資本論





第九章 政府と行政




 政府の活動は国の行政全般にわたっていて、その活動の内容は基本的には法律や制度で決められているわけだが、民主的な政治制度が機能している国では、それが議院内閣制であっても大統領制であっても、形式的には選挙で選ばれた政治家が行政の長になって、法律や制度で決められている範囲内で必要に応じて行政に関する指示を出すことにはなっているだろうが、民衆の代表者である行政の長が飾り物になっていると、行政の中で機能している官僚機構が実権を握ってくる場合があるだろうし、また官僚機構の出身者が主要な政党に入って選挙で当選して議員になって、その人が政権政党の代表者になって行政の長になる場合もあるわけで、どのような経歴の持ち主でも民主的な選挙で選ばれれば民衆の代表者となるのだから、そのこと自体に問題があるわけでもないのだが、行政に精通した人が行政の代表者になるのは適任に思われるかもしれないが、行政に精通した元官僚が選挙で当選しやすかったり、政権政党の中で要職を得やすいような成り行きがあるとすれば、議会と行政の癒着を招きやすいことは確かかもしれないし、ならば元官僚の政治家は排除した方が民主的な政治体制を維持する上では必要なのかというと、そういう法の下での平等を欠く理不尽なことはやるべきではないだろうし、その辺は実際に行われている政治の内容から民衆が判断すべきことなのだろうが、それに関して単純なことを言うなら、政治家が民衆の味方なのか行政の味方なのかについて、民衆と行政の間で対立が生じているような状況になれば、民衆の味方を装っているように感じられる政治家に選挙で投票すべきとなるのだろうが、そんなはっきりした状況にはまずならないだろうし、大抵は行政の官僚機構との間でうまく折り合いをつけられるような政治家が民衆にも安心感を抱かせるだろうし、そのような安心感が社会に安定をもたらすようにも思われて、世論の支持も得られる成り行きとなるのではないか。そうなると行政に精通した元官僚などが適任に思われてくるのだろうし、そのような人が政治家となって政府や議会の要職に就いたり、場合によっては行政の長になったりする場合が出てくるわけで、他にも親兄弟や親族に有力な政治家がいたりすると、そういう方面で厚い支援を受けて選挙で当選しやすくなったり、民衆の方でもそういう人が議員になったり大臣になった方が、どこの馬の骨ともわからない人がなるよりは安心しやすいのかもしれないし、そうやって次第に縁故や地縁血縁などのつながりを優先させる傾向から民主的な政治制度が蝕まれてくるのだろうが、それとは別に行政の官僚は試験によって選ばれるわけで、純粋に試験の成績だけから選ばれるとすれば、実力でその座を勝ち取ったことになるわけだから、それに関しては誰も文句は言わないだろうが、そこからさらに選挙で選ばれて議員になることに関しては、それとこれとは別物であることは確かだろうし、そういうところで民衆の方でも区別やけじめをつけられないのかもしれないが、制度的にそうなりやすい構造があるといえばそういうことでしかないわけだが、その辺も実際にやっている政治の内容から判断するしかないだろうし、そうはいってもはっきりした判断基準などないわけだから、なし崩し的に議会と行政が癒着してしまうのも仕方のないことなのかもしれない。
 では議会と行政とは対立していたり敵対関係にある方がいいのかというと、それもその場での状況にもよるだろうし、対立がひどい場合だと行政の中の軍部がクーデターを起こして議会を強制的に閉鎖したりして、民主的な政治制度を破壊してしまう場合さえあるわけだから、議会と行政との力関係によってはいくらでもおかしなことが起こる可能性があるわけで、その場の状況に応じて民衆の側で判断するしかない面もあるだろうが、やはりどう判断してもうまくいかない場合があるだろうし、議会と行政の関係がどうあるべきかについては、それに司法も加えて三権分立の理想を唱えることはできるわけだが、理想と現実がずれていたり異なる場合が多いだろうし、それは民衆の中の個人がどう思ってみてもその場の状況には何の影響も与えないことかもしれないが、そうだとしても民主的な政治制度を守ろうとするなら、少なくとも議会と行政との癒着状態は好ましくないだろうし、度を越した馴れ合いやかばい合いには反発した方がいいだろうし、世論もそういう傾向にならないと制度の形骸化を阻止する歯止めにはならず、制度の形骸化が進行してしまった誰が損するのかといえば、民主的な政治制度を守ろうとする民衆の側であることは確実であり、そういう認識は最低限の心得として持っておいた方がいいだろうし、そういうことに敏感にならないと他に制度を活用しようがないだろうし、民衆の側が制度を活用する気がなければ、議会の政党やそれとつるんで制度を管理運用している行政の官僚機構が自分たちに都合のいいように活用するだけで、そんな都合のいい活用によって元官僚などの政治家を通じて議会と行政との癒着が図られるわけで、それに司法も加えて三権分立からは程遠い三権癒着体質が生じてくるわけだが、実質的にそれを民衆の側が阻止することは難しいだろうし、下手をするとメディア上で行われる宣伝や煽動に乗せられて、民衆の方でもそういう三権癒着体質を礼賛するような成り行きにもなるのかもしれず、そういうところで民衆の側が賢くなる必要があるのかもしれないが、その賢くなるという意味もしばしば取り違えられてしまうわけで、行政が管理統治する国に逆らわないことが功利的に賢くなることだと思われてしまう場合もあるようで、そうなるとどう言い繕ってみても権力の行使に従うような論理が正当化される傾向にもなるわけで、それも実際に行政による管理統治が行き届いていることの証明になるのかもしれないし、現実に一般の民衆は法律を守って制度に従うように教えられているのだから、そういうところも仕方のない面があるのかもしれないが、そういう傾向に無理に逆らうことが賢さとは真逆な対応となってしまうことにもなり、それに関してはあまり権力の行使に逆らうことが正義であるような意識は持たない方がいいのかもしれないし、それよりはその場の状況に合わせた判断が求められてくるのかもしれないが、そういう状況的な判断が正しいとは思わない方がいい時もあるだろうし、結果から振り返ればしばしば国家的な権力の行使に逆らう人々が英雄視されることの方が多いわけで、逆に状況に合わせて功利的な判断をしながらせこく行動した人々は、いつの時代でもその他大勢の側の無名の小市民として蔑みの対象とされてしまうことが多いのではないか。
 政府というと広い意味で行政と司法と立法の三権を合わせた国を統治する機関の全体を指すことになり、裁判官も議員も公務員には違いなく、それらを一括して公務に携わる人員とみなせば、行政府と司法府と立法府の区別をつける必要もないのかもしれないが、権力の源である三権を分立させて相互に干渉し合うシステムにしておかないと権力の濫用に歯止めがかからなくなってしまうから、理想としては三権分立体制が望ましいだろうが、そうだとしても実際には制度の運用次第で相互に連携したり癒着してしまう可能性が常に生じているわけで、またある程度はそういう面がないと政府としての統一性や整合性がとれなくなってしまうのかもしれないし、そういう意味でも制度をあまりにも杓子定規に解釈してはいけないだろうし、確かに制度には合理的に作られている面があるが、その運用に関してはある程度の柔軟性や運用主体の恣意的な裁量も考慮されているだろうし、実際にそうやっている運用主体を批判する段になると、いつも決まって杓子定規な制度解釈から批判してしまうことが多くなり、批判の内容が実際に運用されている実態からかけ離れていたりするわけで、そうなると結果的に批判が空回りしてしまってうまく批判として機能しなくなってしまうだろうが、だからと言って制度を運用している側の恣意的な裁量を無条件に許してしまえば、制度が本来の役割を果たせなくなってしまうだろうし、どちらにしても制度が形骸化する可能性があり、そういう作用が常に生じているから制度そのものも、その恣意的な解釈や運用から変化していってしまうのかもしれず、そこに法律や制度を伴って政府という国家を統治する機関があることは確かだが、それがいかに合理的な設計のシステムで動作していようと、それを動作させている人や集団には必ずしも合理的な判断ができるとは限らないわけで、そこでは必ず恣意的な解釈や運用が付きまとい、実際にそのような作用からシステムの設計や動作を変更させる動きが生じてきてしまうわけで、もちろんそれが良い方向での変更に結びつけばいいわけだが、それも必ずしもそうなるとは限らない面があるだろうし、それによって政府がどのような変質を被るとしても、政府全体で一気にそうなることはあまりないだろうが、絶えず様々な作用を外部からも内部からも受けながらも、何か特定の勢力の思惑からは外れた変化がもたらされて、思いもよらぬ成り行きになるのかもしれないが、それが枝葉末節な変化にとどまることも多いのかもしれないし、全体の枠組みとしての三権分立的な大前提が維持されている限りで、政府としてもそれなりに機能するのだろうし、いったんそういう状態で安定すればその状態を維持継続させるような慣性の法則もそれなりに働くだろうから、そのような大前提を守りながらも部分的なところで融通を利かすための各部署や部門での裁量が許されるような成り行きには落ち着くのではないか。だから制度的に変更を加えるというよりは制度の運用の面で恣意的な裁量を拡大させるようななし崩し的な作用は常に生じてはいるものの、そのような実態に合わせるためにいざ制度を抜本的に変更しようとすると、それに逆らう各方面からの反対や反発に遭って、結局は玉虫色の決着や骨抜きの改革などがもたらされることで、抵抗勢力である各方面との妥協が成立する運びとなるのではないか。
 そうした妥協によっても制度の形骸化が進行するのだろうが、それに伴って生じる各方面での制度の恣意的な運用の拡大は多様性や多元性ももたらすこともあるだろうし、それなりに権力の分散傾向も生じさせて、政府として統一性や整合性がなくなってくるのかもしれないし、それが統治機能を低下させることにもつながるのかもしれないが、そういう傾向が一方的に進行していくのではなく、絶えずそれに対する反作用も生じてきて、綱紀粛正などの呼びかけとともに規律や秩序を取り戻そうとする試みも生じてくるだろうし、そうした揺れ動きの中で政府という管理統治機構が維持継続されるわけだろうが、それに関してそうした管理統治機構としての政府の存在をどうするかということではなく、政府の存在を前提としながらもその枠組みの中で改革を目指すのが政治活動になるとすると、逆に言えば政治活動は政府の存在を前提としないと成り立たないわけで、それが政治の制度的な枠組みになるのだろうが、たぶんそうした枠組みを超えているのが資本主義的な経済活動であり、経済活動に政府が依存しているのは当然だとしても、制度的な枠組みに縛られた政治活動では経済を制御することは難しいだろうし、理想的な三権分立体制をいくら維持したとしても、そのような枠組みでは捉えきれない経済活動から権力関係が生じてくることにもなるわけで、その経済活動から生じる権力関係から三権分立体制が常に脅かされているのではないか。それが典型的に現れるのが公共事業に絡んだ贈収賄事件だろうし、またそれをめぐる業界の談合体質も経済的な権力関係から生じているのであり、そこでは必ずしも権力の源が国家から生じているわけではないことを示していて、そういった国家権力も本を正せば経済活動から生じる権力関係であり、簡単に言えば経済活動を軍事力によってその支配下に置くことで国家権力が生まれるわけで、もちろん世界には多数の国家があるわけだから軍事力も多種多様にあって、そんな軍事力の隙間を縫って経済活動が行われている実態もあり、中には軍事力を有する国家権力では捉えきれない経済活動もあるわけで、しかも常に軍事力によって脅迫や実力行使をしているわけでもないだろうし、実際に軍事力を行使すれば経済が滞ってしまうわけだから、そのほとんどは威嚇目的で軍事力を誇示しているわけで、要するに実際に使うよりはその装備を見せびらかすことで、国家権力の存在を暗黙の了解事項として世の中に周知徹底させているのだろうし、そこから実際に軍事力を行使するまでの過程にはかなりの回りくどい紆余曲折が介在しないと、軍事力の行使を正当化することはできないわけだから、経済活動から生じる権力関係を国家権力によって制御するのは困難を極めるのではないか。だからそこで国家に関する制度を形骸化させる要素があるとしたら、そのほとんどは経済活動から生じてくるとも言えるだろうし、人や集団が経済的な利益を求めようとすれば、どうしても制度を恣意的に運用しようとしてしまうだろうし、また場合によっては制度の裏をかいたり、制度が想定していなかったようなやり方で特定の人や集団に利益をもたらそうとするわけで、それは公的な制度が求めているような公平で公正で平等な傾向とは相容れないやり方になるだろうし、要するに他を出し抜かないと利益を得られないのが経済活動の特性なのではないか。
 国家としてその力の源が経済力や軍事力にあるように思われるのはごく一般的な認識になるだろうが、軍事力の強弱を測るには装備の質と量や兵士の数などが挙げられるが、それも一般的にはその国の経済力に見合った軍事力になるだろうし、軍事力を維持するにはそれなりの国家予算が必要であり、予算を確保するには経済活動が必要となって、そうなると結局は経済力と軍事力は比例関係になるだろうし、それも国家体制によってそれなりの偏差はあるものの、一般的には経済力があれば軍事予算も確保できて軍事力もそれなりに規模も内容も充実させることができるわけだ。実際に戦争を行う必要がない限りは警備的な軍事力となるのだろうが、それは国内の治安維持のための警察権力や消防や救護などとも重なる部分もあるだろうし、その方面で実質的に活動している限りは、特に国家権力に絡んでくることもないわけだが、国内で政情不安があると俄然軍事力のある軍部を味方につけることが、そこで争っている政治勢力が主導権を握る鍵となることもあるだろうし、軍部が主導している勢力が政治的な主導権を握ると軍事政権が誕生するわけだが、そうなると民主的な政治体制ではなくなるだろうし、それに反発する活動家などが逮捕されて投獄されるような成り行きとなるのではないか。そうなっては困るから国内の治安を維持できないような争いの激化は避けなければならないのかもしれないが、国によっては宗派間対立や民族対立が深刻化している情勢もあって、警察力では抑えきれない争乱を終息させるために軍隊の力を借りなければならなくなって、夜間外出禁止令などの戒厳令が出されるような状態になってしまえば、軍隊が治安維持の全面に関わってくるのだろうが、なぜそういうことが起きるのかといえば、簡単にいえば国内での勢力争いが激化するからであり、そこで特定の利害関係を伴った特定の勢力が有利な状況を作り出そうとするから、そんな利害関係を突き崩そうとしてそれに敵対する勢力も生じてしまうし、両者または複数の勢力の間で争いが激化すれば内戦状態にもなるわけで、それが軍事的な衝突ではなく民主的な選挙で決着が図られるような成り行きになれば、軍隊の出番もなくなるわけだが、国家というのはその形成過程において激しい内戦を経て特定の勢力の主導権が確立した後でないと民主的な政治制度も実現できないのかもしれず、現状の世界の中で内戦状態の地域でもそういう過程を現に経ている最中である可能性が高いだろうし、それが必ず通過しなければならない過程であるわけでもないのだろうが、実際に現状で比較的治安が良好な平和な地域でも過去に激しい内戦の歴史があったところはいくらでもあるだろうし、そうした血なまぐさい歴史の上に民主的な国家が築かれている状態には、それなりに過去の反省が生かされている面があるのかもしれないし、それが歴史的な重石となっていて、簡単には過去の騒乱の時代へは逆行しないような成り行きが生じているのではないか。それは国内事情でしかないのかもしれないが、周辺諸国などの脅威論などに対しても、すぐに戦争が起こるような危機感を抱く気にはなれないのかもしれず、それよりは様々な戦争や争乱を経験してきた歴史的な積み重なりの方にリアリティを感じるのかもしれない。
 現状の政府による国の管理統治にしても、法的にも制度的にも何らかの合理的なシステムが動作している状態が保たれていることが、何かそうなっていて当然に感じられてしまう面もあるだろうが、その状態が自然に自動的に維持されているわけではなく、世の中の様々な方面からの様々な作用が及ぼされた結果として、何らかの均衡状態が成り立っているように感じられるのだろうし、それらの作用のうちのどれか一つでも途絶えてしまったら、たちまち見せかけの均衡が崩れて流動的な情勢が生じてくるのかもしれないし、そもそも現状が均衡状態であると同時に流動的な状態でもあるのかもしれないし、その状況の流動性に気づいている人もいるし気づいていない人もいるのかもしれないが、少なくとも現状で起こっている様々な出来事が事態の流動性を示していることは確かだろうし、そんな中でも歴史的な経緯を感じ取れる人にはそれなりに現状に対する謙虚さが備わっているのかもしれず、安易な煽動や宣伝には動じない見識も持ち合わせているだろうが、それに対していつの時代でも時流に乗っているつもりで世の中の流行現象に惑わされている人もいくらでもいるだろうし、そのいくらでもいる人の中からほんの一握りのわずかな人が、時流の中で何らかの成功を手にするわけだろうが、その他大勢の成功を手にすることのない人たちは、そうした成功者の応援団に所属するような成り行きになるわけで、それが大衆市民社会の中ではありふれた消費者になるのかもしれないが、たぶんそういう区分けや役割分担ではうまく説明できないような成り行きも生じているのかもしれず、そもそも世の中で成功するとか失敗するというのはそれ自体が単体で起こっていることではなく、人がそこで何かやっていてそのやっていることが、ある人にとっては成功だと思われることが別の人にとっては失敗だと思われるようなこともあるのかもしれず、結局そういう成功とか失敗とかいう評価さえ得られないままで何かをやり続けている人までいるのだろうから、すでにそういう評価とは無関係に何かをやっている状況もあるわけで、そこで人の活動が成り立っている限りでそんな状況が生じていて、そのやっていること自体がそこで起こっている出来事となり、その大半は世間的な評価とは無関係に行われていることなのではないか。そしてそんな活動の中で金銭的な利害に関係するものは経済活動となるのだろうが、それ以外の活動もいくらでもあるだろうし、経済活動に支えられてそれ以外の活動が成り立っている面もあるのだろうが、やっている人の意識の中では区別はないだろうし、経済活動以外の活動もその人にとってはなくてはならない活動である場合もあるわけだが、そのような活動の全てが政府による管理統治の対象となっているわけではないのは当然だろうし、そんな活動まで政府の側で把握しようとは思わないだろうし、政府が把握しようとするのは結局はそこから金銭的な利害を伴うような活動と法律上や治安上で問題が生じるような活動となるのではないか。それが政府の活動と関係する活動となるだろうし、そのような活動が管理統治の対象となるわけだろうが、では他の活動は野放しになっているのかというと、それには世の中の他の制度や慣習に関係する部分で何らかの規制や規範が働いて、それが許容する範囲内でそれらの活動を可能にしているのではないか。

 たぶん国家としてのまとまりにはそれが合理的な形態であるというよりは歴史的な経緯が作用して国家を作り上げている要素があり、国家そのものを何か必然性を伴った存在と考えるのは誤りなのかもしれず、様々な歴史的な経緯の積み重なりから政府という行政単位の機構が管理統治する対象としてまとめ上げられてきたのではないか。だからはじめから国家ありきでその管理統治をどうすべきかという順序で考えてゆくと、国家主義や全体主義的な独裁形態にその合理的な統治のあり方を求めてしまって、そのような窮屈な統治形態を維持するために、民衆の自由な活動を制限するような発想が出てきてしまうのかもしれず、そうではなくまずは経済活動などの実際の人や物や情報などの流通をいかに促進させるかについて、行政の果たす役割を検討する必要があるのかもしれないし、またそのような経済活動の中で不利益を被ってしまう人や団体などを助けるための活動も行わなければならなくなるだろうし、そういうところで相反する矛盾した対応を迫られる局面も出てくるかもしれないが、国家自体が矛盾した存在形態であり、あまりやっていることの統一性や整合性を考えない方がいい場合もあるだろうし、それよりはその場の状況に応じて対応を変えるような臨機応変さが必要とされる場合の方が多いかもしれないし、そういう面では決まり切ったシステム的な動作とは違う活動が求められてくるわけだが、そういう臨機応変な対応を生かす上でも決まり切ったシステム的な動作も一方では維持していく必要も生じるのだろうし、どちらか一辺倒というわけではなく、どちらも有効に機能させることが求められてくるわけで、そういうところで融通を利かせることが大事なのかもしれないが、一方で法律や制度を守っていくことも大事なのだろうから、そのような相反する方向のどちらにも活動を広げていく過程で、活動の整合性をとれずにおかしくなっていくのかもしれないが、だからと言ってどちらか一方に活動のあり方を統一するわけにもいかないだろうし、結局おかしくなってくるなりにもその場で妥協を伴うような調整を強いられるわけで、そのようなやり方を正当化するわけにはいかないのかもしれないが、そんな正当化できない活動を続けていく以外にはやりようがない状況の中で、うまく立ち回って体裁を取り繕うような成り行きになってしまうのではないか。だからそういう面ではいつでも批判を浴びるだろうが、うまくやろうとしてもできない事情もあるだろうから、批判を浴びながらもそんなことをやっていくしかないだろうし、そんなこととはどんなことかといえば、うまくいかないなりに妥協や調整を重ねて物事を前進させていくしかないということであり、その物事というのは行政に関わる様々な活動になるのだろうが、それに関してはっきりしたことは言えないが、あまり行政が主体となってやるようなことでもないのかもしれないし、あくまでも民間の活動をサポートするような役割に徹していた方が無難かもしれないし、そうでなくても主体的に国家の管理統治を考えようとすれば、成り行きとしては何やら国家主義や全体主義的な傾向になってしまうだけに、そうなると民間の活動との間で軋轢が生じてきておかしくなってしまうのではないか。
 結局どうやってもうまくいかないというよりは、うまくいかないなりにも妥協や調整を重ねながら仕事をこなしてゆく必要があるだろうし、その仕事も主体的にやるというよりはサポート的な内容になるだろうし、どうなるにしても行政が全面に出て行くとおかしくなる場合が多いのかもしれず、裏方として事務処理が専門である方がサポートしている活動の主体には効果的に作用するのではないか。それは公的な政治活動にも言えることかもしれないし、政治家の主体的な活動を裏から支えるのが行政の役割になるだろうが、それも決まり切ったシステム的な動作として事務的なサービスを提供すると同時に、その場の状況に応じて臨機応変な対応が求められる場合も出てくるだろうし、その両方の整合性が取れなくなってくればそこで妥協したり調整するような成り行きになってくるわけで、それをうまく調整できなければどっちつかずの中途半端な対応になって、活動が有効に機能しないこともあるだろうが、それがその場における限界と受け止めるしかない場合も出てくるだろうし、それ以上にごまかしなどに加担してしまうと職権乱用や汚職などにつながってしまうだろうから、そういうところで一定の区切りをつける必要が出てくるだろうし、その一線を超えてあまりにも政治と癒着して政治家の要望に応えようとしてはいけないだろうし、またそれと同時に政治をコントロールしようとしてもいけないのかもしれないが、少なくとも政治と癒着して一蓮托生や一心同体の関係となることは避けるべきで、政治活動と行政活動との間にはっきりした境界を設けようとしても、そんなことはできないかもしれないが、それでもできることとできないことぐらいは把握した方がいいだろうし、法律や制度に照らし合わせてできる範囲を確認しておくことも肝心かもしれないが、それでも不正に手を染める成り行きが生じてしまうのかもしれないし、それも集団の利益を優先させる過程でそうなってしまうのかもしれないが、その集団が行政機構か政党かそれらの複合体となるかは関係なく、どのような集団であろうと集団の構成員を犠牲にして集団としての利益を確保する成り行きが生じてしまうわけで、それが集団の特性でもあるわけだが、その不正に手を染めた構成員をトカゲの尻尾切りのように切り離して集団を守ろうとする成り行きにもそれなりに限界もあるわけで、立て続けに何度でもそういうやり方を続けるわけにもいかないだろうし、それをやるにしてもある程度は間をおいて冷却期間や忘却のための時間を設けないと集団自体が信用を失ってしまうから、頻繁にそれが行われるわけでもないだろうし、そういうところでも妥協的な対応や利害の調整が必要になり、それほど無理なことが頻繁に行われるわけではなく、そういうところで集団内の構成員には法律や制度の範囲内に活動をとどめておく配慮が常に求められているのではないか。それに関しては自己防衛として日頃からあまり融通が利かないように振る舞うことも大事かもしれないし、集団への忠誠心よりは法律の遵守を優先するように心がけていれば、いざという時にあまり無理なことはしない方が得策であることに気づくかもしれないし、結局いくら集団のために無理をしても自分の身より集団の体面の方が優先されてしまうことは理解しておいた方がいいのではないか。
