れないし、自分がそうしようと思って何かをやったにしても、思いがけずに遭遇した結果であって、そうなってしまったことについてはどうしようもないと主張したいのかも知れず、当人がそう思っていてもそれは一種の責任逃れにも通じる表現となっているのかも知れないが、そんな自らの力を超えて導き出された結果について、やはりそれが何でもないことなのではなく、当人にとっては極めて重大な結果だから、そんな強調表現を使ってそんなことを言うしかないのだろうし、しかもそうなったことについては当人の責任の範囲外であるとも主張したいのだから、何やら虫のいい話で、状況によってはそれを伝えられた他人の反感を買うようなことにもなるだろうが、そうなるのがその人の運命であったり宿命であったりするのは、その人が意識できない何らかの力が働いた結果であることは確かで、たとえ当人が何かをやった結果としてそうなったとしても、その人にそんなことをやらせている何らかの作用や関係がそこに生じていて、結果的にはそんなことをやってしまった当人がそこから逃れることはできなかったのであり、実際にそんな成り行きにその場が支配されていたからこそ、当人はそうせざるを得なかったし、そんな結果にならざるを得なかったとなるのだろうが、それはあくまでもそんな結果が出た後からしか言えないことであり、後からいくら運命だの宿命だのと言ってみても、もはや結果の重大さや深刻さを減じることはできないし、それを覆しようがないわけだ。


4月25日「予測する機械」

 今までの歴史的な経緯を考えると、何かが起こった結果から必然的な因果関係が導かれるようにも思えるし、実際にそんな説明ができそうなのだが、そこから将来起こりそうなことを予想すると、当てが外れたりたまには当たったりするかも知れないし、大して確実性もないそんな語り方を飽きもせず繰り返している現状があるのかも知れず、結局のところそれで何が言いたいのかといえば、こういうことをやったからこういう結果になってしまったのであり、今もこういうことをやっているから将来こういう結果をもたらすだろう、という言説にとらわれているわけだが、果たして本当にそうなるのかといえば、実際にそうなってみなければわからないのが確かなところで、必ずしもそうなるわけではないが、そうなる危険性があると指摘したいのであり、人はそうやって今ある現状を診断しているつもりになっているのかも知れないが、しかしそれ以外に現状に関して何が言えるのだろうか。現状で何が起こっているのかを認識していることは確かかも知れないし、これこれこういうことが起こっていると語ることができそうなのだが、それ以外に気づいていないことが起こっている可能性があるのかも知れず、その他の人々が気づいていない現象や出来事に気づいて、それについて語ることができるだろうか。現状で起こっていることから将来起こるかも知れない事態を予想することに当たり外れがあるのは、まずは現状で起こっていることの全てを把握しているわけではないということと、過去に起こった原因と結果の因果関係にしても、それを完全に把握しているわけではなく、現状にしても過去に起こった出来事や現象にしても、その全てを把握することはできないのだから、そんな不完全な事態の把握から将来を予想しても、当たり外れがあるのは当然のことだといえそうだが、ではなぜそんなことをやりたいのかといえば、人は必然的な因果関係を求めているということだろうか。

 当たりくじを引き当てたいのだろうし、サイコロを振って思い通りの目を出したい、という欲望があることは確かだが、それ以前に必然的な法則や成り行きを発見したいということかも知れないし、そこには全てを知りたいという傲慢な意志が見え隠れしていそうだが、それと同時に全てを知り得ないという残念な認識も持ち合わせているだろうし、そんな相反する感情から導かれる妥協点としては、そこから一歩退いて、全ては知り得ないができるだけ多くのことを知りたいという謙虚さも現れてきそうで、また今ここで何が起こっているのかを可能な限り正確に知りたいという欲求も出てくるのかも知れず、そんな欲求から生じるのが現状に対する分析だろうし、ただ分析するだけでは飽き足らず、その延長上に将来への予測が出てくるのだろうが、より謙虚な姿勢を維持するなら、現状分析にとどめるということになるだろうし、当たるか外れるかわからない予想や予測を断念できればいいのかも知れないが、人が相変わらず求めているのは占いであり、将来がどうなるかを知りたいという欲望を断念することなど不可能だろうか。限定された範囲内で必然的な結果を導き出す手法として考え出されたのが、機械であることは確かであり、確実に何かを製造するという目的に特化しているわけだが、それと似たようなことかも知れないが、現状分析についても計量という目的に特化した機械があるわけで、見るという目的に特化した機器として望遠鏡や顕微鏡があるし、CTスキャンやMRIもあるだろうし、計算によって未来を予測する技術は天気予報や株価予測などに活かされているし、何らかの目的に特化した形でなら、機械技術によって可能となっている現状があるのではないか。そんなふうにしてある目的に特化すれば、それなりに正確なことがわかるのだろうが、相変わらず目的以外のことについては不明確なままなのだろうし、特定の分野で何かを正確に知ることや機械によって必然的な結果が導き出せることと、それ以外のことについては依然として曖昧なままであることの間に落差があるわけで、その落差を認識しておいた方が良さそうなのだが、やはり素人ほど機械技術に対する過信があり、何やらコンピューターによって全てを作り出せて、全てを見通すことができるような盲信に陥りやすいのかも知れない。


4月24日「それが全てではない」

 少し前に考えていたことと今考えていることは違うだろうし、今考えていることと将来考えることが同じであるとは限らないだろうが、その時々で違う状況の中で考えていることは確かなのかも知れず、地域的にも時期的にも違うところで考えているとすれば、全く考えている内容が同じとは限らないのだろうが、似たような状況の中で考えているとすれば、考えている内容もおのずから似てくる可能性もあるのかも知れず、地域的には別の場所で時期的にも数十年も隔たっているのに、なぜかその場の状況が似ていると、考えている内容も似通ってしまうこともありそうだ。それが偶然にそうなのかも知れないし、似たような状況が地域的にも時期的にも繰り返されているのかも知れないし、詳しく見れば似ていない面もあるのだろうが、それについて語ると似たようなことを語ってしまい、そんな状況について語る行為が似通ってしまうこともあるのかも知れず、何かについて語るということが、そんな語り方しかできないという面もあるのかも知れず、そんな事情が各地域の各時代において似たような言説が現れてしまう現実を構成しているのかも知れないが、ともかく昔から似たようなことが語られていることにそれほど驚くこともなく、毎度おなじみの言説に出くわすことによって、歴史的な連続性を感じてしまうのだろうが、連続していると感じるのは、それについて語る似たような言説に出くわすからで、それ以外の何を根拠に歴史的な連続性を感じるわけでもなく、語られる水準以外で歴史が連続していると考えられるわけでもなさそうだ。

 しかし数十年前と今とでは何が違うのだろうか。違うことはいくらでもありそうだが、似たようなこともいくらでもありそうで、違うことを語れば違うことが明らかになりそうで、似たようなことを語れば似ていることも明らかになりそうだが、歴史が連続していることを語りたければ似たようなことを語るだろうし、今と昔とでは状況が違うことを強調したければ、違う点を強調しながら語ろうとするだろうか。それは何を語りたいのかで違ってくるのかも知れず、似ている点を強調するか異なる点を強調するかで、語っている者の立場や主張の違いが明らかとなるのかも知れないが、場所的にも時期的にも違っているのに似ている点を強調しようとする場合、そこで作動している世の中のシステムが似ていることを語りたいのかも知れず、そうやって似ている点を強調しようとする場合は、今ある状況が何ら特別な状況ではないことを示したいがために、数十年前の別の地域でも今と似たようなことが行われていて、それについて似たようなことが指摘されていたことを示したいのだろうし、昔も同じようなことが行われていたのだから、今の状況がもたらす結果も昔と似たような結果をもたらすだろうと述べたいのかも知れず、それによって昔と似たようなことをやっている人たちに、昔と似たような結果となることを警告したいのかも知れないが、そうだからといって、全てが昔と同じとは限らないのだから、結果が昔と同じになるとは限らないだろうし、昔と同じようなことをやっている人たちからすれば、その辺を十分に考慮している可能性もあるわけで、昔と同じようなことをやっている自覚があろうとなかろうと、今ある状況の中で状況に対応してやっていることが、たとえ昔と似たような対応であるとしても、それ以外の対応をとれるはずもないだろうし、実際にそんなことをやっている人たちは、それ以外のことをやる必然も必要もないわけだ。

 やりたいことをやっていると思うなら、やりたいという欲望がそうさせていると思われるだろうが、そんな欲望をもたらしている何かがあるわけで、それを可能とさせている状況があることも確かで、それが可能となる何らかの条件が成立していると考えられるかも知れないが、その条件とは何なのか。例えば経済状況が政治状況をもたらしているとすれば、特定の経済状況が周期的に現れると、それに対応した政治状況が出現して、そんな状況の中で支持を集めるような政治勢力というのも、周期的に活性化するのだろうか。そうだとしても出現している政治状況を経済状況からだけでは説明できないだろうし、政治状況には政治状況特有の問題も絡んでいる可能性もあるだろうし、これまで主流だった政治的な枠組みでは、もはやどうにもならないように思われるから、新たな政治的な選択肢を求めるような成り行きとなり、そういう機運が数十年単位で周期的に現れている、と説明した方が納得できそうな場合もあるだろうが、そのどうにもならないと思わせるような成り行きが、経済状況から出現しているのか、あるいは他の地政学的な周辺事情から出現しているのか、またはそれらを含めた様々な事情が複合的に作用しているのか、といったことについて、何やら説明する材料を探し求めれば、それなりに様々な材料が見つかるかも知れないが、その中で何が根本原因となっているのかを決定しようがしまいが、それはあくまでも説明なのだから、そうやって語られる水準以外の何を示しているわけでもなさそうだが、それが政治状況である限りにおいて、政治的な選択肢の範囲内でしか対応することはできないだろうし、それ以外の部分ではそれとはまた別のそれなりの対応が可能な場合もあるわけだから、それが世の中の全てを反映しているわけでもないだろうし、それだけに人々の関心が向いているわけでもなさそうだ。


4月23日「現状認識を超えて」

 政治的には今後考えなければならないことなどなさそうに思えるが、何か勘違いしているというのではなく、見た通りの現状から別の何が見えてくるわけでもなく、ただ見た通りの現状でしかないわけだが、何も得られないように思われ、実際に何がもたらされているようにも思われなくても、そんなふうに思われていることと、何かが得られて何かがもたらされていることとは別のことなのかも知れず、実際には何かがもたらされているし、人々はそこから何かを得ているのではないか。ただそうは思われないだけで、それを見極めることも感じ取ることもできないが、さらに見当違いなことを幻想しているのかも知れないが、それで構わないと思うしかないのかも知れず、構う構わないの水準とは別の水準で何かがもたらされていて、それがもたらされているという現実から何かを得られているのかも知れない。それは感じ取る必要のないことかも知れず、ただそれについて思考しようとしているのかも知れないが、今後も思考し続けることになるのではないか。現状で何がもたらされていて何が得られているのかを絶えず考え続けるわけだ。考える理由は今のところはわからないが、考え続けなければならないというのではなく、何かのついでに考えていることなのかも知れない。その程度で構わないのかも知れず、それ以上に確かなことは言えず、何の確証も得られないままに考え続けることにしかならないのかも知れないが、ともかく考え続けていることだけは確からしい。少なくともこれまでの経緯から得られた認識によれば、大雑把な認識としては資本主義経済の中で国民国家的な枠組みが堅持されていて、世界が様々な体制の国家に分割されていることは確かで、そんな現状を覆して新たな体制が構築されようとしているわけではないし、そのような試みが顕在化しているわけでもなく、結果としてそんな現状で安定しているように見えるのだが、今後それ以上の進展が期待できないのかというとそうでもなく、期待したいのならいくらでも妄想を膨らませることはできるだろうし、ごく少数の限られた人々の間で現状とは全く違った政治体制が妄想されているのだろうが、それはいつまでたっても妄想の水準にとどまるだろうし、一向にそれを具体化して実現しようとする段階には至らないのかも知れないが、とりあえずはそれで構わないわけだ。

 人々が考えていることと実際に行われていることとの間に隔たりがあることは確かで、その隔たりを埋めようとしても、状況がそれを許さないことも確かで、どうやって隔たりを縮めたらいいのかもわからないまま、ただ理想ばかりを語っているわけにもいかないだろうし、現実に対応して動かなければならない事情もあるだろうし、実際に動いている人たちもいるわけだが、それは今ある政治的な枠組みの中で動くしかなく、今ある現状から出発している限りは、現状を打破するために現状を修正するような発想しか出てこないのを承知しておかなければならないだろうし、実際にそんな修正主義的なことを主張している人たちが改革派の主流を占めているわけだが、もちろんそんなことをやっている人たちが改革派とはみなされないだろうし、現状とは全く違った政治体制を妄想している人たちにとっては、そういうことをやっているのは全て保守派としかみなされないかも知れないのだが、そんなことを含めて現状が構成されているわけだから、それはありのままの現状に対する当たり前の認識に過ぎないわけだ。それを超えて現状を捉えようとすれば妄想するしかないような成り行きとなってしまうのだろうが、やはりそれはそんな想像の中で期待するしかないわけで、期待している分には希望を捨てていないだろうし、捨てる必要もないわけだろうが、なぜそれらの人たちが修正主義的な試みを拒否するのかというと、それでは現状維持にしかならないのだろうし、改革しようとしているのにその一方では現状の中で可能なことをやろうとしているわけで、そうなると思っているとことと実際にやっていることが隔たってくるわけで、そんな試みを受け入れるわけにはいかなくなってしまうのだろうが、たぶんそれがそんなことをやっている政治勢力に対する不満に結びついていて、思うように支持を得られない原因ともなっているのかも知れないが、やはりそれらの政治勢力にそれ以上を期待するのは無理だろうし、現状の中でやれることが制限されている実態がある限りは、それ以上を求めても無い物ねだりとなってしまいかねず、その辺は理解しておいた方が良さそうで、そんなことをやっているだけでもまだマシな方だと思っておけばいいのではないか。だからそれを必要以上に批判すべきでもないし、そんな事態に危機感を募らせる必要もなく、懸念を抱くにも及ばず、それも含めて現状が構成されていると思っておけばいいことでしかなさそうに思えるのだが、やはりそこからそれを超える何かを考え続けているわけだ。


