資本論





第四章 企業と社会




 資本主義経済の中で物や情報などを生産して流通させる活動を担っているのは主に企業であり、企業活動が資本主義経済を動かす上で実質的にその原動力となっているわけだが、企業という組織形態はそれ自体が資本の蓄積を表す単位でもあり、具体的には発行している株式の時価総額が資本の蓄積量を示しているわけで、それ以外にも保有する土地や建物や機械設備などの規模や、事業に携わる従業員の数や生産している製品の売上高や収益額や、保有している現預金の額や負債額などからも、その活動の実態をうかがい知ることができるわけだが、企業の中でも主流をなしている株式会社という組織形態が、資本主義的な経済活動そのものを反映したシステムを構成していて、株式を発行して多額の資金を集めて、その資金を使って事業に必要な規模の機械設備を用意してそれに携わる従業員を雇い、それらを稼働させて物や情報などを生産して流通させて販売し、集めた資金に見合うだけの収益を上げようとするわけだ。また株式という資本形態はそれ自体で売買が可能だから、株式を売ったり買ったりすることで企業同士の離合集散が比較的容易になり、企業が収益力のある他の企業を買収することでその企業自体の経営体質を強化できるわけで、そうやって企業の中で収益力の高い企業が生き残って収益力の低い企業が消え去り、結果的に収益力の高い企業によって資本主義経済が維持されるわけだから、収益が上がらずに経営が立ち行かなくなって倒産したり廃業したりする企業がいくら出ても、またそれによって失業者がいくら出ても、収益を上げている企業がそれなりに活動している実態があれば資本主義経済は存続されるのであり、景気が悪くなろうと恐慌が起ころうと資本主義経済そのものが崩壊するわけではない。また利益が出なくても企業活動を賄えるだけの収益が上がっていればその活動は継続されるのであり、慢性的な赤字体質であっても新たな投資などの目的で資金供給が続いている限りは企業は倒産しないし、赤字が出ている中でも投資が断続的に行われている時期と、事業が軌道に乗って一定額の収益が出始める時期とで時間的なずれが生じるわけだから、原理的には赤字が出ていても将来性を見込んでその企業の株価が値上がりすることもあり、株価が値上がりすればそれが新たな資金調達の機会を生じさせるわけで、結局そのような経営形態や資本形態や収益形態などが資本主義的な経済活動の強みとなっているわけだ。
 それに関連して例えば収益性の低い事業や産業分野が衰退してその方面での経済が停滞して、そこから金融機関や投資ファンドのなどの資金が撤退するようなことが起こると、その反動で新たな投資先として新製品を発表したり新サービスを打ち出す企業が多い産業分野などに期待がかかるだろうし、実際にそこへと資金や人材などが流れ込むような成り行きがもたらされると、結果的にその産業分野での経済活動が活発化することになるのだろうが、そんなふうに特定の産業分野が衰退したり停滞することが別の産業分野への投資を促すことになれば、単に投資熱が冷え込んでしまった分野からこれから投資を過熱させようとする分野へと人や物や資金の移動が起こるだけでなく、それらが混ぜ合わされて化学反応のようなことが起こって、結果としてそれまでになかったような新たな産業分野が生み出される可能性が出てくるわけで、厳密にいえばそのような成り行きとは重ならないのかもしれないが、例えば農林漁業などの第一次産業の衰退が工業などの第二次産業の発展を促したのではなく、工業の発達によって農林漁業が工業製品によって機械化されて、機械化された農林漁業が旧来からあった人出のかかる農林漁業を駆逐するような成り行きがもたらされたわけで、また農林漁業が機械化されるとそれらの産業に携わっていた人が余ってしまうわけで、余った人がどこへ行くかというと、結果的には工業へと流れたわけだろうが、工業へと流れるだけではまだ人余りとなれば、行き先のなくなった人たちは移民となって国外へ出て行くしかなくなるわけだが、そんな成り行きの中で工業の発達は工業から生み出される製品を買ってくれる消費者が必要となってくるわけで、また機械化されて生産量や収穫量が上がった農林漁業から生み出される産物や加工品を買ってくれる消費者も必要となってくるわけで、結局はそれらを消費してくれる人たちがどこから生まれて彼らがどうやって生計を立てて暮らしていけるのかというと、どういう成り行きでそうなってしまったのかは合理的には説明がつかないのかもしれないが、農林漁業よりも工業よりも産業人口が多いサービス業などを主とする第三次産業という分野が発展してきた歴史的経緯があるわけで、現状でもただ単に生活必需物資の生産に携わるだけでは人が大幅に余ってしまうのは確実で、ではそれ以外の人が何のために必要なのかとなるわけだが、結果的には第一次産業や第二次産業が生産する産物や製品を最終的に消費してくれる人が必要なのであって、またそれらを世界中に流通させたり販売したりする過程で人も機械設備も必要となってくるのだろうが、結果的にそうなっていることを合理的には説明できないだけに、人の理性や人が存在する必然性を超えるような事態を資本主義経済が実現しているのではないか。
 現代的な機械文明の進展に伴った産業別の労働者人口の変化の推移を見ると、主に食物を生産する農業分野が機械化されたおかげで、先進工業国では急激に農業従事者の人口が減少したことは確かだろうし、また工業分野でも効率的な生産体制が整備されたおかげで、一定のレベル以上は工業労働者の数も増えなくなってきているだろうし、現状ではどちらの分野でも雇用が増える余地はないのかもしれず、実際に日本でもそれらの物を生産する以外のサービス業を主体とする第三次産業の就業者数が労働人口の75パーセントを占めているし、農業や工業などによって物が生産されないと人は生きていけないことは確かなのだろうが、労働人口の大部分はそれ以外の分野に偏っているわけだ。また日本の就業者人口は全人口の約5割ほどだから、全就業者数の25パーセントのさらにその約半分の13パーセント弱の人しか物づくりには必要でないわけで、もちろん輸入している生産物もかなりの量があるものの、輸出している生産物もそれと同等以上の金額にのぼっているわけであり、おおざっぱに言えば全人口の87パーセント強の人たちが直接の物づくりとは関係のないことをやっているわけで、その全体の75パーセントを占める第三次産業の分野でAI技術などによって機械化が進めば、ほとんどの人の働き口がなくなってしまうわけだろうが、実際にはまだそうなっていない現状があり、そんな脅し文句は杞憂に終わる公算が高いものの、確かに物を作っているだけはだめで、それが売れないことには収益が出ないわけだから、物を売るための活動が重要であることは当たり前のことなのだが、その売買に伴う商業活動というのが、右から左へと物や情報を動かして利益を得ようとする類いの、簡単に言えば安く買って高く売ってその差額を儲ける活動なのであり、全てがそうだとは言えない面もあるのだろうが、何らかの生産物が様々な経路で様々な人や集団の手を経由して消費者に届くまでの間に、世の中のほとんどの労働が集約されているわけだから、物や情報を生産してそれを売るという単純な概念では労働を捉えられないことは言うまでもなく、それを生産するまでの過程よりも生産してから売るまでの過程の方に多大な労力がつぎ込まれているわけで、また売ってからも買った消費者がうまく商品を活用できるような情報を提供したり、売った後に様々なアフターサービスを行うような労働もあるだろうし、物や情報を生産するだけにとどまらずに、それ以外の部分で後付け的にどんどん人の関与を付け加えていって、そこに労働の余地を見出すような成り行きとなっているのではないか。
 そうなると労働というのは何かを作るというよりは、何らかのサービスを提供するような傾向へとその重点がシフトしてきているのは確かで、例えば直接消費者のところへ出向くにしても窓口業務ような形態をとるにしても、そこで買い手である顧客と交渉して物や情報やサービスを売るような労働があることは確かだが、それも交渉を必要とする類いの商品に限られるだろうし、それならネット上のサイトにアクセスして買いたい商品を選べばそれを配送してくれるようなシステムにした方が、売る方も買う方も面倒なコミュニケーションを避けられて気が楽なのかもしれないが、それができない商品だとメールなどのやり取りによって交渉することにもなるだろうし、そのような売り手も買い手も避けては通れない交渉というのが、やはり安く買って高く売るような商業上の駆け引きの場となるわけだ。もちろんそんな部分であっても、ただネット上で検索して一番安く売っている商品を買えばいいだけの場合もあるだろうし、実際に価格を比較するサイトもネット上に存在しているし、全ての商品が面倒な交渉なしに手に入るような成り行きに向かっているのかもしれないが、そうであってもすでにネット上にそのようなサイトを設けること自体が駆け引きの範疇なのだろうから、やはり売買という行為自体が孕んでいる売り手と買い手との間にある非対称で不均衡な関係を解消することはできないだろうし、今後ともそういう部分に人の労働が関わってくることは確かだろうし、そのような部分が企業が行う経済活動の中で重要な部分となっているわけだろうが、その一方で交渉や駆け引きなしに強制するようなやり方が行政を中心に行われている現状もあるわけで、統治している人々に何らかの義務を課すようなことが当然のこととして行われ、それを守らないと法律に違反したことになって、場合によっては処罰の対象となることがあるわけで、そんな法律を制定するには選挙で選ばれた民衆の代表者たちの了解を得ないとならない仕組みになっているわけだが、そこでも民衆とその代表者たちと行政機関の間で駆け引きや交渉が行われるわけで、さらにそのような駆け引きや交渉を伝えるメディアもそこへと絡んできて、そこでわけがわからない紆余曲折やこじれにこじれた駆け引きや交渉を経た末に、いつの間にか民衆が望んでもいない法律が制定されてしまうことが多々あるわけで、結局それは行政機関の意向を反映した法律になることが多く、要するに行政の統治権限の強化に結びつくような内容が民衆の代表者たちが集まっている議会で可決されてしまい、しかもそれを民衆が支持しているかのようにメディアによって伝えられてしまうわけで、結局そこで露わになるのは、売り手と買い手との非対称で不均衡な関係と似ているようでいて微妙に異なる、民衆と行政との非対称で不均衡な権力関係となるのではないか。
 企業にはその経済活動に伴って資本の蓄積とともに企業経営に必要なノウハウも蓄積され、それが収益を上げて利益を出すための知識として溜め込まれ、またその知識は実践を通して絶えず更新され続け、さらに他の企業との競争や連携などの活動から駆け引きや交渉の経験も知識として溜め込まれ、それらが企業が競争に生き残り発展するための戦略や戦術として結実するわけだ。またそのような活動に適合するような組織形態も企業活動を通して導き出されてくるだろうし、そのような組織形態を生かすための人材も自前で育成するか他から調達してくるかして、絶えず組織内の役割に適合するように教育され訓練されるのだろうし、そうやって資本や経営のノウハウとしての情報や人材や資材や設備を蓄積させて、それらを効率的に活用することで収益を上げて利益を出そうとするわけで、そのような活動が成り立っている限りで資本主義経済が維持されているわけだから、資本主義経済が社会にもたらす恩恵にも弊害にも、企業の組織形態や活動内容が影響を及ぼしてくることは確かで、例えば政治の場で主張される民主的な価値観は企業内では通用しないだろうし、通常の意味で言われる個人の自由も平等も企業内ではないし、組織的な指揮命令系統を逸脱して意見を言うことには差し支えが出てくるだろうし、仕事と公的な政治参加とは別次元のことだと言えばその通りなのかもしれず、それが嫌なら仕事をやめて個人で事業を行えばいいと言うことにもなりかねないが、実際にそうやって成功した人もまれにはいるのかもしれないが、やはりそれとこれとは別次元のことだろうし、実際には企業内でも公的な政治の領域でも、民主的な価値観を実現するにはそれなりの駆け引きや交渉を通して実現を目指すしかないのであり、世の中の全ての次元で何らかの権力関係が張り巡らされている中で、絶えず個人の自由や平等を獲得するための闘争が必要で、そのような闘争を推し進めていく中で必要なノウハウも蓄積されて、実践的な経験を通して組織的な集団の中で個人の自由や平等をもたらすための方法が編み出されていくのだろうし、また他の企業で働く労働者との連携や連帯を実現させるための活動も試みられ、企業を経営する側との駆け引きや交渉の中から、労働者の権利を守るための方策も導き出されてくるだろうし、そのような労働組合的な闘争が企業の経済活動を阻害しているとも言えるのだろうが、どちらに正当性があるわけでもなく、そういうところでも駆け引きや交渉によって何らかの在り方が定まってくるのではないか。
 ともかく企業活動によって資本主義経済が成り立っていて、それに伴って人々に恩恵や弊害がもたらされていることは確かで、普通に考えるなら恩恵を増やして弊害を減らすための努力が必要になってくるのだろうが、必ずしも恩恵を増やすことと弊害を減らすことが結びつくわけではなく、恩恵を増やそうとすると弊害も増えたり、弊害を減らそうとすると恩恵も減ったりする場合があるのかもしれず、その中で妥協したり我慢しなければならない場合も出てくるだろうし、妥協も我慢もせずに激しく闘争した挙句に、かろうじて保たれていた均衡が崩れて取り返しのつかない深刻な事態を招いたり、駆け引きや交渉の中で優位に立つ側が権力関係を強めて、集団内で強権的な圧政を敷いたりする場合もあるわけだ。また企業に外部から作用を及ぼせる公的な政府機関などの政策も、無視できない権力を行使する可能性を生じさせているわけで、具体的には独占禁止法によって特定の企業による利益の独占に歯止めをかけたり、公害をもたらす危険性の高い企業に、周辺の住民に健康被害が出ないように排ガスや排水などの環境基準を設けたり、また利益を独占している企業に対して課税を強化したり、逆に国際競争力を高めるためや経営体質の脆弱な中小企業を助けるために税を軽減したり、さらに労働者の健康を守るために労働時間を規制したり医療保険や労災保険への加入を義務付けたり、労働者が失業した場合の補償措置として雇用保険への加入を義務付けたり、退職した後の生活を保障するために年金保険への加入を義務付けたり、そのように法律を制定することによって企業に対して様々な強制措置を課すことができるわけだ。それはそれまでに行われた企業と人々との間で行われた闘争や交渉などの駆け引きが、公的な政治の次元で法律として一定の成果をもたらした例でもあるのだろうが、それが獲得した権利であると同時に課された義務でもあるところが両義的な意味合いを持つのであり、権利と義務とが表裏一体であることに気づかないと、それが特定の政治勢力によって政治宣伝に利用される危険性も孕んでいることにも気づけないわけで、例えば労働者の権利を獲得させてやったのだから国家に従う義務が生じるという論理が出てくるわけだ。また企業活動から生じる弊害を取り除くために行政的な次元で規制を強化しようとすると、国家単位では確かに何らかの統一的な基準を作れるのだろうが、国際的な次元では規制の厳しい国と規制のゆるい国との間で格差が生まれ、それをなくすために国際的な枠組みで世界規模の統一基準を作ろうとするところで、国家間の対立や軋轢が生じてしまうわけで、早い話が規制をゆるくして経済の発展を優先させようとする国が出てくるわけだが、そうした抜け駆けをする国に対して国際的な圧力をかけるには国家間の連携が必要となってくるわけだ。

 その起源や経緯がどうであれ、現状では企業が経済活動の主体となっている事実は否定しようがなく、また国家を統治する行政機構も企業が行う経済活動から、従業員からの所得税や企業自体の利益から法人税などの税収を得ているわけだから、税収を増やすためにも産業の振興には企業の育成が欠かせないだろうし、行政としては安定して収益を上げてそれなりの雇用を確保してくれる大企業が存在するのはありがたいことなのだろうし、そういう意味で行政機構と企業とは持ちつ持たれつの関係を維持しているわけだ。もちろん企業の方では利益確保の観点からあらゆる手段を尽くして税の軽減を目指すだろうし、また許認可などの面で行政に便宜をはかってもらう目的で政治家や官僚などと癒着しようとするだろうし、そのような場で企業側を有利に導くための駆け引きや交渉を行うのは当然のことで、制度的に決められた建前上の関係とは別次元のところで暗躍するわけで、そういうことを含めて持ちつ持たれつの関係なのだから、そのような関係の中で法律違反が発覚したら、刑事事件や民事事件として立証できる範囲内で何らかの措置が施されるわけだろうが、たぶんそれを良いとか悪いとかいう判断で捉えない方がいいのかもしれず、要するにゲームには反則がつきものであり、いかに効果的に反則をやるかもゲームを有利に運ぶテクニックなのであって、それに関連してメディアが法律違反した人や集団を叩く場合も、叩ける対象を叩くのであり、彼らが肩入れしている人や集団に対しては建前上は叩くにしても、手を抜いて叩くのであり、決して二度と立ち直れないように徹底的に叩くことはしないだろうし、そういう意味でもメディアも企業や行政機関と持ちつ持たれつの関係を維持している面があって、実際にメディア関係者や政治家や官僚などがあからさまに会合を開いて談合しているところなどもメディアを通して伝えられているし、世の中に張り巡らされている様々な関係のネットワーク上では、やっていいこととやってはいけないことの基準として法律が機能していることは事実だが、それとは別の基準では法律違反してでもやらなければならないことと、たとえ合法だろうとやってはいけないことが暫定的な基準として成り立つ場合もあるのではないか。そしてそういう基準からは、互いに癒着し合って利害共同体の一員になったら、時には法律を違反してでも便宜供与を行わなければならないだろうし、法律に違反するからといってそれをためらったら、裏切り者として共同体から排除されてしまうのではないか。
