彼の声110

2015年

9月30日「循環論」

 人々が何を望んでいるとしても、望みを叶えるために努力しているとしても、それに従って目的や目標を掲げて、計画的に物事を進めようと、そこから外れていってしまう動作が必ず出てきて、場合によってはそちらの方が面白くなって、それに熱中しすぎると、当初に掲げていた目的や目標や計画などどうでもよくなって、気がつけばそれにかかりきりとなっている状況を想像できるだろうか。人の心を惹きつけて夢中にさせる何かがそこにありそうだが、その魅力の源泉はこれまでにない何かがそこにあることで、それに驚き感動して、それを体験することによって夢心地となってしまうのかもしれず、結局人が望んでいるのはそうなることだろうか。例えば火星に何か驚くべき現象や存在があってほしいと思い、人々はNASAの火星探査車や探査衛星が何かを発見することを願っているのだが、実際に発見したのは火星人などではなくて、今も液体の水が流れている痕跡だったわけで、専門家などに言わせればそれだけでも大発見なのだろうが、一般の人々にとっては期待はずれの部類に入るかもしれず、最低でもバクテリアか何かの微生物でも発見されてほしいところだろうか。水は木星や土星の衛星でも液体のまま存在しているらしいから、近い将来探査機を送り込んで何かが発見されるかもしれないが、地球外生命体を探す目的で莫大な予算がかけられ、様々な計画が進行中なのは、やはりアメリカを中心として事が進められているわけで、他に宇宙へロケットや衛星を飛ばしているのは、ロシアや中国やEUや日本やインドなどもやっているわけだが、予算を一番かけられるのはアメリカだろう。おそらく軍事費も世界一だろうし、企業の規模や売上高が一番でかいのも大金持ちが一番多いのも、今のところはアメリカかもしれない。また主なプロスポーツでもサッカーを除いて、そのほとんどがアメリカに集中しているし、大学や研究機関なども、たぶんアメリカがランキングの上位を独占しているだろうか。要するにその覇権に陰りが見えるとしても、未だに世界中から人や富がアメリカに集まっている現状なのかもしれず、たぶん今後そこからどこかの国へと、なんらかの分野の中心が移っていくのではなく、国境を越えて一つにつながろうとしているのではないか。場所や地域や国ごとに閉鎖的にまとまるのではなく、全体が解放されようとしているのかもしれない。要するに地球上のどこにいても同じような境遇になるような成り行きの途上にあるわけで、誰がどこかの国がそれを目指しているわけでもなく、人々がやっていることが、そんな成り行きをもたらしているのではないか。もちろん多くの人々がそんな作用に逆らって、国威発揚だなんだのと自己主張を繰り返しているわけだが、それも資本主義的な金儲けの上に成り立っていることでしかなく、金儲けが世界共通なのを隠蔽するために国家主義があるのかもしれず、よく国ごとに個性や文化があるようなことが言われるわけだが、実際には国の中でも地域ごとに文化や民族的な特色があって、国家主義という概念自体が様々な地域を統合するために作られたフィクションなのかもしれない。

 そして今や人や企業のやっていることが、国家単位では収まりきらなくなっているわけで、国家の枠組みが邪魔になりつつあるのではないか。無論言語や慣習の壁が立ちふさがっていて、容易には世界が一つにまとまることはないと思われているわけだが、インターネットの影響でまずは慣習の壁が徐々に崩れてきているようで、ネット上では誰もが同じようなことを思い、同じようなことをやって同じような話題で盛り上がっていて、また言語も自動翻訳機能の進化によって、だんだんと取り除かれる方向となっているのではないか。そしてアマゾンやグーグルやアップルなどの巨大企業の活動によって、世界中に同じような商品が出回り、それを人々が買って使うことで、人々の思考形態まで同質化が進んでいるのかもしれず、人が老いて死ぬのと新たに生まれてくるサイクルによって世代交代が進んでいくうちに、このままいくといずれは地域差がなくなって、世界のどこにいても大して違わないような世の中となってしまうかもしれない。たぶんそうなる過程で国家の役割も終わりを迎えるかもしれないが、新たに世界から独立しようとする勢力などが現れるだろうか。そこに住んでいる人が同質化されてしまうと、特定の民族勢力が世界から離反して、独立して新たに国を築く気にはなれないか。そうなると独立戦争も起こらないから、軍隊がいらなくなり、行政が担う暴力装置は、治安を維持する警察機構などで間に合ってしまうだろうか。国防費がいらなくなって国ごとに異なっていた制度も統一されて、行政サービスも効率化されれば、人々に必要最低限の衣食住を提供するぐらいの余裕が生まれるだろうか。そうなれば世界から貧困がなくなるかもしれないが、現状の中で生きている人々が想像しているのは、そんな楽観的な未来ではなく、もっと終末論的な悲観論の方が圧倒的に多いだろうか。世界を覆う資本主義市場経済の中で、高価な商品を買うために湯水のごとく大金を使う一握りの富裕層と、低賃金の単純作業しか仕事のない大多数の貧困層とに二極分化して、多くの人々が失業と貧困に苦しめられるわけか。でもそうなるとほとんどの人が商品を買えなくなって消費が減退してしまうから、商品を大量に売りさばく巨大企業は成り立たなくなってしまい、資本主義市場経済もおかしくなってしまうから、そこに矛盾が生じていることは明らかで、どうもそういうことではないようだ。企業が売る商品を買う消費者がいないと商売は成り立たないわけで、世の中の大多数が貧困層では巨大企業は存在できず、企業は消費者が買える値段で商品を売らなければならないから、企業が活動して市場がある限りは、商品を買う消費者も存在していて、商品が買えるということは、それらの消費者が必ずしも貧困層とはならないわけだ。その辺でなんらかの見落としや気づかないことがあるのかもしれない。


9月29日「対立と結びつき」

 現状はあらゆることがおかしな方向へと、収斂していってしまうような成り行きではないだろうが、そもそも何がおかしいのかといっても、別にそれほどおかしくはなく、ただ多くの人がそれはおかしいだろうと思っているだけなのかもしれないが、たぶんそれは何かの都合でそうなっている場合が多く、その都合を優先させると、何かそこに誰かあるいはなんらかの組織や勢力などの思惑が絡んでいるように思われてしまうわけで、そのおかげでおかしいと思っている自らが不利益を被っているような気がして、不快感が増してくるかもしれず、要するに他人の思惑や意図に操られているような、罠にはまっているような感じがして、それが高じると被害妄想にとりつかれて、怒りや憤りの感情に心を支配されてしまうだろうか。怒りや憤りなら、まだそのおかしくなっていることへの抗議に結びつくかもしれないが、あきらめの心境に至ってしまうと、そのおかしいと思っている状況を受け入れ、そうだと見なしているなんらかの思惑に屈してしまうことになり、それでは情けないと思われてしまいがちだが、どちらでも構わないのかもしれず、怒りや憤りにかられて抗議に出向く人もいれば、我関せずで傍観を決め込む人もいるのではないか。そういう反応自体は別にそれほどおかしなことではない。だが様々な出来事や物事に対する人々の反応が世論を作り上げているわけで、メディアが行う世論調査の結果にもそれが反映されているのだろう。選挙や議会制度にその世論調査の結果が、人々の意識に跳ね返ることによって影響を及ぼし、惑わされることになるわけか。メディアが政治に影響を及ぼそうとするのは、報道する内容の傾向と、論説や解説者の主義主張と、世論調査の結果を発表することによってであり、そこにメディア固有の意向や思惑が読み取れるだろうか。別にはっきりした意志や主張を読み取る必要はなく、メディアに携わっている人たちにも様々な考えがあり、それが交錯し絡み合った結果として、なんらかの方向性が示されているわけだから、特定のメディアに否定的なレッテルを貼って非難することもないだろうが、それはネット上で不快な政治宣伝を繰り返している人たちにも言えることで、何か向こうが攻撃してきたら反応すればいいだけで、それがなければ放置しておいても構わないのかもしれず、そういう人たちが攻撃するのは著名人が主な標的だろうから、執拗に絡まない限りは、一般の人たちはあまり相手にされていない傾向にあるのではないか。そしてそのような人たちも、彼らが信奉するメディアから影響を受けていて、メディアが彼らのような人たちを量産するといっても、それほど間違っていないような気がするわけだが、それこそ彼らがその信奉するメディアによって操られているように思われてしまうわけで、罠にはまっているのは彼ら自身なのだろうか。

 それは一方的にメディアに心を支配されているわけではなく、メディアとそのユーザーとの相互作用から、メディアとその信奉者との一体感が形成されるのではないか。その度合いが著しく強まるとカルト宗教や原理主義のような様相を呈してくるかもしれないが、批判や非難によってその精神的なつながりを断ち切ろうとしても、そうやすやすと断ち切れるものではなく、歴史的な経緯から人々の深層心理にもたらされ、染み付いた偏見や感情が拭い去れない限りは、いつまでも執拗に残り、世代間で受け継がれて、それが社会の表層に噴出する機会をうかがっているわけで、現状でそれらのメディアやその信奉者たちが勢いを増しているとすれば、まさにその機会が到来しているのではないか。そしてそんな現象を目の当たりにした人々に、社会全体がおかしくなりつつあると感じさせるわけか。人の精神はいつの時代もその人が生まれ育った地域の歴史的経緯から形成されるのかもしれず、時間と場所にその意識が拘束されていると考えれば、そのような偏見や感情が癒えるのにも、これからの地域的あるいは世界的な状況の推移が必要となってくるのかもしれない。結局は人々の行動や行為が歴史を作るわけだから、ネガティブな偏見や感情を取り除くべく、未来へと向かう新たな歴史を作り出していかなければならないだろうか。たぶん現状でもそこに生きている人々の行動が新しい歴史を作っている最中なのだろう。そしてそれは世界が一つに統合される歴史なのではないか。国家間の対立や軋轢を取り除いて宥和を進めようとする勢力と、対立を煽って軋轢を増大させて国家を維持しようとする勢力との、せめぎ合いの様相を呈しているのかもしれず、もちろん国家を維持して繁栄へと導くのが、政治家や官僚たちの役目なのだろうが、そういう人たちの思惑や意向を越えて、国の首脳などが建前として、国際貢献や世界平和を目指そうと国連などで演説せざるを得ないことが、どうも政治家や官僚たちの意向や思惑を超えて、世界の統合へとなんらかの作用が働いていることの証なのかもしれず、国家間の対立を煽ることで結果的に軋轢が増大することになるとしても、経済的な利益を求めて対立する国家へ商品を売り込まなければならず、利益を求めようとすればするほど、対立を煽っている人々のやっていることが辻褄が合わなくなるような状況となり、形骸化の作用にさらされるわけで、例えば安保法案を成立させて、自衛隊を南スーダンに派遣させる段取りだったらしいが、そこには中国の石油利権があって、東シナ海のガス田開発を巡って中国と対立しているつもりが、紛争が続く南スーダンへは、その中国の石油利権を守りに自衛隊を派遣する結果となるかもしれず、それは皮肉な巡り合わせかもしれないが、様々なところで国家間の経済的な結びつきが強まっていることの証しなのかもしれない。


9月28日「優先順位」

 今はうまくいっていないが、何かのきっかけでうまくいき始めることもあるかもしれないから、現状でやれることは、とりあえずやり続ける方がいいように思えるが、うまくいきたいというのが願望なのだから、ただその願望が実現していないだけかもしれない。そこまでは意識して考えるようなことなのだが、そう考える自意識とは別に、それと意識せずに勘が働いて、突然それとは違う動作が出てしまうのは、意識が意識に逆らっている証拠だろうか。逆らっているのではなく、意識が捉えきれない部分を勘が補っているのか。どうも勘が何かの機会をとらえたがっているようで、たえずその機会をうかがいながら、意識に先んじようとしているのかもしれない。そうだからといって意識より勘の方が優位に立っているわけではないらしく、思考のある部分が意識で、またそれとは別に勘の部分もあって、両者が連携しながら絶えず体験し続ける事態に対処しているわけか。そしてやっていることが正しかったり間違ったりするのは結果論で、結果がうまくいけば正しいことをやったと思い、うまくいかなければ間違ったと思うわけか。そうだと断言しても差し支えないだろうが、本当はそれだけではなく、うまくいったかどうかは外部の状況を加味して考えなければならず、自分だけの判断で正しいか否かは言えず、やっていることがいくら正しいと思っても、それがうまくいくとは限らず、周りを取り巻く環境や状況によって、うまくいくかどうかは常に左右されると見なしておいた方が無難かもしれない。やっていることに理解を示して、味方して手伝ってくれたり助けてくれる人や組織があれば、うまくいく確率が上がるかもしれないが、周りじゅうが敵だらけで、無視されたり妨害されてばかりいれば、四面楚歌の中で正しいと思ってやっても、その大半はうまくいかずに失敗してしまうだろうか。独りよがりな主張を繰り返している人などがそれに当てはまるかもしれないが、当人はそれで構わず、勝手にやるのが性に合っていると思っているのかもしれない。勝手にやれているうちは、やり続けることがうまくいっていることになり、やり続けられなくなったら、うまくいかなくなったことになるだろうか。何かをやっているということ自体が、すでにうまくいっているということであり、そのやっていることをやめざるを得なくなった時が、うまくいかなくなったということになる。だから人はたとえそれなりにやっていることがうまくいって、ある程度の利益を得て成功を手にしても、きりのいいところでやめるのが難しく、いつまでもそのやっていることにしがみついて、かえってやり続けることによって身を滅ぼすこともあるのではないか。働きづくめで体を壊して早死にした人などがそれに当たるかもしれないが、それでも後悔せずに運命を受け入れて、充実した一生を送ったと満足して死ねる人も中にはいるかもしれない。

 たぶん全てはたわいないことだと見下すこともできる。遊びでやっていることも命がけでやっていることも、軽くも重くも捉えることができ、どう捉えてみても構わないだろう。身の回りの環境や状況に連動して、深刻に捉えたりどうでもいいことと捉えたり、自分がこだわっていることが脅かされそうになると、死活問題と捉えてすかさず反発したり抵抗したりするわけだが、相手にそれと気付かせないようにして、自分や自分が属している勢力が有利になるように、何かを画策したい人たちもいるわけだ。それを狙った誘惑の罠が世の中には張り巡らされていて、そのための広告宣伝がメディア上には満ちている。別にそれに騙されても構わないわけで、多くの人が騙されないと経済が回って行かないのかもしれず、経済状況が悪化するということは、嘘がばれて、人が安易な広告宣伝には騙されないようになってきたことの証しかもしれない。政治家でもメディア関係者でも、何かを盛んに煽っているということは、そうすることで世の中の一般大衆を騙そうとしているのかもしれず、多くの人たちがそれを真に受けると、それらの扇動者たちが利益を得るわけだが、たぶんそれも騙されても構わないのだろうし、扇動者たちの口車に乗って一緒になって騒ぎ立てる人が多ければ多いほど、社会全体が活性化するのかもしれない。そして気がついた時には取り返しのつかない事態となっていて、後戻りができないまま破滅へ向かって一直線に進んでいくわけか。明治維新からアメリカと戦争して負けた時期までは確かにそうだったはずだ。その後も高度経済成長期やバブル全盛期なども、それと似たような状況だったかもしれない。そんなことがあった反動で、その後二十年以上も停滞期があったわけだが、またここにきて懲りずに煽り立てている人たちもいることはいるのだろうが、どうも社会全体がそれに呼応しているわけではなく、アベノミクスだなんだのと一応は煽り立てたわけだが、それに半信半疑であったり、全く信用していない人たちも大勢いるのかもしれず、今回のそれは結果的には今一つ盛り上がりの欠ける状況となってきたのかもしれず、すでに扇動者たちも安保法案で騒ぎすぎて息切れ気味だろうか。それも周囲の国際情勢と連動しているわけだから、どうにもならない部分もあるだろうし、また国際情勢に煽られて息を吹き返すこともあるかもしれないから、まだ失敗したというのには時期尚早だろうか。茶番だといえばそう捉えても構わないようなことかもしれず、全てはたわいないことだと見下すこともできるわけだが、シリアのように国全体が廃墟と化すような事態とはならないことは確かだろうし、民主主義という抽象的な絵空事よりも、経済という金儲けが優先されているわけだから、そういう方向で事態が進行中であることは確からしい。


9月27日「意識改革」

 民主主義という概念は、何か実情を伴わない抽象的で空疎な絵空事のような建前を連想させる。建前を主張するのが悪いわけではないが、それは政治全般に言えることかもしれず、例えば現実的で功利的な主張をする政治家がよく口にする経済対策や経済政策なども、本当に政策によって景気が良くなったり悪くなったりするのか、よくわからない面もあり、社会主義経済から資本主義的な改革開放政策をやった中国やベトナムは景気が良くなり、それに消極的だった北朝鮮は経済的な困窮状態が続いていることは確かだが、同じくソ連から資本主義化したロシアや東ヨーロッパ諸国はそれほどうまくいっていない国が多いようで、政治情勢だけなく地域的な事情もあるのだろうが、もとから資本主義経済の国々では、確かに景気が悪くなれば議会などで景気対策が論議され、政府が景気対策をやるわけだが、それが功を奏して景気の悪化に歯止めがかかり、景気が良くなったりするのかどうか。実際に景気が良くなったりその兆しがあったりすると、政府や議会の与党を支持する立場のメディアでは、政府の景気対策が功を奏したように語られるだろうが、批判する立場のメディアではそうではなく、例えば世界経済やアメリカや中国などの経済の好調に引きずられて良くなったのだろうという話になる。確かにアメリカがイランと政治的に和解すれば、経済制裁が解かれてイラン産の原油が世界市場に出回り、原油価格が低下して世界経済にとってはプラスに働くと言われるわけで、政治が全く経済に対しては無効というわけではないだろうが、政権与党に迎合的な評論家の類いがよく、野党は経済政策を示せと批判的に語る次元での政策や対策は、お前ら野党じゃ無理だ程度の政治的な宣伝でしかなく、野党がそれを真に受けるべきなのかどうか、野党によっても判断が異なるところだろうが、政治的に何を主張しようと、実際にはできることとできないことがありそうで、今こそ民主主義を取り戻すために野党は大同団結しよう、と共産党の党首が呼びかけていることが、それに応じるだけの懐の深さが他の主要な野党にあるのかどうか、それが試されているのか、あるいはそれも単なる政治宣伝の次元で捉えられているのか、おそらく後者だと思っている人が多いかもしれないが、実際に野党が政権を取ったところで、官僚やマスメディアや財界からの抵抗や攻撃によって、民主主義を取り戻すどころか、現状よりもさらにひどい状態となってしまう可能性もあるかもしれない。それを受け入れる覚悟が国民に求められているのかもしれず、その点はどうもギリシアでは、選挙で左派急進派が勝利宣言しているところを見ると、国民にその覚悟があるらしく、保守派は信用されていないようだが、日本では今のところはそこまでは行っていないのだろうし、それはまだ経済状態がギリシアほどには深刻化していないことの証しかもしれない。

 結局は経済状態が悪化しないと国民が政権交代を求めないのだとすれば、経済状態が悪化して政権交代したところで、交代した政治勢力には何もできないということになって、政権交代に意味などないということにもなりかねず、ではどうすればいいのだろうか。それは実際に政権交代してみないことには、なんとも言えないところかもしれない。野党側としては政権が変われば世の中が変わるかのような幻想を振りまきたいところかもしれず、それは幻想などではなく、本気で世の中を変えようと思っているかもしれないが、欧米などの事例を見ると、どうもそうではなく、政権交代したところでやっていることは大して変わらないのが実情かもしれず、例えばフランスで戦後長いこと続いた保守派の政権から社会党に政権が移った時、当初は世の中が変わるかのような期待で、多くの人が街に繰り出して歓喜に沸いたこともあったようだが、その期待は急速にしぼんで落胆へと変わり、変わったのは死刑が廃止されたことぐらいで、他は以前とほとんど何も変わらなかったようで、その後保守派が巻き返して政権を再び奪取して、長いこと政権の座にいた後、またここ数年は社会党政権となっているが、やっていることが以前と保守政権と何か特に変わったわけでもなさそうだ。そしてそれは他の欧米諸国や、隣の韓国でも同じことなのかもしれず、軍事政権から民主化された時には確かに世の中が変わったかもしれないが、それ以後は民衆の支持を得て金大中や盧武鉉が大統領となったが、何が大して変わったわけでもなく今に至っているはずだ。相変わらず主要財閥による経済支配は続いているようで、新自由主義的な競争社会の中で、社会は殺伐とした空気に覆われているのだろうか。そんな競争社会だからこそ、オリンピックでは日本の数倍もメダルを獲得して、それによって国民は誇りに思うかもしれないが、別に生活の豊かさを実感するわけでもないだろうし、ブラック企業並みの劣悪な労働環境の中で、労働争議も頻発しているようだ。ともかく日本でも現政権に不満を抱いている人が多ければ多いほど、選挙で野党側が勝利して政権が交代する可能性も高まるだろうが、あまりそういう流れを押しとどめようとしてはいけないのかもしれず、政権担当能力がどうのこうの言う前に、さっさと政権交代させてやらせてみればいいだけで、それで駄目ならまた別の政治勢力に政権をとらせればいいだけで、そういうことをやっていかないと、なかなか国民の政治的な不満は収まらないだろうし、政権をとらせてうまくいかなくなって落胆させればいいわけで、そういうことを繰り返して行くうちに、だんだん国民も民主主義的な政治制度に幻想を抱かなくなって、ある程度はあきらめもつくのではないか。あまり現状に悲壮感や絶望感など抱かずに、どうせ思い通りにはいかないのだから、政治的には気軽に野党に投票できる環境へと持って行くべくなのかもしれない。それにはよく言われるように、野党側が変わるべきなのではなく、国民の意識が変わるべきなのであり、野党の政治家などは、いったん政権与党になれば嫌でも変わってしまうのだから、そういうところにもあまり幻想を抱くべきではないのかもしれない。


9月26日「イデオロギー」

 時の流れは過去から未来へと一方的に進んでいるのかもしれないが、世の中は一つの方向へと進んでいるわけではなく、様々な思惑や行為が複雑に交錯して絡み合っているから、それを理解するとなると一筋縄ではいかないのはもちろんのこと、全てを理解することは不可能に近いだろうか。憶測や推測に基づいていい加減なことならいくらでも言えるかもしれないが、そういうのは虚構の部分も含み、語っている人の願望も反映されてしまうから、悪く言えば偏向した独りよがりというか、あるいはその人が属していたり信奉している、何か特定の政治勢力によるバイアスがかかっていたりすると、その人の仲間内だけで通用するような、対立する政治勢力や、攻撃している著名人に対する憎悪の念なども反映され、結果として酷く不快なイデオロギーを語っている場合もあり、しかもその対立する政治勢力などと相互に非難の応酬などをやっていると、双方ともに互いを相手を否定する言説を駆使するから、さらに不快さが増幅されて、無関係を装う外部の人たちにとっては、到底許容し難く、理解も支持もできないようなことが言われていたりするのだが、その主張を真に受けることなどできないとしても、そうなってしまうのにも世の中の流れが反映しているわけだから、そういうことも含めて理解しようとしなければいけないのかもしれない。何かを主張している人たちは、主張の内容やそういう主張をしている自身を正当化したいわけで、正当化している部分がその人の願望であり、正当化に都合のいい憶測や推測が含まれていて、フィクションが構成されるのはそこからであって、それを信じている人たちが特定の政治勢力を形成しているわけだ。もちろんそのフィクションは世の中の現状から抽出されているわけだが、彼らにとって都合の悪い部分は意図的に無視されているか、あるいは無意識に目を背けているかのどちかかもしれないが、敵対する人たちがそれを指摘しても馬耳東風を装うしかなく、そうしている限りにおいて、無矛盾な政治的なイデオロギーでいられるわけだ。相手にとって都合の悪い部分に関しては、まるで鬼の首を取ったように騒ぎたてながら攻撃してくるが、自分たちにとって都合の悪い部分に関しては、ひたすらだんまりを決め込み、それが兵法の極意だと考えているのではないとしても、敵との非難の応酬を通じて自然に身についてしまったことかもしれず、敵に対する憎悪の念が邪魔して、それが理不尽なことだとも思わず、イスラム原理主義の武装勢力が平気で異教徒を処刑する次元にまでは達していないにしても、何か特定の思想信条に凝り固まると、敵対していると思い込んでいる人たちを、同じ人間だとは思わない口ぶりであることは確かで、平然と口汚く罵るような兆候を見せたら、やはりそういう人はなんらかの思想信条に、狂信的に帰依していることの証しだろうか。

 そういう狂信的な思想信条への帰依という現象は、社会にそれを許してしまう風土があるのかもしれず、何が人を特定の思想信条を盲従させるのかは、物事を単純化して解釈したがることにあるのかもしれない。そしてそれは政治的な宣伝戦略において、人の感情に訴えかけるその手法が罠として機能していて、自分たちに都合のいいように物事と物事を敵を貶める目的で結びつけて、それを政治的な宣伝として活用するやり方となる。最近の例としては、北朝鮮による拉致被害者を奪還するには憲法改正まで待てない、という政治的な宣伝があるわけで、拉致被害と日本国憲法を結びつけて、軍事力を放棄した憲法では拉致被害者を奪還できないから、現行の憲法を一刻も早く改正して、武力を用いて北朝鮮に圧力をかけなければならない、というわけで、とりあえず安保法案が成立して、邦人救出に武力を使えるようになったらしいので、政府がこの先何らかの策を講じるかどうかはわからないが、普通に考えれば軍事力を放棄していない韓国も、同じように拉致被害者の奪還に成功していないようなので、また拉致被害に遭った他の国も、別に武力で北朝鮮を威嚇しているわけでもなく、拉致被害と憲法を結びつけて憲法改正の理由とするには無理があるだろうし、要するにそれはフィクションの混じった政治宣伝でしかないわけだが、どうもそういう政治宣伝を平気で口にする人たちは、自分たちの敵である憲法を擁護する人たちを貶めるためなら、なんでもやるような心境に至っているのかもしれず、物事を単純化して他の物事に結びつけ、自分たちには都合が良く、かつ敵対する相手が都合の悪いような政治的な宣伝文句を構成して、それを繰り返し発信し続け、拉致被害者を心情的に助けたいと思っている人たちを味方につけ、それを梃子にして憲法改正に結び付けようとしているかどうかはわからないが、憲法を擁護する人たちは拉致被害者を奪還する気の無い反日非国民だと罵り、それを口実にして攻撃していることは確かだ。そういうまやかしの政治宣伝には物事を深く考えない人は引っかかるかもしれないが、今後の情勢の変化によって拉致被害者の生き残りが帰って来るようなことがあれば、彼らは安保法案が成立しからそうなったのだと強弁するだろうし、帰ってくる可能性がなくなるようなことがあれば、拉致被害者を見殺しにしたのは平和憲法だと強弁するだろうし、どちらにしても自らに都合のいい主張の正当性を信じ込めるわけだ。彼らにとってはそれが正しい主張だろうし、日本がひどい状況になっているとすれば、すべての責任は敵対している人たちにあるのだろう。


9月25日「公益」

 何をやるにも功利的なものの見方や考え方をするのは仕方がないとしても、死に物狂いで利益を追求するとなると、そうせざるを得ない状況の中で生きている人たちには、公共の利益など眼中にないことは確かかもしれず、アフリカや中東で内戦状態の地域で、実際に戦闘している武装組織のリーダーなどは、やはり容赦なく人を殺して財産などを奪うだろうか。そういうところはヤクザやギャングの抗争と変わりないだろうが、そういう環境とは全く異なるところで、例えば裕福な先進諸国の巨大企業などでも、内戦地域の武装組織などとは比較にならないほど巨額な利益を、死に物狂いで追求しているのではないか。両者の関係は兵器産業などを介して接点があるのかもしれないが、税金逃れだと指摘されているような徹底した節税対策などをやっていることから、武装組織と同じように巨大企業も、やはり公共の利益などその眼中にないのかもしれず、たまには社会貢献に尽力するという趣旨の発言を企業のトップがすることもあるかもしれないが、また実際に災害募金や慈善事業などに巨額の寄付をする経営者などもいるだろうが、企業活動そのものは利益を上げるためにはなんでもやるのは当然で、そのためには節税も手段の一つとして行うわけだ。国の法律が失効している内戦状態の地域にいる武装組織と、法律が有効に機能している国で違法行為をやっているヤクザやギャングと、同じく法律が有効に機能している各国で合法的に活動している巨大企業と、それらの反公共性を一緒くたにはできないだろうが、死に物狂いの利益追求という方向性は、そこに苛烈な競争原理が働くことで生じているのだろうか。それはプロスポーツでも囲碁や将棋のプロ棋士の世界などでも、そこに競い合いがあるところではそうなるしかなく、競い合いを通じて人を魅了する高度な技能や発明や発見などがもたらされるわけだが、そこから縁遠い一般の人たちには、やろうとしてもできないことをやって見せるわけだから、少なくともそういう競い合い自体には感動するだろうし、そういう世界に憧れる人も数多く、それを目指して競争に参加する人も後を絶たず、参加する人が多ければ多いほど、その頂点を極めた人には輝かしい栄光がもたらされ、報酬の額も桁違いとなるわけだ。例えばそのような人が自国民から出たら、その国の人たちの利益となっているのだろうか。中には国の誇りだと思う人もいるだろうが、一個人や団体が誇りに思われることと公共の利益とは何か関係があるのだろうか。例えばオリンピックでの国別のメダル数と公共の利益は合致するだろうか。国威発揚という概念がそれを結びつけるわけだが、そういう行為によってその国の人たちが豊かになったと言えるだろうか。

 そもそも公共の利益とはなんなのか。そしてそれは人々にとって有益なものなのか。人々が真に求めていることとはなんなのだろうか。誰もが平等に自由を満喫できる社会の実現を目指すことが公共の利益だとするなら、現状では議会には私益を優先させた世襲がはびこり、行政を担う各省庁には予算配分をめぐる縄張り争いや、天下り先の確保などに見られるような、省益や私益の追求が当然のように行われ、そういう行為が高じると、世襲でない人が議員になるのは困難となり、予算の水増しによる税金の無駄遣いと国債発行による借金が増え、天下り先の企業と各省庁との癒着によって、他の企業や一般の人たちが不利益を被り、公益とは無縁の不平等で不自由な社会になってくるわけだが、どうもその状態が放置されていて、それをやめさせることができない状況に陥っているのかもしれず、それだけ世の中全体に私益を優先させる功利主義が蔓延しているのだろうか。その私益の追求を促進させているのが競争の激化であり、競争に勝った成功者を賞賛する風潮かもしれないが、ある程度は競争がないと社会が停滞してしまうだろうし、勝者を賞賛するのは当然のことだろうし、努力が報われるのはいいことで、そのような競争は肯定されるべきかもしれない。だが一方でその成功を利用して、さらに利益を得るための行為がもたらされるわけで、前の世代の議員が努力して手に入れた議席を、その後継者に受け渡したり、猛勉強の甲斐があって上級公務員試験に受かれば、幹部候補となって役職が優遇されて、天下り先も確保されたりするわけだ。結局そういう慣習が人々の間で格差をもたらして、いわゆる格差社会や階級社会の成立を助長するわけだが、そういう慣習をやめさせ、あるいは歯止めをかけるにはどうしたらいいだろうか。ただ議員の世襲や公務員の天下りを禁止すればいいわけだが、現状でそのような行為が行われている以上、なかなかそれを実行するような成り行きに持っていけないようだ。そのようなことを主張している政治家や政党がないわけではないが、そういう政治家や政党が政権を握るのは難しい状況で、仮に政権を握ったところで、実行するとなると様々な抵抗に遭い、実現するのは困難を極めるだろう。


9月24日「因果応報」

 因果応報を感じるとしたらそれはどんな時なのだろうか。良い行いも悪い行いも、それがもとで受ける良い報いも悪い報いも、何もしないよりはマシかもしれないし、何の報いもないよりはマシかもしれないが、そのどれもありうることなのかもしれない。良かれと思ってやったことが結果的にひどい結果をもたらしたり、後で悔やむようなひどいことをやってしまったと思ったのに、なぜかうまくいってしまう場合や、何をやっても何の報いもなく無視され続け、何もしていないのにひどい目に遭ったり、たまたま行いに釣り合った相応の報いを受ければ、因果応報を実感できるかもしれないが、たぶん皮肉な結果がもたらされた方が、無関係な傍観者にとっては愉快なのだろう。何か狐につままれたような感覚に陥って、唖然とするような結果がもたらされて欲しいのではないか。しかし思いがけない結果を期待するとなると、結局のところ、何がどうなって欲しいのかわからなくなるのではないか。要するに結果などどうでもいいことになりはしないか。たぶんそうなのだろうが、とりあえず愉快な状況となって欲しいのかもしれず、おもしろい出来事に遭遇してみたいだろうか。でもそうなるとどうでもいいとはいかず、不快な出来事や結果を受け入れ難くなるのではないか。受け入れなくても忘れてしまうだろうか。つい先日まで安保法案に強硬に反対していた人たちは、結局は数の力で押し切られて、法案が成立してしまった事実を忘れようがないだろうが、それ以外の大半の人たちはさっさと忘れてしまうのではないか。そしてこれからも政治的な無関心が世の中に蔓延して、政党や政治家が何をやろうと何を言おうと、どうでもよくなっていくのかもしれず、ではそうなると政権を握っている与党のやりたい放題かといえば、そうとも言えず、国内外の政治や経済の情勢に振り回され、国内では経済界や官僚機構の意向には逆らえず、国際的にはアメリカやその他の関係各国からの要請や要求を無下には断れず、そのような力関係の中で、やれることは自ずから決まってしまうのではないか。そしてそんな政治を支持する人たちは、政権がさも肯定的なことをやっているように装わなければならず、理屈や屁理屈をこねくりかえして、政権がやっていることと、それを支持している自分たちの存在を正当化しなければならず、そんな正当化の言説と宣伝文句を駆使しながら、メディア上であることないことを喧伝しまくる一方で、政権に反対する人や政治勢力を無視し、無視できなくなると否定し罵倒し続けるのかもしれない。それで政権は安泰なのだろうか。それは国内外の意向や要請や要求に応え続ければ、長続きするかもしれないが、応えられなくなれば案外簡単に終わってしまうかもしれない。

 では果たして応えられなくなる時がやってくるのだろうか。それは反対勢力や人々による抵抗運動が盛り上がるか否かが鍵となってくるだろうか。それ以前に経済情勢が悪化すれば、それを政権のせいにして、それらの運動が活況を呈するようになるのかもしれず、後は可能性は低いだろうがまた原発事故が起こったり、すでに起こった原発の事故処理の不手際から、放射線が大量に漏れ出したり、汚染地域で人が大量に死に始めたり、あるいは自衛隊が南スーダンあたりに派遣されて、隊員が戦闘に巻き込まれて大量に死傷したりすれば、政権に対する非難の声が高まってくるだろうが、結局はそのようなネガティヴ要因が出ない限りは、政権に対する批判も大して盛り上がらないかもしれず、何か悪いことが起これば、すぐに政権を批判者している人たちが、それこそこれまでにしてきた悪事に対する因果応報だと色めき立つわけだが、何も起こらなければ、これまで通りの同じような批判をひたすら繰り返すばかりで、そんな紋切り型の批判が人々を飽きさせ、これまでにしてきた数々の悪事もさっさと忘れられてしまうかもしれない。要するに何かが起こらない限りはどうにもならならいような、他力本願的な状況なのだとすれば、例えば数年前の大地震と福島の原発事故がその何かだったのかもしれず、さらにさかのぼれば911の同時多発テロもそうなのだろうし、その何かが起こったおかげで民主党政権はあっけなく崩壊し、アフガニスタンやイラクの反米的な政権も崩壊したわけだが、そうなると陰謀論者がそれらの出来事を、結果的にそれによって得をした側の陰謀だと喧伝し始めるわけだ。果たして今後それらに類似した出来事が起こるだろうか。陰謀論的にはすでに反米的な政権がくつがえったわけだから、何も起こらないかもしれないが、その反米的な政権をもたらした出来事が起こるかもしれず、それはすでに起こっている最中かもしれず、それは経済情勢や国の財政状態の悪化であったり、中東やアフリカでの内戦の泥沼化から戦線が次第に拡大して、第三次世界大戦へと至るかもしれない。それらは全てネガティヴ要因でしかないから、決して愉快な状況にはならないだろうが、たぶん第三次世界大戦のような劇的な出来事は起こらないかもしれず、経済情勢も国の財政状態も紛争地域の内戦も、ただ慢性的にだらだらと少し良くなったり悪くなったりしながら小康状態を保ち、延々といつ果てるでもなく同じような状態が続いてゆき、はっきりした解決には至らずに、やはりそれらも人々に飽きられて、忘れられてしまうような気がするのだが、どうも現状は世界的に因果応報からは程遠い状況なのではないか。


9月23日「物事の必要性」

 物事を一方向に考えれば矛盾にぶち当たり、多方面にわたって考えれば取り止めがなくなる。それでも考えないよりは考えたほうがマシだろうか。考える必要がなければ考えなければいいわけだが、必要とはなんだろう。人は必要に促されて考えるのだろうか。そういう場合もあるが、そうでない場合もありそうだ。なぜか理由もなく考えているわけで、考えていることを意識すらしていない場合もある。知恵を絞って一つの物事について考えているつもりが、気がつけば取り止めのないことばかり考えていたりする。それでも考えることが必要なのだろうか。必要だから考えていると思っていれば事足りるだろうか。必要だからという理由で構わないのかもしれず、やはり人は必要に促されて考えている、としておいたほうが無難なのだろうか。では必要というのは、本当に必要だから必要と考えるのだろうか。どうもそこから先は循環論になってしまいそうだが、人にとって本当に必要なものとは何か、という問い自体が、それが必要だと信じ込むための途中の過程で必要だろうか。とりあえず人が生活するのに最低限必要なものは、衣食住とそれを継続的に得るための手段だろうが、自給自足ができなければ、それを得るには買わなければならず、買うためには金銭を必要とし、金銭を得るには何かを売らなければならず、物や情報を生産して売るか、労働力を売って賃金を得るか、ということになりそうだが、そういう次元での必要性はあまりにも自明なことで、改めて考えるまでもないことだ。普通はもっと具体的に、原発は本当に必要なのかとか、リニア新幹線は本当に必要なのかとか、そういうところで政治的あるいは経済的に、メディア上で識者やジャーナリストなどがあれこれ論じるわけだが、たぶん本当に必要かどうかはよくわからないのではないか。それを製造したり保守点検したりする業者にとっては必要なのだろうが、利害関係のない一般の人たちにとっては、それらがあることによってどれほど生活が快適になるか、などということはよくわからず、勿論それに携わっている企業や関係する政治家の宣伝文句に踊らされて、それが必要だと思い込んでいる人が大勢いるわけだが、宣伝文句や専門家のもっともらしい必要論を取り除いてしまうと、どちらでも構わなくなるのではないか。そういうところで、どうもその手のものが必要であるか否かというのは、それがあることによって利益が得られる人や企業以外は、どうでもいいことなのかもしれず、それよりもそれがあることによって損害を被りそうな人にとっては、そんなものはないほうがいいということになるわけだが、たぶんそれは実際に損害を被ってみないと自覚できないことなのかもしれず、そこが企業や政治家や必要論を訴えかける専門家が付け込める点で、まだ被害の出ていない人たちに向かって、その必要性を訴えかけることによって、なんとかそれらの人たちを信じ込ませて、そこから利益を得ようとするのではないか。

