柄谷行人『マルクスその可能性の中心』を読む(講談社学術文庫)

 本文に入る前に、まず3人の言葉が引かれる。まずはマルクスで、「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである」。果たしてマルクスが、自分が解決できる課題に立ち向かおうとしていたのか。当人はそう思って課題に立ち向かったのかもしれないが、その結果がどうなったかは、後の歴史が示すところであるが、柄谷もマルクスと同じ志を継いで、その課題に立ち向かうつもりだったのか。つづいてアンドレ・マルローで、「人間は自分の姿を、知見をふやすことによっては見出しえない。彼が自分の姿を発見するのは、彼が提起する課題においてである」。また課題が問題となってくるわけで、要するにマルクスが提起する課題において、マルクス自身の姿が見出され、またその課題を探求することによって、柄谷自身の姿を柄谷が発見しようとしているのか。そして3人目はハイデッカーで、「本質的な思想家は一つの課題しかもたない」。その一つしかない課題が『資本論』の中に示され、それについて論じられていて、それを読み、それについて論じることによって、柄谷もその一つの課題に立ち向かう。

 マルクスの『資本論ー経済学批判』はすでに古典となっていて、典型的な解釈が施され、それが一般に広く流布し行き渡り、人々はそんな定まった解釈を通して読み、そこからは通説となっているマルクス主義的な結論しか導き出されず、それは紋切型として社会に定着している。それを受け入れる以上は、もはや『資本論』など改めて読む必要はなく、実際に多くのマルクス主義者が読まずに済ませている現状があるのだろうか。『資本論』を作品として読むには、そういう紋切型的な解釈を無視して読むしかない。それは「“作品”の外にどんなどんな哲学も作者の意図も前提しないで読むこと」(9ページ)であり、ラッサール宛書簡で、マルクスがスピノザについて述べているように、「彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に叙述された形式とはまったくちがっている」(10ページ)。その「本当の内的構造」こそが「可能性の中心」なのだろうか。
 マルクスがやったことは、「資本制社会の意識的な体系化(古典経済学)の批判であり、「資本制社会の内的構造」を照明すること」(10〜11ページ)にあり、ラディカルな思想家の著作には必ずその「内的構造」があり、例としてモンテーニュがあげられ、「反体系的な思想家の代表のようにみえる」が、その著書『エセー』を「注意深く読むならば」、物事を「原理的に見ようとする精神の動きがある』そうだ。世の人たちは社会的な地位や役職にある「人間」一般について語ったが、モンテーニュが初めて「自分」というありふれた「人間」について語ったわけだ。その「人間」の「内的構造」についての探求は、後に述べる『内省と遡行』まで続いてゆくだろう。
 そして経済活動の中で、貨幣が「なにとでもとってかわりうる怪物」であり、資本が「利子生み資本」として「自己増殖する怪物」であるのに対して、マルクスが着目したのは、一見何の変哲もない物のように見える商品の奇怪な性質であり、柄谷の着目点もそこにあり、マルクスがそれについて考察した『資本論』の中の「価値形態論」にこそ、その「可能性の中心」があると捉えている。

