彼の声104

2014年

9月30日「架空の玉座」

 たぶんそこでの取り決めでは、選ばれた者たちが自由になれる。どのような分野でもそれは事実だ。本当にそういうことだろうか。では自由になろうとする彼らは何によって選ばれるのか。それぞれの分野で行われている競い合いの中で勝利した者たちが選ばれ、晴れて自由と栄光を手にすることができる。世の中の仕組みとはそういうものだろうか。その論理の単純明快さに抗うにはどうしたらいいのか。そうなる以前の場所にとどまればいいのではないか。やっていることが特定の分野に分割されず、競い合いが成立するためのルールもなく、やっているジャンルそのものが成り立たないような場所でやっていればいいのかもしれない。そしてそれは抗うことではなく、外れることになるのではないか。というかはじめから外れているわけで、選ばれることを拒否するのではなく、選ばれようのないことをやっているわけだ。それは抗うことができないのではなく、抗う必要がないということになるだろう。果たしてそんなことがあり得るだろうか。たぶんそれでも抗っていることになるのではないか。競い合いに参加しないつもりでも、参加させられる可能性を回避しようとしているとすれば、それだけでも抗っていることになるのではないか。ともかく他人と何を競い合っても勝ち目がないような気がするので、負けるために参加することもないのではないか。それでも参加して負けないと許してもらえないルールになっているのだろうか。世の中のルールがそうなっているとすれば、負けてもかまわないから参加する羽目に陥ってしまうだろう。別にそこで勝つことに抗っているわけでもないのだろうが、とりあえずは何らかのゲームに参加していることになっていて、現状ではたぶん負けているはずだ。少なくとも勝っていない。何に勝とうともしていないことが、すでにすべてに負けている証拠かもしれず、要するに勝つことに抗っているように感じられるのだが、それは競い合いから外れようとしているだけで、他人と競うものなど何も持ち合わせていないと思い込み、それが真実であるか否かなどに興味はないのかもしれない。

 異なる事物の間で共通点を探すこと、あるいは様々な事象をジャンル分けしながら説明しようとする意志、それらが世界の構造論的な解釈を生むのであり、そこから理論的な言説の構築が試みられ、たぶんそれでこの世界の有様を説明できるのだろう。誰がそれを実践しているのか。またその気もないのにそんなことを述べる意味がどこにあるのか。どこにもありはせず、それだけでは世界の構造論的な解釈などできはしないのに、そんなことを述べていること自体がおかしいのであり、たぶんそれが虚偽の説明であることはわかりきっている。実際に資料が整っていないので、いい加減なことしか述べられない。いったいこの世界にどんな構造があるというのか。人がいて国があり経済活動が行われている。そんなありふれた認識から出発して、何か驚嘆すべき構造を導き出すことができるだろうか。そのつもりもないのにそんな問いを発して、何か述べている気になっているようだが、どうせそれ以上のことは述べられないだろう。だからその手の言説を敬遠して、でたらめに語りたくなるわけだ。この世界は神によって作られた。それを信じているわけではないが、たぶんそれは真実だ。真実には嘘も含まれ、神の存在もその中の一つだろう。たぶんそれを存在と絡めて考えてはまずいのであり、啓示のたぐいから神を説明しなければならないのだろう。誰かに天啓がもたらされ、それが誰かを思想家にする。無為自然を説く者はすでに思想家気取りだ。それは遠い昔のことではない。他の誰かに天命がくだれば、その者は皇帝になるだろう。民を導くには権力が必要だ。奴隷たちを官僚として従え、民に富をもたらそうとする。その富が災いのもととなるにしても、それをもたらすことで天下を平定しなければならない。皇帝の下で国が栄え、臣民となった民衆は皇帝に忠誠を誓う。そうすることが天の意志に従うことであり、それによって人々は安寧を得るわけだ。今この世に皇帝がいるとしたらそれは誰だろう。オバマかプーチンか習近平か。いずれもやがてその座を追われる人たちだ。主権は民の側にあるのではなかったか。もはや民は臣民ではない。官僚たちも奴隷や宦官ではない。表向きはそういうことになっているはずだ。しかしなぜ民は主権を放棄して臣民になりたがるのか。なりたがっているわけではなく、実質的には臣民であることを自覚できないからか。国民である前に会社の臣民であり、国民としては国家の臣民であり、ただそれに誰も気づいていないわけだ。

 国家の玉座には臣民の主人が座ることになっているが、非常時に独裁者が座る以外は、通常は玉座の主は不在なのであり、ただそれを前にして臣民たちが跪き、誰も座っていない玉座を崇め奉っている。日本では象徴としてそこに天皇が座っていることになり、憲法上ではそういう取り決めが為されている。また憲法というルール上では、確かにそこに主人の玉座があり、主権者と定められている国民が座るべきとなっているが、玉座自体が憲法という言葉の連なりで示されただけの幻影に過ぎないから、実際には誰も座れないのであり、特定の誰がそこから命令を下すわけでもない。しかし誰も座っていないからといって、対外的にはそこに何やら特定の意志があるように装われなければならず、結局その役目を果たすのが会社であり国家となる。そしてその臣民にとっては、自らが属する会社こそが利益をもたらし、国家こそが臣民を守ってくれると信じるしかない。だから臣民は会社のため国家のために働き、その恩に報いなければならない。誰がそう思っているわけでもないだろうが、結果的にそうなっているわけで、そう解釈してもかまわない状況なのだろう。誰も思い込んでいないのに、誰もがそれに逆らえない状況となっている。それらの組織や団体に属している限りは逆らえない。では真の自由を得るためには、属している組織や団体をやめなければならないのだろうか。民間の会社ならやめようと思えば何とかやめられるが、国民をやめるには多大な困難と犠牲を伴いそうだ。しかし国籍がなくなってしまったらどうなるのか。ウィキリークスのアサンジ氏や、ウィキリークスに国家機密を漏らしたスノーデン氏のようになるわけか。他の国の国籍を得るまではどこかの空港か大使館などに足止めを食らい、身動きが取れなくなる。自由になりたいからといって、それ以外は大した理由も目的もないのに、そうまでして国民をやめることもないのだろう。個人の意志だけではやめられないのかもしれない。しかも国家の束縛から自由になろうとすれば、却って不自由になってしまう。国家が発行するパスポートがなければどこへも行けず、国籍がなければ公的には存在しない人間となってしまう。


9月29日「未来を語る必然性」

 無理に言葉を記す必要はないらしい。思いがけない出来事に遭遇すること、それを語るのが特権的な語り手だ。語る者はそう思い込みたい。しかし誰がどこで何に遭遇したのだろうか。物語を読んでゆけばそれがわかる。そしてその特異な出来事に遭遇した者は、以前とは別の何者かに変貌を遂げる。そこで語られる物語の登場人物となるのだろうか。遭遇するのが一人であろうと数人であろうと、はたまた大勢であろうと、それが偶然であろうと予定されていたことであろうと、とにかく彼らはある出来事に巡り会い、その出来事に心を奪われ、出会うまでの価値観を揺り動かされ、それがこれまでとは違う何らかの行動を誘発する。それが事件となる。それに巻き込まれた者たちは、それ以前とは違う行動を開始するわけだ。それが物語として語られる。しかしなぜそんなことを延々と語ろうとするのか。いったい何度それを繰り返せば気が済むのか。気が済むまで何度でも繰り返さざるを得ない。それしか語ることがないからだ。そして物語は絶えずその瞬間へと戻ってくる。何か思いがけない出来事に遭遇するそこへと舞い戻り、そこから物語が始まる。いくらでもリセット可能なのかもしれず、いくらリセットされても、また性懲りもなくそこから物語が始まってしまうのだろう。そしてそれのどこが神秘的なのでもなく、語る行為そのものは、極めてありきたりで当たり前の行為なのではないか。思いがけない出来事はいつ何時でも起こり得る。忘れた頃に不意に遭遇してしまい、その特異な出来事に衝撃を受け、忘れようにも二度と忘れられないような出来事なのに、遭遇する手前では意識できず、また遭遇した後から、それとは別の出来事が思い出され、前にも一度同じ出来事を経験したように思われてしまう。あのときはどうやって対処したのか。どうやって難局を切り抜けたのか。そして今回もあのときと同じようにして切り抜けられるのか、そんな勝手な思いを巡らせ、出来事から受けたその衝撃を相対化しようとする。

 それは根拠のない思い込みに過ぎないだろうか。語る必要のない出来事について語ろうとしているのではないか。その必要があるかないかは、どちらでもかまわないような気がする。その時の気分次第で、あるいは周りの状況次第で、取り立てて必要がなくても語ろうとしてしまうだろうし、必要があっても語らずじまいとなってしまうこともありそうだ。語らずにおいてもかまわないような経験は、自ずから自然と忘却の時間の中で朽ち果てる。そう思っておいて差し支えないのではないか。語る目的とは無関係に語ってしまったり、語らずじまいとなってしまったりもして、また何のために語っているわけでもないという確信が、語る上で必要不可欠な条件だとすれば、まだ目的にとらわれない何かが、語るべきこととして残っているのではないか。それが心のどこに残っているとも思えないが、外部から強いられている場合もありそうだ。それは語っていくうちに明らかとなるのだろう。たぶん語っていることに疑念を抱いているとすれば、そこからさらに語ろうとするだろうし、無意味であろうと空疎であろうと、それが語りについて語ろうとすることの結果なのだから、語り手はそれを受け入れなければならない。そこで忘れていたことが書物を読むことで思い出されるとしても、それは偶然の巡り合わせであり、決して思惑通りに事が運んでいるわけではない。そこで語られる記述内容は、今まさに記述している時空に絡めとられ、この世界から言葉の連なりとして抽出されてくる。それを記述者が構成しているとしても、そこに誰かの意識が反映しているとしても、絶えずその意志に逆らいながら文章が生成するのであり、それを記述者が抵抗として受け止める限りにおいて、かろうじて破綻を免れ、言説のまとまりとして何らかの意味を担うのだろう。しかし唐突に語り出した当初の思いはすでに裏切られ、興味を失いかけているのであり、結局それは語る対象ではなかったのかもしれず、やはりここまでは語る必要のないことを延々と語ってきたのではないか。

 ある固有名で括られた文章には、その固有名にまとわりついている情報の量や種類や傾向などによって、何らかの偏見が伴うようだ。それを読んでいる意識から導き出される実感としては、それらの何が良いというわけでもないと思われるが、それに対する受け止め方も感じ方も、人によって千差万別なのだろう。ならば語っているうちにとりとめがなくなり、心が折れないうちにさっさと記述を済ませるべきだ。それについて書き記すということは、話の中で起こる出来事と出来事の間を、空虚で満たす行為となり、それを星々でちりばめられた夜空にたとえるなら、暗闇が星々の存在を眺める人に認識させるのであり、日差しがあっては見ることのできない光景に欠かせないのが、星と星の間にある空虚な闇だ。それが出来事と出来事の周りに埋め尽くされた言葉の連なりだとすれば、意識は文章を視覚的に見ていることになるのだろうか。何のためのたとえになっているとも思えないが、どうしても語っていくうちにこんがらがってきて、何を述べているのかわけがわからなくなり、途中でその持続を断念してしまう。たぶんそこに謎があれば、それを探るための興味が持続するのだろうが、たとえそれが興味深い謎だろうと、現状ではまるで何かの冗談で語っているような気分だ。どう語ってもそれが衝撃的な出来事とは思えず、たわいない思想のたぐいとしか感じられない。過去の出来事をいくら丁寧にわかりやすく説明できたとして、その説明にいくら説得力が伴っていようと、それとこれとは別物で、それが未来への指針につながるかというと、何かが足りないように思えて、過去の説明と未来の予想は無関係であるような気がしてくる。未来においては何か過去とは根本的に違う出来事が起こるのではないか。それは人々の予想を遥かに超えた出来事であり、現代の政治・経済システムの延長を断ち切るような事件となるかもしれず、何かどうにも収まりのつかないようなこんがらがった状況が出現するのではないか。それが何だか予想したければ、勝手に予想したい輩が予想すればいいのだろうが、ともかく正確なことは、何かが起こってみないことにはわからないのであり、来たるべき何かはすでに到来している。それが現状であり、現状の中で人は生きている。


9月28日「騒音公害?」

 不気味に何かが外れているようだ。限りなくいつまでも音が聞こえる。それ以外にどうも適当な言葉が見当たらない。考えがあやふやなままでもかまわないと思ってしまう。隙だらけで穴だらけの論述で、現状について語ろうとする。厳密なことは何も言えない。君は未来について語りたがっているのか。でも何を先取りしようとしているのではない。予言や予想のたぐいでは何を語ることにもならない。しかしそれ以外に何があるというのか。来たるべきものとは何だろう。少なくともそれは神の到来ではない。未来はただの未来であり、未来以外の何ものでもないだろう。どうせ何でもない未来が到来し、そこで何もかもが期待外れに終るのだろうか。そうではないと言い切れる確信などどこにもありはしない。語る対象が定まらないのだろう。言葉の分散と語りの無方向的な錯綜が誰を苦しめているはずもなく、まだその域に達していないだけだ。しかしどうやってここまで来たのか。それを思い出しているときではないらしい。何もせずにはいられず、とりあえず言葉を記して様子見となるのだろうか。また空疎な内容となりそうだ。何を目指しているのでもない。同じことの繰り返しだとしてもやらなければならない。何を目指しているわけでもないのにやらなければならない。矛盾を承知で言葉を記す。耳鳴りではなさそうだ。耳を塞げば聞こえなくなるからそうだ。気のせいではない。期待にたがわぬ何かが到来しているのではないか。でも別に終末が到来しているわけではないのだろう。たぶんこれは朝も昼も聞こえるようになれば、何かが本格化するのではないか。例えばそれは火山活動の前兆か。すでにどこかで噴火している。それは精神の破綻を来たさない程度の出来事だろうか。

 世界が終末を迎える以前に、もうそこには誰もいないだろう。でもそう簡単には想像を超えたことは起こらない。何を期待しているとも思えないが、無意識のうちに何かが起こるのを期待しているのだろうか。現実には起こりえない何かが起こるとすれば、それはフィクションの中で起こる。それは空想と想像の産物で、今現実に生きている時代の中で考えられるのは、そんなフィクションに接して、神秘思想や誇大妄想に浸ることか。それでもかまわないのかもしれないが、考えているのはそういうことではない。とりあえず人為的な行為の及ぶ領域は限られていて、個人の力の及ぶ範囲はさらに限られている。そんな個人の無力さに対する反発がフィクションに反映され、それを超えようとする願望が、フィクションの中で超人的な力として現われ、世界を相手に個の力で戦うような虚構が生まれるわけか。超人的な発揮する複数の個人が連携し合い、堅い友情で結びつき、力を合わせて世界を変えようと試みる。彼らには夢があり希望があるのだろう。少なくともフィクションの中ではそういうことになっているはずだ。そしてたぶんそれとこれとは何の関係もない。

 しかし現実の世界で何ができるだろう。フィクションと現実を比較する発想そのものが間違っている。空想と想像を混同するのも間違っているだろうか。では現実から何を想像できるのか。たぶん聞こえているのは幻聴ではない。微妙な音量の雑音で、少なくともそれは神の声などではない。やはりエコキュートなどから発生する低周波騒音のたぐいなのだろうか。耳ざわりで夜も眠れなくなれば、それこそ体調がおかしくなってしまうかも知れない。前々から気づいていたはずだが、苦になり出したのは最近のことだ。その間に何か心変わりでもあったのだろうか。たぶん深夜に度々耳にしたときの不快さが積もりに積もって、とうとう忍耐の限界を超えてしまったのではないか。ネットで調べてみると、エコキュートの低周波騒音は、体調不良や近所トラブルの原因となっているようだ。当分は夜は耳栓でもして寝るしかなさそうだ。被害妄想のクレーマー状態になってしまったらおしまいだ。そうならないように脳の自動制御機構が働いているはずだが、どこまでも正気を保っていられるほど精密な動作でもなさそうだ。人はロボットではないので、狂ってしまうことも想定内なのかもしれない。まあロボットも時には故障することもあるのだが。


9月27日「アリ地獄から逃れる方法」

 減らず口を叩いている間に追い込まれている。何も行動が伴わず、そこに座ったまま年老いてゆく。そうならないうちに何とかしたい。神秘主義に傾倒しているのだろうか。行為が伴わなければ強迫神経症にかかることもない。周りの環境からストレスが加わるのではないか。何もないのにそこに中心が生じ、その中心に向かって地面が傾き、アリ地獄のように引きずり込まれる。そんな夢でも見たのだろうか。誰かの作り話のようだ。詫びを入れるとはどういうことか。どこかの路地裏で誰かがひたすら誰かに謝っている。何が自業自得なのか。いつか見たテレビドラマのシーンを思い出しているのだろう。映像作品は編集が可能なので、必ずしも時間的な順序が過去から未来へと向かって並んでおらず、何かの途中で回想シーンが多用される傾向にある。でもそれは映像作品に限ったことではなく、小説や漫画などでもよくあることなのではないか。要するに話の都合に合わせて、挿話は後からいくらでも付け足し可能なのだ。では夢の中でアリ地獄に引きずり込まれようとしている誰かは、どこかの路地裏で誰かに詫びを入れている誰かと、話の中でどう結びつくのだろうか。その場その場で思いつきを記しているだけで、今のところはまだ両者に関連性はないのかもしれず、要するにこの時点では、まだ話にならないということか。話になるように個々の出来事を結びつけ、効果的に編集しなければならず、そうしないと何を語っていることにもならない。だからまだ減らず口を叩いている余裕があるのかもしれない。いよいよ話が煮詰まってくると、話の方向性に意識がとらわれ、焦って何も言えなくなるから、そうなる前に何とかしなければならないわけだ。

 だから焦って出発点に戻ることもない。回想シーンはいくらでも挿入できるから、身動きができるうちは、都合のいいところで回想シーンに戻ってしまえばいい。そして何を有効活用するにしても、結果から判断するしかなく、賽はすでに振られていて、何が出てくるかは賽の目次第だ。夢に出てきた偽りの中心から逃れるには、ひたすら賽を振り、出た目の数だけそこから遠ざかるしかない。それが偽りのゲームのルールなのだろうか。偽りであるにしろないにしろ、たぶんそれもその場の思いつきなのだ。しかし当初の時点では、アリ地獄へと引きずり込まれている最中だったのに、なぜそんなことが可能なのか。賽を振るという行為自体が偶然の思いつきで、そんな勝手なルール変更が許されること自体が、恣意的な作り話である証拠だろうか。誰が許しているわけでもないだろうが、ではそれとは別の場面で誰かが詫びているのは、勝手にルール変更したことを謝罪しているわけか。ならばそれが誰の自業自得となるのだろうか。そうやって後からルール変更の理由を探しているわけか。たぶんその恣意的なルール変更自体が間違っている。賽が振られること自体が偶然の思いつきだとすれば、そこから出た目の数だけアリ地獄から遠ざかるのも、偶然に左右され、誰の思惑が反映されているのでもなく、誰の勝手でそうなったわけでもない。何かに引きずり込まれようとしていることが、何のたとえなのかも解明されず、それが夢の中で生じていることだとしても、それだけで強迫神経症にかかっているかどうかはわからない。ではいったい君は何を語ろうとしていたのか。当初の目論見自体が定かでなく、何を語っているのかもわからぬまま、後から後からいい加減に言葉を付け加え、結果的に何かを語っているように装いたいだけだったのではないか。それが勝手なルール変更の理由で、当初のルールでは、捕らえられたアリ地獄からいかにして逃れるか、その方法を探るのが課題となっていたのに、ルール変更された後においては、賽を振って出た目の数だけアリ地獄から遠ざかれるようになり、アリ地獄から逃れる方法を探る課題が反古にされてしまったことになる。

 しかし結局それが何のたとえになるのだろうか。何のたとえにもなり、そんなたとえになる理由も後からいくらでもねつ造することができる。要するに世の中でまかり通っている暗黙のルールとはそういうことだ。それによって根本的には何を解決できるわけでもないのに、途中から勝手に話がねじ曲げられ、いつの間にか対処法的なやり方がまかり通り、それが実行に移されてしまう。例えばそうすることによってテロ行為が根絶できるわけでもないのに、とりあえずテロ集団の巣窟と見なされたイスラム国に対しては、空爆すればいいことになってしまう。また資本主義・市場経済の進展によって生じる、人々の間で貧富の格差が広がる現象を食い止められないにしても、絶望感に駆られた貧しい人たちの中から、テロ行為に手を染める人たちが少なからず出てくるにしても、その恩恵によって富を独占した人たちは、自分たちの行為を改めることはできないにしても、その代わりに慈善事業に多額の寄付をして、少しでも貧しい人たちに施しを与えようとし、国家は強制的に徴収した税を再配分することで、いくらかでも富の不均衡を和らげようとする。そうするしかやりようがないわけで、そうせざるを得なくなって、実際にそうしている。いつの間にか国家自体が、人々が資本主義・市場経済から得た利益を、税金としてかすめ取ることで、それで足りなければ国債を発行して、未来の人々に借金を負わせることで成り立っていて、そんなシステムで成り立っている限りは、他にやりようがなく、ともかくそういうやり方が破綻するまでは、それを続けるしかないわけだ。破綻したらまた別のやり方が自ずから明らかとなり、今度はそれを試すしかないだろう。そしてその自ずから明らかになるということが、偶然の巡り合わせであり、ひたすら賽を振り続ける行為から生じるのではないか。また賽を振って出た目の理由を後から付け足して、そういうやり方の正当性が語られることとなる。それを語るのは、決まってそのやり方の恩恵によって成功した人たちで、まるで自分たちの功績によって世の中が救われたかのごとくに語るのであって、それが偶然の巡り合わせでしかない事実は隠蔽され、まるでそれによって文明が進歩したかのような結論となってしまうのだろう。

 歴史が語るのはそんな理由を後付けされた回想シーンの連続であり、それによって文明の進歩と人類の進化としての歴史が語られるのであり、それはどう捉えてみてもフィクションでしかないだろう。人々はそんな虚構を信じるしかなく、それによって現状が少しずつ良くなっているのを実感したいのだ。中にはユートピア的な未来を夢見て、そんな目標に向かって努力しているつもりの人たちもいるのではないか。その努力がひたすら賽を振り続ける行為であり、出た目の数だけ前進することが、文明の進歩と人類の進化となり、そんな双六遊びのスタートからゴールまでの成り行きが歴史となる。それはゴール地点で語られる回想となり、ゴール地点は日々未来に向かって延長され、語られる度にゴールが先に延びてゆき、そんなたとえに満足するにしろ不快に感じるにしろ、やっているうちに自然と飽きてしまうのであり、そういうやり方にうんざりした人たちは双六遊びとは違うゲームを編み出そうとする。対症療法ではなく、根本的な解決法を見つけたい。アリ地獄そのものを消滅させたいわけだ。それは人の限界を超えた動作なのだろうか。それについて語る人たちは単なる誇大妄想狂なのだろうか。それがリアリティを伴わなければ神秘思想のたぐいと見なされる。フィクションに出てくる超能力のたぐいは皆それだろう。しかし果たして今ある現状から遊離せずにそれを語ることができるだろうか。語れたとして、それを実践することが可能なのだろうか。ともかくそれがリアリティを伴うように語られなければ話にならない。


9月26日「できるはずのないこと」

 それと気づかずに同じことを延々と語っているのだろうか。なきにしもあらずな状況かもしれない。だがまだ何も決まっていない。そこにとどまるわけにはいかないし、とどまることはできないはずだが、とどまろうとしているわけではないのに、とどまっているような気がする。現状を把握できていないのかもしれず、把握する気が起こらないのだろう。把握できるような状況にないのかもしれない。それどころか何でもないのではないか。何がどうなっているのでもないし、何をどうしようとしているのでもない。ただ何かに抗っている。そんな気がしてならないが、気がするだけで、実情は違うのだろうか。違うとしてもそんなことは気にしない。気にしている場合ではなく、ともかく抗っているつもりでないと、それについて語ることができないのではないか。それとは何か。それが現状であり、この世界の現状について語っているつもりなのではないか。それがどんなに実情からかけ離れていようと、それが幻想であろうとフィクションであろうと、現状から感じ取れる事物と事物の関係があり、その関係を語ろうとしなければ、何も語ったことにはならないのではないか。

 そういうことだが、それがどうしたわけでもなく、現にそれについて語っている現状があるだけで、それをどう評価してみても、現状を変えるには至らない。語るだけでは現状は変わらない。それどころか語ることで、現状の維持と継続に貢献しているのかもしれず、それと気づかぬうちに、現状を肯定する保守的なイデオロギーに染まり、そんな現状に抗っているつもりが従っているのと同じ効果を発揮していて、抗うも従うも、結局同じ結果に行き着くような現状の罠にはまっているのかもしれない。イスラム国やタリバンの戦士たちのように、国家に抗うことが新たな国家を生み出し、またその新たな国家に抗うことが、また別の新たな国家を生み出してしまい、要するに国家に抗うことは国家に行き着くしかなく、どこまで抗っても抗っている対象の国家しか生み出さないわけで、国家という出口のない迷路の中で右往左往しているだけで、国家に対する武装闘争は、やるだけ無駄な浪費にしかならず、根本的に間違っているわけだが、でもそれが現状の維持と継続に貢献しているとすれば、そういうことやる連中の出現を、手ぐすねを引いて待っている連中も一方にはいるということだ。

 なぜそうなってしまうのだろうか。たぶんそこから先がなく、国家の先には出口がないということか。では国家の手前で踏みとどまるべきなのか。しかし踏みとどまるとはどういうことなのか。国家の手前などなく、踏みとどまれる場所などありはせず、出口を探しても見つからないだろう。そういう方面の試行錯誤はそこで終わりとなる。すでに世界は国家で飽和状態であり、新たな国家は不要だ。あとは国家をこの世界から消滅させるだけかも知れない。どうやれば世界から国家を一掃することができるだろうか。それに関する人為的な手段は今のところ見つかっていないようだ。それを探すのがこれからの課題となるだろうか。でもそれはいったい誰の課題なのか。誰の課題でもなく、課題とはならないようなことかも知れず、人為的には不可能なのかもしれない。武力行使とは無縁のやり方で、しかも人と人の連携を必要とせず、力を使わないようなやり方で、国家を消滅させることなど不可能か。荒唐無稽なフィクションならいざ知らず、現実の世界で何を試そうとしているのか。今のところは何も試していないだろうし、これから先も試す機会など巡ってこないだろうし、試すべきやり方を思いつくこともなく、そんなことを考えているうちに時が経ち、やがて何もしないままこの世から消え行く運命なのだろうか。

 現実にはそこで止まらず、別の機会が訪れるはずだ。たぶんそんな妄想に憑かれながらも、自然の成り行きに身をまかせながら、何か別のことをやっているはずだ。現に冗談でそんなことを述べている。何の裏をかいているわけでもなく、どんな権力とも無関係に、何かを模索しているふりをしながらも、実質的には何もやっていないわけだ。自分の無力を嘆き、神に祈っているわけでもない。それは肯定できるようなことではなく、手本となるようなことでもない。それでかまわないと思っているわけでもなく、今のところは思いつかない架空のやり方を思いついたところで、それを実行しようとはしないだろうし、要するに人畜無害のままにとどまっているということだ。それが国家の手前で踏みとどまることなのか。それでは屁理屈にもなりはしない。個人の力ではできるはずのないことを考えること自体が無駄の極みだろうか。でもそうかといって、団体行動にシニカルな視線を投げ掛けるわけでもなく、反戦反原発などの市民運動を馬鹿にしたいわけではない。慈善事業などと同じで、それもやらないよりはやった方がマシだろうし、実際にやっている人たちは大いにやってもらいたい。それに関する理論も方法も思いつかないが、理論でも方法でもなく、何を実践するのでもなく、何らかの思想を世に広めようとしているのだろうか。しかしそれ自体では何の利益ももたらさず、何のご利益も期待できないような思想が、果たして世に広まるだろうか。それは思想とすらいえず、たぶん宗教でもない。


9月25日「暗黙の了解事項」

 大局的には何ももたらさないだろう。ただ個人が何かやるだけだ。そしてそのやっていることが世界に及ぼす影響は微々たるものだ。そんな行為によって何がどうなることを望んでいるわけではない。しかし行為とは何か。いったい何をやっているのだろうか。雑に思考する。何もやっていないわけではないが、何をやっていることにもならない。世界の中では塵や芥のたぐいだ。たぶん個人としてはそれでかまわないはずだ。現実に何をやっているにしても、すべては無目的に生成する。そして生成した何かが現象として周りの環境に作用を及ぼすと、理由や目的があとからついてくる。そうなるまではどうにもならず、ただ闇雲にわけのわからないことをやり続けるだけのようだ。たとえそれが勘違いだとしても仕方ないのではないか。結果がどうなるかは、そのときになってみないことには分からない。ある意味ではすでにこれが結果なのだろうが、今のところ結果は常に途中経過であり、どこまでいっても途中経過のままだとすれば、真の結果にたどり着くことなどできはしない。要するに結果は想像することしかできず、あるいは途中経過に過ぎないその時々の状況を、とりあえずの結果と見なして、そこで一区切りつけるしかない。それは偽りの結果に過ぎないが、きりがない途中経過の連続から、一時的に外れる勇気も必要なのかもしれない。これ以上いくらやってもきりがないし、これまでに何がもたらされたわけでもないらしい。そこで誰かが語っていただけだ。

 そして何らかの観念を得て、探求に一区切りがついたわけだ。得るものは他に何もなかったはずだ。ある観念以外は。その観念とは何だろう。人為的な操作が通用しないということか。でもそれで何を思い知らされたわけでもなく、何らかの悟りに至ったわけでもない。運命に逆らっているつもりで、それが運命だと思い知らされ、そこから何を悟るにしても、その悟りの先でまた違う観念を抱かされる。何かしら結果が伴っているのに、たぶんその結果が語りの中では無効なのだろう。それは悟りとは無関係だ。現象の中である観念が生まれ、その観念が邪魔をして、現象に対する具体的な説明を遠ざける。そこに何か事物があって、事物の存在が何らかの現象をもたらしているのだが、それについていくら語ったところで、事物そのものには近づけず、語ることから生じる言葉の連なりと、事物そのものとの隔たりを感じることしかできない。事物は人にその距離感を意識させるわけだ。リアリティとは意識と事物との距離感そのものかも知れない。その隔たりがあることが納得できず、距離を縮めて一致させようとすると、とたんに話が嘘っぽくなり、語りの中で事物が事物でなくなり、意識の都合に合わせた想像物でしかなくなる。そういう強引で人為的な操作があだとなって、人は自らがやっていることのリアリティを失ってしまい、そこから先は信仰の世界となるだろう。

 意識が事物を捉えられなくなれば、ひたすらその存在を信じるしかなくなり、信じることで救いを求め、意識と事物が融合した姿を夢想し、多くの人々がそれを信じているとすれば、それが幻想の共同体となって、信者となった人々をそこに縛りつける。そんな夢想の中で、人と人とが手を取り合って協力し合い、巨大な建築物を作り上げ、人は人柱となってその中に組み込まれ、幻想の共同体を支える。たぶんそれは幻想とは意識されず、現実に人に利益をもたらす装置と見なされ、あるときは株式会社などの民間の団体として、またあるときは役所などの国家を動かす官僚機構として、人々の前にその姿を現し、そこからもたらされる利益と引き替えに、各人の自由を奪っているわけだ。しかもその利益は、それを利益と信じている限りでの利益であって、貨幣の形態をとり、国家の定めたルールに従う限りで商品との交換を約束しているが、それは暗黙の了解事項として信じることを強制されているのであり、人々がそれを信じなくなったら、今ある社会が成り立たなくなってしまうので、信じないわけにはいかないのだが、実際にはそれがあまりにも自明のことなので、信じていることすら気づかないわけだ。だから事物とそれがもたらす現象から、意識して距離を置かないと、その特性を把握することはできない。


9月24日「武装闘争が招いた現状」

 イスラム国への空爆で世界が変わるだろうか。フランス革命への周辺国の干渉が恐怖政治やナポレオン戦争を招き、ロシア革命への周辺国の干渉がスターリニズムを招いたとすれば、イスラム国への周辺国の干渉は、拘束しておいた西側ジャーナリストの処刑を招いた程度で済むだろうか。別にそれで世界が変わるわけではなく、ここ数年相次いだアラブの革命が茶番に過ぎなかったことが証明されるだけか。それともこのまま勢力が拡大して、周辺諸国を征服してイスラム帝国となり、ロシア・中国・インドに続き、旧世界帝国が復活するという柄谷行人の予想が的中したりするわけか。イスラム国の武装闘争に参加している人たちはそれを狙っているのかもしれないが、現時点では何とも言えず、もしかしたらそれはあくまでもおとりで、騒ぎと混乱に乗じて、トルコあたりがオスマン帝国の復活を狙っていたりして、エルドアン大統領にそんな野望があったらおもしろそうだが、そのためにはイスラエルが邪魔で、何としてもその欧米のくさびを引き抜いておかなければならないだろうか。核武装しているようだし、引き抜こうとしたら大惨事を招くのではないか。その大惨事がだじゃれ的には第三次世界大戦の引き金となるわけか。

 それとももはや武力革命自体が時代遅れで、それとは違った新たな試みが、世界的に求められていたりするのだろうか。しかし慈善団体などによる倫理や道徳の啓蒙活動で、どうなるようなことでもないし、やはり世界を変えるには武装闘争が必要不可欠だろうか。というか世界各地の様々な武装闘争がこんな世界情勢を招いているわけだから、すでに武装闘争自体が織り込み済みとなっているわけで、新たに武装闘争を開始したところで、何がどうなるわけでもないということか。今のところは決定的な破局を招かない程度での武装闘争なわけで、ゲリラにしてもテロ組織にしても、兵器産業の小遣い稼ぎ程度のことかもしれない。そんな破壊活動にしても、資源と人員と財産を浪費していることは確かで、憎悪と絶望を蔓延させ、またそれが新たな紛争の火種となって、今後も果てしない負の連鎖が続くことになるのだろうか。

 文明は破壊と再生の繰り返しだ。その絶え間ない抗争の繰り返しによって、世の中が徐々に変化してゆくのだろう。傍観者気取りでそんな感慨を抱いているのは、そこから利益を得ている加害者たちの側に立っている証しか。別に加害者だとは誰も思わないだろうが、地上で残虐な行為をやっている連中の方が加害者だと思うにしても、彼らの手が届かない空から爆撃を加える国々の同盟国に住んでいるわけだから、連中からすれば敵国の人間であることに変わりはなく、彼らの被害妄想に取り憑かれた頭の中では加害者の範疇に入るだろうか。直接戦わないで空爆で済ませようとしているわけだから、卑怯な奴らだと思われるかもしれず、たとえ今回は壊滅させたとしても、かろうじて生き残った連中とその支援者には、憎悪と復讐心が根深く残り、将来どこかでテロなどの報復が行われる禍根となるかも知れず、それも武力の応酬が招く負の連鎖のたぐいになるだけか。


9月23日「自由・平等・友愛」

 ごまかしは通じない。様々な試みが為されたが、結局うまくいった試しがなかったようだ。でもそれ以外の方法を思いつけない。すでにアイデアが底をついている。それでも人が目指す理想的な状態は自由・平等・友愛だろうか。それとは逆の状態は容易に察しがつく。他人を自分のやり方に従わせようとし、他人の自由を奪い、自分が他人より優位な立場を占めたい。そして他人からそのような仕打ちを受け、他人より劣った立場になると、他人に対して憎悪と嫉妬の感情を募らせる。結局は他者と自分の力関係なのだろう。他者に自分の力を行使したいわけだ。それが理想状態である自由・平等・友愛を遠ざける。しかしそれを断念するわけにはいかず、自分が力を行使しなければ、他人から力を行使されてしまうから、自分も他人に力を行使しなければならなくなり、自分と他人の力のせめぎ合いとなって、そこに闘争が生じる。ほどほどのところで妥協しないと、死ぬまでそんなことの繰り返しだ。

 不快な人たちのやり方は概ねそんなところなのだろう。それがないと世の中が立ち行かなくなると思っている。人が人であるためには、そんなやり方が欠かせない。いつかそんなやり方なくなって、真の自由と平等と友愛が実現してしまえば、それこそ人類がこの世から消え去る時だろうか。誰もが自由に振る舞ってしまうと、やりたくない仕事は誰がやればいいのか。やりたいことばかりやれるようになるのだろうか。それが選ばれた人しかやれないとすると、やれない人たちはどうなってしまうのだろう。誰もが平等になってしまうと、人の上に立つ人がいなくなり、管理職を必要とする組織や団体が成り立たなくなってしまうだろうか。確かに自由と平等が実現すれば、他人に対する憎悪や嫉妬がなくなり、友愛が実現するのではないか。でもそれは他人に対する無関心に行き着くのではないか。現に不自由や不平等が社会にはびこっているから、自分や他人に対する憎悪や嫉妬の感情を不快に思うから、人は自由や平等や友愛を夢想するのだろう。

 不快な現状があり、その不快さに抗い、多くの人がそれを解消しようと思えば、それが社会を変える原動力となる。現に社会の諸制度が時代の変遷とともに改まってきたわけで、これからも改革されてゆくのかもしれない。不快な思いをする人もだんだん減ってくるだろうか。そこから利益を得ている人たちが権力を握り、そんな現状を固定化しようとすれば、なかなか改まらない。でもそれは昔からそうだろう。いつの時代でも人々を支配しようとする意志が働いていて、それに抵抗する人々との間でせめぎ合いが続いてきた。今現在もそうなのだろうか。社会のあらゆる領域でそうなのではないか。そんな闘争の中で快と不快が渦巻き、うまく立ち回って快適な生活を送っている人もいるし、うまく立ち回れずに不快な日々にうんざりしている人もいる。たぶんそういう語り方ではまずいのであり、世の中を客観的な視点で鳥瞰しているつもりになっていると、人畜無害なことしかいえなくなってしまう。

 絶えず不快さを減じるようなやり方を模索してゆかなければならない。そして他人に不快な思いをさせるやり方にも抗わなければならない。組織や団体の中では不快な仕事を押し付けられる立場の存在が不可欠だ。たぶんそれがないと組織も団体も立ち行かないだろう。それは会社や役所に限らず、国家そのものがそういう組織や団体の代表格かもしれない。表向きは自由・平等・友愛を理念に掲げながらも、その裏では不快な思いをする犠牲者がつきものだ。そんな現状が放置されていいはずがないと思えば、何とかしなければならなくなる。実際に何とかしようとしているのではないか。それともその方法が見つからず、途方に暮れているのだろうか。たぶんそれに関して人畜無害なことしかいえないとすれば、いつまで経っても改まらないだろうし、現状に満足している人が権力を握っている限りは、このままの状態が延々と続いていってしまうだろう。それでもかまわなければそうなるしかない。結局その方法が見つからないとしても、現状に対する批判を怠ってはならないということだろうか。現状維持を望む人たちの決まり文句は、ではどうしたらいいのか、という反駁になるのだろうが、代案がないのに批判だけするのは無責任だとしても、やはり批判しなければならないだろう。不快に感じるならそれを表明するしかないわけだ。


9月22日「テクスト神秘主義」

 つまり方法はないということだ。方法がなければやりようがない。実践の可能性が閉ざされる。要するに徒党を組まなければ何もできないというのが、今までの偏見だったわけだ。見過ごされていた点は何なのか。それがわかれば苦労はしない。わからないから苦労しているわけだ。でもこれは何の苦労なのだろうか。目的がなければ苦労はしないはずだ。苦労したくて目的を見つけ出そうとしているのか。やっていることが目的になればいいのではないか。今はそれが目的ではないが、誰がそれをやっているわけでもないことになっている。架空のフィクションの中ではそうだった。確か以前は無駄に遠回りするのが目的ではなかったのか。表向きはそうだったかもしれないが、真意が不在なのも困ったものだ。でも隠された意味などに興味はない。やっていること以外に何があるわけでもなく、それがすべてだったのではないか。そのすべての行為の中から目的が立ち現れているわけだ。目的は何かをやった結果から見出され、事のはじめからあるわけではない。だから最初からあるわけではなく、途中から明らかになる場合もある。何をやってもそこへ戻ってきてしまうのであり、そこに目的がある。そう思っておいて差し支えないだろう。無論それが目的でなくてもかまわない。

 でもそこで何を知ってしまったのか。何も知らなくてもかまわないのであり、方法が何もないということ以外は知り得ず、知ろうとしているそれが、何の方法なのか知り得ないわけだ。今のところはそうだ。確認するまでもなく、何も知り得ないまま言葉を記し、それを読み返しながら、その中に目的を見つけ出そうとする。最低限は言葉を記すだけなら何とかなりそうだ。それだけでかまわないのではないか。そこに何か主張を盛り込まなければならないとも思えず、それは誰の都合でもない。そういえばいつの間にか君が不在のようだ。だいぶ前から意識に出てこないのだから、どこか遠くへ行ってしまったのだろうか。断片的な記憶がよみがえってくる。まだ何も語っていないはずだ。先回りを試みていたつもりが、結果は遠回りとなってしまったようだ。どこでどう道から逸れてしまったのか。たぶん途中で何かの障害物にぶつかって、そこからあてどない彷徨が始まったわけでもないに、君が遠ざかり、意識も消えて、誰の都合でもないのに寄り道が目的と化し、それだけが生き甲斐となってしまったのだろうか。他には何もなさそうで、何も語ってない。本来の目的などありはせず、すべては枝葉末節な寄り道なのかもしれない。それだけで文章が成り立っている。わざとそうしているのだろうか。疑念といえるのはそれだけだ。

 たぶんこれも寄り道のたぐいだ。空が晴れてくる。日差しが照りつけ、路面からの照り返しがまぶしくて、危うく信号を見落とすところだった。果たしてこの道でよかったのか、心の中に迷いが芽生え、確信が揺らぎ始め、一瞬引き返そうと思うが、前方にそれらしき建物が見えてきたので、とりあえずそこまで行ってみることにする。だがそこで目が覚め、ちらりと視界に捉えたそれが目的地だったのかどうか、それからさらに時間が経過した今となってはよくわからない。眠っている間にとりとめのない夢を見ていたらしい。

 作り話の中で多数の登場人物が出てくるとしても、そこで対話が成立するとは限らない。一つの目的が対話を断念させ、そこから多数のモノローグが浮かび上がってくる。登場人物たちが一つの目的を目指して行動する限りは、そこに真の対話は生まれず、敵と味方に分かれているとしても、そこで交わされるのは対話ではない。真の対話とは何か。互いに交わされる言葉が噛み合わず、意図や思惑が一致しないことがそれの条件だろうか。ならばそうでないまともに話が通じるのは対話とは言えないのか。どちらも対話であることに変わりなく、実際に話が通じて意気投合することもあり得るのではないか。ならば作り話の中で演じられる対話のどこがおかしいのだろう。話の筋に逆らわない対話は、仮にそれが対話の形態を成しているとしても、要するに説明でしかないということだ。対話によって話の内容が説明されるだけであって、そこには対話に必要な複数の意識が表されていない。要するに話を説明する目的で、架空の対話が構成されているだけで、それが複数の人物で一つの意識が共有されている結果を招き、それが対話である必然性を失っている。村上春樹の小説には、物語の中で繰り広げられているゲームを共有しない他者がいない。話が滞りなく最後まで語られるように、そこに登場する誰もがその目的に協力してしまうわけだ。

 では作り話の中で、ゲームを共有しない他者が現れるとどうなってしまうのか。たぶんそこから作者の構想を越えて話が展開してしまうだろうし、話の筋に沿ったゲームを壊して、またそれとは違った新たなゲームが開始されることもあるだろうし、話者も作者もそれと格闘する羽目になるだろう。そして彼らの思いもよらぬことが起こる。作者がそれを書き記しているのに、彼が思いもしないことやそれと気づかぬことが記され、それを読む者が、作者が気づかなかった関係を発見するかもしれない。それがテクストから生まれる幻想だろうか。実際に書き記された文章上で生じていることらしい。君はそれを肯定しなければいけないのだろう。文章を読んでそれを発見してしまえば、そんな思いにとらわれ、何やらそれを語らなければ気が済まなくなるわけだ。


