彼の声118

2017年

1月31日「資本主義の終わり」

 産業には様々な種類があって、時代とともに新たな産業が次々に生まれ、だんだんと種別に細分化してきた経緯があるとしても、各産業がそれぞれに役割分担しながら互いに関係し合っていることは確かで、産業全体ではそこで働いている労働者の生活が成り立っている限りで、それらの産業も成り立っているわけだから、産業によって労働者をどれほど必要とするかは異なるにしろ、産業全体ではある規模の労働者を必要としていて、また様々な産業が組み合わさって、最終的には消費者を必要とする製品が製造されているわけで、そこで製品が買われて消費されないと、その製造に関わっている産業が成り立たないのだろうし、要するに全体として産業が成り立つには、そこで働く労働者と、最終的に作り出される製品を買ってくれる消費者が必要なのだろうが、全体として必要な労働者と消費者の数が、時代とともに産業の発展とともに変化するとしたら、例えば今後労働者も消費者も余分になったり不足したりする事態が起こるのだろうか。一般的に言って不況の時は労働者が余って消費者が不足して、好景気のときはその逆になるのが普通だろうが、そのような景気循環によって発生する相対的な変化ではなく、技術革新などによる必然的な結果によって、例えば自動制御技術の進歩によって労働者が要らなくなるような場合、単純に労働者が失業するにしても、収入の道が絶たれたままになってしまうと、失業者とその扶養家族が消費者として機能しなくなるわけで、そんな技術が進歩して効率的な生産が進むほど製品が売れなくなるような事態が、果たして今後起こりうるだろうか。今までの歴史的な経緯からするとあり得ないことのようにも思われるのだが、要らなくなった労働者を吸収するような新たな産業が、これから先もそう都合良く生まれてこなければ、それが資本主義が終わる可能性を示していると言えるだろうか。


1月30日「執着心」

 たぶんこだわりの類いは過去の経験に根ざしていて、意識が過去から逃れられないなら、過ぎ去った時間の中に忘れられない思い出があるのだろうし、記憶として残っている過去の光景の中から、それを思い出しているのが今だとしても、過去の経験を頭の中で蒸し返していて、時にはそのことであれこれと悔やんだり悩んだり反省することもあるだろうが、そこではすでに今の時間の中で考えているわけだから、それは過去の思い出を執拗に反芻し続ける今の経験であり、いくら過去を繰り返して思い出しても、今を生きている現実は変わらないわけで、その今を生きている現実というのが、実感としては捉えにくいのかも知れず、例えば今ここで何をやるべきかとなると、すでに今ここでやっていることが、やるべきかどうかを考える以前にやっていることなのだから、すでにやっていることをやめてまでやるべきことがあるのかといえば、それは意志の力でどうこうなるようなことではないのかも知れず、どう思っていようと何にこだわっていようと、やめられない事情があればやめられないだろうし、また何かの都合でやめなければならなくなってしまうことだってあるだろうし、そうなると個人の力ではどうにもならないような次元で、何かをやっていることになるわけで、時にそれはやっているというよりは、やらされていると捉えた方が正確な場合さえありそうだ。それでも何かのきっかけでそれをやめるべきと判断してやめられたら、それに代わって何をやるべきなのかとなると、果たしてやるべきことをやるということが、何か利益をもたらす可能性があるように思われるなら、そこで何やら功利的な欲望にとらわれていて、それがそこでのこだわりとなるのだろうが、目的がなければこだわりも生まれてこないだろうし、それにこだわることが目的となっていて、それが過去からこだわっていることであり、こだわることが生きる支えにもなっているとすれば、それは容易には捨て去ることのできないこだわりであり、そんなこだわりがその人の思考や行動に制約や制限を課し、その制約や制限に縛り付けていることにもなるのだろうが、別にそれが功利的なこだわりでなくても、こだわることに何かしら使命感を抱いているなら執拗にこだわるわけで、そんなこだわりとともに生きている人は、場合によってはそのこだわりが原因で死ぬことにもなるだろうか。

 こだわりは執着心であり、こだわりを持って生きることに執着していることでもあるわけで、それで死ぬことにでもなれば、皮肉なことだろうが、こだわりを捨てれば、そのこだわりから自由になれるかも知れず、それと入れ替わりに別のこだわりを持てば、また性懲りもなくこだわりにとらわれてしまうわけだが、現実の世界では、他人のこだわりに寛容になれることが、いかに難しいかが問題となっているわけで、他人のこだわりによって不利益を被るようだと、不寛容にならざるをえないわけだが、それがはっきりとした被害ではなく、ただ不快に感じられる程度なら、こちらが我慢すれば済むようなことであっても、不寛容であることにこだわってしまうと、それでは済まなくなるわけで、どこまで我慢できるのか、その限度もその場の情勢や状況で異なってくるだろうし、例えば勝手なことを自由に主張できるようなネット環境では、他人の発言や態度にすぐにキレて罵倒し出す人が増えると、そこで不寛容な姿勢が蔓延しているように思われるかも知れないが、何を主張しようと自由である建前が守られていれば、そんな不寛容な姿勢も許容されるわけで、逆説的にそこでは寛容さがもたらされていることになり、実際にその場で多種多様な姿勢や主張が許されている限りは、寛容さが保たれているように感じられるわけだが、そういう場を組織的に荒らそうとする集団が出てくると、そんな集団の不寛容さがその場を支配して、自由の建前が崩壊して、そういう場を心地よく利用するためのマナーとして、他人を誹謗中傷するコメントは管理者が削除するようなルールが作られて、実質的には自由ではなくなってしまうわけだ。そういう意味では組織的な不寛容が世の中に蔓延ると、社会は不寛容な精神を組織的に広める人たちの天下となるわけで、今ある現実の世界でもそんな傾向を感じられるかも知れないが、そういう傾向が不快だと思われたら、そんな風潮に抵抗するしかないだろうが、そこで安易に思いついてしまうのが、組織的な抵抗を仕掛けようとすることであり、組織には組織で対抗しないと力で負けてしまうように思われるのは当然だろうが、たぶんそれが罠なのかも知れず、個人が組織に力で勝つことはあり得ない程度に思っておくだけで構わないのかも知れない。組織に抵抗しようと思うなら、個人で抵抗すればいいだけで、個人と個人が連携したり協力するにしても、個人としてやればいいことでしかなく、個人同士が連携し協力すれば良く、それでは組織に勝てないなら、負けていればいいのかも知れない。個人にこだわるならそうなるだろうが、どうしても勝ちたいなら、そんな不合理なこだわりは捨てて、組織に入ればいいのかも知れないが、何が正解とも言えないし、実際にどうするかはその場の状況次第でしかないだろうか。


1月29日「行動の現実」

 何かやった後から、自らの行動に理由があったりなかったりすることを、別に不思議に思うわけでもないが、理由を思いつけなければそのままになってしまうだけで、必ずしも理由がなかったわけではなく、たまたまその場での事態が複雑に込み入り過ぎていて、何が理由なのか判然としないまま、ともかく何らかの行動を起こしてその場を切り抜けた現実があり、後から理由を探る気が起きなければ、それで済んでしまうようなことになりそうで、いちいち行動の理由を確定するまでもなく、その場の状況に合わせて対応するような行動もあり得るのだろうが、何だかわからずに何となく行動しているうちに、だんだんと行動している理由がわかってくるような場合は、たぶんはじめから行動の理由がわかってしまうと、怖気づいて行動を躊躇したり、途中であきらめてやめてしまう可能性もあるから、はじめのうちは理由がわからないままの方がいいのかも知れず、そしてわかった時にはもはや引き返せない状況となっていれば、そのままやらざるを得なくなってしまうわけで、はじめからそんなことを狙って行動しているわけでもないのだろうが、結果的にそうなっているのなら、そういう場合は強固な意志が行動を生んでいるのではなく、何となく始めたことが、それをやり続けている過程で、そのやっている状況に対応した意志を生み出したと言えるのかも知れず、自らの行動とともに、その行動に合わせた意志が構成されているのだとすれば、行動する理由も行動とともに形成されつつあるわけで、何か行動以前に何らかの企みがあり、その企んでいる思惑とともに、事前に何らかの意志が形成されていて、行動を起こした理由もはっきりしている場合でも、行動している途中で当初の企みに大幅な変更が加えられるような事態ともなれば、そこに変更した理由もつけ加わってくるだろうし、そうなるといったい何のために行動を起こしたのか、よくわからなくなってくるような事態にもなるのではないか。それでも強引に初志貫徹しようとしておかしくなったり、あるいは潔く実情に合わなくなった当初の企みなど捨てて、成り行きに行動を合わせることでうまくその場を切り抜けたり、結末に関しては様々な可能性を想像できるが、結果から振り返ればいくら途中が波乱万丈でも、それなりに滞りなく物語れてしまうから、何か強固な意志を持ってやりたいことをやり通したように語られてしまうのかも知れない。

 そういう面で実際にやっていることと、そのやっていることについて語っている内容に、ずれや食い違いが生じてくる事態もあるだろうが、そういうことも含めての行動なのだから、人の行動に首尾一貫性を期待するのは困難だろうし、それが何らかの行為である限り、その場の状況に左右されて、そういう部分では行動している当人には制御が利かず、場当たり的に行動しているだけなのに、後からその時の行動理由をもっともらしく語られると、そんな理由など信用できなくなってくるのだろうが、そのもっともらしく理由を説明している内容こそが、フィクションの起源であるとともに、行動の原理にもなるだろうし、そこだけ取り出して、こうしなければならないと呼びかけるようなら、場合によってはそれが政治的なイデオロギーにもなるのではないか。実際に何かを実現するために行動を起こさなければならないとなると、その時の状況がどうであろうとお構いなしに、事前に決められた通りに行動を起こしてしまうなら、そういう行動が成功する確率は低いようにも思われてしまうわけだが、そのような行動であっても、実際にはその場の成り行きまかせでやっていることが大半だろうし、やっている途中では結果がどうなるかはよくわからないから、当然その場の状況に合わせて一貫性のないことが行われ、その結果思いがけない結末が待ち受けていたりするのだろうが、結局は後から事態を掌握した勢力が、何やらもっともらしいことを語り始めるわけで、こういう結果がもたらされたのは必然であり、自分たちの正義への意志が勝利をもたらした、とでも宣言してみせるかも知れないが、そんな結果を目の当たりにする人々には、それが思いがけないことであるわけで、たぶん事前の期待からはまったく外れた結果であることが多いのではないか。例えば王制を倒して民主主義を実現しようとしたフランス革命が、ジャコバン派による独裁的な恐怖政治を招いた後、ナポレオンによる帝政を招いたり、帝政を倒して共産主義を実現しようとしたロシア革命が、過激な少数派であったボリシェヴィキのクーデターを経由して、スターリンの独裁に至ったり、後からもっともらしくそのような結末が必然であったかのように語られると、そこに至る歴史的な経緯を知っているだけに、そういう説明を信用してしまいがちにもなりそうだが、それが結果でしかないことは確かで、そのような結果から否定的な印象を得るとしても、それと現代に行われている政治的な行動を結びつけるのは、いくら何でも飛躍がありすぎるだろう。


1月28日「煽動の目的」

 人心を誘導するための煽動は、誘導して行った先にある目的への共感を求めているのかも知れないが、それとともに煽動すること自体も目的ではあるわけだから、煽動によって強調される物事の歪曲にもつながるのかも知れず、対象への恣意的なねじ曲げが煽動によってもたらされているとすれば、煽動の目的自体が対象への恣意的なねじ曲げにあるのだろうか。それを強調することとねじ曲げることは違うだろうが、事物とそれを言表する言葉の関係が、強調する言表とねじ曲げる言表とでは、そこへと人心を誘導しようとする意志を伴っている点では、同じような傾向を示しているのかも知れず、その事物に対する強調の仕方が、何か悪意を感じさせるような表現が含まれていれば、事実をねじ曲げているように感じられるだろうし、そのねじ曲げ方が怒りの感情を誘発させようとしていたり、欲望を抱かせるように仕向けられていたら、それが煽動の目的であり、誰にもそんな意図がわかるような煽動なら、直接的で正直な煽動でしかないわけだが、中には意図がわかりかねる煽動もあるだろうし、さらに誰もそれが煽動だとは気づかないまま、結果的には誰もがまんまと煽動に乗せられて、そこで生じている暗黙の命令に従わせられているような事態が、もっとも厄介なのかも知れず、しかもそういう煽動のやり方が世論を動かすにはもっとも有効かも知れないのだが、果たして誰にも気づかれないような煽動に気づけるだろうか。気づけないからこそ効力を発揮するのだとすれば、ちょっとやそっとでは気づきようがないだろうし、それを煽動だとは容易には認識できないのなら、対処のしようもないだろうが、世の中で話題となっていて、そこに何かしら政治的な思惑が潜んでいて、しかもそれが一見もっともらしい筋の通った主張であり、世のほとんどの人が納得できるような内容で、その話題に勢いづけられて、何らかの政治的な行為が成し遂げられるような結果がもたらされたら、やはりそこに何らかの煽動が介在していたように思われても不思議ではなさそうで、もしかしたら政権交代のような出来事には、そのような煽動が必要不可欠なのかも知れず、これまでもこれからも、事前の予想を覆すような政変があれば、そのような政変を成し遂げようと企む思惑には、悪意のあるなしに関わらず、民衆を味方につけるための煽動行為が含まれているのかも知れない。

 一般的に言って煽動には、煽動する大義名分と、煽動したいという思惑とその対象を結びつける比喩表現がつきものなのかも知れず、大義名分として煽動を正当化する上で、その正義の言説に何らかの比喩表現が含まれていれば、その比喩から連想される事物が、煽動の対象であり目的でもあるわけだが、あえてそれをわかりにくくすれば、人はそこで考えるかも知れず、煽動の目的の一つが、それに興味を持った人々に、そこで立ち止まって考えてもらうことだとすれば、多くの人がそれについて考えて議論でも交わすようなら、半ば煽動が成功していることにもなるだろうが、ではなぜ回りくどい比喩表現まで使って、あえて主張をわかりにくくするのかといえば、できるだけ長い間そこで立ち止まってほしいわけで、いつまでもそのことについて考え続けることによって、人心を煽動に引き込んだままにしておいて、話題を長引かせて効力を長持ちさせたい、という戦略的な意図があるのかも知れず、それと似たようなやり方には、特定の政治的な思惑を持ったメディアが、もういい加減にやめてほしいような話題を執拗に蒸し返して、これでもかと紋切り型の批判を繰り返すやり方もあるだろうが、そういうやり方だと意図が見え透いていて、誰もがそれがネガティヴキャンペーンだと気づいているだろうが、そういう無理矢理に話題を長引かせるようなやり方では、かえって一過性の効果しか得られないのかも知れず、それを理由として現状の政治情勢を説明しようとしてしまうと、皮相上滑りの感を免れず、もっと根本的な社会現象を見落としていて、そういう社会現象は普通に気づきにくく、また言語表現とも整合しにくく、うまく言葉で言い表せない性質の現象だと、自然と比喩表現を使わざるを得ず、それに関する適切な表現が世の中に定着するまでは、多くの人がそれについて考えるだろうし、うまく表現しようとする試みも続けられて、それに関わる人たちがそんな話題に心を奪われたままになれば、何かそれが根本的な社会現象であるかのような共通の認識となるのではないか。それについて例を挙げるなら、一時期ポストモダンとか呼ばれる現象がそれに該当していたのかも知れず、もっと長期間にわたる現象なら、戦後なる呼び方も何かにつけ話題となっていたし、未だに戦後政治とか戦後民主主義とか言う表現を好んで使いたがる人もいるわけで、何かそこに恣意的なねじ曲げとは認めたくないものの、それでもある種の思い入れとともに強調したい煽動要素があるのではないか。


1月27日「活動の中身」

 物と情報の違いは、それが資産となった時に顕著な差が現れ、物より情報の方が取り扱いが容易で、交換の際にコストがかからず、劣化せずにかさばらないから蓄積に向いていて、それが現預金や有価証券などの金融資産なのだろうが、一方で人が生きていくには物が必要で、物としては土地建物や機械設備などの資産があるわけだが、土地は面積に限りがあって都市部以外ではほとんど資産価値はないし、建物や機械設備は経年劣化するし、結局それらすべてには維持管理費がかかるわけで、資産額としては圧倒的に金融資産の割合が多いことは確かだろうし、昔は通貨が貴金属の金との兌換を保証していたから、増加割合に一定の歯止めがかかっていたかも知れないが、ある時期から兌換を維持できないほどの量の通貨が発行されてしまったから、もはや物質量と情報量を交換するに際しての絶対的な基準がなくなってしまったわけで、そうなると限りがあってかさばる物質量に比べて、情報量は圧縮が利く分、桁違いの速度で増やすことも蓄積することも可能なわけで、どう考えても情報量の桁違いな増加と蓄積に、相対的な物質量と情報量との交換レートが追いついて行けずに、情報の価値が物質の価値に比べて、不当に高くなっている現実がありそうなのだが、結局のところそんな物質量と情報量との特性の違いを利用した錬金術的なマネーゲームによって、世界的に金融資産が凄まじい勢いで増えた結果が、貧富の格差を象徴する資産格差を生んでいて、もしかしたら世界中のすべての物を買っても、なお凄まじい額の現金が余ってしまうというか、そもそもすべての金融資産を現金化できるほど通貨がないのかも知れず、もちろんそんなことをやる機会などないから、現状が破綻していないわけで、そんなふうに考えてしまうと、単純な数字的な情報と化した資産というのは、人が生きていくために必要な資産というよりは、資産を増やすために必要な資産として利用されているのはもちろんのこと、人が生きていくため以外で活動する原動力となっていて、では何のために活動しているのかといえば、資産を増やすために活動しているわけで、それは資本主義の究極の目的でもあるのだろうが、それがそのまま資産所有者の価値を高めているとも思えないが、何やら資産を増やした先に、その資産を使って社会に貢献するような活動も出てくるわけで、すでに人々の間に凄まじい資産格差を生み出して、それが社会の中に不和と混乱を招いているのに、今さら社会貢献もないだろうとも思われるだろうが、たぶん結果的に成功した個人を責める筋合いはないのだろう。

 国家は国民を従わせるのが目的で、資本主義は資産を蓄積するのが目的で、それらの目的のために人が活用されている現実があるわけだが、一方で国家と資本主義を利用して何かやりたい人も中にはいるわけで、それらの思惑が一致することも絡み合うこともすれ違うこともあるだろうが、そもそも人は目的だけのために活動しているわけでもなく、何かのためにやっているそれが、目的だとは自覚していない場合もありそうで、また人それぞれに異なる目的があるとしても、自分以外の何かの目的に従わされている場合も多いだろうし、そんな人たちが何のために生きているのかと自問してみても、明確な答えなど見つからず、見つける必要さえも感じられなければ、その場の成り行きに流されているだけでも構わないのかも知れず、そう考えると何かを目的化する動作というのが、すべての人に共通する意識作用だとは思えないし、そういう面であまり万人に共通する理解や認識を探ろうとしてしまうと、人の活動の多様性を取り逃がしてしまうのかも知れず、人の活動の目的化という単純化から何を導き出しても、人と物と情報が絡み合って生じる社会現象の、何を説明していることにもならないかも知れず、人も国家も資本主義も、それぞれの目的のために活動しているとともに、それぞれにまとわりついている特有の性質もあるわけで、それらの特性が重ね合わさって特有の効果を生み、場合によってはそれぞれの目的をはぐらかしている作用もあるのかも知れず、例えば他人の目的に邪魔されて自分の目的に向かって進めなかったり、国家が国民を従わせようとするほど反発や反感を招いたり、資産を蓄積するには消費したり交換しなければならず、そういうそれぞれに特有の試練を乗り越えないと、目的の達成とはならないわけで、そのためには他との協力や連携や対立や戦いなどが、試練として課されるわけだろうが、そこに試練があるということが、何かしら目的を妨げる障害があることを明かしていて、目的へと向かうとそれなりに逆方向の力が働くことを示しているのだが、それがそこで起こっている現象なのであり、作用反作用の力の及ぼし合いとも言えるのだろうが、その場の状況に合わせて力を及ぼすための戦術や戦略が、権力を行使するやり方として、人も国家も資本主義も求めているものであり、それを実行すること自体がそれぞれの活動なのではないか。


1月26日「普通の対応」

 どのような形であっても政府の権限が強まることが、国民に対する監視や管理の強化に結びつくとするなら、それは政府を支持する国民の意向が反映された結果だろうか。それについてはいつもの調子で偏向した見方をするなら、政府に飼い慣らされたメディアに洗脳された国民が多数派を形成していて、それが選挙結果に結びつき、議会の多数派が行政権力の強化を目指す政府と連携して、それに関連する法整備を進めている現状があるなら、今後政府の権限がより強化され、国民はますます自由を奪われ、政府に従うことを余儀なくされてしまうだろうか。そういう成り行きなら止めようがないだろうし、悲壮感を漂わせて反対運動に参加しても無駄かも知れないし、別に無駄だからといってやめる必要もないのだが、そんなふうにして権力を強めた政府や議会の与党に対して、国民が何をやれるのかといえば、選挙で与野党のどちらかに投票するか、関心がなければ棄権するか、そんなところだろうか。ならば権力を強めた政府が何をやれるかとなると、法整備をしたのなら、法に基づいて取り締まりを強化するかも知れないし、場合によっては法律に違反したと見なして、反対派を弾圧することにもなるだろうか。それはこれまでも程度の差こそあれ、機会を捉えてはそんなことをやってきた経緯があるのかも知れず、これからも似たようなことが繰り返されるのではないか。一般的に考えるなら、政府は絶えず国民の国家への服従を強いる傾向があり、それが国家権力の通常の有り様であって、それに対して普通の国民は、そういう服従強制に絶えず反発し反感を抱く傾向があるだろうが、そんな実感が湧かずに、自覚も抱かないように国民が丸め込まれているとすれば、それは戦略的にも戦術的にも国家が国民に対して勝利を収めたと捉えておくのが妥当な線だろうし、そもそも国家と国民が権力闘争を繰り広げているなんて信じられない人が、国民の多数派を占めている現状があるのかも知れず、一部の頭のおかしな人たちが反対運動を繰り広げているだけで、そういう人たちにはなるべく関わらない方が身のためだという世論が形成されているとすれば、それもそういう世の中の風潮なのかも知れず、そうだとすればそのような風潮に対応した穏便な政治姿勢というのも、何やら正当化することができるだろうか。

 それに関して自意識過剰の被害妄想になりたくなければ、特定の政治姿勢を意識して強調する必要はなく、特に関心がなければ関心のない状態にとどまっていればいいのかも知れず、要するに選挙の時に与野党のどちらかに投票するか、さもなくば棄権するかの選択があるだけで、そんな選択にも関心がなければそれでも構わないわけで、政府与党の人たちからすれば、自分たちのやっていることに国民が関心を持ってくれるなら、当然やっていることを支持してほしいだろうし、支持しないのなら無関心でいた方がマシで、下手に反対運動に関心を持たれては迷惑なのだろうから、そういう空気を読んで対応するなら、おのずから選択も定まってくるのではないか。国民にはそれ以上の何が決められるわけでもなく、それは選挙で選ばれた議会関係者についても言えることであり、法案に賛成するか反対するか、さもなければ棄権するかの選択があるだけで、質問攻めにして時間を稼いで廃案に追い込むとかいう戦術もあるにはあるだろうが、一方で多数決に持ち込むのが本筋だろうし、いくら強引な議会運営を非難して強行採決を言い募っても、議席数が与野党で拮抗しているわけでもなく、与党勢力とそれに協力的な野党が合わせて、議会の圧倒的な多数を占めている現状があるのだから、反対派の抵抗にも限度がありそうで、その辺は何を言われようと、強引な抵抗によって無理に関係をこじらせるのは得策ではないだろうし、場合によったら無抵抗に終始しても構わず、淡々と通り一遍の対応にとどめておいた方が、誠実な対応に見えるのではないか。もちろん何をどう対応しても政府与党側のメディアに攻撃されることは目に見えていて、それはそれで仕方のないことであり、そういう手合いには下手に反応しない方がいいだろうし、誇張表現を省いた穏便な言い回しで受け答えをするにとどめる方がまともな印象を与えるだろうし、議会での質問も無理に攻めないで、相手が普通に受け答え可能な質問に終始しておけば、それで済むようなことかも知れない。別に質問によって相手を困らせる必要があるとは思えないし、そんなところで勝敗が決まるわけではないのに、せこく点数稼ぎを目論んでも、選挙の時にはほとんど忘れられているだろうし、その辺がそんな議論を伝えるメディア共々大きな思い違いがあるのではないか。


1月25日「無謀な判断」

 収入と支出の差がプラスマイナスゼロになるような社会は、ゼロサム社会と言えるかも知れないが、世界全体で見ればどうもゼロサムではなさそうで、金額的には負債の額の方が圧倒的に多いだろうし、さらにデリバティブなどの金融取引で生じている金額が凄まじい額になっているらしく、またとてつもない額になってしまうと、いざとなったら借金など簡単に踏み倒せるわけではないだろうが、実質的に返せないものは返せないわけで、そういう意味で収支の差額など意味をなさなくなっているようで、実際に把握しきれないほどの金融取引が生じているとすれば、そういう次元ではすでに資本主義経済は破綻しているのかも知れないが、一般的な次元ではまだ正常な状態を保っているらしく、とりあえずわけがわからない金融取引などは無視した上で、またいくら負債額が嵩んでも未来に決済を先送りしながら、そうやって何とか平静を装っている現状なのだろうか。実際に生産も流通も消費も普通に続いているわけだから、金融方面がどうなっていようと、世界経済は揺るぎようがないのかも知れず、また何かの巡り合わせで揺らいだところで、リセットすれば簡単に再開できるわけでもないのだろうが、必要とあらば多大な損害を出しながらもリセットされてしまうのかも知れず、その後から必要な対策を講じながら取引が再開されるのだろうか。マネーゲーム的な面ではそうであっても、実体経済が突然に滞るようなことは、破局的な災害でも起こらない限りはあり得ないだろうし、経済状態は実際に人や物や情報が動いた結果から判断されるから、経済動向を分析した上で情勢的な診断が絶えず出されて、それに基づいて将来の予想も出てくるのだろうが、それ以上に何を述べる必要もないのかも知れず、現状で世の中がどうなっているのかについて、経済的な面での情勢の分析や、それに基づいた何らかの判断も可能なのだろうが、それ以外でも様々な指標となる分野があるのかも知れず、それらのほとんどにも経済的な面が絡んでくるにしても、何かこれといってはっきりしたことがわかるような現状認識が導き出せないとしたら、現状認識についての総合的な判断を下そうと試みること自体が無謀な行為なのだろうか。

 実際問題として人が活動するのに必要な資源がある限りは、どこからともなくわけのわからないファンドが出てきて資金提供をして、その資金と資源で生産が開始され、必要なところまで流通して消費されるのだろうが、アメリカの電気自動車や宇宙開発などの民間ビジネスでは、利益が出ていないのに延々と資金提供が続いているし、それらが将来利益を生み出す産業に成長することを見越して、資金提供が続いているのだろうが、もしかしたら今後利益が出なくても活動が続いていく可能性があるのかも知れず、他の分野で出た利益を突っ込んでいるのが実情だとしても、例えばデリバティブなどの金融取引で出そうと思えばいくらでも利益が出せるようなカラクリがあるのだとすれば、もはや実体経済での利益など不要になってしまうわけでもないだろうが、そんなところから資金を活用して必要なだけ生産して流通して消費するような、いわゆる共産主義経済のような形態が出現したら、まさに皮肉の極みかも知れないが、日本でもソフトバンクが巨額の有利子負債を抱えながらも事業をひたすら拡大している事例があるし、巨大になり過ぎてしまうと潰せなくなって、民間の銀行が無理なら国が融資したり、破綻させて整理するにしても、他の企業が事業を引き継いだりして、結局は必要な分だけは事業が継続されれば、物や情報の生産と流通と消費のネットワークも維持されるわけだから、どう考えても人が存在して現状のような形態の社会がある間は、何らかの形で経済活動が継続されていくことは確かだろうし、そんな世の中で国と国とが勢力争いを繰り広げているとしても、国家の構造的な特性からそうなっているだけで、精神的に国家に依存している人にとっては気が気でないし、勢力争いの結果に一喜一憂している人も中にはいるのだろうが、いくら自国の縄張り内の繁栄を気にかけようと、所詮はそれが経済的な繁栄なのだから、最終的には金額で表示されてしまうわけで、しかも世界的にわけのわからない金融取引や負債が凄まじい額に達している現状もあるのだから、どうもまともに判断するのが難しいような情勢になってきているのかも知れず、何を持って国家の繁栄や衰退を判断しようと、内戦の続くシリアはさすがに衰退しているとしか判断できないが、判断基準を変えれば、北朝鮮ですらそれなりの繁栄を実現していることになっているのだろうし、利己的な範囲外ではどうということはないのかも知れない。


1月24日「教育の目的」

 簡単に言えば民主主義は資本主義から生まれ、また民主主義をより資本主義経済に順応させると、民主主義は全体主義になると言えば、そんな説など信用できないと思われるかも知れないが、資本主義経済の中で人も物も情報もより効率よく行き渡らせるには、いくら効率的なシステムを築き上げても、その中で人が反発してしまっては、うまくシステムが作動しないから、まずは人を馴致し調教して、システム内の歯車として従順に回るようにしなければならず、そのための人を籠絡する戦略や戦術が、世の中ではあれこれと考案されているのだろうし、それは物や情報の生産から流通を経て消費に至るまで、滞りなく流れるような仕組みに組み込まれていて、人はただそれぞれの現場で、システムが順調に動作するような配慮が求められ、流れに逆らわずにシステムを動かす力に従っていればいいことになるのだろうが、そのような人を作り出すのが全体主義的な権力だと言えば、少しは納得してもらえるかも知れないが、そもそも民主主義を実現させるには、すべての人が平等な権利を主張できるような環境が不可欠で、それとすべての人が同一のシステムに従う全体主義的な環境は、一見似て非なるもののように思われるかも知れないが、人が平等に主張できる権利というのが、同一のシステムに従う権利だとすれば、その権利を行使する人は、全体主義的な政治体制に参加することになってしまうのかも知れず、それこそが人を同一のシステムに取り込むための罠だとするなら、民主主義という肯定的な価値観に誘われて、人は自然に全体主義的なシステムに従う羽目になってしまうような成り行きがあるのかも知れないが、それでは話が少しおかしいわけで、民主主義は政治のシステムであり、経済的な物流システムではないはずなのだが、なぜそれがつながってしまうのかといえば、労働を介してつながるわけで、経済を優先させるには労働者の効率的な運用が不可欠であり、そのための全体主義なのだとすれば、労働の現場が全体主義であるのに、政治の現場が民主主義というわけにはいかなくなるわけで、また人は何よりも生活の糧を得ることを優先させなければならず、それには必ず労働がつきまとい、労働を通してリアリティを得るわけだから、そこでは民主主義的なきれいごとが通用しないことを実感させられ、そんな現実から民主主義が掲げる自由や平等や友愛などの幻想的な理念に対する疑念が芽生えてくるのではないか。

 しかしそもそも政治とは何なのか。なぜ政治と経済を並べて政治経済学というカテゴリーが存在するのだろうか。それは政治と経済が密接に結びついているからだろうが、法律的には国民の自由と平等を保障しておいて、表向きは政治は国民の生活を守り、国民を幸福に導くのが政治の役目であるはずなのだろうが、一方で行政的な面では、企業などの経済活動に必要な高品質で従順な労働者を教育によって作り出す必要があり、実際の教育現場では学業と並んで、権力に従うように規律を守るための様々な訓練が施されるわけで、それは教育の場だけではなく、一般人を対象とした訓練なども、職場や地域的な自治の場や病院や各種の施設で施されていて、その中には当然のごとく刑務所もあるだろうし、道路でも警察が交通規則を守らせようとしているわけで、また治安維持を目的とした警察は、普通に各種の法律を守らせるために、国民を指導していることになっているわけだから、中には防犯講習会などの訓練を伴うこともあるだろうし、防火訓練では消防署が出てくるわけだし、そうやって様々な役所が国民を規律に従わせるための訓練を施しているわけで、それらを広く国民を国家に従わせるための訓練だと捉えれば、そうやって国家が国民に対して権力を行使していることになるわけだが、国民の側にはそれほどはっきりとした自覚はないだろうし、米軍基地の反対派に警察の機動隊が暴力を振るうような権力の行使とは、その強度や質が異なるように思えるだろうが、また政治家の政治活動とは全く違う行為かも知れないが、やはりそこにも政治が介在していることは確かだろうし、民主主義のきれいごととは別に、暗黙の了解事項として、国民を国家に従わせるように権力を行使するのが政治の真の目的であり、しかも国民の反発を招くような暴力などのあからさまな行為は、なるべく控えなければならないだろうし、できれば国民が権力を行使され国家に従わされている、という自覚を持たれないような配慮が必要とされているのではないか。そんな傾向の国家に従順に従うように仕向ける訓練が、国民がそれと自覚できないような形で施されなければならず、そういう意味でもなるべく子どもの時分から権力の行使に慣れさせる目的で、学校などで中身の濃い教練や訓練が繰り返されている現実があるのかも知れず、それを北朝鮮などで行われている洗脳教育と一緒にするのは憚られるだろうが、目的としては似たようなものなのかも知れない。