 マルクスとその協力者のエンゲルスの関係は、イエスとパウロの関係に似ていて、キリスト教を創りだしたのがパウロだとすると、マルクス主義を形成したのはエンゲルスであり、その「意味体系」は、「キリスト教とプラトニズムという西洋思想史の系譜から生れてきたもの」(15ページ)だと柄谷は述べる。なぜマルクス主義の「意味体系」がキリスト教とプラトニズムから生まれてきたのか。それはマルクス主義の唯物論的歴史観における、社会の矛盾を止揚しながら、社会体制が資本主義から社会主義を経て共産主義体制へと至る過程の、最終的な到達点である「共産主義社会」こそが、キリスト教における、「最後の審判」の後に実現する「神の国」であり、それはまたプラトニズムでいうところの、理想の世界を表す「イデアの世界」ということか。要するに「共産主義社会」=「神の国」=「イデアの世界」となるのだろうか。そしてさらに最近の柄谷がいう「来たるべき社会〈交換様式D〉」までがそれに連なるのか。
 問題なのはそれらの宗教的な教義を批判することではなく、『資本論』を読むことであり、『資本論』とは、「古典経済学のテクストに対するマルクスの読解であって、それ以上でも以下でもない。つまり、それ以外のところにマルクスの「思想」を求めることはまちがいなのだ」(16ページ)。柄谷はこう述べる。
 そのマルクスによるテクストの読解法は、彼の学位論文『エピクロスとデモクリトスにおける自然哲学の差異』にも見受けられ、そこで「マルクスが強調したのは、一見して明らかな彼らの哲学あるいは実践における差異ではなく、ほとんど近似している自然哲学の微細な差異である」(19ページ)。この「微細な差異」が重要で、例えばエピクロスとデモクリトスの間の「微細な差異」は、「デモクリトスが、アトムの運動が必然的であり決定的であると考えたのに、エピクロスはそこに偶然、逸脱、偏差があると考える」(17ページ)ところにある。これは当時マルクスが属していたヘーゲル左派の「問題意識」の中でなされた考察にも表れていて、そこには「人間の「自由」や「主体性」を、アプリオリに前提するかわりに、自然の「偏差」においてみようとする視点」(17ページ)がうかがわれる。そして「微細な差異」は、後の『資本論』においては、「彼がヘーゲル哲学に対する華々しい転倒においてではなく、ヘーゲルの『哲学史』のごく一部分に関する異議においてこそ」(16ページ)顕われ、そこにマルクスの斬新さがあるらしい。
 ではこのヘーゲルや古典経済学が見逃している「微細な差異」とは何だろうか。たとえば「現象と本質」(ヘーゲル)や「労働時間」(アダム・スミス)といった概念をうちこわそうとするとき、そこに顕われる「微細な差異」を見なければならない、ということか。それに関して柄谷が引用するニーチェの「哲学者の本」の中に、鍵となる箇所があるようで、それは、「すべての概念は、等しからざるものを等値することによって、発生するのである」(20〜21ページ)、という箇所だと思われる。要するにそれらの概念は、「等しからざるもの」の「微細な差異」を無視して、「等値することによって、発生する」のであり、そしてその「等しからざるもの」とは、後にそれは個々の商品となりそうだ。

 『資本論』の序文には価値形態に関して次のように書かれている。「価値形態、その完成した姿である貨幣形態は、はなはだ無内容かつ単純である。にもかかわらず人間の頭脳は、二千年以上も前からこれを解明しようとつとめてきてはたさず、しかも他方、これよりはるかに内容ゆたかで複雑な形態の分析には、少なくともほぼ成功している。なぜだろう?」(22ページ)。柄谷はこれを次のように言い換える。「貨幣または価値に関する偏見は経済学の歴史と同じ位古い。古典経済学は「より大きな次元」ではほぼ経済的現象の解明に成功してきているが、微細な部分、すなわち価値形態論に関しては何もなしえていない」(23ページ)。この古典経済学では何もなしえていない貨幣形態の謎にマルクスは取り組み、それが「価値形態論」を成しているわけだが、柄谷によれば、「価値形態論は、一見すれば、「貨幣の必然性」を、証明しているだけのようにみえる。しかし、貨幣の自己実現というヘーゲル的展開にもかかわらず、マルクスは、貨幣の成立が商品あるいは価値形態をおおいかくすことを語っている」(24ページ)。
 これは商品は貨幣と交換した後でしか価値を持ち得ず、貨幣との交換が成立しない限り、その商品にどれほどの価値があるのか、わからなくなってしまうということだろうか。確かにヘーゲル的に貨幣と交換された後から、事後的に交換された貨幣の量だけ、その商品には価値があったといえなくはないが、あくまでもそれは貨幣との交換という事実を前提としており、交換された事実や、あるいは交換の約束を交わす商談の成立がなければ、その商品にどれほどの価値があるのかわからず、商品自体にアプリオリな価値があるわけではなく、まさに「貨幣の成立が商品あるいは価値形態をおおいかく」している。ヘーゲル的な古典経済学は、この商品と貨幣との交換という出来事を無視した上で、事後的に成立しているといえるだろうか。
 柄谷はここで『資本論』から、古典経済学が見逃している「価値形態論」において、ハイデッカーがいう「まだ思惟されていないもの」を読もうとしていて、「マルクスをその可能性の中心において読むとは、そういうことにほかならない」(26ページ)と語る。