4月22日「別問題」

 現状で最悪の事態が起こるとしたらそれは戦争だろうか。そうでなければ他に何が起こるというのか。まさか何も起こらないことが最悪だとは思えないが、もしかしたら何も起こらないのかもしれない。そんなはずがなく少なくとも巨大地震が起こるのではないか。いつかは起こるかもしれないが、それがいつ起こるのかはわからないし、起こるのを期待するようなことでもないだろうし、思いがけず起こるのがありふれた起こり方だろうし、人々が忘れた頃に起こるのではないか。しかし何かが起こるのを待っているとしたら、では待っている間は何をしているのだろうか。待っている間は無為な時を過ごしているだけだろうか。それを無為と思えば無為に思えるかもしれないが、何か時間を有効活用しているように装いたければ、人は何かもっともらしいことをやりたがるだろうし、何がもっともらしく思われるのかといえば、世間的に見てもっともらしく思われるようなことをやりたがるのではないか。例えば生活をエンジョイしているように見せかけたいだろうか。それとも何か世の中の役に立っているようにも見せかけたいだろうか。見せかけたいのではなく心からそう思いたいのかもしれないし、皮肉でも何でもなく、素直に生活を楽しみたいだろうし、世の中に役立つことをやりたいのではないか。たとえそれが独りよがりだと思われようと、自己満足とは無縁の水準でそんなことをやりたいのではないか。だが実際に何をやったらいいのか、果たしてそれがわかるのだろうか。今やっていることを継続する以外には何も思いつかなければ、それを継続するしかないだろうし、他のをことやっている余裕もなければ、そうなる他はあり得ないのかもしれないが、それをやっていることが現状をもたらしていることは確かであり、そんな現状に満足できないのなら、他のことをやる以外にはあり得ないようにも思われるかもしれないが、たぶんそれができれば苦労はしないのであり、できないから苦労しているわけだ。そして苦労しているということは、生活をエンジョイしていないことになるのかもしれず、また大して世の中の役に立っているようにも思えないのなら、やりたいことをやっているとも言えないだろうし、やっていることをもっともらしく見せかけるどころではなく、かろうじてそんなことをやっているに過ぎず、場合によっては他からの作用でやらされているに過ぎないのかもしれないし、まさに不満だらけの現状があることになってしまうが、それをどうすることもできない状況の中で生きていることにもなってしまうだろうか。

 たぶんそれがありふれた状況なのだろうし、ありふれた状況を物語っていることになるだろうが、問題はそこにはなく、そうかと言って別のところにあるのでもなく、ただ問題を避けて語っているだけかもしれず、なぜ避けて語っているのかと言えば、問題を語りようがないのかもしれず、現状ではそれ以外のありふれたことしか語れない状況にあるのかもしれない。そしてそれはメディア上で語られている世の中の問題とは別次元の問題なのかもしれない。たぶんそれらとは微妙にずれているのであり、少し違った傾向にあるのだろうが、やはりそれが問題なのだろうか。少なくとも人がそれについて考えたり意識したりするのとは無縁の次元で問題化されているのだろうし、そうだからと言って無意識の問題なのでもなく、実際に世の中で起こっていることなのに、人とは無関係なのかもしれないし、そこに人が関わっているのに無関係とは言えないのかもしれないが、やはり無関係としか言いようのない問題なのだろうか。そして人が構成する組織や集団の問題でもなく、国家や企業などとも重ならないことかもしれないし、しかも国家や企業の内部で起こっていることだとすれば、それはいったい何なのか。人にとって何でもなければ問題とはならないだろうか。たぶん出来事が問題なのだ。そこで何が起こっているのかが問題なのであり、そこで何が行われているのかも問題なのだろうが、それは語られないことなのかもしれず、語られていることでもあるのかもしれないし、実際に出来事について語られている場合は、それとは別の出来事について語られているのであり、要するに世間の話題について語られているわけだが、それとは別の出来事については語られていないわけだ。それとは別の出来事は語りようがないのだろうか。しかし語りようのない出来事とは何なのか。意識がそれを捉えられなければ語りようがないだろうし、それについて語る気が起こらなければ語らないだろうし、それでもそれらの出来事を日々体験しているはずなのだが、それは改めて語る必要のないことかもしれない。だからそこに問題があるのに気づかないのだろうか。しかしそれの何が問題なのか。それらの出来事が現状を形作っているとしても、それに気づかないから意識できないし語りようがなく、そうやって問題が見過ごされているというわけか。少なくとも現状に対して不満を抱いていて、世間の話題となっている問題がいくらでもあって、いつまでたってもそんな問題が世間に溢れかえっているとすれば、それは解決しようのない問題であり、それについて話題にして語ることしかできない問題であるのなら、もはやそれらは問題ではなく、問題はそれらとは別のところにあって、つまりそれが語りようのない問題なのではないか。


4月21日「資源と資本」

 資源と資本には微妙な違いがありそうで、大雑把にいうなら自然の営みからもたらされたものが資源であり、経済活動によって蓄積されたものが資本といえるだろうが、その使い道には共通点がありそうで、人の活動に利用されることで消費の対象ともなるだろうが、消費される以前には蓄積されるのも共通点だろうか。前もって蓄積されているからこそ、利用したい時に利用したい分だけで引き出されて、消費に当てられるわけだが、資源はいったん消費されてしまうとそのまま消失してしまい、一部は何らかの形で再利用されることもあるわけだが、一般的に資源は再利用される度に目減りして、その量は少なくなっていってしまうの対して、資本はそのほとんどが再利用されるばかりか、再利用される度に目減りするどころか、逆に増殖していく場合もありそうなのだが、果たして資本は本当に増えているのだろうか。資本を何らかの事業に投資する度に利益が出て、その利益をまた資本に組み入れれば、結果的に資本は増殖するわけだが、その分事業で資源が消費されたとすると、事業が行われる過程で資源が資本に転化したといえるだろうか。そうなると資源が枯渇しない限りは資本がどんどん増えていくことになってしまうわけで、何らかの事業が行われている限りは、資本が増殖していくことになるわけだが、利益が出ないと事業は行われないだろうか。実際は利益どころか損益が出ても継続される事業があるわけで、それも資本の投資が続く限りでのことだろうが、その辺の全体としての収支が謎なのであり、資本の増減を無視すれば、単純に資源を利用して人が活動しているに過ぎないわけで、それが人類が主に狩猟採集生活をしていた頃からの変わらぬ営みでしかないわけだが、だからと言って単純に資本の蓄積は幻想であり、資本主義という宗教が生み出した幻影でしかないと述べてみても、ほとんどの人がその幻想なり幻影なりを信じることで、経済活動が成り立っているわけだから、その根本のところをいくら批判してみても、そんなのは何でもないことだし、実際に行われている経済活動を停止させることなどできないし、停止させるわけにもいかないのであり、そんなことを述べること自体が正気でないと見なされてしまいそうだが、根本的なところは資本の増減よりは資源を利用する仕組みにあるのだろうし、何らかの形で資源を利用しながら人の活動が継続されている実態があるのではないか。

 そしてまた根本的なところでは、資本を増やす行為が経済活動を成り立たせていると思われているのかもしれないし、本来の資源を利用しながら人の活動が継続しているのとは微妙な違いがありそうで、資本を増やす行為の原因となる蓄積への衝動と、人が生きていくのに必要な活動との間に、何かわかりやすい関係があるとすれば、それは生きていくには何らかの蓄えが必要で、その蓄えを利用したい時に利用したい分だけ引き出せれば、便利だし好都合なのだろうし、そのような人工的な資源として、資本という観念が発明されたということだろうか。それは社会の中で通用する一種の決まり事であり約束事なのだろうし、基本的には所有している通貨や有価証券などの量や額で決まるものだろうが、さらに資源や資源を加工して作られる製品と交換される量や額によっても決まるだろうし、また直接他の通貨や有価証券と交換される量や額によっても決まるのだろうが、その交換に際して常に利益となる分が上乗せされれば、資本が絶えず増殖していくことになるだろうが、それが必ずそうなるのかといえば、必ずしもそうならない場合もあるのだろうから、資本の増殖に関しては詐欺的な疑念も湧いてくるわけで、何かどこかでごまかしが行われていて、騙されているのではないかと思いたくもなるのだが、世界全体で物価の上昇が永続的に続いてゆけば、物価が上昇した分だけ利益が出るという理屈が成り立つのかもしれず、果たしてそれでいいのかというと、必ずしもそうでなくても構わないのかもしれないが、では物価の上昇がなくなれば、収支の均衡が保たれて資本の増殖も止まるのかというと、それも必ずしもそうなるとは限らないだろうし、それでも利益が出ている現状があるとすれば、利益が出ている分だけ、その逆に損益が出ている部分もありそうで、全体として収支の合計がゼロになるような均衡が保たれていることになるだろうか。そのほとんどが国家の財政赤字に収斂しているわけではないのだろうが、そうなっていると勘ぐりたくなるような巨額の財政赤字を抱えているわけだが、だからと言って無理やり物価を上昇させようというのも、物価が上がらないことについては他の要因もありそうだから、どうもそういうやり方はうまく行かなそうで、実際にリフレ派という人たちのやり方ではうまく行かなかったようで、期待したほどには物価は上昇せずに、経済状況は人為的な操作でどうにかなるようなものではないということがはっきりしたわけだろうか。


4月20日「規格化と完璧さ」

 この世界が偶然と妥協に支配されていると思えば、何も恐れる必要はないかも知れないが、一方で人は必然的な結果を求めているわけで、必然的に求める結果に至るような成り行きを導き出そうとして、力を行使して必然的な結果をもたらすようなシステムを作り上げようとするわけだ。大勢の人を組織的に動員して建物や機械設備などの構築物を造って、また法律を定めて大勢の人を従わせようとして、物である構築物と言葉である法律を組み合わせて、必然的な結果をもたらすはずの装置としての文明を作り上げたのだろうが、今のところまだそれは構築の途上にあり、しかも永遠に途中の段階にとどまるしかないのかも知れないが、文明が完璧な装置とはなっていないから、様々な誤謬や錯誤を招いていて、そんな未完成なシステムを通して産出される物と言葉の偶然の組み合わせがもたらす思いがけない結果に驚き落胆しながらも、それをある程度は必然的に導き出された結果に至る過程で生み出された妥協の産物とみなして、そんな妥協をできるだけ減じようと努力している最中かも知れないし、またそんな努力がさらなる迂回をもたらして、そんな迂回の途中でもさらなる妥協の産物が生み出されている場合もあるだろうし、そうやって遥かな回り道を経て、何とか必然的な結果に至ろうとしているのかも知れないが、たぶんその途中で誰もが力尽きてしまうのだろうし、そんな力尽きることがその人がシステムとともにもたらした必然的な結果だとも言えなくもなく、必然的な結果を導き出そうとする努力が、その途中で力尽きるという必然的な結果をもたらすということが、皮肉でも何でもないように思われてしまうところが、その人の宿命を暗示していると言えなくなくもないが、ともかくその途中で生み出された妥協の産物が、偶然の産物であるように思われてしまうところも、それを途中の偶然の試行錯誤が導き出した興味深い賜物と見るか、あるいは目標とする完璧な仕上がりからは程遠いまがい物に過ぎないと見るかの、それを肯定的に見るか否定的に見るかのふた通りの見方が可能であるとともに、それがそれを生み出す人とシステムの不完全性を象徴しているかも知れないし、今後人工知能が真の完璧な創造物を生み出したら、人とシステムが作り出した人工知能こそが完璧な創造物であり、完璧なシステムなのかも知れず、また人工知能こそが完璧な事物を作り出す神だと見なされるかも知れないが、果たしてそれが当初から作り出そうとしていた目的の産物なのかというと、それも何かの途中で偶然に導かれた産物に過ぎないのかも知れないし、必ずしも最初からそれを作り出そうとしていたのではなかったのかも知れない。