1月23日「組織内の権力関係」

 人が守ろうとしているものが必ずしも人を守ってくれるわけでもなさそうだが、何を守ろうとしているかは人それぞれで異なるだろうし、たとえ共通の何かがあろうと、それに対する考え方も立場も異なれば、守っている程度や度合いも人それぞれで異なると捉えておくべきだろうか。そういう意味で何らかの社会的な規範を守っているつもりでも、その規範にも色々な種類や程度があるから、立場や考え方の異なる人から見たら、当人が守っているつもりであっても、まったく守っていないように見えることもあるだろうか。人の動作が他の人にどう見えているのかなんて、そんなことを気にしだしたらきりのないところだろうが、それがはっきりした違法行為でなくても、その人にとって都合の悪いことをやられたら、場合によっては許せないと思うだろうし、またはっきりした違法行為であっても、互いに利益を分かち合う共犯関係にある人にとっては、頼もしいと思われる場合もあるだろうし、さらに人が制度的に強制的に課される行為というのは、その制度を介した権力関係によって強要されることになるわけで、たとえそれを拒否することが合法であっても、そこに権力関係がある限りはやらざるを得なくなる場合があり、そういう面で世の中は法律だけで回っているわけではないだろうし、法律の類いを守っているだけでは、その法律によって自らが守られているとしても、法律のあるなしに関わらず、権力関係が災いして自らを危機な状況に陥れることもあるのではないか。そしてその権力関係が維持されるように、権力にとって都合の良い決まりごとを関係者に守らせようと仕向けてくるわけで、その決まりごとを守っている限りは権力に楯突くことはできず、権力に対する服従関係が継続していくことになり、権力の言いなりになって権力にとって都合良いことを行わなければならず、それを拒否すれば権力から何らかの制裁を受けても文句も言えない立場を堅持しなければならない。たぶん世の中でうごめいている組織的な集団はみな、その構成員と権力関係で繋がっていて、集団内で権力を行使することで構成員を働かせ、その集団の構成員である限りは、何よりも組織の利害を優先させなければならず、それが組織内での決まりごとの根本を占めていて、それに従いながら構成員は動かなければならないわけだ。

 たぶん個人としての人は、そんな権力関係を強要してくる組織的な集団に反感を抱いているのだろうし、願わくば組織を相手にうまく立ち回って、ひと泡吹かせてやりたいとも思っているだろうし、またあこぎな人なら組織を支配して、自分の都合のいいように操りたいとの野望を抱いている人もいるだろうし、実際にそんな独裁的な支配体制を組織内で築き上げた人もいるのかも知れないが、組織に対して反感を抱くのも野望を抱くのも、組織に対してそんな幻想を抱いている時点で、すでに組織に取り込まれていることになってしまうのかも知れず、何らかの形で組織に接触して関係を持てば、当然そこに権力関係が介在してきて、そのような力の行使に逆らっても従っても、それが組織にとって利用価値があれば、組織的に利用しようとするだろうし、なければ放って置かれるだけで、放って置かれたら面白くないだろうから、組織に対抗する側も集団を作って組織的に反対運動でも起こせば、それではすでに集団と集団の争いになって、個人の立場など無視されてしまうだろうし、それでも組織に個人の立場を反映させたければ、組織全体を支配して独裁体制を築かなければならないかも知れず、そうなると支配者個人の立場はなるほど組織全体に反映させられるかも知れないが、組織内の他の構成員の立場はないがしろにされてしまうだろうし、その支配者自身も組織にとって利用価値がある間だけ支配が許されているわけだから、いったん邪魔になってくれば、たちまち組織内で追い落とし工作が顕在化してくるだろうし、そういう意味でも個人の意向よりは組織の論理が優先されるわけで、個人による組織の支配といったところで、その個人が組織の意向や論理を尊重する範囲内で支配が成り立っているだけだから、結局は条件さえ満たせば組織にとって支配者が誰であっても構わないような事態も生じるわけで、そうなった時点で支配者の個人的な立場も意向も、組織の中では無視されていることになるのかも知れず、そうなれば実質的には個人による組織の支配などないも同然で、ただ支配者が支配しているような幻想を抱いているだけとなって、いわゆる裸の王様的な役割を担っているにすぎないことになるのかも知れないが、そうだとすれば組織的な権力の行使というのは、たとえ組織内の個人が行使する役割を担っているとしても、それは組織全体の意向が反映された権力の行使だと見なしておくのが妥当なのではないか。


1月22日「予想の困難」

 産業革命時代ほどではないにしても、今の時代でも人の労働を機械に置き換える過程が、現在進行形で進んでいることは確かだろうが、それと並行して人の労働も新たに創出されているかどうかは、はっきりしないところかも知れず、長期的に失業率が右肩上がりで上がっていなければ、今のところは労働が機械に置き換えられても、そのあおりを食って人の働き口が減っているわけではないことになりそうなのだが、少なくとも機械技術の進歩と普及によって、人の労働形態は昔とはだいぶ様変わりしていることは確かだろうし、機械に置き換えられてなくなった労働もいくらでもあるのだろうが、今の時代に生きている人は今の時代の中で行われている労働を、当たり前のように認識しているだろうし、機械に労働が奪われて失業者が大量に出て、それが社会問題化しているという話題は聞かないし、少なくとも急激にそうなっているのではなく、いつの間にか機械に置き換わっていて、それによって困る人が大量発生しているわけではなさそうで、メディアがセンセーショナルに取り上げるような話でもないのかも知れず、たぶん必要に応じて人力が機械に置き換わっているだけで、必要がなければ人力のままなので、必要もないのに機械に置き換わって、人力でやっていた人が困るような事態ではないのかも知れず、また機械が今では十分に普及していて、機械が人力の労働に取って代わるというよりは、技術革新などによって進化した新しい機械が、古くて非効率な機械に取って代わるケースの方が多く、機械を作り出す人や操作する人は今のところは必要だから、機械が機械を自動的に作り出して、人の操作を必要としない機械が主流を占めるようにでもならない限りは、相変わらず人の力を介在させなければならないだろうし、そういう意味ではまだ十分には機械文明が発達していないようにも思われるわけだが、機械が機械を勝手に作り出して、その機械が勝手に動き回るようになれば、人が何をやればいいのかわからなくなってしまいそうで、今のところはそこまで文明が進んでいないから、労働の苦しみと生きがいが人にもたらされているわけで、そんな労働やその他の動作に対応して、人の意識が構成されているのだろうし、今の時代に生きている人にとっては、この先いつか労働のない時代が到来するとしても、そんな時代に生きている人が何を考え何を生きがいにして生きているかなんて、想像できる範疇にはないだろうし、それははるか昔の時代に生きていた人が、今の時代に生きている人の意識を想像できるとは思えないのと同じようなことだろうか。

 過去も未来も想像力の産物に過ぎないかも知れないが、過去にはそれなりに痕跡が残っていて、過去の文献などからその時代に生きていた人が何を考えどう行動していたかについて、それなりに確からしいことが言えるかも知れないが、そうであるにしても現代の基準から過去を考えてしまうと、現代の人が納得でき信用できるような過去が構成されて、それは未来についても言えることで、現代の人が納得でき信用できるような未来の姿を想像してしまうわけだが、それらの思考に何が欠けているのかといえば、そんなことを考え想像している現時点での認識について、それがたとえ現代の人が納得でき信用できるような認識だとしても、果たしてその正しさをどうやって証明できるのか、その方法を思いつけないのだが、現代人の現代についての認識が正しかろうと間違っていようと、とりあえずその認識が納得でき信用できるようなら、そういうものだと思うしかないだろうし、その正しさまで証明しようとはしないだろうし、結局はその延長上で過去や未来の認識が構成されてしまうとしても、そう思ってしまうなら仕方ない面もあるのではないか。ただそうだからといって、それを納得したまま信用したままでいる必要がなければ、より納得でき信用できるような認識を模索してもいいわけで、そういう方向で何か手がかりがあるとすれば、それは過去の文献などから導き出される過去の認識と、現代人の認識との差異であるだろうし、例えば産業革命期の社会的な混乱の時代に、遠からぬ資本主義経済の破綻による終焉を予想する意見と、それが破綻せずにやがて定常状態に落ち着く意見と、同じ経済現象から導き出された学説から、二種類の相反する予想が同時に主張可能だったとしたら、では今の時代に資本主義経済の遠からぬ破綻と終焉を予想する人たちの主張が、たとえそれが納得でき信用できる内容だとしても、少なくとも実際にそうなってみないことには、その正しさは証明されないわけだから、それをどう捉えるべきか迷うところだろうし、そもそも相反する二種類の予想が可能な学説が、それなりに納得でき信用できるようなものなら、そこから導き出される相反する二種類の予想も、それなりに納得でき信用できるわけで、そうなるともはや資本主義経済の破綻も安定もどちらもあり得ることになり、予想すること自体に意味がなくなってしまうようにも思われるわけだが、予想したい人はそこから予想を導き出したいわけで、やはりその辺に不条理があるのかも知れない。


1月21日「過度な期待」

 簡単な政治的なスローガンを打ち出して、そういう主張に沿った政治をやろうとするのが、別におかしなことでもないのだろうが、アメリカ第一主義を掲げてアメリカ人の雇用を確保しようと呼びかけても、すでに失業率がそれほど悪化しているわけでもなく、雇用は現状でも十分に確保されているのかも知れず、あとは賃金が上がれば文句も言えないところだろうが、企業が儲からないと賃金は上がらないだろうし、さらに減税して公共投資を増やすとなると財政赤字が増えるだろうし、何をやるにもすでに限界が見えているようにも思われるが、やれるだけのことをやって少しは成果が出れば、それを強調して宣伝することで民衆の支持を集められるという算段だろうか。政治的な次元でやれるのはそういうことであり、それ以上のことを期待されても困るだろうし、実際にそれ以上の何ができるわけでもなく、それを超える何をやろうとしているわけでもないのだろうし、簡単に言ってしまえば政治とはそういうことでしかないのかも知れないが、そこに何やら周辺地域との歴史的な経緯やら地政学的な事情が絡んできて、事態をそれなりにややこしくしているのかも知れず、不法移民とかそれに絡んだ問題で関係する国との軋轢が生じれば、大問題が発生したかのごとくに誇張されて報道されるだろうし、また貿易や安全保障などの面で関係国と協議や交渉がもたれて、双方の溝が埋まらず外交問題にでも発展すれば、また大問題が発生したかのごとくに報道されるだろうが、それらはこれまでも繰り返し問題になってきたことだから、また何年か経過して次の政権になっても、同じようなことが問題視されるのかも知れず、もはや政治的には何がどうなるわけでもないような気がするのだが、果たしてアメリカの大統領が、何か暴走ぎみに勝手なことをやらかして、世界を大混乱に陥れるような成り行きになれば、それはそれで愉快なことかも知れないが、そうはならないだろうとは思うし、できればそんなつまらない予想をひっくり返して、周辺国を呆れさせるようなことをやってほしいのだが、思い返してみれば2001年の同時多発テロからアフガニスタンとイラクでの戦争は、予想もしなかったことだったし、今もその混乱が尾を引いていて、それらの国の国民にしてみたら、もともとあった独裁政権を倒したのは、少しは良かったことかも知れないが、実質的にはアメリカの大統領が自分たちの国に大惨事をもたらしたわけだから、今回の大統領が表向きはそれとは真逆のことをやろうとしていても、やはりこの先何が起こるかわからないと思っておいた方が良さそうだ。

 日本の政治に関してはこの先何が起こるとも思えないが、ここ数年の国内で起こっていることが何を物語っているかは、様々な方面から様々なことが言えるとしても、そのほとんどがどうということはないとは言えないにしても、コップの中の嵐にたとえてしまうと、事態を矮小化していることにもなるだろうし、政権を握っている勢力に対して、真正面から何を批判しようと、無駄で無意味なことだとは言えないにしても、たぶんそういう批判は少しずれているようにも思われ、的外れなことを批判しているわけでもないのに、批判が的に届かず、しかもそれで構わないようにも思われて、わざと手加減しているわけでもないのだろうが、批判が批判として機能していないことは確かで、別にそれでも構わないのだから、文句を言う筋合いでもないのだろうが、それでも少し言えることは、威張っている人たちには威張らせておけばいいのかも知れず、図に乗らせてのさばらせておけば、政治的にはそれで済んでしまうような話で、もしそういう人たちに向かって、生意気だと近隣諸国がいちゃもんをつけてきたら、それなりに誠意を持って立ち向かってもらえばいいことでしかないのかも知れない。彼らに何ができるのかといえば、今やっているようなことだろうし、今やっていること以上は求められないし、それ以上を求めるのは筋違いに思われるし、それは何かのきっかけで政権交代したところで、それほど変わらないことなのではないか。政権交代して脱原発や沖縄の米軍基地のさらなる縮小などの懸案事項を推し進められたら、それはそれで良い傾向に思われるだろうが、現状ではそれを阻もうとする勢力が政治の主導権を握っているわけだから、とりあえずそういう人たちには威張ってもらって、現状のまま頑張ってもらうしかなく、やれる限りのことはやってもらって、その結果をそれなりに評価すればいいのではないか。どう考えても今やっている以上に何をやれるわけでもないし、世界的に見ても何か政治的に画期的な試みを行おうとしているのは、フィンランドがベーシックインカムを試そうとしていることぐらいで、他はこれまで通りの延長で何かをやっているに過ぎないのではないか。しかも政治に何か他のことを求めるわけにもいかないような気がするし、メディア的な煽り立てと現実の政治は違うのだろうし、他には予算の範囲内での行政サービスの向上と改善のような、そんな地道な努力に政治が関わってもらえば、場合によったらそれがすべてでも構わないのではないか。


1月20日「ネガキャンの成果」

 例えば何かを批判すれば、その何かが具体的には何なのかを知ることになるだろうか。知る以前にそれについて語ろうとしているわけだから、すでにそれについての知識を持ち合わせていても別におかしいとは思えないが、ではなぜそれを批判するのかと言えば、別にそれを知りたいから批判するのではなく、それをやめさせたいから批判するのだとすれば、ではなぜやめさせたいのかと言えば、やっていることが間違っているからだろうか。批判の対象が何らかの行為ならそういうことだろうが、それが他人の言説なら、言説の内容が間違っているから批判するのだろうか。普通に考えれば正しいと思う言説の内容が、批判の対象となることはないように思われるのだが、それが正しかったり間違っていたりする基準とは無関係に批判するとなると、では何のために批判するのかと言えば、それが何なのかを他の人たちに知らしめるために批判するという意味も、批判には含まれているだろうか。知らしめるためというよりは、批判を通じて批判の対象そのものを、自身がより良く知ろうとしているのかも知れず、なぜ批判しながら知識を深めようとしているのかと言えば、それまでの批判では不十分だから、さらなる完璧な批判を目指していて、そのためには対象をより良く理解しなければならず、批判の精度を高めるには、それまでの批判内容を吟味して、不完全なところや改めるべき点を改めて、そうやって再度批判しながら、そんな批判の繰り返しの中で、批判対象についての知識や認識を深めようとしているのだろうか。そうだとするとそれはこれまでの不完全な批判への批判も含まれているだろうし、批判の対象が拡大されて、簡単にいうなら敵も味方も自分も同時に批判することになり、一方的で攻撃的な批判内容ではなくなるはずで、そうなればそれだけ納得でき信用できる批判にはなるかも知れないが、どうもそういう批判をやるにはそれなりの技量や知性が要求されて、普通の一般人にはなかなか難しいだろうし、それができない人たちがやりがちな批判というのは、自分の至らなさやお粗末さは棚に上げて、他人のあげ足取りや落ち度を一方的に喧伝しまくる、いわゆるネガティヴキャンペーンという手法になるわけだが、それが世の中で通用している現実があるとすれば、果たしてそんな世の中で良いのか悪いのかといえば、普通はそういうことをやっている人たちや、それを真に受ける人たちが非難されて然るべきなのだろうが、もしかしたらそれを非難する資格のある人がいない現実もあるのかも知れない。

 いるにはいるのだろうが、ネガキャンをやっている聞く耳を持たない人たちや、それを支持する人たちには、そんなわけのわからない批判など理解できないだろうし、理解できない批判が有効なわけがないと思われるだろうし、実際に短期的にはネガキャンが成果を上げている現実があるのだろうから、それらの人たちが聞く耳を持たないのは当然で、そういう人たちにとってはそれで構わないのだろうし、短期的な世の中の情勢というのは、そういう人たちの動向に左右されているのではないか。もちろんそんな薄っぺらいネガキャンなどすぐに忘れられてしまうので、長期的にはどうということはないのかも知れないが、普通の一般人は長期的な世の中の動向などに興味はないわけで、そんなことなど知ったことではなく、ただ目先のメディア的な煽動行為に怒ってみたり、ざまあみろと嘲笑してみたりしているうちに、それなりに歳月が経過してみれば、結局何を理解したわけでもないままに、この世の生を閉じることになるのかも知れないが、やはりそれがどうしたわけでもなく、たぶんそれの何が良くて何が悪いのかなんて言うべきでもないような世の中なのだろうし、それで構わない人たちはそれで良く、いくら何でも少しはマシな世の中になってほしいと思う人たちは、少しはマシな批判に耳を傾けようとはするのだろうが、耳を傾けたところで世の中が良くなる保証なんてどこにもないわけで、また何がマシな批判で何がネガキャンなのか理解でない人たちも大勢いるわけだから、どう考えても人それぞれの自由意志を尊重する程度に留めておいた方が無難なのかも知れず、もちろん自由意志など幻想で、人間の精神は世の中の慣習や制度に支配されていると見なせばそれまでかも知れないが、未来が今よりは良くなると信じている人たちには、その場限りの短期的な煽動行為で良くなるとは思えないだろうし、それとは別の何かが世の中を動かしているような気にさせるのかも知れず、その延長上で目先の利害や損得勘定とは別の、それを超える普遍的な価値観を求めるようになるのかも知れないが、それでもたぶんそれを求めることが良いか悪いかの判断は保留しておいた方が無難かも知れず、目先の利害や損得勘定はそれが有効に活用できる機会は確かにあり、またそれを超える普遍的な価値観を求めなければならない機会もいつかは巡ってくるのかも知れない。


1月19日「ニコニコ」

 たぶんメディア的な認識から逸脱すると何がわかることもなく、何をわかる必要もなくなってしまい、そんなことはどうでもよくなってしまうのであり、自分が何も語る必要もないことまで気づいてしまうのかも知れないが、あえてそれに逆らって語ろうとすると、結局は語る必要のない余分な内容となってしまうだろうか。しかしメディア的な認識とは具体的に何なのか。それさえもわからなければ、そこから逸脱することもそれに逆らうこともできないような気にもなるが、もしかしたらこれといってはっきりとわかるような認識など、もとから提示されていないのかも知れず、ただそれをメディア的な認識と呼んで否定的に扱えば、何か語っているような気になれるわけでもないのだろうが、そこには一括りにできないような多種多様な認識が述べられていて、その様々な認識の分散的で離散的な広がりを表現しようとすると、それをメディア的な認識という何かおおざっぱで否定的な言い回しで語りたくなってしまうのだろうか。といってもまだ具体的に何を否定しているわけでもなく、ただそこから逸脱すると何も語れなくなってしまうほど、メディア的な認識に依存しながら語っているような気にはなるということかも知れず、できればその依存状態を断ち切りたいのだが、すべて断ち切ってしまうと何も語れなくなってしまいそうで、断ち切りたくても断ち切る気になれないような、そんな中毒症状も想起できるような事態になっているのだろうか。それこそがおおざっぱで否定的な言い回しであり、できればそういうメディアに対する否定的な認識から逸脱したいのかも知れず、無理にもそうしたいわけでもないのだろうが、否定的に語るだけでは駄目なような気がしてくるわけで、かと言って肯定的にメディアを礼賛する気にもなれないし、語る対象からメディアを少しずらさないと、これまで通りの言い回しから逃れることができないのだろうか。その肯定的または否定的な煽り立てから生まれる認識が、世の中の現状を的確に捉えているとは思えないからメディアに対する不信感が生じ、煽り立てる必要のないことを煽り立てているようにも思われ、そういう無理な盛り上げについて行く必要を感じられなければ、それについて何も語る必要もないことに気づいているのかも知れず、そうであるなら黙ればいいことでしかないのだが、メディアへの依存体質から抜けきれなければ、否定的な言い回しを使ってでも語ろうとしてしまうのではないか。

 表面的にはそれ以上も以下もなく、表面的なこと以外は何もないのかも知れず、ただ語られている表面で語るしかなく、それ以外は何も語れなければ、そこで終わりなのかも知れないが、終わりというのが終わりのない終わりであり、常に何かを過剰に煽り立てていないと、メディアは存続できないのであり、とにかく話題を提供することで存続しようとするわけだから、それが話題となる限りにおいてメディア的な言説を構成していて、その言説の中にメディア特有の認識があるように思われるわけで、様々な話題に応じて様々な認識が語られているように思われれば、それで構わないのだろうし、何も不信感を抱くような成り行きにはならないのかも知れないが、実際にはそうではないのだろうか。当然メディアはそれに関心を持つように仕向けているのだろうし、関心を抱いてほしいから世の中の話題として取り上げるわけだから、関心を集めるような話題を優先的に取り上げるわけで、取り上げる話題がセンセーショナルなことばかりならなおのこと好都合だろうが、そんな感情を煽り立てるようなことばかりではなく、何かほのぼのとした話題も取り上げるだろうし、また真面目に考えてほしいような社会問題も取り上げるのだろうが、例えばそれらの中に人々が知ってもらっては困るような話題が含まれているだろうか。メディアにとって不都合な話題をメディアが取り上げるだろうか。メディア同士が敵対関係を装っていれば、敵対しているメディアが困るようなことを取り上げるだろうが、では味方や自身が困るようなことを自ら取り上げるだろうか。それも成り行きによっては取り上げざるを得ない場合も出てくるだろうし、たぶん絶対に取り上げないような話題というのはなく、様々な種類や傾向のメディアが世の中にはあるわけだから、全体としては結構ありとあらゆる話題が網羅されているのかも知れず、人々の好みや関心に応じて様々なメディアがあることになっていて、そういう点では何も文句などつけようがないのかも知れないが、それでもそんな現状に逆らって、それらのメディアへの依存から脱して何を語れるだろうか。語ろうとすることがメディア的な行為なのだから、そういう意味でメディア依存を解消することなどできはしないのだろうが、何かを語ろうとする限りは、語る必要もないのに語らされている状態に逆らって語りたいのであり、そのメディアに依存しながら語らされている状態から抜け出るために語ろうとするのではないか。少なくとも養殖いけすの中で飼われている魚のように、餌を投げ込まれて群れをなしてそれに食らいついている光景は拒否したいのだが、煽り立てる画面に視聴者のコメントが大量に流れる動画を観ていると、そんな光景を思い浮かべてしまうわけだ。


1月18日「精神力の強化」

 人の身体は精神という牢獄に閉じ込められている、と言うのは隠喩でも何でもなく、精神というのが社会の慣習や制度から作られていて、その慣習や制度を規範として守らせるように、精神が絶えず監視の目を光らせていて、身体はそんな精神の支配から逃れられないように思われるわけだが、そこからの逸脱は誰もが経験することかも知れず、四六時中精神に従ったままだと疲れてしまい、不意に身体が意図しない動作を起こすことがあるわけで、そんなふうに勝手に身体が動いてしまうような時は、意志の力で身体を押さえつけていたのが限界に達していて、そんな時には身体の勝手な動作に従っておいた方が身のためなのかも知れず、それを意志の力で無理に克服しようとすると、身体に過度な負担がかかって、病気に罹ったり怪我をしたりして、結果的に寿命を縮めることにもなって、そんなことをしてまで何かを達成しようとするのは、まさに精神力の賜物なのかも知れないが、それを強いているのが虚栄心や名誉欲をもたらす社会の慣習や制度だとすれば、例えば戦時中の神風特攻隊の人たちが精神力を強調していたのも、納得の行くところだろうか。彼らの場合はそうやって名誉の戦死を遂げたわけだが、そんな極端な例を持ち出さなくても、過労死とか癌や他の生活習慣病で早死にする人などは、単に意志の力が弱くてそうなるというよりは、社会の慣習や制度に従ったままだと、普通にそうなるのかも知れず、もちろんそうならない人もいくらでもいるわけだが、何かの巡り合わせでたまたまその人にストレスが集中するような役割が回ってきてしまい、周囲の人間関係や職場の状況から、逃げ出すことができない立場となって、結果的にストレスを一身に背負いこんで、自滅してしまうケースというのが結構あるのかも知れず、それが自殺の原因とかにもなるのだろうし、そういう成り行きになるのが嫌なら、精神や身体を鍛えるよりは、逃げ足を鍛えておいた方が賢明なのかも知れないが、果たして逃げ足が鍛えられるのかといえば、それでは隠喩的な表現に逃げているようにも思われるし、正直に言って何を鍛えたからといって、そういう成り行きを避けられるわけでもないだろうし、自己を鍛えるというよりは、その場で外部を意識できれば、外部と自己との関係の中で、外部から自己に犠牲を強いるような作用が及ぼされていることに気づけるのかも知れず、それに気づくことができれば、その場に残るかその場から逃げるかの判断を下す機会が訪れていることを知るに至り、そこで精神がもたらすこだわりを捨てて、身体の動きに身をまかせられれば、うまくそこから離脱できるのかも知れない。

 結果的には運が良かったり、また勘が鋭く機会を逃さなかったり、あるいは単にその場の成り行きに身をまかせているだけで、自然とうまい具合に事態が好転していって、気づいてみれば何事なかったかのようになっていたり、勝手な解釈に施せば何でもありかも知れず、そんなふうに結果から振り返って何が起ころうとも、全てを都合の良いように受け止めることなどできないかも知れないが、そうだとしても自分で自意識を全面的に信用するのには絶えず危険が伴い、社会と自分との関係から自意識が構成されるわけだから、自意識は自分の意向だけを優先しているわけではなく、同時に社会の意向も優先している面もあるわけで、もし自分の意向と社会の意向が同一方向を向いていて、一体化しているように思われるなら、それは社会で主導権を握っている勢力に自分が取り込まれている証拠かも知れず、要するにそんな自分は保守派に属していると認識しているわけだろうが、たとえ自分が社会の意向とは逆方向を向いているように思われようと、それでも社会の中で生かされている現実があるわけだから、別に社会から疎外されているわけではなく、社会の意向とは逆方向を向いていると思わせるような何かに取り込まれていると思っておいた方が無難かも知れず、その何かというのが仮に反体制的な社会勢力だとしても、時としてそんな勢力が自分に犠牲を強いるような作用を及ぼしてくることもあるだろうし、それに関してまた極端な例を持ち出すなら、テロリストの自爆攻撃というのはまさにそれで、全てがそういうわけでもないだろうが、そこでも試されているのは相変わらず精神力であり、どのような集団であれ犠牲的な組織への忠誠心といった類いは、個人の利害を超えた精神力が求められているわけで、精神力の強化というのは、いかなる時でも身体を精神の牢獄へと閉じ込めたままでいられるように、牢獄の強度を高めるための鍛錬であり、常に身体が精神の言うことを聞くように訓練するわけだから、その精神が何らかの集団と固い絆で結ばれているようだと、自らの生死より集団の意向が優先されるだろうし、その集団の存続や繁栄のためなら、どんな過酷な要求にも従おうとするだろうし、どんなむごい仕打ちにも耐え、どんなひどいこともやってのけようとするのではないか。そういう意味で何らかの集団が何らかの訓練によって、その構成員の精神力を鍛えるようなことをやっていれば、それは構成員のためというよりは集団そのものの力を強化するためであり、その訓練の内容が人を人として扱わないようなものなら、なおさらそういう集団に入るのは命がけの危険を伴うことを覚悟しなければならないだろう。


1月17日「レッテル貼りの果てに」

 人が人である限りは人でしかないわけだが、人について考えるときには、人であるだけではなく、その人が世の中で何をやっているのかを考慮に入れないと、思考の対象とはならないだろうか。だがそうなるとその人のやっていることについて、あれこれと考えたり思ったりすることになり、それでは人と言うよりは対象が特定の人物になるわけで、そうやって何らかの固有名で呼ばれている人物に対象が特定されてしまうと、それについての思考は他の人物には適用できなくなるから、思考の対象は人一般ではなくなってしまうわけだが、では人一般について思考するときはどうなるのかと言えば、誰にでも当てはまりそうな共通の性質や習慣などについて思考することになるだろうか。しかしそれにしてもどこかで境界を設けないと、考える内容によっては漠然としすぎて、焦点がぼやけてしまいそうだが、それについては世間一般で通用しているありふれたカテゴリーを適用すれば、何かもっともらしいようなことを考えていることになるのかも知れず、例えばその対象を日本人とかアメリカ人とか、特定の国籍を有する人に限定して、その国に特有な価値観や生活習慣や風習などについて考えてみるのも、メディア経由で伝えられるその国についての先入観とか偏見とかに合致したりして、何やらもっともらしい思考内容になるだろうか。他にもありふれたカテゴリー分けの例としては、性別や職業別や年齢別や年収別や血液型別など、興味を引くようなカテゴリーが結構ありそうだが、何か特定のカテゴリーに属する人には、共通の特性があるかのように考えてしまうと、場合によっては差別意識の助長につながってしまいそうで、果たしてそれで人について考えていることになるのかと言えば、否定的にも肯定的にも暇つぶし的にも、人を何らかのカテゴリーに入れて、一般に流布されているそのカテゴリー特有の類型化された性質を押しつけて、その人が何者であるかを特定して安心したいのではないか。要するにその人にレッテルを貼り付けたいわけで、それも思考的な単純化の類いなのだろうが、そういうやり方には何が欠けているのかと言えば、その人特有の個人的な事情が欠けていて、しかもそこからその人特有の性格や思考が生じていれば、その手のレッテル貼りは間違っていることにもなるが、レッテル貼りそのものがこじつけ的な意味合いもあり、その人にどんな事情があろうとも、レッテル貼りからこじつけ的に性格などが説明されてしまう場合もありそうだ。

 レッテル貼りは本気でやる人には悪意がこもっていたり、軽い冗談のつもりならからかい半分なのだろうが、他人の批判的な言動に対するあげ足取りとして、それをレッテル貼りだと決めつける手法もあり、どういう場面で使うにしろ、そうやってこじつけたり決めつけたりした他人に対する評価を、その他人の意向を無視して押し通したいわけで、そういう意味では聞く耳を持たない人特有の攻撃的な戦術と言えるのかも知れず、世の中で他人への寛容な気持ちが薄れてくると、そういう風潮が蔓延して何かぎすぎすした世相になってくるのかも知れないが、それが必ずしも悪い傾向とは言えない面もあるのかも知れず、他人を攻撃する気があるのなら、まだ戦うことをあきらめてはいないわけで、完全に戦意喪失して体制的な脅しに屈したならば、もはや誰もが黙ってしまって、いくらレッテル貼りされようと誰もむきになって刃向かってこないわけだから、悪意のこもったレッテル貼りに立ち向かう人がいたら、まだその種の戦いが続いている最中かも知れないが、その一方で他人の誠実で真面目そうな批判を、レッテル貼りだと嘲笑する輩が目立ってくるようなら、心のねじ曲がった卑劣漢が優勢な世の中になってきたといえるだろうか。ネット上ではその手の人たちの言動が目立つ傾向にあるのかも知れず、それがそのまま現実の世の中に当てはまるわけでもないのだろうが、そうした印象をある程度は真に受けて、それに関して何かを語りたい人もいるわけで、そういう不快な傾向もある程度はないと、他に何も語ることがなくなってしまうわけでもないだろうが、そんなたわいない状況の中でうごめいている人たちが、世の中に波風立てているつもりになれれば、とりあえずはそこで何かが行われていることになり、別に人も社会も無駄に存在しているわけではなく、少なくとも何かの役には立っていて、その何かというのが人に心地良かったり不快だったりする幻想をもたらす役目を果たしていて、しかもそれが暇つぶし以上の肯定的あるいは否定的な実感を伴っているなら、もしかしたらそれを目標にして人は生きているのかも知れず、それを追い求めることを生きがいに感じていて、それを手に入れるのを目的とした競争やゲームが、世の中で繰り広げられていることになっているのではないか。