 また行政の主な活動として法律に基づいた認可とか許可を伴う権限を行使することがあるが、認可するにも許可するにも検査や審査などをしなければならないだろうし、それが科学的な分析を伴うものだと民間の検査機関なども活用されるわけだろうが、その権限は行政側にあるわけだから検査や審査を行って最終的な認可や許可を出すのは行政になるだろうし、そういうところで違反を取り締まったり、不備や不正が明らかになると認可や許可が下りなかったり取り消しになったり、悪質な行為が発覚すれば罰則を科すような成り行きにもなるわけで、そういうことを行うのが行政による権力の行使となるわけだが、その大半は経済的な活動から生じる事例になるだろうが、例えばそれは建物の建築許可とか実際に建てられてからの確認検査だったり、そういう許可や認可や検査や審査などに関して膨大な量の書類を役所に提出して合格しないと、実際に許可も認可も下りないだろうし、そういう許可や認可や検査や審査などに関する申請書類を処理するのが行政の主な仕事ともなるわけだが、そのような申請書類に関しても書式や内容などの形式が厳格に定められていて、それに則って書類を作成するだけでも膨大な手間暇がかかる場合があり、中にはそのような書類作成を専門とする職業まであるわけだから、わざとそうしているわけではないものの、そのような行程や手順が面倒になるほど、許可や認可も容易には下りないような成り行きになるわけで、そしてごく限られた個人や集団にしかそれが可能でないような仕組みになれば、行政がそれらの個人や集団を保護することにもなり、もちろん資格を作って資格を持つ人や集団でない限りは取り扱えないようにするやり方もあるだろうし、その資格を得るには試験に合格しなければならなくなるわけだが、その資格認定の権限を行政が持つのも当然だろうし、そうやって行政機構が社会の中に一種の関所を設けて、その通行を管理するようなやり方が世の中を統治する手法となるのではないか。そしてそうしないと世の中に暮らす人々の安心や安全な生活を保障できないとも言えるわけで、例えばそれが食品や薬品などの品質基準や安全基準や、それらを作っている場所の衛生基準などに関する検査であったり、またそれを作るにあたっての許可や認可であったり、他にも建物の耐震基準や工場排水の水質基準などに関するものや様々な管理対象があるわけで、それらすべてを行政が管理して検査や審査を行って許可や認可を出したり、違反するものを取り締まったり、違反行為には罰則を科したりするわけだから、行政機構が肥大化するのも無理はないようにも思われるわけだが、検査や審査などの過程を効率化すれば許可や認可も早く出せるだろうし、そういうところで情報処理技術の活用が行われているわけで、それは事務処理技術の向上の問題になってしまうかもしれないが、そのような技術が向上すればするほどより詳しく広範囲に管理しようとする傾向も出てくるだろうし、人や集団の活動の全てを管理できれば、違反行為の取り締まりも取りこぼしなくできるようになると思われてくるのかもしれないが、やはりそういう傾向を推し進めていくときりがなくなるだろうし、そういうところに世の中の全てを管理統治しようとする行政特有の傲慢な意志が生じてしまうわけだ。
 それがよく言われるような自由やプライバシーのない管理社会への懸念を生むわけだが、それは行政だけではなく民間のネットを活用した情報関連の企業などにも言えることだろうし、個人や集団の情報をできだけ詳しく入手して、それを活用して利益を得ようとしているのがそれらの企業なのだろうが、行政に関してはそれを社会の管理統治に役立てようとしているわけだろうし、何かその辺で個人の利益と行政の利益が背理してくる傾向にあるのかもしれないし、もちろん情報を入手しようとする企業と消費者としての個人の利害も一致するわけでもないだろうし、自由を求める意識が強い人ほどそうした管理傾向には不快感や不信感を抱くのかもしれないが、そうした傾向に抵抗することが個人の利益になるかというと、それを拒否すればそれだけ様々なサービスから疎外されたり排除されてしまう可能性も出てくるわけで、企業の場合はそれに関してすべてを読むのが不可能なほど膨大な数の契約条項に同意するように仕向けてくるだろうし、その中には個人情報を入手しても構わないような条項も含まれていて、それに同意しない限りはサービスを利用できないような仕組みにもなっているわけで、それは行政が許認可などに関して膨大な量の申請書を提出するように求めてくるのと似ているだろうし、そうした契約書や申請書によって企業も行政も自身の身を守ると同時に自分たちのやり方に利用者を従わせようとするわけで、そのような自己正当化のやり方が果たして公正で平等なやり方なのか疑問に感じられてしまうが、法律や制度によって社会が成り立っている限りはそういう成り行きになるのは当然のことだろうし、そうした法律や制度が事細かに社会の隅々にまで行き渡っているほど、世の中に暮らす人々の安心や安全が保たれているように思われるかもしれないが、その一方で確実に個人の自由が阻害されているだろうし、そうした法律や制度に違反する行為を取り締まることを口実にして、人や集団をそれらの法律や制度に縛り付けるための措置が様々に講じられていることにもなるわけで、実際にはそれほど縛り付けられているような意識はないだろうが、何か違反するような成り行きに巻き込まれてしまった時には、それに対する様々な措置が施される実態を実感することになるのではないか。そしてそうしたやり方が必ずしも個人の利益にはなっていない面もあることを知るだろうし、普段はそれを意識できないことがそういうやり方を許している最大の要因なのかもしれないが、意識できないということはわざわざ意識する必要もないということとは違うかもしれないが、そうやって権力を行使されていることを意識できないということは、行政にとっても企業にとってもメリットとなっているのかもしれないし、民衆が行政や企業に反感を抱く隙を与えずに民衆を制御できるということを意味しているだろうし、そういうやり方が定着している要因としては、権力を行使する対象に反感を抱かせないという効果があるわけで、そうした権力を意識させずに権力を行使するというやり方が、社会の平和を保つ上でも有効に機能していることも確かだろうし、そうしたやり方に抵抗するすべがないということが、民衆が牙を抜かれている証拠となっているとも言えるだろうし、それは暴力や恐怖による支配とは明らかに違った支配の進化形態とも言えるのではないか。
 行政による管理統治の手法に関して政治との関係でいうと、政治は行政の活動をチェックする役割を担っていて、チェックして修正する点が見つかればそれを必要な法整備とともに改善しようとするのだろうが、原理的には改善点が見つからなければ政治の出る幕はないだろうし、そうなると政治家は行政のお飾りとなってしまって、官僚の言うことを聞いているだけとなってしまいそうだが、官僚機構が望んでいるのがそう言う状況だとしても、それでも政治家が何らかの形で活躍しているような状況を官僚の側で演出しようとするだろうし、そのような演出が行政による政治に対する管理統治となるのではないか。簡単に言えばそれは政治家が演説する原稿を官僚機構の側が用意することになるわけで、その演説の内容が何らかの改革を目指すようなことなら、そのお膳立てを官僚が準備することになって、それはあくまでも政治家が主体的に何かやるように演出することになるだろうし、改革を行う主体があくまでも政治の側にあるように見せかけるわけだが、それでは当然のことながら行政の側の想定を外れるような大胆な改革とはならないだろうし、行政の権益を損ねない程度の内容となるのかもしれないが、それが何を意味するのかといえば行政側にとっては現状維持か、場合によってはさらに行政の権限を強化するような内容になれば、行政にとってはメリットが大きいだろうし、実質的には行政の側の思惑通りに事が運んでいることになるのかもしれないし、そのような改革を政治主導で行なっているように見せかけるのが、行政による政治への管理統治の手法として定着しているのかもしれないが、たぶんそれはあからさまに誰もがわかるようにそうなっているのではなく、政治家が行おうとしていることが自然に行政側の思惑と重なるように、日頃から官僚などの助言によって仕向けられているのかもしれないし、政治家の方でも官僚の助言を頼りにしている面があるだろうし、そういうところで政治が行政をチェックするというよりは、行政が政治を誘導している面の方が大きいのかもしれず、下手すると官僚が用意した原稿を読んでいれば政治家としての職務が勤まってしまうような成り行きになっている可能性もあるのだろうし、下手に暴言や失言を繰り返して窮地に陥ってしまうよりは、そちらの方がメディア受けも一般受けも良い印象を得られるなら、そうしておいた方が無難に思われるのではないか。そしてそういう傾向が何をもたらすのかというと、政府の方針は官僚機構の側で用意されていて、政治家がその方針に沿った発言をしている限りで官僚機構の側でもできるだけサポートしてくれるかもしれないが、いったんそれに逆らったり方針に異を唱えたりすると途端に何らかの不祥事が明らかになったりして、その政治家が閣僚ではいられなくなってしまうのかもしれないし、そうでなくても不祥事などが相次いで政権運営が行き詰まってくると、政権そのものが官僚機構から見限られて政権交代を余儀なくされるような事態も生じてくるのかもしれないし、場合によっては新たに官僚機構の言うことを聞くような政治勢力が組織されて、メディアの側でもそのような新勢力を積極的に応援するように加担してくれば、官僚機構にとってより操縦しやすい政権が誕生することになるのではないか。そうしたことは何か策士のような人が黒幕として暗躍するのとは少し成り行きが違うのかもしれない。
 それが特定のどの国の事情に当てはまるかは何とも言えないところかもしれないが、多少の違いはあるにしても大なり小なり政府が普通に機能している国であれば、どの国でも官僚機構が政権に対して何らかの影響力は持っているだろうし、それに対して政治家の主体的な活動がどれほど効果的に機能しているかは、良い影響というよりは独断偏向的な面で悪影響を及ぼしていればたちまちメディアで話題となるだろうし、それ以外の面で政治家の活動として評価の対象となることはまずないのかもしれず、政治家が批判されていればそれは官僚機構に逆らっているから批判されていることが多く、そういう意味ではメディア自体も官僚機構的な価値観に支配されている面もあるのかもしれないし、どうすれば政治家が評価されるかについてその評価の基準がメディアの側でもよくわからなくなっているのかもしれない。例えば果たしてその国の経済が好調なのは政治家が主体的に関わった政策のおかげなのかというと、どうもそうではないように思われてくるだろうし、また政治家が個人的に和平交渉などの場で活躍して、テロや内戦などを伴う紛争を解決することができるのかというと、やはりどうもそうではないように思われるだろうし、逆に政治家というと独裁的な体制を築き上げたり強硬な発言で和平交渉を決裂させたりして、トラブルメーカー的なことをやってメディア上で注目されることの方が多いだろうし、そうやって評価されるよりは非難される方が圧倒的に多いわけだから、かえって何もやらないで人道的な発言ばかりを繰り返していれば左翼的なメディアからは支持されるのかもしれないが、それでは何も解決できないことは明らかだろうから、保守的なメディアからは無能者扱いされてしまうのかもしれないし、そういう面で政治家は厄介者のトラブルメーカーであるか人畜無害な無能者であるかのどちらかの印象しか残せないのかもしれず、それでも結果的に経済が好調な国では建前として政治家の経済運営の手腕が評価される成り行きもあるかもしれないが、それも実質的に何をやっているかはよくわかっていないのかもしれず、その一方で行政の側は法律や制度に基づいた管理統治を着実に行なっているわけで、一応は平和な状況がもたらされていれば行政的な管理統治能力が取り立てて評価されることはないにしても、その活動が有効に機能していることにはなるだろうし、そういう場合はやはり個人的なスタンドプレーというよりは、集団的な組織形態が効果的に動作していることになるわけで、少なくともそれは政治家が行う主体的な判断や決断が功を奏してそうなっているわけではないだろうし、企業の最高経営責任者がメディア上で脚光を浴びるようには政治家が脚光を浴びることはないのではないか。唯一脚光を浴びるのは外交的な駆け引きとなるのかもしれないが、それも政治宣伝と表裏一体な面があるだろうし、国威発揚的な政治宣伝ばかりの特殊なメディアなら贔屓の政治家の国会での発言や外交の場での発言を大げさに取り上げて、そんな発言をするだけでも大成果であるかのような宣伝を繰り返しているのかもしれないが、それは一部の偏った主義主張の人たちの間だけで通用していることだから、他の大多数の民衆がそのような政治宣伝を真に受けているとは思えないし、そういう傾向からしても、世界的に政治家が行う活動がうまく機能しない状況が出現しているのかもしれない。

 行政と企業の関係というと企業が行う事業に関係する様々な許認可権を持つ行政の方が立場が上であり、また公共事業に関しても仕事を発注したり、その際に指名競争入札などを行ったりするのだから、企業は行政に対して頭が上がらない印象があるだろうが、一方で行政は民間の企業に収益を上げてもらって雇用や税収を確保したい思惑があるだろうし、そのためには景気を良くしなければならないだろうから、お互いに持ちつ持たれつの関係にあることは確かだろうし、それに関連して何かと企業に便宜を図っていることも確かであると同時に、さらに一方では企業による脱税などの様々な違反行為を行政側が取り締まらなければならない立場でもあるだけに、持ちつ持たれつの関係にありながらも時には敵対する場合もあるわけで、その辺が日本の場合だと官僚の天下り問題なども絡んできて一筋縄ではいかない複雑な関係となっているわけだが、どちらも集団的な組織形態としては政党やメディアなども含めて、利害関係に応じて連携や敵対や癒着などの様々な関係が想定されるだろうし、組織の中でも様々な部署や部門があるわけだからそれぞれの部署や部門のレベルでも特有の関係が生じるかもしれず、ある部門では敵対関係にあっても別の部門では連携関係にあったり、あるいは共通の利害を通じて癒着していたりする場合もあるだろうし、それらの関係の組み合わせは何通りもあるのかもしれないし、少なくとも単純でわかりやすい関係ではないことは確かで、それらをどう捉えても正確にはその全容を捉えきれないのかもしれないが、部分的な関係の全てを把握する必要もないのだろうし、そういう面では同じ対応も対処もできないわけだ。そしてそれが何を意味するかというと、行政の活動をチェックする役割の政治の側でも、それら全てを把握することはできないだろうし、できることはせいぜいが何か問題が発覚する度に対処するしかなく、しかもその対処に関しては政治と行政の関係が問題となっている場合も含まれてくるわけで、それが政治の側で自助努力を要するような問題となると、途端に利害関係が邪魔をしてうまくいかなくなるのかもしれず、そういう面での問題の解決や改善がうまくいかない場合の方が多いのではないか。その手の問題そのものが利害関係から生じている限りにおいて、問題の解決や改善を目指す過程でその利害関係を壊さなければならなくなるとしたら、そうした関係にある部署や部門による抵抗や妨害に直面するわけで、そうなると解決や改善を目指す部署や部門とそれに対して抵抗や妨害を行う部署や部門との対立に発展するわけで、結局はどちらの部署や部門の方が力を持っているかで、問題の解決や改善が図られるか、それとも抵抗勢力に押し切られて失敗するかが決まるような成り行きにもなるだろうし、そうした面でも一筋縄ではいかない組織内での複雑な力関係から影響を受けるだろうし、そうした集団的な組織形態が全体としては何らかの傾向や方向性を持っているにしても、その中の個々の部署や部門においては互いに複雑に力を及ぼし合っている実態があるとすれば、そうした組織内で生じている問題については、同じ組織内の自助努力によって解決や改善を目指すのには困難を極める面があるのではないか。
 それに対して会計検査院などのように外部から問題を指摘ができるような制度もあるにはあるが、それも問題の全てを指摘できるほどの権限はなく、特定の問題について特定のやり方で指摘がなされるにとどまるだろうし、そういう問題を外部から指摘して、場合によっては提訴を行う弁護士グループなどもあるのかもしれないが、提訴したからといって裁判で勝てる保証もなく、それも行政に関係する不正行為などに限られるなら、合法であれば提訴はできないだろうし、合法的ににやっていることから問題が生じているとすれば、政治の側からしか問題の解決や改善を目指すしかないだろうし、そうなると議会での政党間の力関係において少数の議席しかない勢力だと無理になってくるし、議会で主導権を握っている多数派の勢力を味方につける以外にはやりようがなくなってくるわけだが、その問題に議会で主導権を握っている勢力が絡んでくるようだと、結局はそれらの勢力の自助努力に期待するしかなくなってしまうだろうし、そういうところで世論を味方につけて選挙で問題の解決や改善に尽力する勢力が勝って主導権を握るような成り行きになればいいのだろうが、それも世論を味方につける以前に、その問題を取り上げて報道してくれるようなメディア勢力を味方につけないと、世論喚起にまでにも至らないわけで、主要なメディア勢力までが議会で主導権を握っている政治勢力やそれとつるんでいる行政の官僚機構と懇意の関係にあるなら、やはり問題の解決や改善を目指すのは困難になってしまうのではないか。もちろんそういう方面だけが問題なのでもないし、何かと問題を指摘したがる批判勢力の側も特有の問題を抱えていて、部分的な問題をいくら指摘しても政権を担う力を得るには至らない状況があるのかもしれず、どうすれば政権を担う力があることを世間に向けてアピールできるのかといえば、特にそれに対する明快な答えがあるわけでもないだろうし、そういう問い自体が愚問なのかもしれないが、民衆の意識を変えるようなきっかけをつかむには部分的な問題指摘だけなく、民衆に向けて全体的な将来の構想や展望を語るしかないだろうし、それが実現可能で説得力のある内容になればいいのだろうが、それを実現させるために何をやるべきかも具体的に示さなければならないだろうし、またそういう構想や展望に対する質疑応答などでまともな受け答えをできる必要が出てくるし、そうなるとそれなりにプレゼンテーション力が問われてくるだろうが、そんなことをやっていくうちに宣伝メディアなどが間に入り込んできて、おかしな成り行きになっていってしまうのかもしれず、その手の広告宣伝を専門とする企業などのペースにはまってしまうと、実態の定かでない空疎な宣伝文句ばかりの内容になってしまう可能性があるだろうし、そういうところでそれらの政治勢力の見識が問われてくるかもしれないが、たぶん大衆メディア社会の中で誰もが暮らしていて、そこで日々大量の広告宣伝に接しているわけだから、そういう宣伝の虚妄性に慣れ親しんでいることも確かであって、それは批判勢力に属している人たちも同じであるだろうし、それらの人たちがそんなに大層ご立派な見識を持ち合わせているとは思えないし、そういう意味で批判している側と批判されている側の間でそれほど意識に差がないとしたら、たとえ批判している側が主導権を握ったとしても状況が改善したり問題が解決する可能性は低いのかもしれず、単に攻守が入れ替わっただけとなりかねないところが根本的な問題なのかもしれない。
 民意や世論を生じさせる人心は世の中の状況を反映しているが、常に政府が人心を掌握しているとは限らないし、それは選挙で勝利して議会で主導権を握っている政党にも言えることかもしれないが、メディアが世論調査などで利用される誘導尋問によって、それらの勢力が人心を掌握しているように演出することはあるかもしれないが、逆に政府や支配政党などがそれを利用して独裁的な圧政を敷いた後に、何かのきっかけでその支配が崩れた時に、主導権を握っていた政府や政党から人心が離れることはあり得るだろうし、それは今まで政権を担当してきた政党が選挙で大敗北を喫した時にも言えることかもしれないが、そういう人心の離反がそのままそのような政府や政党に取って代わって主導権を握った政党やその政党を中心に組織された新政府への世論の支持に結びつくわけではなく、大抵はそのような経過を辿って生まれた新政府への期待はすぐに裏切られて、たちまち支持を失ってしまう成り行きにもなりそうだが、それは人心が離れてしまった旧勢力とそれに代わって台頭してきた新勢力との間に民衆がそれほど差異を感じられないことから、一時の期待が急速にしぼんでしまう結果をもたらすわけだが、そういうところで民衆の方でも思い違いをしている面もあるのかもしれず、同じ世の中の制度や仕組みの中で活動してきた勢力の間で何らかの差異があるとしても、それは利害の違いに基づく差異であって、同じ社会の制度や仕組みの中で活動してきたということは、その勢力の組織的な構成やその構成員の質にもそれほどの違いは生じないのかもしれないし、そうした中で主導権の移譲や交代があったとしても、その制度や仕組みまでが全くの正反対になるわけではないだろうし、確かに革命などが起こると旧来の価値観が否定されるわけだが、それによってあらゆる物事が一新されたと思いたいのだろうが、そういった短期的な激動の時代が過ぎ去った後からやってくるのが保守的な揺れ戻しだろうし、気がついてみれば機構や制度の名称が変わっただけで、旧来の保守勢力の要人がそのままそれらの機構や制度の中でも要職に収まっている場合すらありそうで、要するに看板だけが付け替えられて中身があまり変わっていない状況もよくあることだろうし、特に何らかの形で政府が存在する限りにおいて、それを機能させるには官僚機構が必要不可欠だろうし、その組織形態としては上意下達的な構造になるしかなく、それ以外の形態の官僚機構はあり得ないのではないか。だから世の中の仕組みや制度が一新されるとは、例えば政府や官僚機構がなくても社会が維持できるような形態が編み出されない限りはあり得ないのかもしれないし、現状ではそんなことはあり得ないし考えられないだろうし、誰もそんなことまでは考えもしないのではないか。そうであるならとりあえずは政府や官僚機構の存在を前提として改革の内容を検討するしかないだろうし、しかも現状で構わないのならそんな大それたことを検討する必要さえないだろうし、現状のままだと行政と司法と立法の三権分立を維持する方向で、それらの分立を癒着させるような成り行きを阻止するような活動が求められてくるのではないか。そしてその中で民衆が主体的に関わってくるのが選挙などの政治的な面だろうし、既存の政治勢力を支持するか、または新勢力の台頭を期待するかのどちらかにしかならないのかもしれない。
 そしてそういう期待がどのような結果をもたらすにしても、世の中の制度や仕組みなどが維持されるか、その内容が刷新されるにしても、その中で人や集団が活動していることは確かで、そのような活動に伴って利害関係や権力関係が生じたり、それによって人や集団の間で対立や連携などの関係も生じてくるだろうし、そういった関係の中で全面衝突を避ける目的で何らかの利害調整や妥協なども図られる成り行きにもなるわけで、そうした作用はいつの時代でも繰り返されてきたのだろうし、これからもそうした作用がなくなることはないだろうから、それに関わって生じる人や集団の思惑なども同じような傾向になるだろうし、考えることが同じならそれに伴って生じる活動も同じになるわけだが、社会の制度や仕組みが変わればそれに応じて対応の仕方は変わってくるだろうし、以前なら戦争が避けられないような事態でも、話し合いの継続で乗り切ることもできるようになるのかもしれないし、現状でも実際にそうなっているから平和が維持されている地域では戦争が起こりにくいだろうし、現状で内戦状態の地域でも遠い将来か近い将来かは何とも言えないが、現状への反省から次第に戦争が起こりにくい体質になっていく可能性はあるだろうし、そうやって平和が維持されやすい状況になってくれば、政治的にも経済的にも対立が起こっても、暴力を伴った全面衝突には至らずに利害調整で妥協するような成り行きになるかもしれないし、それが普通に行われるようになれば平和な状態が維持されることにもなるかもしれないが、そこからさらに進んで制度として利害調整のやり方が一定の仕組みを伴って行われるようになれば、対立して争う成り行きも形式化されてしまうわけで、その一般的な形態としては裁判の和解勧告などがあるのだろうが、そういう制度的な仕組みが社会の隅々にまで行き渡ってしまうと、かえって人や集団の活動が形式化されすぎてそこから外れる行為が許されないような状況となり、何か息苦しく窮屈な社会となってしまうのかもしれないが、人心がそのような社会状況に反発して自由な活動を求めるようになれば、自然と世の中の情勢もそういう形式的な傾向から外れるような成り行きになっていくのかもしれず、そうであるなら世の中の各方面で主導権争いをやっている様々な勢力の方でも、そうした人心の移ろい具合を的確に捉えてそれに対応しようとするだろうし、対応せずに逆に自分たちの都合のいい価値観を強要するように仕向けてくるようなら、それに対して民衆の方でも反発や反感を抱くだろうし、そうなるとそれらの勢力から人心が離反してしまうのだろうが、そういった成り行きの繰り返しによって歴史的な変動や循環が起こっているのかもしれないし、そんなところまで主導権争いをしている勢力が考慮しているわけでもないだろうし、そういうのは集団的な無意識のレベルで起こっていることかもしれないが、そんなところからも官僚機構などが目指す社会の制度的な形式化にも一定の限界があることは確かだろうし、そういう傾向へと一辺倒に目指すような取り組みには危うさがあり、たとえそういうことを行うのが合理的に思われるとしても、それをやっていくと思わぬところから障害に直面するのかもしれず、その主な要因としては活動の自由を求めることへの高まりとともに生じる人心の離反が挙げられるのではないか。