 人がその時々で何を目指して何を作り出すにしても、結果的に導き出されるのは、その場が課す何らかの制限から生じる何らかの妥協と、その時々の偶然に左右されて生み出され、それ以外の場所や時期ではあり得ないような明らかな傾向を伴っているのかも知れず、その明らかな傾向というのがある意味ではその場その時の必然的な結果をもたらしているわけで、そんな必然性が人とシステムの限界を物語っているのだろうが、それが完璧なシステムを作り上げようとしてもできない理由ともなり、それを作り上げようとする人と集団が構成する組織も完璧であるはずがないので、そもそも完璧というものがあり得ないのかも知れないが、完璧を目指すことはできるのだから、目指すという目的意識を持つことは可能であり、実際に誤謬や錯誤をシステムの構成や運用から可能な限り取り除こうとするのであり、製品の品質管理や品質規格などの厳密化を図ろうとするのだろうが、それが全ての分野の全般にわたって施されるというよりは、特定の分野の特定の製造過程に施されるわけで、それらの試みが極めて限定的で局所的な場所や時間区分の中で、異なる分野の異なる領域でそれぞれ個別に行われることになり、その結果導かれる傾向としては、特定の分野の特定の領域においては、その分野や領域で求められる規格には完璧に適合していることになるわけだが、その分野や領域を離れて別の規格や価値観には適合するはずもなく、そんな局所的な完璧さが全体として何の意味を持つわけもなく、いくらそんなものを作り出しても、それが神の創造物とはならないのはもちろんのこと、時代や地域を超えて通用する完璧さからは程遠いものなのだろうが、別にそれで構わない面もあるわけで、資本主義経済の中で商品として生産され流通して消費される上で好都合ならいいわけだから、それを超える完璧さなど求められてはおらず、時代や地域を超えた完璧さなど不要な価値観でしかないだろう。そういう意味では様々な分野で応用が期待される人工知能にしても、その場その時に必要とされる機能に適合したものになるだろうし、全知全能の神という存在から程遠いものとなるのかもしれないし、またSF的に人が人工知能によって同一基準で管理されて規格化されるにしても、それで人が完璧な人になるわけでもないだろうし、ただ同質になるだけで、そこから考えるなら完璧に規格化された製品というのも、ただ同品質の製品というだけで、同品質であるという局所的な性質についてだけは完璧であるが、他の全ての領域にわたって完璧であるわけではなく、しかも同品質という製品規格にしても、技術的な限界から生じる偶然と妥協からもたらされた規範に頼っている面があるのかもしれない。


4月19日「語ることの限度」

 社会の中で不利益を被っている人がいる限りは、現状を肯定するわけにはいかない、という主張は納得できるかも知れないし、不利益を被っている人たちに救いの手を差し伸べなければならない、という主張も納得できるだろうが、では現状を肯定するにはどうしたらいいのかと問われるなら、現状の社会の中で不利益を被っている人がいなくなれば、現状を肯定できるだろうか。だが普通に社会の中で暮らしていることから得られる実感として、実際に不利益を被っている人がいなくなるなんて、ありえないようにも思われるだろうし、では現状を肯定することはできないのかというと、別にそれなりに愉快に楽しく暮らしているように思えるのなら、現状を肯定しても構わないような気がするし、少なくともそれほど不利益を被っていない人たちは、現状を肯定しても構わないだろうし、メディアを介して様々な社会問題が取りざたされているとしても、それらの問題にあまり関心がないのなら、無理して現状を否定することもないのではないか。それよりも感覚としては現状を肯定するとか否定するとかではなく、現状の中で生きている以上は、現状と格闘しているように感じられるのかも知れず、実際に日々暮らしている中で様々な摩擦や軋轢を感じているとしたら、そこでそれをもたらしている何かから、何らかの作用を及ぼされているからそう感じられるのだろうし、そんな作用を及ぼす存在が生きていること実感させる何かかも知れないし、そんなことを通して何らかの葛藤が生じているとすれば、そこから利益や不利益がもたらされている場合もあるだろうか。具体的な対立がないとわかりづらいだろうし、それに気づかないままただ不快に感じられるだけの場合もあるかも知れないし、何だかわからないが、嫌な感じがしているだけなら、そんなことをいちいち気にしている場合ではない状況の中で生きていると、些細な不快感など放置されるしかないだろうが、それが精神に作用を及ぼして心の病をもたらす場合もあるだろうし、人はどんな些細なことをきっかけとしても、おかしくなる可能性はあるのかも知れないし、そういう面で利益や不利益がはっきりとは特定できない場合もありそうで、そんな現状を肯定や否定という言葉では捉えられないのかも知れない。

 単純な論理を用いてわかりやすいことを語ってしまうのは、争点を顕在化するには手っ取り早いやり方だろうが、たぶんそれではリアリティを感じられないだろうし、それが政治的な主張となると嘘っぽく思われてしまうだろうか。単純な選択を迫るにしても、その背後には込み入った事情がひしめいていて、安易に事の白黒を断定できないことは説明すべきだろうし、その上で選択を促すべきかも知れず、どちらを選択したからといって、急に現実が変わるわけではなく、選択した後からも様々な問題が発生することは、事前に説明した方がいいのだろうし、何を改めたからといってうまくいくとは限らないことぐらいはわかっているはずかも知れない。だからと言って何も改めないわけには行かず、何か主張すべきことがあれば、それは何かを改めなければならないと主張せざるを得ないのだろうし、そんな言説を弄して何らかの主張がされるわけで、反対に何も改めるべきでもないという主張では、何も主張していないことと厳密に同じではないが、そう主張する脈絡や背景を省略されて、同じとみなされても文句は言えないだろうし、そんなのは主張でも何でもないと受け取られても仕方がない面がありそうだが、たぶん何かを主張することと主張した通りのことを実行することにも、それ相応のずれが生じてくるだろうし、主張した通りのことを実行できなければ、有言実行の能力を疑われて、それになりの批判が待ち受けていることは言うまでもなく、何もしないで批判している分には、いくらでも無責任に批判が可能な面もあるから、あまりに批判ばかりしていると、またそれも実行力を疑われて、何もできない無能な資質だとみなされる可能性も出てくるわけで、結局は何を主張しようと何をやろうと何を批判しようと、その全ての面で噛み合わないところが出てくるわけで、そこに様々な矛盾や不条理も生じてくるわけだが、そう言うところを突いて批判するのは常套手段なのだろうが、またたまたまうまくいって批判をかわせる場合もあるのだろうが、それもそうなった限りでのことでしかなく、そこではたまたまうまく物事が噛み合ってうまくいったが、別のところで同じようなことをやろうとしても、うまくいくかどうかはわからないし、そう言う意味で何かを主張して実行してみた結果が、何らかの判断材料となることは確かだが、そんな判断でさえもそればかりをことさらに正当化できるわけでもないのかも知れない。


4月18日「両義的な認識」

 産業の中で何らかの技術革新や発明が起こって、これまでの生産と流通と消費の形態が変われば、それに伴って人々の生活形態や生活様式も変わるだろうか。それは技術革新や発明の中身にもよるかも知れないが、たとえ生活形態や生活様式が変わったとしても、社会内での役割分担や階層構造は変わらないのかも知れず、人々を指導する立場や労働を強いられる立場といったのものが、相変わらずあり続ける現状があるとすれば、それらの技術革新や発明は社会変革とは無関係だということになってしまうが、それとも今後ロボット技術や人工知能などのさらなる発展と普及が、生活形態や生活様式の変化だけでなく、社会変革さえももたらすこととなるのだろうか。それが人々が望むような変革となるとは限らないだろうが、集団による定住生活が農業革命や狩猟採集生活から文明社会への移行をもたらし、産業革命が労働者と消費者の大量発生をもたらしたように、思いがけない結果を伴っているとすれば、どう考えてもそれは政治的に変革を目指す行為とは別の現象だと思われるし、人や集団の意志によって社会を変えようとするのではなく、それとは無関係なところから変革が起こってしまい、そんな変革に対応することで世の中も変わっていくということだろうし、もちろん社会を変えようとする意志も、それに伴って生じていることかも知れないし、自発的に変えようとして変わるのではなく、受動的に変わらざるを得なくなるということでしかないのかも知れず、世の中を変えようとして政治運動のようなことをやって、結果的に何も変わらずに落胆するという成り行きも、無駄で無意味なことというよりは、そんな気にさせるような成り行きがあるから、やらざるを得ない成り行きになっているのかも知れないし、そのやらざるを得ない成り行きというのが、世の中の変化に対応していることになっていて、その結果思い通りにはならずに落胆を招くとしても、気づかないところで何かが変わっているのかも知れないし、それは世の中が変化する過程で、そんなことをやらされる人たちの存在がもたらされているということなのかも知れない。

 だからと言って、そのような人たちに対抗して、これまで通りの生活習慣や社会の階層構造を守ろうとする人たちの存在を否定するわけでもなく、そういう人たちが社会体制や政治体制を頑なに守ろうとしているのも、世の中が変化する過程で、そんなことをやらされる人たちの存在がもたらされているということだろうし、そこで社会体制を変革しようとする勢力と守ろうとする勢力との、衝突や抗争が起こっているとしても、世の中が変化する過程で起こっていることなのだろうし、そういう衝突や抗争に参加していなければ、そのどちらに与する必要もないのではないか。彼らはその必要に駆られてやっているのだろうし、そんなことをやらされる役回りを担わされていて、そんなことを伝える役回りもあるだろうし、それを傍観する役回りさえあるのかも知れないし、それらの役回りを割り当てられている人たちも、自発的にそんなことをやっている気でいるのかも知れないが、誰にやらされているとも思わないだろうし、世の中が変化する過程で受動的にやらされているなんて思わなくとも構わないわけだから、そういう水準ではそれをどう表現するかの問題でしかなく、それについて語ろうとすれば、能動的でやっているように語れるのと同時に、受動的にやらされているようにも語れるのだろうし、そこでやっていることの両義性が出てきてしまい、語る立場によってどちらからでも語れるようなことなのかも知れない。そしてそれをやっている人たちからすれば、自らの意志で主体的に行為し行動していると思えなければ、それをやっていることについて情熱など生じないだろうし、積極的にやる気になっているからやっているわけだから、何か社会から及ぼされる得体の知れない作用によってやらされているなんて思えないし、そんな作用の存在など信じられなくて当然だろうし、信じる必要のないことなのだろうが、それを信じたところで何の救いもないだろうし、それ以外のどんな立場や役回りを積極的に担えるわけでもないし、そのような認識の先に何があるわけでもないし、それを超えるような認識にも至れないのかも知れない。


4月17日「主張の無効性」

 たぶん平穏無事に暮らしている限りは、身の回りではとりたてて大変なことは何も起こっていないように思われるのだろうが、そんな実感を抱いているのならそこでとりたてて何が問題となっているわけではないだろうし、たとえメディア経由で大変な事態になっていることを知らされても、実感が湧いてこなければそれをやり過ごすこともできるだろうし、そんな情報から遠ざかっていられる限りは、無関係を装うこともできそうだが、暮らしている範囲内ではそれで済んでしまうようなことでしかないならば、その人にとっては大変な事態ではないこととなってしまい、メディア経由でもたらされた情報が意味を持ち得ずに、伝えていることの深刻さを共有できないままとなってしまいそうだが、そんな状況に慣れてしまうと、そんな平穏無事な環境の中でしか世界を捉えられないだろうし、そんな環境が崩れない限りは、それ以外の環境下で暮らしている人々に対して、共感も連帯もできないだろうか。だからと言って無理にそこから抜け出す必要はないだろうし、身の回りが平穏無事であるならそれに越したことはないわけだが、その多くの人たちが平穏無事な環境下で暮らしている状況というのを、否定的に捉えることはできないわけで、それどころか誰もが肯定せざるを得ない事態ともなっているわけだから、そうなっている原因が何であろうと構わないのだろうし、そうでありさえすれば何とでも理由づけができそうで、政治的な主導権を握っている勢力からすれば、自分たちがそんな環境を作り出していると主張することでもできるし、そんな主張を自画自賛気味に信じることもできるだろうし、そこで無理に否定的な要因を取り上げて批判しても、相手にされない場合もありそうなのだが、実際には批判キャンペーンに使えそうな材料がおあつらえ向きに用意されているので、批判勢力が揃いも揃ってそれに飛びついて、どうだとばかりに批判キャンペーンを開始したわけだが、まさかそれが空振りに終わることはないだろうし、実際にも何らかの成果を上げつつあるのだろうが、平穏無事に暮らしている人たちにとってはそれはそれであり、それらの批判に同調できる部分もあるのだろうが、だからと言ってそれ以外の部分では今まで通りで構わないのだろうから、それだけのこととなってしまうのではないか。

 というか今まで通りではなく何かを刷新してほしいのかも知れないが、それが何だかわからないわけではないのだろうが、たぶんそれができないわけで、様々な事情からできないから今まで通りになってしまっているのかも知れず、人々の願いとは関係のないところで刷新が行われ、しかもそれが人々が望んでいることであるかのように装われてしまうわけで、何か今までとは異なることが行われたら、それが人々が望んでいたことであるかのように報じられてしまうのかも知れず、それがこのままでは大変なことなると危機感を煽るような改変なのだろうし、具体的には国家権力を強めようとする改変であったり、人々が享受する各種の自由を奪うような改変でもあるのだが、それを推進する側も反対する側も、正反対の意味でこのままでは大変なことになるから、改変しなければならないのと同時に改変には反対しなければならないのであり、また例えば産業を振興するには改変しなければならないし、改変したらある種の産業が壊滅的な打撃を被るから、改変には反対しなければならないとなるわけで、どこまでも正反対の理屈で改変を推進したり反対したりすることができるわけだから、どちらの理屈からもこのままでは大変なことになるという結論が導き出されるわけだから、その時点で人々がどちらの主張を信用するかの選択を迫られているように思えるわけだが、実際にそれは世論調査や選挙での選択肢ともなるわけだが、もしかしたらどちらを選択しても大変なことにはならないかも知れないし、また正反対の主張をする人たちの言い分を聞き入れたら、どちらを選択してもこのままでは大変なことになるから、改変をやめた方がいいのかも知れないし、実際に中途半端な妥協策が模索されて、何が改変されたのかわからないような骨抜きの改変が行われたり、そうなるとまた実質的に何も変わらないから、このままでは大変なことになると主張する者まで出てくるわけだが、そうなるとどちらを選択しなくてもこのままでは大変なことになるとなるのかも知れないし、どちらを選択しても選択しなくても、このままでは大変なことになることになるから、このままでは大変になるという主張そのものが信用できなくなるわけで、信用できないのならば、政治的には何をやってもやらなくても、別に大変なことにはならないのかも知れないし、それとは別の事情から大変なことになるのかも知れないし、どちらにしても危機感を煽る主張が無効に思われてくるわけだ。


