資本論





第八章 議会と政党




 世の中で活動する様々な集団的な組織形態を伴った勢力の中で、議会で活動する政治勢力として政党があるわけだが、特定の政党やそれと連携する他の政党と合わせて議会で過半数を超える議席を占めて政治的な主導権を握ると、議院内閣制の下では首相や大臣など政府の主要な閣僚を議員たちが兼務することにもなり、それが大統領制でも議会で主導権を握っている政党から大統領が選ばれることが多いだろうし、形式的には議会と行政との間で権力の分立が成り立っているはずだが、政党がその両方とも主導権を確保すれば、行政と司法と立法の三権の中で行政と立法の二つの権力を握ることになるわけで、さらに司法は組織形態としては行政の管理下に置かれることも多いわけだから、実質的には政党が国の全ての実権を握る可能性も出てくるわけだが、独裁者的な人物が政党の指導者として実権を握り、またそれが民衆の間でポピュリズム的な人気を博して大統領などになると、まさに政治的には独裁体制が確立しているように見えるだろうし、実際にそのような体制は過去にも現在にも程度の差こそあれ世界各国で見られるだろうが、そのような権力の独裁体制を築く上で政党は欠かせない形態であり、そうでなくても議会の中で意見の集約を図る上でも何らかの立法手続きを行う上でも、特定の政党が議会の中で主導権を握っていれば実効性を伴った結果をもたらすことができるだろうし、そういう面で議員が民主的な政治活動を行う上で政党の果たす役割が重要となってくるわけだ。そんなわけで非民主的な独裁体制を築く上でも民主的な議会運営を行う上でも政党が重要な役割を果たすことになり、どちらの面でも政党の活動が介在してくるとすれば、政治の面では政党が万能な組織形態であると考えられてしまうが、政党自体が民主的な国家形態に対応して現れてきた勢力であり、そこで主導権を握るために組織化された集団でもあるわけだから、同じように産業の発展とともに社会の中で集団で犯罪活動を組織的に行う活動の中で、次第に頭角を現してきたギャングやヤクザなど非合法的な集団と構造的にも機能的にも似ている部分があり、社会で何らかの利益や利権が生じていれば、必ずその独占を目指した集団的な組織形態が現れてくるのかもしれず、そのような利益や利権の獲得を目指す活動に関しては、市場経済の中では企業が出現して行政の中では官僚機構が出現してきたのと同じように、議会の中では政党が出現してきたわけで、中でも政党は民間の企業と行政の官僚機構との間で利害の調整や橋渡しを行うような役割もあり、そこに場合によっては大衆の世論誘導や世論調査などを行うマスメディアなどの報道機関が絡んでくるだろうし、さらにギャングやヤクザなども非合法的な活動を行う必要が生じてくれば絡んでくるだろうし、結局世の中で生じている様々な勢力が何らかの利害に絡んで連携や対立などの関係を形成してくるわけだから、その中で政治に関係する面での利害に関しては政党が主導権を握ることになるわけだ。だから特定の政党が政治的な利権を独占することになれば、他の様々な分野から行政にアクセスするにはその政党を介さなければならなくなってしまうだろうし、そうなると政党の政治的な権力がますます強くなってきて、それが恒常的な関係となれば一党独裁的な政治体制が出来上がるわけだろうが、そうなると民衆にとっては他に政治的な選択肢がなくなってしまうわけだ。
 政治的な利権の独占を目指して政党に議会や政府内で政治的な主導権を握る目的が生じるのは当然だとしても、それが一般の民衆にとって利益となるか否かは、政党の活動がもたらす成り行きや結果によって異なるだろうし、民衆の間でも立場や境遇に違いがあり、政党が利益誘導している対象となっている世の中の何らかの勢力の関係者であれば、政党の活動から直接の利益を得られることになるだろうが、そういう人は民衆の中では限られてくるだろうし、そういうことよりは民衆が漠然と政治に望んでいるのは、全ての民衆に分け隔てなく利益がもたらされるような最大公約数的な利益になるだろうし、そのような利益が人々に何らかの実感を伴ってもたらされるのは難しいだろうが、たぶんそれは金銭的な利益というよりは、世の中で自由にものが言えたり自由に活動できるような環境をもたらすことが、リベラル的な政治を望んでいる人たちの理想でもあるのかもしれないが、もちろんそうなるには現実問題として経済的な利益も絡んでくるだろうし、その辺で理想と現実の間で落差が生じてしまうのは仕方のないことかもしれないが、そういう漠然とした利益を夢想している人々にとっては、特定の政党による一党独裁的な政治体制の確立は望ましいことではないだろうし、しかもそういう政党が社会内の特定の勢力に対して利益を誘導している実態が批判的なメディアによって暴露されようものなら、そのような政治体制の解体を望むようになるだろうし、そういうところで民衆にとっての利益が何なのかについては、実体の定かでない漠然とした価値観が生じていて、それが特定の政党の活動とは相容れない面があるのかもしれず、またそのような価値観に迎合するリベラル系の政党にとって、自分たちの政治理念と現実の経済的な功利性を追求する風潮との間で相容れない面があって、それが悪影響して広範な民衆の支持を得られずに、議会内で主導権を握れない事態となっているかもしれないし、民衆の間でもどの政党を支持すればいいのかに関しては、はっきりした判断がつかない現状もあるのかもしれず、しかも政党の政治活動が民衆の利害に直結しているかについては、よくわからない面が多すぎるのかもしれないし、ただ言えることは社会の中で様々な勢力が集団的な組織形態を伴って、その集団の利益を得るために活動している実態があって、それの延長上に政党もあることは確かで、政党の利害と民衆の利害とは重なる部分も重ならない部分もあり、その中で少なくとも政党の利益が最大限に大きくなるような一党独裁体制のような政治体制が築かれれば、世の中で自由にものが言えたり自由に活動できるようなリベラル的な価値観が失われてしまうだろうし、そういう価値観を実現することが民衆の利益になると信じている人にとっては、一党独裁的な政治体制を目指す政党とは利害が異なるわけだ。しかもそういうリベラル的な価値観を重視する政党であっても、議会の中で絶対的に優位な立場を得るような議席を獲得してしまえば、自然と一党独裁的な傾向になってくるだろうし、最低でも二大政党制になっていればリベラル的な価値観が保たれるかもしれず、理想を言えば議会で過半数に満たない複数の政党が連立政権を形成する状況になれば、多元的な価値観の実現に関してはリベラル勢力が望むような政治状況となるのかもしれないが、そうなると政党で構成する議会より行政に巣食う官僚機構の方が強くなってしまう可能性も出てくるだろうし、そうなってしまうとリベラル的な価値観自体が政治的な権力もその有効性も弱くしてしまう効果があることになるのではないか。
 理想的な政党の姿として、特定の経済的な利害にとらわれずに社会全体を公平で平等な視点で見ることのできる人たちが集まって政党を結成すれば、特定の利権団体や圧力団体とは相容れない偏りのない政治活動を行うことができるかもしれないが、その公平で平等な視点というのが本当にそうなのかはそう思っている人の恣意的な価値判断が介在してくるだけに、そうは思わない人にとっては必ずしも公平だとも平等だとも思えない場合があるだろうし、その辺で曖昧なニュアンスを伴って客観性を欠いてしまいがちになるのかもしれず、それに関して一般的なことを言うなら社会の支配的な価値観に囚われた判断が公平で平等な視点をもたらしているようにも思われてしまうわけで、そのような価値観に囚われた社会の主流を構成する人たちの支持を得られるような人々が集まって政党を結成すれば、その政党により多くの支持が集まるだろうし、そういう政党が議会選挙などで多数の議席を確保して議会の多数派を占めれば、民衆の支持もそれなりに得られることになり、実際に世界の中で民主的な政治制度が確立している国々ではそういう成り行きになっているところが多いだろうし、制度的にはそれ以上の改良を加える必要はないのかもしれない。またそうだとすると民主的な政治は社会の支配的な価値観に囚われてその社会で主流を構成する人々の支持を前提として行われるわけで、それ以上の理想を求めることはできないだろうし、その中でできることは社会の主流を構成する人々の価値観が公平で平等な理想に近づくように、啓蒙活動などを行なっていくしかないのかもしれないが、その啓蒙の中身が特定の政治的な主義主張や経済的な利害にこだわりがあるようなら、理想とは名ばかりの偏った価値観となってしまうだろうし、しかしどう考えても人の考えている中身には、その人の社会的な立場や境遇から生じる何らかのこだわりがあるわけで、そうであるなら特定の人物の考えだけではなく、その社会の中で様々な立場や境遇を占めている人々の意見を聞いて総合的に判断するしかないだろうし、実際に政党の理想としてはできる限り市民集会などを開いて、大勢の人から様々な意見を聞いて政策や法案などの立案や作成の参考にするしかないわけで、そういうことをやった結果が社会の主流を構成する人々の支持を得たり、またそれらの人々との市民集会などでの議論のやり取りを啓蒙活動として活かすことにもなるのかもしれず、そうやって絶えず政治活動の理想を追い求める過程を維持することが政党としての政治活動になるのだろうし、それは理想的な活動の結果を求めると言うよりは、その活動の中にとどまり続けることが重要となってくるのかもしれない。そして世の中の様々な方面から意見を聞く過程で、特定の意見に傾斜するのではなく、相反する意見や対立する意見の間でどう調整を図るのかも重要となってくるだろうし、また場合によっては世の中の主流をなす意見に逆らうような判断をしなければならない場合も出てくるだろうし、そうなった時にはそのような意見を持っている主流派の人たちをどう説得するかも政党の政治的な力量として試されるところでもあるかもしれず、そういうところで主体的な判断を行わなければならない事態が生じてくるわけだ。
 そうは言っても過ちや誤りは付き物だろうし、実際に間違った判断や決定を下してしまうことも多々あるわけで、そんなことの積み重なりが現実の状況をもたらしているわけで、結局はその場その時の状況に応じて判断や決定を下していくしかなく、またそれが間違っていると判断されるような結果を招いたら、それなりに活動を修正していくしかないだろうし、それに関しては一定の傾向に凝り固まらずに柔軟な対応が求められるのだろうが、そのような対応ができている限りでまだ良くなる可能性があるのかもしれないし、また同時に悪くなる可能性もあるわけだが、案外市民の支持や賛同を得る上で大切なのは、正しい判断や決定を下すことよりも間違った判断や決定を下した後の修正力の方かもしれず、下手に一定の傾向に凝り固まってしまうとそのような傾向を支持する人々の支持や賛同は得られるとしても、他の傾向を求める人々は支持も賛同もしてくれなくなるわけで、結果的に少数の支持しか得られていないのにその傾向をいくら推し進めても支持が他へと広がっていかないだろうし、そういうところで一定の傾向に凝り固まらずに柔軟な対応が求められるわけだろうが、それでも今までの主義主張を簡単に捨てて別の主義主張に衣替えするわけにはいかないだろうし、それに関してできることは自分たちとは異なる主義主張の人たちとできるだけ対話して議論を交わして意見交換をすることかもしれないし、またそんなところから今までの主義主張とは違った方向が生まれてくるのかもしれず、またそこからさらに進んで特定の主義主張とは異なるやり方を模索することが肝心になってくるのかもしれないが、それに関しては政治の場でできることは行政の行うことを制御し調整して場合によっては変更を加えることであり、それをやる上で必要な法整備を行なったりそのための予算を付け加えたり削減することだろうし、そういった法整備や予算の増減などを行う必要性に関して議会で審議したり議論するのが政治的に行えることだろうから、特定の主義主張にこだわらずに個々の懸案に関してその場の合理性に基づいて判断や決定を下していけばいいわけで、実際に議会ではそういうことが審議されているのだろうが、それ以上ではないことに関してはあまり幻想を抱くべきではないのかもしれず、そういった審議を議会で行なっていく以外にはやりようがないだろうし、そのような審議の過程で政党の固有の主張を表明するわけだろうし、まず固有の主張がありきではなく、審議内容に関して合理的な判断や決定をもたらすような努力が優先されるわけで、それが議会で主導権を握っている側や行政側の意を汲んだ強引な議会運営によって妨げられるようなことにでもなれば、それに対して非難や批判がされる成り行きになるわけだが、そうなってしまった経緯についても詳細な説明が必要となってくるだろうし、そういったことがメディアを通じて正確に伝わるような配慮も求められているわけだが、体制翼賛的なメディアがそれを妨害してくるような成り行きも一方では生じるかもしれないし、そういうところで日頃から行なっている市民と交流の成果がものを言ってくるのかもしれず、より多くの様々な立場や境遇の人々と交流して、それらの人々との対話や議論や意見交換などを通して親睦を深めることでそれらの人々から信用を取り付けていれば、いざという時にそれらの人々からの支持を期待できるわけで、それをやらないで特定の主義主張に凝り固まった特定の傾向の人たちとしか交流してこなければ、いくら筋の通ったことを主張しても広範な支持は得られないわけだ。
 また実際に議会で多数を占めて議院内閣制で政権与党となったり大統領を出したりすると、政党は政府内でも活動するようになるわけだが、その他の政党でも選挙で議席を確保すれば主に議会で活動することになるわけで、そこでの活動は議会に法案を出したり政府側から出された法案や予算案を審議したり、その過程で政府の対応を議会で質問したり政府のやっていることを批判することにもなるのだろうが、そこに至るまでの過程のいわば準備段階で、メディアを舞台として民衆の支持を得るための様々な駆け引きが複数の政党の間で展開されるのが現代的な政治の特徴と言えるのかもしれず、結局それが選挙で多数の議席を獲得して議会の中で優位な立場を占めて政権政党となるための戦略や戦術となってくるわけだが、それは議員として議会内で活動する以前の、選挙で議席を獲得して議員になるための活動とも言えるわけで、すでにそれと同時並行的に現役の議員や政府の閣僚となっている人もいるわけだから、二つの活動に連続性があることは確かだろうが、実際に議員になるまではまだ空約束や空手形を発行していると思われても仕方のないことをやっているわけだから、選挙での政党の公約というのが本当に実現する可能性があるのか否かは、実際に選挙結果が得られた後の状況次第な面があるわけで、果たして選挙で候補者に投票する段階で民衆の選択が正しいか間違っているかはわからないわけで、そういう意味で選挙という制度とそれに絡んだ政党や候補者の活動やその内容に何か確かな合理性や正当性があるとは言えない面があって、それに関して簡単に言えばサイコロを振るような偶然の巡り合わせが介在してくる要素が大きいわけだろうが、そういうところで必然性や確実性を高める上でメディアを利用した世論誘導とか世論調査の結果を民衆の意識に刷り込むような手法もとられるわけで、結局そんなことをやっているうちにいつの間にか不確かな空約束や空手形に何か実効性や実現性があるかのような思い込みが民衆の意識に芽生えてくるわけで、それが世論誘導や世論調査結果を選挙結果に反映させる有効な手法なのかもしれないが、実質的にはまだその段階では何も行われていないわけで、重要なのはそこから先の議会や政府内での活動となるわけで、それが空疎で中身のない形だけの儀式のようになってしまえば、文字通り政党の選挙公約は空約束や空手形と同じになってしまい、そんな公約の内容に関して争われた選挙自体も無駄で無意味な空騒ぎでしかなくなり、それについて世論誘導を意識したメディアの世論調査なども同様の詐欺でしかなくなってしまうだろうし、何かそこで公約の実効性や実現性を期待してしまう民衆が、政党とメディアが連携した詐欺に騙されていることにもなるわけだが、それがサイコロ博打的な選挙の実態だとしても、そのような制度を通過しないと事態が進まないわけだから、政治にはそういう不確実で不透明な面があることを民衆の側が認識しておくしかないだろうし、民衆の側でできることは政党の選挙公約が空約束や空手形であることがはっきりしてくれば、少なくともその次の選挙ではそれに対抗した意思表示をしなければならないのだろうし、それができなければいつまでたってもメディアと政党が連携した世論誘導を狙った世論調査などによって世論を管理され制御されたままとなってしまうのではないか。
 それに関して政党の選挙公約などを真に受ければそういう認識になるだけで、別に公約の実効性や実現性など信じていなければそういうものだと思うだけで、それよりも世の中の安定性などを考慮すれば、取り立てて政治的に実効性のあることをやらなくても、行政は官僚機構にまかせていれば済んでしまうことも多いわけで、公約を破ったからといってわざわざ無理に政権交代をさせなくても現状で構わないという空気が世の中で支配的な世論を形成していれば、多くの人は何も事を荒立てる必要は感じないのだろうし、そういうところでわざと合理的かつ論理的な厳格主義を装った現状分析をして、約束が守られていないことに対して正義の鉄槌を下すような訴えかけや煽動を行ってみても、世の中の空気を読めていないか的外れな批判をしているとしかみなされないだろうし、そういう面でも選挙という制度のいかがわしさやいい加減さが明らかになるかもしれないが、そういう面も含めて政治制度として現状で成り立っているわけだから、メディアの世論誘導を狙った世論調査結果の公表などに関しても、あまり否定的な見解を示しながら目くじらを立てても意味がなくなってしまうだろうし、そこに様々な限界や不透明な面があることは確かなのだろうが、政権公約を真に受けたり政党が行なっていることをできるだけ生真面目に解釈しないと、ますます不透明感が増してゆき、それらの何が良くて何が悪いのかに関して全く判断がつかなくなってしまうだろうし、民衆の側でも政党や官僚機構やメディアなどの現状維持的な傾向をあまり信頼しないことが、主体的に物事を考える上では必要となってくるのではないか。それに関してなぜ主体的に物事を考えなければいけないのかというと、何も危機感を煽るにはそれが必要だからというのではなく、そうしていないと世の中の情勢に対して引っ掛かりが生じないのかもしれず、引っ掛かりとは疑問が生じることなのだろうが、疑問が生じなければ制度に対して従順になるしかないだろうし、従順でいられる限りで現状に追従していられるだろうし、それで何事もなければ構わないのだろうが、それだけでは済まない現実を実際に日々体験し続けているわけで、そのそれだけでは済まない現実をやり過ごすには制度に追従していくしかないだろうし、意識が実際にそうなってしまうと、自らが誰でも構わないような存在となってしまうのではないか。そういう存在は世の中で活動する様々な勢力にとっては消費の対象となるだろうし、世の中の支配的な風潮や傾向に率直に従ってくれるありがたい存在でもあるわけだが、そんなただ利用されるだけの存在となってしまうと、いったん情勢が思わしくなくなった時には真っ先に見捨てられてしまうような存在となってしまうのかもしれず、そういう意味で単なる消費の対象である限りで、いいように利用されていらなくなったらさっさと捨てられる便利な存在となるしかなく、それが嫌なら絶えず疑ってかからないと状況に流されてしまうだろうし、現状に対して疑心暗鬼になるぐらいの方が状況を正確に把握できるのかもしれず、大衆的な群衆の中の一人として政党から政治的に利用されないように心がけていないと、茶番のようなメディアを舞台とした詐欺芝居に踊らされるだけとなってしまうのではないか。

 政治に関する制度は、特定の政治勢力による政権の奪取とそれを広く民衆に認めさせて支配を既成事実化するという歴史的に折衷的な要素が積み重なって生じてきた経緯があるわけで、それだけに別に合理的でも論理的でもない部分があって、そういう部分では矛盾を体現していて、それが時として民衆の支持を得ながらも民意を無視した独裁政治に至るなどの理不尽な結果になることも度々あるだろうし、あまり活動の正しさを求めるようなことにこだわらない方がいいのかもしれず、その代わりに意にそぐわない妥協やある程度は不公正なやり方が蔓延するのは、成り行き次第ではやむを得ないのかもしれない。そうであるから政党の活動に過度な倫理観を求めても無駄な面があり、それは特定の政党を支持する人たちにも言えることかもしれないが、目的を成し遂げるには手段を選ばないようなやり方がしばしばとられ、その是非は民衆が選挙の時に判断するしかないわけだが、一部の民衆の方でも都合の悪い嘘やデマには目を瞑ってしまう傾向になるだろうし、そうやって見て見ぬ振りをしながら現状維持へと傾斜して、世の中の安定を望んでしまうわけで、その結果がそれなりに安定した現状をもたらしていれば、そんな嘘も方便的な状況をあまり過度に正当化するわけにもいかないのだが、それでは誰もが胸を張って正々堂々と正義漢を気取れるような状態にはならないだけに、政党として普通に活動していてそうなってしまうのだとすれば、何か制度的に改善の余地を探したくなってくるのだろうが、たぶん制度的な法整備に関する手法自体に限界があるだろうし、それでも現状がひどいと思うなら制度以外のところで改善の余地を探す必要があるのかもしれず、ならば制度の改善以外に何が必要なのかといえば、それに関しては安易に個人の倫理観や主体性の確立とかの理想主義的な主張をするわけにはいかないだろうし、たぶんそれ以外にも現状を構成している様々な要素があって、それらがそれなりに社会の中で機能していることの前提を無視するわけにはいかないのかもしれない。そして現状では政党の政治活動が世の中の全てを支配しているわけでも、全ての物事に最も強い影響を及ぼしているわけでもなく、社会の中で活動している様々な集団的な組織形態を伴った勢力のうちの一つが、政党という団体を構成しているわけで、他の勢力とともに政党も社会の構成要素として存在していて、それなりに機能しているわけだから、他の勢力との関係から政党という政治勢力を捉えてみることが肝心かもしれず、政党単独でその存在や形態の良し悪しを議論してみても、あまり現実的な改善への糸口は掴めないのかもしれないし、他の勢力との相互作用から政党もその実態を維持しているわけだろうし、今後何かのきっかけで社会の中での様々な勢力の間で生じている入り組んだ関係の様相が変われば、政党も他の勢力の活動とともにその実態も変わっていく可能性はあるだろうし、それには現状で主流から外れた勢力の他の勢力との連携や協力の模索に期待しなければならないのかもしれないが、その際には一般の市民の側でも妥協して現状維持を受け入れるような政治選択から抜け出す勇気が必要となるだろうし、無理に今すぐにそういう意識を持たなくても、そのような選択を迫られるような情勢の変化が起こる可能性が将来生じる場合もあるかもしれないが、それも偶然の巡り合わせのようなものだろうし、それは人々の期待が成就するような成り行きとは異なるのかもしれない。