 社会を完全に管理統治するために行政がいくらでも法律や制度を増やせるわけでもないだろうし、実際に法律や制度を増やしてそれに関わる人員も増やすような成り行きになれば、それだけ仕事も増えて行政機構の規模も肥大化していくわけで、行政の規模が大きくなればそれに伴って予算も増えてくるだろうし、予算が増えれば税収を増やさなければ公債などの借金が増えるわけだろうし、そうなれば結果的に財政状況が悪化して厳しさを増すわけだが、そのような悪循環に陥らないためには税収で予算を賄える範囲で、その国の経済規模に合わせた適度な行政機構の規模にすればいいわけで、それに関して普通に考えれば公債などの借金が増えていくようなら、予算の規模も行政機構の規模も大きすぎるとみなすのが真っ当な認識なのだろうが、どれほど借金が増えれば財政破綻するのかは、実際に破綻してみないことにはわからない面もあるだけに、現状で何とかなっていればますます借金を増やすような成り行きにもなりかねず、そういうところで判断がつかない状況に陥りやすいのかもしれないが、本当のところはよくわかっていない実情があるのだとすれば、危うい面があることは確かだろうが、実際に財政破綻してもそれだけで国家や行政機構がなくなるわけでもないのだから、それに関して危機感が感じられないとしてもおかしくはないだろうが、行政機構自体にも別に社会を完全に管理統治しようとする意志が生じているとは言えない面もありそうで、それよりは現状維持の傾向の方が強い場合もあるのかもしれず、また行政機構と連携したり対立したり癒着したりする他の議会勢力や企業やメディアなどとの関係の中で活動が成り立っている面もあるわけだから、それらの各勢力間で力の均衡がとれていれば、それ以上に勢力を拡大したり争いを激化させたりする必要もないのかもしれず、それを微妙な均衡の上に成り立っている関係とみなすか、安定した強固な連携関係が成り立っているとみなすかは、関係する立場によっても見解の分かれるところかもしれないが、少なくとも現状でうまくいっている面に関しては、その場の安定を生み出しているとみなせるだろうし、各勢力との安定した関係を築いている面では現状維持の傾向が強く、それとは反対に不安定な関係にある勢力とは場合によっては対立や軋轢が生じているかもしれないし、そうなると争いを激化させて相手を屈服させるか、それができなければ交渉や取引を持ちかけて、妥協や利害調整を行うかのどちらの戦略を取るとしても、そういうところで新たな連携関係を築いてすでにそうした関係を築いている他の勢力との関係も考慮に入れつつも、うまく折り合いをつけられたら勢力を拡大させようとしたり、あるいは現状維持を図りつつも引き続き機会を捉えて新たな交渉や取引を持ちかけてくるかは、その場の状況次第な面もあるのかもしれないが、いずれにしてもそれが国内で行われていることなら許認可権などの行政の特権を最大限に活用しようとするだろうし、それに敵対する側でも行政側の不正行為を嗅ぎつけるために他の政治勢力やメディアや場合によっては行政の中にいる不満分子などと連携しようとするだろうし、そういうところで何らかのせめぎ合いが行わているのも事実なのではないか。
 そうであっても平和な状況下で勢力争いなどのせめぎ合いが行われている限りで、一般の民衆に危害が及ぶことはないのかもしれないが、それが事件としてメディア上で話題となれば、民意や世論などに一定の影響を及ぼして、政治家や政党などの政治勢力が事件に絡んでくれば選挙結果などに響いてくるだろうし、政府側の疑惑などが取りざたされれば、議会でもそうした問題について質疑が行われて、追求されるような成り行きにも発展するのかもしれず、そうやって争いが表面化するようならまだそれほど独裁的な権力状況にはなっていないことになるだろうし、政府の権力基盤もそれほど盤石ではないのかもしれないが、別にそれ以上に権力基盤を盤石にする必要もないのかもしれないし、かえって独裁体制などを築こうとして無理なことをやる成り行きになってしまう方が、微妙な力の均衡が崩れて世の中がおかしくなってくるのかもしれないし、そんな成り行きを避けるような作用が争っている勢力にも及ぼされている場合があるのかもしれず、それが何かというとたぶん民衆の争いへの不快感や無関心になるのかもしれない。逆に争いに関心を持って争っているどちらか一方へ積極的に加担する民衆が多いほどそれが社会問題化する可能性が高くなるわけで、争いに加わる人が多くなるほど争っている勢力の方でもそれらの人々に対して制御が利かなくなる恐れが出てきて、そうなるとちょっとした諍いをきっかけにして暴動などが発生して、そうした混乱につけ込んで警察や軍隊などが武力鎮圧などに乗り出すと、そうしたところから頭角を現す人も出てきて、その場の指揮権を統括して主導権を握るような状況となれば、日頃から規律訓練などによって統制がとれている集団であるから強権的な傾向が強くなるわけで、実際にそうした警察や軍隊などと手を結んで独裁体制が築かれることが多いのかもしれないが、それもいったんそうした過程を通過してその手の軍事独裁的な政権が猛威を振るった末に崩壊した後では、それが苦難の歴史として人々の脳裏に焼き付いてしまい、そうなるとそうしたことが二度と起きないような制度的な法整備が行われることにもなるだろうし、そうした過去への反省から独裁的な政権運営を行う恐れのある勢力には支持が集まらないような成り行きにもなるだろうし、支持が集まらないどころか、積極的に嫌悪感を示すような民衆が多いほど世論もそうした傾向になるわけで、実際にそうした傾向から民主的な政治体制が確立される成り行きにもなるのかもしれず、そうした体制の下では争いを激化させるよりは妥協や利害調整を行なって争いを沈静化させるような傾向の方が強くなるのではないか。そうなるとそこで様々な勢力間で争われている実態があるものの、それが破局的な方向へは推移せずに交渉や取引によって妥協や調整が図られるような成り行きになれば、さらにそうした傾向がより一層の争いには無関心になったり嫌悪感を示すような民意や世論をもたらして、それによって状況の安定や勢力間の力の均衡が実現しやすい環境になってくるのかもしれず、結局はそうした歴史的な経緯の積み重ねが平和な世の中を実現することにもなるのかもしれないが、それでも絶えず状況は揺れ動いていて、別に現状が理想的な状況であるわけでもなく、いつも過渡的な状況でしかないだろうし、今後どうなるかは現状に左右されるのではないか。

 そもそも行政が社会を管理統治するということは、争いをなくして平和な世の中を実現するためにそうしているわけだろうし、その管理統治に刃向かうということは逆に行政と争うことになるわけだが、争う原因が行政の管理統治にあるとすれば、争いをなくして平和な世の中を実現するための管理統治とは矛盾してしまうわけで、結局は行政による管理統治によって世の中に権力関係や利害関係が生じてしまうとすれば、そのような関係を巡って争いが起きるのは当然だろうし、そうであるならはじめから争いをなくすための管理統治自体が間違っているとも言えるわけだが、では権力関係や利害関係を伴わない管理統治の手法があるのかといえば、管理統治すること自体が権力関係や利害関係をもたらしてしまうのだから、そんなものはあり得ないことにもなってしまい、要するに管理統治によって世の中の平和を実現することは不可能にも思われてくるわけだが、そのような矛盾に対する折衷的な妥協案として、争いのある平和を実現するために行政が管理統治を行っていると捉えれば、実際にはそんなことを目指しているわけではないにしても、現状を考えれば少しは納得できるだろうか。要するに行政による管理統治によって争いが生じることは避けられないにしても、そのような争いを管理統治によって制御しようとしているのが行政の活動であり、そこでいう争いの制御とは交渉や調整によって争っている双方から妥協を引き出すようなやり方になるのだろうし、それが行政以外で具体的な制度として確立されているのが、交通事故の示談交渉とか裁判の和解勧告や民事調停などになるのだろうが、行政が活用する制度としては審査や検査を通した許認可権の行使となるわけで、それは行政側が提示した規格に合うものだけを許可するという一見一方的な権力の行使となるわけだが、審査や検査を受ける側が受け入れがたい規格ではなく、努力して規格に合わせれば合格するような程度であり、なぜそうやって規格を設けるのかといえば、それが各種の安全基準を満たすような規格となるわけで、そうした基準に合わせてもらわないと世の中に何らかの危害をもたらす危険性があるから、それらに規制基準を設けて社会を危険から守っていることになるわけで、それは交渉よりは調整に重きを置いた制度であるわけだが、だからと言って交渉の余地がないわけではなく、何らかの条件をつけて許可するような場合もあるわけで、そのような条件を行政との交渉の中で引き出すことも不可能ではないだろうし、そうした条件を引き出すのが政治家や弁護士や市民活動家などの役目になることもあるだろうが、そこで企業や政治家などが絡んでくると贈収賄などを絡めて不正に許可を得るような試みも出てくるわけで、確かに制度そのものは合理的に作られている面はあるわけだが、それをねじ曲げようとする違法行為を許すような余地も生まれるわけで、そういうところが制度的な限界であり、では他にどうやればいいのかと言われても答えなどないのかもしれないが、そのような管理統治には必ず違法行為が絡んできて、そうすれば経済的な利益を得られるからそういう行為が後を絶たない状況をもたらしているわけだ。
 別に違法行為が後を絶たないからといって、それを取り締まればいいわけだから、違法行為を取り締まることも行政による権力の行使を伴った活動になるわけだが、物事に規格を設けてその規格に適合する物事だけを取り扱う許可を出して、適合しなかった物事は許可されないし、違法に許可を得ようとしたり規格に適合しない違法な物事を取り扱う人や集団を取り締まることが、行政の活動全般において主な仕事になるのだろうが、その物事を取り扱う行為というのが物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費に絡んだ経済活動であり、またそれ以外の人や集団の活動も取り締まりの対象ともなるだろうし、それらの活動の何から何まで行政の許可を必要とするわけでもないだろうが、とりあえず法律に違反した行為は取り締まりの対象となることは間違いなく、そうした管理統治のやり方は法治主義に基づいて行われるとみなせばそれほど間違ってはいないだろうが、とりあえず取り締まりの対象となる違法行為を行ったところで、それが行政に見つからなければ実際に取り締まられることはなく、中には見つからないように違法行為をやっている人や集団もいくらでも存在するだろうし、そこにも管理統治に限界があることはわかりきったことかもしれないが、中には違法行為を助長させるような管理統治もあるのかもしれず、それは行政が提示する規格が厳しすぎてまともに安全基準を守っていれば経済的な利益を得られないような状況をもたらすことであり、そうなると誰もが違法行為を自覚しながらもそれをやらざるを得ないような成り行きになってしまうのかもしれないし、例えばそれが排水の水質基準や煤煙や排ガスの基準などになると、基準をクリアするには多大な設備投資が必要となり、資本力のある大企業でないとそのような基準を守ることができない場合が出てくるわけで、そうなると資本力の乏しい中小企業などは利益を出すためというよりは生き残りをかけて違法行為を行うような成り行きともなるわけで、そういうところで厳密に取り締まりを行って中小企業ばかりの地域産業を壊滅させてしまったら、税収を得られなくなってしまう事態も生じるようなら、監督する立場の行政としても何らかの手心を加えるような成り行きも出てくるのかもしれないし、場合によってはそういう行為を違法ではないようにするための条件まで設定することにもなるわけで、例えば事業規模に応じて基準を緩和するようなことにもなるだろうし、小規模な事業者には緩い基準を課して、設備投資できる余力のある大規模な事業者には厳しい基準を順守させるような成り行きも生じてしまうとすれば、そこで調整が行われていることにもなるだろうし、それは行政側による妥協だとも言えるわけで、そういうことをやるのがきめ細やかな管理統治とも言えるわけだが、民間の事業者は経済競争の中でそういう成り行きを受け入れるわけだから、少しでも利益を出そうとして違法行為に手を染めてしまう誘惑に逆らえないような成り行きも生じてしまうだろうし、結局どうやるにしても違法行為に対する取り締まりを行わないとならない成り行きになってしまうわけだろうし、そういうところで業者との交渉や調整は必要不可欠だとしても、その一方で強権的な取り締まりも必要不可欠になるというジレンマが常に生じてしまうのではないか。それが争いを伴った平和な状況ということなのかもしれない。
 そうした活動に限界や矛盾を孕んだ行政活動に対して政治活動の方はどうかというと、国内の行政活動に対する内政に関しても他の国との外交に関しても政治と行政の連携が欠かせないだろうが、それとともに同盟関係にある国との連携も考慮して、貿易や安全保障などに関して同盟国と何らかの協議を定期的に行わなければならなくなるだろうし、ましてや国連などでの活動も絡んでくると、同盟国だけではなくそれ以外の国との協議も行わなければならなく場合も出てくるだろうし、そうでなくても近隣諸国とは別に同盟関係がなくても外交的な交渉や駆け引きが必要ともなってくるわけで、そうなると内政と外交の区別なく取り組むべき課題も出てくるのかもしれないが、確かに貿易も安全保障も自国だけの都合を優先させるわけにはいかず、貿易の相手国の経済状態や近隣諸国との軍事バランスなども考慮しなければならないとなると、経済関連や軍事関連の予算は自国だけの都合で決めるわけには行かなくなるだろうし、そうなるとそれに引きずられて他の予算にも影響が及ぶような成り行きにもなり得るだろうし、そういうところで難しい対応を迫られるのかもしれないが、今の時代に鎖国は通用しないだけに、内政と外交を切り離して各分野ごとに専念するようなやり方ではなく、内政と外交を連動させるような政治と行政のあり方が求められてくるのかもしれないが、どのように連動させるかとなると、内政においても外交においても関係諸国との歩調を合わせるような試みを重視する成り行きになるのかもしれず、それに関して多くの国が同じような制度で統一されていれば、何かと歩調が合うのかもしれないが、その国に他の国にはない特殊な事情があるところでは歩調を合わせられないわけで、その特殊な事情というのが外交問題に発展してしまうと、関係諸国との外交関係がこじれてくるわけで、しかもその特殊な事情に関して譲歩できない場合は、それが外交摩擦や貿易摩擦などの要因となるだろうし、大抵はそういうところから険悪なムードが醸し出されてくるわけで、譲歩できなければいかにしてごまかすかということになるわけだが、大概はその国だけに特殊な事情があるわけでもなく、どの国も一つや二つそういう事情を抱え込んでいるのかもしれず、そういう事情をお互いに外交カードとして押さえておけば、それを梃子にして譲歩や妥協を引き出せる可能性も出てくるだろうし、そういうことが国家間の外交交渉の場で協議される成り行きになるのかもしれないが、国内の課題としてそうした特殊な事情をできるだけなくすような努力も求められているのかもしれず、できるだけ世界標準のような制度にしていけば、外交摩擦や貿易摩擦などを最小限に食い止めることができるかもしれないが、それに関して例えば資源などの地域的な偏りはどうすることもできないし、また地政学的な国の位置関係や気候や面積や人口などもどうすることもできない事情となるだろうし、そこから物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費に特有の傾向が出てくるわけで、そうした事情を考慮すればどうにもできない特有の事情が生まれてくるだろうし、そこから必然的に内政においても外交においても問題が生じてくるのではないか。
 その地域が歴史的に国家というまとまりに至った経緯にもそうした特殊事情が絡んでいる場合があるわけで、そういう事情があるからなかなか世界が一つに統一できないのだろうし、逆に言えばそうした事情をなるべくなくして行けば、だんだん世界が一つにまとまっていく傾向になるのかもしれないが、現状ではなくなっていないから世界が各国に分裂しているとも言えるわけで、その無理になくそうとしているわけではないにしても、容易にはなくなりそうもない特殊な事情というのが、国家というまとまりを支えている可能性もあるわけで、しかもそれが他の国との関係をこじれさせるような問題を生じさせているとすれば、やはり国家という存在形態が矛盾を孕んだ存在なのだろうし、そうした矛盾を承知であえて言うなら、国という存在が他の国との対立や軋轢を生じさせているのであり、一方ではそうした対立や軋轢があるからこそ国がそこに存在しているとも言えるわけで、それは国としての政治活動や行政活動では解消しようのない矛盾を抱え込んでいるとも言えるだろうし、また矛盾を解消しようとして政治も行政も活動しているのではないし、矛盾があるからこそ政治も行政も独自に活動する余地が生じているとも言えるのではないか。要するに国家の存在という解決できない問題が政治や行政の活動を成り立たせているとも言えるわけで、それと同様にそこに管理統治の対象として国民という存在も生じさせているわけだが、そういうレベルの問題になると解決しようがないだけに、普通は問題視されない傾向にあるだろうし、そういう考慮されない問題を抜きにして国家レベルの問題に対処しようとするわけで、そうなるとどこまでも交渉や取引によって譲歩や妥協などの調整を続けなければならず、それは終わりの来ない作業になるのではないか。いくら調整しても問題の解決には至らないのかもしれないが、調整することによって破局的な事態にいたることは一時的に回避されるわけで、そういう一時的な回避を延々と続けてゆけば現状の維持につながるのだろうが、そこでいう現状維持とは世界が様々な国に分裂している状態であって、調整を行なっている当事者の理想は世界を統一することにあるのかもしれないが、それを成し遂げられていない現状があるわけで、その現状を反映した分裂状態の中で終わりのない調整を続けているわけで、原理的には調整を続けてゆけば国家間の制度が似通ってくるだろうし、ほとんどの国が同じような制度を採用する事態ともなれば、実質的にはどの国も変わらない状態になるはずだろうが、やはり現状ではその調整が難航しているから国家間で対立や軋轢が現に生じているのだろうし、実際に調整を行なっている反面で対立や軋轢を助長するような活動も政治の場でも行政の場でも行われているわけで、そういう活動を煽っているのが政治の面では国家主義的な運動なのだろうし、経済の面では保護主義的な圧力なのだろうが、そういう運動や圧力を講じている勢力が拠り所としているのが国家的な特殊事情となるわけで、その国の利益を第一と考える理由もそこから生じていて、国家レベルで問題を捉えればそうなるのが当然だろうが、元を正せば国家という存在がそういう問題を生じさせているのだから、そのレベルで考える限り解決しようがない問題となってしまうのではないか。
 そうであっても普通はそういうレベルで物事を考える成り行きにはならないだろうし、たぶん世の中で生じている出来事の中で何が重要で何が取るに足りないことだとしても、人によって立場によってそれへの受け止め方は千差万別かもしれないが、事の成り行き次第で取るに足りなかったことが俄然注目を集めることにもなるのかもしれず、たとえ世間の注目を集めたからといって自分にとっては何でもないことでしかない場合もあるだろうが、その何でもないことがそれだけにとどまらない場合があるとしたら、その出来事に何らかの成り行きが付け足されて、その後に思わぬ展開が待っていたりする場合だろうし、それが事態の流動性を作り出すような成り行きなのだろうが、実際に取るに足りない些細な出来事が連なって、それらが共鳴現象を起こして結果的に時代の大きなうねりを作り出すような成り行きにもなるわけで、現状においても世の中で起こっている無数の取るに足りない些細な出来事が重なり合って、共鳴現象を起こそうとしているのかもしれないが、普通に暮らしていてそれを意識できるのは稀なことかもしれず、それは誰もが気づかないままやり過ごしてしまうようなことなのかもしれないし、そのような現象を特定してどうこう述べてみても、あまり実感が湧いてこないだろうし、実際に実感を伴わない現象だから気づきにくいのだろうが、誰もが気づいた頃には大勢が決していたりするわけで、誰もが気づかない段階でどうにかしないとそういう成り行きを食い止めることはできないわけだが、その段階では誰もが気づかないのだから、結果的にそんなことはできないのだろうが、別に食い止めようとしなくても構わないのかもしれず、普通でも物事の大勢が決してからじたばたするような成り行きとなるわけで、そんなじたばたしている状態が世間の注目を集めている状態であり、メディアが事件を大きく取り上げて事の次第を報道している状態なのだろうが、そうだとすればそうなる前に実質的には大方の活動が終了していることにもなるわけで、実際に活動の結果だけをメディアが伝えていることにもなるわけだから、メディアが伝えている事の次第はいつも後追い的になっていて、伝えている出来事に付け足された成り行きが報道という活動になるわけだ。要するにそれも共鳴現象の内に入る些細な出来事なのかもしれないが、そんな共鳴現象が何をもたらすのかといえば、世の中から反響をもたらすわけで、そういう世間的な反響が大きなうねりとなって政治や行政を動かすに至ることもあるわけだが、いったんそうなって決してしまった大勢を覆すことは難しいだろうし、覆せなければ反響をいなしたりはぐらかしたりするわけで、そんなはぐらかしの類いが功を奏して被害を最小限に食い止めることができればいいわけだが、そこでいう被害とは政治や行政にとっては否定的な反響からもたらされることかもしれないが、すでにそうなった時点で無理に無理を重ねているような成り行きになっているわけで、それが政治や行政を巻き込んで法律や制度を捻じ曲げるような行為になれば、結果的にメディアが報じざるを得ないほど無理を押し通そうとしていたわけで、それが結果的に明らかとなったならば、力関係として制度の方が優先される成り行きの方が勝ったということになるだろうし、政治力によって制度をねじ曲げようとした力が及ばなかったことになるのではないか。