1月16日「システムの変動」

 現状で成り立っているシステムは、世の中でそれなりに機能しているから成り立っているのであり、それをいくら批判したところで、またその批判に正当な根拠があるとしても、機能しているシステムを止めるのは容易なことではなさそうだが、政治権力に訴えてあからさまにシステムを止めようとする試みがうまくいかなくても、別のシステムを競合させて、批判されているシステムの需要を減らす試みは継続中のようだから、原発反対運動にしても全く見込みがないわけではなく、粘り強く批判活動を継続していけば、何かのきっかけで実を結ぶこともあるかも知れず、そのきっかけがすでに起こってしまった原発事故だとしても、さらにまた事故頼みというわけにもいかないだろうが、この先どうなるにしても、無理なことを継続させるにはそれなりの資金と労力が必要で、批判されているシステムが競合するシステムよりは非効率であることがはっきりしてくれば、そういうシステムは徐々に廃れていく傾向になるのだろうが、その徐々にというのが時間的にどの程度のことなのか、実際にそうなってみないことにはわからないだろうし、原発が本当に無理なシステムかどうかを決める機会もなかなか巡ってこないようで、日本の現状から感じられることは、今は政治の主導権を握っている勢力と結託して、原発推進派の巻き返しが活発化している時期であることは確かで、この先どこまでそんなことが続いていくかは、予断を許さないことかも知れないが、現状でそこへと作用している様々な事情が、あるとき急にかみ合って、思いもしない展開となる可能性もあるだろうし、利害関係にある人や集団の思惑を越えて事態が動いていくようなら、何かしら世論の期待が高まって、思わぬところから思わぬことが起こるとも限らず、そういう意味で今はちょっとしたことで一喜一憂しても、どうにもならない時期なのだろうから、冷静に事態を見守りつつも、見え透いた煽動や挑発には乗らないことが肝心なのかも知れないが、一般的に言って歴史は取り返しのつかない事態の繰り返しから構成されていて、今までそれを未然に防ぐことができなかったからこそ、歴史という概念があるわけで、今も続いているシリアの内戦なども、取り返しのつかないことの典型だろうし、もちろん福島の原発事故もそうだったわけだし、今後も取り返しのつかない事態が起こることは覚悟しておいた方が良さそうだ。

 実際にやっていることが合理的であるか否かというよりは、様々な事情が複雑に絡み合って、結果的にそんなことをやっている現状があるわけだから、たとえ採算が取れなくても、どこからか資金と人員を補填しながらやっていることもあるわけで、その結果が国家予算の大幅な財政赤字を生んでいるとも言えるわけだが、その延長で原発事業も継続させようとしているなら、やってできないことではないだろうし、すでに原発のある自治体への交付金まで含めれば、そうなっているのかも知れないが、まだそれでも国家全体としては、システムがそれなりに機能していて、現状で行き詰っているとは言えないのだろうし、世論を構成する多数派の実感としても、まだ取り返しのつかない事態になっているわけでもないのだろうから、実情がどうあれ政治の主導権を握っている勢力は、現状維持の延長上で事態を乗り切ろうとしているのかも知れないが、事態がどうなっているのかを本当に把握しているのかとなると、たぶん把握しているつもりになれるだろうし、実際にそれなりに大体は把握していることにもなっているのだろうが、そうだとしてもそれは様々な事情が複雑に絡み合った上で成り立っている事態なのだから、その複雑に絡み合っている事情の一つ一つを把握しているとは言えないだろうし、それらの事情の絡み合い具合も、それぞれの強度も異なっているだろうから、今は安定しているように感じられるかも知れないが、いつ如何なる事情で絡み合いがほぐれるとも限らず、それは日本の国内事情だけでなく、海外の事情も複雑に作用を及ぼしていることなのだろうから、変動要因には事欠かないだろうし、今までは何十年もどうにかなっていたとしても、この先も同様に事態が推移していくとは言えないにしても、実際にやっていることは現状維持の延長上でどうにかしようとしているように見えるわけで、そういうところが危ういところでもあるのだろうが、やはり期待としては何かが起こってほしいと思うわけで、最近ではその最たるものがアメリカの政治情勢なのだろうが、果たして大統領が代わっただけで情勢が動くのか、動いたとしても表面的なもので、本質は何も変わらず、世界情勢に目立った変動は起こらないのか、あるいは期待していたのとは全く異なる変動が起こり、その思いがけない変動によって途方に暮れてしまうようなら、取り返しのつかない事態となるかも知れず、そうなれば期待を超える何かが起こったことを、驚きとともに実感することになるのではないか。


1月15日「無理な論理」

 世界の広さを実感できるのは、偶然の巡り合わせでは結びつかない物や情報が、必然的に結びつくような流通ルートが確立されていて、そのようなルートに沿って物や情報が実際に流通していることを知るに至った時だろうか。普通はそれでは世界の狭さを実感するようにも思えるのだが、そこに何らかの流通システムが構築されていて、そのようなシステムを運用する担い手が存在していて、それが実際に有効に機能し活用されている現実は、特定の個人や集団の思惑を超えて、物や情報が世界中に行き交っていることを示していて、それらが必要に応じて配分され、貨幣と交換されているわけだから、それは特定の個人や集団の力だけではどうにもならないことであり、場合によっては敵対的な利害関係ですらも越えて活用されるわけで、そういう現実を知る時、特定の個人や集団だけでは支配しきれない世界の広さを実感できるのではないか。そもそも支配するという動作が、特定の地域や集団を支配することに限定されているのかも知れず、必要もないのに他の地域や集団を支配することはないのであり、必要に応じて支配する規模も決まってくるような性質があるのではないか。もちろんそこには競合関係にある他の支配地域や集団の存在も、規模が限定される要因ともなってくるわけだが、不必要な膨張は支配組織の破綻や分裂を招くだろうし、そういう意味で支配が無限に拡大することはあり得ず、支配の強度も無限に増大することもあり得ないわけだから、絶えず支配への抵抗を呼びかけるにしても、抵抗しているつもりの支配が、どのような程度の支配なのか、その辺を正確に把握しておかないとならないのかも知れず、権力による支配を実感していない人が世の中の多数派を占めていたら、いくら呼びかけても空振りに終わるしかないだろうし、そのような世の中なら、別に政治権力へ抵抗する必要もないことにもなりかねないが、政治権力の方でも世の中の多数派を敵に回したら勝ち目がないようなら、多数派を敵に回すようなことはやりにくいだろうし、そういう面で民衆への支配の程度も妥協せざるをえないような政治制度が、自ずと選ばれる成り行きになっているのではないか。もちろん支配する必要がなければ、無理に支配するような行為も行われないのだろうが、国民や企業などから税金を強制的に徴収しなければならない事情がある分、その部分で強権的な支配力を行使せざるを得ないわけだ。

 実質的な国家権力の行使の正当性とは、税収を得ないとやっていけないところにあるのかも知れず、自分たちの縄張りを確保して、そこから税を徴収して、その税金と借金と人財を活用して、自分たちの縄張りを維持管理することになるわけだが、税を強制的に徴収することの見返りとして、そこで暮らしている民衆の不満を抑えるための各種の行政サービスがあるわけで、行政サービスと言っても治安の維持や住民の暮らしや健康に役立つようなことにしかならないだろうし、それも予算で賄える範囲内でやれることは限られてくるだろうし、住民に対する行政サービスの他にも、国土の維持管理や行政機構の維持管理に多額の経費を必要とするのだろうし、特に行政機構そのものが不必要に膨れ上がり、予算配分がその部分に偏重している傾向があるなら、あるいは公務員の待遇や給与が民間に比べて優遇されている傾向があるなら、国民が国家官僚に支配されているような印象を与えるだろうし、民主主義が正常に機能していないように思われるだろうか。愛国心だの国家への忠誠心だの幻想を取り除けば、機能的には国家と国民との関係は、税の強制的な徴収と行政サービスを介した交換関係だとも言えるわけで、例えば企業と従業員との関係は賃金と労働力の提供を介した交換関係であるから、誰もが企業の従業員ではないしても、国家と企業は機能的には微妙に異なるわけだが、国民は国家に奉仕すべきだとかいう政治的なイデオロギーとなると、国家と企業を混同した本末転倒した論理となりそうで、企業と資本家の関係であるなら、資本家が企業に資金を提供して企業が資本家に利子を払う関係だから、まだその方が国家と国民との関係に近いだろうが、そうであっても税を強制的に徴収する行為が任意に資金を提供するのとは異なるわけで、どう考えてもそれらの間にアナロジーは成り立たず、おかしな幻想を介在させる余地はないようにも思われるのだが、他にも親子の関係に見立ててみたり、封建制でもないのに主従関係を当てはめたり、何とかして無理な論理を使って、国民を強制的な支配の対象とした臣民扱いにしたい思惑があるのかないのかはよくわからないが、そういう面で国家という存在には合理的な正当化を受け付けない特性がありそうだ。


1月14日「現状認識」

 たぶん何事も大したことではないのであり、物事を大げさに受け止めると、すぐに終末論的な大げさな予言へと発展してしまうから、その手前で踏み止まるべきなのかも知れず、踏み止まれなければ巧妙に迂回すればいいのだろうか。迂回するに越したことはないのだろうが、好き好んで回り道を選んでいるわけでもないだろうし、どうやっても言説が対象へ向かってまっすぐ進めない理由があるとすれば、それは対象が定まらないからで、それに向かって焦点を当てるとぼやけてしまうからだろうか。しかし対象とは具体的に何なのか。それが同時代的な状況であるのはわかっているつもりかも知れないが、いざ語ろうとするとずれてしまい、語っているうちにそれをうまく表現できないことが明らかとなるのだが、現状では少なくとも納得できる認識を得られていないことは確かで、何か思い違いをしているように思われてしまう。恣意的に条件を選べばすぐに資本主義の終焉を予言したり、それをもっとらしく語ることができるのかも知れず、現にそういう内容の言説をあちらこちらで見かけるし、多くの人が好んでそういう言説に同調しているのかも知れないが、一方でそういう真面目な次元から離れると、オカルト的にはノストラダムスの大予言以来、それに類する終末予言が前世紀の終わり頃から一貫して流行っている事情があるわけで、どう考えてもそれの亜流が資本主義の終焉論であるかのように思われ、それ以前に哲学の分野ではヘーゲルがすでに十九世紀に歴史の終わりを宣言しているし、聖書のヨハネの黙示録では二千年近く昔から世界の終末を預言しているわけだから、その手の終末論などいくらでもありそうなのだが、もしかしたら資本主義が終わる以前に、世界の終末時期に資本主義が全盛を迎えている可能性までありそうで、もちろん本気でそう思っているのではなく、それを真に受ける人たちの深刻さを装うポーズというのが、何か思い違いをしているように思われてしまうわけで、それを終わりと見なすか、終わりでなければ何なのか、と問われるかも知れないが、それを流行り廃りの類いと見れば軽すぎるだろうが、例えば大気中の二酸化炭素濃度の増加による地球の温暖化と、人類の滅亡を結びつける論調があるとすれば、果たしてそうなのかと疑問に思うだろうし、それと資本主義の終焉は無関係かも知れないが、何かを深刻に受け止めるという態度が何をもたらしているのかを考えてみなければならないだろうか。

 確か核兵器の使用によって人類が滅亡する危機はまだ継続中なのかも知れず、フィクションの中では何度も全面核戦争後の荒廃した世界が描かれてはいるのだが、なかなか現実の世界ではそれが実現しないようで、米ソ冷戦時代もとうの昔に終わり、現状では核戦争による終末論は廃れてしまったわけで、ではそれが流行っていた頃は何をやっていたのかと言えば、マスコミがこぞって核戦争の危険を煽っていたわけで、NHK特集で核戦争後に核の冬が訪れ、地球全体が氷河時代になるとかいう番組を観た記憶もあるが、実際にそれから三十年ぐらい経ってみて、何が起きているのかと言えば、相変わらずの日常世界が広がっていて、時代のトレンドは今や地球の温暖化だし、それもだんだん廃れてくるような気配もなきにしもあらずだが、最近は南極の氷床が大規模に遊離しそうだと話題になって、北極圏でのシロクマの危機やグリーンランドの氷河の縮小などの話題と合わせて、何とか命脈は保たれているようだが、それも日常生活から実感される平穏無事さ加減とは落差がありすぎるわけで、そういう話題と比べれば、まだ資本主義の終焉は身近に感じられはするものの、果たしてそれが深刻に受け止められるような問題かといえば、そうではないというのではなく、深刻に受け止めるか否かという選択が可能だとは思われないのであり、しかもそれを食い止めなければならないというわけでもなく、実際に人々が今から資本主義の終焉に備えなければならない、というわけでもないのではないか。本当に終わろうとしているのなら、それを人の力で食い止めることなどできないだろうし、資本主義経済の中で動作している人たちが、その終わりに向かってどんな備えができるとも思えないし、実際にそれとは異なる経済活動が模索されているわけでもなさそうで、ただ近い将来今までの延長では経済が世界的に立ち行かなくなるのでは、と予想する人たちがメディア上で脚光を浴びているわけで、それを真に受けてもっとらしいことを語ろうとすれば、それで事態を深刻に受け止めていることになるかどうかはわからないが、それよりは今の現状がどうなっているかに興味があるわけで、その興味が将来への見通しや予測へと向かうにしても、どうもそれ以前に現状がはっきりと捉えられてはいないような気がしてならない。それは核戦争への危機が煽られていた昔から抱いている疑念なのかも知れない。


1月13日「善意の連帯」

 そこに何かが隠されていれば、それを探し出したいという衝動が生まれても何ら不思議なことでもないが、実際に探してみてそこには何もないことがわかれば、そんな宝探しの興味も失せるだろうが、それ以前にそこに何かが隠されているらしいという噂が立つこと自体が、そんなふうに人の欲望を煽り立てる罠が、世界の至る所に仕掛けられているとは思えないにしても、隠された何かを探し出すことを目的としたゲームなら、フィクションの中ではありふれているし、架空の登場人物でなくとも、誰もが気楽に入り込める娯楽としてメディア的に提供されているだろうか。だが求めているのはそういった類いではなく、何かが人為的に仕掛けられているわけでもなければ、メディアが提供しているものでもないとすると、では何を求めているのかとなるわけだが、それがわからなければ、何を求めているわけでもないことになるのかも知れず、たぶんその辺で無自覚に事態を込み入らせて、求めているものを知りたくないのに、何かを求めているように装いたいのかも知れず、それが何だかわからないままゲームに参加しているわけでもなければ、参加してもいないのにゲームを解説しようともしていて、さらに解説しているつもりのゲームが何だかわからない、なんてことはあり得ないのだが、要するにそこには何もないことを薄々感づいていながら、それでも何だかわからないものを求めていることにしておきたいのが、そこでの暗黙のルールかも知れず、そんなルールも現実にはあり得ないのだが、フィクションの中では主人公が自らの幸運に頼りきって暴走を繰り返す話まであるわけで、そういう話を慣習として受け入れながらも、現実の世界では自らの了見の狭さに安住している人も大勢いるわけだから、その辺の虚構と現実の使い分けも、何だかわからないゲームのルールとして確立されているのかも知れず、今さら隠された何かを探すふりなど恥ずかしくてできないにしても、フィクションの中でやられている分には受け入れざるをえないわけで、もはやそれらが人の欲望を煽り立てる罠でさえなく、それが機能として成り立たないような機能というのなら、要するに機能していないことになるのだろうが、それでも機能しているように見せかけなければならないのだろうし、その辺の苦しさは痛いほどわかっているつもりで、誰もが何かを演じているのだろうか。

 現状でわかっているのがその程度だとは思えないのだが、しかも痛いほどわかっているつもりになること自体が、無自覚な演技でしかないのかも知れず、何かを自覚しているふりをしているうちに、それが演技であることを自覚できなくなってしまったわけでもないのだろうが、少なくともここにはない何かがあちらにはあることになってしまうと、それは単なるご都合主義でしかないわけで、それを探し求めているような演技が素晴らしいことにはならないのではないか。もちろん現実の世界では何も隠されていないわけではなく、何かしら隠されていると、それを探し出そうとする衝動に駆られることもあるわけで、そういう欲望にリアリティを感じている人もいるから、まだ宝探し的な行為も捨てたものでもなさそうなのだろうが、そうだとしてもそこには何もないという実感が噓偽りでないことは確かで、売り買いする商品もそれに必要な金銭もいくらでもありそうに思われる反面、それらが求めているもので、実際に日々手に入っているものだとしても、さらに他に求めているものがあるとすれば、それはそこにはないと思われてしまうのだろうか。それは単なる無い物ねだりなどではなく、実際にそこにあるものが目に入ってこないのでもなく、ただ何かを求めているように思い込みたいのかも知れないし、手に入れられるもの以上のものを際限なく求めているのかも知れないが、それを強欲だと否定するような方向ではなく、無方向で無根拠な印象として辺り一面に漂っているような空気であり、たぶん強烈な欲望ではなく、それを強制されているとも思えないにしても、善意で演じてしまうような成り行きの中で、それを拒否する理由も見当たらずに、大した抵抗感もなくそこへと引き込まれてしまうような感覚なのかも知れず、例えばそれは大ヒットした映画を観て、思わず泣けてしまったと素直な感動をブログやソーシャルメディアに書き込む人たちなどに共通する、善意の連帯とでも呼べそうな一体感なのかも知れないのだが、一方でそれを否定したりそれに抵抗したりする理由など何もないのに、そこから距離を置いたりそれに触れるのを避けようとする動作も誘発してしまう現象であり、たぶんそうしたい人たちは何かをわかっているのだろうが、あえてそれを語るのを躊躇しているのかも知れず、別にそれは隠されていることでもなく、探し出そうとしなくてもそこにあるものなのではないか。


1月12日「目的の意味」

 生きていく上で何か目的を定め、目的へと向かうことが生きがいになるなら、それに越したことはないのかも知れないが、それは具体的な成果を得られないと信じられないことかも知れず、いくら強固な意志を持ってしても、何の成果も得られないことをいつまでもやっていられるとは思えないわけで、そうだとすれば現にやっていることは何なのかと言えば、本来の目的からは外れたことなのか、あるいはたまたまその場の成り行きからやっていることで、行きがかり上やめるわけには行かなくなってしまったのかも知れず、そんなふうにして目的とは無関係にやっていることは結構あるのかも知れないのだが、世の中で生きていて、果たして目的へ向かって一直線に進めるかというと、たぶん結果的に何らかの成果を得られた行為が、いつの間にか目的だと思い込んでいることがあるのではないか。そういう意味で当初抱いていた目的が必ずしも達成されなくても構わないわけで、何かのきっかけから何らかの成り行きに巻き込まれ、その中でたまたま上手く状況に対応できて、納得のいく結果を残せたら、それで満足するだろうし、やっている途中からそれをやり遂げることが目的のように思われてくる場合もあるだろうし、その人にとって何が目的となるかは、その場その時の状況次第である面もあり、目的とは何かがやっている過程で生じてくるものだと捉えておくのが妥当かも知れず、例えば何かをやる前から欲望に駆られて目的を設定した時には、それが目的である必要はあるにしても、必然性はあまりないのかも知れず、いくらそれへの思いが強くても、思いが強い以外には何の意味も意義も持ち得ないような目的となってしまうのではないか。そうなると目的の重要性は後退して、妄想を抱くならいくらでも抱けるが、それが具体的な行動として機能するかどうかは未知数で、途中で挫折してしまえば、それをやり遂げようとする以前に宣言されるような目的は、何でもないこととなってしまいそうだが、中には運が味方して、宣言したことを本当にやり遂げるような人も出てくるのだろうが、それが当初から抱いていた目的であれ、やっている途中から思い込むようになった目的であれ、そのやっていることが実際に機能していることが、実質的な意味や意義をもたらしていて、それ以前の妄想を抱いている段階では無意味でしかないのかも知れない。

 やっていることが実際に機能することが重要なら、それが目的であるかどうかはあまり重要なことではないのかも知れず、当人にとっては何にも増して目的を達成させることは重要となるのだろうが、それは独りよがりな思いでしかなく、それよりは社会の中でその人の行動が何らかの形で機能していれば、その人に関わりのある他の人々は安心するだろうし、周囲の人々に安心感を与えれば、その人も社会の中で肩身の狭い思いをしなくても済むようになるのだろうが、それで当人が満足するかどうかは別問題で、何やら野望を抱いているような人なら、自分が社会の中で軽んじられているようだと気にくわないわけで、他人から安心されるというよりは、他人から尊敬され崇拝されていないと、満足感を得られないのかも知れず、それが目的となっているようならなおさらで、結果的にそうなるような行いを成功させることが目的ともなってくるのだろうが、要するにそれは偉くなりたいということになるわけで、やはりそうなるとそんな妄想を抱いているということだから、それ自体が社会の中で機能するかどうかは別問題で、何かをやった結果、そのやったことが理由となって、他の人々から尊敬されるという結果をもたらすわけで、人から尊敬されたくて何かをやるとなると、それは本末転倒としか言えないわけだが、その尊敬を集めるような行為が社会にとって有益なら、そうすることが社会の中で機能していることにもなるだろうし、偉くなりたいという願望が目的化するのも、何やら実質的な意味や意義を持つことにもなるわけだ。そうであるなら人は社会の中で機能するようなことをやるべきともなるわけだが、あくまでもそれは結果論であり、結果的に何らかの形で機能していれば、一応は社会が成り立つ上ではためになっていて、そのことで他の人から安心されたり尊敬されたりしていれば、その社会を維持する立場の人や集団にとっては問題ないわけだが、そういう社会からつまはじきにされている人からすれば、自分を除け者にしている人たちの仲間でしかないわけだから、敵でしかないのかも知れず、またそんな社会を変えることが目的の人たちからすれば、取り除くべき障害物でしかないのかも知れない。


1月11日「歴史の連続的な発展」

 そこに至る成り行きが理解できなければ、そうなるのは偶然の巡り合わせだとしか思えないが、因果関係がはっきりしていたら必然的な成り行きだと思われるだろうか。そうなって当然のように思われる成り行きであっても、後から思えばそう思われるだけで、そうなる以前は思いもしなかったようなことが起これば、後から調べて因果関係がはっきりとわかろうと、それが起こったこと自体は、何かの偶然としか思われないだろうし、それが起こった後から考えた結果を、起こる以前の未知の成り行きに当てはめようとすることは、たぶん不正確になることは確実だろうし、何かが起こる前から、これから起こることの因果関係を予想しても、それが当たるかどうかは、起こる前の段階では何とも言えないのではないか。もちろん天体の運行などは計算から予測できるし、気象現象の予測も、人工衛星から取り寄せた連続画像と気象予報士の経験とスーパーコンピュータの計算などを組み合わせれば、かなりの高確率で予測が可能なのだろうが、世の中でこれから何が起こるかを予測するとなると、まずは何が起こるかの何を特定できなければ、ただ漠然としすぎているし、社会の中では人や物や情報の動きや流れも複雑怪奇に入り組んでいるし、そこに人や集団の思惑や自然現象も加味すると、計算量が計り知れないほど膨大になるだろうから、量子コンピューターでも実現しない限りは、今のところはそういう方向での予測は不可能なのではないか。それでも景気予測や選挙予測などの特定の分野では実際に予測が行われ、それが当たったり外れたりすると、結果がそれなりに分析されて、そこで何やらもっともらしい理屈を用いてもっともらしい因果関係が特定されたりして、そのような結果を招いたのは当然の成り行きだったかのように解説されてしまうわけで、それで多くの人が納得してしまえば、一件落着のような事態になってしまうわけだが、果たしてそれで何がわかったのかと言えば、すでに済んでしまったことがわかったのであり、少なくともこれから起こることは何もわかっていない、と見なしてもそれほど間違ってはいないと思われるのだが、どうしても人はこれまで起こったことの延長上で何かが起こるはずだ、という先入観にとらわれているのかも知れず、それ以降に起こったことについても、それまでの理屈を用いてそれまでの因果関係を当てはめて、新たに起こった成り行きまでも説明してしまうわけだ。

 そしてそれなりに説明できれば、またもやそのような結果を招いたのは当然の成り行きのごとくに、相も変わらずもっともらしく解説されてしまうわけだが、なぜそれでそれなりに説得力のある説明になるのかと言えば、人々が歴史の連続性を信じているからであり、そこに過去から現在までに至る首尾一貫した物事の成り行きが見出されているかのように思われるわけで、だからこそ物事の連続した成り行きを実感できるわけだが、それは相似的な錯覚なのかも知れず、過去から現在までの間に起こった出来事の中から、似たような傾向にある出来事をサンプリングして、似ていない出来事は考慮に入れずに、サンプリングした出来事だけをつなぎ合わせれば、何やらそこに連続した事の成り行きを構成できるわけで、それが説明者の都合や主張に合致するようなら、もっともらしく歴史の連続性が実現され、そのように連続した歴史の中で、未来へ向かって発展しながら続いて行った先に、崇高で高邁な目標や目的までが見出されてしまうと、そこで当然のごとく歴史を担い、その主人公として想定されるのは言うまでもなく人類なのだろうから、人類の目指すべき目的と言ったものが浮かび上がってくるのかも知れないが、その歴史の主人公として想定される人類とは何かと言えば、どう考えても過去から現在を通って未来まで存在する誰もが、その中に含まれてしまうのであり、その連続した歴史の発展の先にある人類の目指すべき目的とやらが、誰もがそれを真に受けて目指すべき目的なのかと言えば、その目的の内容にもよるのだろうが、現状の生活に支障をきたさない程度なら、善意を装って目指しているふりくらいはできるかも知れないが、その目的があまりにも馬鹿馬鹿しいものなら、嘲笑の対象になる以前に正気を疑われそうで、そこまで大げさなことを述べてしまう人は滅多にいないだろうが、程度の差はまちまちであるとしても、そういう目的論的な歴史の構成というのは、その首尾一貫した連続性に特定の理屈を用いた因果関係を当てはめやすいのだろうし、そこに説明者の都合や主張も容易に反映させられて、そうした利便性の高さが多くの人に好まれるところかも知れないが、これからそうした説明では理解でないような現象や出来事などが世の中で頻繁に見受けられるようになれば、そこで歴史の連続が途切れたことになるのだろうが、たぶん実感としてはそうはならないだろうし、説明は常に起こった後からされるわけで、しかも過去と少しでも似た傾向を見出しさえすれば、そこに過去との連続性を設定できるわけで、結局この先何が起ころうとも歴史の連続性は保たれ、絶えずそこに目的が見出されてしまうのではないか。


1月10日「空疎な存在」

 単なる経済的な貿易関係以外で、国と国との間で何か問題が起きるとすれば、お互いの主張する領土に重なっている土地があれば領土紛争が起こり、お互いがその土地に対する主権を譲らなければ、交渉が平行線に終始するのはわかりきったことかも知れないが、例えばその土地から産出される資源の獲得争いや直接の武力衝突などのような、それ以上関係が悪化するような出来事が起こらなければそれだけのことで、これまで通りの関係が維持される限りは、取り立てて何がどうしたわけでもなく、実際に平和な状態が維持されていれば、一般人にとっては無関心な問題かも知れず、別に政治問題として事を荒立てる必要もないことだろうが、意図的な人気取り目的で政治ショー仕立てのパフォーマンスを仕掛ける機運というのも、何かのきっかけで生じることもあるらしく、最近ロシアとの間でそれをやり、見事に空振りに終わったような印象を振りまいていたようで、だからと言って別にそれが国内の政局に何か影響を及ぼすわけでもなさそうで、では何のためのパフォーマンスだったのか、今となっては謎なのかも知れず、それに関していくらでも穿った見方や見解などは述べられそうだが、素直に考えれば定期的にそういうことをやるのが、現代的な政治のしきたりなのかも知れず、確かその直後には首相がハワイの真珠湾まで出かけて行き、太平洋戦争勃発の地でアメリカの大統領と一緒に慰霊のパフォーマンスをやったわけだが、それは昨年の日本で行われた主要国首脳会議の後に、アメリカの大統領が原爆が投下された広島を訪問したことへの、お返しの意味でもあると捉えておけば済むようなことなのだろうが、そこでもそのようなパフォーマンスの歴史的な意義について、何やらもっともらしく語りたい人は語るわけで、そういう儀式的なパフォーマンスを定期的に行うことが、国と国との友好関係を政治的に確認し合っていることにもなるのだろうし、実質的には何がどうしたわけでもないのだろうが、そんな形式的な外交辞令を積み重ねることによってしか、表現しようのない関係というのが、国と国との関係であるとすれば、実質的にはほとんど進展のなかったロシアとの領土交渉についても、今後何やら具体的な進展があろうとなかろうと、領土がどちらの国に帰属しようと、その地域とは無関係な人にとっては何でもないことだろうし、そこから何らかの意味や意義を引き出すのはやめておいた方が良さそうだ。

 また最近韓国で起きている従軍慰安婦像を撤去するしないの問題も、日本が十億円拠出することで片がついたはずが、どうも雲行きが怪しくなってきたようで、うまく解決を図ったつもりが蒸し返されて、怒り心頭というわけでもないのだろうが、その手の政治的な交渉に終わりはないのかも知れず、最良の解決策というものはないだろうし、双方に不満が残ったままになるのは毎度のことで、そもそもこれ見よがしに従軍慰安婦像を設置するというのも、政治的なパフォーマンス以外の何物でもないわけだから、そういう行為に実質的な意味や意義を感じる必要はないのだろうし、そこから日本と韓国の関係の悪化を懸念するような見方や見解などを述べられるのだが、一応はいったんは政治決着が図られたわけだから、それをまた破棄していくら蒸し返しても、元の水準までは戻しようがなく、今後も何かのきっかけで蒸し返しや沈静化が繰り返されるのかも知れないが、歴史的な事件の類いは時間の経過とともに風化の一途を辿るのが普通だろうから、沈静化の傾向の方が勝っていくのだろうし、そういう意味でもこれ見よがしの政治的なパフォーマンスと言うのは、一過性に終わるのが関の山で、あまり持続性は期待できないだろうか。それだけでなく国家的な行為が人に何らかの感情を引き起こすようはことは、現代的な政治の機能からすると、もはやあまり期待されていないようにも思われるわけで、ただ行政的な懸案を事務的に処理してくれれば、それで済むに越したことはなく、政治が人を感動させたいわけでもないし、国を愛するとかいう抽象的でわけのわからぬ思想を広めてほしいわけでもないし、国旗や国歌はその手のパフォーマンスや儀式に必要だから、用途がある限りは使われ続けるだろうが、それらに何か実質的な意味や意義を担わせようとしても、どう考えてもそれは幻想にしかならないだろうし、むしろ暗黙の了解事項として空疎で象徴的な観念の反映とでも捉えておいた方が、理性的には納得できるわけで、そもそも国家自体がそんな存在でしかないことを周知徹底させた方が、誰もが割り切って抵抗感なくその手の儀式を受け入れるのではないか。下手に美学的な意味や意義を担わせて、実質的な感情を伴うように仕向けてしまうと、人も集団も妙な勘違いを引き起こして、後々こじれた惨劇をもたらしてしまうのかも知れない。


1月9日「相互依存状態」

 例えば窮地に陥ってその窮地を脱すると、それがフィクションならありがちに思えるが、窮地から脱することができずに死んでしまえば、それが現実の世界ならありがちなことだろうか。さらに窮地に陥った人を安全地帯から眺めているのは、それがメディア的な経験ならありがちなことかも知れず、それぞれに事の深刻度が異なるのだろうが、中でもメディアを通しての間接的な経験というのが、手軽に興味を惹かれたり感情移入できる分、生身の心身を通して実体験するのに比べて、何かが抜け落ちているような気もするのと同時に、またその間接的な経験には実体験とは異なる特有の何かが付加されているようにも思えるし、そういう面で直接的な実体験と間接的なメディア体験を分けて考えてみる必要も出てきそうだが、メディアにも様々な種類があり、文字から映像までと、媒体となる物質も紙や液晶画面や映画館のスクリーンなどのように異なるし、それぞれの種類に応じて特有の体験となりそうで、そのような差異も加味して考えようとすると、きりがなくなってしまいそうだが、それに加えて肝心なのは体験する内容であり、たとえ間接的なメディア体験であっても、中には深刻に受け止めざるをえない内容もある一方で、どうということはない直接的な実体験であれば、興味を失ってすぐに忘れてしまうだろうし、さらに体験する側の境遇や立場によっても、それを受け止めるに際しての切実度も違ってきそうで、そういう水準では何が良くて何が悪いかなんて簡単には言えそうもないが、それらも様々な経験の一部となって人の思考や行動に活かされ、それらが渾然一体となって世の中の風潮などに何かしら作用を及ぼしていることは確かだろうし、そういう現象に興味を抱けば、それについて何か語りたくなってくるのだろう。そしてそれがメディアを通して人々に伝えられ、それを受け取った人々の新たなメディア体験ともなるわけだが、人類の歴史の中でそう遠くない過去において、意識の中で実体験よりもメディア体験の方が勝ってしまった時期があるのかも知れず、何かそこでそれまでの均衡が崩れて、それ以降はどちらかと言えばメディア体験の方が重視される傾向となっていて、メディア体験に基づいて人の思考や行動が成り立っているのかも知れない。