9月21日「言葉の呪術」

 視野が広いということは、何か広範囲に何かに気づくことを連想させるが、比喩的には知識や考え方の幅が広いということのたとえになるようだ。何に気づいたわけでもないのに、視野を広げて考えているつもりになる。視覚と思考の結びつきを自明視することで、他の感覚を考慮に入れず、結果的に視野も思考の幅も狭めていることに気づかない。視覚だけでなく、聴覚も嗅覚も味覚も触覚なども思考に結びつくだろうが、それらは感覚として平等なのではなく、たぶん視覚だけが特別に思考と結びつきやすいのかもしれない。文字を読んだり映像や画像を見たりすることが、他の行為に優先されるような状況の中で生きているわけか。情報量そのものが他の感覚より飛躍的に多いのだろう。

 メディアからもたらされる情報は視覚と聴覚に偏っている。映像と音声で何かを伝えようとするわけだ。そしてそれに絡まって文字情報がある。文字の連なりである文章を読み、読みながら何か考えているようだ。思考は言葉と結びついている。文章を読んだり聴いたり、それを記したり語ったりすることと思考は結びついている。感覚を表現することが思考そのものだ。そう考えてかまわないのだろうか。感覚を通して感覚をもたらす対象について考えている。五感を言葉で表現することで、言表という視覚と聴覚を刺激する情報に変換され、それが考える対象となっている。どこまで考えてもきりがないだろうか。たぶんそれに気づいているのだろう。いくら考えてみてもきりがないが、確かにそこに感覚を通して知覚できる対象が存在している。

 対象を内面化することはできない。内面化は思い込みをもたらし、対象の恣意的な言葉による再構成となる。それは感覚が捉えた当初の対象ではない。しかし意識はそのようにしか対象を捉えられない。それが思考の働きなのだろう。言表がその思考を支え、対象から観念を導き出す。それが思考した結果から導き出された対象の本質となる。それで対象を捉えたことになるのだろうか。思考が対象を捉えているはずだが、それが対象の内面化であり思い込みだとしても、何らかの表現であることに変わりはない。映像表現であれ音声表現であれ言語表現であれ、そこに新たな思考の対象が生じているわけだ。それが芸術であろうと大衆娯楽であろうと、その出来を云々している批評ですらが思考の対象であり、意識はそこから何らかの見解や解釈を導き出そうとする。そこには好き嫌いの趣味判断以外に、様々な水準で判断が為され、それを言表としてまとめようとするのだろうが、様々な表現のうちで、まずは言語表現が優先され、それによって自らとともに他者の理解を得たい。そんな他者への働きかけが、メディア上に氾濫している。

 たぶん言表による対象の恣意的な再構成ばかりに接していると、対象を捉える感覚そのものが麻痺して、対象そのものを見失い、言葉の呪術にとらわれてしまう。呪術は人々の共感を操ることでその力を発揮する。その意図や思惑に従わせるには、それが世の多数派の利害を共有していることが肝心で、それがわかりやすく示されていれば共感を呼び、大衆を煽動することに成功するわけだが、そのわかりやすさには、当然のことながら少数派を切り捨てる酷薄な感情が内包されていて、多数派を装う者たちの攻撃衝動が込められている。そのわかりやすい例としてはファシズムなどがその典型なのだろう。やっていることは昔も今も変わらず、在特会などのやり方が大衆の支持を得られないのは、その差別的な主張がむき出しのままだから、多数派には敬遠されるのであり、そういう団体をスケープゴートに仕立てることで、もっと巧妙にそれと気づかれないようでいて、実は気づいてしまうようなやり方が求められているのではないか。それは善意の下に悪意を忍ばせるようなやり方であり、それとわかっていても、攻撃される人々が容易には反論できないような表現が模索されている。多数派にとってそれはわかりやすくかつ知的な表現形態をとり、弁護士や学者やアナリストなどその手の肩書きを持つ人々が、メディア上でそれを主張する代弁者の役割を担っているのではないか。


9月20日「わかっているはずのこと」

 捉えがたい何かを捉えようとしているのかも知れない。それは幼稚な発想だろうか。何やらアニメの中で交戦状態だ。戦争の最中なのだろう。でもそれがどうかしたのか。途中で見るのをやめて言葉を記す。また性懲りもなく疑念を抱いている。この地上のどこかで戦闘中なのだろう。自動小銃がどうしたわけでもない。ウィキペディアでワルサーP38の後継銃を見ている。カラシニコフとM16に魅力を感じているわけでもなく、それらについて知ったかぶりの知識をひけらかすほど詳しくもなく、銃器の名前を思い浮かべている。いくら戦争で人が死んでも、世界の総人口は減らない。人類は悲惨な環境下でも増殖し続ける一方で、比較的裕福な地域では逆に減少に転じている。今後アフリカのサハラ以南で、人口が中国やインド並みに増えるそうで、それを目当てにまた資本主義・市場経済が活況を呈するらしい。エボラ出血熱で数千人死のうが、そんな騒ぎは大したことではないのだろうか。シリアやイラクなどでの戦闘も、もはや日常茶飯事でしかないようで、そこからちょっと離れた超高層ビル群に覆われたドバイ辺りに行けば、石油成金たちが大金を湯水のように使っている光景に出くわすのだろうか。街の方々にスクラップ状態の高級車が打ち捨てられているらしく、それらを集め修理して、中古車として売り出せば、結構売れるかもしれないが、そんな発想自体がすでに他の人間が思いついてやっていることかもしれない。

 それにしても気が抜けている。意識が何を求めているのか定かでないが、どうもまだ求められている水準に達していないようだ。別に求めに応じて文章を修正する必要も感じられない。確かにそこで何かを主張しているようだが、返答など期待しない方がいい。反響はそれは返答ではなく、それについて判断する材料が皆無なのだから、それらに価値があるかないかなどわかるわけがなく、目下のところは何とも無関係な文章がただそこに記されている。しかし価値とは何なのか。事物が高値で取引されると価値があると思われるが、たぶんそれ以外の基準で価値を求めているのではないか。少なくともそれは文章の現状とは無関係なのだろう。たぶん今はそれを求めないのだろう。求めているのは価値という結果ではなく、価値を持つに至る過程から外れる何かなのではないか。まだそこでは他人からの影響以外は何も語られていない。何も為されていないうちから、それが為されるような雰囲気を感じ取っている。そして他には何もない。たぶんそこまで至らないのだろう。だから価値とも無縁となりそうだ。はじめからあてが外れている。文章は語り以外は何ももたらさず、それに触発されて何をもたらそうとしているわけでもない。今も何かを否定しかかり、慌てて軌道修正しているのかもしれない。何かとは何なのか。それがわからないまま、それでも現状がその何かをもたらす。あて推量だけで何か語ろうとしているからとりとめがなく、依然として文章の主題が定まらない。要するに何について語ろうとしているのでもないということだ。ここに至るまでにまだ考えが煮詰まっていない。だからまだ結論に至っていないだろう。価値が崩壊しているわけではない。価値を担えない架空の意識の中で何かがうごめいている。それを想像しているわけだ。一刻も早く結果を知りたいのだろう。そしてその結果によってとどめを刺されたい。でも果たしてそれで説明になっているのだろうか。うまく説明できずにとっ散らかってしまったようだ。だが迷信に惑わされるよりは、理解不能な文章を読んでいる方がマシだろうか。

 しかし現実的なやり方というのがよくわからない。行き着くところまで行き着いてしまったのかもしれない。気がつけば抽象的な思考にとらわれている。自由で平等で平和な世界の到来を待ち望む人たちがやるべきこととは何だろう。地縁や血縁のしがらみを逃れ、国家による暴力の支配を逃れた先に、自由でしがらみのない商取引を目指す、資本主義・市場経済があったはずだが、ここでも特定の利害関係を巡って特有のしがらみがあり、貧しき者と富める者との間に格差があり、不平等が生じている。まあそんなものは幻想に過ぎないと言ってしまえばそれまでなのだが、いつまでも能天気に幻想を抱いていても、何ももたらされないことは確実で、やはり何か得体の知れぬ可能性を模索しなければならないと思うが、それが何だかわからないところが、どうにもならない現状を物語っているのだろうか。そうやってまた嘘をついているとも思えず、ただわかっているくせにわからないふりをする必然性があるとも思えない。


9月19日「主人と奴隷の弁証法」

 濃霧の中を走っているわけではないが、視界が悪い。不意に不快な過去の出来事が思い出され、そんな過去へのこだわりが未来への視線を歪ませる。嫌な思いがなかなか頭から離れない。そこから先が未知の領域だろうか。将来がなければ未来への視線など要らない。それは比喩ではなく、現実なのかもしれず、今は直接それについて語らなければならない。しかし比喩を使わなければ逃げ道を失う。逃げ道がなければ文章にならない。何も語れなくなってしまうわけか。語るには考えているのとは別の視点が必要だ。だがそこで語ろうとしなくてもいいのであって、ただ何かを示せばいい。その何かを探り当てられるだろうか。抽象的な思考だけでは無理だ。無理なのにそれしかないのではないか。二律背反を片付ける方法があるらしいが、それがなかなかうまくいかず、気がつけば袋小路の中だ。ここからどう考えたらいいのだろうか。まだ何かが足りないのだろう。語る段階ではなく、語れるようなことではない。現状がそれを阻んでいる。

 しかし二律背反とは何なのか。パラドックスのことなのだろうが、それがうまく説明できない。そしてそれを説明できないまま、それが何だかわからなくなり、そんなことは忘れて、別のことを考えようとしてしまう。それが逃げ道なのか。比喩でも何でもありはしない。二律背反の具体例が思いつけず、やはり何を考えていたのか思い出せない。何かが解決できるような見通しが示されたように思ったのだが、改めて考えてみればそうではないらしい。矛と盾の話ではない。今さら主人と奴隷の弁証法でもないだろう。現代では主人がいないばかりでなく、奴隷さえほとんどいない。しかも誰もその弁証法たぐいから自由ではいられない。真の帝国がなく、その模造品の帝国主義があるのと同じことかも知れないが、果たしてそれが比喩として有効なのだろうか。確かに場所としての主人の座はあるが、そこはいつも空位のままで、誰もそこには座っていない。そしてその空虚な中心に向かって、奴隷のふりをした者たちがひれ伏し、主人と奴隷ごっこ遊びで戯れている。演じなくてもいいのにそんな倒錯を演じて、演じている自らの姿にうっとりしているわけだ。ネトウヨなどがその典型だろうが、そんなごっこ遊びにうろたえる人たちは、自分たちが経験したわけでもないのに、戦争や軍国主義などの、不快な過去の出来事が思い出され、何やら危機感を募らせる。だがそれの何が二律背反なのだろうか。

 すべては放っておかれるのかもしれない。他人に媚びなければたなざらし状態になる。売る立場より買う立場の方が有利だが、売ってカネを得なければ買う立場にはなれず、他に売り物がなければ、自らの労働を会社に売らなければならない。それが他人に媚びていることになるのだろうか。労働することが媚を売ることと同じだとは思えないか。例えば上司に媚びる自分が情けなく思われてしまうとすれば、それも主人と奴隷ごっこになってしまう。また政治・経済的に、日本がアメリカの忠犬ポチのように思われてしまうことも、そのバリエーションなのだろう。そんなふうに考えれば、主人と奴隷の弁証法も使い勝手の良い便利な比喩ではあるが、それを真に受けてしまうと現実を見失う。いくら奴隷のふりをして媚びへつらってみても、誰も主人にはなれないし、不在の主人を倒すことなどできはしない。それはあくまでもごっこ遊びの範囲内でしかなく、それと意識せずに倒錯的な奴隷の戦略を弄んでいるわけだ。その度が過ぎる労働者などは、過労死したり自殺したりするのだろうが、たぶんそれは無駄死にのたぐいだ。


9月18日「カネ目当ての拝金教」

 どうも打算で生きているわけではないようだ。そこに信仰がある。商品と貨幣を交換できると信じ込んでいる。すべての商品がただになるか、貨幣と交換できなくなれば、要するにこの世から商品がなくなれば、たぶん資本主義も終わりだ。だから信じなければならない。世のほとんどの人が、この世には商品と貨幣があり、それを交換できると信じている限りで、資本主義・市場経済は成り立ち、その信仰で世界が覆われている以上は、貨幣を貯め込む理由も存在する。カネさえあればいつでも商品と交換できる。それがただの金属や紙切れなどの物質であったり、預金残高を表示する数字であったりして、人にとってそれ自体は、何の栄養も使い道もない物質や情報でしかないのに、ただ一点、他の商品と交換できると多くの人が信じているからこそ価値がある。そんな信仰が成り立ち、それが世の中のルールだと信じているからこそ、こんな世の中が実現しているわけだ。果たしてこの世界一の信者数を誇る拝金教を、どうやったら突き崩すことができるのか。神である貨幣をどうやったらその座から引きずり下ろせるのか。たぶんこんなことを考えるのは狂気の沙汰だろう。あまりにも自明な前提を疑えば、疑っている者こそ気が狂っていると思われる。商品と貨幣を交換できるという前提の上に社会が成り立っているわけだから、その根本にあるルールを疑うのはおかしいと思われて当然だ。それだけ人の心の奥底まで、生活の隅々にまで、拝金教という宗教に浸されている証拠だろうか。でもいくらそれが宗教だと言い募っても、実際にそれなしには生きてゆけない人がほとんどなのだから、それを社会から取り除くことなどあり得ない。

 果たして今後商品を買わなくても、勝手気ままに生きてゆける世の中が到来したりするのだろうか。しかし自由に生きるとはどういうことなのか。資本主義・市場経済に覆われた世界で自由に生きてゆくにはカネが要る。そう思っている時点ですでに拝金教徒なわけだから、カネを貯めていつでも商品を買える自由を獲得したい。でもそう思っている時点で、すでにカネに自由を奪われ、カネに束縛された生き方しかできなくなっているわけだ。貨幣という神のしもべとなり、一心不乱に蓄財に精を出さなければならず、成功していくら贅沢三昧な暮らしをしていても、とても自由とはいえない。でも実際に大金持ちの資産家になって、悠々自適な毎日を楽しんでいるとしたら、それが自由に生きていることの証しなのではないか。それ以外にどんな自由があるのだろうか。別に自由でなくてもかまわないわけで、蓄財なら蓄財という目標に向かって励んでいるときが、生きていることの充実感を得られるわけか。そこに目的があり、その目的に宗教が介在しているのであり、目的に拘束されている限りは、そこで満足感を得られる。要するに勝手気ままに生きていなくてもかまわないということか。それは程度の差で、ある程度は束縛されていてもかまわないし、自由であるよりは束縛されている方が、より満足感を得られるなら、却ってそちらの方が好都合なわけだ。

 だがそこには何かが欠けている。社会の中で自分一人でできることは限られていて、目的のためには他者を利用しなければならず、そこにカネが絡めば、そのカネに縛られ、やりたくもない仕事をやらされる他者が出てくるわけだ。誰もがやりたいことをできるわけもなく、生きていくにはカネが必要な世の中になっているのだから、カネ目当てでカネをくれる組織や団体に入り、そこでカネのために不快な仕事を嫌々やらされる人が出てくるわけで、そういう人たちが多ければ多いほど、不快な社会となり、カネ目当ての犯罪が多発し、カネ目当てに嫌気がさした人々の間で貧困がはびこる。それでもいつかはより良い社会になると信じることができれば、その不快さに多くの人たちが耐えようとするのかもしれない。あるいは社会全体に絶望感が蔓延しているとすれば、人々は拝金教とは違う他の宗教に救いを求めるだろう。でも果たしてそれらを信じることで救われるのだろうか。救われるとはどういうことなのか。そのような疑念を抱くこと自体が、そもそもおかしいのか。


9月17日「従軍慰安婦問題」

 何を批判しても実質的には批判となっていないのかもしれない。批判されている対象も、何が批判されているのかわからないのではないか。具体的に何を批判しているのだろう。やはりその対象が定かでない。それが重大な事実なのだろうか。今のところはわからないが、不用意に首を突っ込まない方がいいことは確からしい。だがそれにしても何なのか。何でもないと言えば嘘になるのだろうが、やはり何でもないと嘘をついておいた方がよさそうだ。要するにコップの中の嵐なのだろうか。朝日新聞が慰安婦問題をめぐる報道の一部を誤報と認めて謝罪したとしても、別にそれで朝日新聞の不買運動でも起こって、新聞社が倒産するわけでもないだろうし、どうせその論調が右傾化して、読売新聞や産經新聞のようになり、これまで以上にどの新聞も似たような内容になるだけだろう。たぶんその方がいいのではないか。右翼の標的はなるべく減らした方がいいだろうし、その代表的な存在が右翼の味方になれば、ネット上のうざい書き込みも減って、不快な気分も少しは和らぐだろう。結局今の政府がやっていることは、政府が資本主義・市場経済に介入して、何とか景気を上向かせて税収を増やし、それを国民向けの公共投資に振り分ける、という社会民主主義的な政策なわけで、現状ではそれ以外の政治的な選択はあり得ず、右も左もそこに行き着くしかない。そんなわけで右翼と左翼の二項対立も幻想に過ぎないわけで、どうせ大手の新聞社など記者クラブで、各省庁の官僚や閣僚や国会議員たちと談合していて、一心同体でしかないのだから、それらの論調が右寄りであったり左寄りであったりするのは、そういう思考の購読者を獲得するための戦術で、人々をその手のメディアに惹きつけるための役割分担に過ぎないのだから、本来は右でも左でもどちらでもかまわないのではないか。朝日の論調が今後右寄りになれば、読売や産経の論調とバッティングしてしまうので、新たな競合相手が出現して、むしろ困るのは朝日を批判している読売や産経の方で、そうなれば比較的左寄りの毎日新聞などは、そちらの方面の読者を獲得できて大歓迎かもしれない。要するに読売や産経にとって、朝日が右傾化するほど追いつめるのは得策ではなく、今激しく批判しているとしても、それは自分たちの購読者向けのポーズに過ぎない。もちろんそんな現象の尻馬に乗って批判に加わる政治家も、自分たちの支持者向けのポーズなわけだ。無論今回の件で世の中がさらに右傾化して、右寄りの人たちが増えるなら、そういう購読者目当ての新聞社も共存共栄できて大歓迎なのだろうが、果たして現状はどうなのだろうか。そんなに右翼に魅力があるとは思えないのだが、それは社民的な左翼にも言えることで、右にも左にも魅力がないというのが偽らざる実感だろうか。やはり今魅力があるのは、国家の束縛を拒否するアナーキーな自由思想か。

 とりあえず従軍慰安婦問題に関しては、さっさと幕引きを図るのが妥当な線だろう。韓国の大統領とあとできれば北朝鮮の金正恩あたりも呼んで、出て来れないなら、南北国境の板門店辺りで会談してもいいのだろうし、日本の首相と三者会談でもして、落としどころを探るのがベストなのではないか。妥当な線としては、朝鮮半島やその他の地域でまだ生きている従軍慰安婦を捜し出して、死んでいることが判明したらその親族にでも、謝罪の言葉を伝え、賠償金のたぐいでも払えばいいのだろうが、それに関しては、アメリカの戦時中の日系人強制収容に対する賠償が参考になるだろうし、その件に関してアメリカ政府は、「全ての現存者に2万ドルの賠償金が行き渡るように4億ドルの追加割り当て法に署名し成立させた。1999年に賠償金の最後の支払いが行なわれ、11年間に総額16億ドルが82,210人の収容された日系アメリカ人、もしくはその子孫に支払われ賠償を終えた」(ウィキペディア)そうだから、そういうたぐいのことをやって、手打ちにしておいた方がいいのではないか。まあ当時の戦争では、世界各国で従軍慰安婦制度があったと反駁してみても、今の人権感覚を持っている人たちの反感を買うだけだろうから、あまりいいわけなどしない方がいいだろう。またそういう方面でちょっとでも相手に譲歩すれば、後から後からそれに類する問題を持ち出されて、きりがなくなるとしても、今騒いでいる問題だけ決着させておけば、もうこれ以上は譲歩しないという意思表示をする機会にはなるだろう。それで双方痛み分けということにでもなれば、少しは騒いでいる人たちも気が済むのではないか。戦争になった時点で取り返しのつかないことをやっているわけだから、それをあとから賠償しろだの何だのと騒がれても、被害や損害のすべてを賠償できるわけもなく、双方が歩み寄って妥協点を探り、きりのいいところで手打ちをして幕引きを図る以外はなく、まだそういうことがやれる余地があるなら、やっておいた方が今後につながるような気がするのだが、やれる余地がなければ、このまましらばっくれるしかないか。未だにユダヤ人の大量虐殺であるホロコーストはなかったと主張している連中もいることだし、それと比較するなら、従軍慰安婦など枝葉末節なことだと見なせば、それでかまわないのかもしれない。そういう人たちがはびこっている世の中がどんなものかは、今現にここにあるこんな世の中がそうなのであり、果たしてこれでいいかどうかは、何とも言えないところだ。こんなふうにしかならざるを得ないとあきらめるか、あるいはもっとマシな世の中を夢想するか、それも少し違うような気もするし、やはり現時点では何とも言えない。


9月16日「無用で無駄な知識」

 これでも何かに導かれているのか。導かれているとしても無駄なことなのではないか。語る前から語る内容がわかっているわけではない。語ったあとからそれに気づき、それ以外は語れないことにも気づく。実際にそれ以外は語っていない。それでも何かを語っているようで、それが記された文章の断片となっているのだろう。部分的に語っているわけで、そこで何かと何かを取り違えてしまうのは仕方のないことだ。それが原因と結果なのだろうか。何が原因で何が結果なのか。それがわかるまで待つしかない。わかるのを妨げているのは何なのか。それがわかるまではわからない。いつまで経ってもわからないままかもしれず、それがこの世界にある事物なのかもしれないが、それが語る対象なのかどうかは、語ってみてからでないとわからない。たぶんそれについて語っているのなら、少なくとも語る対象ではあるのだろう。語れる限りは語る対象となりそうだ。語れなければ語らない。それについて語る機会を得られなければ、そのまま事物が忘れ去られ、後から思い出すこともない。語る糸口が見つからなければ、語らずじまいとなって、それについては何も語らずに黙るしかない。きっかけがあるかないかで、それが決まってしまうのかもしれず、語るきっかけがなければ、そのままとなってしまうのだろう。どうも今はその状況のようだ。語る入り口にたどり着けず、その手前で逡巡している。語る以前にそれとは無関係な言葉が積み重なって、語り出すのを妨げている。いったい何について語ろうとしていたのか。それはどんな事物なのか。事物なのか物事なのか、どちらでもかまわないのだろうか。たぶんそれを知りたいわけでもなく、知り得ないと思いたいのかもしれず、知る必要を感じない。事物を捉えきれていないようで、とりとめのない内容となってしまいそうだ。

 すべてを見通す視点があるわけではないが、そのような視点に立って語ってしまうのであり、それで何かわかったような気になってしまう。語ろうとする現象を完全に説明しようとする。できないことをやろうとして、そこで困難に直面してしまう。またもや途方に暮れてしまうわけだ。どう考えても無理だろう。いったい何を語ろうとしているのか。語り得ることではない。だが語り得ないことでもない。では語り得るとしたら何を語ればいいのだろうか。それについて語ればいい。それとは何なのか。それがどんな事物なのか、それを語ればいいわけだ。だがそれが何だかわからないとしたら、何も語れなくなる。今がその状態だろうか。どうやらごまかしがきかないらしい。要するにすべてを見通す視点に立っていないわけだ。あり得ない見通しを語るわけにもいかない。語ることのどこに視点があるわけでもない。見るということは何とつながっているのか。考えることだろうか。何かを見て考える。見ている対象について考えているのだろうか。そうだとしたら何を見ているのか。空を眺めている。さっきまではそうだった。部屋の中から窓の外へ視線を向け、空を見ていた。今は画面に向かい言葉を記しているようだが、さっきまでは確かに空模様を眺めていたらしい。それ以上でも以下でもなく、何を考えていたわけではなかった。見ることと考えることは必ずしもつながらない。別にそんな当たり前のことに今さら気づいたわけでもなく、何もない現状をごまかすために、そう記しているだけなのかもしれない。そしてそれがごまかしとはならず、現状をありのままに表現していることになるわけか。

 知識とは何なのか。それは頭の中に溜め込んでおけるものなのか。使わないうちに忘れてしまったら元も子もない。確かに何かを忘れているようだ。忘れてしまえるものなら忘れてしまいたいが、忘れてしまいたいのに忘れられず、肝心の忘れてはいけないことが思い出せない。思い通りに記憶を取捨選択できないらしい。でも知識とは何だろう。別にそれをわかろうとしているのでも、それに関して何を思い出そうとしているわけではなく、ただそんな疑念をわかる当てもなく抱いている。邪念でしかないのか。取り立てて邪魔だとは思わないが、邪念には違いなく、無用な知識が邪魔をして、うまく語れないらしい。邪魔だとは思わないのに何かが邪魔をしているようで、それが知識だと見なしたい。たぶんそれは的外れだろう。無用な書物を読み、無用な知識を溜め込んだつもりになり、それを糧として何かを語ろうと試みるが、どうやらうまくいかないらしい。なぜそれが無用だと思うのだろう。不意にそう思っただけで、たぶん理由はない。無用だと思いたいだけで、捨てようと思っても捨てられない悩ましさがあるのではないか。しかし知識とは何なのか。それが無用であったり無駄であったりすることがあるのだろうか。そうは思えないのは、何かためになると思い込んでいるからか。それらの知識を活かして何かやらなければならない。だから語ろうとしている。言葉を記して語っているつもりになりたいわけだ。無用であったり、無駄だとはどうしても思えないのだろう。だが知識が何の役に立つのだろう。それが何を意図しているのかわからない。それが狙いというわけでもないのだろうが、単なる知識のひけらかしではだめらしい。知識のひけらかしによる自慢以外の何を意図しているのでもないとしたら、それはただうざいだけだ。そう思うことで何とか歯止めがかかり、かろうじて何かが文章の中で機能しているらしい。たぶんそれは知識ではなく、語りを機能させようとする意志なのだろうか。意識が邪念を振り払えずにそこで立ち往生している様を語ろうとして、それが果たせているのか否かわからないが、ともかく語りが何もない前提を突き崩そうとしているわけだ。書物から得た知識を利用せずに、すでに血肉と化した何かを利用して語っているのかもしれない。無意識がそうさせるとしか形容できそうもない。不都合な何かを感知して、それを避けようとしている。うまく避けきれたとは思えないが、それをあからさまに語ってしまってはまずいらしい。なぜそう思うのかはわからない。この先何かが起こる予感がしていて、それを語ってしまうと、その予感と語りの整合性が保てなくなるとかあるのだろうか。ならば何かの危機に直面しているわけか。そんな大げさなことだとは思えないが、今ここではどうにもならないことかもしれない。


9月15日「適者生存の法則」

 相変わらず同じことを述べている。世に不均衡がもたらされていることは確かだ。それと同じことを述べていることとの間に、どんな因果関係があるのだろう。資本主義・市場経済の中で各人が利益を追求すれば、その属している団体や置かれた立場や能力などによって、一握りの富める者とその他大勢の貧しき者とに分かれ、世の中に富の不均衡がもたらされる。それを当たり前のことと受け止めるなら、それでかまわないわけだ。富を蓄えた者たちは、その富でほしい物は何でも買えるし、あえて嫌な仕事もやる必要がなくなり、好き勝手なことをやれる立場になれる。貧しき者たちは、ほしい物は買えず、低賃金の労働に拘束され、何もできない不自由な立場を強いられる。でもそんなことをメディア上で述べているのは富める者たちだ。メディア上で好き勝手なことを述べている者の多くは富める者たちで、貧しき者たちにはほとんど発言権がない。世界の人口の6人に1人が飢えているとしても、実際に飢えている人がそう言っているわけではない。飢えている人が餓死したところで、富める者たちには関係ない。心を痛めた富める者たちが慈善事業に多額の金を寄付し、その金で生き長らえる人が若干いるとしても、焼け石に水であることは変わりなく、資本主義・市場経済が世界を覆っている限りは、その恩恵に与れる富める者と、与れない貧しき者とに分かれるしかなく、富の不均衡が是正されることはない。要するに世界の人口の6分の1の十億人は不要な人間なのだ。でもその不要な人たちを切り捨てるわけにはいかないのであり、そんな不要な人間を作り出している資本主義・市場経済のもとで富を蓄えた者たちは、何とかして飢えた者たちを救わなければならないと思っている。これが不条理でなくしてなんなのか。自分たちを富ませた仕組みがもたらした貧困を、その仕組みを温存させながら解決しようとしているわけだ。そんな虫のいい話はないが、たぶんそれに気づいてしまったらまずいのだろう。それも好き勝手にやっていることの一環で、そういうことをやれるのも、自らが特権階級に属していることを示す社会的なステータスとなっているわけだ。

 だがそれは仕方のないことだ。そこから利益を得ている彼らでは、社会の仕組みを変えられないのであり、変えられないからこそ、あえてそんな不条理なことを実践しなければならず、やらないよりはやった方がマシで、それもそれで資本主義・市場経済が抱えている不都合な真実の一つだろう。そしてそんな社会の仕組みにうまく適応できた者が、利益を得られるのは当然のことで、その存在自体が、そこに適者生存の法則があり、自然の摂理が働いていることの証しなのだ。そうなった結果からその現象を説明すればそうなる。これは恐ろしい現実だろうか。これでも奴隷制や封建制がおおっぴらに行われていた昔よりはマシになっているはずだが、おかげで世界の人口は極端に増加し、環境破壊も進み、他の動植物の絶滅も相次いでいる。それらの何が良くて何が悪いことなのか、俄には判断しがたいが、そんな現象が地球上で起きていて、生物史的には史上何度目かの大絶滅の最中であり、巨大隕石の落下で恐竜が絶滅したとされる頃に匹敵するのかもしれず、人類の繁栄が原因だとしても、人類には防ぎようのない事態なのだろう。


9月14日「受け入れがたい神からの回答」

 何となくその気になって、誰かが解決の糸口を見つけたつもりになっている。だが正解を呈示できても、それを実行するわけにはいかないのだ。それが正解では困るし、そんなことをやられては困るわけだ。間違ったことがまかり通ったままで、まったく問題ないし、むしろその方が好都合なわけだ。だから正解は黙殺され、これまで通り間違ったやり方で物事に対処するしかない。しかし何が正解なのか。正解として何が呈示されているのだろうか。間違ったやり方が正解として呈示されているわけだ。では間違ったやり方とは何なのか。そもそも何を解決したいのだろう。そこにどんな問題があるというのか。間違ったやり方で何の問題もないのなら、それでかまわないはずだ。ならば間違ったやり方で対処しているその事物とは、具体的に何なのか。事物とはこの世界のことだ。この世界に何の問題があるのだろうか。間違ったやり方で対処しているつもりになれるのだから、それで問題はない。問題がないのに対処しなければならないわけだ。要するに正解とは問題がないということだ。問題がないのだから、何を実行するわけにもいかないし、実行できないのだから、そんな正解では困るのだ。ではその正解を前にして、何もやりようがなく、途方に暮れるしかないのだろうか。だからそれが嫌なら、これまで通り間違ったやり方で事物に対処するしかないわけだ。それでは循環論のトートロジーに陥るしかないが、とにかく何かをやっているつもりになりたければ、そうするしかなく、何かをやっている間はそれだけ時間が進むから、時間の経過とともに何かをやっている気がするわけだ。それで何の問題もない。人間は太古の昔からそうやって事物に対処してきたし、これからもそれを続けてゆくだろう。別に文明など必要はなく、昔ながらの狩猟採集民のままでかまわなかったのに、それで滅ぶなら滅んでもかまわなかったのに、何やら文明を発展させながら今日に至っているわけだ。そしてそれが間違ったやり方だとしたら、それでもかまわないわけで、これまで通りのやり方でさらなる繁栄を目指すなら、やはりそれでもかまわないわけだ。この先人類が滅んでもかまわないし、滅びなくてもかまわない。滅んでも滅びなくても何の問題もない。

 たぶんそれが正解では困るのだろう。だから他にやり方を模索しなければならず、それが間違ったやり方だとしても、とりあえずそれを実行してみなければ気が済まない。要するに無為自然のままではどうしても納得がいかないわけだ。人は自然に逆らい世界に逆らい神に逆らわなければ、人としての領分をまっとうできない。そのような存在として、この世界の中に世界の一部として構成されている。間違ったことをやるのが人の特性なのだろう。人にとってはそれが正しいやり方であり、他の何にとっても間違ったやり方だとは思えない。人の他に何があるとも思えず、人と同じようなことをやっている宇宙人が、他の恒星を回る惑星にも住んでいるような気がするだけだ。そんなたわいない想像を働かせて、しきりに望遠鏡を覗き込んでいる人たちもいるわけだが、何か人とは違うやり方を模索する宇宙人でも発見すれば、それがこれまでのやり方を改める転機となるのだろうか。それもたわいない想像のたぐいでしかなく、いくら想像を働かせても、現状を変えることはできない。現状を変えるには時間が必要で、絶えず現状に働きかけ、何世代にも渡る絶え間ない働きかけの末に、やっと少し変わるようなことではないのか。それとも何か破滅的な惨事でもあればいっぺんに変わるのだろうか。どちらでもあっても思うようには変わらないだろうし、今よりもっと状況が悪化したりする可能性もある。そしてそう述べても、問題を回避したことにはならないし、直面している間違った問題を解決できるわけもない。そういう方面ではひたすら想像することしかできず、それ以外では直接事物に働きかけるしかない。そこに現状認識があり、解釈があるわけだ。偏見が解消されるには時間がかかる。そして時が経てば、そんなことはどうでもよくなる。昔の命をかけた深刻な論争など忘れられ、その象徴的な意味合いが形骸化された形で残り、今ではごく当たり前のことのように感じられるだけだ。例えば天動説と地動説のどちらが正しいわけでもなく、天も地も動いている。地球を止まっていると見なせば天が動いている。太陽が止まっていると見なせば、惑星がその周りを回っている。銀河系の中心の周りを太陽を含む恒星が回り、銀河系も他の銀河との重力の相互作用で動いている。そんな認識の変化が文明の進化を感じさせるのだろうか。それで誤った偏見が解消され、正しい認識に近づいたと言えるのか。天動説と地動説という誤った問題に、正しい回答がもたらされたことになるわけか。自説を撤回して火あぶりを免れたガリレオが、墓の下で神を呪っているわけもないだろうが、偏見を取り除くにはその犠牲となる者が欠かせないのかもしれない。たぶん今も大勢の人が国家と資本主義という誤った問題に取り組み、今後もその犠牲となる者が後を絶たないのだろう。その誤った問題に真剣に取り組んでいるオバマをいくら非難しても、ただ犠牲者をいたぶっている以外の何ものでもない。


9月13日「無為自然」

 たぶん何かと何かを混同している。様々な水準と次元を越えて混同している。そんな大げさなことでもないのではないか。現象があってそれについての説明がある。他に何があらわとなっているわけでもなく、それについて何を考えているのでもない。書物の中に記された文章を読んでいる。それの何がまずいのだろうか。結局疑念にとらわれているようだ。誤解が誤解を呼んでいる。それが誤解であってもかまわないらしい。誤解のままの方が却って都合がいい。真相は藪の中で、誰もそんな真相など知りたくはなく、ただ誤解している。その誤解を解こうとしているわけではない。世のすべての思想は誤解から生じているのではないか。それがありふれた誤解かもしれず、物事の曲解にもつながっている。たぶんそれをどこまで探求していっても、正解にはたどり着けないだろう。そもそも正解がないのではないか。常にねじ曲げて解釈しないとおもしろくない。また勘違いが勘違いを呼び、誤った解釈が蔓延している方が、事態が混迷して、付け入る隙もそれだけ多くありそうだ。しかし何に付け入ろうとしているのか。紛争に介入するのは楽しい。たぶんそれがなければ退屈なのではないか。平和なだけでは退屈で死にそうだ。誰がそう思っているわけでもないのだろうが、もめ事がないと探偵の活躍する余地がなく、シャーロック・ホームズも暇を持て余す。そこに謎があり、謎を解く素振りが人々の共感を呼ぶ。事件の鮮やかな解決が待ち望まれているのだろう。事件に至るには誤解が解かれないことが肝心なのだ。些細な誤解が猜疑心を生み、それが解消されないまま鬱積し、積もりに積もって決定的な亀裂をもたらし、事件へと至るわけだ。そして取り返しのつかない惨劇が起こった後で、満を持して名探偵様が登場するわけだ。そんな話の成り行きでかまわないのだろうか。フィクションと現実を混同している。話のどこから誤解が生じたのか。わざと誤解して、事の真相を隠蔽したかったのではないか。まだもめ事が治まっていない。そういうことにしておきたいのだろう。それを誤解とは言わない。わかっているのにしらばっくれている。誤解が解けない方がむしろ好都合なのだ。

 事物の周りで空疎な虚言がぐるぐる回っているようだ。行き着くところはゴミの集積場か。そうならないようにしたいのだろうが、まともな言説には至らない。くるところまで来てしまった感があり、ここから先は事物に巡り会えないような気がする。それが勘違いな思い込みであることはわかっているつもりで、そうとも言えないような気もして、直面している問題への取り組みを先送りにするいいわけとなっているようだ。焦りようがない。焦っているのにまだ焦るのが早すぎるような気がして、やはり焦っているのではないかと思う。たぶん焦ってみたところで、何ももたらせないのはわかりきっている。結局何に直面しているのでもなく、言葉を弄んで焦っているような気分になり、誤解を生じさせているのではないか。それがまるで荒唐無稽というわけでもないのだが、果たしてそうなのだろうかとも思う。それらの思想を疑っているのだろうか。たぶん疑っているのだろう。正しいことのように思われるのに、何かが違うと感じてしまう。他者に救いを求めるわけにもいかず、それが自身の問題とも思えず、どうしてもそこから遠ざかるしかないようだ。無責任に振る舞いたいのであり、外れたいわけだ。問題に直面しているとしても、それが担っている思考に普遍性などありはしない。なぜそれを否定できるのか。それをどうごまかせばいいのだろうか。ごまかしようのない矛盾が露呈しているが、それがどうしたわけでもなく、どう考えても矛盾したままでかまわないような気がする。矛盾を放置したまま生きてゆけるわけだ。直面している問題に真摯に向き合う必要もない。哲学や神学では現状をどうすることもできず、ただそれを教える教育者の糧となるばかりのようだ。たぶん人は問題があることを他人に教えることはできるのだろう。でも教育者ができることはそこまでであり、そこから先が問題となっているにも関わらず、相も変わらずそれを教えたい人たちが、その手前で別の問題のありかを教えようとする。ではそこから先にはどんな問題が待ち構えているのか。たぶんそれは教育者が教えなかった問題であり、解決不可能な問題なのかもしれず、要するに放置するしかない問題なのだ。では何がそこで放置されているのか。それは言葉では説明できない問題であり、問題とは認識されない問題なのかもしれない。要するに問題ではないということだ。何も問題ではないのに、人はそれを解決しようと躍起になっているわけだ。ならばそれは何なのか。何でもないということか。無為自然とはそういうものなのかもしれない。


9月12日「生から死への移動」

 人は救いを求めずにはいられない。幸せになりたいと思うし、目的を持って生きてゆきたい。そんな思いが自然に生じてしまうことを否定しても無駄だ。人はそんな思いにとらわれるような環境の中で生きている。そんな環境に順応しながら、その中で何かに導かれていると思うしかないわけだ。そしてその人を導いている何かが神であったりする。そう思われてしまうのだから、それは実際に生じている現象であり、そういう方面での批判は成り立たない。それを信じればいいだけのことでしかない。ではそれに疑念を抱いているのなら、信じなくてもかまわないのだろうか。たぶんそうだ。信じたくなければ信じなくてもかまわない。信仰に反発して不幸になるとしても、それでかまわないわけだ。

 そういう水準で何を述べてもどうにもならない。ではどういう水準でならどうなるというのか。それは語ってみなければわからない。語ってみてから判断するしかない。とにかく物語には超越的な力の発現が不可欠で、それなしには話が成り立たない。たぶん人が発揮できる限界を越えた力によって、人が物語の定型に引き込まれなければ、魅力を感じられなくなってしまうようで、何やら強大な力を持った黒幕的な存在がいて、それを倒すために兄妹のような男女が力を合わせて立ち向かったりするのが、物語の定型のバリエーションの一つかもしれないが、何でもかんでもそんな話に当てはめてしまうのは退屈だ。ではどうすればいいのだろうか。それが嫌なら話にならなければいいのであって、物語的な魅力とは無縁ならいいのではないか。人を惹きつける必要がなければそれでもかまわないわけだ。

 たぶん逆らうとはそういうことなのかもしれない。ありふれたことを思い、ありふれた運命に翻弄され、人が発揮できる力の限界内で何かをやっている。限界を超えることができないから救いを求め、身の程をわきまえたささやかな幸福を手にしたいし、ただ漠然と生きているだけでは物足りないから、何か目的を持ってそれに向かうことで、生きていることのとりとめのなさを忘れたい。今できることをやるしかなく、できないことはフィクションの登場人物が代行するわけだ。現実の人間にはできないことをやっている物語に惹かれてしまう。そんな物語の定型が人の願望の反映なのだとしたら、たぶんそれに逆らって、人の願望を踏みにじるような話の展開を見せるのが、リアリティを伴った小説なのかもしれない。無論そうでなくてもかまわない。

 その中で人は救いを拒否して不幸になり、目的を失って世界を彷徨い、信仰に反発して俗物となる。しかしそうならざるを得ない宿命にさらされ、それに逆らいながら生から死へと移動する。結局ありのままの現実に押しつぶされ、相変わらずその場に縛りつけられている現状を自覚するしかない。だからそこから抜け出る方法を模索し、抜け出ることに救いを求め、抜け出ることが目的となり、それを達成することで幸せになりたい。要するに堂々巡りをした末に出発点へと戻ってしまうわけだ。それがシニカルな現実だと思うなら、そう思っていればいいのだろう。それを受け入れても拒否してもかまわない。拒むならさらなる堂々巡りが待ち受けている。そんな逡巡の繰り返しで消耗してしまうだろう。でもそんな消耗や疲弊が心地良かったりするわけで、生をすり減らしながら死へと近づいていくのだろう。

 その気がなくても人は自らの死を受け入れる。拒否しても無駄だと悟るからか。悟らなくても死が訪れる。今のところはそれを拒否できない。それがどうしたと思うなら、そう思っていればいいわけだ。思っても思わなくても死が訪れる。ともかく死ぬまでは生きているわけだから、生きているうちは何かやろうとするだろうし、何もやらなければあとは死ぬだけだ。そこでどんな選択肢があるわけでもなく、生きているうちは生きていて、死ぬまでは生きている。空間的な移動は可能だが、時間的には過去から未来へと進むしかなく、進んだ先には死が待ち受けている。別に死に救いを求めたり、死ぬことが目的となったり、死ぬことが幸せだと思ったりしても、そんな状況に追い込まれていることの正当化にしかならないだろうが、実際にそう思うか否かは、そのときになってみなければわからないことで、そう思わなくてもかまわないわけだ。たぶん生きているこの時点での結論は未だ出ていない。