 「商品の奇怪さ」とは何だろうか。ただの物には人間は欲望を抱かないが、「まさにそれが商品形態をとるゆえに、ひとは欲望をもつのだ」(27ページ)。それが商品形態をとって、値札に記された金額を払えば、手に入る可能性が出でくると、人はその物である商品に欲望をかき立てられるということか。他人がほしがる物は自分もほしがり、それ以外にも欲望をかき立てられる原因があるかもしれないが、例えば性欲のたぐいも、ポルノなどの性の商品化によって、欲望をかき立てられているのだろうか。柄谷は「物から考えても、欲望から考えても、商品が商品たる所以を理解することはできない」(27ページ)、と述べる。
 柄谷は商品を言語とのアナロジーで語ろうとする。「古典経済学は、商品とは使用価値と交換価値であるという。だが、それらは、まさにあるものが商品形態をとるがゆえに存在するものでしかない。語は音声と概念の結合であるというのも同様である。そのような分析で終わっているかぎり、商品あるいは言語の謎はみえない」(27ページ)。この商品が使用価値と交換価値の結合であり、言語が音声と概念の結合である、という分析を突き崩すところから見えてくるものは何なのか。
 ここから先の柄谷の説明も、柄谷が引用する文章の中でのマルクスの説明も、ちょっとわかりにくいのだが、商品は「自然形態」と「価値形態」の二重形態であり、例えば鉄、亜麻布、小麦は自然素材であり、その物自体は「自然形態」として存在しているが、それを商品にするには、人間による労働を必要としていて、鉄ならば鉱山から掘り出した鉄鉱石から、製鉄所で石炭と石灰石を用いて鉄を取り出し、亜麻布は栽培した植物から、繊維分を取り出して糸状にし、それを機織りによって布状に加工し、小麦も栽培して、脱穀し製粉して、そのような手間をかけて初めて商品となる。そのように人間が集団で役割分担しながら作業する、社会関係によって「価値形態」が生まれ、したがって商品は、その物自体がまとっている自然素材としての物質的な「自然形態」と、人間の労働によって生み出された「価値形態」の、二重形態となっているわけだ。
 一方言語は、それが発音されれば、空気の振動となって伝わり、その空気の振動自体は「自然形態」だが、それは「他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する」(29ページ)のであり、言語を通して他人と交流する、という社会的関係が言語の「価値形態」そのものといえるだろう。そう考えれば言語にも「自然形態」と「価値形態」の二重性があるといえる。
 とまあこう述べてしまうと、解釈が単純過ぎるみたいで、柄谷は「マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる」(29ページ)、また「空気振動そのものは、けっして言語ではない」(30ページ)、と述べている。言語を言語たらしめるもの、そして商品を商品たらしめるもの、それは何かと問うとき、はじめてその「価値形態」が問題となってくる。

 柄谷によれば、言語学者のソシュールの新しいところは、「言語を価値としてみようとしたことにある」(30ページ)。この前後の説明もわかりにくく、今ひとつピンとこないところなのだが、要するに語の意味や概念は先験的にあるのではなく、実際に人間たちが社会の中で、言語を使ってコミュニケーションする過程で、絶えず生み出されてくるということだろうか。それを例えば辞書や辞典のように、「語を単独で切りはなして」(30ページ)、そこに意味や概念を付け加えて定義するとなると、人間が社会の中で言語を用いて他者とコミュニケーションしながら意味や概念を生み出しつつある過程を覆い隠してしまうことになるわけか。
 それと同様に、「古典経済学における使用価値と交換価値という区別が、商品を孤立して考えるもの」(31ページ)、となってしまい、商品と他の商品との相対的な関係性から価値が発生することを見失わせるわけだ。それについてマルクスは、「古典経済学が、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態をみいだせなかったことは、この学派の根本的な欠陥の一つである」(32ページ)と述べる。その欠陥の原因を柄谷は、「それは、彼らが貨幣を自明の前提としたからである。貨幣は、それぞれの商品にあたかも貨幣量で表示さるべき価値があるかのような幻影を与える。すなわち、貨幣形態は、価値が価値形態、いいかえれば相異なる使用価値の関係においてあるという事実をおおいかくす」(32ページ)、と述べる。これはそれぞれの商品には、別々の使用価値があるかもしれないのに、同じ価格の値札がつけられると、あたかも同じ価値を持っているかのように錯覚してしまう、ということだろうか。
 とりあえず貨幣を考慮に入れないで、物々交換で考えて、X量の商品AとY量の商品Bを交換できたとすると、Aがその価値をBで表示する場合、マルクスはAは相対的価値形態にあり、Bは等価形態にあるといっている。ここでAはBと等価であるということではなく、Aの価値はBの使用価値で表示されるということらしい。そのようにして、商品AとBの交換という関係性の中から「価値」が出現するわけで、交換がなければ「価値」を見出すことはできない。
 柄谷によると、それをソシュール的に表現すれば、相対的価値形態は「意味されるもの」(シニフィエ)、等価形態は「意味するもの」(シニフィアン)であり、これらの結合としての価値形態が記号(シーニュ)となるそうだ。