 大衆市民社会と呼ばれる現象は明らかにメディアによって作られたものだろうし、人々の関心を惹きつけるものがメディアによってもたらされているから、その思考や行動の対象もメディア中心にならざるを得ず、現状ではそれの良し悪しを言っている段階ではなく、メディアなしでは生活が成り立たない段階まできてしまったと思われても当然だろうし、どこかの大自然のただ中で自給自足の遊牧生活でもしていない限りは、何かしらメディアとつながっていないと気が気でなく、メディアを通して世の中の関心に引きつけられてしまうわけだが、一方でたぶんメディアを通して人類の一体感も形成され、さらにそれ以前にメディアを通して人種や民族や宗教や国家や職種や氏族や性差を介した分裂感も形成されているわけで、それらの嗜好や都合などからなる離合集散の強弱もメディアが演出しているようにも思われるし、それらの一体感から分裂感までの間で人や集団の意識を循環させながら、そこから生じる様々な価値観に応じて様々な情報を提供しようとしているのが、メディアの動作だとも言えそうで、その辺が一筋縄ではいかないのとともに、どのような立場に留まるわけにもいかず、もちろん固定した立場に基づいた固定した主義主張を喧伝しているメディアもあるにはあるのだが、どうもそれは見せかけであり、その時期や場所でたまたまそこに焦点が当たっているのであって、長い目で見ればそんなメディアにも離合集散や栄枯盛衰があり、人々の関心の変化とともに流動的に変わっていくとともに、各種メディアの離合集散や栄枯盛衰とともにも、人々の関心は移り変わっていくのではないか。だから何かと犯人探しのように一方的にメディアを悪者扱いしても、それはメディアを犯人に仕立て上げたい人の都合に合わせた偏見に基づいていて、今や情報を介して人とメディアとが相互依存状態にあるわけだから、現状の変化し続けるネット社会の中で、人は自然にネット的な情報の拡散と分散に身をゆだねながらも、そのような状態に対応した思考や行動のあり方を模索し続けているのだろうし、少なくともそれが固定的で安定したあり方である必要はなく、状況の変化に応じ続ける流動的な姿勢であれば充分なのではないか。


1月8日「先入観」

 見えているものと考えていることが違うにしても、見えているものについて考えているのなら、思考している意識が見えているものに関係していることになるだろうか。そうであるとしても考えていることを表現する時には言葉を用いるわけで、見えているものとそれを表現する言葉が関係しているようにも思えるわけだが、言葉を用いて見えているものを表現することと、見えていものについて考えることはまた別の動作であり、考えながらそれを言葉を用いて表現しようとしているわけだから、それらの間には関係があることは確かで、対象を見てそれを言葉で表しながら考えている関係を一連の動作と捉えれば、そのような動作の結果として見えている対象についての言説が構成されることが理解できるだろうか。そうだとしても見えているつもりのものが、果たして見えている通りのものなのか、見えているものと実際にそこに存在しているものが、同じものであるとは限らないとしたら、それについていくら考えても誤解となってしまう可能性もありそうで、なぜそれが現実の事物とは違って見えてしまうのかと言えば、そこで先入観としての社会的な偏見が介在している場合もあるだろうし、またものをある方向からしか見ようとしないような習慣が、学校教育などを通じて身についてしまっている可能性までありそうで、そのような癖がいったんついて定着してしまったのを改めるのは困難だろうし、世の中がそのような習慣を受け入れているなら、その社会に暮らしている人は生涯そのままであることもあり得るだろうから、そんな社会の中では現実の事物自体が、常に人々の偏見や先入観を伴って見えていると捉えておくのが妥当なのではないか。そしてすでにそんなふうに見えていること自体が、偏見や先入観から形成された思考の持ち主にとっては当たり前のことなのであり、そのこと自体が考える以前の前提としてあるわけで、そんな偏見と先入観が塗り込まれた土台の上で物事を考えているわけだから、その人は偏見と先入観を受け入れている社会につなぎ止められていることにもなり、そんな社会が形成する集団意志に支配されているとも言えるのかも知れず、もしその偏見や先入観の中身が他の社会の住人にとって受け入れ難いものなら、その社会は悲惨な状況にあると言えるだろうか。

 それがこの世界のあらゆる社会の中でも受け入れ可能なものなら、そのような偏見や先入観は普遍性を帯びて、もはやその時代の中では偏見や先入観とは意識されないのだろうが、かつて地球を宇宙の中心とする天動説が信じられていたり、さらに時代をさかのぼれば地表が平面であるように思われたりしたように、別の時代ではそれが偏見や先入観に基づいた誤解であることがわかる場合もあるわけで、それが偏見や先入観だとは気づかなくても、何か世の中で恒常的に争いが起こっていたり、いわれのない理由から虐げられている個人や集団があるようなら、そこに偏見や先入観が介在していることが十分に考えられ、逆に特定の個人や集団が理不尽に優遇されているような場合でも同じようなことが言えるかも知れず、さらに一見もっともらしい理由で同様なことが行われているようなら、より一層悪質で根が深いようにも思われ、善意から身体障害者を安楽死させるような行為も、地域と時代によってはあったわけだから、例えば犬や猫を殺処分するような行為も、未来のある時期から過去を振り返れば、極悪非道な行いとして非難されている可能性もなきにしもあらずで、またイルカやクジラの肉を食べることが非難されていることの延長で、未来においては家畜の肉を食べる行為も、食肉用に家畜を飼う行為ですらも禁止されるような時代がやって来るなんて、現状では考えられないが、どのような経緯や成り行きで新たな偏見や先入観が生まれるとも限らず、現状で何の変哲もなく見えている光景が、物凄く歪んだ偏見や先入観によってねじ曲げられているとは思えないが、一見気づきにくいような些細な違和感が、この時代のこの地域特有の偏見や先入観から生じている可能性もあるかも知れず、また些細に思われるようなことが意外と本質的な問題へとつながっている可能性までありそうで、そういう面で当たり前のように思われることをまずは疑ってみるべきで、そんなところから停滞した現状を打破する突破口が開けるなら、疑ってみた甲斐もあるかも知れないが、そのなことを発見できるのは万が一の確率にしか思えないようなら、無駄に思考を巡らすのはあきらめて、素直に世の中の偏見や先入観にまみれた集団意志に屈しているのが無難な態度だろうか。


1月7日「単純化と形骸化」

 何かそこに法則のようなものを当てはめてみたくなるとき、そこで物事を単純化して考えようとしていて、もっともらしい理屈を用いて何かの現象を説明しようとするときも、やはり同じように物事を単純化しようとしているのだろうが、その物事を単純化して捉える思考動作が、もっともらしい理屈を用いた説明に行き着くとしても、できれば理屈から外れた部分についても語りたいわけで、でもそうなると理屈を用いた説明は何なのか、という疑念も湧いてきて、何かについて説明しているときに、理屈以外の部分では何を語っているのかと言えば、直感的に好き嫌いを語っているだけかも知れず、なぜそれが好きや嫌いなのかについての理由となるのが、いわゆる理屈なのかも知れないのだが、では好きでも嫌いでもないとなると、やはり好きでも嫌いでもない理由として、何らかの理屈を用いた説明が必要となるのかも知れないが、たぶん理由もなく好きでも嫌いでもないとなると、では何でそんなことを語っているのかわからなくなってしまい、わからないことにはなぜわからないのかについて、理屈を用いて説明できれば、わからない理由がわかりそうにも思えるのだが、その辺が語ることのできそうな限界かも知れず、理由を求めればどこまでも理屈がついて回り、それが物事を単純化する理屈なら、単純化することによって物事をわかろうとしていて、それでわかったことになるのか疑問に思えるときもあるだろうが、何かをわかるということは、物事を単純化して捉えるということかも知れず、それではごまかしにしかならないと思うなら、できるだけ複雑なままで物事を捉えようとするだろうし、そうなると説明もそれだけ複雑化して、あまり複雑になりすぎると理解してもらえない恐れも出てくるだろうし、実際に説明が複雑で難解な文章を読んでも理解できないことは結構あるわけで、その辺が説明する側の表現力が問われているのかも知れないが、同時に文章を読む側の理解力も試されているわけで、また説明している対象の性質や構造によっても難易度に高低が出てくるだろうし、単純化すればそれだけ大雑把な説明になり、それを嫌うなら詳細で緻密な説明になるかも知れないが、それを読んで理解できるかどうかは、読む側の力量に期待するしかないようで、それ以前に興味がなければ読まないだろうし、興味が湧くかどうかもメディア的な宣伝に左右される面もあるだろうから、しかも宣伝こそが物事の単純化そのものなのだから、何を考えるにしても結局は物事の単純化からしか出発できないわけだ。

 普通に考えるなら、単純化した説明しか理解できない人は、馬鹿だと見なされても文句の言えないところかも知れないが、馬鹿であっても構わないと居直る人たちが、世の中の多数派を占めるような事態ともなれば、権力も主導権もそれらの人たちが掌握することにもなるわけで、実際に単純化した説明で済むなら、その方が手間も労力もかからず、しかも世の中の多数派が詳細で緻密な説明を嫌い、単純化された説明を好むなら、需要は単純化された説明一辺倒にもなるかも知れず、そういう風潮を背景として、そればかりがもてはやされる状況の中で何が起きているのかと言えば、大衆消費社会や衆愚政治の類いだと述べてしまうと、それこそが物事の単純化そのものとなってしまうわけだが、そういう大雑把な解釈や説明から離れたところで何が起きているのかというと、人々の興味や嗜好の分散化であり、その離散的な散らばりの絶えざる拡散なのではないか。そしてそのような傾向に対応して登場したのが、いわゆるネット社会であり、インターネットの発展や進展がそうした傾向を促進している一方で、それにいち早く目をつけたのがグローバル企業であり、ネットを利用して急速に規模を拡大した企業が、グローバル企業と呼ばれるようにもなっているし、人々の興味や嗜好の離散的な分散化に対応したコンテンツやシステムを構築することで、グローバル企業へと急成長した経緯があるのだろうし、今もそのようなサービスを提供することでその地位を確固としたものにしているのだろう。その一方でそのような傾向に対応できていない国家が何をやっているのかと言えば、それらの離散的な分散化に歯止めをかけようとしているのであり、そのためには何が必要となっているのかというと、国への求心力を取り戻すために、馬鹿でもわかる単純化された論理を掲げているわけで、正確に言うなら単純化された論理を主張する人や政党が、国家の主導権を握る成り行きとなっているわけで、ちょっと考えればそれではうまくいかないことがわかってしまうのだろうが、状況としては別にうまくいかなくても構わないような成り行きになっているのかも知れず、国家そのものが形骸化しつつあり、政治家が何をやろうと、そのやっていることにはあまり影響が及ばないところで、世の中が回っている現状があるのではないか。


1月6日「運命の巡り合わせ」

 日々の暮らしの中でどうにもならないように思えるのは、自らの力量を超える事態に直面している時だろうが、そう思える時にもそれなりに対応してきたから、今も生きている現実があるわけで、自分ひとりの力だけで生きてきたわけでもなく、周囲と社会的な関係を構築しながら、それを維持し続けられる限りにおいて、社会の中で生かされている現実もあるわけで、そのこと自体をどう思ってみても、自分にはどうすることもできない面があり、たぶんそれを恣意的にどうにかしようとすると、それが自らの力量を超えていることに気づかされてしまうのかも知れないが、無理だとわかっていてもそんな実感に逆らおうとするのは、何とかしなければならない事態に直面しているからだと思わざるをえくなるわけで、結局はそうしようとするのが運命なのだから、あきらめて現状では無理に思われることをやろうとして、実際にそんな試みの最中なのかも知れないが、一方で運命というは自分ではどうすることもできないのに、それをどうにかしようとしているわけで、何かをやっていることの中身には、どうすることもできない部分とどうにかしようとしている部分とがあり、どうすることもできないように思われる部分では、それが運命だとあきらめていながら、どうにかしようとしている部分では、あきらめずに何とかしようとしているわけで、しかもそのどうにかしようとしていること自体が、そうするのが運命だと思ってあきらめている部分であり、その辺で何かがこんがらがっているようにも思われるのだが、それでも意識の中ではつじつまが合っているつもりなのだから、少なくとも支離滅裂な感情にとらわれているわけでも、自分ではどうすることもできない矛盾を抱え込んでいるわけでもなさそうで、そう思うのが当然の事態の中で、何かをやり続けているつもりにはなっていて、実際にどうにもやりきれないことに挑み続けているように思われるとしたら、それについて当人がどう思ってみても、そんなことをやっている現実の中につなぎとめられている実態があり、それが自らの力量を超える事態の一部始終なのではないか。

 自己言及的なフィクションというのは、常に自らを超えて外部にまではみ出ているようにも思われ、それが自意識過剰の誇大妄想だとも気づいていながら、それがないと何もできないわけでもないのだろうが、現実にそんな妄想に依存している部分もあり、そこに微かな狂気の萌芽すら感じる時もあるかも知れないが、一方で何かに逆らっている自覚も芽生えているわけで、その逆らっているものが社会の一般常識程度なら、そこから大した妄想にも発展しないだろうが、中には国家機密情報をばらして第三国へ亡命した人までいるわけで、その人にとっては逆らうのが命がけであるだけに、そこまでやれば誇大妄想の範囲を遙かに超えていることにもなるのだろうが、そんなふうに妄想として抱くフィクションを超えて、現実の世界へとやっていることがはみ出る事態というのが、自分ではどうすることもできない運命に翻弄されていることになるのだろうし、それをどうにかしようとして、実際にどうにかなってしまった現実なのだろうが、もちろん自分ひとりではできないことを周囲の協力者の助けを借りてやったわけで、そこに世界情勢の成り行きと巡り合わせがあり、結果的にそうなってしまったことは運命だと思ってあきらめるしかなく、当人は亡命生活を余儀なくされている現実があるわけだが、そんなおおげさな事態からは程遠く、まだ妄想の段階に留まっていることなどいくらでもありそうで、それが現実の世界へとはみ出ることができずに、妄想のまま終わってしまうことなどもいくらでもありそうで、そんな実現不可能な誇大妄想と戯れているうちが、まだ自らの力量の範囲内に留まっていることの証しなのかも知れず、そういう意味で現実の世界で何かを実現させることには、絶えずそれを実現させようとする自らの力量を超えて作用する運命の巡り合わせがつきまとっていて、そんな運命に巡り会えなければ、いつまで経っても誇大妄想の段階に留まっていて、一向に実現のめどが立たずに、その人の意識の中に埋もれたままとなってしまうのではないか。そしてそれも運命だと悟ってあきらめればそこで終わってしまい、あきらめきれずに死ぬまで挑み続ける人も中にはいるのだろう。


1月5日「願望の実現」

 たぶん必要がないのに語っているわけではなく、必要が生じるとは無関係にそう思われるなら、そこに語る対象がないようにも思えるのだが、少なくとも人は生きている必要がなくても生きているわけで、生きていれば無理に死ぬ必要もなく、無理に死のうとする人たちは、死ぬ必要があるから死のうとするのかも知れないが、死ぬ必要のあるなしに関わらず、生きる必要もあったりなかったりするとも思えず、死に瀕しているときに生きようと思うのは、そこで生きられる可能性を探っていて、少なくとも死にそうに思われるから、その死にそうな状況に逆らおうとしているのだろうし、別にすぐに死にそうだとは思えなければ、死に瀕していること自体が嘘っぽく感じられるかも知れないが、中にはそんな思いとは無関係に、唐突に死が訪れることもあるわけで、その場合は死も生も、死のうと思ったり生きようと思ったりすることとは無関係であり、そこで何を思っていてもそれとは無関係に死ぬわけで、必要もないのに死のうと思ったり生きようと思ったりしているだけかも知れない。要するに思っているだけではどうとでも思えるわけでもないのだが、ただ思うだけではなくそこに必要が生じるということは、外部から何らかの働きかけがあるから、それに対応する必要が生じて、その外部から働きかけに対応しなければならないことなのではないか。そういう意味で必要が生じているとは思えないにしても、実際に語っている現状があるのなら、その必要に気づいていないのかも知れず、それが死ぬことや生きることとは無関係であっても、記された文章上では語る必要があるから語っているように装われるわけで、死ぬために語っているとか、生きるために語っているとか、そんな直接的で強引なこじつけとともに語るには、そこへ至るもっともらしい過程が語られる必要が生じるかも知れないが、うまく語るには直接の必要性を感じさせないような配慮も必要かも知れず、たぶん語る必要もないのに語っているように装うことに成功していれば、そうすることに必要な配慮が行き届いていることにもなるのかも知れないし、別にそれを目指して語る必要も感じられないのに、実際にそんな配慮が文章上で構成されているなら、そうせざるを得ない外部的な働きかけを感じているからなのだろうか。

 生や死とは無関係に語れば、語ることの直接的な意味から逃れられるわけでもないだろうが、文章上に施されている配慮が何を意味しているとも思われないようなら、文字として記された生や死を意味する言葉から、それに関係した事情を想像してしまうだろうし、中にはそこで何か深刻な事態が起こっていることを察して、感情が揺り動かされるようなこともあるのかも知れないが、あいにく実情は深刻な事態からかけ離れていて、文章上で語られている内容と、必要に迫られて文章を書き記している事情が無関係だと、やはり文章上で語られている内容はフィクションになるかも知れないのだが、たとえそれがフィクションであろうと、そこで語られている内容には外部からの働きかけに対する対応が含まれていて、対応が必要だからこそ内容がフィクションになってしまい、中にはフィクションにしなければ語れないような内容もあるわけで、それをフィクションにすること自体が、働きかけてきた外部への回答となっているのではないか。そしてそれがうまく語るための配慮であるかも知れず、直接生や死へと向かってしまうとうまく語れないなら、まずは迂回しなければならず、そこへと至る過程で、生や死とは無関係な紆余曲折を経ないと、現実の生にも死にも至れないばかりか、記述内容が生や死を担えずに何か嘘っぽく感じられ、本当の生でも死でもないように思われてくるのではないか。実際にフィクションであればそれはそうなのだろうし、そうであっても何の不思議もないのだが、一方でフィクションであるだけに不思議でなければならず、そこで表現される生や死が嘘っぽく感じられないような配慮が求められているわけで、それがフィクションに働きかける外部からの要請でもあるわけだが、フィクションだから当然のごとく嘘なのに、そこで表現される生や死が本当であるように感じられなければならない、という矛盾した要請が矛盾しているように思われてはならず、要するにどこまでも無い物ねだり的な要請に応じなければならない宿命をフィクションは抱え込んでいて、そんな無い物ねだり的な要請に応えられるように思われるから、人はフィクションを求め、その求めに応じて制作されているのではないか。


1月4日「幸運な巡り合わせ」

 この世界で当たり前のことが当たり前のように行われているだけなら、別にそれを気にとめることもないだろうが、何が当たり前のように思えるのかと言えば、少なくともそれが不自然には思われないようなことだろうし、では何が不自然に思われるのかと言えば、まず思いつくのは見慣れない行為は不自然に思われるかも知れず、逆に見慣れた世界で見慣れたことが行われていれば、やはり誰も気にも留めないだろうし、誰も気にも留めないようなことは印象に残らず、世の中がそんなことばかりだったら、たぶんニュースなどなくなってしまうだろうし、何に対しても誰も騒がず、まったく驚かないような無感動な世界となるかも知れないが、当たり前のことだが現実はそうではないわけで、普通に考えれば奇異で不可解で不自然で不条理なことが起こっているから、それらがニュースになるのだろうし、そう考えると当たり前のことが当たり前のように行われているだけでは、かえって不自然であり、当たり前のことと当たり前ではないことが、適度に混ぜ合わさった世界の方が、誰にとっても自然に感じられる世界であり、ある程度は見慣れないことや不自然に思われることがないと、それが自然には思われないのだから、人の感覚や認識には不合理で矛盾に満ちた面があるのだろうが、一方で理性と呼ばれる思考作用が何を目指しているのかと言えば、それは当たり前のことが当たり前のように行われる世界だろうし、そのやって当たり前のことというのが正しいことであるなら、ニュースになるような奇異で不可解で不自然で不条理なことは、理性にとってはどちらかと言えば間違ったことの部類に入りそうで、そんなふうに正しいか間違っているかの判断区分を、現実の世界に当てはめてしまうと、理性にとっては間違いだらけの世界となってしまいそうだが、普通の感覚からすれば、何が普通なのかの基準がいい加減なのだが、間違いだらけの世界の方が当たり前の世界であり、逆に理性に基づいた正しい世界は、何か奇異で不可解で不自然で不条理な世界にも感じられてしまうなら、やはり人の感覚や認識には不合理で矛盾に満ちた面があるように思われてくるわけだ。

 それで結局何が言いたいのかと言えば、結論らしき断言には至らなそうで、何も言えずに終わってしまいそうだが、少なくとも人はその場その時の事情に合わせて、ある時には理性的に正しいことを求めたり、またある時にはその正しさを奇異に感じたり、さらに理性的な正しさをうまくかわしながら利益を得たり、自らの感覚や認識の不合理で矛盾に満ちた面を、その場その時の都合に合わせて、いいように利用しようとするわけで、他人がそんなことをやれば批判するのに、その他人の隙を突いてちゃっかり自身のためには使い、それで何とか事なきを得たら、上手く立ち回ったことに関しては、それを正当化するしかないわけだから、そういう面でのやり方や価値観は固定されておらず、その場その時の都合に合わせて、利用できるものは何でも使うという姿勢が、普通に当たり前のやり方であり、それに対する批判の類いにも、絶対的な正しさを担わせることなどできないのはもちろんのこと、批判内容の首尾一貫性でさえ期待薄な場合もあるだろうし、たまに他人の言動や行為の矛盾を突いて、それを批判してつかの間の勝利を収めることはあるにしても、批判している自分の立場が常に変動し続けているのだから、明日は我が身となる可能性などいくらでもあるわけで、それを馬鹿な野次馬の類いにブーメランだ何だと嘲笑されようと、それがどうしたわけでもないだろうし、そんなふうに調子に乗って嘲笑している輩でさえ、指摘されるまでもなく自分たちのご都合主義的な矛盾点については、その自覚があろうとなかろうとしらばっくれるしかないのだから、大同小異でしかないわけで、そういう水準でいくらせこい処世術を競い合っても、不毛な応酬が繰り返されるだけかも知れないが、では何をどうすればいいのかと言えば、やり続けられる限りはそれをやり続けていればいいのかも知れず、回避できない状況の中で互い身をすり減らしながら、ひたすら消耗戦を繰り広げていればそれで構わないのかも知れない。たぶんそのような面ではそうであっても、別の面ではまた別の対応を迫られる機会も出てくるのかも知れず、そんな機会の到来に期待するしかなく、実際に到来するのであり、到来した事例もありそうなのだが、それはその場その時での巡り合わせなのだろうか。


1月3日「成熟」

 短期的にも長期的にも世の中の状況がどう変わろうと、変わって行く途上においては、人も集団も変化に対応しようとするだろうし、そういう対応も変化する現象に含まれるわけだから、結局のところは何が変化を主導しているのか、はっきりとはわからないかも知れないのだが、変化するきっかけというのが、何らかの出来事や事件だと捉えるならば、その出来事や事件への対応が変化そのものだと言えるのかも知れず、社会全体を揺るがすような大事件の類いが起これば、それをきっかけとしてそれ以降の世の中が、以前とは様変わりしたと実感できるだろうか。そういうわかりやすい変化がすべてではないのかも知れず、例えば多くの人が変化を実感できないのに、気づかないうちに世の中が様変わりしていて、しかもその様変わりしていることにも、多くの人が気づかない場合もあり得るだろうか。たぶん大事件をきっかけとして変わるのと、気づかないうちに変わるのとの間に、様々な程度の差があり、ある程度の人は気づくようなきっかけもあり、ある程度の人は変わって行くのがわかるような現象というのが、最もありがちな世の中の変化であり、その程度の変化なら人も集団も十分に対応が可能だということだろうか。またその程度のことなら何も危機感を煽る必要もないし、実際にそれなりに人も集団も世の中の変化とともに変化して行く成り行きとなりそうだが、どうしても危機感を煽りたい人は、変化に対応できずに社会全体が深刻な状況に陥ると予言したいわけで、このままでは大変なことになると力説するわけだが、現状の世の中が誰の目にも安定しているように感じられている場合は、どんなに証拠を挙げて力説したところで、聞く耳を持つ人は少ないだろうし、変化とは人や集団が変化に対応しようとすることから、実際の変化が生じる部分もあるわけだから、多くの人や集団が聞く耳を持たずに、変化に対応しようとしなければ、実際に大した変化も起こらないのかも知れず、そういう面で世の中の安定度が高いと変化も起こりにくく、現状維持を多くの人が望めば、それだけ変化が起こりにくく、仮に起こったとしても最少限度の変化で済んでしまう場合もあり得るのではないか。

 そうなると危機感を煽るような行為は、比較的安定した社会では見当外れでしかないのかも知れないが、そのような行為自体によって社会変革を促したいという意図もあるのかも知れず、多くの人たちが煽り文句を真に受けて、煽動者たちと一緒になって騒ぎ立て、それが社会変革を促すきっかけとなる大事件へと発展することを期待しているのだろうが、火のないところに煙は立たないわけで、危機感を煽る対象が本当に社会全体を揺るがすような事件に結びつくのかと言えば、社会が安定している現状がそれを否定しているわけで、誰の目にも明らかな深刻な矛盾や不条理などが顕在化していない限りは、社会全体を揺るがすような事態へは発展しないだろうし、そういう意味でも安定した社会では煽動者が仕掛ける民衆の怒り的な演出が不発に終わる可能性が高く、実際に不発に終わるようなら、それは社会が安定している証拠だとも言えるわけで、いくら体制側の弾圧行為を強調しても、例えばそれによって多数の死傷者が出ているとかの事実がない限りは説得力を持たないわけで、逆に体制側の弾圧や民衆の暴動によって多数の死傷者が出るような社会は安定しているとは言えないのだから、煽動よって社会変革を引き起こそうとする煽動者の期待は、はじめから不条理と表裏一体の困難を孕んでいるわけだ。だから安易な煽動行為はやめろとか、今どき大衆を動員したデモなど無効だとか言うつもりはなく、煽動したい理由があるならやればいいし、ある程度の人数を動員できるめどが立つなら、デモでも抗議集会でもやっていればいいことでしかないわけだが、ただそれらの運動が昔のようには効果も成果も実感できないようなら、世の中がそれだけ変化してきたことを実感させられるだろうし、それに気づかないようなら、気づきにくい世の中の変化を実感できないということなのではないか。要するにそれは煽動行為に世の中が対応してきたということであり、ちょっとやそっとの煽動では揺るぎようのない安定した社会となっていて、そのような対応能力がついてきたということが、世の中の変化を表しているのだろうし、そのような変化を肯定的にとらえるなら、昔よりは成熟した社会となってきたと言えるのかも知れないが、それに対して社会変革を目指しているつもりになっている人たちも、それなりの対応を迫られているのかも知れない。


1月2日「自己の存在感」

 単に何かを知りたいと思うのは、その何かが何なのかを知りたいと思うことでもあるわけだが、それはただ漠然と状況を把握したいと思うことでもあるのかも知れず、その状況というのが、身の周りの状況からメディア的に捉えられそうな世間一般の状況まで、思う度に様々な範囲で揺れ動いていて、おおげさに範囲を広げれば世界情勢とか宇宙論的な問題までありそうだが、そういうところまで含めて知りたいことの範疇に入ってくると、何かを知りたいと思うのは、単純な知識欲とは少し傾向が違っているのかも知れず、案外知りたい物事の中に自分に関することが含まれていない可能性もなきにしもあらずで、そんなことを思っている間は自分のことはすっかり忘れていて、それを後でふと気づいたつもりなって、なぜ自己から離れて利害も都合も忘れてそんなことを思うのか不思議な感じがしてくるわけだが、そんなふうに自分に関わりのないことを知りたいと思うのは、すでに自己の存在とは無関係に世界が成り立っていて、世の中も回っていることを十分に自覚しているからかも知れず、自分の身の周りを少し離れただけで、自己の存在を無視した世界が広がっていて、そういう水準で把握される状況には、少なくとも把握しようとする意識の中では、自らの存在が抜け落ちているわけで、しかも自らはそのことに気づいていないにもかかわらず、別におかしいとは思わないし、意識の中ではそれが当然のことのようにも思われていて、何も不自然には思わないわけだが、その客観的な認識に至りたいとでも思えるような、状況を把握しようとする動作には、私利私欲を離れた欲求という矛盾した意味内容を付与したくなるわけで、そんなところにも自分の価値観が影響を及ぼしているような気もしないではないが、自らとは無関係に思えるところに自らの価値観に基づいた状況把握のための分析を施すにしても、たぶんそれは自らの力が及ばない範囲であり、そのような動作自体には何の得にもならないような面も含まれているだろうし、ただ勝手に思考を巡らせているだけなのかも知れないが、普通に考えてみても、日頃メディアからもたらされるニュースなどの情報は、ほぼすべてがそんな類いでしかないわけだから、そういうものに私利私欲を当てはめようとするとかえって不自然であり、おかしく感じられるのではないか。

 もちろんその私利私欲の延長上に国利国益があるとなると、さらに妄想的な論理の飛躍が介在しているようにも思われてくるわけだが、その何かを知りたいと思うだけではなく、知ったことを自分のために役立てたいと思ったり、そこから飛躍して国家のためにも役立てたいと思うのだろうが、知ったことがすぐに役立つと思い込むのも、何か短絡的な思考形態かも知れず、それは役立つことを知りたいという欲求から生じた発想であり、特定の目的に絞り込まれた知識欲だろうし、ただ漠然と状況を把握したいと欲することからだいぶ離れた心理作用になるから、それだけ強度があり制御され制限を伴った動作であることは確かで、その一方で自由度を失い範囲も狭められ、何か窮屈な印象を受けるのだが、やはり知ろうとする人の立場や境遇によっては、そのような動作を強いられる成り行きもあるのかも知れず、それが有効に機能するような環境の中で生きている人もいるのかも知れないが、そんな人であっても年がら年中そんなことばかり思っているわけでもないだろうし、何かのきっかけでふと私利私欲や国利国益を離れたところで状況を把握したいと思うような時も訪れるのではないか。そしてそのような時こそが労働から解放された時かも知れず、目の前にぶら下がったにんじんがなくなったり、自らを誘導するくびきが外れた時であり、逆に言えば人は労働に縛られている度合いが強まるほど、焦点の絞り込みから生じる視野狭窄も強くなり、そこから強固な目的意識も生まれて、短絡的な思考形態に陥ろうと何とも思わなくなるだろうし、要するに心身ともに余裕がなくなってくるわけだろうが、余裕がなくなってくるのは何も労働に限ったことではないだろうし、周囲から圧迫感を感じるようになれば、自然と余裕がなくなってきて、その結果短絡的な思考に陥りやすくなって、中には隣国との外交的な緊張の高まりに呼応して、勇ましいことをがなりたてる人たちまでいるわけで、それが気のせいであろうとなかろうと、何かしらそういう実感が湧いてくるのだろうから、そういう実感が世界と自己を結びつけているとも言えるわけだが、現実に堅い絆で結びついているかどうかはともかく、そんな結びつきの中でしか自らの存在を実感できないとすれば、自己の存在を実感するには妄想的な論理の飛躍の介在が必要不可欠だと言えるだろうか。もちろんそんなおおげさなことばかりではないだろうし、中には勇ましいがなりたてを必要としないような存在の仕方もあるのだろう。


1月1日「公正で公平」

 何が自らにとって都合がいいのかと言えば、簡単に考えるなら、思い通りや思惑通りに事が運んでいることかも知れないが、それが本当に都合の良いことかと言えば、自分にとって都合の良いことが、場合よっては自分のためにならない時もあるのかも知れず、では自分のためになることはどんなことなのか、それが自分にわかるのかと言えば、わかる時もあるしわからない時もありそうで、その時は自分にとって都合の悪いことだったにもかかわらず、後になってその時の経験が活きてくるようなことはよくある話で、その逆にその時はうまいこと立ち回って事なきを得たのに、後々にその時の立ち回り方が災いして、思わぬところから恨みを買ったりして、それがきっかけでひどい目に遭えば、都合の良い結果が祟って都合の悪い結果をもたらしたことにもなるわけだから、結局はその時には都合が良くても悪くても、普通はその時は都合が良くなることを目指すのだろうが、目指した結果がどうなろうと、絶えずその結果を受け止めながら、そこからさらに自らが巻き込まれている現象の中で、それなりに対応して行くしかないのかも知れないが、そこでは常に最善を尽くしているつもりでいるにしても、結果として感じ取れるのが、ある程度は都合が良く、またある程度は都合が悪い結果としか思えなければ、実感としてはそんなことでしかないわけだが、その一方で事前に何か目標を立てていて、何かやった結果がその目標に近づいていれば、自分のやってきたことをそれなりに肯定できるかも知れず、そういう意味でも何かはっきりとした目標や目的を持って、事に当たりたくなってしまうわけで、そんな心構えが肯定的で積極的な態度や行動をもたらして、そういう心持ちでいる間は上機嫌でいられるだろうし、やっていることが成功するような幻想も抱いていられるのかも知れないが、それもうまくいかなくなればネガティヴな気分になってしまうのだから、その場で気分がどうなろうと気分の問題で済んでいるうちは、どうということはないのだろうが、それでは済まなくなったところで、たとえ深刻な事態に直面しようと、それ以上でも以下でもないのだから、ただ最善を尽くしているつもりになれれば、結果がどうなろうとその時の状況や心境に応じて、諦めがついたりつかなかったりするだけなのではないか。