 世の中にはその手の必要であるかないかわからないものが溢れかえっていて、それらのどこまでが本当に必要か否かなんてわかりようがなく、利益を得ようとする人たちによる宣伝文句や必要論を信じることによって、それを買わされたりする場合がほとんどなのかもしれず、自分で考えて買う場合もあるだろうが、考えている時点ですでに、その手の宣伝文句や必要論などを目にしているから、いくら考えても買うか買わないかの、客観的で公正な選択などはあり得ないわけで、意識しないうちに誘導されてしまっているかもしれない。そしてそういう必要であるかないかはっきりしないようなものを、人々が買ったり利用したりすることでしか利益が出ないとすると、そのようなものの必要性とはなんなのだろうか。それは人類の文明や文化に関係する何かか。例えば古代エジプト文明は、ピラミッドをはじめとして巨大な建造物を造っていたが、王朝の権威を示すためにはそれらの建造物は必要であったかもしれないが、一般の農耕民にとっては特にそれらがあったからといって、日常生活とは無関係だったかもしれず、少なくともそのようなものがない他の地域では必要ではなかったわけで、無駄と言っては語弊があるが、文明が栄えた地域は例外なく巨大な神殿や墳墓の類いが建てられていたのだから、要するにその地域に富が蓄積されて有り余ってくると、そういった巨大な建造物などが建てられる成り行きになるわけだ。そして古代人がそれらの建造物を建てるきっかけとなったのは、宗教的な動機が強く働いたと考えられ、人々にそのようなものを建てることが必要であることを信じさせる何かがあり、それがやはり宗教の司祭などが民や王侯貴族などに向かって訴えかける、宣伝文句や必要論の類いなのではないか。そしてそれを大勢の人が信じたから、あのような大掛かりな建造物が多大な労力と手間暇をかけて建てられたのであり、そこには人々の信仰とそれを引きつける魅力があるのだろう。そしてそれは現代にも生きていて、確か事故が起こるまでは原発は夢のエネルギーであったわけで、また考案された当初のリニアモーターカーは夢の超特急であったはずだ。そういった宣伝文句と現代の司祭である専門家が訴えかける必要論が、それらを建造させるための推進力となっていたはずだ。


9月22日「絶え間ない戦い」

 制度が目指す理想と実情の違いは、自然からの作用によるところが大きいかもしれない。利益を親から子へと受け渡そうとする動物的な本能は、議員の世襲をもたらし、議会をコントロールするには自分たちの身内から議員を出せばいい、という動物的な縄張り意識が、元官僚の議員を生み出すわけで、各種団体が国から利益を引き出そうとして、自分たちの組織から議員を出そうとして、組織票を駆使するのも、そんな作用のうちなのだろう。その方が都合がいいからそうなるわけで、人はなかなか都合の悪くなるようなことはしようとしない。人にとって都合が悪くなるようなことが、制度が目指す理想なのかもしれない。では都合の悪い理想とは具体的にどういうことなのか。それは個人の自由と平等かもしれない。個人が自由になってしまうと組織を維持できないし、平等になってしまうと、人が人の上に立って、優越感に浸ることができなくなるから、人は組織に組み込まれて自由を奪われ、組織内の身分の上下関係によって、上の者が下の者を見下して、相対的な優越感に浸れるわけで、下の者は上の階級にのし上がろうとして、組織のために身を粉にして働くことによって、組織に利益がもたらされる。そんな原理が組織を維持継続させて、栄枯盛衰を繰り返しているのだとすれば、今後とも個人の自由と平等は、それらの自然からの作用によって制限を受け続けていくだろうか。たぶんそれだけでは社会を維持できないから、建前として個人の自由と平等は尊重されているのかもしれない。人は誰でも平等に職業選択の自由があり、思想信条の自由もあるわけだが、それは建前で、実際にはなんらかの競争に勝ち上がらないと、望む職業には就けないし、組織に所属すれば、その組織にとって有害と思われる思想信条は拒絶される。そして地縁や血縁によって利益が独占されることもあり、よそ者は排除されるか、下僕に甘んじるか、そんな扱いを受けることもあるのかもしれない。それらは全て民主主義に反する行為だろうか。ある程度は法律で制限され、またある程度は容認されているのかもしれず、そしてその容認されている範囲が、法律の形骸化とともに次第に拡大する傾向にあるわけか。どこかで歯止めをかけなければならないかもしれないが、日本の場合はもはや歯止めがかからなくなりつつあるのだろうか。歯止めをかけるには人々に啓蒙して、組織や地縁や血縁の利害だけで動いていては、個人の自由と平等が損なわれ、社会全体に不自由と不平等がはびこることを、説いて回らなければならないかもしれないが、いったい誰がその役割を担うべきなのだろうか。それはマスメディア上で発言力のある著名人や評論家やジャーナリストなどだろうか。だが彼ら自身が、今や積極的に組織や地縁や血縁の利害で動いている状況では、もはや歯止めをかけるどころではないだろうか。

 しかし自然からの作用はそれらの利己的な動物の本能だけなのだろうか。直接の天変地異はあるわけだが、それ以外で人が社会を構成する上で必要な作用とはなんだろう。組織と組織の間で発生する利害関係から、競争や抗争や連携や協力が行われた結果として社会が構成されているわけで、人にとって理想的な社会を構築するために、様々な法律や仕組みが編み出されたのではなく、その地域にひしめいている各組織間の利害調整の結果として、暫定的な措置として法律や仕組みが機能しているに過ぎず、組織間の力関係の変動に伴って、それらの法律や仕組みはいつでも変更可能なのであって、もとから恒久不変の法律や仕組みが社会に備わっているわけではないのではないか。そして組織からあぶれた個人も一応は社会の中で生きているわけだが、組織となんらかのつながりを持っていないと生きられないことは確かで、比較的つながりの薄い人が自由を謳歌しているかといえば、それは自由ではあるが力のない存在で、孤独な世捨て人の類いになってしまい、世間から相手にされていないかもしれない。そうなると結局は社会の制度や仕組みを変えるには、なんらかの組織の力を借りるしかなく、ただ理想論を唱えているだけでは無視されるしかない。そうなると力を借りる組織の利害が反映した制度や仕組みになるしかなく、個人の自由や平等とは無縁のものとなるしかないだろうか。その組織が自由や平等を重んじるだけの度量があれば、話は別かもしれないが、それは組織自体の性質とは相容れない概念だから、建前としてのお題目程度のものとなるかもしれず、そうなると真の自由と平等は絵空事でしかないだろうか。それとも地位と名誉と財産を手に入れた者にしか享受できない贅沢品なのだろうか。そうではなくどんな立場の人でも、ある程度は自由で平等であり、またある程度は不自由で不平等なのであり、例えば組織の意向に縛られて不自由だと感じれば、何かのきっかけで、嫌気がさしてその組織から抜け出してしまうかもしれず、そうなると今までより自由を実感できるだろうし、またある場面では不平等だと感じるとしても、別の場面では平等に扱われているかもしれず、例えばもらっている給料の額は確かに違うが、それが仕事量や営業成績に比例していれば平等に感じる場合もあるだろう。そういう次元で捉えると、自由も平等も相対的なものでしかなくなり、何かうまく丸め込まれたような気になってしまうわけだが、社会には何か絶対的な尺度や価値観というものがあるだろうか。全ては他と比較される相対的な価値観でしかないとしたら、とりあえず理不尽な扱いを受けたり体験をしたら、抗議するしかないのかもしれず、そんなことをやっている組織や団体と闘うしかないのだろう。結局社会の中では個人でも組織でも、絶え間ない戦争状態にあるのかもしれず、それが言葉だけのものか武器を用いた戦いかは、その時々の状況によって変わってくるのだろう。


9月21日「状況の変化」

 謎でもないのにわからないことがあるだろうか。とりあえず手がかりがあるとは思えない。わかるきっかけが巡ってこないのだろうか。永遠に巡ってこないわけではないと思いたいが、今のところはわからず、わかるきっかけすらない現状なのだろうか。いったい何がわからないのか。何がわからないのかがわからないでは話にならず、少なくとも語るべきことはわかっているのではないか。それが同じことの繰り返しとなってはまずいわけでもないとしたら、ひたすら同じ主張を繰り返すまでなのかもしれない。そして同じことの繰り返しこそが、その主張を正当化する原動力となっていて、繰り返せる環境がある限りは、その主張が生きている証拠となっているわけか。だからひたすら同じ主張を繰り返しているわけでもないだろうが、いったんそうなってしまうと、たぶんこれから先も同じことしか主張できないだろう。論争相手がいるかどうかは知らないが、論争すら受け付けず、延々と同じ主張を続け、誰からも見向きもされないわけでもないだろうが、同じような主張をしている仲間たちと一緒に、ひたすらそれを繰り返すわけか。しかしそれの何がわからないのだろうか。確かに謎ではなく、わかりきったことが繰り返されているわけだが、それが延々と繰り返され、しかもそのような行為が誰からも非難されずに、許す許されないの判断も下されず、ただ平然とまかり通ってしまうのが信じられないか。信じている人たちがそれを繰り返しているわけか。現に繰り返しているのだから、その主張が無力というわけではなく、少なくとも繰り返すことができるだけの力があるわけだ。しかもその主張の賛同者も少なからずいるわけで、賛同者をつなぎとめておくだけの力もある。だから主張を延々と繰り返していられるわけか。そういう次元ではそういうことであり、ある一定量の賛同者を引きつけながら、そんな主張が繰り返されている現状がある一方で、実際にはその主張に反するような行為が着々と行われ、既成事実がどんどん積み重ねられている。要するにその主張にはある一定量の賛同者を得る力はあるが、現実を変えるだけの効力がないと言えるだろうか。では現実を変えるにはどうしたらいいのだろうか。もしかしたらそうではなく、現実が変われば主張も変わるのではないか。そんな主張を繰り返している現状が、今ここにある現実であり、現実が変わればその主張も変わってくるということだ。ではその逆はないわけか。それらの主張に賛同する人たちが増えて、選挙で現政権に反対する勢力が勝って、政権交代が起こるようなことはないのだろうか。そうなったとしても政権を取れば、主張を変えなければならなくなるのかもしれず、結局前政権と同じようなことをやっている状況に至ってしまうだろうか。そしてそれは数年前の民主党政権が至った状況か。

 現状が変わらなければ同じような主張が延々と繰り返され、状況が変われば主張も変わってくるのとすれば、では主張することに何か意味があるのだろうか。人を引きつけるために主張されているわけで、主張している人たちを支持してほしいから主張が繰り返され、それ以外ではないということだろうか。ではその主張していることを実現させるにはどうしたらいいのか。それも状況が変わらなければ駄目なのかもしれないが、では状況を変えるにはどうしたらいいのか。積極的に人の力で変えるように仕掛けないと、状況は変わらないものだろうか。たぶんそれもそうではなく、状況の変化に対応して、主張も状況に合わせたものに修正していかなければならないのではないか。状況が変われば以前と同じ主張をしていられなくなるのであり、変化を受け入れるには主張も変更しなければならなくなり、実際に変更することで、状況に対応できるようになるわけで、以前と同じ主張を頑なに守っていれば、状況から見放されて人々からも相手にされなくなるだろうか。そうならないように、絶えず臨機応変な対応を心掛けなければいけないわけか。しかしそうだとしても信念を曲げるようなことをやる状況に直面したら、どうすればいいのだろうか。たぶん状況が信念を曲げさせるのだろうし、中には信念を貫いて破滅する人も出てくるのだろう。変化に対応できなければ滅びる運命なのは、いつの時代も変わらぬ自然の掟だろうか。そうなることもあればならないこともあるのではないか。偶然の巡り合わせがあるのかもしれず、いろいろな人たちがさまざまな試みをやって、たまたまうまくいく人もいればいかない人もいる。そしてたまたまうまくいった人が、状況の変化にうまく対応したこととなるのかもしれず、誰もが状況の変化に対応しようとするが、対応できる人もいればできない人もいるわけだ。そして結果的に競争から脱落したり、うまくいかなかった人が、状況に対応できなかったとみなされるわけで、その人なりに変化に対応しようと試みたにもかかわらず、うまくいかなければ対応できないことになってしまう。そいう人は不運だったとしか言いようがないのかもしれず、何かの巡り合わせが悪かったことにでもなるのだろうか。それで片付けられては当人としてはたまったものではないだろうが、どんなに努力しても人の力ではどうにもならないことがあるのだろう。そしてそういう面があるからこそ、世の中では思いがけないことが起こるのだろうし、誰の思い通りにもならない成り行きがあるのかもしれない。


9月20日「大国の没落」

 現状認識について何か考え違いをしているとしたら、それは日本とアメリカの関係だろうか。政治的なあるいは軍事的な日米同盟というのが、考える上でどうも躓きの原因となっているのかもしれず、そこでイデオロギーの罠にはまっているのではないか。しかしどう考え違いをしているというのだろう。考え違いに対して正しい考え方というのがあるのだろうか。日米関係について何をどう考えているというのだろう。どう考えていると言っても、普通の政府と政府の関係とはいえ、日米安保条約を結んでいたり、在日米軍が日本に数十年にも渡って進駐していたりするわけで、それ以外に何があるわけでもないのだろうが、その日米安保と在日米軍が、多くの人に様々な誤解を生む原因となっているのだろうか。それは誤解ではなく正解なのかもしれないが、何かそこからうがった見方や考え方を披露する人が後を絶たない。それで構わないのだろうか。別に何がおかしいわけでもないのだが、同じような主張をくどいようにされると、何かおかしいのではないかと勘ぐってしまうわけだ。みんなアメリカの呪縛に囚われているように思われ、そこから一歩も外へ出られずに、アメリカとそれに追従する日本政府という構図内で、ぐるぐると思考と言葉と反感が旋回しているわけだ。それは数年前の民主党政権が沖縄の在日米軍基地問題で躓き、アメリカの意向には逆らえないことをまざまざと見せつけられたからなのか。それもあって自民党政権が米ソ冷戦時代から一貫して、対米追従姿勢を貫いていることが腹が立って仕方がない、といった様相を呈しているのかもしれないが、アメリカが超大国として数十年も世界に君臨して、日本もアメリカとの戦争に負けて従わざるを得なかった歴史的経緯があったから、そうなってきたからで、今もそれが続いているということなのかもしれない。なぜアメリカに追従しているかといえば、功利的な利害関係からそうしているわけで、そんなアメリカの忠犬気取りの人たちは、アメリカが国家として落ち目にでもなれば、真っ先にアメリカを見捨てようとするだろうし、必要とあらば反米を口にするような人たちなのだろう。アメリカとの戦時中は真顔で「鬼畜米英!」と叫んでいた人が、戦争に負けて米軍が進駐してくると、揉み手をしながら米軍に近づいて、媚を売っていたのではなかったか。それと同じように国家間の関係も、理念や信念を共有する同盟関係というは建前で、実情は経済的な結びつきでしかないのかもしれず、アメリカ相手に商売をしている人や企業が多いから、政府と政府との関係も良好である方が望ましく、現状ではアメリカと中国とロシアを天秤にかけると、まだアメリカに追従しておくべきという判断なのだろうか。どうもそこから主義主張や思想信条を遊離させて、現政権の対米追従姿勢を糾弾しても、状況を動かして変化させるのは難しいだろうか。

 そういうことなら、アメリカが国家として没落しない限り、日本の政権はアメリカに追従し続けるのだろうか。その公算が大きいだろうが、アメリカでも大統領のオバマが、戦後最もひどい大統領だと右派系の世論調査結果が示している通り、それが没落しつつある兆しだとすれば、もうすでに没落が始まっていて、近い将来日本の政権も追従をやめるかもしれないが、次に追従すべき超大国が現れないと困ってしまうだろうか。そういう時期が来たらなんらかの対応をするのかもしれないが、アメリカ政府も自国の没落を防ぐために、あれこれ対策を取っている最中なのだろうから、それに日本政府も巻き込まれているのだろうか。日本も没落しつつある最中かもしれないから、他国のことを心配している場合ではなく、自国の没落を防ぐためになんとかしなければならず、そのためにはアメリカの助けが必要なのだろうか。そうなると没落しつつある国同士が、共倒れとなりつつある最中だということになってしまうが、日米両国の政治家や官僚などは、そんなことはないと将来を楽観視しているわけでもないだろうが、たぶん自国が没落するなら、もっと早く他の国が没落するだろうし、没落する国の順位としては、日本もアメリカも相当下位の方に位置すると認識しているのかもしれない。実際に中国もバブルがはじけて経済的に不安定な状態だし、ロシアもクリミア併合に伴う各国からの経済制裁によって、相当な経済的なダメージを受けているはずだし、ヨーロッパも難民や移民の問題で、これから社会が混乱する可能性が大きいし、主要な各国ともそれぞれにマイナス要因を抱え込んでいて、どうもこれから世界的に国家が没落することはあっても、繁栄することはないのかもしれず、アメリカの次に世界の覇権を握る国など、二度と現れない可能性もあるのではないか。だから日本国内で起こっているアメリカがらみの問題は、アメリカや日本の没落とともに、自然に解消されていく方向なのかもしれず、経済がうまくいかなくなってくると、国の統治もおかしくなってくるのかどうか、その先に待ち受けている状況はどうなってしまうのか、現状からはなんとも予想がつかないところかもしれないが、国の没落といっても、そこに住んでいる人にはどうってことがない場合もあるのかもしれず、例えば債務超過で国家財政が破綻しても、そこに住んでいる人たちが餓死することはないだろうし、失業者が街にあふれるとしても、たぶん仕事にありつけなくても死んでしまう人は少ないのではないか。政府は行政を担う統治機構なので、経済がどうなろうと機能し続けるのではないか。戦争によって他国に支配されようと、今度はその他国が行政を担うようになるわけだから、相変わらずそこには国があることになるだろうか。ともかく新しい事態になったら、その時に生きている人たちがそれを体験するのだろうし、今生きている人たちがなんらかの行動を起こして、それを粘り強く続けていけば、何かしら状況が変化するのかもしれず、それが期待した変化ではないかもしれないが、変化とは人々の思惑から外れて起こることが多いだろうか。


9月19日「未来への分かれ目」

 別に何かの異変に気付いているわけではない。昨日から今日にかけて、何か変わったことがあったはずだが、何がどうなったわけでもないのだろうか。たぶんそうだ。誰も反省しないだろうし、自分たちに非があるとは思わない。聞く耳を持たない人たちは、相変わらず同じように聞く耳を持たないだろう。そして何事もなかったように持論を繰り返し主張する。本来はそうであってはならないのだろうか。何が本来でもなく、本来のあり方が現状を構成しているのではないか。だが現状はそれだけではないのだろう。何かが変わりつつあるのではないか。何がどう変わるかは、メディア上で論じられている限りでの変化かもしれないし、それ以外のところで思いがけない変化が起こるかもしれない。何を期待しているわけではないが、何も期待していないわけではない。期待以上のことが起こったのではなかったか。現状を変えたい人々が大勢いることが明らかになったのだろうか。そう思っている人は昔からいたのかもしれないが、それが目に見える形で顕在化したわけか。それだけではなく、大勢で一つの目的のために一緒に行動したのではなかったか。人々が連携し協力しないと、何も成し遂げられないのが、人が大勢集まって構成している社会の特性だろうか。そういう集団行動が効果を上げる分野もあるのだろうが、一方で個人の地道な努力が実を結ぶような分野もあるだろうか。どちらにしても必ず努力が実を結ぶわけではなく、実を結ぶこともあれば結ばないこともあるわけだ。やる前からある程度は予想がつくにしても、とりあえずやってみないことにはなんとも言えず、やってみた結果がそうなったわけだ。何もやらないよりはやってみたほうがいいのかもしれず、実際にやってなんらかの成果を上げたのではないか。目的を遂げられなかったといって、別に失敗したわけではなく、やってよかったと思う程度には成功したのではないか。それが良い悪いではなく、そういうことだと認識するしかないような結果だ。それらの運動が何かをもたらしたとすれば、そういう結果をもたらしたわけだ。それで何かが変わるきっかけぐらいはもたらしたかもしれず、変えようとして変えられるわけではないが、人の力で思い通りに変えられるような世の中でもないのだろうが、人が動くことで世の中もなんらかの変化を起こすことは確かかもしれない。だから行動できる人は行動した方がいいのだろう。行動したからといってその行動が何を引き起こすかは、実際に行動してみないことにはわからないが、ともかく現状を変えたければ、なんらかの行動を起こすことだ。それが良いか悪いかは各人がそれぞれで判断するしかないが、判断しようがしまいが、行動すればなんらかの結果がもたらされるかもしれない。

 現状のままで構わないなら、別に無理に行動しなくてもいいのかもしれず、これまで通りの日常を繰り返していればいいわけで、現状が安定していて、それで満足しているのであれば、人はそうするのではないか。そうもしていられなくなれば人は動きざるを得ない。政治的なイデオロギーのレベルでは動かないとしても、実際に不満が鬱積して耐え切れなくなれば、人はなんらかの行動を起こすのではないか。現代では昔のような「ほしがりません勝つまでは」とはならないだろうし、情報がなんらかの勢力によって完全に管理されているとは言い難いから、社会の中で対立を煽って人々の間で不快感を増幅させるのは得策ではないが、そういう意図がなくても不快感が増幅してしまう状況なのかもしれず、実感としては確実に不満が高まっているのだろうか。それは実際にまた人々が大勢で行動を起こせば、そういうことだとわかるのかもしれないが、それもそうなってみないことにはわからないことだ。たぶんもたらされる結果とはそういうものでしかなく、予想したり期待している段階ではまだ何も起こらず、何ももたらされていないのだが、そうなるかもしれないという願望がそう思う人にもたらされていて、その時点ではそう思っている当人が期待に胸を膨らませて、自己満足に浸っているだけで、実際には何も起こらないが、誰もがそう思うことで、行動に対する抵抗感がなくなるのかもしれず、ネット上などで行動への期待や願望を書き込んで共感を煽るのは、それを見て共感したり賛同したりする人々を、行動へと駆り立てる効果があるのではないか。しかも世論を気にして機動隊などを動員して暴力で押さえ込むをためらっているとすれば、身の安全を心配することなく人が気軽に集まってくる雰囲気が醸し出され、あまり悲壮感などを抱かずにデモに参加する土壌が形成されるのかもしれない。もちろん今回はたまたまそうなっただけで、次はどうなるかわからない。何も起こらず何も変わらないかもしれないし、今まで通りの状況がこの先数十年も続いて行く可能性だってあり得るのではないか。そうなることを願っている人が多ければ多いほど、そうなる可能性が高まっていくのかもしれないし、そんな人の思惑とは無関係に思いがけないことが起こって、突如として世の中が激変することもあるだろうか。それもそうなってみないことにはわからないだろうが、人々の願望や期待が行動へと導かれるかどうかが、世の中が変わるかどうかの分かれ目だとすれば、不快な憎悪や怒りからもたらされる行動には、それ相応の酷くて悲惨な結果が待ち受けているだろうし、それは政権側による暴力的な弾圧を意味することになりそうだが、肯定的な希望や期待から行動すれば、自ずから理性的に行動できるのかもしれず、たぶんその辺の微妙な分かれ目が、今はかろうじて理性側に振れているのだろうか。


9月18日「人の燃焼」

 何が壊れかけているわけではなく、相変わらず世の中を動かしている全ての機構は磐石なのだろうか。多少の故障は許容限度内に収まり、修理業者の仕事になるだけで、システムの動作が妨げられることはなく、人も機械の歯車となって、それらの装置に取り込まれながら動いているわけか。だが何が装置であるわけでもなく、どこが劇場と化しているわけでもなく、目に見えるシステムや劇場とは別に、それに例えられる現象が起きているとも思えない。ただそれを語るとなると、装置や劇場の例えを持ち出して語ると、何か気が利いたことを語っているような気になるだけだろうか。実際に安保法案をめぐる政治的な駆け引きや、アメリカの大統領選をめぐる報道などは、茶番劇だと見なしてもそれほど的外れではないように思われ、実際に高みの見物を決め込んでいる人はそういうことを語りたがるのだろうが、そういう言説へと誘い込まれるような成り行きがあって、人を厭世的な気分にさせる状況というのがあるのだろう。社会という装置が人をその装置の歯車にして、その装置が円滑に動作するように、メディアが絶えず世論調査をやりながら、その調査結果に納得して、そこで示された多数意見へと人心がなびくように誘導しているわけだ。もちろん誰かが意図的に誘導しているわけではなく、世論調査自体がメディア的な商品であり、メディアは人々が興味を引くような情報を提供することが仕事で、その興味を引く情報の一つが世論調査結果なのだろう。それに興味を持つということは人々がそれを必要としていて、人々が必要とする情報を提供するのがメディアの使命だと認識しても、それほど間違ってはいないだろう。そうやって社会という装置の一部としてメディアも稼動中なのだろうか。そういう語り方で語ればそういうことになりそうだが、どうやって社会はそれ自体が一つの装置として稼動しているのか。それを動かす燃料して貨幣が絶えず注入され、それを循環させることで稼動しているわけか。貨幣は燃料ではなく潤滑剤といった類いかもしれず、本当の燃料は地中から採掘される各種の資源や、栽培し飼育して生み出される農畜産物や、漁や養殖によってもたらされる海産物なのかもしれないが、そこにさらに人も燃料として提供され続けているのかもしれず、社会という装置は人を燃料として消費しながら稼動しているのかもしれない。もちろん人は自らが労働者であると同時に、消費者であると自覚しているわけだが、両者ともに社会にとっては消費されるものでしかなく、人は使い捨ての消耗品の類いだと自虐的に語る以上に、もはや燃料でしかないとしたら、そんなたとえは受け入れがたいだろうか。

 比喩的にどのように語ろうと、人が語っていることに変わりはなく、人が語っている以上に、他のどのような意図や思惑が関係しているのでもないだろうが、人が捉える装置という概念が、人を人たらしめる文明や文化を生み出している当のものであり、人が直接文明や文化を生み出していると思われがちだが、人や人が獲得し作り出した物や情報が寄り集まって構成している社会が、文明や文化を生み出していると捉えることも可能なのではないか。その文明や文化を生み出す燃料として人が消費されていると捉えたところで、だからどうしたということになるかもしれないが、人は単なる燃料などではなく、意志も思考も感情を持ち合わせていると反論したところで、ではその意志や思考や感情を用いて何をやっているのかとなると、茶番劇を演じていることになりはしないか。社会という装置が茶番劇を必要としているのだろうか。それを茶番劇だと見なすなら、実際にそこで多くの人たちが劇に加わって演じているわけで、敵対して論争を繰り広げてみたり、デモや集会で一緒に掛け声を叫んでいたりする。人々がそのように動作して導き出されるのは、なんらかの結論や結果なのだろうか。それらの動作がただ人を消費するだけではないとすると、後に残るのはなんなのか。燃えかすや廃棄物でも残っているのだろうか。確かに原発という装置が稼動すると電力が生み出されて核廃棄物が残るわけだが、では茶番劇が演じられると何が生み出されて何が廃棄されるのか。生み出されるものは果たして有益なものだろうか。それとも有害な廃棄物が残されるだけなのか。そこで生み出される憎悪や対立が有益だとしたら、何の役に立つものなのか。それが装置の動作を活性化させるものだとしたら、社会に憎悪や対立を蔓延させることで、人がより激しく燃焼しやすくなるということだろうか。激しく燃焼するということは、それは社会が戦争状態にあるということかもしれないが、そうなると社会が自己崩壊の兆しを見せているということか。そこで壊れかけているのは社会という装置全体だろうか。では壊れかけている原因はなんなのか。装置が制度疲労を起こしていて、いったん壊して再構築しないと、もはや正常に動作しないということだろうか。そうなると社会を壊すには人を激しく燃焼させる必要があり、憎悪や対立を振りまいて、誰かがあちこちに騒乱の火をつけて回っているのだろうか。誰がどんな勢力がそれを画策しているわけではないだろうが、ともかくそんな成り行きの途上にあるのが今この時点だろうか。


9月17日「隣人愛」

 この時代の記憶なんて後世には何も残らないだろうか。ただありふれた人たちがありふれたことを主張しながらうごめいているだけで、何を残そうとしても、それはありふれたつまらないものだから、後世の人にとってはどうでもいいようなものでしかないかもしれない。大衆文化とはそれ以上ではありえないものなのだろう。だからと言って何もかもがくだらないわけではなく、同時代の人にとってはそのほとんどが興味深く、それが仕事であれ娯楽であれ、得難い体験をもたらしてくれるのだろう。後の時代には忘れ去られてしまうとしても、その後の時代でさえ、さらにその後の時代には忘れ去られてしまうような文化しか持ち得ないだろうから、現状がいかにひどい状況に感じられても、何も卑下することはないのかもしれない。人には他の動物にはない知恵があると言われるが、その知恵が働くのは他の動物と同じように利己的になる時であって、自分に利益がもたらされるにはどうしたらいいかを考える時かもしれず、他の動物の延長上に人もいるわけで、人が他の動物と比べてなんら特別な存在ではないということだ。たぶんそういう水準ではいつの時代も変わらず、そういう水準でありふれた人たちが利己的な動作を繰り返しているわけで、そういうことをやっている人たちは忘れ去られる人たちなのだろう。しかし利己的な動作以外に人がやれることがあるのだろうか。それを意識しているにしても無意識にやるにしても、何かの偶然が作用して歴史に名を残す人もごく少数ながらいるのだろうが、歴史に名を残したとしてもそれがどうしたわけでもなく、そのような人物でさえ、後世人たちによって都合のいいように脚色された虚構の物語の登場人物となりがちだ。要するにその人物の実像が忘れ去られて、抜け殻に好みの色を塗られたような存在となるわけだ。そして映画やテレビドラマや漫画や小説などで取り扱われて、大衆の娯楽となって消費された後に使い捨てられる。人はいつの時代も人によってそんな扱いを受け、そんな扱いをしている人もろとも消費されて忘れ去られる運命だ。それはそれで構わないのではないか。忘れ去られないように記念碑だの記念館だのを建てて、なんとかその人物の業績を後世に残そうとするのだろうが、利己的に自分の贔屓の人物の記念碑だの記念館だのを、金や権力にものを言わせて建てようとする輩が必ず出てくるので、そういうのが流行ってその手のものが全国各地に乱立してしまうと、すぐに陳腐化してしまうわけで、そういう記念碑だの記念館だのが忘却の対象となってしまう。要するに利己的な行為は、ありふれて陳腐化してしまうから忘却の対象となるわけで、いかに栄華や権勢を誇って、金や権力にものを言わせて後世に名を残そうとしても、大衆市民社会の中で生きている限りは、何も残せないのかもしれない。そういう意味では現代は古代の王権社会などとは違って、そこで生きている人は社会的な立場や財産の有る無しに関わらず、みんな平等に忘れ去られる運命にあるのかもしれない。

 では現代人は何をすればいいのだろうか。私利私欲に生きて現世の幸福を味わいつくし、後世には何も残さずに死んでいけばそれで構わないのだろうか。そういうことをやっている人も中にはいるだろう。もちろんやりたくてもそれができないのが大半の人たちだ。おそらく誰もがやりたいことができずに死んでゆくのだろうし、途中であきらめてしまう人もいるし、あきらめきれずに死ぬまでやろうとして、できないまま死んでゆく人もいるだろう。そんな中途半端な自分を肯定できる人もいるし、いつまでも駄目な自らを卑下している人もいるだろう。そして他人にとってはどちらでも構わないし、他の誰が自分をどう評価していようと、知ったことではないのと同様に、直接利害関係のない他人がどうなろうと、知ったことではないのかもしれず、ただ自分に利益をもたらしてくれる身内の人が必要なだけなのかもしれない。他人に親近感を抱くとは、その他人から利益を得られる場合に限られ、それ以外の他人は知ったことではなく、自分が気に入らないことを言ったりやったりする他人は憎らしいだけだ。そして自分と同じ主義主張の人たちと徒党を組んで、憎らしい他人や団体を攻撃するわけか。そこから先は好き嫌いが介在する感情の問題となるだろうか。それも国民感情とかいう政治用語の範囲内なのかもしれないが、そういう感情が絡んでくると、理性ではどうにもならない心の領域が形作られていて、主義主張の違う人が何を言っても聞く耳を持たず、馬耳東風で言うことなすこと自分たちの価値観で事を進めようとして、それを成し遂げるためには手段を選ばず、場合によっては卑怯な手段を使ってでもそれを推し進めるから、他の人たちには不快でたまらなくなるわけだが、主義主張を同じにする自分の身内以外がどうなろうと知ったことではないので、そういう人たちにとっては自分たちを批判したり、やっていることに逆らってくる人たちが不快でたまらないのであり、結局は利己的な動作に凝り固まって陳腐でありふれた人となるわけだが、場合によってはそんな自分たちのやっていることを誇りに思い、そんなことをやっている自分たちを愛し、自分たちが所属する勢力や団体を愛し、それが国家なら国を愛しているわけだ。そういうのを集団主義とか全体主義とかいうのかもしれないが、自分や身内を愛して敵を憎むその精神構造は、資本主義的な利益追求型の精神構造と同じように、人の動物的な本能に根ざしているものだろうか。たぶんそれと対照的なのが、敵対していたり無関係の他人を愛する隣人愛の精神だろうか。そこには社会的な対人関係が介在していて、敵対は共倒れを引き起こすという思考が働いているのかもしれず、自分は損な役を引き受けても構わないから、社会全体をより良い方向へと進化させたいのであって、主義主張が違う人たちが敵対しないで共存する社会の成立を目指しているのかもしれない。もちろんそんなことを真正直に口にする人は、利己的な人たちから馬鹿にされ嘲笑されるわけだが、やはりそういう人はそんな自分を馬鹿にする利己的な人を含め、隣人を愛しているのかもしれない。


9月16日「主義主張の相対性」

 取るに足らないことかもしれないが、それをおろそかにして物事を単純化する認識にとらわれていると、過去と現在の微細な違いを見逃してしまうだろうか。あるいは地域や場所による違いも見落としてしまうかもしれない。だが一般論としてそんなことを述べても、具体的な違う事例を示さなければよくわからないことは確かだ。しかし違いがわかったところでどうなるのだろう。世の中は単純化された論理や認識で満ち溢れていて、いくら微細な違いを説明してもわかってもらえないのではないか。誰もが理解可能な紋切り型的な論理や認識ばかりが蔓延して、それらに洗脳されてしまった人たちが、自動車工場の産業用機械のように、入力された情報が脳の固定的な神経回路上で決められた手順に則って処理されて、その出力として同じような動作を繰り返しているわけか。たぶんそうではないのだろうが、メディアというフィルターを通して出てくる世論という名の集団意志は、そんな論理や認識ばかりとなり、それを真に受けた人たちがそう思い込んでいるだけではないのか。もしかしたらそれも違うだろうか。たぶんそうではないのだろうが、ではなんなのか。時間的あるいは歴史的または場所的な微細な違いなど、ほとんどの人が理解し認識しているのではないか。それらを理解し認識した上で、それを言葉にすると単純化された論理となってしまうのだろう。主義主張とはそういうものなのではないか。そうしないと多くの人たちが同じ主義主張の下で連携し協力できない。勿論それは単純化された主義主張だから、いくらでも批判できるわけで、実際に微細な差異をあげて批判してくる人などいくらでもいるわけだ。そういう動作によって世の中の政治的な動向は成り立っているのではないか。単純な論理を掲げて大同団結して集団で行動する人たちがいる一方で、それを微細な差異を持ち出して批判する少数の人たちがいる。そのどちらが正しくどちらが間違っているわけではなく、両者が相補的な関係にあるといえば納得できるだろうか。表向きは対立しているのだろうが、互いが互いの足りない部分を補い合いながら、両者が存在していることで、政治的な主義主張が成り立っているわけで、状況を理解するには、両者の言い分を重ね合わせてみればいいのかもしれず、そうすることで現状の重層的な理解が可能となるだろうか。しかしそれで何を具体的に理解すればいいのだろうか。あるいは理解した上で何をどう説明すればいいのか。その内容が単純や論理や認識となることはないだろうし、微細な差異ばかり強調して、単純な主義主張の下に集まって行動する人々を批判することもないだろうか。では何をどう説明すればいいのか。

 すでに説明しているそれで構わないのではないか。他に何も付け加えることはなく、そういうことだと理解しておけばいい。何か政治的な主義主張をしたりそれに賛同することは、批判されることを覚悟しなければならず、誰も批判できないような主義主張というのはあり得ない。正しいと思っている主義主張の中には必ず批判される要素が含まれていて、それを批判する人が必ず現れ、その批判に反論すれば論争へと発展するケースが多く、そしてその論争が平行線に終わるケースもほとんどなのではないか。論争を好まず平行線に至るのも嫌なら、批判させておけばいいだけで、批判者を放置したままでも大丈夫なら、それに越したことはないわけだ。今の日本の現状が概ねそうなっていて、たぶん民主的な議会制度が確立していて選挙が滞りなく行われている国なら、そういう状況に至っていて、独裁者や特定の政治勢力などが武力を行使して政権を掌握している国では、批判者の存在は民衆を反政府的な運動へと先導しかねないから、弾圧の対象となっていて、逮捕されたり身柄を拘束されたりするわけで、世界的にそのような民主的でない国をなくしていこうとする作用が働いていて、アメリカをはじめとして欧米諸国がそれを先導していることになっているのではないか。そしてそこに欧米諸国の特有の欺瞞が働いていると批判することも可能なのかもしれず、その欺瞞を告発する批判者も少なからずいるわけで、ユダヤ金融資本による世界征服を主張する陰謀論者などがその典型なのかもしれないが、そのような人たちを逆に批判したり、誇大妄想だと嘲笑して相手にしないように仕向けている人たちもいて、それも批判し合っている双方が相補的な関係にあり、作用反作用の力を合わせるように、両者の言い分を聞いておけば済むことになってしまうだろうか。どちらも主張もある程度は正しく、場合によっては事の本質的な部分を突いているかもしれないが、ただそれを批判することも嘲笑することも可能なわけで、実際に批判したり嘲笑したりする人も少なからずいるわけだが、その批判や嘲笑している人たちの言い分がすべて正しいのかというと、どうもそうでもないように感じられるわけで、それらの言い分も正鵠を射抜いている部分もあるかもしれないが、別の部分では彼らが批判している人たちと、同じような批判にさらされる可能性もあるようなことを主張しているわけで、とてもそのすべてを受け入れる気にはなれないような主張も中にはありそうだ。とりあえずすべての言い分は相対的でしかない、と言ってしまえば身も蓋もないわけで、本質を突いていたり正鵠を射ていると思う部分は、受け入れておいた方がいいのだろう。


9月15日「抗議の声」

 それは政治的な行為なのだろうか。パフォーマンスの類いではあるのだろう。人目を引こうとする行為がパフォーマンスなのだろう。そうやって何かを主張したいのだ。パフォーマンスをしながら何かを訴えている。もちろんそれに同調するか否かは、それを見物している人の自由だ。そのような行為自体の良し悪しではなく、何を訴えているのかが問題となるのだろうか。それも問題とはならないかもしれず、不快ならやり過ごしていればいいことでしかない。むろんそれがヘイトスピーチの類いなら糾弾されるべきだろうが、訴えている内容が常識の範囲内なら、別に咎められる対象とはならないのではないか。やらせておけばそれでいいはずだ。もちろん誰がやらせているわけではなく、勝手にやっているのだから、誰かがなんらかの団体が音頭を取ってやっていることだとしても、それに賛同して多くの人たちが一緒になってやっていることに、とやかく言う筋合いはないのかもしれない。その訴えている内容に文句があればそれを批判すれば済むことか。ではそれの何を批判すればいいのだろうか。それも自らの主義主張がそれと異なるのであれば、違いを説明すればいいことでしかないか。どう違いその違いにこだわるべきなら、どちらが正しい主張なのかを説明すればいいことでしかなく、それが説得力のある主張なら、場合によっては多くの人たちに受け入れられるかもしれないが、受け入れるには気分を害したり不快に感じるわけで、そんな感情的な抵抗を経由した上で、それに打ち勝たなければならず、それでその内容には納得するかもしれないが、それを指摘した人はなおも無視されたり攻撃されたり、受難を経験するかもしれない。またそこに利害関係が絡んでくると、その人が属している政治勢力や、信じている思想や宗教と敵対するような内容であれば、いかに説得力があろうと受け入れ難いのだろうか。利害で結びついている勢力は、その利害関係が自分を利する関係である限りは、そこから離脱するのは難しく、組織の中で組織の意向で動いていれば、とりあえず組織の中では問題なく活動できるかもしれないが、一方で気持ちや感情の要素もあり、組織内での待遇が悪く居心地が悪ければ、そこから抜ける気になることもあるだろうし、恨みつらみがあれば、敵対する組織に入って復讐を仕掛けてくるかもしれない。たぶんそういう諍いの類いはフィクションの中でよく見かける成り行きだろうか。人は諍いや争いやそこで起こる喜悲劇に接することで、日頃の憂さを晴らしてカタルシスを覚えるのかもしれないが、それによって現実の何が解決するわけでもなく、ただフィクションの中で行われる壮絶な殺し合いや酷い仕打ちを疑似体験することで、現実の世界では寛容になれるかもしれず、それが救いとなるか、あるいはフィクションを真似て現実の世界でも不寛容を装うかは、人によって感じ方も受け止め方も異なるだろうから、なんとも言えないところかもしれない。