 次に「拡大された価値形態」から「一般的価値形態」あるいは「貨幣形態」が導き出される過程を見ていくと、Z量の商品AがU量の商品BあるいはV量の商品CあるいはW量の商品DあるいはX量の商品E、以下同様に様々な量の商品と交換できると考えると、「これは相異なる商品の相対的な関係の連鎖であって、ここには中心がない」(34ページ)。確かに「相対的な関係の連鎖」なのかもしれないが、こう記してしまうと、どうしても商品Aが貨幣に思えてきてしまうのだが、マルクスはこの「中心のない関係の体系」の「欠陥」を「第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである」(35ページ)と述べて、ここから「一般的価値形態または貨幣形態、すなわち中心としての一商品の出現の不可避性を説く」(35ページ)、ということになれば、当然の成り行きだと思ってしまうのだが、柄谷は、「この叙述は、実は転倒しているというほかはない。「総体的または拡大せる価値形態」こそ、一般的価値形態または貨幣形態を非中心化したときにやっとみいだされる「中心のない関係の体系」なのだからである」(35ページ)、と述べて、この地点にとどまろうとする。
 柄谷は「マルクスの弁証法的・目的論的叙述とは逆に、われわれは彼が見出したこのヴィジョンに固執すべきである」(36ページ)、と説く。なぜ柄谷は貨幣形態への発展で隠蔽されてしまう価値形態にこだわるのか。「物々交換の拡大が一般的価値形態あるいは貨幣形態を生み出す」、「そのような見方をすれば、価値形態論の意義はまったく消えてしまう」(37ページ)からか。では、「価値形態論の意義」とは何だろう。先程述べた商品A、B、C、D、E.......のどれもが、入れ替わり可能で、形式的にはどの商品が貨幣の役割を果たしてもおかしくないということであり、素材としての耐久性や希少性の問題を無視すれば、そこから「「単純で偶発的な価値形態」がはらむ問題に遡行することができる」(37ページ)。
 物々交換であれ貨幣を介した交換であれ、なぜ人は自らの労働生産物を、他人の労働生産物と交換したがるのだろうか。それは必要だから以前に、ただ単に他人の持っている物がほしいからだとしかいえないが、事実として交換している現状がある。マルクスは交換に関して次のようにいう。「彼らは、彼らの相異なる種類の諸生産物を交換において諸価値として相互に等値することにより、彼らの相異なる諸労働を人間的労働として相互に等値する。彼らはそれを意識していないが、しかしそう行うのである」(39ページ)。柄谷によると、この「意識しないが、そう行う」というのは、フロイト的な意味で「無意識」について語っているそうだ。「われわれの「意識』には、もはやそれはみえず、その結果だけが映っている」(40ページ)。他者と言葉を交わすコミュニケーションの繰り返しの結果として音声文字が現れたように、他者との労働生産物の交換の繰り返しの結果として貨幣が現れた。しかしそれは必然ではなく偶然の産物だったわけか。

 柄谷は「ある二つの異質なものが等価であるという根拠はなにか」(41ページ)、と問い、ニーチェは「負い目」という概念が「負債」に由来していることから、そこに債務と債権の関係を見出し、犯罪から生じる損害や怒りが、刑罰の苦痛によってあがなわれることも、その「損害と苦痛との等価」の起源が「債権者と債務者との間の契約関係のうちにある」(43ページ)と述べる。ニーチェが「すべての概念は、等しからざるものを等置することによって発生する」というとき、そのようにして生まれた概念こそが、経済学の概念であり、倫理学の概念ということだろうか。