9月11日「疾しさときれいごと」

 自然の成り行きに法則があるとは思えないが、語るとなると、そこに何やら法則めいた決まり事を発見しなければならない。自然に発生した現象に人が対応し、そこに一定の動作が生まれる。人は富を蓄え資産を築くことで、相対的に他人より有利な立場になろうとする。金さえあれば何でも買える。それ以外に何を望むのか。それ以外に人がやってきたことはないのではないか。そういうやり方を肯定する以外に何があるというのか。その方面での人の動作は極めて単純で、それはごまかしようのない現実だ。保守系の政治家や言論人の主張も、すべてはそこへ行き着く。そういう動作に逆らおうとすれば、社会的に不利な立場に追い込まれてしまう。そしてそれでもなおきれいごとを主張したがる人が出てきてしまうのも、当然の成り行きなのだろうか。自分だけの利益を追求することへの疾しさが、保守的な主張には絶えずつきまとうのだが、それが家族の利益や会社の利益や国家の利益に転化され、自国民の利害が及ぶ範囲へと対象を広げることで、疾しさを軽減したつもりになれ、それによって多くの人々の賛同を得られると思いたい。またそれ以上いくら範囲を広げて、国際貢献だとか世界平和だとか主張したところで、空疎なまやかしの方便でしかなくなるが、根っこのところで、本音としての利己的な主張が含まれていないと、広く世間の賛同を得ることはできない。そしてそんな利己心を抱くことから生じる罪の意識を、みんなで共有しながら、きれいごとを主張したがる少数者を抑圧する。お前らは嘘をついている、となるわけだ。

 果たしてきれいごとを主張する人々は、本当に嘘をついているのだろうか。そもそもきれいごととは何なのか。それはただ漠然とそう思うしかなく、きれいごとについてのはっきりした定義などなく、ただ利己心から外れた主張だと感じられるとき、それがきれいごとだと思われるわけで、それが疾しさにとらわれている多くの人々の反発を呼ぶわけだ。そして疾しさにとらわれた人々は、自分の利己心を他人に見透かされると、あるいは見透かされたと感じて気まずい雰囲気なると、逆ギレして、お前だって同じ穴の狢じゃないか、と言い返したくなり、そこで自分と同じ疾しさを共有する仲間たちと、きれいごとを主張する鼻持ちならない奴らとの間に境界が引かれる。だがいつまでも疾しさにとらわれていると、やがて強迫観念に取り憑かれ、いつしかそれが利己心を突き破って、不合理な言動に及んでしまう。そこにきれいごとを主張する人が誕生するわけだ。中には突如信仰に目ざめ、聖書などを熱心に読み始める人もいるのではないか。例えば反原発運動などに関わっている人たちなどは、きれいごとを主張する人の典型だろうか。

 何事も不透明さの中にあり、はっきりしたことはいえない。合理的な説明には矛盾が伴い、不合理な動機には論理の飛躍が伴う。すべては自然の成り行きだと思ってみても、問題は何も解決されず、苛立てば苛立つほど、超合理的な思考に惹かれ、繊細な感性が失われる。救いを求めれば足下をすくわれ、たわいない詐欺にひっかかり、自業自得の悲劇を招き、破滅にその身をさらし、絶望の中で死を迎えたりする。どうあがいてもなるようにしかならず、運命に身をまかせ、どのような結果も受け入れるしかない。だが運命に逆らってもかまわないわけだ。それが悪魔の誘惑だとしても、その気になれば成功を手にすることもできる。みじめな境遇の中で悲嘆にくれるよりも、成り上がって多くの人から羨ましがられたいのではないか。その羨望のまなざしを一身に浴びて、有頂天になりたいのだろう。中にはそうなる人もいるだろう。一握りの人たちはそうなる。大多数の人たちはほどほどのところで我慢し、自らの限界を受け入れ、ひねた老人へと変貌を遂げるのだろうか。だがいつまでも野望に憑かれていてもかまわない。何かに取り憑かれていないと、生きている意味がないと思うなら、それでもかまわないのではないか。ともかく何が悲惨であろうとなかろうと、すべては人を取り巻く自然環境から生じている現象だ。思考の矛盾もパラドックスも含めて、そんな成り行きの中で人は生きている。その外へ出ることはできず、越えることは不可能だ。


9月10日「読まずに済ませたい書物」

 もうそろそろ読書感想文も切り上げた方がよさそうだ。ようやく『夢遊の人々』も読み終わり、最後の25ページぐらいはどう読んでも理解不能で、気が狂いそうだったが、何とか読んだ。第三部では脱走兵で詐欺師の主人公が、周りの人間をすべて破滅に追い込みながらも、戦争末期の混乱に乗じてまんまと逃げおおせ、故郷に帰ってがめつい商人となり、町の名士にまで成り上がる。そんな後日談が「首尾は万事上々だった」として残り25ページで語られるわけだが、途中から度々難解な哲学的言説に暴走するので、読んでゆくと自らの文章を読解する能力を超えてしまい、そこで頭が破裂しそうになる。

 ユグノオはあの犯行のことを考えなかったし、ましてや自分のやり方が非合理性に満ちたものだったこと、非合理的なものが氾濫していると言っていいほど、非合理性に満ちていたことを意識しもしなかったのだ。非合理的なものがほとばしりでると言ってもいいほど、彼の行動のしかたは非合理に満ちていた。してみると人間は、自分のもの言わぬ行為の本質をなす非合理性についてなにも知らず、自分がさらされている「下からの襲撃」についてなにも知らぬものらしい。自分の生の各瞬間には一の価値体系の内側にいるが、この価値体系はもっぱら現世に拘束された経験的生を担ういっさいの非合理的なものを隠蔽し、制御する目的にしか役立たぬからである。意識ばかりでなく、非合理的なものも、カント流に言えば、あらゆる範疇に随伴しそれを伝達する車であるーその衝動や願望や情緒のすべてをあげて思考の絶対物のそばから駆けてゆくのは、生の絶対性なのであって、単に価値体系自身が一の非合理的作用にほかならぬ価値措定なる自主的作用によって担われるばかりでなく、どんな価値体系の背後にもひそむ世界感情もまた、その起源においても存在においてもいっさいの合理的明証性から遠ざかっている。そして実態の周辺に立てられている認識による真理性の創出という暴力的な機構は、人間的行動がそのなかを動くあの倫理的な真理性の創出という、それにおとらず暴力的な機構と等しい機能を持っている。いわば理性的なものの橋が架けられ、いたるところに架けられ、それらは現世的存在をそののがれえぬ非合理性から、その「悪」から、より高い「理性的」意味と、あの本来形而上的な価値へと導く目的にひたすら奉仕するのだが、この形而上的価値の演繹的構造のなかで、人間は世界や事物や自己の行動に対し、それにふさわしい場所を指示する反面、そのまなざしをあくまで迷わず、失わしめぬように、自己自身を再発見することができるのである。事情かくのごとくであってみれば、ユグノオが自分自身の非合理性についてなにも知らなかったということもあえて不思議はない(『夢遊の人々』 ヘルマン・ブロッホ 菊盛英夫 訳 中央公論社 676〜677ページ)。

 ここまでは完全には理解できないまでも、まあそういうことかとみなして、何とかついてゆけるのだが、この先から完全についてゆけなくなり、無理に読めば読むほど、頭がおかしくなりそうになる。

 どんな価値体系も志向から生じ、倫理的には通用しない非合理的な世界把握を絶対的に合理的なもの作り変えること、「形式」のこの本来のかつ根底的任務は、すべての超個性的価値体系にとって倫理的目標となる。そしてどんな価値体系もこの任務で挫折してしまう。なぜなら合理的なものがとる方式は、つねにただ接近の方式にすぎず、どんどん弧をせばめながら非合理的なものに達しようと努めはするが、しかしついにそれに到達することのできぬ一の包囲方式だからであって、その際合理的なものが内的感情の非合理性として、すなわちこの生と体験の無意識ちゅうにあらわれるか、それとも世界事実と無限に多種な世界形姿の非合理性としてあらわれるかはどうでもよいのだー合理的なものはただ原子分解できるだけである。世間では「感情のない人間は人間ではない」と言われるが、この言葉のうちにはどうも次のような認識がひそんでいるようだ。すなわち解体不可能な非合理的残滓というものが存在していて、この残滓なくしてはどんな価値体系も存立しえず、またこの残滓のおかげで合理的なものがまぎれもなく堕落をもたらす自律におちいらずにすみ、「超・合理性」におちいらずにすむのであって、この「超・合理性」は、体系側から見れば、倫理的にはおそらく非合理的なものよりもっと非難すべき、もっと「悪い」、もっと「罪深い」ものであろう。つまり形成可能な非合理的なものとは反対に、もはやどんな形成をもゆるさず、固定して動かぬことで独自の論理性を止揚して論理的無限性の限界に突きあたるのは、純粋な弁証法的かつ演繹的理性、自律的となった理性なのであるー自律的となった理性は根底的に悪であり、それは体系の論理性を、したがってまた体系そのものを止揚してしまう。それは体系の崩壊とその決定的分裂を導入する(同677ページ)。

 この先もこの調子でこんな文章が続いてゆくのだが、果たして翻訳者は自分の翻訳文を理解しているのだろうか。たぶん理解しているつもりで翻訳しているのだろうが、こうして文章を書き写すと何とかわかりかけてくるが、一度読んだだけではチンプンカンプンで、日本語で記されているにも関わらず、もしかして日本人の99.9999%は理解できないような内容なのではないか。やはりもとの文章が難解なのか、それとも訳しようによっては、誰もが理解可能なわかりやすい文章になるのか、何ともいえないところだが、昨晩無理して読み終えて、一夜明けても未だに頭の芯が痛い。たしかブロッホの晩年の代表作である『ウェルギリウスの死』は、これよりさらに凄まじいらしいから、できれば読まずに済ませたい。


9月9日「フィクションと現実の関係」

 気持ちに迷いがあるようだ。まやかしの言説をあてにすることはできないが、そこから何をたぐり寄せようとしているのだろうか。今のところは何も明らかになっていないようだ。それでも何かしらあるのではないか。隠されたメッセージを明らかにしたいわけではない。謎解きをしたいわけでもないらしい。暇があれば暇をつぶし、やるべきことがないわけではないのに、そのやるべきことについて確信を持てない。意志を貫こうとすると、それを妨げる意識が働き、疑念が浮かび上がってくる。果たしてそれをやり抜くべきなのか。確信を持てないが、やるしかないのではないか。でもそうするしかないのに、やる気がしない。やっていることのすべてが子供騙しなのだろうか。それをやっている当人にわかるわけがない。とにかく思惑が外れて、また回り道に迷い込んでしまったらしい。

 何がまやかしであるわけでもない。すべてが現実で、現実の世界で考えている。語っている内容が戯れ言でないなら、現状を深刻に受け止めなければならないが、語った結果を正当化するわけにはいかない。でも結果から判断するしかなく、やはりそれは結果に違いない。では結果とは何だろう。少なくとも現代の人々が生きている世界は、過去の人々が抱いていた理想が実現した世界ではない。別にそれが過去の理想というわけでもないのだろうが、例えば未だ核戦争後の世界は実現していないし、今のところそれは20世紀の米ソ冷戦時代に生きた人々の幻想であり続け、まだ当分は実現しないだろう。すぐにも何かが起こるとも思えないが、起こるときは思いがけず起こるのであり、何かの到来に備えている人はすでに備えているだろうし、備える気のない人には関係のないことだが、その備えが有効であるか否かは、そのときになってみなければわからない。

 たぶん何かが実現したと思うとき、何か過去に抱いていた思いが実現したと思うのであり、特に努力が報われた時には、夢が叶ったような気になるのではないか。必ずしもすべてが思い通りに事が運んだわけでもないのだろうが、それでも様々な困難や紆余曲折を乗り越え、何らかの成果が得られたら、そんな思いを抱かざるを得ず、それが幻想に過ぎないとしても、ともかくそこで満足感を得られるわけだ。そこで過去から連綿と続く自らを主人公とした物語が完結する。また今その途上にあると思う人たちは、自らの物語の完結に向かって努力していると思わざるを得ない。たとえそれが終わりなき物語であろうと、自らの死がその終わりと想定される物語であろうと、そこには目的や目標に向かっているという実感が伴い、それを達成しなければならない使命感のごとき積極さがもたらされているのだろう。

 フィクションの中で物語が完結するとき、それを読む者は、やはりそこで何らかの達成感を得られるだろうか。そこで主人公が抱えていた問題が一定の解決を見せるとき、一安心するのではないか。そうなるとその物語に対する好感度も上がり、満足感を得られるはずだ。そこに至るまでに主人公が直面する様々な困難や紆余曲折が乗り越えられ、苦労しながらも何とかゴール地点にたどり着くのだから、感慨もひとしおで、そこに描かれる登場人物たちと喜怒哀楽の感情を共有し、感情移入するのが物語を読む上での当然の成り行きとして受け止め、そんな共感こそが人に備わっている機能だと思い込んでしまうのかもしれない。それを抱けなければ人は物語など読まないだろう。要するにフィクションにリアリティを感じたいわけだ。たぶんそれで満足できるのなら、それに越したことはない。だがそう思えば思うほど、一方でそれとは別の疑念もわき上がってくる。なぜ人は現実以外にフィクションを求めるのか。現実に満足できないからフィクションを求めるのだとすれば、果たしてフィクションは現実の代替物なのだろうか。

 現実とフィクションが違うとすれば、フィクションが現実とどう違うかを明らかにしなければならない。フィクションにはそれ特有の構造があり、ある面でそれは虚構を現実に見せかけるためのレトリックとなり、別の面では現実から隔たった特徴として認識させ、そしてそれが現実をより深く考えるための機会となったりするのだろうか。しかしフィクションから現実を考えるとき、果たしてそれが現実を考える上で役立ったりするのか。あるいはフィクションと現実の関連性を探求すること自体が間違っていて、フィクションはフィクションとして現実とは別個に存在していて、それは単なる娯楽の対象と片付けてしまえばいいことでしかないのだろうか。たぶんそうであってもかまわないのだろうが、現実の世界で作者や編集者などによって、フィクションが構成されている限りは、それが現実の世界と地続きであることは否めず、それを構成する動機や背景とともに、やはりフィクションそのものを分析して、それがどのように構成されているかを明らかにする試みが、批評家や研究者などによって行われていることも否定できない。


9月8日「戦いの世界」

 たぶんそれは間違った設問だ。正しいと思われる考えが定まらなくても、たぶんそれは間違っているのだろう。しかし間違った設問とは何なのか。何かをやったあとから、これでよかったのだと思われてくるとき、やっていることに何の価値も見出せなくても、その行為を正当化できなくても、これをやるしかないと思う。やっていることが正しいか否かは関係ないように思われ、行為の正しさを云々する以前に、そのように行為するしかないように思われる状況を、肯定も否定もできなくなる。それのどこに疑念を差し挟む余地があるだろうか。やっている限りは何も問えないような気がしてくる。しかし本当に何も問われていないのだろうか。今のところはそれがわからないのだから、無理に問う必要はない。意識して問わなくても、言葉を記してゆけば、記された文章の中で、自然と何かを問う姿勢が定まってくるのではないか。

 言葉を記した結果として生じた文章を読めば、何かそこにまとまった考えがあるように思われるが、書いた当人がその考えに同調する必要はないらしい。同調できなければ書き直せばいいことでしかない。そして実際に書き直しながら、またそれを読んでいるらしく、読みながら言葉を記しているうちに、何かをつかんだような気になるが、ある程度文章として定まってくると、不意にそれがつかんだつもりの手からすり抜けてしまい、つかもうとした対象が何だかわからなくなる。何かについて語っているつもりが、語っているうちに、その対象が消え去り、記述がそれを消去してしまったように感じられ、それ自体がとりとめのない空疎な文章に思われてしまう。

 それにしても何が間違った設問だったのだろうか。何か強大な敵がいて、いかにそれに逆らうか、抵抗する人たちの戦略が試されているわけではない。たぶん敵は敵ではないのだろう。だが味方でもない。敵でも味方でもないとすると何なのか。あるときは味方でもあり敵でもあり、またあるときはそのどちらでもないということか。そもそも敵であるという設定が間違っているのではないか。戦うべき対象ではなく、語る対象ともなり得ない。敵について語る必要はないということだろうか。しかし何が敵なのか。何も敵ではないのかもしれず、敵であるから批判するわけではなく、味方であるから擁護するわけでもないらしい。敵か味方か、批判するか擁護するか、そこに明確な基準があるわけではなく、何を敵と見なし、何を味方と見なすか、そういう設問の立て方そのものが間違っているのではないか。

 戦いを糧とする人たちにとっては、敵こそが真の味方であり、敵がいなければ戦いが成り立たない。そこに敵と味方の自家撞着があり、敵も味方も似た者同士となって、戦うことによって共通の利益を追求するわけだ。具体的にはその戦いが見せ物として機能するように、戦う環境を整備するわけで、コロシアムだのスタジアムだのに大勢の観客を集めて、見物料を取り、敵と味方の双方が納得できるルールを定め、決められたルールの範囲内で戦ってみせる。戦う者たちの戦略とはそういうものだ。

 戦うのが嫌なら、戦っている人たちを応援するのはやめた方がよさそうだ。それでは戦っている人たちに糧を与え、彼らの戦略にはまっていることになる。それを見物していること自体が、戦いを助長し、戦いに巻き込まれていることを意味する。そして見物している限りは、その戦いから逃れられず、見物している程度で済んでいることに安心し、その程度のことなら戦いを容認でき、実際に娯楽の対象としての戦いを楽しめるわけだ。

 たぶん戦いで多数の死傷者が出て、経済的あるいは心理的に被害を被るようになれば、そんな戦いは容認できないだろうし、それが現実に行われているテロや戦争に対する憎悪となるのだろう。しかしそんな戦いも、味方としての賛同者や協力者をあてにしていて、戦う相手としての敵を必要としている。だからそれらを混同しないためにも、スポーツや格闘技などの娯楽としての戦いと、戦争やテロとの間には、明確な境界線が引かれなければならない。大半の人たちはそれで事足りると思っているわけだ。そうでなければこの世界の現状を容認できない。

 そんなわけで戦うことこそが人間の本分であるかもしれないが、行き過ぎた戦いはやめなければならない。そのどこからどこまでが許され、どこからが許されないのかはルールで定め、そのルールの範囲内での戦いなら許されるようにしたいわけだ。人がやれることは、そんな方向でしか定まらず、事前に何か取り決めをして、その範囲内でやっている限りは許され、そこをはみ出ると処罰の対象となってしまうわけだ。何事もそんなふうにしか決まらないのが、人間社会の特徴であり、必ずそんな決まり事が破られてしまうのも、人間社会の特徴でもある。ルールを定めようとする意志と、それを破ろうとする意志のせめぎ合いが繰り返される。そしてそんなせめぎ合いも戦いなのだから、人と人とはどうあがいても戦うしかないらしい。


9月7日「世界を作り変えようとする意志」

 外部と内部を分ける境界がないということは、外部も内部もないということだ。何が正常な状態なのでも異常な状態なのでもなく、あるがままの世界だ。あるがままの現状が気に入らなければ、それが異常な状態だと思い、理想だと思われる正常な状態へと、世の中を作り変えたいのだろう。そこで何かをやりながら、困難を乗り越えてどこへ至るにしても、至った先にあるのは思い込みの世界ではない。そこにあるのはあるがままの世界だ。逃れようのない状況の中で人は生きている。それでも逃れられるだろうか。他のどこから逃げているわけでもなく、この世界からこの世界へと逃げているわけだ。要するにそれは堂々巡りで、逃げても逃げても相変わらずこの世界にいる。そしてあきらめきれない者は、あるがままの世界を理想の世界へと作り変えようとする。ある者は政治の世界で、またある者はフィクションの世界で、その他いろいろな分野でその世界を作り変えようとしているわけだが、政治とフィクションの間に、あるいはその他の分野の間に、明確な境界があるわけではないのだろうが、そうした細分化された専門分野の中で、その分野の専門家となり、その分野の存在を正当化しながら、その分野の持続と発展に貢献すべく、その分野特有の限られた範囲内で何かをやり続けているわけだ。それがあるがままの世界の実態だろうか。

 世界を各分野ごとに細分化し、その分野に携わっている人々が、そこでその分野固有の共同体を作り、その内部と外部との間に境界を設け、その分野に携わる人々の間で結束を固める。人は地縁血縁や交友関係や職業など、様々なレベルで固有の共同体に属していて、それぞれの共同体との結びつきが、その人の特性を表しているのだろう。もうその時点で単独で生きているわけではない。それは人の社会性を示しているのだろうか。人と社会との共同体を介しての結びつきは、その人の限界を形作り、社会に影響を及ぼす力をの強度を規定している。自らが属している共同体の中での地位や活動範囲内でしか影響力がないということだ。共同体の構成員間での力関係が、そのままその人の能力を決定づける。果たしてその共同体内に限界づけられた能力を用いて、世の中を作り変えることが可能だろうか。それとも個人が自らの属する共同体を超えて、広く世間一般に影響を及ぼすことができるだろうか。

 人はその人固有の願いを成就させたい。それがその人が属する共同体から生じた願いだとしても、そう願うことが自然の成り行きである限り、その願いを叶えるために努力するだろう。空想や妄想ではなく、現実の中で限られた範囲内で行動する。その行動が空想や妄想に基づいているとしても、やっていることは現実に行われているわけだ。どうやってもその現実を超えることはできない。どうあがいてもその程度のことでしかない。それをその程度と卑下するか、あるいはもっと肯定的な評価を下すか、それは自らがやっていることを正当化できるか否かの問題で、肯定的に捉えるなら、よくやったとなるのだろうが、それで満足できなければ、何かもっと上の可能性を模索するのだろう。

 人間社会が様々な共同体で細分化されていて、その共同体に属する人間が、その共同体に限界づけられた範囲内で活動する限り、それはその共同体特有の論理に基づいて活動しているのであり、共同体の利害を念頭に置きながら、その利害関係に従って活動するしかないわけだ。そしてその活動がどんな結果をもたらそうとも、それはその共同体の価値観が反映された判断の中で評価されるに過ぎず、そこで普遍的な何かが実現されるわけではない。果たして共同体の内と外を分ける確乎とした境界が存在するか否かは、その共同体に属する構成員の、共同体への思い入れの強弱によるのかもしれないが、たぶん世界を作り変えようとする意志に正当性があるとすれば、それは共同体と共同体の間の境界を、なるべく希薄化させる方向へ、それを働かせる以外にないのではないか。


9月6日「社会問題とフィクション」

 不意にそれに気づいてしまい、何やら焦っているようで、日頃から馴れ親しんできた状況が一変したことで、何か一時代が終ったような感慨を抱く。そこで意識は何かの終焉に立ち会っているのだろうか。そんな根拠の定かでないあやふやな思い込みに従うなら、そこから自ら体験してきた時代の変遷を物語り、そんな語りからもたらされるリアリティをかみしめながら、感慨に耽ることも可能だろうが、それでは単なる身の上話と同じになのではないか。身の上話は自己の成り立ちや存在を正当化するために為され、かつてその時代に属していた自らを懐かしむと同時に、すでにそこから引き離されてある現在については、そうなってしまった結果を否定したい思いにとらわれているのではないか。語っている限りは自分の記憶の範囲内で語っているわけだから、ひとまず安心できる。それが罠だとは思わないが、いくらそれをその時代がもたらした物語に過ぎないと批判をしたところで、それに共感している当人には通じない。だからそれについて物語らざるを得なくなり、それが罠だと知りながら、その罠の中でそれを語ろうとしてしまうわけだ。そして当人にはそういう語り方ではだめだということもわかっているはずだ。たぶんそこに出口はない。しかしそれについて語らないわけにはいかないらしい。安易に出口を探してはいけないのかもしれない。だが出口がないと思ってしまったらまずいのではないか。出口がどこにも見当たらなければ絶望するしかない。人は出口に救いを求めている。そして救いこそが物語への共感なのだから、それを拒む理由はない。人々が願っているのは救われることだ。しかしそんなふうに語ると堂々巡りとなってしまい、いくら語っても不毛に感じられ、その虚しさから抜け出るには、結局は救われるか救いを拒否するかの二者択一になって、他には何も語れなくなる。しかし他に語ることがなければ、やはり過ぎ去った時代について語るしかないのではないか。確かにそこで何か興味深い事件が起こっていたわけだ。

 直接事件について語ろうとすれば、物語の中へと逃げ込むわけにはいかなくなる。日本赤軍、エホバの証人、オウム真理教、ヤマギシ会、NHK、ドメスティック・バイオレンス(DV)、老人介護、それらを社会問題としてフィクションの中に取り込もうとすれば、それらと真正面から向き合う真摯な姿勢が問われてくる。果たしてそうだろうか。別にフィクションに取り込む必要はなく、それらによって何か弊害が生じているとすれば、現実の社会問題として取り組めば済むことだ。しかしそのような問題があることを、広く世界に向けて訴えかけるには、フィクションで取り上げるのも手段としては効果があるのかもしれない。たぶんまじめに考えれば考えるほど答えは出てこない。ある観念に凝り固まって、それに共感する人たちが寄り集まり、そこに同じ価値観を共有する共同体が生まれると、その共同体は他人にその価値観を押し付けようとする。DVも暴力衝動を配偶者に押し付けているのであり、介護施設も入所者に介護マニュアルに基づいた処置を押し付けているわけだ。そして物語の作者は自らの価値観を読者に押し付けているわけか。読者は一方的に押し付けられる立場にはなく、それはあくまでも作品の売買に基づく関係でしかなく、作品を読むことによってもたらされる洗脳効果が薄れてきたら、飽きて離れていってしまうのだろう。売る側より買う側の方が強い立場にあるわけだが、メディアによる宣伝がそれに気づく機会を奪っていたりするのだろうか。それに多くの人が惑わされているわけでもないのだろうが、合法的に活動する宗教団体などが一定の規模を維持しているように、そこに魅力があれば人が集まってくるのであり、人が集まっていればそこに魅力があるようにも思われ、どちらが原因でどちらが結果であろうと、すでにそのような団体が社会の中に存在している事実が、そこに魅力的な価値観があるように感じられ、それを目当てに人が集まり、現に人が大勢集まって何らかの共同体を結成している。それが社会問題だとすれば、それを解決する方法など現状では見当たらない。だがそう語ることが、その問題を解決する取り組みの一環なのかもしれない。


9月5日「文学とは?」

 『夢遊の人々』は第三部に入ってから話が方々へ錯綜し始めて、今のところわけがわからない。第一部の主人公が30年ぶりに登場して、第二部の主人公も15年ぶりに登場して、第三部の主人公と絡むのだけれど、他にいくつか別々に話が進行していて、それが今後どう絡んでくるのかよくわからない。その内の一つは、唐突に「わたし」が語り出す。「わたし」とは誰なのだろうか。これまでに話を語ってきた「わたし」なのか、それとも新たに「わたし」という語り手が登場したのだろうか。そして語り方というか、文章表現もそれぞれの話で違っている。その中の一つにこんな文章が出てくる。

 外から見ると、ハンナ・ヴェントリングの生活は秩序立った状況内での怠惰な生活だといってよかったろう。そして奇妙なことに、内から見てもやはりそうだった。彼女自身もきっとそうでないとは言わなかっただろう。朝おきてから夜寝るまでのあいだ垂るんだ絹糸みたいにぶらぶらした生活で、緊張を欠いているために弛緩し、いささか狂っていた。生活とは多様な次元にわたるものだが、彼女の場合は特別で次々と次元を失ったばかりか、ほとんどもはや空間の三次元を満たしさえしなかった。つまりハンナ・ヴェントリングの夢のほうが目ざめているときよりも彫塑的で血がかよっていたといっても、正鵠を得ていたのだ。だがもしこれがハンナ・ヴェントリング自身の意見だったとしても、この意見がやはり事柄の核心を突いていないことは、そう言ったんではただ彼女の独身女性的存在の巨視的状況だけを明らかにしたにすぎず、もっぱら微視的状況が問題であるのに、これについては彼女はほとんどなにもわかっていなかったからである。どんな人間も自分の魂の微視的構造についてはかいもく知っていないし、またたしかにそれについて知ってはならないのだ。そんなわけでハンナの場合は、目に見える生活態度の弛緩の下に、個々の要素の不変な緊張状態がひそんでいたのである。外見柔弱な糸からほんの少しの部分だけ切り取ろうとすれば、そのなかにおそろしいよじれ、諸分子の極度の緊張といったものを発見するだろう。この緊張のうち外側へ向かってあらわれたものを最もありきたりの言葉で概括すれば、神経質と呼んでもよかろう。もちろんこの言葉をもって、自我の表面が接触する経験世界の、あのごくわずかの部分に対して、自我が最も短い各瞬間に遂行しなければならぬ消耗的なゲリラ戦、と解するものと限定しての話である。しかしこのことがハンナに広く当てはまったとしても、やはり彼女の本性に特有な緊張は、生活の偶然事に当面したときに神経質にじりじりする点にあったのではない。生活の偶然事といったが、こうした偶然事というのは彼女のエナメル靴がほこりまみれになったとか、指輪がどうもきゅうくつで指が痛いとか、馬鈴薯が生煮えだとかといった程度のものにすぎない。そうだ、そんなことのせいではなかった。なぜならこんなことはみんな一瞬きらっとする小刻みな動きを持つだけで、陽光を浴びてかすかに動く水面のきらめきのようなものだったからで、彼女はそれをなくしたくはなかったらしく、それはなんとか退屈しのぎになった。そうだ、そんなことのせいではなかった。その緊張は、この幾重にも陰影を持つ表面と、彼女の魂の揺るがしがたく動かぬ海底とのあいだの不一致に因があったのだ。彼女の魂の海底は、あらゆるものの下深くひろがっていたので、それを見ることはできなかったし、また決して見ることはできぬだろう。それは目に見える表面と、もはや境のない目に見えぬ表面とのあいだの不一致であり、魂の最も緊張した作用が演ぜられるはてしない不一致であり、薄明の表側と裏側のあいだの測りがたい均衡を欠いた緊張であった。いや動揺する緊張とも言えるものだったことは、一方の面には生が立ち、他方の面には、魂と生の海底にほかならぬ永遠が立っているからである。(『夢遊の人々』 ヘルマン・ブロッホ 菊盛英夫 訳 中央公論社 420〜421ページ)

 これをどう読めばいいのだろうか。小説としては一段落が長過ぎるし、翻訳文だから仕方がないにしても、例えばカルチャースクールか何かの文章教室で、生徒がこんな文章を書いて先生のところへ持っていけば、十中八九は書き直しさせられるのではないか。話の前後から推測すれば、第一次世界大戦で夫を戦争にとられ、手持ち無沙汰な人妻の日常の悲哀でも描かれているのかも知れないが、それにしても奇怪な文章だ。その中で例えば、「生活とは多様な次元にわたるものだが、彼女の場合は特別で次々と次元を失ったばかりか、ほとんどもはや空間の三次元を満たしさえしなかった」、これは数学的な表現で、「外見柔弱な糸からほんの少しの部分だけ切り取ろうとすれば、そのなかにおそろしいよじれ、諸分子の極度の緊張といったものを発見するだろう」、これは分子工学的な表現で、「その緊張は、この幾重にも陰影を持つ表面と、彼女の魂の揺るがしがたく動かぬ海底とのあいだの不一致に因があったのだ。彼女の魂の海底は、あらゆるものの下深くひろがっていたので、それを見ることはできなかったし、また決して見ることはできぬだろう」、これは地学的な表現だろうか。『1Q84』ではその語っている内容が奇怪で、それは「世にも奇妙な物語」のバリエーションの一つに過ぎないのだろうが、この文章は語っている内容ではなく、文章表現自体が奇怪なのであり、物語の内容の奇怪さと、記述されたテクストそのものの奇怪さの違いが、『1Q84』と『夢遊の人々』を物語と小説とに大きく隔てている。

 『1Q84』が国内でベストセラーとなり、また外国語に翻訳され、世界中の人々に読まれているとすれば、それだけ物語の内容に共感する人々が世界中に大勢いるのであり、同じ価値観を共有する人々に支持されているわけだ。一方『夢遊の人々』は、その内容に共感する人は少ないだろうし、価値観を共有しない少数の人たちに読まれるだろう。そして読む人はその内容ではなく、その文章表現の奇怪さに衝撃を受ける。もしかしたらそこに、同時代の多くの人に読まれ、読まれたあとは忘れ去られるありふれた物語と、時代が違えばほとんど誰も読まないが、歴史には残る小説との違いがあるのだろうか。結局文学は文の学であり、物語学ではないらしい。


9月4日「物語と小説の違い」

 誰かが世界とともに存在している。他者のいない主観的な世界だ。それが宗教になってしまうと他者がいなくなる。自分と世界が一体化して、その中に他者も含まれ、存在するすべてが世界の一部となる。未来も過去もない閉塞した世界だ。集団の掟が優先され、個人は集団の一部となり、好き勝手なことができなくなる。やっていることはどこも一緒らしい。人には逃げ場がない。それを幼稚な世界観だと侮ってはならない。自分もそれに属していることに気づいていないだけだ。物語が成り立つためには、すべてを知る人物の存在が欠かせない。全能なる神のような人物が登場する。ある種の超能力も有している。何か特別な能力を身につけなければ、物語そのものに関わる役割を果たせない。物語と小説の違いはその辺にあるのかもしれない。小説にはごくありきたりの普通の人物が登場し、物語には何か特別な能力を発揮する人物が登場する。人々は小説と物語を混同し、小説の登場人物にも特別な能力の発現を期待してしまう。何か特別な力を身につけた神のような存在に、それに対抗する特別な力を身につけた子供たちが力を合わせて立ち向かう。それが物語で語られている話の内容であり、一方小説の中では、その神のような存在がいなくなった世界で、普通の人々が普通に暮らしている。そんなジャンル分けは実際には無効かもしれないが、人知を超えた特別な能力の発現を期待してしまうのは、宗教ではよくあることで、物語はそんな宗教的な願望から生まれてきたのだろう。そんな力がなければ、すべてを知ることはできず、人が世界を操作することなど不可能であり、それを求めるのが宗教だからだ。そしてその力の存在を否定したのがイエスでありブッダであるのかもしれないが、そこから生じたキリスト教や仏教などの宗教では、彼らにはその力が宿っていたと解釈されるわけだ。確かブッダは、神秘的なの力を身につけるための修行など不要だと悟ったわけで、それが本来の悟りであるはずで、要するに彼は宗教を否定したわけだが、それを宗教は取り込んで、彼を何か神秘的な能力を身につけた教祖様に仕立て上げようとする。そして人の力ではどうすることもできない世の中の不条理に直面し、絶望した人たちが、神の奇跡が起こることを期待して宗教にすがりつき、それが起こる物語に精神的な癒しを求める。一方小説の中では、登場人物たちが世の不条理に直面して、時には絶望したりしながらも、あくまでもその範囲内で話が進み、神秘的な力が発現することはない。

 物語のパロディが小説なのだろうか。それとは逆に、イエスやブッダが宗教に取り込まれたように、小説の物語化というのもあり得るかもしれない。いつまで経っても神秘的な奇跡が起こらず、救いがなくとりとめのない小説に嫌気がさして、ついつい人々は小説を装った物語に救いを求めてしまうわけか。超越的な力を身につけた登場人物が、その力を発動させて世界を動かす姿に感動したいのではないか。それが人々の願望なのだろうか。現実の世界が終結の見通しのない地域紛争に悩まされ、経済状況も一向に改善せず、致死的な伝染病も不気味に蔓延し、そんな閉塞感に覆われている状況の中で、スーパーヒーローが漫画や映画の中で活躍しているのも、そうした願望のあらわれかもしれない。そんな願望に誘惑されながらも、人が有する通常の力が働く範囲内で話を進めている限りは、小説の体裁を保っていられるのだろうが、なにしろ人々が求めているのは、宗教的な人を超越した力の発現なのだから、それを利用しない手はないわけで、そうした物語の誘惑に屈して、それを小説に取り込めば、誰もが求める楽しみや気分転換や気晴らしや遊びや息抜きなどの意味合いを持つ、エンターテインメントとなるのかもしれず、そしてそれはベストセラーとなるわけだ。しかしそれをやってしまったら、宗教に魂を売ってしまったことになるわけで、たぶんその手の誘惑に屈してしまったことに対する疾しさに苛まれるのかもしれず、そのわかりやすい例が、漫画の『ドラゴンボール』に登場する、ミスター・サタンというキャラクターだろう。漫画の中で登場人物たちが戦っている限り、話を興味を持続させるために、より強力な敵を登場させ続けなければならず、主人公とその仲間や敵たちが、そんな物語の進行とともに発現する力のインフレーション理論に従って、ついには地球を吹き飛ばし宇宙全体をも滅ぼしかねない荒唐無稽な力を身につけ、それでもひたすら壮絶なバトルを繰り広げる中で、セコく狡猾に立ち回って、主人公たちが強大な悪の敵を倒したその手柄を横取りして、あたかも自分がそいつらを倒した正義のヒーローであるかのように見せかけ、ひたすら地球の人々をだまし続け、最終回に至るまでだまし遂せてしまうのだが、そういうシニカルな結果を呈示することが、物語の論理に屈してしまった作者の、せめてもの罪滅ぼしとなっているのではないか。そんなミスター・サタンというキャラクターに、人間の本質や限界を込めようとしたのだろう。

 『1Q84』でも、超越的な力を体現する「リトル・ピープル」とかいうキャラクターが登場して、ジョージ・オーウェルの『1984』に登場する「ビッグ・ブラザー」のパロディなのだろうが、それが話の前面に出てくるほどに、小説の物語化が進行していると解釈してかまわないのだろうか。しかしそんな宗教や物語の誘惑に屈せずに、人の力の限界内で話をまとめ、しかもそれをベストセラーに導くには、どうすればいいのだろうか。作者に話題性があり、批評家のたぐいに絶賛され、映画化やドラマ化がなされ、有名な文学賞のたぐいをとり、メディアによる宣伝攻勢が実を結び、それではじめてベストセラーとなる可能性があるわけか。でもそうなると、話題性のある人に、権威のある批評家のたぐいに絶賛されるような、映画化やドラマ化がしやすいような、有名な文学賞がとれるような、メディアが宣伝しやすいような、そんな小説を書かせるような力が自ずから働いたりするわけか。そしてそんな思惑が働くこと自体が、人のセコくて狡猾な本質であり、限界だろうか。たぶん現実に存在する宗教にしても物語にしても、そういう人間的な力なしにはあり得ないのかもしれず、そういう力こそが、人知を超えた超越的な力があるように見せかけているのではないか。


9月3日「話を終らせる方法」

 不意に周りの雰囲気が変わり、不可思議な語りに記された文章が包まれている。語り手は何を語っているのか。登場人物の誰が語っているのでもなく、何を思っているのでもないらしい。ただの情景描写が続いているのだろうか。物語の上では何の面識もなく、初対面のはずなのに、なぜか門前払いもされず、屋敷の中に通され、不思議な会話が始められてしまう。ほとんど話がかみ合っていないのに、それでもかまわないようで、何かを言えば的外れな返答がかえってくる。言葉を交わせばそれだけ時間が進み、進んだ分だけ言葉が費やされ、何を納得もできぬまま、きりのいいところでお引き取り願う。それだけのことらしい。その会話によって何が解決したわけでもなく、話がどう進展したわけでもない。当初の目的は何だったのか。会って話をつけることで何がどうなると思っていたのか。話がつくと思っていたのか。何か主張するためにやってきたはずで、確かにその場で何か言い張ったはずだが、それをはぐらかされたわけでもないのに、それに対する奇妙な返答により、なぜかその主張が効力を失い、まるでどうでもいいようなこととなってしまう。いったい自分はここに何をしにきたのか。それもどうでもいいことだ。何を言いくるめられたわけでもない。ただここへ来て誰かと会話し、その会話が一通り済んだら退散せざるを得なくなり、実際にその場をあとにしたわけだ。これはどういうことなのか。その場での出来事が夢の時間の中で起こっていたわけでもない。たぶん物語が終息に向かって動き始めたのだろう。いつまでも埒のあかない彷徨に身をまかせているわけにもいかず、ひとまず話にけりをつけて、そこでおしまいにしたかったのではないか。だがそこでどんなけりがつくわけでもなく、そこに至るまでの間に時が経っただけだ。その時間の経過の中で誰かと誰かが出会い、何やら噛み合わない言葉のやり取りに終始したあと別れたわけで、それでけりのつかない話のけりがついたことになってしまう。それは話を終らせるために用意された通過儀礼のたぐいか。そうだとしても納得がいくはずがなく、納得できない心のひっかかりはその場に取り残されたまま、言葉を交わした当人たちがどんどん引き離されて、それで話を終えようとしてしまうわけだ。

 確実に終息しつつあるらしく、登場人物たちの意志や思惑などとは関係なく、さっさと語り終えようとしている。いつまで経っても謎の手前で立ち往生しながら、話が一向に進展しないもう一つの物語とは無関係に、登場人物たちを置き去りにして、終息に向かって不意に加速がついてしまったらしい。無闇矢鱈と辺りを彷徨い歩いていたのではなく、そこに理由や意図があったにしても、それを押しのけて話が進む。その辺の手際の良さは何を意味するのか。それほど手際が良いわけでもないか。ただ一通り彷徨が済んでしまったので、あとは誰かの思想が語られるだけとなってしまったのか。でも思想とは何だろう。それは思想ではなく、人の習性ではないのか。人一般ではなく、そのような状況におかれた特定の誰かの習性なのかもしれない。旅が何を意味するのだろう。それは虚構の旅となるのだろうか。小説の中ではそうだが、現実の旅においても、話には終わりも始まりもない。旅と旅でないときの境界が曖昧だ。たぶん部屋の中でじっとしているときでも、旅の最中だったりするのではないか。でもそれは心の旅ではあり得ない。ともかくそこで人と人が出会い、何か言葉を交わしたのだから、心と心を通じ合わせたのではないにしろ、それが出来事であったのは確かだ。そしてその出来事が語られ、話の中で様々な出来事を語っているのだから、それらの出来事と出来事が脈絡なく並んでいるとしても、それだけ話が先へと進んだわけだ。しかしそれで話になっているのだろうか。寓意も教訓もない話ではまずいのか。それでかまわないのだろうが、そこに意図や思惑が感じられるとしたら、その時点でしらけてしまうのではないか。それを悟られないように語らなければならないということか。だが興ざめにもそれなりの味わいがあると感じるなら、作中人物の愚かな言動にも一定の役割があるのではないか。たぶん語り手の焦りがそんな言動を呼び込むのであり、話の意図的に込み入らせようとする魂胆が見え見えで、読むと滑稽な印象を抱かせる。たとえそれが何かのパロディに感じられようと、その印象は変わりようがなく、それを動かしがたく、語り損なっていることは明らかだ。後々その失敗がものを言うのだろうか。でもそこで誰が何を言うのか。誰が言わなくても、ものを言うのではないか。

 もう一つの物語の中では、無意味な挿話が積み重なって、話が無駄に引き延ばされている。それが味わい深く思われるなら、そう思う意識は何か勘違いしているわけか。そう受け止められないから、不必要に話を長引かせ、ひたすら結論に至るのを回避し続ける。それが常套手段だと思われてしまえば、そこで読むのをやめてしまえるのかもしれず、実際にそうなった事例は数知れずで、それがこだまとなって様々な方面へ反響しているのだろう。君はそこでやめないのか。それについて語るには読み続けなければならず、話の無意味な引き延ばしにも目を瞑りながら読んでいるはずだ。別にどんな思惑や魂胆があるわけでもなく、読み終わってから、それを大げさに否定したいわけでもないのだろう。話がおもしろくてもつまらなくても、度々繰り返される謎のほのめかしが、くだらぬ妄想を引き寄せようと、そんなことには関わりなく、とりあえず終わりまで読んでみなければ気が済まない。その手の引き延ばしは漫画で馴れているはずだ。いくら引き延ばそうと、いつかは語り終えられねばならず、それがいつまで経っても終らなければ、語り手が力尽きたところで話が中断するだけだ。そしてそれが終わりであろうと中断であろうと、そこまで読めば済む話だ。だから読み続けている。本当はそんな理由ではないのかもしれない。それでも読書を楽しんでいる。くだらぬはぐらかしを愉快に感じ、わざとらしい回り道にもとことんつきあい、あわよくばその手法を自らの内に取り込もうとしているのだろうか。そんなものを取り込んでも他では通用しないだろう。他で通用しなければここで通用させるしかないわけだ。別に意識してそれを狙っているのではなく、何かの拍子に不意に出てくればそれでいいわけだ。はっきりと思い出さないうちに済ませてしまう。それで話に決着がついたとは思わないが、決着などつけようがない状況なのかもしれず、たぶんそれを見越して、話を無駄に長引かせながら、自然と収まるところに収まるのを待っているのではないか。だから今は気長にそれを待つしかないのかもしれない。そんなふうにしか事が運ばないなら、それしか話を終らせる方法はないのだろう。