 ともかくそこで様々な感情や利害が渦巻いていて、一概に物事の良し悪しや白黒はつけられないのだが、それでも抗議活動などに加わっている人たちは、非難や糾弾している対象を否定する理由を必要としているわけだ。活動の大義名分としてそれが求められ、その活動を煽っている人たちが納得するに足る主張を展開して、多くの賛同を得れば抗議活動の規模も大きくなり、マスメディアが注目するところとなり、報道されてさらに世間の注目を浴びるわけだ。そんな現象が起きるのが大衆市民社会の特徴だろうか。議会制民主主義には議会内の反対勢力に呼応して、人を大量に動員して議会の外から圧力をかける手法もあり、そんな抗議のパフォーマンスによって議会の与党勢力とともに、広く一般世間にも訴えかけているのであり、議会で理不尽な法案が可決されようとしていて、議会の与党を占める多数派がそれに同調しているから、法案の成立を阻止するには、世論を味方につけながら、議会の外から圧力をかける以外に方法がないということか。そういうやり方が議会制度から外れることで間違っていると非難されようと、そもそも法案自体が間違っているのだから、それに抗議するのは当然のことだと行為を正当化しているわけで、法案の成立によって不利益を被るかもしれないと思っている人たちにとっては、切実なことなのだろうし、その切実さが他の人たちにも訴えかけてくるものがあって、多くの賛同を集めているのではないか。マスメディアが行っている世論調査でも、法案の内容に無理がある思っている意見が大勢を占めているようで、廃案を望む声が多いわけだが、それも議会内では法案に賛成する議員が多数派を占めているわけだから、制度的には法案を成立させることができるわけだ。政府や与党側も賛成多数で可決させるつもりなのだから、別にいつ可決されて法案が成立してもおかしくない状況なのだろうが、なぜかその手前で諦めずに抗議活動をしている人たちが大勢いて、デモだなんだと騒いでいるわけで、それが今後の世論や人々の意識や行動を変えるきっかけとなるかどうかは、実際に変わってみなければわからないだろうし、やはり現時点ではなんとも言えないところだろうか。少なくともこれまで通りとはならないような気はしているのだが、そんな期待など簡単に裏切られたところで、多くの人たちが政府や与党のやり方を不快に感じているのだとしたら、世論の動向や選挙結果などに確実に反映されるのではないか。それは政財官の利権複合体がどんなに押さえ込もうとしても、それらに迎合的なマスメディアがどんなに世論誘導を試みても、完全に抑えきれるものではないだろう。


9月14日「守るべき自由」

  やっていることの意味がわかっているつもりで、それが勘違いをもたらしているかもしれないことも承知している。だが勘が働いているつもりにもなっているはずだ。何かの予兆らしきものを感じているわけだ。わざとそう思い込もうとしているのだろうか。わざとではなく切実にそう願っているのではないか。変化が起こってほしいのだろう。何も変わらないなんてありえないとも思っている。だが分かれ道はとうに過ぎてしまったはずで、新たな分岐点を探して、どこまでも歩んでいる最中なのだろうか。全ては思い込みでしかないのかもしれず、現実には何がどうなっているわけでもないようだ。人が求めているのは何かの理想だろうか。実利を求めているのではないか。結果を求めているのならそういうことかもしれないが、様々なコネクションを通してしか利益はもたらされないのが現状だ。そして結果ではなく、人は誰でも常に何かの途上にいるわけだ。なんの結果ももたらされないかもしれないのに、それをやっている。それとはなんだろう。それは人それぞれで異なるかもしれないし、同じようなことをやっている場合も多そうだ。だがそのやっていることを単純化するわけにはいかない。全てを利益には還元できないわけで、そのほとんどが無駄で無意味な徒労であったりするわけだ。それを無駄や無意味や徒労とは思わなければいいわけだが、何ももたらされていないように感じられると、そう思わざるを得なくなってがっかりしてしまうわけだが、結果としてもたらされたのは落胆ばかりではないのだろう。場合によっては疲労困憊していたり、精根尽き果てて虚脱状態となってしまったりするかもしれない。そして絶望感に打ちひしがれてしまうのだろうか。だが何も否定的なものばかりもたらされはしないのではないか。何かをやっている間は楽しく愉快であったり、思いがけずもたらされた興味深い現象に驚いたり感動したりしているわけだ。そして試行錯誤すればするほど、やっていることに熱中して時が経つのも忘れ、何か充実した時を過ごしているように感じられ、たとえ思わしい結果が得られなくても、苦しくても辛くても、それを乗り越えて楽しく愉快な時を過ごせたことで、それなりに満足感を得られるのではないか。だから人は一心不乱に何かに取り組んでいる時が幸せなのかもしれず、暇にまかせて退屈を持て余している時よりは、生きていることの肯定的な実感を得られるのだろう。だから無駄で無意味で何の役に立たないように思われても、焦ってもっともらしい目的を探し求めたり、到達すべき無理な目標を強引に設定したりしなくても、なんとなく感じられる無根拠な直感や勘を頼りにしながら、それをやり続けることができるのであり、それが全てではないが、何かのついでにやっているわけでもなく、ただそれをやっている現状があり、それを肯定も否定もしない現実があるわけだ。そしてそれを長続きさせようなどという意図や思惑とも無縁なのかもしれない。何かをやり続けるには何よりもその意図や思惑が邪魔なのだろうか。

 利益とは無縁の行為とはだいたいにおいてそうなってしまうのかもしれず、何よりもやっていることの計画性がないのだろうか。行き当たりばったりでその場の気分次第でやったりやらなかったりするものだろうか。でもやっているうちに自然と目標や目的といえるような、やっていることの理由が導き出されてくるのではないか。ただ何の理由もなくやっているわけではなく、動機と言えるようなものが意識の奥底から表面に浮かび上がってくるような体験をしたことがないだろうか。フィクションの中ではよくそんな体験が出てくるのではないか。何かのきっかけで深層心理が明らかとなり、それをやり続けている謎の全容が次第にはっきりとしてくる。フィクションの魅力の一つがそういう謎が明かされてゆく過程にあるかもしれないが、現実はそんなふうにはいかないだろうか。もっと何かあっけらかんとしていて、酷薄でもあったりするわけで、本当に何もないわけで、ただの荒野ですらなく、要するにやっていることに幻想を抱けないわけだが、たぶん下手な幻想がないだけに自由なのではないか。少なくとも世間で流通している誰もが興味を持つような物語から自由であるわけだ。自由であることは何もないことなのかもしれず、何かがあればそれに気を取られて束縛され、束縛されてとらわれの身となっていると、かえって安心するわけで、とらわれている物事と関わりができることで、何か自分が世間に認められているような幻想も生じ、社会の一員として覚える安心感とともに、社会に対する責任感も生まれてくるのかもしれず、世間体を気にして世の中の常識に照らし合わせ、あまり突拍子もないような意見や行動は控えるようになるのではないか。それとともに分別がつき、常識と非常識の区別もつくようになって、世の中の動向や情勢にも関心を持つようになって、ニュースなどから仕入れた知識を駆使して、政治家や評論家や著名人が言うようなことを、世間話のついでに口にするようになるだろうか。そういう人が増えれば増えるほど、マスコミの商売も安泰なのかもしれないが、たぶんそういう水準にとどまっていると思考の自由が奪われ、議会制民主主義の餌食にもなるだろうか。世の中の決まりごとを議会制民主主義によって決めなければならず、選挙に行って投票しなければならなくなり、いやでも政治的な関心を持たざるを得なくなるか。もしかしたら自由にも意味が生まれ、議会制民主主義から自由が生まれるかのごとくに錯覚してしまうだろうか。選挙での投票によって政治的な選択をしなければならない不自由を、代議員を選べる自由にすり替えて、自由と民主主義を守るために、選挙に行って候補者に投票しなければならなくなるわけか。そうなれば国家もしめたものだろうか。ではそれで民主主義への洗脳が完了したことになるのだろうか。そしてそれは社会にとっても国家にとってもいいことなのか。


9月13日「継続」

 別にそれが皮肉な結果ともたらすことを期待していたわけではないが、考えられうる限りでのあらゆる可能性と不可能性の中で、何か思いがけないことが起こり、それが起こったことに驚きたかったのかもしれず、できればそれによって、今までに積もりに積もった身の回りの煩わしい人間関係や世の中との関係が、雲散霧消してリセットして欲しかったのかもしれず、そうなってから新たな気持ちで人生の再スタートでも切りたかったのだろうか。だが現実はそんな都合のいい成り行きとはならず、いつまで経っても何も起こらないことに苛立ち、なんでもいいから何か起こってくれと願うが、忘れた頃にやっと起こったそれは、取るに足らない些細な出来事で、それが起こったところで、何でもない結果しかもたらさなかったことに落胆し、興味を失ってそんなことはさっさと忘れてしまったらしいが、今振り返ってみると、それが何かの発端だったのだろうか。よく考えてみればそういう解釈も成り立つかもしれないが、逆に何をどう解釈しても納得がいかないのなら、無理に出来事と出来事こじつけて、その関連性を考えてみなくてもいいのではないか。ただ今もそれの延長上にいるのかもしれず、意識が相変わらずそこから生じたと思われる成り行きにとらわれている。いったいその時そこで何が起こったのか。そんな昔のことではなかったのだろうが、記憶があいまいではっきりしたことは思い出せない。つい最近の出来事なら覚えているが、大雨と地震はどちらが先に起こったのか思い出せない。地震は大した被害も出なかったかもしれないが、大雨の方は河川の堤防が決壊して、死者や行方不明者が出たらしい。それと何を関連づけようとしているのでもなく、毎年のように大雨が降れば洪水が起こり、河川の堤防が決壊したり土砂崩れによって死者や行方不明者が出るのであって、それを異常気象やエルニーニョ現象や地球の温暖化と関連づけても、ありふれた言説の範囲内にとどまるばかりだろうか。では何と関連づけて語ればいいのか。その必要がないだろうし、無理に語る必要もない。思いがけない出来事によって死んでしまう人もいれば、災害に巻き込まれても助かってしまう人もいる。そして災害が起こるのを待ち望んでいても、身の回りでは何も起こらずに、退屈を持て余している人もいるだろうか。何かを待っているのではなく、自ら積極的に動いて何かを起こそうとしている人もいるのではないか。実際に何かをやっているのなら、それが何かを起こしていることの証しとなるだろうか。そこにどんな目的があるのかわからないが、たぶん目的もなく動いていても構わないのであり、自分のやっていることがなんだかわからないまま、それでも神に導かれるように何かをやっている人もいるのではないか。もちろん何に導かれているとも思えなくても構わない。

 そしてその何かをやっているという現実がもたらされているわけで、それ以外に何がもたらされているわけでもなく、何を期待しているわけでもないのではないか。そのやっていることに対して見返りや報いを期待するのは、見当はずれか欲張りすぎなのかもしれず、そこまで考える必要はなく、現実に何かをやれていることで満足すべきなのかもしれないが、やはりそれをやっている以上はその先を考えてしまうのだろうし、それによって何か思いがけないものがもたらされるかもしれないと期待してしまうのは、自然の成り行きなのかもしれない。そしてやっている以上はそのやっていることが満足のいくものになるように、絶えず向上心を持ってやるべきだろうか。それも自然の成り行きで、人は誰でも自らのやっていることを極めようとして、たえまない精進に励んでしまうのだろう。できれば自分にしかできないような究極の行為を目指してしまうのかもしれず、人によっては身を滅ぼすまでやってしまうだろうし、命を削ってまで努力してしまう人もいるかもしれないが、趣味や娯楽の範囲内ならなんとか死ぬ手前で立ち止まろうとするだろうか。もちろんそれが仕事であっても過労死は避けたいところだが、趣味や娯楽でも仕事でも、がんばりすぎて身を滅ぼしてしまう人などいくらでもいるのかもしれない。そういう人はブレーキが利かない反面、とんでもない領域までやっていることを高められる可能性があるだろうか。芸術的な方面で夭折した天才と評される人などがそれに当たるかもしれないが、それほど才能がない一般の人たちなら、なんとか趣味や娯楽の範囲内で楽しめばいいのだろうが、それも結果論でしかなく、趣味が高じてものすごいことを成し遂げてしまう人も中に入るだろう。ほんの些細なきっかけから軽いノリでやり始めたことが、後々とんでもない結果をもたらすかもしれず、それを始めから期待するわけにはいかないだろうが、なんとなく続けられているうちは続けていたほうがいいのかもしれず、続けられているのだから、まだ飽きていない証拠だろうし、まだ行き詰っていないわけで、またたとえ行き詰ったとしても、好きでやっていることなら、それを乗り越えられてしまう可能性も十分にあり、山あり谷ありで途中でやめてしまっても、何かのきっかけで再開することもあるようで、完全にきれいさっぱりやめて諦めてしまうケースなどまれなのではないか。たぶんそこで勘が働くのかもしれず、ふとした拍子に妙案が思い浮かぶこともあるだろうし、やれている現実がある限りは楽観的に思っていたほうがいいのかもしれない。そして実際になんとかなっているのだから、そんなことをやり続けていればいいわけだ。


9月12日「今の気分」

 この世界には未来がある。人類の未来もあるのではないか。では今生きている人たちに何かできることがあるだろうか。今やっていることがそうらしい。そのやっていることが未来につながるかどうかなんて、考えてみても仕方がないかもしれないが、何か目的があってやっていることかもしれず、その目的を失ってしまうと、やることがなくなってしまうだろうか。だがやれることがそうあるわけではなく、それをやらざるを得ない成り行きにならないと、なかなかやろうとしないのではないか。何もやらなくても構わないのならそれに越したことはないだろうが、何かをやらざるを得ない成り行きなら、そこにやる目的が介在していると考えればいいだろうか。沖縄の辺野古に在日米軍の滑走路を造らざるを得ないのにも、そこに目的があるから造っているわけか。周りを住宅地に囲まれた普天間基地の飛行場が危険だから、辺野古に滑走路を造って移転させる案が、日米の政府間で合意したが、地元の沖縄で反発が強く、県外か海外に移転して欲しいという要望があり、日米両政府ともいったん合意した辺野古へ移転させようとして、工事も強引に始めてしまったから、地元の沖縄県と日米両政府との間で軋轢が生じているわけか。辺野古へ決まるまでと決まってからの経緯や成り行きも、途中で政権交代などもあって二転三転していて、だいぶ話もこじれているようだから、うまくいかなくて当然なのかもしれず、外から沖縄県や反対している地元住民を攻撃する人たちまで現れて、不快な雰囲気を煽り立てている最中だろうか。他にも原発の再稼動や事故処理や放射線被害の問題と、安保法案や憲法改正の問題と、派遣法の改正やマイナンバー制度や消費税率を上げる問題も含めると、まさに問題山積状態で、それら全てを実行するとなると、国民の間にさらに不快感が増す事態となりそうな雰囲気だ。そして数年後に開催される予定の東京オリンピックも、メイン会場となる国立競技場の改修費用が嵩んだり、採用された大会のエンブレムが盗作だと訴えられたりして、盛り上がるどころか、逆に開催を取りやめたほうがいいのではないかと思うような、しらけた雰囲気になりつつある。それらのやることなすことがうまくいかないのは、何も今に始まったことでもないのだろうが、政権与党の政治家たちや行政のやっていることが、国民が嫌がることをやらざるを得ない成り行きとなっているわけで、国家にとって良かれと考えてやっていることなのだろうが、それが国民の痛みを伴う事態に直面しているわけか。それでも内戦状態のシリアや独裁体制の北朝鮮などと比べれば、はるかにマシなほうなのだろうが、そういう比較は無意味かつ不当であって、要するに他の欧米やアジアなどのまともそうな国々と比較して、日本はどうなのかということになりそうだが、国ごとに実情が違い、なんとも言えないところだろうか。

 国家や政府や行政がやっていることは、何もそればかりでなく、普段からやっている事務的な役所仕事は、とりあえず滞りなく行われているわけで、それ以外の方面で政治家が絡んでくると、途端にうまくいかなくなるのかもしれず、しかもその政治家や政党の支持者や批判者などが、国に対する思い込みが激しすぎて、すぐに何か良からぬ陰謀や謀略が政治家や官僚たちの間で企てられていると疑われ、放っておくと国民がひどい目にあうという疑心暗鬼に囚われているわけで、またそういう疑いの目で政治家や官僚を見て批判している人たちを、一部のナショナリストなどが国家転覆を企てる外国勢力とつながっているなどとデマを広げようとするから、ネット上では双方の間で非難の応酬となり、それらの非難合戦を娯楽と見なして面白がっている野次馬もいるようだが、たぶんそういう次元では現状は非常事態の真っ只中で、これからの日本の命運を左右する伸るか反るかの一大決戦が繰り広がられている最中なのかもしれない。そういう認識が果たして現実を反映しているのか、あるいはネット上で罵倒合戦を繰り広げている当事者たちの思い込みの賜物なのか、どちらでもあり、どちらかでもあり、どちらでもないのかもしれず、この先誰もが納得するような結果や結末に至るのかどうか、そんなことを予想も予測もする必要さえないのかもしれず、結局なるようになるしかないのだろうが、誰もが拍子抜けしたり落胆したりするような結果になるとしても、それがどうしたわけでもないのかもしれない。彼らの国家に対する思い入れや思い込みが空回りすればするほど、国も政治家も官僚たちもそれを受け止められずに期待外れや落胆をもたらし、国家そのものがなんでもないただの行政的な区分でしかないことが、次第に明らかとなってくるような予感がしているのだが、そういう国への幻想がだんだん剥がれ落ちてゆく成り行きに、今多くの国民と呼ばれる人たちが直面している最中なのではないか。たとえ過剰な思い入れを抱いて国を愛したり誇ってみせても、国がその人に報いてくれるわけではなく、世間的になんらかの業績を残した人には、世間体を気にして勲章や感謝状などをくれるかもしれないが、普通の一般人には何もくれない代わりに働かせて税金を取り、法律を守らせて守らない者は罰するわけで、あとは結婚でもして子供を産んでもらって、働き手である国民を再生産して欲しいだけだろうか。それを特定の誰が望んでいるわけでも命令しているわけでもないだろうが、国家意志としてそんなメッセージを国民全体に行き渡らせるようにするのが、政府や議会与党の政治家や官僚たちの役目なのかもしれない。


9月11日「タイミング」

 タイミングとはなんだろう。何事かがうまくいかないと時機を逸していると思われるが、うまくいくと時機を捉えた思うだろうか。何をやるにもちょうど良い時があると思う反面、外れていると思うことのほうが多いのはなぜだろう。たぶんそれは手遅れにならないと気づかないからではないか。そして手遅れになってから悪あがきを始めるわけか。人は自分のやっていることを信じろと説く。信じることが大切で、信じてやり続ければ、いつか必ずうまくいくはずだ。そう思わなければやり続けられないだろうか。何をやるにしろやり続ければいいというわけではなく、やり続けるような成り行きとなればやり続けるしかないだろうし、やり続けられなくなればやめるしかない。自らの意志の力でや続けようとしても、やめざるを得ないような事態に追い込まれたらやめるしかないだろう。そのタイミングを見極められたり、見極められずにいつまで経ってもやり続け、人生を棒に振ってしまったと後悔するかもしれないが、だからと言って、何かをやったりやめたりするタイミングを見極められるか否かは、実際にやったりやめたりしてみないことにはわからないだろうし、結局はそこで勘が働くか否かということになるかもしれないが、その勘を鈍らせる原因が、勝手な思い込みや自らがやっていることに対する過信になるだろうか。だがやっていることに対して自信がないよりは過信しているように見えるほうが、そのやっている人に好感が持てるし、その人を信用できるだろうか。そのやっている内容に共感できるか否かのほうが大きいかもしれないが、現政権のやっていることに共感できる人たちは政権を支持し、共感できない人たちは批判し非難し糾弾しているのだろう。確かにそういう次元ではそういうことかもしれないが、別の次元ではどうなのだろうか。政権のやっていることに日本特有の事情があるのだろうか。たぶんそれを推進する側も批判する側も、この国特有の事情を持ち出して、それを理由にしてやっていることを正当化したり、批判したりしているのではないか。その特有の事情とはなんだろう。それは日米同盟であったり平和憲法であったりするわけか。そこに歴史的な経緯があり、人々が信じている事情がありそうだが、日米同盟にしても平和憲法にしても過信は禁物なのだろう。そして国家に対する過信も禁物か。もちろん歴史的経緯に対する過信も禁物かもしれないが、何をやるにしてもどう判断するにしても、やっていることもそれに対する判断も、すでに時機を逸していて、手遅れなのだろうか。そうは思いたくはないだろうが、仮に手遅れと考えるなら、何に対して手遅れなのか。例えばそれは戦争や経済恐慌に対してなのか。どうもそこから先はありふれた冗談となってしまいそうだが、他に何が考えられるだろうか。

 単なる行政の枠組みとしての国家に、おかしな思い入れや過剰な期待をしている人が多すぎるように思われ、そのような国家主義的な思考が世界的に退潮傾向にあるにもかかわらず、やはり一部の人たちは国家権力を過信しているのだろうか。そして何ができるわけでもないのに実際に何かをやろうとして、やっているつもりになっているのが政治家だろうか。現実に法案を審議して成立させようとしているわけだが、たぶんそれで政治家としての仕事をやっていることになる。それが国会議員としての職務であり、内閣の仕事なのだろう。それの何がおかしいわけではなく、当然のことをやっているのであり、そのような行為の何が問題なのでもない。そのような行為の結果として法案が成立したりしなかったりするのだろう。ではそれ以外の何が問題なのだろうか。それによって政治家が何かをやっているように見えることが問題なのか。そしてその政治家のやっている内容に国民が共感したりしなかったりすることが、次の選挙結果に反映したりしなかったりすることも問題なのだろうか。できれば法案に対する賛否が世論調査の結果と一致すべきで、一致しなかった場合は次の選挙で一致させるような投票結果になるべきで、それによって民意が国政に反映していることの証しとなるべきなのだろうか。民主主義を信じている人たちはそのような一致を実現させたいのではないか。そして必ずしもそれが一致しないことに腹を立てている。一致しなければ一致するような制度へと変えるべきだとも思っているが、それがなかなか変わらないことにも腹を立てていて、何か変えるのを妨害している政治勢力の存在を感じ取って、その政治勢力に対して敵意をむき出しているわけだが、たぶんそういう事情や成り行きが、政権に対する批判の原動力となっているのだろう。だが果たして変える機会が今後やってくるのだろうか。なかなかやってこないのなら、国民がその機会を作らなければならないとも思っているらしいが、そのような機運が盛り上がる兆しは一向に現れず、数年前の政権交代の時がその機会だったかもしれないが、そうだとすればすでにそれは潰え去り、機を逸してまた以前と同じような、人によっては以前よりもはるかにひどいと感じるような状況になってしまったようだ。そして現状で遅ればせながら現政権に対する反対運動が盛り上がってきたものだから、今度こそはこの機会をとらえて、彼らが理想とする民主主義を実現させたいと思っているのだろうか。果たしてそれらの運動の成果が次の選挙で現れるだろうか。それ以前に現政権を退陣に追い込めるだろうか。運動している人たちはそうなることを信じてやり続けているのだろうが、それが過信であって、今回も時期を逸していたり、すでに手遅れで、あるいはそもそもそれが勘違いで、その時機ですらなかったのだろうか。結果がそうならそういうことになってしまうだろうが、ともかく現時点では信じてやるしかないわけだ。


9月10日「二つの関係」

 批判する人たちは相変わらず同じように批判するしかないようだ。だが結局何がどうなっているのでもないだろうか。以前とは何かが違うようにも感じられ、それが勘違いでないことを祈るでもなく、別に勘違いであっても構わないような気がするだけだが、何も変わらないわけではないのだろう。確かに株価が上がったり下がったりしているだけかもしれない。あとは為替相場と債券相場と原油相場と金利などが変動したりするわけか。資本家や金融機関などはどこに投資しているのだろうか。儲かる可能性があればどこにでも投資するだろうし、実際に投資して儲けたり損したりしているのではないか。そしてそれがどうしたわけでもなく、他の人たちも生きている限りは何かやっているわけだ。そういう問題ではないのだろう。では何が問題となっているのだろうか。様々なことが問題となっていて、人それぞれで問題が違うから、一概には言えないわけか。たぶんそこに問題があり、多くの人たちが同じ問題を共有できない事態となっているのかもしれず、同じ問題を共有させようと躍起となっているマスメディアも、なかなか一般大衆が踊り出さずに商売あがったりで四苦八苦だろうか。でも大手はつぶれる気配すらないわけだから、それなりに広告収入があって購読者や視聴者もいて、儲かっているのだろうか。神戸のサカキバラ少年もすっかり大人になったらしく、手記みたいな本を出版して一部で話題となっているようだが、残忍な人殺しをして罪を免れたわけだから、腹立たしい人もいるみたいだ。連続幼女誘拐殺害事件の宮崎勤氏や、小学校に乱入して複数の生徒を殺した宅間守氏などは、もうとっくに死刑が執行されて、事件も忘れ去られてしまっただろうか。当時も今も相も変わらず命の大切さを訴えている人がいて、いつの時代も同じようなことを訴えている人がいる一方で、相も変わらず世界中で多くの人たちが殺されている現実があり、一般の人の間では、それの何が問題となっているわけでもないだろうが、アメリカでは人殺しの道具である銃の規制派と、人殺しから身を守る道具でもある銃の必要性を訴える反対派との間で、相変わらず対立が続いているのかもしれず、人が大勢集まっているところで銃を乱射する事件もたびたび起こっているようだ。人にとって役に立つ道具は、人殺しの役にも立つわけで、人殺しを必要としている人がいる限りは、人殺しの道具もあり続けるだろうし、実際に必要だから人が殺され続けているわけだが、人殺しに至る成り行きというのも、社会の中の動作としてあり続けているのかもしれない。人と人とが対立し、大勢の人が寄り集まって形成される組織と組織も対立する成り行きがあるわけだから、対立がエスカレートすれば殺人に至らざるを得ない場合もあるのかもしれず、またサカキバラ少年のように小動物を殺す行為が高じて、人殺しまで至ったケースもあったわけだから、それを防ぐのはなかなか難しいだろうか。

 とりあえず肉食動物なら獲物を殺して食べないと自身が生きて行けない事情があり、人も肉食だから獲物として家畜や魚介類が必要なわけだが、獲物でない動物や人間を殺すと非難の対象となるだろうか。獲物がイルカやクジラだと、イルカやクジラが友達の人たちから非難されるわけだが、娯楽のハンティングでライオンを撃ち殺した人も非難されているし、象牙やサイの角目当てで象やサイが密猟されている現実もあり、人には生き物を殺す習性があるとみなしておいたほうがよさそうで、その殺される生き物の中に人間自身も含まれていて、大ぴらに殺すと社会が成り立たないから、人殺しは法律で禁止されているわけだが、実際に殺されている現実がある。大前提として人は人にとって邪魔な存在にも利用できる有益な存在にもなるわけで、邪魔ならそこからいなくなってほしいし、有益なら自分のために働いてほしいと思い、そんな利害関係だけから人の価値を判断するなら、人と人とは対立したり協力したりするだけとなってしまいそうだが、どうもそれだけでは済まないような関係というのがあるらしく、それが愛し合う関係だと説く人たちもいるわけだが、人は人殺しのサカキバラと名乗った人物を愛せるだろうか。サカキバラ氏は今や愛すべき存在だろうか。手記を出版して一部で話題となり、本を買って読んだ人もいるだろうから、たぶんそうなのではないか。もちろん大半の人たちにとっては憎むべき存在なのだろうが、中には彼を愛している人もごく少数ながらいるのではないか。もしかしたら悪人と評される人物ほど、愛憎入り混じった存在となるのかもしれず、その人物がやった行為ややっている行為が酷ければ酷いほど、人はその人物を憎みながらも愛しているわけで、それは利害を度外した感情の発露なのかもしれない。例えばイルカやクジラを漁の対象としている人たちは利害関係からそうしていて、それを非難する人たちはイルカやクジラを愛しているわけで、日頃牛肉や豚肉を食べているとしても、愛の対象となっているイルカやクジラを殺して食べている人たちが許せない。たぶんその辺で両者の議論がかみ合わないわけで、利害関係と愛憎関係は位相が違う関係なのだろう。もちろん多くの人が二つの関係を混同して、利益をもたらす存在を愛して、損害をもたらす存在を憎んでいるつもりになるわけだが、それはしばしば逆になり、利益をもたらしているにもかかわらず憎むべき存在となったり、それを愛することで多大な損害を被っているにもかかわらず、愛しているからそれにのめり込んで身を滅ぼす羽目になったりするわけで、理性的になろうとするなら、その二つの関係を冷徹に区別してかかればいいわけだが、愛憎関係は感情の問題だから、いったんのめり込むと理性が吹っ飛んで冷静さを失ってしまうのだろう。


9月9日「本音と建前」

 世の中には本音と建前があるわけではなく、要するに本音があるわけだ。建前では本音を取り繕えない。何が本音なのかわかっていて、あえて建前を信じたふりをするのが大人の態度だろうか。互いに建前を交わし合い、その場の会話が成立してしまうわけか。そうすることが何の役に立つのだろうか。あからさまな衝突を避けて、その場を穏便に済ませる効果があるわけか。でもそれで対立が解消することはなく、本当に事態を進展させたいなら、お互いに腹を割って話し合わなければならないのだろうが、それには互いが互いを利用し合う覚悟がなければならず、何か相手と共同作業をしなければならない状況に直面している場合などがそれにあたり、その必要がなければ、建前だけの社交辞令に終始した会話で済んでしまうのだろうか。それでも構わない場合の方が世の中では多いだろうか。たぶんそれでは駄目というわけでもないのだろう。人と人との関係は多様であって、必ずしも本音で語り合える関係ばかりではなく、建前に終始する関係もないとうまくいかなくなってしまうのだろう。しかし本音と建前を意識して使い分けていると言っても、両者の間に明確な区別があるだろうか。もしかしたら述べているのこと何が本音で何が建前なのか、あまり意識せずに言葉を繰り出している場合もあるかもしれず、結局その場の状況に応じて言葉を選んでいて、何か語っている時には、それが本音なのか建前なのか意識せずに語っていたりするわけだ。その場の状況と関係から、発せられる言葉も人の意識も影響を受け、それと連動して絶えず変化し続けているのではないか。要するに人の意識の中で認識される本音と建前も、その場の状況と関係から生じていて、状況や関係が変われば本音や建前も変わってくる。逆に言えば状況も関係も変わらず一定なら、決まり切った本音と建前で通用する場が保たれる。それでうまくいっている人たちは、できればそんな場が保たれることを望み、そんな状況と関係が不快に感じられる人たちは、できれば不快な場が変わって欲しいと思うが、その場にいないとまずい人たちは、不快に感じつつも場を壊さないように建前と社交辞令に終始しながら、なんとかその場を乗り切ろうとしているのではないか。つまりそのような不快に思う人たちも含めて、その場にいる人たちの関係が作り出す状況が、そのような場を作り出していると言えるだろうか。そして不快に思う人たちが声を上げない限りはそのような場が保たれ、場が不快に思う人たちを苦しめることになり、また声を上げて場を壊すにしても、その場を保ちたい人たちとの対立が避けられなくなり、時として勇気を必要として、場合によっては苦渋の決断を強いられることとなりそうだ。

 人は誰でも自分が心地よく感じられる場を求め、それが手に入ったらその場をできるだけ長持ちさせたい。ただその場というのが人によって異なるらしく、その人が心地よく感じられる場が、別の人にとっては耐え難い環境であったりするわけで、その心地よい場というのが、他の多くの人たちの犠牲の上に成り立っている場合などは、やはりその多くの人たちによって壊されるべき場となるかもしれず、壊そうとすれば場を壊そうとする人たちと守ろうとする人たちの間で対立が生じ、それが国家規模となると内戦や革命となる場合があるのだろう。果たして日本の現政権が築き守ろうとしている場は、一般の人たちにとっては心地よい場なのだろうか。少なくとも反対の声を上げている人たちにとっては、不快で耐え難いものと映っているのだろうし、支持し守ろうとしている人たちにとっては、心地よく快適に感じられる場なのだろうか。そして本当にそれが偽らざる本音なのか、あるいは場の状況に強いられて発せられている建前で、必死で不快な状況に耐えているのだろうか。それは社会的な立場や党派性や主義主張によって異なるところかもしれないが、最終的には不快に感じている人たちが、どこまで場が作り出す状況に耐えられるかということになるだろうか。もちろん場が心地よく快適に感じられる人が多数派なら、政権に対する支持率も上がり、反対運動も自然消滅するだろうが、現状で反対運動が盛り上がりを見せていて、運動に対する批判や攻撃的な糾弾や皮肉を込めた嘲りもあるわけだから、それを無視できない状況にはなっているのだろう。もちろんそれは反対運動で盛り上がっている場が、不快で耐えがたく感じる人がいるからそのような反応が出てくるわけで、そういう人たちはなんとかそれをやめさせたいわけで、言葉による攻撃に出ているわけだが、それが政権側による機動隊などを利用した物理的な暴力の使用に至っていないのは、やはりまだ世論を気にしている段階で、全体主義国家のように完全には民衆の支配を確立していない証拠であるわけだが、もしかしたら彼らは民衆の完全な支配と制御を目指しているのではなく、一部の急進派はそれを目指していて、タカ派的な言動を内輪の集まりで口にしているのかもしれないが、どうもそこまでは至らせない場の力があり、人々の意識を超えた方向性が、全体主義国家のような暴力を全面に打ち出した苛烈な支配ではなく、柔軟でソフトな管理へと国家統治のあり方がシフトしてきているのであり、その表れがマイナンバー制度であったり、民間でやっているTポイントカードであったりするわけだ。あからさまな目に見える支配体制では、もはや人々がその不快さに耐えられそうもないから、なんとかそれと気づかせずに巧妙に人々の情報を管理することで、あまり意識させずに制御したいわけで、その人が気がつかないうちに統治する側に情報がもたらされ、その収集された膨大な情報に基づいてデータ分析をして、国家が人々を制御しやすいような方策を打ち出そうというわけだろうが、そのようなやり方では誰もが快適に感じられる場を構築するのは難しいかもしれないが、国家から管理されることで不快には感じるが、かろうじて建前や社交辞令を駆使して生活できる程度には耐えうる社会をもたらすのだろうか。


9月8日「国家と政治」

 偶然の巡り合わせと必然的な成り行きによって、現実が動かしがたいものとなった時、人も組織もそれに対処しようとするだろうか。実際に対処しているわけで、今まさに対処している最中なのだろう。そして対処しながら、これからどうすべきか考えれば考えるほど、何を考えているのかわからなくなるだろうか。いったいそこで何を考えているのか。現状で考えられる範囲で考えるしかなく、現時点ではそれ以上は考えられないことに気づくだけか。確かに考える前に何かやっているわけで、そのやっていることが現実に対処していることになるわけか。そう考えれば納得がいくだろうか。消費税を10パーセントに上げたところで、国の財政健全化への道は厳しそうだが、もう何十年も慢性的に巨額の赤字を出している国家財政を、どうやれば立て直すことができるのだろうか。立て直すことなどもはや不可能なのだろうか。あるいは立て直さなくても良く、毎年増え続ける赤字額を減らさなくても構わないのだろうか。すでに何十年もそのままなのだから、これから先も何十年も大丈夫だとは思えないが、やはり財政破綻の時が刻一刻と近づいているのだろうか。実際にその時になってみないことにはなんとも言えないか。たぶんどこかで犠牲を払わないことにはどうにもならないような雰囲気だが、公務員数を削減したり給与の額を下げたり仕事を減らしたりするのは、どうも現状ではできないような成り行きとなっている。官僚機構も政権与党の政治家たちも、そのつもりがないように感じられ、逆に予算額を増やして借金財政に拍車をかけようとしているのではないか。景気が良くなれば税収が増えて、財政赤字が縮小するというは、期待はずれの雲行きのようだが、緊縮財政にすればいいのかというと、財政破綻した国は緊縮財政にしても破綻したわけだから、危なくなってから緊縮財政にしても、もう手遅れということだろうか。ではどうすればいいのだろうか。特別会計という埋蔵金があるだの何だのという人もいないわけではないが、今のところはそれを活用しようとする気配は感じられず、そんな主張をしている人たちが政権を握る可能性も、今のところはほとんどないようだ。他の国の例を見ると、財政破綻してから考えればいいということだろうか。考えるのではなくIMFがなんらかの勧告を出して、それを受け入れることになるわけか。それでうまく行く行かないではなく、債務の減免などの財務整理のような処理を行うだけで、それで一件落着となるわけではなく、最終的には国民が苦しむのだろうが、そうなると今は議会の野党勢力である共産党などが、政権を握るチャンスが巡ってくるのかもしれない。現に財政危機のギリシアでは、急進左派勢力が一時的に政権を握ったわけだ。

 もちろん財政破綻してから政権を握ったところで、何ができるわけでもなく、ただ債務整理に追われるだけで、何もできないまま政権を投げ出すことになるわけか。そうなると財政破綻させた政治勢力にまた政権奪取の順番が回ってくるわけで、日本の現政権も別に財政破綻など気にする必要はなく、やりたい放題やって、めちゃくちゃにしてから政権を投げ出せば、次の政権が何もできずに自滅するのを待って、ほとぼりが冷めた頃にまた政権に返り咲けるというカラクリなのだろうか。もしかしたら数年前の政権交代も実際にはそういうことで、政権に就いた民主党がほとんど何もできずに自滅して、また自民党が政権に復帰して、今やりたい放題やっている最中なわけか。たぶんそんなことを繰り返していくうちに、どんな政治勢力が政権に就いても何もできなくなってきて、国民が政治に何か期待することもなくなり、政治家も何をやったらいいのかもわからなくなって、政治自体がどうでもよくなっていってしまうだろうか。もしかしたらそうなるのが必然的な成り行きなのかもしれず、今がまさに政治家と官僚たちが、国家を消尽させている最中なのかもしれない。そして彼らが国を食い物にしながら行き着くところまで行き着くと、国家財政が破綻する結末が到来するのだろうか。だがそうなっても国が消滅することはなく、適当に妥協的な債務整理を行ってから、またリセットして一から出直しとなり、そ知らぬ顔して政治家と公務員とそれらと癒着して国家から金を引き出そうとする輩が群がってきて、国民からむしり取った税金を放蕩し始めるわけか。悪く言えばそういうことになるかもしれないが、政治家も国民の幸福を実現するために、命がけで仕事に邁進するとか言うだろうし、公務員も国民の公僕としての職務に忠実であるべきとかいう訓令みたいなのに、表向きは従っているわけだ。果たしてこれから先も延々とそんなことが繰り返されるのだろうか。あるいはそれをやめるきっかけが不意に見出されたりして、国家とそれを支える官僚機構が瓦解するようなことがあるのだろうか。瓦解したところでまた再建されたら、同じことが性懲りもなく繰り返されそうだが、国家も専制君主制や王侯貴族による民衆の支配から脱して、形だけでも民衆に主権があることを明記した憲法なども採用され、民主主義的な体裁を整えてきたわけだから、この先デモクラシーという語源が示す民衆による支配からも脱して、支配のない世界へと社会の構造が進化したりするのだろうか。支配がなくなれば国家も民主主義も不要になるわけだが、とりあえず今のところはありえない話のようだ。


