彼の声109

2015年

7月31日「不平不満の声」

 何も語っていないわけではないが、それでは何も語っていないのと同じだろうか。何を批判しているわけではない。ただ何かが批判されているわけか。では何かとは具体的になんなのだろうか。世界中がもはや後戻りできないような政治状況なのではないか。メディアを介して世界中で情報を伝え合うことによってそうなっている。国家がむやみやたらと人を殺傷できないような方向へと、ニュースを伝える人々が持って行こうとしている。未だに強権政治が行われている中国やロシアでも、前世紀の大量粛清が行われた毛沢東やスターリンの頃から比べると、だいぶマシになってきたのではないか。果たしてその頃へと時代が逆戻りすることがあるだろうか。人権を蹂躙されたとして抗議する人々がいて、それを伝えるメディアがあると、独裁体制による圧政というのが、だんだん起こりづらくなってくるのかもしれず、結局人々がやらなければならないのは、どう見てもおかしなことをやっている行政や企業などに対する抗議活動となるのだろうか。そしてその抗議活動をメディアが伝えれば伝えるほど、行政も企業も人権を気にするようになり、人々に危害をもたらすようなことは慎むようになるわけか。世界全体がそのような方向へ向かっているとすれば、向かわせているのは人々の抗議活動と、それを伝えるメディアということになりそうだ。そのような方向性が世界を変えるとすれば、世界は次第に民主化されつつあると言えるのではないか。そしてそのような民主化を阻害する要因としてあげられるのが、人々がそれに依存している資本主義市場経済なのだろうか。だがそれを克服する手立ては今のところなく、経済的に搾取されて不利益を被っている人たちが確実に存在していて、今もその数が増加中だろうか。増加中かどうかははっきりとは分からないが、まだ世界の人口が増加傾向にあるので、たぶん人口の増加とともに増えているのかもしれないが、ともかく現実にそれらの人たちが生きているわけだから、要するに経済的に搾取されつつも生きているということだろうか。それも搾取されていることに抗議する人の数が増えてくれば、改善に向かうのだろうか。しかし搾取とは具体的にどのようなことなのか。例えば奴隷的な労働を強いられていると分かれば、それははっきりと搾取されていることになるのだろうが、そのような自覚を持っている人は少数派で、たぶん多くの人たちは意識していないだろうし、しているとしても仕方ないと思えば、抗議の声をあげたりしないのかもしれないが、日本ではブラック企業や派遣業者の中間搾取などが話題となっていて、その方面でも徐々に抗議の声が上がり始め、それをメディアが取り上げることによって、事態が改善へと向かうのだろうか。

 未だに世界的に人口が増加し続けているとすれば、それは人と人の間だけではなく、自然からの搾取が多くなったから、人がそれだけ余分に生きられるようになったと言えるだろうか。それともただ搾取するだけではなく、効率的に物資を生産できるようになったから、それだけ多くの人が生きていられるようになったのだろうか。そして今後もただ生産するだけではなく、資源を再利用してリサイクルの割合が増えれば、さらに多くの人間を養うことができるようになるだろうか。そうなるとやはり人は殺傷するのではなく、できるだけ生かすような方向へと世界的に歩んでいることになるのだろうか。そして人間同士で奪い合い搾取し合うのではなく、協力して物資を必要なだけ配分し合うような方向へと向かっているわけか。そうなると人間は他者に向かう攻撃本能が徐々に弱まっていることになるのかもしれないが、果たしてそれが人類全体の目指すべき方向なのだろうか。きれいごとを言うならそういうことになりそうだ。人は人を活用しないと生きて行けないとすれば、なるべく殺傷しないで生かす方向へと向かうのかもしれず、そのような方向での人材活用が図られるのだろう。そして世の中に不平不満が蔓延すれば人材活用もうまくいかないだろうから、なるべく人々の不平不満をなくす方向での努力も図られるのではないか。だから不平不満のある人たちは抗議の声を上げて、それをメディアが伝えることによって、その不平不満がなくなるような方向での努力が図られるように、世の中の潮流を持っていかなければならないわけか。おおよその傾向としてはそういうことであり、世界はそのような方向へと向かっているわけで、それに逆らうような行為が批判されているのだろうか。具体的には特定の人や勢力が利益を独占するような行為が批判されているわけで、抗議の声を上げている人たちが糾弾しているのも、概ねそのような行為なのだろうが、そのような抗議をやめさせようとする人や勢力がやっているのが、論理のすり替えや揚げ足取りなのかもしれず、そうやってなんとか批判の矛先をかわそうとしているのかもしれないが、果たしてそれが功を奏していたりうまく行っているのかといえば、現状では必ずしもうまく行っているとは言えないのかもしれず、その論理のすり替えや揚げ足取りが見え透いていて、逆に反感を買っていると言ったところだろうか。たぶんそのような傾向が今後とも世界的に続いてゆくのではないか。要するに人々の間で不平不満が渦巻いているなら、抗議の声が上がって当然なのであり、それを一時的に行政などが押さえ込んでも、人が実際にそこで生きて存在している限りは、不平不満が鳴り止むことはないだろうし、それをメディアが拡散することで世界中に広まってゆくわけだ。


7月30日「制限と制約」

 誰の思惑通りなのでもなく、誰も想定していなかった状況なのかもしれないが、それがどうしたわけでもないことも確かなところだろうか。これまでもそうだったのだろうし、たぶんこれからもそうだろう。状況を利用しているつもりが、その状況に絡め取られて身動きが取れなくなっているのかもしれない。誰もがそうなっているのだろうか。これまでもこれからもそうなのではないか。だから取り立てて何がどうしたわけでもないのだろうか。そんな状況の中で何かをやっているつもりなのだろうが、何をやっているとしても大したことではないらしい。中には大したことをやっている人もいるのかもしれないが、やるとなると大抵はうまくいかないものだ。そしてうまくいかないなりにも、やり続けなければならない成り行きになってしまうのだろうか。やめようと思えばいつでもやめられるのかもしれないが、実際にはやめたくてもやめられない成り行きの中で苦しむことになるわけか。そうなる場合もあるし、ならない場合もあるのかもしれず、その様々な場合のうちの一つが現状なのだろうか。ならば現状とは何か。誰もがそこで生きて死んでゆく現状があるわけか。そしてその死ぬまでの間で何かをやっているわけで、そのやっていることが大したことではないわけだ。何をやろうとしても現状の延長上でしかできないだろうし、現状から制限や制約を受けながらやるしかない。それ以上の何ができるだろうか。実際にやれることは限られていて、その限られた中からできることをやっているわけで、たとえやっていることに不満があるとしても、思い通りのことができない現状を覆せずに、不平不満を溜め込みながらも、なんとかやれる範囲内でやっているわけだ。要するに実際にやっていること以上は何もできないのかもしれず、現にやっていることがやれることのすべてなのかもしれない。ではそこで何がやられているのだろうか。様々なことがやられていて、人と人とが協力したり連携したりしながらやっている場合もあるし、対立しながら争っている場合もある。人のやっていることはすべてにおいてそうだろうか。言葉でいい加減に説明するならそういうことになりそうだが、実際にやっていることが深刻な状況をもたらしているのだろうか。では深刻に思われる状況とは具体的にどんな状況なのか。多くの人が飢餓や貧困に苦しんでいたり、戦火が絶えず殺し合いが行われている状況だろうか。あるいは原発事故により放射能汚染が収まらない状況であったり、産業の発展による行き過ぎた利益追求が環境破壊をもたらし、野生生物が絶滅の危機に瀕している状況だろうか。否定されるような状況なら他にもいくらでもありそうだが、では人のやっていることで、肯定的に受け止められる状況というのがあるだろうか。

 人類は文明の発達によって地球上でかつてない繁栄を謳歌しているのだから、誰もがそれを肯定しないわけにはいかないだろうか。要するに現状は肯定的な状況だと見なさなければならないわけか。繁栄している反面、誰もが漠然と不安を抱いていて、多くの人が人類が滅亡するような兆候を感じ取っているのかもしれない。それが環境原理主義的な主張となって表れているのかもしれず、機械文明に対する批判や、自給自足の農業を中心とする村落共同体への憧れとなっているのだろうか。だが大多数の人たちが機械文明を享受する産業社会の中で暮らしている現実があるのだから、文明なしには生活が成り立たないことも確かで、良くも悪くも文明の中で生きているわけで、誰もがそこから逃れようのない状況の中にいるわけだが、やはりそこでもやれることが限られていて、できる範囲内で何かをやりながら生きている。しかし実際に何ができるというのか。政府に対する批判なら今多くの人がやっているのではないか。それ以外ではほとんどの人が仕事をしているはずか。たぶんその仕事が今ある現状の社会を成り立たせていて、そこで人々が生きている現実をもたらしているはずで、そんな人々の労働こそが現代文明を支えているのだろうか。客観的にはそういうことになるのではないか。しかもそこで暮らしている人に働くか否かの選択肢などなく、多くの人たちは働かざるを得ない状況の中で生きていて、実際に働いているわけだ。たぶん現状に拘束されているとはそういうことであり、人はそこで労働に伴って生じる制限や制約を受け、労働が優先される範囲内で何かをやることしかできず、労働に捕らわれている限りで行動の自由も奪われていて、中には思想の自由すら職業によって制約を受けている場合もあるのではないか。具体的には職場での役職がそのままその人の思想的な限界を示している場合がありそうで、従業員と管理職との政治的な対立もそこから生じているのかもしれない。自由にものが言えるのは学生の間だけで、就職して社会の中で一定の役割を担うようになると、実際に仕事の内容から様々な制約や制限が生じて、憲法上は保障されている個人の思想信条や言論の自由でさえ、なんらかの影響を被って、言いたいことも自由に言えないような立場となってしまうのかもしれない。


7月29日「寝た子を起こすような真似」

 戦争の危険はいくらでもあり、その可能性を考えたらきりがないような気がするが、これまでの戦争になった経緯からすると、思わぬところから勃発することが多い。いくらその可能性を想定したところで想定外のことが起これば、そんな想定など意味がなくなってしまうだろうか。それでも事前に戦争になる危険性を想定して、備えておかなければならないという言い分が成り立つのだろうし、そのつもりで法整備に万全を期すところを見せたいのだろうが、本当にそれで万全を期していると言えるかどうかはよくわからない。法整備に万全を期したところで、それで万全であるとは言えないし、何をもって万全であるとも言えないところだから、万全などあり得ないのかもしれないが、何かしらもっともらしい理由をつけて、都合のいいような法律を作ったり、都合のいいように法律を変えたいところなのかもしれない。政治家や官僚などがやりたいのはそういうことなのだろうが、そういう行為も国家の制度の一部として機能しているのかもしれず、そんなことを行って何かを前進させたいのであり、何かとはその場の都合に合わせた法整備ということだろうか。そうやって立法機関は立法を行い、それを審議して議決する機能があるわけだ。それが何を意味するかといえば、そうやって彼らは仕事をしているわけだ。実際に戦争がいつ起こるかはわからないが、国会での審議が今後の成り行きの中で何か意味を持つとすれば、それを見ている人々がどう受け止めるかにかかっているだろうし、それによって今後の成り行きも変わってくるだろう。国家は政治的な解決の手段として、戦争をやりづらくなっていることは確かだ。現状では日本がどこかの国に宣戦布告するなど考えられない。日本やその周辺国がどうにもならないほど経済が行き詰ったりするような兆しは今のところないし、北朝鮮に関しては周辺国は韓国と中国とロシアであって、おかしくなってくればまずはそれらの国がどうにかするだろうし、日本は間接的な関与しか行わないだろう。アメリカにしても実際に戦争をやっていたのは911の同時多発テロの頃で、それから十数年も経っているし、中東やアフリカにも直接は大規模な軍隊の派遣はせずに、テロ組織への攻撃はもっぱら無人爆撃機で済まそうとしているはずだ。そしてこの状況から大国の中国やロシアとの全面戦争となると、そこに至るまでの間に相当の紆余曲折があるはずで、いきなり明日にでも戦争となるわけではないのは一目瞭然の状況なのではないか。

 ではこの先何事も起こらない確率の方が高いだろうか。状況的にはそうかもしれないが、戦争自体が思いがけないきっかけから起こることの方が多いだろうから、たぶん何事も実際に戦争になってみないことにはわからないだろう。与党の政治家や官僚の思惑としては、憲法改正あたりが本命なのかもしれないが、それにしては議論の持って行き方が粗雑で強引すぎるし、政権寄りのメディアもあからさまな批判封じのような態度に出ているし、国民の反感を買うような言動も多すぎるのではないか。どこまでその気なのかよくわからないのだが、決して思惑通りに事が運んでいるのではないことは確かなようで、彼らにしてみれば思ってもみなかったような成り行きになっているのだろうし、国民の反発が予想外に強くて焦っているのではないか。といったところで国会で与党勢力が多数派を占めているのだから、安保法案を可決することはできるだろうし、実際にその方向で成り行きを進展させようとしているのだろう。それはそれでそういうことでしかなく、法案が可決されたら今度は国民が選挙の時に判断すればいいことでしかなく、その法案が違憲の疑いがあるなら最高裁判所が判断するだろう。そして政府与党のやり方に我慢がならない人たちは、デモ行進や集会を開いて反対の意思表示をして市民運動を盛り上げればいいわけだ。現状はそんなところだろうが、それで何かまずいところでもあるのだろうか。安保法案に反対する市民運動を妨害したい人はいくらでもいるのだろうが、やりたい人はやらせておくのが何よりのことであり、妨害したい人にも妨害させておいた方がいいのかもしれず、そのような妨害行為がどのようなことなのか、よく理解しようとすることが何よりのことなのかもしれない。様々な立場の人たちが様々に判断すればいいわけで、反対運動に参加するのも妨害するのも傍観するのも、その人の自由なのだろう。どちらにしてもそれをやったからといって、平和的にやっている範囲内に収まれば問題はなく、一般の人たちの政治参加でしかないわけで、そのような行為を継続的にできるようになれば、選挙結果にも影響を及ぼせるのかもしれない。そういう面では多くの人たちが政治に関心を持つ機会となっているのだろうし、このままではまずいと危機感を抱かせるような状況を、政府与党とそれに迎合的なマスメディアがもたらしているのかもしれない。それが今後どのような状況をもたらすのかはよくわからないが、現時点では無用な対立を煽っている人たちが、自ら墓穴を掘っていることは確からしく、そのようなやり方がうまくいってもいかなくても、どちらにしろこじれた状況を招いていて、陰謀論的にはそれがアメリカの思惑通りなのかもしれないが、必ずしもアメリカの政策がうまくいっているわけではないだけに、アメリカも寝た子を起こして自ら墓穴を掘っているのかもしれない。


7月28日「通常の反応」

 世界には地域ごとに異なる民族や異なる宗教や宗派があり、互いに対立して抗争していたりするが、議会内で活動する政党もそれと似たようなものだろうか。民族政党や宗教政党などはそのものズバリなのだろうが、保守やリベラルといった主義主張も、それと似たようなものなのだろうか。実際には主義主張に大した違いはないのではないか。ただ違いを際立たせるような思惑が働いていて、政党の支持者を囲い込むために、他党との違いを強調しているだけかもしれない。国と国とが対立していないと国を維持できないように、政党も他の政党と対立していないと、政党の存在意義が薄れてしまうのかもしれず、そのためには他の党との違いが際立たせることが、その政党独自の立場や主義主張を強調する上で欠かせないのかもしれない。自らの存在をアピールするには、敵を作って対立して論争を繰り広げることにより、自分たちの正当性を主張するわけだ。そのようなやり方によって政党という組織が成り立っているわけで、政党が他の政党と対立するのは、政党が政党として存在する上で必要不可欠なことなのかもしれない。だからと言って、政党の宣伝攻勢に乗せられて、一般の人たちが対立する必要はないのではないか。別に特定の政党を支持する必要はないし、選挙で政党の候補者に投票する必要もない。また政権を担っている勢力がやっていることに反対の立場なら、選挙で他の政党の候補者に投票すればいいし、別のその政党を普段から支持していなくてもかまわないのであり、特に関心がなければ選挙に行かなくてもかまわないのだろうが、それはその人の勝手だろうから、別に批判されるようなことでもない。結局政治とはその程度のことなのではないか。そしてその程度のことの延長上に独裁体制や強権政治があるわけだが、だからと言って深刻に考える必要はないのであって、深刻に受け止められないから、軽い気持ちで世論調査結果などを小馬鹿にしてしまうのであって、たぶん個人の権利が制限されるようなひどい状況になったとしても、そう受け止めるしかないのだろう。だから何を煽られても真に受けるのは躊躇してしまい、政治家や政党の主義主張なども信じる気にはなれないわけで、軽い気持ちで支持していない政党の候補者に投票したり、そうすることにも気乗りしないと、選挙に行かなかったりするのではないか。一般の人たちにそれ以上を求めることはできないだろう。たぶん誰もがその程度のことだと割り切っていれば、選挙のたびに殺傷事件が起こるようなことはないのだろうし、実際に日本ではそうなのかもしれない。

 政党政治はメディアによって支えられていて、それをメディアが伝えることでしか成り立たないものなのではないか。メディアが伝えなければ国民は国会で何が行われているのかわからないだろうし、もしかしたらわからなくてもかまわないのかもしれない。制度としてはその程度のことなのに、関心を持ってもらわないとマスコミが商売にならないから、必要以上に報じて、それを面白おかしく伝え、そうやって初めて成り立っているのが、現状での政治なのではないか。少なくとも今までは新聞やテレビの報道番組が成り立つ範囲内で、国民が政治に関心を持っていたはずだが、今後はどうなるかわからない。果たして職業として政治家が必要なのかどうかも、本当のところは誰にもわからないのではないか。特定の政治家でないと務まらないような仕事内容なのだろうか。何かの片手間にやる程度のことで済んでしまうようなことしかやってないのではないか。果たして選挙の争点とはなんだったのか。たぶんそれとは無関係に政府が法案を国会に出して、何やらこじれているわけで、総理大臣による子供だましのような説明が話題を呼んでいるだけで、取り立てて何がどうしたわけでもなく、少なくとも国会でまともに議論がかみ合っているわけでもないらしい。国会の外では市民や学生によるデモや抗議集会で盛り上がっているようだが、そういう運動に熱心な人たちはそれなりに充実した日々を送っているのだろう。それでかまわないわけだ。それ以上でも以下でもなく、それはそれで放置されるがままとなっている。それに賛同する人たちもいるし、反感を抱く人たちもいて、そのような運動を賞賛したり批判したりしているわけだ。それによって何かが変わろうとしているのだろうか。政治が変わると思いたい人もいれば、変わるわけがないと反発する人もいるわけで、たぶん運動が盛り上がれば何かしらこれまでとは違う成り行きになるのかもしれないが、それに期待している人もいれば、苦々しく思っている人もいるのだろう。中には変わってもらっては困ると思う人もいるわけで、脚光を浴びている若者たちを貶めるようなことを言っている人もいる。たぶんそれらの運動に否定的になるのも肯定的になるのも、それほど過剰に激しく反応する必要もないのかもしれず、その程度のことだと思っておくべきなのかもしれない。市民は何か政治家が気に入らないことをやれば、抗議のデモや反対集会を開くのであり、その程度の政治意識は持って当然なのだろう。そしてそういう行為に無関心であっても反感を抱いてもかまわないのであり、賛同して一緒になってデモや集会に参加してもかまわないのだろう。


7月27日「世界的な傾向」

 人の心理状態がおかしくなるのはどんな状況下においてなのだろう。何かおかしな方向へと世論を持って行こうとする魂胆が見え透いていて、果たしてそんなやり方で本当にいいのか疑念を抱かざるを得なくなってくる。しかし何を疑っているのだろうか。戦争を仕掛けていると言われているイスラム原理主義勢力による、子供を使った自爆テロや残虐な処刑行為が、世界中で反感を買っていることは言うまでもないことだが、なぜ彼らがそのような行為に及ぶのかについて、納得できる説明がなされていないように思われ、そのイスラム原理主義勢力を抑え込むために米軍が駆り出されていて、その米軍をサポートするために日本の自衛隊も駆り出されようとしていて、そのための法整備を政府与党が進めようしているわけで、やはり疑念はそこから生じてしまう。例えばミャンマーでイスラム教徒のロヒンギャ族が迫害を受け、難民となって近隣諸国へ流出している実態があるわけだが、なぜミャンマーで多数派を占める仏教徒が少数派のイスラム教とを激しく迫害するかのかは、それはミャンマーが国民国家として民主化の途上にあることと無関係ではないように思われる。国民国家は同じ言語や民族として一つの国家を形成するわけで、異民族を受け入れない傾向にあり、それはかつてナチスドイツがユダヤ人絶滅化計画を実行したのが有名だが、その迫害されたユダヤ人が、自分たちが国民国家を築くとパレスチナ人を迫害し始めたわけで、やはりそこには異民族や異教徒を受け入れない特性がある。そしてイスラム原理主義勢力も同じように異民族や異教徒を容赦なく殺害する傾向にあり、それは武装勢力の中でも最大の勢力を誇っているイスラム国が、かつてのイスラム帝国の復活を大義として掲げているにもかかわらず、結局イスラム教のスンニ派だけの勢力でしかないことにも表れていて、かつてのイスラム帝国が征服した異民族や異教徒には寛容だったのとは対照的で、結局イスラム国で実権を握っている連中も、同じ民族同じ宗派で一つの国民国家を築こうとしているわけだ。なぜそうなってしまうのだろうか。日本でもネトウヨと呼ばれる人たちが、アイヌや沖縄や在日韓国朝鮮の人たちを異常に敵視しする傾向にあり、彼らも国民国家というイデオロギーで洗脳されているわけだが、何かそこにヨーロッパから始まった一民族一国家の風習が脳裏に刻み込まれているようで、人々の心の中に深く根を張ったその偏見を取り除くのが困難を極める原因があるのだろうか。どうもそれは国家や国民あるいは肯定的な意味を持つ民主主義という概念に、何か欠陥のようなものが含まれているからかもしれない。

 国民国家の観念に染まった人々は、自分たちの同質性を過度に求め、少しでも異質な人々を激しく攻撃する傾向にあるのかもしれず、国民全員が同じ意見や同じ考えでないと駄目であるような強迫観念を抱いているように感じられる。結局それは近隣諸国との対立がそうさせるのかもしれず、愛する祖国を外国の侵略から守るためには、まずは国内が意思統一がなされ一致団結していなければならず、彼らにしてみれば常に隣国とは戦争状態にあるわけで、そのためには国家総動員体制を維持していなければならないわけだ。ミャンマーもつい最近までは軍事政権であったわけで、挙国一致的な政策が異民族に対する激しい弾圧を助長してきたのかもしれず、それは民主化の途上にある現在に至っても続いているのだろう。そして軍事政権といえば、隣国の韓国にしても軍事政権の時代が長く、北朝鮮は未だに軍事政権下だから、両国とも今や完全に韓民族や朝鮮民族で同質化されてしまっていて、国内では他の民族がほとんどいないのではないか。だから外国それも日本に対して一致団結して過剰な敵意を抱いているように見えてしまい、その敵意に呼応しているのが日本のネトウヨと呼ばれる人々で、彼らも彼らで韓国や中国の行為に過剰反応して、まさに一触即発の心境に至っているわけで、中国からの侵略に備えて国内を挙国一致体制にしたいわけで、そのためには反日勢力を一掃しなければならないと考えているのかもしれず、すでに中国の工作員が反日勢力の中に紛れ込んでいて、連日のようにデモや反対集会を煽っていると本気で考えているのか、それともそれが挙国一致へと導くための戦略の一環なのか、今のところはよくわからないが、とにかく激しい口調で安保法案や憲法改正に反対する人々を攻撃している。ナチスドイツにしてもイスラエルにしてもイスラム国にしても、軍国主義的な傾向が強いと異分子を排除したり弾圧し始めるのだろうか。ネトウヨにしても元自衛隊の幕僚長だった人物などが、その思想的な中心だったりしたわけだから、そういう傾向があるのかもしれないし、韓国の今の大統領の父親は軍事政権下の大統領だったわけだし、ネトウヨの相手としてはちょうど釣り合いが取れそうだ。またネトウヨが侵略を恐れる中国も、最近の経済発展とともに軍事予算が増えて、軍備が充実してきたようだし、領有を主張する尖閣諸島などにも領海侵犯を繰り返しているわけだから、彼らの危機意識を刺激するのだろう。要するに近隣諸国との対立が国内の異分子とみなす人たちへの攻撃に転嫁されるわけか。


7月26日「ありえない結末」

 それが言わんとしている正確な意味がわからないまま、言葉だけが先行して使われているのかもしれず、実際にそれで何を説明しているのかよくわかっていないのかもしれない。たぶん何かを説明しているには違いないが、それがなんなのかわからずにいるのだろうか。誰もがわかっているのではないか。少なくともその説明の対象が何であるかわかっていて、その説明の内容が真実であることも理解されているはずだが、そもそもそれは何についての説明なのだろうか。実際には説明の対象がそこから生じていないのであり、別の時代の別の状況の中で生じていた出来事について説明している。戦争について説明するのもファシズムの危険を煽るのも、全てが過去の出来事についての説明となってしまうのだが、過去ではなく今この時代において何が行われているのか。その説明がよくわからないのであり、今ここで起こっている出来事を、過去の事例に当てはめて語っているわけだが、本当にそれでいいのかよくわからないわけだ。この時代で起こっているのは、今までになかった新しい出来事であり、新たな状況の中で起こっているのではないか。では実際に今ここで何が起こっているのだろうか。何も起こっていないと言ったら嘘になるだろうか。確かに何かが起こっているわけだが、それを直接は説明できず、説明しようとすると過去の事例の繰り返しとして説明するか、あるいは憶測や推測を絡めた陰謀論的な説明しかできないのであり、そうなると今現実に起こっていることからずれていってしまうわけだ。なぜそうなってしまうのか、それは誰にもわからないことだろうか。直接説明するにはそれに対応した言葉がまだ編み出されていないのではないか。新しい出来事にはそれを説明できる新しい言葉が必要なのに、その新しい言葉をまだ誰も持ち合わせていないのであり、それを説明できるような言い回しも、まだ世の中に出回っていないのではないか。だから奇妙にも過去の亡霊が引っ張り出されて、それらの名前と実際に生きている政治家の姿が重ね合わされ、その否定的な業績を残した故人と同等に取り扱うことが、その政治家を批判することになるかのように思われている。しかしそれ以外にどう批判すればいいのか。無理に批判しなくてもかまわないのだろうか。まさか件の政治家が批判の対象でないとしたら、他に何を批判すればいいのだろうか。そうではなく批判するとしたらまずはその政治家を批判すべきで、そしてその政治家が属している政党や、それを支持する国民を批判すべきだろうか。そして行政の長として首相を務めているのだから、国家行政そのものを批判すべきだろうか。だが現に批判する者は誰もがそうしているのであり、多くの批判者が政治家と政党と行政を担う官僚機構と、それに追従するマスメディアと産業界を批判しているわけだ。

 たぶん状況の新しさはそこにあるのだろう。一般の人たちが自分たちを取り巻く全てを信用できなくなっていて、自分たちが批判している対象から搾取されていると思い込んでいる。そしてそのような体制を熱烈に支持する人たちをおぞましく感じていて、ネトウヨと不快感を込めた蔑称で呼んで嫌っている。だがそれでも未だ批判している体制を覆すには至らず、選挙になれば議会の与党勢力が勝つ現状に苛立ち、憤りの持って行き場所がなく、反対勢力同士で内紛に至りかねない状況となっているのだろうか。確かにそれもあるかもしれないが、誰もが気づいていないこともあるのではないか。今の与党勢力に代わる受け皿がないと思われがちだが、これまでの与党と野党という対立構図ではないのかもしれず、どちらも必要とされていないのかもしれない。そのもはや政治家が必要でないことに気づいていないのだろうか。しかし政治家がいらないとしたら、他に何が必要なのだろうか。何も必要でなければ国家はどうなってしまうのか。その辺がまだよくわかっていないところなのかもしれず、これから事態が進行するにつれて、これまでとは異なる制度やシステムが生まれてくるのだろうか。それもわからないし、これまで通りの制度やシステムで間に合ってしまうのかもしれない。変に期待をもたせておいて、落胆するだけの取り越し苦労に終わるだけか。少なくとも陰謀論的な憶測や推測とはまた違った結果を生むのかもしれず、戦争や経済破綻などの危機感を煽る人々が肩透かしを食うような成り行きとなるだろうか。それも現時点では予測不可能かもしれないが、ただ言えることは、悲観したり絶望するような状況にないということか。人々の平和への願いがどんな形であれ叶うとしたら、それは人々が思っているのとは少し趣の異なる平和となるかもしれず、具体的には政治や国家がもはや機能しなくなるような形で平和が訪れるのではないか。このまま戦争や経済破綻が回避され続けると、次第に国家同士が対立しあう理由がなくなり、対立しなくてもいいなら、国民が国家の下に団結しなくてもよくなり、対外的にも国家の存在理由がなくなり、政治を行う理由がなくなる。そうなるとどうなってしまうのか。その時になってみたらわかることか。


7月25日「国粋主義と新自由主義の矛盾」

 国粋主義とは何か。どうも愛国心が郷土愛から生じているのに対して、それと重なる部分があるにしても、少しずれていることは確かで、全体主義やファシズムなどとも混同されていて、意味的によくわらない部分がありそうだ。自民族自文化中心主義的な要素もあるのだろうが、ネット右翼などはそれらを全てひっくるめて、わけのわからない主張を繰り返しているのかもしれず、ともかく国粋主義の実態はよくわからない。ネット右翼を国粋主義と同じと見なすのも勘違いなのだろうか。それからどうも日本という国を愛するのは、本来の愛国心とは違うらしく、本来の愛国心とは京都の文化を愛するとか大阪の文化を愛するとか、もっと狭い地域を愛することを愛国心というらしく、日本という国家全体を愛するのはナショナリズムからきているのだろうが、ナショナリズムの語源となっているネーションというのは、固有の言語や歴史を共有する民族共同体という概念になるわけで、固有の言語も歴史も人為的に後から作られたものであることは確実で、例えばアメリカ合衆国のナショナリズムというのは、せいぜい二百数十年の歴史しかないわけで、日本でナショナリズムが流行り出したのも明治維新以後だとすれば、その歴史はせいぜい百数十年だということになるわけだが、ナショナリストはそれを古代まで引き伸ばしたいわけで、中には神話の代まで引き延ばして、日本の歴史は二千数百年もあると豪語したりするわけだが、それでもいいとしても、例えばネット右翼が奈良時代の万葉集の心を受け継いでいるわけでもないし、古事記や日本書記の中で述べられていることと、現代の政治的な諸問題がリンクしているとは言い難いし、ただ自分の国の歴史の長さを自慢したいだけのことに、天皇や皇室や神社などを持ち出しているだけなのではないか。それをバカにしてはいけないだろうか。彼らに反日と呼ばれないためには、それでもいいと肯定しておいたほうがいいのだろうか。現状では似たような意味を持つ言葉が多数あり、それを否定的に使って該当する勢力を批判したいのだろうが、愛国心を強要する国粋主義者でナショナリストでファシストで民族主義者で右翼でとか批判し始めると、本当にわけが分からなくなり、彼らの主張はいったい何なのか、果たしてはっきりした主張というものが本当にあるのだろうか。批判している人たちもされている人たちも、本当のところはよくわかっていないのかもしれない。しかも現状ではそれらを総称して保守主義と呼ぶなら、それに新自由主義という要素も加わっているのであり、さらにややこしい事態になってしまい、うまく定義するのは至難の技となっているのではないか。

 新自由主義にはニューリベラリズムとネオリベラリズムとがあり、一般に保守と結びついているのはネオリベラリズムのほうであり、それを現在では新自由主義と呼んでいるのだろうが、個人とは共同体の一員で、歴史・伝統・慣習に束縛された存在と捉えるなら、市場原理を重視する新自由主義はそのような束縛から個人を解き放つことになるわけだが、なぜかネット右翼はそのような主張も支持しているわけで、一方では愛国心とか天皇とか皇族とか神社とかの、国家の歴史・伝統・慣習などを重視しているのに、そのような束縛から切り離して、市場原理に個人を委ねようとする新自由主義を唱える人たちにも取り込まれているわけで、単にそのような矛盾に気づいていないだけとしか言いようがないのかもしれず、その結果としてネット右翼は、新自由主義的なTPPを推進している現政権を支持しているわけだが、しかも首相をはじめとする現政権の閣僚たちのほとんどは、日本会議と言われる国家の歴史・伝統・慣習に束縛された勢力に属していて、ますますその主義主張に整合性がない矛盾した事態となっている。これをどう説明すればいいのだろうか。人を自分たちの勢力にとって都合の良い、自画自賛的かつ画一的な歴史・伝統・慣習に拘束させておいて、そのような価値観に洗脳された人たちを同質な集団として国家や企業に帰属させ、グローバルに展開する経済競争に勝ち抜こうとしているわけか。だが果たしてそのような人たちで経済競争に勝ち抜けるのだろうか。単純作業だけなら偏向した思想などいらないし、将来的には人よりも自動化されたロボットなどが活躍する部門となるのではないか。画一的な考えの人間がいくら集まっても画一的なやり方しかできず、多種多様な考えや技能を有する人たちを抱えていないと、グローバル化した市場経済の中では生き残れないような気がするのだが、実際に世界中で今そういう政策を積極的に行っているのは、ほとんど北朝鮮ぐらいなものかもしれず、北朝鮮経済の実情がどんなものかは誰もが知っているわけで、そういう面から捉えても、どう考えても国粋主義と新自由主義は相容れないもので、それを平然と繋ぎ合わせるのはまともなやり方とは思えないのだが、どう見ても現政権にはそういう傾向があり、しかもそういう政策を担っている人たちはどんな考え方をしているのか、その点に関してはどうもメディアから伝わってくる情報では、自閉的で国粋主義的なイデオロギーに染まった人しか見えてこないわけで、そういう人たちが一方では開放的で新自由主義的なTPPを推進しているのは滑稽としか見えない。というかなぜこの矛盾に気づかないのだろうか。それとも誰もが気付いているが、あえて指摘しないのがメディア的なルールなのだろうか。


7月24日「矛盾の自覚」

 特にどのような見解を有しているわけではないが、何を否定しているのでも肯定しているのでもないと思っているつもりで、気づかないところで何かしら批判しているのかもしれないが、少なくとも取り立てて何が悪いとも思えないのはどうしたわけなのか。それでも現状を肯定しているつもりではないらしい。しかし現状が最悪だとも思えない。別に安保法案の反対運動に加わっているわけでもなく、デモ行進や集会に参加しているわけでもないが、政府に対する反対派が抱いている危機感とは無縁なのかもしれず、この先何がどうなろうと大したことにはならないとさえ思っているわけだ。なぜ世の中の空気に逆らいつつそう思ってしまうのか。はっきりと思い当たるような理由などなく、ただ漠然とそう思っているだけだろうか。その程度の認識でも構わないと思っているのではないか。とりあえずこの国が世界の中心ではなく、世界を動かす原動力となっているのがこの国でないことははっきりしている。ではどこが世界の中心であり、どの国が世界を動かす原動力となっているのか。世界に中心はなく、中心となる国家が世界を動かす原動力となっているのでもない。ある特定の国ではなく世界そのものなのではないか。世界全体で人類の社会を築いていて、すべての国は横につながっていて、決してどの国が世界的な覇権を確立しているのでもない状況なのではないか。そんなわけで世界は混沌としていて、しかもそこには秩序さえあるのかもしれない。そこでは様々な国家や企業や各種団体などが連携しながら、それらの営みを滞りなく動いていくようなやり方が絶えず試みられている。そのような無数の試行錯誤の総体が世界そのものを表しているわけだ。そしてそんな世界の捉え方は人畜無害であり、何の用も為さず、人が世界の中で何をやるべきかの答えを与えてくれない。ただあるがままの現状を認めるだけでは、ではどうしたらいいのかという方針を示せないわけだ。実際に人々はどうしたらいいのだろうか。それは人の立場や取り巻く環境によって違い、一概にどうすればいいかなんて言えないことなのだろうか。簡単に言うなら人々は幸福に暮らしたいのだろうが、人によって利害が異なるから、誰かが利益を得れば他の誰かが損害を被り、結局は誰もが利益を奪い合う生存競争を繰り広げている現状があるわけか。そう捉えても現状を認めることにしか行き着かないだろうか。では現状での世界の仕組みは何が問題となっているのだろうか。人や地域や国ごとの経済格差を是正しなければならないだろうか。だが果たしてそれだけが問題なのだろうか。政治的な領域では自由と平等と民主主義を実現する制度が求められているのだろうか。世界全体でそのような政治的で経済的な価値観を実現すべく、様々な試みがなされているのだろうし、これからもなされていくだろう。

 果たしてそれでいいのだろうか。わからないがそうした方向で努力することが、世界各国や各国の国民の間では大筋で合意しているはずで、各国が制定している法律などもそれに沿ったものとなっているはずだ。では何がそれの実現を阻んでいるのだろうか。それは経済的な利益の追求から生じる特定の集団や階層への富の集中と、行政の腐敗や汚職がさらにそれを助長している現状があるわけで、経済格差を是正するには累進課税の強化と、行政の腐敗や汚職には警察権力による取り締まりの強化で対応する以外にはないのだろうが、そんなことはわかりきっているにもかかわらず、国家間の経済競争が邪魔をして累進的な課税強化が進まず、富裕層を優遇する国家が目立って多くなり、しかも富裕層が政治的な実験を握っているわけで、それを圧倒的な多数派を占める富裕層ではない人たちが、民主的な手段で政権を握って、政治経済の理想を実現しようとすればいいわけだが、なかなかそれが実現しない現状があり、なぜ実現しないかといえば、誰もが利益を奪い合う競争に勝利して、いつかは富裕層になりたいわけで、自由と平等と民主主義の実現よりも、金持ちになることのほうに魅力があり、多くの人たちがそちらに心を奪われていて、要するに公共の利益よりも利己心が優っている。それを助長しているのがメディアであり、物や情報などの商品を買わせるための洪水的な広告宣伝攻勢によって、公共の利益を優先させる感覚を麻痺させているわけだ。そのような利己心と公共の利益を同時に求めるのは無理なのだろうか。建前上はそれらを両立させるのが市民としての心構えであるような良識が推奨されているのだろうが、まずは金持ちになって経済的に豊かになってからでないと、公共の利益に気をくばる余裕など生じないのであって、それではすでに経済格差が人々の間に生じてしまうから、矛盾しているわけだが、その矛盾をチャリティーなどの慈善事業で補おうとするのが、富裕層などによく見られる習性なのだろうが、もちろんそれでは焼け石に水程度のことで、貧困層の全てを救うには至らないわけで、結局は富裕層がいること自体が経済格差を招いているわけで、では富裕層をなくせばいいということになると、人々が目指しているのが富裕層なのだから、夢をなくすわけにはいかないわけで、人々の間で金銭を介した経済活動がある限りは、金銭を貯めて資産を増やして富裕層になる、という願望をなくすことはできないわけだ。結局そこに矛盾があることを誰もが自覚していながら、それがわかりきっているのにやめようとしないし、実際にやめられないわけで、それは何をどうやっても解決不可能な問題なのではないか。