4月16日「格差と差別」

 リベラル的な民主主義の理想は国民の間に経済格差があると実現しないだろうが、経済格差がはっきりしている状況で国民の政治的な選択肢が保守かリベラルしかない場合は、その時点ですでに国民国家の理想は破綻しているのかも知れず、それを何とかごまかそうとして保守もリベラルも国民に向かって、自分たちの主張の正しさを訴えかけるのかも知れないが、そのごまかしを暴いて見せるのが極右的なポピュリズム勢力であって、結果的には彼らこそが民主主義の建前ではなく国民の本音を代弁していることになり、しかも国民の本音が政治的に実現すればファシズムとなってしまいそうだから、リベラル勢力がファシズムへの恐怖を煽って、何とかして国民の本音が実現しないように働きかけるわけだが、しかしそうなるとリベラル勢力は国民の支持を失って退潮傾向となってしまうわけで、ではそうならないためにはどうしたらいいのかとなると、国民の間にある経済格差をなくさなければならないわけだが、それができない現状があるだろうし、世界的にもそんな現状を反映した政治情勢となっていて、こんな説明がどれほど説得力があるのかわからないが、民主主義的な政治制度が世界的にうまく機能していない現状があることは確からしいし、国民国家の理想も実現不可能な情勢にもなっているのかも知れないが、実を言えばそれはこれまでもそうだったわけで、うまくいっているように見えたのは一部の先進諸国だけだったのかも知れず、それが今では先進諸国でさえもどうにもならなくなってきたということだろうか。政治的には確かにそうかも知れないが、一方で経済的には至って順調なのかも知れず、物や情報の生産と流通と消費は、かつてない規模で行われているのだろうし、経済の面では世界的に繁栄を極めているのかも知れず、それがファシズムへのリアリティを失わせていて、いくら恐怖を煽っても実感が湧いてこないから相手にされず、それよりも経済的に恵まれていない層の間では、極右的なポピュリズムの方がリアリティを感じさせるのだろうし、宗教的あるいは民族的に異質な人々を排斥することで、国民の利益を守るという主張の方が、具体的でわかりやすく感じられてしまうわけだ。

 そうであるにしても常識的に考えれば、極右的なポピュリズムで経済格差がどうにかなるとも思えず、やがて保守的な現状追認へと落ち着くしかないようにも思えるのだが、ではリベラルな民主主義の理想はどうなるのかと言えば、保守派ができる範囲内で国民の人気取りに活用するだろうし、それもこれまでやられてきたことであり、結局は政治的には何がどうなるわけでもなく、経済的な貧富の格差と生活習慣の違うよそ者に対する差別を、保守派がどうごまかすかというこれまで通りの問題が、社会の中でくすぶっている状態が続いていくのかも知れないが、一方で少数派となったリベラル勢力による啓蒙活動や批判活動も、これまで通りに社会に蔓延する格差や差別を糾弾し続けるだろうし、またポリュリズム勢力もよそ者に対する差別を煽って大衆迎合路線を続けることも確かなのだろうが、それを保守勢力がポピュリズムを取り込みつつも格差や差別の蔓延にも一定の配慮を示しつつ、何とか均衡を保とうとするのかも知れないし、その均衡が崩れているのが世界各地で起こっている地域紛争なのだろうが、そういう争いが一向になくならないのは、それが社会の中で何らかの機能を担っていて、それなしでは今あるような世の中は成り立たないことは確かで、そのような否定的な現状も含めて何らかの動作が働いていて、そんな社会的な対立をなくそうとしたり煽ろうとしたりする行為が、社会をこの先どう変容させてゆくのかは、誰にも予想のつかないところかも知れないが、対立が激化したり沈静化したりを繰り返しながらも、世界全体に拡散してゆけば、やがて目立たなくなってしまうのかも知れず、交通網や情報網などの世界的な一体化が促進されれば、今後数世紀を経るうちに社会的なレベルでは、世界の地域的な差異が解消されて、世界のどこに住んでいても同じような文化状況となってしまうのかも知れないが、そうなればかつて社会に蔓延していた格差や差別が、社会の中でどのような役割を果たしていたのかがはっきりしてくるのかも知れないし、そのような差異が経済発展の原動力となっていることは確かだし、批判や煽動によって格差や差別を解消しようとしたり助長しようとしたりすることが、社会的な対立を顕在化させて、その対立を経済活動に利用することで、何らかの利益がもたらされているのかも知れない。


4月15日「何でもないこと」

 とりたてて何もない日々を送っていると、平和な世の中を実感していることになるのかも知れず、それで済んでしまうなら何もやることはないわけだが、他に何もないわけがないのだろうし、何かあるから不満を抱いていることは確かなのだろうが、その何かというのが何であろうと、それが何らかの活動の動機をもたらしているとも思われ、何かをやっていることが不満を解消するためにやっていることになるとしても、それをいちいち自覚しているわけではなく、あまりはっきりとは意識せずに日々何かをやっていることは確かで、その意識しないでやっていることの積み重なりが、無意識の厚みを形成していて、それを意識しようとしても無意識にやっていることが作用して、それが意識の中で複雑に絡み合って縺れているから、なかなか把握できずに、自分が何をやりたいのか自分ではわかっていない面があるのかも知れず、あるいは自分がやりたいことと実際にやっていることが一致しなかったり、そこに微妙なずれが生じていてりして、やりたくてやっていることが心身にストレスを生じさせているのかも知れず、そこでやっていることが不満を解消するためにやっていると思ってみても、本当にそうなのかはわからないし、そう考えるとつじつまが合うような気がするだけで、実際のところはなぜそんなことをやっているのかと自らに問うてみても、たとえ導き出した答えに満足しても、それを信用して納得しようと、信じられずに疑念の中に留まろうと、そうすることに大した意味も意義も感じられないのなら、そのままで構わないのかも知れず、自らに問う限りはそれ以上を求めるのは無理なのかも知れないし、それよりも自らの力の及ばない外部からの作用によって、自分のやっていることが規制されたり制御されている面の方が大きいのだろうし、それに加えてさらに無意識にやっている部分もあるわけだから、意識しているやっていることは、自らの活動のほんの一部分にすぎず、それだけが全てではないのはもちろんのこと、それ以外の部分にしても、重要であるとかそうでないとかは一概には言えず、そんなふうにして自らに問うていること自体も、なぜ問うているのかを考えるだけ無駄なのかも知れないが、とりあえずそこに疑念が生じていることは確かなようだ。

 そしてあやふやにしか考えられないことをいくら考えても、それ以上の明晰な答えなど得られないのはわかりきったことかも知れないが、それを何かに結びつけようとしているのかも知れないし、そうやって未知の何かと何かを結びつけて、何らかの新たな認識を得ようとしているのかも知れないが、そんな認識から何が導き出されるのかと言えば、それを言葉にすれば文章が導き出されるのだろうし、そんな文章を読んで自らの現状に対する理解を新たにしたいのかも知れないが、結局は何を理解したいのかわかるようなことでもなく、相変わらず辻褄が合っているようないないようなことしかわからないだろうし、無意識の領域はいつまでたっても理解を超えた迷宮のままにとどまるのかも知れないが、それに加えて外部から自らを制御しようとする作用もあるわけだから、それらに対する無知をどうすることもできないのもわかりきったことかも知れないし、それ以上の模索は断念すべきかも知れないが、言葉を記す行為がそれ以上を求めてしまうわけで、それを自己に問うことによって、記述の継続を相対的に長引かせることができるのだろうか。そんな継続ではいくら長引かせたところで、納得のいくような答えなど導き出せはしないし、やればやるだけ徒労感に苛まれることにもなりそうだが、やる以上はそれなりに言葉を費やして、一定の区切りがつくまではやり続ける必要があるのかも知れず、それは誰にとって必要というよりは文章にとって必要なことなのだろうし、文章によって示されていることが読む対象となっているのだから、そこには一定の長さの言葉の連なりが必要となってくるわけで、それが文章自体の存在条件としてそこに示されているのではないか。そしてそれを記している自らにとっては、自らの外部に文章が存在しているのであり、そんな文章を存在させるために自らが言葉を記していることになるとすれば、文章の存在という外部が自らを操って記述させていて、それが自らを制御していることにもなるわけだが、一方でそれだけ自らの生の時間を浪費させているわけだから、自らの他の活動をも規制しているわけで、ある意味では文章を記す時間が日々の生活を律していることにもなり、そんな活動にとらわれながら暮らしていて、そこに心身が拘束されてしまっている面もありそうなのだが、そんな新たに生じた自覚が自らの無意識にどのように作用しようと、意識にとっては何でもないことかも知れない。


4月14日「力の活用」

 たぶんそんな成り行きを誰が予想できたわけでもないのだろうが、シリアにトマホークミサイルを数十発打ち込んだ後に、アフガニスタンに大型爆弾を投下して、次は北朝鮮を空爆するつもりなのかもしれず、事前に綿密な計画があったのかどうか、それとも行き当たりばったりなのかは知らないが、ともかく北朝鮮が核実験しそうな情報は察知しているのだろうし、シリアで毒ガス兵器が使われたらしいことも事実のようで、それとアフガニスタンのイスラム国の拠点に対する爆撃が重なったわけで、結果的に三つのイベントがちょうど同じ時期に行われることになったわけだが、それで世界へ向けてアメリカの軍事力を誇示したことになるのか、はたまた単なる空威張りでしかないのか、一応は何らかのアピールにはなっているのだろうから、少なくとも空威張りではなく一定の効果をあげているわけだろうが、その辺の成果は実際に北朝鮮を攻撃したらはっきりするのかもしれず、案外アメリカの脅しと中国の説得に応じて、核実験が延期されるかもしれないし、そうなれば空爆しないまま中途半端な幕切れとなりそうだが、そろそろ長年の懸案事項が解決に向かってそれなりに動き出すことになるのだろうか。実際にそうなるとすれば、人格的には誰からも褒められそうになく、やっていることすら非難されこそすれ誰も評価する気にはなれないだろうが、そんな今のところは誰も評価し難いアメリカの大統領の政治的な手腕が、結果的に評価せざるを得ない事態となってしまいそうだが、まだこの段階では何とも言えないし、事態がこの先どう転ぶかわからない時点では評価するどころではないかもしれないが、結局は偶然の巡り合わせに過ぎないのかもしれないし、北朝鮮の方もいよいよ追い込まれたら最後の悪あがきで何をしでかすかわからない雰囲気もあるだろうし、結局どちらの最高責任者も似た者同士なのかもしれず、その辺はシリアとロシアの大統領も含めて、成り行き的に役柄がそうなってしまう立場を占めていると言えるのかもしれないが、誰もがそんな立場になってしまえば、そんなふうにしか振る舞えないのではないか。

 そういう意味ではアメリカの前大統領のように、絶えず自制を利かせて周りから尊敬の念で見られ、理性的に振る舞ったので実際にそのことでノーベル平和賞までもらえたが、大統領としては何もできない印象を持たれ、物足りない評価となってしまうのかもしれず、そういうことから考えるとアメリカの大統領としての典型的な振る舞いというのは、強引で粗暴な振る舞いで、何か気に入らないことがあればすぐに吠えて、何か刃向かう勢力があれば軍事力に物を言わせてすぐに攻撃を仕掛ける、というような印象があって、平和主義者からは常に非難の的となることで、ようやく大統領としての職務を果たすことなるのかもしれず、今の大統領はまさにその典型例を演じていることになるのではないか。普通に考えればそれが決して良い傾向だとは思えないだろうが、そうしなければならない世界情勢の中で、そうしなければならない国家的な役割を担っていて、誰からも頼まれたわけでもないのに、誰が望んでいるわけでもないのに、そうなってしまう成り行きがあるわけだから、立場上そんな役柄に逆らえるわけもなく、それを躊躇すれば何もできない印象を持たれたしまうわけで、何かやっていることを示したければ、今やっているようなことをやるしかないのかもしれず、それが決して逆らうことができない軍産複合体が望んでいる通りのことなのかもしれない。というか軍産複合体に何か明確な意志や意図があるわけでもなく、そのような集団がひとまとまりの組織として機能すると、自然とそうなってしまう成り行きがあるのかもしれず、その辺が何か分かりにくくはっきりしないところかもしれないが、世界各地の軍事基地や紛争地帯に配備されると、いやでもそんな役割分担が課されて、紛争に対処することを迫られてしまい、そうなると持ち前の軍事力を活用する選択肢が自然と選ばれてしまうわけで、それが偶然の成り行きであり自然の成り行きでもあるわけだから、アメリカの大統領としてもそのような機能や役割を押しとどめておくよりは、活用するにまかせるしかないのではないか。


