外部からの声

 彼がものを書き始めるやいなや、誰かが楽しげな口調でこんなふうに語りかけるのを耳にするのだ。
「さて、これで、おまえは破滅だ」―「それでは、私はやめなければならないのか?」―「そうではない、もしおまえがやめれば、おまえは破滅だ」。

 「おまえは破滅だ」とは、次のような意味なのである。「おまえは、何の必要もなく語り、かくて必要からのがれ去っている。空しい、のぼせあがった、有罪の言葉だ、ぜいたくで、しかもまずしい言葉だ。」―「それでは、私はやめなければならないのか?」―「そうではない、もしおまえがやめれば、おまえは破滅だ。」

モーリス・ブランショ





 われわれは、君たちを戦慄させるようなイメージで君たちを包むだろう。われわれにはそういう力がある!耳をふたするがよい。君たちの眼は、われわれのかずかずの神話を見るだろう、われわれの呪詛が君たちに襲いかかるだろう!

ニーチェ





 もし君が、あらゆることをこわがっているなら、この本を読むがいい。だがまず、私の言うことを聞きたまえ。もし君が笑うなら、それは君がこわがっているからだ。本などというものは、君には、死物と思われている。そうかも知れぬ。だがしかし、本が現われたのに、読むことが出来ぬとしたら?君はおそれるべきではないか…?君は孤独なのか?寒いのか?君は、人間がどれほどまで「君自身」であり、どれほど愚かで、どれほどむき出しであるか知っているか?

ピエール・アンジェリック





 ぼくには、何ひとつなすべきことがない、つまり、何ひとつ特別なものを持っていない。喋らなければならないが、これはあいまいな仕事だ。何ひとつ話すことはないし、他人の言葉しかないのに、喋らなければならぬ。喋りかたも知らないし、喋りたくもないのに、喋らなければならぬ。誰もぼくに強いているわけではないし、誰ひとりいはしない。これは、偶然の出来事で、ひとつの事実なんだ。けっして何ものも、ぼくにこの仕事を免除することは出来ないだろう。ここには何もない、見出すべきものも、まだ話すべきことを減らしてくれるようなものも、何ひとつない。海を飲むようなものだ。ここには海がひとつあるってわけだ。

サミュエル・ベケット





 あの何にでも首を突っ込む奴ら、何でも知っている奴ら、こういう奴らは、何にでも通じていて、あらゆることに即座に断定的な意見を口にし、やっと起ったばかりのことに大急ぎで決定的な評価を下すのであり、かくしてわれわれは、やがて、何にせよ学ぶことが不可能になるだろう。われわれは何でもすでに知っているのだ。…この地の人々は、何にでも通じていて、聡明で、好奇心の強い人々である。彼らは何でも理解する。どんなことでもすぐに理解してしまうから、いかなるものについても、それを考えるなどという時間をかけたりしない。彼らは何も理解していないのだ。…すべてをすでに理解した人々に何か新しいことが起ったなどということを認めさせてみるがいい!

ディオニス・マスコロ





 公表するとは、読ませることではなく、何ものにせよ何か読むべきものを与えることでもない。公的なものは、まさしく、読まれることを必要としないものである。それは、すべてを知り何ひとつ知ろうとのぞまぬ或る認識によって、つねにまえもって知られているのだ。公的な興味は、つねに目覚めており、飽くことのないものであるが、つねに満足しており、何の興味も抱かないくせにすべてを興味深いものと見なしているのであって、人々は、この運動を、中傷的な先入観を持って語るというひどいまちがいをおかしてきた。…読者は、この公的な興味に逆らい、放心的で不安定で普遍的で全知的な好奇心に逆らうことによって、初めて読むに至るのであって、読むまえにすでに読んでしまっているあの最初の読みからかくして辛うじて浮かび出るのである。すなわちそういう読みに逆らいながら、だがやはりそれを通して読むわけである。

モーリス・ブランショ

『来るべき書物』(モーリス・ブランショ著、粟津則雄訳、現代思潮社)より