 だからまずはありのままの現状を受け入れた上で、それについて考えてみることしかできないのかもしれず、それでは認識を新たにするには至らないのかもしれないが、まだ現状の中で気づいていないこともあるだろうし、現状の政治に関してその正確な実態を把握する必要があるのかもしれないし、それに関してはできるだけ当たり前のことのように思っている前提や先入観に囚われないことが肝要だろうし、こうでなければならないという思い込みが邪魔をしていて、それに影響されて独りよがりな現状認識や偏った価値観に囚われている可能性があって、そのこうでなければならないという政党のあり方が根本的におかしいことに気づいていない可能性もあるのかもしれないし、それに関しては下手をすれば政党など存在しなくても困らないことに気づいていない場合さえ想定できるのかもしれず、現状でも議会で活動する議員たちが無理に徒党を組んで政党など結成しなくても十分にやっていける制度となっている可能性さえあるわけで、特定の利害に関して無理に協調したり連携しようとするから政党が必要となってくるのであって、議員の間で主義主張や利害が異なっていても協力し合える部分はあるだろうし、現に今でも超党派的な活動もあるわけだから、別に政党の枠組みにこだわらずに議員一人一人が別々に活動できる余地があるのかもしれず、そういう意味で無所属議員という存在もあるわけで、議会内でも様々な形態で活動することが可能なのかもしれないし、明確な区分けを超えて様々な連携や協力関係のネットワークを構築することが、特定の偏った利害に基づいて議員たちの自由を制限しようとする作用に対する抵抗として有効になってくるだろうし、そういう意味で政党の枠組みを形骸化させることが不寛容な拘束からの解放をもたらすだろうし、そういう方向での努力が停滞した議会の予定調和の二項対立を打破することにつながるのではないか。つまり政党をなくそうとするのではなく、政党は存在させつつも政党を超えた議員の間の交流を盛んにすればいいわけで、そのような交流によって政党の内部で生じている独善的な傾向を弱めることが可能となるのではないか。それは何も政党だけに言えることではなく、他の様々な勢力や組織的な活動形態の団体にも言えることであり、団体の内部の結束を強化する方向から外れて組織的な形態を超えた人や団体間のネットワークを構築し、そのようなネットワークを通した人や物や情報の交流を盛んにしていけば、その団体の外部から影響が及びやすくなるわけで、そうやって外部から団体の体質を変えて行ける可能性を増やしてゆけば、それが良い方向での改善に結びつくのなら、団体自体の内部から自己変革を目指すよりは容易に改革へ結びつくのではないか。実際に集団的な組織形態の内部から変革を促すのは容易なことではないだろうし、実際に変わる時にはいつも外部からの影響を被って変わるのではないか。それは広い意味で国家という組織形態にも言えることだろうし、歴史的な経緯としては国家はいつも外部からの異民族の侵入や交易などによって崩壊したり変質を被ったりしてきたわけで、そのような傾向は他の様々な集団にも言えることかもしれず、それはいつも外部からもたらされる折衷的な要素が積み重なる成り行きになるのではないか。
 そのような外部からの影響とは違って人の内面の意識や閉鎖的な組織の内部では、人は放っておけばすぐに単純でわかりやすい論理を用いて、自らの妄想や偏見に依拠した独りよがりなことを考えがちになるだろうし、それが自分の都合を反映した思考動作であることは言うまでもなく、そういう思考から自らが否定したい成り行きや結果について勝手な決めつけを用いて批判したがるわけで、そうなってしまうことは自らがそう考えてしまう成り行きを肯定したい感情に囚われているからだろうし、そうなってしまった時点で感情が赴く方向と思考が向かう先が同期して、それらが最終的には自己肯定という結果につながっていくわけだが、単純な論理に基づいて考えているつもりになることと感情に基づいて構成される妄想や偏見が、自己肯定という特異点で交わってしまうのは、そこでしか自己肯定が成り立たないからかもしれないが、そのような現実を無視した想像からリアリティが生じるのは、意識が現実に向き合っていないことが原因で生じてしまう現象かもしれず、実際に起こっている様々な事象や現象を頭の中で恣意的につなげて、そんな自意識の都合に合わせた物語化が頭の中で生じてしまうわけで、そこで単純化された論理を用いて原因と結果が結び付けられて、たとえそれが恣意的であっても実際に頭の中で結び付けられることから偽りのリアリティが生じてくるのであり、それが偽りだとは感じられないのは自らの思考動作から導き出された論理に合致しているからで、それがその論理から導き出された原因と結果の物語になるのだろうが、ではそうではない現実とは何なのかと言えば、それは自らが認めがたい現実であり成り行きであり結果なのかもしれず、それが感情にまかせて自ら下した勝手な決めつけや、頭の中で単純化した論理に基づいてこしらえた原因と結果の物語とは違った現実を示していて、ではその原因と結果の物語がなぜ間違っているのかと言えば、思考が実際にそこで生じている偶然の巡り合わせを考慮していないからであり、それを正確に考慮すれば原因と結果が結びつかなくなってしまい、そこで物語が成り立たなくなってしまうわけだが、なぜそれが頭の中では辻褄が合ってしまうのかと言えば、勝手な決めつけがそれを成り立たせているのであり、それは一種の短絡であり途中の過程が省かれているわけだ。そこで生じている真の現実である成り行きは途中で生じている紆余曲折であり、それを省いて原因と結果をショートさせてしまうから、単純な論理も勝手な決めつけも頭の中では成り立ってしまうのだろうが、自ら実際に体験しつつある現実の中では成り立っていないわけで、そこで意識と現実との間で齟齬が生じて、その齟齬を退けられない苛立ちが感情まかせの勝手な決めつけを生じさせてしまうのだろうが、たぶんそのような論理の単純化と感情まかせの勝手な決めつけを共有している人たちが他にも大勢いるのであり、そういう人たちがデマや嘘を撒き散らしながら憎悪を煽るような煽動に明け暮れていて、そういう行為が野放しになっている状況が、良心的な人には世の中に荒廃をもたらしているように思われるのだろうが、それも単純な論理に基づいた勝手な決めつけなのかもしれず、そう思ってしまう時点で、すでにその手の煽動に意識が巻き込まれているわけで、現実が見えなくなっているのではないか。
 実際には世の中が荒廃しているわけではなく、人の心が荒廃しているわけでもなく、ただ憎悪を煽るような煽動が社会で許容されているだけで、それをやりたい人たちが勝手にやっているだけで、それとは別のことをやりたい人たちも別のことを勝手にやっている状況があるわけだ。もちろんそれらを勝手にやっているという表現では、それこそ途中の紆余曲折を考慮しない短絡的な表現かもしれないが、そういう成り行きが実際に生じているわけで、それが許されてしまう状況があるわけだ。要するに人々は自由を持て余しているのかもしれず、自由の使い道をわかっていないからみっともないことに使ってしまうのだろうし、それで溜飲を下げている気になっているのかもしれず、その実態は時間と労力の無駄遣いをしているだけかもしれないが、それこそが自由の使い道だとも言えるわけで、少なくとも無駄で無意味なことをやっていられる暇があるのだから、実態としては世の中が荒廃しているわけではなく、人の心にも余裕があるからそんな馬鹿げた行為も許容できるわけだ。そういう人たちには他にも主張したいことが山ほどあるのかもしれないが、それらのどれもこれもが独りよがりな妄想と偏見に基づいているのだろうから、その内容には大して真実味もないのかもしれないが、そもそも自己主張とはそういった類いが多いのかもしれず、わざわざ主張しなければならないということ自体が、世の中にその主張が受け入れられていない証拠でもあるのかもしれず、そうであるならいくら自己主張したところで勝手にやっている水準にとどまるだろうし、要するに勝手にやっているだけでは世の中には受け入れてもらえないということになるのだろうが、ではどうすればいいのかというと、自らが批判している対象に受け入れられるようなことを主張しなければならないのではないか。だがまずもってそれを断固拒否したいからそんな主張をしているのだろうし、だから結局勝手に主張する以外にはあり得ないのかもしれないが、それでもそんな勝手な主張への賛同者も支持者も少なからずいるわけで、そのような主張を共有して徒党を組んでいるのだから、少なくとも徒党の中ではそんな主張が受け入れられているのではないか。それがせめてもの救いと言えるのかもしれないが、徒党の規模がそれ以上は大きくならなければそこで頭打ちとなるわけで、それ以上の規模拡大を目指すとなると時には自らの主張を曲げて妥協を強いられる可能性も出てくるだろうし、例えば過激な主張をマイルドに装ってごまかさなければならなくなるような状況となった時に、いくら鈍感さを装っていても何かそこに限界があることを感じるのではないか。たぶんそのような徒党が当初の過激さをごまかして一般受けを狙ったりするようになると、途端に資本主義経済の現実が目の前に鮮明な装いを伴ってせり上がってくるのかもしれず、そこでは嘘も方便的なまわりくどい悪どさを身につけないとうまく立ち回れないのだろうし、そうやって自らの欺瞞や偽善を正当化しようとして、嘘をついた言い訳を他から探してくるようなどうにもならない滑稽な状況が生じてくるのだろうし、そういうことを通過してこないと徒党から政党へと脱皮できない成り行きが世の中には生じているのではないか。
 ではそのような状況の中で政治家に何ができるのかというと、議会で与党となって政府側の閣僚となれば行政を管理統括する役割があてがわれるのだろうが、普通に議員としてできることは議会で法案や予算案を審議したり、それに関連した質問を行って政府側の答弁に納得がいかなければ、場合によっては行政のやっていることを差し止めたり変更を加えることができれば、それが政治的な行為として中身を伴うようなことになるのかもしれないが、ごく一般的には選挙を経た正式な民衆の代表者なのだから、民衆の要望を行政に反映させる役割があるのだろうし、その民衆の要望というのがその内容に関して曖昧なままなのかもしれないが、それに関して民間のメディアや内閣府などの政府機関が世論調査を行えば、その質問項目や回答内容やその傾向から民衆の要望が構成されてしまうだろうし、それを行政に反映させるのが政治家の役目であるとすれば、政治家たちで構成される政党の役目もそれに沿ったものになるのだろうし、何かその辺で世論調査の質問項目を恣意的に取捨選択して操作すれば、世論調査する側に都合のいい結果が導き出される可能性があるわけで、果たして政党や政治家がそのようにして構成された民衆の要望を政治や行政に反映しようとしているのかというと、民衆という存在が何なのかよくわからなければはっきりしないかもしれないが、結果的に特定の政党が世論調査で支持率が高くて選挙結果でも議会の主導権を握れる議席数を確保していれば、民衆の要望に沿ったことをやっているとみなされても不思議ではないだろうし、民衆の支持を得て多数の議席を獲得して議会で主導権を握って政治を行い、政権与党として政府内でも主導的な役割を担っている限りで、形の上では民衆の要望を政治や行政に反映させていることになるのではないか。もちろんそのような政権与党に批判的な人たちも少なからずいるだろうし、そういう人たちもいる中で選挙で多数の議席を獲得して政権与党となっているのだから、そのような結果に批判的な人たちは民衆の中でも少数派に位置付けられてしまうだろうし、制度自体が主導権を握っている側が有利になる傾向があり、制度の中で主導権を握っている限りは、そのような制度で成り立っている社会の中でも主導権を握れる可能性が大きいだろうし、その辺でまた循環論的なごまかしになるのかもしれないが、民衆という実態でさえ制度的に構成されるものなのかもしれず、選挙結果や世論調査の結果からその結果に沿った民衆という存在が制度的に構成されてしまう傾向もあるのではないか。だからそのような結果に疑問を抱くなら、疑問を抱く人たちは制度的に構成される民衆の中では少数派に属してしまうのかもしれず、確かに世論調査結果から統計的に導き出される結論としてはそうなるだろうし、選挙で自分が投票した候補者の政党が議会内で少数派にとどまるなら、選挙という制度によって構成される民衆の中でも少数派に属することになるだろうし、また選挙に行かないで投票率も低ければ、そういう人は無党派層的な多数派の中に含まれることになるだろうし、そうやって制度によって民衆の多数派や少数派が構成されるわけで、それは多数派や少数派の中にいる個人の意志や意向というよりは、単なる統計的な結果である面の方が大きいのではないか。
 そして少なくとも多数派や少数派に属する人たちがそのカテゴリーの中で同じような意見や傾向を持っているとすれば、どちらかといえば多数派に属する人の意見が政治の場では優先される傾向にあるように思われるが、その意見が世論調査によって作られる傾向にあるとすれば、またその結果がメディアによって報道されるとすれば、それも現実に宣伝効果を伴うのかもしれず、世論調査結果から多数派の意見が構成されてそれがメディアによって宣伝され、その宣伝に人々が同調して世の中の多数派の意見が構成されるという循環も起こるだろうし、結果的に様々な宣伝機関は世の中の多数派が同調しやすいような意見を世論調査から構成しようとしているのかもしれないし、そういう意見を民衆の要望だとみなせば、世論調査という制度が民衆の要望を作り上げるとみなした方がいいのかもしれず、それを本当に民衆の要望だと信じるなら、そういう人たちは世論調査という制度に従っていることになるのだろうが、そのような世論調査から作り出された民意の支持を得ながら政治を行なっている勢力が議会でも政府内でも主導権を握っている状況があるなら、制度的には何の問題もないだろうし、その制度的な問題のなさが制度に逆らう人たちの反発を招いているのかもしれないが、少なくとも少数意見を尊重するのが民主主義だというその手の人たちの主張は、実際に選挙で多数の票を獲得した候補者が当選して議会で多数決をとって議決を行う制度には反しているわけで、何かその辺でただ自分たちの都合を主張しているだけのように思われてしまうわけで、そういうところで政治制度の中でどう活動すべきかが、うまく説明できないところでもあるのだろうし、政治の場で実現すべき民衆の要望というのが、何かよくわからない部分があるのかもしれず、そして政治の場で何ができるのかに関して、安易に民衆の要望を持ち出してはいけない面も生じてくるだろうし、それがよく言われる衆愚政治という言葉を用いて言われる面なのかもしれないが、それに関してはそもそもの順序が間違っているのかもしれず、初めから民衆の要望というのがあるのではなく、社会の中で制度の面でもそれ以外のところでも不都合や不具合があって、それに関連したり関係している人たちが困っている事実や実態があり、それを政治や行政がどうにかしてほしいという要望が出てきた時点では、別にそれが民衆の多数意見などではなく、たぶんそのほとんどが少数意見なのだろうし、そういう実際に困っている少数の人たちを政治や行政の面で助けようと思えば、法整備や制度改正や場合によっては行政指導などを施して助ければいいのだろうし、それが少数意見を尊重する民主主義的な政治だと言えるわけで、そしてそのような状況をメディアの報道で多数派の人たちが知ることになれば、やはりそのような困っている少数の人たちを助けた方がいいのではないかという世論が生じることがあるだろうし、それが世の中の多数意見となれば政治の側でも行政の側でも動かざるを得なくなるのかもしれず、そうやって事後的に構成されるのが多数意見となるわけで、そういう意味でも初めから多数意見があって、それを政治的な主導権を握っている側が尊重するというのは、世論が形成される初めの発端が抜けているわけだ。

 政党と他の社会の中で活動している勢力とのつながりを考えてみると、特定の業界や企業が政党や政治家に献金している実態があるとすれば、普通に考えればその政党や政治家はその業界や企業のために何らかの便宜を図る必要が出てくるだろうし、そうでなければ献金などしないだろうが、その辺が贈収賄とどう区別をつけるのかというと、法律などに基づいた合法的な献金と法律に抵触する違法な金銭の授受という区別がつくのだろうし、制度的には様々な制限がついていて賄賂にならないような方策が巡らされていることは確かだろうが、実質的には政党や政治家が献金している業界や企業のために社会や行政などに何らか影響力を行使せざるを得ないのだろうし、そうでなければそれらの勢力が政治献金を行うメリットがないのではないか。他にも個人の立場で献金することもできるわけだが、やはり献金したのだから何らかの形でお礼をすることになるだろうし、政治活動にも資金が必要なことは確かだから、その活動費を全額公的な資金で賄うとなると、さすがにまだ選挙で当選していない人には資金を供与するわけにはいないだろうし、また所属議員の多い政党の方が活動費を多くもらえるのも当然だろうし、受け取る資金の額でその活動の優劣が決まるとは一概には言えないものの、その辺で公平と平等の間で微妙な差異が生じてくるのかもしれず、個人や団体の献金額に制限を設けて、特定の個人や団体が特定の政党や政治家に多額の献金をできないようにすれば、その実質的な賄賂性も低減できるかもしれないが、それらの団体の職員などが多数の個人として集団的に献金するような事態も出てくるだろうし、そこに金銭が絡んでくると、必ず何らかの便宜を図ってもらうことを期待して金銭を渡すような成り行きになってしまうわけで、政治活動に何らかの利権に絡んでくるような事態が生じている限りは、金銭的な利益を目当ての活動を行う成り行きになるのだろうし、なぜそうなってしまうのかと言えば、簡単に言えば政治が経済に依存しているのだからそれは当たり前のことなのだろうが、その辺でいくら法律で規制しても違法行為を行ってまで利益を得るようなメリットがあれば、ばれたら罪に問われることを承知で法律を破るか、法律の抜け道や盲点を突いてうまくやろうとするかのどちらかになるのではないか。結局は政治活動に関して理想を追求しようとすると資本主義的な経済活動に逆らうような成り行きになってしまうのかもしれず、選挙で当選して議員となったら公務員としての給与だけで活動できればそれに越したことはないわけだが、建前上はそうだとしても実際には様々な金銭を介した社会的な関係が生じてしまうわけで、そういう状況が社会の実態を反映しているとも言えるわけで、それに逆らうような法規制を求めるようなことをしても、たぶん自動車のアクセルとブレーキを同時に踏むような動作となってしまうのかもしれないし、ではそれに関して何をどうすればいいのかというと、普通は焼け石に水のように政党や政治家に倫理を求めるしかないだろうし、人為的な方策としても賄賂と疑われないような厳格な法規制を設けるか、政治家個人や政党などに倫理的な対応を求めることしかできないだろうが、根本的には政治的な利権が生じないような社会を構築すべきかもしれないが、利権がなくなれば政治的な権力もなくなってしまうだろうし、何かその辺で理想と現実は違うという困難が生じてくるのではないか。
 少なくとも当事者でなければ、それに関して何をどうするかというよりは、現状がどうなっているかについて、できるだけありのままに把握しようとするしかなく、実際に政党や政治家が特定の人物や団体に有利な取り計らいを行なって、それが発覚したらたぶんそれに対する批判が出てくるだろうし、そういう批判を真に受けるならそれを政治に反映させなければならないと思えばいいわけで、民衆の側ではそのような世論を盛り上げていくしかないのではないか。もちろん政治には他の要素もあるだろうし、そちらの要素が勝ってしまって批判を押さえ込むような動きも出てくるのかもしれないが、今度はそうした作用があることもありのままに受け止めるしかないだろうし、どちらを優先させるかで民衆の間で判断が分かれるかもしれないが、それを選挙の投票する時の判断材料にすればいいのだろうし、制度に従うならそうなるしかないのではないか。真面目に考えるならそういう成り行きや途中経過の中で自らの判断を形作っていけばいいわけで、一般の民衆が制度的にできることは選挙の時の判断材料にすることになるだろうし、その途中でメディアの世論誘導や煽動に惑わさせることもあるかもしれないが、惑わされたらそのような反応や作用が世の中の情勢に反映されるだけなのではないか。そうなっている限りでそれを超えるような事態とはならないわけで、あくまでも現状の水準で事態が推移するしかないだろうし、それが好ましい状態なのか憂うべき状態なのかは、誰にとってもあまりはっきりとは実感できないところなのではないか。要するに政治的な情勢も世の中の状況も連動していて、実際にそんな世の中で人々が普通に暮らしていれば、政治家や政党が企業やその他の関連団体と癒着していても、それが取り立てて危機的な状況だとは思わないだろうし、現実に多くの人が危機感など抱いておらず、そうであるなら何もなければそんな状況がさらに続いていくだろうし、そういう意味で政治活動も経済活動の一種であることには気づきにくいのかもしれないが、その一方で公共性というのは時としてその経済活動に逆らうような面も生じてくるだけに、経済活動から生じてくる特定の利害というのが、どの程度公共的な価値観の中で許容されるかは、制度の面ではうまく整合性を取れないのかもしれず、それに関しては人々の恣意的な判断に任せられている面が大きいのかもしれない。実際に公共性を重視しないで功利性を重視すれば後からいくらでも言い訳を付け加えることができるだろうし、また戦略的に利益を追求しようとすれば嘘も方便のような煽動や誘導が生じてしまい、そういうところで公共的な価値観にとどまるのが難しくなるのは、現実の資本主義経済の中で功利的にも戦略的にも利益を追求している実態があるからであり、それをやっているのに政治の場だけでは許されないという論理がどこまで通用するかは、それに関して逃げ口上を言えば社会の民度に応じてだろうし、できれば政治の場ではきれいごとを通用させたいのだろうし、その方が民主的な政治体制の体裁を保っていられるわけだが、たぶん世の中にその余裕がなければ手段を選ばずに何でもありな状況が生じてくるわけで、そういう意味でも経済情勢が政治情勢に多大な影響を及ぼしているのではないか。