7月23日「人類の歴史」

 人が何をやろうと人の勝手かもしれないが、人と人との関係や、人が大勢寄り集まって形成する組織や団体との関係などから、やっていることに制約や制限を受けることは確実にあり、また個人にも組織や団体にもそれ特有の限界があるから、やれることにも限りがあり、絶えず制約や制限を受けながらやるしかないわけで、そうした事情からやっていることがうまくいかない場合もあるだろうし、うまくいったとしてもたかが知れていて、はたから見れば大したことをやっているようには見えない場合もあるだろうが、それでも何かしらやっているわけで、やらなければ生きて行けないのかもしれない。実際に大したことをやっているように見えなければ、人がやれることなんてたかが知れていると思えばいいのだろうか。やっていること自体がありふれたことであり、ありふれた世の中で暮らしているのだから、そこから飛躍した想像を絶することなどできるわけがなく、社会が課している制限の範囲内で、誰もがやっていることをやっているに過ぎないのかもしれず、その中でやっていることの優劣を、同業者や無関係な第三者から評価される場合もあるかもしれないが、それを褒められようとけなされようと、やらざるを得ない成り行きならやり続けようとするだろうし、やめるきっかけが巡って来れば、その時にやり続けるかやめるかの判断を迫られるのかもしれない。ちなみに今がその時なのだろうか。その時であったりなかったりして、どちらとも思えないような成り行きかもしれないが、現実に何をやっていようと、そのやっていることがやっている人を構成しているわけで、それらの行動や動作の総体がその人と捉えて構わないのだろう。それ以上でも以下でもなく、頭の中で何を考えていようと、それが行動や動作となって表に出てこない限りは、そんなのは無視してもかまわないようなもので、考慮に入れなくてもいいのかもしれず、その人が実際にやっていることから、その人の全てが判断されるわけだ。そしてそのやっていることに関しては言い訳できないのであって、本当はやりたくないことを周囲や自身の事情から、しかなくやらざるを得ないと言ってみても、そんな事情が情状酌量の余地として考慮されることはまずないだろう。だからやりたいことをやっていても、やりたくないことを無理にやらされていても、現実にやっていることに関しては、それをやっている当人がやっていることから生じる責任を引き受けなければならず、言い訳するのが見苦しいと思えばたとえ誤解されようと後ろ指を指されようと、誤解など放置しながらやり続けてもかまわないだろうし、誤解を恐れず肝を据えて事に当たらないと、決してまともな結果は得られないだろうし、何も得られずに後悔しても後の祭りでしかないのだから、その辺は事前に割り切らなければならない。

 それがやるべきことなのかやるべきでなかったのかなんて、やってみてからでないと判断がつかない場合が多いだろうし、やって何がしかの結果が出れば、それがやってみた成果となるかもしれないが、目立った成果が何ももたらされなくても、それが要らぬ回り道であったとしても、やったことが経験になるわけだから、そんな無駄骨のような経験をしたと思うしかない。経験とは生きていることそのものであり、人は生まれてから死ぬまでの間になんらかの経験をするものだ。それが有用と思われたり無駄と思われたりするかもしれないが、人はそれを経験するしかなく、経験が後で活かされようと無駄に終わろうと、経験したことを誇ってみても悔やんでみても、それも経験の後の経験でしかないだろうし、それを肯定するのも否定するのも大したことではなく、どちらでも構わないだろうし、どちらであってもその後にさらなる経験が続いたり、その後がなければそこで終わりだったりするだけだ。そこで終わりとはその個体の死を意味するかもしれないが、たいていは他の人や組織とつながりがあるだろうから、やっていることが受け継がれたり、受け継がれなくてもなんらかの影響を与えたりするわけで、そのようなつながりから、その経験が無駄になったりならなかったりするとしても、それが社会の中で何か一定の動きを誘発するかもしれないし、なんの動きももたらさずに忘れ去られてしまうのかもしれない。どちらにしろ人が社会の中でうごめいていることが人の経験をもたらし、それが他とのつながりや他への影響などから、他の人や組織の動きと共鳴現象を引き起こせば、社会の全体や部分になんらかの変化をもたらすかもしれないし、変化とは社会が動くことであり、現状が気に食わなければ動かすしかないわけで、動かそうとして動かせるものではないのが社会であり世の中なのだが、やはり自身が思い描いた物語の主役になりたければ、願望としては世の中を動かして、その動かす原動力に自らの行動や経験を結びつけたいのであり、その中心人物になろうとするわけだ。だからそういう人物に語らせれば、自己中心的な大言壮語になることが多く、それを語ることで語っている自己の存在をアピールしているわけで、その存在とは自らの経験が積み重なった存在であり、その経験が語らせるのが自らが主役の物語であるわけで、時にはそれが立身出世物語になったり、また別の時には偉業を成し遂げる偉人伝になったりするわけだが、それが過去から現代までの時間的にも地域的にも、世の中の様々な分野でそんな人物がいくらでもいるとすれば、それらの人物たちが物語る経験の集積が人類の歴史であったりするのだろうか。そんな暑苦しそうな歴史には興味を持てないか。


7月22日「政治の本質」

 この時代に生きる人たちは、荒波に翻弄される無数の飛沫のうちの一つにすぎないような存在でしかなく、自分たちの力で世界を変えられると信じているわけでもないのに、メディアを通じて伝わってくる政治的な主義主張に踊らされながら、誰が主役にもなり得ない空疎な物語へと誘われ、そこで敵とみなした人物や勢力に対して、苛烈な非難の言葉を投げかけ、そうすることでようやく自分がのめり込んでいる物語の登場人物になり得たと確信するわけか。ではそんなふうにして多くの人が心を奪われている行為が、果たして現状を変革する原動力となっているのだろうか。それはもう少し時が経ってみないことにはわからないか。時が経ってもはっきりした結果が得られるとは限らず、ただ批判している対象を打ち倒せばそれでいいのかもしれないが、それで何が変わるわけでもないのかもしれず、そうなればまた新たに批判する対象が現れるだけだろうか。少なくとも今批判している対象を倒さないと、そのあとはやってこないのではないか。だから必死になって批判している最中なのだろう。それ以外に何ができるわけでもなく、今はただ批判を繰り返すしかない現状なのではないか。ところで彼らは何を求めているのだろうか。それはただ漠然と平和な世の中が維持されることを願っているわけか。それ以上に何を求めているとも思えないのだが、その程度のことしか主張できないのだとすると、他に何が主張できるのかわからない現状なのかもしれず、政治的には何をどうすることもできないような現状なのではないか。手詰まり状態が延々と続いているのであって、当初は景気を良くするのが目的だった今の政権がやってきた景気刺激策というのが、多くの人にとっては取り立てて景気が良くなったという実感をもたらし得ないまま、途中から将来の平和を脅かすような政策へと変わってきたので、多くの人が不安に駆られて、反戦平和運動のような様相を呈してきたわけだ。そしてそれは現状で政治に何ができるわけでもないという状況を一時的に忘れさせる効果があるのかもしれず、それどころか政治がひどいことをやっているからそれを批判しなければならない、という姿勢を多くの人が取ることを可能としているわけで、それをやるために多くの人が結集して、連日非難の大合唱をやっているわけで、それをやる機会を政治が与えることで、なんとか政治的な手詰まり状態をごまかそうとしているのではないか。要するにそれは政治を延命させるために必要な一種の時間稼ぎなのだろうか。確かに日本ではそうかもしれないが、例えばそれが中東などの紛争地帯だと、平和からかけ離れた戦争状態となっていて、そこでは政治的な手詰まりが武力衝突へと発展しているわけだ。

 日本でもいずれはそうなるのだろうか。それともかつてはそうなったが、もうそれは二度と繰り返されることはなく、今度はそれとは別の事態へと発展してゆくだろうか。では別の事態とはなんなのか。それを予想するのは現時点では無理だろうか。とにかく反戦平和運動をしている人たちの願いが叶うとすれば、要するに平和な状態がこれから先も延々と続いてゆき、それ以外では取り立てて何も起こらないかもしれず、要するに政治的にはどうすることもできず、手詰まり状態が延々と続いて行くことになるのかもしれない。実際に政府がいくら景気刺激策をやってもご覧の通りの状態で、中にはその恩恵を受けている人や企業があるのかもしれないが、一方でなんの恩恵も感じない人たちがいるわけで、そういう人たちが政府や為政者に対する批判を強めている現状があり、そういう批判がある限りは景気刺激策もうまくいっているとは言えず、そういう人たちを黙らせることもできないようで、それどころか別の方面で別の政策が仇となって、かえって批判を勢いづかせる結果となり、それが反戦平和運動と連動して顕在化しているわけだ。この先に何が待っているのだろうか。何も待っていないとしたらどうにもならないだけか。どうにもならなければこのままの現状が延々と続いて行く以外はあり得ず、人々が望むような変革など永遠に訪れはしないということか。というか平和な状態が延々と続いて行くことを願っているわけだから、少なくとも戦争にならなければ願いが叶ったことになるのではないか。要するに変革とは平和な世の中が続いて行くことであり、戦争のない世界の到来なのではないか。そして平和なままだと政治には何もできないのかもしれず、結局政治とは他の国と対立を煽って、対立しあう国同士で何か交渉しているように装うのが政治であり、そこで何らかの交渉が妥結すればそれが政治的な成果であって、それがなければ政治などそもそも不要なのではないか。そんなわけで世の中が平和になってしまうと政治などいらないのであって、政治家も不要となって国家さえも形骸化してしまうのかもしれず、そうならないためには外国との敵対関係を保持し、必要に応じて他国の脅威を喧伝して対立を煽り、場合によっては軍事衝突なども起こさなければ、国民の団結を保てないのではないのか。事実ネットなどで見かけるタカ派の論者などは、事ある度にアメリカとの同盟関係を強調し、韓国や中国が日本を批判しようものなら、そら見たことかと嬉々としてそれらの国を罵倒しまくり、明日にでも韓国経済が崩壊するだの中国のバブルがはじけるだの、中国政府がウイグル人やチベット人を弾圧して、残虐な拷問なども繰り返していて、日本も中国に占領されれば同じ目に遭うだのと、本当に水を得た魚のように煽りまくっている。そういう意味では戦争法案だなんだのと人々の不安を煽って対立を演出している現状こそが、政治的には好ましいのであって、何もなくなってしまうと途端にやることがなくなって、手詰まりとなってしまうのが政治の本質なのかもしれない。


7月21日「おとぎ話」

 何かそこで特定の意図や思惑が介在しているとしても、その意図や思惑通りに世の中が動いているわけでもなさそうだ。結局そんなことはどうでもいいのだろうか。どうでもいいわけではないのだろうが、実際にそう思うしかないような状況となっているのではないか。結局当初の意図とは違うことを行っていたり、思惑から外れた行動をとっていたりするわけで、その結果として思ってみなかった事態に直面している。それが現状なのかもしれないが、その現状に対応してまた新たな意図や思惑が生じて、そこでも性懲りもなく思惑通りに事が運ぶように、何やら愚策を弄してみたりするわけだが、結局それも当てが外れて、さらにわけがわからない事態へと陥っているのではないか。でもそれほど焦っているわけでもないのだろう。もちろんそんな状況を楽しんでいられるほど余裕があるとも思えず、必死になってそこから這い出ようとしている最中なのかもしれないが、誰がそんな苦境に直面しているのか。特に誰とも思えない状況なのかもしれず、当人は気づいていない可能性もあり、実際にそれほど苦しいとは思っていないのではないか。別に被害妄想など抱いていないとすれば、まだ心を病んでいない証しかもしれないが、たとえどんな気がしていようと、その場で自らの意図や思惑と無縁でいられるわけもなく、思い通りにいかない世の中の状況を苦々しく思いつつも、それも運命だと半ば諦めの心境にでも至れば、それで済んでしまうようなことでしかない。そしてそれもその時の状況次第かもしれず、必死になって何かをやろうとする心境になれなければ、そのまま諦めてその場の状況に流されながら生きてゆくしかないのだろう。人生の転機などそうあるものではなく、過去からの経緯を引きずるだけ引きずって、そのまま以前と同じようなことを惰性で続けていくことしかできなかったりするのかもしれないが、それもその時の運と状況次第だろうか。たぶんその先にどんな機会が待ち構えているわけでもなく、その場の気まぐれが災いして、焦って自分で強引に機会を作り出そうとするかもしれないが、それも当てが外れてしまえば諦めてしまうだろうし、とりあえずそこまで行ってみればいいということかもしれず、実際に行けばわかるようなことなのではないか。そして行っても分からなければ、さらにその先を目指して歩みを進めて行けばいいわけで、そこまで行っている現状を抽象的に語るとすれば、そんな現状でしかないのだろうが、では具体的にそこで何をやっているかとなると、それをうまく語ることができないのかもしれず、現実に語っていることはその時々で千差万別で、何か特定の語るべき対象があるわけでもなく、語り始めはなんだかわからないまま語ってくると、途中から何を語っているのか気づく時もあるし、その終わりに至っても内容が定まらない時もあるのではないか。現に今がその状態だろうか。たぶんまだその途中で、もう少し語れば何かその具体的な内容が明らかとなってくるのかもしれないが、その内容とは何か。

 たぶんこれから先もどうということはなく、中国との間で全面的な戦争なんて起こらないだろうし、韓国などとはさらに問題外なのかもしれない。当分は向こうの気がすむように、勝手に独島を軍事占領させておけばいいだけで、場合によっては尖閣諸島なども中国に占領させてもかまわないし、その気があればの話だが、沖縄と中国とが経済的な結びつきを強めてもかまわないのかもしれない。今ちょうど米軍基地を押し付けられて機嫌を損ねている最中だろうから、沖縄は日本と中国を両天秤にかけて、中国から観光客などを誘致して利益に結びつければいい話でしかなさそうだ。ともかく国境紛争ほどくだらない話はなく、無人島などもともとどこの国にも属していなかったわけだから、現状でどこの国が領有していようとかまわないわけで、その領有が気に入らなければ話し合えばいいわけだ。もちろん話し合いが平行線のままでも構わず、双方ともに主張を譲らない場合がほとんどだろうから、やはり延々と話し合いを続けるしかないだろう。そんな話し合いが国と国との外交交渉なのだから、そうやって平和的に外交交渉を続けて行けばいいわけだ。そのような外交交渉の何が問題となっているわけでもなく、それが国境を接する国と国との関係でしかなく、隣国同士ならよくあることなのかもしれない。そしてたとえそれが偶発的な軍事衝突に至るとしても、それは範囲の限られた限定的なものとなるしかなく、国境紛争から国と国とが全面戦争に至った例はほとんどないのではないか。それは中国とソ連やインドとパキスタンやイギリスとアルゼンチンなどの軍事衝突が、ここ数十年では記憶に残っているところかもしれないが、いずれも軍事衝突が全面戦争に発展して、結果的にどちらかの国がどちらかの国に全面的に占領されたことなどなく、フォークランド紛争を除けば小競り合い程度のことだったはずだ。要するに国境紛争など枝葉末節な問題でしかなく、紛争が起こった時は一時的に軍事的な緊張が高まって国交断絶に至るかもしれないが、たいていの場合は短期間で軍事衝突が収まって、時が経てばまた交流が再開しているはずで、先に挙げた国のうちで未だに国交を断絶している国など皆無ではないのか。要するにその程度のことで危機感を煽るのは愚の骨頂であり、あたかもそれが隣国との全面戦争に至るような危険性を指摘するのは、ほとんどリアリティの欠如した架空のおとぎ話でしかなく、馬鹿も休み休みに言えと一蹴してもかまわないようなことなのではないか。そんなわけで現状でどのような思惑が介在しているとしても、歴史的な事情や経緯を考慮すれば、それほど突飛な事態になるのを恐れる必要はなく、普通に人や企業などが国と国との間で交流があり、互いに物や情報が行き交っている現状がある限りは、そこから大幅に逸脱した状況となることは稀だろう。結局その稀にしか起こらない事態に備えるとしても、ほとんどはそうなってから対処するしかないわけで、今から危機を煽って何か自分たちの思惑通りのことをやろうとするのは、かなり現実離れしたおかしなことになるのではないか。要するにリアリティの欠如したおとぎ話のようなことを語るしかないわけだ。


7月20日「労働とは何か」

 目の付け所がずれているのかもしれない。わざと外しているのかもしれず、外れていないと何も語れないのかもしれないが、現状に近づきすぎるとありふれたことしか語れず、ありふれたことを語っていてもかまわないのだろうし、わざと外れたことを語ろうとしなくてもいいわけで、無理にそれを語る必要はないのだろうが、たぶん無理に語っているわけではなく、語ろうとすると自然とそこから外れていってしまうのかもしれず、そことはメディアがこぞって取り上げている政治関連の話題だろうか。なぜそこから外れていってしまうのか。それに関して語るべきことがないわけではないだろうが、どうも何かおかしいような気がするわけで、それは本質的な問題ではないのかもしれず、語ろうとすると自然と本質的な問題へと引き寄せられてしまうのであり、政治関連の話題から外れていってしまうわけだ。では本質的な問題とは何か。それはやはり国家と資本の関係だろうか。実際語っているうちに自然とそこへ行き着いてしまうのであり、政治の問題も全てそこから生じているのではないか。資本を投下して産業を振興し、そこで人々が働く場を確保し、そこから所得税や法人税などの税収を得て、国家を運営するための資金とする。そのようなサイクルが常に政治の問題として浮上しているのであり、政治の延長としての戦争さえも、それも産業の一分野としてある軍需産業を支えるために必要とされ、実際の戦場で兵器や弾薬が消費されることで、新たな生産へと結びつくわけで、そのような産業を継続させるために、必要悪としてある程度の規模の戦争が欠かせかったりするのかもしれない。だが果たしてそのようなサイクルがいつまでもうまく回っていく保証があるのだろうか。例えばいったい産業がどれほどの労働力人口を必要としているのか、よくわかっていないのかもしれず、もしかしたらそこに労働可能な人の全てが働ける職場があるわけではなく、仕事の自動化や効率化などによって、だんだん人が要らなくなっていくのかもしれない。そうなると余った人は何をやればいいのか。そうなってみないとわからないだろうが、都合よく働き口がないと生きて行けなくなったりするだろうか。実際に世界全体で数億人いると言われる貧困層などは、まともに食っていくための仕事がないから飢えているのだろうし、今後ますますそのような人々が増えるかどうかはわからないが、仕事がなく食っていけなくなれば死ぬしかなければ、そういうところで労働力人口の均衡が取られるわけか。仕事の自動化や効率化によって働く場がだんだんなくなってくれば、それだけ働き口がなく食えなくなった人が死んで、世界全体の人口もだんだんと減っていくのだろうか。

 例えば財政破たんが話題となっているギリシアでは、若者の半数が失業中だそうだが、それらの失業中の人たちを食わせていくために国家財政が借金まみれとなっていて、もうすでに失業している人口の分だけ働き口がない状態なのではないか。それは日本でも言えるのかもしれず、国家財政に占める税収の割合が半分ぐらいだから、すでに全人口の半分がもはや要らない人たちで、それらの人たちを食わすために未来へ借金しているのかもしれず、このままいくといずれは国家が破たんする運命なのではないか。20世紀は二度の世界大戦や独裁政治による大虐殺などが世界の至る所であって、たぶんその時々で都合よく多くの人が一度に死んでくれたので、あまりそういう問題が顕在化しなかったのかもしれないが、21世紀になって大規模に人が死ぬ戦争や大虐殺がなくなると、これから全世界的に働き口がない人たちが溢れかえってきて、国家財政も借金まみれとなってきて、多くの国が財政破たんに陥ると、国家と資本の関係から生じる経済のサイクルもうまく機能しなくなって、いよいよ世界中がおかしくなっていくだろうか。もしかしたら現状では物や情報の価値や値段が著しく不均衡となっているのかもしれず、現実に70億もの人が全世界で生きているわけだから、実際にそれらの人たちが生きていく分の物資が生産されているわけで、借金まみれの国の要らない人たちも生きていることから判断すると、要するに経済的に莫大な利益を上げている人や企業がある一方で、ギリシアなどの財政破たんした国や日本などの莫大な借金がある国が存在するわけで、それらの利益と借金を相殺するとどうなるのか、その方面の専門機関が計算してみるといいのではないか。相殺されてゼロになるかどうかはわからないが、それでもまだ利益のほうが大幅に多ければ、世界中に通貨の類いが出回りすぎているのかもしれず、逆に借金のほうが大幅に多ければ、国債や社債などの債権が出回りすぎているのかもしれない。いずれにしても働かなくても生きていける人たちが膨大な数に上るとすれば、人々の労働に関する常識や倫理観が通用しなくなるだろうし、人間の生きていく上での価値観自体が根本的な変革を被るのではないか。


7月19日「フィクションとしての未来」

 たぶんそこに現実があり、それを現実だと信じている人がいて、現実について何か語ろうとしている人がいて、実際に何か語っているのだが、どうも語っている内容に現実感が伴っていないように思われる。では何を語っているのかといえばそれはフィクションだろうか。現実と思って語っている対象が、気付かない間に虚構となっているわけか。虚構も現実の一部だろうから、それも含めて現実と捉えればいいのかもしれず、たとえリアリティを感じられなくても、あえてフィクションについて語っている現実こそが、人が現実について語っていることの全てなのかもしれず、虚構と現実とを区別すること自体が無理なのかもしれないが、やはり言葉では現実を捉えにくいのだろうか。たぶん現実感を伴わないなりにも、それでも現実について語ろうとしていることは確かなようで、それが現実だと思っている限りでの現実であるわけなのだが、別にそれをフィクションと呼んでも差し支えないような現実があるのかもしれず、実際にどのようなフィクションが世の中を動かしているのかといえば、例えば人々が取り扱う物や情報や人間自身に何やら価値があり、価値があるからこそ同じ価値がある事物と交換ができるという思い込みなのかもしれない。具体的にはそれは貨幣価値となって、万物の尺度のような役割を担っているのかもしれないが、もちろんそれは人間社会の中だけで通用する尺度であって、貨幣価値を信じることによって現代文明そのものが成り立っていると言っても過言ではない。実際には信じる信じないに関わらず、物や情報と貨幣を交換することでしか成り立たないような文明の仕組みになっているわけだが、現状でそれなしに済ますには不可能なくらいに世界は貨幣経済に浸されていて、そこで暮らすほとんどの人が、貨幣と物や情報を交換するのが当たり前だと信じ込んでいるわけだ。そしてほぼ全ての人がそれを信じているとすれば、やはりそれはフィクションではなく現実と見なしてもかまわないのかもしれず、かまわないどころか現実そのものだと信じない限りは、まともには生きていけないし、文明的な暮らしが成り立たないだろう。それが物や情報と貨幣を交換できるというフィクションによって成り立っている現実そのものだろうか。だからそれは実際に交換しているのだから、フィクションではなく現実なのだが、ほとんどの人がそのような決まりごとを守ることによって、そこになんらかの秩序や仕組みが出来上がっているわけで、実際に決まりごとを守ることを強制する力が働いている。そしてそれを強制しているのが、国家という仕組みであり秩序であるわけで、国家がそこに存在していることもフィクションではなく現実と見なさなければならず、たぶんほとんどの人が国家の存在が虚構だなんて夢にも思っていないだろう。もちろん虚構ではないわけだが、要するにそれも誰もが信じている決まりごとの総体であり、決まりごとを守るように強制する力が働いているわけだ。

 たぶん物や情報を貨幣と交換する決まりを単に破ったところで、それはただの詐欺や盗みとして国家機構によって罰せられるだけで、そこから解放されるわけではなく、ほとんど全ての文明人が守っている決まりをやめさせることはできない。結局それとは別の決まりを全世界的に普及させる以外に、そのような決まりごとから抜け出る方法はなさそうに思われ、しかもそんなことが簡単にできるとも思えず、人と人あるは共同体と共同体の間で自然に始まった決まりごとを、凌駕するような便利で信用できる決まりごとを、人為的に編み出して全世界に普及させることなど、ほとんど不可能かもしれないが、そのような交換の決まりごとから生じている経済格差が、今や全世界的に問題となっている現状があるわけで、そこに貧富の格差という不具合が生じている限り、そのような交換形態が自然に全世界へと広まったように、またその不具合を是正するような決まりごとも、いつの間にか自然に編み出されて、それが全世界へと広まってゆくことになるのだろうか。そしてそれが人為的な発明や発見ではないとすると、ではいったいどういう経緯で自然にそこへと至るのだろうか。やはりそれが人為的な試みではないのなら、それを現時点で人為的に予想するは不可能だろうか。そうだとするとそれについて語ろうとすれば、それはフィクションとなるしかないか。それも現状ではありえないようなことを空想するしかないのだから、何か現実離れした妄想となるしかなく、そんなことを語ったところで意味がないかもしれないが、現状での交換形態が崩れ去るきっかけとしては、やはりその交換を保証している国家の崩壊がその引き金となるだろうか。貨幣が現実に紙切れの紙幣や金属の硬貨でできていて、しかも紙幣や硬貨の材料価格や製造コストと、それが示している金銭的な価値がかけ離れている現状があり、昔は貴金属の金との交換を保証していたのが、たぶん今までに採掘された金の量とその市場価格では、実際に流通している紙幣や硬貨の総額としてあるいは単に銀行の預金高として、または世界各国の国債の総額や企業の株価の総額として、単なる数字として記録されているにすぎない額を、すべて交換することはできないだろうし、結局それらは全て信用で成り立っているようなものだから、突然その信用が崩れ去ることなど想像できないだろうが、これも現時点では想像できないことだが、世界中の国家がなんらかの原因で機能不全に陥った時が、国家が保証し支えている物や情報と貨幣との交換形態も崩壊する時なのではないか。それが突然にやってくるのか、あるいは人々の間に生じる経済格差によって、徐々に国家そのものが信用されなくなるとともに、何かそれとは別の交換形態がじわじわと広まっていくのか、やはり現時点でそれを予想するのは不可能だろうか。


7月18日「市民運動の有効性」

 何がおかしいとも思えないのだが、たぶん何かが狂っている。しかもそれが普通のことであり、誰も気づかないことなのかもしれないが、やはりそれがおかしいのだろう。思わぬところから誰もがおかしくなっているのだろう。そしてそれに気づいて何を訴えても、誰も耳を貸さないだろう。そういう雰囲気の中で誰もが普通に暮らしている。耳を貸すとすれば単純なキャッチコピーの類いとなる。別にそれが狂気の沙汰というわけではないのだが、普通でしかも狂っていて、狂っていることを誰も理解できない。そんな現実の中で何を述べても無駄に思われるのに、それでもどうでもいいようなことを主張している。いったい彼らは何を主張しているのか。それは主張でさえもないのであり、要するにただのキャッチコピーだ。人々は単純な言葉の下に集まり、それを掲げながら何かやっているつもりになる。実際にそれで何かやっているわけだ。少なくともやっていることになっているはずで、そのつもりで多くの人たちがそれをやっている。では実際に彼らは何をやっているのか。要するにそれは演劇的なパフォーマンスだろうか。そこで特定の役回りを演じているのではないか。それを演じることによって政治に参加しているわけだ。少なくとも政治的な意思表示をしている。たぶんそれだけのことなのだ。そうするだけでいいのであって、他に何をやっているわけでもなく、何をやる必要もないのだろう。それが政治的な意思表示の全てなのだ。そこに意思を表示するための単純な言葉が掲げられていて、その言葉に同調すれば済んでしまう。それ以外の難しいことなど考える必要はなく、ただそのキャッチコピーに同意すればいいわけだ。しかもそれでかまわないのであり、それ以外のことに首をつっこむ必要はなく、それ以上に工夫を凝らす必要もない。そんな姿勢は無責任極まりないだろうか。一応それで責任を果たしているのではないか。要するにそれ以外には何も求められていないわけで、求められている以上のことをやってもらっては困るのであり、そこで求められている役割とは、あらかじめ決められた単純なキャッチフレーズに同調することでしかない。そのような行為が政治的な意思表示なのであり、その場ではそれ以外の何をやっても相手にされないのではないか。決められた方針に従うとはそういうことなのだろうし、多くの人がそのように行動することで、その政治的な意思表示が力を発揮するのかもしれないが、ではその発揮された力によって何が動かされるのか。実際に政治を執り行っている政治家たちがそのような意思表示に従うことになるわけか。少なくとも意思表示している人たちは従わせようとしているわけで、そのためにわざわざ単純な言葉の下に多くの人が集まったのではないか。

 果たして現実にそうなるだろうか。今のところそれはわからず、それはこれからの状況次第なのだろうか。少なくともそれらの集団行動に加わらない人もいるだろうし、中にはそのような行動に批判的な人もいるかもしれず、馬鹿にして嘲笑する人もいるのではないか。そしてそういう人たちがどれほどいるかで、それらの行動の成否が決まるだろうか。やっていることが単純極まりないのだから、成果が上がろうがなかろうが、参加している誰も傷つかないのかもしれず、結果をあまり深刻に受け止めずに、軽い気持ちで運動に加われることが、その手の運動の利点でもあり欠点でもあるのかもしれず、そういう類いのことをやっている時点で、ある程度は割り切っていると言えるだろうか。ともかく死傷者が出ないようなレベルでやっていることは確かで、命がけでやるようなことではなく、だからと言って軽く見られてもかまわないわけではないのだろうが、実際に命がけでやらなくてもかまわないような政治制度になっていて、暗黙のうちに節度を保ちながら活動することが求められているのかもしれず、状況がその保たれている一線を踏み越えてしまうと、例えば世界各地の紛争地域で行われているような、自爆テロや武力弾圧や拷問などが横行する悲惨な状況となってしまうのかもしれないが、現状でそれはあり得ないように思われる。そこまでひどいことは行われていないのだろうし、それなりに社会の治安が保たれているわけで、目立った暴動なども今のところは発生していないし、何よりも人々が直接の暴力には訴えないように行動していることが、現状の平静さを醸し出しているのだろうが、果たしてそれでかまわないのだろうか。その方が楽だろうし、その程度で済むならそれに越したことはないのではないか。日常の生活に差し障りが出ない程度に済ますことが、その場で求められている共通認識なのかもしれず、数十年前に行われた全共闘運動による失敗の教訓も生かされているだろうし、時代状況が過激な暴力行為を受け付けない雰囲気となっているのかもしれない。そして運動に伴って生じる非日常的な狂気の沙汰も、昔よりはマイルドに薄められて顕われ、単純で子供だましのような言葉に多くの人が同調しているのが、なんとなく間抜けで滑稽に感じられるのだが、その何か静かに狂っているような雰囲気が、得も言われぬ独特のユーモアを醸し出しているのだろう。要するに笑ってしまうわけで、首相を始めとして政治家たちの言動や行動にも笑ってしまうし、それに大真面目で対応せざるを得ない評論家やジャーナリストなどの言動や行動にも笑ってしまい、そのこと自体が何か狂っているように感じさせるのだろうが、だからと言って命がけになることがいいとは思わないし、表立って暴力の行使がないだけまだマシなのかもしれない。沖縄の米軍滑走路の工事現場ではそうでもないわけだが、そこでもまだ直接の死人が出ていないのが何よりも幸いなのではないか。


7月17日「実質的な制度」

 その先どのような結果になろうと、何をもってよしとするわけにもいかない。何が特別なのでもなく、ありふれた状況の中でありふれた人たちが生きているわけで、それが大衆市民社会の現実なのだろう。その中で特定の人物や属している勢力がどんな策略を巡らせているとしても、目的はたわいないものだろうか。これといってはっきりした目的などないのかもしれず、ただ気に入らない状況を変えたいだけなのかもしれず、その状況というのが現状なのかもしれないが、人によって立場によって現状の捉え方が異なり、気に入らないところも異なり、変えようとする方向性も異なるらしく、変えようとする勢力が国会に提出した法案が、憲法違反だなんだともめていて、反対デモや集会が行われているわけだ。しかし変えようとしている現状とはなんなのか。それは変わるはずのない現状であり、変えられない現状なのではないか。国家と資本の関係は政治の力では変えられず、政治自体が国家と資本の関係から生じているわけで、国家を維持継続させるために国内の産業を振興して、そこから官僚機構の活動に必要な税収を確保しようとする。それが政治の目的だろうか。国民は国内の産業を担う労働力として必要であり、そこで働いてもらって所得税や消費税などの税金を払うことで、国家の維持継続に貢献してもらう。そして国家とそれを構成する官僚機構の目的は、国家を維持継続させることそのものであり、政治家が何のために必要な存在かといえば、選挙を通して民意を国政に反映させるために必要で、議員となって国家装置を円滑に動かすための法律を議会で決めてもらう。また政権を担う与党勢力に入ると、行政の責任者として官僚機構を統率する役職が割り当てられて、国家装置を動かす立場となり、それが国政と呼ばれる政治的な行為を担う立場なのであり、そこで民意を国政に反映させなければならないわけだが、建前上は選挙結果が民意なのであって、選挙によって議会で多数派を占め、その多数派を占めた政治勢力が現状を変えるための法案を提出して、多数決によって議決し成立させようとしているわけだ。議会制民主主義の建前上はそれで構わないのであり、何も揉めることはないわけだが、法案に反対している側は、議会の多数派がやっていることは民意とは違うと主張していて、世論調査でも反対意見が多数を占めている現状を踏まえて、法案の成立に抵抗していて、法案自体も憲法違反という認識が憲法学者の間では多数を占めていて、その辺のところが反対運動を正当化する理由にもなっているわけで、一方に議会制度があり、手続き上はその制度に従って行っていることなのだろうが、その制度に従って成立させようとしている法案が憲法違反だとすると、もしその法案が成立したら、制度的には最高裁判所がその法律が違憲か合憲かの判断をすることになっているのだろうが、現時点ではまだそこまで行っておらず、途中の段階でもめている最中なわけだ。

 そこから何がわかるのだろうか。国の意向に逆らう人たちが大勢いるということか。国の意向とは議会の多数派を占める勢力の意向であり、なぜ彼らが多数派を占めているのかといえば、それは選挙結果でそうなっているわけで、選挙も国家の制度であるわけだから、それにも逆らう人が大勢いるわけで、国の意向や制度に逆らう人が大勢いるということは、国家を信用していない人が大勢いるということか。確か選挙の投票率も過去最低だったはずだから、選挙自体も信用していないのかもしれず、当然選挙結果も信用していないのだろうし、選挙で選ばれた政治家も信用していないのだろう。要するに選挙によって示された民意とは、国の意向も制度も政治家も国自体も信用されていないということか。もしかしたらこれが普通の状態なのかもしれず、何も今に始まったことでもなく、もうだいぶ前からそうなっているのかもしれない。これが大衆市民社会の現実なのだろうか。ではありふれた人たちがありふれたことを主張しながら暮らしている社会の現実とは、もはや国家に関係する誰も何も信用できないような現実なのだろうか。そんな現実に幻想を抱けないのはもちろんのこと、国家の制度としての民主主義や国民主権を信じられないということは、その代わりに何か他の現実を信じていることにつながるのではないか。では他の現実とは何か。それは資本の現実だろうか。人々は物や情報や自らの労働力を売って金を得て、得た金と商品を交換してそれを消費することでしか生き行けない。信じているのはそんな商品を売ったり買ったりする現実だ。商品は金と交換することでしか得られず、交換するには自分が商品を持っていなければならない。その商品とは自分が持っていると思っている、物や情報や自身の労働力であり、まずはそれを売って金を得ないと必要な商品を買えず、必要な商品を買って手に入れないと生きて行けない。それが資本の制度であり、制度に従わないと生きて行けないから、国家の制度よりは実感が伴っていて、従うか否かは死活問題なので、死にたくなければ従うしかなく、商品と金が交換できることを信じるしかないわけで、信じていなくても疑いつつも現実に交換している。日々交換しているから生きているわけで、少なくとも自給自足が成り立つ狩猟採集民以外は交換しているはずだ。そしてその交換を保証しているのが国家であり、金である貨幣を発行して国内外に流通させて、交換しないで騙して奪い取ったり、直接商品を強奪する者たちを取り締まることによって、そこで暮らす人々に商品と金が交換できることを信じ込ませているわけで、しかも国家は税金として金を強制的に徴収する権限を持ち、取り立てに逆らう者や取り立て額をごまかす者も取り締まるわけだ。国家の実質的な権力はそこから生じているのであり、人々が否応なく信じ込まされているのは、きれいごとの民主主義や国民主権などの幻想ではなく、日々現実に行っている商品と金を交換する制度だ。


7月16日「問題の先送り」

 どうやら安保法案が衆議院を通過したようで、参議院で審議をしなくても国会の60日ルールが適用されて、衆議院で3分の2の賛成によって再可決されれば法案が成立するそうだから、長くてもあと2ヶ月以内で決着がつくだろうか。反対派の市民たちは抗議デモや集会を開いて反対運動を続けるだろうが、それもあと2ヶ月もすれば下火になるだろうか。とりあえずどうなるは時が経てばわかることだ。結果を知りたければ待てばいいだろうが、それほど興味がなければ待たなくても忘れてしまえばいいことでしかない。そのうちあの時なんで大騒ぎしていたのか思い出せなくなるだろうか。そうなってもかまわないし、いつまでも覚えている人が多ければ、次の選挙で政権交代が起こるだろうか。それもその時になってみないことにはなんとも言えない。またたとえ政権交代が起こったところで、大して世の中が変わるとも思えず、今まで通りの国家と資本主義の関係からもたらされる経済格差や、国家財政の借金体質も引き継がれるだろうし、それを抜本的に解決する方策などありはしないだろうし、遠からず人々の期待も落胆へと変わるだろうか。それでもかまわないのかもしれず、今の政権を担っている勢力やその支持者たちが不快なら、政権交代したほうがマシだろうし、実際にメディアやネット上などで市民運動を嘲笑したり罵倒したりする人たちは、何か人として常軌を逸するような振る舞いに思われてならないのだが、現政権へ容赦ない罵詈雑言が投げかけられているのは確かだとしても、戦争への不安に駆られて集まってくる人たちをひどい言葉で揶揄するのはまずいのではないか。たとえ政府に対する代わり映えのしない紋切型の批判が気にくわないとしても、嘲るでも罵るでもなくそっとしておいたほうが無難だろうし、双方ともに国家主義的な主義主張に大した違いもないのに、不必要に対立を煽って険悪な関係を慢性化させるよりは、相手の立場を尊重してお互いの存在を認める方向で努力すべきだろう。それが大人の関係なのではないか。国家主義的な民主体制は左右両派が予定調和の均衡を保っていないと、独裁体制に陥って国家の暴走を止められなくなってしまい、両派が歩み寄って中道的な政治を行うしかそれを避ける手立てはないのではないか。中道的な政治とは積極的に偽善を行うことであり、資本主義市場経済を維持する限りは、人々の間で経済格差がつくのはやむを得ないことであり、その矛盾をごまかすために生活保護制度があるのに、それさえも認めないとなると、あとは暴力革命でもやるしか、貧乏人たちの希望がなくなってしまうだろうし、たとえギリシアのように債務超過に陥るとしても、新自由主義的に極端な福祉の切り捨てをやってしまうと、国民の不満が高まるばかりで、政権運営がうまくいかなくなる。