9月2日「読書感想文の途中経過」

 マニアックなことを語ろうとするのだけれど、マニアックなレベルでは語っていない。例えば銃器についての専門的な知識を語るのだけれど、どうも大藪春彦レベルではないような気がする。また音楽について造詣が深いように装うのだけれど、あるいは登場人物がバーやフレンチレストランで通な振る舞いを装うのだけれど、ファッションについてもそれとなくセンスのあるブランドの服装を選んでいるようなのだけれど、高名なロシアの作家の誰も知らないような紀行文を読んでみたり、少女にはおよそ似つかわしくない『平家物語』を暗謡させてみたり、予備校の数学教師なら、大学時代に当然数学を学んだはずなのに、学問としての「数学」そのものについては、専門的な知識を披露することはしない。数列や行列、微分積分や確率統計など、文章の中でそれを駆使したアナロジーが語られるわけでもない。歴史についても、現代の視点から過去の出来事を語っているだけだし、人間は遺伝子の乗り物に過ぎない、とか生物学そのものではなく、生物学的な知識を援用する思想家のイデオロギーの受け売りだし、その分野の専門知識を少々聞きかじっただけの、皮相なことが語られている。そして随所に官能小説まがいの即物的なセックス描写が淡白にちりばめられる。すべてが中途半端なのだ。これを読んでいる読者は、この小説に何を求めているのだろうか。小説の中で小説家志望の予備校教師や雑誌編集者がこだわっている小説についても、それのどこに惹きつけられるのかよくわからず、予備校教師がそれを書き直す場面でも、何かひたすら家を建築するときの大工仕事の比喩に逃げている。一方もう一人のの主人公である、スポーツジムのインストラクターの女殺し屋に関しては、そのストイシズムに貫かれた生活が、昔読んだ大藪春彦の小説に出てくるキャラクターに似ているのだが、その女もその女に殺しを依頼する黒幕も、どうも甘っちょろいヒューマニズムに感染しているようで、そういう話の設定なのだろうから仕方がないとしても、やはりその辺が中途半端で、ハードボイルド小説特有の虚無的で破壊的な陰影が感じられない。最初に出てくる殺しの場面でも、大藪春彦の小説もご都合主義的で荒唐無稽ではあるのだが、それにしても、殺す相手がいるホテルの部屋に、ホテルの従業員を装って入り込む場面で、故障箇所の点検なら、まずはフロントから連絡がくるはずで、大企業のエリート社員ならそれなりに勘が鋭いはずで、女が用件を伝えた時点で、これはおかしいと思わない方がおかしいのであって、ドアを開ける前にまずはフロントに確認をとるはずだろう。そして女が首筋にあるらしい神経のつぼに針を刺しに近づく場面で、首筋に塗料がついている程度の会話のはずみで、騒がず黙ってすんなり確実に針を刺せるとも思えず、その程度のやり方では、騒がれ暴れられて殺しに失敗する確率の方が高いのではないか。どう読んでもリアリティが感じられない。まあとりあえず『1Q84』の6巻中2巻まで読み終わった時点での、思いつく限りでの感想はこんなところだ。

 『夢遊の人々』は三部構成の二部の途中まで、二段組みのページで700ページほどある内の、300ページあたりまで読み進んだ。第一部は1888年、第二部が1903年、第三部が1918年の話で、19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツ帝国内で、15年ごとに話が展開されてゆき、第一部では大農場の次男で軍の高級将校が主人公で、農場主の父親や、友人で軍を辞めて幅広く事業を手がける資本家や、主人公が交際している貴族の令嬢や、愛人となるボヘミア地方からやってきたキャバレーのホステスなどを中心として、父との軋轢や農場の後継問題、貴族の令嬢との結婚、友人や愛人を巡る諍いや軋轢など、『1Q84』に出てくるカルト教団や過激派や性暴力などの社会派的な時事問題だとは無縁の、言ってみれば世間話程度の内容だ。二部でも今のところはその域を出ず、経理に関する不手際で会社を辞めた労働者が、再就職した先でも、ちょっとおもしろくないことがあればすぐに辞めて、見せ物の興行師やナイフ投げの奇術師と手を組んで女子レスリングを企画し、ちょっと儲けたらすぐに飽きて、食堂の中年女将に入れあげ、今度はアメリカに渡って一旗揚げたいと言い出す始末だ。あからさまにどうしようもなく、どうにもならないことに煩わされ、やることなすこと気に入らず、夢も希望もない閉塞感に苛まれ、必死になればなるほどドツボにはまってゆく。第一部での主人公と貴族の令嬢との結婚など、つきあっている最中に友人に仲をかき回され、もうお互いがお互いをほとほと嫌になり、愛が冷め、関係が冷えきってから、それでも結婚するわけだ。一人娘の結婚を両親は涙ぐみながら喜んでいるのに、当人たちはしらけきっている。農場の後継者だった兄は、他人との決闘で顔を撃たれて死んでしまうし、次男の主人公が軍を辞めて農場を継ぐしかないのに、その気なって退役の圧力をかけていた父が、突然気が狂って息子と絶縁すると怒鳴り出す。愛人を水商売から足を洗わせて、友人の協力をあおいで、かたぎの職に就かせようとするが、些細な諍いから拒絶されて別れる羽目となる。その友人との関係は、常々その言動と行為を不快に感じ、猜疑心や疑心暗鬼に取り憑かれ、被害妄想が膨らんで憎たらしくして仕方がないのに、それでも別れられず、ついつい相談相手として重宝してしまう。友人も友人で、主人公が交際している貴族の令嬢に向かって、自分はその男に復讐しているのだとほのめかし、彼女を動揺させ精神的に追いつめる。第一部ではそんな呪われた話が延々と続き、第二部ではどうしようもない話が延々と続き、第三部ではまたそれとは趣が異なる話となっているらしいが、読むほどにどう読んだらいいのかもわからず、途方に暮れてしまう。たぶん救いはほとんどないだろう。晴れやかな気分となることもないだろうし、終わりまで読んだとしても、肯定的な感慨を得るには至らないのではないか。


9月1日「美談とパロディ」

 人々が固い絆で結ばれてしまう話ほど信用できないものはない。だがそう述べて何に反発しているわけでもない。信用できない話ほどかえって謎が深まり、心地良く感じられてしまう。しかしその固い友情の絆はどこから生じるのか。それは戦友という表現からか。同じ釜の飯を食い、力を合わせて困難に立ち向かい、敵と戦えば、固い友情の絆が生まれるのだろう。それは美学でありロマンであり、物語特有の価値観なのではないか。そうであってほしいという願望の顕われで、逆に現実の世界ではそれが損なわれていることを嘆くわけだ。そんな感情に物語が深く結びついている。小説は絶えずそういう物語に逆らっている。安易な見解か。それもわかりやすい抵抗の美学となってしまいそうだ。そういう美学的な価値観に回収されてしまう事態に抗っているのだろう。抗わなくてもかまわない。どちらでもかまわないのではないか。逆らうことにも価値を感じられず、そうではないように思われてしまう。価値を求めているわけではないらしい。では何を求めているのか。何も求めていないわけでもないだろう。それを知りたいのだろうか。あるいは知らなくてもかまわないのか。それに関して何か的外れなことを述べてしまいたくなる。美学とフィクションでは片づかない問題がありそうだ。美学には到達できない情けない惨状があり、フィクションでは語り得ない現実のとりとめのなさがあるわけだ。それに関しては何も語る気になれないのだろう。話ではないらしい。でもそれを語ると話になってしまい、フィクションとなるわけだ。要するにそれはあり得ない話なのだろうか。物語とは相容れないのに物語ろうとするから、何やらリアリティを失い、興味を持てなくなり、どうでもよくなってしまう。美学を受け入れなければ、何も語れないのではないか。それに逆らうのは容易なことではない。なにしろ人々が求めているのが美学なのだから、求めていることを語らなければ支持を得られない。支持を得られない語りは無視されるだけだ。反発も何もあったものではない。ただのつまらない話となってしまう。まさかひねくれ者の君はそれを求めているのだろうか。冗談を述べるならそうかもしれない。ならばそれを語ればいいのだろうか。だから語れば美学となってしまうのだろう。

 抗えば抗うほど、抗っている対象に似てくる。それでも抗い続けるなら、ついには抗っている対象を肯定しなけばならなくなる。では抗わなくてもいいのだろうか。どちらともいえず、どちらでもないような気もする。ともかくそこで何らかのごまかしが生じてくるのではないか。何やら不透明で割り切れないことを語らなければならなくなり、それをどう語ればいいのかもわからず、途方に暮れてしまう。どう語っても無力感に苛まれ、いつしか諦念にとらわれ、何をやるのも面倒くさくなるわけだ。それでも語ろうとしてしまうのか。別に語るのが使命というわけでもない。そう感じなければ語れないわけでもなく、それとは違う語り方もあるのではないか。それに語る以前に言葉を記しているのだから、記述でその辺をうまく処理すればいいのではないか。そんなふうには語っていないように記述すればいいのか。その辺が難しいところだろうし、そう思ってしまうこと自体が勘違いなのかもしれない。ともかく美学を避けて通るわけにもいかないのだろうから、それはそれとして文章上で適当に漂わせておけばいいのではないか。友情の絆で硬く結ばれた者同士が、何かのきっかけで別れ別れとなり、それに追い討ちをかけるように、別れた相棒が事件に巻き込まれて命を落としたりして、残された者が最愛の相棒を奪った敵に復讐を遂げる。そういう仇討ちのエピソードなら、その手のドラマではよくある話だ。

 主人公の不幸な生い立ちは物語には欠かせない。その不幸にもめげず、あるいは不幸を乗り越えて、精神的なトラウマを抱えながらも大人へと成長する。たぶんそれだけでは終らないのだろう。その不幸ゆえに身につけた特性がその者の人格を形成していて、それを活かしてその者は物語の中で活躍する。だがそうでない者はどうなるのだろうか。何も活かせぬまま、根無し草のようにあてもなく彷徨う。そんな者たちが物語の主人公になることはあり得ない。でも小説にはそういう者たちが大勢登場して、その英雄的な行為とは無縁の生活の中で、普通に年を取り、普通に朽ち果ててゆく。それだけではつまらないから、何か読者の興味を惹く仕掛けが必要なのかもしれない。でもそれはごまかしに過ぎないのではないか。ごまかせないとすれば、もはや小説など必要ではなく、読まなくてもかまわないのだろうか。読者の興味をつなぎ止めるための工夫が凝らされた小説を賞賛する気にはなれないが、単純に読んでおもしろければそれでかまわないのかもしれない。多くの人たちがそれを買い求め、ベストセラーになれば、メディアも大々的に取り上げて当然だろうし、そんな現象にケチをつければ、単なるひがみ根性だと見なされてしまいそうだ。人々はフィクションの中での英雄的な美談にロマンを抱き、さらにそれのパロディが演じられていれば、工夫が凝らされ気が利いていると感じるかもしれない。まずはロマンに感動し、それの倒錯に知性を感じる。ロマンに飽きたらシニカルを求めるわけだ。その辺が芸の見せ所なわけか。でもそう語ると虚しくなってくる。もう少し何か肯定的な評価ができないものだろうか。屁理屈をこねないで、単に好き嫌いの判断でもかまわないのか。


8月31日「途中から途中へ」

 人は普通に暮らしているだけでおかしくなる。愛し合うとともに憎しみ合い、友情を感じるとともに猜疑心にとらわれ、裏切られたと感じたら絶縁状態になり、黙っていても勝手な妄想が膨らんでゆき、会話をすれば齟齬が生じ、意見の食い違いからけんかして、些細な幸運をつかんで優越感に浸ったり、偶然の不運に見舞われて劣等感を抱き、他人の成功をねたみ、他人の失敗を喜び、善意でやったことが相手の反感を呼び、誤解を解こうとすればさらに憎まれ、互いを許し合って和解することもあれば、どうしても許す気になれずに絶交することもある。そしてそこに打算や損得勘定も入ってきて、立場の上下関係から、恨み呪い憎んでいるのに媚びへつらったりするわけだが、媚びへつらわれた側にはそんなことはお見通して、そういう輩を蔑みながら優越感に浸るわけだ。そして互いに互いを褒め合いながらも陰口を叩き、同じ立場の者同士で意気投合して、陰で上の立場の者を罵ったり嘲ったりしながら溜飲を下げる。また時には根も葉もない悪い噂を流したり、互いに陰湿な足の引っ張り合いをしたりしながら、さらに不快な状況をエスカレートさせる。『夢遊の人々』にはそれがあり、『1Q84』にはそれがない。気を取り直してもう少し読み進めてみたのだが、どうもその小説を読んでリアリティを感じるか否かは、そういうところにあるようだ。しかも『夢遊の人々』にはそんな下世話な感情を超えたところに、どうにもならない運命が待ち構えている。一方『1Q84』の方は、まだ語り手の目論見通りに事が運んでいる段階で、極めて順調に話が消化され、何やらSF的な要素や、かつて起こったメディア的な大事件が大事故に恣意的なアレンジが加えられ、そんな事件が起こって、ニュース解説者やコメンテーターがそれふうの意見を述べていたことが思い起こされ、そんな多数派の良識の拠り所となる、リベラルでエコロジカルなイデオロギーも、良心的な登場人物たちの主張として語られ、まるで読者を心地良い眠りに誘い込んでいるみたいな成り行きだ。そして物語的な紋切型として、登場人物たちを操作したり弄んだりする黒幕めいた輩もちらほら登場してきて、この先興味の尽きない展開となるらしい。とりあえず『夢遊の人々』を読んでいるときの精神的な圧迫感を、『1Q84』を読んで紛らわして、このまま交互に少しずつ読み進めてゆけば、何とか終わりまでたどり着けそうだ。

 会話したり何かを行ったり、自分や他人の立場や態度を主張したり、感じ取ったりすることで、人は変容を被る。そして思いがけない事件や出来事に遭遇することで、さらなる変容を被る。自らの殻の中に閉じこもり、何とか自我の自己防衛を試みるのだろうが、そんなことはおかまいなしに不意に運命の時が訪れる。どうにもならない成り行きに巻き込まれて、人は変わらざるを得ないのだが、変わったからといって救われるとも限らず、ただ意図しないわけのわからぬ変形を被ったあげく、無造作に運命の渦から放り出され、あとは途方に暮れるしかない。まさか『1Q84』の登場人物たちは、このまま自分の殻に閉じこもったまま、物語の最後まで行ってしまうのだろうか。世界が変容してきているのに、人は変わらないという事態になるわけか。それが語り手の思惑なのだろうか。語り手が世界の変容から登場人物たちを守ろうとしているのか。話の進行具合に応じて人物を適切に配置し、それ相応の役割を与え、物語が破綻を来たさない程度に行動させ語らせて、時折彼らなりに疑念を抱いたりするが、それは物語の円滑な動作を促すための疑念でありこそすれ、決して妨げたりはしない。「僕はうまく話すことができるだろうか?」「うまくはなすことができる」、二人で会話しているはずなのに、まるでモノローグだ。「狂いを生じているのは私ではなく、世界なのだ」「そう、それでいい」「パラレル・ワールド」「これじゃサイエンス・フィクションになってしまう」。その通りの話の展開なのだから仕方がないだろう。大丈夫だ、そのまま語り手に従ってゆけば、『夢遊の人々』のように、話の途中で難解で深遠な哲学的あるいは神学的な言説に暴走したりしないだろうし、役割の終った主人公を捨て、また別の新たな主人公を登場させたりしないだろうし、ちゃんと節度をわきまえて、物語の終わりまで導いてくれるだろう。そういえば『ボヴァリー夫人』には三人のボヴァリー夫人が登場し、主人公と目されるボヴァリー夫人は、話の途中から登場して、話が終らないうちに死んでしまったし、冒頭から主役で登場したはずの影が薄い夫のシャルルも、終わりまでは生き延びられず、最後は話の途中から登場した脇役の挿話で終っているはずだ。たぶん小説には、漫画のように主人公が最後まで生き延びられるような語り手の配慮は要らないのだ。


8月30日「思っているととやっていることの食い違い」

 誰もが結果を求めている。自らにとって都合のいい結果とは何か。それは夢が実現することか。それが目的になり、努力の対象になる。何を正当化できるのだろうか。そのための手段として他者を利用しなければならない。言葉巧みに誘惑する人がいて、誘惑され利用される人がいる。資本制社会では利用するための人材が欠かせない。社会は他人を利用することで成り立っている。そして利用されていると感じてしまうと、それに対する抵抗感が芽生え、他人から利用されていることが腹立たしく思われ、そこから憎悪や嫉妬といったネガティブな感情が芽生え、そう感じる人が多くなってくると、社会が停滞してくる。みんなやる気がなくなってしまうわけだ。いったい自分は何のために生きているのか。そんな疑念も増してゆき、ますます嫌になってくる。中には自暴自棄となって犯罪に手を染める者も大勢でてくるだろう。だが誰もが平等に自らの利益を追求できる社会の実現などあり得ない。誰かが得すれば他の誰かが損するのは当たり前の成り行きだ。人は他人を利用しなければ利益を得られず、それは他人の利益をかすめ取っていることになる。そこに根本的な不均衡があり、それなくして生きてゆくことはできない。どんなに工夫してもその不均衡を解消することは不可能だ。今ある社会を維持していくにはそうするしかない。人が他人を利用しなくても生きてゆけるようになったとき、それは今ある社会がなくなり、人が人でなくなるときだろう。

 他人を利用しつつ他人から利用され、その差し引きがゼロになればいいわけだが、それでは利益が出ない。利益の出ない社会の実現というのはあり得るだろうか。それがどんな社会になるかは、実現した時にわかるだろう。そんな社会が実現するとも、間近に迫っているとも思えないが、利益が出るから、あるいは利益が出る可能性があるから、人は欲望を抱くのであり、その逆ではない。欲望を抱けない社会は利益の出ない社会だ。果たしてそんな社会が成り立つだろうか。だからそれは実現してみないことにはわからない。他人を利用することができる限りは、その利用の割合が不均衡になるのは目に見えている。利用した分だけ利用される側になりたいとは思わないだろう。それを義務づける法律ができるとも思えない。そんな法律ができたとして、それを維持するために必要な官僚機構が存在する分だけ、行政が利益を吸い上げなければならないから、民衆はそれだけ余分に働いて利益を生み出さなければならず、行政に自分たちの利益を奪われていると思うだろう。では人の行動を拘束する法律や行政がなくなればいいということになると、数万年前の狩猟採集社会に逆戻りするしかないか。

 結局早いとこ世界を統一して、地域的に偏在する軍事力や行政サービスなどの無駄をなくし、余分に利益を吸い上げている部門をなくしてみないことには、はっきりしたことはわからないのではないか。そうなるには世界の人口が減少に転ずることが必要不可欠な条件だろうか。人口が増え続ければ、それを養うために余分に資源を使い、余分に働き口を設け、余分に利益を出さなければならず、それだけ利益の奪い合いも熾烈となり、弱肉強食による地域的な不均衡も増大するだろう。逆に人口が減少してくれば、経済規模も縮小して、無駄な競争も少なくなって、利益もあまり出なくなり、人々の欲望も減退するだろうから、国家同士で張り合おうなどいう気力もなくなってくるだろうか。それもそうなってみないことには何とも言えないことか。

 そんなことは考えるだけ無駄か。考えて出るような解決法などありはしない。ただ人間は動物のように食うか食われるかで生きていこうとは思わない。無慈悲な弱肉強食の現実を何とかしなければと思っているわけだ。やりたい放題な他人に対する憎悪や嫉妬ではなく、そのような感情を減じる方法を編み出そうする。そして何よりも勝手なやり方を押し付けてくる権力を嫌っている。要するに何ものにもとらわれない自由を求めている一方で、その自由を実現するために他人を利用せざるを得ない現実にも嫌悪感を抱いている。思っていることをやろうとすると、その思いが抱いている嫌なことをやらなければならない。しかもその嫌なことをやらないと、思いを遂げることはできない。人は常にそんなジレンマに直面するしかないのだろうか。


8月29日「話の落としどころ」

 何やら社会には階級があるらしく、その階級差を利用して話が構成されるみたいだ。例えば値段の高いものを買えるようになれば、階級が上がったように感じるのだろうか。そして高級品をほしくても手が出せない階級が下の人間からすれば、階級が上の人間はあこがれと憎しみの対象となるわけか。要するに復讐心をかき立てられると同時に、そいつらに取って代わって自分が階級が上に人間になりたいわけだ。それが作り話の典型的な社会構造だろうか。しかし貧富の格差と身分の上下関係は、資本主義と民主主義がもたらしたものなのか。たぶん民主主義を顕揚する者たちは、それは違うと反駁するしかない。民主主義は社会的な身分の平等をもたらした。では資本主義が悪いのか。資本主義は国家の発展をもたらした。では何が悪いのだろう。何も悪くはないという結論がもたらされる。どちらも悪くないなら、現状を肯定するしかないわけだ。ではなぜそうなっているのか。それに対する安易な答えならすぐに導き出せる。貧富の格差も身分の上下も個人の能力差がもたらした。有能な人間は上層階級に、無能な人間は下層階級になる。そう思えば納得がいくだろうか。下層階級になるのが嫌なら、大人になるまでに勉学に励み、有能な人間になればいいわけだ。それで納得がいくだろうか。作り話の中ではその程度の認識でかまわないのではないか。しかも虚構の世界でなら、別に無能で下層階級の人間であってもかまわないわけで、実利を求めなければ、有能で上層階級の人間に対して、憎悪や羨望の感情を抱く必要がないわけだ。たとえ貧乏でもそれなりに満ち足りた幻想を抱くことができる。そして現実の世界も作り話の続きだと考えればいいわけか。その辺は判断の分かれるところかもしれないが、どうやらフィクションにはいろいろな段階があって、話の進み具合に応じて様々な解釈が成り立ち、その中では、自らの社会的な地位や身分にふさわしい自己正当化が可能となっている。

 まだ途中経過でしかない。話が結論まで至っていないのであり、たぶん結論に至ることは永遠にないだろう。話の中では結果は示されず、そこにはいつも途中経過しかない。だから話が続いてゆくわけだ。絶えず話の延長が試みられ、どこまで続けても閉じた無限など示されない。ではなぜ話には終わりがあるのだろうか。それはそこで区切っておかないと、同じことの繰り返しになってしまうからだ。要するにそれらはすべて以下同文で終っているわけだ。孤立した一つの物語があるのではなく、内容が似ている多数の物語がある。だがそういう見解も退屈だ。物語が小説である必要はないのだろう。別に記述内容が小説になる必要もない。突飛な殺し屋がギャグ漫画の中に登場してもかまわない。「必殺仕事人」でも十分楽しめる。それで幻想を抱けるならありがたい。そんなところになど関心が向かないのなら、それも楽な話の展開だ。それらのどこにも出口がないというのなら、そこにとどまればいいことでしかなく、とどまっていれば、やがて何か悟りに至るような話に持っていけるのではないか。持っていけなければ、そこで話が尽きてしまえばいいわけだ。何にせよ、語ろうとすれば語れるような話が続いてゆく。そこに弱肉強食の自然環境があろうとなかろうと、社会の仕組みがそうなっていようといまいと、それらは退屈な物語の範囲内の収まるしかない。別にそれは悲しむべきことも憎むべきことでもなく、そうなって当然の話なのではないか。そこからしか物語は生まれてこない。そこでいくら語っても、そうしたバリエーションの一つとなるだけで、それを超えることはできないわけで、超えようすればするほどそうなってしまうのであり、そうした成り行きを拒めないのだ。別に不意打ちを食らわせたとこで、そんな出来事も挿話として物語に吸収されるばかりで、その一時的な開放感に浸っているうちに、ますます深くはまり込んでいってしまい、気づいた時にはもう抜け出られない。何と対峙ているわけでもないのに、それと敵対しているなんて思わない方がいいのだろう。

 では自分だけが助かろうなんて思わない方が身のためか。身のためだと思うこと自体が、自分だけが助かろうと思っている証拠か。作者の認識が記述に追いついていない。それが小説の特徴だといえなくもないが、記述内容が何を制御しているわけでもなさそうだ。ただ闇雲に記され、それが何らかの記述理論を想定させるが、それを幻想だと思わない方がよさそうだ。そこに何か書かれていればそれを読むしかない。そこ構造が見出されたらそれを論じればいいわけか。記述内容に対する批評とはそういうものだろうか。簡単に述べてもそれだけではないわけで、それ以上に語るならそれ以外を求めなければならない。しかしそれ以外とは何か。たぶん物語には収まりきらないから小説が誕生したのだろうし、そこに過剰な何かがあるのだろうか。そこからテクストの神秘思想にはまり込まないようにするには、そうした外部要因に惑わされずに読むしかない。何も読むことで謎解き探偵遊びを演じようとも思わないし、読むことで浮かび上がってくる記述内容の謎を、語ることで解こうとしているのでもない。謎は謎のままでもかまわないのではないか。その謎を解く身振りが、物語の罠に誘い込まれている証拠だとも思えないが、謎は解くのではなく、謎のまま放置しておくことにより、風化させなければならない。謎に関心を示さなければいいわけで、謎を抱く手前で、Uターンして謎から遠ざかればいいのだ。たぶんそれは何かの冗談なのだろう。そんなことをやる以前に、疑いを抱いてしまうわけで、そんな疑念から意識が生じている。そしてその疑念のわけを探ろうとして、あれこれ考えを巡らして、その疑いに関して、その因果関係を説明する何らかの理論を打ち立てようとしてしまうわけだ。そこから批評が始められてしまう。どうやら疑いをぬぐい去れないようで、読めば読むほど疑念の罠に深く入り込んでしまうようで、そうなればなるほどそれだけ多くの言葉を要し、記述の量もそれだけ膨大となってしまうのだろうか。ともかく何が今に始まったことでもなく、それに関する言説には限りがなく、それらをいくら読んでもきりがないのだろう。


8月28日「『1Q84』を途中まで読む」

 『1Q84』を6巻セットの文庫本で1700円あまりで買ったのだが、一巻目の136ページで読むのをあきらめてしまった。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に関しては、2月1日の回でかなりふざけたことを書いてしまったので、村上春樹の著作について、今回は真面目に何か語ってみようと思って、その見え見えでわざとらしい語り口と言い回しと表現に、いちいちツッコミを入れるのをためらいながらも、何とか我慢しながら読んできたのだが、136ページ目の「カティサークがお好きなの?」でその意志をくじかれた。もういいのではないか。数十年前のトレンディ・ドラマかウィスキーのCMでもないのだろうが、少年漫画に出てくる殺し屋のような非現実的なやり方で人を殺したあと、人を殺したあとの神経の高ぶりを抑えるためだか何だかわからないが、主人公の若い女が、ホテルのバーで禿げた中年おやじをナンパするというシチュエーション自体が、あるいは禿げたおやじ好きの若い女という話の設定自体が、ギャグのつもりなのか何なのかわからないが、中には実際にそういう人もいるのだろうが、語り手が完全にそういう好みを小馬鹿にしながら語っているように感じられ、その辺で完全にギブアップで、長編小説について真面目に語ろうとする意志をくじかれてしまう。どうも真面目に語ってはいけないのではないか。

 しかし1984年の東京のホテルのバーで、若い女が禿げた中年おやじをナンパする場面より、『夢遊の人々』に出てくる、1888年のベルリンのキャバレーで、主人公の70歳になる親父がホステスにちょっかいを出している場面の方が、リアリティを感じてしまうのはどういうわけなのか。親父に同席している主人公が、スケベ親父のゲスな行為と言動に反感を抱きながらも、さらにそれとは別のことを考えているようにほのめかされ、それらが長い一段落の中で重層的に語られていることに感動してしまうからなのか。

 若い女が「青豆」という奇妙な名字なのも、別に青木でも青山でもかまわないのに、わざわざそんな珍奇な名字にすることが、何か意表を突いているというか、その突き方があざといというか、その女を小馬鹿に語ることの意思表示なのか、その先を読んでいないので、その辺の事情はよくわからないが、それに関しては当然のことのように、その名字のおかげでこれまでにいろいろな恥ずかしい思いをしてきたことが、珍奇な名字を持つ人のあるある話のように語られ、それだけで結構な字数を稼いでいる。

 冒頭でその女が乗ったタクシーのカーステレオから流れてくる曲が、一般にはあまり知られていない、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』というクラシック音楽で、この選曲自体も意表を突いているというか、こけおどし的というか、別にクラシックならベートーベンでもモーツアルトでもかまわないわけで、その曲が後々話の展開上、何か意味を持ったりするのかもしれないが、普通に、タクシーに乗ったら流行りのポップスや歌謡曲が流れていた、でかまわないだろうと読みながら苛ついてしまうわけだ。そして歴史好きの「歴女」だか何だか知らないが、歴史を愛好するその女が、ヤナーチェックがチェコ・スロバキア出身ということを知っていて、作曲された1926年当時の歴史を振り返り、そのうんちくを傾けるわけだが、当時「人々はカフェでピルゼン・ビールを飲み、クールでリアルな機関銃を製造し、中部ヨーロッパに訪れた束の間の平和を味わっていた」と語られるその中で、「クールでリアルな機関銃を製造し」と、さりげなくわざとらしくこれ見よがしに、あるいは知ったかぶりの知識のお披露目として、チェコではチェスカー・ズブロヨフカとかいう自動式拳銃などに代表されるような、武器の製造がさかんであることを暗示させるように、「ピルゼン・ビール」と「束の間の平和」の間に差し挟んでおく。この嫌な語り方は何なのだろうか。村上は他人から嫌われることに快感を覚える性分なのだろうか。

 そしてタクシーには不釣り合いな高性能のカーステレオを搭載していることを巡って、あるいはタクシーの車種がトヨタ車であることの欠点をそれとなくほのめかしたりしながら、運転手とのそれふうの会話が進み、またそこから突飛な行動へとつながってゆくわけだが、その女とは別にもう一人男の主人公がいて、あとで女と遭遇するのかもしれないが、男の方は小説家志望で予備校の数学教師という設定で、出版社の編集者ともそれなりに面識があり、そこに新人賞に応募してきた謎の女子高生が絡んでくるわけだ。その話にもいろいろとツッコミを入れたくなるような苛立ちを覚え、何だか読んでいて疲れてしまって、とても読書を楽しむ雰囲気とはなりがたい。


8月27日「記述と語りの関係」

 意識してそうなるわけでもない。意識しなくてもそうなってしまうだろう。やっていることは自己満足とは無縁だ。大失敗だったのだろうか。過去のことではない。では未来の出来事なのか。これから何が起こるのだろうか。すでに修復不可能な段階に入っている。考えても無駄だ。考える前に語っているはずだ。それ以前に言葉を記している。これは予言ではない。記された言葉の数が多ければ多いほど、情報が錯綜するわけでもない。示したいのは文章上では示されないことだ。いくら媚びても自らがそれを裏切ってしまう。その時点で何かを悟ってしまうらしい。うまくいかないように思われる。それでかまわないのだろうか。砂漠が君を待っているわけではない。船に乗って大海を渡っているわけでもない。ロマン主義にいかれているわけでもないらしい。まだ終っていなかったのだ。しかしなぜこれからなのか。たぶんそれがわからないからわかろうとしているのだろう。わけを知りたいが、わけがわからないままとなり、闇雲に語ろうとするが、何を語っているのかわからない。相変わらずそんなことを語っている。だからこれからなのだろうか。これから何かを記し、記している中で語ろうとする。それはすでに過ぎ去ったことではない。現にこうして言葉を記しながら語っているのではないか。まさか気のせいというわけでもないだろう。意識しなくてもかまわない。その必然性がないのかも知れない。このままで終るわけがない。何をどう語ってもかまわないわけだ。早くそれに気づけばよかったのではないか。もう遅すぎるだろうか。今からでも遅くはないのではないか。大したことではなさそうに思われ、それが戦略ではないのだろう。それだけではどこへも行けない。至る場所を特定できず、至り得ないところばかり夢想しているわけだ。だからまだ何も記さずにいるのだろう。話の構想も何もありはしない。作品ではないわけだ。まだその段階ではない。その段階に至らないままとなっている。これも作戦のうちなのだろうか。フィクションを記しているとすれば、そういうことになるだろうか。そうでなければ単に言葉を記しているに過ぎず、別に何を目指しているわけでもないのだろう。勝手気ままに現実と戯れているわけではないし、ただ思ったことを語ろうとしているのでもない。そんなことは誰も思ってもみないことだ。何かを語ろうなんて思わず、何も語らないわけでもなく、ただそれを語っている。そうでなければ何も語れないだろう。それ以上を目指そうなんて夢にも思わない。何かが心にへばりついているようだが、心は想像物でしかないのだから、何かのたとえだと思いたいのだろう。それがわからなくてもかまわない。他に何を意識しているわけでもなさそうだ。そんなふうに思っているのではないか。

 語っているわけだ。それは語り得ないことではなく、実際に語りつつあることだ。それを記している。記述なしで語りを済ませられるわけがない。語る場が文章の中にしかないのだろう。そしてそれを語ることでしか言葉を記せない。語りと記述が相互にそれぞれに依存しながら、文章が成り立っているわけだ。それが意識によって思い描かれた幻想なのだろうか。あまり深く考えるようなことではないのかもしれない。すべてがそこから生じているとしても、それは大して重要なことではない。何を重要だとも思えない。別に語り続けることが重要なわけでもない。それは誰にとってもそうかもしれず、戦略的に語ることが重要だと思っている連中にしてもそうだろう。では中身がないことが重要なのか。逆説的に語っても意味がない。何も重要でないとすれば、ただ普通に語ればいいのではないか。抑圧されていたものが一時的に回帰しているとしても、それが長続きするとは思えない。いくら過渡的な現象に焦点を当てて、それを顕揚しようと、それを永続できるわけがなく、時期的に何かのきっかけで反復されるだけで、時期が過ぎれば何事もなかったかのように消え去り、あとには保守的な社会が残るだけではないのか。だからそれが何を意味するとも思えず、大して重要なことだとも感じられない。そこで何が起こっているわけでもなく、何がもたらされているとも思われない。そんないっときの盛り上がりに何を期待しても、過ぎ去って高揚感が失われれば、虚しさが後を引くだけではないのか。そこに限界があり、それ以上の変化はもたらされない。結局それは流行現象の範疇にしかないわけだ。いったいそれを超えて何が持続するというのだろう。

 持続させなければならないと感じているようだが、持続させるために何らかの運動が行われているとしても、それも流行り廃りの運動なのではないか。それらをどうしても否定的に捉えてしまう傾向にあるようだ。だが事は単純ではない。確かにそこで不可能に直面しているのだが、別にそこから不可能なことをやろうというのではない。結果的にできることをやっているのであり、できなければそれが不可能に思われるだけだ。できるできないは結果から判断するしかなく、実際にやっていることがそれなのだろう。それとは現実に対する抵抗運動のたぐいなのだろうか。何かに抗っていることは確かなようだが、その一方で依存し順応しようともしているわけだ。それは意識せずにやっていることでしかなく、要するにそれをやればいいことはわかりきっていて、思い通りの結果がもたらされなければがっかりするわけだ。ではそれがもたらされるように努力してしまうわけか。どうもそれは違うような気がする。そうであってもかまわないのだろうが、そうでなくてもかまわない。思い通りになってもならなくてもかまわない。とりあえず何かをやっている現実があり、そんな現実を否定的に捉えようと、肯定的に評価しようと、それもどちらでもかまわないような気がしていて、どうもその辺で戦略などとは無縁になっているらしい。なぜそうなってしまうのか、そうならないようにしなければならないのか、その辺も判断する気にならず、投げやりになっているわけでもないのだろうが、何だかわからない心境に至り、わかろうとする焦りを受け流し、焦る気も起こらないように意識を制御しているのかもしれないが、それがどうしたわけでもないらしく、ただ無駄に言葉を連ねながら、そこから気が変わるきっかけを待ち続け、待っている間に言葉が意味もなく連なっているようだ。そんな記述の延長上にそれらの思いが取り残されているのだろうか。その中に記されているのではないか。それと気づかないとしても、無駄になっているわけではないのかもしれない。

 しかしそれらの思いとは何なのか。思いを抱いているのにそれに気づかないということか。たぶんそれも結果からしか類推できないことなのだろう。何かをやり続けた結果として、何らかの出来事に遭遇し、何やらそこで悟るときが訪れるわけだ。そしてそこで思ったことが、以前から抱いていたことであるように思われ、結果によっては思いを遂げた気になる。今はそんな成り行きを想像するばかりで、それが何だかわからなくてもかまわないように感じられ、そのつもりで何かをやっている気になっているわけだ。果たして今後何かが回帰してきたりするのだろうか。とりあえず今何が心の中に押さえ込まれているとも思えないが、それが何かのきっかけで一時的に出てくるとしても、それはそこで済んでしまうことでしかないのではないか。その後にまだ何かをやらなければならないような気がするわけで、その程度ではまだどうにもならないような現状から逃れきれていないように感じられる。事を大げさに考えすぎているのかもしれないが、たぶんその程度では済まないのだろう。いったんやり始めたらきりがなくなり、次第に手に余るようになってしまう。途中で投げ出すか、志半ばで力尽きるしかないようなことなのだ。何事も程々というわけにはいかないのであって、手に負えなくなるまで状況は悪化して、にっちもさっちもいかなくなってから、自らの身の程知らずを思い知るわけだ。そうなってから後悔しても遅いのであり、しかしそうなるまでやらないと、何かをやっていることにはならず、たとえ運良くそれをやり遂げたとしても、それをやり遂げる過程で失ったものを取り戻すことはできず、達成感と喪失感が相半ばするだけか。でもそれも今のところは想像の範疇でしかなく、実際にある程度やってみないことには何とも言えないのではないか。すでにだいぶやってきたように思われるのだろうが、それでもまだ何もやっていないに等しいと感じられてしまうのはなぜだろう。いくらやっても何ももたらされないのはわかりきったことなのだろうが、それにしてもとりとめがなさ過ぎないか。そんなものだとあきらめるしかなく、この先もそんな具合に状況は推移して、たぶん何の達成感も得られないまま、時が無為に過ぎ去り、過ぎ去っただけ何かが失われ、それを懐かしむ機会も残されていないような終わりに向かって、まっしぐらとはならないのだろうが、適当にそれなりの紆余曲折を経ながら、一歩一歩緩慢に歩み続けているのではないか。

 そのやり遂げるべくやっている最中であるのが、それと気づかない何かであるとしても、それが何であるかを知り得ないわけではなく、それについて適当に語っている現実が今あるわけで、たぶんそれはフィクションではないのだろうが、現実がそれを明らかにしているわけでもないように思え、それが何を実現しようとしているとも感じられず、要するにそれらには達成すべき目標も目的もないわけで、終わりのない行為でしかないのではないか。現実に終わりはくるのだろうが、それが真の終わりとも思えず、それで終わりだとも思わないだろう。中断にしかならず、他の誰かが引き継ぐ意志もなく並行してやっていることの一部でしかない。多くの人たちが同じようなことをやっているわけで、そのどれもが大して代わり映えしないわけで、それらの総体としては終わりも始まりもはっきりしないような行為であり、それを誰がやめようと、他の誰が始めようと、そんなことは大して重要なことではなく、その中の誰が重要な存在でもない。一時的な流行り廃りの中で、やっている人の数が増減しようと、そんなことはおかまいなしに、それらの現象は続いていくように思われ、それらの全体を統御するような意志も働かず、あるときはてんでバラバラに、また時には誰かと誰かが連携しながらやっているわけで、それらをどう捉えてみても漠然としていてとりとめがない。たぶんそんな不特定多数による記述と語りが、複合的に絡まり合っている現状があるわけだ。そんな光景を君が適当に思い描きながら語っているのか。果たしてそれを記している意識と君とは関係がないのだろうか。


8月26日「語る上での傾向と対策」

 何を語ろうとも思わないのに、それが何を意味するのだろうか。何なしで済ますこともできはしない。まだ言葉が足りないようだ。記すべきはそんなことではない。無駄な装飾を削除して、それ以上の何かを求めている。だが記すべきではないことを記さないと、その先が出てこない。それが情景描写なのだろうか。しかし話の中で効果的に配置ないと、まともな文章とはなりがたい。ならなくてもいいような気もするが、その辺で考え込んでしまう。どうせ嘘なのだろう。またそこから逸脱してしまうようだ。そんな話だったのではないか。そうならなくてもかまわないわけだ。高望みしても無駄か。そこで語られている内容より、現実の方が先へ進んでしまっているのだろうか。しかし現実とは何なのか。社会が何かに蝕まれているのは、いつの時代でもあり得ることで、今に限ったことではないだろう。そんな気がするだけで、病気のたとえなど要らず、現実に病気が蔓延しているわけで、流行りの伝染病で多くの人が死んでいる地域もある。また自然災害で人が死に、人間同士で殺し合いをしている地域もある。そして君にはそれらすべてが他人事なのか。そうは思えないときもあるのだろう。その時の気分次第でどうとでも思え、思っている限りは、それを想像しているに過ぎず、実感が伴っているわけではない。でも語るにはそれでかまわない。他人事を他人事のように語るのが、真摯な態度といえるだろうか。そこに感情移入するわけにはいかないのか。別に同情したりすれば済むわけでもない。そこに語るための理論があるわけではない。ただそれらの出来事に突き動かされて、語るしかないのだとすれば、そう語るしかないわけだ。そこに語る対象との距離感があるのではないか。そこから隔たっている。その隔たりがリアリティを感じさせ、隔たっているから冷静に語れるのではないか。そして語る対象がフィクションでもかまわないのだとすれば、なおのこと隔たりを感じてしまい、その中で何がどうなろうと、ますます他人事の度合いを深めてしまう。そこにはどうにもならないような齟齬感まで生じていて、手の届かないところで、何かが行われ、それに接している者の感情を逆撫でするようなことまで語られる。誰かがそれに反感を抱くのも当然の成り行きだ。

 そんな成り行きから逃れるためには、どう語ればいいのだろうか。どう語ろうとしても、語っている対象との隔たりを縮めることはできないのであり、だからどうにも語りようがなく、語ることは不可能なのかもしれず、にもかかわらず語っているわけだから、語っていること自体が間違っているのではないか。そうだとしも語っている実態があるわけで、語りようのないことを語っているわけだ。絶えず語る対象との隔たりを埋めようとして語る。語ることで対象との距離を縮めようとしているのだろうが、縮まるわけもなく、語ることで対象との距離を確認するにとどまるのだろう。そんな幻想を抱きながら語っているのだろうか。それについて言葉を記すことが、いつの間にか語ることに取って代わってしまう現状がある限り、それは虚構の動作であることを免れ得ないだろう。言葉を記すと同時にそれを読み、それを読むとそこで何かが語られているように思われる。そんな一連の動作の省略形態が、それについて語ることになるのではないか。だからなんだというわけでもなく、肝心なことは何についてどう語るかで、現実に語っている内容が問題なのではないか。だがそうだとすると、現状はそこから大きく外れているように思われる。話の本筋から外れているだろうか。しかし本筋とは何なのか。世界の各地で病気や自然災害や戦争で人が死んでいることと何か関係があるわけか。現にそれに類するフィクションの中でも数限りなくそうなっている。それを誰かが物語っているわけだ。それがニュースであり、架空の物語なのだろう。そう語って人の関心を惹こうとする。それが物語ろうとする君の目的なのだろうか。語る目的をねつ造することでしか語りようがないと思われ、それをねつ造しながら語ろうとする。それは際限のない語りを招き、言葉を持つことによって生じた病のたぐいなのかもしれない。でもその水準で何を語っても無駄だ。具体的に何について語っているのかが問題とならず、ただ語っていることについて語ろうとするだけで、語っている自らに言及するばかりなのだから、話の中身が伴わない。そこに至れないのはどうしてなのだろう。語ることでは語る対象に近づけないからか。まずは語る対象を定めてから語る必要があるのではないか。それなしでいきなり語ろうとするから、こうしてしどろもどろな内容となってしまうわけだ。わざとそうしている感もなきにしもあらずだが、ただ語ろうとする意識に記述が引きずられ、それを止めようがないのかも知れず、そんな状態をそのままに放置しているから、自然とそうなっているように思われる。戦術的にそれでかまわないのか。目くらましとしてなら、それで何とかなっているように思える。