 何らかの勢力が社会の中で主導権を握っているということは、政治的な面でも経済的な面でも主導権を握っているだろうし、政治的な主導権を握っている政党や行政と経済的な主導権を握っている企業や各種の業界団体などが連携して利権複合体を構成するのが、程度の差こそあれ近代的な国家体制の中ではよくありがちな傾向でもあるのだろうが、その中で政党がどのような役割を果たすのかといえば、企業や各種の業界団体と行政の間で仲介を担うような役回りとなるのかもしれないが、一方で政党は一般の民衆の支持を得て選挙で議席を獲得して議会内で勢力を築くのであり、そういう面では政党と一般の民衆の間で仲介を担うのが各種メディアとなるだろうし、実際にメディア上で政治宣伝が行われたり世論調査結果などを公表することで、特定の政党が民衆の幅広い支持を得ているように装われているわけだが、普通の感覚では装われているのではなく本当に支持を集めていると信じられているのだろうし、その通りだと思っている人が世の中のほとんどだとするならメディアが民衆から信用されていて、民衆がメディアを信用しているからこそメディアが行う政治宣伝や印象操作が、民衆の政党への支持に関しては世の中に無視できない影響を及ぼすのであり、結局なぜ民衆が特定の政党を支持するのかといえば、メディアが日頃から政治宣伝や印象操作を行っているからと考えれば、完全には正しくはないがそれほど間違っているわけでもないのかもしれず、そういう意味で一部のメディアを除いてその報道内容があからさまに特定の政党への支持を表明しているのではないものの、肯定も否定もしない内容で特定の政党に関する報道の頻度が多ければ、結果的により頻繁にメディアが取り上げている政党へ民衆の関心が集まるだろうし、それがあからさまにその政党を批判している内容でなければ、当然のことながら民衆は関心のある政党に選挙で投票する可能性が高く、特定のメディアが特定の政党をあからさまに批判している場合はその逆の効果を狙っているわけだが、そうでなければ普通は政権を担当している政党の報道の方が自然と多くなるわけで、そうなっている時点でメディアの報道は政権を担当している政党に有利に働くのだろうし、その逆に議会で議席数のほとんどない少数政党の報道がほとんどなければ民衆もその政党への関心は抱かないだろうし、たとえどんなにメディアが公正中立な報道を心がけても、自然と現状維持的な世論へ誘導するような傾向となってしまうわけだ。そして別にそれが悪いことではないだろうし、そういう意味ではメディアによる公正中立を心がけるような政治報道が世の中の安定に一役買っている面があるのではないか。もちろん主要メディアではそうであっても、一部のメディアではあからさまに政権批判を行なっているし、政権政党や政府を連日のように批判しているメディアも中にはあるのかもしれないが、またその逆に政権側を擁護しながら政権批判をする野党や反体制的なメディアを連日のように批判しているメディアもあるのだろうし、そうやって全体として現状維持のためにバランスを取っているとも言えるわけで、意図してそれを狙っているわけではないとしても、結果的にそうなっていればそのような傾向があるとしか言えないわけで、そこで世の中の均衡を保つような構造的な力が働いていることになるのではないか。
 そういった構造的な力は事後的にそれが働いているように見えるだけで、それに関して何らかの勢力から特定の意図や思惑が働いているわけでもないだろうが、そうではない水準から状況を捉えようとすると特定の政治勢力やメディアなどの意図や思惑が交錯して、それらが複雑に入り組みながら状況に何らかの影響を及ぼしているように見えるだろうし、時にはそんな意図や思惑から陰謀論的な想像力も働いてしまうかもしれないが、そんな結果から見ればどうしても意識の作用によって恣意的な物語が構成されてしまい、それがそれほど間違った認識とは思えないのかもしれないが、そういう認識が一部で流行って何らかの世論が構成されてしまう場合もあるわけで、多くの人の意識がそういう世論に取り込まれてしまうと、そういう固定観念にとらわれて認識がその外へ出られなくなってしまうのだろうし、それがマイナス効果となって反体制派を世の中の主流を構成する人々から隔離してしまうわけで、そうなるとそのような勢力がそれ以上は世の中に広がらなくなってしまい、否定的な意味での現状の安定に貢献してしまうわけだ。だから極端なまでに世の中の主流をなして主導権を握っている勢力を憎悪してはいけないのであり、憎悪するのではなく主流派の人々の意識を変えない限りは、政治情勢を変える可能性がなくなってしまうだろうし、民主的な政治制度に従うなら、武力を用いて主流派の人々を大量虐殺するような武力革命を目指すわけにはいかず、憎悪すればするほど世の中から孤立するしかないわけだ。逆に主流派からすれば反体制派が主流派への憎悪をむき出しにしてくれた方が助かるわけで、だから憎悪を掻き立てるようなことをわざとやってくるだろうし、そういう挑発に乗って強い調子で罵詈雑言をがなり立てれば、どちらも支持しない無党派層の人々から相手にされなくなってしまうわけだ。そうでなくても社会が資本主義経済に浸されていると、悪く言えば正直者が馬鹿をみる世界がそこに構成されているわけで、意図してそれをやっているわけではないとしても、結果的に他人を騙して金儲けしているような成り行きの中で、誰もが裕福になることを夢見ているわけだから、建前としてはそういう世の中に批判的な姿勢でこれ見よがしな善意を語る人がメディア上で幅を利かせているかもしれないが、そういう人たちの欺瞞性や偽善性は誰よりも一般の民衆の方がわかっているのかもしれないし、それは理解しているというよりは肌で感じているという表現が当てはまるのかもしれず、普通に仕事していれば何かと理不尽な事態に直面するだろうし、自分が悪いとも思わないのに立場的に上のひどい人たちに謝らなければならなくなった時とかは、なるほどそこに権力関係が構成されていることを痛感するだろうし、その手のメディアで確かに罵詈雑言を言い放っていられるわけだが、実際にそこで仕事が絡んでくると何も言えなくなってしまうわけで、やはりそういうところから大して利害関係もないのに世の中の主導権を握っている人や勢力を支持することが、仕事で理不尽な謝罪をさせられるような社会の構造に囚われていることと同じであることに気づかされるのかもしれず、無理にそういう構造に逆らえとは言えないが、できれば逆らえる機会を捉えて逆らわないと、いつまでもそういう構造に囚われて主体的な活動ができなくなってしまうだろうし、現状でも主体的な活動が何なのか理解できないのではないか。
 確かにそのような社会の構造から権力関係が生じていて、権力という言葉を使って何か説明しようとすると、何かやりたくないことをやらせることが権力を行使する理由のように思われがちだが、それでは政治権力というのが何を意味するのかはっきりとはわからない面があるのかもしれず、何かをやりたいと思わせることも権力を行使する理由となるのかもしれないし、そうなると欲望を抱かせるような策略というのもあるだろうし、具体的に人や集団を管理して制御する中で実際に権力が行使されるのであり、管理して制御する権限を法律で規定して制度を定めれば、制度の中でそのような権限を有する役職が設けられるわけだが、政治というのはそれ自体が議会や行政などの制度の中で行われるわけで、そして新たに法律を制定したり既存の法律を改変したりして、制度の強化を目指すような成り行きの中で政治が行われ、また中には減税や規制緩和のように特定の制度の弱体化を促すようなことも行われるのだが、それは別の制度を機能させるためにそうする必要が生じるのであり、社会で機能している様々な制度の間でそれぞれの制度が効果的に機能するように調整しなければならない事態も生じるわけだ。しかしその一方で政治活動によって制度の形骸化が生じる可能性もあるのかもしれないし、何らかの政治活動にとって都合の良い制度と都合の悪い制度があるなら、都合の悪い制度は政治活動によって形骸化を被る可能性があるだろうし、例えば権力の行使によって政治的な実権を握っている勢力の汚職などを摘発できない場合は、そういう方面での法律が無効となって制度が有効に機能しなくなっていることになり、そうでなくてもあからさまな汚職の典型例のようなことはやってこないかもしれないし、法律の抜け穴のようなところを突いて巧妙に汚職とみなされるのを逃れようとする場合もあるだろうし、そういう場合でも制度が形骸化を被っていることになるだろうが、別に汚職でなくても汚職と同等以上の利益や効果を得られるような合法的な行為が編み出されると、やはり汚職を摘発する目的で定められた法律や制度が形骸化することになるわけで、そのような行為も戦略的な意味では政治活動に含まれるのかもしれないし、そうであるなら政治活動の内容は多種多岐にわたっていて、これといって一概に言えるような活動ではないのかもしれないが、制度に従いながら法律で定められた範囲内での規制を伴って活動していることは確かだが、その中では絶えず活動にとって都合の良い制度は積極的に活用されるものの、都合の悪い制度はそれを形骸化させるような行為が含まれるわけで、そのような活動から制度が少なからず影響を被っているだろうし、都合の良い制度は効果的に機能するような作用が及ぼされる反面、都合の悪い制度は無効になるような作用が常に及ぼされることになるのではないか。だからそのような作用を及ぼしている政治勢力を批判している人や団体は、ある意味ではそのような政治勢力にとって都合の悪い制度を有効に機能させようとしていることになるわけで、そうだとすればいわゆる批判勢力と呼ばれる人や団体は一概に社会を管理統治する制度に逆らっているとは言えず、主導権を握っている政治勢力にとって都合の悪い制度を活用して、その主導権を自分たちの側に奪還しようと画策していることになるのではないか。
 どちらにしても自分たちにとって都合の良い制度は積極的に活用して、都合の悪い制度には逆らうような作用が社会の中で常に生じていることは確かだろうし、それはそこで機能している様々な制度の間でせめぎ合いをもたらしていて、それぞれの制度にはそれを守る何らかの勢力がいて、自分たちが守っている制度を機能させるために尽力していることになるわけで、世の中はそういった制度同士の戦いの場と化しているとみなされるのかもしれず、もちろん戦っているだけではなく異なる制度同士の連携もあるだろうし、それに関して特定の利害を介して連携するような複数の勢力があれば、各勢力が護持している制度同士の連携も実現するだろうし、それが結果的に各勢力の制度を管理統括する力の強化に結びつけば、そのような勢力の連携は社会に重大な影響を及ぼすだろうし、実際に議会や行政などの国家機能を管理統括する勢力は、多かれ少なかれ経済の分野で主導権を握っている勢力と連携しているだろうし、またマスメディアの分野で主導権を握っている勢力とも連携していると、少なくとも国内ではそれに対抗できるような勢力がいなくなってしまうわけだが、実際にそうなってしまえば対抗する必要がなくなってしまい、社会がそのような勢力の支配の下で安定するだろうが、その支配の程度を民衆がどう感じるかによって、それを支配と呼んでいいのかそれとも単なる管理統治とでも認識すればいいのか見解も分かれるだろうが、支配されている気がしなければ管理統治が成功しているとも言えるのかもしれないし、さらに管理統治されている認識すら抱けなければ、実質的には支配も管理統治も不完全で綻びだらけかもしれないが、別に完璧な管理統治や支配を目指す必要すらないのかもしれず、ではそれらの勢力がなぜ連携して社会の中で主導権を握ろうとしているのかといえば、あまり積極的に理由など持ち出す必要などないのかもしれないし、ただその必要が生じているから連携するのであり、自分たちが守っている制度を維持するには連携した方が得策だから連携しているのだろうし、その方が制度をより有効に機能させることができるからそうしているとしかいえない面があるのかもしれず、それ以上の理由を付け加える必要がなければそれで構わないのだろうし、そんな成り行きの中で連携が模索されて実際にそれが実現している面があるのではないか。そうだとするとそういう状態をあまり強い程度で支配とみなす必要さえないのかもしれず、ただそのような連携に危機感を抱いて批判するような立場の人なら支配という言葉をもちだすだろうし、場合によっては大政翼賛会という言葉を使って歴史的なある時期を連想させるように仕向けることもあるわけだろうし、それを受け取る民衆がどう反応するかは彼らの現状認識や実感によっても様々な受け止め方があるのだろうが、実際に支配を実感できなければ相手にされないだろうし、よくて批判する側の意図を汲んで賛同する人たちもいるかもしれないが、どちらにしろ受け止める側の実感の程度に左右させるようなことになるだろうし、実際にそんなふうに批判される現状に社会の中で暮らしている誰もが何らかの形や程度で加担していることは確かで、誰もが被害者面するわけにはいかないのと同時に完全に加害者側というわけでもないだろうし、被害とか加害とかいう水準で考えるようなことでもなく、ただそんな成り行きに誰もが巻き込まれていながら、別にそんなことを意識するまでもない状況なのかもしれない。

 特定の政党が単独で政権を担うか複数の政党が連立することで政権を担った場合、政権に加わらない他の政党を支持する民意が国政に反映されづらくなることは確かで、普通に考えれば政権を担った政党を支持する民意が優先的に国政に反映されることになるわけで、そうでなければ政党が政権を担う意味がないが、それに関しては各政党間で外交や防衛などの安全保障や経済政策などが異なっている場合は、確かにどの政党が政権を担うかで差異が生じるだろうが、その一方で行政機関の力が強い場合は、どの政党が政権を担っても実質的に国家を管理統治している行政機関の意向を無視できず、下手に行政機関に逆らうような政策を推し進めようとすれば、たちまちあらゆる方面から抵抗に直面して、行政機関と連携したメディアの批判キャンペーンなども展開されたりして、その結果何もできないまま支持率が下がって、その後選挙で大敗して政権交代せざるを得なくなるような事態になってしまうだろうし、また民主的な政治制度が機能していない国では、国政の混乱に乗じて軍部によるクーデターが頻繁に発生するような事態もよくあることだろうし、そうやって結局は行政機関の意向に従う政党が選挙で勝って政権を担うような予定調和の成り行きになりやすく、それ以前に民主的な政治制度が十分に確立されていない段階で行政の意向に沿うような形で主要政党が結成されて、その政党が選挙で有利となるような制度が構築されてから形ばかりは民主主義を装うように選挙が行われる成り行きも、実際に世界の様々な国で行われていることであり、民主的な政治制度が確立して機能する前に行政機構に迎合するような体制が確立されているとすれば、民主主義の理想など幻想に過ぎなくなってしまうのかもしれないが、そういう状況では民衆の側で長い時間をかけて徐々に民主的な理想に状況を近づけるような努力が必要なのかもしれず、またそういう努力の担い手がなかなか有力な社会勢力として育たない傾向にもあるのかもしれないし、そんな理想など端からいらないのであり、ただ現状で社会の主導権を握っている人たちが支持する政党が政権を担っていればいいだけで、結果的にそうなっていれば世の中が安定して、社会の中で主導権を握っている勢力も安心して活動ができるということかもしれないし、理想を追求する勢力は常に少数派にとどまり、現実の利害を優先させる勢力が世の中の主導権を握っている、という当たり前の結果がもたらされているだけかもしれないが、それでも功利的な利害を超えた理念を持ち出す人が絶えることはないだろうし、たとえ少数であってもそんな犠牲者の役回りを演じる人が出てこないと、金儲け主義がはびこって世の中が荒廃してしまうのかもしれないし、その辺で行き過ぎた利益の追求を抑えるような作用が働く構造が生じていて、そんな人たちがいるから社会の均衡が保たれて、世の中の平和が維持されるような具合になっているとすれば、政治活動を行う政党の中にも少ないながらもそういう人が混じっている可能性はあるだろうし、それは他の行政機関や企業などの勢力にも言えることかもしれないが、宗教教団などはそういう理想を全面に打ち出すことで信者を募っている場合があるだろうが、そういう場合もお布施などの金銭の請求と表裏一体の面もあるわけだが、結局理想だけでは社会が成り立たないが、功利的な利益の追求だけでも世の中が荒廃してしまうだろうし、相反する価値観の両方ともに必要なところが微妙な現状を構成しているのではないか。
 社会のそういう面は止揚しようとしてもできないだろうし、相反する価値観が社会の中で共存しているからそれらのせめぎ合いが行われている限りでかろうじて均衡が保たれているわけで、どちらか一方に振れてしまうと社会そのものがおかしくなってしまうだろうが、社会の混乱期にはしばしばそういうことが起こるのだろうし、そういう時期には軍事的な暴力が優先される傾向にもなるだろうし、それも平和時にはない状況であるわけだが、要するに様々な価値観やそれを体現する制度を護持する勢力同士の抗争がエスカレートすれば、最終的には軍事衝突に行き着くわけで、そこまでに至らない段階でかろうじて力の均衡が保たれているのが平和な状況といえるのかもしれず、平和な状況が保たれている限りで民主的な理想を追求することも功利的な利益を追求することもできるのかもしれず、どちらもできるとしても相反する価値観の片方を根絶やしにすることはできないだろうし、やってしまうと均衡が崩れてどちらの価値観も存在できなくなってしまうから、結局は両方の価値観がせめぎ合っている状況を保たないとならないわけで、しかも場合によってはそれらとも異なる未知の価値観が生じる可能性もあるだろうし、一見相反するように見えながらも様々な傾向の価値観やそれを体現する制度などが共存している状況が維持されていないとうまく平和な状況を保っていけないのかもしれず、しかもそういう均衡状態の保持は人為的な思惑や意図を超えて実現するものかもしれないし、その辺が人為的な思惑や意図を伴う政治活動に含まれる法律の制定や改変や制度の構築などとは重ならない面もあるのかもしれない。それに関して例えば平和を維持するような内容の憲法があり、それに伴って平和を維持する仕組みを伴った制度が確立されているから、結果的に平和が実現していると普通に考えても構わないのだろうが、歴史的な順序を考えれば、戦争をやって破局的な状況がもたらされたから、そのことの反省から平和の維持を目指す憲法が作られて、それに基づいて平和を維持するような仕組みの制度が構築されたわけで、その場合は人為的な思惑や意図を超えて実現されたのが破局的な状況だったのであり、そのような状況に対応するために人為的な思惑や意図に基づいて関連する法律や制度が整備された経緯があり、政治活動も現にある状況に対応するために行われるのであり、だから法律や制度の整備などの政治活動が全く無効というわけではないだろうが、政治的に世の中の全ての事象を操作できるわけでもないだろうし、そういうところでそれなりに謙虚な姿勢を保っていないと、行き過ぎた行為や活動から破局的な状況がもたらされることは十分に考えられるだろうし、世界各地では過去においても現在においてもそうなってしまった事例が数多くあるわけで、それ自体が自然からもたらされる作用でもあるわけだが、現状が人為的に保とうとして保たれるような状況ではなく、社会の中で活動する様々な勢力の間のせめぎ合いから結果的に保たれている状況でもあるだけに、政治活動でもその他の活動でも絶えず状況に対応するような行為が求められているのかもしれず、しかも現状に対応しながらも自らの意志を状況に反映させようとしているわけで、それが主体性の発露ともなるのかもしれないが、そういうところであまりにも功利的な戦略や戦術に傾斜しすぎると理念を忘れて行き過ぎた対応をしてしまうのだろうし、そこで踏みとどまるべき判断の基準が民主的な理想を実現しようとする理念の中に含まれているのかもしれない。
 民主主義の理想はその国の国民の総意に基づいた政治が行われることだろうが、果たして総意が形成できるのかとなると、何を持って総意と呼ぶかによって、その総意に反対したり抵抗する人たちが出てくると、それを総意と呼んでいいのか疑問を感じてしまうかもしれないし、とりあえず理想からは程遠いかもしれないが、選挙結果が議会での政党の勢力を決めて、それに基づいて政権を担う勢力も決まってくるわけで、そうした制度的な成り行きの中で多少は民主主義の理想が反映されていることは確かだろうし、制度的なレベルではそれを超えるような事態は起こらないと考えても良さそうに思われるし、あとは選挙で投票する人たちの意識の問題かもしれず、その意識に影響を及ぼすのが実際の社会生活の中で日々体験している身の回りの状況であり、その中でもメディアを通してもたらされる様々な情報が人の意識に影響を及ぼすのかもしれないが、そんなことを考慮すればメディアを通じて人の意識に影響を及ぼそうとしてくる政治宣伝の類いは、それを宣伝している勢力が自分たちが有利になるような社会状況をもたらそうとして宣伝しているわけだろうし、それを受け取る人たちが宣伝に影響されて宣伝している勢力を支持するような成り行きになれば、それが政党などの政治勢力であれば選挙を自分たちが有利になるような結果に導ける可能性が出てくるわけで、そんな結果になることを期待してメディアを通して宣伝活動を行なっているわけだろうが、ようはその宣伝内容に人々が納得するかどうかであり、その内容が世の中の主流をなしている価値観に合致するようであれば、そのような価値観に囚われた多くの人の支持を得られる可能性があるだろうし、合致しないような内容であれば多くの支持を得られないばかりか、中にはそれに反発したり嫌悪感を抱く人も出てきて、宣伝が逆効果となって選挙で十分な票を獲得できない事態も予想されてしまうだろうが、ではそういう多くの人が囚われている価値観がどこから生じるのかといえば、それは実際に社会の中で人々が行なっていることから生じてくるのかもしれないし、人々の活動から価値観が作られるといえば、何か漠然としていて分かりづらいかもしれないが、何かそこで可能な行為があるとすれば、そういうことができるということが価値を生み出すだろうし、例えば金儲けができれば金を儲けることが価値となるわけで、そして金を儲けた人が社会の中で発言力が強まれば、それだけ金を儲けた人に権力が生じていることにもなるわけで、また儲けた金の中から有力な政党に多額の献金をすれば、その政党は献金した人に何らかの便宜を図るような成り行きになるかもしれないし、その人の政党に対する発言力もそれだけ強まることになるのではないか。そうやって金を儲けることが社会の中で有利な立場や政治的な力を得ることにつながれば、当然それは価値のあることになるだろうし、もちろん誰もが多額の金儲けに成功するわけでもなく、ごく限られた少数の人しか金儲けに成功して大金持ちになれないわけだから、そこに希少性という価値も生じているわけで、そういう希少価値こそが一般的にも価値を連想させるものなのではないか。