4月13日「制御を超えて」

 人は意識のコントロールを超えて動作することもあるし、集団の動作も統率者の制御が利かないこともあるだろうし、人々を拘束する世の中の制度や慣習が、社会そのものを停滞させ衰退へと導くこともありそうなのだが、社会の中で主導権を握っているつもりの人や集団が、自分たちの主導的な立場を維持して、その基盤を磐石なものにするために、あれこれと策を弄して陰謀を巡らしても、それが思い通りの効果を上げているのかといえば、そうとも言えるしそうとも言えないところもあるのかもしれず、それに対して軽はずみにそれらの策謀を非難してみても、非難することによって策謀が周知の事実になるだけで、それ以上の効果は期待できず、明らかになっただけでも非難した甲斐があったと捉えるしかなく、それだけでは主導権を握っている勢力を倒すには至らないだろうし、民衆の大半がそれらの勢力を支持しているか、あるいはそんなことには無関心であるかの状況なのだとすれば、そんな状況が変化するわけでもないし、反対勢力以外は変化しなくても誰も困らないことになりそうなのだろうが、そもそも社会の中で主導権を握っていると思われる勢力に、本当に主導権を握っている実態があるのかといえば、それは甚だ疑わしいのかも知れず、ただ何となく世の中の主流をなしている人や集団が、一つにまとまっているように思われるだけで、そう見えても何か一つの理念や主張を共有しているわけでもなく、その中の一部の人たちが不快な主張や行為を繰り返しているとしても、それがそれらの勢力の全体意志として行われているわけではなく、勢力内に含まれていると見なされる他の大半の人たちも、それらの主張や行為を不快に思っているだろうし、そんなことをやっている一部の人たちとは無関係だとは思っているのだろうが、そうだとしても反対勢力に属している人たちには、無関係で無関心のつもりの人たちと、不快なことをやっている人たちとが、同じ勢力内に含まれているように捉えられてしまい、そうである限りにおいて、不快な行為を非難する反対勢力は常に少数派にとどまり、選挙などの民主的な手続きでは、社会の主導権を握るには至らないわけだ。

 だからこそ革命が必要に思われてしまうと、革命が起こるような切迫した社会情勢がなければ、現実逃避の妄想のままにとどまるしかないわけだが、たぶん革命への幻想を抱いていても構わないし、そんなのは実現困難な幻想だと思っていても構わず、そのどちらでも構わないところが、人の意識が意識を超えた何かにとらわれているところかもしれず、人の活動の中で政治的な領域は限られていて、ほとんどの人は選挙で投票するぐらいしか政治に関与できないわけだから、それ以外の活動がほとんどすべてを占めている状態の中では、切迫感もなく切実にも思われず、無関心であってもあまり罪悪感など感じないだろうし、政治的な主導権を握っている勢力が何をやろうと、現状が揺るぎようがないという実感を伴っていれば、それほど政治に関心を抱けないのも無理はないわけだが、それでも少しは関心があるだろうし、その少しの関心をもたらしているのが、マスメディアを通じてもたらされる政治に関する情報であり、経済情勢や国際情勢や国会や政府での政治家の活動などや、そんな情報を基とした世論調査の結果などが、選挙での判断基準となるのかも知れないが、大した問題も起きていないようなら世論は現状維持で落ち着くだろうし、たとえ一部のメディアや野党の政治家などが、与党の政治家の不祥事などでセンセーショナルに騒ぎ立てても、違法行為の嫌疑をかけて検察が動いたり、新聞やテレビなどの比較的世間に影響力がある主要メディアが本腰を入れて報道しないと、世論はあまり反応しないのかも知れないし、そうでなくても政府や官僚機構内の不祥事では政治体制そのものは揺るがず、場合によってはたとえ政権交代しても揺るがないのかも知れず、たとえ政治体制が揺らいだところで、国家体制までは揺るがすことはできないのかも知れず、少なくとも主要先進諸国ではそうなのだろうし、だからと言って政権交代をあきらめる理由にはならないわけだが、そうなると別に大げさで深刻なことではないような、軽い気持ちで政権選択ができるような世論形成が望まれるのかも知れず、そうなるにはあまりにも現状の危険性を訴えるのは得策ではないのかも知れない。少なくとも世の中の大半の人は現状の危険性に関しては、あまりリアリティを感じていないのではないか。


4月12日「理想社会」

 人知を超えた力の作用を意識するとき、人によっては神の存在を確信するかも知れないが、何かの偶然が作用してたまたまそうなったと思ってみても、それなりに納得できるかも知れず、何か思いがけない出来事に遭遇したときには、偶然の巡り合わせで片付けてしまえば、それ以上は事の因果関係を詮索しなくても済んでしまいそうだが、遭遇した出来事に巻き込まれて深刻な事態に直面してしまうと、そうなるのが自らの必然的な運命であるかのように思い込んで、直面している事態に対処することが、自らに課せられた使命だと確信するような成り行きともなれば、やはり神の導きによって試練を課されていると思われるかも知れないし、そういう面でその人がいかに深刻な事態に遭遇するかが、心身に及ぼす影響の度合いや、それが信仰に結びつくとすれば、その強度を決めるのではないか。聖戦が神の正義を実現する場であるように、日々の日常が神への信仰が試される場であるとするなら、信徒が神への信仰を証明するには、その宗教が規定する戒律にひたすら盲従するしかないように思われるかも知れないが、そこで試されているのは従順な信徒を演じることであって、型通りの祭式を執り行うことであり、そのような祭式を通して同じ型通りの動作を共有する者同士で一体感を確認し合い、お互いの絆を強め合うことになるのだろうが、神に対する信仰の強度という点から見るならば、真の試練はそれとは別の機会に試されるのかも知れず、例えばその神を信じたばかりに悲惨な状況に陥ったとき、信仰を捨てるかそれでも神を信じるかの二者択一の機会が巡ってくるわけで、そこで信仰を捨てずに殉教するような成り行きになれば、周りの人々に多大な影響を及ぼして、その信仰が社会の中に広まるきっかけともなるのかも知れないが、そのような殉教が伝説となって人々の間で語り草となるような機会が、果たして現代社会においてあり得るのかといえば、たぶんほとんどないだろうし、あるのは型通りの祭式を日常の中で執り行うことでしかなく、それ以上の行為を求めるとなると、狂信的な信徒と見なされて、宗派からも社会からも逸脱してしまうだろうが、そのような逸脱こそが神による試練を構成しているのかも知れず、宗派からも社会からも除け者扱いされても、それでも信仰を捨てなければ、神への信仰の強度が高まるのではないか。

 それが神への信仰であれ、あるいは社会の中で行われる何らかの行為であれ、何か特有の試練を経ないと、やっていることの強度が高まらないのかというと、もしかしたら何かをやれば必ずそうなってしまう成り行きがあって、そんな試練に直面しないような世の中があるのかといえば、普通に人々が求めているのは、試練を回避する方法なのかも知れず、例えば何らかの宗教が規定する戒律に盲従していれば、試練をくぐり抜けるような危険を冒さなくても、何不自由なく暮らして行けるのなら、多くの人が喜んでその宗教の信徒になるかも知れないし、別にそれが宗教でなくてもベーシックインカムのように、国から必要最低限の生活が営めるだけの資金提供を受けられるなら、喜んで国に忠誠を誓うかも知れないが、そういうこととは別に社会に何らかの試練を課す仕組みがあるとすれば、当然そこで何らかの選別が行われていて、その試練となる選別をくぐり抜けた者だけが、何らかの特権的な資格を付与されて、社会の中で特別な地位や立場を得るに至る制度の類いがあることになるだろうし、一方では試練を介さずとも生きられる方法への模索と、もう一方では試練をくぐり抜けた者だけが、特別な待遇を受けられるような社会の実態があるとすると、そんな世の中の両義的な傾向に対して、どのような解釈を施せばいいのか、ということになってくるかもしれないのだが、たぶん試練をくぐり抜けたエリート層が考える社会の理想というのが、宗教的な戒律に大衆が盲従しているような社会の姿なのかもしれず、そのような戒律よって規格化されて同質となった一般大衆を、少数のエリート官僚たちが指導しながら管理すれば、誰も文句も言わずに刃向わないような均質化された社会が実現するのかもしれないのだが、本当にそんなことを考えて実行しようとしている人たちがいるかどうかはわからないが、国民国家の理想を追求していくと、おのずからそういう方向性が出てくるのかもしれず、もしかしたらそれと意識することなく、知らず知らずのうちにそんな方向を目指していることに関して、ほとんどの人は気づいていないのかもしれないが、そんな傾向があるからこそ、それと自覚せずに結果的にそういう傾向に刃向かう人たちが、少なからず出てきているのではないか。なぜそうなってしまうのかといえば、エリート層が思い描く理想社会が退屈に思われるからだろうか。


4月11日「意味の獲得」

 現状で何も問われていないように思われるとしたら、問いから見放されていて、やるべきことが何もないようにも思われるかもしれないが、問いに答えることがやるべきことなのか言うと、場合によったら問いをはぐらかすことがやるべきことのようにも思われるかもしれないし、答えるのが不快なら問いを無視することだってできるかもしれないし、そんなふうに問いを回避するための方策などいくらでもありそうに思われるとしたら、問いから見放されているというよりは、とりあえずは問いに答える義務からは解放されていて、問いが課されていないと思っても構わないような状況の中にいることになるだろうか。やっていることの意味を問われなければ、やっていることが無意味だと決めつけるわけにもいかないだろうし、意味があるとかないとか決めつける必要からも解放されていたら、ではいったい何をやっているのかとなるのかもしれないが、そう問うこと自体が問いでしかなく、不用意にそんな問いに答えようとすれば、そう答えることがやっていることの意味だと受け取られかねないし、そんなふうにしてやっていることの意味が導き出されてしまうと、何かを問うことが問うている対象の意味を導き出す手段ともなるわけで、発せられた問いに向かって律儀に返答することは、問いを発した側の思惑に拘束されてしまう危険があるではないか。一概にそれが危険だとも言えない場合もありそうだが、要するに問いに答えることは、自分が何者でそこで何をやっているのかを相手に向かって明かしてしまうことになり、そうなった時点で無防備の丸裸にされてしまったことにもなるわけで、そうしないと相手から信用されないというのなら、すでに相手にペースを握られて術中にはまっていることになるかも知れず、それは相手との関係の内容や程度にもよるかもしれないが、ともかく意識して何かを問われているとは思わない方がいいのかもしれず、別に問われてもいないのに自分からむやみにやっていることをひけらかさない方が身のためである場合もありそうだ。

 絶え間ない自問自答の繰り返しの中で、やっていることの意味を求めるような強迫観念にとらわれている人は、社会の中で認められたいという虚栄心にも苛まれているのかもしれないが、そうであるなら意味とは人々の間で共有される共通の了解事項となるわけで、そんな社会の中での意味の定着を巡って、物事に対するどのような意味づけが共通の了解事項となるかが、問いを発して意味を獲得しようとする人たちの間で競われていて、自分たちが付与する意味が共通の了解事項として社会に定着するように、メディアを通して様々な画策が行われていることには、すでに誰もが気づいている暗黙の了解事項なのだろうが、例えば世論調査なども問いを発して意味を獲得する試みの典型例であり、すでに問いの中に選択項目として答えが絞り込まれており、それ以外の答えが排除されているわけだから、項目から選んで答えた時点で、問いを発した側にとっては思惑通りの答えが引き出せたことになるわけで、世論調査をやればやるほど、世論調査をやる側にとっては、社会の中に自分たちの都合の良い意味を定着できるかも知れないのだが、重要なのは意味の定着よりも制度を定着させることにあるのかも知れず、世論調査という制度を社会に定着させることこそが、もう一つの制度である選挙の結果を事前にコントロールする上で、有効な戦略として確立されているわけで、普段から定期的に世論調査を繰り返すことによって、選挙が思いがけない結果をもたらして、社会を混乱させないための予防策の役目を果たしていて、ある意味でそれは選挙の無効化なのかも知れないが、選挙結果が世論調査とは異なる結果が出る可能性もあるだけに、完全な無効化ではなくコントロール的な意味合いの方が大きいのだろうし、選挙と世論調査という二つの制度が競合している状況というのが、民主主義の建前を意図的にずらすような作用があるのかも知れず、また人々が選挙で選んだ議員が政党に拘束されているというのも、同様の作用をもたらしているのかも知れない。