 記述が語りを招き寄せていることは確からしい。こうしてとりとめのない語りに終始していることが何よりの証拠か。しかしこれのどこが目くらましなのだろうか。いったい何を欺いているのか。どこかでこれとは違う真の何かをもたらそうとしていて、それを実現するためには、当分の間は空疎な語りを装わなければならないとか、そんな根拠の定かでない理由をねつ造したいのか。稚拙ないいわけに思えてならない。たぶんここで語らずして、他のどこでも語れないのだ。仕方なく語っているわけではなく、何も語り得ない虚無から逃れるために語っているはずだ。記述がそんな目的をもたらしているのだろうか。そこからフィクションを構成しようとしているわけだ。結果と原因を取り違えているのかもしれず、言葉を記した結果から語る目的が生じ、意識がその目的に沿ったフィクションを構成しようとする。では記述する動機は何なのか。言葉を記す目的も理由もわからないまま記しているわけか。それでかまわないのだろう。ただとりとめもなく語っているように装うために、言葉を記しているのではないか。そんな記述から語る目的を生じさせ、そこから語ればいいわけだ。語るには外部からの入力が不可欠で、それがこれらのあてのない記述をもたらしているわけか。記述と語りを混同するわけにはいかないのだろうが、厳密に区別しようとしたところで、何を語っていることにもなりはせず、そんなことを意識しているからこうなってしまうわけだ。しかしこれのどこがいけなかったのだろう。今さら反省しても遅く、さらに闇雲に語ろうとしているわけで、語る対象を見出せないまま、中途半端に記述を放棄せざるを得ない。今さら思わせぶりなほのめかしもあり得ないか。たぶんニュースで報じられるような出来事を利用しなければ何も語れないだろう。そこで語られる事件が語るネタとなり、語る原因と語られる結果が連鎖して、始まりも終わりもないような語りの繰り返しを生じさせているのだ。そんないつまで経っても止むことのない無為なおしゃべりを記述が体現しなければならないのだろう。そこに作為や思惑を感じざるを得ないのは、そう思わせてしまうような人の偏見があるからか。でもそんな逃げ方では何を語っていることにもならず、絶えずそこで原因と結果を取り違えながら語ることしかできないわけだ。記述した結果が語る原因を想像させてしまうのだから、言葉を記すことで人の内面が生じてしまうのは当たり前の現象だろうか。


8月25日「社会の慣習と制度」

 何かくだらぬ思想にかぶれておかしくなってしまったのか。そんなはずがないわけでもないだろうが、ただ何かを想像している。それに関して心当たりがある。でもまだ半信半疑なのだろう。何を信じようとしているのか。人は社会に順応して生きてゆこうとする。人ではなく君はどうなのか。君なりに順応しているつもりか。意識してそうしようとしなくても、自然に順応してしまうのだろう。順応しなければ生きてゆけないのであり、現に生きているのだから、それは順応している証しだろう。そして社会の中で生きているのだから、そこで生きている人たちとそれほど変わらない人間なのだろう。社会の慣習や制度に従いながら生きているわけだ。そんなことを想像している。それはつまらない想像だろうか。おもしろいかつまらないかの判断を要することではない。では何なのか。そんな説明で何かわかったような気になるわけだ。自らがありふれた人間であることを自覚するわけか。それも少し違うのではないか。君は誰も気づきようのないことを気づいたわけではなく、気づいて当たり前のことに気づいただけか。これが気づけることの限界だ。大したことではない。大したことに気づきたいわけではない。では大したことなど何もないことに気づきたいわけか。いくら粘ってみても何も気づかないだろう。気づこうとすればするほど無駄に言葉が連なるだけだ。気づくべきことは他にある。そんな邪念に取り憑かれているようだ。なぜそれが邪念なのか。それに気づいてそこから利益を得ようとしているからか。そんな問答をいくら繰り返しても何も気づかないだろう。すでに気づくタイミングを逸している。気づくまでに言葉を記しすぎてしまったのではないか。言葉を記しているうちにその機会を逸して、気づくこととは別の何かに気を逸らされてしまったのではないか。何かと何か。君はそれを知りたいのだろうか。他の誰が知りたいわけでもない。それを知ろうとすればするほど、知り得ないことに苛立ち、焦れったくなるだろう。知りたいことなど何もなかったのではないか。あるいは何に気づきたいわけでもなかったのか。言葉を記しているうちにそんな心境になってしまっただけか。そこにはそれ以外には何もない。ただ何もないことに疑念を抱き、何かあるのではと思い込もうとする。隠された何かがあるから、それに気づこうとして、またそれを知りたがる。社会には慣習があり、制度があって、自らがそれに従っていると思い込みたい。そんな思いにとらわれているわけだ。

 そしてそんなありふれた思い込みに反発して、それとは違う何かを見つけようとする。できればそこから外れたいのであり、逸脱したいわけだ。それらを受け入れがたいのだろう。それらとは何なのか。そこに社会の慣習や制度があるという思い込みか。そんなあやふやで漠然としたものではなく、何かもっと具体的な物事について語りたい。そうしなければ何を語っていることにもならないのではないか。なるほどそれをまともに語れない現状に嫌気がさしているわけか。さあ何なのだろう。不用意にそう問うてはならないのだろうか。でも問わなければ言葉が連ならない。しかし問えばそのままくだらぬ問答に終始してしまう。どちらにしてもそれは語りたいことではないらしい。要するに語りたいことから外れ、逸脱していってしまうわけで、取り立てて語りたいことがないにも関わらず、あたかも語りたい何かがあるように思い込み、それを求めようとしてしまう。そこに語ることの難しさがあるわけか。別に難しいわけではなく、ただ単に語り得ない方角を向いているだけで、わざと語りづらく語ろうとしているだけで、そう振る舞いたいのかもしれないが、ここでそんなわざとらしい姿勢をとる理由を問わなければならないのだろうか。いくら問うてもだんだん無い物ねだり気味になってくるだけで、問えば問うほど語るのが嫌になってくる。ならば語らなければいい。だからそれについては語らずに、苦し紛れに他の何かについて語ってしまうのではないか。しかし他の何かとは何だろう。またわざとらしく振り出しに戻って問うてみる。答えなど出す気もないのにひたすら問う。そんな問いが飽和状態になれば、自然と嫌気がさして、そこから撤退することができるだろうか。抜け出られなければ、いつまでもそんな問いの無限循環を楽しんでいるだけか。それを楽しんでいる状態と見なせば、そんなふうに楽しんでいる限りは、そこから抜け出せない。今はそれでかまわないのだろうか。今度は唐突に今はかまわないという無根拠な判断を差し挟んで、結果的に無駄な語りを長引かせ、さらに嫌気がさしてしまうのだろうか。戦術として、本当にかまわないように装いながらも、やがて飽きがくるように自らに仕向けているのか。しかし戦術といってもいったい何と戦っているのだろうか。戦っている対象もわからぬまま、そんなわけのわからない戦いにも飽きてきて、やはりそこからもだんだん離れていってしまうのだろうか。それは語っていくうちにわかることかもしれない。今はさらに語るとしよう。

 まさかそんな自業自得を楽しんでいるわけでもないのだろうが、いくら自らが自虐的な快楽を味わっているように演じても、独りよがりにも程があり、呆れられてしまうだけかもしれず、自分が独りよがりに楽しむだけではなく、一応は他人を楽しませるふりでもしておかないと、なぜ言葉を記しているのか、その意味も理由もなくなってしまうのではないか。根本的には記述行為に意味も理由もありはしないのかもしれない。しかし人を楽しませるとはどういうことなのか。その人が思い通りの気分になれればそれは楽しいだろう。メディアはそんな楽しい気分になれるような娯楽を提供しているはずだ。ではそれが社会の慣習や制度とどう絡んでくるのだろうか。無理に絡ませなくてもいいのかもしれないが、ここでは楽しい娯楽を提供することが社会の慣習であり、制度であるとでも述べておけば事足りるのだろうが、そんな毎度おなじみの楽しみにもやがて飽きがくるだろうから、様々に趣向を凝らした娯楽があれこれ提供されているはずで、そのバリエーションとして、例えばそんな慣習や制度に逆らうような娯楽もその一つだろうか。違法なクスリのたぐいを売りさばいて、それを摂取した人に通常の暮らしでは味わえないスリルと興奮と快楽を与えたりすることか。だがそれも社会の慣習や制度に含まれることかもしれない。法や制度に対する侵犯行為が、社会に活気をもたらし、そこに暮らす人々が立ち向かわなければならない問題を顕在化させ、それに適切に対処することが、人々がやるべき社会の義務だと自覚させるわけで、実際には何をやっているわけでもない、という疑念やとりとめのなさを忘れさせ、自分たちが社会悪に立ち向かう正義の徒であることを実感させるわけか。具体的には麻薬撲滅運動や犯罪撲滅運動といった、行政の旗ふりに暇な人たちが賛同の意を示し、それで何とか健全な市民の面目躍如となるのだろうか。まさかそれも市民に提供される娯楽の一つだと皮肉るわけにもいかないだろうが、何だか語っている途中から、思ってもみないような方向へとずれていることは確かなようで、わざとずらしているのではないにしても、そんなふうにずれてしまう必然性があるのだろうか。退屈な現状に嫌気がさしているから、そこから逸脱しようとしていることの表れかもしれず、それと意識しないままシニカルに語ってしまう成り行きに身をまかせながら、それで退屈をもたらしている社会の慣習や制度を攻撃しているつもりになりたいのだろうか。でもそれが攻撃だと思い込んでいるとしても、そんなやわな攻撃では社会はびくともせず、却ってその慣習や制度の強化に貢献するばかりか。たぶん攻撃しているつもりなってはまずいのだろう。皮肉ではなく、人々に娯楽を提供しなければならない。その理由も根拠もわからないが、とにかくそうしなければならない。そう思い込んでおいた方がよさそうだ。


8月24日「世界と宇宙と神」

 しかしどこへも至れないというのはどういうことなのか。また毎度おなじみで道に迷っているわけか。何がもたらされているのだろうか。虚像と幻影をみさせられている。それ以外に何があるのだろう。現実があると思うが、それを想像しているのかもしれない。これは想像上の現実なのだろうか。記された言葉の何に反応しているとも思えない。そこには何もない。ただの思い込みだろう。それもいつものことだ。現実がこうであると思い込み、そうした現実について語っている気になる。それ以上の認識を導き出せるわけもない。社会で作動しているシステムを想像している。それが実態と合えば、何となくその認識が正しいと思われる。語っているのはそういうことではないのか。それ以外の何があるのか。何かがあるに決まっているが、どうせまたその何かについて語ろうとするだろう。それを想像しながら語っている。この世界や宇宙が神であるとするなら、人も物もその一部となる。それを神と呼んだり宇宙と呼んだり世界と呼んだりしているわけだ。それ以上は何も想像できない。すべてが神であり、人がそれを神と呼んでいる。それはありふれた認識に違いない。別に神と呼ばなくてもかまわないのだ。宇宙と呼べばいいし、世界と呼べばいい。そこに人の願望を投影する必要はないわけだ。この世界や宇宙が実在することを証明できないとすれば、神の実在も証明できない。ただこの世界が実在し宇宙が実在するなら、それを神と呼べば神も実在する。それが証明の対象とはならないなら、ただそれが実在しているわけだ。その一部である人や物の実在を疑う必要はないわけだ。ただそれを何と呼ぶかの問題に過ぎず、別に神と呼ぶ必要はない。世界と呼べばいいし、宇宙と呼べばいいことでしかない。神が無限の存在なら、世界も宇宙も無限の存在なのだろう。それ以上を求める必要がないわけで、考える必要もない。

 ではそれ以外に何を語ればいいのだろうか。預言者のように神の不在を語ればいいのか。不在ではなく非在なのではないか。どちらにしろこけおどし的な印象を免れない。要するに神という言葉が不要なのだろうか。世界にとっては神も人も不要の存在だ。でも誰がそう思っているのだろう。人が神も人も不要だと思っているのだろうか。言葉がなくなれば人も神も不要となる。そこにはかつて人と呼ばれた動物がいるだけだ。それらがなくなっても機械さえあれば、文明は保たれるだろうか。人も機械のたぐいなのではないか。では文明そのものが不要なのではないか。たぶんそう語れば語れないことはないが、できればそれは避けたいのではないか。避けた上で、人は人をどうにかしたいわけだ。人ではない物として処理したいのだろうか。別にそうしたいわけでもないのだろうが、成り行き上そうなってしまうのではないか。そこでは人も神も不要な言葉として処理されている。結局物ではなく、言葉の問題となるわけだ。預言者は言葉の使い方を工夫して、人と神の関係について語りたい。ともかくそこでは哲学はもう流行らないらしい。フィクションを語る必要もなくなってしまったのだろう。出来事を語ればそれで済んでしまう。それを語る言葉以外は不要となってしまいそうだ。それについて幻想を抱くのは勝手だが、それを誰に語って聴かせる必要もない。文字を記せばいいのだろうか。それを誰かが読んでいるのかもしれない。そこで言葉が不要となるわけもないか。何やらあてもなく粗雑なことを述べているらしい。それだけではだめなのだろうか。言葉を記しているだけではどうしようもないから、人は何かをやろうとするのだろう。そして挫折してやめてしまうわけか。まだ何もやらないうちからそれはない。そうなる前に何とかしなければならないわけで、それを考えているのではないか。そうやってまた頭の中で何かが循環しているわけだ。いくら考えてもとりとめのないことなのだろう。

 そこに限界があり、限界を超えて語ることはできず、すべてが過ぎ去ったのだとすれば、過去を語るしかないわけだ。それを語りながら未来を思い描いてしまうわけか。歴史を物語っているのではないか。過去に存在した人たちの声が聴きたいのであり、それが亡霊の声だとは思わない。そうやってまた何かあてもなく空想しているのだろう。それを文章上に働かせ、あやふやな気分で言葉を記しているふりを装う。現実からわざを目を背け、何かの精霊に導かれていると思っている。でもそれは幻想ではなく、あくまでも言葉の構成の範囲内なのだ。でたらめに言葉が組み合わさっているのかもしれないが、それも織り込み済みで、記述を演じているわけで、架空の意識が戯れ言を語っているように見せかけたい。どうやら幻想に限りはなさそうだ。限界を超えるとはそういうことなのかもしれず、要するにでたらめに語っているふりをしてしまうわけだ。だがそれで何を語っていることにもならないのはもちろんのこと、まともな表現としては成り立たないのだろう。それが倒錯の表現形態なのか。厳密に語る努力を怠り、その場の雰囲気に流されている。それでもそれらの言葉の連なりは他の誰かに読まれ、何らかの反応を引き起こすのではないか。それが架空の文章だとしても読むことは可能だ。フィクションの中で誰かが言葉を記し、それを他の誰かが読んでいることにすればいい。現実の世界でその書物が不在だとしても、虚構の世界では間違いなく実在しているわけか。語るにはそれでもかまわないのかもしれないが、語るとしても何かのついでに語る他なく、意識が虚構の世界から抜け出さなければ語れない。しかしなぜ現実の世界について語らないのか。それを阻む何かに気をとられていて、まずはそれを処理しておかないと、そこから先を語る気になれないのだろうか。それにしても過去の歴史をどう処理するつもりなのか。これまで通りのずさんな語り方では、ただの戯れ事だと受け取られてしまう。すべてが戯れに過ぎないとすれば、それでもかまわないだろうが、現状ではそうは思えない。

 現状とは何なのか。ただ当てもなく語っている現状があるわけか。でもそれを偽る必要もないのではないか。大げさに見せかけても、それはただの現状だ。挑むべき対象とはなり得ず、思考の対象ともならないのだろう。何を決めつけたいのでもない。決めつけるも何も、対象そのものを決められない現状があり、そうである以上はあやふやに語るしかない。その一部でしかない者にそれを語る機会などありはしないわけか。それも想像のたぐいであり、間違った問いでしかないのだろうか。語るべき対象について誤解があるみたいだが、今はそれを語る可能性について考えている段階だろう。要するに世界についてでも宇宙についてでも神についてでもなく、現状について語ればいいわけで、今現に語っているはずだ。そして語る限界の手前で語っているわけだ。そこに空疎な限界があり、何もないという現実がある。現状での語りは虚無そのものなのではないか。そんな虚無から逃れるために、語る対象を探しているのではないか。探しても見つからなければ無理矢理ねつ造しようとする。そんなことの繰り返しに疲れているとすれば、何もない現状を語らなければならない。それは本当だろうか。疑念を抱くなら、語っている現状を読み返してみればいい。そこから語るためのヒントを得ようとするわけだ。どう語っても結局はそこに行き着くのではないか。若干持て余しぎみの虚無をあたりに漂わせ、そこに付着してくる言葉を記そうとする。それが自己言及の言葉となるのだろうか。それだけでは済まないような気になるが、実態としてはどうなのか。何を心配しているのでもない。語ろうとすればいくらでも語ってしまえるのだ。黙っていてもこの世界から言葉がもたらされ、宇宙が当てもない空想を受け止め、神が啓示を下すだろう。そうやって絶えず意識に言葉が降り注ぎ、それを記すように促し、その言葉の連なりの中で誰かが何かを語っている。それを拒否することはできない。意識自体がこの世界から自然に派生してくるわけだ。


8月23日「小説の登場人物」

 ようやく蓮實重彦の『「ボヴァリー夫人」論』(筑摩書房)を読み終わった。800ページもあると、自分の文章読解力では、一回読んだだけでは内容をすべて把握できるわけもなく、あと3〜4回読まないと理解できないかもしれないが、果たして今後再び読む機会が巡ってくるだろうか。しかし『「ボヴァリー夫人」論』を読んでおいて、フローベールの『ボヴァリー夫人』は読む気にならないのはなぜだろうか。数年前に同じ著者のもう一つの代表作である『感情教育』を買って読んでみたのだが、途中で話の成り行きが嫌な展開を見せ始めたところで、嫌になって読むのをやめてしまった。登場人物が小市民的な虚栄心を抱き、痛ましい行動に及び始めると、とたんに今までに実際に身の回りで体験してきた、同じたぐいの思いや行動がフラッシュバックのようによみがえり、身につまされるような感じがして、嫌になってしまうわけだ。儚い夢にとらわれ、もがき苦しんでいる様がひしひしと伝わってくるようで、フローベールに、これがお前ら小市民の実態だろう、と心の卑しい部分をえぐりとって見せつけられているみたいで、いたたまれなくなってしまうわけだ。というわけで、今回は蓮實をはじめとして、これまでにおびただしい数の批評家や学者などの評論や論文などで、手あかにまみれすぎている『ボヴァリー夫人』を読むのはスルーして、その代わりに、まみれた手あかすら風化して忘れ去られてしまった感のある、ヘルマン・ブロッホの『夢遊の人々』をネットの古本屋で見かけたので、買って読むことにした。

 しかし読んでいて腑に落ちない些細な点もあったので、ちょっとだけ言及しておこう。一見話の筋とは何の脈絡もなく過剰に描写されていてる、シャルルとエンマの結婚式に出された、ゴテゴテとやたらと装飾過多な四角いウェディングケーキが、エンマの四角い墓石として反復されていると指摘する箇所で、なぜかそこで蓮實は、エンマが花嫁衣装をまとって棺に葬られたことに言及しない。他の箇所ではシャルルが死んだエンマを花嫁衣装をまとわせて棺に入れてくれ、とわけのわからない不可解な要求を出していることに触れていながら、ウェディングケーキと墓石の類似点を指摘して、あっと驚かせておいて、なるほどそこで、なぜエンマが花嫁衣装をまとって葬られたのか、合点がいったと思ったら、そこには何も言及しないでスルーしてしまう。そんなことは言わずもがなで、読者が勝手に気づけということなのか。

 今年はなぜか気まぐれな成り行きで、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読み、十数年前に雑誌の『批評空間』で連載されていた当時の阿部和重の『プラスティック・ソウル』も読んだが、彼らの小説の印象は、何か小説の中の登場人物が、そのまま小説の中に登場しているというか、蓮實によればフローベールの頃が、小説というフィクションの形態が誕生して間もない時期だそうだが、それから150年あまりが経って、要するに小説には小説特有の登場人物しか登場せず、あるいは漫画には漫画特有の登場人物しか登場せず、映画には映画特有の登場人物しか登場しない、ということになってしまったのかもしれず、それらはすべて現実の社会で暮らしている人たちを模倣しているようでいて、逆に何か著しく背離しているような気がしてならない。それらの登場人物たちには何かが欠けているのだ。しかもその現実から著しく背離したキャラクターを、今度は現実に生きている人たちが真似ているような傾向も感じられ、何だか本末転倒というか、奇妙な印象を抱いてしまうわけだ。もちろん小説が現実の模倣であるはずがないのだろうが、彼らの小説を読んでも、フローベールの小説を読んだときのような、嫌な圧迫感はしないのと同時に、どうしても自然とこちらが、彼らの小説をなめてかかっているような、この程度かと突き放して読んでいる気になってしまう。

 逆に彼らの小説は現実の社会を模倣しすぎているということなのか。それは社会そのものではなく、メディア的な知識に染まりすぎていて、要するにメディアが呈示する人物像を、小説の登場人物たちが模倣しているわけだ。しかも彼らは小説内の空気を読みすぎているというか、語り手が操作可能な範囲内での意図や思惑を抱きながら行動し、その結果として、作者や語り手を超えたところでの驚きをもたらせない。そういうメディアが呈示する人物像こそが、現代人の虚像であり、何かそれが社会に蔓延しているような気がするわけで、そんなリアリティを伴わない虚像ばかりが、メディア上でもてはやされている現実が、小説による模倣の対象となっているわけだ。やはりそういう小説を読んで、それを目の当たりにしてしまうと、なんだこの程度かとなめてかかってしまうわけで、別にわざわざ小説など読まなくても、ニュースやそこから派生したコラムのたぐいを読めば済んでしまう。

 そういうところが読んでいて目立ってしまうということは、話の成り行きが不自然だからなのだろうか。うまく読者をだませていないというか、まるでSF小説のような突拍子もない話の展開に、思わずそれはないでしょうと思わせる箇所も少なくなく、絵に描いたような人物たちが、絵に描いたような舞台設定の上で、語り手の思惑通りに踊っているような感じで、それも一応はこちらの想像を超える話の展開なのだが、そこに驚きはないわけだ。むしろ想像を下回る話の展開に、呆気にとられてしまうといった感じなのかもしれない。例えば多崎つくるも,一通り旧友への巡礼の旅も済んでから、最後の方で語り手と予想される話の筋に逆らい、無駄に話を長引かせているように思える箇所もあるのだが、それはただ駄々をこねているだけとしか感じられず、逆らいきれずに中途半端なまま話を終えるしかなく、『ボヴァリー夫人』のシャルルやオメーのように、エンマの死後人格が変わったようになって、暴走してとんでもない方向へと逸れてゆくわけでもない。エンマもエンマで、一見不倫相手の恋人たちに翻弄されているようでいて、実は駆け落ちしろだの金を貸せだの、無理な要求を絶えず迫り続けているのであり、幼稚でメルヘンチックな想いとは裏腹の凶暴さを覗かせていて、薄っぺらいようでいて厚みのある人物像に描かれている。彼らはそこで自分の力ではどうにもならない不可能に直面しているわけで、一方現代の小説の登場人物たちは、絶えず可能性を追い求め、その範囲内に収まろうする。


8月22日「ありふれたメッセージ」

 未来を空想している。何がわかるわけでもないだろう。それでもただ思い描く。人の未来ではないらしい。人以外に何が存在しているのか。何が存在しようとかまわないのではないか。この世界には物質があるらしい。未来を思い描くのが飽きたら過去を思い出そうとする。過去にも何かがあるらしい。過去の記憶が誰かを苦しめているのか。過去の惨劇などいくらでもありそうだ。惨劇の繰り返しが人類の歴史だ。でもそこに栄光があるのだろう。名誉の戦死があるわけだ。それを美化するなら、何かを守るために命を投げ出した人々がいるわけだ。何かとは何なのか。家族とか国家とか民族とか宗教とか、いろいろありそうだが、それが戦う理由となっている。そしてそんな過去の歴史に思いを馳せる現代人がいるらしい。果たして未来に歴史はあるのだろうか。それらが繰り返されるとしたら、未来にも歴史があるのではないか。未来のどこかで過去を振り返れば、そこに歴史があるのではないか。それとも人はもはや歴史が終った世界に暮らしているのだろうか。そんな未来を空想しているわけか。どうも本気ではないらしい。冗談なのか。そうでもないのだろうが、未来に何があるとも思えない。過去には歴史があり、未来には何もない。希望はないのだろうか。未来に希望があれば、人はどうなるというのか。そこで何が起こるわけでもない。何も起こらなければ、そこに期待して落胆する人々がいるだけか。何かが起こるのではないか。例えば天変地異が起こる。災害に巻き込まれて死んでしまう人たちがいる。事故に遭う人たちもいるのではないか。そこで死んでしまう人たちと、助かる人たちがいるわけだ。助かって九死に一生を得た人たちは幸運なのだろうか。たぶんそうだ。そこで運命の神に感謝するかもしれない。事故や災害に巻き込まれなければなおいいのだろうが、それに巻き込まれて助かってみないことには、生きているありがたみが感じられないのではないか。別に取り立てて生きているだけでもありがいとも思いたくはないが、何をどう感じようと、たぶんそんなことはどうでもいいわけで、そこには何らかの体験があるのだろう。人はそこで何かに遭遇したわけだ。

 そこで遭遇した何かを忘れているのだろうか。大した出来事でもなかったのだろう。遭遇したことに気がづかなかったのかもしれない。それが何だかわからないが、すでに興味を失っている。人が何に遭遇しようと、そこでどんな体験をしようと、すでにそれはありふれた遭遇であり、他の誰かが体験していることの繰り返しなのではないか。もはやそれについては語り尽くされているような何かに遭遇し、誰もが体験していることだとすれば、その遭遇や体験が貴重だとは思えない。たぶん人が多すぎるのであり、自分も含めて同じような人が大勢いて、そんな大勢の人たちが同じような社会の中で暮らしていると、どこへ行っても同じような遭遇しかあり得ず、他の誰かが体験したようなことしか体験できないのだろう。それを超える遭遇も体験もあり得ない。自分も含めて誰も特別な存在ではあり得ないわけだ。だが実態としてはそうであるにもかかわらず、それでも自分が何か特別な存在であると思い込む以外には、積極的に何かに関わろうとする気が起こらないのだろうか。自分がありふれた存在でしかないと自覚してしまったら、もう何もやる気がなくなってしまうか。やはり何か貴重な遭遇や体験をしたと思い込み、そんな遭遇や体験を通して自らが精神的に成長して、何か特別な人間になったように思えてこないことには、自らの手で世の中を変えるとか、そんな大それたことをやろうとは思わないか。その手の大げさな漫画や映画の主人公ならそう思うかも知れない。あるいは政治家の選挙演説などには、そういう台詞が含まれているのだろう。だが自らがありふれた普通の人間だと自覚している者にとって、そういうのは何かの冗談や誇大妄想のように感じられ、とても真に受けるわけにはいかないか。その辺に何か勘違いが潜んでいるのかもしれない。現代において人はありふれた人間以外ではない。特定の個人に何か特別な力が宿っているわけでもない。人は他の人と関係し、連携しながら何かやっているに過ぎず、それは誰もがやっていることであって、何ら特別なことではないのだろう。それ以外ではあり得ないわけだ。いくら特定の個人の権力が強大に感じられようと、その人物がやっていることはありふれていて、歴史上の有名な独裁者たちがやってきたことの繰り返しでしかないだろう。やれることは限られていて、それを超えることは何もやれないわけだ。

 それでも人は何かやっている。やっている途上で何かに遭遇し、そこで何かを体験するわけだ。たぶんやっていることにも遭遇することに体験することにも、そこに何か救いを求めようと思えばできるかもしれないが、別に求めなくてもかまわないのだろう。何をやっているわけでもなく、何に遭遇しているわけでもなく、何を体験しているわけでもない、と思ってもかまわないわけだ。そこに救いがなくてもかまわない。でもそれが救いだと思い込んでもかまわないのだろう。どちらでもかまわないわけで、その場の気分次第で救われないと思ったり、逆に救われたと思ったりしてもかまわないのだろう。実際にそう思うことがあるのではないか。そう記せばそう思っていたことに気づく。記さなくても気づいているのだろう。どちらであってもなくてもかまわない。どちらにしても大したことはなく、誰でもそんなことぐらいはわかっているだろうし、別に気づかなくても済んでしまうわけだ。気づく必要はないし、気づかなくてもかまわない。それは貴重な遭遇も体験も伴わない。ただのありふれた遭遇と体験の中で、そんなことに気づいたり気づかなかったりする。それ以外に何があるというのか。たぶん遭遇したり体験したりしたあとから、それが貴重だと思ったり、ありふれていると思ったり、あるいはそんなことなど意識せずに済んでしまう場合もあるのだろう。それに関してどう考えてみても、そこから何が導き出せるとも思えない。それはそれで、そういうこと以外の何ものでもなさそうに思われる。人はそんなことを思いながら、あるいはそれに気づかずに生きている。別に気づくことがいいわけでもないだろうし、気づかないから鈍感であるわけでもないのだろう。気づくことが貴重な体験だとも思えない。そうでなくても人は何かに遭遇し続けている。絶えずそれを体験しているわけだ。そしてそれについて何かを思い、考えていたりするわけだ。気づかなくても何かを思い、それ以外のことを考えていたりする。思いと思考が循環し続けているのかもしれず、それらの遭遇や体験の周りをぐるぐる回っているのではないか。いつ果てることもなく回り続け、何かにとらわれているわけだ。それを肯定しようと否定しようと、そうなっている現状がある。

 それがありふれているとしても、人は出来事と遭遇し続ける。その出来事に惑わされ、苦しめられ、場合によっては痛めつけられ、その結果、何らかの境地に達するのかもしれない。それをどう思ってみても、そうなってしまっただけで、それ以上でも以下でもない。そこから何か教訓が導き出されてもかまわない。そして何も起こらなくても、それで済んでしまうならいいわけで、それを肯定するでも否定するでもなく、ただそんな結果を受け止めているわけだ。実際にそうなってしまっただけで、後悔してもしなくても、その先に何があろうとなかろうと、ただそうなってしまう。現状とはそれだ。誰かがそんなふうに現状を語り、あれこれ考えを巡らしている。現状を分析しているつもりなのだろうか。現状の何に逆らっているわけもない。ではそんな現状と戯れているのか。戯れるほど心に余裕があるわけでもないだろう。でも現状に必死でしがみついているわけでもないようだ。そんな過酷な体験とはなり得ないのではないか。要するに君は何もない虚無と遭遇し続けているのだ。それについて何をどう語ってもみても、それらはただ水がしみ込むスポンジのように吸収されてしまうだけで、何が返ってくるわけでもない。相変わらず見渡す限りの荒野のただ中に取り残されていて、時折ありふれた人格を装ったありふれたメッセージが風のように吹きつけるが、そんな決まり文句に興味をそそられるはずもなく、黙ってやり過ごし、そんな自らが何を待っているのでもないことに気づく。別に待ち続けていたわけではなかったのであり、ただやり過ごし、通り過ぎるにまかせていたのではないか。ありふれたことが頻繁に起こるありふれた環境に順応して、無気力無感動になっているわけでもないのだろうが、興味がないといえばないのであり、意識はそんな興味のない世界に滞留していて、ただそれらの光景を眺め続ける。それは語るまでもないことなのだろうか。無理に語ることもないのだろう。退屈なのかもしれないが、退屈に耐えているわけでもなく、耐えきれなくなってどうかしてしまったわけでもないのだろうが、ただ退屈もやり過ごし、そんな荒野の風景に見とれているのかもしれない。


8月21日「逆らう者たち」

 語るべきはそんなことではないらしい。でも思いついたことしか語れない。でもそれを語っているのは君ではない。誰でもない誰かが記された言葉の連なりの中で語っていて、それを誰かが聴いているわけでもない。誰かが記された文章を読んでいるわけだ。たぶん読んでいるのは名も知れない小市民なのだろう。そんな人たちしかいない世界がここにあるわけだ。別に彼らにとって何かためになることが記されているわけではない。何の利益ももたらさないような文章であり、語るには語っているが、何も語っていないのと同じような無内容だ。そこで何かを思いついたのかもしれないが、たぶんそれが記されることはないだろう。それは記すようなことでも語るようなことでもないのだろう。ただ誰かが何かを思いつく。それのどこまでが作り話で、どこまでが現実なのか、区別などつくはずもなく、虚実の境界もないまま、ただ言葉が記される。語られるのはそんな内容になりそうだ。それが記された文章を読んでいるのだろうか。誰にもなれない誰かがそれを語っているわけか。表面的には記された文字の連なりを読んでいる。それを読みながら、誰かが語っているような気になっているのだろうか。そうだとしてもそれがどうしたわけでもない。それの内容を知り得ないわけでもなく、知っているのにそれを明らかにしないわけでもない。すでに明らかになっているわけだ。君が読んだままの内容が記されている。それ以上のことは何も言えないだろう。実際に何も言わずに読んでいる。物語の推移や結末などどうでもいい、というわけでもないのだろうが、誰かが不幸になったり破滅したとしたとしても、それが虚構である限りはどうしたわけでもなく、読む者が悲しむべきことでも嘆くべきことでもないのか。そういう感情を抱かせるように、作者がフィクションを構築しているわけでもないのだろうか。その辺がよくわからないのだが、そこに記された文字列を読むと、いろいろな発見があるのかもしれず、それを見つけるのが読書の楽しみとなっているのかもしれない。

 そこに何か宿命があるわけではない。しかし可能性があるといえるだろうか。物語には結末があり、それが結末とはいえないにしても、終らない物語はない。でもそれは物語ではないのかもしれない。ただの話だろうか。話が記されていて、記された文章の中で誰かが語っているだけのことか。それを物語というのではないか。説話のたぐいには違いない。確証はないのだろうが、これまでになかった新たな試みがそこにあるのだろうか。そうだとしても人は物語としてそれを読むだろう。何も語らない物語というのはあり得ず、それを目指して物語ろうとして、失敗しているわけでもない。何を目指しているわけではなく、たぶんそれに触れないように語りたいのではないか。それとはそこで語られている物語そのものか。だからそれについて語るのが不可能となっているわけだ。現に読んでいるそれらの文章に触れずに、何かを語ろうとすれば、何について語っているのか不明とならざるを得ない。何を狙っているのでもないのだろうが、そう語らざる得ない成り行きだとも思えず、たぶん間違っているのかもしれない。物語はその餌食となる読者を探しているのだろう。読者を食らいながら物語は成長を遂げ、人々が崇拝する怪物と化すわけか。物語に呑み込まれてしまった人たちはどうなるのだろう。そこに描かれた登場人物たちと同じような動作を、現実の世界で繰り返すのだろうか。メディアはそんな物語を通して、人々のあるべき姿を呈示しているわけか。どうも話が単純すぎるような気がする。物語に逆らう人たちも、それらの物語には登場しているのではないか。少なくとも作者は物語に逆らいながら言葉を記しているはずだが、そこで語っている語り手はどうなのか。自らが語る物語に逆らう術を持ち合わせているのだろうか。例えば語るべきことを語らずにおくことなどあり得ようか。あるいは作者が記すべきことを記さずにおくことなどあり得るだろうか。語り手が語るべきこととは違うことを語り、作者が記すべきこととは違うことを記しているとしたら、それを読む読者はそれをどう読めばいいのだろうか。読むべきこととは違う何かを読まなければならないということか。そうやって作者と語り手と読者が、それぞれに物語に逆らうことによって、かろうじて物語の呪縛から逃れられるということだろうか。果たしてそんなことが可能なのだろうか。

 君はあり得ないことを語ろうとしているのかもしれない。ただそれを想像している。それが語り得ないことなのか。語り得なければ記されず、記されなければ読まれないだろう。そこには何もない。実体がないわけだ。語るには語り得る物語が必要だ。物語なしでは何も語れない。記された文章が何かを物語っているとすれば、それが物語であるのは当たり前のことであり、読まれるべきはそんな物語なのではないか。それを記そうとして記しているわけではないとしても、記されるのがそんな物語であるならば、それを読むしかないだろう。現に読んでいるはずで、人は物語を読むしかない。なぜそれを拒否する理由を探さなければならないのか。誰が探しているわけでもなく、そんな成り行きに戸惑っているわけでもない。でも誰もが逆らえずに物語の餌食となっているとすれば、それは別に悪いことでも由々しき事態でもないのではないか。人は物語と共に生きていて、物語が呈示する夢に魅了されているのではないか。夢見る人々はそんな物語の虜だ。人々は物語を求め、物語がそれに応える。中には夢を叶えた幸せ者もいるだろう。それのどこが間違っているのだろうか。正しいからこそ人々は夢を見る。そんなはずがないと思いたいのか。何かを幻想することは人が前向きに生きる糧となり、多くの人たちがそれを目指すことで、世の中が活気づくはずだ。保守派の政治家もメディアも、絶えずそんなたぐいのことを主張してきたのではなかったか。それの何が間違っているというのだろうか。何も間違ってはいないのではないか。彼らには夢や物語に逆らう者の気が知れないか。だからこそ苛立っているわけだ。なぜ自分に正直になれないのか。自分の幸せを求めるのは良いことだ。それが間違っているとは到底思えない。ではなぜ正しいことをやろうとしないのか。なぜ逆らう者たちは間違った方向へ進もうとするか。それは誰にとっても理解不能なのではないか。何かそこに信念のようなものがあるわけか。逆らう者たちは自分でも気づかずにそこへ引き寄せられ、あえてそうした行いを正当化せず、ただ逆らうことだけに徹しているのだろうか。たぶんそこに批判や批評があるわけで、それはそうすることの根拠を問えない行為なのではないか。

 実際に何も問われていないのであり、問いようのないことを語ろうとしている。そこではただ批判が繰り返されているだけなのか。その何だかわからない行為をどう説明すればいいのだろうか。説明するのではなく、批判しなければならないのではないか。物語を邪魔することは許されない。物語にケチをつけてはならない。それに逆らう者たちに災いあれ。逆らう者たちは神に呪われた悪魔たちだ。やがて天罰がくだるだろう。呪詛の対象となり、火刑に処せられる。しかしなぜ彼らは忌み嫌われてきたのだろうか。世界を覆う宗教に逆らっているからか。確かコペルニクスの地動説を擁護したジョルダーノ・ブルーノが、火刑に処せられたのは1600年のことだ。その西暦の年が何を意味するわけでもないだろうが、世の秩序を乱す者には悲惨な末路が待っている。しかしそうだとしても、そうせざるを得ないような信念に取り憑かれてしまうのではないか。そこには論理では割り切れないような何かがありそうで、利益を得るために生きている大半の人々には、それがどうしても理解できないのかもしれない。たぶん何かが邪魔をしてうまく立ち回れず、悲惨な目に遭う者が少なくないのだろう。それを共同体に属する側からみると、トリックスターという定義になるのかもしれない。しかし逆らう人々はそこから逸脱しようとするわけで、そこへ役を割り振られて封じ込められるわけにはいかないようで、現代でもそれらの人々は、例えば一見外に向かって開かれているようでいて、実態としては閉ざされた共同体を形成する、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)による囲い込みの罠などにも逆らっているのだろう。だがそうすることにどんな可能性があるのだろうか。たぶんそれを知り得ないことが肝心なのではないか。そこに理由が根拠が見出されてしまえば、それを正当化するためのイデオロギーが生まれ、そんなイデオロギーに賛同する人たちによって、新たな共同体が形成され、そこに宗教教団のような団体が誕生するわけだ。それでは元の木阿弥なのだろう。そんなわけで逆らう者たちはそれぞれ単独で行動するしかないわけだ。


8月20日「現実と虚構の違い」

 真実とは何だろう。果たして作り話はフィクションなのだろうか。作り話もフィクションの中に入るのではないか。では作り話以外にどんなフィクションがあるのか。俄には思いつかないが、探せば何かあるのではないか。別にそれを語ろうとしているわけではないらしい。真実を知りたければ現実を見ればいい。見ても知り得ないとしたら、どうすればいいのか。小説などのフィクションを読めば、そこに含まれている真実を知り得るだろうか。そんな簡単な話ではなさそうに思われる。たとえそこにシニカルな現実が書かれていようと、すぐに気づくわけにもいかないようだ。例えば作り話の中で誰かが死んだとして、現実の世界で人が死んだわけではないのはわかりきったことだが、では作り話の中で誰かが死んで、かつその死が作り話の中では隠蔽されたらどうなのか。作り話の中の住人にはその死が明かされず、現実の世界でその作り話を読む者には、それを知り得るとしたら、その死は嘘か誠かどちらなのだろうか。作り話の世界ではその死は真実であり、しかもそこに暮らしている住人には、その真実を知らされていないから、彼らには真か偽か判断することができない。しかし現実の世界にいる読者にとっては、その作り話自体が虚構であるから、作り話の中で語られる誰かの死は嘘の出来事であり、そこに暮らしている住人も架空の存在だ。この事実をどう判断したらいいのだろうか。すでにそう判断している。それはここまで語ってきた通りの判断だ。すべてはたとえ話の範疇で語られ、その範囲内でならそういうことなのだろう。それ以外の真実はない。記された文章に思いもよらぬ何かが隠されているとは思えない。誰を惑わすために何を記しているのでもない。語るとはそういうことなのではないか。記された文章の中で誰かが語っているとすれば、その語りはフィクション以外ではない。

 文章の中に架空の語り手がいて、その語り手が何か語っているように文章が構成されているとしたら、その文章はフィクションだろうか。語っている対象が現実の世界であるなら、その文章の内容はフィクションではなく、それをあたかも誰かが文章の中で語っているように見せかけているとしたら、それがフィクションなのだろうか。でも誰かが語っているように見せかけなければ、文章にならないのではないか。ではあるならすべての文章の中の語り手は虚構の存在なのではないか。ならば何も語らない文章というのがあるだろうか。何かを語るために文章が記されるなら、それはあり得ないことだ。記述という行為自体は現実だが、記述内容にはフィクションが含まれるしかない。語っているのではなく、文字を記しているという現実があるのだから、記された文字列に何か意味を想定できるとすれば、そこで誰かが語っているというフィクションが成立するわけか。誰も何も語っていないとすれば、その文章は解読不可能な意味不明の内容となるだろうか。だがそういうレベルでいくら考えても、何が明らかになることもないのではないか。文字を記している現実と、記された文字列を読むと、そこで誰かが語っているように思われるという虚構との間で、話が延々と平行線を辿るしかなさそうだ。