 それに対して民主主義の理想にはどんな価値があるかというと、貧富の差や立場や地位に関係なく、誰でも選挙で平等に一票を投票できて、その投票できるということが価値を生じさせるわけで、到底それは希少価値とは思えないから、そこから価値を連想するのは困難かもしれないが、ともかく何かができることには変わりないわけで、しかも一票しか投票できないわけだから、その一票には大した価値も感じられないだろうし、中には一票差で当落が決まることもあり得ないわけではないが、それ以外の数万から数十万票が積み重なるからその一票が活きるわけで、結局そんな一票に価値を感じられない人は投票にはいかないだろうし、当然それだけでは価値が生じないわけだ。ではどうすれば価値が生じるのかといえば、大勢の人が連帯して同じ人に投票してその人が当選すれば価値が生じるのであり、そういう意味では人々が連帯することが価値を生じさせるわけだが、そうなると当然私利私欲に囚われていては連帯できないだろうし、個人の金儲けから生じる希少価値とは異なる価値となるのだろうが、果たして大勢の人が連帯する必要が世の中で生じているかというと、希少価値を手にすることができない大多数の人たちが希少価値を獲得する少数の人たちに対抗するには連帯するしかないのかもしれないが、だがそこで多くの人たちが連帯して一人の人に投票した結果、その人が選挙で当選すると、今度はその人に希少価値が生じてしまうわけで、結果的には大多数の人たちが手にできなかった希少価値を、その人が大多数の人たちの助けを借りて手にしたわけだから、その人は自分を助けてくれた大多数の人たちの意向を無視できないばかりか、その意向を最大限に尊重しなければならないと思えば、その人を投票によって助けた大多数の人たちの思いも報われるのかもしれないが、実際にその人に投票する大勢の人たちにとって、その人に投票することに関して何か切実な思いがあるのかというと、どうもそういう成り行きにはならない場合の方が多いのかもしれないし、投票することに関して切実な思いがなければ別に投票に行かなくても構わないと思ってもそれほど間違ってはいないだろうし、逆に自らに投票を呼びかける立候補者の方に切実な事情があることの方が多いわけで、その立候補者の切実な事情を有権者がどう受け止めるかも、その人に対する投票や選挙全体の投票率にも影響を与えそうだが、その人が訴えかける内容が切実なことだと思えなければその人には投票しないだろうし、選挙自体の争点に切実性を感じられなければ投票にはいかないかもしれないが、それを切実だと思えば投票することに価値を感じるだろうし、他の多くの人たちも自分と同じように価値を感じていると思えば特定の立候補者や政党に票が集まって、その立候補者や政党がやろうとしていることを民意や世論が後押しするような成り行きになるだろうが、果たして多くの人たちに価値を感じさせるようなことが政治的な行為や活動によって実現できるのかといえば、メディアを介して訴えかけられる政治宣伝の内容と実際にやっていることが好意的に受け止められるようなら、そこに何らかの価値が生じているとみなしても構わないのかもしれないが、それが実際に一般の民衆に利益をもたらしているのかといえば、その利益が何なのかを説明することにもそれに説得力も持たせることにもそれなりの困難を伴うのではないか。
 集団の代表者に希少価値が生じてしまうことは、他の集団的な組織形態にも言えることかもしれないが、政党においても議会においても集団で何かをやろうとする場合には必ずその代表者が選ばれて、代表者が集団を代表して何らかの意向を示す仕組みができていて、そのような意向が集団全体の意向であるかのように装われるわけだが、そういう制度にしないと議会も選挙も成り立たないし、それは当然のことだとも言えるわけだが、選挙で民衆の代表者を決めて、その代表者が集まった議会の各種の委員会でも本会議でも質問したり答弁する代表者を決めないと、それぞれの会議が成り立たないだろうが、その質問内容や答弁内容が代表者の個人的な意向が反映されたものなのか、それともその人を代表者として送り込んでいる集団の意向なのか、あるいは時と場合によってはそのどちらかであり、あるいは個人と集団の両方の意向が入り混じったものなのか、さらにそんなことはどうでもよく、それを受け取る側の都合に合わせてどちらに解釈しても構わないのか、その辺で何か不都合な点があるとすれば、その代表者の質問内容や答弁内容にその場に居合わせた誰もが納得できるかということであり、特に答弁内容に納得できないと議場が混乱して、納得できない勢力が議題の採決を拒否したりする場合もあるだろうが、それがその人個人に向けられた不満なのか、あるいはその人を代表者として送り込んでいる集団に対する不満なのか、あるいはその両方であり、また時と場合によってはそのどちらかであり、さらにどちらであっても構わないのか、ということに関してあまり深く考える必要がなければ、ではなぜ集団の代表者たちが議会で質問したりそれに対して答弁するのかといえば、そこで開かれている会議を成り立たせるにはそうするしかなく、会議に参加している誰もが勝手に質問したり答弁してしまえばその場の収拾がつかなくなるだろうし、それを避けるために前もって質問を行う会派の中で質問する内容を決めておいてから、会議の中でその内容で代表者が質問するわけだから、質問する側の代表者は概ねその集団を代表しているわけで、また答弁する側も概ね答弁する側の集団の代表者であることは間違いないわけだが、それを批判する時には代表者を個人として扱っているし、個人を名指しして批判することがあるのだが、その辺から個人を批判しているのか、個人を代表者として送り込んでいる集団を批判しているのか、あるいは両方とも批判しているのか、さらにその場の都合に合わせて批判の対象が個人であったり集団であったりするのか、ということが曖昧かつ不明確になりがちになり、たぶんそういうところから代表者を決めるという制度のはっきりしない面が浮かび上がってきて、下手をするそんなところから批判する側が煙に巻かれて、いつの間にか採決が行われて多数決で物事が決まってしまうわけだが、そうなると肝心の会議の内容が中身のない空疎な対立が鮮明となっただけで、実質的にはそこで何が話し合われたわけでもなく、交渉も取引も会議の外で秘密裏に行われていたりして、それで納得しろと言われても納得しがたいだろうが、そんなことが当たり前のように行われている状況があるとすれば、民衆の側からすれば何のために選挙をして議会に代表者を送り込んだのかよくわからなくなってしまうのではないか。
 それに関して逃げ口上を言うなら、政治も行政もまつりごとであり、放っておけば実質的な中身が抜け落ちて、儀礼的な礼儀作法や形式的な手続きが幅を利かせる成り行きとなるのかもしれず、制度自体の性質としてそういう面が重視される傾向にあるわけで、それでも制度に何か内容があるとすれば決まりきった動作を繰り返すことだろうし、ただ会議に議題を持ち込んでそこで型通りの審議を行ってから採決して多数決で物事を決めるという動作が繰り返されるのが、そこでの制度的な手続きであり、審議の進め方は制度で決められているが、その内容までは制度の関知するところではなく、内容がどうであれ議題を巡って審議して採決すれば制度的には問題ないわけだ。だが人が求めているのはそんな形式的な手続きだろうか。それは人にもその人の立場にもよるだろうが、少なくとも制度を護持する側にとってはそれでも構わないのであり、また議会で多数決に持ち込んで賛成多数を期待できる側からしてもそれでも構わないだろうし、唯一議題に反対している側からすればそうなっては困るから、何とかそれを阻止したいわけで、場合によっては時間稼ぎのようなことまでやって、採決に持ち込ませないような戦術を用いることもあるのかもしれないが、たぶん真面目に選挙で投票して自分たちの代表者を議会に送り込んでいるつもりになっている人にとっては、自分が投票した候補者や政党が自分の意向を反映させるような活動を行なってほしいと思うのかもしれないし、その活動が議会での審議内容だとすれば、どれもそれには当てはまらないだろうし、実質的な質問内容や答弁内容によって、審議を経た末に行う採決の結果が左右されるような事態が望まれるのかもしれないが、制度的にはそれは望むべくもないのかもしれず、全ては型通りの形式的な手続きに則って粛々と進行していくだけで、それでも予定調和の結果とはならない要素がなくはないだろうが、結局批判する側は個人攻撃のようなことになりがちで、答弁者の責任を追及するようなやり方で辞任を勝ち取ったとしても、その背後にいる集団は安泰でいられる場合が多いのかもしれず、それも個人と集団の区別を曖昧にしている制度の特性だと言えるのかもしれないし、それが集団を生かすために個人を犠牲にする制度の特性が象徴的に表れているところだろうし、批判する側は多数決で優位とならない限りはどうしようもなく、しかも形だけ議会の多数派を占めていても、裏方や事務方として議会を運営している行政機構を味方につけない限りは、有形無形の妨害工作にさらされる事態ともなりかねず、そこに制度として仕組みがあるのだから、その中身よりは形式的な動作が優先される傾向があることは当然で、中身だけで勝負を挑んでも勝ち目はないのかもしれないが、それでも人は中身を求めるのだろうし、少なくとも真面目に政治活動の内容を求めている人々にとっては、そこで行われる議論の中身に自分たちの意向が反映されてほしいと思うのではないか。たぶんそういう思いには功利的な戦略や戦術が欠けているかもしれないが、数的に有利な側が功利的な戦略や戦術を用いて議論の中身を省いて多数決に持ち込むようなことをやった場合、果たしてそういうことをやっている側の支持者たちは納得するだろうか。それでも支持が変わらないとすれば、やはりそういう人たちは何よりも制度に従うことを優先する人たちと言えるのかもしれない。

 制度を管理運営する何らかの勢力が制度上で規定している形式的な手続きや決まりきった動作に人を従わせようとするのは、制度の利用者にそうしてほしいから成り行きとしてそうなってしまうわけだが、それも一種の権力の行使には違いなく、そこに利用上の規則として提示された決まりを守らないと制度を利用できなくなるような措置を講じざるを得なくなるわけだが、そのような規則に制度を管理運営する側の都合が含まれていることは言うまでもなく、利用者がその規則を守っている限りでその都合を受け入れて制度に従っているのだから、そういう水準では制度を管理運営する側の優位が揺るがないのだが、それを無理に勝ち負けという判断基準で捉えるなら、制度の利用者が制度に従っている限りで制度を管理運営する側に対してはほとんど勝ち目がないとも言えるだろうし、制度の問題点は制度を管理運営する側の絶対的な優位性に集約されているように思われるのだが、だからと言って社会がそれらの制度で成り立っているのだから制度をなくすわけにはいかないのはもちろんのこと、人為的に特定の制度をなくしたとしてもそれに代わる新たな制度が必要となってくるだろうし、もちろん使われない制度は自然消滅するのだが、結局は利用者が納得できるような制度に改善していくしかなく、制度に関する問題はそういう方向にしか進展しないだろうし、そうである限りはこれからも人々は様々な制度の利用者であり続け、それらの制度が有効に機能することで社会が実質的に存在することになるわけだ。その中で政治に関する制度も社会の中でそれなりに機能している実態があり、その利用者である一般の民衆が政治に関する制度を有効活用しているかというと、実質的には民衆よりも政党の方が制度を有効に活用していて、その政党の中でも実際に議会で多数の議席を獲得して主導権を握って政権与党を構成している政党が、政治に関する制度を最大限に利用していることになるのだろうが、その場合は利用者であると同時に制度の管理運営にも携わっている面があるわけで、政府与党と呼ばれている時点で政府を担っている行政機構も含まれていて、実質的に制度の利用と管理運営する側が一体となっていて、そうなれば確かに制度を最大限に利用できるのも当然のことだと言えるだろうし、別にそれが違法でもないわけだからそのこと自体には何の問題もないわけだが、その一方で制度の利用者でありながら管理運営する側に利用されているだけのように見える一般の民衆の側に、そのことから何か利益がもたらされているのかといえば、世の中の安定がもたらされていると考えれば政府与党を支持している人たちはそれなりに納得するかもしれないし、政府与党の権力基盤が盤石で揺るぎようがなく、その結果として社会情勢が安定してそれなりに平和な状況が保たれて、そのおかげで経済活動も大した支障もなく行えるような成り行きとなっていれば、やはりそこから実質的な利益も得られるから、そうなっている限りで政府与党への支持は揺るがないと思われるようであれば、少なくともそう思っている支持者は何らかの利益を得られていると思っているだろうし、実際に経済的な利益を得られているから政府与党を支持している人もいるわけだろうが、その逆に現状に不満がある人は利益を得られていないと思っているかもしれないし、それどころか政府与党やその政策のおかげで損害を被っていると思っている人がいれば、その人も現状に対する不満の原因を政治状況に求めるのではないか。
 結局は現状を肯定できる人はそこから何らかの利益が得られていると思えるだろうが、その逆に現状を否定的に捉えている人の中にはその理由や原因を政治的な状況に求める人も出てくるだろうし、それに関して政府与党のやっていることがおかしいと思えばそれを批判したくなるわけだろうが、それをメディア上で批判すれば、それはメディアという制度を利用して批判していることになるわけで、批判までが何らかの制度を利用しないとできないわけだが、その批判が有効に機能するのかというとメディアという制度の中ではそれなりに機能するとしても、それだけでは直接政治に関する制度を揺るがすことにはならないかもしれず、制度を揺るがすのではなく、むしろ制度の中で批判が有効に機能して、場合によっては政権交代などの制度上の手続きを促すようなことにでもなれば、そのような批判が政治制度の中でも有効に機能したことになるのだろうが、制度の中で機能することと制度そのものを揺るがせて、制度の改善を促すことの間に差異があることは確かで、その制度が円滑に動作しているということは、制度を管理運営する側の優位が揺るがずに管理運営している勢力に利益がもたらされていることを示しているとすれば、今後何らかのきっかけで制度を管理運営する側の優位が揺らぐような状況にでもなるとすれば、それが制度自体が揺らいで管理運営する側にとって危機的な状況を迎えたことにもなるのかもしれず、そうなっている時点で制度の円滑な動作が何らかの原因で阻害されていることにもなり、そうであるとすると例えば政権交代なども制度上は可能な動作であることは確かだろうが、現状の政治制度ではそれが有効に機能しない状況にあるのなら、すでに現状の制度では政権交代をやりにくくするような改変が施されているとも言えるだろうが、あるいはそれは制度的な問題ではなく中身の問題で、実際に政権交代を実現するような政治勢力が台頭してこないような状況となっているとすれば、政権交代可能な勢力を現行の制度に合わせて構築することが急務だと主張できるかもしれないが、それ以前に現行の制度では特に政権交代する必要を感じていない人が世の中の多数派を形成しているとすれば、別に政権交代できる政治勢力を構築することが急務でも何でもないことにもなってしまうのかもしれず、そういう意味で現状の制度の中で優位な立場を築いている勢力にとっては、特に自分たちを優位に導いている部分を改変する必要は感じないだろうし、逆に改変されてしまっては困るわけで、それよりはさらに自分たちが優位になるような改変なら大歓迎だろうし、結局制度的には現状で主導権を握っている勢力が不利になるような改変はやらないのが当然だろうが、だから現状で不利な側が自分たちに有利になるような制度改変を求めても、現状で主導権を握っている側にとってそれは出来ない相談であり、現状で不利な側が制度的な手続きに従って自分たちに有利になるような状況を作ることは難しいわけだが、だからこそ制度上の手続きや形式の問題ではなくその制度を利用する人たちの中身の問題だと言ってしまうと、それとは別の面で制度の利用者が制度から構成されてしまうような現実もあるわけだから、やはりそれでは循環論となってしまうだろうし、だからと言って形式も中身も両方が大切だと述べても、それでは何をどうすればいいのかわからなくなってしまうだろうが、ともかく制度もその利用者も管理運営する側も恒常不変な状態を保っていられるわけではないのだろうから、絶えずその変化の機会を伺いながら、機会を捉えて制度にもその利用者にも管理運営する側にも変化を促すように働きかけなければならないのかもしれない。
 制度にも様々な差異があって、民主的な政治制度である議院内閣制と大統領制にもそれなりに違いがあるが、それぞれの制度も国ごとに若干の違いがあるだろうし、中にはその実態が民主的でなくても民主的な政治制度の体裁を保っている国もあるわけで、政治活動が民主的であるか否かは制度の形態より活動の内容や実態で判断すべきことかもしれないし、では実際に政治活動のどのような内容や実態が民主的であるかは、国や地域で価値観も生活習慣も異なる面があるから一概には言えないことかもしれないが、民主的な政治制度が発祥した地域である欧米の価値観からすれば、民衆が自由にものが言えて、たとえあからさまに政府を批判しても罰せられないような社会状況になっていれば、一応は民主的な政治状況になっていると言えるだろうが、たぶんその誰でも自由にものが言えるということが政府に対する批判を許していることになるだろうし、そういうことを行うこと自体がある種の政治活動なのかもしれないし、その自由にものを言っている人の中から選挙で当選して議員になる人が出てくれば、結果的に民主的な政治が実現していることになるのではないか。しかも自由にものが言えても平和が保たれている前提が必要だろうし、そこがテロや内戦に明け暮れている地域との違いかもしれないし、自由にものを言ったら殺し合いになるような状況だと欧米的な政治状況とは少し違うだろうし、もちろん欧米でも場合によってはそうなってしまう面もないわけではないだろうが、建前としてはなるべく暴力で物事を解決するのは避けて平和な状態を保とうとしているわけで、ともかく民衆が自由にものが言える最低の基準として政府を批判しても罰せられず、しかも平和な状態が保たれていることが民主的な政治状況が実現されている最低条件なのではないか。そしてそこから政治活動として政治主導で行政を管理統括できて、行政の不具合や不都合な面を修正したり改変できるような権限を民衆の中から選ばれた政治家が持つことができれば、一応は民主的な政治が実現していることになるのではないか。そういうことができるにはまずは行政上の悪い点を批判できなければならないだろうし、批判しても罰せられなければそれが世の中の世論として広まる可能性が出てくるわけで、そうなれば批判している人たちが政治家でなくても、民衆の支持を得るために政治家が世論の味方となれば改革の機運が高まるだろうし、そうやって行政上の悪い点が改まるような成り行きになれば、結果的に民主的な政治が実現していることになるわけだ。またそれが行政上の悪い点でなくても、こうすればもっと良くなる点を指摘するような提言も民意を背景として出てくるかもしれないし、そういう点を行政に生かそうとするのも政治家の仕事となるだろうし、それが可能となるにはやはり社会の中で誰でも自由にものが言えて、その中から説得力のある主張が政治の場に反映されるような仕組みが確立されていけばいいわけだろうが、やはり仕組みとなるとすぐに制度が思い浮かぶだろうし、どうしてもそのような制度を構築しようとする機運が生まれるのかもしれないが、どうもその辺で安易に制度の構築を行ってしまうと後からその制度が融通の利かない硬直した仕組みとなって形骸化して、そこから当初は想定していなかった弊害が出てくるのかもしれないし、そういう意味で功利的で安易な制度の構築よりは情報の自由な流通の場を確保する方が優先されるべきなのかもしれない。
 もちろんそうなれば悪貨が良貨を駆逐するような成り行きも想定できるだろうし、まともな意見よりも感情的で煽動的な主張の方が猛威を振るって、結局はポピュリズム的な政治勢力が実権を握ってしまうと、自由にものが言える環境が簡単に破壊されてしまうのだが、その辺もすぐに制度的な規制を施そうとして、融通の利かない硬直した対応が主流となって、結局はそうなっても自由にものが言える環境が破壊されてしまうわけだが、どうやっても余裕のない反応や対応に至るようなら、制度による縛りが出現してしまう成り行きになってしまうだろうし、相手が隙を見せたらすぐにその隙を突いて利益を得ようとする功利主義の精神が資本主義の発達とともに世の中の主流となっている実態があるのだろうから、それは仕方のないことかもしれないが、たぶんそういう功利主義精神の持ち主や企業に利益を独占されても、自由にものが言える環境は守られるべきかもしれず、他者に対して不寛容な人たちにある程度は利益を奪われても寛容な精神で接してゆかないと、不寛容な人たちのペースに引きずり込まれていって、気がつけば功利主義の虜となっているのだろうし、そういう人たちの狙いは自分たちと同じ水準に他者を引きずり下ろしたいわけで、そうやって自分たちの活動しやすい環境を徐々に広げていく戦略なのであり、果たしてそういう下衆な環境が世の中の全ての人たちにとって生きやすい環境なのかというと、どうも不快さばかりが募ってくるのかもしれないし、確かに勝つのはそういう人たちなのかもしれないが、そうまでして勝ちたいのかというと、それほどまで勝つことに価値を見出せるような世の中なのかと思うだろうし、そういうところで手段を選ばずに政治的にも経済的にも主導権を握ろうとする人や集団について行けない気がするなら、ほどほどのところで主流から外れておくべきかもしれないし、過度にそういう方向で他者と競うのはかえって身の破滅を招く危険性が高くなるのかもしれないが、中にはそういう欲望に魅入られてしまう人もいるのだろうから、それに成功するのはほんの一握りの人たちだろうし、かえって大部分の人たちが身の破滅を招いてしまった方が、それらの人たちが反省することで社会が良い方向へ向かうことに期待したいが、身の破滅を招いている状態というのが結構気づきにくいのかもしれないし、実際に世の中の大部分の人たちが生きて生活できていることに変わりないだろうし、それが破滅だとは思えないのは当然であり、普通の感覚でもそれを破滅とは言わないだろうし、ただ現状で成功している人たちのようになれる可能性のなくなった人たちがその他大勢の一般の民衆なのだから、一般の民衆の感覚ではそれが普通の状態であるわけだ。そうであるなら別にわざわざ不寛容な功利主義精神の虜にならなくても生きていけることには変わりなく、そんな精神の虜となっている人たちと競争する必要もないわけで、それよりは自由にものが言える環境を守って楽に生きることを考えた方がよさそうにも思われるわけだが、資本主義な価値観とそれを推進する広告宣伝メディアに日々煽られているととてもそんな気にはなれないだろうし、自然にそういう方面へと傾倒していってしまう成り行きが世の中に生じているのかもしれないが、それに対する確認事項としてそういう方面で成功するのはほんの一握りの人たちであることは踏まえておいた方がよさそうだ。