 国家は流動的に絶えず問題を未来へと先送りすることでしか成り立たない構造なのではないか。一つの方向で固まろうとすると、途端に今までごまかしてきた問題が浮き彫りになってくる。右派勢力は盛んに韓国や中国との対立を煽って、国民の目をそちらへと逸らそうとしているのかもしれないが、それは韓国や中国も同じかもしれず、日本との対立を煽って自国民の目をそちらへと向けさせたいのかもしれないが、たとえ経済的に行き詰ったとしても、昔のように食いっぱぐれた人々を移住させる植民地などないし、侵略戦争なども簡単にはできないので、要するに隣国との対立は見せかけの問題であり、その一環として安保法案が出てきたのかもしれない。そして戦後レジームからの脱却とか憲法改正とかも目くらましの類いかもしれず、国家的な行き詰まりを隠す意味合いが強いのかもしれない。その一方で公的資金によって株価を買い支え、派遣法の改正によって企業活動を活性化させたいわけで、TPPにしても日本企業が外国で活動しやすくするためには必要だと考えているのかもしれないが、推進しているアメリカでさえも、国内の労働者が不利益を被ると批判されているので、実際にどうなるかはなんとも言えないところだろうか。そしてそれらの問題をうまく解消させる手立てなどなく、誰かが得すれば他の誰かが損する構造は昔からあるわけで、それを解消することはできないがごまかすことができるので、行き詰まるたびにごまかしながら今に至っているのであり、ごまかすことで国家を維持継続してきた歴史的な経緯があるわけだ。それはこれからも国家と資本主義市場経済が続く限り変わらず、今も戦争法案だなんだのと騒ぎながら時間稼ぎをしているわけで、そんなふうに騒いでいるうちに行き詰まりがうやむやになって欲しいのかもしれないが、果たして今回もこれまでと同様にごまかしきれるだろうか。たぶんこの騒ぎが一段落つけばはっきりするのかもしれず、それでもまだ行き詰まりが露わとなるようなことがあれば、また何かしら別のごまかし作業が開始されるのだろう。そうやって絶えず問題を先送りにしている間は、この世界に国家が存在し続けることになり、国家の中では左右両派が予定調和の対立を繰り広げつつも、なんとか自分たちの存在基盤である国家を維持させようと画策しているわけだ。だから互いに相手を罵り嘲り合っていても、それらの痴話喧嘩を真に受ける必要はないのであり、それほど心配する必要もないのではないか。とりあえず時が経てば忘れ去られるような人たちが、メディアを使って非難の応酬合戦を繰り広げている現状を、他人事としてまったく無視するわけにもいかないだろうし、どちらかに加勢するふりぐらいでもしておいたほうがいいのかもしれない。


7月15日「反戦平和運動」

 それが悪あがきとは思えない。無駄でも無意味でもないのかもしれないが、とりあえずは精一杯の抵抗はしているわけか。目立った暴力沙汰が起こらないだけでも、まだマシな部類に入るのかもしれず、反対運動もその程度でかまわないのだろう。後はそれを継続して行けばいい。熱しやすく冷めやすいのよりは、できる範囲内で末長くやり続けていくほうが、無関心な人々に対する啓蒙的な効果があるのではないか。組織の団結や結束の強化など不要だろうし、主義主張を過激な方向へ持っていく必要もなく、誰もが自由に気楽な立場で気軽に参加できる運動にしていった方が、大衆の支持を得やすいのかもしれない。実際に大半の人たちは暴力的な革命ではなく、選挙による平和的な政権交代を望んでいるのだから、そんな意向に沿った活動をして行けばいいわけで、過激な言動や行動もいらないのだろう。それでは物足りないと思う程度でかまわないのではないか。そして大した成果も上がらなくてもかまわないわけだ。何かのついでにやっている程度が長続きするのかもしれず、それにかかりきりにでもなると、いらぬ勘違いを抱く原因ともなり。命がけでやるとかいうセリフなどが出てきてしまうと、それはやはり困った事態なのだろうし、それほどのことでもないのに、何かすぐに大げさなことを考えてしまうわけだ。例えば現状では治安維持法が発動して活動家が大量に逮捕されて、ありもしない自白の強要を目的として拷問が行われる、といった事態ではないということあり、過去にそういうことが行われた背景としては、かつて暴力革命による国家の転覆計画などが人々の間でまことしやかに囁かれていた時期があり、その頃には現実にロシア革命があり、労働争議なども全国各地で頻発していたのかもしれない。少なくとも現代の日本ではそうはなっていない。それだけ世の中が平和になって人々ものんびりしているのだろうし、政治に無関心であっても生活に困らない人も多いのではないか。そういう人たちは意識的には国家に依存していないわけで、政権を握っている勢力とはそれほど利害が重ならないように感じられるのかもしれず、要するに政治に対する切実さやリアリティを抱けないのだろうが、その点で昔とは何かが確実に違っていて、それが現状に対して危機感を抱いている人たちの多くが見落としている点なのではないか。過去と同じような状況ではなく、過去から現代までに積み重なった歴史的な地層の上に現状があるわけで、その地盤がそれなりに安定しているので、人々の間でそれほど深刻に危機感が共有されにくい状況となっているのかもしれない。もちろん現代でも中東の紛争地域へ行けば、政治的あるいは宗教的に対立しあう人々が、互いに殺し合うような恐ろしい現実があるわけだが、幸いなことに現代の日本では、意見や主張の対立が殺し合いにまで発展することはほとんどない。

 そういう意味では政治的な対立によって殺し合いが起こる地域が、世界の歴史的な経過とともにだんだん狭まってきて、今や公的機関の汚職がはびこる中南米や、宗教や民族などの対立が根深いアフリカから中央アジアにかけての地域に限られてきたのかもしれない。戦争が起こるかもしれない地域も、同様の問題を抱える西アフリカから中央アジアにかけての地域だけだろうか。それ以外の地域では戦争に至るきっかけや原因がなくなりつつあるのかもしれず、また先に挙げた紛争地域でも戦争を回避するような努力が絶え間なく続けられ、多かれ少なかれ国と国が戦争になることはもはや無くなってゆくのかもしれず、現状でもあからさまに戦争を仕掛けているのはイスラム国が世界中でただ一つかもしれず、それが取り除かれてシリアの内戦が一段落つけば、大規模な戦闘は当分起こらないだろうか。中国は南沙諸島や尖閣諸島の地下資源を狙っている限りでのことだろうし、ウクライナとロシアの間で起こっている戦闘も、ウクライナ国内のロシア人が多く住んでいる地域に限られるし、イスラエルは相変わらず定期的に、ガザ地区へ空爆や戦車で侵入して蹂躙するわけだが、それはガザ地区に拠点を置く武装組織によるロケット弾攻撃への報復的な意味合いで、限定的に期間を区切って行っているものだ。そんなわけで人々が平和に暮らしている地域へ、隣国の軍隊がいきなり武力侵攻してくるようなケースは、考えられる限りでは起こりようがない状況となっているのかもしれず、今後も世界的な経済の行き詰まりなど余程ことがない限り、平和な地域を脅かすような大規模な軍事衝突などあり得ないのかもしれない。またたとえ世界的に経済が行き詰まったところで、他国へと軍事侵攻する理由が見つかるだろうか。経済的にはもはや特定の国を利するようなことはないのかもしれず、各国の経済はすでに世界経済とつながっているのではないか。独裁体制の北朝鮮でさえ中国やロシアとの交易なしでは成り立たず、いくら政治的に孤立したところで他国へ軍事侵攻するほどの強国ではないのは明らかで、忘れた頃にロケットの発射実験や核実験などを行って対外的に虚勢を張るばかりだ。それでも思わぬところから各国の関係に亀裂が入って、第三次世界大戦と呼ばれる破局的な全面戦争が起こるのかもしれないが、そうなることを事前に予測して戦争の準備をするような国はないだろうし、想像を絶する惨事になるかもしれないのだから、実際に何を準備すればいいのかもよくわからないのではないか。そんなわけで積極的に何をどうこう述べる理由を持ち合わせていないし、現状をそれほど深刻に受け止めているわけでもないのだが、国内で政府のやり方に反対する市民運動が、今後も途切れることなく続いて行けば、軍事よりも平和を重視する勢力が徐々に優勢になっていくかもしれず、現状で政治的に急激な改革を行う余地もないように思えるので、その程度に受け止めるしかない。


7月14日「国民主権の意味」

 これから何が起こるとしても、現状がそう変わるとも思えない。思いがけないことが起こるかもしれないが、それによって何がどうなるにしても、その時はその時でしかなく、その時になったらそれに対処できたりできなかったりするだけだ。それ以上に何が起こるとしても、結局そこで何かが起こってみないことには、それについて語ることなどできはしないだろう。ただ想像にまかせて予想はできるだろうが、その予想が当たったり外れたりするだけで、後からそんなことに一喜一憂してみても虚しいだけだろうか。考えうる限りでの最悪の事態を予想する人は、それによって他の人たちを脅そうとする意図があり、このままではひどいことになってしまうから、政府がやろうとすることに反対しなければならないと主張するわけだが、ひたすらそればかり主張されると飽きてくる。だからといってそれをやめるわけにはいかないのが苦しいところだろうが、ではいったい他に何を主張したらいいのだろうか。とりたてて何を主張しなくても構わないのか。しかし無関心を装うのは政府の間違った政策をアシストすることになる、とまたそれも脅し文句に結びつけられてしまうから、やはり政府のやろうとすることに反対しないとまずいのだろうか。それは国民各自の判断にまかされている。政府がやろうとしていることに一般の市民が賛成したり反対したりするのが、民主主義であり国民主権なのだろう。政府与党側も選挙の争点として主張しないことをやろうとしているわけで、誰もが選挙に勝てば憲法改正に動くことは薄々気づいていただろうが、実際に解釈改憲という卑怯な戦法に出てきたわけで、多くの人たちが反対の声を上げるのは当然なのかもしれず、反対活動に励んでいる人たちを屁理屈をこねながら罵倒するのは、かなりひどい行為と見なされても仕方ないだろうし、その程度のことと言えば、それ以上に何を主張するようなことでもなく、あまり奇を衒ったような理屈をこねくり回す必要はないかもしれない。政府の法案が国会で議決されて、アメリカなどの同盟国が武力攻撃を受けた場合、武力攻撃をした国に対して自衛隊が攻撃を開始するような事態が、果たして起こるかどうかはわからないが、そのような事態に対する備えとして法律的な合法性を確保しておきたいのかもしれず、そのような法案を成立させて嫌でも戦争という非常事態に、国民の目を向けさせたいのかもしれないが、過去の歴史的な現実からすれば、戦争は突然人々の意表をついて起こることが多く、いくら事前に戦争に備えて法整備などをやったところで、実際になってしまえば法律や憲法などにかまっていられないわけで、ただの武力衝突でどっちが勝つか負けるか、あるいは勝ち負けがはっきりしないまま泥沼化するぐらいが関の山で、いずれにしても自国が戦場になれば、たくさんの人たちが死傷して家財産が失われるわけだ。

 だからわざわざ戦争に向けて法整備などしなくても、憲法など改正しなくても、いったん戦争になってしまば軍隊がやることは同じで、戦争自体が超法規的な行為なのだろうから、結局どうでもいいような法案を強引に成立させようとして、わけがわからない間抜けな事態になってしまったのではないか。それ以前にどうしても憲法を改正したい勢力が政権を担っているわけだから、仕方がないといえば仕方がないのかもしれないが、もっと正々堂々と真正面から憲法改正を主張すれば、それを支持する人たちからもそれなりに評価されたかもしれない。しかしホルムズ海峡での機雷の掃海作業だとか、枝葉末節な理由を持ち出してなし崩し的に議論を推し進めようとしたのが、こじつけ的なことを言っているように感じられ、そういう姑息なやり方が逆に、正面突破によって憲法改正を成し遂げようとする人たちからの反発を招き、憲法学者による違憲判断にも結びつき、どうにもこうにもおかしな事態となって、後は採決に持ち込んで可決してしまえばいいのかもしれないが、その後の成り行きはどうなるかよくわからないのではないか。どうせ評論家やジャーナリストなどがあれこれと否定的な予想をメディア上で述べるのだろうが、この先もそれらの勢力が政権を担い続けるにしても、国民の間に蔓延しつつある政権に対する不信感や不快感が、解消することはありえないような気がする。またそのうち原発事故の影響で人が大量に死ぬそうだが、本当にそうなればさらに政府に対する風当たりが強くなるだろうし、果たしてオリンピックまでに事故処理の片がつくとは思えないのだが、そんな状態でオリンピックを強行すればどうなってしまうのだろうか。そうなればオリンピックなどもはやどうでもいいことかもしれず、マスメディアが騒ぐだけで一般の人たちは誰も関心を抱かないだろうか。そこから感じられるのは国家としての日本は確実に衰退へと向かっているように思われ、いくら右寄りの勢力が韓国や中国に向かって対立を煽って、国家自慢や国威発揚を仕掛けても、まともな人たちは誰も踊り出さないだろうし、政府を批判すればそういう人たちから反日勢力だとレッテルを貼られて罵倒されるし、多くの国民が不快な思いをしながら嫌な気分を漂わせている現状が続くだけのようだが、果たしてこんな状況を招いたのは誰のおかげなのだろうか。首謀者の名前はあえて口にするまでもないことかもしれないが、その該当する人物に責任転嫁したところで何がどうなるわけでもなく、感じ悪いとか憂さ晴らしの悪口などはほどほどに慎まなければならないだろうが、一応は民主的な国家として世界からそれなりに認められているわけだから、無責任な言い方だが、国民主権を信じているならば、国民と呼ばれている人たちがどうにかしなければならないわけで、具体的には選挙などで民意を示すしかないわけだ。


7月13日「成り行き任せの現状」

 記された文言が効力を持つのは、その文言の意味を人が信じる限りでのことだろうか。多くの人が信じれば、それだけその文言が力を得るのだろうが、それが憲法ともなると、国民に対して国家からの強制力が発生するのだろう。しかしその憲法の内容が実態からかけ離れている場合、そしてそれが長年にわたって放置されてきた場合、多くの人が憲法の文言を信じていないことになるわけか。果たしてそのような実態が今の日本で生じているだろうか。憲法で武力の行使を禁じ、戦力を保持しないことを宣言しているのに、とりあえず戦力として自衛隊があり、今のところ本格的には武力は行使されていないわけだが、今後行使される可能性が出てきたわけで、そうなると憲法との整合性がつかなくなくなってくる。そこで憲法を改正する動きがあり、その前段階としてなし崩し的に解釈を拡張して、実際に行っていることと憲法との背離を大きくして、できるだけ憲法を改正しやすくしようとしているのかもしれず、それの一環として学者のほとんどが憲法違反とみなす法案が国会に提出され、与党側の賛成多数によって成立する可能性が出てきたわけだ。やり方としてまず普通に憲法を改正しようとするべきところなのに、解釈改憲というからめ手とも邪道とも受け取られかねない方法をとってきたので、各方面から反発が強まって反対運動も活発化してきたわけだが、なぜそういうやり方をとってきたのかといえば、正攻法で憲法改正の国民投票をやっても、反対多数になる危険性があるからかもしれないが、政府与党としては国民に対して自衛隊を正式の軍隊として認めさせて、日本を普通の国家にするためにはあらゆる手段を尽くすつもりなのだろうか。それに対して反対運動を繰り広げている側は、日本の軍国主義化を懸念しているわけで、このまま政府与党の思いのままに押し切られてしまえば、いずれ戦争に巻き込まれると訴えているわけで、実際に同盟国のアメリカが世界各地の紛争に介入している以上は、日本の自衛隊もアメリカとともに紛争に介入しないわけにはいかず、介入すれば戦闘行為に巻き込まれ、結果的に武力を行使せざるを得ず、そうなると現状では憲法違反となってしまうわけで、そのために政府が憲法の改正圧力を強めているわけだが、それに反対する勢力はなんとしても阻止したいわけだ。そんな現状の中で、どちらが正しくどちらが間違ったことをやっているかは、立憲主義的な国家観を基準に考えれば、まず第一に政府与党は憲法を守るべきとなるのだろうが、たとえ間違っているとしても可能であればそれを試してみるのがリアルポリティクスなのだとすると、実際に目的のためには手段を選ばないとなるのではないか。そして最終的にそれが良いか悪いかは国民の判断に任されていて、選挙や国民投票などの機会に判断するしかないのだろう。

 もっとも目的のためには手段を選ばないとすれば、選挙だろうと国民投票だろうと、投票結果を自分たちに都合の良いように改ざんすればいいだけの話なのだが、そのためには事前の世論調査や事後の出口調査などにおいて、政府に迎合的なマスメディアの協力が欠かせないわけで、でもそうなると立憲主義とともに民主主義も踏みにじらなければならなくなり、国民主権を基とする憲法違反もとどまるところを知らなくなり、その時点ですでに国全体が独裁体制となっているわけで、それを常々独裁体制を敷く国に民主化を求めている、同盟国であるアメリカや西欧諸国が許すかどうかはわからない。普通に考えれば建前上であれなんであれ、立憲主義や民主主義を守るのが近代以降の国民国家の在り方であり、そこから大きく踏み外すようなことをやってしまうと、国民からも世界からも信用も信頼もされない政府となってしまい、そのような独裁体制は遠からず行き詰まるかもしれないが、現時点で政府や与党はどこまで手段を選ばずにやる気でいるのか、まだはっきりとは方向性が定まっていないように感じられ、その辺のところが政府首脳や与党政治家による不用意な失言や暴言が相次いでいる現状に反映されているのかもしれない。とりあえず議会で与党側が多数を占めているわけだから、どのような形にしろ採決に持ち込めばいいわけで、そういう方向で努力しているのだろうが、それによって法案が成立したとしても、各種メディアの世論調査によれば、圧倒的に反対が多いわけで、果たしてその世論を覆すことができるだろうか。それでもいつの間にか政府に迎合的なマスメディアによる世論調査結果が、賛成多数になっているようなことがあるとすると、そもそもそのような世論調査が信用できるものなのかどうか。ただでさえ政府の方針とは異なる報道をしているメディアに対して、政府寄りのメディアやその応援団のような人たちからの攻撃がやむことがないのに、あまり強引なことをいつまでもやり続けると、政府に対する不信感や疑心暗鬼がどんどん高まって社会全体がおかしくなり、不快な感情や嫌悪感が国民全体に広まり、ついには経済もおかしくなっていくのではないか。そんなわけで短期的に強引なことをやって思惑通りの結果を得ようとすると、そんなゴリ押しに影響されて人々の意識に歪みが生じて、長期的に取り返しのつかない事態になるかもしれず、その辺でリアルポリティクスもほどほどにしないと、政治的な力の均衡が崩れて結局はおかしくなってしまうだろう。といって聞く耳を持つような人々が政権を握っているわけではないから、歯止めがかからず行くところまで行ってしまいそうな成り行きなのだろうか。


7月12日「思いがけない変化」

 何が無駄で何が有益であるかは、通常はそれを行った結果から判断されることだろうが、それが行われる前から無駄に思われるようなことであっても、なおさら周囲の反対を押し切って行われてしまう場合もあるらしい。そしてそれが実際に行われた結果、それを強行した側は有益であったと主張するだろうし、やる前から反対していた側は無駄であったと主張するだろう。反対している側がそれが行われるのを阻止しない限りは、そんな結果に終わるしかないだろうか。何をやってどんな結果に終わろうと時間は絶えず前に進み、時間の進行とともにそこで何かが行われる。後戻りはできないのだろうし、何かをやろうとする側はそれが実行できるように画策してくるわけだ。だからどんなことをやるにしても、それをやろうとする側に主導権があり、やらせないようにしようとする側は受け身に回るしかなく、いつも苦しい対応を迫られるのではないか。そもそも何も変わらないなんてありえず、世の中では絶えず何かが変わろうとしていて、その変化の兆しを敏感に感じ取って、その波に乗った者や勢力がより有利な立場になれるわけか。全てがそうだとは言えないだろうが、それがたとえ無駄で無意味な変化であっても事情は同じだろうか。その変化によって利益を得て社会的に優位になった者や勢力からすれば、それが無駄で無意味だとは思わないだろうし、彼らにとっては有益な変化であったわけだ。そして変化の波に乗れずに何もできなかった者や勢力には、破滅や没落などの不幸な運命が待ち受けているのかもしれず、今がまさに変化もたらそうとする側とそれを阻止しようとする側によるせめぎあいの最中で、それはこれまでもそうであったしこれからもそうなのだろうし、社会の至る所で常にそんなせめぎあいが行われているのだろうが、そのせめぎあいが変化をもたらしているともいえるわけか。ではその今現在進行中の変化とはいかなるものなのか。それは世の中で様々な出来事がもたらされている総体としての変化であり、社会の各方面で様々な兆候を見せていて、変化を阻止しようと意図する者たちも、実際には阻止しているのではなく、それと気付かずに変化の担い手であったりするのではないか。

 その変化を阻止しようとしている人たちは、それとは別の変化を起こしているわけで、しかもそれに気づかない。たぶんそうでなければ変化は起こらないのかもしれず、思惑通りに変化させようとしている人たちは、思いがけないところから起こる変化には対応しきれず、対応しきれないからこそ、それらの人たちにとっては想定外の変化を許すこととなり、それと気付かずに変化を食い止めようとしている人たちにとっても、それは思いがけない変化となるのであり、それに気づかないことが何よりも変化の原動力となって、そこに関わっている賛成反対の両派を巻き込みながらも、彼らの思惑から外れたところで変化が起こるのだろう。そしてそんな変化に何を期待することもできないだろうし、そもそも想定外なのだから何も期待しなくても構わないのであり、それに巻き込まれる誰の利害とも無関係に無駄でも無意味でもない変化が起こるわけで、それがどんな変化なのかも予測も想像もできない変化なのだろう。それは確かに始まりは人為的な働きかけがきっかけとなってもたらされるのだが、結果的には人々の思惑から外れているので、自然の作用とみなしてもいいような構わないような変化となるのではないか。そして誰もそれを目指しているのわけでもないのだから、その変化が誰やどんな勢力に恩恵をもたらすとしても、人々はそれに賛成も反対もできないだろうし、推進することも阻止することもできず、ただそうなった結果を受け入れたり受け入れようとしなかったりするほかはない。そしてその変化を素直に受け入れ、できるだけ速やかに対応しようとする者や勢力が、結果としてもたらされた状況の中で、優位を築くことができるかもしれず、そこで人々に求められるのは変化に対する順応力や適応力となるだろうか。そういう意味では前もって予測のつかない変化が、人々に平等の機会を与えていると言えるかもしれず、その場で事を優位に運ぶために、思い通りの変化を人為的にもたらそうとする側にとっては、そのような変化を阻止しようとする側とのせめぎ合いの中で、想定外の思いよらぬ変化が起こることこそが、厄介この上ないことであり、そのような変化こそ阻止したいのだろうが、事前に予測や想像のつかない事態に至るのを阻止するのは難しいだろう。そしてそれは誰にも思いもよらぬ結果をもたらすわけで、たぶんそうなって初めて世の中が変わったと言えるのではないか。人は絶えず自らの思い通りの結果を求めるものだが、たぶんそれを阻んでいるのは、その思い通りが人によって異なることであり、人それぞれに違う思いを抱きながら行動すれば、その結果としてもたらされる状況は誰にとっても思いがけないもので、その状況の中で人ができることは、その状況にできるだけ速やかに順応したり適応しようとすることだけかもしれない。


7月11日「ありふれた予言」

 様々な出来事や現象の中から、語れるところだけ取り出して語れば、それほど論理的に破綻なく語れるのではないか。しかしなぜそれを語れるのだろうか。その出来事や現象について何がしかの知識があるからか。それを実際に経験すれば、あるいはそれについて調べれば知識が身につくのではないか。そしてその経験を語り、手元に集めた資料をもとに文章を構成すれば、それについての言説が出来上がるだろうか。たぶんそれでかまわないはずで、そんな言説ならいくらでも読むことができそうだ。その出来事や現象に興味があればの話だが、やはりそれを読めばその出来事や現象について知識を得ることができるだろう。そして今からそれを語ろうとしているわけか。得られた知識は語るために必要なのだろう。別に語る気がなければ語らなくても構わない。しかし語るつもりなら語る対象について知識を持ち合わせていなければならない。だから語るために知識を求め、それについて調べようとするわけだ。そして調べたことをもとにして考え、文章を構成し、文章の中で語ろうとする。何かを語るとはそんなことの繰り返しになりそうだが、そんなことをやりながらも、何か腑に落ちない思いにとらわれるのかもしれず、何か抜け落ちているのではないかと疑念を抱いているわけだ。なぜ論理が破綻しないように語ろうとするのだろうか。そうではなくその場に生じている矛盾を矛盾として示さなければならないのではないか。それについて語れてしまうこと自体が一種のごまかしであり、本当は語り得ないことを語ろうとしているのであり、そこに矛盾が生じているのを隠せないのに、言葉でそれを隠蔽してしまっている。そう考えておいた方が無難だろうか。しかしそうだとすると何が矛盾しているのかを示す必要に迫られ、それについて語らなければならなくなる。しかしそれを語ってしまうと論理的な破綻が生じ、その内容に説得力がなくなってしまうのではないか。そうなるかどうかは語ってみれば明らかになりそうだ。だからそれについて実際に語ろうとしているわけだが、どうもなかなかその端緒にたどり着けないようで、具体的な内容について語れずにいるようだ。

 そもそもそこで生じている矛盾とは何なのか。それは特に伝えたいことがないことを伝えようとしていることか。それを語りたいわけでもないのに語ろうとしている。なぜそうなってしまうのかと問うわけにはいかずに、どのようにしてそこへ至るのかを説明しようとしているわけか。例えば国家と国家はなぜ戦争に至るのか、と問うても答えは導き出せないが、ある国家と別の国家が戦争に至った過程を語ることはできる。それに関する歴史的な資料を参照すれば容易く説明できるだろう。しかし人はなぜと問わずにはいられず、その答えを導き出せば、これから起こるかもしれない戦争を回避できると期待するわけだ。だが実際はそうではなく、現実に起こっているのは国家と国家との全面戦争ではなく、国家とテロリストの集団との戦争であったり、国内の反体制派との内戦であったりするわけで、しかもそこにアメリカをはじめとする第三国が絡んできたりして、厳密な国家と国家との対等な関係とはなり得ず、事前の問いからは現実がどんどんずれていってしまうわけだ。そしてそこでもジャーナリストや評論家などがなぜそうなったかを語ろうとすれば、憶測や推測の域を出ない話となってしまい、まともに語ろうとすれば、そのような成り行きに至った経緯や過程を語るしかない。人はそれを二度と繰り返さないために語り継ぐという話に持っていきたいわけだが、たぶん将来において起こるのはそれの繰り返しではなく、また別の新たな事態となるわけで、その場に居合わせる人々は絶えず過去とは違う状態に直面して、また性懲りも無くなぜそうなってしまったのかと問う羽目になる。そしてその度ごとに過去とは違った出来事に立ち会っているにもかかわらず、過去の歴史を参照しながら新たな事態に対処するしかなく、結局うまく対処しきれずに、最初の問いに立ち戻ることとなる。なぜこうなってしまったのか。相変わらずこの問いの前に立ち止まり、永遠に解き明かされない謎の前で考え込む。たぶんいくら考えても答えは出てこないだろうし、答えの出ない問いに答えようとする身振りを繰り返すだけで、しかもそんな身振りを繰り返してしまう自らの姿勢に疑問を感じることはなく、そうすることが正しいとさえ思うのかもしれない。たぶんそれが正しい姿勢であり、身の振り方なのだろう。そもそも考えるとはそういうことではないのか。そして答えが出るとしたら、新たな概念を創造しなければならない。新しい言葉を新たに作って、それを使って現象を説明しようとするわけだ。

 近年でそんな造語の最たるものが「テロとの戦い」という言葉で象徴されている事態であり、何か国家とは別の組織が戦争を仕掛けてきて、全世界の国家がそれらのテロ組織と戦わなければならない、と当時のアメリカの大統領によって呼びかけられたわけだが、そこからさらに事態が進み、そんなテロ組織の一つが、自分たちは「イスラム国」という国家だと主張し始めて、戦争を国家同士の戦いへと引き戻そうとしているのに、あれは国家などではなくテロリスト集団だとみなして、既存の国家の首脳たちはあくまでも「テロとの戦い」に固執している。要するにこれも新しい事態であり、戦争の内容も時代とともにどんどん変容してきているわけで、新た事態に対応した兵器や戦術や戦略も模索され、もはや戦争に対する昔の思考や捉え方では対応できなくなっているのかもしれないが、一方で国家を守る軍隊は昔ながらの編成や訓練法を頑なに守っているのかもしれず、軍を統率するシステムが時代遅れとなりつつあるのだろうか。軍隊の存在を誇示する軍事パレードや閲兵式などが不要な行為となっているのかもしれないが、それらを大々的に行っている国家は、国家の存在自体を国民に示すための重要な行事に位置付けているわけで、それは国家と国民の双方が双方に不信感を抱いている表れで、国家を管理する立場の勢力が、国民に対して暴力装置である軍隊を威圧的に見せて、それが国民に対する一種の脅しとしての意味合いもあるのだろうが、それはとりもなおさず国家そのものの性質を物語っているのではないか。国家は国民を脅していないとその権威を守れず、国民は絶えず国家に刃向かう機会を伺っていて、国家はをそれを力で押さえ込んでいなければならない。そんな構図が暗黙のうちにあり、それは国家と国民が潜在的に戦争状態にあることを示しているのではないか。それが激しい形で現実化したのが革命であって、近年ではエジプトがそうであったし、シリアでは今も悲惨な内戦として継続中だ。そしてそれはあまり根拠も信憑性もない予想だが、もしかしたら国家は最終的には国民によって倒されるべき形態なのではないか。そして国民は国家を倒した暁には世界市民となり、そうなって初めて世界が平和に至るのかもしれない。


7月10日「主義主張の違い」

 人は特定の主義主張に凝り固まっていても、自分ではそれと気付かないものだろうか。それで不都合を感じないなら気づく必要のないことであり、気づいたところでそれを信じているなら、特に変えようとは思わないだろう。その主義主張が自分を守り、それを広めることでよって周りの世界を良い方向に変える力があると信じているなら、やはりそういう主義主張を保持する必要を感じるのではないか。ではその主義主張とは具体的になんなのか。たぶんそれが社会に広まっている様々な主義主張なのだろうし、具体的に国会などで特定の会派や政党を形成ている人たちが抱いている主義主張なのではないか。それは決まりきったものではなく、ただ漠然とそれらの会派や政党に参加している人たちが抱いている共通の観念でしかないだろうか。そこに所属している人たちが一致してその場その場で法案に賛成したり反対したりしているうちに、その会派や政党に特定の方向性があるように思われてきて、そこに属していない人たちからはその会派や政党に特有の主義主張があるように受け取られるわけか。そうなると何々主義だとか右翼だとか左翼だとか、色々とそれらの勢力を語る上で都合のいいレッテルがメディアなどによって貼られるのかもしれない。もちろんそれはそれらの勢力を否定し攻撃する上で格好の呼び名となるわけだが、そうなると否定的な意味で特定の主義主張に凝り固まっているように見なされるのであって、何かそれに決まり切った意味や概念が含まれているわけではないのに、結局空疎な言葉だけが独り歩きする事態となるのではないのか。しかもその言葉がそれらの勢力への理解を妨げ、その主義主張の中身もまともには受け止められず、ただ否定の対象として決まり文句が投げつけられるばかりで、それで批判したつもりになるわけだ。要するにその否定的な言葉の前で思考停止していて、あいつは右翼だ左翼だネトウヨだブサヨだと言い放っているだけの、中身の空っぽな中傷合戦に終始して、あとは自己正当化の屁理屈に屁理屈を重ねて、部外者には滑稽に感じられるだけの代物となるのかもしれないが、たぶんそれ以外の中身をそれらの論争の中に見つけ出さないと、そんな成り行きに至る過程を理解できないのだろう。たぶんそんな風にして罵倒し合っている両者はもともと同根から生じていて、同質の思考から枝分かれして今に至っているのではないか。その思考とはナショナリズムに起因する思考であり、国家を利用して自身を含めた国民を利するような制度を築きたいわけで、そのためには自らが支持する国会内の会派や政党によって政権を担い、国民を利するための政策を推し進めたい。要するにそんな従来からある政党政治を活かしたいわけで、その範囲内で思考を働かせている。

 しかしそれ以外に何を主張できるだろうか。国家や国会や政党を無視した主張など実践的には意味をなさないか。それともそもそも特定の政党の党員でもない普通の一般市民が、党派性を意識した主張をすること自体が、実践とは無縁の空想的な主張でしかないだろうか。そうなると語るべきは特定の会派や政党に合わせた主張ではなく、現状に対する解釈や見解に基づいた主張を示せばいいだけで、要するに現実にどの会派や政党が政権を担っていても構わないのであって、実現性など二の次でかまわず、ただ道理にかなったことを示すだけで事足りるのかもしれない。それ以上を求めると途端に党派的なイデオロギーが先走って、対立する党派を全否定することにかかりきりとなって、その否定的な側面を事細かに並べ立てる一方で、それ以外に何をどうすればいいのかわからなくなってくる。確かに実際にそれらの党派がやっていることを批判することが大事であり、批判の声を強めることによって、悪事をやめさせなければならないわけだが、本当にやめさせられるだろうか。もちろんやめさせるために各種のデモ活動や集会を開き、またメディアを利用してそれらの政治勢力がいかにひどいことをやっているかを、広く世間に認知させたいのだろうが、本当にそれらの政治勢力が政権を担っているからこそ、そうなっていることなのだろうか。たぶんそうなのだろうが、実態としてはそうせざるを得ない成り行きの中で、反対派勢力がひどいと見なすようなことをやっているのではないか。そして自分たちは別にひどいことをやっているとは思っていないのであり、国家のために正しいことをやっているつもりなのではないか。要するに現状で出来うる限りのことをやっているのであり、たぶんそれが精一杯のことなのだろう。そしてならばそれを批判している側が、近い将来において現政権を選挙で過半数割れに追い込み、それらの勢力が政権を担った場合、はたして何ができるだろうか。たぶんそれは実際にそうなってみないことにはわからないだろうし、もしかしたら現政権に輪をかけたようなひどいことしかできないかもしれず、またもや多くの人たちがそれを批判しなければならないかもしれない。だからこそ現状で何ができるかを考えなければならず、現政権を批判すると同時に、現状でできることはなんなのか、はたしてそれが実現可能なことなのか、そして現政権がやっていることをやめさせることができるのか、その辺はアメリカなどの意向も絡んでくるだろうし、難しいことかもしれないが、やはりそれも今から考えておくべきことなのかもしれない。別に誰に考える資格があったりその立場であるわけでもないのだろうが、現実にそうなった時に世論形成をする意味でも、できるだけ多くの人が考えておいたほうがいいのかもしれない。


7月9日「褒めるでもけなすでもなく」

 何を主張するにしろ、敵を作って対立を煽り非難すれば、何か主張しているように思われる。それで何を主張していることになるのか。そこに攻撃すべき対象があり、その対象を非難しているわけだ。敵がひどいことをやっている。そう主張すればいいわけだが、それ以上は何も主張する必要はないのかもしれない。そのひどい行為や言動を非難するだけでかまわないわけだ。しかし何かを語るにはそれだけでは足りず、それ以外のことを語らなければならない。ではそれ以外のこととはなんなのか。非難するのではなく誉め讃えることであり、否定するのではなく肯定することだろうか。しかし非難の対象となっていることの何を誉め讃えればいいのだろうか。ひどいことをやっていると思っているのに誉め讃えるのは無理なのではないか。無理にやればそれまでの主張が矛盾をきたすのではないか。ならばそういう倒錯的な行為はやめたほうがいいだろうか。しかしそれ以外に何を語れるだろうか。褒めたりけなしたりする以外のことを語ればいいわけだ。たとえひどいことをやっているとしても、それをやる理由や必然性があり、いかにしてそんなひどいことをやるに至るのかを説明する必要がある。それを説明できれば何も激しく非難しなくても事足りるのではないか。普通に求めているのはそのような言説でしかない。ただそれが普通だと感じられない世の中の雰囲気があり、何でもかんでもちょっとしたことでも否定する風潮があるのではないか。そして必要もないのにそれを嘲笑したりして、相手を怒らせたいわけで、逆上した相手の反応を楽しみたいのだろう。それを動物的な攻撃本能として説明するのは安易だろうが、それもコミュニケーションの類いには違いなく、そうやって多くの人が攻撃相手と言葉を交わしながら、世の中が回っているのだから、それをことさらに否定してみても意味のないことかもしれず、それはそれでそのような人と人の交通があるのだろう。そしてそれが現実から遊離した空疎な論争に発展すれば、娯楽的な見世物興行として利用価値が生じて、メディアが介在することでそこで対決している双方ともに利益を得られるわけで、それを狙ってメディアが積極的に仕掛けている場合もあって、どうでもいいような人畜無害な論争ならありがたがられるのかもしれないが、政府がメディアに対して報道圧力を加えているような問題だと、論争自体が敬遠されてはばかられるのかもしれない。そしてそういう問題があるからこそ、政府の報道圧力を非難する人が後を絶たないわけか。そして逆に政府を擁護する側の人たちは、そのような人たちを反日勢力と見なして罵倒したり、国民の団結を乱し国益を損なう行為だと非難するわけか。

 そのような対立さえも世の中が回っていくためには必要なことだろうか。必要とか不要とかいうのではなく、そんな現象の中で人々が言葉を交わし合っている現状があるだけか。それがどうしたわけでもないのだろうか。たぶんそれでかまわないのだろう。そうやってそんな風に言葉を弄してそれを語ればいいわけで、語ればそれの説明になるのではないか。それを褒めるでもけなすでもなく、それを説明すれば事足りることでしかないのではないか。いくら攻撃しあっても罵倒しあっても、何がどうなるわけでもないわけはないのだろうが、何がどうなるにしても、その何がどうなったことを説明すれば事足りるわけで、どこまでも言葉の問題にしかならず、それが現実の行為に影響を及ぼすとしても、さらにその影響を説明すればよく、語るとはそのような作用があるわけだ。だから人々は現実に影響を及ぼしたくて、その思いが強ければ強いほど、説明ではなくもっと強いメッセージを発しようとして、それが非難になるのであって、必死に非難を繰り返し、非難の声を広めることによって現状を変えようと試みる。それは虚しい行為なのだろうか。非難の声が現状を変えられなければ虚しくなるだろう。そして虚しくなるのが怖いから、より一層非難を強めようとするわけだが、強めようとすればするほど、その主張は先鋭化して過激さを増し、生半可な気持ちで非難の呼びかけに加わった人たちはついて行けなくなり、非難の活動が長引けば長引くほど離脱する人が後を絶たなくなり、そのような活動は自然に収束へと向かうのかもしれないが、非難の対象となっている政府などもそれを狙っているのであり、曖昧な煮え切らない態度に終始することによって時間を稼ぎ、抗議活動の類いが下火になるのを待っているわけだ。そして待っている間にも抗議活動を分断するために、あれこれと手を打ってくるのかもしれず、抗議している人たちを貶めるためにデマを流したりするのも、その一環なのだろうが、抗議活動に中国の工作員が潜入しているとか、抗議活動を伝えるメディアが反日勢力から資金援助されているとか、それを信じる人たちの方がかえって危険な思想の持ち主ではないか、と疑われてしまうような類いのものまであって、別に政府が直接それに関与しているわけでもないのだろうが、必ずしもそのようなデマが功を奏しているとは思われない傾向もあるようだ。いずれにしてもそれらの非難や中傷合戦とは別に、そのやっていることに道理があるか否かを見れば、選挙などの機会に民意を示す際に役立つのだろう。道理とはそれまでの経緯に照らし合わせて、そうすることが理にかなっているかどうかを考えてみれば、自ずから明らかになることであり、短期的な目先の利害よりも、それを行えば長期的にどうなるかについて考えてみることも大事かもしれない。