 柄谷は「古典経済学は、二つの異質な使用価値が等価たりうる根拠を、そこにふくまれた同質の人間的労働にもとめる。実は、これは貨幣形態を前提した発想であり、貨幣を各商品のなかに内在させることだ」(48〜49ページ)、と述べる。結局この「同質の人間的労働」という根拠から「人間の同一性」や「人間の平等」が導かれ、それが「貨幣経済の産物」だとすると、「社会主義はたとえば「人間の同一性」という思想から出発する」(48ページ)、というのは本末転倒で、「貨幣はいらないが商品はほしいという社会主義」(49ページ)は、あり得ないということか。「マルクスは「人間は等しい」という考えはアプリオリな真理なのではなく、それ自体「商品形態が労働生産物の一般的であるような社会」においてはじめて可能だというのである。つまり、同質の人間的労働なるものは、はじめからあるのではなく、貨幣経済の拡大のなかであらわれるのだ」 (49ページ)。

 柄谷は「価値形態論こそ。「資本」の秘密を明かすのであり、「労働時間」の仮説をとることなく、資本の根拠を明らかにしうるのである」(51ページ)、と説くが、ここで「労働時間」説といのは、イギリスの産業革命が実現した、「労働の個人的差異、質的差異を解消する機械的生産」(51ページ)が可能とする、商品の価値を、それを生産する「労働時間」として量的につかむ試みのようで、アダム・スミスが唱えたらしい。しかしそれが機械的生産以外の生産物にも適用されてしまうのはなぜか、柄谷は「そうした等置を可能にする貨幣形態の起源を問わねばならない」(51ページ)。
 「われわれはまず話し、それから書くことを習得する」(52ページ)。柄谷によれば、話すことでは言い足りないから書くのであって、文字を書くことによって人は内面を持つことになり、文字を持たない子供は内面を持たないそうだ。本当に文盲の人は内面を持たないのか、その辺は疑わしいが、「「内面」そのものが、文字の結果なのだ。にもかかわらず、文字があたかも「内面」からもっとも疎遠なものであるかのようにひとは考える。その理由は、文字が音声文字であり、単に音声を表記しただけのようにみなされるところにある」(53ページ)。その結果として、人は逆に内面の告白として文章を書いたりするわけで、また商品は、貨幣との交換によって、その内在的な価値を持つに至るのに、内在的な価値を持っているから貨幣と交換される、という転倒が起こる。だから「貨幣=音声文字を、「内面」つまり商品に内在的な価値からではなく、マルクスのいう象形文字としての価値形態から考えねばならない」(53ページ)。
 貨幣所有者が商品を買い、それを売ることで剰余価値を得ることができなければ、資本はあり得ないわけだが、なぜ剰余価値すなわち利潤が発生するかは、商品を買うときと、買った商品を売るときが、時間的・場所的に離れているから利潤が生まれるわけで、単純に考えれば、商品を安く買える場所で買い、高く売れる場所で売るか、安い時に買って、高い時に売るかすれば、利潤得られるわけで、商人資本は昔からそのようにして利潤を生み出してきた。「それは人間に利潤を求めようとする性質があるからではない。交換が利潤(剰余価値)を生みだすような必然的根拠があるところでのみ、そのような“人間性”が発生するにすぎない」(54〜55ページ)。

 「同じ商品が一地域で安く、他の地域で高いのは、それぞれの地域において、他の商品との関係がちがうということ以外ではない。この関係が貨幣形態によって消去されると、まるでその商品に単独に内在的価値が存在するかのようにみえる」(55〜56ページ)。単純な例を挙げれば、商品をその地域まで持ってくる輸送コストによって価格に違いが出るだろうし、その地域の特産品なら、輸送コストがかからないから、他地域より安くなるだろう。またその地域での政治経済情勢や商品の需要の有る無しでも価格が変わってくるだろう。そのように商品を取り巻く外的な環境によって価格の変動が起こるわけで、貨幣の量で表示される金額と、その商品の内在的な価値は無関係だ。例えば空気は商品ではなくただだが、それがなければ人間は生きてゆけないので、空気に内在的な価値を想定すれば、他のどの商品と比べても高いかもしれない。
 ポール・ヴァレリーは、人間の制作物である芸術作品は、その生産者である作者と、作品の観賞者である消費者との間に「精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして、作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬ」(58ページ)、と語り、「ヴァレリーは、作品の価値の窮極的な根拠を、両方の過程が互いに切りはなされていて不透過であるというところにもとめている」(59ページ)。ここで柄谷はヴァレリーのいう価値が、マルクスのいう剰余価値に当たると述べていて、例えば生産者から商品を商人が買う時や場所と、その商品を商人が消費者に売る時や場所は違うのであり、その商品の流通過程は、生産者側から見ても消費者側から見ても不透過であって、不透過であるがゆえに、そこから剰余価値としての利潤が発生するわけで、では生産者が直接消費者に商品を売るとなると、今度は生産者が商人をかねることとなり、生産者+商人資本=産業資本となるわけで、やはり消費者にとってその商品の生産流通過程は不透過である。