 そしてそのような共同体に入るには、それなりに権力を行使できる立場になる必要があるわけで、そうでなければ便宜供与を行えないわけだから、集団の中でも社会的にも地位の高い役職に就く必要があるわけだ。またそうやって便宜供与を行うことで集団内や社会の中で周囲から認めてもらえるようになるのだろうし、結局そのような立場や地位というのは便宜供与とセットになっているのかもしれず、またそういう行為によって世の中が成り立っているとすれば、法律のようにあからさまに成文化はされていないものの、社会的な慣習の一部としてそのような行為が黙認されている実態もあるのかもしれず、そうであるとすると、正義感に駆られてそのような行為を内部告発したり、ジャーナリストなどがその実態を暴いたりすると、かえってそういった利害共同体から有形無形の嫌がらせを受けたり、卑劣な罠にはめられて濡れ衣を着せられたりして、そうやって集団からも社会からも排除されてしまう場合もあるのではないか。たぶん法の支配を推し進める立場からすれば、なるべくそういう行為はなくしてゆかなければならないだろうが、法律を補完するためにそのような慣習が欠かせないと考えるなら、それは黙認されるような行為となるわけで、建前と本音の併用のように法律の適用にもグレーゾーンを設けないと世の中が成り立たなくなる面があるのかもしれないし、それを黙認するか許せないと思うのかも、その人の置かれた社会的な地位や立場によって変わってくるのかもしれず、そういうところできっちりと白黒をつけられない実態があるとすれば、そのような行為に対してどのような態度をとるかにしても、正義感に駆られて悲惨な目に遭った内部告発者や周囲からの有形無形の圧力に屈しないで違法行為を暴いたジャーナリストを支持したり支援したりするにも、自らが違法行為を行ったり黙認したりする立場になれば、彼らを弾圧せざるを得ない成り行きになってしまう可能性があることは踏まえておかないとならないわけで、実際にそのようなことが行われる成り行きに巻き込まれているとすれば、それは自らを含んだ社会の中で行われていることなのであり、実際に多くの人がそういうことを行なっている政治勢力を支持して選挙で投票している実態もあるだろうし、ましてやそういう勢力が議会で多数を占めて政権を握っているとしたら、内部告発者やジャーナリストなどよりははるかに強大な権限や権力を持っているわけで、どちらが社会的な信用を得ているかは明らかなのではないか。
 企業が政府や地方自治体などの行政機関にとっては税収と雇用をもたらし、住民にとっても生活の糧である雇用と消費に必要な物資や情報をもたらして、社会にとっては必要不可欠な存在となっている一方で、その経済活動が住民の間に給与や報酬などの格差に応じた貧富の格差をもたらして、それが社会の中での待遇の格差なども生んでいるのだろうが、そこに何らかの競争がある限りで競争に勝った者が必然的に高待遇を得るのだろうし、そうした必然的な成り行きの中で住民はもたらされた格差を受け入れざるを得ないし、もちろん不満がないわけではないだろうし、中には議会などの政治の場で行政機関に働きかけて貧富や待遇の格差をなくすような制度の創設を求める人たちも出てくるだろうし、それが福祉の充実や累進課税制度などによってある程度は歯止めがかけられているにしても、また企業の方でも従業員の福利厚生に力を入れている場合もあるわけだが、社会が依存している企業の経済活動に格差をもたらす弊害があることには変わりないわけだが、現状では企業主体の経済活動によって成り立つそのような社会構造を根本的に変える力がどのような勢力にあるわけでもない。ただそれでもそこに作用や影響を及ぼしている様々な勢力のせめぎ合いや関係の組み合わせが、何かのきっかけで変わる可能性はいくらでもあるわけで、実際に絶えず社会は変化し続けていて、たとえその変化が人々の期待とは違っているとしても、社会の変化に対応しながら人々の意識もそれなりに変化しているわけだ。そして人々の意識が社会の中でせめぎ合いを演じている勢力に対する信用や不信に結びついて、それが政治的な勢力争いにも何らかの作用を及ぼしているわけだろうが、別に争いを演じている政治勢力が何か根本的な解決案を持ち合わせているわけではなく、ただメディア上で行われる政治宣伝によって人々に何か直面している政治的な諸問題を解決できるかのような幻想を抱かせるわけだが、それが幻想でしかないにしても、そのような政治勢力に対する期待が信用に結びつき、また不安や嫌悪が不信に結びついたりするのだろうが、メディアの方でも例えば株価の値上がりが何か政府の経済政策の成果であるかのように宣伝したりして、それを真に受けた人々の政府に対する期待や信用に結びついたりするのであり、政治の場では根本的な治療法のない病に対する対症療法のようなことをやるしかないだけに、人々はその時々の政治情勢に合わせてメディアが喧伝する政治勢力に期待を寄せて幻想を抱くしかないわけだ。
 たぶんそこから生じるジレンマがある種のあきらめとともに現状に対する素朴な肯定に結びつくのかもしれないが、別に意識してあきらめているわけではなく、その保守的な態度自体があきらめを表しているわけで、そのような態度に合わせて作られる政治的な宣伝文句としては改革を強調しなければならないわけだが、その改革が何か現状を肯定するような改革なのであり、根本的な改革を目指すなら、そんなふうに現状を肯定ながら改革を宣伝する欺瞞的な態度の勢力が、世の中から一掃されなければならないわけだが、実際にはそんなことはありえないわけで、政治的に何か主張するなら、ともかく改革を叫ばないと政治的な主張の体をなさないわけだから、それはある意味では仕方のないことなのだろうが、世の中で主導権を握っている勢力が世の中から一掃されることはまずないわけで、たとえ正しい意味での革命が起きたところで、確かに主導的な役職においては人も勢力も革命によって入れ替わるかもしれないが、入れ替わって新たに主導権を握った側が同じように主導権を握ろうとする限りで、世の中の構造は変わらないわけで、そういう意味で真の変革とは誰もどんな勢力も主導権を握れないような世の中になることであり、要するに改革を訴えて世の中の主導権を握ろうとする勢力が世の中から一掃されることが、正しい意味での世の中の変革となるのかもしれないが、果たしてそんなことが起こり得るだろうか。結局人々の間で格差がなくなるとはそういうことでしかないわけだが、それにはまず誰かが何らかの勢力が世の中の主導権を握らなければならないとなってしまえば、そこで矛盾が発生してしまうわけで、そんなわけで何らかの勢力が主導権を握って人々の間で生じる格差をなくすためにいくら改革を断行しているつもりでも、それが世の中の主導権を握ろうとして自分たちに権力を集中させて他の人々との間で格差をもたらす行為と表裏一体となってしまっていることに気づかないだけであって、結局そうなってしまうからこそ、これまでに行われてきたような政治的な主義主張やそれに基づいた活動や運動ではうまくいかないことは明らかなのであり、しかもうまくいくやり方を模索するような成り行きにはなり難いのがメディア上で改革を訴えるような政治宣伝の手法なのではないか。だからといって改革をあきらめるような成り行きにはならないだろうし、政治的な訴えかけを行うには改革という文句がつきものである実態は変わらないわけだ。ではどうすればいいのかとなるのかもしれないが、なるべく人々に幻想を抱かせないように訴えかけることが肝要だろうか。しかしそれでは人々から期待されないだろうし信用もされないだろうから、政治的な主導権を握ることができなくなってしまい、政治宣伝としては失敗となってしまうのではないか。
 そのようなジレンマに関して何か別の方面で解決策があるのかというと、例えば現状の世界情勢の中で関心を呼んでいる経済のグローバリゼーションを阻む要因は、言語や宗教や風習などの地域特有の独自性であり、物や情報やサービスを売ろうとするときに障壁としてぶつかるのがそれらの独自性なのだろうが、実際に売り手と買い手とが売買の場で交渉や駆け引きを行うのに、意思疎通を図る上でコミュニケーションがとれないと困るわけで、そんな場合は通訳を介して交渉すればいいのだろうが、その地域の企業と地域外の企業とがその地域内で何らかの商品を売る上で競合した場合には、同価格で同品質の商品を売る場合、商品のブランド力で地域外の企業の製品が優っていない場合は、地元の企業の製品が売れる可能性が高いだろうし、商品を買ってからのアフターサービスなどが必要な場合も、身近にある地元の企業なら何かと迅速な対応が期待できそうだが、そういう面で世界的に商品の販売を展開するグローバル企業なら、地元民との接触を伴う部門では地元民を従業員として雇用するだろうし、その点はぬかりないだろうが、それ以前にグローバル企業となった時点でブランド力で優っているわけだから、グローバル企業になれなかった地域限定の企業は、価格の安さやサービスの充実度などで競うしかないのかもしれず、サービス面で手間暇をかけるとそれだけコストがかかって収益を圧迫するようなことになれば、グローバル企業と地域限定の企業との間では収益面で超えようのない格差が生じるだろうし、その企業でしか作れない独自の製品やサービスがある場合以外では、やはり地域限定の企業はグローバル企業には太刀打ちできないのではないか。そして少しでもその地域の企業が生き残る可能性を求めるなら、地域の独自性を強調して経済のグローバリゼーションを阻むような運動も出てくるだろうし、何よりも長年にわたって地域外から経済的な搾取を受けていたり、政治的な支配を受けていたりすると、余計にその地域に特有な言語や宗教や民族などの独自性を強調しようとするのではないか。それが反グローバル化を目指す運動となって、世界各地で独自色の強い地域が国家から分離独立の動きを見せる要因となっているのだろうし、それは現実にグローバリゼーションが進行していることに対する裏返しの反応なのであり、そのことの反作用として顕在化している動きなのではないか。
 たぶんそのような抵抗を打ち破ってグローバリゼーションは進行するのであり、抵抗の激化がグローバル化そのものの強さを表していて、それは抵抗と表裏一体の現象なのであり、その中で反グローバリズムを掲げて戦っているつもりの勢力に勝ち目があるというわけではなく、ただ経済のグローバル化が抵抗を巻き起こしているに過ぎないのではないか。またそれは国家の中央集権化よりは地方分権化をもたらしているのかもしれず、経済がグローバル化するのとは反対に政治的には分権化の傾向を示していて、何よりも人々が身近な地域内で結束しようとしていることは、国家単位での政治活動に限界を感じているからであり、それは中央政界で何やらメディアを通して空疎な政争劇が盛り上げられて、国政と呼ばれるレベルでの政治が一般の人々とは無縁なことをやっているのをあからさまに見せられてしまうと、できればそんなものに関わりたくはなくなってしまうのも無理もないことであり、それよりは中央政府の横暴が地方の民を苦しめているようにも感じられて、また外交関係でも中央政府がグローバリゼーションを推し進めている企業のある国との友好関係や同盟関係を強調しているような場合は、反グローバリズムの立場からも中央政府に対して反発が巻き起こるだろうし、遠く離れた首都の周辺から上から目線で指令を出すよりは、身近な地方自治体単位できめ細やかな行政をやってほしいと思うのかもしれず、グローバリゼーションに対する防衛がもはや国単位では食い止めようがないことが明らかになるほど、狭い地域内で人と人とのつながりを強めて、格差のない身近な人同士でお互いに助け合うような行為が流行ることになるのではないか。もちろんグローバリゼーションがもたらすのは弊害ばかりではなく、何らかの恩恵をもたらすからグローバリゼーションが世界的に進行していくのだろうし、その恩恵が国家的な次元の政治とは無関係なことだとすると、やはりグローバリゼーションは国家の形骸化を招く恐れがあるのかもしれないし、実際にグローバル企業が世界中の国々で分け隔てなく同じように経済活動を行うようになれば、特定の国家に利益をもたらすことはなくなるだろうし、それは国家間の差異をなくすような作用となるだろうし、国家にとっては自国だけに奉仕するような企業ではなくなってしまうわけだから、特定の国の中で主導権を握っているような政治勢力とは無縁となってしまうのではないか。

 人が理性的に物事について考えることと、商業的に利益を追求することは異なる傾向を持っているだろうし、場合によっては商業的な利益の追求を阻むような成り行きをもたらすのが理性であるのかもしれず、そうなると両者は相反する行為となって、利益の追求には理性な思考は邪魔のように思われてくるのかもしれないが、人にとってはそのどちらもが必要だとするなら、その両者の間でどう調整して妥協点を見出すかが問題となってくるだろうか。それともそれを行う上で商業的あるいは政治的に競合したり連携したりする対象と駆け引きや交渉を行う中で、自ずからどちらを優先させるべきかが決まってくるのだろうか。それに関して妥協的な態度をとるなら、時と場合によって両者を使い分けて、その場が丸く収まるような結果を目指すべきかもしれないが、実際にそのような事態に直面してみないと何を優先すべきかわからないかもしれないし、直面したところでわからない場合もあるのかもしれず、資本主義的な経済活動を行う上では、普通に考えるなら商業的な利益の追求を優先させることになるのだろうが、その過程で何らかの弊害をもたらす事態に陥った時に、そのような行為に歯止めをかける役割を担う人や勢力が必要となってくるわけで、一般的に考えるならその役割を担うのは行政機関であり、制度的にもそうなっているのだろうが、行政機関も行政と駆け引きや交渉を行う役割を担う議会の政治家たちも、経済活動に歯止めをかけるのではなく、経済活動を活発化させようとしている傾向があり、具体的に言うなら規制を緩和して企業活動をより自由に行えるようにしようとするのが、いわゆる新自由主義的な立場となるわけだろうが、その規制緩和が住民にとって弊害を伴うようなら住民は反対すべきだろうし、また規制緩和が特定の産業分野にとって不利益を被るようなら、その産業分野に携わる人たちも規制の緩和に反対すべきとなるわけだが、結局そのような問題は議会などの選挙において争点となるべきことだろうし、規制緩和に反対する人たちは反対を掲げている政治勢力の候補者に投票して、賛成する人たちは規制緩和に賛成を掲げている政治勢力の候補者に投票すれば、その結果が議会の勢力図に反映して、議会で多数を占めた勢力が行政に働きかけて、行政が規制緩和するのかしないのかを決定するような制度となっているわけで、実際にそれで問題が解決するなら話が早いのかもしれないが、実態としてはどうなっているのだろうか。
 どうも現実にはそんな単純なことでは済まないのかもしれず、果たして企業の経済活動を縛る規制が労働者や特定の産業を守っているのかというと、そうとも言えない面もあるだろうし、むしろ規制が行政や行政と癒着する企業にとって既得権益化している面もあるわけで、規制に守られて利益を得ている産業があって、一概に規制緩和といってもそういう部分での規制緩和は行われずに、行政とそれと癒着する企業や政治家たちにとっての既得権益は守りながらも、そのような既得権益から外れる部分での規制緩和は行なって、それで規制緩和を行なっているかのように見せかけたい面もあって、理性的に物事を考えようとする人たちはそういうところを批判したいわけであり、実際に批判しているわけだが、それを単純に規制緩和に反対したり賛成したりすることだと捉えてしまうと、物事の本質を見逃してしまうわけで、そうなると結局は行政やそれと癒着する企業や政治家たちを利するばかりで、被害を被るのはむしろ労働者や消費者としての住民や既得権益から外れた企業だけとなってしまう可能性も出てくるだろうし、もちろん住民の中でも被害を被る人たちと必ずしもそうではない人たちもいるわけで、そういう意味で政治的に賛否を求めて、事の白黒をはっきりつけさせるような主張ではうまく状況に対応できないのはいうまでもなく、政府が規制緩和の中で何を緩和して何を守ろうとしているのかを詳しく調べてみないことには、それに賛成も反対もできないのだろうが、選挙になってしまうとそういうことがうまく住民たちに伝わるとは思えないし、制度的にも単純明快な主張しかできないような成り行きになってしまうのではないか。そんなわけで単純明快なことを繰り返し主張する政治家は、物事の本質をわかっていないかあるいは隠そうとしているのかのどちらかでしかないのかもしれず、どちらにしても住民にとっては規制緩和が選挙の争点となるような場合は投票の選択肢からは両者ともに外れてしまうわけで、それが政治の限界であり選挙制度の欠陥となってしまうのかもしれないが、それ以前に住民の方でもそんなことまで考える必要があるとは思わないし、そんなことまで考える余裕もありはしないだろうし、それを伝えるメディアもそんなこととは無関係で単純明快なことを選挙の争点として設定してしまうだろうし、規制緩和イコール新自由主義という否定的なレッテル貼りだけが世間に流通するばかりで、その中身までは誰も考える必要性が生じない状況が作り出されてしまうのではないか。そうなれば行政やそれと癒着する企業や政治勢力やそれに肩入れするメディアの既得権益が守られるばかりで、状況は自ずから現状維持へと向かうことになるのかもしれない。
 既得権益を守ろうとする側では住民が余計なことまで考える暇を与えないように、絶えずメディア上で単純な政治宣伝を繰り返すとともに、自分たちに異を唱える政治勢力やジャーナリズムに対して様々な方面から攻撃を仕掛けてくるのだろうが、それによって状況をコントロールできているかどうかはともかく、一方で他を出し抜くことが商業的な行為においては利益を生む絶好の機会をもたらすわけで、ただ恒常的に他を出し抜けるわけではなく、出し抜かれた方でもそれを教訓として、それ以後は出し抜かれないような対策を立てることが、企業が経済活動を行う中で他の企業との競争を成り立たせているわけだが、そんな中でも見え透いた策略はすぐにバレるのが当然の成り行きかもしれないが、バレていても利益を共有する側で口裏合わせをして、バレていないように装うことは可能なのかもしれず、それが行政やメディアを巻き込んで大掛かりに演じられると、いつの間にかバレていないような暗黙の申し合わせが社会全体に広がってしまい、誰もそれに対して有効な打開策を見出せなくなってしまうのではないか。それに関して脅迫的な同調圧力というのは、詐欺的な行為がもはや隠しようがなくなってきたときに、それを詐欺だとは言わせないように脅迫してくるような状況の中で発生するのだろうし、例えば物や情報の押し売り的な行為が蔓延している場合、そんな状況の中で生活していると感覚が麻痺してしまって、それが当然の行為のように感じられてしまい、そうなると押し売りした者勝ちな成り行きとなってしまうのだろうし、実際には情報を売っているのではなく無料で押し付けてくるわけで、ネットでもスパムメール紛いの商品やサービスの宣伝やクレジットカードの勧誘メールなどが毎日のように大量に送りつけられてくるのが当たり前となっているし、それが無料のメールサービスや通信端末の販売や接続料金を払っている業者から直接送られてくるわけだから、うんざりしつつも大抵の場合は放っておくしかないわけで、実際にそんな情報の洪水にさらされながらも形の上では自主的に通信販売を利用していることになるわけだから、押し売りでも何でもないわけだが、それと同じように一方的な体制翼賛的な傾向を含むニュース情報を大量に掲載するニュースサイトなどもあるわけで、さらにどうでもいいようなテレビタレントのたわいない私生活やゴシップ情報が大半であったり、それとは別のサイトのコメント欄にはいつものように気に入らない人物や政治勢力を嘲笑と脅迫を交えながら攻撃するような書き込みが組織的に大量に載せられ、しかもそれは判で押したように空疎な紋切り型の言葉の連なりで埋め尽くされているわけだから、戦略や戦術としてそんなことを行なっているにしても、知性を感じられないのが致命的な愚かさを醸し出しているようにも思われてしまうのだが、いくらそんな情報が目についてしまうとしても、世の中の全てがそうであるわけがなく、どう考えてもほんの一部で行われていることが目立ってしまうような仕組みなのだろうし、仕掛ける側もそうなるように仕掛けているわけだろうが、もしかしたら結果的には何を仕掛けているとも言えなくなっているのかもしれず、仕掛ける側も自分たちがネット上に振りまいているつもりの情報に踊らされているだけなのではないか。