 それが自分にとって都合が良かったり悪かったりするレベルでは、どんな結果がもたらされようと、それを肯定しても否定しても、自己の範疇を超えるものではないのだが、それが外部と関わりがあるように思えるなら、外部との関係の中で何かしら判断したり評価したりする機会も出てきそうなのだが、果たしてその評価や判断に自らの都合を反映させるべきなのか、あるいは公正で公平な評価や判断を下したつもりであっても、そこに自らの都合である私情を挟んでいないと言えるのか、さらに公正で公平という価値自体が、私情と重なる部分があるとすれば、それは公正でも公平でもないことになるかも知れず、結局自らが下す評価や判断は、大なり小なり自らの都合を反映したものにならざるを得ないかも知れないのだが、それを公正で公平な評価や判断と見なすか否かは、他人でしかないわけで、その他人を含んだ自らを取り巻く社会との関係の中から、適正だと思われるような評価なり判断が導き出されるのかも知れず、誰にとっても適正だと思われるような評価や判断が、公正で公平な評価や判断であれば、誰もが納得するところだろうが、現実はそんなに甘いものでもなく、そこに各人各勢力などの思惑や都合や利害が介在してきて、またその場で誰が主導権を握っているかによっても、評価や判断に多大な影響が及ぶだろうから、そんな事情からも誰もが納得するような結果を導き出すのは困難を極めるだろうし、そういう面を考慮するなら、社会の中でなされる公的な評価や判断には、その社会の中での権力関係を反映したものになりやすく、それをたとえ公正で公平な評価や判断だと誰もが思っても思わなくても、公正で公平という言葉の意味とは別の場所から生じているものだから、そういう意味の言葉自体が、社会で主導権を握っている人や勢力の宣伝文句として使われているだけかも知れないし、特に社会の制度として法に基づいて評価や判断が下される場合、法に基づいて有無を言わせずに下されるわけだから、そうなった時点で自動的に公正で公平なものとなってしまい、言葉の意味などはもはや評価基準でも判断基準でもないわけで、その代わりに法律の基準が適用されて、評価や判断が公的に下されるとなると、表面的には私情など差し挟む余地もないようにも思えるのだが、それが情状酌量の余地などという摩訶不思議な基準まで持ち出されてきて、さらに公正で公平という言葉の意味や基準からは遠ざかってしまう現状がありそうだ。


2016年

12月31日「疑念の余地」

 意識は現実の世界から何を感じ取れるだろうか。改めてそんな問いを発した時点で、現実の世界を想像していて、意識が感じ取ろうとしているのは、現実の世界そのものではなく、意識を通して現実の世界を想像しながら、恣意的に虚構の世界を構成しようとしている、というような疑念が湧いてくるわけでもないだろうが、その辺の込み入った思考作用が、果たして現実の世界を認識しようとすることから生じているのか、単に文章を記述しようとして、うまく表現できずに言葉を無駄に錯綜させているだけなのか、その両方でもあり、さらに気づかないところで、何らかの障害にぶち当たっているのかも知れないが、少なくとも現実の世界から何を感じ取ろうとしても、それはそんな問いを発することとも、それを言葉で表現しようとすることとも、別の次元で感じ取ろうとしていることであり、何を感じ取ったとしても、それを書き記す気になるかどうかはわからないし、書き記した内容が、実感に感じ取ったことと一致するかどうかも怪しいところだ。では実際には何を感じ取り、何を書き記しているのかと言えば、改めてそんな問いを発すること自体が、自分の感じ取ったことや、自分の書き記したことを、信用していない証拠かも知れず、この世界から自意識が何かを感じ取ったり、それを書き記したりする行為に、何か漠然と疑念を抱いているのであり、感じ取ることにも書き記すことにも、自意識以外の何かが介在していて、それを感じ取らせて書き記すように促している何らかの作用に導かれながら、それを感じ取って書き記しているのだとすれば、自意識の主体性などあるわけもないだろうし、何か知らないがそんな力に操られているように思えるなら、それに逆らうことも逆らって自由意志に身をまかせることも、あり得ないことになってしまうのだろうが、そんなふうに想像してしまうと、ではそれを感じ取って書き記そうとしている現実の世界とは何なのか、という疑問も湧いてきそうなのだが、具体的に何を感じ取り何を書き記そうとしているのか、について言及しない限り、その手前に立ち止まって、延々と無意味な問いや疑念や疑問を再生産するばかりとなってしまいそうだが、もしかしたらそんならちのあかない問答に終始していることが、この世界の取り止めのなさを表現していることになるだろうか。

 たぶんそこで何かに逆らっていて、何に逆らっているのかと言えば、何かを感じ取らせようとする作用に逆らっているのであり、そして何かを書き記させようとする作用にも逆らっているのかも知れず、そうような作用を感じて、それに抵抗感を覚えるなら、そう仕向けさせるような力を感じているわけで、感じ取り書き記そうと思わせる具体的な何かがあり、その何かを伴った現象の中に、人の意識を巻き込もうとする何らかの作用が働いていると考えれば、合点も行くところだろうが、そう思わせる何かというのが、人をそこへと導いている当の物事であり、広く世間の関心を引く何かなのだろうし、同時に抵抗感を催す何かでもあるのだろう。それを自覚できれば、そこへと導かれて巻き込まれている人たちの動作が、どのような傾向を示していて、それが何をもたらしているのかも、ある程度はわかった気にはなるだろうし、そのようなことも含めて構成された現象に対して、自分がどのような姿勢や態度で臨んでいるのかも、ある程度は自覚できるのではないか。果たしてそれに巻き込まれている人たちと一緒になって、それを肯定したり否定したりすることが、何か意味や意義のあることなのか、例えばそこでやるべきことは何なのかについて、はっきりとした指標やら方針やらが確立されているのか、そんなことまで考慮している人などほとんどいないだろうが、そこで立ち止まって、自らのやっていることや考えていることを、自らの立場や境遇から主体的に見直してみないと、そのような現象に対して抵抗していることにはならないだろうし、そういう自覚がないと、ただその場の状況や情勢に流されて、その状況や情勢が感じ取らせようとしていることを感じ取り、書きしるさせようとしていることを書き記して、そうなると他の巻き込まれている人たちと同様なことを感じ取り書き記そうとして、結局それはそれを肯定するか否定するかの、どちらか一方の意見になりそうなのだろうが、そこで何が抜け落ちてしまうのかと言えば、どちらか一方の態度を取らせようと仕向けさせる作用への疑問であり、そこに肯定否定の基準を設けることへの疑念の余地なのではないか。どう見てもくだらない現象への賛否を表明してしまうと、それが賛否を問うような水準にも達していないことに気づけないわけだ。


12月30日「魅力的な何か」

 今ある世の中の制度や仕組みの中で、必要とされなくなるものは次第に形骸化して行くのだろうが、形骸化して行くことが必要な制度や仕組みというが、選挙や議会制度であることは、今や誰の目にも明らかとなっているのかも知れず、それらは一応は民主主義という建前を維持するには必要なのだが、政権交代すると面倒だから形骸化させておくことも必要なのだろうし、その辺の微妙なグレーゾーンの範囲内に収まるように、ごまかしが行われている現状があるのではないか。もちろんそれをごまかしとは呼ばずに、リアルポリティクスなどと呼べば聞こえがいいだろうし、実際には建前となる民主主義の理念や理想の方がごまかしでしかないと言えば、その通りでしかない現状があるのだから、そんな現状を反映しているのが意味通りのリアルポリティクスなのだろう。そしてそれの何がリアルなのかと言えば、民主主義を支える制度の形骸化がリアルなのであり、そうであるなら要するに今まさに民主主義のフィクション化が進行中だとも言えるのかも知れないが、このフィクションこそがリアルな状況というのが、形骸化そのものであり、制度が必要とされなくなってきたから形骸化しているというより、フィクションとして必要だから形骸化しつつある、と言う倒錯的な事態となっていて、その辺がややこしくてわかりにくいところであって、普通はそう言うのはごまかしでしかないのだが、リアルポリティクスを機能させるにはそう言うごまかしが必要不可欠なのかも知れず、現に今政治的な主導権を握っている勢力は、何やら見え透いたごまかしに精を出しているようにしか見えないのであり、しかもそれが誰の目にも見え透いて見えることが、結果的には肝心のようで、見え透いて見えるからこそわかりやすく、建前の部分では何かやっているふりをしてもらえばそれで構わないわけで、誰もが制度が形骸化しているのはわかっているだから、そう言う部分で妙な気を起こさせるような演技は要らず、かえって結果がわかりきっていることを、わかりきった結果になるように演じてくれれば、それで構わないわけだ。

 ならば本音の部分では何をやっているのかと言えば、建前をみすぼらしく見せかけようとしているのだろうし、民主主義の理念や理想には魅力がないように見せかけ、民衆がそれらの建前に幻想を抱かないように絶えず気を配りながら、戦略的にマスメディアなどを活用しつつ、幻想を抱かせるような要素を徹底的に除去しようとしているのではないか。たぶん意図的に意識してそうやっているわけではなく、リアルポリティクスを機能させようとすれば、自然とそうなってしまうわけで、制度を形骸化させることこそが、リアルポリティクスのリアルポリティクスたる所以なのだから、今主導権を握ってつもりになっている人たちにしてみれば、やって当然のことをやっているわけで、別にそのことについて悪びれる必要はないし、間違ったことをやっているわけでもないのではないか。そして彼らのやっていることを民衆も少なからず支持していて、少なくとも建前を尊重するというよりも、それは建前などではなく、本心から理念や理想を信仰しているように見える勢力よりは、圧倒的に支持が上回っているわけだから、それが現実の民意であり世論であるなら、まさにそのような民意や世論を反映した政治が行われていることになり、それが現状での民主主義の真の姿なのかも知れず、そのこと自体を批判したり否定しても、とりあえず民衆からの支持は得られそうもないが、批判したり否定したい人も少なからずいることは確かで、そう言う人たちは現状では少数派にとどまるしかなさそうなのだが、理念や理想の形骸化が誰の目にも明らかとなっているならば、もはや彼らが多数派となる日は永遠にやって来ないだろうか。そうであるなら民主主義の理念や理想の死を宣告して、何か他の理念や理想を求めるとなると、すぐにそんなものが見つかるはずもなく、そう簡単には行かないことはわかりきっていて、結局は現状で我慢するしかないのかも知れないが、もしかしたらそうした単線的な思考回路から外れたところで、案外魅力的な何かが見つかるかも知れない。


12月29日「事件の全容」

 人は必ずしも見たいものしか見ていないわけではないし、別に巻き込まれたくて事件に巻き込まれているわけでもない。たぶんそれに関係する誰にどのような思惑があろうと、その意識の中では思惑通りに事が運んでいるように思われるにしろ、実際には思惑を超えて事態が進行中であるかも知れず、またその事態に特定の人や勢力を利するような作用があるにしても、それが現実の世界で起こっていることならば、事の全貌が誰の目にも明らかになることはないだろうし、その事態に誰もが何らかの形で関与していようとも、関与している度合いによっても見え方も感じ方も異なるかも知れず、もしかしたら人の立場や境遇の違いによっても、案外同じ現象に関与している感覚はないのかも知れない。では実際に何が見えていて、それについてどう感じているのだろうか。特に見ようとしていないのに、なぜか見てしまうそれには興味がなく、見たくもないのに見てしまったときには、嫌悪感や違和感が募ってくるだろうか。そんな心理状態が誰の思惑から生じているとも思えないが、そこに何かを見させようとする思惑が感じられるなら、それが気のせいだったり、被害妄想が高じているのではない限り、見させようとしている誰かの意図を読み取ろうとしてしまうだろうか。だがそれを見てどう思って欲しいのかを想像してみたところで、ひとりよがりの心理状態を脱しているわけでもないのだが、何を見ればどう思うかを、それまでの人生経験からある程度は推測可能なら、それに基づいて見せている人の意図を想像してしまうわけで、想像することで安心しようともしていて、さらに見たときの驚きを減じようともしているとなると、実際にそう感じるような事態ともなれば、ある程度それは想定内の出来事に思われてしまうわけだが、もしそんな思惑を超えて事態が進行中であるならば、やはりそこでは見ようとしているものしか見ていないことにもなりかねず、自分の許容範囲を超える事態にならないように、はっきりとそうは意識していないものの自己暗示をかけていて、それが自己暗示だとは気づかずに、許容限度を超えるものは意識しないような動作が、自動的に発動するようになっていれば、ある意味で怖いもの知らずな精神状態でいられるだろうか。

 怖いもの知らずであること自体が、別の意味では危険な兆候かも知れないが、見えているものを自分の許容限度内の解釈に当てはめて安心しようとする心理動作は、誰もが持っている安全機構なのかも知れず、たとえ実際の事態が許容限度を超えて進行中であっても、過小に程度を把握していれば、その分取り乱したりせずに冷静に事に対処でき、過小に事態を見積もっていたおかげで、状況を見誤って対処が不十分となり、手痛い失敗を経験することになろうと、それが許容限度なのだからその時点での実力でしかないわけで、そんな自らの思惑を超えて事態が進行した時点で、失敗する結果は十分予測できたわけで、もちろんそれを把握できなかったから実際には予測不可能なのだが、結局そこからわかることは、思いもよらぬ結果に直面したとき、その時点ですでに自らの思惑や許容限度を超えた事態に直面していることに気づくだろうし、そんな事態を前にして驚き感動するしかないのかも知れないが、同時にそれがそれまでの自分の限界を超えるチャンスにもなっているわけだから、限界を超えたければ、今まで後生大事に抱えていた自己流の論理や認識や習慣などを改める必要があるのかも知れず、改めようとしたところでうまくいくとも限らないところが、一種の賭けでしかないのかも知れないが、怖気付いて今まで通りの自分の殻に閉じこもっていても、何の不都合の感じられないならそれでも構わないのかも知れないのだが、その辺が運命の分かれ道であり、別れた先に待ち受けているのがどのような運命であろうとも、事件に巻き込もうとした思惑の主の知ったことではなく、結果的にひどい目に遭えば、被害妄想気味にそれが罠だったと思い知るだろうし、うまくいくような成り行きを実感できれば、賭けに勝ったとでも思ってぬか喜びとなるだろうか。いずれにしても限界を超えようとすれば、今までとは違った想定外の事態に直面して、そこで何やらもがき振る舞って、その過程で今までとは違った行動や言動が出てくるかも知れず、そのような行動や言動に納得できるなら、今までの自分の殻を打ち破って、新たな動作を手に入れたことにもなるかも知れないが、それをどう評価してどう認識しようと、自らが巻き込まれている事の全貌を把握できないことに変わりないだろう。


12月28日「否定するまでもないこと」

 世の中が人の意識にどのような欲望を植えつけているとしても、欲望を植えつけられた人が、その欲望に忠実なままに生きられるわけでもなく、大半の人は大なり小なり欲望を断念したり、妥協を強いられながら生きていかざるを得ず、欲望が示すやりたいことをやれない代わりに、生きるためにやらざるを得ないことをやらされる成り行きにもなるわけで、たぶんその最たる行為が労働となるのだろうが、世の中からもたらされる欲望と、同じ世の中が課す労働との間の落差が大きいほど、人は不満や不快感を募らせ、やりたいこととやらせられていることとのギャップに煩悶するではないか。程度の差こそあれ現代人が直面しているのは、まず第一にそういう問題であり、やりたいことを断念させられる人が多いほど、不満や不快感を募らせながらも、それを我慢しながら生きているわけだから、そのはけ口としての娯楽が流行るのかも知れず、娯楽が流行るということは、それを提供する娯楽産業が栄えることにもなり、要するに現代社会は、各種のメディアを中心に人々の意識を欲望で煽り立てる一方で、なかなかその欲望を成就できずに不満を募らせたところで、そのはけ口としての娯楽を提供するわけで、人々は提供された娯楽を享受するには、やりたくもない労働を強いられて、娯楽代を稼ぎ出さなければならない境遇に追い込まれているのではないか。そしてそのような欲望の煽り立てと娯楽というはけ口へと誘導する回路の中には、社会変革だとか民主主義だとか言う政治参加への選択肢が欠落しているわけで、夢というエサにつられて欲望の回路の中で意識がぐるぐる回らされているうちに、そんな世の中が維持継続されて行くのに必要な労働力を提供しているだけとなっているのだろうか。それだけで世の中が成り立っているわけでもないのだろうが、やりたいことをやりたいようにやりたいという欲望が、果たして自発的に思うようなことなのかとなると、それはかなり疑わしいだろうし、まずはそう思わされているのではないか、と疑ってかかるべきことなのかも知れず、なにがそう思わされているのかと言えば、それは当然世の中がそう思わせているとしか思えないのではないか。

 またそのやりたいことの中に、社会変革とか民主主義の実現とか言う理想が含まれていなければ、世の中が人々に振りまく夢の中には、そういったものは含まれていないのかも知れないのだが、その代わりに何が含まれているのかと言えば、大半は商品の購買意欲をそそらせるような夢の提供だろうし、夢の中身は買った商品を利用して生活を楽しむことに尽きるのかも知れず、そして商品を買うには労働して稼がなければならない、というオチがついているわけで、そこでは働いて稼いで商品を買って、買った商品を使って生活をエンジョイする、という欲望の回路が設置されていて、その回路の中でぐるぐる回らされているうちに人生を消費していれば、やがて寿命が尽きて死んでしまうのだろう。だがそんな成り行きの中でも、本当にやりたいことはそれだけなのかと自問自答する機会が巡ってくるようなら、当然それだけではないと思いたいだろうし、疑いだすときりがないだろうが、自身をそのような欲望の回路の中でぐるぐる回している世の中の仕組みを疑ってかかるのが、自然の成り行きと思われれば、やはり世の中に対して不満を抱き不快に感じさせる何かがあるのかも知れないし、それを探ろうとする成り行きにもなるのかも知れず、なぜそう思わせるのかと言えば、世の中の状況がそう思わせるとしか言えない面もあるのだが、それは世の中が欲望を抱かせながらもそれを完全には成就させてくれない、という不満や不快感を抱かせる構造となっていることから来ていて、しかもそのような不満や不快感を解消しようとする欲求が、社会変革や民主主義の実現へは向かわずに、代わりに娯楽の享受や商品の購買へと向かい、そのためには労働を強いられ、その労働によって世の中が維持継続されている実態を示していて、そんな実態に違和感を感じると、世の中の仕組みを疑い始めてしまうだろうか。それはだいぶ偏向した認識に過ぎないかも知れないが、では社会変革や民主主義の実現を目指せば、何か人々が理想に思うような世の中が実現するのかと言えば、シリアの悲惨な内戦状況などを見るまでもなく、そんな甘くはないことはわかりきっているのだが、少なくとも現状を肯定も否定もしない程度の認識は持っていた方が、何かと冷静な判断には結びつけられるのではないか。


12月27日「北朝鮮症候群」

 廃墟というのはそこで人の活動が行われなくなったから、廃墟になってしまったのだろうが、活動を継続させるには何が必要なのかと言えば、単純に考えればそこで経済活動が行われているうちは、廃墟にならずに済むのだろう。では廃墟になるのを避けるために、無理にも経済活動を行うべきなのかというと、その必要がなければ別に廃墟になっても構わないわけで、現実に廃墟となって朽ち果ててしまった文明の痕跡が物語っているのは、単に必要から見放されてしまった経緯かも知れず、たとえ武力による攻撃でそうなったとしても、そこが必要なら復興するだろうし、見捨てられて廃墟になってしまったからどうしたわけでもなく、単に人間抜きの自然状態に戻っている最中であるのなら、それほど否定することもないだろうか。むしろある種の正常化が作用しているのかも知れないし、そのような斜陽化が進む地域を再活性化させようとするのは、自然の摂理に反しているのではないか。それでも人は朽ち果てた廃墟の中で何かを探し当てようとするものだろうか。少なくとも映像を構成するくらいなら、再活性化とは無縁だろうし、映像に収めつつも廃墟のままに保とうとしているようで、それは歴史などを深く掘り下げないで、また地中深くに眠っている妄想のお宝とも無関係のようで、そんな表面をなぞることしかできない行為に留まるなら、それ以外に何を見出したことにもならないかも知れないが、それが廃墟という生成途上にある自然に対する節度ある接し方だと見なしても構わないだろうか。だが人はそんな朽ち果てた廃墟から、在りし日の繁栄の面影を想像してしまうのではないか。想像すれば今ある現状を残念に思うだろうし、そうなる前に何とかならなかったのかと過去を振り返って反省してしまうかも知れず、そんな反省からまたありもしない幻想へと妄想の膨らんで、何やら想像がもたらす反省や妄想を題材としたフィクションまでが、虚構の領域で構成されてしまうだろうか。だが結局求めているのがその手のフィクションだとすると、廃墟が廃墟と化した歴史的な経緯が忘れられて、廃墟でさえも文明の栄華を証明する痕跡に位置づけられてしまい、自然に戻ろうとする作用が押し止められてしまうかも知れない。

 廃墟をそのままの姿に止めて、それを見世物として活用したりするのも、経済活動の再開を物語っているのだろうが、在りし日の姿を再現するような行為も、観光的な見世物化と言えるだろうし、その場所の歴史的な重要性を強調したければ、記念碑的な建造物までが併設され、そこで定期的に記念行事が執り行われることにもなるだろうし、そうなれば当然そこに政治的な思惑が絡んでくることにもなるかも知れず、その強調したい内容に政治的なメッセージが織り込まれ、それを広く世間に周知徹底させる意味で、定期的に記念行事を執り行って、その行事がマスメディアを介して話題となることが期待されているのだろう。そうやってその場所と現在との歴史的な連続性を人々が意識する度に、その意識に政治的なメッセージが刻まれるわけで、行事の度にそれをマスメディアが報じる度に、その忘れてはならない政治的なメッセージが繰り返し思い出されるわけで、そのような恣意的で集団的な意識の制御がどれほど社会に影響を及ぼしているかは、はっきりとは推し量れない面もあるだろうが、記念行事を執り行う側にしてみれば、それを定期的に執り行っていること自体が、社会にその儀式が認められていることの証しとなっているわけだから、まずはそれを執り行うことに意義があるわけで、執り行ってそれをマスメディアが取り上げているうちは、充分にその存在意義を果たしていて、そこに込めた政治的なメッセージも人々に届いていると見なしても構わないだろうし、そのこと自体が記念碑的な廃墟の政治性を物語っているわけだが、そうすることだけが政治のすべてではないのはわかりきったことで、そのことだけで人々の支持を取り付けたいわけでもないだろうし、人々の方でもそんな儀式的な行為など、枝葉末節な取るに足らない行為だと認識していれば、何がどうなるわけでもないのだろうが、たぶん政治の方で他に何もやりようがなくなると、その何もやりようがない状況から人々の目をそらす目的で、やたらと盛大にその手の記念行事ばかり執り行うわけで、そうやって人々の目をそらすとともに、それを人々の目的に位置づけようともして、そうなると年がら年中全員参加のごとく人々を動員して、国民的な行事ばかりやっている状況にもなるのではないか。


12月26日「変革の可能性」

 資本主義経済が発達した社会には、土地建物や機械設備などの資産が蓄積しているのだろうが、機械類と組み合わさった施設には様々な情報も蓄積しているだろうし、金融資産なども貴金属以外では紙に印刷された紙幣や証券の他に、単なる電子的な情報に過ぎないものも多いだろうし、文字や画像や映像も現物ではなく、電子的な情報ばかりとなってしまうと、超高密度に集積できるだろうが、果たしてそれに価値があるのか疑問に感じられるところだろうし、実際にネットを介して利用できるような情報は、端末の画面上に表示されるものでしかなく、それ自体には大した価値もないようにも思われるかも知れないが、それを表示させるための機械類や設備や施設などの、製造や建設や維持運営にも、莫大な費用がかかっているのだろうし、そういう面から考えると、そんな社会の現状を人為的に変えようとして変えることなど、あり得ないようにも思われてしまうわけだが、実際にこれまでも人の意志通りに社会が変わってきたわけでもないだろうし、人の意志といっても人それぞれで少しずつ異なるのだろうから、それらが一つの意志としてまとまることなどあり得ないだろうし、政治的な独裁権力といっても、その力が及ぶ範囲は限られているし、地球表面も完全には支配できないのに、スターウォーズのように銀河全体を帝国的に支配しようとするなど、荒唐無稽も極まっているのだが、たぶんこれからも、何やら人為的に社会全体を変えようと呼びかける試みは後を絶たないだろうし、そういう呼びかけに共鳴する人も少なからず出てくるだろうが、そういう試みも社会変革に少なからず影響を与えるだろうし、実際に今後何らかの形で社会変革が実現したように思われた時に、そのような呼びかけが無駄ではなかったと感じられれば、それはそれで良いことなのだろうが、何かそうなった結果から見れば、そう思われてしまうようなことでしかないだろうし、実際にそう思うとすれば、思っている人にとっての都合のいい部分しか見えていない場合もありそうで、今現在でさえ今ある社会の繁栄を自分たちが一致団結して築いてきたような自負を持っている人がいるとすれば、何か勘違いしているようにも思われてしまい、どうもその辺で人の心に社会が何らかの作用を及ぼしているのかも知れない。

 たぶん二十世紀の社会主義革命のように、特定の集団が人為的に社会を変える試みは幾度となく行われてきた歴史的経緯があることは確かで、実際にそれが成功したように思われた時期もあったのだろうが、その前後の偶然の巡り合わせのような紆余曲折は無視した上でそう思われるわけで、思い通りに変えようとして思わぬ結果を招いてしまうことの繰り返しが、世界各地で様々な文明の興亡をもたらしてきたのだろうし、そのこと自体が他に何を物語っているとも思えないが、そんな歴史的経緯と現代に生きている人たちの意識がつながっている面も多少はあるにしても、それとは別の水準で、人々が強力に世の中に絡め取られ、社会につなぎとめられている面もあるような気がしていて、例えば特定の政党を支持するかしないかを巡って、世論が対立しているように見せかけられているとしても、それが偽りの対立ではないにしても、どちらにしてもそのような対立とは別の水準では、共闘しているように思われぬでもないわけで、彼らが表向きは対立しながらも守っているのは、そのような対立を維持している社会的な制度や慣習なのかも知れず、そのような制度や慣習を通して社会につなぎとめられ、世の中に絡め取られているのだろうが、どうも真の社会変革というのは、彼らが絡め取られつなぎとめられているものを断ち切る行為かも知れないし、そのような行為によって彼ら自身が変わることが、彼らが拠り所としている世の中が変わることにつながるのかも知れないのだが、そうなると彼らにとってそれは思いもよらぬ結果となるわけで、それが思い通りに変えようとして思わぬ結果を招いてしまうことになるわけだが、それは彼らには受け入れ難い結果かも知れず、実際に現状でも受け入れ難い結果になりつつあるとすれば、これも一種の社会変革が行われている最中と見なしても、当たらずとも遠からずなのかも知れないが、これが誰の思い通りだとも思えないだろうし、実際に誰の思い通りでもなく、誰の思惑からも外れた結果を招きつつあり、それでも状況がひとまず一段落した頃には、何やら上手く立ち回って、世の中の主導権を握っているつもりの人や集団が、世論の支持を集めているように見せかけられているのかも知れない。


12月25日「物語の終着点」

 先行きがどうなるかなんて、それを予想したり予言するのが仕事なら、何かその予想なり予言なりに説得力を持たせるための、何やらもっともらしい理論や理屈が必要となってきそうだが、普通に想像したり期待したりする程度なら、いい加減な希望的観測に基づいた妄想でも抱いていれば、それなりに前向きな気持ちで生きて行けるだろうか。少なくとも現時点では明確な経済理論などないようだし、理論通りの現象が起こるにしても、それは起こった後から後づけ的に現象に合わせて理論を修正した上で、理論の正しさが立証されたように装うのだろうし、誰もが正しいと思い込んでいそうな数学や物理学などの理論にしても、理論が成り立つ上での前提条件の存在が欠かせないだろうし、そんな条件が適合する限りで理論の正しさが証明されるわけだから、結局は現象が起こった後から、その現象が起こるに必要な前提条件を探さなければならず、そうやって条件を定めてから正しいと思われる理論が導き出されても、もうすでにその理論の正しさを証明する現象は起こってしまった後であり、それをこれから起こるだろう未知の現象に当てはめようとしても、その理論が成り立つ前提条件が同じにならない限りは、理論通りの結果を得るには至らないわけで、条件が違えば結果も異なるとすれば、しかも同じ条件の下で現象が起こる確率が低ければ、理論に基づいた予想が的中する確率もそれだけ低くなるだろうし、経済を取り巻く状況は時期も地域も範囲もまちまちなのだから、同じ条件下で同じ理論に基づいた現象が起こることなどまずありえないだろうし、そういう面で予想が当たったように思われるようなことがあるとしても、それはたまたまなのだろうし、そうでなければ当たったように思わせる語り口に騙されているだけで、予想自体がどのような結果になっても当たったことになるような、何とでも都合のいいように解釈可能な、巧妙な内容となっているかも知れず、そうなると言語表現の巧みさが問題となっているわけで、予想の基となっている理論はそれほど重要なものではなく、下手をすると素人を騙すための単なるこけおどしに過ぎない場合もありそうだ。

 もとよりすべてを説明可能な理論などないのかも知れないし、あるとしても部分的な説明に有効なくらいかも知れないが、少なくとも何らかの現象を説明するとなると、それなりの理屈を用いないと説明に説得力がなくなるだろうし、その理屈というのがすべて理論に発展するわけでもないので、話の辻褄が合っているように感じられる程度なら理屈と言えるだろうし、予想する結果にしても何も一つである必要もなく、ありそうな条件を複数提示して、それぞれの条件に適合しそうな結果を複数予想すれば、実際の結果がその中のどれかにだいたい当てはまるようなら、一応は予想が的中したことにしてもらえるかも知れず、やはりそういう意味でも説明の仕方が重要となってきて、確かにそういう説明に理論や理屈が入っていれば、何かもっともらしく感じられて、信用のおける説明に思われてくるのだろうが、それらが説明の中でどのように使われているかが注意する点で、またそういう説明を聞く理由というのも、説明そのものの重要度に関わることにもなるだろうし、説明する側とそれを受け取る側の立場や境遇によって、内容に対する切実さや程度が変わってくるわけだから、ただ単に予想が当たったり外れたりするだけでは、その予想内容がどの程度の意味を持つのかなんてわからないし、仮に予想が当たったところで、その現象に興味がなかったり関わりがない人にとっては、どうでもいいことであったり、興味があったところで傍観しているだけの人なら、少なくとも切実さに欠けているだろうし、野次馬的に面白がっている人には、当たっても外れてもどっちにしても、それに合わせて面白がれるだろうし、そんな無責任な立場で現象に立ち会える人が多いほど、その現象自体が娯楽の対象となるだろうし、見世物としての娯楽に過ぎないなら、予想が当たろうが外れようが、面白おかしい要素が散りばめられた内容になるほど、ウケるだろうし人気も出て、予想すること自体も、見世物的なエンターテイメントに仕立て上げられるかも知れないし、そうなれば真摯に理論などを模索すること自体が的外れとなってしまい、どのような分野でもそういう逸脱の有り様が、ある意味で大衆市民社会の特性を物語っているのかも知れない。


12月24日「紆余曲折の果てに」

 何かをやり遂げようとする意志に反して、それほど怠惰に邪魔されているわけでもないのだろうが、たぶん他にそれを阻むような障害に突き当たっているでもなく、またいくらやってもやりきれないように思われるわけでもなく、そんなこととは無関係に何だかわからない運命の巡り合わせに巻き込まれているようにも思われ、そんな運命から逃れられないと思うなら、そうなってしまう原因も理由もわからないまま、実際にそんな成り行きの中で何かをやっている現状があるのだろうし、別に誰もがそうなるとは限らないだろうが、まれに特定の誰かにはそうなってしまうような成り行きがあるとすれば、自らが運命に選ばれたつもりになって、そんな成り行きの中で何かをやってみたいと思うだろうか。そんな成り行きがどんな成り行きかにもよるだろうが、それが良いとも悪いとも思えないような成り行きなら、どうということはないとしか思えないだろうし、それが特別な運命の巡り合わせから生じているように思われるのなら、何だかわからないとしか感じられなくても、やはり何だかわからないままでもやっていることを続けようと思うかも知れないし、それ以上は何とも言えなくても、少なくともやる気にはなってしまうのではないか。何の根拠もなくてもそう思うなら、たぶんそれ以上の認識に至られなくてもいいのかも知れず、至りようのない状況というのがあって、わかりようのないことをいくらわかろうとしても無駄で、わからないことはわからないままに放置せざるを得ない段階があり、その段階に留まったままで、何かをやり続けるような成り行きとなっているのだとすれば、下手にそこから外れようとせずに、辛抱強くやり続けないと、何も得られなくなってしまうとは限らないだろうが、やり続けるけることが運命だと思うなら、そのままやり続ければいいだろうし、何かのきっかけで運命を信じられなくなるまではやるだろうし、やり続けているうちは、いつやめればいいかなんてわからないだろうし、それは実際にやめてからでないと、はっきりしたことは何もわからず、やめたらやめたで何でやめたのかわからない場合もあるかも知れないが、何かをやり続けている現状には、そのやり続けているという実感が、やっていることの必然性を感じさせ、それを実感したいからやっている、という原因と結果の転倒までもたらしているのではないか。