4月10日「紛争の蔓延」

 こう着状態がいくら続いたところで、どうやら何も起こらないわけではなさそうだが、何が起こってみたところで今まで引っ張ってきた無理が祟って、問題の解決を阻む足かせになりそうで、それが様々な方面で支障をきたす要因となるのだろうか。見方によっては何が問題なのでもなく、現状でそれなりに安定しているのだから、そんな見せかけの安定を作り出している現状をこれからも維持すべきで、将来どうなろうとどうにかなるまでは、現状のままに状況を保つことこそが最優先されるべきだろうか。別に当事者たちがそんなことを考えているわけではなく、ただそんな結論へと落ち着きそうな成り行きの中で、あからさまに状況に逆らうのは得策ではなく、今があえて事を荒立てるようなタイミングだとも思えず、確かに現状において問題ならいくらでも挙げることはできそうだが、それらを強引に提起して問題化してみたところで、解決のめどが立つとも思えないし、不用意に足を突っ込んで泥沼から出られなくなるような愚は避けなければならず、そういうところでシリアや北朝鮮や南スーダンやソマリアやイエメンなどの周縁的な問題については、関係する各国の間では打算的な損得勘定が働いているのかも知れず、そうはいっても何もしないわけにはいかないだろうし、何かつけ込む隙があればそこにつけこんで、それなりの対応を世界に向かって見せつけたいのだろうし、そういう役割を担っているのがアメリカの軍事力なのだろうから、今回もシリアと北朝鮮に向けてそれなりの対応を仕掛けているわけで、それが何かの拍子に大規模な戦闘行為に発展する可能性は今のところは低いのだろうが、メディア上でも危機を煽るのには絶好のタイミングかも知れないし、普段から煽り慣れているメディア関係者なら、早速それにかこつけてもっともらしい持論を展開していそうだが、それもこれまでやってきたことの繰り返しにしかならないだろうか。

 繰り返されることは他にもあるだろうし、様々なことが同じように繰り返されているからこそ、同じような状況が延々と続いているのだろうが、そんな中でも相変わらず問題が一箇所に集中して現れることはないだろうし、方々へ分散しているからこそ決定的な破綻を免れていて、これから先も軍事的あるいは政治的な問題は、枝葉末節なところで執拗に繰り返し現れて、それが世界全体には波及しない代わりに、地域紛争の水準でその地域に住んでいる人々を苦しめ続けるのだろうが、それとは別種の問題でも、例えば日本国内においても大規模地震などの災害によって、地域住民が苦しめられるようなこともあるわけで、それが世界各地で執拗に繰り返されるイスラム過激派のテロとは違う問題であることは明らかなのだが、様々な種類の問題が世界中に散らばって起きていて、それが当たり前の現実であるようにしか思われないところが、何かこれまでとは異なる状況なのかも知れず、それらの問題に対して一律の対処などあり得ず、人々の関心も一つの問題に集中することなどもあり得ず、行政の対応もそれぞれに対して地域的に対応するのが現実的であるだろうし、そこから地方分権的な政治体制の在り方が求められているのかも知れないが、一方ではそんな地域的な権力の分散に対応できない事情もあるだろうし、特に軍事力に関しては特定の国や地域との連携や同盟を強化しつつ一極集中を目指していて、そんな傾向から生じる力の誇示が全面戦争などに対する抑止力にはつながる反面、テロや内戦などの小規模かつ地域的な分散傾向には対応しきれずに、それらの慢性化を招いている面があるのではないか。小規模な紛争に介入するほど味方の犠牲やコストパフォーマンスの面で割に合わなくなるから、無人機などを利用してみたものの、誤爆などで民間人に犠牲が出て非難されてしまうから、攻撃を躊躇せざるをえなくなるだろうし、今後さらに性能の向上したロボット兵器などに頼るようになるのかも知れないが、地域紛争をなくすための根本的な解決策がないわけだから、小規模な紛争の世界的な蔓延は、まだまだ執拗に続いて行きそうな気配だ。


4月9日「実存」

 そんなのは当たり前のことかも知れないが、何かについて語ることは、語る対象である何かを言葉で表現することになるわけだが、その何かが何かである限りにおいて、語っている対象と語られている対象とが一致していることを前提として、その何かが言葉で表現されているように思われ、それが疑いようのない事実だとするなら、もしそれが一致していなければ対象が実在しているとは思えないだろうし、語っている対象が何であれ、それが語られている対象ではなければ、では何を語っているのかということになってしまうが、たぶんそれはそのものでは実在しない記号の類いについて語っているのかも知れず、語っている時点ですでに対象が、その対象に関してのイメージに置き換えられていて、それが肯定的なイメージなら肯定的に語られて、否定的なイメージなら否定的に語られるわけで、そうやって語る対象が恣意的なイメージを伴って語られる場合は、語っている対象と語られている対象とが一致しなくなってしまうわけで、それを一致しているように思い込める人がいるとしたら、語られている肯定的なイメージなり否定的なイメージなりに賛同していることになり、すでにその時点で語られているイメージの虜となっているわけだ。そしてそんなイメージを伴った記号がメディアを通じて世の中に定着すれば、そういったイメージが語っている対象を覆い尽くしてしまい、世の人たちはもはやそんなイメージを当然のものとして受け入れ、語っている対象が世の中に定着したイメージ以外の何であるかは問われなくなり、そんな固定観念がその事物に関して考える上での前提条件となって、固定観念が定める傾向や方向以外では、対象となる物事について考えられなくなり、何かそれとは別の傾向や方向からその事物について語る人が現れても、それを受け入れるどころか非難したり排除するようになってしまうのではないか。

 そういう意味で何かを一方的に肯定したり否定したりする言説には、すでに語られているイメージが先行しているわけで、しかも語っている対象として事物があるとすると、たとえいくら語り方を工夫してその事物に対してどのようなイメージを貼り付けようと、イメージより先に事物があるということはわかりきったことで、客観的に捉えるなら事物があることが現実で、それに対してイメージは心に浮かぶ虚像に過ぎないわけで、そのどちらが信用できるかと言えば、当然のことながら実際に存在している事物の実存の方が信用できそうに思われるわけだが、人の心にはイメージの方が受け入れやすいだろうし、子供の頃からイメージを用いて説明するやり方に慣らされているので、事物の実存そのものを直視できずに、ついついメディアを介して世の中に流布される、口当たりよく心地よいイメージの方を信用してしまうのだろうし、そもそも言葉で表現される以前の事物が何なのかを理解するのは難しいのかも知れず、それは理解するような物事ではなく、ただ他の事物と関係しながらそこにあり、誰かがそれについて言及するのだから、その誰かとも言及することを通して関係していて、しかもその事物に関する言語表現に関心を持つ人たちとも、その言語表現を通して関係し合って、それらの人々の心にその事物のイメージを植えつけるわけだから、それが肯定的なイメージであろうと否定的なイメージであろうと、事物とそれを言い表す誰かとの関係を、そこから導き出されるイメージが物語っているわけで、そこからイメージを受け取った人々が考えられることは、語っている対象に肯定的なイメージや否定的なイメージを貼り付けようとする語り手の意図であり、なぜそうしなければならないのかを想像してみれば、語っている対象と語っている人物との位置関係がおのずから明らかとなるわけで、またそのようなイメージを受け入れるか否かを自分自身に当てはめてみれば、語り手と自分との位置関係も把握できるだろうし、さらにそこから語りの対象となっている事物を、肯定や否定を伴うイメージを抜きにして捉えようとすれば、その事物の実存を理解できそうにも思われるのだが、普通はそんなところまで考えようとはしないだろうし、なかなかそんなことを考える必然性が生じないのではないか。


4月8日「生活のスタイル」

 世界の中で古くから栄えた地域では、その地域独自の歴史の積み重なりがあるように思われがちだが、現代に至るまでの過程で、途中で荒廃してしまった地域などいくらでもあるだろうし、また過去から数千年をかけて連続的に発展してきた地域でも、他の地域との絶え間ない交流を経ながら発展してきたわけで、時代を下るに従って地域的な独自性は徐々に薄れて行って、それ相応の平準化作用を被っているわけだから、少なくとも現代において栄えている地域は、どこも似たような現代文明の恩恵に与って栄えていて、たとえ文化や言語が異なっているとしても、大雑把な認識の中では、世界中に広がった現代文明の一部を構成しているに過ぎず、ある特定の地域が文化的な独自性を打ち出して、他の地域との差別化を図ろうとしたところで、交通網や情報網が世界中に張り巡らされて、人や物や情報がひっきりなしに行き交っている現状を考えれば、非現実的な空想の域を出ない話かも知れないが、それでも実際に地域の文化や伝統に根ざした慣習を頑なに守ろうとして、そんな地域的な独自性を誇りたい人々もいくらでもいるわけで、そういう面では世界を一つにまとめようとする合理的な思考形態の方が、非現実的な動作となってしまい、そこで人々が保持している宗教や言語などを含む文化的なアイデンティティを突き崩すのは困難かも知れないが、たぶん意図して強引に改めさせるようなことはせずに、自然の推移にまかせるなら、長い年月をかけて文化的な平準化作用が働いて、次第に様々な文化が融合して行き、地域的な差異もほとんど解消されるような成り行きになるのかも知れず、それを促しているのはやはり世界的な交通網や情報網の発達なのだろうし、それらを介しての様々な交流が維持される限りにおいて、遅かれ早かれ世界は統一されてしまうのではないか。もちろん統一されるといっても文化的な差異がなくなる程度のことで、国という政治的な行政区分を簡単に取り払うことはできないだろうし、将来において国がどうなるかは、今の段階では何とも言えないところだろうか。

 とりあえず文化的な差異の解消に関しては、人の活動形態の中で何が世界的な平準化作用を被っているのかとなると、余暇の活用において娯楽の需要が人々の関心の的となっているのは言うまでもないことで、人々に欲望を抱かせてそれを充足させる過程で、世界的な文化の平準化が図られている現実があるのだろうし、その欲望を抱かせる対象として娯楽があるわけで、人々が娯楽を中心として生活スタイルを構築するような成り行きが、資本主義経済の世界的な浸透とともに促進されているならば、やはりそれはブルジョア的な生活に誰もが憧れを抱くように仕掛けられているわけで、メディアを介して商品の宣伝とともにスポーツやお祭りなどのイベントが大々的に報じられ、それらのイベントに参加している人々の楽しい様子も伝えられ、また余暇を活用するための様々な趣味も紹介されているだろうし、ペットを飼ったり園芸や陶芸や料理に興じたり、スポーツに汗を流したり各種のゲームを楽しんだり、音楽やら読書やら映画鑑賞やら、暇にまかせてありとあらゆる娯楽が提供されているわけで、それらの娯楽を楽しめる人が多いほど、娯楽に関連する商品も売れるわけだから、それだけ資本主義経済も活況を呈するのかも知れず、必要最低限の衣食住を満たすだけでは足りないわけで、現代的な文化状況が成り立つには、暇を持て余したブルジョア的な生活を送れる人たちが必要なのだろうし、余暇をあまり活用できない労働者階級も、ブルジョア的な人々に反感を持つのではなく、そのような生活に憧れを抱いている限りで従順になり、結果として世の中の安寧を保っていられるわけで、そのためにもメディアを介した娯楽の宣伝が欠かせず、人々が娯楽に心を奪われている間は、政治的にも経済的にも主導権を握っている勢力に刃向かう人たちも限られてくるだろうし、そんな世の中の犠牲になっている人たちの不満が顕在化することもほとんどないのかも知れないが、実際に体制に刃向かう人や不満を表明する人が、メディアを通じて脚光を浴びるような状況が、どれほど人々の関心を集めるかが、社会変革の可能性を探る上で重要となってきそうに思われるかも知れないが、そもそも社会変革の中身が何なのかがわかっていない現状もありそうだ。


4月7日「立場の正当化」

 果たして人は自らの立場を正当化できるだろうか。それは人にも立場にもよるだろうが、現にこうして生きていること自体が、日々自らの存在を正当化していることになってくれるなら、わざわざ別に意識して正当化することもないわけだが、普通は何かしら世の中でやっていることが機能しているように思われる限りで、自分が社会で必要とされていることを実感できるだろうし、その必要の程度に応じて自尊心や自負が芽生えてきて、そんな自尊心や自負をもたらす社会的な地位や立場とともに、自らが社会の一員であることを自覚しながら正当化している現実があるだろうか。それとは反対に日々何もせずに無為に時を過ごすだけの隠遁生活でも送っているなら、少なくとも世の中の役に立っているとは思わないだろうし、場合にによってはそんな自分を情けなく感じたりするかも知れないが、そんな自らの存在を正当化できなくても、生きている限りは生き続けるだろうし、生き続けることに肯定的な意味を見いだせないからといって、わざわざ死ぬ気にはならないだろうし、実際に生きる意味を見いだせずに自殺する人もあまりいないのではないか。その一方で世の中の役に立とうと思うことは、一見立派な心がけのように思われるかも知れないが、そんな世の中の範囲や程度が何なのかが漠然としていてはっきりしないわけで、そうではなく単純に国の役に立つには公務員になればいいわけで、また企業の役に立つにはその企業の従業員になればよく、何か具体的な団体や組織に入ればその団体や組織の役に立てるだろうし、そこで人や組織と具体的な関係を築いて、組織内で何らかの役割を担って機能することができれば、役に立っていると言えるわけで、それらの関係や役割や機能がはっきりしていないようだと、たとえ当人が役に立っている気でいても、抽象的で独りよがりな思い込みにしかならないだろうか。