 そしてそんな状況の中でもそれを仕切って管理している業者が収益を上げて利益を出しているからそれが続いているわけだろうし、そこで実際に物や情報が流通している状況が形作られているわけだ。たとえそこで見せつけられる大部分が塵や芥のようなゴミ情報だとしても、そこに費やされる費用のほとんどはそれと一緒に載せられる企業の商品やサービスの広告宣伝費から出ているのだろうし、広告を載せる企業からすれば少しでも商品を売るには避けては通れない出費となっているわけだろうし、またたとえ商品の宣伝広告のないサイトでさえ、百科事典サイトのウィキペディアのように執拗に寄付金を要求してくるような場合もあるわけで、一度寄付すると続けて寄付しないのを咎めるような内容の催促メールを度々送ってくるわけだから、別にそれが脅迫行為だとは言えないだろうが、送られてくる寄付金の催促メールを見る度に不快感が募ることは確かだろうし、向こうからすればいかに資金を獲得するかを巡って、サイト上の情報を閲覧する人々と駆け引きや交渉を行っていることになるわけだから、別に実質的には情報を売っているわけではなくても、情報をサイトに載せて寄付を募っている以上は、ある意味ではそれが商売となっているわけで、それ以前にユーザーがネットにアクセスしていることがすでに通信料金を発生させているわけだから、そこにある情報はすべて有料だと捉えておくのが妥当な認識だろうし、それらに興味を持とうが無関心であろうが全ては経済活動によって支えられているのであり、その経済活動がネット上にある種の自由をもたらしていることも確かだろうし、利用者のスキルに応じて誰もが好き勝手に情報発信することができるわけだ。もちろん世間の注目や話題を集めるような大手のSNSサイトでは反社会的な情報発信は規制の対象となっているのだろうが、その規制の基準も現状の社会情勢を反映したものとなっていて、実際に特定の人物や政治勢力に対する攻撃をどう判断するかは、そのような攻撃が他のメディアでも大々的に行われているような状況なら、そこでも許されてしまうだろうし、その内容がたとえ理性的だとは思えなくても、またどう考えても理不尽な内容であろうと、それが他で通用している事例があればそれが基準となってしまうのかもしれないし、全てはそこでの管理者と利用者との駆け引きによって暫定的に決まるような、その場限りの相対的な基準となってしまうのかもしれず、そもそもそんな状況の中で恒常不変な基準を求めるのはおかしいだろうし、そういう意味でも政治の場で世の中の誰もが納得できるような制度や法律を定めるのは難しいわけで、またいったん法律を定めた後からそれに反発したり反対する勢力を、行政側が権力の行使によって抑え込まなければならなくなるような事態も出てくるだろうし、またそうしないと何も決まらなくなってしまうのかもしれないが、少なくともそれが理不尽な法律の制定や権力の行使だと思われたら住民側がそれに逆らうのは当然のことだろうか。
 グローバル企業も進出先の国で様々な便宜をはかってもらう上で、その国の既得権益を握っている政府や主要な政治勢力に取り入るのはよくあることかもしれず、実際にそうなればその国の反体制勢力にとってグローバル企業は、敵対する体制側と手を結んだ御用商人とみなされてしまうのかもしれないが、その種の単純な敵対関係にどれほどの信憑性があるのかはよくわからないところかもしれず、その国でグローバル企業の製品やサービスが広範に普及しているような場合、果たしてそれらの製品やサービスを利用している消費者や企業はグローバル企業から搾取を受けていると思うだろうか。状況にもよるだろうが、その国でグローバル企業の市場シェアが他を圧倒するような割合を占めていて、その国の貿易収支も輸入超過で慢性的な赤字状態にあるならば、状況は植民地的な搾取を受けていることになるのだろうが、それ以外の場合では取り立ててどうこう問題視するような機運は起こらないだろうし、ナショナリズムの高揚から自国製品の利用を推進するようなキャンペーンでも起こらない限りは、消費者や企業もグローバル企業の製品やサービスを利用し続けるのではないか。また製品が機械類だとその国で作られている部品が使われていたり、場合によっては直接現地に製品を製造する工場を建てている場合もあるだろうし、サービスなどでも現地法人が現地の住民を雇用することでその国の経済にも十分に貢献している場合もあるわけだから、そうなると外国の企業も自国の企業もそれほど差がなくなってしまうだろうし、グローバル企業だからと言って特別に敵視するような成り行きにはならないのではないか。日本の場合だとIT企業のメディア部門が国粋主義勢力の巣窟のような様相を呈している場合があるのかもしれないし、そんな人材がIT系のグーバル企業の日本法人にも流れ込んでいるとしたら、反体制勢力からすれば国粋主義と新自由主義という一見相反する主義主張が融合しているように見えてしまうだろうし、それに対してリベラリズムを掲げて敵対するにしても、敵対している側からは肯定的な意味合いを含んだリベラリズムではなく、否定的な意味合いを含んだ極左暴力思想とみなされて攻撃を受けるかもしれないし、そもそも国粋主義と新自由主義が融合するわけがないのだから、それを主義主張や思想の次元で説明しようとするとデタラメでしかなくなってしまい、別にそうした次元で敵対しているわけではなく、アメリカ政府に追従する日本政府と議会与党に追従していればうまくいくと考えているだけなのかもしれないし、意識してそうは考えていないにしても実際の行動や言動がそれを体現しているだけなのではないか。
 普通に考えればアメリカ政府に追従する日本政府と議会与党に追従するだけでは何の主体性もないし、ただ政治的な主義主張として恥ずかしいだけのようにも思われてしまうかもしれないが、そういう恥ずかしい状況を見ないようにするための格好の隠れ蓑が国粋主義なのだろうし、本気でそんなことまで考えているわけではないといえばその通りで、政治的には世の中の主流派に与しておけばそれで済んでしまうようなことでしかなく、後は何かと政府や議会与党の方針に反対する政治勢力や市民運動などを攻撃していれば、やはりそれで済んでしまうようなことでしかないだろうし、実際に政治的にはそれで済んでしまう状況があるのだろうから、それ以上踏み込んで本質的なところまで考える必要もないわけで、考えるだけ無駄なことなのかもしれない。簡単にいえばそれは弱い者いじめと同じようなことなのかもしれないが、その弱い者いじめの対象となっているリベラル勢力にしてみれば、それを深刻な事態と受け止めるしかないだろうし、何しろ自分たちがいじめに屈してしまえば後がないわけだから、必死になって活動するしかないだろうし、心ある良識派の支援や叱咤を受けながらも、それだけでは少数派にとどまるしかないわけで、まさに何をやっても八方塞がりな状況なのかもしれないが、状況としてはそれで構わないわけで、政治的な主体性など不要な世の中になっていて、それで何が困るわけでもないと実感している人たちが世の中の多数派を構成しているわけだ。そしてそんな状態を大衆消費社会と呼ぼうが晩期資本主義社会と呼ぼうが、何を意味しているわけでもなく、多くの人が現状を破綻させないように配慮しているだけで、意識してそうしているわけではなく、結果的にそうなっているとしか言えないような状況なのだろうし、何か高邁な政治理念を実現させようとするのとは全く別次元のところで、何でもないような現状が出来上がっているわけで、それが資本主義的な経済活動の結果だと言えばその通りなのかもしれないが、そんな状況の中でいくら政治的に危機感を煽ってみても、誰もまともには受け取ってくれないのはもちろんのこと、それでも誰もが結果的には現状維持へと加担してしまうような成り行きを示しているのではないか。そんな状況の中では果たして世の中の変革が起こるなどとは到底思えないだろうが、たぶんそれは政治的な変革ではなく政治的な空洞化なのであり、今まで成り立っているように思われてきた世の中の制度や慣習が形骸化しつつあるから、政治的には空洞化を被っているように思われるのだが、それによって何らかの不具合や弊害が顕在化してきて、世の中の多数派がそれを深刻に受け止めるようになれば、その不具合や弊害に対処しようとする政治勢力を支持する状況も生まれるのではないか。

 資本主義経済は経済活動がうまくいっている範囲内で成り立つ経済だから、それ以外の経済があるとは思えないが、たとえば経済活動が成り立たないようなところでは行政機関による補助や援助が必要となってくるという論理が成り立つわけだが、しかし行政機関自体が資本主義経済に依存しているのだから、助けるのにもおのずから限界が生じてくるわけで、簡単にいえば予算が許す範囲内でしか助けられず、そうなると行政機関が管轄している中で経済活動が成り立たない部分が増えてくれば、助けることができなくなるどころか、行政機関の活動そのものが成り立たなくなってくる事態が生じるわけだ。そうである限りにおいて行政機関が何よりも優先すべきことは、管轄している区域内で経済活動が成り立つようにしなければならないわけだろうが、そうなるとやはり経済活動の主体となっている企業活動を振興するような政策が求められてくるわけだ。原則論を言えばそうなるわけで、具体的に何をどうすればいいのかというと、例えば利益が出るように企業に対する税率を下げればそれだけ行政機構の予算が減ってしまうし、単純には企業活動と行政活動のどちらも振興することはできないわけで、また企業にとって行政とは税を徴収されたり何かと活動を規制してくるような邪魔な存在であると同時に、うまく取り入ることができれば何かと便宜をはかってくれるような利用価値のある組織なのだろうが、さらにそれ以外に行政を介して政治を行おうとする政党や政治家の存在があるわけで、それ以外にも企業から広告宣伝費を徴収しながら政治宣伝も引き受けるメディアも含めて、それらの間に錯綜した縺れ合いの関係があって、単純な連携関係や敵対関係では割り切れない複雑な様相を呈しているのだろうし、それらと様々な程度で関係している一般市民が理解しなければならないことは、その中で単純な敵対関係を示して煽り立てるような行為を信用してはならないということだろうし、事の詳細を知りたければ何よりも煽り立てている背景を探らなければならないのだろうが、そのほとんどは特定の政治勢力を優位に導くために煽り立てているわけであり、またそれと同時に特定の政治勢力を叩くためにも煽り立てているわけだろうが、普通に考えるなら煽り立てなければならない事情が生じているから煽り立てているのであり、その事情がメディアを通じて煽動を見せつけられる一般の市民にどう関係してくるのかを考えてみる必要があるだろうし、たぶんほとんどの人は事情に精通しているわけでもなければそれほど関心があるわけでもないのだろうから、まずは安易な煽動には乗らないことが肝心なのかもしれないが、とりあえずは興味が湧いたら煽動する事情について考えてみることが肝要だろうか。
 それに関して少なくとも言えることは、やっていることがうまくいかないから煽動しなければならなくなるわけで、うまくいっていれば別にことさら煽り立てなくても人々の支持を得られるわけだ。そしてなぜうまくいかないのかといえば、政治情勢もそこで生じている利害関係や権力関係も社会の中に存在している様々な勢力の間で錯綜して縺れ合っていて、何をやっても伝えたいところに力がうまく伝わらずに、満足できるような成果を得られないからではないのか。それでもたまたま何らの成果が上がればメディアを通じてすかさず喧伝されることにはなるだろうが、それが政治宣伝である場合は必ず誇張や歪曲が含まれているわけで、それを伝え聞いた一般市民にはあまり実感が湧かなければその程度のことなのだろうし、そうであるならいくらメディアを通じて成果を強調されても、それを真に受ける必要はないわけで、安易な政治宣伝や煽動に乗せられて特定の政治勢力を支持する必要もないわけだが、そのような宣伝や煽動は現状で政治的な主導権を握っていて、メディアにもそれなりに影響を及ぼせるような勢力によってなされる場合が多いわけで、そうだとすると世論調査や選挙結果などでもそれなりの支持を集めていて、別に宣伝や煽動をやらなくても充分な権力を行使できる力を持っているわけで、ではなぜことさらに宣伝や煽動をやらなければならないのかというと、メディア的には宣伝や煽動をやったから世論の支持を得られたという話にしたいわけだ。要するにそのような政治勢力としては宣伝や煽動の成果を得たいわけで、それも権力を行使した結果としてメディアを通じて喧伝されるような成果の一つなのであり、それ自体が誇張された成果なのだろうが、そんな成果の誇示が人々の心理に影響を及ぼして、そのような政治勢力への世論の支持を強固なものにしている面があるわけで、実質的にはそれ以外では大した成果もあげていないのに、メディアを通じた宣伝や煽動の繰り返しによって何となく漠然と支持を集めているような状況が続いてしまうわけだが、そんな成果の虚構性に気づくには、それらの宣伝や煽動が物語っているフィクションと現実との落差を実感できればいいのだろうが、それがなかなか一般市民には実感できないのだろうし、政治への幻想が邪魔をしているから実感できないのかもしれないが、幻想を抱くなと説いても仕方のないことだろうし、人々が宣伝や煽動に乗せられている自らの愚かさを実感できる機会など滅多にやってこないし、そうでなくても資本主義経済の恩恵を受けながらそれなりに生活できている実態があるわけだから、それ以上の高望みをしなければそれなりの人生を送れるだろうし、多くの人はそれなりに不満や満足感を抱きながらも寿命がきたらこの世から消え去っていくのではないか。そういう人たちにとって理性的に生きそして行動することは、贅沢以外の何ものでもないのかも知れない。
 そしてそんな社会を作り上げて支えている企業活動を、行政的に何らかの法律を用いて外部から規制しようとすると、それがゲームのルールのような役目を果たして、それなりに企業活動で成り立っている市場経済を政治的にコントロールできる部分も出てくるだろうが、確かにルールに違反する行為を取り締まることができるわけだが、その反面ルールの範囲内で行われることはコントロールできないわけで、例えばルールが想定していなかったような合法的な行為が出てきて、それが社会に悪影響を及ぼす行為だとみなされると、そのような行為を規制しようとして法律を改正して、そのような事態に対応しようとするのだろうが、そうなればなったでまたさらにその法律の裏をかくような行為が編み出されるかもしれないし、結局法律を用いて経済をコントロールしようとする行為はいつも後手に回らざるを得ないわけで、それでもルールがあった方がないよりはマシだろうから、その限りで法律が一定の機能を果たしていることは確かであり、法律が企業で働く労働者や企業に投資する投資家を守っている面はあるわけで、また消費者も経済活動から生じる悪質な詐欺行為や環境汚染などの弊害に関しては法律で守られているわけだ。もちろんそれはルールの範囲内で守られているのであり、ルールが規定していること以外の部分では守られないわけだから、企業としては利益を上げるためにルールが規定していない部分で新たなやり方を模索しようとするわけで、それが結果的にルール違反に結びつかなければなおのこと都合がいいのだろうし、他を出し抜いて利益を出すにはそういう部分での模索が欠かせないのではないか。そしてそういう部分での企業努力が必ずしも労働者や消費者の利益には結びつかない面も出てくるのだろうし、実際に製造部門での機械化は職人気質の熟練労働者の技術を不要とするような方向での技術革新をもたらしたわけで、また情報革命以後のネット通販は営業的な手腕を必要とした訪問販売業者にとっては大打撃だったのだろうし、また消費者にとっても家で端末の画面を見ながら商品を選択できて便利になった反面、実際に小売店に出向いて商品に直に触れて店員とコミュニケーションをとる機会が減って、交渉や駆け引きの面での勘が鈍ってしまい、また画面のボタンを押すだけで簡単に買えてしまうので、取り立てて欲しくもないものまで買ってしまうことが多くなってきたのかもしれず、それがどちらにとって利益となるのか不利益となるのかというよりは、ただ商品の製造方式や販売方式や購入方式が変わってきたということでしかないのかもしれないが、そういところで工夫を凝らして利益を得ようとするのが企業努力なのだろうし、実際にそうやっていち早く新たな方式を適用したおかげで利益を得られた企業もある反面、旧来の方式にこだわって衰退した企業もあるのではないか。