 そうなってしまうと、すでにやり始めた当初の理由やきっかけなど、どうでもよくなっているわけでもないのだろうが、それよりも慣性の法則的な、いったん動き出したら止まらなくなるような、厄介な特性があるのかも知れず、特にやっていることが必然に感じられるようになると、たとえ間違っていてもやれている現実があるのだから、やれている限りはそれをやる可能性があり、実際にやっているなると、なかなかやめられないだろうし、外部からやめさせようとしても、抵抗できる範囲で抗おうとするだろうし、実際に抗えるのなら抗うだろう。そんなわけでそれが独りよがりだろうと何だろうと、それをやり続けている現実というのが、やっていることが正しいと信じ、その行為を肯定できる理由となり、それが間違っていて、否定されるような行為であることをわからせるには、実際にやめさせること以外にはないのかも知れず、もちろんやめさせられても正しい行為だと信じていることはできそうだが、実際にできなくなれば、やっていることから生じる実感が湧いてこないだろうし、やれていた頃の実感もだんだん薄れてくるに従って、迷いや疑念も出てきて、それが空想や妄想になってくると、周囲が信じてくれなくなるだろうし、そうなるといくら強情を張っても、その行為に対する信仰が崩れてしまうのかも知れず、だからこそやめさせようとすると頑強な抵抗に遭うわけで、そういう面で何かをやり続けることは、それをやめさせようとする行為に対する、絶えざる抵抗とセットになっている場合も多いのかも知れず、また周囲で調子よく何かをやり続けている人がいると、必ずそれを邪魔しようとする人が現れたりして、何かをやり続けるということは、自分のやっていることを邪魔されると腹が立つのは当然だとしても、他人に好き勝手なことをやられるのも腹が立つわけで、腹が立てば邪魔しようとしてしまうだろうし、邪魔された方はまた腹が立つだろうし、どちらにしても譲り合うような成り行きとはなり難いだろうが、それもまた運命の巡り合わせかも知れず、どのような経緯でそうなっても、結果的に何かをやり続けられている現状があるなら、腹が立とうが立てようが、そのような実態があることは認めざるを得ないのかも知れない。


12月23日「伝えたいことと伝わること」

 人ができることは現に今やっていることに過ぎないのかも知れないが、今やっていることの延長上に何があるのかを想像してみても、それほど切実にやりたいことになるとは限らないのかも知れず、その場の状況に合わせてやっていることの延長上で、できそうなことを想像しているに過ぎず、現に今やっていることも、その場の成り行きでたまたまやり始めたことが続いているだけで、その続いている状況というのが、それを続けさせていると考えれば、別にやりたくもないことをやっているわけではないにしても、やりたかったことをやっているとも言い切れないような、どっちつかずの心持ちでやっていることかも知れず、必ずしも自分の意志がやっていることに反映されているわけでもないような、自分よりも周囲の意向や有形無形の様々な作用の方が、自分のやっていることに反映し、影響を及ぼしているかも知れず、そういう意味では自分一人だけでやっているとは言えないだろうし、それは他の誰のやっていることにも当てはまりそうだが、そのやっていることについて言及する場合は、それに関連して固有名を出さざるを得ない成り行きというのがあるわけで、それなしでは済まないような言説ともなれば、その固有名を伴った人物とその人物のやっていることが一致しないことには、話としては成り立たなくなってしまいそうだが、フィクションとして語る分には、その人物を魅力的に見せかけるためにも、あることないことつけ加えて、それらしいエピソードに仕立て上げる操作が可能なのかも知れないが、それによってかえって話が嘘っぽくなってしまい、話としてはその方がおもしろい場合の方が多いのかも知れないが、真実を知りたいという意向から外れて、そういう方面を期待する向きからは信用されない話となってしまいそうで、その辺は語る目的がどういうところから来ているのかにもよるだろうし、それが大衆娯楽的なフィクションなら、例えばそちら向けの英雄豪傑的な型に人物像を流し込んだり、その手の人物伝をそういった物語にふさわしい内容のエピソードに加工したり、そうやって大衆の求めるニーズを反映したフィクションに仕上げるような成り行きとなるのではないか。

 そういうフィクションには大衆の最大公約数的な願望が反映されているようにも思えるのだが、願望と言うよりは安心して受け入れられるような要素が満載されているというべきかも知れず、誰もがそういう人物になれるわけでもなく、例えばそれが稀代の英雄といった役柄だとすると、むしろ誰もがなれない代わりに、誰もがその人物を応援したがるような役柄が求められているのかも知れず、しかもそれが過去に実在した人物で、その人物の業績が多くの人に称賛されるようなものなら、なおのこと肯定的な人物像にしたいだろうが、そういった型にはまったわかりやすい物語を安心して享受している人たちが実際にやっていることと言えば、そんな人物の業績からは程遠いことをやっているのだろうし、やっていることの種類も人それぞれで千差万別で、誰もが自分のやっていることを手放しで肯定できるとも限らず、多少は不満を抱きつつそれなりに妥協しながらも、適当なところであきらめもしているだろうし、その状態を肯定や否定する以前に、何かどうすることもできない限界にも直面していそうで、そんな何事も思い通りにはいかないもどかしさをかみしめながらも、仕方なくそれをやっている現状があるのではないか。たぶんその手の大衆娯楽的な英雄譚に絡め取られてしまった歴史上の人物にしても、そういった事情の中で何かをやっていたのかも知れないし、そのような物語に現代的なリアリティを含ませようとするなら、現代人が抱くような苦悩を連想させるエピソードを構成しようとするだろうし、それが大衆の求めるニーズかも知れず、物語のそういった面に共感する人も大勢いそうだが、その思い描いていた願望と実際に直面する現実の落差や配分の程度が、人々が物語に引き込まれる誘惑の力として働いているのだろうし、そんな物語に感情移入している間は、現世の憂さを忘れて、暫し他人の人生の傍観者を装っていられるのかも知れないが、それが虚構であることも承知しているわけで、何はともあれ大したことでもなく、その間接的な体験から深刻な現実を引き出そうとする気は起こらないだろうが、フィクションを提供する側には、中には真摯で真剣な問題提起を企てようとする思惑もあるだろうし、まれにそれが伝わることもあるのかも知れず、さらにそんな思惑を凌駕する何かが伝わることもあるだろうか。


12月22日「社会の安定化」

 知られていることは大したことではなく、それよりも秘密にされていることを知りたいという思いの強さが、その秘密を暴くことに対する過大な期待を抱かせるわけだが、すでに知られていることの中で、大したことだとは思われないようなことを知っていて、それがどうしたわけでもないとしても、それで十分だと思われるようなことを知っていれば、それ以上は知る必要も感じられないだろうか。それを知っていることで安心感を得られるなら、それだけでも知っておいた方が、心穏やかに生きていけそうだが、逆にそれを知ってしまったことで、不安感に苛まれるようなら、知らなかった方が良かったとも思われるだろうし、別に不安感に苛まれなくても、何かまずいことを知ってしまって、居心地の悪さを感じるような場合もあるわけで、それを知ってしまったことでそういう気持ちになるような秘密というも、世の中にはありそうなのだが、中にはそれが秘密でも何でもなく、公然の秘密でさえもなく、白昼堂々と明らかになっていることなのに、面と向かってそれについての言及がはばかられるような、居心地の悪い世の中の風潮や空気を感じられてしまう場合までがあって、しかもまともに言及すれば批判的な内容を含んでしまい、そのような批判を封じ込めようとする雰囲気が漂っているなら、やはり言及しない方が身のためだろうし、なるほどそういうところから世間の同調圧力が生じていることを知ってしまうわけだが、それを知ってしまったことから得られるのは、安心感や不安感などとはまたちょっと違った感覚であり、要するにそれは不快感なのだろうが、人を不快な気分にさせるような行為が、これ見よがしにやられているような世の中は、居心地が悪いのはもちろんのこと、そういうことが平然と行われていて、しかもそのような行為に同調する人も少なからずいるわけで、それに対して誰も文句も言えないような状況となってしまえば、多くの人がそのような事態を見て見ぬ振りをしていることにもなり、それは悪い意味での周知の事実とも言えそうだが、その多くの人が知っているのに知らないように振る舞う行為というのが、どれほど社会の中で持続するかによって、そうような社会で暮らしている人々の忍耐強さとか我慢の限界とかを測る目安となるだろうか。

 単純に政治的な圧政下で暮らしている人の気持ちになってみれば、そんなことは痛いほどわかるような気にもなるだろうが、そのようなあからさまな弾圧などなくても、程度の軽さを伴った行為なら、社会の至るところで行われていそうで、そんな大したことだとは思われないような居心地の悪さなら、いくらでも実際に体験しているだろうし、大した忍耐や我慢など必要とせず、ちょっと視線を逸らしていれば済んでしまうような、軽いものまでありそうだろうが、その少なからぬ人が不快感を催す集団的なごり押しの類いが、メディア的な話題を伴ってくると、やはりそのようなごり押しに加わっている人々には、曲がりなりにもそういう世間的な話題を伴った現象に参加しているわけだから、悪い気はしないだろうし、周囲に多少は不快に思う人の存在を感じるとしても、そのような行為に参加している他の仲間たちと共に感じる、連帯感や一体感や達成感などの肯定的な快感の方が圧倒的に勝ってしまい、それで他人に迷惑をかけているとすれば、迷惑に思っている他人の方がおかしいと思うかも知れず、何よりもそういう自己中心的な気分でいることが最高に楽しいわけだから、そんな最高に楽しい気分を害するような輩は許せないとなるのも当然の成り行きであって、そういう意味でも周囲に忍耐や我慢を強いている分だけ、自分たちが楽しい気分になれるとすれば、そういうことができる身分の人たちは、そういうことができる自分たちの特権をそう簡単に手放す気にはなれないだろうし、それが社会の制度や慣習によって固定されているようだと、特権を保持する人々が世の中の主導権を握っているわけだから、そういう階級や身分を基として構成されている社会は、執拗に長続きする可能性があるのかも知れず、程度の差があるにしても、どのような社会にもある程度はそういう部分があって、民主的な理想に照らし合わせれば、社会のそういう不平等に思われる部分は、できるだけ解消していく方向で努力が払われるべきなのだろうが、そういう部分に関して見て見ぬ振りを強いるような風潮があるとすれば、社会の中での主導権争いに決着がつきつつあるとともに、その中で暮らしている人々の階級や身分が固定されつつあるのかも知れない。


12月21日「世界の果て」

 何かそれと気づかないままに決定的な結果を招いたとき、そうなるきっかけは些細な行動のずれや感情の行き違いなのだろうが、それがないと何も起こらないわけではなく、別に他のすべての動きに注意を払っているわけでもなく、それ以外に感知できるのは気まぐれに気が向いた範囲内でもあり、またその場の成り行きに従って何かを感じ取ろうともしていて、そうなるとそんな成り行きに従っている範囲内で、そこから何かを知ることにもなるわけだが、知ったときにはすでに時遅しの感も免れないことが大半であるようにも思われるし、実際に知ろうとしてもなかなか知ることができないままに時がだいぶ経って、もはやそんなことなどすっかり忘れてしまってから、不意にそれを知るに至ってしまうと、すでに時遅しであるどころか、別に知らないままでも構わなかったことに気づかされたり、もしそのとき知り得たとしても、知ったところで何をどうすることもできなかったようにも思われてくる場合もあり、そうした理由から知らなかったことを悔やむような気にならなければ、別に些細な行動のずれや感情の行き違いから、取り返しのつかないような結果を招いていようと、そのときうまく立ち回れなかったことを後悔する気にはなれないだろうか。その辺が何か大げさなフィクションだと、そこから世界を揺るがす重大な局面へと話が膨らんでいくような荒唐無稽が用意されているわけでもないだろうが、そうなるには個人を超えた集団の組織的な動作を必要としているのだろうし、しかもそうだとしてもなおそれも人が構成する社会の中でのことだろうし、社会の中で起こっていることが、この世界を揺るがすようなことだとすれば、世界の方が人が把握しているつもりの宇宙よりはだいぶ狭いと実感されるかも知れず、またメディア上で取り上げられる世界を震撼させる重大事件や深刻な事態というのも、かなり狭い範囲を震撼させているのだろうし、中にはそんな世界から逃れて平穏無事に過ごしている人も大勢いそうなのだが、そんなふうにして人々を取り巻く世界の範囲が恣意的に膨らんだり縮んだりしているうちに、そのとき誰かが招いたと思っている取り返しのつかない決定的な結果がどうなったのかと言えば、他の人たちから忘れられたり思い出されたりするわけで、そんな結果を招いた当人が後悔しようと開き直ろうと、それ以上でも以下でもないとすれば、やはりそういうことでしかないのだろうか。

 それ以上にも以下にも話が進むのは、フィクションに限ったことでもないのだろうが、それに対して保っている認識というのが、状況によっては話の進み具合を楽観視していたり、場合によっては深刻に受け止めていたりもするかも知れないが、そこで把握しているつもりの状況が、何かリアリティを感じられないと、意識が話の中に入っていけないのはもちろんのこと、たとえ自らが関係していることであっても、そこから一歩退いて他人事のような気がしてくることもあり得そうで、そうなるとすでに現実のフィクション化が進行しているのかも知れず、そこから無責任体質以外の何がもたらされることもないのかも知れないが、そこで踏みとどまるべき場所というが、ある場合とない場合があって、どちらかを恣意的に選べるわけでもないのだろうが、とりあえずそこがあると自覚できれば、そこに踏みとどまろうとするのだろうし、実際に何かしらやっている現状があれば、たとえそれが武装闘争だろうとテロ活動だろうと、そのような状況の中に踏みとどまろうとしているのだろうし、踏みとどまろうとしている限りは、実感がどうであれそこに紛れもない現実があり、それがそこでのその人にとってのリアリティなのではないか。それの良し悪しを判断する立場にないと思うなら、別の選択肢などないということだろうし、そうであるならそれをやり続けるしかないし、実際にやり続けている現状があるから、それの行為者としてその人がそこに存在していて、その人を取り巻く世界もあるのではないか。その人にとっての世界は、その人が行為者として存在している限りの世界であって、人それぞれでその人を取り巻く世界の範囲にも大小や程度に違いがありそうで、テロや内戦に明け暮れている世界で活動している人と、平穏無事に過ごしている人の世界が、それなりに違うことは容易に想像できるし、その人にとってのリアリティがそれなりに違うのも自明のことだろうし、それは踏みとどまっている場所が違うからだとも言えそうで、そうなると踏みとどまっている場所によって、その人を取り巻く世界が違って見えるのは当然だとしても、すでにそこに踏みとどまっていること自体が、取り返しのつかない決定的な結果をもたらしているのではないか。そして灯台下暗しではないが、人は自らが踏みしめている大地が、他の人たちが踏みしめている大地と、地球そのものの一部としてつながっていることに関して、それほど注意を払っていないだろうし、そのことが何を意味しているのかなんて知る必要さえ感じられないだろう。


12月20日「標的なき攻撃」

 普通に考えるなら攻撃というのは目標となる標的が必要なはずだが、もし標的を必要としない攻撃があるとしたら、それはどのような攻撃になるだろうか。何を攻撃しているわけでもない攻撃というのはあり得ないと考えれば、そこで話が終わってしまうのだが、何だかわからずに盲滅法に攻撃を繰り返しているうちに、予期せぬ何かに攻撃が当たってしまい、結果的にそれが攻撃であることが成立してしまうなら、それは攻撃目標のない攻撃と言えるだろうか。別に攻撃と見なす必要はなく、事故と言えば事足りるようなことかも知れないが、自身のやっていることを攻撃だと意識していれば、その人にとっては攻撃なのだろうし、何か相手も定かでないのに、漠然と独りよがりに攻撃を仕掛けているつもりになれるとすれば、少なくともそれがまともだとは思われないだろうが、何かやっているらしい雰囲気は周囲へと伝わるのではないか。そしてたぶんそれは目指すべきでも目指されることもないだろうが、攻撃という表現から後退した攻撃なのであって、攻撃でさえないと言ってしまえば、それで済んでしまうようなことでしかないのだろうが、少なくとも何らかの働きかけを行っていることは確かであり、その働きかけによって影響を及ぼそうとしているのだから、積極的な働きかけなのだろうが、そうすることの意図が不明確であるなら、実際に何をどうしようとしているのかわからないままに留まるだろうし、意図を明かさない働きかけというのは、不気味だし信用もされないだろうが、意図を明かさないというよりは、働きかけているつもりの当人にも意図がわからないということもありうるかも知れず、何かをやっているうちに、結果的に何かに命中して、その命中した何かに対する攻撃だと判明するまでは、それが攻撃だとはわからないなら、結果的に攻撃に当たってしまう対象にとっては、防ぎようのない攻撃であるだろうし、まさに青天の霹靂のような攻撃になるのだろうが、結果的に攻撃したことになる当人も、攻撃しようとする意図もなく、攻撃しているつもりもないのなら、やはりそれは事故にしかならないのだろうが、その何だかわからないが、何かを攻撃しているらしいという自覚が心に芽生えていると、後になって何かの運命に導かれるようにして、思いがけない対象に遭遇してしまうことにもなるのだろうか。

 遭遇する以前に対象をはっきりと定められないのだから、行き当たりばったりで何を期待してみても、期待する根拠などないだろうし、その時点ではそれが攻撃だとしても無効な攻撃でしかなく、無効なのだから攻撃でさえもないだろうが、実際には攻撃しているのではなく、攻撃を受けている場合もあるのかも知れず、それに気づいていなければ、何だかわからないが何かやっているように思われるのは、もしかしたらそれと気づかないままに何かからの攻撃に対処していて、知らないまま攻撃を受けていながらも、それに対処しているのにも気づかないとなると、その自覚がないままにただ何かやっていることにしかならないのだろうが、それはそういう成り行きの中での暗中模索とも言えるわけで、そういう場合はかえってわからないままの方がいいのかも知れず、下手に意識しない分わりと冷静でいられて、相手が定かでないから要らぬ感情なども湧いてこないし、それ以前に自意識過剰の思い過ごしを経由していないから、勘違いとも無関係なのかも知れず、要するにこちらから攻撃したり、逆に攻撃を受けてそれに対処したりということが、まったくの虚構であると見なしても構わず、では何かをやっているような気がしているというのも、気のせいでしかないことにもなりかねず、そうなるとそれは何なのかと改めて考え直す必要も出てきそうだが、考えるまでもないことで、そこで攻撃を意識してその対象を特定しようとすると、自然と攻撃目標が設定されてしまうわけで、目標を設定するにはそれを意識することが肝心であり、意識することによってしか攻撃目標というのは定まらないとも言えるのではないか。要するに順序としては、まずは相手を意識することによって攻撃目標が定まり、その目標に向かって攻撃を仕掛ける成り行きにはなるわけだが、それ以前に何だわからないが何かをやっているつもりの段階があって、それを後からわかろうとすることによって意識するわけで、そうやって目標とする相手との関係を築こうとしてしまうのではないか。それがその相手にとっては一方的な言いがかりにしか思えない場合もあるだろうし、それを相手の方でも意識し出すと、何やらそこで攻撃したりされたりする理由や根拠も生じてくるわけで、まずは意識するきっかけが生じてから、意識した理由や根拠を捏造するような動作が続き、そんな成り行きの中で原因と結果を取り違えて、攻撃する理由や根拠があるから攻撃しているように思われてくるわけだ。


12月19日「空騒ぎ」

 事の本質から外れたところで、何かを大げさに騒ぎ立てていることに鈍感でいられるなら、事の本質が何なのかなんて興味のないところだろうが、何が事の本質なのかを問う以前に、事とは何かを知りたいとも思ってしまうわけだが、果たして世の中に本質が問題となるような事があるのかと言えば、どうもそういうことではなく、何かメディア的に騒ぎ立てている時点で、すでにそれは本質から外れた枝葉末節なことであるのかも知れず、騒ぎ立てていることのすべてにおいて本質など何もなく、メディア的な騒ぎ立てを真に受けて興味を抱いた時点で、枝葉末節などうでもいいようなことに興味を持っていることになっているのではないか。たぶんそういう前提でメディア的な騒ぎ立てには接しないと、物事の本質を見失うどころか、すでに本質から外れたことを騒ぎ立てているだから、本質自体を知り得ない以前に、物事自体が何なのかさえわからず、下手すると騒ぎ立てている対象自体が物事ではなく、物事でないとすると何なのかと言えば、要するに単なる宣伝文句でしかない場合もあり得るのではないか。では何を宣伝しているのかと言えば、騒ぎ立てていることを宣伝しているわけで、それが根も葉もない噂話ならまだマシかも知れないが、人々が騒ぎ立てに乗ってほしいようなことを騒ぎ立てているのかも知れず、騒ぎ立てれば世の中の話題となりやすいことを騒ぎ立てるのであり、すでにその時点で話題が空回りの循環構造となっていて、話題自体が空疎な話題であり、本質も何もあったものではないのだろうが、そういう騒ぎ立てに乗ってくる人が多ければ多いほど、中身のない話題だけが一人歩きしていくうちに雪だるま式に膨れ上がり、中にはそれが流行現象として世間に認知されてしまうものまで出てきて、そんなどうでもいいような現象に気を取られているうちに、本質も何もない空疎なことにしか関心を持てない気分でいることが当たり前のように思われてくるのではないか。しかもそれで構わないのかも知れず、逆に言うなら物事の本質というのは、別にメディア的に騒ぎ立てるようなことではなく、ごく一部の人たちが考えるようなことであって、多くの人たちにとっては無関心であっても構わないようなことでもあり、そういう意味でメディア的な騒ぎ立てによって世間の話題となるようなことは、その多くが物事の本質から外れた枝葉末節な空騒ぎの類いでしかないのかも知れない。

 そしてそれは別に深刻なことでも何でもなく、逆にそうであるからこそ世の中が成り立っているのかも知れず、そういうところでごまかしが効いていないと、マスメディアもそれらが煽り立てる社会問題やら世間の話題やらも、人々の関心を集めなくなってしまって、それを利用することで成り立つ各種の世論調査の類いも、世間的な信用を失ってしまい、そのような信用の基盤の上に成立しているような、内閣支持率や政党支持率などの政治的な幻想ですらが崩壊する可能性まであるなら、事は深刻な問題を孕んでいるようにも思われるが、たぶんどうでもいいような枝葉末節な話題で成り立っているような社会であるからこそ、物事の本質に触れないことでかろうじて均衡を保っていられるのであり、誰もがそれに気づいていないふりをしていて、それをふりだとは認識できないような暗黙の社会的な申し合わせが、広く世の中に浸透しているわけでもないのだろうが、とりあえず世間的な話題に対する反応を基とした世論は、マスメディアが世論調査の結果を定期的かつ効果的に公表することによって、それを絶えず世論へフィードバックさせて社会に定着させて、世論を安定化させる役割を担っていることは確かなところであり、それを誰もが枝葉末節などうでもいいようなことだとは思わないだろうし、思わないということはある程度は世論を信用していて、その有効性もそれなりに信じているから、そういうことを通して人々のマスメディアへの信頼が生じていて、また世論調査結果が示している内閣支持率や政党支持率などの対象への信頼も生じているのだろうし、そういうところで信用や信頼への意識が人々とマスメディアと政治勢力の間でぐるぐると循環しているうちは、かろうじてどころか極めて安定的に均衡が保たれているのかも知れず、安定的に保たれているからこそ深刻な事態に直面せずに済んでいるのかも知れないが、だからと言って人々に向かって、今こそ目を覚ませと訴えかけて、危機への警鐘を鳴らすような行為が、何か真摯な態度なのかと言えば、どうもそうではないように思われるわけで、それも何かのふりをしていることの延長であり、そのような騒ぎ立てですらが、枝葉末節な空騒ぎに属するのではないか。


12月18日「ローグ・ワン」

 ところでそれとは何だろう。日頃から各種のメディアを介して様々なフィクションに接していると、それを忘れてしまいがちになるかも知れないが、人が実際に行っている行為のすべてが感動話に結びつくとは限らないし、むしろ感動することが稀にしか起こらないから感動するのだろうし、そこから考えると、感動だらけのフィクションなんて嘘っぱちに過ぎないとも思うところだが、嘘っぱちだからフィクションなのだと言われれば、その通りだと納得するしかないだろうか。しかし人は本当に感動したくてフィクションを求めるのかと言われれば、たぶんそう言われてみればその通りだと納得する人も多いだろうが、そういう単純な論理だけからフィクションについて語るわけにも行かないだろうし、そもそもフィクションだけについて語ろうとしているわけでもないし、おおかた現実の諸問題についてもっともらしく語ろうとしている方が多い現状もあり、フィクション単体ではそれほど興味が湧かないのかも知れないが、例えば映画を鑑賞してそれほど感動しなかったとしても、その感動しなかった映画について、感動を覚えなかった点だけから否定的な評価を下したいとも思えず、それどころか肯定否定の基準で評価したいわけでもなく、取り立てて評価するしないとは無縁の言説を構成しようとしているようで、少なくともフィクションの中で行われている行為と、現実の世界で行われている行為には、それなりの違いがあるだろうし、違いがあるからフィクションと現実は違うとも言えるわけだが、そういうことならフィクションを基準にして現実の行いの是非を判断するのもおかしいし、その逆もおかしなことになるだろうし、そんなことなどわかった上で、フィクションにはフィクション特有の評価基準を恣意的に当てはめて、何かそれらしいことを語ろうとすると、あたかも理想的なフィクションがあるかのように仮定しながら、その理想との差異に言及してしまい、そんな言及自体が虚構そのものなのではないかとも思ってしまうのだが、そうやってフィクションの許容範囲を狭めてみても、単にフィクションを楽しめないことの言い訳にしかならないわけだが、一方でフィクションにもそれ特有の限界があることは認めるしかないだろうし、その感知した限界を根拠にして、その内容をつまらないと断定したところで、それも恣意的な判断でしかなく、たぶんそれ以外の何かを見逃しているのだろう。

 そしてその見逃してしまった何かを後から感じ取ろうとしていて、少なくともそれは感動という言葉では表現できないことであり、それが単なる現実の行為の再現とは異なるフィクション特有の行為形態から生じているとも思われ、またそれがフィクションを製作する人たちの思いとは異なる効果を醸し出しているようだと興味深いだろうし、たぶんそういうところを発見して、それについて語りたくなるわけだが、それこそがフィクションが現実の世界へとつながっている部分なのかも知れず、そういう部分に感動させようとする製作者側の意図とは異なるリアリティを感じるわけで、また妙なおかしさも出ているようにも思われてしまい、すでにそう思ってしまった時点で、感動などという陳腐な表現からはだいぶ隔たっているようにも思われ、別にどう表現していいかもわからないままに、意識が奇妙な感覚に捉えられていることを自覚しているようなのだが、いったんそう思ってしまうと、話の筋に沿ったフィクションの内容などどうでもよくなって、それとは異なる現実の世界から地続きに感じる面が浮かび上がってきて、フィクションが訴えかけているだろう何らかの印象を裏切るような現実を想像させるわけで、そうなると例えばフィクションの中では悲劇的な内容であるのに、それを現実の世界を通して解釈してしまうと、何か間抜けで愚かな行為の積み重ねであるだけのようにしか感じられずに、そこで悲劇的に見せかけようとしている意図がすっぽり抜け落ちていて、そこにメディア的な演出が出ていることがわかってしまうのだが、要するにそれは自分たちのやっていることをことさら大げさに見せかけようとする、マスメディアのいつもながらの誇張表現と同じであることに気づいてしまい、またそれがフィクションと現実の世界との一致点であることも気づかせられるわけだ。そしていったんそれに気づいてしまうと、どんなに大掛かりな仕掛けがフィクションの中で講じられていようと、誇張表現の一言で片付いてしまい、それがどんなに深刻な悲劇につながっていこうと、悲劇を演じているに過ぎないことを理解してしまうわけで、そうなるとすでに無駄な感情移入から遠ざかり、冷静になってそこで演じられている誇張表現を眺めているだけとなってしまうのだが、どうもそれでフィクションを理解したつもりになっていることに、一抹の不安を覚えぬでもないところが、何かを見逃していることの証しなのかも知れない。


12月17日「自由を実現する余地」

 何か事前に肯定すべき価値を定めるのではなく、絶えず流動的に物事の性質や関係性を思考して行くと、何の結論にも至らなそうで、何のために思考を巡らせているのかわからなくなってきそうだが、何のためでもないということではなく、何かをわかろうとして思考を巡らせているのだから、要するに物事の性質や関係性を理解するということが肯定的な価値であって、すでにそんな価値が定まっているのに、わざと流動的という言葉を用いて、すでにわかっている価値の定義をはぐらかそうとしているのかも知れないが、一方で価値という言葉の意味を信用できないから、あえて回りくどく誤解を招くような言い回しを使わざるをえないのかも知れず、物事の性質や関係性を理解しようとすると、絶えず事前に定義した価値観を疑い揺るがせることによってしか、それらを理解できないのかも知れず、しかも理解したつもりのそれも、暫定的な理解でしかなく、そのつかの間の理解を全面的に信用するわけにもいかないだろうし、その場その時での物事の性質や関係性は、別の場で別の時期では、何か違ってくる場合があるとすれば、その場その時での暫定的な理解ではまずいのだろうし、そうであるならまた再度認識を改めなければならなくなってくるのではないか。そういう状況に直面してみると、何か事前に定めた価値観に裏切られるのも当然のことのように思われ、その場その時で関わってくる物事の性質や関係性は、絶えず流動的に思考し続ける必要も出てくるだろうし、そこで暫定的に結論を下すことはあるだろうが、それが恒常的な性質のものではないことは、最低限の認識として把握しておかなければならず、そんな暫定的な現状認識を積み重ねていっても、何か一定の価値観を形成するとは思えないし、それ以上の理論や理屈を導き出すこともないのではないか。だからと言って恒常的な理解をあきらめろというわけでもなく、並行して様々な水準や次元で思考し続ける必要があるのかも知れず、そうなってくるとある水準や次元では、恒常的な理解を得られることもあるのかも知れないし、それがすべての水準や次元では適用可能ではないとしても、何らかの条件を満たした環境下では、確かに恒常的な理解や価値観を適用しても、それほど間違ってはしない水準や次元があるのかも知れない。

 その何らかの条件を満たした環境下というのが、人が恣意的に想像する理想的な環境下になるのかも知れず、確かにその人の都合が反映された条件を満たしていれば、その人にとっての理想的な価値観を適用しても何の問題もないわけで、その人の想像の中で成り立つ恒常的な価値観が、他の人の都合が反映した想像上の環境下では成り立たなくても、別におかしなことではないし、人それぞれに都合も条件も異なるのも、それほどおかしなことでもないのだろうが、世論などように集団的な水準で物事を考えると、ある程度は価値観が似通ってくるのだろうし、個人の水準で考えるのとは都合も条件も変わってきて、集団的な同一水準に適合する価値観も形成されてきて、そのような集団的な価値観に個人が同調を強いられる場面も出てくるのではないか。そうなってくると価値観の一方的な押し付けなどの行為も、集団の動作としてはごく当たり前のように行われるのだろうし、それが組織的に行われるような場合には、行政的な権力の行使となるわけで、警察権力の行使や税務的な資産の差し押さえや行政代執行などがあるのだろうが、そのような顕在的な組織力を伴っていなくても、その場の空気や雰囲気を介した暗黙の同調圧力なども、日常の次元ではありふれているだろうし、そこで暗に求められているのが、その場を支配する集団的な価値観への同調となってくるわけで、そこでは個人が逆らえないような有形無形のルールが行き渡っていて、その場の空気を読めずに外れた行動や発言をしようものなら、場の全体が重苦しい雰囲気に包まれたりして、外れた行動や発言をした人に対して、それとなくわからせるようなことが行われる場合もあるのだが、それにも程度の差があるだろうし、何らかの利害が介在していて、その利害を介しての集団の結束力が強力に働いている場合などは、その構成員の集団を支配する価値観への帰依もそれだけ強く求められるだろうし、そうなると外れた行動や発言をした場合は文字通り命取りにもなりかねない事態もあり得るのではないか。そういう意味でも人と関わり合う物事の性質や関係性は、強力な価値観によって固定されているよりも常に流動的である方が、個人や集団においてより柔軟な対応や姿勢を引き出せるだろうし、自由な行動や発言を容認できる余地も生まれるわけだ。