7月8日「支配と統治」

 政治は人々の生活に支障がなければいらないものなのかもしれない。もちろん政治を担う側が民を支配したり統治するために必要なのだろうが、民の側からすれば支配されたり統治される上で、見返りが欲しいわけで、為政者の政治力によって、民の生活や商売がうまく営まれるようにしてほしいわけだ。そのための支配や統治なのだろうか。たぶんはっきりとそうだとは言えないのであり、民のほうで勝手にそう思い込んでいるだけかもしれず、為政者の側では民を支配したり統治することが、何よりも自分や自分が属する勢力の利益となることを望んでいるとすれば、自分たちの陣営と敵対する勢力を、叩き潰さなければならないと本気で思うこともあるわけか。そう思うこと自体が本末転倒なのだろうか。国内外に敵がいてそれを叩き潰すことが政治権力を振るうことだとすれば、そう思うのは当然のことだろうか。それが権力闘争と呼ばれる行為なのだろうが、果たして政治に権力闘争は必要なのだろうか。対立する勢力があればそうなって当然なのだろうが、それが支配されたり統治される民にとって必要なのかどうかはわからないが、選挙などでは対立しているどちらかの候補者に投票することになるわけだ。そしてそのどちらに投票しても、民はどちらかの勢力に支配されたり統治されるわけで、もちろんそのどちらも民を代表している勢力ということになっているわけだから、民による国家の支配であるデモクラシーが成り立っているわけで、そのような制度を受け入れる限りは、民も選挙で勝った勢力による支配や統治を受け入れるしかない。そしてその勢力がどことつながっているのかといえば、それは政府と呼ばれる行政を担う官僚機構であり、その官僚機構で働いている人々も公務員と呼ばれる国民であり、そこでも形の上では国民による国民への支配と統治であるデモクラシーが体現されているわけか。しかしその支配とか統治といった意味や概念がどういうことなのか、はっきりとはわからない面もあり、実際に支配され統治されていると感じるのは、国民が行政からどのような作用を及ぼされた時なのだろうか。それは法律を守らされた時や税金を払わされた時なのであり、逆らって処罰される時なのだろうが、自分を国家の一員の国民と認める限りは、それを不当な行為だとは言えないわけで、国民である限りは法律を破らずに合法的に生きてゆかなければならず、それが法の支配を受け入れ国家に統治されていることを示すわけだが、人々は実際にそれらの支配や統治を受け入れているのだろうか。

 もちろん支配とか統治といってもそれは建前上のことで、例えば自動車を運転する時に制限速度などを厳密に守っていたら周りから迷惑がられるし、実際に多くの人たちが日常の様々な場面で、法律を破りながら生きている実態もあり、また所得の多い人は多額の税金を払わされて腹が立つわけで、中には脱税すれすれの節税対策を試みて、税金の額をなるべく少なく申告しようとする人もいるわけだが、逆に収入の少ない賃金労働者などは、真面目に法律に従わざる得ない弱い立場となることが多く、そうなるとまともに国家の支配と統治を受けるわけで、しかもそういう人たちは政治的な権力とは無縁である場合が多く、国家と資本主義が結びついている以上は、金がものを言う世の中となっていて、政治家の資質としては演説などで必要な言葉を操る能力とともに、その人のもとに集まる金の量が人や組織を動かす原動力となっていて、それが政治的な権力を掌握する条件ともなっているわけで、そこで支配的な制度となっているデモクラシーも、単純に人民による国家の支配というわけにはいかないわけだ。人民にも他の人たちに権力を及ぼせる人とそうではない人がいて、また政治家が所属する議会も単純に議員一人ひとりと直接結びついているわけではなく、議員と議会の間に政党が挟まっているわけで、それぞれの議員は政党の意向に逆らえず、政治家と選挙でその人に投票した有権者の関係も、議員が所属する政党の意向が優先され、有権者の意志が投票した政治家の主張や行動に反映されないこともあり、有権者は政党を支持するか否かの選択を迫られるわけだが、政党は政党で一人ひとりの有権者ではなく、産業界や宗教団体や労働組合などの各種団体と連携していたりするわけで、それらの団体の組織票が選挙の時にものを言うわけで、そのような団体とは無縁の一市民の意見が政党に聞き入れられるわけがなく、一般市民はただ政党の主張に自分の主張を合わせることしかできず、それが自分の主張だと思い込めなければ、政治参加などする意味も意義もないような状況となっているのではないか。そんなわけで民主主義の制度が一般市民の意向を反映させるには、議会の多数を握った政党や会派の善意に期待するしかなく、そしてそれはマスメディアが実施する世論調査の結果を尊重するか否か、というこれまた一般市民と議会や政府の間にマスメディアが挟まって、それらのマスメディアが世論調査の結果を根拠に議会や政府に権力を及ぼそうとするのであり、結局一般市民はどこまでも政治的な権力からは遠ざけられる構造となっている。


7月7日「国家財政」

 策士が策に溺れているわけではないのだろうが、漫画ではないのでそんなに都合良く起死回生の策などありはせず、何の権限もない個人が、そんなに込み入ったことなどできはしないのではないか。実際に誰が何を画策しているとしても、どこかでやっている会議などで、何かをやることが提案され、それが多数決で決定したりしているのではないか。そしてその会議などに臨む前に、提案する側によって多数派工作などが行われるわけで、議題に賛成する人が多くなるようにしたいのだろう。表面的にはそんなふうにして何かが行われ、できるだけ多くの人が納得のいく形で何かをやりたいのだろうが、そのやろうとしていることの中身が、果たして合理的な行為なのかどうかは、やろうとしている側にとっては理や利があると思われるから、やろうとしているのだろうが、それが万人にとって理や利があるかは、やってみなければよくわからないことだ。もちろんそれに反対している側は、やる前から理や利などないと主張しているわけで、あるいは特定の勢力にとってだけ理や利があり、その他大勢には何の理も利もなく、それどころかやること自体が不合理であり、やると損害さえ被ると主張するわけだ。たぶんどちらが正しいかはやってみなければ分からず、やってからではもう遅いわけで、そこにジレンマがあり二律背反があるわけだが、それがどうしたわけでもないのだろうし、やろうとする側は多数決で押し切ってやることを決めてしまい、そして実際にやってみて、それで多大な損害が出て手遅れになったら、またやり直しとなるしかないのだろう。多額の債務を抱えているギリシアなどは、まさにその段階なのかもしれないが、やはりそれでも当事者たちはやり直しが利くと思っているのだろう。そしてフィクションではないので、やり直すための起死回生の策などあり得ず、現実にはうまくいかないなりにやっていくしかないわけだ。

 日本の現状はどうなのだろうか。表面的にはギリシアほどには深刻な状況ではないのだろう。だが国の借金である国債の額が半端でないことは確かで、国民総生産はギリシアの比ではないので、比較の対象とはならないかもしれないが、国家財政の内容としてはどう見ても危機的な状況なのだろうし、しかもそれをもうだいぶ以前から放置し続けてきたわけで、現在に至ってなお放置し続けるしかなく、今さら財政を立て直して借金の額を減らすのは、もはやまともなやり方では不可能なのではないか。過去の事例だとドイツ・フランス・イギリスなどは、確か前世紀の二度の世界大戦やその間の世界恐慌などの前後で、ハイパーインフレを引き起こして借金を相殺してきた経緯があったかもしれないが、日本も第二次世界大戦の後にそうなって、軍事費の調達に使った軍票なども何の価値もないただの紙切れとなったはずだ。果たして今後そうなる機会がやってくるかどうかはわからないが、政府のやり方を批判する人の中には、政府が周辺諸国との対立を意図的に煽って、戦争を引き起こして借金をチャラにしようと画策しているのではないか、と勘ぐっているわけで、政権側の人たちが本当にそうしようと思っているとは信じがたいが、その意図や思惑はないとしても、現実にちょっと返すのが不可能な国債の額だから、そうなるしかないような成り行きへと知らない間に踏み込んでいる可能性もあり、戦争とは当事者や当事国がやりたくなくても、何かのきっかけで起こってしまうものなのかもしれず、そうなれば多くの人が死傷し都市の建物や施設が破壊されて、それまでに築き上げてきた資産がリセットされ、そうなれば借金もリセットされてしまうのかもしれないが、果たしてそれ以外に方法はないのだろうか。少なくとも政府の財政健全化計画などは焼け石に水程度の印象しか持ち得ない。

 たぶん財務省などはこの状態ではまずいという認識を持っていることは確実で、何かしら手を打っている最中で、今のところそれが功を奏しているとは見えないが、やはりフィクションではないのだから、起死回生の奇策などあり得ないだろう。やはり地道に少しづつ借金の額を減らして、財政を健全化してゆくしかないのだろうか。円安になったからといって、単純に大量に保有しているアメリカ国債を売却すればいいということにはならないだろうし、現実にアメリカの意向に逆らえないのだろうから、それは現政権では無理なのかもしれないが、景気を良くして税収を増やすのが当たり前のやり方で、実際に少し税収が増えたような報道もあるのだが、たぶんその程度の税収の増え方では、毎年その程度税収が増え続けたところで、財政が健全化するのに何十年もかかるだろうし、その間にいつまた税収が減るかもしれず、国の人口もだんだん減少する傾向だし、それに応じてだんだん国家財政も切り詰めて行くにしても、たぶん借金は永遠に減らせないのではないか。それでも国家の財政が破綻しないのなら、それで構わないのかもしれないが、最近ではアルゼンチンやギリシアなど、これまで結構多くの国が財政破綻してきた経緯もあり、別に国家財政が破綻しても国家が消滅した例はほとんどないのかもしれず、そうだとすると日本も将来それらの国の仲間入りをするだけで、別にどうということはないわけか。そうなっては困るのは財務省と日銀ぐらいなものだろうか。もちろん国民も困るのだろうが、確かに貧乏にはなるがそれで死ぬ人もほとんどいないだろうし、経済的に苦しい思いはするだろうが、やはりそれだけのことなのではないか。そして景気が良くても悪くても財政破綻しようがしまいが、金持ち連中は相変わらず贅沢三昧ができるだろうし、末端の低賃金労働者も相変わらず貧乏なまま、失業している人が多くなって困るだけで、ただその割合が変わるだけだろうか。


7月6日「国家と政治の問題」

 物事の捉え方には様々なやり方があり、一つのやり方が現象の全てを物語ることはできず、ただその一側面を説明するにすぎないのかもしれない。でも説明しようとすればそうなることを承知で説明を試みなければならないだろうか。しかし何を説明しようとしているのか。それは容易く説明し得ない現象だろうか。簡単に説明しようとすれば簡単になり、複雑に入り組んだ事情を説明しようとすれば説明が難しくなる。説明の対象と説明の関係も、それを説明している言葉によって対象が歪み、説明が陥りがちな定型の物語の中に対象を押し込め、対象の本質を見失ってしまう場合もあり、本当にその対象について語っているのか、それとも誰もが安心する紋切り型の物語を語っているのか、そのどちらでもあるのかもしれず、どちらでもないのかもしれない。しかしどちらでもなければそれらの説明は何を物語っているのか。それは言葉が連なって文章を構成する成り行きを見せているだけだろうか。どう考えるにしても、事物それ自体を説明が完全に捉え切るのは不可能なのかもしれない。それでも人は興味を抱いた現象について説明したいのだろう。そしてその説明に共感したり賛同したりする人もいて、それの何に感動しようと、それによって説明している現象を理解したつもりになるとしても、それが現象の全てでないことは、考慮に入れておかなければならないだろうか。そこには気づき得ない何かがあり、それが未だ解き明かされていない謎なのか、あるいは誰もが知っている当たり前のことなのか、どちらであるにしてもどちらでもないにしても、それについて語る余地が残されていると思えば、それを試みるのは当然のことだろうか。そう思われるからそれらの現象に対する説明がやむことはないのだろう。今も誰かが何かを語ろうとして、実際に語っているわけだが、その説明に納得がいかないなら、自分で考えてみるしかなさそうだ。

 それらの現象の何がいいとも思えず、しかし何が悪いとも思えず、良し悪しは別としてそういう成り行きになっているとしか思えないのだが、そう思っておいて構わないとも思えるわけで、実際に批判されていることが、批判されて当然のようなことをやって、批判されるべくして批判されているわけで、それが良くも悪く思えないことの原因なのかもしれないが、構造としてはそうなって当然の構造なのだろうか。現行の憲法や政治制度に不具合があるとすれば、それはどのようなものだろうか。それは国家そのもの存在から生じる不具合で、国家が存在する限り取り除きようのない不具合であり、しかも国家がなくなればいいというわけでもなく、国家から生じる不具合とともに社会が成り立っている現実があるわけか。その不具合とはなんなのか。必ずしも民意を反映しない政治が行われていることだろうか。しかし民意といっても、果たして総体として特定の民意を導き出せるのか。それは常に総論賛成各論反対と言ったものでしかなく、そこに暮らしている人の立場によって違ってくるわけで、世論調査から導かれるのとは異なって当然であり、しかも民意の通りに政治を行う必然性があるのかどうかもわからない。結局は何が良くて何が悪いかという判断基準が、その場その時でメディアを通じて様々な意見とともに示されるが、それらのどれを信じてどれに賛同しても構わないのであり、別に何か特定の意見や見解に惑わされて、政治の進め方の何が良くて何が悪いかを判断して、誰もが選挙の時の投票に活かそうとするかもしれないが、たぶんそのような行為や行動の結果が、現状をもたらしていることは確かなのだろうが、果たしてそれが憲法や政治制度の不具合を浮き彫りにしているのだろうか。

 それは日本だけの問題ではなく、世界的に見ても様々な国で国家と政治制度がうまく機能しているとは言いがたい状況があるのではないか。例えば中国のような多民族国家では、欧米流の政治制度ではうまくいかないのかもしれず、現状では民主的な制度からは程遠い独裁体制を維持しているわけだが、果たしてそれを単純に批判できるだろうか。現にイラクでは独裁者が取り払われたら、各宗派や民族の間で対立が起こって未だに内戦状態であるし、アメリカは確かに多民族国家としてうまくいっている部類に入るだろうが、それはアングロサクソン系のヨーロッパからの移民が支配勢力として長年君臨してきたからかもしれず、しかももとからいた先住民はほとんどが根絶やしにされて、奴隷としてアフリカから連れ来られた人々の子孫は、未だに執拗に残る人種差別と戦っている最中なのだから、表面的には安定しているように見えるが、内情は問題だらけの国家なのだろう。そして日本の場合も過去の歴史的経緯から生じる問題があり、日本という国家から妄想される独自の観念に囚われた人々が、制度を過去のしきたりに引き戻そうとして、しかもその勢力が政権を握っている現状があるわけで、そのような世界の現状から遊離した妄想を、憲法の改正によって実現させようとする懸念がある一方で、周辺諸国との対立を煽り、それをアメリカとの軍事同盟の強化に結び付けようとする思惑も見え隠れしていて、そういうやり方に危機感を抱いた人々が、政府のやり方に対して平和を求める各種の市民運動を通じて、批判を強めている現状があるわけだ。


7月5日「利益の奪い合い」

 人間社会の中で生じている利益の奪い合いに関しては、利益を生み出す構造の中に矛盾があり、場所的にあるいは時間的に別のどこからか奪い取ってこないと、そのもの自体では利益が出ない構造となっているのではないか。その大本は自然から奪い取ってくるわけだが、資源が無限にあればそれも成り立つのかもしれないが、時間的にあるいは量的にあまりにも急激に奪ってしまうと、例えば耕地が荒れて食糧の生産が需要に追いつかなくなってくれば、たちまち世の中が回っていかなくなるのかもしれない。そうでなくても巨大な穀物企業や畜産企業や食品会社や商社や生産組合などが、世界各地で巨額の資本を投下して大規模集約化した工場のような生産体制で、農畜産物を生産流通販売しているわけで、その辺は漁業や林業なども、似たような構造となっているのかもしれないが、もしかしたら現状でも、自然からもたらされる養分の限界を超えて生産しているのかもしれず、もともと蓄えられていた地力が失われ、作物などが思うように育たなくなり、将来そのような生産体制が行き詰ったときが、世界的に食糧難が起こって、人類文明が崩壊するときだろうか。それともそれを未然に防ぐような安全装置が常に社会の中で働いていて、それがうまく作動することでバランスが保たれ、見かけ上は安定的に世の中が回っているわけか。それが利益を生み出す構造だろうか。人が生きていく上で欠かせない生活必需品を生産流通販売することによって得られた利益が、生きて行くのとは無関係に思われるような事業へと再投資され、そのような行為によって利益が浪費されてゆくと同時に、さらに大きな利益を生み出そうとしているわけで、例えば東京五輪に使う国立競技場を数千億円もかけて造るのなら、その金を福島の原発事故で被災した人たちに使え、と批判する人たちがいるわけだが、たぶん被災者の住宅を造るより、国立競技場を造る方が建設業者にとっては利益になるだろうし、その集客能力を見込んで、スポーツや文化芸術関連のイベント業者なども、新しくできた競技場を使って儲けたいだろうし、世界的に人気のあるロックバンドやアイドルグループなどもコンサートに使いたいだろうし、その施設の管理維持などで保守点検の設備業者や、警備業者や売店や飲食店業者なども、そこからもたらされる利益に群がりたいのだろう。そのような伝統は、古くはイギリスのストーンヘンジやエジプトのピラミッドやギリシアのパルテノン神殿やローマの円形闘技場などからあるわけだが、イースター島のように島民が巨大なモアイ像を作ることに熱中しすぎて、島じゅうの樹木を切り倒して養分に富んだ表土が雨で洗い流され、農作物が育たなくなって文明が崩壊した例もあり、そのようなやり方がどれほど盛んになれば、文明が自然の許容限度を超えてしまうのか、それは誰にもわからないことかもしれない。

 ともかく人がより大きな利益を求めるようになればなるほど、利益の出ない産業は大規模集約化が進み、それに従事する末端の人たちはつまらない単純作業に追われることとなり、ますますその産業に魅力がなくなってくるのであり、そうなると誰でもできる作業に従事する末端の人ほど低賃金となり、しかもそれどころか作業の効率化や自動化を図り、人件費を削減するために作業員を減らそうとするわけで、そうなると業種によっては作業員自体がいらなくなる。そしてその事業が巨大になればなるほど、ごく一握りの管理者や経営者の給料が高くなるわけで、その事業に出資している資本家や銀行などの取り分も多くなる。そして資本家や銀行などは、より利益の出る事業に再投資して儲けようとするわけで、資本主義経済に関しては、世の中全体の傾向がプロスポーツのような構造になりつつあるのではないか。運良く競争に勝ち抜いたごく少数の人たちが巨額の報酬にありつき、その他大勢が低賃金の不快な作業に追われることとなる。しかもその他大勢の人たちはメディアに洗脳されて観客のような立場となり、巨額の報酬にありついた成功者たちを応援している現状があるのではないか。要するに人気者のユーチューバーを応援する人たちのような心境になるわけで、そのような応援者が増えれば増えるほど、ユーチューバーは儲かり、ユーチューブを提供しているメディアのグーグルも広告宣伝料で儲かることとなり、グーグルに出資している資本家や銀行も儲かる。つまり資本家や銀行は自分たちの業界とは別の業界であるグーグルから利益を奪い取り、グーグルやユーチューバーも自分たちとは別の業界から提供される広告宣伝料によって利益を奪い取り、そんな利益の争奪戦をそれと意識せずに応援しているのが、グーグルやユーチューブの利用者であって、それらの人たちはグーグルに広告宣伝料を払っている企業で働いているかもしれず、働いていなくてもそれらの企業の製品を買っているかもしれない。結局末端の消費者が商品を買うことからそもそもの利益が生まれ、その利益の奪い合いが資本主義市場経済を活性化しているわけで、より利益を凝縮して集められる企業がメディアによって脚光を浴び、しかもそれがグーグルのようなメディア産業だったりするわけだが、その集めた利益を何に使うのかといえば、再投資してさらに利益を得ようと画策しているわけで、近頃はロボット産業や自動車産業などにもその事業を拡大しようとしているらしい。自動車産業などはグーグルに広告宣伝料を払いながらグーグに利益を奪われ、しかもグーグルはその利益を利用して自動車業界に参入しようとして、彼らの競争相手になろうとしているわけで、仁義もへったくれもないわけだが、果たしてそんな利益の奪い合いのゲームがいつまで続くのだろうか。


7月4日「未来への可能性」

 いったいそれらの情勢の中で人々は何に気づき、そして何に気づいていないのだろうか。少なくとも自分たちが批判している中身が、どうでもいいことだとは思っていないのではないか。どうでもいいどころではなく、情勢を深刻に受け止めており、決して批判している対象の思い通りに事が運んではならないと思っているはずだ。そのために様々なメディアを使って批判を展開していて、反対運動を盛り上げようとしているわけだ。そして政権側がやろうとしていることを阻止しようとしている。たぶんそこまではわかっていることだ。ではわかっていないことはなんなのか。人々は何に気づいてないのだろうか。人々が気づいてないことに、誰が気づくことができるのだろうか。誰も気づかないとすれば、それを指摘することなどできはしない。では人々が気づいていることには誰もが気づいているのか。たぶんそうだろう。そう思って構わないのではないか。では人々は何に気づいているのか。このままでは国や民が危機的な状況に陥ることか。それは今のところはそうなるかもしれないということでしかなく、まだ今の段階で必ずそうなると決まったわけではないのではないか。将来どうなるかなんて確かなことはわからないが、ともかく国側の人たちが強引に事を進めようとしていることは確かで、その性急な進め方に反感を抱いている人も多いだろうし、政権側にいる関係者の威張り散らすような言動にも反発している。確かに枝葉末節なところはそうなのだが、肝心なところはよくわからない。どのような意図でそのような法案を国会で通そうとしているのか、それに反対する側は色々と否定的な理由を並べて反対していて、それはその通りなのかもしれないが、法案を通そうとしている側にも、それを阻もうとしている側にも、どちらの側にも気づいていないことがあるのではないか。それはなんなのだろうか。それは立場が異なれば違った意味合いを持つようなことだ。制度としては多数決を取って法案を通すだけなのに、たぶん最終的にはそうなるのだろうが、なぜかその手前で停滞していて、法案のひどさばかりが伝えられ、国民にとっては何のメリットもないような法案だとみなされ、だから多くの人が強硬に反対しているわけだが、それでも法案が国会で議決されてしまうとどうなるのだろうか。人々が恐れていることが現実化するわけか。たぶんそうであり、暗黒の未来が到来するのかもしれない。それで構わないとは誰も思わないだろうか。それもたぶんそうだ。たぶんそうなのだが、だからといって何がどうなるわけでもないのだろう。施行された法律通りに事が運ぶだけだ。それ自体は何の問題もなく、国家のシステムが滞りなく作動するわけだ。

 では人々が恐れる暗黒の未来は本当に到来するのか。それはそう遠くない将来において、そう実感する時が来るかもしれないが、それもどうしたわけでもないのかもしれない。国家の制度に関しては、また選挙でもあった時に有権者の判断が下されるだろう。これまでのやり方でよければ、政権側の候補者に投票するだろうし、よくなければ反体制勢力が推す候補者に投票できる。無関心なら投票に行かなければいい。制度的にはそんなことでしかなく、それ以上でも以下でもなく、そのような制度がまともに機能しているはずがないと疑う人も大勢いて、政権側に都合がいいように投票結果が操作されていると主張する人までいるが、そういう懸念も含むような制度なのだろう。そんなわけで現状で反対運動をしている人たちは、少なくとも次の選挙まではそれをやり続ける必要があるのではないか。人々が無関心に陥るのを防ぐためにも、そのような市民運動を社会に定着させるためにも、息の長い運動が求められているのだろうし、またもし次の選挙で思うような結果が出なければ、さらにその次の選挙まで運動を続けるしかないだろう。そのような運動は制度に基づいてやる性格のものではなく、そこに参加する人々の自主性にまかされているわけだから、国家が作る制度とはまた違う特性があり、社会にそのような運動が根付くことで、行政がやっていること以外で、人々が助け合う関係を構築できるのではないか。行政に依存しなければ何もできないわけではなく、民間で助け合いながら生きていくことができれば、人々が国家から自立できる可能性がそれだけ広がるのかもしれず、近い将来において国家が破綻しても、市民による助け合いのネットワークがあれば、問題なく生きていけるかもしれない。そういう意味で国のやり方に反対したり反発したりする人が多くなればなるほど、国家に依存しないで生きてゆこうとする試みにも、その模索にもそれなりの必然性や必要性が生じてくるのかもしれない。だから現状がそれほど悪い方に向かっているわけではなく、政権側がどう考えても無理なごり押しをしているように見えるなら、それはこれまでとは異なる機会が到来している兆候かもしれず、現状で盛り上がっている自主的な市民運動を、普通の人が無理なく継続できるような方向へ持っていければ、そのためには過激な暴力などはなるべく控えた方がいいのかもしれないが、たとえ大した結果を得られなくても、それを続けていくことが何よりも重要で、扇動的で強権的な指導者など不要な運動にしていけば、これまでとはまた趣の違う市民運動になる可能性が生まれてくるだろうし、それが未来へとつながる希望をもたらすかもしれない。


7月3日「敵対関係に至る背景」

 地球上のどこにいようと、人と人は言葉でコミュニケーションしている。その程度の真理なら信じられるだろうか。しかし信じられないことがあるとしたら、それは同じ言語で話しているのに、言葉が通じないということだろうか。別に直接語りかけなくても文章に記して、読ませて理解してもらおうとしているわけで、そしてそれとは違った意味で、内に閉じた自己対話としての文章があるわけではなく、そこで誰と誰が対話しているわけでもない。たぶん理解できない文章があり、受け入れられない内容があるのかもしれず、何がそうなのかといえば、それは興味から外れた内容だからか。興味がないのだから理解する必要が感じられず、理解する必要がないのだから読む必要も感じられない。読んだとしても理解できないかもしれない。たぶんその辺で思考がぐるぐる回っているわけだ。一体それの何を理解すべきなのか。それとは何か。それは現実に読んでいる文章なのではないか。そして理解していないわけでもなく興味がないわけでもない。ではなんなのだろう。理解しているからといって興味があるからといって、それがどうしたわけでもないということだろうか。たぶんその辺から政治的な判断が始まるのではないか。要するにそれは非社交的なコミュニケーションであり、攻撃的な闘争本能が相手に対する否定的な感情を催して、それが理解し合うことを拒絶する態度として現れる。そして一方では使命感に燃えていて、そうすることが正義であるように思われ、正義を行うことに凝り固まると後には退けなくなり、そのような状況下ではすでに何らかの戦いが始められているのではないか。そして戦いに勝とうとして、さらに攻撃を繰り返すわけか。それと同時に攻撃の正当性と、正義に基づいた行為であることを主張しなければならないわけか。何かを主張するということ自体が、攻撃に結びついている場合もありそうだ。時には激しい口調で攻撃的に主張している。しかし攻撃的でない主張というのがあるだろうか。たぶん主張は一方的に行われるわけではなく、相手との主張の応酬となるのだろうが、どちらかがあるいは両者ともに主張を受け入れる意志が芽生えなければ、互いに主張し合うだけで、論争は平行線に終わるかもしれないが、それでもやらないよりはやったほうがマシなのだろうか。でもそんなことより具体的に誰が何を主張しているのかを知りたいところか。どうもその主張している内容が一向に見えてこないようだ。わざと見せないようにしているわけではなく、はぐらかそうとしているわけでもないのに、ただ攻撃をしたり受けたりしている状況しか明らかとはならない。それが人と人との関係であれ、なんらかの団体や組織がそこに介在しているのであれ、ある定常状態のような状況が見られるようになると、何がやられているのかよくわからなくなり、ただ多くの人がそこでうごめいていることしか感知できなくなる。感覚的にはそれがどこの誰であろうとなかろうと、そんなことはどうでもよくなってしまうわけだ。

 そんな中でも誰かが誰かに対して直接暴言を浴びせると、すぐに非礼を詫びて謝罪しろということになるのだろうが、よほどのことがない限りは、直接のやりとりよりは間接的に対象となる人のいないところで暴言を吐くわけで、その発言が非常識だと感じるなら、そんな非常識な発言をする事の成り行きがあり、そういう発言に至った経緯を説明するだけでいいような気もするが、他人に暴言を浴びせるほど傲慢になれるのは、そういうことをやってもかまわない環境があるということだ。そしてそのような環境が日常空間の中でどこにでもあるのかもしれず、そのような空間の中で傲慢な人たちが、暴言を交えながら仲間同士で親交を深めていて、しかもそんな人たちが公的な役職についていて、それがメディアを通じて表沙汰になると、公式の場で非礼を詫びろだの何だのという話になるらしい。もちろん本心から詫びる気がないのはわかりきっていて、形だけの謝罪となることが通例と化しているわけで、侘びを入れる事自体が罰を受けていることのように感じられ、もちろん暴言を浴びせている対象の相手に詫びているわけではなく、世間をお騒がせて申し訳ない程度のことでしかないのだろうから、その時点で詫びを入れるという意味から離脱して、ちくしょうよくも詫びを入れさせたな覚えていろよ、というけんか腰の態度になっているわけで、それ自体が非社交的なコミュニケーションの典型例となるのではないか。要するにその場で戦いが行われているわけで、罵声を浴びせた相手やそれをばらしたメディアとの間で闘争の最中なのだろう。そしてそれが続いているうちは、仲間内以外での平和的な協調関係などはあり得ず、結局敵と味方に分かれて戦争をしている認識で凝り固まっている。もちろんその仲間内でもいつどんなきっかけから敵対関係になるやもしれず、ただ一時的に利害が一致しているだけで、共通の敵に対しては協力し連携しつつも、利害が一致しない部分では潜在的には敵対しているわけで、たぶんそんな平気で口汚く暴言を吐く集団とは、互いの利害を超えて平和的な協力関係を築くことなど不可能なのかもしれない。そういう思考とか発想とか次元を持たない人々なのだろう。


7月2日「イメージ戦略と政治」

 それについて具体的に何か語るとすれば、そこからどんな言説が得られるだろうか。それ以前にそれらの現象について何を語ればいいのだろうか。いったいそれらの現象とはなんなのか。それについて何も語れないはずがなく、別に意識がメディアによって洗脳されて、世の中に広く流通している紋切型的な物言いにしか反応しなくなったわけではないだろう。うまく語れないからなるべく抽象的な物言いに逃げているとも思えず、ただ納得のいくような説明にたどり着けずに、行き詰ってジリ貧に追い込まれているのかもしれない。過剰な言葉と印象が氾濫する現代に生きていれば、誰にとってもそんな状況となるだろうか。では逆説的にあえて語ることがないと宣言しながら語るしかないわけか。でもそう語るうちに何か思いつくのかもしれず、それは具体的な何かではなく、その場の空気や印象について語っている場合が多く、そんなあやふやなことなら、ニュアンスがどうとでも受け取られて人畜無害に思われるから、誰もがそれについては積極的に語りたがるのだろうか。少なくともその場の空気や印象もそこで心が作用した現象なのではないか。それは自己の内面に生じた現象であり、その内面の印象が言葉となって外部に伝わり、そこで共感を得られると、共通のイメージとして他の多くの人たちにも共有される。そしてそれが良い印象なら何の問題もないわけだが、悪い印象なら印象を抱かせた対象にとってはマイナスとなる。そしていったんマイナスのイメージが定着してしまうと、それを拭い去るのは容易なことではなく、それがメディアを通じて拡散するようなことがあれば、その対象がメディアを利用しているような人や団体なら、仕事がやりづらくなるだろうか。場合によってはやりづらくなるどころではなく、致命的な打撃となるのかもしれず、だから人気商売の芸能人やタレントの類いなら、特に自己のイメージに気を使っているのだろう。それは選挙で有権者によって選ばれる政治家も同じで、なんとかメディア上で好印象を得られるように、いつなんどきでも自己演出に余念がないだろうか。他にはっきりした政治的な争点がなければイメージ戦略は重要となるだろうが、はっきりした争点がある場合は、有権者はその争点に対する態度が、選挙で投票する上での判断基準となるだろうか。民主主義が有効に機能するためには、そうなることが望まれているわけだが、その政治的な争点を誰が勝手に決めるわけではなく、争点がはっきりしないほうが有利になると思われると、それをはぐらかすようなメディア操作がなされるわけで、そうなるとイメージ戦略が先行して、大衆に媚を売るようなしゃべりの技術などに長けた人がもてはやされ、大衆受けするタレント議員が大量に生まれることになるのかもしれないが、果たしてそれが有権者の利益につながるかどうかはわからない。

 しかし今この現状ではっきりした政治的な争点というのがあるのだろうか。労働者の派遣法改正や安保法制や憲法改正が、国会の争点となっていることは確かで、与野党で激しい論戦が行われていることになっているわけで、各種メディアもそう伝えているはずだが、もしかしたらそれこそがイメージ戦略の類いなのではないか。派遣法が改正されると労働者が低賃金でこき使われ、いらなくなったら簡単に解雇されてしまい、安保法制によって自衛隊が米軍の後方支援に駆り出され、戦争に加担することで戦死者が増え、自民党の思惑通りに憲法が改正されると、基本的人権が踏みにじられて自由にものが言えない全体主義社会が到来する。反対する側はそんなイメージを一般大衆の意識に植えつけようとして、必死になってマイナス印象を語りかける。そしてそれにも増して奇異な印象を受けるのは、そのような法整備をやろうとする側が、批判に対してまともな反論ができていないことだ。これは何を意味するのだろうか。ひたすら屁理屈と論点のはぐらかしを繰り返すだけで、そんなことをやればやるほど印象が悪くなるばかりで、しかもそれでも強硬に法案を通そうとしている姿勢は変えず、それで本当に法案が通ってしまえば、野党勢力のイメージ戦略など、多数決による数の力の前では通用しないことが証明されてしまうわけだ。ともかく選挙で圧勝して議会で多数派を占め、多数決の力で法案を通すという民主主義の原則通りに事が運ぶわけだ。それのどこが欠陥なのだろうか。たぶん欠陥ではなくそれが民主主義の特性なのだろう。必ずしも民主主義は一般大衆を利するとは限らず、場合によっては独裁体制を築く上で民主主義の制度は好都合なのかもしれない。というか民主主義こそが独裁を招く制度なのではないか。王政や封建制とは違い、人々の意識に自由と平等というイメージを植え付けながらも、肝心なところではそれを許さない構造を備えていて、具体的にそれは官僚機構が国民を管理する仕組みにある。人々が国家を脅かすような行動や言動に訴えれば、それを治安機構が取り締まって、暴力の力でねじ伏せるような成り行きとなるわけだが、現状ではまだあからさまには暴力をチラつかせるような事態とはなっておらず、その前にメディア的な情報操作によってなんとか食い止めようとしていて、それがイメージ戦略なのだろうが、ネットなどの発達によってだんだんそれが機能しなくなっている面もあり、やはりこのまま政府や政権与党に対する悪い印象が増していくと、抗しきれなくなってついには力による統治が始まってしまうだろうか。その辺でどこまで本気なのかよくわからない面もあり、もしかしたら政権を牛耳っている一派が、すでに官僚機構から見放されている可能性もあり、もうしばらく時間が経ってみないと、はっきりしたことはわからないのではないか。


7月1日「戦争と経済の関係」

 しかし現状の何を肯定できるだろうか。世界的な富の争奪戦がまだ続いている段階で、そのような行為を肯定することができるだろうか。ほとんどすべての人や国や企業がやっていることを肯定して何になるというのか。誰もがやって当たり前のことをやっているわけで、それを改めて肯定するも否定するも意味がないだろうか。ではどうしたらいいのだろう。それはそれでそのような行為として説明すればいいだけだろうか。だが説明にも肯定や否定という評価が伴うはずで、そうでないと何を説明していることにもならないのではないか。では説明にならない説明とはいかなる説明なのだろうか。それを富の争奪戦と捉えるのがそもそも間違っているのだろうか。人々はただ全世界を覆う資本主義市場経済の中で生きているに過ぎず、生きている以上は仕事をしなければならないだろうし、その仕事の内容が結果的に富の争奪戦のように見えるだけなのではないか。ではそれ以外には捉えようのない現象なのだろうか。そのような思考が世界中に蔓延していて、それ以外の捉え方など思いつけないような環境の中で生きているということか。たぶんそうではないと思う。それ以外の現象を考慮に入れておらず、実際には富の争奪戦どころか、富などに手が届きようがない状況で、その日その日を生きていくのに精一杯の人たちがほとんどなのかもしれない。富の争奪戦に加われるのはほんの一握りの成功者に限られ、その他大勢の人たちはそこに行き着くはるか手前で、富にありつく道から締め出されているのではないか。ではなぜそうなってしまうのか。富が限られていて、とてもすべての人に行き渡るほどの量ではないということだろうか。それともごく一握りの人たちによって富が独占されていて、競争に勝ち抜き選ばれた少数の人たちだけに大量に分け与えられるからこそ、富が価値を持つのであって、誰もが簡単に手に入れることができるようになってしまえば、そんなものは無価値で魅力のない代物となってしまうだろうか。ようするにそうなってしまえば、富の争奪戦など起こり得なくなってしまうわけか。ならば今世界中で富の不均衡の是正を訴えている人たちは、暗黙のうちに富の争奪戦を巻き起こしている資本主義市場経済を否定しているのだろうか。それをはっきりと意識している人は数少ないかもしれないが、多くの人はそれと意識せずに資本主義をやめさせようとしているのかもしれず、もちろんどうやればやめさせられるのかなんて分かりようがないのだろうが、ともかく富を独占しようとする行為に反対していることは確かなようで、しかもそのような利益を追求する行為に正当性が認められている状況の中で生きているわけだから、それに反対すれば自動的に反体制勢力とみなされる状況の中で反対しているわけか。そんなはずがないだろうか。利益を追求するのは当たり前のことで、しかも追求しすぎると富の独占をもたらすと批判され、ではどうすればいいかといえば、貧富の格差が広がらない程度に利益を追求すればいいわけだが、それはありえないことだろうか。