 歴史的に事の成り行きを捉えるなら、民主的な政治制度の確立と資本主義的な産業の発展は同時に進行してきたことは確かだろうし、両方の現象の間には緊密な連携関係さえ想定できそうだが、その一方で行き過ぎた資本主義的な利益の追求に歯止めをかける役割を民主的な政治制度が担っている面もあるわけで、そういう意味で民主的な政治制度は資本主義的な産業の発展を必要としていて、それを利用しているにも関わらず、時として資本主義的な経済活動をある程度は抑えてそれに規制を課すようなことも、政治と行政とが連携してやらなければならないのだろうし、経済活動を推進するか抑えるかのどちらを優先させるべきかということではなく、両方をバランスよく行わなければならず、そういう面が一般の民衆にとってはわかりにくいところかもしれないが、実際に政治や行政に携わる政治家や官僚などにしても本当のところはよくわかっていないのかもしれない。ただ世の中に不都合や不具合が出てきてそれが経済活動に起因するものならそれに対処しなければならないだろうし、それが経済活動を推進しようとする対処なのかあるいは経済活動の行き過ぎに歯止めをかけるような対処となるのかは、その場の不都合や不具合の内容にもよるだろうが、そのような対処がうまくいく時もいかない時もあるだろうし、うまくいかない時はまた新たな対処が必要となってきて、そんなことを延々と繰り返すようなことが政治活動や行政活動となるのかもしれないが、たぶん制度的にもそういう成り行きになって、そういうことしかできないとも言えるのかもしれないし、経済活動は行き過ぎても滞ってもどちらにしても不都合や不具合が生じてくるわけで、そういうところで制度を管理運営する側に求められているのはバランス感覚や調整能力と言えるのかもしれず、制度的に規制を強めたり緩和したりしながらほどほどの状態を保っていくしかなく、政治活動や行政活動もそれ以上の何かを求めるようには制度的にできていないのではないか。またそれに関してはあまり問題を解決できるような幻想は抱かない方がいいのかもしれないし、問題が経済活動そのものにあって、そこには良い面と悪い面の両面が表裏一体となって含まれていて、うまくいっている面を伸ばせばそれに伴って弊害も大きくなるだろうし、それに対応して弊害を抑え込もうとすれば今度はうまくいっている面も縮小してしまうのかもしれず、そういう面をごまかしきれないのが資本主義経済の特徴かもしれないし、そうであるから経済活動を推進する側も批判する側も自分たちの主張をいつまでも押し通すわけにはいかず、それに関して一方的な方向への主張ではやっていけない面があり、その辺で修正主義や折衷主義のような意見にしてゆかないと、状況から言説が遊離してしまって、述べている内容がリアリティを失ってしまうのかもしれない。もちろん政治活動や行政活動は述べているだけはなく、実際に何らかの対処をしなければいけないわけだから、経済活動を推進しようとして産業振興のようなことをやれば、それを行うことに伴って生じる弊害を指摘されたり批判されることになるわけで、また何らかの規制を強化すれば、それに対しても規制緩和を求める側から批判されるわけで、どちらにしても弊害が出てくるし、それに対する批判もつきものとなるわけだ。
 また経済活動を管理できる面と管理できない面があり、制度に従う面では管理できるが制度に逆らう面では規制しなければならないだろうし、規制を逃れる面を取り締まったりすると、思わぬところから抵抗に直面するわけで、その抵抗の内容によっては規制を強化したり緩めるような判断も迫られるだろうが、強化するにしても緩和するにしてもどちらか一辺倒というわけにはいかず、その場の状況に合わせて判断していくと判断の一貫性や整合性が失われてくるわけだが、そういうところで制度が硬直化していると柔軟な対応ができなくなってしまい、うまく対応していかないと管理しきれずに制度自体の形骸化が顕著になってくるわけで、そういう場合は制度そのものの改変や改革が求められるのかもしれないが、結局は現状に対応した制度にするしかなくなってくるのだろうし、そうでないと制度そのものの効力がなくなってしまうのだろうが、それではそもそも制度そのものがいらないようにも思われてしまうわけだが、ある程度は現状を現状のままに固定しておかないと、常に変動して流動的な状況の中では一定の活動が困難となってくるわけで、そういう意味では現状の中で一定の動作を成り立たせるには、現状をある傾向や方向に固定しておくのに制度が必要となってくるわけで、社会の中でそんな制度を管理運営する担い手である主要な勢力の一つが行政機関であって、その行政機関に対して民衆の側から働きかけるのに必要な手段として政治制度があるわけだが、それも一つの制度であるだけに放っておくと世の中の変化に対応できなくなって硬直化してうまく機能しなくなってしまったり、制度を都合のいいように利用したい勢力によって変質させられてしまったりして、気づいてみれば民主主義の理想からは程遠い実態となってしまっている可能性もあるのだろうが、たとえそのようになっても社会の中でそれなりに機能している面があれば制度が維持継続されていくわけで、今度はそのような制度の歪みに対して批判がされる成り行きにもなるのだろうが、批判だけでは変わらないだろうし、実際に制度の弊害を改めるような活動が求められて、それを担うのが政治家であり政党だとすると、特定の政党の下に世の中の批判勢力を結集するような意向も働いてくるのだろうが、そういうところで批判の正しさだけで世論からの支持を期待してもその期待は裏切られるだろうし、そこでも批判している制度がそれなりに機能していて、その制度に従っている人が世の中の主流を占めていれば、それが世論を担う多数派を構成していて、制度の歪みを指摘するような正しい批判にはあまり反応しないだろうし、結局それらの人たちは制度によって構成された人々であり、制度に依存している限りで制度には逆らえずに制度の一部となってしまっているのではないか。ではそういう状況の中でどうすれば状況を変えられるのかとなると、制度の形骸化を促すより方法はないのかもしれないが、どうやれば制度の形骸化が促されるのかもよくわからないかもしれないが、すでに制度の歪みが批判されているのだからそれなりに形骸化を被っているだろうし、世の中の主流派もその形骸化に対応して変質を被っていて、その結果民主的な理想からかけ離れたことをやっている勢力を支持しているわけだから、そういう状況自体が制度の形骸化そのものと言えるわけで、少なくともそのことは自覚しておいた方がいいのかもしれない。

 政権を担う特定の政党と行政の中の官僚機構が合体したあり方は、そのような利権複合体への権力の集中をもたらすだろうが、それとは別の面から見ればどちらの勢力でも主体性が欠如していることを示しているのかもしれず、そのような利権複合体の中で政党が主導権を握るのでもなく行政の官僚機構が主導権を握るのでもなく、両者の間に優劣を示す階層構造が形成されておらず、どちらがどちらを制御しているのでも押さえつけているのでもないし、お互いにお互いを利用し合っていることは確かなのだろうが、少なくなくとも強烈な個性を持った独裁者のようなはっきりとした核があるわけではないだろうし、権力の中枢があってそこから必ず命令が下されるのでもなく、形式的には組織的な指揮命令系統があるかもしれないが、それが絶え間なく動作しているというよりは、確かに政党の方からも官僚機構の方からも何らかの働きかけはあるだろうが、それが決まり切った一定の手順を踏んでおらず、その中で誰が働きかけを主導しているのでもないような事態が生じていて、要するにそこに権力が集中していることは確かかもしれないが、特定の誰が権力を行使しているのでもないのに、結果的にそこに権力があるかのようなことになっているのかもしれず、そうなっているから一見優柔不断に感じられるのかもしれないが、論理的な正しさなどとは無縁で、外からいくら的を射るような批判をされても内部で動揺など起こりようがないので、利権複合体が内部崩壊することはないだろうし、確かに政党を代表する誰かがはっきりした主義主張をすることもあるのだろうが、他のメンバーにとってそれは方便のようなものであり、そのような主義主張で組織全体がまとまっているわけではなく、その主義主張の内容が稚拙に思われるとすれば、外部からそんな稚拙な主義主張などいくらでも批判できることは確かであるにしても、内部でもそう思われているとみなしておいた方がいいだろうし、実質的に利権の共有でまとまっているのだから、いくらリーダー格の人物がお粗末な主義主張を唱えていてもそれほど問題視されないのであり、かえってお粗末な人物を周りが利用できるぐらいに思われているかもしれないし、その辺が批判する側の思惑とは合致しないところだろうし、たとえリーダー格の人物を批判して論破しても組織が崩壊することはないだろうし、お粗末な主義主張自体が組織内では織り込み済みの要素だから、それをいくら批判されても痛くもかゆくもないわけだ。そしてそのような利権複合体自体がそれまでの歴史的な経緯を反映していることは言うまでもなく、意図的にそうなったわけではなくても何らかの試行錯誤を経てそうなっているわけだから、過去の失敗の反省をそれなりに生かしているわけで、それだけ批判勢力が過去の再来として危機感を煽るような過去の一時期の全体主義的な組織形態よりはそれなりに進化しているのではないか。もちろんその進化の方向がより独裁権力が強まるような進化ではないことは確実で、権力を強めて独裁色を濃くしなくても構わないような組織形態が編み出されたわけで、それが民衆の幅広い支持を集めるような成り行きを伴っているのではないか。
 特定の主義主張を基としてではなく構造的なまとまりとしての利権複合体が形成されている場合、しかも特に自らの権力基盤の強化を目指しているのでもなく、別にそれを目指さなくても対抗してくるような他に勢力がいないのだから、あとは単に構造的なまとまりを保っていればいいわけで、そのようなまとまりを保つ上で必要なのは組織内で下手に自己主張しないことが肝要だろうし、それが主体性の放棄につながるわけだが、あからさまにそうやっているわけではなく、外部に向かっては自己主張しているように見せかけるわけで、しかも自己主張の内容が簡単に批判されたり論破されるようなことであり、要するに意図してそうしているわけではないものの、わざと撒き餌のようにお粗末な自己主張を振りまいて、批判勢力がその餌に食いついてくるがままにさせておくわけで、そうやって批判疲れを誘いながらも、そんなことは意に介さずに淡々と議会で多数決を行使しながら法案を可決していけばいいのだろうが、その法案や予算案なども別に斬新であったり画期的な内容ではないだろうし、いつも通りの例年通りの内容に終始して、それによって世の中の情勢が変化して良くなったり悪くなったりするわけでもなく、当然批判勢力は政府側の凡庸な政策を批判して情勢が悪くなっていると主張するわけだが、それが世論に響かないようになっているわけで、なぜそうなっているのかといえば、それらの政策が世の中の変化をもたらすような政策ではないから、現状が維持されている限りで世論にも変化は起こらないだろうし、そうなっている時点で政治的な行為が無効となっているかもしれないし、しかも無効だからこそ何をやっても情勢の変化は起こらないという逆説が成り立っているのではないか。要するにそれは形だけの権力の集中であって、そこで何をやっても虚構的な権力の行使にしかならないわけだが、その虚構の作用に民衆が騙されて世論が反応しないのではなく、民衆の方でも騙されている感覚はないだろうし、実際に騙しているのではなく、権力のありのままの姿がそこに出現しているわけで、たとえそれが無為無策のように思われても、そこで何かが行われているという現実があることが重要であり、何かが行われていることによって世の中の安定が醸し出されているような物語を信じていれば安心できるのであり、無理に安心しようとしているのではなく、実際に安心を実感しているから何となくそんな凡庸な体制を支持できるのだろうし、それはその国の体制だけではなく近隣諸国の体制との比較も影響してくるだろうし、全体的な世界情勢の中でその国の情勢を考えてみれば、ほとんどの国で政治的な限界が露呈していれば、自国だけあまり贅沢なことは言っていられないような気になってくるのではないか。そういうところで民意も妥協を強いられてしまい、また利権複合体の中でも妥協を強いられているだろうし、誰もが遠慮してしまうからいくらお粗末なことをやっても許されるような状況が成り立っているのではないか。しかもそれで世の中の安定がもたらされていると信じていれば安心できるのだから、それに関してあまり物事を深刻に考える必要さえなくなっているのかもしれないし、全てがそうやってうまく回っていることになってしまうわけで、それが悪循環とは到底思えないわけだ。
 そんな現状の政治制度の中で何か肯定すべき面があるとしたら、それは何もかもがあからさまになっていることかもしれず、そのあからさまな状態を肯定できるかといえば、否定的に捉えて批判したくなる人の方が多いのかもしれないが、そういう人は制度そのものもさることながら、制度の中で主導権を握っている勢力を批判することが多いだろうし、制度からそのような勢力が生じてきたことに関しては、あまり事の成り行きを重視していないのかもしれないが、特定の一つの制度ではなく複数の制度が競合している中で、それらの制度の入り組んだ関係を巧みに利用しながら、その中で主導権を握った勢力が世の中で台頭してくるわけだから、一つの制度の良し悪しや欠陥をあげつらっても、そのような勢力への批判には直接結びつかないのかもしれないし、そういう意味で制度批判にしても制度の中で主導権を握っている勢力に対する批判にしても、なかなか説得力のある批判とはならないのかもしれず、それでも現状に対する否定的な認識が拭い難く実感を伴って抱かれてしまうのだから、何かそれらを批判せざるを得ない成り行きに巻き込まれていることは確かだろうし、その中でおかしな点や許せない点を指摘せざるを得なくなってしまうわけだ。そしてそうした批判がメディアを通じて数多くなされているにも関わらず現状が変わらないとしたら、たぶんそれは批判が無効となっているというよりは、批判が現状を継続させる糧となっていると捉えた方がいいのかもしれず、そのような批判を含んだ現状がそこに構成されていて、批判自体が現状を継続させる上でも有効に機能していると考えるべきなのかもしれない。ならばそれでは批判としては駄目なのかというとそういうわけでもなく、むしろ歓迎されるような批判だと言えるだろうし、現状の中で主導権を握っている勢力からすれば、それらの人たちが批判してくれるからこそ、自分たちの主導権が確保されている状態が維持されている可能性が高ければ、あえてそんな批判を抑え込もうとはしないだろうし、それよりは批判されっぱなしの状況を放置しておくことを選択するのではないか。要するにそれも世の中の均衡を保つ上で不可欠な要素と考えれば、自分たちにとっては否定的な要素であってもあえて有効活用しようとするだろうし、もちろんはっきりとそれを認識しているわけではなく、成り行き上そうなっているだけかもしれないが、そうであってもそんな成り行きに逆らう理由はないだろうし、自分たちにとって好都合な成り行きならそれに乗っていればいいだけだろうし、そういう方面でも勘を働かせることが肝要となり、ある特定の面だけに着目してそれを基に良し悪しを判断するのではなく、物事を総合的に判断して取るべき態度や行動を決定すべきなのは当然であり、状況の全てが自分たちに有利に働いているわけではないのだから、状況の中で有利な面と不利な面を勘案して、その中で現状を保つにはどうしたら良いかを考えるときに、あえて放置すべきような要素も出てくることは確かだろうし、その中の一つが自分たちに対する批判の類いになるのかもしれないし、言わせたい輩には言わせておけばいいと思えば、自然にそれで済んでしまうような状況となってしまうのかもしれないし、その辺で下手に反論してやぶ蛇な状況を作らない方が得策だと考えているのではないか。
 また政治が下手に首をつっこむべきでないことは世の中にはいくらでもあるのかもしれず、政治制度の内部で自足している限りでそれ以外の現状から目を背けていられる可能性も出てくるだろうし、できないことはやらない方がいいと考えるなら、そういう点ではあまり冒険せずに現状維持に努めていた方が無難な場合が多いだろうし、そういう面では失敗を恐れていることになるわけだが、それを批判する人たちにはそういう姿勢こそが失敗そのものだとも批判できるわけで、それは両者の間で生じている立場上の違いだとも言えるわけだが、実際に全てを行政機構に任せきりでも構わない場合もありそうで、そうなると政治家の出る幕がなくなってしまって、形だけは行政のトップの大臣などを担っていればいいことにもなってしまうわけだが、制度的にもだんだんと政治家が何もできないような傾向になりつつあるのかもしれず、それは法整備としてそのような改正が行われてきたからではなく、制度の運用形態としてそうなってきた面があるのかもしれず、また他の産業分野などでも大企業などの寡占化が進むとともに企業を実質的に管理運営する官僚機構の部分が肥大化する傾向にもあるわけで、そういう傾向が行政機構の中でもより一層強まってきているとも言えるわけで、それを促進しているのが情報革命以後に顕著になってきた情報処理システムの格段の進歩と発展だろうし、行政的な手続きがコンピューターの普及と高性能化によって自動的に行われる部分が多くなってくると、手続きの途中で人が口を挟む余地がなくなってしまうわけで、そのほとんどが自動化されてしまうとそれに関しては政治家が文句を言えなくなりつつあって、政治家が行うような議会での審議などの部分は全体のシステムの中ではほんの一部となってしまい、ただの外部から文句を言わせないための儀礼的な会計監査のような役割しか与えられなくなってしまっているのではないか。実際にそうなっているとすればそれは政治制度の形骸化と言えるわけだが、その一方で政治宣伝の部分も肥大化が進んでいると言えるのかもしれないし、それはソーシャルネットワーキングサービスなどを手掛ける企業が愚にもつかない広告宣伝ばかりの情報媒体を提供して詐欺的に資金を荒稼ぎしている実態が、政治宣伝にも波及しているのかもしれず、どうでもいいような些細で空疎な内容をまるで洪水のように宣伝しまくったり、それが何の効果もないように思われるとしても、SNSやニュースサイトなどで日頃からその手の慣れ親しんでいる宣伝と似通っているから不自然に感じないのであり、そういうところで何かやっている感が醸し出されてそれを受け取る人々の脳裏に情報の刷り込みが行われるわけで、その実態は何でもないことかもしれないが、何かをやっているように装うための技術ばかりが発展して洗練されることになっていて、メディア的にはそれが有効に機能して何となく違和感なく人々の意識に溶け込んでしまい、そういうところで別にそれをわざわざ洗脳と称して非難するような成り行きにはならないだろうし、ある意味ではそれも世の中の情勢や状況に対応したやり方だと言えるのかもしれないし、それが自然な活動だと思われる限りで何となく支持されるような成り行きになってしまうのではないか。それは政治の中身よりも外見に気を使っていることにもなるわけで、政治のエステティック化とも言えるのかもしれないが、批判する側もそれに対する有効な言説を導き出せずにいるのではないか。
 20世紀末の情報革命以後の世界で何が世の中に普及したかといえば、それが情報端末であることは誰もが承知していることかもしれないが、その情報端末から入ってくる情報量も以前とは比較にならないほど多くなったことも確かかもしれず、それによって便利さを実感している面はあるものの、一方でその情報に振り回されて主体的に思考したり行動できない面も顕著になってきているのかもしれないし、それに関しては良い面と悪い面の両面があるようにも思われるのだろうが、そんな中でも人は自然と世の中の状況に順応しようとするだろうし、実際にそれなりに順応しているから普通に生活できているわけだ。そして気づかないうちにそれまで当たり前のように思っていたことからずれた感覚を当たり前のように感じているだろうし、注意して考えてみないと世の中が様変わりしていることに気づかないわけだ。しかもそれに気づく必要もないだろうし、気づかないのが当たり前のようにも思われるわけだが、たぶん政治に関しても昔と今とではできることが変わってきたのかもしれず、今の世の中で実際にやっていることが政治的にできることかもしれないし、別にそれで支障がなければ構わないわけだが、果たして政治の場でやらなければならないことを、現状で政治的な主導権を握っている勢力が実際にやっているように思われるだろうか。現状を批判的に捉えている人たちにとっては当然やるべきことをやっていないと思われるだろうし、彼らにとってやるべきことは実際に主導権を握っている勢力がやらずにおろそかにしていることになるわけだが、なぜそれができないかといえば、それに関して何らかの理由や原因があってできなければわかりやすいのだが、これといって理由も原因も見つからなければ謎になってしまうだろうし、そういう謎な部分が多いほどそれへの対応もわからなくなってしまうのではないか。またそのような理由や原因を無理にこしらえようとすると、想像力を働かせて何か陰謀論的なことを述べなければならなくなる場合もあり、話の中でフィクションの度合いが大きくなってしまうのかもしれないが、無理に理由や原因を探したりこしらえるのではなく、ありのままの現実としてできないことを認める必要があるだろうし、それに対する批判とともにできないことをやるように要求しなくてもいいのかもしれないし、やろうとしてもできないのかやれるのにできないのかはわからないが、ともかく実際にできないことがあるのは事実として普通に受け止めるしかなく、そんなことを踏まえた上で現状を分析してみるしかないだろうし、そのできないことが社会にどのような影響を及ぼしているかを考察してみたらいいのではないか。実際に現状を批判的に捉える人たちはそういうことをやっているはずであり、それらの人たちの言説や主張にはそういうことが述べられていて、それを一般の民衆がどう受け止めるかで多少なりとも政治情勢に影響が及ぶだろうし、世の中が変化するにはそういうところからの影響も何らかのきっかけをもたらす可能性があるのではないか。またそうであるとしても、人々が気づかないところで思わぬところから変化するきっかけが生じることがあるだろうし、その一つが前世紀末の情報革命であったことも確かなところかもしれない。