 それが政治活動の全体から見ても行政活動から見ても取るに足りないことだとしても、そういう些細な不正を押し通そうとすることに引きずられて、活動の全体でもそういうやり方を許すような傾向が蔓延してくるわけで、たとえ些細なことでも無理なゴリ押しや融通を利かせずに法律や制度に則ったやり方が推奨されることは一般的には正しいと思われるだろうし、何から何まで愚直に法律や制度に則ったやり方を押し通すべきだとは誰もそうは思わないだろうが、不正な行為を行なったらそこで終わりではなく、事後処理をうまくやらないと後で尾を引いてしまうのかもしれず、そういう面で物事をこじらせないようにするにはどうしたらいいのかというと、それはそれとして制度的に処理する以外にはないだろうし、不正が明らかとなったら不正をさっさと認めて関係者を処分すればいいだろうし、その処分の度合いを調整してなるべく被害を最小限に食い止めるようなやり方が望ましいのかもしれず、そういう対処をせずにいつまでも不正を認めずに疑惑を長引かせて逃げ切りを図ろうとすると、かえってこじらせてしまうのだろうし、それも事の成り行き次第な面も大きいのかもしれないが、法律や制度に絡んだ交渉や駆け引きにおいては、たとえ不正に手を染めているとはいえ、それでも法律や制度の範囲内で処理すれば、いくら批判されても事の幕引きが迅速に済んでしまえばそれ以上は追求されないだろうし、そうはならずに事をこじらせてから何とか収拾を図ろうとしても、事態の収拾はそう簡単にはいかないだろうし、そういうところから思わぬ展開が生じてしまうかもしれないし、それが取り返しのつかない事態を招いてしまうと大ごとになるのだろうが、たぶん時期的にそういう出来事が頻発するような情勢になる時期があるのかもしれないし、政権を担っている側で不祥事が頻発する時期は、それが国家として国力が退潮傾向を示し始めた時期と一致するかもしれないが、そういう見方も恣意的で大雑把すぎるのかもしれないし、普通に考えて法律や制度と世の中の情勢がずれてくれば、違法行為や不正行為を行わないと、やろうとすることができないような状況になってくるのかもしれないし、そのやろうとしていること自体が現状からずれたことをやろうとしている場合もあるだろうし、不正行為をやってまでやらなければならないと考えていること自体が、現状認識が実際の現状からずれている証拠になるのかもしれないし、そんなふうにしてやろうとしていることや考えていることがなぜ現状からずれてしまうのかといえば、それが誰もが気づきにくい些細な無数の出来事が重なり合って共鳴現象を引き起こしている過程が、ずれたことをやろうとする人や集団を時代遅れに追いやっている成り行きなのかもしれず、それを自分たちの都合に合わせるために無理なゴリ押しによって法律や制度を捻じ曲げてまでやろうとしても、たとえ政府内で主導権を握っている勢力を味方につけても、いつまでも無理を利かせたままに保つのは難しいのかもしれず、どこかでずれを修正するような成り行きが生じてしまうのだろうし、それが法律や制度を基に活動する行政の宿命であり、しかも自分たちの都合に合わせて法律や制度を作り変えようとすることと、現行の法律や制度を捻じ曲げて無理なゴリ押しを通そうとすることを同時進行で行おうとすれば、やはりどこかで破綻が生じてしまうのは当然の成り行きなのかもしれない。

 行政が守っているはずの法律や制度には、それを管理運営している行政の都合が反映していることは確かだが、その一方で世の中の情勢も反映されているだろうし、そこで暮らしている住民が法律を守って制度に従っている状況が、当の法律や制度にもフィードバックされていて、またそれを破って不正や違法行為が行われている実態もフィードバックされているだろうし、絶えずそうやって法律も制度もそのような実態に対応して調整が図られているだろうが、その中で特定の勢力を利するような一方的な事情が法律や制度に反映されると、それ以外の人や勢力には奇異に映るだろうし、本来あるべき法律や制度に備わっている公平性や平等性を著しく欠いているようにも思われるかもしれないが、それも法律や制度を変更したり修正する過程で関わってくる様々な勢力の間で行われる交渉や駆け引きの中で決まることかもしれず、そこで主導権を握っている勢力の都合が反映される可能性が高くなるのだろうが、それが政党などの政治勢力だとすれば、選挙で民衆の支持を得て議会などで多数の議席を獲得して主導権を握るような成り行きから変更や修正が加えられれば、そのような法律や制度の改正には民意が反映されているとみなされるだろうし、別にそれが奇異に映るような感じにはならないだろうが、そうではなく非合法的な軍事クーデターなどで政権を奪取した勢力による改正になると、民意に反する独裁体制を正当化するような内容となって、それらの勢力による圧政を象徴するような法律や制度となってしまうわけだが、そのどちらでもないような法律や制度の改正というのもあり得るだろうし、例えば世の中で虐げられている人々を救うような内容になれば、それは人道的な配慮と受け止められるだろうし、普通は善意からそのような改正を支持する世論が大勢となるのだろうが、例えば死刑制度を廃止するような改正だと賛否が割れるかもしれないし、それが死刑囚への人道的な配慮だとしても、違法な行為に対する処罰である面を考慮して反対する割合も高くなるだろうし、それでも世論の反対を押し切って死刑制度を廃止したりするのには、現状の世論だけではなく将来の世の中への影響を配慮するような高度な政治的な判断を要するのかもしれず、そういうことまで考えて法律や制度のあり方が議論されるような環境が現状であるかといえば、何ともいえないような現状なのかもしれないが、そんなことまで考える必要はないかもしれないし、法律や制度のあり方自体がとりあえずのものでしかなければ、必要に応じて変更して行けばいいことであり、世の中の情勢に合わせて、またそこで主導権を握っている勢力の都合にも合わせて絶えず変化していくようなものなら、そこに恒久的な社会の理想を追求するような理念や精神などを反映させなくても構わないのかもしれないが、たぶん憲法には現にそういった内容が謳われているわけで、たとえそれが建前でしかないとしても、時にはそういった内容を真に受けて理想主義的な主張をするような必要も出てくるかもしれないし、功利的な利益の追求だけでは済まなくなってきた時には、そうした建前として理想主義的な意見を主張しなければならなくなるだろうし、しかも本気でそういうことを述べなければならなくなるのかもしれず、生真面目にそういうことを述べられるような環境も時として必要となってくるのかもしれない。
 また法律や制度がそこにあるというだけではなく、それらの運用の実態がそこで暮らしている人や活動している人や集団にとって、公平で平等であるべきなのかもしれないが、その法律や制度を対象としているのが、全ての人や集団ではなく特定の人や集団に限られている場合があるだろうし、それらの人や集団が世の中に害を及ぼさないように歯止めとして法律や制度を設けている場合があるとともに、また世の中で虐げられている人や集団を救うべくそれらの人や集団を優遇するような法律や制度もあるわけで、そうやって社会で生じている不均衡や不平等を法律や制度によって調整して、均衡や平等な状態を実現させる主旨も法律や制度の目的として含まれているわけで、そういう面を考えると、やはり恒久的な社会の理想を追求するような理念や精神などが法律や制度には反映されていることになるのだろうし、功利的な利益の追求だけでは社会が成り立たないから、それとは異なる傾向を法律や制度に盛り込まないとうまくいかないということだろうし、そうした点で勢力争いに勝って自分たちに都合のいい事情を法律や制度に反映させるような思惑とは違った傾向があるわけだが、実際にはどちらの傾向も持ち合わせているのかもしれず、どちらの傾向が強くなっても世の中がうまく回っていかないのかもしれないし、どちらか一方だけを強調するような主張では説得力やリアリティを得られないのかもしれないが、人々の実感としてはそうではなく、それとは違う偏向した主張や煽動になびいてしまうような風潮が、特定の勢力が行う戦略的な活動によってもたらされているのかもしれず、何かそれが経済的な利害関係とともに講じられると説得力やリアリティを伴ってしまい、そういうところで単純化された思考が信じられてしまう成り行きも生まれるだろうが、それを信じてそういう風潮をはびこらせている勢力に加担しても、誰もが利益を得られるわけではないことはわかりきっていて、経済的な活動によって成功できるのは競争を勝ち抜いた人や集団に限られる場合がほとんどだろうし、そのような傾向を信じてそれに従っても、必ず成功できるわけではないのに、やはりそうした傾向に従ってしまうということは、そんな成功への夢を振りまいて宣伝や煽動を繰り返している勢力に踊らされているということになるだろうし、またそうした成功を目指して失敗した人たちが大勢いるから、成功したわずかな人たちに多大な利益がもたらされる成り行きにもなるわけで、そういう面を考慮すれば法律や制度はその手の成功する人たちよりは、失敗した大勢の人たちのためにあるべきなのだろうし、あまり勢力争いに勝って自分たちの都合を法律や制度に反映させるようなことはやらない方が良さそうにも思えるのだが、それに関して理想を目指すならば、その手の勢力争いに勝った側が自分たち以外の全ての人や集団の利益を考慮した法律や制度を作るような成り行きになればいいわけだろうが、そうなると功利的な利益の追求とは真逆の対応となるのかもしれず、それを実際に行うのにはそういうことをやらせるような民意や世論が必要となってくるわけで、結局は世の中で蔓延している宣伝や煽動に踊らされていても、誰もがそこから利益を得られるわけではないことを自覚していれば、そういう宣伝や煽動が与える安易な幻想に惑わされずに、誰にとっても公平で平等な法律や制度を支持するような成り行きになるかもしれず、そうなればそのような傾向を推し進める政治勢力が選挙で勝利して主導権を握るような成り行きにもなるだろうし、だからと言ってそれが経済的な利益に結びつくとは限らないかもしれないが、少なくとも公的な法律や制度としてはそういう傾向がある方が無難なのではないか。
 そうはいっても経済活動に伴って功利的な利益の追求が必然的に生じてしまうし、人類の文明を支える活動の主体が経済活動であり、具体的には物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費になるわけだが、それらの活動を制御する活動というのが行政の活動になるわけで、さらにそれに輪をかけて行政の活動を制御しようとする活動が政治活動になるわけで、それが活動の主体となってしまうと、それを支えている大元の物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費に関わる経済活動から意識や関心が遠ざかってきて、ともすれば政治活動を主体的に行なっている人や集団にとっては、経済活動を考慮せずに政治活動自体によって世の中を変えられると思ってしまうのも別におかしなことではないだろうが、実際には政治活動によって変えられると思っている世の中のレベルと、経済活動によって人類の文明が支えられているレベルとでは、質的にも規模的にもかなり内容に違いがあるだろうし、政治活動によっては変えられない部分というのもいくらでもありそうに思われるのだが、具体的にその変えられない世の中の部分が政治活動にどんな影響を及ぼしているかといえば、経済的な利害を超えた判断を許さないということだろうし、国益が邪魔をして国際的なレベルでの平和を実現できなかったり、国境を超えた人や物やサービスなどの自由な往来を阻害したり、国内でも経済活動を優先させて住民の間で貧富の格差を招いたり、行政の予算の膨張に歯止めをかけられずに財政赤字が拡大してしまっていることなどが挙げられるが、では政治活動によって制御できる部分は何かといえば、経済的な利害を踏まえながらもそうした利害によって不利益を被っている人や集団を行政的な措置によって助けることであったり、国益を守ることを前提としながらも他国の政府などとの交渉や駆け引きによって平和の実現を目指したり、国境を超えた人や物やサービスの自由な往来を実現するために、それによって不利益を被る恐れのある国内産業の強化を目指したり、自由貿易を推進するために法律や制度などの面で他の国との差異を縮める努力をすることであったり、経済活動によって貧富の格差が生じていれば、格差を縮めるような税制の改正や福祉などの政策を実施したり、財政赤字の拡大に歯止めをかけるために、行政の無駄をなくして効率的な行政の運営を目指したり、それらのどれもが根本的な解決には至らないまでも、解決に向けて努力することであったり、交渉や駆け引きによって利害調整を行うことであったりと、絶え間なく現状の改善に向けて対処し続けることであると同時に、そのような活動を継続することが目的化しているとも言えるわけで、それ自体がサービス的な作業であり、活動を継続させるための活動であるような循環的な作業でもあり、それが単体として独立して成り立っているわけではなく、他の活動に付きまとうような寄生的な面もあるわけで、だから実態の定かでない活動となりやすいのかもしれないが、そうである限りにおいて政治活動そのものが不要になる場合さえありそうで、何かそこで揉め事や争い事が起きた時だけ必要な活動なのかもしれないが、それはそれで他にもそういう活動を専門とする職種があるわけで、別に政治だけに特有な活動というわけでもないし、そういう意味で他の様々な活動の隙間に入り込んで利害調整を行うような活動となるわけだろうし、それだけにいかがわしい面もあることは確かだが、一応は法律や制度の範囲内で活動が規定されていることも確かであり、形式的には専門的な職種の部類に入る面もあるわけだ。
 そうした両義性が政治活動の限界とともに可能性も生じさせているかもしれないが、その一方で何かはっきりした確証はないが、世の中を変えられるような幻想も抱かせたりもするわけで、何かできるのではないかと期待されながらも、実際にはオーケストラの指揮者のような役割を演じながらも演じているだけにとどまっていることを自覚できなかったり、見せかけだけの演技を一般の民衆からも見抜かれて支持を失ったりもするわけで、メディアを通して何か主張するにしても、主張通りのことが実行できるのかというと、行政や他の勢力との絡みもあってうまくいかないことが多く、主張している内容と実際にやっていることの間で落差が大きいほど支持も信用も失うだろうし、それがなかなか有言実行というわけにはいかないのは、やはり政治単体では何もできない事情があるからで、政治と行政が一体化しないと政治的な主張が具体的な動作を伴うような段階まで至れないわけで、だから政治と行政とは癒着しやすいのかもしれないが、それが行政機構の中での作業を経る過程で変質しやすい面もあるだろうし、行政の思惑も介在してくると行政側の都合が反映されて政治の側の主張との間でずれも生じてくるのかもしれず、結果的に改革が骨抜きになったり妥協的な内容となるのはある程度は致し方ないことかもしれないが、政治的な主張を真に受けてそれらの政治勢力を支持した民衆にとっては期待外れであったり、場合によっては裏切り行為だと思われたりもするわけで、それが政治不信や政治への無関心をもたらす原因となっているのかもしれないが、政治活動の性質を考えればそこで終わってはまずいわけで、それはあくまでも暫定的な結果であり活動を継続させるための途中段階であるだろうし、たぶんそこからさらに活動を前進させて行政との交渉においてもさらなる譲歩を引き出して、当初の主張に活動の実態を近づけるような作業を必要とするのかもしれないし、そういうことを考慮に入れるならば、一時の結果だけから政治勢力への不支持や不信感や失望を露わにしても仕方がないのかもしれず、ある程度は継続して活動を支えて行かないと政治的な主張を実現する段階にまでには至れないのだろうし、そういうところでなかなか見切りをつけるのが難しい面があるのかもしれないが、あまり拙速に手のひらを返すような批判をするのも逆効果となるだろうし、結局は政治家や政党と民衆の間で絶え間ないやり取りや対話を続けていく中からお互いの信頼関係も生まれてくるだろうし、そうやってもなかなか双方が納得のいく結果には至らないかもしれないが、そこにはやはり政治活動の限界もあるわけで、それに関しては法律や制度などから生じる制約も絡んでくるだろうし、だからと言って政治活動によって世の中を変えるなどというのは幻想に過ぎないと思うのも、世の中を変えようとして政治活動を行なっている趣旨には合わないだろうし、妥協的で無難なことを述べるなら、政治活動にも他の様々な活動と同じように何らかの制約や限界があるにしても、そんな制約や限界を受け入れつつも、できる限りのことをやっていく以外にあり得ないのだろうし、それは他の活動全般においても言えることかもしれないが、根本的には人や集団が行なっているどのような活動も部分的な領域にとどまるものでしかなく、その全てを制御できるような活動は未だかつて存在しないと考えておいた方がいいのかもしれない。
 そして政治的にも行政的にも活動の建前として主張される法の下での万人の平等という理想には、資本の集積を利用した利益の追求という経済活動の現実とは正反対の意味合いがあるかもしれないが、誰もが自由に経済活動ができる世の中であれば、何か平等に経済活動を行なって成功するチャンスがあるようにも思われるかもしれないが、成功するのと成功するチャンスがあるのとは違うだろうし、また成功のチャンスを生かすも殺すも運次第な面もあるだろうし、また成功するには努力が必要だとも言えるわけで、さらに一生懸命努力しても必ず成功するとは限らない現実もあるだろうし、実質的な平等と法の下での平等と成功するチャンスが平等に与えられているのとではやはり意味合いが異なってくるだろうが、法の下での平等が実質的な平等を表しているわけではなく、そこには運や実力や努力や才能や地縁血縁や貧富の格差などの不平等な要因が必ず介在してくるのであり、政府や行政機構としてもそこまでの平等は保証できないが、少なくとも法の下での平等だけは最低限保証するということであり、それも権力関係や利害関係などが絡んでくると保証できなくなる場合も出てくるわけで、実質的にそれは理想からは程遠い平等であるかもしれず、そんな現状の中で政府も行政機構も万人が平等な社会を実現しようとしているわけではないだろうし、経済的にも世間的にも成功するチャンスは何らかの形で誰にでも与えられているとしても、実際に成功する人は限られている社会が実現していて、その中で生まれながらの不平等はなくすような努力は払われているものの、それが法の下での平等に結びつくからだが、それ以上の平等は政治的にも行政的にも実現しようがないのではないか。だから実際に実現している社会の中では様々な面で不平等な実態があるわけで、政治的にも行政的にもできる限り不平等な実態の中で不利益を被っている人たちを助けるような政策が施されるような成り行きが期待されているだろうし、それが人道的な方面での期待なのだろうが、実際に行われている政策の中でそういう方面での期待に応える割合はそれほど高くはないだろうし、それよりは産業振興や経済の活性化や安全保障などの面の方が重視されていて、どちらかといえば誰にでも成功するチャンスがあるような社会の実現を目指している面の方が大きいのかもしれず、それを象徴する言葉が新自由主義と呼ばれて良くも悪くもメディア上で話題となっているのかもしれないが、そのような風潮に関して押さえておかなければならないのは、確かにチャンスはあるかもしれないがそのチャンスを生かして成功できるのはわずかな人たちであるということだろうし、その誰にでもチャンスがあるというキャッチフレーズに惑わされて、何かそれが平等にチャンスが与えられていると思うのはそれほど間違ってはいないだろうが、肝心なのは成功を手にすることができるのはわずかな人たちだということであり、そうなると結果的に実現するのはわずかな成功者とその他大勢の成功できなかった人たちが出現する不平等な社会となるわけで、別に万人が平等な社会が実現するわけではなく、普通に考えれば格差社会が実現するわけだろうが、たぶんそれでも誰もがわずかな成功者になりたいわけで、それに関してそんなに反感を抱くわけでもないだろうし、そういう世の中の意識が現状をもたらしている面もあるのではないか。
 もちろんそのような社会を政治や行政がもたらしているというよりは、資本主義的な経済活動によってもたらされていると考えた方が妥当だろうし、政治や行政の方でも資本主義的な経済活動に依存しているのだから、そのような風潮に逆らうわけにはいかないのが実情だろうし、政府や行政に対する批判として不平等な格差社会をもたらしているというのは、部分的に間違っているわけではないだろうが、現実的な方策として新自由主義を唱えることに関して、さすがにあからさまにそのような主義を礼賛するのは得策ではないだろうし、実際にもそうではないだろうし、建前として社会的な弱者救済のような政治宣伝をメディアを通して行なっているだろうし、それは建前というごまかしでしかないのかもしれないが、では新自由主義の反対の概念とみなされる保護主義になればいいのかというと、それも違うのは当然であるから、新自由主義とか保護主義とか言うレッテル貼りではなく、そのような主義には囚われない柔軟な対応が求められているのだろうが、それが具体的に何をどうすればいいのかとなると、その場の状況に合わせて臨機応変な対応をするしかなく、それに関して制度的に調整できるのは関税障壁になるだろうし、さらに非関税障壁とみなされるような各種の国ごとに異なる厄介な事情も抱え込んでいるわけで、それを国家間で交渉して調整するのが政治や行政に求められていることだろうし、そのような交渉過程や結果から、ある面では新自由主義を推進しているように見られたり、また別の面では保護主義的な政策をとっているように見られたりするわけで、そのような見方から批判がなされるのだろうが、だからと言って他にどうすればいいのかとなると、そうする以外にやりようがない面もあるわけで、それの良し悪しは最終的に民衆が選挙で判断することでしかないだろうし、交渉の過程や結果がうまくいっていないと思う人の割合が多ければ、場合によっては政権交代して別の政治勢力に政権を任せるのも一つの判断としてはあり得るだろうが、それだけが選挙の判断基準でもないだろうから、他の様々な要因が加わった判断になるだろうし、結局はそういうことの継続や積み重ねによって政治や行政の活動も行われていて、それが何らかの成果をあげる時もあるだろうし、またうまくいかない時もあるわけだが、うまくいったからといって全体的な枠組みが様変わりするわけではなく、またうまくいかなかったとしても同様で、経済活動が行われている中でそれに依存して政治も行政も活動している実態は変わらないわけで、経済活動が続いている限りはそれらに依存する勢力の間で絶えず利害の調整が行われるわけで、その勢力の中には企業などの民間の勢力が主に活動しているわけだが、他に政党や行政機構などの公的な役割を担う勢力もそれに関わってくるわけで、そのような勢力が関わって構成されるのが政府と呼ばれる国を管理統治する機構であり、その管理統治機関に一般の民衆が影響力を行使しようとするには、制度的には選挙の時にしか行使できる機会は与えられていないだろうし、しかも選挙の時にする判断には経済問題以外にも様々な争点がメディア上で示されるだろうし、それらを勘案して投票するわけだから、別に平等な社会を築くことが選挙の争点になるわけではないし、また政府の経済政策の良し悪しだけが争点になるわけでもなく、メディアを通じた政治宣伝などによって何か漠然とした雰囲気や空気によって世論や民意が形成されてしまうと、結局は現状維持という結果しかもたらされないことにもなるわけで、そうなってしまえばそういうレベルでは取り立てて何が問題でも不都合でもなかったことになってしまうわけだ。

 行政が法律に基づいて管理統治している対象は世の中の様々な方面に及んでいるが、その管理統治という概念は支配とは少し違うだろうし、支配となると支配している側が好き勝手にできる印象を抱いてしまうだろうが、少なくともそれが法律に基づいている限りは、法律が規定している範囲内に限られるだろうし、法律から逸脱したことを行えば行政といえども一応は処罰の対象となってしまうわけで、それに関して行政の活動も法律に縛られているわけだが、あえて支配という概念を使うなら行政も法律に支配されていることになるだろうし、さらに法律を守っていれば好き勝手なことができるわけでもなく、法律に基づいて制度が規定されていて、制度として行政が行う活動の内容が定められていて、その制度に規定された一定の活動を行なっているわけで、そういう意味で行政の活動には制度的な制約もあるわけだが、制度として規定されている以外の活動ができるわけではないし、要するに行政の活動には制度に基づいた決まりきった動作があり、決められていないこと以外はやらないのが行政の活動の基本形態なのではないか。だからそれ以外の活動によって行政が政党やメディアや企業などと癒着しているわけではないし、成り行き上それらの勢力との間で制度的な関係の範囲内で癒着してしまうとしても、そうなった場合においても法律と制度に基づいて関係しているわけで、そこから逸脱している部分で関係しているわけでもなく、そうだとすると癒着することによって行政としてのあり方が歪んでしまうわけでもないし、仕事柄そういった方面での不正や不祥事がつきものだとしても、実際にそういう不正や不祥事が起こることを想定した法律や制度になっているわけだから、それが起こって明るみに出たら法律とそれが規定する制度に基づいて対処すればいいことでしかないだろうし、実際にそういう方向で何らかの措置や対策を講じて行けばいいことでしかなく、それ以上のことが行政にできるわけでもなく、誰もそれ以上の対策を求めているわけでもないだろうし、それは政党などの政治勢力にも言えることであり、法律と制度に基づいた活動はそういう方向にしか働かないだろうし、それ以上の効果や機能は期待できないわけだ。ではそれで何ができるのかといえば、法律を作ってその法律に基づいた制度を定めて、その制度の範囲内で活動することになるわけだが、基本的には行政が直接何かを生産するわけでも流通させるわけでも販売するわけでもないだろうし、ただそうしたことを行うのを法律に基づいて許可したり差し止めたり監視したり調査したり管理したりするわけで、それ以上のことができるわけでもないのだから、それらの経済活動と関係しつつも直接それを行わない立場を守っている限りにおいて、行政活動から経済的な富が生じることはないわけだが、その一方でそれらの経済活動から税を徴収する面では、そこから富を収奪しているとも言えるわけで、生産しないで収奪だけ繰り返していると、その分だけ民間の経済活動が負担を強いられてしまう状況となってしまうわけだ。そしてそうした課税の重荷を軽くするには国債などの公債を発行して借金で財政を賄うことになるわけだが、それにも限度があって限度を超えて借金が増えると財政破綻することになるが、そうなっても行政がなくなることはなく、そうなってくるとそうした面では行政機構そのものが不条理な存在となってくるのではないか。