 しかしフィクションとは何なのか。実際に声に出して語っているとすれば、その語っていること自体は現実なのだろう。でも語っている内容は虚構かもしれない。では語っている対象が現実なら、現実を語っていることになるのだろうか。果たして人は現実をそのまま語ることができるのか。人がそこで言葉を発していること自体は現実だろうが、その言葉の連なりが現実を言い表していることになるのだろうか。語り手の言語表現に恣意的な偏見や誇張が含まれているとしたら、その語りが現実を正確に反映しているとは言いがたく、意図的あるいは無意識のうちに話を歪曲していたり、膨らませて語っている場合もあり、そこにフィクションの要素が含まれているとすれば、果たしてそれが現実を語っているといえるだろうか。そんなふうにして突き詰めて考えていくと、それらの語りのどこまでが現実で、どこまでが虚構であるかの境界線を区切るのは困難となりそうだ。結局それは話の聞く側の判断となり、語る側が一方的に自らの語っていることが現実を語っていると宣言しても、聞く側に信用されなければ、虚構を語っていると判断されてもやむをえないことだ。たぶん現実の中にも虚構の中にも真実はあるだろう。逆に現実がそのまま記されている文章であっても、そこに真実が含まれていない場合もあり得るし、現実をそのまま語っている演説などにしても、同じことがいえるのかもしれない。文章を記したり演説している者が、嘘を真実だと思い込まされていれば、彼の記す文章にも語っている演説の内容にも真実は含まれない。その人がいくら良心的で信用のおける人物であろうと関係ない。語ることの真実とはそういうことなのか。

 では言葉を記すことの真実は、それとは別の次元にあるのだろうか。それがフィクションであろうと現実であろうとかまわないのかもしれない。記された文章に記した当人の意志や思想が反映されていると思い込むのは、それを読む者の勝手かもしれないが、もしかしたらそれを超える何かが記されていたり、記した当人の与り知らないことが記されているとしたら、それは驚くべきことだろうか。そう思うのは何かの神秘思想に毒されていることの証しか。それとも書かれた文章そのものが、それを書く者の手に負えるような代物ではないということなのか。あるいはそれを読む者が、書く者とは違った思考形態や習慣を持っていて、それを通して読むと、書いた者が思ってもみなかったような解釈が引き出されてしまうということか。そこに同じ文字列が記されているとしても、それを読む者によって違った解釈が引き出されるとすると、そこに神秘があるのだろうか。たぶん文と文のつながりが複雑に絡み合った比較的長い文章になると、あるいは詩のように言葉や表現に複数の意味が込められているように感じられる文字列となると、そういう現象が起こるのかもしれない。いったん書かれた文章が時空を超えて残った場合には、それが読まれる地域や時代によって、それぞれに違った解釈がもたらされる場合があるわけか。たぶん違った言語に翻訳されることによっても、微妙にずれが生じて、受け止められ方や評価も違ってくるのだろう。また権威のある者やメディアが否定的な評価を下せば、まともに読まれることもないだろうし、逆にそれらによって肯定的な評価が広く社会に行き渡れば、多くの人たちがこぞって肯定的に読むかもしれない。それが後の時代に誤読であると判断されても仕方のないことか。


8月19日「戦争の原因」

 どこかで暴動が起こっている。戦争も継続中だ。どちらもやりたい人たちがいるのだろう。やめろとは言えないのではないか。関係がなければ何とも言えない。関係を持とうとしなければ、それでもかまわないのではないか。たぶん関係などないのだろう。本当は関係がないわけではないが、そう思っておいて差し支えない。そこには不満が渦巻いている。社会秩序に対する不満で、暴力によって秩序を乱そうとしている。イスラム国の聖戦はいつまで続くのだろうか。宗教で戦争を終わらせることはできないらしい。それどころか戦う理由が宗教の大義となっている。現状に不満を持つ者たちが聖戦に加わり、大儀に殉じようとするわけだ。単純な理屈だろうか。もっと複雑な事情を考えたいのか。他国の戦争に思いを馳せている場合でもないか。もちろん自国の過去の戦争に思いを馳せるのも面倒だ。ではどうすればいいのだろうか。自らが何かと戦っている最中なのではないか。戦っているという表現に違和感を覚えないか。この場合は何と戦っていることになるのか。やはり社会の秩序や制度と戦っているつもりなのだろうか。不満を抱いているとすればその通りかもしれない。でもそれはどうすることもできないような不満なのではないか。戦うことでは解決できないようなことだ。ただ漠然と不満を抱き、その不満は日頃の自分の行いからも生じていて、要するに自業自得で不満を生じさせている面もありそうだ。自らの行いにも不満の原因があるわけで、それをすべて社会の秩序や制度のせいにするわけにはいかないのだろう。要するに努力して改善する余地が残っていて、そう思っている限りは努力しなければならないわけだ。そしてそれをやっている最中なのであって、それは暴動や戦争とは関係のない行為なのだろう。そうやって現状を改めようとしている。それが誰もが抱く幻想なら、そこでは暴動も戦争も起こりはしない。もはやそんな幻想を抱けなくなったところで、そのような暴力行為が行われるわけだ。要するにその地域に暮らす人々は、もはや戦う以外に現状を変える手段はあり得ないと思っているわけか。でもそんな解釈で納得できるだろうか。攻撃の対象となっている人たちは納得しないだろう。やりたくもないのに巻き込まれた人たちは悲惨だ。彼らにとって戦争は不条理そのものだ。聖戦の大義こそがそのような不条理を招いているわけだ。そこに戦いの美学があり、美学に酔う人々に何を言っても無駄なのかもしれない。

 平和をもたらすために戦わなければならない。その戦いを維持できなくなった時に平和が訪れる。戦わなければ平和なのに、その平和を支配する社会の秩序や制度に不満がある。だから彼らなりに納得がいく平和な状態を構築したいのであり、そのために戦っているのだろう。自分たちの利益が不当に奪われた状態での平和では納得しがたい。本来自分たちが得られるべき利益を、誰かが奪っているわけだ。その横取りされた利益を奪い返すために戦っているわけだ。それは広い意味では世界中で行われている戦いであり、ヨーロッパの右翼はイスラム教徒などの移民労働者が、自分たちの利益を奪っていると感じ、日本の右翼は在日韓国朝鮮人が、自分たちの利益を奪っていると感じ、アメリカの黒人労働者は白人支配層が、自分たちの利益を奪っていると感じ、ロシアの国家主義者たちはヨーロッパ人たちが、自分たちの利益を奪っていると感じ、ウクライナの国家主義者たちはロシアが、自分たちの利益を奪っていると感じ、中国の反体制活動家たちは共産党指導部が、自分たちの利益を奪っていると感じ、ウイグル人やチベット人たちは中国が、自分たちの利益を奪っていると感じ、ブラック企業で働く労働者たちは会社が、自分たちの利益を奪っていると感じ、金持ち連中は国家が、自分たちの利益を税金として奪っていると感じ、以下同様に、世界中の富の不均衡が顕在化している場所では、そのような心理的な功利主義が幅を利かせているわけだ。それらの奪われたと感じている利益は幻影なのだろうか。実際にそれを巡って人々が争っている現状があるのだから、取らぬ狸の皮算用ではないのだろうが、国家と資本主義の複合体が社会の秩序や制度を支えている現状が、人々にそのような幻想を抱かせるのだろう。たぶん現状の秩序や制度の下では、富が不当に奪われているという幻想を解消する術は見出せないだろう。そこから生じている不均衡を、それを生じさせている当の秩序や制度を用いて解消できるわけがないのだが、だからそこで幻想が必要となるのであり、人々はその国家や資本主義では解消できない富の不均衡を、宗教や民族の力で解消できると幻想したりするわけだ。本当にそれができるのだろうか。少なくともイスラム国で聖戦に従事する人たちは、イスラムの力でそれができると思い込んでいるわけだ。現実には武力で敵を殺し支配することで、それを成し遂げようとしているのだが、そのような行為を聖戦の名の下に美化して、それが正義だと思い込む。それは戦争を遂行するためのイデオロギーであり、かつての日本でも、欧米の植民地支配からアジアの民衆を解放して、大東亜共栄圏を築くために戦争をやっている、というイデオロギーが流行った時期もあったはずだ。もちろんそれは戦争でなくてもいいわけで、アメリカがTPPをてこにして、環太平洋経済圏を築こうとしたり、ロシアはロシアでEUに対抗して、旧ソ連圏でそうしたことをやりたがり、中国もアジアに独自の圏域を築きたくて、周りのASEANや韓国やモンゴルに働きかけているのだろうが、それもイスラム国と同じように、単なる目くらましの功利主義的な幻想に過ぎないのだろうか。


8月18日「風に吹かれて」

 何か語る意味があるのだろうか。語る目的に苦しめられている。そこに目的があればの話だが、それを避けて通ることはできないらしい。通らなければいいのかもしれない。そうすれば目的を避けることができるだろうか。別にそんなどうでもいいような自己対話が目的なのではない。しかし誰かがそれを語っているのだろう。君はそのつもりで言葉を記している。しかし語っている主体はそれを把握できない。常に語りすぎている自らの語りに当惑しているのではないか。やはり語りようがないことは語れないのだろうか。それを語っているわけではなく、そこで何かを語っているとすれば、それは語りようがないことではないのだろう。しかしそんな自らの語りが記された文字の連なりを、それを記しつつある者はどう読めばいいのか。フィクションの中では誰もそれを言い表す気がないらしい。まだフィクションですらないのかもしれない。それ以前の段階で挫折しているのか。そこに記されているのは誰の感情でもない。焦っていることは確かだが、その焦りの内容を記そうとして、焦る理由を語ろうとするが、語ろうとすれば語っている主体が焦っていないことに気づく。主体とは何だろう。語ろうと意識する当の誰かなのか。語りはその誰かを定められずにいるらしい。定める必要がないようにも思われ、それらの文章に語り手の存在を導入できずにいるのかもしれない。誰が語っているのでもない文章を構成するつもりなのか。そんなことはあり得ないが、他に何を表そうとしているのでもない。絵でも写真でもないのだから、それについて語るしかないはずだ。しかしそれとは何か。いくら語ってもそれをうまく語れないのだとしたら、それを語るのに必要な言葉を知らないということになるのだろうか。意識はそこに記された言葉の組み合わせからは出てこないような何かを感じ取っているのかもしれない。語っているつもりの意識がそれを感じ取っているのだろうか。語りそのものではなく、語ろうとする事物について考えなければならないのか。そんなことはわかりきっていると思うが、さて事物とは何だろう。語っていること自体がそうなのか。ことはことであり、ものはものだ。そのもの自体とは何なのか。それは現実に存在する具体的な事物なのだろうか。さっきから文章の内容がくだらぬ謎掛けに終始しているようだ。そんなふうに語るべきではないのかもしれない。そんなふうに言葉を記しているのだから、そこで肝心な何かをごまかしているのかもしれない。現にこうして語っているのだから、そこに語り手がいないはずがない。それがわかりきったことなのかもしれず、そんなことを延々と語っているだけで、ひたすら言葉を循環させるばかりで、一向に結論にたどり着こうとしないらしい。意味のない迂回路に迷い込んでいるようだが、目的から逸脱すればそうなって当然なのだろうか。まさか語る目的を回避することが目的でもないだろう。

 しかし現実にそうなっているのではないか。その現実から目を背けずに、語る目的を見出さなければならない。でも記している当人はそこから外れていってしまう。語るのが退屈に思われるのではないか。取り立てて語る必要を感じられず、絶えず語ろうとする意志をねじ曲げ、語らせないように邪魔をする。スイッチをオフにして、何もさせないつもりらしい。そこに語るための主題が浮上しないようにしているわけか。その主題について語ることが目的となりうるのだろうか。主題とは何だろう。例えば日が照っている。その日差しの中で風を感じるとしたら、それが語る主題となるのだろうか。風について考える。風を利用して何か他のことを物語る。風とともに誰かが去ってゆく。そんな映画の題名が思い浮かぶが、今はその映画の背景となった、奴隷解放以前のアメリカの南部社会について語る必然性は感じられない。歴史は過ぎ去った出来事について語るかもしれないが、その何もかもが風とともに去ってしまったわけでもないだろう。今も時折人種偏見を煽りたがる人が出てくる。それが自らを支持する人たちの偽らざる本音だと思われたいわけだ。別に吹きすさぶ風が語っているのではなく、そのような言動で嵐を引っ張ってこようというのでもない。ただわかる者にはわかる空気を共有したいわけだ。風はどこに向かって吹いているのか。その風向きを誰が変えようというのか。人々は暴力や武力では解決できない問題を求めているのだろうか。誰が求めているのでもなく、ただ彼らは誰にでもわかる単純な答えが出るのを期待している。でもそれが現状を変えるとは思えない。それは現状から導き出された答えであり、現状の維持を前提としていて、だからそれでは現状を変えることができないわけか。それがわかりきった現状認識だとするなら、現状を変えるにはどうしたらいいのだろうか。そこからわかりやすい回答など得られるわけがないということか。変えようと努力する人々の期待が裏切られることが、何より状況の変化には欠かせない。期待が裏切られ、犠牲者が増えることで、それが現状の許容限度を超えてしまうことが、現状を変える原動力となるのかもしれない。現状が変わるには、現状に敗れ去る人々の犠牲を必要としているわけか。彼らが敗れ去ることで風向きが変わるのだろうか。

 風に吹かれて、風に逆らう人々を不幸に陥れながら、人々の意識がどこかへ運ばれていく。そんな幻想を抱けるような雰囲気はここにはない。すべては停滞し、意識はそこに滞留し続けているのではないか。出来事が変化をもたらすのを阻止しようとしている。それが必然的な成り行きだと思わせたい。武力で支配しようとする国家に武力で対抗するのは当然の行為だろうか。国を作るには武力が必要だ。住民投票によって国から独立するにも武力が必要だろうか。法治国家を維持するにはその後ろ盾となる武力が欠かせない。たぶん国から独立して別の国を作るのではないやり方を思いつかなければならないのだろう。だが現状では思いつけない。今ある現状を前提とする限り、それは無理だ。しかし現状を前提としなければ、それは空理空論を免れない。そこに不可能と困難がありそうだ。武力行使では国家にも資本にも揺さぶりをかけられず、テロでも同様だ。それ以外に何があるというのか。平和的なデモ行進は人畜無害と見なされ、それを逆手に取ったヘイト・スピーチのデモ行進まである。たぶん積極的に目立つようなことをやってはだめなのであり、それと知られない静かな抵抗が求められているのではないか。それは国家や経済を刺激しないようなやり方だ。しかも現状を維持するような方向で、現にやっているそれがそうなのではないか。それとは何なのだろうか。それは抵抗でさえなく、ただの消極的な節約や節制のたぐいだろうか。何事も控えめにして、ただ静かに生活している。そんな先細りの成り行きにどこまで耐えられるだろうか。そういう目的のない我慢比べが求められているのだろうか。何と比べているわけでもなく、何を我慢しているわけでもないのであり、節約や節制を心がけると、自然とそうなってしまうのではないか。それは生活の知恵というやつだろうか。でもそんなセコいやり方では国家にも資本にも勝てないだろう。勝たなくてもかまわないということか。要するに国家や資本が仕掛ける消費ゲームに参加しないだけか。強引に参加させられたら、さっさと負けたらいい。しかし負けるとは何を意味するのだろうか。まさか死ぬということか。それは負けてみなければわからないのではないか。ともかく負けられない現状があるわけでもなく、何をもって勝敗が決するのかもわからないままだ。そんなゲームなどこの世には存在しないのかもしれず、ただゲームに参加しているつもりの人たちが幻想を抱いているだけなのではないか。そう思いたいのなら、そう思っていればいい。それだけのことでしかなく、他に何があるわけでもなさそうだ。


8月17日「美と崇高の違い」

 何か語りそこねているような気がするが、それでも何かしら語っているはずだ。語っていないとすれば、それは誰とも関係のないことだからだ。すべてがそうなのかもしれない。かすってもいないことなのだろう。この世は語り得ないことだらけのように思えるが、そうではないと反駁できるだろうか。何も論じられていないのかもしれず、その機会さえ巡ってこないのだろうか。何かについて論じなければならないのか。論じる対象などあり得ないだろうか。論じようとしても論じる術がないのか。いったい何について論じたいのか、その辺をはっきりさせないと、それについて言葉を記すわけにはいかない。論じるにはきっかけが必要だ。例えばそこで君は何を見ているのだろうか。別に何かの幻影を見ているわけではなく、窓から外の風景を眺めているに過ぎない。そこから見える風景は幻影なのか。それが美しいと思うならそうかもしれない。そのような風景が美しく思われるような情報が意識に刷り込まれている。美しい映像や画像を前もって見せられているから、それに類似した風景に出会うと美しいと思うのではないか。そんなはずがないだろうか。少なくとも実際に見ているのだから、幻影とは違うのではないか。ではそれを美しいと思うのは、その人が持って生まれた感性のなせる業なのか。それこそそんなはずがないといえるだろう。例えば人は富士山のような巨大なものを見ると崇高な感情を抱く。それは人を驚かせる巨大さを前にして生まれる感情で、それを美しいと思うのは勘違いかもしれない。崇高と美の違いは何なのか。富士山を見て美しいと思うのは、それはそれで何らかの必然性があるような気がするが、崇高と美の概念は重なる部分があるのだろうか。人が巨大な神像や神殿などの建造物を建てるとき、やはりそこには人々がそれを崇高に感じて、その対象を崇め奉るように仕向ける思惑が介在しているのであり、そんな思惑に誘導されて、実際に巨大な山塊や建造物を見ると、それを崇高に感じるのかも知れないが、例えばその画像や映像を小さな画面で見たり、描かれた絵画や撮られた写真としてみたりすると、そこで対象の巨大さを意識できなければ、今度はそれを美しいと思うだろうか。それを美しいと感じるのはメディアを通して間接的にそれらの事物を見るからで、実際に実物を見たときの崇高さが減じられているからなのか。美はそれだけ人為的な感性を伴う概念なのかもしれず、何かの対象を見て美しいと思うとき、そこには人為的な操作が先験的に仕込まれている、と考えておいた方が納得がいくだろうか。メディアによって、それを美しいと思うように、人の感性が制御されているのかもしれず、そこに社会的な伝統や慣習、あるいは流行現象などによる影響が潜んでいるのかもしれない。

 崇高の感情は古代の巨石文化などの、古い宗教的な価値観からきているのかもしれないが、確かアルプスの山々の風景が美しいという感覚が生じたのは、近代の画家たちがそれを描いて以降のことであり、それ以前は単なる人の通行を妨げる障害物としか見なされなかった、という話を何かの文章で読んだ記憶がある。富士山も山岳信仰などにおいては、崇高な信仰の対象であったのが、それが和歌で歌われたり、浮世絵師や有名な画家たちが、それを題材として多くの作品を残した結果として、現代において富士山は美しいという固定観念が生まれたのかもしれない。また自然の風景である森や川や湖や動植物など、田舎の田園風景が美しいと感じるのは、資本主義的な産業社会の発展により、多くの人々がそこから遠ざけられた結果として生じていることは明らからしく、例えば田舎から都会に出稼ぎに来た人たちが、故郷の情景を懐かしむ感情からも生じているのだろう。また南国の風景が美しく感じられるのは、そこが西欧の植民地となったからで、彼の地に西洋人が旅行で訪れ、異国情緒に感動したりしたのだろう。例えばゴーギャンがタヒチの人たちを描き、ゴーギャンの名声が高まれば、描いた対象も美しく感じられてしまうのかもしれない。逆に都会の風景が美しく感じられるのは、確かパリなどでは19世紀に都市の再開発が進み、都市が繁栄すればそこに人が集まり、人が集まればそれを目当てに画家たちも集まり、産業振興の一環として、国家による芸術振興政策もあったのかもしれないが、画家たちが描く都市の風景が評判を呼べば、描く風景も美的価値を生むのだろう。例えば佐伯祐三の代表作であるらしい、パリのリュクサンブール公園の並木道を描いた絵などは、人がそこに公園を作り、まっすぐに並木を植えたことから生じていることは明らかで、その絵が有名になれば、素人の画家たちもそれを美しいと感じ、さかんに街の並木道などを描くようになり、今では秋の紅葉の頃の、街のイチョウ並木を描いた絵や写真など数知れずなのではないか。都市の再開発などで道をまっすぐにして、電柱を撤去し並木を植えれば、そこに人工的な美しい景観が出来上がるわけだ。もちろん電柱も電柱で、高圧鉄塔などは結構写真の題材となっていたりして、確か高圧鉄塔に似たパリのエッフェル塔などは、完成した頃は醜悪な鉄骨の塊としか見なされなかったようだが、それが都市の象徴として絵に描かれ、写真に撮られ、観光の対象ともなれば、自然に美の対象となってしまうかもしれず、それは東京タワーやスカイツリーなどにもいえることで、エッフェル塔が美しければ、それのアナロジーで、他の都市の電波塔なども美しいということになってしまうのかもしれない。もしかしてどう見ても美の対象とはなりがたい、岡本太郎の太陽の塔なども、それを美しいと思う勘違いな人もいるのだろうか。


8月16日「絶望感と救いを求める心」

 それのどこに可能性があるのか。あるいはないのだろうか。なきにしもあらずとはどういうことなのか。それをやっている間はわからないのだろう。薄々は気づいているのかもしれないが、はっきりとわかるのは、それをやったあとからだ。そして何か他のことを思いつくまでは、それをやめようとしない。しかしやっていることは大したことはない。ぎりぎりまで追いつめられないと何もやろうとしないのではないか。可能性のすべてが相対化されているとすれば、何も救いがないということなのか。だが逆説的に救いがある方が不幸だと思ってみても、救われた気持ちになれた方がまだマシな気がしないでもないが、それさえも相対化されてしまうようで、結局どちらでもかまわないような気分となって、どうもそこには何の可能性もないように思われてくる。そういう水準では何もないのかもしれない。そして何もないから、他に救いを求めようとしてしまうわけだ。だが別に宗教にいかれているわけではない。社会に対して否定的な感情を抱くとしても、それを宗教が覆してくれるとも思えない。では何を求めたらいいのだろうか。それが浅はかな虚栄心から生じた幻影だったと思い知るだけではだめのようだ。しかし安易な救いなどもたらされはしないのはわかりきったことだ。そうかといって世の中に絶望したままでは生きてゆけない。絶望しようと救いを求めようと、そのどちらとも無縁に生きなければならないわけにもいかないのだろうが、要するにそれだけではないということだ。他にも様々なことやものが意識には感じられ、それらを身をもって体験しながら生きることになり、死ぬまでそれを体験し続けるわけだ。それに耐えきれなくなって疲れた人が、生きることに絶望したり救いを求めたりするわけか。要するに絶望するのも救いを求めるのも、何かを体験した結果から生じる心理的な作用なのだろう。

 現実から目を背けるためにそういう現象が起こるのだろうか。今体験しつつあることから意識を逸らすためにそんな心境になるわけか。なぜそんな現実逃避が起こるのかは、心身ともに疲れているからだろうが、それを避けられないとしたら、それにどう対処したらいいんだろうか。安易に出口を求めること自体がそういうことなのだろうから、やはりそのうんざりするような状況の中にとどまるしかないわけか。逃げるのが嫌ならそうするしかないだろう。逃げるが勝ちだと思うなら逃げればいいし、逃げるのが負けだとしても、それでもかまわないと思うなら逃げればいい。絶望しようと救いを求めようと、どちらでもかまわないのであり、それを気にしてもしなくても、やはりそれもどちらでもかまわない。要するに対処法などいくらでもありそうに思われ、それをやるもやらないも、それもどちらでもかまわないのではないか。状況は漠然としていて、とりとめもなくそんなことを思うだけで、そう思わなくてもかまわないのであり、思ってもかまわないわけだ。要するにそんな状況をそんなふうに語ってもかまわないということだ。それがまったく毒にも薬にもならなくてもかまわない。そうなるとそれは対処法でも処方箋でもない話となり、それについて語ることがそこから逸脱する契機になるのではないか。逃げるのと逸脱するのでは、何か微妙な違いがあるのだろうか。自分の意志で逃げようとするのではなく、自然とそこから外れていってしまうのが、結果的にそこから逸脱することになるのだろうか。それもその場の状況がもたらすひとつの結果に過ぎないわけか。結果を恐れても仕方がない。結果がでないことには、それについて語りようがなく、語っていること自体がそこから生じた結果であり、人はそんな結果がもたらされるのを期待しているわけだ。語ることで体験した現象を相対化したい。そうしないといつまでもそれにこだわり続け、他のことが手につかなくなる。人には結果が必要なのであり、そこからしか物事についての認識を得られないのだろう。それを何かの結果だと認識するわけで、事物に対処しきれずに疲弊してしまうと、絶望感を覚えたり救いを求めたりすると認識するわけだ。

 では今それを実感しているわけなのだろうか。たぶん嘘だろう。何かに対処していることは確かだが、対処しきれていないわけではなく、適当にごまかそうともしているわけで、そういう対処の仕方もあるわけだ。でも実際にごまかしているのだとすれば、それが対処しきれていないことになるのだろうか。そう認識しているとすればそうなるだろう。でも意識してごまかそうとしているわけではなく、結果的にごまかしているように感じられるとすれば、そこにやっていることと感じていることの間にずれが生じているのであり、その辺をどう判断したらいいのかわからなくなる。たぶん判断しようがないのではないか。いくらそんなことを語ってみても、どんな反応が返ってくるわけでもなく、誰がそんなことが記された文章を読んでいるわけでもない。要するにそんなことには興味を抱けないのだ。たぶんそれは絶望的な状況なのではなく、別に救われないように思われるわけでもなく、ただ漠然としていてとりとめがないのだ。何をどうしたらいいのか、それをわかる手がかりさえなく、途方に暮れるばかりで、そんな何ともしがたい状況を前にして、その場に立ち尽くすしかないのかもしれない。何とも判断のしようがなく、何を認識しているのか意識できず、どう考えたらいいのかもわからない。要するにそんな状況から逃れられない。いったいこの世の中はどうなっているのか。嘘でもかまわないから絶望したり、救いを求めたりしてみたいか。冗談ではなく、そんな気分を味わってみたいのではないか。でもそれも冗談の延長上にある感情なのだろう。絶望したくないから、あるいは安易に救いを求めたくないから、何やら強がってみたり、痩せ我慢を装ってみたりするわけで、そうならないように対処しているのであって、それを避けていることが、それとは別の困難に直面してしまうことにつながるわけで、それについてどう考えようと、そんな状況から抜け出せるわけでもないことを思い知るわけか。でも実際にどんな困難に直面しているのだろうか。それはいつもの語り得ないことについて語ろうとしていることと関係があるわけか。何だかそんなことを考えていると、自然に笑みがこぼれてくるようだ。もしかしたらそれも冗談のたぐいなのではないか。


8月15日「形骸化と空洞化」

 無為に時を過ごし、余計なことを考える。何を予想してみても外れるだろう。でも予測不能というわけでもなさそうだ。だから予想し予測しようとしているのではないか。今後どうなるかを語ってみせるわけか。だが現状に対しては誰も何もできはしない。現状の中でできることはたくさんあり、それをやっているのだろうが、それをやっているからといって、現状がどう変わるわけでもない。巡り会うのは同じことが繰り返されている光景でしかない。それでかまわないのだろう。誰もそんなことなど認めない。日々やりたいことをやっている気でいるわけだ。やらされているにもかかわらず、それをやっている気でいる。しかし誰によってやらされているのだろうか。誰かにやらされているのだろうし、そうでなければ得体の知れぬ何かにやらされているわけか。そこに何も救いはない。たまに救われた気持ちにはなれるが、その気になっているだけだ。でもその気持ちになれるだけでもまだマシな方だろう。絶望しかなければ気が滅入ってしまう。何かやっているとするなら、それが使命だと考えるしかない。勘違いかもしれないのにそう思い込んでいる。そう思っておいた方が無難なのではないか。無駄に言葉を記し、余計なことを述べてしまうのが使命となってしまう。今もそれをやっている最中ではないのか。何を確認しているわけでもない。物語の筋書きが人を心地良くさせているのではないか。ありふれた人がありふれた話に感動するわけがない。それがありふれた話だとは思わなければいいわけだ。人に分不相応な夢と感動を与える話ではまずいわけか。それを人が求めているとしても、作家は人を幻滅させる物語を構成したいのだろう。ありきたりな日常生活に退屈しきっている登場人物たちが、分相応な夢を実現させようとして破滅する。それが結果的に分相応ではなかったということが、日常生活に潜む罠なのか。実生活ではそこに思いがけず恩寵がもたらされたりするわけだ。そうなれば儲けものだ。君はきっと幸運の兆しを感じ取っているのだろう。そう思わずにはいられない。神に一泡吹かせてやりたい気持ちになっているのだろうか。やるだけ無駄だろう。どうせそれどころではなくなってしまう。また無茶なことをやろうとしてしまうわけで、そこに過剰な思い込みが介在しているのだろう。そしてそれが果たせずにがっかりしてしまうのか。できないことをやろうとして、できなかったことがわかってしまうわけだ。そうならないためには分相応なことをやればいいのに、それがやってみなければわからず、分相応であるか否かは、やったあとからでしかわからない。それが不条理だと思うわけか。別に思いはしないだろうし、そうは思わないから夢を抱いているわけだ。それが勘違いなのではないか。でもそんな勘違いがないと、人は何もやらなくなってしまうだろう。

 あてのない彷徨だ。ずれることしか思いつかず、書物に関心が引き寄せられてしまう。制度が問題なのだろうか。やっていることに矛盾が生じていて、それを知りながらも続けざるを得ない。すべての制度は空洞化と形骸化を免れない。押したら押し戻され、人の良識に頼っていたら何もできなくなってしまう。期待は必ず裏切られ、やりたい放題なことをやりたがる連中の天下となる。それでも人の良識に期待するしかなく、いつか必ずその良識が報われる時が来ると期待しながら、そんな良識人たちは世界の片隅でひっそりと目立たずに暮らしているのだろう。そんな人たちが果たしているのだろうか。経済の虚栄に目がくらんだ人たちはどん欲に利益をむさぼるばかりなのかもしれず、まだそうなる可能性があると思っている人たちはそれを目指すわけで、その一方であきらめた人たちはみじめな境遇から生じる復讐心をかき立てられながら、落ちぶれた人たちに向かってシニカルな嘲笑を投げかけるしかない。そうではないと思いたいのだろうが、本当のところは何だかわからない。そういうありふれた見解で済ますこともできるのではないか。たぶんそのどちらにもならないようにしたいのだろう。何からの繁栄を目指す人たちには歯止めなどありはしない。ほどほどのところで済ます気など毛頭ない。日々戦っている人たちにも歯止めはかからない。ほどほどのところで歯止めをかけたら、そこで戦っている相手に敗れ去ってしまう。それが政治家なら、弱腰だ何だのとなじられ、民衆の支持を失い、何もできなくなって、政治家を辞めるしかなくなってしまうだろう。経済的な繁栄を夢見て、戦争の勝利を願うとすれば、それが国民の意志となり、それを遂行するのが政治家の役目となる。誰もそれを馬鹿げたことだとは思わない。それが当然だと思うようになったら、その時点で国家主義に染まっている証拠なのだろうが、現状でそこから外れる思考の可能性があるのだろうか。誰もがそう思っているから、もうそれ以外にはあり得ないことになってしまうのであり、誰が何をやっても同じような結果しかもたらさないわけだ。そんな現状から将来を見通すとすれば、そういう範囲内でのバリエーションにしかならず、そんな範囲内で誰かがメディア上で語っているわけで、それが情勢分析の大前提となり、誰もがそんな認識を共有しながら語っているわけだ。


8月14日「フィクションとしての共同幻想」

 嘘はいつでもつけるが、嘘の反対が何だかわからなくなる。時限爆弾のスイッチが入って、残された時間もあとわずかとなっている。そんな夢を見たわけか。それにしては落ち着いているではないか。焦っていない。目が覚めたらもうそんな夢のことなど忘れているだろう。嘘だったのだろうか。自我の位置づけが揺らいでいる。その存立基盤が危機に瀕しているわけでもないが、奇跡のようなことが現実に起こるだろうか。起こった後からしかそれはわからないだろう。当たり前の認識だ。それ以上は何もわからない。でたらめに考えるわけにはいかないらしい。何が勝っているのでもない。外部から何が導入されているわけでもなく、語る題材を求めているのでもない。それを求めていることを自覚できないのではないか。別にリアリティを伴わないのなら、それでもかまわないのではないか。語っている事実に変わりはない。無理に語ろうとしないのかもしれない。何かわかってしまったのだろうか。何らかの境地に至ったのか。感情を制御できるようになったとか、そんな妄想を抱いているわけか。それはそれでこれはこれだ。何かを悟ったということは、それを超えることができなくなった証しか。そんなはずもないだろう。何かを思い出させようとしているのではないか。そして夢の中でそれを思い出したわけだ。でも目覚めたらすぐに忘れてしまう。忘れようとしているのだから、嘘をついているのだろう。本当はわかっているはずだ。その記憶を求めている。もっとうまくやれたのだろうか。うまく立ち回れたとしたら今はない。もたらされた現実はその結果でしかなく、可能性はすでに断たれている。結果としてはこういうことなのだ。それが考える前提となっているわけだ。ここから考えるしかない。すでに外れているのは承知の上か。何から外れているというのか。現実からではない。それを空想できなくなっているのだろう。空想ではなく、現実を体験しつつあるわけだ。そしてそんな心境に至り、何かを悟ったような気になる。本当は何も悟っていないのだろうか。それは意識できないことなのではないか。意識しようとしても、そこに遮蔽幕がかかっていて、それがあらわになってしまってはまずいような気配を感じ取っているわけか。なるべく意識しないように努めているのかもしれない。なぜだか理由はわからないが、要するに何かを継続させたいのだろう。それがわかってしまったら、何もやりたくなくなってしまうのではないか。それが悟りの境地だとしたら、そうなるのを意識して避けているわけで、何かを悟る手前にとどまろうとしているのかもしれず、その戦略が功を奏して、さらに何かを続けられているわけか。要するにそれはごまかしのたぐいなのではないか。それがわかっていながら、あえてそこから目を背け、それで何とか平常心を保っているわけだ。それはわかりすぎるくらいにわかっていることであり、それを正視できないこともわかっているはずだ。

 何も悟ることができず、何をやっているのかわからないままに、何かに導かれるようにして、それをやっているのだとしたら、やはりそれをやめるわけにはいかないということか。すでにそうなった時点で、その行為者はそれを取り巻く自然の一部となっている。自然とはこの社会を含めた自然のことであり、人為的な行為もそれに含まれるような自然だ。要するにその外部などあり得ような自然環境の中で、誰かが生きている。でもそうなると、その先は何も語れなくなってしまうのではないか。それを自覚した時点で終了となって、あとは何も語れなくなってしまう。要するにそれが限界であり、それを悟ってしまったらおしまいなわけだ。だからそこから目を背けなければならないわけか。それこそが自然に逆らう人為的な行為なのだろうか。でも何かを語るにはそうしなければならないのだろう。それが過ちだとしたら、語る行為それ自体が間違っているわけだ。そんなのは信じられないだろうか。信じてしまえばそれは宗教か。別に宗教でもかまわないのではないか。人は自然に逆らうことによって人になる。そこに人為的な行為が成立するわけだ。自然のなすがままになってしまっては、動物と同じだろう。たぶんそれでも一向にかまわないのだろうが、自然と自然に逆らい、自然に逆らうのが自然な成り行きだとすれば、それは人が滅びる運命を背負わされている証拠となるだろうか。でもいつ滅びるかは現時点ではわからず、ただこのままでは滅びるような気がするだけなのだろう。だからそんな運命に逆らうことが、自然に逆らうことに通じているわけだ。自らの運命は自らで切り開くものだと思わされ、必死になって自然に逆らおうとするのだろうが、それも自然が人に課した宿命なのか。そうやって限界の手前で悪あがきを繰り返すわけだ。何とか自らの運命から逃れたいのだろう。そのための試行錯誤であり、それをやっているうちは、その限界の存在を忘れることができ、希望を抱ける。何やらそこに可能性があると感じられてしまうわけだ。そのつもりで努力しているわけで、その努力が実る瞬間を夢想しながら、ひたすらそんなことを繰り返している。それが無駄な努力だとわかるまではそれをやめないだろう。運命に逆らうことがその人の運命なのかもしれず、そこにパラドックスが口を開けて待ち構えていることに気づかない。その時点で罠にはまっているのだろうか。それでも人には夢がある。それをやり遂げた先に何かが待っていると期待するわけだ。その待っているのが自らの破滅であったり、死であったりするとしても、そこまで至ってみなければ、それを知ることはできない。だからひたすら前進しようとしているのではないか。もう失うものは何もないと思っている。人はそんな運命に翻弄されるしかないのだろうか。しかし誰が翻弄されているのか。すべての人がそうだとすれば、そんなことをあえて語る意味もないのではないか。そうだとすればそこで語りはおしまいとなり、あとはひたすら沈黙を守るしかないわけか。そんなはずもない。

 大して肯定も否定もできない思索の果てに、何を語っているとも思えないだけか。それについていくらでも語れるわけでもないのだろうが、たぶんいくら語ったところで、何を語っていることにもなりはしないのではないか。人の儚い生涯が何を意味するとも思えず、何か意味を見出そうとすれば、そこに興味深い出来事が起こったように思われるだけで、それを自らの内に取り込んで、言葉の連なりに再構成して語れば、何か特定の事柄に関して語ったことになるのではないか。そこで物語が生じているわけだ。それが架空の人物ならフィクションとなるのだろうか。それを語るとすればそうなるだろうし、それに関して文字の連なりを記すとすれば小説となるのではないか。それを誰かが読み、他の誰かが批評したりするわけだ。それらの記述は時空を超えて誰かにもたらされるだろう。書物として残っていればそうなる。別にそんな現状に困惑しているわけでもなく、ただそれを読んでいる現状があるわけで、それに関して何か見解を述べたいのだろうが、述べたところでどうなるわけでもないらしい。それを誰かが読み、何か思うところがあれば思うだけで、その思っていることを言葉で表せば、何らかの文章になるのだろうか。でもその思っていることが、直接それらの文章上に表されているわけでもないのだろう。思ってもみないことが記されているとすれば、それはそれを読む者の思い込みが、それらの文章に反映されていることになるのだろうか。そう読めるとすればそうなのではないか。でもその思い込み自体も、それを読んだ結果から生じていることであり、読む前にはそんなことなど思ってもいなかったのであり、それを読んだ結果、そんな思い込みが生じたのだとすれば、そんな思い込みを生じさせた文章自体に、何らかの力が宿っているということになるのだろうか。それがそれを記した者の力なのか、記させた自然の力なのか、文章そのものからそんな力が生じているのか、あるいはそれを読むことによって生じていることでしかないのか、そんなことをいくら考えても結論は出ないかもしれないが、そんなことを語れば、何か語っていることになるのかもしれず、やはりそれも悟りに至る手前でとどまっていることになるわけか。そこではっきりした断言とともに何らかの答えを出してしまうのが、そこで求められている正しい在り方なのだろうか。どうもその辺で疑念を抱かざるを得ないのだが、そんなことを探求すること自体にどんな意味や意義があるというのか。何の意味も意義も感じないとすれば、それはそれだけのことであり、ただ特定の書物を読んで感動したとか述べておけば、それで済んでしまうようなことでしかない。たぶんそれで済ませてしまっても何の不都合もないのではないか。小説や漫画や映画などの登場人物に感情移入するのも、娯楽としては正当なやり方だろうし、何やらそれらの架空の行為に、喜怒哀楽を覚えてしまうのも、それらのフィクションが狙っていることなのではないか。


8月13日「語ることと書くことの差異」

 何を悟ったわけでもない。ただ言葉を記すことは語ることではないようだ。でも記された言葉を読むと語っているように思われる。それは気のせいなのか。そこで誰かが実際に語っているはずだ。フィクションの中でそう思っているのだろうか。そう語っているわけだ。ともかく言葉が記されているのだから、そこに何かがあるわけで、そこにある何かが語っているように思わせる。でも語っている中身が空疎だろうか。何を記し何を語るかが肝心なのか。そんなわかりきったことを問うわけにもいかないか。別に内容はなんでもかまわないのであり、ただの無内容であっても、言葉が連なっている限りは、何かを語っていることになるのかもしれない。どんなふうに言葉を記してもかまわず、そこで何が語られていてもかまわないわけだ。それに対して何か文句が言いたいのかもしれないが、はっきりとした批判ができずにいるらしい。何をためらっているのだろうか。そこに過剰な言葉の連なりがあるから、対抗手段をとれないでいるわけか。対抗手段とは何なのだろうか。それに負けず劣らず過剰に言葉を連ねる必要があるわけか。しかしその内容が空疎なままでは話にならないので、どうにかしたいらしい。誰が何を語っているとも思えない状況を改善したいわけだ。特定の誰かが語っているようにしたいようだが、今のところは誰もいないのかもしれない。そこには語る主体が不在のようだ。語っているうちにどこか得体の知れない地帯に迷い込んでしまったのだろうか。何やら抽象的な物言いに終始している。いったんそうなってしまうと、なかなか軌道修正が思うようにいかなくなって、虚無の抑圧をはねのけることができずに、そのまま地を這いつくばるような語りとなってしまうらしい。トカゲか昆虫が語っているような内容となるわけか。あり得ないことだ。誰かの空想とはなりがたく、単なる嘘でしかない。動物の毛皮目当てのハンターのように、言葉の剥製を部屋の中に飾り立てるわけにもいかず、あり得ないことをあり得ないままに語っていくしかないのだろうが、なぜそうなってしまうかは理由も根拠もなく、他の何が宙に舞っているわけでもないだろうし、どうもデタラメの度が過ぎるように思われてきて、そのまま語りを放棄してしまいそうになってくるが、それでもまだ状況を打開する手だてが残されているのだろうか。言葉中毒といったらしっくり来るのかもしれない。でもそれで何を述べていることにもならないのは承知しているはずで、何とかまともな内容になるように、徐々に語りを改めてゆかなければならない。本当にそう思っているわけでもないのだろうが、慎重に言葉を選んで語ろうとする。まだ時間があるはずだ。手遅れとなっているわけではない。とっ散らかった言葉を取り集め、要らない言葉をゴミ箱に放り込み、有用な言葉だけで文章を構成したい。そんなことが可能だとは思っていないのだろうが、その気になれば似たような状況を作り出せるはずか。

 それに近づけたいのか。何も我慢することはないだろう。暴発したままでもいいのではないか。いったん外れてしまった方向性を、強引に元に戻したいのではないらしい。でもそれは無方向になるわけでもないのだろう。語りはある一定の方向へと語るしかないのだろうか。語る目的がそこにあるわけか。では何について語ろうとしているのか。それが美しく輝くように結晶化させたいのか。言葉と言葉を効果的につなげて美しい文章を完成させたいのだろうか。でもそれでは詩になってしまうのではないか。詩は無内容だろうか。それが軌道に乗るまでにはまただいぶ時間がかかってしまうのかもしれない。目下のところは何を試そうとしているわけでもなく、ただあてもなく彷徨っている。どこをほっつき歩いているのでもないのに、なぜか彷徨っているような感覚がもたらされているらしい。ただ何かに影響を受けてそうなってしまっているのだろう。それは止めようのない成り行きだ。考えている次元が違うのではないか。いくら世の行く末を予言しても、その通りにならないことは自明の事実で、ただ自らの願望を未来に反映させることにしかならない。しかし人は願望を語らずにはいられない。他に何が心の重しになっているわけでもないのだろう。それを失ったら他にやることがなくなってしまい、後は老いるにまかせてルーティンワークをこなしてゆくだけか。毎度おなじみの決まりきった言葉の運びとなってしまう。それを避けるためにわざと突拍子もないことを語ろうとしてしまい、逸脱を重ねることが自己目的化してしまうのだろうか。それではまともな内容とはなりがたい。そこにどのような差異が潜んでいるのだろうか。うまく言葉を操れず、記した言葉の連なりが、記そうとする意識から外れていってしまう。意識の中でねつ造された意志では太刀打ちできそうもない。そんな成り行きに抗うことはできない。だから空疎な内容となってしまうときは、へたに逆らって軌道修正を施そうとしても無駄で、あきらめてそのまま放置するしかなさそうだ。どうあがいても勝てそうもない。勝とうとしてはだめなのだ。しかし打ち勝つつもりで言葉を記しているのではないか。それが虚しい努力だとわかっていても、それに打ち勝とうとしてしまい、結果として自ら墓穴を掘っていることになって、それに気づいた時には後の祭りとなるわけか。でもそれに気づければいいわけで、中にはそれと気づかずに終わりまで行き着いてしまう人もいるのではないか。現に気づかないうちにまた抽象的な物言いとなっている。それは避けようとしても避けられない成り行きだろうか。別に意識して避けようとしているわけではなく、かえってそういう成り行きに巻き込まれてしまった方が、記述がはかどるのではないか。はかどったところで何がどうなるわけでもなく、ただ無駄に言葉を記しているに過ぎないのは承知しつつも、それも気休めのたぐいとなるわけか。でも気休めでは埒が明かない。まともなことを語らないとどうしようもないのだろうが、その方策など何もなく、語ってみないことにはわからないことでしかなく、それは言葉を記している中で、意志とは関係なく他の誰かが語っているようなことになってしまう。