 そういうところは外部からの政治的な操作ではどうにもできない部分だろうし、例えばコンピュータのハードウェアやソフトウェアの進歩によって事務職員が大幅に削減されるような事態となった時に、政治的に事務職員を救済するわけにはいかなかったのだろうし、いつの間にか企業から事務職員の数が減って行ってしまったわけで、事務職をやっていた従業員が他の部門に配置換えになったのかあるいはリストラされたかは、その企業内で判断されるようなことだろうから、そこまで行政や政治が介入することはできないわけだ。また単純に労働時間を規制できても労働の内容までは踏み込んで規制できない部分もあるだろうし、肉体的に苦痛を伴う労働ならわかりやすいが、精神的な苦痛を伴う労働はわかりにくいし、何の苦痛も伴わなくても精神的な荒廃をもたらす労働というのもあるだろうし、労働そのものが不快感を伴うのはどんな労働でも大なり小なりあって、それを我慢しながら働かなければならないわけだから、それにどこまで耐えられるかは個人差もあり、また同じ内容の労働でも周囲の環境によって不快感が増したり、それなりに耐えられたりすることもあるわけだから、一概に規制で片付くようなことでもなく、それで片付かないようなところまでは法律では規制できないわけで、企業の方でもなるべく従業員の心身に負担をかけないようなシステムを採用すればいいのだろうが、それ以前に優先させるのは収益を上げて利益を出すことだろうし、場合によっては心身ともに消耗しきった従業員を使い捨てにしながら利益を出すような成り行きになっているとしたら、そういう企業はブラック企業としてジャーナリズムや組合運動などから批判の槍玉に挙げられることにもなるだろうが、世の中がそういう企業を必要悪として受け入れるような成り行きになっているとすれば、労働者を犠牲にしながらそんな企業活動も労働基準法違反などで摘発を受けながらも、入れ替わり立ち替わり現れては消えるようなことが繰り返されるのではないか。そういう意味で法律というのは違反行為があることを前提として存在するわけで、実際に違反行為を摘発する役目の部署も設置されているわけだから、それは違反行為をなくすための法律なのではなく、それを取り締まるための法律だということは明らかであり、違反行為がなくなってしまえば法律そのものが存在する必要もないわけだ。またブラック企業は単独で存在しているわけではなく、合法的な活動をしているまともな企業が汚れ仕事をブラック企業に押し付けている場合もあるわけで、そうであるならまともな企業にとってはブラック企業がなくなってしまっては困る面も出てくるわけで、まさに必要悪としてのブラック企業が汚れ仕事を請け負ってくれるから、まともな企業の経済活動が成り立っている面もあるわけだ。
 またブラック企業でなくても、企業が活動していく中で時には無理なことをやらざるを得ない事態に直面することがあるだろうし、そんな時に陥りがちな成り行きとしては、不正行為に手を染めて製品やサービスの購入者を騙す手口が横行することにもなるわけだが、ある種の偽装や捏造などの不正行為は企業が行う経済活動にはつきものかもしれないし、システムの障害や納期の遅れや製造コストの高騰など、様々な要因が重なって結果的にそうなってしまう事例はいくらでもあるだろうし、偽装や捏造などを行わざるを得ない成り行きに至った時に、倫理観や道徳観などが働いてそれをやらないような選択肢が生じるかというと、結果としてそのような行為が明らかになった事例ではそんなことは起こらなかったわけで、それよりは利益を出すという経済的な事情が優先されるわけで、それは企業が行う経済活動なのだから当然のことだが、不正行為が発覚すれば当然メディアなどで批判されるだろうし、信用も落ちて売り上げも減って経済的にも多大な損失を被ることにもなるのだろうが、結果的に偽装や捏造を行わなければならなかったのだから、すでにその時点で偽装や捏造をやらざるを得ない状態に追い込まれていて、要するに偽装や捏造を行わなければ利益を出せない状況に陥ってしまうわけで、そんな苦境から脱するには偽装や捏造を行わなければならなかったわけだ。そうしなければ他者との販売競争などから脱落してしまう危険性があるわけだから、そういう意味で経営が傾きかけている企業は製品の強度の偽装やデータの捏造などに走りやすく、そんなことをやっている時点で経営的に追い込まれていて余裕がないわけだから、不正行為をやったとしてもそれが発覚しやすくなっていると言えるだろうか。経営が順調な企業でも何らかの事情でそれらの不正行為を行うこともあるだろうし、一概には言えないことかもしれないが、利益を求めて経済活動を行っている中では、たとえ倫理観や道徳観を持つように心がけているとしても、それはメディアなどを通して流布される企業イメージやそこから提供される製品やサービスのイメージとして宣伝される場合もあり、そうなると製品やサービスを売るための宣伝文句の一部となってしまい、そんな宣伝が功を奏してその企業や提供する製品やサービスが広く世の中で好印象を持たれて信用されたとしても、それらが売れて利益が出ているうちは確かにイメージとしての倫理観も道徳観も守られるかもしれないが、いったん何らかの事情で売れなくなって利益が出なくなってしまえば、いくら倫理観や道徳観を謳って製品やサービスを売ろうとしても意味のないことになってしまうだろうし、売れなくなって世間から見向きもされなくなってしまうようなら、結局そんなのはどうでもいいことになってしまうのではないか。そうなれば株主からもメディアからも業績が悪化してしまった責任を追及されるだろうし、そんな結果を恐れるあまり苦し紛れに偽装や捏造に手を染めてしまうのだろうし、結果的にそれが発覚してしまえば、さらに業績が悪化してしまうことになるわけだが、やはりそれは企業活動にはつきもののよくあるケースなのではないか。
 広い意味でモラルというものは、危機的な状況になった時にその存在意義が問われるものかもしれないが、別にそれが経済的な利益に結びつくわけでもないだろうし、では何に結びつくのかというと、それが道徳観なら人としての身の処し方になるのかもしれないし、またそれが倫理観なら社会の中での身の処し方になるのかもしれないが、あとでバレるような下手な悪あがきには加担しないで、清廉潔白な態度を保っていれば道徳的にも倫理的にも文句のつけようがないところだろうが、個人のレベルではそれが可能かもしれないが、組織の中ではそれは通用しない態度だろうし、できれば不正行為に手を染める前に何とかしなければならなかったのだろうが、それは結果論であって、組織的に不正行為をやる段になれば個人の力ではどうにもならないのだろうし、まずはそういうことをやってからでないと、それに加担し続けるか嫌気がさして内部告発をするような成り行きになってしまうかの行動には移行しないわけで、そしてそういうところで倫理観や道徳観が勝ってしまうと、情報が外部に漏れて不正行為が明るみに出てしまうわけで、不正行為をやっている側でもそうなる危険性があることを承知でやっているわけだから、それが明るみに出たらそれを主導した責任者が懲戒処分を受けるなりして辞職して、再発防止に取り組んで対策でも打ち出せば事態は幕引きとなるだろうし、またそれが起因して経営危機に陥っても、その企業が地域経済に欠かせない大企業なら簡単には潰せないから、取引先の銀行や業務提携している企業などが中心となって経営再建のための方策を打ち出したり、場合によっては他の同業の大手企業と合併したりして、他にも様々な生き残り策が検討されることになるのかもしれないが、やはりそれも企業活動にはつきもののよくあるケースだろうか。要するに組織的に不正行為を行なってそれが発覚するという過程が物事を前進させる原動力となるわけで、そういう過程がないとなかなか出口にはたどり着けずに、憂慮すべき閉塞状態が延々と続いてしまうわけだから、そうやって何らかの結論が導き出されただけでも、不正行為にも一定の成果があったと言えるのではないか。もちろんそれをやったことが明らかになってしまったのだから、責任者が処分されて組織から追放されてしまうのだろうが、それだけにとどまらずに、そのあおりを食って組織自体が解体されてしまう場合もあるのだろうが、仮にそうなったとしても、外国の企業も含めて同業他社にしてみれば競争相手が減って助かる面もあるのだろうし、そのような結果の良し悪しを論じる意義があるとも思えないし、結局企業が提供する製品やサービスに何らかの基準や規制があれば、その基準や規制を満たしながら利益を出すのが難しいから、そこに不正行為を犯す誘惑が生じてしまうのだろうし、ましてや同業種の企業間で熾烈な競争が行われていれば、競争において不利な状況にある企業は、不正を犯さないと競争から脱落して経営危機に陥る危険に絶えず直面しているのではないか。

 情報は言葉であっても映像や画像であっても視聴覚映像として意識され、映像として意識に取り込まれた情報に何らかの利用価値があるとみなせば、それを知識として記憶に定着させようとするのだろうが、そうやって得られた知識を活用する時にも、活用する価値があるかないかの判断が伴い、その価値があるかないかを判断するには他の情報との比較を伴うわけで、その比較できそうな他の情報は身の回りの環境から直接もたらされるか、メディアを通じて間接的にもたらされるかのどちらかだろうが、とりあえず意識は価値判断の材料を探そうとするわけで、そうやって人の活動には絶えず情報を得る行為がつきまとい、周囲から情報を得ながら活動している実態があるわけだろうが、逆に言えば人の活動は得られた情報に左右され、ある意味ではその人にもたらされる情報がその人の活動を規定し限定しているわけで、そうだとするとそれをさらに逆用して、都合のいい情報を与えることによって人の活動を制御しようとする思惑が生まれるわけだ。例えば欲望を煽り立てるような情報を提供して、その欲望を満たすような行為へと誘いこむのは、日々メディア上で行われている広告宣伝の常套手段だろうし、実際に様々な娯楽産業が宣伝活動によって欲望を煽り立てているわけで、煽り立てられている一般大衆の方でも、煽り立てられていることは重々承知の上で、むしろそのような煽り立てを楽しんでいて、多くの人たちが楽しめている限りで、娯楽産業などの経済活動が成り立っている実態があるわけで、そのような実態は多くの人々に娯楽を楽しめるような余暇があって、余暇を持てるだけの経済的な余裕があることを明らかにしているのだろうが、一方で都合のいい情報を提供して人の意識や活動を制御しようとしているのは娯楽産業だけではなく、何らかのメディアを通して情報を提供しようとしている人や団体は多かれ少なかれその手の制御を狙っているわけだろうし、それが企業であろうと政党であろうと行政機関であろうと、何らかのメッセージとして積極的に訴えかけているようなら、それを見聞した人々がその訴えかけに同調してほしいわけだし、実際にそのほとんどは人々の共感を呼ぶように仕立てられたメッセージ内容なのではないか。そしてなぜそれが共感を呼ぶのかといえばそれが社会の中で支配的な価値観として作用するような内容を含んでいるからだろうし、広く多くの人に認められている価値に同調するような内容だから共感を期待できるわけで、その共感できる部分を足がかりにして、自分たちがやろうとしている活動への支持が得られるのを期待しているわけだ。
 例えばそれが企業活動ならその企業が提供する製品やサービスを買って利用してほしいということだろうし、政党であれば選挙でその政党が推す候補者に投票してほしいということだろうし、行政機関であれば行政機関の指示に従ってほしいとなるだろうし、そんなことはわかりきっているように思われるのだが、そのような訴えかけを見聞する人たちにはあからさまにそうは思われないわけで、まずは良い印象を抱かせるようなメッセージ内容に共感したくなるのだろうし、実際にそうなるとすればそこで価値観の共有が起こっているわけだろうし、そうやって価値観を共有した上で商品を買うとか候補者に投票するとかの暗黙の指示内容に従うか否かの選択を迫る成り行きとなるわけだが、それはあくまでも強制的な命令ではなく人々の善意の発露として自発的に従うような成り行きを求めているわけで、そうすることによって人々にも共有する価値観に基づいた利益がもたらされるよう思われるわけだ。実際にそのような訴えかけに対して好印象を抱いているとすれば、自発的に行なったそのような行為とともに何らかの利益がもたらされたことを実感できるのではないか。それがどのような実感なのかといえばある種の満足感でしかないだろうが、自分たちが社会の中で共有している価値観に基づいて行為すれば満足感が得られるわけで、得られた利益とはそれ以上のことではなく、それは必ずしも金銭的な利益でなくても構わないわけで、実際に金銭的な利益を得るのは企業の方だろうし、また人々の善意の支援を背景として選挙で当選した政治家には、金銭的な利益の他にも有権者の代表として権力を行使する権利を得られたことにもなるだろうし、また行政機関としては市民の賛同を得て社会を管理する活動を継続できることを意味するだろうし、そんなふうにして人々の善意による自発的な賛同を得ることに成功すれば、少なくとも形の上では強制的に権力を行使するような暴力的な行為からは程遠い民主的かつ平和的なことができるわけで、そんなふうにして自分たちのやっている行為が社会の中で好印象を得ることに成功すれば、それだけ有利な立場になって、自分たちと競合していたり敵対している勢力との駆け引きなどにおいても、優位に事を運べる可能性も出てくるだろうし、周りの多くの支持を背景としてその場の主導権を握るようなことになれば、そうなっている時点で人々の活動を自分たちの都合に合わせて制御していることにもなるだろうし、人々の支持を得て人々を制御していることにでもなれば、場合によっては社会全体を思いのままに操っているような事態になるのかもしれないが、現実にはそれも程度の問題であり、ただ世論が構成する集団意識に同調しているだけの実態もあるのではないか。そしてその集団意識からもたらされる集団意志によって何らかの被害を受けてしまう人たちも社会の中には出てくるわけだ。
 実際に世の中で恣意的な情報を提供することによって人々の活動をコントロールしようとする思惑がどこまで成功しているかは、政治的な独裁国家以外では特定の勢力が一括して全ての情報を統制しているわけでもないから、結果的に成功している事例をいくつか挙げることができれば、それなりに成功している面もあるとしか言えない程度のことだろうが、中国などの事例を見ればわかるように、情報統制をやりたがる側は自分たちに都合の良い情報だけを提供したがり、その反対の都合の悪い情報は遮断したがるのはわかりきったことで、そうする理由としては例えば世の中に蔓延している風紀の乱れや賄賂の横行などを取り締まる上で、取り締まりが功を奏しているように見せたがるのであり、早い話が失敗した事例は隠したいわけだが、物理的に考えてその全てを取り締まることは不可能だろうし、大掛かりな取り締まりの光景がメディアを通じて伝えられるとしても、それは見せしめ的な効果を狙っているわけで、取り締まりを逃れて違法行為が行われている光景がメディアを通じて暴露されでもしたら、それでは汚職撲滅キャンペーンをやっている当局の面目が丸潰れとなるわけで、そうなると当局は暴露したメディアを反政府的な報道を行なったとして取り締まろうとするだろうし、そういうところで情報をコントロールしようとする当局の思惑は破綻するのかもしれず、メディアが正義感に駆られて違法行為を暴露したのに、それを弾圧するとは何事だ、と民衆の反感を買う可能性が出てくるわけで、実際にそういうところで情報を統制する目的と社会が共有する価値観を一致させるのが困難となるわけだ。当局が明確な基準を示して何らかの統制をやっているつもりであっても、やっているうちに何を煽り立てて何を抑制するかの基準が崩れてくる可能性があり、結果的に諸刃の剣のように効果と悪影響の両方が出てきてしまうのかもしれず、なぜそうなってしまうのかと言えば、そこで競合関係にある複数の勢力の間で取り扱う情報に差異や区別をもたらそうとする思惑や事情から、汚職撲滅キャンペーンをやっていることを民衆に伝えたい当局と、それを伝えるメディアという役割分担が、汚職撲滅という目的では競合してしまい、さらに事の真相や世の中の真の姿を伝えようとするメディアの目的と、当局にとって都合のいい情報だけを伝えさせようとする思惑がぶつかってしまうわけだ。そんなわけである面では連携しているとしても別の面では競合してしまい、さらに場合によっては敵対する面まで出てきてしまうのだから、取り扱う情報そのものの質や内容や傾向には、その情報を巡って関係し合う人や集団の間で必ずしも目的や価値の一致を見るわけではなく、互いの利害が一致しなければ伝えたい内容を巡って衝突さえ起こってしまうのだろうから、それを単一の基準で統制すること自体に無理が生じてくるのではないか。
 では情報を統制するのは諦めるべきかというと、そんなことはないわけで、統制すること自体が権力の行使なのだから、権力を行使しようとする側が諦めるわけがなく、統制しようとする側は絶えず節度をわきまえない逸脱行為を取り締まることによって、統治している人々の言動や行動に一貫性が生じることを目指すわけで、またそうすることで絶えず統制する基準を明確にしようとしているわけで、当局が示す基準に適合した情報だけを人々に与えようとして、それが世の中で価値判断の基準となる価値観であることを示そうとする表れとなり、示された基準に則った適切な情報だけを社会に流通させることで統治している社会の統一性や一貫性を維持しようとするのではないか。そのような行為は逸脱を容認できないわけで、逸脱から生じる世の中の変化を押しとどめようとする作用をもたらすのかもしれないし、そんなふうに厳格に統制しすぎると流通する情報に変化がなくなって社会の活力を削いで停滞を招き、それが経済活動の停滞にも直結する可能性まで出てくるのかもしれず、もちろん統制する側に経済を停滞させようとする意図はないはずだろうが、そもそも経済活動が活発化したり活性化する現象は、世の中で絶えず新たな価値が創造されて、その価値観を担った製品やサービスが世の中で流通するような状況のことを言うのだろうし、それはとりもなおさず従来からある価値基準の変更を求めていて、それに伴って価値を体現する情報も一新されなければならず、そうやって人々の目先を変えるような新商品が頻繁に発売されることで、それとともに示される新たな価値基準を世の中に広めようとする試みにも結びつくわけで、それもまた商品の購買意欲という欲望を煽り立てる情報のコントロールにも繋がるだろうが、それとは別次元で行われる当局が示す価値基準を逸脱する行為を取り締まるような政治的な情報統制とは相容れないわけで、それは政治的な情報統制とは別次元で新たな経済的な価値観を社会に広めるようなやり方となり、そうでなくても商品開発は同じ価値観にとどまっていては活動が停滞してしまい、経済活動を継続しながら利益を出すには延々と新商品を社会に送り込まなければならず、それは企業活動の宿命とも言える終わりのない成り行きを示しているのだろうが、そうなると統制するのとは逆の意味で無理が生じてくるように思われるのだが、一方は情報を統制して同じ価値観を頑なに守るように仕向けてきて、もう一方はそれとは別次元で延々と新しい価値観を生み出そうとしてくるような動作が、同じレベルで作動しているわけではないものの、要するに逆向きに噛み合わないことをやっていて、たとえ両者が別々に作動していても一向に構わず、何の不都合も感じさせないのかもしれないし、それに気づいていなくても構わないわけで、とりたてて問題視するようなことでもないとすれば、なぜそうなってしまうのかその理由を探りたくなってくるのかもしれないが、たぶんそこに合理的な理由などないのかもしれず、たまたまそうなっているだけで、そういう経緯や事情が歴史的に生じていて、そこに筋の通った理屈があるわけではなく、何らかの政治や経済の理論に基づいてそうなっているわけでもなく、ただそんな成り行きが結果的に社会にもたらされているわけだ。実際にそんな現象に伴って世の中が形成されていて、そんな状況が成り立っている現状があるのだとすると、それをどう捉えようとしても、納得がいくような結論がもたらされることはないのではないか。