 そんな情報革命以後の傾向としては情報過多で宣伝過多な面があり、そこで何かをやっているとともにやっていることを宣伝することに比重が移ってきて、大したことはやっていないのに大げさに宣伝するから、そこでさも重要なことが行われているように思わせるような演出が施されているわけで、そんな演出を真に受けた民衆が宣伝に踊らされて、情報を操作している勢力の餌食となってしまうのだろうが、別に餌食となっていても生きているわけだから、いいように利用されながらも普通に生活できている限りで、それらの勢力の支持者となっているわけで、その辺が従来から言われているような搾取や奴隷状態とは根本的に異なるわけで、それらの人たちには危機感を煽るような脅し文句は通用しないわけだ。その代わりの役どころとして適合するのが共犯者という立場なのかもしないし、そうなるとますます支持者であることはやめられないし、下手に批判しようものなら批判する人たちが逆にそれらの人々から非難されることにもなるわけで、そういう意味で宣伝が人々の意識に及ぼす効果は絶大で、民衆を自分たちの共犯者に仕立て上げてしまえばもはや利益を共有しているわけだから、逆に功利的には支持しない理由すら生じなくなってしまうのではないか。たぶんそれは資本主義経済がうまく機能して物質的に豊かになったというよりは、情報過多であることの方が意識の中で豊かさを実感できるということであり、現実には他と比較して大して豊かな生活を満喫しているわけではなくても、日々情報端末からもたらされる洪水のような情報に接していると、それだけで頭の中がいっぱいになってしまうから豊かであると感じられるのかもしれず、実質的にそれは豊かさの幻影のようなものかもしれないが、感覚として豊かだと感じられてしまうのだから、やはりそれは幻影などではなく実感を伴った豊かさなのではないか。それを感覚の麻痺だと簡単に指摘することはできるだろうが、誰もがそうならそれは麻痺ではなくなり普通の状態となってしまうわけで、そういうところで情報革命以後の時代ではそれ以前と時代と比べて豊かさの程度や規模が縮小してしまっているのかもしれないが、それは一般の民衆に限ったことかもしれないし、時代の潮流に乗って金融資産を飛躍的に増やして富裕層となった人々なら物質的にも豊かになったことは間違いなく、一般の民衆が情報だけの程度も規模も縮小された豊かさに甘んじている一方で、それに反比例して富裕層の方が物質的にも過剰な富を手にしたのかもしれないが、一般的に言って豊かさというのはいくら実感しても物足りないだろうし、過剰な富を手に入れた人たちはさらなる富を手に入れようとするだろうし、物質的な富に飽きたら社会的な名誉を手にしたいから慈善事業などに手を出そうとするだろうし、そうなると多少は貧困層にも富がもたらされるのかもしれないが、それも全ての貧困層に行き渡るほどの富でないのは明らかで、富裕層の自己満足を叶えるだけの量の施しが貧困層にもたらされるだけだろうし、そういう行為からは何も解決しないのかもしれないが、ともかく政治の場で主導権を握っている勢力が世論や民意から支持されるだけの富や利益が一般に民衆にももたらされていることは確かだろうし、だからこそ一般の民衆も共犯者としての立場に甘んじていられるわけだ。

 人は情報を入手しているだけでは生きてゆけないし、現代的な社会形態の中で人が生活の糧を得て活動するには産業全般の興隆が欠かせないが、政治も行政とともに産業振興を促進させるのが主な活動となるだろうが、そういう面で政治が産業界と連携するのは資本主義経済の中では当然の成り行きであり、また一般の民衆の方でも何らかの職業に従事している限りで産業と関わっていて、それと関係がなければ生活していく糧を得られないわけだから、現代文明の影響下で暮らしている範囲内では政府の産業振興政策の恩恵に与っていることになるが、その一方で企業の業務形態から経営する側と労働する側の対立が生まれる成り行きがあって、産業振興の中で労働環境を悪化させる要因が生じていれば、それを政治的な働きかけを通して是正させようとする運動も起こるだろうし、そういう面で政治活動として産業振興と労働環境の改善という必ずしも相乗効果や比例効果を期待できない調整を迫られるわけで、そのどちらを優先させるというよりは、産業振興を期待する側と労働環境の改善を期待する側のどちらもが納得できるような政策が期待されてしまうのだろうが、それが相反する面があるだけにうまくいかない場合もでてくるだろうし、そういうところで政治的な活動の限界が露呈するわけだが、結果的に両者の期待には添えないかもしれないが、妥協的な政策に落ち着く成り行きにはなるだろうし、また企業にも様々な形態があって、そこで労使の単純な対立には発展しないケースも多いのかもしれず、特に多国籍的な事業を展開するグローバル企業だと、分業体制の中で経営的な中核を担う部分では労働環境が良好だが、末端の下請け的な部門では労働環境が過酷になる傾向もあるわけで、経営の中核を担う部門ばかりが集中している先進諸国では労働時間も比較的短くて賃金も比較的高く、労働者の待遇も比較的良い可能性があるだろうが、それと比較して末端の下請け的な部門が集中する国々で働いている労働者は、低賃金で長時間労働を強いられているケースが多ければ、先進諸国で政治活動によって労働環境を改善させているしわ寄せが、末端の下請け的な部門が集中する国々に及んでいる可能性もあるわけで、そういう面でも国内での政治活動には限界があるわけで、それは行政活動にも言えることかもしれないが、政治も行政も国家の枠内での活動が優先され、他の国にまで口出しすれば内政干渉になってしまうだろうし、しかも産業の面で優位な立場にある国が不利な立場にある国を搾取している面もないわけではないし、自国民であれば労働者であっても経営側で活動する人であっても自国の産業を優先するように政治に要求するだろうし、その一方でかつては国際的な労働者の団結を訴えるような共産主義的な活動の試みもあったわけで、それらの全てが無用な対立を招くわけではないとしても、少なくともそういう単純な対立関係を梃子にして規模が大きく広範囲な連携を築くには、国家の枠内で活動する政治も行政も邪魔をしてくるだろうし、情報革命以後の世界で全世界規模で情報網が張り巡らされている中で、従来の常識にはとらわれないような活動が求められてくるのかもしれず、もしかしたらそれが実現しても産業を振興する側が主導権を握っている主要なメディア上では話題にすらならないかもしれないが、かえって派手な話題とならない方が何らかの成果をもたらす可能性が出てくるのかもしれない。
 それに関して世の中で主流となっているメディア的な宣伝の裏をかくというよりは、そのような宣伝効果を期待する向きからは外れた活動が求められているのかもしれないが、それは産業振興などの政策とも相容れない活動となるのかもしれないし、従来の産業と連動して連携しつつも対立するような労働という活動形態をなし崩し的に変えるような可能性も含んでいるのかもしれず、そうなると政治とも行政とも無縁な活動となってしまいそうだが、たぶん労働に対しても人の労働を利用して利潤を得る企業形態に対しても、作用反作用を生じさせるような活動があり、場合によってはそれは活動しない活動とも呼べるのかもしれないが、そのような活動は主に消費と呼ばれる活動には確実に含まれている要素だろうし、生産でも流通でも販売でもそれらの過程の中で抵抗を構成する要素となっているのかもしれず、そこから利益を出にくくする作用を生じさせるのではないか。それが一般的に言って節約という要素なのだが、それを肯定的に呼ぶなら倹約とも呼ばれるわけで、それに関連して無駄を省くということが何を意味するかというと、企業を経営する側が経費を節約すればそれだけ利益に結びつくのかもしれないが、消費する側が倹約を心がければ商品が売れなくなることを意味していて、そうやって消費者心理が冷え込むような成り行きになってしまえば、いくら産業振興を促しても消費が伸びなければどうしようもないわけで、それは人々が商品宣伝を真に受けないようになることも意味しているのかもしれないし、何か消費することに魅力を感じられないような風潮が世の中に蔓延すれば、そうなる可能性が出てくるのかもしれず、その可能性がどこから生じるのかといえば、その本を正せば情報過剰で宣伝過剰なメディア環境に行き着く可能性があるのかもしれないし、現状ではそんなことはあり得ないと思われるかもしれないが、果たして現状が微妙な均衡の上に成り立っているようなら、何かのきっかけで一気におかしくなることがあり得るわけで、それとも底堅い消費に産業が支えられているようなら、やはりそんなことはあり得ないことになってしまうわけだが、世界的な経済情勢の先行きを占えるような確かな指標が現状でどれほど出揃っているわけでもないし、そんなことはわからないと言ってしまうのが妥当なところかもしれないが、その一方で情報革命を支えた情報処理技術が全般的に大規模集積回路のようにエネルギーの節約傾向を象徴する技術なだけに、またロボット技術や人工知能などの技術も人的な労働力の節約を目指す技術だろうし、何かその辺で今後思いがけない逆転現象に直面する可能性がないとは言えないだろうし、結局今ある現代文明というのが産業技術によって支えられているのだから、その技術の傾向や方向性の変化が顕著になってくれば、文明自体も変わらざるを得ないだろうし、現状ではまだ18世紀あたりから続いている産業革命の延長上で資本主義経済の拡大が続いていることは確かだが、いつかはその拡大が頭打ちになるか、あるいは別の方向へ変わっていく可能性があるのかもしれず、そうなればそれに伴って政治も行政もその活動内容が変わっていくような成り行きとなるだろうし、現時点ではそのような転換期がいつやってくるのかわからないだろうが、たぶん大半の人々が気づいた時にはすでに産業の転換期を迎えているのかもしれないし、別にそういう変化に乗り遅れても自業自得だから構わないのかもしれないが、なるべくなら早めに気づいた方がそれへの対処もやりやすいのではないか。
 状況としては情報革命から情報過剰で宣伝過剰な大衆メディア社会のより一層の深化が起こったわけだが、その中でもメディアを利用した宣伝の中で悪質なものにはデマや煽動が含まれるだろうし、それによって民衆を意図的に誘導できることは確かだが、実際にうまくいったとしてもそれは一時的にとどまるだろうし、年がら年中デマや煽動ばかりだと民衆の方でも飽きてくるかもしれず、そういう部分による影響は世の中のほんの一部に限定されるようなものかもしれないが、民衆の方でもデマや煽動を信じるというよりは、それが政治的な主流派に味方する側からもたらされるものなら許されるということであり、体制側を支持するものであれば多少のデマや煽動の要素を含んだ宣伝は大目に見てもらえるのが世の常なのかもしれず、しかもそれを受け取る側がその種の宣伝をあからさまなデマや煽動だとは感じない場合があるだろうし、宣伝内容にもそれなりに確からしい部分も含まれていて、そういう部分を含んでいるからこそ民衆がその手の宣伝を真に受けるわけで、その手のものは事実を含んだフィクションとも言えるのかもしれず、実際に世の中に出回っている偏った意見を含んだ主張などはほとんどがその手の範疇に含まれるといえばその通りであり、別にそれは驚くべきことでもなく、普通に暮らしていれば誰もがその手の主張に出くわすだろうが、もしかしたらそれは枝葉末節なことなのかもしれず、世の中がおかしくなった原因を政治のせいにしたい向きはそういうところから批判の根拠を求めようとするわけだが、それも一面ではそうかもしれないが、別の面から捉えればそれは二次的な原因となってしまうのかもしれないし、政党などの政治勢力やそれと連携しているメディアなどが、苦し紛れの宣伝としてデマや煽動を利用するような状況となっていれば、その苦し紛れな状況を招いている何かが他にあるのかもしれず、しかもその何かが一つだけではなく、複合的な要因が積み重なって錯綜していて、その結果として苦し紛れに民衆を誘導するような情報を流してその場しのぎのようなことをやる必要があり、そんなことをやっている時点ですでに末期的な状況とも言えるのかもしれないが、その末期的な状況というのが意外と長続きする場合もあるだろうし、もしかしたら全世界的にはもはや政治制度そのものが機能不全を起こしていて、実質的には現状に対して何一つ有効な手立てを講じられないでいるのに、それをごまかすためにメディアと結託してさも何か有効なことをやっているかのように装うのが精一杯なのかもしれないのだが、考えてみれば民主的な政治制度が世界的に主流となってきた過程において、民主主義の理想の実現を阻む要素として常に資本主義経済が障害として立ちはだかってきたと同時に、資本主義経済の発展が民主的な制度を成り立たせてきたのも事実であり、両者は相反する方向性を持ちながらも相互に補完し合う面もあって、切っても切れない関係を構成しているのに、うまく噛み合うことはなく整合性を保てないわけで、そこから様々な不合理や不具合が出てくると同時に必要不可欠な要素でもあるのだから、それらの矛盾した面を止揚するわけにはいかないのであり、それらの間でその場しのぎの調整を行わないとおかしくなってしまうから、制御できない面があるにも関わらず制御しようとして、結果的に苦し紛れのごまかしをやらざるを得ないわけだ。
 しかしそうだとしても実際に政治制度が社会の中で機能している実態があるわけだから、それを利用して何かをやろうとする勢力が政党をはじめとして必ず出てくるわけで、それが社会の中で無視できない勢力を形成していることは確かであり、しかもそのような勢力に他の様々な勢力が関係してくるわけで、他の行政や企業やメディアなどの勢力とともにある面では競合関係を築いていて、別の面では連携関係や場合によっては癒着関係まで生させているわけだが、もしかしたらそれはどこまでも表層的な関係であり、資本主義経済の中で経済活動を促進させるような働きが常に期待されている限りで、それらの関係が成り立っていると言えるのかもしれず、そこでは経済活動の邪魔をするような作用をできるだけ取り除くようなことが行われていて、たとえそれが民主主義の理想を実現させようとする運動であっても、経済活動を阻害するような面があればそれは抑え込まれる成り行きになるのであり、そうでなければそれらの勢力の利害が一致することはないのではないか。そういう意味でそれらの勢力は経済活動から利益を得ていることになるだろうし、経済活動に依存しているからそれらの勢力を保っていられるわけで、経済活動に連動することでしかその活動も成り立たず、だからしばしば経済至上主義になってしまうわけだが、そこから民衆に害をもたらす作用も生じていることも確かだが、民衆の方でもそれらの勢力と同じように経済活動に依存することでしか生活が成り立たないわけだから、害をもたらす部分は政治や行政を通して是正してほしいとは思う反面、経済活動そのものをなくしてしまうわけにはいかないのは当然であり、経済活動から何らかの弊害が生じてくるものの、経済活動そのものを継続させることは大前提としてあるわけで、そこで妥協策としてできるだけ弊害の少ない経済活動に政治や行政の力でしていけばいいのだろうが、政治や行政の力ではできない部分があるのかもしれないし、できないなりにも何とか対応しようとはしている面もあるだろうし、実際に対応しているつもりであり、政治と行政が連携して経済のかじ取りをやっていることにはなっているはずなのだろうし、現状でもそれなりの成果を上げていることにもなっているのだろうが、それを批判する側から見るといつもそれでは不十分であり、常に危機的な状況だと捉えて批判がなされる場合が多いが、その危機的な状況というのも実際に経済活動が途切れることは未だかつてなかったわけだから、ではどういう状況が危機的な状況なのかが疑わしく思われてしまうわけだが、そういうことを総合的に判断するなら、たぶん資本主義的な経済活動自体が自律的に成り立っていて、それに依存しているのが政治や行政などに関係する勢力であり、依存しているにも関わらず制御しているとは言えない面が大きいだろうし、そこに主従関係を設定するならば、主人であるのが資本主義的な経済活動であり、それに対して従属的な関係を構成しているのが政治や行政などの様々な勢力なのではないか。それはそれ以前のアンシャンレジーム的な体制も結局は農業に依存して成り立っていた面が大きいだろうし、そういうところで人の意識が政治や行政から醸し出される権力に幻惑されている面があるわけで、逆に先入観として軍事力を備えた国家体制が主人であるという倒錯した認識も芽生える原因にもなっているのではないか。
 そうだとすれば政治や行政が経済のかじ取りをしているというのは誇大宣伝であって、その宣伝を人々が信じることによって成り立つようなことかもしれず、一応は宣伝も政治活動には含まれるだろうが、では経済活動に逆らうような政治活動ができるかというと、民衆の支持を得られる範囲内ならできるかもしれないし、例えば環境破壊によって人の生命が脅かされているといった危機感を煽るような形で民衆の支持を得ようとする行為は、経済活動によって環境が破壊されているという理由から政治活動が行われていることになるだろうし、また環境破壊の中には自然破壊も含まれ、その中で動植物が絶滅の危機に瀕しているといった人以外の生命が脅かされていることもあるわけだが、そのような場合でも全面的に経済活動に逆らうというのではなく、保護された自然環境を観光目的に利用するといった折衷案が模索されたりもするわけで、そこで何らかの形で人の活動を想定すると、当然のことながらその中には経済活動も含まれてくるわけで、人が活用可能な環境であればそこに経済活動が入り込んでくると考えていいのではないか。そしてその中で政治活動の対象となるのは、法整備を伴うような成り行きだろうし、そうなるとさらに行政の活動も付随してきて、公的な法律や制度に基づいた社会空間がそこに出現することになり、その空間を行政が管理統括するようなことが行われるわけだ。そういう意味で政治活動には行政的な管理統括の空間を作り上げるという目的があり、それが環境保護活動であっても保護の対象となる区域を行政が管理統括するように導くのが政治の役割となるのだろうし、それが公的な管理のレベルであれば企業が私的な利益を追求するのとは性質が異なるわけだが、もちろん何らかの条件を付けて企業の経済活動を許可することもあるわけで、その条件というのが自然環境が破壊されない限りでということになるだろうし、それに関して必要な法整備を行なって法律に基づいた制度を機能させて行政による管理統括が行われることになるわけだ。そうやって政治と行政との連携が成り立つ限りで平和が保たれて、その管理統括が行われている地域で人々が安全に安心して暮らせることにもなるわけだが、その中でも当然のことながら違法行為も必要に応じて行われて、それを行政の治安を担当する部門が取り締まることにもなるわけで、行政による違法行為の取り締まりが有効に機能しない限りは、そこで暮らす人々の安全も脅かされてしまい、そういうところで人々が行政に依存してしまう成り行きや体質が生じてくるわけで、そういう面を考慮すると違法行為自体が人々が行政に頼るきっかけをもたらしていて、別に行政による管理統治が完全に機能して違法行為が生じないということであれば、人々も行政のありがたみがわからないことになってしまうのかもしれず、ある程度は違法行為が行われて人々がそれによって被害を被っている状態があった方が、人々が行政を頼る必要が生じてくるわけで、そういうところがわざと違法行為を野放しにしているわけではないにせよ、結果的にそういう状況があるからこそ、行政による管理統治の理由も生じてくるわけで、要するに人々の暮らしに政治が介入してきたり行政の管理統治が行われたりすることが、必ずしも人々の全面的な同意によって成り立っているわけでもなく、そこに法整備や制度を機能させる口実が生じるから政治や行政が介入してくるわけで、その口実を何が作っているのかといえば、人や集団の私的な利益の追求によって争いが起こるからだと言えるわけだが、その私的な利益を追求する集団に政党などの政治勢力や行政の官僚機構も含まれてくると、さらに事態が複雑化してきて混迷の度も深まるのではないか。
 結局そこでは公的な社会空間を政治と行政が連携して管理統括するということだけでは済まない事態が常に生じているのであり、政治も行政もそれを担う政党や官僚機構のレベルでは私的な利益を追求する集団となってしまい、社会勢力として他の勢力と争ったり連携したり癒着するような関係を構築してしまうわけだから、そんな状態になってしまうこと自体が公的な空間を公的な機関が管理統括するという制度を破綻させているわけで、その原因を作っているのが集団による経済活動なのだが、経済活動が行われないと集団が成り立たないし、誰もがどんな集団もが経済活動によって私的な利益の追求を行なっているわけだから、その辺で公的な制度と矛盾してきてしまうわけで、ある意味では矛盾しているのが当然と言えるわけだが、そんな矛盾を認めながらも公共の利益を優先させないと功利主義がはびこって社会が荒廃してしまうのだろうし、しかも経済活動自体が功利主義的な活動であり、利益を求めないわけにはいかないわけで、そんなわけで公共の利益を優先させようとするのは損な考えであり、実際に公共の利益を訴える人たちはいつでも損な役回りを演じる羽目になってしまうわけだが、社会の荒廃を防ぐにはそんな人たちの存在が欠かせないし、誰かが損な役回りを引き受けてくれないと、利益を得るためには手段を選ばないやり方が横行して、競争や争いが激化して平和な状態が崩壊してしまうだろうし、そうならないように法律や制度によってやり過ぎや行き過ぎやが是正される仕組みが機能すればいいのだろうが、集団の中には法律や制度自体を自分たちに有利になるように作り変えようと画策している勢力もあるわけで、それが政党や官僚機構と連携していたり政党や官僚機構自体が自らそんなことを画策している場合さえあるわけで、そこでも集団的な勢力同士で争いや競争や連携や癒着が生じているわけで、そういうところで民主的な制度が機能していれば、民衆が主導権を握れる可能性が出てくるのだが、民衆の中でも主流を構成する層が安易でお粗末な宣伝や煽動に感化されて、ポピュリズム的な政治勢力やそれと連携する官僚機構やマスメディアなどの意のままに操られるような状況となってしまえば、主導権を握るどころではなくなってしまうだろうが、そういうところで少なくとも民衆の側が安易に徒党を組んで一つの勢力とはならない方がいいのかもしれず、メディアを通じてなされるどのような宣伝であろうと煽動であろうと、すぐに感化されて特定の偏った傾向に傾かないで、是々非々の態度を保持すればいいのだろうが、その是々非々の基準というのがわかりにくいのだろうし、何が悪くて何が良いのかを判断する基準を何かが決めてくれないと判断できないというなら、そこで役に立つのが公共の利益という概念になるのではないか。それを簡単に言えば特定の集団の利益となることがはっきりしているようなことには賛同しなければいいのだろうが、どうやってそれを知ることができるかとなると、それに関してメディア上ではびこっている著名人の類いの意見に無批判に従うようだとまずいだろうし、そこでも特定の集団の利益を代表するような人の意見には賛同しないようにすればいいわけで、そういうところでも損な役回りを引き受けているような人の意見を尊重した方がいいのではないか。その逆に利益を誘導するような人の意見に従うと、その人に利益がもたらされることになるわけで、要するにそういうのは詐欺的な利益誘導である場合が多いのではないか。