 今までの歴史的な経緯からすると、要するに国家が貧富の格差が広がらないような政策を行えばいいわけだが、国家と国家が対立している現状ではそれができない。国家同士が富の争奪戦を繰り広げている現状がある限りは、富をもたらす人や企業を優遇しなければならず、それらを積極的に活用しなければならないだろうか。そうやって国内の産業を育成していって、企業の国際競争力を高めれば、利益がもたらされて国が豊かになり、国中の人々がもたらされた利益の恩恵を受けられるだろうか。人々がそのようなやり方を信じていれば、政府に対する反発も反対運動も起こらないわけだが、実際にはそれらが起こっている現状があるわけで、そのような政策が信用されていないわけだ。実際にどうなるかはまだはっきりしないのかもしれないが、はっきりしてしまったらもう遅いから、このままでは多くの人たちが不幸になってしまうことを危惧しているのであり、そうなる前に多くの人たちがそのような政策をやめさせようとしているわけで、もちろん議会で多数派を構成している政権与党のやり方がまかり通る可能性は高く、遠からずそのような結果が明らかとなるのかもしれず、かえって明らかとなった方が、それを推進している側にとっても反対している側にとっても、事の白黒がはっきりしていいのかもしれないが、もし否定的な結果になったらもはや手遅れだろうか。手遅れというわけでもないだろうが、手遅れにならないうちに今から反対運動をしているわけか。それもあるかもしれないが、やはり人々はそれと意識しないが、利益がもたらされなくても生きていけるようになりたいのではないか。今まで通りのやり方に固執した利益の追求や富の争奪戦に、それほど魅力を感じられなくなっていて、そのような際限のない競争に敗れた人たちの惨めな境遇を、メディアを通じて知っているから、自身がそんな境遇に陥ったときのことを思えば、少なくとも今までのやり方では、恐ろしい結果を招くような気がするのではないか。そしてその恐ろしい結果が漠然と戦争のイメージに重なるのかもしれず、それが若者達による戦争反対のデモとなって現れてきたのだろうか。国家と国家の対立は政治経済の対立とともにその延長上に戦争があり、それを招かないためには平和外交とともに、他国との経済的な結びつきも不可欠で、国と国との間で人が平和的に行き来して、友好的に交易が行われていれば、少なくとも戦争になる可能性が低くなることは、誰もがわかっていることかもしれないが、国内の景気が悪くなると、その原因を外国に求めざるを得ず、我が国から特定の国家が利益を奪っているという話になって、その外国との対立を煽って国民の目をそちらに向けさせ、政治家や官僚の経済的な失策をごまかすというか、本当に経済的な失策で景気が悪くなったのかどうかも、はっきりしない面もあり、たぶんよくわからないまま戦争に突入して、破壊行為によって財産や人命を失って、全てがリセットしてそのままうやむやになってしまった歴史的経緯があるわけだが、デモ行進をしている若者達が危惧しているように、今後またそういうことが繰り返されるとすれば、やはり同じように原因がはっきりしないまま、また一から出直しとなるのだろうか。


6月30日「特定の論理に基づいた社会」

 何が具体的な行動に結びつかないとしても、それで何か不具合はないだろうか。言葉を記すのが自由であるはずがなく、周りの環境からもたらされる困難や制限の中で考え、その考えがそのまま言葉の連なりとなるわけでもなく、言語表現自体が思考の不自由を反映しているような文章となるしかない。世の中には美的な感性を超えて、倫理や道徳や功利などの論理が張り巡らされていて、思考の自由を空想するのは簡単だが、周りの人たちや各種団体を利用するには、やはりなんらかの論理に基づく行動や言動の正当性が問われてくる。そこに不自由があり困難や制約がある。そしてさらにそれらの論理に基づいた人間や組織の思惑を超えて、自然からの作用があり、偶然の巡り合わせとしか思えないような成り行きに翻弄されて、場合によっては各種の論理も人々の想像も思いも、自然からの作用の前に打ち砕かれたりするが、その逆に人々の行動や言動がうまく機能して、思惑通りの展開や成り行きになることもあるのだろうか。人はそうなるように策を弄して、行動や言動によって人や組織を操ろうとするのではないか。特にそう意識しなくても、自身が有利になるような環境や人間関係を築きたいわけだ。そしてそのような努力がうまくいく時もあれば、必ずしも思い通りに事が運ばない時もある。多くの場合は思い通りに行くように、関係する方面へ力を及ぼそうとするわけで、便宜供与や贈収賄などによって連携や共犯関係を築き、確実に思い通りに事が運ぶように仕掛ける場合もある。そういう意味では倫理や道徳よりは功利の方が、実利という面で魅力的な論理なのかもしれないが、そういう論理ばかりが世の中にはびこると、社会を構成する様々な制度やシステムが腐敗して有効に機能しなくなるだろうか。倫理的あるいは道徳的な観点からは確かにそうだが、社会の中で特定の支配勢力を築くには、そしてその勢力が思いのままにやりたいことができるようになるには、そうなった方が都合が良かったりするだろうか。だがそういうことをやりすぎると、支配勢力に属していない人々や勢力から不満や批判が噴出して、そのような腐敗体制が崩壊するわけか。もちろん簡単には崩壊しないように圧政を行い、批判勢力を弾圧して武力によって封じ込めようとするわけだが、長続きはしない場合が多いだろうか。やはり民を支配するには、支配される側が納得するような倫理観や道徳観に基づいた法律を制定し、支配する側が率先してその法律を守っているように見せかけないと、そのような支配体制を長続きさせることは難しいだろうか。現状では民が国家を支配しているように見せかける制度として、デモクラシーが世界的に流行っているわけだが、形式としてはそうであっても、依然として特定の支配勢力が社会に影響を及ぼして民を制御しながら、自分たちの利益を確保しようとする傾向にあるわけか。

 しかし支配勢力が確保しようとする利益とはなんなのだろうか。企業が確保しようとする利益と同じようなものだろうか。というか企業の利益が確保されるように、それらの政治的な支配勢力が社会を制御しているわけか。それと同時に民の利益も確保されれば、反発も出てこないはずだが、実際に民の利益が損なわれているから、損なわれているように感じられるから、政府や議会の与党勢力に対する不満が噴出して、そのやっていることに対する反対運動が盛り上がっているわけか。政治的な問題とはそのようなレベルで考えればいいような話だろうか。しかしそうだとしても民の利益が確保されるにはどうしたらいいのか。その問いに対する明確な答えがあるとすれば話は簡単で、政府や議会の与党勢力がそれをやればいいだけのことでしかないわけだが、それがないから、あるいはあるとしても諸般の事情でそれができないから、話がこじれているのではないか。世界的にここ数十年は北欧など一部の国を除いて、揺り籠から墓場までの福祉国家構想が破綻して、自国の産業を守るために企業に対する便宜供与と税率の引き下げ競争をやっているが、果たしてそれがどこまで続けられるのか。そのような行為が破綻せずに、うまい具合いにほどほどのところで安定して、企業活動と民の暮らしがうまく調和すればしめたものだろうが、それを推し進めるにつれて普通の人々が貧困化して、その生活が立ち行かなくなれば、やはり現行の制度やシステムではうまくいかないことが証明されるだろう。そして実際にそうなってからでないと社会の変革は実行に移されず、今のところはどう変革したらいいのかも、よくわかっていない状況なのではないか。ではこのまま答えが見つからなければどうなってしまうのだろうか。企業活動が衰退してそこから糧を得ていた国家も衰退して、諦念にとらわれて政治活動も下火となり、国家を司る官僚機構も解体されてゆくだろうか。それが自然の成り行きならそうなるかもしれないが、もちろん人々はそういう成り行きに逆らって、これまで通りの社会構造を維持しようとするだろうか。とりあえず生きるために衣食住に関係する物を生産しようとするだろうし、その材料となる資源があればそれを活用して、それを生産し流通し交換し消費しようとするのではないか。そのような物質のサイクルを維持する限り人間は生きていけるだろう。そしてそのような過程の中で人々は相変わらず働いているだろうか。


6月29日「国家と資本の揚棄」

 政治的な変革で世の中の構造が根本的に変わるわけではない。事実ロシア革命でも国家の構造は変わらず、政府による国家統治の形態はそのままだった。世界では様々な国家の興亡が文明の発祥から数千年間続いてきたと考えていいのだろうか。通常の世界史的な歴史認識からすればその通りなのだろう。きっとこれからもそれが世の中の支配的な歴史認識であり続けるだろうが、現状で何かそれとは違う兆候を見出せるだろうか。とりあえず前世紀の二度の世界大戦以来、戦争による他国への侵略行為は非難されている。最近でもイスラム国による近隣地域への侵略行為や、ロシアによるクリミア半島の併合やウクライナ東部への軍事介入などが、それに当たるだろうが、戦争ではないにせよ、中国による南沙諸島の占拠もそれに類する行為として、周辺諸国から非難されているわけだ。現実に世界のほとんどの国が軍隊を保持しているのだから、いつ何かのきっかけでそれらの軍隊同士が戦闘を開始するやもしれず、世界的な資本主義の行き詰まりによって、近い将来第三次世界大戦が起こることを予言する人もいる。文明が行き詰まればそれを破壊して一から出直さない限りは、また新たに繁栄の礎を築くことはできないだろうか。それを行わせないための歯止めとなるのが、人々の平和への願いになるのかどうか、現状ではなんとも言えないところかもしれないが、軍隊が外国との戦争を想定して組織されていることは確かだが、一方で軍隊の銃口は国内にも向けられているわけで、治安の維持を目的として暴動などを鎮圧するために、その武力が使われる光景も世界各地でしばしば目にされる。それが何を意味するかといえば、国家が外国に対して国家であることを認めさせるのにも、国内の人々に対して法律を守らせ税金を支払わせるのにも、武力による裏付けが必要だということだろうか。常識的に考えればその通りかもしれないが、知っている範囲内ではアイスランドとコスタリカが軍隊を保持しておらず、日本も実質的には自衛隊という軍隊を保持しているものの、憲法では武力の使用を放棄しているわけだ。アイスランドやコスタリカは人口がそれほど多くはないのだろうし、地理的位置も資源的にも外国から侵略される心配がないから、軍隊は不要なのかもしれず、国内の治安も警察だけで十分だと見なされているのかもしれないが、日本の場合はどうなのか。自国の軍隊だけでなくアメリカ軍も駐屯していて、中国や韓国やロシアと国境問題を抱えていて、軍国主義国家の北朝鮮からも近いから、建前上は武力の放棄を宣言しているが、実際問題として自衛隊をなくすわけにはいかないだろうか。それでも外交努力によって周辺諸国との関係を良好に保っていけば、いつかは軍隊をなくすような契機を得ることができるだろうか。

 それとも世界的に国家統治の形態が根本的に変わらない限りは、真の意味での武力の放棄は到底不可能だろうか。国家統治の根本的な変革は何も武力の放棄だけではなく、徴税などそこに暮らす人々からの収奪を目的とした制度もなくさなければならないだろうか。しかし民からの徴税をなくせば国家統治ができなくなってしまうのではないか。行政司法立法の全てを民間委託すれば、国家がいらなくなるのかもしれないが、現状ではありえない話だ。また徴税とともに人々から収奪する制度としてあるのは、企業による雇用がそうで、人々は賃金と引き換えにして自由を奪われた労働を強いられ、しかも得られた賃金で企業が生産した物や情報を、企業の利益が出る値段で買い取らなければならず、企業に資金を投資した人々が儲かる分だけ、また企業の中でも経営者が儲かる分だけ、賃金労働者が収奪される構造になっている、と言われているわけだが、実際に貧富の格差が広がり、末端の労働者たちが貧困に喘ぐようになれば、それが証明されたことになるのだろうか。これに関しては、儲けの出ない物や情報の生産流通交換消費システムを構築すれば、解決するだろうと言われているわけで、これも現状では実現不可能なありえない話だろうか。だがここまで述べてきてわかるのは、貧困や戦争などで今世界的に問題となっている世の中の構造を変革するには、根本的に国家と資本を揚棄すること以外にはありえないということだ。もちろんあからさまにそんなことを主張しても、どこからも誰からも相手にされないだろう。現実に国家があり資本主義世界市場があるわけだから、しかも世の全ての人がそのどちらにも携わっていて、それなしには世の中が回っていかないわけだから、今すぐにそれらを捨て去ることなどできるわけがなく、現実問題としてもそれらを活用しつつ、それらがより平和的に、そして人々の自由と平等ができるだけ保たれる範囲内で、それらにまつわる制度やシステムを改善してくしかないわけで、実際に世界各国の政治家たちも、そのような方向で努力するのが建前となっているわけだ。もちろんそのような努力とともに、自国の権益や自国民や自国の企業の利益の確保を最優先させているわけだが、そのような自国の利益を優先させる政策が、国家間の対立をもたらし、その結果として戦争になり、自国も戦争の相手国も多大な人的あるいは経済的損害を被るとすれば、しかもそれが世界全体を破滅に導くような世界大戦へと発展すれば、それが国家と資本の揚棄への契機となるのだろうか。


6月28日「解決不可能な問題」

 ある日突然何かが起こるのを期待しているわけではないが、これから何が起こる可能性があるのだろうか。普通に考えれば天変地異か戦争あたりが起こりそうな出来事だろうか。大げさなことならそんな出来事でしかない。実際に世界各地でそれらが起こっているのではないか。日本でも数年前に地震と原発事故で多大な被害が出たはずだ。ただそういうことが起こった後でも、人々は平然と暮らしている。原発事故に伴う放射能汚染で大勢の人が死ぬと言われているのに、なんとなく普通に生活している。たぶん戦争になっても人が大勢死んでもそれは変わらないだろう。変わるとすればそれは人口が減ったり増えたりするぐらいか。大量に死んだ後に、ベビーブームのリバンドで一気に増えたりするのだろうか。だが数年前の地震と原発事故の後は、大量に死んだにもかかわらず増えていないはずだ。まだ死亡者数が足りないということか。毎年の自殺者数の方が多いのではないか。ならば日本は今まさに国としては衰退しつつあるのだろうか。たとえ人口が減っても、それで住んでいる人々が暮らしやすくなれば構わないのではないか。本当に暮らしやすくなる兆候があるなら、それはいいことかもしれないが、現状ではなんとも言えず、多くの人がよくなるどころか悪い方に向かっていると思っているのかもしれない。だがそれでも人は普通に生きている。悪ければ悪いなりに暮らしていくのだろう。無論暮らしていけなくなる人も出てくる。人が生きたり死んだりするのはそういう成り行きなのではないか。それとは異なる成り行きもあるかもしれず、ふとしたきっかけで思いがけない事件に巻き込まれて、考えられなかったような結末に遭遇すれば感動してしまうだろうか。そこで人は何を夢見ているのか。何を夢想していようと決して思い通りにはならない。それでもたまには思い通りになることもあるのだろうか。そういう成り行きになってみなければわからないことか。そして何も起こらなければ、思い通りにはいかないことを痛感させられるだろう。なぜ人は何が起ころうとなんとも思わないのか。そう見えるだけで本当は何かしら適当に思っているのではないか。案外心の内ではいつも不満たらたらだろうか。思い通りにいかなければそうなるだろう。それはそれで構わないはずだ。不満があれば心の内にしまいこんでいないで、表に出した方がいい。政治に不満があるならその対象を批判すればいいわけだ。おかしいと思うことがあれば抗議すればいいし、抗議しなければ何も変わらない。抗議しても変わらないかもしれないが、しないよりはした方がマシだろう。一般の人たちの政治参加とはそういうところから始まるわけで、それ以外には政治参加などあり得ないだろうか。

 もちろん政治に無関心であっても構わない。それは当人の自由だろう。文句を言わずに淡々と生きればいいだけだ。大衆市民社会の中ではどのような態度でいても構わない。必ずしも同じ思いをみんなで共有してなくても、それぞれが一定の収入さえあればそれなりに暮らしていけるはずだ。しかしその収入の源泉がどこから湧いて出るのだろう。それが謎だろうか。世の中のどこかに仕事があって、その仕事にありつくと収入が得られる。その程度の認識で構わないだろうか。就業者数の割合では、物の製造や生産に従事する人の数よりも、非製造業のサービス業などに従事する人の数の方が圧倒的に多く、それらの人たちは直接生きる糧となる衣食住を生産せずに、それらを消費しているだけの人たちなのであって、その代わりに何か別の仕事をしていて、そちらの方がより多くの利益を生み出していたりする場合もあるわけだ。たぶんそのサービス業というのが、人々が互いに連携し協力することによって作り出す文化とか文明とかに関係する何かを作り出している産業なのだろう。もちろん衣食住の生産も同じく文化や文明に関係しているのだろうが、そのものではなくそれらを見栄え良く飾り立てることを生業とするような、要するに商品をより魅力的に見せるための工夫を凝らすのが仕事となっているのかもしれず、もちろんそれらの商品には金融商品とか保険商品とか広告宣伝商品とか、言葉巧みに勧誘して売りつける類いの商品もあって、それらは人が普通に生きていく上では本来不要なものなのかもしれないが、しかもそういうあってもなくても構わない贅沢なものほど、売れればより多くの利益を得られるわけで、そこに人間の文化や文明の不条理があり、それらの贅沢品を買うために惜しげも無く大金を使う人たちがいる一方で、安い生活必需品が買えずに餓死する人たちがいるのが、人々を魅惑してやまない資本主義の本質であり、根本的な矛盾なのだろうが、その矛盾を利用することで利益を上げ、その利益を糧にして多くの非製造業に携わる人たちが養われているわけで、たぶんこれは解決不可能な問題なのかもしれず、解決できないのだから問題でさえない文明の構造なのかもしれない。


6月27日「新たな時代へ」

 この世界は誰の思惑通りにも回っていないはずだが、やはりそこに人の意識や意志を想定してしまいがちになるのは、人がそう考えているからであって、古来から人格神の存在を信じてしまうのと似たような作用なのではないか。そういう意味で世界の影の支配者や勢力は、人の思考作用から導き出された偶像みたいなものだろうし、しばしば神とは正反対の悪魔として、人々の不安を煽る対象となるのかもしれず、よく言われるユダヤ金融資本などは、貪欲な金儲け至上主義者として嫌悪感を抱かせるように性格設定がなされているわけだ。もちろん特定の誰がそんな設定を施したわけでもなく、そのような民族の存在が人々の間で知れ渡るにつれて、金貸し業を営んでいることから悪役のイメージが定着したのだろうし、実際に国を持たない流浪の民が成功を収めるには、都市に住んで国から国へと渡り歩いて商売するしかなく、それに適した商売として、一族で金貸し金融業に従事する場合があり、民族全体から見ればほんの一握りに過ぎないだろうが、ユダヤ人の金持ちといえば銀行家というイメージなのだろう。実際に銀行業では国家相手に金を貸す場合もあり、日本も日露戦争の時には多額の金を借りたそうだし、他にも石油やダイヤモンドなどの資源関連の産業でもユダヤ資本が絡んでいる場合があり、巨大産業資本には必ずユダヤ系資本との関連が取りざたされていて、まるで世界の資本主義市場経済をユダヤ系資本が支配しているようなイメージが広まっていることは確かなのだが、ここ二百年の間に資本主義的な覇権国がオランダからイギリスを経てアメリカへと移り、さらにこの次にアジアの中国やインドへと覇権国の座が移っていくと、ユダヤ系資本の影響力も低下していくのかもしれず、ユダヤ金融資本による世界支配のイメージもだいぶ薄らいでいくだろうか。もちろん今後そうなればの話で、まだアメリカが経済的にも軍事的にも世界の超大国として君臨しているというのが、世界の共通認識なのだろうから、そうである限りにおいて、各業界の最大手の巨大企業などをユダヤ金融資本が傘下に従えている、という印象が根強く世の中に広まっている状況は変わらず、そこからユダヤ金融資本による世界支配を唱える人たちも少なからず出てくるわけだが、本当に各種産業にまたがっている複数のユダヤ資本が、全体として一枚岩でまとまっていると考えていいものなのか。その辺に疑念を抱かざるを得ず、それに銀行業を含む各業界には、ユダヤ系以外の巨大資本もいくつもありそうで、必ずしも巨大産業資本を一つの民族で括れるものでもないのではないか。

 それは国家と民族を結びつける悪しき風習の延長上にある思考なのかもしれず、国家と民族と資本を一つに結びつける上で、世界経済の中で一定の勢力を維持しているユダヤの名を冠した資本の存在が邪魔なのかもしれず、陰謀論者はそれらを悪者扱いすることで、それと意識せずに自分が所属する国家や民族に媚を売っているわけで、そういう意味では陰謀論者も国家主義者の亜流なのかもしれず、必ずしも考えが一致しないにしても、国家や民族に囚われた思考の持ち主であることは確かなようで、別に保守主義者と比べて斬新な思考を持ち合わせているわけではない。国家や民族の変化や流動性を考慮せず、国家が民族からはみ出ていて、民族も国家からはみ出ている事実を見落としていて、国家が別の国家に変わり得ることも、民族も別の民族に変わり得ることも考慮されておらず、資本もユダヤ民族の手に永遠にとどまれるわけがなく、企業の創業者一族が経営から排除される例もあるわけで、その辺の国家や民族や資本の栄枯盛衰を考慮すれば、何か特定の勢力が世界を永久に支配し続けるなど不可能であることに気づくはずだ。だから特定の勢力を絶対悪として敵視していると、考慮に入れてないところで足元をすくわれるのであり、その代表的な例としては、ユダヤ金融資本を悪者扱いしながら、ドイツ民族の団結を呼び掛けたヒトラーと国家社会主義運動があるわけで、大衆市民社会ではそういう安易に対立を煽るやり方は受け入れやすく、日本でも今まさに大衆の批判をかわすために、隣国の中国や韓国を憎しみの対象へと仕立て上げて、それらの国に対抗するために国民の団結を呼び掛けている人たちもいるわけで、また現政権を批判する側は政権与党の政治家や官僚たちを、アメリカやネオコンを支配するユダヤ金融資本の手先として憎悪の対象に見立て、政府のやり方に反対する運動に利用している向きもあるわけだ。在日米軍やTPPなどに関するアメリカの意向を反映した政府のやり方では、多くの人が不利益を被ると考えているわけだから、しかも実際に政府のやり方が拙劣でしかも強引に感じられ、それと原発事故の後始末もうまくいっていないのに再稼動を推し進める姿勢も、またテレビや新聞などの主要メディアが、政府に協力的な姿勢を示しているのも反感を呼んでいるわけで、反対運動が盛り上がるのも無理はないわけだが、彼らが思わぬところから足元をすくわれるとしたら、それはどの方面からなのか。今反対運動に賛意を示しその中心に祭り上げられ、スター扱いされている人たちが、果たしてかつてのヒトラーやムッソリーニのように、体制を掌握することができるだろうか。彼らがヒトラーやムッソリーニと違うのは、軍隊とは無縁だということだろうか。無縁どころか全く正反対の平和主義なのだから、その辺が昔とは全く違う状況なのだろう。そういう意味ではかつての繰り返しとはならないだろうが、たぶん対立から憎しみを排除していかないと、将来に禍根を残すだろうし、それを笑いやユーモアに転化していけば、なんとか理性的な建前を堅持できるのではないか。そしてそれらの運動がかつての全共闘的な暴力とは無縁でいられたら、たとえヒトラーやムッソリーニのように体制を掌握できなくても、将来に向けての世の中の肯定的な変化に貢献できるのではないか。具体的には国家と民族と資本の形骸化に貢献するのかもしれない。


6月26日「国粋主義者の使用法」

 そこにはその場に集まった人々の意識が共鳴する増幅器のような何かがあるらしく、それが形成するその場の雰囲気に呑まれてしまうと、うっかり本音を漏らしてしまうようだ。仲間内の会合で気が緩んだわけでもないだろうが、似たような思考の持ち主同士が語らう気軽さから、不用意な失言が出てしまう人の品性が問われているわけでもなく、無論それが本音なのだから失言だとも思わずに、後から批判されて渋々謝罪したり、発言を撤回したりする成り行きになるわけだが、そのような発言から想像される思考が形成されるメカニズムとはいかなるものだろうか。自分たちの気に入らない勢力に対する嘲笑的なレッテル貼りが、そのままレッテルを貼る自身の意識に反響して強まり、さらに相手に対する否定的な思いが増幅して、その対象を仲間内で口汚く罵ったり小馬鹿にしたりして、そうすることが常態化すると、そう語るのが当たり前のように感じられ、当人たちにしてみればとりたてて誇張した表現を使ったわけではなく、普段通りに語っただけなのに、なぜそれほどまでに発言が問題視されるのか理解できないのかもしれず、またどうせ反日の左翼勢力が大げさに騒ぎ立てているだけだろうという思いが強く、逆に批判にさらされている自分たちが被害者であるような感情がにじみ出てくるのかもしれない。たぶん今後そうなってしまった人たちが心変わりすることはないだろうし、批判にさらされ続ければ、それに対する復讐心を募らせるだけで、ますます攻撃的な感情の虜となり、鬱積した鬱憤を晴らすべく、仲間内で敵対する勢力や人物に対する誹謗中傷を繰り返すだろう。そしてまた巡り合わせとタイミングが悪ければ、そんな発言が内輪から漏れ出てくる。もちろんそれが隠されているわけではなく、現にネット上ではそういうことが公然と書き込まれ、映像として出回っているわけで、それを真に受けた人たちはそれが普通でそれでもかまわないのだと思い、そこでは品性など問われるわけもなく、口汚い罵倒や嘲笑を楽しむことが日常茶飯事となっていて、そんな否定的な感情や言葉が独り歩きしながら、広く社会全体に拡散していて、現にあるような心から知性を排除した人々の天下となっているのだろうか。それが許されている状況にあるのかもしれず、許しているのは他ならぬマスメディアとそれに追従する一般大衆であるわけか。そういう解釈が一般的なのかもしれないが、それ以外にどんな解釈が可能なのだろうか。やはりそういう状況を否定的に捉えるのではなく、肯定してみないとわからない面もあるだろうか。果たして彼らの言動や思考形態をどうとらえれば肯定できるだろうか。無理に肯定する必要はないだろうが、その存在にもそれなりの必然性があるだろうか。

 彼らは身も心も国家に依存していて、国家こそが全てのよりどころであり、他国に負けないように国を発展させることこそが、人々を幸せに導く唯一の方法であると考えていて、それを行う上で現政権に批判的な勢力や人物が邪魔であることは、彼らの共通認識なのだろうし、そのような勢力を叩き潰して、中国に操られた反日的な危険人物を排除することによってこそ、国家の発展と国民の幸福を実現できると思っているのではないか。本気でそう思っているかどうかは定かでないが、彼らの主張を真に受けるとすると、そんなイデオロギーが導き出されてくる。それの何が間違っているわけでもないとみなせば、そのような思考を生み出す背景に国家があることは言うまでもないが、それは自分たちが所属している国があると同時に、自分たちの味方の国と敵の国があるということだ。要するに味方の国と連携して敵国をやっつけなければならず、現に今まさに敵国が我が国に侵略する機会をうかがっていて、彼らにしてみればその敵国が中国であり韓国であるわけだが、果たして彼らが味方とみなしているアメリカが本当の味方なのか。その辺で彼らの認識に微妙なぶれがあり、必ずしも彼はアメリカを積極的に同盟国とみなしているわけではなく、在日アメリカ軍によって首根っこをつかまれているので渋々従っているにすぎず、アメリカに対する同盟と服従という両義的な意味合いがあることは確かで、暗黙のうちに太平洋戦争に負けたことに対する復讐心がアメリカに向けられていて、その辺はアメリカ側も重々承知しているはずで、現政権が西洋的な価値観である民主主義を軽んじていることもわかっているはずだ。だから彼らはアメリカから真の意味では信用されていないわけで、どうせアメリカが覇権国の座から滑り落ちて、対外的な影響力が落ちてきた頃を見計らって、西洋的な民主主義の制度を排除して、天皇制を中心とする全体主義国家の成立を目標としていることも、その実現性の有無とは別にわかりすぎるくらいにわかっているのではないか。要するに魂胆が見透かされているわけだが、そのような姿勢に危機感を募らせているわけではなさそうで、荒唐無稽で実現不可能な野望という程度の認識なのだろう。そこに日米間で認識の落差があるわけで、日本国内でも官僚と政権与党の政治家との間で認識のズレがあり、誇大妄想を抱いている政治家とその取り巻きが、アメリカ側からも国内の官僚からも馬鹿にされている状況があるのではないか。だから彼らの品性を欠いた妄言や暴言などが外部に漏れでてくるわけで、そうやって彼らの大人げない暴走を適度に抑止しつつも、使えるうちは使い、利用できるうちは利用する魂胆なのではないか。


6月25日「偽りの競争社会」

 国家と資本の関係において何が問題なのだろうか。何も問題ではないのではないか。何を問題としているのでもなく、何が問題となっているのでもない。では何が問題となっているのだろうか。人々の間に貧富の格差があることだろうか。職種によってあるいは同じ職場でも立場や役職の違いによって、さらに個人の能力差によって、また勤続年数にもよって賃金格差が生じるから、やはりそこから貧富の格差が生じるわけで、人より多く金を稼ぐ人たちは、それだけリスクも背負っていたりして、一概に貧乏人が善で金持ちが悪であるとは言えず、生まれながらに大金持ちであるとしても、何代か前の人が苦労しで財を築いている場合もあり、結局資本主義市場経済の中で人が暮らしていれば、貧富の格差が生じるのは必然であり、それはどうしようもないことなのではないか。そして所得や資産に累進的に課税して、低所得者に対する福祉として再配分しても、税率の世界的な統一基準がなければ、税の軽い国に金持ちが増えていって、金持ちを優遇する国に富も資本も集まって、結局世界的に貧富の格差が生じてしまうだろう。税率の世界統一基準を作るには、世界を統一するような方向で各国が協力しなければならず、各国民の心に巣食うナショナリズムがそれを阻むだろう。現状ではまだ国同士で経済競争をしている感覚が主流で、その国家間競争が軍拡競争やまかり間違えば戦争を引き起こしかねないのだから、国家そのものが他国に勝てる産業やそれを担う企業を、さらにそこで働く有能な人材を必要としていて、企業は企業で国際競争に勝てる態勢を整えたいのであって、使い物にならない無能な人間は不要であり、そこで能力の劣る人たちはふるい落とされて、まともに就職すらできずに、派遣労働などの低賃金の非正規雇用で働くしかなくなるわけだ。それの何が問題なのだろうか。そんなやり方を推し進めるほど経済格差が広がるばかりだが、そのような競争社会を肯定しているのだから、そこから問題は生じないだろう。何の問題もないのだからそれをやらせておけばいいのではないか。そしてもちろん誰もが国家間競争や経済競争を信じなければならない理由などなく、信じない人たちはそんな価値観から外れて、それとは違うことをやればいい。国家など糞食らえでもかまわないし、企業など金儲けなどどうでもいいと思っていればいいわけだ。だがいくら無視しても、国家と資本の魔の手から逃れられるわけでもなく、逃れられないなら適当にできる範囲内で、国家とも企業とも付き合っていればいいだろう。たぶんやり方は人それぞれで異なるのだ。各人が不毛な競争を回避する方法を模索していくしかないのではないか。

 国家も企業も競争に勝てる有能な人材が欲しいわけなのだから、そこからあぶれた人間たちは競争から外れて生きてゆくしかない。要するに国家でも企業でも使えない人材になることが肝心なのではないか。職にあぶれた若者を軍隊で使うとかいう話もないことはないようだが、軍隊だって無能な人間ばかりでは戦争に勝てないのであって、過酷な訓練に耐えられる有能な職業軍人が必要とされているわけだから、国家に利用されないためには積極的に無能人間になる必要があるわけだ。とにかくどこでも使い物にならなければ、競争社会では生きて行けないわけで、世の中がそんな人間ばかりになってしまっては、国家自体が存亡の危機に立たされるかもしれないが、そこに暮らす人間にとってはそんなのは知ったことではないはずか。もちろんそんなのはありえないことで、そこに何らかの競争があれば、多くの人たちがそこへ誘い込まれる魅力があるから、競争が発生するのであって、競争に勝とうと思えば、その目的に応じたスキルをマスターして、そこで勝ち抜けるような有能な人間になろうとするわけで、人はその闘争本能によって他の人間と競い合う宿命なのかもしれない。でも世の中がそうではなくなってしまったらどうなるだろうか。現状でそんな競争を煽っている人たちの主張が魅力的に思われるだろうか。右翼の評論家もどきが韓国や中国に勝つために国民の団結を求めているようだが、果たしてその他国の脅威を煽って危機感を募らせようとする主張に魅力を感じる人がどれほどいるだろうか。あるいは産業の競争力を高めるために派遣法の改正を目論んでいる新自由主義者たちの主張に、どれほどの説得力があるのだろうか。そしてそれらの人たちが国家の最高責任者と仰いでいる総理大臣の演説に心打たれることがあるだろうか。また株やFX取引などの必勝法を伝授しようと著書を売り込む人たちが、果たして本当の極意を開陳してくれると思われるだろうか。また就職活動に成功して大手企業に就職の内定をもらうような人たちに、あるいは上級国家公務員試験や公認会計士の資格に合格するような人たちに、はたしてどんな未来が待ち受けているだろうか。実際にそんな人たちはほんのごく一握りの少数派で、ほとんどの人たちはそんなメディアがもてはやすような人たちとは全く無関係に生きているのではないか。本当はほとんどの人たちは、どちらかといえば国家でも企業でも使えない無能な人材なのではないか。国家や資本が振りまく夢やイデオロギーから外れてしまった人たちが、世の中の大半を占めているとすれば、国や企業などが推し進めようとしている競争社会など、すでに意味をなさないのではないか。だから大半の人たちは自分たちが使えない人材であることを積極的に自覚しつつ、国や企業の意向に逆らっても構わないのではないか。そしてそれは日本だけがそうなのではなく、世界中がすでにそうなのではないか。


6月24日「戦争の原因」

 世界が複数の国家によって各国の領土で分割されている限り、国家同士は暗黙のうちに戦争状態となっているわけだが、その状態から世界を統一して戦争を終わらせるには、やはり戦争によって他国を征服すること以外にはあり得ないだろうか。現状では必ずしもそうはなっていない。国家同士の関係は戦争以外に貿易があり、戦争にも貿易にも企業が絡んでいて、貿易や企業活動によって国家同士が結びついていれば、戦争になりにくくなるのかもしれない。では戦争が起こる可能性はどこから生じるのだろうか。異なる民族や宗教や宗派同士の争いが戦争のきっかけや大義名分になるが、それは資源や権益の奪い合いや、政治的な権力争いなどとして表面化するわけで、本質的には利益の争奪戦が戦争に発展するのかもしれない。そしてそれは戦争に発展しなくても、社会の隅々で起こっていることであり、例えば沖縄県民は米軍基地の集中によって、自分たちの利益が損なわれていると感じるから、日本政府と敵対しているわけで、武装して戦っているわけではないが、広い意味で本土政府と戦争状態とみなしていいのかもしれない。また日本政府の右傾化政策によって、徴兵制などが採用されたら、若者たちの自由が奪われ利益が損なわれると感じるから、解釈改憲による自衛隊の活動範囲を広める法案に、多くの若者たちがデモ行進や集会などを開いて、反対の声を上げているわけだ。また派遣法の改正によって、非正規雇用の低所得者たちに不利になるような法律が施行されると、それによって不利益を被る人たちの政府に対する不満が高まるだろう。そんなわけでたとえ戦争にならなくても、特定の地域や世代や階層などの利益が損なわれるようなことをやると、国内の政情が不安定となるわけで、社会の中で問題となる争いとは、ある特定の集団の不利益が表面化することに起因するのではないか。そしてそれが長い間放置されたり、不利益によって経済格差が広がったりすると、場合によっては暴動や革命や内戦に発展したり、他国がそれに乗じて介入してきたりすると戦争に発展するのではないか。逆にそのような政情不安を招くような事態を防げば、戦争に発展する可能性がそれだけ低くなると言えるのではないか。もちろんそれは自国だけでどうにかなるような問題ではない場合もあり、現に今世界各地で起こっている紛争のように、これまでの歴史的経緯から問題が生じていて、そこにまた新たな問題も生じて、事態がこじれてしまって解決が不可能と感じられるような紛争もあり、さらにそこへ周辺諸国や超大国なども介入していて、どうにもならないような事態となっているわけだが、もしかしたらそのような紛争が慢性化している地域を除いては、それなりに軍事力がある特定の国が、取り返しがつかないほど経済的な窮地に陥らない限りは、戦争になる可能背は低いのではないか。

 そうならないためには、国際的に貿易を拡大して、国同士の経済的な結びつきを強め、特定の国を孤立させないようすることが重要かもしれず、アメリカが推進するTPPや中国がやろうとしているアジアインフラ投資銀行なども、建前としてはそのような趣旨なのだろうが、それらに反対する勢力からはそれぞれにアメリカの企業や中国政府を利するだけで、他の国の利益が損なわれる懸念が出ているわけで、その辺でなかなか国際的な協力関係が築けずにいるわけだ。一番いいのは各国政府が音頭をとるのではなく、国連などが中心となってそのような試みをやればいいわけで、実際にやられていて、それも特定の有力国の利害が絡んできて、うまくいっていない現状がありそうで、その辺で国際協力の難しさがあるわけだが、だからと言ってやらないよりは、うまくいかないなりにもやり続けるしかないわけで、各国の利害を一致させるような試みがこの先も続けられるだろうし、少なくともそのような試みが続けられているうちは、全世界を巻き込むような世界大戦は起こらないだろうか。ともかく強国同士で決定的な対立に至らないことが大きな戦争が起こらないことの必要条件なのかもしれないが、果たして対立が起こるにはどのような原因や理由があり得るだろうか。例えば中国の軍事的な膨張を放置すれば、やがてかつてのナチスドイツや日本帝国のように、外国へ軍事侵攻を開始するかもしれないと懸念する向きもあるが、結果的にそうなったとしても、だからと言って今すぐに周辺諸国が中国と対立して、軍事的な緊張関係を煽るのは得策とは言えず、南沙諸島の占拠などに対しては周辺諸国が抗議しつつ、それに呼応してアメリカあたりが圧力をかけるにしても、とりあえずそれらの国々にしても経済的な結びつきは維持しているわけで、またロシアのクリミア半島の併合やウクライナ東部への軍事介入にしても、欧米諸国が経済制裁に踏み切ってはいるが、中国をはじめとして他の国との経済関係は保たれていて、ロシアを徹底的に追い詰めるような成り行きになっておらず、今のところは中国ロシア両国ともに、周辺諸国と決定的な取り返しのつかない事態になることは避けられているわけで、今後それがどうなるかは不透明だが、少なくとも両国の首脳や政府関係者はともに、今周辺国と全面戦争しても自国の利益になるとは考えていないのではないか。その辺がかつてのナチスドイツや日本帝国とは状況が異なるところで、盛んに日本経済評論家の類いが中国経済の崩壊を煽っていたり、また陰謀論者が欧米を裏から支配していると言われるユダヤ金融資本と、ロシアのプーチンとの対決をまことしやかに語ってみせるのだが、それの真偽はともかく、日本のネット上でそんな話題で盛り上がっているうちは、まだまだ戦争は起こらないような雰囲気を感じる。