 産業資本は「労働力という“商品”を購入しそれが実際に生産した商品を売るという過程にある差額(剰余価値)に依存するのだ(62ページ)。商人資本が安く商品を買って、高く商品を売って利潤を得るように、産業資本は労働者から安く「労働力商品」を買い、その労働力を用いて生産した商品を高く売って、そこから利潤を得るわけで、安く買って高く売るという構造は、商人資本にしても産業資本にしても変わるところがない。しかも「交換(売買)は、つねに両者の同意の上に成り立っている。意識的には等価物の交換でないかぎり、交換(売買)は成立しないであろう。だから、交換は、交換者には等価交換とみえなくてはならない」(62ページ)。結局交換(売買)に関係する人間は、交換そのものよってしか明らかにならない商品の内在的な価値を、交換時に同じ価値をもつと想定して交換するのであり、それが結果的に不等価交換に感じられようと、それは交換した後から感じられることなのだから、要するに後の祭りなわけだ。

 マルクスは次のようにいう。「相異なる共同体はその自然環境のなかで、相異なる生産手段や生活手段をみいだす。だから、彼らの生産様式、生活様式および生産物は異なっている。異なる共同体が接触するとき、生産物の相互的交換をひきおこし、彼らの生産物をしだいに商品に転化していくのは、この自然発生的に発展した差異なのである」(64ページ)。つまり各共同体ごとにある別々のシステムの間で商人資本は取引をして、そこから利潤を得るわけで、「あるシステムにおける一商品の価値は、そのシステムのなかの他の商品との価値関係としてあるわけだが、貨幣によって表現されるとそれは量的に価格としてあらわれる。商人資本家はその価格で商品を買い、それをべつのシステムにもっていく。そこでは、その同じ商品はべつの価値関係におかれているために、それは前よりも高い価格としてあらわれる」(66ページ)。高い価格で売れたらの話だが、商人がある共同体の中で商品を買うときと、それを別の共同体にもっていって売るときの、それぞれのシステムの中での売買は、それぞれに等価交換であるにもかかわらず、そこから剰余価値が生まれるわけだ。

 「商品経済の発展は、これまで地域的に隔離されていた価値体系の差異を解消させ、いっそう大がかりに世界中の生産を“社会的”に結びつける。むろんこの結果として、それまで隔離されているかぎりそれなりに自足していた地域は、もはや世界市場との関係のなかでしかやっていけなくなり、急速に貧困化し、階級化する。そして、生産はますます商品生産に転化し、それによってさらに商品経済のなかにまきこまれて行く。だが、このことは、差異の解消そのものから剰余価値を得る商人資本によって推進されるのである」(67ページ)。

 なぜ地域間格差が解消されると、その地域は「急速に貧困化し、階級化」するのか。結局地域ごとに生産されいていた生産物のうちで、同じ用途に使う商品の間で価格競争が起こり、より安い商品が売れ、高い商品は売れなくなり、より安く効率的に商品を生産するために、生産の大規模化と集約化が起こり、その大規模な工場なり農場なりの経営者、あるいはそこからもたらされる商品を大量に売りさばく商人、及びそれらに多額の資金を提供する銀行家などが、多額の利益を得て、そのような一握りの富豪たちが、社会の上流階級を形成するが、末端の使用人や工場の従業員や、大地主に土地を奪われた小農民などは、下層階級として搾取され貧困にあえぐことになる。
 柄谷によれば、機械的生産によって始まる産業資本は、商品経済の拡大にともなって生じた世界市場の中でのみ成立するそうだが、産業資本が剰余価値を得るのは、流通過程ではなく、「資本家が生産手段・原料・労働力を買い込み、それによる生産物を売るという過程である。ここで、生産手段および原料はたんにふつうの商品であるから、同一のシステム内ではもはや余剰価値を生まないと想定しうる。だから、鍵は労働力という商品にある」(69ページ)。ここで「剰余価値と利潤はさしあたり同じものであるが、年利潤率は一回ごとの投資における剰余価値率とは異なっている。剰余価値率は低くても、資本の回転率が高ければ、年利潤率は高くなる」(68ページ)。つまり、資本の回転率を上げればいいわけで、労働者の熟練化によって作業効率を上げ、さらに製造機械自体の技術革新によって、労働時間あたりの生産量を増やせば、労働者に払う賃金は同じなので、それだけ一製品あたりでは低コストで生産でき、生産した分が売れれば、より多くの利潤が得られる。もちろん労働者を減らしても同量以上の生産が可能なら、なお多くの利潤が得られる。
 「マルクスの考えでは、労働力の価値は、その生産に要する社会的に必要な労働時間である。いうまでもなく、この社会性は貨幣形態から与えられるのであって、貨幣形態を考えずに社会的に必要な労働時間を考えることはできないのである」(70ページ)。労働者が資本家または会社と合法的な雇用契約を結んでいる以上、「彼らの意識には(且つ資本家の意識にも)、賃金が彼らの労働に相応して支払われている(さもなければ賃金をあげることができる)と映っていることを意味するのである。つまり、意識的にはここに“等価交換”がある」(70ページ)。結局、貨幣形態で考えれば、労働力商品を資本家または会社が買う場合も、資本家または会社が商品を消費者に売る場合も、どちらでも等価交換が成り立っていることになり、しかもそこに剰余価値が生まれる。「資本制生産の神秘性は、明らかに意識的には“等価交換”とみえながらそうでないというところにある」(71ページ)。実際に商人や資本家はそこから利潤を得ているわけだ。