 そんなふうにして政治と経済の面で活動が噛み合っていない面もあるわけだが、それでも何か現状で世の中がうまくいっている面があるとしたら、それは政治的にも経済的にも様々な不祥事が明らかになることだろうし、しかも不祥事が明らかになっても世の中が変わる気配が見られないことであり、本当に変わらないのかどうかはよくわからないにしても、そういうところでメディア上で危機感を煽っている人たちの思惑通りには行っていないことは確かで、それが何を意味するのかは人によっても立場によっても見解が分かれるところかもしれないが、人の思惑と世の中の変化とは必ずしも重なるところはないのかもしれず、変わるとしたら思惑からずれたところで変わるのかもしれず、誰もが気づかないところでいつの間にか変化が進行していて、それによって現状で危機感を煽っている人たちの当てが外れるような事態となっているのかもしれないし、それは実際に世の中を変えようとして、様々な方面から作用を及ぼしている人や何らかの勢力についても言えることかもしれないが、その中で誰の予言や不安が的中しようと、それは結果的にそう思われてしまうことでしかなく、誰もがそうなった結果を評価したり批判することしかできないわけで、それはいつもすでに起こってしまったことであり、これから起ころうとしていることではなく、実際にこれから何が起こるのかは常に未定のままでしかないだろうか。もちろんその未定を決定に変更すべく様々な方面で様々な予定が組まれていることは確かであり、予定通りに滞りなく物事が進行すれば、それに反対している人たち以外は誰も困らないのかもしれないが、予定を組んでいる人たちはそうなることを目指して、世の中の各方面に様々な働きかけを行なっているのだろうし、そんな努力が功を奏して予定通りに物事が進行して期待通りの結果が得られたら、そうなることを目指した様々な方面への働きかけも無駄でなかったことになって、予定を組んだ人たちの努力が実を結んだことが証明されてしまうわけだが、ではそれを阻止しようとする行為が報われることはないのだろうか。たぶんそれは報われなくても構わないような行為なのではないか。人が集団で行う作業というのはいつも予定を立てながら計画的に行われるのであり、作業の途中で内外からもたらされる計画を狂わせるような作用と格闘して、それを退けながら計画を推し進めようとするわけで、そういう意味で政治活動にも企業活動にも計画が付き物となってくるのだろうし、それらの活動を推し進めている勢力は日夜それらの計画を阻止しようとする勢力と戦っているわけだ。
 たぶん計画を阻止しようとする勢力に欠けているのは、計画を立案してそれを推し進めようとする行為であり、またそれは計画をメディアを介してプレゼンテーションする能力でもあって、さらにそれを世間に信用させる力も欠けているのかもしれないが、本来ならそれが世の中を変えようとする意志の表われとなるべきだろうし、誰も現状のままでいいとは思えないなら、現状とは違う未来像を示すべきだろうが、たとえそれが示されているとしても、世間から信用されなければ内容も正確には伝わらないのかもしれないし、また安直なレッテル貼りなどによって内容が正確に伝わるのを阻止するような作用も働いてるのかもしれないが、そうなるとどうやれば世の中の人々から信用されて支持を得られるような未来像を提示することができるのかとなるのかもしれないが、そもそもそんな都合のいい未来像があるとは思えないわけで、実際にやるべきことはそんな大げさなことではなく、まずは現状でできそうなことを提示することだろうか。だがそうなると夢のない話となってしまい、できそうなことをやっても現状の延長でしかないだろうし、そんなことには誰も興味を持たないのかもしれず、それでは宣伝にはならないだろうし、世間の支持や信頼を得ることも不可能だろうか。だがそうなると宣伝すべきなのはすぐには実現できそうもない空疎な夢物語となってしまい、そんな内容ではメディアからも世間からも嘲笑され馬鹿にされてしまうことになるだろうか。そのどちらでもないとすると、たとえば現状でできそうなこととできそうもない夢物語の両方を織り交ぜながら語れば、メディアも世間も騙すことができるだろうか。実際の政治宣伝とは大方そんなものだと相場が決まっていて、たぶん宣伝から信用が生まれるのではなく、実際に世の中の様々な勢力を味方につけていることから信用されるのだろうし、そんな信用から現状の世の中が構成されているわけだから、味方についている各勢力も政治勢力を介して様々な便宜を図ってもらっている限りで味方についているのだろうし、それらの勢力は実質的にはひとかたまりとなって利害共同体を形成しているともいえるのだろうが、そうなっているからこそ政治的にも経済的にも様々な不祥事が明らかとなっても、それがきっかけとなってそれらの勢力が衰退する兆しは見えないし、それによって世の中が変わる気配も感じられないし、それらの不祥事を行なった勢力を批判する人たちにも広範な支持が集まるわけでもなく、いくら批判しても無駄なようにも思われてしまうのかもしれないが、だからと言って批判しないわけにはいかないだろうし、実際に様々な方面から批判がなされているわけだが、たぶんそんな苦い思いからずれたところで誰も気づかない何かが作用して、今も世の中が変わり続けているのかもしれないし、そのような変化は人々の実感を置き去りにするような変化なのかもしれず、人々の意識はいつもその時代を覆っている集団意識のようなものに囚われていて、いつも実感はそこからしか感じ取れないから、変化に気づけないのも無理はないのかもしれない。

 制度的に決められていることと、組織の中で担当者の裁量で融通が利く範囲で行われることとの間で食い違いが生じることは、制度の硬直化を避けるのに必要な場合があり、その場の状況に応じて人の判断で制度の柔軟で弾力的な運用を行えば、個々の事例の偏差を無視して杓子定規に物事を進めてしまう制度そのものが含んでいるある種の不条理性を減らす効果をもたらせるのかもしれない。だがその柔軟で弾力的な運用が制度を悪用していると見なされると、職権を乱用しているような疑いをかけられて、場合によっては担当者が処罰の対象となってしまうかもしれないし、そのような行為が良く見られるか悪く見られるかは、そのような行為の結果がどうなるかにもよるだろうが、そういう意味で制度的に決められることは大雑把な枠組みにとどめられるべきなのかもしれず、細かい点まで詳細に明文化して決めてしまうと運用の面で融通が利かなくなってしまい、かえってその硬直化を伴うような弊害が顕在化してきてしまい、その矛盾や不都合な点を突いて制度から外れるような行為が世の中に蔓延して常態化してしまうと、制度そのものが形骸化してしまうし、制度を用いて社会を統治しようとする試み自体が破綻してしまうのではないか。そういう意味で法律などの決まりごとを改定して制度の変革を目指す際には、その運用を想定する上で細心の注意を払わなければならないし、制度を利用して権力を行使する側に何らかの制限を設けることも重要なのかもしれないが、それ以前に制度自体に絶対的な権威を与えないことも重要で、何よりも制度を絶対視するような教条主義に陥らせないための工夫が求められているのかもしれず、原則的には民衆が制度に従わなければならない面が強調されるにしても、制度への服従の強要は避けられるべきで、そういう部分で権力を行使する側にも行使される側にも、その運用や適用などの際に知性や理性を働かせる余地が生じるような制度にする必要があるとすれば、少なくともただ制度に従ってさえいれば、他のことはおろそかにしても構わないような制度にはすべきではないだろうし、制度を利用することによって、世の中で行われている様々な行為や活動に伴って生じる齟齬や軋轢が完全に解消するとまではいかないものの、対立し敵対し合う双方の間で一定の妥協が図られる程度には活用できることが望ましいのではないか。そのような調停や調整を目指すのが制度の運用としては妥当な線だと言えるのかもしれず、制度を盾にして一方からもう一方への有無を言わせぬ強制的な権力の行使は避けられるべきで、最低限でも双方の間での交渉の余地が残されていた方が、それだけ妥協できる可能性も生まれるのではないか。
 人が個人でも集団でも何らかの行為に及ぶ時には、そういうことが行われるに際してそれなりにその行為を正当化するような成り行きが世の中に生じているわけで、それを世の中の状況がもたらしているわけだろうし、そこにそのような行為を行なえる可能性が生じているわけだから、そうなっている限りで制度やその制度を規定している法律の類いには、そのような行為をやめさせることはできず、やってしまった後からそれが違法行為だと見なされると、制度の保全を旨とする警察権力などによってそのような行為が取り締まりの対象となってしまうわけだが、それ以前に法律が禁止している行為は大抵行うことができる行為なのだろうし、その良し悪しはともかく実際に世の中で行われていて、そのような行為が何らかの被害や損害をもたらしているから禁止されているわけだろうが、現実にそんなことが行われている実態があるとすると、そのような被害や損害を巡って訴訟沙汰が起きているのはもちろんのこと、人々を被害や損害から守るような行為も行われていて、また被害や損害に遭ってしまったらそれを償うような行為も行われていて、さらに場合によっては被害や損害を伴うような行為に及ぶのを未然に防ぐような試みも行われているわけで、それら全てが法律によって規定されているわけではなく、中には恣意性を伴う金銭的な契約であったり、また善意から生じるような無償の行為であったりするわけで、それを制度による管理の網目では捉えきれないような行為まで含めて、世の中では様々なことが様々な対象や行為に対応する形で行われているわけだろうが、例えば法律やそれが規定している制度が、社会の成熟が進むにつれて次第に形骸化してゆき、形骸化の進行とともに次第に禁止事項も減っていって、その分そこで暮らす市民に自由な裁量が与えられるようになるという幻想がもたらされるのが、理想主義的なリベラリズムの行き着く先にある結論なのかもしれないが、たぶんそんな能天気な幻想を抱いていた方が、それを拒絶して性悪説的な立場を取るよりは気楽になれるのかもしれず、実際に社会を管理する上で至れり尽くせりの対応を目指して、制度に伴って生じる様々な手続きが次第に複雑化していくような傾向は、複雑すぎて人が対応できなくなるような事態を生じさせるのかもしれないし、それ自体が制度の形骸化を物語っているのかもしれないが、いくらきめ細かに法律を定めてその法律を守るように権力を行使しようとしても、行使する側でも守らせようとしている法律自体を把握できなくなる可能性も出てくるわけで、要するに権力を行使しようとする側とそれを受け入れさせられる側の両面から、形骸化が制度の複雑化とともに進んでゆき、そんな形骸化の度合いに応じて人々が自由に振る舞える領域も次第に増えていく成り行きとなるだろうか。だがそれでは単に人々の活動の複雑化をもたらすだけで、意識の中で行為や行動の多様化を自由の増大と取り違えているだけなのかもしれない。
 社会の中で人や物や情報などを管理する制度は何も公的な議会や行政機関だけが作って管理しているわけではなく、企業が提供する製品やサービスを介しても作られていて、企業はそれを利用する人や他の企業や様々な団体などと交わす契約に基づいて管理しているわけで、それは企業内で行われる人や物や情報などの管理だけではなく、製品やサービスを提供している顧客にも及んでいて、公的な制度が定める法的な枠内で合法的な契約を結ぶことによって、そのような管理が行われているわけだが、一般的に言ってそれは管理サービスの類いになるだろうし、普通は顧客が企業に金銭を払って管理してもらうことになるわけだから、立場上は顧客の方が企業よりは上位に位置されるわけで、顧客はたとえ契約期間内でも決められた額の違約金などを払えば自由に解約することができるし、企業の方でも契約条項に違反するようなことを顧客が行えば解約できるような規約を設けて、契約の際に顧客にその趣旨に関して同意を求めているわけだろうし、実質的には双方ともにそれなりに対等な関係で契約を交わすわけだ。そしてそのような自由な契約を交わすことができる前提条件として、それを法的に支える公的な制度があるわけで、議会で制定されて行政が管理している公的な制度の裏付けがないと、経済活動の中で企業とその顧客の間で交わされる売買契約や賃貸契約や管理契約などの様々な契約も法的には効力を失ってしまうわけだ。もっとも契約を交わす段階では双方ともそこまでは考えていないだろうし、何かトラブルが起こった時にだけ法的な問題が生じるわけで、それ以外の面では信用取引の意味合いが大きく、それも契約内容の程度によるだろうが、双方ともにそれなりに懐疑の念を抱きつつ相手側を調査しながら交渉してみて、信用に足る調査結果が出揃ったところで、相手が信用できると判断された時に契約が結ばれる運びとなるのではないか。そんなふうに制度は制度として契約に関する交渉が順調に推移して契約が成立してからはそれなりに一定の動作と機能を果たすわけだが、契約が成立するまでの間にある交渉の期間が重要なのだろうし、そこで双方の間でまたはそれと競合する第三者との間でも駆け引きが行われるのだろうし、短絡的に制度の良し悪しを批判してみても、やはりそれは結果論でしかなく、まずはそのような制度を構築するまでには様々な紆余曲折があって、また交渉や駆け引きの末に双方が納得した上で契約を結んで制度を機能させるまでの間で生じる紆余曲折もあるわけで、さらに制度がうまく機能しない場合は制度に手直しを施さなければならなくなって、またそれをやる過程でも紆余曲折が生じるわけで、結局そんなことをやっている期間に多大な労力と経費がかかってしまうのだろうし、そういうところに有益な人的資源が集中的に投入されるのが現代的な企業の特質なのではないか。
 そしてそのような契約が締結されて制度がシステム的に動作し始めれば、あとは機械的に事態が進行していく限りで単純労働や機械の駆動力が必要となり、そういうところではひたすらオートメーション化が進行していくのだろうし、そこから考えると人間的な労働というのは、駆け引きや交渉の場で特に必要とされるのかもしれず、経済活動の中で人は他の人と対峙してコミュニケーションを図る時に人間的な労働を行なっていることになるわけで、機械に組み込まれて決められた動作を繰り返すような労働は、人間的な労働からは疎外されていることになるのかもしれないが、そういう部分での労働がAI技術などの進展に伴って全面的に機械化されるようになれば、人の労働はもはや人と人とのコミュニケーションに関係する分野だけとなってしまうだろうか。現状では全面的にそうはなっていないし、人と人とのコミュニケーションに代えて人と人工知能とのコミュニケーションも行われるような状況となっている面もあるのだから、一概に肉体労働と頭脳労働を差別化できないわけだが、何らかの制度を維持するには両方が必要であることは確かで、労働そのものが両者が入り混じっている面もあるだろうから、何事も一方的には動作しないし、どのような状況下でも何らかの均衡を保とうとするバランス感覚が働いていることは確かだろうし、制度が制度として動作している限りで、制度を維持継続させていくために必要な労働が生じているわけで、それが制度を管理点検する労働となるのだろうし、そんな労働の中で人も制度に組み込まれている面がある限りで、そこでは必ず人と人との間でコミュニケーションが図られることになるわけで、それは必ずしも機械的な単純作業とはならず、少なくとも現状ではそのような場面で人の労働が必要となっているわけだ。そこが一方的で全面的な機械化とは異なる傾向を示しているわけだが、そういうところで機械にも人工知能にも限界が露呈しているのかもしれず、そんなふうに制度のシステム的な動作が破綻してしまう箇所で、人が何とか手動でやりくりしながら制度を保とうとしている部分があって、ある意味ではそういう部分が人と人とが面と向かい合ってやる交渉であり駆け引きなのかもしれず、それなしには制度の維持もままならないなら、制度はシステム的に完璧なものとはなり難い部分があるということであり、制度を制度として機能させようとする限りで、人手を要する部分がいつまでも残ってしまうわけで、またコスト的にもある一定レベルを超えてしまうと機械でやるよりは人力でやる方が安上がりな部分も出てくるのかもしれないし、そういうところでも全ての工程での自動化を阻んでいる理由が生じているのではないか。簡単にいうなら人の経験と勘に頼るような労働がある限りで、そういう部分は制度的なシステム化には不向きだと言えるだろうか。
 制度はそれを利用できる人には便利に思われて、何らかの利益をもたらすようにも思われるが、利用できない人には逆に弊害をもたらして、利用できないことから損害や被害まで生じる危険があるのかも知れない。要するに制度を利用できる人とできない人との間で格差をもたらすわけだが、また制度を利用できるからといって制度の利用者である限りは、制度の構築や管理などには加われないわけで、制度を構築したり管理する人と制度を利用するだけの人との間でも格差が生じるわけで、制度の構築者や管理者と制度の利用者との間には権限の違いが生じていて、それを利用して制度を構築したり管理する人は制度を利用するだけの人に権力を行使できるわけで、制度の利用者にとどまる限りは制度の構築者や管理者に従わなければならず、そこに階層構造が生まれて、最上位の身分に属するのが制度の構築者や管理者であり、次に制度を利用するだけの人が続き、最下位に制度を利用できない人が位置づけられて、社会が一つの制度で統一されているとすれば、そのような社会は身分社会になるしかないのかもしれないが、幸い現状では複数の制度が複雑に絡み合いながら社会が構成されているので、ある制度の構築者や管理者が別の制度では利用者や利用できない状態にとどまる場合もあるわけで、それでも行政機構から生じる制度や資本主義経済から生じる制度などが社会の主流をなしている限りで、そのような制度の構築者や管理者が社会の中で優位な立場を占めていることは否めないが、それが絶対的に固定化された立場ではないわけだから、ある程度の流動性はあるわけで、その範囲内で主導権争いが起こっていて、政治的にも経済的にも主導権を握る勢力の交代劇が起こる可能性はあるわけだ。実際に政権交代のようなはっきりした事態が起こることは稀であっても、様々な分野で新たに制度の構築者や管理者になる人はいくらでもいるのだろうし、仮になったとしてもそこで強引な権力の行使が行われるような事態にはならない場合も多いのかもしれず、そこで目立った不都合や被害が顕在化しない限りは、特定の制度の利用者だけに特別な利益がもたらされるわけでもなく、また制度の種類によっては株式投資などのように、同じ利用者の立場であっても利益を得る人もいれば損失を出す人も出てくるわけで、誰がどのような制度を利用して利益を出して、他のどのような制度を利用して損失を出しているのかが錯綜しているうちは、社会の中でそれほど目立った格差は生じないのかもしれないが、メディア上で経済格差を強調するような言説が目立っているとすれば、確かに特定の制度を利用して利益を上げている人がいる一方で、その制度を利用できない人が不利益を被っている実態はあるのかもしれない。