12月16日「活動と評価」

 無駄なことをやって無駄に時間を浪費して、それによって何を得ているのかと言えば、無駄な経験を得ているとも言えるだろうか。そんなことをやっている間に、有効活用できそうな何かが得られたら、それは必ずしも無駄な時間の浪費ではなかったことになるのかも知れないが、要するに後からそれが無駄な経験ではなかったことを知るに至って初めてそう思うのであって、時間を無駄に浪費したと思っている時には、その時点ではやはり無駄な経験でしかないわけで、無駄なことをやっていると思っていても、後からその時の経験が活きることもなきしもあらずなので、それはそれとして肯定も否定もしないような、どっちつかずの感覚を保っているべきなのか、あるいはその時の気分次第で肯定したり否定したり、そんなことを思っている自分を慰めたり反省したりしなくても、そんなことはどうでもいいことだと思う時もあるだろうが、ともかく何かをやりながら時間が経過した分だけ何かが蓄積されて、その蓄積された何かが後から活用可能なものなら、それが資本だと言えるだろうし、例えば商品と交換可能な貨幣価値が蓄積されれば、それが金融資本になるだろうし、貨幣と交換可能な土地建物が蓄積されたら、それは不動産資本になるだろうし、人間の労働が蓄積されたものが貨幣と交換可能な商品資本になり、また商品の中でも機械類となると、それを稼働させれば効率的に商品となる物や情報を生産することができるわけだが、貨幣にしても土地建物にしてもその他の商品にしても、それらを資本として活用できるほど大量に蓄積するには、それらを効率的かつ大量に生産可能な機械類の可動が欠かせないわけで、そういう意味で資本主義経済は物や情報を大量生産可能な機械類によって支えられているわけで、しかもその大量生産された物や情報を消費する人間の存在も欠かせず、そのような消費によって貨幣価値が蓄積されれば金融資本となり、それがまた各種の資本との交換に活用されることにもなり、そのようにして経済が回っていることにもなるのだろうが、生産された物や情報を消費するのは人間だけではなく、飼っている家畜やペットも消費しているし、さらに機械自体も材料や燃料や電力などとして消費しているし、それらはすべて消費しながら生産もしているわけで、また消費できない廃棄物すら生産している現実もあるわけだ。

 もちろん廃棄物ですら再び生産過程に取り込むことで有効活用できる類いのものもあるわけだが、そのような経済行為の果てにあるものは何かと言えば、要するに果てがないということであり、ただ物や情報を生産しつつ消費する過程が果てしなくぐるぐる回りながら、その過程で人間を取り巻く環境が、人間の活動から影響を受けて変化し続けているわけで、また他の動植物も少なからず影響を被っていて、環境の変化に適応できない種は滅びつつあったり、それなりに適応している種はそれなりに栄えてはいるのだろうし、全体として把握している限りでは、何やら時間の経過とともにエントロピーが増大する傾向にもあるのかも知れず、それが地球の表面に付着している人間も含めた自然現象ということになるのだとすれば、そういうレベルで把握する限りは、どうということもない現象でしかないのかも知れないが、その中で人間活動を人間が制御できている部分とできていない部分があって、人間の意識の中ではなるべくすべての活動を制御しようとしているのだろうが、一方ですべてを制御することはできないとも思っているだろうし、制御しながらやってきたつもりが、それが破綻している箇所では戦争となっていて、そうなっていることすら前向きに受け止めて、今度は戦争を人間特有な活動として制御しようとしているわけだが、そうなると制御という概念がどんどんずれてきて、制御できずに破綻した状況を制御しようとしている現状があるわけで、そのような行為や活動にも果てがあるわけでもなく、結局何をやっても収まりがつかずに、果てしなくぐるぐる回りながら、そのぐるぐる回っている過程の中で、周りの環境に影響を及ぼしながら自身も変化し続けていることになるのだろうが、果たしてそれが何を意味しているのかなんて、何とでも言えるだろうし、実際に何とでも言っているわけで、中には単なる人と資源の無駄遣いをしているだけだ、と自虐的な物言いの中に逃げ込んでいる人もいるだろうし、またこれこそが神が人間に与えた試練であって、破滅に導こうとする悪魔の誘惑に打ち勝って試練を乗り越えた先には、誰もが幸福に暮らせる神の国が実現される、という類いの終末論的な幻想を抱く人もいるかも知れないが、実際のところは絶えず途中経過なのであり、たとえ無駄なことをやって無駄に時間を浪費していると思える時もあるにしても、一応は何かをやっている過程の中で生きているのだから、そのやっていることに対する評価がどうであれ、それ以上でも以下でもないわけだ。


12月15日「抵抗感」

 現状で何かに抗っているように思われるなら、その抵抗感をもたらしている対象を特定したくなるかも知れないが、一方でただ漠然と時流に流されているような感覚は、何か逆らいようのない成り行きの中へと、その身を置いているようにも思われ、それに抗っているように思われるなら、やはり時流に流されるのは良くないことのように思われるからだろうし、何とかその良くない流れを変えたいとも思うのだろうが、それが世の中の流れようなつかみどころのない漠然とした印象を抱かせる対象だと、個人の力ではどうすることもできないようにも思われるだろうし、またそう思っている段階に留まっている限りは、何もやっていないのと一緒であって、何かしら行動を起こさなければと思いながら焦っている時も、まだ何もやっていないのと一緒だろうが、では実際に何ができるのかと言えば、安易なやり方としては、時流に乗っている人たちを批判したり、彼らがやっていることに反対したりすることぐらいしかできないようにも思われ、実際にメディアを通じて批判したり反対して、それで何かやっている気にはなれるわけだが、それ以上に何かやる必要があるのかと言えば、取り立ててやる立場になければ何もやりようがないだろうし、何もやりようがなければ実際にも何もできないだろうし、それ以上を求める必要もないのかも知れず、その必要がなければそれで十分なのかも知れない。しかしそれ以上に何ができるのだろうか。実際にそれ以上のことをやっている人もいるだろうし、そのやっている人を支援している人たちもいるだろうが、そのような活動も考慮されてフィードバックされた状態が現状そのものだとすれば、やはりそのような要素も加味して、それ以上に何ができるのかが問われているのかも知れず、そんな容易には抗い難い現状に抵抗感を抱いているのなら、抵抗感そのものについて考えてみる必要がありそうで、何が抵抗感をもたらしているか、その理由や原因を探ってみたい誘惑にも駆られるわけで、そんな誘惑に屈してしまうと、現状を肯定できるような心境からは著しく遠ざかってしまうようにも思われるわけだが、たぶん理由や原因を求めようとすれば、抵抗感を抱いている現状の中に留まれなくなってしまうのかも知れず、現状に至る過去からの歴史的な経緯とか現状が変わる可能性とかに言及せざるを得なくなり、そうやって意識が現状から過去や未来へとずれていってしまうわけで、そのような現状からの必然的な逸脱が逆に現状の動かし難さを証明してしまうのではないか。

 ではどうしたらいいのだろうか。たぶんそのような現状からの逸脱行為も含めて現状が構成されているのであり、それも現状を構成する要因の一つだと捉えるしかなく、現状を現状として知るには、過去から現在に至る歴史的な経緯と、そのような経緯を踏まえて、未来に向かって現状が変わる可能性にも考慮する必要があるだろうか。だがそれで現状に対する抵抗感が解消されてしまっては、そもそもの目的から外れてしまうようにも思えるわけで、そもそもの目的が現状に対して抵抗感を抱いている理由や原因を探ることだとすれば、それを探っているうちに抵抗感が解消されてしまったら、それも現状からの逸脱行為となってしまいそうで、そのような思考作用によって現状を捉えようとすればするほど、かえって現状そのものにはぐらかされてしまうような作用が、現状の特性としてあることを知るに至るのかも知れず、そうだとすればそのような特性を考慮した上で、ではどうしたらいいのかとなるわけだが、現状からもたらされる抵抗感というのが、そのようなはぐらかしの作用への不快感から生じていると考えれば、それもはぐらかされているようなことだから、すぐには納得が行かないまでも、現状の漠然としたつかみどころのなさについても、やはり思考することによってはっきりとは捉えられないもどかしさから不快感が生じるだろうし、その嫌な感じも現状に対する抵抗感にもつながっているのかも知れず、とどのつまりは現状を捉えようとする意識に対して、現状そのものが抵抗しているように感じられるわけで、そのなかなか思い通りに捉えられてくれない現状に対して、自意識が抵抗感を抱かざるを得なくなるとも言えるとすれば、何やらごまかしのような結論になってしまいそうだが、それも当初に意図していたような目的からは、だいぶ逸脱しているように思われるだろうし、そのどれほど逸脱できたかによって、現状との距離感が計れるのかも知れず、現状と自意識との距離そのものが、現状と格闘したことの証しともなり、意識が現状から遠ざかるほど、現状に対する抵抗感もそれだけ大きいということにもなりそうで、現状からの逸脱度も同様に、いかに現状が理想からかけ離れた状態を示す尺度ともなるだろうか。そして以上に示された現状認識についても、だいぶこごまかしの辻褄合わせが行われていそうで、誰もが抵抗感を抱かざるを得ない結論になっているかも知れない。


12月14日「骰子一擲」

 確率統計的にはほとんどあり得ないことが、まれに信じられないようなややこしい紆余曲折を経たあげくに、不意に起こることもあるようで、そんな奇跡が二度と起こらないことは承知していながらも、夢よもう一度とばかりに、それが確実に起こる方法を模索してしまうのが、人のさがなのかもしれず、その二度と起こらない出来事を再現しようとして、人生を棒に振ってしまった人の話などに興味がなければ、あるいはそれを教訓話として生かしたければ、それとは逆の安全確実な方法を求めようとするのかも知れないが、そのような方法を行うにしても、現実にはそれなりの犠牲を伴う場合もあるわけで、まずそれをやるには世の中のしきたりに従わなければならず、しきたりに従うことによって自らの自由を犠牲にして、それと引き換えにして、それをやるについての世間的な承認を得ることにもなりそうで、具体的には許可や契約や資格などが必要とされ、それなしで勝手に行うと法律違反で罰せられる成り行きにもなるだろうし、そのような公的な承認を必要とする行為と言うのは法律によって守られていて、世間的にも認知された安全確実な方法といえるのかも知れないが、法律が許容する範囲内でしかやれない行為だろうし、そこから逸脱するような行為を取り締まるためにも法律が整備されているわけだが、逆に言えば、そのような法律があるということ自体が、そこから外れてしまえる可能性を示唆していて、実際に違反行為が取り締まられている現状があるとすれば、現実に違法行為を行っている人が多数いるということであり、そうなるとそのような行為は、違反しやすいのか違反行為に魅力があるのかのどちらかだろうが、交通違反などは違反しやすいからだろうし、また薬物依存や賭博などは魅力があるからだろうし、どちらにしてもその手の違反行為を取り締まる理由としては、自身や周囲を危険にさらすからという大義名分があるだろうし、それはそれなりに説得力がありそうな理由だが、例えばそれが脱税とかになると、違反しやすいのも違反行為に魅力があるのも、所得が多い富裕層に限られ、それを取り締まる理由としては、社会的な公正さを欠くから、というのが考えられる主な理由となりそうだが、それが世の中のしきたりに従った結果として、違反行為を行わざるを得なくなるとすれば、そのようなしきたり自体が必ずしも安全確実を保証しているわけでもないことになるのだろうか。

 しきたりにもいろいろあって、例えば違法な賭博などはヤクザのしきたりに則って行われている場合があるだろうし、それは違法薬物の売買や使用に関しても同様に言えることかも知れないが、脱税の場合はタックスヘイブンという富裕層のしきたりに基づいて行われている場合もあり、それらを行う上での許可や契約や資格などに関しても、それ特有のルールがあるだろうし、ヤクザのルールの範囲内では賭博や薬物の売買や使用も、それなりに安全確実に行われていて、またタックスヘイブンが定めるルールに則っていれば、同様に安全確実に脱税が可能となっているのかも知れず、そのルールを定めるのがヤクザであるかタックスヘイブンであるか、はたまた一般的な普通の国家であるかによって、ルールの適用範囲にも安全度にも、それなりの程度の差がありそうだが、たぶんルールの定まっていない範囲で何かやろうとすると、安全確実という幻想を離れて、暗中模索である反面、それをやるにあたっての裁量がやろうとする当人にまかされる面が出てくるのだろうし、そのような自由裁量を意識できる限りで、安全確実とはまた別の冒険という幻想を抱くことができるだろうし、今までに知られていない未知の何かを探そうとする欲求も生まれてくるのではないか。そういう面で社会の中で各種のルールを守りながら安全確実に生きていくことと、そこから外れて冒険を夢見ながら自由に生きていくことの間には、一見矛盾しているような隔たりがあるのだろうが、どちらか一方を自覚的に求めてしまうと、そこに生じている隔たりを維持できなくなってしまうわけで、よく何かの方便として使われる、夢をあきらめないとか言う使い古された表現にしても、ルールを守りながら夢をあきらめない、とかいう一見合理的な止揚を伴う表現に還元してしまうと、隔たりをなくした虚構に近づいてしまうわけで、そこで普通に捉えておくべきなのは、そこには絶えず解消できない矛盾や隔たりがあって、冒険的な行為をやった結果として、ルールを破って違法行為に至ってしまうにしても、それはそのような行為に自由裁量の余地があるからで、やっている人はそこで絶えずサイコロを振っているようなもので、良い結果が出れば大成功となる反面、それが万が一の奇跡的な結果であるかも知れないし、逆に悪い結果が出れば人生を棒に振ったり、違法行為に手を染めて破滅することにもなりかねないのではないか。


12月13日「物事の道理」

 例えば因果応報を意識できるような心境である時、何か道理に適った成り行きの中にいるように思われるかもしれないが、逆に道理に外れた行為が世の中でまかり通っているようなら、因果応報を信じられなくなるだろうし、道理自体が間違っているようにも思われてくるだろうか。しかし道理とは何だろうか。人それぞれに自分勝手な道理を定めていいはずがないだろうし、誰もが正しいと思われる行為を行うことが、道理に適った行為になるのだろうが、世の中が戦争などの非常事態にある時は、道理が廃れている状態だろうし、道理よりも優先すべきことがある時には、たぶん道理などに構ってはいられないのではないか。そしてそれが必ずしも非常時でなくても、人の都合や組織の都合を優先させて、道理に悖る行為を行っている場合がありそうだが、それをどう評価すればいいのかとなると、やはりその場での事情が絡んできそうで、そのような行為が許されている状況というのが、現状でも結構幅広く許されていそうで、ひどいことをやりたい放題な立場というはそうそうないだろうが、権力を行使する側になると、他人に無理強いをして、自分の利益を確保するような成り行きになりやすいのではないか。そのような行為が道理に適っているとは言えないだろうが、それができる立場にいる人にとっては、慣れてしまえば当然のことをやっているように思われてくるだろうし、そのような権力関係の中にいる他の人たちも、そういう関係を疑わない限りは、やって当然のことをやっているように感じられるのではないか。要するに社会の中でそのような権力関係が成り立っていれば、そのような社会ではそうすることが道理に適った行為だと認められてしまうかも知れず、道理というのもそこに権力関係が介在している限りは、権力を行使する側の都合が反映された内容になる可能性が高く、簡単に言うなら、例えば国家が国民に対して権力を行使するのが当然だと思われるような世の中になれば、国民が国家のために死ぬのは当然であり、それが道理に適った行為ともなるわけで、戦争など非常時においてそんな道理がもてはやされた過去もあるだけに、実際に国家のために死んだ人たちがどのように報われたのかは、今となってはよくわからないところだろうが、名誉の戦死という何かの方便のような表現もあることだし、その辺はご想像にまかせるしかないのだろうが、それでも因果応報を意識できるのなら、国家のために国民を殺す行為でさえも、まったく道理から外れているわけでもないのかも知れない。

 平和な時にはそんなわかりやすい権力関係などないだろうし、たいていは媚びたりおだてたりしながら、その気にさせて絶えず油断させておいて、それと気づかせないようにして権力関係を構築するものだろうし、そういう働きかけが主だったものである時には、愚かな人ほど権力に取り込まれやすいように思われがちだが、実際には利益に目ざとく上手く立ち回れて社会に適応しやすい有能な人ほど、権力に魅了されやすいのだろうし、そういう人は世の中でも信用されやすく社会的にも成功する可能性が高いだろうから、率先して権力関係に染まって、そのような関係を推進する立場にもなるだろうから、そういう人たちが社会の中で指導的な立場になるわけで、あからさまではないとしても、権力を行使する側になって、実際に何かにつけて権力を行使している実態があるのだろうが、それを他の人々が普通に受け入れているから、別に強圧的な権力の行使とは感じないだろうし、その手の人たちが指導するのは当然の成り行きになっていて、制度的にも仕組みの面でも、そのような権力関係を後押しするようなシステムになっているのだろうし、逆にそうなっていないと、世の中が上手く回っていかないと思うような世論が、共通認識として社会全体に行き渡っている現状があるのではないか。そしてそのような暗黙の了解事項がある一方で、なおかつ反権力的な主張を売りにして、何かもっともらしいことを語る立場が、マスメディアの中に設定されているような認識を持つとすると、そのような立場が成り立つ前提というのが、何かフィクションじみているように思われてしまうわけで、そういう立場を強調しすぎると、それ自体が欺瞞であるようにも感じられるし、社会的な立場というは、その場その時での相対的なものだろうし、批判する対象があって初めて成り立つ立場もあるわけで、あまりにも独善的な傾向を強めてしまうと、たとえ主張に共鳴してもついて行けなくなるわけで、その結果梯子を外されて孤立無援になりやすく、たぶん多くの人たちがその手の批判に賛同していても、批判にさらされている対象がびくともしていない現状があるのだとすれば、そのような批判が成り立つ以前に、批判されている人たちを守っている権力関係があって、多くの人たちがそのような関係を前提として、社会の中で暮らしている現実があるからなのではないか。


12月12日「正しい認識」

 物事を単純化して捉えると、何かわかったようなつもりになれるのかも知れないが、たとえそれがいい加減な解釈でしかなくても、とりあえずは暫定的にそう見なしておけば、それで済んでいるうちは構わないのかも知れず、それでは済まなくなって、考えを改め認識を新たにしなければならなくなった時に、もう一度考え直してみればいいのであって、そうやって絶えず現状認識を捉え直そうとしていれば、それほど見当外れな認識にはならないのかも知れないが、一度捉えた認識を正しいと信じて疑わなくなると、そこから外れた認識は批判せざるを得なくなるわけで、独善的にそういう批判を繰り返していると、思考する論理が固定されてしまい、状況の変化に対応できなくなるだろうし、認識の誤りにも気づかなくなってしまうだろうか。中にはそれをわからなくても構わない立場の人もいるだろうし、例えば周囲の人たちと同じような認識を共有して仲間となり、それらの人たちと運命共同体のような連携関係を築いて、集団で行動をともにできれば心強いだろうし、そういった集団に所属していれば、何もかも一人で考える必要もなくなり、ただ群れの活動に同調していれば、ある程度は身の安全を確保でき、気の合った仲間とも打ち解けあい、何かにつけて助け合い協力し合うことで、それなりに安定した生活を送れそうで、そうなると特に現状を認識することを重視する必要もなくなり、それよりも仲間との協調関係を優先していれば、集団に守られながらうまく現状に対応できるだろうし、そういう面で集団主義的な組織形態の中にいると、集団内で居心地の良い立場を占有できれば、それなりに楽に生きて行けるのかも知れないが、そうなれる人は限られているだろうし、誰もがそんな立場になれるわけでもなく、逆に集団内での権力闘争などに巻き込まれたら、絶えず現状を正しく把握していないと、場合によってはあらぬ嫌疑をかけられて集団から追い出されたり、集団内にとどまっていることすら危険な状況に追い込まれたりするだろうか。いずれにしてそんな状況に追い込まれようと否とに関わらず、現状認識については情勢判断の材料があってもなくても、絶えず暫定的なものだと意識しておくに越したことはないようで、自分の認識が正しかろうが間違っていようが、完全に信用して固定するのは危険なのかも知れず、いつでも変更し修正できる余地は残しておかないと、とんだ勘違いをしていることに気づけなくなってしまうだろうか。

 現にもうすでにアメリカの大統領選挙の結果なんて、どうでもいいことになりつつあるようで、その先へと事態が進行しつつあるようだが、そうだとしてもそれはニュースが報じる話題に過ぎず、この先何がどうなろうが、何か影響を被るような事態となったとしても、傍観者的な立場にあるなら、その時になってから野次馬的に考えるしかないだろうし、現時点ではその程度の認識以上に何をどう考える必要も感じないのだが、そこに何か一定の価値観が蔓延していることを想像できるとすれば、アメリカであれ日本であれ、そこに特有の国内事情があるにしても、そんなことなどお構いなしに、人々はメディアから何らかの娯楽を提供されながら、それを話題として共有している現状があり、それがスポーツであろうと選挙であろうと、その他の見世物的なフィクションであろうと、現実の催し物的なイベントであろうと、それらにはことごとくゲーム感覚から生じる競争的な価値観で統一されていて、本物のテロや内戦に明け暮れている地域以外では、それらの闘争的な競争は娯楽として行われているに過ぎず、遊びの類いに熱中することしかできない、というと少し語弊があるのだが、少なくとも人々の関心はそちらへと向いていて、それがメディア的な関心のすべてではないにしても、メディアが力を入れている関心事項の主なものは、それらの見世物的な娯楽なのであり、アメリカの大統領選挙にしてもそれらの範疇に入るものと捉えておいても、それほど間違ってはいないし、日本で行われる各種の選挙も似たような取り上げ方だろうし、一種のお祭りイベント的要素が多分にあるわけだが、そのゲーム感覚の競い合い以外で、何か内容があるのかと言えば、あるにはあるだろうが、実際に真面目に議論すべきことがあり、それについて真剣に真摯に訴えかけている人も大勢いるのだろうが、たぶんそれがどうしたわけでもない現状があり、実際にどうしたわけでもない結果をもたらしているわけで、そのどうしたわけでもない結果について、それを直視している人は少ないのではないか。というか真面目に議論しているつもりの人たちは、真面目に議論した結果と実際の結果の背離に、あまり自覚がないわけで、しかもほとんどの人たちが共有している娯楽的なゲーム感覚については、ただ不謹慎だと感じるぐらいで、それをまともに取り合おうとはしないだろうし、たぶん頑なに真面目な議論の範囲内に意識を置こうとしているのではないか。そしてそのような現状認識を信じて疑わないだろうし、それが現状に対する正しい姿勢であり、正しい現状の捉え方であることも、同様に信じて疑わないのではないか。


12月11日「願望の反映」

 近頃はネットで検索すれば、大抵のことは何でも知ることができるのだろうが、それでも人が知り得ることには限界がありそうで、何を知りたいのかによっても、その程度に差があるだろうし、知りたいことも人それぞれで千差万別で、何を知ったからと言って、興味のない人にとっては価値がないように思われるだろうし、それを他の人にも知ってほしいから知らせても、興味のない人には無視されて当然だろうし、それでも知らせたいことを知らせようとする人は多そうで、実際に多くの人が何らかのメディアを通じて知らせている現実もあるだろうし、実感としては知りたいことにはなかなかたどり着けないのに、興味のないどうでもいいことなら、知ろうと思えばいくらでも知ることができそうで、こちらから探さなくても、あちらから広告等で無理にでも知らせてくる場合もあり、知りたいことを探そうとすればするほど、別に知りたくもないような情報ばかりに遭遇する羽目にもなりそうで、結局こちらが知りたいことを見つけようとする度に、あちらからはその何十倍もの知りたくもない情報を知らせてくるわけで、この情報の不均衡と一方通行的な状況というのが、そのような環境下で暮らしている人々に何らかの影響を与えていることは確かだろうし、何かその意識や動作に特有の制限や制約を課しているのかも知れないが、たぶんそれを知ろうとしても、容易には答えにたどり着けないだろうし、それに関していくら検索しても、わからずじまいに終わるとすれば、こちらの知りたいことには何らかの制限が加えられている可能性も想像できるだろうし、ネットでの検索行為にしても、検索しているうちにあちらの知らせたい情報へと、知らず知らずのうちに誘導されているとすれば、こちらが主体的に行っている行為が、あちらの手の上で転がされているだけの受動的な行為でしかないことに、こちらが気づいておらず、気づきようのないシステムの中で、いいように弄ばれているだけでしかないとすれば、それと意識できないままに何らかの支配に屈しているような、陰謀論的な妄想でも抱きかねない心境となりそうだが、それは今に始まったことではなく、新聞などのマスメディアが登場して以来、大衆メディア社会の誕生とともに恒常的に成り立っている状況の中で、多くの人々が陥っている心境であり、そこから陰謀論的な妄想も生じてくるのだろうか。

 何だかわからない得体の知れぬ何かに操られている心境というは、全体としてひとまとまりの意志を想像するから生じるのかも知れず、大衆を操る対象というのを単一の事物に特定できるようなら、それが世界を支配する黒幕的な存在ともなるのだろうが、どうもそんなにはっきりと特定できるような存在ではなく、もしかしたら存在でさえもなく、不在の対象であるとすれば、それは大衆の集団意識が抱く共同幻想のようなものを想定できるかも知れず、確率統計的な原理に基づくような一種の人気投票の類いによって、そのような最大公約数的な意志を反映した共同幻想がメディア上で構成されていて、それが日々何気なくメディアに接しているうちに、人々の意識やそれが集まって構成される世論にも、さらに社会的な慣習や規範にも、果ては世論調査結果や選挙結果にまで、少なからず影響を及ぼしているとすれば、多くの人々がメディアに接しているうちに抱く陰謀論的な妄想の正体とは、自らの姿をメディアというフィルターを通して見ているに過ぎず、自分たちを操っているのは、自分たちがメディアとの共同作業によって作り出した共同幻想だとも言えるわけで、そのような自分たちが自業自得的な結果をもたらしていることを知りえないからこそ、自分たちの他に何かありもしない敵対勢力などを想定するしかなく、例えば自分たちの欲望が作り出した1%の富裕層や、自分たちの野望が作り出した政治家などを、自分たちを搾取し支配する敵対勢力として想定するのだが、それらの人々がもともと自分たちの中から、自分たちの欲望や野望を実現するために出てきた、自分たちの代表者である事実は都合良く忘れているわけで、要するに一般大衆を彼らが抱いている欲望やら野望やらのフィルターにかけて、それを濃縮還元したものが、彼らの敵対勢力としての金持ちや悪徳政治家や冷血官僚やブラック企業の経営者や幹部などになるのかも知れないが、それらはすべて一般大衆からかけ離れた存在なのではなく、たとえ嫌悪すべき対象だと思われるにしても、彼らの願望が確率統計的に反映された社会の中では、必然的に役割分担されるべき存在なのではないか。


12月10日「主導権の行方」

 ただ漠然とそう思われるようなことは、そう思わせるような何らかの作用が働いているからかも知れないが、何がそう思わせているのかを知ることができなければ、やはり漠然とそう思い続けるしかなさそうで、理由も原因もないわけではないだろうが、それがわからないままでも済んでしまうのなら、それ以上の詮索は無用だろうか。どういう経緯でそうなってしまったのかは知らないが、少なくともはっきりしていることは、それを社会的な慣習だと見なしてしまうと、何となくそう思われてしまうわけで、理屈抜きに認められている行為には、そのような類いが多く、中には理不尽に感じられるような慣習もなくはないが、そのような行為の継続に逆らえないような空気の中で、周囲から同調圧力を感じられるとすれば、それに従わざるを得なくなるし、従っている限りは、周囲との軋轢を回避できそうなのだろうが、同調圧力に逆らって周囲との軋轢を生じさせてまで、何か慣習から外れたことをやらざるを得ない状況に陥ってしまうと、その人を取り巻く社会的な共同体から孤立してしまうわけで、そういうことをやらざるを得なくなる状況というのが、何か不条理に感じられる反面、そういうことをきっかけとして、世の中のしがらみから抜け出られたように思われると、たぶん一時的な自由を実感できると同時に、世の中から除け者扱いされたような不安も感じるのではないか。そうした人を社会的な慣習や規範に縛りつけようとする作用は、慣習や規範に従いながら生きている人にとっては空気のようなものだろうし、中には従っていることすら意識していない場合もありそうで、そういう人からすれば、従わずに身勝手に振る舞うような輩は許せないだろうし、除け者扱いされて当然だと思うのではないか。そういうところで、国の法律以外で共同体のルールようなものを強いて、それに従わない人に制裁を加えるような成り行きを、別におかしいとは思わない人が増えてくると、そういう傾向の社会は、地縁血縁を優先させる閉鎖的な部族社会に近づいてゆくのだろうが、一方で社会的な慣習や規範などが完全になくなることはあり得ないのなら、慣習や規範の質を変えて、なるべく拘束力の少ない、理不尽に思われないルールにしていくような傾向も、成り行きとしてはありそうで、現に共同体的な絆の弱い都市部では、そういう傾向になっているのかも知れない。

 そしてそのような社会的な共同体の延長上に国家を位置づけると、何かそう思うことが当然のように思われる人たちにとっては、自分たちの敵対者はすべて除け者扱いの対象者に見えてくるのだろうし、中にはそう見える人たちに向かって勇ましい調子で攻撃的な言辞を弄する人もいるわけだが、そう思うことがまったくの勘違いではないとしても、それとは異なる価値観を国家に対して抱いている人たちがいて、それがリベラル的な社民主義者であるのかも知れないが、その手の人たちは、自然発生的に成立したように思われる、地縁血縁や宗教や民族などにとらわれないルール作りを目指しているのだろうし、そこに住んでいるすべての人たちにとって、公正公平で合理的な国家制度にしたいわけで、それが実現すれば、もう誰も文句など言えなくなるのだろうが、実際には地縁血縁や宗教や民族の利益を重視する人たちによって、ルールも制度も捩じ曲げるような圧力に絶えずさらされ、それに加えて企業的かつ官僚的あるいは金銭的な利益を重視する人たちによっても、同様な圧力を受けているわけで、要するに国民が全体として同質ではないし、国民が所属している各種団体の利益も一律ではないのだから、根本的に公正公平で合理的な国家制度などあり得ないのだが、それを言ってしまってはお終いで、絶えず議会内や政府内の各派各勢力の間で協議が行われ、制度やその運用に関して調整や修正が行われるなら、おおよそ公正公平で合理的な国家制度に近づいて行くはずであり、そうした努力が行われることを信じて、それらの人たちはその人たちなりの理想を掲げながら政治活動を行っているはずなのだが、どうも現状では経済的な実利を重視する人たちにかなうわけがなく、しかもそれらの人たちは地縁血縁や宗教や民族などを重視する人たちも取り込んでいるようだし、そのような利権複合体に国家の主導権を握られている現状があるわけだから、そういう面では国家の理想など実現不可能かも知れないのだが、別にそれで構わないのかも知れず、経済的な実利というのが国家の主導では獲得できないような事態になる可能性が指摘されていて、実際にそういう傾向が顕著になってくれば、だんだん利権複合体が国家の主導権を握る必要も薄れてくるのではないか。


12月9日「自然消滅」

 多くの人たちが戦争などの悲惨な結果を招かないように願うことが、少なくとも多くの人々がそう願っているように思われていることが、何かそれとは別の方面で否定的な感情を招いているとも思えないが、今がたまたま平和な時代となっているわけでもなく、様々な紆余曲折を経てそうなったとしても、そうなった結果から振り返れば、それにはそれなりの必然性があるようにも思われるし、また世界には今も戦火の絶えない地域もないわけではなく、そこから遠く離れた日本のような平和な地域で、戦争への懸念を表明することが、他に懸念すべきことがないわけではない中で、なぜ戦争への懸念を抱くのか、その辺の理由が果たして説得力を持つのか否かも、疑わしく思われる人もいるのかも知れない。では他に優先的に懸念を抱くべき事項があるのかと言えば、人それぞれで立場も考え方も違うだろうから、一概にこれとは言えないところかも知れないが、メディア的には何かの記念日に因んだ話題を取り上げたい事情もあり、たまたま今日が過去に悲惨な結果をもたらした戦争が開始された日だから、現状での国内の政治情勢や世界情勢や、また東アジアに限った地域情勢なども踏まえて、近い将来において日本を巻き込むような戦争が起こる可能性について懸念を抱きつつ、その懸念を現状での政治批判に利用しているメディアもあるわけだが、それは平和な地域特有のメディア的な政治批判の定型として、日本独特の批判形態を構成しているようにも思われるし、他の地域では見られない内容を含んでいるのかも知れず、そこに戦争を放棄した憲法9条に起因する特殊な感情や思考の論理が介在しているとしたら、何かその辺で現状に対する無理な曲解につながる可能性が含まれているようにも思えるのだが、他の何を政治批判に利用しても、政治批判そのものがメディア的な宣伝活動以外で有効に機能するとも言えない状況であるなら、批判の対象となっている的そのものが偽りの的であって、そのような政治批判が的外れである以前に、そもそも日本では戦争への懸念が政治批判には結びつかない状況なのかも知れない。