 何らかの利権に関係した集団である企業やメディアや官僚機構ではなく、一般の民衆が政治を利用して何ができるかというと、特に社会の中で有力な地位や立場を占めていない限りは、個人としては相手にされないのかもしれないが、だからと言って特定の利権に関係した集団に加われば、その集団の一員になるだけで、集団の意向を政治に反映させるような成り行きにしかならず、個人の考えや意向を政治に直接反映させることはできないのかもしれないが、政治自体が特定の個人の考えや意向を行政に反映させるために活動しているわけでもないだろうし、社会全体が平和で暮らしやすい環境になるようなことを行うのが政治の目指すべき目的だと言えるのかもしれず、それでは具体性が乏しく漠然としすぎているかもしれないが、建前としてはそれほど間違っているとも言えないだろうし、建前としてならそれでも構わないのかもしれないが、そういうところから社会の中で実際に生じている特定の利害関係のレベルまで下っていくと、たちまち対立や軋轢に直面してしまうわけで、具体的な政治活動としてはそのような対立や軋轢を生じさせる利害関係を調整して、敵対している双方から妥協を引き出すのが役割だとも言えるわけで、それを問題の解決を目指す試みだとみなすと、妥協から得られた結果からは程遠い目標となってしまい、実質的には何も解決していないのに、事の幕引きが図られるような成り行きに落胆するしかないのかもしれず、だから解決を目指すというよりは妥協点を模索するぐらいが、せいぜいのところ政治ができる精一杯の活動とみなしておいた方が、あまりにも現実離れした理想主義に陥らずに済むかもしれないし、それは決して終わりのこない努力にしかならないだろうし、現状に対処するための連続的な行為となるのではないか。またそれは制度として整備されているものの、活動内容が固定されているわけでもないだろうし、絶えず行政とそれを取り巻く様々な勢力の間に立って、そこで生じている問題について交渉を行う役割があるわけだから、またそれ自体が政党として様々な勢力の中の一つとして活動することにもなるわけで、当然そうなると政党特有の集団としての利権も生まれてきて、その利権を死守するための活動もやらなければならないだろうし、そういうところから一般の民衆をないがしろにするような風潮も出てきて、他の利権団体との連携や癒着を優先させるような成り行きになってくると、実質的には仲介的な立場から踏み込んで行政機構の一部となってしまうのかもしれないが、制度的にそのような官僚化を避ける手立てはないだろうし、政党として他の様々な利権団体から距離を保って中立的な立場を取るのは難しいのかもしれないし、組織的な集団の特性を避けて政治家個人の独立的な立場を維持するのも制度的には困難となっているのかもしれないが、そこで政党としての形態と政治家個人のどちらの立場を優先させるというよりは、集団的な特性とは相容れない面を個人が保っていないと、集団の利権が優先されてしまう傾向となってしまい、そうなると個人の立場が集団内でなくなってしまうわけで、それも集団内での力関係や派閥などの形態にもよるのだろうが、政党が集団的な組織形態を優先させれば他の利権集団と変わらなくなることは避けられないのではないか。
 政党も組織的な集団であるからにはそういう面があることは確かだろうし、それがなければ政党とは言えなくなってしまうのかもしれないが、政党を他の利権団体から区別するような特性として、何よりも民主的な体裁を保っておいた方がいいだろうし、それには上意下達的な指揮命令系統を伴った組織形態ではなく、親睦団体的なゆるい組織形態である方が集団内で民主的な対等の関係を保っていられるだろうし、それとは逆に議員の間で序列や役職による権力関係などを導入してしまうと、途端に民主的なあり方が失われてしまい、それが民主的な政治制度そのものを変質させてしまうのかもしれないし、議会などでも議員個人よりも政党としての集団行動を優先させるような風潮が根付いてしまうのではないか。そういう意味で議員個人がいつでも政党に対して異議を唱えることを認めて、また異議を唱えたからといって、政党から排除されたり追放されたりしないようにすることも必要だろうし、そんなあり方が民主的な政治制度を保つ上で重要となってくるのではないか。また政党という集団内に罰則を科すような独自の規則や決まり事を設けないことが、政党の官僚化を防ぐ上で有効かもしれないし、政党としての集団的な意向よりは政治家個人の立場をできるだけ尊重することが、選挙で候補者個人に投票する形態の制度に適った対応ではあるわけだが、それに対して政党に投票するような選挙形態も国によってはあるわけだから、そうなると政党が官僚的な組織形態であろうと構わないことになってしまうのかもしれないが、それでも議会で討論したり発言するのは議員個人であるだけに、どうしても集団の意向よりは個人の主体的な主張や意見を述べることの方が人の興味を引くわけで、民衆は別に官僚的な通り一遍の答弁を期待しているわけではないし、個人の意見を遮って組織的に示し合わせて強引に多数決に持ち込むようなやり方には不快感を覚えるだろうし、そこで演技ではない普通の話し合いが行われていることの方が、少なくとも好感を抱くのではないか。というか普通に議論して討論してほしいだろうし、例えばディベート的な戦略や戦術を駆使して不自然なやり方で勝とうとしてしまうと、肝心の内容が歪められてしまうのではないか。結局そういうところで顕著になってくるのが、利害の対立になってくるだろうし、それも集団としての利権が絡んでくると、個人としての良識や節度を超えたところでなりふり構わない強引さが出てくるわけで、そうなると相手の言っていることに聞く耳を持たず、まるで法廷闘争のような弁護士と検事の対決が演じられてしまい、そういう制度的な物言いに終始しだすと普通の会話や対話が成り立たなくなってしまうわけだが、やはりそうなってしまう背景としては集団の利害が絡んでいるわけで、議員個人の立場としては言えない部分があるから不自然な答弁になってくるのだろうし、そういう面は内閣の閣僚などになると特に顕著になってきて、下手なことを述べてしまうと責任を取らされて辞任する羽目になってしまうわけだから、そうならざるを得ない面があることは確かだろうが、それでも暴言や失言などが問題視されてしまうわけだから、意識していても実際に下手なことを述べてしまう実態があるわけで、そこが集団や制度に個人が拘束されている場であることが、かえって不必要にそういう発言が問題視される成り行きを招いている実情があるのではないか。
 政治の場で法律や制度を優先させるのは当然だとしても、それとは別に倫理や良識や節度などを重んじないと、なりふり構わず手段を選ばないやり方になってしまうわけだが、状況として切羽詰まって相手に気を使う余裕がなければそうなるのが当然だろうし、その余裕を与えないのが資本主義的な利益の追求を伴う経済論理であり、その究極の形態が軍事的な戦争状態だとも言えるだろうが、そうなってしまえば利益の追求どころではなく、ただそこには破壊活動しかないわけだが、たぶん大抵の場合はそこまで至らない段階で力の均衡が生まれて平和が保たれて、見せかけだけは平和な状況下で様々な勢力が競合状態を保ちながら争いながらも連携したり癒着したりしているわけが、そのような均衡状態が長続きするには各勢力が経済的な利益を確保できる状態になっていることが前提となるだろうし、実際にそうなっていれば何らかの形で政治的な妥協が成り立っていることを示しているのかもしれず、そうであるなら一応はそこで政治が機能していることにもなるのだろうし、政治的な利害調整が成功していると言えるのではないか。もちろんそんな見せかけの均衡状態では満足できない人や団体が中にはいるだろうし、それらが批判勢力を形成することになるだろうが、その手の批判が公然と行われているのに、そのような行為が体制側から弾圧されない状態が保たれていれば、やはりそこで何らかの妥協が成り立っていて、そこで均衡状態が保たれていることになるだろうし、それだけ批判の対象となっている側にも批判を許すだけの余裕が生まれているわけで、それもまた政治的な利害調整が成功していることを示しているのではないか。そしてそんなことから政治活動の成果として実現される妥当な状況を定義するならば、平和な状況下で活動する様々な勢力が競合しつつも互いの間で力の均衡が保たれていて、それに付随して各勢力の間で相互批判が許されるような余裕が生じている状況だと言えるのではないか。それが理想状態とは言えないものの妥協の産物であるだけに、絶えず状況は流動的な傾向を示すのかもしれないが、そのような状況下でも政治的に絶えず勢力間の利害調整が行われている限りで平和が維持されるだろうし、相互に各勢力に対する批判が可能となっている限りで、批判されている勢力は何らかの対応や対抗措置や納得がいくような返答などを用意しなければならず、そのような作用によって集団内での活性化が起こる可能性もあるだろうし、それを嫌って批判を力で封じ込めたり奸計を用いて批判勢力を陥れたりすると、力の均衡状態が崩れて世の中から倫理や良識や節度などが失われて、権力を握った側の勢力の中で驕りが生じて腐敗や汚職などが蔓延しやすくなるだろうし、そういう状態が常態化して長続きするに従って世の中で力の不均衡が拡大してきて、各勢力間で力の優劣が決定的となり挽回が不可能に思われてくると、やがて劣勢となった勢力の中では武力でしか対抗できないという認識が支配的になるだろうし、その勢力が弱小のままならゲリラ活動だけで済むのかもかもしれないが、周辺諸国が後ろ盾になって武装勢力に武器の供与などの援助を行うようになれば、結局は内戦が必至な状況となってしまうのではないか。
 だから平和な状態を保つには強引なやり方で力の均衡を崩すようなことをやってはいけないだろうし、また体制側の優位を決定的に印象付けるような状況を作り出そうとしても、劣勢となっている勢力の中で絶望感とともに憎悪の感情が蓄積してテロ活動などの蔓延をもたらしてしまうのかもしれず、そのような状況に至らない程度で妥協が成り立つ環境を構築しなければならないのかもしれないし、そうはいってもどうすればそれを実現できるか答えも保証もないだろうし、いつでも手探り状態を余儀なくされて、絶えず現状の中で妥当な対応を迫られるわけで、しかも何が妥当かもわからない状態でそれが求められていて、やりようがないといえばその通りだが、そうであっても実際に何らかの活動が行われているわけだから、その中の一つの活動である政治活動にしても、状況に対応するために様々な試みが行われている最中なのだろうし、批判する側は当然のことながらその良し悪しをあげつらうわけで、そのような批判にもいちいち反応して律儀に対応していたらきりがないかもしれないが、それを行えるだけの余裕が生じていることが、平和な状態が保たれていることにもなるわけで、逆に言えばそういう対応を積極的に行なっていくことが平和を保つ上で重要となってくるのかもしれず、不快だからとか面倒だからそういう批判を無視したり、逆に対抗措置を施して批判を封じ込めるようなことを行えば、それだけ平和な状態が後退していってしまうのではないか。だから結局は批判に対応できるだけの余裕を作り出さなければならないだろうし、それも活動に含まれるわけで、そういうことを考えていくと何をどうすればいいかがおぼろげながらわかってくるかもしれないし、それはできるだけ周囲からもたらされる様々な要望に応えることになるのかもしれず、応えようとする限りで妥協の可能性が出てくるわけで、応えられなければ妥協できなくなってしまうわけだが、交渉の決裂を避けるには柔軟な対応が求められるわけだ。それも力の均衡が成り立っている限りで可能なことなのかもしれず、自分たちが相手に対して絶対的に優位な立場にあるなら妥協する必要はないわけで、何を批判されても聞く耳を持たなくても構わないし、それでも執拗に食い下がってきて迷惑なら権力を行使して排除すればいいことになってしまうし、そうやって力によって平和を保つようなやり方もないわけではないが、そうなると独裁的な体制となってしまうだろうし、少なくとも民主的な政治体制ではなくなってしまうわけで、世界で民主的な政治体制が主流となっている現状では国際的な孤立を招く危険性があるだろうし、世界で孤立してしまうと経済活動の面でも何かと支障をきたすだろうし、そのような状況はあまり好ましいとは言えなくなってしまうのかもしれないが、そこでも経済活動が活発化してゆけばその経済力を武器として何らかの勢力が国内に形成されて、独裁体制の脅威となってくる場合が出てくるだろうし、そのようなことがきっかけとなって独裁体制が崩壊することもあるのだろうが、そんなところでも政治的な妥協を探るような試みが功を奏して何らかの均衡が保たれるなら、そうなっている間は平和が実現するだろうし、平和な状態が続いている限りで民主的な政治体制を模索することができるのではないか。
 政治活動において主張としてははっきりしたことが言えるが、相手と何らかの交渉を行なった結果としてはそうはならないだろうし、その言っていることとやっていることの落差を把握しておかないと、主張とは違う結果がもたらされたからといって、すぐにそれを否定されるべきとみなして批判してしまっては、交渉した意味がなくなってしまうだろうし、少なくとも何かを行なっている途中経過や成り行きを尊重した方が無難なのかもしれず、そうであればたとえひどい結果がもたらされたとしても、さらに交渉する余地やそこから状況を改善する余地も見出される可能性が出てくるのではないか。だから理想は高邁なものであった方がいいだろうが、政治はそこからの交渉過程の中でその高邁な理想をどれだけ活かせるかが重要となってくるだろうし、理想が実現できないからといってすぐに諦めてしまったり、その代わりに功利的な損得勘定ばかりを優先させてしまってはまずいだろうし、そういうところではっきりしたことがやれなくなってしまったからといって、保身のために戦略的にお互いに呑めない主張ばかりを投げ合って、交渉を平行線に終始させようとするのも、政治活動としてはあまり褒められたものではないのかもしれないが、成り行きとしてはそういうのもありがちなことだろうから、それも力の均衡状態を実現させる上では自然な流れなのかもしれないし、それに関して特定の勢力が自ら進んで汚れ役を買って出るような成り行きというのもあるのかもしれず、その勢力が聞く耳を持たないで一方的な主張を繰り返すことが、他の複数の勢力の間での交渉を促進させる効果をもたらすこともあるだろうし、もちろん意図的に汚れ役を買って出たわけではなくて、本気でそんなことをやっている場合の方が多いわけだが、そういう勢力は最終的には周りから相手にされずに孤立するしかないのだろうが、犠牲者としては格好の標的になりやすく、周りの勢力が一致団結してその勢力への敵対関係を築きながら他の勢力と連携するような成り行きになれば、その勢力を除いたところで力の均衡が実現するわけだが、そこでも微妙な駆け引きが行われていて、敵対しているように見せかけながらも裏ではそれなりに取引を行っている場合があるわけで、そのような取引によって孤立が見せかけのものでしかないことも明らかになるわけで、周りから孤立しながらも勢力を温存している場合は、裏で他の勢力から支援が行われていることがあるだろうし、そういうところで敵対を装いながらも取引を行う本音と建前の使い分けのようなやり方もあるわけで、取引を行うからには実際にそこから利益を得られていて、それも微妙な駆け引きに含まれるのだろうが、そのような一筋縄ではいかない関係というのも勢力間で力の均衡を保つ上では欠かせない要素となるのかもしれず、そんなことをやっている実態は主張としての高邁な理想や理念からはかけ離れているかもしれないが、実践としてそういうやり方によって平和な状況が実現している場合もあるわけで、それをあまり単純に批判したり非難しても、主張としてそうなってしまうとしても、それも政治的な交渉の途中経過と捉えれば、さらにその先の段階で状況を改善させる可能性を探ることにも結び付けられるかもしれない。
 そういう意味で政治の場での交渉は、お互いに戦わせる主張の言い合いとは別に実際の経済的な取引も絡んでくるから、どちらにしてもそれだけでは済まない要素を構成しているわけだろうが、政治的な主張だけで判断するわけにもいかないのは確かかもしれず、また実際の経済的な取引においても、表に出ている部分と裏取引をしている部分の両方を勘案して状況を捉えないとならないだろうし、そうなってくると敵対を装っている場合でもその関係の実質的な面で両義的な部分も出てくるから、一概に敵だからと言って相手の活動を批判したり非難していればいいというわけにもいかないだろうし、また同盟関係を結んでいる場合でも敵対している部分が全くないわけではなく、経済的な取引の面でどちらかが貿易赤字を懸念していれば、実際にそういう部分では貿易黒字を出している国が非難されてしまう成り行きにもなるわけで、主義主張の面では敵と味方との区別がはっきりつく場合もあるわけだが、主張の面での敵と経済的な取引をしないわけにもいかなくなってくる場合も出てくるだろうし、また同盟国であっても貿易摩擦があればそういう面では敵対関係となってしまうだろうし、さらに軍事的な同盟関係を結んでいても、同盟とは名ばかりの主従関係のような実態が生じてしまうかもしれないし、そういう実態が国内の反体制的な勢力によって批判されている実情もあるわけだから、そういう部分では敵対や同盟の関係が複雑に入り組んで錯綜していて、政治的な主義主張だけでは計り知れない面があるのだろうし、それを単純化して一方的な主張によってメディア上で煽動を行なっている勢力にはリアリティが感じられなくなってしまうわけだが、そうやって実態の中で主義主張にとって都合のいい面だけを強調して煽動するのにもそれなりの理由があるかもしれず、そういう煽動勢力にとっては政治的な主義主張から生じる敵対関係だけを人々が信じてほしいわけで、そうでないと同盟国との関係が壊れてしまうことを恐れているわけで、現実に経済や軍事などの面で国内の批判勢力の台頭によって関係がこじれてくることを懸念しているわけだが、果たして主義主張だけを信じることが実際にできるかといえば、大抵の人は信じていないし信用してもいないわけだが、功利的には経済や軍事などの面で歪みがあるようなら、とりあえずは経済的な利益を優先させる方向で軍事的な譲歩を促そうとするだろうし、そんな損得勘定の中で経済的にも軍事的にも損失を被っている面を最小限に食い止めるべく、その損失を被る少数派を黙らせるには、煽動によって多数派が同盟関係を支持するような成り行きに持っていきたいのだろうが、それも政治的な主義主張の面での支持なのだから建前でしかないだろうし、それでも本音の面で実質的に経済や軍事に関係する歪みが残ってしまうわけだから、いくらメディア上で煽動に力を入れてもそれを真に受けるのはよほどの世間知らずな人々だろうし、そうやって表面だけ建前を取り繕っても同盟関係にある相手国にもそれなりの事情があるだけに、表面上はうまくいっているように装うことはできるかもしれないが、実情としての功利的な利益の追求や損得勘定としては次第に割りが合わなくなってきてしまうのではないか。そういう表面的な取り繕いには時間稼ぎや破綻の先延ばしのような効果があるのかもしれないが、高邁な理念としての大義はないだろうから見識のある人たちから信用されないのが致命傷となってくるかもしれず、それも政治的な交渉の過程で生じている途中経過の中の一つの局面で生じている実態であることは確かだが、それ以上ではないことも確かなのではないか。

 議会が機能しているところでは政党政治が制度として定着していることは確かだが、それが議院内閣制であっても大統領制であっても、行政との絡みで主導権が行政の官僚機構側にあるようだと、民主的な政治制度が機能するのは議会までで、行政が機能する段階になると民主主義とは異なる行政による管理統治が優先される傾向になってくるわけで、逆に行政側が議会で主導権を握っている政党に働きかけて、行政の意向を議会でも反映させようとすると、議会での民主的な政治制度が変質してくることにもなるだろうし、議会を中心とした政党の側が行政に働きかけると、逆に行政側が関係を持った政党を介して議会に影響力を及ぼそうとしてくる成り行きが生じて、場合によっては政治制度が民主的な体裁を保てなくなってくる事態も起こりうるわけだ。なぜそうなってくるのかといえば民主的な制度とは異なる論理で行政が機能していて、民衆の側から行われる下からの働きかけではなく、行政側から行われる上からの管理統治が優先されるからであり、権力関係を考えれば立場が上の意向が優先されるのは当然で、法的には国民主権で民衆の側に主権があることにはなっているわけだが、実際に集団の組織形態を考えれば集団内で立場が上であるのは、実質的に管理統治を行っている行政の側になってしまうし、そこに組織形態を伴った集団が存在して機能している限りは、集団内の権力関係が優先されてしまう成り行きがあるわけだ。そして民主的な政治制度はそのような集団内での立場が上から下への権力関係に対抗するために整備された制度といえるのかもしれないが、それが実際に機能している中では集団的な組織形態の政党などが介在してきて、実質的には集団を管理運営する上からの意向が優先される実態が生じるのだろうし、同じ集団的な組織形態である政党と行政の官僚機構が手を結んで、民主的な制度を歪めてしまうような成り行きも生じるのではないか。だがそれを歪めてしまうと解釈すること自体が間違っているのかもしれず、実際に政党なしには議会が収拾がつかないから、政党が自然発生的に出現してきた歴史的な経緯があるわけだから、そういう意味で民主的な政治制度自体が立場が下から上への権力の行使という実現不可能な理想を含んでいる面もあるのかもしれず、それに対して集団内での権力関係の実態を反映した必要悪として政党も行政の官僚機構も存在している必然性があるだろうし、それを必要悪だとみなすことも間違っているかもしれないが、ともかく放っておけば集団的な組織形態によって上からの権力の行使が行われてしまうわけだから、権力を行使される立場の民衆の側では、それに対抗するような活動が求められていることになるのだろうが、そういうことに民衆の側にどれほど自覚があるのかも怪しいところだろうし、たぶんほとんどの人たちはそんなことは自覚していないだろうし、企業などに勤めている人なら上からの権力の行使に慣れてしまっていて、公的な場で民主的な制度を守るために民衆の側で団結しなければならないなどとは考えもしないだろうし、仮に民衆の側が団結したとしても何をやればいいのかわからないのではないか。そこで何をやればいいのかとなるわけだが、上からの権力の行使に逆らうような勢力を結集して、選挙でそのような勢力に投票して議会で主導権を確保することを目指すべきかもしれないが、現状ではそんなことは絵に描いた餅でしかないだろうし、そんな意識すら社会の中では皆無な状況なのではないか。