6月23日「画期的な見解」

 たぶん馬鹿げていることは確からしい。ありふれたことの中から構造と法則を導き出そうとしているのだろうか。言葉を連ねてこの世界の何を解き明かそうとしているのか。そのままの解釈でもかまわないのではないか。多くの批判者はそこで不当なことが行われているのを告発したいのだろう。だが不当なことを行わないとうまくいかない。もちろん行っている勢力はそれが不当だとは思っていないのかもしれない。やっていることの合法性を問うならば、もちろん不法なことをやってはいけないわけだが、不当だと思われることが不法行為だとしても、やることが可能だと見なせばやろうとするわけか。そして実際にそれをやろうとしているから、これから不当なことが行われようとしていると批判するわけだ。それがありふれた成り行きであり、そこから何を導き出せるとも思えないか。ありふれた批判以外は何も返ってこないのだろうか。何かおかしいのだろうか。別に何もおかしくはなく、極めて当たり前のように事態が進行中だ。それでかまわないのであり、それ以外には何も出てこないだろう。何か画期的な見解などを出そうとしても無駄か。ありふれた成り行きから画期的な見解が出てくるはずがない。たぶんこだわっている場所が違うのではないか。ありふれた見解を出して、多くの人たちの同意を求めようとする姿勢がおかしいわけではなく、誰もがそうやろうとして、誰もがそんな見解を求めているから、その通りの見解が出されるわけでもないのだろうが、別にそこから画期的な見解が出されることなど期待していないわけだから、ありふれた批判でかまわないのだろう。そしてそれを延々と繰り返していればいいわけではないが、繰り返すことしかできない批判が多く、それが紋切り型的な批判となり、興味が失われるわけか。別に興味が失われるわけではなく、多くの人たちが同じような批判を繰り返している状況に安心するのではないか。みんなの気持ちが一つとなって同じ批判を繰り返していると思われる。それの何がいけないわけでもおかしいわけでもないはずだ。その批判が有効に機能して、批判の対象となっている行為を押しとどめることができればいいわけだ。みんなそのつもりで数に物を言わせて批判しているわけだ。そう捉えておけばいいわけか。たぶんそんなありふれた現象なのだろうし、それ以外に何を導き出そうとしても、無理に出そうとすればひねくれた屁理屈になるだけなのではないか。それを超えた何かを導き出そうとしているわけでもないらしい。画期的な見解というのは、そういう水準では妄想であり幻想でしかない。要するにそれ以外の水準で何かを主張しようとしているのではないか。

 しかしそれ以外の水準というのがあるのだろうか。ないのかもしれないしあるのかもしれず、どちらとも言えず、それを実際に導き出してみないことには、なんとも言えないのかもしれない。今のところは何があるわけでもなく、誰もが気づかないことを気づけるわけもなく、それ特有の構造も法則も導き出せずにいるわけだ。それらの現象に単純な構造を当てはめても、何を述べたことにもならないのかもしれないが、その方法が全て無効とも言えず、そういう構造論で納得する人もいるのではないか。人を納得させ信用させるために、単純明快なことを述べて同意を誘う手法はよくあるパターンかもしれない。だがやろうとしていることはそうではない。ただ現状を理解したいだけかもしれず、そして未来への展望を示したいのではないか。相手を罵倒し罵声を浴びせ嘲笑するような成り行きに巻き込まれてしまうと、たぶんそれ以上の進展は期待できないし、相手をやっつけることを目的とする不毛な論争となるだけだ。例えば犬や猫やイルカや鯨を食べている人間に、お前らだって牛や豚や鶏や魚を食べているではないかと言われれば、何か論理的な説明ができるだろうか。人にはそれを食べる習慣があり、食べてうまいものは食べるだろうし、まずいものや毒になるものは食べない。またたとえうまくても、人が人を食べるのはおぞましく思われるから、食べる人は少ないだろうし、その延長でペットとして飼っている動物は情が移っているから、なかなか食べない。またイルカや鯨は知能が発達しているように見なされ、食べるのがかわいそうだから食べたがらない人がいる一方で、捕らえて食べる人たちを非難する人たちが大勢いる。その程度の説明で納得するだろうか。では戦争に関係する法案に反対している人たちの言い分はどうなのか。人を殺すのはよくないから、国家が人を殺す行為に加担するわけにはいかない。そこから戦争を放棄することや死刑を廃止することが求められるわけだが、実際に世界各地で戦争が行われていて、また日本をはじめとして死刑をやめない国がある。戦争と死刑を同列に扱うわけにはいかないのだろうし、とりあえず今は政府が国会に提出している戦争に加担する法案に、多くの人が反対しているわけだが、色々と理屈をつけて法案の正当性を主張する人たちに対して、他国の人殺しに協力するのはよくないから反対するというのでも構わないだろうか。その程度で納得できればそれでも構わないだろう。屁理屈のような理屈に惑わされずに、人殺しはよくないということで、それで同盟国との関係がうまくいくならいいが、たとえうまくいかなくなっても、それを承知する覚悟があるならそれでも構わないだろう。そしてその程度のことに何か画期的な見解が必要であるはずもない。


6月22日「行動へと導かれる人々」

 起こる出来事は違うが構造は過去と似ている。それは何を意味するのだろうか。そこから何かを導き出さなければならないわけか。何かとはなんだろう。それは現状の説明でありそれについての考察だろうか。それが偶然の巡り合わせであろうと、そうなるのが必然的な成り行きであろうと、ともかくそうなっている現状があり、それ以外の可能性があったにもかかわらず、現状ではそうなっているわけだ。それをどう捉えたらいいのか。現状をありのままに捉えたらいいわけだ。世界を覆う資本主義市場経済の中でアメリカと中国とインドが主導権争いをしている。そんな認識のどこに真実があるのだろうか。真実ではなく現実を説明すればいいわけだ。しかしそれは個々の国家の問題なのだろうか。国家と資本主義との連携が経済格差を拡大させているのだろうが、果たして語るべきは覇権国を決める国家間競争なのだろうか。なぜかそうだとは思わない。何かの冗談だと思われる。何かとはなんなのだろうか。状況証拠から推測される国家的な陰謀か何かか。果たしてかつての覇権国で今もそう思われているアメリカは、没落へと向かっている最中なのだろうか。しかしアメリカが日本や他のアジア諸国やロシアなどと連携して押さえ込もうとしている中国も、南沙諸島の無人島を埋め立てて滑走路を作っている問題に限ってはその通りかもしれないが、別にそれらの諸国が中国との貿易を止める気配はないし、クリミア半島やウクライナで問題を起こしているロシアのように、今のところは経済制裁をやろうとする気配もないし、南シナ海で軍事的な緊張が高まっていると言われるが、直接の軍事衝突はまだないようだ。要するにアメリカや他の諸国は中国との経済的なつながりを断つことはできないのだろう。では貿易が行われている限りは軍事衝突は起こらないのだろうか。その前に経済制裁が行われるのではないか。ならばそれさえも行われなかったら軍事衝突も起こらないということか。何かのきっかけで突発的な事態があるかもしれないが、第一次世界大戦の時のように、そこから大規模な戦闘へと突入することはないのだろうか。誰も戦争など起こりようがないと思っているところで、思いがけず起こるのが戦争だろうか。とりあえず戦争が起こってみないことには、確かなことは何もわからないだろうし、起こらなければ起こらないに越したことはないのだから、別に穿った見方や見解を面白半分に披露することもないだろうし、すぐにでも戦争が起こると大げさに警鐘を鳴らす必要もないのではないか。しかし人はどうしても過去に起こった戦争と今現在進行中の成り行きを比較して、あれこれと悲観的な予想や予測を語ってしまう傾向にある。

 だが何かを語ろうとすれば、やはり将来の展望として予想や予測を語らざるを得ず、語ろうとする限りはその気がなくても誇張して語ってしまうのであり、それはやむを得ないことだが、そのような方々で語られている言動がメディアを通じて広く拡散すると、それが実際の状況に影響して、本当に恐れていることが起こったりするのだろうか。それも何かが起こってみないことにはなんとも言えないところかもしれないが、そのような危機感を煽る言動自体が、実際の状況から影響を受けてそのような言動が生じているのだから、それが相乗効果となって大惨事をもたらすのか、あるいはそれが歯止めとなって惨事を未然に防ぐ効果があるのか、それもよくわからないところなのだが、ともかく隣国との対立を煽って、国内の経済的な行き詰まりから国民の目を背けようとする意図も感じられ、しかもそんな意図も空回りしているようにも思われ、本当に現状が経済的な行き詰まりなのかも、半信半疑で冗談のようにも思われるのであり、国際情勢も国内情勢もまるで緊迫感のない弛緩しきった状況にあるのではないか。もちろん紛争地帯では毎日のように人が大勢死傷していることは確かで、現地で暮らす人たちにとっては地獄の日々かもしれず、それを思うと冗談で片付けるわけにはいかないのは当然なのだろうが、どうしても危機感を煽る人たちへの疑念が拭えないままになっている。現状で懸念されているのは、人口の多い中国とインドの人たちが、経済が発展して西側先進諸国の人たちのような暮らしを始めると、そこで食料が足りなくなったり資源が枯渇して、世界経済が破綻する危険があるということなのだろうが、でも破綻したらしたで、飢餓や貧困が蔓延して人口が減るだけに過ぎず、多くの人が死んでまたちょうど養える人口になれば、そこから何事もなかったかのように資本主義経済が復活してしまうのかもしれず、たとえ破局的な事態になったとしても、その後がある可能性があり、そのために第三次世界大戦があるのかどうかは知らないが、どうも予定調和的な結末はないのではないか。そういう意味では破局的な結末を恐れる人々が警告している全ての事態が訪れたとしても、それらの人々が警告するような結末から外れた結果がもたらされるのかもしれない。そしてともかく今までは国家と資本が連携して世界的な資本主義市場経済を構成してきたのだから、それを突き崩すには連携を断ち切ればいいわけで、資本の運動が国家の利害を超えて動き出してしまえば、遠からず国家は形骸化せざるを得ないのかもしれず、政治的な権力基盤もなし崩し的に無効化作用を被るのではないか。もっともそこまで事態が進まずに、途中からなんらかの歯止めがかかって、適当なところで均衡を保つような成り行きになるのだとしたら、これからも国家と資本の働きによって、全世界的に資本主義市場経済が保たれるのだろうか。やはりその辺の展望がはっきりせず、結局人々が意志の力で団結して世界に変革をもたらさなければならないのか、それとも特に行動を起こさなくても変革の時を迎えられるのか、その辺も実際に行動を起こしている人たちがいるわけだから、たぶんそれらの人たちは行動を起こざるを得ないような状況に追い込まれているのであって、そこに何らかの導きの力が作用しているのだろう。


6月21日「理性や感情を超えた動作」

 確かに現状を打開する方法はない。というか多くの人を説得して、納得させるだけの方法がないと言った方が正確だろうか。そもそも社会全体としては打開する必要がないのかもしれず、それは個人や企業などの各種団体が、それぞれが直面している問題に、個々に関係する人や団体が連携して対処することでしかなく、現にそうやって対処しているわけだ。そしてその中には国や地方自治体などの行政機関が、それらの個人や団体の手助けをしなければならないことが含まれるのだろうか。税金を徴収してまた国債などを発行して資金を調達しているわけだから、それを使って個人や団体などを助けるのが、それらの行政機関の仕事となっているはずだが、実際に行っている仕事がうまく社会の中で機能していないわけか。メディア上で取りざたされている問題が、うまくいっていないことを明かしているのだろうか。それに関しては様々な意見があり、行政の対応が色々と批判されているのだろうが、根本的なところでどのように対応すればいいのか、それがよくわらないというのが率直な認識だろうか。そして抜本的な改革などできないわけで、現状を根本的に変革する理由が見当たらない。それどころか現状をより過去へと後退させようとする思惑まで見え隠れしていて、そのような勢力が政権内で暗躍している始末か。そんなことが政権を批判するメディア上では取りざたされているわけだが、本当のところはよくわからない。それに関しては同性婚や夫婦別姓を認めたり、死刑制度を廃止したりすれば、現状より進歩的な体裁を保てるだろうが、政権を支持する人々の間でそれらに対する抵抗が根強くあり、また数年前に未曾有の原発事故を起こし、その事故処理にめどすら立っていないのだから、原発を廃止すればいいのに、むしろ原発を積極的に活用しようとしているわけで、さらに在日米軍基地が沖縄に集中しすぎていて、それを緩和するどころか逆に新たに米軍のための滑走路を建設しようとして、地元の住民たちの激しい反発を招いているのに、強引に反対派を排除しながら工事を続行しているわけで、結局至る所で人々の反感を買うようなことをやっているわけで、なぜそういうことをやっているのか、それに関して多くの人を説得して、納得させるだけの説明ができないわけだ。しかもそれどころか、逆にそれらに反発したり反対したりしている人々を、国の方針に逆らう反日勢力などと罵倒する勢力までいて、国民の間で対立が深刻化しているように感じられるわけだが、さらにそれに輪をかけるように、派遣法を改正して、非正規労働者たちの利益を損なうような法改正まで進んでいるわけで、これからそれらの人々の反発もさらに増していくのかもしれず、どうもそれらのやり方がスマートでないことは確かなのだが、果たしてそのようなごり押しをすることで、現状を打開できるのだろうか。そして打開しようとしている現状が、果たして打開するだけの理由がある現状なのだろうか。

 たぶん彼らにとっては、ごり押ししてでもやらなければならない理由があるのかもしれないが、どうもその理由がなかなかうまく伝わってこないのかもしれず、彼らの説明にも多くの人が納得しないから、実際に反発が強まっているわけだが、その反発の反映として、国会周辺をはじめ各地でデモ活動や集会も頻繁に起こっているわけだが、政府と癒着しているマスメディアはそれをなかなか伝えようとせず、それらのマスメディアも人々から不信感を買っているようで、ネット上では政府と共にそれらのマスメディアに対する反発も強まっているのではないか。とにかくそれらをごり押しして現状を打開したい勢力が、実際にごり押しがうまくいって、彼らの思い通りに事が運んだ後になってみないと、本当の理由などわからないのかもしれないが、実際にごり押しがうまくいかなかったり、うまくいったとしても現状を打開できなかったり、さらに現状が悪化した場合、では彼らはなんでそんなに強引に焦って事を進めようとしていたのか、謎のままとなってしまうのかもしれない。もしかしたら彼らにもはっきりした理由など持ち合わせていないのかもしれず、ただ関係する人々や各種支持団体や、それらから影響を受けて信じるようになった政治信条に基づいて行動していたら、現にあるような状況となってしまったのかもしれず、彼らのとっても現状は予想外の事態なのかもしれないが、しかもさらにそれをごり押ししなければならない成り行きになっているわけで、もはやそうやっていくところまで行って決着をつける気になっていて、そのために必死で活動している最中なのだろうか。実際にもう後戻りはできないような雰囲気を感じるわけで、そんな状況の推移の中で、それに関わる多くの人々がもがき苦しんでいるのだろう。なぜそうなるのかといえば、そこにいる全ての人々は歴史的な存在であって、これまでの歴史の成り行きを反映した存在であって、それがどういう歴史であったかといえば、戦争や強制的な労働によって不自由と理不尽な扱いを受けてきた危険と苦痛を伴う歴史であり、それは今も続いていて、全ての人がそれらの圧迫や強制によって不快な思いをするたびに自由を望み、国家権力や資本による束縛や強制を嫌い、楽しく愉快に生きてゆくことを望んでいるわけで、そのような思いや望みに反するように思われる行為には、当然多くの人が反発を覚えるのであり、いくらメディアを通じて洗脳しようと、過去のファシズム時代に同じような洗脳が行われたことを知っているだけに、簡単には騙されないわけで、そういう面では昔よりは確実に利口になっているはずだ。たぶん今ごり押しをしている勢力にはその辺の配慮が欠けているのではないか。というかそこまで気を配っているほどの余裕がないのかもしれない。そんなわけでたとえ強引に押し切ったとしても、そんなことをやるたびに、さらにそれに逆らう人々の思いが強くなっていくことは確実なのではないか。その思いは人々の理性や感情を超えたところで、世代や時代を超えて作動する歴史的な動作なのかもしれない。


6月20日「現状を打開することの困難さ」

 政治的にも経済的にも文化的にも安易な解決はあり得ない雲行きだが、なんとかして現状を打開したいのは、体制側と反体制側の両派の共通認識なのだろう。だが未だ現状を打開できていないことも、両派の限界を示している。でも打開できていない現状とはなんなのか。それは体制側と反体制側でそれぞれ異なることなのだろうか。それとも同じ困難に直面しているのだろうか。しかし何が困難なのだろうか。それは現状を打開するのが困難なのだが、いったいどのようにして現状を打開しようとしているのか。体制側は国会で法案を通して、法案の趣旨に沿ったことをやろうとしているのではないか。それに対して反体制側は法案の成立を阻止しようとして、連日国会で論戦を挑み、反対のデモや集会を繰り返している。それの何が困難なのだろうか。困難はそれらとは別のところにあるのだろうか。別に何が困難なのでもないのではないか。ただ自分たちが属する共同体の価値観を他の人々にも押し付けようとするから、そこで困難が生じるのであって、押し付けようとしなければ困難など生じるはずもない。それは体制側も反体制側もやっていることであり、自分たちの価値観を他の多くの人たちに押し付けられないから、このままでは国家がだめになってしまうと危機感を募らせているわけだ。だからなんとしても強引にでも押し付けて、この危機的な状況を打開しなければならない。しかしそれの何が危機的な状況なのだろうか。彼らが恐れていることとはなんなのだろうか。それは自分たちが共有している危機感を、他の人々が共有してくれないことを恐れているのだろうか。例えば反原発派によれば、すでに現状は危機的な状況となっていて、これから福島の原発事故で撒き散らされた放射性物質によって、多くの人が亡くなるそうで、現に人がバタバタ倒れていて、それを政府の意を受けたマスメディアが隠蔽しているそうだ。そのお陰かどうかは知らないが、大多数の人々はそれを実感できずにいるようだ。たぶん他人が死のうがどうしようが、自分や周りの人々がなんともなければ、どうということはないという認識なのかもしれない。要するに実感できなければ危機も危機ではないということか。そして多くの人たちが差し迫った危機が到来しているのを実感できないことが、それを知らせようとしている人々の間に困難を生じさせているのか。もちろんそれらの人々の非難の矛先は体制側に向けられているのであり、彼らも反体制側の一部なのだろうが、自分たちの認識を他の多くの人たちが共有してくれないので危機感を募らせているわけだ。

 彼らは総じて政治的な無関心層を批判している。自分たちの問題に関心を持ってくれないことに苛立ち、無関心層が関心を持って自分たちの味方についてくれれば、彼らの思いを遂げることができるとふんでいるから、時にはおどしたりすかしたりして、ひたすらメッセージを発しているわけだが、なかなかなびいてくれないのだろうか。それとも最近は少しは風向きが変わってきて、徐々に反体制側の味方が増えつつあるのだろうか。そうだとしても相変わらず無関心な人も大勢いるだろうし、無関心であってもかまわないし、別にそれが違法な態度ではないのだから無関心を保っていられるわけで、特にそれでやましさを感じないならそのままでいればいいわけだ。また現状の政治的な問題に無関心でいることにもそれなりにメリットがあるのかもしれず、少なくとも付焼きで下手に偏った知識を信じ込まされて、国粋主義者と共に夜郎自大な妄想を抱くよりはマシだろう。そして政治的な無関心層に顕著なのが、総じて政治に対して距離をとり、冷めた視線で為政者たちの狂態を眺めていることだろうか。その辺が過去のファシズムなどとは違うのであり、ファシズムに特有の熱狂的な体制支持とは無縁の人々であるということだ。要するに政治に興味がないというより、政治自体に魅力を感じられないということなのではないか。その辺は政治家やその支持者たちが賢く見えないというところが、メディアに登場する政権批判者たちの功績なのかもしれず、また昔の熱狂的な体制賛美者たちの悲惨な末路を歴史として知っているだけに、右翼の勇ましい発言や行動を取る人たちへの警戒心となって表れているのかもしれない。そしてネットやメディアから広く世界の情報を受け取っているので、勇ましいことを言って、こうすればうまくいくと喧伝してくる人たちが、それほど信用できる人たちでないことにも薄々感づいていて、彼らの言った通りにやったとしても、うまくいくとは限らないこともわかっているのではないか。そしてそういう人たちが支持している体制側にも、または政府批判を繰り返して反体制側についている人たちにも、どちらも決め手がないことも知っているのかもしれない。うまくいく方法がないというのではなく、現に今やっていることややろうとしていることをやり続けるしかないのであり、またそれに反対している人たちは、そのやろうとしていることややっていることを批判することしかできないのであって、それ以外の方法があるわけではない。そしてそれ以外の方法があると主張するような人がいたら、どちらの側もそんな人の主張など無視することしかできないわけだ。そんな現状を打開するのが困難であるなら、その困難を作り出しているのが、それらの体制側と反体制側に分かれて対立している人たちだからだ。


6月19日「現実離れした論争」

 何か三権分立とは異なる実質的な国の権力構造というのをまことしやかに語る人が多い。自分は事の真相を知っているんだぞと主張したいのだろう。多くの人がこの国が民主主義国だと思い込まされているが、実は裏で国家を支配している勢力があり、三権の長でさえその勢力には歯向かえない構造となっていて、数年前の民主党政権もその勢力によって潰されたのであり、それに関する状況証拠をあれこれ並べて、どうだと言わんばかりに語ってみせるのだが、本当にそうだとすると、国民はその実質的に日本を支配している勢力に対して、どのような抵抗が可能なのだろうか。選挙や住民投票で投票しても、それらの勢力によって結果が改ざんされてしまうのだとしたら、できるだけ大勢の人たちを動員して、デモ行進したり反対集会を開いたとしても、それが政治的な権力の奪取に結びつくのは難しいだろうか。常識的なやり方では通用しないのかもしれず、かといって何ができるわけでもないから、国民の間に無力感が浸透して、選挙などの投票率がさらに低下するだろうか。自分たちが何を主張してもそれが国政に反映されないなら、もはや国家を信用しなくなるのかもしれない。そうなってはまずいから、それらの勢力は国民の関心を惹こうとして、メディアを使って何か人気取りのための工作でもすればいいわけか。自分たちの言うことを聞く若くてカリスマ性のある政治家でも味方に引き入れて、そういう政治家に頻繁にかっこいいことを言わせて、メディア上で引っ張りだこのように見せかけ、大衆的な人気を煽ればうまくいくかもしれないが、これまでもそんなことをやってきたのだろうか。その辺はやはり憶測や推測の域を出ないところだろうが、たとえ本当にそうだろうと、国民それらの勢力に直接手出しはできないわけだから、とりあえず民主的な政治制度が機能していることを前提として、デモや集会などの政治的な活動をするしかないだろうし、選挙などでも政治に関心がある人は投票するしかない。そしてそれらの勢力は国民を利用して何かをやろうとするわけだから、騙すにしても何にしても、国民の関心を引くようなことをやるしかないだろうし、それらの勢力と癒着しているメディアが結果を改ざんするにしても、一応は世論調査の結果を気にかけ、常に世論の動向に気を配らなければならないだろうから、そういう水準では間接的ながらも、民主的な体裁を装わなければならないだろう。それが何を意味するだろうか。それもある意味では国民主権なのだろうか。それがどこまで真実なのかはわからないが、それらの勢力が国民を利用しようとする限りは、国民は生かされ働かされるだろうし、国際的にも民主主義国として見せかける必要があるだろうから、間違っても北朝鮮のようなあからさまに自由が奪われた状態にはできないのではないか。

 人々は偽りの国民主権よりも自由を求めているのではないか。別に国民主権の意味するところは何が偽りでもないのだろうが、その一方で意識しなくても国家に拘束されるのが嫌なのかもしれない。官僚や政治家から自分たちの行動をああだこうだと指図されたくない。実際に経済格差があるのだからそこに利害の対立があり、国民の団結など糞食らえだろう。底辺層で使い物になる人たちはいいようにこき使われるだけだ。そういう意味で有効な情報をできるだけ多く取り寄せて、多くの人が自分たちの虚飾のない生活実態を把握することが肝心なのかもしれず、その上で政治や国家がどうあるべきか考えなければいけない。果たして政府のやろうとしていることが、自分たちのためになることなのか。そして果たして政府のおかげて自分たちが生きていられるのか。いくら考えてもそんなことなど分かるわけがなければ、それでもかまわないだろう。政府とはその程度の存在でしかなく、自分の与り知らないところで、政府のおかげで生かされていると思ってもかまわないが、それならそれで与り知らないまま生きていればいいわけで、とにかく政府のやろうとしていることや、実際にやっていることが不快に感じられて、選挙などで投票する気があるのなら、政府のやり方に反対している勢力にでも投票すればいい。その程度のことでしかないのではないか。どう考えても世界的に各国政府がやっていることで、うまくいっている例は少ないような気がするのだが、そして資本主義市場経済のもとで、ごく少数の金持ちたちが利益を独占していると言っても、独占した利益で何をやっているかといえば、それを再投資してさらに利益を増やそうとしているだけなのではないか。要するにマネーゲームで資本や資産を増やす競争をやっているわけで、それ以外に取り立ててやることはないのかもしれない。増やした資産を使って物質的または精神的な充足感を得ることができるのだろうが、例えばアラブの石油成金たちが高級車や高級時計や宝石類をどれほど持っていようと、一般の人たちにはどうでもいいことだろうし、その周囲では部族間や宗派間や民族間で凄惨な殺し合いを繰り広げているわけで、結局石油を買っていく欧米各国が、金持ちたちには高級ブランド商品を大量に買わせ、また過激な武装集団には武器を大量に供給し、それぞれに浪費させているに過ぎないわけだ。そんなあこぎな商売によって欧米各国も豊かさを享受している。もちろん商売相手は中東だけではなく、昔はアヘンを売って金儲けしていた中国にも、貧しい底辺層には工場を進出して安くこき使って儲け、金持ちの成金たちにはアラブと同じように高級ブランド商品を売りつけ、また欧米に観光旅行させて金を落とさせ、金持ちの子息は欧米に留学させて欧米の価値観を教え込み、そうやってうまく金づるとして利用し重宝しているわけだ。もちろん日本もアラブや中国などと似たような商売をしているわけで、そんな実態を見れば、国防がどうのこうのと議論しているのが、かなりずれているような気がするわけで、また派遣法を改正して労働者をいくら安くこき使ったところで、人口が日本の十倍以上ある中国やインドなどには、到底太刀打ちできそうもないように思われてしまうわけだ。


6月18日「国家と企業活動」

 よほどのことがない限りは、状況が一方的に特定の勢力を利する成り行きにはならない。そう思い込むことはできるし、そう判断することもできるわけだが、あるレベルでは確かにそうで、実際に圧倒的な勝利を得るに至るわけだが、その勝利と引き換えにして失うものも大きかったりして、後からじわじわとそれが響いてくる場合もあるだろう。結局ある政治的あるいは軍事的な勢力がたどる栄枯盛衰の成り行きの中で、ある特定の時点を評価すれば、確かにその時点では圧倒的な勝利だったりするのだが、その時の栄光の頂点が高ければ高いほど、衰退した時の谷もそれだけ深く険しくなるのではないか。そういう意味では必要以上に勝ち負けにこだわらずに、勝敗のはっきりしない曖昧な時期を、できるだけ長く保っておいたほうが無難な場合もあるだろう。はっきりした決着をつけないほうが、安定した状況が長続きしたりするわけだ。それとは逆に強引に懸案事項を片付けて決着をつけてしまうと、その後の安定が長くは続かず、敵を一掃した安心感とは裏腹に、思わぬところから足元をすくわれ、自分たちの勢力の崩壊もそれだけ早まり、すぐに激動の時代がやってきたりするわけだ。第一次世界大戦に敗れたドイツに対して行われたように、敗れた敵に二度と立ち直れないような負債を背負わせたりすれば、第二次世界大戦で実際にそうなったように、倍返しのような未曾有の被害が出たりするわけだ。その時の教訓が生かされて、第二次世界大戦に敗れた日本に対しては、比較的寛容な措置が取られたわけで、そのおかげで日本では戦後70年もの間平和な状態を保ってこられたのではないか。それも結果論に過ぎないわけだが、日本のアメリカへの宣戦布告を正当化する理由として、中国での戦線拡大に対する対抗措置として、石油の禁輸制裁を受けて供給を断たれてしまったので、このままでは軍艦も戦闘機も使用不能になり、他のアジア諸国のように欧米の植民地となってしまうから、追い込まれて止むを得ず真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦争に突入してしまった、という言い訳があるわけだが、現実にはアメリカに負けたからといってアメリカの植民地にはならなかったわけで、いくら日米地位協定があって在日米軍が今なお居座り続けているからといって、一応は独立国として世界的に承認されているわけだから、それを植民地状態と解釈するのは無理があるように思われる。結局ドイツがソ連の奥深くまで侵攻して戦線を拡大しすぎて失敗したように、日本も中国奥深くまで侵攻したから、アメリカの逆鱗に触れて石油の禁輸措置を取られたわけで、結果としてアメリカにも戦争を仕掛けて、さらに戦線を拡大させるしかなく、ドイツと同じように自滅への道を歩むしかなかったわけだが、ドイツが圧倒的な武力差を背景にしてソ連へ向けて快進撃していた頃が、やはり栄光の頂点であったのと同じように、日本も中国で連戦連勝し、真珠湾攻撃でアメリカ軍に大打撃を与え、東南アジアの欧米の植民地を次々に占領した頃が栄光の頂点だったのだろう。

 また二度の世界大戦に勝利して世界の覇者となったアメリカにしても、その後にソ連との間で、数十年間にわたる勝ち負けのはっきりしない冷戦期間があったからこそ、覇権国として長い間不動の地位を保っていられたわけで、冷戦の相手だったソ連が崩壊してからは、もはや対等に対峙する相手のいなくなったアメリカが、超大国として無敵となったと思ったのもつかの間、湾岸戦争からアフガン・イラク戦役を経てリーマンショックに至る過程で衰退してきて、その間に中国も経済的の軍事的にも台頭してきて、ソ連の崩壊から立ち直ったロシアも侮り難く、さらにこれからはインドが繁栄してきそうだし、今までの富の蓄積が物を言うヨーロッパも、EUとして一つにまとまれば一大勢力となるだろうし、現代はまさに世界の中で一方的な勝者となる国がいない時代に突入しているわけだ。そしてこのような勝者のいない時代の方が長続きするのかもしれず、長続きさせるには、むやみに国同士の対立を煽り立てるような好戦的な姿勢は控えた方がいいのかもしれない。もちろん国力を高めるには、隣国との対立を煽って好戦的な構えとなる方が、見かけ上は国力が高まったように思えるのかもしれないが、結局そんな危なっかしい火遊びをして、いい気になっている時期が栄光の頂点なのであり、偶発的な軍事衝突などをきっかけにして、ひとたび戦争状態にでもなれば、急坂を転げ落ちるようにして奈落の底へと一直線なわけで、たぶんそうならないような歯止めとなる仕掛けが、色々と方々へ張り巡らされているから、紛争地域以外では大規模な軍事衝突がなかなか起こらないのだろうが、その歯止めとなっているのが、国際的な企業活動による近隣諸国との経済的な結びつきであり、昔の列強諸国による植民地経営とはまた趣の異なった、直接の軍事支配を伴わない経済競争であるわけだ。中にはそれが欧米の巨大企業や金融資本による世界支配だと見なす人たちもいるわけだが、今や欧米だけではなく中国やインドにもそのような巨大企業や金融資本も誕生しているわけで、また石油収入を背景としたアラブの王国や、ある意味では日本の大企業もそれなりの勢力を保っているわけで、陰謀論者たちが言うような一方的な世界支配が確立されているわけではないのではないか。そしてもちろんそれらの企業や金融資本が属する国家による優遇政策によって、そのような規模へと成長してきたことは確かなのだろう。だから国家と巨大資本は切り離すことはできないのかもしれないが、一方でそれぞれの国には、それらの巨大資本によって搾取されている国民がいるわけで、搾取されていると意識することなどできない人々の方が圧倒的多数なのかもしれないが、国家がそれらの巨大資本を税収源として必要としている限り、両者は政治経済的に癒着せざるを得ず、低賃金を強いられて搾取されすぎると、そこで暮らしている人々の生活が苦しくなって、そのような癒着関係が槍玉に上がり、反発が強まって政府の言うことを聞かなくなる人々が増えて、結果的に国家の衰退を招くのではないか。そうなってまずいから政府が国民の労働環境の改善や福祉を重視すると、賃金が上がって安価な製品を作れなくなった企業の国際競争力が低下して、それが原因で企業活動が衰退すると税収が減ることでも国家の衰退を招くので、どちらにしろ国家は衰退する運命なのではないか。現実はもっと複雑でそれだけはない部分もあるかもしれないが、要はバランスなのかもしれず、果たして企業活動と国民の生活の均衡を保てる最適な条件というものがあるだろうか。


6月17日「まずい状況」

 たぶん損得勘定だけで世の中が成り立っているわけではなく、それ以外の何かが人を行動に駆り立てることもあるのではないか。全てを損得勘定に収斂させることはできない。だがそれ以外の何かがわからないままでは、やはり損得勘定が行動の指針となるだろうか。しかし何が損で何が得なのかについて、その場での判断が果たして正しいか否かとなると、それもはっきりしないのであって、単純に金銭的に儲かったから得したのかといっても、それと引き換えにして多くのものを失う場合もあるし、なんとも言えないところで、損得勘定にしても、はっきりとどうなれば得でどうなれば損なのか、その辺のところはその場での判断と後になってから思い知らされることとの間で、落差が生じる場合もありそうだ。たぶん損得勘定も、他にもいろいろある価値観のうちの一つと考えておいたほうがよさそうだ。そして何かを主張するというのは、ある一つの価値観に凝り固まって、その価値観に基づいて行動しろと要求することだろうか。果たしてそれを常にしなければならないのだろうか。たぶん人はその必要に迫られて何かを主張するのだろう。そして主張通りのことをやれと要求する。その主張に確実な合理性があると思われれば、なおのこと強硬に主張するわけだ。そうしなければならないと思い込み、そうすることが自分の使命だと悟る場合もあるのではないか。そんな強固な信念に囚われた人に、何を言っても無駄かもしれないが、時には自らの主張に反したことをやらなければならない。そしてやらざるを得ない状況に追い込まれた時、人は決断を迫られるわけだ。自らの主張やこだわりに殉じて破滅するか、あるいは主張を曲げて自らを活かす道を選ぶか、そんな決断の時が誰のもとにも訪れるだろうか。そんなことを感じられないまま、それと知らずに自らの意思に反したことをやっている場合もありそうで、どちらかといえばそちらの方が多いのではないか。他の誰から影響を受けているわけでも、操られているわけでもないのに、自然と自分のこだわりから抜け出てしまうこともあるのではないか。だからあまりはじめから戦略とか戦術とかをはっきりと決めて、事に当たらない方がいいのではないか。人は意識してない部分でも考えていて、その思考やアイデアが自然と出てくるタイミングが大事で、ガチガチにやるべきを決めてかかるとその機会を失ってしまう。だがそれで成功するかどうかはわからないのではないか。成功を目指すならちょっとやそっとでは曲がらない強固な意志が必要だろうか。それは結果論であって、成功した後から自分に強固な意志が備わっていたと思うのではないか。なんらかの偶然の巡り合わせで成功したのかもしれないのに、やはり成功したという事実を正当化するには、なんらかの精神論的な裏付けを求めるのだろう。

 ではそこから何がわかるのかといえば、何かを主張することは、その主張に自らが囚われているということか。それ以外は自分の思い込みでしかないのだろうか。もちろんその思い込みが自身にとって精神的な支えとなっている場合もあるのだろうが、他人の同意を取り付けたい場合は、やはりその主張が合理的であり、主張に同意すれば利益になることを信じてもらいたいわけだから、そこで他人との価値観の共有や利害の一致が重要となってくるわけで、独りよがりの思い込みだけではうまくいかないわけだが、そこで世間の一般常識に馴染むような主張をしなければならなくなるわけか。だがそうなると世の中に広く行き渡ったありふれた主張になりはしないか。そうならないためには他人を説得できるだけの何かが必要となってくるのかもしれず、その何かが主張の種類や特性によって違ってくるのだろうか。それも結果から考えれば、それなりに説得力のある理由や原因が導き出されるのかもしれないが、やはり実際に主張してみないことにはなんとも言えないところだろう。そして無理に他人の同意など求めなくてもいい場合もあり、他人を同意させる差し迫った事情がなければ、勝手気ままなことをいい加減に主張していても構わないわけで、わざと世間的には間違ったことを平気で主張してもいいわけだ。何かはっきりした見込みも戦略もなしに、他人を小馬鹿にしたようなことを主張するのは、そんな主張ができる自らが自由な立場で、他のどこからも拘束や制限を受けていないことを誇示したいのかもしれないが、たぶん誰もがそんな主張ができる社会は自由で外に向かって開かれた社会であり、何か特定の政治勢力から抑圧や弾圧を受けていないことの証しなのだろう。そんなわけで言論の自由を守るには、社会の中で生きている一人一人が、なるべく世間の一般常識にとらわれないことを主張していくことが肝心なのかもしれず、その世間の一般常識というのが、人々を心理的に抑圧しているわけで、常識から外れたことを主張したらまずいと思わせるような雰囲気が、空気として社会全体に行き渡っているように感じられるとすれば、それこそが特定の政治勢力がメディアを通じて、その勢力を利するなんらかの主張を拡散している可能性があるわけだから、社会全体がまずい状況に陥っているのかもしれない。


6月16日「悪循環」

 近頃は何かそれと気づかずに当たり前のように、誰もが同じようなことを述べている状況があるようだが、それが何を意味するのか。他には何も述べられないからそうなってしまうのだろうか。それとも述べている対象にこだわっているからか。国家と資本主義の関係なら、だいぶ前から色々な人たちが詳しく述べている。構造としては国家が企業活動を後押しして、会社の利益や従業員の給料などから税収を得るというわけで、別にそれが当たり前の関係なのだろうし、それの何がおかしいわけでもない。ならば何もおかしくないのに、現実に国家も企業もおかしくなっているとすれば、何が問題なのだろうか。そもそも国家も企業もおかしくなっているという認識がおかしいのではないか。ではこれが正常なのだろうか。たぶん国家も企業も通常通りの動きをしているはずだ。大雑把な水準ではそういうことになりそうだ。国家と企業が連携して世の中を動かしている。そして人々は国家と企業に依存しているわけか。そういう関係は今後とも変わりようがないだろうか。すぐに国家や企業に代わる勢力や機構が生まれるわけではない。今まで通りに国家も企業も活動していればいいわけで、それらは将来においてもなんら変わることがないだろう。そう思っておいてかまわないのではないか。では何が問題なのか。何も問題がないわけではないが、問題が解決することもないだろう。問題を抱えたまま、国家も企業も当たり前のように活動し続けるわけで、その結果として成功する者と失敗する者を生みだしながら、また経済的に豊かになる者と貧しくなる者を生みだしながら、そして様々な分野で、成功して経済的に豊かになろうとする者たちの競争を煽り立てながら、そんな儚い夢を振りまきながら存在し続けるだろう。それが良いわけでも悪いわけでもないが、ただそんな夢に疑問を抱く者たちが多くなればなるほど、国家も企業もその力が弱まるわけで、弱くなってはまずいからメディアを通じて盛んに夢を振りまき、人々をそれらの活動から導き出される宗教によって洗脳しようとするわけだ。その宗教が拝金教なのだろうか。あからさまにそうは呼びたくないのだろうし、もっと何かオブラートに包んだような夢のある教義になっているのだろうが、現実に成功する見込みも豊かになる見込みもない者たちには、当然のことながらそれが信じられない。だから現状に不満を持ち、政府がやろうとしていることに反対する運動にも多くの人たちが集まるわけか。実際には戦争法案と呼ばれるものや、非正規雇用を促進する法案や原発の再稼動などに反対しているわけだが、それによって不利益を被り、身の安全が脅かされそうに思われるから、多くの人たちが反対しているわけだ。