9月7日「効果のない批判」

 たぶんそこに至るまでに様々な経緯や成り行きがあったのだろうが、結果としてそうなってしまうことには納得がいかないのだろう。だが今までに何が見出されたわけではない。何も見つからないうちにあきらめてしまうわけにはいかないらしいが、人をあきらめさせるように仕向ける成り行きがあるのかもしれない。ネット上には理不尽なことを述べている人たちをひたすら批判している人たちもいるようだ。そういう人たちは死ぬまで批判をやめないのかもしれず、この先も延々と批判し続けるだろう。そしてそれだけではだめなことも分かっているはずだ。理不尽なことを述べても構わないような環境があり、そのような環境が作り出される経緯や成り行きがあり、述べても構わないような立場がメディア上で生じて、そこでそういうことを述べても許される人物が、そういうことを平然と述べて、それを別のメディア関係者が批判し、その批判を一般の人たちがネット上で拡散したがる。そんな経緯と成り行きで、ネット上に理不尽なことを述べている人を批判する文句が広まるわけか。そして批判されているのはいつも決まって、政府与党や維新の党関係者や右翼的な言論人となるわけだが、決まり切った人たちがいつも決まって批判されているので、そのような批判自体が、批判の対象となっている人たちの言動や行動を止められていないことは確実で、止められないからこそ、いつも延々と特定の人たちが批判され続けているわけだ。そして批判の対象となっている人たちにとっては、たぶんそんな批判などなんとも感じていないのかもしれず、だから批判されるようなことを延々と述べていられ、批判されるようなことをやっていられるわけで、批判する人たちも別に批判をやめさせられるわけではないから、それらの言動や行為を延々と批判できるわけだ。要するに批判している人たちもされている人たちも現状を変えられず、批判する側とされる側がどこまでもいつまでもそのまま共存可能な、議論が一向にかみ合わない平行線的な現状が延々と続く事態となっている。それが平和な社会を長持ちさせる秘訣なのだろうか。そういうことではなく、ただそんな状況がここしばらく続いているだけだろう。別に体制側が言論弾圧などしなくても政権を維持できるわけで、批判したい人たちには延々と批判させておけばいいことがわかったのではないか。それで何がどうなるわけでもなく、世の中がどう変わるわけでもない。全ては批判という言葉の範囲内で行われていることで、それ以外のところで何が変わるわけでもない。そしてそれで構わないのであり、批判をあきらめずに行っていればいいわけだ。延々と繰り返し批判していても構わないのであり、そうやって批判していることが全てなのだから、他がどうなるわけでもないわけだ。おそらく何も変わりようがないだろうし、変わるとすればそれ以外のところから変わるのではないか。

 ではどこから何が変わるのか。それは思いがけないところから変わるのであり、誰も気づかないうちに変わっているのかもしれず、すでに世の中は変わりつつあるのだろうか。誰も望まない方向に変わりつつあるのかもしれないが、誰もそれに気づいてないのではないか。それはその時代に生きている人たちには気づきようがないことかもしれず、あと何十年も経ってみて、そこから過去を振り返るとようやく気づくような変化なのかもしれない。だから別にこの時代に生きている人たちは気づかなくてもいいわけで、自分の信じることを主張し、行動していればいいことでしかないのだろう。その結果が理不尽なことを言っている人ややっている人に対する批判であり、反対デモであったり集会であったりしているわけなのだろうが、それらの人たちが望まない方向へと変化しつつあるのだとしたら、ではいったいそれはどのような変化なのだろうか。そこで考え込んでしまうのだが、同時代に生きている人たちには本当に気づけないのだろうか。少なくともそれらの批判が批判として機能していないのは、昔からそうだったような気がするのだが、その批判に同調する人とそうでない人がいるのも昔からだったような気がするし、理不尽なことを言っている人もやっている人も昔ながらの人たちだ。まさかそんな人たちが今や絶滅危惧種となっているのだろうか。でも反対している人たちならともかく、理不尽なことを言ったりやったりしている人たちは、実際に政権を握っているわけだから、世論調査での支持率もそれなりにあるし、主要なマスメディアもそれらの人たちの味方なのだろうから、世の中の主流派を形成しているのではないか。たぶん変化しつつあるのは、そういう政治的な主義主張に対する賛成や反対とは無関係のところで起きていて、具体的には少子高齢化社会に関することであったり、原発事故の被害にあった人たちの間で起こっていることであったり、ネットのSNSの中で起こっていることであったりするのかもしれず、そこで関係する他人に対する配慮などに表れていたりして、たぶんそれは当たり前のことが理解できなかったりすることにあるのではないか。同じことを延々と繰り返し主張し続けられると、たとえそれが正しい意見であったとしても、飽きてくるのであり、場合によってはうんざりしてくる。だがそういう人はそういうことしか主張できないということが次第にわかってきて、哀れみを感じさせられてしまうわけだが、要するにそれは老人がネット上で街宣活動をやっているわけで、右翼の街宣車が定期的に街中を巡回するように、ネット上を定期的に巡回しているわけだが、たぶんそういう同じ批判の繰り返しが効果のないことを理解できないのだろう。そして場合によっては正しい主張や批判も、一般大衆には効果がないことも理解できないのではないか。結局人々は内容の正しさではなくおもしろさを求めているわけだ。しかもいくらおもしろおかしくても、そんなことはすぐに忘れてしまうだろう。では何を主張すればいいのだろうか。たぶん誰も興味をひかないようなことを、あるいは誰も同意や同調もしないことを、適当にいい加減につぶやいていればいいのではないか。場合によってはわざと間違ったことを主張しても構わない。人々はもはや他人にことさら無理に同意や同調しなくても構わないわけで、それに気づいていないが、実際にそう振る舞っているわけだ。


9月6日「大衆市民社会の特性」

 個人や団体が掲げる主義主張は何を目指しているのだろうか。反対している人たちは政府や議会の与党勢力がやっていることに反対しているわけだが、他に何を目指しているのか。安保法案に賛成している人たちは、日本を外国勢力から守らなければならないと主張しているようだが、外国は外国でも、日本と安全保障条約を結んで同盟関係にあるアメリカからは守らなくてもいいらしい。要するに日本と敵対している外国勢力から日本を守りたいのだろう。そのための安保法案なのではないか。そして安保法案に反対している人たちは、日本と同盟関係を結んでいる外国勢力のアメリカから日本を守りたいわけだ。両者に共通しているのは、尊王攘夷思想の攘夷の部分なのではないか。日本を守るために外国勢力を討ち払わなければならないのかもしれないが、安保法案に賛成している人たちは、本気ではないかもしれないが、アメリカとともに中国や韓国などの、日本の現政権と対立関係にある外国を討ち払いたいわけで、法案に反対している人たちは、アメリカを討ち払いたいのではないか。もちろん軍事力でそうしたいのではなく、彼らにとっては理不尽なアメリカからの要求と、それを実行しようとする現政権を、民衆の力ではねのけたいわけだ。そして両者ともに共通しているのは、日本を守らなければならないという危機感だろうか。安保法案に賛成している人たちは、どちらかというと日本という国家を守りたいわけで、反対している人たちは、日本という国の中にいる民衆を守りたいということかもしれないが、国家といっても現状で政権を握っている政治勢力と、それを支持している人たちを守りたいわけで、また反対派が守りたい民衆といっても、現政権の下で不利益を被っている人たちや、これから不利益を被りかねない人たちと言えば、いくらか具体的になるだろうか。たぶん賛成派も反対派も、自分たちが守ろうとしているのは国家と国民の大多数だと思っているのかもしれないが、反対派の認識としては、現状でもこのままアメリカの要求を飲み続けると、日本もアメリカのようにごく一部の富裕層が、国内のほとんどの富を所有するようになってしまい、一般の人たちの生活が困窮してしまうと危機感を募らせているのではないか。また安保法案は戦争法案であり、アメリカ軍に付き従って世界の戦地に自衛隊員が駆り出され、国内の経済格差から顕在化する貧困層の中から、学費を得るために多くの若者が自衛隊に入隊して、戦地に赴くような状況となるやもしれず、アメリカと中国との対立が激化して戦争にでもなれば、米軍基地がある日本が真っ先に狙われかねないとも思っているのかもしれず、そんな理由から安保法案に反対して、それとともにアメリカ政府が音頭をとって進めているTPPにも反対し、また沖縄の在日米軍基地の滑走路建設にも反対しているのだろう。そしてさらに現政権の原発推進政策も、アメリカからの要請だと批判している人たちもいるようだ。

 それらのどこまでが真実味のある主張や認識なのだろうか。本当に多くの人たちがそう思っているのなら、ある程度は真実味があり、これから懸念していることが現実化するかもしれない。それを無理に小馬鹿にしたり嘲笑したりするのはおかしいだろうが、もしかしたら反対派が懸念している通りになっても構わないのではないか。このままでは日本が危ないと思っているのなら、危なくなっても構わないのであり、危なくなっては困ると思うなら選挙で反対派が推す候補者に投票するしかないだろうが、どうも現状ではそうはならないような成り行きかもしれず、現政権を支持する人たちが勝利すると、実際に危なくなるのかならないのかわからないが、結果がどうなるにしろ、政治ではどうにもならないような世の中の流れとなっているのではないか。歴史は過去には戻りようがなく、戦争だろうと何だろうと、繰り返そうとすれば以前とは違う性質を伴い、結果的に悲惨な状況をもたらすとしても、決して以前と同じにはならず、何かこれまでにない結果をもたらす。その証拠に現状もこれまでにはなかった現状なのではないか。そしてこれからもこれまでにはない状況となるのだろう。もしかしたら資本主義的な行為がもたらす富の価値が無効となるかもしれない。例えば金を儲けることが意味をなさなくなるような時代となるかもしれず、どういうふうにそうなるかは現時点ではわかりようがないが、現状でも大金持ちが必要もないのに一人で高級車を数百台も所有していたりするわけだから、そうなるといくら贅沢三昧をしても満たされないだろう。もしかしたら人は物質的にも精神的にも豊かになる必要がないのかもしれず、現状で生きられる範囲内で生きていればそれで構わないのだろうし、いくらそれ以上を求めても、成功して物心両面で満たされる人がいるかもしれないが、それはそれでそういうことでしかないのではないか。成功してもしなくてもどちらでも構わないのであり、やりたいことがやれてもやれなくても、どちらにしても生きている人は生きているし、やりたいことをやって死ぬ人もいるし、やりたいことができずに死ぬ人もいる。そう考えてしまうと欲がなくなり、世の中で主流の価値観が崩壊してしまうわけだが、人々にその価値観を信じさせている社会の構造が形骸化してくると、どうでもいいような気分が社会に蔓延して、やる気が失せてくるのではないか。そしてその方が世の中が平和になってくるのかもしれず、現政権を担っている人たちに、何か間の抜けた言動や行動が目立っていて、果たして真剣に物事に取り組んでいるのか疑いたくなってくるような状況なのも、それを象徴する現象かもしれないし、当人たちが意識しているのは違った次元でそれが進行中なのではないか。それが西洋から始まった大衆市民社会の特性なのかもしれず、資本主義市場経済が行き着くところがそれ自身の形骸化なのかもしれない。


9月5日「政治的な対立」

 世の中には様々な組織や団体があり、それらの組織や団体が互いに利害関係で結ばれていたり、対立していたりするわけだが、それらに属している人たちも、属している組織や団体を通して協力関係にあったり、対立関係にある場合もあり、そのような関係を超えて何か考えられるだろうか。個人で何か考えているつもりが、自然と意識せずに属している組織や団体の利害関係を考慮に入れている場合があるだろうか。個人の意識が社会的な諸関係から独立してあるわけではなく、それらの関係から構成されていると考えれば、それらの関係の中の一つとして、所属している組織や団体との関係があると捉えておくのが無難なところだろうか。その関係や結びつきが個人の考えに影響を及ぼしているとしても、それ以外の関係や結びつきもあり、家族や友人や地域との関係や、人間関係以外だと飼っている犬や猫との関係や、生物以外との関係だと書物や音楽や趣味との関係や、世界や地球や宇宙との関係など、無数の関係や結びつきがありそうだが、普段は特に意識せずに過ごしているのだろうし、自分という存在さえ、改まって考えてみることもなく、何やら言葉を使って他人と意思疎通を図ろうとしたり、自分の意見だと思っていることを文章にしてみたり、ネットに書き込んで反応をうかがってみたりしているわけだ。そしてたぶんその主義主張が他人のと似通ったものであるとすると、似た者同士で連携して徒党を組んで、賛同者を募ってなんらかの組織や団体を立ち上げる機会が巡ってくることもあるのだろうし、実際に世の中にはそんな組織や団体が無数にあるのだろう。たぶんそこまでは何を意味しているわけではないし、人や人が集まって構成する社会の中にはそのような性質や作用があって、小さなものは趣味で集まった仲良しグループや私的な政治結社などから、大きなものとなると大企業や国家や国家が集まって構成する連合体まで、それらが互いに連携したり対立したりしながら、所属する人が重複し錯綜しているわけだが、それらの組織や団体の利害が完全に一致することはまずないだろうし、利害を超えて連帯することもないだろう。その時々で和解や融和はあるだろうが、それがいつまでも続くとは限らないし、何かのきっかけで対立関係に入ることもあるだろうし、実際に特定の事情によって激しく対立している組織や団体などいくらでもありそうだ。そして対立する組織や団体は、互いに味方の数を増やそうとして、他人を自分たちの陣営へ引き入れるための、勧誘活動に励んでいる場合もあるだろう。人が大勢寄り集まって構成する社会の中では、昔からそんなことが延々と繰り返されてきているわけだから、それ自体をやめさせることはできないだろうし、そんな派閥争いのような行為をいちいち批判しても無意味だろうか。では何をどう考えればいいのだろうか。

 絶えず対立を回避しつつ連携を模索していけばいいのだろうか。平和を目指すならそうするしかなく、実際に各国の首脳なども口先だけなら世界平和を目指す姿勢を見せているわけだが、特定の国が良からぬことをやっているとみなすと、その国がやっている行為を非難して、制裁を課すために他の多くの国に対して同調を呼びかけたりするわけだ。密かに核開発を行い実際に核実験までやった北朝鮮に対しては、実際に多くの国が経済制裁を行っているのだろうし、核開発疑惑のイランに対してもつい最近まで同様な制裁が行われていて、クリミア半島を占領したロシアに対しては行われている最中のようだが、それらの国は制裁が行われて実際に経済状態が悪化して、国民が困っているのかもしれないが、その原因を作った国家の指導者は別に困った様子もないようで、権力の座から引きずり降ろされる気配もなく、必ずしも効果が出ているとは言い難いところだが、やるとなるとそんなことしかできない状況なのかもしれない。たぶん国家の間では他に対立する理由が見出せないのであり、世界的にはっきりした対立軸がない状況なのではないか。では対立よりも結びつきが強くなっていると言えるだろうか。経済の面では少なくともほとんどの国が結びついているのではないか。鎖国状態の北朝鮮でさえ隣国のロシアや中国と経済的に結びついていないとやっていけない状態だ。そして政治が経済に連動しているとすると、経済を介して国家同士も結びつくしかなく、経済的に結びつくと、結びついたどの国でもやっていることが同じになって行き、やがてどの国の社会構造も同じようになり、国と国の間でやっていることの違いがなくなってくると、国家の存在意義も次第に薄れてきて、国家間の対立を煽るだけの政治家のやることもなくなって、あとはただ行政を担う官僚機構が、制度に基づいて作動するだけで済んでしまうような事態になるだけで、世界各国の官僚機構のやる仕事も同じようなものでしかなくなっていくのではないか。そしてどの国も同じようなことしかやっていないのなら、国が複数ある必要はなく、やはり世界各国は次第に一つに統合されていく可能性があるだろうか。国と国とが対立しなくても済むなら、そういう方向で事態が進んでいくかもしれないが、果たして今後国家間で明確な対立軸を見出せるだろうか。あるとすれば埋蔵資源の地域的な偏りだけかもしれないが、結局資源も売らなければ商売にならないわけだから、資源の売り先が外国にあるなら、その外国と経済的に結びつくしかなく、輸送コスト以外での国の内外で価格差がつくこともないだろうし、企業活動を通して物や情報が国境を越えて行き交うような状況が続いていく限り、保護主義的な政策も次第に意味も効果もなくなっていくのではないか。


9月4日「政治劇場」

 そこで誰かが何かを主張していることは確かだ。だがその主張の中身を額面通りに受け取れないのは、それに興味がないか信用していないかのどちらかだろうか。どちらでもないとしたらなんなのか。単につまらないだけか。おもしろくなければ興味を持てないだろうか。そういうことではないのかもしれず、それらの主張に反発や反感を覚えるのだろうか。あるいはそんな主張ではだめだと思われるのか。全てがだめだとは思わないが、批判したくなってくることは確からしい。ただ批判しても仕方がないと思われてしまうから、やはり批判せずに済ませているのではないか。スルーするしかないのかもしれない。聞く耳を持たない人々に何を言っても無駄とは思わないが、現状では説得力のあることを主張できないのかもしれず、真正面から批判せずに皮肉や冗談程度にとどめたくなってくる。そんなことをやっても何の反応も返ってこないのだが、それが無難なやり方に思えてくる。そう思っている時点ですでに逃げ腰になっているようだ。その程度で済ませればその程度の内容となり、何を批判しているのでもないことになりそうだが、果たしてそれでいいか悪いかよくわからない状況に感じられ、それに関して大したことは何も語れないのかもしれない。だがそれとはなんなのか。果たしてそれは政治的な現状なのだろうか。たぶんそうなのだが、別に特定の主義主張があるわけではなく、なんだかはっきりとは何もわからない状況に感じられ、下手に政府批判をする気も起こらないし、政府に批判的な主張をしている人たちを批判する気も起こらず、ましてやネトウヨ批判などどうでもいいような気がしてくる。この意味不明でどうでもいいような心境は何なのか。現状がどうでもいいような状況だとは思わないが、何かがずれていて、そのずれを感じ取れない人たちが、政府を批判したり、その批判している人たちをまた批判し返したりしているわけだ。それらの全てがことごとく横道に逸れ続け、絶えず敵の揚げ足を取りながら、枝葉末節な問題提起を繰り返すわけだが、批判されている政府や与党のやっていることも、懸案事項に真正面から取り組まないで、搦め手から泥縄式にやろうとするので、やっていることが何のための何なのかよくわからないし、その辺をまともに説明できずに、誰でも批判できるようにわざと醜態をさらしているようにも思われ、まるで相手が批判疲れになるのを狙っているような按配だ。そしてどうぞ批判してくださいと言われて、批判している側ももう何ヶ月も延々と同じようなこと批判している。これは何かの罠なのだろうか。たぶん誰がどんな政治勢力が仕掛けたわけでもないが、何かの罠として機能していることは確からしく、その罠にはまった人たちが、実際に身動きが取れずに拘束されているのに、罠の中で何か活動しているつもりでいるわけか。

 そんなはずがないと思いたいが、罠であると同時に、何もできないことの目くらましとしても機能しているのかもしれず、何もできないから、反対する人々に反対運動をさせることで、何か政府与党がとんでもないことをやろうとしているように見せかけていて、世論を盛り上げようとしているのかもしれない。政治とはもともと祭り事であり、人々にお祭り騒ぎをやらせれば、結果的に何かやっていることとなり、何かまだ政治が政治として機能しているように、人々に思わせる効果があるのではないか。だから批判してほしくてわざとおどけて見せているのかもしれず、大勢の人たちが街頭へ出てデモ行進をしているのを見て、批判の対象となっている人も内心ほくそ笑んでいるのではないか。たとえ批判や非難であっても大いにやってほしいだろうし、騒げば騒ぐほどその対象となっている自分が何か特別な存在であるかのように思われてくるのではないか。誰からも相手にもされないで、無視されたり無関心を装われるよりは、罵声を浴びせかけられる方がよほどマシなことだろうか。ともかく敵から相手にされていることは確かであり、もしかしたら強敵だと思われているかもしれず、大勢の人たちからよってたかって非難されれば、むしろ何くそという闘志が湧いてくるのではないか。何もやれずに平穏無事に何事もなく一生を送るよりは、世間から注目を浴びるようなことをやって目立ちたいと思うかもしれず、そういう意味ではこれだけ世間の注目を浴びている今が、人生の絶頂期だと思ってもおかしくはないだろう。自分では何もやらずに周りが全て仕切ってくれているのかもしれないが、しかも自分が主導権を取ってやることなすことが、ほとんど嘲笑の的となっているのかもしれないが、結果的には自分に全て批判が返ってきて、自分が諸悪の根源だと思われていて、逆に言えば最重要人物であるかのように思われているわけだから、天狗になったり有頂天になるのも無理はないかもしれず、自分が自分の力で何かを成し遂げつつあると思い込んでもなんら不思議ではないだろう。そういう意味では彼もまた罠にはまっているのであり、彼に罵声を浴びせかけている人たちと同じ舞台に立って、彼の場合は物語の中心的な役割を担う主人公を演じているわけだ。他の誰よりも目立っていて、彼の一挙手一投足が人々の話題に上らない日はなく、彼が公の場で何かをやれば、すぐに民衆がそれに呼応して非難の言葉を発しながらデモ活動をやる演劇空間の中で、まさに自分を中心に世界が回っているような感覚になっていてもおかしくはないだろう。それは一昔前の小泉劇場とはまた一味違う劇場政治となっているのではないか。そしてそんな中でも彼なりに野次を飛ばしながら楽しんでいる節もありそうだが、実質的には何もかもが空回りしてる茶番劇の類いだと嘲笑しても無視されるだけだから、そういう皮肉は通用しないし無効だろう。


9月3日「資本主義と暴力」

 現状で何が起こっているわけでもない。何も起こっていないわけではないが、紛争や内戦によって特定の国や地域が深刻な荒廃を招いているとしても、昔からそういう国や地域はありふれていた。大勢の人たちが死傷したり、家や財産を失って路頭に迷っている状況も、昔から繰り返されてきたことだ。では昔と違って何か目新しい事態は起こっていないだろうか。例えば特定の思想や哲学や宗教では世の中が変わらないことがはっきりしたのは、それほど目新しいことでもないか。そんなことも昔からわかりきっていたことだろうか。では人々は何に救いを求めたらいいのか。いつの間にか救いのない世の中になってしまったわけか。別に誰が何を救うために何をやっているわけでもないのも、昔からそうだったかもしれず、そんなわかりきったことなら誰もが知っていることだ。ではいったい人々は何をやっているのだろうか。ただ生活しているだけか。言葉でそういえばその通りになってしまうのも、わかりきったことなのだろうが、わかりきっていないことも中にはあるのかもしれず、その誰もわかりきっていないことが、将来の見通しだろうか。過去のことなら調べればある程度はわかるし、歴史書でも読めば少しは過去の歴史に詳しくなるのではないか。だがそうしたところで何の役に立つのだろうか。歴史について語れるようになるだけか。身についた知識を生かすのはそれについて語る時だけだろうか。過去の事例を参考にしながら、将来を予想したりするのもよくある活用法だ。そんなこともわかりきったことのうちに入るだろうか。そんなわけで人々は全く新しい事態にどう対処すればいいのかわからない。別に対処しようとしなくても、自然に対処しているのかもしれず、生き続けていること自体が、日々新たな事態に対処していることの証しとなっているのではないか。そしてそれもわかりきっていることの範疇に入ることだろうか。もちろん死ぬこともある種の対処法であり、あたらな事態に対処しなくても済むやり方なのだろう。また既存の思想や哲学や宗教なども、日々を生き抜く方法を人々に教えているわけだが、それらはどうしても一定の思考の型にはめて対処するようなやり方だから、融通や応用が利きづらいという欠点でもあるのだろうか。それらも歴史と同じように過去の知恵に属するので、想定外の状況にはお手上げだろうか。それでも強引に型にはめようとすると、宗教的な原理主義に行き着くらしく、自分たちの主義主張に合致しないものは強制的に排除しがちになるようだ。イスラム国がシリアの古代パルミラの遺跡を破壊したり、過去にはアフガニスタンのタリバンがバーミヤンの大仏を爆破したこともあった。自分たちの主義主張を実現するためなら、人は殺すし物は壊すし、暴力的な手段に訴えるのが宗教的な原理主義の特徴だろうか。だが中には非暴力の原理主義というのもあるのではないか。

 世の全ての考えや行為を非暴力に結びつけて、少しでも暴力につながるような考えや行為を厳しく戒め、そのような考えや行為をする人や団体を決して許さず、延々と非難し糾弾している人や団体があれば、それは非暴力の原理主義思想の持ち主と言えるだろうか。そうやって何か一つの行為や思想に凝り固まるのは、人の習性としてよくあることなのだろうか。果たしてそれだけで大丈夫なのかどうかはわからないが、どうもそういう主義主張の人も中にはいるようだ。頭の中で正しい行為や思想を求めているようで、何が正しく何が間違っているかを判断する基準が一つしかないのかもしれないが、世の中にいる全ての人がその正しい行為をして正しい思想を持てば、確かに世界は平和になるのかもしれないが、様々な人や団体が利害関係から対立している現状がある限りは、正しい行為も思想も一つではないということだろうし、また逆に例えば金儲けという行為がただ一つの正しい行為だとすれば、その正しい行為を巡って様々な人や団体が競い争う現実が生まれているわけで、その正しい行為によって人々が対立して争うのだとすれば、世界平和は永久に訪れないことになりはしないか。そうなると世の平和を乱す金儲けという行為は間違った行為であり、金儲けが正しいと思っている拝金教徒を、厳しく非難し糾弾しなければならなくなるだろうか。たぶんそうではなく、暴力を用いて他人から金を奪ってはいけないという当たり前の主張で事足りるのだろう。では金儲けの暴力性というのはどこまでが許せる範囲内なのか。例えば自動車製造企業が、下請けの部品工場に部品の値引きを要求するのは、どの程度まで許されることだろうか。その工場が倒産しない程度に値引きを要求するのは、暴力的な金儲けの範疇に入るのか入らないのか。下請け工場を利益がほとんど出ないような生かさず殺さず程度にしておくことが、良心的な企業経営だとしたら、それは直接の暴力とは種類の違う巧妙で間接的な暴力だと言えないだろうか。そしてどこかでそういうしわ寄せが来ないと利益が出ないのだとしたら、やはりそれは金儲けの暴力性だと言えないだろうか。全世界が金儲けの資本主義経済で覆われているのだから、現状では金儲けが成り立っている一方で、どこかにそのしわ寄せが来ていることは確かで、しわ寄せが極まると直接の暴力で逆転を狙うように追い込まれてくるのではないか。その簡単な例が金に困ってコンビニ強盗をやらかす人などがいるわけだが、その大げさな例が戦争なのではないか。内戦が泥沼化しているシリアなど、アサド大統領の出身部族が国の要職を全て独占して、経済的な利益も独占していたそうだから、他の大多数の人たちの不満が爆発して民主化要求デモとなって、それを容赦なく弾圧した挙げ句の果てなわけだろうし、エジプトでも軍人出身の政治家と軍や政府の役人たちが癒着して経済的な利益を独占していたから、民主化要求デモとなって、一時的にそれが成功して独裁体制が崩壊したかに見えたが、今度は宗教的な原理主義政党の党首が大統領に当選したものだから、民主化勢力が後退して民主化が遠のいて、そして民意が離れた隙をついてまた軍がクーデターを起こして、軍人出身の大統領が誕生してしまったわけだ。


9月2日「思いと現実の落差」

 何か思い違いをしているだろうか。誰が思い違いをしているわけではなく、思っていることが違っているわけではない。違うのは思っていることではなく、現実そのものなのではないか。思っていることと現実は違っていて当然だ。今までにアメリカが世界各地に軍隊を派兵して守ってきたものとはなんだったのだろうか。自由主義陣営を守ると称して自国の権益を守ってきただけなのか。様々な地域紛争に介入してきたことは確かなところだ。パナマやグレナダやイラクやアフガンなどのように、現地の反米的な独裁者や独裁体制を倒すのが目的である場合がほとんどだったかもしれないが、一方で親米的な独裁者や独裁政権は維持されてきた経緯がある。イラクのフセイン大統領も途中までは親米的で、アメリカと敵対しているイランと戦争している時は、アメリカから直接援助まで受けていたわけだが、クウェートに軍事侵攻した時点で反米とみなされ、湾岸戦争の時はなんとか持ちこたえたのだが、911の同時多発テロに直接関与していたわけでもないのに、大量破壊兵器を持っていると言いがかりをつけられ、あえなくやっつけられてしまった。反米的な独裁者や独裁体制の中で、唯一アメリカと和解が成立したのはキューバだけかもしれないが、今も反米的な独裁体制を維持しているのは北朝鮮のみだろうか。北朝鮮の方が現体制を維持することを保証させた上でアメリカと和解したいらしいが、アメリカ側は拒否しているようで、あくまでも独裁体制の崩壊を望んでいるのだろうか。イランの場合は完全な独裁体制ではなく、選挙で穏健な外交姿勢をとる候補者が勝利する場合もあるわけだが、核兵器開発疑惑が持ち上がって、欧米諸国から経済制裁の対象となっていたのが、穏健派の政権になってから、キューバと同じようになんとか政府間では和解しそうな気配で、イランが核兵器を持つと自国が危ないイスラエルが強硬に反対している最中だろうか。ともかくアメリカが軍事侵攻した国では、兵士も民間人も大量に死傷する事態になることが多いわけで、それ以前に独裁政権による圧政で人々が苦しめられていることも、アメリカが軍事侵攻する口実ともなっているわけだが、今後新たにアメリカが軍事侵攻しそうな国や地域があるだろうか。派手に部隊が大挙して上陸してきそうな地域は今のところはなさそうだが、自国の軍人の生命を最優先に考えているのかどうかわからないが、限定的な空爆なら断続的に続けているようで、イスラム国やシリアの内戦あたりがその標的となっている一方で、イエメンのイスラム教シーア派武装組織への空爆は、隣のサウジアラビアが主に受け持っているらしく、アメリカがまた共和党政権になればどうなるかわからないが、ここ数年は大々的に軍の主力部隊を展開させるには至っていない。アメリカも何も好きこのんで積極的に戦争を仕掛けているわけではなく、自国の被害をなるべく最小限にとどめようと努力していることは確からしく、無駄に兵力を失いたくはないのだろう。

 現状では世界のどの国も積極的に外国と戦争をやりたがってはいないはずで、それほどの余裕はなく、それよりも国内の秩序を保つのに汲々としているところが多いのではないか。結局は独裁体制を維持しようとする側と、民主化を求める勢力との間で内戦になるか、既得権益や資源などの利権をめぐって軍閥や武装勢力が群雄割拠しているか、それらの勢力による戦闘によって国土や社会が荒廃して、事態の収拾がつかなくなっているところへ、国連やアメリカなどの大国や植民地時代の宗主国のフランスなどが、国内の秩序を安定化させるために、あるいは埋蔵資源の確保のために介入してくるわけだ。それ以外だと、ウクライナが欧米寄りの政権となったので、ウクライナ国内のロシア人勢力を支援するためにロシアが介入しているわけだが、果たしてそんな状況から、昔のような国と国との全面戦争に至るような事態へと発展することがあるだろうか。たぶんその辺から思っていることと現実との落差が生じていて、論理的な飛躍も生じているのではないか。もちろんそこに政治的な思惑も介在していて、わざと大げさに騒ぎ立てるために表現のレトリックも働いているのだろうが、現実の戦争ではなく、戦争のイメージから想像されるフィクションとしての戦争も表現として効果を発揮しているのかもしれない。そこに政権を打倒するための突破口があると思っている節もあり、その突破口を開こうとする反体制側も突破口にさせないように守る体制側も、自分たちの主張を正当化するために、イメージ戦略に終始しているような印象を受ける。双方ともに劇場的な演出を凝らして、一般大衆を味方につけようとしているわけで、互いに対立しながらも中立的な政治的な無関心層をターゲットにして、それらの人たちを取り込もうと画策し、宣伝活動に精を出しているわけだ。そのためのデモ行進であり集会なのだろうが、どうも熱くなっているのは反体制側だけで、体制側に至っては本気を疑うような言動や行動が続出しているようにも感じられ、首相がテレビで戦争を火事にたとえて、失笑を買うような紙芝居をやってみせたり、国会でも度々野次を飛ばして、それが余裕があってやっていることなのか、半ばやけくそでやっていることなのかわからないが、それでも大丈夫だと思っているのかもしれず、その辺に何か気の抜けたような雰囲気を感じるわけで、当事者意識が希薄というか、自分たちが法案を提出しておいて他人事というか、たぶんそれと意識はしていないが、全てが茶番劇にしかならないような成り行きを、その気の抜けた言動や行動が先取りしてしまっているのではないか。そんな状態なのだから、件の法案がたとえ国会の多数決で通ったとしても、何がどうなるわけでもない結果が待ち受けているのかもしれず、やっていることの全てが形骸化していくような脱力感に包まれていくのだろうか。


9月1日「穏便に事を済ます」

 だいぶ前から日本の行政は何をやってもうまくいかなくなっている。いったいいつごろからそうなっているのだろうか。財政赤字が問題となり始めた頃からだとすれば、もうかれこれ20年は経っているのではないか。バブル崩壊以降だとすればそれ以上前からだ。しかもうまくいかなくても別にそれほど致命的な事態になっているわけではない。もうとっくに財政破綻状態かもしれないが、それがどうしたわけでもなく、未だに国債を発行しながら巨額の予算を組んでいて、国の借金が雪だるま式に増えているのに、やはりそれがどうしたわけでもないようだ。経常収支が黒字だから大丈夫なのだろうか。その辺の詳しいカラクリはよくわからないが、他に何がうまくいっていないのか。政府を批判する人たちによって様々な問題が指摘されているのだろうが、よその国に比べたら失業率も低いし、治安もそれほど悪化していないのだろうから、別に何をやってもうまくいっていないと感じられるのはただの印象で、実質的には世界の国々の中ではうまくいっている方なのだろうか。もっとひどい状況の国などいくらでもあるだろう。ではそれでも政府や議会の与党に対する批判が絶えないのはなぜなのか。ひどいことをやっているように思えてしまう何かがあるということだろうか。例えばそれはなんなのか。対外的にアメリカに従属しているように感じられ、中国や韓国と対立しているのが気に入らないだろうか。それに関連して在日米軍基地の問題があり、またアメリカと同じように富裕層や大企業を優遇しているように感じられ、一般の人たちに対する福祉が切り捨てられているようにも感じられるのかもしれない。そしてまた原発推進政策も反発を招いているだろうし、ネットを中心として右翼の差別的で強引な言動にも不快な思いをしている人もいるだろうし、NHKなどの政府に迎合的なメディアによる政府批判の封じ込めにも憤りを感じている人もいるのではないか。要するに政財官とそれに迎合するマスメディアがグルになって人々を抑圧していると感じられるわけだ。それらの大政翼賛会的な支配組織が自分たちの利益を守るために、人々を操り支配して自由と平等を奪っていると思い込んでいるわけか。大雑把に言えばそうなるかもしれないが、実際に人々が政財官+マスメディアに依存している現実があり、それなしでは生活が成り立たないと思われるから、その逃れられない権力からの呪縛がより一層嫌悪感を覚えさせるのかもしれない。そして大半の人たちにとって、自分たちが支持できる政治勢力がいないことが、さらに嫌悪感とともに閉塞感や絶望感をもたらしているのかもしれず、そう感じられない人たちは政治的無関心となり、選挙の投票率が下がっている原因となっているのだろうか。

 本当のところはよくわからない。政財官+マスメディアの国民支配など昔からそうだったのかもしれず、何も今に始まったことではないのではないか。ただ政権を担っている政治家たちが無能に感じられるのは、行政が何をやってもうまくいかなくなっていると思われることと同じなのかもしれず、もしかしたら誰がやってもうまくいかない可能性があり、それを認めたくない人たちが、何か有能な政治家がやればうまくいくような幻想を抱いているのかもしれない。政財官+マスメディアの国民支配は昔からそうだったのだが、現状では何をやってもうまくいかなくなっていて、しかも政権を担当している政治家たちが無能に思われるから、それは政財官+マスメディアによる国民支配が原因であるかのように思われるのではないか。うまくいっているように感じられる時は、それほど目くじらを立てずに済んでいたのが、ひとたびうまくいかなくなると、何か理不尽なことをやっているのが槍玉に挙げられ、諸悪の根源はそこにあるかのように思われてくるわけだ。そして折しも改憲論者で国粋主義的な思想の持ち主が国の代表者となり、自衛隊を効率的に運用する目的の法案などを国会に出すから、火に油を注ぐ結果となっているわけだが、しかしその人物を含めて誰が独裁的な権力を握っているわけではなく、たぶん誰も好き勝手に権力を振るえない状況となっていて、別に反対運動をしている人たちを機動隊を動員して排除するわけでもなく、ただやらせるだけやらせておいて、それを主要メディアが大々的に報じないようにしているに過ぎず、それで済んでしまうような事態となっているわけだ。別に北朝鮮のように反体制派を強制収容所に押し込めたり、気に入らない軍や党の幹部たちを公開処刑したりしなくてもいいわけで、反対派と賛成派が武器を取って戦ったり、衝突して死傷者が出るような事態ともならず、ただネットで罵声を浴びせたり嫌味や皮肉を書き込んだりするだけで、それで済んでしまっているのは、日本が平和な証しなのかもしれないが、それは暴力を用いなくても、国民を管理できるシステムが構築されていることの証しでもあるのかもしれず、誰がどんな意志を持ってそんなシステムを構築したのでもなく、ただ自然の成り行きでそうなっているように感じられるに過ぎず、特定の誰やどんな政治勢力の陰謀が関与しているわけでもなく、ただそういう社会が出来上がってしまったとしか言いようのない現象なのではないか。それが良いか悪いかはわからないが、どこに中心があるのでもなく、誰が主導権を握っているのでもないが、誰もがそこで働いている微妙な均衡状態を崩したくないのかもしれず、無意識のうちになんとか穏便に事を済ませようとする力が働いていることは確からしいが、それで済むのか済まないのかは、これからの状況次第だろうか。


8月31日「不均衡の均衡化」

 ヨーロッパへと難民が押し寄せているようだ。人々は豊かな地域へと移動する傾向があるのだろうか。ヨーロッパの富は植民地支配と資本主義によって、世界中を荒らしまわった挙句に築かれたものだろうから、その報いを今受けている最中なのかもしれない。もっともアメリカでは中米などから不法移民が押し寄せるのが、もはや常態化しているわけだから、しかもそれらの移民たちを取り込むことで、アメリカは今なお発展中なのかもしれず、ヨーロッパもアメリカと同じような状態へと変貌しつつあるのかもしれない。そしてそのアメリカへと移民を送り込んだのが他ならぬヨーロッパ諸国であり、食えなくなった自国民を、ごみ捨て場にゴミを捨てるように新大陸へと放逐してきた歴史があり、今それとは逆のことが起こっていると考えればいいだけなのかもしれず、周辺諸国の食えなくなった人々がヨーロッパを目指しているわけだ。因果応報とはまさにこのことを言うのだろうか。だが民族の大移動といわれる現象は昔から世界各地で起きている現象で、古くは数万年前に現生人類の先祖がアフリカを出て世界各地に散らばったことから始まり、紀元前千年前後には中央アジアにいたアーリア系の人たちが、インドや中東やヨーロッパへと移動したこともあるようで、それが現在のインドアーリア語族の起源であるらしく、また紀元4世紀から5世紀にかけてのゲルマン人の大移動はローマ帝国が崩壊した原因とも言われ、それが今のヨーロッパで起こっている移民の大量流入に重ねられる事態なのかどうか、当時と今とではだいぶ事情や環境が違うだろうし、単純に比較するのはいい加減すぎるが、ヨーロッパがローマ帝国崩壊以後、絶えず統一への模索をしてきた歴史的経緯があるわけだから、EUとして統一しかけた矢先に、移民の大量流入によってそれが阻まれようとしているなら、相変わらず統一できない歴史が繰り返されるわけか。今さらヨーロッパが統一されたところで、すでにアメリカや中国やロシアやインドなどの大国が世界にあるわけだから、それがまた一つ増えるだけで、大して世界に影響を及ぼさないかもしれないが、ヨーロッパが統一されれば、それに対抗してアラブ諸国でも統一の機運が起こるかもしれず、そうなると東南アジアもASEANとしてEUのような共同体へと向かうのかもしれず、そうやって世界でだんだん国家統合が平和的に進んでいけば、やがて世界が一つの行政組織として統一される日も近づくだろうか。それ以前に大国間で戦争が勃発したら、それが第三次世界大戦となるかもしれないが、現状ではそんなところまで予想しても意味がないだろうし、とりあえずヨーロッパへと移民が大量流入して、それを阻止ようとする側と小競り合いが各地で続いている状態で、移動中に死んでしまう人も結構多いようで、まさに命がけでヨーロッパへと向かうわけだから、そうまでして祖国を脱出しなければならないのだとしたら、それは単なる欲得や打算だけではなく、それらの国ではかなり経済的に悲惨な状態なのかもしれない。