 国家的な視点に立つなら行政に関係する制度によって、すべての国民にある程度の利益がもたらされるようになれば理想に近づくのかも知れないが、それを目指すために考案されたベーシックインカムにしても、実際に試してみてその有効性が明らかにならない限りは世界中に普及はしないだろうし、実際に試すにしても制度の構築者や管理者がそれを悪用したり強引な権力の行使に及ぶ可能性はあるわけで、それに対して歯止めをかけられるような法律的な工夫が必要となってくるのではないか。またそのような包括的で支配的な制度では制度の構築者や管理者に権限や権力が集中しがちになるから、そうではなく個々の権力を弱めるために部分的で分散した複数の制度の複雑な絡み合いをより一層促すには、中央集権的な国家体制ではなく地方分権的な政治体制にすべきかも知れないし、それも政治的かつ行政的な枠組みだけではなく、経済的な枠組みの中で力の分散的な効果をもたらすことを考えるべきかも知れないが、それに関しては世界中で活動するグローバル企業に経済的な力の集中などの脅威を感じる人が多いのかも知れず、それを敵視するのも無理もないだろうが、一方で政治的かつ経済的な面以外で力を強める方向での模索も必要となってくるのかも知れないし、それに関しては今のところはありふれたことしか言えないが、そもそも人の行動形態は周囲の環境から情報を入手して、その情報を知識として活かしながら行動する傾向にあるわけだから、個人として活動するにしても集団として活動するにしても、知的かつ理性的に振る舞うように心がけることが肝要であることは言うまでもなく、それを怠っている度合いが高いほど物事を単純化して解釈したり安易な煽動に乗せられて、特定の政治勢力による政治宣伝や企業の商品宣伝などの誘惑に屈して、それらの勢力の権力の拡大に協力してしまうことになるわけで、そうなると政治的あるいは経済的な権力の一極集中を招く危険性が高まってしまうわけで、その結果がただ制度の利用者となって制度に従うだけの存在となったり、それに反抗すれば制度を利用できなくなって被害や損害を被るだけとなってしまうわけで、そうなってしまうのを避けるにはバランス感覚を働かせて、特定の政治勢力や企業だけに権力や利益を集中させないような配慮が求められるわけで、政治的に可能なことはとりあえず選挙で力が分散する結果をもたらすような投票を心がけることだろうし、経済的に可能なのは消費者として特定の企業の商品だけを買ったりサービスを利用しないように心がけることかもしれないが、特定の政治勢力の政治宣伝や特定の企業の商品宣伝などの誘惑に屈してしまうとそういう行動がとれなくなってしまうわけで、結局そういうところで知性や理性が働くように心がけるしかないのではないか。

 たぶんネット上の検索サービスが世界中でいくつもあるわけではなく、最大手の検索サービスが独占状態なのは周知の事実であり、それを提供している企業が検索サービスに絡めて莫大な額の広告収入を稼いでいるのも周知の事実ではあるわけだが、その企業が手がけている無料のメールサービスなどから得られる個人情報を基にして何らかの情報のコントロールが行われているとしても、それは個人の好みに合わせて広告を効率的に配信する必要があるからだろうし、手がけているニュースサイトでその国の体制側の印象操作に手を貸して政治宣伝などに加担しているとしても、やはりそれだけでは企業が利用者に直接の政治的な権力を行使しているとまでは考えられず、経済的な利益を得る目的以外で何らかの目論見があろうとなかろうと、それは枝葉末節なレベルでのことかもしれないし、それが高じて本業以外の様々な分野へと事業を広げて他の企業と競合関係に至るとしても、それは経済的な利益を求めて繰り広げられる企業間競争の類いとなるだけだろうし、企業がどれほどの野心を抱いて政治や行政などと癒着しようと、経済的な利益を得ることが企業にとっての主要な目的であることは言うまでもなく、政治の場での権力の行使とは直接は関わり合いのないことなのかもしれない。その辺のところで邪推してグローバル企業に敵意を抱いてみても、日頃からネット上でその企業の検索サービスやメールサービスなどを利用している実態は変わらず、大勢の人がそれらのサービスを拒否しなければ企業に打撃を与えることはできないだろうし、そうならなければニュースサイトや動画配信サイトで記事や評論を装った不快な政治宣伝や煽動を閲覧しても、そんなものだと思うしかないだろうし、不快に思っている限りでそんな印象操作に騙されているわけでもないわけだから、それを取り立てて深刻な事態だと思う必要はないわけで、確かにそんなものを真に受けて翼賛体制に取り込まれてしまう人も大勢いることは確かだろうし、実際にそんな宣伝や煽動によって多少なりとも体制側の政治勢力が優位を保っていようと、もしかしたらそれも枝葉末節なことなのかもしれず、本質は別のところにあるのかもしれない。たぶん事の本質は様々な枝葉末節な出来事や行為の積み重なりから構成されていて、それらは意識外から作用する社会情勢や政治状況からもたらされていて、それらがメディアというフィルターを通して恣意的に意識されてしまうから、現状のありのままの姿を見失わせているのかもしれないし、メディアを通して世界を実感する心地よさに慣れてしまって、意識がありのままの現状を受け入れるのを拒否するような事態をもたらしているのではないか。しかしありのままの現状とは何なのか。意識が体験しつつある見たまま感じたままの現状がありのままの現状とはどう違うのだろうか。別にそれの何が違うわけでもなく、本当にありのままの現状を意識できないとすればそれはフィクションと考えても良さそうで、そんなのは空想上の産物であり、逆に意識できるような現状しか現状でないと考えればその通りで、そんなありもしない現状など考える必要はないのかもしれないが、空想できる範囲で考えるとすれば現状はどんな空想をもたらすのだろうか。
 例えば意識は不都合な事実をそれと自覚せずに隠そうとしているのかもしれず、そうなると不都合な事実とは拒否すべき現実であり、場合によっては非難され糾弾されるべき現状となるのだろうし、それに代わって伝えるべきは意識にとって都合の良いことばかりかもしれないし、何らかの政治勢力にとってそれは積極的に宣伝して然るべきことでもあり、結局それは彼らがそれまでに行なってきたことからもたらされた成果でもあり、そんな成果をメディアを通じて喧伝すれば世論の支持を得られると期待されるのだろうし、すでにそんなことを行なっている時点で意識がありのままの現状からは遠ざかっていて、それを客観的に考えるなら不都合な事実を隠して都合の良い成果を強調しているのがありのままの現状なのであり、そして隠したままにしておきたい不都合な事実を暴こうとするジャーナリストなどを徹底的に叩かなければ、意識が肯定したいありのままの現状を保てないと判断するなら、実際にそのような体制批判を封じ込めるために情報統制を行いたくなるわけだが、そのためにはさらなる体制の強化と法整備が必要となってくるだろうか。果たしてそれが現状で問われていることだとすれば、民衆には選挙でどのような選択肢が残されているのだろうか。たぶん問われているのはそれ以外にもいくらでもあるのかもしれないが、現状を無視して強引に恣意的な問いを設定したところでフィクションにしかならないだろうし、他に何か政治的に問われていることがあるなどと考えること自体が、ありのままの現状から逸脱した空想の産物でしかないのかもしれないが、ありのままの現状では何が問われているというよりは、何らかの政治的な成果を強調したい体制側の政治勢力に対して、そんな成果など虚構に過ぎないと批判したい政治勢力やジャーナリストなどがいるわけで、だからと言ってそこで演じられている対立や争いを真に受けるかどうかが問われているわけでもなく、それとは別に判断すべきことがあるわけでもない。ただ現状の中で行われている安易な政治宣伝や煽動には乗らない方が知性的かつ理性的な態度を保っていられるだろうし、選挙ではその辺を考慮して投票すればいいだけなのかもしれないが、それによって取り立てて平和な現状が崩れ去るわけでもなく、意識が実感している現状の虚構性が明らかになるわけでもない。たぶん制度的には誰がどんな政治勢力に投票しても構わないのであり、投票結果からそれなりの状況がもたらされようと、そんな状況下で人の暮らしが成り立たなくなるわけでもなく、それはこれまでもそうであったし、これからもそれほど変わらないことなのではないか。だから危機感を煽る論調とは裏腹に何も政治的な選択を深刻に考えることではなく、ことによると投票によって誰を選ぼうと、それは民衆の暮らし向きの中では枝葉末節なことにしかならないのかもしれないが、そんな枝葉末節なことの積み重なりが現状を構成しているのだとすれば、特に支持する勢力もないのに投票するのは不快なことかもしれないが、そんな不快感に逆らって地道に枝葉末節な行為を積み重ねていけば、それなりにありのままの現状を実感できるようになるのかもしれない。
 だが現状の中で何を実感できるとしても視覚に頼り過ぎると、盲目などという比喩では説明できないような間抜けさ加減が、見えているものを見ないように振る舞う態度に伴って生じてしまうのかもしれないが、人はなぜ恣意的に見えているものを見ないように心がけながら語ろうとするのだろうか。確かに社会の中にはそれに関して語ることが憚られるような対象があるのかもしれないし、たぶんそれを語ってしまうと語っている自らを正当化できなくなってしまうのかもしれず、何とかそれについては語らずに物事を説明しようとして、結果的に見苦しくも見え透いた嘘や捏造によって自らの正当性を身に纏うような醜態を晒してしまうのかもしれないが、果たして現状では誰が見苦しい醜態を晒していることになるのだろうか。それに関しては案外目先の勝負にこだわった側がそうなってしまうのかもしれず、公衆の面前で醜態を晒してでも勝ちは勝ちであり、それでも勝利は勝利として肯定すべきかもしれないし、勝利とともに満足感も利益も得られたと思っておいた方が気分がいいだろうし、その点で汚い手口を使ってでも勝利を得られたら、そんな自らの醜悪な相貌を見ないように心がけるのも、精神衛生上は好ましい態度となるのかもしれないし、何よりもそんなことにさえ気づかないでいられたらなおのこと快適に暮らしていけるだろうし、それに関してはあまり利口になってまずいわけで、たとえ高尚な理性や知性を身につけたところで、自らがやっていることで自己嫌悪に陥ってしまうようでは、かえってそれらが行動の邪魔になったり精神的な重荷になってしまうわけで、そういう面では世の中の情勢に適応するには理性や知性が不要となる場合もあるわけで、少々のことに過剰反応するようなあまりにも神経質な繊細さよりは、見えているものに気づかなくても一向に気にしないような鈍感さが時には必要となってくるだろうか。だからそういう鈍感さは盲目などという比喩では説明できない状態から生じてくるのだろうし、しかも鈍感であるからこそ自らがやっていることを意識しないまま結果的に大それたことをやってしまえる可能性が出てくるのかもしれないし、かえって周りの状況が見えすぎている人にはやっても無駄だと思われてしまうようなことでも、無駄だと思わずにやっているうちに、試行錯誤や紆余曲折を経た末に結果的に無駄でないことをやっている状態にたどり着けるのかもしれず、そういう意味で何だかわからないことをやっている感覚が、後々成功や勝利への重要と鍵となってくる場合もあるわけで、何かをやっているうちに次第にやっていることへの理解が深まってくれば、それについて学びながら何かをやっていることにもなるわけで、そういう意味でも焦って性急に勝敗という結論へと至ろうとしない方がいいのだろうし、たとえ途中で思わぬ横道に逸れてしまうような場合でも、辛抱強くその道を辿ってみることが肝要なのかもしれない。
 そんなわけで人は目先の勝利にこだわっている限りで、その勝利と引き換えにして失ってしまうものについては鈍感にならざるを得ない。別にそんなものなど要らないとも思わずに失ってしまうものがあるのだろうし、場合によっては死ぬまでそれに気づかないことだってあるのかもしれないし、ならばそんなものなどどうでもいいものでしかないのだろうが、人によってはそういうものを切実に欲している場合もあるわけで、中には欲しているという自覚すらなしに欲している場合さえあるのかもしれず、それが世間でも無意味で無駄なこだわりであるとされたら、意味のない欲望でしかなくなってしまうだろうが、それを自覚していなければ別に世間体を気にする必要もないわけで、それと気づかないうちに何かをやっているとしたら、やっていることに気づかない方がそのような行為を貫徹できる可能性が高くなるのではないか。それは初志貫徹といった単純なことではなく、行き先の定まらない成り行きの中で解決へと繋がる糸口をつかむようなことなのかもしれず、しかもそれを解決だとも思わずに結果的に何かを成し遂げているようなことにでもなれば、そんな結果自体がそれをやり通した人の意識とも無関係となる可能性もあるわけで、別にそれを意識して目指しているわけではなくても、結果的に何らかの成果が上がるようなら、それはそれで愉快な成り行きなのかもしれないが、その渦中にいる当人にはそんな実感など湧いてこないだろうし、何だかわからないが悪戦苦闘を繰り返した挙句に非業の最期を遂げてしまえば、それでは悲劇の主人公となってしまい、当人には愉快でも何でもないこととなってしまうだろうが、案外そんな人の犠牲によって世の中が栄えている面もあるのかもしれないし、そんな犠牲者の自覚もないまま心身をすり減らしながら死んでいく人が多いほど、それだけ社会の変革も進んでいくのかもしれないが、逆に誰もが自己保身に汲々としていて犠牲になることを拒んでいるような状況だと、世の中の停滞を招いて多くの人が惰眠や虚栄を貪りながらも気づかないうちに社会の腐敗や荒廃が進行していくのかもしれない。だからと言って自覚して何をやるような成り行きにもなっていないとすれば、そんな状況の中では進んで誰かが社会の犠牲になるようなことでもないわけで、その辺を勘違いして自爆攻撃のようなことをやっても、それはただの無駄死にであり、あからさまなテロでなければ何が自爆攻撃だとも思えないだろうが、悲壮感を漂わせて危機感を抱いて深刻な事態への懸念ばかり示しても何にもならないわけで、そんな態度で凝り固まっている時点で既に状況的に追い込まれているのだろうし、見えているものを見ないように振る舞おうとしているわけで、結局そこで演じられている茶番劇を悲劇と勘違いしてしまうようでは、やはり神経質な繊細さを売りにして大げさな終末論へと向かうしかないだろうか。
 はたから見れば何でもないことにこだわっているように見えるのは、些細な違いを大げさに誇張して伝える商品宣伝による影響が大きいのかもしれないし、何でもないこと以外に何があるとも思えなければ、何でもないことにこだわるしかないのかもしれないが、こだわっている限りでそれは何でもないことではないのだろうし、例えば同じ用途で使う商品であっても、特定のブランドを選んでいるとすれば、その選択を正当化するためのこだわりが必要となってくるのだろうし、それが他の商品と比較する上で些細な差異でしかなければ、人によってはそんな差異などどうでもいいことのように思われるなら、やはりそう思われる限りでその人が何でもないことにこだわっていることの証しとなるわけで、自分としては何でもないことではないと思っていても、他人にとっては何でもないことだと思われれば、客観的に考えるなら人それぞれで認識や見解が異なるということになりそうだが、それは価値観の相違ともなるだろうし、それが同種の商品の間で生じていることだとすれば、その商品に関心のない人からすれば、そんな違いなどどうでもいいことのように思われて、やはりそれは何でもないことにこだわっているように思われてしまうだろうか。同種の商品の間で販売競争が繰り広げられているような場合は、その商品の宣伝の中で自社の商品と他社の商品の違いが強調されて当然だろうし、結局そのような些細な違いの不必要な強調が、その商品を購入する人の感覚を狂わせてしまうのかもしれないし、その商品には関心の薄い人には不必要に思われるような差異の強調が、たぶんその手の煽動の本質的な効果をもたらしているのかもしれず、そうやって何らかの違いを強調してそこに決定的な差異をもたらそうとする手法は、ある意味でそれはフィクションの創造だとも言えるわけで、別の言い方に直すならそれは煽動による差異の捏造とも言えるだろうが、そうやって煽動の対象となっている人に煽動する側が肯定する価値のある商品を選ばせるようなやり方が世の中に普及している状況があって、そんな商品の宣伝手法が政治宣伝にも導入されているとすれば、やはり政治の場でも煽動によって人々が何でもないことにこだわるように仕向けられている状況がありそうで、そんな無理やり差異や対立を捏造してどちらか一方を選ばせようとする行為が、人々の感覚を狂わせていることは否定しようがないだろうか。確かにそれが虚構でしかないことに気づかないと、そこから社会の中で無用な対立や軋轢が生じてしまう原因となるだろうし、それに関して理解しなければならないのは、煽動によって意識される差異や相違が虚構であるとしても、意識されている事実は虚構ではないということだろうし、価値とは人がそれを意識することによって世の中に生じるのであり、そんな価値に対するこだわりが実際に世の中を動かすこともあるということだろうか。