 その時点ですでに記述と語りが無関係になってしまうわけだ。そんなことがあり得るだろうか。確かにそこに齟齬が生じているのだろうが、表現が正鵠を射ているとは思えない。では何か勘違いが介在して、そんな気がしてしまうわけか。記述の中で語りが展開しているのだから、無関係であるわけがないが、それを統御しようとしている意識にとっては違和感があり、記述も語りも支配できないもどかしさを感じてしまうのかもしれず、しかもそういった支配を欲することが、何か間違っているようにも思われ、意識と記述と語りがそこで隔たっている感覚が、何やら自我の崩壊を招き寄せはしないかと焦り、何とかそれらを同じ方向に束ねようとする意志が働いてしまうのではないか。でもそうなったところで何がどうなるわけでもなく、結局事態が悪化するばかりで、焦って言葉をこねくり回し、どうにもならない記述をさらに続けてしまうのだろうし、そこに思ってもみないような語りが生じていることに驚いたところで、焦りが増すばかりとなってしまうのだろうか。要するに語りの変質が記述の変質を招き、そこからさらに意識の変質を招きざるを得ないということか。言葉を記すことがすべてを変えてしまうわけか。そんなことはあり得ないだろうか。それも記述が招いた空想のたぐいか。記述が語りと意識を生じさせ、意識がそんな空想を抱き、それがまた記述に反映して、さらなる語りと意識を生じさせる。でもそんな循環がいつまでも続くとも思えない。どこかで終止符を打たなければ終らない。終り得ないのなら、そのまま放置するしかない。誰がそれを終らそうとしているわけでもなく、放置しているわけでもない。そのままではどうにもならないから、それをさらに続けようとしてしまうわけだ。そしてもはや制御の利かない記述の連鎖を止めようがなくなり、延々とそれをやっている現状をあるわけだ。その現象をいくら否定したところで、それをやめる気にはならないのではないか。たぶん求めているのはやめるきっかけなどではなく、続けるための方法なのだろう。それを求めて試行錯誤を繰り返している最中なのではないか。そんな求まりようのない答えを探しながら、意識がこの世界のどこかを彷徨っているのだろうか。彷徨っているのではなく、ただ考えあぐねているだけではないのか。そして語ることに挫折しているわけだ。語り得ないことを語ろうとして、それを放棄するしかない状況に追い込まれ、かろうじて繰り出される言葉の連なりに活路を見出そうとするが、どう語ってもそれを超えることはできない。だからその辺で妥協するしかないわけか。


8月12日「ソーシャルワークへの違和感」

 現象としてはこうなっている。誰かが現象を説明しているわけか。今ここで説明しようとしているらしい。昨日読んだ文章を忘れているのだ。しかしそれに影響を受けている。波打ち際を人が歩いている。漫画の中の光景だろう。これから入水自殺でもするのだろうか。想像としてはそれもありかもしれない。それが現象なのか。海の神に招き寄せられているのだろう。それを思い浮かべているのだから、脳の現象だ。地域共同体にはよそ者を受けつけない閉鎖性がある。そこへソーシャルワーカーが入り込み、住民に何かさせようとするわけだ。虚しい努力ではないらしい。やっている者たちはそう思っている。希望の持てるより良い社会をともに作ってゆかなければならない。そう前向きに考えているわけだ。それと記しつつある文章がどう関係するのか。まだ何の展望もないようだ。そこは見晴らしの良いの場所ではないのだろう。また語り得ないことを語ろうとしている。くだらないやり方なのかもしれない。いちいちそこで可能性と条件が考察される。でも実際に何が試されているわけでもないのだろう。ただあてもなく言葉が記される。別に希望の持てない世の中であってもかまわないわけだ。それでも人が暮らしている。生きているだけでも儲けものか。死んでいてもかまわないだろう。どちらでもいいのであって、そこに幻想を抱く余地はない。それが何かを物語っているわけか。それも一つの現象なのだろうか。要するにそんな現象を語っているわけだ。それだけのことに時間が費やされ、無駄に語っているような気になるが、たぶんそう語るしかない。歩き疲れて息が切れているのだろうか。別に語りすぎているわけではない。そこにはいつものように迂回路があって、容易に目的地にはたどり着けないようになっていて、歩いているうちに目的を見失い、どこを目指して歩いているのかもわからなくなってしまう。それがいつもの成り行きだと考えればいいわけか。考えているだけではなく、実際に歩いているのではないか。確かに昨日は歩いていた。昨日と今日とでは時間的に別の時空にいるのではなかったか。変わりないと思うのなら、それは錯覚なのではないか。そうだとしてもそんな状況を受け入れ、たとえそれが錯覚であろうと、何かを物語っているつもりでいたいのかもしれず、その何かについて考えていたのかもしれない。明らかに何が違っているとも思えない。その違いについて何か語りたいわけでもないらしい。要するに昨日の付け足しが今日の語りなのだ。それ以上は何も言えないのではないか。時空を超えて語るわけにはいかないのか。そういうSF的な話ではない。無内容だとその辺が限界なのかもしれない。おせっかいが仕事のソーシャルワーカーはその後どうなったのか。ありふれた作業を企画して、人々の社会的なつながりを構築することができたのか。それに参加している人々はだまされているのだろうか。そうではない。そこに曲がりなりにも仕事が発生しているわけだ。

 気休めが気休め以上のものとなる。そんな幻想を抱けたらしめたものだ。そこに喜びを見出して、何かやっている気持ちになるのだろう。実際にやっているわけだ。何かをやるとはそういうことだ。そう思い込んでいる。そこに落とし穴はないのだろうか。別に落とし穴に落ちてもかまわないわけだ。やめたらまた別の人材がかわりにやってくる。人に何かをやらせるのが仕事なのだろうから、やらせようとするしかないわけだ。それ以外の選択肢はない。仕事とはそういうものなのではないか。そんな仕事が誰かを待っている。それをやらせようというわけだ。中には使命感に燃えている人もいるのだろう。より良い社会を築いてゆきたい。でもそれが社会を変えているのだろうか。たぶんそうだ。より良い方向へ変えているのではないか。そう思って差し支えない。でも君はそういう運動へ参加しない。現状がもたらしている荒んだ気分のままでもかまわないと思っているのではないか。前向きに生きられないわけだ。でも後ろ向きでもない。自然に現状が変わるのを待っているのでもないらしい。待っていないのか。何かの到来を待っていると感じていたのは嘘だったのか。思い違いだったのかもしれない。待ちくたびれて心変わりがしてしまったようだ。そんなはずがないだろうか。またわざとひねくれているのではないか。あるいはひねくれる気力もないといったところか。どうもそうではないような気がする。そういう流れとは違った方面に何かがあると思っているのではないか。それを探しているわけだ。それも嘘かもしれないが、噓も方便なのであり、嘘をついているつもりになりたいのではないか。本心からそう思っていると思い込みたい。そこに何か別の思いが差し挟まれていることに気づきたくないわけだ。それに気づかないままやり続けないと、どうしても恣意的な雑念が入って、やっていることがねじ曲げられてしまうような気がする。そうなってはまずいわけか。でも雑念を取り払うわけにはいかず、それと共に生きてゆかなければならないと思う。取り立ててそう思う理由はないが、正しい精神状態になってはまずいのかもしれない。何だかわからないがそう思う。そして容易には取り払えない雑念に引きずられて、気の遠くなるような回り道を強いられ、迂回に迂回を重ねているうちに、何をやっているのかわからなくなるわけだ。何をやろうとしていたのかも思い出せなくなる。まさかそれが噓も方便の嘘なのだろうか。そうであったとしても何が方便であるわけでもなく、それを否定しなければ、それ以上は語れないのではないか。でも現状では否定しきれていない。だからそれ以上は語れないわけだ。まさかそれも嘘なのだろうか。そんなことを記しているうちに、迷路のただ中にいることに気づき、急いでそこから退散しようとするが、今度はなかなか出口にたどり着けない。すでに通り過ぎてしまったのだろうか。そこで何を見失ったとも思えず、何に引きずられてここまでたどり着いたのかも思い出せない。こことはどこなのか。客観的な視点には立てないのだから、わかりようがないのではないか。

 確実に何かの渦中にいるわけだ。それはこの世界に住むすべての人にいえることだ。外部があると思ってはいけない。すべての人が世界の内部で生きていて、その外へ出られないわけだ。誰もそれを外から眺めているわけではなく、ただそうなっている光景を想像している。それは内部の視点であり、想像の域を出ない架空の視点だ。それと気づかずに何かにとらわれているのだろう。そこには拘束力が働いていて、人の社会参加が別の人の孤立を招き、そんな孤立した人を救出しようとする人もいて、孤立した人は社会参加を促す空気にせき立てられ、ますます行き場がなくなる。たぶん社会からの孤立が終わりではないのだ。そこからが真の闘争の始まりなのではないか。その空気との戦いに敗れたときが本当の終わりなのだろう。空気に順応するか、孤独死するかの二者択一を迫られる。介護を振り切って海で入水自殺を遂げた老人は、まだその途上にあったわけか。ともかくそれでは名誉の戦死とはなりがたいか。たぶん追いつめられて終わりになる前に、余力のあるうちにさっさと決着をつけたくなったのではないか。それも選択肢の一つなのだろう。どこまでやれるかは、実際にやってみないことにはわからないのだろう。そしてやってみた結果がそれなのだから、それはそれでその人の意志を尊重しなければならない。それ以上の詮索は無用だ。メディア上で不手際の責任を追求されれば、自殺で逃げる人などいくらでもいて、生き長らえることに意義を見出せない状況などいくらでもありそうだ。そういう風潮でもかまわないのなら、それはそれで結構なことだ。何ともやりようがなく、誰が出る幕でもないのだろうが、幕引きのきっかけは思わぬところからやってくるのであり、見物人がそんな他人の波瀾万丈な生涯に感動しているわけだ。フィクションとはそういうものだろうし、現実の世界でも自らの身をもって体験できそうだ。それが他人の体験となるだけではおもしろくない。そして何と戦っていると思わなくてもいいわけで、独りよがりと思われても仕方のないところなのであり、そんな自業自得の成り行きに同情してもらわなくても、一向に気にするふうもなく、今日もまたどこかで誰かが旅立つきっかけを探しているのかもしれない。どこへ旅立つかは旅立ってみなければわからないのだろうか。わかろうとわかるまいと、そんなことまで詮索されてもらいたくないのではないか。それが何であろうとなかろうと、他人のおせっかいを振り切らなければ、どこへも旅立てないことは確かなのだから。


8月11日「百家争鳴」

 またずいぶんといい加減なことを記してしまった後には、心にぽっかりと何もない空洞が穿たれている。その空洞の中で、何を取り返そうとしているわけでもないだろうが、そこに言葉を詰め込んで、そんなたとえがリアリティを持つように、それらしい文章を構成したいのだろうか。そんなはずがない。何か不意に詩的な言語表現を思いついた気がしたが、やはりそれは気のせいだったようで、肯定的な幻想を抱くほど、それらの思想に深く染まっているわけでもないということだ。漂泊の気分を認めなければならない。それは気分なのであって、実際にあてもなくどこかを彷徨っているわけではないということだ。何かがつかえているようで、なかなか表に出てこないようで、偽装された内面で苦しんでいるのかもしれない。なぜそれが真実ではないのか。真実とはなり得ない人為的なごまかしがあるのかもしれず、わざと取り繕っている気分なのだろうが、それを改められないのも、そのつかえている何かを取り除けない事情に関係があるわけか。でもそれがどこでつかえているのかはわからず、そこまで想像力が届かないどこかでつかえているのだろう。でも何だか得体の知れない感情が、どこか奥の方でつかえているような気がするわけだ。それを心と見なすわけにはいかないだろうか。別に見なしてもかまわないのだろうが、見なしたところで、それがどうなるわけでもなく、さらに意味不明な思いにとらわれるだけではないのか。要するに何だかわからないのであり、何がつかえているとしても、そんなわだかまりを解消するために、何をやったらいいのかわからず、ただこの世界に対して不信感を抱いているに過ぎないのだろう。そこには人の作為があり、その作為を嫌って自然と同化したい人が後を絶たないわけか。しかしそれで同化しているわけなのか。そう思っているとしたら、それが大きな勘違いというわけでもないのだろうが、それが何らかの救いをもたらしているとしても、それはせいぜいのところ、心の救い程度のことなのだろうか。人が救われるわけではなく、人が幻想する心が救われ、それでもって救いとしておけば、それはそれでそういうことになるのかもしれず、別に他の何が救われたわけでもなく、その無為自然でさえも、この世界のどこで実現したことにもならないわけだ。ただそれはもとから実現しているのではないか。人の手によって実現したわけではない。

 ただ理にかなっているわけではないらしい。でも人の理を排除できるわけでもなく、それこそが人が求めるところなのではないか。それで世間的に通用するなら、それでかまわないわけだ。ただはっきりしたことは何もわからない。結果を求めているわけではなく、それを結果だと見なしているだけだろう。それ以上はわからないわけで、わかりようのないことをわかろうとしても無駄で、結局何を求めているのでもないことになってしまいそうだ。実際そうなのではないか。人はただ働いている。それを超えることはやれず、やれないことは想像するしかないだろう。考える前提となっているものが何もない。どこから何を考えたらいいのかわからなくなってしまうわけだ。ただ何もかもが漠然としていて、エコロジーの神秘思想にいかれるつもりはないのだが、魅力を感じてしまうことは確かだ。でもそれを享受できる人々とも異質な成り行きの中で暮らしているのだから、幻想の域にとどまるしかないだろう。どう考えてもそこに格差があるのであり、それを縮めることはできず、ただ端から眺めているにとどまる。ただそこで暮らしているに過ぎないことだけなのに、それがメディアで取り上げられると、何やら魅力的に感じられてくるだけなのに、そういう魅力にわだかまりを感じることが、それとは違う幻想を追いかけているように思えてきて、虚しくなってくるのだろうか。たぶん何かがおかしいのだろうとは思うが、相変わらず何がおかしいのかはわからず、そこで思考することをあきらめてしまい、そのままほったらかしとなってしまうらしい。現状は果てしなく別の方向へと流れている。それが実感であり、その感触にも確かな手応えがあり、勘違いというわけでもないような気がして、そこに確固とした階層構造があるとは思えないが、すべては恣意的な範囲内で行われていることだ。要するにそれを見せつけられているのであり、それも一つの権力行使の形態なのだろうし、それに従わせようとする意図や思惑が働いていて、そんなことを意識すればするほど、それらの見せつける行為に魅惑されてしまうわけだ。人々をそこへと向かわせる力が働いているわけで、それに抗うのは容易ではないのかもしれないが、やはり抵抗感があり、それを覚えるかぎりは、抗わざるを得ないような成り行きとなって、現に誰かがこうして抗っているつもりでいるのだろうが、いったいどこまで抗えるのか、それで抗っていることになるのか、その辺がはっきりせず、どうしてもそれも思い違いか何かだと思われ、抗っている自らを信じられない事態となっているわけで、それもおかしな成り行きだと思われる。

 それは解明すべきことではないのかもしれない。しかしそんな現状を肯定するわけにはいかないか。人は社会の中で自らの役割を自覚するに至らない。それを悟ったらあきらめたことになるからだ。だが何をあきらめたことになるのか。それは自らの自由意志なのだろうか。違うのではないか。意志などないとしたらどうだろう。役割もなく意志もなく自由もない。では何があるのだろうか。そんな漠然とした問いがあるだけか。問いにとらわれているだけなら、実践も何もありはしない。それでかまわないのだろうか。問いかけてみても無駄なような気がする。問いに答えようとしない態度で固まっているわけだ。しかしそれを実践する活動家とは何なのか。そこに何か役割を自覚する契機でもあるのだろうか。何が見失われようとしているわけでもない。たぶん何が実践されているわけでもないのだろう。それは運動ではないのかもしれない。ただの感情だろうか。意識に問う限りは外部に出られず、意識の内部からいくら外部を想像しても、それは想像でしかない。しかし意識の外に外部があるわけでもなく、意識自体が想像の産物で、浅はかな思考が意識をもたらしているだけではないのか。それを語ろうとしている考えが浅はかなのか。でもそれ以外には何もない。どうやらそれ以上意識に問うのは無駄のようだ。何を真似ても何も出てこない。そういうことではないのではないか。現状では意識が何を利するように作用しているわけでもない。新しい事態に意識がついてゆけなくなっているのではないか。でも別にそれでかまわないのだろう。活動する人たちにはそれ相応の事情がついて回る。その事情を超えて活動するわけにはいかないのか。くだらぬ党派感情に頼っているわけでもなさそうに思える。でもそれが党派感情を生み出しているのであり、皮相的な気分を批判の材料にして、うわべだけその場の雰囲気に染まっていればいいわけだ。しかし保守派は日本国憲法の何を批判していたのか。国家という概念が自明なものだと思っている限りは批判せざるを得ない。結局それも理性のたがが外れたら、ヘイト・スピーチと変わらないことを口走ってしまうわけだ。そこに微妙な差異があるのかもしれないが、でもそれが許されている現状があるわけで、それを口走ってしまった時点で、すでに心に余裕が感じられない。何かが形骸化している。このままでは何も実現されないだろう。たぶんそれでかまわないのだ。しかし制度はまだまだ盤石なのではないか。人々は現状の制度の中で生きてゆくしかない。その制度を変えることができないのだろうか。しかし制度とは何なのだろう。いつもそこで行き詰まってしまうわけか。そんなわけでもない。

 ともかく今はヘイト・スピーチまがいの言動を駆使する保守派の論客たちには、まだまだメディア上で派手に踊ってもらわなければならない。それが世の中の多数派の人々が求めているものだということを見せつけてもらわなければ、その先がやってこないだろう。それを非難する中途半端な良識など要らない。どうせ怖くなって途中で自粛してしまうのかもしれないが、それでもある一線を越えてしまうのではないか。かえってそうなった方がいいのではないか。その後に何が起こるわけでもないのだろうが、何が起ころうとそれに気づかない方がいいのだろう。気づいてしまったら馬鹿踊りが続かなくなって、期待外れとなってしまう。でも何を期待しているわけでもなく、世の中がどうなってほしいのでもないが、ともかく期待外れではつまらない。とにかく今は世界的に、例えば中国の春秋戦国時代に諸子百家が出てきた時期に似ていて、ネット上でそういう人たちが議論を交わし、百家争鳴状態になりつつあるのかもしれず、その中からまともな人材が出てくるには、メディア上でお騒がせの人たちは、流行り廃りの波に飲まれて、さっさといなくなってほしいと思っているのだろうか。どうもそういうわけでもないのではないか。誰がまともな人材であるかなんてわからず、それを計る明確な基準などなく、結果的に何かの巡り合わせで残った人たちが、まともな人材だと感じられるだけで、当人たちも自らが残った事実から、そういう感慨を抱くだけなのかもしれず、別にその時の流行に乗って派手に騒いでいる人たちが、結果的に残ってしまってもかまわないのではないか。要するにそれらの思考や思想には興味を抱けないということか。


8月10日「モンキー・D・ルフィと柄谷行人」

 最近出た柄谷行人の『帝国の構造』(青土社)を読んだが、何だか柄谷の言っている内容が、だんだん漫画の『ワンピース』みたいになってきたように思えて、なぜか読んでいて笑ってしまうような内容になっている(嘘ですが、これから述べることに気づいてしまった時には大笑いしてしまいました)。大丈夫かぁ?柄谷行人(笑)。

 内容としては、マルクス主義者のように「生産様式」からでは、社会構成体の歴史をうまく説明できないから、それに代わって「交換様式」を導入して歴史を説明するのが、最近の柄谷行人が語っていることなのだが、その「交換様式」には四つのタイプがあって、

A 互酬(贈与と返礼)
B 略奪と再分配(支配と保護)
C 商品交換(貨幣と商品)
D X

という定義で、交換様式Aは氏族社会が優勢だった時代に支配的な交換様式で、交換様式Bは国家が優勢だった時代に支配的は交換様式で、現代は国家と経済活動が優勢である時代だから、交換様式BとCが支配的な交換様式なのだが、ここで誤解を与えかねない交換様式Bの略奪と再分配とは、広い意味で国民から税金を強制的に取り立てて、福祉や行政サービスによって公平に再分配しているつもりの行為も含まれる。

 そして柄谷が来たるべき社会において実現させたい、歴史的に先行した交換様式Aの高次元での回復という、未知のXとしての交換様式Dなのだが、こう述べてしまうと、柄谷の言っている趣旨からちょっとずれてくるかもしれないが、要するにそれは、互酬的なしがらみのない事や物を、地縁や血縁に関係なく、タダでやってあげたり交換したりして、そのお返しは期待しないという行為なのではないか。

 この交換様式Dの「D」で気づいてしまったのだが、もしかして交換様式Dって、『ワンピース』の中でDの一族(モンキー・D・ルフィ、モンキー・D・ドラゴン、モンキー・D・ガープ、ゴール・D・ロジャー、ポートガス・D・エース、ポートガス・D・ルージュ、マーシャル・D・ティーチ、ハグワール・D・サウロ)と、その仲間たちがやっている行為そのものなのではないか(笑)。

 悪役として登場している海賊黒ひげ(マーシャル・D・ティーチ)でさえ、本来海賊がやるべき交換様式Bをやっている場面がほとんど登場せず、フロイトのいう「抑圧されたものの回帰」をめざして、『トーテムとタブー』におけるように海賊たちが「兄弟同盟」を組んで、殺された原父(海賊王ゴール・D・ロジャーと800年前に世界政府に滅ぼされた伝説の王国)を復活(高次元での回復?)させようとする「義務」に駆られながら、お互いや世界政府と延々と戦っているわけで、彼らが探し求める「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」こそが、「交換様式D」の社会を実現させる鍵となるわけか(笑)。これはまさにフロイトが言っているように、「攻撃的欲動を抑えることができるのは、攻撃的欲動から生まれた超自我」(死の欲動)であり、カントが言っているように、「戦争こそが、戦争を抑える制度を作り出す」(国際連盟や国際連合)ということなのか(笑)。

 とまあ、柄谷行人=モンキー・D・ルフィということで笑ってしまったわけだが、かたや蓮實重彦も、最近『ボヴァリー夫人』論を筑摩書房から出したので、これが蓮實の集大成なのかと思い、柄谷の本と一緒に買ってしまったが、ひとまわり大きなハードカバーの単行本で800ページを超える大著となっている。こんなの普通の人が読めるのだろうか。もしかしてもとのフローベールの『ボヴァリー夫人』よりも、その批評の方がページ数も分量も多いなんてふざけたことになっているわけか。そのサイコロ状態の分厚い書物が届いたときは、見て思わず吹き出してしまった。まったく柄谷といい蓮實といい、どうも近頃の老人のやることはファンキーすぎるような気がする(笑)。


8月9日「終り得ない迂回路の途中で」

 気のせいだろうか。聴いているのは忙しない音の連なりだ。何が不可思議に思えたり、それに神秘を感じたりするわけでもない。ただそうなっている。翻訳できる言葉ではないらしい。そう思われるだけのようだ。神に祈っているのだろうか。気持ちがバラバラだ。だからきっと気のせいだろう。勘違いしているわけだ。声がそこまで届かないのだろう。雑音に遮られている。そんな状況に飽き飽きしている。すべてに飽きてしまった。誰かが不満を漏らす。それが聞き入れられるわけでもないが、何か文句を口にしなければ、気が収まらない。鶏や魚の言葉を理解したいわけではない。ただそれを空想している。世界の歴史が何を物語っているというのか。その様々な時代において何かが模索されていたのだろう。そんなことしかわからない。わかるというより、そんなことを想像している。雰囲気だけではない。何かを突き止めたのだろうか。手がかりをつかんだわけか。それ以上の何かを求めようとしている。それは何だかわからないような何かだ。そこに隠された何かがあるわけでもないのだろう。気になるのなら、目星を付けたあたりを探してみればいい。何も見つからないだろう。すでに語りすぎているのだ。そして何も思いつきはしない。思案も尽きたようだ。そして思いがけない出来事に巡り会いたくなる。頼る対象ではない。理由の定かでない迂回を楽しんでいるのか。ふとした思いつきで何かやっているのかもしれないが、はっきりした理由はなさそうだ。言葉が戯れるがままにさせているのではないか。記された言葉が無方向へ散ってゆく。誰かがそんな幻想を抱いている。それも想像のうちだろうか。手詰まりを打開しようとしている。そのつもりでそんなことをやっているのだろう。でも空想の物語はいつまで経ってもはじまりそうになく、意識がひたすらその出現を阻もうとしている。求めているものとは違っているのだろう。何も物語れないのにそれを構築しようとする。そんな不可能に邪魔され、何もしないでいると、時間の経過に拍車がかかる。加速がついているのだろうか。どんどん年老いてしまうようだ。しかも歯止めがかからない。そこに秘密など何もない。意識が時代に取り残されているわけでもなく、未来へと向かっているのではないか。それはいつまで経っても終らない物語ではないらしい。きっと終わりがやってくるのだろう。それを実感できるだろうか。その時が来たらわかるのではないか。だから何も焦る必要はなく、じっとその時が来るのを待っていたらいい。もう無駄に策を弄する必要もなさそうだ。そのつもりもないのに、結果的にそうなってしまうのだとすれば、それは仕方のないことなのだろうが、それも何かに導かれている影響でそうなっているわけか。いったい何に導かれているのだろう。万策が尽きているわけでもないのだろうが、自然とそういう成り行きに抗えなくなっている。身の回りが固まっているわけでもないのに、そこに行くには一本道を辿ることになりそうだ。もはや横道に逸れることなどあり得ないのか。

 問いは答えに拘束される。だから自由な問いには答えがない。誰もそれに答えようとしないわけだ。きっと答えられなくなっているのだろう。しかし問いとは何か。問いは無限に繰り返され、求めようとしない答えの出現を待ち続け、思いがけない出来事に翻弄される。現実の問いと不在の答えとの間に、あからさまなずれが生じているわけだ。何を楽しんでいるのか。これは現実に起こっていることではない。空想の領域で何かを記しているらしい。間違えなくてもいいところでわざと間違えているようだ。節制ができていない。もとからそうなのかもしれないが、配線を間違えていて、別の方面へと言葉が伝達されているらしい。まだ目くらましに希望を託しているのか。何を希望しているのだろうか。何ももたらされないことを承知しているのではなかったのか。たとえ話をしているわけではない。単純な因果応報では満足できないらしく、何やら込み入った話を準備しているようだが、どうせ途中で嫌になり、ほったらかしになってしまうのだろう。覇権を争うのは無意識のなせる業か。覇者になったところで蔑まれるだけだろうに、それでも栄華を極めたいのだろうか。そんなありふれた話ではなびいてこないはわかりきったことだが、とりあえずは疑似餌の役割を担っているのかもしれず、それに何かが食いついてくるのを待っているわけか。実際に浅はかな人たちが食いついている。まるで漫画のような話だ。実際にそんな漫画を読んでいる。現実に誰かが覇道を極めようとしているのだろう。それが男のロマンというやつか。小説の主人公なのかもしれないが、何をあきらめればそこへたどり着けるのか。まやかしやごまかしに気を取られ、それがそうだとも知らずに、そんな話の成り行きを予想し、そこに楽しみを見出している。作者の思うつぼかもしれないが、暇つぶしにはなりそうだ。それでもなかなか偶然に身をまかせるわけにはいかないらしく、話のおもしろさを狙って必然の成り行きを追求するのだろう。つまらなくなるような偶然を導入するわけにはいかず、人の興味をつなぎ止めるには、それらのキャラクターを効果的に対決させなければならない。互いの能力の力比べを見たいのだろうから、それを避けるような偶然性は排除されなければならない。しかし戦わないような成り行きというのがあるのだろうか。君はそんな拍子抜けに期待しているわけか。多くの人たちにとってそれは期待外れだろうが、君にとってはそれが望ましいわけか。要するにその辺で話にひとひねりがほしいのだろう。期待させておいて、あっさりとそれを裏切るような話の成り行きに期待しているわけだ。そこでは何も起こらず、何も成し遂げられなかったわけだ。そして誰も感動せず、誰もがそこから去ってゆく。取り残されたのは実現しなかった戦いの幻想か。もはや誰もそれを望んでいない。そうする必然性がどこにも見当たらない。どこを探しても何も出てこないのであり、秘密も何も隠されていないようだ。

 しかし現実の話はどこへ向かっているのだろうか。それはフィクションではない。依然として世界には数多くの国家があり、その内でも外でも人が争っている。不具合や不条理がそこにあるのだから、事を荒立てずにはいられないのだろう。穏便に済まそうとするつもりがないようだ。だからまやかしやごまかしに心を奪われている場合ではなく、事の真相を見極めなければならない。だがそう思っているだけで、なかなかそこまで至れないのであり、気がつけば自身に降りかかる運命に弄ばれているだけで、それに対処するだけで精一杯なのではないか。そして気を紛らわすために、語る必要のないフィクションについて語っている現状があり、面倒なことには首を突っ込みたくないのはもちろんのこと、それについては多くを語りたがらないようで、話が真相に至ってしまってはまずいらしく、そこで話の核心を適当に逸らし、はっきりした事の経緯や事情を省いて、うやむやにわけのわからないようなことを述べながら、ひたすらぼかしながら語り、逆にそう語るのを楽しんでいる始末だ。要するに野暮なことは語らずに、そのほとんどが話にならないようなことに思いを巡らしているわけだ。それが現実逃避の真相だろうか。真相でも何でもなく、真相に至れないからその手前で堂々巡りを繰り返しているわけか。そうなると話の核心も何もないのではないか。触れられないことが多すぎるのかもしれない。だからいい加減なフィクションになるしかなく、そこから真相を類推するしかなく、そんな想像からおぼろげながら何を語りたかったのかがわかってくるわけで、その話に接する者は想像力を働かせて、そこに隠されているつもりの話の核心に迫らなければならない。でも本当は何もないのだろう。何も隠されてはおらず、要するに語ることが何もないから、そんなへたな芝居を打っているわけで、それとなく謎やほのめかしをちりばめながら、何やら事の真相を包み隠しているふりを装うわけだ。そしてそれが明らかになったところで、どうということのない結末が用意されていて、そこまで話につきあってきた者たちは呆れ、何やらできの悪い詐欺にひっかかったような気がして、損した気分にでもなるのだろうか。でもそれで暇つぶしにはなったのだから、最後まで興味を持続できただけでも儲けものかもしれず、何も怒りをあらわにすることもないだろう。語りたかったのは手の込んだフィクションなどではなく、そんな何もない現実だったのかもしれない。そしてそれでもまだ話の途中なのだろう。どうやらまだまだ面倒で退屈な回り道を歩んでいくらしい。もはやいったいいくら遠回りすればいいのか見当もつかず、この時点でもまだ道半ばだとすれば、どう考えても真の終わりまではたどり着けそうもない。


8月8日「ジャパン・アズ・ナンバーワン?」

 世界の終わりは言葉の終わりなのか。あるいは政治の終わりか。芸術の終わりではないのか。でも制度は存続しているのだろう。何が終ったわけでもないに、想像上の終わりの中で、人々が右往左往しているわけか。誰かの手のひらの上で踊らされているとすれば、普通に考えれば、それは神の手のひらの上でということになるのだろうか。偶然性を嫌って必然性を求めるなら、そういうことになりそうだ。それが結果だと思えば納得するだろう。でもその必然性のおかげで苦しんでいる人たちは納得しない。世の中の流れは停滞しているのではなく、ゆっくりと動いているのだろう。それを黙って眺めているわけにもいかないらしい。何をやっても無駄だと思っては負けなのだろう。でも負けてもかまわないのであり、負けたままでも生きてゆけるところが、その負けを助長しているのかもしれず、勝つ必要のない世界の中で、ただ負け続けているのかもしれないが、肝心の何に負けているのかがはっきりしないようだ。特定の何に勝負を挑んでいるわけでもないのではないか。だからそこで抱いている勝ち負けの感覚自体が思い違いなのだろうか。たぶん本当はそうではないのだろう。こうして中身のない駄文を記してしまうこと自体が負けなのではないか。それは負けしかあり得ないような成り行きなのか。何かが違っているという感覚がそうさせているのであり、それをまともに語ろうとすると、結果的にそうなってしまうらしい。それと気づいていながらそれを導き出せない。それとは何だろう。それが問いであるなら、答えを導き出さなければならないだろうか。そのつもりで何か語っているのではないか。そこで何か語っているとすればそういうことになるが、ただ言葉を記しているだけで、それらの言葉の連なりの中で何も語っていないとすれば、たぶんそれは何も答えを導き出せない問いなのだ。君の力量では無理なのか。誰でも無理なのではないか。わざとそう語っているかぎりは無理なのではないか。ではどう語ればいいのだろうか。それらの何も答えの出ない空虚に勝とうとしなければならない。本気なのだろうか。それはさらに言葉を記していかないとわからないことだ。記していってもわからないのかもしれないが、ともかくそれをもうしばらく続けてみないことには、何とも言えないだろうか。たぶん現状では何を語っているわけでもないのだろう。その勝ち負けとは関係のないところでの記述となりそうだ。それは無駄で無意味なことかもしれないが、いつもそうなのだろうから、今回に限って否定してみても無益だ。でもそこから利益を引き出そうとしているのでもないだろうし、もうしばらくは語りの停滞を装う必要があるのかもしれない。装うも何も仕方なく停滞せざる得ないのではないか。要するにそこに限界があるのだろう。

 たぶん未来はここにはない。ここにあるのは過去の残響だ。何かがこだましていて、その響き渡っている音に耳を傾け、それについてあれこれ語ろうとしているのか。語るだけ無駄かもしれない。そうではなく、単に語れないだけなのではないか。語れないのだから無駄にならない。そんなはずもないだろう。では何なのか。何も成し遂げられなかったことから焦りが生じているのではないか。そしてそこから敗北感も生まれている。そういう解釈なら納得がいくだろうか。だが具体的に何を対象としてそういう解釈が成り立つのか。何もなければ解釈以前の問題だ。というか解釈云々が問題外なのではないか。そしてそこから無用な言説が弾き出され、あとには何も残らない。もとからありもしないことを語ろうとしていたのではないか。それがここでの現状を正確に物語っているだろうか。何を否定しようにも何もない現状があり、その現状を否定せざるを得ないとしたら、それは空疎な否定の身振りとなるだろうか。しかし誰がそれを求めているのか。誰が求めていようと関係ないのだろうか。ただそこでそう記される。誰かがそう記しているのだろう。そう記さざるを得ないが、何がそれを強いているわけでもない。語るとはそういうことなのではないか。そこに何か勘違いが生じているわけか。たぶんそこから外れたことを述べているわけだ。わざと外れている。それで何かをごまかしているわけだ。そこまでは言えるのだが、そこから先が何も言えなくなってしまう。やはりそこから引き返すしかないのだろうか。その続きはあり得ない。しかし引き返そうにも、もときた道がすでに消えている。後ろを振り返っても何も見えない。気がついたら出発点に戻っていたなんて嘘だったのか。何が繰り返されていたわけではなく、反復は反復とはなり得ず、絶えずそこには時間の経過があり、実態としては螺旋状に前進していることでしかなかったわけか。でもそれで落胆するわけでもなく、かえってある方面では好都合なのではないか。過去にこだわる必要がないということか。限界がすでに見えているのに、それは過去からの連続性を考慮した上での限界であり、出来事の偶然性を導入すれば、その限界が可能性に転じたりするわけか。そんな虫のいい話があるわけがないか。ともかく理屈に行き詰まったら、あるいは屁理屈でごまかすのにも飽きたら、そんな行き詰まりは無視して、勝手にそれとは関係のないことを語るしかないわけか。強いられて語っているわけではない。それはただの強がりであり、強いられているのに、それを無視しようとして、無視しきれていないから、強いられていることを否定せざるを得ないのか。どう語ってみても、それを超えることはできない。だからその手前で停滞しているわけだ。

 そこに不変の構造があるとは思えない。現代から過去を振り返れば終っているのであり、そこに不変の構造があると思われる。そう思っていてもかまわないのだろう。今世の中が右傾化しているとしても、それは1930年代の反復ではない。朝鮮半島も中国大陸も日本の植民地ではないし、近隣諸国との力関係も昔とは違う。過去のそれが自信過剰が高じて悲劇に至ったとすれば、今のそれはその悲劇をネタとした自虐的な笑いを拒むあまり、かえって自画自賛の空元気ばかりが蔓延る笑劇的な展開を見せているのではないか。しかも誰もそれを嘲笑するわけにはいかず、逆にその滑稽な強がりがもたらす虚しさや残酷さを、多くの人たちがそこには不在の空笑いとともにかみしめているわけだ。後の世の人たちから見れば物笑いの種になるようなことを、すがりつくように信じようとしている。それは今では使い古され色あせた、ジャパン・アズ・ナンバーワン、というかつて人々の自尊心をくすぐった恥ずかしいキャッチフレーズだろうか。たぶんそれを取り戻す機会は永遠にやってこないだろう。取り戻そうとしているのはそれではない。では人々は何を取り戻そうとしているのか。例えばそれは資本のグローバリゼーションが解体した社会の共同体的な絆か。そんな生易しい郷愁を取り戻そうとしているのかもしれないが、実際に取り戻されるのは、未だかつて取り戻されたことのない何かだろうか。取り戻すということ自体が間違っていたことを思い知るような何かが到来するわけか。要するに取り戻そうとする行為が、それとは関係のない事態の到来をもたらすのではないか。今のところはそれが何だかわからない。わかっていても語りようがないのだろう。それの実現を阻むような事態にならないためにも、へたな予言や予想はすべきではないか。そういうものでもないのだろうが、そういう成り行きにはならないような気がするだけだ。しかし何かが到来してもそういう成り行きにならないのだとすれば、ではどうなるというのか。それは予想できないし、無理に予言しても外れてしまうようなことなのかもしれない。それがわかっていても語りようのないことなのか。そう語っているではないか。何かパラドックスに気づいたわけか。しかしここから先はどう語ればいいのだろうか。たぶんうまい手があるとは考えづらい。というか、今のところは誰にも気づかれていないのではないか。多くの人が他の何かに気をとられているうちに、事態は着実に水面下で進行中なのではないか。だから今は浅はかな人たちが空元気の自画自賛行為と戯れていてほしいわけだ。彼らがそんな馬鹿踊りをやっているうちに何とかしたいわけか。ではいったい何を何とかしようとしているのか。それもそのときになってみないことには何とも言えないことか。でもその時とはいつやってくるのだろうか。たぶんそれは誰もが待ちくたびれた頃になって、ようやく気づくようなことなのではないか。ともかく今は得体の知れないようなことが、誰にも気づかれずにじわじわと進行中なのかもしれない。現時点ではそんなふうにしか語れないのであり、たとえその到来が明らかになったところで、どうということはないのかもしれず、別に驚くようなことでもないのだろう。どうということはないから誰にも気づかれず、そうなったところで誰も驚かないようなことかもしれない。ではそれは期待外れなの何かなのか。誰にとっても期待外れだからこそ、自画自賛やジャパン・アズ・ナンバーワンとは違った意味で、社会にそれ特有の影響を及ぼすのだろうし、今までにはない現象だからこそ、真の社会的な変革をもたらすのかもしれない。しかしそれとは何なのか。ただの狼少年的な詐欺か。


8月7日「書物の逆襲」

 語っていることは相変わらずとりとめがない。またこの言葉だ。やはり同じ言葉が循環している。消耗し使い果たす前に何とかしなければいけない。すべてはうまく回っているわけだ。そう考えれば納得するだろうか。そこに何かを付け加える理由がないのはまともな証拠か。そう思っていればいい。いずれはっきりするだろう。以前と同じ症状だ。今の君はそれを知り得ないわけだ。知らなくても困らないだろう。知ってしまったらもったいない。しかしこの現象は何なのか。得体の知れない何かに導かれている。確実にそうだ。そう思い込んでいればいいわけだ。でもその中身は空虚そのものだ。それもそう思い込んでいればいい。やがて何かに気づくだろう。気づいた時にはもう遅い。すでにそれの虜となっているはずだ。また以前と同じことを述べている。同じ記述が繰り返されているわけだ。しかも相変わらず中身が空っぽだ。わざとそうやっているのではないか。そうかもしれないが語っている自らは気づいていない。君は何か勘違いしているのではないか。それを冗談か何かだと思っている。戯れにそんなことを述べているのではないか。言葉を弄んでいるうちに自ら墓穴を掘っている。しかしそれが墓穴になるのだろうか。具体的には何もない。墓穴も幻影に過ぎないのか。そのままにしておきたいのだろう。そこでは何も見なかったことにしておいて、記憶を消して自由になる。別に喪失したわけではなく、自らの意志で消しているのだ。そんなことができるのか。フィクションの中でなら可能か。しかし何を語っているわけでもなさそうだ。だから戯れに言葉を記している。そういうことでかまわないのではないか。要するに同じことの繰り返しなのだ。そしてそれが何かの序説となることを期待しながら、その続きがいつまで経っても出てこないことに業を煮やし、焦って意味不明なことを語り始めるのだろう。今後もそんな成り行きになる予感がする。

 言うべきことはそれで終わりか。一通り述べてからそれを検証している最中なのだろうか。いくら調べても何も出てこない。すでに言葉を表現を使い果たしている。すでに他で語られていることがほとんどだ。そんなことを語っている間にも、脇から新たな邪魔物が生えてきて、語りを遮り、自らの領域を広げてくる。それは別の表現で、君とは無関係な文章となる。語るのを中断して、またひたすら書物を読まなければならない。読んでどうなるわけでもないのにそうせざるを得なくなり、それが迂回の原因なのだろうが、また少し記述が遅れてしまいそうだ。なぜ矢継ぎ早にそうなってしまうのか。どうやら書物を大量に読むために暇になってしまったらしい。それが偶然の巡り合わせだとは思えない。そんなことがあり得るだろうか。ただの結果論に過ぎないのだろう。結果的にそうなってしまったから不可思議な感じがする。それだけのことなのに、そこから何が導き出されるというのか。ただそんな成り行きに従わなければならないらしい。本を読んで何がどうなるわけでもないという感慨を覆そうとするわけか。それは難儀なことだ。ご苦労さんとなってしまうような予感がしてくる。それだけで目一杯なのだろうか。飽和状態であることは確からしいが、もう容量を増すことはできないのだろうか。それは何の容量なのか。器とは何か。まだ器量の限界を思い知るまでもない。もう少し楽しませてくれないか。神がそんなつぶやきを漏らすはずもなく、それは強がりにとどまるだろう。どうせそこから果てしなく遠回りして、挙げ句の果てに何も得られずにもと来た道を引き返す羽目になるのか。そんな気がしないでもないが、それでも何かに導かれていることを信じて、ややこしい道のりを踏破するつもりで歩み続ける。しかし道とは何なのか。何かのたとえとすれば、何にたとえられるのだろうか。そんなわかりきったことを当理由がわからないが、たぶん道は道でしかなく、果てしなく続く道に違いなく、さらにそこから道が続いているだけで、それ以上の詮索は無用だろうか。結局何もわからずじまいのまま、続けて言葉を記す成り行きになりそうだ。