 一昔前にはよく経済的な南北格差が言われていたわけだが、最近はあまり言われなくなっていて、ここ十年ぐらいで貧困国でもそれなりに経済発展してきたのかもしれず、経済が発展するとそれなりに生活環境が改善されて、生活環境が改善されるとそれだけ死亡率が減って、死ぬ人が減ればそれだけ人口が増えて、増えた人の分だけ働き口がなければ、たぶん余分な人たちは国を出て行く以外に生きる道はないのだろう。そんな経緯で移民や難民が大量に発生しているのだろうか。それとシリアの内戦なども絡んで、戦争難民も大量に発生しているわけだろうが、自爆テロが毎日のように起こっている地域で暮らすのが嫌になるのはわかるし、イスラム原理主義などの武装組織の活動も内戦に拍車をかけているわけだから、経済的な困窮だけではなく、単に紛争地域で戦闘によって生活環境の荒廃が進んでいて、だんだんそこで人が住めなくなってきている状況なのだろうか。でもそのおかげで欧米諸国の兵器産業が潤っているのだとすれば、移民や難民が押し寄せるのは自業自得だろうか。そう考えるとそれも因果応報の類いとなってしまいそうだが、日本も武器の輸出などを盛んにすると、そのうちその武器が使用されることで発生した難民たちが、大挙して日本に押し寄せる事態となったりするわけか。それとも今のところ日本は紛争地域から遠く離れているから、難民が日本にまでたどり着くことはないだろうか。それもそんなところまで予想するのは意味のないことかもしれないが、結局今大量に発生しているそれらの移民や難民は、ヨーロッパへ行けば生き残ることができるかもしれないと信じているわけで、そう信じるだけの豊かさがヨーロッパにはあるということだろうか。現状ではあるのかもしれないが、移民の大量流入が続くと、たちまちその豊かさは食い尽くされてしまうだろうか。そうだとすると今世界的に資本主義によって富の不均衡化が進んでいる一方で、それを是正すべく直接貧しい地域から豊かな地域へと人が移動することによって、富の均衡化が図られようとしているのだろうか。たぶんそれが自然の作用であって、また物や情報を交換する過程で利潤を得ようとする資本主義自体も、人と人との関係から発生した自然現象の類いなのかもしれず、自然に発生した不均衡は別の自然現象によって是正されようとするわけで、特定の国や集団が富を独占して、そうやって発生した不均衡を人為的に維持しようとする試みにも、かなりの無理が生じているわけだ。その無理が移民の大量流入という現実となって、富を独占している人々の前に突きつけられているのかもしれない。


8月30日「決められない運命」

 態度を鮮明にしないことが何を意味するのだろうか。おそらく何も意味しないだろう。何を決めかねているわけではなく、無理に決めようとしているわけでもない。でも何も決められないわけでもないはずで、世の中のどこかでは着々と物事が決められているのではないか。今も絶えず決めているわけで、大して根拠も理由もないのに、決めないと先へ進めない成り行きもありそうだ。だがそれを決めていると言えるのだろうか。結果的には何かを決めていることになるのだろうが、たぶんそれほど固い決意をもって決めているわけではなく、ただなんとなく先へ進んでいくと、自然に物事が決まっていってしまうといったほうが、しっくりくるような成り行きなのではないか。先へと進むことが、そのまま何かが決まってしまう事態に直結しているのかもしれない。だから無理に意志の力で決めてしまわないほうが、後々楽な展開になるのかもしれず、人は結果が良ければそれで安心してしまうわけだが、別にそのとき正しい選択や判断をしたから、良い結果がもたらされたとは思わないほうがよく、たまたまうまい具合に事が運んで、結果的に満足するような成り行きになっただけかもしれず、またどのような結果がもたらされようと、自分の判断ミスを認めたくない意識が、それを正当化しようとするわけで、そういう心理作用も考慮に入れると、自らの行為や考えをそれほど信用しなくても構わないような、楽な気分でいられるだろうか。逆に無理に気楽さを装わなくてもいいのだろうし、決めなければならない状況になれば、いつまでも駄々をこねないで、さっさと決めればいいだけなのだろうが、果たしてそんなはっきりとした決断のときなどがやってくるのだろうか。不意に思いがけずそんな瞬間が訪れて、一か八かでそこで何かを決めなければならない状況に追い込まれたとき、果たしてまともな判断ができるだろうか。やはり結果がうまくいけば正しい判断だったと胸をなでおろし、うまくいかずに窮地に陥ればそのときの判断を後悔するのだろうが、結局そのときはそのときで覚悟を決めて、いったん決断したらたとえうまくいかなくてもあきらめが肝心で、次の機会がやってくることを期待するしかないのではないか。生き残っていれば必ずまた機会が巡ってくるだろうし、生き残れずに死んでしまえばそこでおしまいだ。何も決めようとしなくてもいずれはそうなってしまうだろう。決められなくても決まってしまい、人もいずれは死ぬに決まっているわけだ。だからそれほど決めることにこだわる必要はなく、自分では何も決められないまま、無駄に時をダラダラと過ごしてしまっても構わない。生きているだけで精一杯ならそうなるしかないだろうか。生きようとしなくても自然に生きていられてしまうこともありそうだ。そんなことを述べているうちに、自然と無駄に言葉が連なって文章が構成されている。

 その成り行きを偶然とも必然とも思わなくてもいいわけで、自分で何かを決めた結果だと思い込んでも構わない。たとえ独りよがりの妄想に取り憑かれていようと、生きている現実を覆すには至りそうもない。中には別に死ぬ理由がなくても自殺する人もいるのだろうが、そういう成り行きも可能性としてはあるわけで、どうなろうとそうなってみないことにはわからない。そうなったとしても理由を見出せずに困惑するばかりなのかもしれず、予想通りの結果に至って一安心するよりは、思いがけない結果に至ることを期待しているわけだ。別に運命の糸を自分で手繰り寄せているなどと思い上がっていられるわけもないだろうが、どこか得体の知れぬ場所へと導かれていると思いたい。決まりきった場所へと向かうよりはそのほうが面白そうだ。初めに結論ありきではなく、結論へ向かって予定調和のごとく歩幅を調整できるとは思えないし、たぶん行き過ぎてしまうだろうし、手前で止まってしまうのだろう。何も成せずに終わってしまうかもしれない。結果とはそういうものだ。そこで何を決断しようと、そんな決断など簡単に無効にするような成り行きの中で生きているのかもしれない。何かしら結果に行き着いて、生きているうちにわかりやすい富や名誉を手にする人もいるだろうし、自分のやっていることが何だかわらないまま終わってしまう人もいるだろう。なんだかわからないままの方が面白そうだが、世間的に認められないのは辛いだろうか。しかしわかりやすい成功を手に入れたとしても、自己満足に浸っていられる時間はそう長くはないのだろうし、さらなる成功を求めてひたすら貪欲に富や名誉を求めてしまうかもしれない。欲をかけばきりがなく、自己の内部では無尽蔵の欲に苛まれているものだろうか。ほどほどのところでやめられないのが成功への願望であり、いくら登りつめてもその先が待ち構えていて、道を誤って破滅するまでその道が続いていたりするわけか。道はいろいろあって、一概に破滅への道ばかりではなく、中には成功し続ける道もあるのではないか。自分でそう思っていればそれで済んでしまうような道もありそうで、どんな道を歩もうとその人の勝手であり、そして勝手には道を選べずに、その場の成り行きから外部的な事情によって、歩むべき道が当人の意志を無視して勝手に決められてしまう人もいるかもしれない。結局どのような環境であれ、その与えられた環境でしか生きてゆくことができない人が大半なのかもしれず、その環境で生きて行けなくなると、流浪の民となって世界中をさまよい歩くことになるかもしれない。それを決めるのはその人の意志かもしれないが、その意志をもたらしているのが身の回りの環境であり、絶えず変化する世の中の状況であり成り行きなのだろう。


8月29日「対立の解消」

 あらゆる分野で激しい競争を繰り広げている人たちには勝てそうもない。自らの生き残りをかけて毎日必死で努力している人たちは強そうだ。そういう方面で同じことをやろうとしても、門外漢や一般の人にはついて行けないのではないか。ある特定の分野に特化した人たちには、そこで同じ種類の人たちと生き残り競争をやらせておけばいいわけか。誰がやらせているのでもなく、そこで成功することを目指しているわけだから、そのような競争のゲーム構造こそが、彼らを競争に駆り立てているのではないか。そして勝ち残ったり生き残ったならば、褒美として大金や名誉を手にすることができるわけだ。またそこから外れたりあぶれた人たちは、他人と競いあわなくても生きていくための知恵を身につけることが必要とされているわけか。知恵がなくても生きていけたらなおのこといいだろうか。だが仕事をせずに遊んで暮らして行ける身分にはなかなかなれず、生きていくための糧を得るためには、それなりに知恵を身につけなければならないし、世の中には人が大勢暮らしているわけだから、何かをやろうとすれば他人と競い合いになるのは避けられないか。社会と関わり合いを持つ限りはそうならざるを得ないだろう。そこで他人や人の集まって構成される組織との協力や軋轢が起こり、互いの利害関係から連携したり対立したりしながら、何やら交流が続いてゆくわけだろうか。実際に国と国との交流もそんな具合に進んでいくようで、世界の中で味方の国と敵の国をより分けて、味方の国と連携しながら敵の国をやっつけようとする、まるで戦争ごっこのような思惑が国家主義的な人たちの間では渦巻いているようだが、敵と見なしている国とも貿易などの分野では何か交流があって、また現に敵国とその方面の人たちから見なされている中国などからは、観光客や留学生や労働者などが大勢来ていて、実際に国交があって双方の国に大使館が設置されているわけだから、特定の思想的な勢力に属する人たちが、特定の国を敵や味方と見なすこと自体が、それらの交流を途絶えさせているわけではなさそうだ。外交的にある程度は緊張関係があり、その原因が離島の領有権争いや、過去の歴史的経緯と現代の歴史認識にあることはわかっているわけだから、それに関しては双方で話し合いをするしかなく、たとえそれが物別れの平行線に終わろうとも、定期的に話し合いや交渉を続けている限りは、決定的な関係の断絶には至らないだろう。国と国との関係はそれ以上でも以下でもなく、たとえ政権を握っている勢力が特定の思想や主義主張に凝り固まっていても、外交関係や貿易関係は形式的に処理されるしかないだろう。そういう意味では国民感情と言われるメディアによって粉飾される印象の類いは、国と国との交渉の場では邪魔なもの以外の何物でもないだろうか。

 国民性や国民感情から何かを語ろうとすると、何かその国の国民に特徴的な性格や嗜好があるような印象を語ってしまうわけだが、国民の中でも主義主張や思想的な偏りから対立が起こっているわけだから、そういうのは多分にフィクション的な色合いや傾向があるように感じられ、政治的な次元と文化的な次元を混同しているのかもしれず、それを一緒くたにして日本人はこれこれこうだからこうあるべきとか主張してしまうと、何か言っているようで何も言っていないようなこととなってしまい、政治的な次元では意味のないこととなり、それを外国との関係にまで延長してしまうと、さらに虚構の度合いを深めてしまうだろう。しかもそんなふうに語る人たちは、主に国内向けに語っているのであって、昨今流行っている自国民の自画自賛的な言説がそういう類いに属するものになるだろうか。別にそれが悪いわけではなく、そういう需要が現にあるだろうから、そういう類いの言説が流行っているのだろうが、それと実際の外交関係は切り離して考えなければならないのではないか。その一方で外交関係と実質的に連動しているのが、貿易関係であり経済的な関係だろうか。外国との輸出入や外国から観光客を呼び寄せて利益を得ようとするなら、良好な外交関係を築かなければならず、敵対関係となって国交断絶や戦争状態ともなれば、その国からは利益を得られなくなるから、相互依存関係の深い国とは仲良くしておかなければならない。日本の場合だとそれを最も重視している国がアメリカとなるわけで、大多数の人々もそう思っているのだろうが、実質的にもそうだとしても、もう一方の大国である中国や隣国の韓国とも、過去の歴史的な経緯や領土紛争があるにしても、仲良くしておいて損はないところかもしれない。正式な国交がない北朝鮮などとは違って、一部の思想的に偏った人たちは対立しているつもりだが、実質的には人も物も行き交っていて、対立しつつも交流は盛んなのかもしれず、メディアによって粉飾される悪印象などに惑わされなければ、そんな深刻に憂うようなレベルにはならないだろうか。ともかく国と国とが経済競争するのではなく、国境を越えて国際化した企業と企業とが競争する時代に突入しつつある状況なので、従来からある国ごとの区分にとらわれた思考では、物事や現に起こっている現象の本質を見失ってしまう危険性があり、この先形骸化しつつある国家の側の巻き返しによって、世界が閉鎖的なブロック経済化でもしない限りは、グローバル企業による寡占化が進んでしまうのだろうか。少なくとも数十年前のように、世界が社会主義陣営と資本主義陣営に分かれるような、政治的な対立はこの先はあり得ないだろうし、政治的に対立できなければ、いったいどうやって国と国とが対立できるだろうか。日中韓のような領土紛争や過去の歴史的な経緯をめぐる対立では、たぶん限定的で規模の小さな対立にしか至らない。


8月28日「この先」

 何が違っているわけでもなく、誰もが正しい主張をしようとしている。しかし現実は主張通りにはいかず、常におかしな事態となっていて、それをまた誰もが批判しているわけだ。要するに誰もが思っているような正しい価値観に基づいた行為がなされていない。だから延々と現状に対する不満や批判がなされているわけだろうか。それ以外のことも言われているのだろうが、目につくのはそんなことばかりで、たぶんその不満や批判を批判したがっているのではないか。批判中毒になっているのかもしれず、ありのままの現状を見失っているのかもしれない。というか批判中毒になっている現状があるわけか。そして批判中毒から逃れようとしているのかもしれず、ありのままの現状を捉えようとしているのかもしれない。しかしありのままというのがどのような状態なのかわからないのではないか。それを言葉で説明できない現状があるらしい。説明するとフィクションとなってしまい、何やら誰かが語っているようなありふれた物語となってしまいそうか。少なくとも誰もどんな勢力も世の中を思い通りに制御できていない現状があり、ただ誰かがあるいはなんらかの勢力が、世の中を支配しようとして、実際に人々を洗脳して操っている、という妄想にとり憑かれている人が少なからずいるようだが、どうもそうではないらしく、支配や洗脳とかいう操作とは無縁の世の中になっているのではないか。例えばメディアによる世論調査の結果が、政権を握っている勢力に有利になると、途端に世論操作だと批判されるわけだが、どうも人々は操作されるほどメディアを信用しているわけではなく、それは商品の広告宣伝程度の水準で、意識の中では捉えられているのかもしれず、信用の度合いが洗脳とか催眠のような重度の依存状態ではないのだろう。ただ軽く触れる程度でメディアに接していて、メディアの言うことに従うわけではなく、上下関係のある隷属とは違う間接的な関係なのではないか。世の中はすでに人を支配したり服従させたりするのとは違う人間関係や社会関係が主流の時代となっているのではないか。と言っても労働を介した企業との雇用関係が、支配や服従のたとえとして語られることが多く、劣悪な労働環境で働かせるブラック企業で行われていることが、奴隷労働と呼ばれたりするから、どうしても人は支配や服従の関係を、現代の人間関係や社会関係などにも適用しがちになる。果たしてそれが適切な言葉を用いた説明となっているのか、あるいはその人の偏見と思い込みに依存したフィクションとなってしまうのか。その辺が現状の捉え方によって、どちらにも説明できてしまう微妙さがあるわけか。

 もしかしたら支配や服従の関係も、人類の歴史を通して全てがそうだったわけではなく、そのような関係が全盛だった時代でも、全ての人がそれに依存していたわけでもなく、そして現代でも全ての労働者がブラック企業で働いているわけでもなく、ものは言いようで、そこにばかり話の焦点を合わせれば、そうなってしまいがちになるだけなのかもしれず、そして自らの批判の主張に多くの人たちの賛同を得たいがための脅し文句として、格差社会の到来によってこのままで多くの貧困層が奴隷労働を強いられる、というような批判をしてしまいがちになるわけだ。だからと言って政治の力にも限界があり、世の中の経済的な成り行きに逆らってまで、社会の仕組みを変えるほどの力が政治にあるとは思えないし、行政を担う官僚機構にも、そのような組織特有の自己保存本能と言ってもいいような作用が働いて、選挙で選ばれた政治家たちの思い通りにはならない性質もあるようで、それを外部から批判するのはたやすいだろうが、例えば批判者が政治家となって、いったんそれらの官僚機構と関係すると、丸め込まれてしまうというか、自分たちの力ではどうにもならない機構や制度の壁のようなものにぶち当たって、挫折を余儀なくされたのが数年前の民主党政権だったのかもしれず、また彼らが再挑戦する機会を国民が選挙で投票して与えてくれるかどうかは、現状では厳しいようだが、たぶんこれからも挑戦してくる政治家集団が現れるのだろう。それはそれとして是非とも挑戦してもらいたいところだが、それ以前の問題として、国家を超えた力が働いているのかもしれず、政治の力ではどうにもならない問題がそこにあり、もしかしたら世界各国も世界中の政治家たちも、そのような力の前に敗れつつあるのかもしれない。そのような作用によって、国家も国家を動かしているつもりの政治も、だんだん機能しなくなりつつあるのではないか。それが経済の力だと言ってしまうと身も蓋もないわけだが、昔から人や企業の経済活動を国家や政治家たちが制御しきれていなかったのは確かで、国家や政治家たちは経済活動を活性化させるために、保護主義とか自由貿易体制とか様々な政策を行い、経済的な苦境を乗り切るために、侵略戦争などをやらざるを得なくなったりしてきたわけだが、どうも時代が下るにつれてだんだん手詰まりとなってきたのかもしれず、現状で経済を制御するための有効な策があるとは考えられず、ただ株価や為替相場が急激に変動しないように策を弄する以外に、これといってやれることがなくなってしまったのではないか。もちろんそれ以外にも色々とやっていることは確かなのだが、何かやったからといって、急激に景気が良くなるようなことはありえないのではないか。もはや世界中で人も物も金も何もかもが飽和状態で、新たに融通が利かずに身動きが取れない状態なのかもしれない。そうなるとあとは破滅を待つだけなのか。


8月27日「状況と成り行き」

 やっていることが何の役立つかわからないが、今やれることをやっておくべきなのだろうか。実際にやっているわけで、やれることをやっている最中なのではないか。ともかく選択の余地はなく、やれることしかできない状況なのだろうから、そこで思考停止して居直るわけにはいかず、自分なりに勘を働かせて何かをやっているつもりになっているようだが、果たしてこれでいいのかどうかはわからない。良い悪いの判断がつかないというか、判断しようがないわけで、それが良くても悪くても、結果的にどうなろうと、やれることをやっているわけだ。要するにそれでは何の言い訳にもならず、やっていることを正当化すらできない。良いも悪いもなく、ただやれることをやるだけの状況が続いているだけではないのか。そして世界中で何かをやっている人々も、みんなそうだとすると、現状のとりとめのなさも説明がつくだろうか。世界のすべての人たちが、その人にとって選択の余地のないことをやっているとすると、やっていることの善し悪しを言ってみても、やっている当人にとっては選択の余地がなくやっていることだから、たぶん他人からあれこれ言われてもやめようがないのではないか。その人にそれをやらせている状況や成り行きがあって、やらせている状況や成り行きが変わらない限り、やっている当人はそれをやめようがないわけだ。だから他人や敵対する勢力がやっていることを批判するのは簡単だが、それをやめさせるのは容易なことではない。強引にやめさせようとすれば暴力の行使に行き着くしかなく、そこには戦争に至るような状況や成り行きがあるわけだ。そしてそのような状況や成り行きによって至った戦争をやめさせるのも容易なことではない。いったん何かをやり始めると後戻りができなくなることが多いのかもしれず、状況や成り行きが変わるまではやらざるを得なくなり、後から省みれば途中でやめる機会などいくらでもあったと考えられる場合も、その時その場に身を置いている人たちからすれば、どうにもやめられない状況や成り行きのように感じられるのだろう。結局行き着くところまで行き着いてしまうのだろうし、それが戦争ともなると取り返しのつかない損害が出てしまうわけだ。だから戦争はなるべく回避しなければならない、という教訓が導き出されるかもしれないが、たぶんそのような状況や成り行きになってしまうと、いやでも戦争に至ってしまうのではないか。では戦争に至るのを止める手立てがないかといえばそうでもなく、実際に戦争をやればやるほど、その損害がでかくなればなるほど、戦争をやる敷居やハードルが高くなるのかもしれず、世界的にだんだん戦争をやりづらくなっているのかもしれず、今や中東やアフリカなどの紛争地帯以外では、実際に戦争が行われていないし、戦争に至るような状況や成り行きになりづらくなっているのかもしれない。

 そして世界的に戦争がやりづらくなっているのに、どうしても強引に戦争をやろうとして、実際にやるような状況や成り行きとなって、戦争を大々的に行った場合、たぶんこれまでのどの戦争よりも大規模かつ甚大な被害を出して、それ以後はもう二度と戦争ができないような状況や成り行きとなるかもしれず、それが実際に戦争をやる人類そのものが滅亡してしまうか、あるいは世界が統一され戦争をやる国家が消滅して恒久平和が訪れるのか、または今までとそれほど変わらない状況や成り行きとなるのか、その辺がどうなるのか現状から推測するのは難しいかもしれないが、今までにも戦争をやった結果として、戦争を抑止する機能を担った国連や、戦争や戦争をやるための武力を放棄した日本国憲法などが生まれたわけだから、今度また大規模な世界大戦のような戦争をやれば、さらに戦争をやりにくくするような機構やルールなどができるのではないか。要するに現状の戦争を抑止する仕組みやルールが不十分で、それがもとで戦争になるとすれば、いったん戦争が終結すれば抑止する仕組みやルールも強化され、さらに戦争がやりにくい世界へと進化するのかもしれない。そうだとするとこれから戦争が起こるにしろ起こらないにしろ、どちらにしても世界は戦争をやりづらくなるような、状況や成り行きへと向かっていると考えたほうがいいだろうか。現状でも国会に提出された安保法案を戦争法案と言い換えて、反対運動が盛り上がっている最中かもしれず、その結果がどうなるにしろ、たとえ運動が下火になったとしても、人々の意識に法案に対する不快感が残るだろうし、また沖縄の米軍基地反対運動などにしても、米軍によるアフガンや中東やアフリカでの戦闘行為に対する恐怖感もあり、また米兵による基地周辺での犯罪行為に対する不快感もあるだろうし、多くの人たちが軍隊に対して良い印象を持っていないことは確かで、それは北朝鮮や中国やロシアなどの、強権的な政治がまかり通っている国々での、軍事パレードや軍事演習などをニュースで見かけることからもくる悪印象だろうが、その根底には武力などの暴力によって強引に状況や成り行きを変えて、人のやっているをやめさせたり、強制的にやらせたりすることへの反感が含まれているわけで、そのような力こそが国家による国民への強制力の根源であることが、国民と呼ばれる人々の間でも薄々気づかれていることの証しなのかもしれず、子供の頃から続けられる様々な国家による洗脳教育に妨げられて、はっきりとは意識されないし理解できないまでも、暴力を伴った行為がいかに理不尽で不条理な行為であるかは、たぶん誰もがわかっていることなのだろうし、国を守る軍隊や国内の治安を守る警察機構などが、国家の暴力装置としてそれを体現していることも薄々気づいているのだろう。


8月26日「無責任な立場」

 現状では雑に考えるしかないが、相変わらず明確なことは何も言えないようだ。いったい何について語る気になっているのか。問いは語るきっかけには必要かもしれない。何を問われているとも思えず、問われなくても勝手に答えようとしているのかもしれないが、つじつまの合う説明には違和感が伴う。なんとでも勝手に主張できるわけではないが、その主張は正しい主張であり、その正しさを説明することもできるし、主張している自らを正当化することも可能だ。要するに正しいことを述べてもなんでもないのであり、もちろん間違ったことを述べれば、論争しているのであれば糾弾されるかもしれないが、ただ述べているだけでは間違ったことを述べてもなんともならず、いくらでも勝手なことを述べられる。そして何が正しく何が間違っているかの基準は、述べている当人が決めればいいことでしかない。それではらちがあかないから、人は権威にすり寄り、その道の権威と同じようなことを述べようとするわけだ。そうすれば自分と同じようなことを述べている大勢の人の存在を知り、ひとかたまりの思想的あるいは政治的な勢力に入ったことを自覚できるのではないか。そしてそんな自覚とともに、その派閥の価値観に照らし合わせると、自らが正しいことを述べていることにも気づくわけか。人が思考し主張できるのはその程度のことだろうか。その程度のことが重要なのだろうし、その程度と軽んじるべきではなく、ある一定の価値観に基づいた意見の集約や合意の形成には、そのような派閥的な集団の役割が重要となってくるのかもしれない。そしてそれ以外に何が主張できるのだろうか。勝手なことならネット上でいくらでも主張できるが、特定の派閥や勢力に属していなければ無視されるだけか。しかし特定の派閥や勢力に属している人の主張は、みんな似通っていて、ありふれた紋切り型的なことを主張しているに過ぎず、そのような主張を同じ派閥や勢力に属している人の間で共有しているだけか。それを否定できないだろうし、そのような現象を否定的に捉えるのはやめたほうがよく、そればかりではないと考えておいたほうがいいだろうか。では他に良い面があるのだろうか。多くの人が寄り集まって力を合わせて一人ではできないことをやれるという利点があるだろう。そのためには多くの人が合意できるように最大公約数的な意見の集約をやらなければならず、他の人たちが迷惑を被るような好き勝手なことは主張できず、その場に集まった人たちで相談して討議を行い、共通の価値観に基づいた行動や言動を決める必要が出てくるだろうし、そうやって派閥としての活動の方針を明確にして、集団の内部で合意を取り付けなければならないわけか。

 そうやって活動方針を決めた集団が、集団として活動し始めると、社会の中で何が起こるのだろうか。派閥や集団同士で連携や連合や抗争が起こるわけか。たぶん現状がそうなのだろう。現状は何がどうなっているわけでもない現状であり、また常に何かがどうにかなり、あるいはどうにかなろうとしている現状があるわけか。多くの人たちが支持され大きくなる集団もある一方で、支持されずに消えてゆく集団もあるだろう。もちろんそれもどうしたわけでもなく、それなりに栄枯盛衰があるだけのことでしかなく、それらの何が本質的な問題であるわけでもない。では何が本質的な問題なのか。多くの人が集団の内部で特定の主義主張に凝り固まることの弊害だろうか。凝り固まらずに時には集団を離れて、臨機応変で柔軟な対応をとることが求められているのだろうか。それでは集団としてのまとまりが薄れてしまい、集団にとってはそのほうが弊害となるだろうか。そう都合よく集団としてまとまったり、集団から離れて臨機応変な対応などとれるわけもなく、むしろ集団としてまとまった行動が求められる時にはまとまらず、逆に集団から離れて臨機応変な対応が求められる時には、集団として凝り固まってしまって柔軟な対応ができず、適切なことをやる機会を逃してしまう傾向にあるだろうか。しかし集団としてまとまらなければならない時とか、集団を離れて臨機応変な対応が求められる機会とか、その機会や時が到来したのをどうすれば知ることができるというのか。ただ機会や時を逸してしまってから、あの時こうやればよかったと後悔するだけなのではないか。後から知ることができるだけなら、なんともしようがなく、機会や時を逃そうと逸しようと、どうしたわけでもないのではないか。ではただなるようにしかならないということだろうか。それでは意味のないことか。現状でそれらの集団が何をやる機会に直面しているのだろうか。政府や議会与党のやり方に反対している集団が、反対運動をやる機会に直面していて、実際にデモ行進をしたり反対集会を開いているのではないか。そしてそれが一定の成果を上げていて、運動が盛り上がっている最中なのだろうか。彼らはそれ以外にやることがないのだろうか。たぶん他の集団にも属していて、例えば学生は大学や高校に属していて、労働者は会社などの企業に属していたり、公務員は役所などの行政機関に属していたりするわけか。そして政治家は政党に属していて、評論家やライターなどは執筆している雑誌やネットメディアなどに属しているわけか。それ以上に何が明確になっているわけでもなく、はっきりしたことは何も言えないのかもしれないが、別にそれらの集団に敵対していなければ何を言う必要もないし、敵対勢力や批判者が何を言っていても、とりたてて興味がなければ耳を傾ける必要もないのだろうし、賛同する気にも批判する気にもなれなければ、ただ見守っていればいいことでしかないわけだ。無理に賛成反対の意思を鮮明する必要はなく、どちらの勢力に入る必要もない。そしてネット上で無責任なことを勝手に主張していても構わないのかもしれず、そんな自らを正当化しなくても構わないのだろう。


8月25日「明確な意思表示」

 今の状況について、特に何か語るべきことがあるのだろうか。語るべきことではなく、語っても語らなくてもどちらでも構わないことなら、いくらでも無数にありそうだ。中には特に語るべきでないことまであるだろうか。そうではなく語りづらいことがあるのではないか。何を語るにしても語りづらいことは確かで、そこに主義主張の違いと利害関係が絡んでくると、とたんに語りづらくなってくるだろうか。その辺をなんとかごまかしてうまく語ろうとすると、何を批判しているのかわからなくなり、主義主張が曖昧でどうでもいいような内容となりそうだ。だがそうならないようにしようとすれば、例えば政治的には左右両派を批判しなければならなくなるのではないか。そうなるとどうなってしまうのだろう。批判してみないことにはなんとも言えないところかもしれないが、それも少しニュアンスが違うだろうか。政権の打倒とかを主張する気にはなれないが、政権を支持しているわけではなく、その手の政治的な主張はどうでもいいことなのかもしれず、誰も問題を解決する答えを持ち合わせてないのかもしれず、何が問題なのかも本当のところはよくわからないのかもしれない。もちろん政権の打倒を叫んでいる人たちには、現政権の何が問題で何が間違っているのかがわかっているのだろうし、その間違いを正すためには政権を打倒しなければならないと主張しているわけだ。そういう水準ではそれが正しい主張となっているわけで、問題を解決する答えは政権を打倒することになる。そういう問題設定と解決法を主張している間は、政権に対する批判勢力が一つにまとまるための求心力を得られるのだろう。それに賛同している人たちにとってはそれが目的であり、目的を達成するための努力がデモ行進をしたり反対集会を開くことになる。そして世論調査の内閣支持率が下がれば、目的の達成に近づいたことを意味するのではないか。たぶんそういう人たちにとってはそれで構わないのであり、政権が打倒されることが問題の解決への大きな前進であり、そして安保法案が廃案になったり、TPP交渉が決裂したり、原発の再稼働が中止になったりすれば、それで大成功なのではないか。それ以上に何がどうなればいいのだろうか。格差社会を招く新自由主義路線から、リベラルな福祉社会を目指すようになればいいのだろうか。ではそのためにはどうしたらいいのだろうか。金持ち優遇税制を改めて大企業に対する課税を強化し、富の再分配によって低所得者でも何不自由なく暮らして行けるようにしたらいいわけか。言うは易しでそんなことはいくらでも主張できるかもしれないが、実際にそれが実行できるかどうかは、そういう主張をしている政治勢力が選挙で勝って政権を握ってから、そういう政策をやってみれば明らかとなるだろうが、まだそこまで事態が進行していないことは確かで、数年前の民主党政権の時にそういうことをやろうとしていたのかもしれないが、実際にはうまくいかずに失敗に終わった経緯がある。

 それに対して新自由主義勢力に属していると見なされる人たちは、国際的な産業競争力を維持し高めるためには、法人税率を下げて企業活動を活性化して、成長産業へ迅速に人員を振り向けられるように従業員を解雇しやすくして、企業の効率的な経営に役立てたい、と言った類いの主張をしているわけか。詳しいことはよくわからないが、日本企業の国際競争力が維持され高められると、日本が経済的に繁栄して税収も増えて、国家財政も改善するという筋書きかもしれないが、現状はどうなっているのだろうか。国家財政は慢性的に国債に依存していて、実質的には財政健全化への道筋が立っていない状況であるが、それでも一応は依然として世界の中では、経済的に繁栄している国の一つであって、大企業を中心として企業活動もそれなりにうまくいっている部類に入るのではないか。これ以上の何を望むのか。現状にあぐらをかいていると、たちまち国際競争力を失ってしまうから、政府は絶えず景気刺激策や産業振興策を打ち出さないとならないわけか。だが現実に消費増税をしたおかげで個人消費が冷え込んで、また中国のバブル崩壊をきっかけとして、一時的には世界同時株安の最中だろうか。それがどうしたわけでもないのかもしれず、世界的に資本主義市場経済体制が続く限り、日本企業もそれなりの地位を確保し続け、世界の巨大企業を抱えているアメリカとの同盟関係を保っている限りは、日本もそれなりに経済的な繁栄を謳歌し続けるのではないか。楽観的な見通しではそうなるのだろう。では悲観的な見通しではどうなるのだろうか。その辺は危機を煽っている経済評論家の類いが、いくらでも語っているところだろうし、彼らの悲観的な見通しもそれなりに説得力があるのだろうが、現実にどうなるかは今のところはわからず、実際にどうにかなってみないことには確実なことは何も言えない。中国やインドが世界の覇権を握るかのような予想も、現状ではなんとも言えないところで、どうも特定の国家が覇権を握るのではなく、覇権国家という概念事態が無効化する可能性もなきにしもあらずで、現状で覇権国と目されていたアメリカの政治状況というのが、空洞化や形骸化の度合いをますます強めているようにも思われ、何か政治的な意思決定というのが無効化しつつあるような状況のように思われてならないのだが、それは他の大国の中国でもロシアでもインドでも言えることであって、何か政治の力によって世界情勢をコントロールできなくなっているのかもしれず、今や世界のどの国からも明確な意思やメッセージが発信されていないし、読み取れない状況となっているのではないか。


8月24日「政治的な働きかけ」

 人も社会も人の思考も行動も状況に束縛されているから、実際に人や社会を縛っている状況を離れると、なんでも言えてしまうのかもしれない。そして勝手なことを言う分には、言っていることは人畜無害であり、なんでも言えてしまうから信用のできない内容となるだろう。要するにそれが何を意味するわけでもない。では状況とはなんだろう。それは歴史的あるいは政治的な経緯や成り行きだろうか。そしてそれは同時に文化的あるいは経済的な経緯や成り行きでもありそうだ。またそれはその場所の地域的あるいは地理的な位置関係も入ってくるかもしれない。それらの様々な要因を考慮に入れると、何やら説得力のありそうな言説となってくるのだろうか。でもこれから何を語ろうというのでもないのだろう。それらはすでに誰かが語っている内容か。それを改めて繰り返すわけにはいかないのだろうか。語ろうとしてもどこの誰とも同じようには語れないのではないか。語ろうとする者が取り囲まれている状況も各人で違っていて、束縛されている要因もそれぞれで異なり、それだけ世の中に対する認識や見解も異なってこないか。だからそれぞれの人が置かれている社会的な立場の違いによって、その主義主張も異なってくるのではないか。もちろん似たような境遇に置かれた人は同じような思考や主義主張を持つに至るのかもしれず、そのような人たちが徒党を組めば、思考や主義主張に一定の共通性が生じるのだろうし、それが政治的なデモや集会のときに発せられる主張となるのだろうか。様々な社会的な立場や境遇から異なる意見や主義主張が生まれ、そのような意見や主義主張を汲み上げるのが政党で、政党はそれを政策に反映させなければならないわけか。そんな水準で語る分にはそういうことになるのかもしれないが、具体的にどんな政策を打ち出して、それを議会や内閣の場で実現させるとなると、どうも話がよくわからなくなるわけだ。国政の場で一般の人々の意見が汲み上げられ、政治にその主義主張が反映されているのだろうか。政党が打ち出す政策に賛意を示している人がどれほどいるのだろうか。世論調査や選挙結果がそれを表しているわけか。その辺があいまいではっきりしたことは何も言えないのが、現状での政治制度なのだろうし、はっきりさせられない状況なのかもしれず、メディア上でニュース解説者や著名人や評論家の類いが、何か国民の意向はこうだと断言することもあるかもしれないが、いったいそれにどれほどの人が賛同しているのだろうか。それも世論調査してみればいいだけの話かもしれないが、ではその世論調査の結果にどれほどの人が賛同するのだろうか。もちろん世論調査の結果がそのまま国政に反映されているわけでもないし、それはメディアによる政権への賛同や批判の道具でしかないかもしれない。

 たぶんそれでも現状の政治制度が機能しているわけだ。それで政治が成り立っていて、選挙で選ばれた議員が仕事をしていることになっているわけだから、国民の意見が政治に反映されているのかどうかは、はっきりとはわからないが、制度そのものは機能しているわけだ。そういうものだと納得している人がどれほどいるかは知らないが、そのような政治制度が多くの国で採用されているわけだ。そしてそのような政治制度によって現状の世界情勢があるわけで、一部の国では選挙など形式的に行われているだけで、一党独裁的な形態の国もあるわけだが、それの是非もはっきりしたことはよくわかっていない。現状がそうなっているだけで、今後一党独裁や君主制が崩れて、他の多くの国々と同じような複数の政党による議会制に移行するのか、それともそのままの体勢が永続するのか。どちらがいいのかもよくわからないが、多くの国々で成り立っている複数の政党による議会制がいいのかどうかも、現状ではなんとも言えないところなのではないか。ただそのような体制の国が世界の大半を占めている現状があるとしか言えず、今後それがどうなるかはよくわかっていない。ただほとんどすべての国には行政を担う官僚機構が整備されていて、制定された法律に基づいて国内の治安を維持していることは確かで、国民を強制的に法律に従わせているわけだ。そうでないと治安を保てないので、それは当たり前のことなのだが、その法律に従わせる力が権力であって、住民がその権力に逆らうと罰せられる仕組みとなっているわけだ。そのような仕組みが果たして良いことなのか悪いことなのかわからないが、ただ現状ではそうなっているわけで、国民と呼ばれる人々の不満もその辺にあるのかもしれず、憲法では国民が主権者となっているのに、国民の代議員である政治家が国民の言うことを聞いていないのではないか、また国民の公僕である公務員が国民を差し置いて権力を振るっているのはどういうことなのか、その辺の制度的な仕組みと実態が、主権者である国民をないがしろにしていると感じさせるのかもしれないが、政治に自分の意見や主義主張が反映されていないと思う国民なら、そう思って当然なのかもしれない。そしてそんな不満を感じたら政治的な働きかけをやるしかないのかもしれず、それが有効に機能しているのかどうかはわからないが、抗議デモや反対集会を開いたりしている人々がいるわけで、そういう政治的な働きかけも含めて現状が構成されているのだろう。