 宣伝を真に受けて同種の商品の間に生じている些細な違いにこだわることと、煽動を真に受けてそれほど違わない複数の政治勢力の間に決定的な差異を見出してしまうこととの間に何か違いがあるとすれば、それは個人的な好みの範囲内で収まることと個人を超えて社会的な影響力を生むこととの違いだろうか。商品と政治ではそれによって巻き込まれている範囲も次元も異なるだろうし、実際に政治的な次元で煽動による価値の捏造が行われているとすれば、それがより深刻な事態だと思われてしまうわけで、そうなると商品によるたとえ話程度では済まないような何か大げさな社会問題を含んでいるように思われてしまうだろうし、その大げさな社会問題に真剣に取り組んでいるような演技をジャーナリストも政治家も好んでやろうとするのかもしれないが、やはりその演技が空回りしているような印象を世間に与えてしまうのは商売上でも得策ではないだろうし、実際に社会問題に取り組んだ成果をメディア上で強調しなければならなくなるわけで、たとえそんな問題には関心のない人にとっては何でもないことのように思われようと、そういう問題に食いついてくる一般市民を味方につける上で、他との差異を強調する煽動が欠かせなくなるのだろうし、やはりそんな煽動を繰り返してしまうと、それを真に受ける一般市民の感覚も狂ってくるのかもしれず、別に大した問題でもない社会問題に取り組んでいる割には大した成果も上げていないように思われてしまってはまずいわけだから、問題への取り組みの宣伝内容が問題自体が社会に深刻な影響を及ぼしているように見せかける必要が出てくるわけで、そういう宣伝ばかりが情報としてメディアに充満しているような事態ともなれば、何か今にも世界が破滅へ向かって加速しているような印象を与えかねないわけだが、実態としてはそんな危機感を煽りまくりなメディアが全てではないことはわかりきったことで、中にはそれに輪をかけて虚構性を強調するようなメディアもあるわけで、それがオカルトや陰謀論などを専門に扱うメディアなのだろうが、そのようなメディアの玉石混淆状態をどう判断するかはそれを受け取る一般市民の良識に任されているわけでもないだろうし、そこで繰り返されるたわいない論理の単純化を信じてしまっても、他の誰が過ちを指摘してくれるわけでもないし、一般市民がどの程度それらの虚構を信じてくれるかで、社会全体から構成される世論の傾向も変わってくるのだろうし、また別にそれを虚構だと思っていても、そんな虚構を物語ってくれる人たちを支持している場合もあるわけで、それが娯楽と呼ばれる楽しみを提供するサービスにつながっていくわけで、たとえ気鋭のジャーナリストが虚構を物語る政治家の嘘を暴いて見せても、嘘も方便だと思っている支持者たちにとっては痛くもかゆくもないわけだ。

 人が集団で組織的に何かをやろうとすると、それに伴って必ず単純な目的や目標が定まり、その目的や目標が集団内にいる人たちの行動や言動を規制し拘束することになるわけだろうが、一方でそんな目的や目標から逸脱する部分で人は自由を求めるのだろうし、それが集団の目的や目標を阻害するとみなされると、自由を求める人は集団によって弾圧されることとなるだろうか。それを避けるには集団と個人との間で何らかの折り合いをつけなければならなくなり、普通はそういうところで交渉の余地が生まれて、うまく交渉がまとまれば双方ともに納得のいく対処が取られて何らかの処置が施されるのだろうし、またそれが企業内のことであれば労働者を守るために行政的な指導や法整備も行われるわけで、実際にうまい具合に折り合いをつけられたら、集団の中でもある程度の個人の自由が確保されることになるのだろうが、企業の中でそんなことが実現するには、収益が安定するとともに他社との競争が鈍感して、それなりに企業経営や経済活動に余裕が生まれることが前提となるだろうか。それに関しては企業間の系列化や垂直統合などが促進されると、複数の企業が系列で繋がったり統合される中で、上位に位置する企業では確かに余裕が生まれて従業員の待遇が改善されるが、下位に位置して下請けなどに甘んじてしまう企業では上位に位置する企業から何かと搾取されて、利益が出にくい過酷な経営環境の中で従業員の職場環境も劣悪になって心身ともに疲弊してしまう場合があるだろうし、またそれは国ごとの格差にも影響を及ぼすこととなり、先進諸国の優良企業は系列や垂直統合などの分業体制の中でも比較的上位に位置していて、余裕のある企業経営によって快適な職場環境が保たれているのに対して、それらの企業からの下請け仕事が回ってくる国の企業では、低賃金で長時間労働などの劣悪な職場環境になることが多いのではないか。もっとも先進国の中でも経済格差が問題となっているわけだから、下請け仕事専門の中小企業などいくらでもありそうで、そうした企業の職場では同じような問題が起こっているのだろうし、そうやって企業間の序列ができあがって格差が生まれると、当然のことのように上位に位置する企業から下位に位置する企業へと権力の行使や搾取が行われることになって、結局そんな仕組みを伴って資本主義経済が世界を覆っている現状があるとすると、それを政治的に解決するには困難を伴うだろうし、下請け企業が多い国の政府としては、自分たちの国の企業が世界的な分業体制の中で上位に位置できるように、何かと方策を打ち出してくるわけで、そうした状況の中で先進諸国の企業よりは自分たちの国の企業を優遇するのは当然であり、場合によっては先進諸国の企業の技術を盗むために国家ぐるみで産業スパイなどの行為を画策する可能性もあるのかもしれない。
 そうだとしてもいったん世界的な知名度を獲得したブランド製品やサービスを扱う企業の牙城を突き崩すのは容易なことではないだろうが、場合によっては中国やインドの企業ように知名度の高いブランド商品を取り扱っている企業をそのブランド部門ごと買い取ってしまうようなことも行われるわけで、そうやって先進諸国からその他の国へ技術やブランドが移転することもあるわけだが、先進諸国では物作りよりも情報を取り扱うことによって利益を上げる方向へ傾斜して行こうとしていて、物の土台の上に情報の付加価値を積み上げようとするわけで、わかりやすい部分では特許料などがそうだろうが、他にも広告宣伝料だとかコンサルタント料とかデータ通信料とか様々な面で情報に対する課金が行われる傾向にあるのだろうし、それは先進諸国以外でも普通に行われていることではあるのだろうが、産業の成熟に伴って製品の製造と販売だけでは利益が出にくくなってきて、そこにサービス料などを付加する傾向にもなってくるのかもしれず、しかもそこでも無料のサービスなどが出てきて、消費者にはどこから利益が出るのかよくわからなくなってくるだろうが、それは製品の価格に上乗せされていたり、何かとわかりにくいところでサービス料や手数料として徴収されている場合があって、だんだんそれは税金のような形態に近づいていくのかもしれず、そもそも行政機構の必要経費として徴収される税金そのものがサービス料や手数料の類いなのであって、それが行政活動に伴って生じる様々な情報を取り扱いながら住民に何らかのサービスを提供するのに必要な費用となるのだろうが、企業としてもそこから利益を上げる必要に迫られるわけで、また行政機構の方は利益を上げる必要がない反面で財政赤字が膨らんでゆく傾向にもあるわけで、しかも公共事業などの経済政策によって企業に利益を上げさせるために行政機構の財政赤字が膨らんでゆく傾向があるとすると、何かそこに避けては通れない因果関係が潜んでいるように思われてくるし、それが将来の財政破綻を招く危険があると考えればそれを是正する必要に迫られるわけだが、是正しようとして国家的な経済危機を招いてしまった事例もあるだろうし、是正しようとした時点ですでに経済危機であったわけだから、一概に財政赤字の是正が経済危機を招く要因とは言えない面もあるだろうが、少なくとも行政面で財政赤字の拡大を食い止められない現状があるとしたら、それが何らかの悪循環を招いていることは確かなのかもしれず、またそれが企業活動から生じる産業の成熟に伴って起こる必然的な成り行きだとすると、資本主義経済が招く宿命的な欠陥だとも言えるのではないか。
 そこで行政機構の膨らんでゆく財政赤字を減らして黒字化するやり方があるのかというと、たぶんあるのだろうし、実際に行政予算の黒字化を実現した事例もあるのだろうが、それが政治的な支持を得られるのかというと、どうも支持よりは反発を招いてしまう場合の方が多いのかもしれず、特に予算の削減は権限の強化や勢力の拡大を目指す行政機構そのものからの反発を招くのだろうし、行政機構とそれと癒着している産業界や、それらの意を受けて世論操作を引き受けているメディアと、メディアが操作の結果として示す世論などが予算の削減に反対しているとすれば、無駄な出費を減らして効率化を目指すような行政改革が掛け声倒れに終わる可能性が高くなるのだろうし、それが財政赤字が減らない理由として説得力を持つのかもしれないが、そのような世論に逆らって行政改革を断行して財政の健全化を推し進めるにはどうしたらいいのかといえば、そういう問いに対する答えにはたどり着けないような成り行きがあるのかもしれず、実際に誰の目にもうまくいかないことがはっきりするまでは、現状の延長上で事態が進んで行き、それに逆らうようなことを行おうとする人や勢力は排除される成り行きも生じてしまうのかもしれず、そのような成り行きとは無関係なところから思いがけぬ出来事でももたらされない限りは、現状を変えるようなきっかけとはならないのかもしれない。しかも仮に財政破綻しても行政機関は困らないだろうし、ハイパーインフレなどを招いて困ってしまうのはそこで暮らしている住民だけかもしれないのだが、メディアによって世論がコントロールされている限りは、それに逆らうような世論が形成されることはないだろうし、住民の声が政治の場へと届くことはないのかもしれないが、別に住民の側でもそんな声が強まっているわけでもないだろうし、そもそも近代以降のメディア社会では世論は住民による自発的かつ主体的な行動によって形成されるわけではなく、メディアの報道姿勢や政治に対する論調などから受動的に形成されるのであり、メディア上で現状の政治に反発する声が強まらない限りは世論もそうはならないのであって、そういう意味で世論とは住民側が主体となって巻き起こすようなムーブメントではなく、メディアの主導によって作られる匿名の声の集合体であって、それが特定の個人の主張と重なるところがあるとしたら、それはその人がメディアの主導で作られた世論から無視できない影響を受けている証拠となるだけで、少なくともその人が主体となって主張される意見とは別種の傾向なのではないか。そしてそのような情報統制が有効に機能している限りで現状の成り行きが変わることはないのかもしれず、それに対する反発の声は絶えず抑え込まれる傾向にあるのではないか。
 そのような世論に対する住民の反応としては、影響を受けて同調するか不快感と共に反発するか興味がなければ無関心となるのかのどれかだろうが、メディアとしては住民が世論に同調してほしいだろうし、行政機構がそうであるようにメディアも自らの権限の強化と勢力の拡大を目指しているわけだから、住民の味方を装いたいというよりは自分たちが作り出す世論に住民を従わせたいわけで、そこに権力への意志が介在してくるわけだが、メディアに関わっている人たちが意識してそう思っているわけではなく、社会の中でメディアが果たす機能や動作が権力の意志を構成するわけで、社会の中でメディアの動作が有効に機能するほどメディアとしての権力が強まることになって、その存在の権威化が促進されるのではないか。それは議会の中で特定の政党の議席が増えるほど力を増してくるのと同じようなことであり、人々が目にする機会が多いメディアほど影響力が増してきて、それが広告収入に頼るメディアなら収益も上がってくるだろうし、その代表例がネット上で検索サービスを提供する企業やSNSを主催する企業が管理するメディアなのだろうし、そうやって情報の占有率が高まるとともに、それによって獲得した社会に対する影響力を積極的に利用者に向かって及ぼそうとしてくるのではないか。もちろん誰もがそれとわかるようなあからさまなやり方では警戒されるし、場合によっては反発も招くだろうから、なるべく気づかれないように影響を及ぼそうとするだろうし、結果的にそれが利益に結びつくようなやり方となればいいわけで、具体的には何かと自社のサイトを人々が利用するように仕向けてくるのだろうし、そのために無料のメールやウェブページ作成やデータ保存サービスなどがあるわけで、またそのついでにオークションサイトや通信販売サイトなどを利用してもらえば手数料収入も稼げるわけで、そうやって経済的な利益の獲得を目指している範囲内では、政治的な主義主張とは無関係のように思われるかもしれないが、そのようなサービスを利用することによって多くの人が政治以外のことに気を取られて政治に対して無関心になることも、選挙での投票率の低下などのように政治に少なからず影響を及ぼすだろうし、わざと投票率の低下を狙っているわけではないとしても、結果としてそんな成り行きに貢献しているとすれば、しかもそれが企業の利益に結びつくとすれば特に改める必要は生じないだろうし、積極的に妨害しているわけでもなければ無関心になることを奨励しているわけでもないのなら、そんなことが問題視されるわけでもなく、それよりもそれとは違う方面で例えば極右的な内容のニュースや評論などが優先的に配信されるように画策したり、ニュースサイトのコメント欄に巣食う政治的な極右化への煽動を組織的に手がける勢力とかの方が問題視されているわけだから、そんなことが世間の話題となって人々が気を取られているうちに政治に対する無関心化が静かに進行してゆけば、投票率の低下とともにますます組織的な活動によって極右化が社会の中で顕在化するような事態となるだろうか。
 また企業の目的は利益の追求だけではなく、その活動が社会に貢献することを目的としている場合もあるのだろうし、企業が活動している地域で雇用機会をもたらして、その地域を管轄している行政機構に税収をもたらせば地域経済が潤い、また利益の中からその地域の祭りや各種の行事などの文化事業や市民活動へ協賛金や物資などを無償で提供すれば、それが社会貢献になるわけだろうが、そのようなところから政治とのつながりや結びつきが生まれるわけで、政治を単純なイデオロギーとの関連で捉えてしまうと、そういう部分を見落としてしまうのだろうし、そのような理性では測れない慣習的な作用を及ぼすのが保守的な政治勢力が握っている領分であり、その関係が実利で成り立っているだけに、その中で不正行為やごまかしなどが行われていても、外からそれをいくら批判しても根本的に改まることはなく、そのような関係を維持し続けようとしてよそ者を排除するような意識も生まれるだろうし、程度の差こそあるものの、そこによそ者を排除するような差別の萌芽がある限りは、何らかの煽動をきっかけとしてそこからヘイト的な活動が繁茂する危険は常にあるのではないか。だが何事も根本的に断ち切ることはできないわけで、断ち切ろうとするとかえって反発が強まってこじれてしまうだろうし、それは恩恵と弊害が表裏一体となって作用するような関係であり、そんな中から都合の良い部分だけを取り出して育てるわけには行かず、そこから恩恵を受けながらも同時に弊害にも対処するようなことが常に行われていなければならず、それを怠ると怪しげな金銭の授受を介して不正行為が横行して世の中が腐敗していくような成り行きとなるのだろうし、それが顕在化してきてから批判してももはや手遅れとなっている場合が多いのかもしれない。たぶんそれも慣習として許される範囲内で行われていることなのだろうし、関係者は不正が明らかになる度に小手先の改善策を提示してそれで済まそうとする傾向があるのかもしれず、そうやって根本的な解決を見ないまま問題は弊害とともに先送りにされて、そんな状況の中でも慣習的な行事が滞りなく行われている限りでそれらの関係は執拗に続いていくのだろうし、それとともに関係者や関係団体にはそれなりの恩恵がもたらされて、またそれが弊害となって現れるような部分も出てくるのだろうし、それが恩恵を受けられない人や集団との経済格差や政治的な発言権などの差ともなるわけだろうが、一方で社会の中でそのような格差を維持することが、そのまま世の中の秩序を安定的に維持することもつながるわけで、そんな状況を保つことこそがそのような関係から恩恵を得る上では必要なことなのかもしれず、それが既得権益と呼ばれる利権であり、世の中がそのような既得権益によって隙間なく構成されていれば、それだけ内に向かって結束の強固な社会となるのだろうが、社会には内部の他に外部もあるわけで、絶えず外部からの圧力にさらされているから、外圧が強まれば何かのきっかけで既得権益を維持できなくなる可能性も出てくるわけだ。
 それに関して単純に考えるなら、既得権益を維持しようとする勢力と壊そうとする勢力との間で、何らかの闘争が行われているような説明が説得力を持つかもしれないが、それが改革派を自称する保守的な政治勢力が主張する詭弁に使われる場合があるわけで、実質的には争っているどちらの勢力にも既得権益があるわけで、また改革派には争いに勝利して新たな既得権益を作りたい思惑もあるのかもしれず、改革自体が従来からある既得権益に代えてまた別の新たな既得権益を作るような改革なら、その既得権益の恩恵に与れない人や集団が必ず出てくるわけで、単純に既得権益の打破を目指すような政治的な主張には常に裏があることを認識しておくべきで、またそのよう政治勢力を支持する人や集団も新たな既得権益に与かろうとする思惑があるのかもしれないし、そんなふうに改革だの既得権益の打破だのの主張に単純に賛意を示すことが、実質的な改革や既得権益の打破には結びつかないことは理解しておくべきで、結局はそんなことを主張して選挙に勝利して政治的な主導権を握った勢力が実際に何をやったかが重要なのであり、その何をやってどうなったかを次の選挙での判断基準にすればいいわけだろうが、そうしたところで実質的な改革や既得権益の打破に結びつかない場合もあるだろうし、そんなところまで考慮しない人が有権者の大半を占めている状況もありそうで、実際に選挙では何も変わらない状況があるとすればそんなものだと思うしかないわけで、だからと言って何をやっても無駄だとは言えず、選挙自体も特定の政治勢力の既得権益を維持継続させるための制度である面もあるわけだから、また既得権益による恩恵を受けていると思っている人が世の中で多数派を占めている場合もあるわけで、それでも改革しなければならない制度だとする主張に説得力があれば、制度の改革を主張する勢力を支持するような成り行きも出てくるのかもしれず、そんなことも含めて様々な方面から多角的に状況を捉えて考えてみる必要がありそうで、いずれにしても単純な判断基準で捉えようとすると状況を見誤ってしまうだろうし、またわざと状況を見誤らせようとして単純な論理を振りかざして煽動を仕掛けてくる人たちがいくらでもいる状況なのだろうし、そういう人たちの煽動には乗らないように心がけておかないと、そういう人たちが支持したり所属する政治勢力が保持する既得権益をいつまで経っても突き崩せない状況となってしまうわけで、自らもそんな既得権益に与かれる立場ならそういう勢力を支持していればいいのかもしれないが、その恩恵を受けていると思っている既得権益というのが、実は自らの活動や思考の自由を奪っているのかもしれないし、それに気づかなければそもそも自由など不要なのかもしれないが、たぶん世間で肯定的な意味で理解されている幸福という概念が、そうした自由を奪われることによって実感されるようなものなのかもしれず、既得権益によって社会につなぎとめられて不自由な状態の中で生きていくことこそが、そのような人にとっての幸福そのものかもしれない。