 実際にはそこにメディアも介在してくるわけで、民主的な政治制度についてはメディア上で識者による啓蒙活動なども行われている実態はあるのだろうが、メディア自体も集団による組織形態で成り立っている企業が運営しているわけだから、そこでは上からの権力行使が当然のことのように行われているわけで、それによって民主的な下からの働きかけを阻む作用が常に生じてくるだろうし、実質的には全てが上からの権力行使で成り立っているわけではないにしても、実際に下からの働きかけが生かされるかどうかは立場が上の地位を占める役職の裁量次第な面もあり、少なくとも立場が下の側に権力を行使する権利があるわけではなく、そういうことから考えると、国民主権という理念の下に選挙によって下からの権力行使を実現することがいかに難しいかがわかるかもしれないが、法的には国民の方が立場が上だと認定しているわけだろうし、その国民が一般の民衆と存在を一致できるのかも難しいかもしれないが、そういうところで政党と行政の官僚機構と企業形態のメディアが連携して民意を管理するような制度となっているのが、実際の民主的な政治制度の実態であるわけだから、その管理された民意に民衆の側が同調している限りで、それらの集団的な組織形態による権力が行使されていることにもなり、それが法的な国民主権の形骸化を招いていることの原因なのかもしれないが、そうならざるを得ない経済的な事情もあるのだから、制度だけで理想を追求するには限界があり、また民衆の意識改革を目指す啓蒙にも同じような限界があるだろうし、政治の場には常に民衆の生活している実態が反映されることは確かで、その実態が変わらなければ政治制度の実態が変わることもないだろうし、政治に関わる活動にしても現状の権力関係からかけ離れた内容になることはないだろうし、それに関して大雑把な把握としては、社会の中で実際に活動している集団的な組織形態を持つ様々な勢力の意向が、政治の場にも反映していることは確かだろうし、その意向を無視できないからそれらの勢力に対して何らかの便宜が図られるような成り行きにもなるだろうし、それが度を越していれば一般の民衆の側でも反発せざるを得ないかもしれないが、政党と官僚機構とメディアの三位一体の支配の牙城を突き崩すような力が民衆の側にあるとは思えないし、民衆の方でも理不尽な行政的な措置に反発する時には、その場限りの団結が世論を伴って生じることもあるだろうが、それも反発が収束してくれば消散してしまうような現象でしかなく、またそれもメディアによってある程度はコントロールされるような成り行きにもなっていて、根本的には集団的な組織形態による権力の行使に逆らう術は今のところはないのが実情なのではないか。ただそうであるとしてもその集団的な組織形態を伴った勢力にしても、好き勝手に権力を行使できるわけでもないし、あくまでもそれは経済的な論理に従って利益を追求する方向でしか権力を行使できず、それに失敗すれば民衆からの支持を失って、また連携している他の勢力からの信用も失って、力が衰えてしまうわけだから、そういう形での権力の行使が果たして自発的に行われているものなのか疑問に感じられてしまうわけだが、とりあえずそれらの勢力が利益の追求から外れたことができない宿命にあり、それが主な活動である限りで権力の行使も可能になっていて、もちろんそれ以外の利益を無視した慈善事業や社会貢献や文化事業などを手がける余裕があるところでは、そういうことが行われている実態もあるわけだが、それが主な活動となるわけではないし、そういうことも含めて制度ではなく活動全般にわたって制度外から作用を及ぼせる余地が求められているのかもしれない。
 それでも現状では行政機構による管理統治によって世の中のほとんどの地域では普通に治安が保たれていて、平和な治世が実現していると言えるのかもしれないが、そういう状況下で何か政治的な要求が生じるかというと、安定した生活を送っている人たちにとっては特に取り立てて要求することもないのかもしれず、そういう人たちは現状で政権を担っている政治勢力を支持しているだろうし、そのことに関しては何も批判する筋合いはないのだろうが、それとは別に何か政治的な要求をしている人たちはそれなりに困った事情を抱えているはずで、それを何とかしてほしいから要求しているのだろうが、そのような要求を現状で何不自由なく暮らしている人たちが妨げるというのも、それもそんなことをやる筋合いもないのだろうが、そういう要求が政治の場で受け入れられてしまうと、現状で安定している状況が崩れてしまうと考えるのも、それに関して筋の通った理由が提起されていれば、何か一理あるように思われてくるのかもしれず、そんなふうにして何らかの政治的な要求に対して、それを妨害してくる人たちがいることも確かだろうし、そうした大して利害関係がないように見える人たちが自分たちとは無関係なことに口を挟んでくるのが、現代的な大衆メディア社会の中で作られる世論なのかもしれず、直接の利害関係のある当事者たちの背後から応援団としてその手の世論が加わって、それがメディアを通して世間の話題となれば社会問題化するわけだが、そこで確認しておかなければならないのは、応援団として加わっている世論の担い手たちにとってその手の社会問題は、それほど深刻に受け止めるようなことでもないのかもしれず、自分が直接の利害の絡んだ当事者でない限りはそうなるしかないのだろうが、そうである限りは社会問題というのも、それとは無関係な人たちにとってはそれほど深刻な問題ではないことにもなるわけで、そのような問題に対するメディアの論調も政治家や識者などの発言も、何か大げさに思われてしまうのかもしれないが、そのような問題で実際に困った事情を抱えている当事者にとってはそれなりに深刻な問題であることは確かだろうし、政治的に解決できるようなことならそれに取り組む必要が生じていることも確かなのかもしれず、実際にメディア上でも場合によっては国会などでもそれに対する議論が行われることにもなるのだろうが、そうなったとしても現状で安定した生活を送っている人たちにとっては、直接の利害関係にはない大した問題ではないことも確かなのではないか。そうであるなら実際に多くの人たちが感じている平和な状況と特定の利害関係者の間で生じている困った事情とは、次元の違う話であることも確かだろうし、それはそれでありこれはこれであるから、両者の感覚や問題を同じ次元に絡めて考えるのはおかしいだろうし、何かそこで政治的な要求が行われているとしたら、それはそれとしてその要求の次元で考えるべきで、それとは別次元の事情を絡めてそのような政治的な要求を妨害することは筋違いに思われてくるのだが、実際にメディア上でされる批判に対する批判という類いの主張の大半は、そういう筋違いな理由を持ち出して批判を抑え込もうとしてくるわけで、そういうことに関して一般の当事者ではない立場の人たちはよく考えてみるべきなのかもしれず、そういう社会問題に関してメディアが作り出す世論に安易に同調していないか検証してみることが肝要なのかもしれない。
 それはメディアを通して社会問題化されたり政治問題化されることの全般にわたって言えることかもしれないが、実際に生命の危機や財産の危機に直面している人たちが抱えている問題を、メディアを通してそれに同情したり批判したりする風潮というのが、大衆メディア社会で作り出される民意や世論の形成に結びつくのだろうし、政治活動もそれに巻き込まれているわけだが、その大元では経済活動によってそのような問題が引き起こされている場合も多いわけで、戦争でさえも経済活動がその端を発している場合がほとんどだろうし、人々の活動が経済活動になるからそこで利害が生じて争いが起こるのはわかりきったことかもしれないが、わかりきっているだけに問題の解決は容易ではないのだろうし、それを批判する側は行き過ぎた経済活動を批判せざるを得なくなるわけだが、それをやっている側にとっては当然のことをやっているのに批判されるのは心外だろうし、場合によっては悪者扱いされると腹が立つわけだが、やっていることから何らかの被害が生じてくれば、被害を受けた側はそのままでは収まらないだろうし、何らかの対抗措置を講じてくるのは当然の成り行きで、実際に損害賠償請求を行ったり、場合によってはメディアを通して社会問題化したり政治問題化して、世の中に被害の実情を知らしめようとしてくるわけだが、そこで経済活動によって被害を与えている勢力が引き下がるわけにはいかないだろうし、損害賠償請求には争う姿勢で臨むこともあるだろうし、そうなればメディアを通して被害などないことを宣伝しようとするだろうし、そうやってそこで法的な面でも社会的な面でも政治的な面でも争いが拡大するわけだろうが、だからと言ってそこから簡単に戦争になるわけでもなく、他の利害関係にない人たちが世の中で大半を占めているようなら、それ以上は争いが拡大することはなく、直接の利害関係を持つ当事者同士が法廷で争ったり、双方の応援団がメディア上で宣伝合戦を繰り広げたりするわけで、またそれが政治問題化すれば議会で問題が取り上げられて、そのような被害を防ぐための法案が審議されたりするのだろうが、そこで功利的な利害関係には加わらなくても済むような人たちなら、損得勘定などしなくても構わないわけで、その代わりに人としての倫理とか良識とか節度とかを優先させても別におかしいわけではないだろうし、人道的な見地から被害を受けている人たちに同情しても構わないわけで、そうはせずに被害を出している企業側を応援したり、場合によってはそれと癒着している政治勢力や行政側の応援団になったりするのは、何か感覚が狂っているように思われてしまうわけだが、メディアの報道次第ではそういう民意や世論も生じてしまうだけに、何かそういうところで行き過ぎた経済論理に同調してしまうような風潮が世の中に蔓延している可能性があり、それをもたらしているのがメディア的な過剰宣伝なのかもしれないが、そういう過剰宣伝が経済的な利益の追求ばかりを優先させる風潮とともに、人としての倫理や良識や節度を忘れさせる効果をもたらしているのかもしれないが、たぶんそれも世の中の一部の人たちがそうなっているだけで、世の中の大半の人たちはそういう風潮や傾向とは無関係に暮らしている実態があって、それをメディアを通して見てしまうと過剰宣伝ばかりが誇張されて取り上げられてしまうから、そんな実感が形成されて感覚が狂ってくるのではないか。
 そんなメディアの過剰宣伝だけでなく政治活動を全て経済的な功利主義の視点から語ろうとするのは無理があるかもしれないが、他に何があるのかと言うと例えば軍事的な安全保障の視点から語ろうとする場合があるだろうし、それは外交上の他国との同盟関係や敵対関係とも絡んでくるだろうが、そうなると同盟関係にある国との経済的な結びつきや敵対関係にある国との経済的な競合関係も絡んでくるだろうし、そういうところで軍事的な安全保障と経済関係が組み合わさって、問題が複雑化してくるわけで、単純に軍事的な安全保障の問題だけで片付くようなことにはならないし、人や物や情報などの交流も含めた幅広い分野で政治活動の可能性が広がってゆくのではないか。そういう意味では軍事的な安全保障の問題もイデオロギー的な傾向ではなく、国際的な国と国との相互関係の問題となるだろうし、その中では経済的な交流も当然含まれてくるだろうし、そのような交流を通して関係国との信頼関係を築いてゆく成り行きとなるだろうし、少なくともそういう努力をしないで、ただ外国の軍事的な脅威を国内向けに煽って軍備増強を目指すような方向では、予算にも限りがあるだろうから無理はできないだろうし、軍事予算を確保するにも経済状況が絡んでくるわけだから、他の予算を削ってまで軍事予算を増やすのには、削られた予算に関わってくる利権を巡って利害関係にある勢力から反発や抵抗が起こる可能性も出てくるだろうし、そういうところでも軍事的な安全保障だけで政治活動が完結する要素はないだろうし、他も含めた様々な活動内容の中の一つとして軍事的な安全保障の問題も政治活動に含まれてくるわけだ。そしてその根底には予算に絡んで国内の経済状況からの影響があるだろうし、外国との軍事関係でも経済的な交流から同盟関係や競合関係が絡んでくるわけで、それらのどれ一つを取っても、単純なイデオロギーから出てくる理屈や軍事的な脅威論などでは対応が困難な面が生じてくるのではないか。だからよくメディア上でそれらの単純な論理から一方的な主張を浴びせてくる人たちがいるが、それらの主張は宣伝や煽動とみなすしかないだろうし、実際にはそれだけでは済まないことは誰もがわかっているはずだが、やはりそういう論理を強調して少しでもそんな主張への賛同者を増やして、自分たちの勢力を拡大して社会の中で優位な状況を作りたいという狙いがあるのだろうし、そういうのは国内向けの政治宣伝としての政治活動となるわけで、実質的には外国との相互関係から軍事的な安全保障が生じてくるわけだから、それとその手の政治宣伝は別物だと捉えた方がいいだろうし、国内でいくら賛同者を増やしたところで外国とは無関係だろうし、それどころか相手国の方でもその国で軍国的な世論が強まってくれば脅威に感じる可能性はあるだろうし、それではかえって国家間の軋轢や相互不信が深まるばかりになってゆくかもしれないが、お互いに軍事予算を増やすにはそういうやり方があるかもしれないし、それがエスカレートして他の予算まで削って国家間で軍拡競争をやることが、果たしてその国の国民にとって利益になるかどうかは、現代的な状況では否定的に見られることが多いだろうし、その国の経済が好調で軍事予算を増やす余裕があるのならそんな傾向にもなるのかもしれないが、それ以外だとバランスがおかしくなることはいうまでもなく、普通はそういう成り行きには賛同しないのが真っ当な感覚の持ち主なのではないか。
 もちろん場合によってはそういう主張がもてはやされる状況が生まれたり、中にはその手の主張ばかりのメディアもあるのだろうが、それは一時的な流行であったり、囃し立てているのがごく限られた特殊なメディアであったりするわけで、それだけでは済まなくなるから一時的な流行に終わったり、他の要因を考慮しなくても特殊なメディア内では通用する環境が整備されていたりするからかもしれないが、それとは違う他の方面でもまた異なった一時的な流行現象が生じていたり、特殊な専門メディアも他にも様々な種類があるのかもしれず、そのような主張と似たような他の主張にも様々なものがあって、それだけその方面の専門家と呼ばれる人たちも数多く存在しているだろうし、そうやってある一つの専門分野で自足した主張を行うことが可能な環境も他にも様々にあるのかもしれないし、それらの主張を一概に視野狭窄だと批判するは筋違いだろうし、そのような専門知識を必要とする需要があるからそういう専門家と呼ばれる人たちの供給も成り立つわけで、そういうところで学問や産業分野の専門化や細分化が資本主義経済を支えていて、それが現代的な形態の社会も支えている状況があるのだろうが、そのような専門家と政治家を同一視するのは少し感覚が違うのではないか。政治活動には狭い専門分野に限られた知識や経験を必要とするのとは質の違う面があるだろうし、それよりは様々な専門家から意見を聞いて総合的な判断や決断が求められるような面の方が大きいし、どちらかと言えばそちらの方が重要なのではないか。だからとりあえず政治家というのは外交の専門家ではないだろうし、軍事の専門家でもなく、法律の専門家でもないだろうし、財務の専門家でもないのではないか。もちろんそれらの専門家が政治家になることはあるのだろうが、いったん政治家となったからには自分が得意とする専門分野にかかりきりになるわけにはいかなくなるだろうし、他の判断もしなければならないから専門家ではなく政治家になったわけで、そうでないと政治家としてより幅広い範囲の問題やそこで起こっている利害対立の調整などに取り組めなくなってしまうのではないか。もちろん政党という集団的な組織形態の中で各自が得意とする専門分野ごとに分業体制を敷くことは可能かもしれないが、そうなってしまうと上意下達的な指揮命令系統を備えた官僚機構と同じになってしまうわけで、それでは民主的な政治体制とは言えなくなってしまうだろうし、むしろ民主主義を形骸化させる要因がそのような官僚機構から生じている可能性さえあるのだから、公務員試験などによって官僚機構が構成されるのと選挙によって民主的な議会が構成されるのとでは、質的にも制度的にも異なる体制にすべきと考えるなら、少なくとも民主的な普通選挙によって選ばれるのが官僚機構を構成するような人たちではあってはならないのではないか。そういうところで差異を生じさせないと何も選挙などする必要がなくなってしまうのかもしれないし、どうせ政党も官僚機構になってしまうのなら、公務員のように試験によって人員を選抜すれば済むことであり、わざわざ面倒で回りくどい選挙をやって人を選ぶようにした理由も、そこに何らかの必然性があるからそうなっているのではないか。
 政治と経済が切っても切れない関係であるのは、資本主義経済の発展によって労働者を主な構成人員とした大衆市民社会が生じてきて、それらの人口の大半を占める人たちに参政権を与える過程で民主的な政治制度が確立された経緯があるからだろうが、それも過去の話であって、これからそのような制度が継続していくかどうかは状況次第だろうし、実際に官僚的な組織形態が民主的な政治制度の形骸化を促進させるような事態も進行中かもしれないが、民衆の中でも特に公的な政治に関心を持たない人たちもかなりの割合で生じているのかもしれないし、そういう人は選挙に参加しないし投票にも行かないだろうし、そういう人にとっては政治と自分の生活が直接関わっているとは思えないから、政治参加への優先度がそれだけ低くなっているのかもしれず、それで特に問題を感じない限りは、そのまま政治的な無関心のままでいても構わないような状況で暮らしていけることになるわけだ。だからと言ってそういう人に向かって無理に政治に対して関心を持つように働きかけても反発されるだけだろうし、実際にそれでも構わないような状況が生じていることは素直に受け止めるべきなのかもしれず、政治への参加もそういう人を除いた人たちに限られるような実態があるのなら、実際にそういう状況が生じていることを認めざるを得ないのではないか。そしてそういう人の意識の中では政治と経済に繋がりが生じてないことになっているのだろうし、その人の暮らしはその人が政治参加しなくても困らないような状況となっていて、そういう人が世の中で多いほど政治が必要とされていない状況もそれだけ社会に浸透していることになるのではないか。そういった政治への参加の必要性や政治的な要求が生じない傾向は、人がそこに参加することが前提となって生じる社会空間の中で、公的な政治制度が機能しなくても構わないような状況が生じていることを意味するのかもしれず、そういう人の意識の中では政治なしでも済んでしまうような社会空間が構成されていて、少なくとも現実にそれで済んでいることが実感となって、それが政治的な無関心につながっているわけで、いつの時代でもそんな人はいくらでもいたかもしれないが、そういう人の存在が公的な政治制度の役割や機能が必ずしもそこで暮らしている全ての人にとって利用すべきものというわけではないことを示していて、人によってそれに対する切実さや深刻さに差があり、それは単なる意識の差であったり、中には直接の利害関係にある人もいるかもしれないが、そういう人は少数だろうし、その意識の差が世の中の風潮や流行現象に左右されるとすれば、制度の枠組みは法律などで守られてはいるものの、その中身や実態にはかなり曖昧な要素が入ってくるだろうし、そういう面でこれといって対応しようがないところがあるだろうし、やはりそういうところから人々の無関心とともに制度の形骸化が進行しているのかもしれないし、当初に設定された制度の趣旨ではなく、実際の運用面で民主的な内容とは違った傾向が出てきているとすれば、その役割や機能もそれを管理運用する勢力や利用している勢力の都合に合わせたものに変容してきているだろうし、そうした実際の運用面から生じている制度自体の変容が結果的に制度への無関心を生んでいるのかもしれないし、そうしたことがそれらの人には利用する価値があるとは思えないような制度にしているのではないか。
 そもそも制度を利用することに関して、世の中で生じている様々な制度のうちでどれをどの程度利用するかについて、何か人々の間で一定の取り決めがあるわけでもないだろうし、そういうところはその人の自由裁量に任されている面もあるかもしれないが、その場で生じている成り行きに応じて制度の利用状況が決まってくるとも言えるわけで、その人が特定の制度を利用する必然性を感じられなければ利用しないだろうし、中には法律に基づいた強制的な利用というのもあるだろうが、そうでなければ何をどんな制度を利用するかはその人次第な面があるのではないか。また強制的な利用というのが少ない社会であるほどそこに暮らす人々の自由度が高まるだろうし、それは政治制度の利用に関しても言えることかもしれず、それを利用しなくても何不自由なく暮らしていけるのなら、その人にとっては投票という面倒な行為が減っただけでもありがたがるようなことなのかもしれず、それが社会全体にとってはどうであるべきかとは別問題かもしれないが、果たして公的な制度が利用したい人だけ利用するような制度であっていいものかも、何とも言えないところかもしれないが、実際にそれで済んでいる人がいるのなら、そういう制度の実態があるということになってしまうのではないか。またそうであるとしても一方では制度を利用して利益を得ようとする人や集団もいるわけで、そういう人や集団にとって都合の良い制度に変質させることが、果たして公的な制度のあり方として好ましい傾向なのかも疑問に感じるところだろうし、できれば公的な制度として理想的なあり方があるとすれば、世の中に暮らしている全ての人にとって平等な制度にしないと、それが公的な制度とは言えなくなってしまうだろうし、特定の人や集団にとって都合の良い制度だと、他の人や集団にとっては都合の悪い制度になりかねず、そういう面で制度の利用に関して無関心な人が多いほど、それが公的な制度であるとしても特定の人や集団に都合の良い制度に変質していってしまう可能性があるわけで、それは制度を運用する機構の裁量次第な面もあるのだろうが、少なくともそれが公的な制度として体裁を保つにはそうであっては困るだろうし、建前としても特定の人や集団を有利にするような制度だと、当然他の人や集団が不利になるということになるから、それを知ればそれらの人や集団から反発や抵抗が起こるのだろうが、たぶんそれに対して無関心な人が多いほど反発や抵抗も弱まるだろうし、結局はそこで主導権を握っている人や集団の都合に合わせた制度に変質していってしまう可能性が高くなるのではないか。そしてそこで主導権を握っているのが制度を管理運営している勢力であり、それが公的な制度であるならば行政機構になるだろうし、行政と議会で多数を占めている政党とが癒着していれば、そこで利権複合体が形成されるだろうし、それにメディアも加わってくれば宣伝媒体としてそのような制度を推進する役割を担うことになるのではないか。そうした成り行きに一般の民衆が抗うすべがあるのかというと、それに関してはっきりしたことは言えないだろうが、意識して逆らうというよりはその場の成り行きに応じて行動すれば、それが結果的に抗っていることになるのかあるいは推進勢力に同調していることになるのかは、やはりその場の状況次第な面があるだろうし、現状ではどちらとも言えないかもしれないが、政治に対して無関心であることも、その場の成り行きに応じた態度の表れなのではないか。