8月23日「行動と言動の総体」

 世の中で起こっている何もかもが偶然に起こっているわけではなく、人の意図や思惑から生じた行為によって何らかの出来事が起こっているわけだ。中には人々の日頃の努力が実って何らかの成果が上がる時もあるのではないか。だから人は自分の意図や思惑を実現させるために努力しようとしているのではないか。実際にそうやって思い通りの結果を得て成功を収めた人もいるのだろうから、そうやって人はやりたいことをやろうとしているわけで、実際にやっているつもりなのだろう。それはそれで当たり前のことで、そう思っていないと何もできなくなってしまうだろうか。たぶんそうは思わなくても、自然に何かしらやっていて、無理にやろうとしなくても、生きている限りは何かをやらざるを得ない状況に追い込まれてしまうのであり、逆に言えば実際に何かをやっているから生きているわけで、無理に何かをやろうとしなくてもやっている現状があって、逆に無理にやろうとすると、何もできなかったりすることもありそうだ。だから人はできる範囲内でしか何もできないのかもしれず、それ以外のことをやろうとしてもうまくいかないのかもしれない。それは何かを語る場合も同じで、語れる範囲内でしか語ることができず、世の中の全てを語れるわけではなく、自分が興味を持った範囲内でしか語れないのだろう。しかも語る質やレベルも各人によって差があり、詳しくわかりやすく語れる人もいれば、粗雑にいい加減なことしか語れない人もいるのではないか。もちろん何が粗雑で何がいい加減なのかは、人によっても感じ方や受け止め方が違い、ある人には粗雑でいい加減に思われることも、他の人にはよく理解できて賛同できる内容であったりするわけだ。だから一概に何が言えるわけではなく、好き勝手に語っている範囲内では客観的な基準も水準もなく、人それぞれで語りに対する感じ方も受け止め方も違っても構わないわけで、ではいったい何をどう語ればいいのかといえば、やはりそれはその人の語れる範囲内で語ることしかできず、実際にそう語っているのではないか。そしてそれがどうしたわけでもなく、その内容が気に入らなければ無視されたり、語っているのが著名人なら批判にさらされたりするわけだ。ネット上で勝手に語っている場合は、それ以上を期待しても意味のないことだろうか。しかしそれ以上とは、具体的にどうなることなのか。その語りの内容が世の中に広まって影響を及ぼすようになるということなのか。だがたぶんそれはネット上でなくても、マスメディアの中で著名人が語っている場合でも、ありえないことだろうか。

 ではいったい世の中に広く影響を及ぼしているのはなんなのか。人が語っている内容でないとすれば、それはなんなのだろうか。社会情勢が影響を及ぼして人に語らせているのだろうか。人が何か特定の行動に及んだり、特定の何かについて語ること自体が社会情勢に含まれるのだろう。その語っている特定の何かに含まれるのが、人が特定の行動に及んでいることであったりするわけだ。例えばそれが肯定的であれ否定的であれ、市民や学生の政治的なデモ活動について語っていたりする。その場合は人の行動に影響を受けて語っているわけだ。また他人が語っていることへの批判などは、他人の語りに影響を受けて語っていることになるわけだが、それが何を意味することになるのだろうか。語ることで何かを確認しているわけか。他人の行動や言動に賛意を示したり反対して批判したりしている。そしてそれが語っている人の意図や思惑から生じているわけだ。それに賛意を示している場合は、そのような行動や意見や主張を世の中に広めたいから、語りの中で賛意を示したり褒め称えたりしているわけで、逆に世の中に広まっては困るものについては、否定的な見解を示して非難したり糾弾したりしているわけだ。そしてそのような意図や思惑から生じているのが、その人の行動であり語りであったりするわけで、その行動や語りにまた賛同したり批判したりする人たちも出ると、そのようにして次々に行動や語りに対する反応が、別の人の行動や語りを通して伝わっていって、それらの行動や語りの総体が、世の中に広く影響を及ぼしていると言える状況をもたらしている。それは特定の個人や政治勢力だけの力ではなく、それに共感したり賛同したり、あるいは拒否したり批判したりする人たちのすべての力が結集して、社会全体に影響を及ぼすような力となっているわけで、それらの現象について語るとき、すぐに特定の政治団体や勢力の名前を挙げて、それらが陰から人々を操っているかのごとき陰謀論を披露する輩が出てくるわけだが、どうも実情はそういうことではなく、様々な立場や主義主張を持った人たちの意図や思惑が複雑に交錯しながら、その結果として生じている行動や言動の総体が、ある種の社会現象として人々の意識の中で認識されていて、そこにはそれを積極的に推進していこうとする人や勢力がある一方で、逆にそれを阻止しようとしている人や勢力もあるわけで、その両者のせめぎ合いとそれを見ている傍観者たちの存在も影響を及ぼしながら、それらの行動や言動をもたらしているわけだ。


8月22日「事の善悪」

 本当のところは誰にもよくわからないようだが、とりあえず人と人は敵対的な関係にあり、対立することで他人とは違う自己の存在を認識するらしい。そういうレベルではそうかもしれないが、実際には他人と協調したり連携したりして、自分一人では成し遂げられないことを集団で成し遂げようとする傾向にあるのだろう。多くの人たちが協調し連携することで一つの勢力となるわけだが、なぜそうするかといえば、それは他にも勢力があって、その勢力と敵対関係にあったりするから、敵対している勢力に勝つために、そのような協調や連携が必要であったりするわけで、結局人と人との関係と同じように、勢力同士も敵対関係にあったりするわけだ。例えば世の中から敵対する勢力がなくなることはあり得ないのだろうか。現状では世界中に無数の勢力が混在しているわけだから、敵対する勢力をなくすという話は現実的ではないのだろう。要するに敵対する勢力が常に存在している前提で話をしないと、話にリアリティがなくなってしまうわけだ。というか具体的にどのような勢力と勢力が敵対関係にあり、どんな争点で敵対しているのかを語らないと、意味のない抽象的な話となってしまうだろう。ではいったい何と何とがどんな争点で対立しているのか。そして対立していること自体の何が問題となっているのか。対立しているつもりの当事者たちにとっては、お互いを対立させている争点が問題となっているわけだが、果たして対立している一方が善ならもう一方は悪なのだろうか。対立している当事者たちからすればそのような論理が成り立つわけだ。互いに自分たちの勢力が善で敵対している勢力が悪だと断じたりしているわけか。それは対立している争点にもより、スポーツの試合などになると善悪の判断は無くなり、対立しているどちらが善でも悪でもなくなるわけだが、戦争のように領土や人の生死などが絡んでくると、宗教的な聖戦のように善と悪との二元論的な戦いの様相を帯びてくるだろうか。要するに対立の種類や程度によって、直接の利害関係だけではなく、敵対している相手への妬みや憎しみの感情なども作用して、自分たちが善で相手が悪とみなすようになるわけか。だが感情だけで善悪を説明できるだろうか。例えば自分たちのやっていることが合理的で相手のやっていることが不合理だと考えるなら、合理的な行為が善で不合理な行いが悪とすることで、善と悪との客観的かつ公平な判断が可能となるだろうか。でもそうなると何が合理的で何が不合理なのかの価値基準が問題となってきて、敵対する勢力同士で信奉する価値基準が違えば、話がかみ合わなくなってしまうだろう。要するにお互いの主義主張の違いから敵対しているとすれば、そもそもその主義主張を正当化する価値基準が違うのだから、当事者たちは自分の側の主義主張が正しく善で、相手側の主義主張が間違っていて悪だと思うしかないわけか。

 戦争だと勝った側が善で、負けた側が勝った側から悪だとみなされがちになるようだが、それとは別に人道的な見地から、植民地的な侵略行為によって、虐殺されたり土地を奪われたり奴隷として売られた先住民たちが善で、侵略者や侵略国が悪だという価値観もあるわけで、物事を善悪で判断してしまうと、途端に対立する当事者たちの都合で、事の善悪がコロコロ変わってしまい、善悪を判断する基準そのものが信用のおけないものとなり、人のやっている行為を一概に善と見なしたり悪と見なしたりするのは、そのように判断すること自体が独善的になりがちになりはしないか。誰もが悪い行為だと容易に判断できる人殺しでさえ、殺す時に心神喪失状態であったと証明されたら、罪に問われないわけだから、人殺しを悪と見なして当事者を糾弾するのは仕方のないことで、法律に違反するのは悪だと見なせば済んでしまうことなのだろうが、それを悪と見なさずに、その手前で単に法律違反と見なしておけば、事の善悪を感情で判断するのを避けられるかもしれない。通常の平和な世の中であれば、人殺しがやってはいけない行為であることは当然なのだろうが、人と人とが敵対関係にあり、人と人とが協力しあって生じる思想や宗教や政治や経済などに関係する勢力同士も敵対関係にあるわけだから、敵対しあっている者同士が、何かのきっかけで暴力を行使するようなことが起これば、殺傷沙汰にまで発展してしまう可能性もあり、当人がいくら日頃から人殺しが悪いことだと思っていても、殺してしまう可能性は十分にあるわけだ。人としてやっていいこととやってはいけないことは、社会に住んでいる限りは自然と身についてしまうものなのかもしれないが、たとえやってはいけないことをやった人がいるとしても、それを悪だと断じてその行為を糾弾する必要はなく、法律に違反していればなんらかの処分が下されるわけだから、それは司法関係の方面にまかせておけばいいことかもしれいが、なんらかの社会的な制度上の権限を担った立場の人が、その権限を利用してやってはいけないことをやっているように考えられる場合は、誰かがそれを糾弾しなければならなくなるのだろうし、実際に国会に提出された法案が憲法違反だと見なされて、多くの人たちが抗議のデモや反対集会を開く事態となっているわけだ。それらに参加している大多数の人たちは、国会で法案を通そうとしている政治勢力やそこに属している人たちを悪と断じて、非難し糾弾しているのだろうが、それらの人たちは立場上そうするしかないだろう。ただそれが事の善悪に関する判断である限りにおいて、それらの人たちに敵対する勢力側にいて法案に賛成する人たちは、自分たちのほうが善だと思っているわけで、抗議デモや反対集会に参加している人たちこそが悪だと見なしていたりするわけだ。そして両者の間では価値基準が違うから、今後とも論争することはあっても和解することなどありえないし、そのような敵対的な対立がエスカレートすれば、世の中が平和ではなくなるかもしれない。本物の戦争とまではいかないにしても、せいぜいが選挙戦程度で済めば儲け物だろうか。


8月21日「会話の不都合と不合理」

 何を偽装しているのだろう。目的が不明だろうか。巷で流行っている政治的な言説に惑わされているのではないか。ありふれた言説と論理に意識を引っ張られ、それについて語っている現状がありそうだ。意図も思惑もなければ偽装でもなんでもないのではないか。状況を面白がって楽しんでいるのだろう。そうでもしなければやっていられないか。まともな人間は誰もそこにはいないのだろうから、一人芝居の最中かもしれず、その場に大勢の人がいるにもかかわらず、一人で妄想にふけっているのだろうか。そんなはずはないだろうし、ちゃんと会話していると思っているのではないか。そしてその会話が成り立っているか否かは、物事の捉え方によって異なるだろうか。ありふれた見解を弄する人たちには、会話が成り立っていないように思われるかもしれないが、言葉による受け答えという会話がもたらす動作が成立しているわけだから、たぶんそこで言葉が交わされているのだろうし、それを会話と呼んで差し支えないのかもしれないが、多くの人たちは、それが誰にでも理解可能なありふれた会話でないと気が済まないのであり、目の前で理解不能な会話をされると自分たちがバカにされたような気になって、ムキになって怒りだし、なんとか自分たちが理解可能なありふれた会話が行われるまで、会話の当事者たちを批判し続けるのだろうか。批判し続けることによって、会話に引き込まれることに抗っているのかもしれず、なんとか平常心を保ちながら、会話とは認められない会話によって、乱されてしまった自分たちのペースを取り戻そうとしているのではないか。だから必死になって批判を繰り返して、言葉が通じてしまうのを阻止するわけで、聞く耳を持たない態度を維持しようとするわけか。要するにそれも一つの会話とも言えるわけで、聞く耳を持たない態度という会話の形態なのではないか。無視しながらも言葉が無視されている側からしている側へと受け渡されていて、ある人物から言葉が発せられて、その言葉を受け止めた側が無視という態度をとりながらも、それが言葉を受け取った合図となっていて、何も応答するべきでないという判断によって答えているわけだ。そしてその種の言葉の受け答えによって勝利したのは、無視しながら負けを認めようとしない聞く耳を持たない人たちではなく、言葉を発してそのような対応を導き出した側にあるのではないか。だから言葉を発し側が聞く耳を持たない態度を勝ち取ったことになるわけだが、それは形式的な勝利であって、実利を得られない仮想の勝利だとも言えるわけで、そのままでは利益にありつけず、最悪の場合は勝利を手にしながら死んでしまうのかもしれず、だから聞く耳を持たない状況を作り出しただけではダメなのだろう。

 ではどうすればいいのだろうか。多数派の論理におもねって、誰もが理解可能なありふれた会話の土俵に上がればいいわけか。戦略的にはそうだろうし、ありふれた会話の土俵に上がって、まともな会話に磨きをかけ、語りに説得力を増して多くの人たちの関心をひきつけなければならない。そうやってできるだけ多くの人たちを味方につけて、自分や自分が属している勢力を大きくして行かなければならないだろうか。勢力を大きくするには、その勢力に入れば実利を得られるようにしなければならないだろうか。たぶん普通の政党や軍隊や企業や宗教教団から非合法な武装テロ集団まで、おおよそ人が集まって組織的な集団が形成されるのは、そこに入ると実利が得られることに起因しているのだろうし、何も得られないのに人が集まって団体や集団が形成されることはないのかもしれず、自分を利する何かを求める目的で人は寄り集まって集団を形成する。その求める何かとは精神的な安心感でも金銭でも、求める目的に応じて入るべき集団が違うのだろうし、一人で得ようとする物や情報の目的に応じて複数の様々な集団に入っている現状があり、それと意識せずに多種多様な集団に同時に入っていて、そのうちのどれか一つだけを優先するわけにはいかず、複数の集団を同時に操るバランス感覚が大事なのかもしれない。要するに利益を得られる先を複数持っていれば、その中のどれか一つがうまくいかなくなって消滅しても、その巻き添えを食らって被害を被る割合も減ってくるから、戦略的にそのようなやり方を取っている人が世の中の大多数なのかもしれない。人は社会の中で生き続けていると自然とそのようなやり方を身につけるわけで、そのような事情を考慮に入れないで、一つの集団に身も心も捧げ、他の誰よりも集団に対する忠誠心が強いことを誇りに思うようでは、その集団にいいようにこき使われて、用済みになったら使い捨てられることにもなりかねず、狂信的に特定の集団を信じてはならないのは、生きるための知恵として肝に銘じておくべきことなのかもしれないが、集団としては逆に使い捨て可能な信者を必要としていて、分け前として信者に与える利益はなるべく少ないに越したことはなく、分け前を減らしてその分内部留保として蓄えておけば、いざ集団が存亡の危機となった時に日頃の蓄えが物を言うわけだから、できれば少ない分け前でも身を粉にして集団のために働いてくれる狂信的な信者が多くいれば助かるわけで、そのためには日頃から信者たちに洗脳を施しておかないとならず、集団のために命を投げ出すような人材を欲しているのだろうから、例えば国家という集団にとって欠かせないのは、国家の繁栄のために犠牲となってくれる国民の存在であり、国家はそのような国民を育成したいわけで、そのためには愛国教育という洗脳が必要となってくるのだろう。


8月20日「認識と語りと虚構」

 特定の人物の意志で国が動いているように思えることもあるだろうが、実態はどうなのだろうか。選挙などによって議員や大統領などが選ばれ、それらの選ばれて国を代表する役職に就いた人が、なんらかの意志を持っていて、その意志を国政に反映させようとしていることは確かなのだが、それが選挙で投票した国民の総意でもあるわけか。少なくともその人に投票した人は、その国政に反映させようとしている意志に賛意を示すだろうか。各種メディアなどが実施している世論調査の結果でそれがわかるわけか。それら全ては間接的なことなのではないか。国に意志などあるわけがないことは分かりきっているが、議会や裁判所や政府をはじめとする行政機構があって、それらの機構の中で人がうごめいていて、なんらかの意志決定がなされているわけだが、その意志が組織全体の意志として捉えられる場合もあるのだろうか。例えばイスラエル政府がガザ地区を空爆したり戦車で蹂躙した場合、イスラエルの暴挙だとジャーナリストなどが非難するわけで、やはりそれはイスラエルの国家としての意志が発動したと捉えればいいわけか。非難の論調としてはそうなるだろうし、そう語ることしかできないだろう。政府内でなんらかの意志決定がなされて、そのような行為が行われるわけだから、空爆や戦車による蹂躙によってガザ地区の住民が多数死傷して、建物などが破壊されるわけだから、イスラエルと敵対している国々の政府や、世界各国のメディアの論調は、イスラエルに対する非難の大合唱となるのだろうが、同盟関係にあるアメリカ政府などは、先に攻撃を仕掛けてきたのはガザ地区に拠点を置く武装組織だとして、イスラエル政府のやり方を擁護してきた経緯があるわけだが、最近はアメリカ政府内でも、大統領の周辺はイスラエルの右翼政権に批判的な対応に変わってきて、一方ネオコンの牙城である国防総省の周辺は、未だにイスラエル政府と軍事的に密接な関係にあるような報道のされ方もしてきて、アメリカ政府内でも立場や役割によって、若干の温度差があるように言われているわけだ。例えばアフガン・イラク戦役の頃は、アメリカは国家として一枚岩の意志を感じられたが、どうも最近は大統領の周辺と議会と軍産複合体とで、微妙に意志のズレがあるように感じられ、必ずしも統一された国家意志があるとは言えない状況になっているのではないか。国家意志というのは戦争などの危機的な状況にならないと、はっきりと方向性を持った形では現れないのかもしれず、報道のされ方やジャーナリストなどの論調では、何か国家が特定の意志や意図を持っているように語られるわけだが、そういう語られ方の中である種の単純化が生じているのであり、それ自体が一種のフィクションのような物事の捉え方なのではないか。

 そこから飛躍して何か欧米諸国が、未だに昔の世界を植民地化していた頃の延長で、経済の力で世界を支配しようとしている、などと語り出す人も中にはいるのかもしれないが、欧米諸国の全てを網羅するような意志を想定するとすれば、それは民主的な政治体制や議会制への執着ぐらいなものなのではないか。ウクライナとロシアとの問題で、欧米対ロシアという対立の構図を描けないこともないのだろうが、別に欧米諸国が一枚岩というわけではなく、経済的な結びつきの程度に応じて、各国によってロシアとの対立の度合いにも温度差はあるだろうし、すぐにでも軍事的な緊張が高まるようなことはありえないようで、それは中国と周辺諸国との関係も同じようなものなのではないか。現代ではナチスドイツが周辺諸国へ向かって一斉に軍事的な侵略を開始した時のような、それほどあからさまな意思表示ができるような世界情勢とはなっておらず、何か特定の政治的な勢力が密かに世界を征服しようと画策するような、そんな単純な政治的あるいは経済的な構造とはなっていないのかもしれず、様々な勢力が入り乱れていて、その中で敵対と合従連合などの思惑が複雑に錯綜していて、各勢力を敵と味方にはっきりと分けられない状態となっているのではないか。例を挙げればイスラム国とイスラエルとサウジアラビアなどの湾岸産油国とアメリカのネオコンが繋がっているとか言われるわけだが、昔は共通の敵のシリアやイスラム教シーア派などを巡って、協力関係にあったが、イスラム国が勝手なことをやり始めたので、途中から仲たがいし始めたとも言われていて、それでもシリアやイスラム教シーア派勢力を抑え込むための防波堤程度には活用しようとする思惑もあって、加減しながら攻撃を加えていると言った現状なのかもしれず、アメリカなどが本気になって地上軍を投入しようとしないのが何よりの証拠で、しかもアメリカの大統領周辺は、イスラム教シーア派の総本山のイランとも関係を改善しようとしていて、それに対してイスラエルやアメリカの議会やネオコン勢力が反発を強めていたりして、それも明確な敵味方の区別がつかない状況を象徴する出来事なのではないか。そういう意味であまり定まった国家意志や意向があるかのような物事の単純化は、かえって状況を見誤らせる原因ともなりかねないのであり、特定の人物や政治勢力の意図や思惑を、その通りには反映させられないような世の中となっているのだろう。昔の戦時体制ような政治的な独裁や全体主義の復活を懸念する人々は、戦争や暴力の恐怖や不快さを脅し文句のように使って、政府の思惑通りに事が運べば、すぐにでもそんな暗い時代が到来するかのように訴えかけるのだが、何事もなってみないことにはわからない状況なのだろうし、日本がすぐにでも北朝鮮のような社会になるとは現時点では思えないだろうし、自分や自分たちの政治勢力の都合を反映した語りが、都合の分だけフィクションに近い内容となるのは仕方のないことだが、そのような主義主張を聞く側も、それらがある程度は現実や現状から飛躍した内容であることを理解すべきなのかもしれない。


8月19日「予定調和の結末」

 様々な人や人が構成する政治的あるいは軍事的な勢力などが敵対し合うのには、それなりに必然性があるのだろうか。敵対し合い対立し合わないと、自らの存在とやっていることを正当化できないのではないか。そして常に敵対している相手が間違っていて、自らが正しいと主張しているわけで、それがどのような程度であるとしても、大筋では誰もがそんなことを主張しているのだろうか。たいていの場合それらの主張の内容は、批判している相手がいかに間違っているのかと、自分の主張の正しさを説明することに終始しているだろうか。そしてそのような主張という行為の構造そのものを批判するわけにはいかず、何かを主張するには、絶えず批判する対象の誤りと自らの正しさを説明するしかないのだろうか。敵対的な批判とか主張というのは、そういう構造の範囲内でしかできないものなのではないか。だが果たしてそれだけでいいのだろうか。というかそれしかできないのかもしれず、それしかできないから人や勢力が互いに敵対しあう現状があるわけか。人は他者や組織や団体を評する時、味方を褒めて敵をけなすことだけが、唯一可能な言説なのだろうか。たぶんそれ以外の語り方も可能なのだろうが、実際に敵対している人や勢力があるわけだから、それらの人や勢力に対する言説はそうなるしかないのだろう。そんな批判ばかりだから、それが当たり前のように感じられる現状もあって、それ以外のことを述べる輩は相手にされていないのだろうか。逆にそういう批判を繰り返す人たちが、それ以外の人から相手にされていない現状もあるのかもしれず、その手の批判ばかり繰り返す人たちは、鬱陶しがられて周囲から次第に孤立していくような成り行きとなって、被害妄想気味に周囲の批判しない人たちを、権力に従順な羊の群れ呼ばわりして、そういう人たちすら批判の対象として、ますます孤立の度合いを深めていってしまうのだろうか。純朴な人ならそうなってしまう可能性があるかもしれないが、たいていの人は批判を繰り返す人たちで固まっていて、そんな主義主張を同じにする人たちで一つの勢力を構成していて、そういう人たちが集団で同じような主義主張を発していて、そのような人たちが批判の対象としている勢力がもう一方にあり、それらの勢力も同じような主義主張をする人たちが寄り集まっていて、敵対する勢力に対して同じような批判を発しているわけで、それらの対立が右翼と左翼の対立ということになるわけか。大まかに言えばそういうことになりそうだが、それらの勢力から距離を置いて外部にいる人たちには、そのような対立が滑稽に感じられるのかもしれず、両者の主義主張が似通っていると思われるだろうか。

 対立しているのだから似通っているわけではないのだろうが、相手を全否定するところは似ているのかもしれず、歩み寄れないほどに妥協が不可能なほどに激しく対立しているつもりなところも似ているだろうか。つもりであって両者ともに国家を盛り立てて国民の幸福を目指しているところも似ているのではないか。国家や国民あっての右翼と左翼の対立であって、要するに政治的な方面で立場の違いがあるわけだ。では世界が統一されて国家も国民も消滅すれば、右翼も左翼もいなくなるだろうか。そうなれば両者ともに真の和解に至り、民族主義者として一つに合流するのではないか。そして日本民族の利益を守るために地域政党のような徒党を組むかもしれない。という冗談を真に受けられない現状の対立があるわけだが、それでも両者の共通点を指摘して、無理にでも両者ともに批判しなければならないような気がするわけで、そうしておかないと現状の閉塞状況を打開できないだろうか。対立を煽るよりは解消したほうがいいことははっきりしているのだろうが、解消されては両者ともに立場が曖昧になってしまって困ったことになり、その存立基盤を失いかねないと思われるから、無理にでも対立を煽っているわけで、やはり彼らの弱点はそこにあり、対立している限りでの右翼であり左翼なのだから、その対立を無効化してしまえば、彼らの主義主張も無効となって、彼ら自身の存在理由も無くなってしまうわけで、互いに対する批判も成り立たなくなってしまうだろう。ではどうやれば右翼と左翼の対立を解消できるだろうか。たぶんそれが現在進行中の国家の形骸化作用なのではないか。国家がなくなれば国家をめぐる政治的な対立もなくなり、敵対する外国がなくなれば、対立を煽れなくなってしまうわけで、国を守るための軍事力もいらなくなって、国防をめぐる対立もありえなくなってしまうだろう。だがどうやれば世界から国家をなくすことができるのか。果たしてそれが現在進行中の資本主義市場経済の世界的な浸透なのだろうか。従来からある解釈では国家と資本は相互依存関係にあり、互いが互いを必要とする限りで両者が栄える関係ではなかったか。現状で両者は対立関係にあるのだろうか。資本の側は軍隊を持たないから、いざとなったら国家が軍事的な暴力によって資本を従えることができそうな気がするのだが、もしかしたら軍産官の複合体などに見られるような両者の癒着こそが、両者ともに瓦解する契機となるのかもしれず、癒着は腐敗を招き、腐敗すれば空洞化や形骸化などの内部崩壊の原因となるのだとしたら、やはりどうも世界は自然と崩壊へと突き進んでいると考えるのが妥当だろうか。そしてその崩壊こそが世界平和という結果をもたらすとしたら皮肉なことかもしれない。


8月18日「現状の困難」

 意識の中では時間が止まっているのだろうか。そういう人も中にはいるのかもしれないが、止まっているのは時間ではなく固定観念に囚われた意識の方か。人々は何に支配されているつもりになっているのか。固定観念に支配されているとは思っていないのだろうが、過去に囚われた固定観念から脱却するのは容易なことではないらしい。おそらく人心が一新されなければならないだろうが、現状でそれは無理らしく、過去に囚われた人たちが幅を利かせているようで、しかも自分たちが護持している思想を若い人たちにも受け継いでもらいたいらしく、そんな人たちの宣伝活動の成果なのか、すでに多くの人たちに受け継がれているようで、ネット上でそんな人たちが結構蔓延っている現状があるようだ。それは鬱陶しいことかもしれないが、国家が延命するにはそういう人たちの存在と活動が欠かせないだろうか。彼らは形式的な行政機としての国家ではなく、国民の思想的な統一を目指しているわけで、国民が一丸となって国家を盛り立てていかないと気が済まないような思想に凝り固まっている。そしてそれは見せかけの姿に過ぎず、実際には国家の形骸化が進行中で、その形骸化に危機感を抱いている人たちが、昔ながらの国粋主義に凝り固まって、国家を盛り立てるために国民の団結を呼び掛けているのが実情だろうか。それが単なる時代錯誤なのか、あるいは結構有効に機能しているのか、現状ではよくわからないが、日々ネット上で隣国との対立を煽りながら反日勢力を罵倒して気勢をあげているわけだ。しかし国家の形骸化とはなんなのだろうか。実際にはどういう風に形骸化が進んでいるのだろうか。それはただ単に人の意識の問題で、世界中の人々がネットで繋がっていて、言葉の壁はあるものの、それほど国の違いを意識しなくなったのではないか。また大企業が国境を越えて活動しているから、国内だけでは事業が成り立たないのはもちろんのこと、国内事情だけでなく世界情勢の影響を直接受けやすくなっていて、昔の東西冷戦時代とは異なって、資本主義市場経済が世界全体を覆っているから、思想的な壁が取り払われて、政治制度の違いがあるにしても、世界各国が政治の力では経済を制御しづらくなりつつあり、政治の力が経済に対して相対的に弱まっているから、国ごとの差異がなくなってきているのではないか。要するに世界中で政治が経済に依存していて、それは昔からそうだったのだが、昔の社会主義国のように、暴力的に経済の制度を変えることができなくなってきたわけで、自国だけでは経済が成り立たないのは昔からそうだったのだが、それがより鮮明になってきて、国民の間に政治の限界が知れ渡ってきたわけで、そういう認識が政治の形骸化の延長としての国家の形骸化が意識され始めたのではないか。

 結局一国だけの政治ではどうにもならないから、アメリカがTPPで、また中国がAIBBで国同士の連携を模索し始めたわけで、それ以前にヨーロッパはEUで一つにまとまることを模索しているわけで、またロシアは旧ソ連の国々との連携を模索しているわけだ。それはなんとか政治の力で経済を制御しようとする表れなのだろうが、現状ではどれもうまくいっていない現状があるわけで、それは政治力の低下とその延長上で、各国の国力の低下を象徴する現象なのかもしれず、今後ますますその傾向が強まっていく可能性は高いのだろうか。それは巨大企業の税金逃れが問題視されていることからも伺えるわけで、なんとかそれらの企業に適切な課税をして、国の財政状態を健全化させたいのだろうし、また自由主義経済の進展から生じる貧富の格差の増大を是正しないと、国民の間で不満がますます高まり、国家を信用しようとしなくなるかもしれず、放置すればそういう方面でも国家の形骸化が進んでいってしまうのではないか。しかし国自体が経済に依存していることは明らかであるわけだから、企業活動を活発化させてそこから得られる税収によって、国家財政を賄っている現実があるわけで、企業そのものを痛めつけるわけにはいかず、そこからジレンマが生じているわけで、放っておけば経済格差から国民の不満が高まるのは必然だから、なんとかそれをごまかさないとならなくなっているのかもしれず、日本ではそのために国粋主義活動を盛んにしているわけなのだろうが、ごまかしはごまかしでしかなく、いつかはバレるわけで、というかすでにバレているのかもしれず、そういう隣国との対立を煽ったり、国内の不満分子を反日勢力呼ばわりしても、そういうことをやっていること自体が不自然極まりないわけで、不自然極まりないことをあからさまにやっているということは、すでに国家そのものが形骸化というか弱体化していることの表れなのではないか。昔は不満分子となりそうな貧困層を海外へ移民として追い出したり、軍事的に侵略した植民地の満州などに開拓団として送り込んだのだろうが、現代ではその手は使えないので、たぶん国家としても政治としても行き詰っているわけだが、別にそうやって国家が形骸化しても、国民の方はそれほど問題はないのではないか。要するに国家に依存しないような生き方を模索すればいいわけで、それが選挙での投票率の低下などの政治的な無関心となって表れているのかもしれず、そうなっては困る人たちはなんとか人々を国家に引きとめようとして、ネットなどで政治に関心を持つように訴えているわけだが、それらの人たちが何か説得力のありそうな国家と資本の矛盾を解決する答えを持ち合わせているわけではないようで、それらの人たちに対する支持も現状ではあまり広がっていないようだ。


8月17日「温度差と認識の違い」

 過去の歴史を自分の立場や主義主張に応じて勝手に解釈しながら、その解釈を使って他人や敵対する勢力を批判することはできそうだ。だがそれが誰に当てはまるにしても、ことさらにそういうやり方をあげつらって批判しても意味のないことだろうか。歴史を後世の人たちが自分の都合のいいように解釈するのはよくあることで、それが自らの主義主張の見え透いた正当化に役立てようとしているとしても、わかっているならそれで構わないのだろうか。それがわかっていない人たちに向けた洗脳の一環であっても、それも良しとしなければいけないだろうか。何をやっても無駄だとは言わないが、過去は過去であり現在でも未来でもない。過ぎ去っていて二度と戻ってこないし、繰り返されることもなさそうに思われる。では過去は何のためにあるのだろうか。過去から教訓を得るためにあるわけか。それもご都合主義的な捉え方だろうか。だが過去を振り返れば何かわかったような気になることは確かだ。そこから二度と繰り返してはならない過ちとしての教訓を取り出すこともできそうだ。ならば現代に生きている人も、生きている人たちが国民として寄り集まっているつもりの国家も、過去の誤った行為から学んで、正しい行いをしていかなければならないだろうか。そして何が正しい行いなのか分かっていれば、人も国家も正しい行いへと向かうことができるだろうか。だが言葉ではいくらでも正しい行いを示すことができるとしても、状況がその正しい行いがなされるのを阻んでいたら、あきらめたほうがいいのではないか。それでもあきらめることはなく、困難な状況の中でも絶えずやろうと試み続けることが大切だろうか。それも言葉ではそう語ることができるだろうが、実際に正しいことを行うのは困難を極めるのではないか。自らが正しいことを主張していると思っているなら、その主張を曲げなければいいだけかもしれない。だが何が正しい行為なのかわからない現状があるとすれば、たぶん何をやったらいいのかわからなくなるのではないか。そしてわからないなりにもやっていることがあるはずで、それをやり続けることしかできないのかもしれず、なんだかわからないがやっていることをやり続け、それでなんらかの結果にたどり着けばいいのだろうが、どこにも辿り着けない場合は、やはり延々とやり続けるしかなく、たぶんそれをやり続けられる限りはやり続けるのだろうし、やり続けられなくなったらやめざるを得なくなるのだろう。だから現状の成り行きからはじき出されない限りは、人は現状の中でやりたいことをやり続けることしかできないのではないか。そして世の中には聞く耳を持たない人が大勢いて、正しいと思われる主張で凝り固まっていて、そこから外れたことをやっていたり主張していたりする人や勢力を、攻撃対象として見なして延々と批判しまくっているわけで、そういう人たちは死ぬまでそうやっているだろうから、死ぬまで放置するしかないのかもしれない。というか攻撃対象以外は相手にされていないのだから、放置するも何もないわけで、下手に関わり合いにならないほうがいいのだろう。

 しかし人はなぜそんな具合に凝り固まってしまうものなのか。現実にそうなってしまう成り行きがあり、そういう成り行きにはまってしまった人が大勢いて、そういう人たちで一つの政治的な勢力を形成しているわけで、たぶん宗教団体とはそういう人たちの集まりなのだろうが、いかにしてそんなふうに特定の政治勢力が形成されるのだろうか。言葉でそれらの勢力を否定したり批判しても、それらの勢力の団結はゆるぎなく、攻撃に晒されれば晒されるほど、ますます団結力が増してゆき、ついには殉教者などが出ても、廃れることはないのだろうから、そのように結集することになんらかの強力な魅力を感じるわけで、その魅力に魅入られて、人には集団で宗教的な結束を示す特性があるわけだ。それ以上のことはよくわからない。ただ紋切り型的な主義主張に凝り固まっていることをそれらの人たちは自覚しているのだろうか。攻撃対象を攻撃するのに気を取られていて、そこまで頭が回らないのだろうか。たぶんそれらの人にとってその主張はありふれた紋切り型という否定的な性格のものではなく、肯定すべき正しくまっとうな主義主張なのではないか。むしろそれを嘲笑したりバカにしたりするほうがおかしいのであって、そういう輩こそが邪悪な思想に洗脳されていることになるのではないか。そしてそんな思い込みに心を支配されてしまうと、もはや後戻りができなくなって、死ぬまで特定の主義主張に心を支配されたままとなってしまうのだろうか。中には激しく弾圧されることで心変わりがして、変節してしまう人も出てくるのかもしれないが、大抵の人は命がけで自らが信じている主義主張を守ろうとするのではないか。そういう人たちが固定的な支持層として政治的に利用されているとしても、当人たちは利用されているだなんてこれっぽっちも思っていないわけで、逆に自分たちの指導者を命がけで盛り立てようとしているわけで、自分が犠牲になることで主義主張が守られるなら、喜んで命を投げ出す心構えまでしてしまう人まで現れるのかもしれず、そうなるともはや通常の精神状態とは言えず、狂信的な信者という定義になるのかもしれないが、そうまでして凝り固まるのは、人の精神構造の中で何かそういう働きをする機構があって、いったんそのスイッチが入るとそうなってしまう装置が、脳神経組織の中に神経回路として内蔵されているとみなすしかないのかもしれない。そんな説明以外で何か納得できる構造が人間社会の中に備わっているのだろうか。それは集団催眠といった類いのものだろうか。心理学者の類いが言いそうなことかもしれないが、その種の専門家がそうした洗脳を解くことができるとしても、果たしてそれを洗脳とみなしていいのかどうか。人は他者と対立して争いたい性質があり、しかも協力者と連携して徒党を組んで争いたいのであり、あわよくばその徒党を指導する立場となって思い通りに動かしたいのであり、そういう支配欲と独占欲がそれらの徒党の中には渦巻いていて、派閥争いや内部抗争が断続的に繰り返されながら、その外部でも様々な徒党が離合集散を繰り返しているのが人間社会のありうべき姿なのだろうか。それらの徒党をおしなべて狂信的な宗教教団と断じるわけにはいかず、徒党ごとに様々に性格が異なり、結束の程度や温度差もいろいろありそうだ。とりあえずそんな認識でいるのが無難なところかもしれない。


8月16日「原因と結果の取り違え」

 別に思い違いをしているわけではない。人は他から必要な物や情報を奪ってこないと生きて行けない。ただで手に入らないものは買ってくるしかない。買うためには金銭がないと買えず、金銭を得るには何かを売らないと得られない。ただで金銭を得られたら売る必要はないわけだが、なかなかただでは手に入らないのが金銭だ。そしてそれが社会の基本的なルールとなっている物や情報や労働の売り買いの仕組みを、簡単に変えることはできないし、変えるわけにはいかないのだろう。だからそこから話を始めてもどうなるわけでもなく、まずは物や情報や労働の売り買いを前提として、どう売ったり買ったりすれば自分に有利に働くかを考えるべきなのだろう。要するにそこから先はいかにして金を儲けるかの話となってしまう。そしてその金儲けを否定するわけにはいかないとすれば、人道主義的な人間の尊厳とかいう価値観も、金儲けが成り立つ範囲内でということになるしかない。そうなると金儲けが成り立たなければ、人間の尊厳もへったくれもなくなってしまうこととなり、儲けるための搾取が当然の行為として行われるわけだ。結局ヒューニズム的なきれいごとを言うには、まずは金儲けに成功して裕福になってからということになり、慈善事業に多額の寄付をするには、いかにして金を儲けるかという話となるわけだ。そこに社会の基本的なルールである物や情報や労働の売り買いの不条理があり、その不条理を突き詰めて考えていくと、結局は金儲けという行為に行き着くだろうか。金儲けのやり方に制限や歯止めをかければ、搾取などの非人道的な行為がなくなるかのように思われがちだが、それはあからさまな奴隷労働などが罰せられるだけで、魅力的な商品が高く売れて高収益を出すのを止めることはできない。結局そこから貧富の格差が発生するわけで、汗水垂らしていくら働いても、低賃金しか得られない労働を余儀なくされている人々は貧乏になるしかなく、有り余る資金を確実な投資に回せる人たちには、黙っていても大金が入ってくるわけだ。またプロスポーツ選手のように試合に勝ったり好成績をあげると多額の収入を得られる仕組みなどは、そこからも貧富の格差が生じているとしても、誰も否定しようがなく、それを言うなら映画俳優やテレビタレントやベストセラー作家などもその類いだし、彼らの労働によって作り出されるものが、高収益を上げられる魅力的な商品なのだから、そのような商品の販売を禁止することはできないわけで、そういう次元での金儲けのやり方に制限や歯止めなどかかるわけがなく、なんらかの競争に勝ち上がった一握りの成功者とは無縁の、魅力のない低賃金労働を強いられている人たちは、そんな仕事をしている時点ですでに社会的に差別されているわけだ。