 結局通貨を発行する中央銀行と行政が一体化しているから、国債などを中央銀行が買い上げれば破綻を免れる仕組みなのかもしれないが、それを過剰に行ってしまうと経済活動から生じる富とのバランス面において、金融的な資産そのものに実態があるのかないのかよくわからなくなってくるだろうし、ただ通貨に信用が生じている限りで金融資産が価値を持つとも言えるから、そうした信用に基づいた面でかろうじて均衡が成り立っている状況が生み出されているのかもしれないし、そこをあまり厳密に定義したり理屈を無矛盾で無色透明なものに洗練しようとするとわけがわからなくなってくるのかもしれず、正確にはその辺の金融的な仕組みをわかっている人はほとんど誰もいないのかもしれないが、とりあえず物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費が成り立っている限りで経済が回っていて、それらの過程から富を抽出することが可能なのだし、実際にそうやって莫大な富を蓄積する人や企業なども存在していて、その富が通貨価値に換算できることも確かだが、富は経済活動に活用される限りで有効に機能するわけで、蓄積された富にもそこから信用が生まれて、その信用を担保にして金銭を借りたり貸したりの金融的な経済活動に活用することができるということであり、どのような形態であっても富は経済活動に活用されることでしか実態を持たず、それ以外では単なる通貨に換算された数値でしかなく、その数値に価値があると思うなら、実際に活用できて初めて価値を持つわけで、現実に経済活動に活動されてみないことには富に価値があるかどうかは分からず、政府が国債を発行して中央銀行がそれを買い取っているだけでは、あたかも無から有が生じているかのように思われてしまうのかもしれず、それが何かのきっかけでハイパーインフレでも起きれば、無が無でしかなかったことが明らかになってしまうわけだが、実際に経済活動を行わずに税として民間の経済活動から収奪するだけの行政機構にしてみれば、あまりにも税負担を重くしてしまうと民間の経済活動がうまくいかなくなってしまう危険が常にあることは念頭に置いておく必要はあるだろうし、そういう意味でも世の中の様々な活動の中で行政活動が主体となってはまずいわけで、経済活動に依存している限りはどう考えても経済活動の方が主体であるべきだろうし、そういうところで行政活動によって何ができるかというと、それほど多くのことができるわけでもないし、また政治活動が行政を制御することにあるとしても、行政を制御することによって何ができるかといっても、やはりそれほど多くのことができるわけでもないだろうし、そういう意味で行政活動も政治活動も管轄している区域の経済規模に応じてできることが制限されてくることは確かだろうし、経済規模に見合った活動しかできないのだから、少なくとも何でもできるような幻想を抱いてしまうとまずいわけで、政治的には言葉ではいくらでも主張することができるが、その主張を実現できるかというと、それは経済規模に応じた範囲内でしか実現できないだろうし、それ以外の法律や制度などの面で改善や改革などの案は示せるのだろうが、それが財源を伴うようなことだと、やはり経済的な制約が出てくるだろうし、そういうことを考慮しないで何でもかんでもやろうとすると財政破綻を招く危険性が出てくるのだろうが、たぶん行政の側でもそれを考慮しているのだろうが、やはり行政機構自体には人が制御できなくなる面があるのだろうし、それが機構の肥大化なのではないか。
 基本的な認識として人は物を作ることによって文明を築いてきたわけだが、情報は物を介して伝達されるものだろうし、物を作ったり運んだり交換したり物を介して情報を伝達することが労働としてのサービスになるだろうが、その情報を伝達するサービスに特化したのが行政であり、それに介入する政治も同じであり、基本的に行政も政治もサービス業であるはずだが、それらの拠り所となる法律は情報の内容であり、その内容に基づいて構成される制度はいわば情報の伝達経路となるわけだが、決められた経路を通じて伝えられる情報の内容を人々に守らせることが権力の行使につながり、例えば物作りの現場では情報内容としての法律が示す基準に適合したものが作られ、民間で流通する情報も法律が示す基準に適合する内容が流通することになり、また労働としてのサービスも法律が示す基準に適合する賃金や時間などの範囲内で行われることになるわけで、それらの法律としての内容を人や集団に守らせるのが行政の役割であり、人や集団に守らせる法律を作るのが議会における政治の役割であるわけだが、そうやって人や集団に法律を守らせて制度に従わせることによって生じるのが世の中の秩序となり、そこに秩序が生じている限りで平和な世の中が実現していることになるのだろうが、実際にそうなっているからといって、一方では法律を破って制度に逆らう人や集団も出てくるわけで、そういう人や集団を取り締まるのも行政の役割になるわけで、いくら取り締まってもそのような人や集団が一向に減らずに秩序が乱れて治安が悪化の一途を辿るようなら、何か法律や制度に問題があることになるだろうし、政治の役目とすれば人や集団が守りやすい法律や従いやすい制度を作ることになるだろうが、一方でそのような法律や制度によって世の中の秩序や平和が保たれることが必要で、人や集団が守りやすく従いやすい法律や制度と世の中の秩序や平和が保たれる法律や制度が一致すればいいのだろうが、そんなうまい具合に法律や制度を構成できるかというと、それは世の中の情勢次第な面もあるのかもしれないし、世の中で暮らしている人が何不自由なく暮らせるような情勢ならそれほど厳しい法律や制度にしなくても秩序や平和が保たれるだろうし、その反対にいくら厳しい法律や制度にしてもそこで人がまともに暮らしていけない情勢なら、生きるためには法律を破って制度に逆らってでも生き抜こうとするだろうし、そういうところで世の中の経済情勢が影響を及ぼしてくるのだろうが、ひと言に経済情勢といってもその内容によっても治安に影響を及ぼすのかもしれないし、経済がいくらで好調でもその内容が博打や遊興に支えられているようなら風紀が乱れて人々の心が荒廃して、それに関連する方面での犯罪が多くなるのかもしれず、また人々の間で貧富の格差が極端に開いていると、富裕層が暮らしている地域では極端に治安が良くて犯罪も滅多に起こらないかもしれないが、貧困層が暮らしている地域は犯罪の巣窟と化している場合もあるだろうし、そうした世の中の情勢を行政や政府がどれほどコントロールして改善できるかは未知数であり、そこに歴史的な経緯が介在している場合が多分にあって、その経緯の中で民族対立や宗派対立や人種対立などが絡んでくると改善が困難になってくるのではないか。
 そうした面を考慮すればそれらのほとんどは程度の問題であり、また法律や制度とともにその地域に根ざした風土などの環境や、そこから生じてくる慣習や、さらには文明の知的水準や技術水準や文化水準なども絡んできて、それらを勘案すると行政や政治などの活動だけではどうにもならない問題も出てくるわけで、そういうところからその地域に特有の歴史的な経緯も生じてくるし、行政や政治によって作られ整備される公的な法律や制度にしてもそのような歴史的な経緯の一部を構成するものでしかないだろうし、そこまで考える範囲を広げてしまうとやりようがなくなってしまうわけだが、それでも現状で行政や政治などの活動が必要とされる歴史的な経緯が生じていることは確かであり、実際にそうした活動が行われている現実の中で人々が暮らしているわけだが、これから歩むべき方向としては現状で否定的な受け止め方をされている過去へのこだわりよりは、それを改善してできるだけ暮らしやすい未来を築いてゆくような方向が求められているだろうが、成り行きとしてそうではない方向を目指す人や集団も少なからずいるだろうし、そういう人や集団の力が強くなればそういう方向へと逸れていってしまうのかもしれないが、その辺はこれからの成り行き次第な面もあることは確かだろうが、過去へのこだわりというのは地域的な特殊性に根ざしている場合が多く、そうだとすると普遍性を持ち得ない事情となるだろうし、それが万人に当てはまるとは限らないわけだから、それを公的は法律や制度に反映させると問題が生じやすくなるだろうし、そういう面を考慮するなら公的な法律や制度にはできるだけ普遍性を持つ傾向を加えるべきだろうし、なるべく万人が納得するような内容にしたいのなら、過去へのこだわりに基づいた地域的な特殊事情を法律や制度に盛り込むのは避けるべきなのかもしれず、そうした事情は慣習に反映するにとどめるべきだろうし、その慣習にしても世の中の環境や生活形態が変わってきて廃れるようなら、そのまま廃れるに任せておくべきなのかもしれないが、伝統文化として学術的に研究対象となるようならそういった方面で保存するような機運も高まるだろうし、それもそうした方面で制度が整備されることが望ましいのかもしれないが、一般の人たちにとっては生活の利便性などが優先されるだろうし、別にその必要がなければ文化的な伝統にこだわらなくても構わないわけだ。そういう意味で法律にも制度にも色々な方向性や傾向があっても構わないだろうが、一般の人たちが無条件に守るべき法律や従うべき制度と地域的な特殊事情に絡んで適用される法律や制度とは内容も傾向も違うだろうし、その辺をごっちゃにしてしまうとわけがわからなくなってしまうわけで、また様々な方面で特殊事情を優先させてしまうと条件が多種多様に付け加えられて、法律や制度もそれだけ複雑怪奇となって普通の人には把握することさえ不可能となってしまうわけで、結局は法律も制度もそれを利用する人や集団の利便性を考慮すれば、あまりにも複雑怪奇にはできなくなるだろうし、法律の専門家などは一般人にはわからないほど有利となるのかもしれないが、一般人にしてみれば少なくとも自分たちにもその内容が理解可能な法律や制度にしてほしいのではないか。
 また一般的な認識としては政府が国を統治している状態が国家形態であり、それ以外の統治がないわけではないが、別にそれ以外の統治を誰が望んでいるわけでもないだろうし、国の統治形態としては政府による統治が当たり前の状態となっているわけだが、他の統治形態としては別に国土を持っているわけではないが、企業による関連企業の統治とか従業員に対する統治とか、宗教教団による信徒への統治とか、労働組合や農業組合や生活協同組合などによる組合員への統治とか、様々な集団で特有の統治形態があるわけだが、大抵はそれらを統治する専門の組織として統治機構があり、実際に統治することによってそれらの機構に権力が生じるわけだ。また統治することが政治でもあるわけで、統治と政治は似たような意味なのかもしれないが、政治には統治される側である民衆に権力を行使する機会が与えられていて、それが選挙であるわけだが、組合なども組合員による選挙で代表者を決めるし、教団などにも似たような制度を採っている場合もあり、また企業などでも株主総会や取締役会などで役員や代表を選ぶ制度があるだろうし、統治には必ず統治される側の支持を取り付けるために統治する側の代表者を選ぶような制度があるわけだが、そこで問題なのは制度として代表者は選べるかもしれないが統治機構を選ぶことはできないのかもしれず、統治機構自体に不満があれば場合によってはその集団から脱退しなければならなくなるわけで、それが国家統治となると亡命や移住などのように自分の住み慣れた土地からの移動を余儀なくされて、結果的に多大な労力を要することになるから簡単には国家から脱退するわけにはいかない事情が生じるわけだ。しかもそれは非合法的な行為を伴う場合も出てくるわけで、そうなると命がけでやらなければならない行為となるだろうし、どうなるにしろ国家の庇護を離れるには相当のリスクを背負い込むことになり、通常はそんなことはやらずに済めばそれに越したことはないわけだ。だから統治機構を選ぶよりは機構を改革するような成り行きになるわけで、それには通常のやり方としては政治制度に従って選挙で改革を目指す陣営から代表者を議会に送り込んで、議会で過半数の議席を得て主導権を握った上で政治的に改革を目指すわけだが、そのような改革も統治の範囲内に含まれていて、選挙で議会の多数派を目指すような人たちは、他の国への亡命や移住などを考えているような人たちではなく、ある程度は現状の統治機構による統治形態を当然と考えている人が多いだろうし、そういうところで亡命や移住を目指す人たちとは意識が違うわけで、少なくとも亡命や移住を目指すような人たちの意見や主張が選挙結果に反映されるようなことはないわけだ。またそうやって議会などの政治制度を利用して機構の改革を目指す人たちが世の中の多数派を占めている限りは、そのような政治制度自体が統治機構による統治の一部なのだから、統治の手の内で制度の範囲内での改革となるわけで、それによって機構の中の何らかの仕組みが改められるかもしれないが、機構自体は存在し続けられるわけで、機構を取り壊して新たな組織を別に立ち上げようというのではないし、あるいは政権交代などで体制が変わっても機構は変わらないこともあり得るわけだ。
 統治機構が変わらなければ統治のやり方も変わらないというのは循環論かもしれないが、統治機構と統治のやり方が一体化しているとも言えるだろうし、あるいは制度に則って改革を目指してもそれでは制度の範囲内にしかならないとも言えるのかもしれないし、それ以外では革命を目指して体制も機構も一新しようとする試みも過去には無数にあったかもしれないが、それは現代でも革命を目指している勢力がいることも確かだろうが、結局はそれも国を統治するやり方に落ち着くわけで、どうも統治という行為自体が現にあるような統治機構の下での統治というあり方を示していて、そのような統治形態の下で暮らしている人にはそれ以外の統治などあり得ないし、想像もできないようなことなのかもしれないが、その一方で統治されていることを意識しない人や気にかけない人もいるだろうし、実際に立場や生活状況によっては統治機構による統治自体が意味のないことのように思われてしまうかもしれず、それ以外のことに気をとられていればそうなるのが当然なのかもしれないが、統治機構の方でも住民が統治を意識しないで統治できれば、文句を言われないし反感も抱かれないで統治を行えるわけだから、それが理想的な統治だとも言えるかもしれず、そうであるならなるべく住民に統治を意識させないような統治を目指すべきなのかもしれないが、そのような状況を作るにはどうすればいいかとなると、まずは住民が他のことに気をとられるような状況を作り出すことだとすれば、すでにそれに関してはメディアによって娯楽や広告宣伝の方に気をとられるような状況が作られているわけで、別にそれが統治機構によって直接仕組まれているようなことではないのだろうが、たぶん経済活動を振興することがメディア上での商品の広告宣伝を誘発させて、その広告宣伝費を利用してメディア上で見世物的な興行を主体とする娯楽が振興されるような状況となっていて、しかもその見世物的な興行をメディアが大々的に取り上げて、それも宣伝活動に含まれるわけで、そうやってメディア的な宣伝の循環的な活動の渦の中に民衆の意識を巻き込んでしまえば、民衆の意識の中では宣伝と娯楽が占める割合が大きくなるだろうし、仕事や家族との生活や友人などとの交流以外では娯楽や商品の広告宣伝などに気をとられているだけなら、他に意識するようなこともあまりなくなってしまうのかもしれないし、そうなると公的な政治に関しては無関心となってしまう傾向にもなるだろうし、それが統治を意識させないような統治活動にとって有利に働くなら、そのような統治もある意味では経済活動に依存していると言えるのだろうが、少なくとも現状の生活で満ち足りている人が世の中の大半を占めている状況なら、何か特に統治機構の側で住民に対して権力を行使するような成り行きとはならないだろうし、その逆に現状の生活に不満を抱く人が多くなるにつれて、その不満を解消するために政治的にどうにかしてほしいと思うようになるわけで、そのような不満が統治機構に向けられると最悪の場合は暴動などが発生して、それを鎮圧するために治安維持のための暴力を行使するような状況となれば、それが誰にとっても気をひくような権力の行使となるわけだが、そういうことを考慮すれば、住民の大半が娯楽や広告宣伝に気をとられているような状況であれば、結果的に統治を意識させない統治が実現していることになるのではないか。

 世の中で人が日々同じ動作を繰り返していられる限りは、そこで安定した生活が成り立っているわけだろうが、安定を望む人は同じ状態を保つことを望んでいるかもしれないが、経済的な利益を求める人はより大きな利益を得ることを望んでいるだろうし、少なくとも生きていけるのに足りる程度の利益だけでは不満なのではないか。だがそこで機能している制度は同じ動作を繰り返すことを念頭に作られているわけで、公的な制度を管理運営している行政も、そこで法律に則った同じ動作が繰り返されることを望んでいるだろうし、それらは基本的には現状を維持するための制度となるわけだが、資本主義的な経済活動に関わっている人や集団は現状をより発展させるために利益を求めているのだろうし、できれば事業を拡大させてより大きな利益を得たいのではないか。そしてそれとは無関係に思われるかもしれないが、現状の政治や行政に不満を抱いて日々それらを批判している人たちも、現状を批判しながらもより良い方向に導くように現状が改革されてほしいと思っているのだろうし、そのために制度改革や意識改革を訴えているのかもしれないが、制度は同じ動作を繰り返すための制度であり、制度が固定されていればそこからの改革も発展性もないわけだが、そうなると制度改革を求めている人たちは絶えず制度を変えるように求めていることになるだろうし、実際にひっきりなしにめまぐるしく制度が変われば、制度が求めるような同じ動作を繰り返すことができなくなるわけだが、一方で資本主義的な経済活動の方でも絶えず発展的に事業の拡大を目指すとなると、いつか必ず成長が頭打ちになって発展が限界に達する時が訪れる可能性も出てくるかもしれないが、そこに同業他社との競争があれば、現状維持だけでは他社に追い抜かれる可能性が出てくるわけだから、絶えず新たな事業展開を模索しなければならなくなるだろうし、そういうところは改革を目指す政治勢力と似た点があり、両者ともにひっきりなしに現状を良くしようとするわけで、そういう傾向が終わりなき労働をもたらしているとも言えるかもしれないが、そこに現状維持では済まない衝動が生じていて、そういう衝動に駆られて資本主義経済も発展し続けようとする宿命が生じていて、一方で政治的に改革を目指す勢力にもより良い未来を築くために絶えず制度改革を目指す傾向が生じているのかもしれないが、現状で何が問題なのかというと、そこに何らかの不都合や不具合が生じていて、それを解決または改善して問題をなくすことが現状の改革につながると思っているのだろうが、そういうところで見逃されがちなのが制度の運営を調整して効率や利便性を改善させることかもしれないが、ではどうやって制度の運営を調整するのかといえば、合法的な範囲内で運営を担当する人の裁量を拡大することにあるのかもしれず、要するに融通を利かせるような制度運営を行うことになるだろうし、何に融通を利かせるのかといえば、利用者へ融通を利かせることになるわけで、利用者がうまく制度を活用できるように助言したり誘導することが、公的な制度の運営には欠かせない行為となるのかもしれない。
 それが企業などが運営する民間の制度だと、運営する企業の利益が優先される仕組みとなっていて、甘い宣伝文句によって利用者を誘い込む手法には手が込んでいるだろうが、利用者の利益は二の次である場合が多いだろうし、下手に手を出すと企業の食い物にされてしまう危険もあるわけだろうが、少なくとも公的な制度は利用者に利益をもたらす制度にしないと、利用者である民衆からの支持が得られないだろうし、それも一般の民衆ではなく企業に利益をもたらすような制度だと、企業を儲けさせるために税金が使われるような理不尽な状況となってしまうわけで、確かにそんな制度は改める必要が出てくるかもしれず、現実に公共事業によって企業を儲けさせている実態もあるわけだが、普通は一般の民衆のための制度であれば民衆を助けるための制度となるべきかもしれないし、それが公的な健康保険制度や医療保険制度や失業保険制度や年金制度や生活保護制度などになるだろうが、それ以外の制度も行政には必要となってくるだろうし、具体的には行政活動を維持継続させるための制度として、徴税のための税制があるのだろうし、借金するための国債などを発行する制度もあるだろうし、また国土防衛のための軍事的な制度もあるし、治安を維持するための警察などの制度もあるわけだが、それらが民衆を守るためというよりは行政機構の権益や利益を守るために動作することも時にはあるわけで、それは企業が利益を得るために顧客や消費者を利用するやり方と似通っている面もあり、行政機構にも時として国を守るためとか国民を守るためと称して、自己保身のために警察や軍隊を動員して民衆を弾圧するような場合も出てくるだろうし、そうなった時には民衆を敵に回していることになるわけだが、それでもそんなことを行う口実としては一部の民衆が暴徒化したから止むを得ず治安を維持するために軍隊や警察を動員したことになり、実際に大多数の住民は平静を保っていると伝えられるだろうし、暴動の原因が政府に対する不満であっても、秩序を乱したのが暴徒化した群衆になるわけだから、それを武力鎮圧する大義名分は行政側にあることになるわけで、民衆の方でもそうした事態を避けるには平和的なデモにとどめなければならない事情も出てくるだろうし、制度的にも平和的なデモ行進や抗議集会などを開催することができるわけで、そうやって行政側も民衆の側も互いに妥協や調整がうまくいけば収拾のつかない混乱が避けられるわけで、そういうところでも制度を運営する側の裁量が求められると同時に、制度を利用する側も運営する側に対して配慮する成り行きにでもなれば、双方の連携によって破局的な事態になるのを回避することができるわけで、そういうことを考えてゆくと制度をうまく機能させるには敵対的で一方的な権力の行使というようなやり方ではなく、運営する側と利用する側がお互いに歩み寄って連携することが重要となってくるわけで、それを欠いた制度の運用や利用は必ず双方の対立や軋轢をもたらすような結果を招き、そこに争いが起こって制度そのものが機能不全を起こしてしまうだろうし、だから制度を改革すべきだと主張しても、それが喧嘩腰の関係である限りはどんなに改革を行なってもうまく機能するはずがないのではないか。
 人が行政による統治を受け入れるのは、安定した暮らしが確保されていれば受け入れやすいだろうし、その安定した暮らしを行政が実現していると言えるかどうかは何とも言えないところかもしれないが、とりあえず住民の大半が法律を守って制度に従っている実態があれば、行政が住民に信用されていると言えるだろうし、その信用がどこから生じているかと言えば、実際に住民が制度に従っている実態から生じているとすると、やはり循環論になってしまうわけだが、住民が行政を信用しているから制度に従っているというと、どうもそういうことではないような気がするし、例えば他の大多数の住民が制度に従っているからその住民も制度に従っているというと、それが間違っているわけではないのかもしれないが、それでは住民が制度に従っている根本的な理由がわからなくなってしまうのかもしれず、それに関してもしかしたら根本的な理由などなく、ただ制度に従う成り行きになっているというと、そういうことだとしか言えなくなってしまうのかもしれないが、たぶんそう捉えておくのが妥当なところであり、理由とか原因とかはあまり意味のないことであって、なし崩し的に法律や制度とともにそれらを管理運営する行政機構がそこに形成されてきた経緯があり、さらにそれとともに法律を守って制度に従っている住民も形成されてきて、そのような成り行きを結果から見れば、そこに行政への住民の信頼や信用が生まれているとみなせば、それほど正しいとは思えないがそれほど間違っているわけでもない認識となるのではないか。少なくとも信頼や信用よりは、大半の住民が行政の管理運営する制度に従っている実態があることの方に実質的な意味があり、それが行政による住民への統治を成り立たせているのではないか。それも結果的に統治が成り立っているように見えると解釈した方が正確な認識なのかもしれず、実際には法律を破って制度に逆らっている実態もいくらでもあるのだろうし、それを行政の側でも把握していて取り締まっている実態もあるのだろうが、物理的にその全てを取り締まることはできないだろうし、それも何件でも取り締まっている実態があれば他は見逃していても行政としての信用は保てるだろうし、もちろん行政に隠れて違法行為や違反行為を行なっているわけだから、隠れるという動作を誘発させただけでも取り締まりの効果は表われているのだろうし、違法行為や違反行為は正々堂々とは行えないということが、行政による権力の行使に実質的な効力があることの証明にもなっていて、そういう意味で違法行為や違反行為がメディアを通じて明らかになった場合には、行政としてそれを見逃すわけにはいかなくなるわけだ。そうしないとそれらの行為を取り締まる能力を疑われてしまうわけで、そうなると住民の行政への信頼や信用が失墜してしまうのかもしれないし、それでは行政の管理統治能力まで疑われてしまうことになるから、そこが行政としても妥協できないところではあるだろうし、政治の不正や不祥事などを追求するメディアでも、そこを突いて不正や不祥事を積極的に暴露して批判している政治勢力を失墜させようとするわけだ。