 社会の中で機能していることは、そこで何かやっていることの証しだろうし、何もやっていなければすでに生きていないのかも知れず、死んでいることにもなりそうだから、人によっては死んでいる方がマシな場合もあるかも知れないが、生きている限りは何らかの社会的な立場が生じて、その立場に応じた振る舞いも求められているのかも知れず、世間が求めているような振る舞いができなければ、世間から非難されたり、その占めている立場を降りなければならなくなる場合もありそうだが、その世間とは何かといえば、言わずと知れたマスメディアが世間を体現していたりもするわけで、誰に頼まれたわけでもないのにそんな立場が生じているわけだから、マスメディアの方でもできれば自分たちの立場を正当化したいのだろうし、では何を持って正当化できるのかといえば、世間様の味方を装うことによって、世間様の方からマスメディアの役割や機能を認めてくれれば、マスメディアと世間との関係が築かれて、マスメディアが世の中の役に立っているという自負も、それなりに根拠があるようにも思えるだろうし、ジャーナリストの抽象的で独りよがりな思い込みではなくなるわけだが、果たしてマスメディアは自らの立場を正当化できるだろうか。一般的には社会的な弱者の味方を装って、そんな虐げられた弱者とともに、虐げている社会的な強者を非難し抗議すれば、正義の味方としてはそれなりに立場を正当化できそうなのだが、そもそも誰が社会的な弱者なのかを巡って、社会的な強者の方でもいちいち自分たちが悪者扱いされないような配慮を、マスメディアに向かって求めてきているのかも知れず、例えば生活保護受給者が社会的な弱者である、という世間の一般的な社会通念を覆したい衝動に駆られたりして、地方自治体の公務員が何やらおかしな行動に出たり、また最近では原発事故から自主非難している人たちの支援を打ち切ったことについて、自主避難者の味方を装うジャーナリストと担当大臣がひと悶着起こしたようだが、そこでも自主避難者が社会的な弱者だという認識を改めさせるために、何らかの画策が行われているのだろうか。


4月6日「存在の時間」

 言葉が始まりも終わりもない時間の中でつぶやかれているとしたら、それはフィクションとなりそうだが、別にそうなることについて、確固とした理由があるわけでもなさそうだ。なぜフィクションの中でつぶやかれている言葉には始まりも終わりもないのかといえば、そんなフィクションを想定しているからだろうが、そこに何らかの内容が示されるようなら、その内容はまだ定まってはおらず、これから記される言葉の連なりによって明らかにされるだろうか。しかし未だその内容が空虚のままにとどまるにしても、何かしらつぶやいているように装う必要が生じているのかも知れず、それは記された文章の中で語られるはずだろうが、そこで何をつぶやいているにしても、誰かがつぶやいていなければならないとしたら、誰かがつぶやいていると言葉で記される必要が生じるだろうし、それがそこで構成されるフィクションの真実になるだろうか。それが真実だと設定されるならそうだろうが、実際のフィクション内では誰もつぶやいていないのに、語り手が嘘をついているように設定されている場合もあるだろうし、そうだとすると今度は語り手がそこで誰かがつぶやいていると嘘をついていることが、そこで構成されるフィクションの真実になるだろうか。そんなふうにしてフィクション内では自在に真実を構成できるかも知れないが、語り手がそれを語っているように構成されるフィクションでは、語り手が何を語っていようと、語っていること自体はフィクション的な真実になりそうで、そんな虚構がもたらす真実とは、記された文章の中で誰かが何かを語っているということになるだろう。そういう水準では確かにそうかも知れないが、それを読んでいる水準では、フィクション内で語っている語り手は虚構の存在であり、フィクション内で経過する時間も虚構の時間であって、実際にそれを読んでいる自らが現実の存在であり、読んでいる時間が現実に経過する時間となるだろう。そうだとするとフィクションの中でつぶやかれている言葉には時間そのものがなく、ただそこにつぶやきの言葉が記されているだけで、読者がそれを読んでいる間だけ時間が経過して、読まなければ時間の経過などありえないのだから、やはりフィクション内では無時間的なつぶやきが記されているに過ぎないだろうか。

 そんなわけで始まりも終わりもない時間とは無時間であって、現実には始まりも終わりもあるからこそ時間だと言えそうだが、人の生には始まりも終わりもあるからこそ、時間の経過に従って生きている感覚がありそうで、時間が限られているからこそ、生きている時間を無駄に浪費したくないだろうし、何かしら目的意識でもあればなおさら時間を有効に活用して、生きている時間内で目的を遂げたいと思うのではないか。しかし目的とは何だろうか。何らかの目的を思い描いているとしたら、それを想像していることになるだろうし、想像の中での目的はやはり無時間的なフィクションかも知れず、それを想像している間は現実の世界で時間が経過するが、四六時中目的を思い描いているわけではなく、目的を忘れている時などいくらでもありそうで、それを忘れている間はまた別の時間経過の中で生きていて、その間は目的に関しては無駄に時間を浪費していることになるかも知れず、人は目的とは別のことで時間を使っているわけだ。それに関して例えば眠ることが人の目的ではないだろうし、睡眠時間は目的とは別のために費やされた時間であり、しかも睡眠時間は人が生きていくためには必要不可欠な時間であって、あまり極端にその時間を削ってしまうと、健康を害して寿命を縮めかねないから、それが祟って目的を遂げる前に死んでしまうことだってあり得るだろうし、そうならないためには目的以外の時間も必要となってくるわけで、実際に睡眠以外でも様々な事情で時間を使っているわけだ。そうだとするとそもそも人には何のための時間が必要なのかといえば、その人が必要だと思う限りで時間が必要なだけで、必要だと思わなければ時間を無視して生きていられるのかも知れず、もちろんそう思わなくても時間は経過して、やがて死んでしまうのだろうが、少なくとも生きている間は無時間的な感覚でいられそうで、それでも衣食住の必要に迫られて何かしら活動するだろうが、それ以外での抽象的な目的意識からは自由でいられるのではないか。そして実際に人の記憶は自らの始まりを覚えていないし、自らの終わりの瞬間に立ち会うこともないだろう。終わる以前に意識が途切れているだろうし、意識が途切れた瞬間が終わりであろうと、終わりは記憶としては残らないから、終わりを覚えているはずがなく、もし終わりを覚えているとしたら、覚えている時点ではまだ終わっていないということであり、それはフィクションとしての終わりでしかなく、フィクションの中で無時間的な終わりを空想しているわけだ。


4月5日「危機意識」

 簡単に言うならこの世界ではすべてのことが起こっていて、そのすべての中にはテロや内戦も経済危機や自然災害も含まれるわけだが、それらも含めてすべてのことが起こっているということは、いつそれらの否定的な出来事に巻き込まれてしまってもおかしくはないわけで、少しでもそうなる可能性があることを考慮すれば、いつでも危機感を抱くことも煽ることもできそうにも思われ、このままでは戦争になるとか経済危機が起こるとか、何かあればすぐにその手の言説が導き出されてしまうことに、誰もが慣れきっていて、もはやいくら危機感を煽られても何も感じなくなっているのかも知れず、メディア上でも世間でも、その手の危機を煽る手法が実質的に無効化されていて、しかも無効であるからこそ安心感も持たれているのかも知れず、ああまたやっているぐらいに思われる内容の方が、かえって言説の需要があるのだろうし、中国の船が尖閣諸島に押し寄せたり、北朝鮮がミサイルを発射すれば、待ってましたとばかりに戦争への危機意識を煽って、日本の防衛力を高めなければならないとか、日米同盟のさらなる強化を図らなければならないとなるだろうし、株価や為替相場が悪い方向に急激に変動すれば、経済危機への懸念を表明して政府や日銀の迅速な対応を促したり、国債の止めどない乱発については、財政破綻の危険性を訴える側とそれは杞憂だと見る側とで、意見の食い違いがあるようだが、現状で何とかなっているのだから、現状が維持される限りは杞憂だと見る側に分があるだろうか。そんなふうにして現状を危機意識に絡めて解釈することが日常茶飯事となっていると、何か実際に本物の危機が起こった時に、そらみたことかが言いたいがために、年がら年中危機感を表明しているみたいで、実際には本物の危機的な状況に遭遇していない現実の中にいるわけだから、当人が抱いているつもりの危機感そのものが、すでにフィクション化しているのかも知れず、客観的に見てもそれは、危機感という幻想の中に意識がとどまっているに過ぎず、逆説的にそれは平和ボケの兆候を示しているのではないか。

 そしてそれが決して悪い傾向というわけではなく、現状に対する適切な対応を表しているのかも知れず、世の中が平和だからこそ危機感を煽っていられるのであり、しかもその平和な状態というのが、危機感を煽る側にとっては不快な現状なのであり、一応は平和であってもそれは見せかけの平和であって、その水面下では世の中の不条理や矛盾が渦巻いていて、いつそれが何かのきっかけで浮上してくる可能性もあり、現状はそんな危うい均衡の上でかろうじて維持されているようにも思われるから、結局は危機感を煽らざるをえないわけで、例えば貿易の不均衡を理由にしてアメリカが日本に農業や医療などの分野で市場開放を求めてきたら、そらみたことかとなるだろうし、また今後予定される米中首脳会談で友好ムードが強調されるようなことにでもなれば、日本国内での中国脅威論に反発する人たちが、やはりそらみたことかと言うだろうし、さらにまた何かのきっかけで南シナ海での米中の軍事的な緊張が高まれば、今度は中国脅威論を唱える勢力が勢いづいて、そらみたことかと言うようになるだろうし、最近は核開発を阻止するためにアメリカが北朝鮮に対して先制攻撃を仕掛けるのではないかと危機感を煽る向きもあるし、そんなふうに危機感を煽る材料には事欠かないわけだが、そもそもそれらの危機意識が有効に働くとはどういうことなのだろうか。彼らの予想や予感が的中して、本当に危機的な状況となってしまったら、では事前に行われた危機感の煽り立ては有効に機能したことになるのだろうか。普通に考えるなら事前に危機感を煽り立ててくれたおかげで、その忠告を素直に受け入れて、何らかの対処を行ったから、危機を未然に防ぐことができたとなるのだろうが、そうだとすれば危機を煽っているにもかかわらず、未だに危機が訪れていない現状があるのなら、もしかしたらすでにそれを未然に防いでいて、危機感を煽ること自体が危機の到来を未然に防いでいることになるのだろうか。そんな逆説的で都合のいい話はないかも知れないが、危機感を煽ることと危機が訪れないことがセットとなっているとすれば、本当の危機が訪れない限りは、危機感を煽ることができるわけか。


4月4日「伝えたいこと」

 人が何かしら言葉を記すのは、その内容を伝えたいから記すのだろうが、記された内容が伝えたいこと以外の内容を含んでいるとすれば、それは読む側の勝手な解釈によるところが大きいのかも知れず、記す側が伝えたい内容と読む側が読み取った内容との間に、何らかのずれや食い違いがあって当然かも知れないが、記す側は何かはっきりとわかるようなことを伝えたいわけではなく、ただ漠然とその場の気分で言葉を記しているだけかも知れないし、読む側にしてもあまりはっきりとは理解できないままに読んでいる可能性もあり、そうなると文章の内容自体が謎のままとなってしまいそうだが、さらに記す側が何か勘違いしながら記していて、読む側も勘違いしながら読んでいるとすれば、記す側が間違ったことを伝えようとして、読む側も間違った解釈をしていることになるだろうか。たらればの仮定の話なら、何とでもいくらでもありそうな可能性を想像できそうだが、実際にそこに何か言葉が記されているとすれば、それを読む者の勝手な解釈や誤読が可能なのであって、そうである限りにおいて、言葉を記した者の力の及ばないところで、それらの文章は取り扱われることになるのではないか。また読者にとっては文章の中で語っているのは作者ではないかも知れないし、作者としても作者とは別の語り手を文章の中に登場させるのはよくあるわけで、その架空の語り手が伝えたいことが、必ずしも作者の伝えたいことと一致しなくても、別に文章として辻褄が合わないわけではなく、作者が文章を通して伝えたいことをそれほどはっきりとは自覚していなくても、架空の語り手が伝えたいことははっきりしている場合もあるだろうし、現に文章の中で語り手が語っているわけだから、語っていることが伝えたいことだと捉えておくのが自然の成り行きとなるだろうし、それが作者が伝えたいことではないとしても、そんなに奇異な印象は受けないのではないか。

 読者は作者が伝えたいことなど無視しても文章を読めるだろうが、ただ普通は読んで理解した内容が、作者が伝えたかったことだと解釈してしまうわけで、それがはっきりわかろうとわからなくても、文章の内容と作者を結びつけながら読んでいるだろうし、それをわざわざ切り離して読むことは、何か通常では考えられない独特の分析手法を用いない限りはあり得ないことだろうか。テレビ司会者やアナウンサーなどがニュース原稿などを読み上げる場合は、それは当人が伝えたいことというよりは、番組の制作過程で選ばれた内容であるだろうし、テレビ司会者の意向が優先される番組なら当人が伝えたいことかも知れないが、立場的に権限を持っているプロデューサーの意向が優先されることもあるだろうし、その辺は内部事情に詳しい人でないとわからないことかも知れないが、逆に放送内容から伝えたくないことが読み取れてしまうこともあるだろうし、どこかから圧力がかかって、それまで歯に衣着せぬ政府批判を行っていたキャスターや解説者が急に発言を自粛するようになったり、番組を降板させられたりするような事態ともなれば、やはり伝えてほしくないことがあるのが推測されてしまうし、実際に降板させられてしまった人を気の毒がる風潮もあるだろうが、そもそもテレビ司会者やニュースの解説者が政府批判する必要があるのかと言えば、そういうことをやるのが売りの番組というのもあり得るのかも知れないが、一方で逆に政府の立場を擁護して翼賛するような番組も、別にあっても構わないだろうし、実際にそういう番組があって人気を博しているのかも知れず、そんなふうに伝えたいことがはっきりとわかるのがテレビの特徴かも知れないが、そうであるにしてもそれを本当に伝えたいことだと認識していいのかとなると、一応はそれで構わないのだろうが、別にそんなことなど気にかける必要がないといえば、それもその通りなのかも知れず、どうも何かそこに伝えたいことがあるかのように見なすのは、それ自体が一種の虚構なのかも知れず、小説などに登場する架空の語り手ではないにしても、少なくとも俳優の演技と同種の効果を醸し出している程度の認識は持っておいた方がいいのではないか。そしてそれは政治家などにも当てはまるのかも知れない。