 また高収入を得られる人たちは、自分の子供たちの教育に金をかけられるから、その子供たちも高学歴になって高収入を得られる職に就きやすくなり、財産の相続も含めて子供の代になるとさらに貧富の格差が大きくなる可能性があり、戦争のない平和な時代が続き、社会が安定してくると、社会に富裕層から貧困層までの階層構造が生じて、経済的な不平等が増大してくるわけだ。そのような格差社会が生じている原因を、政府の政策のせいにするのは少し無理があるのかもしれず、昨今はなにかと言うと新自由主義的な経済政策がやり玉に挙げられるわけだが、それは原因と結果を取り違えているのかもしれず、格差社会となった結果として、政府のやっていることが新自由主義的な経済政策になっているわけで、新自由主義的な経済政策を推し進めた結果として、格差社会となっているわけではないのかもしれない。社会の中心を担っている人たちが高収入だとすれば、その子孫たちも高収入を得て社会の中心を担うこととなり、中心的な立場を担う役割の世襲化が進んで、高収入の有名人や著名人の子や孫たちの発言力が強くなって、そのような人たちが社会全体を牛耳ることとなるのかもしれない。社会の現状はそうなっているのだろうか。そうなりつつあるわけか。この先何らかの変動によって下克上がなければ、さらなる経済格差の進展によって社会的な身分の固定化が進むのだろうか。たぶん物や情報や労働の売り買いという社会の基本的なルールが崩壊しない限りは、そうなる可能性が高いのかもしれないが、その一方で社会の基本的なルールが崩壊する可能性もあるのかもしれず、もしかしたらそれは高収益をあげる商品の魅力がなくなっていく可能性なのではないか。具体的にはメディア一般が提供する娯楽に興味がなくなっていく可能性であり、それらがつまらなく感じられると興味がなくなり、興味がなくなってくると関心がなくなってきて、人々の関心を買わなくなってきたものは廃れる傾向にあり、結局生活必需品以外の商品は、興味を引かず関心を持てなければ買わないし、買わなければ売れないから、売れない商品は世の中から消えてゆき、その商品を売ることで生計を立ててきた人たちも、廃業したり転職しなければならなくなるわけで、そういう贅沢品と言われる生活必需品以外の商品が、今までは高収益を上げてきて商品だったはずで、逆に生活必需品はどんどん安くなって、利益が出にくくなる傾向にあったのではないか。そして利益が出なくても人が生活していくのに欠かせなければ、生産し提供して行かなければならず、最悪の場合は配給制にしてでも提供するようになれば、結局は必要なだけ生産して必要なだけ消費するようになるしかなく、そうなってしまうともはや物や情報や労働の金銭を介した売り買いのルールが崩壊するだろう。


8月15日「民主化の条件」

 国は侵略戦争によって建国される。イスラム国も建国してなお侵略戦争の真っ只中だ。一応はイラクからシリアかけての一帯を勢力圏においているのだから、もはや国家とみなして構わないわけか。そういえば日本の建国神話は、神武天皇による大和地方への侵略戦争によって建国されたことになっていたはずだ。果たしてイスラム国以後にも侵略戦争によって国家を建国する勢力が現れるのだろうか。それはその時の状況にもよるだろうが、地球上にはもはや侵略する土地がほとんどないこととは無関係かもしれないが、月や火星へと植民するような計画もあるらしいから、今度は宇宙に向かって侵略戦争を開始するのだろうか。戦う相手がいなければ戦争とはならないが、すでに地球外生命体によって地球が侵略されているというオカルト話もあるぐらいだから、スターウォーズのような宇宙戦争とかになったら、何か夢のある話となるかもしれないが、映画の中だけの話だろうし、あまり本気で考えるようなことではないのかもしれない。現状ではイスラム国や原理主義的な武装組織以外で、表立って侵略戦争をやっている勢力はなさそうで、侵略戦争をする明確な理由がないことが、そのような兆候を示しているわけだが、それは前世紀の二度の世界大戦以来一貫している兆候なのではないか。あと懸念されるのは民主化されていない独裁国家や王国などが、その国にいる民衆などによる民主化要求から内戦に至るケースぐらいかもしれず、シリアなどのように内戦がこじれて収拾がつかなくなった時に、各国の軍隊が現地に行って内戦の終結と治安維持に当たる場合がありそうだが、そのような時に日本の自衛隊も国連やアメリカがらみで駆り出されることがあるのだろう。そうやって世界中のすべての国が民主化されれば、それで戦争もおしまいだろうか。これまでの歴史的経緯からすると、そんな成り行きになりそうな気もするのだが、必ずしも世界が民主化に向かっているわけではなく、まさか過去の王政や独裁体制へと逆戻りするような事態へと向かうことがあるのだろうか。時間が過去から未来へ一方方向に進んでいるわけだから、過去への逆戻りはあり得ず、民主化とは違うなんらかの独裁体制が、一時的に築かれるにしても、これまでに人類が経験してきた独裁体制とは違い、今までになかったような体制となるのではないか。それがどのような体制となるかは、今この時点では分かりようがなく、たぶんそうなってからでないとわからないのだろうし、あるいは誰も気づかないような独裁体制というのがあるのだろうか。また陰謀論的にもうすでに世界の大半の人たちは洗脳されていて、イルミナティとかの秘密結社に支配されていたりするわけか。誰にも気づかれないように、表向きは民主体制のような独裁体制となっているとすれば、それもそれで抵抗する手間がかからずに楽なことだとは思うが、たぶん本気でそう思っているわけではないのだろう。

 なんだか語り始めから冗談くさくなっているようだが、物や情報を売ったり買ったりする資本主義市場経済が今後どうなるかで、戦争の動向もどうなるかが決まるだろうか。欧米諸国で始まった植民地獲得競争が近代の戦争の原因だったことは、はっきりしているように思われ、要するに国を富ませるための経済的要因が戦争を招いたわけで、実際に今世界で紛争となっているのも、経済的に貧しい地域であり、戦争が経済の破壊をもたらしているから、貧しくなっていることは確かなのだが、経済的に豊かな地域では戦争は起こりにくいわけで、第二次世界大戦もそれ以前の世界恐慌が引き金となっているわけだから、経済的な動向と戦争との因果関係からすると、やはり今後も経済状況が世界的に悪化してくると、戦争に活路を見出す国が出てくるのだろうか。しかし活路を見出すとは具体的にどうするのだろうか。まさか理由もなしに隣国へ攻め込むわけにもいかないし、戦争の大義名分というのが果たして見るかるだろうか。領土紛争なら紛争となっている地域限定であり、それ以上に侵攻する理由はないように思われ、紛争となっている領土を奪えばそれでおしまいとなるのではないか。日本の場合だと地下に資源が眠っていようと、絶海の孤島でしかない尖閣諸島をめぐって中国と全面戦争をやるような危険性があるわけか。そんな危険性を指摘するのは冗談が過ぎるように思われるが、小規模な武力衝突ぐらいなら何かのきっかけでありそうだが、それ以上に事態が進むとは考えられない。例えば中東で最大の国力を誇るサウジアラビアで民主化要求運動でも起こり、事態がこじれて他の湾岸諸国も巻き込んで内戦状態にでもなれば、第三次世界大戦のような大規模な戦争へと発展する可能性があるだろうか。そうなると日本もアメリカか国連の要請を受けて、自衛隊を戦地に派遣する事態にでもなるのだろうか。そうだとしてもそれは侵略戦争とは違う種類の戦争になるしかないのではないか。もちろん戦争になる以前に民主化要求は押さえ込まれる可能性の方が高いだろうし、石油や天然ガスなどの資源確保のためにアメリカをはじめとして世界各国が、戦争にならないような外交努力を行うのではないか。実際にサウジでは今のところは民主化要求が押さえ込まれているのだろう。そしてエジプトでもシリアでも民主化要求運動が失敗に終わっているわけだから、中東での民主化はまだ道遠しといったところで、石油資源でも枯渇して用済みにでもならない限りは、民主化よりも国の政治的な安定が優先されるのだろう。そして民主主義よりも経済が優先される傾向は今に始まったことではなく、国の支配層や企業が経済的に安定して収益を上げている前提で、そこで初めて民主化の選択肢が出てくるわけで、それらの支配層を構成する勢力の立場が危うくならない限りで、一般の人たちにも選挙で投票する権利が与えられ、支配層の立場が危うくなる危険性のある国では、民主化はありえないのではないか。


8月14日「平和への道」

 現状をこうだと決めつけても、確信を持てないとなると、それはいい加減で根拠の薄弱な決めつけでしかないだろうか。現状に対する認識に確信を持てないまま、やはり現状について何かを述べようとして、あれこれ考えをめぐらしてみるが、現状の何がおかしいとも思えず、極めて自然な状況の推移を感じていて、別に何がおかしいとも思えないのではないか。何か通常とは違うことが起こっているわけでも行われているわけでもなく、当たり前のことが当たり前のように行われているだけかもしれない。そしてそれについて何か違和感を抱いているわけではなく、ただ普通に接していて、興味がなければ傍観している。そこではそんなことが繰り返されているのかもしれないが、そことはどこなのか。この世界の全てがそうなっているのだろうか。そんなことはわかりきっているのではないか。何もわかっていないのにわかっているふりをしたい。それだけのことなのだろうか。何かを知っていると信じたい。それが信じられないのだろうか。例えば世界中で原発が稼動中なのだから、日本だけ止めて見ても意味がないか。それでもまずは日本だけでも止めないと、他でも原発を止めようとしている国もあり、実際に原発を止めた国もあるのだから、そういう国の人々と連帯する意味でも止めないとならないだろうか。実際に反対運動している人たちは止めようとしているわけだ。止められるかどうかはわからないが、止めようとして反対運動をしている。別にそれの何がおかしいとも思えず、実際に事故が起こって多くの人が迷惑を被ったわけだから、それが極めて自然な状況の推移なのだろう。別にそういう運動自体に違和感を感じているわけではない。だが一方で原発を再稼動させたい勢力があり、原子力産業に携わっている人たちや、その恩恵を受けてきた人たちはどうしても原発を再稼動させて、早く元どおりに産業を立て直して、以前のようにそこから恩恵を受けたいわけだ。これも極めて自然な状況の推移だろうか。そして原発に反対する勢力が政治的に優勢になれば、原発を止める方向に状況が推移するかもしれないが、現状では原発を推進している勢力が政権を握っているので、実際に再稼動にこぎつけたわけで、再稼動した原発に不具合や故障や事故などが何も起こらなければ、さらに多くの原発が再稼動するような成り行きとなるのかもしれず、この先どうなるかは今後の状況次第なのだろう。原発に反対している勢力が政治的に勝利して政権を握るか、また巨大地震でも起こって取り返しのつかない事故でも起これば、原発を止められる可能性が出てくるということか。そんな当たり前の予想が何の役に立つとも思えず、それが今後に起こる可能性の全てだとも思えないが、普通に思いつくのはそんなことでしかなく、どうせそんな当たり前の予想など外れて、思いがけない結末が待っているのだろう。

 これから何が起ころうとも、実際に体験することの中には、思いがけない出来事が含まれるのだろう。予想通りとはならないのだろうし、予想通りだと感じても気づいていないこともあるのかもしれない。また思いがけない出来事に期待しても裏切られるだけで、期待が忘却に変わった頃に、不意打的に思いがけない出来事が起こって、期待を裏切る形でそれが起こるので、落胆したり不快に感じたりするわけだ。だがそれが何を意味するわけでもなく、自意識とは無関係であったり、まったく無視されているように思われるので、腹立たしく感じられることもあり、そんなことが重なると何もかもがうまくいっていないように思われ、精神的にうつ状態となって、ひどく落ち込んでしまうのかもしれないが、それでもそんなことはなんでもないのかもしれず、現状に対する勘違いや思い違いの一部でしかないのかもしれない。そう思っている時点で内面的な世界で思い込みのフィクションと戯れながら、独りよがりの悪循環に陥っているのかもしれず、身の回りの現実を把握できなくなっているのだろうか。そうであったとしてもなお構わないのかもしれず、それでも生き続けている限りは、絶えずなんらかの出来事に遭遇し、それに対処するために何かやっているわけだ。過去の対処の不手際を今更反省しても遅く、今対処していることで精一杯で、現実に対する精一杯の対処に追われているうちに、時が無情に過ぎゆき、気がつけば何もかもが終わっていて、もう手遅れなのかもしれないが、それでも生き続けている限りは、巻き込まれている現象の中で現実に対処しながら何かをやっている。それがやっていることの全てだとは思いたくないが、それ以外に何ができるだろうか。将来の可能性を模索しながら、都合のいい未来でも妄想しているわけか。来たるべき世界はいつもご都合主義的な理想との落差から生じるものだろうか。将来へ希望の持てる社会を構築するために、人々は今を生きながら絶えず善処しようとするわけだが、その善処の仕方が人によっても、その人が所属する勢力によっても違ってきて、対立しあう人や勢力では正反対のことをやろうとする傾向にあり、それが様々な問題や紛争を引き起こしているわけだが、その対立を利用して自らや所属する勢力の利益を確保することが、さらなる問題や紛争を引き起こして、そういうやり方の累積が最終的には戦争へと至らせるのかもしれず、結局はそのような対立の解消こそが、社会の中で生きている人々に課せられた課題であり、知恵を絞って対立を解消しようとする努力の積み重ねが、戦争を回避して平和をもたらす唯一の道なのだろう。


8月13日「過剰反応」

 なんでもないことではないのだろうが、何を考えようと、それでどうなるわけでもないことは確からしい。現状に対する不信感が根強いのだろうか。全ては形骸化の途上にあるように思えてくるのだが、何が全てだと定義できるわけもなく、ただ漠然と社会全体がそうなりつつあるように感じられるだけだろうか。その辺は人によって立場によって感じ方が異なるのかもしれず、一概に自分が正しい認識を保持しているとも思えず、ただの気のせいだとするならその通りなのかもしれないが、気のせいだけでは済まされない成り行きの中にでも、その身を投じているのだろうか。自身が何かの成り行きの中にいることは確かなのだろうが、その成り行きに関心が持てない現状があるのかもしれない。メディア的な関心事から思考がずれていることは確からしく、そこで論じられていることを真に受けることができない。何か冗談のようなことが論じられているわけなのか。そう思われてしまうのだから仕方がないのかもしれないが、たぶん論じている人たちが真剣に論じているわけで、状況によっては危機感さえ抱いているわけで、いつものようにこのままでは日本が危ないと主張している。それが冗談のように思われてしまうのはなぜだろう。別に日本も世界も危なくはないということか。地域的には戦争も起こらずに平和なのかもしれないが、中東やアフリカなどの紛争地域では、テロや戦闘行為や武装組織による残虐な拷問や処刑行為などによって、毎日大勢の人が死傷しているわけだ。だがそれとこのままでは日本が危ないとする主張とどう結びつくのか。日本はいつそれらの紛争に巻き込まれるのだろうか。安保法案が国会を通過して、自衛隊が彼の地へと平和維持活動に出向くと巻き込まれるわけか。たぶんそういう危険性があるから、このままでは日本が危ないということなのだろうが、それが何かの冗談ではないことは確からしいが、危機感を煽っている人たちは、そこから憲法改正へと事態が進み、平和憲法が踏みにじられて、日本が昔のような軍国主義国家になると懸念している人もいるわけで、それも冗談ではないということなのだろう。でも今のところはそこまで事態が進展するかどうかはよくわからず、先行き不透明な情勢なのかもしれないが、そうなっては困るから危機感を煽っている人たちは、真剣にそれを論じているわけで、政府与党のやり方に抗議するために、デモや反対集会などを開いているわけだ。その他にも原発の再稼動やTPPや米軍基地などの反対運動も一緒になってやっているのだろうが、それらの反対運動が功を奏して、果たして現政権を倒すに至るのだろうか。それを目指して反対運動をやっているわけだろうが、別に現政権を倒せなくても構わないような気がするのはなぜだろうか。

 政権を握っている勢力もそれに対抗しているつもりの勢力も、どちらのやっていることも冗談としか思えないから、どちらがどうなろうとどうでもいいのだろうか。どうでもよくはないのだろうが、どちらのやっていることも効果を上げているとは思えないから、どちらでも構わないわけか。でも彼らは今やっていること以上のことはできないのであり、それ以外のやるべきことも見当たらないのかもしれず、別に考えあぐねて途方に暮れているわけではないのだろうが、やはり手詰まり感を拭えないように見えてしまう。しかしそれでも彼らなりに真剣に精一杯やっているつもりなのだろうから、そういう面では救いようがないのかもしれない。頑張っているようだが能力の限界が見えているわけで、それを超えるような力の発揮を期待するわけにはいかないのだろう。しかし現実に彼らがやっていること以外に何をやったらいいのだろうか。反対運動している人たちは反対することだけで手一杯だろうし、反対されている側は反対されながらも、それを押し通そうとすることで手一杯なのだから、他に何もやりようがないのではないか。だから何もやれないし、別に何もやらなくてもいいのかもしれない。それ以外の人たちがそれらとは関係のないことをやればいいわけで、実際にやっているのかもしれないが、メディア上ではそれほど話題となっていないだけなのかもしれず、特にそれに関心を寄せるほどのことでもないのかもしれない。要するに社会が形骸化しているように感じられるのは、偏向したメディアの話題ばかりに接しているからなのか。個人が世の中の全ての領域を体験できるわけではないので、自然とメディアから受け取る情報でしか世の中の動向を感じ取れなくなっていて、自分の好みのメディアばかりから情報を受け取っていると、さらに偏向した世の中の捉え方となってしまうのだろうし、そこから何か単純化したスカスカの思考が形成されてしまうのかもしれず、世の中の話題ばかりに気を取られていると、自分自身の意識が形骸化して、複雑な思考ができないようになってしまうのかもしれず、すぐに物事を単純化して受け止めて、賛成だの反対だの表明してしまいがちになってしまうわけだが、たぶん大して関心もないのに賛否を強要される筋合いはないのかもしれず、大騒ぎするような過剰反応はしないで、普通に気軽にメディアからもたらされる情報に接した方がいいのだろうし、このままでは日本が危ないなどと大げさに深刻に考えずに、まだ現状が危なくなる前の段階であることを自覚した方がいいのではないか。深刻に考えてしまうから、選挙で投票しづらくなってしまうのかもしれず、誰が当選しようと世の中は大して変わらないと思えば、軽い気持ちで候補者へ投票できるのではないか。


8月12日「現実と虚構の狭間で」

 事の成り行きは誰にとっても予想外の展開となるだろうか。でもおもしろければそれでいいのではないか。少なくとも気晴らしにはなりそうだ。そしてそんなことはありえないと思い、目が覚めて意識が現実に戻るわけか。夢でも見ていたのだろうか。夢ではなくネット上で起こっていることでしかないのではないか。ネット上に何を書き込んでも無駄だとわかっていながら、なおもそれをやめない人が多い。その人にとってはネット上が夢の中なのだろうか。そんなはずがないのに、他の誰かと同じようなことを思っているつもりで、その架空の誰かと連帯しているつもりになれるわけだ。でもそれは現実の世界でも同じことで、多くの人たちと連帯して何かをやっているつもりになれるのかもしれず、そこに助け合いの共同体のようなものが生まれているはずで、その存在をネット上のメディアが伝えているのではないか。そしてそういうことが行われているのが世の中であり、社会なのだろうか。そう思っていればいいわけか。誰も本当のところはわかっていないのかもしれず、ただ全ての人が直接社会に関わっていることは確かなのだろう。誰もが架空の存在であると同時に現実の存在なのだろうか。果たして架空と現実の区別がつくのだろうか。何かを語っている時が架空の存在で、実際に働いている時が現実の存在なのか。どちらも現実なのだろうが、意識の中では架空の存在なのではないか。そしてネット上で何かを語っているつもりでいる時も架空の存在なのだ。言葉の中だけの存在でしかなく、画像や映像もフィクションの一部だ。だから勝手なことが言えて、画像も映像もコラージュできるわけで、そうやって思いのままに振る舞おうとして、意識が現実から虚構へとずれながらおかしくなっていく。そしてそのおかしさに気づかない人がほとんどなのではないか。もうその時点で誰にとっても予想外の展開となっていて、虚構の中で世界を動かそうとして、無駄な努力に明け暮れているのだろうか。それが無駄だとは思えないわけで、実際に言葉や画像や映像を用いて何かを伝えることで、世の中になんらかの影響を与えていると思いたいのだろうが、たぶんそれが思い過ごしだとは思えないわけで、実際に情報発信している人たちが、ネット上から世の中に影響を与えていることは確かなのだ。それも一つの影響の与え方ではあるわけだが、それが現実の変革に結びついているのかというと、ネット上から一般の人たちが情報発信していること自体が、現実の変革そのものなのだろう。一見効果がないように感じられるが、効果が感じられないような変革なのかもしれない。要するにそれがどうしたわけでもないと思いつつも、とりあえず気にはなる程度のことなのだろう。

 人が感じ取れる現実とはそういうものだろうか。その程度の現実の中で意識が存在していて、その意識を当てにしてネット上で情報発信しているわけだ。だからその程度だと思うしかないわけか。その程度で済むならその程度で構わないわけで、それ以上を求めないのならその程度で済んでしまうわけだ。中にはそれ以上を求めて、現実の世界で確かな感触を得るために行動する人もいるのではないか。そういう人たちが多ければ、現実の世界もなんらかの変革を被るのだろうが、ネット上で間に合ってしまう人が多ければ、それはネット上だけの影響にとどまるだろうか。どちらでも構わないのだろうし、実際にどちらでもなんらかの変革を被っているのではないか。新たな情報発信と交換の場が増えたわけで、そこで何かやっている人たちがいるわけだ。そしてそれをその程度のことだと思えば、その程度のことで済んでしまう場合もあり、その程度では済まない場合も中にはあるのだろう。例えば政治的な現状がその程度では済んでいないことの証しとっているのだろうか。現政権に対する反対運動で盛り上がっているように感じられるのも、ネットを通して感じられる錯覚や偏見であって、実際はそうでもないのだろうか。別にそれが錯覚や偏見であっても構わないのだろうが、実際がどうであれ、ネット上で盛り上がっているように感じられるなら、ネット上ではそう思っていればいいわけで、ネットを離れたらそうでもないように感じられたら、そういうもんだと思えばいいのではないか。要するにその程度のことであり、そう思っている限りはその程度だと思い込んでいればいいわけで、それ以上でも以下でもないはずで、その人が生活している範囲内ではそういうことでしかないわけだ。そしてその実感のどこまでが現状を反映していようと、その全てが虚構であるわけでも現実であるわけでもないのであり、言葉や画像や映像の範囲内では作られた虚構かもしれないが、実際に人が動いて世の中が回っている範囲内では現実なのだろう。だからそれはそれとして混同することもないわけで、使い分けていることもなく、連続して虚構と現実が繋がっているわけで、現実から虚構の言葉や画像や映像へと、ひとつながりの世界が自らを含んで目の前に展開されているわけで、それが絶えず予想を超えているかどうかは、その人の感じ方次第かもしれないが、世界全体は人の行動範囲よりは広範囲に広がっているわけで、人が感知し得ないところから人が感知し得る範囲へと影響が及んでいるのだから、そういう面では人の想像を超えているわけで、だから思わぬ出来事や現象に遭遇するのであって、それを体験できるから世界が面白いと感じられるのではないか。ともかく生きて意識がある限りはそれを体験するのだろうし、ネット上でも体験しているつもりになれるわけだ。


8月11日「判断ミスの原因」

 今と昔では何も同じではないということはあり得ないだろうが、何かが違うことは確かなようだ。人はその違いを感じ取れないのだろうか。たぶん感じているはずだが、使っている言葉が昔ながらの使い古された概念を伴っているから、何か現状を説明するとなるとしっくりこない面がある。しかしこれから何を説明しようとしているのか。何かしら語っていれば何かを説明していることになるだろうか。では何を語ろうとしているのか。人々は自己同一性についてどう思っているのだろうか。自分を何と同化させたいのか。民族と同化させたいのか、あるいは国民と同化させたいのか、さらに同じ宗教や宗派に属している人々と同化させたいのか。それと自己同一性の問題とは違うのだろうか。そもそも自分が何者であるかなんて知る必要があるのか。とりあえず日本国籍を取得していれば、アイヌ人であろうと沖縄県民であろうと在日韓国朝鮮人であろうと、日本国民であるわけだが、別にそのこと自体に問題があるわけではない。日本国籍を取得してない人は外国籍の人であり、それでも日本に住める条件を満たしていれば住んでいられるようで、それもそれで特に問題があるわけではない。何か住める決まりのような法律があり、それを守っていれば住んでいられるわけだ。たぶん他の国でも外国人が住むための法律の類いがあり、それを守っていれば住んでいられるのだろうし、その国の国籍を取得できるような法律もあり、取得できる条件を満たせば、その国の国民になることもできるはずだ。要するにその国の国民であるかどうかは、法律的な性質のものであり、個人の自己同一性の問題とは少し違うのではないか。生まれながらにその国の国民である場合に、何か勘違いのようなものが生じるのだろうか。例えば国を守るという思いには、何か法律的な概念とは違った感情のようなものが入り込んでくるわけか。自分たちとは生活習慣や考えの違う人たちを、敵とみなして排除しようとする感情が、どこまで厳密な差異に基づいているのか、どうもその辺に曖昧な思い込みに基づいた自己同一性が潜んでいて、彼らが定義する日本人という存在が、どこまで正確な同一性に基づいているのか、改めて問うとよくわからなくなってくるのではないか。彼らはもとから同じではなく、彼らの価値観に基づいた日本人という存在に、ひたすら同一化しようとしている限りで、自分たちが真の日本人だと思いこめるわけで、そのような同一化への努力を怠っている人たちは、彼らにとっては敵であり、反日日本人として敵視しているわけだが、果たして他の日本人も彼ら独自の価値観に同調する義務でもあるのだろうか。もちろんそんな私的な価値観に同調する義務などありはしないのだろうが、彼らにとってそれは私的などではなく、先祖伝来の公的な価値観だと思い込んでいるわけで、たぶんそこから生じる一般の人たちとのギャップが埋めがたいのだろう。

 日本人と日本国が結びついたのはそんなに古い時代ではなく、たぶん明治維新以後だと思われるのだが、それも西洋から導入した国民国家の価値観に基づいているわけで、日本古来の伝統とは違うのかもしれない。実情としては西洋の国民国家からの侵略から国を守るためには、日本も西洋式の国民国家とならざるを得ず、西洋式の法律や社会風俗や産業などを導入して、近代化という名の下に日本も西洋式の国民国家となろうとしたわけだが、外国に対してはそれでいいとしても、急激な西洋化には国内の反発が起こるわけで、だから国内向けには西洋に対抗するために日本独自の価値観や伝統を作らなければならなかったのだろうし、日清日露の戦争に勝利した頃から西洋の猿真似を嫌う自尊心も芽生えてきて、夜郎自大と言わないまでも、傲岸不遜な精神の温床として、神国日本の神話が人々の間に広まってきたわけで、軍国主義的な性格を強める政府も、人々を洗脳して支配するための道具としてそれを使い、敗戦とともに嫌な思い出として残ったわけだ。だから一部の人たちが靖国神社などへこれ見よがしに参拝したりすると、軍国時代の不快な歴史的な記憶が蘇ってきて、多くの人たちが嫌な思いになるわけで、それは決して自虐史観などではなく、実際に治安維持法などによって自由にものを言えない時代があったわけだから、仕方のないことなのだが、なぜ当時はそのような時代になったのかも、それなりの必然性があったわけで、ただその時代の軍国主義を否定すればいいわけではなく、そのようになるべくしてなった必然性を考えてみたほうがいいだろう。それは軍事以前に経済の問題であり、当時の国民国家は外国を軍事的に侵略して植民地を持ち、そこから搾取することで成り立つような国民経済だったわけで、そのための軍国主義であり、まずは北海道に屯田兵を送り込んで開発し、次いで台湾や朝鮮半島を植民地化し、さらに満州から中国やモンゴルへ勢力を伸ばそうとして、その過程で他の国民国家との利害がぶつかって、戦争して勝つか負けるかどちらかとなるしかなかったわけで、結果的に負けて植民地獲得競争を断念することとなったわけだ。そしていつの間にか世界中が国民国家でひしめいている状態となって、昔のような侵略戦争をやりにくくなってしまったわけで、現状では軍事力は建前として国土防衛のためだけに必要とされているわけで、それ以外では災害救助とか国連の平和維持活動ぐらいしか使い道はなく、昔のようなあからさまな侵略戦争に軍事力を使っているのではないことは確かなのだが、アメリカやロシアなどの大国が、その地域の平和を維持するためと称して、実質的には自国の経済的な権益を守るために外国に軍隊を駐留させているわけで、アメリカの同盟国の日本の自衛隊も、平和維持活動と称しながらも、アメリカの権益を守るために協力させられているとも言えるのかもしれず、その辺をどう捉えるかで、日本の現政権のやっていることやこれからやろうとしていることに、賛成なのか反対なのか意見が分かれるところなのだろう。そして果たしてこれからアメリカの世界に対する影響力が低下していくと予想するなら、日本がどこまでアメリカについていくのかも、ある程度影響力が低下したところで判断を迫られるのではないか。日本の右翼はアメリカの影響力の低下よりも、中国が内戦によって崩壊することを期待しているのかもしれないが、その辺も下手に期待しながら予想すると判断を誤るもととなり、すでに同じように第二次世界大戦で判断ミスをしていたわけで、あまり期待と予想と判断を結びつけるものではないのだろう。


8月10日「程度の問題」

 この世界では何が繰り返されているのだろうか。国家による侵略戦争が繰り返されているわけか。それは内戦が続いているシリアやイラクや、ロシア系住民の多いウクライナ東部以外ではあり得ないことか。例えばチベットやウイグルなどの民族紛争は中国の国内問題だ。要するに国家が戦争によって侵略できる土地が、地球上ではもはやほとんどないのだろう。では他に何が繰り返されているのだろうか。アメリカや中国やロシアやインドやEUなどの複数の大国が、世界の覇権を握るためにその傘下となる同盟国を募っているのだろうか。どうもそれも違うような気がするのだが、それらの国の首脳たちや官僚たちはそう思っているのかもしれない。少なくともアメリカと中国とロシアは対立関係にあり、すぐに戦争になるような状況にはないにしても、中国による南沙諸島の占有やロシアによるクリミア半島の占有などには、アメリカをはじめとしてその同盟関係にある国々が非難したり、ロシアに対しては経済制裁をやっているはずだが、だからといって国交を断絶したりしているわけではなく、各国の首脳は互いに絶えず連絡を取り合っていて、交流が途絶えているわけではないから、今後とも大国同士で大規模な軍事衝突が起こる可能性は低いだろうし、懸念されているのはそういうことではないわけだ。では世界では何が懸念されているのだろうか。テロの脅威だろうか。でもテロで大国に勝てるだろうか。一時的な混乱ぐらいなら起こせるだろうが、それが限度だ。戦争やテロなどの暴力による脅威はそんなものでしかないのではないか。むしろ世界が直面しているのは暴力の脅威などではなく、何の脅威でもないのかもしれない。では直面できる脅威や危機がないのが問題なのか。そもそも国家とは絶えず外部や内部からの脅威や危機に直面している限りで、国家としての体裁を保っていられるのではないか。要するに国家を脅かす敵がいないとまずいわけで、敵がいなければ国民が国家の下に結集して、一致団結して敵と対峙する必要がなくなってしまい、団結しなければ国民としてのアイデンティティを保てなくなる。だから国家主義者は些細な差異を見つけてはすぐに敵を特定して、その敵とみなした相手を攻撃口調で非難し始める。それが国家が国民にもたらす特性であり、その特性が有効に機能している限りで、国家が世界に存在できるのかもしれない。要するに世界に国家の敵がいなくなった時点で、国家は世界から消滅してしまうのかもしれず、世界平和こそが国家にとっての最大の脅威なのではないか。そういう意味では日本の国家主義者が世界の恒久平和を目指す憲法9条を忌み嫌う理由がわかるだろう。現状では隣国の韓国や中国をなんとか敵として特定して、国内の左翼や在日韓国朝鮮人の人たちも反日勢力とみなして、それでなんとか日本という国家の存在意味や意義を保っていられるが、はたして永遠に国内外の敵が存在してくれるだろうか。

 敵がいなくなったら絶えず敵を作り続ければいいわけで、北朝鮮や在特会のようにわざと嫌われるよう行為をやり続ければ、おのずから敵が敵として存在し続けるわけだが、それはまかり間違えば自滅するような危険性がないだろうか。もちろんそれは程度の問題で、日本の国家主義者たちの安全弁は日米同盟であり、強力な味方とともに敵に立ち向かうことで、自らが孤立してしまうのを避ける意図があるわけだが、はたしていつまでもアメリカが味方として振舞ってくれるだろうか。アメリカに日本を利用しようとする意図があれば、その限りで味方のふりをしてくれるだろうが、日本の国家主義者たちの方も、いつまでもアメリカに頭が上がらないとなると、自尊心が傷つかないのだろうか。というか在日米軍などの問題で、国民の自尊心が傷ついている現状があるわけで、国の首脳がアメリカの忠犬ポチのような態度でいると、そのような態度の国家主義者は逆に売国奴と罵られるようになるのではないか。それを抑え込むために中国脅威論があるわけだが、中国とアメリカを天秤にかけて、アメリカ側についていた方が得だという日和見主義が、天皇主義を掲げる神国日本精神を汚していないだろうか。その辺も程度の問題で、ある程度はご都合主義的な態度でいないと、現状と折り合いをつけられないわけで、靖国神社などへの参拝も、支援者を引きつけるための方便としての行為なのだろうし、本気で神など信じていないのかもしれず、神事としての行事とか儀式という性質上、論理的にはっきりと物事の白黒をつけてしまっては、やっていられなくなってしまうわけで、あいまいなその場の空気を読みながら、一方ではアメリカとの日米同盟を強調しつつ忠犬ポチのような態度を取りつつ、もう一方では世界に冠たる天皇制を強調して、世界でただ一人の皇帝をいただく日本国の崇高性の前では、アメリカなど物の数ではないと思いたいわけだ。それが日本に住まう国家主義者の処世術といったものだろうか。そのような態度は世界では通用しないにしても、日本国内では通用させたいわけで、それを日本の独自性として顕揚したいのかもしれないが、日本だけ勝手な価値観に凝り固まっていて大丈夫なのだろうか。それも程度の問題で、国内外で態度を使い分ければ済むことか。そんな実態を真に受ければ、日本の国家主義右翼は恐るるに足らずということになりそうだが、実際問題としてはそうもいかないのだろうし、そういう人たちと程よく対立しつつ、ある程度は反日勢力の敵として振る舞い、彼らの自尊心をくすぐってやる必要があるのだろうが、やはりそれも程度の問題だろうか。


8月9日「楽観論」

 まるで自動車工場の産業用機械のように、決められた動作しかできない。果たして人はそれに当てはまるだろうか。使い古された言葉を使いながら、何かを説明しようとしているのかもしれないが、現実との間にズレが生じている。その認識のズレに言葉を使っている当人たちは気づいているのだろうか。気づいていたらそんな言葉は使わないか。では使うとしたらどんな言葉を使って説明すればいいのだろうか。例えば新しい造語とその使い方を発明しないと、現実をうまく説明できないだろうか。たぶんそうではない。使い古された紋切り型の言葉を使わないと、誰もまともに説明を理解してくれないのだろう。そして別に説明が現実からずれていてもかまわないわけで、逆にずれていないと現実を理解できないわけだ。ずれた説明によるずれた理解でないと、人々は説明に納得できない。だからそのようなずれた説明が世の中に行き渡って、人々はずれた理解で納得する。それが大衆メディア社会の特性だろうか。しかし具体的に何がずれているというのか。たぶん何かがずれているのだろうが、それが人々にはわからないということか。だが誰にもわかりようがなければ、ずれているかどうかもわかりようがなく、その説明で誰もが納得するなら、別にずれているわけではないとも言えるのではないか。ところで何を根拠にずれていると説明するつもりだったのか。そもそもそれを示せなければ、説明がずれているとする説明が成り立たないはずだが、それはいったいなんなのだろうか。例えば紋切り型の言葉を使った説明とはどんな内容なのか。その内容を示せなければ、説明にすらならないのかもしれない。たぶんそれでかまわないのだ。説明にすらならなくてもかまわないのであり、そんなことは説明しなくてもかまわない。何がずれていようと誰の知ったことではなく、誰も知りはしないのだから、本当は何もずれていないのかもしれない。ずれていなくてもかまわないのであり、それを説明しなくてもかまわない。たぶん何もずれていないのだ。安保法案は戦争法案であり、現政権がやっていることはファシズムなのだ。アメリカのいいなりになって日本は危険な戦争に向かって突き進んでいて、平和憲法も改正されて、このままでは軍国主義国家となってしまう。また派遣法も改正されて、一生正社員になれない低賃金労働を強いられる若者が続出して、TPPによって日本の農業は壊滅し、国民皆保険制度も崩れ、大企業に国が支配されてしまう。人々はそんな説明で納得するだろうか。それは人によっても社会的な立場によって異なるだろうか。誰もが納得するわけではないだろうが、現政権のやり方に反対している人たちなら、概ねそんな内容となってしまうのかもしれない。

 別にそれの何が間違っているわけでもないが、少なくともそれだけではないのだろう。ただそれだけではないのなら、他に何があるのかということだ。それがうまく説明できないのだろう。そしてそのうまく説明できない内容が重要となってくるのだろうか。説明しなくてもかまわないのであり、説明しようとしてもうまく説明できないのだから、説明しようがないのではないか。あえて間違ったことを言うなら、もう政治では何も変えられないということだろうか。というか昔からそうだったのであり、それは今に始まったことではないと言えば、誰も納得しがたいだろうが、そうとしか言えないことなのではないか。世の中は人々が願っているようにしか変わらないと言えば、さらに納得できないだろうし、やはり間違っていると言えるのかもしれないが、あえてそう言うしかないわけで、世界は戦争をしない方向へと向かっているのだろうし、無理に働かなくても済むような方向へと向かっているのだろう。もちろん今後大規模な戦争が起こるかもしれないし、多くの人たちが不快な労働に苛まれるだろうが、それらの嫌な行為を回避する努力は絶え間なく試みられるだろうし、実際に回避されるようになるのではないか。人々がそう願っている限りは、そのような試みがやむことはないだろう。そしてそれは政治によって行われるのではなく、政治が形骸化することによって可能となるのではないか。政治が形骸化するとは、政治による人々への強制が弱まることであり、行政機構による国家統治も形骸化することであり、法律による支配が弱まることでもあり、治安機関による取り締まりも弱まることでもある。何も強制しなくても済んでしまうような世の中になるかもしれず、暴力によって富や人命を奪う行為も徐々になくなって行くのかもしれない。富自体の価値が無効となるのかもしれず、資産が無価値となるのかもしれないし、金銭を貯め込まなくても暮らして行けるようになるのではないか。そんなことは現状ではあり得ないだろうか。たぶん現状の延長上ではあり得ないだろうし、ただのご都合主義的な妄想でありいい加減な願望でしかない。何よりも筋の通った説明ではないし、何の根拠もなく荒唐無稽で間違っているわけだ。でもそうなった方が楽だと思うなら、そういう方向へと世の中の趨勢が向かっていくはずで、それはこれまでもそうだったし、これからもそうなるだろう。人は楽に生きて行きたいのであり、できれば苦労はしたくないし、社会的な存在として理不尽は扱いは受けたくない。他人から差別されるのも嫌だし、他人を差別するのも気まずいなら、差別しないようにするだろうし、持っている資産の多い少ないで待遇が異なるのは良くないと思うなら、なるべくそういうことはやめようとするだろう。要するに理想主義者の言い分が正しいと思うなら、できるだけそうなるようにしようとするのではないか。もちろんそうしたくてもそうならないような様々な障壁や障害があるから、現状の中で人々の不満が渦巻いているわけだが、一方で不満の原因となっているそれらを取り除こうとしているわけで、そのような努力が続けられている限りは、世の中は良い方向へと向かっていると言えるのではないか。そう述べても誰も納得しがたいだろうし、そんなことはあり得ないとも思うだろうが、あえて楽観的にそう述べるしかない。