 書物の何に期待しているわけでもない。それの何に勇気づけられているわけでもなく、君とは無関係かもしれないが、とりあえずそんなことを思う。思っているふりをしているのだろうか。思わずにはいられないのだろう。別に嘘をついているわけでもないらしい。それが嘘をついたことの証しかもしれないが、どちらでもかまわず、真実を語っていると思い込んでもかまわない。後からそれに気づいて驚いても、後の祭りだ。それが何を意味するわけでもないし、ただの意味不明であってもそういうことになりそうだ。どういうことでもなく、そんな成り行きの中で考えているのだろう。無理に記された言葉を活かそうとしても、それはすでに死んでいる。どうしようもないから、新たに言葉を付け足そうとして、その付け足し方を思案しているうちに時が経つ。うまくまとめられずに四苦八苦しているわけか。そんな表現自体が陳腐の極みで、何を語っているわけでもないのに、それ以上を望めず、何も語っていないのと同じような結果がもたらされ、そこで落胆と諦念がもたらされる。それが回り道の途中で果てしなく繰り返されているのだろうか。素通りするわけにもいかず、かといってどこまでもつきあっていれば、歩が前に進まないし、そこでやり方を考えあぐねて、途方に暮れているのかもしれない。なかなか光明が見えてこない。そのまま語り続けるしかないらしい。しかしどう考えても腑に落ちない点がある。それらはいつまで経っても来たるべき書物とはならず、ただの書物のままで、紙で製本された昔ながらの形態を持ち、それが人を誘惑しているかどうかは知らないが、ともかくそれを読んでいる人たちがいるわけで、君もその中のひとりなのではないか。どう読んでもネットに氾濫している文章ではないわけだ。別に時代遅れとも思えず、むしろネット上にあふれかえっている文章の方が、相対的にその寿命は短く、今のところはそのほとんどが読み捨てられるべき対象となっている。要するにどうでもいいわけで、それは功利的に読まれる種類の文章でしかなく、要するにハウツー本の延長上にネットの文章があるわけだ。無論質的にピンからキリまであるのは紙の書物も一緒で、一概にそんなことが言えるわけでもないが、そこには神秘も何もない。しかし時代的に今が紙からネットへの過渡期にあるとも思えない。電子書籍という分野もあるのだろうが、それは紙の書物の電子化であり、あるいはもとから電子書籍だけの書物もあるのかもしれないが、それらはネット上の文章とは質が違うのだろう。

 そうであってもかまわないのだろうが、ともかく紙製の書物を読んでいる。そこに何かと何かのつながりがあり、そのつながりの関係性の中で、書物を読む機会が与えられているのかもしれない。しかし読んでどうしろというのか。読んだままでは済まないということだろうか。君は何を狙っているのか。それは結果からしかわからず、たとえそれらを読み終えたところで、それが結果ではないのかもしれず、その先で何かをやらなければ結果とはならないのだろうか。果たしてその先まで至れるだろうか。できれば自らが有利な立場で事を進めたいのだろうが、それにはもう少々目くらましが必要だろうか。その目くらましこそがこれなのか。さあそれはどうだろう。これをどう捉えるかで目くらましかどうか判断が分かれるところだ。でも誰がそれを判断しているわけでもないのだろう。別にいつまでも来たるべき書物について幻想を抱いていたわけでもないし、それが何であったとしても、そんなものには巡り会わなくても結構だろうし、それが何を意味しなくてもかまわないのだろう。ただ昔抱いていた幻想を思い出しただけかもしれず、そこに神秘思想があるといえばそうなのだろう。しかし来たるべき書物とは何だったのか。誰かがそれを書くことを目指していたのだろうか。それも架空のフィクションたぐいと言えるだろうか。そこで誰もがあっと驚く内容が記されていたら、ありふれた成り行きとなってしまうのだろうが、例えばすべてのページが何も記されてない白紙だとしたら、そういうのもどこかの小説にあったようなありふれたエピソードかもしれず、今では興味を抱けない話だ。たぶん何かが忘れられていて、思い出さなくても事足りるわけだ。しかし読んでいる文章の内容が一向に出てこないのは不思議だ。それを語らなくても済んでしまう現状は何なのか。その気がないだけかもしれず、それならそれで、そういうたぐいの文章になり、実際にそうなっている現状があるわけだが、たぶんここに至って語るべきことが出かかっているのかもしれないが、それはなぜか後回しになっているらしい。語るべきことを語らずに、無駄で無意味なことを長々と記してしまう現状にも、何かもっともらしい理由でも付け加えたいのだろうか。ともかく哲学も宗教も政治も、はたまたネット上で金儲けの成功談を語る自画自賛ブログのたぐいも、人をモノとして扱う傾向にあり、それをネタにして利用したいわけで、それらを語る主体の眼中には、固有名を持ったありふれた他者が映らないのだろうか。


8月6日「思考と想像力の限界」

 何でもないのだが、結果とは何だろう。何かをやった結果がそれなのか。何かをやった結果として、それが何でもないことに気づく。そんな結果に疑念を抱いているようだが、そこからは何も出てこなかったわけではなく、ただそんな感慨がもたらされたわけだ。それはその時点での気持ちでしかない。他に何か見出されているかもしれないが、それに気づかず、それを有効に活用できないなら、そこにはただの無用な感慨しか残っていない。やはり何でもないわけだ。そこでそんなどうでもいいような感慨に浸っている。本当にそれ以外は何ももたらされなかったのだろうか。そんな疑念を抱いている。要するに期待外れだったのか。しかし事前に何を期待していたのだろうか。何か有用なものがもたらされることを期待していたわけか。ただ漠然とそう思っていたに過ぎない。それでは何ももたらされなくても仕方のないことか。思うだけでは何ももたらせない。ではどうすればよかったのか。今さらそれはないだろう。結果が期待外れだったから、その反省として、ではどうすればよかったのか、とやったことを振り返り、要するにこうすればよかったのだ、という答えが出ることを期待して、さらに無駄な反省を繰り返す。しかしいくら反省してもやってしまった現実は変わらない。実際にやった通りのことをやったわけで、それを後から振り返って反省している現実があるだけだ。抱いていた期待が空振りに終り、それが結果だと悟るしかないだろう。そして今までやってきたことに疑念を抱いている。それが現実だろうか。だがそんなことをいくら考えてみても、いつまでも思考が堂々巡りするしかない。それでかまわないのか。

 しかし何に振り回されているのだろうか。言葉に惑わされ、言葉に振り回されている。それは奇妙な事態だ。どうとでもなるようなことではないのか。現実が伴っていないだけで、ただ想像力に頼って何かを語ろうとする。空虚に依存しすぎているようだ。現実からもたらされた空疎な言語構造に意識がとらわれ、新たにもたらされた言説との整合性が取れないまま、その焦燥感に駆られて無理に語ろうとすると、意味不明となってしまうらしい。結果としてどこまでも抽象的な言い回しに終始するしかない。それがもたらされているわけか。それとは何か。その問いに答えられない。答える必要がないのだろうか。それともただ単に答えたくても答えられないだけなのか。それは答えようのない問いだろうか。たとえ答えられても、その答えに納得がいかないのではないか。現状では何をどう答えたらいいのかわからず、闇雲に答えを探す気にもなれない。だから答えられなくてもかまわないのか。しかし問いを無視するわけにもいかないのだろう。しかしそれとは何なのか。繰り返し問うが、答えられるとは思えない。あるいは納得できる答えにたどり着けない。どちらでもかまわず、矛盾していようと一向に気にする気配も感じられず、それが嘘であったとしてもかまわないわけだ。何が嘘なのか。何を反省しているわけでもなく、何を振り返っているわけでもないらしい。実際にそうだ。そんなところまで気を回す必要はないのだろう。納得できないまま語り続けている現状がある。それを今思い知っているわけか。何を思い知っているのだろう。言説の内容に論理的整合性をとるのがいかに難しいかを思い知る。ただ話の脈絡がないだけだろう。要するに気にするほどのことでもないのではないか。

 そんなわけでなかなか話の本筋にたどり着けない。何かが飽和状態になっているのかもしれず、それ以上は前進できないような気がするが、後ろを振り返っても、そこには何もない荒野が広がるだけだ。そんな心境でいるらしい。これまでの言説を批判することはできる。でもその批判に魅力を感じられず、批判そのものが無駄に思われ、かといって他に何を思いつくはずもなく、やはり批判するしかないらしく、実際に反省を込めて批判している最中なわけか。冗談だろう。すべては今まで通りで、その批判すら今まで通りの言説の範囲内なのではないか。では実際に何を批判しているのだろうか。今まで語ってきたことが期待外れだったということか。それで批判していることになるのだろうか。それとも何も批判できないところが期待外れなのだろうか。何をどう語ろうとしても、今まで通りの言説の範囲内に収まってしまう。その現状は何を物語っているのか。すべてが予定調和ということか。言葉も思考も循環しているのはわかっている。しかしそもそも批判とは何か。〜とは何かと問うことが、そんなじり貧を招いていることもわかっている。でも問わずにはいられない。もうわかってしまったのかもしれない。すでに答えが出ているのではないか。だがそれを言ってしまえばおしまいとなってしまうこともわかっている。たぶんそれを回避し続けることで、それらの言説の継続が保たれているのだろう。その結果を絶えず先延ばしにすることで、何とか現状を維持しているのだ。しかしいつまでもそれが可能なのだろうか。いつか必ず決済を迫られる日が到来する。その時が本当の終わりとなるのだろうか。今のところは何とも言えず、そこまで行ってみないことには本当のところはわからない。だから今はそれを目指して前進しているわけか。すでに限界に達しているのに、前進も何もあり得ないのではないか。その限界に達しているという感覚が、思い違いだとしたら、まだ何かを語れる余地がどこかに残されているということか。それがどこに残されているのか、これからそれを探しに行かなければならないということになり、それが今のところの暫定的な結論となるだろうか。それも結論の先延ばしのごまかしに過ぎないのかもしれないが、ともかくそんな自己言及的な営みは、どこまでいっても自己言及に終始するしかない。際限がないわけだ。たぶんそれが予定調和だと言いたいのだろうが、言えば言うほど、そんな物言いも堂々巡り的に繰り返され、いつまで経ってもその循環は終らない。それでかまわないとは思わないが、現実にそんな循環を止められないらしい。例えば二十世紀の哲学や思想はそんな無限循環に終始していたわけか。そしてそれは資本的な債務の支払いを無限に先送りしていることと関係しているのかもしれない。


8月5日「自画自賛現象の背景」

 意識していないわけではないが、何かを意識しているとして、その何かがわからないわけではないが、それについてはあまり多くを語らないのだろう。その種の神秘思想にいかれているわけか。たぶんそうだ。おかげで他者との意思疎通がうまくいかない。自意識の内部に何かがとらわれているように感じられる。そんな想像をしているわけだ。地表面のどこで暮らしているかで、とらわれている価値観にも違いが出るらしい。意識にも地域的な偏差があるわけだ。その偏差がもたらした地域的な特色を正当化したいようだ。国家や国土や国民性を自画自賛している人たちには羞恥心が欠けているのだろうか。逆にその羞恥心から生まれる奥ゆかしさとかが、その国の国民性だと自画自賛していた頃もあったのではないか。ともかくその地表面上の地域的な偏差を顕揚し始めると、とたんに思慮の浅さが露呈してしまい、後はそんな揶揄は無視して、ごり押し的にそれを喧伝しまくるばかりのようだ。悲惨な人たちはどこまでも悲惨なのかもしれず、その悲惨な状態に気づいていないところが悲惨なのだから、救いようがないのだろうが、しかもその救いようがない愚かしさこそが、その人たちに幸福感をもたらしているわけで、たぶんそれらの自画自賛には計り知れない効用があるのだろう。要するに必ず最後に自己愛が勝つのであり、いつの時代でもそんな愚かな多数派が勝利してきた経緯があるわけだ。でもそれ以外に誰が勝利できるというのか。多数派が勝つのは当然の帰結であり、多数派の勝利こそが求められてきたはずで、それが民主主義の勝利なのだ。君はそんなフィクションを信じられるだろうか。皮肉を込めて何を批判したいわけでもないのだろう。この世界に秩序や合理性などありはしない。あるのは気まぐれな事物の巡り合わせと、その場の雰囲気がもたらす空気だけか。それを敏感に察知して、目ざとく行動に結びつけることが肝心だろうか。そしてそこから利益を得るわけだ。それができればいいのだろうが、それまでの生活習慣によって養われた面倒なこだわりが邪魔をして、好機を逃していつも貧乏くじを引いている現状があるのかもしれない。そしてそれでも一向にかまわない怠惰な現実に埋もれ、何もできぬまま、みすみす獲物を取り逃がしているわけか。たぶんその方が愉快な成り行きだと思っているのだろう。自虐的な気分に浸っているわけか。そうではないとは言いきれないが、そうであっても仕方がないと思いたいらしい。たぶんそうやって負け続けていた方が気楽なのだろう。

 うまくいかないのはわかっている。一過性の流行りに違いない。いつまでも続くはずがない。でも続いている間はそれにあやかりたいのが人情だ。あやかれるのはごく一握りの人たちなのだろうが、君もできればその少数派に入りたいのか。入ろうとして入れるようなものでもないのだろう。世の多数派から支持を得られるようなことは何もやっていないだろうし、それらの人たちを利用して、そこから利益を得られるほどの才覚もないのではないか。ゴールドラッシュで一攫千金を夢見るような状況にないようだ。それとは関係なく、やるべきと思うことをやるだけなのかもしれず、実際にやっている際中なのだろうか。今はそう思うしかない状況にあるわけか。いつまで経ってもそうかもしれないが、それが何に結びついているのでもないらしく、もしかしたら自らとも関係のないことかも知れない。では自らの意志が反映されているわけでもないことを、実際にやっているのだろうか。それはやるべきことではないのではないか。そう思っていないのだとすれば、誰がそれをやるべきことだと思っているのか。神の意志か。そうとも思えないが、今はそうは思えないとしても、後からそれがやるべきことだったと悟る可能性もなきにしもあらずだ。だから今はやるべきことだと思えないようなことをやるべきなのだろうか。さっきとは違うことを述べているようだ。でもその矛盾は放置するしかないだろう。本当は何だかわからないのではないか。やるべきことでもそうでないことでも、そのどちらでもかまわないのではないか。判断がつかない状態でやっているわけだ。ただ何かに導かれていると感じているのかもしれず、導かれるままにやっていることらしい。そんなふうにしか事態は進展しないとすれば、自らの意志にこだわるべきではないのではないか。それとは無関係な成り行きになるしかないのだろう。それが成し遂げられないことなら仕方ない。途中で終ってしまうのは残念だが、それを何のせいにしてもはじまらず、納得できないだろうが、ただそういうことだったと思うしかない。何も得られないとしてもかまわないのではないか。得られないなりに、それをやっている間は暇つぶしになっていたのだろうから、それだけでも救われた気持ちになれるだろうか。成し遂げられないのだから、救われはしないのだろうが、それをやっている現状はあるわけだ。たとえそこから意識が遠ざかろうと、意図や思惑から外れていようと、そういう巡り合わせなのだから、そういうことでしかない。たぶんそこにどんな神秘があるわけでもなく、ただの当たり前の現状があるわけだ。それを受け入れようと受け入れまいと、そんな意識にはおかまないなく、ただそんな現状とともに時が経ち、だんだん消耗していく。老いてゆき、やがて死んでしまうのだろう。そこから目を背けたければ、自身とはあまり関係のない何かを顕揚し、そんな自画自賛している自らを正当化するしかないか。


8月4日「ひたすらこんがらがった話」

 その状態をそう表現すると、何か言葉中毒のような気がするが、それをぶち破るわけにはいかないらしい。では当分はこのままか。自然に形成された秩序は、人の力ではぶち破れない。ぶち破るには自然の力が必要だが、それは人の思い通りには働かない。でもいったん形成された秩序がいつまでも安定しているわけではなく、絶えず揺れ動きながら変化し続けているはずだ。その揺れ動く様を誰が見ているのか。神か人間か。たぶんどちらでもないだろう。そのどちらもが既存の秩序に含まれているわけだから、誰がその様を外部から眺めているわけではない。誰かがそれを想像しているだけだ。そしてそこに生じている秩序を絶え間なく揺り動かしているつもりになっているわけだ。だがそれはあくまでもつもりであって、実際には揺れていないのではないか。君一人でできるようなことではない。例えば他の多くの人々もやっていて、そちら方が大がかりな揺れになっているのではないか。そしてそれを感じ取り、そんな揺り動かしに呼応して、君もそれに加わっているつもりになっているわけか。しかし君とは誰なのだろう。君は君ではない。誰でもないわけだ。だから君の想像もあり得ない。現実には何が揺れ動いているわけでもなく、それは誰かが記した比喩表現だ。だいいち揺り動かしの対象となっているのが、何の秩序なのかもわからない。ただ漠然と社会の中でそう思っているだけかもしれず、社会全体がその対象だとでも主張したいのかもしれないが、そんなことを記しているうちにも、気持ちがぶれてくる。それも比喩のたぐいではないか。ぶれていること自体が、何かが揺れていることの証しであり、それは社会全体などという大げさ対象ではなく、ただ君の心が揺れ動いているだけではないのか。何だかわからない架空の秩序をぶち破ろうとしたり、揺り動かそうとしたり、そんな比喩的な表現以外は何も記していない事実にぶち当たる。それを比喩だと認めてはいけないのだろうか。比喩でも何でもかまわず記すべきで、そんな開き直りが必要であり、それをいちいち気にしていたら、何も記せなくなってしまいそうだ。何かを語ろうとすれば、比喩に頼るしかなく、そこでありもしない社会の秩序が揺れ動いたり、それを揺り動かす主体が存在したり、そんなことを語っていれば、何かもっともらしいことを記しているように思えてくる。それがたわいのないことだと気づいてしまうと、もうそれ以上は何も語れなくなり、大急ぎでそこから遠ざかろうとして、何やら焦って内容がおかしくなってくるみたいだ。

 そこから先はいくら言葉をこねくり回してもうまくいかなくなる。どうやら内部の世界に閉じこめられてしまったらしい。語るべきことは他に何もなく、それでも語ろうとすれば、何を語ればいいのだろうか。外部についてか。安易な逃げ道だ。もはや逃げ場がないなら、内部の世界で神について語らなければならない。我思う故に我ありの延長上に神が存在する。神は自意識そのものだ。自意識が自らの存在の証明として神を必要とするわけだ。神がいなければ自らも存在し得ない。だから神の存在を信じるしかない。他に誰が自らの存在を保証してくれるのか。この世界が存在する根本原因を求めるなら、それが神であることは疑いようがない。たぶん原因がなければ神も存在できないだろう。人が原因を求めているのであり、他の何が求めているのでもない。自らが存在する根拠を知りたいのであり、その根拠が神となるしかない。そしてそれを信じるにはその説明が必要とされ、それを説明しているのが聖書のたぐいなのだろう。しかしどこで神が自意識そのものとなるのか。どうやれば神と自意識を結合できるのだろう。その思いつきは誤りなのか。神の証明などあり得ないか。自意識の中にこの世界があるとすれば、神の中にもこの世界があり、自意識=神となるだろうか。ならば自意識の外には何があるのか。そこにあるのはこの世界ではないのか。それがこの世界だと思い込みたければそれでもかまわない。それはただの思い込みだろうか。思い込みであっても一向に差し支えない。この世界はそんな自意識の思い込みから生まれ、それは神の思い込みでもあるわけだ。神は今眠っている最中で、夢を見ていて、その夢の中にこの世界があり、目が覚めたら、この世界も跡形もなく消えてしまうのだろう。そんな話がインド辺りにあったかもしれない。君はそれを空想する。そんな空想の中では自意識=神の等式も成り立っているのだろう。それで誤りをうまくごまかせただろうか。ごまかしきれていないような気がする。嘘が見え透いている。呆れた君は、君自身の自意識から遠ざかり、その妄想がもたらした神からも遠ざかり、この世界へと戻ってくる。そしてただ語る。語る対象など何もないのに、語ろうとするのか。語っているかぎりは、その対象も自ずから生じているのではないか。それが語る対象だと思えばそうなのかもしれず、何だかわからないことを語っているらしい。たぶんそんな君は神ではない。誰も神ではなく、人も神も虚構の存在か。誰かがその存在を空想しているのだろう。どこかで思い描いているわけで、誰かが直接描いたりもして、それが教会の祭壇画などとして実在している。そしてそれはサハラ砂漠やオーストラリア大陸にある岩山にも描かれ、その絵が信仰の対象にもなっているわけだ。それが神そのものなのだろうか。その幻影を写し取ったものでしかない。そしてそれを見たのが、誰かの自意識なのだろうか。ならば自意識は鏡に映った自らの姿を神と勘違いしているわけか。しかし神を映す鏡がどこにあるのか。それは夢に出てくるのかもしれない。夢そのものが自意識を映す鏡だろうか。またその辺に恣意的な短絡が介在して、何やらそこから話を長引かせようとする意図が感じられ、何となくそれが見え透いているだろうか。いくら語ってもうまく説明できないのはわかっているのに、ひたすら話をこじらせ、こんがらがってくるような気配を察知して、この辺が話を終らせる潮時であることを悟る。中途半端だが仕方がない。


8月3日「無い物ねだりの問い」

 できないことならいくらでもある。できることは限られていて、できることをやっているつもりでいるようだ。やっていて気づいたこともいくらでもある。いくらでもあるのはどうでもいいことなのだろうか。いくらでもあるのだからどうでもいいことなのか。首を傾げてみても、そこに謎があるわけでもない。他に何もないということはあり得ず、何もかもがいくらでもあるわけだ。しかしその何もかもが利用できるわけでもなく、君とは無関係に存在している事物が大半を占める。存在していると思っているのだろう。実際はどうかわからない。そこに秩序があると思えば、超越的な視点からその秩序を覗き込んでいるという思い込みから、それを認識しているのだろうか。それは神の視点となるだろうか。また粗雑なことを述べている。言葉を記しているだけで、それで何かを実践しているつもりになれるだろうか。それでも何かやっていることは確かだが、それでは物足りないわけか。記された文章の中で誰かが何かを語っている。この世界が宗教で覆われているとしても、人はその中で考えているわけだ。ありふれた認識でかまわない。ありふれたことを思い、ありふれたことを考える。それを超えることができない。そこに秩序があるとすれば、人はそれに新たな何かを付け加えて、秩序が自分に有利に働くようにしたい。試行錯誤している目的は、その付け加える新たな何かを作り出すことにあるらしい。そこから利益を得たいのだろう。得られなければどうなるのか。ありふれた末路が待っているのではないか。その他大勢の人たちに吸収され、真っ当な社会人となるわけだ。秩序の中で生き、秩序を支える側になるわけか。でも秩序は不変ではない。絶えずそれを揺り動かす者が現れ、それが成功すれば変形を被る。たぶんそんな説明自体がありふれているのだろう。それも宗教の一部を構成しているわけか。それが退屈な説明だとしたら、それとは違った解釈というのはどういったものになるのだろうか。その新たな解釈によって何が変わるというのか。ここではまだ解釈そのものが見出されていないし、現状に新たな解釈を施したとしても何が変わるわけではない。ただの気休めだろうか。それとも自らの社会的な立場が有利となるような解釈を編み出したいのか。そしてそれを広めて自己正当化に役立てたいのだろうか。妄想し始めるときりがなさそうで、さらにそれに関する説明が宗教色を深めそうだ。やはりそれを信じるか信じないかはあなた次第となってしまうわけか。そんなありふれた認識でもかまわないのだろうか。たぶんそうだ。それが自己対話の延長でしかないのなら、そういうことになるだろう。

 まだ試行錯誤の途中の段階でしかない。確かに客観的な視点をとれば、そんな視点があればの話だが、そこで何らかのシステムが作動していることを認識できそうだ。でもそのシステムに自らが組み込まれているとすると、そういう視点自体が幻想に過ぎなくなる。何か得体の知れない事物に突き動かされて、そんなことを考えているだけではないのか。それは具体的な事物ではなく、何かの幻影だろうか。いったいそこで何を見ているのか。見ているのではなく幻想を抱いている。そのシステムに挑戦しているような気でいるわけだ。システムの手のひらの上で弄ばれているだけなのに、何やらそれと戦っているつもりになっているわけだ。少なくとも対等の関係などではなく、圧倒的にシステムが個人に勝っているのではないか。無論それがシステムだとしての話だが。たぶん個人は自由なのだ。システムに縛られているわけではなく、そこから離れようと思えば簡単に離れられるだろう。でもいったん離れてしまったら、そこでおしまいとなってしまうかもしれず、それが怖いから離れられない。システムに依存していて、そこから糧を得ているので、離れようにもなかなか離れられない。要するに目先の利害が邪魔をしているわけだが、なぜ離れなければならないのか。理由など何もありはしない。ただ自らの自由を確認したいだけなら、休日にそれを満喫してみたらいい。自由な時間とそうでない時間があるだけだ。それもシステム内で行われていることの一環なのだろう。そういうシステムの中で生きている。それもありふれた成り行きには違いない。そんな逆らいようのないところで逆らっているつもりでいられるのも、システムの恩恵に与っているおかげなのだろう。そのようにして人はシステムに組み込まれているわけか。それをまるで他人事にように説明していられるのも、そこで作動しているシステムのおかげなのだろうか。やはりそれをシステムだと認識しているから、そんな説明が成り立つわけか。では他にどう認識すればいいのか。その問いは無効だ。すべては遅れて認識され、認識した時にはもう手遅れなのだ。周りを事物に取り囲まれていて、身動きが取れなくなっている。そこから身を引きはがすことは容易でない。無理に引きはがそうとすれば致命傷を負いかねない。できることはそのシステム内にとどまり、何かの合間に幻想を抱くことだけだ。君の順番は永遠に回ってこないだろう。だがそれは何の順番だったのだろうか。ともかく何かの機会が巡ってくるのをひたすら待っていたはずだが、それを忘れてしまうのもシステムの作用なのだろうか。何でもかんでもシステムのせいにしては情けない。その依存体質を何とかしなければ、ますます可能性が狭められてしまう。もはやそこから抜け出ようとする気も起こらなくなり、そんな幻想も抱けず、ひたすらそこで動作している装置の部品としての役割を全うするような成り行きとなってしまいそうだ。

 それがありふれた幻想なら、そんな幻想に魅力を感じられないのなら、やはりそれとは違う解釈を模索した方がいいのではないか。だがいくら新たな解釈を模索しても、現状は変わらないのではないか。現状を新たな解釈をもとに説明しても何も変わらない。だから人は現状を直接変えようとするわけか。何かそれらしいことを主張して、人々の賛同を得ようとする。しかし変える立場というものがあるだろうか。実際にそのような役割を誰が担っているのか。変革を訴える政治家はいつの世にも登場するが、それを成し遂げた例は少ない。戦争や経済恐慌や革命などの外部的要因が、それを促すかもしれないが、それらは人の思う通りの変化はもたらさない。そしてそれもありふれた解釈の範囲内での話だ。それを超える何もありはしないようで、何を思いつくでもないらしい。なぜこれほどまでに言説の内容が限定されてしまうのか。しかしなぜそんな疑念を感じるのだろうか。ありふれたことを語っても一向にかまわないのではないか。それでは済まなくなる理由を知りたいのだろうか。そういう話の内容が退屈だからか。すでに解釈が出尽くしていて、そのバリエーション以外にはあり得ないわけか。システムが変わらなければ、それに対する解釈も変わらないだろう。システムに付随してその解釈も成り立っているのであり、それなしには解釈の変更もないということだろうか。それに対する解釈もシステムに依存しているわけだ。だから今は出来合いの解釈で満足しなければならず、そこから外れて新たな解釈を模索するのは、荒唐無稽もいいところだろうか。しかしなぜ解釈を施したいのか。それについて語るとすれば、それに対する解釈以外にはあり得ないのだろうか。要するにそれを語ろうとしているわけだ。ありふれた解釈に頼って、その語りが現状に対して有効であるように見せかけたいわけか。しかし有効な説明とは何なのか。それを読めば現状を理解できたような気になるわけか。現状に対する疑念が解消されたりするわけか。でもそれで何がわかったことになるのだろうか。現状とは何なのか。それは今体験しつつあるこの世界の有り様だ。そしてそこから現にある現状での矛盾や不条理や不具合を解消する手だてが導き出されるわけか。そういう効用をうたったハウツー本のたぐいなら山ほどあり、そんなブログなども数知れずで、それを読んでうまくいった成功談などもいくらでもありそうだ。それもありふれた現象のうちで、それもシステムの一部と考えるならその通りだろう。なぜそれではだめなのか。その問い自体が無い物ねだり的な問いなのはわかっているが、その手の宗教の外部に出ることはできないのだろうか。今もそんなありふれたことを語りながらも、それを延々と模索している最中なのかもしれない。


8月2日「理由と原因の食い違い」

 そこに何らかの環境があり、その中で人が暮らしている。何でもないことなのに、その何でもないことが、何ももたらさないがゆえに、それを否定しなければならない。そこに何があるとしても、その存在には根拠がない。ただ多数の事物がうごめいている。君とは無関係だ。君が語ろうとすれば、その語る対象となる事物と関係を持つことになる。実際にそれについて語っているのではないか。それが現実だろう。語ることで現実に関係している。たぶんそれだけのことなのだろう。否定するも何も、そこからしか現実は生まれないが、別に語らなくてもかまわないのだ。語る根拠や必然性を求めたければ、語る対象に関係すればいい。たぶんそれがごく普通の態度なのだろう。でもそこから何がもたらされるのか。語る対象との馴れ合いが生まれる。それが関係の正体なのではないか。関係するとはそういうことだ。実際に多くの人がそんな馴れ合いの中で生きているわけだ。別にそれが悪いことではない。馴れ合いがなければ何も生まれないだろう。語ることさえ成り立たない。何かになろうとしなければ何にもなれはしない。しかし無理になろうとしなくてもかまわないわけだ。関係しなくてもかまわない。それどころか関わり合いのないことについて語ってもかまわない。だがそれでは何も生まれない。別にそれでかまわないのではないか。関係する必要が感じられなければそれでかまわないわけだ。関係のないことについて語り、関わり合いのないことについて語り、そこから何ももたらされなくても語る。語るとはそういうことでもあるらしい。それが間違っているとしてもかまわないわけだ。語ることがただの暇つぶしであってもかまわない。暇つぶしであるだけでもまだマシな方かもしれず、それさえもなければ、本当に語ることが何でもないこととなってしまいそうだ。もしかしたら語っているつもりでいるだけで、実際には何も語っていないのではないか。そういう成り行きだとしたらそれでもかまわないわけか。どうやら後は自意識がそこから離脱するしかなさそうだ。そんな対象からの遠ざかりの中で、君は何を考えているのだろうか。語る対象が定かでないことに気づく。そこには何もないのではないか。本当にそこには多数の事物がうごめいているだけなのだろうか。それらが語る対象だとは思えない。でもそれ以外に何があるというのだろう。何もないからといって、その対象を探しているわけでもないのだろう。だが何もなくても語ることが可能なのか。ただそんなことを語っている現状があるのだから、たぶんそれと気づかずに、何らかの対象について語っているのではないか。

 その気づかない対象に、それと気づかずに関係しているわけか。そこから何かが生み出されているのかもしれず、具体的にそれは今記しつつある言葉の連なりだろうか。そうかもしれないし、そうでなければ他に何かあるのだろうか。たぶんあるのではないか。あるとしても気づきようのないことか。気づくことがあるとすれば、それは記述に伴う何かだろうか。何かとは何なのか。それと関係があるのだろうが、気づくようなことではないのかもしれず、気づかなくてもかまわないのだろう。君は自身が気づきようのない何かについて語り、気づかないまま語り、まだ語っている途中だと思う。そんな自覚しかもたらされない。それも語りに伴ってもたらされた幻想のたぐいだろうか。他に何がもたらされているというのか。何かがもたらされていると思い込めば、それが幻想となりそうだ。では幻想以外には何がもたらされているのだろうか。語っている事実であり現実だろうか。それと気づかない対象について語っていると思い込んでいる現実があるわけか。そんな思い込み以外に何がもたらされているのか。また言葉が循環しているようだ。何かについて語っているという幻想の周りをぐるぐる回っている。その記述の無限循環から抜け出さなければならないと感じ、ようやくそれに気づいたことを思い知るわけだ。気づくまでにどれほど無駄に言葉を費やしてきただろうか。でもそれも予定調和のうちで、途中で薄々気づいていながら、それを放置してきたのではなかったか。別にやむなくそうしてきたわけではなく、それを利用して言葉を記してきたわけだ。そうしなければならない必然性などないのに、それによりかかり、それの赴くままに語ろうとして、それが定かでないことを語りの延長に結びつけ、言葉を連ねてそこに何かを示そうとしたわけか。何かとは何だろう。記述の無限循環をその身をもって体験してみせたわけか。実際には無限に循環していないではないか。途中でその循環を断ち切らざるを得なかったのだろう。それに気づかないふりをしているのにも限界がある。記述が無限に循環するわけがない。ではそれは嘘だったのか。結果的にはそうだが、あたかもそれがあり得るような雰囲気は伺えるのではないか。雰囲気だけで、それをやる勇気も気概もありはしないし、実際にできないわけだ。いずれ力尽きてしまうことが見え見えなのだから、早いうちに手を打っておいて正解だろうか。しかし何について語っているのか。言葉の無限循環についてか。ではそのような語りによって何がもたらされたのか。怠惰で浅はかな君の意図や思惑が明らかとなったわけか。今のところはそれがそこにもたらされた真実なわけか。それも冗談のたぐいのように思える。

 意志が揺れているようだ。立ち上がると床も揺れ動く。精神と事物が共振現象を引き起こしている。それが幻覚だとは思うまい。事物を捉えて言葉を記さなければならない。そんなことはないだろうと思うが、わざとそうしているのだろうか。もとからそうだったのではないか。たぶん解決の糸口を探しているのではない。何も解決しなくてもかまわないわけだ。そうではないような何かに頼っているのかもしれない。そしてそれがあり得ないことだとは思われない。考えている途中で何かを省略していることはわかっているが、それについて語ることはないだろう。やはりわざとそうしているのだ。そうしなければならない理由などないのかもしれないが、とりあえずその場の気分でそうしている。それに関して何か将来へ向けての展望があるわけではない。どのような可能性に賭けているのでもないらしい。ただそうしている範囲内ではそういうことになるしかない。何も成り立たないのなら、成り立たないままとなっていた方がいい。無理に何かを立ち上げるべきではない。立ち上がるとめまいがして、そのめまいが何をもたらしているとしても、めまいが癒えるような成り行きにはなりがたい。めまいはめまいの原因でも結果でもない。それに言及しているかぎりはめまいをもたらし、そのめまいについて語り言葉を記している現実がある。もたらされているのはそんな現実でしかない。しかしどこかで時間が止まっているのだろうか。何も変わっていないわけではないのだから、たぶんそれだけ時間は進んでいるのだろう。いくらその解釈の間違いを指摘してみても、誰からも相手にされなければそれだけのことで、それは間違いでも何でもなく、それを指摘している君の解釈が間違っていることになるらしい。それが不条理に思われるのだろうか。そんなことはなく、それが当たり前のことであり、これまでもこれからもそんなことはありふれていて、君もそのありふれた現実の中で生きているわけだ。たぶんそれ以上の追求はあきらめなければならないのだろう。実際に何が間違っているわけでもなく、そうかといって何が正しいことだとも思えないが、たぶんどこかに正しい解釈があり、君はそれを知り得ないのだ。知っていてもあえてそこから目を背けているのかもしれない。ただ自らの主張の正しさを主張する気になれない。そんな主張では回りくどく感じられるから、あえて間違ったことを主張したくなってしまうらしい。しかし何が間違ったことだとも思っていないのに、なぜ間違ったことが主張できるのだろうか。その辺で矛盾を感じているとしても、たぶん現状ではそうするしかない。理由も原因も定かでないのに、実際にそうしているわけだ。


8月1日「明かし得ぬ共同体の論理」

 何か語っているようだが、いつもながらのありふれた言い回しが多用される。そこで何があらわになっているのか。何もかもだろうか。何かの表面から意識がはがれようとしている。まるで経年劣化したペンキの塗装面のようだ。でもそれは意識ではない。記述が間違っているのではないか。どうせまた想像界で起こっていることなのだろう。心理的な描写が気に入らないらしい。描写ではなく記述に過ぎない。ともかく回りくどい言い回しだ。語っているはずなのに、語るきっかけをつかめず、無駄に言葉を費やし、疲労困憊してしまう。そうなる前に語り終えるつもりのようだが、何やら前置きが長過ぎて、それも中途半端に終り、途中からどうでもよくなってしまう。そしてそんなふうにして、無駄に長く語っている理由は単純なのかもしれず、ただそれを語り得ないから、語り得ないことを語ろうとするから、語り得ないまま、無駄な語りばかりが延長され、その結果そうなっているわけだ。実際にそこで何が問われているわけでもない。前にもそんなことを述べていた記憶があるが、そんな粗雑で余分なことを記さないと、その先が出てこない。出てこなくてもいいのかもしれない。とりあえず出てこないなりに、語ってみないことにはその先が見えてこない。語ってみたところで先が見えるわけでもないのだろう。どんなに語ってみたところで、まったくその先が見えてこないのだとすれば、別に先を見るために語っているわけではないということだ。では何のために語っているのかといえば、何のためでもないということになりそうで、ただ無駄に無意味に語っていることにしかならないだろうか。そこで語りが循環している。そしてそんな言葉の空回りとは違う何かを求めているわけか。そう思うならその通りかもしれない。でもそれ以外に何があるのだろうか。空回りする度に文章が疲弊して、内容が空疎になるわけだ。そこに積極的な意味や意義は見出せず、他には何もつかんでいないのだから、それでも言葉を記せば、空回りしてして当然なのだろうが、やはりそれでは冗談にも程があるだろうか。冗談のついでに言葉を記している現状があるわけだ。いつまで経っても埒が開かない原因がその辺にありそうだ。そんなわけで一通り無駄に言葉を記してみて、いろいろ逡巡したあげくに、結局話の出発点に戻ってきた。ここからどう語ればいいのだろうか。無謀にも大海に小舟で漕ぎ出して、たちまち陸地が見えなくなってから、さてこれからどうしたものかと思案している。そんな状況だろうか。ありふれたたとえかもしれないが、実際にはそんなあり得ない光景を想像して、それがその場しのぎの戯れ言であることが承知しながら、何となく虚しくなっている。それも予定調和の空回りから生じた蛇足か。

 どう語っても戯れ言の範囲内だ。そこから唐突に事物の多数性を顕揚するわけにはいかないらしい。先細りの理論に頼っていては、そのうち餓死してしまうだろうか。衰弱して取り返しがつかなくなる前に何とかしなければならない。そこに何らかの限界があるのだろうが、それをまだ見極められない。その必要があるとも思えず、黙ってそこを素通りしてしまえば、そのままとなってしまいそうだ。実際にそれを見極める必要さえ感じられない。事物の多数性は理論では説明がつかないのではないか。でもそうなると目的ありきの進化論となる。それが真の目的なのか、あるいは方便としての目的なのか、どちらであろうと、意識がそれを求めているのだから、事物は時間の経過とともに進化していくのだろう。そんな嘘を平然と語って、そう述べながらも、そんな罠を仕掛けながらも、そこから何をもたらしたいのか。何ももたらされずに、またしても言葉の空回りに終るのだろうか。たぶんそれも何かの過程には違いない。これまではあまりにも縮約して説明してしまっていたのであり、結果に至る途中の出来事を省略していたわけか。それともまだ結果にも至っていないのに、焦れて意味もなく急いで結論を下そうとしていたのだろうか。そんなわけでそこに至るにはまだ長い道のりを必要としているわけか。いったいどこに至ろうとしているのか。目的がなければどこへも至れないわけではないのだから、いずれどこかへ行き着くのではないか。あるいはすでに行き着いているのかもしれない。ここはどこでもないどこかなのではなく、特定の場所であり、この場所へと行き着いたわけで、この時点で航海は終っているのかもしれない。しかし航海とは何だろう。別に船舶で海や川を移動してきたわけでもない。また何かのたとえ話に逃げようとしているのか。言葉を記して、あるいは何かを語ることによって、どこかへ至ろうとすることが、すでに何かの比喩なのであり、ただ言葉を記したり何かを語ったりするだけでは満足できず、そうすることに何がしかの価値を求めているのではないか。そしてそうした行為を正当化したいわけか。価値とは何だろう。そして行為の正当化とは何なのか。そうした言葉を記せば、その言葉の意味を求めたくなり、そこから何らかの概念を生じさせようとするわけだ。でもそこから事物の多数性へと至れるのだろうか。理論ではないとすれば何なのだろうか。別に至らなくてもかまわないのに、なぜそれにこだわっているのだろうか。君がこだわらなくても、すでに事物は多数存在しているのではないか。実際に多種多様な事物に囲まれている。それらは幻影ではない。少なくとも幻影でなくてもかまわないはずだ。

 別にそれらの事物を機械にたとえる必要さえなく、生物も無生物もそれそのものとして存在しているかぎりでかまわない。実際に何のたとえでなくてもかまわないのに、なぜかそれについて語ろうとすると、何かのたとえとして語らなければ語れない。そんなはずがないだろうか。でも安易な比喩を用いて語る誰かに言いくるめられている現状があるのではないか。安易な比喩とは何なのか。三本の矢がどうしたこうしたとかいうたぐいの言動だろうか。別に誰が言いくるめられているのでもないのだろうが、それが許容される環境があり、そういうことを語っても許される立場というものがあるのだろう。他人の言動の中身などこれっぽっちも信じていないが、そういう立場の他人はそういうことを語るものだ、という認識が醸し出す言説空間が存在している現実は疑わない。そんなしかるべき立場の者は、そんなありふれた比喩を用いて何かを語ることで、それを受け取る人々に安心感を与えることができるわけだ。しかしそんな現実でかまわないのだろうか。誰がそれを受け入れているのか。別に受け入れているわけでもないのだろうが、それが放置されていて、誰がそれに対して文句を言うわけでもなく、ただそうすることが当然であるかのような空気があたりを覆い尽くしていて、誰も異議を唱える気にもならない。そうなってしまった時点で大勢は決していて、そこに権力の階層構造が出来上がっているわけで、そこで認められている常識的な語り方に従うなら、そういう言動になってしまうのだろう。そしてそこから逸脱しないかぎりは、いかに中身のない内容であっても、そんなふうに語っているかぎりは許される雰囲気なのだから、そこで語る立場の者はそう語るしかないわけだ。逆にそれ以外のことは語れない。そこに事物の多数性を排除する論理がまかり通っているわけか。排除するのではなく隠蔽するのだろう。それ以外にしかあり得ないような言説空間が暗黙の了解のもとに構成されていて、それが誰に了解を得たわけでもないのに、そこに構成されている共同体の了解事項であるかのように、いつの間にか設定されているわけで、それ以外は語ってはならぬかのような空気が、無言の圧力として辺り一帯を支配し、その支配に屈しているかぎりは、その共同体の構成員としての立場を保っていられる。要するに誰もが共同体のタブーに触れないように配慮しているのであり、それを言ってはおしまいだという暗黙の申し合わせが共同体の隅々にまで行き渡っていて、例えば構成員の誰かに、王様は裸だという真実を言う役回りが巡ってくるのを極端に怖がっている。しかしいつまでそれがもつだろうか。別にもたなくなったところで、また別の誰かをその立場に据えればいいわけで、今までそうやって、その共同体を生き長らえさせてきたのだから、たとえ化けの皮がはがれてしまったとしても、それほどうろたえないのだろう。