 産業技術は物を作っている現場と企業を経営している場が背理してくると衰退する傾向になるのかもしれず、それは技術的な進歩が頭打ちになって、それをごまかすために製品を売ることからサービスや情報を売ることに活路を見出そうとして、経営の重心がそちらへとシフトしていくにつれて、肝心の物作りがおろそかになっていくと考えればわかりやすいのかもしれないが、単純にそう断定することはできず、そもそも製品を作ること自体が物としての原料の調達と製造技術としての情報の活用とサービスとしての労働などの組み合わせからなるわけだから、そこでもサービスや情報が重要な役割を担っていて、全体のシステムとしてそれらが有効に機能していればそれなりにちゃんとした製品が出来上がるわけだが、わかりやく言えば何らかの不具合が原因でそれが機能しなくなると物作りがうまくいかなくなるわけで、その不具合というのがシステムの構造上の欠陥ならをそれを修正すればいいのだろうが、それ以外のわけがわからない何かが不具合をもたらしているとすると、それを発見して取り除かない限りは不具合はなくならないのかもしれない。だがそれが不具合だという認識にさえ至らないとすると手の打ちようがなくなってしまうのかもしれず、そうなると何だかわからないまま次第に物作りがうまくいかなくなってきて、それに依存する産業が衰退していってしまう成り行きとなるのではないか。それに関してよく言われるのがサービスとしての労働の質の劣化が起こると製品の歩留まりが悪化してくるわけだろうが、労働者のメンタルな面での荒廃が進むと、いくら厳しく教育して現場を管理してもうまくいかなくなるだろうし、労働者が労働に対して生きがいを得られないような状況ともなれば士気が上がらず、結局はそれは現場で働く労働者とそれを管理する立場の従業員との格差に起因する場合もあるのかもしれないが、現代の産業状況ではやはりそんな単純なシステムの構造となっているわけでもないだろうし、それよりは社会の全体から醸し出されるイメージとして物作りに携わる人々が主役ではないことは明らかであり、そんなことは昔からそうなのかもしれないが、昔よりはその格差がはっきりとしてきたのかもしれず、それはそのような格差を知らしめるメディアの発達による影響も大きいのかもしれないが、そうなると労働に対して幻想を抱けないわけで、労働よりも他のことに気を取られていた方が現状に対する幻滅を忘れていられるだろうし、例えば気晴らしにネット端末の画面でも眺めながらアプリを操作していた方が楽な気分になれるのではないか。そんなわけで格差社会で暮らしていくにはネット端末が必需品となってくるのかもしれないが、例えばネット端末上で繰り広げられる動画のクリエーターと呼ばれる人々がやっていることも、ある意味では物作りの一種なのだろうが、その再生回数の多い動画ほど知性や理性などを必要としないたわいないものが大半となることは言うまでもなく、それが世の中の荒廃を物語っているのか、あるいは気晴らしの暇つぶしなのだからそれで構わないのかは何とも言えないところかもしれないが、少なくとも動画のクリエーターもそれを暇つぶしで見ている労働者もたわいないことを必死でやらざるを得ない状況は変わらないのかもしれない。
 格差といえばCEOと呼ばれる企業経営者がメディア上で脚光を浴びる一方で、それと比較して一般の労働者が無視されるのは当然のことかもしれないが、そういうこととは違う次元で何かが起こっているのかもしれず、もしかしたら企業経営者も一般の労働者も共にたわいないことしかできなくなっているのかもしれず、社会を管理する制度がそれ以上のことをやらせてくれない仕組みとなっていて、そもそもそれ以上のことをやる必要がなくなっているのかもしれない。それはもちろん政治的な指導者全般にも言えることかもしれないが、それをどうしても認め難い反体制派の人々は必死の形相で深刻ぶって危機感ばかりを煽ってしまうのだろうが、それは世界の中で繁栄している地域ではすでに衰退が始まっている兆しなのかもしれず、それが製品を売ることよりもサービスや情報を売ることが重視される状況にも表れていて、しかもそのサービスや情報がネット端末を経由してたわいない動画を見させたり、たわいない会話を楽しむサービスだったりするわけで、そんな状況の中で人々が受け取る情報というのが、何かを真剣に考えさせるような情報ではなく、ひたすら暇つぶしに楽しむようなたわいない情報が大半であったりするわけで、それらが深刻な社会問題を忘れさせるような効果を及ぼしているのかもしれず、それを深刻な社会問題だとは思わなくても済んでしまうような状況をもたらしているのではないか。だからと言ってそんな傾向を押しとどめることなどできはしないだろうし、すでに人々はそれを楽しむことしかできないような成り行きに巻き込まれていて、実際にそんな状況を楽しんでいること自体がメンタル面での荒廃だとは思えないだろうし、精神の荒廃とは何かもっと深刻で絶望的な状況だと思いたいのだろうが、実際にそれを体験してみたらそうでもないことに気づけないばかりか、逆にそれに気づいて危機感を煽っている人々の方が不快に思われてしまうわけで、それらの人々との間に理解しがたい溝が生じてしまっていることが、自分たちに非があるからそうなってしまったとは到底認めがたいだろうし、結局のところ別にどちらに非があるわけでもなく、それが世の中の繁栄とともにもたらされる弊害なのだろうから、それを肯定したり否定したりしても仕方のないことなのかも知れない。ただそれでも必死の形相で危機感を煽っている人々がいることは確かで、実際にそういう人々が感じ取っている危機感を共有しがたいとしても、そんな危機感をもたらしている状況の中で自分たちが生きていることは確かなのだろうし、そんな時代に絡め取られていることを自覚しいていようと、それ以上のことができなければ現状の中で右往左往するしかないわけで、できることはそれ以上のことではなく、できないことをやる必要はないわけだ。ではそれ以外で何をやればいいのかというと、それは人それぞれで違うのではないか。要するに世の中の流行に惑わされて他人と同じようなことをやらなくても、普通に暮らしていけるように工夫していればいいのかもしれず、結局人は現状の中で絶えず工夫を凝らさないと現状の中に現状のままでとどまるしかないということだろうか。そして工夫を凝らせば産業技術の進歩という過去の幻想にも立ち返ることができるだろうか。
 それでも世の中の繁栄を信じようとして産業の衰退傾向から目を背けるために、例えば自国の産業を誇ってみせたがるような人たちは、誇っている産業とは無関係な職種の人たちが多いのかもしれないし、その産業の内実を詳しく知っているわけではなく、そこで何が行われているのかよくわかっていないとしたら、その産業によってもたらされた過去の成果を誇っているだけかもしれないし、またその産業によってもたらされた負の側面である環境破壊などの弊害については口をつぐんでしまうようなら、そういう人たちの存在そのものが世の中にとっては弊害でしかないだろうか。もちろん弊害だけではなく何らかの恩恵ももたらしているかもしれないし、一方で特定の産業を批判している人たちもある面では恩恵と弊害の両方を世の中にもたらしているのかもしれないが、そんなことよりもその産業によってもたらされた製品やサービスを利用することで人々に何がもたらされているのかというと、楽しみがもたらされているとすればそれを肯定するのは当たり前のことだろうが、楽しみとともに苦しみももたらされているとすると、それによって苦しんでいる人たちには理不尽にしか思えないだろうし、それを楽しんでいるだけの人にとってはそんなことは到底理解しがたいことかもしれないが、一方で特定の製品やサービスを利用しだすともう後戻りができなくなってしまう場合があるのかもしれず、それに依存してしまってそれなしではいられなくなってしまうと、それを利用することは楽しみでもあり苦しみでもあるような心境へと至るだろうし、そんな依存状態から抜け出られなくなっている状況があるとすると、たぶんそれは否定すべき状況だと言えるわけで、依存状態から抜け出して自らが主体的に活動できるような状態へと身の回りの状況を改善させる必要性を感じ取ることができればいいのだろうが、まずはそう思わないと何事も前進しないだろうし、前進できなければ依存状態の中で停滞するしかないわけだが、製品やサービスを提供する側としては、そんな状態をできる限り長引かせたいわけで、そんな状態を長引かせる手段として用いるのが宣伝や煽動などによる各種の引き止め工作なのだろうし、それに動員されるのが各種のメディア媒体となるわけだろうが、それ以前の大前提として、人々がそれらの商品を買える状態になっていないとどうにもならないのだろうし、ともかく人々が買える値段で商品を提供できることが、製品やサービスを提供できる以前に求められていることであり、すでにそんな条件をクリアできている限りで成り立つような提供者と利用者の間で繰り広げられる駆け引きであれば、それが深刻さとは無縁のゲームでしかなくなってしまうのかもしれないが、それに依存しきってしまって、それを買うために他の商品を買うための予算を削ってしまったり、身をすり減らして過酷な労働に励まなければならなくなっていたりしたら、それを利用することで生じる楽しみや苦しみもより一層両義的に増大することになるのかもしれず、たぶん身の破滅とはそういうことをきっかけとして生じるのだろうし、それをもたらす病的な依存症というのは、そういう恩恵と弊害の両義的な増大現象そのものをいうのかもしれない。
 そしてそれは世の中に張り巡らされている様々な制度への依存についても言えることかもしれず、政治の制度にも経済の制度にも教育の制度にも労働の制度などにおいても、そこで依存症と停滞をもたらすような効果があって、制度に依存させて人々の主体的な判断や活動を制限して抑え込もうとする作用が生じていて、それに逆らって主体的に振る舞おうとする人を弾圧したり排除したりするようなことも起こり、そうすることによって制度そのものとそれに依存する人や団体を守ろうとするのだろうが、そこでも恩恵と弊害が生じていることは確かだろうし、制度を守るだけでなく絶えず改善していかないと、制度からもたらされる依存症的な弊害が増大していくのかもしれず、制度を守っている側が制度を改善することは難しいのかもしれないし、結局は制度に逆らってしまう人の犠牲を通してしか制度が改善されないとすれば、制度の犠牲者は制度の敵であると同時に制度の改革者となるわけで、制度の利用者が理性を働かさなければならないのはそのような制度の犠牲者であり改革者に対してだろうし、絶えずそのような両義的な役割を担う制度への反逆者に対して、ある種の憎悪とともに一方では理解を示さなければならないわけだ。またそういうところで物事を単純に解釈したり理解してはまずいわけで、もしかしたら自分たちが罹っている重度の依存症からそれらの反逆者たちが開放してくれる可能性があるわけだから、一方的に憎悪や不快の念を増殖させて排除してしまっては自分たちが救われないままとなってしまうだろうし、また制度を守っている人たちに全幅の信頼を寄せている限りで、制度に従うままの状態を強いられ、場合によってはそれらの人たちから搾取される立場に甘んじてしまい、絶えず制度によってもたらされる恩恵から生じる楽しみと弊害から生じる苦しみの相乗効果にさらされ続けるしかないだろうし、そうなっている限りで主体的には何もできなくなってしまうのではないか。そういう意味で制度によって守られていることに対して恩義を感じているとしても、果たしてその恩義に制度が報いてくれるかというと、制度の中で指導的な立場になれば制度を利用することで主体的に振る舞っているようにも思えるかもしれないが、誰もが指導的な立場になれるわけではなく、大抵は選ばれた少数者が制度の中で指導的な立場を担って、その他大勢の人たちを従わせるような成り行きとなるわけで、その他大勢の人たちが指導者に対して好意的な感情を抱けば崇拝の対象ともなるのかもしれないが、またその一方で自分が指導的な立場になれないことから嫉妬や憎悪の念も抱いてしまうのかもしれず、そこでも両義的な感情が渦巻くことにもなるだろうし、そのような両義性を絶えず意識していないと、一方的な感情に押し流されてますます依存症が重篤化してしまう危険が出てくるのかもしれず、結局そういうところでも理性や知性を働かせて、自らと自らが依存している制度との関係を考えてみないとならないわけで、制度が何をもたらしているのかを両義的な面から考えてみる必要があるのではないか。
 制度は社会にとっての資本であり、多くの人が制度に従うことによって社会に安定をもたらしていることは確かなのだろうが、また人によっては従うことができない事情が生まれることもあるのだろうし、制度は社会を安定させる使命を担っている限りでそれに従う人たちを守りながら、従えない人々を従わせようとするだろうし、場合によってはそのために強制的な権力を行使しなければならなくなるわけだ。また従っている人たちにも権力を行使しながら従わせている面もあるだろうし、そんなふうにして多くの人が従っている限りで制度が維持されているわけだが、たぶん社会の中で制度に従っていると意識する機会がそれほど多くあるわけではないだろうし、また制度にも様々な種類があってその強制力や依存度にも違いがあるだろうし、必ずしもいちいち強制的な権力を行使しないと人を従わせることができないかというと、そういうわけでもないだろうし、他の人たちと同じように振る舞ってそれで滞りなく事が運べば、それで結果として制度に従っていることになるわけで、とりあえずそれでうまくいっていれば誰もわざわざそんな成り行きに逆らうようなことはしないだろうし、何らかの事情で逆らわざるを得ない成り行きに追い込まれない限りは、特に制度に従っていることを意識しないわけだ。またそれは目立ちたがり屋のお笑い芸人が選挙を棄権したと周囲に触れ回ってソーシャルメディアで炎上したと法螺を吹くのとは少し違うことのようにも思えるのだが、そこでも制度に逆らう事情が生じていることには違いはなく、制度に逆らう事情にも様々な種類や強度や深刻さによって違いが出てくるのではないか。そういう意味で制度に従ったり逆らったりしながらも、どちらにしても人は制度を有効活用しようとしていることは確かで、自らの立場や意見を正当化するために制度に従ったり逆らったりするわけで、従うことによっても逆らうことによっても利益が生じる可能性があるとしたら、その場の事情に合わせて利益を得るために時には従ってみたり、また別の時には逆らってみたりするのかもしれず、その時々で従うのも逆らうのもゲーム上の駆け引きだと思えば、そういう場合は深刻さや切実さとは無縁となるだろうし、そんなレベルで制度と付き合うことができれば、従うにしても逆らうにしても大した問題とはなり難いだろうし、そんなふうにして制度と浅く戯れるような立場でいられるなら、もはやそんなことができる人にとっての制度は形骸化しているとみなすこともできるのではないか。またそれとは逆に制度に従ったり逆らったりすることがその人の生殺与奪権に関わるようなことだと俄然深刻さを増してくるわけで、例えば制度に逆らうことが命がけの行為となるような場合は、その制度自体が社会を専制的に支配するような様相を呈してくるわけで、それとは違って制度自体が社会にとっての資本と同じような役割を担うに過ぎない場合は、ゲーム的に制度を利用するような成り行きが主流となるのではないか。
 それに関して例えば人に死をもたらす死刑制度が世界的に廃止される傾向にあるとすると、やはり全体的な流れとしては強制的に社会を支配するような制度ではなく、制度を介して人や団体が駆け引きを行うようなゲーム的な方向性が主流となりつつあることの表れなのではないか。もちろんそのような流れに逆行して政治的な独裁体制を築こうとする勢力もなくはないだろうし、世の中の情勢の変化に応じてどちらにも向かう可能性はあるわけで、そうなった時に人々がどう対応するかが問われる場面も出てくるかもしれないが、現実にそうなった時にはすでに世の中の情勢が政治的な独裁体制の確立に傾いている可能性が高いだろうし、しかもその独裁体制というのが世論的な要請によって生み出される場合もあるわけで、そうなれば独裁体制が盤石となるわけだろうが、仮にそうなったとしても政治が経済的な繁栄に依存している状況は変わらないわけで、経済的な繁栄を維持する限りで独裁体制も維持されるのかもしれないが、それも程度の問題なのかもしれず、独裁体制が経済のかじ取りを誤って民衆を悲惨な境遇に陥れても独裁体制が維持される場合もあるだろうし、そうなると経済的な繁栄と独裁体制とは無関係になってしまうのかもしれないが、社会の支配を強化する傾向というのは行政機構の存在とともに常に働いていて、経済的に繁栄したら税収などの増収に合わせて予算を増やそうとするだろうし、経済が衰退したら民衆の不満を抑え込む目的で警察権力の増大を図ろうとするだろうし、どちらにしても民衆が自由を求めるならそういった作用に立ち向かう必要が生じてくるわけで、そうである限りにおいて社会を管理する制度の強化には逆らう必要が生じてくるわけだが、そのためには他の制度を利用するのが効果的だろうし、具体的には選挙制度を利用して社会の管理を強化しようとする政治勢力とは別の勢力を勝たせればいいわけだが、結局はそういう時にそういう役割を果たさなければならないのがいわゆるリベラル的な政治勢力となればいいのだろうが、どうも民衆の側でもそうした役割を担っているはずの政治勢力の側でも、自分たちがやるべきことや自分たちに課せられた使命がわかっていないのかもしれず、下手をすると逆に行政機構や各種の制度による管理の強化に手を貸している面もなきにしもあらずで、その辺の現状認識が日本では甘いままなのではないか。もちろん単純に民衆と行政機構との間に敵対関係を想定するのもリアリティを持ち得ない話かもしれず、行政機構の中で働いている人たちも民衆の一部であり、制度的には民衆を管理する役割を担っているとしても、その役割を離れれば行政機構に管理される側の民衆の内に入ってしまうわけだから、社会への管理の強化に与することは自分で自分の首を絞めることにもなりかねないわけで、その辺で行政機構という組織形態がもたらす恩恵と弊害の両義性を意識せざるを得ないはずなのかもしれないが、そこで働いている人たちにそんなことまで考えさせるような成り行きにならないと、社会の制度的な管理の強化には対抗できないだろうし、そうなっては困るからそんなことまで考えさせないようにしようとしている当局の意を汲んだメディア関係者が、必死に嘘やごまかしの宣伝や煽動をやっている最中なのかもしれない。