 そして暴露しても検察などの動きが鈍く、そのような行為が空振りに終わったり無効となるような状況ともなれば、それらのメディアからすれば住民の行政への信頼や信用が地に堕ちたと言わざるを得ないだろうが、実際に政治的な主導権を握っていた政党や政治家がその主導権を失った途端に、その不正行為や違反行為が暴かれる状況となりやすくなるだろうし、実際に世界各国で首相や大統領経験者などがそれらの罪に問われるケースがよくあるわけだが、それも政治勢力が実権を握っているうちはなかなか行政の方としても手が出せないだろうし、実際に政治と行政とが癒着している度合いが高ければ、行政の側も罪に問われることになるわけだから、行政機構が一枚岩となって結束しているわけでもないが、なかなか不正が暴かれずに放置されるようになってくると、住民の政治や行政に対する不信感が増してくるだろうし、それでも独裁的な体制を維持できていれば、不正を暴こうとする勢力を弾圧したりしながら権力を維持しようとするのだろうが、無理なゴリ押しをするほど他の方面で歪みや軋轢が生じてくるだろうし、結局は統治がうまくいかなくなってくるのかもしれないし、それも世の中の情勢や体制の内容に左右されることかもしれないが、住民の側で実害を実感できなければそのまま不正が放置される可能性も高くなるのかもしれないし、そうなると住民の意識の問題とも言えそうだが、それとともに経済状況も住民の意識に影響を及ぼしてくるだろうし、経済がうまくいっているように思われる時には多少の不正は大目に見られる傾向になるのかもしれないし、それもうまくいっているように思わせるようなメディアを通じた宣伝工作も試みられているのかもしれず、その経済がうまくいっていると思われるのが見せかけなのか事実なのかは、住民の生活実感から直接判断するしかない場合もありそうで、そういうところで曖昧な空気が世の中を支配しているような状況を醸し出せれば、主導権を握っている政治勢力がやっていることも、それが不正とみなされるかあるいはグレーゾーンにとどまっているのか、それをはっきりさせないようなメディア状況ともなるのかもしれず、そんな時間稼ぎのようなことをやっているうちに、何か手遅れのような事態になってしまうことが危惧されるのだろうが、仮に不正が暴かれて主導権を握っている政治勢力が失脚するとしても、行政機構は残ってしまうわけで、その体質が変わらないとすればほとぼりが冷めた頃にはまた同じようなことが繰り返されるのかもしれず、そういう面では制度改革も大事かもしれないが意識改革も大事なことは当然だろうが、それが政治と行政の絡み合いから生じる構造的な問題だとすると、そのような役割分担を伴った体制としての政府そのものが、不正をやらざるを得ないような構造をもたらしているとも言えるわけで、それも歴史的な経緯から生じてきた構造なのだから、そう簡単には変えられない面もあるのだろうし、それでも批判勢力は合理精神を発揮して絶え間なく改革を行おうとするだろうが、もしかしたらそのような改革を行なっていくにつれて、現状で存在するような構造とは別の統治形態へと変化していく可能性もあるのかもしれないし、それがもはや政府とは呼べない機構として出現した時には、国家そのものが消失している可能性もゼロではないのかもしれない。
 政治と行政との絡みで不正を行わざるを得ない事情とは、そこに経済的な便宜を図るような事情が生じてくるからだろうが、具体的には行政の予算を使って民間の業者を儲けさせるような行為が行われることが多いのかもしれないが、行政が徴税によって強制的に民間から金銭を収奪するのに対して、民間の経済活動では物や情報やサービスを売らないと金銭的な利益を得られないわけで、金銭を得るための方法が行政と民間とでは異なっていて、行政の徴税によって金銭を獲得する手法と民間の売買によって金銭を獲得する手法の間で差異が生じていることは確かだろうし、その差異を埋めるのが行政と民間の業者との間で行われる不正な金銭の取引であり、それを仲介するのが政治の役目となるわけだが、そのような取引においてはたとえ民間の業者が政治家や官僚などに賄賂を贈ったところで、行政からの何らかの便宜によってもたらされる金額の方が大きいから、民間の業者の方が儲かる仕組みになるのだろうし、民間で物や情報やサービスを売買するよりは行政から便宜を図ってもらった方が儲かるなら、政治家や官僚などに贈る賄賂は必要経費みたいなものだろうし、さらに賄賂などを贈らなくても便宜を図ってもらえるならなおのこと儲かるわけだろうが、政治家や官僚の方でも贈収賄にならないようにあからさまに賄賂などを要求しない場合も出てくるだろうし、その代わりに特定の民間の業者を優遇して自分たちのやりたいことをやろうとするような成り行きにもなってくるわけで、そのやりたいことと特定の民間業者を優遇させることが合致するようなら、なおのこと賄賂など必要ないのかもしれないし、それが忖度という言葉で表現される行為となるかもしれないが、そういうやり方が公平性を欠いているのは言うまでもないことだろうが、それを政治や行政の側では不正とは言わせないようにしたいわけだろうし、実際に民間業者が賄賂を贈っていなければ贈収賄では立件できないわけで、しかも民間では懇意の業者に仕事を請け負わせることなど日常茶飯事なわけだから、そういうところで公共の利益と私的な利益との区別がつかない事態となってくるわけだが、普段から地縁血縁的な環境で生きてきた人はそういう縁故主義の何がいけないのかよくわかっていない場合もあるわけで、実際に普通の一般人でも公共の利益と私的な利益との区別をはっきりつけながら生きているわけではないだろうし、自分が私的な人間である前に公的な人間だと言われても、その違いも差異もわかりにくいだろうし、そんなのは混同されているのが普通の状況であるわけで、実際にどのような状況においても公的な人間であろうとしているわけではなく、誰からそんなことを教わるわけでもないし、わざわざ取り立てて公私の区別などつけなくても生きていられる状況かもしれないし、そういう世の中だと言ってしまえば身もふたもないわけだが、それに関して簡単に言えばそこに公的な制度があるから、その制度を利用するには公的な人間として利用しなければならず、またその制度を管理運営する側も公的な人間として管理運営に携わらないと、それが公的な制度ではなくなってしまうわけだが、やっているうちに私情が生まれてしまうのもよくあることなのではないか。
 しかしその公私の区別をどこでつけるかということに関しては微妙な問題が生じてくるのかもしれず、例えばそれが国家主義になってしまうと自国民や自国の利益や権益だけを優先させる傾向になってきて、たぶんそれでは私的な利益を優先させることになってしまうのかもしれず、そういうレベルで公的な利益を優先させるとなると、世界全体の利益を考えなくてはならなくなるわけで、そうなると私的な利益を優先させることに関しては自分の会社の利益を優先させることも自国の利益を優先させることもそれほど差異がなくなってくるのだが、国内で行政のレベルで考えるなら、公的な制度を利用するには公人として振る舞うべきだろうし、それは公的な制度を管理運営する側でも同じことになるわけだが、世界全体のレベルで考えるなら国益よりは世界全体の利益を優先させることが公人としての倫理的なあり方になるだろうし、自国第一主義を唱えて自国の利益だけを優先するようなやり方は、それが大統領であろうと首相であろうと公人としてはあまり好ましくない主張となってしまうわけだが、そうであっても国内で自国民の支持を得てその地位に就いたわけだから、国民的なレベルでは自国第一主義を唱えることは別におかしいことではないだろうし、実際に国民の大多数もそういった主張を支持していればそれで構わないわけで、それが私的な利益の優先だと非難される筋合いはないかもしれないが、たぶんそうしたレベルでは国益と公共の利益が一致しない事態となるのではないか。もっとも物は言いようで世界全体の利益を優先させることが国益につながると主張することもできるわけで、国家間の無用な争いを避けるには国益よりは世界全体の利益を優先させるべきで、そうしていれば回り回って最終的には国益につながればいいわけだが、果たして本当にそうなるかいうと、目先の利益にこだわっているうちは近視眼的な対応しかとれないだろうし、それも現状での情勢次第な面もあるから、世界全体の利益などとはあまり大げさに主張できない事情も生じてくるだろうし、あからさまにそう主張するのではなく、方便として国益を優先させるように振舞いつつも、国家間の交渉を通じて妥協や調整を重ねながら、結果的に世界全体の利益になるような方向へと成り行きを持っていくしかないだろうし、そういうところで公共の利益を積極的に主張するような成り行きにはならないのかもしれず、そこで公的な存在というのをはっきりとは提示できない曖昧さが生じてくるのかもしれず、何が公的で何が私的であるかを巡って、その区別がはっきりしない領域というのが出てくるのかもしれないし、例えば私的な企業であっても企業の利益よりは世の中の利益を優先させるような公的な面が生じてくることもあるだろうし、家族内でも場合によってはそうなるかもしれないし、そうだとすると公的な存在にならなければならないのは公的な制度を利用する時だけでもないことにもなるわけで、そうなると自らが公的な存在であることを積極的には主張できなくなる場合も出てくるかもしれないし、しかも主張できないとしても公的な存在にならざるを得ないとすれば、どう考えてもそれは損な役回りになってしまうわけで、そういうところが公的な存在の推奨しかねるところであり、そんな面倒な考えは捨てて単に利己的に行動できればそれに越したことはないわけだが、誰が見ても利己的な行動や行為に及ぶと周囲から嫌がられることは確かなのではないか。

 そこに行政を管理運営主体とする何らかの公的な制度が整備されていて、それを利用する不特定多数の市民がいるとすれば、その制度の利用に際しては対象者の誰もが公平に利用できるようになっていないとまずいだろうし、経済活動を行う業者を対象とした制度であってもそれは同じことで、公的な制度に備わっている公平な基準からかけ離れたやり方で特定の業者が優遇されるような事態となってもまずいわけだが、制度以外の他の要因から特定の業者が優遇されてしまう事態も起こるわけで、実際にその業者にしかできない仕事ならその業者に発注するしかないし、指名競争入札を行うにしても、コストを安くして利益を出せるような経営努力を行なっている業者なら、他より安い金額で落札できる可能性が高くなるだろうし、そうなるとその業者に仕事が集中してしまうかもしれないし、そうした理由なら公平な基準からかけ離れているとは言えないだろうが、それとは別に業者が属している業界団体など中で利害調整が行われていたり、他にも様々な要因が絡んでくるかもしれず、日本の場合だと入札する予定の業者の間で事前に談合が行われて利益を業者間で均等に配分するようなことも行われて、そうなると結果的に行政の予算を余分に使わせるような成り行きにもなってしまうわけで、結局は税収を収入源とする行政と経済活動から収入を得る企業との間で生じる制度的な差異が、構造的にそのような不正行為の温床となっているわけだが、もちろんそのような不正行為に対処するための対策も様々に講じられているだろうし、何よりも不正が発覚した場合には懲罰の対象となってしまうわけだから、不正を行わずに公平かつ公正なやり方で企業が行政から仕事を受注して収益を上げられれば、それに越したことはないわけだが、資本主義的な経済活動は利益を上げられる可能性があればどこからでも利益の獲得を目指すだろうし、手段を選ばないやり方を強いられてしまうような事情があればたとえ不正行為を行なってでも利益を上げようするわけで、そういう行為が発覚した場合には、懲罰規定を定めた制度的な手続きに則って関係者や企業を処分するしかないわけだ。それも法律や制度の範囲内で行われることであり、そこから逸脱してメディアを通じて過剰に不正行為に関わった人や団体を叩く必要もないわけだが、メディア自体の機能が宣伝や煽動を伴っているわけだから、メディアの側でもそれらの機能を最大限に生かすような成り行きになるわけで、行政や政治や企業などが絡んだ不正疑惑が取り沙汰されるような成り行きになれば、それに関する報道が過熱するのは当然だろうし、そうした過熱報道によって民意や世論に変化がもたらされるかもしれないし、公的な不正や不祥事を暴くことを専門とするようなメディアなら、あからさまに民意や世論を意識した過熱報道を仕掛けてくるだろうし、さらにそうしたメディアに対抗するような政権を擁護する類いのメディアもあるわけだから、そうしたメディアでは逆に事態を沈静化させるような報道を仕掛けてくるかもしれず、両者の間で報道合戦が行われるならそれが健全なメディア状況だと言えるのかもしれないが、そこでも他の様々な要因が絡んできて、必ずしもそういう成り行きにはならないかもしれないし、また時には両者の思惑から外れるような事態が待ち構えている場合もあるのではないか。
 またそこに政治的な争いや対立があるとどうしても二項対立的な捉え方をしてしまうわけだが、たぶん実際にそうではなく、ある面では対立していても別の面では連携している場合もあり、さらに別の面では癒着した関係を築いていたり、またそれとも違う面では全くの無関係であったりするのだろうし、そうした関係をできるだけ多角的に捉えなければいけないのかもしれないが、頭の中では単純化された思考となってしまう場合が多いわけで、そうした対立を形成している陣営のどちらか一方側について、敵を批判して味方を擁護するようなことをやっていると、二項対立とは異なる面で生じている関係によって対立が解消されてくるような成り行きが生じた時に、言っていることとやっていることの間で整合性がとれなくなってきてしまうのかもしれず、そういう意味でも世の中で活動する様々な勢力の間で生じている多角的あるいは多面的な関係を考慮して、表面的で見せかけの対立関係を最小限に抑える努力が必要なのかもしれないが、たぶんその一方で経済的な利益を上げるには対立的な差異の強調が欠かせないのかもしれず、そこに差異がないと利益を得られない事情が生じていて、差異を無理にでも生じさせてどちらか一方を利用者に選ばせるように仕向けてくるわけで、一方を選ぶ利用者が多ければ多い分だけ選ばれた業者に利益が入る仕組みとなっていれば、やはり煽動や宣伝を仕掛けてより多くの利用者を獲得しようと画策してくるわけで、そうした画策が一時的に功を奏して利益がもたらされるのかもしれないが、経済に関する制度としてはそれでいいかもしれないが、行政が管理運営する公的な制度においては直接経済的な利益を出す目的で制度が整備されているわけではないだろうし、それよりも利用者の間でできるだけ差異をなくして全ての利用者が公平に制度を利用できるような配慮がされていることになっているのだろうし、そういう面が重視されていることが公的な制度では望ましいのだろうが、制度にも様々な機構や仕組みがあるだろうし、それが公共事業のように直接経済的な利害が絡んでくると業者の側でも公平性を歪めるようなことを仕掛けてくるわけで、それが業者の主導で行われる場合もあるだろうし、政治や行政の側でも特定の業者に便宜を図る事情が生じてくるかもしれないし、そうやって経済的な利害が公的な制度を歪める原因となってくる場合が多いのかもしれないが、その場合も政治や行政や企業が絡んだ巨悪を告発するジャーナリズムなどの勢力とそれらの利権複合体が二項対立を形成しているとは言えない面もあるだろうし、利権複合体の中の企業やメディアなどから出される広告宣伝料の一部がそれらの巨悪を告発する勢力に流れている場合さえあるわけで、だからそこに対立や争いがあるとしてもそれらの争っている両者に経済的な結びつきが生じている限りで、連携や癒着などの関係が生じてくる可能性も出てくるわけで、そういう面も考慮するなら争いや対立を装うとしても制度的な対立のレベルにとどめておくことが得策かもしれないし、批判している対象の人格まで攻撃しても、同じ世の中で生きているのだから、時と場合によってはそういう人格が批判している自身の人格にもなり得るわけで、何でもかんでも攻撃材料にしてはいけないのかもしれず、あまりにも攻撃しすぎて相手の人格まで否定するほどになると、もはや後戻りが利かなくなって連携する可能性が完全に絶たれてしまい、後々多数派を構成して政治的な主導権を握る段になってからの調整が困難になってきてしまうわけで、そういう事情を考慮するなら後先考えずに激しく対立するのは好ましくないわけだ。
 そして違法行為や不正行為も世の中でそれなりに機能するから行われている実態があるのだろうが、体制側としても治安を担当する警察機構による取り締まり活動の対象としてそれらの行為が結果的に必要となるだろうし、また取り締まりの後には検察による取り調べを経て裁判の対象としても必要となるわけで、裁判で懲役刑などの刑罰を科されたら今度は刑務所という制度の対象ともなるわけで、世の中で犯罪が後を絶たないからそれらの制度が発達してきた経緯があることは確かだが、それも結果的には行政や司法が管理運営する制度にとっては必要不可欠な行為となっているわけで、制度の目的としては犯罪行為から社会を守るために必要な制度であるわけだが、またできれば犯罪を減らして犯罪者を更生させようとする目的もあるのだろうが、実態として犯罪が減らない現状があるとすれば、それらの制度が犯罪を必要としていて、司法や行政にとっては犯罪者に権力を行使する手段としての権益も生じていて、さらにそれが犯罪者でなくても犯罪の疑いをかけて一般人に対して取り締まりや取り調べを行えることも、権力の行使として有効な手段ともなっているわけで、そのような活動も社会の管理統治の一環として機能しているわけだから、事の良し悪しを超えて司法も含めた行政機構の管理統治から権力関係が生じている実態が違法行為や不正行為まで含んだ領域で機能しているわけだ。それが何を意味するのかといえば、世の中で活動している人や集団の全ての行為に対して権力を行使するわけではないものの、法律によって適法と違法の区別に関わってくる行為については、それが適法か違法かを見極めるために取り締まりや取り調べを行えるわけで、それを行える権限が少なくとも行政の側にあるのだから、そこに権益が生じていることは確かであり、それを権益といってしまうと語弊があるかもしれないが、少なくとも民間の機関ではそれが行える領域は行政機構よりは狭く限定されているだろうし、公的な法律に守られながら取り締まりや取り調べが行えるわけだから、要するに他にはできないことができるという意味では権益と言えるわけで、そのような権益を行政が独占している実態があり、それが適法か違法かを判定する権限は司法にあるにしても、違法行為と判定されて何らかの刑罰を受ける段になれば刑務所などの施設内での管理統治が待ち受けているわけで、やはりそこで行政による権力の行使を受け入れさせられるわけだ。また刑務所に入らなくても執行猶予や仮釈放となった人たちへの保護観察などの管理統治もあるだろうし、それらが犯罪者の更生を目的としているわけだが、すでに犯罪者とみなした時点で一般の人たちからは区別されているわけで、更生させるも何も社会状況から犯罪が発生するわけだから、犯罪を犯す人だけの問題ではないことは明らかで、だから同じような犯罪を犯す人が次々に現れるとしたら、その人が悪いというよりはそういう犯罪を生む何らかの状況がそこに生じていて、すでに犯罪を犯した人を更生させようとしても無駄な可能性まであるのかもしれず、実際に同じ人が再び犯罪を犯すケースが一定の割合で生じているとすれば、そのような制度自体も犯罪の温床となっている可能性まであるわけで、そういうところで制度もそれを管理運営する公的な機関も解決困難な問題に直面しているのではないか。
 というか別に解決できなくても構わないわけで、違法行為や不正行為もそれに対処することが権力の行使につながるわけだから、そうやって権力を行使すること自体が行政の活動でもあるわけで、活動する口実としてそれらの行為が存在していてそれを必要としているわけだから、犯罪とともに警察権力が拡大してきた経緯も生じていて、そういう意味では別に世の中から犯罪を一掃する必要もないわけだが、それに対処することが犯罪を摘発することであり、一応は警察側と犯罪者側は敵対関係にあるのだが、もちろん警察側から犯罪者が出ることもあるだろうし、警察も含めた行政側にも違法行為や不正行為を行う成り行きが生じていることも確かで、法律があること自体が必然的にそれに違反することを前提としてあるわけだから、世の中のどこからでも犯罪が生じる可能性があるわけで、そのような傾向を制御することが管理統治であるかもしれないが、制御するということは自分たちが管理運営している制度に引き込んで処理することになるわけだから、犯罪の摘発から始まって検察による取り調べを経て裁判で判決を言い渡して刑務所へ収容するに至る一連の人の処理過程を管理運営しているわけで、しかも刑務所で刑期を終えて出所しても再び犯罪を犯してしまう人はさらにその過程をもう一度繰り返すことにもなり、少なくともそれは問題の解決ではないだろうし、問題への対処であることは間違いないわけだが、対処するということが解決に至らない場合は、そのまま対処を継続することになるのだろうし、要するに管理統治という活動は対処し続ける活動と言えるのかもしれないし、解決することよりも対処し続けることに活動の主体があるのかもしれず、そういう面を考慮するなら、世の中で生じている違法行為や不正行為に対してその解決を期待するのは見当違いなのかもしれないし、ただそこには制度的な処理過程があるだけで、しかも処理が済んだとしてもまた同じような処理が繰り返されるだけで、その処理作業が続いている間は行政の活動が続いているわけで、処理作業を続けるために行政が存在しているとも言えるのかもしれず、制度というのは処理作業を続けるための装置であって、またその処理によって何が解決するわけでもなく、ただ延々と処理を続けている実態があるだけで、それで世の中が良くなったり悪くなったりするわけでもなく、ただそういう処理作業が絶え間なく続いている世の中があるのだろうし、そのような処理を行うことを生業として行政機構が存在しているわけだが、それ以上に何か意味があるとすれば、それは理想主義的な観念論となってしまうのかもしれないが、できればそこに肯定的な意味を付与したいなら、そのような処理活動ではなく、人を助けるような活動を行いたくなるのかもしれないが、それを行うには制度的な決まり切った動作ではなく、それを行う人の裁量の範囲内で人道的な配慮が求められてくるのだろうし、それが制度的な動作から逸脱するようなこととなる可能性も出てくるのかもしれないが、あるいは場合によっては制度に逆らうような行動までもたらす可能性さえ生じてくるのかもしれないが、もしかしたら制度的な処理過程から抜け出すにはそういう行動が必要となってくるのかもしれず、それが制度的な管理運営には欠けている動作なのかもしれない。
 一つの国を統治していることになっている政府は、統治に必要な法律や制度などを整備して、そこに住んでいる住民やそこで活動している各種の団体が法律や制度に従うように仕向けているわけだが、実際に従っている範囲内で統治が成り立っていて、それに逆らっている面では統治に支障をきたしていることにもなるのかもしれないが、法律や制度はそれらの人や団体が統治に逆らうことも想定して作られているだろうし、その中で法律に違反する人や団体は実際に取り締まりの対象となるわけだが、どのような違反行為に対してはどうやって取り締まってどのように処罰するのかも法律や制度の中で定められているわけで、それが合法的な活動だろうと違法な活動だろうと、制度的な枠組みに入るような活動なら自動的に制度に組み込まれて統治の対象となって、場合によっては行政から何らかの指図を受けながら活動することにもなり、そんなふうに民間の活動に対して指図するような行為も統治に含まれるわけで、そうやって行政が民間の活動に口挟む頻度が多いほど、行政による管理統治が社会の隅々にまで行き渡っていることにもなるのだろうが、民間の活動の何から何までいちいち行政に伺いを立てないと事が進まないようだと効率が悪くなるだろうし、それだけ行政活動のコストもかさんできて、民間の税負担もそれだけ増えるかもしれないが、情報処理技術や監視技術などの発達に伴って低コストで監視型管理社会のような形態を実現させようとする試みも出てきているのかもしれないし、現状ではまだそれが不完全で夢や妄想の段階に留まっている面もあるのかもしれないが、根本的なところで民間が経済活動によって成り立っているのに対して、行政の方は徴税活動から成り立っていて、結果的に行政の徴税活動が民間の経済活動に依存している限りは、民間の経済活動にとってはそれが税負担を伴ったコストの増加しかもたらさないだけに、それなりに徴税活動にも限界があるのだろうし、それが現状では民間の全ての活動を管理統治するまでには至っていない要因でもあるだろうし、もちろん全ての活動を管理統治する必要もないのかもしれないが、結果的に全面的な監視型管理社会を物理的に実現できずに、そんなことをやる必要も必然もない現状をもたらしていることが、少なくとも行政活動が目指している方向にはそういう傾向があることは確かかもしれないが、それが他の様々な活動とのバランスや調整や妥協などを強いられている現実ももたらしていて、これから先も監視型管理社会が実現することはないかもしれないが、そうであるなら行政活動だけで社会の全てを管理統治することはできないわけだから、その行政活動を制御しようとする政治活動もそれに監視の目を光らしているはずのジャーナリズムなどの報道活動も、行政活動とは異なる面や傾向から全てを制御することはできないのだろうし、それらの活動がそれぞれに方向や傾向が異なるだけに、それら全てを統合して利権複合体を形成しようとしても、それなりに利害が合わない面も対立する面も生じてくるだろうし、仮にある面では連携できる時期や機会があるとしても、別の面では連携できない面もあるわけで、連携が恒常的にいつまでも続くとは限らないのが実態なのではないか。