 しかし政府としてはそれらの法案を成立させて、また原発を再稼動させないと、国力が弱まってしまうという認識があるから、強引にでもそれらを遂行したいわけだ。国民が平和ボケしてしまって競争心がなくなってしまうと、活力がなくなって諸外国との競争に敗れてしまう。国家や企業の指導的立場にある者たちはそう考えているのかもしれないが、だからと言ってハングリー精神に満ち溢れ、物質的な欲望や性欲などで頭がいっぱいなった人間が大量に生まれる可能性など、現状では考えられず、できれば賢くスマートに生きたい人の方が多いのではないか。昔と比べて上品な人間が増えているだろうし、貧困層だって別に欲望をぎらつかせ、悲惨な境遇から這い上がって大金持ちになる夢など抱いているわけではなく、ほとんどの人たちはあきらめているだろうし、打ちのめされて廃人同様になっている人も中にはいるだろうし、生活保護申請を受けられなければ、後は餓死するしかない人もいるだろう。そういう人たちは国にも企業にも見捨てられ、実際にゴミや虫けら扱いなのかもしれないが、そういう無気力な人たちが増えれば増えるほど、やはり国力が低下するのかもしれず、ならば政府が強引にやろうとしている政策によって、そうなってしまうとすれば、政府の政策は間違っていることになるのだろうか。たぶんそうではなく、政府は政府でそのような政策を強引にでも遂行せざるを得ず、しかもそれをやると国力が低下するかもしれないわけだから、要するに正しいと思っていることをやれば、結果的に思惑とは逆になるという矛盾があるわけで、ではやらなければいいではないかとなるわけだが、これがやらざるを得ない成り行きになっているわけで、反対派を強引に押し切ってでもやらなければならない。もしかしたらすでに悪循環に突入しているのであり、途中で引き返せなくなっているわけだ。だからこのまま行くところまでいかないと、新たな再出発を迎えられないのかもしれない。数年前の麻生政権ですでに行き詰って政権交代したのに、また昔の人たちが出てきて、それのやり直しをやっているわけだから、やはり今度という今度は徹底的にその路線をやり通す構えなのだろうし、当人たちは願っても無い機会が到来したと喜んで、このまま憲法改正して勝利を確実なものにしたいわけだ。だがそれで果たして勝利したことになるのかといえば、たぶん勝利の後にもその先の成り行きがあり、彼らが勝利と思い込んでいる結果が、実は勝利ではない可能性もあるわけだ。


6月15日「騙しの戦略」

 まともな合意を得るには隔たりが大きすぎるだろうか。その主張もたわいないものだと思われるが、でもそういうレベルで何か主張しないと、多くの人たちの理解を得られないのではないか。では戦略的に論理の単純化を図り、敵も味方も騙さないと、事をうまく運ぶのは無理なのだろうか。だが単純化は見え透いている。すぐに無理なことがわかってしまうのではないか。ならば正々堂々と主張したいことを主張すれば、たとえ実現しなくてもそれでかまわないわけか。しかし何を実現したいのだろうか。実現させようとしているのではなく、ただの見解を示したいだけなのではないか。それを示して考えてもらえば、それで満足するわけでもないだろうが、世界中に国があって、それぞれの国に政治家がいるわけだから、そのような政治制度を前提とした上で、なんらかの見解を示さなければならないことは確からしい。そうしないと話に説得力がなくなってしまうだろう。そこに議会があり政治が行われていて、立法があり司法があり行政があるわけだ。それらの三権が国家という制度と機構を維持している。それでかまわないはずだが、それらの機構を成り立たせているのが、ほかならぬ金儲けの資本主義であり、儲けた金や賃金や不動産や商品の売り上げなどから税金を搾り取り、さらに国債という担保も定かでない借金までして、それらを国家予算として使っているわけで、それらの税収の伸び悩みと行政機構の肥大化によって、そのようなやり方がだんだん無理になりつつあるのだろうか。公的資金を使った介入による為替操作や株価操作で、少し景気が良くなったように見せかけているらしいが、実質的にはどうなのだろうか。日本の場合だと産業を立て直して利益が出るようにすれば、まだやっていけるとふんでいるのかもしれないが、結局それは非正規雇用を増やして労働者の待遇を悪化させ、福祉予算を削減して中低所得者層の切り捨てにつながるだけで、それをそのまま続けていっても先細りのジリ貧になるだけかもしれず、中には移民を入れろと言っている人もいるようだが、海外の安い労働力をいくら入れたところで、今度は民族や宗教の問題で、国内で深刻な対立をもたらすかもしれず、中長期的には世界のどの国でも起こりつつある問題を、日本も共有していくことになりそうだ。だから政府や政権与党勢力が、労働者派遣法を企業に有利になるように制定しても、それで何が根本的に解決するわけでもないし、集団的自衛権の行使が合憲だろうと違憲だろうと、また憲法を改正して自衛隊を正式な軍隊と定義したところで、侵略戦争ができるわけでもないし、地域紛争で無駄に消耗するだけかもしれない。もはや世界のどこを見ても国家の行き詰まりが顕著になってきているのだろうか。

 根本的なところで、税金や借金で国家を運営する手法が限界に達しつつあるのではないか。軍隊に金をかけて他国と張り合うのがそもそも無駄の極みだし、公務員の数もその仕事量も非効率かつ多すぎはしないか。それも国家が衰退してくれば誰の目にも明らかとなってくるので、この段階で騒いでみてもまだ時期尚早かもしれず、せいぜい手遅れになってから騒ぐのが誰もが納得するタイミングなのだろうが、とりあえずこのままでは国が危ないと警鐘を鳴らすような行為は避けたいところだ。別に危なくても手遅れになっても構わないのであって、国家という存在が遠からず滅びるべきものなのかもしれず、そうでなくても覇権争いからもたらされる戦争や経済的な搾取の温床となっているわけだから、そのような否定的な作用はなるべくならなくしてゆかなければならない。ならばそのためには人々は何をしたらいいのだろうか。まだ国家間の経済競争や戦争にこだわっている勢力に逆らい、彼らの行為に反対して行けば、自ずから国家が衰退してゆくだろうか。しかしそれが問題で、それらの反体制勢力も一応は国家主義者なのであって、彼らも彼らで国家の繁栄を願っているわけで、国家が平和的に繁栄し、国民も争いのない世の中で安心して暮らして行けることを願っているはずだ。間違っても自分たちの行為によって国家が衰退するなんて思ってもみないはずだ。だからそういうところで敵も味方も騙すような戦略が必要となってくるのか。そしてその戦略とは具体的になんなのか。たぶん戦略なんて何もないのであり、何もなくても構わないのではないか。今はそういうことにしておかないとまずいのだろうか。少なくとも誰かが意図して今日あるような国家形態を人工的に作り上げたわけでもないし、自然と今日あるような形態に落ち着いたはずで、形式的な憲法上はともかく、少なくとも人々の総意に基づいているわけではない。また商品の売り買いが基本の資本主義にしても、自然とそのような形態に落ち着いているはずだ。もちろん意図してそれらを変えようと動いている人も大勢いるだろうし、自分たちの勢力に有利になるように法律を制定したり改正したりしながら、覇権を確立しようとする勢力も後をたたない。そしてそのような勢力の中でも、国家を衰退させ資本主義に替わるやり方を模索している勢力もいるわけか。そのような勢力が今後世の中の主流を占めるかどうかはわからないが、どのようなやり方が現状に対して有効なのか、それを探求する必要性を感じていることは確からしい。


6月14日「ありえない未来」

 世間の興味からずれた的外れなことを考えている。それでかまわないだろう。その方が好都合というわけでもなく、世の中の流れに同調しないとまずいのかもしれないが、それでもかまわない理由はなんなのか。わざとそうしているわけでもなさそうだ。わざとそうする理由などなく、ただその方が無難に思われるだけのようだ。なぜ無難なのかといえば、正直あまり乗り気がせずに騒ぎに関わりたくないと言った方が本音に近いだろうか。でもメディア経由で目にする画像を眺めて楽しんでいることに変わりはなく、無責任な野次馬の心境かもしれない。だが現実に考えていることはそこからずれている。ずれていどころか、ありえないことを考えているのではないか。現状からは考えられない未来を夢想している。だが夢想していることの実現を目指して行動しているわけでもない。ではなんなのだろうか。ただ考えている。それも考えるだけにとどめておいた方が無難に思われる。それではなんだか逃げているような気がするのだが、逃げていると思われても構わないのだろうか。それでかまわない。かまわないどころか、積極的に逃げているわけだ。何から逃げているとも思えないのに、結果的には逃げていることになるらしい。意識が現状のとりとめのなさから逃げて、何かわかりやすく単純な構造を目指しているように思えるのだが、言葉でそれを説明しようとしている限り、そうなるしかないようにも思われ、実際に語ってみるとそんな説明になってしまい、現状のとりとめのなさを語っている内容が取り逃がしている。要するにそれを語れば、現状のわかりやすい単純化というフィクションに至ってしまうわけだ。勿論それでは不満なのだが、それ以外の語り方を知らず、結局妥協の産物としてそれを自覚しつつも、フィクションを語るしかないらしい。そしてフィクションであるだけに、現状からずれていて、今後の見通しも現状からはかけ離れた空想となってしまいそうだ。要するにありえないことを考え、考えられない未来を夢想しているわけだ。そうなってはまずいだろうか。ともかくそれを信じていないことは確かなようで、信じていないにもかかわらず、そんな荒唐無稽なことを妄想していると楽しくなってくるわけだ。そして楽しいからそれでかまわないと思われる。だからあまり現状の深刻さなど真に受けないし、そんなことはどうでもいいと思い、ただそれらの政治的な闘争が滑稽に感じられるだけで、できればもっとおもしろおかしく、混乱した状況になってほしいとさえ思っている。そしてその混乱のどさくさに紛れて、復讐心をたぎらせている愚か者たちが死滅してほしいとも思っている。賛成派も反対派もどちらも一掃されてほしいのかもしれないが、それがありえないことだとはわかっていながら、やはりそんな未来を夢想してほくそ笑んでいるわけだ。

 本当にそれでかまわないのだろうか。たぶんそれではだめで、現状をできるだけ正確に反映した説明を心がけるべきなのだろう。ではなぜそうならずにそこからずれていってしまうのか。説明しようとするとずれていってしまうような現状だからか。では具体的にどのような現状なのか。やることなすことのことごとくがうまくいかないのは、今に始まったわけではなく、昔からそうだったのではないか。だがそのうまくいかないことの度合いが、年々増大していないか。それは気のせいだろうか。気のせいのついでにまた的外れなことを述べるとすると、特定の政治勢力が何かやろうとするからおかしくなるのであって、何もやらなければ取り立てて問題らしい問題は起こらないのかもしれないが、それでは彼らを支持している人々や団体が納得しないから、何かをやらざるを得ず、そのやらざるを得ない何かをやろうとすると、お粗末な結果が待ち受けている。しかもそれをやることが、それらの政治勢力にとっての自己実現なのだから、まったくもって始末に負えないのだが、やはり成り行きとしてはやらざるを得ないのだろう。福祉予算を切り詰めて競争原理を拡大する新自由主義的な政策がうまくいかないとすると、もはや打つ手はないのだろうから、ひたすらそれを追求するしか道は残されていてないはずだ。だからそのような政策によって切り捨てられる人々や団体がいくら反対しようと、無視してそれを推し進めるしかないわけだ。推し進めた先に何が待っているかは、今のところは反対派が脅しの材料として使う悲惨な憶測や推測以外には、その先まで行ってみないことには誰にもわからないところだろう。彼らとしては彼らを支援している大企業などが、国際的な経済競争に勝ち抜いてくれたら、それで国家も安泰だと思っているのかもしれないが、たぶんそれは思い違いかもしれず、企業は国家とは別に株主の意向も無視できず、場合によっては会社の利益のために国家を見捨てる可能性もあるかもしれない。そしてそれは日本よりもアメリカの企業の方が可能性が高いのかもしれず、アメリカに拠点を置きながら、アメリカ政府の意向とは違うことをやり始めた時が、アメリカの巨大企業がアメリカを見捨てたことの証しとなるのかもしれない。もちろんそんなことは現状ではありえないことで、アメリカの政府関係者もそんなことは夢にも思っていないだろうが、そんなありえないことを夢想すると愉快になってくるわけだ。


6月13日「思わぬ事態」

 時が経ち人も変わり世の中も変わったはずだが、変わらない部分もあるのだろう。何が変わらないのか。何かが過去から現代へと受け継がれているわけか。それは慣習や伝統であり過去の知恵かもしれず、それらの知恵が現代において何かの役に立っているのかもしれないが、変化の障害となっている面もあるのだろうか。では何が過去の知恵なのか。デモクラシーが過去の知恵なのだろうか。しかしそれ以外にはあり得ない現状があるのではないか。政治的に何かを決める方法がそれしかないわけか。そしてそれは過去というより現代の知恵であるはずか。ではそれは何の役に立っているのだろうか。政治の役に立っているといえば当たり障りはなさそうだが、人々の役に立っているかといえば、やはりそうだと答えておくのが無難なところだろう。別にそれほど役になっていないと思われても、制度として定着しているのだから、人々は一応デモクラシーを受け入れているのではないか。少なくとも他のやり方を受け入れているわけではなさそうだ。たぶん他のやり方など思い浮かばないのだろうし、実際に考案されているわけでも試されているわけでもない。そのようなゆとりなどなく、歴史的にな成り行きからそのような制度が受け入れられ、現実に定着しているのだから、その制度の中で政治をおこなっていくしかないのではないか。そしてそれをやっていく中で不都合な事態となるたびに、その都度変革の機運が高まれば、そこで変革が試みられてきたわけで、今後も試みられる機会が訪れるのだろう。では果たして今がその時期なのだろうか。実際に変革が試みられた結果から判断するしかないだろう。人々も政治的な変革に期待しているのではないか。そしてそれが経済的な変革にもつながって欲しいと思っているのではないか。具体的には何がどうなって欲しいのだろうか。政治的にはリベラルな勢力が議会で過半数を占めて政権を奪取し、経済格差をなくすような改革を行って欲しいのだろうか。多くの人々がそれを望み、選挙で投票行動に結びつけば、人々が望むような結果がもたらされるだろうか。少なくとも現状は違っていて、多くの人々が望んでいるのとは真逆の方向へと事態が進んでいるのだろうか。でも現状を支持している人たちも多いはずだが、それが何を物語っているとも思えない。ただのマスメディアによる世論調査の結果だろう。それ以上でも以下でもなく、世論調査に対する体制側と反体制側の受け止め方と見解が違っているだけか。

 それは現状の受け止め方の問題で、現状は一つしかなく、その一つしかない現状をめぐって、それを肯定したり否定したりしているだけだろうか。そうではない現状などあり得ないだろう。だからそれがどうしたわけではなく、現状は双方の対立として現れているわけだ。ではそこからどう動くのだろうか。どう動いても大した変化はないのではないか。そしてとりたてて何がどう変わるわけでもなく、現状が維持されるわけか。そうは思わない。何かが変わり何かが変わらないだけか。ともかく期待通りには変わらず、多くの人ががっかりするような変わり方をするのではないか。そしてその変化を受け止めなければならなくなる。状況の変化とはその程度のことなのだろう。だが人々が気づかないところで変化は着実に起こっており、いつかそれが顕在化する頃には、その変化の流れは誰にも止められなくなるだろう。ではその人々が気づかない変化とはなんなのか。それは金儲けが世界的にうまくいかなくなるような成り行きだろうか。今のところはなんとも言えないかもしれないが、それも少し違うのかもしれない。金儲けは今まで通りに行われる一方で、そのような行為から脱落していく人が増加するのかもしれない。そのような人たちにはもはや金儲けができなくなって、必然的には金儲けとは違う生き方を強いられてゆくのではないか。そしてそれを強いているのが経済格差の増大であり、それによって増加する貧困層は、もはや国家を頼らなくなり、自力で同じ境遇の人々と協力して、相互に助け合うネットワークを築き、カネがなくても生きていける社会の実現を目指そうとするのではないか。それは行政から生活保護の申請を断られた人々や、原発事故で避難生活を強いられている人々や、放射能汚染地域で暮らす人々や、東北の巨大地震で被災して生活再建のめどが立たなくなった人々や、そのような人々から徐々に助け合いのネットワークが広がってゆけば、何かこれまでのやり方とは違う試みが成功する可能性もあるかもしれず、国が積極的にそれらの人々を助けようとしないのは、かえって好都合かもしれない。変化の兆しとは思わぬところから現れるもので、人々が実際に生活に困って、否応なく新しいことをやらなければならなくなったときに、なんらかのやり方が編み出される可能性も高まるのではないか。現状ではそのような可能性に期待するしかないのかもしれない。


6月12日「デモクラシー」

 何かを禁止する法律は、その禁止した何かを活用する可能性を奪うものだろうか。それを活用すると社会にとって害となる行為が禁止されるのだから、それが禁止されてしかるべき理由となりそうだ。しかし法律で禁止しないと、あるいは禁止してもそれをやる輩が出てくるとすると、それをやることによってなんらかの利益を得られるわけだから、それは人にとって魅力的な行為となるのだろうし、法律を制定する側からすれば、それをやられてはまずいなんらかの理由があるわけだ。その理由が社会にとっての害となるわけだが、それは法理を制定する側にとってはそうであっても、それ以外の人にとっては利益になるような行為なら、法律で禁止してもそれを行う輩が後をたたなくなるわけか。それが必ずしも利益になると思われなくても、あるいは快楽とともに害毒ももたらされ、いったんやり始めると常習性があってやめられなくなるようなものなら、人はそのような行為に誘引されていってしまうのだろうが、そのようなことをやる慣習が広く世の中に行き渡っていて、飲酒や喫煙など法律で禁止できないようなものもあり、何でもかんでも禁止すれば片がつくようなことでもなさそうだ。世の中には法律で禁止できる行為もあるが、できない行為もあるということだろうか。実情がそうなっているとすれば、それを認めるべきだろうか。実際にそうなっているのだとすれば、認めようと認められなくても、それをどうこう言っても意味がないのではないか。ではどうすればいいのだろうか。それが不当な法律だと思えば、廃止させようとすればいいということだろうか。そのために政治的な働きかけをすればいいわけか。政治的な行為とはそのようにして生じるのだろう。もちろんそれは不当な法律の廃止だけではなく、新たな規制として禁止の法律を作ろうとする場合もありそうだが、法律による規制を緩めたり強化する場合もあるだろう。法治主義というのはそういうものかもしれない。そのようにして法治主義的な体制は、人の行動や行為の自由を奪い、管理しようとする傾向がありそうだが、それでも法律に従っていれば、治安機関による統制によって身の安全を保証され、合法的な行為や行動に従事することで生きていけるわけか。たぶんそれでは不満が残るのだろうし、実際に法治主義的な体制によって不利益を被っているから、反抗的な態度になるのではないか。ではその被っている不利益とはなんなのか。ただ自由を奪われているように感じられるだけだろうか。

 では法治主義では得られない自由とは何か。法律で生活を守られなくなれば困ったことになりそうで、人々が好き勝手に振る舞うようになっては、社会の秩序を維持できなくなる。弱肉強食の社会になり、暴力に勝る勢力によって世の中が支配されてしまう。でもまさに現状がそうだとしたらどうだろうか。警察や軍隊などの暴力に勝る勢力によって、世の中が支配されているのだろうか。そしてその暴力による威嚇や脅しによって、人々が好き勝手に振る舞えなくなっていて、法律によって規制された行動や行為しか許されないから、社会の秩序が保たれているわけか。しかしそれ以外の世の中を想像できるだろうか。自身が生きている社会によって思考が規制されているから想像できないのか。そこに考えるための前提条件があり、それを取り払って考えるわけにはいかないということか。そこで生きているのだから、当然のように社会とつながっているわけで、社会の慣習を受け入れなければ生きて行けないわけだから、その思考も社会の慣習を前提としたものになるしかなさそうだ。そして法律も社会の慣習を反映したものになっているのだろうし、人も社会の一部として社会を維持継続させるために機能しているわけか。でもそうなると人が自由になることなどあり得ないのではないか。人は自らの自由を求めている一方で、自らの安全も確保したいわけで、社会が自らの身を守ってもらいたい。そして自らの都合に合わせて社会を利用したいし、法律も治安機関も利用したいのではないか。要するに世の中が自分の思い通りになることが、自らの自由の最終的な実現になるわけか。ではそれは自らが世の中の支配者になることを意味するのだろうか。社会の意向と自らの意向が完全に一致すればそうなるだろうか。だが支配者が一人だけでは独裁になってしまい、他の人たちが迷惑を被るから、結局すべての人による社会の支配を実現する方法として、デモクラシーと呼ばれる制度が編み出されたわけで、民衆による社会の支配を実現する方法として定着しているわけだ。むろん本当にそれで民衆が支配していることとなっているのかは、よくわからないところで、民衆の間でも利害が一致しない部分があるわけで、民衆自体が同質の一枚岩ではなく、経済格差もあるし職業や地縁血縁による違いもある。だから結局法律は最大公約数的な利益を目指すものとならざるを得ず、それに対する総論賛成各論反対的な不満もつきもので、また国家として方向性も、地理的あるいは地勢的に埋蔵資源や水産資源や耕地や森林の有り様や、他国との経済関係や軍事的な同盟敵対関係、さらに歴史的な経緯や産業構成や人口などによっても、社会やそこに暮らす人がなんらかの影響を被っているのだろうが、果たして根本的なところで、社会の支配を巡る戦略以外に、人と社会や各種勢力との関係を構築することはできないのだろうか。


6月11日「戦争の効用」

 戦争は現実にあり、そこで多くの人々が殺傷されてきたし、今も世界各地の紛争地帯では殺傷され続けている。世界各国に軍隊があり、治安を維持するための警察機構がある限り、彼らが使用する武器が作られ続け、もちろんそれは人を殺傷する能力を持っているわけで、彼らが戦っている相手が人を殺傷するための武器を持っているのだから、彼らも当然それを所持するわけで、そのような方面では人を殺傷できる武器が必要不可欠なわけだ。そして武器を製造する産業があり、そこではより売れる武器を開発することになり、売れるためには使用目的に合わせてより安価であったりより高性能であったりする武器を作ろうとして、製造企業同士でしのぎを削っているのだろう。北朝鮮などは国家ぐるみで安価でそれなりの性能の武器を開発して、先進国で作られる高い武器が買えない貧乏国へ売っているのだろうが、武器でもなんでも商品であることには違いなく、人の殺傷を目的とした商品を売ることで利益を得ようとすることに、良心の呵責など感じないだろうし、そんなことよりも顧客の要望にいかに応えるかが、商売をする上では優先されるわけで、それが売れる武器を作るための秘訣なのかもしれず、それは武器以外の商品を作るのとさほど変わらない感覚なのだろう。ただその商品が実際に使用されると、ほとんどの場合は人が殺傷される結果を生む。だから人道的にはなるべく武器が使われない状況を作りたいわけで、国内で一般人への銃器や刀剣の販売や使用を規制している国がほとんどであり、法律で規制することによって、なんとか武器を用いての殺傷沙汰が抑制されているわけだ。抑制されているといってもなくなるわけではなく、犯罪行為で使われているわけだが、それらの暴力的な殺傷沙汰を起こす人々と、それを取り締まる警察の双方ともに武器を持っているわけで、そこで武器が使われる頻度が高くなり、取り締まりに使われれば、そこでも殺傷沙汰となる場合があるわけだが、そこからどんな見解を得ようとしているわけではなく、ただ武器が使用され人が殺傷される事態が繰り返されている。それは戦いがもたらす当然の行いで、殺傷という結果をもたらすのも当然の帰結だ。

 戦争はそれとは別次元の問題だろうか。大量の武器が使われ大量の殺傷が行われるわけだが、おびただしい数の人命が失われ、資源も大量に消費されて、財産や資産も大量に浪費されるわけで、なるべくならそれに加担したくないところであり、できればそうなるのを未然に防ぎたいところだが、まだ政治の延長としての戦争の有効性を信じて疑わない人や勢力もあり、実際に政治的な権力を維持しそれを地域的に拡大したいがために、武力攻撃を仕掛けている勢力がある。そしてそのような勢力を駆逐するために、戦争に介入しなければならない国もあり、その代表的な国がアメリカなのかもしれず、実際に戦争によって被害を被っている人や国も、アメリカの介入に期待しているわけで、紛争に介入することで勢力を拡大しようとする勢力を、実際に押さえ込んでいると言えるだろうか。アメリカの主張を肯定すればそういうことになるだろうが、アメリカが介入して事態の収拾に乗り出さなければ、戦闘が拡大して熾烈さを増し、さらに多くの人命や財産が失われるところだろうか。少なくとも中東の紛争地帯では、アメリカがそういう役割を担っているのだろう。また東アジアでは中国の海洋進出を牽制するために、アメリカ軍がその地域に展開して睨みをきかせる必要があり、ウクライナではロシアの侵攻を阻止するために、その他の欧米諸国と一緒に経済制裁に乗り出しているわけか。一部の人たちの陰謀論などでは、全く逆の見解が導き出されてしまうわけだが、マスメディアなどからもたらされるありふれた情報をもとに考えれば、そういうことになりそうだ。そしてそれらの紛争地帯や対立地域へ武器の供給が続けば、それだけ紛争や対立が長く続く可能性が高いし、事態がこじれるようなことがあればさらに長引くのだろうが、慢性化することがあっても解決することはないのだろうか。解決するにはあまりにもひどい政治状況で、少なくともそれらの地域の国々が民主化されて、実際に被害を被っている住民たちの民意が政治に反映するようにならないと、いつまでたってもそれらの地域を支配する独裁的な政治勢力が、自分たちの権益を確保し拡大するための手段として武力を使い続けるのではないか。要するに自分たちの権益を確保するためには、住民がいくら死傷しても構わないのだろうし、アメリカでさえも自国の権益や勢力を維持したいのであって、たぶんそんな思惑がある限り、事態が収拾に向かうのには困難を極めるのだろう。


6月10日「制度の支え」

 策に溺れているわけではないだろう。何が策なのでもないらしい。ではそれらの成り行きはなんなのだろうか。単なる通常の成り行きか。ではその成り行きとは具体的にどんな成り行きなのか。気象現象が起こっているだけか。あるいは天変地異でも起こっているのだろうか。どちらの現象も実際に起こってからその原因がわかるのかもしれないが、事前にそれを予測してそれに備えておくことも必要だろうか。しかし何をどう備えておけばいいのかわからない。いったいこれから何が起こるというのだろう。起こればわかるだろうが、起こってからではもう遅いか。実際にとりたてて何に備えているわけではない。誰が何に備えればいいのかもわからないのだから無理もない。いちいちそれらの予言を真に受けるのも面倒なら、その何かが起こるまで待っていればいいわけか。いくら待っても何も起こらなければ忘れてしまいそうだが、天災は忘れたころにやってくるものだろうから、待ちくたびれたら、忘れてしまっても構わないのではないか。いつ起こるかわらない天災を当てにするわけにはいかないだろうか。では来たるべき天災を想定して策を弄しているわけでもないのだろうが、その策とはなんだろう。人を使い捨てにする策略なら、すでに自然発生的に社会の隅々にまで張り巡らされているはずだが、人々それに進んではまり、喜んで使い捨てにされようとしているのではないか。誰が使い捨てにされることを喜んでいるというのか。たぶんそれらの成り行きが自身が使い捨てにされる過程だということを感じ取れないわけだ。そして別に策に溺れているわけでもないのに、何かしら策略を練りつつそれを実行に移したわけだが、どうも何かがおかしいという気がするものの、まだその時点ではそれが自己崩壊を招く結果をもたらすとは思いもしないだろう。やはりそれが起こってからでないとわからないわけで、事前に思っても見なかったことを予測するなんてできっこないのかもしれない。では何が自己崩壊を招くというのだろう。策に溺れているということなのか。しかし何が策なのでもない。結局何が策なのかわからないまま、それらの成り行きからもたらされた策に溺れて自己崩壊してしまうということなのか。では誰が自己崩壊するというのか。それも何かが起こってみないことにはわからないのか。ならばいったい何についてここまで述べてきたつもりなのか。

 何かが成し遂げられるためには誰かの犠牲が必要だということか。そして自分たちがその犠牲となることに、気づかせないようにしなければならないということか。実際に気づいていないのだから、別に気づかせないようにする必要はないのではないか。彼らはそれが犠牲だとは思いもしないだろう。たぶんそのような結果がもたらされた後でもそうは思わず、むしろそんな結果がもたらされたことを喜ぶはずだ。だからまだそうなる以前にあまり犠牲だなんだのと騒ぎ立てないほうが、事がスムーズに運ぶ可能性が高い。だからまだこれから何が起こるか表立って言わないほうがいいわけで、起こるまでは黙っていたほうがいいのかもしれない。だが黙るも何も、本当に何が起こるかわからないのだから、下手に思わせぶるよりは何も言わなくて当然だろう。それが正直な対応であり、起こることに対する備えなのではないか。そして弄するべき策など何もなく、何が策ともなり得ないのかもしれず、ただ黙ってそれらの成り行きを眺めていればいいのかもしれない。多くの人たちが使い捨てにされる光景を無表情で眺めていればいいわけか。しかしなぜそこで使い捨てにされてしまうのだろうか。そこに至るまでの成り行きがそれらの人たちを必要としていて、いったんそこに至ってしまえば、もうそれらの人たちには用がないということだろうか。成り行きの過程では活躍の場が与えられているのに、それが過ぎてしまえば、彼らには居場所がなくなってしまうのかもしれず、後は昔ながらの人たちがメディア上で主導権を握って、結果を自分たちの価値観や主張に引き寄せながら語り、それが自分たちの手柄であるかのように喧伝し始めるだろうか。まだそうなるかどうかはわからない。それにそれらの成り行きがそのような結果に至らず、実を結ばなければ、それらの人々の使い捨ても起こらないのではないか。まだぬか喜びする段階でもないし、これからさらに一悶着起きて、何やらわけのわからない結果をもたらすとも限らず、これまでもそうだったように、必ず人々の期待を裏切るような結果に至るような気がするのだが、今さらそれをもったいぶって予言してみてもくだらない。ともかくそれにのめり込むのはヤバそうで、利いた風な批判をするのもほどほどにしておいたほうがよさそうだ。それらは制度の中での攻防に過ぎず、双方ともに制度からはみ出て何を主張しているのでもなく、制度を根本的に変えようとしているのではなく、批判されている側が自分たちの都合のいいように、制度を作り変えようとしているにしても、それは制度の枠内で制度そのものを強化しようとしているだけだ。

 とりあえずどちらの主張が勝つにしても、それらは制度が形骸化するような方向を目指しているわけではなさそうだ。要するにどちらもそれらの成り行きに逆行しているか、あるいは抵抗しているのであり、そうなってしまうのを食い止めようとして、賛成か反対かの二項対立を演じているわけだ。もちろんそれを偽りの二項対立などと捉えてはまずいし、彼らには彼らなりのちゃんとした言い分があるわけだから、そういう水準ではそれらの運動を肯定しておくべきなのだろう。そしてそれは制度から導き出された主張であり、制度内では有効に機能しうるのではないか。もちろんそれらの成り行きによって制度そのものが形骸化してくれば、そんな主張などどうでもよくなってくるだろうが、この段階で否定したり嘲笑したりしてはまずいのであり、それをやってしまっては反動的な振る舞いと受け取られ、かえって保守派と同類だとみなされ、制度の維持に貢献してしまうだろう。その辺が微妙なところかもしれないが、うまく手抜きをしながら、成り行きを進行させるように振る舞う必要がありそうだが、とりあえずはそれらの成り行きの犠牲となり、使い捨てにされる側の人たちの中に身を置いておくべきかもしれない。それが無難な選択だろうが、たぶんそれらの現象が進行していく過程で、自然とそこから逸脱していくにまかせるような事態となるのではないか。自分の意志ではなく自然の意志に身をまかせるべきなのだろう。そんなわけでやがて別れる時がやってきそうな予感がするのだが、この先何かをやる機会が到来しなくても構わないのであり、他の誰かが主導的な立場を占めるにしても、それらの成り行きを食い止めようとするのではなく、成り行きに身をまかせながら行動することになるのではないか。従うしかない成り行きに身をまかせるしかない時が誰の身にもやってくるのかもしれず、今政権を握っている勢力に属している人たちも、そうなっている最中なのであって、そのような成り行きに逆らえないから、無様な醜態をメディアを通して人々の前に晒しているのだろうが、それをやめる選択肢がないわけだから、ごり押ししてでもやり遂げようとしているわけで、彼らは彼らで誰が仕掛けたわけでもない罠にはまっているわけだ。そして彼らは彼らで用済みになるまではやり続けるだろうが、後世の評価が決して肯定されるような業績とはならないことは、もはや火を見るよりも明らかだろうか。いくら必死になってやっても、誰からも否定されるようなことをやっているわけだから、彼らは彼らでつらい立場に追い込まれているのだろう。でも彼らを非難している人たちも、一見かっこいいことを言っているのだが、その彼らを支えているはずの制度自体が形骸化してしまえば、制度とともに雲散霧消してしまうような存在でしかない。


6月9日「国家の希薄化」

 国家体制を維持継続させるには何が必要だろうか。逆に維持しなくても継続させなくてもいいなら、話がわかりやすくなるだろうか。日本が今すぐソマリアのように無政府状態になるとは思えないが、政府による統治を突き崩すには、武装勢力を結成して内戦状態に持ち込む必要がありそうだ。だが今の日本でそんなことができるとも思えないか。では武力には頼らずに政府を転覆させるにはどうしたらいいだろうか。別に国家転覆を企んでいるわけではないが、なんとなくそうなれば面白そうな気がする。しかし国家統治を終わらせてどうするのだろう。国内各地に複数の武装勢力が群雄割拠するだけではないのか。紛争地帯では確かにそうだが、平和な地域で政府の行政機構が崩壊するわけがないか。たぶんやり方としては武装闘争ではないのかもしれないが、実際に非武装で政府に反旗を翻しても、警察などの治安組織につかまっておしまいなのではないか。そういう意味では警察や軍隊などの暴力装置を備えた行政機構に逆らうのは至難の技か。ならばそういう政府との対決姿勢を鮮明にしないで、向こうが気づかないうちに国家を無化するようなやり方を模索できないだろうか。個人が何をするわけでもなく、どのような行動も起こさずに世の中を変えることなどできはしないのだろうが、ただ漠然とそう思ってしまうことが、何を意味するわけでもなく、世の中に何の影響も及ぼさないとしても、なぜかそれと意識せずに、そんなやり方を模索しているのかもしれず、少なくともそれを言葉で構成して表明することはできそうだ。しかしまだ具体的には何も思いついていないことも確かで、それを空想するにも至っていないのではないか。

 要するに冗談の域を出ない妄想でしかないだろうか。何もしなくても国家が自然に崩壊するなんてありえないことか。でも何の理由もなく警察や軍隊が民衆を弾圧することはないはずで、その弾圧する理由がないままに、人々が行政機構から離れていってしまう事態を想像できるだろうか。見落としてはならないのは、警察や軍隊などの行政機構を担っている公務員も、一応はその国の国民であるということだ。公務員と公務員でない一般人との対立軸が見出せなければ、公務員が一般人を弾圧する必要がなくなり、しかもそれで行政機構が崩壊の危機にあるような事態を想定できるだろうか。どうして行政機構が崩壊に至るのだろう。例えば何もやることがなくなってしまえば、それが存在している意味もなくなるのではないか。しかし他の国家がある以上は、対国家としての国家の存在意義は嫌でも生じてくるはずだ。それ以前に何もやることがないなんてありえず、逆に自ら進んでやることをこしらえている最中でもあるのではないか。だがそのやることがことごとくうまくいかなければ、次第にやることがなくなってくるかもしれない。とりあえずは税収がある以上は、それで予算を組めてその予算を使って仕事を作れるのだろうが、その税収が先細りになって借金も限界に達すれば、なかなか新たに仕事を作れなくなるのではないか。それは現に債務超過のギリシアで起こっていることだろうか。だからといってEUの支援を受けなければギリシアが国家として崩壊するわけでもなく、国民が貧しくなるだけで、それでも行政はそれなりに機能し続けるのかもしれない。実際に債務破綻を宣告されたアルゼンチンが国家として消滅したわけでもないし、国家の崩壊とそれらとは違うことかもしれない。

 では国家の崩壊とはなんなのか。歴史的には他国や周辺民族から軍事侵攻されて崩壊するパターンならよくあったことだが、それ以外での国家の消滅なんてありえるだろうか。そもそも他国から攻撃されずに国家が崩壊する可能性を探ること自体が間違いなのか。それともこれからかつてないことが起ころうとしているのか。世界的に人々が国家に対して関心がなくなってくれば、何も起こらなくても国家が形骸化してくるかもしれない。誰かがあるいは何か特定の勢力がそれを仕掛けているわけではなく、そもそも国家は他の国家と対立していないと、国家としての体裁を保てない存在なのではないか。経済の貿易摩擦とか国境紛争とか、何かしら問題を抱えていることで、国内向けに他国の脅威を喧伝し危機意識を煽り、国民として一致団結しようなどと為政者が呼びかけ、そうすることによってかろうじて国民と呼ばれる集団が、互いに利害が対立している問題を棚上げして、結束を固めることができるのであり、日頃は職場や隣近所でいがみ合っていても、直面している国難を乗り越えるために協力し合えるのかもしれないが、それが平和な状況で果たして有効に機能するものなのか。結局メディアを通じて世界中から入ってくる情報量が、昔と比べると格段に多く膨大な量なので、一部の国粋主義者を除くと、その危機意識を煽って国民を一致団結させるやり方が、あまり効果を発揮できないのかもしれず、日本の場合は特に周辺諸国と戦争状態であるわけでもないし、領土問題にしてもそれで武力衝突するとは思えないような状況であることは、誰もが感じているところなのではないか。要するに状況的に平和であればあるほど、国家そのものは希薄化する傾向にあり、それに対して自覚があるかどうかはわからないが、政権を握っている側の政治家などには焦りが生じていて、盛んに他国の脅威を煽り、国会でも自衛隊による戦闘行為の可能性を広げる法案を提出してみたり、恒久平和を目指す憲法第9条の改正を目指したりしているのではないか。要するに為政者や国家権力を握っている側からすれば、平和こそが真の国家に対する脅威なのかもしれない。ということは、このまま戦争がない状態が続いて行けば、国家がそのものが次第に形骸化して行き、ついには崩壊してしまうだろうか。