4月3日「間抜けで滑稽な心理状態」

 何か的外れであまり焦点の定まらないことを考える必要などないのかもしれないが、例えば人間の人間性とは何だろうか。知性とか思考力とかの単純に人間という存在を自画自賛できる要因を挙げただけでは足りず、戦争とか自然破壊とかの人間の否定的な部分もある程度は考慮した上で、それらを含めたすべてが人間の人間性だと定義すれば、何やらもっともらしいことが言えるだろうか。それとも現状では人間一般が問題なのではなく、個人や集団となって具体的に何をやっているのかが問題となるのであり、社会の中で実際に行われていることが、人としても集団としてもあまりにもひどければ、それが問題となるのであって、他の誰からも特に非難されるような行為でなければ、特にそれが問題となることもないだろうか。何がひどいのかの定義が定まらなければ何とも言えないところだろうが、一般的には世の中で非人道的な行為が行われていれば、普通は法律で規制されていたり処罰の対象となっているはずであり、ある意味でそれが児童虐待や性的な暴力などのように、人間の攻撃的で否定的な人間性から生じているように思われる行為もあるわけで、そういう行為に関わった個人や集団が罰せられれば、何となく法的な正義が果たされたように思われるのかもしれないが、それが法律で禁止されているということは、それをやる人や集団が後を絶たないから、あえて法律で禁止されているわけであり、そうであるならそれが法律的にも社会的にも否定されることであっても、誘惑に負けてやってしまうような魅力があって、なぜそのような魅力が生じるのかといえば、それが人間の本能だからといっても、あるいは社会の構造にそういうことをやってしまう人を絶えず生じさせる特性があるといっても、根本的にそのような行為をなくすための解決策が得られるわけでもなく、ただ法律で禁止して違反者を処罰すれば、それだけでは世の中の大半の人たちは納得しないかも知れないが、ではそれ以外に有効な方法があるのかといえば、犯罪を未然に防ぐために監視を強化したり、子供に対する道徳教育や社会人に対する啓蒙活動に力を入れたり、そんなことぐらいしか思いつかないかもしれないが、そういうことも含めて、法律的にも社会規範としても禁止されている行為というのは、社会にとってもそこで暮らしている人々にとっても、否定的な意味で欠くことのできない行為となっているのではないか。

 そういう否定的な面を強調する一方で、他人を思いやる心だとか、愛だとか平和だとかを尊ぶ心などを強調して、そちらの方が強まれば、否定的な面が相対的に弱まるかのように思いたくもなりそうだが、どうもそういう対立する概念を安易に持ち出すのは、何かリアリティが欠けているような気がするし、他人に対する怒りとか憎しみとか蔑みなどの気持ちは、それを誘発する社会的な状況がある限りはなくならないのはもちろんのこと、例えば隣国に対する憎悪の感情が国民の団結を促進するかのような手法や、一部の政党やその政党に所属する議員に対する敵意をむき出しにすることが当然であるかのような風潮を、実際に煽っているマスメディアも大手を振って存在しているわけだから、そこへと至る必然的な成り行きがあったと考えておいた方が自然だろうし、そんなことを考慮するなら、まずは法律や社会通念上禁止された行為に及ぶ人や集団に憎悪の感情を抱くことが正当化されていて、そこから許しがたいと思われる行為が延長されて、自分たちに敵対する人たちや集団に対して憎悪の感情を抱くことを正当化する根拠として、彼らが違法行為や社会通念上許されざる行為を行っていることにしたいわけで、その代表例としては売国奴という表現がよく使われるのだろうが、それに対して敵対する側もそのような挑発に乗って、互いに煽動合戦を繰り広げるような成り行きとなってしまえば、彼らの思うつぼとなって実際にこんな現状となっているのかも知れないが、ある意味で現状が避けられない事態であるならば、国内だけでなく近隣諸国も含めて、現状をもたらしている必然的な成り行きがあって、人も社会もそんな成り行きに巻き込まれているからこそ、なかなか現状から抜け出せず、抜け出すきっかけさえもつかめない事態となっているのかも知れないが、現状が不快だと感じてその不快さから憎悪の感情を募らせれば、ますます不快さが募ってくるのは必然的な成り行きで、その不快さと憎悪の感情の相乗効果によって、現状が形作られていることは火を見るよりも明らかなことで、だから不快だと感じても憎悪の感情を抱かないようにするにはどうしたらいいのかとなるのかも知れないが、それができないから現状から抜け出せないわけだから、頭ではそれがわかっていても、感情をコントロールすることができないということだろうし、要するに多くの人たちが間抜けで滑稽な心理状態となっているわけだ。


4月2日「慣習の尊重」

 わかってみれば大したことはないのだが、実際にそうなってしまったのだから、わかる以前にうまくやられたわけで、うまくやったからにはたとえ嘘がばれたとしても、うまくやった結果自体が揺るぎないように装われているようだが、しかしそれで本当にうまくやったことになるのだろうか。嘘など戦略的にはいくらでもつけるのかも知れず、嘘をつくことに良心の呵責を覚えなければそれで構わないようで、それよりは嘘をつくことでもたらされる結果が重視されるのなら、嘘をつくことこそが最善の選択となってしまうだろうか。それはその時の状況によりけりなのかも知れず、嘘をつかなくてもうまくいくようなら、別にわざわざ嘘をつく必要はないわけだが、ある意味では嘘をつかざるを得ない事態に追い込まれているのかも知れず、そうなると嘘をつきたくてついたわけではなく、苦し紛れに嘘をつかざるを得なくなったのなら、何かが彼らに嘘をつかせるまでに追い込んでいると言えるだろうか。そしてそうやって嘘で塗り固められた土台の上に君臨しているような状況というのが、果たしてどれほど長続きするのか、今後において興味を引く点かも知れないが、状況次第では結構長続きして、逆に嘘を見破ってこれ見よがしに指摘した側が、これまで通り世間から無視され続ける可能性もあり、すでに誰もがそんなことはわかった上で、あえて嘘をついている側を支持し続けるのかも知れず、そうせざるを得ない事情など特にありはせず、ただ何となくその場の空気に従って、そうしているだけかも知れないのだが、それについてあまり深く考えてしまうと、そうする理由など何もないことがわかってしまい、自己矛盾を引き起こしそうになるから、なるべく深く考えるような成り行きにならないように、自覚しているわけでもなく、ただ世の中の慣習に従っていれば、自然と物事について深く考えなくても済んでしまうわけで、考えるよりはその場の空気に従っていれば、とりあえず自己矛盾を引き起こすような事態は避けられるのではないか。

 そもそも世の中の慣習というのも、みんながそれを信じて従う限りで成り立つ一種の虚構に過ぎないわけだから、たとえそれが虚構だと指摘されても、だからといって信じなかったり従わないような人は、はじめから信じていないし従わないし、そういうレベルでは嘘か誠かの判断はされないわけで、そういう水準で誰を支持するのかとなれば、嘘をつこうが何をしようが、世の中の慣習を尊重しているように思われる人や勢力を支持するのだろうし、たとえ嘘を見破ろうと不正行為を指摘しようと、世の中の慣習を尊重しているように思われる人や勢力と敵対しているように見える人や勢力は支持しないし、場合によってはデマや言いがかりをつけてまで攻撃してくるのではないか。しかもそんな卑劣なことまでしても慣習に囚われた世の中の秩序を守ろうとするわけで、そしてそうまでして守ろうとしていること自体にしても、それほど深く考えてそうしようとしているのでもないし、何かそうすること対して切実な理由があるわけでもないだろうし、ただその場を支配している空気に無自覚に従えば、そういう行為がまかり通るわけで、大して罪悪感も抱かずに平気でそんなことを仕掛けてくるわけだから、法に従ったり物事を論理的に考えようとすることが、正しい行いだと信じている人たちにとっては、どう考えても彼らがおかしなことをやっているとしか思えないのだろうが、実際にそんな現実があるのだからどうしようもないわけだ。結局そういう人たちはモンゴル人の力士に罵声を浴びせたり、単なる建前論に過ぎない教育勅語を普及させようとしたり、将棋のプロ棋士に和服を着せようとしたり、深く考えればどうでもいいような枝葉末節なことにこだわるのが、その場の空気に従っていることになってしまうのだが、それが世の中の慣習だと思われている限りは、そもそも深く考える必要も合理的に判断する必要もないわけだから、それが当然のこととして普通にまかり通っている現状があるわけで、そういう風潮に味方するマスメディアも、何の疑念も抱かずにそれを世の中に浸透させようと努力している最中なのではないか。


4月1日「空気の重み」

 語ろうと思えば何とでも語れるようなことを、あえて否定的に語る必要も感じられなければ、肯定的に語るのも気が引けないわけでもなく、要するにそれほど関心がないのかも知れず、何とでも語れるようなことには魅力を感じられず、そうではなく強烈に否定したり肯定できるようなことには、やはり強烈に関心があるのだろうし、ならば強烈に関心があることとは具体的に何なのかといえば、それが思い浮かばないとなれば、そんなものなどありはしないことになってしまいそうだが、そうでなければ他に何があるのかといえば、ほどほどに関心があることであり、他にはそれほど関心がなく、無関心なことの方が多いのではないか。誰がそう感じているのでもなければ、そんなのは嘘になってしまいそうだが、誰もがそう感じているような気がするのであれば、それが世の中の空気なのかも知れず、そんな空気などありえないと思いたければ、別に気にとめるようなことでもないのかも知れず、世の中の空気などというあやふやで実体の定かでないものには関心を持てないのかも知れないが、空気というのはそんなものでしかないだろうし、本物の空気ではなく比喩的な表現でしかなく、それがはっきりした何かを表しているわけでもないのだろうが、何がその空気をコントロールしているとも思えないし、実際に人為的な制御など利かないのかも知れないが、結果的にそう感じられるのならば、確かに制御は利かないが、それを醸し出している何かがあるのかも知れず、その何かというのが例えば社会情勢と捉えれば、それについて何か語ることができるだろうか。語ると言っても世の中の空気に関してであるだけに、あやふやではっきりしたことは何も言えないかも知れず、そうである以上はそれほど関心を持たれるようなことではなく、どちらかといえば無関心なことかも知れないのだが、それを肯定的に捉えるなら、ほどほどに関心のあることであり、また何とでも語れるようなことでもあるのだろうから、それをわざわざ否定的に語るような筋合いのあることでもないのだろう。

 たぶん積極的に否定も肯定もする気になれないような状況の中で、何を仕掛けてみても空振りに終わりそうで、実際に何が空振っているのかといえば、それは何らかのメディアを使ったキャンペーンが空振っているのであり、それが政治に関するキャンペーンであれば、いわゆるネガティヴキャンペーンの類いにはなるのだろうが、何にしても物は言いようで、結果を自分たちの政治勢力に有利なように評価して、その手のキャンペーンが成功しているように見せかけることもできそうで、そうなるとメディアを使った政治宣伝になってしまうのだろうが、キャンペーンだろうが宣伝だろうが、はっきりした結果の出づらいあやふやな情勢の中では、やはり語ろうと思えば何とでも語れるのであって、そんな小春日和的な小康状態がどれほど長続きするのかは、誰にもわからないところかも知れないが、少なくともそんな状況の中で何を仕掛けても、大した結果をもたらせないのはわかりきったことかも知れず、大した結果というのが何なのかもよくわからないのかも知れないが、何がどうなっているのか詳しくはわからない程度でも困らないのなら、あえてわかろうとしなくてもいいのだろうし、何だかわからないまま状況の推移を見守っている気にもなれず、ただ関心が薄いという実感は紛れもなく抱いていて、その程度の状況を深刻に受け止めるのにも無理があるようで、そういう意味では頑なに危機感を煽っている人たちが、的外れなことをやっているようにも思われてくるわけだが、案外そういうことを根気強くやっている人たちの方が正しいのかも知れず、それに対してそういう人たちを嘲笑したり無視するような人たちは、一応は時代の風潮に合っていて、世の中の空気に同調している人たちだと見なせるのであり、いつの時代でもそういう人たちが世の中の主流を占めてきたのかも知れず、大衆のあるべき姿とは、そういう人たちが体現しているものなのだろうが、そうだとしてもそういう人たちはすぐに忘れ去られる人たちなのであり、もちろん危機感を煽っている人たちも同様なのかも知れないが、状況に抵抗している分だけまだマシなのだろうか。マシだと言うと語弊があるかも知れないが、何かしら疑念や引っ掛かりがあるから、このままではまずいと思えるのだろう。