 そしてそれらの活動の間で齟齬や軋轢が生じると社会情勢が流動的な傾向になるのだろうし、それが良いか悪いかはわからないが、少なくとも変化の兆しを見せ始めるかもしれないし、報道的な関心事としてはそれが政治情勢や経済情勢の変化になるわけだろうが、根本的には経済構造が変わらない限りは表層的な変化にしかならないだろうし、その表層的な変化にしても一時的な流動性は各勢力間の力の均衡が実現するとともに終息するのだろうが、その間に何が実現したかはそこで試みられた各勢力の活動の成果となって現れるのかもしれないし、その成果をどう捉えるかあるいはどう評価するかはそれぞれの勢力によっても見解が分かれるだろうし、その間でなされた報道に影響を受けるような一般の人々の間でも、それなりに見解の相違があるのかもしれないが、少なくとも現状に関して何をどう考えどう思っているかというよりは、政治や行政や報道に関わる様々な勢力がその間にやってきたことをできるだけ正確に把握するように努めた方が、より妥当な現状認識を得ることができるだろうし、様々な勢力が活動した結果として現状がもたらされているわけだから、やってきた結果がどうなったのかを見極めるべきで、それについてどう考えどう思うか以前にその方がより客観性を伴うかもしれないが、そのどうなったかという結果について何らかの見解を示す段になると、自分たちがやってきたことや自分たちが支持している勢力がやってきたことや自分たちが敵対している勢力がやってきたことについて、恣意的な自己正当化を伴うような意見を主張せざるを得なくなるわけで、それに関して一般の人たちはその恣意的な自己正当化を伴うような意見に注目する必要があるのかもしれず、そこに自己正当化とは異なる現実がもたらされていると感じられたら、それがそのような意見を主張する人たちの見込み違いであり、その見込み違いを認められないから必死になって自己正当化という自己弁護を講じているのだろうし、そこから果たしてそういう言いわけを述べている人たちを支持できるのかということについて、自問してみる必要があるのではないか。もちろんそれらの人たちの支持者たちは当然支持するのだろうし、はじめから支持しない人たちは当然支持しないのだろうが、どちらでも構わない人たちは別にそれらの人たちが見込み違いを犯したからといって、どちらでも構わない立場を堅持できるだろうか。少なくともそれが政治的な選択を伴うような成り行きであるなら、支持しない立場を選択した方が無難だろうし、そうでないと公的な政治制度に参加しないことにもなるわけで、実際に参加しなくても構わないからどちらでも構わないのだろうが、そうした態度によって見込み違いを犯した人たちの延命に手を貸すことになれば、それらの人たちは今後も見込み違いを犯し続けることになるかもしれないし、あるいは反省して今までの態度を改めるのではないかと期待したいところだが、見込み違いを犯している自らを正当化しているわけだから、そういう期待は裏切られる公算の方が高いだろうし、そうした面を考慮すればやはりそうした人たちを支持するわけにはいかないし、それを実際に政治的な選択の機会を利用してはっきりと示すべきかもしれないが、別にそれができないからといって、それらが表層的な変化でしかなければ大したことにはならないのかもしれない。

 政府のやっていることが社会にどんな影響を及ぼすかは、やっている内容とその時々の世の中の情勢にもよるだろうが、逆に社会情勢が政府の活動に何らかの影響を与えている面も少なからずあるだろうし、それに関しては景気対策などは世の中の景気が悪くなってきたから行う場合や、それほど悪くないにしてもさらに景気を良くする目的で行う場合もあり、対策によって本当に景気が良くなったと実感できるかは、対策次第であり世の中の情勢次第な面もあるだろうが、政府が世の中の状況に対応して対処しようとしていることは確かで、それが民衆へ向けて政治宣伝となるわけだから、世論の支持を取り付けるために対策を講じている限りで、本来なら民衆にとって利益になるようなことを政府が行っているわけだが、当然それに対して効果を疑問視する意見も出てくるわけで、時としてそれが政府に対する批判という形をとって表明されて、そのような意見に賛同するような世論が形成されてしまうと政府への支持が減ってしまうわけだが、支持が減ろうと増えようと、景気対策程度のことで政府に対する支持率の上下を心配するくらいなら平和な状況とも言えるだろうし、どのような勢力が政権を担っていようと、そういうところで取り立てて他の国と違うことをやる必要はないのかもしれないが、その国の特殊事情に関連して何かをやろうとする時に、果たしてその特殊事情を優先させるべきかあるいは特殊事情をできるだけ弱めるように努力すべきかによって、その特殊事情を抱えている世の中に及ぼされる影響も変わってくるだろうし、また特殊事情があるおかげで生じている対外関係にも少なからず影響を及ぼすのかもしれず、そういうところで政府の判断が問われてくるのではないか。具体的にその特殊事情というのはその地域に生じている歴史的な経緯であったり、地理的あるいは地政学的な位置関係から生じてくる経緯であったりするだろうし、それが地域の慣習や伝統や文化などにも多大な影響を及ぼしているとすれば、そこから少なからず影響を受けながら形成された政治勢力が政権を握っている政府としても、そのような事情にはそれなりに配慮しなければならなくなるだろうし、そのような経緯から例えば対外関係が停滞や膠着状況をもたらしているとするならば、そのような滞った状況を打開するには進んで特殊事情から脱却するような方向性が必要となってくるかもしれないし、またそれは国内事情の面でも特殊事情を尊重しつつもその殻を打ち破るような新機軸が求められてくるのかもしれないし、たぶんそういう面で政府が地域的な特殊事情から少なからず影響を受けているとしても、場合によってはそれとは別の方向性も打ち出して行かないと、時代的な閉塞状況から抜け出て未来へと進んでいけないだろうし、例えばそこから世界史的な普遍性を目指すような方向性が出てくれば、国内状況も対外関係も今までとは違う成り行きが生じてくるのではないか。それが具体的に何をどうするかという問いとして、現状の中で見つけなければならないこととなるかもしれないし、そういう方向で活動のやり方を模索して行けば、何らかの成り行きが自然に生じてきて、そのような導きに身を委ねれば自ずから活動の内容も一新されてくるかもしれないが、そうなるとやはり現状維持とは違った行為が必要となってくるのではないか。
 しかしそれを妨げる要因として制度や慣習があって、それらが同じ動作を繰り返し行うことを人々に強いていて、そこから逸脱した行動をとることをなかなか許さない成り行きを生じさせているのだろうが、だからと言ってそのままでは制度や慣習に逆らうきっかけもなかなか生じてこないだろうし、きっかけを無理に生じさせようとしても他の人々がついてこなければ、世の中が変わるような成り行きにはならないだろうし、ではどうすればいいのかという問いの前でいつも立ち往生するしかないのかもしれないが、実際には何も問われてはいないのかもしれず、たぶん誰もが問う前に行動を開始していて、あとはそれをいかに続けていくかというところで試練に直面している場合もあるだろうし、その試練に直面していることが、制度や慣習によってもたらされる行動の強制と実際に行なっていることとの間に生じているずれに悩まされている実態であり、それが試練の全てなのかもしれないが、それを容易には克服できないだろうし、克服できないからこそ絶えず新機軸を模索しているのではないか。そしてそうした活動が従来からある制度や慣習に逆らっていることの一部始終なのであり、それ以外ではないのかもしれないし、今後もそうした状況に絶えず巻き込まれていってしまうような成り行きがそこに生じているのではないか。それもたぶん誰もがそんな体験をしていて、試練に直面しないような人など世界のどこにもいないのだろうが、ただそれをどうやって紛らすかでその後の成り行きも変わってくるわけで、紛らしたりごまかしたりできない人が絶えず試練に直面し続けていて、直面しているからこそ新たなやり方を模索し続けているのだろうが、その一方で結果的に何らかのやり方でそれができた人はそこで模索をやめてしまい、さらにそれをやめて同じ動作に凝り固まることができた人には、そのような動作自体として制度や慣習がもたらされていて、またそれによって安定した生活ももたらされているだろうし、日々同じような動作を繰り返していられることが安定した生活がもたらされていることの証明ともなるわけだが、ただそれが万人に当てはまるかというと、確かに公的な制度はその利用者に同じような動作を要求していて、実際に制度に従うことが同じ動作を行うことになるだろうし、また慣習もその地域に暮らす人々に同じ習慣をもたらしているだろうが、それと同時に制度に逆らう人も慣習から逸脱する人も出てくるし、そこに制度に逆らう事情や慣習から逸脱する成り行きが生じているわけで、そのような事情を抱えた人や成り行きに巻き込まれた人が試練に直面しているのではないか。そしてたぶんそういう境遇自体が、その人が積極的に求めたからそうなったわけではなく、制度に従っているうちに次第に従えなくなってきたり、慣習として同じ動作を繰り返しているうちに次第に同じ動作を維持できなくなってきたわけで、そういう成り行きが実際に生じてしまうところが制度や慣習の限界を示しているのかもしれないし、その同じ動作を維持できない事情や成り行きがどこから生じるのかといえば、世の中の情勢の変化から生じるといってもそれほど間違っているわけではないだろうが、そのような変化を何がもたらしているのかというと、実際にそこで活動している人や集団がもたらしているわけで、制度や慣習に従おうとしているのに従えなくなるような試練に直面している人や集団が世の中の変化をもたらしているのではないか。
 また世の中で活動している人や集団のうちで何らかの制度を設けることによって特定の人や集団を優遇するようなことを行う成り行きがあると、その人や集団を優遇させるための特殊な事情が生じていて、逆に特定の人や集団を差別したり弾圧するために何らかの制度を設ける時にも、そうするための特殊な事情が生じていることになり、そして制度を設けることによっても新たに特殊な事情が生じてくることにもなるわけだが、制度を設ける以前に何らかの特殊な事情が生じているから、その事情に対応するためにその人や集団を対象とした特殊な制度を設けるような成り行きになったのだから、そうした制度を設けること自体も特殊な事情そのものになるわけだが、制度を設けることによって特定の人や集団を優遇したり冷遇したりすること自体が差別となることは明らかかもしれないが、例えば世の中の慣習として特定の人や集団を冷遇するような慣わしがあるとすれば、そういう人や集団を助けるためにそれらの人たちを優遇する制度を設ければ社会の中でバランスがとれるだろうし、そういう制度の代表例として虐げられた先住民を保護するための制度とか、戦災や事故死した人の遺児や母子家庭などの社会的な弱者を援助するような制度とかもあるかもしれないが、逆に制度によって不利益を被る人や集団が出たらまずいわけで、そういう制度はなくしていくかなるべく不利益を被る人や集団が出ないように改善するしかないだろうが、制度以外で特に不当な差別や弾圧を受けているわけでもないのに、制度によって特定の人や集団が何の理由もなしに優遇されるようなことがあってもまずいだろうが、それでも何か理由があって優遇されるような事情が生じるとすれば、それは試験に合格したり選挙で当選したりする場合だろうし、それ以外で特に何もなければ、特定の人や集団を制度によって優遇したり冷遇したりする必要は生じないのかもしれないが、たぶん社会的な慣習として特定の人や集団を優遇するような傾向があるとすれば、それが制度面でも反映されてしまうような傾向も生じるのかもしれず、それは直接あからさまに仕組みや法的な面で特定の人や集団を優遇するというよりは、制度を運用していく中でそのような傾向となってしまうことがあるだろうし、そういうことに関しては逆に自分たちが冷遇されているように思われる人たちにとっては不満材料になるわけで、例えば特定の学歴や経歴を持った人でないと採用されにくい職種というのがあるだろうし、また経済的に恵まれた家庭の出身者が特定の学歴や経歴を持つのに有利であったり、さらに特定の学歴や経歴を経た人にはそれだけ採用に有利な情報を受け取る機会も増えて、結果的にそのような職種に採用されやすくなる場合も出てくるのかもしれないし、そのような制度を管理運営している側でも自然と高学歴で高収入な人たちに有利となるような配慮が生じてしまう可能性もあるわけで、それは制度を管理運営している側の人たちもある程度は高学歴で高収入な人たちであるから、特にその点を意識していなくても自分たちの学歴や経歴の中で身につけた価値観を制度に反映させてしまうのかもしれず、そうなるとそれ以外の人たちにとっては利用しにくいような制度となってしまい、結果的にそれらの人たちに不利に働くような制度となってしまうのではないか。
 そんなことまで考えてゆくと社会の中で制度と慣習がある程度は連動していて、慣習から生じる不都合を制度が補完したり、その逆に制度の問題点を慣習が補うような成り行きにはなりづらい面があるのかもしれないが、実際に民族や人種などの差別を制度によって改善しようとしたり、社会的な弱者を制度によって助けたりする面も一応はあって、そういう方面での努力を推進していくような傾向もあることは確かで、それだけではないのが制度の実態であるとしても、そのような制度的な実践を否定するわけにはいかないだろうが、たぶん普通に社会の中で活動していても制度に従っているだけでは済まない事情も生じてくるわけで、何から何まで制度任せにはしておけないのはもちろんのこと、少なくとも自力で何とかできる範囲内では制度に助けてもらおうとは思わないだろうし、そうであるなら自力ではどうにもならなくなった時に制度の助けを借りて何とかなるような具合になれば、それだけ制度のありがたみも実感できるのだろうが、特に制度を意識していないしその自覚もないのに制度に助けられていることもあるのかもしれないし、制度にも様々な傾向や種類もあることだから、世の中の全ての制度を意識できるわけでもなく、それは普段から社会の中で働いている慣習を意識しないのと同じようなことかもしれないが、それについては制度や慣習から生じる不具合や不都合や問題点を自力で何とかしようとしたり、あるいは集団の助けを借りて克服しようとしたりする場合も出てくるだろうし、実際に制度や慣習を変えようとする行為や活動がそうした成り行きを伴っているわけで、その中で制度の改善や改革を目指すには政治家や政党などの政治勢力の助けを借りないとできないことがあるだろうし、政治家や政党が直接それを行おうとしている場合も多いのだろうが、制度を管理運営している官僚の側でもそれを目指すような動きがないわけではないだろうし、結局は世の中のあらゆる立場を超えて絶えず制度や慣習を改善したり改革しようとする機運が生じてくるだろうし、少なくとも現状を維持するために制度や慣習を頑なに守ろうとする人や集団が存在するというよりは、それらの改善や改革を目指しているように振る舞う方が一般受けするだろうし、その内容はともかくメディア上で行われる政治宣伝の類いには必ずそんな主張が含まれてくるだろうし、それが宣伝ではなく実質的な成果を伴っているかというと、疑問を抱いてしまうようなことばかりかもしれないが、その中で何を守り何を変えようとしているのかを理解しないとならないだろうし、いくら言葉で改革を訴えていてもその裏で実際に守っている何かがあって、それが利権であったり権益であったりするのだろうが、それらを言葉にすれば悪いイメージが湧いてくるわけだから、別に改革を訴えている勢力があからさまに利権を守ろうと主張したり権益を確保しようと訴えるわけがないだろうし、要するに敵対する勢力を批判する時には利権だとか権益だとか悪いイメージを伴うような言葉を駆使して批判する一方で、自分たちがやろうとすること訴える時には改革だとか推進だとか良いイメージを伴うような言葉を駆使しながら世間に訴えかけるわけで、そんなうわべだけの言葉に騙されるなと警鐘を鳴らすようなことも批判専門の人たちが訴えかけるわけだろうが、それらの訴えかけをどのように理解しようと、実際にそれらの人たちが何をやっているのかを把握できない限りは判断しようがないことも確かなのではないか。
 国家と慣習の関係について考えてゆくと、例えば宗教的な慣習が国家に与えた影響としては、神の下での民衆の平等が国の下や法の下での民衆の平等という思想につながったと考えられなくもないが、それに関してキリスト教会などの官僚機構がそのまま行政の官僚機構へと受け継がれたとも言えるのかもしれないし、教会がその信徒を幸福へと導くように宿命づけられているように、行政も国民を幸福へと導く義務があるとすれば、それらの間に相関関係があることは否定できないだろうし、その辺の事情は近代的な国民国家が西欧のキリスト教国から出現したと考えれば納得できるかもしれないが、そうした歴史的な経緯を踏まえながらも、それ以外の地域にはその地域独自の国家形態を模索できると考えてしまうと、地域的な特殊性を擁護するような思想へと傾倒して行ってしまうのかもしれないが、そのような考え方自体がまず国家ありきという近代国家主義思想に染まっていると言えるのかもしれないし、それが西欧で育まれた国家思想の亜流にしかならないだけに、あまりその手の考え方には幻想を抱かない方がいいのかもしれないし、その地域にどのような歴史的な経緯が生じているにしても、現状から過去へ向かって国家の起源を求めるというよりは、現状を踏まえながらもそこから未来へと視線を転じて、変革の可能性を模索して行った方が前向きになれるだろうし、その地域的な特殊性の擁護という考え方にも、社会の中で機能している慣習からの影響があるわけで、慣習が体現している過去との連続性という心理的な郷愁を捨て難い気持ちも、無下にはできない事情が生じていて、そういう現に世の中で機能している社会的な作用を肯定したり否定したりするのではなく、今後に向けてそれとどう付き合っていくかという態度で接していけば、そこから生じる様々な問題にもあまり偏った先入観なしに対処できるかもしれず、実際には過去との連続性だけではなく、過去との不連続を生じさせる事件も歴史上度々起こっているのだろうから、それがあるから過去とは異なる現状が現に生じているわけで、連続性と不連続性の両方の性質が合わさって歴史が形成されていると言えるだろうし、それらのどちらか一方だけを擁護するのは現状への無視にしか至らず、そうではなく両方の性質を認めることから歴史への理解が深まるのであり、歴史への理解を深めることと過去との連続性から生じてくる地域的な特殊性を擁護するのは似て非なることだろうし、場合によっては地域的な特殊性を批判することも歴史への理解を深めた結果として生じてくるだろうし、そこでも擁護することと批判することを二項対立として捉えるのではなく、かえって歴史への理解を深めるほど過去を率直には擁護できなくなってきたり、過去への幻想を抱けなくなってくるからこそ、そこから自然と批判的な態度が生じてくるわけだろうし、そうであっても過去を全面的に否定するわけにはいかないだろうから、そこからある程度は擁護する面も含まれてくるわけで、そうなると批判的な態度には擁護しつつも批判するという多元的な内容が含まれることになり、そういう面を安易に単純化しないことが肝心であり、逆に単純化して煽動したり宣伝したりすると、多元的な内容が失われてその代わりに二項対立的な論理が現れてくるわけだ。
 そういう二項対立的な論理に思考が絡め取られてしまうと、世の中が多元的な価値観から成り立っていて、そこから人や集団の多種多様な立場や活動が生じている実態を意識できなくなってしまうわけで、歴史の連続性と不連続性を体現するような複雑な経緯からそうした立場や活動が生じていて、単に連続しているだけでは社会には単純な構造しか出現しないわけで、それでは未開社会の部族共同体ような構造になってしまうだろうし、その逆に社会の構造が複雑になっているほどそこで歴史的な経緯の複雑な絡み合いが起こっていることを示していて、そこでは二項対立的な単純な論理では割り切れない関係が生じているわけだが、ある程度はそうした関係を無視しないと論理的な整合性がとれないから、論理的な整合性を装った何らかの理屈を用いて宣伝や煽動を行うような場合は二項対立的な表現を使わざるを得ないのだろうが、それが宣伝や煽動であるだけにそうした論理は世の中の実態を正確に捉えているわけではなく、宣伝や煽動をする側の恣意的な都合が反映された主張になるわけで、そうした主張に惑わされると不正確な認識に基づいた偏見の虜となってしまうわけだが、そうした主張は世の中の実態を単純化した認識に基づいているからわかりやすく、物事をあまり深く考えない人たちにとっては格好の思考形態として受け入れられてしまうわけで、特に単純化した理屈を用いて敵対する勢力を攻撃するのには重宝されるだろうし、そういうやり方が政治利用されている実態もあって、それが場合によってはポピュリズムとなって世の中で猛威を振るうこともあるだろうし、それほど顕在化しないとしても偏見に基づいた認識として世の中の慣習に結びつけば、差別という行為となって人々の深層心理の中で深く根を張り、容易には取り除くことのできない悪習となる場合もあるわけだ。それが悪い意味での慣習となるのだろうが、世の中には隣近所の助け合いなどのように良い意味での慣習もないわけではないだろうし、悪い意味での慣習と良い意味での慣習が表裏一体となっている面もないわけではないかもしれないが、慣習の悪い面だけを取り除くわけにはいかないだろうし、取り除けないのなら激しい対立をもたらさない程度に抑えて上手に付き合っていく以外にないのかもしれず、それが激しい対立をもたらして争いによって破局的な結果がもたらされると、そこで歴史的な不連続が生じるのかもしれないが、そういう目に見えるようなはっきりした不連続だけでなく、人々が気づかないところでいつの間にか世の中が様変わりしているような不連続も歴史の中では度々起こっているだろうし、それらが重層的に重なり合って歴史を形成しているわけだから、連続性だけに注目して歴史に解釈を施すと歴史物語ようなフィクションにしかならないだろうし、それが単純な二項対立のように話が仕立てられると通俗的な時代劇として大衆的な人気を博すかもしれないが、それも人々の深層心理に働きかけてわかりやすい偏見を生み出す土壌となるわけで、そういったところから絶えず物事を単純化して捉えようとする衝動が生じてきて、そうした衝動から単純な動作の繰り返しとしての慣習も生じてくるのだろうが、その一方で日々世の中で生じているあまりにも錯綜している様々な出来事の絡み合いを人の意識では正確に捉えることはできないし、人の思考でも捉えられないからその必要がないとしか言いようがないだろうが、少なくともそのような実態が生じている現実は把握しておいた方がいいのではないか。