8月8日「戦争の虚構」

 しかし時代的な閉塞感とはなんなのか。現状がそうなのだろうか。それに関して何か気づいていないことがあるのかもしれないが、それに気づくのは無理だろうか。何が正しいとも何が間違っているとも言えないわけではない。ともかく食っていくことができなければ生きてはいけないわけで、働いて金を稼いで食っていけたら、それで一応は人並みの生活ができるのかもしれない。無論それだけで満足できる人は少ないわけで、何か勝手なことをやりたいのが本音なのではないか。そしてその勝手なことというのが、人によって違うわけで、やりたいことも違ってくるわけだ。しかもやりたいことができずに、不満がたまっている人が大勢いて、そんな人たちが成功者を妬み、ひねくれてお互いに足の引っ張り合いをしているのが、世の中の実情だろうか。人を否定的に語るとそうなってしまうだろうか。たぶんたとえ世間的に成功しなくても、そうならないようにしなければいけないのだろう。成功してもしなくても、やりたいことができてもできなくても、やれる範囲内でやろうとするしかないわけで、それが実際にやっていることの全てなのかもしれない。そしてそれが全てである現実に納得できない人が大勢いる。世の中の不幸の原因はそこにあるのだろうか。しかし自分の現状に納得できる人がどれほどいるのだろうか。誰も納得してないのかもしれず、理想と現実の落差に苦しんでいる人がほとんどなのかもしれない。結局誰もが苦しみながら生きているのであって、苦しみに耐えながら必死でできることをやっているわけか。そしてそんなことをいくら語ってもらちがあかず、現状でやっていることを続けるか、やめて別のことをやるのか、その選択の余地が果たしてあるのかないのか、様々な事情や経緯からそれをやっていたり、あるいはやめてみたりしながら、なんとか生きているのが現状だろうか。中には嫌になって死んでしまう人もいるわけだが、生きようが死のうがそれを勝手に選択できるわけにもいかず、生きたくても生きられなかったり、死にたくても死ねなかったりする成り行きもあるわけで、何をやろうとやめようと、生きようと死のうと、どちらかの状態になるだけで、当人がどのような運命になろうと、関わり合いのない人にはどうでもいいことかもしれない。国の現状も世界の現状も、それと大して変わらないだろうか。人と国と世界が同じというわけではないが、そんなふうに語りたい人はいくらでもいて、それで何かもっともらしいように感じられてしまうところが、錯覚なのか真実なのかわからないが、国と国とが対立したり足の引っ張り合いをしたり、そんなふうに語っている現実があるわけで、そう語られている内容がフィクションなのだろうか。

 国自体が何か思っているわけではなく、実際に対立しているのはその国の政治家や国民などだろうか。実情としては国内に対立を煽っている人がいて、その人に同調している人たちが、他国と対立しているしているように思い込んでいるわけだ。それが領土紛争や経済摩擦や戦争ともなれば、現実に対立していることになるだろうが、だからといって国民同士がいがみ合う必要はないわけで、住んでいるのは同じ人間なのだから、やっていることも似たようなことであり、社会構造も大して違わないのだろうから、結局そこで暮らしている人々は、現状でやれる範囲内のことをやっているわけだ。そう考えると対立する必然性が消えてしまうわけだが、そこに国家が介在してくると、何か対立を煽ることが国家として利益になるような錯覚なのか真実なのかはわからないが、とにかく対立したがることは確かで、国家同士で経済や軍事やスポーツなどで競い合うような成り行きに持っていきたい思惑の人がいるのだろうか。それが国威発揚といわれる概念なのかもしれないが、そうすることが徳になる具体的な効用とはなんなのか。それはやはりそちらに目を向けさせることで国内の不満分子を押さえ込む目的でもあるのだろうか。失政から国民の目を背けさせるために、国威発揚的に外国との対立を煽って見せるのだろうか。では国内の政治がうまくいっていれば、何も対立を煽ることもなく、外国とも友好関係を維持していけるのだろうか。これまでの経緯からすると、国内だけでは経済が必ず行き詰まり、あるいは貧富の格差が鮮明となって、国民の中に不満分子が多くなってくると、外国へ軍事的な侵略を開始したり、あるいは貧困層を移民として外国へ追い出したりして、それでなんとか国政の安定化を図ってきたわけだが、すでに世界的に開拓地や侵略地がなくなってきたので、そういう逃げ方はなかなかあからさまにはやれなくなってきたわけで、実際に軍事侵攻や移民として追い出すことが形骸化した姿として、ただ対立を煽ることでごまかそうとしているだけなのかもしれず、もはやそれぐらいしかできなくなってきたわけだ。もちろんそれはごまかしでしかなく、根本的な解決からは程遠いから、国民の間に閉塞感が蔓延しがちになっているのではないか。そしてそのごまかしの一環として今国会で議論されている安保法制などもあるわけだが、いくら法整備をやって軍事力を誇示してみせても、その軍事力を使う先がだんだんなくなってきているわけで、紛争地帯でも現地の軍隊で間に合わせようとする傾向があり、わざわざ日本から出かけて行こうとしても、断られてしまう可能性もあり、かといって対立を煽っている韓国や中国と実際に戦争を行う可能性があるかといえば、お互いに領有を主張している竹島や尖閣諸島程度では、小規模な軍事衝突に発展する可能性はないとは言えないが、それが全面戦争に発展するとなると、昔のように世界各国が植民地獲得競争などをやっているわけではないので、お互いの本土深くまで軍事侵攻する理由が見つからないのではないか。


8月7日「戦争の危険性」

 日本の政治的な現状はそれほど卑下するようなことでもないのではないか。まともな人格者が政治家になれるとは限らず、そうでない人物が政治家である場合の方が多いのは、そういう人が国民の代表である方がふさわしいということかもしれない。ふさわしいとは思えない人が大半かもしれないが、そういう人が選挙で当選してしまう現実があるわけだから、それはそういうものだと捉えるしかないのだろう。しかしまともな人格者なんて世の中にいるのだろうか。そもそもどういう基準でまともであるかないかを判断すればいいのかわからず、果たしてその基準が選挙で投票する基準に当たるのかどうかもよくわからない現状があるのかもしれず、たぶん人々はなんらかの基準で投票する人物を決めて、その人物に投票しているのだろうが、その結果が現状を示しているわけで、現状の政治家たちの存在が選挙での投票結果を一応は反映しているわけだ。人々はそのような政治家を批判しつつも、それが選挙で投票した結果であることも認めなければならない。その程度のことといえばその程度のことで、国家にとって政治家はそれほど重要な存在ではないのかもしれず、では国家にとって重要な存在とは何か。それは国土と人口だろうか。統治する土地と人がいれば一応は国家としての体裁が整い、あとは刺身のつま程度の存在として政治家が適当な数だけいれば、それで国家が成り立つだろうか。本当はそれだけでは駄目なのだろうが、方便としてはその程度の認識で構わないのかもしれない。国家の何が本質なのでもなく、それが存在していると人々に思わせれば、それでひとまず成功なのだろう。地表面上に国境線が引かれているわけではないが、とりあえず世界地図上では国境があって、実際に国家と国家の境目では検問所などが設けられているところもあり、何か一定の範囲内を行政機構が統治していることになっている。そう思わせることで成り立っているのが国家なのだろうし、実際に治安組織などが管轄の範囲内を巡回しながら警備しているのではないか。そういう面で国家には統治機構が備わっていて、土地と人を一定の範囲内に囲い込んでいて、土地の上に施設を建てて、そこで人を働かせることによって、何か人や飼っている動物や栽培している植物や物や情報を生産している機械が機能しているように装わせるわけだ。装わせているのではなく、実際に機能しているからそこから富が生じて、その富を利用することによって、国家がなんらかの装置として稼働しているのではないか。しかし富とはなんなのだろうか。富にどんな実態が伴っているのか。

 富を蓄えているから国家が成り立つのではないか。人を働かせて富を蓄積するのが国家の目的なのだろう。では蓄えた富が多ければ多いほど国家は安泰なのだろうか。その富を守るためにも国家が機能しなければならず、そのために軍隊などの武装を必要としているのではないか。それも統治機構の一部として存在するわけで、無論軍隊は他国を侵略してその国の富を奪うためにも機能していたわけだが、現代では武力を用いて他国を侵略するのは正当化できないような時代の趨勢になっていて、それは前世紀の二度の世界大戦があまりにも損害が大きく、どうも侵略戦争は割に合わない行為だという認識が常識になりつつあるわけで、侵略したら国連などを通じて、非難決議や制裁決議がなされたりするのが慣例となっていて、なるべく武力を用いた侵略戦争はしないような成り行きになっているわけだが、そういう成り行きを反映して、戦争をするなら自国を防衛するためにやるという建前となっているわけで、それが戦争をやる口実ともなっているわけだが、とにかく戦争をやるには相手に攻撃させるように仕向けながら、うまく罠にはまって攻撃してきたら、自国を守るためにおおっぴらに武力を使って、相手を徹底的に殲滅する手法を、超大国のアメリカなどが利用してアフガニスタンやイラクなどで戦争を行ったわけだが、果たして罠にはまったのがアルカイダやタリバンなどの武装テロ組織だったのか、それともアメリカの自作自演だったのか、その辺は陰謀論者の間でも見解の分かれるところらしいが、他国への侵略が起こらないなら防衛のための戦争もないわけで、戦争が起こること自体が、なんらかの侵略行為が行われている証拠なわけで、どうもある国が戦争に勝ったという結果から、結局その国が国際的に優位になるように戦争が利用されたと考えるのが、現代では説得力を持つようになりつつあるようで、たとえ防衛戦争であると主張しても、武力によってなんらかの利益を得ること自体が、国際的に非難されるような風潮になりつつあるわけで、だんだん大ぴらには戦争がやりにくくなる傾向にあるのかもしれない。ならば果たして今現実に中東やアフリカで起こっている紛争が終結したら、もはや戦争が起こることはないだろうか。果たしてそれらの紛争が終結することがあるのかないのか、まずはそれがまだよくわからない状況となっていて、特に中東のイスラエルの存在が紛争をこじれさせている最大の原因かもしれず、現状ではどうにも解決しようのない情勢なのではないか。結局土地に境界線が引かれ、境界線の向こう側とこちら側で別々の統治機構の管理となっていると、それが争いの元となっていることは確実で、境界線に仕切られた土地と人と財産を守るために、武装組織を必要としているわけだから、何かのきっかけでその武力を行使する機会が訪れる可能性は否定できないのだから、地上に国家がある限りは戦争の危険性があると認識しておいたほうがいいのだろうか。


8月6日「政治的な成果」

 別にそんなことはどうでも良かったはずだ。特に平和が長続きしているわけではなく、戦争が別の場所で続けられているだけかもしれない。では何に興味があったのだろうか。人がうごめいている範囲は地表面上で繋がっていて、武器を用いた争い事はそこかしこで継続的に行われてきたはずで、今もそれが絶えない状態が続いている。それでも一時に比べるとだいぶ下火になってきたと言えるだろうか。最終兵器があるにはあるが、二回実戦で使って破壊力が大きすぎるので、三度目の実戦投入はためらわれているようだが、要するに兵器としては使い道がないということだろうか。抑止力という大義名分で配備はされているようだが、一般市民を大量に殺害してしまうので、使うと各国から非難されるのは必至な状況なのかもしれず、そういう面では使うメリットがないということか。破壊兵器としてではなく、世界中で発電に利用されている現状もあるのだが、事故を起こすとまた厄介なことが証明済で、しかも放射性廃棄物が絶え間なく出て、人体に有害なその貯蔵場所を確保するのもままならない状況がある。そんなわけで人は人を滅ぼす技術を手に入れたわけで、平和を願う人々はそれを廃棄すべきと主張しているのだが、一度手に入れたものをそう簡単に手放す気にはなれないわけで、結局それ以上の技術が発明されるまでは、多くの国がそれを手放そうとはしないだろうから、大量破壊兵器として使われる危険性と、発電所の事故が起こる危険性の両方の不安に怯えながら、これからも暮らしていくことになるわけか。他にも命の危険にさらさられる可能性などいくらでもあるだろうから、気にしない人は気にならないのかもしれないが、気になる人は気にしているわけで、数年前の原発事故の影響で、放射能の汚染地帯に多くの人たちが住んでいることに、警鐘を鳴らしているわけだが、実際に住んでいる人たちは、色々な事情で住んでいるわけだから、たとえ放射能の影響で病気になっても、自業自得といえばその通りなのかもしれず、実際に病気になったり死んだりして、それはそれでそういうことでしかないのだろうし、どうでもいいわけではないのだろうが、要するにそういう宿命を背負いながら生きているわけだろう。そしてこれから原発が再稼動される地域でも、事故が起これば同じようなことがいえるのかもしれないが、起こらなければ平然としていられるわけで、どれほどの確率で事故が起こる危険性があるとしても、起こってみないことには騒がないわけで、放射能汚染を危惧している人たちが警告しているように、これから汚染地帯で目立って人が死に始めれば、世論も原発廃止の声が強くなるのかもしれない。果たして本当にそうなるのか、そうなったとしても政府とメディアの連携によって隠蔽されてしまうのか、それはこれからわかる人にはわかるかもしれないし、わからない人にはわからないままとなるかもしれず、わかっていても隠そうとする人たちも出てくるのかもしれない。

 政府や政権与党も、今の政権に負の遺産を全部押し付けて、やれるところまでやってもらって、様々なことが一段落つくまでは、本音を言えば誰も新たに政権を担当したくないのではないか。だから安保法案だろうとTPPだろうと派遣法改正だろうと憲法改正だろうと、騒ぐだけ騒いでもらって白黒はっきりつけてもらってから、何も懸念がない状態で、次の政権へバトンタッチという手はずなのかもしれず、ともかく今の政権はボロボロになるまでやらせたいというのが、次の政権を狙っている人たちの思惑なのだろうか。どうなるにしろ政治とはそんなことの繰り返しなのだろうし、これまでもうまくいかないことばかりだったような記憶しか残っていないが、それを肯定的に捉えたい人は、これまでも何かしら成果があったという見解を示したいのであって、たぶん今の政権でさえやっていることが正しいと主張したい人もいるわけだから、どこまでやれば成果が上がっているとみなすかなんて、それを評価する人の立場や政治信条からいっても、どのような肯定的あるいは否定的な評価も出せるのだろうし、そのような評価を真に受ける気にはなれず、それを語るには自分で判断するしかないわけだが、取り立ててうまくいっていたりいなかったりするとは言えないのかもしれず、結局今彼らがやっていることが精一杯の対応なのであり、それ以上のことはできないだろうし、期待する気も起こらないのが、現状での政治なのではないか。現状でやっていること以外で何ができるわけでもないはずで、それ以外のことをやらせてもらえないわけだ。しかもやっているつもりの人たちは自分の意志でやっていると思っているわけで、彼らは実際にやっているつもりのことや、やろうとしているつもりのことは、彼ら自身が信じているつもりの主義主張がやらせているわけで、その主義主張こそが彼らが属する政党や勢力が、以前からやろうとしていたことであり、また以前はやりたくてもやれなかったことかもしれず、今に至ってようやくやれる機会が巡ってきたから、この機会を逃さずに強引にでもやろうとしていることなのではないか。現にそのようなことをやろうとしている人材を、それらの政党や勢力が育んできたわけで、そのような人材を育て上げてきた成果が、今ここに至って花開いたわけなのではないか。そしてそのような人材とは政治家の子供達の世襲議員であったり元官僚であって、要するに特権階級と見なされるような人たちであり、図らずも戦後民主主義の成果がこういう形で示されているわけだ。


8月5日「信仰の対象」

 信仰とはなんだろう。神仏以外でも信仰心があるとすれば、人々は何を信じているのか。通常は信じていることを自覚できないようなものを信じているのかもしれず、それが何かの機会に信じていることが明らかとなるのだろうか。何を信じているとしても、その信じている対象に裏切られたら信じることをやめるだろうか。それはわからない。裏切られたと感じることがないのかもしれず、信仰とは信じることでどのような境遇になろうとも、信じることをやめないのが信仰の強みだろうか。宗教の強みというか詐欺的な合理化というか、その最たるものは、信じることで弾圧されて非業の死を遂げようとも、殺されることで天国へ召されると言いくるめられることで、それを信じることで命知らずの伝道師や戦士を生み出し、それが布教に一役買っているのかもしれないが、宗教を国家と置き換えると、国家のために命を犠牲にすれば英霊として讃えられる、という詐欺的な合理化を現代の国民はどれほど信じることができるだろうか。もちろん信じている人たちはそれが詐欺だなんて思わないのであり、そんなことを言えば逆に罰当たりだと非難されてしまうかもしれない。そういう意味でたぶん信仰は命よりも大切なのであり、何よりも優先されるべき対象なのだろう。人が命がけの思いで何かをやろうとするとき、それと自覚せずに信仰の世界に踏み込んでいるのではないか。自爆テロもそんな信仰心がないとできないことだろうし、極端なことをやろうとする人たちにはその人なりの信仰心のごときものが、それを意識するしないに関わらず心の中に芽生えているのかもしれない。しかし命がけの行為というものが社会の中で行われる状況は、果たしてまともな状態と言えるだろうか。それが通常の平和な状態ではなく、戦争などの非常時であるなら、そういうことをやるのが当然ということになりそうだが、信仰心とは世の中の状況から生まれるものなのかもしれず、たぶん社会の中で暮らしている人たちの間で言い知れぬ不安感などが蔓延し始めると、その不安を鎮めるために何かにすがろうとして、そのすがる対象が信仰の対象となるのだろうが、他の大勢の人たちもそれを信仰し始めると、多くの人たちと気持ちが一つになったような気がして、それが安心感をもたらすのだろうか。そして信仰を同じにする人たちがお互いに助け合うことで、一つの共同体のような組織が生まれると、そこに属している人たちは組織に守られてさらに安心するだろうし、ギブアンドテイクで逆に組織のために働こうとするだろう。そして場合によっては組織を守るために命を投げ出しても構わないとさえ思うようになるわけか。

 その信仰の対象が国家となると、ちょっと厄介だろうか。国家を担っているつもりの官僚機構の官僚たちや、政権を担当しているつもりの政党や政治家たちからすれば、国民が信仰の対象として国家を崇め奉るようになれば、これほど楽なことはないだろうか。楽というのではなく、戦争や経済恐慌などによって国家が非常事態になったときに、政治的な独裁体制となれば、自然と国民も国家に対する信仰を深めざるを得なくなるのだろうか。過去の事例からすればそうなった時期もあったかもしれないが、それは現状でも起こりうることだろうか。たぶん過去にそう見なされるような時期があったとしても、どうも国民全体が国家を信仰していたというのは、ちょっと違うのかもしれず、要するに浅はかな人たちは熱狂的にそうしていたかもしれないが、分別のつく人たちは信仰のカラクリを冷静に理解していて、状況に応じて形だけは国家に従うふりをしつつも、心の中は冷めていて、本心では馬鹿げたことをやっていると見ていたのかもしれない。そして現状では過去にそういうことがあって、そういうことをやった結果としてどうなったかを知っているわけだから、また同じことをやろうとしても、果たしてそれに従う人がどれほどいるだろうか。今のところは冗談の域を出ないような話でしかないが、英霊を祀る靖国神社などに出向く人たちの中には、まだ命を投げ出して国家を守る気概のある人とかがいるのかもしれず、果たしてそういう人たちに国家が報いているのかどうか、信仰から遠ざかっている人たちには疑問を抱かざるを得ないところかもしれないが、命を投げ出そうとする人にとっては、そんなことはどうでもいいのかもしれず、ただ国家に忠誠を尽くしているつもりになることで生きがいを感じているのだろうし、それで十分国家がその人に報いていることになるのだろう。ではそれ以外の人たちにとって国家とはどのような存在なのか。軽く考えるとすれば行政サービスを担う機関とみなすぐらいが無難なところだが、それ以上深く踏み込むのは危険で鬱陶しいのかもしれず、下手に国家を肯定的に理解すると、ミイラ採りがミイラになるかのごとくに国家の虜となり、保守派の政治家の支持者かその手の政治家自身となって、国家を盛り立てるために活躍しているつもりになるのかもしれず、意識するしないに関わらず、すでにその時点で国家を信仰の対象と見なしていることになるのだろうか。実態としては国家を利用して自己顕示欲を満たそうとしているに過ぎないのかもしれないが、それはその手の宗教指導者が陥りがちな精神的な態度であり、部外者から見れば私利私欲としか映らないのだが、当人は国家のために命がけで働いている気でいたりするわけで、信仰に囚われた人がそういう公私混同を自覚するのは難しいことかもしれない。


8月4日「余分な富」

 人と人とは対立する宿命だが、それは利害をめぐって対立するのであり、功利的には他人から利益を奪い取らないと、自分の元に利益など転がって来ないだろうか。世の中はそんな単純な構造ではないはずか。そこには思い込みが介在していて、対立する者や勢力などが利益を奪い合っているように見えるのだが、根本的には人は自然から糧を得ているのであって、太陽光や水や空気や地下資源やその他の動植物から得て加工した生産物を、必要な物や情報を交換しながら流通させて全人類に行き渡らせているだけだろうか。その過程で物や情報や貨幣を奪い合っているように見えるわけか。実際に奪い合っているはずなのだろうが、とりあえず今生きている七十数億人の元には物資が届いているはずで、それらの人たちが現実に生きていることが物資が届いている証しであり、届いた物資を消費しながら生きているわけで、要するに奪い合わなくても足りているわけだ。では彼らは何を奪い合っているのか。もしかしたら余分に生産された物や情報や貨幣を奪い合っているのではないか。よく石油成金が高級車を数百台所有していたり、IT長者などが天文学的な額の銀行預金を持っていたりするわけだが、それらは一般の人たちには必要のないものであり、金持ちでさえ活用しなければ不要なものでしかないわけで、要するに余分なものなのだろうし、使い道のない富なのかもしれないが、やはりそれらを獲得してご満悦な人たちがいるわけで、そういう人たちは余分な富の獲得競争をしていることになるのではないか。要するにそこで富の獲得競争が成り立っている時点で、それらの富はすでに余分なのであり、物や情報が余分に生産されているわけだ。そして人々はその余分な富を生産するために必要以上に働いているのかもしれず、その結果として必要以上に生産しているから、必要以上に養える人口も増え続け、今や七十数億人もの人が地球上で暮らしているわけで、今後さらに人口は増え続けるらしく、最終的には百二十億人ぐらいになるらしい。この現象をどう理解したらいいのだろうか。生物学的には地球上で人類という種が増殖し続けていることになるだろうが、それ以外にどんな意味があるというのか。人は人として社会の中でどんな暮らしがしたいのだろうか。満ち足りた暮らしができればそれで満足するわけか。だがその満ち足りた暮らしというのが、必要以上に富を所有することによって実現するとしたら、その富を余分に獲得しようとする欲望こそが、人類が生物学的に地球上で増殖する原動力となっているのではないか。そしてその余分に富を獲得するために、人と人とは互いの利害を巡って対立したり連携したりしているわけで、それが利益の奪い合いのように見えるのだろうか。

 生物学的な次元で何を述べても、政治経済学的には意味のないことかもしれないが、例えば余分に脂肪がついて肥満体となり、それをさらにシェイプアップしようとしてジムに通ったりして、無駄に労力を使うことが贅沢の醍醐味なのだろうし、人はそんなふうに消尽することに生きがいを見出すのであり、常にお祭り騒ぎをデカくしたいのかもしれず、余分な物資を獲得して余力をつけ、それを過剰に消費したくなるわけで、物理学的には常にエントロピーが増大するように物質の運動が推移するの同じように、人の運動もそうなる方向へと定められていて、最終的にはすべてが無に帰すような成り行きへと誘われているのかもしれない。そのための過剰生産と過剰消費なのだろうが、それが自然の摂理なのだから、別にそのような運動を食い止めようとしなくてもいいのだろうか。世の中のそのような動向に警鐘を鳴らす人はありふれているのだろうが、そのような人たちの働きかけによって、富の獲得競争に歯止めがかかったという話は聞いたことがなく、どちらが優勢かといえば、やはり富の獲得競争をやっている人たちであり、国家も企業もそのような人たちの活動を後押ししているのであり、しかもそれがないと国家も企業も立ち行かないのであって、そのような人たちによるそのような行為のために、国家も企業も存在していると言ったら言い過ぎかもしれないが、企業が人を雇用して利益を出すことによって国家に税収がもたらされる、という関係が経済のすべてなのかもしれず、それが余分な富の獲得競争そのものだとすれば、そのような競争の終焉が国家と企業の終焉となるのだろうか。少なくともそれをやっている人たちは終わらないと思っているだろうし、未来永劫そのような営みは続いてゆくと信じているのかもしれないが、もしかしたら世界の人口が減少に転じた時が転機となるのかもしれず、どのような原因で人口が減るのかといえば、よく言われるのが食料の生産量が足りなくなって世界中で飢餓状態となるとか、それ以前に出生率が下がって子供の数が減ってくるなどの予想があるわけだが、とりあえず人が減れば余分に生産できなくなるかもしれず、生産したとしても買い手がいなければ、生産量が徐々に先細りになって行く可能性もあるし、人口がこのまま増え続けて、地球上ではまかないきれなくなって、月とか火星とかに移住するような事態となるとしても、果たして彼の地で過剰生産が維持できるとは思えないし、いずれにしてもいつかは限界が訪れるのかもしれず、物資の過剰生産ができなくなった時点で、それまでとは違った生産と消費の形態となるだろうし、それに合わせて国家や企業の在り方も違ったものとなるかもしれない。


8月3日「国家の変革」

 現状の世界では特に政治的にも経済的にも何がどうなっているわけでもなさそうだ。今にも世界中がおかしくなりそうな気配はなく、いたって平穏無事に過ごしている人が大半なのかもしれず、一部の地域を除けば平和な世界なのだろう。危機意識を煽りたい人や政府を批判したい人や隣国を罵倒したい人などはいくらでもいるようだが、だからと言って何がどうなっているわけでもなく、数年前も現在も数年後も大して変わらず、何もかもが通常通りに動いているのかもしれず、大した変化など起こらないのだろうか。誰も現状から変わる必要を感じていないわけではないだろうが、ではいったい何が変わればいいのかというと、具体的には何も思いつかないような気がするわけで、せいぜい政治的あるいは経済的な変化を求める程度が関の山で、政府を批判している人たちは内閣が代わってほしいのだろうし、隣国を罵倒している人たちは、該当する国の経済でもおかしくなってほしいのだろう。しかしそうなったとしても、それは通常の変化の範囲内のことで、それで国家や社会の制度が変わるわけではなく、根本的には何も変わらないのではないか。しかしこの何も変わらない状況はいつの頃から続いているのだろうか。何も変わらないと思っているだけで、実際は少しずつ何かしら変わっているのかもしれないが、その変化に気づかないだけなのだろうか。だが誰もが体験しているのは相変わらずの大衆市民社会であり、世の中ではありふれた人たちがありふれたことをやっているに過ぎないのではないか。そしてそれ以外に何があるとも思えないところが、致命的な想像力の欠如だろうか。致命的といっても死ぬわけではなく、要するに死ぬほどに退屈なのかもしれないが、しかしその死ぬほどに退屈な状態が平和なのであって、誰もが戦争状態よりは平和な状態を望んでいて、平和を享受していることが、何よりも得難いことなのだろうか。建前としては誰もがそう感じているはずなのだが、本音としては退屈でつまらないと思っているのかもしれず、何か天変地異でも起こって命がけのスリルを味わってみたいのかもしれないが、それは数年前の大地震と原発事故で少しは経験したはずなので、まだその余韻が冷めやらないところで、今度は富士山でも大噴火したり、また東南海の巨大地震や首都直下地震などが起こってほしいのかも知れない。周期的にはそれもいずれは起こるのだろうが、これまでも起こってきたわけだから、起こったところで何がどうなるわけでもないだろうか。ではやはり起こってほしいのは、それらの天変地異ではなく、人間社会全体の変革だろうか。というかそれを人の力で成し遂げたいのではないか。

 しかし社会は人の都合のいいようには変わらない。人それぞれで利害が錯綜していて、共通の利害を共有することで連携したり協力しあったりする一方で、利害が異なると対立し敵対しあう結果となり、それによって争いが起こって双方ともに損害を被ったりするわけだ。そのような人と人との、あるいは対立しあったり協力しあったりする勢力同士の相互作用によって、現状が形作られているわけで、すでに力の及ぼしあいがある以上は、どちらかが一方的に他方を押し切るのは難しく、そこにある程度の力の均衡が保たれているのではないか。そして絶えずその均衡を破って力を及ぼそうとする人や勢力があり、力を及ぼそうと画策している人や勢力が社会の中でひしめいている。それが今ある現状であり、大して動かしようのない現実なのかもしれない。いったいそこからどうやって社会全体の変革を成し遂げられるだろうか。たぶん特定の人や勢力の力ではどうしようもないことだ。しかし何かのきっかけで力の均衡が崩れて、突然社会の大幅な変動が起こるかもしれない。そのきっかけはどこから生じるのだろうか。それがわかれば苦労はしないか。今のところは誰もその兆候を感じ取れていないのではないか。というかもっぱら制度の維持に努めていて、制度を守って変革を阻止しようとしているのかもしれず、現状を都合のいいように変えようとする意志はあるのかもしれないが、そのような動作が結果的に現状の維持に貢献してしまうことに気づかないのではないか。要するに今まで通りに利害が一致する勢力同士で連携し協力し合い、利害が異なる勢力と対立し敵対しているわけで、その連携と対立、あるいは協力と敵対の関係を維持したいわけで、その関係の維持が現状の維持に結びついているわけで、対立しあう双方ともに利害を度外視して歩み寄るわけにはいかず、むしろ対立し敵対することによって、双方の利益を確保しようとしているのではないか。要するにそれが俗に言われる右翼と左翼の対立なわけで、そのような昔から続いている対立を無化することでしか、社会の根本的な変革はないのかもしれないが、双方ともに自分たちの陣営を頑なに死守したいわけで、現状では一朝一夕にどうなるとも思えず、対立を突き崩す契機など訪れようがないように思われるのだが、望まれるのはどちらかがどちらかに勝利するのではなく、両方ともに無化してしまうことなのではないか。要するに従来からある対立が形骸化したときこそ、社会の根本的な変革が起こったことになるわけで、それは国家と国家との対立にも言えることで、戦争でも経済競争でも、どちらかの国家が勝利したり敗北したりするのでは、国家という制度の維持継続にしかならないわけで、対立するどちらの国家ともに崩壊することが、真の世界の変革につながるわけで、国家を形骸化させることこそが現状の変革なのかもしれないが、現状では右翼も左翼も国家を守って維持継続させようとしているのであり、しかもどちらも自分たちにとって都合のいい国家の制度にすることこそが、国家の根本的な変革だと思っているわけで、それはどこまでも国家の変革であって世界の変革ではあり得ない。


8月2日「生物の大量絶滅期」

 結びつけたい事柄と事柄を結びつけるための材料がまだ足りないのだろうか。いったい何と何を結びつけようとしているのか。それ以前に戦術的に間違っているのではないか。しかしそれはどのような戦術なのだろうか。どう考えても戦術でも戦略でもなさそうだ。誰とも何とも戦っている気がしない。戦っているのではなく、勝利を目指しているのでもなさそうだ。では何をやっているのだろうか。たぶん考えているのだろう。なぜ現状はこうなっているのだろうか。現状の中で考えている限りわかるはずがないことだろうが、現状の中で考えるしかなく、分かるはずのない理由を求めているのだろうか。わかっているのにそれが信じられないのではないか。ではわかっていることとはなんなのだろう。世界が民族や部族や宗派に分かれていることか。それは世界ではなく人の集団であり、社会なのではないか。そして異なる民族や部族や宗派の間で争いが起きていて、それが戦争の原因となっているわけだ。わかっているのはそういうことだろうか。ではなぜそれが信じられないだろうか。国家としては一つの民族でも部族でも宗派でもないからか。国家が行政単位でしかないなら、それでも構わないはずだが、中にはそれ以上を望む人たちもいて、おかしな幻想を抱きながら国家と民族と部族と宗派を同一視したいわけで、そうなると途端に異なる民族や部族や宗派の間で争いが発生して、紛争が激化すると国内が内戦状態となるらしい。なぜそれらの人たちは国家を行政単位以上の存在と見立てたいのだろうか。どうしても宗教じみてしまう性質があるのかもしれず、異なる民族や部族や宗派で一つの国家を統べる術を知らないことから、そのような事態となってしまうらしく、国民国家の間で行われた戦争の原因も、そこから生じるわけだが、実際には世界の大国であるアメリカも中国もロシアもインドも、全て多民族国家であって、民族も部族も宗派も違う人たちが一つの国家の中で暮らしているわけだから、そこに矛盾が生じているわけだ。要するに国内で優勢な民族や部族や宗派があって、そこに属している勢力が国家全体を支配しているように見えるわけで、アメリカだとアングロサクソン系の人々が、中国だと漢民族に属している人たちが、ロシアだとロシア人が、インドだとヒンドゥー教徒の人々が、それぞれの国内で多数派を構成していると言われているわけだが、その一方で民主化されている国では、どの民族や部族や宗派に属していようと、法の下では平等に扱われるわけで、差別があってはならないのが建前のはずで、たぶんその法の下での平等が、異なる民族や部族や宗派を一つの国家の中で統べる術なのだろうが、実際には人口の多い民族や部族や宗派に有利に働き、少数派となった民族や部族や宗派に属する人々が不利益を被っていると感じると、その勢力が地域的に固まっている場合、国家から独立して新たな国を建てようと画策するわけだ。

 だが果たして同じ民族や部族や宗派で一つの国家を形成するのは合理的なのだろうか。そのような力が働くから世界が無数の国家に分割されている現状があり、国家間で絶えず紛争や戦争が起こってきたわけで、現状がこうなっている理由とはそういうことか。では人々が異なる民族や部族や宗派に分かれている理由とはなんなのか。それは地域的にある一定期間固まって暮らしてきたからであり、そのような歴史的な経緯から特定の民族や部族や宗派が生まれてきたと言えるだろうか。しかし現代に至っては交通機関の発達により、世界のどこへでも短時間で行けるし、インターネットの発達によって、世界中が共通のネットワークで繋がるようになったわけだから、たぶんこれから民族や部族や宗派の間の垣根が取り払われる可能性が出てきたわけで、少なくともその条件が整いつつあり、これから何十年あるいは何百年か後には、世界共通の言語や共通の文化が育まれて、世界が一つに統一されるかもしれず、そうなると国家が消滅することになりそうだが、今がまさにその途上にあると言えるのだろうか。例えば国家間の自由貿易協定とかTPPとか、そのような働きかけがそうなる機運や兆候を示しているのだろうか。あるいは中東やアフリカなどの紛争地帯で行われている戦闘行為が、世界の統一へ向けた運動そのものなのだろうか。そうだとすると戦争こそが平和をもたらすということになりそうだが、それは平和主義者には受け入れがたい成り行きとなるだろうか。ただでさえ国家主義者や民族主義者たちに煽られて、隣国同士がいがみ合っている最中なのに、こんな状態で将来世界が統一されるなんてありえないような気がするのだが、いがみ合えばいがみ合うほど、殺し合えば殺し合うほど、激しく凄惨な行為が繰り返されるほど、逆にそれがトラウマとなり、人々が大量に殺傷され国土が破壊し尽くされた後に、真の平和が訪れたりするのだろうか。確かにヨーロッパで凄惨な大量殺戮が行われた第一次世界大戦の後に、恒久平和を目的とした国際連盟ができ、そしてさらにそれを上回る世界規模で大量殺戮が行われた第二次世界大戦の後に、国際連合ができたわけだが、さらにそれを上回る第三次世界大戦が起これば、それでやっと世界の恒久平和が実現するのだとすると、もしかしたら真の世界平和とは人類の滅亡そのものかもしれず、そんな皮肉な結末がこの先に待っているとしたら、それもある意味で真実味を帯びているような気がするのだが、結局人類は異なる民族や部族や宗派に分かれていがみ合った末に、自滅する宿命にあるのかもしれず、確か生物学的には現在地球上では恐竜が絶滅した6500万年前に続く、6番目の大量絶滅期だそうだから、ちょうどそれが現状で起きていることの真実なのかもしれない。


8月1日「変革への期待」

 この世に救いがあるとすれば、いつかは世の中が変わるということだろうか。変わるとしても決して誰の思い通りにも変わらないのだから、救いとはならずに場合によっては絶望となってしまうかもしれないが、そこで幸運に恵まれるか不運に苛まれるかは、人によっても状況によっても千差万別だろうし、そうなるのが運命だと捉えれば、そんなものだと割り切って状況に対処しようとするのではないか。実際に誰もがそうしているのだろうから、そんなのは当たり前のことでしかないが、その当たり前の状況の中で人は何かをやっているわけで、その何かをやっていることが、場合によっては世の中を変える原動力となるのかもしれず、以前とは違うことをやっている人が多ければ多いほど、それによって世の中が変わる可能性も高くなるのではないか。だから一人一人が世の中を変える自覚を持って事に当たれば、それが世の中を変えるきっかけをもたらすのかもしれず、それが人の運命を変えるとともに、世の中を変えることにもつながり、一人では大したことはできないとしても、あきらめずに新たに道を切り開くつもりでやるしかないのかもしれない。だがそんな心境になれる人は少数派かもしれず、多くの人たちは自分や家族の生活を維持するのに精一杯だろうか。人それぞれで立場も考え方も違い、現状で生活が安定していれば、あまり世の中の変化を望まず、変化を起こそうとする人たちを疎ましく感じているのかもしれず、余計なことをしてくれるなと思っている人も多いのだろう。そういう人たちが社会の中で主流派を占めていれば、世の中は安定していて、あまり急激には変化しにくいのかもしれず、保守派と呼ばれる人たちはそういう社会を目指しているのかもしれない。だがそれでも世の中には確実に変わる要因があって、社会の中に不具合や不合理があると、それを是正するような力が働くのであり、その不具合や不合理を被っている人たちが不平不満を表明するわけで、それを是正するように政治的な働きかけを行うのではないか。それは国内外からあり、現時点でメディア的に話題となっているのが、安保法制や派遣法の改正やTPPなどであるわけだが、それらの改革が果たして社会の不具合や不合理を是正することになるのか否かは、人によっても立場によっても見解の分かれるところらしく、改革がなされると逆に社会全体が以前よりひどい状況になるとして、反対している人たちも大勢いるわけだ。では実際にそれらの何が問題なのだろうか。

 安保法制に関しては、武力行使を禁じ武力の放棄を宣言した憲法の改正に向けた突破口を開こうとする思惑があり、自衛隊を普通の国の軍隊として機能させるために、わざと違憲性の強い法案を国会で通過させて、既成事実を積み重ねようとしているわけで、そのようなやり方が各方面から非難を浴びているわけだ。派遣法の改正に関しては、なぜ日本では労働者からピンハネする派遣業者が多いのか、その理由が正規雇用と非正規雇用の二種類の雇用形態にあって、正規雇用者は法律に守られていて簡単に首を切ることができないから、必要な時だけ人材を確保できる派遣労働者を雇った方が便利なわけで、正規雇用と非正規雇用の待遇の差別はそのままにしておいて、派遣業界を栄えさせるための法改正なので、根本的な労働環境の改善とはなりにくく、そういう面で各方面から批判を浴びているわけだ。TPPに関しては、加盟する国ごとの関税や非関税障壁を撤廃して、貿易を促進して共存共栄を図ろうという趣旨なのだろうが、各国の産業構成が違うし、自国に有利な条件で条約を締結したい思惑があるので、なかなか合意には至らない成り行きのようだが、反対する人たちは巨大な多国籍企業による国家の支配だと捉えていて、国による保護が取り払われて、一般の人たちの生活が脅かされると主張しているわけだ。反対する人はそれら全てに反対している場合が多いようで、ネットなどではしばしばその手の反対意見が散見され、反対意見はどの主張も似たり寄ったりで、特に興味深い主張には今のところ出くわしていないが、反対意見の通りだと、それらは全て偽りの改革にすぎないということになりそうだ。ではいったい真の改革とはいかなるものであらねばならないのか。それに関して説得力を伴った改革案があるとは思えず、どのような改革案であったとしても、とりあえずそれに反対することはできるというのが、現時点での人々の偽らざる認識だろうか。では果たして現状でいいのかといえば、人によっても立場によっても不満などいくらでもありそうだが、それを解消する手立てがあるわけではないようで、政府主導の改革には反対するが、現状のままではダメだから、内閣総辞職か政権交代を望んでいるわけか。そうだとしても誰の思惑通りにもいかないだろうから、どのような成り行きであれ、なんらかの形で変革はなされるのかもしれず、その変革によっても人々の意識は変わるだろうし、社会も変わるのではないか。