 「ここに、マルクスが価値形態論から説きおこさねばならなかった理由がある。なぜなら、神秘性の根源は、商品の価値が関係の体系においてあるにもかかわらず、単独で切りはなされたものとして存在すると考えられるところにあるからだ」(72ページ)。労働力商品であろうと、他の商品であろうと、商品であることに変わりはなく、ただ売買の対象となるだけである。「第一に、商品の所有者は、その所有物を交換以外に他人に譲渡することはない」(73ページ)。そして「第二に、商品はその所有者自身にとって不必要であり、それを譲渡するほかに、彼は自分の欲するものを取得できない」(73〜74ページ)。労働力商品の所有者も、それを売って貨幣を得て、その貨幣で欲する商品を買う。「プロレタリアートは何ものももたない人間ではなく、一種の商品所有者としてあらわれたのである。資本制社会は、商品経済が労働力という商品をそのなかに包摂したときはじめて成立する」(74ページ)。

 産業資本が得る剰余価値は「資本家が労働力を買い、その生産物を売る場合の差額であるほかない」(75ページ)。商人資本のように場所的に離れた異なる二つのシステムの間で得るわけではなく、共時的な同一のシステム内での等価交換であるかぎり、剰余価値は得られない。それについて柄谷は次のように述べる。

 「労働の生産性の上昇は、分業や協業の強化によろうと、機械の改良によろうと、労働力の価値を潜在的にさげる。これはつぎのようにいいかえてもよい。資本家は、すでにより安くつくられているにもかかわらず、生産物を既存の価値体系のなかにおくりこむ。つまり、潜在的には労働力の価値も、生産物の価値も相対的に下げられているのだが、このことはただちには顕在化しないのである。だから、現存する体系とポテンシャルな体系が、ここに存在する。したがって、われわれは産業資本もまた、二つの相違なるシステムの中間から剰余価値を得ることを見出すのである。
 われわれは、商人資本がいわば空間的な二つの価値体系の ー しかもそこに属する人間にとっては不可欠な ー 差額によって生じることを明らかにしたが、産業資本はその意味で、労働の生産性をあげることで、時間的に相異なる価値体系をつくり出すことにもとづいているといってもよい」(78ページ)。

 産業資本は従来より効率的なシステムをつくり出して、その従来のシステムとの差額が剰余価値となるわけで、「この差額はまもなく解消され、新たな水準による価値体系が形成される。だから、資本はその差額を不断に作り出さなければならない」(79ページ)。これが絶え間ない技術革新をもたらすわけで、「資本は世界を文明化するためにではなく、自らを存続するために技術革新を運命づけられているのである。ほとんど無益と思われるような技術の革新も、資本が存続するためにこそ不可欠なのである。それは人間の“自然な”必要からではなく、「価値」による転倒から生じる」(79ページ)。
 結局、商人資本も産業資本も、剰余価値を生み出す価値形態のもとに成り立っているのであり、一見等価交換に見える貨幣形態がその構造を覆い隠しているわけだ。