 世の中の仕組みには合理的にできている面と不合理な面とがあり、不合理な面を強調すると何か問題が山積しているように思われるだろうが、実際に仕組みが機能している実態があれば、問題を抱えながらもそれなりに動作していることは確かで、それに関しては批判勢力からいくら問題を指摘されても一向に改善されずに、そのままになってしまっている制度などいくらでもありそうで、それでも曲がりなりにも動作しているのだから、実際にそのような制度の恩恵を受けている人や集団が存在しているわけで、それがそのような人や集団にとっての利権となっている場合が多いだろうし、逆に問題が改善されてしまうと特定の人や集団に利益をもたらすような利権が消滅してしまう可能性があるから、そういう人や集団が抵抗勢力となって問題の改善を阻むようなことを行なっている場合も多いのかもしれないが、それに関しても公的な制度に関係してそういうことが起こっていれば、批判勢力などがこのままでは国が危ないという毎度おなじみの危機感を募らせるような警鐘を鳴らすわけだが、実態として問題を抱えながらも機能している制度は、それによって恩恵を受けている勢力が存在する限りは、なかなか改まらずに現状が維持される傾向となるだろうし、そこで問題を指摘したり批判しても制度の改善につながらない成り行きがあるとすれば、制度的に問題の改善を阻むような仕組みもあって、そのような制度を改善するにも何らかの制度を利用して改善に取り組まなければならないとしたら、ただ問題を指摘したり批判するだけでは改善するには至らないわけで、さらに問題を指摘して批判するような行為にも、それらとは別の制度を利用しないと指摘も批判もできないような実態まであるかもしれないし、そのような制度の中で問題を指摘したり批判したりする役割分担まで特定の人や集団に任されていたりすると、それ以外の人や集団が問題に気づいて指摘したり批判しても、メディア上で全く相手にされないような仕組みまで世の中では機能しているかもしれないし、そうなると制度上の問題を指摘したり批判するにも制度的な手続きが必要で、問題を改善するにもそれとは別の制度上の手続きが必要となり、さらにそのような指摘や批判を妨害したり改善に抵抗するような勢力も、自分たちが主導権を握っている制度を利用してそんなことをやっているとしたら、それらの制度の間で有機的なつながりや関係がないとは言えないだろうが、実際にそれらの制度間で利害調整が難航しているから、なかなか問題を抱えた制度が改まらない実態が生じていることになるだろうし、それら制度が錯綜していて互いに絡み合っていることも確かかもしれないが、制度と制度の間で合理的なつながりが生じていないから、それぞれの制度に依存しながら活動している人や集団の間でうまく連携が取れない状況となっているのかもしれないし、しかもそれらの人や集団が自分たちが依存している制度の中で自足してしまっている場合もあるだろうし、そうなっているとすると問題を指摘したり批判したりしている人たちは、そんなことをやりっ放しでいられるわけで、制度の中ではいくらでも指摘や批判がやりたい放題ではあるが、それらの人たちは制度を改善する手続きを伴った制度からは排除されていて、そうであればいくら問題を指摘しても批判しても制度の改善には至らない成り行きとなるわけだ。
 だがそうした成り行きによって世の中の平静が保たれている面もあるわけで、それが批判勢力が主張するような危機的な状況を招いているわけでもないのかもしれず、世の中の不合理な面や不条理な状況を体現している現象としてそのようなことが認識されてはいるが、それが一向に改まらない状況が長引いていることが、それを批判している側からすれば否定的な意味での安定をもたらしているわけで、何かそれが負の連鎖や悪循環をもたらしていると思われるかもしれないが、そこからでも利益を得ている勢力がいるわけだから、それらの勢力にとっては好ましい状況かもしれないし、別に好ましくは思っていないとしてもそうするしかないような成り行きになっているとすれば、そうした制度の恩恵に与っている勢力としてはそのような仕組みを守っていくしかないだろうし、そういう自覚はないにしても守らざるを得ない状況に追い込まれているわけだろうが、実際にそのような制度とともに活動が成り立っている実態があるのだから、それが成り立っている限りは活動を続けていくしかない成り行きになるだろうし、つまり制度が実質的に機能している現状の中では、それに依存しながら活動している人や集団は活動をやめるわけにはいかないのであり、そのやめるわけにはいかない活動をやめさせるには多大な労力を要するのはもちろんのこと、実際にやめるようなきっかけが生じないとやめる成り行きにはならないわけで、そのきっかけがいつやってくるかは誰にも予測がつかないのかもしれず、それらの活動を常日頃から批判している勢力にとっては、何かそれに関連した事件が起こる度にそらみたことかと思って、とうとうついにその機会が到来したとぬか喜びすることもあるかもしれないが、一方でそれが空振りに終わることもいくらでもあるだろうし、いくら不祥事が取り沙汰されても持ちこたえてしまうような結果に終わるようなら、それが政党などの政治勢力であれば世の中で支持する人たちが多いからだろうが、それが行政の官僚機構であれば現状の形態の政府が存在し続ける限りはなくなることはあり得ないわけで、しかもいくら制度的な改善を目指しても実際にそれらの機構そのものを存在させるための制度は変えようがないのであり、官僚的な組織形態を存在させたままでそこから生じる問題を改善しようとするわけだから、そうした努力がなかなか実を結ばない現実があるとすれば、やはりそこに何らかの限界があることは確かだろうし、それは変えようとして変えられるようなことではないのかもしれないし、また変えようとしなくても変わってゆくような面もあるのかもしれないが、たぶん人の意図や思惑を超えて動作している仕組みがあって、そのような仕組みに対してそれを変えようとする動作も常に生じているのかもしれないが、そのような動作も作用している現状の中で成り立っている仕組みだとすれば、そこから生じている問題を改善するための努力も織り込み済みの動作の一つだと言えるのかもしれず、そこに作用している様々な動作の内には、問題の改善のための動作もある一方でそれを阻むための動作も作用していて、両者が打ち消し合って現状が成り立っているとすれば、そこで均衡がとれていることになるわけで、その均衡が状況の安定をもたらしているとしたら、現状では危機的な状況でも何でもないことになってしまうわけで、そしてそうした残念な状況が国の将来を憂うような暗澹とした気分をもたらすのではないか。
 政府が管理している公的な制度だけが世の中で機能している仕組みというわけではないし、中には世の中で生じる出来事を巡って政府が管理運営する制度と民間の業者が管理運営する制度とが重なり合う場合もあり、例えば結婚すれば行政の方には婚姻届を出す必要が出てきて、それに伴って戸籍や氏を変更する必要も出てくるわけだが、それに関連して世の中の慣習として結婚式を執り行うには民間の業者が管理運営している施設で行うことにもなるだろうし、またそれに伴って宗教関係の儀式も行うことになれば、教会や寺社なども絡んでくるだろうし、また人が死亡すればやはり行政機関に届出を出さなければならなくなり、それに関しては民間の医師や病院などで死亡診断書が書いてもらう必要も出てくるだろうが、やはりそこでも世の中の慣習として葬式を行うとなると民間の葬儀業者に依頼することにもなるだろうし、またそれに伴って宗教関係の儀式を行うにはやはり教会や寺社なども絡んでくるわけで、実際にそのような仕組みの中で慣習が機能していて、政府の方でも民間の冠婚葬祭業者の方でもそれらの出来事を管理する制度を運営しているわけだが、行政は冠婚葬祭を伴うような出来事を届け出によって管理しようとしていて、それらは行政が統治している域内に存在する人の状態を把握する目的で行われていることであり、その中でも主要な目的としてその人の資産の状態を把握する必要が生じているのだろうし、結婚すれば資産も夫婦の共同で管理するものとなるだろうし、子供が生まれると資産を分与する成り行きも生じてくるかもしれないし、また死亡すれば遺産の相続も生じてくるわけで、それに関連して相続税などを徴収する機会も出てくるわけだから、人の状態を把握する中ではその人の資産の状態を把握することが主要な目的ともなるのではないか。他にもどこに住んでいて家族構成がどうなっているかとか健康状態とか職業に就いているかとか様々な情報を得ているのだろうが、そのようなことを書類やデータとして管理しているとしても、普段はそれらの情報を何に生かそうとしているわけでもないだろうし、たぶん何かが起こった時に役立つから管理しておく必要が出てくるわけで、例えば子供が公的な義務教育を受ける年齢になったら小学校に入学させなければならないだろうし、そういう時に住民の出生届が出されていれば、そこから住所や年齢などを基にして該当する児童の存在を把握できるだろうし、その時に起こった出来事というのが、小学校に入る年齢に達したという出来事であるわけだが、他にも成人になったら年金手帳を配布したり、選挙権を得る年齢に達したら選挙の時に投票用紙を郵送したり、普通に何事もなく暮らしていても歳を取るという時間的経過に伴って様々な出来事が発生してくるわけで、それが行政側の都合が反映された出来事となるわけだが、住民にとっても必要な届出を怠ってそうした出来事を逃してしまうと行政サービスの面で様々な不利益を被るだろうし、行政側と上手く付き合っていくには必要な届出を行なっておいた方が何かと面倒な事態を招かずに済むかもしれないが、それも程度の問題なのかもしれないし、届出を怠ると懲罰の対象となること以外は各人の判断に任されている面もあるのかもしれない。
 そのように行政側が管理統治している域内の住民に必要な届出を求めること自体は、行政側の都合としては合理的な制度であるわけだが、届出の対象となる出来事の不合理な面は避けていることが多いだろうし、例えば結婚すると夫婦どちらかの姓に統一しなければならないという理屈は、データとして管理するにはその方が利便性が高いかもしれないが、今まで使ってきた姓を変える側にとっては何かと不都合が生じる可能性が出てくるわけで、国によってはそういう面を考慮して、特に姓を変えなくても構わないような制度になっているところもあるのかもしれないが、例えば慣習として男性側の姓に変えるのが慣わしとなっているような社会では、女性の地位が男性より低く見られている例として問題視されているだろうし、そうした慣習を変えられない国があるとしたら、公的な制度が慣習に依存している典型例とも言えるだろうが、そうした不合理を改めて公的な制度の下で男女平等を実現するために夫婦別姓を認めるような機運が高まっている事情もあるから、国によっては制度面での改善が図られているわけで、そうした面では制度的な改革や改善を目指す運動が実を結んでいる実態もあるわけだ。またそこからさらに事態が進んで同性婚を認めるような国まで出てきている事例もあるわけだが、そもそもが結婚という社会的な慣習を拒否するような人たちは実際に結婚しないわけで、また夫婦関係にあっても婚姻届を出さない人たちまで普通にいるだろうし、その辺は地域差もあることは確かだが、結婚に関してはそういうレベルでの制度的な拘束力が比較的弱いのかもしれないが、慣習的な拘束力が強い地域は結構あるだろうし、中には男性からの求婚を断れば殺されたり、親が決めた結婚相手から逃げて殺されたりする地域もあるわけだから、公的な制度とともに慣習的な制度でも不合理な面が様々にあるわけだが、そこに現れる不合理な面にはそれと表裏一体をなす合理的な面もあるわけで、氏族社会での結婚は氏族間で女性を交換することによって連携を強化して絆を深めることを目的としていて、そのような氏族社会の合理性が近代的な産業社会では機能として薄れてきたから、女性を物扱いするような非人道的な慣習も次第に廃れていく傾向にあるのだろうし、実際に法の下での男女の平等を目指しているわけだから、そのような古い慣習とは合致しない価値観が生じているわけだが、まだまだ古い慣習が色濃く残っている地域では、実際に結婚をめぐって殺人事件が頻発するような成り行きもあるわけだが、それは社会の産業化と並行して起こっている現象であり、そのような時代の進行や変遷とともに合理的な価値基準も変わっていく傾向もあるわけで、古い価値基準では合理的な制度や仕組みが新しい価値基準では不合理な制度や仕組みとなってしまい、古い価値観に囚われていると新しい価値観を理解できない場合もあるわけだが、別に新しい価値観に普遍性があるというわけでもないだろうし、そうした価値の変遷についてゆけない人にとっては、変遷していく成り行きが不条理に思われるかもしれないが、時代状況がその場の合理性をもたらすわけだから、その場の成り行きに対応していくには受け入れざるを得ない状況にもなるわけだ。
 制度の合理性とは実際に機能して役に立っていれば、合理的な仕組みで運用されているはずであり、少なくともそこから何らかの恩恵を受けている人や集団にはそう思われるだろうし、それらの人たちは制度を利用してそこから利益を得られているはずだろうから、それが理に適ったやり方だと思われるだろうし、実際に制度が問題なく機能している間はそう思われるわけで、制度を管理運営している側でもちゃんと機能させようとして様々なことをやっているはずだが、そのやっていることの中には、時には制度の不合理な面を覆い隠そうとする場合もあるだろうし、それが何かのきっかけで表面化してくると必ずしも合理的な面ばかりでないことが明らかとなってくるわけだが、それでも制度を利用して利益を得ている人たちが気にすることはないだろうし、利益を得られている限りはそれらの人たちにとって制度は合理的な装置となっているわけだが、その一方で制度を利用しても利益を得られなかった人たちにとっては不満が残るとともに不合理な制度だと思うだろうし、利益を得ようとしても得られないことがそう思わせる理由となるわけだが、制度の中にはごく限られた少数の人たちにしか利益をもたらさない仕組みのものもあり、その究極の制度が宝くじだろうし、ほとんどの人には大金が当たらないにも関わらず宝くじを買い続けている人も大勢いるわけで、それも仕組み自体は合理的にできているかもしれないが、しかも確率的には大金を得ることなどほとんどゼロに近いのに大勢の人が買うわけだから、たとえ制度自体が合理的にできているとしても、それを利用して宝くじを買うという行為自体が合理的とは言えないわけで、それは不合理というよりは非合理的な行為と言えるのかもしれず、確かに大金が当たる確率が限りなくゼロに近いといってもゼロではなく、実際に当たる人が出るわけだから、くじを買う人はその何百万分の一の確率で当たることを願って買うわけで、自分の行なっている行為が合理的でないことは百も承知でくじを買うわけだから、別に騙されているわけではなく、たとえ当たらなくて不満が残るとしても文句は言えないだろうし、そうなると制度の仕組みや利用に関しては合理性と不合理性と非合理性の三つのパターンが考えられ、それらが二項対立を形成するわけにはいかない状況が生じていると言えるかもしれないが、それは制度自体の欠陥ではなく、その合理的な仕組みの特性によって多くの人に利益をもたらさないにも関わらず、その制度を利用する人が大勢いるのだから、たぶんそうした制度をやめさせることは困難だろうし、損するのを承知で利用しているのだから、しかも少額の金額を買っているだけならそれほど深刻な実害もないだろうし、それなら別にやめさせる必要もなく、後は胴元である制度を管理運営する側の取り分が多すぎると文句が出るぐらいで、改善するならその点ぐらいしかないだろうし、そういう意味でたとえ合理的な仕組みの制度だろうと、そこから利益を得られなくても大勢の人に利用されている制度というのもあるわけで、それは程度の差こそあれ試験を伴った制度にも言えることだろうし、たとえ不合格者が大勢出ていても合格することによって何らかの恩恵に与れる試験なら、合格を目指して試験を受ける人が絶えることはないわけだ。
 たぶん資本主義経済の中で機能している制度にもそうした面があるだろうし、利益を得られるのがごくわずかな人や集団であるにも関わらず、制度を利用して利益の獲得を目指す人や集団が絶えず、しかもそこで利益を得られないで失敗しても他から収入を得ることで生活が成り立つ場合も多いだろうし、そうした競争原理で成り立っている制度というのは利益を得られずに失敗することを承知でチャレンジするわけだから、そういう面を考慮するならたとえ不合理な面があっても構わないわけで、さらに公平でなくても公正でなくても構わない場合さえあるわけで、少なくとも何でもありでは制度とは言えないだろうが、そこに人や集団を引きつける魅力があれば後は制度を管理運営する側の利益が確保される限りで成り立つだろうし、その人や集団を引きつける魅力というのが大金を稼いで成功した事例であればいいわけで、そうした事例を宣伝として活用すれば欲得づくの人たちが集まってきて挑戦するような成り行きになるだろうが、そうした制度は宝くじと似通った仕組みだろうし、成功して大金を手にすることができるのがほんのわずかな人たちであっても、利用者が絶えないような成り行きになれば、それだけ制度を管理運営する側に利益が出る仕組みになっているわけだ。結局行政側でもそうした制度を管理運営して利益を出している企業から税を徴収したいわけで、行政側が管理運営する制度としては利益を無視した福祉サービスなどの仕組みを作るにしても、税収の財源として民間の利益を優先した制度に依存しているとすれば、行政側の制度は社会全体の制度の中のほんの一部を占めているに過ぎないことになるわけで、原理的に言っても世の中の全ての制度を、利用者が公平に利用できてなおかつ平等に利益を分配できるような制度にするのは難しいわけだ。そこには必ず財源として民間の経済活動からの税収を必要とするわけだから、その税収をもたらしているのが競争原理に基づいた成功者にだけ利益がもたらされる制度だとすれば、そのような民間の制度に税収面で依存している実態があれば、そういう部分では公平かつ平等な利益の分配は望めないわけだから、そこから必ず不公平かつ不平等な格差が生じてきて、行政が管理運営している公平かつ平等を目指す制度を歪めてしまう恐れが出てくるだろうし、そうであるなら行政がやるべきことは、民間で生じている不公平かつ不平等な格差を縮めるような制度を構築することだろうし、それが具体的には所得に対する累進課税制度であったりするだろうが、もちろんそれでも完全に格差がなくなることはないだろうし、逆に格差がなくなってしまっては困るわけで、高額所得者にはそれなりに高額な所得を得られる正当な理由があって、具体的には競争に勝ち抜いて成功を手にするような成り行きがあって、そうした成り行きを行政の都合で無にするわけにはいかないだろうし、大前提として税収を経済に依存しているわけだから、経済活動によって生じる格差を否定するわけにはいかないわけで、経済活動そのものが格差を作り出す制度でもあるわけだから、そこで生じる格差を認めながらも、結果的に格差によって苦境に陥っている人たちを助けることしかできないのかもしれず、そういうところで根本的な格差の是正はできないものの、格差があってもそれなりに暮らしていける制度を構築するという妥協的で調整的な対策しかできないわけだ。
 それが行政が管理する公的な制度であっても民間の企業が管理する経済的な利益を求める制度であっても、制度に様々な種類や傾向があるのは、必要に応じてそれらの制度がこしらえられて、実際に利用されている限りで成り立っているからだろうし、利用されていることが社会の中で制度が機能していることを示しているわけだが、機能しているということはそこで何らかの活動が行われていることにもなるわけで、それが制度を利用した活動となるわけだが、それが制度を管理運営する活動と制度を利用する活動に分かれるとしても、管理運営する側は利用者とは異なる形で制度を利用している面もあって、制度を管理運営している機構そのものを維持するために制度を利用していると言えるわけで、そのような利用によって機構が利益を出しているとも言えるわけだが、それが機構を維持するための経費だけであれば利益とは言えないかもしれないが、例えば機構の職員が一般と比べても高い給与をもらって贅沢な暮らしをしていれば、それ以上の利益を上げていると言えるだろうし、また制度の運営によって機構の資産が増えてゆけば、やはり利益を上げていることは間違いないだろうが、実際に制度の利用者が増加していくにつれてそれを管理運営する機構の規模も拡大していくだろうし、規模が拡大すれば資産も増えるのは当然のことであり、資産の増加を利益の増加とみなせば、必要に応じて利益を出していることになるわけだから、何らやましいところはないだろうし、それに関わっている人々の間でも利益を出すのが当然視されるのではないか。そして利益の源泉は利用者から手数料を徴収していたり、民間の場合は広告宣伝費で費用が賄われていたりするわけで、その広告宣伝費というのも商品の購入費から賄われているわけだから、それらは回り回って消費者が払っていることにもなるだろうし、どのような経路で維持経費が賄われているとしても、それが経済活動から生じる利益になることは確かだろうし、さらに公的な制度を管理運営する行政はそこから税を徴収しているわけだから、それも経済活動から生じる利益から賄われていることになるわけで、維持経費を必要とする全ての制度は経済活動に依存していて、悪い言い方をすればそこから利益をピンハネしていると言えるだろうが、もちろん何の努力もしないで利益を掠め取っているわけではないし、規模の大きな制度の管理運営には多大な設備投資や組織的な労力を伴うだろうし、そんな努力の甲斐もなく利用者が減れば制度自体が廃れてしまうわけだから、結局は制度を利用することで人や集団が利益を得られている限りで、制度を管理運営する側と利用する側が共存共栄の関係にあると言えるだろうし、また制度を管理運営する側も他の制度を利用する側になっている場合も多いだろうし、そうやって世の中で様々な制度が複雑に絡み合って管理運営する側と利用する側が相互に入れ替わっている状況もあるのなら、ただ一方的に制度を管理運営するだけの立場は存在しないことになるだろうが、個人としては管理運営する側に属したり利用する側に属したりしているものの、集団としては管理運営を専門とする集団が様々に存在することにもなり、そうした集団に個人が隷属を強いられるような成り行きがあるとしたら、そこから何らかの問題が生じてくるのではないか。
 制度に関して問題となってくるのは、制度を利用することで個人の活動が制約を受けることかもしれないが、果たして社会の中で個人の立場が優先的に尊重されるかとなると、制度を管理運営する集団としての活動が優先される傾向にあれば、個人は集団に隷属した存在となるしかないだろうが、個人と集団を対立した立場として捉えることが果たして妥当なのかと言うと、個人は集団との関係の中でしか存在し得ないと捉えるならそうでもないことになるわけで、その場の状況や成り行きに応じて、個人としての立場と集団の一員としての立場を使い分けている場合の方が多いかもしれないが、集団の一員であるとしても日々の生活の中で個人でいられる時間帯があれば、それで構わないと思う人もいるだろうが、集団のためにやりたくないことをやらなければならないような事情が出てきた時に問題が生じて、やりたくないことをやらされて心身に異常がきたすような成り行きにもなるわけだが、そうした時に個人であることを優先させるか集団の意向に従うかで思い悩むだろうし、果たして病気になってまで集団の意向に従う必要があるかとなると、その場の状況によっては集団の意向に従わざるを得なくなって身の破滅を招くような事例も多いだろうし、それを避けるには常に集団から離脱できるように準備しておく必要もあるのかもしれないが、そういうことも含めて個人の立場は集団との関係の中でしか存在し得ないかもしれないが、そこに個人の立場があるとすれば、集団との関係を解消できる限りで個人の立場が存在するとも言えるだろうし、そうした個人の立場が存在しない社会では、例えば江戸時代の武士階級のように主君から切腹を命じられれば、その理由が何であれ自害して果てるのが当然に思われるような制度もあったわけで、また氏族社会でも個人が存在しない代わりに一族という集団が存在していて、何があっても集団の掟には逆らわないのが当然であったのだろうし、何よりも自らが属する氏族の繁栄のために尽くさなければならないような制度となっていて、そうした制度の中で生まれ育った人には個人という概念は存在しないだろうし、実際に個人が主体となって存在するようになってきたのは、資本主義的な経済が発達してきてからだろうし、人が資本家や労働者として企業と関係するようになって、また公的には国民として国家と関係するようになってから、個人という概念が社会の中で構成されるようになってきて、そういう面では個人は企業や国家などの集団的な組織形態との関係で構成されてきたわけだから、それらの組織形態が管理運営する制度によって制約を課せられた存在であるわけで、はじめからそれらの集団に対して弱い立場を強いられる宿命にあり、そこに隷属を強いられる関係があるから隷属を強いるような対象への反発や反抗が生じるわけで、ではなぜ武家社会や氏族社会では存在しなかった個人が近代の産業社会では生じたかというと、企業や行政の制度が人を個人として管理統治する仕組みにしているからと言えるだろうし、それに対して武家社会や氏族社会では一族として管理統治する仕組みであったから、人がそれらの族から独立した個人として存在する余地がなかったのではないか。そうであるなら個人も制度的に生じてきた存在だろうし、アプリオリに個人が存在するわけではなく、産業社会以前の時代でそうした個人を見出そうとすると、結局現代の基準を過去の時代に当てはめているだけであり、それでは現代から構成されたフィクションにしかならないのかもしれない。