6月8日「合理性の罠」

 何が矛盾しているとしても、全てを合理的には説明できない。人の思考を超えて事態が推移しているのかもしれず、それを合理的に説明しようとすると、矛盾やパラドックスにたどり着くのだろうか。そこへたどり着くとしても、そこから目をそむければ、合理的な説明を保持していられるわけか。要するに矛盾やパラドックスに気づいていないか、気付いていても気づいていないふりをすればいいということだろうか。それとも人がそれに気づく気づかない以前に、人の思考自体が事物や事態の推移や変化に影響されて、それを説明しようとすれば説明すること自体が、それらの推移や変化の過程で起こっていることなのではないか。それらの現象の一部として、誰かがそれについて語っている状況があるわけだ。しかしなぜそれを説明しなければならないのか。そこで生じている矛盾やパラドックスを明らかにしなければならない、という使命感に駆られてやっていることなのだろうか。要するに合理的には説明できないことを示そうとしているのではないか。合理的でなければなんなのか。そこに歴史的な経緯があり、成り行きがあるということだろうか。そしてその成り行きが合理的な経過を辿らないということだろうか。そこに関わっている人や勢力の思惑が複雑に絡み合って、カオス的な様相を呈していると言えるだろうか。しかし人はそれを合理的に説明しようとして、矛盾やパラドックスを避けようとするので、何か分かりやすくて理路整然とした説明になり、多くの人がその説明で納得してしまうので、それらの思考は相変わらず事物を完全に捉えきれていない。もちろん言葉で完全に捉えることなど不可能なのかもしれないが、人々が納得している説明を超える事態の推移が常にそこで起こっているので、そこに思い違いや勘違いが潜んでいるわけだ。しかもその思い違いや勘違いにこだわり、それを頑なに信じようとする人まで現れ、そのような思い違いや勘違いが現状と次第に整合しなくなってくると、それは迷信となってさらに事態が合理性からかけ離れた様相を呈するわけで、さらにその迷信を利用して利益を得ようとする人や勢力まで出てくるわけで、そのような人や勢力が構成するのが狂信的な宗教教団であったり、過激思想を流布する武装集団であったりするわけで、それらの集団による宗教的な妄信が、民族や宗派間の対立や差別をもたらし、場合によっては武力衝突などの紛争を起こして、世の中に深刻な災いをもたらすに至る。そしてそれらも事物や事態の推移や変化の一部であり、一つの典型例や特徴的な形態を示していて、それらの現象を収束させるために、武力を使って徹底的に押さえ込もうとすれば、さらにこじれた事態が到来して、紛争が慢性化してなかなか収拾がつかなくなったりするわけだ。

 しかもそんな危機的な状況でさえ、それらの事物や事態の推移や変化の一部であり、さらにそれについて合理的な説明をしようとする人々がいるわけで、またそんな説明もそれらの一部として機能し、それらの不完全な説明を真に受けることによって、人々の間で思い違いや勘違いの妄想的な陰謀論などがまことしやかに囁かれるわけだ。そうやって人はどこまでも合理性を求める一方で、不合理で妄想的な思い込みに行き着き、その合理性と不合理性のギャップに人々は苦しんでいて、そこに矛盾やパラドックスがあることに気づき、それをなんとか克服しようとしているわけなのだが、やはり一方でそれを克服するための試みは合理性に基づいて編み出すしかなく、人は絶えず矛盾やパラドックスを取り除いた合理主義が支配する社会を夢見ているわけで、そこに現実と理想のギャップがあるのはわかっているだろうが、そのギャップを絶えず埋めようと試みているわけで、現実を理想に近づけようとする。その一例が日本国憲法の第9条などに反映され、その理想と現実のギャップが未だに物議を醸していて、その理想に反感を抱く勢力などは、現実を理想に近づける試みとは逆の理想を現実に近づけようとしているわけだが、そのような試みでさえも、現実からかけ離れた妄想や思い込みの虜になっている面もあり、それらの勢力特有の主義主張やこだわりが邪魔をして、まともなありのままの現実を認め難く、こちらもこちらでまた違った意味で、強引に自分たちの理想に現実を近づけようとする試みになってしまっているわけで、そこにもそれ特有の矛盾やパラドックスが生じてしまって、現状はでうまくいかなくなって、各方面から批判を浴びている最中なのだろうが、これもまた事物や事態の推移や変化の一局面なのだろうし、それらの批判を含めて、これからまた流動的に状況が移り変わっていくだろう。そしてこれからどうなるにしろ、やはり人々は矛盾やパラドックスから生じる社会の不公正や不公平を是正しようとするだろうし、そのための方法をあれこれ模索していくだろうが、たぶんそのような試みが行き着く先にも、その社会特有の矛盾やパラドックスはあるだろうし、結局絶えずそれを改善しようとする姿勢を保ち続けること以外に、まともな現状認識を得るすべはないのかもしれず、そこから目をそむければ一見合理的でその実不合理な理想論へと導かれてしまうのだろう。


6月7日「平和の価値」

 これも当たり前のことかもしれないが、誰に一方的な正義があるわけではない。人それぞれで正義の基準も違うし、どのように行動すれば正義となるかの定義も違ってくる。それは何にとっての正義なのか、あるいは誰にとっての正義なのかについても、人の立場や周りの環境や状況によって違ってくるのではないか。では誰の正義について何を述べたいのか。憲法を堅持したい人々の正義が何かをもたらしている。そう考えるのが妥当だとは思えないが、何ももたらしていないわけでもないらしい。安易な活動とは言えないだろうか。たぶんそうではない。ではなんらかの重要な社会変革の動機を含んでいるわけか。何かを守っていることには違いない。何を守っているかといえばそれは憲法だろうか。単刀直入に言えばそうなりそうだ。それ以外に言えるとすれば、それは自分たちの生活を守ろうとしているつもりなのではないか。そう思いながら活動しているのかもしれない。そしてそれがどうかしたわけではないだろう。当然のことをやっているまでか。彼らにしてみたらそうなのではないか。そうすることが正義なのだ。少なくともそれはそれで間違った行為ではない。そうすることが正しい行為なのだろうから、そこに正義があるのではないか。その正義は賞賛されるべき正義だろうか。それを賞賛する人たちがいるのかもしれない。でも正義だけでは飽き足らず、それらの人たちは善を目指しているのではないか。それは善悪の善であり、巨悪に立ち向かうには自分たちが善でなければならないと思っているのだろうか。はっきりとそうは意識していないだろうが、立ち向かっている相手が巨悪なのだとすれば、必然的にそれは善の側に立っていることになるのではないか。そうなるとそれらの人たちのやっていることは、正義であり善であることになってしまいそうだ。これでは何かまずいのだろうか。表面的にはまずいどころか、そうでなければならないのだろうが、それらの活動に加わらない人たちにとってはそうではなさそうだ。たぶんそれらの人たちは正義や善から逸脱したいわけで、実際にそれらの正しい行いに関わるのが嫌なのではないか。そして今や正義や善で動いている人たちより多くの人たちが、それらの活動に加わらずにいるわけだ。しかも中には巨悪の側についている人たちも大勢いるわけで、正義や善の側についている人たちを罵倒したり嘲笑したりしているわけだ。そのような状況は何を物語っているのだろうか。民主主義の多数決をとれば、正義や善で動いている人たちが少数派になってしまい、それらの活動が実を結んで巨悪を打ち倒すことができない状況なのだろうか。世論調査をすればそうではなく、正義や善の側に同調する人の方が多いのかもしれないが、国会で多数決をとればそうではない。

 そのような状況の何がいけないのだろうか。選挙結果が民意を反映しない制度になっているのだろうか。だがその制度を改革するには、最終的に民意を反映しない制度のもとで当選した国会議員の了承を得なければならない。自分たちの不利益になるようなことを国会議員が果たして決められるだろうか。正義や善より利益を優先させる仕組みの中で政治制度が成り立っているとすれば、それに対して正義や善を掲げて立ち向かっても勝てないわけか。しかし正義や善も利益をもたらすのではないか。だがその利益は具体的な金額としてはとらえにくく、抽象的な価値と思われるかもしれず、まるで空気のような概念なのかもしれない。それが平和という概念だろうか。そしてそれは実際にその反対の概念である戦争になれば、それが失われたことによる後悔とともに、そのありがたみがしみじみと感じられるようなものだろうか。そして戦争によって生じた計り知れない被害や損害の額を、そのままプラスに反転させたのが平和の価値であり価格となるかもしれないが、それは実際に戦争になってみないことにはわからないのであり、戦争さえ起こらなければそれらの正義や善など無視していられるわけで、実際に多くの人たちが傍観者の態度を取っているし、またそれらの行為を罵倒したり嘲笑したりしているわけだ。そして本当にこのままでは戦争に巻き込まれるかどうかも今のところはよくわからない状況だ。無関心を装う人たちはそう思っているのではないか。その一方で実際にもたらされた目先の利益に群がっている人たちも大勢いるはずで、その恩恵に与かっている人たちには、それらの正義や善にこだわっている人たちが滑稽に見えるのかもしれない。しかもそれらの人たちは、これまで延々と負け続けてきた人たちなのではないか。何に負け続けてきたかといえば、資本主義市場経済がもたらす利益の前に負け続けてきたわけだ。たぶんこの負け続けの状況を打破できるとは思えないが、一時的には勝利も可能かもしれず、今まさにその一時的な勝利を目指して、民主的な正義や善を掲げて、多くの人たちが活動を続けている最中なのだろう。そしてそれがなぜ一時的な勝利かといえば、彼らが非難を集中させている為政者や政治勢力にも賞味期限があり、それを過ぎてしまうと劣化してきて、官僚たちも宗主国のアメリカも、あまりにも使い勝手が悪くなれば見限るしかなくなってくるからかもしれない。ちょうど今がその時期にさしかかっているのだろうか。それともまだまだ彼らは使える人たちなのか。


6月6日「ユダヤ金融資本による世界征服」

 それらについては様々な意見があってしかるべきだろうか。別にどんな意見なら納得するわけでもないが、世間で幅広く流通している意見には不信感がある。納得できない部分があり、だから結果的にそこから少しずれたことを語っている現状がありそうだ。なぜそうなってしまうかといえば、世間の意見に関して疑念を感じている部分を考慮しているつもりなのだが、その結果ちょっとひねくれたことを述べてしまっている印象もあり、その辺を改善したいと思っているのかもしれないが、その一方で世の中の状況に影響を受けているのだから、思い通りの主張を導き出せるとも思えず、あまりにも身勝手で独善的な主張となってしまえば、現状から飛躍しすぎて、荒唐無稽な妄想となってしまうだろう。だから結果的に中途半端で折衷的な意見となってしまうことは免れないのではないか。そしてそんなことを述べながらも、現状での変革の可能性を模索しているつもりなのだが、それを語ってみたところで何が変わるとも思えないので、不満が残るわけだが、たぶんその不満が現状への苛立ちと、変革の不可能性を物語っているのかもしれない。そこに分厚い壁があり、絶えずその壁へ言葉を投げかけているわけだが、ことごく跳ね返されている現状があるのだろうか。しかし実際にそこで何を述べているのか。何を述べてどうしたいのだろうか。それが今ひとつはっきりしない。世界情勢を日本から見ると、中南米やアフリカのサハラ以南やオセアニアの情勢など、まるで眼中にないようだし、欧米や中国や東南アジアや中東やロシアの情勢ばかりが、もっぱらその俎上に上り、何か陰謀論めいたことがしきりに語られ、ユダヤ系の金融資本やアメリカのネオコンなどが、イスラエルの諜報機関などとグルになって世界のそこかしこで暗躍していて、それらの勢力にロシアのプーチンや中国の習近平が対抗している構図となっているわけだが、それは昔ながらの石油や地下資源などの奪い合いや、紛争地域への武器の売り込みや、投資や株価操作などの金融関連などを交えて語られ、要するになんらかの支配的な勢力が世界中で金儲けに精を出していて、日本もアメリカを通じてそれらの勢力に搾取されている現状があると主張しているわけで、その先兵となっているのが、官僚と政権与党と産業界と御用マスコミの癒着連合体という話の筋書きなわけだが、果たしてそのような主張をして、何をどうしようとしているのか。このままでは日本がしゃぶり尽くされて一般の人々が奴隷となってしまうから、政権交代して権力を民衆の手に取り戻さなければならないと言うのだろうか。

 どうもそういう主張は語っているレベルに飛躍があるような気がするのだが、例えば日本は本当にアメリカに搾取されているのだろうか。在日アメリカ軍が進駐していて、しかも費用も世界的に類を見ないような多額を提供していて、何よりも政権与党がアメリカの意向の言いなりになっているわけで、一時逆らおうとした数年前の民主党政権など、何もやれないまま官僚勢力によって葬り去られてしまった事実があり、そう思われても仕方のない面もあることは確かだが、一方で20世紀後半はアメリカへの工業製品の輸出によって、国内経済が潤っていたことも事実で、アメリカのおかげで戦後復興がうまくいったとも言えるわけだ。もちろんそれは日本に遅れて隣の韓国や中国なども、アメリカへの輸出で潤っているわけで、それのあおりを食っているのかどうか見解の分かれるところだが、それらの東アジアからの輸出攻勢によって、アメリカの国内産業が衰退してしまったことも事実で、その状況をアメリカ政府も見過ごすことはできないから、TPPによって環太平洋諸国の関税や物や情報の流通に伴う障壁をなくして、自由で公平な経済競争を実現しようとしているわけだが、そうなると日本では農業や医療分野などで保護がなくなって、壊滅的な打撃を受けるとして多くの人たちや各種勢力などが反対していて、またアメリカ国内でも反対意見が根強くあって、まだどうなるか先行きは不透明な情勢なのだろうが、たぶんそのような動きとユダヤ金融資本を絡めて説明する必要もないのではないか。またロシアとウクライナの問題にしても、中世の時代にはルーシと呼ばれる当時の地域の盟主は、現在のウクライナ人の祖先が打ち立てたキエフ公国がだったのに、モンゴルの支配が続いたタタールの頸木と言われる時代に、モスクワ公国が巧みにモンゴル帝国に取り入って、モンゴル人たちをその地域から追い払った後は、ロシア帝国へと発展してその中にウクライナ人たちも組み込まれていってしまったわけで、昔からロシアに対して反感が根強かったから、ソ連の崩壊とともにロシアとは手を切ってヨーロッパに接近したい願望が強く働いた結果として、現在起こっているような紛争となっているわけで、アメリカをはじめとする欧米諸国がウクライナを支援する理由は、ロシアがロシア系住民が多数を占めるクリミア半島を一方的に占拠して併合し、また同じくロシア系住民が多く住むウクライナ東部に軍事介入していることによるわけで、ロシアにしてみればウクライナが親ロシア系の政権からウクライナ人の民族勢力を含む政権に移行したから、ウクライナ国内のロシア人が弾圧されるのではないかという大義名分で介入しているわけで、しかし欧米諸国にしてみれば、それはロシアによる隣国への軍事侵攻そのものだから、それに反対せざるを得ないわけで、ウクライナの政権にはネオナチの勢力が含まれているとしても、アメリカがウクライナのファシストと結託して、ロシア国内のユダヤ金融勢力を追い出したプーチンに戦いを挑んでいるという説明で、何やらユダヤ金融資本による世界征服をロシアのプーチンと中国の習近平が阻んでいるという構図を後押しているのだろうが、果たしてそういう陰謀論をどこまで信じればいいのか、そういう説明をまことしやかにしている人たちは、世界征服をたくらんでいるらしいユダヤ金融資本について、どれほどの知識を持っているのか、あるいはそれらの秘密をどうやって入手したのか、または彼らとユダヤ金融資本とのつながりはどうなっているのか、どうもその辺のところで疑念を抱かざるを得ないわけだ。


6月5日「主張の正しさ」

 粗雑な意見に周りを囲まれているように思われる。たぶん誰もが粗雑なことしか述べられない環境の中で、粗雑に思われるような意見を述べているのだろう。そして自分もそうなのかもしれないが、それらの何がおかしいのか。おかしいのではなくそれらの意見に同調できないのではないか。ではなぜ同調できないのか。理由もなく同調できないわけがない。要するにそれらの意見が不快だから同調できないのではないか。なぜそんなことがいえるのか。ただそう思うだけで理由など特に表明するまでもないと思っている。というか理由がわからないのではないか。しかし粗雑なこと以外は述べられないような気がするのはなぜだろう。なぜそう思うかと問うことが理由をわからなくしていないか。ではそれらは意味のない問いだろうか。普通に考えるなら意見を述べることに意味があり、何も表明しなければ他の誰からも認められないのだろう。だが表明したところで認められるわけではなく、他の誰かが表明しているような意見を述べなければならない。なぜそうするのかといえば、他の誰かから認められたいからなのではないか。だがそれを拒否する理由があるだろうか。意見を述べること自体が、その意見に対する賛同者を募っていることになり、また他の誰かが述べている意見に賛同したくて、同じような意見を述べているのではないか。そしてそれは意見に説得力があり、その通りだと思うから賛同するのだろう。ではそうとは思えない意見に賛同することがあるだろうか。たぶん賛同するとは思えないが、誰も賛同するとは思えないような意見を主張する必要があるだろうか。必要もないのにそんな意見を主張することに、何か積極的な理由があるだろうか。それは誰もが主張している意見に疑問を持っているからなのか。だが他が間違っていて自分一人だけ正しいことを主張しているとは思えないはずで、むしろ多くの人たちが主張している意見の方が正しいような気がするわけで、それでも正しいとは思えないその意見を主張するのはどうしてなのか。その正しいとは思えない意見に魅力を感じているのか。そうだとすればその魅力とはなんだろう。人とは違うことを平然と表明することに、何か肯定できるような魅力があるだろうか。それは魅力ではなく使命のようなものだろうか。使命とは何か。少なくとも誰からそんな使命を託されたわけでもないのに、わけのわからぬ使命感を抱いて人とは違う意見を主張しようとしているわけか。それも違うような気がするのだろうが、粗雑なことしか述べられないのに、しかもどう考えても大して説得力もなく、他から賛同を得られるとも思えないのだが、やはりそんなことを主張しなければならないらしい。

 ただそれは違うと思うだけだろうか。ではそれの何が違うのか。安易な単純化が施され、確かにその通りだとは思うのだが、単純化しているように思われるところが違うわけだ。では何を単純化しているのか。そこに至る経緯を省くと、何か正しいことを主張しているような意見となるわけで、それを省いたことで主張の正しさが装われてしまう。世の中に満ち溢れている主張とはそんな意見ばかりだろうか。だからそれは違うと思われてしまうのか。しかしその省かれた経緯とはなんなのか。どのようにしてそうなったのかを示すような成り行きだろうか。たぶんそのような成り行きがそのような事態を招いているのだが、結果的に人々に示されている事態が、いかに不快で間違った事態であろうと、やはりそのような事態へと至った成り行きがあるわけで、その成り行きを省くと論理的かつ合理的な批判ができるわけだ。そして批判者はその批判の合理性を主張し、自分は正しいことを主張していると思い込み、その主張の正しさの中に安住できるわけで、もちろん論理的かつ合理的に思われることを主張しているのだから、その賛同者も大勢現れ、結果的に大勢の人たちが同じような主張の虜となる。それの何がまずいのだろうか。その正しい批判にさらされている人たちが反発し、ますます批判の対象となっている行為に執着して、それを強行しようとするわけか。そして正しい批判ではそれをやめさせることができない現実が、批判者たちに無力感を抱かせ、迷いを生じさせて、その迷いが主張の正しさからの離脱を誘い、正しいことを主張する人たちが徐々にいなくなってきて、世の中がだんだん荒んでくるわけか。だが実態はそうではないのだろう。そのような批判へと至る成り行きがそこで終わったわけではなく、また続いている最中なのであり、そのようになった結果の先の現実の中で人々は生きているわけで、その意識もその先の現実の中にあるわけだ。ある時点で何からの結論が出たとしても、その結論はその時点での結論であって、その先の成り行きを含んでいるわけではなく、人々の言動や行動がその先の成り行きをもたらしていて、その結論がそれらの言動や行動に影響を及ぼしているとしても、いつまでも過去の結論に拘束されているわけではなく、時が経つにつれてその影響圏から逸脱していき、気がつけばそんな結論や結果など忘れ去られているかもしれず、いつまでも意見の正しさにこだわっていること自体が、過去の遺物と見なされるようになるかもしれない。結局人々はそれらとは関係のないところで生きていることになる。


6月4日「夢物語」

 現状で何ができるのだろうか。何もできないわけがない。では誰が何をやろうとしているのか。誰かが何かをやろうとしているのではないか。そして誰もが何かをやっている。誰も何もやっていないわけではない。そしてこんな現状の中で生きている。何がどうなっているわけでもないと思うが、そうは思わない人が世の中の大半を占めているのだろう。だが大雑把なことはどうでもいい。具体的に何をやるかが問題なのだろうか。そして実際に何をやっているかが問題となっているはずだが、その辺のところが一向に見えてこない。具体的に何を見ようともしていないから、何も見えてこないのではないか。しかし何を見ればいいのか。見ようとする対象が定まっていない。いったいこの世界の中で何を見たいのか。とりたてて何を見ようとしているわけでもないとしたら、別にそんなことはどうでもいいのではないか。そうなるとやはり何がどうなっているわけでもないと思うしかない。でも茶番だとは思わないことにしているはずだ。馬鹿にするようなことではなく、誰が馬鹿にされるべき人間だとも思わない。誰もが罵倒したい人物がそこに居座っているとしても、そうなるに至る成り行きがあったわけだから、後からそれをいくら否定してみても、そのような経緯を変えることはできない。その成り行きを前提として何かやらなければならないのだろう。では実際に何をやっているのか。何か単一の企業やそれを所有している勢力が、特定の産業分野で独占的な権益を確保していて、それによって巨万の富を築き上げているわけか。だがそれは一般人にとっては関係のないことだ。というか実態がわからず、また例によってメディアからもたらされる情報を基にして推測や憶測を語るしかない。実際にジャーナリストと称する人たちが、それをまことしやかに語ってみせ、それを一部の一般人が事実であると思い込んでいるわけだ。たぶんそれは事実なのだろうが、すべてが明らかとなっているわけではなく、知りえない部分については、またいつものように憶測や推測の域を出ない話なのだろう。しかしそれ以上の何を知りたいのか。それを知ってどうするのか。取り立ててどうするわけでもなく、興味深い話として拝聴するしかない。それだけでかまわないのだろうか。それについて何か改めて語らなければならないのだろうか。語ることはできそうだが、語ること以外で何ができるわけでもないのではないか。自分たちには手の届かないところで何かがやられていることについて、いったい何をどうすればいいのだろうか。

 またそれについて批判するつもりなのか。巨額の利益を出していると見なされる大企業から国が金をふんだくって、国民に分け与えないと駄目らしいが、国が一般国民より当の大企業の味方のように思われてしまうことにも納得がいかないのであり、そのような状況もなんとかしたいらしいのだが、結局そこから話が飛躍して、全世界で一斉に大企業の資本に課税すべきだと主張しても、当然一斉に課税できるわけがなく、そのためには世界を一つの行政機構の下に統一しなければならないだろうし、当然今すぐに世界統一なんて、さらにできっこないという話になってしまうわけだ。では結局一般人は何をやるべきなのか。国のやり方の何を批判すべきなのか。今批判しているようなことを継続して批判し続けていけばいいのだろうか。では彼らは実際に何を批判しているのか。国会での政府側の答弁者がお粗末すぎることを批判しているわけか。それもあるだろうが、このままでは自分たちが不利益を被ってしまうという思いが強いのではないか。貧富の格差が広がり、一部の特権階級だけが利益を得られるシステムになってしまうと思っているのではないか。それで必死で批判しているわけなのだろうが、その一方で民主主義的な国家の制度を疑うことはしないようで、たとえ選挙で政権与党側が勝ったとしても、それは不正選挙だったからとしか言うことができないわけで、その選挙を仕切っているのが、政権与党と癒着している官僚機構であるならば、よほどのことがない限りは、政権交代などあり得ず、仮りにあったとしても官僚機構の言うことを聞かなければ、たちまち政権運営がうまくいかなくなってしまう事実があるにもかかわらず、やはり今ある制度内でなんとかしようとするわけで、そしてどのような結果になったとしても、相変わらず批判し続けなければいけないわけだ。これらの成り行きの何が問題なのだろうか。たぶん何も問題ではなく、今必死で批判している人たちも、批判し続ける過程で何かを理解するのではないか。何かとはなんだろう。それは国家というシステム自体に、うまくいかない要素があるということだろうか。たぶん民主主義では金儲けができないのであり、資本主義的なやり方では金儲けができるかもしれないが、それは貧富の格差などのように、民主主義とは相容れない結果をもたらすわけだ。そしてその両者を調和させようとすれば、結局世界同時に同じ比率で資本に課税するとか、世界を統一して諸国家による世界の分割を終わらすとか、現状では夢物語のようなことを語らなければならない。


6月3日「穏当な意見」

 世界は何を有効活用できていないのだろうか。それは軍事力か、それとも経済力だろうか。たぶん有効活用という意味が、それが意味するところの活用が、人の立場や置かれた環境で違うのだ。例えばアメリカの軍事力はどのような勢力によって有効活用されているのか。よくメディアで言われるようにネオコンと呼ばれる軍産複合体によって利用されているわけか。それが何に利用され活用されて、それらの勢力の利益確保に貢献しているにしろ、それがアメリカ全体のためになっているとも思われないにしても、莫大な維持経費をかけて、世界で突出した軍事力を継続的に保つことに、何か特定の意図や思惑があるとも考えられず、惰性と慣習でそうなっているにすぎないような気もするのだが、アメリカ政府としては出来うる限り無駄を省いて、効率的に削減したいところなのではないか。そのためには今なお世界各地で戦火が鳴り止まないことが障害となっているわけだろうが、兵器産業のためにわざと紛争を長引かせていると考えるのは、ちょっと穿ち過ぎなのかもしれず、それがどのような理由でそうなっているのでも構わないのかもしれないが、何かもっと自然な解釈を考えたほうがいいのかもしれない。どうも人々を敵と味方に分断して、悪事を働いている敵を糾弾するそのスタイルが、ネット上にもメディアでも蔓延り過ぎていて、多くの人たちが何でもかんでも敵を作って、それを非難し罵倒することしかできなくなっている現状があるようで、述べている意見が単調になってきて、それでは意見を異にする人々はみんな敵で、意見を同じにする人々だけでタコツボ的な分派が多数出来上がり、それらがそれぞれに独善的な指導者に率いられた宗教教団になりかねず、それのほうが教団内では心地よいのだろうが、外部の人々にとっては不快だろうし、それで世の中が良い方向へと変わっていくとは思えない。人々はどのようにしてそのような傾向へと陥りがちになるのだろうか。もはや対米追従姿勢を隠そうとせず、原発事故処理や対応にあからさまな怠慢が見て取れ、にも関わらず原発再稼働を強行しようとしている日本政府に対して、強烈な不信感があり、そんな政府に迎合的なマスメディアの論調にも、不快であると同時に嫌悪感がわいてきて、そしてそのような危機的な状況の中で、平然と政治的な無関心を示す人々も大勢いるように思われ、さらに政府や迎合的なメディアを支持する人々までいる現状を考えると、身の回り中が敵だらけであるように感じられるのも無理もないことだろうか。しかも民族差別的な街宣行動やヘイトスピーチまでが野放しになっているように思われるとすれば、もはや世の中が来るところまで来てしまったような印象を持ってしまうか。

 そんな切羽詰まった状況下で、なおも能天気に政治的な無関心層を擁護するようなことを述べている者がいたら、それは許しがたいことになるかもしれない。だがそれでかまわないような気がするのはなぜだろうか。今さら民主的な制度を再建して、国民の自由と平等を実現すべく、理想的な国家体制を築こうとする行為を信じるわけにはいかないからか。何がそれの実現を阻んでいるのかは、貧富の格差をもたらす資本主義であることはわかりきったことかもしれないが、一方でその民主的な国家を維持するには、産業振興によって国家に利益をもたらす資本主義が欠かせないことも分かっているはずで、リベラルな人たちはその背反する両者を、上手く調和させることが可能だと信じなければならないのだろうが、果たしてそれを調和させる有効な策があるのかどうか、それがあると信じる人たちがいる一方で、そんなものはないと考える人も大勢いるわけで、別に政治的な無関心層のほとんどはそんなことなど深く考えもしないのだろうが、彼らの無関心そのものの傾向が、彼らの無意識が政治を信じていないことを表していて、政治を信じていないということは、国政に関心がないということであり、たぶん直接そうは思っていなくても、国家をあまり重要な存在だとは認識していないわけだ。それでかまわないのだろうか。たぶんそれでもかまわないと思う。あえてそう述べなければならない理由などありはしないのだが、この時代は政治的な熱狂とは無縁の時代なのだろう。特定の人たちや勢力の主義主張に、多くの人たちが同調するような世の中ではないということだ。それでも行政を担う官僚機構は、そこで暮らす人々を管理して特定の行動へと駆り立てようとするだろうが、たぶんそれだけではないのだ。そこには行政が手に負えない領域があり、そのような領域がある限り、行政による管理は不十分で部分的なものにとどまるだろうし、行政が実質的にできることはといえば、管理しているように装うことだけなのかもしれない。そして人々の暮らしはそれ以外の部分が大半を占めるようになるかもしれず、そうなると国政は空回りするしかなく、いくら税金をかけても大して効果は上がらず、無駄に労力を費やすだけとなるだろうか。現状の原発事故処理でもそうなのかもしれず、原発を再稼動させても景気が良くなるわけでもなく、国防を強化するためにいくら法律を作っても、また憲法の改正を試みても、何がどうなるわけでもないとすれば、それはすでに国政の空回りを証明していることになりはしないか。


6月2日「歴史の必然」

 当たり前のことだが誰もが軍事専門家というわけでもない。メディアから伝わってくる情報を基にして推測であれこれ語ることができるだけだ。別に素人が実情などを知る必要もないわけだが、国がやろうとしていることに一般人があれこれ口出ししたいわけだ。それが民主主義であり国民主権なのだから、軍事専門家も嫌とは言えないはずか。そこで特定の誰かを批判の対象としているのだろうが、とにかくそれに関して誰でも意見を表明することができる状況にあるわけで、それらの意見にどれほど耳を傾けたらいいのかも、よくわからない状況なのではないか。もしかしたらそんな意見などどうでもよく、耳を傾ける必要などまったくないのかもしれない。しかしいったい誰がそういう立場なのか。総理大臣がそういう立場なのだろうか。誰がそれを決めるわけでもなく、いずれは国会がなんらかの判断を下すのであり、議員が多数決でそれに対する賛否を決めるわけだ。たぶんそういう成り行きになるのではないか。そしてその決議に対してもあれこれ文句が出るわけだろうが、その文句の内容が気にかかるとしても、その文句についても聞く耳を持たなくてもいいのだろうか。誰がそうしろと言っているわけでもないだろうし、彼に直接命令を下す立場の者がいるわけでもないか。では彼はどのような対応を迫られているというのか。何を迫られているわけでもないか。ただやろうとしていることを粛々とやればいいだけかもしれない。しかし何をやればいいのだろうか。すでに様々なことをやってきたはずだが、それらがある程度は成果を上げていて、それで彼を支持する人たちも一定数はいるのではないか。ならばそれでかまわないのではないか。これまで通りにやるべきことを粛々とやっていけばいいだけだ。それに関しては外野の方面からあれこれと文句が出るのもこれまで通りだろうが、別に何か状況の変化があるわけでもなく、何か危機的な状況に追い込まれているわけでもないだろう。要するにそれでかまわないわけか。文句がある人たちが国民の多数派を占めるに至らなければ、そのまま放置しておけばいいだろう。ネット上で批判させておけばいいわけだ。それで不満のガス抜きにでもなれば願ったり叶ったりか。そういうレベルで滞りがなければ当分はそれで安泰のはずだ。だが果たしてそれでうまくいっていることになるのだろうか。うまくいっているように装いたいわけだろうが、実情はどうなのか。何かそれで不都合な点でもあるわけか。

 たぶん何もやらなくてもいいわけだ。やらなくてもいいのに何かやろうとしていないか。しかし何かやらないことには立場を保てないわけで、何かをやるためにその役職についているわけだ。しかも何かをやろうとしてその役職についたわけだろう。だから今まさにやろうとしたことをやっている最中なのだろう。しかしなぜそれをやらなければならないのだろうか。何かやらなければならない事情でもあるわけか。それともそれをやることが自らの使命だとでも思い込んでいるわけか。その辺のところは推測や憶測の域を出ないところだが、ともかくそれをやろうとしているわけで、なんとしてでもやらなければと思っている節もみられ、ならばやってもらうしかないのかもしれないが、当然それをやろうとすれば文句が出るのだろうし、実際にあらゆる方面から文句が出ている現状なのだろうか。少なくともネット上からはそんな印象を受けるのだが、客観的な状況など知りようがないので、なんとも言えないところだが、何かをやろうとすれば周りから文句が出るのは当たり前のことだろうか。そのような役職についたら周りから文句が出るようなことをやらざるを得ないのではないか。しかも文句が出ながらもやり遂げなければならないのかもしれず、それをやり遂げてこそそのような役職についた意義があるのではないか。だから良識ある人々から批判されながらも必死でやっているわけか。やっている最中に何を言われようと、やり遂げてしまえばいいわけで、やり遂げた後から何を言われようと、後の祭りにしてしまえばいいわけだ。そういう状況を作ってしまえばいい。実際に今まさにそういう状況を作り上げようとしているわけだ。現状をそう捉えておけばいいのだろうか。それともどこかでつまずいてやり遂げられない要素でも出てくるわけか。思わぬところから邪魔が入ってうまくいかなくなってしまうのだろうか。だがそれを予測することが可能だろうか。それとももはや思いがけないことでも起こらない限り、それがやり遂げられてしまう状況なのか。それに関して何を期待しているわけでもなく、それふうの憶測を吹聴したいわけでもないが、これまでの歴史的な経緯からすれば、何かおかしな事態が待ち受けている可能性は大いにありそうで、どうせ間抜けなことになるのだろう、とタカをくくっておいてもいいような気もしているのだが、実際にそういう事態になってから、そら見たことかと嘲笑する気もないので、どのような結果が待ち受けているにしろ、淡々と受け止めるだけかもしれないが、もしまた一度めは悲劇に終わり、二度目は笑劇に終わるパターンに当てはまってしまったら、もう無理にでも笑うしかないだろうか。


6月1日「世界的な貧富の格差」

 何かしら抵抗があるらしく、すんなりとはいかないらしいが、とりたてて何を通そうとしているわけでもないのだろう。ただそれについて考えている。民主主義は国家を必要としているが、国家は民主主義を必要としているわけではない。官僚機構が国民を管理すればそれで十分なのだ。中国などはその典型で、あらかじめ当選者が決められ、形だけの投票制度があるみたいだ。要するに共産党系の候補しか当選できないのだろう。アメリカは中国よりもう少しマシで、ほとんど民主党か共和党の候補者しか当選できないようだ。一党独裁国家か二党独裁国家かということになりそうだが、二党であれば独裁とは呼ばないので、かろうじて民主主義が実現していると言えるだろうか。制度よりも具体的にそこで何か行われているかが問われるべきか。例えば日本国民が何を望んでいて、政治がそれを実現できる見込みがあるのだろうか。平和でそこそこ食っていけるだけの産業があれば、それでかまわないような気がするのだが、大企業がいくらでもある国だからそうはいかないのだろう。まさか国力が衰退していくことを国民の大半が望んでいるとは思えないし、今より景気が良くなって物質的にも精神的にも豊かな暮らしがお望みなのかもしれないが、一部の金持ち階級はさておき、すべての国民がその恩恵に与れるには、ちょっと人口が多すぎるのかもしれない。というか他の国の現状を見る限り、まずは日本よりは現状で貧しい国が豊かになった方が、世界平和に貢献するのではないか。結局欧米諸国や日本などの先進国が今の豊かさを維持するためには、それらの貧しい国から搾取しなければ維持できないのではないか。つまり先進諸国が豊かさを享受していることの裏返しが、貧しい国々で飢餓や武力紛争が絶えないことの原因となっているのではないか。だが世界が資本主義市場経済で覆われている限り、貧富の格差があることは止むを得ず、貧しい国でも特権的な支配階級が裕福な暮らしを謳歌している例など、いくらでもあるのではないか。過去の日本において比較的貧富の格差が少なかった時期は、たぶん高度経済成長期に工業製品を輸出して、国内に富を蓄積できたことにあり、バブル期の不動産投機などにより実態からかけ離れた資産価格にまで上昇して、それがはじけて少ししぼんだものの、やはりまだ輸出で儲けた蓄積が残っていて、そのアドバンテージによって今まで食いつないできたのかもしれないが、たぶん今後は世界的な貧富の格差の実態が、そのまま日本国内にも適用されるような状況となるのではないか。ともかくピケティがデータ的に明らかにしたことによれば、戦争や経済恐慌などがない限り、経済成長率より資本投資によって回収される利益率の方が常に高いわけだから、金持ち連中は手持ちの金や銀行などから融資を受けて得た金を、各種の資本へ投資することによってますます豊かになる一方で、資産のない一般の人たちは賃金労働によって金を得るしかないから、経済成長率が下がれば給料も上がらないし、とりあえず現状で何もしなければ、経済的な貧富の格差は開く一方なのだろう。

 もちろんそれを政治家や政党が放置するわけがなく、国民を豊かにする政策を実行しているはずなのだろうが、国民の多くはそれがまやかしだと思っているようで、実際に豊かさを実感できないとすれば信用するはずがなく、日本では政府に協力的なメディアを駆使して、なんとか国民に豊かさを幻想させようとする節までありそうだが、中には隣の韓国はもっと酷い状況だと煽って、それと比べれば日本の方がはるかにマシだと主張する人たちまでいて、そのような取り繕い方がどこまで有効なのか、本当に大半の国民がそんな情報操作で納得するのか、たぶん納得していないだろうし、昨今の選挙での投票率の低下を見れば、もう政治には期待していない人たちが国民の約半数を占めているような状況らしく、そのようなところから民主主義の危機が叫ばれているわけだ。では例えば民主主義がまだ有効に機能していると思われるヨーロッパ諸国などはどうかといえば、豊かさを求めてアフリカや中東などから移民が押し寄せている段階で、そのような流れが一段落してみないことにはなんとも言えないだろうが、例えばスイスなどは金持ち相手の銀行業や高級ブランド時計などが一大産業化しているわけで、世界の金持ちがスイスの銀行に口座を設けたり高級時計などを定期的に買い続けてくれれば、スイス国民はその豊かさの恩恵を受け続けられるわけで、要するに民主主義も金次第ということなのだろう。そしてかつての列強諸国などは、過去の植民地経営などで蓄積した富もあるだろうし、そのような富を投資に回せばさらに多くの富を回収できるし、結局高級ブランド商品や資本投資などで世界中から富を収奪することによって、ヨーロッパの民主主義が成り立っている面もあるのだろうから、アメリカのように軍産複合体が紛争地帯に武器を売り込んで、戦争を起こして金儲けしている、といった類いのわかりやすさがない分、より巧妙に立ち回って金儲けをやっているわけで、それらの国々の社会民主主義的な高福祉による豊かさだけに目を向けて、日本も見習うべきと主張するのはちょっと危ういような気がする。そんなわけで経済的な豊かさに幻想を抱いている人たちは、そのまま経済的な利益を追求してもらえばいいだろうし、こちらが何か否定的なことを言っても馬耳東風なのだから、それはそれでかまわないのだろうが、それ以外の人たちは民主的な国家の制度にもあまり救いがないことを自覚すべきなのではないか。そして救いがなくてもかまわないこともわかるべきなのではないか。そしてわかった上でなお政治に望むことがあれば、社会の不具合や不正を是正するような主張をしている人たちに、選挙などで投票すればいいだろう。