 たぶん危機を煽り立てることが批判ではないのだが、現状が危機的な状況だとは思えない中で、無理に危機を煽り立てる行為が、批判として機能しえないことはわかりきっているわけでもなく、現状の中では危機感を抱かざるを得ないような立場の人もいるわけで、何か劣勢に立たされているように思われるなら、そこで危機感を抱かざるを得なくなるわけだが、そう思っている人たちが少数派である限りは、その他大勢の人たちは危機感など抱かないだろうから、そんな中で危機感を抱いて人たちは、多数派からは相手にされていないということだろうし、たぶんそんな状況に危機感を抱かざるを得なくなるわけで、このままでは大変なことになると思われるわけだが、そう思っている人たちが少数派であることを自覚している限りにおいて、そんなふうに思ってしまうわけだから、それは原因と結果が一致している状況となっていて、少数派の人たちが延々と危機感を抱いているとしても、多数派の人たちは何とも思っていないわけだから、少数派の人たちには延々と危機的な状態が続くとしても、多数派の人たちには何でもない状態が延々と続いていくとしたら、多数派の人たちにとっては、それは危機でも何でもない状態であるわけだが、果たしてそんなことがあり得るだろうか。今がそんな状況だと思うならば、現にそうだと思っていればいいだろうし、そう思っている人が多数派を占めているならば、現にそう思っている人たちには、現状はまったく危機的な状況ではないと思われるだろうし、しかもそう思っている人が多数派を占めていると思われると、そうは思わない人たちには危機的な状況に思われてしまうわけで、今が危機的な状況であることをできるだけ多くの人たちに知ってほしくて、脅し文句を使ってでも盛んに危機を煽り立てるわけだが、一向に多数派がなびいてこないと、さらに危機感を強めざるを得なくなって、大げさな表現を多用すればするほど、現状からどんどん背離してきてしまい、多数派からはますます信用されなくなってしまうわけだが、そうなればなるほど少数派は危機感を強めざるを得なくとしたら、要するにそれは自業自得で悪循環に陥って、自滅への道を歩んでいるようにも見えるだろうし、そんな状況がいつまでも続くはずもないわけで、そんな少数派など自然消滅するだけなのだろう。


12月8日「見ることと考えること」

 見ることと考えることとの間では、どのような関係があるだろうか。実際に見ている対象と思考している対象が同じであることも異なっていることもありそうだが、思考の対象を見ようとしている時と、何気なく思考を意識せずに見ている時があるだろうし、それ以外にも見る目的がある時とない時もあり、普通に考えるなら見ることと考えることは、その動作が異なっているはずで、単に見ることと考えることは違うと見なしておけば、それで済んでしまうようなことでしかないだろうが、何かを考えている時には、その考えている対象を見ているように意識している場合があり、実際に現物を見ていなくても、心の中で考えている対象が映像として見えているように思っていて、たぶんそのような場合は見ることと考えることが一致しているように思えるのではないか。もちろんその時には目で見ているのではなく、思考作用が心象的な映像を見せているわけだから、実際に目で見ていることとは動作が異なっていて、それを果たして見ていることと見なしていいのか、はっきりとは判断できかねるが、比喩的に心の目で見ているとか言う表現を使えば、それも一応は見ている内に入るのかもしれない。そしてその思いながら見ていたり、考えながら見ていたりする動作というのが、それ以外の味覚や触覚や嗅覚や聴覚などの感覚とは違い、何か視覚と思考との関係が、意識の中で特権的なものであるように思われ、そのような関係が思考の特性や限界を形作っているのかも知れないが、一方で文字の連なりを見て読むという動作も、人の思考に特有の影響を及ぼしているようにも思われ、読んでいる時にも、頭の中では読んでいる文章が映像に翻訳されて、あたかも映像を見ているように意識されることもあるわけで、その場合は実際に見ているのは文字の連なりであるのに、意識の中では文章から翻訳された映像を見ている気になっているわけだから、見えているものを見えている通りには意識していない、という不可思議な現象が起こっていて、もちろん意識の中ではそれが不可思議だなんて思っていないし、ただ文字の連なりを読むという当たり前の動作を行っているに過ぎないわけだ。

 犬や猫など動物も夢を見るようだから、その時には人と同じように心の中で映像を見ているわけだが、人特有の動作としては、見せたい光景を他人に見せて賛同や共感を呼び起こしたい、という動作があるわけで、そのために文字や音声や画像や映像などを駆使して、人が感動するような光景を人工的に構成して、それを各種のメディアを通じて見せようとするわけだが、たぶんそれが普段何気なしに心の中で見えている映像を人工的に再現したものなのではないか。もちろんそれらの人工的な映像は、メディアを通した表現行為である限りにおいて、個人というよりは集団的な願望の反映になるだろうし、実際に多くの人々から賛同や共感を得ようとするなら、おおざっぱに言えばそれらの人々の願望の最大公約数的な表現となるのではないか。そしてそのような映像を作るために、その制作に携わる人々は思考を巡らせて工夫を凝らし、またそれができるだけ多くの人々の目に止まるように、宣伝などに携わる人々の方でもそれ相応の思考を巡らせて工夫を凝らすわけで、そのような集団的な作業を通して集団的な願望を反映した映像が作られ、それがマスメディアを通じて集団的な人々に提供されて、うまくいけば人気を博して評判となって、またメディア上で賞賛されたりするわけだが、その集団的な願望というが、果たして個人の願望と一致しているのか否かとなると、必ずしも一致していない面もあるだろうし、人それぞれに異なる事情や境遇の中で暮らしているのだから、一致できない面があるのが当然なのだろうが、見るだけの大衆娯楽的な映像表現である限りにおいて、別に個々人の事情や境遇にまで配慮する必要はないわけで、その不特定多数の人々に向かって心地よい映像を見せる行為と、例えば国民の一人一人の生活に配慮するような政治的な理想と言うのが、決して一致することなどあり得ないということを、果たして心地よい映像を見せられて夢見心地の一般大衆に属する人々が、どの程度まで意識しているのかと言えば、たぶんそんな比較自体が思いもよらぬことなのではないか。


12月7日「真の目的」

 興味を抱いている対象が何であろうと、興味を持つように仕向けている作用があるから、そのような作用から影響を及ぼされて興味を抱いているとも言えるが、一方で自らの主体性もあるわけで、興味を持つように仕向けてくる複数の作用の中から、主体的に自らが興味を持つ対象を選んでいるのかも知れず、それに関して自らの主体性と受動性の配分がどうなっているかなんて、考えてみたところで意味があるとも思えないが、社会の中で暮らしている限りは、興味を持つ対象を主体的に選択するにしても、受動的に受け入れるにしても、ある程度はその選択肢が限られているのだろうし、誰もが似たような事象に興味を持つから、そのような事象の流行り廃りという現象が生まれ、中にはその流行現象を利用して利益を得る人や団体も出てくるだろうし、流行を共有する人たちの間で、好意的な一体感や連帯感も生まれてくるのではないか。そしてその流行が一過性に終わって、一体感や連帯感を求めてまた新たな流行に多くの人々が飛びつくようだと、そういう人々には主体性が欠如しているように思われるかも知れないが、個々の流行現象にも程度の差も質や内容の違いもあるだろうし、たわいない内容の流行に軽く付き合う程度なら、どうということはないだろうし、別に流行現象の良し悪しを判断する基準などありはしないから、それに対する主体性や受動性の程度をどうこう言っても始まらず、結局は世間の常識に照らし合わせて、そこから大幅に逸脱するような行為を伴う流行現象なら否定的に受け取られ、常識の範囲内なら肯定的に受け入られる程度のことでしかなさそうだが、それも一つの基準でしかないにしても、否定的に受け取られるから駄目で、肯定的受け入れられるから良いと言うわけにもいかず、事の善悪とは別に、そんな流行り廃りの中で、何となく意識が特定の対象へと引き寄せられてしまう成り行きもあるのではないか。それが興味を抱いている対象なのだろうが、その対象に向かって目的やら目標やらが生じてしまうと、人はその対象の虜となってしまうようだ。

 その目的やら目標やらが金銭的な利益や社会的な名誉や名声なら、世間の常識の範囲内に収まるのだろうが、実際に成功してそれらを手にする人がいるとしても、どうもそういう人たちの真の目的や目標は、それらとは違うところにあるのかも知れず、ただ単に自分たちの活動がうまくいくこと自体が、真の目的であり目標なのかも知れず、それは成功そのものであり、しかも成功し続けることなのではないか。彼らはやりたいことをやり続けたいのであり、そのやり続けていることの見返りとして、金銭的な利益や社会的な名誉や名声が得られれば尚のこといいのだろうが、必ずしもそれらは必要ではなく、たまたまやりたいことをやり続けるにはそれらが必要な場合もあるだろうし、またやり続けていると必然的にそれらが手に入る場合もあるのではないか。そして世の中で暮らしている人たちに向かって興味を持つように仕向けている対象というが、金銭的な利益や社会的な名誉や名声を得られるような活動であり、人々は自然とそのような活動に興味を持ってそこへと引き寄せられ、それをやり続けることが目的や目標となって、実際にそれをやり続けることに成功すれば、結果として金銭的な利益や社会的な名誉や名声が得られる仕組みとなっていて、そのような仕組みが社会の中で成り立っていて、それが有効に動作している範囲内で、社会の秩序や階層構造などの価値観も維持されているのではないか。つまり世の大半の人々の興味の対象がそこへと向いている現状があるとすれば、しかも彼らの目的や目標がそこにあるのだとすれば、そのような人々の意識で構成されている社会の秩序や階層構造をひっくり返すのは容易なことではないだろうし、彼らが囚われている価値観とは異なる価値観を提示するのも同様に容易なことではないし、たとえ既存の価値観を基に構成されている社会が経済格差などの矛盾を抱えているとしても、それを織り込み済みで社会が成り立っているのだから、現状のままでは根本的な解決などあり得ないのではないか。


12月6日「変化への期待」

 唐突にそんなことを語りだすと確かに変だが、最近何か変だとは思わないだろうか。最近でなくともここ数年であっても構わないのだろうが、自身がこれまでにない心理状態に陥っているような自覚があって、そんな心理状態を招いている外的要因について思い当たることがある場合、それによって他の誰とも違う心境へと導かれているように思われる反面、一応は社会の中で暮らしているのだから、しかもどう考えてみてもただの一般大衆の間で埋もれた生活を送っているわけだから、そのような面ではどうということはないだろうし、そこから類推すると他の誰とも違う境遇などありえないわけで、別に何か突拍子もない幻想を抱いているわけでもなく、誰もが思うようなことの延長上で日常生活から生じたつまらないこだわりにとらわれ、そんな心理状態からなかなか抜けきれない中で、何の変哲もない日常の日々を送っているに過ぎないのに、果たしてそこから心境が変化する機会など訪れるのかと訝しく思われるだろうが、その外的要因というのが自身とは直接関係ないとしても、それをきっかけとして今までは気づいていなかったことに突然気づいて、それが心理的な動揺をもたらしているとも言えるわけだが、ではその外的要因とは具体的に何なのかといえば、思い当たることがあるのにそれを言葉では言い表せないような、何か不可思議な作用が働いているのだろうか。単にそれを幻想や妄想として片付けてしまうなら、外的要因でも何でもなく心理的な内面の問題であって、それに起因するただの情緒不安定だと見なしても構わないわけで、それ以外に何がどうなっているわけでもないだろうが、そう見なすことに戸惑いや抵抗を感じるなら、その情緒不安定をもたらしている原因として、外的な要因を探すことになるわけで、例えばそれが世界情勢の変化などという大げさな現象であるはずがないとは思いつつも、なぜか人々の心理状態に少なからず影響を及ぼしているように思われるのだとしたら、それをくだらぬ妄想や幻想として片付けてしまう前に、少しはそれについてまともに考えてみる必要があるだろうか。冗談や茶番に逃げたくもあり、逃げられずに中途半端な意味不明に落ち着く可能性の方が高そうだが、そうなることが紛れもない外的な要因から作用を及ぼされた結果だとするなら、それこそが現状がそれを示していることの証しとなるだろうか。

 それにしても外的要因とは何なのか。誰にとってもそれが外的要因なら、その外部からの作用は、少なくとも外部にいる誰かが働きかけているはずなのだが、その働きかけをしていると想定される誰かにしても、外部からの作用を意識していて、それを意識せずにはいられない心境になっているとすれば、その誰かにとってはまた別の誰かから作用を及ぼされていると思われるだろうし、そこにいるすべての人にとっても、それぞれ別の誰かからの働きかけを意識しているだろうし、その働きかけを行っているのが、一人であろうと複数であろうと、また様々な別種の人たちから様々な働きかけが行われていて、それが人というより集団や組織である場合もあるだろうし、人が社会の中で暮らしている限りは、そのような働きかけは日常茶飯事で行われていると考えられるわけだが、不快な働きかけが多いようだとそれを煩わしく思う反面、それがまったくないようだと自身が孤独な境遇にあるとも自覚するわけで、あってもなくてもそれに応じて何らかの心境をもたらすわけで、心境の変化はそのまま自身に働きかける外的要因の変化を表していることにもなりそうで、その反対に何の変化も感じ取れないなら、それは自身を取り巻く外的要因が変わっていないからだとも言えるのではないか。そういう意味ではいくら内部から変化を働きかけても、外的要因が変わらなければ変化など起こりようがなく、変化には常に外部からの働きかけが必要不可欠で、それなしでは何も変わらないとするなら、逆に変化を頑なに拒む動作として、外部との関係を常に一定に保つような働きかけが必要不可欠となってくるだろうか。日本の政治でいうならそれは日米同盟の堅持ということになるのだろうが、アメリカの方でそれを見直す動きが今後顕在化してくれば、日本の政治構造も変わらざるを得なくなるわけで、日本で主導権を握っている政治勢力にしてみればそうなっては困るから、必死になって阻止に動いている最中なのか、あるいは足元を見られていて、またこれまで通りにいいように操ろうという魂胆がアメリカ側にあるのか、その辺はどの程度の力関係なのかは今のところはよくわからないので、この後の結果次第で推測するしかないが、少なくとも日本の政治構造の変化を望むなら、アメリカの対日姿勢の変化に期待するしかないだろうか。


12月5日「妥当な線」

 興味がなければそんなことは気にしないし、無関係なら無関心であってもどうということもなさそうだが、現状では無駄で無意味に思えても、いつか何かの役に立つとも思えなくても、興味があって関心を抱けばそれに関わろうとしてしまい、たとえ何の利益にもならなくても、それに関して何か考え、何らかの行為に結びつけようとしてしまうだろうか。それがやっていることのすべてだとは思えないが、何かしらそういう部分がないと、気分的には余裕がないように思われ、また何もかもを欲得に結びつけようとするよりは、人として少しはマシに思われるのではないか。それも人それぞれであり、別に好きでやっているのなら、他人の迷惑を気にしない範囲内で、やれるようなことをやっているに過ぎないだろうし、周りに迷惑をかけながらやっている人も中にはいるとしても、やっている現実がある限りでその人の行為が成り立っているわけで、そのことで周りからとやかく批判されようと、批判の対象となっていること自体が、関心を持たれている証拠なのだから、さらにメディアからも関心を持たれているようなことなら、広く世間に認知されていることになるだろうし、そこまでになればそれをやっている人も本望なのではないか。そしてそうはならなくても、人知れず何かをやり続けている人も大勢いるだろうし、他人にとってはそれがどうしたわけでもなければ、それまでのことでしかないだろうが、少なくともそれがやめる理由にはならないだろうし、やめなければやっている現状の中で生きているわけだから、それを続けている現状に関して、何を思ってもどう考えようと、すべてはそれをやっていることが前提となって、その先へと向かうのが自然の成り行きだと感じるだろうし、たとえ周りからおかしなことをやっているように思われても、やっている当人にしてみれば、やっていることに関して、それなりの必然性を感じられるだろうし、何か一貫した連続性の中で行為していることを実感しているのではないか。要するにそこでその人特有の歴史的な経緯が生じていて、求められればやっていることについての、もっともらしい理由でさえも導き出せるかも知れない。そしていったんそうなってしまえば、容易にはやめられなくなってしまうだろうか。

 そうであったとしても、それがやっていることのすべてではなく、気晴らしの趣味程度で済ませられるようなことであれば、当人にとってどれほどのことであれ、他人にとっては大したことではないだろうし、それ以上の詮索は無用かも知れないが、それが他の人たちにとっても見過ごせないようなことだと、何やら意見したくなるような成り行きもあり得るだろうし、例えば政治や経済に関係するようなことだと、自身とは異なる意見や見解に対して、文句の一つも言いたくなってくるだろうか。そうだとしてもそうではなくても、何らかのメディアを通して何かしら応答することが、そこでやっていることだとすると、それが世論の一部を構成しているようにも思われてくるだろうか。世論を意識して世論と同じようなことを述べているなら、そのまま世論の一部だろうし、また世論を批判するような内容であっても、世論との関係で何か述べていることになるわけだから、たぶんそうやって世論を意識して何か述べようとする行為が、世論を伝えるマスメディアが醸し出す世の中の一体感を、自身も共有していることの証しとなっていて、それが大衆市民社会の共同幻想でもあるのだろうが、その幻想の共有が意味するものが、メディアに操られているだの洗脳されているだのと言った否定的な意味ではなく、かと言って積極的に肯定されるような意味にでもなく、ただそんな世論があることをメディアが伝えている程度に受け止めておけば、何も過剰に反応する気にもならなくなるだろうか。その世論の内容にもよるのだろうが、同調するにしても反発するにしても、メディアは媒体として伝えているだけでなく、内容を恣意的に操作していると疑うことも、メディアと自身との関係を前提として、そんなふうに思ってしまうわけで、果たしてそれがどのような関係かといえば、まずは広告宣伝を一方的に受け取る側であり、それに加えて新聞や雑誌やNHKなどの有料メディアだと、料金を払う側にもなるわけで、そのように金銭が関係してくるわけだから、当然のようにそれらのメディアを儲けさせるための、欲得ずくの仕掛けがあると考えておいた方がいいのではないか。そしてそういう面も考慮に入れた上で世論を伝えているとすれば、おのずとその手のメディアを有利に導くための意図や思惑も含まれている、と考えるのが妥当な線だろうか。


12月4日「客としての立場」

 そうだと割り切るつもりもないまま、まだ批判する対象も定まらないうちから、それとなく間接的にほのめかすような表現を駆使して、何かを批判しているように装うことはできそうだが、たぶんそういうまわりくどいごまかしではなく、始めからそれと意識せずに成り行きまかせに文章を記して行くうちに、次第に批判の対象が定まってくることがあるだろうか。必ずしもそうはならないとしてもそれなりの内容を導き出せれば、何かわかったような気にはなれるかも知れず、それほどはっきりとはわからない場合も、少なくとも文章の中では何か述べていることにはなりそうで、その述べている内容から、記述している途中では意識できなかった批判の対象を、後から想像してみるのも一興だろうか。だが安易に敵として批判対象を想定してもフィクションにしかならないだろうし、たぶん敵でも味方でもないような対象について語っている可能性もあり、しかもそれを語っているからと言って、その対象と直接関係があるとも思えなければ、別にまったくの架空のフィクションだと見なしても構わず、かえって語っている内容がフィクションであることを自覚しておいた方が、冷静にそれに関して思考を巡らせることもできそうで、その方が批判の対象としては正確な評価が下せるだろうか。しかし肝心の対象を特定しないまま、いったい何を批判しているつもりになれるのか。何か述べる以前にまずは対象となるフィクションの内容をはっきりと示さないと、何について語っているのかわからずじまいにもなりそうで、すでに空疎な無内容をごまかしようもなくなってしまいそうだが、現実に起こっていることについて記そうとしているのなら、それをわざわざフィクションに移し替える必要もなさそうで、フィクションか現実かという選択とは別に、単にそれを批判しなければフィクションなどにはなりようがなく、無理に批判しようとするからフィクションになってしまうのだとすれば、そういう意味でありのままの現実を批判するのには、細心の注意を払う必要があるだろうか。あるいはそういう細心の注意こそが、もっともらしく感じられるフィクションを呼び込むのだろうか。

 でもそれもおかしな話で、さらにごまかしの上塗りが待ち受けているのかも知れないが、批判することによってそれがありのままの現実ではなくなってしまうとすれば、どうしてそんなことが起こりえるのだろうか。例えば言葉の力で現実をねじ曲げて表現することによって、そのことだけでフィクションが可能となるだろうか。少なくともそれもひとつの現実であり、表現内容がフィクションになっているとしても、表現している現実があるのだから、それがフィクションだからと言って批判する理由とはならないだろうか。内容がひどければ批判されても文句は言えないところかも知れないが、批判の対象となるような水準にさえ達していなければ、スルーすることもできるだろうし、他のメディアが取り上げているからと言って、そのことのみで批判するか否かの判断基準とするのも、何か主体性が欠如しているようにも思えるのではないか。それらの何もかもが冗談だとは思いたくないのなら、そこに真摯に受け止めてもおかしくは思えないような内容が必要とされるのかも知れず、茶番劇などではなく、切実に感じられるような境遇の中で人々が暮らしている現実があるとすれば、そのような環境下で現実に考え実際に行動している人たちがいるわけで、何も傍観者や野次馬たちが主導権を握っているような状況でないことが、誰の目にも明らかになるはずなのだろうが、そういうもっともらしく感じられる現実というのが、メディア経由のフィクションとごっちゃになっているのかも知れないわけで、しかももっともらしく感じられるというがくせもので、そう感じられるとすれば、すでにそこに言語表現や映像表現による装飾が施されていて、真実が伝えられていない可能性があるのかも知れない。そしてメディア経由でその手の情報に接している傍観者や野次馬たちが、そのような表現の対象となっている人々の境遇に同情したり反発したりすること自体が、フィクションを見させられている観客になっているわけで、もはや公平な判断などできない立場を占めているのではないか。


12月3日「懲りない人々」

 何を予想しようとそれが当たろうと外れようと、何の影響ももたらさないとすれば、では何のために予想するのかと言えば、予想するにもそれなりの事情があることはわかりきったことだが、何かを予想するのが予想しようとする状況に含まれていて、予想する行為も含めて、全体として様々な行為が連動した現象の中で、そんな予想も利用しながら行われているのがそれらの行為と言えるのではないか。だがそれらの行為が具体的に何なのかについて、わかりやすく説明することができるとは思えないし、わかりやすい説明など求められてもいないのかもしれず、ただ説明として必要とされているのは部分的な説明であり、しかも一方向から特定の立場からしか説明を求められてはいないのかも知れず、要するに説明の対象を擁護するか批判するかの、どちらか一方の側からしか説明されないし、そのような形式でしか説明できないのではないか。しかしそれ以外でどんな説明が可能なのだろうか。いったいそこで何を説明しようとしているのか。たぶんそれは説明ではなく主張なのかも知れないし、何を主張しているのかと言えば、自分たちの主張を信じてほしいと主張しているのであり、主張の中身が主張を信じてほしいということだから、具体的に何が説明されているわけでもないのかも知れないが、果たしてそんな説明のない主張が実際に可能なのだろうか。予想とはそうなってほしいという予想であり、主張とは自分たちの主張を信じてほしいという主張であり、説明とは説明せずに主張することだとすれば、では何のためにそうしているのかと言えば、それは利益を得たいからそうしているのだろうか。なぜそこから利益を得られるのかと言えば、それらの予想や主張を信じて疑わずについてきてくれるサポーターの類いが存在するから、利益が得られるのだとしたら、そのようなサポーターを含んだ利益共同体にはどう対処すればいいのだろうか。例えばただ無関心を装っているだけなら、そんな連中のやりたい放題を傍観することにしかならないだろうか。

 少なくとも中身のない主張など信じられないし、信じられないことぐらいは表明しておいた方が良さそうだし、それ以前に信じていないという自覚が必要かも知れないのだが、どうもその自覚があるかどうかも疑わしい人が、世の中には大勢いるのかも知れず、別にはっきりと賛同しているわけでもないのだろうが、ただ何となくそれを支持しているようなことにされている状況があるのかも知れず、実質的に何をやっているのかと言えば、支持者を募っているのであり、支持者を募る行為に賛同してほしいとわけで、人気を集めたいわけだ。実際に支持を得られると予想しているし、多くの人がそんな予想に賛同してくれれば予想通りになり、そんな主張を信じてほしいと主張し、そんな信者や賛同者や支持者を集める行為に賛同してほしいし、そんな行為を支持してほしいし信じてほしいし、どこまでもそうだとすれば、いったい何をやっているのかと言えば、人気取り以外には何もやっていないことにもなりそうなのだが、何となくそれが許されるような情勢であるように感じられているのかも知れず、はっきりとあからさまにそう感じているわけではないのだろうが、結果的にそのような雰囲気が醸し出されているとすれば、どういう経緯でそうなっているのかと言えば、何となくそうなっているのであり、じわじわと周りから同調圧力が加えられているというよりは、そういう流れがあって、流れに逆らう気にはなれず、逆らう理由もあまりないのが現状で、積極的に賛同しているわけでも支持しているわけでも信じているわけでもないのだろうが、なぜかそういうことになっていて、それがどうしたわけでもどうなるわけでもなく、そのままの状態が放置されているのかも知れないが、だからと言ってそれがそんなに悪いわけでもないし、かと言ってそんなに良いわけでもない。もしかしたら実害を認識できないのかも知れないし、許容範囲内なのかも知れないが、これ以上は良くなるとも思えず、拒絶する気にもならないといったところなのだろうか。そういう面では反対している人たちの言い分にも、あまり説得力を感じないのかも知れないし、それらの脅し文句に説得力を感じられるような状況にはないのかも知れない。


12月2日「忘却にまかせて」

 どちらに転んでもどうということもなければ、どちらにも転ばなければ、それ自体で何やら面白そうな結果と言えるのかどうかはわからないが、転ばないということがあり得ないわけではなく、実際に転びそうもない状況なら転ばないだろうし、また転んだところで大したこともなければ、転ぼうが転ぶまいがそんなことはどうでもいいことだろうか。わざと転ぼうとしているのでもなければ、普通は転ばないほうがいいのだろうし、転ぶという表現が何のたとえなのかも気にかかるところなら、できればもっと詳しい内容を知りたいところだろうが、あいにくそれを持ち合わせていないのなら、では何のための説明なのだろうか。何に関して述べているのでもなければ、とりたてて回りくどい内容でもなく、単なる思わせぶりなこけおどし程度の認識でも構わないだろうし、それ以上は何がどうなっているのでもなさそうだが、大げさに騒ぎたければ、どう転んでも大変なことになると主張したいのだろうし、その都度この先大変なことが起こると予言したいわけだから、どう転ぼうともいくらでも騒ぎ立てる材料には事欠かないのかもしれず、実際に予想するだけならそれが当たろうが当たるまいが、大変なことが起こる可能性について言及できるだろうか。たぶん未来について語ろうとすると、大げさなことが起こるように予言しないと、世間から注目を浴びないから、メディア的な予想や予言は、決まってその手の大げさな内容になってしまうのではないか。そして何も起こらなかったわけではなく、実際に何かしら起こってきたのだろうが、その現実に起こったことと事前の大げさな予想との間に、何の関連もなかったわけではなく、ある程度は予想が当たっている部分もあるのだろうから、予言者はその当たっている部分を強調したいわけで、さも大変なことが起こり、それを予想できたことを宣伝したいわけだが、その大げさなことが起こったという印象が、事前の大げさな予言から繋がっているように思われている間は、それなりに予言の内容にも信憑性が感じられるのかもしれないが、そのような感覚も時が経つにつれてすり減って劣化してしまうので、それが起こった当初は誰もが驚くような大事件であった出来事が、歳月の経過とともに次第にどうということはないように感じられ、比較的に当事者意識の薄い人々の心の中では、事件の事件性も忘れられてしまうのかもしれない。

 そしてその出来事が歴史的な大事件として語り継がれて、それにまつわる記念行事などが世の中に定着すると、今度はそれを政治的に利用したがる人たちが出てくるわけで、中でも何かにつけこのままでは大変なことになると脅し文句を多用する人たちの間では、過去の戦争に関連した大虐殺などが格好のネタとして使われるわけだが、そればかり言い募ると、やはり感覚が劣化してくるわけで、いくら恐怖を煽り立てても直接には体験していないわけだから、しかも直接体験した人たちが語り継ぐような成り行きになったとしても、やはりそれは間接的な情報の伝達でしかなく、巧みな演出とともに効果的に伝えることによって、その時は衝撃を受けるとしても、よほど関心がない限りは、時が経てばその時の衝撃など忘れてしまうだろうし、実際に体験した人たちですらも、その場での立場によって感覚が違ってくるだろうし、その後の成り行きや境遇によっても、それに応じた恣意的な感覚が後付けされて、それに対する評価が異なってくるのではないか。だから必ずしもその歴史的な大事件を脅し文句に使いたい人たちと同じ価値観を共有するとは限らないし、場合によっては正反対の評価であることもありうるわけで、あの頃は良かったと思っている人がいても、別にそれが許されざることでもないだろうし、建前上はそんなことはあり得ないだろうが、それに関する記念行事でよく誓われる、悲劇を二度と起こさないという類いの思いを全ての人が共有しなくても構わないわけだ。そしてそういう事情から新たに何が起こるわけでもないのだろうが、少なくとも二度と繰り返されないのは悲劇でも歴史的な大事件でもあり、その代わりに定期的に何度も繰り返されるのは、それにまつわる記念行事であり、そこで行事に参加する人々が誓いを新たにしながら、毎年のように記念行事を繰り返すことによって何が起こるのかといえば、それは悲劇を二度と繰り返していない現状の肯定だろうか。それがどちらにも転びようのない盤石な現状であればいいのだろうが、実際には程度の差こそあるにしても、いくらでも転び続けていて、しかもどう転んでも悲劇の再来を予言する人々の煽動材料に使われる現状があり、一度しか起こらない事件に対する驚きの感覚も感性も忘れ去られてしまうらしい。


12月1日「虚構の世界情勢」

 ただ漠然とニュースメディアに接していても、世界がどう変わろうとそれを意識できるとは限らないし、世界情勢とは無関係に生きていると感じるというよりも、普通に無関心でもあるだろうし、ただニュースや報道の中で伝えられることと、自らの生活があまり繋がっていないように思えるというよりも、やはりそれに関しても普通に無関心でしかなく、しかもそれで済んでしまうような状況というよりも、どういうわけでもなく普通に無関心でいられるのではないか。ただメディアの予想が外れたり、日本政府の方針とは違う成り行きになっていることを知ると、何やら愉快な気分になってくるし、そういうところで娯楽的な興味があるのだろうし、そういう面ではあまり深刻になって危機感を抱くような気分にはなれないのかもしれず、そんな気分でいられる状況の中で暮らしているのだから、世界情勢に関しては無責任な立場を装えるし、国内の政治経済的な情勢に関しても、危機感を煽りまくりな人たちほどには、政権を握っている勢力を危険視していないし、どうせ茶番劇に終わるだろうと高を括っているわけだが、その茶番劇の内容というのが、危機感を煽りまくりな人たちが恐れているような最悪の結果になろうと、それこそが茶番劇なのだろうから、表現の相違があるにすぎず、内容にはそれほどの差異があるわけでもないのかもしれない。果たしてそれを茶番劇と表現するのなら、例えばシリアの内戦の惨状を茶番劇だとは言わないのだろうが、アメリカの次期大統領の政治活動なら茶番劇に終わる可能性が高いだろうか。それも実際にやってみなければわからないのかもしれないが、少なくとも日本の現首相とアメリカの次期大統領の政治姿勢には、明らかな違いがありそうなのだが、日米同盟を強調したい人たちは、やはり同じように見せかけたいのだろうし、また日本の反政府勢力を自認する人たちの中にも、リベラル的な政治姿勢を強調したい人たちは、両者ともにネトウヨ的な言動が目立ったりすることを共通項として、一括りに括って批判の対象としたいのかもしれない。

 そして愉快な気分になるには、当然それらの人たちの期待が外れて欲しいわけで、実際に今までの常識から外れたことをやって欲しいわけだが、しかも常識外れなことをやった結果として、世界情勢が大きく変化して欲しいわけだ。しかしそうなると茶番劇ではなくなって、現実に政治的な業績として歴史的な事態となるのかもしれないが、それはこれまでの延長上では考えられないことであり、これまでの延長上で茶番劇の登場人物を演じている日本の首相などとは明らかに異なった特性を持つようにもなるわけだが、たぶんそうはならない可能性の方が高いだろうし、周りから及ぼされる有形無形の作用に絡め取られて、大したことは何もできないまま任期の四年間を終えそうな予想の方が、今のところは妥当に思われるだろう。普通に考えれば平穏無事に任期を過ごせたら、何もやっていないのと同じことになり、それ以外では戦争にでも突入してしまえば、よほどのことがない限りは、ジョージ・ブッシュのようにマイナスの評価しか残せないのかもしれず、経済を立て直すといったところで、すでに現状で通常の状態なのだろうし、これ以上は良くも悪くもならないような定常的な経済状況の中で、相対的に貧しいように思われる人たちが不満を抱いているだけで、しかも貧しい人々がある程度いなければ、経済的に豊かな人たちが豊かさを実感できないのかもしれず、そういうところで資本主義経済は矛盾しているのかも知れないが、それ以外の経済がありえないのだから、それも極めて当たり前の状況でしかないだろうし、平和な状況が続く限りはそのような定常状態となるしかなく、それ以外では大規模な戦争などによって未曾有の惨劇が起これば、それの反動で災禍を生き残った世代の子供達が相対的に豊かさを実感できるかも知れないが、範囲が限定された地域紛争程度では平和な地域の豊かな国々の富が吐き出されないので、豊かな国々では貧富の格差が広がる方向で一部の富裕層に富が集中し、紛争地域では慢性的に内戦が続いて国土が荒廃していく一方の状況が、今現に継続中なのかも知れないが、果たしてアメリカの次期大統領などがそれを変えるきっかけをもたらせるだろうか。もたらせなければ茶番劇に終わり、もたらせれば第三次世界大戦でも勃発するかも知れないが、そうなると愉快な気分など皮肉な薄ら笑いともに消し飛んでしまいそうだ。